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「婦人はたらき協会」史料 - Doors

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「婦人はたらき協会」史料 - Doors
Graduate School of Policy and Management, Doshisha University
71
「婦人はたらき協会」 史料
川 口 章・大 黒 俊 介
あらまし
同志社大学名誉教授天野宏先生より川口章研
究室に寄贈された「婦人はたらき協会」の史料
を紹介する。史料から、婦人の人材派遣仲介を
主な業務としていた派出婦会の一つである「婦
人はたらき協会」の活動内容が明らかとなった。
この組織は大正8年(1919 年)7月1日、ヴェ
ルサイユ条約締結による第一次世界大戦の終息
を祝した平和記念事業として天野梅野・山田美
都子・藤生貞子によって東京・牛込に設立され
た。設立当初の名称は「婦人はたらき会」であっ
たが、大正9年(1920 年)7月1日に組織の
改編に伴い、名称を「婦人はたらき協会」と改
めた。
「婦人はたらき協会」は女中の需要と供給の
ミスマッチを解消するために生まれた派出婦会
としての役割を持つことに加え、女性の活動環
境を整え、最終的に女性の社会的地位向上に寄
与することを目的としていた。これは、大正期
という婦人運動の草創期における活動の一つと
して注目すべきものである。しかし、どのよう
な人々が会員として参加したのか、派出婦会と
してどのような実績を挙げることができたの
か、そして協会がこの後どのように歩んでいく
のか等、「婦人はたらき協会」に関する不明な
点は未だ数多く残っている。また、この組織が
いつ頃まで存続し、どれほどの実績を挙げたの
かは今回寄贈された史料からは明らかにするこ
とができなかった。
1.はじめに
同志社大学名誉教授天野宏先生より川口章研
究室に寄贈された「婦人はたらき協会」の史料
を紹介する。この史料から、女性の人材派遣仲
介を主な業務としていた派出婦会の一つである
「婦人はたらき協会」
の活動内容が明らかとなっ
た。この組織は大正8年(1919 年)7月1日、
ヴェルサイユ条約締結による第一次世界大戦の
終息を祝した平和記念事業として天野梅野・山
田美都子・藤生貞子によって東京・牛込に設立
された。設立当初の名称は「婦人はたらき会」
であったが、大正9年(1920 年)7月1日に
組織の改編に伴い、
名称を「婦人はたらき協会」
と改めた。この組織がいつ頃まで存続し、どれ
ほどの実績を挙げたのかは今回寄贈された史料
からは明らかにすることができなかった。
寄贈された史料の一覧は付録に掲載してい
る。史料は同志社大学政策学部の川口章研究室
に保管している。以下、
同協会設立の時代背景、
設立の目的、組織構成について説明する。
2.「婦人はたらき協会」設立の時代背景
まず、
「婦人はたらき協会」設立の時代背景
について見ていく。時代背景を見るに当たって
は、派出婦を巡る動きと女性の地位向上を巡る
動きの両面から捉えていきたい。
2. 1 派出婦を巡る動き
中・近世以来、公家屋敷や武家屋敷、商家や
旅館等に住み込みで雇われ家事に従事する「女
中」と呼ばれる女性が存在していた。明治期に
入り公務員や企業に勤める中間層が増加し、そ
れに伴い女中の雇用も増加した。現代のような
家庭用電化製品がほとんど存在せず家事の多く
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川 口 章・大 黒 俊 介
を手作業で行わなければならない当時において
家事は重労働であり、主婦一人のみにこれを委
ねることは困難であった。そのため当時はサラ
リーマン家庭においても女中を雇うことが普通
であった。
しかし、大正期に入ると女中を求める声に対
して女中の求職者が不足する「女中払底」とい
う問題が顕在化する。なぜこのような問題が生
じるようになったのか。清水(2003)はこの「女
中払底」の原因として次の三点を挙げている。
①第一次世界大戦をきっかけとする産業化の
進展により、女中以外の職業機会が増えた。
②サラリーマン家庭のような新中間層の急激
な増加により、女中の雇用層が増加した。
