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齋藤先生インタビュー記事(電気加工学会誌, Vol.49

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齋藤先生インタビュー記事(電気加工学会誌, Vol.49
齋藤長男先生インタビュー「電気加工のはじまりと飛躍」
An Interview with Dr. Nagao Saito
“The Beginning and Dramatic Growth of Electrical Machining”
豊田工業大学
名誉教授
S.N.技術研究所 齋藤長男先生
(インタビューアー
静岡理工科大学
後藤昭弘)
1.技術者としてのスタート
完全なライセンシーなんです。全部ウェスチング
―― (後藤)
ハウスの図面の通り作ってたんですな。その通り
本日は、豊田
に作ったと思っていたシャフトがポコポコ折れる
工業大学名誉
んです。この原因は何だ、材料がわるいのか、設
教授 齋藤長
計が悪いのか、工作が悪いのか。ずっと調べてい
男先生のお話
くと、材料に NiCr 鋼という指定があるんです。と
を伺います。
ころが、当時日本には Ni がほとんどなかった。
齋藤先生は、
Ni がないから Cr 鋼になるわけで、脆いんです。
三菱電機の放
それを使ってキー溝を図面と通りに切ると、キー
電加工事業の
溝の角のところから破壊が始まっていたんです。
産みの親で、
キー溝は応力が集中するところですから。当時集
日本の放電加
中応力っていうのは、初耳みたいなものだった。
工にとっても産みの親のおひとりです。齋藤先生
会社の図書館で本を調べて、これは集中応力で壊
のお生まれは 1923 年、大正 12 年で、現在御年 91
れたんだなと思いました。それを持ち込んできた
歳
(2015 年 1 月現在)
、
3 月で 92 歳になられます。
職場に対して、Ni がない Cr 鋼だから、角張って
同じ年の方を調べましたら、遠藤周作、三國連太
いると壊れると説明しました。こっちの立場から
郎、李登輝、司馬遼太郎、リー・クアンユー、ヘ
すると、角になぜ丸みを付けないのかというと、
ンリー・キッシンジャー、等の方々がいらっしゃ
それはウェスチングハウスの図面通りにやったの
いました。
渋谷の忠犬ハチ公も 1923 年生まれだそ
で、変えられないというわけです。ちょっと丸み
うです。齋藤先生は、驚くべきことに現在でも現
をつければ壊れないのに。
その人たちがいうには、
役の研究者、教育者であり、私の研究室でも私や
壊れないものもあるというんです。確率の問題で
学生たちに丁寧なご指導をいただいています。
すわね。こういうことで強く意見を行ったことが
それでは、まず、どのように技術者としてのス
あるんです。
「ウェスチングハウスの図面だからと
タートを切られたかというところからお話いただ
いっても材料が合わない場合もあるだろう。
」
そう
けますか。
いうことを言って、技術提携をしている三菱電機
(齋藤)
大学を卒業して、
三菱電機の本店研究部、
の体質の問題点があるということを強く感じまし
今の中央研究所ですね、
に配属になりました。
1942
た。そういうが戦争前にあったことです。
年のことです。
そこで、
材料試験をやったんです。
例えば、当時、よくモーターのシャフトが折れた
2.大病と戦争
んです。当時は三菱電機はウェスチングハウスの
(齋藤)三菱電機に入社した翌年にね、大変な病
気をしたんです。昭和 18 年に、虫垂炎の手遅れの
究課題だった。熱処理が大事だということです。
腹膜炎になったんです。で、その時にね、3 回手
それで熱処理の後、それを磨くのは、電解研磨だ
術して、3 か月入院してやっと治った。ペニシリ
というわけなんです。電解研磨というのは、当時
ンの無い時代でした。それは、非常に絶望的な病
フランスのジャッケが発明したという情報が入っ
気で、死ぬ人が非常に多かった。でもとにかく僕
ていた。ジャッケの電解液は過塩素酸とエチルア
は助かったわけです。だから、助かったのは幸運
ルコールの混合液で電解研磨すると、鋼材は見事
やらいろいろあるわけです。助かったおかげで、
にピカピカひかる。その電解研磨をやっていたの
その年は徴兵延期です。昭和 18 年(1943 年)は
で、印象に残っていたんです。担当者は別だった
20 歳の時です。それから、翌年の 19 年(1944 年)
のですが。
は徴兵検査を受けたら甲種合格になった。甲種合
戦後、僕がやった仕事は材料に対する破壊の問
格になると、いつ引っ張られるか、入営通知が来
題で、いろいろなケースにぶつかりました。これ
るかわからないわけです。その次の年、昭和 20
が後々役に立ちました。戦後、三菱電機の倉庫に
年(1945 年)の 8 月に戦争に負けるんですけど、
いろいろな鋼材がある。倉庫が研究所に頼んでき
その年の 5 月に、入営の通知が来たわけです。青
たのは、Ni の入っている材料がありそうなので、
森の通信隊に入ってくれということで、行ったん
それを識別してくれないか、と。倉庫としては、
ですけど、身体検査がありました。軍医が僕の体
どれがどれだかわからなくなっているということ
をみて、3 か所にすごい大きな傷があるんです。
でした。分析屋と相談して、Ni をすぐ見つける方
背中まであるわけですよ。それを見て、
「これだけ
法は無いかと聞くと、
「ある」というんです。材料
の傷がある人は軍務に向かない。あんたは幸いに
の表面に、塩酸塗るんです。そこに、有機試薬の
