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spffl058-02
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
荻 野 恵 1.はじめに
1640 年、ポルトガルが 60 年間に及ぶスペイン(カスティーリャ王国に基礎
を置くスペイン・ハプスブルグ王権)による併合から再独立を達成していく時
(1)
期は、ちょうど同国における「新聞」誕生の黎明期と重なる。
「定期性」
「継続性」を備えたポルトガル初の新聞は、1641 年11 月にリスボン
(2)
これは原則
で『ガゼータ』
(Gazeta, 1641 − 1647)という名で創刊された。
的には月 1 回発行の、いわゆる「月刊」紙で 1647 年 9 月まで継続的に出版され
ていき、現在リスボン国立図書館(Biblioteca Nacional de Lisboa 以下 BNL と
略記)にその大部分が所蔵されている。
発刊目的は、ブラガンサ公爵をポルトガル国王ジョアン4世(João Ⅳ 位1640
−1656)として支持する表明と反スペイン感情の高揚、
すなわち分離独立運動の
(3)
今日『ガゼータ』は本稿でとりあげる 1663
宣伝(プロパガンダ)であった。
年 1 月創刊の『メルクリオ・ポルトゥゲス』
(Mercúrio Portuguez,1663 − 1667.
以下『メルクリオ』と略記)と共に、ポルトガルの独立回復を助けたとの評価
(4)
を得るに至っている。
その他の当時の時事出版物はと言えば、 現在のところ『ガゼータ』と『メル
クリオ』の間に2 紙、
『メルクリオ』以後には1紙の存在が明らかになっている。
すなわち以下の通りである。
① 『ル・メルキュール・ポルトゥゲ 』
(Le Mercure Portugais, 1643)
② 『メルクリウス・イベルニクス』
(Mercurius Ibernicus, 1645)
③ 『メルクリオ・ダ・エウロパ 』
(Mercúrio da Europa, 1689)
− 11 −
荻 野 恵
ところが研究者たちはこれらを「ポルトガルの」新聞とはみなさず、
『ガゼー
タ』の最終号(1647 年 9 月)から『メルクリオ』の創刊(1663 年 1 月)までに
(5)
関しては、
「
(新聞の)空白期間」と位置づけている。
その理由として、①に関しては 7 号までで発行が停止しており、使用言語が
ポルトガル語ではなくフランス語、印刷もパリでなされていること、②に関し
ては、たった1回発行されたにすぎず、言語はやはりポルトガル語ではなく、カ
スティーリャ語(いわゆるスペイン語)を使用していることをあげている。
③については、外国紙の翻訳であること、内容も国外ニュースだけに限定、創
(6)
刊から第 3 号で打ち切られていることなどを理由としている。
以上の点を踏まえるならば、
『ガゼータ』は再独立戦争の「前半期」に出た新
聞、
『メルクリオ』は 1668 年のリスボン条約で独立が正式に承認される前年、
1667 年 7 月まで発行された、言わば再独立「後半期」の定期刊行物であり、当
時の「2 大新聞のひとつ」と言うことができるであろう。
そこで本稿では、在リスボン、グルベンキャン財団(Fundação Calouste
Gulbenkian em Lisboa)の協力により BNL において調査することのできた『メ
ルクリオ』のオリジナル版を史料として、その全体像の再生を試みるものであ
る。(7)
註
(1)1640 年 12 月に始まる「ポルトガルの再独立反乱」の概略については、金七紀男著『ポ
ルトガル史』
(彩流社、1996 年)128 − 133 頁。立石博高編『スペイン・ポルトガル史』
(山川出版社、2000 年)389 − 395 頁。J.H. エリオット著 藤田一成訳『スペイン帝国の
興亡 1469 − 1716』
(岩波書店、1982 年)392 − 407 頁。D. バーミンガム著 高田有現
他訳『ポルトガルの歴史』
(創土社、2002 年)51 −88 頁。拙稿「ポルトガルの反乱(1640)
とセバスティアニズモー『O Encoberto』の視点から」
(
『紀尾井史学』第11 号、1991 年)
2 − 4 頁。以下「セバスティアニズモ」と略す。また、この反乱の研究史は、拙稿「17
世紀ポルトガルの再独立期における情報世界−『ガゼータ』の諸相−(
『上智史学』第47
号、2002 年)129 − 130 頁。以下「諸相」と略す。20 世紀ポルトガル新聞史に大きく貢
献したジョゼ・テンガリーニャは、以下のような時代区分を提示している。
1.定期刊行物誕生の時代− 1641 年『ガゼータ』から 1820 年革命まで。
2.ロマン主義の印刷物、あるいはオピニオン紙の時代− 1820 年革命から 80 年代ごろ
− 12 −
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
まで。
3.印刷物の産業化の時代− 19 世紀末から今日まで。
José Tengarinha, História da impressa periódica portuguesa, Lisboa, 1965, p.17.
(2)
『ガゼータ』については、
「諸相」
、129 − 142 頁。
(3)Rafael Valladares, Felipe Ⅳ y la restauración de Portugal, Málaga, 1994,pp.290 − 291.
