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マラヤの社会状況と政治制度の一 価 H

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マラヤの社会状況と政治制度の一 価 H
マラヤの社会状況と政治制度の評価
第一章
第二章
中
マラヤの社会状況と政治制度の評価O
序説
問題の所在
マレーシァ政治制度の評価
人種別共同体意識の現状
概 説
元首、国会、内閣、閣僚︵以上本号︶
第一章序 説
問題の所在
覧︾イ゜
田
也
マレーシアの政治状況は、東南アジア諸国に多かれ少なかれ共通の、人種的複合によって惹起するいくたの問題性を包
82
(596)
哲
マラヤの社会状況と政治制度の評価
蔵し、単一民族国家にみられない複雑な様相を呈している。マレーシアは、旧イギリス植民地統治のユニークな政策類型
である間接・分割統治のなかで形成された、人種間コソミューナリズムのために、太平洋戦争後、独立を経てこんにちに
いたるまで実に多難な国づくりに遭遇しなけれぽならなかった。この限りにおいて、マレーシアの政治制度は、コンミュ
ーナルな利益とそれによって派生する様様の利益を調整し、安定させる大きな期待をになっているのである。逆説的に、
諸利益の調整ないし安定のためには、政治制度あるいは政策は、基礎的にコソミューナリズムの妥協の上になりたたねぽ
ならなかった。しかし、こんにちコンミューナルな諸利益の調整だけにとどまっていれぽ、その調整という妥協性は、一
歩ふみこんで強力な安定策を打たない限り、常に均衡を失するという瀬戸際に立たされている。第二次大戦後、コソミュ
ーナリズムの本来の概念である人種別共同体意識あるいはその動態的な人種間対立意識に、ゴ鋤く①とゴ餌く⑦昌9の、社会
的意識的には階級意識の要因が加えられた。つまり、コソミューナルな利益という縦割りの意識のほかに、コソミューナ
ルでしかも横割りの意識が加味されてきたのである。したがってその安定策はイデオギー的対決を意味するものであった。
マラヤ億、旧直轄植民地のペナソ、マラッカを含めマレi半島諸州の一一州をもって、一九四八年二月、マラヤ連邦
︵目7①局①ユ臼母δ昌亀ζ巴醸帥︶を形成し、独立の第一段階にまずはいっていった。ついでイギリス自治州のシソガポー
ル、イギリス領植民地のサバ、サラワクを総括し、一九六三年九月、マレーシア︵ζ巴9︽ω冨︶が成立した。
マラヤ連邦の成立からマレーシアの発足までの間、太平洋戦争中に抗日のため中国系を中心に強固に組織され、戦後に
なってからこれが反植民地体制運動に変転したゲリラ活動に対し、為政者は非常事態宣言︵ω380h団∋⑦おΦき︽︶を発し
て、ゲリラ掃討にあたらねぽならなかった1宣言一九四八年六月、解除一九六〇年八月ー。さらにマレーシァ成立後
(597)
紹
マラヤの社会状況と政治制度の評価
シソガポール州は、中国系絶対多数の州であり、またマレーシア政府与党に対立する人民行動党が州権を掌握している背
景があったため、これをマレーシアから分離することを断行しなけれぽならなかったーシソガポールの分離独立一九六
五年1。これらの諸事例が外に華々しく露呈する間、ひとびとの意識面に中国系を中心として容共意識が生まれ、他
︵1︶
方、民族主義的なマレー人を基盤に潜在していた〃マレi人のマラヤ”というコソミューナリズムが再編成され、また一
方には、非コソミューナルな民主社会主義を標榜する意識等々が分化した。社会的不安につながる経済的不況も、主要産
物のゴム、錫の価格の下落、ポソド危機にともなってあらわれ、いつれもコソ、ミューナリズムとからみあって政局の不安
定を招来した。かかる事例に直面して政治制度の運用と解釈には、当然のことながら強力な支配的志向性を発揮しなけれ
ばならなかったのである。本稿ではかかるコンミューナルな利益葛藤の現況を通じて、政治制度とその機能の評価をくわ
えてみようと思うものである。
なお、筆者らは明治大学社会科学研究所特別共同研究のテーマの一分野として、マレーシア、シンガポールおよび東南
アジア諸国の政治状況、都市問題の実態研究を昭和四一年から実施したが、本稿はその報告の一部である。私は、本誌先
号大塩亀雄教授追悼論文集に、 ﹁マレーシア国都の形成と都市問題﹂の小稿を寄稿したが、順序からすれぽ、本稿および
その口の後にこれを寄稿すぺきものであった。あわせてご参照ねがえれば幸である。
実態研究のさいに、アジア経済研究所主任調査研究員林一信氏、マレーシア文化・青年・スポーツ省青年問題担当官アブ
限られた日時に要求に応じて即座に多くの資料をととのえて下さった、同省管理官プヴァナラジャー︵目゜空く碧餌且魯︶
ドウラ・マリム・バギソダ︵﹀°竃゜じd餌σqぢ9︶氏、さらに当時の地方自治・住宅大臣許啓護︵囚冨≦訳巴bdoず︶氏の指示により、
糾
(598)
マラヤの社会状況と政治制度の評価
氏の御協力がなけれぽ実行は困難であった。以上の方方に深甚の謝意を表するものである。
人種別共同体意識︵OO旨巨昌旨”=㎝目︶の現状
︵2︶
マレーシアは、マレー半島の部分を西マレーシアと称し、サバおよびサラワク両州いわゆる北・西ボルネオに所在する
部分を東マレーシアといっている。東西マレーシアの人口の人種別構成には両者相当の特異性があり、西マレーシアに
は、マレi系、中国系、インド・パキスタン系、その他があり、土着の︵冒凸σqo昌oロω︶ひとびとは、きわめて少数で主要
人種のもとにはいって政治的影響力をほとんどもっていない。しかし、サラワク、サバ両州には土着のものが相当数お
り、かれらはきわめて強い政治的影響力を発揮している。したがって同日に、東西マレーシアを一つの傾向にくくること
には大きな疑問をもたざるをえない。本稿においては、マレー半島を中心にした西マレーシアを主に、東のそれを副次的
にふれてゆこうとするものである。
西マレーシア︵以下マラヤと略称︶のコンミューナリズムー人種別共同体意識における帰属性の要因あるいは、それ
が外に露呈するさいの対立意識は、現在の目立つフアクターとして言語、教育過程、宗教的行事、政治的利益、経済的利
益、習慣、もしくは哲学観にみられるものである。
︵3︶
共同体への帰属性は、まず使用する言語によって基本的に形成され、それにもとつく対立は、さいきん公用語ないしマ
レーシア国語の法的規定によって表面化した。以下この言語問題から順次、さいきんの様相を中心に若干のふえんを試み
ることにしよう。 マラヤでひとびとに使用される言語は、生国語︵︿ΦN5”6ロ一潜吋︶であり、マレー系はマレー語、中国系
は、北京語のほか、華僑に華南海岸部出身者が多いので福建語︵いちばん多い︶、広東語、潮州語、海南島人系用語などを
(599>
85
マラヤの社会状況と政治制度の評価
︵4︶
つかっている。イソド系は、その大部分がタミール語を、その他は南部イソド出身のためその南部諸語をつかっている。
このような言語分布のなかで各人種の中産階級は、英語も使用するが街での共通用語は、いわゆる9鎚震冨巴鋤︽︵マー
ケット.マレi語︶といわれることばである。しかし本来のマレi語を使用できない、中国系、イソド系もあり、人種間
も も も
の意志の疎通は完全ではない。後述するように、マレー系は回教を精神的支柱として、サルタンの伝統的支配構造のなか
にその文化を継承してきた。中国系は移民、華僑として、一九世紀なかぽ以降イギリスの海峡植民地開発の労働力として
流入しはじめ、ひきつづきセランゴール、ペラ、ネグリ・センビラン藩候地に錫鉱採掘の労働力として流入している。華
僑の地位は、前者のぽあい、イギリス資本と土着マレー人の間のいわぽ買弁的位置にたった。インド・タミル系は、ラバ
i・.プランテーショソの発達にともなって、イギリス人により、ゴム事業に従事するために移住を促され、流入したひと
びとである。後年になって中国系もゴム園労働に介入してゆくが、いつれも三人種の融合は職業の差、所得の差からすす
まなかった。それぞれの人種は、移住のさいの契機を異にし、相互異種の職業に従事し、それぞれの地位に対する威信を
︵5︶
意識するなかにあって、言語の統合を志向するものではなかった。
かかる伝統的な状況のもとで、マレーシアの成立以降、国語の規定と公用語の統一ば、いわぽ独立を完成し東南アジア
諸国のなかで豊裕といわれる新興マレーシアを維持するために、政府与党内の、マレi系を中心とする派の最大の政治的
︵6︶
統一指標であつた。.
