...

慶應義塾高等学校

by user

on
Category: Documents
572

views

Report

Comments

Transcript

慶應義塾高等学校
早慶空手定期戦 50 周年記念誌
記
念
大会内容
誌
ご挨拶
2
式次第
38
選手紹介
39
● 総長・塾長
早稲田大学 総長
白井 克彦
慶應義塾長
清家 篤
早稲田大学
● 部長
早稲田大学 空手部
部長
田中 愛治
慶應義塾 体育会 空手部
部長
榊原 研互
所長
宮内 孝知
慶應義塾大学
早稲田大学高等学院
早稲田実業学校高等部
● 所長
早稲田大学 競技スポーツセンター
慶應義塾高等学校
慶應義塾志木高等学校
慶應義塾湘南藤沢 高等部
● 会長
稲門空手会
会長
小野 泰規
慶應義塾普通部
三田空手会
会長
奈藏 宣久
慶應義塾中等部
早稲田大学 空手部
監督
福田 聡
慶應義塾 体育会 空手部
監督
河野 彰二
過去の戦績
45
早稲田大学 高等学院 空手部
監督
今泉 孝一
早稲田実業学校 空手道同好会
監督代行 瀬戸口 実治仁
校歌・応援歌
46
慶應義塾 高等学校 空手部
監督
和田 光二
● 早稲田
慶應義塾 湘南藤沢中・高等部 空手部
監督
鈴木 博雄
早稲田大学 校歌
● 監督
寄稿
13
● 早慶空手交換稽古期
紺碧の空
● 慶應義塾
慶應義塾塾歌
学連誕生前後の頃の慶早関係
渡部 俊夫 (早稲田 昭和 16 年卒)
若き血
朧とした交換稽古の思い出
菅 真之
(慶應 昭和 17 年卒)
慶應空手の歌
思い出
加瀬 守
(慶應 昭和 23 年卒)
慶應の方々
川口 史郎 (早稲田 昭和 24 年卒)
早慶空手定期戦以前の交換稽古の思い出岩本 明義 (慶應 昭和 26 年卒)
忘れられた第一回戦
大島 劼
交換稽古の思い出
魚津 欣司 (早稲田 昭和 28 年卒)
空手早慶戦の思い出
眞下 欽一 (慶應 昭和 30 年卒)
好敵早稲田との試合叶わず
小別当 昌己 (慶應 昭和 34 年卒)
48
編集後記
49
(早稲田 昭和 28 年卒)
● 早慶空手定期戦
第一回と第二回早慶戦
内藤 武宣 (早稲田 昭和 36 年卒)
空手早慶戦の思い出
奈藏 稔久 (慶應 昭和 44 年卒)
私の早慶戦
金子 茂男 (早稲田 昭和 49 年卒)
早慶戦の事
上坊 勇
多くを学んだ早慶戦
斎藤 富士雄(慶應 平成元年卒)
感謝
小森園 孝輔(早稲田 平成 4 年卒)
空手早慶戦 50 周年に寄せて
林原 正明 (慶應 平成 12 年卒)
(早稲田 昭和 56 年卒)
強さってなんだ
安田 はつね (早稲田 平成 14 年卒)
私にとっての早慶戦
長谷部 辰哉(早稲田 大学4年 主将)
早慶戦、空手から学んだこと
髙橋 亜子 (早稲田 大学4年 副将)
早慶戦 50 周年を迎えるにあたって中谷 真大 (慶應 大学4年 主将)
私の早慶戦
協賛
鎌倉 安里 (慶應 大学4年 副将)
早慶空手定期戦 周年記念誌
50
1
早慶空手定期戦 50 周年記念誌
ご 挨 拶
空手早慶戦
早稲田大学 総長 白井 克彦
周年によせて
カ国に空手を広めた空手武道家でいらっしゃ
ことは間違いありません。今後も、早慶両大学の空手部の先輩諸兄ならびに学生諸
慶應義塾長 清家 篤
2
ご挨拶 総長・塾長
部関係者に暖かく迎えられました。大島氏は皆様ご案内の通り、早稲田大学空手部
OBで米国松濤館の総帥として世界
また、そのような空手部関係者のご尽力を支える環境が、慶應義塾と早稲田の間
には長い伝統として存在していることも、また特筆すべき点であると思います。こ
君が、学生空手界を牽引してくださるように期待しております。早慶両大学空手部
ご苦労に心から敬意を表します。
の慶應義塾と早稲田との間の伝統は、福沢諭吉先生と大隈重信との友情によって互
年を迎えられましたこと、まことにおめでとうござい
これまで数々の好 試 合、 名 勝 負 を 繰り広げ、 大 学 空 手 界 を 創 生 期から支えてきた
空手早慶戦が記念すべき
ます。
周年によせて
の益々のご発展を心よりお祈りしております。
いう軌跡の上に築き上げられたものであります。このような友情と好敵手意識を互
いに持った二つの大学間のユニークな関係というのは、日本においては他に例が無
く、世界を見ても英国のオックスフォード大学とケンブリッジ大学をのぞいては存
在しないといえるでしょう。このようなユニークな好敵手の関係にある慶應義塾大
学と早稲田大学の関係を、今後も大切に育てていただきたいと思っております。
私は空手については素人でありますが、実は個人的には早稲田大学空手部には縁
がございます。2005年の夏に私が米国に校務出張した折に、東海岸での校務を
終 え、 カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 サ ン タ バ ー バ ラ 校 へ 足 を 伸 ば し ま し た。 そ の 後、 私 は
早稲田の空手部が夏合宿を行っておりました大島劼氏の私邸と道場にお邪魔しまし
た。理工学術院の宇田名誉教授が空手部の部長をしておりました関係で、早稲田の
空手部の夏合宿地を訪問したわけです。そこで大島氏を初めとする早稲田大学空手
50
50
空手早慶戦
いの学校を支え、同時に切磋琢磨して、ともに「私学の雄」として発展してきたと
慶應義塾大学と早稲田大学は、ともに「私学の雄」として、日本の学問研究にも
教育にも貢献して参りましたが、学生スポーツ界においても多大な貢献をしてきた
織田幹雄、2代・南部忠平、3代・西田修平らに続く8人目)として表彰させてい
学は2008年度入学式にて大島劼氏を第8代早稲田大学スポーツ功労者(初代・
それまで空手とは縁の無かった私が、その時以来、大島氏のような人物を生む武
道としての空手道に注目するようになりました。そのようなご縁もあり、早稲田大
世話になったという次第であります。
敷は八雲学園の施設ということで、ここでは私は、慶應大学空手部のOBの方のお
ものの奥の深さを改めて知った旅でした。また、私が泊めていただいた立派なお屋
います。仙人を思わせる大島氏の人格と立ち姿に思わず魅せられて、空手道という
17
毎年定期的に対抗戦を行うということは、
並大抵のことではありません。そこには、
50
ただきました。
50
早慶両大学空手部関係者の多大なご努力があればこそと、推察いたします。大変な
慶應義塾大学ならびに早稲田大学、両大学空手部による早慶戦 周年、誠におめ
でとうございます。一口に 周年といっても、
実は 年間もの長い期間にわたって、
50
50
早 慶 戦の思い出でなどを綴った記 念 誌がこれを機 会に刊 行されますことは、大 変 意 義
あることであり、長きにわたる歴史に重みを感じるとともに、深い感銘を覚えます。
私は平成 年から 年間空手部長を務めさせて頂きました。すばらしい監督や部
員に恵まれ、三田空手会の皆様と広くつながりを持ち、楽しく過ごすことができま
早稲田大学 空手部 部長 田中 愛治
空手早慶戦の思い出
この度は、慶應義塾大学と早稲田大学それぞれの空手部による早慶戦が 周年を
迎えられるとのこと、誠におめでとうございます。
はり早慶戦です。早慶戦というのは、他の試合とは違った一種独特の緊張感があり
早 慶 両 校 は、 様 々 な 形 で 早 慶 戦 を 行 っ て ま い り ま し た が、 空 手 に お き ま し て も
されたとうかがっています。そのときから早くも 年の歳月が流れたということで
23
思いがあり、こうした経験ができるのは早稲田と慶應の空手部員だけの特権です。
うな気持ちでお互い切磋琢磨してきたのだと思います。どちらも早慶戦には格別な
仰ったことです。ちょっとびっくりしましたけれども、おそらく慶應側でも同じよ
るペンマークのついた空手道着を見ると、むらむらと闘志が湧き、頭に血が上ると
れたことはとても印象に残っています。それは、自分は今でも慶應義塾の校章であ
いますが、あるとき、慶應にもとても親切にしてくださる早稲田の川口先輩がいわ
もちろん私は選手ではありませんので、その思いを完全に理解できていないと思
に思いました。
両大学の空手部員の努力が実って、空手早慶戦の実現にこぎ着けたわけであります
た。慶應の斉藤主将と早稲田の内藤主将のお二人の固い決意と、また彼らを支えた
手部主将斉藤紘二先輩とともに尽力された当時の早稲田大学空手部主将でありまし
まさにその内藤先輩こそ、空手早慶戦の第1回開催を実現すべく、慶應義塾大学空
す。奇しくも私が新人に入部した時の早稲田大学空手部監督が内藤武宣先輩であり、
私は現在、早稲田大学空手部の部長をつとめさせていただいておりますが、実は
私自身が早稲田大学に在学中は4年間空手部員として稽古をした経験がございま
あり、この歳月を考えますと、実に感慨深いものがあります。
その第1回空手早慶戦以来、多くの早慶両校の空手部諸先輩のご尽力とご指導、
とは、言うまでもありません。
ていただきますようお願い申し上げます。また両校の空手部の活動を物心両面で支
ならびにご支援により、今日まで空手早慶戦は伝統を重ねてくることが出来ました。
年、100年と続けていっ
えてくださっている空手部の卒業生の皆様、部員の成長を助け部員のために熱心に
そのことを振り返って見ますと、早慶両校の空手部の諸先輩の空手に対する情熱と、
年の伝統を積み重ねてきました空手早慶戦も、早慶両校の伝統ある他のスポー
ツの早慶戦と同じく、毎回いずれも闘魂のこもった戦いが繰り広げられています。
さに、今さらながら感謝し、同時に尊敬の念を新たにするものであります。
指導してくださっている歴代の監督、コーチの皆様、青春を空手とともに燃やして
私自身も、かつて空手部長であったものとして空手部のよき理解者としてあり続
けたいと思っています。そして塾長職にある間は慶應義塾体育会会長という立場か
早慶両校空手部に対する誇り、そして早慶両校空手部の後輩部員に対する愛情の強
くお付き合いいただき、このすばらしい関係をこの先
が、その陰には、多くの両大学空手部の諸先輩の温かいご支援とご指導があったこ
50
いる現役部員の皆様には、常に限りない尊敬の念を持っています。
50
早稲田大学空手部の関係の皆様には、どうか慶應義塾大学の空手部と今後とも長
続けているためでしょうか、応援席にも伝わってくる張り詰めた雰囲気があるよう
1960年4月 日に慶應義塾大学三田道場において、第1回の空手早慶戦が開催
50
ます。早稲田大学空手部と慶應義塾大学空手部が、長年にわたり常に好敵手であり
した。主要な試合の応援には欠かさず駆けつけましたが、とくに印象に残るのはや
10
ら、両校の空手部を精一杯応援していく所存です。この度は、まことにおめでとう
ございました。
野球やラグビーの早慶戦のテレビ中継でもしばしば解説者の方たちが口にされるこ
50
とは、リーグ戦の優勝がかかっているわけではない場合でも、早慶戦に限ってはあ
ご挨拶 塾長・部著
3
10
も非常に盛り上がるということであります。
の記念式典の日に早慶戦を開催したのですが、このときも接戦だったと記憶してお
響を与える貴重な言葉でした。
ことだぞ」と言った一言を、今でも覚えています。このことは、私の人生観にも影
空手早慶戦でもまさしく毎回そのような熱戦が繰り広げられておりまして、見る
者に手応えを感じさせます。正確に記録を調べたわけではありませんが、私の記憶
ります。
その年の秋も早稲田は全日本大学選手権で3位になりまして、空手部創立 周年
部の出身で、工学部空手部 当
( 時はキャンパスが小金井にありました で
) 稽古をし、
ある建物の中の道場だったように記憶しております。実は、私の兄は慶應大学工学
をおたずねしました。場所は今と変わらないかと存じますが、当時は伝統的な由緒
部に入部しました。それからまもなく春の早慶戦があり三田の慶應大学空手部道場
きたいと存じます。私の早稲田大学入学は1971年4月で、その年の5月に空手
ここでは、卑近な例で恐縮ですが、私自身の早慶戦の思い出を述べさせていただ
す。
0の早稲田の大勝で終わり、信じる力の強さを思い知りました。
今日の慶應には勝てるね!」と言われました。その結果、戦前の予想に反して6対
合監督を務められた小野泰規先輩 現
( 、稻門空手会会長 が
)「君たちが全力で戦えば、
した。しかし、秋の早慶戦の当日、慶應陣営が早稲田の道場に来ると、早稲田の試
稲田は全日本で早くに敗退していましたので、厳しい戦いになると予想しておりま
した。この秋、慶應大学空手部は全日本大学選手権で優勝された直後でしたし、早
いに「技あり」1つずつ で
) 終わりましたが、秋は「技あり」で勝つことが出来ま
手早慶戦に選手として参加できることとなり、私自身の成績は、春は引き分け 互
(
大切な思い出であります。
対し、早稲田の山下主将が「弱い者を侮るということは、強い者には臆すると言う
帯の方に負けたことについて、
「白帯だったので多少侮りました」と反省したのに
早慶戦翌日の反省会の思い出は、早稲田の中堅(3年生)の茶帯の方が慶應の白
います。
世界選手権覇者の和田光二先輩が主将でおられましたから、接戦で当然だったと思
り勝ったという接戦でした。もっとも、よく考えてみれば当時の慶應空手部には、
を願っています。
がたい財産であると存じます。現役諸君がそのような伝統を受け継いでくれること
係を築きあげ、互いに切磋琢磨し続けられるということは貴重な伝統であり、あり
今日、このように二つの大学が良きライバルであり、また良き友であるという関
という一言で、あっという間にうち解けた経験が度々あります。
も最初に仲良くなるのは慶應大学の出身者でした。お互いに、「君、
慶應?俺、早稲田」
10
4
ご挨拶 部長
たかもリーグ優勝の決定戦のような熱のこもった試合が展開され、それぞれの応援
の範囲ですと、早慶両校ともにどちらかの大学が3連勝をするということがほとん
4年生の時には工学部空手部の主将を務めた者(田中俊太郎といいます)でしたの
その4年後の1974年、私が幹部 4
( 年生 に
) なった時は、初めて私自身も空
で、慶應の空手部の話を、よく聞かされておりましたので、慶應の空手部にも親し
このように、他のスポーツ同様に、空手におきましても早慶戦は特別の意味を持
ち、全国レベルでの活躍とは別に、早慶両校が譲らずに互いに力の限りを出し切る
みを感じておりました。
残っており、春も秋も自分がどのように「技あり」をとったのか、その技を今でも
年前の早慶戦での自分の試合は実に鮮やかな記憶として
当時の空手早慶戦は、春は三田の道場で、秋は早稲田の道場で開催されるという
年2回制でありました。基本と型の稽古の後に基本組手を行い、最後は大学の部の
鮮明に覚えております。このような青春時代の思い出は今でも息づいておりますし、
は早稲田は東日本大学選手権で優勝していましたから、我々新人は楽に早稲田が勝
伝統があります。また、
名の選手による試合形式の自由組手でした。この1971年春の早慶戦の直前に
ど無いほど勝ち負けが入れ替わり、両校の力は常に拮抗してきたと言えると思いま
40
年半にわたってアメリカに留学した折にも、どこに行って
私が早稲田卒業後、
36
つものだと思いこんでおりました。しかし、実際の試合内容は早稲田がようやくせ
15
慶應義塾 体育会 空手部 部長 榊原 研互
早慶戦五十周年に寄せて
空手早慶戦が今年五十周年を迎える。誠に喜ばしいことであり、両校の関係者の
皆様には心からお祝い申し上げたい。
早稲田大学空手部と慶應義塾大学空手部との交流の歴史は古く、その始まりは今
から七十年以上も前に遡る。
「慶應義塾体育會空手部七十五年史」によれば、両校
空手部による最初の交歓稽古が行われたのは昭和九(一九三四)年五月十三日のこ
とであった。とはいえ、当時は今日のような試合が行われていたわけではない。空
手はスポーツというよりも自己鍛錬のための武道と考えられていたために、そもそ
も試合制度というものが存在しなかったからである。
試合形式での初めての対戦が実現したのは、昭和二七(一九五二)年十一月の交
歓稽古においてであった。これは早稲田大学の考案した新たな試合制度を、まずは
早慶両校で実験的に試したものであり、空手の試合の可能性を証明する画期的な出
切磋琢磨し、互いに高め合う。そうした場がまさに早慶戦だったのである。
早慶両校の学生に先導者としての役割が期待されているのは昔も今も変わらな
い。常に志を高く持って技を磨き、それをぶつけ合う。早慶戦が空手の世界に新た
周年のお祝いの言葉