(4)Alfredo da Cunha, Eleméntos para a história da impressa periódica portuguesa, Lisboa,
1941,p.38.
(5)Fernando Castelo - Branco, Lisboa seiscentista,Lisboa, p.222 .
(6)Alfredo da Cunha,op.cit.,p.63. José Tengarinha,op.cit ., p.42.
(7)Colecção da Biblioteca Nacional. Reservados 110 Vermelho, BNL.
2.
『メルクリオ』研究史
(1)
そもそもポルトガルの新聞史研究は、それ自体の歴史が浅い。
19 世紀にお
いては「文学史」の中に完全に包摂される形で、部分的に取り上げられるに留
まり、20世紀に入ってようやく歴史史料として一定の価値を認められるに至っ
た。(2)
20世紀を代表するポルトガル・ジャーナリズム史の研究者は、アルフレード・
ダ・クーニャとジョゼ・テンガリーニャである。
A・ダ・クーニャは『ポルトガル定期刊行物史の基礎知識』の中で、1641 年
から 1821 年までのポルトガル・ジャーナリズム史の時代区分、「ジョルナル
jornal」という語に関する氏の見解を示した上で、1641 年創刊の『ガゼータ』を
「ポルトガル初のニュース情報紙」
、
『メルクリオ』を「ポルトガル最初の政治紙」
(3)
と位置づけている。
一方、J・テンガリーニャは『ポルトガル定期刊行物の歴史』を著し、その前
史として 1588 年 10 月 19 日付、無敵艦隊の敗北に関する 2 枚から成るポルトガ
ル初の手書きニュースパンフレットから筆を起こし、20 世紀初め(第一共和制
(4)
期)までのジャーナリズムの流れを概観している。
同氏は第 2 章「
(ジャーナリズムの)起源」の中で『ガゼータ』と『メルクリ
オ』に言及し、前者と同様「ニュース情報紙」の特徴を持ちつつも『メルクリ
− 13 −
荻 野 恵
オ』には政治色がはっきり現れている点で前者とは異なると述べており、A・ダ・
(5)
クーニャと共通の見解を明らかにしている。
しかしながら双方の研究者ともに、ポルトガル・ジャーナリズム史の概説書
の中で数ページを割いて『メルクリオ』に触れているにすぎず、また、冒頭で
述べたポルトガル新聞史研究の遅れも影響して、今日『メルクリオ』に関する
論考は筆者の知る限り皆無である。
註
(1)ポルトガル新聞史研究の研究史の詳細については、
「諸相」
、130 − 131 頁。
(2)19世紀の文学史の中で、ジャーナリズムを扱っている代表作としては、アントニオ・ダ・
シルバ・トウーリオ『ポルトガル・ジャーナリズム文学史』António da Silva Túlio, História
Literária do Jornalismo em Portugal,1851. 及び テオフィロ・ブラガ『ポルトガル文学
史講義』Te ófiro Braga,Curso de História de Literatura Portuguesa ,1885. がある。
(3)Alfredo da Cunha, op.cit., p.7,p.24,p.42. 時代区分については、出版に関する勅令の変
遷を指標にしている点は、前出のテンガリーニャと異なるが、区分けの年代は共通であ
る。
「ジョルナル jornal」という語については、
「ペリオディコ peri ódico」の近代的な
語彙であり、意味も「新聞」と同義であるとする。以下の『仏・葡辞典』と『葡・仏辞
典』に「ガリシズモ galicismo」として掲載されているところから、18 世紀末にフラン
ス語からの借用語として使われるようになったとしている。Manoel de Sousa, Dictionnaire
François - Portugais . Joaquim Jos é da Costa e Silva, Diccionario Portuguez - Francez,
1794.
(4)手書きパンフレットのタイトル原文は、Not í cia da Infelicidade da Armada de Sua
Majestade Que Escreveu o Mestre de Santa Catalina. José Tengarinha,op.cit.,P.7, P.259.
(5)Ibid., pp.35 − 42.
3.
