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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/

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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ロー
マ神話の三つの出会い
齊藤, 栄一
明治学院大学藝術学研究 = Meiji Gakuin University
Art Studies, 23: 1-13
2013-07-10
http://hdl.handle.net/10723/1960
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
1
ヨーロッパ美術におけるキリスト教と
ギリシア・ローマ神話の三つの出会い
齊
藤
栄
一
さて、一神教であるキリスト教の世界において、キリスト教と直接
関係がなくても「(善き)人間性」のような抽象的な概念ならばその
あっただろうか。それが、じつはけっしてそうではなかったというこ
の多神教の世界の神々はさすがにキリスト教とは両立しがたいもので
はじめに
キリスト教美術と呼べるものがその最初の展開を見せたのは、ロー
とを簡単に整理し、あとづけていくのが本論のねらいである。
存在が認められるのは理解できるが、それではギリシア・ローマ神話
マ近郊のカタコンベ(地下墓所)の中においてであった。その壁にキ
(1)
初期キリスト教時代から中世へ
プットー
ることに由来するのはもちろんであるが、ローマ美術では本来、羊飼
○章一一節にあるとおり、キリストが自らを善い羊飼いと規定してい
あらわされることが多かったが、それは『ヨハネによる福音書』第一
たとえば、ごく初期の図像表現からキリストは羊をかつぐ羊飼いで
put
t
oという形で呼ばれるようになった。その姿にローマの人々は、
そして、 ラテン語で子供をあらわす put
usという語の変形である
いはアモルと習合し、やがては「弓と矢をもつ子供」となっていった。
かろやかに歩む、有翼の神」であったが、ローマ神話のクピードある
ルメースの子とされ、「美しい若者で、気まぐれで、バラの花の上を
ギリシア神話のエロースは、ヘシオドス以来アフロディーテーとヘ
Ⅰ
リスト教と関連づけて考えることのできる壁画がはじめて姿をあらわ
したのは二○○年ごろのことである。それらの画面は聖書やそのほか
の伝承に語られた情景をこと細かに再現するものではなく、むしろキ
リスト教のさまざまなテーマを思い起こさせるきっかけを与える程度
(2)
の簡単なもので、それらはむしろ「図像記号」(イメージ・サイン)
いの姿によって「(善き)人間性」(フマニタース)をあらわす伝統が
人の一生を守るべくつきそってくれる守護霊(geni
us
)を見ていた
(4)
あったのであり、これもまた、ローマ文化において一般化された理想
ようだが、初期キリスト教徒たちは、その姿をカタコンベの壁画や石
(6)
(5)
像とも意識的につなぎあわされた「図像記号」のひとつと見るべきも
棺彫刻に天使をあらわすものとして利用していった。
(3)
のでもある。
とでも呼ぶべきものであった。
の石棺には、葡萄酒を造っているプットーたちの姿を見ることができ
また、かつてはこの聖堂の中に安置されていたコンスタンティーナ
彼らを結ぶ植物の葉はどれもすべて十字架の形をしている。
なものの姿も見えるが、それらとプットーたちとのあいだにあって、
図 2 コンスタンティーナの石棺,ヴァティカン美術館,
350年ごろ
)。ここには明確なキリスト教的メッセージはないものの、
ス帝の娘で、その敬虔な信仰のゆえに叙聖されたコンスタンティーナ
たとえば、キリスト教を公認したことで知られるコンスタンティヌ
ついて語っていることを思い起こすならば、このプットー/天使たち
福音書』第一五章一節)にたとえて、神とキリストと人間との関係に
ていることや、自らのことを「まことのぶどうの木」(『ヨハネによる
)。ここにはマイナス(バッケー)のような異教的
初期キリスト教時代に作られた石棺のなかでもとりわけよく知られ
もまた、ひとつの「図像記号」の役割を果たしているといえるだろう。
される血、絜約の血」
(
『マタイによる福音書』第二六章二八節)と言っ
キリストが弟子たちにむかって葡萄酒のことを「多くの人のために流
る(図
2
によって当初は洗礼堂として建立されたと考えられているローマのサ
図 1 プットーとマイナス,サンタ・コスタンツァ聖堂,ローマ,4世紀なかごろ
ンタ・コスタンツァ聖堂にも、そのようなプットーたちの姿を見るこ
とができる(図
1
2
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
ている「ユニウス・バッススの石棺」の中にもプットー/天使たちは
