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年金の経済効果

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年金の経済効果
年金の経済効果
-貯蓄を中心にして-
橘 木 俊 詔
たちはな き とし あき
(京都大学助教授)
社会保障の経済学的分析の必要性が高まり、我が国においても経済
学者の関心も急速に高くなっているといえる。元来、社会保障の問題
は経済学者の間では「社会政策」の一分野として取り扱われ、ドイツ
社会政策の影響を受けた分析が主流をなしていたといえる。一方、法
学者、社会学者の取り扱う社会保障論は、制度論ないしは技術論に立
脚した分析が多かった。社会保障の経済学的分析は、分野としては財
政学者、労働経済学者の扱う領域といえるが、必ずしも経済理論的に
究明されていたとはいえないし、実証分析もそれ程数量的ではなかっ
たといえるO この論稿では、社会保障(特に年金制度)の経済学的分
析への視角という観点から、理論分析と計量分析の果す役割を考慮し
て、その方法論的基礎を明確にして、今後の指針としてみたい。年金
制度の経済学的分析といっても扱われる題材は種々にわたるので、こ
の稿では主題として「年金制度と貯蓄」という課題を主として取り扱
うことにしたい。
本題に入る前に諸外国における研究史を極めて簡単に概観してみよ
う。福祉国家の起源国を自他共に認めるイギリスでは、R.Titmus(19
74)で代表されるように、社会政策の立場から社会保障論を展開し、
ー147-
年金の経済効果
またよく引用の対象になるBeveridge 報告がイギリスから出たのも
当然といえば当然といえる。筆者自身の興味もしくは趣好を前面に出
すことが許されるならば、現代財政学理論の若手ホープであるA.Atkinson(1970)が、今から9年も前に「イギリスの貧困と社会保障制
度の改革」を巡って好著を出版していることは非常に意義深い。理論
経済学者Atkinsonが応用経済学の一分野とみなされる社会保障論に
取り組み、その経済学的分析を試みると共に、制度の改革がイギリス
の貧困克服という目標にどのような効果があるかを吟味しているので
ある。ついでながら、Atkinson の問題意識と学問的良心は「EconomicsofInequality」や「DistributionofPer亭OnalWealthinBritain」
に受け継がれていく。大西洋をへだててアメリカに眼を向けてみよう。
アメリカの社会保障制度は西ヨーロッパ諸国と比較して一歩も二歩も
遅れているのであるが、理論経済学と計量経済学の発達はヨーロッパ
以上のものがあり、必然的に社会保障の経済学的分析もヨーロッパ以
上に秀れている。理論分析と実証分析の分野で研究の高度化・精緻化
が著しく進んでおり、現在ではアメリカがその研究水準という点から
すれば第一等国であることに異論はないものといえるO 従って本稿に
おいても、主要関心はアメリカの経済学者によってなされたものに向
けられることになるO ついでながら、他の西欧諸国について一言して
おくと、筆者の知り得る範囲(フランス語圏)における社会保障の経
済学的分析は日本のそれと大差なく、理論的にも実証的にもまだ研究
蓄積は貧しいといえる。我が国における経済学的分析に一言しておく
と、まだ研究が始まったといった程度であるが、筆者の知り得た範囲
では、貝塚(1976)、高山(1977)、深谷(1977)、地主(1977)等
の論文から多くを学び得た。
アメリ別こおける社会保障(以下この論稿では、社会保障とは特に
-148-
年金の経済効果
断わりのない限り主として年金のことをさすものとする)の経済学的
分析に最も貢献しているエコノミストの一人がM.Feldsteinである。
Feldsteinの貢献は、論理の進め方が極めて理論経済学的であり、し
かも実証分析も計量経済学的であって、その質量共に秀れたものとい
えるO具体的な分野としては、社会保障が貯蓄率に与える影響、社会