『メルクリオ』創刊の目的と当時の戦況
『メルクリオ』創刊号の表紙(図版1参照)には、以下のような序文が記され
ている。
「メルクリオ・ポルトゥゲスは、アントニオ・デ・ソウザ・デ・マセー
ドによって、1663年の年頭にあたりポルトガル対カスティーリャの戦争に関す
(1)
ここに発刊の目的が「対カスティーリャ戦の情
るニュースを伝え始める」
。
報を伝えるプロパガンダ」であることを高らかに宣言している。では、創刊当
− 14 −
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
図版 1:
『メルクリオ・ポルトゥゲス』創刊号表紙(BNL 所蔵)
− 15 −
荻 野 恵
時の戦況はどのような様相を呈していたのだろうか。
ここで一瞥しておきたい。
1640 年12 月1日、貴族や知識人らがリスボンの王宮を襲撃しカスティーリャ
側の副王マルガリータを逮捕、アヴィス王朝マヌエル 1 世(Manuel Ⅰ位 1495
− 1521)の血を引くブラガンサ公を国王ジョアン 4 世として推戴した。これが
再独立戦争の始まりであった。しかしポルトガルが軍事面で最大の危機を迎え
るのは、カスティーリャとの戦いの火蓋が切られてから約20年が経過した1659
(2)
この年、スペイン−フランス間でピレネー条約が締結され、
年からである。
1635 年に両国が開戦して以来ウエストファリア条約締結後も 11 年間にわたり
(3)
その結果、対ポルトガル戦に集中で
継続していた戦いに終止符が打たれる。
きる体勢を整えたカスティーリャ(スペイン)軍は、それまでの国境線上での
(4)
小競り合いを返上して、ポルトガルへの本格的な攻撃を始めるのである。
1661 年から 62 年のカスティーリャの攻撃は、北のガリシア方面から、東部
バダホス方面から、そして南部アレンテージョから、と三方向からポルトガル
を包囲する形でなされた。1663 年 5 月にはエヴォラがカスティーリャの手に落
ちた。
『メルクリオ』によれば、この知らせがリスボンの王宮に入ると、それは
ポルトガル人の愛国心を大いに刺激するところとなり、王宮広場に集まった群
集の間から「カスティーリャと戦おう」との熱狂的な叫びが上がったと伝えて
いる。(5)
ポルトガル側も、ショーンベルグ元帥を国王軍に投入することにより攻勢に
転じる。1663 年6 月にはエヴォラを奪回し(6)、エストレモス近郊のアメイシャ
ルの戦い(7)、翌 64 年カステーロ・ロドリーゴでの戦いでも、カスティーリャ
のオスーナ公爵を敗走させて勝利をおさめ、
『メルクリオ』も同年 7 月に「特別
臨時号」が出た。(8)
1665年カスティーリャはフランドルで軍功を立てた将軍、カラセーナ侯爵率
いる軍をアレンテージョ地方に差し向ける。ポルトガル側はこれをビラ・ビ
ソーサ、モンテス・クラロスにおいて、ショーンベルグの砲兵隊や、そのほか
(9)
この勝利の知らせに喜んだ国王は、王宮礼拝堂
の騎馬隊によって迎撃した。
での感謝のミサの後、リスボンの司教座大聖堂まで聖職者たちとプロセッショ
− 16 −
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
(10)
ンを行ったと『メルクリオ』
(1665 年 6 月付)の記事に記されている。
モンテス・クラロスでの大勝後も、まだポルトガル北部へのカスティーリャ
の攻撃が続いたものの、外国人傭兵を率いたショーンベルグの他に、サン・ジョ
アン伯爵、ミランダ伯爵らがトラズ・オズ・モンテス、ミーニョ川国境を 1667
年11 月までには制圧するに至り、この時期にはポルトガル、カスティーリャ共
(11)
に和平を希求する空気が醸成されはじめていた。
したがって『メルクリオ』が発行されていく時期は、カスティーリャからの
執拗な進攻を受けながらもポルトガルが軍事的に優勢に転じ、独立を勝ち取る
最終段階に当たっていたと言うことができる。
註
(1)Mercúrio Português(以下 MP と略記),de Janeiro de1663. 原文は以下の通り。
MERCURIO PORTUGUEZ, COM AS NOVAS DA GUERRA entre Portugal e Castella
começa no principio do anno de 1663. Por ANTONIO SOUZA DE MACEDO.
(2)José Hermano Saraiva,Historia de Portugal, Madrid,1989,p 245.
(3)A.H. de Oliveira Marques, Historia de Portugal ,vol 1, México,1983,pp327 − 328.
(4)金七紀男、前掲書、128 − 130 頁。
(5)MP, de Maio de 1663.
(6)MP, de Junho de 1663.
(7)Joaquim Veríssimo Serrão, Historia de Portugal , vol. Ⅴ , p.54.
(8)Fernando Castelo- Branco, Lisboa Seiscentista , Lisboa, 1990, p.222.
MP, de Julho de 1664.(Mercú rio Extraordinario)
(9)Joaquim Veríssimo Serrão, op.cit., p.55 − 56.
(10)MP, de Junho de 1665. モンテス・クラロスの戦いにおけるポルトガル軍によるカス
ティーリャ兵士の捕虜リストは、1665 年7月付『メルクリオ』にある。
(11)Joaquim Veríssimo Serrão , op.cit ., p.56.
