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個人の成長とキリストの体の完成 というギリシャ語の表

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個人の成長とキリストの体の完成 というギリシャ語の表
個人の成長とキリストの体の完成
新約単篇
エフェソ書の福音
個人の成長とキリストの体の完成
エフェソ 4:11-16
今朝はエフェソ書から、教会の一人ひとりの個人が恵みを受けて大人にな
るときに、キリストの体である教会がしっかりと立つ、というパウロの励ま
しの言葉を学びます。主題は、朗読された本文の中ほどにある言葉、13 節か
ら取りました。
わたしたちは皆……成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさ
になるまで成長するのです。
この「成熟した人間になり」というところ、以前の文語訳では「全き人と
なり」でした。英訳も“a perfect man”としていました。今ではパウロの趣
旨を受け止めて、“mature manhood”と訳しています。中国の古典に出る
熟語で「大丈夫」という言葉があります。現代語で言う「大丈夫」と違い、
「ダイジョウフ」と読みます。丈はみのたけ、夫はおとこ、特に成年に達し
た男を指す字で、「丈夫」(ジョウフ) は成人した男子のこと―マスラオと
も読みます。 大丈夫なら、身の丈すぐれた堂々たる大人のことです。13 節
で「成熟した人間」と訳してあるというギリシャ語の表現は、
漢字に当てはめれば、「丈夫」または、「大丈夫」という字がピッタリだと、
私は思います。
パウロがここで教えているのは、信仰者としての生き方における成熟つま
り、クリスチャンの大人としての判断力や熟練が意味されているのです。「熟
年」という単語は、古い辞書には載っていなくて、ほんの二十年ほど前から
使われるようになった新しい言葉ですが、その文字通りの意味で(「老人」
の忌み言葉でなく)「キリストの思いが分かるほどの“熟年”に至る」とい
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うことを、クリスチャンの霊的成長の姿として表現したかったのでしょう。
さて、エフェソ書の著者はこの「成熟したおとな」の絵を、いったい何と
対比して描いたのか、それをまず(文の順序としては、後半から始めて逆に
なりますが)14 節以下の言葉から、確かめてみましょう。
1.未熟からの脱出 ;14-16.
14.こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに
導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれ
たり、引き回されたりすることなく、 15.むしろ、愛に根ざして真理を語り、
あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 16.キリス
トにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合
わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、
自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
ここに言う「未熟」は、はっきりしたものを掴んでいないための不安定で
す。「風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたり」
は、船の舵が利かなくなって、風のまにまに流されて行く様にたとえてあり
ます。英訳では“every wind of doctrine”という“every”の感じは、何か
変わった教えの風が吹いてくれば、一回一回かならず流される……という、
まことに頼りない船の漂流です。
たとえば、人から、「あなたが本当に聖霊を受けたのなら、使徒たちのよ
うに異言を語るはずだ」と言われれば、すぐ暗示に乗って催眠状態になると
か、逆にそれができなければ忽ち不安になるとか。「本当に生きた信仰を持
っているのなら、悪と戦うべく革命に立ち上がれ」とアジられれば忽ちその
気になる。いや、「勝共運動に力を貸すはずだ」と言われれば、腰を上げて
お付き合いをする。「聖書の福音なども教会のは古い。現代の本当に目覚め
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た知識人の信仰は、もう“罪の贖い”だとか“十字架の血”だとかにはこだ
わらないんだ。君のは中世の古い宗教だよ」と言われれば、「待てよ、考え
直さなきゃならないか」と思ってみる。そういう「新しい風」は、ここ二十