な可能性を拓く場となるべく、今後も長く続いていくことを祈りたい。
空手早慶戦
早稲田大学 競技スポーツセンター 所長 宮内 孝知
慶應義塾大学空手部ならびに早稲田大学空手部の早慶戦が 周年を迎えられたと
のこと、誠におめでとうございます。
初の空手の試合だったのである。
であります。さらに言えば、野球の早慶戦における早慶両校の選手の活躍が学生野
慶應大学と早稲田大学の体育各部の対抗戦は、1903年 月 日の野球の早慶
戦に端を発しました。野球の早慶戦はその後、東京六大学リーグ戦へと発展していっ
来事となった。まさに両校部員の進取の気性と厚い信頼関係から生まれた世界で最
そしてこれを一つの契機として試合制度の整備が進み、昭和三二(一九五七)年
に第一回全日本空手道選手権大会が行われたのを皮切りに、昭和三五(一九六〇)
球を、いや学生スポーツ全体を、日本の全国民に知らしめたという大きな功績があっ
このような歴史を見ると、早慶両校が学生空手の発展にいかに先導的な役割を果
たしてきたかがわかる。早慶戦が半世紀にわたり続いてきたのも、両校が固い友情
ぼ互角の戦いぶりを示しているのである。
ラグビーにおいてもそれぞれ慶應大学の体育会各部が先輩であり、後輩であった早
の間での定期対抗戦が開催されるようになりました。その草創期の野球、ボート、
1905年には慶應大学端艇部と早稲田大学漕艇部による早慶レガッタが開催さ
れ、その後早慶ラグビー対抗戦が始まり、多くのスポーツにおいて慶應大学の体育
空手においても、松濤館流の開祖であります船越義珍翁が本土の大学で空手を教
会各部と早稲田大学の体育各部 旧
( ・体育局、現・競技スポーツセンター体育各部
で結ばれてきたからに他ならないが、それを支えてきたのは、学生空手のあるべき
たと考えられます。
たのでありまして、野球早慶戦は我が国の学生野球の全国への普及の礎になったの
21
稲田大学の体育各部はそれに挑戦する形で始まったものでありました。
今年で六十九回を数えるに至っている。そして昨年までの戦績を見ても、両校はほ
(一九七七)年までは年二回、その後は年一回のペースで開催され、両校の対戦は
年 四 月 二 三 日 に は 記 念 す べ き 第 一 回 空 手 早 慶 戦 が 開 催 さ れ た。 以 来、 昭 和 五 二
50
11
姿を追求し、共に歴史を築いてきた「同志」としての意識と思いであったように思
われる。単に好敵手というだけでなく、空手界をリードする存在として共に敬い、
)
ご挨拶 部長・所長
5
50
空手早慶戦
周年をむかえて
稲門空手会 会長 小野 泰規
の領域において両校がこれほどの隆盛を見ることは出来なかったでありましょう。
慶應と早稲田の体育各部にとっても、相手の存在がなかったならば、各スポーツ
絆へと発展させてもらいたいものです。
特別な関係を、両校の空手部員の諸君は、先輩諸兄諸姉を見習って、ますます強い
うしたいと考えても簡単には創ることは出来ないものであります。この早慶両校の
に裏打ちされた好敵手関係というものは、一朝一夕に築けるものではなく、またそ
をもちつつ切磋琢磨して、共に発展してきた伝統があります。この様な、厚い友情
の中で、慶應と早稲田は他大学とは異なる真の好敵手として、友情とライバル意識
慶應義塾大学と早稲田大学の大学の歴史そのものと同様に、各スポーツにおいて
も慶應が先に体育各部を創り、早稲田がそれに挑戦していった歴史があります。そ
と推測している次第です。
の交流もあったからこそ、早稲田の学生も船越師範の下で空手を学んだのであろう
然の一致とは思えません。そこには、おそらく早慶両校の親しい関係があり、学生
年富沢俊一郎氏主将、戦争により中断された空手部を復活する。1947年吉田悦
との交歓稽古を行う。1941年細川隆一郎氏主将、早慶演武会を行う。1946
れる。1940年渡部俊夫氏主将、早大空手部専用道場が新築落成、慶應義塾大学
一高、商大、日医大の各校で協議し、翌年に豊島区雑司ヶ谷に松濤館道場が建設さ
1934年萩原正義氏主将、この年より船越義珍門下の松濤館流各校との交歓稽
古を行う。1935年野口 宏氏主将、松濤館道場建設計画について、早大、慶大、
ようなものでした。
輩出し、大きな貢献をしてきましたことを誇りに思います。その歴史の歩みは次の
学生空手会、日本の空手、世界の空手の発展及び普及に傾注し、素晴らしい人材を
早稲田大学空手部が1931年に発足し、来年には創部 周年となります。この
間、慶應義塾大学とはよきライバルとして、また大いなる信頼と友情をもって共に
いたしました。
1922年文部省の主催の第一回古武道体育展覧会において伝えてから 年が経過
空手の歴史を振り返って見ますに、船越義珍師範が空手を沖縄より初めて本土に
周年をむかえ、早慶両校の築いた歴史に感慨をおぼえ
空手においても互いの存在は極めて重要なものであったと推察致します。
造氏主将、戦争により中断された慶應大学との交歓稽古を復活する。
88
空手は日本で発展していったのみならず、本土に伝えられてから 年後には海外
に、世界に伝えられ、怒涛のごとく普及されて行きました。
付の組手試合はこの時のものです。
に早稲田大学の大島 劼、小森章二諸氏が訪れ組手試合を申し入れ、慶應大学の山
本一郎、望月康彦諸氏が信頼を持って受け入れたことによるものです。現在の審判
さに早慶両校によって切って開かれました。1952年秋、慶應大学三田綱町道場
80
33
6
ご挨拶 所長・会長
え始めたのは、慶應大学が最初であったとうかがっています。慶應大学空手部の創
設が1924年で、早稲田大学の空手部は1933年に創られたのであり、空手に
おきましても慶應が早稲田の先輩であったことは、他のスポーツと同様であったよ
うにうかがっています。しかし、慶應と早稲田の学生が、同じく船越師範の下で空
早慶両校の空手部のますますのご発展をお祈りし、空手早慶戦が末永く続かれん
組手試合により空手は大きな発展を遂げることになりましたが、その幕開けはま
空手定期早慶戦が本年で
ます。
ことを期待して、お祝いの言葉に代えさせていただきます。
手の稽古に励み、早慶両校が共に同じ松濤館空手を学んで来ましたのは、単なる偶
50
50
海外への普及それは、大島 劼氏が1956年に海外における最初の空手団体とな
る南カリフォルニア空手同好会を結成し、翌年1957年にはカリフォルニア工科
名ずつで行う。
早慶空手定期戦 周年大会
三田空手会 会長 奈藏 宣久
伝統の早慶空手定期戦 周年にあたり一言ご挨拶申し上げます。
早慶両校空手部は、空手が本土に紹介されて以来松涛同門として長い交流の歴史
50
を持っております。いわゆる”交歓稽古”から歩を進めた”試合形式”の定期戦が
本年 周年を迎えること誠に喜ばしい限りであります。
私事ですが私は第一回の試合を、慶應高校3年生の時観戦いたしました。当時は
”高校生の空手試合など論外”という情勢で、早大、早大学院との交流もありませ
ん で し た の で、” 早 稲 田 の 空 手 が ど ん な も の か ” 非 常 に 興 味 を も っ て お り ま し た。
試合が進むにつれ、三田綱町柔道場は競技というよりも武道家が立ち会ってる、と
いうような何ともいえない緊迫した雰囲気につつまれていった事を今でもはっきり
覚えております。
方が空手の稽古に励む時代になりました。競技空手につきましては、現在でも賛否
時を経て、いまや”競技”としての空手は確立され、性別、年齢を問わず多くの
すべきよき場所です。早稲田大学全体が早慶戦には熱く燃えております。大学への
両論あるとは思いますが、早慶両校が学生空手道連盟の中心的役割を担い、健全な
学生スポーツとしての空手を本邦、そして海外に広められたことは特筆に価すると
信じております。
早 慶 戦 と な る と、 ど の よ う な 競 技 で も 血 が 騒 い で し ま い ま す。 対 抗 戦 と し て、
定期的に継続してゆくということは、御互いに尊重しあい、鍛錬しあうというコミッ
トメントの下に成り立つものだと思います。単なる勝敗だけではなく、生涯に亘っ
て御付き合いのできる友人を得るということに大きな意義があるでしょう。私とし
ましても年代を問わず、早稲田空手部OB、現役と対話できることこそ定期戦のお
年に亘って継続するためには両校OBが尽力されていることは当
かげであると感謝しております。
この定期戦が
然ですが、学生空手道連盟の審判員の方々のご支援なしには成り立ちません。 周
50
50
くなって報告します。
戦績発表にもとても重要で、部長先生も早慶戦で負けると肩をすぼめて、少し小さ
和久井 保、小寺博久、大原 守、三口忠夫、平岸英明
早慶空手戦は私ども早稲田大学空手部に取りまして、とても大事なものであり、
よきライバルに勝ちたいという一心です。早慶戦は総力戦であり、本当の力を発揮
50
大学に海外初の大学空手部を創設したことが海外への初めての空手普及となりまし
た。現在、
松濤館大島道場は世界十数カ国に1万5000名のメンバーがおります。
世界の空手は現在、日本文化として、日本の武道としてスポーツとして日本を代表
するものとなりました。
基本、型の演武のほか、試合制度による自由組手を選手
第一回早慶空手定期戦が1960年4月 日慶應大学三田綱町道場で行われまし
た。このことは早稲田大学空手部 年史に次のように記載されております。
23
審判は慶應大学OB望月康彦先輩。
上林弘孝、白井 潔、笠尾恭二、本多定晴、
出場選手: 内藤武宣、
10
50
年記念大会にあたり学連審判員の方々に心より御礼申し上げます。
両校部員諸君は、
ご挨拶 会長
7
75
空手早慶戦 周年をむかえて、慶應義塾大学に御礼を申し上げます。いつまでも
早慶戦を通してよきライバル、よき友としてご指導をお願い申し上げます。
50
とができました。早慶戦が作ってくれた人生の想い出の一つとなっております。
昭和 年、中古の時の早慶戦。印象に残る試合と言えば、 年卒業の慶應の主将、
蓮池先輩、対する早稲田井上主将の大将戦でした。試合開始後は、お互い見合った
まま、どんどん時間が経過しても、両大将共全く動きません。フェイントも掛けず
に、にらみ合いが続きました。一本勝負の為、時間が押せば先に取った方が勝ちで
す。集中力のこもった試合に茶帯の2年生である我々は圧倒されておりました。
最後に学生諸君へ一言申し上げます。学生連盟に加盟している限り、部員諸君の
目標はその頂点である全日本大会優勝であります。しかしながら“空手を稽古する
こと”の真の目標は、もっと別のところにあると私は考えます。優勝しなくて構わ
ない、ということではありません。青春時代の貴重な時間を、毎日の稽古で汗を流
している現役諸君は、自分の空手に対する姿勢をより掘り下げて考えると同時に、
もっと大きな目標を、自ら模索して欲しいと感じます。自分にとって空手とは何な
慶應義塾 体育会 空手部 監督 河野 彰二
早慶戦五十周年に寄せて
8
ご挨拶 会長・監督
多くの方々のご協力、ご支援によってこの伝統ある定期戦が開催されてきたことを
周年に際して
肝に銘じ、この定期戦の更なる発展を期して演武してください。 素晴らしい試合
を期待します。
早慶戦
早稲田大学 空手部 監督 福田 聡
確か柔道場ではなかったかと思います。道場は木製の古い手摺に囲まれて、独特の
雰囲気が醸し出されておりました。
早稲田の大将は富田主将でいらっしゃいました。大学の新人は、私が大学1年生
の時の主将である四宮先輩他同期の先輩方でした。学院一年生である我々は、まだ
五本組手も教えられて間も無い頃、初めて約束組手で部員以外で立ち会ったのが、
慶應義塾高校空手部員の皆さんでした。五本組手の前の緊張の中、色々と大学の空
手部の先輩方からアドバイスを頂きました。某先輩からは、
手から先に出しなさい、
とアドバイスをされまして、その通りにしたところ、後でお褒めの言葉を頂きまし
回
昭和三十五年四月に現在の形式の空手早慶戦が始まって以来今回五十周年記念
大会を迎える迄の時の経過を考えると感無量の諸先輩も多い事と思います。私が学
た。同時に、他の大先輩より叱られました。以後、7年間に渡りまして、合計
立ち会ったのが、大学4年生の時の主将村林君であり、副将の天野君他同期の慶應
生時代最後に参加した昭和四十五年早慶戦は始まって未だ十年しか経っていなかっ
た訳ですが、その早慶戦が半世紀経ち今年めでたく五十周年記念大会を迎える事に
年振りに村林君と会う機会が
義塾空手部員の皆さんでした。数年前の武道館で、
ありました。同じく最近の早慶戦では、卒業以来初めて天野君とも一献を交えるこ
30
14
そして何を求めていくべきかをじっくりと学生生活を通して考えて頂きたい。私自
のか。どうして、何のために自分は今空手を稽古しているのか。自分自身に問うて、
52
早慶戦 周年の節目に際しまして、両校による気合のこもった、正々堂々とした
交換稽古が行われることを期待致します。
51
信の反省を込めてお願いしたいと思います。今後の早慶戦の発展を祈念致します。
50
昭和 年(1972年)に早稲田高等学院の空手部に入部した頃は、早慶戦は春
と秋に開催されておりました。
私にとりまして初めての慶應大学での早慶戦会場は、
50
47
たのが早慶戦であったのです。
それは二年生の秋に早稲田の道場で行われた早慶戦です。当時夏合宿後の進級審
たら空手が強くなるか?」
との自問の毎日であったが、
その答えの一つを教えて貰っ
上手く出来ずに悩んでいました。それ故当時は電車の中や授業中に常に「如何にし
て迎えます事を嬉しく誇りに思うと共にひときわ強い感慨を覚える次第です。 私は塾に入学して六月末に空手部に入部し始めて空手を始めた訳ですが二年生に
なってもなかなか思うように上達しないでいました。特に組み手(一本組み手)が
なった事は誠にご同慶の至りです。そしてこの記念すべき大会を塾空手部監督とし
生が切磋琢磨してお互いが高め合う、そんな場であり続けたらと切に願う次第です。
この空手早慶戦がこれから百週年に向けて新たな歴史を刻みつつ早慶空手部の学
過ごしています。こんな懇親会を持てるのも早慶両校の空手部が唯単にライバルと
諸兄が、そして慶應からは田原、尾形、堀切、川上、河野が参加して楽しい一時を
が年二回集まり昔話に花を咲かしています。早稲田からは倉田、増田、伊東、宮村
部の出身者にも多いと思っております。
早稲田大学高等学院 空手部 監督 今泉 孝一
早慶空手定期戦が熱い戦いを重ねて五十周年の今年は感慨もひとしおです。
選 手 と し て 戦 っ た 二 十 年 前 か ら、 母 校 の 監 督 と い う 立 場 に 変 わ り は し ま し た が、
今もって、高校生・大学生達の熱い戦いの一番近い場所に居られるのは大きな喜び
早慶戦に学ぶ
いうことではなく、同士との意識もあったからだと思っています。
塾を卒業して四十年弱が経過していますが、数年前より早稲田の同期である倉田
君に声を掛け、「早慶空手部四六年卒業生懇親会」なる会を催し両校の在京メンバー
査で三級になったばかりで未だ十五人の選手に選ばれた訳ではないですが、試合前
に交換稽古として行われた五本組み手に末席で参加した時でした。確か三人目の早
稲田の黒帯の先輩が相手になった時に怖くて早稲田の先輩の上段突きが受けられず
顔面に随分殴打を受けたのを今でもはっきりと覚えています。相手が手を抜かず五
本組み手で突いてくるのを受けられないのは私の技量が低いからで誰にも文句を言
えない。その時このまま殴られっぱなしでは駄目だ、何とかしなくてはと思ったの
が「合い打ち」の積りで戦う事だった。
「合い打ち」の気持ちで早稲田の先輩と対
峙したらその後は殴打されなくなりました。
その後の私の空手に大きな影響を与えてくれました。この時の早慶戦での五本組み
であります。
その時思ったのは空手というのは「恐怖心との戦い」で、この己の恐怖心を克服
手をした早稲田の黒帯の先輩に本当に感謝している次第です。
高校空手の公式戦というのは六月の高校総体予選で負けてしまうと三年生はもう
試合はなく、他の高校であれば夏前に引退ということになります。
出来れば少なくとも負ける事はないと痛感しました。空手は技量だけでなく心の持
私が現役学生時代は空手の公式試合というと春の東日本学生空手道選手権大会と
秋の関東学生空手道選手権大会及び全日本学生空手道選手権大会の三大会しか無く
ところが我々には秋の早慶戦があります。
「早慶戦」、数あるライバル対決の中でも日本人全てにこれほど広く知れ渡ってい
る戦いはありません。
ご挨拶 監督