4.編集者
「本稿 3.」で引用した創刊号の序文に現れているように、
『メルクリオ』の編
集者は、アントニオ・ソウザ・デ・マセード(António Souza de Macedo 1606
− 1682)という名前の人物である。
− 17 −
荻 野 恵
彼は『メルクリオ』創刊号から、1666 年 12 月の 51 号まで執筆し、
「ポルトガ
(1)
その理由の1つとして、マセー
ル最初のジャーナリスト」とみなされている。
ド自身が以下のように述べていることを挙げることができる。
「・・・可能な限
りの正確さ、記述の誠実さを損なうような高度な言い回しは使用せず『メルク
(2)
つまり持って回った文
リオ』はシンプルで、ごく普通の文体を心がけた」
。
学的表現は避け、事実を淡々と正確に伝えるという近代のジャーナリストに通
ずる姿勢がここに現れているからである。
マセードは 1606 年 12 月 15 日、ポルトガル北部の都市ポルトの名門家庭に生
まれた。コインブラ大学法学部を修了後、リスボンで控訴院判事になる。1641
年在英国大使館の秘書官に任命され、ジョアン 4 世の王位の正当性に対してイ
(3)
ギリス王室から承認を取りつける任務を負っていた。
1651年には在オランダ大使となり、ポルトガルの国益を守ることに尽力した
後、1663 年に国王アフォンソ 6 世(Afonso Ⅵ 在 1656 − 1683)の国家秘書官
(4)
の任命を受け帰国し、同年『メルクリオ』の執筆を開始した。
このように著述家であると同時に、ブラガンサ家のジョアン4世及びアフォ
ンソ 6 世、2 代にわたって仕えた国王側の役人でもあったマセードの対カス
ティーリャ批判は、1664 年 5 月号の中で国王フェリペ 4 世(Felipe Ⅳ 在 1621
− 1665)の庶子「ドン・ファン・ホセ・デ・アウストリアの年代記作家が、カ
スティーリャ軍を指揮するこの庶出の王子に軍功がなく、書くことが見つから
(5)
とマドリードか
ないがため『メルクリオ』に対する批判を繰り返している」
ら届いたニュースとして掲載している他、1666年12月号では「カスティーリャ
人は外国人から信用を得ようとして、非現実的な虚偽に満ちた内容のレラサウ
ン(報告)を印刷している」といった記事に鮮明に現れている。さらにこの号
で執筆を終えるにあたり「カスティーリャ人の口を封じるために書こうと決め
(6)
た当初の意思を自分は貫いた」と達成感をも漂わせている。
− 18 −
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
註
(1)José Tengarinha, op.cit., p.41. 『メルクリオ』は 1667 年にあと7号が出版されるが、こ
れらは匿名の著者によって執筆された。
(2)MP, de Dezembro de 1666. 原文は以下の通り。Simples e corrente foi o estilo de
Mercúrio, ajustando - se sempre com a maior certeza que pode alcançar, sem afectar
locuçoes altas que desdissessem a sinceridade de uma pura narração.
(3)Alfredo da Cunha, op.cit.,pp.58 − 59. マセードはすでにジョアン4世の王位の正当性
(王位継承の権利)について
『解放されたルジタニア
(ポルトガル)A Lusitania Liberata 』
を著わしており、英国に赴任する際にもこれを持参した。彼の作品に一貫した主張は、
カスティーリャの併合から解放されたポルトガルの自由な権利を立証することであった。
(4)Ibid., p.59. マセードは 1682 年に没しているが、1666 年 12 月に『メルクリオ』の筆を置
いてから没するまでの彼の活動については不明。
(5)MP, de Maio de 1664.
(6)MP, de Dezembro de 1666.
5.発行期間、間隔、販売場所
『メルクリオ』の発行期間は、
〈表 1〉に明らかなように 1663 年1月に創刊さ
(1)
今回、BNL で調査
れて以来 67 年 7 月まで継続し、全部で 58 号が世に出た。
したところ『ガゼータ』のように欠号はなく、全号を確認した上で〈表1〉を
(2)
作成することができた。
発行の間隔は、基本的には月に 1 回の「月刊」であるが、1664 年 7 月、65 年
6 月のように、ポルトガルが勝利した際には特別臨時号が出た。すなわち 1664
年 7 月号は「カステーロ・ロドリーゴの戦い」
、65 年 6 月号は、
「モンテス・ク
ラロスの戦い」を扱った記事を掲載し、それぞれポルトガル国王軍の勝利と、そ
の栄光をたたえ、特に後者の最終ページにはポルトガル軍によるカスティー
(3)
リャ側の捕虜人名リストが付されている。
『メルクリオ』の販売場所は、
『ガゼータ』と同様トーレ・ド・トンボ国立文
書館所蔵の史料からリスボンのアヌンシアダ修道院で販売されていたというと
ころまで明らかになっているが、その他の流通経路については今後の調査研究
(4)
が必要とされている。
− 19 −
荻 野 恵
表1
印刷年・月 ページ数 価格(レイス) 印刷人名
備 考
1663.01.
6 ページ 10レイス オリベイラ 表紙有
1663.02.
6 ページ 05 レイス オリベイラ 表紙有
1663.03.
5 ページ 05 レイス オリベイラ 表紙有
オリベイラ 表紙無
なし
1663.04.
7 ページ
なし
なし
1663.05.
6 ページ
表紙無
オリベイラ 表紙有 レラサン有
なし
1 6 6 3 . 0 6 . 13ページ
オリベイラ 表紙無
なし
1663.07.
8 ページ
オリベイラ 表紙無
1663.08.
