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Page 1 第一次世界大戦前のハンブルク労働者の世界(上) ー「規律化

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Page 1 第一次世界大戦前のハンブルク労働者の世界(上) ー「規律化
第一次世
界 大
戦 ユ
削のハ ンブルク労働者の世界︵上︶
﹁規律化﹂・﹁労働者文化﹂ と労働運動
三 宅
いものだ。そういうことなら、ブローム&フォスに昼夜交替制をとらせればいいのだ。それともおれたちに時間あ
仕事がたっぷりあるから。しかし、時間あたり四五ペニヒでおれたちの身体を犠牲にするのは、ごめんこおむりた
たり三三ペニヒで苦労するのがおちだ。おれたちはみんな、今日び時間外労働をしなくてはならない。このところ
の仕事はもらえないのだから。よそから来る連中は、ここでは一番いい仕事をもらえるのに、土地の者は、時間あ
みるより仕方がない。クライエンカンプ街の職業紹介所では、ブローム&フォスを自分からやめた者は、これ以外
︿自分はこの一週間というものここらをとびまわったが、結局、ブローム&フォスの元いた毒部屋でまたやって
ローム&フォスの汽罐夫たちのようであったが、次のような話をかわしていた。
場には、一五名ほどが来合わせていた。その内の何人かは、エルベ川の向う岸の自由港地域内にある大造船会社プ
前世紀も終りに近い一八九九年十一月十一日、ハンブルクのザンクト・パウリ区のエルベ川に程近いレニング酒
M⊥
たり一〇ペニヒさらに割増しさせるか。この勤務を一〇時間も、あのすごい熱さのなかで汗まみれになって続けれ
71
一
ば、完全に参ってしまう。それに扱いのひどさと来たら。まともな飲み水を出してくれればまだいいのだが、あの
水道の水はエルベ川から直に来ているにちがいない。さもなければ、水の中に一センチもの虫やもっと長いのがい
るわけはないし、しばらく置いておくと黄色い澱ができるなどということもあるはずがない。ここの水道の水がま
おり
しなのは何故かといえば、労働者が病気にならないようにというためなのに。喫茶ホールには、決められた時間の
カフ エ ハ レ ン
ほかは誰も行けないと来ている。行けば、すぐさまくびだ。﹀
, ︵1︶
この会話は、ハンブルクの政治警察の一スパイの報告書の一節からとったものであるが、酒場をまわっては耳に
した会話を報告するシステムができたのは、一八九二年の末のことで、ハンブルクの警察がプロイセン風のものに
︵2︶
改組されるのとほぼ時を同じくしてであった。ここで、この酒場での会話を手がかりとしながら、ブローム&フォ
スを代表的企業とする当時のハンブルク造船業の労使関係についていささか見ておくこととしたい。
まず、会話の中の初めの方に出て来る︿クライエンカンプ街の職業紹介所﹀というのは、︿大ミーヘル﹀と呼ばれ、
長く船員たちに親しまれて来た高い塔をもつ大ミハエリス教会のわきのクライエンカンプ街︵ノイシュタット南区︶
にあった、ハンブルク鉄工業連盟の職業紹介所をさす。一八八〇年代後半によみがえった労働運動に対抗して一八
八八年にブローム&フォス社長ヘルマン・ブロームの主導下に設立された同連盟が翌八九年、各種熟練工の諸職能
フオルマ 別組合による労働市場支配とそれをバックとしたストライキ運動を圧殺するために設立したものであった。その直
シユロツサロ
接の契機となったのは、高度の熟練工であった鋳型工が独自の職業紹介組織をうちたてたことであったが、九〇年
には、鍛冶工や仕上工も、アルトナーアルトナ市は、ドイツ帝国を構成する一邦国であったハンブルク市とは異
シユミロト なり、行政的にはプロイセン王国のシュレスヴィヒ団ホルシュタイン州に属していたが、町としてはほとんどハン
ブルクと一体となっていたーに独自の職業紹介所を設置して鉄工業連盟の職業紹介所への挑戦を試みている。し
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かし、鋳型工は数ケ月にわたるロックアウト攻勢で敗北を余儀なくされ、後者の動きも、九〇年のメーデー.スト
ライキを前にハンブルク鉄工業連盟が中核となって結成されたハンブルク・アルトナ使用者連盟のメーデー.スト
ライキ参加者に対する厳しいロックアウト措置によるハンブルク労働者の﹁歴史的な敗北﹂の中で抑えこまれたの
であった。この時、ハンブルクで五月二日にロックアウトされた労働者の数は約二万名にのぼり、内、九千名が建
ハンブルク鉄工業連盟の職業紹介所は、しかし、単にストライキに対する最有力の対抗手段として威力を発揮し
ヨ 築職人、造船労働者は四千名であった。
ただけではなかった。同所は、必要に応じて熟練工をザクセンやベルリンなど機械工業の中心地からハンブルクに
呼び寄せる一方、ハンブルクの労働者が自分から職場を変えるーこれは古くから賃金引上げの手段とされていた
がーのに対しては、一定期間職業紹介所から締め出してこれを抑えこもうとした。また、︿適切で有能な﹀労働力
を慎重に選び出し、︿大酒飲み﹀、︿騒ぎ屋﹀、︿煽動家﹀を排除するなど、労働者の選別による︿規律﹀の強化を進め
た。九〇年代末からは、ハンブルク近郊の駐屯地の酒場、のちには兵営自体で、一般に労働条件がより悪く労瑠
合の組織率も低い地方から来ている兵役終了者たちに、ポスターで職業紹介所への応募をつのることすらしている。
ハンブルクの造船業は、一八七七年のヘルマン・ブローム︵一八四八∼一九三〇︶とエルンスト.フォスによる
鉄製船の造船所の設立、一八八〇/八一年における一八世紀以来の大造船所ライアーシュティ!ク造船所の鉄製船
建造への移行、とりわけ、一八八八/八九年におけるブローム&フォスの大経営への飛躍とともに、海運業用の鉄
製船の建造にあたる大経営を中核とし、沿岸・河川・港内用の中小の鉄製船や木造船を建造する中規模の造船所や、
旧熊依然たる木造船の造船所がこれと併存する時代を迎えた。そして、鉄製船建造の発展にともない、伝統的な熟
練職人た歓艇.ス廻イメ箕を中心とした職場に、鍛冶工・仕上工等といった金属工業の熟練工が大量に流入し、一八八九
73
業
の
全
体
に
、
時
間
給
と
出
ア来
コ高
レ給
ト制
ア9
レ覗
ぐ負イ
年 に は 、 ハ ン ブ ル ク の 造 船 業 . 金 属工
制ト
︶とを結合した新しい︿近代的な工
場制度﹀に立った共通の就業規則が、ハンブルク鉄工業連盟の手で導入されることになった。長いツンフト的伝統
をもち、仕事量の少ない冬場には夏場よりも高い日給を受け取るという一種の﹁モラル・エコノミi﹂と自律的な
仕事ぶりに慣れ親しんで来た船大工は、時間給/出来高給体系の導入に強く抵抗し、一九〇〇年までは、造船労働
者の中で唯一、職業紹介所を通さずに採用される権利を確保し続けたが、経営者側は、船大工の仕事を分解してこ
れを他の職人や下働きの手にまわすことでこれに対抗し、︿近代的な工場制度﹀の導入を推し進めたのであっ︵加ゲ
如していた。その結果、造船労働者は、仕事こそ重労働で、しばしば汚水や雨や寒暑の中で、あるいは狭く暗い場
とはいえ、造船所では、﹁労働のリズムや作業様式を規定しうる客観的な機械体系﹂が、鉱山や建築業と同様、欠
所での労働であったが、なお生産工程の本来の担い手として、﹁比較的自由な仕事ぶり﹂が許されていた。労働者が
