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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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Issue Date
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安保体制のもとで沖縄を語ること
竹尾, 茂樹
PRIME = プライム(33): 23-30
2011-03
http://hdl.handle.net/10723/1021
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
特集:日米安保を問い直す
安保体制のもとで沖縄を語ること
竹 尾 茂 樹
(PRIME 所長)
日米間の安全保障条約が1951年改定署名されて
れるが、戦後の国際社会に日本が復帰する1951年
50周年を迎えた2010年1月19日、日米両政府は連
サンフランシスコにおける対日平和条約締結にお
名の共同声明を発表した。そこでは日米安保体制
いて、南西諸島と奄美諸島は施政権を分離された
が21世紀でも「日本の安全とアジア太平洋地域の
まま残される(3)。と同時に、日本国とアメリカ
平和と安定の維持に不可欠な役割を果たす」と両
合衆国との間の安全保障条約(旧安保条約)が結
政府が表明している。また「日米同盟は地域安定
ばれたのであった。この論考では、こうした極東
の礎石」と宣言し、米軍と自衛隊の協力推進など
の近現代史のなかで翻弄され今日に至っている沖
幅広い分野で同盟を「深化」させていくとの考え
縄の社会に対してどのような認識的なアプローチ
を示した。91年のソ連崩による東西の冷戦終結を
が可能であるかについて考察を試みるものであ
機に日米安保条約の見直しを行い、両国政府がま
る。そのことを通じて、安保体制の維持というも
とめた96年の日米安保共同宣言は、日米安保を
のが日本あるいは沖縄の社会にどのような意味を
「アジア太平洋地域安定のための公共財」と位置
もつかについての考察の一部になればと思う。
づけていて、その延長上に今回の声明があること
は明らかである。軍事的な相互協力を目的とする
日本という国民国家の外側に置かれてきた「沖
この条約の履行において、この50年間、喉元に刺
縄」に存在する、一般の日本社会と異なる経験、
さって抜けない棘のように、解決の目途さえ立っ
時にそれは多様性をつけ加える要素に充ちて見え
ていないのは沖縄をめぐる処遇である。1872−79
るかも知れない。このような社会についての新し
年の琉球処分と呼ばれる、他の選択肢を与えるこ
い知識の集積や、その分析や解釈が、いったい誰
とのない明治近代国家への統合から、強力な同化
に役立つかについて無自覚でいられないことを、
政策の実施を経て、戦時にいたる。1945年の米軍
昨今の沖縄をめぐる言説は示しているように思わ
上陸後に、米海軍元帥ニミッツの名のもとに沖縄
れる。そのことの意味と経過を確認しておきた
は米軍支配下に置かれる(1)。その後連合国総司
い。
令部(GHQ)は1946年1月29日対日占領政策の
米山リサは、人類学や地域研究の対象領域であ
方針として、北緯30度以南の南西諸島(後に奄美
る「他者」の想定がかつてのように安定的なもの
諸島にまで拡大)を日本から分離することを明ら
でなくなったと指摘する(4)。ここには調査や記
かにする(2)。沖縄やとくに奄美諸島では、1949
述の対象にする「他者」が、一方的に観察されて、
年頃から日本への復帰運動がさかんに繰り広げら
語られるべき従属的な存在であるだろうか、とい
─23─
安保体制のもとで沖縄を語ること
う問いが含まれている。英国のカルチュラル・ス
とを宣言した「アジアを憂慮する学者委員会」が
タディーズや南アジアを中心としたサバルタン研
発足している(5)。
究の進展において、見るもの(記述するもの)と
また米山は、アメリカの著名な政治学者チャル
見られるもの(記述されるもの)という力関係の