なし
7 ページ
1663.09.
8 ページ 05 レイス オリベイラ 表紙無 発行日有10月20日 発行人名ベーリョ、シルバ
1 6 6 3 . 1 0 . 18ページ 15レイス オリベイラ 表紙有 レラサン有 発行日有11月14日 発行人ロドリーゴ、モンテイロ、ベーリョ、シルバ
表紙無
なし
なし
1 6 6 3 . 1 1 . 15ページ
オリベイラ 表紙無
なし
1 6 6 3 . 1 2 . 11ページ
オリベイラ 表紙有
なし
1 6 6 4 . 0 1 . 23ページ
表紙無
なし
なし
1664.02.
8 ページ
表紙無
なし
なし
1664.03.
6 ページ
表紙無
なし
なし
1664.04.
8 ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 4 . 0 5 . 10ページ
オリベイラ 表紙有
なし
1 6 6 4 . 0 6 . 27ページ
オリベイラ 表紙有 特別臨時号
なし
1664.07.
5 ページ
オリベイラ 表紙有
なし
1 6 6 4 . 0 7 . 23ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 4 . 0 8 . 20ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 4 . 0 9 . 16ページ
オリベイラ 表紙有
なし
1 6 6 4 . 1 0 . 10ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 4 . 1 1 . 15ページ
表紙無
なし
なし
1664.12.
8 ページ
オリベイラ 表紙有
なし
1665.01.
9 ページ
表紙無
なし
なし
1665.02.
4 ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 5 . 0 3 . 24ページ
表紙無
なし
なし
1665.04.
6 ページ
表紙無
なし
なし
1665.05.
7 ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 5 . 0 6 . 20ページ
オリベイラ 表紙有 特別臨時号
なし
1 6 6 5 . 0 6 . 10ページ
オリベイラ 表紙有 タイトル−レラシオン、 捕虜人名リスト付き なし
1 6 6 5 . 0 6 . 50ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 5 . 0 7 . 11ページ
表紙無
なし
なし
1665.08.
5 ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 5 . 0 9 . 10ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 5 . 1 0 . 11ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 5 . 1 1 . 15ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 5 . 1 2 . 11ページ
カルネイロ 表紙無
なし
1 6 6 6 . 0 1 . 12ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 6 . 0 2 . 24ページ
表紙無
なし
なし
1666.03.
7 ページ
表紙無
なし
なし
1666.04.
5 ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 6 . 0 5 . 12ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 6 . 0 6 . 11ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 6 . 0 7 . 27ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 6 . 0 8 . 38ページ
表紙無
なし
なし
1666.09.
3 ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 6 . 1 0 . 24ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 6 . 1 1 . 11ページ
表紙無
なし
なし
1666.12.
4 ページ
表紙有 イギリス、オランダからの書簡付き
コスタ
なし
1 6 6 7 . 0 1 . 14ページ
メーリョ 表紙無
なし
1667.02.
7 ページ
メーリョ 表紙無
なし
1 6 6 7 . 0 3 . 21ページ
メーリョ 表紙無 ミゼルコルディアの書籍商アンドレ・コディーニョの費用で
なし
1667.04.
4 ページ
メーリョ 表紙無 ミゼルコルディアの書籍商アンドレ・コディーニョの費用で
なし
1667.05.
6 ページ
表紙無
なし
なし
1667.06.
8 ページ
表紙無
なし
なし
1 6 6 7 . 0 7 . 12ページ
史料:Mercúrio Português 1663.1∼1667.7(BNL所蔵)より作成
− 20 −
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
註
(1)MP, de Janeiro de 1663 − de Julho de 1667.
(2)BNL で調査したところ『ガゼータ』には数号の欠号があることが判明し、今後所蔵先を
捜す必要がある。拙稿「諸相」131 − 132 頁。
(3)MP, de Junho de 1664. MP, de Junho de1665.
ポルトガルで日刊紙が発刊されるのは、1809 年を待たなければならない。A. da Cunha,
op.cit.,p.7.
(4)Fernando Castelo - Branco, op.cit., pp.223 − 224.