保障の財源政策に関する提言、租税制度と社会保障との関連、その他
多分野にわたって貢献をしている。Feldstein以外にも、R.Barro,
P.Diamond,M.Boskin等の貢献も特筆され得る。現在アメリカで議
論になっている課題としては、次の2つの課題が主とした論争点にな
っている。
第1に、社会保障制度の拡充によって一国の貯蓄率が下降するかど
うかという点O
第2に、社会保障制度によって労働供給が減少するかという点、特
に引退時期が早くなるかどうかの問題が争点になっているO
本稿では主として第1の課題を中心に論じることとし、第2の点は
第1の課題と無関係ではないだけに、少し論じてみたいと思うO
第1の課題に関する主たる挑戦者は、いうまでもなく Feldsteinで
ある。Feldsteinの問題意識は1976年の論文(AER)に要領良くま
とめられているO 基本的な主張点は次のように要約され得るO 社会保
障制度の拡充によってアメリカの民間貯蓄率が下降傾向にあることを
先ず指摘し、民間貯蓄率の減少は必然的に資本蓄積率の低下を誘引し、
資本蓄積率の低下は経済成長率の鈍化をもたらすものであると主張す
るO Feldsteinは現実にアメ))カの経済成長率の低下は、このような
社会保障制度の拡充による結果であると統計的に実証し、他の自由主
義屈(特に西ドイツと日本)に比較、してアメリカの経済成長率の低下
を憂慮しているのであるO 一国の経済成長率を規定する要因として
-149-
年金の経済効果
「貯蓄率」の変動のみに視点を置くのは適切ではなく、Feldsteinの
主張には多少の誇張を認めざるを得ないが、一国の経済成長率に影響
があるという事実は重大なので、Feldsteinの議論をたどることは意
義があることなので、ここでもう少し深くFeldsteinの主張を追って
みよう。
個人が社会保障制度に参加(ここでは公的、私的年金の区別は一応
しない-後に公的年金と私的年金の違いについて論及する)するこ
とによって、その個人は将来給付(所得保障)を制度が存続する限り
得ることになる。個人が一生涯にわたって受け取ることができる将来
給付を現在価値に割引いた額を社会保障資産(SoeialSecurityWea1th)と定義する。数式で表現すれば次式のようになる。(出典、M.
FeldsteinandA.Pellechio lg77)
100 8-65 60-8
SSW=1,260(1+g)
g
∑ PM (1+g)(1+d)
a=65 60,8
5100
+1,260(1+g)∑
8ニ65
ト5PM
PF
58,a-2
8-65 60-8
+0.825(1-PM
60,8
)PF
58,8-2
(1+g)(1+d)
-S ST
上式で定義された社会保障資産は年齢60才の男性と58才の女性(労
働していない)の夫婦に関する例である。1963年にこの夫婦の給付額
は1,260ドルと計算されていた。65才になる1968年には1,260(1+g)
ドルの給付を受けることになるO ただLgは給付額の年次成長率であ
る。上式のSSWは3つの構成からなっている。
(1)男性の受給額
(2)夫が生存中に妻が受ける給付額
-】50一
年金の経済効果
(3)夫の死亡後に妻が受ける給付額
ここでP彗いを60オの男性がaオになった時に生存している確率、
P『8,.を58才の妻がa才になった時に生存している確率とし、dをこ
の夫婦の割引率とした場合、上の3つの構成要素の和がこの夫婦がa
才に達した時の社会保障資産となる。0.5と0.825は、妻が65才に達し
た時の給付額の比と、夫が妻に先立って死亡した場合の給付額の比を、
それぞれ示している。
以上の例は、夫が働き妻が働いていない場合の例であるが、単身世
帯もしくは。夫婦共に労働している場合には、社会保障資産の計算式は
当然のごとく修正されるO ここでSSTを現在価値に割引いた社会保
障税(負担額)とすると、SSTを給付額から差し引くことによって
SSW(社会保障資産)が計算されることになるO この式を一国全体