マーズ・ジョンソン(6)が合衆国による沖縄の軍
構造そのものが問われることになり、従来声を挙
事支配がもたらす悲惨について近年に書いたこと
げることがなく、それを期待されることもなく、
の意味を問い直している。ジョンソンの政治学者
観察されることを永遠に刻印されてきたかのよう
としての経歴と、合衆国の外交政策決定のプロセ
な「他者」からの異議申し立てがなされるように
スに関与したあり方は不可分のものであって、政
なったのである。あるいは分析対象を外部から名
治的に脱色されることはあり得ない。2009年に
指して、定義し、分類して、記述するという方法
NY タイムズに寄稿されたこの政治学者の最後の
そのものが批判意識抜きにはなしえなくなったと
メッセージは、合衆国の軍事帝国化に反対するも
も言えるだろう。米山はこうした文脈でアメリカ
のであった。その批判の骨子は、要塞化した世界
で成立した「地域研究」についての批判的な捉え
に散らばる軍事施設の維持がいかにアメリカの国
なおしを試みる。対象とするのは、自身の属する
益を脅かすものであるかということだ。膨大なコ
社会(米山の批判はアメリカに向けられている
スト、そして基地の存在する社会との軋轢。ジョ
が)の歴史や文化、社会といかなる親密な関係も
ンソンの立ち位置は一貫して合衆国という国民国
持たないような「他者」と、
「そちら」について
家に依っており、当該者たる基地が存在する場所
の知識を生み出し続けることに対する批判であ
の住民の立場にはたっていない(7)。米山が指摘
る。アメリカ研究においてはアジア系アメリカ人
するのは、良心的な立場にたとうとしても新たな
についての知の形成過程の研究が最初の境界線に
帝国化や国民国家の再編という、その外部の社会
ついてのチャレンジとなったという。しかし合衆
に対しては覇権主義的であり、そして合衆国の社
国本土の外にあるような社会についての「地域研
会に属する人々にとっては抑圧的な構造を再生
究」が境界の問題を自身に突きつけることはほと
産・補強するメカニズムからまぬがれることが困
んどなかった。
難であるという事実である。米山は問いかける。
しかしその後アメリカの地域研究そのものの中
「沖縄をめぐる知をアメリカ研究の領域に差し
から、合衆国の拡張主義的な政策を支える機能を
はさむことは(…)その意図がいかに良心的なも
持ってきたことに対する反省意識が芽生える。ア
のだったとしても、
(非)知、判読(不)可能性、
メリカの地域研究は第二次世界大戦中にはじま
語りの(不)可能性の帝国的な秩序の中に沖縄を
り、50年代のアジア戦略の拡張と手を携えて発展
再び埋め込むような結果を招くかもしれない。ど
してきた経緯がある。こうした出自と展開に対す
うすれば私たちは、沖縄のさらなる従属化と道具
る捉えなおしの試みはアメリカの地域研究内部で
化という危険を冒すことなく、合衆国のアジア・
60年代からすでに議論されてきた。ベトナム戦争
太平洋での帝国主義と植民地主義の歴史の忘却に
への加担という反省から、朝鮮戦争研究の B. カ
対抗するうえで助けになるような仕方で、沖縄を
ミングスと、毛沢東研究の M. セルダムらが中心
『知る』ことができるだろうか。
(…)沖縄をめぐ
になって、1967年には帝国主義的な政策に寄与す
る饒舌さは蔓延しているが、その軍事化され植民
るような「地域研究」と手を切って、むしろ地域
地化された生きにくい現実は、依然変わらないま
に生きる人々とのコミュニケーションをめざすこ
(8)
主流社会たる米国の政策との結託、
まである。
」
─24─
安保体制のもとで沖縄を語ること
分かち難い共犯関係ともいうべきものは、良心的
最終段階に入ったことを主張した(11)。たとえば
な研究者の告白によっても乗り越えられるもので
(12)
の成功
NHK の朝の連続ドラマ『ちゅらさん』
はなかった。国益の名前のもとに「回収」されて
がなにに依るものか、その語りの反復する物語を
しまうことを免れ得ないという。ではわれわれは
分析しながら田仲康博は自問している。「なぜ、
沖縄についてどのように語ることができるのだろ
これほどまでに沖縄文化が語られてしまうのだろ
うか?
