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近 世 私塾 の 史 的 考 察 - 横浜国立大学教育人間科学部紀要

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近 世 私塾 の 史 的 考 察 - 横浜国立大学教育人間科学部紀要
1
近世私塾の史的考察
---一元禄一事保期の私塾を中心として木
鈴
雄
博
吹
序
(1)全体的概観
論文の意図と構成
(-)儒学再興期の私塾
(2)掘川塾と護国塾
(二)儒学興隆期の私塾
(3)綜合的考察
序
論文の意図と構成
周知のように,近世文化の形成・発展に尽した漢学塾や蘭学塾などの私塾の意義はきわ
めて大きいが,近世教育史上からは,私塾は,封建制皮下における私立教育機関としで,
封建権力によって設立維持されていた官学たる幕府の学問所や諸藩校に相対立する性格
を持ち,独白の教育方法と自由な学風によって,大きな教育的影響力を与えたものであつ
た。しかるに,従来の私塾の研究は,その塾の指導者たる漢学者(あるいは洋学者,国学
者)の伝記的研究の一環として副次的になされたものが多く,近世私塾の発達の過程を全体
的に考察するという教育史の観点からの研究は乏しかった。しかも近年近世教育史の分野
では,藩学校や寺子屋に関する研究が新らしい展開を見せ始めているだ桝こ,この私塾の
綜合的研究が望まれている訳である。
この小論文は,かかる課題を負うて,つぎの二点を考察の視点としたものである。すな
わち,その-一つは,私塾の教育を,当時の同程度の教育棟関であり,且つ官学たる性格を
有していた点で対照的である藩学校の教育との比較,関連において考察せんとしたことで
あり,他の一つは,私塾教育と社会との関連を考察して,私塾の社会的背景を明らか古ぞせ
んとするものである。この二つの視点に基づいて特に考察せんとする分析視角は,つぎの
諸点である。
(1)封建権力に対する結びつきの差異
(2)入学者や卒業者の社会階層の差異
(3)両者の教育方針,教育内容,教育方法上の差異
すなわち,藩校は,藩士を対象として,それに治者階級としての教養を与え,忠孝を主
とする封建的イデオロギー教化の意図をもって設立され.さらに近世中期よりの封建体制
崩壊の危機に際しては,それを克服するための藩政改革の主要な一環として,封建権力の
教育的要求を如実に反映した教育内容を打ち出して来たものであった.これに対して,臥
塾は,封建権力の支寵を直接受けることのない比較的自由な立場にあって,学問研究と育
英の業をなし得たのであり,このゆえに,封建的幕藩体制の枠を越えた場においてその
2
鈴
・木
博
雄
特色がもつともよく発揮されたのである。また,その対象も,武士階級のみならず,商
人,農民,僧胤医師な■ど国民的な拡がりをもっており,しかも,こうした民衆の教育的
要求が主体となっているのである。また,同じく民衆の教育的要求によって支えられた寺
子屋の教育が,読書算を主とした初歩的段階のもので,生酒に直接必要であるという自然
的要求に基づいているのに対して,私塾の教育は,より高度の教育内容を持ち,同時に学
問研究の任務をも併せて持っている点に大きな差異があるのである。
近世私塾の研究に当って,その方法としては,私塾の発達を時期毎に区分し,その特質
を考察する方法と,儒・洋・国学などの学問別や朱子学派・陽明学派・古学派・折衷学派
などの学派別に区分して,その特質を考察する方法があり,従来は,特に後者の方法に拠
った場合が多くあった。しかし,私塾の発達を全体的に把えるためには,この両者の方法
を綜合的に採用することが望ましく考えられる。そこで,この論文では,この方法論によ
って,私塾の発達をその時代的特質において考察しながら,その時代における学問や学派
の盛衰消長に応じて,その時代の代表的私塾を二,三選出して事例的に研究して行く方法
を試みることにした。まず,近世私塾の発達史の全体をつぎのように時期区分し,その各
時期の侍色を示す代表的な私塾を二,三とりあげて事例的に考察することにした。
;年
間
特
代表的私塾(創設者)
啓蒙的教育才.T,・動を主 講習堂(松永尺五),藤樹こL,iyi:醍(中
江藤樹),闇嘉塾(LIJ崎闇斎),雑
とする
塾(木下J旧庵)
儒学再興期の私塾.寛永期-貞享期
l
l
儒学興隆期の私塾
質
元稀期一事保期
学問研究と人材育成
を主とする
l
儒学普及期の私塾;元文期--天明斯
l
人間教育と実学的教
育を主とする
嘩鳴館(細井平洲)
梅園塾(三浦梅園)
全人教育と道徳的実
成宜園(広瀬淡窓)
l
践を主とする
廉
儒学衰退卯)私塾;寛政期一文政期
、- ・・
・
■
社会改造や科学研究
諸学分立期の私塾:天保期一座応期
を主とする
塾(菅茶山)
泊園書院(藤沢東岐),松下村塾
i (吉田松陰),緒方塾(緒方洪庵)
この小論文は上の時期区分からは第二期に相当する儒学興隆期の私塾について考察せん
とするものであるが,それに先立って,儒学再興期の私塾の発達をその前史として概観
し,ついで本論では,まず儒学興隆期の私塾に関しての一般的考察をなし,つぎにその代
表的私塾である蒙園塾と堀川塾について個別にその特質を考察し,最後にこの二者の比較
対照をなして,この期の私塾の特質を明らかにせんとしたのである。
(-)儒学再興期の私塾
元禄期-享保期にかけて興隆を見た近世の私塾にも,その前史があった。それは,近世
初頭における儒学の興起と相即するものであり,しかも,その存在形態が儒学の存在形態
に大きな影響を与えたものである。この小節では,元禄期-享保期の私塾の特質を明らか
にするに必要な範囲において近世初頭の私塾について概観する.1
3
近世私塾の史的考察
言うまでもなく,近世封建制の特質は,中世のそれと異なって,兵員の分離,すなわ
大多数の武士の農村からの分離,西洋式城廓を中心とする城下町の形成と家臣団の移
封建的家臣団の階層的な身分秩序の編成などを通じて中世的な土豪的土地所有を排除
して,巨大な館主的-大名的土地所有を確立した点にあった。これに伴なって,その支配
関係も,中世の幕府-守護・諸侯-土豪-家の子・郎党という関係に代って,幕府-諸侯
-家臣団の関係となったのである。家臣団は,自己の知行地を離れて城下町に移住せしめ
られ,領主の俸禄の給付を受けて生活することになり,館主に対する関係も,もほや土豪
が守護に対するがごとき半独立性を有せず,社会的・経済的にも全く従属的な関係になつ
て来たのである。
こうした近世封建制の階層的身分構成は,恰も儒教の理想とする中国周代の封建制度に
おける天子-諸侯-卿大夫-士-庶民という階級構成と顕似する一面を持っていたために,
ここから近世封建制下の社会関係を基礎づけるイデオロギーとして儒学が注目されたので
ある。
別註)雨森芳洲が,孟子の言に基づいて,
「人に四等あり。日く士農工商。土以上は心を労し,農
以下は力を労す。心を労する者は上に在り。力を労する者は下に在り。心を労する老は心広く志大に
し,て慮還し.鼻以下は力を労して自ら保つのみo転倒すれは則ち天下小にしては不平,大にしては乱
(『橘窓茶話』上)1)と述べているのをも儒学が近世封建体制の身分秩序を正当化している一例証で
る」
ある。
このような近世封建制下における,儒学受容の社会的条件の成熟とともに,儒学自体の
内的条件も次第に成熟するに至った。すなわち,中世以来,公家社会において特権的権犀
を保持して来た漠唐訓話の学は,その内容の空虚性が批判されるに至り2',これに代って
道統の伝を高唱し,窮行実践を重んずる朱子学が藤原怪窟,林羅山らによって体系化され
るに至ったのである。しかも,
「馬上をもて天下を得た」徳川家康が,天下を「馬上をも
て治むべからざるの道理」3'を知って,儒学を治政に応用する態度を示し,林羅山を重用し,
また儒苦を刊行するなど儒学の保護普及に尽したことによって,ここに朱子学ほ修身斉家
治国平天下の道を説く新らしい封建教学の位置を占めることとなったのである。これに伴
って,藤原怪寓,林羅山,谷時中,松永尺五,掘正意,部波道円,永田書斎,江村専斎ら
が儒者という近世的知識階級を形成して,新時代の啓蒙的思想家として活躍した。このよ
うに近世儒学の興起は,儒学が,特権階級の専有物であった中世的な束縛や特権を打破し
て,封建教学として,公開的な性格を持つようになったことに由るところが大きいのであ
る。
そして,林羅山が,家康より家綱に至る四代の将軍に歴任して,
朝儀を起して律令を定む。大府須ふる所の文書,其の手を経ぎる老なし」
「大いに寵用せられ,
(原漢文)4)とい
われるように,その学識を重用されたのをはじめとして,当時の儒者は,いずれもその学
識のゆえに将軍や諸侯から厚く過されたのである。
別註)羅山の外に諸侯の賓師として迎えられた著名な儒者を挙げるとつぎのようである。
掘
正恵(尾張尻元卸期),郡波道円(紀伊尿,寛永11く年),永田書斎(紀州侯,。寛永年圃),
4
鈴
人見卜幽(水戸鼠
沢蕃山(備前‡気
木
寛永8年),江村専斎(肥後鳳
博
雄
寛永年問),山崎繭斎(会津侯,寛文5年),熊
寛永11年,正保2年),木下順庵(加駕侯,寛文5年)
これらの儒者の厚遇は,彼らの文筆の能力が,寺社行政,外交文吉の解読・作成,法案
の起草などに必要であったからであるが,同時に当時の戦国武士の武偏的武士像を改革し
て,新らしい文武兼備の近世武士像を教化することを期待したものであった。すなわち当
時は,元和僧武の後も,戦国の遺風が残存していて,尚武の気風が尊重され,
「儒者,敬
学老などは,大名役の御徒妓のみなるべし,とはゝかりなげにい」5)う武士や「学問とは何
事ぞ,講釈とは如何のものよと悪口」6)した武勇一遍の武士たちが,当時の一般的な武士の
姿であり,それは林鷲峰をして,
「当時の武臣,文字を知る者無し」7)と嘆ぜしめたもので
もあった.しかも,戦乱が終電し,平和が社会の基調となるや,かかる武勇一遍の武士た
ちは,自己の存在価値が次第に喪失して行く社会情勢に強い不満を持つに至り,そこか
ら,世上の風俗が乱れ,社会の動格が絶えなかったのである。こうした情勢下にあって,
涛主たちは,儒学の振興によって武士階級の動揺を抑え,新らしい武士像の教化を意図し
た。
「武芸は武家の常なれば勧めずとても諸士みなたしなむべきことなり,学問をば多く
は人の好まざる事に供へば,
・・・・学文の義,世話にする也」8)という徳川光!習の学問振興に
関する意見こそ,そのまま,当時の学問振興に尽力した藩主たちの意見でもあった。近世
初頭に見られる藩校設立の風潮は,こうした藩主の教化政策の反映であり,名古屋藩明倫
堂(藩祖義直時代創立),盛岡藩作人舘(寛永13年創立),岡山藩花員数場(寛永18年),
桑名藩立教舘(寛永年問),会津藩日新絹(寛永年問)などに代表される近世初頭の藩校の
柑質は,こうした社会教化的役割を強く担ったものであったo
したがって,その多くは,
士庶の別なく入学せしめて,人倫・道徳について啓蒙的講釈を聴聞させるという形態のも
ので,その対象も青少年よりも成年層に重きを置いたものであった。
以上のように,近世儒学は,学識と教化とによって封建権力に奉仕する封建教学たるの
地位を占めることとなり,これによって,儒学の任務が政治的となり,
1FL・俗的権威をも保
有するに至ったのである。しかし,儒学の世俗的隆盛とともに,逆にその内的生命は枯渇
し,学問的理論的発展は停滞して,全く封建権力の侍稗の座に安んずるに至るのであるo
この風潮は羅山の功績によって官学的地位を専断した林家の学問においてもつとも願著で
あったo一方,これらの風潮に抗して,封建権力と結びつくことなく,市井の儒者とし七
学問研究と育英の業につとめたものもあった。松永尺五とその学流,山崎闇斎を始めとす
る崎門学派,中江藤樹とその学流などがその代表的な例である。
このようにして,近世儒学は,その興起した近世初頭に,早くも,政治権力に対する姿
勢において,大きく分裂したのである。そして,この不幸な分裂はそのまま近世教育史の
上に大きな影響をおよぼすに至る。すなわち,体制を擁護する側の官学的教育(幕府・講
藩の学校で行なわれた)と体制を批判する側の私学的教育(私塾で行なわれた)との二つ
の対照的な教育が平行的に行なわれるに至ったのも,この分裂に帰因することが大きいの
である。.