重要な有力な会社の技術者だから、いつ倒れるか
ジメチルグリオキシムをちょっと入れると鮮明な
わからないような体で戦争に行くよりも、会社に
紅色の反応が出るんです。それを倉庫中の材料で
戻って仕事やってもらった方が国家のためにな
試して感謝されました。
る。
」というわけで、即日帰郷になったんです。内
心は「助かった」と思ったんですけどね。本当は、
4.放電加工研究のきっかけ
ありがとうございます、
というべきなんですけど、
―― (後藤)そろそろ放電加工の研究のきっか
そうは言うわけにもいかないので、残念そうな顔
けについてお話していただけますか。
をして「では、仰せの通りにいたします。
」と言い
(齋藤)戦争が終わってすぐ生産技術会議という
ました。それで、会社に戻ったんです。
のが、始まりました。
三菱電機の工場ってのは、みんな日本列島縦断
3.会社復帰
していて、
向こうは長崎から福岡を通って、
福山、
―― (後藤)その頃はどんな仕事をされていた
伊丹と散らばっているんですね。それで、工場の
のですか。
技術情報、現場の情報が伝わりにくいんです。年
(齋藤)その頃会社でやっていたのは、材料試験
間 3 回ぐらい、
いろいろな分野の分科会を行って、
なんですけど、電解研磨を他の人がやっていた。
疑問に思っていること、発表したいことを出すと
なぜ電解研磨かというと、航空計器を三菱電機が
いう会議を開いたんです。本社生産技術部長の提
作っていた。コマみたいなものを高速回転するこ
案だったんです。僕はこれは非常に良かったと思
とで、方向がわかるという計器です。ジャイロで
っています。ついては、研究所からだれか出して
す。ところが、軸が摩耗して困るという話みたい
くれっていうんで、研究所長に依頼が行ったわけ
だったんです。高炭素鋼だったんだけど、軸の中
です。そうするとね、専門家がはっきり決まって
にセメンタイトがいっぱい粒状で入っとって、そ
いるのはいいわけですけどね、例えば、絶縁材料
れが抜けるためだという説があって、いかにして
とかね、高電圧の過渡現象とか、そういうのはも
セメンタイトが抜けなくするか、ということが研
う(専門家が)いるわけです。そうじゃなくてね
え、物を作る方の技術っていうのは専門家がいな
スと心得て、研究所はこれにあたってほしい。
」と
いんです。いないもんだから材料試験やってるん
いうことだったんです。それで、私はねえ「わか
だったらいろんなことに関与しているだろうとい
りました。やります。
」といって戻ったんです。戻
うわけでその委員会に出ることになったんです。
ってこういうわけでやりますと答えましたと報告
僕一人しかいないわけですから。その委員会に出
したら、
「お前もいい加減馬鹿だな。
」と言われた
たのが、僕にとっては非常に幸せだったと思いま
んです。そんな難しい問題を簡単に引き受けるな
す。
んて言うもんじゃない、というわけなんですね。
とにかく一番印象に残る課題は抜型の生産なん
です。
その時会議を名古屋製作所でやったんです。
これが、僕の出発点、つまり、非常に重要なニー
ズにぶつかったわけなんです。
抜型はいかに難しいかということをコンコンと話
本社生産技術部の加藤たけおさんっていう重役
されたわけです。当時抜型ってのは直線と円弧で
の方が委員長だったんです。僕は、加藤たけおさ
近似できる形状にして金型を全部ばらすわけです。
んの最大の功績は生産技術会議を作って、研究所
全部直線と円弧で近似できる範囲に分割するんで
をひっぱり出してきて、研究所の変な人たちを引
す。それを、それぞれプロファイルを加工して組
き出したことだと思うんです。変な人というと、
合わせてダイとパンチにするんですけども、合わ
僕もその一人かもしれないが、他にもいるんです
せたってすぐにうまくはいきませんわね。ずれて
よ。そういうわけでニーズがものすごく重要で、
ますから、修正するのに大変な手間がかかるわけ
製造技術はそれができれば大変な革新になる、と
です。スペシメンをひとつひとつ作るのに、一番
いうものを示してくれたんです。僕は何とかしな
進歩していると当時言われた工作機械を買ったと
ければいかんと思ったんです。怒られたんですけ
いうんで見に行きました。プロファイルグライン
どね。
ダというんです。輪郭を投影して、拡大して出す
―― (後藤)その頃は、もちろん放電加工はあ
んです。それに合わせて手動で研削するんです。
りませんよね。
これで加工したスペシメンを組合わせて外側から
(齋藤)ないんだ。何とかしなければという気持
締めるんです。本当にぴったり目標とするクリア
ちが頭の中にいつもいっぱいあった。一挙に輪郭
ランスにするっていうのは初めからはできない。
を抜けるような加工技術は無いものかといろいろ
調整が大変で、最後確認するのは、薄紙を抜くん
なこと考えたんです。
です。
紙がきれいに抜ければいい、
抜けなければ、
どこか悪いということなんですな。モーターはコ
5.放電加工の実験開始
アを抜型で抜きますが、抜型が大変だった。あま
―― (後藤)放電加工に関わることになったい
り複雑な形状にするなと言われていた。
ましてや、
きさつはどうな感じだったのですか。
順送型なんていうのは、一方から長尺の板を入れ
(齋藤)戦争が終
て順番に抜いていくんですが、これができると打
わってすぐ生産技
ち抜きの作業は極めて合理的に行くんですが、
「こ
術会議が始まり抜
ういうものをつくるのがどれだけ大変かわかった
型が生産性向上に
でしょう」というわけなんです。もっと合理的に
いかに大切である
行く方法は無いもんでしょうかね、と言われたん
かというニーズが