うか。
『異国文化』溢れる片仮名の『オキナワ』
沖縄をその外部から語り、記述することは、こ
といい『本当の沖縄』と言い、その視線の先にあ
うした抑圧のメカニズムの連鎖を断ち切る契機に
る南島のイメージが実はいずれも歴史的に構築さ
なり得るのか。沖縄について語ること、書くこと
れたものであること、そしてイメージが前景化す
がどのように可能だろうか?
(13)
を喚起し
る一方で後景に退くものがあること」
当事者であること、連帯感を表明すること、し
ている。田仲が指摘しているのは、沖縄文化が過
かし苦い悔恨とともに何も変わらないと呟きを残
剰に語られる時に、何が選びとられて、何が捨て
して立ち去ること、そこに留まる人たちは見捨て
られ、あるいは忘れられてゆくかという問題であ
られたままではないか。安全な圏内から発言し
る。新城郁夫は、この田仲のエッセイを引きつつ、
て、エールを送るしぐさを見せることの欺瞞に沖
その際に捨象されているのは「歴史的現在」であ
縄の人たちは疾うに気づいているだろうが、気づ
『ちゅらさん』が語っているのは、
るという(14)。
かないふりをしているに過ぎない。連帯を口にす
沖縄の離島(小浜島)に生まれた女性主人公が、
るのはやさしいが、それが実質的な意味をもちう
東京に引き寄せられて、さまざまな異文化接触の
るにはどんな道筋があるのだろうか?戦後の安保
挿話を重ね、しかしその「無垢で純情な人柄」に
体制と呼ばれる、日米の軍事同盟による東アジア
よって周囲を癒し、幼な馴染みと結ばれて再び島
の安定の構築を享受する側と、負債を積み重ねる
に戻るという予定調和的な物語である。新川明が
ばかりの側とで、どんな連帯が成り立ちうるとい
うのか?
2000年の沖縄サミットの開催の意味について、
「沖縄統合の最終段階に入った」と指摘した翌年
このような連鎖は、たとえば「日本文学」の中
にこの NHK ドラマが日本社会において大成功を
に、
「琉球・沖縄文学」を位置づけたいという要
博したことの平仄の合い方は偶然のものではない
求と、どこかで結びついてはいないか。単一民族
だろう。
という近代の生みだした幻想を解体し、
「日本」
こうした沖縄を語る際の饒舌さが何に由来して
の文化的多様性を証明する上で重要な場所として
いるか、そのことがどのような意味を持ちうるか
位置付けられる沖縄。
「日本」への同化が進んで
について、近年には批判的な視点からとらえ直さ
いるとはいえ、そこにはまだ「日本」を相対化す
れることが続けられている。どういった場所から
(9)
る上で必要な独自の問題群があるとされる
、
語りあるいは書いているのか?そのことが沖縄と
そうした沖縄の文化や社会のあり方を日本の中の
日本やアメリカ合衆国をめぐる地勢的な環境のも
ユニークな地域として称揚することが、一つの思
とに、あるいは当事者として生きる人々の生活や
考の定型になっている。1940年の方言論争はその
あり様に、いったいどんな意味を持ちうるかにつ
一つの例であり、また近年の沖縄ブームはもう一
いて、無自覚的には言葉を連ねることができない
つの例だろう(10)。沖縄のジャーナリスト新川 ということに他ならない。
明は2000年のサミット開催について、沖縄統合の
沖縄文化の一面が強調されることによって、何
─25─
安保体制のもとで沖縄を語ること
ものかが消し去られたことについて、屋嘉比収
倉吉の教示によって引用した模様である(18)。ス
は、2000年のサミット首脳会議開催と一連の出来
ピーチの後で沖縄の言論界の多くはこの語句の使
事の連鎖に注目している。屋嘉比が歴史的な経過
われ方を批判的に取り上げた。その使われ方と
を丹念に確認しながら考察しているのは、このサ
は、合衆国の世界政策の下で沖縄の置かれている
ミット開催のきわめて念入りに計算された政治的
歴史的現在と過去に言及することなく、普遍的な
な意図についてである。1995年9月に起きた在沖