外のその他の言語の使用、教授、学習を禁止するものではないし、独立日の一九五七年八月三一日以降一〇年間に、ある
ところで、マレーシアでは憲法第一五二条に、国語︵ぴ鋤ず9ω9訳oぴきoqω99コ︶をマレー語と規定している。ただし公用以
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マラヤの社会状況と政治制度の評価
いは、その後国会がこれについてほかに規定するまでの間は、英語を公用語としていた。以上の憲法の規定をうけて、一
九六七年八月末は、マレー語の国語化をめぐり与党内においては、マレー系政党と中国系政党が、あるいは、野党と与党
の間にかなりの緊張があらわれていた。マレi語の国語化は、一九六七年国語法案によるものであった。
同国語法案は、主な条項をあげると次の通りであった。
同法は東マレーシアニ州には適用されない。
ゼレi語の公用語化によって公用外に他の言語を使用することを禁止するものではないこと無論であるが、教授、学習
も禁止するものではない。
また元首は、必要と認めれぽ、英語を公用の目的に使用することを引き続き許可することができる。
.国会両院、州議会に上提するすべての法案、改正法案、補助立法、元首の発布するすぺての法令は、国語および英語を
使用し、国語を権威ある文とする。
︵7︶
°裁判所の手続きは部分的に国語あるいは英語を使用することができる。
国語法案は、・つまるところ、マレi語と英語の併用という妥協的な立法であったが、現ラーマソ政権が妥協的所産とし
ての立法化にふみきりざるをえなかったのは、主として中国系の反対圧力によるものであった。ヨーロッパ人を除いて、
中国系の経済力は圧倒的に他人種を凌駕している。ちなみに人種別国民所得分布では、マレー系四%、イソド系八%に対
して、,中国系は四〇%︿ヨーロッパ人四四・五%︶におよんでおり、マラヤの大資本がイギリス人の掌中にあるほかは、
この国の経済構造内の中国系による勢力は、きわめて大なるものがある。こうしてみるときに、中国系の発言力はかなり
(601)
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の力を発揮する。国語法案が起草される一年前から与党および野党の中国系政党では、活発な反対発言を展開していた。
?泣マ︾°︶四馬華公会旺マラヤ中国人協会、インド系は、 ζ巴9旨昌冒象雪Ooコσqおωω︵︼≦°ドρ︶”マラヤ印度人会議
Z①ユ890hσq§冒讐δロ︵qL≦°2°O°︶11連合マレー国民組織であり、中国系は、 家巴鋤くき〇三鵠oωo>ωω09馨δ
与党の連合党↓70≧=9昌oo勺母蔓は、マレi系、中国系、インド系三政党の連合体で、マレi系は、q三9ユ竃巴餌︽
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認めさせるように要求している。
がもっとも強い反対をしめしていた。国都クアラ.ルンプールのセランゴール州の同党支部も中国語の広範使用を与党に
対の主導勢力になったのはマラヤ中国人協会の青年部で、同党党首陳修信︵酒門9昌 0つ一①♂く ω一門﹁︶氏の出身地マラッカ州支部
国語の使用と教授を禁止しないという妥協をだしているにもかかわらず、依然強い反対をうけるものであった。ことに反
え、現行憲法規定が、マレー語を国語にすることにより、それとひきかえに、中国人に市民権と政治的諸権利を与え、中
ス、ラジオ、TV、’地名、道路、鉄道、録行券、郵券からしめ出されることになる。これらの中国語のレめ出しは、たと
憲法第一五二条の規定をうける国語法案が国会で承認されれぽ、マレー語と英語が併用となり、中国語は法、ライセン
し、事実上、中国系にインフルユエソスを与えたのは、与党内のマラヤ中国人協会であった。
数の議席をしめるにいたるが、六六年の時点では、少数議席を有するにすぎず、 マレi語の国語化に活発な反対をしめ
主党︵d°∪°勺゜︶、民主行動党︵P︾°”︶などがある。いずれも野党は、一九六九年五月の選挙では後述するように相当
である。さらに、野党には、汎マラヤ回教党︵勺゜一≦°一゜℃°︶、マラヤ労働党︵炉,︶、人民進歩党︵”担,︶、連合民
︵8︶
(]
これらの反対に対して、ラーマン首相は、マレー語と英語の併用、これに従来の公用語であった英語は、高等教育の導
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マラヤの社会状況と政治制度の評価
マラヤの社会状況と政治制度の評価
入、行政機能の効率化には不可欠のものと表明し、反対勢力に対し、すりかえで防戦をはかった。国語法案上提寸前にな
ると与党内反対派は、国語規定がこの一〇年間、政治問題の大きなピークになっていることを考え、妥協にかたむいてき
ているが、野党のうちマラヤ民族政党の汎マラヤ回教党は、立場が異り、マレー語の絶対護持の立場から、国語法案は英
語を永遠に公用語化するものであり、連合党はすぺて妥協ずくめであると非難した。国語行動戦線は、マレー語、英語併
用の妥協は、マレー人と連合マレー国民組織への裏切りであるとの大衆運動を展開した。野党の中国系の支持者の多い人
民進歩党は、国語法案の審議過程の時間が少なく中国語、タミル語の地位保証をえられない、とそれぞれの立場から反対
を表明した。
国語法案は、二月二三日から九日間の審議によって賛成九五︵与党︶、反対一一︵うち九は汎マラヤ回教党、一は人民進
歩党、一は民主行動党︶で通過した。国語法の特色は、一部の批判では、与党内連合マレi国民組織が党内のマラヤ中国
人協会との結束維持のために、いちじるしく妥協的かつ、不徹底なものとし、憲法第一五二条の精神であるマレi語の国
語化を軟化させ英語の継続使用を容認し、その状態がいつまで続くか明示していない点であった。現在、マレー語で書か
れた法律は、婚姻法、離婚法の二法だけで、しかもマレー語自体は、読み音をローマ字で書き綴ったもの、外来語のなか
にも英語の音の借用も多いのであるが、新法によっては、マレi語が国語として今後発達する機会をますます失ってしま
う結果になるという批判もでてくるのである。他方、マレー語の国語化それ自体に反対する中国系、インド系の側からは
新法には憲法で定められた他の言語の使用学習の自由の保証を積極的にしていない、という非難がおこってきた。
九月一日になって国語法の発効とともに、元首は、英語の使用範囲を次のように許可した。
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マラヤの社会状況と政治制度の評価
内国税務局における税の査定、計算機、徴集、記帳、調査など。
保健省は、患者に関する報告、指示、処方、手術後指示など。
試験または、訓練において英語がテキストとなっているような場合。
法律上の助言・意見およびそのような助言に関する書簡、あるいは英語が主文となっている法律に関する意見な
㊨ 外国政府および国際機関などへの諸連絡。
丙 在外公館に対する政策上の指令。
絢 在外公館の現地人雇員との諸連絡。
㈹ マレーシア政府あるいは法定機関で働く外国人専門家、コソサルタソトとの諸連絡。