はやい速度で働いているのかゆっくりと働いているのかを管理者側が確認することはきわめて困難で、監督の役割
を中心的に担ったのは労働者出身の職長であり、仕事のそれぞれに適切な労働者を選び出して組︵アルバイターコロンネ︿職工組﹀︶を
マイスタド
編成する.、とも職長の仕事であった。作業工程は、職長、.組.ア.劇.M職工組の間の﹁不断の・非公式の交渉﹂の枠
内で進められた。職長にとっては、腕利きの労働者を配下にもつことが重要であり、職業紹介所の手を通さずに自
いう。
認︶労働者を雇い入れる習慣を根絶する.、とは、響者/職業紹介所側の努力にもかかわらず容易ではなかったと
さて、こうした造船労働者に対する︿規律﹀強化の動きは、当時、ブローム&フォスが鋭意進めていたところで
あった。そして、酒場での先の会話に出て来る︿喫茶ホール﹀も、まさに、その重要な一環をなすものであった。
すなわち、同社は、労働者が昼食をとりに造船所を離れて家に帰るのをやめさせるべく、昼休みを三〇分短縮して
74
一時間とし、さらには、この昼休みを造船所内の喫茶ホールで監視機関の厳しい管理下にすごさせようとしたので
あった。造船労働者の一集会についての一八九九年三月十三日付の警察記録によると、船大工の一人は、こう発言
したという。
︿ブローム氏が労働者に対していかに親切かは、彼が、当時、労働者たちに食べ物をもって来て売っていた婦人
たちを警察力で追い散らした時に見てとることができた。この婦人たちは、そこで、食べ物をエルベ川に捨てなけ
ればならなかった。プロ!ム氏は、ひょっとすると、こう考えているのだ。労働者がたっぷり食べると、空きっ腹
の時ほど集中して働けない。労働者は、多分、自分が設けた喫茶ホールに出入りすべきなのであって、栄養たっぷ
りの食事が出るところに行くべきではないのだ、と。﹀
造船所側のこうした態度に対する労働者の反発の強さは、ブロームが一八九二年一月二十三日に警察当局にあて
た書簡に端的に記されている。
︿わが造船所のわきの通りでの食物販売の警察による禁止が知らされたあと、労働者たちは、わが喫茶ホールを
おとずれたさいにその備品を手ひどくこわし、我々が警告したにもかかわらず、それを続けた。それ故、我々は、
喫茶ホールを閉じざるをえなかった。労働者の側から喫茶ホールをこわすそという嚇しの声が高まっているので、
朝食と昼食の休み時間、また夕方に警察の保護をお願いする。﹀
一八九九年三月四日付の書簡でブロームが、︿わが食堂の扉の前を通りすぎて物売りのところに行くことには、一
種の黙殺と反抗への促しがある﹀と述べて、造船所の門の傍から物売りを追いはらうよう警察に求めていることは、
喫茶ホールをめぐる問題が、経営者側にとって、単に食習慣の変更如何の問題を越えて︿規律﹀化の貫徹の問題と
されていたことを示すものといえよう。冒頭に紹介した会話で、喫茶ホールに定められた時間以外に行くと即刻解
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雇されるとあるのも、そうした経営者側の厳しい態度の一端を示すものにほかならなかった。そのさい、ブローム&
フォスが規緯化の動きの先頭に立っていたことは、ハンブルクの他の造船所では備縦嚇朧にアルコールを飲むこと
が従来通り許されていたのに対し、同社の職場ではアルコールを口にすることが厳禁されていたことからもうかが
,つ.﹂とができよ.つ。遅刻に謬。処分もプロ去&フォスはとりわけ厳ヒ、罰として何日間か仕事から閉め出す
ことすら行なわれていたという。自分のところでは︿機械は可能な限りの速さで﹀動いているというブロームの一
八九九年十月二十八日のことばは、彼のこうした努力の成果を誇示したものということができよ宛。
察報告書︶は、まず、ハンブルクのブローム&フォスを取り上げているが、そこには次のようにある。
第一次大戦下、一九一六年二月二十一日付のドイツ海軍省の一文書︵水雷艇及び潜水艦の建造・修理の状況の視
︿精力的な経営陣のもとで、そして、すぐれた監督人員と信頼しうる認粥剛書のおかげで・漿艦建造のた
めの、大部分は新しくつくられた工場は模範的に動いている。﹀それに対して、ハンブルクのヴルカン製作所の労使
関係はブローム&フォスほどよくないとされている。すなわち、︿ここには、同社ほど豊富な監督人員も、また同社
ほど良好な基幹労働者層も存在しない。これは、多分、この造船所が平時において、その雇用状態にきわめてむら
があり、また、その製造能力のわりには全く不十分にしか雇用していなかったこと、施設が比較的新しいこと︹同
造船所はシュテッティン︵現ポーランドのシュチェチン︶に本拠をおくヴルカン製作所の支社として一九〇九年に
設立された︺、その結果、ブ・去&フォスにおけるような伝統をなお形成しえなかったことに帰せられよ寧﹀
一八九〇年代から二〇世紀の初頭にかけて、造船所では、一般に、技術・監督関係の人員が労働者数に比しては
るかに大きな割合で増加を遂げている。その背景としては、作業工程と製造原価に対する管理を作業現場から事務
所に移すことによって、個々の労働者の出来高払い単価、資材の受渡しや労働時間の管理の強化がはかられたこと
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が指摘されている。しかし、造船所では、個々の職長、組長や特定の職能グループのもつ︿実際的な経験﹀が大き
く物を言ったので・こうした努力も部分的な成果しか得られなかった・い遍・そ・つした中で、ブ・去&フォスに
おける上述のような︿伝統﹀の形成にとってとりわけあずかって力があったのは、同社の一九〇〇/〇一年度の年
次報告に明らかにされているブロームの次のような姿勢であったように思われる。
︿ストライキに対して勝利を収めることが、そのために費された費用を、労働者の作業成績の増大と規律の確立
を通して十分に償うものであることは、本年も再び示されるところとなった。しかも、権威を確立することは、使
用者の、職員及び職長に対する責務なのである。さもなければ、彼らから労働者の思い上がりに対抗するあらゆる
勤労意欲が奪われることになるからである。﹀
この一九〇〇年のストライキとは、ツンフトの解体後もなお労働条件の決定に強く参加して来た銅鍛冶工、
女iユ町船大工の各職能別組合が鉄工業連盟と労働協約を結んだのに続いて、ドイツ金属労組造船労働者部門、
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注の義和団事件に対するいわゆる懲罰遠征のための汽船二隻の完成を拒否して、ヴィルヘルムニ世の叱責を招くと
月には・ブローム&フォスの鋲打工もストライキにはいり、ハンブルク・アメリカ郵船株式会社︵HAPAG︶発
これを承認し支援することとなり、次第に同造船所の他部門の労働者や他の造船所にもひろがることとなった。八
ままにストライキにはいり、それが他の造船労働者たちの共感を得て、支部執行部も︿規約違反﹀にもかかわらず
ュティーク造船所の錠鶴1が七月四日、金属労組ハンブルク支部執行部との事前の連絡、ひいてはその了承のない
1に対し、後者がこれら諸組織と交渉にはいること自体を拒否したことに発するものであった。まず、ライアーシ
最低賃金、出来高払いの仕事に関する取決め、時間外労働と夜勤の制限、標準労働時間の九時間半への短縮など1
及帆仕上工゜纒王ー°運繊.ηの各賃金委員会が讐者側に捉出した諸要求−時間あたり三五∼四五ペニ・の
描.