'以上は,近世初頭の儒学興起の大勢であるが,この期の私塾の趨勢も,
′この大勢を反映
5
近世私塾の史的考察
したものであった.つぎにこの期の私塾の大勢を概観して見よう。
藤原慢窟は,歌道の名門冷泉家の出身で,近世儒学の祖となった人である。彼の学問は
羅山の記した「慢窟問答」や「杏陰稿」などによって窺うことが出来るが,その所説ほ,
宇宙論,理気論,心性論などにおいて,大体宋儒の所説の紹介の範囲を出なかった。また
羅山のごとく朱子専一の態度をとらず,陽明学や仏老思想に対しても理解を示した綜合的
な態度を持していた。しかも,彼の生きた戦国末期の文学荒廃の時代は,彼を学究的思想
家としてよりも,文学復興のための啓蒙思想家として,あるいは実際的教育者として要求
したのは当然であり,
「憧窟先生文集」を通して見る彼の活動の多くは,こうした要求に
沿うたものであった。秀和堰武の後は,まず京都を中心にして文芸復興の気運が茄し始軌
歌学の細川幽斎,松永貞徳,絵画の狩野探幽,俵屋宗達,工芸の本阿弥光悦らが輩出した
が,学問の分野では,怪窟がその中心であって,いずれも相互に探しノ、交渉を持ちながら,
文芸復興の啓蒙運動をもりあげて行ったのである。羅山や貞徳などが参加した会開の古典
講義なども,こうした啓蒙運動の一つと解することが出来よう。こうした怪窟の実際教育
家としての活躍によって,赤松広通,細川三斎,浅野釆女らの大名で彼に師事する老が多
くなり,またその門下からは,林羅山,松永尺五,郡波括所,掘杏庵,菅得庵,三宅寄斎,
石川丈山,永田書斎,林東舟,吉田素庵らが輩出している。恒窟は,家康の知遇を受けた
が,敢てその招聴を辞し,他の権門勢家にも禄任せず,終身市井の-儒生として過した。
その教育は,門下生が彼の許に行って個々に指導を仰ぐというもので,未だ私塾としての
形態を十分に具備したものではなかった。
林羅山は,恒常の学を継承して近世儒学を朱子学の方向に完成した。彼は13才にして
建仁寺に入山し,その学才は衆僧の等しく認めるところとなり,他日を属望されて出家を
奨められたが肯ぜず,五山を去って自宅に帰り,なお読書研学を続けた。父が富裕な商人
であったから,その財力によって,長崎新渡の漢籍を自由に集めることが出来たことと,
五山の永堆和尚に引続き教えを受けることが出来たことなどによって彼の学は急速に深化
して行った。羅山は,建仁寺で,五山の僧が好んだ唐宋の詩文を学び,下山後は,三史文
17才のとき,これらの群書の根本となっている五経を学ぶ必要
選を主として読んだが,
を痛感するに至った。たまたま翌年,朱子の「四書集註」を読む機縁を得,これに心服し
て朱子学を提唱するに至ったのである。かくて,羅山は,すでに慶長年間,京師において
朱註を講じたが, 「聴衆四方より集まりて門前市をなす」盛況を見たといわれている。こ
の講義についてほ,彼は,
「初余,論語何畳集解,皇侃疏を見て,`17,
18才の頃より,は
じめて朱子集註をよみ,大全をかんがへ,程子通告,性理大全をもうかがひて,朋友のた
めに,集注の趣あらあらとききかせたり。時21才也」9)と述べて「朋友のた桝こ」講じた
とあるが,′ この点について,松永貞徳は,
「其比,今の道春法印(羅山を指す。筆者註)い
まだ林叉三郎信捗とて若年なりしが,梧古のため新註の四書を講談つかまつりて見ばやと
申されしまゝ,いとよろしかるべき事なりと申侍し。遠藤宗務法橋は太平記講談せらる。
其比,儒学,医学の若き人々,丸にも這つれづれ革をよみてきかせよと所望せられしかど
ち,ふかくいなみて過し侍りしに,信勝の父,叔父また宗務の祖父など,若きものどもば
6
鈴
木
博
雄
かり講尺つかまつればなにとやらん心もとなきまゝ,是非御読なされてたべと,みづから
が隔.なきを友垣をかたらひそゝのかされしゆへ,是非に及ばずしてよみ侍し」10'と述べて
おり,これによると,京都に芽生えていた文化人たちの啓蒙的な公開講義の性格をもった
ものであったと考えられる。しかも,それは羅山の18才頃より
21才頃までは継続的に
行なわれたものであったらしく,したがって,その社会教育的影響は甚大なものであつ
た。
いうまでもなく,当時の儒学は,中世以来,清原家が漠唐訓話の学を家学として,その
伝統と権威によって元締的地位を独占して来たのであり,その家学の教授には,中世以来
の「-器の水を-器に移す」がごとき厳重な一子相伝の秘伝主義を採って来たのであるか
ら,羅山らが,清原家の膝下で,その権威を無視するように,新注による朱子学講義を,
しかも公開講義の形で堂々となしたという点は,当然大きな社会問題とならざるを得なか
ったのである。果して,清原秀賢は,羅山らの公開講義をとりあげて,
「我朝いにし-よ
・9経学を講ずるは。勅許なくしてはつかふまつらぎる事なり。しかるに道春私に闇巷に講
惟を下し,且漢唐の注疏に遵はず。宋儒の新説を用ゆる事。その罪かろからざるよし」川
をいい立てて,公開・講義の禁止を朝廷に訴え出たのである。この秀賢の主張では,
(1)経
学を講ずること自体,勅許が必要であるとして,勅許を持つ清原家の講学の特権を主張し
た点, (2)漠唐の注疏に遵はず,宋儒の新説を用いた点の二点がその骨子であった。ここ
において,市井の文化人の問から起った公開講義という啓蒙的活動が,中世の学問の特権
的貴族的傾向と真正面から対決することとなったのである。そして,これらの中世的傾向
を打破して,学問を公開的民衆的方向に指示することが出来るた糾こは,朝廷の権威を笠
にきる清原家に対立する新らしい近世的な権力者の支持が必要であったのであり,その賃
柊を持ってあらわれたのが,徳川家康であったのである。すなわち,秀賢の訴えに対し
て,朝廷での廟議は決せず,結局,将軍の意向を打診することになったが,家康は,これ
に対して「聖人の道は,即ち人の学ばずしてかなはぎる道なり。古注新注ほ各其好に応じ
て。博く世上に教諭すべき事なり。これをさ-ぎりさゝへむとするは。全く秀賢が偏狭心
より靖忌するものなり。尤拙胆といふべし」12)という意見を示したので,遂にその訴えは
却下されたのである。この事件は,近世儒学が伝統的な漠唐訓話の学を継承するのか,それ
とも程朱の新注による道統の学を展開するのかという儒学の本質に関係する問題であると
ともに,儒学が,朝廷や五山の寺院のような特権的閉鎖的な世界で趣味的に行なわれるの
か,それとも「開巻」に出てすべての人々に公開的にして,世の教学としての性格を持つ
に至るかという儒学の存在形態に関係する問題でもあった。そして,家康の裁断も古注新
注の可否という学の本質の問題には触れずに,この存在形態について注目して,従来の公
家らの保有していた特権的資格を否定して,
「博く世上に教諭すべきこと」13)を示したので
ある。これによって,近世儒学が,漸く中世的な閉鎮的束縛を脱して公開的性格を有する
ことになり,この儒学の公開的性格こそ,近世私塾の発達を促す大きな横枠となったもの
である。しかし,羅山を中心とした公開講義は,彼が家康の召しに応じて幕政に参与する
ことになったため,遂に数年で終電し,羅山もまた本格的な私塾を開いて教育情動をなす
近世私塾
7
の史的考察
には至らなかったのである。
こうした慢窟・羅山らによって始められた儒学の啓蒙的活動は,松永尺五によって継承
されて,始めて私塾を設立し,広汎な教育活動を展開するに至ったのである。松永尺五
(1592年-1657年)は,歌学老松永貞徳の子として生れ,貞徳によって,慢窟の下に学ば
しめられ,同門の羅山にも兄事した。父貞徳は,当時京都における有数の文化人であり,
かつ公開講義に参加したり,自ら私塾を開いて童幼を教授するなど14)啓蒙的活動にも積極
的であった。貞徳が私塾を開いたのは,
「あるおさあひ子によみ物ををしへしを,妙寿院
慢斎(憧窟を指す。筆者註)見給ひて丸に異見せらる」15)とあるところから,すでに慢窟の
穀年である元和5年以前からであることが推定され,その塾は,新井白石の「退私銀稿」
(木下順庵を指す。筆者註)某弱冠なりし時にほ,書の句読などを教ふる人
に,「-,先生日,
世に伝はらず。師貞徳の京都にて手習事を教へて,素読と云事をも教えられしに,故学士
(伊藤仁斎を指す。筆者註),林子兄弟(羅山の三男春斎,四男守勝か。筆者註)某なども習
6才より是に付て貞徳に親近し侍し。
ひ侍し。某も5,
7歳の比,眼を患ひて8歳より文
学び侍しなり」16)とあるから,順庵や仁斎の生年より推定して寛永9年頃までの10有余
年の長い間,京都における初等教育機関として貴歪な働きをなして来たことが窺われるの
であり,そして,その塾より,伊藤仁斎,木下順庵,林春粛,林守勝らの著名の儒者を輩
出せしめたことは,興味あることといわねばならないのである。この私塾に学んだもの
は,林家の子息,伊藤仁斎,野間三竹(儒医),徳倉昌堅(儒医),安原貞室(俳人),山本
西武(歌学者)らのように,多くは京都およびその周辺の富商の子弟であって,公家階級
や武士階級の人士の入っていない平民的なものであった点は注目されるべきである。その
教育内容は,手習と素読を主とし,歌学の基礎的なことも含まれていた。貞徳は,自ら
「貞徳文集」を編んで,これを手習,素喜嵐
の一種で上下2冊,
歌道のテキストに使用した。同書は,往来物
174盲七十四の文例を収め,その内容は,和歌,連歌,俳譜,茶道,
香道,書画,刀叙,書籍,馬具,武具,莱,飲食,遊山,吉凶の暦道,陰陽道の広汎なも
ので,
「処訓往来」に模して12ケ月の書簡の体裁をとっている。これを見ても,貞徳の初
等教育に対する熱意が察せられるのである。貞徳は,さらに老後の理想として,田園学舎の
創設を夢見ていたようで,
「閑静な郊外に広い土地を得て隠棲し,そこに寄宿舎を建て,
遠方より遊学の少年子弟に宿舎の便を与-,桃や柿の果樹を植えて,その実を子供たちに
食べさせたい」という意味の希望をもらしており,柿園という別宅を得て,この希望も半
ば実現しかけたのであるが,彼の死によって中絶したのである。
尺五は,こうした父の下で薫陶を受仇
8才の時から慢窟の門に入ったのである17)o藤
「恒常公其少年の誠実簡黙にして必らず儒者の名を成さん事を知りて先生
門にあっては,
に授与するに自ら着る所の深衣を以てす」18'(原漢文)と述べられているように,尺五は,
藤門の林松二子と称されるほどに学業が進んだのである。
慶長9年,
13才の時,大阪城中で豊臣秀板に「書経」を講じたと伝えられている-し,
さらにその後も,
16才, 19才の時にも城中に招聴されているほど,尺五の学業は早くか
ら認められていたのである。しかも,尺五は,城中からの再三の禄仕の勧めを固辞して,
8
この頃より,
鈴
木
博
雄
「貞徳翁と同じく三条坊に在って日に経伝を講説する」19'(原漢文)ようにな
り,ここに彼の教育者としての暗躍が開始されるのである。この頃は,三条の私宅で教授
していたが,
「履しばしば戸外に溢る」20'(原漢文)ほどの盛況であり,遂に尺五が30才を
過ぎた頃より,場所の狭随を感ずるようになり,そのたzb,五条に一厘を設けてそこで教
授するようになった。この別宅は,全く講説のために設けられた学舎であって,ここに私
塾としての本格的形態があらわれて来たということが出来るのである0
尺五の学名の挙るとともに,諸侯からの招聴が多くあったが,尺五は,慢窟の衣鉢を継
承して,白ら市井の教育者として私塾の経営に当ることを以て自己の責務と考えて動かな
A'ゝつた。五条の学舎も設立後五年を経て早くも狭陸を感ずるようになり,且つ地理的にも
不便であったので,西洞院二条南に学舎を建て,春秋館と名付けて,ここで講説につとめ
ることになったのである。この春秋舘の教育は,
10余年問続き,寛永14年の春には,尺
五を敬慕していた京都所司代板倉孟宗が父勝重の地である二条城の東,掘]l'fの辺を尺五に
贈り,学舘は講習堂と命名され,京都の学術の中心となったのである。年すでに49才,尺
五を学術のもつとも旺んな時代である。学舘の規模は,東西18問,南北30間の広大な
もので,創設の翌年には,後水尾天皇より「講習堂」の虞筆を賜わったのである。ここに
おいて,尺五の私塾は,単なる一家塾に留るものではなく,京都における典型的教育棟閑
として,半ば公的性格を備えるに至ったのである。この傾向は,慶安元年,尺五が57才
の時,後光明院より「数十弓之鞄を禁閲の南に賜」21'わり,所司代板倉氏の協力で尺五堂22,
を建設したことによって,さらに明らかになった。そのた軌
この尺五堂の建設の目的に
ついては,「里子皇孫に道を聞かしむ」23'という説や「王子皇孫官家武弁ノ学文ノ為メニ」24,
に設けられたという説もあるほどである。しかし,この講堂は後に尺五の遺産として長子
昌易に譲られているし,尺五,丈山らの賀詩にも皇族らの学問所という意味の語は見えな
いから,やはり,尺五堂は,
-一般教育の学舎として尺五に下賜されたものと考えるべきで
あろう.ただ尺五の賀詩の中にも,
「括紳武弁,貧家二入ル」
(原漢文)という一句がある
ように,すでにこの頃の尺五の私塾は,父貞徳が平民階級のためになしていた初等教育の
塾とほかなり違っていて,京都における最大の高等教育横関となっていた訳であるから,
「才酎申武弁」の徒も多く出入りするようになったのであろう。
尺五堂の創設後ほ,尺五は,講習堂を長子昌易の経営していた春秋舘と合併して昌易の
経営に委せ,自らは尺五堂にあって講説につとめた。昌易の春秋舘も多くの塾生を集めて
京都における主要な私塾の一つとして永く子孫に継東されて行ったのである。
尺五の門下からほ,木下順庵,安東省庵,松永恩斎,滝川昌楽,野間三竹,宇都宮遜庵
らの著名の士を輩出させたが,そのいずれもが,学問研究者としてよりは,啓蒙思想家乃