㈹ 外国専門家による訓練。
これらの狭い許容範囲からみると、憲法と国語法の規定では、一般市民の公的に使用しうる範囲は、マレi語に限界ず
けられることがほぼ明らかである。与党内の、ラーマソ首相の後継者と目されているマレi系のラザク副首相は﹁英語の
他の言語に公的地位を与えるものではない﹂といい、 ﹁これについては中国系の陳修信蔵相とインド系のサムバソサン建
設相がともに、これを盾にとらないと保証している﹂と言明している。中国系野党に利益を託する中国系からは、マラッ
︵9︶
カ、ペナン、イポーなど中国系の住民の多い都市を中心に反対デモが過激におこなわれるようになった。マラヤのよう
に、マレー系と中国系が数量上接近しており、社会構造のなかでの実権が非マレー系にあるぽあい、マレー語への言語統
90
(604)
ど
゜㈲ ⇔ (⇒ (→
マラヤの社会状況と政治制度の評価
一は、人種間の感情的違和意識をもたせるばかりでなく、被圧迫勢力から政治的抗争の要具にされることは、むしろ当然
であろう。ところで、人種別共同体意識を対立意識に転化させるのは、日常の用語、公的文書のマレー語化という不便益
より、実は、子弟の教育問題において象徴的に表面化した。以下マラヤの教育の過程のなかにある用語問題についていち
べっしておく必要があろう。
西マレーシアでの最古の学校は、イギリス人によってペナソに一八一六年開校されたペナン・ブリi・スクールである
が、この一部門にマレー語によるコースがあった。この学校が一九〇五年以降カレッヂになり藩候子弟あるいは有産階級
子弟の通学するところとなり、官僚養成のための特権的大学となった。一般むけは、第一次大戦までに政府が、マレー語
および英語による授業の学校を設立した。そのほか英語をメディアとする学校の代表は、ローマン・カトリック系、アメ
リカン.メソ゜ジスト系の、ミッション・スクールであった。マレー語をメディアとする学校はアラピックの原本によって、
回教研究をおこなうコーラソ.スクールであった。後者は、一九世紀の前半は東イソド会社、藩候の援助をうけていたが
やがて非宗教的な教育を施するようになり、政府から公共資金を得るようになった。
中国語による学校は、一九一一年まで華僑の在住する各地に、中国式の村落塾のような形で任意につくられていたが、
一九一一年以来、中国の近代的学校をモデルにつくりかえられ、二〇年には、北京公用語による授業課程が編成された。
こんにちは、政府から公共資金をうけ﹂マレーシア国家教育の路線を踏襲している。
・タミル語は、層ゴム関係の就業者の在住するインド系の学校で用いられている。
畠マレーシア独立以前は、教育行政は州政府の権限のもとにあったが、独立以降は、連邦政府の文部省によって所轄する
(605)
91
マラヤの社会状況と政治制度の評価
ところとなった。一九六一年の教育法によれば、授業の主なメディアは国語たるべきであると規定されている。これによ
って、六年制の小学校︵Oユ目9蔓ωoげo巳︶では、マレー語、英語、中国語、タミル語で自由に授業をうけることができる
がマレー語と英語は必修となっている。したがって中国語もしくはタ、ミル語をとる児童は、マレー語、英語をあわせてと
大きな疑問であり、また、却って人種別共同体意識の緊張を強めることになるのである。
︵11︶
。フには役立たなかったという事態と同じように、マレi語の国語化が、マレ:人をして中国系生活権益へ入りこめるかは
の暴動がおこるという事態を招きながら、シンハリ語が公用化、教育のメディアとされつつ、シソハリ族のレベル・アッ
のシンハリ語とタミル語の公用語化論争のように、前者の公用化にょり暴動を惹起し、タミル語の併用により再び反対派
・システム︵後述︶とともに、マレi系の生活権益の拡大化を計るものであったとのみかたが強かった。しかし、セイロン
化の教育はそれによって、中国語の教育効果を薄め、中国系の生活権益のレベル・ダウンによって、マレー.クォーター
い。これは、応々にして政治的効果をねらう理論としてつかわれるものである。マラヤの場合、国語ないし英語の第一義
ところで国語を規定することの良否は、それをメディアとする教育効果そのもののほかに他の効果を期することが多
は欠かされない。
︵10︶
の特殊訓練を受ける必要がある。大学予科︵只①出三く①屋津︽︶と大学︵⊆三く霞ω一2︶には、英語による講義が殆んどで、英語
国のコースで授業がおこなわれている。︶このため、小学校で中国語、タミル語をとったものは、一年間のマレー語、英語
は二年制であるが、いつれもマレi語と英語にょってのみ授業がおこなわれる。 ︵シソガポールでは、両級中学でも四ケ
らなければならない。下級中学︵δ≦興ω①8鼠9蔓ω6げ09︶は三年制で、その上の上級中学︵εO興ωooo巳霞囑ωoずoo一︶
92
(606)
馳
ところでかかる共同体の対立意識は現在いかに表面化し、今後拡大する可能性があるかについては、政治的利益に問題
が結集するがこれは、一九六九年五月の総選挙とそれを起爆力としたその後の暴動に端的にあらわれているところであ
る。しかし、この問題に入るまえに、かかる対立意識を醸成した歴史的経過をふり返ることも無益ではあるまい。イギリ
スがはじめてマラヤに達したのは、一七八六年東インド会社のフラソシス・ライト︵宰き9ω=αq茸︶がペナン島に上陸し
価
たことによる。ついで島の対岸であるウェールズリーを護得した。一方、一八一九年にラッフルズがシンガポールを対岸
磨のサル・ン・ジ・†ルから購入、・れより早く一七九五年オ・ンダからマ一フッカを割譲入手し、かくて天二六年、イ
膿ギリスは・ペナ・・マラ・カ・シンガずルを海峡植民地としたのである・すでに移住している華僑錫薯が天六〇年に
治・ ︵12︶
緻 反乱をおこすが、六二年ペラ藩でおきた反乱を契機にイギリスは、積極的な干渉にのりだしてきた。一八六三年にペラ藩
襯のサル・ソの死亡にともなう後継者の争いをさぼくため、天七四年、パソ〒ル条約によ・てイギリスはべ・にイギリ
会
社 ス理事官︵bd﹁陣仲一ωず 菊Φω一畠Φ昌叶︶と理事官補佐︵﹀ωω凶ω冨暮男Φω乙①暮︶をおくことを認めさせた。理事官、理事官補佐は、
㌍ラヤの宗警習には干渉しないがすべての難応じ干与すること姦智せたのであ稔.これに伴・て・イギ・ス
マ ︵14︶
は、サルタンの地位を承認し、サルタソへ年金と一定の土地を賦与、財政についての海峡植民地支配の権限を護得した。
イギリス理事官制はこれよりセランゴール、パハン、ネグリ・セムビラソの三藩にもあいついで採られた。その後ペラ
の理事官の殺害にともなって、イギリスは報復のための武力介入をおこない、以降理事官制は各藩で微動だにルない立場
に立ったのである。かくて、理事官の在任する四藩は、一八九五年、イギリスによってマレー連邦州︵﹁o畠o鑓8α竃巴四く
ω冨8ω︶を構成するにいったのである。セランゴール理事官のスェッテンハム卿は、これをもって間接統治︵ぎ象﹁o魯
(607)
93
マラヤの社会状況と政治制度の評価
︵15︶
N巳o︶の典型と評価したものであつた。さらに四州に駐在する四人の理事官に対し、理事総監︵男①ω置o暮・σq窪o﹁旦︶がお