く燃えた記憶だけが残っている。この様な気持ちになるのは私だけでなく早慶空手
られた事が嬉しくて燃えて戦った記憶が懐かしい。早慶戦というとどういう訳か熱
たが、春秋の早慶戦は参加選手も当時は十五名と多く三年生で参加する機会が与え
ち様で結果が違う事を身を持って体験出来ました。この時の早慶戦の五本組み手が
大学で空手を始めた私にとっては三大会に出場する機会は四年生になるまで無かっ
その早慶戦があるために、もう一度気持を引き締め直して、厳しい夏の稽古・合
9
宿に取り組むことができるのは我々早慶両校の特権なのかもしれません。
自らのことを思い返してみますと、高校二年の頃から早慶戦に出させて頂いて、
高校大学の私の通算成績は二勝三敗。負け越しです。自信満々で臨んだ年ほど、そ
の慢心を突く慶應の本気の攻撃に屈した思いがします。
卒業して二十年近くになりますが、社会人となったいまでもその悔しさは忘れることが
できず、どのような場面でも自らの気の緩みを省みて、小手先の技術に頼らず本気で取
り組む、そうした心掛けを持つ戒めとなって私の中に強く存在しています。
早慶戦から学んだものは本気になること。
毎年、下馬評通りではない結果が生まれますが、普段選手として公式戦に出てい
る者からそうでない者まで、まさに両校が総力戦で本気のぶつかり合いをすること
開始
秒での敗戦
慶應義塾高等学校 空手部 監督 和田 光二
空手の早慶戦が始まって、今年で 年になると言う。
私が初めて早慶戦の場に臨んだのは、普通部一年の時だから 年前である。こう
なってみると、第一回の早慶戦に参加できなかったことを、今更ながら残念に思う。
相手の攻撃は真剣に受けた。受けそこなった連中が、口や鼻から血を垂らしながら
回全日本学生選手権と第一回
繰り出す相手に、足を半歩横にずらし、上段突きを返すと、勢いよく倒れた。
「反
の世界大会で個人優勝を果たした絶頂期だった私は、先鋒で出場した。相手はあま
今の早実生に伝え、大学でもこの早慶戦に出たいと
則注意」を言い渡され、開始線に戻り、次の主審の掛け声を待つ。「始め」の声が
周年おめでとうございます。
思ってもらえるよう、今後も引き続き参加させていただきたいと思います。
り見たことのない選手だった。「始め」という主審の掛け声と同時に、上段突きを
の、東日本大学選手権大会の準々決勝だ。前年の第
早稲田との試合で、一番印象に残っているのは昭和 年の5月、大学4年生の時
歴史が育んできた関係は、いわく言い難いものがある。
を持った人間の集まりだったからだろう。そして何よりも早稲田と慶應という長い
く和気あいあいと過ごせたのは、空手という武術を身につけたいという共通の思い
蹴ったりだから、勢い組手が乱暴になる。それでも、懇親会になるとお互いに仲良
大学に入っても危ないのは試合よりも約束組手だった。試合は当てれば反則だが、
約束組手は当てられた方が自分の学校の先輩から怒られる。殴られては、踏んだり
懸命に相手に向かって行った姿を思い出す。選手の気持ちは、正に「果たし合い」
慶應は我々早稲田にとって最大の敵でありますが、同時に最高の友であり、そし
て互いに高め合う心の「師」でもあります。
高校に入っても、まだ試合が行われていなかったため、交歓稽古は約束組手だけ
だった。決め手を当てることはしなかったが、攻撃の上段、中段は思い切り突き、
形を演武することに相当緊張したし、誇らしい思いも持てた。
形を演武するだけのものだった。それでも、対外試合のなかった当時は、早慶戦で
とは言っても、第三回から早慶戦の試合に出場したわけではない。普通部生とし
ての参加は、早稲田に中学がなかったため、大学生の試合の見学が主体で、数名が
48
のようなものだった。
が公式戦とは一味もふた味も違った盛り上がりを見せているのだと思います。
50
10
ご挨拶 監督
10
「 早 慶 戦 」、この両 校の戦いが毎 年 本 気の輝きに満ち、そして選 手たちが社 会に出た
後もその輝きをさらに強くして友として日本を牽引していくことを祈念してやみません。
周年おめでとうございます
早稲
田実業学校 空手道同好会 監督代行 瀬戸口 実治仁
46
14
50
年前、我々が出ていた頃と変わらぬ早慶戦の興奮を、
20 50
終わらないうちに、又も同じように上段突きで飛び込んできた。パブロフの犬では
ないが、反射的に同じ技を繰り出し、同じように相手は倒れた。試合開始から「反
秒もかからなかったと思う。その後慶應は二人が勝
周年に寄せて
田の監督から、早慶戦の懇親会のたびに「和田さんに優勝させてもらった」と、感
本)負けが影響し、内容負けとなった。早稲田の応援席に歓喜の渦が巻いていた。
利したものの一人が負け、一人が引き分けたため、2対2となったが、私の反則(一
中高等部々長と望月三田空手会長とのご尽力により先ず高等部に次いで中等部に空
慶應藤沢中高等部空手部の5代目監督をしております鈴木です。
本校は1992年(平成4年)神奈川県藤沢市小田急沿線湘南台の慶應湘南藤沢
キャンパス内に男女共学、中高一貫校の中高等学部が開設されました。当時の稲田
空手早慶戦 周年おめでとうございます。
慶慶應義塾湘南藤沢中・高等部 空手部 監督 鈴木 博雄
謝されている。その時の私の対戦相手は、空手歴は浅いものの、剣道の経験者で、
手部が創立されました。中等部は全国よりの受験資格がありますが高等部は地元神
負けた悔しさはあったものの、早稲田が優勝してくれたことで、選手の気持ちが
少しは晴れた。その年は、全選手が雪辱を果たすつもりで臨んだ早慶戦だったが、
うことだった。
で行っています。この4、5年はなぜか女子部員の比率が多いのですが、実力は神
男子2名)の 名です。稽古は週に4日、
2時間
奈川県の中学卒業生には受験資格が無く、他県と帰国子女にのみ受験資格がありま
分とし男女とも殆ど同じメニュー
す。現在の部員数は高等部15名(女子10名、男子5名)中等部5名(女子3名、
総合力に勝る早稲田に春夏とも敗退してしまった。
私の学生時代は遠くになってしまい記憶も薄れておりますが交歓稽古や学連(当
時)の昇段審査でお邪魔した早稲田の重厚な体育館が懐かしく思い出されます。
し三連覇に貢献する活躍を期待しています。
五十周年記念早慶戦には我が部主将江村君も高校対抗戦の一員として出場しま
す、彼は1年生、2年生でも出場し勝利しましたが、記念すべき今年も必ず三連勝
奈川県大会の団体でベスト8内をキープ、ときにがんばって上位に食い込み関東大
30
1952年(昭和 年)秋 月 日体育館2階で行われた交歓稽古は始めての審
判試合制度で行はれました。この案は早稲田大学より出されたように思います。両
11
29
ている。これからも100年、
200年という歴史が刻まれていくことを祈念して、
ペンを置きます。
20
輩より指導されたことは①縦の動きに対しての横の動き②自然体からの動き③連続
が試合形式で行うことが決まった時から早稲田の鋭い突進力に対する戦法として先
の両先輩にお願いしました。何組が出て勝敗がどうだったかは忘れてしまいました
校の主将は早稲田大学大島劼、慶應義塾山本一郎で、審判は拓殖大学の中山、西山
27
として切磋琢磨している学生の姿を見るにつけ、早慶戦の位置づけの大切さを感じ
会出場に数回出場しております。
50
学校を卒業して社会人となってからは、勤務地が地方でない限り、毎回早慶戦を
観戦している。勝ち負けにこだわりながら、勝ち負けにとらわれず、良きライバル
その後勢いづいた早稲田は準決勝、決勝を勝ち進み優勝を果たした。その時の早稲
すり足による飛び込みが極めて早く、負けて元々の気持ちで私にぶつけてきたとい
則負け」を宣告されるまでに
50
攻撃でありました、この三つのことはその後の私の空手にとって非常に重要な指標
ご挨拶 監督
11
10
となりました。1953年の交歓稽古は三本組手
人、1本組手
人、自由組手
14
年近くが立ち日本の復興が進む
年、世界は政治も経済も科学も大変なスピードで変化し進歩しま
それからほぼ
した。身近なことではテレビ、パソコン、携帯電話など。便利さを享受してそれに
中、学生空手も流派を超えた交流、また東西の交流も行われてきました。
立講堂にて盛大に演武会が開かれました。大戦後
1953年には船越義珍先生が空手普及に本州に来られて三十年を記念し神田の共
西山先輩が渡米されました。空手が世界に広がる第一歩を踏み出 し た の で す。 翌
1952年に米国戦略爆撃隊の招聘により慶大小幡先輩、早大 渡 部 先 輩、 拓 大
なったとの記録が残っていますがその理由、内容はつまびらかでありません。
人にて行はれ、翌年1954年には三本組手は廃止し一本組手と自由組手のみで行
12
空手界も小学生から大学生、社会人と試合制度が確立されて世界のどこかで試合
が開催されています、技術もスピードも素晴らしく進歩しております。
私が卒業した1955年の塾体育会には の部(現在 部)が所属しておりまし
た。山岳部、空手部以外の部は勝ち負けを争いその勝敗が大きな目的とされていま
40
を見せて下さい。益々のご活躍、ご発展を祈念いたします。
両 校 部 員 の 諸 兄 姉、 本 年 の 空 手 早 慶 戦 は 五 十 周 年 の 記 念 す べ き 大 会 で あ り 又
100周年へのスタートの日として平素の稽古の成果を発揮して正々堂々たる勇姿
レイの精紳の体験、三つ目は生涯の良き友を得る。
」ということです。
動をして得る三つの宝として、一つは練習は不可能を可能にする、二つはフェアプ
は「船越義珍先生空手弐拾個条」と慶應義塾元塾長小泉信三氏が晩年に話された「運
常心を持することと指導されました。部員の皆さんに何時も心にとめて貰いたいの
した。先輩方からは空手の稽古は人と争うものではない、身体と精紳を強く鍛え平
30
12
ご挨拶 監督
15
10
追い廻されて大事な事を忘れ失なっている気がします。
60
寄稿 早慶空手交換稽古期
早稲田大学 一九四一(昭和一六)年卒 渡部 俊夫
学連誕生前後の頃の慶早関係
熱心でありました。
その頃、早大では、先輩陣が試合制度については、余り熱心ではなかったので、
私一人が、右諸先輩や、明大、東大、法大、日大等の諸先輩と、時々、お逢いして
意見を交換しておりました。
昭和 年 月 日。
慶大空手部の和田主務が、早大空手部の学連加入について、心のこもった友情を
以て、意見交換に来られました。有難いことです。
私どもは今も心から感謝しております。
現役部員同士では、時々、交換稽古を開催しておりましたし、個人的にも親しい
月
日に、関東学連に正式に加入しました。
24
人たちもおりました。
早大空手部は、昭和
年
同年 月 日、早慶空手定期戦を、慶大の高木先輩の主審で行いました。
共に見事な審判でした。
23
か所以
お陰様で、その後、各大学のOBの方々から、大変喜ばれました。
学連発足して当分の間、運営上の諸問題、試合制度、審判の要領、教育訓練等の
諸問題が山積しておりましたが、各大学のOBの方々、とくに拓大の福井先輩や慶
その後、大浜先生は、全日本空手道連盟初代の会長に就任され、多勢の関係者に
大変信頼されました。
承を得ました。
学長と慶大の小幡先輩、それに私の3人が、大浜総長をお尋ねして、正式に、ご了
お願いをしました処、ご了解を得ましたので、日を改めまして、日本体育大学の
ました。
各大学のOBの間、特に、慶大の小幡先輩や高木先輩、拓大の福井先輩方は、私
その期間は、6月から9月までの約100日間で、アメリカの空軍基地
上でした。
ちょうどその頃、各大学の空手部の主なOBは、何とか、学生連盟を結成して、
試合制度を確立し、日本の空手道を発展させたいとの意向が強かった状況でした。
30
講道館との関係や、組織のあり方等、色々な問題がありましたが、小幡先輩のお
人柄とご意見によって、私共三人は心を合わせて任務を果たすことが出来ました。
昭和 年、米国の空軍から、追指導の要望があり、関係者の相談の上、慶大の小
幡先輩、拓大の西山先輩、早大の私の3人が派遣されることになりました。
その結果、慶應の小幡先輩、拓大の中山先輩、早大の野口先輩達が、講道館で実
学生連盟が結成されましたので、会長を選ぶことになりました。
10
23
に早大の大浜総長にご就任をお願いしたいから、お願いしてもらいたいと要望され
36
双方の間には、色々なことがありましたが、終戦後から、学生空手道連盟発足の
頃までの主なことについて申し述べます。
昭和 年~ 年にアメリカの空軍が、当時の朝鮮戦争の経験から、日本の柔道、
空手道及び合気道について、その実技を兵隊に是非教える必要ありとの考えで、正
昭和 年4月 日、早慶の組手の試合を、慶大柔道場で開催、慶大の望月先輩に
審判を担当していただきました。
慶應義塾大学の空手部とわが早稲田大学の空手部は昭和の始め頃から、富名腰
14
義珍先生のご指導を中心として、現役並びにOBの間で親密な間柄でありました。
12
前記諸先輩や各大学のOBの方々の真剣な語らいの結果、学生空手道連盟が誕生
しました。
34
35
11
技指導をすることになりました。
式に講道館を通じて指導を依頼してきました。
26
特に、関東では、拓大の福井先輩、慶大小幡先輩に、伊東、高木の諸先輩が最も
寄稿 早慶空手交換稽古期
13
25
28
が全くの初心者で、先づ私が突きますと、手が完全に止ったところを上段内受けで
も判ったのか済まな相な顔をして、その後はタイミングが合いませんでしたが無事
慶應義塾大学 一九四八(昭和二三)年卒 加瀬 守
(空手部五十年史)だそうですが、私
第一回の交換稽古は昭和九年五月十九日、
は当時普通部二年幼年組の子供でしたからこの交換稽古の事は全く知りません。や
て 鼻 血 が 少 し 出 た の で し ょ う。
「なにを・・」と言って下がる相手を追いかけて行
記憶に残っているのは三田の柔道場でした。当時はすぐフリーや一本組み手では
なく、必ず三本組み手でした。早稲田の人に押されて、
たしか顔面に先方の拳が入っ
年の秋で、偶々外出されてお出でになったのでしょう。
18
早稲田の昔の体育館での交換稽古は一緒についていって見学した記憶がありま
14
寄稿 早慶空手交換稽古期
大の高木先輩は、特に熱心に尽力されました。
二の腕の内側を思いきりたたかれてビックリしました。私は当時四級くらいになっ
終了しました。おかげで上腕内側に一週間ほど青アザが残りました。其の後お付き
て居ましたから手が止ってから受けるとはルール違反だと思わず苦笑いしたら相手
学生連盟発足以来、様々な諸問題を処理し統制し発展継続させるには、各大学の
高木先輩は、その後、全日本空手道連盟の理事長として活躍されました事は周知
の通りであります。
OBの方、特にその中で、慶大の吉村慶三先輩、吉和田哲雄先輩、和田定治先輩の
合をする様になった渡辺さんや、細川さんとはお手合わせしませんでした。
改めて、謹んで心より敬意をあらわします。
思い出
今の形ちに進化していったのだと思います。私の思い出は以上です。
何しろ古 い事で私の覚えて居 るのは以上につきま す。其の外拓大と交換 稽古を
やった事は覚えていますが次第に自由組手に移行して、戦争をはさんで、だんだん
地道なご努力があったればこそ、と感謝致しております。
今年も慶早定期戦を開催されることと思いますが、武道としての学生空手道の本
質を求めるものであって欲しいと考えます。
勝負は、シーソーゲームであってよいと思います。
茲に重ねて、慶應義塾大学の空手部の素晴らしい伝統に対して、謹んで感謝と敬
意を表します。
朦朧とした交換稽古の思い出
空手部に正式に入部したのは昭和 年(1942年)4月ですから、私が交換稽
古に出たのはおそらく翌年の昭和 年(1943年)だと思います。初めて東京が
はり五十年史に昭和十三年に、予科交換稽古をやったと、出て居りますから私は当
こうとしたのですが、観戦していた5年上の菅真之さんに止められてやめたことを
慶應義塾大学 一九四二(昭和一七)年卒 菅 真之
時予科二年(今の高校三年)でしたから、
出場したのは此の時であったと思います。
覚えています。菅さんはたしか徴兵短縮で昭和 年(1943年)9月のご卒業で
空襲されたり、南方戦線ではガダルカナル撤退が行われた頃でしょう。
何しろ七十年以上も前の話ですから、其の時の光景がなんとなく瞼に浮びます。先
すから、あの時は昭和
17
18
輩から三本組手型を正しくやる様にと固く注意されていました。早稲田の道場で予
科生だけの(早稲田は高等学院)交換稽古が初めて行われました。私の最初の相手
18
冬の寒い夜、型を教わるため、三田道場にお伺いした。私だけ一時間以上、早く