平和の希求という文脈でのみ、沖縄に存在する
米海兵隊員3名による小学生の暴行事件に端を発
「非戦の思想」を引用したことについてであった。
して、在沖米軍基地の整理縮小を求める沖縄県民
しかし歴史家高良倉吉のコメントは異なり、この
の声をよそに、日米両政府は「沖縄における施設
格言の歴史的な出所を特定できないことを理由と
及び区域に関する特別行動委員会(SACO)
」を
して、沖縄の社会に「命どぅ宝」が「不動の価値
設立して検討の末、1996年に沖縄島中部の宜野湾
や前提」に高められてはいないと指摘して、ス
市が位置に隣接する普天間飛行場を北部の名護市
ピーチを批判した沖縄の論者の不用意を逆に問い
東海岸の辺野古沿岸に移設計画を発表する。同時
直している。この視点のずれについては、2000年
に1998年には「沖縄県マルチメディア・アイラン
のサミット首脳会議に先立って、高良をはじめ大
ド構想」が策定されて、北部地域には大規模な経
城常夫、万栄城守定といった琉球大学教授3名に
済振興策が提示される。その結果宜野座村にサイ
よって発表された政策提言『沖縄イニシアティ
バーファーム、名護市にも IT 関連施設が建設さ
(19)
をめぐる論争を想起せざるを得ない。その
ブ』
れコールセンターが設置される(15)。このような
中では、日米新ガイドライン設定(1997年)や周
米軍基地をめぐる(しかし沖縄でだけと留保しな
辺事態法(1999年)など一連の日米軍事同盟の強
ければならない)緊迫した社会背景のもとで、小
化・再編という根底的な政策変更が実施されるな
渕恵三首相のイニシアティヴで、名護市西海岸に
かで、沖縄からの貢献を自分たちのイニシアティ
おける首脳サミットの開催が、沖縄県首脳に対し
ブによって行うべきことが宣言されている(20)。
てさえも意表を突く形で決定された。
沖縄の言論界のみならずメディアにおいてこの提
屋嘉比がさらに注目したのは、沖縄戦終結のモ
言は大きな論争の的になる。沖縄における米軍基
ニュメントである糸満市摩文仁の「平和の礎」を
地の存在を受け入れる、その理由は日本やアジア
前にしたクリントン米大統領によるスピーチであ
における平和の実現に寄与する、より「普遍的な
る。周到に用意された大統領のメッセージがいか
言葉」に沖縄を結びつけて行くべきであるという
なるものであったのか。第一には日米同盟の重要
ものであった。その際には「戦争体験と敗戦後の
性と、とりわけ沖縄の不可欠な役割の強調であ
基地形成という『歴史問題』を克服」することが
る。第二に、未来に向けての平和構築の決意表明
必要と主張する。クリントン大統領が「命どぅ宝」
(16)
であった。そこでは、沖縄戦以来の統治の記憶
という語句を歴史的・現実的な文脈に触れること
や、直近の過去における米軍人による市民の凌辱
なく、普遍的な平和の思想に結びつけて引用した
に対する遺憾表明などはきれいに拭い去られてい
ことと、
『沖縄イニシアティブ』の平和実現に関
(17)
た。またスピーチの締めくくりに「命どぅ宝」
わる議論の展開のしかたは一致している。この提
と言う沖縄ではことわざのように口にされる言い
言に寄せられた批判の多くが指摘しているとお
回しが引用されたことをめぐり、考察を続けてい
り、沖縄の戦中と戦後の歴史経験を払拭する、非
る。クリントンはこの言い回しを、歴史家の高良
歴史的な立脚点からの主張といえるであろう。こ
─26─
安保体制のもとで沖縄を語ること
こに再び「歴史的現在」の忘却が立ち現われてい
国をはじめアジアへの軍事進攻を「侵略」と記述
る。
していたものが「進出」と変えられことから、韓
屋嘉比の論考はこの高良の指摘に対する反論を
国・中国からの抗議が相次ぎ外交問題に発展し
なしている。屋嘉比によれば、
「命どぅ宝」とい
て、鈴木善幸首相が訪中時に釈明を行うなど日本
う語句の歴史的な出所と経歴が明らかでないこと
政府は関係修復に苦慮した事件である。沖縄戦の
