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忍者刀

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忍者刀
三重のお宝~忍者~
五十子 元康
辻 光平
中本 洋平
原 浩史
吉岡 竜吾
はじめに
三重のお宝ということで僕達の班は、忍者を取り上げることとした。理由は、忍者と言うものの秘
密性にひきつけられたからである。しかも県外の班員も全員知っており、少しでも興味があるもの、
という理由で選ばれた。
「お宝性」というものも見つけやすいであろうという理由も挙げられる。
1、なぜ伊賀は忍者のふるさとになったのか
忍者の里、伊賀の地は古琵琶湖が作ったと思われる複雑な地形となっており、また平野部に高
く突き出された山麓が多く、迷路の谷あいの地が北部には多く見られ、東は布引山地の高い山に
さえぎられる。このような複雑な地形は自然の要塞として外敵からの攻撃を守り、そして攻撃する
ことに向いていたと考えられる。
神武天皇から堀河天皇に至る間の漢文の編年史であり叡山の僧皇円著の平安末期成立の歴
史書である『抹桑略記』には「伊勢の四群を割き伊賀国を置き、国府を阿拜(あへ)郡に置く」と記
されており、天武帝の時代(680年ごろ)から明治まで独立した行政区域をして独自の文化を築い
ていたとされている。また弘仁式、貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則であり、平安
初期の禁中の年中儀式や制度などのことを漢文で記し、905年(延喜5年)に藤原時平、紀長谷
雄、三善清行らが勅を受け、時平の没後に忠平が業を継ぎ、927年(延長5年)撰進され967年
(康保4年)に施行された『延喜式』には、東山道の最初から伊賀国が記載されている。都から東
国へ向かえ山越えの要地でもあった。
こうして伊賀の山地には大伴、藤原、橘、服部、阿部などの姓(かばね)を持つ人々や、平氏や
源氏の一族と称するそれぞれの由緒や伝承を持つ人々が住みつき、農地を開き、植木を植え付
け、材木をとり、狩をしながらそれぞれの谷あいに自分たちの「むら」を作っていった。古代から中
世にかけて、荘園制の崩壊と並行して「むら」は村民全体の名によって村の意志を表示し行動す
る共同体である「惣」として団結を強め、その惣を率いるその土地の土着した勢力をもった土豪が
成長していった。そしてそれぞれが砦や城を築き、館や作り濠をめぐらして一族郎党とともに自分
たちの「むら」を守っていった。土偶は名田の開拓者、所有者として名主ともいわれ、有名な名主
は在地領主として、しだいに周辺の土地と農民を支配し、さらに勢力を拡げて他の小領主をその
支配下におき、広い領地を持つ大名主、つまりは戦国大名として成長するものもあった。しかし伊
賀に数多く残されている中小の城館が示しているように戦国大名として全体を支配する領主は生
まれていない。
伊賀では小さな力で大きな外部の力と対抗するための方法が必要であった。そこで伊賀の人た
ちは諜報技術や特殊な戦法を身につけた。これが忍者である。都に近く東国との交通の要衡でも
あった伊賀の地は主要な戦いや、各武将の戦力などについての情報を得るためにとてもめぐまれ
た位置にあったといえる。
また伊賀の弥勒菩薩の居所である兜率天(とそつてん)の内院にある四九重の摩尼宝殿であっ
た四十九院の山伏たちから修験の行法を学んだと考えられている。そして姿三四郎が柔術の技
を猫から教えられたという話があるように、何よりも狩猟生活の中で動物から多くの技を学んだと
も考えられている。さらにほかの地方よりも恵まれた薬草の知識や杣人といわれるきこりや大工
の知恵も取り入れて多くの忍薬や忍具を作る技術を開発したと見られている。こうしてほかの地方
ではみられない特殊戦法と特殊技術を身につけられた武士たちが生まれた、これが忍者としての
伊賀武士である。
2、普段の忍者の生活や衣装
今回伊賀の忍者の普段の生活を調べてみた結果、無足人制度というものが関係していることが
分かった。この無足人制度というものは藤堂高虎によって定められたもので一定の報酬がなく無