として移住したものであった︵ωけ︻9一けω 07帥昌Oω①︶。これによりペナン、マラッカ、シンガポールを中心に苦力貿易はさか
もなく強大なものであった。中国人の移民は、すでにのべた如く、一九世紀なかぽ海峡植民地開発のため苦力貿易の一端
︵16︶
ところで、マレーシアにおいて、ひとつの自然的驚異と認められる華僑の勢力は、ビクタi・パーセルの指摘をまつで
コソミューソの布石はこうした体制の裏返しとして醸成されたものであった。
みることができるのである。いわゆるこんにちのマレー人のマラヤとか、〇二σqぎ巴、.ωo霧oh島oωo躍、.というマレー・
限って容認し他方においては、これによって他人種からマレー人を孤立させるという、一貫した統治体制をとったものと
これらの状況を背景にしたときに、イギリスは、サルタソの支配構造を回教と慣習の擁護によって、あるいは、それに
度によってマラヤにおける分散的統治権︵畠①OO口件H餌一一N鋤け一〇昌︶を確立したのである。
は別に、非連邦州︵O昌︷①画①N”仲①ユ ωけ9一〇ω︶を構成した。かくてイギリスは、海峡植民地、マレー連邦州、非連邦州の三制
問︵︸WH一け一ωげ ︾α︿一ωO﹃︶をむかえ、一九一四年にはジョホール藩も総顧問︵Ω①づ費巴︾α≦器機︶をむかえた。こうして五藩
他方、一九〇九年マレi北部のケダ、パーリス、ケランタン、トレンガヌの四藩もイギリスの掌中に帰し、イギリス顧
四理事官、その他総督任命の民間人によって、委員会は構成された。
が完成したのである。一九〇九年連邦監督委員会︵閃①αΦ鑓一〇〇ロコo凶一︶が設置され、総督のもとに四サルタン、理事総監、
o喘昏⑦ω爲巴仲ωω①叶二〇ヨo昌け︶に帰属した。こうして海峡植民地と間接統治のマレi連邦州は、その実質的行政面で一元化
かれ、四者の行政の調整にあたった。後者は後年、高等弁務官︵顛σq700日巨ωω一8巽︶となる海峡植民地総督︵Oo︿o旨霞
94
(608)
マラヤの社会状況と政治制度の評価
え、主として貧困な広東、福建、海南島の華人が流入した。つづいてペラ、セランゴール、ネグリ・セムビラソへ錫の採
掘のため続々と流入してきた。一八八一年に海峡植民地に流入した華人の数は、九三、五二四を数えるが、その後第一次
︵17︶
大戦までに毎年一〇万から、多いときで一九=二年の二七万八、一四〇の流入数を数えている。これらのものがいずれも
︵18︶
錫鉱山、その他ゴム園開発、砂糖、コーヒー裁培園の苦力労働に従事した。華僑はただ単に苦力労働についたぼかりで鳳
ない。セランゴールではクアラ・ルソプールの開発の直接的功労者は広東客家出身の葉亜来を中心にした華僑たちであり
サルタンからカピタン・チャイナの称号をうけ、地域担当官として統治権をふるった。バタピアでもオランダ東イソド会
社によって蘇鳴闇がカピタンに命ぜられ徴税権、裁判権を行使している。
二〇世紀に入ってからの華僑は、単に故郷に錦をかざることを目指す苦力ではなかった。一九〇〇年中国の興中会幹部
の尤列がシンガポールに亡命して以来、いわゆる革命熱が次第に高まってきた。孫逸仙は、国民党の前身である中国革命
同盟会を東京で結成し、一九〇六年シソガポールに同会の分会を組織した。つづいてクアラ・ルンプール、ペナンにも分
︵19︶
会を設立している。一九〇七年黄岡事件、七女湖事件、欽州事件、鎮南関事件、河口事件の革命の挙兵は、湖漢民、在兆
︵20︶
銘らの活躍によりシンガポール、マラヤ華僑の資金で援助されたものであった。孫逸仙は、一九一〇年中国革命同盟会の
南洋総機関部をシソガポールからペナンにうつし、翌年黄花岡、武晶の兵変がおこり、辛亥革命の成功をみたのである。
黄花岡事件の七二烈士は、ほとんどが広東系華人で多数のマラヤ、シソガポール華僑が加わっていた。すでに華僑は文字
通りの出稼ぎ人にとどまるものではなかった。華僑のマラヤにおける発展過程を詳述する紙数をすでにもたないが、マラ
ヤにおける二〇世紀後の華僑の評価は、マレー人の対置的位置づけにたかまっていった。すでにのべたイギリスの間接、
(609)
95
ていた。他方、一九三〇年には中国人を主体とするマラヤ共産党が結成され、中国系の、国民党と共産党への内部分裂を
包蔵しつつ、第二次大戦中は、中国系の抗日運動が展開された。これに対しマレー系の日本への接近は、それぞれのコン
ミューナリズムの対立化を高めこそすれ、緩和するものではなかった。ところで、第二次大戦後になると、共産党系抗日
ゲリラが植民地反対ゲリラ活動に転化し、他方79︿①のマレー中国人協会が連合マレー国民組織に接近してゆく過程、
下層マレー系の反植民地運動等、あるいは各種政党の組成は、コンミユーナリズムがすでに単純な人種別共同体対立血目心識
だけにとどまらず複雑な様相を呈してきたことを示すものである。
さいごに、かかる様相が端的にあらわれたペナソ暴動、クアラ・ルンプール暴動にふれ、コソミューナリズムの今日的
問題点を提起しておこうと思う。
ペナソ暴動は、一九六七年一一月、マラヤ旧通貨切下げにともなって7僧く①昌oけの中国系を中心に拡ったデモ、スト
であり、ペナソ島に端を発し、ペラ、ケダ、セラソゴLルなど半島西海岸都市部を席巻した騒動である。旧通貨切下げに
よってそのシワよせは、主に労働者、農民、小商人に直接被害を与えたのであるが、伝統的に労働党の勢力の強い、中国
系の構成率の高い地域にひろがっていった。初期には、切下げ反対のデモと華商小売商店の同盟休業が行なわれていた
が・やがて同盟休業に入らぬ商店の打ちこわし、放火に移り、これが、マレー人の反中国感情をあふり、中国系、マレi
系の人種対立に転化したものであった。中華商連合会、マレi中国人協会はいずれも、左翼色の強いこの暴動を非難し、
また政府は、この暴動を機会に中国系労働党、人民党およびラディカリストとしての汎マラヤ回教党の幹部逮捕に入った
96
(610)
分割統治は、サルタンの支配体制を温存し、マレー人の行政面への進出を促し、非マレー人の政治的権利の制限をはかっ
Vラヤの社会状況と政治制度の評価
マラヤの社会状況と政治制度の評価
ものである。ペナソ、ケダ、ペラ、セランゴール四州に戒厳令が布かれ、十二月まで尾をひいいた事件であったが、後半
では、すでに暴動の指導権は全く左翼政党の掌中から離れ、感情的人種間の僧悪が前面にだされたものであった。
一九六九年五月のクアラ・ルンプールを中心にはじまった暴動はほぼ同質のものとみることができる。この直接的端緒
は総選挙の結果であった。これは、複雑な事象を呈するので、まず若干の整理をこころみよう。
これまでの政治勢力分野は、三人種の利益を代表する保守三政党のゆるやかな連合体としての与党連合党と、これに対
立する少数議席野党が対置していた。 ︵一九六四年の総選挙結果は、与党の連合党八九、汎マラヤ回教党九、社会主義戦
線二、人民進歩党二、民主行動党一、連合民主党嚇であった。なおこの選挙結果の各党名は一九六四年選挙当時のもので
ある。また、これにはシンガポール、サバ、サラワク選出議員を含んでいない︶。 一九六九年総選挙のおこなわれる五日