着いて了ったが、矢張り早く来られた慶應先輩の方が、「寒いから、五本組手でも
す。今考えるとその年は春と秋の2回あったのではないかと思いますが、その時分
の記憶は全く失っており定かではありません。
いて下さり、「君は元気が良いね。
」とお誉め下さった。
あとで、伊藤(俊)先輩と教えられた。
最終学年の春、三人しか居なかった黒帯の一人が突然引退、部は瑞境期に入った。
だが、中堅・中古・新人が頑張り、次の代を築いて呉れた。
小竹さんは、まだ復員されていなかった。
加藤さん(慶)、高橋さん(拓)、藤本さん(同)の各流型演武は、今も心に残る。
早稲田からは、原田(志岐)の燕飛、鎌田(博)と私で一本組手を見ていただいた。
柔)、大専(糸東、現近代)の諸君も参加して呉れた。
よる歓迎演武会が催された。他流の明大・日大 和
( 道 、丁
) 度、東京遠征中の同大(剛
一九四七年秋、矢張り早大道場で、九州からご帰京の義珍大先生の、学生だけに
やりましょう。」と仰ったので無我夢中で突っ掛って行った。狭い道場、上手に捌
早稲田での交換稽古は当時日吉・大学予科3年の責任者だった村田和夫さんに引
き連れて行かれたと思います。そう考えると当時は旧制大学予科の稽古だったのか
も知れません。亡くなった中尾さん、武川さん、戦死した石田さんなどの姿が目に
浮かびます。
慶應の方々
早稲田大学 一九四九(昭和二四)年卒 川口 史郎
た予科・専門部生に後ろめたい思いがした。
学生スポーツの原点は、対校戦にあると信ずる。歴史と伝統ある慶應義塾大学を
ライバルと呼ばせていただける早稲田は幸せだ。
卆業后も、慶應の方との多くの出会いがあった。
予科・専門部戦だけは、継続して行われた。三田柔道場での后、学部生だけ落第
あらゆる武道が禁止されていた敗戦の翌年、慶應・早稲田両空手部が、逸早く正
横丁とかで、トンカツとカストリをご馳走になり、流石は慶應と思う一面、奮闘し
規稽古に戻れたことは幸せだった。
手教室が開放された。
主席師範、細川・加島・渡辺・川口ら早稲田勢を、その他大勢の師範とする毎日空
神戸では、細川(隆)の提案で、坂本元兵庫県知事を校長、菅野さん(小沢、法、
后に協会副会長、九段)を最高師範、樫本さん(現協会兵庫県本部会長、八段)を
ある時、五本組手をお願いしたが、一本目、どうしても足が出なかった。人間の
格というものか知れない。
させていただいている。
た。私の最も尊敬申し上げる方のお一人であり、戴いたお手紙は、今も大切に保存
名古屋では、中部電力の粂井さん。松涛系大学強化のために作られた名古屋空手
クラブの中心として、名古屋工大・南山大らの学生を我が児のように愛して下さっ
その年の秋、交換稽古復活が話題になり、前哨戦として早大道場で、予科・専門
部戦を行った。慶應は瀬戸主将、早稲田は山口(文)だった。
組手は総当たり五本組手だったが、いつの間にか自由組手に変化、著しくエキサ
イトする者は自校の学部生が制することになっていた。
当時、慶應はスポーツ刈り、早稲田は長髪に鉢巻きだったので、乱戦中、鉢巻き
の有無で彼我を識別した。
学部間で、より穏やかな合同稽古ということになり、矢張り早大道場に来ていた
だいたが、何故か、一回切りで立ち消えになった。
慶應は加藤主将、早稲田は原田(志岐)だった。
寄稿 早慶空手交換稽古期
15
「今でも慶應の稽古衣
神戸在勤中で、折にふれ出て下さる望月さんに、ある時、
を見ると、カッとなる。
」と口走って了った。それが、日経新聞、清家部長先生(現
塾長)のコラム欄では、
「むらむらと闘志が湧き頭に血が上る―。
」となった。
今、お世話になっている神戸筑紫が丘道場に美希・亜耶の双子姉妹がおり、協会
全国大会・世界大会で活躍していた。亜耶はサッカーに転じたが、美希は慶應の主
要部員に成長、早慶定期戦では慶應側の確実なポイントゲッターとして出場、複雑
な思いで見守るより仕方がなかった。卆業后、協会全国大会・一般女子型の部で、
多くの専門家(指導員、研修生)に混じり、去年・今年、連続して三位に入賞して
いる。筑紫が丘道場で型を見せてもらったが、気品さえ感じられた。
京都では、安東さんにお世話いただき、大先生の型ご演武のビデオ・テープを戴
いた。
最高指揮官として京都府福知山から救援出動して下さった由。
得た。戦時中の師団長閣下をイメージし緊張したが磊落な方で、阪神大震災の折、
この方のお引き合わせ、武田さん(防大、陸将補)と仰る方にお会いする機会を
ご訪問の天皇・皇后両陛下より、二度に渡り、空手指導に付、お言葉を賜った。
マレーシアに、名古屋空手クラブの仲間、土生さんという方が居られる。歴代首
相のご信頼篤く、現地の青少年育成、植林事業に生涯を賭けておられ、マレーシア
気弱な小生であったが、なんとか続けて練習する内に先輩方が次々に復員してこ
られました。
恐ろしい姿であった。
大きなサンドバッグを物凄い勢いとスピードでガンガン蹴っている姿は、今でも空
と、身体のあまり大きくない先輩で加藤良二さん(勿論後で名前をお聞きした)が
場所は三田綱町の運動場の隅にあった小さな汚い道場であったが、恐る恐る入る
間になりたいと強く感じ、空手部を選んだのであった。
いた時代で、身体もあまり大きくなく非力であった私は、学問だけではなく強い人
稽古を見させていただきましたが、それはとても紳士的などとは程遠い、乱暴であ
り、唯唯吃驚し、恐ろしさで一杯でした。
16
寄稿 早慶空手交換稽古期
えられないでしょうか。
学連ルールを否定する訳ではありませんが、慶應空手・早稲田空手の面影を
残すため。ラグビー・フットボールがラグビー大学で発生したように。
早慶空手定期戦以前の交換稽古の思い出
慶應義塾大学 一九五一(昭和二六)年卒 岩本 明義
年 4 月 に 大 学 予 科 に 入 学 し、 近 所 に 居 た 友 人 の 関 口 明 君 と 空 手
奈藏君との、同学年生同士としての感情を大切にされているとお聞きし、奈藏君
当時は今の様な競技ルールも出来上がっておらず、空手に先手なしとか、空手は
部の門をたたき入部した。 未だ戦後間もない時であったので、食べるのにも事欠
小生戦後昭和
の爽やかだった学生時代が話題になった。
必ず寸止めが原則であるなどと教えられておりました。
そのうち昭和 年卒の鈴木四郎、武波紳一郎、中須淳夫、外川清、香川雅一さん
等各先輩に連れられて、早稲田大学をはじめ明治大学や立命館大学の方々との交換
斉藤・内藤両君の復活第一回定期戦より、殆ど欠かさず出席している。
(一) 誰が、なんと言おうと、慶應の型は変えないで下さい。
(二) 早慶組手ルールの様なものを作り、早慶OBが審判する。こんな定期戦は考
追記。―以下、寝言混じりの老人のたわ言とお聞き流し下さい。
残り少ない人生、あと、どの様な出合いがあるのだろうか。楽しみだ。
関西ご在住の小竹さんには、まだ、お会いできていない。
20
22
昭和 年卒の加藤良二、加瀬守、鈴木一成の諸先輩の頃には、それまでの交換試
合ではなく、当時早稲田大学のキャプテンは川口史郎先輩であったとお聞きしてお
りますが、先ず型を双方でやり、乱取りを行って、一本組み手(茶帯、白帯は三本
組み手)
、試し割等を演武した。私共にとって少しは紳士的なところも感じられま
年~
年頃までは早慶とも復員なさった方々が多いので、私共のような戦
したが、やはり相当に乱暴な交換稽古でした。
昭和
たと今は推察しております。
24
23
年は亀井信一、仲井正夫先輩
そしてこの様な出来事を契機として現在の試合制度が確立され、早慶空手定期戦
が 周年を迎えることが出来ましたことは誠に光栄であり、心より祝し、ご関係の
日本から訪ねて来てくれる空手家に、試合制度は、我々が始めたんですよと言う
早稲田大学 一九五三(昭和二八)年卒 大島 劼
方で、私や関口明、菅井嘉郎君達も参加して、早稲田大学体育館で行われました。
うことにしている。そこには、こう書いてある。
と、私を斜に見る人が多い。
ことを思い出しました。
「(前略)昭和二十七年秋、三田綱町道場に早大・大島主将、小森副将以下幹部が突
如訪問され“今日までの慶早の交換稽古は、全く礼節に欠けるものであり、武道の
特に私にとって思い出が深いのは、昭和
年まで大学監督を拝命し、昭和
年の第二回同選手権大会に続けて
32
年4月
日に三田で行われ、小生は監督、斎藤紘二君がキャプテンとし
また早稲田との交換稽古が今日の試合制度を取り入れ第一回の早慶空手定期戦と
して昭和
23
両校共に初の経験であり、大変な緊張の中での記憶に残る熱戦であった。これが
拓大の先輩方にお願いした。
その判断と意思決定は、全て当時の山本主将以下現役部員だけで行った。当時は
監督もいなかったのである。試合の審判は中山氏(正敏)福井氏(功)以下、全て
的に受け入れたのだった。
当時の空手界は、まだお互いに片意地をはった狭い根性も残っていたが、慶應は
この申し入れを即座に了承し、しかも早大の作った試合形式を手直しなどせず全面
か”と。
多い。ついては、早稲田で新しい試合の形式を考えたので、これでやってみません
先輩は、本当に重戦車の様な方で、巧いとか形が良いとか関係なく、唯唯物凄く強
私は永く空手を続けたお陰で、昭和 年から
年の第一回全日本学生空手道選手権大会、昭和
33 37
準優勝することが出来ましたことは、本当に幸せなことでした。
30
裏話ではありますが、交換稽古の前夜は興奮して眠れず、当日は水杯を交わして、
皆試合に出たそうですし、私共も多分にその影響を受け必死でした。
に焼き付いています。
恥であり、両校がこのまま続けてゆくべきでものではなないと思う。怪我も余りに
年前期に遅く復員していらした小竹靖
なお小生の記憶が正しければ、
早稲田には同期に鎌田さん、
桜井さんが居られて、「神
忘れられた第一回戦
皆様に厚く感謝する次第です。
50
そういう時は、“慶應義塾體体育會・空手部七十五年史(P.243)”を見てもら
25
い! その力溢れる稽古風景と他校との交換稽古における姿はずば抜けて強く、目
23
風」と「桜吹雪」の鉢巻きをしていて、双方あまり拳を止めず、血だらけになった
プテンで、早稲田大学体育館で行われました。昭和
また交換稽古が行われた場所については、昭和 年は早稲田、 年は三田綱町の
剣道場等で、双方が交代に提供して行っていました。昭和 年、当方は瀬戸治キャ
22
場を体験しない者にとっては、空手に対する意味合いも、心の中も違うものがあっ
23
て参加し、勝利を収めたことも嬉しいことでした。
寄稿 早慶空手交換稽古期
17
23
21
35
18
寄稿 早慶空手交換稽古期
慶早両校の信頼と友情、早稲田のパイオニア精神によって生まれた世界最初の空手
同期の小森章二 後
( の副将 な
) どは「それじゃあ突きが入りますよ」と言い放つ
ところが始めてみると、何故か怖さが感じられない。おかげですっかり調子づい
た。
年、
場面もあり、なんとも奇妙な顛末となった。(名誉のために名を伏せるが、その大
年 に あ っ た と 聞 く。 戦 後 は 昭 和
学は一流校、空手のレベルも上位とみられている)
早慶交換稽古の歴史といえば、戦前昭和
原田五十郎主将の時に早大道場で行われた。当日参加した鎌田正善先輩によると、
「当てるな。しかし当たったら気にするな」のようなわけのわからぬ注意を与えら
れたそうだ。
エピソードをひとつ。昭和二十四年、中央大学との交換稽古。
いつも実戦的な新田博之先輩が、次々と当てて騒ぎとなった。すると渡部俊夫先
輩が、OBの責任を感じられ、新田さんに「構えろ」と命じ「バシッ」と上段突き
の制裁拳を加えられた。新田さんは鼻血を出し、涙ボロボロ流して落着。
(早大空
昭和二十六年、道場に初めてサンドバッグがお目見えした。食料事情も少し好転
し、納会にビールが出た。その頃船越大先生が指導にこられると、堺マネージャー
手部の歴史では、この新田さんは純粋な求道者として忘れられない存在である)
戦後、早大空手部が復活してから三年目の昭和二十三年入部。食糧難で、パンの
配給券がまだ存在し、巷で口に入るものは、
“壺焼き芋”位のもの。
われたそうだ、コメの飯の方が値打ちのある時代の話だ。
そして秋、山宮主将のもと、関西大学と交換稽古をする。ところがエキサイトし
て部員間で衝突し、途中で中止の憂き目をみる。
これらの苦い経験を踏まえ、きちんとしたルール作りを求める気運が生じてきた。
ことが決定。ここで紳士的で謙虚な姿勢が守られた。
したという噂を聞いた)こうした本気の技術交流のおかげで、一挙に新密度が増し、
内容は型、組手の交流であったが、一拳必殺の極みを求める早稲田に対して、華
麗な技の慶應は、想像以上に手強かった。ぼんぼんと思っていたら実戦的な鋭い切
昭和二十七年、早大大島主将、慶應山本主将の時は、試合形式の交換稽古を行う
だが厳しいが友情ただよう部室は、当時の学生にとってオアシスであった。魅力
的で個性豊かな仲間がそこにいた。
れ技を連発した。(真偽は知らないが試合の直前、夜の銀座でヤクザと交換稽古を
員白帯。
稽古が終り、
ホッとしたところへ、
突然某大学の方々が訪ねてきた。
秋のある夕方、
急な話だし、新人しか残っていないのに、交換稽古をお願いしたいという。始め
は辞退したのだが、五本組手をやることになった。向うは黒帯ばかり、こちらは全
毎日。
我々は教室の授業には全く寄り付かず、空手部の道場とアルバイト先を往復する
容赦ない基本稽古でふるいにかけられ、夏の佐渡合宿を終えた頃は5分の1ほど
に減少。代表委員は鎌田博、渋谷松男両先輩である。
が 天 ぷ ら そ ば に ご 案 内 し て い る。
「慶應では天丼ですよ」と笑いながらポツリとい
早稲田大学 一九五三(昭和二八)年卒 魚津 欣司
22
の試合であり、文字通り、試合時代の幕開けとなった。
(後略)
」
34
その頃入部した新人がなんと120名。
15
以上は、刎頸の交わりの友、尊敬してやまない望月康彦兄(元三田空手会会長)
の文である。
昭和 年から昭和 年まで、早稲田の事情で中絶したのを、復活してくれた昭和
年の両校の主将に厚く御礼申し上げる。
28
交換稽古の思い出
35
個人のニックネームまで耳にする間柄となった。
私などは山本主将と意気投合し、好きな浅草で落ち合って共に歩いたりする仲と
なった。
卒業後も京橋の中将湯ビルで慶應のOBの稽古があると聞くと迷わず参加した。
思えば我々が卒業を控えた昭和二十七年度は交換稽古の当り年。関東はもとより、
関西各大学の空手部とも片端から手合せをした。
和道流、剛柔流、糸東流といった他流派と試合したことは、貴重な経験となった。
空手に対する世間の目もようやく開かれ、外部から出張演武の依頼を受けるよう
にもなる。
空手早慶戦の思い出
慶應義塾大学 一九五五(昭和三〇)年卒 真下 欽一
私は昭和 年の入部ですから 回想は試合開始以前の事から始まります。入部し
た時の同期部員には慶應高校からの経験者で 原英二 故
( 人旧姓加藤 鈴
) 木博雄 二
年下に山本浩史 故
(人 と
) いう経験者が居て 十名強の優秀な新入部員以外に 怖い
競争相手に恵まれました。半世紀も前のことですから かなり記憶も怪しいことを
お許しいただいての回想です。
私事で恐縮ながら、
それらの御縁で就職に際しては小幡先輩の御推薦をいただき、
某社に入社したり、以後も伊藤俊太郎先輩の御支援を賜るなど、まるで母校の先輩
られ、その場で慶應の小幡功先輩から演技のご指示を仰いだこともある。
の催事に借り出され型や組手を披露。その際、会場には慶應、拓大の大先輩方もお
意の部類ではありませんでした 勢
) い が あ り 評 判 の 良 い 部 で あ り ま し た。 社 会 科
部2年の時既に
の直弟子の一人で松涛館本部道場では夜稽古の師範代だった方でした。2年生で創
高校出身で クラス担任で英語の先生だった空手部長の荻野師範に 空手の手ほどき
れ て い た の で 違 い ま す よ と 説 明 す る の に 苦 労 し た 時 代 で し た。 私 は 群 馬 県 立 館 林
当時世間では空手という武術を知らない人が多く「手とか足で瓦を何十枚も割る
術」「4本指を胸に差し込んで肋骨を掴み取る技」「天丼板を蹴破る術」等と理解さ
のような愛情を受けた。まるで身内のような意識があった。
担任で和道流の有段者 国語担任で遠山師範のお弟子さん 英語担任で催眠術熟達者
仲間の遠藤修平(前期副将)とコンビで、国鉄、自衛隊、警察といった公的機関
元はといえば、船越義珍大先生が、各大学の交換稽古を強く奨励された由来があ
るが、特に慶應、早稲田に於いては因縁が深く、真摯な交わりがもたらした経過が