至は教育者としてよく知られているのも,尺五の影響を見ることが出来るのである。尺五
の学問は,慢宿や貞徳の影響を受けて,必らずしも朱子学専一というのではなく,一切経
を読改するほど,諸学を包容した総合的なものであったから,その塾風も門生の個性を重
んじ,白由研究を奨励するものであった。順庵のつぎの詩は,よくその塾夙を伝えている
といえよう。
9
近世私塾の史的考察
先生何為者。諾々説典常。薫椎春昼静。
韓契秋夜長。白魔近仙洞。三鱒落講堂。
遊戯或詩賦。余波溢文章。豊兄諸生福。
其是大明祥。大我賢哲志。百世可流芳。
尺五の私塾より,やや後れて京都で興隆したものに,山崎闇斎の塾がある。山崎闇斎
(1618年-1682年)は,京都の針医の子として生れた。幼にして穎悟,祖母はつねに,
「諺に身は一銭,目ほ有翼,汝等目を傷ふ勿れ,而して善く字を習へ,字を識らぎれば日
なき者と同じ」と語って励まし,母もまた「鷹は餓えても穂を啄まず,士たる老は当に志
高うすべきなり」といって試めたといわれる。こうした庭訓によって成人した闇斎は,土
佐で野中兼山と相識り,兼LLTの後藤によって谷時中に学び,そこから朱子学に転じた。そ
の後,京都に帰って,明暦元年,
38才の時,初めて私塾を開いた。
40才の時,江戸に下
り,井上正利侯,加藤泰義侯などの賓師となった。それ以後,半年は江戸にあって諸侯の
寅師となり,半年ほ京都に居って門弟の教育に努めたのである。この間,寛文5年にほ幕
閣の重鎮保科正之の師となり,闇斎の名声を一層大ならしめた。寛文11年,正之の殻後
は,闇斎は専ら京都にあって著述と講説に尽した。
闇斎の塾は門弟6千余といわれ,浅見網斎,三宅尚斎,佐藤直方(以上崎門三傑),谷泰
「朱
山などの著名の儒者を出した。闇斎の学問は,朱子学を批判的に研究するのでなく,
子学を学んで謬らば朱子と与に謬るなり。何の遺憾か之有らん」という宗教的態度で厚く
束子学を金科玉条として尊信し,その教の実践窮行を目的としたものであるから,塾の教
育もまたこの精神によって寛れていた。
別註)しかし,闇斎学の構造札彼自身が信じている程には,朱子学のそれと同質のものではな
く,むしろ,束子学を闇斎流に受容したものということが出来るのである。それは,たとえば,彼の
「大
主著と目される『丈余筆錨』巻三の「大学」の解釈において明らかに見られる.周知のごとく,
学」は朱子学における学問の目的と方法の大要を示す重要な経典とされており,朱子の『大学章句』
では,
「大学」を経・伝の二部に分ち,経のうち,
「明徳を明らかにす」
「民を新らたにする」
「至善に
止まる」を三綱領と呼んで学問の究極的目的を示すものとしたoつぎに格物,致う軌誠意,正心,帰
心,斉家,治国,平天下を八条目と呼んで学問の修業過程を段階的に示すものとしたのである。しか
るに,闇斎学においては,
「八条目者,明徳新民之事,其道在レ止二於至善一而,伝者釈レ之日,敬止陶
懐者敬之存土乎中一也,威儀者敬之著二乎外一也,此レ則八条目皆由ニル乎敬一」 (闇斎全集(上) 176頁)
「筏身を覚るij:,即ち敬也」
(水足安直撰「行実」
と述べて,八条目は敬に由るとしている.しかも,
『日本道学淵源録』巻一所収7丁り)と教えているように,自己の修養過程を「持敬」に依存しよう
としているのであるから,彼においては,格物致知以下の五項目の修養過程が,
「敬」によって代用
されているのであるoこのことは王換言すれば,朱子学の核心をなす「格物窮理」の思想が,
「持敬」
の強調によって著るしく軽視されていることになるのである。
しかし,別註で論じたよぅに,闇斎学には「持敬」を主とする道徳的実践を重視するか
ら,読書も小学,近思録,大学,論語,孟子,中庸などに限定され,広く請書にわたって
読むよりも,これらの限定された害を集中的iこ読むことを重視するのである。したがつ
て,その教育方法は>,門生に論語などの重要な一章を徹底的に精密に講究せしめてその成
10
鈴
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果を論文として提出させ,師がこれを批判するという方法がとられている。この結果,
この学派の学問は,その幅は狭いが,その探さにおいて極限にまで到達することを得た
のである。これは,林家の教育が,経学,読書,請,文,和学の五科を立てて,広く古
人の説を学んで訓話を歪んずるという方法を採っているのと比較してきわめて対照的であ
る。
闇斎学では,知,行,敬をもって教学の要目としているが,ここにいう知とは,朱子学
で指す知識一般ではなく,道徳倫理の義理を講究する知であり,行とは,その知を反覆実
践して自己のものとする行為をいう。しかして敬は,ツツシムと訓じ,一事をなす際に,
精神を集中して全精力を統一する状態を意味する。したがって,敬は,知,行を実践する
際の主体の精神的態度の問題であって,この敬を持して知,行の実践をなすことが,もつ
とも自己の向上を効果的になすというのである。ここから,日常の起居動作のごときも整
斉厳粛であることが要求され,この学派独特の倫理的厳粛主義が生れて来るのである。こ
の学派でもつとも重要な書とされた朱子の敬斎簾は,この敬についての工夫を説いたもの
であるが,その内容は,
「其の衣冠を正し其の磨視を尊くし心を潜めて以て居り,上帝に対
越す。
--門を出づれば真の如く,事を永くれば祭の如く,哉々競々,敢て或は易る岡し。
口を守ること瓶の如く,意を防ぐこと城の如く,洞々属々,敢て或は軽んずる岡し」25)(蘇
漢文)という厳粛なものであった。
知・行・敬によって,個人の道徳的完成が期せられる訳であるが,個人の完成は,さら
に-一歩を進めて社会の完成に関与するところまで到るべきであって,この社会における価
値基準を「義」をもって表現し,
「敬以て内を直うし義以て外を方にするは内外を合する
の道なり」という程子の周易文言伝の註に基づいて,闇斎は,敬義を以て自己完成の眼目
とするのである。
以上が闇斎学の大略であるが,彼ほ訓話の末に拘泥せず,朱子学の根本精神を開明する
ことにあったから,その教育方法も講釈をもつとも重視した。講釈を通して朱子学の根本
精神を聴集の心奥に注入せんとした訳である。その講釈における闇斎の風貌は,体躯倭小
であるが,顔色怒るがごとく,眼光は人を射て近附き難く,其声は雷の如くで人々を畏怖
せしめたと伝えられている。そのため,佐藤直方の如き高弟すら「其家(闇斎の家,筆者
読)に到り,戸を入る毎に心緒惜々たること獄に下る如く,退いて戸を出づるに及びて則
ち大息すること虎口を脱するに似たり」26)と述懐するほどであった。まことに闇斎の道に
対する学問的情熱は,生命をすら賭するほどの異常な高まりを見せるのであり27),講釈時
の熱烈な気塊は,時に思わず刀の下緒に手がかかることもあるほどであったo
道に対して宗教的崇拝に近い絶対崇敬の念をもつことを要求することは,やがてその学
の真髄を体得して道に任ずる師に対する絶対的崇拝の念をとらしめる。この学派では,節
道の尊厳なることで特色を持っているが,その真意は,ここに淵由しているのである。し
かし,その師道尊厳主義は,往々にして,その厳しさのあまり,形式に堕し,その実精神
から離れてしまう弊を生じた。たとえば,浅見綱斎の塾では,門弟が師の講義を聴く時に
は,全座蒲然として声なく,墨をすることも許されず,一章一節の講釈が終る毎に聴衆-
ll
近世私塾の史的考察
同は恭しく拝をなしたといわれている。そして,こうした形式尊重の弊害については,後
に荻生胆裸によって, 「師の是とし尚ぶ所,弟子其真似をし,筆を採て師の講ぜる所の言
を喜入にし,審の前後次第一字も差へず,尚又甚しき者ほ師此章の此所にて一声晩
是語
の是句にて一度扇を繁れしなど,其物言音色を似せ其顔相身風俗までを移し」28】と痛烈に
「其師説二重テ-,講義講銀
批判されるほどになったのである。また『学問源流』には,
トテ其辞を-一国字ヲ以テ之ヲ記ス,互二写シ取テ秘本ノ如クLZヲ蔵ム」29'とあるように,
崎門学派では,その講釈を主とする教育形態の故もあって,その文献の多くは,講釈の種
本のごとくに秘本の取扱いを受けてごく少数の人たちにだけ伝えられて来たのであるが,
これが,この派の私塾の普及の上に大きな障害となったのである。
以上の朱子学派の私塾と並んで,近世初頭において特色ある私塾として,中江藤樹の藤
樹書院がある.藤樹(1608-1648)は,日本における陽明学派の祖といわれた人であるがy
彼の思想的発展段階は,通常33才の「性理会通」と「王竜漢語録」を読み,始めて陽明
学的思想に触れたときと,
37才に「陽明全集」を入手してこれに傾倒した時期とを転換点
として,三期に区分されるのが通説になっている。しかし,藤樹書院の・形成という教育史
的立場からの考察においては,主たる関心事は,彼が28才の時,大洲藩を脱藩して帰郷
し,藤樹書院を設けた時期に置かれるべきであろう。藤樹脱藩の理由は,表向きは,彼が
病身であったこと,故郷に独り住む母に孝養を尽したいこと30'が挙げられているが,これ
だけの理由で藩主から追描を受ける脱藩という非常手段に訴えるはずもないのであり,普
た藤樹脱藩の挙に追随した藩士の多かったことから,藩内の派閥的乱蝶を理由として挙げ
られているが,その可能性はあったとしても,そうした外面的な理由の外に,もつと,
藤樹の抱く思想そのものの中に脱藩の理由を求める必要があると思われるoというのは,
藤樹の学を奉じた陽明学派は,藤樹の穀後も,かなり厳しい政治的弾圧を受けており,た
とえば,藤樹穀後の藤樹書院が,領主大帝藩主より退去を命ぜられ事実81),会津藩内の藤
樹学派に対する心学禁止の布令が発せられた事実32',熊沢蕃山や三輪執斎ら陽明学者に加
ぇられた政治的圧迫の事実があるように,藤樹の脱藩もまたこうした陽明学派の持つ思想
と封建的身分秩序を保持せんとする封建権力の意図との衝突にその原因が求められなけれ
ばならないと考えるからである。そして,その解明に有力な手掛りを与えるものとして,
帰郷後,
6,
7年を経て著わされた彼の主著『翁問答』がある。この吉の中で,藤樹が一
貫して標傍しているのほ,封建的階層秩序を,人間の素質の厚薄高下に基づく「天命の本
然」であるとする社会観である。
「むかし亮舜の御代には,聖人は天子のくらゐにのぼりたまふ・其つぎの大賢人は宰相
となり,その次の賢人は諸侯となり,その次は卿大夫士となり,愚痴不肖なるものは農工
商の庶人となり,上てんしより下庶人にいたるまで,分々相応のくらゐに居て,それぞれ
の所作をつとat'・-・」33)
と述べているように,ノ人間の能力の差異が,そのまま封建的階層秩序として認められ,し
たがって,その底には,
「ばんみんはことごとく天地の子なれば,われも人も人間のかた
ちあるほどのものは,みな兄弟な-り」34'という人間の本来的な平等性を認めているのであ
12
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る。したがって,階層的秩序の差異は,ただ「位」によってその階層に相応した「所作」
(行為)が異なるのみであって,上位者といえども,下位老と同様,皇上帝の定めた「道」
の支配を受けているのであり,
「分」は,下位老の行動に対する規範であるばかりでなく,
上位者の悪意を拘束する規範でもあるのである。ここにおいて,下位者といえども,社会
の階層的秩序においては,下位にあるけれども,人間としては対等のものであると考えら
れている。それは,士道に関する藤樹の見解において,
従道徳を否定して,
「忠臣二君につかへず」という主
はくりけい
「それはもってのほかなる心得そこなひにて候,百里奥のごとく,心
いさぎよく身ぁさまりて名利の欲心なく,其境遇の勢やむことを得ずして,主君をかえて
奉公するほ,古来ただしき士道なり」35'と述べている点に明白に表現されている。元来
「出処進退」が義に叶うことを要求して,君主に不義のあるときほ,臣は退去の行動によ
って自己の主体性を保持する・ことを是としたのは儒教の精神であったが,それは,中国の
士大夫層が・郷里に白己の生活の根拠を持っていて,一旦郷里を出でて官に就いても,君
主や上官に不義があるときは,直ちに辞表を提出して故郷に帰り,悠々自適して再び自己
の認められる日を待つことが出来たという社会的条件が存在していたからである。しかる
に,日本の武士階級の場合は,兵農分離以前の武士には,この士大夫層とやや似た生活条
件にあったが,近世の幕藩体制の整備に伴い,家臣団が城下に居住して,君主より与えら
れる俸禄以外にほ何等の生酒手段を持たなくなったことは,上位者の悪意に対して下位老
の独立性を保持する現実の根拠を喪失したことを意味する。すなわち,近世の幕滞体制の
整備は,兵員分離以前の武士(「翁問答」の中の言葉でいえば,
「久功の諸士」)の独立性を
否定して行くことであったのであり,ここに幕藩体制下に強制的に組み入れられて行く当
時の大多数の「久功の諸士」の当面する大問題が存在していた訳である。そして,この間
題と藤樹の脱藩とは決して無関係ではなかった。というのは,藤樹自身の家こそ,この
「久功の諸士」の家柄であり,彼を中心に藤樹書院に集った門人知己の多くも郷士層であ
ったからである36'。藤樹が社会秩序と個人の人格とを本来的にほ対等のものとして把挺し
たにも拘らず,彼の禄仕の体験ほ,現実の封建的階層秩序が,下位老の独立性の保持を許
容するものではないことを教えたのである。すなわち,彼が朱子学によって学んだ社会像
は,封建社会の階層的秩序を理念的な形で説明したものであるけれども,現実の封建的階
層秩序を説明したものではなかったのである。.それ故に,徒らに博物拾聞を以て儒学の本