前、毛沢東路線を標榜する労働党︵一九六四年選挙時の社会主義戦線︶が、警官によって殺された林順成党員の追悼デモを
一万人の大衆を動員して激烈におこなった。この自由運動が一つの憎悪の感情をマレー系に与えた。一方すでに中国系も
︵21︶
国語法における後退、教育における妥協、いわゆるマレi・クオーター・システムにみられる就職機会のマレー系優先に
不満が累積しており、ここに、選挙投票行為に、中国系与党内のマレー中国人協会からの離はんと野党中国系政党への転
換がおこったのであった。︵この選挙状況については次号詳述︶。
一九六九年五月一〇日の選挙での東マレーシアを除く西マレーシアの開票結果は、連合党が前回多数をしめた八九議席
から七六議席へと凋落した︵全議席数は一四四︶。これに対して野党は、三七議席を確保逆に勢力を増強した。この勝敗の
内容は、主にマラヤ中国人協会の前回議席二七から=ニへの凋落という与党内の大きな後退がきいていた。現に中国系の
(611)
97
マラヤの社会状況と政治制度の評価
現職大臣二名も落選しており、マレー中国人協会会長、蔵相のマラッカ州選出の陳修信氏も辛勝しているにすぎない。事
実上、陳氏と対立した野党民主行動党のゴ・ホクグァン書記長は、楽勝している。
野党の民主行動党は、シンガポールの李政権の人民行動党と同じであり、前回一議席から=二議席に伸び、また結成後
ゲリラ闘争もおこなわれたが、一九六二年立法評議会の選挙で、マレーシァ加入賛成のサバ連合党が絶対多数を得て、加入が果
の北ボルネオは、マラヤ圏域に統合されるのに一般に消極的でありかつては、北カリマンタン独立運動の一翼をにない、一部に
が一八八八年イギリス保護領北ボルネオとなり、第二次大戦後ラブァソ島と合併イギリスし直轄植民地となった経過をもつ。こ
ネオ問題を注目しなければならないであろう。ボルネォ島北部の現サバ州は、かつてブルネイ、スルの二藩候地にわかれていた
註ω マレー半島およびシソガポールを中心とする本稿の文脈外に、マレーシァ成立にいたるまでの国内問題として、北部西部ボル
︵23︶
ヨ①二〇”を加味しなけれぽならないのである。
である。多人種を構成要因とするマラヤにおいてはつねに、政治、経済の両側面でいわぽ、11人種の算術鑓9巴Ω。N謬ず・
閣の閣僚は、ラーマン首相はじめマレi系=二名、中国系︵前回蔵相陳氏を含む︶四名︵全員無任所大臣︶で組閣されたの
ーシア︵サバ、サラワク両州︶の総選挙を、無競争当選の地区を除いて、中止を発表した。この結果成立した緊急暫定内
が報復に出るという暴発を招いた。政府は、非常大権を確保、非常事態宣言を発し、暴動の鎮圧に当るとともに、東マレ
暴動は、主としてマレー系の中国系に対する攻撃から始まった。マレー系のバルー部落から暴動がおこり、これに中国系
こうした中国系保守政党の後退にあって、マレi人の中には、政権から中国系を追い落す絶好の機会とみるむきもあり、
る。
︵2 2 ︶
間もないマレーシア人民運動党︵ζ巴9︽ω冨旨℃8冨①ω︼≦o︿Φヨo馨”O興9冨昌勾p身碧ζ巴凶くωご︶は八議席を獲得してい
98
(612)
マラヤの社会状況と政治制度の評価
された。加入によりマレーシァのサバ州となった。ボルネオ島西部の現サラワク州は、一八八八年イギリス保護領となり、一九
四六年イギリス直轄植民地となった。サラワク住民の反植民地抗争は伝統的に古いもので、ブルネイの土候を頂点とするブルネ
イ人民党の、北カリマソタン独立運動の拠点が多くここに設けられていた。サバ、サラワク両州の地理的中間にあるブルネイ国
加入に反対、立法評議会選挙で絶対多数を得た。北カリマソタン独立軍はアザハ・リに指導されていた。この結果、ブルネイは、
は、やはり一八八八年イギリスの保護領となった。一九五六年シェイク・アザハリを中心とする人民党が組織され、マレーシァ
マレーシァに加入せず、すでに一九五九年に独立した。
ところで、サバのマレーシァ加入にさいしては、その潜在的領有権を主張してフィリピソが反対し、マレーシァ形成はイギリ
スの新植民地主義であるとして、インドネシァ、ブルネイが反対した、いわゆるボルネオ問題がある。
ァとそれぞれ、名称の変更をした。
② 一九六六年八月、マレーシァ政府は、従来のマレー半島の部分の略称マラヤを西マレーシァに、ボルネオの部分を東マレーシ
③ マレーシァの国教は回教である。1憲法第三条第一項1。このことは、単に憲法に規定して、その形式的存在をうたって
ンコール条約︵勺雪σqぎ﹃>oq﹃oΦヨΦ暮︶のなかで、マレー人の宗教と慣習への不干渉をうたいサソタンの地位を承認している。
いることにとどまるものではない。本文に後述するところであるが、イギリスは、一八七四年ペラ藩のサルタソと結んだパ
マラッカのサルタンが一五世紀なかばに回教に改宗し、あるいは、スマトラ島のメラユ王国が中心となって除々に回教が定着し
ていった過程がマラヤの回教の伝播の端緒なのであるが、以降各サルタンは政治的権力者であり宗教の保護者となったのであ
る。したがってパソコール条約のイギリスによるこの二つの了解事項は、マレi人にとっては、表裏同一のものなのであった。
このパソコール条約の基本原則は、太平洋戦争による日本軍の進駐までイギリスによって固守されてきたのである。こうしてマ
レー人にとって回教の存在は、支配体系のなかで伝統的に固守されただけに、信念の基礎をなし、すべての事象の評価基準にな
るものであった。イソド以西のイスラム教地区の教徒たちの教義への忠誠と、マレー人のそれとは、後者において相当の世俗化
が目立つという批判は免れないとはいえ、マレー人であることは回教信奉者でありマレi慣習をまもることを意味しているので
あるから、 ︵築島謙三・マレー人における自治と宗教ーアジァ経済一〇巻五号ー︶マレー・コソミューナリズムの規定には
回教の信条を根底におくことを見逃してはならない。しかし本文においては、言語、国語の論争をテーマとするので、必要な限
りにおいてのみ、宗教的ファクターにふれてゆくこととする。
(613)
99
マラヤの社会状況と政治制度の評価
ω インド系のうち旧マドラス州︵現日り国ヨ=コ四ロロ︶出身のものは↓騨∋凶一語をつかい、﹀コα鎚℃話α①ω﹃州出身のものは、 ↓oお語
ワクでは、主として原住ω①帥∪醸更ω族は、冨騨⇒語をつかい、サパーでは主として区9α嵩麟房族は区ロα四Noコ語をつかって
をつかい、竃器o冨州出身のものは、O雪呂紆語を、匿Φ﹃巴”州出身のものは、 ζ巴o巻茜3語をつかっている。なお、サラ
いる。サラワクでは、人種別人口構成率は、ω①騨∪曽届訂系三二・○%、中国系三〇・七%、マレー系一七・四%などとなって
いる。サパーでは、閑oユ欝雪ω系三二・○%、中国系二三・○%、などとなっており、西マレーシァとは異る主要言語と、種
を除いている。︵Ohhド冨一網①弩bdoo評一㊤①9竃ゆ一9望の冨ーゆ⊆昇ρ園器∋一↓帥7蔭ロロP戸ω一゜菊拶o冨一∪ぢ窪ぴ信二〇己 ・
種の構成率をしめしている︵いつれも一九六〇年統計︶。したがって後述するように、憲法における国語の規定は、東マレーシァ
㈲ 萩原 宜之﹁マラヤのコミュナリズムと国民的統合﹂国際政治第36号・所収。