です。生産技術会議はこういう非常に難しい問題
はっきりわかった
をはっきり出してきたんです。
委員長が言うには、
わけです。そうこ
「これは非常に難しい問題である。なんとかしな
うしているうちに
ければならないが、手が出なかった。今まで本店
終戦 2 年くらいし
研究部(研究所のこと)はタッチしてこなかった
て、東大の鳳誠三
んだけれども、この生産技術会議を一つのチャン
郎先生が放電加工
を発表したんですね。鳳先生が、ロシアの科学技
だめだということです。それで、電気屋なんかに
術映画を見たわけです。
そして、
星形状の電極で、
相談したんですけど、
「そんなものは、
・・・」っ
ドロドロの油の中で、鋸刃のような廃品みたいな
てなもんなんですな。それで考え付いたのが、差
ものに穴を明けたと、穴を明けたら、星形の穴が
動歯車なんです。差動歯車っていうのは、モータ
明いていたと、いうことなんです。それを見たっ
ーが 2 つあるんです。正転、逆転で送り速度が変
てわけなんです。その時僕は 21、22 歳くらいでし
えられますね。それで、ようやく使えそうな放電
た。本店研究部の電力の研究をやっている電気学
加工機ができたんです。研究所の試作課に大変協
会の連中が、
その話を聞いて、
「電気学会でこんな
力してもらいました。それで、
「見るも無残な放電
発表があった」と、僕のところにコピーを持って
加工機」ができたわけです。それで加工すると、
きて見せてくれたんです。鳳誠三郎先生の情報を
遅い速度で、加工して短絡すると、ピャーンと戻
僕にもたらせてくれたんだなあ。それが、非常に
るんです。逆転させるのにスイッチがいるんです
大きいわけです。
けど、自動で動いてもらわないといけない。コン
その情報で、あっと思ったんですな。抜型作る
タクタを使いました。接点がすぐにだめになるか
のはこれだ、と思ったんです。それなら、すぐに
と思いましたが、結構持ちました。それで、放電
取り掛かろう、と。真似しなきゃ、と思ったんで
加工機ができて、
見せられるようになったんです。
す。放電加工なんて売っているわけがないんだか
誰に見せるかというと、上役です。僕のすぐ上の
ら。だからどうしたらいいかですけどね。もうこ
上役です。それと、研究所長が非常に関心を持っ
れは自分で考えるしかなくて、伊丹製作所の中に
とったんです。大野さいぞうって人ですけど。そ
は、
古いボール盤が捨ててあるところがあってね、
の人が見てくれて、
「これは製品になる」って言っ
それを拾いに行ってね、ボール盤の主軸を上下さ
てくれたんです。
「そのサンプルをちょっと貸して
せる機構、それを使おうとしたんです。拾ってき
くれ、本社に言って製品化の相談をしてくる」っ
て、一応手直ししてね。僕には非常に有能な助手
て言ってくれたんです。それが、放電加工機を三
がいて、ご存じかもしれんが、真鍋さんね、その
菱電機で事業化しようという種になったんですね。
人がいろいろ作り直してくれたんです。最初は手
送りで、コンデンサー放電で、短絡の頻発で大変
6.事業化
な苦労をしました。それが、放電加工の出発点で
(齋藤)放電加工の研究の過程で、研究所の所長
す。
から頼まれたことがあるんです。半導体が生まれ
役に立ちそうなものを、いろいろ自分で考えま
たばかりの時の話です。半導体というと今では Si
した。僕が考えた放電加工の送り装置は、ダイナ
ですけど、昔は Ge だったんです。Ge っていうの
ミックスピーカーを使うことです。三菱電機はダ
はものすごく値段が高くて、それをスライスしな
イヤトーンというスピーカーを作っていたんです。
ければいけない。直径が 1 インチくらいの Ge を
スピーカーを作っていた人が、ボイスコイルをく
スライスするのに、円盤の砥石で切っていくんで
れたんです。これを使って、手作りで装置を作っ
す。円盤といっても完全にまっ平らではないし、
たんです。軽い物でないとだめですけど、3mm か
取付の誤差で、溝の幅が、1mm とかそれ以上にな
5mm の棒を使って加工したところが、今まではす
るんです。研究所長が僕に言うには、
「こんなに無
ぐに短絡したんですけど、短絡が瞬時に解消した
駄にしている、Ge はものすごく高い、金よりも高
んです。でも、これは軽くて小さいものでないと
い」ってわけです。
「金よりも高い Ge をこんなに
ダメなんです。モーターの金型に使うには、重い
も切粉にするようでは、困るんだ」と、これを少
ものに耐えられないといけない。そのとき思った
なくできないかというわけです。何でもかんでも
のは、放電加工というのは、いかに送りを遅くし
僕のところに持ってきた。当時超音波加工機が出
て、短絡したらスピーディーに戻すかということ
てきていたので、僕は「それは超音波加工機で切
が大事で、そういう制御装置を作り上げなければ
ったらいい。工具は、安全カミソリの刃を使い、
砥粒をつけて切ったらいい」といったんです。そ
工作機械を作っている三菱重工の広島精機製作所
うしたら、
「それはいい考えだ」と研究所長がいっ
に話をしなければいかんということで、本社から
たんで、
「じゃあ、
超音波加工機を島田理化から買
三菱重工に話が行った。重工は専務が出てきて、
ってほしい」というと、
「いや、そんなものは自分
伊丹製作所の研究所のあるところで、大会議を行
で作るもんだ」といわれてね、結局、電源から振
った。放電加工のことを知っているのは僕一人な
動装置まで全部ひっくるめて数か月かかって作っ
んだよね。偉い連中がいっぱい出てきた。伊丹製
たんです。6 か月くらいかけてね。それで切った
作所の所長とか、だれか本社から常務くらいの人