且つ琉球拳法経験者の先生等4人の空手経験者がおられた学校でした。偶々2年に
年も経つてから知つたのですが 船越義豪師範
大きい。
成ったばかりの時荻野師範に大学受験を強く勧められ 無理ですとお断りしました
人前後の部員がいて 優等生も何人かいたし 私
( は学業の方は得
を受けました。荻野師範は卒業後
今、この場を借りて、厚く、万感を込めて感謝申し上げたい。
20
で嬉しかったです。
ております。高校の時と同じで 礼儀は守りますが差別なく仲間扱いして頂いたの
声で主将が先立って雑巾掛けしたのには驚き 良い部に入ったなと喜んだ事を覚え
」の掛け
入部第一日目の稽古は 加藤英三主将の「さあ みんなで掃除しようぜ。
に 大学の空手部に入部という 経緯がありました。
が 父母ぐるみ説得されてしまい その気になって きつい受験勉強をさせられた挙句
30
交 歓 稽 古 と は 非 常 に 名 が 体 を 表 さ な い 事 甚 だ し い 乱 暴 な 内 容 で あ り ま し た。 試
合は出来ないもの やつてはいけないもの と厳しく教えられている時代でありまし
寄稿 早慶空手交換稽古期
19
26
時過ぎの繁華街で実験する人は結構居ました。偶々幾つかの大学空手部
たら今度は監督をやれで 又引き受けてしまいました。学連の審判もかなりお手伝
いしており 開始当時は試合のルール決めにも結構口を出して参りました。
強い要請を出して来ました。調査を受けた数校のOB団の中に慶應も入っておりま
ると勝てるかもと思います。そこで本番の少し前に小野さんにこうやって見ようか
相手になりそうな選手を眺めていると 特徴が見えますのでああこの人にはこうや
20
寄稿 早慶空手交換稽古期
た。しかし誰でも少し経験すると 腕試しはしたくなるのが人情でしたから仲間の
何人かは
した。対応に当った昭和初期卒業のOB団は苦心の末「空手という武術の中で ス
と 伝 え ま す と 実 に 正 直 に 実 行 し て く れ ま す。 元 々 ア ド バ イ ス は 不 要 だ っ た の か も
昭和三十年代四十年代の慶應は学連の中では強豪の部類に入っておりました関係
から二度程東日本大会で優勝して 東西対抗の団体戦で東軍の総監督をやった事が
ポーツ的な部分を取り出して試合をするのだ。
」と気持ちを整理して大学の学生連
知れませんが 結果オーライで優勝してくれました。別の時は中川さんが健闘して
そのものは良いもの優れたものであるが 指導の仕方によって事件が発生したのだ
盟で試合が始まりました。ユネスコの見解によるスポーツの特徴は「身体活動 挑
いましたので 同じ様に申し出るとやはり「お願いします。」でお手伝いしました。
ありました。二回とも東軍が勝っていますが 午後の個人選手権では慶應勢は5回
戦や競争 安全で教育効果あリ ルールを守る 楽しむ」要素を含むものだ と公認コー
結果は3位で先ず先ず出しゃばリコーチとしては 及第点を頂けるのかなと思って
との判定でした。船越師範が初めから暴力沙汰に利用されるのを恐れて 大学での
チの勉強で教わりました。出発点だった武術や殺し合いの現場では「楽しむ ルー
おります。ロサンゼルスでジックリ腰を据えてご指導なさつている 早稲田の大島
戦位で全員が負けております。ふと見ると早稲田の小野さんが健闘しておりますの
ルを守る」は関係なしで「相手を素早く倒せば良い 戦意を失わせればよい 自分の
先輩は偉いです。我々は対外的には慶應も早稲田も無い同じ松涛館の仲間です。限
普及に力を尽くされたのに 事が思わない方向に進み始めました。文部省は「流派
命を守れば良い」が大切という事になります。出発点である武術的な部分を出来る
界はあるものの伝統ある両校が 時には力を合わせ 時にはお互いに刺激し合って O
に 母 校 の コ ー チ 監 督 は 一 人 も 応 援 に 見 え て い な か つ た み た い で し た。 お 手 伝 い し
だけ残してという事でスポーツ空手の試合が始まりました。しかし数十年経つと外
B方が全日本空手道連盟の資格をドンドン取り 先導者らしく世界の空手界でも 存
がたくさんあり夫々自己主張が強すぎる、若し試合を始めて日本選手権者を決めれ
国に普及し 白人達の多数決が慣例になるに従い段々と 彼らのペースに巻き込まれ
在感を高めて共栄発展する事が望ましいと今でも思い込んでいます。
ようかとオッチョコチョイの私が申し出ますと「お願いします。」との返事でした。
る様になりました。試合を始めた時には思つてもいなかった様な方向に進み ゲー
発展を祈念して回想文を締めくくります。
両校今後ますますの
えたのが運の尽きだったみたいです。以後9年間コーチとして現役のお手伝いをし
度試合が始まるのでお前コーチをやってくれ。
」と 同年の鈴木に頼まれてウンと答
さて私は卒業後大阪のねじ問屋で2年弱の丁稚奉公の後 帰京すると間もなく「今
まいました。
相乗作用によって 試合が始まった当時の方向から外れた方向に進む事になってし
範技を演じ 英語で発信出来て 哲学を持つ人 が日本代表の中に居なくなりました。
受けたのか日本の空手界も やや空手業界的になりました。空手をよく知り 自ら模
ム的になり観客に判り易い等の観点からルールが改悪されております。その影響を
ば空手界は一つにならざるを得ない。何が何でも試合制度を確立してくれ。」との
や同好会で殺人を含む事件が発生し 当時の文部省が調査を始めました。結果空手
22
好敵早稲田との試合叶わず
慶應義塾大学 一九五九(昭和三四)年卒 小別当 昌己
数年前のことを正確に思い出すことはむずかしい。断片的な記憶を辿りながら
当時のことを綴ってみようと思う。
「早慶空手交換稽古」に参加したのは、高1で入部間もない白帯のころ、三田綱
町の柔道場に早稲田が遠征してきて行われた。白帯は3本組手だった。きめ手は当
ててはいけないが、3本で追いこんでいかに突き手を当てるかと、同期の池田や吉
和田や笊畑と研究した。当然早稲田側もそうだから3本組手が始まると列が乱れあ
ちこちで殴り合いが始まる。慶應山本一郎主将と早稲田の大島主将がおおわらわで
止めにはいる。
このような無秩序な交換稽古の反省に立って、早稲田から「試合制度の実施案」
が提案され、慶應も積極的に賛同、両校の先輩方の了解を得て、我が国で初めて一
定のルールにもとづく空手の試合が早慶の学生によって行われた。この経緯は推進
の中心人物であった望月康彦先輩が詳細に書き残されている。
このような経過からそれ以降の早慶交換稽古は行われなかったと記憶している。
「早慶学生による空手の試合」の実施をきっかけに試合制度確立の機運が高まり、
各大学先輩方による長期にわたる準備期間を経て、S 年の「全日本学生空手道連
年であるから、私の
35
選手時代ただの一度も早稲田との接触はなかった。
「好敵早稲田との試合叶わず」
があったと聞いている。第1回空手早慶戦が行われたのがS
しかし、いまだに理解できないのは、試合制度推進の中心であった早稲田がその
後何年間か、連盟にも入らず試合にも参加しなかった。空手に対する考え方の違い
盟」の設立、第1回「全日本学生選手権試合」の実施へと発展した。
32
卒の同期であることを知った。試合で相まみえる
数年がたち望月会長のあとを受けて三田空手会の会長に就くと、早稲
誠に残念であった。
あれから
田の会長は三上豊氏であり同じ
34
40
ことは叶わなかったが。空手早慶戦や松濤同門会ではお互い親密に交流を深めこと
ができた。特に早慶空手OBゴルフ大会では同伴競技者として大いに技を競い合っ
たが、お互い自慢できるようなスコアではなくめでたく引き分けとなった。このよ
うな関係が永くつづくことを願う次第である。
寄稿 早慶空手定期戦
21
50
寄稿 早慶空手定期戦
早稲田大学 一九六 一(昭和三六)年卒 内藤 武宣
第一回と第二回早慶戦
早慶空手定期戦の 周年を心よりお慶び申し上げます。
昭和 年(1960)春、第一回早慶戦が開催された。
実はそれより8年前(1952)早慶が中心となって審判付きの自由組手が始ま
50
しかしながら昭和 年(1959)後半ごろから早慶両空手部の交流の気運が高
まり、私たち幹部は、渋谷松男監督(当時)のご指導のもと何度も話し合い、当時
ほとんどない状態が続いていた。
その間、慶大、拓大などは学連試合をし、早大、中大などは試合はしないで松涛
館各関東大学合同稽古などを毎年続けていた。したがって、
早慶両空手部の交流は、
り、今日の学連試合制度の布石は打たれていた。
35
昭和
年(1960)2月、早大空手部の主将になった私は、新学期が始まるの
許可をいただいた。
の陣内早大部長や萩原稲門空手会会長を訪ねて「早慶との交歓稽古復活」について
34
年(1960)4月
日、
慶大三田の柔道場で催された。
23
● 初めての早慶戦
昭和
初めての早慶戦は、
35
どを大切にしながら、お互いが切磋琢磨しようと言うことで一致した。
両主将の話し合いによって、年2回(春・秋)の「定期早慶交歓稽古」をするこ
とが決まった。内容は、
「自由組手(試合)
」と同時に「基本」
「型」「基本組手」な
部の斉藤紘二主将とはじめて会った。
を待って、上林弘孝コーチとともに東京、三田の慶大体育会本部を訪ね、慶大空手
35
第 1 回 早慶空手定期戦 昭和 35 年(1960 年)4 月 23 日 (三田)
22
寄稿 早慶空手定期戦
当時は、慶大空手部の道場が手狭だったので、もっと広い柔道場を借用されたこ
とを知った。
両校は、交互に「基本稽古」「五本組手」「個人型」 などを演武した。 当時の日誌
によると、
個人型は、
早大「観空」
( 内藤武宣主将 )
「 慈恩 」
(笠尾恭二副将)
「 抜塞 」
(本
名ずつで行った。早大は学連の試合制
多定晴中堅―3年部員)
、
慶大「ローハイ」
(斉藤紘二主将)など3つの型が抜露された。
続いて、試合制度による自由組手を早慶
度については未経験だったので、まず慶大からその方法を学ぶという感じが強かっ
た。主審は慶大OBの望月康彦先輩にお願いした。
結局は早大2―8慶大となり、早大の負けだったが、張りつめた緊張感と内容の
ある戦いが多く、早慶交流の成功を確信した。
この当時の正式な記録が残っていないのは残念だが、初めての早慶戦は、私たちにとっ
て学ぶべき点が多かった。(「早慶空手定期戦」 を冠したのは、それより後のことです)
● 第2回早慶戦
年
(1960) 月
来て心強かった。
日、
第2回秋季早慶空手定期戦が早大道場で行われた。
かった。しかし、わずか半年の間に試合の実力の差が急速に縮まったことが実感出
選手たちは緊迫した試合を続けたが、結果は早大4―5慶大となり、一歩及ばな
15
私自身も大将戦で、春は斉藤主将に敗れたが、秋には雪辱することができて、現
役時代の良い思い出となっている。
第 2 回 早慶空手定期戦 昭和 35 年(1960 年)11 月 23 日 (早稲田)
10
それから秋の早慶戦まで7ヶ月、早大も試合形式をとり込んで、練習を続けたこ
とは言うまでもない。
昭和
23
「基本稽古」「五本組み手」「個人型」
、
そして
「試合」
は、
両校 名ずつが戦っ
この時も
た。
(主審は、早大OB渡部俊夫先輩と慶大OBの高木房次郎先輩)
11
早慶戦が両校の友情や技術の向上に果たした役割は計り知れない。今後も原点を
大切にして、さらに内容を充実させながら早慶両校の交流が継続することを祈って
おります。
寄稿 早慶空手定期戦
23
35
24
寄稿 早慶空手定期戦
空手早慶戦の思い出
慶應義塾大学 一九六九(昭和四四)年卒 奈藏 稔久
「早慶戦」に対する両校、両部員の思いには特別なものがありますが、とりわけ
高田馬場育ちの私にとっては空手対抗戦以上の思い入れがあります。私が幼児期か
ら高校初めまで過ごした自宅は高田馬場。名だたる早稲田の地元です。隣近所、米
屋や八百屋、魚屋(いまや死語に近くなりましたが)もすべて早稲田一色、慶應幼
年 4 月 と い え ば、
稚舎入学以前に意味もわからず「都の西北」を歌える子供でした。
復活第一回早慶戦(と当時は銘打っていたはずです)
、昭和
私が慶應普通部の2年生になったばかりのことです。
局塾に勝利をもたらしたと記憶しますが正式記録と照らしていかがでしょうか。
面などが印象として残っています。大将戦で塾の斎藤主将が中段蹴りを決めて、結
せんが、早稲田部員の大きな拳と床を踏みしめる逞しい足脚、両校部員の蒼白な顔
子供のことですから演武、試合の内容などもちろんわからず、正確な記憶もありま
得ないと思ってはいましたが、このときばかりは本当に動揺しました。
聞けば田町駅からの行進とのこと。塾空手部の歴史と実力については子供ながら
聞かされ、稽古でその様を見ていましたので、塾の先輩達が遅れをとることはあり
です。
確か二列縦隊、まなじりを決した恐ろしい面持ちをした人達が威風堂々現れたの
すると早稲田の到着です。いやこれほどびっくりしたことはありません。
とはいえ空手の対抗試合をまじかに見るのはもちろん初めて、試合会場の三田旧
柔道場前で早稲田を出迎える塾部員の後ろに緊張で小さくなって隠れていました。
した。
心に定まっており、何ともいえぬ親しみとライバル意識を極めて自然に持っていま
育った馬場の環境、野球の早慶戦応援などを通じて早稲田に対するイメージは子供
従兄が法政大学空手部、兄が普通部、高校と空手を続けていた関係で普通部入学
と同時にあたりまえのように空手部に入部、なんとか1年が経った頃のことです。
35
第 10 回 早慶空手定期戦 昭和 39 年(1970 年)11 月 1 日 (早稲田)
年(1963年)であったと記憶します。高
時は経ち、高校、大学に進むにつれ自らがこの伝統ある戦いの中に一員として加
わることになりました。それまで一本組手までであった高校対抗に自由組手試合が
導入されたのが高校二年の時、昭和
体連試合制度導入のはるか以前、しかもここでいう早慶戦ではなく、塾高日吉祭の
一環として学院を招いての高校対抗戦として始めたものです。
高校時代初めてお会いした学院の小野泰規先輩、傑出した技量と並はずれた稽古
量で常に塾と一学年下の私の前に巌のように立ちはだかった方です。学生全日本選
手権を獲得、卒業後も全身全霊を賭けて空手の修行に打ち込まれ現在も遥か高みを
目指しておられます。
長い長い早慶戦の歴史のなかで、自らが選手であった当時の思い出といえば、私
は躊躇なくこの小野先輩との出会いを挙げるでしょう。
小野先輩とお会いし、試合場裏で対峙することで、自らの技の未熟を知り、稽古
不足を後悔し、心の弱さを嘆き、そしてある時「自分を捨てることで生きられる」
ということの本当の意味を知ることができたと思っています。
寄稿 早慶空手定期戦
25
早慶空手の一員であった、そして今もその一員であることの幸せです。
集まり散じて選手は変われど仰ぐは同じ空手の理想です。
死力を尽くして闘う両校選手の活躍を期待し、早慶戦のますますの発展を祈念し
つつ私の「早慶戦の思い出」といたします。
第 22 回 早慶空手定期戦 昭和 45 年(1970 年)11 月 3 日 (早稲田)
38
で有名であった。先輩やら家族やらがこの「空手早慶戦」の響きに胸を躍らせたの
は、当然の事であったと思う。又その感慨を 年以上立った今でも思い出すと昂然
とした気分になってくる。
も大きくなく、毎日の練習でへとへとになっていたのである。学校の勉強も自然と
選手を夢見る正に野球少年だったからである。しかし中学生時代の私は、決して体
早稲田大学高等学院に入学した昭和 年春、私は大変迷っていた。それまでの中
学校生活は、軟式野球に明け暮れ、高校も野球の強い学校へ進学し、末はプロ野球
そして慶應と早稲田が、みんなで輪になって両校の校歌を熱唱した。
て型もうまかった。勿論、高校の部は、試合形式の交換稽古では、なかった。
いる。勝ったか負けたか、多分、慶應高校が、強かったと思う。色帯が、何人もい
何がなんだか判らないうちに終わってしまったが、とても清々しかったのを覚えて
26
寄稿 早慶空手定期戦
私の早慶戦
早稲田大学 一九七四(昭和四九)年卒 金子 茂男
おろそかになり母親の心配は、それはそれは大変だったのである。従って高校生に
以前、三田会元会長の望月先輩が、我々のことをつかまえて、早稲田の連中は、
スカートを履いていなくても「大好きだ」、とおっしゃられた。我々も同じ思いで
父の意見でもあり、親孝行(?)の私は、仕方なく野球をあきらめたのである。も
しかしたら立派なプロ野球選手になっていたかもしれないのだが?
