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Author(s)
L'Affaire Balzac-MmeHanskaについて
中堂, 恒朗
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
女子大文学. 外国文学篇 島本教授定年退職記念号. 1979, 31, p.75104
1979-03-31
http://hdl.handle.net/10466/10484
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
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について
中堂恒朗
1
ハシスカ夫人がとうとうオノレ・ド・バルザックと結婚したのは1850年
3 月 14 日である。バルザックは同年の 8 月 18 日 (17 日?)に死ぬことにな
るから,ハンスカ夫人がパルザック夫人として夫とともにいたのは約 5 ヶ
月である。主も,この夫婦がポーラ γ ドからつらい旅をしてやっとパリに
着いたのは 5 月 21 日だから,
フォルテュネ
(Fortunée)
通りの夫婦生活
の期聞はたった 3 ヶ月である。しかもバルザックは重病人であった。
未亡人パノレザック夫人(ハンスカ夫人)は1882年に死んでいる。未亡人
(veuve) の期間は32年に及ぶ。それ以前のハンスカ夫人の未亡人の期聞
は 9 年に及ぶから,彼女は生涯の半分ほどを寡婦として過したことにな
る。
ハシスキ氏の結婚生活の期間は1819年から 1841年にいたる 22年間だか
らパルザ y クとの結婚生活よりもはるかに長 L 、。彼女の80余年の生涯の
中で,バルザックは一通行人 (un passant)
にすぎなかったとも言える。
尤も,彼女とバルザックは結婚以前にしばしば会っている。 1833年~
1834年.
1843年.
1845年~1846年.
1847年というふうに。
これらの会合
は,時として甘美なものを伴うことがあったとしても,皆あわただしく落
ち着かぬものであった。特にハンスキ氏が亡くなってから
(1841年).
ハ
γ スカ夫人がノ勺レザッグの結婚の望みをなかなか叶えてくれないので,バ
ノレザックの焦慮は増すばかりであった。例えば1845年 9 月 3 日付の,バノレ
ザ v クからハンスカ夫人への手紙より「……私の思考は全く不完全です。
私の精神が私の思考の全部を必要としているときに,それはいつも私の心
7
6
中堂恒朗
を通ってあなたのものになってしまうことを余儀なくされるからです。あ
あ!
こんなに幸福で,しかも同時にこんなに不幸であるときには,文学
の仕事なぞすべきではないでしょうにJ (r異国の女への手紙J 3 巻目,
p
.
77) 。
二人の手紙のやりとりは1832年から 1848年の間 17年間に及ぶ蓮大なもの
である。惜しいことにハンスカ夫人の方の手紙は,初めの 2 通を残して,
彼女の希望でパルザックによって破棄された。パルザックの方の手紙はの
ちにくLettres 通l'Étrangère> として Calmann-Lévy から刊行された
(tome11899年, tome1
11906年, tomeI
I
I1933年)。
バルザックの非凡な個性を知るのに,これらの手紙が重要な資料である
ことはむろんである。そしてそれらの文章が,ハシスカ夫人にどういう印
象や解釈を与えたにしろ,彼女の魂に強烈な影響を及ぼしたこともむろん
である。しかしそれらはあくまでも文字である。文字であるにすぎない。
パルザックとハ γ スカ夫人の聞には,ついに連続した日常生活の重味が
なかったといってよ L 、。結婚後のあのパリ生活 3 ヶ月もパルザックの死が
刻々と迫りくる 3 ヶ月であった。
パルザックにとって,
ハ γ スカ夫人との関係はくun
であったかもしれないが(pierre DescavesくLes
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>p.232) ,ハ γ スカ夫人にとっては一つの強烈なエピソードにすぎ
なかったということができる。
2
ハンスカ夫人(ハニスカと書いた方がポーランド語に近いそうだが従来
日本で親しまれているハンスカの方を使った〉の実家の名は Rzewuski
である。 Eveline Rzewuska が彼女の婚前の名前だ。 Rzewuska はどう
発音するのだろうか。 Marcel Bouteron がポーラ γ 下に行ったとき (1928
年 5 月), Bouteron が RZ を苦しげに発音すると,ポーランドのある婦
人が次のように言った「ブートロン先生はポーランド語ではとても優しい
ひびきのこつの文字 (=RZ)
をどうしてそんなにわざわざ苦しげに発音
なさるので、すか。 RZewuska などと申しません,
Jéwouska と申します。
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7
7
につし、て
フランス語でくJé v
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s aime> と申しますようにJ (く立tudes b
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n
n
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>
p
_260) 。つまりジェヴースカと読めばよいということだ。
エヴリーヌ・ジェヴースカはいつ生れたか。
ザック事典J
(1969年〉によると 24
Félix Longaud の「パル
d馗embre1
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0
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がついているのはなぜか。彼女の伝記を書いた Mme
とある。疑問符
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ska によれば 1800年 12月 24 日生となっているが,ハンスカ夫人自身の告
白するところではそれよりも数年 (plusieurs années) おそいと Longaud
は書いている。疑問符を打ったのはハンスカ夫人の告白を重んじたため
か。しかし Mme d
e Korwin-Piotrowska の書いた問題の伝記(くL'É­
trangère , E
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eHanskad
eBalzac>ArmandColin, 1938) には,エヴり
ーヌの生れた日付は記されていないのである。生れた場所 (Pohrebyszcze)
のことは詳細に書いてある。また彼女の祖先のことも(第一章 pp. 7~15) 。
第一章は「エヴリーヌ・ジェヴースカの幼年時代」とし、う題だが,彼女の
生年月日の記述はなし、。そして第二章の冒頭の文章は「エヴリーヌ・ジェ
ヴースカが好奇心のある聡明な若い娘の目を人生に向って聞きはじめたと
き,つまり 1815年の噴,古いヨーロッパは再構成され,何よりも先ず平和
を求める J
(
p
. 16)
となっていて, 1815年に彼女が何才であったかは明記
されずにぼかされている。実は M酎 de Korwin-Piotrowska
こそハン
スカ夫人の意志を重んじているのであって, Longaud はなぜか思い違い
をしているようだ。
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eHenr旬t
のくPortraits
defemmes>(
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n Michel , 1
9
5
1
)
の中にハンスカ夫人について書いている部分があるが (pp.342-350) ,そ
こには彼女は1801年生れとある
くLes
(
p
.3
4
4
)
0 Emile Henriot は1953年に
Romantiques>(AlbinMichel)という題の本を出しており,この
中のくBalzac e
tl'企trangère> という章 (PP. 338-351)の中でもハン
スカ夫人の生れを 1801年と記している。 Emile Henriot の場合の sources
はどこだろうか。 Juanita-Helm FloydくLes
Balzac> cPlon ,
1926)
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e de
の中のハ γ スカ夫人に当てられた章では彼女の生
年を1801年としている。 Henriot はそれに依ったのかもしれない。する
と J.-H. Floyd の場合の so町ces はどこかというと,これはもう筆者に
7
8
中堂恒朗
は分らない。
F駘ixLongaud
の書いている 1800年12月 24 日生の日付けは,正しい
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t Hastings
ものと信ぜられるが,実はこれは,
くHonoré
chel,
deBalzac,
Lettres 忌担 famille,
の編した
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n Mi・
1950) の注の部分に Hastings によって記されているのである (p.