いう事態もおこっている。結局、経営者側はロックアウトとその拡大、スト破りによる修理作業、他の地での前記
二隻の建造完遂等で対抗し、他方、組合の金庫が完全に洞渇しそうになる中で、九月二十日、ドイツ金属労組が多
数を占める労働者代表団と鉄工業連盟との間で協定が結ばれ、労働者側の要求がほとんど全く認められないままス
トライキは終結へと向かった。これに対して、現場の労働者からは、ストライキ続行を求める声もかなり強くあげ
られた。ストライキに際し﹁模範的な連帯﹂を示した船大工の集会で、金属労組の代表が、︿しかし、一つのことは
我々は勝ちとったのだ。彼らは労働者の組織を承認した。彼らはこれと交渉を行なった。使用者側は、組織の代表
を尊重︵し,12︶﹂れに敬意を払,つ.﹂とを学んだのだ。﹀と訴えた時、集会の参加者たちは・れにどっと嘲笑の高笑いで応え
たという。
ここに示された、労働現場の厳しい現実を日々に生きる労働者大衆と、経営者側による組合組織の︿承認﹀・︿尊
重﹀を重視する組合指導部との問の懸隔は、ストライキ中止に対する失望と憤愚の中で労働者大衆がスト破りに対
して加えた﹁自然発生的な﹂排除行動を1対外的配慮からにせよi︿若者の乱暴狼籍﹀とするドイツ金属労組
の態度にも認められるところであった。スト破りたちは、造船所や所内の食堂で、ザンクト・パウリやアルトナの
オッテンゼンなどの労働者街で、あるいはまた港で、狩り立てられた。これに対して、ブローム&フォスやライア
ーシュティーク造船所は、ストライキ労働者の再雇用を中止したり、警察の造船所内常駐を求めたりしたが、HA
PAGの修理工場ではスト破りの一人が鉄塊で重傷を負わされ、ブローム&フォスはスト破りに対してくり返され
る肇のために食堂︵︿喫茶ホル﹀︶の蒔閉鎖に追い込まれたのであつ.畑.・
カッタルッツァによれば、造船労働者は仕事場で物理的暴力をかなりの程度﹁鷹イ騨,礎﹂扱っており、スト破りや
黄色組合員はしばしば攻撃され、また人気のない上司に対する暴力行為もまれなわけではなかった。しかも、こう
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した﹁抗議形態﹂は、造船所にとどまらず、はるかに大きなひろがりをもつものであったという。その一つの背景
として、彼女は、﹁暴力行使の限定された諸形態﹂が職人の伝統において﹁まともさ﹂と両立しうるものであり、そ
れは特にスト破りともぐり職人に対する狩り立てに妥当していたことを指摘している。そして、労働組合自身、彼
︵14︶
女によれば、こうした抗議形態について労働者との間に﹁暗黙の了解﹂の関係にあったのであった。
こうした中で、経営者側のストライキ︵︿労働者の思い上がり﹀︶に対する強硬な態度は、前述のようなブローム&
フォスの︿すぐれた監督人員﹀の豊富さの重要な背景となっただけではなかった。次に紹介する酒場での会話から
もうかがわれるように、それは労働者自身に対しても︿規律﹀化の作用を及ぼしていたのであり、そして、そのこと
は、︿信頼しうる基幹労働者層﹀の形成の問題ともかかわるものとして注目に値するもののように思われるのである。
ハンブルク政治警察のスパイの一報告書は、一九〇一年八月三十日、アウセンアルスター湖の東岸北部にあるウーレ
ンホルスト区フンボルト通りのリンケ酒場で三人の労働者の間でかわされた次のような会話を記録している。
一人の労働者は言った。︿労働者層は、近年、経済闘争で全く決定的に、大きな不成功を喫しなければならなかっ
た。経営者側に譲歩を余儀なくさせようとして労働者がいかに努力しても、至るところで抵抗にぶつかり、頑張り
抜いても労働者は屈しざるをえなかった。労働者の戦費は、特に巨大なストライキの場合は、全く彪大なもので、
金庫は完全に空になってしまった。ハンブルクの港湾労働者のストライキやイギリスの造機工の闘争がどんなに多
額の金を呑み込んでしまったかを、そしてそれでも少しも成果が挙げられなかったことを考えさえすれば、労働者
にはストライキは何の利益ももはやもたらさないと思わざるをえないほどだ。Vもう一人の労働者は言った。︿ここ
近年にたたかわれ労働者の敗北に終った大闘争のすべてから結論されうることは、直接経済的な不利益が生じたの
ではないとしても、当の労働者たちが経営者に対してますます大きな従属関係に陥っているということなのだ。ス
79
トライキになるのは、それによって労働者の使用者との関係がますます緊張したものとなるから、どの場合にも困
ったことなのだ。それでも和解を見出すことができないでストライキが避けられないのであれば、ストライキの期
い。﹀
叢ある限度までだけにすべきであって、最近の時のよ・つに、労働者の側が闘争能力をなくすまですべきではな
ところで、先の、一九工ハ年におけるドイツ海軍当局の一視察報告書でもう一つ注目される点は、ブレーメンの
AGヴェーザi造船所の労使関係が︿きわめて厳しい﹀主たる理由として、︿それが町から遠く離れており、町との
連絡が悪いのに、その建設︹これは一九〇五年におけるブレーメン郊外グレーペリンゲンへの移転をさすと考えら
れる︺に際して労働者用社宅をつくることによって十分な量の基幹労働者層を会社に緊縛することを怠った﹀こ
アルバイタ コロニ とが挙げられていることであろう。同造船所については、さらに、監督人員が特別不足していることも指摘されて
いるが、この、労働者の住宅問題についても、ブロームは、一八九六年末から翌年初めにかけてのハンブルクの一
大港湾ストライキを契機として、注目すべき方向を提起していたのであった。すなわち、彼は、一八九七年三月三
日、ハンブルク膨アルトナ使用者連盟会長として市参事会にあてた書簡の中で、次のような提案を行なっていたの
である。職場のできる限り近くに家賃の安い住居を建設することを促進すること、アイムスビュッテル、バルムベ
クといった市の西北部また東北部の郊外で労働者用住宅の建築を進め、かつ、これと港との間の交通の便を1郊
外鉄道をすみやかに建設することや、自転車で通勤できるよう通りを舗装することなどによりーよくすること、
そして、こうした郊外の新しい安い住居の完成以前にはアルトシュタット︵旧市︶内の︿弱躍纏欧﹀やフィッシュ
マルクト広場付近の︿再開発﹀を行なうべきではないこと。そのさい彼の念頭にあったのは、とりわけ次のような
ザニ ルング お 事態であった。
80
︿ストライキの終了後、︹スト破りとして︺よそから調達された、全く有用な︹労働︺力の一大部分が、ひどいい
やがらせの結果ハンブルクを去らなければならなかった。これらの人々の多くが今やハンブルクにもどって来てい
る。しかし、彼らは、ここにずっと定着したいという彼らの願いを果すことができない。というのは、港に通うこ
︵17︶
とができる近さのところに彼らの家族のための安い住居を手に入れることができないからである。﹀