ω アジアの動向一九六七年ーマレーシァ・シソガポール、アジァ経済研究所、一五五頁。︵原文、南洋商報二月二四日の和訳︶
⑥幻゜Q。°孟ぎρO。<㊦ヨヨ①三四巳勺巳晋ωぎζ巴昌ω昼戸卜。ωO。
アおよびシソガポールの政党制﹂ー明治大学社会科学研究所紀要第七集一九六九年三月1にくわしいので参照されたい。
⑧ マレーシァの政党については、マレーシァ調査団として筆老とともに調査におもむいた明治大学橋本彰教授の論文﹁マレーシ
⑩ 凶σ己.Ohh8冨一団㊦碧ゆoo界山㊤O①﹄≦巴m団ω冨。および実態調査のデータによる。
⑨ 以上具体的事実については、前掲・アジァ経済研究所誌による。
さきにのべた通り、東マレーシァには、国語法を適用しないが、サバ、サラワク両州の教育行政は、州政府の権限の下にあ
る。教育のメディアは英語で、州政府は州内のすべての学校でマレi語が教育可能と判断されるまでマレー語をメディアとしな
ある。小学校以上の年限制度は、西マレーシァと同様である。
い“とされている。サラワクでは、小学校制度の導入は、一九六六年からで、現在ごく一部に中国語をメディァとする小学校も
劒 荻原宣之.前掲論文
⑬ 冨=コ①噛一び乙゜戸一㎝゜
⑫智冨二国3①誘。p三﹄超獣p・﹀ωε畠ぎ島円9国aぎ忌﹃①9畦巳①噂δωS℃﹂OO
b⊃−2ρ卜o” ㊤2
⑪ ス.旨゜勾彗轟ヨ”Ooコ馨搾⊆辞凶oコ巴Oo<03ヨ⑦暮冨巳窪oコ霞9一〇Qo9①ξ噛旨oξ昌匿ohoOo二二話霧e >g・冨昌 国一答o﹃ざ<O
100
(614)
マラヤの社会状況と政治制度の評価
は、植民地主義による衝動を和らげることである﹂といっている。
⑮ 竃一ぎ①し三拝,一μ前掲のMヨ①屋。昌は、 ﹁間接統治の利益は、植民地統治側にとっては安上りにすみ、被統治側にとって
の安全保障︵ω鉱oαq轟aω︶として形成されるといわれる。政治行為は、したがってコムミューナルな配慮により決定さ
人種の複合性をもつ︵E霞巴ωooδ蔓︶社会では、ラトナムによれぽ政治のフレームは、内在するコム・、、ユニティのため
概 説
第二章 マレ:シア政治制度の評価
㈱ ︼≦=昌ρ一σ乙.喝 . 恥 ゜
京五月一五日、 ジ ャ パ ソ ・ タ イ ム ズ 五 月 一 九 日
⑳ 参考報道紙名、日付−朝日五月一四日、一五日、一六日、一七日、一八日、一九日、二〇日、二一日、毎日五月一二日、東
レ:人の土地設備、奨学資金貸与のマレi人の特権制をいっている。
⑳ マレi・クオータi制は、公務員採用のさい、マレ:人四人に対し非マレi人一人、特定職業の許認可も同様、そのほか、マ
鋤 中華民国各界紀念国文百年誕辰学術編纂委員会﹁孫文先生選集﹂二〇∼二九頁
⑲須山卓・他﹁華僑﹂九八∼九頁。
⑱ 岡本隆三﹁華僑王国﹂七四頁。
ための流入について、詳述したので、ここでは重複を省く。
㈲ 拙稿﹁マレーシァ国都の形成と都市問題﹂ ︵政経論双大塩教授追悼号︶にクァラ・ルソプールを中心にした華僑の錫床鉱掘の
七一頁
⑯ ≦08﹃勺霞8=りぎZ舞一〇芭尻∋雪住℃容oqおωωぎ﹁脱①。﹀巴Po集審畠9即≦°↓﹃拶冥興邦訳.東南アジァの民族主義、二
(615)
101
マラヤの社会状況と政治制度の評価
︵1︶
れ、それは政治的イッシューを貫ぬいている。このパターンの基本には、内在する多岐のコムミュニテイの安全保障をは
かってコン、ミューナルな緊張をやわらげようとする配慮がある。このため、積極的には、少数人種を多数人種に同化する
こと︵餌ωω一5P一一餌件一〇昌︶、和解すること︵碧oo目日oα鉾一〇コ︶が必要である。前者の同化は、少数人種が特性を放棄し、多数
人種がこれを受け入れるということであり、マラヤのばあい困難な条件が介在していた。すでにいくたびか前述したこと
の、まとめになるが、主要人種をとりあげただけでも三つの複数であること、そして、三つの人種がそれぞれの文化体系
和解︵餌80ヨヨoα鋤ユ8︶とは、自身のコム、ミュニティの特性を保持しながら、他のコムミュニティのそれを尊重する
うとするのである。
つまりそれぞれが異文化体系のなかで優越していると意識し、他の体系を軽視、べっ視することで自衛する行動さえとろ
中はゲリラではない正規軍︵英印軍︶として戦い、戦後は、その所得もマレー系の倍に達するという印僑の自負がたかい。
ンクは中国人が上であるという自意識がある。イソド系は、植民者イギリスの直属という伝統的基盤の上に、太平洋戦争
を占め、第二次三次産業では中国系が白人系のなかに入って半数をしめるといった状況になっている。つまり社会的なラ
的支えとしているのである。しかも、マレーシアの産業別人種別人口構成をみたぽあい、第一次産業はマレi系が七三%
いえ、在留地に根を張るという心構、兄にかわってきている。そして、いわゆる中華思想といわれる権威的文化体系を精神
ちつつも、辛亥革命、太平洋戦争の間にかなりの定着性をもっようになり、大陸共産化以降種々の意識に分化されたとは
で、権威的文化体系をになった自負をもっているものであり、他方、中国系は華僑という僑居の在留者としての起源をも
のなかにかたまっている。すなわちマレi系のばあいωo諺o胤ω9一の語に象微される如く伝統的風土的支配構造のなか
102
(616)
マラヤの社会状況と政治制度の評価
という、作為的な相互恵和の意識と行為をいうが、マレーシアの体制に基本的にこの意識と行為が仕くまれている。ナシ
ョナル・リーダーは、ケダ州のルーラーの子息であるアブドウラ・ラーマソ、パハソ州の豪族の子息である、ラザクなど
いつれも伝統的支配構造の流れのなかにあるが、つねに、中国系の陳修信とティーム・プレーを演じなけれぽならない。
政党、選挙などの政治過程のなかで、ポリシー・メーキングの過程のなかで、やはりいつれも、マレー系のイニシャティ
ブに中国系の利益を折りこむという妥協策を加・兄ねばならないのであ為。
元 首
痩、選挙のさいのほかは・この会議は・州統治者会議︵。景・§8。h空・邑として、ト・ソガ・︵↓§・・・⋮邑、
は・国内のサルタソを有する九つの州のサルタソによって構成される会議の互選によって、選出されその任期は五年であ
マレーシアは国王︵︿塁αq島−勺①詳§コ﹀σqoコαq”勺僧鑓ヨo⊆馨閑三①﹃11国一コσq︶を国家元首とする立憲君主国である。国王
(617)
される。この会議は、国教の回教の行事についての協議、布教の協議、国家行事、儀典についての協議執行をおこなう。
統治者の地位に影響をおよぼす法律の承認、否認、憲法の規定する会議が承認しなけれぽならない最高裁判所判事、会計
院総長、選挙委員会委員、公務員委員会委員の任命についての助言、国家政策、国境問題についての立法そのほか適切と
される事項についての審議をおこなう。
103
?b餌8四︶、サラワク︵0り震帥≦鋳︶の三知事、サバ︵ω餌げpげ︶の統治者︵くきσq島も興ε四Z①σq錠9︶、計二二名によって構成
ケラソタソ︵一︵Φ一ρ昌け①コ︶、セラソゴール ︵ω9碧σqoH︶、ペラ︵勺臼gρ涛︶の九州のサルタンとペナン ︵勺①ロ餌℃σq︶、 マラッカ
ケダ︵訳Φα鋤げ︶、パハソ︿勺四ゴ鋤旨σq︶、パーリス︵勺①﹁嵩ω︶、ネグリ・セムビラソ︵Z⑦σq二ωΦヨげ=蝉昌︶、ジョホール︵旨oずOお︶、
聖.