給ではあるが武士階級としての面目は保ち毎月六度の武芸に励んでいたということである。普段
は農業にいそしんだり山廻り役や藪廻り役などをつとめ、なにかあった時には武士に従事するい
わば武士の予備隊の物であった。また藤堂藩では毎年『武芸一覧』と称する演習が行われており、
忍者たちは藩主の前で日ごろ鍛えていた家伝の火術を披露していたとのことである。
次に衣装についてであるが、忍び装束というものはなかった。これは現代の刑事が捜査するとき
に制服を着ないのと同じで、忍者と分かる服装はしなかったのである。意外なことと感じるかもし
れないが城攻めの時には忍者も鎧に身を包んでいた。また敵地に潜入するときには色々な職業
の服装に変装していた。
また夜に、闇にまぎれて忍び寄るときの衣装は黒装束と思われがちだが実際は真っ黒のもので
はなかった。なぜなら夜といえども月明かりなどがあったり、真っ暗ではないので、黒だとかえって
輪郭が浮き出て目立ってしまったからである。ほんとうは濃い紺色であった。「クレ染め」といわれ
る伊賀地方の農民の野良仕事の仕事着であった。この野良仕事着に覆面をしたものが一般的な
忍び装束となったのである。
また忍者の刀についても同じことが言え、忍者独特の道具や武器を所持していると正体を見破
られるので忍び刀や忍者刀といった特殊な武器を忍者がもつことはなかった。現代人には特殊な
道具にみえるが、当時の農機具や日常生活の道具がほとんどであった。それらを高いところへ登
るときなどに応用したり、武器に利用する技法が忍術だったのである
参考資料: 伊賀上野ガイドブック 観光100問百答
3、忍者はいったいどこから来たのか?
忍者の発生はいまだなぞであります。いくつか説があるのであげておきます。
①インド発生説
インドの貴族階級バラモンが行った幻術や魔術が中国に入り、それが老子の教えと結合し、中
国独自の発達を遂げた。その教えが日本に仏教が伝来したころに来たと言われている。
②中国発祥説
中国の秦の始皇帝が不老不死の薬を探すよう徐福(じょふく)という男に命じた。この男が日本
へやってきたときに、色々な術を教えたという説があります。
ほかには遣唐使であった小野妹子が持ち帰ったという説や、吉備真備が持ち帰ったという説もあ
ります。
③日本発生説
日本書紀に書いてある神武天皇東征のとき、天皇の側近である道臣命(みちおみのみこと)が、
術を使い賊を倒したという箇所があります。これが日本で術を使った第一号と言われています。ま
た小角(おづぬ)が甲賀流・伊賀流の祖であるという説もあります。
と様々な説がありますが、今のところどれが正しいかは全くの謎です。
★発祥
忍者(=スパイ)は、いつ、誰が作り出したというものではありません。
敵がいればその内情をさぐったり、撹乱したり、抹殺したいと思うのが“人間の一面”というわけで
す。つまり忍者(=スパイ)は文明発祥とともに自然発生しました。
中国では紀元前24世紀、伏義の時代に生まれたのではないかと云われてます。
しかし本当の意味で、「スパイとは何ぞや?」を定義したのは紀元前6世紀の孫子です。彼は、
過去の戦争記録を研究した結果、「戦に勝つには、情報収集が最も大切である」 ということに気
づきます。戦争におけるスパイの重要性を、世界で初めて論じた人だったのです。
その意味で孫子は、『忍術』の創始者であるといえます。
4、イメージ上の忍者と現実の忍者とのギャップ
・手で印を結ぶ
よくテレビとかで手で印を結んで「どろんっ」と消えるシーンがあるが、まさか本当に
消えるわけではない。けれど現実の忍者も印を結んでいた。
この印を結ぶのは「九字護身法」のことである、「護身法」と言っても、これで身を守ると
いうわけではなく、精神集中や自己暗示のための、言わばおまじないのようなものだ。
重要な任務に就く前や、敵地に侵入する前などに精神を統一し、「こうすれば大
丈夫」と強烈な自己暗示をかけるために行なった。
つまり九字護身法とは、心の不安や動揺を打ち消す精神安定の方法なのである。
・分身の術について
テレビなどで見る忍術で代表的なものに「分身の術」がある、これは非現実的なものか
と思いきや、実際に可能だったのである。では、どのように行ったのか?