155) 。この注のあるあたりの本文は,バルザックが妹 Laure 5urville 夫
人に宛てた手紙である。手紙の日付けは1回3年10月 12 日。内容は主に,バ
ルザッグが初めて会ったハシスカ夫人のことである。
バノレザッグは1833年 9 月下旬,彼へのファ γ ・レターの書き手ハ γ スカ
夫人に会うためにスイスの湖畔の町ヌシャテル (Neuchâtel)に来た。
9
月 25 日から 10月 1 日までいたが,二人の出会いは想像されるほどロマネス
クなものではなかったという。 σ.-H. Floyd が前掲警の中で,
夫人の姪 la
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eRadziwill
ハ γ スカ
の言としてあげている〉。
ハシスカ夫人はひとりでヌシャテルに来たので‘はな L 、。家族連れであ
る。 22才年上の夫 le
comteW
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sHanski,娘
師,召使いたち。,..・ H ・やれやれ,夫の奴が [un
Anna,娘の家庭教
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日間と
いうもの一秒たりとも僕たちのところを離れなかった。夫は彼の妻のスカ
ートを経て僕のチョッキのところへ出かけるというしまっだ」とパルザッ
グは10月 12 日付の,妹への手紙の中で書いている。
むろんこの手紙の最も興味のあるのはハンスカ夫人への第一印象だ。パ
ルザ γ クは妹にこう書いている「肝心なのはこうだ,あの人が27才で,う
っとりみとれるほど美人で,この上なく美しい黒髪の持ち主で,プリュネ
ット女特有の心地よく得も云われぬくらいきめの細かい肌を持ち,愛らし
い小さな手をし, 27才の心 (coeur) ,素朴な心を持っているのだ。真のリ
ユヨル夫人 (Madame
deLignolle)
だ,万人の前で僕のくびにとびこん
でくるくらいに軽はずみなところがある。〔中略〕だらりとした視線だが,
視線が合うと官能的な輝きになる。僕は恋にうっとりとなってしまった」
(W.5
.Hastings
の前掲書 p. 154) 。
原文では例えば nons
sommesbelle
というように nous
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を使っていてパルザ γ クの感情移入の激しさを伝えている。それからリニ
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eBalzac-M副Hanska について
ヨル夫人というのはLouvet
deFaublas>(1
.
79
deCouvray くLes amours du c
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2 部17邸年.
3 部 1789年刊〉の中に出てくるヘロイソ
の一人の名前である。この小説はロココ的好色趣味とルソー的情熱との混
合した長篇小説で,パルザックや当時 (18世紀末噴より 19世紀初頭頃〉の
青年たちがひそかに愛読したものらしい。特に二人のへロイン
(B 紳*侯
爵夫人とりユヨル公爵夫人〉がよく描かれていて,後年 α830年〉の「赤
と黒」の二人の女性を想起させるところがある。
「エレオノール・ド・リニヨル伯爵夫人は若くてきれいな方です。少し
軽卒で,とても怒りっぽく,ひど〈押しつけがまししそれに移り気な方
ですJ (ガルニエ版
2 冊目. p
. 31) 。パ Jレザ y クは被の作品の中でも女
性の魅力を描く場合にリ=ヨル夫人を引き合いに出すことがある。例えば
あの官能的なくLe Message>(1832年〉で。
気の強い美貌の伯爵夫人というのは,バルザックの欲望をいちじるしく
1略説するタイプの女性だったに違いない。ハンスカ夫人がリニヨル夫人の
ように軽卒なほど若〈て活気があるとは思われないが(リエヨル夫人の小
説での年齢は16才).彼の想像の中の美しいへロイ γが突如として現実と
なって姿を現わしたかのように,バ Jレザックはハンスカ夫人にほとんど一
目飽れのような圧倒的印象を受けたようだ。
バルザックのかつての年上の恋人
(22才年上.)
Mme d
eBemy
の
母性的でパセテ-1 "/クな性格とは,ハ γ スカ夫人にしろリユヨノレ夫人にし
ろ全く違ったタイプである。 1833年にはベルユ夫人は56才であり,彼女
の,バルザッグへの役割は終ろうとしていた。〈ベルニ夫人の死は1836年〉。
それにベルエ夫人はドイツ人のハープ奏手と,マロ=アントワネットの侍
女との聞にできた女性で名門の出でも何でもない。それから,ハンスカ夫
人が現れる一年前 (1832年.).バルザッタは la mar司ui詑 de Castries に
のぼせ,彼女にふられてさんざんな自に会 q ている。このカストリ俣爵夫
人というのは堂々たるパリの貴族であった。
ハンスカ夫人の実家ジェグースキ家はポーラ γ ドの名門である。尤も
彼女が嫁いだハ γ スキ家はジェヴースキ家より衰る家柄だが,それでも
21, 000ヘクタールの Wierzchownia の広大な領地〈男の農奴3. 伺5人〉
8
0
中堂笹朗
を持った大地主である。成り上り根性のバルザッタにとって本物の貴族の
女性(la
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)
とは何たる名誉,何たる魅力,何たる焦慮であっ
たことか!
ところで,前掲の手紙の中で,バルザックはハ γ スカ夫人の年齢を27才
と言っている。 Hastings が注をしているように,彼女はこのとき (1833
年.) 33才である(尤も誕生日前だから32才か?)。バルザックは妹に(妹
も 1800年生れ〉わざとハンスカ夫人を若い自に報告したとも考えられる
が, "Longaud
も書いていたようにハンスカ夫人には F数年」若く伝えた
い気持ちがあったので,バルザックが夫人の告白を真に受けたと考える方
が当っていよう。
女性が自分の年を若ぐ言うのはよくあることでどうということはない
が,当の女性が死んだ後で(ハシスカ夫人は1882年巴死ぬ〉書かれた彼女
の伝記仰me
d
eKorwin-Piotrowska
による〉にも,彼女の生年月日を
ぼやけたま与にしておくのはどういうわけだろ・うか。それは,故人の意志
を尊重し,故人をできるかぎり若くて美しいイメーシのま与に(それはま
たパルザックの作りあげたイメーシを重んじることにもなるだろう〉じて
おこうという著者の配慮だと思われる。しかしなぜこういうことをする必
要があるのか。
実はM山 de Kor\vin-Piötrowska の本が出た頃(1938年),
及びその
頃までに,いくたびか故ハンスカ夫人のイメージが「汚され」てきたとい
う筆による「事件」があったのである。コルヴィン=ピオドロウスカ夫人
は序文の中でこう書いている「…・・・パルザック=ハ γ スカ夫人事件の論争
は,ハンスカ夫人が死亡するのとほとんど同時に開始され,当然今となっ
ては終結すべきものと思われるかもしれないが,実際はそういうことは全
然ない。『異国の女』への怨恨は終ってはいない。それどころか,
エヴリ
ーヌを中傷する人々に,彼女が偉大な男性に対 L て与えた幸福なる影響に
ついての確たる証拠を提供し,彼女の同時代の人々の最も信頼に価する証
言を引用しても,彼等中傷者は頑迷にも,フランスやさらに彼女の故国ポ
ーランドにおいて彼女に関して述べられた不当な意見を固執しているので
ある J (
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. 1)。
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について
これを読むとコルゲイン=ピオトロウスカ夫人はハンスカ夫人弁護派で
あったことが分る。一体,パルザック=ハンスカ夫人事件。 'a任aire
B
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zac・Mme Hanska) とは何なのか?
