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フィリピンから湾岸協力会議諸国への国際労働移動 岸 脇 誠

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フィリピンから湾岸協力会議諸国への国際労働移動 岸 脇 誠
〔論 文〕
フィリピンから湾岸協力会議諸国への国際労働移動
-サウジアラビアの事例を中心に-
岸 脇 誠
キーワード
国際労働移動、フィリピン、湾岸協力会議、カファーラ制度、サウジアラビア、
サウダイゼーション
Ⅰ.はじめに
フィリピンはこれまで多くの労働者を海外に送り出してきた。1974年からは
官民が一体となって労働者の海外雇用を促進している。海外で就労するフィリ
ピン人労働者は1975年には船員と陸上労働者を合わせて約3万6千人であった
が、2014年には両者合わせて180万人を超えている。本稿では陸上労働者に限定
して分析を行うことにする。陸上労働者は1975年におよそ1万2千人であった
が、2014年には約143万人にまで増加している1)。
2014年における陸上労働者の渡航先上位5か国は、サウジアラビア、アラブ
首長国連邦、シンガポール、カタール、香港である。同年の構成比を見ると、
第1位のサウジアラビアは全体の28.2%、第2位のアラブ首長国連邦は17.2%
を占めており、第3位のシンガポール(9.8%)を大きく引き離している2)。サウ
ジアラビア、アラブ首長国連邦、そしてカタールはいずれも湾岸協力会議(Gulf
3)
Cooperation Council、略称:GCC、以下 GCC とする)
に加盟している国であ
1)以上のデータは図1の出所を参照。
2)表1の出所を参照。
3)正式名称は Cooperation Council for the Arab States of the Gulf、日本政府は「湾岸
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る。
サウジアラビアをはじめとする GCC 諸国に多くのフィリピン人労働者が向
かうのはなぜなのだろうか。また、GCC 諸国はなぜフィリピン人労働者を必要
とし、海外から労働者を受け入れるのだろうか。本稿ではフィリピンから GCC
諸国への国際労働移動の背景を分析し、その国際労働移動によってどのような
問題が生じているのかを明らかにしている。
Ⅱ.フィリピン人の国際労働移動の歴史的展開
1.20世紀初頭から1970年代半ばまで
1898年の米西戦争の後、アメリカがフィリピンを植民地化すると、1906年に
ハワイで初の契約労働者としてフィリピン人が雇用された。フィリピン人労働
者たちは主にサトウキビ・プランテーションで農作業に従事した。その生活は
決して恵まれたものではなかったが、ハワイに渡った労働者たちは現地での将
来に希望を抱いており、定住する傾向が強かったという4)。
その後、1917年にアメリカはアジアからの移民を制限するために移民制限法
を制定したが、アメリカ領であるフィリピンについては移民制限の対象とされ
なかった。さらに、フィリピン人には「特別非内国民的地位(Special NonCitizen National Status)」が付与されたことから比較的簡略化された手続きで
アメリカに移住することができた。そのような追い風を背景に、1920年代から
1930年代にかけてアメリカに移住したフィリピン人労働者の数は増加していっ
たが、その大半はハワイやアメリカ西海岸のプランテーションで雇用される男
性農業労働者であった5)。
ところが、1934年のフィリピン独立法(別名、タイディングス・マクダフィー
協力理事会」と呼んでいる。1981年にサウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレー
ン、オマーン、カタール、クウェートの6か国で設立された。防衛、経済をはじめと
するあらゆる分野において参加国間での調整、統合、連携をその目的としている。
4)山形(1991)、146ページ。
5)小ヶ谷(2003)、323ページ。
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法:Tydings-McDuffie Act)によりフィリピンに自治政府が樹立されると、一
転してフィリピン人は外国人とみなされ、ハワイを含むアメリカへの移民は年
間50人に限定されることになった。それでも、アメリカにとってフィリピンは
太平洋地域における重要な軍事拠点であったことから、第二次大戦が始まると、
アメリカへのフィリピン人の入国規制は徐々に緩和されていった。実際、1946
年のフィリピン独立直前には、アメリカへの移民割り当ては年間100人にまで拡
大されている。当時、特別な市民権を付与された軍関係者とその家族、さらに
は医師、看護師、エンジニアといった専門職やビジネスマンたちが永住移民と
してアメリカへ渡った。1965年のアメリカ移民法改正によって「家族再統合
(Family Reunification)」カテゴリーによる入国が許可されると、家族の呼び
寄せに伴ってフィリピン人の移動はさらに進んだ。こうした移民制限の緩和は
アメリカだけでなく、カナダやオーストラリア、ニュージーランドでも実施さ
れ、この時期にフィリピンからの海外移民が増加する要因となった。
一方、アジアでは1950年代から60年代にかけて非専門職フィリピン人労働者
の雇用が増加していった。朝鮮戦争やベトナム戦争の影響でベトナム、タイ、
日本、グアムなどの米軍基地で働く期間雇用労働者の需要が高まったからであ
る。ベトナム戦争が終わると、今度はオイルブームに沸く中東で建設ラッシュ
が始まった。石油価格の上昇で収入が増加した中東ではインフラ建設に伴う労
働需要が急増し、建設現場で働くフィリピン人労働者の移動が活発になった。
こうした動きには、後に見るフィリピン政府の海外雇用促進政策も深く関係し
ている。
2.海外雇用促進政策の制度化
1973年のオイルショックによって石油価格が急騰すると、フィリピンは対外
債務が膨らみ、国際収支が悪化した。その一方で、中東の産油国において建設
部門を中心に労働需要が急拡大したため、フィリピン政府にとっては自国の労
働者を中東へ送り出す絶好の機会が訪れた。当時のマルコス政権は国内の失業
問題の解決と対外債務返済のための外貨獲得、さらには海外からの新技術の導
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入という目標を掲げ、海外雇用促進政策を導入した6)。
政府は1974年に大統領令442号として労働法(Labor Code)を制定し、海外
雇用開発委員会(Overseas Employment Development Board)、雇用サービス
局(Bureau of Employment Services)、国家船員委員会(National Seamen
Board)の3機関体制で海外雇用促進政策を進めることとした。役割分担とし
ては、海外雇用開発委員会が船員以外の労働者の雇用斡旋を政府機関として実
施し、雇用サービス局が斡旋業者の取締りを行う。また、国家船員委員会は船
員について政府による雇用先の斡旋と斡旋業者の管理を行うというものである。
さらに、諸外国にあるフィリピン大使館の労働担当官やその他の外交官が現地
における情報収集などを通じてこれらの機関と協力することとされた。
政府は1974年に労働法を制定した段階で、4年後の1978年までに海外におけ
る雇用の斡旋を海外雇用開発委員会と国家船員委員会に集中させ、民間斡旋業
者を徐々に排除していくことを企図していた7)。しかし、1975年には3万6千件
余りであった雇用契約が1978年には2倍以上の約8万8千件にまで急増し8)、政
府機関だけでは雇用に関わる業務を遂行できないという事態に陥った。その結
果、1978年に労働法は改正され、民間の雇用斡旋業者を育成するよう方針転換
された。その後、政府はリクルート業務を徐々に民間部門へ譲渡し、1980年に
は海外雇用開発委員会の斡旋業務は外国政府を顧客とするものに限定されるこ
とになった。
海外雇用促進政策に関わる上記の3機関は1982年に統合され、フィリピン海
外雇用庁(Philippine Overseas Employment Administration、以下 POEA と
