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創立30周年記念号 - 公益社団法人日本産業退職者協会

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創立30周年記念号 - 公益社団法人日本産業退職者協会
maturity
15
Jan 100
/
2015-JAN
日本産業退職者協会
©
100
公益社団法人
創立30周年記念号
年頭所感 屠蘇の酔い ㈥
山本惠朗 〈特集〉日本産業退職者協会 年の歩み
2
マチュリティ誌 年を振り返る(特選記事
表紙でたどるマチュリティ誌の 年
広島支部の生い立ち・現況・課題 編再録) 創立 周年 ご挨拶 山本惠朗 日本産業退職者協会の歩みと今後の活動方針 榎本郁夫 (聴き手)田林巖樹 久野木行美 元理事長に聴く 30
22
地域会座談会 ・山を歩く会(広島)
鎌
倉探訪・江戸東京歴史散歩の会・自然を楽しむ会・朱樹会同好会(広島)
30
30
人気の「同好会紹介」 30
4
6
8
44 38 36 12
特別講演会「超高齢化社会と我々の生き方」 堀田 力 創立 周年を迎えて「アンケートから見る協会活動の在り方」 〈第 回〉チャリティコンサート~家族への愛~ 損保マチュリティ懇話会のこと─松多昭三会長に聴く ─ 66 60 54 53 48
「私の大切な覚書き」で社会貢献/「留学生との交流会」が内閣府より受章(広島)
〈個人親睦会〉はつらつふれあいの集い
社会貢献活動紹介 きたざわサロン/キャップ回収運動/シニアサロン杉並/
癒しと元気を分かち合う」 「 11 30
〈健 康〉児玉淑恵・市村章
〈趣味・娯楽〉小野芳史樹・粟生精二・氏家敏行・糸井由喜・相山睦子
〈おいしいもの・料理〉長谷川貞悌・山本研二・指方英佑・若狭哲夫
「ひとこと」秀逸集 70 68
76
表紙「夕日に映える富士」
撮影:水島正利氏(カメラ同好会)
裏表紙「ふるさとの富士」
写真提供:北海道ニセコ町役場(商工観光課)、青森県黒石市役所(商工観光課)
、
小林敏彦(広島支部)
、鹿児島県指宿市役所(産業振興部観光課)
〈旅行の思い出〉宮本博之・坂本謙郎・三浦幸一郎
〈季節の楽しみ〉岩崎迪子・澤谷龍美・黒坂茂樹
〈家族・仲間・ご近所〉滝沢久子・渡辺賢・秦美智子・松本壽賀子・西岡信彦・栂野七代
〈母校・恩師・同窓会〉加藤由船・木下智明・吉田幸雄・高橋淳・谷口博
〈ふるさと・想い出〉大山泰弘・四十万久
〈私の8月 日〉松岡貞子・長田実
年の歩み 〈私の信条〉松永豊・藤田節也・西津英昭・樋高三恵子
〈災 い〉吉田岩男・長谷川達雄
〈老人力〉越中幸夫・森良實・久恒弘行・木村金一・福田和廣・江中共治
15
30
マチュリティ談話室 「ただいま 模索中 」
安東尚子 フォトサロン
〈年表〉日本産業退職者協会
86 84
!!
ひとこと「新幹線」
安藤隆夫/猪股辰雄/木下完治/小関直子/坂本洋二/佐々木由紀子/菅沼隆夫/
谷口博/田林巖樹/永山義博/西村修/野ケ山信和/萩埜孝/花岡武紀/外前田恵 イベントだより 囲碁会/江戸東京歴史散歩の会/園芸クラブ/鎌倉探訪/カメラ同好会/木楽会/サロ
ンコンサート/四季の会/詩吟同好会/自然を楽しむ会/水墨画教室/竹とんぼ同好会/築地・海
鮮丼川柳会/デジカメクラブ/読書くらぶ/PCクラブ/木版画教室/歴史を考える会/歴史探訪
会(広島)/四季の会(広島)/ゴルフ同好会(広島)
「道楽三昧」
広島支部 平石純一 「ベートーヴェンの交響曲第九番を年末に歌う」
森秀雄 「地方での暮らしに目を向ける人の増加は……」
黒木重昭 「狛犬について」
広島支部 中川晋 92 91 90 89 88 88
首都圏だより 神奈川会/京葉会/埼玉会/西東京会 広島支部だより エスキーテニス同好会の紹介 河野次郎 94
損保懇だより 第 回損保OBの集い 松多昭三 役員名簿/編集後記 法人・団体 会員名簿 111 110 109 104
27
年頭所感
屠蘇の酔い ㈥
みなさま、新年明けましておめでとう
体が動く限りプレーし、自然死を選ぶこ
が、バスケットボールの選手として、身
道があった。翌日、同じ病気の女子学生
族に看取られながら死亡した、という報
ら逃れるため、医師の処方した薬で、家
医師が、延命治療を中止したことに、刑
患者の回復が絶望的になったと判断した
で あ る。 近 年、 議 論 に な っ て い る の は、
「 人 工 延 命 措 置 の 差 控 え・ 中 止 」 の 問 題
の間で議論がなされている。具体的には
医療関係者や国会議員、学者など関係者
他方、日本では、「尊厳死(自然死)
」が、
法的でない。
会長
公益社団法人 日本産業退職者協会
楽死」が日本でも話題になった。脳腫瘍
で余命数カ月の 歳台の主婦が、苦痛か
帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。」
とを表明したという報道があった。アメ
法の殺人罪や同意殺人罪が適用されるか
ございます。
と書いていますが、まこと時間の経つの
リカ国内は勿論、世界中で議論が起こり、
という問題である。医者にとっては最初
清 少 納 言 は、「 た だ 過 ぎ に 過 ぐ る も の、
は速く、新たな年が始まりました。
バチカンの幹部は、安楽死は認められな
から、救命可能かもしれない患者に延命
尊厳 死 ( 自 然 死 ) を 選 ぶ か
います。
今年は、自分自身のことが気になって
い と 発 言 し た。
「安楽死」は米国では一
治療を「差し控える」か、明らかに回復
20
部の州で認められているが、日本では合
昨年 月、米国オレゴン州における「安
11
2
見込みのなくなった患者の延命治療を
「 中 止 」 せ ず、 続 け る と い う 選 択 が 無 難
である状況にあるということである。
真面目な人は長生きする
う の は 事 実 で な い。「 う つ 」 は 傷 つ き や
すく、ネガティブな考えにとらわれた人
がかかりやすく、勤勉性はむしろ情緒不
また、人は自分が愛され世話されてい
安定性を抑える方向に働く。
目な人は長生きする』
(幻冬舎新書)が
ると感じることで幸福になるが、それは
精神科医の岡田尊司氏が書いた『真面
7割の人が「自然死」を望んでいる。「延
話題になった。米国の学者たちの 年に
日 本 人 に 対 す る ア ン ケ ー ト に よ る と、
命治療を拒否し、自然死(尊厳死)を選
があり、法律と医療倫理の双方が補い合
重い。臨床の判断だけに法制化には限界
きない病状となったとき、医師の判断は
め患者の意思表示がなく、意思表示がで
師はどう対応すればよいのか。特に、予
合、不明確な場合など様々なケースに医
文書)がある場合、十分に明確でない場
ころが、患者の明確な意思表示(例えば
ぶ権利」は、当然に患者本人にある。と
から少し距離を置く、ということである。
を好まない、自分の欲望を制御し、欲望
用心深く危険を回避する、突出した変化
い う 特 徴 が あ る。 別 の 言 い 方 を す れ ば、
=秩序を重視する、自己制御力が強いと
よりリスクを考える、変化より現状維持
味している。長命な人の性格は、ゲイン
目な」は、勤勉性、誠実性、統制性を意
に 真 面 目 な 人 は 長 生 き し て い る。
「真面
わたる調査の結果の紹介である。平均的
すれば、当協会の役割も見えてくる。
人の助けになることが長命につながると
るためにどういう生き方をすればよいか。
さて、私たち退職者は幸福で長生きす
かっているらしい。
をすること」は、寿命を伸ばすことがわ
寿 命 と 関 係 な く、「 人 の 助 け と な り 世 話
さについて」の中で次のように述べてい
ロ ー マ の 哲 学 者 セ ネ カ は、
「人生の短
◦◦◦◦◦
う形であろう。昨年末に、日本救急医学
イ ド ラ イ ン( 指 針 )」 を 発 表 し た。 医 師
手続きを示した「終末期医療に関するガ
望が成長のエネルギーであり、ビジネス
クを取る、変化が発展、成長を生む、欲
( 資 本 主 義 の 社 会 で は、 積 極 的 に リ ス
君たちの最後の日であるかもしれないの
何らかの事に与えているその日が、実は
やって君たちがどこの誰かに、あるいは
うに君たちは時間を浪費している。そう
ま す。「 時 間 な ど 無 尽 蔵 に あ る も の の よ
が共通の合意された指針を持つことは大
は人の欲望をかりたてることに注力する、
会など三学会が治療の差し控え・中止の
きな前進と思うが、尊厳死を選ぶ権利を
年にしたいものです。
間を自分の思うように密度濃く生きる一
に」
。いつ尽きるとも知れない自分の時
と私は思うのだが。
)
勤勉な人は「うつ」になりやすいとい
確保するためには、自分自身の意思を明
確にしておくことが強く求められている
と思う。
3
80
創立30周年 ご挨拶
創立
周年 ご挨拶
30
周年を迎え
会長 山本惠朗
当協会はお陰様をもちまして創立
をして、新発足しました。
)年に退
職 者 の 協 会「日本 産 業退職 者 協会」 と して衣 替 え
ぼ そ の 目 標 を 達 成 し、 1 9 8 4( 昭 和
そ の 後 の 取り組 み で年金 制 度も改 善 するな ど、 ほ
し か な い など、不 利 な立場 に おかれ て いたの で す。
チ さ れ 課 税され る 一方、 年金 は月 額1 万円 くら い
当 時 の サ ラ リ ー マ ン は、 所 得 は 1 0 0 % キ ャ ッ
マン協会」が発足しました。
た め「 サ ラ リ ー マ ン ユ ニ オ ン 」 の ち の「 サ ラ リ ー
の 経 済 混 乱 期、 ま ず、 サ ラ リ ー マ ン の 待 遇 改 善 の
当 協 会 の 成 り 立 ち を ふ り 返 っ て み ま す と、 戦 後
ご努力の賜物であり、厚く御礼申し上げます。
個人会員をはじめ関係者の皆様から頂いたご支援・
る こ と が 出 来 ま し た。 こ れ も ひ と え に 会 員 各 社・
30
59
4
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
こ れ は 永 年 に わ た り、 各 産 業・ 各 企 業 で 日 本 の
経 済 発 展 を 支 え て 来 た 方 々 の 社 会 参 加 を 支 援 し、
年、 当 協 会 は 退 職 者 だ け で な く、 広 く シ
生き甲斐作りを目指したものです。
以来
ニ ア の 社 会 参 加・ 生 き 甲 斐 作 り を 目 指 し て 活 動 を
続けて来ました。
)年には公益法人制度改革法
団法人」として新しいスタートを切ることができ
ました。
歳を
日本はいよいよ超高齢社会に突入しました。
いわゆる団塊の世代約700万人は全員
)年
%に達すると予測
超 え、 日 本 の 高 齢 化 率 は 2 0 0 7( 平 成
% に 達 し、 2 0 6 0 年 に は
さ れ て い ま す。 過 去 の ピ ラ ミ ッ ド 型 人 口 構 造 を 前
ないと考えられます。
る 公 益 と は「 不 特 定 多 数 の 者 の 利 益 の 増 進 に 寄 与
べ き は 変 え、 積 極 的 に 社 会 や 地 域 の 助 け 合 い に 参
は、 我 々 シ ニ ア 世 代 自 ら が 責 任 を 自 覚 し、 変 え る
私達の孫の世代に安定した諸制度を引き継ぐに
す る 」 と い う 法 の 主 旨 を 念 頭 に、 社 会 貢 献 活 動 の
が必要です。
当 協 会 の 活 動 も、
周 年 を 期 に、 社 会 の 助 け 合
で す。 そ の た め に で き る 事 を 実 行 す る 決 意 と 行 動
加 し、 支 援 さ れ る の で は な く 支 援 す る 側 に 立 つ 事
待 し 共 に 音 楽 を 楽 し む 事 業、 認 知 症 を 予 防 す る 諸
活 動、 エ ン デ ィ ン グ ノ ー ト「 私 の 大 切 な 覚 書 き 」
万 部 な ど 生 活 情 報 の 提 供、 広 島 支 部 で は
い を さ ら に 一 歩 進 め た い と 考 え て お り ま す の で、
の頒布
留 学 生 と の 交 流 や 点 訳 事 業、 県 や 市 の 行 事 へ の ボ
祈念いたします。
最 後 に な り ま し た が、 皆 様 の ご 健 勝 と ご 活 躍 を
皆様のご協力をお願いする次第です。
) 年 4 月「 公 益 社
24
こうした事業が評価され、内閣府より「公益」の
ランティア協力など、着実に実行しました。
30
チャリティコンサートに福祉施設入居者をご招
強化につとめました。
法 人 」 を 目 指 す こ と と し ま し た。 法 律 の 文 言 に あ
当 協 会 は こ れ ま で の 活 動 の 歴 史 を ふ ま え「 公 益
が 施 行 さ れ、 全 て の 法 人 が「 公 益 法 人 」 か「 一 般
2 0 0 8( 平 成
19 65
提 と し た 諸 制 度 は、 そ の ま ま で は と て も 維 持 で き
40
法人」かのどちらかを選択することになりました。
20
認 定 を 受 け、 2 0 1 2( 平 成
5
21
30
24
日本産業退職者協会の歩みと今後の活動方針
日本産業退職者協会の歩みと
年の事業活動の歩み
理事長 榎本郁夫
今後の活動方針
日退協
1 プレステージ
歳、男性の平均寿命は ・3歳、国民年金は
尽力に感謝申し上げますとともに、協会事業
ティア活動として、国民の大宗を占めるサラ
先見性と実行力に富んだ先人の方々がボラン
)
万人を超える高齢者が各種のイベント活動
こうした活動の結果、現在では、年間延べ
年に広島支部を設立いたしました。
力全国に広めるために、1992(平成
してまいりました。また、これらの活動を極
会等に注力し、高齢者の社会参加活動を支援
の増強や、各種イベント活動、講演会・研修
ことでした。このため、当協会は、個人会員
と生きがいを求め、積極的に社会参加をする
したのは、「人格・才能豊かで円熟した人「(機
えましたことはまことに喜ばしい限りであり
夫婦で月額 万円の状況にありました。定年
はらんでおりました。
に変わらぬご理解とご支援を寄せられた方々
こ の よ う な 社 会 的 な 問 題 に 応 え る た め に、
20
69
等に参加されております。加えて、広島支部
6
年金制度の改善を主目標に、1970(昭和
)年に当協会設立の母体となったサラリーマ
ン協会(当初サラリーマンユニオン)を立ち上
げたのです。こうした活動が一つのきっかけ
歳への延長等が行われました。
となって、年金制度、医療保険、住宅政策等
の改善や定年
(1984︱ 2005)年
2 第一ステージ
)年サラ
高齢化社会問題に対応した活動基盤をより
強くするために、1984(昭和
が設立されました。その後、わが国の高齢化
リーマン協会を母体に、日本産業退職者協会
わが国高齢化社会の到来がもたらす様々な
%以上)に達しまし
14
た。この時代、とりわけ高齢者に期待されま
は高齢社会(高齢化率
率は急速に高まり、1995(平成7)年に
) 年 に 高 齢 化 社 会( 国 連 定 義 で は、
人口に占める 歳以上の比率が %以上の社
(昭和
問題を真剣に意識しはじめたのは、1970
(1970︱1983)年
60
会をいう)に突入してからだと思われます。
ます。当協会は、わが国の高齢化社会の進展
を迎え生涯を終えるまでの約 年間の生活を
階層が3700万人を占めており、定年は
がもたらす様々な問題に取り組む民間団体と
どうするのか、社会的に極めて大きな問題を
ました。
しては、パイオニア的存在として誕生いたし
55
関誌マチュリティの語源)
」を目指し、健康
7
当時の社会的背景としては、サラリーマン
65
2
リーマンの老後生活の安定と向上を計るべく、
4
ここに日本産業退職者協会創立 周年を迎
45
のご厚誼に心から厚く御礼申し上げます。
あらためて、先人の並々ならぬ先見性とご
59
30
45
1
30
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
におきましては、地域との連携活動が極めて
密 で あ り、 多 彩 な イ ベ ン ト 活 動 の み な ら ず、
今後の活動方針
ついに世界に類を見ない「超高齢社会(高齢
わが国高齢社会は、2007(平成 )年
南アジア等からの留学生を対象に、生活支援・
%以上)
」 に 突 入 い た し ま し た。
化率
2060年には高齢化率 %に達すると推計
の充実が不可欠であります。
このような社会構造の変化を見据え、当協
会としてはこれまでの活動に加え、以下の問
題にも目配りした活動を行いたいと思います。
⑴引きこもりの高齢者にどのように社会参加
してもらうか
障費(年金・医療・介護等)が大変な重圧に
円を超す膨大な政府債務と、増嵩する社会保
わが国の将来を展望するとき、1000兆
これらの課題に対処するために、広島支部
うにして強化するか
詐欺・成年後見等)への取り組みをどのよ
⑶認知症がもたらす諸問題(徘徊・おれおれ
⑵健康年齢を延ばすにはどうすれば良いか
革が行われ、当協会は永年にわたる公益活動
なることはあきらかであり、今や高齢者自身
並びに四つの地域会(神奈川会・埼玉会・西
されています。
が認められ、2012(平成 )年に公益法
が、
「 自 立 と 支 え あ い 」 の 精 神 で、 当 事 者 意
2006(平成 )年に公益法人制度の改
人として新た に発足致しました。「不 特定多
東京会・京葉会)を中心に、志を同じくする
実するために、現在では①認知症予防活動を
率が ・2%に達し、また東京におきまして
先般公表された調査では、老老介護世帯比
める社会」作りに貢献したいと思います。引
着した活動を展開し、「高齢者が安心して住
2.第一ステージ(1984年∼)
1992 年(平成 4 年)→「広島支部」設立
1995 年(平成 7 年)→「高齢社会」へ(高齢化率 14.6%)
・人格・才能豊かで円熟した人
マチュリティの語源
「高齢者の社会参加活動」支援
●活発なイベント活動
延べ 1 万人
2012 年(平成 24 年)→「公益社団法人」に認定
内閣府より表彰
不特定多数の者の利益の増進に寄与すること
2007 年(平成 19 年)→「超高齢社会」へ(高齢化率 21.5%)
今後の活動方針
○独り暮らし高齢者の増加(東京都 38.7%)
○老老介護世帯の増加
(全 国 51.2%)
「地域包括ケアシステム」の充実
「自立と支えあい」
(住まい・医療・介護・予防・生活支援)
活動方針
「高齢者が安心して住める社会」作り
●NPO・自治会等との連携
願い申し上げます。
2006 年(平成 18 年)→「公益法人制度」改革
は、高齢者世帯の ・7%が一人暮らしをし
1984 年(昭和 59 年)→「日本産業退職者協会」設立
を意図した「シニアサロン杉並」③東京都社
サラリーマンの老後生活の安定と向上
ており、地域共同体による「地域包括ケア」
「サラリーマン協会」立ち上げ
会福祉協議会と連携して福祉施設入居者を招
1.プレステージ(1970年∼)
1.プレステージ(1970−1984年)
待するチャリティコンサート④エンディング
「地域会を主体とした活動」
万部頒布)
基本理念
●引きこもり高齢者の社会参加
●健康年齢の伸長
●認知症問題の取組み
ノ ー ト「 私 の 大 切 な 覚 書 き 」(
①脳卒中(18.5%)②認知症(15.8%)
③高齢による衰弱(13.4%)
介護の要因
⑤各種福祉施設に対するバザー商品の献品等
・健康と生き甲斐
○高齢者への期待
の様々な活動を展開しております。
・本部 29 イベント ・広島支部 34 イベント
●年間参加者
なお、内閣府より2013(平成 )年高
●認知症予防活動・・・・・・・
「きたざわサロン」
●世代間交流・・・・・・・・・
「シニアサロン杉並」
●チャリティコンサート・・・・福祉施設入居者招待
●「私の大切な覚書き」頒布活動(24万部)
●福祉施設等に対するバザー商品の献品
他
(団体)
社会参加活動事例
社会貢献活動の取組み強化
(個人)
高齢者のエイジレスライフ実践
事例の表彰
2013 年 加藤孝子会員
2014 年 広島支部
「留学生との交流活動」
(定款第 3 条)産業退職者の生活の安定と向上を図るため、退職前後の幅広
い活動を支援
⇒ 産業及び社会の活性化に資する
〈高齢化率高まる〉
齢者のエイジレス・ライフ実践者(個人)と
1970 年(昭和 45 年)→「高齢化社会」へ(高齢化率 7.1%)
38
●年金制度
●医療保険
●定年延長
②1970 年
して当協会加藤孝子会員及び社会参加活動を
サラリーマン
日本経済成長の
担い手として活躍
25
き続き、皆様方の温かいご支援・ご協力をお
目的とする「きたざわサロン」②世代間交流
NPO、自治会等との連携を深め、地域に密
識と自覚を持って、この難題に取り組むこと
3.第二ステージ(2006年∼)
数の者の利益の増進に寄与すること」との法
3 第二ステージ
交流活動を活発に展開しております。
グローバルな事業として、支部設立以来、東
19
が要請されています。
40
の理念に沿って、社会貢献活動をより一層充
(200 6 ︱ 2 0 1 4 ) 年
21
51
○サラリーマン階層:3700 万人
○定年:55 歳
○男性の平均寿命:69.3 歳
●国民年金:夫婦 2 万円/月
①時代背景
24
)年広島支部の「留学生との交流会」が
7
24
18
積極的に行っている団体として2014(平
成
表章されました。
26
久野木行美 元理事長に聴く
26
10
当協会理事、1999(平成 )年に理事長
久野木行美氏は、1990(平成2)年に
を埋める必要があるのではないか。江戸の参
地方の差が激し過ぎる。もっと交流を深め差
(聴き手)編集人 田林巖樹
2014
(平成 )
年 月8日 協会談話室にて
久野木行美 元理事長に聴く
久野木行美(くのぎ・ゆきよし)
1922(大正11)年7月生まれ。
東 大 法 学 部 卒。1947( 昭 和22)
年内務省入省。労働省に転じ、米
国留学を経て、大臣官房審議官、職
業訓練局長、
ILO(国際労働機関)
東京支局長など歴任。現在当協会
顧問。
在としてお元気でご活躍されています。本日
くされました。現在も読書会のリーダー的存
に就任され、長期間にわたり協会の発展に尽
ます。
勤交代がとても参考になる。
」と発言してい
は理事長ご在任中のことなどを中心に、お話
を伺いました。
[ 江戸の平和に学ぶ ]
田林 まずお伺いしたいのは、久野木顧問が
主唱してスタートした読書会では現在もリー
ダー格で参加されていますが、その席でよく
るという文化交流にもつながって、それが地
方活性化に役立った面もあるのです。江戸時
代の幕藩体制は欠点もありましたがとても興
味深い制度であったと思います。
田林 それで260年という平和が続いたわ
けですね。
久野木 あの時代の平和は鎖国していたから
だという人もいますが、それは副次的な理由
だと思います。やはり徳川家康の築き上げた
荒川と利根川の流れを付け替え、洪水を抑え、
久野木 昔から病気と戦争は人を不幸にする
とずっと考えていました。そんなことから江
たのです。
火山灰地の沼地を田畑に変えたのも家康でし
強 固 な 政 治・ 経 済・ 社 会 体 制 の お 陰 で す よ。
田林 最近、小泉進次郎議員も「中央官庁と
戸時代の平和とその仕組みに興味を抱いてき
江戸時代の文化についてお話しなさいますね。
したが、上京した役人が中央の情報を持ち帰
久野木 参勤交代制度は大名に対して、江戸
に上る途中でお金を使わせるのが主な目的で
11
8
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
たからね。
かったのではないかとさえ思います。
を追求する世の中よりもその頃のほうが良
[ フリーサロンのこと]
田 林 家 康 は 最 も 優 れ た シ ビ ル エ ン ジ ニ ア、
土木工学に長けた偉人であったという評価も
ありますね。
久野木 秀吉から関東に行けと言われたとき、
普通なら冗談ではない!となるところを「は
「職場人間」をいかに「社会人間」に変身し
ていただくかということでした。その具体策
の一つが“フリーサロン”だったのです。会
の運営上必要であり、また皆さんを職場人間
から解放する生き甲斐発見の場としたい。そ
ういう意味でフリーサロンは私にとっては重
のイベン
田 林 経 済 面 か ら 言 え ば、 先 物 売 買 の 手 法、
手形や高度の積算術など、ルーツは全て江戸
圃を作り出したのです。
に水路を作って洪水を防ぎ、広大な面積の田
言われない訳です。水没しそうな所も利根川
たのです。鷹狩りならどこへ行っても文句は
へ赴き、鷹狩りと称して関東一円を見て回っ
花束を渡される。退職への準備や心構えなん
して当日、
「○○さん、ご苦労様でした。
」と
あり、退職する前日まであくせく働いた。そ
の退職者というのは正に今と違い職場人間で
私が理事になった1990(平成2)年当時
員の意見、希望を民主的に聴く必要があった。
久野木 フリーサロンというのを何故作った
かというと、日退協を運営するためにまず会
ン”についてお聞かせください。
サロンは、会場確保、卓話、講師の人選、人
会など多くの同好会が誕生しました。フリー
で色々な話からカメラ会、健歩会、自然観察
ところでフリーサロンを運営していくなか
た。
久野木 当時、同好会といわれるものは囲碁
会、
ゴルフ会、
鎌倉探訪の会くらいしか無かっ
要なものでした。そしてそこから
時代ですね。
て何も無かったのです。職場以外に根が無い。
集め、発言促進等苦労もありましたが、私が
田林 江戸時代についてはお話も尽きません
が、次に久野木顧問が作られた“フリーサロ
久野木 平和だったからこそ文化、学術の花
が開いたのです。百年続いた戦国時代で世の
だから退職すると“根無し草”になってしま
い、承け賜わりました」と言って、直ぐ現地
中はヘトヘトになり、庶民は安穏を切に求め
う。会社を離れると都会砂漠の中に放り出さ
回開催まで運営し、そのあと故阪田耕一さ
田林 その辺を具体的に教えて下さい。
ます。
トが次から次へと生まれ現在へと繋がってい
る空気が充満していました。そこへ家康が天
27
から生まれたのです。今の、経済効率ばかり
久野木 そうです。皆貧乏だったからモノを
大切にし ました。「勿体無い」気持 ちはそこ
たのではないでしょうか。
庶民は知恵を絞り工夫をこらして暮らしてい
田林 この時代は経済的にはずっと低成長で、
生活も安定していたと思うのです。その中で
を作り出した訳です。
下を取り、皆が求めていたニーズに合った世
中々うまくいかない。そこで私が考えたのが
後をついて行って地元に入り込もうとするが
供の学校や町内会。そんなことで奥様の行く
う環境のなかで、奥様は地元に根がある。子
で自分を伸ばすものも見当たらない。そうい
どう生きるべきか」と。あまり趣味もないの
か ら 悩 ん で し ま う。
「 さ て、 こ れ か ら の 人 生
「やれやれ」と羽を伸ばすのですが四日目位
れて頼るところも全く無い。最初の三日位は
て き ま し た か ら、
“ふれあいトークサロン”
なった。そんなわけで当時とは事情も異なっ
という人もいなくなって都会も砂漠ではなく
り、定年退職を控えてなにも準備しないなど
という意味が込められています。時代は変わ
に集まって好き勝手に喋って好きな時に帰る、
に改名されました。“サロン”とは本来自由
れました。その後“ふれあいトークサロン”
んが引き継いで100回までもっていってく
9
50
久野木行美 元理事長に聴く
社会的発言力を増すために大同団結し、それ
)年に結成されました。国
)年に高
際高齢者年がきっかけとなって「高連協」が
誕生したのです。
田林 高連協は、1999(平成
齢者憲章を発表していますね。
ほうが良いのではないか」との意見がありま
ています”というような意見交換の場にした
話を短くして、“ 私は日頃こんなこと を考え
せっかく立派な先生をお招きしたのだから講
情などをまとめるとともに、退職者に対する
た406社からの回答を分析してOB会の実
を超える企業にアンケートを送付し、得られ
いてヒアリングを行うとともに、1000社
7項目から成り、高齢者の生き甲斐発見、探
容は、個人の尊厳、社会参加、社会貢献など
「高齢者憲章」が採択されました。提言の内
基本的指針を上乗せしようということになり
齢者のための五原則に加えて、我が国独自の
求等多様な生き方を支援するための決意表明
望ましい社会的仕組みを提言しました。
ルだったのですかね。
となっています。
田林 話題は変わりますが、久野木顧問が共
同代表を務められた高齢者NGO連絡協議会
く携わられ、ILO(国際労働機関)の東京
と前後しますが、久野木顧問は労働行政に長
[ 高連協の生い立ち]
リーダーを決めて自由に何でも話し合いをし
(略称:高連協)に関してお伺いします。
久野木 そうですね。その中で一番苦労した
のは皆に発言してもらうこと。卓話の後で出
て貰ったこともあり、発言を促す為に「恥を
田林 この年は高齢者にとってエポックメイ
キングな年だった訳ですね。それからちょっ
かいてもよいではないか、仲間だもの」とか
久 野 木 私 が 日 退 協 の 理 事 長 に 就 任 し た
1999(平成 )年に、国際連合の主唱の
席 者 を 五 つ の グ ル ー プ に 分 け て、 そ れ ぞ れ
い っ て や っ て い ま し た。 皆 に 当 事 者 意 識 を
も と、
「 国 際 高 齢 者 年 」 が 実 施 さ れ ま し た。
久野木 ILOは高齢者の雇用、福祉問題に
ついて、早期退職は年金財政を困難に陥らせ
支局長もお務めになられましたね。
もってもらいたかったのです。
11
10
日本でも官民を挙げて高齢者への理解と協力
を深める運動を展開しましたが、これを契機
田林 次にお伺いしたいテーマは高齢者の調
査研究についてです。久野木顧問は、かつて
ぞれの団体が緊密な協力関係を結んで行こう
[ 調査・研究事業]
高齢者の生きがいについて労働省から委託を
ということで、高齢者年NGO連絡協議会が
として、それまで個々バラバラであった高齢
受け、調査研究をまとめられたと伺っていま
1998(平成
者団体が団結しようということになりました。
す。
ました。二つ目は、同じシリーズとして、退
10
久野木 はい。その際、国連が提示する「自
立、参加、ケア、自己実現、尊厳」という高
11
久野木 1992(平成4)年から二度にわ
たり研究報告書を作成致しました。一つ目は、
生き甲斐促進を進める の事例を集め、それ
田林 最近会員にアンケートをお願いしまし
た。その中で、「今の“ふれあいトークサロン”
職者 名に対し、退職後の生活変化などにつ
で良いかもしれないですね。
は 一 方 通 行 で 質 問 の 時 間 が ほ と ん ど 無 い。
を紹介するとともに評価を加えて報告いたし
22
した。“フリーサ ロン”の頃はこんな スタイ
20
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
げ世界平和の実現を目指している組織です。
も一の割合ですが。そして社会正義を高く掲
ことです。ただし、政府二に対し労が一、使
を述べて条約とか勧告を作っていく、という
まり政府だけでなく労使も会議に参加し意見
ということ。三者構成とは、政・労・使。つ
に違う点は、組織構成が「三者構成」である
ILOの特徴として他の国際機関と決定的
その能力を発揮させるべきだとしています。
術や経験を後輩の指導、教育訓練等に活用し、
改善を要すると提言しています。高齢者の技
る、また、高齢者の生産性が低いとの見方も
世界中央政府を設立し全てそこに従う、とい
ただ、世界連邦という概念にも二通りあって、
世 界 連 邦 の 設 立 を 訴 え る よ う に な り ま し た。
ければならない、という考えが根底にあって
い!国家主義ではなく「国際主義」にならな
が必要だ。今の国際連盟では戦争抑止力が弱
同様の働きをする、国家間の争いを裁く機関
ありというのが実情だ。個人間の司法制度と
は国家主義のもと、
“お国のため”に何でも
などの制度があるが、国と国との争いの場合
ではないか。個人と個人の争いであれば裁判
てもかえって褒められる。これはおかしいの
久野木 この言葉はね、祖父がいよいよ 歳
になった年だと記憶していますが、自分の人
に将来にあり」という言葉を残されていますね。
田林 それで日本でもハナミズキが見られる
のですね。それから翁は「人生の本舞台は常
してハナミズキが贈られてきました。
の名所となりました。米国からはその返礼と
シントンDCのポトマック河畔に植樹され桜
新たに3000本を贈ったのです。これがワ
害虫が生じ焼却処分されてしまった。そこで
初苗木2000本を贈ったのですが、これに
お礼に、というふうに聞いておりました。最
ベルト大統領に色々お世話になったのでその
お ざきがくどう
[ 尾崎咢堂翁と平和への願い]
田林 平和の大切さにお話が及んだところで、
最後に祖父にあたられる尾崎咢堂(行雄)翁
が仕切るという考え方で、祖父は後者の方で
で国家間に揉め事が生じた場合には世界連邦
うものと、もう一つは現在の国家はそのまま
の本舞台はこれからなのだと。そして 歳で
段階だったと考えざるを得ない。むしろ人生
生を振り返ったときに、今までの人生は準備
メ リ カ 合 衆 国 に 桜 の 苗 木、 ソ メ イ ヨ シ ノ を
次の思い出は、祖父が東京市長在任中にア
イメージだと分かり易いと思います。
した。今のEUや米国の合衆国制度、そんな
92
葉を刻んだ石碑があります。
歳を越えても、
銅像が建っているのですが、その横にこの言
亡くなりました。国会前庭の憲政記念館前に
95
(抄録・撮影 山田雅彦)
久野木 ありがとうございました。
て頂きたいと存じます。
もどうぞお元気で、日退協を盛り立てて行っ
まことにありがとうございました。これから
本 日 は 長 時 間 に わ た り、 お 話 し い た だ き、
田林 今為していることは全て将来に備えて
のことである、というお言葉ですね。
本当にそう思っていたらしいですね。
90
と の 思 い 出 を お 話 い た だ け れ ば と 思 い ま す。
翁は生涯世界平和を望んでおられたとお聞き
贈ったことです。日露戦争時に当時のルーズ
田林巖樹氏
しております。
久野木 祖父は 歳まで衆議院議員を務めま
した。思い出に残るのは、先ずは世界連邦建
設 の 夢 を 持 ち 続 け た こ と で す ね。 終 戦 直 後、
池の平の山荘に籠って「戦争の原因は何だろ
う。何故戦争は無くならないのか」と、ずっ
と考えていました。個人では人のものを盗ん
だり人を殺したりすれば犯罪者になるが、国
単位になると戦争で虐殺したり領土を侵略し
11
94
岩渕芳夫 榎本郁夫 大鋸甚勇 粂川和夫 佐久間征二 佐野 厚 田林巖樹 西村 修 福島龍郎 リーマン協会の実績を引き継いでスタートし
議長)は創刊の辞の中で、当協会が日本サラ
会の組織拡大については、コミュニティ・ラ
代に変わりつつあると指摘すると同時に、協
市民としての社会的意識が強く要求される時
12
マチュリティ 周年記念
年を経て今回第100号を発
名の方々のご協力を得て創刊号
◉編集担当(五十音順、敬称略)
年を振り返る」
当協会の機関誌マチュリティは、設立以来
行 す る 運 び と な り ま し た。 編 集 部 で は 下 記
か ら 最 新 号 ま で を 読 み 込 み、 そ の 中 か ら 特 筆 す べ き 記 事 を 選 ん で い た だ き、
それぞれの概要について年次を追ってここに再録いたしました。これまで編
藤﨑大四郎 増田俊雄 山田雅彦 湯藤 哲 (以上 名)
世紀に向けた社会建設の
れを受けて、布施 一理事長は、今日のサラ
ために努力頂きたいと述べておられます。こ
リティ)によって
流を通して、
経験豊富で円熟した方々
(マチュ
に、米国退職者協会など海外関係団体との交
歴史がきわめて浅いので、本格的高齢化を前
れたことに言及された後、我が国の高齢化の
き高度成長の担い手として今日の日本を築か
集に当たって来られた先輩各位のご努力に敬意を表しつつ、時代の変遷とと
〈創刊号〉
1984年1月 「創刊の辞」
会 長 安井 謙
理事長 布施 一
たこと、多くの退職者の方々は、苛烈な戦時
イフに不慣れな社会環境を勘案して一挙に個
リ ー マ ン の 生 活 は、 企 業 一 辺 倒 の 時 代 か ら、
を生き抜き、戦後の復興に挺身され、引き続
初代会長を務められた安井謙氏(元参議院
13
13
もに活動を展開してきた協会の姿をお伝えできれば幸いです。
〈創刊号表紙〉
能 の 儀 式「 翁 」 に 使 う 古 式 の 面。 能 楽 研 究 家
増田正造氏による撮影と解説付き。
21
30
30
30
「マチュリティ誌
マチュリティ誌30年を振り返る
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
層に拡大を図る必要があると述べておられま
通じて企業OB会などに働きかけ、逐次個人
保険証を医師の窓口に差し出すことに卑屈感
言われ、被保険者は差別診療に悩んだ。健康
は、健康保険制度による医療は、粗診粗療と
と言われ、急速に我が国は世界一の長寿国に
現在世界で一番医療を施しやすい国は日本
した。
険診療患者になり、夢にまで見た制度が実現
保険医療の患者が、数年のうちにほとんど保
す。また、奥原時蔵副会長(前経団連専務理
を隠すことができなかった。健康保険の診療
なった。私達はこの大きな要因となった健康
始まったが、制度創設から終戦までの 年間
事)は、平均寿命が 歳に達する状況の下で
報酬が著しく安く、医師の請求も面倒で、そ
保険制度を大切にしていかなければならない。
人のみを対象とするのではなく、まず企業を
は、仮に定年を 歳に延ばしたとしても退職
の上診療報酬の支払いも長い時間がかかった。
とし、協会事業は今後益々必要とされる高年
は、人材の積極的活用こそ国家的課題である
どこでも、誰でもが医療を差別なく受けられ
「 健 康 保 険 証 と い う 1 枚 の カ ー ド で、 い つ、
保険課長を拝命して真っ先に考えたことは、
改善・努力していこうではないか。
し、今後より良い制度にするためにお互いに
ない点も多く存在する。それらを以下に列挙
まだまだこの制度には改善しなければなら
者の自主的努力による生活の安定と向上を助
るようにする」にはどうしたらよいかであっ
健康保険の利用率は飛躍的に高まり、戦前は
を 実 現 し た。 制 度 が 改 善 さ れ て 来 る に つ れ、
一致、社会保険診療報酬支払基金の創設など
繁くGHQに通い、診療単価の慣行料金との
意欲を削がれてしまう。組合員の疾病予防や
新設された。これでは健保組合は著しく経営
保組合等に肩代わりさせるため拠出金制度が
国庫補助金を減額節約して、それと同額を健
最近の改正で、国民健康保険組合に対する
開業医の患者
険負担を、保険料として納入して形成された
ずに、自らの遭遇するであろう疾病事故の危
道は時代の流れとしても、他人の扶助を受け
れつつある。
「社会保険から社会保障ヘ」の
健保制度の基本原理である保険主義が失わ
2.保険主義を守れ
は角を矯めて、牛を殺すことになりかねない。
金として政府に取り上げられるというやり方
健康増進に努力しても、剰余金が出れば上納
人中2、3人に過ぎなかった
1.拠出金制度は間違っている
成するとともに、新しいコミュニティづくり
「健康保険 制 度 を 大 切 に 」
顧問 友納武人
1946(昭和 )年に厚生省健康保険課
長に就任され、戦後の健康保険制度を復興・
整備された友納武人氏(当協会顧問、当時衆
議院議員)による論述の概略をまとめてみま
した。
友納武人氏
1985年1月 〈
第3号〉
た。当時はGHQの統治下にあったので、足
要は医師に歓迎されない制度であった。
後の余命年数は 年を数えることになるので、
20
のために展開されるべきと結んでおられます。
人的資源以外に資源の乏しい我が国において
75
• • •
健康保険制度は、1927(昭和2)年に
13
10 65
21
10
マチュリティ誌30年を振り返る
たとえそれが政府管掌であっても、事業者と
用 す る こ と は 許 さ れ な い。 こ の フ ァ ン ド は、
健康保険のファンドは、勝手に他の用途に流
事です。以下に記事の概略をまとめてみまし
福田赳夫元内閣総理大臣へのインタビュー記
引くのは「高橋是清蔵相の思い出」と題した
• • •
た。
仏貨債償還問題
労働者と医師たちが構成する保険共同体の
ファンドである。税と保険料は全く異質なも
のである。
私は、1929(昭和4)年に大蔵省に入
「ゴルフ萬々歳」 行天良一
歳を超えてなお矍鑠としてゴルフを楽
しまれた氏のエッセイが、第5号に掲載さ
れ て い る。 大 蔵 省 財 務 官 を 務 め ら れ た 行 天
豊 雄 氏 の 父 と し て も 知 ら れ る が、 日 本 ゴ ル
フ界草創期の状況が活写されているのでそ
ンドン駐在を命ぜられ、帰国後1年ばかり税
の概要をご紹介します。
我々の健康保険は、世界最大の保険事業で
務署長をやってから本省に戻って主計局の陸
私は、1895(明治 )年、讃岐の国
は 観 音 寺 で 生 ま れ た。 ゴ ル フ を 始 め て か れ
省し、1930(昭和5)年から8年までロ
あり、その経営を単に行政面から見ることは
軍省担当主計官に任ぜられた。その時の大蔵
これ
• • •
大きな誤りであり、制度の管理・運営や経営
大臣が高橋是清さんであった。高橋さんとの
歳の今日まで内外のコース遍
28
遂行するために、社会保険庁長官を特別職と
疑念を持たざるを得ない。腰を据えて任務を
の責任者の交替が短期間に行われることには
募集にあたられたが、その外債の償還期限が
高橋さんは日露戦争の戦費調達のために外債
思 い 出 は、 仏 貨 債 償 還 問 題 で あ る。 そ の 昔、
も上梓した。
「1万ラウンドの球跡」と題したエッセイ
と、 地 球 を 2 回 半 以 上 歩 い た こ と に な る。
歴は200有余。ラウンドの数も概算する
と で あ っ た。 ゴ ル フ を 始 め る に あ た っ て、
の 知 遇 を 得 て、 乾 倉 庫 の 役 員 に 就 任 し た こ
ゴルフとの出会いは大学卒業後、大のゴ
ルフ愛好家であった神戸の富豪乾新兵衛氏
来た。それは英貨債もあり仏貨債もある。し
銭から1930〜
三 つ の 目 標 を 立 て た。 ① 好 友 を 得 る こ と
②好友より教訓を得ること ③健康・長寿
を得ること、である。やる以上、上手にな
りたいと思い逗子の海岸でジョージ・ダン
カンの指南書を手に練習ボールを朝晩打ち
ロンドン駐在の私は津島さんのカバン持ちで
し、 フ ラ ン ス と 交 渉 せ よ と い う 事 に な っ た。
さん今日はカチン玉に行かないの」と誘い
ボール拾いを頼む。小雨の日なんか「おじ
続けた。近くの子供に三銭の駄賃を与えて、
は、還暦を迎えた昭和の時代を振り返るとい
に来た。
我が国は額面で払うという態度決定の通告を
英仏駐在財務官であった津島壽一さんに対し、
なると大きな負担となる。高橋さんは、当時
面で払うと負担は少ないが、金価値で払うと
分の1に暴落した)その暴落した仏貨債を額
1931(昭和5~6)年頃には8銭と、5
ところの1フラン
円・フランのパリティが大幅に下落した。
(ひ
して、事業に詳しく熱意と責任感ある民間人
元内閣総理大臣 福田赳夫
「高橋是清 蔵 相 の 思 い 出 」
1986年4月 〈
第8号〉
かし、フランスは第一次大戦後国力が疲弊し、
90
を起用すべきである。
年、
効率を重視すべきことは言うまでもない。そ
3.保険事業としての経営効率重視を
90
60
同行し、債券の保有者であったバロン・エド
1986(昭和 )年4月発行の第8号で
40
う特別企画を掲載しています。その中で目を
61
14
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
と 激 賞 し、 昼 飯 と 高 価 な ワ イ ン を ご 馳 走 に
が、バロンは「高橋さんは健在か? 彼は世
界で稀にみる偉大なファイナンサーである」
ワード・ロスチャイルドの家に交渉に赴いた
2・ 事件の遠因は 時間閣議
かなか難しい交渉であった。
ルド・スタンダード」と書いてあったのでな
いた。ともかく、契約文書では「イン・ゴー
らかご考慮の余地はないものか」と軟化して
そ の 後 2 年 ち ょ っ と で シ ン グ ル に な っ た。
翌 年 の 仮 開 場 コ ン ペ で 思 い が け ず 優 勝 し、
1930(昭和5)年に相模CC設立の
話 を 聞 い て 大 枚 百 円 の 入 会 金 を 払 い こ ん だ。
さ れ、 ジ ョ ル ジ ュ・ サ ン ク ホ テ ル に 戻 る と、
かぬ」と答えた。交渉を終えてようやく釈放
して訓令を受けているので曲げるわけにはい
ご意見はご意見として、私は日本政府を代表
さすがに津島さんは少しも動ぜず「あなたの
私はもうこの部屋から出られないと感じたが、
棒を持った警官風の大男が私達を取り囲んだ。
すると部屋の四方のドアがスーッと開いて棍
変 え て 怒 り、 デ ス ク の 上 の ボ タ ン を 押 し た。
勢いに乗って大型予算の要求になったのだろ
れで統制派が勢いを減殺され、皇道派がその
前に、相沢中佐に永田鉄山が斬殺された。そ
長をしていた。その
山。非常に人望のある方で当時陸軍省軍務局
論、その大将は真崎甚三郎、統制派は永田鉄
皇道派と統制派に分かれ、皇道派は対ソ主戦
大な予算要求が提出されていた。当時陸軍は
議があり、陸軍省からは対ソ準備のための膨
と大蔵省との間で 年度の軍事費を決める閣
た感がある。
不良化し、戦後日本に渡ってから非行化し
ゴルフの原点であるがその後米国に渡って
に有利になるようなことはしない。これが
36
歳を超え
津島さんから高橋大臣宛ての電文作成を命じ
うと思う。ある時、私はたまたま軍務局軍事
切れた。変だなと思っているとすぐに向こう
から電話がかかってきて、
「先ほどは失礼し
ました、実は永田閣下がただいま隣の部屋で
斬殺されました」という話であった。それで
大 蔵 省 は 高 橋 さ ん が 中 心 に な っ て 抵 抗 し た。
)年度予算閣議が 月5日に始まったの
そしてその陸軍の要求を含めて1936(昭
和
11
80
漫画家・清水昆氏に
よる似顔絵
思い出に耽る。
影 を 思 い 浮 か べ、
それらの人々の面
く な っ て ゆ く 中 で、
の方の次第に少な
友 の 数 多 き。 現 存
を通じての何と好
い や い や、 ゴ ル フ
エチケットを尊重し、いかなる場合も自己
由来ゴルフは、スコットランドに生まれ、
英国の紳士の遊びとしてあくまでマナーと
を楽しんでいる。
ブに出かけ1ラウンドを限度に皆とプレー
てからは無理を避け、ただ一人飄然とクラ
初期の目標を達成し、時を経て
ら れ た。 そ の 内 容 は、「 趣 旨 は 伝 え た が 大 変
課長の橋本さんと直通電話で話をしていたと
時間閣議の2、3か月
なお怒りで日露戦争のある恩義を忘れたかと、
スポーツも仕事が絡むゴルフ哉
これも時世だ、やきもきしても時代の波
に は 抗 し き れ ぬ、 老 人 は 消 え 去 る の み か。
ンピオンにもなった。こうして、おおむね
と の 対 抗 試 合 に も 加 え ら れ、 ク ラ ブ の チ ャ
も っ ぱ ら、 相 模 の プ ロ パ ー と し て 他 ク ラ ブ
なった。いよいよ交渉となって津島さんが日
1935(昭和 )年 月、いよいよ軍部
11
こ ろ、
「 失 礼!」 と 言 っ て ガ チ ャ ッ と 電 話 が
本政府の訓令を切り出すと、バロンは血相を
36
11 10
36
であるが、これがかの有名なる 時間閣議で
11
ある。私は陸軍省予算担当なので想定問答を
15
26
きついお話であった。大臣におかれてはなん
福田赳夫氏
マチュリティ誌30年を振り返る
作って高橋大臣に差し出したが、受け取らず、
「 き み、 世 界 地 図 が 欲 し い、 掛 け 軸 を 」 と 言
われそれをお渡しすると、受け取って閣議室
に入り、それっきり 時間。たまたま閣議か
ら小便に出てきた松田源治文部大臣に聞くと
「 高 橋 さ ん が え ら い 勢 い で〝 日・ ソ 戦 う べ か
1986年7月 〈
第9号〉
協会創立当初に設置された実行委員会では
「損保マチュリティ懇話会」
創立総会
ようやく2昼夜過ぎて3日目の未明に、陸・
1985(昭和 )年2月に、産業別にOB
ら ず 〟 と い う 議 論 を や っ て い る 」 と の こ と。
海軍省サイドに不満を残しながらも閣議は終
入りの提灯を持って、万歳、万歳と言って出
大蔵省の役 人と一緒になって、「大蔵 省」名
蔵 省 が ど こ ま で 闘 う か と 見 守 っ て い た の で、
合いしていた大蔵担当の新聞記者連中も、大
了した。引き上げる大蔵勢に、徹夜でお付き
出身会員 名からなる準備委員会の努力並び
することとなりました。協会側役員及び損保
象とした「損保マチュリティ懇話会」を設立
史的に最も緊密な関係にあった損保業界を対
会を組織することを決め、その嚆矢として歴
( 注 ) 2 0 1 4( 平 成
) 年 現 在、 当 懇 話
会は松多会長の下で活発に活動を続けて
おり、年1回著名講師を招いて講演会を
号〉
開催し、その概要はマチュリティ誌上で
紹介されています。
1988年1月 〈
第
「OBサミットへの想い」
名誉会長 福田赳夫
)年5月
激することとなり、翌年の2・ 事件につな
新聞記事がずっと出て、軍部とか急進派を刺
迎えた。それで大蔵省の要請が通ったような
中で布施理事長は、
「損保業界が名誉ある産
創立総会開催の運びとなりました。ご挨拶の
1986(昭和 )年3月 日に損保会館で
に 日 本 損 害 保 険 協 会 の ご 協 力 も あ っ て、
に掲載された特別寄稿のあらましをご紹介し
1988(平成元)年1月発行の第 号誌上
展 に 多 大 の ご 尽 力 を い た だ き ま し た。
に当協会名誉会長に就任され、協会活動の発
福田元総理は、1986(昭和
がり、高橋さんはその犠牲になられた。だか
ます。
26
川さんから電話で、大蔵大臣が亡くなられた
からは、
ここに至る沿革として、
1970(昭
• • •
私はかねてより各国の元首脳たちによるO
な期待をかけている」と述べられ、大滝理事
27
Bサミットの構想を持っていたが、長年の友
15
61
和 )年に小南弘久氏(日動火災元社長)に
2・ の朝6時前に内務省文書課長の長谷
36
歩いて北の丸を通って大蔵省に着いた。
と 銃 剣 を 持 っ た 兵 隊 が い て そ こ で 下 ろ さ れ、
多少遅れた始発バスに乗って半蔵門まで来る
の性格をより明確化するため、1984(昭
ン協会」が高齢化社会下のサラリーマン運動
よって創設された「社団法人日本サラリーマ
動機となってシュミット元西独首相たちの協
フォード・モース氏に話したところ、それが
人である国連開発機構事務局長のブラッド
月にウイー
称変更したとの説明があり、その後懇親会に
ンにおいて記念すべき第1回OBサミットが
11
開催された。
58
移り会の出発を盛大に祝いました。
)年
力を得て、
1983(昭和
わけでありましたね。
に日本は軍事国家という方向に押し流される
2・ 事件を契機として、堰を切ったよう
和 )年6月に「日本産業退職者協会」に名
45
59
16
26
業別第1号としてスタートされたことに大き
61
60
ら事件の根源はやはりその 時間閣議だな。
10
15
36
との急報を受けた。大雪でタクシーは来ない。
26
26
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
この会議の最大の目的は、世界の平和に貢
献することであり、そのためには、一つは米
ソの核軍備の拡大を抑止すること、第2は世
界経済の安定を図ること、そして第3は世界
の人口増加の問題、特に開発途上国における
食糧不足と環境破壊をどう解決するかである
と考えている。
幸い、同会は毎年続けられ、世界平和実現
のための具体的努力について、多くの提言が
出されている。
(注)この会議はその後インターアクショ
号 の 阿 倍 茂 三 郎 氏 の「 誌 名
号〉
」 の こ と 」 の 随 想 を 抄 録 し ま し た。
Maturity
日」及び
「
1989年1月 〈
第
「マチュリティをめぐる雑感」
民放クラブ理事 山口 進
日退協さんのお蔭で、マチュリティという
言葉の意味の深さを、いろいろと教えていた
遠 い 私 は 神 か ら の こ の 御 籤 が 目 に 入 っ た 時、
宮司に笏で叩かれたほどの衝撃をうけた。
そして次には肘張っていた体の力が抜けて、
何ものからも解放された心の自由さが次第に
湧き上ってくるのを覚えるのだった。
)年から、孟子
第 2 項 は、「 敬 以 て 内 を 直( な お ) く す 」
とある。
私は一昨1987(昭和
格
「物
の言行録『孟子』と取り組んでいたが、そこ
に見る三千年の儒教史は朱子に至って
分の心を真っ直ぐに立てる」ことが人間を律
致 知( 物 に 格 り て 知 を 致 す ) 」思 想 を 生 み、
それが易経の坤卦文言伝に云う敬をもって自
ある方々の存在は変化に富んだ時代の経験者
する最高の理念だと知らされた。
」 創 刊 号 で も 安 井 謙 氏 が、
だ い た。
「 maturity
「マチュリティをそのままに、円熟の人生に
)
ン・ カ ウ ン シ ル( InterAction Council
と名前を変え、毎年世界平和のための提
として、 世紀に向けての日本の社会建設の
指すマチュリティ人にはほど遠いものだから
ところで、この「人格、才能の豊かさ」を
ン・マチュリティを補いたい、と念じたので
べき「東洋の心」の極致と理解し、自らのア
には全ての地球人に対して、まず捧げられる
ために欠かせないもの」と説いている。
例年のことながら新年を迎えると、日記帳の
滅多なことに怒らないこと。
過ぎたことをくよくよしないこと、
)である。
掟』( lebensregel
楽しい生活を築こうと思うなら、
第3項は、世界的文学者ゲーテの『処世の
ある。
)年の新年に認めたその「所信のよ
うなもの」を、恥ずかしながらお屠蘇気分で
(昭和
なにか認める習慣がついている。昨1988
第1頁に新年に立ち向う所信のようなものを、
この「敬」こそが宇宙や自然に対して身近
言を国連や各国首脳会議に向けて発信し
ています。2010(平成 )年には広
島で開催され、核廃絶を訴えました。現
在の日本代表は福田康夫元総理です。
マ チ ュ リ テ ィ
」とは
Maturity
ご披露してみると次のようなものである。
第1項は、「こころも言葉もみな朴
(すなお)
いつも現在をたのしみ、
私がこの歳の正月元旦、住んでいる町の鶴
将来は神にまかせること。
に」
。
• • •
この疑問に答えるエッセイを3篇ご紹介し
岡八幡宮に詣った時、金百円也で引いた中吉
とくに、人を憎まず、
ます。 号の山口進氏の「マチュリティをめ
私 の 家 で は、 こ れ の ペ ン 書 が ト イ レ に も
私達は マ「チュリティ 」という言葉の意味
をどこまで知っているだろうか?