の人口構成と年齢構成に適応させることによって、一国全体の各時期
における社会保障資産が推計され得ることになるO
M.Feldsteinの社会保障資産概念は極めて有用なものであるが、Munnell(1974)にも社会保障資産に関する記述があり、Feldsteinと
Munnellのうち、どちらが先にこの概念を導入したかどうか不明であ
るが、これはさほど重要なことではない。
社会保障資産の経済学的意義については後に論じることにして、社
会保障資産といわれる資産が、他の実物資産と異なる点もしくは似て
いる点を考えてみたい。この点に関してもFeldsteinの貴重な貢献が
みられ、ここでその論旨を要約してみよう。
アメリカにおける富・資産分布に関する研究は、それに関するデー
タが豊富だけに水準が高い。Feldstein(1976)によると、社会保障
資産分布と社会保障資産を除いた現物資産分布を比較すると、社会保
障資産分布の方が平等であることが明らかにされている。従って、現
-151-
年金の経済効果
物資産分布の不平等性が極めて高いことを指摘しているO 富・資産分
布の不平等性はアメ))カのみならず、イギリスにおいてもAtkinsoTl
(1977)等によって実証的に示されており、Feldsteinの例は格別驚
くべきものではないが、社会保障資産の平等指向は特筆されてよい。
これとて良く考えてみれば、社会保障給付の将来給付が個人間でそれ
程差別されていないのが現状であるから(種々の制度の差は多少あれ
ども)、社会保障資産分布の平等性は当然といえば当然であるO Fe1dstein(1976)の貢献はこの事実を統計的に確認した点に認められよ
うO政策的な見地からこの事実を評価してみると次のようになるO資
産分布の平等性を高めることが経済政策の目標として重要であること
を社会が認めるならば、国民の資産保有型態を実物資産型から社会保
障資産型に変更させるような政策を考慮することが要求されるO言い
換えれば、個人の資産選択を実物資産指向から社会保障資産拍向に転
換させるような政策が考慮されることを意味する。当然のことながら、
租税政策や社会保障財源政策の適切な運用によって国民の資産選択を
転換させることは、国民の自由意志に関与することにもなるので慎重
な配慮が必要であるO現実の政策的見地からすれば、実物資産と社会
保障資産の代替の弾力性を実証的に数字を推定してから政策措置が考
慮されなければならない。実物資産と社会保障資産の代替の弾力性に
関しては実証研究の蓄積がなく、(当然のことながらデータ上の制約
を大きく受けていることが理由の一つになっている)、今後の進展が
期待されている分野であることを付言しておこう。
一応社会保障資産の存在を容認することによって、では社会保障制
度が民間の貯蓄率にどのような影響を与えるかという課題に戻ってみ
よう。この課題に答えるために準備された理論武装は「消費・貯蓄決
寒におけるライフ・サイクル仮説」であるO BrumbergやModigliani
-152一
年金の経済効果
の定式化に依存するライフ・サイクル仮説に立脚するならば、個人の
労働期間中に貯蓄された資産が、その個人の引退後の消費に振り替え
られるとするO 言い換えれば、個人が労働期間中に貯蓄するのは、将
来の引退後の消費を目的として行なうものであると考えるO社会保障
の導入によって、引退後の消費が保証されることになるのであるから、
労働期間中の貯蓄が肩がわりされることになり、民間の貯蓄率は低下
せざるを得ないという結論が得られるのであるO この効果を「代替効
果」と名づけることも可能であり、前述した社会保障資産による「資
産効果」の両効果によって、民間貯蓄率が低下することを理論的に予
見し、しかも計量的に実証しているのである。以上がFeldsteinの主
張の極めて簡単な要約であるO 実証的な側面からすると、Feldstein
はTime-Series(1974)とCross-SeCtion(1977)のデータによって、
貯蓄率の低下を社会保障の拡充と関連づけてアメリカ経済に関して明
らかにしているのであるO