分とする林家の学問ならいざ知らず,学問を社会実践と結びつけてこそ真の生きた学問と
考える藤樹の立場からすれば,朱子学に対する疑問の生ずるのは当然であるし,同時に現
実の封建的階層秩序の支配する社会に自己の主体性を保持しつつ生き抜くには,どうして
ち,藩士の身分を脱するより外に方法がなかったのである。このように藤樹の脱藩が,こ
うした現実の封建的階層秩序に対するプロテストとして必然的に行なわれたと見るときに,
はじめて,封建権力の陽明学派に対する不当な弾圧の理由が理解されるのである。
したがって,藤樹書院における教育も,従来の近江聖人として,または庶民教化の使徒
として教化活動に従事したというような明治以降の修身教育によって造成されたイメ-ジ
で考えられるものではなく,むしろ幕藩体制の整備とともに飼主への隷属化を強めLc来た
13
近世私塾の史的考察
r翁問答」が
武士階級の主体性を保持するための生き方を教えるものであったのである。
藤樹の意志に反して無断田版が多く行なわれて,当時広く世間に迎えられたのも,当時の
武士階級に「士」としていかに生くべきかを教えたものであったからである。
藤樹の門下は,熊沢蕃山を中心とした事功派と捌岡山を中心にした存養派とに分れ,節
者は,必らずしも師説に盲従せず,独自の見識を立てたが,後者は藤樹の思想のもつとも
忠実な継承者であった。この派は,京都,大阪,江戸,会津,熊本らの武士・庶民の問に
伝播して,かなり長く継承されて行ったのであるoしかも,それらは,彼らが矛盾を感じ
た封建体制の階層的秩序の中で生活しながら,その精神は,その現実の秩序を関心の外に
ぉいて,主観的な心の平静を得ることを求めたのである。
「農人の耕宏は勤労の至極なれ
ども,其心さのみ苦しみなし」37'というような教説は,現実の階級的矛盾に反対するので
はなく,それを関心の外において,反ってこれを無条件に肯定してしまっていることを示
しているのである。
この期の後半期において一世を風摩したのは,木下順庵の矩塾である。その塾からは,
新井白石,室鳩巣らの著名の士を輩出せしめたばかりでなく・そのいずれも諸侯の寅師と
して招聴されて厚遇されたたbb,木門は恰かも世甲登竜門のごとき感を世人に与えたほど
であったo木下順庵は,木-f意春の次子として京都に生れ,幼にして岐艶聡明にして常
見と異なる所があって,郷里では神童の称があった。尺五の門に入り,程先の学を修めた
が,学識徳行において,学友中,一頭地を抜ん出ていたので,同門の貝原益軒・安東省
嵐宇都宮遜摩らも彼を推重して措かなかったといわれているo京都東山に犀居して塾を
「後に再び要ら
開き, 20余年問好々として子弟の教授に専念したo順庵の人となりは,
ず,孤枕独会して,野僧のごとく,平生-として噂欲無く,食は必らず淡泊,服は必らず
寛文5年,加賀
黄白」38,と伝えられているように,神儒の面影を宿していたといわれるo
侯前田綱紀に招聴され,その後,天和2年には将軍綱吉の召しに応じて,幕府の学俄につ
き,国史の修補に当っている。
順庵の教育方法は,彼の学が,程朱を主としながら,偏狭に陥らず,諸学を綜合する面
を具えていたように,塾生の長ずる個性のま割こそれを伸長せしめることを主としたもの
であった。また彼は,斬らしい学問に対しても理解と関心を持ち,自然科学老の稲生若水
を前田綱紀に推挙して,研究の援助を受けさせて大著`憤物類纂ガを完成せしめたり,
また長崎奉行に託して,オランダの医書,植物学害を取り寄せることをすすめているoこ
うした順庵の大きな視野が,新井白石の学問にも大きな影響を与えたのであるo
前述したように,木門が世人を驚かしたのは,順庵が封建権力に近く禄仕して,諸侯に
知遇を得て,門下生をそれぞれ諸侯の寅師とすることが出来た点であるが,つぎに順庵に
師事した著名な木門出身学者について,その成業後の生酒を調査すれば,幕府儒員4,請
侯儒者10,講説を業とす3,幕臣2,その他3となっており,蘇仕したものは,いずれ
も200右前後の高禄を得ている。以上のように,一時は,木門は,幕府および諸藩の文教
の大半を占めるほどの勢いを見せたのであるが,これは,I
-市井の私塾が,封建権力と結
びつくことによって,繁栄をもたらした一例であって,林家の家塾と並んで,封建社会に
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おける私塾の一つの型を代表するものといえる。しかし,木門においては,その過半数が
禄任したた捌こ,市井にあって講説を業として,師説を祖述するものは少なく,したがつ
て,あれほど繁栄を誇った木門も,封建権力の側から白眼視されるに至ると,にわかにそ
の勢威を失墜するに至ったのである。
(二)儒学興隆期の私塾
(1)全体的概観
近世初頭に興起した儒学は,その後,半世紀を経た元禄時代に至って飛躍的に興隆し
た.近世文化史上,けんらん豪華を言区われた元禄文化は,近世封建制の最盛期に当り,新
田の開発,農業技術の向上,品位の改良などによる生産力の飛躍的増大と商品の全国的流
通に支えられ,加うるに封建的身分秩序の固定化と鎖国による対外的発展の阻止などによ
って累積された国民的エネルギーが,五代将軍綱吉による文治政治の推進を契機として一
時に花開いたものであった。就中儒学は,綱吉自らの積極的な奨励により,
「元卸],文
教大に照り,家読戸詞す。是より先未だあちぎる所なり」といわれるほどの興隆を見たの
である.綱吉は延宝8年,林鳳岡,人見友元を召し,経書を討論せしめてより月3回講起
を開くことを例とし,天和2年正月元日には講書初めの儀を起し,以後これを定例とし
た.元禄3年には,聖廟を湯島に建て,
「大成殿」と親書した額を掲げ,翌4年林鳳岡に
束髪を命じて従五位下大学頭に叙し,また自ら大名・旗本・儒者らを集めて経書を講じ,
さらに儒者をして討論せしめるようにした。その上,自らしばしば大名邸に臨んで,まず
講義をし,その後,亭主およびその家臣の講義を聴くを常としたのである。このため,
諸大名,旗本らは,競って著名の儒者を召聴し,講延を設けるようになり,ここに儒者が,
学をもって禄任し得るもつともよい機会に恵まれたのである.したがって,儒者の門には
儒学志望者が雲集し,そこから私塾が広く普及する機運が醸成されて来たのである。
しかし,この儒学の興隆は,直接的にほ綱吉個人の儒学奨励が大きな効果を与えたもの
であったが,同時に綱吉をして文治政治をとらしめざるを待ないような社会的条件が成熟
していた点を見逃すことが出来ないのである。すなわち,近世の幕藩体制の権力的基礎
は,三代将軍家光による諸大名の取り潰しや国替えなどの武断的政治の強行によって,漸
く確立されたが,彼の穀後は,その武断政治の犠牲となった推定40万といわれる浪人が
世上にあふれて社会不安を醸成し,打ち続く太平の世は,浪人のみならず,一般の武士
階級を遊民化した存在とならしめたのである。そこから,
して用ひ,不二売一買して利するoその故何事ぞやo
「士は不レ耕してくらひ,不レ造
-.・士として其職分なくんば不レ可レ
有。職分あらずして食用足しめんことは遊民と可レ云」1)といわれて識者の批判を受けるに
至ったのである.こうして武士階級は,封建的身分秩序の頂点にありながら,実質的には
町人に「横付」の書を送るほどに2',町人の下風に立たざるを得なくなり,また文化的方
面においても,武士階級は次第に町人階級の進出に圧迫されるようになり,その実情は,
「昔ほ士君子こそ学問し,歌よみ詩を作り連歌し,或は管絃を玩び,すこし下れる晶なれ
近世私塾の史的考察
15
ども,琵琶を弾じて平家物語し,筑紫S・,辛苦の舞などを習ひて楽しみあへりけれ,三線
を鳴らし浄瑠璃を語ることは,唯市井の賎しきもののみなりき。それだに大方人にかくし
てしのひに習ひしぞかし,今は工人商責の中にて,やゝ富めるものは,学問し詩歌管絃を
玩び,少し下れる品なれども猿楽などを習ひて楽しみとして,浄瑠璃三線などをば近付け
ぬ額あり,′士君子反りてよき楽しみをしらず,ひたすら浄瑠璃三線を好みて,はれやかな
る所にて,おめず悼らず嬉しき所作をもて,人の玩となる。薄禄の士のみに非らず,諸侯
貴人の道を知らぬ類多しときけり。これをも冠と履と処をかふと云ふべし」3'といわれる
ほどに至ったのである。こうして,士風が乱れ,封建的身分秩序そのものが動括しはじめ
て「世まさに悉く不仁にして東欧の風俗の如きに至らんとす。これ恐るべきの甚しきな
り」と綱吉を嘆ぜしむることになったのであり,遂に「天和の忠孝札」を諸国に立てさせ
ぎるを得なくなったのである。
この社会的動揺は,安定化を目指す幕藩体制の整備とそれからはみ出してしまった浪人
や旧い武士階級の感情との問の違和に原因が求められるのであるから,その解決のた糾こ
は,武士の本領である戦闘能力の練磨をもって善しとした戦国武士の武辺的武士像を改め
て,太平の世に治者として君臨するにふさわしい人間的教養と政治的・行政的才能を具え
た武士像を明示して,遊休徒食の徒と化している武士階級を教化する必要があった。山鹿
素行によって大成された近世的武士道思想は,かかる新らしい武士像を理論的に組織した
ものであり,その基本となるものは,儒教道徳の君臣父子の道,仁義の精神を近世武士の
倫理として与え,これらの道徳的実践者たるところに治者としての武士の存在根拠を求め
たものであった。綱吉が,武家諸法度の努頭を「文武忠孝を励し,可正礼儀之事」と改め
たのも,こうした新らしい武士像を法制的に裏打ちしたものということが出来,その儒
学の奨励は,武士階級への教化を自ら実践して見せたものといえるのである。そして,こ
の綱吉の意図は,諸侯の中に綱吉に倣って,藩士の教化の目的をもって藩校を創設するも
のが増加したことを見ても,ある程度達せられたと見られるのである。すなわち元禄期よ
り享保期にかけての藩校の創設数は,第1表のように,それ以前に比して急激に増加して
いるのである。
別註)元緑期以前に設立された藩校は,名古屋薄明倫堂,岡山藩花白教場などのように,いずれも
武家諸法度や五人紐綻喜に戻された封建的政治理念の教化を目的とした社会教化的性格を持ったもの
であって,元緑期以後の藩士教化の藩校とをj:,かなり異なっているo
元禄期以降の藩士教化のための藩校の増加は,同時にその期における私塾の興隆に密接
に関連していた。すなわち藩校の創設にほ,私塾によって養成された儒者を藩校の儒官と
して招嘱する必要があったし,またこうした儒者の需要の増加は逆に私塾の興隆を招来し
たのであった。藩校との比較において,当時の私塾の趨勢を見れば,第2表のごとくであ
る。
このように元禄から享保期にかけての私塾の増加ほ著るしいものがあるが,その原因を
(イ)学問人口の増加, (ロ)私塾を支える経済的条件の変化の点より考察して見よう、o
16
鈴
第1表
木
博
雄
寛永期-享保期における藩校創設数の調査
正保-万治期
年間顧校規
備考)藩校創設期は,日本教育史資料によったo
第2表
寛永期一事保期における私塾の発達
.11二
正保-万治期一
16
3
:
12
1
14
'‥
年間すj
20
症
t=1
7=・
保
徳
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\:期
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宝
永
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16
期
期
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20
5
i
備考)ここに調査した私塾は,先哲叢談,同後編,近世先哲叢談,続
近世先哲叢談,国学者伝記集成によって,それらに記載された
学者で,私塾を経営したものについて,その摂年によって整理
したものである。
(イ)学問人口の増加
近世初頭においては,学問は公家階級か僧侶などの一部の老に限られ,地域的にも京都
を中心とするという中世以来の傾向がなお引続いていたが,元禄一事保期に至ると,学問
が平民階級や武士階級の間にも次第に受容されて行ったこと,また地域的にも全国的に学
問が普及したことなどによって,学問人口は当然飛躍的に増加したのである。武士階級に
あっては,文武両道の新らしい武士像が受容されて来たことや,文治派の武士が尊重せら
れて,藩政に参画せしめられるなどの傾向に刺戟されたことが多くあったのである。一方,
平民階級cD中からの従学者の増加は,主として経済的実力を有するようになった町人階級
の中に著るしかった。この頃になると,町人の中にも,学問・教養の必要が切実となり,
「わかき人などの,
とせことせ学びぬれば,梧古修行のためとて,友人を集め,見台にむかひて聖経を講談す。
或は輪講などと号して,たがひに講談して弁舌を習はす」5)風が生じて来たのである。した
がって,
「儒者,医者,歌道老は多くは町人の中より出づる事になりぬ」6)といわれるよう
に,この期の文化人の中には,平民出身者が多くあらわれるようになったのである。学者
中で,平民出身者を調査すれば,第3表のようになる。
--
「町人も学問はなくて叶はぎる物なり」4)と考えられるようになり,
17
近世私塾の史的考察
第3表
r
平民出身学者の階層調査
轡
\階
間
浪
郷
iZ5
4
寛永元一貞享4
1
家
人 医
士 僧,神官
4
元疎元-享保20
∫
13
元文元-天明9
ll
I
161V
r
寛政元一天保10
9
天保11一慶応3
計
備考)学者の圃査は,先哲叢談,同後編,続近世先哲叢談,国学者伝記集成より集録した.