「
19
なる籤の言葉である。マチュリティ人にほど
30
17
62
42
21
63
22
ぐる雑感」と 号の岡本則一氏の「人生3万
19
マチュリティ誌30年を振り返る
仕掛けになっている。ドイツ語学者だった岳
飾ってあり、腰を下ろすと否応なく向き合う
いんだよ」と聞かされ、
「なんて言うんです
友 人 か ら、
「 君、 こ の 頃 は 古 稀 な ん て 言 わ な
う、いわば育成機関とも申せましょう。誰か
なっても未だ日が浅く、仕事はこれからとい
次の1万日は約 歳までの期間です。人生
に、そして社会から殆んど借りっぱなしで生
父朝日方園の訳、筆になるものだ。
きている時代です。
近来ザラなんだそうです。考えて見るまでも
か?」
「キンザラって言うん
問い返したら、
だ」と答えが返ってくる。古来稀ではなくて、
この処世訓を貰った若い頃は、何だか平凡
であるばかりでなく生温かく、怠情なものに
年 時 代 に は 古 稀 で よ か っ た し、
それなりに長寿の祝いの意義があったと思い
だと思っています。そしてこの中間点を過ぎ
てはいるが、その借り以上に返していく世代
働きざかりの頃で更に借りを加えながら生き
わうに従って、これらの言葉の重さ、深さが
ます。今の時代には人生の節目の切り方を考
な く、 人 生
実感として少しずつ理解できるようになって
から 歳までがジュニア・オールドで 歳以
人生 年とすると、それは約3万日弱とな
基盤をつくりあげていくのが通常のスタイル
と申せます。
人生 年時代でしたらここでおしまいです。
ります。この3万日を1万日ずつに区切るの
がありました。ところが今の世の中ではまだ
目出たく長生きされる方はご隠居さまの余生
まだ長い道程が恵まれております。2万日超
題にどんな答えをするのかが、その人の一生
えの毎日をどう過ごしていくのか──この課
なります。この年代は、親に育てられ、先生・
を左右するし、どんな答えをする人が大勢を
てしまう。いわば社会に対して収支ゼロの生
好きなことをして人生をエンジョイして費っ
て貯めたのだから、これからはやりたいこと、
でしょう。自分で、或いは自分達夫婦で働い
借入超過の人生を送らざるを得ない方もある
人様から或いは国から面倒を見て貰い、再び
不幸にして病にかかる等、こと志と異なり、
来ると思っています。
占めるかで、その社会の将来を占うことが出
先輩に導かれ、世間からは守られ、社会人と
生まれてからの1万日目は約 歳5ヶ月と
おります。
が面白いのではないかと大分以前から思って
80
めを果たして、2万日を過ぎて迎える人生の
る頃には社会人として、或いは親としての務
号〉
上になってはじめてシニア・オールドだと言
75
リティな人の到達する人生最高の境地という
蓋し、ここに見るゲーテの言葉こそマチュ
え直してもよいのではないでしょうか。 歳
さえ思われた。しかし、年を重ねて実年を味
55
きたと思う。
50
われる方もおります。
75
べきだろう。
1991年 月 〈
第
「人生3万日」
安田生命保険相互会社社長 岡本則一
この1月で満 歳を迎えました。親しい皆
様方からお祝いの言葉を頂きまして、嬉しい
ことは無論でしたが、自分自身今一つ、身体
の奥底から充実感が湧いてこない、いわば不
燃焼感がどこかに残るきらいのあったことも、
贅沢な悩みかも知れませんが、ございました。
年古来稀」に由来することはご承知
50
65
岡本則一氏
30
古稀の語源は大詩人杜甫作「曲江」の中の
「人生
80
27
10
70
の通りでありますが、いまや人生 年時代で、
70
歳以上の方はいくらでもおられます。ある
70
18
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
涯を送ろうとする方もあると思います。自分
ているわけです。
れ以上に借りを返す覚悟と行動が必要と思っ
言葉を連想しました。
しかし、表紙を返して「人格・才能の豊か
で円熟の意味」と記されており、なんとなく
の意志で自由に使える時間を多く持っている
私は、仏心が薄く、難しいことはよくわか
この誌名は当協会が当初から友好関係を
のが2万日超えの人生ですから、人各々が自
の否定であり、他との関わりを深く認識する
持ったAARP(米国退職者協会…1958
分かったような気がし、言い知れぬ魅力を感
私はこの問いに対して、だらしのないこと
こと──だとの意味が少しずつ心の中に入っ
り ま せ ん が、
「 空 」 即 ち「 無 我 」 と 言 い か え
ながらまだ明確な答えを用意できておりませ
てくる昨今となりました。そこで遅ればせな
年設立)の機関誌である modern・m
aturityから暗示を得て命名したもの
己の責任と判断で人生設計をする──それで
ん。しかし、又ぞろ世間様に対して借金をふ
がら、それを言動で実行に移したいと念じて
で、勿論同協会の了承のもとに実現したわけ
じたのを覚えています。
やすことはできたらしたくない。そして、で
おります。そして、私なりに3万日の人生を
です。なお英文字による表示を主体としたの
てもよいかも知れませんが、それは孤立自在
きればいくらかでも社会に還元したいと思っ
生き甲斐があり、落ちつきのあるものに仕上
良いと思います。
ております。それは偉そうなことを言う意味
は、当時のいわゆる「国際化」を意識してと
のことでした。
されています。
6月の当協会発足と同時期にこの誌名で創刊
マチュリテイ誌は、1984年(昭和
年)
げたいと願っております。
号〉
でいっているのではなく、充実した生涯を送
りたいと思っているからです。
若さが自分の行動半径を広げることである
1994年 月 〈第
(以下は掲載された内容より一部要旨を原
ならば、老化とはそれが縮小する過程に入る
現象ではないでしょうか。卑近な例で、テレ
これは協会の前身である(社)
日本サラリー
マン協会の時代に、関係者が米国の高齢者団
体の事情調査の為に渡米した際、最大の規模
と最高の機動力を持つものとして、かねてそ
生活の場を維持するよう努める必要がありま
す が こ れ は 一 般 的 に は、 あ ま り 見 慣 れ な い、
申すまでもなく、当協会の機関誌の名前で
決まったという事情によるものです。
を機に検討の結果、早々にこの誌名の採用が
触し各種資料と共にその機関誌を入手したの
「誌名「 Maturity
」のこと」
文のまま抜粋したものです。
)
朝散歩・体操をしていたのがしなくなる、外
出が減っていく、無為に過ごす時間がふえる
──その積み重ねで生活空間が狭まっていく
しょう。その為には外部の方々から存在を認
聞きなれない、また意味の分かりにくい言葉
の存在を知らされていたAARPと緊密に接
め ら れ、 受 け 入 れ ら れ な け れ ば な ら な い と
のではないでしょうか。つまり、世間に対し
くらかでも役立つよう努めなければならない
ら、成熟ということかな、と思い熟年という
tureという動詞を名詞にしたのだろうか
そしてしばらく思案した揚げ句、多分ma
Vガイド」
「リーダーズ・ダイジェスト」に
(隔月刊)の発行部数は1200万部で「T
1600万人、機関誌モダン・マチュリテイ
ちなみにAARPはこの当時会員
ではないでしょうか。
──それが老化です。ですから、できるだけ
59
思っています。もっと端的に申せば人様にい
常任理事 阿倍茂三郎
ビ を 2 時 間 見 て い た の が 段 々 見 え な く な る、
42
て借りも重ねなければ生きていけないが、そ
19
10
マチュリティ誌30年を振り返る
なお最近では、会員3300万人以上とのこ
次いで全米第3の地位を占めていたそうです。
のを感じ、この思いも命名につながった」と
讃える東洋的な「敬老」の思想を偲ばせるも
時の副会長・理事長である奥原時蔵氏が第
題に答えたのが1992(平成4)年1月当
このような事情のもとに、当協会のマチュ
いう述懐の言葉が印象的でありました。
らに巨大な数字となっているはずです(会員
リテイの意味は表紙裏掲記の「人格、才能の
とですから、同誌の発行部数もその割合でさ
才に
号に「協会の新しい発展を目指して」と題し
• • •
て寄稿された一文の抄録です。
豊かで円熟」と要約されたわけですが、これ
当協会は、この年明けで設立9年目を迎え
引き下げた事もあるようです)
をやや具体的に敷延すれば「熟達した知能と
)年に設立された
日本サラリーマン協会という社団法人が労使
地位向上を目的とする活動の中でその頃1万
内蔵する高齢者の姿を象徴する」と表現でき
私たちは、このマチュリテイの様相を理想
円年金と呼ばれた厚生年金の引き上げや、所
と化膿という医学用語の訳は別として、一般
として心に描き、ゆるぎない自立と自尊の確
得税の減税などの運動に一応の役割を果たし
関係の円滑化促進と、サラリーマンの経済的
あるいは「人間」を対象としてその成熟、円
立を図りながら、自らの生きがいを育み、社
どの訳語になります。そしてこの場合は「人」
熟の状態を表現する事が多いようです。
)年当時漸く一般
たのち、1984(昭和
を 見 る と マ チ ュ リ テ イ と い う 用 語 の も と に、
向けに編集されている「コンプトン百科事典」
り成す大道を、明るく、おおらかに歩んでゆ
と研鑽、相互扶助と社会奉仕という行動が作
応を目的として、同協会を改組・継承のうえ
に注目され始めた高齢化社会の諸問題への対
) 年 頃 は、 高 齢 者(
歳以上)の全人口
サ ラ リ ー マ ン 協 会 設 立 の 1 9 7 0( 昭 和
設立されたのが当協会であります。
59
きたい、と念願する次第です。
号〉
45
65
個人として、家庭人として、又社会人とし
て の 成 熟、 円 熟 の 有 り 様 や 在 り 方 を、 知 能、
情緒、社会、性心理、道徳、宗教という 項
1992年1月 〈
第
「 協会の新しい発展を目指して」
揺藍期を過ぎ、初代会長が敷かれた路線を
理事長 奥原時蔵
当協会のマチュリテイについては、命名に
さらに今後どのように発展させるかという命
るような気がします。
RPの機関誌名になっている意味が良く分か
一般に理解されているところが、そしてAA
このことから、マチュリテイという用語が
明しています。
目に分類して精密な分析を加え写真入りで説
7
かかわった役員の「この語になぜか高齢者を
奥原時蔵氏
31
4ぺージにわたる詳細な解説があります。
ブリタニカ社系列で、主として家庭と学生
会の期待に応え得るよう、同志・同好の交歓
るものではないでしょうか。
45
的な使われ方としては、成熟、円熟、完成な
ました。1970(昭和
マチュリテイの語義は、英和、英英のいず
急増の主因は入会年齢制限を 才から
31
豊かな体験、潤いある情操と雅趣ある教養を
50
れの辞書でも、手形の満期日という経済用語
55
20
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
に 占 め る 比 率 は 7 % で し た が、
年後の当
15
協会設立時は ・7%さらに 年後の現在は
7
・5%となっています。これが今後の推計
10
数字によりますと、 年後には ・3%、
16
ざるを得ないことには変わりありません。私
どもの活動も、どうしても企業に頼らざるを
得ない状況にありますが、せめて企業の社会
貢献活動の一端を担う意味からもと考え、当
「地球サミットに参加して」
安田火災海上保険株式会社 取締役社長
後藤康男
個人会員によるボランティア活動の奨め、紹
鬱蒼とした森や、鳥、花といった自然と触れ
の 中 を 走 り 回 り お お い に 遊 ん だ も の で あ る。
私の郷里は四国松山である。少年時代は緑
化が進むことになり、それだけに高齢者対策
介・表彰等の事業を企画し、既に一部実行に
協 会 で も 昨 年 か ら 新 し い 方 針 の 一 つ と し て、
の重要性が年々高まってゆくものと感ぜざる
合いながら体が鍛えられ、自分という人間が
ベント活動をさらに強力に展開してまいりま
る講演会、見学会、旅行、観劇会等の各種イ
の保険、医療、法律、教養、趣味等にかかわ
各位の温かいご支援のもとに個人会員各位へ
今年も当協会は100社を超える法人会員
さらには社会への奉仕活動に真の生き甲斐を
ま た 会 員 と い う 輪 の 中 で の 交 流 と 相 互 扶 助、
の中で趣味に学習にスポーツに歓びを見出し、
齢者が自立と自助に基づく健康と生活の安定
各種事業活動を通じて意図するところは、高
以上申し述べましたとおり、当協会が行う
るという、いわゆる地球環境の危機が叫ばれ
かりか、人類の存在すら危うくなってきてい
にはこのような自然の恵みを期待できないば
しかし我々の孫や子孫がもはや当然のよう
うな自然の恵みを当然のように享受してきた。
を得ません。
すが、これに加えて会員の相互交流の促進の
ところが世界人口の急速な増大により無計
を自らの力で浄化してきた。
うに、自然は自浄能力を持ち地球は環境汚染
「川は三尺流れれば水清し」といわれるよ
ている。
あります。
1992年 月 〈第
号〉
上で、微力ながらその一助となり得ることで
求めるという高齢者の幸せの道を固めてゆく
その一つとして会員の皆さんが親睦、懇談
を通じて、お互いの知識、体験談などの交換
が自由にできる場を設けフリー・サロンと名
付けております。これは相互に扶け合う同志
同好の輪を拡げて頂こうという主旨からで昨
(以下は地球環境問題について経団連も本
格的に取り組みを始めた事について、寄稿
年からほぼ隔月に実施してまいり、予想以上
話は変わりますが、経団連に昨年企業利益
された内容より一部要旨を原文のまま抜粋
の好評を得ております。
の公益団体等への還元を勧奨する「1%クラ
したものです。
)
34
ブ」と呼ぶ事業を行う部門が創設されました。
これには企業のみでなく個人でも参加でき
後藤康男氏
10
ります。
ための事業活動の拡大を図ってゆく所存であ
形成されていったように思う。我々はこのよ
移しつつあります。
年後には ・6%と驚くべきスピードで高齢
10
ることになっておりますが、企業中心になら
21
23
30
12
マチュリティ誌30年を振り返る
年の間に加
であらゆる手段を講じて地球の為に何か努力
らは政府、企業、個々人がそれぞれのレベル
無権利状態が解消し、家族の平等性が保護さ
家族制度の大きな変容であり、妻の財産上の
第2の点は社会保障制度の充実です。国民
条を源流
) 年 の 国 民 皆 保 険、
の生存権を規定した日本国憲法第
と し、 1 9 6 1( 昭 和
皆年金の実現や社会福祉制度の制定によって
定着していった訳です。
しかし、制度的整備とはうらはらに、高齢
者の疎外感そして生活の質の低下を顕在化さ
せており、各人の健康状態により二つに分け
想像以上に日本への期待は大きく、多くの
比較し平均寿命が2倍近くまで伸び、これま
(この年頭所感で松澤会長は、大正初期と
組織の活性化の観点から転・退出を余儀なく
欲 を 持 っ て お り ま す が、 時 に 民 間 企 業 で は、
社会的な役割を担い続けてゆきたいという意
22
画な自然資源の消費はここ ~
速度的に増え、地球の持つ自浄能力を超えて
世界中の我々の孫や子孫が豊かな自然の恵
化の進展を促進したことです。
れ、家計の独立を容易にし、その後の核家族
経団連では自然保護基金が設立され、途上
をしなければならない。
今年の6月、ブラジルで行われた「地球サ
国の自然保護の支援を行う事となった。私も
しまった。
ミット」はこのような地球環境の危機に人類
その運営の一端を担うことになる。微力なが
ら、本基金の成功にむけ努力するつもりであ
が結束して立ち向かおうと決意した歴史的な
国際会議である。
「 地 球 サ ミ ッ ト 」 に 参 加 し た。 全 世 界 か ら 政
みを享受できるよう、いつまでも美しい地球
る。
府関係者、産業人、NGO等多くの人達がリ
でいてもらいたい。
私は経団連ミッションの団長としてこの
オ・デ・ジャネイロにおいて一堂に会し地球
を守る為に人種を超え、国境を越え熱心に意
て対応がとられるべきであります。
まず、健康な方々の問題です。
人からその思いを伝えられ、日本人の一人と
でに比べて2倍の人生を送れる時代になった
多くの健康な高齢者は、健康であるが故に、
し て、 責 任 の 重 さ を 感 じ た。 考 え て み る と、
第1の点は民法の大改正に象徴されている
ず次の点を挙げておきたいと思います。
備」と「高齢者の生きがい支援」についてま
これからの課題とされる「高齢化社会の整
会長 松澤卓二
「生きがいのある社会に」
【年頭所感】
されています。戦前の社会では、高齢者は儒
リーダーシップが取れるものはこの地球環境
問題しかないのではないかとさえ思う。
アメリカではTNC(自然保護協会)とい
うNGO組織が 年も前から 万人の会員を
るのである。
確かに日本は産業公害を克服した。しかし
それは自国内にとどまるものである。これか
松澤卓二氏
ことに触れ、次のように述べておられます。
)
深い感動をおぼえた。
的な場面に自分が立ち会っていることに私は
見を交換したわけであるが、このような歴史
号〉
25
30
技術力、資金力、人材の豊富さからも日本が
1997年1月 〈第
51
36
20
65
擁し年間 億円の浄財を集め国内にとどまら
40
ず、海外の途上国の自然保護活動を行ってい
30
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
現在の社会にあっては、家族関係が次第に希
れますが、平等な権利関係が色濃く浸透した
生きがいを感じる機会に恵まれていたと思わ
教 的 な 価 値 観 も 手 伝 い、 敬 愛 の 対 象 と な り、
りたいと念ずる次第であります。
する触媒となれるよう、微力を尽くしてまい
を少しでも多く感じることができる場を提供
数の人が通る老いの課程において、生きがい
す。役割は異なるとはいえ、当協会も、大多
ません。賢明な皆様のこと、第一線を退いて
と騒ぎ立てること自体がナンセンスかもしれ
うたかた」の如しで、若かったの、老いたの
の辿った人生なぞ、まさに「よどみに浮かぶ
いのではないでしょうか。ともすれば、我々
か ら の 老 後 の 生 活 設 計 は 既 に 織 り 込 み 済 み、
薄化しつつあることは否定できません。疎外
感に苦しむ人々が、社会参加を果たしてゆく
ぐ目の前、
「よくぞここまで生きてきたもの」
知らずのうちに人類の固定観念になってし
暗黒、すべての終わりと考えるのが、知らず
らにほかなりません。
「死」それは絶望、悲観、
うか。何故でしょう? それは、老いの先に
ある「死の恐怖」を潜在的に意識しているか
い知れぬ寂寥感に襲われるのではないでしょ
送っている人でも、心穏やかならず、ふと言
にすると、たとえ張り切って充実した日々を
友人が寝たきりになった話や訃報の便りを耳
今更とまどうこともありますまいが、親しい
号〉
横須賀愛光園 阿部政次
「死」は怖いものではない
1997年4月 〈第
仕組みとして、定年制の延長や、ボランティ
ア活動の導入が最近普及し始めたことは適切
な方向と考えます。
次に対照的に体の弱い高齢者の問題です。
万人
老いと共に身体的な制約が強まり、極限と
し て 寝 た き り 老 人 が、 全 国 で 約
( 1 9 9 3( 平 成 5) 年 ) に 上 る と い う 現 実
はるか彼方と思っていた 世紀も、もうす
とは、大方の皆さんの思いでしょう。しかし、
まったようですが、果たしてそうでしょうか。
があります。こうした方の人数は2010(平
れ て い ま す。 こ の た め に、 政 府 は 今 国 会 に
長 い 人 生 の 歴 史 か ら 見 れ ば、 た か が 2 千 年、
)年には170万人にまでなると予測さ
2000(平成 )年度の施行を目途に介護
保険法を提出しております。家族等の介護負
ほんの短い時間に過ぎません。ましてや宇宙
医 学 的 諸 器 官 の 生 理 的 限 界 か ら 言 っ て も、
いくつで死ねば満足か
も、 年 か ら 言 っ て そ う 遠 く は あ り ま す ま い。
をはかっても、死ぬときは死ぬのです。それ
ると言ってもいいでしょう。いくら健康増進
因子で既に皆さんの寿命は運命づけられてい
や家庭の環境、嗜好や食習慣、その他諸々の
死ねば満足なのでしょうか? 皆さんの寿命
も千差万別、それぞれの遺伝子や性格、仕事
とすれば、皆さんはいったい自分がいくつで
人 間 は 1 2 0 歳 以 上 は 生 き ら れ な い の で す。
的時間帯からすれば、一瞬の出来事に過ぎな
にも好影響を与えるものと推測されます。わ
が国の高齢化は速いテンポで進み、年金・医
療制度を始めとする財政負担が急速に重なっ
てゆくことは確実です。こうした環境にあっ
て、財政再建の必要性を再認識しておくこと
は当然ですが、深刻化する高齢者問題への適
切な対応のために介護保険法のような制度面
の裏付けが、心のケアにも十分留意した形で
阿部政次氏
担を軽減する在宅サービスが柱で、家族制度
成
52
21
90
社会的に認知されてゆくことが必要不可欠で
23
12
22
マチュリティ誌30年を振り返る
誕生、入学・卒業、就職・結婚などと同じ人
人間の死、それも老人になってからの死は
我が人生に悔いなし
ら悔いはないのではありませんか!
んでも、ビデオの静止画像のようなもので何
も始まりません。たとえゴルフや会合中に死
平均寿命前後になれば、今更、じたばたして
けたら、どんなにか華やいだ希望ある老齢化
なことを好きなときに好きなようにやってい
ティアでも、友達付き合いでも、何でも好き
ら か に 趣 味 で も 仕 事 で も、 旅 行 で も ボ ラ ン
つ死ぬか分かりませんが、それまで明るく朗
残らず病気や死の潜在的恐怖から脱却し、い
していなければの話ですが。世の老人が一人
日本経済の再生もあり得ない。
「
識には、同感である。また、そうしなければ、
の力で養うことが必要になる」という時代認
にかかれない。
「高齢者が自らの生活を自ら
上げや受給額の減額といった議論にしかお目
もかかわらず、わが国では、受給年齢の引き
金制度は、いずれ破綻する可能性が高い。に
ために若い世代が高い税負担を強いられる年
歳定年説」
社会になるでしょう(別掲 頁ご参照)
。
号〉 ㈱ダイエー会長兼社長 中内 㓛
生涯「現役」のすすめ
「初めての出会い」を求め続ける
知的好奇心を持とう
1997年7月 〈第
生の1プロセスに過ぎず、決して特別なもの
ではありません。もちろん死ねばやり直しは
できませんが、若者と違い、これまで散々失
敗もし、それなりに成功もしてきて、これ以
上何をやり直す必要がありましょうか。死の
苦しみから逃れるためや、あるいは来世の生
き 返 り を 願 っ て 宗 教 に 頼 る 人 も お り ま す が、
それはそれなりに尊いことかも知れませんが、
死後の世界のことは誰にも分かりません。科
学的証明がない限り万人に普遍的とも言えま
せん。何も死んでからまで、更なる個人的な
は、年金制度の崩壊だけでなく、これまで日
本経済を支えてきた、さまざまな仕組みの構
造転換の必要性を示唆している。雇用につい
て言えば、
「就社」という考え方をベースに、
ある会社に入ったら終身雇用と年功序列で勤
めあげ、 歳になったら定年で一丁上がりと
いう、固定的な形態では来るべき高齢化社会
に は 対 応 で き な い。 今 後 は、
「就職」という
考え方をベースに、年齢に関係なく、働きた
い人が、働きたい時に、働きたい場所で、働
世界的に著名な社会生態学者であり、私が師
引き上げなければならない」
。ある講演会で、
のが、働く人の意識改革である。定年退職で
が必要である。雇用制度の改革以上に大切な
態を社会的な仕組みとして構築してゆくこと
きたい職(ジョブ)につける、柔軟な雇用形
と仰ぐピーター・F・ドラッカー博士は、高
余生を楽しむのも一つの理想であるが、
「自
歳に
ま せ ん か。 人 類 と い う 偉 大 な 生 命 体 の 中 で、
齢化の進展が先進
分の人生は自分で設計していく」という考え
歳から
たとえ短い間、細やかなことであっても、自
国の中でも際だっ
方を持つことが必要だと思う。「自分の存在
年間に退職年齢を
分なりに精一杯貢献をしてきたではありませ
て早い日本が直面
意義は何か」を賭けて、本当の自分を発見す
「今後
んか。「わが人生 に悔いなし」と思え ばいい
する最大の課題を
るための旅を続ける気持ちを持つことが大切
ばいい。こうして我々老人が、やがて来る死
を当然のこととして、素直に受け入れさえす
れば、あとは怖いものはありません。得意の
絶頂から奈落の底に落ちるような悪いことを
中内 㓛氏
のです。「まだ」 と思う人はこれから 頑張れ
こう語った。高齢
幸福を得ようと欲張らなくともよいではあり
75
だ と 言 っ て も い い。 若 い 人 に は「 結 婚 2 回、
75
60
28
53
60
者の生計を支える
15
24
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
就職3回のすすめ」を提案している。人生
年時代だから、最初の 年でビジネスマンの
80
基礎を身につけ、その次の 年でスペシャリ
社会に還元する本当の「就職」ではないかと
のを日本だけにとらわれず世界規模で、地域
ティーを築き、3度目の就職は身につけたも
20
が必要である。ドラッカー博士こそ、まさに
知的生産性を高めていく努力をし続けること
向かう。広島は、6日の原爆投下で焼け野原
の訓示。
「これから貴様達は一路ヒロシマへ
歳のにわか二等兵が誕生した。早々、部隊長
固め奮い立った。木銃と帯剣で武装した、
プロダクティブ・エイジングの実践者である。
となっている。そのため、おびただしい被災
グという発想で、年齢とともに想像力を高め、
歳という高齢にもかかわらず、大学の教授
として教鞭をとったり、日本で講演会を開き、
に当たる。心してこの重大任務を全うされた
者が苦しんでいる。我々は、その救助と看護
イントを持っていなければならない。そのた
このジョブができます」という明確な訴求ポ
「生涯現役説」を自ら実践されているように
が下がる。
「 歳定年説」
をさらに発展させて、
れわれに与えてくださる。この姿勢には、頭
1998年7月 〈第
毎日のように誰かが死んでゆく。焼け跡から
い う 呻 き 声 に、 水 筒 を 持 っ て ま わ る 忙 し さ、
余りの負傷者がもがき苦しみ「水をくれ」と
配属されさらに驚愕した。莚小屋に100人
える。おそらく人体だろう。横川の収容所に
り、行軍。燻っているいくつもの固まりが見
黒こげの電車を横目に、欄干のない橋を渡
い」
。
世紀を迎えるに当たっての的確な示唆をわ
めには、生涯学習が必要で、自分に今必要な
思える。
し、「継続して学び続けることのできる人間」
でなければ、生き残れない時代がやってくる。
世紀を目前にして、農業社会、工業社会か
ら、「 ノ レ ッ ジ・ ソ サ エ テ ィ ー( 知 識 社 会 )」
廃材を集めて広場の片隅で荼毘に付す。火勢
の 高 ま り に つ れ 死 臭 が 漂 う。 目 の 玉 が「 ブ
奇心を持って出会いを創り出すことが必要で
原爆投下1週間後、8月 日は、お盆の始ま
ることができない原爆の体験を記してみたい。
めたか記憶はない。被爆者の中には身が燃え
惨禍は永遠に
安本歳信
土地や資本に代わり、ノレッジが経済活動の
で は「 ノ レ ッ ジ・ ワ ー カ ー( 知 的 労 働 者 )」
ある。人、モノ、書物などとの、はじめての
りである。夜半「招集だ!」の声でたたき起
あれから半世紀余り経った現在、なお忘れ
出会いを通じて、世界的視野にたって常に新
こされた。見れば「召集令状」の「赤紙」で
になることが必要で、そのためには、知的好
しい知識を得ることにより、ニューアイデア
し出征してゆく戦時のことである。遂に「自
ある。先輩の学生達が、次々と特攻隊に志願
肉体的な生産性は年齢に比例して低下する
を自分のものにすることも可能になる。
13
分にも来たか!」と心は動揺したが、覚悟を
安本歳信氏
ローバルな競争を展開している。個人レベル
スッ」と音を立てて飛び出す。骨はどこに埋
への大きな変革が進展している。これからは、
17
─被爆後の広島救助隊体験記─
57
75
中 核 的 資 源 と な り、 企 業 は 知 識 を 求 め て グ
号〉
知識は何か、節目ごとに自分の能力を再点検
思う。「就職3回」を実現するには、「自分は
87
21
20
が、それとは逆のプロダクティブ・エイジン
25
21
マチュリティ誌30年を振り返る
と繰り返してはならない。永遠の世界平和を
である。このような残酷極まる戦争は、二度
自分たちの心の奥底に大きな傷跡を残したの
て離れない。思えば戦争は、未だ少年だった
げて葬った。今でもその情景が胸に焼き付い
こと数回、川底で動きが止まった後、引き揚
守る中、満潮の川で泡を吹きながら浮沈する
いる。何回引き上げても止まらず、兵隊が見
て耐えられないのだろうか川に這い入る人も
信じて錦糸町へと急いだ。焦げた荷物や応急
旧国技館の鉄骨が見えただけ。姉妹の無事を
夕映えにキラキラと。その他は立木1本なく、
く、隅田川の水や其の向こうは荒川と思うが
だった。ホームからの一望はまったく何もな
歩いて秋葉原に着いたのは午後の4時過ぎ
である。交通が混乱し、上野から線路伝いに
り、リュックを背に出発したのは午前9時頃
した姉妹の安否と家も心配で上京する事にな
いた。何しろ一夜にして
が何体も泥人形のような土色をして浮かんで
橋の下には水を求めて飛び込み死亡した人達
きているような綺麗な顔をしていた。渡った
赤ちゃんを背負った若い母親、赤ちゃんは生
上がった防火水槽に首を突っ込み死んでいる
壕に入ろうとしたまま黒こげになった人、干
の悲惨な情況は筆には書き尽くせぬが、防空
ここにもかしこにも。思わず合掌する。道々
気 づ か な か っ た が、 真 っ 黒 に な っ た 遺 体 が、
万人が死亡したと
処置も満足でない負傷者を乗せた
「リヤカー」
号〉
祈願する次第である。
1999年7月 〈第
「戦争は人間を狂わせる」
横塚志津子
たりに見えるようだ。私の住む住吉に着いた
服は焦げたり、破れたり昨夜の悲惨がまのあ
がっている人、髪の毛はちぢれ、目は真っ赤、
子供の泣き叫ぶ声、ススだらけの顔や腫れ上
や自転車、車輪にはタイヤが燃えていて無い。
う当時の決意を忘れないで、と叫びたい。い
が漂っている。
「二度と繰り返さない」とい
私の見た戦争なのだ。今何となく不安な空気
くれた小父さん一家も生命を失った。これが
の人もこの人も尊い生命を奪われた、切符を
いう。その後姉妹は無事に帰っていたが、あ
号〉
のが夕暮れ、家は見事に無かった。焚き火の
2001年7月 〈第
つまでも風化させないために。
足の火傷で腫れ上がった人や血を流した人達
が 炊 き 出 し の「 お に ぎ り 」 を 頬 張 っ て い る。
それはまるで地獄絵を見ているよう。昨夜は
世紀の食糧問題と日本の役割」
梅崎義人
日本の食糧自給率は先進国中で一番低く
%を割っているが、一方日本は世界で一番
多く食糧を廃棄している国でもある。
「
輪で夜を明かし、姉妹を捜しに行くと顔や手
10
69
辛い、苦しい、悲しい思いは早く忘れたい。
でも絶対に忘れてはならない事がある。其の
一つが下町の大空襲である。東京で頑張って
いた私が1枚の切符で、あの悲惨な体験をま
ぬがれた事、そして其の当時貴重品だった国
鉄の切符をくれた一家が全滅した事。幼い弟
を連れて疎開した母のもとへ、頂いた切符を
日 の 早 朝、 東 京 の 下 町 が 大 変 だ と い う
21
40
手 に し て 飛 ん で い っ た の は 3 月 9 日 の 午 後。
翌
横塚志津子氏
61
ニュースに私の食料を持って入れ違いに上京
10
26
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
農水省の昨年の調査によると、食物の廃棄
率は家庭で8%、外食店で %、結婚披露宴、
宴会では %に及んでいる。
15
日本人はいつのころからこのように飽食に
なったのだろうか。
産量 億トンのうち、約 %の7億トンが家
畜の餌に回っている。穀物増のネックは水で
である7千万トンの南極のオキアミを充当す
学者の分析によると持続生産が可能な資源量
に 与 え ら れ て い る。 従 っ て 養 殖 用 の 餌 に は、
ある。地球上の水資源は有限であり、水を大
ればよい。
世紀に日本が世界から評価され感謝され
100億人に達するだろう。人口の抑制は技
ず つ 増 え 続 け て い る の で、 2 0 5 0 年 に は
とする畜肉類を先進国を含めて人類がいつま
1千倍の1千トンであるから、その穀物を餌
1トンの穀物を作るのに必要とされる水は
生産できれば国連に安価で供給でき、日本は
る。現有の技術を駆使して、安い蛋白食糧を
るのは、海洋動物蛋白の生産増への寄与であ
国連加盟国の3分の1は発展途上国である。
シップをとれるだろう。
100億人時代の食糧問題解決にリーダー
以上に述べた理由から、将来の動物蛋白の
確保は海洋資源に頼る以外はない。
エネルギーと食糧の支配権を握ろうとするア
ングロサクソンの意図に対して、価値観の多
地 球 上 で 生 産 さ れ て い る 魚 は 約 1 億 ト ン、
うち7千万トンが海から、3千万トンが鯉・
である。
2002年5月 〈第
【卓話 第 回】
号〉
く共存できるように主張するのが日本の役割
クノロジーの躍進等)で穀物増加は可能であ
一方、漁獲高は、高性能の漁獲機器の普及
様化と民族固有の文化を尊重し、人類が仲良
動物蛋白源の畜肉類は将来いかなる技術予
と陸の汚染が海に災いして世界的に急激に
ナマズ・フナ等を含む養殖である。
想をして も、現在の年間生産量 1・8億トン
流施設で海底の大陸棚に沿って流れている非
を増やすことはできる。ひとつは、人工湧昇
だが人間が技術を投入すれば、海の生産力
減っている。
梅崎義人氏
野口 毅
闘機「雷電」の生産に従事していた。
は、実に8400人の台湾少年工が、新鋭戦
戦時中、神奈川県大和市の高座海軍工廠に
希望に燃えて日本へ
「台湾少年工と第二の故郷」
72
込めない。理由は、牛・豚・羊などの家畜は
土地がなくては飼えないからである。
さらに、餌の問題がある。1年間の穀物生
常に栄養分に富んでいる海洋深層水を人工的
に上昇させて、植物プランクトンを発生させ
魚の餌をつくるもの、もう一つは、海の底部
に太陽光線を送り込み光合成を起こさせる技
術開発で、このふたつの技術開発で海の生産
力は大幅にアップする。
さらに、海洋養殖の3千万トンのマグロ・
65
を2・3億トンにする程度で大幅な増産は見
るが、問題は動物蛋白の確保である。
害虫駆除剤の開発、ゲノムの研究とバイオテ
新技術の開発(遺伝子組み換え、雑草・病
されている。
で今のように食べていけるだろうか。
激に減少している。
量に使用する人間の増加で地下の水資源は急
40
術では不可能だから、将来の食糧不足が懸念
現在世界の人口は 億人で、年間8千万人
61
19
ウナギ・ハマチなどの餌には採った魚が大量
27
21
24
マチュリティ誌30年を振り返る
ではなかったと思われる。それでも、海軍で
)年、戒厳令の解除を待ちかねるよ
一転、終戦を迎える
員が全て日本語だけである。こんな素晴しい
会は会場のアーチをくぐった時から参加の全
の人となり、いきなり異境の地に取り残され
た形になり混乱した。しかし、さすが心身と
も優れた少年達はかかる事態に直面してその
真価を発揮した。時を経ずして秩序を取り戻
し、自ら自治会を組織して生活を軌道に乗せ、
翌年1月には整然と帰国したのである。見事
というほかない。
帰国した台湾は外省人の圧政下
少 年 達 が 帰 国 し た 故 郷 の 台 湾 は、 決 し て 安
住の地ではなかった。大陸から渡来した中国
国民党の官吏と軍隊により、言語に絶する圧
政に苦しんだ。日本語は話すことすら禁じら
台湾亭。銘文に「第二の故郷」とある
「老い」と「死の意味」
回にわたり寄稿いただきました。後
阿部政次氏(医学博士・横須賀愛光園医
務室長)には1997(平成9)年(第 号)
から
半は 随 想「 夕 映 え 」の タ イ ト ル で、『 老 い 』
号掲載の一文を抜粋してご
についていろいろな角度から論考しておら
れます。
その中から、
紹介します。
• • •
「 生 あ る 者 は 必 ず 死 す 」 誰 で も 知 っ て い
るこの真理も次第に影が薄れたのか、先端
医 学 が 絶 望 的 な 病 を 治 す 時 代 の せ い か、 目
前の死に対する真摯な気持ちが伝わってこ
な い 老 人 を 見 か け る。 怖 い 死 の 話 は 避 け、
身 体 の 不 自 由 さ を か こ ち、 無 感 動 に 只 漫 然
と生きている。
古来全ての死に対する深奥な哲学は多い
が、老いの次は死であるという単純な論理
は語られない。
老人に何処で死にたいかアンケートをと
る と、 自 宅 と 答 え る 人 が % を 越 す の に、
現実は病院で死ぬ人が
%以上である。本
人の希望とかけ離れたこの事実は何を物語
るのか。
こ こ に 現 代 日 本 医 療 の 実 態、 タ ー ミ ナ ル
ケアの問題が隠されている。
28
海軍の募集に応じ、選抜試験に合格した
ることが出来たとうれしいことを言ってくれ
鍛えた不屈の精神があったればこそ乗り越え
から来日していたのだ。日本で一定の学習と
る者がいる。
歳前後の少年工が、1943(昭和 )年春
実習を行うことで、中等学校卒業、並びに海
「台湾高座会」で親日活動
(昭和
その後、この元少年工の人達は、1987
軍技手の資格を得る道が開かれていた。私は
短期現役の海軍主計少尉として、1945(昭
)年4月、高座海軍工廠に配属され、こ
うにして「台湾高座会」を結成し、以来毎年
和
の少年達と起居を共にした。台湾の少年は皆
聯 諠 大 会 を 開 催 し て い る。 2 0 0 1( 平 成
)年の第 回大会が、苗栗県苗栗市で開催、
台交流の会」からも 数人参加した。この大
参加者は1200人を数え、私ども「高座日
14
やがて終戦、この少年達はその日から異国
果を挙げたと記録されている。
航空隊に編入されて実践配備につき多大な戦
機を生産し、それらは隣接の厚木基地の海軍
よく頑張った。この少年達の手で雷電129
62
54
15
れ、日本に協力していたと白眼視され就職も
90
13
24
18
出来ず、その後の苦難の道は生やさしいもの
80
30
82
20
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
あるまいか。高座海軍工廠があった神奈川県
大会は、世界でも類を見ることがないのでは
この人達は、今や功なり名遂げ、既に 歳を
が1500人にも及び、その申請が出ている。
た高座のマークが彫られ、その銘文には、若
いうものである。その階段には、碇を形どっ
がある。日本と台湾との永遠の親善を祈ると
大 和 市 に は 台 湾 高 座 会 が 建 築 し た「 台 湾 亭 」
り当局に事情を説明し具体化に向けた折衝を
温まる話である。この申請に対し、予ねてよ
りとし、家宝にしたいというものであり、心
に立つ訳ではないが、それを子孫に示して誇
越えており、その資格を得ても就職などに役
か、世間体が気になるのか、ますます老人
る が、 一 般 的 な 命 を 大 切 に す る 風 潮 の せ い
識 者 や 心 あ る 医 師 の 間 で は、 数 十 年 前 か
ら老人延命治療の無意味さが指摘されてい
き日の夢を托した「第二の故郷」と刻まれて
続けている。晴れ晴れとその授与式が挙行さ
100歳の人の死でも。
さ え あ る。 平 均 寿 命 を 遥 か に 超 え た
歳
をしなかったから死んだと施設を訴える例
端 救 命 処 置 を 切 望 す る。 中 に は 最 善 の 処 置
本人の願いとは裏腹に家族や関係者が最先
いる。今では市民の憩いの場であり、観光の
れるよう願っている。
(編集部注参照)
の確認と所定の手続きを進め、 数年ぶりに
この戦没した人達については、その戦没事情
の 爆 撃 に よ り 悲 運 に も 多 く の 犠 牲 者 が 出 た。
や派遣された各地の軍需工場において、米軍
その当時、台湾少年工には、高座海軍工廠
くなる思いであった。このことを台湾で話し
たことの喜びを熱心に話すのを聞き、胸が熱
んだようであるが、それでも、日本に復帰し
る人に会った。聞けば戦争で苦難の人生を歩
て修復されたものであると誇らしげに説明す
宮殿が「祖国日本」に復帰したことを記念し
先ごろ、沖縄の首里城を訪れたとき、その
ず お 迎 え が 必 ず 来 る 筈 だ か ら。 老 人 に な っ
皆さんの歳になったら誰でも自分の死に
ついて一度は考えてみて頂きたい。遠から
なのか。
存在したいのか、無駄な延命治療はお断り
老後の不安とは、介護状態になってから
の 事 だ ろ う。 そ れ は 何 時 ど ん な 形 で や っ て
柱が合祀されている。爾来、毎年4月には慰
たとき「沖縄の人達には帰る祖国があって羨
なったが、今では靖国神社の御祭神として
国連に加入の同意も得られず、苦しんでいる
るのですから。
いい死にざまに繋が
い い 生 き ざ ま が、
て欲しい。
間を満足して生活し
一 日 を、 今 の こ の 瞬
う に、 恵 ま れ た 今 日
青春時代と同じよ
るか改めて噛み締めてみてください。