年ほどを考えても、西に東に吹きまくったし、その風向きは刻々変わってき
たものです。
指導者の中にも、偽者は次々に起こりました。麻原ほどの大ペテン師では
なくても、中小のペテン師は今も跡を絶ちません。「私について来れば間違
いはない。私はあなたを誰よりも信頼している」と言われるとつい、至近距
離以上に懐に飛び込んで悔いを残す人もあれば、「これは、聖なる目的のた
めに必要な資金。私を信頼して用立てるか」と言われれば、常識的判断も失
って信用貸しする善良な“信徒”は、小麻原でも結構かき集められるのです。
未熟は宗教の格好のカモです。
そういう中で、よほどしっかりキリストに碇を下ろしていないと、私ども
の小さな舟は、忽ち波と風に持って行かれます。特に日本では、キリスト信
仰で最後まで続く人は少なくて、“若き日の懐かしいグループ活動の思い出”
みたいに、青春時代と共に「済んでしまう」人が多いのは悲しいことです。
その主な理由は、自分がキリストを信じている理由がはっきりする所まで行
かないことにあると思います。
私はキリストを本当に正しく使徒たちの趣旨の通りに信じているか。私の
信仰の基盤は地味で健全な聖書の学びの中に根を下ろしているか。私はいつ
も、ホンモノの信仰者の交わりの中に身を置いているか。でも多くの場合、
その一番大事なことよりも、さしあたり、自分が感激して「燃える」ような
活動で充実したい……とか、また、私は他の人よりこんなに苦労して戦って
いるから、生きた信仰が身につく筈だとか、そういう所に期待を掛けすぎて
しまいます。
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本当に大事なのは、根気よく続ける御言葉の正しい学びと、そして、同じ
聖霊を頂いた友とのつながりです。パウロはこれを、ちょうど一つの体の手
や足や臓器や筋肉が、生きてつながって、頭に当たるキリストから命を分け
て頂くんだと言いましたが、その確信は、16 節の言葉の中によく現れていま
す。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっか
り組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を
成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
これだけに気づくのに、結構時間がかかる場合が多いのです。
2.成長と成熟を助ける“助手”:11-13.
「助手」と言いましたが、教会の習慣として「聖職」と「役員」のリスト
だと思っている人も多いようです。でも、ここに書いてあるのは「平信徒」
に対する「聖職者」の起源ではありません。あれは元々ギリシャ教会とか、
ローマ教会で既成事実になった職名と階級を権威づけるために、聖書で無理
に裏付けしようとしたものです。また、プロテスタントの教会でも、「牧師」
という主管者みたいな、一人で教会を統率する役職の起源を 13 節の「牧者」
に見ようとします。現に古い訳文――聖書協会の文語訳、口語訳、それに新
改訳でも「牧師」という訳語を使いました。西洋の習慣を弁護したい人や、
「見ろ! 聖書に書いてある」と言いたい人には、ここは便利で都合が良いの
ですが……。
でも、この箇所や使徒行伝の 20 章を見ると、「牧者たち」というのは教会
員の中の年長者で、みんなの霊的な助言……世話係りと言いますか、群の一
人ひとりを配慮できるような大人の信者を言った、一種の詩的な名称です。
今秋号の“たねまき”誌の文章にも触れていますので、参考にしてください
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(7 頁)。エフェソ書のここの「牧者」のくだりは、同じパウロのコリント
書の文と(第一 12:27-31)とてもよく似ていて、コリント書の方では、「牧
者・教師」の後に、もっといくつもの奉仕の役目が挙げられますが、それが
みんな、教会の中のメンバーの分担区域の区分けみたいに、パウロは考えて
いるのです。前半の文を読んでみましょう。(4:11-12)
11.そして、(キリストは)ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音
宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 12.こうして、聖なる者たち
は奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 13.ついに
は、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、
成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するの