する)が設立された。それ以前にはあまり行われてこなかった海外における市
場調査、市場開拓なども POEA の役割とされた。POEA は労働者の選考、書
面審査、派遣前研修、斡旋業者に対する規制、海外送金手続き等を担っており、
海外雇用促進の中心となる機関である。また、1987年には海外で就労する労働
者とその家族の福利厚生をつかさどる機関として海外労働者福祉庁(Overseas
6)菊地(1992)、177ページ。
7)山形(1991)、148ページ。
8)Scalabrini Migration Center(2013)、59ページ。
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Workers Welfare Administration)も設立された。海外労働者福祉庁は労働
者からの拠出金を資金として融資や教育プログラム、さらには疾病や死亡時の
保障、帰国後の自立生計支援といったサービスを提供している9)。
こうして、フィリピンの海外雇用促進政策は官民が一体となって制度化され
た。1990年代になると、海外労働者からの送金額が製造業の輸出額を超え、海
外における就労はフィリピン最大の外貨獲得手段になった10)。
3.統計から窺える在外フィリピン人労働者の実態
海外で就労するフィリピン人労働者は法律上「Overseas Filipino Workers
(以下 OFW とする)」と呼ばれている。OFW は、先述の政府機関が認定した
上で雇用契約に基づいて海外で就労する労働者を指しており、「船員」と「(船
員以外の)陸上労働者」という2つのカテゴリーに分けられている。以下では、
陸上労働者を中心に OFW の実態を政府機関の統計に基づいて見ていくことに
する。
図1は OFW の人数が1975年以降どのように推移してきたかを示しており、
その年に雇用契約を結び、実際に渡航した OFW の数をフロー・ベースでグラ
フ化している。なお、このデータには新規雇用だけでなく、再雇用された人数
も含まれている11)。海外雇用促進政策が導入された当初、1975年には船員と陸上
労働者を合わせて約3万6千人であったが、2014年には両者合わせて180万人を
超えている。船員の数も増えてはいるものの、それをはるかに凌ぐ勢いで増加
しているのが陸上労働者である。陸上労働者の数は1975年の12,501人から2014
年の1,430,842人へと40年弱で100倍以上に増加している12)。
では、陸上労働者はどこで就労しているのだろうか。表1は2010年から2014
年の5年間における陸上労働者の就労先上位10か国を示している。就労してい
9)小ヶ谷(2009)、95ページ。
10)石井(2010)、207ページ。
11)再雇用者が全体に占める比率は年を追うごとに高まっており、それに関する統計が入
手 可 能 に な っ た1983年 に は37.6% で あ っ た が、2012年 に は68.0% に な っ て い る。
Scalabrini Migration Center(2013)、59ページを参照。
12)これらのデータは図1の出所を参照。
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図1 在外フィリピン人労働者数の推移
〔出所〕Scalabrini Migration Center(2013)、59ページの Table15および POEA ホー
ムページの Compendium of OFW Statistics(http://www.poea.gov.ph/stats/
statistics.html)のデータをもとに筆者作成。
るフィリピン人陸上労働者数が最も多いのがサウジアラビアで、2014年の構成
比を見ると、全体の28.2%を占めている。その次に多いのがやはり中東のアラ
ブ首長国連邦で、2014年の構成比は17.2%となっている。両国より少ないもの
の、他にもカタール、クウェート、バーレーンといった中東の国々が上位に名
を連ねていて、これら中東の5か国だけで全体の約6割を占めている。ちなみ
にこれらの国はいずれも GCC に加盟している。一方、中東よりは少ないが、シ
ンガポール、香港、台湾、マレーシアといったアジア地域で就労するフィリピ
ン人労働者も多い。
次に、フィリピン人陸上労働者が海外でどのような職種に就いているのかを
見ていくことにする。表2は就業職種を7つに分類した上で、それらに就いて
いるフィリピン人労働者の人数と構成比を男女別に示したものである。ただし、
表中の人数は2010年中に新規雇用された者のみで、再雇用者は含まれていない。
表2によると、男性は生産運輸労務職に、女性はサービス職に偏っているこ
とがわかる。男性労働者の64.1%が生産運輸労務職に就いていて、製造業や建
設業のいわゆる現業労働者として働いている。その生産運輸労務職よりはかな
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表1 在外フィリピン人陸上労働者の就労先上位10か国(2010年-2014年)
就 労 先
2010年
人数
構成比
2011年
人数
構成比
2012年
人数
構成比
2013年
人数
構成比
2014年
人数
構成比
サウジアラビア 293,049 26.1% 316,736 24.0% 330,040 23.0% 382,553 26.0% 402,837 28.2%
アラブ首長国連邦 201,214 17.9% 235,775 17.9% 259,546 18.1% 261,119 17.8% 246,231 17.2%
シンガポール
70,251
6.3% 146,613 11.1% 172,690 12.0% 173,666 11.8% 140,205
9.8%
カタール
87,813
7.8% 100,530
8.0%
7.6% 104,622
7.3%
94,195
6.4% 114,511
香 港
101,340
クウェート
53,010
台 湾
36,866
3.3%
41,896
3.2%
41,492
2.9%
41,145
2.8%
58,681
4.1%
マレーシア
9,802
0.9%
16,797
1.3%
25,261
1.8%
34,088
2.3%
31,451
2.2%
9.0% 129,575
9.8% 131,680
9.2%
130,686
4.7%
5.0%
5.2%
67,856
65,603
75,286
8.9% 105,737
7.4%
4.6%
4.9%
70,098
バーレーン
15,434
1.4%
18,230
1.4%
22,271
1.6%
20,546
1.4%
18,958
1.3%
カナダ
13,885
1.2%
15,658
1.2%
19,283
1.3%
18,120
1.2%
18,107
1.3%
その他
241,012 21.4% 231,314 17.5% 252,995 17.6% 245,205 16.7% 224,026 15.7%
合計
1,123,676 100.0% 1,318,727 100.0% 1,435,166 100.0% 1,469,179 100.0% 1,430,842 100.0%
〔出所〕Philippine Overseas Employment Administration, 2010-2014 Overseas
Employment Statistics, Table3より筆者作成。
〔注〕新規雇用および再雇用の人数。
なお、人数は届出段階ではなく、渡航後の実行ベースで計上している。
り少ないが、専門技術職が16.1%で、その中の半数以上がエンジニアとして働
いている。その次に多いのがサービス職の12.7%で、ウェイター、バーテンダー、
コック等の飲食関連、さらには清掃、家事サービス業がこれに含まれている。
一方、女性はサービス職が73.0%と他の職種に比べて圧倒的に多い。そのサー
ビス職の中でも多数を占めているのが家事労働とその関連業務で、それらに従
事している女性は約10万人にものぼる13)。家事労働者は個々の世帯において雇用
され、そのほとんどは住み込みで働いている。
13)表2の出所を参照。
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表2 在外フィリピン人陸上労働者の就業職種とその構成比(2010年)