ある。惨めな状態で1分1秒でもこの世に
の考えを家族にしっかり伝えておく必要が
来るかわからない。だから元気な内に自分
霊のために来日する台湾高座会を迎えて共に
ても健康でいられることがいかに幸せであ
る。
けなげに も 務 め 果 せ し 少 年 工
国である。本年のはじめ、台湾万葉集の流れ
を汲む台北歌壇の新年の歌のなかに、元少年
工の人達が、日本を「心の祖国」と詠んでい
財界の指導的立場にあり、今も愛日家と呼ば
卒業証書が欲しい
附属の工員養成所は、文部省令による中等学
れている人達がいる。そして、台湾の治世に
ることを知って心を打たれた。台湾には、政、
校 と 同 等 の 資 格 が あ る と 認 め ら れ て い た が、
尽くした日本人の功績を高く評価し、日本が
また、少年工達が在学した高座海軍工廠に
散りしこの地にただ涙して佇つ
思 い を し た。 台 湾 は 未 だ に 国 際 間 の 承 認 も、
ましい」と嘆くのを見て愕然とし、心が痛む
「心の祖国」日本
90
昇殿参拝し、亡き僚友の霊に祈りを捧げてい
戦没し、靖国の御霊に
名所となっている。
70
元少年工の中には、この卒業証書を望むもの
29
57
50
マチュリティ誌30年を振り返る
に当り、欧州連合では国を挙げての積極的な
間半で結ぶ台湾新幹線が開通する。この受注
な姿勢を 憂い、「日本人よ胸を張 れ」と励ま
あたかも隣国の笛に踊らされているかのよう
アジアのリーダーになることを望み、日本が
親日とは何ほどの意味があるのかという声が
出来るであろうか。最近では、台湾にとって
引が行われる時、果たして日本は勝つことが
達がいなくなった時、また損得と理づめの取
情に甘えて来たのではあるまいか。こんな人
いるが、我が国はこれまで、日本びいきの心
湾には今も日本人として生まれ育った人達が
たらされるとは限らないような気がする。台
かし今後、台湾での大型事業が必ず日本にも
してその3分の1近いものとなるようだ。し
1兆5千億円、我が国の受注額は車両を主と
受 注 出 来 た と 言 わ れ て い る。 総 事 業 費
い関係を」という声が追い風となって日本も
ものになるよう尽くして行きたいと思ってい
日本と台湾とをつなぐ親善の一翼を担い得る
どもは今後ともこの絆を大切に守り、それが
とに集り、本日まで続いて来た絆である。私
座海軍工廠に結ばれ、お互いに高座の名のも
3千人とのことである。思えば、奇しくも高
かと恐れている。現在、台湾高座会の会員は
頼を失ってしまうことになるのではあるまい
我が国は世界で最も親日で、優れた国民の信
出来るのであろうか。このままに推移すれば、
こんな人達に対して何をもって応えることが
と詠う多くの人達がいるのである。我が国は
は日本を「第二の故郷」と呼び「心の祖国」
は台湾との間に国交はない。しかし、台湾に
年
月には、台北と高雄の350キロを1時
)
働きかけがあり、我が国にとって厳しい情勢
聞え始めている。我が国はこんな台湾と今後
る。台湾の政情は内外ともに厳しい。しかし
し て い る の で あ る。 来 る 2 0 0 5( 平 成
と見られていたが、最終的には「日本との良
どのような対応をして行けばよいのであろう
台湾は自らの総統を自らの意志により選んで
る人達が「小粒でもキラリと輝く国つくりを
私達は日本と台湾の間に流れている地下水
栄光の台湾を目指してほしい
い る 国 民 で あ る。 必 ず や 自 ら の 国 の 運 命 も、
目指す」と眼を輝かして話すのを聞いた。そ
を 汲 み 上 げ、 そ れ を 世 界 に 向 っ て 噴 水 と し、
日本と台湾の今後
の眼には、ひたすら国を思う心が溢れている
やがては台湾が国際社会の檜舞台にあがって
自らの自由な意志により決して行くであろう。
ように光り輝いて美しく、今の日本にほしい
夢はるか晴れの舞台を望みつつ
来る日の夢を見ているものである。
より私どもが台湾に向い、政治的に、あるい
共に拓かん栄光の道
が、日本を愛し、台湾を愛する心と心は通じ
ている。そして日本のため、台湾のために尽
くして行こうと励まし合っている。今我が国
「台湾高座会」は高齢化しつつも継続的
編集部注
は経済的に何ほどのことが出来る訳ではない
ものがここにもあると言う思いがした。もと
先日、これからの台湾を担って行こうとす
か。
17
靖国神社に昇殿、参拝
10
30
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
た。参考までに同会の最近の動向等を付け
活動により両国の親善に大きく寄与してき
「この戦争は勝ち目はないね」
などと語り合っ
学生仲間では自由な雰囲気が比較的保たれ
た。当時はもはや戦争も敗色濃厚であったが、
なほど強くなかった。一種の虚脱状態だった
とに敗戦の悔しさや将来に対する不安が意外
のだ。間もなく終戦となったが、不思議なこ
加えた。
に引っかかり憲兵隊から呼び出しを受けたこ
ていた。その頃私が友人に出した手紙が検閲
たため、むしろホッとした気持ちになったの
言論統制、毎日の空襲に国民が疲れはててい
た め も あ ろ う が、 物 資 の 不 足、 軍 人 の 横 暴、
周年歓迎大会が
と が あ る。 恐 る 恐 る 出 頭 す る と、 マ ル ク ス、
が真実ではなかろうか。あれからもうすぐ
◦台湾高座会留日
県座間市市民会館で開催され、台湾から
エンゲルスやレーニンについてしつこい訊問
2013(平成 )年5月9日に神奈川
約250人の元少年工及び関係者、日本
在籍証明書が授与され、神奈川県議会と
少 年 工 に 対 し て 日 本 政 府 か ら 卒 業 証 書、
人が集まり開催された。
高座会関係者1050人、合計1300
期 症 状 だ っ た と い え よ う。 1 9 4 3( 昭 和
文字があるだけで問題になるとは憲兵隊も末
に引っかかったのであった。単にソビエトの
ビエト紀行」の中の1行を引用したのが検閲
まその時読んでいたアンドレ・ジイドの「ソ
を受けた。呼び出しの理由であるが、たまた
自覚し行動することが大事であろう。「愛さ
を行政の責任にするのではなく、一人一人が
とが必要だと痛感する次第である。またこれ
るために、一刻も早く教育改革に取り組むこ
世界のいろんな国々から尊敬される日本にす
イ タ ラ ク 」 に は 目 を 覆 い た く な る ば か り だ。
年になろうとしているが、最近の日本の「テ
に対し、感謝状が一人ひとりに配られた。
下げられ、我々学生にも次々と赤紙が来始め、
ん」が時によっては必要なのではなかろうか。
れる祖父さん」より「うるさがられる祖父さ
号〉
昔、昭和恐慌の際、急遽蔵相に就任した高
は、政治の無力さであった。
してきた。その混迷の中でしばしば感じたの
日本はバブル崩壊後、長い混迷の時を過ご
会長 端田泰三
「政治家の見識─是清と湛山─」
【年頭所感】
2005年1月 〈第
私も1945(昭和 )年8月1日に故郷の
連 隊 に 入 隊 し た。 兵 種 は 歩 兵 砲 で あ っ た が、
のである。あるのは木の模型であった。これ
入隊して先ず驚いたのは歩兵砲の実物がない
【マチュリティ談話室「戦争と私」】
号〉
19
では正に竹竿で敵の飛行機を落とせというも
2002年9月 〈第
20
「憲兵隊に呼び出され」
理事 松多昭三
1943(昭和 )年に、それまで認めら
れていた「卒業まで徴兵猶予」の制度も文科
系には廃止されたので志望を理科系に変えた
者も多かったが、物理・化学が不得意な私は
敢えて文科系に進学。しかし、その秋から泊
松多昭三氏
80
20
◦ 年前の「留日 周年歓迎大会」では元
大和市長名で日台両国間の交流への尽力
)年に徴兵検査年齢が 歳から 歳に引き
60
25
60
18
り込みの通年の勤労動員となり終戦まで続い
31
70
73
18
10
マチュリティ誌30年を振り返る
の思い強く、政界の求めに応じ吉田内閣に蔵
る非常貸出を決め事態を収拾した話は名高い。
要を唱えていた。そんな中、湛山は国民に仕
多くの学者やマスコミは声高に緊縮財政の必
【談話室】
号〉
「水を・・・水をください。」崩れかかった
家の軒下に焼け爛れた体を横たえ消え入るよ
説を曲げなかったのである。
の国債増発はインフレを招くとして容易に自
清は軍部の軍事費増額要求に対し、これ以上
の懇請を受けて6度目の蔵相の席についた是
案を巡って閣議が紛糾する。時の総理、岡田
して掲げる。当時の財政規模は1兆円であっ
「1千億減税、1千億施策」をスローガンと
相に据え、経済の拡大・完全雇用を採用して
山の後を襲って総理の椅子に着き、池田を蔵
尽くす。そして1956(昭和 )年その鳩
め、米国に諂うことなく日中貿易促進に力を
「火傷をしたものには絶対に水を与えない
た憲兵の伝令を理解していたのであろうか。
ら水をください。
」少年は先ほど布告で廻っ
う か、
「 水 を・・ 水 を・・・ 死 ん で も よ い か
少年は立ち止まった気配を感じたのであろ
井戸から水を汲み薬缶で運ぶ途中であった。
私は家の中庭にある、日頃使われていない
うな声で訴える少年がいた。
しっかりした見識を持った政治家としても
たので、減税と施策併せて2千億円というの
是清と湛山の偉大さは、自分の見識を強い
たのである。
に受け継がれ、日本の高度成長は遂に実現し
する。そして湛山のこの思いは岸の次の池田
31
信念で行動に移したところにある。政治に求
残して逃げるように去って行った。
う一人あげるとすれば、私は石橋湛山をあげ
たい。
端田泰三氏
15
められる真のリーダーシップとは、こういう
ものであろう。
宍戸元信氏
戦後、1946(昭和 )年、湛山は憂国
21
32
橋是清が直ちに 日間のモラトリアムと、そ
時を経て1931(昭和6)年、金解禁に
事を与え(完全雇用)
、産業を復活させるこ
「少年と水」
被爆 周年を迎えて
2005年7月 〈第
よる深刻な不況の中、その是清はまた犬養内
と が 何 よ り 重 要 と し て 積 極 財 政 を 打 ち 出 す。
相 と し て 入 閣 す る。 イ ン フ レ 進 行 中 の 当 時、
閣に蔵相として入閣。かねての主張どおり金
しかしこのケインズ流の積極財政はGHQの
の実施までの2日間の銀行の休業、日銀によ
輸出を再禁止する。次いで、直面する不況対
相容れるところとならず、湛山は翌1947
その後1951
(昭和 )
年追放解除となっ
60
よ う に。 与 え た ら 死 ぬ ぞ。
」憲兵はそういい
た湛山は政界に復帰、鳩山内閣の通産相を務
広島支部 宍戸元信
策と満州事変による緊急の軍事費支出に即応
(昭和 )年、突如公職追放となる。
債発行を決断する。
22
は今の数字に置き換えると 、6兆円に相当
1935(昭和 )年の秋、翌年度の予算
26
するため、我が国初の日銀引き受けによる国
81
21
10
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
私は立ち去り難い気持ちで、先刻叫びなが
ら走って行った憲兵の言葉と少年の消え入り
そうな声を交互に反復しながら立ちすくんで
い た。「 水 を・・・」 か す か に 訴 え る 少 年 の
声に我に返った私は、憲兵が去った方向を目
で追い、横たわった少年の頭のところへ茶碗
を置き水を注いだ。
私は憲兵に見つかるのではないかという恐
怖心に急き立てられ、後ろを見ないで家族の
もとへ走った。
し、現在、各分野にわたって精密な研究、調
査が行われている。
美しい富士山を目指して
ユネスコの世界遺産には文化遺産、自然遺
箇所指定さ
産、総合遺産の3種類があるが、日本全体で
自然遺産が4箇所、文化遺産が
うち 箇所は国の指定天然記念物になってい
の 一 つ は 1 0 0 箇 所 以 上 も あ る 溶 岩 洞 窟 で、
富士山麓には多くの見どころがあるが、そ
士 山 の よ う な 姿 の 山 は 世 界 に 数 多 く あ る し、
とクレームがついた。だが、考えてみれば富
委員から、「臭いし汚い。
こんな山では無理だ」
かったのか。現地を視察したユネスコの調査
れ て い る。 富 士 山 は 何 故 自 然 遺 産 に な れ な
11
るところだった。
2人の大人が少年を戸板に乗せようとしてい
と こ ろ を 通 り か か っ た 私 の 目 に 映 っ た の は、
たらす。周辺には柿田川、富士山本宮浅間大
雪は地下水となって裾野に豊富な湧き水をも
しやすい玄武岩で構成されており、降る雨や
る。富士山は火山帯にあるので土壌は水を通
る。山小屋のトイレは登山季節が終われば囲
ち帰る心構えは誰にも無く、皆山に捨てて帰
の登山者が30万人もいる。当時はゴミを持
光客数は300万人、バス利用の5合目から
5合目まではバスで行けるので裾野を巡る観
「臭い白い川」となる。
社の沸玉池、忍野八海、田貫湖、富士五湖な
号〉
ある。
年間、「富士山クラブ」はニュー
ジーランドやアメリカの現地調査を重ねて関
その後の
富士山を取り巻く自然環境の中で一番の観
係官庁に報告、併せて環境保全、美化へのボ
青木ヶ原樹海
光資源は青木ヶ原原生林で、ここは土が全く
【フリーサロン 】
「富士山を世界遺産に」
ランティア活動を展開した。3年をかけてバ
イオトイレのテストを行い、ようやく政府か
無いところで植物が自生し、1千年掛けて樹
海と化した不思議な世界である。
近は、ゴミも見える範囲は人々が持ち帰るよ
ら「日本山岳トイレ」への予算が下りた。最
カメラマン、文学者等がその美しさを作品に
うになった。
富 士 山 へ の 切 り 口 は 多 様 で、 多 く の 画 家、
しているが、一方科学的データは極めて少な
問題は 年来の高度成長の中で裾野に捨て
富士山は成層火山(コニーデ火山)で、約
2002(平成 )年に「富士学会」を設立
い。 東 大 教 授 を 中 心 と す る 学 者 グ ル ー プ が
富士山の自然環境
富士クラブ 理事 藤田あや子
─環境保全・自然・文化の
視点から考える─
10
2008年7月 〈第
いを取り外してし尿を山肌に流すのでこれが
再び水を汲みに帰ることになり少年の居た
藤田あや子氏
どの景勝地が多い。5合目以上は森林限界で
13
300年前の1707(宝永4)年の大噴火
で現在の姿になった。
14
40
られた膨大な産業廃棄物である。所管自治体、
33
86
マチュリティ誌30年を振り返る
況は思わしくない。今後への課題となってい
かし高額な処理費用がネックとなって進捗状
警察など関係団体へ情報を提供している。し
で乗り付けて道行く 人もの人を殺傷しまし
が発生しました。加藤智大という青年が、車
み歩いておりました。その地元で秋葉原事件
に住み、学生時代からこのあたりで遊び、飲
若者の姿がみえるようです。
けません。そこに現代の孤独に追いやられた
ず知らずの人といい加減な話をしても心は開
た。どういうことなのかと地元だけに関心を
言いたいことがあっても言わない。何か言え
「私たちはやりたいことがあってもやらない、
私 の お 寺 に や っ て く る 青 年 と 話 を し て も、
る。
世界文化遺産指定へ─現状と問題点─
持っておりましたところ、事件から 日程後
針を切り替 えることになり、「富士山 を世界
である。そこで自然遺産から文化遺産へと方
年計画が必要だというのが先進国からの指摘
の世界に入り込んだ。誰でもいいから構って
に話せない。現実の世界から逃げて、ネット
《現実の世界では嫌になることがあっても人
に次のような加藤容疑者の言葉が載りました。
です。なるほどそれが若者言葉でいう「KY
んなが動き出したら自分も動く。
」のだそう
う 行 動 す る の か と い う と、
「 周 り を 見 て、 み
ば 叩 か れ る。」 と い う の で す ね。 そ れ で は ど
からといってネットの世界へ逃げ込んで、見
いくものでしょう。人に話すと不愉快になる
ら、そういうものかなと理解し、心を調えて
と話をして、慰められたり叱られたりしなが
ます。こうした悩みを両親や先輩、友人たち
ことや、絶望、不安に駆られる時は当然あり
生きていれば良いことばかりではなく、嫌な
なんで人に話せないんだろう。現実社会で
て来ているのです。
無いことよと思うのですが、社会もそうなっ
います。今の若者の行動原理は何と主体性の
言葉であって何もするな、というKYとは違
から発表したい時に場所柄を考えよ、という
う言葉を思い出したのです。これは何か自分
に 私 は「 T・ P・ O( 時・ 処・ 状 況 )
」とい
また、毎日新聞の記事によると親族が絡んだ
3万人以上の人が自殺して亡くなっています。
て み れ ば 大 人 た ち も 同 じ で は な い か。 毎 年
非難するだけでは問題は解決しません。考え
潮を反映しています。しかし、青年の弱さを
ているのです。秋葉原事件の容疑者もこの風
しているようで実は他者との関係を断ち切っ
ます。自分が傷つかないよう、自分を大切に
自己愛社会
こういった風潮を自己愛社会と呼ぶ人がい
(空気を読め)
」なのかと思いました。と同時
遺産にする国民会議」(会長・中曽根康弘氏)
10
欲しかった。
》
富士山が自然遺産に指定されるまでには百
17
が2006(平成 )年1月にスタートした。
現在ユネスコの暫定リストに搭載はされたも
)年6月ユネスコ
のの未だに正式決定には至っていない。
編集部注
富士山は2012(平成
号〉
いきなりこのような見出しをつけましたが、
バラバラ社会
駒澤大学元学長および総長 奈良康明
「温かい心」
【ふれあいトークサロン 第1回】
2010年1月 〈第
によって世界文化遺産に登録された。
24
90
実は私は電気街で有名な秋葉原の近くの下町
奈良康明氏
18
34
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
庭ではなくなります。
ます。これらのビー玉は接触してはいるが相
言う共通の目的に向かってはたらき合うこと
例えば、お盆の上に 個のビー玉があるとし
達しており、社会の単位である家庭もバラバ
互 の 連 絡 は 無 い。 一 つ ひ と つ が バ ラ バ ラ で、
であります。
殺傷事件は全体の ・8%とほぼ半数近くに
ラになりかけているのではないでしょうか。
これでは本当の全体とはいえない。でも、例
共創は異なる個性を発揮しながら、家庭と
そこで次に、仏教では社会や組織をどうみ
他者に良かれと願う関心・温かい心
えばビーズ玉があって、それらが互いに糸で
かがられているとすると、一つだけ抜こうと
の喩えの言いたいことは、第一に全ては関わ
とつが宝珠(ミラーボール)であります。こ
れた。皆様一人ひとりが網目であり、一つひ
教の神様です。帝釈天が地球上に網をかけら
帝釈の網
帝釈天は仏教を守ってくださるヒンドゥー
ます。
共 創
私 た ち の 体 は 無 数 の 細 胞 か ら で き て い て、
という考え方です。
す。これをもう一つ積極的に進めたのが共創
り立っています。これが縁起の世界観なので
な存在なのです。その人がいるから社会は成
合いの総体が全体である。どんな人でも大切
す。個の集積が全体ではない。個々の関わり
従って帝釈の網の第二の教えはこうなりま
一人や二人が何かしても、あまり意味はな
めに人を傷つけてはならない、というのです。
ならば、他人様にとっても、その他人様の自
です。自分にとって自分が一番大切で愛しい
けてはならない。》非常に分かりやすい言葉
い。だから、自分を愛するために他人を傷つ
うに、他人にとってもそれぞれの自己は愛し
愛しいものはどこにも見出されない。そのよ
方向に心で捜し求めてみても、自分より更に
他者に関心を持つことは慈悲を及ぼすこと
り合っているということです。どんなもので
いのちが支えられているが、一つひとつの細
い、と言われるかも知れません。しかし、先
しても抜けません。つまり全体とは、ビー玉
もそれだけで存在するものではない。経典に
胞はみな別々です。そして個々の細胞は個性
日亡くなられましたが、現代の仏教の名語り
であり、他者に良かれと願うのが慈悲なので
はこう書 いてあります。《8角形の 部屋の壁
を発揮しながら、生きるという共通の目的の
部と言われた臨済宗のご出家である松原泰道
の集まりではなくて、糸でかがられたビーズ
も 床 も 天 井 も 全 部 鏡 で 出 来 て お り、 そ こ に
ために働き身体を創っている、というのが共
先生の素晴らしいお言葉を最後にご紹介して
す。 お 釈 迦 様 の 言 葉 に こ う あ り ま す。
《どの
入ったらどうなるか。》一つの映像が他に映っ
創の考え方です。縁起の社会は、関わり合い
終 わ り と し ま す。
《 一 人 で は 何 も 出 来 な い。
玉の集まりであります。
て無数の映像が現れます。あなたがちょっと
だけでありますが、これを共に創るというプ
しかし、その一人が始めなければ、何も出来
るのにとても良い帝釈の網という比喩があり
右手を上げるとミラーボールに映って地球の
ロ セ ス を 問 題 に し た と こ ろ が 新 し い の で す。
分が一番大切なのだ、だから自分を愛するた
裏側まで行く。このように人間は全て関わり
ない。
》
いと生きていくことができません。例えば4
同時に個々の細胞は身体という全体の場がな
第二は個と全体の関係です。網という全体
人家族があって一人でも欠けると今までの家
合って生きている、と言うのです。
る社会を正しい社会と見ます。それを説明す
仏 教 は、「 ツ ナ ガ リ・ コ ス モ ロ ジ ー」 で あ
縁起の世界観
ているのかについて考えてみたいと思います。
50
があって、個としての網目が単位となります。
35
47
表紙でたどるマチュリティ誌の30年
表紙でたどる
マチュリティ誌の 年
30
36
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
37
広島支部の生い立ち・現況・課題
広島支部
アする淋しそうな姿を見るにつけ「彼らと愉
き合った同業のライバル達が、続々とリタイ
成につながっていったが、新入社員時代につ
の勉強会や同窓会、同好会、OB会などの結
めた結果、
各論反対でまとまらない。それでも強引に決
保 ク ラ ブ の 例 会 で 計 っ て み た が、 総 論 賛 成、
方がやりがいがあると思った私は、早速、損
あろう損保OB会よりも、全産業のOB会の
人の協力者を得ることができて、
快なクラブが作れないか」と考えるように
広島支部の生い立ち・現況・課題
広島支部 の 設 立 に 想 う
1983(昭和 )年4月、 歳になった
任することとなった。これを一番喜んだのが
来月はマージャン、その次の月はゆっくり飲
のに時間はかからなかった。今月はゴルフだ、
熱心に知人に呼びかけたが、私は会社関係(主
業界の5人の計
本当に幸せだったと思っている。
妻であったと後で知った私は、知人の一人も
んで話に花を咲かそうぜ…異論もなくみんな
として銀行・保険・証券など)を回ってPR
人と他
居ない新しい任地に、黙々と従って来た妻の
で楽しんで5年が経過し「広島損保クラブ」
まい、自分の時間すら持て余す「初老の男」
10
人でスタートした。委員は
広島支部開設準備委員会は、この
苦労を改めて思い、感謝の念を抱かざるを得
したが、反応は期待を裏切った。結局、仲間
そして、 歳を過ぎて、ラインを離れた職
場 で 働 く、 全 く 新 し い 経 験 は 大 変 に 貴 重 で
なんぞになるでないぞと思えるようになって
の業界から、 人の個人会員を
集めることができた。
のゆく生き方をどのようにして創るのか、こ
広島の現況を自慢らしく話したらしい。たま
広島損保クラブの一人が、OB会の総会で
ン・基本方針が大きな共感を得たからだろう
会は盛会だった。呼びかけた我々のスローガ
思い知らされたからである。
専務理事・事務局長が大変な関心を示されて、
歳の高齢にもかかわらず。わざわざ来広さ
全産業のOB会を作らないか」先細りするで
れ諄々と話された。
「損保OB会も結構だが
82
会社だけの世界から踏み出して、広く友と
語らい、学び、共に交遊して節度のある若々
しいエネルギーを保持したい! このひそか
な想いは次第に大きな夢となり、異業種交流
○豊かな経験や能力を活かし、市民として地
相互啓発に努めよう。
○業界や企業を越えた幅広い交流の場を創り、
れが自分に課せられた最終のテーマであると
1992(平成4)年4月、広島支部設立総
田口専務理事と話し合ってから1年後の
73
と思っている。
いたのである。
15
たま同席していた日本産業退職者協会の田口
生きるのか、企業を離れた私人として、納得
23
なかったのである。
は 仲 間 が 誇 れ る 同 業 O B 会 に 成 長 し て い た。
なった。友は友を呼び、 人の仲間が集まる
10
の頑張りで
私は、最後となる筈の異動で生地・広島に赴
53
会社を去っても孤独な「年金生活者」になる
20
58
あった。あと 年以上もある後半生をいかに
55
20
広島支部 38
域社会に貢献しよう。
○全産業のメンバーによる交流を実現し、新
しい出会いを拡げよう。
の紹介、事業同好会のご案内など」広島支部
②聞き役に徹するコーディネーター型の人物
がそのグループ内にいること。
③年齢にこだわらない態度であること。
の活動を最も早く知ることができる場となっ
ている。支部開設以来1回も休会していない
④つかず離れずの人間関係にとどめること。
メンバー全員が厳守すること。
⑥異性とは、節度のある上手なつき合い方を
話や自慢話、批判や中傷はしないこと。
の も 誇 り た い こ と で あ る。 二 木 会 や ボ ラ ン
部のエネルギーを注入しなければ成立しない。
⑤グループにふさわしい話題に限定し、古い
事に参画し、トライするならば、我々は文字
「みんなが世話をして世話をされる会」
をモッ
ティア活動などを中心とする事業活動は、支
通り成長を続け、輝きを増して、生き抜くこ
トーに、愉快に活動を続けるのである。
各業界出身の有志が、広島支部の様々な行
とができると改めて思った次第である。
リティ」を発行した。2ヶ月に1回の発行と
ブザーヴするために上京した。松澤会長の圧
1993(平成5)年5月、本部の総会にオ
⑨記録やメモは忘れず、その準備も忘れない
⑧特定の人だけとつき合うのはひかえること。
⑦服装には留意し、快いメリハリを忘れない
し紙面は行事の参加者に書いてもらい、過去
倒的な存在感、自由闊達な補佐役の奥原理事
遠 く 離 れ た 東 京 と の 交 流 が 始 ま り、
2ヶ月間の行事リストを掲載し、翌月、翌々
長、田口、島川、久野木専務理事の洒脱な姿
設立総会の翌月には、会報「ひろしまマチュ
月の行事案内は折込にして、会員へのPRと
などなど、さすがは日退協だと心底感激した。
…
最大の受益者は、自分自身であるのだから
⑩してやっているなどとおもわないこと。
こと。
こと。
意志結集を計ることとしたのである。
天寿の日々を悔いなく生きようと思うのが私
常 に 新 し い 人 と 出 会 い、 心 を 開 い て 交 流 し、
が 不 可 欠 で あ る。 交 流 の 場 と な る 同 好 会 は、
たちなのだと痛感した次第である。
基本方針の具現には、会員相互の交流の場
世話人が集まれば作れることとし、代表世話
2002(平成 )年5月、長田実、浜本
面的となり世話役の人数と役割りが増すにつ
でもしようとする仲間の協力によって、広島
忠則両氏が責任者となり、できることはなん
設立から5年が経過し、グループ活動が多
の1年間で、歴史探訪会、ゴルフ同好会、四
れて、これから必要なことは何なのかと考え
支部の 年史が発行された。230頁に及ぶ
人は自動的に幹事になってもらった。設立後
季の会など9の同好会が生まれ、以後、陸続
る よ う に な っ た。 み ん な で ル ー ル を 確 認 し、
年の歩み」は、2年間の準備期間を経た
をさらに豊かにする為に、大橋余暇研究所長
努力の結晶で、今後の支部活動の指針になる
「
は「二木会」だと思っている。毎月第二木曜
ものと自負している。
多くの仲間と共に、我々
(文責 梶田省三)
るものがあると信じて疑わないのである。
日退協広島支部の前途は、まさに前途洋々た
の講演から学んだ
「グループ活動成功の鉄則」
それを守り、交流や新しい出会いを拡げる場
と誕生している。
14
日に集まることとし、第1回目は、1992
同好会以外で支部発展の原動力となるもの
10
が、 し な や か に、 し た た か に 生 き る な ら ば、
人が参
①参加者にお客様意識がなく、できることは
しようとする姿勢に満ちていること。
39 広島支部
10
を広島支部運営に活かすことにした。
( 平 成 4) 年 5 月、 百 貨 店 の 食 堂 で
の「ひろしまハイビル 」の最上階に集まり
加して開催されたが、2年後からは広島銀行
26
「 シ ョ ー ト ス ピ ー チ、 新 入 会 員、 誕 生 月 会 員
21
広島支部
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
広島支部の生い立ち・現況・課題
安定・成 熟 し た 活 動 現 況
や「桜の木を育てる会」である。
国 際 交 流・ 協 力 の 日 は、
(公社)広島平和
い会員との交流の場の一つである。親睦と相
サポート活動を担っている。桜の木を育てる
を中心としたボランティア団体が来場者への
の場においては、イデオロギーや政治的な話
んでいる事業は、国際交流活動や点訳などの
き渡している。また使用済み切手の収集活動
かけ新聞」の点訳版を作成し、社協経由で引
してスタートし、毎年開催されていた国際交
んりんピック広島、ダウン症大会、全国育樹
窓口でもある。過去、全国盲人福祉大会、ね
る。広島市などのボランティア要請に応える
成
ている。なお「ぺあせろべ」が2013(平
金」や社会福祉団体などへの寄付活動に充て
動をし、バザー収益金を「ひろしま留学生基
広島支部 40
部運営に関する情報共有」
「世話人同士の親
睦」等を目的に年2回開催している。
人
互理解を図るとともに会員の生の声を拾い上
会は、広島市東区の「菰口憩いの森」に桜を
文化センターが主催し、日退協の会員約
げる機会として運営している。納涼会は、夏
植樹するとともに、桜の育樹管理と公園の清
初春放談会は事業や同好会だけでは会えな
した成熟活動期にあります。会員数(家族会
場の会員交流の場として、外部の方のフルー
広島支部は、設立 年の歳月を経て、安定
員 を 含 む ) も 設 立 9 年 後 の 2 0 0 1( 平 成
) 年 に 7 0 0 人 台 に 乗 り、 以 降、 概 ね
留学生との交流会は、異文化紹介(民俗芸
日退協広島支部の活動の大きな柱の一つで
題、
特定国の批判などはタブーとしている
(詳
能など)と異文化理解の場としている、交流
動、同好会活動の分野で行っており、これら
あ る 事 業 活 動( ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 含 む ) は、
細は別掲記事参照)
。
事業活動
活動を常任幹事会や幹事会そして事務局が
会員の経験や能力を活かし、社会に役立つ活
広島支部の活動は、会員交流活動、事業活
バックアップし、約150人の世話人等役員
点 訳 は、 広 島 支 部 設 立 の 年 よ り 活 動 し、
)年からは福祉新聞「きっ
福 祉 活 動 な ど で あ る。 ボ ラ ン テ ィ ア 委 員 会、
は、誰にでもできる社会に役立つ活動として
1998(平成
留学生との交流会、点訳、使用済みの切手の
行っている。
周年記念事業の一つと
機に、ボランティア活動を充実させるために
楽市は、広島支部
収集、楽市の五つの分野で展開している。
活を送ろうという趣旨で運営している。取組
動に参加することにより、生きがいのある生
会員交流活動
会 員 交 流 活 動 は、 二 木 会、 世 話 人 交 流 会、
初春放談会、納涼会の四つである。二木会は、
ボランティア委員会は、支部設立 周年を
周知の場の一つとして、ショートスピーチや
世話人交流会は、広島支部運営のコア・メ
祭、全国女性会議広島大会などで来場者への
事業については今後の課題が生じている。ま
25
る。
ン バ ー で あ る 世 話 人 同 士 の 交 流 の 場 で あ る。
サポート活動に取組んできた。現在取り組ん
た東日本大震災や広島市土砂災害などの被災
)年の開催をもって終了したので、収益
広島支部の活動に世話人なくしてはありえな
でいる継続的な活動は、「国際交流・協力の日」
20
く、「 課 題 テ ー マ に 対 す る 意 見 交 換 」 や「 支
毎回、110人~120人の参加者を得てい
流イベント「ぺあせろべ」(注) でバザー活
10
設置した組織で 人余りの会員で運営してい
会員同士の交流の場として、また支部情報の
10
新 入 会 員 の 紹 介 な ど で 構 成 し 運 営 し て い る。
10
●
でサポートしている。
●
掃管理を年1回行っている。
60
ト演奏などを聴きながらの懇親会である。
22
700人台の会員数をキープしている。
13
者への寄付活動も必要随時に行っている。
探訪する「歴史探訪会」
、近隣の企業や社会
スは2011(平成
)
年から2年間にわたっ
周年記念事業」である。オー
プニングセレモニーの祝賀会は、本部より森
て展開した「
の山歩きを楽しむ「山を歩く会」
、リタイア
インフラなどを訪ねる「社会見学会」
、近郊
VE」をスペイン語風に読み下した造語。広
専務理事のご出席を得て、ホテルセンチュリ
広島で会員248人の参加で開催した。
後もゴルフを楽しみたいと誕生した「ゴルフ
)
年以来催されて来たが、
2013(平
)年の 回目を最後として幕を下した。
性バラエティ同好会」
、伝統芸能を楽しむ観
いて講演会を実施した。また、2012(平
食品会社社長による「現在の食品事情」につ
二木会特別講演と銘打って、広島弁落語や
世 流 の「 謡 を 嗜 む 会 」
、 漢 詩 を 知 り、 大 き な
成
)年3月には「広島支部活動紹介展」を
発声で楽しむ「詩吟を楽しむ会」もある。
手芸等小物づくりを楽しむ女性専用の「女
島市が掲げる「国際平和文化都市」にふさわ
成
(昭和
多くの外国人や留学生達も参加して1984
同好会」がある。
(注) 「ぺあせろべ 」とは「PEACE&LO
23
しいお祭りをと、市民が実行委員会を結成し、
20
好会の運営は、「みんなが世話をする」をモッ
スポーツ系の同好会など多種多様である。同
同好会は、教養・趣味の屋内外での活動や
を 楽 し む「 囲 碁 同 好 会 」
、 土 に 触 れ、 オ リ ジ
を楽しむ「釣り同好会」
、人との交流と勝負
が主流になった「写真を楽しむ会」
、海釣り
を楽しむ「園芸盆栽同好会」
、デジカメ写真
根強い人気の同好会としては、園芸の魅力
歩み」を発行し、会員や関係者に配布した
広島支部の足跡等をまとめた小冊子「
レ ビ 局 で 放 映 さ れ た。 記 念 事 業 の 仕 上 げ は、
協の活動をPRした。紹介展の模様は地元テ
広島県民文化センターで開催し、市民に日退
年の
トーに、原則として外部講師に頼らない手づ
外に、時代のニーズによって生まれた「PC・
しんでいる「テニス同好会」
、風雨に関係な
スポーツ系の同好会には、練習と試合を楽
実際の活動を支える事務局活動は月に1、2
や幹事会は各々を隔月に開催している。また
広島支部の円滑な活動を支える常任幹事会
●
活動支援体制
ナル溢れる世界に一つしかない作品作りを楽
DCを楽しむ会」、広島ならではの宮島を多
く 楽 し め る 室 内 ス ポ ー ツ の「 卓 球 ク ラ ブ 」
、
しむ「陶芸同好会」もある。
面的に学ぶテーマに取組んでいる「朱樹会(あ
回開催している。現在、安定した活動をして
するには課題がある。常に課題を先行手当て
健康保持と親睦を芝の上で楽しむ「グラウン
ま た、 旅 や 季 節 を 楽 し む「 四 季 の 会 」
「旅
する必要がある。その緒として、2人の女性
け の き か い )」、 広 島 が 発 祥 の 地 で あ る エ ス
ユニークな名称の同好会には、マージャン
を楽しむ会」もある。現在、活動を一時中断
いるが、将来にわたって永続的な活動を維持
を楽しむ「四風会(すーしーかい)」、水彩画
会員に事務局メンバーに加わってもらった。
(文責 小林敏彦)
しているが「野鳥観察の会」
「男性料理教室」
周年記念事業
や油絵を楽しむ「写画ーる会(しゃがーるか
●
もある。
本の古語を冠 した「まほろば句会」、 散策し
い )」、 広 島 弁 を 冠 し た「 が ん す 川 柳 会 」、 日
ドゴルフを楽しむ会」がある。
20
キーテニスを楽しむ同好会がある。
同好会設立の経緯も、自然発生的なもの以
くり運営を行っている。
同好会活動
●
30
ながら樹木を観察する「木楽会」がある。
広島支部の 年余の活動の中で、トピック
20
41 広島支部
59
21
24
25
人気同好会としては、歴史史跡や文化財を
20
広島支部
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
広島支部の生い立ち・現況・課題
広島支部 の 課 題 と 展 望
一.公益社団 法 人 と し て 新 発 足
してきましたが、 回を区切りとして中止さ
せろべ」での掘り出し市での売り上げで充当
共 に 継 続 す る 必 要 が あ り ま す。 従 来、
「ぺあ
る「ひろしま奨学金」基金への寄付は、今後
の交流事業の中核を占める私費留学生に対す
本 部 か ら の 推 奨 で、
「交流会の活動実績を
② 留学生との交流会の実績が評価され内閣
府から表章されました。
した。
に懇篤なご挨拶を頂き、大いに感激いたしま
あり、交流会の久田代表世話人その他関係者
内閣府に申請してはどうか」といったお話が
これに代わる収益事業を今後検討していく
と協議した結果申請することとし、本部と協
れました。
必要があり、
「収益対策委員会」
(仮称)を立
力し、申請書を提出しました。その結果、社
広島支部の 周年記念行事が色々と行われ
ち上げることにしました。これにより、何ら
ているさなか、2012(平成 )年4月1
日付けで、日退協が公益社団法人として新発
す。
会参加章の受章が決定しました。
お目出度いことでした。
公益法人の事業目的は、分野ごとに法律で
より、支部会員に対して本部への寄付金に協
ことが全く五里霧中の状態で、本部に問い合
のように対応しなければならないかといった
認定されたことによりどのように変化し、ど
とを推奨してきましたが、事務局でもこのた
業、同好会の世話人に女性会員を活用するこ
のご意見を頂いています。これまでも、各事
事務局で女性会員を活用してはという多く
④ 広島大規模土砂災害に対する義援金
こ の た び の 土 砂 災 害 に 対 し て、 本 部 か ら
から御礼申し上げる次第です。
集まりました。ご協力を頂いた会員各位に心
三.女性事務局員の活用について
わせをしたりしましたが、今後ますます公益
び2名の女性会員の加入を見ることが出来ま
5万円の義援金を頂きました。支部の
力するようお願いしました。その結果は、
事業を推進し、不特定多数の者の利益の増進
した。大方の好評を得ています。女性ならで
とともに 月6日、中国新聞社会事業団に寄
万円
万4000円の寄付金が
に寄与することが求められていることが、明
はの発想、意見を生かしていきたいと思いま
託しました。
31
(文責 上神圭二)
しいことであり今後も続けたいと思います。
の交流が活発になってきたことは、誠に喜ば
これらの例からお分かりのように、本部と
33
96
10
月1日現在 件、
確になりました。当支部は設立以来、社会貢
す。
① 榎本理事長のご出席
2014(平成 )年5月開催の支部総会
に、榎本理事長が出席されました。支部会員
26
この姿勢は今後共に変わることはありません。
二.収益対策 の 実 施
収益基盤の拡充は、本来的には会員の増加
により図られるべきでありますが、留学生と
四.本部との交流強化
献 事 業 に、 格 段 の 努 力 を 傾 注 し て き ま し た。
10
定められており日退協の場合は「高齢者の福
26
24
祉の増進」が当てはまります。支部としては、
③ 本部への寄付金に対する協力
2014(平成 )年5月、本部の要請に
かの対策が打ち出されるものと期待していま
30
足しました。大変画期的なことであり、また
20
広島支部 42
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
広島支部
公益社団法人日本産業退職者協会広島支部 基本方針
人間とは、人と人との間に生きて、育てられ、学んで成長し、役に立つことによろこびを感じながら、やがて去っていく存在であるまいかと考えます。従って
Ⅰ.わたしたちの一生
就 学 期
0歳
就 労 期
総仕上げ完熟期
20歳
Ⅱ.わたしたち志向する生活
80歳
生きていてよかったと思える状態の維持
どうしたら、それが可能か?
ボランティア活動の調査と実績
経験や能力
を活かす場
を創り参画
する
外部友好団体との連携と交流
各種調査活動に基づく提言など
健
経
気分いい日常生活の確保・深耕
済
康
趣味・同好会
力
同窓会
住居・環境
OB会
交流・交歓
町内会
そ
親族・縁者
の
他
交流の場で
新しい出会
いを広げる
マチュリティへの投稿
会報の発行
による情報
サービスと
意見交換
社会に役立つ存在でありたい
◆どうしたらそれが可能か?