)。この図像は農民の守護霊としてのプッ
メージがふたたび結びつけられ愛されるようになるのは、ルネサンス
彫刻の巨匠ドナテルロによる流行以降のことである。
キリストのオルフェウス・イメージ
絵画において具体的にどのようなイメージであらわすかについては、
十戒の第二戒が偶像崇拝を厳にいましめるものであるため、キリス
その初期の時代において明確な指針が存在していたわけではなかった。
市の総督をつとめ、執政官を父にもつ人物であったことを考えるなら
かもしれない。
ト教美術にあって彫刻の製作が活発化するのが絵画のそれにくらべて
(7)
とすれば、こ
周知のように、聖書はキリストの面立ちについて具体的なことはいっ
相当遅れをとったのはよく知られているが、それではキリストの姿を
図 3 麦をかりとるプットーたち,「ユニウス・バッススの石棺」,サン・ピエト
ロ大聖堂宝物室,ローマ,359年ごろ
ば、ここでの小麦はもっと公的な意味をもつもの、すなわちその粉に
床で洗礼を受けたユニウス・バッススがもともと貴族であり、ローマ
トーが農作業を手伝っているところを描いたものともとれるが、死の
姿をあらわしている(図
3
よって作られる聖体のパン(ホスティア)のことが暗示されているの
れもまたまぎ
さい語っていないからである。
るイメージや概念を用いて布教するのは、日本に布教に来たイエズス
伝道のために、異邦の地にあって、伝道者たちがその地にすでにあ
れもない「図
会士たちの Deusの訳語選択においても知られているように、よくあっ
像記号」のひ
とつと考えて
も、中世が進
使のイメージ
ーとしての天
こなったのが、すでに多くの支持を得ている既存の宗教のイメージの
不信感がまだまだ根強かった。そこでキリスト教徒たちが積極的にお
にみられるように、ローマの人々の保守層にはキリスト教にたいする
たとはいえ、四世紀なかばのユリアヌス帝の異教的祭儀の復興の企て
はようやく陽の当たる場所で公然と活動することができるようになっ
四世紀初頭にコンスタンティヌス帝によって公認されたキリスト教
たことである。
もいいだろう。
このかわい
むにつれてロー
らしいプット
マ神話の勝利
キリスト教への取り込みであった。
たん姿を消し
わられ、いっ
れにとってか
(図
もするこのオルフェウスをキリストのイメージとして用いていった
またトラキアの女たちに八つ裂きにされることが受難の死を連想させ
リュディケーを取り戻しに冥界へ降りてゆくことが黄泉への降りを、
あったのがオルフェウスであるが、キリスト教徒たちは、亡き妻エウ
当時の地中海世界で、神々のなかでもっとも親しまれ、また人気が
の女神である
てしまう。そ
ニーケーのそ
の愛くるしい
姿と天使のイ
リストのイメージ、すなわち黒くてストレートな頭髪を頭頂の中央で
)。ここには、のちに定着してゆく我々にとってのおなじみのキ
4
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
3
(9)
承者としての地位をも獲得していったのである。
ヘラクレスとヤーヌス
キリスト教美術はまた、ギリシア・ローマの神々をキリストのイメー
ジへと転用するだけでなく、その神々をそれ自身としてキリスト教の
ヴィア・ラティナのカタコンベにはヘラクレスの十二功業のひとつ
文脈のなかに登場させてもいる。
である「ヒュドラ退治」が描かれている。ヘラクレスはこの当時は、
たんなる英雄としてだけではなく、さまざまな悪霊や怪獣などから人
間を解放してくれる救済者としてあがめられていた。そのヘラクレス
のイメージに、当時のキリスト教徒のすべてではないにしても一部の
人たちは、救済者としてのキリストを重ねて見ていた。したがって、
(
)
救済者としてのヘラクレスに読み込まれた救済者としてのキリストの
)
いうまでもなく高度な政治性をもつものであるが、そのことを通じて、
入れられているイメージをキリストのそれとして用いるということは、
ている。このように反キリスト教的な保守層をも含む一般民衆に受け
とつるつるした頬やあごを見せるさっそうとした青年の若々しさが光っ
分け、おなじく黒いヒゲを生やした男の姿はなく、ブロンドの巻き毛
にさえも抵触しているのではないかと考えられもしよう。この二つの
ファサードにおさまっているのは、十戒の第二戒のみならず、第一戒
た時期にあっても、キリスト教から見れば異教の神が堂々と教会堂の
る(図
わされるときには、きまって一月のところにヤーヌスが姿を見せてい
た。そして、ゴシックの教会堂に十二の月が農民の働く姿などであら
と未来の接点、すなわち一年の最初の月である一月の名の由来ともなっ
で未来を、後ろの眼で過去を見ることができるとされ、そこから過去
る。この二つの顔を持っているというところから、ヤーヌスは前の眼
(
いて、bi
f
r
onsすなわち「二つの顔」という添え名まである存在であ
であり、ふつうの顔のほかにそれとは反対向きの顔を後頭部につけて