ものを見せたら、きれいな面でね、溝幅も 0.3mm
が来とったなあ。そういうことで、出発したんで
くらいかな、研究所長は非常に喜んだんだけど、
す。
直径が 25mm 位のものを切るのに「どれくらい時
間がかかったか」といわれてね。実際には 1 時間
7.電解加工との出会い
近くかかったんです。
「それでは残念だけど無理だ
―― (後藤)電解加工についてはいつごろどう
な」ということで、その話は消えたんですけど、
いういきさつで始められたのですか。
その電源をね、手作りで作ったんで、改造ができ
(齋藤)三菱商事がアメリカに売るものをどうに
るわけなんですね。発信器の電圧が 3000V 位で、
かして探したいといっていましてね。「放電加工
それを高周波の電圧として、100V 以下 50V くら
機を開発したなら、アメリカで今度メタルショー
いまで落としたものを作ったんです。その高周波
がある」
、
今でいうシカゴショーですな。
「そこへ、
電圧を放電加工のコンデンサ放電の回路に突っ込
出してくれ」ってわけだ。国内で売る前にシカゴ
んだんです。そうしたら、てんぷらを揚げるよう
ショーに展示しようということになった。
「ついて
な音がしてジャーっという音がして加工できたん
は、齋藤君、3 か月くらいアメリカに行って来い」
です。
あの時くらい感激したことはなかったなあ。
ということになった。英語の問題は三菱商事が日
それで作ったサンプルを持って、
研究所長に見せ、
系 2 世を世話役に付けて何とかするので、心配し
加工しているところも見てもらった。
なくていいということだった。そのシカゴショー
いつも研究所長の話が出てくるんだけど、上役
で得た重要な情報が、
電解加工なんだ。
その 2 世、
はいるんだけどね、上役なんてどうでもいいんだ
サム宮本が会場を結構見て歩いて、
「いいもの出て
よ。研究所長さえ説得すれば。研所長の熱心さは
います」ってなわけだ。見に行くとアノカットと
僕の上役より強いんだ。なんでかというと、研究
いう会社が、当時は電解加工という名前もなかっ
所長には、ウェスチングハウスから脱却すること
たけど、なんか不思議なものを作っている。放電
が重要だという思いがあって、そのためには放電
加工は時間がかかるが、瞬く間に穴が明いてしま
加工のような新しいことが重要だと思ってくれて
う。
「放電加工は電極が減るが、これは電極が減ら
いた。それで研究所長がしょっちゅう見に来たわ
ない」と言っている。直径が、10mm 位あったか
けだ。高周波スーパーポーズの放電加工を、制御
な、中空のパイプから液を出しながら、電極が横
装置は差動歯車方式で作って見せたところ、これ
に動いている。非常に強い液を出している。5mm
はものになる、と言ってくれたんです。
くらいの板が5分から10分くらいでどっと抜けて
それで、本社としっかりとした話をして、本社
しまうんだ。すごいもんだなあと思ったんです。
の最上層部まで話をもっていって、革新的な新製
そのそばに GE の航空機部門のエンジニアがいて、
品が研究所から出ますよ、
と言ってくれたんです。
「私はタービンブレードを作るのに放電加工を使
それで、
じゃあ作ろうという話になったんだけど、
っている。しかし放電加工は、クラックが出る。
」
そこでひとつ問題になったのが、三菱電機は工作
当時からクラックは騒がれていたんです。
「この電
機械を作るという定款がないんだ。なかったらし
解加工はクラックは出ない。私は電解加工を使っ
いんだな。そのへんはよくわからないんだけど。
て、航空機部品を作っていこうと思う」と言って
こういうものをやるときは三菱グループとして、
いたんです。
―― (後藤)アノカットの機械を見に来ていた
材料試験の部署の所属のまま行かれたのですか。
GE のエンジニアに遭遇したというわけですか。
(齋藤)材料試験はね、
(担当している人が)いっ
(齋藤)そうそう。GE のエンジニアが機械を見
ぱいいるんだよ。放電加工やるときには、材料試
に来ていて、運よく居合わせたわけです。サム宮
験の仕事は抜けたんだ。放電加工始めたころは、
本がいたから、向こうが何をいっていたか分かっ
戦争から帰ってくる連中がいっぱいいますな。
「材
たわけです。そのときオペレータに「この液はな
料試験は、齋藤君もう卒業したろうから、研究一
んだ」と聞いたら、オペレータは「Salt だ」って
筋でいったらどうだ」
、といわれたんだな。材料試
言ったんだ。僕は食塩だと思い込んでしまったん
験は、僕より真面目な人たちが続けることになっ
で、戻って実験したときに食塩で実験したんだけ
て、僕よりちゃんとやったわけです。僕は材料試
ど、それはある意味失敗だったんだけど、ある意
験やりながら浮気しとったわけだからね。女の浮
味成功だった。超硬合金を加工するのに、食塩を
気でなくてよかった。でも材料試験はいい仕事を
使ったのはわかりやすかったんではないかと思う
したなあと思うことも多かった。特にモーターシ
んです。ただし、機械を腐らせるとか、いろいろ
ャフトの破断の要因を明確にしたのは、褒められ
問題はありましたね。それが、電解加工との出会
たんだなあ。相手の現場からは怒られたけど。ウ
いだな。戻ってすぐに実験始めたけど、アメリカ
ェスチンハウス一筋ではいかんと、
一言いったし。
で見たことが出発点。放電加工は鳳誠三郎先生の
でもそんなやつが材料試験いつまでもやっている
話を聞いたのが出発点。
とうるさくてしょうがないから、とっとと研究す
―― (後藤)アメリカに行かれたのはいつでし
る方へいったらどうか、という気持ちもあったの
た?