(】
マラヤの社会状況と政治制度の評価
国王は、法律案の同意権を有し、内閣は国王の名のもとに権威によって執行し、国王の最高裁判所判事を任命する。立
法、執行、司法の機能の権威はすぺて彼に帰属するところである。しかし、形式をはなれれば、首相その他の助言により
行動しうるのであってすぺて内閣の決定を受理するのが通常とされている。国王は、人種複合国家のなかで困難な忠誠の
焦点となるべき存在なのであるが、任期が短期間で、国民による敬愛の象徴となるのがきわめてむつかしいといわれてい
る。
国王の病気による執政不可能のばあいに代行する副王︵↓巨げ巴9。昌団きσqo竃。ニロ餌昌︾αq8αq︶がある。副王はやはり
九州のサルタソによる州統治者会議によって互選される。なお副王は国王の死亡の後、次期国王選出までの間の執政をお
こなうが、その職責は全く国王と同様である。
国 会
マレーシアの国会は、輔九〇九年に設置された海峡植民地総督︵のちの高等弁務官︶の主宰のもとに運営される連邦監
督委員会︵閃O幽①﹁9一 〇〇口昌O=︶に端緒をみる立法機関である。委員会は、一九四八年に、一四名の官吏、一一名の州、海
峡植民地代表者、五〇名の民間人からなる計七五名の委員による立法委員会︵日Φσq凶ω巨剛くΦOo巷6=︶に発展した。五〇名
の民間人は、ゴム、錫、農業、組合からの職能代表であった。いつれも未だ公選によらず完全な意味での国民代表とはい
、兄なかった。一九五一年に、この委員会は、いわゆる冒oヨげ臼ω︽ω8ヨの制度をなかにとるようになった。この制度は、
イギリス人、マレー人の各省を代表する官吏とイギリス人を含むが、非イギリス人を主体とする各人種の実業家、専門職
︵3︶
によって構成するものであった。この制度はいわゆるρ轟ω〒ヨ一巳ω冨甑巴とよぽれるもので、委員会のなかに政府の機
104
(618)
マラヤの社会状況と政治制度の評価
能、各省に参画する委員、スポークスマソをおく制度で独立後の統治体制への足ならしと評価されるものであった。つい
でイギリス高等弁務官は、委員会の主宰の地位を退き、互選による委員長に席をゆずっている。この委員会に公選制がと
られたのは一九五五年のことで九八議席のうち総選挙で五二議席が公選された。残りの四六議席は、秘書長、法務長官、
財務長官の三官吏、九州の主席大臣、ペナン、マラッカ両州の代表、三二名の人種代表、職能代表等の任命の委員であっ
た。なお委員長は、別に任命された。公選委員中、後に与党となる連合党は五一議席をとっている。
マレーシアの独立︵一九五七年︶ののち、五九年にごんにちの国会が設立された。国会と内閣との関係は、ほぼイギリ
スの型を踏襲しているが、マレーシアでは、国会は他の機関に対し最高の地位にあるのではない。国会は憲法に拘束され
その判定は裁判所にある。
国会は上院︵Uoを餌昌Z①αq餌鑓四臼①ω①コ舞①︶、下院︵U①≦四昌閑餌、塑く鉾皿目ゴ⑦出〇二ω①oh閑8おωo=鼠ユ<①ω︶の二院制を
とり、上院はマレーシア内の=二州で各州二名つつ州議会で選出される二六名の議員と、首相推薦にもとついて国王の任
命する三二名の、計五八名の議員によって成りたっている。下院は、サバ、サラワク両州を除いて直接公選制の議員によ
って、またこの両州では一九六八年の八月以後第一回目の国会解散までの間は、州の議会により選出されることになって
いる。一九六九年五月の総選挙の暴動により、首相は非常大権によって両州の選挙を停止、延期しているので現況では、
末だ両州で直接公選をとっていないことになる。
上院の議員の任期は六年であるが、半数交替制をとる。首相推薦によって国王に任命される理由は公共サービス、専門
職、商業、産業、農業、文化事業もしくは社会事業に就いている職能代表と少数人種の代表、土着民︵鋤げoユσqぎΦω︶の利益
(619)
105
マラヤの社会状況と政治制度の評価
を代表するように任命される。この代表方式は、さきの立法委員会の代表制の伝統によるもので三二名のうち半数の一六
名は、ほぼ土着民、セイロン系、ユーラシアソ系の少数人種利益のために任命されている。そのほか二名はゴム、商工会
議所の代表、八名が回教徒のイソド人、一般イソド人を代表する。各州から選出される議員の選出方法は各州区々であ
る。一九五九年の会期のさいにラーマン首相の推薦を得ようと六五九名の立候補者が各分野から立候補した。連合マレー
国民組織の創設者ダトー︵称号︶・オソ︵∪讐oO言︶は、上院議員になったものは必ずしも有能なものではない、最近の
︵4︶
下院、州議会議院選挙で落選したものもいる、と批判している。しかし他方では、上院は、政治家の活躍の基盤になりつ
つあり、ことに与党連合党の発展の場を提供しているということもいえる。連合党幹事長陳東海、現無任所相︵一九六九
年五月以前は地方自治・住宅相︶マラヤ中国人協会の許啓譲らがかって上院で活躍した。こうした状況を背景にハ上院は
州の利益やその権利︵ωけ9け①ω、 因一αq7け︶を代表するというアメリカの上院の役割や、下院の立法審議に理性を加、兄るという
役割を演じておらず、立法的には、下院の立法案通過後の追承認をおこなう、形式なゴム・スタソプの役割をもっている
にすぎないと評されてい飽上院は法令によ・て・各州代表議員を、二名から三名に増加できる籠をもつが、・れは直
接公選制を強めるためである。
下院の立法機能は、マレーシア各州議会に州にかかわる立法機能が留保されているので、連邦独自の、もしくは際州の
法、州議会の要請で立法される法について権能を有する。下院は、そのほか国家財政権を有している。 ︵連邦政府の立
法権限は国oα①壁﹁ピ一ω梓と称され列挙されているが、次章で詳述する。︶ 連邦税、地方税の増率、国庫からの支出は連邦
法により規制される。下院の議席は西マレーシア一一州から一〇四議席、サバ州=ハ、サラワク州二四議席の計一四四議
106
(620)
︵6︶
席と定められている。一選挙区一名の小選挙区制をとる。任期は五年であり、首相の助言にもとつく国王による解散があ
る。独立以降四回の選挙ー一九五五年、五九年、六四年、六九年ーを経過したが、五五年の選挙はすでにのべた立法
委員会の委員選挙で五二議席の公選であったが、二、三、四回は西マレーシアのみの一〇四議席の選挙となっている。一
九六三年にシンガポール、サバ、サラワクを含むマレーシアが成立していたが、この三州は成立のさい、間接選挙で議員
を選出していた。したがって、こんにち、シソガポールが離脱独立したので、サバ、サラワク両州も直接公選制がとられ
る筈であったのが、六九年は、非常事態宣言により西マレーシアの選挙のみがおこなわれたというわけである。
金としての公共支出を総長の報告にもとついてのみ審査審議を加える。委員長は政府側からでている。議員特権委員会
員の委員会配置を討議する。公共会計委員会は、執行機関から独立している会計院総長と連携し、連邦の会計、国の補助
特権委員会︵Ooヨヨ一詳①oo︷℃﹁ぞ陣冨σqoω︶によって審議されている。選任委員会は、議長が委員長となり、会期初めに各議
