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その1 土橋(PDF形式, 1.38MB)

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その1 土橋(PDF形式, 1.38MB)
宮 前 区 歴 史ガイドまち 歩き
1
土 橋 地 区について
⑥ 犬蔵天神社
土橋は多摩丘陵の平坦な台地に囲まれ、矢上川の沖積地を中心に広がっている。
江戸時代から明治時代中期まで土橋村が成立していたが、明治22年(1889)に有馬
その
村・馬絹村・野川村・梶ヶ谷村及び溝口村の飛地と合併して宮前村に発展した。昭和
13年(1938)には川崎市に併合され、同47年には川崎市の政令指定都市移行に伴い
石 造 の 天 神 像 は 、江 戸
高津区が誕生した。その後、同57年には人口の増加が著しく宮前区として分区された。
時 代 中 期 の 明 和4年
土橋の歴史は古く、矢上川右岸の丘陵端から縄文時代後期の第六天遺跡が、宮崎第
( 1 7 6 7 )に立 てられた。社 前には、二 十 三 夜 塔・稲 荷
四公園西方台地から縄文時代後期の大野遺跡が発見されている。また域内の西部に
祠・馬 頭 観 音・庚 申 塔が 並 ぶ 。月待 供 養 塔は、五 穀 豊
鎌倉中道の支線が通過し、
さらに東南部を大山街道が、北部を王禅寺道が通過してお
穣や子 孫 繁 栄を祈る二 十 三 夜 の月待 行 事を祈 念した
り、現在、東名高速道路の川崎ICがある。
名産品のタケノコは、高品質で知られていた。
ポイント解 説
もので 、勢 至 菩 薩 の 銘が 刻まれている。石 段 下 の 道
は、土橋から水沢方面に連絡する旧道。
( 数 字 は 裏 面 の 散 策 コースのポイントに 対 応して います 。)
① 八幡神社
⑦ 梵天山
③ 正福寺
た二 等 三 角点があり、標
高 8 7. 3 6mを指している。
石 段 の 中 央 が 土 橋 村と
付 近 一 帯 の 最 高 地 点で
馬 絹 村 の 境にあり、片 大
土橋
土橋
た 。石 段 下 に ある 庚 申
塔は、正徳4年(1714)
に
立 てられた 。以 前 、大 山
街道はこの庚申塔の脇を
と言う。当 初 、鎮
八幡神社
700m
宮前平駅
380m
小台坂
260m
土橋神社
500m
第六天遺跡
480m
正福寺
520m
土橋地蔵堂
梵天山
1,540m
鎌倉古道
犬蔵天神社
360m
守 の 大 神 宮が 竹
芝 に あ り 、神 明
社・神 明 宮と称し
た。現 在 、土 橋 神
60m
160m
インフォメーション:
[宮前平駅]へのアクセス
(電車) 東急田園都市線・各駅停車をご利用ください。
(バス)「生田駅」
「溝口駅南口」
「聖マリアンナ医科大学前」
などから
[宮前平駅]
行きにお乗りください。
天 台 宗 医 王 山 法 徳 院 正 福 寺と称す。江 戸 時 代 中 期に
了 廊 阿 闍 利により開 山された。本 尊 の 薬 師 如 来 立 像
は寅 年に開 帳 。江 戸 時 代 末 期に火 災に遭い、第 六 天
社 が ある 場 所 に
は八 雲 神 社があ
り、明 治 4 0 年( 1 9 0 7 )に御 嶽 社・八 幡 宮・稲 荷 社など
1 0 社を合 祀した。境 内にある蚕 影 尊(こかげそん )は、
明 治 2 7 年 ( 1 8 9 4 )に建 立された。土 橋は養 蚕が盛んな
所で、毎 年4月頃に養 蚕 講が行われた。
の鞍掛松などがあった。
⑧ 土橋地蔵堂
創 建は不 明であるが 、鎌
倉 時 代 から付 近 にある
社とともに焼 失し、現 在 地に再 建された。入 口 横にある
墓 地の墓 守 地 蔵として存 在したと伝えられる。本 尊は、
馬 頭 観 音は道 標を兼ねており、王 禅 寺 道から移されて
木 造 の 延 命 地 蔵 尊 坐 像 。都 筑 橘 樹 郡 地 蔵 霊 場 第 2 2
きた。
「南大山道 東二子道 北登戸道 西王禅寺
番札所で、酉年に開帳。堂内には閻魔大王像もある。
道 」と記されている。
④ 土橋観音堂
江戸時代の創建
土橋 コース
分 岐 点を示す分 去 (わかされ)と言う地 名や、頼 朝 伝 説
明治43年(1910 )に馬絹
② 土橋神社
5 km
展 望できる。この辺りを鎌 倉 古 道が通り、この道からの
地 区 の 御 神 体を祀る。
通過していた。
約
リ―・東 京タワーなどを
いる。社 殿には馬 絹 小 台
−頼朝の伝説をたずねて−
全長
あり、晴 天 にはスカイツ
門と呼ばれたと記されて
の 後 、現 在 地 に 戻され