職種
管理職
農林漁業職
事務職
生産運輸労務職
専門技術職
営業販売職
サービス職
合計
男 性
人数
構成比
849
0.6%
1,047
0.7%
5,192
3.4%
97,631
64.1%
24,470
16.1%
3,744
2.5%
19,367
12.7%
152,300
100.0%
女 性
人数
構成比
590
0.3%
75
0.0%
5,514
3.0%
23,016
12.4%
17,365
9.4%
3,498
1.9%
135,168
73.0%
185,226
100.0%
全 体
人数
構成比
1,439
0.4%
1,122
0.3%
10,706
3.2%
120,647
35.7%
41,835
12.4%
7,242
2.1%
154,535
45.8%
337,526
100.0%
〔出所〕Philippine Overseas Employment Administration, OFW Deployment per
Country and Skill - New hires Full Year 2010より筆者作成。
〔注〕2010年中に新規雇用され、実際に渡航した人数。
海外居住フィリピン人委員会(Commission on Filipinos Overseas)による
と、2013年末の時点で国外に滞在するフィリピン人は合計1,023万8,614人で、全
人口のおよそ1割に当たる。在外フィリピン人は次の3つのカテゴリーに分類
されている。1つ目は「永住」で、海外移住者と法的に認められた海外永住者
を指している。永住に分類されるフィリピン人は486万9,766人で、国外にいる
フィリピン人の約48%に当たる。2つ目は「一時滞在」で、海外で労働に従事
し、雇用契約が終了すると帰国する者である。一時滞在者は420万7,018人で、在
外フィリピン人の約41%を占めている。3つ目は「違法滞在」で、有効な居住・
労働の許可を得ていない者や超過滞在者を指している。違法滞在者は116万1,830
人にのぼり、在外フィリピン人の約11%に当たる14)。
表3で在外フィリピン人の滞在先とその人数を見てみよう。これによると、
全体の人数ではアメリカに居住するフィリピン人が圧倒的に多く、そのほとん
どが永住者であることがわかる。そのアメリカより人数は少ないが、カナダ、
オーストラリア、イギリスに滞在するフィリピン人もその多くが永住資格を持っ
ている。これに対して、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタールといっ
た GCC 諸国では、雇用契約が終了すると帰国する一時滞在者が多く、永住者
14)以上のデータは表3の出所を参照。いずれも2013年末時点のストック値である。
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は少数である。つまり、フィリピン人にとって GCC 諸国は一時的な出稼ぎの
場であって、永住を志向する国ではないと言えるだろう。裏を返せば、GCC 諸
国は一時滞在の外国人労働者は積極的に受け入れるが、永住者としての外国人
を受け入れることには消極的であると考えられる。
表3 在外フィリピン人の滞在者数上位10か国(2013年末時点)
国 名
アメリカ
サウジアラビア
アラブ首長国連邦
マレーシア
カナダ
オーストラリア
イタリア
イギリス
カタール
シンガポール
永 住
3,135,293
264
1,711
26,007
626,668
334,096
89,742
161,710
16
44,102
一時滞在
129,383
948,038
777,894
319,123
89,615
60,166
127,814
31,416
189,534
110,141
違法滞在
271,000
80,500
42,805
448,450
5,295
3,720
54,390
25,000
15,000
49,000
合 計
3,535,676
1,028,802
822,410
793,580
721,578
397,982
271,946
218,126
204,550
203,243
〔出所〕Commission on Filipinos Overseas, Stock Estimate of Overseas
Filipinos As of December 2013より筆者作成。
Ⅲ.GCC 諸国における外国人労働者の受け入れ状況
1.増加する外国人労働者とその背景
GCC に加盟しているサウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、オ
マーン、カタール、クウェートの6か国では多くのフィリピン労働者が就労し
ている。前節で見た通り、オマーンを除く、GCC の5か国はフィリピン人陸上
労働者の就労先上位10か国に入っている。この節では、多くのフィリピン人労
働者が就労している GCC 諸国における外国人労働者の受け入れ状況について
見ていくことにする。
1970年代以降、石油輸出収入が大幅に増加した GCC 諸国ではそれを財源に
本格的な経済開発を開始した。ところが、GCC 諸国が位置するアラビア半島は
もともと人口が少ない地域であり、経済開発に必要な大量の労働力を国内の農
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村などから調達することはほぼ不可能であった。また、当時の GCC 諸国では
教育の整備も不十分であったため、技術者などの人材も不足していた。そこで、
GCC 諸国は経済開発を推進するために、非熟練労働者だけでなく専門職の労働
者も海外に依存するようになったのである。実際、1975年以降、GCC 諸国の外
国人人口は急増している15)。その後、1980年代半ばの経済停滞期でさえ外国人の
流入は止まらず、GCC 諸国の中には国民が人口構成上、外国人に対して少数派
になる「国民マイノリティ国家」16)も出現している。
表4は GCC 諸国における国民と外国人の人口、そして外国人比率を示して
いる。GCC 諸国の中で最大の人口規模を持つサウジアラビアには約936万人の
外国人が滞在している。その次に外国人人口が多いのはアラブ首長国連邦で、
約732万人となっている。前節で見たフィリピン人労働者が多い国はとりもなお
さず国内に大きな外国人人口を抱える国であることがわかる。
さらに注目すべきは各国の外国人比率の高さである。表4によると、アラブ
首長国連邦88.5%、カタール85.0%、クウェート68.8%、バーレーン54.0%と程
度の差はあるものの、国民が人口構成上、外国人に対して少数派になっている。
今後、2020年にアラブ首長国連邦のドバイで万国博覧会、2022年にカタールで
FIFA ワールドカップの開催が予定されていることもあり、両国を中心に大規
模なインフラ開発が進んでいる。それに合わせて、外国人労働者の流入が続い
ており、当面は GCC 諸国において外国人人口の増加は続くものと見られてい
る17)。
15)細田、松尾、堀抜、石井(2014)、21ページの図0-2、United Nations Population
Division(2003)、18ページの Table 8を参照。
16)堀抜(2009)、69ページ。
17)堀抜(2014)、38ページ。
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表4 GCC 諸国における国民と外国人の人口(2010年)
バーレーン
クウェート
オマーン
カタール
サウジアラビア
アラブ首長国連邦
合 計
国民
568,399
1,038,598
1,957,336
254,915
19,838,448
947,997
24,605,693
外国人
666,172
2,289,538
816,143
1,444,520
9,357,447
7,316,073
21,889,893
合 計
1,234,571
3,328,136
2,773,479
1,699,435
29,195,895
8,264,070
46,495,586
外国人比率(%)
54.0
68.8
29.4
85.0
32.1
88.5
(平均47.1)
〔出所〕堀抜(2004)、38ページ。
〔注〕クウェートのみ2008年の統計。