3
バルザックが死んだのが1850年,ハンスカ夫人が死んだのが1882年,そ
の聞に出版されたノ勺レザックについての伝記的な本としては次の 3 つが主
なものである。
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zlui, Paris, MichelL騅yfr昼間s, 1
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(この本は1868年にくBalzac en ρantoufles> として増補版が出る。
これらの著者は皆,生前のパルザックと親交のあった人々である。敬愛
と理解に満ちた伝記である。それだけにパルザックの欠点やノ勺レザック周
辺にあった暗い部分には触れまいとする配慮がある。いや欠点や暗さもパ
ルザックの非凡な性格の中では魅力ともなりうる。そして魅力となりうる
ように書かずにおれないのが妹のロールであり,くbon Théo>であり,
ほほえましい anecdotier である。この約30年間,バルザック=ハンスカ
夫人「事件」は起る気配なく,平和な時期であった。
しかしこの時期に一層若い世代の中には,バルザックをしきりに読み,
パルザックを異様な天才のように考え,バルザックに惚れこむ人々が出て
きた。彼等はノξ ルザックという存在を直接には知らなかったから,あるい
は作品からでしか知らなかったから,その敬愛は前の世代の者よりも一層
強くなることもあり得,そして前の世代の者が言わずにおこうとしたこと
をも掘りおこそうとする好奇心と探求心に燃えることを避けえなかった。
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Bordeaux, P
等々。
中堂恒朗
田
ところで,
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rHugo(1802-1885)
の遺言執行人の一人である Paul
Meurice は1887年にくChoses vues> なる題の下に,
ユゴーのノートを
集めて出版した。(くChoses vues> は1944年の La Palatine 版では一層
ふくらんだものになる。ユゴーの carnets intimes にある多くの文章が附
加されたからである。その後 Henri Guillemin
らの努力で更に充実した
ものとなる〉。
くChoses vues>すなわち「所見録」は,ユゴーの長い生涯の中での見
聞を時代順に並べた短文集である。その中に「パルザックの死」くこの題
はポール・ムリスがつけた〉なる文章がある。 1850年 8 月 18 日のバルザッ
クの死のことを書いたもの。ただしこの文の書かれた日付けは分からな
し、。
さて,ユゴーのこの文章にはし、ろいろと問題があり,これが「事件」の
きっかけのようになった。
冒頭の文 11850年 8 月 18 日,私の妻は,昼間ノくルザック夫人を訪問に行
ったのだが,パルザックさんが危篤ですと私に言った。私はパルザックの
ところへかけつけた」。ノ〈ルザック夫人とはハンスカ夫人のことで,
一夫人は実際は彼女に会えなかったらしし、。
Pierre Descaves
ユゴ
による
と,ここには日付けの混同があるらしし、。バルザックが死んだのは実は 8
月 17 日の午後11時半頃で,公的に18 日となっているとのこと。するとユゴ
ーがフォルテュネ街に駈けつけたのは17 日だ。ユゴーの記憶違し、か? (な
おデカーヴによると,ユゴ一夫人が行ったのは前日の 16 日の午後という)
(くLes
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>
p
.145) 。
ヴィクトール・ユゴーがノ勺レザック邸に来たのは夜の 9 時頃(これは充
分に確かではなしう。つまりバルザ‘ックの死ぬ 2~3 時間程前だ。ユゴー
の文にもあるように,
パルザックはすでに終油の式を終え(女中の言),
部屋には屍臭がみなぎっていた。苦悶のパノレザックを公私とも多忙のユゴ
ーがじっと見ている。第二帝政間近い頃の「感動的な」場面のようだが…
。
ユゴーは玄関で女中 (une servante) に会っている。「彼女は泣いてい
た」。一階の客聞に適されると,くune
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efemme>がやって来た。彼
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eHanska
83
について
女も泣いている。これも女中。というのは彼女の言葉つきで分る。バルザ
ックのことを Monsieur と言い,パルザック夫人のことを Madame
と
言っている。彼女はかなり長く喋る。それを聞くと,バルザッタの妹夫妻
(Surville 夫妻〉が来ていることが分る。女中が去るとすぐにスュルヴ
ィル氏来てユゴーと会っている。
さっきの女中の言葉の中で注意すべきことがあった。初めの方でくMa.
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.>と言っている。「奥様は御自分の部屋へお
引きとりになりました」。ハンスカ夫人は疲れて部屋に引きこもってしま
ったのだろうか。とにかくユゴーにしろユゴ一夫人にしろ,ハ γ スカ夫人
に会わずじまいだったようだ。グィクトーノレ・ユゴーが夫の臨終の床を訪
ねているときに妻が姿を見せないのはいささか奇妙なことである。
ユゴーの文章の中でもうー箇所問題になった。バルザッグが苦闘する部
屋にユゴーが入る。くUne
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aPalatine 版 p. 434) 。
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は後の文の Cet
と同じ人物と取るのが自然のように思えるの
だが。つまり la garde は une
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efemme
の同格と思えるのだが。
日本語訳は筆者の知る限り三つある。その一つは昭和13年に第一書房か
ら出た,
井波清治編「世界文豪読本ユウゴオ篇」の中にあり,弁渡氏は
『年取った看護婦と,召使の男……。この男と女は…一。』と訳している。
その二つは,若園清太郎著「パルザヲクの歴史J (昭和22年,
批判社〉で
は『一人の老婦人〔小説家の母, 72才〕と看護婦と女中(この女中は若園
氏の誤り〉が…・・。婦人たちは〈これもむろん誤り〉……」
となってい
る。老婦人のかぎ括孤の注は若園氏自身のもの。その三つは,昭和26年 1
月の雑誌文学界に掲載された笹本駿二「バルザ γ ク臨終の夜」と題する論
文の中にあり, w一人の老婦人,看護婦,
召使の三人が H ・ H ・。三人は怖そ
うに……』とある。この三つでは井浪氏の訳が最も適切であると筆者は思
う。
8
4
中堂恒朗
若園氏や笹本氏が如上のように訳されたのは,実は Lovenjoul の解釈
を踏まえているからであろう(そのことは笹本氏も触れている〉。
ブリユセル生れの有名なバルザック研究家 le
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年生〉の著くUn
roman d'amour>
(1896) は,新しい資料に基ずいてバルザックとハンスカ夫人の関係など
を書いたもので,この中でユゴーの文章について触れているところがある
(
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P
. 107-108) 。
ログァンジュー/レ〈ロフェニュール)はくune
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.
.
.
.
.>とユゴーの文を引用している。
garde
の次にコ
ンマがないことに注意されたし、。パラティーヌ版のユゴーの文にはコンマ
がある。尤も,コンマがあると 2 人になり,コンマがないと 3 人になるの
かどうか。朝倉季雄氏は「フランス文法事典」の中で A,
BetC
が二つ
以上の要素の結合の型だとしておられる (P. 150) 。だから garde の次
にコンマがないと 3 人ということになる。ユゴーはコンマをつけたようだ
からやはり 2 人なのではないか。
しかしログァンジュールはいきなり 3 人と思い込んだようだ。ユゴーの
文を引用したあとすぐにログァンジュールはこう書くくA
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ヴァンジュールはここでは「老女」をバルザックの母とし,しかもどうい
うわけか引用文の中の la garde を une garde としている。あくまでも
三人だという考えに固執し,そしてにわかにバ/レザックの母が浮彫りのよ
うに現れてきたので‘ある。
バルザックの母
(1778-1854) 。バノレザックと母親との間柄についてこ
こで詳述するいとまはないが,そこには何か暗く痛ましいものが底の方に
漂っているようだ。お互いがお互いに対して ambivalent で、あったが,
バルザックの方に愛よりも憎しみが勝っていたかもしれなし、。母がアンリ
を溺愛したことが少くとも少年時代のオノレには苦痛で、あった。それがパ
ルザックの心に傷跡を残す。このアシリというのは種違いの弟である(実
父は de Margonne という〉。つまり
enfant adu1t台ien だ。アンリは
L'A
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eBalzac-M回Hanska について
8
5
成長し経済的に失敗し植民地などを転々として遂に果てる男である (1807
-1858) 。母親はずい分とこのアンリを援助しようと努めたらしし、。
アシリーー母一一オノレの関係は,愛憎の上に金銭問題がいらいらとか
らんで暗然たるものがある。母親はオノレの才能に期待していたが(その
期待とは主に金銭的なもの),
オノレ自身若い頃に失敗した事業の莫大な