カッタルッツァがここに、﹁組合組織の核を形成していた若く流動的な労働者に対する対重として、結婚している
労働者をハンブルクに引き寄せようとする﹂ー港湾業には必ずしも限定されない1使用者側の関心を認めてい
︹18︶
るピーとは、先の︿基幹労働者層﹀確保の問題ともかかわる重要な指摘ということができよう。彼女によれば、鉄造
船業では、﹁持続力、体力、器用さ﹂が、正規の徒弟修業を終えていることと同程度の重要性をもっており、一八九
〇年代から二〇世紀の初頭にかけて、︿本物の職人Vと︿労働者﹀との鋭い区別にかわって、ますます広汎な労働者
諸層が比較的高い賃金をかちえるようになった。そうした中で、第二帝制末期のドイツ、とりわけハンブルクの造
船労働者は、その多くが比較的若くて未婚の、﹁高度に流動的な﹂男たちから成っており、彼らは、ヴァイマル時代
とは異なって安定した職場に重きをおいていず、諸造船都市間、大小の諸経営間を渡り歩くほか、時に応じて他の
フ エ ス ト
経済部門でもー熟練工は機械製造業、半熟練工︵習熟工︶・不熟練工は港湾業や建設業などでー仕事を見出して
いた。彼らは、カッタルッツァによれば、広汎な小経営の存在、強力な金属工業、フレクシブルな労働市場という
諸特徴を同じくするベルリンの労働者たちと同様、﹁若く、都市の出身で、組合にはいっており、高度に流動的﹂と
いう労働者類型に属していたのであった。彼らにとっては、﹁自発的に解約を告知することは、力の示威であり、そ
の時々の職場から労働者が独立していることの表現であった。﹂キールのゲルマーニア造船所、そしてハンブルクの
ヴルカン製作所が解約告知期間のより長いないし月給制の労働者の雇用を試みた時、造船労働者の集会がく自由な
81
労働者の尊厳を傷つける﹀ものとして断固これを拒否したさい、その中心となったのも、こうした﹁若く、高度に
流動的な﹂労働者た﹂ちであったと考えられる。そして労働争議のさいには、組合の扶助金の負担を軽くするために、
若い未婚の労働者が争議地域を離れることが当然のこととなっていた。労働者の移動の習慣がこうした労働争議の
戦略の必須の前提をなしていたが、それには、﹁手工業の時代からの遍歴の伝統と職人の文化におけるその美化﹂も
また一役を買っていたとカッタルッツァは指摘している。
︵19︶
ハンブルクの使用者団体がその職業紹介組織を通じてスト破りほか広く労働者の調達に努め、労働者の︿規律﹀
化をはかったのも、まさに、こうした、﹁しばしば職場を変え、潜在的に不服従に傾く﹂若い労働者を中心的担い手
とする労働運動に対抗してであった。そして、その中心となっていた大造船業者ブロームの労働者対策は、造船所
内の︿喫茶ホール﹀の設置からハンブルク市全体の住宅・交通整備政策まて、実に多様かつ重層的にくりひろげら
れていたのであった。ここで次に、そこでも問題とされた港湾労働者をめぐる状況を見てみることとしたい。港湾
労働者が多数住んでいたハンブルクの︿小路街区﹀とその︿再開発﹀の問題についても、その中で触れることとな
るはずである。
︵1︶ 国o冨a一゜国くきω︵国αq°︶”さ鳴骨恥躇愚ミぢぎ篤§さ凡給ミ讐き゜b紺⑦職§§§題富篭らミ鳴職ミさ§ミ寒、ぎミ傍ミ§♂ミ職
注
NQ。穐−N℃N典幻Φぎげ舞σ虫=国ヨσ霞σqお。。ρω﹄H以下︿ ﹀は当時の資料からの引用︵ないし再引用︶、﹁ ﹂は、研究
文献自体からの引用を示す。
お、本稿は、小稿﹁ドイツ独立社会民主党の比較地域史的研究”序説 北ドイツ海岸地方を中心にi﹂﹃明治大学人文科
学研究所年報﹄三〇号︵一九八九年︶、一一一∼七頁のいわば続篇にあたるが、以下、造船労働者に関しては重複するところ
︵3︶ ︼≦費言国O卑け①歪NN斜郎さQ辞、黛§織§慰§§§ミ黛ミ.魯ミミ鋸ミ§譜偽さ蹄鳴ミ詩詳噂oりε洋αq鋤再H㊤o。o。’ω﹂悼刈自.ード畠映.な
︵2︶ きミ噌qり﹂O塗⋮α津ρb§ミ§きミミ蒔曽ら紬竜貸蕊亀凄ミ帖8§ミQQざ隷ミぼ黛虜NQQ恥O−N℃﹄90臥oaH㊤o。ざロO°8h
82
︵4︶9蕾§Npω﹂ω9内薯ωω鋤具、.<Φ量蓉四§σq自2ぴ貯αq①⋮9雪9曾琶σq−.。α臼ぎ坦①凶。こΦ二幕﹁霧Φミ≧げΦ碁Φ・
がある。
び①弓巳三冒ぎ国餌ヨげ葺σq・﹀犀o欝H。。㊤①三ωおに﹂﹃﹀ヨo誠①醤蒔\望Φθ臼い碧oqΦ三Φω9Φ\﹀ヨo匡ω︽零o#①犀︵出閃゜γ︾さ鳴§、
§建§ミミ§鷺誌らミらミ§ヒ毎さ恥譜、ミ§犠トさミ鳴さ鳴ミ飛ミ薦恥ミ魯ミ匙曇壽§駄§N⑳智謙きミ器§溝=鋤ヨげ負ひqH㊤゜。ω℃ω゜
︵5︶ 一八九九年、ドイツ海軍省の調査に際し、ブロームは次のように述べている。︿船大工は使えないので、労働者の新しい階
卜∂①①゜
級をつくり出さなければならない。この目的のために下働きをも教育しているのである。V以上、O舞3歪NNPω﹂ωhこHOω映‘
同匿h°なお、ハンブルクの船大工の心性は、一面では、﹁強い平等主義と完壁な連帯心﹂によって特徴づけられていたが、それ
は﹁自分のツンフト仲間しル叛稲しツンフト出自の諸職能の労働者にのみ向けられたものであり、他面では、依然として、ツ
ンフトの出自ならざる︿労務者﹀や、︿よそ者﹀︵︿ポーランド野郎V、ロシア人、︿クーリー﹀︹これはスト破りに対して︺︶を
差別し、これときびしく一線を画そうとするものであった。一種の︿ハンザの誇り﹀もその重要な一面をなしていた。♂ミリ
QD﹂Oρそして、カッタルッツァは、こうしたハンブルクの船大工のありように、時間給/出来高給体系の導入を抑え旧来の
労働慣行を守ろうとした船大工の闘争に造船業の︿労働者の新しい階級﹀がほとんど理解を示さなかった、一つの重要な要
因を認めるのである。きミ㌧ω﹂OO塗
︵7︶ 以上、§罫ω﹂謡塗労働者の飲酒を制限しようとする動きは各地の造船所で試みられたが、全体として、ハンブルクを初
︵6︶ 奪ミ㌧Qり.$塗造船所の造船本体や金属加工の諸部門での機械導入の努力とその限界については、§鈍、ω゜①H塗
よう。♂ミbω﹂刈9嵩ρけんかによる傷害事件も東部の方がハンブルクよりはるかに多かったことについては、“ミ罫ψ嵩。。.
めとする北海方面の造船所と東部諸都市の造船所とでは、労働者の飲酒の習慣に大幅な落差があったという。ハンブルクの
労働者は、ダンツィヒ︹現ポーランドのグダニスク︺から来た同僚とは、彼らが︿酒飲みで、すぐナイフを抜く﹀のでうま
く折り合っていけないというブロームのことば、また、ダンツィヒのシヒャウ造船所の所長の︿ダンツィヒの労働者は飲ん
だり殴ったりするのが好きだが、しらふの時は腕のいい連中である﹀という発言は、この点できわめて示唆的なものといえ
なお、ブローム&フォスの食堂の殿損事件は、一九〇〇年のストライキの後、労働者たちが、スト破りを食堂から追い出し
た時にもおこっており、のち、一九一八年十一月五日、キール軍港の水兵の蜂起の報がハンブルクに伝わった直後同社で︿騒
︵8V 奪帖“㌧ω.蕊一.