表5は GCC 諸国における外国人の出身国別人口を表している。上位10か国
にはインド、パキスタン、フィリピン、バングラデシュ、スリランカ、インド
ネシアといった南アジア、東南アジアの国が6つも入っていて、アジアが主要
な労働者送り出し拠点になっていることがわかる。GCC 諸国において外国人労
働者が急増する1970年代半ばまでは、アジア出身の労働者よりもむしろエジプ
ト、シリアなど近隣アラブ諸国出身の労働者の方が多かったが、その後、外国
人労働者の主流はアラブ系からアジア系へと移っていった18)。その背景として、
アジア系労働者の方がアラブ系よりも低賃金で雇用できたという点、また、企
業経営者が労働力を安定的に調達するために供給源の多様化を図ったという点
が指摘されている19)。さらに、GCC 諸国の政府や支配者層は、アラブ系労働者
によって自国の君主体制の脅威となる急進的な政治思想が持ち込まれることを
危惧したため、外国人労働者の脱アラブ化を模索したという点も関係してい
る20)。
18)Kapiszewski(2006)、9ページの Table 2を参照。
19)Nagi(1986)、22ページ。藤森(1991)、13ページ。
20)松尾(2012)、205ページ、Kapiszewski(2006)、6ページ。
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表5 GCC 諸国における外国人の出身国別人口(2010年)
出身国
インド
バーレーン クウェート
137,402
393,210
オマーン
カタール
447,824
250,649
サウジアラビア アラブ首長国連邦
1,452,927
2,185,919
合計
4,867,930
パキスタン
57,251
122,878
94,993
250,649
1,005,873
453,005
1,984,647
エジプト
34,350
319,483
40,711
87,727
1,005,873
140,935
1,629,079
イエメン
1,354
0
0
0
894,109
60,401
955,864
フィリピン
28,625
86,015
15,250
125,324
558,818
120,801
934,834
バングラデシュ
0
208,893
149,275
0
447,055
100,668
905,889
スリランカ
0
208,893
40,711
87,727
391,173
161,068
889,572
スーダン
2,703
0
12,626
0
279,409
30,200
324,938
イラン
34,350
98,302
0
150,389
0
40,267
323,309
0
11,059
0
0
279,409
0
290,468
インドネシア
〔出所〕World Bank, Bilateral migration matrix 2010, http://go.worldbank.org/
JITC7NYTT0より筆者作成。
〔注〕人数は推計値。
四捨五入の関係で合計人数が各項目の合計と一致しない箇所がある。
2.外国人労働者の管理制度
GCC 諸国では国内に滞在する外国人労働者を「移民(immigrant)」や「移
民 労 働 者(migrant worker)」と 呼 ぶ こ と は ほ と ん ど な く、単 に「外 国 人
(foreigner)」、もしくは「海外居住者(expatriate)」、「外国人労働者(foreign
worker)」といった呼称が用いられている。これは GCC 諸国政府が「移民」と
いう言葉の持つニュアンス、すなわち定住や永住を想起させることを嫌うため
で、外国人労働者は契約期間限りの短期滞在を前提として受け入れられている。
GCC 諸国は基本的に外国人に対して永住権を認めておらず、国民が外国人労働
者と個人的、社会的な人間関係(友人、知人、婚姻関係など)を形成すること
はほとんど見られないという21)。
外国人労働者は原則として GCC 諸国に入国する前に就職先を決めなければ
ならない。雇用者を「カフィール(kafeel:アラビア語で身元保証人)」として
手続きを進めなければ、受け入れ国から就労ビザを得ることができない仕組み
21)松尾(2010a)、117ページ。アラブ首長国連邦で外国人労働者に対するインタビュー
調査を行った鷹木(1989)は「多種多様な民族が互いにそれぞれの文化や民族的アイ
デンティティを保持しつつ、かつ互いのそれを許容しつつ、できるだけ相互に摩擦を
引き起こさぬよう住み分けようとしている」(95ページ)と述べている。
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になっている。これは「カファーラ(kafala)制度」と呼ばれている。カファー
ラ制度によって外国人労働者は雇用者に対して非常に弱い立場に置かれること
になる。カフィールである雇用者は労働者をいつでも即座に解雇する権利を持
つため、労働者は賃金や労働条件に不満を持っていても、雇用者の言いなりに
ならざるをえない。また、雇用契約の期間は通常、2年程度であるが、雇用者
が望めば契約更新が可能となる。そのため、契約更新を望む外国人労働者は多
少の時間外労働や賃金の減額にも耐え、雇用者の過剰な要求にも応えようとす
る。その結果、外国人労働者の労働条件はますます悪化していくことになる。
さらに、外国人労働者はカフィールである雇用者の承諾なしに職場を変更す
ることもできない。GCC 諸国では外国人労働者が雇用者にパスポートを預ける
という慣行があるため、契約満了前に労働者が職場から離れると、帰国するこ
とができなくなり、不法滞在になってしまう。雇用者は労働条件に不満を持っ
た外国人労働者が逃亡したり、帰国したりすることを防ぐために、労働者のパ
スポートを管理するのである22)。
カファーラ制度は公的なものではなく、GCC 諸国の社会的慣行にすぎない。
実際、カファーラ制度は各国の法律ではすでに廃止されている23)。それにもかか
わらず、このような慣行が維持されているのは GCC 諸国にとってそれが外国
人労働者の管理に都合のよい制度だからである。GCC 諸国の国民は自国の文化
や社会秩序を脅かす存在として外国人労働者を捉えており、自分たちの文化や
社会を外国人から守るためという口実でカファーラ制度の維持を正当化してい
る24)。また、GCC 諸国の企業にとってもカファーラ制度は好都合である。企業
は労働力として外国人労働者をほぼ無制限に利用しながらも、その賃金を抑制
することを通じて利益を上げることができるからである。
雇用者と外国人労働者との間に一方的な支配関係を形成するカファーラ制度
は、劣悪な労働環境や労働者に対する暴行、虐待の温床になっているとして国
22)Gardner(2010)、215ページ。
23)松尾(2012)、209ページ。
24)Longva(1997)、120ページ、Roper and Barria(2014)、34ページ。
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際人権団体からしばしば批判されている25)。しかし、松尾は「湾岸産油国におけ
る外国人労働者の生活をあまりに悲惨なものとして描くことは誤解を招くだろ
う」26)と述べている。外国人労働者の中には非熟練労働者もいれば、専門職に従
事する人もいて、その賃金水準や生活水準は実に多様だからである。それを裏
付けるかのように、外国人労働者の中でも高給で働くグループといわゆる低賃
金労働者のグループが存在し、両者の間の賃金格差は極めて大きいことが指摘
されている27)。
3.外国人労働者の就業状況と賃金
GCC 諸国における外国人労働者の就業状況や賃金に関する公式データは断片
的にしか存在しないため、包括的な議論や国際比較は困難であるが、いくつか
の事例を積み上げることで可能な限りその実態に迫ってみたい。
GCC 諸国では一般に、大半の国民が公的部門に就職することを希望し、実際
に政府省庁やその関係機関が国民を雇用する最大の受け皿となっている。各国
の国民就業者のうち公的部門で雇用されている比率は、GCC 諸国の中で最も高
いカタールで約94%、最も低いバーレーンでも約34%となっている28)。ただし、
バーレーンの統計では治安上の理由から内務省と防衛省管轄の就業者数が公表
されていないため低い値になっているが、実際にはそれよりも高くなることが