③長時間の拘束やプライベートの欠如等があ
る住み込み女中という仕事に魅力が乏しく
なった。
その一方で、第一次世界大戦による物価の高
騰により庶民の生活難という問題が浮上するよ
うになった。生活難から仕事を求める女性が増
加した。このような社会問題に対応するものと
して「派出婦会」が誕生することとなったので
ある。
日本で最初に誕生した派出婦会は大正7年
(1918 年)に東京・四谷に設立された「婦人共
同派出会」であった。同年9月6日付けの『婦
女新聞』は「婦人共同派出会」設立について以
下のように述べている。
四谷南伊賀町二三婦人共同会にて従来の事
業の範囲を広め新たに河口あい子女史を顧
問として一般家庭に対する家事の整理、会
員の製作品販売、廃物利用の研究、その他
家事に関する凡ての相談相手となる一方そ
の求め応じて派出婦なるものを出すとの事
なるが、会主大和俊子女史の談によるに、
「この頃社会の事情から中流の家庭で女中
を廃する方が多くなりましたが、しかも主
婦自身だけでは手の廻り兼ねる場合も少な
くありません。そこで私達は最も簡単な需
要供給の方法によって派出婦なるものを置
いて、随時その需めに応じようというので
あります。(後略)」1
ではこれまでの「女中」とこの時誕生した「派
出婦」にはどのような違いがあるのだろうか。
第一に、女中は家庭における家事全般を担って
いたが、派出婦の仕事は限定されているという
点が挙げられる。派出婦はその仕事内容によっ
て料理婦・裁縫婦・洗濯婦・美容婦等といった
種類に分けられていた。そして雇いたい人は手
伝いを必要とする仕事についてのみ派出婦を雇
うことができるようになった。このため派出婦
の雇用は家事全般を担う女中よりも費用を安く
抑えることができるのである。
第二に、雇い主ではなく仲介者である派出婦
会が労働条件を決めていたということが挙げら
れる。女中の労働条件は雇用者によって決めら
れており、雇用者の都合によって条件が変化す
るという被用者側のリスクが生じる恐れがあっ
た。しかし、派出婦については賃金や労働時間
等といった労働条件は仲介業者である派出婦会
によって決められており、労働条件が保障され
ていた。そのため雇い主によって劣悪な環境で
働かされる等の被用者側のリスクが減ることと
なったのである。
この「婦人共同派出会」の設立が原点となり
派出婦会は各地へ広まっていった。女中に代わ
る新たな家事手伝いの担い手として派出婦の存
在が大きくなっていった。
2. 2 女性の地位向上を巡る動き
次に、女性の地位向上を巡る動きについて見
ていく。日本においては儒教道徳に基づく封建
制度の成立に伴い、家族において家長に家の権
限を集中した家長制度が確立された。そして、
女性は家長である男性に従属するという男尊女
卑の考え方が定着するようになった。この男尊
女卑の思想は明治期においてもなくならなかっ
た。明治憲法においては女性に対して参政権を
与えず、また明治民法は家長制度に基づいて制
定されたのである。
一方、明治期に入って欧米諸国の啓蒙思想が
日本に伝えられると、欧米のような先進国の文
化水準に追いつくためには男女同権の制度の確
立が必要であるという意見も浮上するように
なった。例えば自由民権運動においては男女同
権の制度の必要性が度々主張されていた。啓蒙
思想に基づく男女同権の考え方は近代における
「婦人共同会―派出婦を出す―」『婦女新聞』第 955 号、1918 年9月6日。
1
「婦人はたらき協会」史料
女子教育の発展につながり、そして「青鞜社」
に代表される女性による文化活動へと進展して
いった。また、明治期における資本主義経済の
浸透により、女性が労働者として働くようにな
り、女性の社会進出の機会が増えていった。こ
のように明治期においては男尊女卑の考えが
残っていた一方で、婦人運動の基盤が形成され
つつあったのである。
大正期に入るといよいよ婦人運動が形成され
るようになった。そのきっかけとなったのが第
一次世界大戦であった。ヨーロッパにおいて大
勢の男性が戦場に駆り出されることとなり、国
内の経済は女性が担わざるを得ない状況となっ
た。そのため、社会における女性の活躍の場が
大幅に広がり、これに伴い女性の発言力が増し
た。このようなヨーロッパの状況は日本にも伝
播し、婦人運動の形成へと結びついていったの
である。
大正5年(1916 年)