ぎ﹀がおこったさいにも、食堂の破壊がおこなわれたのであった。♂ミ㌧Qり゜嵩ω゜
︵9︶Ou二巳Φω9。﹁。三く・言=け腎霞。三く牢①同σ9ひqPしU﹁.扇ζb。刈×日≧ω潮しdド9。q°。山①O°
83
︵11︶ き帖“㌧Qo°H㊤O。
︵10︶ 02冨昌NN P ω ゜ ① 黛 ゜
︵12︶ 奪ミヒω﹂。。臨゜一九〇〇年のストライキ/ロックアウトとこうした組織間の交渉・団体協約の締結の問題については、さ
態度を示さなかった。O舞$2NNPQo.お諏∴℃置ΦqΦヨ①暮︵=σq°γ寒貸蕊ミ寒ミ、ミ§慈§ミ茜竃冒oゴ窪お。。合ω゜H鵠h鉱夫
らに、ω口巳層ω﹄謡h参照。なお、鋲打工は、徒弟修業こそ必要とせず、それ故熟練工ではなかったが、相当な体力と経験に
もとついた腕前を必要とし、かつ、炭鉱業の鉱夫組に似た、危険を伴う組作業で仕事をしたので、相互の強い結びつきと明
確な集団意識を発展させていた。鋲打組は、組長と助手との二人の︹外︺鋲打工、内側から鋲を止める鋲止工と、一四∼一
六才位の少年の鋲暖工の計四人、ないし、暖められた鋲を運び、またそれを鋲打ちのために据える労働者各一人を加えた計
六人から成っていた。ハンブルクの鋲打工は、職場の外でも、独特の身なりで見分けられ、しばしば余暇にもグループで動
いており、鉄製船時代における﹁かつての誇り高き船大工の相続人﹂となっていた。ただし、鋲打組の少年たちだけは、熟
練職種の徒弟と同様スケープゴートの役まわりをさせられ、少年たちがストライキをする時も、大人たちはしばしば連帯の
会運動史﹄一〇号︵一九八五年︶、三二∼四頁。
組については、参照、山本秀行﹁ルール鉱夫の生活空間と社会的ネットワーク 一九・二〇世紀転換期を中心に ﹂﹃社
︵14︶ き帖鉢ヒQD°b。ωQ。塗
︵13︶ O緯富歪NN斜ω゜HQ。﹃肺
︵15︶ 国くロ房︵=ぴqシさ鳴膏鳴ミ愚ミ簿魯ωbω◎。h°
︵16︶O碧富把NN斜ω﹂謹 ζ皆げβ。巴Oaけ巳Φびトさ鳴駐§N馬§魯、ミ冨怨§ミ壁曽N貯曹の簿帖簿欝§、ミミミ寒、寒§尋ミ恥\
N題軌−N題典Oα件二灘σqΦ昌HO。。♪ω.=∬国く雪ρb爲ミ㌧O°目Pただし、郊外鉄道の建設が行なわれたのは、ようやく一九〇八
︵17︶O舞胃自鼻ω﹂罫 ベトリープスヴオーヌング
年から一九=年にかけてのことであった。きミこP賃9
︵18︶ ただし、ハンブルクはすでに一八九〇年代に完成した労働市場を有していたので、当地の造船業界は、労働者を社 宅
を通して経営に緊縛する必要は認めなかった、とカッタルッツァは指摘している。また、造船所が自由港内に所在し、そこ
では私的住宅を建設することが許されていなかったことも、そうした試みを困難にする一要因となっていたという。きミ
︵19︶ きミヒψ錬﹄㊤勢置メ造船労働者の年令構成や結婚・家族構成については、§罫ω.。。累こ㊤9︿自由な労働者﹀ということ
ばは、一八九〇年のメーデー・ストライキ直前の労働者集会でも発せられている。きミヒω﹂幽ω.なお、炭鉱労働者について
も、若手鉱夫の﹁頻繁な職場移動﹂とその行動性︵ストライキ︶との関連が、山本、前掲論文によって明らかにされている。
84
﹁若手鉱夫が行動力を発揮しえたのも、社会的ネットワークにより、移動と適応が容易となり、自立性が
血縁・地縁、教会・社団、居住関係のネットワークまで、実に多角的な考察が加えられていることが注
大きく寄与していよう﹂とされ︵五三頁︶、移動を支えたそうした﹁社会的ネットワーク﹂として、鉱夫
そこでは、さらに、
高められたことが、
目される。
組のありようから、
一八九三年一月十一日、ハンブルク港のペーターゼン埠頭には朝八時半頃約三百名の失業者が仕事を求めて集ま
っていたが、四二名しか仕事にありつけなかった。あぶれた中の三名の帰り道での会話は、自然、失業のことに向
かっていった。その中の一人、レンガ積み職人にほかの一人の労働者から、夏中一日五マルクも稼いだのに、レン
ガ積みの仕事がない短い期間に埠頭で臨時雇いの仕事を求めるとは、という非難が投げかけられた。これに対して
前者は、激昂しながら、乾いた黒パンを取り出し、これとせいぜいコーヒー一杯が自分の朝食もしくは一日中の食
事なのだ、というのは、一日五マルク稼いでも、六人もいる家族を養い、三六〇マルクもかかる住まいの家賃を払
うのに使ってしまうので、少しも貯えにまわせないのだから、と応じた。もう一人の労働者がここで口をはさみ、
こう言った。︿自分は去年八月までに、︹仕事のない︺冬のために三〇〇マルク貯えたが、流行病︹一八九二年のハ
ンブルクの大コレラ禍︺の時に兄弟が死んだので、葬式の費用をもたなくてはならず、仕事も休まなくてはならな
︵1︶
かった。それに間もなく失業して、三〇〇マルクはじきに使い切ってしまった。﹀
ジユぼダドケロシユトラ セ
一九〇一年十一月十九日、ザンクト・ゲオルク南区の南埠頭通りにあるクリッケルドルフ酒場での、港湾労働
者と思われる五名の労働者の会話のテーマも、失業のことであった。一人が言う。︿今週が、自分に仕事のある最後
の週だ。自分と、あと二人の仕事仲間は、土曜日に解雇される。そして、自分がどこでいつまた仕事にありつける
85
二
かはほんとうに分らないことなのだ。自分はすでに仕事を探しまわったけれど、何か見つけることができなかった。
失業の時期がこれから始まるが、自分がもっているわずかのものでは、せいぜい二、三週間しかもたない。それま
でに仕事が見つからなければ、生きていくための何がしかを手に入れるために、家の中のものを一つ、また一つと
質屋にもっていかなければならない。ひょっとすると、いつかはまたよい時期になって、そうなれば、質入れした
ものをまた請け出すこともできるというものだ。︹⋮⋮︺﹀別の一人がこれに応えて言う。︿悪い時期が来るのは、今、
貿易全体と海運が不振だからだ。近年は非常によい稼ぎがあった。いずれまた悪い時期が来るということは、予想
できることだった。ただ、こんなに悪い時期がこんなに早く来るとは思わなかったが。自分にはまだ仕事があるが、
仕事がさらにもっと減れば、自分にも仕事がなくなるだろう。自分たちのところでは、じつさい何人かが、する仕
事がないので解雇されたが、まだそこで長いこと働いていたわけではない連中だけだった。もっと長いことすでに
そこにいる者は、まだ誰も解雇されていない。本当のところ、雇い主が、自分のところでする仕事がない労働者を
解雇しても、悪く取るわけにはいかない。我が身ほどかわいいものはないし、誰もが自分の金をできる限り手元に
とっておいて無駄使いしないようにしているのだから。﹀ここでまた一人が言った。︿雇い主の中には、自分の労働
者をできるだけ長く雇っておこうとするまともなのもいるし、それとは反対に、労働者に全く情容赦のない態度を
とるのもいる。この連中は、労働者をとことん搾り取ろうとし、労働者がそうさせまいとすると、解雇してしまう。