推測される。
公的部門で働く国民には外国人労働者と比較して、かなり高い給料と手厚い
社会保障が用意されており、このことが国民と外国人との間の大きな賃金格差
につながっている。クウェートでは中級国家公務員の月給が約865クウェート・
ディーナールであるのに対して、多くの外国人が働く建設現場での月給は約75
クウェート・ディーナールと10倍以上の開きがある。また、バーレーンでは中
25)例えば、Human Rights Watch(2008)、26ページ、Human Rights Watch(2014)、
18ページを参照。
26)松尾(2010b)、206ページ。
27)2008年のアラブ首長国連邦のアブダビ首長国のデータによると、外国人労働者内の賃
金格差は月額平均値で約1,900米ドルに及ぶという。齋藤(2014)40-41ページ。
28)松尾(2010a)、121ページ。
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級国家公務員の月給が1,869バーレーン・ディーナールであるのに対して、建設
労働者の月給は72バーレーン・ディーナールとその賃金格差はクウェートより
もさらに大きくなっている29)。
このように GCC 諸国では多くの国民が公的部門で働いているが、当然のこ
とながら、公的部門での雇用吸収にも限界がある。そこで、GCC 諸国の政府は
民間部門での自国民労働者の雇用を促進するために、自国民割当制度を導入し
ている。この制度は被雇用者の一定割合を自国民にしなければ、企業に何らか
のペナルティ(罰金や営業認可の取り消しなど)を科すというもので、一定以
上の規模の被雇用者を抱える企業に適用されている。しかし、外国人労働者と
同等の賃金では自国民労働者は満足せずに辞めてしまう。そこで、企業は高い
給料を支払って、自国民労働者を自らの企業に引き留めなければならない。自
国民労働者に高給を支払うコスト高は外国人労働者の低賃金という形で相殺さ
れ、民間部門においても国民と外国人の賃金格差はますます拡大していくので
ある。
表6はクウェートにおける国民と外国人の就業状況を表している。これによ
ると、クウェート国民の就業職種は事務職、専門職、技術職が多く、その中で
も事務職に従事する人は国民就業者のほぼ半数にのぼる。一方、外国人はサー
ビス職、エンジニアが多く、この2職種だけで6割を超えている。クウェート
国民は外国人に対してマイノリティで、全就業者のうち国民の割合は18.14%に
すぎない。この数値を基準として職種ごとの国民占有率を見ると、自国民労働
者と外国人労働者の間で職種ごとの住み分けとも言える状況が浮かび上がって
くる。すなわち、サービス職、農業・漁業、エンジニアといった職種に従事す
る自国民労働者は極少数で、これらの職種は大部分を外国人労働者に依存して
いる。また、販売職、化学・食品製造も外国人労働者への依存率が高い。それ
に対して、事務職、その他管理部門、専門職、技術職、管理職は外国人労働者
への依存率が低く、自国民労働者が全体の人口比率よりも高い割合で従事して
いる職種である。このような傾向には「手の汚れる肉体労働」を忌避するク
29)松尾(2010b)、34ページ。
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ウェート人の労働観が影響しているのではないかと言われている30)。
表6 クウェートにおける国民と外国人の就業状況(2008年)
管理職
専門職
技術職
事務職
販売職
サービス職
農業・漁業
化学・食品製造
エンジニア
その他管理部門
その他
合 計
国 民
人数
構成比
8,371
4.03%
36,360
17.49%
34,035
16.38%
102,946
49.53%
4,892
2.35%
3,948
1.90%
86
0.04%
1,935
0.93%
1,883
0.91%
11,229
5.40%
2,159
1.04%
207,844
100.00%
外国人
人数
構成比
14,696
1.57%
58,401
6.23%
57,644
6.15%
58,400
6.23%
69,867
7.45%
402,989
42.97%
35,557
3.79%
21,973
2.34%
200,979
21.43%
11,989
1.28%
5,436
0.58%
937,931
100.00%
国民占有率
36.29%
38.37%
37.12%
63.80%
6.54%
0.97%
0.24%
8.09%
0.93%
48.36%
28.43%
18.14%
〔出所〕松尾(2010b)、166ページ。
4.労働市場の分断と外国人労働者内部の階層分化
GCC 諸国の経済活動において外国人労働者は不可欠な存在であると言える
が、今ではその数が国民をはるかに凌駕する国まで出てきている。圧倒的な外
国人のプレゼンスに対して、GCC 諸国の中には自国民優遇策を打ち出す国はあ
るが、それが外国人排斥運動にまで発展することはこれまでなかった。それは、
先に見たように、労働市場において国民と外国人が競合することは少なく、あ
る種の住み分けができていたからであろう31)。
他方、外国人労働者はカファーラ制度の下で雇用者に対して極めて弱い立場
に置かれながらも、労働組合を組織し、労働運動を展開するようなことはほと
30)長沢(1994)、112ページ。アラブ首長国連邦においても同様の労働観、職業観が見ら
れるという。堀抜(2009)、85-86ページ。
31)もちろん GCC 諸国の間でも、国民と外国人の分業体制のあり方には国によって差異
が見られる。クウェートとバーレーンの状況を比較分析した松尾によると、クウェー
トでは国籍別分業体制が強固であり、バーレーンではそれが弱いという。松尾(2013)、
182ページ。
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んどなかった。外国人労働者は GCC 諸国に入国する前に出身国で労働契約を
交わし、その賃金は出身国の経済状況に応じて決定される。そのため、出身国
の異なる労働者が同じ職場で同一の仕事をしたとしても、国籍によって賃金が
異なることが指摘されている32)。同じ職種の場合、自国民と欧米系の賃金が最も
高く、それに続くのがアラブ系で、アジア系はこれら三者に比べてかなり低い
という33)。外国人労働者の中で欧米系の賃金が最も高いのは、GCC 諸国の民間
企業の多くが欧米企業の流通代理店あるいは欧米企業との合弁企業として事業
展開を行っており、経営手法やノウハウに精通した欧米系労働者が優遇される
ためである。また、アラブ系の賃金がアジア系より高いのは、アラブ系労働者
がアラビア語を用いるため職場でのコミュニケーションが容易であるからだと
言われている34)。
外国人労働者、特にアジア系労働者は現在の労働条件や賃金に不満を抱いて
いたとしても、カファーラ制度によって職場を自由に選択したり、移動したり
することができないため、現状よりも高い賃金を手に入れる機会はほとんどな
いと言ってよい。つまり、GCC 諸国では労働市場が自国民と外国人との間で分
断されているだけではなく、外国人労働者内部でも出身国に応じた階層分化が
生じている35)。所得水準の高い国の出身者と低い国の出身者は居住地域や余暇の
過ごし方にも明確な差が生じるため、国籍の異なる外国人同士の付き合いはほ
とんど見られないという36)。その結果、外国人労働者は自らを国籍やエスニシ
ティに応じて差異化された存在であると認識するようになり、「外国人労働者」
という集団を形成することができなくなる37)。また、外国人労働者は滞在期間が
限定的で、GCC 諸国での永住がほぼ不可能であることから、自分たちの権利を
現地の社会に向けて主張するインセンティブがほとんどない。そのため、外国
人労働者が一体となった労働運動の組織は難しく、労働条件の改善を求める動
32)Ruhs(2009)、20-21ページ。
33)前田(2007)、41ページ。
34)同上論文、41ページ。
35)松尾(2012)、211ページ。
36)細田、渡邉(2013)、33ページ。
37)松尾(2012)、211ページ。
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きは弱体化してしまうのである。