借金をかかえこみ,しかも彼には浪費癖がある。オノレの父は長生きした
が (1746-1829) ,財産はほとんど何も残さず,
アンリとオノレとにはさ
まれた母親は,夫の死後落ち着かぬ日々をなお25年生きることになる。
バルザックの「家族への手紙」は,当時 (19世紀前半〉のフラ γ スのプ
チ・プルの経済的暗闘を伝える。あるいはこうも言えるか,中庸 Guste­
milieu)
を旨とすべき新興階級に,
中庸などてんで受けつけぬ小説家が
生れるときの家族の混乱状態を伝えるとも。そしてパルザックの作品をあ
のように迫真的にしているのは,この生活に密着した暗闘と混乱からきた
実感によるところ大きいことも否定することはできない。
バルザックは自分の母親のことをハ γ スカ夫人に決して良く言うことは
なかった。妹などには必ずしも悪く言ってはし、ないのだが。どうもバルザ
y クはハ γ スカ夫人を,自分の母親から,時には自分の家族から,遠ざけ
ておきたL 、心理があったようだ。伯爵夫人に対するバルザックのコ γ プレ
v クスと言えよう。(バルザックの祖父は南仏の貧乏百姓であったこと,
それからパルザッグの叔父は殺人犯人として処刑されたことも書いておく
必要があるだろうか〉。
とにかくこうしザバノレザッグの傾向がバルザ y ク家の人々をハ γ スカ夫
人に近づけさせなかったということができる。それにハ γ スカ夫人は気位
の高い女性であった。
1846年 1 月 2 日付の,バルザックがハシスカ夫人に宛てた手紙にはこう
ある「私は母親なるものを持ったことがないので、す。今日彼女は私の敵だ
とはっきり宣言したのです。私はまだあなたに心の傷の秘密を打ち明けた
ことはありませんが,彼女は余りにもひどい人でした,そのことを信じて
もらうには実際に見なければとても分りっこありません…… J (,異国の女
への手紙j
mp_ 176) 。バルザ v クは,ハソスカ夫人にしがみつけばっく
中堂恒朗
部
ほど,母への憎しみを大きくしていったとも解釈できるだろう。
ポーラ γ ドからパルザヅグ夫妻が来る少し前に,母親は息子の要請で,
フォルテュネ街の夫婦の新居の家具や室内装飾を細かく忙しく指図してい
た。しかしオノレは,夫婦がバリに到着するときにはその新居に母親が居
ることを望まなかった。 1850年 5 月 11 日付の手紙でバルザックはドレスデ
γ より妹ロールに書き送っている「君に頼むけれど母に次のことを理解さ
せてもらいたいのだ。僕が到着するときにフォルテュネ街に母が居てはい
けないってことをだ。僕の妻が母の所へ行って挨拶をすべきだから。これ
が済み次第,妻はよく尽す女性〈実際そうなのだ〉たるところを示すこと
ができるのだ。しかしね,荷解きをするときに妻が僕たちの手伝いをする
ような最中には,妻の品位が傷つけられるかも分らないからね。〆だか
ら, 20 日の日のために,花や何やかや家の整理をちゃんとやるように母に
してもらってくれ,そして君のところに母が泊りに行くようにしてもらっ
てくれ…・・ J
(W
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.HastingsくLettres
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.532) 。
むろん母親は 5 月初日には「実際は21 日〉新居に居なかったし,それ以
後も寄りつきにくかったことも確かである。いや母親のみならず,バルザ
ッタの仲の好い妹も寄りつかなかった。というのはロールはハンスカ夫人
とうまが合わなかったのである。このことはバ Jレザ y クの死後も続いてい
て,ハンスカ夫人と親戚関係となった Paul Lacroix が彼女とロール・
スュルヴィルとを仲直りさせようと努めて失敗するということが起ってい
る (1851年〉。
ログァ γ ジュールはなぜ臨終の床のそばにいる「老女」をバルザ y タ
の母としてしまったのか。バルザックの母なら,
ユゴーはくune
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femme>などと書かずに別の表現をしたのではないだろうか。老女が無
言だったのでユゴーがいいかげんに書いたのをログァンジュールが修成し
てやったというのか。ロヴァシジュールはなぜこんな速断をやったのか。
Lix という画家がユゴーの文章に基ずいて描いた絵(grav町e) を見る
と,バルザ y クの病床の片側に立っている老女は明らかに看護婦か女中の
ように見える。バルザックの母では決してない。〈尤もこの絵にはもう一
方の側が描かれていない) 0
(F
ran輟ised'EaubonneくBalzac q
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oHanska について
8
7
より〉。
ロヴァンジュールは謎を解明しようとして反って混乱を招いたともいえ
る。
もう一度整理すると,
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は 2 人なのか
3 人なのか。
2
.
3
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3 人とすればこの「老女」は誰れか。
次の文Cet
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tc
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efemme
というこの 2 人の男女は上の
文を受けているのか受けていないのか。
4
.
筆者の判断:①は 2 人である。@は明らかに①の 2 人を受けている。
ログァンジュールは多分,ユゴーの文章を読んで大作家の臨終の床にし
ては意外に寂しすぎると思い,老女をパ Jレザックの母としたい気持ちが働
いたのではなかろうか。「この臨終の時に,
一人の老女一一臨終の人の母
ーーと一人の看護婦と一人の下男だけが彼の枕頭にはべっていた! J とし、
うロヴァンジュールの文章は一読淡々としているけれど,最後の感嘆符は
このパルザック愛好家の気持ちを痛切に反映している。彼は我知らずユゴ
ーの原文を越えてしまったのである。
4
しかし今,バルザッタの母親のことよりも重要なのはハンスカ夫人のこ
とである。苦悶のバノレザ y クを置きざりにして彼女は引きこもってしまっ
ている。ユゴーが来ても女中は Madame を呼びに行こうとしなかった。
ユゴ一夫人も彼女に会えなかったというのに。ロヴァンジュールはこのと
きのハンスカ夫人については何も言及していなし、。しかしパルザックが17
年間執着しつづけ,やっとポーランドから連れ帰った伯爵夫人の,この時
の居場所は何となく気にかかることだ。
コルグィン=ピオトロウスカ夫人はハンスカ夫人の伝記の終りの方でこ
んなことを書いている「…・・・ヴィクトール・ユゴーは多分異国の女を知り
たいとし、う好奇心を抱き,そして彼女に会えないのにがっかりして,夫の
死を目前にして妻が不実なことをしたということを本気で信じこませよう
8
8
中堂恒朗
としたのだろうか。そんなことは疑わしいと思われることなのだが,ユゴ
ーの意図なるものが万人には不幸にもまだ信じられているふしがある。~
エヴリーヌは沈黙の家の中にたどひとり,たえずいらだっ家族の者から遠
くへだたり,今まで愛してきたもの全部を奪い去られて,運命からぬすみ
とった幸福の代価は高くっきすぎたのではないかと自問することもあり
たJ (第 3 部,第 7 章,
p
. 209) 。
不実 (infidélitめだって?
ユゴーはそういうことは何も書いていな
いし,匂わせてもいな L 、。コルヴィ γ= ピオトロウスカ夫人はハンスカ夫
人に同情する余り少し感情的になりすぎているようだ。しかし著者の立場
は分る。ユゴーにはむろん何の責任もないのだが,彼の文章がバルザッ
グ=ハンスカ夫人「事件」のきっかけとなって,ハシスカ夫人の「不実」
を語る手合いが出てきたのである。
1907年11月 7 日のくle Temps>紙に François Ponsard の署名及び
, commentaire
で,
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eMi'rbeau
が出版しようとするくLa
628-E8>
の本の紹介が出,この本の中に書かれている「バノレザ γ グの死」が抜粋掲
載された。これがセ γ セーショ γ を起した。「バルザッグの死」はユゴー
のと閉じ題名で、ある。
オクターヴ・ミ fレボー(1848-191のはノルマンディ生れの小説家であ
り,バルザック愛好家である。 i628-E 8J というのは自動車の番号だ。つ
まりこの本は自動車による旅行記で、ある。 20世紀後半の旅行形式を先取り
したもので,当時としてはたいへんスマートな印象記録だったはずだ。た
笠し運転したのはミルポー自身でなく,
Cha
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1
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sBrossette
という雇いの
運転手である。
旅の道程はベルギー,オラ γ ダ,北部ライ γ川沿岸のドイツというふう
になっている。問題のバルザ γ クのことが出てくるのは,旅の終りに近い
あたりでケル γ に着いた時のことだ
duDôme
(1906年 3 月〉。
ミルポーは I'Hôtel
に投宿する。翌日彼は町をぶらつく。有名な寺院など彼にはく
そおもしろくもない。とある本屋に Correspondance
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8
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という本を見つけ,それを買ってホテルに帰り読みふける。く…… je
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smachambre, a
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cBalzac.>ω.