大失業期には、餓えまいとすればどんな扱いも耐え忍ばなければならない労働者を手に入れることは、彼らにはた
やすいことなのだ。V
︵2︶
港湾労働者の仕事は、一般に不熟練労働で、ある程度の腕っぷしさえあれば、誰にも仕事にありつく可能性はあ
った。そして、いつでも労働力を労働市場にプールしておかなくてはならなかったので、雇い主は、比較的高い日
86
給を出して港湾での仕事を魅力あるものにしておく必要があった。それに、しばしば失業するのでーそれには景
気による仕事量の変動とともに季節的な変動も大きかったー、比較的高い賃金水準もいわばその補償という意味
フエ スト
をもち、従って、年間所得としては高いわけではなかった。その例外は、少数派の常雇いの︿定職の﹀者たちだけ
で、彼らは、ハンブルクの不熟練労働者の中で最も稼ぎのいい人々に属していた。そして、一般に雇用期間が短く
職場もよくかわる、流動性の高い港湾の仕事は、地方からハンブルクに出て来たり、自分の本職で仕事がなくなっ
たりしたあらゆる職種の人々、なかでも農業労働者や建築労働者にとって一番仕事を見つけやすかったので、いつ
も新しい労働力の流入があった。そのため、とくに全般的な失業の時期には、港湾労働者をとりまく状況はとりわ
け厳しいものとなった。
︵3︶
カイアルバイタロ
そうした中で、最も安定していたのは、埠頭労働者の中で大きな部分を占めていた常雇いの労働者であった。埠
頭労働者の仕事は、埠頭で船荷を沖仲仕から受け取り、それを埠頭の貨物集積所に運び、そこで仕分けして積み上
げ、あるいはさらに鉄道の貨車や荷車に積み込むというものであった。埠頭労働者の半数以上は市営の埠頭で働い
に委ねられていた。出来高給労働者の中には、ー一九=年の組合の報告書によるとー、︿仕事仲間を搾取しな
て作業組のく.一織アル虜劉たちの中から選ばれ管理部の承認のもとにそのトップに位置していた︿オ バ アルバイタ 上級組長﹀たち
こととなった。彼らの採用には埠頭管理部があたったが、後者の採用は、出来高給労働者団、ないし、彼らにょっ
た。その結果、作業をできるだけ集約的に進めようとして、同じ作業組に属する後者に対して駆り立て役を演じる
で、彼らは、そのもとで時間給で働く<概脇甥翻剖﹀や︿ゲレーゲンハイツアルバイター臨時労働者﹀とはちがって、出来高給で支払われてい
が大幅に採用されていた。それによれば、埠頭での仕事の核になるのは、常雇いのいわゆる︿出来高給労働者団﹀
アコルトアルバイタリコドル
ていたが、HAPAGなど大海運会社が埠頭を借り受けて自己の経営下におさめた場合にも、前者の労働管理方式
87
ければならない﹀ことを恥辱と感じる者も多かったが、その一方では、補助労働者たちに対し︿意地の悪い、人の
不幸を喜ぶ気持﹀や︿気取った尊大さ﹀を示す者も少なくなかった。補助労働者を二級の労働者とみなし、しばし
ば最もきつい仕事を彼らに押しつけて来る出来高給労働者の︿同僚らしからぬ態度﹀に対する補助労働者の苦情は、
数多くの集会で表明されたところであった。市営・民営の如何を問わず、埠頭労働者をとらえていたこうしたシス
テムは、彼らの間に連帯と集団的自助の動きが発展するのを困難にするものであったが、それは同時に、個々の労
働者には、臨時労働者から、補助労働者、さらに出来高給労働者へという、比較的明瞭な上昇の展望を開くもので
あった。しかし、それには、上級組長の好意をかちえねばならず、前科があってもならず、そして社会民主党や労
︵4︶
働組合の活動家として警察にマークされていれば、こうした上昇は不可能であった。とはいえ、誰もが常雇いにな
ることを望んでいたわけではなかった。一般に、埠頭労働者の場合に限らず、臨時雇いのシステムは、﹁不安定さ﹂
だけではなく、﹁工業的労働リズムの規則性と単調さ﹂、また、その﹁規律﹂からの﹁独立﹂、﹁自律性﹂をも意味し
ていた。そしてとりわけ、まだ結婚していず、かつ仕事をする能力の頂点にある二五∼三五歳の者にとっては、﹁安
定志向﹂よりも、﹁拘束されない存在様式﹂、﹁働かない時間の享受﹂の方が優先されやすかった、と港湾労働者研究
︵5︶
の第一人者ミハエル・グリュットナーは指摘している。
シユバイヒヤロアルバイタ 倉庫業では、倉庫内で貨物を動かしたり、はしけに貨物を積んだりする倉庫労働者が働いていたが、新たに設
立された大倉庫会社が若い流動的な臨時労働者を安い賃金で雇うことに重点をおき、その扱いも荒っぽかっ
ラロガロハウスゲゼルシヤフト
たのに対して、伝統的な倉庫業者は、仕事に慣れたく定職のV倉庫労働者のかなり大きな基幹部分を維持しよう
クヴアルテイ アスロイテ
としていた。従って、こうした中小の倉庫業でも、埠頭経営と同じく、労働者間の対立が強くあらわれたのであっ
た。一八九四年十月十八日付の社会民主党機関紙﹃ハンブルガー・エヒョi﹄に載った組合の一報告には、次のよ
88
うにある。
︿悲しいことに、定職の倉庫労働者は、非常に無関心で、いつも自分のことしか考えていない。そして、毎日ま
ず仕事を探さなくてはならない哀れな仲間のことなど少しも考えることをしない。こうした連中の中には、まさに
︵6︶
あまりに大きなカースト精神が支配しているのだ。﹀
これに対して・港湾労働者の主力で・船荷の積下ろしにあ蓼濤。働の場合は、個々の簿馨薯と密接な結
びつきをもっている︿定職の﹀労働者の場合にも、安定した仕事場があるわけではなかった。一時雇いの労働者と
の違いは、船荷の積下ろしの仕事がある時には、最初に雇い入れられることが確実だということだけであった。小
口扱い貨物の場合、海運業者︵ないし海運仲立業者︶からは荷役請負業者に重量による出来高払いで支払われ、後
者は沖仲仕に日給で支払うことが多かったから、仕事の速度をめぐって後二者の間で争いが多発せざるをえなかっ
た。沖仲仕は約六∼一二名の︿ガング組﹀単位で作業し、組長も組の者と同じく日給で、しかも賃金も同額であった。他
方、大量輸送貨物、とくに穀物とイギリス炭の場合は、伝統的に出来高給が支配的で、穀物沖仲仕及び石炭沖仲仕
は特別のグループを形成していた。集約的で健康に有害な労働・過度の長時間労働とずばぬけた高賃金との結びつ
きがその特徴であったが、消耗するまで働いて高い賃金を稼ぎ、そのあと何日間かたっぷり休みをとるあり方は、
︵7︶
彼らのむしろ好むところとなっていた。
エ艇ア,フユ頭.、︵エーヴァー船操縦手︶であった。彼らは、船舶と、入り組んだ小さな港や張りめぐらされた運河に沿
以上は、いずれも不熟練労働者であったが、港湾関係でほとんど唯一、一定期間の徒弟修業を要求される職種が
って立つ倉庫群との間を、尉“防を長い竿で巧みに操って貨物の運送にあたった。賃金はほかの労働者より特に高
いわけではなく、労働時間は長かった。しかも、一八九〇年代にはいって、はしけを引張る発動機船のシュレッパ
89
iが普及してゆくとともに、体力的には楽になったが、彼らの仕事の大きな特徴であった﹁自由裁量﹂と﹁作業の