学問人口の増加の原因としては,平民階級からの従学者の増加とともに,学問・文化の
地理的拡大が挙げられる。たとえば著名な私塾についてその地方的分布を調査すれば,第
4表のごとくであって,これによると,元禄一事保期から,そのつぎの元文一天明期にか
けて全国的に普及して行ったことが理解されるのである。
第4表
寛永一貞享
(1624 1687)
-
近世私塾の地方分布状況の調査
lヲ濫1∼j斯
(譜二謁絹3*6二謁l雫7&89-∼q9iR3去P
京 都
l
1
河
内
6
大
阪
1
長
崎
3
川
16
7
ー
1
阪後部戸前浜浦
2
9
大豊京江豊小土
戸
後阪戸部中後摩勢
江
豊大江京備備匪伊
択郡崎戸見阪
金京長江伏大
:1ー
2
4
7
1
1
2
名古屋
1
1
津
2
近
越
江
備考)調査した私塾は,第2表の場合と同様の資料に拠った.
すなわち,前期に比すると,漸く金沢,江戸,長崎などの地方の文化の中心地にも私塾
が普及して行ったことが窺われるのである。これが,地方における儒学の普及に大きな力
のあったことはいうまでもない。
(ロ)私塾を支える経済的条件の変化
市井にあって,私塾を開き講説を業としているものは,当然入門者の謝儀・束修などに
よって自己の生酒の資を得ていた訳であるから,儒学に志す学問人口の増加は,私塾の増
加を招来した。しかして,この私塾の増加は,基本的には元禄期を頂点とする生産力の増
LLI鹿素行の
大に由来する社会の経済的繁栄に支えられたものであった。すでに寛文年間,
18
鈴
木
博
雄
塾は,門人4千有余,王侯より士庶人に至るまで門を出入する老日に数百人という興隆振
りを示し,その生晴は5,
6千石の士と同様の富鏡を誇ったと伝えられているが,素行の
場合は,諸侯の寅師として礼遇されていて,多くの物質的支持を得ていたからであって,
そうした封建権力や財力に結びつかない私塾においては,元禄以前では,一般的にその経
営は非常に苦しいものであった。たとえば,当時,京都錦小路に錦隔講堂を開いていた浅
見嗣斎は,
「只出処ノー事-生涯竃末モ-ヅカシイコT,、ナイ」7)と豪語するほど,一生権
門に近づかず,市井の儒者として終った人であるが,その生活は,きわめて貧しく,塾も
雨漏りのする幡屋であり,その修理は綱斎自らがしなければならない状態であったと伝え
られている.また伊藤仁斎が古義堂を開いてすでに多くの入塾生を数える鄭こなっても,
その生活は貧しく,仁斎の妻が,長子原蔵のために精葦を請い,仁斎は自らの着用してい
た外套を脱して妻に授けたという逸話8)辛,晩年に仁斎が門弟より金を送られていた事実
なども明らかになっている。また荻生狙裸も,元禄3年,
25才の時,江戸芝増上寺前に
私塾を開いているが,豆腐屋に借宅して,豆腐の柏を喰べていたという話9)が伝わるほど
困窮をきわめたものであった。したがって,元禄期までの社会においては,私塾の経営は,
経済的には全く成算がなかった訳であり,私塾を開くよりも,諸既に禄任する方が,儒者
としては,はるかに社会的にも経済的にも安定した生活と考えられていたのである。しか
るに,元禄期以後の私塾は,当時漸く経済的実力を蓄積して来た町人階級の支持を受けて
大きく発達することになったのである。
新興町人階級の教育的要求を満足せしめる場として私塾がもつとも適当したものと考え
られたことは,当時の幕府の学問所や藩校が武士階級のためのものという階級的閉鎖性を
持っていたことを考えれば,容易に理解されよう。また,平民階級の中から,儒学に志し,
学成ったものも諸侯に禄任することは困難であったから,そうした老は市井に私塾を開く
ようになり,この点からも私塾はかなり急速に普及したと考えられるのである。前掲の平
民出身学者について,禄任したものと私塾を開いたものとに分類すれば,第5表のごとく
である。
以上,元禄期より享保期に至る私塾の発達の趨勢を概観した訳であるが,要するに,こ
の時期が封建社会の最盛期であり,同時に武断政治より文治政治への転換点にあったこ
第5表
平民出身学者の蹄仕と私塾開設の調査
19
近世私塾の史的考察
と,さらには,中世的なるものの残揮が消失して真に近世的なるものの出現した時期であ
ったこと,などの程々の事情から,時代の指導理念である儒学に対する要求が必然的に高
まらざるを得ない情勢にあったということが出来,それが近世私塾の発達に大きな力とな
って働いたのである。
(2)堀川塾と蒙園塾
前節において元禄-享保期の私塾の発達の全体的概観をしたが,ここでは,.この期の代
表的私塾である堀川塾と蒙園塾について個別的に考察する。
打)堀川塾
堀川塾は,寛文元年(一説には寛文2年)に伊藤仁斎が,京都堀川に開いた私塾で,.一
名古義堂ともいう。仁斎は,一生禄任せず,
40余年問,研究と育英に尽して倦むことの
なかった醇儒である。嫡子東涯の「古学先生行状」には,
とあり,まキ「孟管録」には,
「投レ刺来謁老著レ録凡三千余人」
「諸州人無二国不フ至,唯飛弾佐渡壱岐等二三州人僻遠不レ著
I,銑及門執謁之士以L,千数」とある.もってその繁栄を知ることが出来るのである。
掘川塾創設の動機は,曽子の以レ文会レ友,以レ友レ輔レ仁という精神によって,道を学ぶ
同学の士の切瑳琢磨,師弟共学の同志的結合の精神に発してい.る、。
「予雄二極不似-,寮有レ
恵三於斯道ー需,端欲下及二此間一,相共講磨切劇,上進中聖人君子之道上,敬-二条障,以諮二
教子諸同志-」1)という仁斎の謙虚な言は,この創設の精神をよく伝えている。仁斎は,か
かる学問研究を中心とした同志的結合の中においてこそ,学日に進んで情日に通じ,志日
に起って徳日に熟すると述べ,かくて誘扱奨励振作感発して仁を得ること自らその中に在
りとしたのである。したがって,塾は同志会として発足した訳であるが,この同志会の講
学の実情については,
「同志会を設け,夫子像を北壁に掛け,鞠躯して拝を致し,退て経
書を講説し,過失を相規す」2)とあるように全く師弟一体となった学問研究の場となってい
たようである。仁斎は,この同志会の健全な発展を願う念がきわめて切であり,その経営に
深い配慮を裁い,塾を高い倫理的規律によって規制することの必要を感じて,塾の発展に即
してしばしば積極的な撞案を試みている。その中,つぎの五つがその主要なものである。
塾創設当時
(寛文元年)
「書斎私祝」
塾創設の翌年
(寛耳2年)
「立会式」・「同志会式」
塾創設より6年(寛文8年)
「同志会品題式」
塾創設より7年(寛文9年)
「同志会示諸生」
この五つの提案は,いずれも塾の同志に対して,儒学の理論的研墳と実践窮行のた捌こ
相成め,相励むべきことを規律として制定したものであり,これによって.,塾生の自律を
期待したのである。この点,但裸の蒙園塾が,自由解放的で塾生の生活に規律を課するこ
とをしなかったのと対照的であり,同時に仁斎の塾経営に関する教育者としての非凡な組
織性を窺うことが出来るのである。後年,文化文政期における広瀬淡窓の成宜囲も,塾に
規則を設けて,これによって運営がなされたのであるが,
」威宜園の規則が主として塾生活
の細部にわたる具体的な規定であるのに対して,仁斎の示したものは,学問研究者のわき
まえるべき倫理綱領のような性格を持った原理的なものであり,.威宜園の規則に比してき
20
鈴
木
博
雄
はるかに格調の高いものである。つぎにこの五つの規律について考察して見よう。まず
「書斎私祝」は,創設当初になったもので,仁斎が塾創設の希望を同志に示したものであ
る。ここでは,塾創設の精神たる学究的精神を強調し,その上,学究老の勉学態度につい
て五則を挙げている.その大要はつぎのようである8).
第一条
諸人講習の間は互に相謙下して門戸を争うことのないこと.
第二条
学の進まざる老には,衆人会議してこれを助けるべく,進まざる老は感謝して
これを受けるべきこととされている。ここに同学の士の連帯性が強調されてい
る。
第三条
同盟の人は,学問窮行を語る以外の他の世事雑事を語ることを禁じている。
第四条
道徳仁義を明らかにする志の篤きことを要求している。
第五条
道徳仁義を明らかにするとともに,その実践窮行を霊視している。
以上のように,この五則に示されたものは,学問研究の共同学習を進めて行く際の基本
的な心構えであって,ここに堀川塾が,仁斎を*}Lhとした学問的愛と同志的仁とによって
結合された一つの精神的共同体をつくりあげようとしていることが理解されるのである。
しかして,この精神的共同体を統御して行くものは,学問的真理と同志に対する仁の精神
であり,一言でいうならば,道そのものに外ならない。道によって結合され,道によって
統御されている共同体であるが故に,道に対する絶対的尊崇が前提とされる。そこから,
塾生ほ,道の前に小さき自己を反省してつねに謙虚な態度を持つことが要求され,それが,
堀川塾の特色たる謙譲の塾風を形成して行ったのである。
この五則に示された理想は,その共同体の全員が学問的情熱を持って燃えているときに
は,驚異的な団結力と理想的な共同体を現出し得るものであるが,一度,その結束が乱
れ,情熱が薄らいで来ると,その共同体には沈滞と無気力の雰囲気を醸成し易い。仁斎
は,この点を深く憂いて,その塾凪を規律によって定着せしめようと試みたゎである.そ
れが,寛文2年の「立会式」と「同志会式」の制定である。
「立会式」でほ,立会の本意を明らかにし,
「大凡そ斯の会に与る老,善あれば之を勧め
過あれば之を規し,息難相他み憂苦相慰め務めて衆人の心を以て心と為し,各々一家同仁
の徳を尽さんと欲」千'すると述べて,同志会創設時の精神を開明している。
「同志会式」は,
同志会の運営についての規定であり,これによって同志会の運営の乱れることを防かんと
した訳である。したがって,この「同志会式」によって,堀川塾の教育の実際を如実に知
ることが出来るのである。その全文はつぎのようである。
「凡そ会日,主人先づ至り,室内を掃除し,然る後,歴代聖賢道統図を北壁の上に掲げ,
左を以て講者の座と為し,右を質老の座と為し,会約を読むを掌らしむ。衆中必らず一人
を推して会長と為す。衆畢く至り,各歯を以て序と為し先聖先師の位前に詣で拝を設く。
(鞠姫,拝興,拝興,拝興,平身)畢り貿老立て先聖先師の位前に至って蛇を為すの要を説く.