です。
この中で「使徒たち」だけは、最初の使徒たちが世を去ると共に、教会か
らは消滅しました。キリストが御自分でお選びになった人たちだけ、そして、
ガリラヤで主と寝起きを共にした十二人が「使徒たち」だったからです。こ
の初代教会にだけいた使徒を除くと、あとは三つのグループの助手たちが残
ります。四つに見えるかも知れませんが、最後の組は「牧者である教師たち」
か「教える務めの牧者たち」という感じで一つにまとめられています。
原文では冠詞“the”―でくくられた 4 種類の助手は、the 使徒を除
くと 3 種類になって、“the 預言者たち”、“the 福音宣教者たち”、“the
牧者でもある教える人々”です。最後のは“みんなを教えることができた羊
飼いみたいな年寄りたち”と砕いた方が分かり易いでしょう。「教師」と言
ってもチョークを持って教えたり、聖書の巻物を手に講釈した訳ではないの
です。もちろん、そんな事までできる長老もいたことは、テモテ書(第一 5:
17)などから分かりますけれど、やはりこの年寄りたちは、身を以ってその
生き方で群の人たちを教えたのだと思います。「牧師」という聖職と「教師」
という地位の由来を述べているのではありません。こういう説明を聞くと、
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皆さんは織田の偏った考えだと思うかも知れませんが、欧米の聖書学者の書
いたまともな注解書には、みんなそう説明してあります。もっとも、歴史の
既成事実として西洋の牧師職がありますから、みんな適当に「聖書ではこう
だが今は必ずしも……」と言って、後は言い訳を考えるのです。
「預言者たち」と「福音宣教者たち」というのは、当時の習慣としては、
外から教会を訪れて巡回しながら福音を伝えた人たちのことです。その意味
では、今の、例えば私のように、一つの群に定着して福音を語る役目とは、
かなり違う部分もあります。でも兄弟たちにキリストを伝えて、聖書からそ
れを解説して聞かせたのは共通していました。もっとも、この時代にはまだ
ローマ書やエフェソ書やマルコ伝は行き渡っていませんでしたから、この人
たちの使った聖書というのはイザヤ書とか、創世記とか、詩篇とかでした。
ただ、この「預言者たち」は普通の説教者とは違って、上から直接に霊感の
賜物を頂いていた、一種のカリスマ的な働き人だったと説明されます。これ
は多分、新約聖書が結集される頃には、役目を終わって消滅したものです。
この人たちを私は、成長のための「助手」だと言いました。そして、こう
いう兄弟に仕える賜物と力を持った年寄りたちがいたお蔭で、回りのクリス
チャンたちがまた順番に、他の兄弟に仕えることができるような人に、連鎖
反応的に“整えられた”というのです。12 節の「聖なる者たちは」というの
は、回りのクリスチャン個人がみんな……です。ここは直訳すると「神の聖
徒である個人がいわば“整備され”て、その結果キリストの体である教会が、
まるで“建物の工事が進むように”出来上がって行った」となります。
教会ができあがって行くのは、クリスチャンの個人が堅実に大人に成長す
る時に、自然に起こることで、それは一言で言って、「神の業」なのです。
それは、「教会成長」という全体主義の幻に組み込まれて、暗示と興奮で「成
長したような」錯覚を楽しむのと逆に、一人ひとりが整えられることの不可
避的結果なのです。何より「こんなの、一体モノになるのだろうか?」と危
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ぶまれたあなたや私が聖霊の力で大人になってゆくその結果が、教会の完成
であります。
その“成長”とは結局どういうことなのか……と言うと、パウロに言わせ
れば、「奉仕の業に適した」者になると言うのですが、人に仕えて喜べる人
になることだと言えます。「大なる者であろうと思うなら、皆に仕える者と
なれ。一番になりたければ、皆の下僕になってみよ」というのが主のお言葉
(マコ 10:43,44)でした。主はこうも言われました。「人の子も仕えても
らうために来たのではない。人に仕えるために来た」と(同:45)。これが
身について行くのが成長です。
ヨハネに言わせるとそれは、「兄弟を見たら、その人が大事に思えること
だ」と言います。「それは取りも直さず、地上でイエスと同じ心になってき
たということだ」とも、ヨハネは言いました。(1ヨハ 4:16)
《 結 び 》
私たちがこの楠の里に移り住んで三十七年になります。大阪聖書学院の務
めも四十三年、来年九月には 70 歳になりますので、新しくできた学院の規則
により定年退職です。地上でのゴールもそろそろ見えてきますと、人間やは
り、自分のした仕事を振り返って総合評価してみることもあります。教会に