となると話は異ってくる。ヤーヌスはローマ神話における門の守護神
ゴシック時代の教会のファサードなどにひんぱんに登場するヤーヌス
ヘラクレスのイメージはどちらかというと例外的なものだが、中世
イメージが墓所に描かれているのも至極当然なことなのである。
顔を持つ奇妙な異教の神が、キリスト教の神聖な場所から排除される
図 4 オルフェウスとしてのキリスト,ドミティラのカタコンベ,ローマ,4世紀な
かごろ
新しい宗教・政治勢力としてのキリスト教は、ローマ帝国の美術の継
(8)
)。ローマ帝国の時代ならいざしらず、中世もだいぶ深まっ
5
4
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
5
とても言えない。そこで、キリスト教以前の諸宗教はキリスト教とは
信仰を得ることもまったくない。これでは、カトリシズムは、天地創
無縁の異教ではなく、まさにキリスト教の神がキリスト教を成立させ
造いらい現在にいたるまでの全時間において普遍性を有しているとは
カトリシズム、すなわち普遍主義を貫徹するには二つの相において
るための準備的なものとしてこの世に送り込んだものである、とカト
どころかむしろ積極的にとりあげられていった理由は、おそらくカト
普遍性が成立していなければならない。すなわち空間と時間である。
リシズムという考え方それ自体に求めることができるだろう。
空間において普遍的であることは、実際には不可能だが理論的には可
リシズムは考えた。
なぜなら、神が受肉してキリストとなってこの世に降り立った時点以
においても普遍的であることは理論的にも第一義的には不可能である。
東までやってきたイエズス会士のような人々である。ところが、時間
かつてそれを信じた人もいた。多くの困難をものともせずにはるか極
されたもの)の上に超然と立ち、それを飲み込むものでなければなら
の宗教と並存してはならないし、対立してもならない。他の宗教(と
のは全てを包含することであるから、カトリシズムはその本質上、他
る集合のひとつの構成要素としてしまうことになる。普遍主義という
自らを相対化することである。すなわち自らをさまざまな宗教からな
キリスト教は自らをも諸宗教のひとつと定義することになる。それは
そもそも、キリスト教以前の諸宗教を宗教と定義したその瞬間に、
能である。地球上のすべての人間がカトリック教徒になったときがそ
降の人間はキリストの福音にあずかることができるが、それ以前に生
ない。
れである。もちろんこれはとても実現しそうにないことではあるが、
まれた人は、たとえソクラテスやブッダのような人であってもキリス
ネオンによって上部が改築されたがゆえに、その名をとって「ネオン
であったウルススによって創建されたものだが、四五八年ごろに司教
ばれるネオニアーノ洗礼堂がある。これは四世紀ごろにこの地の司教
東ゴート王国の首都であったラヴェンナには、正教徒洗礼堂とも呼
ヨルダン川の精
ことを表明しているのである。
扈していたキリスト教以前の世界をも時をさかのぼって支配している
見せているということこそが、ローマ・カトリックが異教の神々の跋
顔面を二つ持つ奇怪な異教の神がキリスト教の教会堂の正面に姿を
た考え方に裏打ちされてのことである。
てきたオベリスクがいまだに偉容を誇っているのも、まさにこういっ
りつけられたとされるその場所に、エジプトから一世紀ごろに運ばれ
サン・ピエトロ広場の中心部分、まさに聖ペテロがさかさ十字架には
ローマ・カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂の正面の
トの福音を聞く機会は与えられず、救済者としてのキリストを信じる
図 5 ヤーヌス,サン・ドゥニ修道院聖堂正面南側
入口右扉,1
137年ごろ
さらにそれが四つの玉座と四つの福音書をのせた祭壇からなる八つの
部分に「キリストの洗礼」をいただき、その周囲を十二使徒が囲み、
の洗礼堂」と呼ばれるようになったものである。そのドームには天頂
派洗礼堂のドームにも、このネオニアーノ洗礼堂の影響を受けて、ヨ
在はサンタ・マリア・イン・コスメディン修道院に含まれるアリウス
トスの残滓と考えるほうがよいかもしれない。同じラヴェンナの、現
だまだ民衆に共有されていたパンテイズム的あるいはアニミズム的エー
脈からみれば一人の招かれざる客が、その洗礼の場面に姿をあらわし
その「はなはだしい修復」の手をのがれて、本来のキリスト教的文
いしか裸体の登場しない中世キリスト教美術にあって、泉の精とでも
が描かれているが、これはアダムとイヴ、あるいは泥酔したノアぐら
山のふもとで彼の帰りを待つ民衆の最右端に裸体で水につかる男の姿
モーセがシナイ山にのぼって神から石板を授けられている間、シナイ
)
)。キリストがその半身をひたしているヨルダン川の精
)。ここでは、
である。ここでも我々は、ヤーヌスのところで論じたようなカトリシ
ている(図