畢る。衆皆拝を致す。賛老拝答す。既にして叉会約を取って,之を先聖先師の位前に置
き,拝し退く(儀節前の如し。後の講老拝も皆此に同じ)。是に於て衆中講老を進めて,
座に陸せんことを請ふ。講老起って先聖先師の位前に至り,拝を致す。然る後座に隆し,
21
近世私塾の史的考察
書を講じ,畢る。衆皆拝す。講老亦拝す。而して後衆各疑ふ所を質問す。若し其の答ふる
所,意義通じ難く,梢其の理を失ふ老は,会長叉之が為めに折衷す。議論既に畢って,請
者自ら害を収めて退く。衆復た次の講老を進めて座に陸せんことを請ふこと初の如し。衆
講共に撃って後,会長叉策問或は論題を出して,諸生を試む。諸生者其の論策を呈すo会
長之を取って略々転語を下し,或は批評を著はして之を与へ,甲乙を著けず。若し即答す
ること能はぎる者ほ次の会を挨って出すも亦聴す。講諭の間,もつとも嬉笑遊談,人の聴
聞を駿かし,及び大いに扇を揮ひ,座中に喧嘱するを禁ず。且つ一切世俗の利害,人家の
各一
短長及び富貴達利,飲味服章の語,もつとも当に誠むべし。大凡そ会中,講義論弓私
冊を作り,共に数人を輸して繕写す。叉会中間答経要を発明する老,及び学問青葉の語は
皆護録す。衆人相共に校定し,別に一冊作る。其の聖経に盗り及び膚浅にして切実ならざ
る老は載せず」5)
すなわち,これによれば,先聖先師の位前における宗教的儀礼が厳重であったこと。会
員が交互に講老,賀老となり,会長を推すというように,会員による自治的運営の面があ
ること。講論の後に質問を奨励していること。会長が論策を課すること。などが窺い知ら
れるのである。
塾が創設されて6年を経た寛文8年には,
「同志会品題式」が示されている。その内容
は,
一
一一
-
言語有レ法 学識正確者
列二之上科-
言語謹慎
行相恩実老
列二之中科_
才気雄レ秀
言語浮幌者
列二之下科-
右大築以二忠信一為レ上,私曲為レ下,善レ善欲レ長,悪レ惑欲レ短,右倣二班氏表三科九
等之例ー,各列二諸友姓名ー,毎日初会必改二共晶題ー6)
というものであるが,これは,こうした評価法を採用することによって,門生の学習意欲
を昂提せんという酉己慮から考案されたものである.この表は仁斎が班氏の表に倣ったもの
であるが,その評価の基準には,仁斎独白の教育観がよく示されている。
「同志会品題式」を示した翌年,仁斎は,その具体的な実践を奨める意味から,
「同志会
示諸生」の一文を示した。これは,塾創設以来,すでに7年を経て,漸く創設当初の理想
が忘れられて来たことを憂えたものであり,まず,同志会立会の趣旨を述べて,その塾風
の沈滞している現況を批判して,仁斎が,
7年間少しなりとも「善に御進展而人となられ
候様にと朝暮の暇もなくねがふ所ついに空し」7)くなったと訴えて,教師としての真情を吐
露して塾生の猛反省を求めている。また品題式に舌及して,私心を加えて他人の善悪を論
ずるのでなく,人々己が為になすという精神でなされなければならないと諭している。こ
の一文は,仁斎の教育愛が随処に吐露されていて,その真情は切々として読む者の心奥を
打つものがあるのである。
以上は,堀川塾の教育を,規律の面より考察した訳であるが,つぎに,その独創的な教
育方法について考察を進めて見よう。
仁斎は,自己が修学した体験の反省の中から,もつとも効果的と考える教育方法を創案
22
鈴
木
博
雄
している。その二,三の例として,私擬策問,訳文式漢文教授法,私試制義会が挙げられ
る。私擬策間は,仁斎が凡そ30余年間にわたって実践して来た教育方法であるが,それ
は,聖人の諸説中の矛盾や疑点を挙げて,塾生の答を求める方法である。策間は彼が35
才の頃より始められたが,その初期のものは,仁斎自身の宋学に対する疑問を問題として
塾生に開陳して,師弟一体となって研究するといったものが多く,共同研究的な意義があ
ったようである。しかし,後年になると,主に教育的意図をもってなされるようになり,
彼が修学中に苦闘した体験を生かして,塾生に適切な策間を与えて,塾生の理解力を養成
し∴試みたのである。この方法は,東涯の時代にも継親され,堀川塾の-特色となったの
であるが,その策間の主題ほ何れも疑義に関するものであった。この私擬策間法は,塾生
の内面的生長に応じて適切な指導が与えられるという点で,きわめて個性的な教育がなし
得るところに大きな意義があるのである。
訳文式漢文教授法は,仁斎が塾生の文章能力を増進するた糾こ考案したもので,
「国字
を以て古文を換写し,学者に与へて復するに漢字を以てし,其の添滅順逆の別を癒して,
以て文法を詰んず。甚だ初学の弘益たり」8'(原漢文)とあるよ ぅに,唐宋八大家の文章を
教材として,日本の文章になっているのを元の漢文に復元せしめるものであって,漢文を
作る能力を養成するに効果があったのである。この仁斎の漢文教授法は,祖裸が漢文直読
主義を主張したのと一脈の共通点があり,講釈のみに満足せず,真に塾生の学力を増進せ
しめようという熱意を持った教師ほ,いずれも当時の学問の基礎的教養である漢文の教育
に深い関Jbを持っていたのである。
訳文は文章をつくる際の初歩的な学習方法であるが,さらに高い程度の文章の学習方法
として私試制義会を設けている。この制義は,策間が思想を主とし文章を従とするのに対
して,文章を主とするもので,
「道を講じ経を学ぶを知る老と錐も,斯に深からざれば孤
隈寡聞,直に経指の瀕委に達すること能はず」9)とされているのセある。その方法は,毎月
一日を会日と定め,会日にほ諸生が各々の文集を無記名のまま提出し,衆中文法に通ずる
老数人によって審査し評価して会長に呈出し,会長が再び審査し,評価することになって
いる。したがって,塾生も,この試のた糾こは,明清の文節を参照するなどして十分の準
備をしてこれに臨んだものであった。
「紹述先生文集」にある東涯所筆の制義類の多くは,
仁斎より宿題として与えられたものでほなく,東涯白身が,自学自習して応用を試みたも
のであって,
-塾生の私試制義会に対する準備勉強振りが推察されるのである。
以上は,堀川塾の独特の教育方法について考察したのであるが,つぎにこれに関連して
仁斎の講義の実情を考察しLc見よう.仁斎の講義については,東涯は,
「十月始めて論語
を開講す。月ごとに3,8日を定むc是より論孟中庸の三吉反覆輪環,終って復始め,傍ら
易,大学,近思録等の書に及び,教授倦まざる老40余年.講ずれば必ず直ちに主意を明
す。間々己が見を述べ,務めて学者受用の地を為さんと欲す。而して末義を研究せず,壁
賢の吉を述ぶること,白言を述ぶるが如く,従容零飲,粧点を事とせず,●
聴く老嬢勤して
警発する所多し」10)(原漢文)とその姿を伝えている。またその教育者的風貌については,
「直ちに諭孟を以て教授し,もつとも講説を善くす。聖意を発揮し,学者を勧誘し,詳悉
近世私塾の史的考察
審軌
親切著突,尋常の話のごとく,聴く老警動し,奮励する所多く,従遊する者門に継
ぐ」11)と述べられている。ここに,一切の注釈類を越えて直接,論語孟子に就て教授し,
細部末梢に拘わらず,大義を明らかにすることに主眼を置き,好々として説いて倦まない
醇儒仁斎の姿が見られるのである。
以上は堀川塾の教育について見たのであるが,つぎに掘【l「塾の塾生について考察して見
よう。すでに塾生が,全国から参集していることは前述した通りであるが,その出身階層
ち,武士,浪人,町人,医家などが多く,とりわけ,富裕な町人の好学者の多いことほ注
目される。試みに延宝9年,天和2年,同3年,貞享2年,同3年,同4年の6年間の入
塾老の階層について調査すれば,第6表のようである。
第6表
堀川塾の入塾者の階層調査(Ⅰ)
なお束涯時代の入塾老の階層についてほ,宝永3年-5年の3カ年の調査ほ第7表のご
とくである。
第7表
掘川塾の入塾老の階層調査(Ⅱ)
備考)第6表,第7表は加藤仁平氏著『伊藤仁斎の学問と教育』所収の入門帳を参考にした。
これらの調査によっても明らかなように,堀川塾では,浪人,公家侍,医師,富裕な町
23
24
鈴
木
博
雄
人などが塾の中心となっていたと推察され,狙裸の蒙園塾が,幕臣,藩士などの武士階級
を主としているのに比較して,仁斎の塾にふさわしく庶民的,在野的色彩の濃いものとな
っているのであるoまた堀川塾を卒えた後も,多くの人々は,自らの身を修軌
郷党の教
授に尽すなど地味な暗躍を示して,権門勢家に近づく老も少なく,封建権力との結びつき
は,林家・木門や蒙園塾に比してはるかに少なかったのである。ここに堀川塾が,平民階
級を主とした近世的私塾としてもつとも近世的な特色を持っていたのである。
(ロ)護園塾
蒙園塾は,宝永6年狙裸が44才のとき,柳沢吉保の藩邸を出て,日本橋茅場町に居を構
えて開いた私塾であるo蒙園の名は,この地名に由来しており,.「梅が香や隣は荻生惣右衛
門」のJu7は・よく当時の蒙園塾の繁栄を示すものとして伝款されている。但裸は,柳沢氏
の藩邸に住居した頃より,すでに服部南部,安藤東野,三浦竹撰らを門下にもっていたが,
蒙園塾を開き・
「護園随筆」を刊行して以後は,一躍世上にその盛名を謡われるに至った.
この栂裸を中心とする新興の護園塾は,野にあって名声世を覆い,官学たる林家,木門一
派に対しては,隠然たる勢力を持ってさながら一大敵国の感を抱かしめるほどであった。
護園塾に集まった諸生について見ると,その多くは,武士階級であり,特に浪人の多く
あったことは,在野の私塾の性格をよくあらわしているo試みに但裸に直接師事した著名
な門弟65人の出身階層を調査すれば,第8表のようである。
これによれば,平民階級出身者の少ないことは,堀川塾と比較して明なかな差異である
が,ここに護園塾の社会的性格がよくあらわれているのである。すなわち,亀井昭陽が,
朱物二氏の学風について,朱子之風は士庶に宜しく,物氏之風は君大夫に宜しいと評した
第8表
備考)藩士の内の(
祖殊に師事した門弟の出身階層
)内は,上土の数を示す。
ように,護園塾の主たる教育対象は,封建社会の治者階級であった。祖裸は,すでに元禄
より享保にかけて社会の舞台うらで急速に進行しつつある封建体制の危機を克服するため
の白己の経世の学を,現実の政治担当者たる武士階級,とりわ机上士階級に授けること
を以て白己の使命と考えていたのである。これが,
「裸翁人二接スルニ士人二非レバ堅ク
同問--入レザリキ。故二蘭亭ナゾモ屡出入シカト,御ナヤノ子ナレバー間ヅツへダテテ
教授イタサレ」12'たという差別的な取り扱いとも関連して来る訳である。但裸のこの治者
階級への教育という意図が,彼の初期の門弟に関しては,かなり実現したことは,門弟の
成業後の履歴の調査によって明らかである。すなわち,第9真のごとくであって,藩主を
はじめ,諸侯に禄任したものの多くは,いずれも重用されて藩政の枢機に参与したのであ
る。
25
近世私塾の史的考察
第9表
祖裸の直弟子の進路調査
内は,平民出身者で,招聴された者の数。
藩主としては,本多伊予守(西台侯),黒田豊前守(下館侯),松平大学頭(守山侯)が
あり,就中本多伊予守は,吉宗の享保の改革に際して幕閣に入って敏腕を謡われた人であ
る。藩士としては,水野明卿,匹田久幸(共に荘内藩家老),岡田宜汎(守山藩家老),朝
比奈南山(狭山藩家老),贋見爽鳩(田原藩家老),木下実聞(尾張藩家老),萱野島章(熊
本藩上土),夏目外記(彦根藩上土),九津見吉右ヱ門(苅谷藩上土),吉田有隣(大村藩
上土)らが,いずれも藩政に参与したり,また-藩の藩政改革の中心的人物となったりし
ているのである。
しかし,この蒙園塾の特質は,その後の門流に至っては,時代の変遷とともに変化を示
し,狙裸学の持つ改革的性格の故に,こ叫を支持した封建権力者層は,封建体制の危機が
すでに坦裸学的な改革を加える余地がない程に深化するや,かえって逆にその改革的性格
を危険視し,これを抑圧する態度すら示すに至ったのである。第10表に見る但裸学派の
儒学者の進路調査中の藩士,特に上土層の減少がこれを如実に示している。封建権力から
迎えられなくなった狙裸学は,当然市井の学問となって普及した。これが,第10表にお
第10表
祖裸学派の儒学者の進路調査
総人数
享保期衰
宝永期元文期
暦1
;I
文政期優応期
享和期貢保期
l
97
備考)この調査は「漢学者伝記集成」
「儒学源流」 「大日本人名辞典」
「日本教育史資料」諸国の「人物誌」等を参考とした。
26
鈴
木
博
雄
しか し
それ が
寛享
いて,元文-宝暦期と明和一寛政期における私塾の増加となってあらわれた.
