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2010.4.11

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2010.4.11
マルコの福音書 12 章 1~12節
「救い・捨てられた石」
「 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。」
イエスはたとえを用いて「彼ら」に話された、とあります。この彼らとは 11 章 27 節~33
節で論争を吹きかけてきた祭司長、律法学者、長老たちのことで、宮きよめのような乱暴
とも見える行為に対して彼らは抗議してきたのです。
「何の権威によってこのようなことを
されるのか」と彼らはイエスに問いただします。するとイエスはバプテスマのヨハネの例
を引き合いに出してヨハネのバプテスマは天から来たのか、人から来たのかとやり返しま
した。すると祭司長たちは「もし天からと言えば、なぜ信じなかったのかと言うだろう、
もし人から出たと言えば民衆から総スカンを食ってしまう。」悩んだ祭司長たちは答えに、
困ってイエスに「わかりません」と答えるしかありませんでした。イエスも「何の権威に
よって宮きよめをするのか」は話すまいと言われました。
このやり取りでイエスは祭司長たちの誤りを指摘したのでした。バプテスマのヨハネを信
じなかったことと、エルサレムを強盗の巣のようにしたままにしている祭司長たちを非難
したのでした。
今日の箇所はそこに続く箇所になります。この箇所のたとえによってイエスは祭司長た
ちの誤りをさらに追及し、神の不思議な御業を解き明かします。
1.ぶどう園のたとえ
ある人がぶどう園をつくった、というところからこのたとえは始まります。
そしてこのぶどう園を農夫たちに貸して旅に出かけた、とあります。季節が来てぶどうが
なるころ、ぶどう園の収穫を受け取りに、ぶどう園の主はしもべを農夫たちのところへ遣
わしたのです。
しかし、農夫たちは、遣わされたしもべを袋だたきにして送り返したのです。そのあとも
農場の主はしもべを送って収穫を受け取ろうとするのですが、遣わされたしもべたちは殺
されたりしてしまうのです。
このたとえはぶどう園がイスラエル、農夫たちが、祭司長や律法学者、しもべが預言者
を表しています。
イスラエルというぶどう園に実がなることを期待しているのは主です。
しかしイスラエルにぶどうの実がなろうとしたときにそれを収穫しようとされる「主の
思い」を裏切って預言者たちをはずかしめたり、殺したりしたのでした。
主は、イスラエルから信仰の実を収穫したいと願っておられるのにそれがかなわないの
です。宗教指導者たちは信仰の実を育てそれを農場の主である、主に手渡さなければなら
ないはずでした。しかし、祭司長たちはイスラエルを食い物にし、私腹を肥やしたり、名
誉を手に入れたりしたのでした。
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祭司たちのこのような傾向は、以前からあったと言ってもいいでしょう
第一サムエル記の 2 章15節にはささげものを横取りして自分のものにしようとする祭司
の息子たちがでてきます。
「人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、
「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです」
と言うので、 人が、「まず、脂肪をすっかり焼いて煙にし、好きなだけお取りなさい」と
言うと、祭司の子は、
「いや、いま渡さなければならない。でなければ、私は力ずくで取る」
と言った。このように、子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、
この人たちが侮ったからである。」
とあります。
本来は正しくいけにえをささげることを勧めるべき立場の祭司が、このようなことをして
いたのですが、それはイエスの時代にまで及んだのです。
「 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くの
しもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。
」
多くのしもべを遣わした、これは多くの預言者たちを、神の言葉を届けるものとして遣わ
したということです。それにも関らず農夫、つまりイスラエルを任されている祭司長や律
法学者たちは神の言葉を聞かず、本来ならば霊的に成長し実を結ぶべきイスラエルを堕落
させてしまったのでした。
2.愛する息子
このたとえには、愛する息子が登場します。この農場の主人には愛する息子がいた、この
息子ならば農場の主人の息子なので農夫たちも敬ってくれてきっとイスラエルに成ったみ
を届けてくれるだろうと、農場の主人は期待したのでした。
しかし農夫たちはこの息子をも殺しぶどう園の外に投げ出したとあります。もはやぶどう
園の主人のことなどお構いなしです、このことは神様のことはすでにお構いなしになって
いること示しています。
そしてこの愛する息子とはイエスのことをさしています。
このたとえは祭司長、律法学者、パリサイ人への痛烈な批判であると同時に、イエスが彼