さすがにテレビのように高速移動して残像を見せるというのはいかに俊敏な忍者と言え
ども不可能。実際に忍者が用いていた方法は、擬似的な分身術。これは「八方分身」と呼
ばれ、相手に催眠術をかけて、自分を 8 人いるように信じ込ませる術。一説によると、忍
者は薬物に精通していたので、麻薬を用いて敵に幻覚を起こさせ、分身のような錯覚を見
させていたのではないかとも言われています。
・服部半蔵は本当に忍者か?
歴史上には自分から「俺は忍者だ」と名乗った人物はいません。
伊賀の上忍とされている彼ですが、実際には武勇で知られるエピソードが見られますね。
「鬼の半蔵」
「槍の半蔵」と言った呼び名も戦場での働きで生まれた称号だそうです。
本能寺の変で織田信長が死んだ時、主君の徳川家康を逃がした功績が彼の手に寄るものだ
と言う事は歴史上の事実ですが、これが既に武者働きです。同様の功績を持つ侍が、豊臣
秀吉を含めて多数存在します。
他にも彼には影に生きて影に死ぬような話よりも、1人のサムライとしてのエピソードが
色々あります。
家康の長男、信康が切腹を命じられた時に介錯(腹を切った後に苦しまないように止めを
刺す)を任された辺り、家康に信頼されている武将である事の証明です。
そんな訳で服部半蔵は、今でこそ忍者みたいに思われていますが、本当に忍者なのかと問
われるとかなり怪しくなります。
5、忍者の能力&お宝性について
忍者のお宝の点はというとその身体能力があると思う。一番言われているのが、跳躍力で、言
い伝えによると「12尺(約3メートル60センチ)も飛び上がった」などと言うものがある。しかし、高
さ12尺の塀は常識的に考えてフィクションか誇張であるとされている。一方、文献研究の結果か
ら現代、「忍者が高飛び訓練の目標にしたのは9尺(約2メートル70センチ)であった」と分析がさ
れている。
この忍者の跳躍力9尺を基準に考えてみると、現在の走り高跳びの世界記録は2メートル45セ
ンチであり、忍者と比較すると忍者のほうが25センチも高く跳んでいる。ではこれも誇張ではない
のかと思うかもしれないが、専門家によると「現代の高跳びの方法でバーに触れずに跳び越えら
れたのかというとそれは考えにくい。しかし敵の屋敷や城に忍び込む際、必ず無接触で飛び越え
る必要は無く、まず手をつき一気に身体を引き上げる方法によっては十分可能であるといえる。」
と語っている。
しかし9尺に手を付くと言っても路線バス近くの高さがあるらしく、すばやく音も立てず、しかも江
戸時代であるため平均身長も今より10センチほど低い時代だったと考えれば現代のトップアスリ
ートに勝るとも劣らないと言える。
では、そのほかの記録はといえば、「幅跳びで18尺(約5メートル45センチ)、1昼夜に歩ける距
離は40里(約)160キロ、飛び降りる高さの限界は50尺(約15メートル)」だったと言われている。
これに対し「走り幅跳びの世界記録は8メートル95センチ、24時間走での記録は303・506キロ」
で160キロならアマチュアの選手でも達成できるそうである。では、高跳びに比べなぜ忍者の能
力が現代人の記録を大きく下回っているかのように見えるかというと、競技と実践の違いによるら
しい。専用のスパイクや整備されたグランドではなくさらに助走も無く5メートル以上跳んで別の場
所に移動できるとしたら、人間の能力の極限値であるといえる。また陸上自衛隊でも訓練としてお
こなうときに1日に移動できる距離は最大でも100メートルほどであり、実践的な歩行と考えると
人は1日に70~80キロ程度しか移動できないとされており、これは「不可能とは言えないが、超
人的身体能力」といわざるをえない。
なぜ、このような能力が出せたのかというと、日々の訓練は言うまでも無いが、遺伝ということも
大きく絡んでくる。現代のトップアスリートたちは自分の意思でその競技を始めるのがほとんどで
あるが、忍者はある能力に長けた人材を同じ家系から育成していた可能性があり、つまり、遺伝的