た時点でも写本装飾のなかに見出すことができる(図
考えるほかに理解のしようのない存在である。
(
テンピエットで囲まれる構造になっている天井画が描かれている。
また、こういった発想は、ラヴェンナの作例から五○○年近くたっ
)
ルダン川の精がキリストのそばにその堂々たる体 を誇示している。
はるか以前の世界にあって、むしろキリスト教世界にあってさえもま
れないが、むしろこれは、のちにキリスト教神学が大系化されてゆく
をうんぬんできないのだろうか。そういう側面もたしかにあるかもし
図 7 律法を授かるモーセ,
『レオの聖書』
,ヴァ
ティカン図書館,92550年ごろ
東方的・宮廷的古典主義に近い様式の持つおもむきはよく保存されて
(
7
「キリストの洗礼」の部分は後世の修復がはなはだしいものの、その
図 6 キリストの洗礼,ネオニアーノ洗礼堂,ラヴェンナ,
458年ごろ
ズムの大義をふりかざさなければこのヨルダン川の精の存在の妥当性
いる。
6
6
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
7
的様式と精神を受け継いだ一七世紀の画家によってもまた新たな生命
もっとも、この水の精の命脈は意外に長く、ルネサンスの古典主義
そりと我々に背を向けてねそべっている裸体の男は、その手にする豊
線を収斂させてゆくように構成されるなかで、その左端にひとり、ひっ
ルネサンス
ヴィーナスとマドンナ
)
(
)
、
)。この女性がシモネッタであるかどうかは
10
罪のひとつである虚栄 (ヴァニタース) におちいることであるか
である。また、現世的な美に溺れることはまさにキリスト教における
ロスのことであり、聖母の愛であるカリタスとはむしろ対極的なもの
ヴィーナスは愛と美の女神と位置づけられているが、その愛とはエ
たというまぎれもない事実は否定しようがない。
テー/ウェヌスとキリスト教の神の母マリアとを同じイメージで描い
おくにしても、ボッティチェリが、ギリシア・ローマ神話のアフロディー
ことができる(図
9
ジを、我々は驚いたことにこの「ザクロの聖母」の中にもまた見出す
にしているともいわれる「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスのイメー
リアーノ・ディ・メディチの愛人シモネッタ・ヴェスプッチをモデル
ているものがある。パッツィ家の放った刺客によって命を奪われたジュ
の誕生」とほぼ同時期に製作された作品に「ザクロの聖母」と呼ばれ
いるが、一四八五年もしくはその翌年ごろに製作された「ヴィーナス
(
よってルネサンス絵画にその名を永久にとどめる画家として遇されて
いる「春(ラ・プリマヴェーラ)」と「ヴィーナスの誕生」の二作に
ボッティチェリといえば、対副をなすのではないかとも考えられて
Ⅱ
あることを示そうと意図的に置いたものと考えるほかないだろう。
ルネサンスをさかのぼってはるか昔の古典古代の世界に属するもので
このナイル川の精は、古典主義者プッサンが、自らの文化的ルーツが
ことはすでに画面右のピラミッドではっきりと示されているのだから、
たまものをもたらすナイル川の精と知れる。その川がナイル川である
穣のしるしであるコルヌコピアエによって、まぎれもなくエジプトに
図 8 川から救われるモーセ,プッサン,ルーヴル美術館,1647年
)。人物像が幼児モーセの姿へと我々の視
を吹き込まれている(図
8
図 9 ヴィーナスの誕生,ボッティ
チェリ,ウフィツィ美術館,
1485/86年ごろ,細部
しろ否定する
の愛と美をむ
はヴィーナス
ろしめす世界
ら、聖母のし
ある。
の激烈な自己批判と「転向」もおおいにうなづきうるものとなるので
ただろう。だからこそ、サヴォナローラの言説に出会ったあとの周知
あろう唯美的な感覚にたいしてとりわけ大きく訴えかけるものであっ
スのような聖母」という具体的なイメージは、彼が本来持っていたで
のだろう。しかし、画家であるボッティチェリにとって、「ヴィーナ
れゆえ、聖母
るはずだ。そ
いわゆるルネサンスの時代においてもっともルネサンス的な画家たら
はいない。だがそれゆえにこそ、そのことがボッティチェリをして、
スティックにヴィーナスとしての聖母を描いた画家も彼をおいて他に
スト教のテーゼからも引き出すことはできないし、またここまでドラ
聖母をヴィーナスのようにイメージするというのは、いかなるキリ
ところに成立
をヴィーナス
しめているのである。
するものであ
のイメージに
聖母の「図像
ヴィデ像の完成をまかされたミケランジェロが、その仕事を引き受け
アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョが製作不可能として放棄したダ
ヘラクレスとダヴィデ
重ねて描くと
いうことは、
記号」的なも
た当初思い描いていたダヴィデのイメージは少年のそれであった。そ
ヴィーナスを
のとして考
さい、ミケランジェロの先達であるドナテッロにせよヴェロッキオに