Ⅳ.外国人雇用と自国民雇用のジレンマ:サウジアラビアの事例
1.自国民労働者だけでは充当できない職種を補完する外国人労働者
GCC 諸国では多くのフィリピン人労働者が就労しているが、その中でも最も
多くのフィリピン人労働者を受け入れているのがサウジアラビアである。既に
表1で見たように、2010年からの5年間に新規雇用および再雇用されたフィリ
ピン人陸上労働者のうち約4分の1がサウジアラビアで働いている。では、フィ
リピン人はサウジアラビアでどのような職種に就いているのだろうか。
表7によると、既に表2で確認した在外フィリピン人陸上労働者全体の傾向
と同様、男性は生産運輸労務職に、女性はサービス職に偏っていることがわか
る。しかし、その一方でサウジアラビア独特の傾向も見出すことができる。そ
れは専門技術職に就いている女性の比率が在外フィリピン人陸上労働者全体の
値よりもかなり高くなっているという点である。その内訳を見ると、専門技術
職の女性10,246人のうち7,494人が看護師(nurses professional)、243人が看護
職(nursing personnel)として働いている。他方、男性も看護師1,019人、看
護職15人が雇用されており、サウジアラビアは男女合わせて8,771人のフィリピ
ン人看護師、看護職を受け入れている38)。2010年中のフィリピン人看護師、看護
職の新規雇用は世界全体で12,431人であったが、その中の実に7割以上がサウ
ジアラビアに集中していることになる39)。
サウジアラビアは非熟練労働だけでなく、専門職でも外国人労働者に依存し
ているが、特に医療分野はそのサービスの多くを外国人に頼っている。例えば、
看護師は1970年代初めに25%であった自国民比率が1980年代半ばには10%以下
にまで落ち込み、その後は回復したものの、2000年時点でも30%弱であった40)。
38)以上の人数は表7の出所、77ページを参照。
39)Philippine Overseas Employment Administration, OFW Deployment by Occupation, Country and Sex - New hires Full year 2010、51-52ページ。
40)山形(2008)、43-44ページ。
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表7 サウジアラビアにおけるフィリピン人労働者の就業職種とその構成比(2010年)
職 種
管理職
農林漁業職
事務職
生産運輸労務職
専門技術職
営業販売職
サービス職
合 計
男 性
人 数
構成比
170
0.2%
571
0.8%
1,966
2.7%
47,889
65.2%
13,322
18.1%
1,328
1.8%
8,221
11.2%
73,467
100.0%
女 性
人 数
構成比
58
0.1%
5
0.0%
637
1.4%
6,349
13.7%
10,246
22.2%
2,048
4.4%
26,859
58.1%
46,202
100.0%
全 体
人 数
構成比
228
0.2%
576
0.5%
2,603
2.2%
54,238
45.3%
23,568
19.7%
3,376
2.8%
35,080
29.3%
119,669
100.0%
〔出所〕Philippine Overseas Employment Administration, OFW Deployment per
Country and Skill - New hires Full Year 2010より筆者作成。
〔注〕2010年中に新規雇用され、実際に渡航した人数。
サウジアラビア政府は看護師の自国民化政策を進めてきたが、同国の女性に要
求される宗教的な行動規範は、後で詳しく述べるように、女性が医療分野に進
出する際の障害となっているという側面もあり41)、結果的に看護師の自国民化は
あまり進んでいない。
サウジアラビアでは1958年に看護師養成教育が開始されたが、最初に設立さ
れたのは男子校の医療専門学校であった。その後、1961年に女子校の医療専門
学校も設立されたが、女性が看護師になることに対しては国民、そして政府内
部からも根強い反発があった42)。保守的で厳格なイスラーム解釈に基づいた行動
規範が社会に根付いているサウジアラビアでは、女性が家族以外の男性と接触
することは厳しく禁じられており、女性が看護師になると、その業務はイスラー
ムの行動規範に抵触する恐れがあるというのがその理由である。サウジアラビ
ア保健省は、女子看護学生はベールを着用すること、実習においては男性患者
の看護を行わないこと、男性医師と共には働かない等の条件を付した上で女性
の看護師養成教育を実施しなければならなかった。医療専門学校の開設はサウ
41)Ball(2004)、128-129ページ。
42)こうした反発は女子に対する「看護師」教育のみならず、女子教育全般について見ら
れた。当時の保守的な人々は女子を学校に通わせること自体に懸念を示していたとい
う。辻上(2014b)、83ページ。
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ジアラビアの女性に新たな教育と職業の機会を提供したが、女性看護師という
職業は人々の間で好意的には受け止められず、実際に看護師という仕事を選択
した人は女性よりもむしろ男性の方が多かった。その後、医療専門学校の学生
は徐々に増加していったが、国内の看護師需要を満たすにはほど遠い状況であっ
た43)。
サウジアラビアで自国民の看護師養成が保健省の想定通りに進まない中、国
内の看護師需要を満たしたのはフィリピン人をはじめとする外国人看護師であ
る。その中でもフィリピン人看護師は、欧米人よりも低賃金で雇用できること
に加えて、英語能力が高いことからサウジアラビアの医療機関で数多く雇用さ
れてきた。雇用契約の期間が通常3年間であることや再契約の存在も考慮する
と、2000年以降、常時1万5千人から2万人のフィリピン人看護師がサウジア
ラビアで働いていると推定されるが、これはサウジアラビアで働く看護師の少
なくとも3分の1以上に当たるという44)。
以上の看護師の例からわかるように、サウジアラビアでは自国民だけでは満
たされない職種の労働需要を、フィリピン人をはじめとする外国人労働者が補
完している。こうした傾向は何も看護師のような専門職に限られたことではな
い。フィリピン人労働者の多くが就いている生産運輸労務職やサービス職はサ
ウジアラビア人によって忌避されることが多く、これらの仕事に就いているサ
ウジアラビア人はほとんどいない。肉体労働者となって面目を失墜するよりは、
あえて失業を選ぶというのが平均的なサウジアラビア人の考え方である45)。こう
した労働観、職業観は、前節で指摘したように、サウジアラビアだけでなく、
他の GCC 諸国の人々の間でも共通して見受けられる。
あるサウジアラビア人女性は言う。
「たとえサウジアラビア人女性が飢えていたとしても、彼女は(使用人のよ
うに)誰かのために働くということはしないでしょう・・・われわれには、雑
務を担うインド人が必要なのです。彼らの担っている仕事をサウジアラビア人
43)田中(2010)、75ページ。
44)同上論文、70ページ。
45)冨塚(1999)、8ページ。
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が担うのは難しいのです」46)と。
この発言主の女性に限らず、サウジアラビア人の多くは外国人によって担わ
れる仕事が卑しいもので、自分たちがすべきものではないと考えている。この
ような労働観、職業観、ならびに先述した宗教的な行動規範は、今なおサウジ
アラビア社会に根強く存在しており、労働市場の中に自国民労働者だけでは充
当できない職種の空白部分を生み出している。そして、その空白部分を、フィ
リピン人をはじめとする外国人労働者が埋めているのである。
2.自国民の失業・非就業問題
サウジアラビア経済にとって石油とその関連産業は極めて重要な位置を占め
ている。サウジアラビアは輸出額の約8割、財政収入の約9割を石油に依存し
ており47)、石油がなければサウジアラビア経済は成り立たないと言っても過言で
はない。しかし、石油関連産業は工場や施設の建設には多くの労働力を必要と
するが、いったんそれが完成すると、その後はあまり多くの労働者を必要とし