387) 。
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ことわっておくが,
問題の「バルザ v タの死」は,
Balzac> という章とともに削除されてしまった。
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9
について
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これはタ γ 紙の抜粋文
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edeMniszech (ハンスカ夫人の娘ァ γ ナ〉の抗議
に,ミルボーが折れてハンスカ夫人の名誉を傷つける箇所を削除して
rLa
628-E8J を出版したためで,筆者の読んだのもこの削除版である。
しかし Pierre DescavesくLes
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(
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にはかなり詳しく削除箇所を紹介している。ミルボーは一部の人々には削
除されない原本をひそかに送ったらしい。ただし,ピエール・デヵーヴに
直接に送られたのではなく,りュシャ γ ・デカーヴ〈父親か?)に送られ
たものをピエールが読んだらしい (p_ 167)。
J
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nGigoux(1806-1894)
P
e
t
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t Larousse
はプザ γ ソ γ生れの二流画家である。古 L 、
にはその名前が見える。生れた年と死んだ年を見ればよ
く分るように,ジグーは19世紀全体を生きたような男で,その点,業績の
ことを別にすると,ヴィクトー Jレ・ユゴーとよく似ている。ジグーはなか
なかの女たらし (homme
femmes) だったらしし、。
A
n
t
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i
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e Fontaney(1803-1836)
の「日記」の中にジグーが時々顔を
出している。若い頃の姿。ノディエの有名なアルスナルのサロ γ などによ
く出入りしていた。 1831年12月 20 日にジグーは「赤茶けた美しいひげを」
たくわえた姿でサロンに立っている
(
A
. FontaneyくJournal Intime>
p.98) 。こういうスタイルは当時の若きロマン派の流行だった。彼はし、き
のいいロマン派の画家だったのである。
ところでミルボーの削除箇所は主としてこのジグーの告白から成ってい
たという。
ジグーによると,くChoses vues> におけるユゴーの文は不正確であ
る。苦悶するバルザ y クのかたわらには,バルザックの母親もスユルゲィ
ル夫妻もいなかった。家族も友人もいなかった。ゴズランはパリを離れて
いたし,ゴーチエには知らせるのを忘れていた。バルザ γ クは犬のように
(commeunchien)
ハンスカ夫人は?
死んだのだとジグーは言う。
バルザッグの妻は?
部屋にジグーといっしょにいたのだという。
彼女は当日朝早くから彼女の
90
中堂恒朗
この辺からジグーの話はくhalluciant,
grandguignolesque> となる
(デカーヴの前掲書 P. 151) 。笹本駿二氏は前述した論文「バ Jレザック臨
終の夜」の中で,この話の部分をかなり詳しく訳している。私はもう少し
縮め,かし、つまんだ紹介をしてみたし、。
ジグーは朝から夜おそくにかけてのこ人(ジグーとハンスカ夫人〕の姿
を生々しく伝える(なお当時 (1850年〕の二人の年齢は,男は44才,女は
49才〉。
1
午前中には例えば次のような二人の対話がある。
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スカ夫人のうんざりした気持を察 L.
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グーはアトリエに帰らねばならないと言った。〈一-Non!
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n prie! ……〉と女が言う。看護婦がまた来たが,女は耳をふさい
で聞こうとしなし、。 Elle
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ハ γ スカ夫人は疲れて長椅子で夜おそくまでまどろむ。その間ジグ
ーは暑苦しい部屋の中でぼんやりしている。あたりはしんとしている。そ
してこのパりのどまん中のこの家の中でくplus
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午後10時半烈しくドアを 2 度たたく音がした。
dame! venez!
<Madame,
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・… ..Monsie町 passe! ……〉という声。更に 2 度たたく
音。部屋の中はパニッグ状態である。 <la
胸をはだけた姿。また 2 度たたく音。
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tmort.:>という声。
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evoir. … ..Emmène-moi enR
言う。ドアをたたく音。とうとうハンスカ夫人は部屋を出て行った。くLe
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. 153) 。
7
.
ジグーはたったひとりで 5 時間ばかりその部屋にいた。
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<d'黎re s叩l.:>さて,ハンスカ夫人がもどってきた。顔が真蒼でやつれ
きっている。〈一一C' est
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tmauvais.>
ジグーがバルザックの家を引きあげるのは午前 4 時。そのときふとパルザ
ックのスケッチをしに行きたし、と思ったが止めた。彼は忍び足で一階へ降
りて行く。くLà・haut,
B
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. 154)
ジグーの長い告白はここで、終る。
5
くLa 628-E8> は問題の箇所を削除して 1907年11 月 12 日に出版された。
9
2
中堂恒朗
ムニスチェック伯爵夫人も簡単に引き下ったようである(彼女は夫 Geor­
ges が1881年に狂死して以来, Vaugirard 街の
la Croix 修道院に入っ
ていた〉。
1907年11 月 12 日の Gil Blas 紙上に René
d
e Chavagnes
がムニスチ
ェック伯爵夫人との会見記を載せた。彼女はミルボーに何の恨みも持って
いないと言い,
そして「ジャン・ジグーは私が母に紹介してあげたので
す。 1852年のことで‘す。あの頃私たちは華やかにレセプションをやってい
たのです。当時ジャン・ジグーは流行画家で,私たちがジグーを招待した
のもそんな肩書きがあったからですJo 1852年という日付けに注意しよう。
ミルボーは全くのフィクションを,さも事実らしく書いたのだろうか。
ジル・プラス紙は更に同日,生前のジャ γ ・ジグーと親交があり,かつ
くconservateur
P
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l Lapret
du mus馥 J
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n Gigoux
の談話を載せた
通 Besançon> の肩書を持つ
140年間私はジグーさんのもとを去ったこ
とがありません占私は今もジグーさんの家に住んでいるんですけれど。誓
って申しますが,この長い年月の聞に,ミルボ一氏の言うような話をジグ
ーさんから聞いたことはありません。あの話はとてもいやらしく,私の恩
師でもあり友人でもあった人の思い出を汚すものです。だから私としては
抗議せずにほっておく気持にはなれないのです。たとえそれに近いことが
起ったと仮定しても,何よりもまずそんなことは口外すべきではなかった
で、しょう」。
そしてポール・ラプレがさらに明言したことをまとめると次の如くであ
る。1.ジグーはパルザックを知らず,一度街路で目にしたのみ。
2.
ジ
グーがハンスカ夫人を知ったのはバルザックが死んでからで,手紙による
証拠もある。
3.
ジグーはミルボーを知らず,
ミルポーがジグーの所に一
度も来たことがないのは確言できる o (2. の証言は,パルザックの死後,
二人に関係のあったことを言外に匂わせているが)。
オクターヴ・ミルボーはこれに対し, 1907年11 月 12 日付の手紙をジル・
プラス紙に送った。事をむしかえすつもりはないがと前置きをして,
1ラ
プレ氏に私は次のことを確言できます。私は一度ジャン・ジグーの家で彼
に会ったということ。それから共通の友だちの所で,
とりわけオギュス
L'A
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a
i
r
eBalzac-M回 Hanska について
9
3
ト・ロダン氏の所で,私は何度も彼に出会ったということ」と書いた。
ジル・プラス紙は更にヌムニスチェック伯爵夫人の文章を載せた。母は
パルザックに全く献身的であったこと,パルザックは最も敬度なカトリッ
ク的感情に包まれて亡くなったこと,ジグーはパノレザックが死んで 2 年後
母と知り合ったことなどを彼女は述べた。それから次のように書いた「ジ
グーさんは当時英国貴族階級風の画家で,私が画家のギュダ γ さんの所で
ジグーさんと知り,母に紹介したのです。母の肖像画を描いてもらいたか
ったのです」。このボルトレは現在残っている。
ミルポーはロダンの名をあげ,ムユスチェック伯爵夫人はギュダンの名
をあげた。話はいもづる式になる。
Th駮doreGudin(1802-1880)
は海洋画家で,
1850年の頃はパ/レザッ
クと閉じ通りのフォルテュネ街に妻と住んでいた。彼の家はノ〈ルザック邸
と隣接し,庭に簡単な境界の柵がしてあった。ギュダン夫人というのはス
コットランドの地主の娘で (née
Lewis-Hay) ,
くそまじめな夫には不満
だったらしい。 1850年の 8 月から 9 月にかけて,ギュ夕、、 γ 夫人は色男ジグ
ーの恋人であったという。 8 月 17 日から 18 日にかけて(あるいは18 日から
19 日にかけてか?),
ジグーは夫の不在中にギュダン夫人といっしょにい
たらしいのだ。 Emile Pil1ias の解釈によると,
ドアを何度もノックした
のはバルザックの死を知らせる隣人ハ γ スカ夫人であって,そのドアはギ
ュダ γ 夫人の部屋のものだという。ジグーの記憶違いか,あるいはミルボ
ーの書きまちがいか?