のことは残されている初期のデッサンからもはっきりしている。じっ
)
えることが
の完成作はまぎれもなく堂々たる青年像である(図
せよ、そのダヴィデ像は少年の姿であった。しかし、ミケランジェロ
)
新プラトン主義に親しんでいた人々が多かれ少なかれ共有していたも
ていたものではなく、当時のフィレンツェの知識階級を席巻していた
いる。もちろん、こういったイメージはただボッティチェリのみが持っ
いかなぐり捨てた、あくまで現世的な唯美的感覚のうえになりたって
いは「神の母」(テオトコス)としての荘厳さといったものをいっさ
聖母が多かれ少なかれ持っていた超越性や神秘性といったもの、ある
いだの相関的な予定調和の世界ではない。この聖母は中世に描かれた
ナの中にヴィナスが宿った」。というようなヴィーナスと聖母とのあ
(
メージをヴィーナスのそれにひきつけて描いたと考えるほかはない。
(
まったく不可能であるからには、ボッティチェリが彼独自の聖母のイ
図 10 ザクロの聖母,ボッ
ティチェリ,ウフィ
ツ ィ 美 術 館 , 1487
年ごろ,細部
ここにあるのは、おそらく「ヴィナスの中にマドンナが宿り、マドン
11
)。
図 11 ダヴィデ, ミケラ
ンジェロ, アカデ
ミア美術館, フィ
レンツェ,15
04年
8
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
9
)
よれば「血色の良い、姿の美しい少年」とある。ミケランジェロが得
ル記』上第一七章四二節をあげることができる。そこでは新共同訳に
すものとして解釈されるのが一般的であるが、その聖マルコがほかな
マルコは四性体説のうちの胆汁質、すなわち怒りっぽい性格をあらわ
ヴィデ像より二○年ほどあとに製作した「四人の使徒」において、聖
影響を強く受けたアルブレヒト・デューラーが、ミケランジェロのダ
う。ミケランジェロの同時代のドイツの画家でイタリアの人文主義の
(
たダヴィデについての情報がまさかヘブライ語に直接由来するもので
らぬフィレンツェ市それ自体の守護聖人であることをここで思い起こ
)
ないとすれば、それがウルガータのラテン語によるものであると考え
すのもけっして意味のないことではないだろう。
(
るのは至極妥当なことであろう。そのウルガータによれば、ダヴィデ
ここでダヴィデのポーズそのものに眼を向けてみよう。ミケランジェ
ロはダヴィデの体重を右脚すべてにかけさせている。そのために右半
)
の adol
es
cens
、正確には adul
es
ce
nsは十四才から三○才ぐらいまで
)
)
前述した十二の功業で知られるヘラクレスは、十三世紀末からフィ
(
J・ヴィルデによれば、この対比は、中世において人体の両側面のあ
(
)
されているのである。
そのいっぽうで、かなり形がくずれてはいるものの、ミケランジェ
ク期に開花した、上半身と下半身のカーヴを逆にすることによって運
ロはダヴィデにコントラポスト、すなわち古代ギリシア彫刻のクラシッ
さらに、もともとこのダヴィデ像はフィレンツェの大聖堂造営局から
動感と安定感の両方を一挙に得ることのできるポーズをとらせている。
)
つの枢要徳のひとつであるフォルテッツァ(剛毅)のイメージが与え
(
)
く本来は七つの悪徳のひとつであるが、フィレンツェ市民の文化の文
にはイラ(怒り)をも見てとることもできよう。これはいうまでもな
さらにダヴィデの眉根にしわを寄せた怒りをたたえたような顔付き
ひとつの表現法もミケランジェロはこの作品において踏襲している。
た、同じく古代ギリシア彫刻のクラシック期ににわかに登場したもう
それを思わせるほどにギリシアの神々のイメージが横
であるが、その頭部にはあきらかにヘラクレスというよりはアポロの
るように構想されていたがゆえに頭部と手が大きめに作られているの
)
ダ
脈にあってはむしろフォルテッツァを補完するものとしての積極的な
(
意味を獲得していたのであり、ミケランジェロはこのヘラクレス
それは胴体と二つの大腿部とのあいだにしつらえられた明白すぎるほ
している。ま
ヴィデ像のなかに市民・戦士のイメージを意図的に付与したのであろ
の最頂部に置くことを想定して製作された。そのため、下から見上げ
(
の注文であり、当時の記録からも本来は大聖堂の外側の付け柱か扶壁
ある。
それはまた、もっとも重要な市民的徳として考えられてきたものでも
られていることを読みとるのはさほどむずかしいことではあるまい。
フィレンツェ市の印章のうえにもあらわされてきている。このヘラク
レンツェの保護者・守護者として崇敬をあつめており、ほかでもない
レスのようにもたくましい筋骨隆々たるダヴィデ像にカトリックの四
よる確信に満ちているのにたいし、左側は傷つきやすく、悪の力に晒
いだにうちたてられた道徳的区分と関連している。すなわち身体の右
(
側は神の保護のもとにあり、またそのことを自らが知っていることに
)
おいては左腕が持ち上げられることによってその輪郭が開かれている。