、労働組合である友愛会
に「友愛会婦人部」が設立され、婦人労働者に
よって労働者の男女平等が強く主張された。大
正8年(1919 年)には「青鞜社」の一員であっ
た平塚らいてうが中心となって「新婦人協会」
が設立された。
「新婦人協会」は女性の政党加
入や政治演説会への参加を禁じる「治安警察法
第五条」の改正と「花柳病男子結婚制限」を掲
げ婦人運動を展開した。そして「治安警察法第
五条」については、機関誌『女性同盟』の発行
や議院への請願運動を通して一部改正という成
果をあげることに成功した。日本の婦人運動は
この後も昭和・平成に至るまで続いていくので
あるが、婦人運動の形成は「婦人はたらき協会」
が設立された大正期に原点があったのである。
3.「婦人はたらき協会」設立の目的
以上のような時代背景を受け、「婦人はたら
き協会」はどのような目的を以て設立されたの
かについて見ていこう。『婦人はたらき協会規
約』は「人類協働の福祉を増進し、社会奉仕の
大愛を婦人のはたらきに実現せしめ、相互扶助
の精神に基き、家庭生活の共済並に其改善を資
2
3
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け、併せて婦人の社会的地位の向上を図るを以
て目的とす」と述べている 2。さらに『婦人は
たらき会創立趣意書』には、次のような文章が
ある。
何とかしてお互ひこの余裕なき生活から少
しでも余裕ある生活にうつりそしてその余
裕を何等かの進取的有意義的に利用したい
といふ考から私どもはさきにこの様な事を
思ひつきました。
(中略)少しく眼を世上
に放つならばそこに労力才能の余裕を有し
てゐる婦人がいくらもをるのです。即ち自
から或る知識才能を有して居りながらその
知識なり才能なりを活用せしむる機会を得
ない為めにむなしく宝のもちぐされとなっ
てゐる様な婦人たちがいくらも居らるこ
とゝ存じます。そしてその各異った労力才
能の余裕を以て互に交換的に助けあひまし
たら相互間の便宜はどれだけでせうか。し
かし、これもよほど慎重な態度を要するこ
とで、見もしらぬ人にさう軽々しく物事を
依頼するわけにも参らず、また人をかろが
ろしく信じて或は家庭の平和を攪乱せられ
たり物質上おもはぬ損害をうける様な事が
ないともかぎりません。また一方折角その
才能余裕を有っている婦人達も自ら「売ん
かな」の提供は致し悪いものです。かゝる
場合にこゝに信頼すべき一の機関があって
一方需要者の望みを容れ供給者側に対する
斡旋につとめこの相互間の調節を謀る様
にしたら双方の便利は多大なことゝ信じま
す。則ち物事を信頼しても依頼に応じても
少しも屈辱的の意味がなくそしてそこにそ
の機関を通じての大なる信用と安心が伴ひ
ます。この意味に於て本会はこゝに一の事
務所を設け、大方家庭の需要に応じ、今日
各家庭で最も必要と感じてゐる雑用婦、洗
濯婦、料理婦を初め臨時に必要な看護婦、
給仕、美容婦などの派出を取扱ひ一方有才
能の婦人をして各其適材を適所におき十分
に力量を発揮せしめこれに対する正義の報
酬を得しめ他方の急を救ひ又一方高級婦人
に余裕を得せしめて何等か有益な研究等に
心おきなく従事せしめることに努めます 3。
『婦人はたらき協会規約』、1920 年7月(付録、史料番号4)。
『婦人はたらき会創立趣意書(第一会員たらんとする方の為に)』(付録、史料番号1)。
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川 口 章・大 黒 俊 介
写真1 婦人はたらき協会創立趣意書
以上より「婦人はたらき協会」は、知識才能
を持ちながらそれを生かす場を持たない婦人に
対して活躍の場を提供して収入を得させ、また
家事に従事しているために時間に余裕を持つこ
とが出来ない主婦に時間の余裕を持たせて余暇
を進取的な活動に生かすことができるようにす
ることにより、女性の社会的地位の向上を促進
するという目的の下設立された組織であること
が分かる。つまり、
「婦人はたらき協会」は女
中の需要と供給のミスマッチを解消するという
派出婦会の本来の目的に加え、女性の社会的地
位の向上に寄与するという目的を持った組織で
あった。
4.「婦人はたらき協会」の組織内容
では具体的に「婦人はたらき協会」はどのよ
うな組織であったのか。今回寄贈された史料よ