いつか、又、胴衣を着て会いましょう。
高校時代から一緒に過ごした、峰岸君、松本君、元気ですか。
附則ですが、我々の大学4年時に於いては、早稲田が春秋と連覇して、高校時代
の借りを返したことを思い出しておりました。
いることを三田会の皆様や慶應義塾の現役空手部員にお伝えしたい。我々も「大好
きだぞ」と。
は、知っている。テレビでもラジオでも早慶戦は、野球やラグビー、サッカーなど
戦」があった。唯一の対外試合だったのである。一年生でも「早慶戦」の名前だけ
いものであった。そんな日課で、唯一、これが近づいてくると燃えるものに「早慶
(週5日)基本、型に明け暮れていたのである。当然、稽古は、単純で面白みのな
含め、組織が、未整備であった。我が高等学院は、そんな試合制度とは無縁に毎日
当時高校の試合制度は、スタートするか、どうかの時期であり高体連への加盟を
生も一本組み手をするくらいであった。
五本組み手だけで2時間みっしりさせられた。試合組み手などは、一切なく、大学
学院の空手の稽古は、5日╱週であった。月、火、木、金、土、の5日で、木曜
日は、大学へ稽古を付けてもらいに行くのが、習慣であった。稽古内容は、基本、型、
くれた。
お金もかからず、経済的と考えたのだと思う。あっさり入部を認め、胴衣を買って
との出会いの瞬間だった。これは、実にうまくいった。両親は、胴衣だけの武道に
ところが、根が運動好きな私が運動部への未練を絶つ事が、出来るわけもなかっ
た。そこで考えたのが、中学時代になかった運動部への入部である。正に「空手」
だった。それ以外は、一切なしという簡単なものだった。勿論、母親の意見は、親
なったときの母親の意見と約束は、野球部だけには、入らないで欲しいというもの
高校一年生での「早慶戦」デビューは、団体型平安初段と五本組み手であった。
40
あー早稲田に入って良かった。この早慶戦に参加出来て良かった。という思いに
耽った瞬間であった。
42
早稲田大学 一九八一(昭和五六)年卒 上坊 勇
早慶戦の事
早慶戦の思い出をという依頼が突然主将の長谷部君からきました。
卒業して 年近く経ちますとさすがに記憶が薄れ、負けはしましたがどんなスコ
アで負けたのかすっかり忘れておりました。
慶應9という大差で慶應の軍門に下っておりま
この文章を書くにあたり空手部のホームページにある戦績一覧で、私が主将を務
めた昭和 年秋の早慶戦(当時から年一回の開催になっておりました。)について
内容を確認しましたが、早稲田4
す。
昭和 年、同期の川越君、小西君、木下君それに私、上坊4名が幹部となりスター
トしたあの一年、よく言われる事でしょうが、良い思い出は1つもなく、辛い思い
出ばかりが頭に浮かぶ一年でした。
負けました。とにかく試合で負け続けました。
春の東日本大会で負け、秋の関東大会でも負け(1回戦で負けましたので、その
年の全日本大会には出場すら叶いませんでした。
)そして早慶戦でも先ほど述べた
ように惨敗いたしました。
従いまして、早慶戦について何か思い出をというこの依頼に対し、私の様な者が
語る資格がはたしてあるのか、疑問に思いながらも筆を進めております。
(まあ見事勝った先輩達の文も掲載されるでしょうから、バランスがとれて良いか
もしれません。
)
何故負け続けたのだろう。
焦り、空回り、準備不足、戦術ミス、今思えば色々あげられるでしょうが全ては
自分の空手に自信が無かった、これに尽きると思います。
試合当日になり今までの構えを急に変え、やや変則の逆構えで上段カウンターだ
主将である私の自信の無さが部員に伝わり、団体戦である早慶戦もあの結 果に
寄稿 早慶空手定期戦
27
|
けを狙っていた、そんな無様な姿が昨日の事のように思い浮かびます。
第 40 回 早慶空手定期戦 昭和 56 年(1981 年)11 月 8 日 (日吉)
30
55
55
多くを学んだ早慶戦
年)
また早大空手部と協議の結果、塾高だけでなく藤沢高、志木高の部員が対抗戦に
の役割を伝えた。
ンバーを起用。試合前のできるだけ早いタイミングで先鋒であることを伝え、上記
かリアピールすることが役割と考える。したがって落ち着いた試合運びができるメ
高校対抗戦の先鋒はその後の試合の流れをつくるのに非常に重要なポジションで
ある。たとえ負けたとしても堂々とふるまい、慶應の戦う姿勢を相手や審判にしっ
るくらいの状況で試合に臨ませた。
合前の稽古では普段以上に身体を動かさせ、普段以上に声を出させ、少し疲労があ
19
28
寄稿 早慶空手定期戦
なったのでしょう。
慶應義塾大学 一九八九(平成元)年卒 斎藤 富士雄
年、
私は現役時代、塾高監督時代、大学監督時代と通算で 年間、早慶戦に関わって
きた。早慶戦を通じて学んだこと、感じたことを中心に列記したいと思う。
● 現役時代個人戦績1勝1敗(昭和
● 塾高監督時代 チーム戦績6勝1敗(平成
を飲みに行く良き仲間であった。
ご覧の通りの駄文になってしまいました。
精神的にまだ幼い高校生は早慶戦の独特の雰囲気にのまれがちである。従って試
年)
お許しください。
年~
んで海外のチームと試合、など頻繁に顔を合わせ、同学年のメンバーはその都度酒
当時の早大空手部とは交流する機会が多く、早慶戦、合同稽古、連合チームを組
とともに、勝負どころで頼りになるのは得意技であるということを改めて感じた。
2回目の早慶戦は4年生の時。副将同志の対戦。前半リードされたが、後半同点
に追いつき、最後は得意技である前蹴りを決めて勝利した。前年の反省を生かせた
は最後まで気を抜いてはいけないという鉄則を学んだ。
最初の早慶戦は3年生の時。相手は4年生。立ち上がり調子良く先制したが、油
断して相手にスキを与えてしまい逆転負け。4年生の意地を感じたとともに、勝負
11
現役諸君には是非稽古を充分積んで、自分の空手に自信を持ち、戦術をたて気合
充分で相手に向かっていって欲しい。そうすれば結果は自ずとついてくると信じて
います。
歳も過ぎてまいりますと、当時は憎い敵だった慶應の同期、主将だった村田君、
副将だった吉原君とも、居酒屋で旧交を温める機会が時々あります。
両 君は心優しい人達ですから、早慶戦の話は遠慮してくれているらしく不思議と
出てきませんが、たぶん彼らは勝ち組ですから、内心鼻高々なのかもしれません。
さて、早慶戦とは私にとっていったいどの様な存在なのでしょうか。
大学の名誉をかけた戦い、負けは許されない戦い、すくなくとも現役時代はそう
思っておりました。
今思いますのは、あの空手に遮二無二取り組んでいた時代、漠然とした不安のな
かでもがいていた時代、それでも、自分自身と向き合っていた時代、それらを思い
出させてくれるかけがえのないもの、それが早慶戦ではないのでしょうか。
早稲田、慶應の先輩、現役諸氏の皆さんも私の様に思っていてくださると信じて
おります。
63
13
依頼があった時、後輩の為に何か参考になればと不遜な考えで筆をとりましたが
62
50
参加できることになった。
「オール慶應」で戦えることになり、そのメンバーが後
年・
年)
に大学でも空手を継続するという良い流れに繋がったと思う。
● 大学監督時代 チーム戦績1勝1敗(平成
21
試合開始してすぐ左前手の上段突きを2本、2 0とリードしたが、逆転負けで
あった。上原君の粘り、そして中段突きに完敗であった。しかも、彼はその試合で
眼底骨折をしていたにもかかわらず。
上原君をはじめ慶應、法政、明治の友好校の同期とはいまでも年に数回集まって
親睦をはかっている。早慶戦の話になると、悔しさからつい酒が進んでしまう。悪
には特別な高揚感を味わつたことが思い出される。勝利して歌う「若き血」は格別
いずれの時も、学校を代表して早慶戦の舞台に立てることを誇りに思い、試合前
将の木川主将が早大主将に勝利して僅差の接戦を制した。
持ち に
) なっているかで勝負が決まる。平成
新人時代の早慶戦。 私は、先輩から 「 絶対、当ててこい!」 と気合をいれられ、五
本 組 手に出 場。 普 段の稽 古、夏 合 宿で先 輩に当てられまくっていたから、慶 應の相 手
ろう。
昭和 年に早大理工学部に入学し、空手部に入部した。未経験であったが、何故
空手部に入部したか、理由はよくわからない。何かに真剣に打ち込みたかったのだ
業して 年ほどになるが学生時代にすぐに戻れる。良い仲間である。
い酒である。同期の納田は、同じく慶應副将の酒匂君に勝ったから、楽しい酒。卒
であり、塾長招待会に出席できることを大変名誉に感じた。
いた。しかし、結果は慶應の勝ち。慶應の連勝記録が伸びた。慶應側には、早稲田に勝っ
感謝
早稲田大学 一九九二(平成四)年卒 小森園 孝輔
が茶 帯、黒 帯でも 怖くなかった。 同 期の納田は新 人ながら試 合 組 手に出 場し勝 利して
て当然、という空気があったように思う。この早慶戦を境に、
「 早慶戦に出て、勝ちたい」
と積極的に稽古に打ち込むようになった気がする。 当時、渡部俊夫先輩が毎日道場に
いらっしゃり、多くの指 導をいただいた。 試 験 休み中など正 規 稽 古がない時でも 「 俺は
毎日来るからな」 と。 新 人の私は行かざるを得ない。クリスマスイブの夜、道 場でひと
り自主稽古をやったのもいまでは良い思い出である。
中古時(2年生時)の主将は、黒澤先輩。その年の目標として「早慶戦勝利」を
掲げられた(確かに記憶している)。早大学院からは川崎君、今泉君、松村君など
優秀な後輩が入部し、彼らからの刺激も受けて、稽古に励むとともに、早慶戦勝利
録を止めた。大変厳しかった黒澤先輩であったが、一緒の試合に出場し、勝利に貢
を目指した。大将戦までもつれた早慶戦、黒澤先輩の勝利によって、慶應の連勝記
賓でご出席された三田空手会会長(当時)の望月先輩のお言葉で「上原君の早慶戦
献できて嬉しかった。前述の「当てられまくった」の張本人の先輩である。新人に
中堅時(3年生時)の主将は、
大丸先輩。さらに自分に厳しくしなければならなかっ
の試合はよかった」とあった。大将戦で彼に負けた私にとって、その試合はあまり
年程前だろうか、私の同期で慶應大学空手部主将を務めた上原君の結婚式。来
63 20
とって、中堅(3年生)の先輩は、道場では(酒の席でも)、ある意味、敵であった。
年の早慶戦では4年生が頑張り、大
|
今後も早慶両校の空手部がお互いに良きライバル、良き仲間であり続け、早慶戦
が大いに盛り上げることを期待している。
長丁場となる大学対抗戦は終盤までもつれることが多く、主将を中心とした4年
生の存在が重要である。4年生がチームを引っ張り、チーム全体がその気 勝
( つ気
20
20
思い出したくないものであったが、そのお言葉で良い思い出にかわったような気が
する。
寄稿 早慶空手定期戦
29
10
方々を挙げたかったが、限りある誌面のなかでは難しい。
周年に寄せて
早慶戦を今後さらに発展させていくために、微力ながら力になっていきたいと思う。
空手早慶戦
の間で、新人指導担当の牛島副将のもと指導を受けていた。拳サポーターなどはま
副将、牛島先輩。当時、新人は早慶戦の前あたりまで他の先輩とは別メニューで畳
「自分の代で勝てなくても、指導した新人が
渡部先輩がよくおっしゃっていた。
幹部の代に勝てば、それは君達が成し遂げた仕事だ」と。新人時、主将は星田先輩。
るが、結果は相手を圧倒しての勝利。チームに勢いをつけてくれた。
見込み、確か先鋒か次鋒で出したと思う。期待していなかった、と言っては怒られ
中古、中堅の後輩達だけによる勝利であった。特に、新人の土井君。彼の突進力を
敗退したが、四将までで勝負はあっさり決まった。優秀な後輩に恵まれた。新人、
上原君には悪いが、圧勝と言ってよいかと思う。もうひとりの幹部、主務の村越も
として頑張っている。早慶戦の審判も快く引き受けてくれている。そして、早慶戦。
将島田君(旧姓帯屋)と武道館で試合をしたかった。彼は、現在、学生連盟の審判
考えれば必然だった様に思われます。
要性を説かれており、船越師範が「空手道」の普及に努められたのも、歴史背景を
福沢先生は、「まず獣身を成して後に人心を養え」という言葉で、
「文武両道」の必
き残りをかけて、「富国強兵」の文字通り、国民全体が「強い日本」にするために、
り で あ る こ と は、 周 知 の 事 実 で あ り ま す。 そ の 当 時 の 日 本 は、 欧 米 諸 国 と 国 の 生
大学をはじめ、各大学に広めていったのが、日本における「空手道」の普及の始ま
船越義珍師範が、元来沖縄にあった「唐手術」というものを、慶應・早稲田の両
の戦績などと内容が異なりますが御了承ください。
質を考え直す良い機会だと思い、今回寄稿させていただきました。よって、早慶戦
私は早慶戦 周年を迎えるにあたって、現在の、そして今後の日本を取り巻いて
いく様々な状況の変化に対応していくために、もう一度「空手道」というものの本
慶
應義塾大学 二〇〇〇(平成十二)年卒 林原 正明
だつけられず、固定基本、移動基本、形、基本組手の徹底指導であった。牛島先輩
「真のリーダー」とは、腕力の強さだけでなく、どういう状況でも、どんな不測
の事態が起こっても、瞬時に適切な対応が出来る「頭の柔軟性」と、物事を損得で
日夜労力を注いでおりました。また一方で、「本当のリーダーの育成」ということを、
錬するのが「空手道」の本来の目的であり、最も追求すべき事だと私は思います。
30
寄稿 早慶空手定期戦
たのだが、伸びなかった。早慶戦では慶應の先輩に敗退。しかし、大丸先輩はじめ
尾関先輩(副将)
、山口先輩(副将)など幹部先輩の活躍で早大の連勝。山口先輩
は高校までラグビー。未経験ながら東西対抗選手候補になった。あの中段廻し蹴り
はわかっていてもなかなか受けられなかった。稽古は研究熱心な大丸先輩のリード
で、それまで早大の組手スタイル「詰めて、詰めての前手カウンター」だけでなく、
蹴りを入れた連続技など技のオプションを増やすために自発的に研究していこうと
いう雰囲気があったように思う。その点、慶應は蹴り技が得意な先輩が多く、一歩
先を行っていたように思う。
幹部の最終年、関東大会でのベスト8入り、そして早慶戦圧勝を目標とした。関
も一緒に基本で汗をかかれていた。最終年の早慶戦、個人的には負けたが、優勝で
なく善悪を基にして何事にもあたれる「心の強さ」とを兼ね備えた人物、それを鍛
東大会では国士舘に勝てば、ベスト8で法政に当る組合せ。試合前日、同期と飲み
きたのは星田先輩、牛島先輩の指導があったからと思う。
船越師範は沖縄の「唐手」という武術を、国の「真のリーダー」を育成するために
ながら、絶対に法政とやろう、と意気をあげたが、結局は国士舘に敗退。法政の主
50
本稿では、早慶戦の思い出とともに、ご指導いただいた諸先輩、頼もしい後輩、
そして同期の幾人かを感謝の意味を込めて挙げさせていただいた。その他、多くの
50
「空手道」というものに昇華させたのではないでしょうか。
残念ながら、現在の慶應・早稲田両校共、道場には「神棚」すらなく、スポーツ
化の一途をたどっていくであろう事は目に見えています。単に「ジム」で「KAR
ATE」を練習すると言ってもよく、松涛祭なども形式的なものとなりつつあると
思います。
「神棚」なくして「道場」とは言えません。
それに私は、
「KARATE」を否定する訳ではないですが、
「スポーツ化」した
時点で「ルール」に縛られ、その事が結果的に「頭を固く」してしまっているよう
でなりません。
早慶両校で「空手道」を学ぼうとする若者に我々OBが出来る事は、まず「こ
今後、
れからの実社会で通用する空手道・生き方」をもう一度見つめ直して、我々自身が
その志を実践していく事ではないでしょうか。
「空手」を単なる思い出としてだけ
でなく、自分自身の生き方を「空手道」とよく照らし合わせてみれば、これから困
難と思われる世の中で、
生き残っていくヒントが隠されている気がしてなりません。
その事で若い人達に少しでも役に立てれば、有難く思います。
「 ま ず 道 場 に 神 棚 を 」 置 き、 早 慶 両 校 は「 空 手 道 」
最 後 に 私 個 人 の 要 望 と し て、
の本質を学び、鍛錬する場として、今後何十年経っても特別な存在として残ってい
くことを切に望みます。
(どのような時代になっていっても、常に適切な対応が出
寄稿 早慶空手定期戦
31
来る、
「真のリーダー」を養成し続けられるような、二大聖地となってほしく思い
ます。
)
第 66 回 早慶空手定期戦 試合組手 大学の部 平成 19 年(2007 年)10 月 20 日 (早稲田)
32
寄稿 早慶空手定期戦
強さってなんだ
早稲田大学 二〇〇二(平成一四)年卒 安田 はつね
。
「人間の強さっていうのは、振れ幅の広さなんだよ」
これは、それまでわりと堅物な生き方(自分で言うのも憚られますが)をしてい
た自分が、週刊誌の編集という職に就き、その環境だったりノリだったりに戸惑っ
ていたときに、大島劼先輩に相談した際にいただいた言葉です。社会人2年目くら
いのことだったと思います。堅すぎても一定以上の力が加わったらポキッと折れて
しまう。柔らかすぎても自立できない。芯がぶれなければ、硬軟自在なほうが生き
年誌」の寄稿依頼をい
やすい。このことを起点に、自分の引き出しやら伸びしろも増えたような気がしま
す(これも自ら言うのは憚られますが!)