ところで、このFeldsteinの結論にはいくつかの留保条件が必要で
あるO 第1に、前述したようにこの種の議論の理論的鉦丁邑点は「ライ
フ・サイクル貯蓄仮説」であるが、ライフ・サイクル仮説の現実妥当
性について若干の疑点が残されているO 第2に、Feldsteinの実証研
究に対して、Barro(1978)やBurkhauser&Turner(1978)に
よる反論を無視してはならない。第3に、年金制度といっても「公的
年金」と「私的年金」によって経済効果が微妙に異なるO 当然のこと
ながら貯蓄率への影響力が異なるといえるO 第4に、社会保障制度の
導入によって引退時期が影響を受ける、という事実を無視してはなら
ないO 以下にそれぞれの留保条件について簡単に論述してみようO
(1)ライフ・サイクル貯蓄仮説の検討
ケインズ経済学の誕生後、マクロ経済学の支柱の一つとして消費函
一153-
年金の経済効果
数の果してきた役割は多大なものがある。消費函数を規定する理論仮
説として、①相対所得仮説、②流動資産仮説、③恒常所得仮説、④ラ
イフ・サイクル仮説、その他の諸仮説が開発されてきており、それぞ
れの仮説が実証の分野で発展されて現在に到っている。どの仮説が現
実妥当性を保有しているか、という課題は本稿の目的ではないので論
述を避け、年金の経済学と密接な関係を持つところの④ライフ・サイ
クル仮説を論じてみたい。
ライフ・サイクル仮説はModigliani&Brumhergの理論的貢献を
出発点にしてから、Ando&Modiglianiによってアメリカにおける
消費実態の実証研究の成功に裏付けされて、消費理論の一つの大きな
仮説として共有財産になったものである。以下簡単にライフ・サイク
ル仮説を素描してみようO
一人の代表的消費者の効用函数U(C)を考える。効用はその消費者
の消費Cに依存すると考える。ライフ・サイクル仮説はその消費者の
一時期における消費や効用を考慮するのではなく、その消費者の一生
涯の消費と効用を考えるものであるO従って一個人の生涯の効用は(1)
式で表現される。
T
1-i
U〒∑u(Ci)(1+p)
l=1
(1)
ただし、iは年次を示し、Tはその消費者の生存年次数、pは時間
選好率であるO効用函数u(Ci)にさまざまな函数型を定式化できるが、
ここでは(2)式のような効用函数を考えてみよう。
u(Ci)=五㌔)cilrd(d>0でしかもd幸1)
(2)
u(Ci)=lnCi (d=1のとき)
ただし、dは消費に関する限界効用の弾力性である。一方、この消
-154-
年金の経済効果
費者の生涯にわたる予算制約式は(3)式で表現され得る。
¶ jl-ij ¶ jl-1
芋C.(1+r)=a +芦y.(1+r)
1=l
l
t
l=11
(3)
I
ただし、Tjはその消費者(i)が死亡まで消費する年次数、y はi
期における様得所得、rは利子率、a はt期における資産額を表現
t
しているO ここで、基本的行動原理として次のようなものを考えてみ
よう。個人は労働期間中に穣得所得の一部を貯蓄にまわし、その貯蓄
を引退後の消費に振り替えるという行動様式である。(3)式はその基本
様式を生涯の予算制走的式として定式化したものにすぎないO(3)式を制
約条件式として(2)式の効用函数を最大化することが個人の行動仮説と
して容認されたとする。制約条件付の最大化原理を応用することによ
って、消費量は(4)式で表現される。
C:=臣(1+r)1㌦:1/j
(4)
ただし
皇自書詳(1+r)卜i
ライフ・サイクル仮説によって導かれる結論は(4)式で表現される消
費量によって完結する。消費(C)は所得(y)と資産(a)の函数
であることを(4)式はしめしている。ただし、利子率rや時間選好率p
の要因を無視している。(4)式はB.White(1978)に準拠したもので
あるが、期間型ではなく連続型によっても(4)式に似た消費函数が導出
され得る。その結果に基いて、Ando&Modiglianiはアメリカの消費
函数の実証分析に成功したのであるが、その徳ライフ・サイクル仮説