り明らかとなった点を見ていきたい。
4. 1 事業内容
『婦人はたらき協会規約』によると、「婦人は
たらき協会」は調査部・教化部・紹介部・代理
部・社交部・衛生部の六つの部署を設置し、協
会で行われる事業の分担を図っている。それぞ
れの事業内容について以下に述べている。
調査部…家政の実地調査とその改善、家庭に
関連する社会共済事業の研究実施。
教化部…会員強化及び社会矯風のための機関
雑誌及び図書の刊行、無産婦人の保
護強化のための寄宿舎の設置。
紹介部…協会所属の家庭婦人の便宜を図るた
め家庭労働の改善を図る、協会所属
各種職業婦人の紹介、種々の問題の
解決のため無料で法律上の便宜を図
る。
代理部…生活改善のための各種特許品及び家
庭日用品の紹介販売、婦人各自の技
術交換のためのエクスチェンジハウ
スの設立。
社交部…国際的・国民的友誼及び社会的家庭
的慰藉娯楽の機関となる理想的社交
倶楽部の設立。
衛生部…国民衛生のための理想的実費浴場・
理容館の設立、母性擁護のための理
想的助産所及び託児所の設置、篤志
看護婦の養成。
それぞれの事業が実際にどれほどの実績を挙
「婦人はたらき協会」史料
げたのかは不明である。しかし、「婦人はたら
き協会」の事業は紹介部による職業婦人の紹介
にとどまらず、社交倶楽部の設立や浴場・理容
館・助産所・託児所の設立等にも及んでおり、
「婦
人はたらき協会」には婦人が働きやすいような
社会環境の整備を図ろうとする意図があったこ
とが分かる。
4. 2 役員
「婦人はたらき会」の設立当初は監督・主任・
幹事の三役を設置し、監督に藤生貞子、主任に
天野梅野、幹事に山田美都子が就任していた。
この三役の役割については史料から明らかにす
ることはできなかった。その後「婦人はたらき
協会」として組織の改編が行われるのに伴い、
役員についても改編が行われた。「婦人はたら
き協会」には会長(1名)・理事(2名)・各部
主任(6名)
・名誉顧問(10 名)
・会計(若干名)
の五役が設置された。それぞれの役割は以下の
通りである。
会 長…「婦人はたらき協会」の事業の総
轄。
理 事…会長を輔翼し会長が欠席の場合は
会長の職務を代行する。
各部主任…前述の六事業にそれぞれ配置さ
れ、その部署の事業事務を処理す
る。
名誉顧問…協会の事務経営に関する役員の諮
問を受ける。
会 計…協会の会計整理を専任とする。
役員は「婦人はたらき協会」の会員による互
選によって決められていた。各役員の任期は2
年間であり、再選も可能であった。
「婦人はたら
き協会」改編当初においては、天野梅野・藤生
貞子・山田美都子の3名が理事に就任していた
ことが史料より明らかになっているが、会長に
誰が就任していたのかは不明である。また天野
梅野・藤生貞子・山田美都子が協会を去ること
となった後に山本千代子が会長に就任している。
4. 3 会員
「婦人はたらき協会」の会員は一種会員・二
種会員・三種会員・賛助会員の四種に分かれて
いる。まず一種会員は派出婦の紹介派出を請求
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する者が属しており、二種会員は自ら協会所属
の派出婦となる者、三種会員は内職製作品の紹
介販売を協会に委託する者、そして賛助会員は
協会の趣意を賛し維持費の寄附を行う者又は知
識労力を以て協会の事業を援助する者が属して
いる。また一種・二種・三種会員に属するため
には会費の納入が必要であり、一種会員は年間
2円の会費、二・三種会員は入会金1円の納入
が必要であった。
4. 4 労働条件の規定
「婦人はたらき協会」では派出婦の労働条件
も明確に規定されていた。まず各家庭における
派出婦の雇用期間は2週間以内と定め、引き続
き使用したい場合は協会への通知又は再度の申
し込みが必要であった。これは、協会の派出婦
は人手不足で困っている家庭又は不時の出来事
の為に人手を要する家庭に伺うのが趣意である
ことによるためであった。次に1日の労働時間
についてであるが、通勤者は午前6時から午後
8時までの間に限ることが定められており、在
泊者には勤務時間の規定は無いものの午後9時
以降は自由時間として与えることが決められて
いた。また特に病人産婦付添婦については7時
間以上の睡眠時間を与えることが規定されてい
た。次に派出婦の賃金についであるが、これは