がことの本質ではないという。むしろこの言葉が
記憶とその歴史化・記述をめぐって、戦後沖縄社
「沖縄で広く流布し、しかもその言葉に沖縄の人
会において積み上げられ、共有化されてきた記憶
びとが反戦平和の願いとイメージを託している
と、日本の中央政府の公的な歴史認識との間に亀
(21)
『事実』こそが重要だ」と主張する
。そして、
裂が生じそれが明らかになろうとするタイミング
この言葉が戦後の沖縄社会において、とりわけ復
であった。こうした戦争の記憶とその継承をめぐ
帰以後の時代状況の中で見出され、意味を賦与さ
る緊張関係のなかで、
「命どぅ宝」という言葉は
れてゆく過程に注目している。屋嘉比によれば、
見出され、意味を賦与されて行ったと屋嘉比は主
この言葉が概念化され、文章の中で確認されるの
張している。こうした構築主義ともいえるアプ
は1970年代前半に編纂された『沖縄県史』や『那
ローチは、この語句が沖縄の歴史の中でひとつの
覇市史』に収録された沖縄戦の体験の聞き取り調
具体的なイメージと態度に像を結ぶに至る経過を
査を通じてであるという。沖縄における地域史の
じつに丹念に遡行した実証的な作業によって説得
編纂事業は、第二次大戦における壊滅的な被害の
力をもつにいたった。
なか、多くの歴史文書や記憶をつなぎとめるべき
著者は、沖縄社会に生きて、思索した屋嘉比の
モニュメント、そして記憶の保持者であるべき住
この文章を読みながら、在日コリアンの日本に生
民そのものの喪失に突き動かされるかのように、
きる意味を考えようとしたノーマ・フィールドの
日本のほかの地域社会に見ることのない規模と手
「羨望、かったるさ、受難を越えて──在日コリ
法で展開された。屋嘉比自身も関わった『那覇市
アンとその他の日本人のための解放の政治学にむ
史』は全33巻、1961年以来延べ47年の長い年月を
(22)
という論考を想起することがしばしばで
けて」
経てまとめられている。その中の資料篇第3巻7
あった。フィールドは、日本社会の歴史と現在の
「市民の戦時 ・ 戦後体験記⑴戦時篇」および8「市
中において、正当な場所と権利を与えられない在
民の戦時 ・ 戦後体験記⑵戦後 ・ 海外篇」
(いずれ
日コリアンのあり方を考察して、しかしそうした
も1981年刊行)は、行政機関による住民の戦争体
構造を持つ日本社会のそのものが変革する主体性
験の証言の採録である。このような戦争体験者と
を持つ契機がいかに可能であるかを問うている。
研究者、また行政機関のあいだの地道な共同作業
フィールドが引く在日の女性詩人宗 秋月は、そ
を通して、
「殉国美談」というナショナル・ヒス
の作品の中で、昭和天皇が自身の死に際して(そ
トリーにまとめきれない、一般住民の戦争に対す
しておそらく日本人すべてが)、はじめて同等の
る声というものが浮かび上がってくる。
人間という位置に立つことができることを表明し
もう一つの節目は1982年に文部科学省の実施し
ている。
た教科書検定において高校の歴史教科書から沖縄
「オオカミに非ず 人に非ずの抽象の象徴が やっと
戦における、日本軍による「住民虐殺」の記述が
全面的に削除されたことが報道されたことによっ
あゝ やっと個として具体化し
て引き起こされた。この際の教科書検定では、中
人間に戻れたことを君がために共に
─27─
安保体制のもとで沖縄を語ること
(23)
喜ぶ昭和余年の今は秋」
注
死という絶対的な人間の条件のもとにおいて、人
(1)米海軍軍政府布告第1号「日本との戦争遂
は本来の個別性を取り戻すという。しかしそれま
行の必要上、日本帝国政府のすべての行政
での生の過程において、主体性を取り戻すべき機
権を停止して軍政府を設立する」
会はないのだろうか。フィールドはその道筋とし
(2)「若干の外郭地域を政治上行政上日本から
分離することに関する覚書」
て、
「在日コリアンの受ける差別的抑圧があらゆ
る日本人の先進資本主義の眼に見えない抑圧を眼