ない。肉体労働が中心の建設現場の労働はそのほとんどを外国人が担っている
ため、石油関連産業が発展しても、サウジアラビア人の雇用拡大にはあまり貢
献しないという構造的な問題が存在する。
サウジアラビア中央統計局によると、15歳以上の失業率は外国人、自国民を
合わせた全体では2014年上半期が6.0%、同年下半期が5.7%であるが、自国民
だけに限定すると、2014年上半期が11.8%、同年下半期が11.7%と全体の値よ
りも約2倍程度高くなっている48)。また、世界銀行は2010年から2013年までの失
業率を男性3%、女性21%と推計しており、女性の失業率が男性よりもかなり
高い。15歳から24歳の若年層に限ってみると、その失業率(2010-13年)は男
性21%、女性55%とその値は全体よりもさらに高くなっている。また、学歴ご
とに失業率(2009-12年)を見てみると、初等教育修了者17%、中等教育修了
46)アンソニー・H・コーデスマン(2012)、353ページ。
47)細井(2015)、294ページ。
48)http://www.cdsi.gov.sa/english/index.php?option=com_docman&task=cat_
view&gid=85&Itemid=162、2015年10月25日アクセス確認。
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者39%、高等教育修了者44%と学歴が高くなるにつれて、失業率も高くなって
いることがわかる49)。以上のデータをまとめると、外国人よりは自国民、男性よ
りは女性、年齢層では若年層、学歴別では高学歴者の失業がより深刻であると
言える。
サウジアラビアの合計特殊出生率は1960年代から90年代まで7前後で推移し、
2000年4.30、2005年3.28、2010年2.98と近年は少しずつ低下してきているもの
の、2012年でも2.87と依然として高い値を維持している50)。そのため、サウジア
ラビアでは今後も人口が増え続けることは確実で、自国民のほぼ半数が23歳以
下という人口構成になっている51)。しかし、先に見たように、若年層の失業率は
極めて高く、続々と生産年齢人口に入ってくる若者の就職先が十分にあるとは
言えない。
サウジアラビアでは毎年14万人前後の学生が大学を卒業するが、これまでそ
の多くは政府機関に就職していた。政府機関は待遇が良く、仕事も楽であるた
め、大卒サウジアラビア人の就職先としては人気が高かった。しかし、若年層
人口の増加で政府機関の雇用吸収力にも限界が見えてきている。そうなると、
必然的に民間企業への就職を考えなければならないが、半数近くの学生が民間
企業への就職は希望しないという52)。高賃金で好待遇の職を求め、そうでない仕
事に就くくらいであれば就職しないという若者がサウジアラビアには数多く存
在する。サウジアラビアの福祉は大きな石油収入に支えられて、とても充実し
ている。教育と医療は基本的に国庫負担であるし、生活に必要な物資には補助
金もある。働かなくてもサウジアラビア人であれば生活に困窮することはない
ので、あえて就職しないという若者も多いのである。
先に見たように、サウジアラビアでは女性の失業率が男性よりもはるかに高
いが、厳格な男女隔離を是とする宗教的な行動規範は女性の就業にとって障害
49)以上の世界銀行のデータは World Development Indicators: Unemployment を参照。
http://wdi.worldbank.org/table/2.5 、2015年10月24日アクセス確認。
50)佐々井、別府(2014)、168ページ。
51)畑中(2012)、32ページ。
52)榊原(2013)、45ページ。
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となっている53)。ただし、女性の失業率が高いのは求人数の伸びよりも速いペー
スで多くの女性が教育を身につけ、労働市場に参入してきた証左でもある。問
題は女性失業者の70%以上が大学を卒業しているにもかかわらず54)、その能力が
社会で生かされていないという点である。サウジアラビアで女子教育が公教育
として始まった1960年当時は、女性のほとんどが非識字者であったと言われて
いる55)。しかし、その後、サウジアラビアの女子教育は著しい発展を遂げ、2007
年には女性の大学進学者数が男性の約1.5倍にまで増大している56)。最近では女
子大学で商学部、情報学部、看護学部といった実務に直結した学部も設置され
てきており、その卒業生たちが社会で活躍できる場を創造していくことが急務
となっている。
3.労働力の自国民化政策
サウジアラビア政府は1990年代半ばから「サウダイゼーション(saudization)」
と呼ばれる労働力の自国民化政策を実施してきた。サウダイゼーションは「さ
まざまな要素を考慮の上、ある特定の職業をサウジアラビア人に限定し、又は
外国人労働力のサウジアラビア人労働力への段階的置換をすることによって、
サウジアラビア人労働者の雇用拡大を図ることを目標」57)としている。サウジア
ラビア政府が発行しているガイドブックには、自国民労働力に限定される経済
活動、職業及び職務のリストと、目標雇用比率に基づきサウダイゼーションが
実施される経済活動、職業及び職務のリストが掲載されている。例えば、軍服
工場での裁断及び縫製の仕事はサウジアラビア人に限定されている58)。一方、20
人以上の従業員を雇用する民間企業に対しては従業員の5%を下回らない比率
で毎年、サウジアラビア人雇用者数を増加させる義務を課す「段階的置換」と
53)武藤(2014)、94ページ。
54)International Monetary Fund(2013)、20ページ。
55)辻上(2015a)、209ページ。
56)辻上(2014a)、83ページ。
57)日本貿易振興機構(2010)、4ページ。
58)同上書、9ページ。
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いう方法が採られている59)。
サウダイゼーションは銀行、学校、石油関連産業等で一定の成果を収めたが、
その他の多くの分野ではうまくいかなかったというのが研究者たちに共通する
評価である60)。では、サウダイゼーションがうまくいかなかったのはなぜなのだ
ろうか。
第一の理由は、企業が外国人労働者ではなくサウジアラビア人労働者を雇用
すると、より多くの人件費がかかってしまい、企業経営を圧迫するという点で
ある。職種によって両者の賃金格差は異なっているが、一般的にサウジアラビ
ア人労働者の賃金は外国人労働者の2倍から3倍であると見られている61)。さら
に、サウジアラビア人労働者よりも外国人労働者を雇用した方が企業にとって
雇用調整がしやすいというメリットもある。
第二の理由は、外国人比率の高い職種は元々サウジアラビア人労働者が就き
たがらないか、就労することが難しいものであるため、自国民労働力への置換
が進みにくいという点である。先に述べたように、サウジアラビア人の若者は
高賃金で好待遇の職を求め、外国人労働者が就いているような生産労務職やサー
ビス職を忌避する傾向にある。サウジアラビア人の若者の雇用を促進し、失業
率を低下させようとするならば、単に外国人労働力を自国民労働力に置き換え
るというのではなく、若者が望むような新たな職種を創造することが必要であ
る。
以上のような理由からサウダイゼーションは十分な成果を上げられず、自国
民労働者の失業率は高止まりしていた。そこで、サウジアラビア労働省は2011
年6月に「ニターカート(Nitaqat)」と呼ばれる新たな自国民雇用促進プログ
ラムを導入した。ニターカートはアラビア語で「区域」を意味し、企業は労働
省の定めた業種区分に従い、サウジアラビア人の雇用比率の達成度に応じて、
「優」「良」「注意」「不合格」いずれかのニターカートに格付けされる。「優」ま
たは「良」の企業は外国人労働者を新規に雇用するための労働ビザを取得でき
59)同上書、16-17ページ。
60)辻上(2015b)、307ページ、アンソニー・H・コーデスマン(2012)、348-349ページ。
61)辻上、同上論文、308ページ。
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るが、「注意」または「不合格」の企業はビザの新規発給が停止されてしまう。