ついても、教師としても、果たして自分は「まともな仕事」をしたのか……。
主は喜んでくださるのか……。それとも、「お前は結局なんの役にも立たな
かったな」とおっしゃるのか……。つい、そんなことも考えます。
もちろん、主のお仕事には失敗や無駄はない(1コリ 15:58)のです。失
敗のように見える仕事も、最終的には「主の御業」としては成功に終わりま
す。けれども、主の僕としてまともな仕事を残したか、という自分への厳し
い問いは、消滅するものではありません。
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聖書学院では、この 1 年あまり、学校としての経営効率、教師の勤務の再
評価、リストラの可能性、老齢化した教師陣の入れ替え、新しい人材の確保、
伝道の効率と実際的な活動の活性化、学校の目的に合わない教師がいれば、
後援者出資者の意見も入れて、教師陣から外すこと等、痛みを伴うような変
革も進みかけています。私自身は間もなく去る者として直接関わりが無い、
といえばそうも言えるのですが。
私は前学院長が生きていた頃から、「私はこの学院を良くするためにはい
ない方がいいのではないか。私がいることで学校が伝道的でなくなってると
いう批判もあるが」という話を真剣に、一度ならずしたものです。クラーク
さんはその度に、「織田君、それは別な傾向の人材とのバランスで解決もで
きる」と慰めてくれましたが、なかなか、そういうバランスを取って、織田
の「毒消し」をする人材も現れないまま、今日に至りました。
聖書学院の教師というものは、ちょっと皮肉に言うなら、万能選手で超人
であることが(?)期待されます。講義は学問的にも霊的にもしっかりして
いて、学生たちも誇りにでき、外に出しても恥ずかしくないものであること。
その先生に習った牧師は、説教もうまくなければならぬこと。卒業生はみん
な教会を成長させて、人数も増やし、伝道活動も活発であること。……何よ
り教えた先生がそういう、成長した教会を作れる人でなければ、証しにも励
ましにもならない。牧師を訓練する教師たる者がこれを立派に果たせなけれ
ば、聖書学院は後援者の資金を無駄遣いしたも同じである……と。
そういう無言の期待と圧力を常に感じながら、私は私なりに、一つの確信
を以って努力をしてきましたが、総合評価はどう見ても芳しくはありません。
「いなかった方が良かった」とまでは言えないが、卒業生にも後援者の諸教
会にも顔を上げられるものではない。そんな恥を負いながら、凡人は今静か
に学院から消えて行くのですが……。
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そういう証しとしての教会を考えてみると、ここにあるこれは伝道者が 37
年腰を落ち着けて作り上げた教会には見えない。もちろん、六畳の和室に私
たち夫婦と、トラクトを見て訪れた高校生二人の集会より少しく大きくなり
ました。集会室も広くできた。でもこれは、一人前の伝道者が四十年かけた
事業とは思えない。「教会成長」運動の方たちから見れば、何もしなかった
のと同じだと言うでしょう。
最初に洗礼を受けた高校生は、片町線に飛び込んで命を絶ちました。もう
一人は結婚して、問題を抱えたまま、教会とは別の世界に落ち着いたようで
す。「私は伝道者としては駄目なのだ」と思いかけた時に、クリスチャンの
二家族を主が集めてくださって、この集まりの中心にして私たち夫婦を励ま
して下さいましたが、その三本柱の一つは三十年たってから脆くも崩れまし
た。その方たちの抱えた弱さもありますが、それを助けようとして判断を誤
った私の愚かさも悔いられます。もう一つ嬉しかったのは、ここに真面目に
聖書の学びをする群があることを聞き知って、隣町から何家族かの兄弟たち
が加わってくれたことです。主が送って下さった―私たちを励まし支える
ためにです。
そういう、自分で総合得点を付けて評価する愚かさから目をあげて、主が
この平凡な者に与えてくださった恵みを考えるとき、少なくともここに、聖
書の福音を学ぶ貴重な交わりを、また、弱さと悲しみの中で「キリストを仰
いで立とう」と励まし合う兄弟たちの貴重な交わりを主がお作りになったこ
とは、私にもはっきり見えるのです。これが確かである限り、平凡で無能な
器も、多分全くの無駄ではなかったのだ。マイナスと害毒ばかり流したと考
えるのは敗北主義だ。 そう思い直してまた、残された二三年に自分なりの努
力をしてみたいと思い、主よ、お助けください! と叫んでいます。
エフェソ書を書いたパウロは言いました。主はある者を過去には使徒とし
てお使いになったし、使徒たちが死んでからは、ある人たちを the 預言者と
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して、また the 伝道者として、また the 教える羊飼いの年寄りたちとして、