就業内容によって分けて規定されていた。
雑 用 婦…50 銭から1円 50 銭までの間。
家 政 婦…1円 20 銭以上。
給 仕 婦…1円以上。
裁縫兼洗濯婦…1円 20 銭以上。
付 添 婦…1円 20 銭以上。
料 理 婦…1円以上。
美 容 婦…1円から5円。
家 庭 教 師…学科の種類・程度・回数・時
間数等により随時相談の上定
める。
ただし、通勤者に対しては規定の賃金よりも2
割減じ、通勤の費用を半額支払うこととしてい
る。また雑用・家政・給仕・裁縫兼洗濯・付添・
料理に従事する派出婦に対して派出先が食事を
支給することが定められていた。また休日につ
いては1か月間で2回の休養日が保障されてい
た。
川 口 章・大 黒 俊 介
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写真2 美容婦
の婦人に必要な知識技能の講習会を無料で受講
できるようになっていた。さらに時々慰安会や
修養会も開催され、会員相互の親睦を深める機
会を提供していた。
5.まとめ
美容婦は専門職として比較的高い賃金が設定されていた。
写真3 裁縫婦
ミシンには SINGER という文字が見える。これは、当時の世界
的ミシン・メーカーの名である。日本でミシンが量産されるよ
うになったのは大正末期であり、当時のミシンは非常に貴重な
ものだった。
天野宏先生より寄贈された諸史料によって
「婦人はたらき協会」の存在を明らかにし、そ
の設立の目的や組織内容等について見てきた。
「婦人はたらき協会」は女中の需要と供給のミ
スマッチを解消するために生まれた派出婦会と
しての役割を持つことに加え、女性の活動環境
を整え、最終的に女性の社会的地位向上に寄与
することを目的としていた。これは、大正期と
いう婦人運動の草創期における活動の一つとし
て注目すべきものである。
しかし、どのような人々が会員として参加し
たのか、派出婦会としてどのような実績を挙げ
ることができたのか、そして協会がこの後どの
ように歩んでいくのか等、
「婦人はたらき協会」
に関する不明な点は未だ数多く残っている。こ
の後「婦人はたらき協会」の実態をより明らか
にしていくためには、関連史料の収集を行い、
これらを詳しく検討していくことが必要であ
る。
4. 5 派出婦に対する規則
謝辞
派出婦の労働条件が規定されている一方で、
派出婦に対しても欠勤に関する規則が存在して
いた。病気その他の事故のための欠勤について
は前もって連絡することが義務づけられてお
り、1か月以上無断欠勤をした場合は「婦人は
たらき協会」から退会したものと見なされるよ
うになっていた。
「婦人はたらき協会」設立者の一人である天
野梅野氏は、同志社大学名誉教授天野宏先生の
お母様です。史料を提供していただいた天野宏
先生に心より感謝いたします。
4. 6 派出婦の教育・慰安
清水美知子(2003)
「『派出婦』の登場―両大戦間における〈女中〉
参考文献
イメージの変容―」
『 関西国際大学研究紀要』第 4 号、
135-154 ペー
「婦人はたらき協会」では、派出婦に対する
教育又は慰安の制度が備わっていた。まず1か
月2回の派出婦の休養日には、希望者に対して
看護・育児等家政の実地練習や茶の湯・活花・
音楽・刺繍・ミシン・英仏会話・裁縫・料理等
ジ。
「婦人はたらき協会」史料
寄贈史料一覧
1.婦人はたらき会創立趣意書(第一会員たら
んとする方の為めに)
2.平和記念社会事業 婦人はたらき協会要覧
3.天野梅野名刺
4.婦人はたらき協会規約
5.第一種会員お心得
6.派出申込書
7.婦人はたらき会創立趣意書(第二種会員た
らんとする方の為めに)
8.第二種会員お心得
9.第三種会員お心得
10.送遣状、送還状
11.婦人はたらき協会規則
12.チャリティー・コンサート(音楽大演奏会)
プログラム
13.大正十年年賀状
14.婦人はたらき会々則
15.婦人はたらき協会記念会次第
16.帝国出版局からの手紙(昭和3年9月 25 日)
17.新聞記事2枚(婦人はたらき会の総会、派
出婦会)
18.日本女性運動資料集成(山田美都子)
19.婦女新聞(第 21 巻表紙、p476、p497、他
2枚(拡大))
20.写真 16 枚
77
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