に対して種々の反論、反証がなされているので、それを論述してみよ
っ。
-155-
年金の経済効果
先ず第1に、一個人の消費行動を考慮する場合に、その個人の生涯
所得と生涯消費が等しいという制約(それは先程の説明でいえば3)式
で表現されている)が現実に妥当しないという反論がある。具体的に
言えば、(3)式においてa。(初期資産呈)とaT(死亡時期の資産量)
がゼロであるという仮定が現実的ではないということであるO この反
論は、ライフ・サイクル仮説の登場当初からの批判であって、別に新
しい批判ではないO とはいえ、批判を実証的に証明した例はあまりな
く、どちらかといえば概念的な批判であったといえるO初期資産量と
死亡時期資産量がゼロであるという仮定は、言い換えると人間は親か
ら遺産を受け取ることもなく、しかも死亡時に子供に遺産を残さない、
ということを意味していることに他ならないO遺産・贈与がゼロとい
う仮定は、Blinder(1976)やBarro(1974)によっても現実的で
はないと指摘されているO もしこの仮定が現実的でないならば、ライ
フ・サイクル消費仮説は修正を余儀なくされるO遺産・贈与に関する
信頼すべきデータがあまり存在せず、遺産・贈与がゼロという仮定を
現実的でないといって批判することは簡単であるが、これを実証的に
確認することは意外と困難である。イギリス経済に関して最近の研究
があるのでこれを少し述べてみようO Oulton(1976)によれば、イギ
リス経済における遺産・贈与の額は多大になっており、しかも遺産・
贈与は世代間所得移転(特に不平等移転)の主たる要因になっている
ことが実証的に指摘されているO Oultonの研究は、ライフ・サイクル
仮説に基いて資産分布のための理論モデルを構築することからスター
トする。資産蓄積の根源となる貯蓄は労働期間中になされ、その貯蓄
の目的は引退後の消費に振り替えるものであるO ライフ・サイクル仮
説に忠実な理論モデルを作成していることがよくわかる。そして資産
蓄積の動学方程式5)式が導出される0
-156-
年金の経済効果
W(t,k)=
SZe
r g
(e
rl-e酎)
(5A)
ただし、Sは貯蓄率、zは初期の労働所得、mは経済成長に依存す
る所得成長率、kは経験年数、rは利子率、gは総所得成長率を表し
ている。(5A)式はtime-Seriesにおける資産プロファイルを表現
しているが、k=tと置き換えることによってcross-Sectionにおけ
る資産プロファイル(5B)が得られることになるO
W=吉(e`r m′t-erg m‖)・z
(5B、I)
W=-⊥〔(S-e-rr一gJL)er-mJt+(トS)erg一m)つ・Z
r g
(5B、II)
ただし、Lはその個人の総労働年次数を示しているO(5B,I)と
(5B,lI)の違いは、前者が労働期間中の資産プロファイルであるの
に対して、後者は引退後の資産プロファイルを示しているO(5A)
と(5B)で表現される資産・年令プロファイルはTobin(1967)の導
出した資産分布に関する理論モデルと基本的に一致しており、(つま
り、ライフ・サイクル貯蓄仮説に基く公式)、資産分布に関する研究の
方向を指示する上で極めて有用な理論式であることを付言しておこうO
Oultonの研究の意義は資産分布に関する理論式を導出したことにある
のではなく、むしろこれらの理論式を出発点として資産分布の不平等
度を測定する公式を導出したことにあるO そして、ライフ・サイクル
仮説に基く資産蓄積の理論式から得られるところの資産分布に関する
ー157-
年金の経済効果
仮説的不平等度と、現実に存在する資産データから計測される資産分
布の不平等度との商離があることを明らかにするO Oultonはこの垂雛
の原因をライフ・サイクル仮説における遺産・贈与のゼロ仮定に帰着
させ、従ってイギリスにおける遺産・贈与ゼロの仮定を棄却し、むし
ろ遺産・贈与の存在こそが資産分配の不平等に大きく貢献している、
と主張するのであるO このことは当然のことながら、所得分配の世代