ハイツアロ
び曳き船やフェリー船︶の機関士は、数こそ少なかったが重要な位置を占め、︿船長﹀意識、︿経営者の代理﹀意
泊催獅鷺、なわれる.、とに諏誕。他方、火夫葦の経験と幕議を経る.、とを要求されるシ、レ・パ⊥及
クラ ンフユ ラロ
識が強かった。︵なお、埠頭で起重機を動かすクレーン操縦手なども機関士に数えられていた。︶船頭についても、
不熟練労働者たちから自分たちを際立たせようとする意識が指摘されているが、両者間の緊張はそれ程強いもので
はなかった。それは、後者が前者に使われるといったヒエラルキー関係になかったこと、また、賃金も前者の方が
例外なく高いというわけではなかったことなどによるものであつ.旭・
ヴアルテン アウフ デア シユトラロセ
さて、港湾での仕事を゜求める人々は、仕事場や経営事務所を回ったり︵ ウムシヤウ︿見回り﹀︶、もっとしばしば
︿通 り で 待機﹀したりしたが、港湾での仕事の仲介の中心となっていたのは、何といっても︿溜α.灘捌﹀で
あった。荷役請負業者、船頭の親方、あるいは船舶や汽缶の掃除夫の親方といった、大小の︿バヒゼ親方﹀たち、また、
.、うした親方たちの依頼で労働者を雇い入れかつその作業の監督にもあたる︿ヴイーッエ代理﹀たちと・港の酒場の主人とは・
深い仕事上の、さらには血縁的なつながりがあった。そこで、特定の酒場にできるだけ足しげく通い、また金払い
もいい者ほど、仕事にありつくチャンスも大きかった。代理の︿のどをうるおす﹀ことができる者も、有利な立場
に立つことができた。海運業者と港湾労働者の中間的存在たるこうした親方や代理のありようは、前者にとって必
ずしも好ましいものではなかった。ハンブルク海運業者協会はすでに一八八五年、次のような苦情を申し立ててい
る。︿これによって、労働者は酒場によく行き、そこで金を使うことを余儀なくされ、その結果、飲酒癖が憂慮すべ
き程にまで助長されるのである。﹀しかし、こうした事態の是正に彼らが真剣に取り組むようになるのは、ようやく、
天九六/九七年の大港湾ストライキ、そし三九〇五/〇六年の港湾ストライキの波以降のことであつ.撃
90
失業することの多い港湾労働者たちは、職探しのために港湾地域にある前述のような諸々の職業仲介の場にすみ
やかに、かつしばしば行かなくてはならなかったし、港湾での仕事はしばしば夜業があって帰りが鉄道交通のなく
なる後になることが多かったので、できるだけ港に近い住居が求められた。彼らが集中したのは、ハンブルク市の
古くからの核をなす、アルトシュタット︵旧市︶及びノイシュタット︵新市︶1それぞれ南北の二区に分かれて
いるーの︿小路街区﹀や、ザンクト・パウリ区のような港に近い地区であった。当時、小路街区を特徴づけてい
ゲンゲフイアテ ル
たのは、元二、三階建だった住宅が上へ建て増しされ、また、庭や裏庭を犠牲にした裏屋建築が極限まで行なわれ
て、住民の享受する光や空気が少なかったこと、また、家主は一般に、傷んだ屋根や床の修理を怠り、さらに下水
設備も整っていなかったことであった。一八八〇年代に自由港建設のためアルトシュタット南区に属するヴァント
ラーム島の再開発が進められ、多数の港湾労働者とその家族を含む約二万四千名もの人々が退去させられると、残
っている小路街区への殺到はさらに強まり、これら地区の人口密度のいっそうの増大と家賃の高騰をもたらした。
こうした中で、下宿人に部屋を又貸ししたり、ベッドを借りて寝泊りするだけのベッド借用人をおいたりすること
アインロギーラー シユラーフゲンガー
が、家賃高騰に対する労働者家庭の自衛手段としてひろまることとなった。こうしてうちの中が込み合っていた分、
うちの外の小路や露地が小路街区の生活の場として大きな意味をもち、﹁騒音や音楽やけんか﹂がこの地区の風景を
彩ることとなった。
︵10︶
グリュットナーによれば、同じ小路街区でも、港湾労働者の﹁中核﹂をなすーー常雇いを中心とした1人々は、
ノイシュタット南区のシャールマルクト広場付近に住む者が多かった。これに対して、港湾関係その他の臨時雇い
の労働者は、とくにアルトシュタット︵南北両区︶の東部に多く、とりわけ二iデルン通りの両側は、︿危険な階級﹀
アフ
プレツヒヤヨケラロ
エ の中心とみなされ、ここには︿犯罪人の地下酒場﹀として名の通っていた一連の酒場があった。小路街区では、警
91
察は常に敵地の中にあるに等しく、必ず二人一組で動くことになっていた。一八九六/九七年の港湾ストライキの
さい、小路街区の一角に集まっていた労働者の中の一人の沖仲仕が派出所に連行されようとすると、二、三百名の
労働者や婦人、子供たちが︿叫んだりわめいたり﹀しながらつきまとって力ずくで彼を解放する動きを示したとい
うような状況は、小路街区では決してまれなことではなかったという。そして、一八九〇年五月の︿シュタイン通
り騒動﹀︵アルトシュタット東部︶、一八九七年の︿シャールマルクト騒動﹀︵ノイシュタット南区︶では、小路街区
の住民の手でバリケードすら築かれたのであった。小路街区の再開発の問題は、八千名以上の死者を出した一八九
二年の大コレラ禍のさい、小路街区の被害がきわだっていたことから緊急な課題として提起されたが、それが再び
忘却の淵に沈もうとした時、これに新しい、決定的な動因を与えたのは、まさに、一八九六/九七年の大港湾スト
ライキ、とりわけ、その終結後におこったノイシュタット南区での﹁市街戦﹂、すなわち︿シャールマルクト騒動﹀
であった。
︵11V
小路街区の再開発にあたっては、商工業資本は、郊外での労働者用住宅の建設とともに、港に近く家賃も安い労
働者用住宅の建設を望んだが、地主たちは、需要の大きい市内の土地をできるだけ有利に運用しようとした。前者
がハンブルクの市参事会の支持を得ていたのに対し、地主や家主ーその多くは手工業者や小売商人であったー
は、伝統的に市議会で多数を占めていた。後者の側からは、その求める家賃に見合うような賃金を支払うのが使用
︵12︶
者の課題であるという主張もなされ、前者の側から、海運業と造船業を犠牲にして私腹をこやそうとするものとの
反論がなされている。市議会における家主の利益代表の動きに対する不満は、酒場での労働者の会話でもしばしば
きかれるところであったρ家主が住居不足を利用して家賃をできるだけ引き上げようとして来るのに対しては、労
働者もこれに対する唯一の救済策として好況を利用し賃上げをかちとらなくてはならないという会話もかわされて
92
︵13∀
いる︵一九〇〇年一月二十日、ザンクト・ゲオルク北区のオットー酒場で︶。
結局、第一次再開発の対象とされ一九〇一年から再開発が開始されたノイシュタット南区の場合、以前の小路街
区に建設される三七〇〇の住居の内一七〇〇を小住居用に確保するという妥協が成立した。しかし、一九一一年の
市当局の内部文書が確認しているところによれば、以前に住んでいた家族はいずれも、︿低地価︹市が購入した再開