かもしれないなあとも思います。とにかく、そこ
(齋藤)昭和 34 年。1959 年。今思うと 34 年って
からは、放電加工と電解加工一筋にやるようにな
いうのは、戦後間もなくという感じなんだなあ。
った。超音波もやることになったので、その研究
14年たっているんだけどね。
1ドル360円の時代。
もやりました。少なくともその3つに対して、自
そのへんまででスタートのきっかけになるんだな
分の心の中に地盤ができたという気持ちになりま
あ。
した。
―― (後藤)スタートのきっかけまでで、1 時
―― (後藤)そのころ放電加工の商売はどんな
間半経ってしまいました。
感じでしたか。
(齋藤)スタートまでにずいぶんいろんなことが
(齋藤)高周波スーパーポーズは三菱重工の広島
あったからね。
精機とやって、100 台くらい売ったかもしれませ
んがね、結構故障が多くてあまりよくなかった。
8.放電加工事業の危機
そういう状態で、三菱重工もあまり成績よくない
(齋藤)本社生産技術部をつくった技術部長が三
ので、返したという気持ちもあったんだろうし、
菱電機として新しい技術を作り出さなければいか
機械は三菱重工がつくって電源は三菱電機が作る
んという考えを持っていたんです。抜型のような
ものには、研究所は長い時間かけていいから研究
してくれというわけです。僕は「引き受けました」
といって戻って、
「そんな重要なことを簡単に決め
てくるのは、越権だ」って、怒られたんだけど、
それはよかった。自分で自分に負荷をかけたよう
なものだからね。そういうことがなかったら、放
電加工を始めるとか、電解加工を始めるというよ
うなことはありえなかったろうな。
―― (後藤)アメリカに行かれたりしたのは、
というのは、故障したときのサービスがうまくい
わけだ。作って売れば、それで終わり、それが、
かないんですね。三菱電機だけにまとめた方がい
体質にしみこんでいる。にもかかわらず放電加工
いといっていたのですけど、そのチャンスは電解
なんてのは、お客に渡してからもいつ済むのかわ
加工でやってきた。
電解加工機の試作品を作って、
からんような、手離れがものすごく悪いものだ。
基本ができたところで、
「これは三菱電機だけで
こういうのは三菱電機の体質に合わない。
だから、
一貫してやる。重工と分けてやるのは顧客に対す
撤退だと、こういうわけだ。
るサービスが円滑にいかないので、三菱電機だけ
―― (後藤)それは、いつ頃のことですか。
でやる」という意見を載せた記事を新聞で発表し
(齋藤)昭和 40 年(1965 年)
。その話が合ったの
たんだ。随分乱暴なことを本社の営業の連中にい
は 39 年かな。40 年に名古屋に移るわけだから。
ったものだね。これを是非いってくれと言ったん
―― (後藤)私は三菱電機の放電加工機 1 号機
だ。これが新聞に出たんだな。すると三菱重工は、
ができたのが 39 年とおもっていましたが。
「電解加工に手をだせないなら、放電加工はもう
(齋藤)いやいや、34 年。アメリカに持って行っ
返します」と言ってきた。僕は返してほしいと思
たのが。それまで(名古屋に移るまで)に 100 台
っとったからね。
くらい売っているからね。
それで、三菱電機だけで、やろうということに
―― (後藤)三菱電機では 39 年に 1 号機を出し
なったんだけど、そこから大問題が起こるんだ。
ましたと言っているんですが、名古屋から販売を
三菱重工から返してもらい、研究所には、うまく
始めたのが 39 年ということなんですか。
いっていると、僕は言っていたんだな。それが、
(齋藤)そうそう、それまでは高周波スーパーポ
あるとき研究所長に呼ばれた。僕を大事にしてく
ーズ電源だった。39 年というのはね、名古屋で作
れていた研究所長はその時は引退してね、別の人
った 1 号機ということで、それは高周波スーパー
が所長だったんだ。会社の重役会議かなんかの議
ポーズでなくてね、サイリスタ電源。名古屋はそ
事録が回ってきてね、名古屋製作所の所長、高桑
れが 1 号機だと思ってるんだな。その前に方式の
さんっていう人だけど、その人の発言で、
「放電加
違う放電加工機が 100 台くらいあったんだ。
工とか電解加工は、将来性はあるとは思うんだけ
それで、所長のところに行って聞いたら、本当
ど、三菱電機の性格には合わない。よって、これ
だと。やめるってわけだな。それで、僕は、
「
(放
はもうやめます、撤退する」ということを会議で
電加工機事業を)やめられたら、僕も会社辞めな
発表したというわけだ。研究所長は僕を呼んで、
ければならない」といったんだ。
「なんでだ」って
「君はいいことばかし言っているけど、名古屋の
いうからね。実は僕は学位論文をすでに出してい
所長はこういうことを言っている。真相を聞いて
て、昭和 37 年くらいにドクターもらってるんだ。
きてくれ」と、こういうわけだ。それで僕はまだ
「齋藤君のドクターの取り方は会社員として、非
課長分際だったけど、
「名古屋の所長にお目にかか
常に素晴らしい出し方だ」と。つまり会社の新し