しかし Henri
d
eRégnier
のくSouvenirs> には別の証言があるとし、
MariaHérédia
の婿(gendre) である。 Hér・édia の
サロンには作家や芸術家がよく集り,
ミルボーもジグーもそこへ顔を出し
う。レエエは José
たことがあるとい.う。ところでエレディアの家も rue B
a
l
z
a
c (前の rue
Fortunée) にあり,ジグーはその近所の rue Lord-Byron かまたは rue
Chateaubriand の小さなホテルに住んで、いたらしし、。パルザックの生き
ていた頃(つまり 1850年の夏の頃〉ジグーは夜しばしばハ γ スカ夫人に会
いに行き,そんなくun
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snocturnes>のときにパノレザ
ックは死んでいったらしL 、。エレディアがこの話をジグーから聞き,それ
9
4
中堂恒朗
をまたミルボーに伝えたのだとレニエは書いている。この証言はミルボー
の「信用」を高める結果になった。
一体ジグーとハ γ スカ夫人との関係は,バルザッグの死ぬ前からあった
のか,それとも死後からであったのか。ハンスカ夫人の名誉は実にここに
かかっているのだ!
ジグーは晩年に (80才位の頃〉くCauseries
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emontemps> という
s
u
rl
e
s
mémoires を書いていて,ここではバ
ルザックの死のことは一切触れず,ハンスカ夫人のことをひたすら尊敬を
こめて書いているとし、う。ジグーの長い生涯の中にはいろいろの女がいた
はずで,それらの関係の正確な日付けなどいちいち覚えていられるはずも
ない。彼はたしかにハンスカ夫人の恋人であったが,その関係があったか
もしれない,あるいはその関係ではなく別の関係であったかもしれないあ
る日の日付けが,これほど物議をかもすことになろうとは彼は夢にも思わ
なかっただろう。
ところでハンスカ夫人の名誉のために彼女とジグーの関係がノ勺レザック
の死後に成ったものだと了解しても,事はそれほど簡単におさまるもので
はないので、ある。ここで Champfleury (本名 Jules
Husson , 1
8
2
1
1
8
8
9
)
が登場する。
このシャンフルりーと,それからミルボーの指摘したロダンとについて
の詳細は,ノミルザック=ハンスカ夫人「事件」に更に渡紋を投じたもう一
つの本の出版を待たねばならなし、。
6
C
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e
sLéger のく主ve deBalzac, d'aprきs d
e
sdocumentsin馘its>
が出たのは1926年である。ミルボーの本が出てから 20年後である。これは
2 年前の 1924年に Marcel Bouteron が「両世界評論」に載せたくApologie
p
o
u
rmadameHanska>への
Léger もBouteron
réponse で、ある。
に表らぬノくルザシャンだが,ブートロンは余りに
も単純にハンスカ夫人の partisan でありすぎる。客観的にハンスカ夫人
という人聞を調査しなければならなし、。その上で partisan
になるか
adversaire になるかが決るはずなのだというのがレジェの態度である。
L'A
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M
m
eHauska について
9
5
これとそミルポーよりも冷静なやり方ということができょう。しかし考え
ようによっては,レジェの「客観」は反ブートロシの武器としての表現な
のであって,出発点からレジェはハ γ スカ夫人の adversaire としての立
場をある程度明確にしているということもできる。
私の推測だが,今レジェの真意は,ブートロ γ がハ γ スカ夫人にしろパル
ザ v グにしろ,彼等をサロ γ的貴族主義的上流社会的空気の中に閉じこめ
てしまおうとすきる頑くなな傾向に対する抵抗だと思う。
レジェはバルザックに対するハ γ スカ夫人の事実を述べることから始め
る。ハンスカ夫人とパルザッタとの出会いかあ始まって,フォルテュネ街
でのバルザックの死にいたるまでを,レジェは年代的にあとづけて行く。
しかしここには大して目立った事実はない。ハシスカ夫人はパルザッグを
さいなみ,じらせ,パルサックに甘え,文句を言い,事実上殺して行ったも同
然だという人もあるが(例えぽ Henry Bordeaux はくVies
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で<Elle [主ve] l
'a
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e[
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=Bal
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]en détail.> という).レジ z
はこういう言い方は説得的でないとして,不賛成である。
問題はミルポーがジグーから聞いた話の源を探るところからである。こ
こでオギュスト・ロダ γ の名前が出る。この彫刻家は文芸者協会からバル
ザ v クの彫像を作るように頼まれる。ロダ γ が頭に描くパルザ γ タは「真
実の生きたパルザック」である。彼はバルザッグ調査に奔走する。バルザ
v グの生地ト世ーレーヌ州に出かけ町や村をめぐり歩き,
しきりとスケッ
チをする。 C芯もバノレザックの父の生地南仏には行かなかったが〉。それか
ら「人間喜劇」を熟読する。バルザ y クについての情報をせっせと得る。
バルザ γ クと知り合いだった人々,バルザッグに近ずいた人々からバルザ
γ クのくparticularités>を話してもらう。バルザ y クの肖像画を集める。
等々
ロダンはかつてデビュー当時,セーグノレの国立製陶所で働いていたこと
があった。同じ頃そこの博物館でシャシフルリが仕事をしておって,二人
は会ったはずだとレジェは言う。シャ Y フルリはくVignettes
ques> の中で、ジャ γ ・ジグーに触れているし,
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ュ
ロダンとしてはハ γ スカ
夫人との関係で「有名な」ジグーと連絡を取ろうとしたことは自然に考え
9
6
中堂恒朗
られる。とにかくジグーはロダンの招きに応じ,
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のアトリエヘ出かけて行った。当時 (1889年の春頃〉
ヴ・ミルポーの胸像を作る仕事をしており,
ロダ γ はオクター
ミルボーはロダンのアトリエ
でジグーに会ったかもしれないし,あるいはロダンからジグーの話を聞い
たかもしれない。ミルボーの「パルザ v タの死」の源はこの辺にあるとレ
ジェは推定する。
ところでロ夕、、ンは,シャンフルリやジグ J それにミルボーの線に沿った
バルザック情報を入手することが大いに役立って,バルザックのあのくle
masquetourmentιhallucinant>を作り出した。むろん「人間喜劇」
の熟読からも得るところ大きかったと思うが,あの熱に浮かされたような
苦悩するバルザックの表情は晩年のバルザックの暗い生活的事実を踏まえ
た上での結晶ではないだろうか。ロダンのバルザック像は協会から拒否さ
れた
(1898年〉。良識家(bien-pensants)
には理解できなかったのであ
る。この像がモンパルナスの一隅に建てられたのは実に 19却年である(ロ
ダンの死は 1917年〉。
7
ノミルザックはハンスカ夫人に 83, 500 フランの借金を残した (André
Wurms町くLa
Com馘ieinhumaine>p.681) 。彼女の持参金は13万フラ
ン(た立しこれはパルザックのすすめで「北部鉄道株」を買った〉。彼女