発地の売却価格を掴えた︺にもかかわらず、小住居の家賃があまりに高すぎる﹀ので、そこに再び住居を借りるこ
とをしなかったという。そして、再開発地域に住居を借りることができた熟練工や下級官吏といった人々も、下宿
人やベッド借用人をおくことなしには、高い家賃を払うことは困難であった。こうして、再開発地域ではベッド借
用人をおくことが﹁住居事情の︿道徳的健全化﹀﹂のために禁止されたにもかかわらず、再び隆盛を見ざるをえなか
ったのである。
︵14︶
再開発のための取り壊しに際しては、﹁消極的抵抗﹂が示された。それは単に、遠く不便な郊外に引越すことへの
不満から来るものではなかった。たとえ光がささず、また崩れ落ちそうでも、慣れ親しんだ住居や街を捨てて、バ
ルムベク︵市東北部︶やヴィンターフーデ︵同北部︶といった郊外の新しい労働者街︵︿プロレタリア街区﹀︶の︿愛
ミロツカぜルネ
情もなしに、杓子定規に建てられた﹀安アパートに引越すことには、抵抗を覚えざるをえなかったのである。しか
も、そこには、そうした﹁空間的な帰属感﹂ばかりではなく、小路街区に住む人々の間に育くまれた﹁連帯感﹂、な
いし、﹁緊密なコミュニケーション網﹂の存在も大きく作用していたのであった。それだけに、また、小路街区は、
前述のように、くりかえし、労働争議に際して、ストライキをする人々と住民との連帯が発揮される場ともなった
のである。他方、ハンブルクの社会民主党は、小路街区を︿疫病の巣﹀、︿コレラ流行の土壌﹀として、その再開発
を早くから求めており、同党系の医師の問からは、さらに、労働者家族、とりわけ婦人たちに対する衛生管理のネ
93
ットワークの樹立を求める声すら上げられていた。そして、再開発政策の展開に対しても、地主協会の動きを批判
︵15︶
し、市当局の住宅供給政策の強化を求めるにとどまった。こうして、小路街区の住民の再開発に対する抗議の動き
が同党から何らの支持も得られないまま、小路街区の取り壊しは警察力の援護のもとに進められたのであった。
注
︵2︶ きミ㌧oり9ミh°
︵1︶ 国くきω︵=ぴq°γさ馬も§題魯ミら譜ヒω﹂呉
︵3︶ O急洋器き工さ鴨駐ミミ”Q∩°Hω噂ωO塗
︵5︶きミ㌧QQ﹄叢゜
︵4︶ きミ℃ω.忠塗埠頭管理部は、一八九〇年十一月以降、出来高給労働者団への採用前に警察当局に調査させることを慣例と
していた。また、同管理部が全埠頭施設において︿定職の﹀労働者に対し出来高給制を導入して労働を強化することに成功
したのは、一八九一年、当時の全般的失業の圧力を利用してであった。奪ミ、QD.Hおh
︵7︶きミ㌧ω゜①O塗
︵6︶ 以上、きミこψ認h
︵8︶ 奪ミ㌧ω.$斥℃。。舞義父が海員出身の船頭で︵ただし、冬場は同じ雇い主の経営する皮なめし工場で働いていた︶、自分も
あったのである。﹂幻oげo冨ZΦ鳥α①﹁ヨo︽o﹁い穿魎§ミミ§ミミミ礒゜°⋮°肉§匙§冴きミきミ§ミ蕊嚢鳴蒜寒鳶黛器砺鳴§恥§卜S§℃
二〇世紀の初頭にアルトナでその徒弟修業をしたローベルト・ネッダーマイヤー︵一八八七年生れ︶は、回想録の中で、﹁船
頭は、港湾労働者の﹃精華﹄として通っていた﹂と記している。彼によれば、船頭たちは身なりを整えることにとても気を
配っていたが、それは、多分、﹁仕事上密接な関係をもっていた、︿名誉ある﹀商人身分に自分を合わせようとする努力でも
︵9︶OaけヨΦさ笛さ恥潴§N、曽ω゜ω霞.
しロ①≡只O︶HO。。Pω﹂Oh°”ωα塗−&h°
ベルまでおりてみると、新旧両市区の小路街区にとどまらず、郊外の新開地にもひろがっていたというエヴァンズの指摘は
︵11> O﹁窪ヨΦき臥尋竃冴§タω゜HOの頃∴国くゆ5ωいbミミも戸㎝O。。塗なお、コレラの被害が大きかったのが、個々の通りや街区のレ
二頁。なお、本稿で﹁小路街区﹂と直訳した︿ゲンゲフィアテル﹀は同論文では﹁次倉地区﹂と訳されている。
参照、柿本昭人﹁コレラ排除の構吐準lI一八九二年のハンブルクを例に ﹂﹃西洋史学﹄一四八号︵一九八八年︶、一九∼二
︵10︶ ♂ミ㌧ω﹂O悼自∴沁ミ蕊蹴謎§織勘O籍ミミ馬ミN、ミ§ミ礒N選−N捻9臣三〇昌℃708昏①脚×一く℃b口①﹁=5︵≦、︶おQ。O°また、
94
︵12︶ 奪ミ㌧OP㎝おh∴O﹃痺言雪−冨さ職冴§聖Qo°にOhハンブルクの政治地図の詳細は、国く鋤pρb§導も℃﹂中∴器㊤塗地主.家
重要であろう。き篤罫O℃°お゜。塗
主の政治勢力については、とくに、§猟も戸お塗小路街区とその周辺に手工業者や小売商人も相当数住んでいたことについ
︵13︶ 国く碧ω︵=ゆq°γ§鳴膏§題蛤ミ簿♪ω゜に刈映゜
ては、きミ㌧ロ◆㎝① O﹁痒ヨΦさト臓ぴ竃融ミ曳500﹂8°
︵14︶ 9痒ヨ①き郎さ鳴駐§登ω゜一H朗.︿道徳的健全化﹀という表現のはらむ問題性については、高橋秀寿﹁第一次大戦前ドイツ
の労働者の家族生活 ルールにおける居住・性・権カー﹂﹃立命館文学﹄五〇二号︵一九八七年︶が、﹁﹃市民﹄というフ
ィルターを通して見えた労働者の世界﹂︵八四頁︶の問題としてこれをとらえ、労働者の世界に向けられた﹁社会的・文化的
﹃視線﹄﹂とその﹁制度化﹂︵六五、六七頁︶の問題を提起していることが注目される。なお、第二次再開発の対象とされたア
ルトシュタット東部地区については、旧小路街区を突っ切って市庁舎・株式取引所と中央駅とを結ぶメンケベルク通り周辺
の取壊しが一九〇八年に行なわれ、この通りは、道幅が広く人通りの多い、﹁シティー﹂の動脈となった。しかし、この地区
全体の再開発は、第一次大戦前には完了せず、結局一九三〇年代までかかっている。これら両地区の再開発が進むとともに、噛
ハンブルクの労働者の最下層部の新しい集結地区となったのは、ノイシュタット北部の小路街区であった。ここは、元は熟
練工の比率が高かった所であったが、ヴァイマル時代には﹁政治的急進化、犯罪、売春﹂で名をはせ、その再開発は、第三
︵以下次号︶
化﹂があとづけられている。
︵15V 9葺99︾\富謎§、♪ω﹂b。O塗一国く雪ω−b§ミも℃°㎝OP呂Hh柿本﹁コレラ排除の構造﹂、二三∼三〇頁。同論文では、主
として﹃ハンブルガー・エヒョー﹄に拠りつつ、コレラ流行時の社会民主主義者の﹁﹃警察官﹄的なまなざし﹂とその﹁警察
て横暴な態度に出ていることが弾該されている。国く鋤昌ω︵国oq.︶りさ鳴骨鳴餐ミらぎーω.謡h
い立てられた労働者が移り住んだのは、小路街区ばかりではなかった。たとえば、一九〇二年一月三日、ハンブルク東南郊
のビルヴェルダー・アウスシュラーク区のムーロ酒場での会話では、そうした人々がこの区のエルベ川にごく近いローテン
ブルクスオルト地区に、そこが︿仕事場に行くのに最も便利なところにある﹀ので多数流れ込み、家主たちがこれを利用し
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