身は完全に垂直となり、いわば閉ざされている。いっぽうで左半身に
(
の若者あるいは青年というイメージを一般的にあらわすものである。
書かれているのではない。もとのヘブライ語がなんであれ、ラテン語
は adol
es
censであると表記されているのであり、けっして puerと
ダヴィデの姿についてもっとも具体的に触れた箇所として『サムエ
現在ルーヴル美術館に残されているルーベンスによる素描や、カーサ・
(
デの姿にミケランジェロは、一四九二年から九四年ごろに製作され、
その、本来そうであるべきはずの青年のイメージに変更されたダヴィ
今は失なわれてしまった自作のヘラクレスの姿を与えた。そのことは、
ブオナローティが所蔵する 製模型によってはっきりしている。
このように、ミケランジェロはこのダヴィデ像において古代ギリシ
どのくびれである。現実の人体にはこのようなくびれは存在しない。
動し、そこに「一四九五年、共和国の救済の鑑として市民がこれを設
一四九四年のメディチ家追放の翌年にもとあった場所から政庁前に移
)
けた」という銘句を刻ませたのは、ほかならぬフィレンツェ市民自身
(
アの神のイメージという外形のなかにキリスト教的徳というメッセー
だったのである。
近現代
を決定する委員会が召集されたのだった。そのメンバーにはレオナル
を借りてキリスト教の精神や教条を語りあるいは示すことは、ルネサ
ギリシア・ローマ神話の枠を借りて、あるいは古典古代のイメージ
Ⅲ
ジを込めたのだったが、それはまたミケランジェロ自身が考えもしな
かった新しい意味あいをも帯びることになった。ダヴィデ像が完成し
たとき、それが当初の設置場所と目されていたサンタ・マリア・デル・
ド、フィリッピーノ・リッピ、ジュリアーノおよびアントニオ・ダ・
)
ンスおよびその後裔であるプッサンらの古典主義以降も可能であろう
(
サンガッロ、コシモ・ロッセリ、そしてほかでもないボッティチェリ
患のなかで、この像が製作当初の思惑とはことなり、ミケランジェロ
サ攻略戦の失敗やチェーザレ・ボルジアの軍事的脅威といった内憂外
マの神々の入る余地はなかった。その後、新古典主義を基調とするア
ロマン派にあっては、主情的なキリスト教絵画が主流でギリシア・ロー
かった。ぎゃくにナザレ派やC・D・フリードリヒなどに代表される
せるいっぽうでキリスト教的テーマにはほとんどまったく眼を向けな
)
自身も思いもよらなかった政治的な意味を持つようになったからであ
(
る。そして、最終的にこの像がパラッツォ・ヴェッキオ、すなわち政
カデミズムにせよ、それに対抗する近代絵画の諸派にせよ、ギリシア・
当時のフィレンツェの人々から「イル・ジガンテ」(巨人)とも呼
てしまっているからには、それも当然のことであった。むしろこの二
たものを絵画で提示するというシステムが文化的な支えをすでに失っ
つの領域が絵画の世界で出会うとすれば、それはギリシア・ローマ神
た。宗教的教条や精神、あるいは理念化・理想化された人間精神といっ
キャヴェリの構想下に市民軍の創設を準備していた共和国政府の戦闘
ばれ、「マヌ・フォルティス」(強い手)とも呼ばれていたこの巨大な
的パトスと「ヴィルトゥ」(力量)への英雄的意志」というイメージ
)
話やキリスト教が持つ精神の重みから軽やかに解き放たれた「遊び」
(
を市民たちに読みとらせようとする為政者たちの意図があったからか
の世界においてしかあるまい。
を古代ギリシア・ローマと結びつけることによって、古代の神話的な
て動かされているものがあるとすれば、その筆頭株はなんといっても
)
シュールレアリスムであろう。アンドレ・ブルトンがチューリヒで生
(
ダヴィデ像はかつてドナテッロのユディト像がおかれていた場所に設
力を内在的に感じるということもあったにちがいない。じじつ、この
まれたダダに触発されパリで起こした運動はやがて一九二四年の『シュー
置されたのだが、もともとはメディチ家のために製作されたその像を
近現代絵画の流れにあって、その運動が本質的に遊びの精神によっ
もしれない。そしてまた、フィレンツェ市民みずからが、フィレンツェ
像が共和政のシンボルである政庁の前に置かれたのは、そこに、「マ
それらを合体させてあらたなイメージを構築するということはなかっ
庁の前に設置されたのは、まさにフィレンツェがピサにたいしてあら
十八世紀の新古典主義はギリシア・ローマ神話への明快な志向を見
か。結論から言えばそれは不可能であった。
フィオーレ大聖堂に置かれることはなく、この像をどの場所に置くか
といった錚々たる人々の名が見られたのだが、このような委員会が開
ローマ神話やキリスト教のテーマを個別に取り上げることはあっても、
かれたのは、じつは、サヴォナローラ失脚後の政治の混乱、そしてピ
たな軍事行動を起こそうとしていた時期であった。
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ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