それぞれの能力に応じてお使いになったと。その人たちはただの平凡なメン
バーだが、それを上手にお使いになって。ここに何人かの個人を、「仕える
仕事ができる者」として整備してこられたのだと。とすれば、どんなに目立
たない地味な成長でも、主御自身がここに「聖徒たちを整備する」聖事業を
続けてこられたのだ。それが日本全体の、あるいは世界全体の「キリストの
体」という建物の仕上げに役立っているのだ、と思って勇気を取り戻してい
ます。
(1996/11/10)
《研究者のための注》
1.主題の二つの概念、「個人の成長」と「キリストの体の完成」は 12 節に出ている二つ
の言葉、とから取りました。前者は整備、修繕に使われる語
で、ふさわしい状態に整えることを言います。しかも、その整備は「人に仕える業」
への整備だというのが、パウロの趣旨の重点です。後者は建築の作業を指す語で、英
語なら動名詞の building(up)に相当します。英語の類語 edifying や edification か
ら「建徳」という教会用語が作られたので、「徳を」建てることだと思う向きが多い
ようですが、本来は建物に喩えられた「キリストの体」、つまり教会が「建て上げら
れること」、「工事が進捗して竣工に向かうこと」を描写する絵画的な表現です。パ
ウロは第 1 コリント書でも、「あなたたちは、いわば神が工事中の建築現場だ」とで
も訳せるような面白い表現をしています。(3:9,「第 1 コリント書の福音」9 講)
2.「人々を誤りに導こうとする人間の悪賢さ」という所に「キヴィーア」という
面白い言葉が使ってあります。キヴォス  ( もともと立方体のことで英語の
“cube”の語源)は「サイコロ」のことですが、キヴィーアは「サイコロ賭博」その
ものより、サイコロを使った「イカサマ」の意味を表したものです。正しい福音信仰
から引き離して人を惑わす宗教思想を、パウロは「イカサマのサイコロ」に喩えまし
た。
3.「使徒たち」を除くと「4 種類の助手のように見えるが、冠詞と句読に注意すると 3
種 類 の 助 手 た ち 」 と 言 っ た の は 、 原 典 11 節 の 中 の 次 の 一 連 の 語 句 で す 。
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 英 訳
では冠詞が不自然になるので、冠詞のは the と訳さないで、例えば T.E.V.は
“ others to be prophets, others to be evangelists, others to be pastors and
teachers.”としています。pastors and teachers が恐らく同じ人たちを指したろうと
いうことは、すでに教父やも指摘しており、キリシャ教会
の註解者も、「羊飼いで教師であった人たち」というのは「群の配
慮者としての長老たちのことであった」と説明しています。
4.講解の中で省略した部分……一度低い地上に降りてから「高い所」に上ったキリスト
が、「捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えた」(7-10)と 11 節の論理的
なつながりを、私の 1981 年の「エフェソ書の福音」では次のように説明しました。「こ
の『敵の捕虜』というような概念が、ここのポイントとどう繋がるのだろうか、色々
調べてみました。参考書は、『捕虜をひきい』は勝利者を浮き彫りにしているだけで、
この句にこだわる必要はないし、昔のエフェソの人たちは、『捕虜を数珠つなぎにし
て来る将軍』とか、『キリストがその豊かな戦利品の中から』というようなイメージ
に、特に抵抗を感じなかったのだから、現代の読者もここでこだわるな、というよう
な書き方がしてあります。その中で E.K.Simpson という註解者だけが、次のような説
明をしているのが印象に残りました。(創世記 14 章の故事から)「アブラハムは、身
内の者が捕虜になったのを聞き、家の子郎党 380 人を率いて、夜に侵入者の陣を攻め
て、身内の者ロトとその財産および女たちと民とを取り返した…という、あの場面を
考えてよいのではないか……。この『とりこをとりこにした』
という二重の不思議な表現は、捕虜の奪還を言うのである。」言い換えれば、
キリストは捕虜となっていた者を解放して連れて帰られ、そして、その中からピック
アップして、使徒たち、預言者たち、福音する者たち、教えができる羊飼いたち…と
いう形で、それぞれの助手グループを聖徒たち個人の整備と、教会という霊的建物の
仕上げのために、お与えになった。これがシンプソンの説明です。
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