間移転を規定する要因として遺産・贈与の役割を強調することにもな
る。Oulton の方法は遺産・贈与を統計的に計測することを避け、間
接的な方法を用いて遺産・贈与の存在を推測したのであって、Davis
& Shorrocks(1978)の批判にもあるように、いわば残差法を用いて
遺産・贈与の存在を推測したのであるから、遺産・贈与を直接計測な
いしは計上しているのではなく、Oulton の結論はあまり説得的では
ない。遺産・贈与に関するデータが極めて不充分であるので、Oulton
の間接法ないしは残差法はやむをえない面もあるO いづれにせよ、遺
産・贈与のゼロ仮定に疑問が向けられたことに意義はあり、今後も遺
産・贈与に関するデータの収集、開発が望まれるところでもあるO以
上述べたことは、ライフ・サイクル貯蓄仮説において遺産・贈与ゼロ
の仮定は現実的ではなく、その仮定を排除して仮説を一般化してから
理論の再構成を図る必要がある、ということであるO
ライフ・サイクル貯蓄仮説に対する反論ないしは批判の第2点とし
て、家族構成に関する問題がある0第(1)式と琳2)式によって表現され
るライフ・サイクル行動仮説は、一人の個人ないしは消費者の行動様
式であって、家計の消費行動様式ではないという点があるO現実の消
費行動は家族単位でなされるのが極めて普通であり、(1)式と(2)式も家
族人数や家族の年令構成を考慮してもモデルを作成する必要がある、
ということになる。もう少し具体的に言えば、単身世帯と複数世帯の
-158-
年金の経済効果
区別、複数世帯のうちでも稼得所得者数の相違、被扶養者数とその年
令構成、等々の要因が考慮されなければならないOIrvine(1978)に
よれば、家族構成とその年令構成を考慮すれば、一世帯の消費は世帯
主の年令の単調増加ではなく、中年期をピークとしてその後の消費は
減少することを指摘しているO Thurowノ(1969)も家族構成を考慮して
消費を計測してみた結果、Irvineと同様な結論を得ているO家族構成
の要因を無視してライフ・サイクル仮説によって消費・貯蓄の実態を
計測することの非現実性をこれらの研究は示唆しており、従って年金
の経済学にとって基本仮説となり得るライフ・サイクル貯蓄仮説に、
家族構成の要因を考慮する必要性のあることが指摘されることになる。
第3に、第2の点とも多少関連していることでもあるが、引退後の
消費水準が引退前の消費水準と比較してどの程度であるか、という問
題がうまく解決されていない。この課題はノーマティブな面でも実証
的な面でも研究の立ち遅れが目立っているO ノーマティブな側面から
すると、例えばDiamond(1977)で採用されているように、引退後の
消費水準が引退前の消費水準に比較して例えば50%ないしは%でなけ
ればならないと仮定し、その消費水準を満たすためには労働所得の何
%を貯蓄する必要がある、というシミュレーション研究をす'ることが
可能になる。一方、実証的な側面からしても、引退前の消費水準と引
退後の消費水準を比較して明らかにした例はあまりないO これは引退
後の人々(当然のことながら高年合着)の消費実態に関するデータの
不足が原因になっているO年金制度の第1の目的は引退後の所得保障
(いうなれば消費水準の保証)にあるので、引退後の消費水準を規範
的な側面と実証的な側面から解明していくことは決定的に重要なこと
であるといえるO ライフ・サイクル貯蓄仮説はこの点の考察が欠けて
いたし、ライフ・サイクル仮説はともすれば労働期間中の消費・貯蓄
-159-
年金の経済効果
行動に関心が集中し、引退後の消費が無視されていた傾向があるとい
える。引退後の消費・貯蓄行動の分析は、死亡時期の不確実性という
難問が高年令者を対象とするだけに大きな課題になっており、規範的
な側面を扱う場合に不確実性の問題は特に困難ではあるが、今後も取
り組む必要性があるといえる。
第4に、ライフ・サイクル仮説が暗黙の内に仮定している資本市場
の完全性、将来予見の完全性、等々の仮定が厳し過ぎるという批判が
なされている。例えば、Nagatani(1972)、Thurow(1969)等を参照。