はバノレザックが死ぬまでに, 26万フラン以上の金を彼のために使っており,
彼が死んでからも,借金とフォルテュ街の不動産 5 万フラ γ と,バルザッ
クの母への年金代(しかし母は1854年に死ぬ〉などを払って,結局ハンス
カ夫人のバルザックへのくpassif>は計約55万フラ γ になるとしゅ。
しかしフォルテュネ街の不動産はすっかり荒れはててしまうが,ハンス
カ夫人が死ぬ何ヶ月前 (1882年),彼女は50万フラ γ でロートシルト家(ロ
スチャイルド家〉に売っている。生前バルザックはフォルテュネ街の家に
5 年から 8 年くらい住んで,これを 12乃至15万フランで売却しようと言っ
ていたが(1846年),
30余年住んで50万フランだから,
考慮に入れても悪くはないということだ。
貨幣価値の下落を
L'A
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c
M
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oHauska について
9
7
13万フランで買った「北部鉄道株J (225株〉は, 1882年には倍近くに昇
ったから,もしハンスカ夫人が株を持ち続けていたとすれば,元金以外に
30万フランの利益を得たはずだという。これらの儲けだけでも莫大なもの
で,ハンスカ夫人は優に元を取りもどしたと言える。もっともハ γ スカ夫
人は浪費家の娘(あの修道院にこもった la
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nadeM
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h!)をずい分と甘やかしたために実際は苦しい生活を強いられたらし
し、ヵ~o
しかしハ γ スカ夫人(Mme
veuvedeBalzac)
にとって何よりの宝は
バルザックの作品である。被女は亡夫の全作品を刊行する仕事を Armand
D
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q (1810-1856)
に託した。
デュタックはバ Jレザックの友人だった。 le Sikle 紙の編集長で,
バル
ザッグはこれにしばしば寄稿し協力した。「ヨーロッバ中を印刷の紙の山
でおおってやる」という気慨に燃えた男で,
r俺はバルザックの文章は却
行も読んだことはないが,彼との契約はみな暗記している」と語ったとい
う。
ハンスカ夫人はしかし,今までのデュタックのやり方では著者側の方に
余り利益をもたらさなかったので,
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lL
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x(1806-ー1884) をDutacq
の協力者にした。尤も協力者といっても商業上のことではなく,バルザッ
クの資料の整理をラタロワにさせてデュタックの独断専行を防いだのであ
る。ポール・ラクロワはくle
B
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e Jacob> と緯名されまた自分で
もしばしばそのように署名したといわれるまじめな本好きである。背の高
い,のほほんとした男で,
Fontaney はくun
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Romantisme> と評している。しかしくexceUent
とも言っている (r 日記J
garçon, amisítr>
p
p
_12-13及びp.21) 。ラクロワはパルザ γ
だ
クの
未刊の書きものや散在した作品を整理したりするわけだが,そのうちにあ
わた X しくハンスカ夫人の妹と結婚してしまった(これでみるとフラ γ ス
人とポーランド人の結婚は簡単にできたことになる。ハンスカ夫人とバル
ザックがなかなか結婚できなかった一因として国籍問題をあげた人もある
が,
それは当っていないことになろう〉。こうしてラタロワはハンスカ夫
人の身内となり,バルザッグの書誌的研究にたずさわる。
(1851年に出た
9
8
くNotice
中堂恒朗
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rBa~ac> なる論文。この文は
Les
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eH.d
eBalzac という本の官頭の序文のようなもの。なお,
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eSurville
が監修したことになっているが,
Femmes
この本は
実はこれは Paul
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ュ
croix がハンスカ夫人とロールとの和解をねらったためとし、う。しかしこ
れはうまくいかなかった。これについては前に少し触れた。それから 1856
年に出たくLes
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eBalzac>なる論文など。
しかし今
日ラクロワの業績はほとんど忘れ去られている〕。
ハンスカ夫人にとってはパノレザックの残したものはすべて彼女のもので
あった。これは愛だろうか貧欲だろうか?
時として彼女の態度には du­
reté さえ感じられる。 1854年にAlexandre Dumas が故ノ〈ルザックの
ためにモニュメントを作ろうと提案したことがあった。ハンスカ夫人はデ
ュマの好意的な努力を無にしてしまった。銘に書かれるパノレザックの名前
は彼女の「財産」だとしてデュマを訴えたのである。彼女は損害賠償とし
て 1 フランかちとったという。彫刻家の Antoine 企tex もパルザックの
モニュメシト製作でハンスカ夫人の抗議に会って流産している。
彼女はまた
Armand Baschet が1853年にノ〈ルザックの書簡を集めて
出版しようとした努力をも,訴訟に持ちこむとパシェを脅して無効にして
いる。これにはハンスカ夫人の
factotum たるデュタックの力があった
らしい。結局この書簡集は Calmann-Lévy が莫大な金額をハ Y スカ側に
支払って出版されることになった。
ところでデュタックは,これまで、公にされたあらゆる種類のパルザック
の作品(新聞,雑誌などに載った雑文を含む)を自分の費用で買ったので‘
あるが,その量が落大なために,これを検討し整理する仕事をさせるため
に,
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yd
'Aurevilly
と
Chamfleury を呼んだのである。こうして
二人はフォルテュネ街の邸宅に出入りする機会を得る。もっともこの作業
は長続きしなかった。デュタックは1856年に急死してしまった。
8
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'Aurev
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1
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y (1808-1889)
は誇り高きノルマ γ ディ生れの作
家であり,バルザシャンである。この「文芸総師J (くle
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M
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oHauska について
Lettres>) は,
フォルテュネ街の邸宅に入ると,
9
9
そこによくジャン・ジ
グーが居り,この画家のきざでわざと下品振った,そして妙にでれでれし
た態度がノミルベ=ドールヴィイにはくune
.