(3)対日平和条約第3条「日本国は、北緯29度
に見えるものに変え、
(…)在日コリアンが日本
以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を
の市民権に付随する権利を求め、それを法的にも
含む)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群
日常的にも実践することによって、すべての日本
島、西之島及び火山列島を含む)
、並びに
人にとって市民権という概念が活性化することへ
沖ノ鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政
の希望」(23)となるであろうことを予告している。
権者とする信託統治制度の下におくことと
フィールドの提起した、マイノリティーの存在を
する国際連合に対する合衆国のいかなる提
忘却の隅に追いやらない営みを通じて、はじめて
案にも同意する。このような提案が行われ
「日本人」の主体性も回復されるであろうという
且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含
問いは深く、しかも実現にはいまだほど遠い。
むこれらの諸島の領域及び住民に対して、
沖縄について語る時に、日本文化の祖型、プロ
行政、立法及び司法上の権力の全部及び一
トタイプを読み込むことはこれまでに様々な文脈
で切り返されてきた。柳田国男から柳宗悦をへ
部を行使する権利を有するものとする。
」
(4)米山リサ『暴力・戦争・リドレス─多文化
て、吉本隆明まで。そこには沖縄の文化は、個々
主義のポリティックス』p.14(岩波書店、
の歴史的なコンテクストを別にして、日本文化あ
2003)
るいは日本国家のためにこそあるという一貫した
(5)Bulletin of Concerned Asian Scholars。今日
スタンスで貫かれている。その反復的な呪縛から
では名称を Critical Asian Studies と改めて、
われわれがどのように自由になりうるのか。対象
当初のアメリカの東・東南アジアにおける
化されて語られる沖縄の人びとの中に、文化を表
インパクトから、さらに南アジアや太平洋
象するものとして自身を位置づけ、自分の自画像
島嶼地帯、さらにはアジア系アメリカ人な
を読み取るばかり、そこに沖縄の人びとが占める
どの生活世界や経験もカバーしようとして
べき位置は存在しない。このような循環の構造を
いる。http://criticalasianstudies.org/about-us/
断ち切る思考がさまざまに試みられてきたことを
(6)Chalmers Johnson(1931−2010)は『通産
本稿では辿ってきた。そうして鍛えられてきた思
省と日本の奇跡』
(TBS ブリタニカ、1982)
考の強靭さが、沖縄の人びとの置かれている抑圧
で知られる中国と日本を専門とする政治学
的な状況に見合うものだろうか。そしてわれわ
者。90年 ま で CIA の 一 部 門 で あ る Office
れ、日本社会の成員たる「日本人」はなにを思考
of National Estimates に関わり中国について
し、構想すべきだろうか。
の報告書を作成。2000年以降には合衆国の
政治経済的な覇権主義が新たな不安定と報
復行為をもたらすことを主張した、三部作
を発表した。 Blowback (『アメリカ帝国
─28─
安保体制のもとで沖縄を語ること
へ の 報 復 』(2000年、 集 英 社 ) Blowback,
Second Edition: The Costs and Consequences
出版会、2007)
(15)北部振興政策のじっさいの経済効果とその
of American Empire (2004)
, The Sorrows of
問題点については、松島 勝「辺境島嶼・