りたい」という電話を入れておいて、名古屋に行
い事業になるものに関する、基礎的な研究だとい
って、会ったわけですよ。
「こういう議事録が来て
うわけで褒められていた。三菱電機でとっている
いるということを研究所長から言われたんですけ
連中は結構いるんだけど、そうでない場合が多い
ど、あれは本当ですか」と聞いたんだ。
「本当だ」
というわけだ。で、褒められていた。ところが、
というわけだ。
「三菱電機には、放電加工のような
「ここでやめられたら、やっぱり、それ見たこと
ものは向かない。なぜかというと、三菱電機(の
かと言われる。
自分で、
新しい新製品つくるとか、
社員)は機械だけ作ればうまくいくと思ってい
新しい事業始めるとか、ウェスチングハウスのラ
る。
」だいたい三菱電機の製品ってのは、本来そう
イセンシーだけで今日まで来た三菱電機にはそれ
なんだよな。モーター作ったって、発電所作った
はむりだよ、それ見たことかといわれるというこ
って、トランス作ったって、なんだってね、お客
とになる。そういうことだから、会社におれなく
さんの方が使い方に慣れているんだな。専門家な
なります。
何か別の仕事やります」
、
ということで、
「会社辞めさせてもらいます」といったんだ。そ
リスタを使おうということで小林和彦さんなんか
したら、
「君、会社辞めてどうする」というからね、
が低消耗回路を作るわけですよ。それは壊れない
「放電加工をつくる会社に就職するか、自分で放
わ。サイリスタを使った時の電流波形はね、最初
電加工を作る会社をつくるか、そういう気持ちで
低い電流が流れるんだね、それでポンと高い電流
す」といったんだな。そしたら、
「そこまで考えて
になる。
立ち上がりのところをおさえているので、
いるんだったら、小さな会社の社長になったと思
電極消耗がすくなくなる。今、考えるとね。当時
って、
名古屋に来てそれやらんか」
といったんだ。
はそんなことわかってはいなかったけれど。結果
それを聞いて、
「そりゃいいですな」っていったん
として、サイリスタを使った電源で放電加工した
だ。
「では、そういうことで」って研究所に帰って
サンプルはスイスのアジェのトランジスタ電源よ
その話をしたら、君はそんな重要なことを簡単に
りもずっと低消耗だった。お客さんの中に情報屋
決めていいのか、とまた怒られるんだけどね。怒
みたいな人がいてね、実験させてくれと言ってく
られてもしょうがないけどね。そういうことだっ
るので、やらせてみたところ、
「これは本当に0消
たんだ。そしたら、研究所もね、研究所としても
耗だ」という。
「これは、スイスの機械よりずっと
「齋藤君のいうことを応援しよう」
ということで、
いい」と。
「ついてはこの機械貸してくれないか。
」
研究所自体の会社作ろうと、場所はどこどこで、
「そうはいかん。
」ただ、スイスの機械よりいいこ
という話もあったらしい。でも僕は名古屋の所長
とはどうも本当だと思ったんで、製品化する時に
に会ってきて、
「名古屋でやらせてもらいます」と
本社にしっかり言ったんだ。
「スイスの機械より低
言ってきたのでね。そこへ、会社のうんと上の方
消耗性がいいということは、必ず売れると考えて
が出てきてね、
「もう名古屋でやったらどうだ」と
くれ。値段を上げてくれ」と。それまで1台 350
いうことになって、名古屋に旧部下と一緒に全員
万円だったんだ。
スイスの機械は 800 万円だった。
移ることになった。その旧部下というのが、荒井
「同じ 800 万円にするのは何だから、
輸入税を 100
伸治、小林和彦、葉石雄一郎、真鍋明、真鍋さん
万円くらい引いた 700 万円にして売り出してく
は少し遅れてだけど、それと僕の 5 人だ。5 人で
れ」と言ったんだ。そしたら、本社の営業の連中
名古屋に移って、小さな会社の社長になったつも
はね、いい目みてないからね、
「齋藤さん、そんな
りでやったわけだ。
いいこと言ったって、売れるわけないから、後で
値段下げることになる。後で下げるより今のうち
9.放電加工事業の飛躍
にあまり上げない方がいい」というわけだけど、
(齋藤)その時に非常に運がよかったのは、世の
僕は「俺の首かけるから 700 万円でやってくれ」
中はスイスのアジェがトランジスタを使って低消
といったんだ。そしたら、本社も「齋藤さんそれ
耗放電加工機を作ってきたんだね。だから、こっ
だけ言うんだったら、650 万円でどうですか」と
ちだって、低消耗放電加工機を作らなければいけ
いうので、350 万円で売るつもりだったのが 650
なかった。ジャパックスはコイルを巻いてコンデ
万円ならいいかと、
「それでいい」
といったんだな。
ンサ放電を柔らかくした低消耗放電加工機を作っ
そしたら、飛ぶように売れだした。注文がどんど
ていた。こっちはトランジスタ電源でやろうとし
ん入って、作れないとなって、作る体制を何とか
たわけ。でも、かなり耐圧の高いトランジスタを
しなければいかんというので、そこは所長に預け
使っても、ポンポン壊れた。ついには、アメリカ