政2年に発せられた異学の禁は,この阻裸学派の私塾に致命的な打撃を与え,
和期一文政期の私塾の激減の一因となったほどであるo
こうした狙裸学派の私塾の消長は,一方において以上のような社会的条件によって大き
な影響を受けながら,他方では,阻裸学派の内部にも大きな問題を含んでいた。
すなわち・狙裸穀後の阻裸学は・阻裸の経学の面を継承した太宰春台と詩文の面を継承し
た服部南郭との二派に分れて行ったのである。春台は,阻練の生前には,南郭,周南らに
比して師に認められること少なく,紋日身も阻裸の古文辞学や文芸尊重の風を忌悼なく批
判していたが,阻裸の穀後は,その政治,経済の学において時流を超えていた存在となり,
よく師説を天下に重からしめたのであるoその門下よりは,松崎観海をはじめ宮田子亮,
稲垣長章,五味釜=I,渡辺豪庵らを輩出せしめているo春台は,性謹厳で徳行を重んじ,
護園塾の自由放任主義が,ややもすれば放掛こ流れ細行に拘わらない弊害を常に戒しめて
いたから・彼の門からは,徳行の士が多く出たのである。しかし,その反面,南郭の温籍
寛容の人となりに比して,やや洞介なところがあったために,門弟の多くは,春台を敬遠
して,南郭の許に集る風があった。
南郭は,但裸の詩文の学を継承した蒙園第一の高弟で,狙裸硬後,よく護園の学を鼓吹
して・天下に普及せしめるに力のあった人であるo人となり温籍寛容にして長者の凪があ
り,その教育方法も,門弟の個性を尊重する自由主義的な傾向を示していたから,彼の私
塾には入塾老が殺倒し・その繁栄は,
「聴徒塞に彩しく,門外市を為す」13)(原漢文)と伝
えられ,束修・謝儀の額は年150余両に達したといわれている。その門からは,鵜殿士
寧・湯浅常山,石嶋筑波,宵瀬維翰らを出L,護園の主流を形成して行ったのである。し
かし,南郭は,阻抹学を修めながら,詩文の学を専らにして隆義を講ぜず,経済を論じな
かったために,阻裸学は専ら詩文の学に流れ,その門流は,逐に空文虚詞をもって自ら喜
ぶという弊風を生じたのであるo安永,天明の頃に至って,一世を風廃せる阻抹学は,
「ソノ流弊模擬票傭ニナガレ,故事トイ-メ,世説豪求ノ中,陳腐ノ熟套ヲ以テ,百回千
回用二充ツ,故二万口-辞ニシテ,十首己上-不レ可レ観」14'と云うような批判を浴びるに
至ったのである。
このように,阻裸学の分裂的継承そのものが,すでにその後の阻裸学派の内部からの自
壊作用を促す原因であったのである。
以上は,蒙園塾の発展について考察したのであるが,つぎに,その特徴的な塾風につい
て考察して見よう。
蒙園塾の塾風のもつとも特徴的なことは,この塾が,近世の厳格な儒教主義道徳の許す
限界を超えるほどに自由潤達の雰囲気に満ちていたことである.阻裸は,朱子学派の道徳
的厳粛主義に対して「宋儒の経学につのり供人は,是非邪正の差別つよく成行,物毎にす
みよりすみ迄はきと致したる事を好み,はては高慢甚敷,怒多く成申贋物に供。風雅文才
ののびやかなる事は嫌ひに成行,人柄悪敷成申供事世上共に多(く)御座候」15,という批判
を示し, 「学は寧ろ諸子百家曲芸の士と為るも,道学先生と為るを願はず」16'(原漢文)と
27
近世私塾の史的考察
さえいっているのである。ここに彼の,道徳的厳粛主義が人情の自然に反し,豊かな人間
性の陶冶に適作用をおよぼしているという独特の教育観があらわれているのである。一般
に中世から近世に移行するに応じて,中世文化の基調である出世間的彼岸的傾向が,世間
的,此岸的となり,
「憂世」と観ぜられたこの世が,
「音字世」と受けとられて,現世肯定,
人間肯定の基調となり,近世文芸のけんらんたる開花は,まさしくこの宗教的倫理的束縛
から自らを解放した近世的人間の溌測たる息吹きに外ならなかったのであるが,護園塾に
おける白由な開放的教育こそ,これらの近世諸文芸の傾向と軌を一にした,学問所究や教
育の分野における中世的リゴリズムの解放を意味したものであった。これを前節で瞥見し
た闇斎塾の「戸に入る毎に心緒偶々たること獄に下る如く」といわれた敢粛主義の学風と
対比するならば,護園塾の持つ近世的性格がよく理解されるのである。元来,狙裸学にお
いては,儒教の本質を治国平天下に見出し,学問は,この治国平天下の道を明らかにする
ことにあり,朱子学の重視する徳行(修身)は,君子の独り慎むべき個人的なものとされ
ている。したがって,但裸は,その教育においても,才能知識の伸長のために力を用いた
が,その徳育においては,塾生の目敏bを尊重してそれに期待したのであるoしかし,祖
裸のいう自由・開放的な教育は,道徳的束縛の強かった当時にあっては,その真意が誤解
され易く,時にほ「塾二居リタル人ノ少年ノ客気ニテ娼家二遊デ出奔シタルヲモ再呼モド
シテ諌戒セラレシ事」17,もあったけれども,一般には,人才を愛する余りに,徳行の点で
は寛大であったことが,一層この誤解を深めることになったのである.
道徳的束縛から教育を解放した狙裸は,その教育実践においても・個性を尊重し,個性
の伸長に応じて自由な雰囲気で教育することを重視したo南郭においても,この狙裸の教
育観が継承されている。たとえば, 「-南部云,子ドモヲ教タテテ学問ヲサスルニ,素読ナ
ドヲリッパニサスルハアシキコトナリ。何ノ益ニモナラズ,大二倦心ヲ生ズルゾ,訓素因
尭ナドヲワタシテ,ナグサミモノニサセテ,自然卜字ヲ覚サスガヨキコト也」18'とあって・
当時一般的であった注入主義,厳粛主義の教育方法に反対しているのである.
徳育を塾生の白樺に期待した但裸が,知識教育に教育の憂慮を置いのは当然である。こ
れが蒙園塾の第二の特色となったものである。
「惣て学問の道は文章の外無レ之侯。古人の
道は書籍に之有侯,書籍は文章に候。能文章を会得して,書籍の侭済し候て我意を少も雑
え不レ申侯得ば,古人の意は明に候」20'とか,また「学問は只広く何をもかをも取入置て己
が知見を広むる事にて御座候」20'というように,文章を重視し,博く講書を読むことを奨
励する知識主義教育を採用したのである。しかし,狙裸のいう知識主義教育は,単なる博
識老を養成するためではなく,深い識見を療養するた糾こ広い知見が必要であるとしたo
「己が知見小きなれば,珍しからぬ事をも珍く思ひ,己が量小きなれば,知りたる事もは
や取出して用ひたくなる」21'ものであると述べているのは,これを示すものである。深い
識見を養うことが目的であるから,その攻収した知識は,これを十分に自己のものとする
までに消化することが強調される。彼は,これを管子の「思レ之,思レ之,叉重恩ユ之,忠
レ之而不レ通,鬼神将レ通レ之」_の語を引用して門弟に示している。ここから,第三の特色で
ある自学啓発主義に連なって来る。但裸は,知識の攻収とその消化を塾生白身が,苦闘しつ
28
鈴
木
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雄
つも自学工夫することを要求する。教師の指導も,「自分より見-申さざる内は批評も無益
に供」というのである。ここに講釈を主とする教育方法とは全く異なった教育方法が展開
されているのである。
「彼ヨリ求ムル心ナキニ此方ヨリ説カントスル-説クニアラズ売也,
売ラントスル念アリテ-皆己ガ為ヲ思フニテ彼ヲ益スルコト-ナラヌ事也_」22'という言は,
この自学啓発主義をよく示しているのである。
南郭も,この日学啓発主義を「育方ニアマリセワヤキタル-アシカルべシ。アルママニ
精出サセテ独進ムヤウニシテヨカルべシ」23)と述べている。
以上は,蒙園塾の塾風を,白由潤達の気風,知識主義教育,白学啓発主義の三つの観点より
考察したものであるが,つぎに蒙園塾における独白な教育方法について考察して見よう。
蒙園塾では,個人の自学工夫を重んじ,その個性伸長を尊びながら,同時に他方におい
ては,塾生の共同学習の効果を重視して,会読という学習方法を創案したのである。当時で
は崎門派で行われた講釈が一般的な学習形態となっていて,他の学派でも多くこれを採用
していた.しかし,但裸は,この講釈が学習者の自発的活動を抑EEし,読書能力や文章を
つくる能力を減退せしめ,独創性をも欠如させるなど,なんらの教育効果ももたらさない点
を指摘し,所謂「講釈十告諭」を述べている。それ故に,蒙開塾では,講釈に代って会読
が主たる学習形態となっていた。これは,
の中から,
2,
3人の「当読」
5,
6名より10名ぐらいがグループを作り,そ
(テキストを読み,かつ一応の講義をする)がクジで定めら
れ,当読がテキストを読み,一応の講義をする。その後,質疑応答があって,討論を展開
するようになっている。このグループには,最後の討論の判定をし,
「当読」の成績を評
価,採点する「会頭」が臨席している.この「会頭」には,但疎またはその高弟が当った
ようである。この会読の実情については,
「文会雑記」には,つぎのように伝えている。
「-,国策ヲ春台ノ方ニテ会アリシ時,甚ダヨミニクキ物--,コレ-洪説ノ云マワ.)メ
ルコトナレバ,トカクロニテ云テ見クルガヨキトテ,会読ニメイメイ本文ノ通ヲ,今日ノ
口上ニテ云テミタルト也」24)
会読の効果については,まず「書ノ見ヤウ格別精クナル」25'と述べられているように,
講釈をただ耳で聴くのと異なって,学習者が直接原典にとり組んで行くようになるから,
原典そのものを研究することが深められるのである。これは,会読の質疑応答,討論など
によって,一層吟味されるようになるのである。つぎに学習者の自発性,独創性が十分に
尊重されていることである。講釈の場合は,聴衆はただ講師の説くところを受動的に聴く
のみで,自己の疑問や意見が出ても,これを開陳することは出来なかったのである。しか
るに会読の形態をとるようになってから,学習者が主体となって研究し,自己の意見や疑
問も十分に開陳することが出来るようになったのである。また,講釈が,大多数の聴衆を
一座に集めて教育するという点で,この形態をとる限り,学問が社会教化的性格を持つこ
とになるのに比して,会読ほ,少数のグル-ブに区分けして,個々の学習者に個別的指導
が出来るという利点があり,この形態をとる限り,学問はより教育的性格を持つようにな
るのであるoこの蒙園塾において創案された会読という学習形態は,その後,余業,輪講
などの名称を以て,一般に行われるようになったo
29
近世私塾の史的考察
以上は会読について考察したのであるが,なおこの会読について,松崎観海は,これは
私塾の発達に伴い,私塾の教育方法として考案されたのであるという興味ある見解を示し
ている26,。すなわち.私塾における教育は.勉学の志のある入塾生が教育対象であるから,
単なる聴聞という形では学習者にとっては学習効果が判然としない訳であり,且つ学習も
道徳的実践のためであるよりも,知識を習得するという要求が強くあるから,これらの賓
求を満すためにも会読という学習形態が喜ばれたのである。また私塾の経営者の立場から
見る時は,増加する入塾生を受け入れて,しかも,学習効果を高軌且つ個別的指導をも
十分に行うた捌こは,この分団別の会読の方法が最も都合のよいものであり,会頭には
高弟のものが代りに参加することが出来るので,この点でも入塾生の増加に対処出来るよ
うになっていた訳である。
会読とともに教育方法の特色として,漢文直読法がある。但裸は,唐音に詳しい岡島冠
山を嘱して,同志と共に「訳社」を設けて華語の発音を学んだのであるが,その自分の体
験から,漢文の真義を理解するためには,従来和訓簸例の読法では不十分であると悟るよ
うになった。そこから,積極的に唐音直読法を用いるべしという主張をしたのであるが・
その根拠は,まず,漢文の字義を真に理解するためであり,彼は,従来の和訓廻環法では,
「皆似=隔レ靴掻T:症」27'と批判し,訓読により,字義が粗略になり易いと警告している。ま
た漢文を作る能力を養成するという点からも,直読がよしとされる。
「今時大儒トヨバル
オカ
ルモノ苦クル文(中略)ニ誤り多キ-,皆唐人詞ヲ合点セズ,笑シク心得ルユ-ナリ。此
訳文ヲ学-ズシテ,喜籍ヲ見テ理ノ高妙ヲ談ジ,詩ヲ作り巧ミナランコトヲ欲スルへ
トへバ倭語ヲ知ラヌ唐人ガ倭ノ筆紙を学ビ,歌ヲ上手ニナラント云フガゴトシ」28'と論じ
ている。この点は,仁斎の訳文武漢文教授法の狙いと共通のものがあるのであるo
(3)総合的考察
前節において,この期の東西の代表的私塾である堀川塾と蒙園塾について個別的に考察
したが,堀川塾は,平民階級が多く,且つ徳行を重んじて,醇厚篤実の風をなしていた点
に特徴があり,護園塾は,武士階級が多く,且つ知識を重んじて,自由潤達の気をなして
いた点に特徴があるというように,両者は極めて対照的な性格を待ったものであったo
しかし,この時期の私塾として,他の時期の私塾と対比するときには,やはり,いくつ
かの共通点を有しているのであり,つぎにその点について考察して見よう。
(-)学問研究の旺盛な塾風をなしていること。
一般に元禄一事保期は封建時代を通じて儒学そのものの学問的研究が旺盛であって,そ