◆二木会月1回開催
◆初春放談会年1回開催
◆歴史探訪など知的向上
◆留学生との交流など
成長続ける存在でありたい
業界や企業
を超えた幅
広い交流の
場を創る
65歳
アドバイザーを委嘱する
Ⅲ.わたしたちの希望 有志と力を合わせ、さらに多くの仲間の参画を得て、上記事業の具体化を促進し、発展させる。
【基本方針】
また、会員相互の交流と親睦を図るために毎月第2
「しょぼくれた年寄りになるまい、濡れ落ち葉の
木曜日に二木会を開催しています。同好会活動や二
ままで果てまい、少しでも人の役に立とう、充実し
木会は、次に述べるボランティア活動を展開する上
た日々を送ろう」
で大きな力になっています。
「日退協広島支部20年の歩み」記念誌の中で、安
藤雅由氏はこう記しておられますが、この言葉に共
感を覚える高齢者は多いのではないでしょうか。
広島支部創設にあたった15人の開設準備委員は、
【ボランティア活動】
会員の経験や能力を活かし、社会の役に立つ存在
でありたい、成長を続ける存在でありたいと願うボ
こうした願いを実現するために、支部としてのス
ランティア精神をもって活動を進めています。現在
ローガン・基本方針を定め、多数の友人・知人にこ
取り組んでいるのは、広島市の要請に基づく「国際
う呼びかけました。
交流・協力の日」への参加、「留学生との交流」、「点
★これからの人生を生きがいに満ちて暮らすために、
訳活動」、「使用済み切手の収集」、「桜の木を育てる
業界や企業を超えた幅広い交流の場を創り、相互
啓発に努めよう
★豊かな経験や能力を活かし、市民として地域社会
に貢献しよう
会」などの活動です。
このほか、社会貢献活動の一環として、会員や市
民から提供された物品のバザー収益金や会員拠出の
浄財をもって寄付活動も行っています。
★全産業のOBを含めた交流の場を実現させ、さら
に新しい出会いを広げて行こう
【チャートの作成】
以上述べてきた支部の基本方針を会員全員が良く
【支部活動の発展】
幸 い な こ と に、 こ の 基 本 方 針 は 共 感 を 呼 び、
認識し、多岐にわたるそれぞれの活動内容がどのよ
うな位置づけや意味を持っているのか、さらに新入
1992(平成4)年4月に73名の参加を得て支部設
会員に対して、支部の全体像を理解して頂くために、
立総会を開催するに至り、初代支部長に梶田省三氏
分かりやすいフロー・チャートを作成する必要に迫
を選出しました。それから20有余年を経て、現在会
られて作ったのが上段に掲げた一覧表です。私たち
員は約700名を数え、同好会は30弱に達し、年間
の活動を理解して頂くうえでご参考になれば幸いで
延べ5500人前後の会員がそれに参加しています。
す。
43 広島支部
人気の「同好会紹介」
人気 「
の 同好会紹介」
■鎌倉探訪の足跡と現状
として有名ですが「都」とは本来
れば幕府があったとはいえ鎌倉は
ガイド協会所属ガイドのガイダン
鎌倉には寺社が130以上ある
京、奈良とは一味違う坂東武者が
は天皇の所在地をいいます。とす
と言われていますし史蹟、文化財
活躍した「武者の府」と考えたい
スにより運営されています。
も沢山あります。訪ねる度毎に新
(柳原
し い 発 見 が あ る の は 勿 論 で す が、 ( 松 山 宏「 武 者 の 府 鎌 倉 」
みが反映し育てた鎌倉の文化は京
書店参照)
。例えば坂東武者の好
なく、回ごとにテーマ(イベント
文化と明らかに違いますし、宗朝
回からは漫然と巡訪するのでは
内観光見物に終ることなく、郷土
の実施理念)を設定し、世話人会
風の禅宗が鎌倉にいち速く根づい
設立趣旨にあるとおり当会は市
史家の吉居一朗先生(故人)(注1)
で探訪先を決定し、ガイドブック
鎌倉探訪
の歴史解説を中心に、鎌倉のゆか
たのも京都への対抗心があったか
当協会にはイベント同好会が
ありますが、鎌倉探訪は第1号と
を作成しています。
までの探訪先は100回を記念し
け、 春 の 4 月、 5 月、 秋 の
ジャーで混雑する夏と寒い冬を避
開催時期は暑くてしかもレ
とは違う鎌倉の独自性、魅力を鎌
らでしょう。このように京、奈良
)年 月の第1回を皮切りに、 を計画してスタートしました。今
今日で第113回を数える歴史あ
て作成した「鎌倉探訪の足跡」(注
では吉居先生の解説(先生作成の
解説書あり)と 回からは先生の
教えを引き継いだNPO法人鎌倉
(注1) 鎌
倉に在住された郷土史
倉にはまだまだ書店にならんでい
も十分楽しみたいと思います。鎌
い。と同時に鎌倉の恵まれた自然
家。先生は永年にわたり鎌倉
るガイドブックでは得ることがで
4
の社寺、史蹟、文化財につい
きない社寺仏閣、史蹟、文化財に
4 4
て研鑽を重ねられ、その史実
ま つ わ る 事 例 が 数 多 く あ り ま す。
4 4
研究には定評があります。鎌
と言っても史実学習ばかりでは肩
4
倉探訪の育ての親といっても
る菊池寛の言語録に「慰楽のみに
い らく
雑誌「文藝春秋」の創始者であ
(注2) 1
00回以降はマチュリ
誌独特の新天地なり」というのが
六分の慰楽、四分の学藝、これ本
の み に 心 を 倦 ま し む こ と な か れ、
心を堕せしむることなかれ、学藝
鎌倉は京都、奈良とならぶ古都
■これからの鎌倉探訪
さい。
ティ・ニュースをご参照くだ
(平成 )年没。
が凝ります。
月の年4回を予定しています。
10
過言ではありません。2010
11
月、 倉探訪は今後も追い求めていきた
る同好会です。その設立経緯と今
回ま
2)に 詳 し い が、 1 回 か ら
ます。
■鎌倉探訪の設立までの経緯
協会の1988(昭和 )年の
事業計画に「会員の親睦を目的と
する旅行、スポーツ及び教養のた
めの行事を増し、それを通じて組
織の拡大に努める」とあり、これ
を具現化したものが鎌倉探訪です。
す な わ ち 鎌 倉 の 史 実 学 習、 体 育、
第110回 深沢小学校前にて
探訪について考えてみたいと思い
までの足跡を振り返り今後の鎌倉
和
りの神社仏閣、史蹟をめぐること
78
して設立されました。1988(昭
26
レジャーを併せた文化教養講座的
77
10
な同好会として誕生しました。
22
63
78
63
44
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
あります。文中の「本誌」を「鎌
瀧澤昭吉、野村吉三郎、島林順三
史に関係するところ全てがイベン
白 石 孝 彦、 須 永 昭 二、 高 木 基 夫、 場、大学、大名屋敷跡、その他歴
参加者が
は 正 月 7 日 に 行 う 七 福 神 巡 り で、
ます。
名を越えたこともあり
も多くの方が参加されるイベント
倉探訪」に置き換え、面白くてタ
トの対象になっております。
しかしながら歴史的な構造物は
の各氏が当りました。
■活動実績と今後
メになるイベント活動を目指した
いと願っています。
月“ 都 電 荒 川 線 の 旅 〟 か ら、 残っている個所も多く残念な思い
のも多々みられ、年末には世話人
れてますが、単なるお飾り的なも
東京には到る所に七福神が祀ら
が残ります。最近はガイド協会な
2014(平成 )年 月“丸の
が公益社団法人となりましたので
が、季節や行程を変更するなど工
見学する個所も生じてきています
谷中七福神② 山手七福神②
数)
川達雄氏が中心になってマチュリ
会員制も年会費制も廃止し、すべ
神社・仏閣、城、公園、街道、市
現在6名の世話人(佐久間・内
田・佐野・鈴木・高橋・星)で運
得ながら活発に活動しどなたにも
の方針を継続し、皆様のご協力を
跡 に 足 を 運 ん だ こ と に な り ま す。 営しておりますが、これからも今
70
ています。
号で新たな企画として江戸
テイ
東京は広いようで狭い。 回と
しました(ホームページ参照)
。
隅田川七福神② 池上七福神②
千住七福神 日本橋七福神
東京歴史散歩の会員を募集したと
名の入会希望者が有り、
月4日虎ノ門「西桜福祉会館」で
もなりますとほとんどの名所・旧
ころ
発足集会が開催されまれました。
運営要領として会員制をとり年
会費は千円(入館料など実費は自
己 負 担 )、 キ ー ワ ー ド に「 自 分 の
喜ばれる会にしていく所存です。
最後にお願いになりますが、今
自然を楽しむ会
「自然を楽しむ会」の履歴は
年で、日本産業退職者協会の
年
が、実質的にはもっと長い歴史を
に較べれば3分の1にすぎません
ていますので更に充実した内容に
年間に 回のイベントをこなし
した。一つは
「自然観察同好会」で、
当会の前身に二つの会がありま
持っています。
る方のご参加を強く希望しており
していくためにお手伝いして頂け
の世話人の平均年齢が 歳を過ぎ
11
30
足と目と耳で江戸東京400年の
歴 史 を 探 ろ う 」「 お 互 い に 世 話 し、
世話をされる関係になろう」を掲
げ、春秋各2回と正月の七福神巡
りの年5回イベント開催を行うこ
ととしました。
ます。
ひとつだけ書き加えますと、最
60
10
設立時の世話人は、栗田善一郎
人形町にて
浅草七福神 港七福神
柴又七福神 深川七福神
(文責 高橋 淳)
夫を加えて新鮮味を出すようにし
謝されてきていますので重複して
これまで詣でた七福神(②は回
が必ず下見をして良否を確認して
内界隈散策”までの 年間に開催
したイベント数は 回、参加人数
は延べ約3400人です。
2012(平成 )年より協会
も歳月の移り変わりに従い新陳代
どに案内や解説を依頼することも
跡 形 も な く、 一 本 の 記 念 碑 の み
70
おります。
11
多くなりました。参加される人達
初回の2000(平成 )年
12
10
15
(文責 藤㟢大四郎)
江戸東京
歴史散歩の会
■設立の経緯
26
70
24
ての方々に参加して頂けるように
2000(平成 )年5月長谷
12
氏を顧問に、長谷川達雄、奥田茂、
10
45
75
59
85
人気の「同好会紹介」
前も新たに「自然を楽しむ会」と
2004(平成 )年4月から名
し た。 こ の 二 つ の 会 が 統 合 し て
道も歩いたようで、当時の我が会
島など縦横に跋渉し、かなりな山
埼玉県、伊豆方面、丹沢、三浦半
一 方、「 健 歩 会 」 は ハ イ キ ン グ
居ながらにして楽しめる華やか
偏倚も徐々に改めつつあります。
心部もあれば遠く栃木県、千葉県、 するようになり、また開催場所の
の会でしたから、舞台は広く、都
な園芸植物ではなく、いろいろな
人代表である私が拙い植物解説を
関与できなくなり、その後は世話
島歴史研究会が発足、その後宮島
に歴史探訪同好会から分離して宮
が高まり、1995(平成7)年
ちに、宮島の歴史探訪を求める声
した広島の歴史を学習しているう
歴史探訪同好会で広島城を中心と
野生の植物や鳥や虫などを観察・
ざまな姿で健気にみずから生きる
名しました。
の回廊から会名を「朱樹会」と命
の朱(あけ)の大鳥居、朱(あけ)
朱樹会発足の沿革を述べますと、
して再スタートしたわけです。
員 は 随 分 足 腰 が 強 か っ た の だ な、 場所に出かけて、四季折々にさま
参加者数は会によってかなりバ
鑑賞する楽しみを、日退協会員や
頃からは会の範囲を野外植物を中
ていましたが、最後の3年くらい
その隣人知人たちにも幅広く知っ
朱樹会の活動は、宮島町の催し
を一段と強め、また会場も次第に
町史にも取り上げられている鎌倉
史、京都市をはじめとし全国から
集められた宮島の資料の勉強と多
方面にわたります。活動において
岡崎先生は歴史はいちいち覚える
ことはない、歴史を一緒に考える
会にしたいと取り組み姿勢につい
今までの活動は、会の結成後第
朱樹会同好会
広島支部
(文責 店網俊夫)
いる神社仏閣の催事見学、又宮島
への参加を始め、宮島に位置して
荒崎海岸、奥多摩など遠隔地まで
東京西部と神奈川東北部あたりに
水元公園にて
しながらやっております。
て貰えるよう、会の進め方も工夫
うです。
新生「自然を楽しむ会」になっ
よく訪れました。また高尾山には
集中してきました。そうなったの
出かける先も箱根、真鶴岬、牛久、 てからは、野外植物観察会の性格
通算8回も行っています。参加者数
ボランティア的に引受けてくれて
朱樹会代表世話人 尼子元照
同好会
「朱樹会」(あけのきかい)
1回は厳島神社1400年祭が行
て強調されています。
は宮島の歴史や風俗、文化等宮島
われた1995(平成7)年3月
い た 長 沢 先 生 の 存 在 が あ り ま す。
ユーモアがあり、活動エリアが八
に関することを多面的に学習する
野生植物に非常に詳しく、熱心で、
王 子 を 中 心 と し て い ま し た。
「自
同 好 会 で、
「宮島町史」の編纂室
日に開催、テーマは「宮島町史
然を楽しむ会」の活動は長沢先生
師に招聘し、講話と現地探訪を年
1996(平成8)年
民 館 に て 開 催 し ま し た。 そ の 後、
の概要─石造物編」で宮島中央公
しかし先生も東日本大震災の直後
4回実施しています。
月に厳島
に心臓病と高齢のため、当会には
12
の高頻度で精力的に活動しました。
10
を抜きには考えられませんでした。 員として著名だった岡崎環氏を講
10
観察会」に絞り込んで、年6回も
はだいたい 名台に減ってきたよ
50
心に、時々探鳥会も入れた「野外
10
~ 名の会が頻繁にありました。 は多分に会のインストラクターを
40
46
ました。もう一つは「健歩会」で、
「自然観察同好会」は初めの頃
と舌を巻きます。
年間に 回のイベントを行いま
は「野外観察会」のほか「天文教
室」や「顕微鏡教室」も開いてい
ラバラで、多いときは 名を越し
34
ましたが、1998(平成 )年
16
12
30
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
遺 産 に 登 録 さ れ て か ら は、 会 の
神社と一帯の建物や森が世界文化
前は開催日は講師の都合で土曜日
営も少しずつ変化しています。以
者が年々増加し、当初の 余名か
カーも利用していた。その後参加
用が中心で、行先によってはマイ
備えている。中高年登山では一般
バーに体調等の異常がある場合に
の 途 中 に 等 間 隔 に 位 置 し、 メ ン
も考慮し、8年前からは貸切バス
(最高年齢者は
ているが、本会員は高高年であり
道での転倒や事故が多いといわれ
がほとんどでしたが、現在は平日
ら 余名となり、安全面、利便性
話の場合、会員の集まり易い広島
の利用を中心としている。貸切バ
数歳)
、例会は標
市内中心部に変更し、参加者も増
に開催しています。開催場所も講
テーマも文化遺産を意識して学ぶ
事が多くなっています。
これまでに開催したテーマの中
には第7回:広島と管弦祭、第
第
マイカーでは不便な、登山口とは
体力不足と思われる人には申込段
画している。目的の山に登るには
えて毎回 人以上となっています。 ス の 利 点 は、 車 中 で の 情 報 交 換、 準コースタイムの3~5割増で計
これからも多くの会員に宮島への
回: 御 島 巡 式、 関心と親しみを持ってもらうべく、 別の場所への下山が可能、帰りの
外は下山後は温泉への立寄りを定
などである。時間的に難しい時以
すると共に、参加者にも良きメン
ダーシップを発揮できるよう努力
している。世話人一同、良きリー
車 中 で 缶 ビ ー ル で の 乾 杯 が 可 能、 階で訳を話し遠慮して貰うように
を活発に行っていく所存です。
番としている。人気コースでは希
名 を こ え る こ と も あ り、 バーシップ(メンバーも登山とい
う行為に対する責任を自覚するこ
望者が
大型・中型バス2台での例会も増
と)を持って貰い、今後も一層安
迄の実施回数は
えている。本会発足以来昨年9月
の山歩きをしようということで
106回計画し雨天中止が
山を歩く会世話人 渡子 忠
健康維持促進のため、広島近郊
山を歩く会
回: 平 家 物 語 の 地 を 訪 ね て、 世話人一同良い企画で同好会活動
直近では神戸の福原京跡巡りと広
回目は2014(平成 )年
範 囲 に 活 動 し て い ま す。 そ し て、
第
日に宮島の紅葉の名所めぐ
りと、明治以降著名人が度々訪れ
ている料亭「岩惣」で昼食をとり
80
回。 けたいと思っている。
回 と な っ た。 全登山に努め、楽しい山歩きを続
「 山 を 歩 く 会 」 を 1 9 9 8( 平 成
)年4月に発足させた。広島近
その内訳は、広島市近郊 、県内
、中四国九州
( 大 山、 蒜 山、
大台ケ原、乗鞍岳(広島支部設立
周年記念行事として2011
回に増やしている。年1回は1泊
きたが、3年前からは、年8~9
例会日とし、年6回程度実施して
会毎にリーダーを務め、先頭を歩
した)である。世話人 人が各例
風雨のため肩の小屋までで引き返
(平成
) 年 7 月 計 画 し た が、 強
2日の遠征も実施して親睦を深め
当初から、偶数月の第2金曜日を
近県の名山にも登っている。発足
き を 楽 し ん で い る。 近 年 は 県 内、 三 瓶 山、 由 布 岳、 阿 蘇 山 な ど )
、
郊の初心者向きの山を中心に山歩
11
ました。
30
27
11
カ バ ー 宮 島、 第
回:広島支部 周年記念ディス
回:ユネスコ世界遺産と宮島、第
10
「弥山神社」本堂前にて
95
14
26
発足以来 年目を迎え、会の運
20
70
23
月
30
いている。他の世話人はメンバー
47
20
19
50
52
10
ている。当初は定期交通機関の利
臥龍山山頂にて
10
50
26
70
80
11
崎 陽 軒、 資 生 堂 等 の 工 場 見 学 は
の 企 業 訪 問 で す。 キ リ ン ビ ー ル、
り ま す が、 人 気 の あ る の は 地 元
と で す。 イ ベ ン ト の 内 容 に も よ
き ま す と、 こ れ か ら は 夫 婦 一 緒
参 加 頂 き ま し た。 こ う し て 見 て
時 も、 や は り 女 性 中 心 に、
性 が 多 か っ た で す ね。 資 生 堂 の
便 利 性 を 考 え、 さ い た ま 市 の 施
た め、 毎 月 の 例 会 の 会 場 確 保 の
り ま し た。 埼 玉 県 は 東 西 に 広 い
名
名にな
立 発 起 人 会 を 開 催 し ま し た。 現
在 の 世 話 人( 幹 事 ) は
落 と し 穴。 免 疫 力 を つ け る。 ア
し ま し た。 そ の 後 は「 イ ベ ン ト
工場見学は大正製薬大宮工場等。
本田技研狭山工場へ行く予定も
ぐり」第1回のイベントを開催
22
48
出席者(敬称略)
神奈川会代表 長澤征次
埼玉会 代表 関根貞夫
西東京会代表 湯藤 哲
京葉会 代表 佐久間征二
大 変 勉 強 に な り、 帰 り に は お 土
に参加できるようなイベントが
設会議室で開催することにし、現
理事長 榎本郁夫
司会進行 田林巖樹
地域会は本部と各地会員とを結
産 の ご 配 慮 も 頂 い て 好 評 で し た。
良 い か な と 思 い ま す。 で す か ら
在も同様に続いております。
8月に6名の設立メンバーで設
ぶ上で、大切な役割を果たしていま
一 方、 自 然 相 手 の 野 外 活 動 は 集
女性が参加したくなるようなイ
田林 皆様お集まりいただき有難う
ご ざ い ま す。 当 協 会 も 周 年 を
名 集 ま り ま し た。 女
す。そこで、各地域会代表の方々に
まりが悪くなっていますので工
ベントを企画することが今後の
当初、イベントの運営に関して
は「 江 戸 東 京 歴 史 散 歩 の 会 」 の
コースで
お集まり頂き、お話を伺いました。
夫 が 必 要 と 感 じ て い ま す。 講 演
神奈川会としての課題であると
〔地域会の歴史と現況〕
会 に つ い て は、 テ ー マ の 選 び 方
迎えました。
トピーからガンまで」は
関根 まず設立の経緯ですが、神奈
川 会 設 立 後、 そ の 中 心 メ ン バ ー
企 画 担 当 」 が 埼 玉 県 内 の 名 所・
) 年 1 月 小 江 戸「 川 越 街 め
の 方 々 に ご 出 席 い た だ き、 日 頃
集 ま っ て い た だ き ま し た。 こ う
だった越中さんが私に埼玉会を
旧 跡 等 の 企 画 を 提 示 し、 例 会 で
年スタートと一番歴史の古い神
56
成
の活動状況について率直にお話
した健康を題材にしたものは人
作るよう提案してこられたのが
決めております。
16
人も
し 頂 く こ と と い た し ま し た。 そ
気があります。また、 回目の「山
き っ か け で し た。 そ の 後、 当 時
)
手西洋館巡り」も人気でした。西
21
18
れ で は ま ず 2 0 0 4( 平 成
奈川会からお願い致します。
)年
の西江理事長からも重ねて要請
クチャーを受け、翌2010(平
世話人が3名おりましたのでレ
21
洋 館 で の サ ロ ン コ ン サ ー ト の 後、
田林 有難うございました。それで
は埼玉会は如何ですか。
51
80
が あ り、 2 0 0 9( 平 成
回 目 に 行 っ た「 き れ い 社 会 の
感じています。
2014
(平成 )
年 月2日 協会談話室にて
10
元町のレストランで夕食という
本日は、日退協の中核として活
動いただいている各地域会代表
30
長澤 現在の一番の問題はイベント
への参加者が減ってきているこ
14
に よ っ て 違 い が 出 ま す。 例 え ば
26
「地域会座談会」
地域会座談会
〈特集〉 マチュリティ誌30年を振り返る
は西東京会ですね。
名に
思 っ て 始 め た 次 第 で す。 そ し て
当時西東京地区の会員約
り ま し た。 こ れ も 世 話 人 の 中 に
テストがあったりして盛り上が
経 緯 を お 話 し ま す。 そ の 年 の 8
の設立総会にこぎ着けるまでの
分寺の労政会館で行いました。こ
回 開 催 し、 イ ベ ン ト は
て い ま す。 現 在 ま で に 総 会 を 3
起人は7~8名だったと記憶し
設立総会の案内を送りました。発
蔵の知り合いがいて実現したも
月 頃、 日 退 協 で 会 員 向 け に ア ン
を し て い る の か 等 お 聞 き ま し た。
て い ま し た の で、 ど う い う 運 営
の時点で既に神奈川会は存在し
か、という考えに至りました。そ
利く組織が必要ではないだろう
本部と会員の間に何か小回りの
う 図 式 で は 駄 目 な の で は な い か。
広 島 支 部、 そ し て 各 地 会 員 と い
そ の 結 果、 組 織 と し て 東 京 本 部、
の だ ろ う。」 と 考 え て い ま し た。
ワーを出すには何をすれば良い
が積極的になって会としてのパ
が で き る だ ろ う か。 も っ と 会 員
協東京本部の活性化を図ること
て い て、「 ど の よ う に し た ら 日 退
ケートの集計具合とか回答を見
集 計 を 担 当 し ま し た。 そ の ア ン
ケ ー ト を 実 施 し た 際、 私 は そ の
メールが一番便利なので皆さま
とは各会員への連絡手段です。E
したいと思っているのですが。あ
名の会員に当会を更にアピール
もっと開催して西東京在住の
つ 当 た る か 分 か ら な い。 総 会 を
は公共施設ですが抽選なのでい
す。 総 会 で 使 っ て い る 労 政 会 館
苦労していることは会場探しで
と の ジ ョ イ ン ト 開 催 と し ま し た。
に ゴ ル フ 会 を 3 回。 こ れ は 本 部
る 会 を 開 催 し て い ま す。 そ の 他
に 桜 を 観 る 会、 秋 に 紅 葉 を 愛 で
ト リ ー 工 場 見 学、 あ と は 毎 年 春
は 寄 席 落 語 鑑 賞 会 が 3 回、 サ ン
説 明 等 行 っ て い ま す。 イ ベ ン ト
にイベントの企画や本部施策の
りて世話人会を行っています。主
毎月国立市の居酒屋の2階を借
埼 玉、 東 京 と あ っ て 千 葉 が 無 い
の 経 緯 で す が、 地 域 会 が 神 奈 川、
皆で考えています。
もっと参加して貰えるかいつも
ういうイベントを企画すれば
で
のですがイベント参加者は平均
で、 世 話 人 の 意 欲 は 非 常 に 高 い
にしても西東京会はまだ未成熟
考 に し た い と 思 い ま す。 い ず れ
報を出し始めたのを見ました。参
埼 玉 会 が「 埼 玉 通 信 」 と い う 会
改 善 し た い 点 で す。 そ ん な 中 で
き を 利 用 し て い ま す が、 何 と か
総会の告知などは今も往復はが
名 と い う の が 現 状 で す。 ど
名 程 度。 他 に 方 法 も な い の で
な に せ 東 京 は 広 す ぎ る。 私 の 住
にメールアドレスをお聞きした
し ま し た。 現 在 世 話 人 は
名で
回開催
のです。
田林 ありがとうございました。次
んでいる三多摩中心にスタート
湯藤 哲氏
のはおかしいということで発起
20
あ り ま す。 大 宮 に あ る 小 山 酒 造
という蔵の蔵開きに参加という
湯 藤 西 東 京 会 の 設 立 総 会 は
2010(平成 )年の 月。国
90
10
11
の で す が、 開 示 い た だ い た の は
90
佐久間 京葉会は一番新しい会で設
立 後 2 年 半 経 過 し ま し た。 発 足
田林 それでは京葉会にお願いしま
す。
25
企 画 も あ り ま し た。 利 き 酒 コ ン
11
す る の も 良 い の で は な い か、 と
49
22
地域会座談会
入 っ て た ん で す が、 公 共 施 設 は
タ キ ャ ン が 増 え る。 当 日 キ ャ ン
ン ト で す。 当 日 天 候 が 悪 い と ド
田林 イベントの後にはやはり打ち
上 げ を や る と 思 い ま す が、 場 所
佐久間 それも困ることがあります。
イベント終了が4時頃になるこ
と が 多 い ん で す ね。 で も 呑 み 屋
さ ん は 5 時 開 店 が 多 い。 4 時 に
開いている店を探すのに苦労し
50
ら 場 所 の 選 定 で す が、 う ち も 野
と ス カ イ ツ リ ー」 を 企 画 し た の
佐久間 思い出に残る失敗ならあり
ま す( 笑 )。 昨 年 秋 に「 東 京 下 町
やはり美味しい食事等絡ませた
ですが雨で中止になりました。そ
外 イ ベ ン ト は 集 ま り が よ く な い。
ほ う が 良 い と 思 い ま す。 い ず れ
に 再 度 組 み ま し て、 こ れ が 月 曜
の 日 は 金 曜 日 で し た。 今 年 の 春
を 悩 ま せ て い る 段 階 で す。 実 は
日。 行 程 に 墨 田 区 出 身 の 有 名 人
にしましても未だ組織作りに頭
こ の 地 域 は 会 員 数 が 一 番 多 く て、
月 曜 休 み が 多 い ん で す ね。 う っ
セ ル で す ね。 慌 て て 予 約 数 を 変
王貞治の顕彰コーナー見学が
し ゃ い ま す。 し か し な が ら 京 葉
か り し て ま し た。 到 着 し た と き
更 す る わ け で す が、 幹 事 と し て
区 が 1 5 0 名、 千 葉 県 が
タ ー ト し ま し た。 今 ま で に イ ベ
会 の 案 内・ 募 集 を し て も 反 応 が
休館だと知って目が点になりま
これが一番困ります。
東京
ン ト を 9 回 行 い ま し た。 基 本 的
弱 い。 ア ン ケ ー ト の 回 答 率 は 1
し た。 参 加 し た 皆 さ ん に 申 し 訳
名、 合 わ せ て 2 4 0 名 い ら っ
に は 年 4 回。 そ の う ち 半 分 を 千
割 程 度 で し た。 今 後 如 何 に 皆 様
人である富川さん等によってス
区内で開
葉 県 で、 半 分 を 東 京
ない気持ちで一杯でした。
田林 イベントを組んだ後、下見な
どはされるのですか?
に 興 味 を 持 っ て 貰 え る の か、 が
田林 幹事さんは皆苦労されてます
ね。
催 し て い ま す。 京 葉 会 で 特 徴 的
行 っ て い る こ と で す。 未 だ 新 し
一同 必ずやります。
佐久間 私は心配症なので世話人同
志で行く前に私一人で行きます
ね。 そ れ よ り 困 る の が 寄 席 な ど
湯藤 失敗談ではないですが、野外
イベントにおける天候の問題。こ
田林 皆さん貴重なご意見ありがと
う ご ざ い ま し た。 現 状 と 課 題 等
のように予約を必要とするイベ
い会なので他の会の力をお借り
5人しかいないというのも理由
お 話 し て い た だ き ま し た。 思 い
の選定とかどうされています
(笑)。
の 一 つ で す。 最 も 盛 会 だ っ た の
出に残るイベントなどありまし
関根 「巡視船あらかわ」乗船と「首
都 圏 外 郭 放 水 路 」 見 学。 こ の 二
田林巖樹氏
れはもうどうしようもないです
は「 お 写 経 と 法 話 を 聴 く 会 」 で、
か?
で し た。 女 性 の 世 話 人 が い な い
つは普段個人では見られるもの
名
の で 今 募 集 中 で す。 他 の 会 と 同
で は な い で す か ら ね。 も う 一 度
集まりまして内3分の2が女性
様女性の参加が会を盛り上げる
行きたいくらいです。
四季の会との共催でしたが
たら教えてください。
〔イベントの運営〕
一番の課題です。
佐久間征二氏
な こ と は、 イ ベ ン ト を 各 同 好 会
23
の に 不 可 欠 だ か ら で す。 そ れ か
38
す る と い う 考 え で す。 世 話 人 が
90
関根貞夫氏
と共同で開催するという試みを
23
〈特集〉 マチュリティ誌30年を振り返る
ます。
関根 私達は下見会の時に一緒に探
し ま す。 そ し て 5 時 オ ー プ ン の
店でもその場で時間を交渉しま
す。
長澤 神奈川会では打ち上げは女性
参 加 が 少 な く 残 念 で す。 参 加 費
ただきたい講演でした。
〔会員間の連絡〕
田林 有難うございました。次に本
部 か ら の 広 報 を 含 め、 会 員 間 の
意思疎通についてご意見があれ
から友達へという手段で伝える
のが一番早い気がします。
関根 埼玉会が「埼玉便り」を作っ
たのも正にそういった理由から
です。
〔社会貢献活動〕
田林 最後に各地域会が行っている
社会貢献活動を教えてもらえま
ばお話し下さい。
関根 2ヶ月に1回発行されている
「 マ チ ュ リ テ ィ ニ ュ ー ス 」 で す が、
は2千円台で抑えるようにして
れから講演会を開催している会
あ ま り 読 ま れ て い な い 印 象 で す。
田林 これも幹事さんの見極め、経
験 が 大 事 と い う こ と で す ね。 そ
い ま す。 あ ま り 遅 く な ら な い よ
もありますがその辺の話をして
す か? 神 奈 川 会 で は「 虹 の 子
会」のバザーとかおやりになっ
分位でやるようにして
うに考慮します。
つまり本部の情報が会員に浸透
とすることが多いようですが。
行っているバザーへの援助を年
く だ さ い。 や は り 健 康 を テ ー マ
田林 会費2千円台というのは厳し
くないですか?
長澤 日本医大の川並先生にお願い
して認知症のテーマでやったの
湯藤 そうなんです。一度見たらイ
ベントの案内ばかりだったから
2 回 行 っ て い ま す。 具 体 的 に は
てますよね?
長澤 でも3千円以上だと会員から
「高いね」という声が上がるんで
が か な り 好 評 で し た。 講 演 後 の
そ れ 以 降 見 な い、 と い う 人 が 多
人の派遣、品物の献品などですね。
し て い な い の で は な い か、 と い
す ね。 で す か ら 2 千 円 台 が 無 難
質問もかなり活発にされていま
く、残念です。
関根 日退協の常任理事である井上
国春氏の講演会をやりましたが
を作ってもなかなか見てはもら
メールを送ったりホームページ
と い う と 必 ず し も そ う で は な い。
が常に協会の方を向いているか
長澤 神奈川県も100人近い会員
が い ら っ し ゃ い ま す が、 皆 さ ん
でしょうか。
は難しくなってくるのではない
て援助依頼されたらいずれ対応
し 仮 に 都 内 や 埼 玉、 千 葉 に で き
関根 今、虹の子会に対し援助して
い ま す が、 こ う い っ た 団 体 が も
うことです。
だ と 思 い ま す。 あ と、 参 加 人 数
し た。 そ し て こ れ か ら の 話 で す
と て も 良 か っ た で す。 井 上 氏 は
え な い。 マ チ ュ リ テ ィ ニ ュ ー ス
ています。
ポートする人の講習会を予定し
普段から講演で全国を回ってお
も 同 様 で す ね。 そ う な る と も う、
でも日退協の出品数はバザー全
という立場でいいと思います。今
長澤 あくまで主催者である虹の子
会に可能な範囲でサポートする
ら れ る 方 で す。 テ ー マ は「 シ ニ
一 番 の コ ミ ュ ニ テ ィ 手 段 は「 口
コ ミ 」 だ と 思 っ て い ま す。 友 達
ア の ラ イ フ プ ラ ン と お 金・ 生 き
長澤 仰るように現在ダウン症候児
支 援 組 織 で あ る「 虹 の 子 会 」 が
に苦慮するときがあります。思っ
けれど神奈川会では認知症をサ
ね。
榎本郁夫氏
たより人数が少ないと慌てます
時間も
長澤征次氏
が い 」。 皆 さ ん に も 一 度 聞 い て い
51
90
地域会座談会/損保マチュリティ懇話会のこと「松多昭三会長に聴く」
体のせいぜい数パーセントです
して生活しなければならない。そ
名近い方々が学校の教室に分散
してみようかと考えています。
て草の根的活動を試験的に開始
で す が、 今 後 こ う い っ た 機 会 を
義援金を寄付したり音楽会を開
今まであまり講演会はやってい
け た ら と 思 っ て い ま す。 う ち は
湯藤 こうした形で地域会同士で話
し合うというのは今回が初めて
と思いました。
〔協会の目標と地域会〕
席 者 に 送 っ て い ま す。 こ れ が 結
回これをカラープリントして出
政策提言が活発になってきまし
年 退 職 後 を ど う す る?」 と い う
ヨナラ」ですよ。その頃から「定
ま し た。 元 々 新 都 心 は 3 月 一 杯
52
すね。
から。
し て 何 も す る こ と が 無 い。 た だ
湯藤 とにかく会の活動に参加いた
だ け る 人 数 を 増 や し た い。 会 員
ザ ー と か あ り ま す が、 私 自 身 は
催 し た り し ま し た。 そ れ か ら 四
ませんでしたが今後は認知症と
1日中ボーッと過ごしておられ
設けて情報交換できたらいいな
日退協優先でやっていますが今
季の会に作って貰ったお手玉を
か成年後見人といったテーマで
湯藤 でもこれは本部と地域会の関
係において根幹的な問題だと思
名のうち半分でも参加いただ
後こういった団体が地元にあっ
届 け た の で す が、 と て も 喜 ん で
やりたいと考えています。
る の で す か ら。 日 退 協 と し て は
て仮に依頼されたらパワーは分
い た だ け ま し た。 埼 玉 会 で も ワ
い ま す。 実 際 私 も 知 り 合 い の バ
散 せ ざ る を 得 な い で す よ ね。 そ
こ こ で、 私 達 の 協 会 を 歴 史 的 に
榎 本 今 日 各 代 表 の お 話 を 聞 い て、
日 々 の ご 苦 労 が よ く 判 り ま し た。
田林 それぞれ頑張って実現させて
いただきたい。
「IT」というテー
振 り 返 っ て み る と、 日 退 協 の 前
ンコイン募金を続けていて県の
マに関してはいかがですか?
は法人会員のみで個人会員とい
の際の本部と地域会の力関係が
長澤 神奈川会は独自のホームペー
ジ を 持 っ て い ま す。 そ れ か ら 幹
う 概 念 は あ り ま せ ん で し た。 そ
社会福祉協議会を通じてお届け
田林 社会貢献活動は当協会の重要
なミッションですので今後とも
事の定例会の前に2時間程パソ
の頃サラリーマン約3700万
懸 念 さ れ ま す。 こ れ は 今 後 の た
よ ろ し く お 願 い い た し ま す。 そ
コン教室をやってます。
しています。
田林 虹の子会への支援は元々社会
貢献活動委員会が中心となって
れでは他に今後取り組みたい事
人は皆企業戦士として高度成長
身の日本サラリーマン協会の頃
きたのでその方向で整理して考
などあったらお聞かせください。
要があるのでは?
え れ ば 良 い と 思 い ま す。 そ れ か
時代の日本を支えて来ました。そ
歳 に な っ た ら「 は い、 サ
念 イ ベ ン ト と、 過 去 の 記 録 を 残
構 好 評 で す。 折 角 記 事 を 作 っ て
た。 そ し て 世 の 中 の 高 齢 化 が 進
して
すため「しおり」を準備中です。
も見てもらえなければ何にもな
み「 お 年 寄 り 」 が 7 % を 超 え た
その記事をアップしています。毎
関 根 先 ほ ど 出 ま し た よ う に 会 報
「埼玉だより」をスタートさせま
り ま せ ん か ら。 今 後 は 京 葉 地 区
あたりから当協会にも個人会員
震災後における埼玉会の双葉町
し た。 年 4 回 発 行 し て い く 予 定
の会員全員にこれを送りたいと
全町避難への支援協力ですね。
ま で と い う こ と で し た か ら ね。
で す。 も う 一 つ は、 県 単 位 で は
が 誕 生 し ま し た。 そ こ で 言 わ れ
関根 最初の避難先はさいたま新都
心 で、 そ れ か ら 加 須 市 に 移 転 し
我々は避難先の旧騎西高校を訪
考えています。
た の が「 高 齢 者 の 積 極 的 社 会 参
活動するのに広過ぎて大変なの
田林 皆さん色々と工夫されていま
問 し ま し た が、 あ れ は 本 当 に 大
55
佐久間 イベント終了後に幹事の富
川氏が協会HPの京葉会の欄に
ら忘れてならないのが東日本大
長澤 「神奈川会は設立してもう
年 に な り ま す の で、 周 年 の 記
めにも一度しっかり議論する必
90
で、 い く つ か の ブ ロ ッ ク に 分 け
10
変な状況でしたね。何せ1500
10
〈特集〉 マチュリティ誌30年を振り返る
加 」 で す。 そ の 後 超 高 齢 化 社 会
と 言 わ れ る 時 代 に 入 り「 社 会 貢
献活動」が叫ばれるようになり
ま し た。 今、 老 老 介 護 世 代 比 率
が 5 割 を 超 え、 東 京 都 で は 高 齢
〈損保マチュリティ懇話会のこと〉
割弱という時代に我々のような
この会についてよくご存知な
盡 力 い た だ い て お り ま す が、
)年3月に創立総会を開
分 野 に わ た り、 幸 い 著 名 な 先
生方にお願いしております。
鈴 木 そ れ は 素 晴 ら し い こ と で
す が、 錚 々 た る 先 生 方 で は 費
用も大変でしょう。
松 多 「損保懇」は会費を徴収
し て い な い の で、 講 演 会 開 催
の時に参加費を頂くに止まっ
て い ま す。 こ れ ま で は 運 営 委
す る 予 定 で し た が、 各 企 業 の
には各産業別にOB会を組織
松 多 そ う で す ね。 そ も そ も
年 前、 日 退 協 が 設 立 さ れ た 時
ころで損保業界も近年日本経
し て 今 日 に 到 っ て い ま す。 と
協 」 損 保 懇 は、 唯 一 の も の と
松 多 結 果 と し て 産 業 別 の 懇 話
会 は で き な か っ た の で「 日 退
促進のためにも会の今後の発
鈴 木 「 日 退 協 」 は 公 益 社 団 法
人 で あ り、 高 齢 者 の 社 会 参 加
何ですか。
鈴 木 損 保 懇 は 現 在 も 活 発 に 活
動 さ れ て い ま す が、 近 況 は 如
催して誕生しました。
和
懇)
」 を 設 立 し 1 9 8 6( 昭
─松多昭三会長に聴く─
団体が次のステップとしてどの
い 方 も お ら れ ま す の で、 ご 説
鈴 木 松 多 様 に は 長 年 に わ た り
「損保懇話会」会長としてご
ような活動に取り組むべきかと
明して頂けませんか。
世帯に占める一人暮し比率が4
い う と、 先 ず は 二 つ だ と 思 い ま
OB会の組織・運営には条件・
済のグローバル化に伴う経営
展を図りたいものです。
員の個人的な縁故や繋がりか
一つは引きこもりの高齢者に社
状 況 の 相 違 が あ り、 各 企 業 の
統 合・ 企 業 合 併 な ど 業 界 再 編
たときにこの地域会の活動がい
取引や巨大リスクの共同引受
の必要性からお互いに再保険
そのなかで損保事業では業務
ずに論議しています。
理念に則し本来の姿勢を崩さ
月 運 営 委 員 会 を 開 催 し、 基 本
会長を中心に各運営委員が毎
明 記 し て い ま す。 お 互 い に 知
どなたでも参加できます」と
般 に も 公 開 し て お り ま す の で、
鈴 木 毎 年 の 行 事 と し て、 講 演
会を行っておられますね。
ちんと次代へ伝承することが
せ て い く と 共 に、 こ れ ま で の
恵 を 出 し 合 い、 さ ら に 発 展 さ
松多 講演会の歴史は古く
1 9 8 7( 昭 和 ) 年 に 第 1
の 到 来 を 前 に、 退 職 後 も 社 会
ま と ま り や す く、 高 齢 者 社 会
に貢献する新しい集団を創ろ
回 が 開 催 さ れ て お り、 今 年 は
回 で し た。 演 題 は 幅 広 い
大事ですね。
(聞き手 鈴木裕史)
活動で培われてきた理念をき
う と、 先 輩 や 仲 間 が「 損 保 マ
第
う伝統があったものですから
などを通じて競争と協調とい
酬に近いのが現状です。
ら講師のご厚意に甘えて無報
会参加してもらうにはどうすれ
OB会の単純な連合体を創る
か に 大 事 に な っ て く る か。 今 日
皆様に語っていただいたように
地域会の組織的活動も未だ発展
途 上 で は あ り ま す が、 志 を 同 じ
く す る N P O や N G O、 各 自 治
会等と連携するという方法もあ
る と 思 い ま す。 勿 論 会 の 活 動 は
「楽しく行う」というのが大前提
で す。 こ れ か ら も 皆 様 の 活 躍 に
チ ュ リ テ ィ 懇 話 会( 略 称 損 保
62
ば よ い か と い う 問 題。 そ う 考 え
の は 難 し い こ と が 判 り ま し た。
「 損 保 懇 」 で は、 講 演 会
の 嵐 が 吹 き 荒 れ て い ま す が、 松 多 の 案 内 に「 公 益 性 を 踏 ま え 一
す。 一 つ は 認 知 症 の 問 題。 も う
61
27
大いに期待しています。
一同 本日はありがとうございまし
た。
53
30
公益社団法人日本産業退職者協会設立 周年記念特別講演会
30
13
堀田 力氏
周年を迎
30
年前
30
決すべき課題がまだまだ残されております。
も喜ばしいことであります。高齢者問題は解
を重要視され、取り組まれていることはとて
その団体が時代の流れに連れ、高齢者問題
敬意を表したいと思います。
立ち上げた当団体の先達の方々の勇気にまず
した。そんな時期にサラリーマンユニオンを
処遇を受けていないと個人的に感じておりま
も利益分配という意味においても、相応しい
は会社勤めのサラリーマンの待遇が税制面で
までの経緯をお話されましたが、正に
先ほど榎本理事長が日退協の設立から現在
おります(笑)
。
す。検事時代から、ホトケの堀田とよばれて
す。ご紹介をいただきました堀田でございま
えられたとのこと、大変おめでとうございま
この度は日本産業退職者協会が
2014
(平成 )
年 月 日 ホテルラングウッドにて
「 超高齢化社会と我々の生き方」
特別講演会「超高齢化社会と我々の生き方」
26
11
堀田 力(ほった・つとむ)
弁護士・公益財団法人さわやか福祉財団会長。
1958(昭和33)年、京大法学部卒業。1961(昭和36)年4月、
検事任官。1976(昭和51)年4月、東京地検特捜部検事(ロッキー
ド事件担当)
。1990(平成2)年6月、法務大臣官房長。1991(平
成3)年11月、退職、弁護士登録/さわやか法律事務所及びさわや
か福祉推進センター(現、さわやか福祉財団)を開設。
54
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
ということを認識しようということで、マー
されておりません。先ずはその人が認知症だ
のようにすれば良いのか。未だ方法論が確立
いのか? 認知症の方に思う存分歩いていた
だき暮らしを楽しんで頂くには、果たしてど
がそのようなやり方になっている。それで良
たやり方だと思います。現在最も進んだ対応
お家に帰すという対応は人間の尊厳を無視し
応ですから、そういう人を捉まえて連絡して
いなら歩かせてあげるのがいたって普通の対
す。なぜ歩くのか? それは歩きたいからで
す。生理的な当然の欲求であります。歩きた
徊と思っていない訳で、ただ歩いているので
のです。でも徘徊というのは本人としては徘
知症の方を皆で見つけてお家に帰すというも
りますが、そのやり方は町で徘徊している認
の市や町が徘徊問題に対する訓練を行ってお
せん。政府も全く分かっておりません。一部
えるそのやり方・方法論が確立されておりま
いていくというやり方は全くもって不明です。
て、社会全体が一つの家族のような関係を築
実であるという現代社会。この流れに逆らっ
族の幸せさえ作れればそれで良い。それが事
なっていく人間関係。自分のお金で自分の家
が 確 立 さ れ て お り ま せ ん。 ど ん ど ん 冷 た く
は、その地域全体がどのようにしたら家族の
のか? それはもう、地域全体が一つの家族
のような関係になるしかないと思います。で
個人情報保護の問題とどう折り合いをつける
地域の方全員がどのようにして認識するのか、
しいのです。その人が認知症だということを
間の尊厳を守りながら対応するというのは難
体が、一人ひとりが、全員で関わらないと人
りげなく接することが大事なのです。地域全
いうことをしっかり皆で認識して、そしてさ
では、どうするのか? 今考えられること
は、地域で、町で、その人が認知症であると
全く、人の尊厳の無視です。
体 に 埋 め 込 も う な ど と い う 話 ま で あ り ま す。
もその靴履くとは限らないですよね。最近は
必ずその服を着るとは限らない、靴に付けて
ナビみたいな発想ですね。ただ服に付けても
もその状態になったら介護してもらえる、と
という姿勢から、皆でお金を出し合って誰で
ができた時に、それまでの「救ってあげる」
えてきております。十数年前、介護保険制度
知のように社会保障制度の政策をガラッと変
切りましたが、昨年から今年にかけて、ご承
先ほど政府が対応策を持っていないと言い
いかれますことを切に望みます。
認知症問題に対する対応と全く同じです。皆
いったい誰がどうやるのか。これも先ほどの
本 部 分 だ け 決 め ら れ た と い っ た 状 況 で す。
やっと昨年からこの問題に対する対策案が基
れ も 政 府 は 有 効 な 対 策 を 持 っ て お り ま せ ん。
同様に、引きこもり老人に対する対応。こ
ます。
間関係を築いていく以外に方法は無いと思い
つ、一つずつ、地道に先ほど述べたような人
すから、もうこれは、気づいた人から一つず
れは政府や国ですら答えを持っていない訳で
ます。では具体的にどのようにするのか。こ
認知症について
クや認識票を体に貼り付けようという話もあ
そういった中で貴団体の三つの大きな活動
いうサービスに代わりました。これは戦後の
ています。本人は認知症と思ってないわけで、
まず、認知症をどう支えるのか、地域で支
りますが、そんなものはむしり取るに決まっ
指針、一つは自立、一つは支え合い、三つ目
大きな社会福祉制度の転換でした。それに匹
敵するくらいの大きな転換が昨年から今年に
社会保障政策の転換
様方のような団体がその先頭に立って進んで
引きこもり
そんなものをくっ付けられても嫌なだけです
は認知症に対する対応。このような問題の取
り上げ方、先見性、計画性に深い敬意を表し
ような温かい関係になれるのか。この方法論
からね。それから、体に器具をつけて電波で
居場所を探ろうというのもありました。カー
55
特別講演会「超高齢化社会と我々の生き方」
の社会福祉制度においてサービスの提供者は
供する仕組みです。この例が示すように全て
税金と一割の自己負担を受けてサービスを提
あったり福祉である専門家が、介護保険料と
そ れ は 専 門 家 で す。 医 療 で あ っ た り 保 健 で
は、 誰 が サ ー ビ ス を 提 供 す る の か と い う と、
制度に大きく変わりました。しかしこの制度
の人しか救われない制度から、皆が救われる
が、介護保険制度が出来たことによって一部
がこの転換のキーワードです。話は戻ります
す る、 と い う こ と で す。「 地 域 の 時 代 」 こ れ
この転換は一言で言えば、地域の力を活用
考えてみたいと思います。
で、そこから私たちの色々な活動のあり方を
なものですのでまずその流れをしっかり掴ん
年かかるものです。しかし今回の転換は大き
にくいので人々が実感するようになるには数
感じておられますか。制度の転換は認識され
かけて起きております。皆様はその大転換を
す。
の助け合いでやっていきましょうとなるので
までプロがやっていたことをこれからは地域
なってもらえるようサポートいたします。今
い を し た り、 色 々 な こ と を し な が ら 元 気 に
事を作ったり、お掃除したり、通院の付き添
チュアが生活支援をすることになります。食
プロ、要支援者という軽い症状の方々はアマ
では、要介護者、要支援者のうち要介護者は
うかの保証は無いわけです。新しい制度の下
ずやってもらえる、全部やってもらえるかど
というものは「志」でやっていますから、必
か分からない、という点です。ボランティア
てにならない、果たしてやって貰えるかどう
け合い」の最大の欠点は、はっきり言って当
は 過 去 に は 無 か っ た こ と で す。 た だ し、
「助
かけてそういった方向に転換しました。これ
返しますが、行政の仕組みが昨年から今年に
う方向に変わっていくということです。繰り
の助け合いの力で支えていきましょう、とい
ですね。
わサロン」や「竹とんぼの会」は素晴らしい
いう流れになっています。当協会の「きたざ
障害者に対する支援も地域で支え合う、と
ないですね。
当にそれで大丈夫ですか?」と思わざるを得
ことになるのですが、
色々な経験をすると「本
者は地域の助け合いでお願いします、という
先ほどお話したように、これからは要支援
大変だと思います。
か? 私は仕事柄、全国津々浦々回っており
ま す が、 例 え ば 東 京。 特 に 山 手 線 の 内 側 は、
るなんていう助け合いがご近所にあります
ません。でも続けて毎日お食事のお世話をす
預かってあげるなんていうのはあるかも知れ
ないでしょうか。ちょっとお隣のお子さんを
何処に要支援者がいるかも分からないのでは
一律誰でも公平に受けられるサービスでない
ビスをするわけにはいかないからです。全国
サービスを提供するのだからいい加減なサー
行って料理を作ったりお掃除をして差し上げ
が必ずいらっしゃいます。その方々のお宅に
みて頂きたいのです。そこには要支援者の方
ここで皆様、ご自身の地域を思い浮かべて
のことですね。障害者の方々も、閉じ込めて
け合って支えましょうということです。当然
の力で支えましょう」と唱われています。助
法に代わりまして、その法律に「地域の共助
昨年、障害者自立支援法が障害者総合支援
障害者への地域支援
プロです。専門家です。それは政府の責任で
と困るわけです。
おくのではなくてその能力を発揮して、地域
こ と で す。 認 知 症 に つ い て も、「 認 知 症 オ レ
たり、そのような助け合いを皆様、実際に出
皆様方の地域ではそこまで助け合いができ
ンジプラン」というものができて、その中で
で楽しく人間らしく生きていく。当たり前の
る 環 境 に な っ て い る で し ょ う か。 だ い た い、
来ますか?
地方の時代
それが「地方の時代」に移っていくという
ことはプロではないアマチュア、つまり我々
56
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
地域毎に支援拠点を作って地域で暮らせるよ
うにしようという内容が盛り込まれました。
しかしながら、では地域で支え合うって具
体的にどうするのか? という課題が残るこ
とについては先程から再三述べたとおりです。
くして亡くしてしまうことも多かったわけで
いこなして素晴らしいのですが、人とうまく
今の若者は非常に頭が良いし、パソコンも使
見て色々な問題を感じておられるとおりです。
疑問があります。これはもう、皆様方後輩を
支え合う力が養われていくのだろうかという
自 立 す る 力、 自 助 の 力 と そ れ か ら 共 助 の 力、
せん。でも、果たしてこの関係だけで人間の
うことになります。これは今も昔も変わりま
者、責任者はまず親、それと学校や施設とい
次に子供の問題があります。子育ての当事
ま っ た の で す。 非 常 に 大 き な マ イ ナ ス で す。
という素晴らしい教育システムが失われてし
また助け合って生きる力を自然に身に付ける
ち が 一 緒 に 育 つ こ と に よ っ て お 互 い 競 争 し、
用が教育面で現れてきました。数多い子供た
目指して今日まできたわけですが、その副作
状況は、人類の大進歩であり、社会はそれを
子供が皆病気で亡くならず大きくなるという
ことで、少子化が始まり現在に至っています。
も2人位産んで大事にすれば必ず育つという
てきました。そうであれば、沢山産まなくて
すが、時代と共にそういったことが無くなっ
やれない若者が増えてきています。これは当
そ う い う 環 境 が 失 わ れ て し ま っ た の だ か ら、
子供の問題
然の結果なのです。昔は大家族で多兄弟姉妹
代わりにご近所の子供たちが幼い頃から一緒
が自助の力の基本です。それから、親や先生
他を押し退けてでも食べ物を確保する。これ
物まで他の兄弟に全部持っていかれますから、
いるのです。当時はボヤボヤしていると食べ
代になるに連れ、人間関係で悩む人が増えて
そんな時代から平均1・3人しか産まない時
ます。しかしながらそういう環境を全く造ら
れば少子化のマイナス面を補えたのだと思い
磨し、自助、共助の力を自然と養える場を作
も口出しせずに子供たちだけでお互い切磋琢
したりする場を提供すべきでした。大人が何
自分たちで皆が楽しめる面白い遊びを作り出
は小さい子の面倒を見、喧嘩の仲裁をしたり
に集まって、同じ場所で、お兄さんお姉さん
でした。私も5人兄弟で育ちました。明治生
人 作 る の が 普 通 で し た。
が何もしなくても子供同士で自然に育つ環境
ず、家庭中心、家庭の中だけの子育てをして
まれまでは子供を
がありました。赤ちゃんや幼児はお兄さんや
きたわけです。
その結果、自分で稼ぎ、家を建て、自分の
失われた共助の精神
お姉さんが躾をして育てるのが当たり前でし
たから自然と共助、すなわち大人に頼らずと
も 助 け 合 う 精 神 が 育 ま れ て い っ た わ け で す。
昔は多産多死で、子供を授かっても病気で幼
57
10
特別講演会「超高齢化社会と我々の生き方」
行政は地域の助け合いを当てにするのでしょ
た さ は 同 じ で す。 そ ん な 時 代 な の に 何 故 今、
は残っていますが基本的にどこへ行っても冷
いは壊れてしまいました。地方に行けば多少
しまっています。だからご近所同士の助け合
とも共助の精神は育くまれない環境になって
が悪いというわけではありませんが、少なく
金中心の考え方が蔓延しています。その全て
ないように頑張って稼いでいく、といったお
たちで何とかすればいいんだ、私はそうなら
付き合いなんて煩わしい。社会的弱者は自分
幸せになればいいのだという考えです。近所
観が普通になってきました。自分の家族だけ
力だけで家庭を築き暮らしていくという価値
軍であるのです。これも他の問題と同様、実
殆どの方は生活保護者又は生活困窮者の予備
で す が、 そ う い っ た 方 は ご く 少 数 で し ょ う。
生困らないだけの遺産が残されていればいい
ども、いずれ親が先立つことになります。一
ありません。そういった方々が今は良いけれ
明ですが確実に増加傾向にあることは間違い
い若者が大勢います。どのくらいの数かは不
に馴染めず、又いじめ等で今仕事をしていな
になっている方々や、社会に出たけれど環境
絡むのですが、現在色々な理由で引きこもり
いかということです。先ほどの子育ての話と
増大する生活保護費をセーブできるのではな
すなわち、この層の支援をすることによって
ま れ て い る 予 算 か ら 捻 出 す る ら し い の で す。
難しい問題です。そもそも、好き好んで引き
際にどうやって支援するのかといえば非常に
うか。理解に苦しみます。
生活困窮者の問題
金大国で新しい制度というのは中々作り難い
を作りました。ご存知のように日本は今や借
で行政が「生活困窮者支援制度」というもの
方々を救おう、手を差し伸べようということ
護 に 陥 る 前 の 段 階 の 方 々 を 指 し ま す。 そ の
律が出来て生まれた言葉です。それは生活保
題です。生活困窮者というのは昨年暮れに法
もう一つお話します。それは生活困窮者の問
2年後に施行されます。それに向けて様々な
し か し、 そ う い う 制 度 を 国 は 作 っ た の で す。
い の で す か ら、 非 常 に 解 決 困 難 な 問 題 で す。
て、民生委員がいったって部屋から出てこな
てきてもらって支援するのか。親がいったっ
です。その人々を具体的にどのように外に出
人と関われない状況に陥ってしまっているの
ずです。それが様々な理由で外に出られない、
ら毎日外へ出て世の中で楽しく過ごしたいは
分かっています。
そこは地域にお願いします」
来ないよ」と言いました。行政側は「それは
ことですが、私は「そもそも相談なんてしに
た。先ずはカウンセラーを養成しようという
初の全国大会が西宮であって私も出席しまし
く出来ていません。先日、この制度に関する
引きこもりの方々を引き出せていません。全
こもっている人なんていません。人間ですか
環境であるのに、この制度の財源は一体どこ
活動が行われていますが、残念ながら今現在
先 ほ ど 子 供 た ち の 問 題 を お 話 し ま し た が、
から来るのかといえば、生活保護費として組
58
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
といった対応です。
何も若者だけではないのです。引きこもり
のお年寄りも問題になっていますね。独居老
元気で過ごしていただきたい。
域で何かひとつ関わっていただいて、益々お
一期となるのです。
ても、もう一期やりたかった。もう一期もう
生 き が い と な る の は 唯 一、
「私がやってあ
にバスに乗ると、そこにいるのは元気なお年
今、地域をまわっていると、例えばお昼間
か?