6.ページ数と価格
『メルクリオ』各号のページは〈表1〉からわかるように、3ページから 50
ページまで大きなばらつきが存在する。各号のページ数を回数で分類してみる
と以下のようになる。
3ページ
(1)
1666 年 9 月号の計 1 回。
4ページ
(2)
1665 年 2 月号、66 年 12 月号、67 年 4 月号の計 3 回。
5ページ
1663 年 3 月号、64 年 7 月号、65 年 8 月号、66 年 4 月号の計 4
回。(3)
6ページ
1663 年 1 月号、63 年 2 月号、63 年 5 月号、64 年 3 月号、65 年
(4)
4 月号、67 年 5 月号の計 6 回。
7ページ
1663 年 4 月、63 年 8 月、65 年 5 月、66 年 3 月、67 年 2 月の計
5 回。(5)
8ページ
1663 年 7 月、63 年 9 月、64 年 2 月、64 年 4 月、64 年 12 月、67
年 6 月の計 6 回。(6)
9ページ
(7)
1665 年 1 月の計 1 回。
10 ページ
(8)
1664 年 5 月、64 年 10 月、65 年 6 月、65 年 9 月の計 4 回。
11 ページ
1663 年 12 月、65 年 7 月、65 年 10 月、65 年 12 月、66 年 6 月、
(9)
66 年 11 月の計 6 回。
12 ページ
(10)
1666 年 1 月、66 年 5 月、67 年 7 月の計 3 回。
13 ページ
(11)
1663 年 6 月の計 1 回。
− 21 −
荻 野 恵
14 ページ
(12)
1667 年 1 月の計 1 回。
15 ページ
(13)
1663 年 11 月、64 年 11 月、65 年 11 月の計 3 回。
16 ページ
(14)
1664 年 9 月の計 1 回。
18 ページ (15)
1663 年 10 月の計 1 回。
20 ページ
(16)
1664 年 8 月、65 年 6 月の計 2 回。
21 ページ
(17)
1667 年 3 月の計 1 回。
23 ページ
(18)
1664 年 1 月、64 年 7 月の計 2 回。
24 ページ
(19)
1665 年 3 月、66 年 2 月、66 年 10 月の計 3 回。
27 ページ
(20)
1664 年 6 月、66 年 7 月の計 2 回。
38 ページ
(21)
1666 年 8 月の計 1 回。
50 ページ
(22)
1665 年 6 月の計 1 回。
以上の分類から、ページ数の最多は 6 ページ、8 ページと 11 ページの各 6 回
である。
さて、このページ数と『メルクリオ』1 部の価格は連動しているのか否か分析
を試みたいところであるが、
〈表1〉に見られるように価格が判明しているのは
1663 年1月の「10 レイス」
、同年 2 月の「5 レイス」
、同年 3 月の「5 レイス」
、
(23)
同年 9 月の「5 レイス」
、同年 10 月の「15 レイス」の 5 カ月分に限られる。
これらの価格は、
『メルクリオ』各号の最後の記事のしめくくりに記された「終
(24)
(25)
(26)
、
「
(印刷に)必要な許可を取得」
、或は「神に感謝を」
の次の行
わり」
(27)
というように印刷している。
に「このメルクリオは 5 レイス」
1663 年 1 月および 2 月はページ数が同じであっても,その価格には 2 倍の開
きがあり、価格設定にページ数は関係なかったかのように推察されるが、何分
にも上記 5 カ月分以外の『メルクリオ』の価格データが欠落しているため断言
は控える。今後、販売記録などを扱った別の史料を捜し出し、明らかにしてい
く必要があろう。
− 22 −
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
註
(1)MP,de Setembro de 1666.
(2)MP,de Fevereiro de 1665,de Dezembro de 1666, de Abril de 1667.
(3)MP,de Março de 1663, de Julho de 1664, de Agosto de 1665, de Abril de 1666.
(4)MP,de Janeiro de 1663, de Fevereiro de 1663, de Maio de 1663, de Março de 1664, de
Abril de 1665, de Maio de 1667.
(5)MP, de Abril de 1663, de Agosto de 1663, de Maio de 1665, de Mar ç o de 1666, de
Fevereiro de 1667.
(6)MP,de Julho de 1663, de Setembro de 1663, de Fevereiro de 1664, de Abril de 1664, de
Dezembro de 1664, de Junho de 1667.
(7)MP, de Janeiro de 1665.
(8)MP ,de Maio de 1664, de Outubro de 1664, de Junho de 1665, de Setembro de 1665.
(9)MP, de Dezembro de 1663, de Julho de 1665, de Outubro de 1665, de Dezembro de
1665, de Junho de 1666, de Novembro de 1666.
(10)MP, de Janeiro de 1666, de Maio de 1666, de Julho de 1667.
(11)MP, de Junho de 1663.
(12)MP, de Janeiro de 1667.
(13)MP, de Novembro de 1663, de Novembro de 1664, de Novembro de 1665.
(14)MP, de Setembro de 1664.
(15)MP, de Outubro de 1663.
(16)MP, de Agosto de 1664, de Junho de 1665.
(17)MP, de Março de 1667.
(18)MP, de Janeiro de 1664, de Julho de 1664.
(19)MP, de Março de 1665, de Fevereiro de 1666, de Outubro de 1666.
(20)MP, de Junho de 1664, de Julho de 1666.
(21)MP, de Agosto de 1666.
(22)MP, de Junho de 1665.
(23)MP, de Janeiro, de Fevereiro, de Março, de Setembro, de Outubro de 1663.
(24)原文は以下の通り。FIM
(25)原文は以下の通り。 Com as licenças necessarias
(26)原文は以下の通り。 Lavs Deo
(27)原文は以下の通り。 Taixão este Mercúrio em cinco reis (de Janeiro e de Setembro do
Anno 1663) この他、Foi taxado em dez reis ( de Janeiro do Anno 1663 ). Taxada em
cinco reis (de Favereiro e de Março do Anno 1663). Taixão este Mercúrio em quize
reis em Papel (de Outubro do Anno 1663).
