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﹃絵画の東方

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﹃絵画の東方
「受賞のことば:第13回(2000年度)一般部門」
『人間としてあること:和辻哲郎文化賞20年記念誌』姫路文学館、2009年9月1日、126-127頁
稲賀
繁美
著
『絵画の東方
日
名古屋大学出版会
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賀エ
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日本の哲学者が戦前に多く滞在したハイデルベルクで、二ヶ月ほど講義をした。その内容の一部が今回、 受賞
単刊書として欧米語でまとめられていないことに、自分の限界を感じている。
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の研究者の仕事が列島を越えて、世界で評価されることも大切だろう。その点、今回の受賞対象となった仕事を
の研究者の仕事が列島を越えて、世界で評価されることも大切だろう。その点、今回の受賞対象となった仕事を
単刊受
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米語でまとめられていないことに、自分の限界を感じている。
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賀繁
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専攻は文化交渉史、美術思想史。東京大学大学院比軟文学比較文化課程単位取得退学。パリ第七大学博士課程修了。新課程文学博士。
国際日本文化研究センター助教授(受賞時)。現在は国際日本文化研究センター教授。著書は、﹃絵画の黄昏﹄(サントリー学芸員・
倫雅賞・渋津ク口 lデル賞)、編著に、﹃異文化理解の倫理にむけて﹄、﹃伝統工墓再考・京のうちそと﹄、執筆分担著に、﹃比較文学比
-受賞較
の文
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4ば 東西の思想闘争﹄、﹃異文化への視線﹄、他がある。
、
著書 は 『絵画の黄昏』(サントリー学芸員・
国際日本文化研究センター助教授(受賞時)。現在は国際日本文化研究センター教授
倫雅賞・渋津ク口|デル貰) 、編 著に 『異文化理解の倫理にむけて』『伝統工塾再考・京のうちそと』、執筆分担著に、『比較文学比
。
専攻は文一
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課程単位取得退学。パリ第七大学博士課程修了
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古
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版化会
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稲賀繁美いながしげみ昭和三二年(一九五七)生まれ。東京都出身。
オリエンタリズムからジャポニスムヘ﹄
刊
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1
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一般部門
第1
13
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第
3回
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美術の手ほどきをしたのである。李叔同は上野で絵画だけではなく音楽も習った。戦時中に死んだが、晩年は出
家して弘一法師の名で知られている。
1
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1
2
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八年前、中国の文人で画人でもある鴻嬢才氏から、日中合作の映画を作るなら、主人公は弘一法師だという話
手ほどきをしたのである。李叔同は上野で絵画だけではなく音楽も習った。戦時中に死んだが、晩年は出
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八年前、中国の文人で画人でもある鴻嘆才氏から、日中合作の映画を作るなら、主人公は弘一法師だという話
をきいた。
が、もっと大胆に自分の説を語ってもよかったのではないか。稲賀氏の歌うアリアを聞きたかったと思う。
断的、あるいは独創的な意見がほしかったように思う。稲賀氏は自分の考えを引用文の羅列によって表している
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。じられるのは、稲賀氏の驚くべき勉強ぷりである。浮世絵がどのようにヨーロッパに
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学術論文としては申し分ない、とわたしも判断した。近年これほどきめこまかな論文はめったにない。
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然ね
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じせ
伏る
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よな
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な木
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木事
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書を
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読む
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ため
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木木
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作賞
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すて
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課と
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委決
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たた
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1
2
9
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一般部門
第 13回 (2000年度)
和辻哲郎〔わつじ
和辻哲郎〔わつじ
てつろう 明治22年 (1889) r-..-昭和 35年 (1960))
明治2
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1
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9
) ~昭和 35年 (1960))
てつろう
和辻哲郎が確立した「人と人との間柄」を中心概念とする東洋的な倫理
和辻哲郎が確立した「人と人との間柄」を中心概念とする東洋的な倫理
学(~人間の学としての倫理学J) や「風土」を人間精神の自己了解ととら
学 C~人間の学としての倫理学J) や「風土」を人間精神の自己了解ととら
えた比較文化論(~風土J) は、日本文化を思索するための古典的業績となっ
えた比較文化論
ている。
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風土 J
) は、日本文化を思索するための古典的業績となっ
ている O
和辻の学的軌跡は、 30代後半の欧州留学を境に大きく転換すると言え、
和辻の学的軌跡は、 3
0代後半の欧州留学を境に大きく転換すると言え、
それまでは今日なお人気が高い『古寺巡礼』に代表される日本文化史の探
それまでは今日なお人気が高い『古寺巡礼」に代表される日本文化史の探
究、実存哲学や仏教哲学の研究など、強靭な思弁と鋭い直感力に支えられ
究、実存哲学や仏教哲学の研究など、強靭な思弁と鋭い直感力に支えられ
た独創的な作品を次々に著した。帰国後の和辻は、 20年以上を費やして自
0年以上を費やして自
た独創的な作品を次々に著した。帰国後の和辻は、 2
らの倫理学大系を構築し、日本倫理思想史研究を完結させた。
らの倫理学大系を構築し、日本倫理思想史研究を完結させた。
和辻哲郎は、姫路市内を市川沿いに北上した仁豊野の村医者の家に生ま
和辻哲郎は、姫路市内を市川沿いに北上した仁豊野の村医者の家に生ま
れた。晩年の著作「自叙伝の試み』には、播磨の農村の移り変わりや姫路
れた。晩年の著作「自叙伝の試み』には、播磨の農村の移り変わりや姫路
中学校(現在の姫路西高等学校)の教育風景などが、和辻の家系の歴史と
中学校(現在の姫路西高等学校)の教育風景などが、和辻の家系の歴史と
和辻自身の精神成長とともに生き生きと記されている。
和辻自身の精神成長とともに生き生きと記されている。
姫路文学館の和辻哲郎・展示コーナーでは、和辻の自筆原稿、書簡、初
姫路文学館の和辻哲郎・展示コーナーでは、和辻の自筆原稿、書簡、初
版本、愛用品などの文学資料を常時見ることができる O
版本、愛用品などの文学資料を常時見ることができる O
人間としてあること
人間としてあること
裏表紙図版・和辻哲郎「面とペルソナ」
原
稿
平成 21年 (2009)
9 月 1 日発行
平成 2
1年 (
2
0
0
9
) 9月 1日発行
編集・発行姫路文学館
編集・発行姫路文学館
干 670-0021
〒6
7
0
0
0
2
1
兵庫県姫路市山野井町84番地
兵庫県姫路市山野井町8
4番地
電話 079-293-8228
FAX0
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裏表紙図版・和辻哲郎﹁面とペルソナ﹂
原
稿
-和辻哲郎文化賞 20年記念誌-
一和辻哲郎文化賞 2
0年 記 念 誌 -
刷
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株式会社ティー・エム・ピー
株式会社ティー・エム・ピー
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