このほか、ビザの職種変更や従業員の引き抜き等に関してニターカートに応じ
たインセンティブとペナルティが定められている。
さらに、サウジアラビア労働省は2012年11月に外国人従業員がサウジアラビ
ア人従業員より多い民間企業に対して、外国人1名につき年間2,400リアルの罰
金を徴収すると発表した。これには外国人労働者を多く雇用している建設業界
から抗議が相次ぎ、後に従業員30人未満の中小企業には適用しないという緩和
措置が追加されている。翌2013年3月からは違法就労している外国人労働者の
取り締まりが強化された。取り締まりの対象は、(1)正規の滞在許可証を持た
ずに不法滞在している外国人、(2)滞在許可証に記載された職業とは異なる職
業に従事している外国人労働者、(3)正規の身元保証人に雇用されずに働いて
いる外国人労働者である。同年11月初めには全国主要都市の違法就労者、不法
滞在者の一斉検挙が実施され、数日間の取り締まりで数千人規模の違法就労者
が逮捕されたという62)。
サウジアラビア政府は2011年にニターカート・プログラム、2012年に外国人
を自国民よりも数多く雇用する企業に対する罰金制度、2013年には違法外国人
就労者の一斉検挙と、最近になって立て続けに労働力の自国民化政策を強化し
てきた。その背景には、2010年末にチュニジアから始まった「アラブの春」の
波及に対する警戒があった。「アラブの春」の原因の1つは若年層の失業問題だ
と言われている63)。反体制運動が起こった国々と同様、深刻な失業問題を抱える
サウジアラビア政府は直ちにその対策を行動に移さなければならなかったので
ある。
一方、外国人労働者はサウジアラビア人だけでは満たされない職種を補完し、
実際、企業からの雇用ニーズも多いのだが、自国民労働者の失業問題という観
点からは自国民の雇用を奪うスケープゴートにされてしまっている。榊原が指
摘するように、サウジアラビアで必要なのは「労働力の自国民化」ではなく、
62)武藤(2015)、300ページ。
63)清水(2015)、165ページ。
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「サウジアラビア人の労働力化」である64)。単に自国民の雇用比率を高めるだけ
でなく、就業していない女性や若者の労働力化を進め、社会でその能力を活用
することが求められている。
Ⅴ.おわりに
サウジアラビアの看護師の事例が典型的であるが、GCC 諸国では宗教的な行
動規範や人々の職業観が原因で国民だけでは充当できない職種の労働需要を、
フィリピン人をはじめとする外国人労働者が補完している。各国における外国
人人口とその比率だけを見ても、GCC 諸国の経済にとって外国人労働者は必要
不可欠な存在であると言えるが、それとは裏腹に外国人労働者に対する処遇は
極めて悪い。GCC 諸国の社会的慣行であるカファーラ制度は雇用者と外国人労
働者との間に一方的な支配関係を形成し、劣悪な労働環境や労働者に対する暴
行、虐待の温床になっている。また、同一の仕事をしたとしても、労働者の国
籍によって賃金が異なるという差別的な賃金体系も存在している。それにもか
かわらず、多くのフィリピン人労働者が GCC 諸国へ向かうのはなぜなのだろ
うか。
もちろんフィリピン人労働者が海外で働くことを希望する理由は一様ではな
いが、看護師に対する聞き取り調査によると、自国よりも高い賃金を求めると
いう動機は多くの場合、共通しているという65)。例えば、サウジアラビアで就労
すると、フィリピン人看護師は欧米人よりも賃金は低いが、それでもフィリピ
ン国内の約5倍に当たる収入が見込める66)。フィリピン人看護師にとってサウジ
アラビアでの労働環境は最良のものではないにせよ、フィリピンで働くよりも
多くの収入を得られると同時に、海外で看護技術を磨き、経験を積めるという
意味では次善の選択である。そして、多くの看護師が将来的には市民権も得ら
64)榊原(2013)、47ページ。
65)例えば、三原、中園、Glen(2008)、168ページを参照。
66)田中(2010)、69ページ。
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れるアメリカ、カナダ、オーストラリア等への移住を目指している67)。このよう
に、在外フィリピン人労働者は最終目的地にたどり着くまでいくつかの就労国
を順番に経由する「多段階的国際移動」を行う傾向が強く68)、サウジアラビアを
はじめとする GCC 諸国での就労はその段階の1つであると考えられる。
在外フィリピン人労働者による本国への年間送金額は2011年に200億米ドルを
超え、フィリピンの GDP のおよそ1割に匹敵する69)。2015年に入ってからも送
金額は増加しており、同年第1四半期の送金額は前年同期比5.5%増の58億米ド
ルとなった70)。確かに在外フィリピン人労働者からの送金は本国の経済を下支え
しているが、人材の海外流出や社会的コストにも留意しなければならない。
フィリピンでは高学歴者ほど国内の低賃金の職場を避け、海外に雇用の機会
を求めることが多い。海外での就労は、低所得者層ではなくむしろ高学歴中間
層の選択として定着しており、言わば「一定の教育的経済的背景を持った階層
の生活戦略」71)である。それは高度な専門的知識や技能を持つ人々が数多く海外
に渡ることからも確認できる。極端なケースでは、フィリピンで長年勤務して
いる医師が2年間看護学校に通うという時間的ロスを甘受した上で、看護師と
して海外に渡るという例もある72)。このように海外での限られた職に就くために
は、労働者は過大な教育投資をすることになる。これは労働者個人にとっては
合理的な選択であったとしても、社会全体で見ると、貴重な人材を海外に供給
しなければならないし、教育にかかった社会的コストが回収できないままになっ
てしまうので、大きな損失である。たとえ在外労働者からの送金が国内の消費
拡大に貢献したとしても、長期的には人材の流出と社会的コストというデメリッ
トがそれを上回るであろう73)。
67)久保田(2012)、117ページ。
68)カルロス(2012)129ページ。
69)酒向(2013)、81ページ。
70)以上のデータはフィリピン中央銀行ニュースリリース(2015年5月15日)を参照。
http://www.bsp.gov.ph/publications/media.asp?id=3731、2015年10月28日アクセ
ス確認。
71)太田(2013)、15ページ。
72)山形(2008)、40-41ページ。
73)吉田(2001)、155ページ。
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フィリピン人労働者が海外就労を通じて自国よりも高い賃金にアクセス可能
であることは、フィリピン国内における労働条件や賃金水準の改善に対する労
働者の無関心につながる74)。先述したように、GCC 諸国における外国人労働者
の賃金は出身国経済状況に応じて決定されるため、フィリピン国内の賃金が上
がらなければ、GCC 諸国で働くフィリピン人の賃金も上がらない。皮肉なこと
に、フィリピン人労働者が GCC 諸国での就労やそこでの賃金にばかり目を向
け、フィリピン国内の状況に無関心でいると、自国における労働条件だけでな
く、渡航先である GCC 諸国での労働条件も改善しないのである。
GCC 諸国においては外国人労働者が一体となった労働運動は成立が難しく、
労働条件の改善を求める動きが弱体化してしまう点はすでに見たとおりである。
さらに、GCC 諸国では自国民の失業率が高まると、労働力の自国民化政策が強
化されるため、フィリピン人をはじめとする外国人労働者の労働環境は悪化す
る可能性が高い。フィリピン労働雇用省は海外で働くフィリピン人労働者の保
護を求め、2013年にサウジアラビアと二国間協定を結び、翌2014年にはクウェー
ト、バーレーン、アラブ首長国連邦とも同様の協定を締結している。そのよう
な協定を結ぶことはもちろん重要であるが、GCC 諸国におけるフィリピン人労
働者の労働環境を改善するためにも、フィリピン国内の経済開発と労働環境の
整備は不可欠である。
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