の水準が最も高くなった時期であるが,この期の私塾は,それと相応ずるように,学問研
究の極めて旺盛であった点に他の時期に見ない独特の特質であった。すなわち,その期の
前期である儒学再興期の私塾においては,
「大形博覧強記斗ニテ」29'と云われるように,栄
だ儒学を学問的に考究するという段階には至らず,その多くは・啓蒙的教育活動に終始し
たものであったし,またこの期以後の各期の私塾では,寛政異学の禁などの影響もあって,
私塾は,学問研究の面であるよりも,人間教育の場である面が強くなって来て・純粋に
学問研究への清新な意欲を盛った塾風は殆んど見られなくなったのである。ただ僅かに天
タ
30
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保一慶応期の諸学分立期の蘭学塾に・これに似た塾風を見ることが出来るのみである。
(二)人材養成に努力したこと。
両塾とも,単なる学問のための学問を奨励したのではなく,厳しい学問研究を通して有為
の人材を養成することを主眼とした.仁斎は「学問は須らく清道理を看んことを要す」80,
と述べ,読書して識見なきほ,なお学ばざるに等しいと論じている。そして,書の撰択に
ち,自己を備め,人を治むるの切要なる老を撰ぶべしと教えている.一方,祖裸も,古め
学問は,自己の能力を養って以て社会有用の人物たることを期するにあったと述べ,真に
自己の実力を廟養し,自己の長ずる一枝一能を以て国家社会に尽すことを得れば,孔子の
道,すなわち仁人たることを得ると教えている31'。
これらの主熟ま,いずれも・当時林家をはじめとする朱子学派の講釈を主とする空虚
的観念的な教育方法に対する批判から発しているのであって,
「唐宋諸儒の説は多くは紙
上の空論にて御座候,紙の上に吉つらね侯所,尤と聞え候迄にて,実には取り行いがたき
事をも,道理の見えわたり供に任せあまさずもらさず書て,己が才智をあらはし,
∃_横に
構はず,只聞済よき様にと心懸候事と相見え候」82'という祖裸の言は,これを物語ってい
るo従って,狙疎も,仁斎も・こうした空虚な,見せ掛けのだけの教育に不満を感じて,
実際に人間養成に役立つ教育一失学-を強調するに至った訳である。
(≡)教育方法を改革したこと。
実学を強調した仁斎や祖裸は,学習効果を挙げるために,独創的な教育方法を考案した。
すなわち・仁斎においては・輪講,策間,制義などを考案し,狙裸において払会読法を
創案しているoまた仁斎の訳文武漢文教授法と但裸の漢文直読法の主張などは,当時の基
礎教養であった漢文の教育方法を改善しようとする意図を示したものである。また両者と
も同じく古学を尊重し,歴史的感覚を重視するところから,等しく歴史教育の必要を強調
しているoすなわち仁斎では,「経ほ道を載する老であり,史は道を以て之を裁する老であ
る」としているし,東涯も・
「経は史の本也o
史は経の望也。
-・・両の老相漂って相成る
こと33',猶は串の輔なり・船の舵あって偏廃すべからざるが如し」34)と述べているし,但裸
も・ 「見聞広く事実に行わたり供を学問と申事に侯故,学問は歴史に極まり侯事に侯」35,と
述べているo
これらは,朱子学派の教育が,道徳倫理の学を主として,歴史的意識に欠
仇時代の危機を歴史的に把挺し得ない点を批判して,歴史教育の必要を力説したもので
ある。
以上,三点から同塾を中心にして,元禄一事保期の私塾の特質を考察した訳であるが,
封建社会のけんらんたる文化の興隆と相応じて,新興のエネルギーに支えられ,かつ近世
的特徴を具備したこれらの私塾が,この時期以後,さらに近代化の方向へと発展すること
なく,衰退して行かねばならなかったところに,この期の私塾教育の階級的脆弱さがあっ
たのであり,一度,寛政異学の禁によって示されるような封建権力の露わな干渉が行われ
ると,その前には無力でしかあり得なかったところに,近世における私塾の限界があった
のである.
31
近世私塾の史的考察
註(-)
1)雨森芳洲「橘窓茶話」巻上,
『日本倫理嚢編」J第4,
2)
『増補国史大系本』 38巻,
「東照宮御実記」附銀巻22,
3)同
上,
34頁
329頁-340頁
339頁
6オ
4)
「先哲叢談」巻1,
5)
「夜会記」『蕃山全集』第5冊,
6)
「武野燭談」
7)
『国史舘日録』巻8,寛文7年7月
8)
「桃源遣事」巻之4,
9)
「徒然草野槌」 『国文註釈全書』13所収
4頁
『国史双書』 34巻140頁-141頁
28
日条
『続々群書類従』第3,所収367頁
10)松永貞徳「徒然草慰草」八巻
ll)
「東照宮御実紀」附銀巻22,
12)
同
上
『増補国史大系本』第3S巻,
13)
同
上
14)
「次に明心居士と号を取り,子供に手を習はせて愛敬あり」北藤浮生『滑倍大平記」J巻1,
「足下幸に児童を衆め,以呂波を教ゆ.」
15)
「徒然草慰草」
340頁-341頁
(原漢文「林羅山先生文集」巻3)
232段
16)新井白石「退私銀稿」
17)
「尺五堂恭倹先生行状」 『続々群書琴徒』第十三
18)同
上
135頁
19)同
上
135頁
20)同
上
135頁
21)同
上
136頁
詩文部
22)尺五堂の名称の由来は,石川丈山の賀詩中に「幸に此地を得る。天を去ること尺玉」と述べ
てあったことにある。
23)
「尺五里恭険先生行状」 『続々群書頬徒』第十三詩文部136頁
24)滝川昌楽「日本二十四孝伝」
25)
「朱子語額」巻12,
26)
「先達遣事」
27)闇斎には,
『続々辞書類従本』第十三詩文部17頁所収鳳噂集.
13丁り以下
『日本濡林叢書』3史伝書簡部所収
「死ソデモ学問シ死ナレバ苦シカラズ」として,高弟浅見桐斎が,聴講中'吐血し
た際にも,講義を休まなかったという挿話があるoJ
28)荻生狙裸「詩文国字僚」
29)
「学問源流」 『日本文庫』所収14頁
「上佃某」 『藤樹先生全集』 2巻,
3))藤樹が家老佃氏に致仕を嘆願した書面。
31)
「藤夫子行状闇伝」 『藤樹先生全集』5巻, 98頁-99頁
32)
「会津家世実紀」,天和3年12月27日条
33)
「翁問答」
『藤樹先生全集』3巻,
34)同
上,
89頁一90頁
35)同
上,
201頁-202頁
36)
479頁
147頁-148頁
「先生帰田シ諸州之土,精々門二及ビ業二韓ク,多ク-武弁ノ子弟ニシテ,楓刀往来シ,衆成
32
鈴
博
/木
雄
ナ目ヲ注グ,郡吏二至テ-,人ヲシテ之ヲ腕-使ム」という記録がある.またその門人は殆
(「門弟子並研究者伝」
んど苗字を有した郷土層であった。
37)
『藤樹先生全集』 3巻,
293頁-294頁
38)木下寅亮「錦里先生小伝」
『続々群書類徒』第十三詩文部171頁
(1)
註(二)
1)
『藤樹先生全集』 5巻,
「山鹿語撰」第21巻,
『日本倫理尭編』第4,
2)山下幸内,上書『日本経済大典』
11巻,
28頁
『日本随筆大成』 9巻,
3)太宰春台「独語」
34頁
259頁
27頁
4)-6)西川如見「町人嚢」岩波文庫版,
7)若林強姦「若林子語録」
8)先哲叢談
巻4,
4オ
9)先哲叢談
巻6,
2オ
(2)-(3)
註(二)
1)
「毒斎私祝」
『古学先生文集』巻之六六ウ-八ウ
2)伊藤東涯「先府君古学先生行状」
『事実文編』第二33頁
3)
「書斎私祝」前掲苦
4)
「立会式」
同
5)
「同志会式」
『古学先生文集』巻之六五オー六オ
6)
「同志会品題式」
7)
「同志会示諸生」同
上
『古学先生文集』同
大オ
上
8)伊藤東涯「先府君古学先生行状」
『事実文編』第二34負
9)伊藤東屋「ー古学先生詩文集」巻之6
10)伊藤東涯「先府君古学先生行状」
ll)
「古学先生伊藤岩宿銘」
12)
「護園雑話」
13)
「先哲叢談」巻6,
uJ事実文編』第二33貢
『日本思想家史伝全集』第18巻所収
26オ
14)釈超然「風湾葦響」
15)
「但裸先生谷間書」下,
『日本倫理愛編』巻6,
16)
「学月uJ7, 『日本倫理糞編』巻6,
200頁-201頁
125頁
17)
「薩園雑話」 『日本思想家史伝全集』第18巻所収
18)
「文会雑記」巻之2
19)
「狙裸先生答間苔」下,
『日本倫理費編』巻6,
189頁-190貢
20)
「但雄先生答間書」上,
lF日本倫理尭編』巻6,
156頁
21)
「但探先生答間書」上,
『日本倫理柔編』巻6,
156眉-157頁
22)
「太平策」
23)
「文会雑記」巻之1,上『日本随筆大成』第7巻,
『日本経済叢書』巻3,
24)同
上,
568頁
25)同
上,
557頁
26)同
上,
557頁
27.)
「訳文笠蹄」序
598頁
上,.『日本随筆大成』第7巻,
538頁
554頁
305頁以下)
近世私塾の史的考察
33
28)
「訓訳示蓑」
29)
「見聞談叢」巻之1,
30)
「童子間」中,
31)
「毛呂裸集」巻28,
32)
「但採光生答間害」上,
33)
「童子問」巻之下,
34)
「紹述先生文集」巻17
『日本経済叢喜』33巻所収
35)
「但探究生答問吉」上,
『日本倫理粂編』巻6,
39ウ
25章,
『日本倫理費編』巻5,
115頁
「答東玄意間」
『日本倫理桑編』巻6,
37章,
155頁
『日本倫理童編』巻5,
119頁
153頁
鈴
34
A
木
hist,orical study
博
feudal
Hiroo
This
thesis
from
age
because
schools
beginiIlng
the
Of
for
movement
private
schools
Ansai's
school
in
1635
were
and
founded
for
of a internal
Tokugawa
era,
most
in
school.
Kyoto
near
Confucianism
in 1655,
is
taught
were
Nakae
was
a
as
T6ju's
a
school
in
in
was
These
not
only
in
war,
of the
in
these
Yamazaki
established
typical
feudal
the
the
center
1637,
which
for
teachings
moral
higher
schools
in
1645.
of culture
a
typical
established
established
center
as
appeared
The
was
which
feudal
few
After
age.
middle
were
enlightenment.
school
which
which
the
schools
in the
school
In
age.
warrior
these
class
peasantry.
Tokugawa
of
The
critical
educational
Kaidoku-group
for
era,
The
schools・
methods
through
private
established
Junan's school
or
popular
example,
Teaching
was
which
Einoshita
of the private schools
there
were
age
of Japan,
middle
continued
educational
Sekigo's
schools
age.
background
In
some
private
SuzuKI
social
view.
war
and
Matunaga
peasantry・
and
They
had a
class・
was
of
cultural
private
chant
the
stand
merchallt
and
In the middle
famous
inquire
to
were
Chinese
school,
but
tried
historical
a
the
of
irl the
雄
Ito Jinsai's school
former
latter
thought
thought
were
in
established
Hsi
Chu,
against
at that
pronunciation
time・
Ogiu
in
Kyoto
Sorai's
(1662)
school
were
chiefly
Tokyo
They
methods-were
of Chinese
improved
used
also
by
improved
educational
both
school
by
Ogiu
most
for
for
(1709) chiefly
(113011200)'s moral teachings
were
reading
the
established
and
mer・
warrior
which
methods,
at first.
Sorai's
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