といって本当にそれで解決するのでしょう
とになっていますが、いくら予算が無いから
した。全て「地域にお願いします」というこ
しょうか?
地 域 に お 願 い し た と こ ろ で、 ど う す る の で
ている方をどうやって引き出すのでしょう?
び、それが生きがいであり生きる活力となる
たね、と言われ周りから認められたという喜
しいのですね。誰々さんは写真の腕が上がっ
皆で一緒に共通の趣味である山へ登るから楽
の は 良 く で き た ね、 な ん て や る か ら 楽 し い。
しょう。皆でやって、俺のはどうだ、あなた
とんぼ作って外で飛ばしてもつまらないで
それは皆でやっているからです。一人で竹
のでしょう? この会の活動がこんなにも楽
しいのはどうしてでしょう。
でいらっしゃる。でも、何故こんなに楽しい
で、趣味等の世界でお互い生き生きと楽しん
皆様は日本産業退職者協会という活動の中
が言えるかって? 私自身がやっているから
です。地域活動、ボランティアをする前は夫
とができます。保証します。何故そんなこと
そしてもう一つ。良い夫婦仲を創り出すこ
り出し、徐々に解決策が見えてくるでしょう。
誘い込みやって行く。それが自分の元気を創
では、具体的にどうやるの? 難しい話だ
けれど、まず足元から、自分の地域で仲間を
方こそ素晴らしいものです。
人を当てにするのではなく当てにされる生き
れる。これが一番幸せを感じられることです。
げたらあのお婆ちゃん、
凄く喜んでくれた!」
寄りの方々です。今度お寺巡りをするの、今
のです。生きている意味が実感できる。そし
婦の会話なんてありませんでした。たまに子
楽しいは生きがい
度何処どこへ旅行に行くの、今度お友達で集
て自然に「ありがとう」という言葉が出てく
育てのことで文句を言う位でした。でも今は
人。若者にしろ、お年寄りにしろ、引きこもっ
まってカラオケに行くの…。皆楽しそうに話
る。この「ありがとう」が助け合いの世界な
お互いにこんな事があった、あんな事があっ
今の若々しいシニアは、見守るのも得意なは
寄りといえば、見守られる存在でした。でも
稼いだわけでもないので不幸になるだけです。
ん。沢山子供に残しても、その子供は自分で
お金を貯めることは生きがいにはなりませ
終わりに
ずです。長く生きた経験がありますから。気
地位や名誉も生きがいとはいいません。これ
本日はご清聴誠にありがとうございました。
元気なお年寄りに期待する
これです。人の役に立って喜ばれて、認めら
しあっています。そうなのです。地域の活力
のです。
ここまで色々な問題についてお話してきま
は今、元気なお年寄りの方々です。昔はお年
が長い、優しい、人のいたみが分かるのが年
も キ リ が な い。 だ い た い 皆、
「俺はもう少し
(抄録 山田雅彦)
す。皆でやりましょう!
お互い幸せを創り出していければと思いま
人生最後で大事なことだと思います。
たよと話しながら暮らしております。これも
長者の特徴です。その経験をもって、地域の
出世できた」なんて思っているものです。大
統領だって満足していません。途中で退陣し
子供、障害者、痴呆老人、引きこもりの方々
を見守っていただきたいのです。ご自身の地
59
アンケートから見る協会活動の在り方
周年を迎えて
江戸東京歴史散歩の会、自然を楽しむ会などのア
行ったアンケートに比し、より多くの積極的なご
であり、それは「人との交流を通じて視野を広め
のが「イベント活動を通じて生きがいを感じたい」
入 会 時 に 期 待 し た こ と の 中 で、 最 も 多 か っ た
ま た、 娯 楽・ 教 養・ 文 化 活 動 の 分 野 で は、 サ
等が求められていることが分ります。
の目的として、健康維持・親睦・知識向上(学習)
になって楽しさが深まる」などであり、イベント
60
創立
たケースも見られました。こうしたコメントに対
ウトドア行事でした。参加者のコメントを集めて
編集部・社会貢献活動委員会
しては今後一層工夫して入会者が増えるようにし
周 年 を 迎 え た 当 協 会 で は、 今 後 一 層 の
飛躍を遂げるために会員の皆様から広く意見を伺
無理がない」、「事前に資料などが整備され手作り
みますと、「ガイド付きで勉強になる」、「行程に
いたしました。
意見・ご提言を頂き、また、実名を記載した責任
たい」からであるとしています。また、高齢者の
ロンコンサートが一番多く、次いで観劇会、囲碁
の会である」、「元気になれる」、「互いに顔なじみ
あるコメントが多数寄せられました。これからの
生きがいを追求する当協会の趣旨に共感して入会
会と続きます。サロンコンサートについてはこれ
会員600名からの回答数は137でほぼ
協会活動に大いに取り入れて参りたいと考えてお
した方も約3割に達しています。個人会員増加対
までの松本楼での開催を懐かしむ声も寄せられま
周年にあたって
ります。なお、項目別の回答数字については、別
策を進める上でこうした期待に応えられる活動を
%の回答率でしたが、さきに
頁)にとりまとめましたのでご参照くださ
表(
ご配慮で割引価格による鑑賞が可能となっており
参加頂いております。観劇会は主催者側の特別な
しとなりました。これまでと同じく多くの会員に
予算の範囲内で開催可能な現在の原宿会場での催
来 る こ と 」 と い う イ ベ ン ト 活 動 の 趣 旨 に 沿 っ て、
したが、「出来るだけ安い参加費で気軽に参加出
❸ イベント活動には多数参加
イベント活動に参加しているとの回答は
%以上の多数を占めており、協会活動の中心
になっていることが分ります。
と
名
より充実していく必要があります。
い。
アンケートのまとめ
❶ 入会の動機は先輩・知人の薦め
いイベントであり、同好の士の交流の場として親
ます。囲碁会は協会創立間もない頃からの最も古
奈川会・埼玉会・西東京会・京葉会を含む)を列
しまれて参りました。
イベント(神
方が先輩・友人に勧められて入会したと回答され
挙してどのイベントに参加しているか(複数回答
アンケートでは、現在活動中の
ています。「イベントに参加して」
とか
「ボランティ
こ の よ う に、 イ ベ ン ト 活 動 は 協 会 と 会 員 と を
可 ) を た ず ね た と こ ろ、 多 か っ た の は 鎌 倉 探 訪、
入 会 の 動 機 を お 尋 ね し た と こ ろ、 ほ と ん ど の
87
アの機会を求めて」と言った具体的な動機をあげ
26
60
25
❷ 入会時、期待したのは人との交流
て参りたいと考えております。
創立
「アンケートから見る協会活動の在り方」
30
い、将来目標を検討するためにアンケートを実施
30
65
20
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
結ぶ出会いの場として機能し、そこから生まれる
人的交流や共感から多彩な社会貢献活動へとつな
れます。
活 動 に 対 す る 関 心 は 高 く、 回 答 者 の 4 分 の 3 の
方 々 が す で に 多 彩 な 活 動 に 参 加 し て お ら れ る か、
たイベント活動が協会の将来発展を支える原点で
誘をして頂いている一方で、3割の方にはご協力
回 答 者 の ほ ぼ 7 割 の 方 が、 知 人 な ど に 入 会 勧
運営スタッフ、さらに地区の防災・防犯・交通安
者・障害者を対象としたもの、次いで各種活動の
れている活動内容をみますと、最も多いのが高齢
今後参加する意向を持っています。すでに参加さ
あると言えます。会員の皆様から多くのご意見・
頂いていないことが分りました。個人会員数は一
全など安全なまちづくり活動、自然環境保護活動
❹ 会員紹介について
ご提言を頂きましたので、その中からいくつかを
進一退で大幅な増加には結びついていません。折
がっているのが現状です。その意味で一層充実し
選んでご紹介したいと思います。
また、そうしたくなるような協会にすることが重
い活動としては、上記の他、美術・文化活動や国
教室などと挙げていただきました。今後参加した
に 触 れ て 地 道 に P R し て い た だ く こ と が 大 切 で、 (植栽活動など)、女性の方からは、茶道、着付け
て貰いたい。運動を主体としたジョギングや
要です。会員増強に関して寄せられたご意見・ご
ⅰ人気のアウトドア・イベントをもっと拡充し
ウオーキングとか、フィットネスの会なども
望も寄せられています。
リンピック開催に関するお手伝いをしたいとの希
際交流・国際協力活動、特に2020年の東京オ
歳代前半世
提言をご紹介します。
ⅰ現会員の高齢化が進んでいる。
作って欲しい
ⅱこれまでの名所旧跡めぐり、美術館見学など
代の加入促進を図るべきである。また、女性
分野で役立つキャリアをお持ちの方が多く、新た
に加えて、工場やインフラ設備など社会見学
ⅱ法人会員対策も進めてほしい。先輩会員の後
な活動として日本古来の伝統芸能や文化を伝える
学 術・ 教 養 の ジ ャ ン ル で は 文 学、 歴 史、 環 境
ⅲ現在のイベントは都内ないし近郊の日帰り日
輩への呼びかけや、加入法人増加に結び付く
運 動 を は じ め て は ど う か と の 提 案 が あ り ま し た。
会員参加の努力もお願いしたい
程となっているが、これを1泊旅行にして関
ような魅力ある協力体制を強化するとか。ま
を多く加えていただきたい
東一円に対象を拡げても良いのではないか
趣味では楽器演奏、写真、川柳など、スポーツで
ⅳ入会して貰っても、すぐやめてしまう。新規
私 た ち の 協 会 は、 公 益 社 団 法 人 と し て 不 特 定
★「チャリティ・コンサート」(年1回施設の方々
会年1回開催)
★「はつらつふれあいの集い」(個人会員親睦
協会の恒例的な行事としては、
❻ 協会主要行事について
ぜひご協力をお願い申し上げます。
の情報は今後の協会活動に役立てたく、その節は
をお持ちの方など多岐にわたっています。これら
祉関連では、介護資格、病院関連サービスの経験
はヨガ、健康体操、卓球ほかとなっています。福
た、大企業だけでなく中小企業の法人会員を
ⅲ協会創立当初に見られたように、著名人に協
増やす努力も必要
お寄せいただいたご意見については今後検討
し、必要と思われるものについては実現を図って
行きたいと思います。
た方に対し、その理由を尋ねたところ「地元での
参加だけでなく、退会者対策も考えるべきで
力者になっていただく
行事やボランティア活動で忙しく参加する暇がな
はないか
ま た、 イ ベ ン ト 活 動 に 参 加 し て い な い と 答 え
い」
、
「一度出席したが、あまり面白くなかったの
で次回欠席したらそのまま行かなくなってしまっ
で固まっていて、新しい参加者に対する配慮が足
多数のものの利益増進に寄与することが求められ
❺ ボランティア活動について
りない」などの声もありました。活気ある活動に
ています。アンケート結果によるとボランティア
た」などとなっています。また、
「既存グループ
するために会の運営にさらなる工夫が必要と思わ
61
60
アンケートから見る協会活動の在り方
をご招待して共に楽しみを分かち合う)
★「ふれあいトークサロン」
(講師をお招きし
て年4回開催)
❼ 生活情報の提供について
生 活 情 報 委 員 会 で は、 こ れ ま で 講 演 会 や「 シ
・7%が独居老人となっています。社会の高齢
化が進む中で、都市の再編成が叫ばれ、高齢者の
見まもりについて地域包括ケアが打ち出されてい
視する流れの中で、当協会でも現在地域会として、
ます。このような地域コミュニティの大切さを重
ニアライフ かわら版」を通じて税制、成年後見
制度、介護保険制度など幅広い分野にわたって生
があり、いずれも個人会員の皆様向けに交流・
親睦の場を提供しております。上記のいずれかに
神 奈 川 会、 埼 玉 会、 西 東 京 会 及 び 京 葉 会 を 作 り、
地域に密着した活動を展開しています。
活情報を提供して参りました。
こうした情報提供が参考になったかどうかを
参 加 し た こ と が あ る と さ れ た 方 は 過 半 数 を 超 え、
参加したことがないと回答された方(1割強)を
た。また、今後どのような情報を要望されるかに
とされ、関心を寄せていただいたことが分りまし
参加したことがあるかどうかについては、
とんどの人がご存知でした。次に地域会の行事に
ることを知っているかどうかを尋ねたところ、ほ
地域会について先ずこれ等4つの地域会があ
ⅰとても満足している。テレビ出演されている
ついてお尋ねしたところ、健康問題(認知症、終
方が参加したことがあるとの回答で、参加したこ
%の方が参考になった
歌手の方が、チャリティ・コンサートに出て
末医療を含む)が一番多く、ついで老人ホーム等
とがない方の
お聞きしたところ、ほぼ
こられたので嬉しくなった
(高齢者賃貸住宅など)、相続・遺言・税金問題と
があると答えた方にどのような活動かをお聞きし
上回っています。恒例行事の満足度や改善点をお
ⅱトークサロンに参加しているが、もう少し講
続きました。この他に今後欲しい情報として、経
たところ、アウトドア・イベント(観光地・史跡
%を上回りました。参加したこと
位 の 意 向 に 沿 っ て「 生 活 情 報 委 員 会 」 と 改 称 し、
ものを、前回のアンケート調査で示された会員各
「相談委員会」の名の下で限定的に行われていた
以 上 見 て き た 情 報 提 供 活 動 は、 過 去 に お い て
民として親しみが持てる」、などをその理由に挙
の方も「地元なので参加しやすい」、「同じ地域住
ボトルキャップ収集など)と続きました。いずれ
など)、ボランティア活動(バザー支援、ペット
フ、カラオケなど)、学習活動(講演会・セミナー
聞きしたところ、
演者との質疑応答時間を長く取ってほしい
済問題、人口減問題、生き甲斐論や生涯学習の手
散策など)が過半数を超え、サークル活動(ゴル
%の
といった声がある一方で、
引きといった要望が寄せられました。
その活動を発展させて来た経緯にあります。今後
策を考えるべき
ⅳ親睦会に参加した新入会員をつなぎ留める方
い
ⅴ行事開催についてもっと積極的にPRすべき
今 後、 地 域 会 に 望 む 活 動 に つ い て お 聞 き し た
げておられます。
など改善を促す意見も出されました。
私 た ち の 住 ん で い る 大 都 市 圏 は、 戦 後 の 経 済
い手の時間貯蓄・点数預託制を採用したグループ
齢者に対するボランティア活動のなかで、介護担
ところ、自治体や町内会と連携して地域在住の高
に積極的に取り組んでおられる向きもありますの
発展の過程で、経済効率を重視して出来上がった
を 作 っ て は ど う か と か、 働 く 女 性 へ の 支 援 活 動、
一 方、 不 参 加 の 方 の 中 に は ボ ラ ン テ ィ ア 活 動
で、行事自身をもっと魅力的にして行きたいと考
ものであり、生活者の立場から見ると課題山積で
多くの提案を頂きました。
えています。
・2%となり、また東京で高齢者世帯の
障害児支援、貧困者対策、街づくりへの協力など
❽ 地域会について
ますます内容を充実させていくつもりです。
所が遠い、車椅子が入れないので参加できな
57
ⅵ曜日が合わない、興味を引く行事がない
40
62
38
ⅲ仲間がいないので参加しにくい、また開催場
80
す。厚生労働省の発表によると、老老介護世帯は
すでに
51
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
地域会の今後の在り方についてコメントを求
めたところ、イベントは地域開催を中心として本
るべくHPに置き換えていくこと
の徹底を図ること。紙ベースの資料提供をな
やすいものが良いのではないかというものです。
者元気活動会」(K・G・K)などで短く親しみ
る こ と が 必 要 で あ り、 専 門 の 担 当 者 を 置 く。
「日退協」という略称では「日体協」(日本体育協
えるべきであるとの提案もなされました。それは
また多くの方々からむしろ現在の協会名を変
内での会員連絡網の整備を一層進めてほしいとの
また、リンクを増やして福利厚生面での情報
会)と混同される、また、「退職者」の文字だけ
ⅵHP閲覧者数を増やすためには内容充実を図
声も聞かれました。また、地域ごとに訪問したい
拡大を図る。掲載情報については一定期間経
で忌避されるケースもあるし、今日の社会通念で
部開催のものとの再編が必要とする意見や地域会
名所旧跡等も具体的に出されておりますので今後
過したものは削除する
方にもそぐわないといったことが背景にあるもの
ある「元気なうちは出来るだけ働く」という考え
のイベントに反映されて行くものと考えておりま
す。
就業支援活動
協会名の変更には定款変更の手続きが必要で
と思われます。
についてお尋ねしたところ、個別・具体の例とし
時間と経費がかかりますが、お寄せ頂いたいくつ
新規就労に役立つ技能・資格ないしキャリアー
広報誌「マチュリティ」
、「マチュリティ・ニュー
て、交通事故・法律相談、予防歯科学の指導、上
かの案を列記しますと、「日本シニア産業人協会」
❾ 広報など
ス」について、読んでいる、あるいは拾い読みし
級救命指導資格、美術教師資格、中小企業診断士、
(
%を超えています。
介護ヘルパー2級資格、東京都衛生管理士、建設
ていると答えた方はそれぞれ
また、ホームページ、マチュリティ特別号につい
用塗料・塗装工事経験、日本写真財団会員などが
てはそれぞれ
共感活動支援者協会」、「日本産業OB会」等々で
JAPAN ASSOCIATION OF SENIOR
%程度となっています。特別号掲
= JASIP
)、
「日本マチュ
INDUSTRIAL PERSONS
リティ協会=JMA」、「高齢者元気協会」、「人生
挙げられました。
就 業 支 援 活 動 の 一 環 と し て、 中 堅・ 中 小 企 業
した。一方、名称は慣れ親しんだ今のままでよい、
協会では東京ガスの関連会社である高齢社と
対象のM&Aビジネスを協会事業として取り上げ
ⅰマチュリティ誌の発行回数を増やしてほしい
連携し、今後会員の就職支援を実行して行くなど
東京大学で行われている「市民後見養成講座」に
それよりも事業の柱を内外に明確に示すことが必
ⅱ記事は堅苦しいものが多く、目新しい内容の
努力しておりますので、希望者は各自の保有資格、
参加し、それをもとに協会で市民後見業務を始め
てはどうかとの意見もありました。
ものが少ない。版の大きさや、横組みにする
キャリアなどにつき、予め届け出ておくことをお
協 会 の 愛 称 に つ い て ア イ デ ア を 募 っ た と こ ろ、
沢山の回答を頂きました。「佑遊会」、「いきいき
シニア会」、「アクティブ・シニアクラブ」、「高齢
ております。
意見であり、今後の参考にしてまいりたいと考え
はとの意見も寄せられました。いずれも貴重なご
した上で、何らかの形で人材派遣業務に進出して
動については、会員の専門資格やキャリアを登録
新 た な ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 提 案 と し て は、 現 在
要との意見もありました。
など読み易い体裁にして欲しい
てはどうかとのご提案がありました。就業支援活
ⅲマチュリティ誌全体をホームページに入れ、希
望者にはメール送信を始めたら良い
ⅳマチュリティ・ニュースはバラ記事を並べる
だけでなく,冊子に綴じて目次をつけては如
何
協会の愛称について
勧めします。
とおりです。
広報活動について寄せられた主な意見は次の
ています。
載の懸賞や特典利用されている方は少数に留まっ
90
ⅴホームページについては、コンプライアンス
63
40
アンケートから見る協会活動の在り方
え る で し ょ う。 こ の よ う な 実 績 を 踏 ま え た 上 で、
活動それにオリンピックへの協力なども挙げられ
寄せられた意見の中には、国際関係、美術・文化
今 回 の ア ン ケ ー ト の 中 で、 最 も 指 摘 が 多 か っ
悩んでいます。今後も口コミによる地道な努力を
どに勧誘をしていただいているのに会員数は伸び
した。アンケート回答者のほぼ七割の方が知人な
介者を通じて対応を考えることなどが挙げられま
スリーピング会員の方々については、入会時の紹
地域中小企業のシニア人材確保・定着支援事業を
会では、最近「高齢社」を通じた就職あっせんや
躍できることが社会的に要請されています。当協
ジにおいても、社会の担い手として生き生きと活
いと思います。いま、高齢者が人生の第二ステー
最 後 に、 就 業 支 援 活 動 に つ い て 触 れ て お き た
就業支援活動
けて行きたいと考えております。
れらの情報を有益に活用して活動の強化に結び付
や経験者であることの報告も受けております。こ
ました。また、会員各位からは多彩な資格保有者
今後の重要課題について触れてみたいと思います。
以 上 の ア ン ケ ー ト 結 果 か ら、 今 後 の 活 動 方 針
たのは会員の増強です。会員の高齢化と負担の集
周年後の活動活性化について
を考えるために、これまでの成果を振り返るとと
中が進んでおり、若返りを図ること、女性会員を
会員の増強
もに、残された課題や新たな取り組み課題を項目
増 や す こ と、 新 入 会 員 へ の 対 応 を 十 分 取 る こ と、
ました。その中に「地元・地域での活動をもっと
続ける一方で、やはり魅力のある協会にするため
進める中小企業庁の受託を受けた株式会社クオリ
これま で の 成 果
充 実 す べ き 」 と の 声 が 寄 せ ら れ た こ と を 受 け て、
にはどうすればよいのか、イベントをはじめ、情
ティ・オブ・ライフ社への登録を通して、シニア
)
埼玉会、西東京会、京葉会が相次いで誕生し、現
報提供活動やIT活用を含めた広報の強化など総
人材のフォローに協力する体制を準備しておりま
月に行われ、会員から多くの意見が寄せられ
前 回 の ア ン ケ ー ト 調 査 は 2 0 0 8( 平 成
在では神奈川会を含めて地域会を中心とした会員
合的な施策を考えていかなければならないと思わ
の活性化に大きな役割を果たしております。
回近く継続開催しています。最
回答者の
%の方が何らかのボランティア活
動をしているか、その意向があるとしておられま
が、今後の課題として積極的に取り組んで行きた
いと存じます。
広島支部では発足以来の歴史を持っているのに比
先 に 見 た よ う に、 協 会 の ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 は
く所存です。会員の皆様の変わらぬご支援とご鞭
でこれからも出来得る限りの努力を積み重ねて行
私 達 は、 人 的 な 制 約 や 財 政 的 な 限 界 が あ る 中
最後に
む声も強かったため、健康問題、老人ホーム情報、
し、本部においては、本格作動はここ数年来のこ
す。
多岐にわたっております。未だ実績はありません
す。アンケートでお願いした技能・資格保有者は
次 に、 ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 に つ い て は 会 員 の 関
)年6月には世田谷区において、
心が極めて高いことが分りました。これを受けて、
2010(平成
が発足し、爾後
近では世代間交流を図る「杉並サロン」が誕生し
相続・遺言・税制など幅広い分野にわたって、講
撻をお願い申し上げます。
に こ れ 迄 以 上 に 取 り 組 ん で 行 く 必 要 が あ り ま す。
とでもあり、高齢者相互の自立と支え合いのため
とであります。公益社団法人に生まれ変わったこ
)年に発行したエンディング・
22
ノート「わたしの大切な覚書き」もその一環と言
2010(平成
演 会 の 開 催 や 資 料 提 供 を 行 っ て 来 ま し た。
ました。また、老後の生活に必要な情報提供を望
ボランティア活動
れます。
20
認知症予防活動を目的とする「きたざわサロン」
22
50
75
年
別に整理してみました。
30
10
64
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
[別表]日本産業退職者協会30周年アンケート(2014年6月実施)
(単位:人数)
1.アンケート回答率
発送者
610
回答者
137
内記名者
84
回答率
22. 5
2.項目別明細
Ⅰ 個人会員入会動機・活動について
問1 入会動機(複数回答可)
先輩・友人に勧められて
協会のホームページを見て
イベントに参加して
その他 合計
問2 入会時に期待したこと(複数回答可)
51
54
34
5
144
問3 イベント活動について
参加している
参加していない
無回答
87
24
26
137
合計
問3-1 参加していると答えた方の参加イベント(複数回答可)
江戸東京歴史散歩の会
鎌倉探訪
ゴルフ同好会
自然を楽しむ会
囲碁会
MCC 園芸クラブ
カメラ同好会
観劇会
木楽会
サロンコンサート
四季の会
詩吟同好会
33
42
20
24
14
2
9
5
18
2
32
12
5
水墨画教室
竹とんぼ同好会
築地海鮮丼川柳会
デジカメ会
読書クラブ
パソコンクラブ
木版画教室
歴史を考える会
神奈川会
埼玉会
西東京会
京葉会
カラオケ同好会
合計
2
13
1
2
4
4
1
12
33
27
18
16
9
360
問4 会員紹介について
①平素から知人などに御願いしている
②紹介依頼の案内がある時には紹介している
③紹介したことはない
56
25
35
Ⅱ ボランティア活動について
問1 あなたはどの程度ボランティア活動に興味がありますか
①非常にある
②ある
③ない
17
84
24
問2−①及び問2−② 問1で①および②に〇印をつけた方に
現在活動中の内容、および今後活動したい内容についてお尋
ねします(複数回答可)
活動内容
高齢者・障害者対象
子供・青少年対象
災害支援
自然・環境保全
芸術・文化
安心・安全街づくり
65
現在活動中
13
5
2
8
7
9
16
7
1
68
5
8
1
51
Ⅲ 協会主要行事について
137
1
3
8
149
人との交流を通じて視野を広めたい
イベント活動を通じていきがいを感じたい
高齢者の生きがいを追及する協会の趣旨に共感して
その他
合計
各種イベントの運営スタッフ
国際交流・国際協力活動
その他
合計
今後希望
10
2
2
10
5
8
ⅰ参加している
内訳(個人親睦会)
(フリーサロン)
(チャリティ・コンサート)
(3行事全て)
ⅱ参加していない
68
37
39
46
43
Ⅳ 生活情報の提供について
問1 情報提供の内容について
ⅰ参考になった
ⅱ参考にならなかった
ⅲ出席しなかったが情報提供して欲しい
ⅳその他
合計
67
10
40
8
125
問2 今後の講演会などで希望する題目(複数回答可)
ⅰ相続・遺言・税金
ⅱ老人ホームなど(高齢者賃貸住宅など)
ⅲシェアハウス・世代間交流など
ⅳ成年後見制度
ⅴ健康問題(認知症・終末医療)
ⅵ婚活問題
ⅶその他
合計
39
51
15
14
78
10
4
211
ⅴ 地域会について
問1、問2及び問3 地域会があることを知っているか、参加
したことがあるか。あればどのような活動に参加したか
ⅰ地域会の存在を知っているか
ⅱ地域会への参加の有無
ⅲ参加したことのある活動内容
アウトドア
サークル活動(ゴルフなど)
学習活動(講演会など)
ボランティア(バザー支援など)
その他
合計
〇 117 ×
〇 78 ×
15
55
73
41
30
26
7
177
Ⅵ 広報など
問1「マチュリティ」
問2「マチュリティ・ニュース」
問3「ホームページ」それぞれについて読んでいるかどうか
マチュリティ
マチュリティ・ニュース
ホームページ
読んで
いる 75
78
14
拾い読み
している
54
47
39
マチュリティ特別号
読んで
いる 57
読んで
いない
56
広報ツール
読んで
いない
16
6
71
懸賞応募
7
Ⅶ ボランティア活動に役立つ専門技能・キャリア
学術教養
趣味・生活・文化
スポーツ・レクリエーション
11
7
6
福祉
地域関連・その他
3
1
〈第11回〉チャリティコンサート~家族への愛~
周年記念
10
創立 周年記念にふさわしく、華やかで癒
26
しと元気を会場一杯に齎した演奏会となりま
後 援:朝日新聞社/毎日新聞社/日本
経済新聞社/産業経済新聞社/
社会福祉法人 東京都社会福祉協
議 会・ 東 京 善 意 銀 行 / 学 校 法 人
メイ・ウシヤマ学園
特別協賛:公益財団法人 損保ジャパン記念
財団/東京海上日動火災保険株
式会社/株式会社みずほフィナ
ンシャルグループ/株式会社ミ
ツウロコグループホールディン
グス/ユニバース開発株式会社
れぞれに「マンマ」で元気をもらいましたな
会個人会員・友人等が212枚、
出演者のファ
チケットの販売総数は325枚。うち、協
した。休憩時間にすれ違った参加者から、そ
どと、曲名を上げ乍ら感想の声をかけていた
ンなど113枚。販売総数は昨年の120枚
因は、次の三点です。
の2・7倍に上りました。大幅増加の主な要
ご 招 待 は 当 初 目 標 の 3 0 0 名 様 を 達 成 で き、
一.合言葉として『チケット一枚を購入するこ
とで、福祉施設の方をお一人お招きし、共に
一助ともなりました。この公益社団法人とし
方々の社会参加を支援するという目的実現の
画意識を高めながらチケットの販売を推進す
の意義を再確認し合い、社会貢献活動への参
チャリティコンサート委員会でチャリティ
楽しみましょう』を標榜
ての使命を果たす上で、ご出演、チケット販
イ 神奈川・京葉・埼玉・西東京の4地域
会・四季の会(女性会員主軸)がリーダー
二.チケットの組織的販売活動の浸透
る方針を定め,合言葉を策定した。
感謝状を頂戴いたしました。
なお、東京善意銀行からは、別掲のとおり
た関係各位に心から感謝申し上げます。
売、会場設営、そして後援、特別協賛を賜っ
協会の個人会員のみならず、不特定多数の
の625名となりました。
ご招待者を含めた参加者総数は過去最大規模
チャリティの目的である福祉施設の方々の
だき、感動を共にすることしきりでした。
チャリティの意義を高めて
盛り上がる
開催:2014(平成 )年 月4日
会場:六本木・ハリウッドホール
「癒しと元気を分かち合う」
回〉チャリティコンサート~家族への愛~
30
30
66
公益社団法人日本産業退職者協会創立
〈第
11
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
シップを発揮。とりわけ、3人の女性理
した。赤塚さんという有力な協力者を得られ
成否が決まるということを再認識させられま
と……音楽には無限の可能性があって、夢
満足で帰ることができました。
事によるきめ細かな普及促進活動が効を
た こ と は、 当 協 会 に と っ て 誠 に 幸 運 で し た。
や希望を与えてくれる。
▪このチャリテイコンサートで教えられたこ
奏した。
赤塚さんを紹介して下さったRプラン企画委
(武蔵野音楽大学 伴奏研修員)
〈文化庁派遣留学で国際活動〉
(武蔵野音楽大学大学院在学中)
〈皇居・御前演奏会に出演〉
フルート◦ 谷藤万喜子
バリトン◦ 近野賢一
(東京芸術大学大学院修了) (名古屋音楽大学、岐阜大学 講師)
(二期会 会員)
〈BS 日テレ・日本のこころの歌に出演中〉 〈 音楽アドバイザー〉
〈ドイツ歌曲でリサイタル〉
(コーディネーター 有馬弘純)
(二期会 会員)
〈MK 合唱団専任講師〉
員の鶴丸泰久さんに感謝。
メゾソプラノ◦ 川口真貴子
ロ 出 演 者 に よ る 綿 密 な 協 力 を 得 ら れ た。
出演者各自のリサイタル等でのチラシ配
好評の一端をお礼状からご紹介
企画構成/ピアノ◦ 赤塚太郎
布、ファンへのDMが大きく寄与した。
三.人気度の高い出演者による、シニアの好む
曲目構成のコンサート
多 く の ご 好 評 を 色 々 な 形 で 頂 き ま し た が、
ここでは、お招きした福祉施設の方々からの
お礼状のごく一部をご紹介いたします。
イ テレビ(BS日テレ・毎週月曜夜)で
人気抜群のテノール歌手榛葉樹人さんを
はじめ昨年好評を博した同じメンバーに、
数 々 の 曲。 そ の 説 明 と て も 良 か っ た で す。
▪『家族への愛』というテーマにぴったりの
さんも加わった華やかな出演陣に期待が
矢張り馴染みのある曲はいいですね。知的
協会で馴染み深いフルートの谷藤万喜子
高まった。
トフレンド』は体を揺すって聞いていまし
障 害 の あ る 娘 も 音 楽 は 大 好 き で す。
『ベス
ロ ピアニストの赤塚太郎さんの企画・構
成による「家族への愛」のテーマに基づ
たし、
『ふるさと』は口ずさんでいました。
▪『童神』は今まで女性の方が歌った音源の
く選曲が巧みで、ほのぼのとした身近な
コンサートのイメージが伝わった。
しか聴いたことが無かった。男性テノール
歌手の榛葉さんが歌うことによって、生命
の息吹の力強さと自然の神秘さを発見する
ことができました。
▪近野さんの美空ひばりの『愛燦燦』
。バリ
トンの声がこの曲とすごく合って心に響き、
泣けてきました。
▪『千の風になって』と『ふるさと』は最後
にふさわしい曲。みんなで合唱ということ
で、私と仲間はガチで大きな声で歌い、大
67
ソプラノ◦ 芝沼美湖
テノール◦ 榛葉樹人
コンサートは、企画内容と出演者によって
東京善意銀行から頂いた感謝状
〈個人親睦会〉はつらつふれあいの集い
〈 個 人 親睦会〉
さて、堀田先生の記念講演会終了後、ご参
いします。和気藹
協会を宜敷くお願
「はつらつふれあいの集い」
朝夕の冷えがきつく感じられ、秋の深まり
加の皆様は場所を隣室へ移して「はつらつふ
パーティ用のビール提供
アサヒビール株式会社
景品の提供
神楽酒造株式会社/霧島酒造株式会社/坂元醸造
株式会社/株式会社小学館/損害保険ジャパン日
本興亜株式会社/宝酒造株式会社/丸大食品株式
会社/株式会社ミツウロコグループホールディン
グス/宮崎県東京事務所
日、恒例の当協会主催の
藹の会場。宴たけ
が身にしみる 月
れあいの集い」
(個人親睦会)へ。会として
なわ。余興はまだ
は第
4
4
4
4
兼ねています。
よるサキソフォン
の方々による日本
4
例年だしものは協会外部の方々の出演で行
演奏、ものまねと
当日は140名余が参加し、山鹿副会長の
舞踊、カラオケ同
4 4
う の を 常 と し て い ま す が、 本 日 の ア ト ラ ク
続き四季の会(女
会場ロビーの壁に現在活動中の同好会の額入
司会で会は始まりました。余興のトップバッ
好会メンバーの自
4
協会の主要行事の一つです。今回は協会設立
ションは協会会員が演目を取り仕切る、つま
りパネルが掲示され、来場の皆さまは興味深
ターは詩吟同好会の面々による音吐朗朗の詩
慢の喉の披露、最
だしもの
周年記念行事も兼ねて実施。当日は天も設
性主体の同好会)
げに、読んでいらっしゃいました。
吟と勇壮な剣舞の披露。昔なつかしい「川中
協会広島支部長の挨拶をはさんで榎本理事長
ろいの法被でス
メンバー全員がそ
(北島三郎の歌)
。
のご発声で一同乾盃。用意された料理、酒盃
テージに上がり合
4 4
をかたむけ、久闊を叙して談笑。会員増強対
唱。会場はぐんと盛り上りを見せる。くじび
4
策の一環として新入会員紹介を兼ねて皆さま
きに先立ち宮崎牛、宮崎米を御提供いただい
4
に宮崎米の贈呈。新入会員の皆様、今後とも
で は。 文 唱 堂 印 刷 株 式 会 社 様 の 祝 電 披 露 後、
後の歌は
「まつり」
周 年 を 言 祝 ぐ か の よ う な 好 天 気 で し た。
こと ほ
り自前で賄う催しとしました。
まだ続く。会員に
回ですが、前述したように記念行事も
「第 回 はつらつふれあいの集い」(個人親
睦会)が日暮里のホテル・ラングウッドで開
13
会員の年1回の交流の場として位置づけられ、
15
11
催されました。本催しは関東地区の主に個人
15
島」の歌は皆様に青春時代を思い出させたの
立
30
30
理事長乾盃の音頭
68
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
4
4
会員飛び入りの合唱で盛り上がる
4
新入会員壇上勢揃い
4
4
「カラオケ同好会」による“のど披露”
4
4
詩吟と剣舞
た宮崎県東京事務所長様のご挨拶を頂戴する。
皆様、お待ち兼ねのくじびきに。日本一の宮
崎 牛 の サ ー ロ イ ン を は じ め、 日 本 酒、 焼 酎、
りんご黒酢、デザートセット、美術館入場券、
国語辞典などなど多種多様の景品が準備され、
大多数の方々は何らかの物を手に満足して
(?) お 帰 り に な っ た と 思 い ま す。 こ の 紙 面
を借りまして、パーティ用のビール、すばら
し い 景 品 を ご 提 供 い た だ い た 企 業 様 に 対 し、
厚くお礼申し上げます。ありがとうございま
し た。 最 後 に 会 場 の 皆 様 全 員 で「 花 は 咲 く 」
と協会の歌を合唱し、手締め(一本締め)で
お開き。
会場の一劃で、当協会が社会貢献活動の一
環として推進している「きたざわサロン」
(認
知症予防活動)を支えている女性スタッフに
よる数々の手作り工芸品及び鎌倉にあるダウ
ン症児訓練施設(虹の子会、当協会は同施設
4
のバザーを支援しています)の子供たちが
作ったものの夫々の展示即売コーナーが設け
ら れ、 ご 来 場 の 皆 様 の 温 か い ご 支 援 を 頂 き、
両コーナーともほぼ完売することができまし
た。売上金は夫々の目的のために使わせて頂
きます。
4
今回は例年と異なり、余興は外部の力に頼
らない自前の催しであり、それだけにオラガ
会という意識を出席者一同が共有でき大変な
盛り上がりが見られた会でした。
69
「四季の会」によるおどり
サキソフォン演奏
ものまね
社会貢献活動紹介
ゼロから手探りでスタートしたきたざわサ
の葛藤が次の問題になりました。参加者は満
て何人来てくれるか分からないという不安と
で会場に現れます。そして皆さん笑顔で「あ
今、参加者は一生懸命おしゃれをして笑顔
70
ください」。頭でいろいろ考えすぎることは
無用で、
「特別なことをしている」を払拭し、
「お友達と一緒に過ごしている」への切り替
えが求められていたのです。そうしたらどう
の対話があふれ出したではないですか。私達
でしょう!参加者との垣根もなくなり、笑顔
スに、彼女が親しくしている民生委員や、地
少しずつ初参加者が出始めたことで、我々に
そして、第4回ごろから出席者の口コミで
にも余裕が芽生えてきました。
しんすこやかセンター」の協力で何とか解決
域住民の総合的な相談窓口である「北沢あん
社 会 貢 献 活 動 紹 介
きたざわサロン
出来ました。
ロンは今年6月で5年目を迎えましたが、北
足してくれているのだろうか。我々にどうし
りがとう」と挨拶して帰って行かれます。
もちょっぴり自信がつき、ひと山越えたと実
沢地区で長年民生委員として活躍されてきた
てほしいのか・・・。見守ってくれている民
初年度はすべて手探りで、ひたすら前に走
さて、最初の頃は当日始めるまで、はたし
加藤参与から「山鹿さん、世田谷区から、認
生委員の一言は目から鱗でした。
「皆さん笑
り、2年目は少し余裕が出来て、いろいろな
社会貢献活動委員長 山鹿素雄
知症予防の活動を手伝ってもらえないかと
顔が欲しいですね。気楽に話しかけてあげて
防」という使命の重要性を改めて実感し、4
目になると、サロンの目的である「認知症予
ことを考え実行する経験の蓄積が出来、3年
感できるようになりました。
言 っ て き た の で す が、 こ う い う 話 は ど う で
しょう」で始まりました。
日退協創立 周年アンケートで社会貢献活
動に積極的な会員が多いことが分かり、当協
年目は3年間を振返り、イベントなどの定例
タッフ全員がボランティア活動の喜びを感じ
クが出来たことと達成感の心地よさです。ス
ンを内蔵した自発的な素晴らしいチームワー
とが出来ました。スタッフ全員が自走エンジ
たお蔭で、私たちは二つの宝を手に入れるこ
周りの大勢の方たちに支えられここまでき
ま5年目を歩んでいるところです。
会が主体となって活動できる情報を集めよう
区で民生委員をやってきたという実績をベー
そして、この問題は加藤参与が長年この地
請に応えるかが最初の難関でした。
的な繋がりを持たない我々がどうしてこの要
の重要性はよくわかるものの、地域との具体
しかし、超高齢社会の日本で「認知症予防」
す。
化とスタッフの分担の明確化を図りつつ、い
駒沢公園にて
ということでこの情報が飛び込んできたので
25
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
楽に見に来てください。
共有できる仲間を常に求めていますので、気
ることに感謝しています。そして、この宝を
です。蓋はそれだけ集めると資源として再生
レンという別の化学剤でできている点が重要
本体の材質がPETなのに、蓋はポリプロピ
手間が省け、気が利いている。
日退協としても現金を寄付する方がずっと
Vに送金している。それだけの意味ならば、
境の保全にあり、キャップだけを回収する
②キャップ回収の本来の大きな意味は地球環
一緒に焼却するしかなく、大気中にCO2を
ことで、ボトル本体も蓋も共に、資源の再
で き る の に、 ボ ト ル 本 体 に 着 け た ま ま だ と、
新しいお友達を呼ばないようにお願いしま
放出するとともに、ペット本体の再生をも妨
利用とCO2放出防止に寄与する。
今、私たちは参加者に「残念ですが、当分
す」と言っています。会場の収容定員が限度
げるのです。
③リサイクル仲介組織はいろいろあり、それ
一杯で、替るべき会場も手当てできないから
です。この面での行政との折衝、それとスタッ
「キャップ回収運動は世界の子供にワクチ
という業者は、換金レートが他の業者の2
が、 日 退 協 が 選 ん だ「 キ ャ ッ プ の 貯 金 箱 」
ぞれ独自のやり方でキャップを集めている
ンを贈る美談になる」ということでこれを始
倍以上の高さの他、キャップにどうしても
◉運動を始める準備段階
が、皆の絆で乗り越えなければと思っていま
め た 企 業 や 学 校 が 話 題 に な っ て 来 ま し た。
多く混じって来る不純物の選別作業を障害
フの新陳代謝も目の前に迫っている難問です
す。
2007(平成 )年の暮れ頃だったと思い
キャップ回収運動
文責 山鹿素雄 店網俊夫 西納政光
◉キャップ回収運動を振り返る
はじめに
日退協が公益社団法人に認定されるために
会員から細かく回収し、纏めてリサイクル
味が薄いうえ、再生業者が安価にしか引取
④キャップは大量に集めないと社会貢献の意
者施設に有料で依頼しており、ここでも社
に出すのに要する労力と費用、それに対して
らないので、回収から仲介業者に引渡すま
ますが、日退協でもこの運動をやるかどうか
見込まれる社会貢献の度合い、それを対比し
で日退協としてなるべく費用をかけないや
会貢献が行われている。
て日退協の運動として遂行する価値があるか、
り方を工夫する必要がある。
の検討を始めました。
をかなり綿密に調べたわけです。
たが、その一つがキャップ回収であり、また
①世上、この運動の意味は最貧国の子供にワ
味を出せることが解りました。
し て 充 分 意 味 あ る も の と な る 見 通 し が 立 ち、
前述のような検討の結果、日退協の活動と
その結果、やり方によって思わぬ大きな意
別に使用済み切手回収もありました。どちら
クチンを贈ることにあると喧伝されている
2008(平成 )年春からキャップ回収運
必要だった社会貢献活動はいろいろありまし
も今日なお盛んに活動を続けています。本稿
が、ワクチンを贈る元締のJCVは現金を
◉運動スタートからの足取り
ではキャップ回収を中心に活動の足跡を振り
直接かかわらず、リサイクル仲介組織(ほ
受取るだけで、キャップのリサイクルには
キャップ回収運動のキャップとは、ペット
とんどNPO法人)がキャップ代金をJC
返ってみたいと思います。
ボトルの飲み口をふさぐ蓋のことで、ボトル
極力カネを掛けずに事務局に集まるように、
動がスタートしました。
20
参加者が家庭から屋内・野外のイベントに持
71
19
社会貢献活動紹介
〔環境保全効果〕
2013(平成 )年度は同協会に全国か
ら送られた使用済み切手は
寄る、それを世話人がついでの折に事務所に
・CO2削減量:4178・4kg
書き損じはがきと共に2000万円の現金が
トンほどになり
持ってくる、そんなやり方を主体にしました
・ワクチン贈呈量:ポリオならば693・8
人分となっています。
現在イベントの時や会員の方が事務所に来
創立 周年を機にもう一度お知らせして沢
出来て事業基金として使われています。
11
山持って来て頂けるようにしたいと思います。
書き損じはがきも受け付けますので、イベ
ントや親睦会の時などにご持参下さい。
宜しくお願い致します。
72
25
が、大きな段ボールで直接事務所へ送ってく
る方もあって、どんどん量が増えてきました。
事務所に溜ったキャップは、初めは業者が
は来られなくなり、やむを得ず、またトラッ
られる時にペットボトルのキャップを持って
◉使用済み切手の回収活動について
クで回収に来る練馬区までリュックで運んだ
来て頂いておりますが、そのほかに使用済み
取りに来てくれましたが、そのうち都心部に
時期がありました。これもカネをかけない方
か。この使用済み切手の収集は実は
日第
あ り ま す。 当 初 は ト ー ク サ ロ ン に
もって来て下さいという事でしたが、
次第に広まって来たものです。
収集した使用済み切手の送先は
)年に
「みんなが健康に暮らせる世界をめ
ざして」と1960(昭和
力会です。海外への保険医療従事者
創られた日本キリスト教海外医療協
〔キャップ量〕
の派遣や現地の保険医療従事者への
30
内閣府では「年齢にとらわれず、自らの責任と能力において、自由で
いきいきとした生活を送っている高齢者や社会参加活動を積極的に行っ
ている高齢者グループを広く社会に紹介して、高齢期を迎え又は迎えよ
うとする世代の高齢期におけるライフスタイルの参考にする趣旨で毎年
活動事例を募集していますが、この様な活動を積極的に継続して実践さ
れている加藤会員を推薦したところ、2013(平成 25)年9月、内閣府
特命担当大臣名により、賞状と記念品が贈られました。
専業主婦をしていた 44 歳のときに民生委員になり、20 年間務めまし
た。ほかに少年補導委員を 15 年。それぞれを退任をした後のボランティ
アとして独自の活動を続け、高齢者や障がい者の方々のために役立てた
いと思い 57 歳で運転免許を取得。さらに誰にでも分かり易い「話し方」
を学ぶため、75 歳で4年制大学に学び、地域の福祉活動に役立て、現在
も世田谷区の特技ボランティアとして活躍しており、その積極的で多彩
な社会への貢献に対しエイジレスライフ実践者として表章されました。
当協会には 1992(平成4)年に入会され、多くの社会貢献活動をさ
れておられますが、その活動の中で「きたざわサロン」の生みの親とし
て活躍されておられます。
切手も収集している事はご存知です
その後ボランティアがマイカーで事務所か
歴史が長く1996(平成8)年の
)年の6年間の集計実績
・キャップ出荷量:1326・3kg
奨学金の支援等に使われています。
加藤孝子さんが内閣府より表章される
法のひとつです。
ら国立市の天成舎という選別所までまとめて
春から始まっております。
1996(平成8)年4月
マチュリティニュースによると
搬出する現在のやり方に変わりました。
一 方、 神 奈 川 会 は 熱 心 な 運 動 を す す め て、
キャップの回収が非常に多くなり、とても電
号 に 最 初 の 記 事 が あ り ま す。
「協会
)年
車で運べる状況でなくなったため、2010
(平成
◉取扱高の推移
全量を凌ぐ取扱量になっております。
今や神奈川会は、秋葉原の事務所に集まる
た。
で直接持ち込むやり方を執るようになりまし
10
2008(平成 )年から2013(平成
20
済み切手を集める事にしました」と
でボランテア活動の一環として使用
37
月から横浜の業者にマイカー
20
35
22
・換算キャップ個数:53万510個
25
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
シニアサロン杉並
サポーター代表 満田将太
「シニアの会で、男性の多いところにはこれ
ま で 巡 り 合 え な か っ た。 そ の う え 若 者 も 加
わっている催し。ぜひ地域デビューしたい」
「生演奏の伴奏付で歌う“生カラオケ”はな
かなか機会が無い」という方々などの参加を
第 回(平成
年
月 日) フ
「ルート漫
談&振り込め詐欺防止教室 」
第 回( 平 成 年 月 日 ) フ
「 ォルク
ローレ演奏&シニアサポート講演 」
第 回(平成 年 月 日) シ
「ニアサロ
ンJAZZトリオ&マッターホルン登頂体験
談 」
第7回(平成 年 月 日) フ
「ォークソ
ングを生演奏で歌う&賢い保険の選び方 」
28
齎す音楽を軸に、若者との世代間交流をも進
手ごたえを感じています。
その1
(平成
年 月
日)カフェコンサート
日)
相続税セミナー
を目指す当協会
とができればと考えています。認知症予防
代が協力して住みよい街作りにつながるこ
◆今後もこの活動を続けて、シニアと若い世
2
年 月
■活動実績(随時開催イベント)
25
得てきました。
24
29
30
第 回(平成 年 月 日) シ
「ャンソン
&税理士・弁護士による相続税入門 」
9
10
参 加 頂 い た 方 々 か ら は、
「思い出の曲が聴
6
26
26
◉音楽を軸に若者との世代間交流で
“地域における社会参加”を支援
きて楽しかった」
「シニアのための保険の話
7
なお、この活動には地元の西武信用金庫の
『シニアサロン杉並』の概要とこれまでの
22
11
けて感動した」
「いろんな人と面白い話がで
と し た シ ニ ア 層 の“ 地 域 に お け る 社 会 参 加 ”
で、
千円会費の元は取れた」などと、
おしゃっ
26
その (平成
向けてもらうため、珍しく、楽しくて役に立
活動内容は以下の通りです。
27
26
『 シ ニ ア サ ロ ン 杉 並 』 は、 団 塊 世 代 を 中 心
を 支 援 す る た め の 活 動 で、 2 0 1 4( 平 成
26
ご協力とALSOKのご協賛を頂いています。
つ体験型のイベントで興味を喚起します。プ
■概要
4
30 31
て頂きました。とてもニーズのある活動だと
3
5
6
めるユニークなプログラムです。 退職後、こもりがちになるシニア層に足を
ロやアマチュアによる音楽の演奏会・合唱活
開催場所:西荻窪 COCOPALM
開催日:毎月第4火曜日
5
11 8
)年4月から開始しました。癒しと元気を
4
ば嬉しい限りです。
種の活動が広がれ
他の地域でもこの
杉 並 だ け で な く、
ます。ゆくゆくは
充実したいと思い
学びつつ、運営を
の豊富な経験にも
『きたざわサロン』
「ロス・ボラーチョス」コンサート
動、生活役立ち情報提供、健康体操など、例
会ごとに工夫を凝らして新奇性を打ち出して
参加費:1000円・お茶菓子付き
プログラム:コンサート、合唱、生カラオ
います。
幸い、若い弁護士や公認会計士など専門家
日) サ
「 ッ ク ス・
ケ、お役立ち情報等の紹介、健康体操など
月
や音楽家などのボランティアに恵まれ、シニ
年
アのサポーターとのコラボで世代間の交流も
回( 平 成
: http://suginami-salon.com
HP
■活動実績(定例会)
第
26
漸次図れています。この活動を継続していく
ことによって、共助の街づくりに寄与するこ
26
ギター演奏&エンディングノート解説 」
第 回(平成 年 月 日)
「ックス演
サ
1
奏&アロマ教室 」
73
とを目指します。
これまでの半年を超える活動のなかで、「娘
がホームページを見て参加を勧めてくれた」
2
26 26
26
社会貢献活動紹介
「私の大切な覚書き」
で社会貢献
コーディネーター 有馬弘純
好評を博 し
発行部数 は 万 部 へ
二の人生の生き方・終活の望みをまとめてお
書遺言の書き方と見本は、その典型です。ま
てきました。ささやかですが、頒価の1%を
るという公益社団法人としての使命を発揮し
こと、不特定多数の方々に利用の便を提供す
い て は、 鹿 児 島 県 年 金 協 会 の 予 約
たり原価の低減、が前提となります。②につ
縮と、②初版発行部数の極大化による1冊当
設定。そのためには、①ページ数の相応の圧
⑴ 頒価を市価の3分の1程度に抑える
まず、1冊300円と手頃な価格を目標に
します。
普及活動にもご尽力。記して感謝の微意を表
当協会Rプラン委員で、鹿児島県年金協会
会長の鶴丸泰人さんが発案者です。そのうえ、
▪企画の井戸を掘った人々 類書にない特色です。
74
り、無駄となってしまう、との意見を反映し、
必要最小限の項目に徹底して絞りこみました。
これは、前記①への対応も企図したものです。
併せて、書く気をそそる動機付けとなるよ
う、日野原重明さんなど人生の達人の一言ア
ドバイスを散りばめました。
⑶ 利便性・堅確性を期し、専門家に依頼
利便性を追求すると共に、内容の堅確性に
ついて万全を期しました。弁護士、公認会計
士などに加えて、信託銀行などの専門家にも
執筆や内容の点検を依頼しました。
このような必要を充たす、シニアにとって
た、㋑資産の欄に「暗証番号」は記載しない
「 参 考 資 料 」 編 は、 優 れ も の で す。 自 筆 証
な覚書き』が、社会的なニーズに応え続けて
利便性の高いエンディングノートを私どもは
きたい。
います。2014(平成 )年9月、一部改
万部に達しました。
東日本大震災等への義援金として寄付をして
3万5000部のご協力で実現へと運びまし
◉シニアに合わせた三つの特色
います。
た。これにより、公益社団法人として発行に
なお企画内容については、当協会の生活情
報委員会と鹿児島県年金協会の企画委員会の
シニアのための「覚書き」なのです。
メンバーが吟味を重ね、意見を集約して練り
伴う財務上のリスクも回避できました。
超高齢社会の到来がエンディングノートの
0
必要を後押ししています。「相続」が「争続」
とならないようにしたい。家族への想いを書
き留めておきたい。自らの人生の振返りと第
折角購入しても書く項目が多いと億劫にな
上 げ ま し た。 正 に シ ニ ア の、 シ ニ ア に よ る、
貼 り 付 け そ の 中 に 納 め る と い っ た 気 配 り は、
ようにという注意書き、㋺顔写真は角封筒を
数は
訂を施した第2版も増刷を重ね、累積発行部
26
⑵ 必要最小限の項目に絞り込む
書き込む煩わしさの軽減─。
重視したのは、次の3点です。
目指しました。
新しい形のエンディングノート『私の大切
◉社会的ニーズに応えて公益性発揮
24
このことを通じて、個人会員はもちろんの
24
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
「留学生との交流会」
が内閣府より受章
(広島支部)留学生との交流会代表
久田耕路
年にわたり 回を重ねており、この永年の努
力と実績に鑑み、社会参加活動事例として推
薦することとしました。
この推薦を含め社会参加活動として全国か
らの推薦件数は 件に上り、内閣府では選考
委員会を開催し選考の結果、交流会を含む
月 日付内閣府特命担当大臣(有村治子)の
件が9月1日付にて社会参加章と決定し、9
55
96
学生の参加勧誘と確保が悩みの種です。
私を含め現在の世話人は先輩から受け継い
だ交流会の灯を消すことなく、留学生との交
流の輪を広げ次代へ引継ぐ責任があることを
この受章を機に改めて認識した次第です。
)年度から広島市及び周辺
今後の活動としては留学生については
2014(平成
部の大学に働きかけて留学生の勧誘に向けて
決定の紹介事例実施要綱に基づき高齢者のエ
の交流会」にとって大変名誉なことであり励
この参加章の受章は広島支部と「留学生と
め積極的な広報を行うことを重点とし、地域
また、支部会員の交流会参加を更に増やすた
各 大 学、 関 係 団 体 と の 連 携 を 強 化 す る こ と。
イジレス・ライフ実践事例(個人)及びグルー
開催しておりますが、問題は会費を負担願う
の交流会に加え定期的に食事会や卓球大会を
11
支部会員の参加者の確保と、常に不安定な留
の留学生支援に貢献することです。
みになることであります。
)
プ等で社会参加活動を積極的に行っている事
書状と記念品(楯)を受領しました。
26
54
「留学生との交流会」
は年2回
(6月と 月)
内閣府は1995(平成7)年総務庁長官
15
例(団体)を毎年選考し表章するとともに一
般に対し広く紹介しています。
日 本 産 業 退 職 者 協 会 は 2 0 1 4( 平 成
年度の社会参加活動事例として広島支部の
「留学生との交流会」を本年4月に内閣府へ
推薦しました。
推薦の主な理由は広島支部の中で次の目的
1、社会の役立つことを行う
2、勉学の志を抱いて来日した各国からの留
学生を対象にその目的達成の為に精神的な
支援を行う
3、留学生との交流の場として交流会を開催
し交流を通じ相互理解を深める
に賛同する会員に呼びかけ1993(平成
75
26
20
5)年3月に第1回の交流会を開催して以来、
2013(平成 )年まで交流会の開催も
25
「ひとこと」秀逸集
ひ と こ と
大学に戻る日、見送りに行くのが
をながめ、器の絵柄も味わいなが
です。静かな和室で掛け軸や生花
て好きな料理を上げれば会席料理
酒が美味しいという理由で、強い
特に好物もなく、雰囲気とかお
山本研二
ひ と 時 だ。 食 は 文 化 だ と い う が、
と思い、生きている幸せを感ずる
欒しながら頂く。
「美味しいなぁ」
が顔を合わせ、お屠蘇を飲んで団
だしだと聞いている。元旦、家族
で取る。九州地方でよく使われる
の「だし」は「あご」という飛魚
10
歳の私には、都会の匂いの
趣味・娯楽
な味。
するアイスもなかが衝撃的で贅沢
が、
す。今となっては贅沢とはいえぬ
味は西瓜に瓜、井戸で冷やして食
20
76
❖未知の味覚アイスもなか
若狭哲夫
アイスもなかとの遭遇は
)年夏。北陸の
に気に入っている店は「芝とうふ
楽しみ。お駄賃
秀逸集
1960(昭和
片田舎 歳。1番上の兄が東京の
が、 日 本 の 漬 け 物 の 王 様 は 何 と
屋うかい」
・表参道「赤寶亭」
・
「新
スもなかを一つ、初めての味。世
「 お せ ち 料 理 」 が 沢 山 並 ぶ。 実 に
ら順番に出される心のこもった料
正に雑煮を食べる習慣は我が家に
円でアイ
いってもタクアンであろう。これ
宿の柿傳」等です。乏しい懐具合
の中にこんな美味しい物があるの
カとダイコンを届けてくれる。漬
たが、今年はダイコンから自家製
バラエティに富む。雑煮も地方に
より種々様々らしい。我が家の雑
煮はいわゆる「東京風」の典型だ
理を頂き、お酒を飲みながら話が
根付いた伝統文化そのものだ。
が特徴点を一つだけ挙げると、汁
弾むのは楽しいものです。私なり
❖お手軽な会席料理
ている。
にしようと今から手ぐすねをひい
出来た市民農園で野菜作りを始め
絶妙である。今年の春から近所に
40
円、
「ひとこと」は、与えられた課題で、 を自分で漬けるようになってから
から夜は近寄り難い店ですが、昼
か一気に頬張り頭がキーン。もう
各号から1編を選び、ジャンル別
けて 日ころの新タクアンの味が
成9)年 月)から始まった特集
自由に綴っていただくコラムです。 6、7 年 に な る。 町 内 の 八 百 屋 が
食でも贅沢なひと時を充分に堪能
に整理してお届けします。
おいしいもの・料理
❖春は新タクアンで乾杯
長谷川貞悌
若い時から漬け物には目がない
❖我が家のお雑煮
指方英佑
暮れが近づくとデパートには
ど の お 話 も 興 味 深 い 内 容 で す が、 心得ていて、毎年 月の初旬にヌ
マチュリティ 号(1997(平
35
1個、今度は良く味わって。夏の
54
することができました。
12
12
12
10
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
テレビ利用の新しい楽しみをし
小野芳史樹
たためであろう。今でもカラオケ
どう考えるかを迫ったものがあっ
心を見事に抉り出し、問題提起と
めて主人公たちと同年代の人々の
た鳴き声や尾と耳の動きで要求や
飽きさせないことに気付いた。ま
習性や行動がかなり面白く、人を
まされたものだが、そのうち猫の
❖テレビとインターネット
ています。テレビそのものは主に
表情を読み取らせ、体全体で何か
を伝えようとしている姿はこの上
でこのタイトル曲を歌う。
「 秘 境 の 旅 」 等、 自 分 で は な か な
か行くことができない所を見るの
なく愛らしい。今はすっかり猫好
きになったが、猫は私を良きパー
❖読書で大きな夢を買う
氏家敏行
トナーとして考えているのだろう
が好きですが、これとは別にテレ
ビで放映された番組のホームペー
読書の魅力は、テレビやビデオ
ジを見ると、番組の内容とそれ以
か。ちょっと聞いてみたい気がす
健 康
マや作家を選ぶのも自分、読むの
と違って、いつでもどこでも手軽
必要な内容だけをプリントして保
も自分、さらに想像力をフル活用
児玉淑恵
外の参考事項がのっています。そ
存することができて便利です。今
し、 イ メ ー ジ し て 喜 び や、 感 動、
就寝前のひととき、ドイツ軍放
私の家では、1年中ウーロン茶
る。
まで一番役に立ったのは「世界遺
希望に出会うのも自分次第という
送のラジオから流れるこの歌に聞
れで、番組をビデオに撮るよりも、 に出来る便利さがあります。テー
産」のリストで、その他、家内の
主体性があるのも読書ではないで
粟生精二
❖今も生きている「若者たち」
きなスタイルで読書し、夢を買い
ることも可能です。好きな本を好
とが出来るし、歴史上の人物と語
海の底、宇宙の彼方までも知るこ
るだけに、世代や民族を超えて広
ン」
。世界各地の流血が報じられ
レーネ ディートリッヒのレコー
=
ドで馴染み深い
「リリー・マルレー
人の心に国境はない。日本ではマ
だが、望郷の念に涙し、口ずさむ
この歌自体、時代に翻弄されたの
お陰で夫婦揃って元気に過ごして
ます。健康にも良いウーロン茶の
に還元して花を育てて楽しんでい
屑と一緒にコンポストに入れ、土
メリ取り用としても使っています。
排水口のバスケットに入れて、ヌ
蔵庫、下駄箱の脱臭剤として使い、
と い う。 時 は 第 2 次 世 界 大 戦 中。 飲んでいます。茶殻はグリルや冷
の大きな袋詰めを買い、湧かして
昭和 年代の初め、大学紛争の
❖さて、猫の心の内は
続けたいものです。
糸井由喜
く歌い継がれる共通言語であって
相山睦子
❖リリー・マルレーン
要求で料理番組のレシピ等カラー
しょうか。居ながらにして地の中、 き入ったのは英・独双方の兵士だ
❖ウーロン茶は最高!