て、僕はものづくりのこと知りませんからね、
「よ
のウェスチングハウスが軍事用のトランジスタを
ろしくお願いします」といったら、所長は機械を
作っていて、耐圧 800V といっていたトランジス
作る体制を作ってくれた。あっという間に三菱電
タを輸入してやった。でもそれでもポンポン壊れ
機で最も儲かる機種になった。それがもとで、後
る。後で考えれば、何でもないことなんだけど、
のワイヤ放電のときも値段をさげないで売れた。
当時は、何か異常電圧が出るんだろうということ
すると、
「あんたは儲かりさえすればそれでいいの
で、それなら、うんと耐圧の高い三菱電機のサイ
か」なんて言うのがでてきて、
「そうじゃない。と
にかくサービスをよくするんだ。それから新しい
たんだ。それまで、飛ぶ鳥のごとき勢いで成長し
研究をどんどんやる。その 2 つだ。
」サービスよく
ていた放電加工機もばたっと売れなくなった。月
して、研究開発にうんと金を使う。そういう風に
に 50 台売れていたのが 3 台か 4 台しか売れなくな
いって、儲かる機種にあっというまになっちゃっ
った。論文を出して、不興を買うのと、第一次石
た。そこからは、僕は気が楽だった。
油ショックが重なるわけだ。そうでなければ話は
違ったかもしれないけどね。重なって、こっちは
10.産業機事業部の発足
見るも無残な状態だった。そういうことで、
「齋藤
―― (後藤)景気の波と事業について聞かせて
君はいよいよダメになる」わけだ。だけど、本社
いただけますか。
の上層部は松田さんという副社長が産業機事業部
(齋藤)
放電加工は儲かる事業になったんだけど、
の会議に必ず出るようになったんだ。松田さんは
ただ、しばらくしたら、第一次石油ショックが来
どうも進藤社長の意を受けて、産業機事業部をな
たんだよ。
んとかするように言われたみたいだ。
第一次石油ショックの前にね、本社の人事部主
―― (後藤)結局、産業機事業部というのはで
催で、本社組織再編成委員会というのができた。
きたんですか。
本社人事部から、
「あなたもその一員になった」と
(齋藤)できたんだ。結局ね。できたってのはね、
連絡がきた。本社組織再編成委員というのは会社
やめろっていう意見があったんだけど、それは高
の将来を考える人たちだと。自分たちの立場は、
桑さんあたりが言っているわけだけど、
ところが、
重役になったと思って、社長になるかも知れない
進藤さんはいい意見が出てきたと、是非これを進
と思って、会社のことを考えてくれ、それで、論
めろよと松田さんにいったみたいだな。
それはね、
文をだしてくれ、と。僕はね、ちょっと馬鹿真面
進藤さんは制御屋出身で NC を何とかしたい、進
目なところがあってね、
「産業機事業部というのを
藤さんの子飼いの浜岡さんがやっとったんでね。
作る必要がある。放電加工機だけでは大きくなれ
浜岡を殺すわけにはいかんと。そんなときに産業
ない。他にレーザー加工機もあるだろうし、もう
機事業部の僕の論文は向こうにたいしては助け舟
一つ大事なのは、数値制御がある。
」数値制御は、
だったんだ。こっちは、自分を潰すもとになった
日立、東芝、日本電気は撤退した。三菱電機だけ
んだけどね。そういうことで、出発したわけだ。
万年赤字だと言いながらやっているんだけど、進
産業機事業部ができたのは、
昭和 50 年だったかな。
藤さんという社長が制御屋だから、数値制御やめ
高桑さんが文句を言ったのは 49 年だったかな。
僕
なかったんだ。とにかく、
「数値制御をつかったも
はそこで干されたと思ったんだな。
というのはね、
のが、今後重要になる、いままでは配線しまくる
社長なんかがどう思ったってね、下の直接上の人
数値制御だったが、コンピューターNC になる。
がだめだといったらダメなんだな。みんなが、高
その時が技術革新になると言っている人もいる。
桑さんがそういう判断をしたことに対して、けし
数値制御もそこで変われるので、それも入れて、
からんという意見もあったらしいしね、進藤さん
産業機事業部というのを立ち上げてほしい」と論
は産業機事業部に対して高桑さんが反対だという
文として書いたんだ。そしたら、それを見て、こ
ことに対して、高桑はだめだということをいって
んなものは成り立たないということを上層部は随
いたらしい。そうでなければ、高桑さんは専務に
分言ったそうだけど、高桑さんは、
「万年赤字のも
なってもっと偉くなるはずだったろうけど。会社
の、日立も東芝も日本電気も捨ててしまったもの
の内情の話ばかりだけど、もう少し上等な話をし
を、極めて重要な役割があるとして、組織の中枢
ましょう。
に構えるようなことを齋藤君が考えるなら、これ
とにかく第一次石油ショックになったわけです。
は、経営者としては落第だ。齋藤君は落第だ。
」と
とにかく、産業機事業部はスタートしろというの
いう話だったそうだ。
が上層部の意見だったわけだ。悪い時にスタート
ちょうどその時、第一次石油ショックと重なっ
すればこれ以上悪くならない。必ず第一次石油シ
ョックはよくなる。石油の値段は上がるけどね。