。
「空手早慶戦
なぜこんな話を書いたかというと、今回、
の中段廻しが自分史上最高だった気がします。……まあ、自分の勝ち負けの話をし
同じ相手と再び対戦し、リベンジを果たすことができました。今思うと、あのとき
て帰った私の顔を、悲しそうに見つめる母の顔が思い出されます。中古のときも、
「前に出ろ!」という監督の言
まるっきり素人から始めたため、新人のときは、
葉に素直に応じ、
わけもわからず突っ込み、
ボコボコにされました。タラコ唇になっ
くなりました。
まならない時期があり、
「みんなと一緒に戦える」という連帯感に、とても心が熱
たし、責任重大でした。それでも当時は女子部員が少なく、団体戦に出ることもま
ただ、そんな私でも早慶戦だけはそうは言っていられませんでした。
自分一人の勝敗が、部全体に大きく関わってくる。一種独特な雰囲気がありまし
が大きいと思っているからです。
私にとって、試合の勝ち負け、上手い下手は二の次で、普通だったら出逢うこと
のなかった世代、さまざまな価値観を持った方々の話が聞けて、接することのほう
とだからです。
ただき、空手の思い出ってなんだろうと考えたときに、まず最初に思い浮かべたこ
50
第 68 回 早慶空手定期戦 高校生五本組手 平成 21 年(2009 年)10 月 24 日 (早稲田)
てもなんですね。
現役生は勝敗にこだわっ
ざっくり「勝ち負け」より「出会い」とは言いましたが、
てください(ごめんなさい)
。空手部の隆盛は、主役である現役生にかかっていま
す。最近は、女子部員が幅を利かせているそうで羨ましいかぎり。苦しいこと、辛
いことがあったほうが、
「もう限界だよ」
「いや、まだまだ……」と自分自身と対話
できるチャンスなわけで、それは、
「なんとなく学生生活過ぎちゃった」というケー
第 68 回 早慶空手定期戦 試合組手 大学の部 平成 21 年(2009 年)10 月 24 日 (早稲田)
スより数万倍も宝になるのではないでしょうか。とりとめもなくなってしまいまし
たが、今後も早慶両空手部がお互いに切磋琢磨して、早慶戦を盛り上げていってほ
しいと思います。
早稲田大学 四年 主将 長谷部 辰哉
私にとっての早慶戦
まだ現役の身でありながら「早慶戦の思い出」と題した文章を書き、数々の熱戦を
繰り広げて来られた諸先輩方のそれと並べられることは恐縮です。しかしここでは
まだ早慶戦に参加できる現役学生として、早慶戦にかける想いを伝えら れればと
思っています。
今年で早慶戦が 周年を迎えるということを聞き、その歴史の深さを感じます。
私たち現役が生まれるはるか前から互いに競い、高めあってきたその事実にただ感
動を覚えます。私が知り、関わっているのはそのうちのほんの3年分であり、それ
以前のことは分かりません。
ただ先輩方が早慶戦のことを熱心に話すのを聞いたり、
試合の時にとても力を入れているのを見ると、早稲田大学、慶應大学、それぞれに
対して早慶戦がどのようなものだったのかを垣間見ることができます。
寄稿 早慶空手定期戦
33
50
私は実際に2年生の時に初めて早慶戦に出ました。両校、校歌を歌い終えると、
大きな歓声と気合、
掛け声が入り混じった独特な雰囲気の中で試合は始まりました。
今まで味わったことのないその雰囲気に私は緊張し、興奮しました。自分の試合が
始まるとその感情は更に高まり、周りの歓声は聞き取れないくらい大きく、コート
早稲田大学 四年
副将兼主務 高橋 亜子 負けを喫し、とても悔しい思いをしました。同時に慶應が持つ勢いと気持ちの強さ
抱き、正に体と意地をはった総力戦でぶつかりあいました。接戦の末早稲田は逆転
持ちを強く持ち、乗り切ることができました。私が感じたものを慶應も同じように
ぶ仲間の存在であり、共に稽古に励んだ仲間の応援で絶対に負けられないという気
試合以上に疲れ、息が切れてしまいました。そんな時に支えになったのが後ろに並
繰り返すことで、自問し、自己を律することの難しさと大切さを感じています。空
が有する伝統の重みを実感しています。また、突きや蹴りなどの一つひとつの技を
深さです。競技スポーツとしての空手、そして武道としての空手を学ぶ中で、空手
発揮できる環境を整えるということです。部活動から日々感じることは、空手の奥
を通して日々心がけていることは、部員が集中して稽古に取り組み、試合で実力を
私は現在、早稲田大学空手部の副将兼主務を務めさせていただいています。役職
早慶戦はまさに、空手の本質である『武道としての空手』を極める場です。だか
らこそ、大学の名を背負うことに、誇りと責任を感じます。OB・OGの先輩方が
34
寄稿 早慶空手定期戦
早慶戦、空手から学んだこと
周年という記念すべき本大会に、一部員として参加できることをとてもうれし
く思います。
を感じました。そして伝統ある早慶戦というものを、身を持って感じることができ
手は、自分を見つめ、他を思いやるという心の成長をもたらしてくれます。私は大
の中で試合をしているのが不思議な感じでした。たった2分の1試合なのに普段の
ました。
思い、感謝しています。また、今回早慶戦について落ち着いて考える機会を頂いた
築いてこられた歴史に思いをはせ、早大空手部の部員という自覚を持って、試合に
学での稽古から、心身の鍛練によって豊かな人間性を育むという空手の奥深さを、
学ぶことができました。
ことで、早稲田の空手部の発展には慶應の空手部の存在が欠かせないということに
います。そして、周りの方々への感謝の気持ちを忘れずに、精進し続けていきます。
また、残り少ない部活動を充実させるために、謙虚な姿勢で稽古に励みたいと思
臨みたいと思います。
周年の節目を迎える早慶戦では素晴らしき伝統に恥じぬように正々
す。数々の偉大な先輩が作り上げた伝統あるこの環境で空手ができることを幸せに
昨年は入部してから初となる勝利を収め、今年最後の早慶戦を迎えます。私は早
稲田大学の空手部に所属し、現在主将を任せられていることを誇りに思 っていま
50
気付きました。そして今後も両校の良き関係は早慶戦を通じて続いていくのだと思
います。今回
の発展に助力できれば幸いです。
堂々と戦い抜きます。その姿勢で後輩達にも早慶戦の大切さを少しでも伝え、今後
50
早慶戦
周年を迎えるにあたって
慶應義塾大学 四年 主将 中谷 真大
慶應義塾大学 四年 副将 鎌倉 安里
多くを学んだ早慶戦
れはいまも変わらず、慶應として戦うことができることに感謝して、そして早慶戦
に所属できず、慶應として戦うことができる喜びを味わえたのが早慶戦でした。そ
ての団体戦初勝利、また、高校三年間を通しての唯一の団体戦勝利でした。高体連
がみな出場して、個人も団体としても勝利することができました。これが私にとっ
い出があります。さらに翌年の高校三年生時には、同じ高校三年生(塾校、志木校)
できていなかったので、対外試合が初めてでしたが、勝利でき大変うれしかった思
輩方に働きかけていただき、早慶戦に出場することができました。高体連にも加盟
でしたので、早慶戦に参加することすらできず観戦していました。翌年からは、先
が、当時は現在のように同好会にすらなっておらず、いわば学校非公認のサークル
私にとっての早慶戦は、観戦するところから始まりました。高校一年生の時に初
めて空手の早慶戦を見たことを覚えています。私は志木高校に在籍していたのです
になりながら戦い抜いた姿は、一生忘れられない光景だった。
かったであろう主将が、アップもそこそこに、なりふり構わず、胴着がぐちゃぐちゃ
勝利を収めることが出来た。愛媛からとんぼ帰りで帰り、ろくに睡眠もとっていな
で涙が出そうになった。大将戦の結果は、相手の反則による勝ちではあったものの、
来るだろうと分かっていたけれど、いざ実際に姿を見るととても安心し、それだけ
始まってもまだ来なかった。いよいよ大将戦となった時、ようやく主将が到着した。
いうことで、急遽帰郷していたのだ。アップの時にもまだ主将は到着せず、試合が
抱いていた。早慶戦当日朝、主将がいなかったからである。親戚に不幸があったと
大学1年目の早慶戦当日、初めての早慶戦ということに加え、私は大きく不安を
慶應全体としては、逆に、勝利、勝利、敗北の戦績であった。
的な結果は1年目敗北、2年目敗北、3年目にしてようやく勝利することが出来た。
抗戦に出るのは4回目となる。大学で入部してから、毎年出場させて頂いた。個人
に出場できることを誇りに思っています。
こでなんとしても悪い流れを断ち切りたい、そう強く思って試合に望んだものの、
結局自分も黒星を増やしただけの存在だった。悔しくて悔しくて、涙がぽろぽろ出
てきた。もうほとんど後が無い状態なのに、自分は何をやっているのだと、情けな
抑えることが出来ず、半泣きで声をあげて応援した。その後は、先輩達の快進撃が
年に対する気持ちです。
7の接戦の上内容勝ちを収めた。柄にも無く、嬉しくてぼろぼ
い気持ちでいっぱいになった。まだ試合は終わっていないと思いながら、気持ちを
そして、これまでの壮絶な一戦一戦の上に今日の私たちの試合があるかと思うと
一部員として、
そして慶應義塾体育会空手部主将として誇りに思います。私たちは、
繰り広げられ、7
たちにできる、
る、さらなる早慶戦のために、ここで力の限りを尽くしたいと思います。それが私
歴史を生みだしてきた今までの早慶戦一戦一戦に感謝し、この節目の一戦の先にあ
年の重さに身が引きしまります。
り付ける年月もあり、この早慶戦にどれだけの人の思いが詰まっているかと思うと
ありませんでした。
年という年月の他にもこの早慶戦を企画して、実現にまで取
大学2年目、慶應がホームの早慶戦だった。中盤までの戦績は最悪だった。先鋒
からずっと負け負け負け ・・・
、非常に悪い流れだった。自分の番が回ってきた。こ
今年で空手を始めて 年目になった。小学校2年生の時に見た空手の演武に魅せ
られ、地味に、意固地に続け、結局大学でも続けている。そんな中、今年で早慶対
15
年という年月がどれほどのものであるのかという事についても考えてみまし
た。私はまだ 年しか生きておらず、この倍以上の年月を想像することは容易では
早慶戦が 周年を迎えるにあたり、色々なことを考えてみました。
早慶戦とはなんであろうか。 年とはどんな年月であろうか。
50
22
50
ろ泣いた記憶がある。
|
大学3年目、4年生が1人しかいない関係で、当時既に副将だった。早稲田の4
寄稿 早慶空手定期戦
35
50
50
50
50
50
36
寄稿 早慶空手定期戦
年生は4・5人?でこちらが圧倒的に不利な状況下、その分3年以下、特に私は絶
対に負けてはならないという強い思いがあった。試合開始早々、早稲田の力に圧倒
され、黒星が続いた。そんな中、医学部空手部の人が大健闘を見せ、なんと早稲田
に勝った。まさかの展開に皆が沸き、気持ちがさらに高ぶった。この流れを止めて
はいけないと強く思って試合に望み、序盤相手にポイントを取られたものの、逆転
し勝利することが出来た。しかしその後負けが続き、
結局慶應は敗北してしまった。
1・2年の時、早慶戦勝利の味をしめていただけに、負けたことは非常に悔しく悲
周年という大きな節目の大会
しいものだった。負けた後の部員の暗い雰囲気は最悪だった。
次は私にとって人生最後の大会であると同時に、
ながら、皆で勝利を分かち合いたいと思う。
られたことに感謝し、試合に臨みたい。そしてもう一度ぐしゃぐしゃに嬉し泣きし
上に負けられない、負けてはいけないと思う。この記念大会に副将という立場にい
である。この記念すべき大会において、副将という重要な立場にいる私は、去年以
50
第
回 早慶空手定期戦
69
37
第 69 回 早慶空手定期戦
第 69 回 早慶空手定期戦 式次第
テーマ
伝統
期 日
平成 22 年 10 月 17 日(日)
場 所
【試合】慶應義塾大学日吉記念館
【 レ セ プ シ ョ ン 】 日 吉 校 内 ファルカルティーラウンジ
時 間
13 時 00 分
開会式
13 時 20 分
形演武 大学・高校・中学
13 時 40 分 三本組手・一本組手
大学・高校・中学
14 時 00 分 形演武
早慶 OB
休憩
14 時 30 分 試合組手
15 時 00 分 エール交換・ペナント交換
15 時 20 分 試合組手
16 時 30 分 閉会式
17 時 40 分 高校
大学
レセプション
(日吉ファルカルティーラウンジ)
第 69 回 早慶空手定期戦 式次第
38
選手紹介
早稲田大学
学生からのコメント
①学部
②出身校
③抱負
● 幹部(4年)
主将 長谷部辰哉(ハセベ タツヤ)
①文学部
②早稲田大学高等学院
③早慶戦 50 周年にふさわしい試合になるよう
に、全力を尽くします。
副将 藤田亜弓(フジタ アユミ)
①スポーツ科学部
②中京大中京高校
③早大空手部副将として、部員として精一杯
努力します。
副将兼主務 高橋亜子(タカハシ アコ)
①法学部
②高崎女子高校
②新潟高校
羽柴紘一(ハシバ コウイチ)
③毎年去年以上の結果を出す!もっと強気な
①スポーツ科学部
勝負にでれるよう練習に取り組んでいきます。
②世田谷学園高校
③伝統ある早慶戦に感謝の心を持って臨みた
森井美香(モリイミカ)
いです。
①教育学部
佐藤恒子(サトウ ヒサコ)
①文化構想学部
②静岡高校
②帝京高等学校
③一つ一つの試合を悔いが残らないよう全力
● 新人 ( 1年 )
柴崎暢子(シバサキ ノブコ)
● 中古(2年)
分に出来ることを精一杯やりたいと思います。
小笠圭介(オガサ ケイスケ)
①スポーツ科学部
②大阪朝鮮高校
③早慶戦 50 周年に立ち会えたことは非常に
有難いことだと思います。試合頑張ります。
● 中堅(3年)
尾山静(オヤマ シズカ)
①スポーツ科学部
②埼玉栄高校
①スポーツ科学部
②日本大学鶴ヶ丘高校
金向(キン コウ)
①アジア太平洋研究科
②北京外国語大学
張哲鳴(チャン テツメイ)
①国際教養学部
②桐蔭学園高校
③空手で勝つ喜びを味わいたい
③早稲田の名に恥じぬような戦いが出来るよう
①国際教養学部
頑張りたいと思います。
②ヴィクトリアジュニアカレッジ
③練習時間を無駄にしないで、毎日少しずつ
でも上手くなれるように頑張りたいです。
②膳所高校
永田健人(ナガタ ケント)
③自分に厳しく、自分以外に優しくをモットーに、
①商学部
卒業までの一瞬一瞬を大切にしていきたいです。
②早稲田実業学校高等部
39
選手紹介 早稲田大学
③心身を鍛え、スポーツとしての空手と武道と
しての空手を極めたい。
張りたいです。
張浩(チャン ハオ)
①先進理工学部
②東福岡高等学校
③二度目の早慶戦、悔いの残らないように頑
②攻玉社高等学園
増井裕太(マスイ ユウタ)
練習に励みたいと思います。
①政治経済学部
①スポーツ科学部
①人間科学部
③試合でしっかり結果を残していけるように日々
谷崎遼介(タニザキ リョウスケ)
チームを盛り上げることが出来たらと思います。
塩田郁(シオタ イク)
②八雲学園高校
③一日一日の練習を頑張り、試合で活躍した
菅井敬介(スガイ ケイスケ)
①国際教養学部
①社会科学部
いです。
③早慶戦三年目。自分が勝つだけではなく、
駒井亮太(コマイ リョウタ)
と思います
を出し、早稲田に貢献していきたいと思います。
③早大空手部に少しでも貢献できるように、自
李麗旭(リリョウギ)
③団体戦では先輩方に迷惑をかけないように、
そして後輩に目標とされるような存在になりたい
③結果にこだわり、自分で納得のいくような早
慶戦にしたいと思います。
②ヴィクトリアジュニアカレッジ
③練習時間を無駄にしないで、毎日少しずつ
でも上手くなれるように頑張りたいです。
前田彩花(マエダ アヤカ)
①社会科学部
②久留米商業高校
③初めての早慶戦なので緊張すると思います
が、悔いが残らないように試合に臨みたいです。
丸山政宏(マルヤマ マサヒロ)
①社会科学部
②世田谷学園高校
③記念すべき大会に自分の力を全て発揮でき
るよう頑張りたいと思います。
選手紹介
慶應義塾大学
学生からのコメント
①学部・学年
②出身校
③抱負
● 学4
主将 中谷真大 ( ナカタニ マサヒロ )
①経済学部 4 年
②慶應義塾志木高等学校
③歴史に 1 ページを刻み、次の世代に誇れる
一戦をお見せします。
副将 鎌倉安里 ( カマクラ アンリ)
①商学部 4 年
②慶應義塾女子高等学校
③最後の早慶戦、勝利の涙で飾ります。
主務 安川峻平 ( ヤスカワ シュンペイ )
①経済学部 4 年
②慶應義塾高等学校
③絶対勝利。
副務 市川士朗 ( イチカワ シロウ )
①理工学部 3 年
②慶應義塾高等学校
③早稲田を潰す。左拳で潰す。勝ちに行きます。
川端有紀 ( カワバタ ユウキ )
①理工学部 4 年
②慶應義塾湘南藤沢高等部
③絶対勝ちます。
宮本陸 (ミヤモト リク )
①文学部 4 年
②暁星学園高等学校
③絶対に負けません。勝ちに行きます。
山中翔太 ( ヤマナカ ショウタ )
①経済学部 4 年
②慶應義塾湘南藤沢高等部
③この日のために練習してきました。勝ちます。
● 学3
川島興介 ( カワシマ コウスケ )
①法学部法律学科 3 年
②慶應義塾高等学校
③必ず勝って若き血を歌います。
佐藤智洋 ( サトウ トモヒロ )
①商学部 3 年
②小野高等学校
③今までの練習量を信じて、全力で戦います。
柴田峻宏 ( シバタ タカヒロ )
②慶應義塾湘南藤沢高等部
①医学部 3 年
③全力を尽くせるよう頑張ります。
②慶應義塾高等学校
③挑戦するという気持ちを持って頑張ります。
和田真孝 ( ワダ マサタカ )
福本雄史 ( フクモト ユウシ )
②慶應義塾志木高等学校
①経済学部 3 年
③ 1 本でも多くとれるように頑張ります。
②慶應義塾ニューヨーク学院
①医学部 2 年
③今までの稽古をすべて早慶戦にぶつけます!
● 学1
●学 2
①商学部 1 年
副務 阿部洋平 ( アベ ヨウヘイ )
②慶應義塾志木高等学校
宍戸勇介 ( シシド ユウスケ )
①法学部政治学科 2 年
③早稲田大学といい試合が出来るように頑張
②慶應義塾高等学校
ります。
③相手に負けない気迫で勝ちに行きます!
田中勝也 ( タナカ カツヤ )
仁科雄志 ( ニシナ ユウジ )
①経済学部 1 年
①法学部法律学科 2 年
②慶應義塾高等学校
②慶應義塾高等学校
③初めての早慶戦楽しみます。
③本年で半世紀にあたる伝統の一戦、記念
大会を嬉し涙で締めくくります!
見上拓也 (ミカミ タクヤ )
田中香織 ( タナカ カオリ)
②慶應義塾高等学校
①環境情報学部 1 年
①法学部政治学科 2 年
③年に一度の早慶戦、全力で戦い、楽しみ
② Palos Verdes Peninsula high school
たいと思います!
③まっすぐ、自分らしく勝負。
峰岸健太郎 (ミネギシ ケンタロウ )
又村崇仁 ( マタムラ タカヒト )
①商学部 1 年
①法学部政治学科 2 年
②慶應義塾湘南藤沢高等部
②慶應義塾高等学校
③早稲田の選手に名前を覚えてもらうよう頑張
③ 50 周年という節目の早慶戦。このような年
ります。
に巡り合わせて戴いたことに感謝し、慶應を代
表して戦えることに感謝をし、そして勝ちます。
山内宣佑輝 ( ヤマウチ ノブユキ )
山岡悠紀 ( ヤマオカ ユキ )
②慶應義塾高等学校
①理工学部 2 年
③慶應のボーズ頑張っちゃいます。
①経済学部 1 年
選手紹介 慶應義塾大学
40
選手紹介
早稲田大学高等学院
学生からのコメント
①出身校
②抱負
● 3年
伊澤俊(イザワ シュン)
①世田谷区立八幡中学校
②3年間培ってきたものを全て出しきり、
最高の結果を出せるように突っ走りたい。
井本大貴(イモト ダイキ)
①江戸川区立葛西中学校
②ベストを尽くせば結果は自然とついて
くると信じています。完全燃焼します !!
尾崎旭(オザキ アキラ)
①シンガポール日本人学校中学部
橋爪嘉将(ハシヅメ ヨシマサ)
● 1年
②今までの練習の成果を全てこの早慶戦
①江戸川区立南葛西第二中学校
池田有輝(イケダ ユウキ)
でぶつけたいと思います。
②今までやってきた練習を活かして、悔
①厚木中学校
いの残らない試合をします。
②諸先輩方に教わった事をしっかりと出
● 2年
し、冷静に戦う。
小嶋健太郎(コジマ ケンタロウ)
藤居朋典(フジイ トモノリ)
①西早稲田中学校
①文京区第五中学校
市川隆彬(イチカワ タカアキ)
②3年生にとっては最後の試合なので、
②今までやってきた日々の練習の成果を
①清明学園中等部
部が一丸となって悔いが残らないように
存分に発揮し勝ちたいです。
②先輩方に教わってきたことを活かして、
したい。
今の自分の力を出しきります。
早稲田実業学校高等部・中等部
● 高等部 1 年
三田眞貴子(ミタ マキコ)
①早稲田実業中等部
②初参加なので、
緊張しないように頑張ります。
● 中等部 1 年
多々納健人(タダノウ ケント)
①早稲田実業初等部
②先輩方に負けじと早稲田の力になってみせ
ます!
櫛部紗永(クシベ サエ)
①早稲田中学初等部
②先輩方に追いつけるように頑張ります!
羽鳥つばさ(ハトリ ツバサ)
①早稲田実業初等部
②打倒慶應!
!早稲田愛を全面的に出して行き
ます!
!
41
選手紹介 早稲田大学 高等学院・早稲田実業学校
選手紹介
慶應義塾高等学校
学生からのコメント
①出身校
②抱負
● 3年
前主将 南光龍樹(ナンコウ タツキ)
①久御山中学校
②陸の王者の力を見せつけてやるぜ!
