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「明日」は、「明るい日」と書く

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「明日」は、「明るい日」と書く
「明日」は、「明るい日」と書く
金城学院中学校宗教主事 後藤田 典 子
創世記 4章1~12節
さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主
によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊
を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを
主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を
持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物
には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言
われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのな
ら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せてお
り、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインが弟アベルに言
葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカ
インに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知
「何ということをした
りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。
のか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪わ
れる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、
呪われる。4土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。
お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
人類初の人間、アダムとエバは夫婦でした。聖書はこの2人を互いに「助け
合う者」と書きました。
今朝の聖書箇所に登場するカインとアベルは、この二人の子供です。4人家
族になって賑やかな家庭を楽しむ間もなく息子二人は大きく育ち、長男は農
業、次男は牧畜、と自らの人生を歩み出していきました。親にとって、子供の
自立はまぶしく嬉しいことです。息子たちは互いに助け合っていくだろう、二
人はそう期待したに違いありません。しかし、息子たちは助け合うことなく、
人類初の殺人事件を引き起こしたのでした。
その時、神は問いかけました。「どこにいるのか?」神は兄カインに弟アベ
ルの所在を尋ね、返ってきた答えにさらに問いかけました。「何ということを
したのか?」
兄が弟を殺した、その時に語られた神様の二つの問を耳にして、ハッとする
方がこの中にもいらっしゃるでしょう。かつて、父アダムと母エバが神様との
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約束を破って禁断の実を口にしてしまった時、あの時にも、神はそう問いかけ
ていたのです。そして、今回同様、あの時もアダム・エバはその問いかけにまっ
すぐ答えなかったのでした。
「どこにいるのか?」 「何ということをしたのか?」
あの時と同じように、神様は息子カインにも問いかけられた。事態を知った
アダムとエバはどのような思いになったでしょう。金切り声をあげずにはおれ
ない衝動に襲われつつ、その最も根源的な原因は、親である自分達の「あの時」
にあった、そう気づいたのではないでしょうか。
改めて、父アダム・母エバは気づいたと思うのです。神様は、より真実に近
い道を人間自らが選ぶよう自由を与え、神の言葉に聞き従うよう強制的束縛を
与えていたのではなかった、ということを。そして、自分にとって都合の良い
善のため・自己満足のために使ってしまっても、善悪の判断を間違えた時でも
自ら立ち返るチャンスを人間に与える、そのため問いかけをなさる方なのだ、
と、気づいたと思うのです。あの時、あの問いかけに真正面から答えて神の前
に立っていたら、こんなことにはならなかったはず…。二人はそう思ったので
はないでしょうか。
遅すぎる気づきは二人を絶望の淵に追いやったでしょう。胸を掻き毟り、頭
を叩き、泣き叫ぶ父・母は、追放される息子・カインの背中を涙溢れる目で追
いながら、父さんが、母さんが、悪かったのだ、とハラワタが千切れるほど呻
いたのではないでしょうか。恐らく、アダムとエバは自分達の罪の重さを今更
のようにズシリと感じて、絶望の暗闇に飲み込まれたでしょう。私は、人類初
の殺人事件を語る物語に、当事者だけでなく背後にいる親たちの絶望・死を感
じます。あの木の実を食べたために私達は死んだのだ、もはや私たちに明日は
ない。アダムとエバはそう思ったのではないか、そう思えてならないのですが、
皆様は、この物語をどのようにお読みになるでしょう。
にもかかわらず、2人は新しい光・明るい日を迎えます。
神は、地が混沌であって闇が深淵の表にあった世に「光あれ」と語られる方。
暗闇に光を創り、明るい希望を、進むべき光の筋道をお与えになる方。聖書は、
この事を、何を置いても真っ先に告げ知らせておりました。創世記第1章冒頭
です。神様は、2人の息子を失った夫婦に、3番目の息子セトを与えられたの
です。生れた子供は、父母の希望の光・明日への望みとなったでしょう。しか
もこの三男セトが、やがて主イエス・キリストなる真の光へとつながっていく
のです。
明日という字は、明るい日と書きます。たとえ昨日は暗闇でも、明日は明る
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い日だと聖書は真の光を示します。今日という日が依然として闇の中にあると
しても、善悪の判断を見誤って右往左往し混沌としていても、そこに「光」は
差し込んでいるのです。私たちは、暗闇の方にはなく、光の方に向かって歩ん
でいるのです。だから、そのように光を照らす神の導きを信じて、感謝しなが
ら、明日に向かって今日という一日を前進しようではありませんか。
明るい日と書く明日は、主イエス・キリストによってすでに与えられている
「光の日」なのです。
2013年11月14日 朝の礼拝
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