に優れた素質をもつ人材を、生まれて間もないころから鍛え上げることが出来たということにな
る。
自分たちと同じ県に日々進歩していくスポーツの中で金メダリストにも凌駕する人物が大勢い
ただけでも三重の宝と言えないだろうか。
参考文献「忍者と忍術」 学習研究社
6、感想
・辻 光平
忍者について調べてみて、色々大変だった点が多かった。やはり、前例があると言うのが一番
大変でした。
まず、先輩の前例を見てそれからそれと違うものを調べようとしたので、幅が最初から狭くなっ
てしまい、何を調べてよいのか最初は正直迷いました。けれどオリジナルを追求したいと言う気持
ちが徐々に強くなり、内容とかも考えていくことが出来た。
やはり忍者そのものが「謎」の存在なので、調べるといっても推測や「~だろう」で終わる記述な
どが多く、多くのことはいまだに謎に包まれたままだけれど、意外な発見や、忍者の凄さといった
ようなこともわかり、有意義な調べ学習となった。
・中本 洋平
三重のお宝とはなんだと考えたときに真っ先に頭に浮かんだのが「忍者」でした。私は県外の出
身だったので三重県の名産や名物、観光地等の「三重県のお宝」としてあがるようなものが忍者し
か思いつきませんでした。せっかく調べるなら少しでも知っているもののほうが楽しい、それに伊
賀忍者なら有名だしお宝性も多く見つかるだろうと思いテーマが決定しました。
簡単に考えていた伊賀忍者のお宝性はなかなか見えてきませんでした。昔から残っていること
や単に有名なことだけではお宝性としてはふさわしくないように感じたからです。古くから伝わるも
のや知名度の高いものがたくさんあるなかで、三重のお宝として伊賀忍者をあげるためにはなに
が必要なのか、私はそれがわからなくなってしまいました。しかし、現地調査を通して、人との結び
つきが足りなかったことに気づきました。忍者がどのように伊賀上野の人たちと関わって残ってき
たのか、そこにこそお宝性があるのだと考えるようになりました。
今まで受けてきたどの調べ学習よりもスケールの大きい今回のルポは、方向性を見失い途方に
くれてしまうこともあったが、今までのどの学習よりも達成感や満足感といったものがえられました。
ひとつのことに対してこんなに時間をかけ調べたことを初めてだったのでとてもすばらしい経験に
なったと思いました。
・原 浩史
今回忍者を調べようといいだしたのは自分だった。その理由の一番の理由としては自分が上野
に住んでいて改めて忍者の事を調べたいと思ったし、みんなに忍者の存在をもっと知ってほしか
ったからである。自分が今住んでいる忍町はかつて忍者が住んでいたとされている町である。日
本全国にも忍者が住んでいたとされる町はあるけれど、忍者が住んでいると明かしたくない忍者
にとって町の名前に忍といれた町は全国を探しても一つしかないということが実際調べてみてわ
かりとても誇らしい気持ちになった。今、上野では老人のための体を動かす体操のために忍者体
操というものを行っている。このように様々な形で忍者というものをこれからもアピールするような
方法を自分も考え、さらにたくさんの人に忍者の存在を知ってほしいと思った。
・吉岡 竜吾
忍者の発生の地はこれまで日本なんだと思い込んでいましたが、今回調べた結果、日本以外の
発生説もあることを知って、とてもおもしろかったです。中国などの発生はまだ理解できそうでした
が、インドにも忍者がいたかもしれないと考えると、とても不思議で興味がわきました。また、同じ
グループの子の住んでいる町(忍町)がとても忍者にゆかりのある地だと知って驚きました。実際
その地にも足を運びましたが、古い建物が多く、趣のある雰囲気で忍者にゆかりがあったんだな、
と改めて思うほどでした。今回の忍者の調査はとても楽しいものとなりました。
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