NagataniやThurowは厳し過ぎる仮定を排除して、資本市場の不完全
性や消費行動の随時的な変更を考慮の上で理論モデルを再構成してい
るが、議論が専門的過ぎるのでここでは多くを語らないことにするO
第5に、最近の貢献としてミクロ・レベルでライフ・サイクル仮説
を検証するとうまくいかないという事例があることに注目したい。例
えばWhite(1978)のシミュレーション研究によると、比較的実証面で
成功していたマクロ・レベルでのライフ・サイクル消費・貯蓄仮説に
対して、ミクロ・レベルでのシミュレーション研究は消費・貯蓄をう
まく説明しないという結果が得られているO Whiteの研究例だけでラ
イフ・サイクル仮説を否定することには大きな危険があるが、我が国
においてもミクロ・レベルでのシミュレーション研究を蓄積して、消
費・貯蓄行動を解明する必要性が大であるといえる。
以上、年金の経済学における理論的な支柱になっているライフ・サ
イクル仮説の意義と問題点について論じてきた。ライフ・サイクル仮
説は基本的にいえば極めて有用な仮説であり、特に年金の経済学にと
って不可欠な武器であることを否定することはできないが、種々の
批判が正当性を持っていることも事実であり、理論の深化と実証の蓄
積が期待される分野である。特に最後に述べたミクロ・レベルでのラ
ー160二一
年金の経済効果
イフ・サイクル仮説、特に貯蓄率、引退後の所得保障率、人口成長率
や年令構成、等々の諸要因を考慮に入れたシミュレーション研究は我
が国においてその例が少なく、今後の研究が期待されている分野であ
るO
議論を本題に戻して、Feldsteinの結論に関しての留保条件に焦点
をあててみようO 第1の留保条件としてライフ・サイクル貯蓄仮説の
問題を論じてきたが、第2の留保条件としてFeldstein の実証研究の
展開とその解釈にまつわる問題点を考えてみよう。Feldsteinの研究
に対して最も注意深くその内容を吟味し、しかも価値ある批判を述べ
ているものにBarro(1978)の研究があるO Barro の批判は極めて有
用なのでここでやや詳しく追ってみよう。Barroによれば、先ず第1
にライフ・サイクル仮説の問題点を指摘しているO具体的に述べてみ
ると、ライフ・サイクル仮説は世代間所得移転を無視しているので現
実的ではないとしている。前述のライフ・サイクル仮説の批判点に関
連させてみると、遺産・贈与がゼロであることに対する疑点と同義で
あるのでここでは多くを語らない。第2の点は統計的(計量経済学的)
スペシフイケイションに関する批判であるO 消費函数のスぺシフイケ
イションの論争に深く立ち入る必要はないが、BarroはFeldsteinの
研究に対して次のような疑点を提示するO政府余剰と耐久財に関する
変数を新しく加える必要があるとし、純資産に関する定義と計測を
若干変更し、失業率を説明変数として導入するに際してその型式と定
義を変更し、社会保障資産の再計測を行なった結果を見てみると、社
会保障資産の変数は消費函数の説明に際して統計的に有意でない結果
が得られていた、とBarroは主張している。従って、社会保障制度が拡充
されたとしても貯蓄率が下降するような現象は統計的に判定する限り
支持されない、とBarroは断定するのであるOこのBarroの批判に対
-161一
年金の経済効果
してFeldstein自身の反批判もあるが、ここでは言及しないことにし
ようO計量経済学的研究の解釈にまつわる論争の詳細に立ち入ること
が本稿の目的ではないし、FeldsteinとBarroの研究はアメリカ経済
に関するものであって我が国のものに関することではないことも理由
となってこれ以上の言及を避けるものであるO いづれにせよ、Feldsteinの結果を信ずる限りにおいては、社会保障制度の存在によって
アメリカの貯蓄率が30-50%も減少していることになり、数字的にも
かなりの量であって、日本経済に関してこの種の研究を行なうことに
よって現実の貯蓄率の動向を見極める必要性大であるといえるO