で出てくるので保存に便利です。
の若者兄弟が貧しいが逞しく生き
猫嫌いな私に出産を控えた娘が
います。
世の中。フジTVで放映された「若
者たち」と同じタイトルで映画化
されたもの。両親を亡くした5人
脱臭効果の無くなった茶殻は野菜
抜いていこうとする姿をリアルに
ほしいと切に願う私の好きな歌で
ある。
置いて帰った子猫と同居した当時
は、爪を立てられたり鳴き声に悩
描いた作品。自主上映ながら爆発
的な支持を得た背景には、私を含
77
40
「ひとこと」秀逸集
もちろん体内の諸器官も肉体疲労
訣です。 年過ごせば五臓六腑は
楽しく人生を送ることが健康の秘
声を掛けられることが多く、時と
ることが多い。絵を描いていると
彩道具かゴルフバックかを持参す
いはじめて以来、旅のお伴には水
リタイア後に水彩スケッチを習
宮本博之
感心した。
隣組になるとは世界は狭いものと
関係なさそうな人々がこの時期に
あった。夫々世界を別にして全く
ぐ側にロシアのプーチンの別荘が
があったが驚いたことに、そのす
フトのビル・ゲイツの広大な別荘
地がある。その中にはマイクロソ
を起こすので主治医と薬での健康
して思いがけない方向へ展開する
管理です。その他、気をつけてい
時もある。昨年、浅草雷門をスケッ
❖旅とスケッチ
ることは①マイペースとわがまま
チしていた時のこと、見知らぬ人
三浦幸一郎
お礼に娘さんの嫁ぎ先、新潟県の
くれと親にはどうしても言えな
である私は旅行費3千円を出して
完成作品を持参すると大変喜ばれ、 ことになった。6人兄弟の一番上
しいと頼まれ、描くはめになった。 の高校から四国に修学旅行に行く
の 国 民 宿 舎 駒 草 荘 で の こ と で す。
秋田駒ヶ岳のお花畑を歩き、麓
岩崎迪子
季節の楽しみ
しく食事⑥歩く努力をする⑦無理
秘境栃尾又温泉へ招待された。旅
かった。下っ端公務員の父が必死
露天風呂でのんびりしていると下
級友たちは喜々として出発、私は
常の私達にとって、なんと幸運で
とは人込みの中で見上げるのが通
78
❖健康の秘訣は心の持ち方
②何事もすぐやる③趣味&友人と
に声を掛けられ、高齢のため近く
1952(昭和 )年、名古屋
市村 章
私 の 健 康 法 は 心 の 持 ち 方 で す。
の交流④恋をする⑤食べたいもの
閉店する果物屋を記念に描いてほ
❖親に内緒の修学旅行
を食べ飲みたいものを飲んでおい
はしない⑧認知症予防のため頭を
館のロビーの一角には私の作品の
に働いても、家族8人が食べてゆ
温泉に浸かって花火を眼下に見れ
❖温泉で花火を眼下に
使い、声を出す事など。
ポストカードも飾ってあり、絵を
の田沢湖から花火が次々と上がり、
旅行の思い出
生も事情を察したのか、不参加と
悔しいような悲しいような気持ち
返事をしても何も言われなかった。 る偶然に皆、大喜びでした。花火
❖サルディニア、コルシカの
旅
でした。
華麗な大輪の花々を楽しめた一日
山植物の花々を、夜は露天風呂で
うか。昼間は汗を流して可憐な高
贅沢な花火見物だったことでしょ
た。
を自分の中にいつまでも閉じこめ
したスメラルダと言うかくれ保養
島の海岸に、アガ・カーンが開発
に友人の誘いにのって行ってきた。
昨年の秋イタリア領とも知らず
坂本謙郎
実にうれしかった。
描いて人に喜んでもらえたことが、 くのがやっとの生活であった。先
27
70
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
を改めて評価し、良き伝統文化と
今の時代、地域の絆を育む盆踊り
友人を持つことは、老後には健康
させてあげようと思った。多くの
である。でも、少し姿を見掛けな
るので、そのための気遣いは必要
論、日常生活にも深く関わってい
❖心頭滅却? 陽も亦涼し
澤谷龍美
と同じように大切なことと考えて
愛犬がコミュニケーションづくり
物のおすそ分けをしたり、時には
合う。野菜や花を頂いたり、頂き
いと体調が悪いのではと声を掛け
❖父の子守歌
渡辺 賢
いる。
して守り続けていきたいものだ。
家族・仲間・ご近所
考えたら、バカなことを、やっ
てるのかもしれません。草木も眠
る丑三つどきに、重い釣り具を車
に積んで寝呆け眼で港に急ぐ。釣
場では、波高ければ船酔いし、カ
サゴ釣れればトゲ刺さり、強い陽
射しで顔は真っ黒、汗だらけ。で
と っ て も ま た は い こ ん だ あ あ 」
これが延々と続くのだ。父の添い
を楽しんでいる。
「ねんねん ねこのけつに か
に一役買う。プライバシー尊重の
にがはいこんだああ とっても
ため適当な距離を置き、お茶講・
報恩講などを交えた近所づきあい
い る よ り ず ~ っ と 快 適 な ん で す。
寝の度に寝入るまで歌ってくれた。
も、でも、でも家でエアコンして
漁師に転職?と見紛うほどに。ボ
❖年賀状はお守り
を、ひょっとした時に思い出して
「年賀状はお守り」
。私はいつも
その単調で間延びしたメロディー
懐かしむ。父は団十郎のような怖
鞄の中に数枚の年賀状を忍ばせて
松本壽賀子
シング。全然、暑くなんかないん
い顔をして、無口な人で、荒々し
います。その年に届いた賀状の中
です。
い言葉など死ぬまで聞いたことが
で特に私を励まし、心を支えてく
こに家を飛び出した。中学校にな
炭坑節が流れると、夕飯もそこそ
小学校の頃は広場に太鼓が響き
しらと心配した。一番驚いたのは、 恐らく僕の親爺だけの子守歌なの
になったら、この人はどうするか
夫が定年退職し、毎日が日曜日
滝沢久子
のにぶつからない。だからこれは
でもどこの人に聞いても類似のも
気 づ け て い ま す。 年 賀 状 は 過 去、
ます。折に触れ取り出し自分を勇
可愛い孫の写真入りであったりし
らは恩師や友人、懐かしい教え子、
❖広島音頭が育む絆
ない。信州戸隠の出身というから
ウズ(釣果なし)にも懲りずフィッ
❖夫の定年に思う
ると学友と連れだって三日三晩他
電話の多いことと友人の多いこと。 だ。僕はそう思い込んでいる。
現在そして未来へと思いを馳せる
黒坂茂樹
の町内を渡り歩き、矢倉に上り太
その名前だけではどんな関係なの
❖しきたりの残る街
が色濃く残って、冠婚葬祭には勿
秦 美智子
わが家の地域には古いしきたり
き続けたいと思います。
期待しながら、私も心を込めて書
大切なもの。新年に届く年賀状に
その辺りの歌であったのだろうか。 れそうなもの数枚を選んで。それ
鼓を叩いて悦んでいた。そろそろ
か、私には分からない。戸惑うこ
とばかり。失礼があってはと神経
色気づく頃で、あの娘この娘の浴
衣姿に見惚れながら広島音頭のバ
を使う。趣味に生きるもよし、長
年の夢を実現するもよし、好きに
チ捌きを競った仲間は生涯の友と
なっている。何事も個が優先する
79
「ひとこと」秀逸集
❖お年玉をもらう
西岡信彦
昨 年 の 元 日 の 朝、 前 日 か ら 泊
まっていた2人の孫にお年玉を渡
した。すると、長男の嫁がお父さ
く残った驚異の体験です。
母校・恩師・同窓会
思う。
❖小学校同窓会は心の原点
木下智明
少なからず驚いた。長男が生まれ
した。思ってもみなかったことに
の自分がいた。酒が入り、それぞ
ときめいた。当日は少しよそ行き
い込んだ。皆の顔が浮かび、胸が
思う。初めての同窓会案内状が舞
❖小さな輪
高橋 淳
終戦の年、盛岡の厨川国民学校
「 副 社 長 ○ ○ 」 呼 び 捨 て で あ る。 コツは良き大将の下、味方が大勢
負 け そ う な 時 は 避 け て 争 わ な い。
酌たのむ、「○○君」はうれしそう。 で 意 思 疎 通 を は か り 一 致 団 結 し、
ここは小学校時代の仲間、お互い
今は人々の輪が広がり町から県・
い。おかげで楽しい小学生時代を
欲しいものだと思う。
本当かなと思いつつもそうなって
ル ー プ と 言 わ れ る よ う に な っ た。
国となり、更には地球が一つのグ
気遣いなし、楽しく、愉快で、自
人 抜 い て、 分にとっても心の原点である。
口 に 運 ん で あ げ る と、「 あ あ 美 味
❖相合傘
吉田幸雄
2人が喫茶店を出ると小雨がバ
と微笑みながらKちゃんが傘をさ
過ごせた。最近の運動会の徒競走
みるみる冷たくなっていきました。 私達の時は背の高さの順に7~8
しかけてきた。相合傘。小学校3
しかったわあ」と一声発し、その
人ずつ走り、教室で目立たない子
「もういいわよね」
は 同 じ 速 さ の 子 が 一 緒 に 走 る が、 ラついていた。
そして翌日は通夜。一人留守番す
が 一 番 に な る こ と が 多 か っ た。 年生のある日、突然担任の怪我で
担当頂いた西原忠先生だ。小学校
まま動かない人になり、腕の中で
る私の耳に、コトンコトンと階段
勝った子は自信を持って良い小学
されてきた。生涯1度だけのそれ
4、
5年時は体調が悪く週に1、
2
広 島 市 立 竹 屋 小 学 校 5、6 年 時 に
谷口 博
こ の 歌 で 思 い 出 す 教 師 が い る。
を上ってくる耳慣れた音が。現れ
生生活を送れた。子供に何かひと
も束の間の共学であった。何とな
❖仰げば尊しわが師の恩
ると優しく肩を撫でて、コトンコ
つ自信を持たせることが大切だと
人ほどの女の子が男子組に編入
トンと去って行きました。心に深
20
80
く 気 が あ っ た 2 人 が、 5、6 年 生
の頃には相合傘のいたずら書きを
年
された。ベソをかいた彼女に申し
訳なく思ったものだ。卒業後
てからその日までのいろんな出来
れ が 語 り 始 め た。 大 工、 八 百 屋、 4年生であった。勿論軍国少年で
目の同期会が始まる前のことであ
事が走馬燈のように頭を駈け巡っ
あり、仲間以外の子等とよく集団
小学校を卒業し 年経った頃と
た。一応は断ったが、素直に受け
床屋、大手企業の副社長、仕事は
で喧嘩をした。喧嘩の際頼りにな
る。
取った。うれしかったけど、子供
さまざま、社会では立場による上
対戦で櫓投げ1本で
からお年玉をもらう歳になったの
んにもと言って、お年玉を差し出
30
下 が あ る。 し か し こ の 場 は 違 う。 るのが我が小さなグループ。勝つ
❖子供に自信を
加藤由船
小学3年の体操の時間、相撲の
40
かと、少し複雑な気持ちにもなっ
た。
歳を迎えたば
栂野七代
歳 の 時 で す。 隣 室 か ら、
❖二つの初体験
私が
「水くれや」との
14
か り の 同 居 中 の 大 叔 母 か ら の 声。 先生に褒められたのが忘れられな
77
17
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
た。この恩師に会わなければ、今
も入り6年時には完全に立ち直れ
れて掲げてくれた。こんな励まし
絵を描くと教室の真ん中に額に入
言ってくれた。また先生や級友の
ず将来に期待が持てる」とよく
なかった。母親に「息子さんは必
になり学校に行くのが嫌でたまら
日は休んでいた。授業も遅れがち
のだろう。 歳になって初めてわ
も屈指の美しい梅の花園であった
宴を開いたとあった。東京の中で
行幸され、伊藤博文などが観梅の
梅屋敷」との掲示、陛下は9度も
が あ っ た。「 明 治 天 皇 行 幸 所 蒲 田
し、近くを散策したら梅屋敷公園
の原稿のため生まれた所と思い直
まれの私にはふるさとはない。こ
四十万久
がふるさとに愛着の念が湧いたの
です。
❖送り盆まつり
亡妻の 御霊安らか 祈りつつ
私の8月
日
❖再びは体験せずに
済むように
松岡貞子
終戦の詔勅は佐賀県下の田舎で
聞いていた。のどかな田舎風景に
て眺めました。そして 年後、一
の花火を「きれいだねぇ」と言っ
た時です。浴衣を着た彼女と夜空
た際、送り盆まつりが行われてい
の故郷秋田・横手に初めて訪問し
楽しい思い出は婚約時代に、彼女
後始末、幼い従妹を廃材で火葬す
けた。長崎の爆心地の叔父一家の
軍兵器行政本部の全焼、私物も焼
で世田谷の家は焼失。勤務先の陸
していたのだろう。5月末の空襲
数ヶ月間、エネルギーを使い果た
た時と、悲しかった時があります。 緊迫感はなかった。その日までの
夜空の花火に 涙とまらず
「花火の思い出」には楽しかっ
15
中で「これでよかったのだ」との
居前で喉を突いたの報。虚脱感の
転して病に倒れた妻を初盆として、 る。次いで航空士官学校の弟が皇
夜空の花火の下で精霊流しをしま
した。
漠然とした思いのみだった。
❖ 歳の終戦忌
長田 実
)年初、4年
1945(昭和
11
歳で被爆死。
13
そし
歳 ま で も お 国 の 人 柱 ・・・
て終戦。空襲が無くなった安堵感
せ 進学をさせたばかりに子を死な
建物疎開に動員され
進 学 し た ば か り の 義 姉 は そ の 日、
疎開を始める。8月6日、中1に
全員無事。この頃から呉市も学童
が瓦を突き抜け右机を直撃するも
生の授業中に味方の高射砲の弾底
20
と生き残った後ろめたさの両方
だった。
今日からはB の来ない空
災 い
29
日の私は無いと感謝している。
ふるさと・想い出
❖今、初めてふるさとに愛着
大山泰弘
ふるさとと言えば、山や海、或
いは田畑のある所、従って東京生
81
20
13
60
「ひとこと」秀逸集
❖鮮明に残る感動
吉田岩男
阪神淡路大震災より3年。未だ
怯えた覚えのあるあの恐怖の瞬間
を終生忘れることはできない。寒
空のもと茫然自失の被災者に、い
「叡智」が試されていると思う。
老人力
である。現世の流れを読めないと
くの人とのお付き合いの中でお洒
ゆとりは無かった。これからは多
になりたいものだ。
風流を解する洒落っ気のある老人
も 喋 り、 身 な り に も 気 を 配 っ て、
をとらず、気の利いた言葉の一つ
落を吸収し、当世の流行にも遅れ
陰で老害と云われよう。
❖明日できることは
今日やらない
森 良實
「今日できることは明日まで延
ち早く救援の手を差し伸べたのは
警察でも自衛隊でもなく、良き隣
とは老人力で明日やるようになる。 ランティア活動は無理。長く人生
ばすな」といわれ、そのように努
を生きてきた経験を若者に役立つ
人と全国各地より馳せつけたボラ
メリットとしては、明日やること
知恵として伝えることがボラン
力してきたが、時の長さで還暦よ
になったため、今日という日にゆ
ティアだと思っている。例えば私
ンティアの人々であった。随所で
❖勇気ある小言が若者を導く
木村金一
とりができる。ただ、人との約束
の中学生の孫が万引きして学校で
りも古希に近づいた昨今では、今
に至るも新しい感動として鮮やか
事にこの力を用いるとトラブルの
問題になり、娘はどうしてそうい
見 掛 け た 献 身 的 な 活 動 に 感 動 し、
歳。体を使ってのボ
によみがえる。これらの人々がい
種になるので、あらん限りの「反
うことをしたの、なにひとつ不自
私は現在
る限り、明日の日本の光が見える。
越中幸夫
老人力」を振り絞って今日やるこ
由させたこともないのに、なぜだ
日できることでも明日にできるこ
長谷川達雄
「老人力」という新語は好きで
とになる。
その都度涙した。復興半ばの現在
❖
「老人力」を素直に考える
このところ中越大地震、インド
はないが、敢えて私に定義させる
輪の重さ」である。だからこそど
年 経 っ た 今 も 世 界 中 で 戦 争、 いることから来る自信、
つまり
「年
を忘れていたように思う。現役時
つい先頃までお洒落という言葉
久恒弘行
を一軒一軒回りお詫びをして弁償
た。私は孫を連れて万引きした店
母に相談して対策もなく迷ってい
いた。担当の先生も処置に困り父
❖人災に立ち向かう叡智を
洋大津波と「天災」が続き、多く
なら「長い人生を生きてきて身に
ほとんどの生徒が万引きをしてお
戦乱が果てしなく続く。また地球
んな厳しい事態をも余裕をもって
代はスーツにネクタイ、黒の短靴
させた。他の生徒も実行し、今で
り、孫は仲間からイジメに遭って
温暖化がじわじわ進行しているの
乗り切れる様な歳にふさわしい老
とお決まりの服装の中で、少しは
はクラスでのイジメも万引きもな
の犠牲者が出たのは痛ましい限り
ついた様々な知恵」と素直に言い
と嘆いている。調べるとクラスの
だが、教訓を生かす努力に期待が
たい。そして豊かな知恵を持って
に 対 応 が 鈍 い。 こ ち ら は「 天 災 」
い方が必要である。この場合併せ
変化を求めたが、お洒落心を持つ
ら
に対し人間社会の営為に基因する
て 絶 対 に 必 要 な の は「 時 代 感 覚 」
❖お洒落な奴と
言われてみたい!
かかる。これに対し、先の大戦か
74
「人災」。これに立ち向かう人類の
60
82
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
悪小言を言って聞かせて住み良い
世話や面倒をよく見て、ことの善
戸時代には近所の年寄りが若者の
くなった。作家の童門冬二氏は江
番だと医者が言っていた。
を遠ざけるのは「好奇心」是が一
友よ! お互い初老期だ。こっそ
りいうが、実は初老期の認知症状
フならば「納豆」が正解。と思う
入れ物に納めて仕上げるのがトー
に、「何でも好奇心」でいく心算だ。 「漂泊」
。②豆を腐らせて作るのが
供達は過保護で甘やかされている
とでした。現在は少子化が進み子
❖
「熟慮ということ」を考える
マナーを守り、人に迷惑をかけな
と思います。大人も子供も社会の
い人間になりたいものです。
藤田節也
すれば善悪のわかる良い子になる
と思います。家庭でしっかり躾を
ナットウならば
「豆腐」
。豆を使い、 惑をかけてはいけない」というこ
特に厳しく教えたことは「人に迷
街づくりに励んだと言っている。
福田和廣
」
のだが─。
「ちょっと変だよ… ・・
❖
「体験」こそ宝
私の信条
「熟慮」したことが多かったと
人生経験 年、働きに働いた
年、 そ の 体 験 は 貴 重 な 宝 で あ る。
思っていたが、何を何時と考える
ることが、ひいては我々にとって
れていることであり、それに応え
かの役に立てるかが我々に求めら
周囲に影響力を及ぼすか、又何ら
験を通しての力」を信じて如何に
けの世界も大切だが、今までの「体
世紀に伝える使命がある。我々だ
❖漢字の誤り
松永 豊
漢字はその一字でその意を表す
慮」の効率化かも。
かも知れない。
目標を持つのが
「熟
許せば
「迷いの時」。これが「熟慮」
い決断、左右が噛み合わず時間が
左右の脳が一致した時は気分のい
主として理性(左脳)で考え方向
もって考え続け他の助けも借りて
思い出せない。人生の岐路で、前
て考え抜いて決めたことが意外に
マホはやめて!! 子供が話し掛
けても生返事、胸に抱いた子供が
いる時、歩いている時、電話やス
ような気がします。子供を抱いて
ミットで感性(右脳)で割り切る。 声を掛けることを忘れてしまった
を絞ってゆく。決め時やタイムリ
ママの顔をじーっと見ていても電
達が持つようになってから子供に
す。携帯電話やスマホを若いママ
く親子連れに目を向けてしまいま
私には3人の孫がいます。街行
樋高三恵子
❖ひとこと云いたい
も幸せなことではないだろうか。
世 界 で も 希 な 言 葉 で あ る。 然 し
と、大事な場面で短時間に集中し
❖何でも好奇心
江中共治
「 今 年 こ そ 」 で な く「 今 年 だ か
て成長するものだと思うから、若
話やスマホに夢中で知らん顔。子
誤った表示を日常平気で使ってい
❖母から学ぶ「子供の躾」
西津英昭
いお母さん、子供と一緒の時は電
話やスマホはやめて
供は親といっぱいお話しして笑っ
漂晒」②豆腐と納豆」
。①旅に出
母親が亡くなって時々想い出す
医 者 が 言 っ て い た。「 日 々 是 新 」
こそ我々年代が輝く秘訣だそうだ。 て日が西に落ちれば宿をとってト
ことは子供の頃よく躾けられた
( 叱 ら れ た ) こ と で す。 そ の 母 が
マ ル 即 ち「 宿 晒 」
。水で白くする
のがヒョウハクならば正しくは
!!
とに貪欲に挑戦してみようと思う。 るものもある。例えば①「宿泊と
らこそ」これ迄にやれなかったこ
んだ体験を今の社会に還元し、
各分野のプロとしてそれぞれが歩
40
21
友よ! お互い初老期だ。まずは
暮らしにアクセントをつけるため
83
60
フォトサロン
フォトサロン
カメラ同好会
デジカメクラブ
広 島 支 部
細田 將孜(デジカメクラブ)
◀大ものGet!
岡野 静江(デジカメクラブ)
◀ローズオオサカ
松本 一史(広島支部)
◀春宵錦帯橋
84
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
マチュリティ誌では、カメラ愛好家の会員から寄せ
られた作品の中から、1点を選んで表紙を飾って参り
ました。当協会には、カメラ同好会、デジカメクラブ
及び広島支部の写真を楽しむ会があり、各会に所属す
る会員は日頃の活動の中で腕を磨いています。編集部
では、各会の特色を生かして、順番で表紙作品を提供
いただいております(36 頁参照)
。また、裏表紙は季
節に即した傑作写真4点を収録して皆様に提供してい
ます。
30 年史特集ページを締め括るに当たり、各会の作
品からそれぞれ2点を選んでフォトサロンとしてお届
けするとともに、今後益々のご発展を祈念いたします。
(編集部)
七澤 義人(カメラ同好会)
◀おにあざみ
◀古木も春の息吹き
岩崎 迪子(広島支部)
桜の下で▶
85
〈年表〉日本産業退職者協会30年の歩み
年 代 月
日退協の活動状況
日本の動き
1999
国際連合「国際高齢者年」国内で諸活動展開 12 成年後見制度制定(2000年から施行)
久野木行美氏理事長就任
9 高連協が「高齢者憲章」を発表
2000
9
世界の動き
(平成11) 5
(平成12)
高連協が「高齢社会NGO連携協議会」(新・ 8 三宅島噴火 全島避難
高連協)として再出発
2001
9 米同時多発テロ
(平成13)
2002 5 広島支部創立10周年 記念誌発行
(平成14)
2003
(平成15)
8 健康保険法改正 被用者負担3割に
9 小泉首相訪朝 金正日総書記と会談
10 拉致被害者家族5人帰国
福利厚生プランのアウトソーシング斡旋事業
開始
3 米英がイラク進攻
10 新潟県中越地震
2004 4 神奈川会 誕生
事務所を築地に移転
11 創立20周年記念(第1回)チャリティコン
サート開催
(平成16) 6
2005
(平成17)
1 欧州単一通貨
「ユーロ」流通開始
12 スマトラ島沖地震
6 介護保険法改正 居住費(住居費・光熱
費)
・食費の自己負担化
2006 4 年金受給者と温泉・特産品を特典付きで結ぶ 4 介護保険法改正 介護予防、市町村
地域包括センター制定
地方銀行との提携「Rプラン」生活情報誌誕
健康保険法等改正法案成立
生
10 75歳以上を被保険者とする後期高齢者
5 西江博俊氏が理事長に就任
医療制度が創設された(実施は2008年4
10 虹の子会(ダウン症候児支援組織)へ
月から)
バザーの献品やオークションの運営で協力
(平成18)
2007 5 社会貢献活動委員会発足
(平成19)
10 郵政民営化
超高齢社会(65歳以上の人口の総人口に
占める割合が21%以上)に入る
2008 6 ペットボトルキャップ回収運動 軌道に乗る 4 後期高齢者医療制度始まる
9 リーマンブラ
ザーズ経営破綻
2009 5 山本恵朗氏が第4代会長に就任
フリーサロン第100回開催
11 埼玉会 誕生
1 米大統領にバラ
ク・オバマ氏就任
(平成20)
(平成21) 7
8 初の市民参加裁判員裁判
4 ギリシャ金融危機
1 日本年金機構発足 社会保険庁廃止
2010 5 広島支部長に上神圭二氏就任
4 高齢者の居住の安定確保に関する法律の
第1回きたざわサロン開催
改正 サービス付高齢者向け住宅を創設
9 エンディングノート「私の大切な覚書き」発行
10 西東京会 誕生
(平成22) 6
2011 3 双葉町住民が埼玉県加須市にある旧騎西高校 3 東日本大震災発生
への全町避難に際し、移転協力
8 NY外為市場で円が1ドル=75円台を記録
(平成23)
2012 3 広島支部設立20周年 記念誌発行 「広島支 5 東京スカイツリー開業
部活動紹介展」開催
京葉会 誕生
4 「公益社団法人」に認定される
5 榎本郁夫氏が理事長に就任
7 神田佐久間河岸に事務所移転
(平成24)
2013 9 加藤孝子会員が内閣府から「エイジレスライ 6 富士山が世界文化遺産 フ実践者」として表章される
9 2020年東京五輪決定
(平成25)
2 ク リ ミ ア 危 機・
4 消費税5%から8%へ
2014 4 第1回「シニアサロン杉並」開催
ウクライナ問題
広島支部 留学生との交流会活動が内閣府か 7 2013年 の 平 均 寿 命 は 男80. 21歳、 女
発生
86. 61歳
ら表章される
6 エボラ出血熱の
9 御嶽山噴火
10 創立30周年記念チャリティコンサート開催
感染拡大(西アフ
11 創立30周年記念講演会・ふれあいの集い開催
リカ)
(平成26) 9
86
〈特集〉 日本産業退職者協会30年の歩み
〈年表〉日本産業退職者協会30年の歩み
年 代 月
日退協の活動状況
日本の動き
世界の動き
1984 6 ㈳日本産業退職者協会設立
初代会長に安井 謙氏
理事長に布施 一氏が就任
虎ノ門消防会館に事務所開設
6 厚生省、日本が世界一長寿国と発表
1985
9 プラザ合意
4 国民年金法改正 基礎年金の創設
国民年金は、日本に住むすべての人を強
制加入とし、共通の基礎年金を支給する
制度になる
8 日航機、御巣鷹山に墜落
(昭和59)
5~6
(昭和60)
米国視察団派遣
1986 3 産業別OB会第1号として
「損保懇話会」設立、今日に至る
5 松澤卓二氏が第2代会長に就任
4 老人保健法改正 老人保健施設創設
11 伊豆・大島の三原山噴火
4 チェルノブイリ
原発事故発生
1987
4 国鉄民営化(JRグループ発足)
10 ニューヨーク
株式市場大暴落
(ブラック・マン
デー)
1988 10 「鎌倉探訪の会」発足、第1回実施
3 青函トンネル開通
「東京ドーム」落成
1989
1 昭和天皇崩御 米国退職者協会から弔辞 6 中 国、 天 安 門 事
件発生
届く
11 「ベルリンの壁」
4 消費税の導入 3%でスタート
崩壊
年金制度改正
完全自動物価スライド制導入
(平成2)
1990 5 奥原時蔵氏が理事長就任
6 1989年の合計特殊出生率が1. 57と発表 10 統一ドイツ誕生
(1. 57 ショック)
1991 3 「フリーサロン」スタート
6 雲仙・普賢岳で火砕流発生
(平成4)
1992 4 「広島支部」設立
初代支部長に梶田省三氏就任
9 スペースシャトル宇宙飛行士毛利衛氏宇 6 地球サミット
宙へ
(リオ宣言)
1993 3 広島支部 留学生との交流会開催
5 サッカー「Jリーグ」スタート
1994 6 創立10周年を迎える
5 英仏海峡トンネ
4 高齢者雇用安定法改正 ル営業開始
60歳定年を義務化
6 健康保険法改正
入院給食費の患者徴収の導入
厚生年金(定額部分)
受給開始年齢を
60歳から65歳へ引上げ
(昭和61)
(昭和62)
(昭和63)
(平成1)
(平成3)
(平成5)
(平成6)
12 ゴルバチョフ ソ連大統領辞任
ソ連崩壊
1995 7 マチュリティ誌「戦後50年と私」を特集(45 1 阪神・淡路大震災発生
号)
3 地下鉄サリン事件発生
人口に占める65歳以上の割合が14. 5%
となり、高齢社会に突入
(平成7)
1996 4 使用済み切手の回収運動開始
10 小選挙区比例代表並立制で初の総選挙
1997
7 英 国、 香 港 の 主
4 消費税が5%に
権を中国に返還
11 北海道拓殖銀行破たん、山一証券自主廃
アジア通貨危機
12 業
介護保険法制定(実施は2000年から)
1998 3 端田泰三氏が第3代会長に就任
2 長野オリンピック
(平成8)
(平成9)
(平成10) 10 「高齢者年NGO連絡協議会」
(高連協)創設
87
12 ペ ル ー で ゲ リ ラ
が日本大使館を
占拠
マチュリティ談話室
ただいま 模索中
安東 尚子
私も夫も今年で
歳 に な り ま し た。
同窓会では退職後
様といつも一緒に行動してしまう旦那様も
う生き方には、自由で魅力があり、柔らか
にある○に限りなく近い無数にある△とい
く、しなやかなのだとも書かれています。
多いとよく聞きます。そのため夫源病(夫
が原因の病)という聞き慣れない心の病を
しまいがちですが、母たちを見ていると現
そして、いつまでも健康でいると過信して
ど、
△(別解)というしなやかな生き甲斐を、
ら肩肘を張らずに○(正解)ではないけれ
き甲斐をまだ見出していませんが、これか
私たち夫婦はいまのところ、具体的な生
実は健康で日常生活に制限のない期間を示
夫 の 退 職 ま で の 残 り 少 な い 時 間 を 使 っ て、
患う奥様も増えているのが現状のようです。
すと言われている「健康寿命」が長い人は
夫婦それぞれが見つけ出していけたらいい
成
)年6月から
私は2014(平
黒木 重昭
地方での暮らしに
目を向ける人の増加は……
なぁ~とただいま模索中です
実した人生をこれから歩んでいければいい
迷惑を掛けず、たくさんの趣味を持ち、充
なぁと思っています。子供たちや世間にも
少ないのではないかと思います。
年といわれてい
事実「健康寿命」と「平均寿命」との差は、
男性で約9年、女性で約
こういう情報を報道で知った頃から、夫
ます。
り、 ま た こ こ 数 年 介 護 が 必 要 に な っ た 2 人
と は こ れ か ら ど ん な 生 き 甲 斐 を 持 ち、
「健
のことが話題にな
の 母 の 姿 を 見 て い る と、 こ れ か ら の 人 生 を
なりました。そんな中、私たち夫婦に指針
康寿命」を全うして生きていくにはどうし
仕事一筋の高校の同級生たちの話を聞く
となるような本を見つけることができまし
どう過ごせばいいのかを考える時期に差し
と、 退 職 後 に 何 か を し た い と い う 目 標 も な
た。鎌田實さんが執筆された『○に近い△
たらいいのかを一緒によく話をするように
く て、「 毎 日 サ ン デ ー と い う 生 活 を 送 る
を生きる』という本です。
掛かってきたなぁ と 痛 感 し て い ま す 。
ぞ 」とか、村上龍の「 歳のハローワーク」
ピングカーを買って全国を旅するというよ
旦那様が奥様を巻き込んで退職金でキャン
面白みがない生き方になってしまうと書か
画一的な考えに囚われ過ぎると、不自由で
と×(負け、不正解、曲論)で区分けする
に似た活動に身をおいていますのでそのこ
日退協に所属する少し前から、私はこれ
この日本産業退職
う な・・・ 夢 の よ う な 勇 ま し い こ と を 言 っ
れています。○でも×でもないが、その間
をさせていただくことになりました。
者協会のお手伝い
て い ま す が、 こ れ と い っ た 趣 味 も な く 、 奥
その中には、昨今の○(勝ち、正解、正論)
!!
26
13
!!
58
55
(NHKでも放映された)の一話のように
!!