それから大学にいってからは超音波の非常にい
石油がないわけではないんだから。もうすこし我
い成果を出しているんです。一つは超音波振動を
慢すれば必ず良くなるというわけだな。精密工学
ロボットで勘合しようとすると、すぐにこじるん
会で、理事会があったらしいんだね。その時に、
だね。その時に超音波振動を加えてやると、する
この第一次石油ショックの大不況はいつ回復する
すると入っていく。抜くときも。でも、ちっとも
んだろうという議論がされたらしい。その理事会
はやらないんだよな。それから、超音波振動の問
の結論は、そう長くは不況は続かない。2 つ目は、
題ってのは、通常ノードを支えるでしょ。ノード
何が一番先にでてくるか。放電加工のようなもの
を支えると、電極とか工具を変えるとノードが変
だ、ということだったらしい。日立から出席して
わるんだよね。実際には変わるんだけど、そのま
いた方が僕に手紙をくれて、
「放電加工のようなも
まノードでないところを支えて触れなくなるんだ
のが真っ先に回復するという意見だったですよ、
ね。電極が減っても超音波振動を継続できる構造
頑張ってくださいよ」といってくれた。日立もそ
を発見したんです。というわけでね、いいことや
のころから放電加工、電解加工を始めるというこ
っているんだけどね。
とになったんだな。昭和 50 年。結局、精密工学会
の予言通り回復するんだね。
12.現在の研究
そのころ三菱電機もミニコンを制御装置につか
―― (後藤)最後に今のお話をしていただきま
ったワイヤ放電加工機を出して、非常に売れるよ
しょう。現在の研究について。現在大きな興味を
うになった。ワイヤ放電加工機の成功もあって、
持っているのはどんなことですか。どんな将来を
値段は最初から高くしているからね、サービスと
考えているのか。今の学生、研究者に伝えたいこ
研究開発にお金を掛けられるようになった。大学
とを是非お願いします。
の先生になって 2 年くらいたったお正月の会合、
(齋藤)最後は難しいなあ。現在興味を持ってい
OB 会かな、その時の話で、所長が、名古屋製作
ることはね、これは、後藤先生が大学の先生にな
所で最も生産高が高かったのは電動機だったが、
ったってことが出発点なんだよ。現在もっとも強
放電加工機になったといわれた。
それから 30 年間、
い興味を持っているのは超硬合金の電解加工です。
儲かる事業としてつづけられた。今世の中が変わ
理由は、世の中が超硬合金の電解加工を非常に必
ってきて少し苦しい状況になってきて大変だけど
要とする状態になってきている。その理由は、生
ね。
産性を上げるために一番大切なことは、以下に切
削しないかということなんですよ。切削でものを
11.豊田工業大学へ
作らないか。
冷間鍛造ということになるんだけど、
―― (後藤)豊田工業大学に移られてからのお
冷間鍛造が難しいのは金型が減る、変形するとい
話を聞かせてください。
うこと。そうすると、いかにして、摩耗しない金
(齋藤)大学にいってからは、新しい研究始めま
型、変形しない金型を作るかということになる。
した。大学でやったのは、会社ではできないこと
をやろうということで、後藤先生もよくご存知で
すね。その中で一番力を入れたのは放電表面処理
ですね。きっかけは、毛利先生が Si を電極として
使うと、王水にも侵されない状態になる、溶接部
に Si 電極で放電加工すると王水にも侵されない
ということを見つけたんですね。画期的なんだけ
どね。画期的なんだけど、どうして広がらないか
は大きな課題だね。これをどう考えるかはこれか
らの問題ですね。
しかもその加工が大変困難になるが、それを解決
する技術がうまれてくるか、ということが問題で
す。冷間鍛造ほど生産性を上げる方法はないんだ
な。精度の高い冷間鍛造金型をつくることが重要
で、超硬合金を切削で作ろうという試みもあるわ
けです。そこで一番時間がかかっているのが・・
―― (後藤)荒加工ですね。
(齋藤)最後の仕上代(しろ)だけ残して、荒加
工、中加工をできることが重要。私は幸いにして
50 年くらい前に電解加工をやった。その時に、超
硬合金の電解加工を考えた。しかし、超硬合金の
電解加工を考えたが、そういうニーズは感じてい
なかった。そういう時代ではなかった。超硬合金
を加工してみたいという興味だったな。ある意味
では目的のない研究だった。電解加工やってみる
といろいろ面白いことがあったからね。
ところが、
今は、超硬合金の電解加工は本当に必要になって
きた。ということで、是非、成功させましょう。
―― (後藤)まだまだ、お聞きしたいことはた
くさんありますが、時間も随分経ちましたので、
今日はこれくらいにしたいと思います。長い時間
にわたりありがとうございました。これからもお
体に気をつけられて、ご指導していただければあ
りがたく存じます。学生・研究者へのメッセージ
は、飲みながらにしましょうか。
(齋藤)その方がいいねえ。
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