整 備されている。園 内に
は 国 土 地 理 院 が 設 置し
「 新 編 武 蔵 風 土 記 稿 」に
神 社に合 祀されたが 、そ
現 在 は 、鷺 沼 北 公 園 に
本 尊は千 手 観 音 菩 薩 立
⑨ 第六天遺跡
縄文時代後期の集落跡
で 、加 曾 利E式 土 器・勝
像 。準 西 国 稲 毛 三 十
坂 式 土 器・堀 之 内 式 土 器 のほか、打 製 石 斧・磨 石・石
三ヶ所 観 音 霊 場 第 3 0 番 札 所 。安 政2年 ( 1 8 5 5 )に平の
鏃などを出 土 。同 時に祭 祀 用に使 用されたと考えられ
観 音 堂が 廃 寺になった際 、柴 原 氏が 現 在 地に移 築し
る環状列石(ストーンサークル)も発見されている。
た。堂内に聖徳太子像も祀る。
⑤ 鎌倉古道
土 橋・犬 蔵を経て、枡 形
山 に 通 じる 道 で 、茶 筅
⑩ 小台坂
大 山 街 道 の 急 坂 。坂 の
麓 に は 、準 西 国 稲 毛 三
十 三ヶ所 観 音 霊 場 第 2 6 番 観 音 堂があったが 、江 戸 時
松・鞍 掛 松・土 橋などの源 頼 朝 伝 説 地がある。土 橋は、
代 末 期に火 災で焼 失し、本 尊は泉 福 寺に移された。街
川に丸 太を渡し土 盛りした橋で、橋の長さ1間 、幅4尺
道沿いには茶・酒・草鞋などを売る下の店や、菓 子を売
と伝える。矢上川と支川の合流点をドンドン川と呼ぶ。
る上の店があった。
参考文献
『新編武蔵風土記稿二』 昭和44年 歴史図書館
『川崎地名辞典上下』 平成8年 川崎地名研究所所蔵
『川崎市石造物調査報告書』 昭和54年度 川崎市教育委員会
『川崎の庚申塔』 昭和60年度 川崎市博物館資料調査団
『川崎の民俗』 昭和54年 角田益信著
『村況史料集下』 平成2年 川崎市市民ミュージアム
本成果は、川崎市の承認を得て同市発行の都市計画基本図を複製したものです。承認番号
(川崎市指令ま計第45号)
宮前スポーツセンター
④
26
0m
0m
0m
360m
③
宮廻
正福寺
富士見台小学校
犬蔵
東名川崎IC 土橋地蔵堂
上り坂
急な上り坂
急な上り坂・
未舗装
庚申塔
740m
鞍掛松跡
みなみの谷
西谷
土橋四丁目
バ ス 停
が 、以 前 は谷( ヤト)と表 記していた
ト イ レ
合が 多い。関 東 地 方に多く分 布する
が、難 読のため、谷 戸と表 記すること
が多くなった。
発行 平成28年9月 川崎市宮前区役所 地域振興課
差点
)
宮前平駅前交番
有馬村
準西国稲毛三十三ヶ所観音
霊場第26番観音堂跡
小台
小台二丁目
馬絹村
大谷
小台一丁目
大谷の溜井跡
大
道
街
山
鷺沼行政サービスコーナー ■
宮前平駅
⑩
原臺
カッパーク
フロンタウン鷺沼
①
鷺沼駅
0m 50m
250m
製作 (株)
石塚計画デザイン事務所
c 編集 宮前区歴史文化調査委員会 谷で、浸 水があるため、湿 地になる場
八幡神社
庚申塔
デの
カエ
トウ 道
並木
大
谷
河 川 名
絹交
白幡
小台坂
おきの谷
ヤトは、丘 陵が 河 川に浸 食されて
作られた地 形 である。V 字 型 に 近 い
380m
土橋小学校
土橋三丁目
谷戸 •谷( ヤト)の 豆 知 識
川
軍用 尻手黒
道路
川
川
:清 道 路
水台
∼馬
0m
道
東
急
田
園
都
市
線
WC
上り坂
したの谷
鎌倉古
道路
矢上川
下谷
日本精工鷺沼運動場
(有馬川の水源地)
旧 大 字 名
見 ど ころ
地神塔
庚申塔
蚕影尊
土橋二丁目
茶筅松跡
旧 村 名
矢上
梵天山 ⑦
旧 村 界
旧 字 名
WC
下り坂
鷺沼四丁目
旧 大 字 界
(旧
宮前平二丁目
70
87.36m
土橋二丁目公園
土橋村
古 道
太田前
②
矢上
土橋神社前
第六天遺跡
かじ
の谷
東
名高
速
散 策 コ ース
と ポ イ ント
幹 線 道 路
大谷
太田
土橋保育園
分去
地図の見かた
有馬村
0m
⑨
下り坂
石段
犬蔵
③
太田前
土橋神社
上り坂
犬蔵二丁目
枝谷
土橋
0m
48
0m
下菅生村
0m
坂
見
士
富
⑧
80
26
土橋一丁目
50
0m
御嶽社跡
土橋六丁目
地神塔
庚申塔
馬頭観音
(道標)
⑥
土橋
宮前区役所(宮前区総合庁舎)■
26
10
犬蔵天神社
月待供養塔
消防総合訓練場 (二十三夜供養塔)
庚申塔
歴 史ガイドまち 歩き①
土橋観音堂
上り坂
⑤
犬蔵中学校
土橋七丁目
16
犬蔵公民館前
宮上
60m
土橋五丁目
ろうば
谷
犬蔵一丁目
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