88
法 人 ふ る さ と 回 帰 支 援 セ ン タ ー 」 と い う
組 織 で、 田 舎 暮 ら し を 希 望 す る 人 と 、 移 住
そ の 関 わ っ て い る 活 動 と は「 認 定 N P O
いうことにほかなりません。
それよりも若年層の増加が際立っていると
田 舎 暮 ら し 熱 も 増 加 は し て い る の で す が、
しはじめたというのではなく、中高年層の
しも中高年層が田舎暮らしへの情熱を冷ま
と思う次第です。
く捉えた活動が出来るといいのではないか、
日退協としてもこうした社会背景をうま
企 業 や 組 織 か ら リ タ イ ア し た あ と、 地 方 に
ことも度々となり、相談員を増やさなけれ
ら相談件数がひと月に1000件を超える
ら 毎 月 の 例 会( 二
ま し た。 事 務 局 か
年3月に入会致し
とについて述べて み た い と 思 い ま す 。
者を増やして地方を活性化したいと考える
「 ふ る さ と 回 帰 支 援 セ ン タ ー」 は 有 楽 町
帰って生き生きと暮らしたいという人を支
ばならない、相談スペースを増やす必要が
木会)の冒頭で行われるショートスピーチ
狛犬について
自治体とのニーズをうまくマッチングさせ
にある交通会館に事務所を構えていますが、
2012(平成 )
広島支部 中川 晋
る 支 援 活 動 業 務 で す。 こ の「 ふ る さ と 回 帰
昨年(2013(平成
)年)半ばころか
支 援 セ ン タ ー」 は 団 塊 の 世 代 が 、 所 属 す る
援 し て い こ う と、「 1 0 0 万 人 の ふ る さ と
あるなど緊急な対応を迫られているという
) 年 頃 に ス タ ー ト を 切 り、 今 年
は や ら な け れ ば い け な い の か と 思 い 込 み、
回帰運動」という掛け声のもとに2003
(平成
年目を迎えていま す 。
クターを使って致しました。そのご縁で再
趣味で集めていた「狛犬」のお話をプロジェ
ち・ひと・しごと 創生本部」を立ち上げ
実力者の石破茂氏を担当大臣としたことも
び 本 欄 へ の 寄 稿 を お 願 い さ れ ま し た。
「狛
歳以上の相談者が
大 半 を 占 め て い た よ う で す が、 リ ー マ ン
あ り、 全 国 の 自 治 体 が 一 斉 に 地 方 の 活 性 化
犬」しか興味のない私にはその魅力をお話
、
シ ョ ッ ク 以 降、 都 市 で 生 活 を す る 若 者 の 仕
に 走 り 始 め た の も 追 い 風 と な っ て い ま す。
当初は狙い通り
事 探 し が 難 し く な り 始 め、 ま た 追 い か け る
日 本 中 ど こ に 行 っ て も ど ん な 山 奥 で も、
ずと言ってよいくらい神社があります。こ
また遠く離れた島でも集落のあるところ必
こ と は 間 違 い な い の で は な い で し ょ う か。
れらの神社には大抵境内の入り口の左右両
「日本民族の小移動現象」が始まっている
い く か は 未 知 数 と 言 わ ね ば な り ま せ ん が、
ししようと思います。
代 の 人 た ち が、 地 方 で の 暮 ら し に 目 を
大都市集中型で伸びきった日本という国が、
側に石で造った動物の像がグッとあたりを
歳 代 以 下 を 分 岐 点 と し て、 お
い ま「 地 方 」 と い う キ ー ワ ー ド で 転 換 期 を
睨むようにして頑張っています。その動物
歳代以上と
およそ半々の比率となっているというのが
迎えているのかもしれません。
向 け る よ う に な っ て き て い ま す。 今 で は
~
や人生観の変化などから最近では急速に
こ の、 国 内 の 動 き が 将 来 ど の よ う に 続 い て
折しも安倍政権が新たな政策として「ま
をお願いしますとお話がありました。新人
24
状態になってきました。
25
よ う に 起 こ っ た 東 日 本 大 震 災 以 降、 価 値 観
60
15
現 状 の よ う に 見 受 け ら れ ま す。 こ れ は 必 ず
89
50
12
20
50
40
40
は唐獅子のようにふさふさしたたてがみや
に成長した感がする私ですが、それが長じ
が大好きで、幼い頃から犬を飼い、犬と共
ある。
う。この習性を利用した釣りが、友釣りで
友釣りは、他の釣りとは異なり餌を使わ
尾 を し て い る も の や、 山 犬 の よ う に 痩 せ て
て出張や旅行の度に神社や骨董屋を訪ねて
ず、オトリを操作して鮎を掛ける。活きの
良い鮎の鼻に、牛の鼻輪のようなハナカン
狛犬探訪蒐集に向かったと思われます。
狛犬の魅力はその個性豊かなバラエティ
という輪をつけてオトリにする。野鮎が居
は い る が 精 悍 な 姿 の も の 中 に は 子 供 を 連
れたり玉を持ったりしている姿のものなど
に 富 ん だ 千 差 万 別 の 造 形 の 美 に 有 り ま す。
いろいろあります 。
また拝殿の扉を開けて神前に詣でると本
4
ると予想した石の周りにオトリを誘導する。
4
じっと見ている内に人懐っこさに魅了され
し ば ら く す る と、 ガ ツ ン と ア タ リ が く る。
4
4
ら、仕掛けを作るのは楽しい。
4
けは自分で作る。釣れたことを想像しなが
が、釣り人をとりこにする。鮎釣りの仕掛
4
飛ばし、手網に取り込む。豪快な鮎の引き
4
こらえる。掛かった鮎を竿の弾力で空中に
竿を伸されないように、腰をためてグッと
9メートルの竿が弓を絞ったようにしなる。
オトリと掛かった野鮎の2尾が下流に走る。
4
殿の両側の床にも今度は木で彫った同じよ
てしまいます。
道楽三昧
広島支部 平石純一
と毎日スポーツジムに通っています。
狛犬探訪を続けられる元気を維持したい
う な 動 物 が 安 置 し て あ り ま す。 狛 犬 は 日 本
人 に と っ て 誠 に 身 近 な 存 在 で あ り、 知 ら な
い人はいないので は な い か と 思 い ま す 。
狛犬は片方が口を開きもう一方が口を閉
めていて、口を開けている方が「阿(ア)」
口 を 閉 め て い る 方 が「 吽( ウ ン )」 と 呼 ば
れ て い る こ と は 良 く 知 ら れ て い ま す。「 ア
下 手 の 横 好 き で、
いろいろなことに
像」と「ウン像」は梵語の初音と終音であり、
万 物 の 初 め と 終 わ り を 象 徴 し て い ま す。 つ
鮎 釣 り は、 一 に 場 所、 二 に オ ト リ、 三 四
の居る場所を見つけることが先決だ。川の
手 を 染 め て い る。
登り、写真撮影や麻雀などを楽しんでいる。
流れや石を観察して、鮎が居るかどうかを
まりこの世の一切全ての物を包合するとい
釣りのなかでは、鮎の友釣りに熱中して
推理するのである。ヨミが当たって型の良
がなくて五に仕掛けと言われるように、鮎
ま す が、 一 緒 に 何 か 事 を 行 う と き の お 互 い
いる。鮎は釣って良し、
食べて美味い。ホー
い鮎が釣れた時は、自然と笑みがこぼれる。
釣 り、 ゴ ル フ、 山
の気持ちや調子がぴったりと合う事を言い
ムグラウンドは、自宅から近い太田川であ
楽 し い 川 遊 び だ が、 危 険 な こ と も あ る。
う 意 味 だ そ う で す。 阿 吽 の 呼 吸 と 良 く 言 い
私がこの狛犬に大きな関心を持ったのは
る。鮎は、石についたコケを食べる。エサ
虫刺され、雷や増水も怖いが、川そのもの
4
父 親 が 骨 董 好 き で あ っ た 事、 そ し て 自 宅 の
場を確保するために鮎は縄張りを持ち、縄
が危険性を持っている。水の中は苔でよく
4
玄関に一風変わった狛犬の置物が長らく
張りの中に入って来る敵を攻撃して追い払
ます。
飾 っ て あ っ た か ら だ と 思 わ れ ま す。 生 来 犬
90
を 移 動 す る 時 は、 注 意 が 必 要 だ 。 滑 っ た 時
こ と が 大 切 だ。 大 き な 石 や 尖 っ た 岩 の 近 く
滑 る。 す り 足 で ゆ っ く り 動 き 、 転 倒 し な い
類最高の芸術作品」などとも言われており
大曲です。第九は
「音楽の世界遺産」
とか
「人
奏会が開かれている演奏時間1時間以上の
では年末に東京近辺で100回ちかくも演
シラーの頌歌の原詩ではFreiheit
eude(フロイデ=歓喜)という言葉は、
第九の歌詩の中で何度もくり返されるFr
書 物 を 読 ん で の 知 識 と 私 の 想 像 で す が、
に 体 や 頭 を ぶ つ け た り、 倒 れ た 衝 撃 で 大 事
日に開
歳年下のベートーヴェ
の交響曲に前人未踏の人間の声を加え、こ
またシラーの詩があったことによって自分
詩の深く強い思いを自分の曲の思いとして、
ンは知っていたに違いありませんが、この
そういう状況を
版時には穏当な表現に変更されました。
が、当時の厳しい検閲をかいくぐるため出
(フライハイト=自由)となっていました
ます。
)年8月、夕刊紙の広
な 竿 が 折 れ る こ と が あ る か ら だ。 膝 よ り 深
1999(平成
告欄で東京労音が第九の合唱団員を募集し
い と こ ろ で は、 水 圧 で 自 由 に 動 け な く な る 。
深 み で 流 さ れ る と、 水 中 に 引 き ず り 込 ま れ
ていることを知り、世紀末に歌って新しい
月
回の演奏に参
世紀を迎えようと応募したのがきっかけ
る 危 険 性 が あ る。 川 に 入 る 前 に ど こ が 安 全
な 場 所 な の か を 見 極 め、 最 も 短 い 時 間 で、
でした。以来
)年
年連続して
安全に脱出できるルートを頭に入れること
加し、2014(平成
回の演奏会にむけて練習を積重ねて
の詩が自分の曲とともに永遠に演奏され歌
いつがれていく事を確信していたのではな
いか、1989(平成元)年「ベルリンの
周 年、 通 算
121回目となり団員募集数も360名と
の う ち 演 奏 の 交 響 楽 団 は、 東 京 ニ ュ ー シ
に置きかえて歌わせた背景にはこのように
第四楽章の「フロイデ」を「フライハイト」
ド・ バ ー ン ス タ イ ン が 第 九 を 指 揮 し た 時、
壁崩壊」を記念したコンサートで、レナー
回
ティ6回、東フィル5回、日本フィル3回、
熱く深い洞察に基づいた志向があったのだ
会場は東京文化会館大ホールでした。
過去最多数の力の入れようで、そのときの
東京労音の第九演奏会の
います。
催の
が大事である。
昨 今 は、 平 均 寿 命 や 健 康 寿 命 が 延 び て い
る。 体 を 労 わ り、 仲 間 と の 輪 を 広 げ て 、 少
し で も 長 く 道 楽 を 楽 し み た い と 思 っ て い る。
ベートーヴェンの交響曲第九番
を年末に歌う
森 秀雄
新星日響2回の四交響楽団で、指揮は十束
尚宏氏、内藤彰氏の3回を筆頭に延
は第四楽章に独唱者4人と混声合唱を導入
(以下第九と略す)
度 に、 ま す ま す 深 く 魅 力 に 引 き 込 ま れ る の
出演や、練習に参加して第九の合唱を歌う
16
です。
い最大の事由なのかもしれません。
これが私が第九を歌い続けて止められな
達の大きさに心うたれるのです。
と、改めて偉大な作曲家、作詩家、指揮者
の交響曲第九番(ニ
マエストロ達でした。この
年間の演奏会
短調)作品125
名の
16
11
ベートーヴェン
27
11
11
し て い る た め「 合 唱 付 き 」 と よ ば れ 、 日 本
91
26
15
12
60
16
15
21
「新幹線」
ひ と こ と
0
0
0
0
ら景色の変わらない車窓から富士山
0
ろう1歳8ヶ月の息子を抱いて必死
0
の美しくも雄大な姿を見つけた喜び
0
に階段をかけ上り(これはあくまで
0
と弟の安否を思う複雑な約4時間を
0
と発車しました。あの時のスリル感、
0
もつもり)私達のひかり号に飛び乗
過ごしたものです。
力と土木技術の飛躍的進歩があれば
そしてずしっとした重さの感覚は
族といつの日か新幹線で旅行ができ
4年前に広島に帰ってきた娘家
りました。その途端ドアが締りスー
こそと思う。幾多の困難を克服して
年経った今でも残っています。
●鉄道総研 安藤隆夫
我家の近く東京都国分寺市光町
走る新幹線に乗るのは実に楽しい。
るのを楽しみにしたいと思います。
に公益財団法人・鉄道総合技術研究
●山陽新幹線の試乗会
●新幹線 菅沼隆夫
早くて、快適「♪のぞみで行くか
所がある。ゼロ系型東海道新幹線は
年前の東京オリンピックの年、こ
らね」につられて、 年前、小・中
しりと座っている。開通当時、故郷
時の丸い顔をした「ひかり号」がどっ
勇んで広島・博多間の列車に乗り込
年3月。開通前の試乗の幸運を得て
い2時間並んで新大阪までの片道券
祖父の葬儀の名目で2日の休暇を貰
き た い 」。 ど こ へ 行 く と い う こ と で
学生の娘と妻が「新幹線のぞみで行
通り、のぞみで東京、名古屋から恵
はない。いたし方なく女3人のいう
に感激でした。帰りは関西本線経由
那峡へ。後で妻が言う、のぞみは早
を取りました。車窓に集中し富士山
時間かかっての帰京です。この
時から汽車旅の魅力にはまり、国鉄
すぎて「耳が痛くなった、快適では
で
思ったが営業前のためホームに売店
ない」とは驚いた。その初代車両が
丁度昼食時間、ホームで弁当をと
みました。車内は満席で、250キ
が進んでいる。なんと名古屋まで
全線完乗を目指しました。約2万キ
試乗者の方はほとんど弁当持参です。 ロです。
の速さを感じた。もっとも娘2人に
も無く数分で折り返し運転。満員の
目標を果たしました。今は、懐と相
も子供がいる。
分で着くと言う。長生きすれば乗れ
私一人食べる物もなく車内の水を飲
談し、全国の私鉄完乗を目指してい
2年前に引退したと聞き、時の流れ
るかもしれない。
んでいると、知人夫妻からおむすび
した試乗の旅でした。
年後、
●新幹線の思い出 猪股辰雄
新幹線と言えばまず新丹那トン
ます。
が始まり地圧地熱、湧水、軟弱地盤
広島支部 佐々木由紀子
東京に嫁いだ娘と可愛い孫に祝
)年3月 日に乗れた。福岡から
広島支部 谷口 博
チ ャ ン ス が あ り 2 0 0 4( 平 成
●九州新幹線の部分開業日の思い出
の差し入れ。試乗よりも試食に満足
の厳しい難工事であった。最盛期の
坑道に入り凄まじい現場を見学した
省客でごった返している東京駅に着
病気を患い、入院先の利便性もあり
7年前、可愛がっていた弟が重い
新八代駅に着いた同じホームの対面
児島まで新幹線だ。嬉しかったのは
休日を利用しては会いに行きました。 在来特急。新八代駅で乗り換えて鹿
いたのが発車5分前、夫が重い荷物
に新幹線が待っていたことだ。5分
日、夫の実家に帰省するために帰
たが、新丹那は僅か4年で竣工した
見舞いがてら毎月利用しました。何
時の興奮は今でも忘れない。並行す
13
58
を両手に、私はというと キロはあ
る在来線の旧丹那は完成に 年要し
16
●新幹線の思いで
ネルを思い出す。昭和 年代に工事
歳の時にやっと
10
のも驚きだ。並々ならぬ関係者の尽
13
16
30
●新幹線の思い出
小関直子
新幹線が開通して5年目の 月
12
30
35
40
ここで「リニア中央新幹線」の開発
の名古屋まで在来特急の半分の僅か
広島支部 木下完治
山陽新幹線の全線開通は昭和
目の時です。どうしても乗りたくて
●国鉄全線完乗 坂本洋二
新幹線が開通したのは入社2年
45
ロを満喫しながら博多駅に到着。
こで生まれた。研究所前には、その
50
2時間で疾走したのには驚いた。今
20
50
92
)年)東京─新大阪間が開通した。 の年、広島から神戸へ転勤。急行
「安
来年度(2015(平成 )年)に
に出張した。当時の慣例として仕事
が終わると当然飲みになる。そして
は長野新幹線が金沢まで延長される。 乗車。3年後、博多迄開通。その後
間程度の乗り換え時間で鹿児島に向
けて出発した。スマートな乗り換え
しこたま飲んで帰りの新幹線に乗っ
(
歳 ) 在 籍 1 年 の 単 身 生 活 で、 広
芸」で岡山迄。新幹線に乗換え、初
等の事業の企画力はそ後のJR九州
た。 し ば ら く す る と 睡 魔 が 襲 っ た。 全国的な新幹線網ができ国内の主要
き に 渡 っ て 鎖 国 を し て い た 日 本 が、
島→福山間を週2回(月・金)利用
都市間の移動時間が短縮された。ビ
面新幹線網より外れた中小都市及び
開国からわずか100年余りで世界
そして起こされたのだと思うが連れ
ハッと思ったときは新幹線は広島を
通過駅の斜陽化、在来線の存続(民
一 の 超 特 急 を 走 ら せ る こ と に 成 功。
し便利さを満喫。200年以上の長
出ていた。すでに最終列車だったの
営化)などが問題視されてくる。そ
て い た 部 下 は 列 車 の 出 口 に 消 え た。 ジネスや旅行に大変便利になった反
問し初めて知り、改めて感動したの
で、その晩は仕方なくひとりで三原
)年4月に社会見学会で訪
を覚えている。
奇跡といわれている。開業以来シス
テム原因の死亡事故は一件も発生し
の一方、在来線によるのんびりとし
た旅も捨てがたい。
に泊まった。
西村 修
ていない。 “新幹線よ永遠なれ”
●セピア色の思い
放す淋しさと、国の発展を願う心情
かったので、新幹線の存在は「夢の
は新幹線に乗って出かける状況にな
今日は検査2日目、大量の検査書類
前日、年に1回の本部検査が入り
課長として勤務していた時の出来事。
川駅に向かう。F銀行松戸支店営業
憧れの地に着いたとの記憶が残る。
あ「さかぜ」で 時間かけ東京に、期
待と不安に包まれながら、ようやく、
1965(昭和
ほかまえだ
●「新幹線に感謝」 萩埜 孝
晩秋の朝、違和感の陽ざしで目覚
●夢のまた夢「新幹線」
年代に新聞で見かけたこ
新幹線の測量旗立つ
昭和
める。大変だ、大遅刻 大慌てで桶
が折り重なって詠み込まれている。
ま た 夢 」。 思 い 出 す の は 父 が 新 幹 線
提出と面接があり山場。絶対に遅刻
今、東京へ行くのは新幹線を利用
夢 の 超 特 急 開 通! 当 時 高 校 1
年が過ぎた。我が家の生活で
年で
先般テレビで当時の十河国鉄総
開通記念切手( 円)を1枚買って
出来ない。大宮駅乗換え猛ダッシュ
する。所要時間はおよそ4時間、新
の歌を今でも覚えている。田圃を手
広島支部 外前田恵
)年、入社して
裁と島技師長の苦難のドキュメント
くれた、それが私にとって身近な新
新幹線に飛び乗り上野駅、常磐線快
聞を見て、ネットしている間に到着、
せいかもしれない。
台「あさかぜ」を懐かしむのは歳の
にセピア色にかすむあの時の夜行寝
い。しかし、最近、新幹線に乗る度
新 幹 線 で の 旅 は 快 適、 申 し 分 な
12
年目に東京へ赴任した。夜行寝台
に あ っ た こ と を 改 め て 知 ら さ れ た。 幹線だ。古い切手帳の中に今も残っ
を見て、多くの人達の努力がその陰
ている。新大阪まで5時間だったよ
速 で 松 戸、 何 と か 朝 礼 に 間 に 合 い
人口減少が進む中で、鉄道経営は厳
うだが、今後2時間 分にすると言
好。新幹線に感謝と苦い経験の1日
しさを増すであろうが、新幹線はい
何だか隣町へ行く感じだ。
分。
「そんなに急
いで何処へ行く!」わが人生これか
でした。
う。 リ ニ ア で は
らはスローライフで楽しみたい。
●新幹線への思い
●乗り過ごし 広島支部 永山義博
1985(昭和 )年頃の事と思
●新幹線 野ケ山信和
東海道新幹線は、東京オリンピッ
広島支部 花岡武紀
歳)山陽新幹線が開通
うが、当時は課長をしていた。ある
年前(
33
たい。
22
10
ク 開 催 に 合 わ せ( 1 9 6 4( 昭 和
つまでも頑張ってくれることを祈り
セーフ。3日間の本部検査も評価良
40
6
!!
!!
(平成
46
27
●新幹線の開設 田林巖樹
父祖の代を継ぎし青田を貫きて
所で作られていたことは、2014
その新型新幹線が日立笠戸事業
の成長を期待させてくれた。
39
43
60
67
日、鞄持ちを一人連れて仕事で山口
93 50
26
30
年経っても腐食
を 連 ね、 休 日 で も 多 く の 人 が 溢 れ、 学 が 終 り 最 後 の 探 訪 地 東 京 駅 舎 へ
トビルと歴史的建造物が並び、ビジ
手町地区は最先端のインテリジェン
戻った東京駅に加えて、丸の内・大
そ の 後 は、 明 治 安 田 生 命 ビ ル、
三 菱 一 号 館、 K I T T E ビ ル の 見
した。
せず役目を果たした事に感動しま
示 さ れ て お り、
解ける感じがしました。
向 か う。 東 京 駅 は 1 9 1 4( 大 正
して100年前の創建当時の姿に
全然駄目な碁も多く、ちょっと恥
ずかしいですが、対局相手の方の強
風景も一変して活気溢れる街となり
3) 年 3 階 建 の 駅 舎 と し て 竣 工。
ネス街やショップ、レストランが軒
い手が印象に残りました。強い人と
ました。
イベントだより
囲 碁 会
打つことができて、とてもよかった
一昨年
月に創建当時の3階建に
戦 後 は 2 階 建 て の 再 建 と な っ た が、
で す。「 優 勝 」 と い う ご ほ う び は
今回は、この地域にスポットライ
トを当てて探訪をしました。
「また来なさい」ということですね。
太 平 洋 戦 争 や 原 敬・ 浜 口 幸 雄 の 遭
改 装 さ れ た。 こ の 駅 は 関 東 大 震 災、
次はもうちょっと強くなって恥ず
かしくない碁を打ちたいです。
て4班に組分け、少人数での行動と
意図を後世に継承して行きたいも
て 末 永 く、 ま た 設 計 者 辰 野 金 吾 の
着 す る 賑 や か で、 忙 し い 駅 に 変 貌
今では1日4000本の列車が発
難 等 の 出 来 事 の 証 人 で も り ま す が、
対局ルールの説明の後、開会宣言
があり、対局が開始されました。張
広げられ、左記の優績者が決定いた
久し振りに沈香を焚いた気分です。
なりました。
44
の 代 表 格 エ リ ア で す。 昭 和 の レ ト
余
を 超 え る 江 戸 時 代 か ら の 寺 や 神 社。
山 の 路 地。 何 代 も 続 く 老 舗。
完了した丸ビルへ。このビルの北側
メートルの地盤強化
ロな面影が色濃く残る町並みや沢
と 呼 ば れ る こ の 界 隈 は、 下 町 散 歩
18
しました。
二位 中鉢進 五段
愛妻と“未だ元気だ”と喜び合い
ました。一茶をもじった駄句を一つ
のです。
(内田 厚)
オ ア ゾ を 出 る と 1 9 2 0( 大 正
9)年に竣工し、屋上に坑夫と織姫
■第 回 谷中・根津・千駄木界隈
の像が見られ日本に数少ないセセッ
散策( 月 日 参加者 名)
ション様式を採り入れた玄関が特徴
谷 中・ 根 津・ 千 駄 木 の 三 つ の エ
の日本工業倶楽部ビルを外から見学。 リ ア を 総 称 し て 谷 根 千( や ね せ ん )
次に、2008(平成 )年建替え
11
Aクラス 優勝 逢沢悦子 四段
三位 恩地肇 六段
Bクラス 優勝 広瀬一郎 二段
屁もひれて沈香焚けれど秋の風
※次回は5月 日(金)の開催を予
定しています。
(上村洋一)
二位 森英彦 三段
三位 長畑慶子 初段
各クラスの優勝者のコメントです。
Aクラス 逢沢悦子 四段
江戸東京歴史散歩の会
34
72
の床面には旧丸ビル建設時に埋設さ
れていた長さ
用松杭が掘出されその内の1本が展
60
この度、小川さんから「和やかな
大会だから出てみませんか」とお誘
■第 回 東京駅・丸の内・大手町
界隈散策
( 月
名)
日 参加者
21
20
84
29
10
日本の表玄関として、又中央駅と
15
いいただいて、長畑初段と一緒に参
加しました。どきどきしながら入室
すると、受付の方々の笑顔で緊張が
71
94
90
り詰めた雰囲気の中で、熱戦が繰り
催されました。
■第 回 囲碁大会
秋 の 囲 碁 大 会 が、 月 日( 金 )
に市ヶ谷の日本棋院で参加 名で開
31
22
し て お り、 国 指 定 重 要 文 化 財 と し
10
合場所である「オアゾ」では傘は無
Bクラス 広瀬一郎 二段
用となり、絶好の日和となりました。
初優勝。 歳と2日。
今回も理解を深めるため専門ガイド
入会から5年がたちました。つま
し い 日 常 が 続 く 中 で の サ プ ラ イ ズ、 付きの探訪とし、人混み等を考慮し
当日の午前中は少し雨が残る天候
でしたが、午後には雨も上がり、集
10
48
場所として有名な日暮里富士見坂が
は都心では数少ない富士山が望める
いました。神社の鳥居のすぐ近くに
たあと、境内からの絶景を楽しんで
総鎮守で、皆さん神妙にお参りをし
神社に到着。ここは谷中・日暮里の
名の参加を得て、今回もガイド
さんの先導により西日暮里駅前を出
の谷根千界隈を歩いてみました。
れます。今回はそんな見どころ満載
忘れかけていた風景を沢山見せてく
そして明治の文豪居住跡など、日頃
を構えていたこともあり、これらの
た日本を代表する文豪が近くに住居
も知られ、森鴎外や夏目漱石といっ
います。境内はツツジの名所として
社で、東京十社の一社に数えられて
た。大和武尊の創建と伝えられる古
そして全生庵、観潮楼跡、漱石旧
居跡と歩き、根津神社に到着しまし
気のある撮影スポットです。
ばれるもので、絵になる谷中でも人
残っているのが観音寺。築地塀と呼
こから程近くに何とも奇妙な塀が
谷中霊園は天王寺の一角でした。そ
の創建で、当時は寺域も広く現在の
の紅葉の名所としても有名です。本
然記念物であり、春のしだれ桜、秋
同時に、その境内林は武蔵野の面
影を色濃く残す雑木林で国指定の天
として知られています。
された関東の代表的な臨済宗の名刹
埼玉県新座市野火止の現在地に移築
霊廟となり1663(寛文3)年に
太田備中守により創建され松平家の
「 平 林 寺 」 は、 南 北 朝 時 代 の
1375(永和元)年に岩槻城主・
ました。
雨に濡れた紅葉を楽しむことができ
案内で赤や黄色など様々の色合いの
ワカエデやウリハダカエデなど切れ
( 五 な い し 七 裂 ) な ど の 葉、 ハ ウ チ
(七ないし九裂)やイロハモミジ
の多寡への関心が強くヤマモミジ
また、参加者の間では枝垂れモミ
ジなど珍しい品種や葉の切れ込み数
り紅葉に至る時期には幅がある」な
よりまだ青々としているモミジもあ
と華やかさが増しているが、場所に
発しました。諏訪台公園を経て諏方
■ 回 鎌倉探訪
の塔頭で休息して平林寺の由緒を知
が、徳川家康が鷹狩の折に焼け残り
ガイドの案内で「秀吉の北条攻め
の際に戦火で多くの伽藍を消失した
してくれます。
小路”となっている)
。いずれにし
いうが真偽は不明(市の標識は“今
の通りは“武蔵大路”と称されたと
所の方に歩き最初の信号を右折。こ
出発する。JR鎌倉駅西口から市役
テーマは“鎌倉に
回鎌倉探訪ゆの
かり
生きた女性の所縁深い史跡、寺社を
(9月
日 出席者 名)
鎌倉探訪
が目に留まる紅葉狩りでした。 (杉山 功)
目の少ない葉を探す女性参加者の姿
どが披露されていました。
あります。しかし残念ながら、間に
どを中心とする落葉広葉樹林が取り
ミジ、コナラ、クヌギ、エゴノキな
ヒノキ林が取り囲み、その外側をモ
文豪に因んだ旧跡も残されています。 堂を初めとする建造物の周囲をスギ、
園芸クラブ
(佐久間征二)
マンションが建って雄姿が見えなく
なってしまいました。
続いて一行は養福寺、淨光寺、経
王寺を見学して、谷中銀座に向かい
り中興に尽くした歴史」や「植物分
ろ当時のメーンストリートの一つに
巻いていて秋には美しい紅葉を演出
( 月 日 参加者 名)
です。週末には観光客がどっと押し
今回は平林寺近くの「手延べうど
かけて大変な賑わいですが、今日は
ん たけ山」で昼食をとり、徒歩で
平日で比較的空いていて、のんびり
と買い物を楽しむことができました。 平林寺へ向かい境内を散策する設定
り上げられて全国的に有名な商店街
と降る生憎の天候でしたが、その分、 類上はモミジと名付けられたものも
です。当日は、冷たい雨がシトシト
カエデの一部でカエデ科カエデ属で
ました。ここはメディアに何度も採
天王寺は江戸時代に富籤の勧進元
として有名でした。テラ銭はお寺が
紅葉の最盛期にも拘わらず混雑もな
訪ねる”
。生憎の雨模様の天気だが
胴元となってアガリを取っていたこ
は違いない。往時は甲冑姿の武者た
13
ある、ここ数日の寒気と湿気で一段
25
く、4人のボランテイア・ガイドの
■新座市平林寺紅葉鑑賞会
112
112
とから出てきた言葉です。室町時代
95 13
44
11
25
いる。
賀 線 の ガ ー ド を く ぐ れ ば 岩 船 地 蔵。 尼僧の住職が多いことでも知られて
23
ら鎌倉方面に向う電車の中から最初
祈って建立した寿福寺は鎌倉五山の
い )。 北 条 政 子 が 夫 源 頼 朝 の 冥 福 を
寺の英勝寺(寺の休みで拝観できな
の先が本日はパスする鎌倉唯一の尼
手前が今回の目的の一つ寿福寺。そ
八幡宮は近い。静御前の話は今更詳
にはいれない。残念。ここより鶴岡
気の関係だとかで、お目当の仏像庫
に住んだらしい。今日は雨の為、湿
をしたって鎌倉へ来て、このあたり
尼の息子といった方が判り易い。母
藤原定家の孫であるが、前述の阿仏
程歩くと左側に寺が二つ並んでいる。 冷泉爲相の墓がある。爲相は歌人の
照寺。鎌倉入りを阻止された一遍上
の橋を左折して、すぐのところが光
ら 大 船 方 面 へ 2、3 分 位 歩 き、 最 初
広場は都心の駅並みの混雑。駅前か
季節がよいからか観光客が多く狭い
呼ばれる。うち「中の道」は源頼朝
には上、中、下の三道が鎌倉街道と
じる路が鎌倉往還であるが、一般的
ざ鎌倉へ」のとき各地から鎌倉へ通
等の作品を世に出している。資生堂
撮 影 所 跡 で 昼 食。
「男はつらいよ」
た。今は鎌倉女子大がある松竹大船
史で欠かすことができない寺となっ
の蘭湲道隆を迎えたことで鎌倉仏教
北 鎌 倉 駅 前 が 集 合 場 所 で あ っ た が、 行勇が開山であるが、建長寺の開山
の奥州征伐の進路として有名。JR
工場(今はない)跡の脇を通って法
と言われ、幕府と縁の深かった退耕
が妻の母の冥福を祈って建立した寺
ろい光景をつくっている。北条泰時
うのひこばえが群生して一寸おもし
楽寺に着く。山門をくぐるといちょ
0
第三位で知名度は高い。裏山には政
り 7、8 分 歩 い た 婦 人 子 供 会 館 で 昼
( 鎌 倉 で は ヤ グ ラ と い う ) が あ る。 述することはあるまい。八幡さまよ
子と源実朝の墓と伝えられるホラ穴
食。昼食後本日のコースの意味と史
人らが山のほとりで念仏した旧跡に
安寺へ。この寺は後北条氏の後援に
0
隣りの英勝寺の門前を通りすぎると
実について学習。外へ出たら雨は止
建てられた寺という。山門にクルス
0
後ろが小高い粟船山になっている常
阿仏尼の墓と称される岩をくりぬい
み、まぶしい位の陽光。会館のすぐ
より興隆し、滅亡で衰微したが現在
0
た洞穴があるが、彼女が鎌倉で死ん
近くの大巧寺(おんめさま)拝観後、 ( 十 字 ) の 紋 が あ る 鎌 倉 で は 珍 ら し
では地元民の篤い信仰心に支えられ
しも
だかどうかは不明。今日の訪問先の
いキリシタン関係の建物。境内には
旧鎌倉郡三十三観音霊場の十五番札
なか
浄光明寺はここより指呼の間にあり
鎌倉駅経由で大船へ。おんめさまは
咳止めの祈願の碑「おしゃぶき」も
かみ
息子の墓もあるが、この点について
「 産 女 さ ま 」 で 安 産 の 守 護 神。 こ じ
多 く、 知 る 人 ぞ 知 る 花 の 寺 で あ る。 で大船へ。
にいばし
は後述。息子の相続争いの訴訟のた
大通りに面した寺であるが静か。懇
水堰橋を渡って横須賀線を横切ると
(藤﨑大四郎)
、 の両会とも懇親会は盛会。
親会の席を借りて東慶寺について勉
すいせきばし
歳近くでの彼女の行動には感服。受
すぐのところにあるのが鎌倉で唯一
強。 御 存 知 の よ う に「 駆 け 込 み 寺 」
の浄土真宗寺院の成福寺。俳優の笠
い ざ よ い
験等でおなじみの「十六夜日記」は
として有名であるが、また名門出の
じょうふくじ
その時の旅日記。道なりに歩き横須
のためとは言え女性の足、しかも
所となっている。新橋、水神橋経由
回 鎌 倉 探 訪 の テ ー マ で す。
「い
21
112
113
96
智衆の墓がある。横須賀線で大船か
ちが歩いたであろう。何の変哲もな
ここは頼朝の長女の大姫を祀ったお
おおひめ
い通りであるが、新開地の道とは一
堂。大姫は許嫁の木曽義高(木曽義
仲の息)を父に殺され、気鬱の病で
0
である。ひと昔前は車の往来も少な
夭逝。それを憐れみ建立されたとい
0
く、ゆっくり散策も楽しめたが、最
う。浄光明寺は背後に丘陵を背負っ
が
0
寸違い生活のにおいがする古い街並
■ 回 鎌倉探訪
に目にする鎌倉のお寺がここ。富士
( 月 日 出席者 名) 見地蔵尊を経由して大船方面へ歩く。
道の感じは鎌倉市内と変わる。歩い
鎌倉街道「中の道」を歩き、そこ
に 沿 っ て 点 在 す る 史 蹟 を 訪 ね 歩 く、 ている観光客とすれちがわないのだ。
近は車が多くなり、のんびりと心を
た 静 か な 佇 い の お 寺。 裏 手 の 山 に
11
んまりした境内は手入れが行き届き、 ある。また、いろいろな四季の花が
れいぜいためすけ
遊ばせながら歩けなくなった。 分
113
113
めにはるばる京より鎌倉へ下る。欲
10
60
カメラ同好会
6月は前月の撮影会が雨天中止と
なり課題の「春の風物」と自由作品
のコンテストが行われました。浅草
三社祭のハッピ姿の髭の外人、男女
合同の笑顔の御輿姿等の作品が注目
さ れ ま し た。 自 由 作 品 で は 満 開 の
妙で心地よい語りも始まった。
青春”をテーマにコンサートは開か
ので、今から作品作りに入ります。
続いて、シルクハットで男装の麗
人・森田日記さんが「サンジェルマ
新人賞に入選等、新人からベテラン
スケッチ等の原画から木版画用の
下絵に仕立てて、彫りから摺り上が
ンへおいでよ」を華やかに歌いだし
郊では馬事公苑の「紅枝垂アップの
りまでの行程を会員どうしで検討し
た。
・・・ そ し て 井 関 さ ん の 声 量 豊
れ た。「 パ リ の 空 の 下 セ ー ヌ は 流 れ
たり煮詰めて作品に仕上げる段階を
かな「愛の讃歌」で第一部を締めた。
まで大活躍しています。
重要視しています。
第二部は、森田さんがドレス姿で
「 サ ン ト ワ・ マ ミ ―」 を 歌 い、 雰 囲
美」白く輝く「酔芙蓉」等が展示さ
から新人までが集まり情報交換や勉
当会は、会員相互の研鑽を旨とし
ていますので、特に授業料等は徴収
気を変えた。井関さんはコミックな
れました。どうぞお気軽にカメラ同
人マドンナ、また釣り人の獲物を狙
強会を開いています。
していません。質実堅実で気楽な会
で」は矢張り素敵だった。
曲「 小 さ な シ ャ ン ソ ン の 店 の 片 隅
りと聴かせてくれた。自作のヒット
井関さんは飽きさせない。ジャッ
クプレルの「ブルジョワ」はしっと
れた。
動作を交えて「電話」で笑わせてく
■第 回(7月 日 参加者 名)
毎 年、 巴 里 祭 の 月 に 開 催 さ れ る
シャンソンコンサートは、シャンソ
サロンコンサート
(木楽会)です。 (安藤修二)
「 ラ・
当会は毎年展示会を開いています。 る 」 の ピ ア ノ 演 奏 で 始 ま り、
年度末には築地で実施しております
メール」で井関さんが登場して、軽
好会にご参加下さい。
(七澤義人)
木 楽 会
う白鷺等が入選しました。
年賀状・暑中見舞・蔵書票等の小
作品を作るのも楽しく、大作に挑戦
毎月第2、第4金曜日に日退協の
会議室にて、 代から 代のプロ級
7、8 月 は 酷 暑 を 避 け て 集 合 撮 影
会は中止、9月に集合撮影会を小石
するのも完成後の達成感大です。
花々の池に映る光景、阿波踊りの美
川植物園で開催しました。好天に恵
上がるように指導いたします。
まれ絶好の撮影日和となり、彼岸花
初めての方には易しい画を基に簡
に「誘われる蝶」、満開の「花菖蒲」、 単な道具と材料で彫りと摺りが出来
餌 を 争 う 池 の 鯉 の「 四 面 楚 歌 」、 ま
た 自 由 作 品 で は「 薔 薇 の ア ー チ 」、
今 年 2 回 の 研 修 は、 春 の 柴 又 ス
ケッチと、 月に群馬県桐生市の大
「白樺林に咲くつつじ」等爽やかな
月 は 昭 和 公 園 で 撮 影 会 を 行 い、 み(1枚の版木を彫りと摺りを進め
初冬の風物の撮影を競いました。
ながら多色刷りを行う方法)の木版
層華やかだった。ピアノ伴奏は加藤
森田日記さんとのコラボなので、一
ゼリーゼ」をみんなで歌い、大いに
ナーレは「パリ祭」と「オーシャン
指導を頂きました。
画制作・絵画の鑑賞の仕方等講話と
また、 月2日より市ヶ谷写真展
を開催し会員達の1年の成果を展示
木の温もりを感じさせるアコスタ
会員各自の力量に応じて、個展や
各団体の所属者等公募展他に出品し、 ディオ(原宿)
。
しました。旭山動物園でのオットセ
イ の「 空 間 遊 泳 」、 長 野 白 駒 池 の
“ 心 と き め く シ ャ ン ソ ン・ い つ も
今年6月から
月の間、都知事賞・
「 水 面 の 輝 き 」 等 遠 方 で の 力 作、 近
(和田照雄)
盛り上がって終了した。
川美術館の大川幹夫氏より、削り込
55
90
るり子さん。会場は、前回と同じく
作品が選ばれました。
18
いろいろなシャンソンを歌ってく
ン界の大御所である井関真人さんが
3年連続で出演してくれた。今回は、 れて、2時間はアッという間。フィ
39
60
10
10
97 11
11
四季の会
■第8回 ボイストレーニング
(参加者 名)
7月 日、横浜市のアートフォー
ラムあざみ野で2回目のボイスト
詩吟同好会
( 毎 月 第 4 木 曜 日 午 後 2 時 〜 4 時
ごたえのある快感に変わってまいり
ます。李白、杜牧、菅原道真、頼山
陽といった歴史上も名高い作者の漢
詩を吟ずる時は気持ちも昂り、心身
ともに活性化する実感がわきます。
会場:本部談話室)
2013(平成 )年8月に発足
なお、近年、男性中心と思われて
した日退協では最も若い同好会です。 い た 詩 吟 界 は 今 や 女 性 軍 が 優 勢 に
紅2点の女性も大健闘しています。
うぞ一度練習風景をひやかしにおい
す。歌詞を良く読んで言葉の一つ一
高音の時は、事前に準備して声を出
町の賑わい、商いの様子が温かみの
学しました。200年前の日本橋の
ている「熈代勝覧」の複製絵巻を見
吸ってお腹に溜め、少しづつ吐きな
地下の開発も進んでいますが、今
がら歌い、途中では口から息を吸う。 回は三越駅前コンコースに常設され
に開催し、お互いに激励しあったと
今年8月には1周年を節目に温習
会(おさらい会)を内内ながら盛大
になっています。
込まれて早くも吟詠を楽しむ雰囲気
導に、詩吟の全くの素人全員が引き
■第 回 水元公園(葛飾区)
( 月 日 参加者 名)
自然を楽しむ会としては 年の歴
史のうちで初めて都心部より東の場
でください。いつでも新入会員は大
つを十分理解して表現する。以上の
ある色彩と細やかな筆致で生き生き
ころ。練習会だけではなくプロの先
所での開催でした。この水元公園は
歓迎でーす。 (芝山 茂)
事を頭に入れて歌うと上手くいくそ
と描かれていたのが印象的でした。
生方の吟詠会や全国レベルの吟詠コ
葛飾区の北辺にあり、昔の利根川流
心道流是道会会長の薄井是道先生
(協会個人会員)の熱心で濃密な指
うです。
ンクール、詩舞道の公演などにも勉
自然を楽しむ会
「老舗巡り」は「山本海苔店」
「日
最後に先生の歌唱指導のもと「夏
の想い出」を全員で合唱致しました。 本橋 木屋」で、店長から、伝統を
い つ も 何 気 な く 歌 っ て い ま し た が、 残 し な が ら も 時 代 と 共 存 し て い く
の中から、次回ボイトレの開催も期
ショッピングも十分楽しめました。
何といっても有名なのは、 万本
100種類と言われるハナショウブ
うです。
となり、これを擁して都内で最大で
域の名残が小合溜という大きな溜池
21
〝 技 ” と〝 知 恵 ” の 話 を 伺 い ま し た。 強のために鑑賞に出かけています。
10
これからは教えて頂いたことに気を
3
付けて歌おうと思いました。参加者
6
唯一の水郷公園が出来ているのだそ
47
界隈には名店や地方の物産館も多く、 すでに先生のお手製の教科書代わ
りのCDも2枚目となり、月1回の
待しているとのお声もありました。
36
(白井勝子)
能された方も多く、中味の濃い一日
でした。
(豊田和子)
腹の底から声を発する(いわゆる
吼える)感覚はやっているうちに手
練習会では物足りないという声も出
近 く の 三 井 記 念 美 術 館 に 立 寄 り、
始めている次第です。
足利家の至宝「東山御物の美」を堪
24
■第9回 いま話題の「日本橋老舗
巡 り 」( 月 日 参 加 者 名 )
10
ですが、その他の水辺を好む樹木・
20
98
すっかり変わった日本橋を自分の
目で確かめ、自分の脚で歩こう! と、晴天の秋の日に集いました。
道路標識で「東京まで◯◯ 」と
あるのは、日本橋までの距離である
賑 わ っ て い て、 日 本 橋 が 確 実 に 変
と言っても構成メンバー 人の平均
な っ て い る こ と も 新 た な 発 見 で す。
地上に出来た新名所「コレド」は、
年 齢 は 歳 超、 最 高 齢 は 歳 で す。 多少なりとも関心をお持ちの方はど
高層の新建築ビル。若い人の出入で
であった事を改めて認識しました。
という話から、この地が江戸の中心
㎞
わっている事を実感しました。
10
85
レーニング教室を開催致しました。
講師の皆川知子先生の美しいお声
と楽しいお喋りに魅了されました。
25
22
歌い始めに、まず鼻から一杯息を
70
25
も、日頃の研鑚の成果作品
点が出
品展示され、めでたく受賞された方
一つで、その沼沢植物群が国の天然
記念物に指定されている三宝寺池を
は、次の通り。
野草もここならではの雄大な景観を
見せてくれました。特にポプラの大
擁する都立公園です。
などの水草や、真っ赤に輝く実がた
とオギ、アシ、マコモ、キショウブ
■飛田硯水・常陽水墨会 周年記念
祈念致します。
受賞された方々に心よりお祝いを
申し上げると共に、益々のご活躍を
めた落葉樹など多彩に鑑賞できます。
井草通りを西に渡り、クヌギ広場
で昼食休憩の後、午後のコースは三
月
日)
作品展 協力賛助出品
( 於 茨 城 県 陶 芸 美 術 館 〜
月
日
わわなイイギリ等の樹木、色づき始
細長い石神井池に沿って南側を行く
や柳を交えた芦・真菰・藺草の大原、 西武池袋線石神井公園駅に集合し、 (特 選)
土井孝雲
400メートル歩いて東端から入園。 (秀作賞) 比留間文子
回相模原公園(相模原市)
に十分な眺めでした。
■第
(
月7日 参加者 名)
当初、開催場所「新宿御苑」でご
案内しましたが、デング熱騒動で閉
園 さ れ た た め、「 相 模 原 公 園 」 に 変
更いたしました。このため新会場に
参加できなくなった方もいて申し訳
であったと思います。この様な作品
展を通して、地域の皆様とのふれあ
い、そして行政との接点を持つ事は、
まさに公益社団法人日退協の基本理
念に合った活動の一環であると思い
ます。 (須釜栄作)
竹とんぼ同好会
きたざわサロンの活動開始を契機
に発足した我が竹とんぼ同好会も早
いもので、9月で満4年を経過しま
みやび
維持しているところです。
一方懇親会での酒量はスタート時を
宝 寺 池 周 辺 を じ っ く り と 歩 き ま す。
した。この間少しずつではあります
我が日退協水墨会と常陽水墨会は、
が、 竹 と ん ぼ の 制 作 技 量 も 上 達 し、
飛田硯水先生を講師として指導を受
水辺観察園、石神井城址。浮見堂と
けており、協力関係に有る為このた
周年作品展に賛助出品させて
頂きました。日退協水墨会より
びの
林を抜け、あとはバスで大泉学園駅
いう池中に突き出た、展望の素晴ら
相模原公園は一昨年春に開催した
場 所 で す が、 今 回 は 季 節 を 秋 に し、 しい四阿、湧水源を経て、野鳥誘致
巡り方も変えました。相模大野駅集
名、 6月、7月には雅トンボの制作を
楽しみました。左の画像がその竹と
点、オープニングセレモニー
作品
回日本水墨院展開催
水墨画教室
に出て解散しました。 (店網俊夫)
■第
合、バスで女子美大へ。イベント広
場脇から入園。午前中は公園西半分
を回り、大温室前で昼食休憩と自由
行 動。 午 後 は フ ラ ン ス 風 の 噴 水 庭
園・メタセコイア並木・こもれびの
日〜7
に は、 来 賓 共 々 当 方 か ら 6 名 参 加、 んぼです。
和気あいあい親睦の輪が広がりまし
スーパー竹とんぼの羽を千代紙で
飾 り ま す。
勿論バラン
た。なお後援は、茨城県、県教育委
員会、笠間市、笠間稲荷神社、茨城
てあります
スも調整し
点、飛
新聞社であり、出品展示作品は常陽
点、日退協水墨会
千代紙で仕
このように
び ま す が、
からよく飛
雅トンボ
(於国立新美術館 6月
水墨会
76
径・リリちゃん橋と進み、最後に麻
月6日)
点 と、
地域の展覧会としては規模の大きい
点の総計
本年は昨年にまさる273点の展
示があり、関係の先生方、会員なら
内容充実した記念展であり、参画出
田 硯 水( 個 展 )
びに出品者各位の皆様の努力が感じ
20
来た事は、大いに意義あるイベント
25
20
36
29
られた展示会でした。我が教室から
20
溝公園・大展望台を見て、またバス
で帰りました。
16
蓮の大群生池など人の気持を晴らす
並木、メタセコイアの森、ハンノキ
10
10
10
16
17
■第 回 石神井公園(練馬区)
( 月 日参加者 名)
4
10
ありません。
26
10
11
石神井公園は武蔵野3大湧水池の
99 10
10
48
49
やくだい
薬代を酒屋へはらふ無病もの (江戸川柳)
露するのも写真に印刷したものを見
いる男女や親子の姿をよく目にする
肖像権の問題でトラブルにな
らないための注意事項
②写真撮影にあたっての構図の
問題
③デジカメで撮影した画像の保
存 方 法、 j p g 保 存 の 問 題 点
100
上げますと、素晴らしい飾り物の小
く高齢化が進み、当然出てくる多種
いつかいゝ春におもてはなっている
句作には森羅万象に苦戦する面白
多様な歪に対応を迫られていますが、 さ が あ り ま す。 し か し、 要 は 健 脳。
(杉山光男)
デジカメクラブ
物として、部屋のアクセントとして
句会会場をめざし、アンテナショッ
こ の 竹 を 見 習 っ て 真 直 ぐ 健 や か に、 句 を 捻 っ て 脳 を 活 性 化 す る と 共 に、
しかし、柔軟でしなやかに過ごして
プへの道草など、お出かけ歩きで健
和の雰囲気を醸し出してくれます。
いきたいものです。
さて、わが同好会では竹とんぼに
限らず竹細工に興味がある方々の参
実は、この雅とんぼは日退協創立
周年記念で開催されたチャリティ
場でバザー商品として出品され、皆
加を歓迎します。老若男女、協会会
これは反面教師といたしましよう。 せるのではなくUSBメモリーに保
脳も守れるのが同好会の薬効です。
様のご協力により、社会貢献活動資
員・非会員、器用不器用は不問です
存して持参、談話室にあるパソコン
のモニターで披露するのが通例と
協会談話室での例会でお待ちしてい
周辺は一変、日本橋界隈も開発途上。 なっています。
コンサートと 月の個人親睦会の会
金の一助といたしましたので、購入
ので、毎月第3水曜日午後3時から
デジカメクラブの例会では会員が
デジカメで撮影した画像を会員に披
いただいた方には、趣旨にご賛同い
ところで、3・ 以降、会場は日
本橋へ引越しました。東京駅はじめ
ます。希望者は協会事務局までお問
ただけたものとして感謝申し上げま
す。
画像を携帯画面で見せるのが多く
最近ではデジカメ機能のついた携
帯電話などが一般化して、撮影した
います。
名の構成です)
。女性のうち1人は
ようになりました。
なってきています。電車の中で携帯
に映し出された写真を見て談笑して
題は尽きません。句会場は処を得て
この辺りは大手町温泉の計画など話
築地・海鮮丼川柳会
(富川 正)
い合わせください。
ておりますが、あらためて竹の魅力
現在、句会のメンバーは、東京5
名、 千 葉 名。
( 男 性 7 名、 女 性 9
ユニークな通信会員。中国語を学び
にひきつけられています。植物学的
には木? 草なの? また、竹の節
東京オリンピックから 年、6年
は 筍 の 時 に 全 部 揃 っ て い る の で、 後トウキョウに決まった今年、協会
〈江戸川柳より明るいメッセージ〉
和気藹々です。
アいっぱいの懇切指導で、月例会は
事の津田暹先生。先生によるユーモ
講師には、飛び切り恵まれていま
す。一般社団法人全日本川柳協会理
せん。
ル投句は一度も遅れた試しがありま
に上海に赴き、その後8年近くメー
号』に川柳会一同より乾杯! お陰
様で、当川柳会も 周年を迎えるこ
創立
りませんが、そんなことよりも、簡
とができました。
年々成長しているといえるの? と
か特異な植物であることは間違いあ
単に加工できるのに金属と同じ精度
長寿国逆三角の脆さ抱き 南穂子
10
言いました聞いていません老い二人 弘
と心許ない風情を齎しました。
の工作が可能な素材なのです。今ま
30
この間、世は超高齢社会へと変貌
し、
で、 直 径 が 0・3 ミ リ の 竹 籤 の 部 品
を使った玩具も作ったりしてきまし
た。
日本は超高齢社会として、一番早
①街角写真を撮るにあたっての
周 年、『 マ チ ュ リ テ ィ 1 0 0
10
そんな世の中ですが、わがデジカ
メクラブでの最近の話題は、
50
しみながら同好の志との親睦を図っ
我々は、竹を主材料としたいろい
ろなオモチャや雑貨を作って毎回楽
11
11
30
など
話題になりましたが、XPや7(前
あ る こ と を 確 認 で き ま し た。 ま だ
たび
会は毎度述べているように、会員が
迷っている方には「買い替えはスマ
0
出)ユーザーからは支持されなかっ
0
繰り返してきたマイクロソフトの
クラウドに関しては、マイクロソ
フ ト も 一 生 懸 命 努 力 を し て い ま す。
0
前月又は前々月に読んだイチオシの
ホ」をお勧めしようかと思います。
が、その他の会員はそれについて批
マーケティングはお粗末か、或いは
「ワンドライブ」は
0
書籍について、その内容を披露する。 たようです。一代毎に当たり外れを
①旅先で撮影してきた写真
評することはない。みんなが、その
寡占状態からくる独善の結果のよう
そして恒例の会員が撮影した写真
の披露については、
②家の庭に咲いた草花の写真
本を予め読んでいないから当然とい
GBも容量が
③東京の街を散歩しながら撮っ
⑤地元であったお祭りの写真
④夜空に輝く星の写真
花 が 咲 き ま す。 会 員 の み な さ ん は
スについて話題が移って行き討論の
よっては最近のカレント・トピック
えば当然ですが。ただ話しの内容に
らはウインドウズ9ではなく、何故
提供されるということですが、こち
来年には早くも次のヴァージョンが
に思えてしまいます。
て も 殆 ど の 機 能 が 利 用 で き る か ら、
ので、仮にオフィスが入っていなく
ソフトのオフィスが付属して使える
割り当てられていて、しかもフリー
た散歩写真
など色々な写真が披露され「これは
か
ちょっと趣向を変えて、明治前期
の版画家・井上安治が描いた場所は
い ス タ ー ト 画 面 に な り そ う で す が、
使い勝手が心配ですね。
「その人物をもう少し手前に持って
原に居ながら楽しんだりしています。
今どうなっているのか。会員の一人
つつある」ということです。音の圧
この半年間で我がパソコンクラブで
縮技術の進歩により、いっそう生の
さて、パソコンは個人使用ではど
んどんスマホに変わってきているよ
さて、6月から 月までに当会が
とり上げた本(話題)をジャンル別
音に近づきました。ただ現状は、最
うに思います。あなたはこれからど
きた方がいいのではないか」とか話
近再生機器は普及価格の物が発売さ
(富川 正)
うしますか?