Feldstein の結論に関する留保条件の第3として「公的年金」と
「私的年金」の違いについて述べてみよう。Feldsteinの主たる関心事
は「公的年金」の貯蓄率に対する影響であって、「私的年金」の影響
力に関することは範囲外に置かれていたといえる。Feldstein と並ん
で年金制度の存在が貯蓄率の下降に貢献していることを力説している
Munnell(1976)も「公的年金」と「私的年金」の差は貯蓄率に異な
った影響力があることを認めているが、「私的年金」に串いても貯蓄
率を減少させていることを統計的に検証しているO最近のFeldstein
(1978)の研究によると、「私的年金」は貯蓄率を減少させることに
違いないが、その影響力は「公的年金」と比較してやや小さいという
結果を導出しているOアメリカにおいては日本以上に「私的年金」の
普及度が高く、従って「私的年金」に対する興味も大なのであろうが、
我が国においても「私的年金」の一類型とみなされる「企業年金」の
発展もみられ、「公的年金」と「私的年金」の経済的効果に関してそ
の相違についても注意を払う必要があろう。
Feldsteinの結論に関する留保条件の最後として、社会保障制度の
導入によって引退時期が影響を受ける、という問題を考えてみよう。
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年金の経済効果
Feldsteinによれば年金制度によって老後所得(引退後の所得)の保
障がなされるのであるから、他の条件が等しい限りにおいて引退時期
が早くなる傾向がある。引退時期が早くなるのであるから、その間の
所得(消費)を確保するために余分の貯蓄を強いられることになる。
世界的な傾向として(当然ながら日本を除外して)引退時期の早まる
傾向がある。社会保障制度の充実によって引退時期が早まっているの
か、それとも社会保障制度の充実と無関係に引退時期が早まる傾向が
あるのか注意しなければならないが、Feldsteinの結論によれば、社
会保障の充実による早期引退効果のもたらす貯蓄増大効果は、代替効
果としての貯蓄減少効果に比較して小さく、総体的にみれば貯蓄減少
効果をもたらすものであるとしている。Feldstein とは別個に、社会
保障制度(年金)が労働者の引退時期にどのような影響力を持つかと
いう問題は理論的にも実証的にも経済学者の興味を呼んでいるO理論
的な面からすると、Hemming(1977)やSheshinski(1978)の貢献が
あり、実証的な面からすると、Boskin(1977)、Quinn(1977)、Burkhauser(1978)の貢献がある。理論的な側面は最適労働供給という問
題意識からアプローチするものであるが、理論武装はかなり数学的で
ある。実証的な側面もかなり計量的であってここで詳細を語る余裕は
ないが、結論的に述べると社会保障制度は引退時期を早めていると観
測されている。つまり、高齢者の労働供給を減少させている、という
ことが検証されている。一方、高齢者の労働供給と対比させて若年と
中年層の労働供給効果についても吟味する必要がある。この点に関し
てはBurkhauser & Turner(1978)の研究があり、他の条件が等し
い限りにおいて社会保障制度は一週あたりにして約2時間の労働時間
を上昇させていると主張しているO
以上、Feldsteinの研究を中心にして社会保障制度の充実による諸
一163-
年金の経済効果
経済効果の展望を行なってきた。Feldsteinに限らずアメリカにおい
ては、社会保障に関する経済学的分析(それは理論的にも計量的にも)
は質量共にすざましい発展を見せていることがわかるO残念ながら我
が国においては、社会保障の経済学的分析は質量共にアメリカに比較
して遅れをとっており、今後益々社会保障制度の充実が時代的要請で
もあるだけに、研究の分野でも発展が切に期待されるものである。
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