− 23 −
荻 野 恵
7 . 印刷人と発行地
『メルクリオ』の印刷人名は、表紙付きの場合〈図版1参照〉
「国王の印刷人
エンリケ・バレンテ・デ・オリベイラの印刷所にて」と、表紙下方に 2 行にわ
たって印刷してある。表紙なしの場合は、最終ページの最後の 2 行に同様の文
が記してあり、ここから何人の印刷人が『メルクリオ』に関わったのかを割り
(1)
また「国王の」印刷人と明示されていることから、
『メ
出すことができる。
ルクリオ』が国王側の刊行物であることがわかる。
〈表 1〉に明らかなように、
『メルクリオ』には 4 名の印刷人の名前が現れる。
全 58 号の内、印刷人名を印字している 24 号の中で、エンリケ・バレンテ・デ・
オリベイラが最多の18回名が記されており、マセードが編集を担当していた期
間に 1 回だけ、ドミンゴス・カルネイロという印刷人が 1666 年 1 月に名を現わ
している。(2)
マセードが編集者の任を辞し、匿名の編集者に代わってからは、1667 年 1 月
にジョアン・ダ・コスタ、同年 2 月から 5 月までの 4 回は、アントニオ・クラ
(3)
残念ながら、
エスベーク・デ・メーリョという印刷人名が掲載されている。
各々の印刷人の経歴や彼らの印刷工房の詳細は不明で、今後当時のギルド関連
の史料等に直接当たらなければならないであろう。
『メルクリオ』の印刷には国産の印刷機が使用され、字体は『ガゼータ』のエ
ルゼビアノ(エルゼビール)のようにゴシック体に類似し、判読しやすいと言
うことができる。(4)
各号最初の大文字は装飾を施してあり、しかも『ガゼータ』のそれよりも一
層多様性に富んでいる。(5) たとえば 1 6 6 3 年 7 月の『メルクリオ』は、
「Restaurada」から始まるのであるが、
「R」はほぼ正方形の形をした額縁に納め
(6)
られ、しかも「R」の文字の周囲には絡み合った草花が豊かに施してある。
同年8月は、
「As」というポルトガル語の定冠詞から記事が書かれているのだが、
「A」の文字に額縁のような囲いは無く、宙に浮くように置かれ、背後には籐製
とおぼしき籠(カゴ)から花々があふれ出て「A」の文字を飾っている。1667
− 24 −
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
年 10 月の場合は、最終ページにも下方の空白部分に花瓶と花々のカットが入
り、活字だけの紙面に、読者の目を和ませる芸術的な工夫が『ガゼータ』以上
に感じられる。(7)
表紙にはポルトガル王家の紋章が中央に配され、紋章だけの号もあれば、
1663 年2月や64 年1月のように紋章が両側の天使に持ち上げられている豪華な
(8)
デザインのものも存在する。
発行地は表紙付の『メルクリオ』には中央の王家紋章の下に「リスボン」と
印刷されており、表紙の無いそれには、最終ページの最後の記事の後に記して
いる。
『ガゼータ』と同様、
『メルクリオ』にも「リスボン」以外の発行地は現
れない。(9)
註
(1)MP,de Janeiro de 1663. 原文は以下の通り。Na officina de Henrique Valente de Oliveira,
Impressor del Rey N.S. Anno 1663. MP, de Dezembro de 1663.
(2)Henrique Valente de Oliveira の名が掲載されているのは、MP, de Janeiro ,de Fevereiro,
de Mar ç o, de Abril, de Junho, de Julho, de Agosto, de Setembro, de Outubro, de
Dezembro de 1663. MP, de Janeiro, de Junho, de Junho, de Julho, de Outubro de
1664. MP, de Janeiro, de Junho, de Junho, de 1665. Domingos Carneyro の名が掲載さ
れているのは、 MP, de Janeiro de 1666.
(3)Joam da Costa の名が掲載されているのは、MP , de Janeiro de 1667. Antonio Craesbeeck
de Mello の名が掲載されているのは、MP, de Fevereiro, de Março, de Abril , de Maio
de 1667.
(4)J.E. Moreirinhas Pinhero, Noticias Históricas de Lisboa na Época da Restauração , Lisboa,
1971, p. 4.
(5)
『ガゼータ』の装飾大文字については、拙稿「諸相」
、129 − 142 頁。
(6)MP, de Julho de 1663.
(7)MP, de Agosto de 1663. MP, de Outubro de 1667.
(8)MP, de Fevereiro de 1663. MP , de Janeiro de 1664.