0喘ω色①9δ昌︶、議事規則委員会︵oo富巳ぎoqOao﹁Ooヨ日詳一①①︶、公共会計委員会︵℃=ぴ一一〇>68口暮Ooヨヨ一茸①⑦︶、議員
するのが武器になっている。下院の、法案審議は全員委員会において審議されるが、法案以外は、選任委員会︵Ooヨヨ一鐸8
は大臣にのみ留保されている。予算審議の過程で野党は政府施策を批判するが、大臣の歳費を減俸する動議を出して攻撃
切筥は全院委員会の予算部会で審議される。補正、追加予算案も同様で、ロッグ・ローリソグを防ぐための予算増額要求
旨が討議されるが、第三読会では短期間の討議が加えられる。予算案審議は特別の手続きで、各省の要請をもるω口薯ξ
閏2ω⑦︶と読会制︵幻8亀ぎσqω︶ によって消化される。通常、第山読会に形式的にかけられ、第二読会に移されてから主
下院の議事手続きは、イギリス庶民院の手法を踏襲しており、法案の審議は全院委員会制︵Oo∋ヨ圃洋oΦoh子o≦8一①
(621)
107
マラヤの社会状況と政治制度の評価
マラヤの社会状況と政治制度の評価
は、現実には議員規則違反に対する懲罰審査をするもので、前例では、公共会計委員の違反行為につき審査をしたにすぎ
なかった。
本会議の進行は、与党が多数であっても、野党が多党化しているので、容易に議事運営の協定が成立しない。また各政
党の体質に人種問題がからんでいるので進行は容易ではない。したがって殆んどは議長の運営手腕にかかっている。慣例
として、共産主義人民戦線との結託はさけなければならないといわれている。人種問題についての制約は、議事規則に
しめられている。マレーシアは省庁が細分化され多いので兼務大臣がしばしぼあらわれている。ラーマン首相がかって、
てしめられてい紮.今年暴動後に成立した緊急暫定内閣は・四人の中国系無任所大臣を除いて大部分がマ・−系によ・て
域の担当相は、必ずマレー系の大臣によって、教育相、内務治安相など国益にかかわる担当相もまたマレー系大臣によっ
ク、カザソ族︶を含めている。通例、蔵相、商工相は中国系、地方開発相、農業相など、マレi系の就業者の多い関係領
首相による組閣は、三つの主要人種のバラソスをとり、サバ問題相、サ.ラワク問題相︵いつれも、ネイテイブスのダヤ
閣総理大臣の助言にもとづき国王によって任命される形式をとる。
内閣は国会の多数党の支持により成立する議院内閣制のもとにある。内閣総理大臣は国王により任命され、閣僚は、内
内閣、閣僚
含めてマレー系七四、中国系四三、ボルネオ・ネイテイブス一=、インド・セイロソ系六の合計一四四となっている。
︵7︶
︷o﹁︽o⊆の野次がきかれるという。 一九六五年の総選撃の結果、議員の人種は、サバ、サラワク両州の間接選挙議員を
もコムミュニテイーの間に悪意、憎悪を促す感情的な言動を禁じているが、ときとして、 Ooげ餌o評8>話三20三5①
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マラヤの社会状況と政治制度の評価
︵∪①℃⊆信勺ニヨ⑦ン自巳ω8﹃︶、地方開発相、国防相であったことは著名であった。
外務相、文化・青年・スポーツ相を兼任し、ラーマソの後継者と目されているトウン・ラザク︵日﹂ニコ 閑坦N鋤7︶が副首相
︵9︶
である。
︵10︶
務秘書官はPR担当の任を負うのが通例である。これらは、いつれも将来の大臣となるパックベンチャー︵90喜o昌070議︶
政務次官は、上院か下院の議員であることを要し、国会における大臣の所轄事項を補佐するが、執行上の任を負わない。政
がある。さらに、大臣補佐の下に政務次官︵勺舞=僧日Φロβ蔓ω①自o梓鋤二Φω︶、政務秘書官︵勺oぎ巴ω①o器3二⑦ω︶がある。
各大臣の執行責務を補佐し、国会で大臣の所轄事項について代理発言をする任務担当の大臣補佐︵﹀ωω一ωけ四昌け りら一﹁F凶ωけO﹃︶
の調和のため無任所大臣にくわえている。
ための緊急暫定内閣は、許啓護氏、陳修信氏にリ・ショク・ユ前教育相補佐、リ・サン・チョソ前労働相補佐を中国系と
すでにのべたように、選挙後の暴動は人種憎悪に転化し、事実上、中国系、マレー系の対立抗争となった。その措置の
守派と革新派の対立が争点となり、商工相の中国系リム・スイヤソ氏が落選、蔵相陳修信氏も辛勝しているにすぎない。
ところで一九六九年総選挙は、人種的には、マレー系と中国系、マレー系内部の保守派と民族主義派、中国系内部の保
るものであった。
許啓譲氏の大臣就任は地方選挙にさいしての連合党のキャンペーソと東マレーシアにおける連合党結成の工作を目的とす
せるばあいと、与・野党の党活動調整を担当するものを就任させるばあいが多い。かってのマレー中国人協会の上院議員
無任所大臣︵7繭一5一ω仲O︻ ♂く一け70⊆け 勺O﹃仲hO一一〇︶は、マレーシアでは政府の意志を代表する意義から、主要外交官を就任さ
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マラヤの社会状況と政治制度の評価
註ω 区゜一゜国ロ3ロ∋°凶三ユ゜
② 国王選挙のさいは、九州のサルタソのみで構成する同会議によって互選がおこなわれる。国王が選出されると当該の州では摂,
格を失わない。
政をおいて、回教の宗務統轄以外の州務を統轄する。つまり、国王は、出身州の回教主︵国9Ωoh言二ω=ヨ勾巴αq一〇コ︶である資
③≦ぎ。﹂三山゜”° , ω 甲 。 。 O °
⑤ 竃凶ぎoしげ一〇°P一bo◎。°
㈲竃陣ぎ⑦﹂三Ω.戸這Q。°称号の∪彗oは、一九六六年四月から目雪ω二と改称された。
㈲ 被選挙資格は一二才以上、上院議員と兼職はできない。
⑦≦ぎ①㍉三皇娼LN避
⑧ 一九六七年からラーマソ首相の引退が取沙汰されているが、彼自身の引退というより、後継者にあるいは後継者群にどの人種
がつくか、政権の主要人物になるかという問題であった。この取沙汰は汎マラヤ回教党など民族主義者から流布されたもので、
一九六九年の総選挙にそなえて意識的に流されたものであった。すなわち、後継者にはラザク副首相が、副首相に陳修信蔵相
︵マラヤ中国人協会会長︶がつくこともある、という噂で、これに対し連合マレi国民組織は、与党の中核として、マレi人の
支持をうるため陳蔵相の昇格を打ち消さねばならず、中国人の支持をうるためには肯定をすることも便法であるし、その態度表
面に苦しんだが、結局、連合マレー国民組織の機関紙ζ巴9巻竃巽α。冨はその噂を打ち消した。これに対し、マラヤ中国人協
会機関紙目冨O轟﹃象碧は、憲法は非マレi人の首相就任を禁じてはいない、どの人種が後継老となるかは、人材の問題であ
⑨ ラザク副首相︵弓§﹀匿巳円震更三ロ国島ω曽ぎ恥一・国ε︶は、パハソ州に貴族の子として生れ、ペラ州のマレ!系カレッジ、
る。と批判している。ーなお次注⑨参照1。︵アジァ経済研・前掲一九六七年︶
ハソ州代理首席大臣、一九五〇年連合マレー国民組織副党首。現マレーシァ副首相。
シンガポールのラッフルズ・カレッジに学び、英国に留学した。第二次大戦中は、抗日レジスタソス隊長として活躍し、戦後パ
⑩ 寓凶ぎ①゜凶玄ρ戸りω刈゜
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