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eintolérable , odieuse>
であったという。彼は非常に短い期間でデュタックへの協力を止めてしま
った。しかし彼はハンスカ夫人には強い印象を受けたらしく,彼女のボル
トレを次のように書いている「ハ γ スカ夫人には威厳のある気高い美しさ
があった。少しどっしりとし
また少しずんぐりしていた。
しかし彼女
は,その肥満体に強烈な魅力を保つことを心得ていた。しかもその魅力に
得も言われぬ快い外国人ふうの口調やとても印象的な官能を刺激する物腰
が風味を添えていた。実にすばらしい肩,この上なく美しい目,艶々しい
肌を彼女は持っていた。かすかに濁り,不安な感じの彼女のとても黒い
目,厚くてとても赤い口,重く豊かな髪の毛,その髪の毛がイギリス風の
巻き毛になって取りかこんでいる無限に純粋な輪郭をした額,蛇のように
柔かく動く彼女の動作,それらがくつろぎと同時にいかめしさの様子を,
尊大で、同時に淫蕩な表情を彼女に与えていた。この味わいは珍奇なるもの
であり魅惑的なるものであった。……」。ただしこのボルトレはバルベ=ド
ールヴィイがミルボーに語ったものだ。二人のノルマンディ人のどちらの
文体だろうか。 <En
somme , med
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'Aurevilly, t
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>(ピエール・デカーヴ:前掲書
p
p
.126-127) 。ポーラ
γ ドの「星」には海賊の血を騒がせるものがあっ
たのかもしれない。
デュタックが死に(デュタックの遺族は何等報いられなかった),
バル
ベ=ドールヴィイが去り,残るはシャンフルリである。当時30才を少し出
た(彼は 1821年生〉この陽気な bohをme はバルベ=ドールヴィイとは少
し違っていた。彼は母親にハンスカ夫人の印象を書いている
月)
(1851年 4
í これは実に驚くべき女性です。彼女は僕には女ノξ ルザッグに見えま
す。美しい自と魅力的な顔を持った,背の低い肥えた45才の女性です(実
際は50才〕。僕は自悟れを持たぬ一人の女性の前に居りました,
勿体ぶっ
た話し振りをせず,とてもエスプリがあり,そして僕たち二人知がってい
る社交界,例えばヴィクトーノレ・ユゴーの家などを,実に巧妙にあざけり
1
0
0
中堂恒朗
笑ったりしていました」。手紙の相手が母親だけに表現が少しおだやかだ
が,彼はハシスカ夫人の魅力のとりこになっていたのだ。というよりはむ
しろ夫人の畏 (rets) にひっかかってしまったのだった。
ジャン・ジグーがハンスカ夫人の恋人となったのはパルザッグの死後か
その前かはよく分らないのだが,シャンフルリが一時的に彼女の恋人とな
ったのははっきりとバルザックの死後であり, 1851年の晩冬から春頃にか
けてのことだったらしし、。もしジャ γ ・ジグーとの関係がパルザックの死
後であれば,ジグーはシャ γ フルリの後釜にすわったとも言える。二人の
男の聞には別に争いはなかった。シャ γ フルリはハンスカ夫人の官能を持
て余していたようである。「ポーランドのダイヤモ γ ドはとても強くとて
も脂ぎっていたので,からかい好きのシャ γ フルリはカテリーナ大女王と
寝るような感じだと言うようになる」と André Wurmser は書いている
(くLa
Com馘ieinhumaine>p.667) 。
Courbet の有名なアレゴリ一風の大きな絵「画家のアトリエJ (
1
8541855) にシャンフルりが描かれている。中央の画家とその右側に裸婦が立
っている。その裸婦のうしろの方,つまり画面の向って右側にシャ γ フル
りがまじめな顔をして椅子に腰掛けている。彼はたしかに画家の描いてい
く絵を見ているはずだが,見様によっては肉付きのよい裸婦の後姿をじっ
と見ているようにもとれる。
9
シャルル・レジェの結論は次の如くである「倣然たる伯爵夫人も運命の
前には屈服することを余儀なくされた。由緒あるポーランド貴族のこの後
葡者は,豪審を誇示することを好んだ。ハンスキと結婚して彼女は身分の
下の者と縁組をしたと彼女は思いこんでいた。彼女の神秘主義と官能性と
自尊心と空想的なさすらいの精神は,彼女をパルザックの腕の中へ引き寄
せた。そしてついに彼女は,彼女の満たされざる官能を満足させるため
に,
ジグーとシャンフルリにためらいもなく身をまかせた……。これこ
そ,このイヴの娘の混乱した生活の本質的な状況なのである J (
p
.210) 。
レジ z は公平であることを建前としていたが,結果は論告のごときもの
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oHauska について
1
0
1
となってしまった。こうしてレジェの小さな本は,再び論争熱をかきたて
ることになったので、ある。
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lJarry, F
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tStrowski
などの balzaciens orthodo:xes はマ
ルセル・ブートロンの二つのくApologie>
(1 924 ,
1929)
にしがみつい
た。ブートロンにあるのは一貫した騎士道的精神である。尤もブートロン
も,
レジェの本に対して行なった二回目の弁護(くVéritable
Imagede
Mme Hanska> と題す 1929年〉ではハンスカ夫人のくfaiblesses> を認
めた。しかし彼女は断じて生前のパルザックには不実
(infidèle)
かった。「ハンスカ夫人を好かないというのは人の勝手だし,
ではな
彼女自身も
名前を持っている有名人ノミルザックの後継ぎとして,シャンフルリとジグ
ーをわずらわしたことを遺憾と思うのも正当なことだが,しかし彼女が生
前のノくルザックに,熱烈にして変らざる愛の,あらがし、がたし、証拠を与え
たことを否定することは許されな L 、」とブートロンは書いた。
他方,
レジェを支持する側の人々
C
J
e
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n Reybaud, Marius B
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など〉は真実にふたをせぬ実証的精神を評価している。レジェの本を読む
と,
あのミルボーも全くの作り事を書いたのではなく,少くともく un
f
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everité> に基ずいて物語ったことが分るとジャン・レーボーは言
った。
マリユス・ボワソンは le
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i
e
rde Mmo Hanska
たるマルセル・
ブートロンに向って言う「……私はブートロン氏に率直に言おう,またパ
ルザックへの我々の共通の愛情の名においてはっきり言おう,ハンスカ夫
人の立場は悪いと J。そしてレジェの書いた詳細によってノξ ルザックは卑
小化されるどころか,くplus
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de
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tp
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saimable> な姿にな
ったと言った。
のちに (1944年)パルザックの伝記を書いた André Billy はどちらか
というとブートロン寄りであった。「どちらとも疑いは残るけれども,
告
発者の方の過誤が卑劣であり信用の置けぬ性格を持っているがために,無
罪の側の方に傾きたし、」とピイーは述べた。しかしミルボーの文章には強
い好奇心を覚えたことを告白している。
アンドレ・ピイーのパルザックの伝記は,現在でもかなり評価の高いも
1
0
2
中堂恒朗
のであることは否定できないが,ピイーの路線が balzacien orthodoxe の
ものであったことは,このパルザッグ=ハンスカ「事件」を通じて,一応
知っておかなければならない。ブートロン派の勝利である。しかし異端は
完全にほうむり去られたのだろうか。
10
バルザッグ=ハンスカ夫人「事件」は国際情勢の悪化とともに下火にな
ってしまう。この「事件」も la Belle 立poque の産物と言えるかもしれ
ない。 1929年に発する世界恐慌,ファシズムやナチズムの台頭,スペイン
戦争,ついで第二次世界大戦口939-194めと,世界は烈しく,あわただ
しく,暗 L 、。ハ γ スカ夫人の情事などもうどうでもよいのである。
しかし急いで次のことは書いておかねばならない。 1920年 le
g駭駻al
Weygand はポーランドに派遣されポルシェヴィストの攻撃を粉砕した
が,このグェーガ γ 将軍の妻はハンスカ夫人の l'aI・riきre-petite-nièce で
ある。こうして社会主義の嵐から脱したジェヴースキ家は, .フラ γ ス・プ
ルジョワジーの寡頭政体の中へ喰い込んで行った。バルザック家ではな
い。このことにかすかに触れているのはアンドレ・ヴュルムセールであ
る。彼の大著くLa Com臼ie inhumaine>が出たのは1964年であるが,
この la com臼ie inhumaine なる語は,
ピエール・デカーヴがミノレボー
くLa628-E8>の削除箇所を紹介した文の中でかぎ括弧つきで、使っていた
ものであった
(p. 133) 。
グュ Jレムセールはミルポーの表現を意識的に借
用したのかもしれない。
パルザッグとハシスカ夫人の関係,二人の金銭や名誉に対する執着,ハ
シスカ夫人をめぐる情事,それについての騒々しい論争,みな「非人間的
な喜劇」だが,ヴュルムセールはそれをプルジョワジーの非情の支配の意
味に拡大して使った。
伝記が単なる私生活の暴露であるなら,たいして意味はない。しかし上
昇するプルジョワジーに必死にしがみつくその焦慮と不安とエネルギーの
様相を,肌に触れる実感と醒めた認識をもってえぐり出したバルザックや
彼の作品を理解するには,彼の生活や彼の周辺にうごめく欲求の事実にふ
L'A
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M
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eHanska について
1
0
3
たをすることはもはや許されないであろう。ア γ ドレ・ヴュルムセールは
それをやったので、あって,彼の業績は正統や異端を越えたところにあると
言うことができる。
こうして第二次世界大戦後20年ほどしてくLa Com馘ie inhumaine>
の大著の中に,再びジグーも,
ミルボーも,シャンフルリも,レジェも息
を吹きかえしたかのように登場してくることになった。そしてこのときパ
ルザック=ハンスカ夫人「事件」は完全に消え去ったので‘ある。(終〉
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141頁 ~155頁,この資料のことで御配慮下さった神戸女学院大学の泉敏夫教授に厚
く感謝します。
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