の素晴らしいデジカメ画像で、秋葉
社 会 科 学 関 係: 冊 時 事 問 題
(エコノミスト等の論文)8件 そ
の他6件、以上 (藤﨑大四郎)
PCクラブ
充実してくることが期待されるとい
8(エイト)に進みました。売りは
7(セブン)は強引とも思える形で
定OSとして直近で評判が良かった
ていて、使い勝手からいっても、思
い」という問題もどんどん改善され
る「 金 が か か る 」
「操作がなじめな
高齢者にはまだまだ普及していな
いスマホについても、懸念されてい
は諸般の事情もあって一部の人の作
ダーの作成を行っています。今年度
恒例で全員の合作である卓上カレン
当教室は小泉和男先生の指導のも
とで各人の自由作品の作成と毎年の
木版画教室
タイル状のタッチパネル機能を採用
い切って挑戦すべき環境が整いつつ
う未知数が多い段階です。
したスタート画面。目新しさのみが
IT(アイティ)の世界でも「歴
史は繰り返す」のでしょうか。案の
れたばかりで、メディアもこれから
楽 し ん だ 話 題 は ま ず、
「音が変わり
便利ですね。
夫々一家言ある人ですから話の種は
になるとか。内容は一層7に近
奥行きがあって素晴らしい」とか
15
にしますと次の通りです。
「 少 し 右 下 り に な っ て い な い か 」、 つきません。
10
し合って楽しいひと時を過ごしてい
ます。
写真撮影はお互いに見せ合って上
達していくものです。
デジカメクラブは、楽しいクラブ
です。メンバーも気さくな方々ばか
りです。ぜひご参加ください。毎月
第1水曜日午後1時半開催。
(鈴木新太郎)
読書くらぶ
読書と言えば何かむつかしいこと
を考え勝ちであるが、私たちの読書
101 11
16
代 化、 富 国 強 兵 の 実 現 に 向 か っ
天皇と真心の民―国家統一と近
日露戦争で見せた我国の実力
の 凄 さ、 優 れ た 国 柄 ―「 シ ラ ス
儀正しいと記している。
の話では日本人は親切であり、礼
清国軍が長崎まで来て、示威運動を
国との争いが重要なテーマであった。
§ 8 で は、 朝 鮮 を め ぐ る 日 本 と 清
約 改 正 に つ い て 説 明 が あ っ た。
敗退した松方内閣について説明され
朋 と 富 国 強 兵、§ 9 野 党 と 戦 っ て
近年参加者の数が減少しているの
で先生も含めて全員が2か月分を担
当して皆四苦八苦しながら何とか所
定の部数を仕上げることができまし
講師 和泉屋 正一会員
(5月
川内相が未曾有の選挙干渉を行って
た。
上陸したのは107名であった。
ついて説明あり。
その他、東京裁判―事後法による
もの―公職追放、教育基本法などに
清国が出兵し、我国も出兵して清国
一方、不平等条約の改正に着手し
た。 朝 鮮 半 島 の 東 学 党 の 乱 に 対 し、
今回は第 回、第 回に続くもの
で、 資 料 § 伊 藤 内 閣 を つ い だ 黒
との間で成立している。(佐野 了)
の直前に平等な通商航海条約が英国
渉)の説明があった。この日清戦争
終戦、その後の列強の干渉(三国干
との戦争になった。この日清戦争の
党工作も重要となった。
10
■第 回、 回
」
「わが現代史遍歴―§ 7〜 §
想起は子供達の誇りと責任感を
田 内 閣 は 何 を し た か、§ 8 山 県 有
7 128
102
品を除いてカレンダーの作成だけと
た こ と、 更 に イ ン ド ネ シ ア の 独
していたとのことである。
歴史を考える会
立と日本との関連」について、説
なりました。
前回に続き、明治開化期の日本と
朝鮮⑷、⑸の説明があった。江華島
明があった。
た。§ 7 で は、 憲 法 草 案 作 成 と 条
に向かったのは黒田全権大使と隋員
§ 9 の 説 明 に よ れ ば 1 8 9 2
(明治 )年2月 日の総選挙で品
■第 回「朝鮮半島関係資料」
昨年 月 日の「はつらつふれあ
いの集い」に間に合わせて作成した
一 行 が 乗 る 玄 武 丸 を 中 心 に 6 隻 で、
しました。
§ では、伊藤博文が再び登場し、
第2次伊藤内閣の成立までの経緯が
いる。その後の処理にからみ、松方
化 ― そ の た め に 思 想、 言 論 統 制
説明された。政党政治に踏み出した
国 を い や し め る こ と が、 日 本 人
等が行われた。
内閣は総辞職している。
とがあったが、日本側が帰国を表明
以上、与党の存在が重要となり、野
自身によって行われた。
するに至り、最後には結着している。 三、東南アジアの独立と防共―日本
会者も募集していきたいと思います。 批准書の署名・押印をめぐるもめご
普段は教室での実習が主なので今
後は折にふれて野外授業等も積極的
この第 回で、4回に及んだ「朝鮮
回、第 回「戦後における反
半島関係資料」の説明は一応終了し
た。
■第
日。反国家史観の形成について」
日)
10
講師 鈴木 俊二会員
(9月 日、 月 日)
27
129 22
呼 ぶ。 江 戸 時 代 に 来 日 し た 外 人
力 の 基 礎 で あ り、 優 れ た 歴 史 の
10
137
135
講師 梶谷 浩会員
(6月 日、7月
28
136
133
134
一、歴史認識は国民精神、国民の活
23
(林 俊機)
2015年カレンダー
軍の援助
に取り入れていく予定です。
黒田艦隊は江華府に向かう。半島
側の開化派との打ち明け話、苦悩等
26
今年度については実習、作成を通
して木版画の楽しさを体現していき
日)
作品の展示を行い存在感をアピール
慰 安 婦 問 題 に つ い て は、 事 実
に反して捏造されて報造され、祖
133
が説明された。日朝両大臣が会談し、 二、対日占領政策の眼目―日本弱体
15
13
たいと思いますが、同時に新しい入
25
11
広島支部
を得ています。
動も取り入れ会員の皆様に大変好評
美味しい食
を 受 け て、
グルメ志向
開催しています。最近は参加者が
寒さを避ける開催を心がけ、年6回
離ゴルフ場で、夏場の暑さと冬場の
現在は原則として、4月・5月・
食などに心
ダブルぺリア方式によるハンディ
ハンディキャップは、3回までは
人を超える盛況です。
軸足をおき、主要街道沿いの史跡を
がけていま
キャップ、4回目以降は、同好会独
事処での昼
訪ねています。今後は、
その「街道」
す。
月・3月の年4回「歴史街道」に
に「海道」を加えて、探訪先を拡げ
歴史探訪会
広島支部設立当時、支部活動の柱
自の算定基準によるハンディキャッ
一催事とし
すべきことは、ホールインワンが3
過去のゴルフコンペの中で特筆
プで競っています。
ては最大の
度達成されていることです。
催しの中で、
同好会の
ていくつもりです。更に近隣の旧街
いと考えています。
参加者を誇るとともに、家族会員の
ティ・オークション等を行い、収益
四季の会
今後の課題は、会員の高齢化にと
金を福祉団体等に寄贈しています。
また、開催節目などの折にチャリ
四季の会は、広島支部が設立され
もなう体力不安への配慮と事故のな
参加が多い同好会です。
た1992(平成4)年の秋に発足
が魅力を感じる同好会づくりを暗中
模索しながらの時代でした。同好会
い運営です。また、高齢化による急
こ れ か ら は 女 性 参 加 者 の 増 加 と、
しています。当時は、支部が発足し
徐々に探訪先を拡げ、更には貸し切
態でした。そこで会員間の交流がで
また会員が交流する場が殆どない状
ていく必要を痛感しています。
ルに対応する工夫をしながら運営し
健康な日々
す。できるだけ永くゴルフを楽しみ、
高齢者も楽しめるコンペを目指しま
りバスを利
きる一つの場としてスタートしてい
を過ごす為
用すること
の一助とな
ゴルフ同好会は、広島支部設立の
の繁栄を図
願 っ て、 会
ゴルフ同好会
ます。
などを中心として活動をしましたが、 て 間 も な い た め、 同 好 会 も 少 な く、 な体調不良などによる直前キャンセ
発足からしばらくは、広島市の史跡
スタートしています。当時は、会員
( 平 成 4) 年 に 広 島 城 見 学 を 実 施 し、
第1回の歴史探訪会は、1992
「歴史探訪会」を設立しました。
す る 必 要 が あ る と の 認 識 の も と に、 道周辺の歴史テーマも掘り起こした
として早急に事業及び同好会を設置
50
で探訪先を
年を記念し、高速艇をチャーターし
1992(平成4)年に発足し、第
ります。
ることを
のこと県外
た“しまなみ海道”島巡りと観桜で
1回ゴルフコンペを同年 月に広島
過去最大の行事は、広島支部 周
まで拡大し
す。151人の参加をえています。
10
人)で開催した
19
ゴルフコンペの運営方針は、近距
のがスタートです。
佐伯CC(参加者
ています。
を安全で快適さを求めて大型バスに
現在は、春の観桜会、秋の観楓会
の同好会と
より実施しています。また、昨今の
また、他
県内は勿論
15
のコラボ活
103 10
回 イ ベ ン ト「 平 塚 花 菜 ガ ー
神奈川会
首都圏だより
■第
デン」散策
22
見 て そ の 壮 観 さ が 推 測 さ れ、 来 年
世 界 最 大 級 の ジ オ ラ マ が あ り、 架
に縮小再現した室内施設としては
動 作 に つ い て、 神 奈 川 消 防 署 隊 員
発生時など救急車到着までの初期
に し て、 心 肺 蘇 生 法、 止 血、 誤 嚥
も 約 束 し て く れ ま し た。 今 回 は 初
が、 今 日 の 皆 さ ん は と て も 積 極 的
で、 こ ん な 熱 心 な 講 習 会 は 珍 し い
の見学で触発されたか青春の追憶
期動作の重要性を再認識できまし
104
き届き、緑が鮮やかであった。
の 再 訪 を そ そ ら れ る。 紫 陽 花、 百
線 か ら 電 気 を と り、 鉄 製 の 車 輪 が
2 名 を 招 き、 実 技 中 心 の 講 習 会 を
社 会 貢 献 活 動 強 化 の 観 点 か ら、
身 近 な テ ー マ と し て「 A E D の 仕
合、 ヘ メ ロ カ リ ス な ど 色 鮮 や か な
出す本物の走行音を聞ける臨場感
開催しました。
原信太郎氏所蔵の膨大な鉄道模
型と鉄道関係コレクションが公開
花 々 を 愛 で な が ら、 昼 食 を は さ ん
に感激でした。
組みと操作方法の習得」をメイン
で 約 2 時 間 の 散 策 を 楽 し む。 見 晴
さ れ、 ま た 本 物 の 鉄 道 車 両 を 忠 実
台からの眺望は富士山も大山も雲
次 に、 グ ラ ン パ 横 浜 農 場 の 見 学。 大 半 の 方 が 初 め て の 体 験 で し た
JR桜木町駅から徒歩5分の空地
が、 持 ち 込 ま れ た 2 体 の 模 型 人 形
メインの薔薇の群生地域は盛り
を 終 え て い た が、 規 模、 株 数 か ら
の中で見えず終いであったのが残
の 1) の 野 菜 工 場( 試 験 農 場 ) が
を 相 手 に、 意 識 の 有 無 や 呼 吸・ 脈
に 建 ド ー ム 型( 東 京 ド ー ム の
分
念 だ っ た。 園 内 の レ ス ト ラ ン の ラ
ンチは現地生産の食材を使った美
設 置 さ れ、 苗 を 円 の 中 央 部 に 植 え、 D の 操 作、 人 工 呼 吸 法 な ど の 実 技
拍 の 確 認 方 法、 気 道 の 確 保、 A E
顔 を 出 す 散 策 日 和 に 恵 ま れ る。 神
味、 リ ー ズ ナ ブ ル な 値 段 で 好 評
を 全 員 が 熱 心 に 体 験 し、 質 問 も 多
多 く の 参 加 者 か ら、 こ う い う 訓
練は今後も実施して欲しいとの意
くて時間が足りなくなりました。
日一定量のレタスが年間を通じ供
市 価 の 半 値 の 野 菜、 生 花 な ど を 買
(法橋頌高)
回 イ ベ ン ト「 原 鉄 道 模 型 博
見 学 後、 新 鮮 な レ タ ス の 土 産 を
頂 き、 心 置 き な く 飲 め る と い う こ
で す 」 と 大 変 喜 ば れ、 今 後 の 支 援
と 日 本 の 将 来 ま で 談 論 風 発。 皆 様
健)
(新島
た が、 今 後 も 講 習 会 を 継 続 し て 実
施したいと思います。
■第
救急救命法の研修会」開催
参加者
名)
はお若い! (木村一雄)
回 イ ベ ン ト「 A E D 操 作、
と で、 二 次 会 に
名 が 集 い、 昼 間
多くの講習会を担当してきました
見 が 出 て、 講 師 の 隊 員 か ら は「 数
■第
物館とグランパ横浜農場」見学
(9月 日 参加者 名)
「原鉄道模型博物館」は横浜駅
よ り 徒 歩 5 分、 私 共 の 年 代 で は 鉄
道に独特のノスタルジーを感じて
いますが一人で行くには面映いも
の が あ り、 良 い 機 会 で し た と の 声
(8月 日
22
41
もあり。
16
12
26
30
42
29
間 百万円の売上)。
い 込 ん だ 女 性 た ち は 満 足 顔 で し た。 給 さ れ る( 毎 日 4 百 株 出 荷 し て 年
帰 路、 園 に 隣 接 す る あ さ つ ゆ 広
移動し外周で採取するという合理
場( 農 協 の 直 売 所 ) に 立 ち 寄 り、 性。 コ ン ピ ュ ー タ で 管 理 さ れ、 毎
奈 川 県 営 の 花 菜 ガ ー デ ン は 9・2
平塚花菜ガーデンにて
成長に応じて螺旋状に外延へ回転
平 塚 駅 に 名 が 参 集。 バ ス で 現
地 に 直 行。 梅 雨 時 と し て は 薄 日 も
(6月 日 参加者 名)
27
だった。
22
ヘ ク タ ー ル と 広 大 で、 手 入 れ が 行
70
40
京 葉 会
■ 第 回 サ ッ ポ ロ ビ ー ル 千 葉 工
場見学と谷津干潟・バラ園散策
さ れ、 モ デ ル 嬢(?) の「 ワ ー ッ
いう女性にモデルになってもらっ
者の一人でサッポロボール一筋と
り、 今 日 の た め に 願 っ て も な い 人
育 っ た そ う で、 し か も 仏 師 で も あ
今回のガイドは当会世話人の菅
沼 さ ん で す。 彼 は 上 野 公 園 近 く で
弥 陀 如 来 像、 地 蔵 大 菩 薩 立 像 に 合
の上野戦争にも辛うじて残った阿
で の ミ ー テ ィ ン グ で ス タ ー ト で す。 そ う し て 寛 永 寺・ 開 山 堂・ 厄 除
両大師の阿弥陀堂で彰義隊と官軍
集合場所JR上野駅公園口向かい
掌。
楽 し さ が 一 層 楽 し く な り そ う で す。
てきめ細かい泡を作る方法を伝授
美味しい」に一同笑顔爆発。
材 で す。
「このあたりから国立西
隣接の東京国立博物館前では、
このあたり一帯がかつては寛永寺
( 月 日 参加者 名)
昼 食 後、 次 の 目 的 地「 谷 津 干
潟」に向かいました。
雲一つない快晴に恵まれJR津
田 沼 駅 か ら 送 迎 バ ス を 利 用 し て、
葉工 場 に 向 か い ま し た 。
( 平 成 5) 年 ラ ム サ ー ル 条 約 登 録
多数飛来することから1993
干潟は東京湾とは2本の水路で
つ な が り カ モ、 サ ギ な ど の 鳥 類 が
ら れ そ う な 期 待 が 高 ま り ま す。 江
ラ サ ギ、 ア オ サ ギ、 カ ワ ウ、 バ ン、 日 は 普 通 で は 知 り え な い 情 報 が 得
地 に 認 定 さ れ、 私 達 も カ モ 類、 シ
戸時代に寛永寺の根本中堂の両側
ま し た 」 と い う 話 が 出 て き て、 今
て『 竹 の 台 会 館 』 が 建 て ら れ て い
先の大戦の被災者の収容施設とし
講 座。 真 言 宗 の ご 本 尊「 大 日 如
音楽学校奏楽堂まで来て再度ミニ
寺・ 根 本 中 堂 に 立 ち 寄 り、 旧 東 京
池 田 家 江 戸 屋 敷 表 門 か ら、 寛 永
更 に は 東 京 大 学 の「 赤 門 」 に 対
し「 黒 門 」 と 並 び 称 さ れ る 旧 因 州
規模に驚かされます。
が あ る 場 所 は‘ 竹 の 台 ’ と 称 さ れ、 の 境 内 だ っ た と 知 り、 そ の 広 大 な
い ろ ん な 種 類 の バ ラ を 満 喫 し、 京
す。 た だ、 そ の 前 に 仏 師・ 菅 沼 さ
東 叡 山 寛 永 寺・ 開 山 堂 を 目 指 し ま
像 を 楽 し み、 野 口 英 世 の 銅 像 か ら
宮に到着です。
日 赤 初 代 総 裁・ 小 松 宮 彰 仁 親 王
の 凛 々 し い 銅 像 を 過 ぎ、 上 野 東 照
ができた?かもしれません。
うてな
成 電 鉄 谷 津 駅 前 で 元 気 に 解 散。 有
ん の ミ ニ 講 座 で、 仏 像 は「 ど こ か
たけ
洋 美 術 館、 隣 接 の 国 立 科 学 博 物 館
見 学 行 程 を 順 調 に 進 み、 い よ い
よお 待 ち か ね の 試 飲 コ ー ナ ー 。
ハマシギなどを確認できました。
に‘ 竹 の 台 ’ が 配 置 さ れ て い た の
サッポロビール千葉工場にて
11
最 初 の 目 的 地・ サ ッ ポ ロ ビ ー ル 千
こ こ で は「 美 味 し い ビ ー ル の 飲
み 方 」 の レ ク チ ャ ー が あ り、 参 加
次 は 今 日 の 最 終 目 的 地「 谷 津 バ
ラ園」まで1㎞を元気に歩いて向
来 」 と 奈 良 の 大 仏 で 有 名 な「 毘 慮
分ほどの船橋駅近く
ら」
「 い つ 」 来 た か、 最 初 に 制 作
家康の遺言に基づき藤堂家の屋
敷地に造営された社殿は度々の戦
遮 那 仏 の 姿・ 形 を 学 習。 参 加 者 一
だそうです。
17
か い ま す。 宅 地 化 の 流 れ の 中 で 閉
29
同「 煩 悩 を 滅 し 悟 り に 入 る 」 こ と
10
鎖 さ れ た も の が、 市 民 の 要 望 に 応
国立西洋美術館の前庭ではロダ
え て 再 ス タ ー ト し た バ ラ 園 で す。 ン の「 地 獄 の 門 」 な ど の ブ ロ ン ズ
で懇親会を楽しみました。
し た の は「 だ れ か 」
、「 仏 像 の 種
27
10
11
11
志は電車で
■第 回 ちょっと面白い上野界
隈めぐり
大 石 鳥 居、 五 重 塔 も 国 の 重 要 文 化
残 す 貴 重 な 文 化 財 建 造 物 で、 ま た
争や震災にも耐えた江戸の面影を
( 月 日 参加者 名) 類 」 な ど の 解 説 を 拝 聴 し、 仏 像 の
今 回 も 前 日 の 雨 か ら 一 転 し て の、 姿 形 は 何 を 表 し て い る の か、 仏 像
三 十 二 相 な ど を 学 び、 お 寺 参 り の
小 春 日 和 と 天 候 に 恵 ま れ、 ま ず は
105 10
寛 永 寺・ 清 水 堂 で は 京 都 の 清 水
かけづくり
寺と同じ懸造の舞台から歌川広重
ば 最 高 で し た。 こ の 後 の 宴 会 も 時
ちょっとゆっくりと湯につかれれ
す。 私 は ど ち ら か な ?
「昇り竜」と呼ばれていることで
来 し て、 頭 が 下 を 向 い て い る 方 が
な人ほど頭を垂れるという諺に由
の 愛 犬「 ツ ン 」 は 雌 犬 で す が、 銅
地・ 西 郷 隆 盛 像 に 到 着 で す。 西 郷
彰義隊戦死者碑では何故か土方
歳三を思い浮かべながら最終目的
みました。
の松」を通して不忍池弁財天を望
のご参加があればと希望しており
す。 次 回 は、 今 回 以 上 に 沢 山 の 方
の 皆 様、 大 変 満 足 さ れ て い た 様 で
今 回、 天 候 は 今 一 つ で し た が 一 行
会となりました。
間 一 杯 盛 り 上 が り、 4 時 過 ぎ に 散
で し た が、 体 が 温 ま り、 も う
柱 の「 昇 り 竜・ 降 り 竜 」 の 彫 刻 で
「 名 所 江 戸 百 景 」 に 描 か れ た「 月
「 花 の 雲 鐘 は 上 野 か 浅 草 か 」
と時の鐘を横に見て上野の森の大
像 で は 雄 犬 に な っ て い る。 像 が 公
の社会で和銅のことを聞いた覚え
ま す。 ( 菊 池 正 美 )
■ 小 川 町「 和 紙 の 里 」 ハ イ キ ン グ
に参加して
(708年1月)された。1300
本 最 初 の 通 貨「 和 銅 開 珎 」 が 発 行
神社の近くから鉱銅が発見され、日
逃 せ ば 生 涯「 和 紙 の 里 」 を 訪 ね る
ん の 熱 心 な お 誘 い と、 こ の 機 会 を
は あ り ま し た が、 世 話 役 の み な さ
ま し た。 申 込 み に あ た っ て 気 後 れ
今 年 の 4 月 に 日 退 協 に 入 会 し、
初めて埼玉会のイベントに参加し
年前の昔に建造物・銅銭を造った先
ことはないかもしれないとの思い
いれば500メートル強の山頂か
こ の 後 は、 バ ス で「 美 の 山 公
園 」 へ。 こ の 日 は く も り。 晴 れ て
もと小川駅をバックに全員の集合
ま り ま し た。 参 加 者
月 日 木 曜 日、 時、 東 武 東
上線小川町駅集合でイベントは始
ことを知り、大変勉強になりました。 で参加しました。
ら360度の秩父の景色が眺めら
れたのにと非常に残念でした。
名、 快 晴 の
写 真、 最 初 の 訪 問 先「 小 川 町 和 紙
分の
体 験 学 習 セ ン タ ー( 旧 埼 玉 県 製 紙
工業試験場)
」を目指して
106
財 で す が、 面 白 か っ た の は 唐 門 の
し た。 左 甚 五 郎 の 作 で す が、 偉 大
仏様も夕暮れ近くなって駆け足見
開 さ れ た 時 の 西 郷 夫 人 の「 こ ん な
はありますが)とは思いもよりま
名、会員 名)集合。まずは、
「聖
今 日 は、 大 変 楽 し い 一 日 で し た。
物。
人ではなかった」という趣旨の発
代
せ ん で し た。 こ の 神 社 は、 第
(富川 正)
埼 玉 会
16
■和銅遺跡散策と和銅温泉に参加
45
神社」へ。 私は 歳後半のこの年まで埼玉
で 暮 ら し て き ま し た が、 こ の 地 が
16
して
10
月 日( 木 )、 時 分 に 和
銅 黒 谷 駅 に 名( 埼 玉 会 世 話 人
26
人たちがこんな近くにいたという
懇 親 会 を 持 っ て 盛 り 上 が り ま し た。 彦 尊 」 を 祀 り 建 立 し た 社 で、 こ の
元 明 天 皇 が 鉱 山 の 神 で あ る「 金 山
43
さ て、 最 後 は 楽 し み に し て い た
「 和 銅 温 泉 」 で す。 少 し 温 め の 湯
20
11
こ ん な に 歴 史 の あ る 場 所( 小 学 生
10
18
20
10
60
10
こ ろ で 元 気 に 解 散。 一 部 は 近 く で
言の真意について解説を聞いたと
昇り竜・降り竜
ウ ォ ー キ ン グ で す。 学 習 セ ン タ ー
で は 岡 部 主 任 の ガ イ ド で 見 学、 和
紙 の 原 料 で あ る 楮( こ う ぞ ) の 現
物 や 細 川 紙 の 説 明 に 納 得 し た り、
参加者の熱心な質問もあったりで
予 定 時 間 を 超 過、 次 の 訪 問 先 を
シ ョ ー ト カ ッ ト し「 う さ ぎ 庵( 蕎
麦 屋 )」 に 向 か い ま し た。 腹 ご し
ら え の あ と は 埼 玉 伝 統 工 芸 会 館、
久 保 昌 太 郎 和 紙 工 房 を 見 学、 最 後
は 八 宮( や み や ) 神 社 で 小 休 止、
時 分小川町駅で解散しました。
の 大 半 で 坂 戸 駅 付 近 の「 安 兵 衛 」
な お、 細 川 紙 は 国 の 重 要 無 形 文
日、 石 州
恒例のコンペもお互いにすっか
り 顔 な じ み の メ ン バ ー に な り、
月
半 紙、 本 美 濃 紙 と と も に 日 本 の 手
コースはいつもの比企郡鳩山町に
化 財 で す が、 本 年
漉和紙技術としてユネスコ無形文
あ る 武 蔵 O G M、 ア ウ ト か ら
組
化遺産に登録されました。
フラットではあるが年のせいも
あ り 結 構 距 離 が 十 分 あ る コ ー ス。
がスタート。
な さ ん の 下 調 べ、 下 見 会 が 行 わ れ
当日の天候は幸いに快晴に近い無
企 画 に 先 見 の 明 あ り、 ま た イ ベ
ント実施にあたっては世話役のみ
て い る こ と を 知 り、 感 謝 す る と と
も に、 初 参 加 で は あ り ま し た が、 風 状 態 で ま ず は 絶 好 の コ ン デ シ ョ
■第
西東京会
回イベント「第3回 寄席・
落語鑑賞会」
(8月5日 参加者 名)
西 東 京 会 発 足 以 来、 年 1 回 毎 年
企画しており通算3回目となる
度を超える酷暑の
「 寄 席・ 落 語 鑑 賞 会 」 を 開 催 致 し
ま し た。 連 日
中 の 一 日 で し た が、 申 込 み さ れ た
ン で 好 ス コ ア が 期 待 さ れ た。 優 勝
名を抑えて石
人 は あ ま り な く、 健 康 の 喜 び を 感
本会は高齢者ならではのゆうゆ
うたる雰囲気でスコアを気にする
本人も納得の様子。
場はそれぞれの土地柄によるもの
芸 ホ ー ル 」 で 楽 し み ま し た。 演 芸
演 芸 場 」 そ し て 今 回 は「 浅 草・ 演
す。 一 昨 年 第 1 回 は「 新 宿・ 末 広
のが特徴。
寺へ通じる仲見世通りから更に伝
な の か 異 っ た 雰 囲 気 が あ り ま す。
の。
の 喜 劇 俳 優、 芸 人 の 方 々 の 顔 写 真
法院通りを奥に入った場所にあり
員で出し物の演目も盛りだくさん
す。 こ の 演 芸 場 は い つ 来 て も 超 満
代を思い起す懐かしい散策通りで
ま す。 通 り の 街 灯 の 柱 に は、 往 年
席 上、 恒 例 の ワ ン コ イ ン 運 動 の
募金箱には入賞者のコインならぬ
が 掲 げ ら れ て お り ま す。 昭 和 の 時
(芝山 茂)
祉貢献に協力がなされた。
“ペーパー”が豪勢に入れられ、福
今 年 の「 浅 草 演 芸 ホ ー ル 」 は 浅 草
ラウンド終了後の入賞者のス
ピーチもさすがに皆さん慣れたも
亭 」 昨 年 第 2 回 目 は「 上 野・ 鈴 本
じつつ和気藹々とプレイしている
ベントは毎年場所を変えておりま
方 は 全 員 参 加 さ れ ま し た。 こ の イ
充実した一日でした。(関谷一郎)
12
の快
、ネット
68
3
92
ス コ ア で 見 事 初 優 勝 と な っ た。 ご
田明氏がグロス
19
27
日( 金 ) 参 加 者
名 15
14
30
5
11
は飛ばしやの新人
月
28
■埼玉会(第 回ゴルフ会コンペ)
11
於武蔵OGMゴルフクラブ
武蔵OGMゴルフクラブにて
小川町和紙体験センターにて
解 散 後 は 有 志 と 言 い つ つ、 参 加 者
30
にて 懇 親 会 を 実 施 し ま し た 。
107 15
関東屈指の古刹を拝観し古き歴
史 に ふ れ な が ら の 紅 葉 狩 り は、 生
と伝えられる重要文化財の不動明
い ま す。 奥 殿 に 安 置 さ れ た 日 本 一
で、 関 東 三 不 動 の 一 つ と 言 わ れ て
「高幡不動尊金剛寺」は平安時
代初期に建立された真言宗の名刹
た。
思い思いに楽しむことが出来まし
て お り、 成 程 と 納 得 い た し ま し た。
は 二 人 と も「 誠 」 の 一 文 字 が 入 っ
位 牌 も 納 め て あ り、 立 派 な 戒 名 に
れ て い ま す。 近 藤 や 土 方 の 大 き な
副 長・ 土 方 歳 三 の 菩 提 寺 と し て も
で い ま し た。 ま た 金 剛 寺 は 新 撰 組
( 成 り 龍 ) と 呼 ば れ て い ま す。 皆
い 事 が 叶 う と 伝 え ら れ、 鳴 り 龍
に 包 ま れ て い ま す。 昨 年 の「 上
憎 の 雨 と な り ま し た が 皆 さ ん 夫 々、 さ ん 手 を 打 ち 真 剣 な 面 持 ち で 拝 ん
ま す。 し か し「 鈴 本 」 に は「 鈴
王 像 を 拝 し た 時、 そ の 大 き さ に 圧
境内中程には鮮やかな朱色に塗
ら れ た 五 重 塔 が そ び え 建 ち、 最 上
4時半過ぎには昼の部はハネたの
名の方
ですが外は真夏の熱さに包まれて
お り ま し た。 懇 親 会 に は
が 参 加 さ れ ま し た。 話 は 今 日 の 演
じ物の事から色々と多岐にわたり
バ ー で、 西 東 京 会 会 員 で も あ る 藤
す。 優 勝 は こ の ゴ ル フ 場 の メ ン
に 色 づ き、 そ の 見 事 さ に 歓 声 が 上
染まった紅葉と銀杏の大木も綺麗
時間的には短かかったですが和
気 あ い あ い の 表 彰 式・ 懇 親 会 を 行
(湯藤 哲)
して行きたいと考えております。
「 立 川 国 際 C C 」 で 開 催 し ま し た。 い ま し た。 今 後 共 更 に 楽 し い 会 に
今回は女性の方1名と非会員の方
2 名 の 参 加 が あ り ま し た。 天 候 は
■第 回イベント
26
今シーズン続いた台風が懸念され
「高幡不動尊拝観と紅葉狩り」
日 参加者 名)
25
ましたが曇空に時おりの霧雨位で
( 月
11
高幡不動尊五重塔
「 わ ぁ ー、 こ れ は 素 晴 ら し い 」 と、
し ば し 見 入 っ て し ま い ま し た。 美
しい秋景色に彩られた山内の小路
を 下 り、 休 憩 所 で 一 服 し た あ と 解
散となりました。
(安藤隆夫)
108
であり客席と一体になっての熱気
野・ 鈴 本 」 と は 若 干 雰 囲 気 が 違 い
本」 の 良 さ が 感 じ ら れ ま す 。
倒 さ れ ま し た。 総 本 堂 で あ る 大 日
層の屋根には金色に輝く相輪を戴
まさしく懇親を深めた有意義な一
た方に幹事は感謝したイベントで
塚 さ ん で し た。 又 体 調 管 理 の 為 2
がりました。
時 で し た。 酷 暑 の 中 お 集 り 下 さ っ
した。 (湯藤 哲)
■第 回 イ ベ ン ト
年間ゴルフから遠ざかっておられ
52
目となるコンペは春の会場と同じ
を獲得されました。
た横堀協会監事がベストグロス賞
15
日退協ゴルフ会としては通算
回、 西 東 京 会 が 引 継 い で か ら 4 回
11
気持良くラウンドできたと思いま
14
甍や五重塔を観下ろす絶景には
本 堂 裏 手 の 高 台 に 鐘 楼 が あ り、
そこから紅葉や銀杏越しに寺院の
知られ新撰組関連の資料が展示さ
堂の天井には墨絵の裸龍が描かれ
いて伽藍全体を見守っているよう
充分に玄人の芸を堪能した後は
有 志 に よ る 懇 親 会 を も ち ま し た。
て お り、 そ の 龍 の 下 で 手 を 打 つ と
で し た。 太 子 堂 の 辺 り で は 深 紅 に
立川国際CCにて
ビ ュ ー ン と い っ た 妙 音 を 発 し、 願
13
「第4回 親睦ゴルフ会」
( 月6日 参加者 名)
13
エスキーテニス同好会の紹介
広島支部 エスキーテニス同好会 代表世話人 河野次郎
人。昔、学生時代や職場で体
コートで手軽にプレーする事が出来ます。
現在会員数
験 し た 人 も い ま す が、 大 部 分 が 初 体 験 か ら 始
めて、月2回の例会でインストラクターの指
導の下、練習に励んでおります。最近は皆技
して職場や学校で普及してきました。どちら
)の頭文字(ESCI)をとって命名
tution
されたものです。手軽に楽しめるスポーツと
画自賛しており、広島支部の会員の皆様に盛
も、 ボ ケ 防 止 に も な っ て い る の で な い か と 自
持ちよく弾んでいます。適度の運動で健康に
量が上がりボールがラケットにあたる音が気
6月よりインストラクターの指導で練習をは
かと言えばマイナーなスポーツというイメー
んに勧めているところであります。
月
日で
) 年 4 月 に 4 人 の 世 話 人 で 発 足 し ま し た。
じめ、月2回のペースで例会を行い2014
ジはありますが、全国大会、中国大会も開か
エ ス キ ー テ ニ ス 同 好 会 は 2 0 1 2( 平 成
27
回の例会を数えて
)年
れております。
年になりますが、エス
ポーツを子供たちに提供したいと思い、原爆
で、 簡 単 に 作 れ る 安 価 な 道 具 で 楽 し め る ス
広島の実業家・宇野本信氏が考案したもの
合って遊んだのが始まりと言われております。
残った板切れを持って手作りのボールを打ち
爆が投下された廃墟の中で子供たちが焼け
ポーツを日退協の皆さんと一緒に楽しめたら、
そ れ を 使 っ て、 広 島 で 生 ま れ 育 っ た こ の ス
ました。近所に市営の屋外コートが 面あり
量で高齢者でも楽しめるのではないかと感じ
習の相手をしたのがきっかけで、適度な運動
家内がエスキーテニスの教室に通っており練
キ ー テ ニ ス に 出 会 っ た の は 丁 度 3 年 前 で す。
私は広島に住んで
によって学徒動員中の愛娘を失った悲しみの
との思いから近所に住む3名の会員に声をか
)年原
中で「スポーツを通して平和を」という願い
根 が ボ ー ル の ス ピ ー ド を 殺 す た め、 小 さ な
ンジボールを木製のラケットでネット越しに
Education Science Culture Insti-
エスキーテニスの名称は当時世界の平和を
競技は羽根のついたゴルフボール大のスポ
10
打ち合うテニス型のスポーツで、ボールの羽
テニスです。
け4人の世話人で立ち上げました。
20
(平成
おります。
56
エスキーテニスは1945(昭和
12
を込め、苦心の末生み出されたのがエスキー
39
10
願って広島に創設が提唱されていた「教育科
学研究所」
(
109
広島支部だより
26
24
第
回損保OBの集い(2014
(平成
)年9月
損保マチュリティ懇話会 会長 松多 昭三
遊 里 史 な ど を 専 門 と す る 立 教 大 学 名 誉 教 授 世文学の研究者で江戸時代小説、大名文芸圏、
となりますが、特別講演の講師には、日本近
れ は 花 見 の 時 期。「 花 が 咲 い た よ、 い い ね。
深川に行って温まろう」。吉原となると、こ
雪が降ってくれば、やっぱり、深川。「じゃあ、
一 杯 や る 」。 深 川 の 方 は、 大 分 寒 く な っ て、
cm)。深川の雪は一時所在不明となったが、
る(ちなみに「深川の雪」は199×341
あり、浮世絵としては群を抜いた大きさであ
湾から、だあ~と上がってくる月を見ながら
渡辺憲司先生をお迎えし、
『江戸の浮世絵―
吉原に行こう、吉原へ」。それぞれの感覚が
われた。岡田美術館が買い取った結果、日本
回目
喜多川歌麿「深川の雪」を読む―』と題して、
良く表れている。
年 ぶ り に 発 見 さ れ、
「世紀の大発見」と言
浮世絵からみた江戸文化、遊里などの興味深
好評をいただいたのではないかと思います。
講演に、130名に及ぶ参加者の皆様にもご
たなか、今回はやや趣を変えた文化色の強い
従来の懇話会は政治外交畑の講演が多かっ
年が風俗の最盛期だったが、その後、天保の
も同じことが言え、天保の改革直前の天保8
倹約の時代が交互にやってくる。経済も風俗
して天保の改革と、派手で華美な時代と質素
田沼意次時代、寛政の改革、大御所時代そ
■江戸の町人が大切にしたこと、それは「粋」
ようである。
ないが、ワシントンで3枚並べる企画がある
から、日本では3部作のそろい踏みはあり得
美術館が所蔵しており、門外不出ということ
線、深川は白と青の中間ぐらいに位置する。
れぞれの段階があり、吉原は赤線、品川は青
らまったく自由な白線、その中間の青線とそ
栄えた。遊郭は官から公認されている赤線か
吉原、品川、深川が江戸の三大遊郭として
の遊郭を「雪月花」をモチーフにした大作で
「吉原の花」がある。前述の通り、それぞれ
る3部作の一つであり、他は「品川の月」と
「深川の雪」は歌麿の肉筆画の傑作とされ
■「雪月花」3部作
の遊郭が誕生した。
だから深川では髪も水洗い。そんな気持ちを
く。水のように相手に接しなければいけない。
る。「粋」は「スイ」ともいうが、「水」と書
はならない、そんな思いやりが「粋」に繋が
(抄録/石井 憲)
江戸の町人は何より大事にした。
ま た、 風 情 か ら 言 う と、 品 川 は 月。
「江戸
■江戸の三大遊郭とそれぞれの特徴
〈講演内容の概要〉
相手の気持ちを分かれば分かるほど聴いて
66
改革で深川は壊滅し、新たに柳橋に新しい形
いお話をお聴きしました。
に里帰りし、公開された。他の2作は米国の
講師 渡辺憲司氏
日)
24
『江戸の浮世絵―喜多川歌麿「深川の雪」を読む―』
特別講演
26
■江戸の経済と風俗の盛衰
27
110
27
損保マチュリティ懇話会は、今回で
損保懇だより
役 員
副
会
会
長
長
長
長
副
事
会
理
専 務 理 事
務
任
務
任
理
理
局
理
事
事
長
事
専 務 理 事
専
常
事
常
常 任 理 事
常 任 理 事
常 任 理 事
常 任 理 事
常 任 理 事
常 任 理 事
監
理
理
理
理
理
理
理
理
理
理
理
事
事
事
事
事
事
事
事
事
事
事
事
事
山 本 惠 朗
森
保
山 鹿 素 雄
榎 本 郁 夫
有 馬 弘 純
関 根 貞 夫
田 林 巖 樹
細 江 謖 夫
安 藤 隆 夫
井 上 国 春
上 神 圭 二
髙 島 進 一
西 納 政 光
畠 山 忠 昭
湯 藤 哲
渡 部 俊 一
糸数冨美江
大 里 璋 子
倉 片 厚 子
黒 木 重 昭
佐久間征二
橋 本 隆 夫
藤﨑大四郎
松 多 昭 三
水 上 幸 雄
満 田 将 太
山 田 雅 彦
横 堀 尚 昭
江 口 俊 治
顧 問
参 与
梶 田 省 三
久野木行美
市 川 千 尋
猪 股 辰 雄
岩 澤 良 信
岩 渕 芳 夫
梶 谷 浩
加 藤 孝 子
岸 良 明
越 中 幸 夫
芝 山 茂
鈴 木 俊 二
鈴 木 裕 史
高 橋 淳
店 網 俊 夫
田 中 昭 二
富 川 正
長 澤 哲 夫
日 高 三 誠
三砂善之介
鷲 山 俊 男
編 集 後 記
▼北 に 対 き 年 の 初 め の 祈 り な り
周年を祝う山本会長と榎本
たします。
▼創 立
理 事 長 の ご 挨 拶 で 感 じ た こ と は、 こ
反 響 を 呼 び ま し た。 洪 さ ん の お 気 持
之 氏 に よ り 文 春 で 紹 介 さ れ、 大 き な
致 し ま し た。 氏 の 活 動 は 作 家 阿 川 弘
を お 話 さ れ て お り、 そ の 概 要 を 再 録
て、 少 年 工 と の 心 温 ま る 交 流 の 歴 史
さ ん で し た。 氏 は 当 協 会 の 会 員 と し
を共にされたのが海軍士官の野口毅
大 戦 末 期、 神 奈 川 県 の 旧 高 座 海 軍
工廠で働いた台湾出身少年工と起居
台北市 洪坤山
▼昨 秋 東 京 で 開 か れ た 北 斎 展 を 見 ま
み重ねて参りたいと存じます。
においても今後一層地道な努力を積
と 呼 び か け ら れ た こ と で す。 当 協 会
の足元から元気を作り出して行こう
ば な ら な い、 そ の た め に は ま ず 自 分
た の で、 地 域 支 援 の 力 を 借 り な け れ
る財政状況が耐えられなくなって来
の 講 演 で、 現 在 の 高 齢 化 社 会 を 支 え
整 備 が 行 わ れ、 私 達 の 生 活 を 守 っ て
の30年で高齢者を巡る大きな制度
ち に 感 謝 す る と と も に、 彼 の 地 に お
し た。 北 斎 は
心の祖国に栄えあれかし
いても平穏な年であることを祈念い
と し て「 あ と
歳の時に辞世の言葉
く れ て い る こ と と 同 時 に、 堀 田 先 生
たします。
年生きれば本当の絵
描 き に な れ た 」 と い っ た そ う で す。
北斎の気概を頂いて本年も大いに元
周年記念号の表紙をどうするか
に つ い て は、 富 士 山 に し よ う と 決 ま
二〇一五年一月二〇日発行
発行人
榎 本 郁 夫
編集人
田 林 巖 樹
発行所 公益社団法人 日本産業退職者協会
MATURITY・第一〇〇号 ※無断転載を禁ず
気で過ごしたいものです。 (田林)
り ま し た。 富 士 山 は ユ ネ ス コ で 世 界
遺 産 に 登 録 さ れ ま し た が、 環 境 改 善
に つ い て 厳 し い 条 件 が 付 せ ら れ。 来
年2月までに報告書の提出を求めら
れ て い ま す。 富 士 山 の 現 状 に つ い て
は、 藤 田 あ や 子 氏 の お 話 を 再 録 い た
し ま し た。 来 る べ き 報 告 書 が、 世 界
の 富 士 の、 そ し て 日 本 全 土 の 環 境 保
り、 裏 表 紙 も 郷 土 富 士 で 行 こ う と な
▼
10 92
東京都千代田区神田佐久間河岸
〒
第一スレートビル 階
電話 〇三(六二四〇)九三八一
ファックス 〇三(六二四〇)九三八二
ホームページ
http://www32.ocn.ne.jp/~jarip/
51 ©
7
常 任 理 事
監
30
全に役立つ指針となることを期待い
111 30
1010026
日本産業退職者協会 役員名簿(50 音順)
公益社団法人
(平成 27 年 1 月 20 日現在)
法人・団体 会員名簿
(平成 27 年 1 月 20 日現在)
東京海上日動火災保険株式会社
宝酒造株式会社
損害保険ジャパン日本興亜株式会社
JFEスチール株式会社
五洋建設株式会社
株式会社グリーンホスピタリティー
マネジメント
共栄火災海上保険株式会社
株式会社イトーヨーカ堂
株式会社ベネフィット・ワン
文唱堂印刷株式会社
富士火災海上保険株式会社
ヒューリック株式会社
一般社団法人日本損害保険協会
日本カーボン株式会社
西松建設株式会社
トーア再保険株式会社
株式会社千代田セレモニー
株式会社リサ・パートナーズ
ユニバース開発株式会社
安田不動産株式会社
株式会社ミツウロコグループホール
ディングス
株式会社みずほフィナンシャルグ
ループ
みずほ信託銀行株式会社
丸紅株式会社
丸大食品株式会社
(五〇音順)
東京建物株式会社
東日本大震災で被災された方々と
そのご家族の皆さまに
心からお見舞い申し上げます。
皆さまの安全と被災地の一日も早い
復旧・復興をお祈り申し上げます。
公益社団法人 日本産業退職者協会 理事長 榎本 郁夫 2011年3月11日の大震災による未曾有の惨状に対し、全国
民が一様に心を痛めております。
「社会に役立ち社会を明るくする活動」を積極的に展開する当協会
は被災地域の一日も早い復旧を願うとともに、会員の皆様に救援
募金を呼びかけております。
どうかご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。(事務局)
郵便振替 口座番号 00130 - 3 - 139353
加 入 者 公益社団法人 日本産業退職者協会
・振込手続には、すでにお送りしてある払込取扱票をご利用ください。
・おそれいりますが、振込手数料はご負担願います。
なお、当協会では協会の情報提供誌「Rプラン生活情報誌」及び「私の
大切な覚書き」の頒布収入の1%を災害義援基金等に寄付いたします。
公益社団法人 日本産業退職者協会( )
Japan Association of Retired Industrial Persons
/
第一〇〇号
二〇一五年一月二〇日発行
(写真提供)北海道ニセコ町役場 商工観光課
津軽富士(岩木山)▶
標高 1,625 m青森県の最高峰であり、津軽
平野のどこから見ても秀峰。その中でも
黒石観光りんご園から一望できる大パノ
ラマ津軽富士は絶景である。
(写真提供)青森県黒石市役所 商工観光課
◀伯耆冨士(大山)
国引き神話が伝える大山は、見る場所に
よって山容が大きく異なります。西から
は「伯耆冨士」と呼ばれるやさしく美し
い山容です。
(写真提供)小林 敏彦(広島支部)
公益社団法人
日本産業退職者協会
©
薩摩富士(開聞岳)▶
薩摩半島の最南端に位置する標高 924 m
の開聞岳。
美しい稜線と円錐型の姿から別名「薩摩
富士」と称されている指宿のシンボルで
す。
(写真提供)鹿児島県指宿市役所
産業振興部 観光課
ふ る さ と の 富 士
◀蝦夷富士(羊蹄山)
羊蹄山は、蝦夷富士とよばれる容姿端麗
な成層火山で、四季折々の高山植物や登
山などを楽しむことができます。
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