らによって十字架にかけられ命をおとすことの預言であり、予告なのです。この福音書で
4回目の受難の予告です。
イエスが十字架にかかられることは、このようにしてたびたびご自身で予告されてきまし
た、いよいよその時が近づいているのです。
イエスのたとえはぶどう園の農夫の行く末も示しています。
ぶどう園の農夫、すなわち祭司長や律法学者は主によって打ち滅ぼされるということがこ
のたとえの中で語られています。
イエスが十字架にかかられたときに、祭司長たちがどうなったのかは書かれていません。
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しかし推測するに霊的に大きなショックを受けたのではないかと考えられます、神殿の幕
が避けたとありますから、それを見ていた祭司長たちの心の動揺は大きかったこととおも
います。たとえの中でイエスは農夫が打ち滅ぼされるといっていますが、むしろ農夫たち
にたとえられている祭司長たちの神の言葉を受け入れないかたくなな心を打ち砕いたので
はないかと思われます。イエスは生かす御霊となられたと先週のメッセージの中で語りま
したが、おそらく、祭司長たちは滅ぼされることなく、悔い改めたのではないか、と、私
は思うのです。
3.救い・捨てられた石
イエスはこの殺され、農園の外に捨てられる農場主の息子がイスラエルを立て直すとおっ
しゃいました。
ユダヤ人の指導者が見捨てた石が新しいイスラエルの礎の石となる、とイエスは言います。
「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの
見捨てた石、それが礎の石になった。 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思
議なことである。』」
この言葉は詩篇118篇の引用です。
家を建てるものたちの見捨てた石とは、家を建てるときの土台となる石を、大工は選ぶの
ですが、こんな石はとても土台には使えないと捨てることを意味します。
家を建てるのは祭司長や律法学者の働きだったはずです、民衆を導いてきよい生活をさせ、
神の御心にかなったものへと導くのが彼らの役目だったのですが、しかしそうではなかっ
たのです。
エルサレムは堕落してしまいました。
そしてイエスを、必要ないと言って、捨てたのです。
しかしイエスは詩篇を引用して、家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった、
というのです。
律法学者たちに殺されようとしているイエスが、ご自身こそ礎のいし、立派な家の基礎に
なるのだ、と宣言されたのです。
イエスは確かに宗教指導者的でないことをたくさん行いました、ユダヤ人が通らないサマ
リヤを通り、ユダヤ人が触れることを嫌った「らい病人」に手をかけていやしました。け
がれた女にやさしく声をかけられ、乞食をしていた盲人の目に触れていやされました。当
時の宗教指導者がしなかったことをイエスはしたのです。そういう意味ではユダヤ人の中
では浮いた存在だったと言えるでしょう、確かに捨てられる石と言う表現はあたっていま
した。
しかしこの捨てられた石が人々を神に立ち返らせるのです。
イエスは捨てられたままではありませんでした。あの十字架にかけられて墓に葬られその
ままではなかったのです。3日目によみがえられました。
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このことを信じることで人々は救われていったのです。使徒の働きには次々と人々が救わ
れ教会がたてあがっていく様子が描かれています。
イエスの十字架の意味を知り、その復活の恵みを知った時に、人はイエスについてゆき、
今までの生活を悔い改め、新しい人生を歩むのです。
これは、なぜでしょう。
それは、わかりません。
「これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」
とあります。
全く不思議なことです。しかし今や何万人もの人がこの不思議な神のわざを経験している
のです。
そして今日ここに集った私たちもこのことを経験しているものです。
多くのクリスチャンがこう証します。「なんで自分がクリスチャンになったのか不思議だ」
それは神のなさったことだからです。
無から有を生み出す神の力です。
捨てられた石、しかしそれは救いの石だったのです。福音を聞くまでは全く私たちと関係
なかったと思われたイエスキリスト、まさに必要のない捨てられた石ころだったのです。
それが信じた時からこのイエスなしの人生は考えられなくなる。
「私たちの目には、不思議なことである」
この不思議なことは私たちの生きている現代にも次々とおこります。それは宣教によって
福音が運ばれることによって、届けられた人のうちに神の特別な力が働いて起こることな
のです。
全世界に、この小樽の地に、桜の地にこの福音がのべ伝えられるように用いられる器とな
りましょう。この不思議が起こることを祈りましょう。
そして私たち自身もこの間違いのない礎石の上に立って歩むものとされたいとねがいます。
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