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ルレアリスム宣言』へと結実するが、この運動はブルトンとその一党
ひとつの作品には統一的なテーマがなければならないという規律ある
シュールレアリスムというのは、そもそも意味というしがらみや、
も呼ぶべきものではないだろうか。
いは呪縛から自らを解き放った運動であり、ギリシア・ローマ神話と
にのみとどまるものではない。パリに出てブルトンと一時期歩みをと
もにしたマグリットとはことなり、同じベルギー人であるP・デルヴォー
キリスト教という二つの領域のイメージをも、その歴史的・伝統的文
)
)では、中央
システムの中にとりこまれ馴致されてしまった我々の硬直した精神に
ればメメント・モリを、あるいは世の無常を想うように、文化という
見れば美とエロスのギリシア・ローマの世界に想いを馳せ、骸骨を見
しろデルヴォーがここで我々に見せてくれているのは、ヴィーナスを
が我々に提示するのは上述のような説教くさいお題目であろうか。む
や無意識を重要視するシュールレアリスムの体現者であるデルヴォー
「解剖台のうえの蝙蝠傘とミシンの出会いのような美」を尊び、夢
読みとることもできよう。しかしそれはデルヴォーの本意であろうか。
は美と破壊、生と死、虚栄、メメント・モリなどさまざまなテーマを
にヴィーナスがよこたわり、その左に骸骨が立っている。ここに我々
生み出している。たとえば「眠ったヴィーナス」(図
12
脈にまったくとらわれずに用いることさえ意に介さない。そのもっと
はパリのシュールレアリスムに呼応しながら一生ベルギーを離れるこ
(
ジルの高校の生徒だったころから『オデュッセイア』
となくその運動を実践していった。
すでにサン
スト教の二つの世界をかけ合わせたような作品をもまたデルヴォーは
ところが、この二つの領域、すなわちギリシア・ローマ神話とキリ
うな作品もある。
ての人物が骸骨である「エッケ・ホモ」(一九四九年、個人蔵)のよ
直接つながるものである。さらには聖衣をつけたキリスト以外はすべ
なテーマのひとつである「死の舞踏」あるいは「メメント・モリ」に
作品を多数生み出している。もちろん後者は、キリスト教美術の重要
のを製作し、また一九四三年からの十年間ほどは骸骨をテーマとした
シカゴ美術研究所)といったギリシア・ローマ神話に題材をとったも
たち」(一九三七年、個人蔵)、「セイレーンたちの村」(一九四二年、
を愛読していた彼は、いっぽうで水浴するニンフたち、「セイレーン
向けられた、茶目っけたっぷりの「遊び」あるいは「揺さぶり」とで
)であろう。
13
もよい例がデルヴォーの「受胎告知」(図
図 12 眠ったヴィーナス,デルヴォー,テイト・モダン,ロンドン,
1944年
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ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い
受胎告知は、大天
使ガブリエルが乙女
マリアに聖霊による
空において結び合うかのような錯覚を我々に起こさせる。
マの神々の世界もまた、同時代の人々にとっては、それらにたいする
初期キリスト教時代には、キリスト教ばかりではなくギリシア・ロー
語
るキリスト教美術に
信仰をともないながら、確かな存在感を感じさせるものとして表象さ
結
おけるもっとも重要
救世主の懐胎を告げ
なテーマのひとつで
れていたのであり、それゆえイメージの世界においてキリスト教とギ
しかし、中世も深まるにつれてヨーロッパ人にとっての神信仰はい
リシア・ローマ神話の世界は、あなどりがたい親近性を見せながら、
うまでもなくキリスト教のそれのみとなり、ルネサンスの時代になっ
あるが、それだけに
余地はまったくない
て人文主義的な関心から見直されたギリシア・ローマの神々の世界は
ギリシア・ローマ神
といってよい。デル
もはや信仰の対象ではなく、人間存在の理想型を謳いあげるための道
そこここで融合していた。
ヴォーは、しかしな
話の要素が入り込む
がら、このキリスト
具としての説話になった。
ズをとってはいるものの、乳房をあらわにした姿は、キリスト教の説
いる。ここでは大天使も聖母も伝統的な受胎告知の表現に見られるポー
のなかで展開させて
リシア・ローマ神話
をいとも軽やかにギ
「神の受肉」 の現場
ゴス化したプロテスタンティズムだけにとどまるものではなく、カト
することはおそらくないだろう。それは、キリスト教信仰の根幹をロ
れば、なくなってしまった。それがかつてあったような形で将来復活
とは、ギリシア・ロシア正教におけるイコンのようなものを例外とす
た。図像そのものが信仰を担保する必要にして十分な機能を果たすこ
ローマ神話にたいしておこなわれたのと同じように説話化されていっ