Empire: Militarism, Secrecy, and the End of
琉球の経済学」in 西川 潤他編『島嶼沖縄
the Republic (2005)
, Nemesis: the last days
の内発的発展』
(藤原書店、
2010)に詳しい。
of the American Republic(2006)
。近年の主
(16)クリントン大統領のスピーチの一節で沖縄
張はアメリカの覇権主義に異を唱えるもの
県知事の「当地(沖縄)におけるリーダー
として、沖縄に関わる知識人からその評価
シップに感謝します」というくだりは、米
は高い。
国の国益のための尽力をねぎらう「宗主国
(7)Op-Ed New York Times, July 13, 2009
が植民地統治者に向かって言う言い方であ
る」という指摘を D. ラミスがしている。
(8)米山リサ「沖縄という言語道断、あるいは
その語りの不可能性」p.64 in 富山一郎・森
宣雄編著『現代沖縄の歴史経験─希望、あ
「沖縄タイムス」2000年8月1日
(17)流歌「戦さ世んしまち 弥勒世ややがて るいは未決定性について』
(青弓社、2009)
嘆くなよ臣下 命どぅ宝」
(戦争が終わり
(9)目取真 俊「琉球・沖縄文学」in 別冊環『琉
平和な世の中がやって来るのだ。臣下の者
球文化圏とは何か』
(藤原書店、2003)
よ、嘆くな。命こそが大切な宝なのだ)に
(10)戸邊秀明「民芸運動の沖縄─『方言論争』
由来するが、作者が最後の琉球国王尚 泰
再考に向けてのノート」早稲田大学大学院
文学研究科紀要 48号(2007)
であるかについては伝承があるのみ。
(18)高良倉吉「クリントン大統領演説」
『沖縄
(11)守礼の門をモチーフにした新二千円札の発
タイムス』2000年7月31日
行は、2000年のサミットに合わせて行われ
(19)『沖縄イニシアティブ』は2000年3月小渕
た。いささか唐突な沖縄の絵柄の選定を新
恵三首相も参加した那覇における「アジア
川は沖縄が完全に日本の版図に入ったとい
太 平 洋 ア ジ ェ ン ダ プ ロ ジ ェ ク ト・ 沖 縄
う象徴的な儀式であるという議論を展開し
フォーラム」
(日本国際交流センター主催)
ている。新川 明『沖縄 統合と反逆』
(筑
で発表された。
(20)「私たち三人は、アジア太平洋地域におい
摩書房、2000)
(12)2001年4月2日から9月29日まで、156回
て、ひいては国際社会に対して日米どうね
放映。平均22%強という高視聴率は同じ朝
いが果たすべき安全保障上の役割を評価す
の連続ドラマとしては『おしん』
(1983−84
る立場に立つものであり、この同盟が必要
年放映)に次ぐものである。好評に応えて
とするかぎり沖縄のアメリカ軍基地の存在
『ちゅらさん2』
(2003年、6話)
、
『ちゅら
意義を認めている(中略)我々が当事者能
力を持つ存在であること、同時にまた厳し
さん3』(2004年、5話)が作られた。
(13)田仲康博「風景の誘惑─文化装置としての
い点検者であること、その自覚を促す「財
『南島』のイメージ」in 別冊環⑥『琉球文
産」として横たわるものが、戦争体験と敗
化圏とは何か』(藤原書店、2003)
戦後の基地形成という「歴史問題」なので
(14)新城郁夫「沖縄を語ることの政治性にむけ
ある。
(中略)沖縄が「歴史問題」を克服し、
て」p.119 in『到来する沖縄』
(インパクト
─29─
21世紀において新たに構築されるべき日本
安保体制のもとで沖縄を語ること
の国家像の共同事業者となることである。
(21)屋嘉比 収『沖縄戦、米軍占領史を学びな
想の科学社
(23)宗 秋月「哀のパラドックス」朝日ジャー
おす』p.198(2010、世織書房)
ナル1986
(22)思想の科学 第8次 28号「戦後検証−1−
(24)ノーマ・フィールド 前掲論文
在日することへの視座〈特集〉
」1995、思
─30─
Fly UP