(9)MP, de Janeiro de 1663 − de Julho de 1667. 『ガゼータ』の発行地については、拙稿
「諸相」
、133 頁。
− 25 −
荻 野 恵
8.記事内容
『メルクリオ』に掲載された記事内容は、最も多くを占めるカスティーリャと
の戦争についての記事の他、アンゴラでのポルトガル軍の勝利(1666 年4月付)
といった軍事的内容、ポルトガルの臨時特別大使ミランダ伯爵が、オランダと
の調印済み和平を携えて帰国(1663 年 4 月付)
、フランスとの友好同盟(1667
年 4 月付)といった外交関連、ブラジル、カボ・ベルデ等海外県の総督の任命
(1)
(1667 年 4 月付)などの人事が中心である。
しかしながら国王サイドの新聞であるため、王室関連のニュースも多く掲載
されている。たとえば国王アフォンソ 6 世の誕生日の祝賀パーティ(1664 年 10
月付)
、同国王の結婚の儀(1666 年10 月付)
、また当時政治の実権を握っていた
カステロ・メリョール伯の息子の洗礼(1664 年 3 月付)も記事として伝えてい
る。(2) 併せて演劇(1664 年 8 月付)や、リスボンの守護聖人アントニオの日に催さ
(3)
れた闘牛など娯楽記事も織り込まれている。
リスボン港に入港する船舶の記事も、当然のことながらカスティーリャとの
対戦中情報としての重要性が高く、1666 年 7 月付『メルクリオ』では、ブラジ
ルから砂糖やタバコを積載した船の入港を伝え、1667 年1月付では、イギリス
国王から遣わされた2名の人物と70の大砲を乗せたガレオン船の入港を伝えて
(4)
この2つの記事は、ポルトガルが独立に成功した要因と考えられてい
いる。
る植民地ブラジルからの経済的支援と、イギリスからの軍事協力の裏づけとも
なるニュースである。
註
(1)MP, de Julho de 1666.
MP, de Abril de 1663.
MP, de Abril de 1667.
(2)MP, de Agosto de 1664.
MP, de Outubro de 1666.
− 26 −
17 世紀ポルトガル再独立期における第二の新聞
『メルクリオ・ポルトゥゲス』について
MP, de Março de 1664.
(3)MP, de Agosto de1664.
MP, de Agosto de 1663.
MP, de Setembro de 1664.
MP, de Outubro de 1666.
(4)MP, de Julho de 1666.
MP, de Janeiro de 1667.
9.結び
17世紀半ば、未だ識字率の低いポルトガルの再独立期において一般民衆に対
するプロパガンダの媒体として大きな影響力をもっていたのは、教会で行われ
(1)
その重要性からフェルナンド・ ボウサ氏は、当時の「説教
る説教であった。
者は、説教台という特権的立場からポルトガルの独立戦争について伝える報告
者であり、同時に独立の正当性を擁護する弁護士でもあり、私たちに独立をめ
(2)
ざす反乱側の主義主張を教えてくれる」と高い評価を下している。
しかしながら同時期にビラやパンフレットと平行して「定期性」と「継続性」
を備え、しかも毎号 3 ページ以上から成る「新聞」形式の印刷されたプロパガ
ンダが誕生していたことも注目に値することであろう。
今回、
『ガゼータ』と比較しつつ『メルクリオ』の全体像を再構築していく過
程で気付いたことがある。それは『メルクリオ』には「新聞」の特徴のひとつ
である、各記事に「日付」と「発信地」を付すことがなされていないという点
である。再独立期前半に発行された「新聞」
、
『ガゼータ』の場合、1641 年 11 月
の創刊時から 42 年 7 月までは、
「日付」
「発信地」が各記事に見当たらないので
(3)
あるが、1642 年 10 月からは大部分の記事にそれらが記されている。
この相違は何を意味しているのだろうか。今後、両紙の比較検討を一層深め、
不明な点を順次解明することにより、ポルトガル新聞史研究の発展に微力なが
ら貢献していきたいと考えている。
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荻 野 恵
註
(1)Rafael Valladares,op.cit., pp.290 − 291. José Tengarinha,op.cit., p.39. 当時の識字率につ
いては、Ana Isabel Buescu, Cultura impressa e cultura manuscrita em Portugal na época
moderna, uma sondagem, Penélope , 21, 1999, pp. 14 − 18.
(2)Fernando Jesús Bouza Alvares, 《Clarins de Iericho》Oratoria sagrada y publicística en la
Restauração portuguesa, Cuaderno de Historia Moderna y Contemporánea , Ⅶ , 1986, pp.13
−31. ブラジルでの布教に尽力し、再独立時には国王ジョアン4世の顧問官や外交官を
務めたアントニオ・ビエイラ神父(António Vieira,1608 − 1697)の説教については、拙
稿「セバスティアニズモ」、1 − 10 頁。この他、Raymond Cantel, Prophétisme et
messianisme dans l´oeuvre d´Antonio Vieira, Paris,1960. João Francisco Marques, A Parenética
Portuguesa e a Restauração 1640 − 1668, 2 vols,Porto,1989. Paulo Alexandre Esteves Borges,
A plenificação da história em Padre António Vieira , Lisboa, 1995. を参照。
(3)拙稿「諸相」
、136 − 138 頁。
追記
本稿は 2000 年度在リスボン・グルベンキャン財団 Fundação Calouste
Gulbenkian 奨学金によるものである。
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