対化されるにつれ、キリスト教のさまざまな神話も、かつてギリシア・
そして近現代になり、ヨーロッパ文化においてキリスト教信仰が相
教のもっとも重要な
話の一場面というよりは、ギリシア・ローマ神話の女神たちのあやな
リックをも含んだヨーロッパのキリスト教全体について言えることだ
テーゼともいえる
す物語のなかのそれである。デルヴォーはまた、このギリシア・ロー
に設定されているが、大天使の視線も聖母のそれも、どちらもがその
やアーチ状の生垣に応用している。その遠近法の消失点は生垣の中央
の大きな柱、すなわちヘレニズムとヘブライズムは、いま、デルヴォー
びの世界へと変容した。ヨーロッパを形づくってきたといわれる二つ
う当初の機能から、説話化された物語のなかの人間精神の軽やかな遊
神話の図像化という営みは、信仰へのうながしや信仰心の鼓舞とい
ろう。
消失点へと向けられており、あたかも二人の視線ははるかかなたの虚
たことをまるで再確認するかのように、厳格な線遠近法を背景の床面
マ神話とキリスト教との融合の最後の大輪がルネサンス時代に花開い
図 13 受胎告知,デルヴォー,サウサンプトン市立アート・ギャラリー,
1949年
が見せてくれるような世界のなかで、その重くて長い営みを終えたあ
との休息を楽しむかのように軽やかに戯れあっているのである。
注
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7.
( ) Op.c
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8.
( ) Op.c
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,p.
11.
( ) 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』一九六○/八四年、岩波書店、
七六頁。
( ) 前掲書、同頁。
( ) Hal
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,1974/79,
NY,
p.
256.
( ) ラウデン『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』益田朋幸訳、岩
波書店、二○○○年、四九頁。
( ) このイメージは、一般にはオリエント由来のものとされるが、グラバー
ルのように、ユピテル、ネプトゥーヌス、プルートスなどのイメージか
ら来たと考える向きもある(Gr
abar
,op.c
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,p.
34)。
( ) フッター『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』越宏一他訳、グ
ラフィック社、一九七八年、三○頁。
( ) Gr
abar
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.
,p.
15.
( ) 高津、前掲書、二九二頁。
( ) ラウデン、前掲書、一一二頁。
( ) フッター、前掲書、七六頁。
( ) 黒江光彦他『西洋絵画作品名辞典』、三省堂、一九九四年、六九五頁。
( ) 摩寿意善郎『ボッティチェルリ』、集英社、一九七八年、一一四頁。
( ) 前掲書、八八頁。
( ) 吉川逸治・田中英道『ミケランジェロ』、集英社、一九七八年、九六
頁。
( ) 國原吉之助『古典ラテン語辞典』、大学書林、二○○五/二○一○年、
二○頁。
彫刻家・画家・建築家』田中英道訳、
( ) トルナイ『ミケランジェロ
岩波書店、一九七八年、一三頁。
) 前掲書、七頁。
) 前掲書、一五頁。
) 前掲書、一四頁。
) Panof
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,1943/71,
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235.
(
(
(
(
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(
) トルナイ、前掲書、一三―一四頁。
) ヒューズ『ミケランジェロ』森田義之訳、岩波書店、二○○一年、六
六頁。
) 前掲書、六八頁。
) トルナイ、前掲書、カタログ、三四頁。
) 同前。
) 森田義之『メディチ家』講談社、一九九九年、二一四―二一五頁。
) 前掲書、二一八頁。
) トルナイ、前掲書、七四頁。
) トルナイ『ミケランジェロ』
芸術と思想』上平貢訳、人文書院、
一九八二年、一九頁。
) 中原佑介『デルヴォー』、集英社、一九八六/二○○四年、八四頁。
2524
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