前主務 中村興(ナカムラ コウ)
①慶應義塾普通部
②高校生活最後の試合、気合いで相手を
圧倒します!
● 2年
主将 中嶋俊文(ナカシマ トシフミ)
①上ヶ原中学校
②塾高主将としてみんなを引っ張れるよ
う頑張ります。
副将 羽鳥慎之介(ハトリ シンノスケ)
①大清水中学校
②慶應の名に恥じないように精一杯戦います。
主務 中村耀(ナカムラ ヨウ)
①慶應義塾普通部
②慶應の勝利のために、全力で戦います!
副務 堀江光佑(ホリエ コウスケ)
丸田裕也(マルタ ユウヤ)
①慶應義塾普通部
①岸川中学校
②蜂のように突きで刺す!
②自分のベストの力を出して、勝ってみ
せます!
● 1年
松本尊之(マツモト タカユキ)
①慶應義塾普通部
②今できる最高のパフォーマンスで、た
たきつぶしてやります!
慶應義志木高等学校
● 3年
藤原治樹(フジワラ ハルキ)
①黒浜中学校
②(不出場)
● 2年
黒須洋克(クロス ヒロカツ)
①黒浜西中学校
②今までの練習の成果を出し切ります!
林龍也(ハヤシ リュウヤ)
①尾山台中学校
②合宿で学んだ技術をフル活用し、勝っ
てみせます!
鯨岡弘織(クジラオカ ヒロノリ)
①木崎中学校
②(不出場)
選手紹介 慶應義塾高等学校・慶應義塾志木高等学校
42
選手紹介
慶應義塾湘南藤沢高等部
学生からのコメント
①出身校
②抱負
● 3年
主将 江村裕太(エムラ ユウタ)
①慶應義塾湘南藤沢中等部
②伝統ある早慶戦の記念大会に出場でき、
嬉しく思います。慶應高校チームの勝利
のために、全力を尽くしたいと思います。
副将 屋敷一帆(ヤシキ カズホ)
①上野原中学校
②(不出場)
主務 遠藤史帆(エンドウ シホ)
①慶應義塾湘南藤沢中等部
②(不出場)
新田真之(ニッタ マサユキ)
①高浜中学校
②(不出場)
● 2年
大森有紗(オオモリ アリサ)
①慶應義塾湘南藤沢中等部
②(不出場)
河内山みどり(カワチヤマ ミドリ)
①慶應義塾湘南藤沢中等部
②(不出場)
田中満帆子(タナカ ミホコ)
①下田中学校
②(不出場)
43
田之頭麻衣(タノガシラ マイ)
笹野利輝(ササノ リキ)
①慶應義塾湘南藤沢中等部
①あざみ野中学校
②(不出場)
②(不出場)
田山大嗣(タヤマ ダイシ)
佐野海人(サノ カイト)
①豊浦中学校
①慶應義塾湘南藤沢中等部
②(不出場)
②(不出場)
● 1年
染谷磨利佳(ソメヤ マリカ)
副務 阿久津紗希(アクツ サキ)
①ドバイ日本人学校
①慶應義塾湘南藤沢中等部
② ( 不出場 )
②(不出場)
多田希海(タダ ノゾミ)
川崎咲登子(カワサキ サトコ)
①神戸大学附属住吉中学校
①姫城中学校
②(不出場)
②(不出場)
選手紹介 慶應義塾湘南藤沢高等部
選手紹介
慶應義塾普通部・慶應義塾中等部
● 慶應義塾普通部
佐々木健仁
①3年
②慶應義塾幼稚舎
③形の切れを出す
見上昂佑
①3年
②精華小学校
③技の切れを出す
中川雄介
①3年
②慶應義塾幼稚舎
③腰の回転を意識する
山本龍之介
①2年
②慶應義塾幼稚舎
③技の緩急を身につけたい
米山舜也
● 慶應義塾中等部 ①1年
後藤亮征
②文教大学付属小学校
①3年
道端慶梧
③手刀受けの形をよりよくする
②慶應義塾幼稚舎
①1年
③引き手をもっとがんばりたい
②慶應義塾幼稚舎
入交亮太
③大会で優勝を目指す。
③相手をずっとにらみ続ける
①1年
豊田瑛都
②慶應義塾幼稚舎
①3年
③腰を低くする
②大井第一小学校
選手紹介 慶應義塾普通部・慶應義塾中等部
44
過去の戦績
年次
西暦
昭 35 1960
昭 36 1961
昭 37 1962
日時
場所
4 月 23 日 三田
11 月 23 日
5 月 28 日
11 月 23 日
6 月 10 日
10 月 23 日
成績
早稲田 慶應
2
⑧
早稲田
4
三田
備考
第1回
年次
西暦
場所
成績
早稲田 慶應
11 月 3 日
早稲田
⑥
3
⑤
昭54 1979 11 月 23 日
早稲田
2
③
⑧
6
昭55 1980 11 月 23 日
日吉
4
⑨
早稲田
5
⑥
昭56 1981
11 月 8 日
日吉
2
⑧
三田
5
⑥
昭57 1982
11 月 3 日
早稲田
⑥
5
早稲田
6
6
昭58 1983
11 月 3 日
早稲田
⑧
3
吉
2
⑪
引分
備考
第40回
昭 38 1963
5 月 19 日
三田
6
⑥
11 月 3 日
早稲田
5
⑥
昭60 1985
11 月 3 日
早稲田
3
⑪
昭 39 1964
5 月 24 日
三田
⑤
3
昭61 1986
11 月 9 日
日吉
3
⑦
11 月 1 日
早稲田
7
⑦第10回慶應内容勝
昭62 1987
11 月 3 日
早稲田
3
⑧
昭 40 1965
5 月 23 日
三田
⑨
5
昭63 1988
11 月 6 日
日吉
2
⑨
早稲田
6
⑧
平1 1989
11 月 3 日
早稲田
⑦
6
三田
⑦
6
平2 1990
11 月 3 日
吉
⑦
6
早稲田
5
⑥
平3 1991 11 月 17 日
早稲田
⑨
6第50回
三田
4
⑦
平4 1992
11 月 3 日 日吉
5
⑦
早稲田
⑥
5
平5 1993
11 月 3 日
早稲田
4
⑩
5 月 26 日
三田
5
⑦
平6 1994
11 月 3 日
日吉
⑦
5
11 月 3 日
早稲田
⑥
5
平7 1995
11 月 3 日
早稲田
4
⑩
三田
④
3
平8 1996
11 月 3 日
日吉
6
⑧
早稲田
⑤
4
平9 1997
11 月 3 日
早稲田
4
⑤
5 月 31 日
三田
2
⑦
平10 1998
11 月 3 日
日吉
4
④
慶應内容勝
11 月 3 日
早稲田
3
⑤
平11 1999 10 月 31 日
早稲田
6
⑥
慶應内容勝
三田
⑨
5
平12 2000 10 月 29 日
三田
⑦
6
早稲田
⑦
5
平13 2001
早稲田
5
⑤
三田
④
2
平14 2002 11 月 10 日
三田
5
⑥
早稲田
⑤
4
平15 2003 11 月 16 日
早稲田
⑦
4
三田
④
2
平16 2004 11 月 14 日
三田
⑦
4
早稲田
⑤
4
平17 2005 11 月 13 日
早稲田
5
⑥
三田
4
⑤
平18 2006 10 月 28 日
三田
⑥
6
早稲田内容勝
早稲田
⑥
0
平19 2007 10 月 20 日
早稲田
7
⑦
慶應内容勝
三田
2
④
平20 2008
三田
7
⑦
慶應内容勝
早稲田
⑦
4
平21 2009 10 月 24 日
早稲田
⑨
4
三田
1
④
平22 2010 10 月 17 日
早稲田
④
1
三田
④
3
早稲田
⑥
1
昭 41 1966
昭 42 1967
昭 43 1968
昭 44 1969
昭 45 1970
昭 46 1971
昭 47 1972
昭 48 1973
昭 49 1974
昭 50 1975
昭 51 1976
昭 52 1977
10 月 17 日
5 月 15 日
10 月 23 日
5 月 28 日
10 月 29 日
5 月 8 日
11 月 23 日
6 月 6 日
10 月 23 日
6 月 17 日
11 月 12 日
6 月 17 日
11 月 11 日
6 月 23 日
10 月 27 日
6 月 15 日
10 月 19 日
6 月 20 日
11 月 14 日
6 月 20 日
10 月 19 日
慶應内容勝
昭53 1978
日時
第20回
第30回
(S35 ~ S52 通算早稲田19勝慶應16勝1分)「注」○印は勝
45
過去の戦績
昭59 1984 11 月 23 日
11 月 3 日
11 月 3 日
第60回 慶應内容勝
日吉第69回
(S35 ~ H21 通算早稲田31勝慶應36勝1分) [ 注」○印は勝
校歌・応援歌
早稲田
紺碧の空
早稲田大学 校歌
( 作詞:相馬御風 作曲:東儀鉄笛 校閲:坪内逍遥 )
一、
(作詞:住治男 作曲:古関裕而)
一、
都の西北早稲田の杜に 紺碧の空仰ぐ日輪
聳ゆる甍は我等が母校
光輝あまねき伝統の下
我等が日頃の抱負を知るや すぐりし精鋭闘志はもえて
進取の精神学の独立
理想の王座を占むる者我等
現世を忘れぬ久遠の理想 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田
かがやくわれらが行手を見よや
早稲田、 早稲田、 早稲田、 早稲田
早稲田、早稲田、早稲田
二、
青春の時 望む栄光
威力敵無き精華の誇り
二、
見よこの陣頭歓喜あふれて
東西古今の文化の潮 理想の王座を占むる者我等
一つに渦巻く大島国の
早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田
大なる使命を担ひて立てる 我等が行手は窮り知らず
やがても久遠の理想の影は
あまねく天下に輝きしかん
早稲田、 早稲田、 早稲田、 早稲田
早稲田、早稲田、早稲田
三、
あれ見よかしこの常磐の杜は
心の故郷我等が母校
集まり散じて人は変れど
仰ぐは同じき理想の光
いざ声そろえて空もとどろに
我等が母校の名をばたたえん
早稲田、 早稲田、 早稲田、 早稲田
早稲田、早稲田、早稲田
校歌・応援歌 早稲田
46
校歌・応援歌・部歌
慶應義塾
慶應義塾 塾歌
若き血
( 作詞:富田正文 作曲:信時潔 )
(作詞・作曲:堀内敬三 )
一、
見よ
若き血に燃ゆる者
光輝みてる我等
風に鳴るわが旗を
希望の明星仰ぎて此処に
新潮寄するあかつきの
勝利に進む我が力
嵐の中にはためきて
常に新し
文化の護りたからかに
見よ精鋭の集う処
貫き樹てし誇りあり
烈日の意気高らかに
樹てんかな この旗を
遮る雲なきを
強く雄々しく樹てんかな
慶應 慶應
あゝわが義塾
陸の王者 慶應
慶應 慶應 慶應
二、
慶應空手の歌
(作詞:粕谷眞洋 作曲:朝吹英一 )
往け
涯なきこの道を
究めていよゝ遠くとも
一、
鍛へよ空手
わが手に執れる炬火は
丹に夕に
叡智の光あきらかに
いそしみ行けば
ゆくて正しく照らすなり
五体は鉄壁
往かんかな この道を
堅岩となりて
遠く遥けく往かんかな
まこと寄せ来る
あゝわが義塾
仇なす波濤
慶應 慶應 慶應
砕くは我ら
慶應 慶應
三、
空手の健児
起て
日はめぐる丘の上
春秋ふかめ揺ぎなき
学びの城を承け嗣ぎて
執る筆かざすわが額の
徽章の誉世に布かむ
生きんかな この丘に
高く新たに生きんかな
あゝわが義塾
慶應 慶應 慶應
二、
讃へよ空手
怖れ戦く
ものなき身には
心おのづと
明るくのびて
まこと塾祖の
自尊の遺訓
遵るは吾等
慶應 慶應
空手の健児
47
校歌・応援歌・部歌 慶應義塾
協賛
● 早稲田
稲門空手会 会長 小野 泰規
稲門空手会 副会長 佐々木 太郎左衛門
稲門空手会 副会長 秋山 晋也
稲門空手会 監査役 生尾 武
稲門空手会 監査役 前野 雄一
稲門空手会 事務局長 金子 茂男
稲門空手会 事務局次長 上坊 勇
稲門空手会 事務局次長 川越 弘三
稲門空手会 事務局次長 加藤 健太
● 慶應
(株式会社ディスコ 元会長・社長)オフィス・セキヤ 関家 憲一(昭和 35 年卒)
〒 150 - 6001 東京都渋谷区恵比寿 4-20 -3
ガーデンプレイスタワー 18 階
丸和油脂株式会社
代表取締役 高橋 祐直(昭和 36 年卒)
〒 141- 0031 東京都品川区西五反田 3- 9 -23
電話 03-3491-1101
株式会社ディスコ 会長
溝呂木 斉(昭和 37 年卒)
鉄板焼き・しゃぶしゃぶ・ステーキ 株式会社パンドラ
代表取締役 境 脩(昭和 38 年卒)
〒 160 - 0023 東京都新宿区西新宿 1-13-3 西新ビル 5F
電話 03-3344-3808
株式会社葉山ホームズ
関家 臣二(昭和 38 年卒)
〒 240 - 011 神奈川県三浦郡葉山長一色 2511- 56
www.hayamahomes.jp
株式会社かわでん
取締役社長 西谷 賢 ( 昭和 39 年卒 )
光藤 淳一(昭和 41 年卒)
〒 144- 0035 東京都大田区南蒲田 2-16 -2
テクノポートカマタ C- 5F
電話 03- 5714- 4341
株式会社林原
代表取締役 林原 健(昭和 39 年卒)
林原 正明(平成 12 年卒)
〒 700 - 0907 岡山県岡山市北区下石井 1-2-3
電話 086 -224- 4311
株式会社矢島商店
代表取締役社長 矢島 壮太郎(昭和 39 年卒)
〒 103- 0013 東京都中央区日本橋人形町 3- 4-1
電話 03-3662-1961
株式会社大都
代表取締役社長 間口 徹(昭和 41 年卒)
〒 552- 0022 大阪府大阪市港区海岸通 2-1-11
電話 066 - 574- 0125
テンクラブ 昭和 43 年卒一同
倉敷鉱泉株式会社
代表取締役会長 石原 信義(昭和 43 年卒)
〒 710-0052 岡山県倉敷市美和 2-7-17
電話 0864-22- 6020
株式会社オークアクト
代表取締役 横田 脩(昭和 43 年卒)
〒 186 - 0004 東京都国立市中 11- 45
電話 03-3391- 0065
八雲学園中学高等学校
理事長・校長 近藤 彰郎(昭和 44 年卒)
理事 奈藏 稔久(昭和 44 年卒)
〒 152- 0023 東京都目黒区八雲 2-14-1
電話 03-3717-1196
柳然堂
佐藤 公夫(昭和 44 年卒)
〒 155 - 0031 東京都世田谷区北沢 2-20 -14
電話 03-3414- 5559
土佐料理 株式会社土佐っ子
代表取締役社長 島井 清英(昭和 44 年卒)
〒 780 - 0842 高知県高知市追手筋 1- 5- 9
電話 088- 825-1035
興和油化工業株式会社
代表取締役専務 廣川 信治(昭和 44 年卒)
〒 210 - 0862 神奈川県川崎市川崎区浮島町 11-2
電話 044-266 -1151
醤油味噌醸造 有限会社仁井鶴商店
東京取次所 仁井健治(昭和 44 年卒)
電話 03-3441- 8102
広島県江田島市江田島町 電話 08234-2- 0002
大成建設株式会社
尾形 悟(昭和 46 年卒)
株式会社静岡銀行
取締役副会長 里見 和洋(昭和 51 年卒)
〒 420 - 0031 静岡県静岡市葵区呉服町 1-10
電話 054-261-3131
河野歯科医院
院長 河野 伸二郎(昭和 52 年卒)
〒 224- 0041 神奈川県横浜市都筑区仲町台 2-18- 8
ウイスタリア 201
電話 045- 942-3308
株式会社四十万谷本舗
代表取締役 四十万谷 正久(昭和 54 年卒)
〒 921- 8036 石川県金沢市弥生 1-17-28
電話 0762- 41- 4173
米国ディスコ 社長
出島 信和(昭和 60 年卒)
有限会社永瀬事務所
取締役 永瀬 正彦(昭和 61 年卒)
〒 106 - 0031 東京都港区西麻布 4-10 -3
ヴィラ麻布 302
電話 03- 5778-3968
プルデンシャル生命保険株式会社
東京第 5 支社第二営業所 高坂 和朗(平成元年卒)
〒 164 - 0012 東京都中野区本町 1 - 32 - 2
ハーモニータワー 3F
電話 03- 5365-2031
協賛
48
編集後記
金子 茂男(昭和 49 年卒)
福田 聡(昭和 54 年卒)
泉 雄麿(平成 22 年卒)
慶應義塾 体育会 空手部
前澤 彰吾(昭和 40 年卒)
成田 正彰(昭和 40 年卒)
河野 彰二(昭和 46 年卒)
鎌倉 安里(大学 4 年 副将)
仁科 雄志(大学 2 年)
編集協力:永瀬 正彦(慶應義塾 体育会 空手部 昭和 61 年卒)
本誌製作の構想につきましては、早慶空手部昭和 年卒業懇親会メンバー
の話し合いが発端であり、早稲田OBの倉田さんから慶應空手部河野監督に
倉田 和育(昭和 46 年卒)
打診があったものと聞いております。
編集:早稲田大学 空手部
現行試合制度での対抗戦となって半世紀が経過し、交換稽古時代を加えれ
ば、1世紀の歴史形成も指呼の間にあります。
発行:平成 22 年 10 月 17 日
この際早慶戦の戦績の検証をするとともに、エピソード、思い出話、写真
等を記録として残して置く好い機会であるとの動機から、小誌として本誌を
本文掲載の記事・写真・図表の無断転載を禁じます。
制作することとなりました。
印刷:株式会社佐藤印刷
予算面、準備期間面等の制約があり、また何よりも今の時代と違って、試
合、稽古などの内容を写真や文書などの記録に残すことがあまり行われてい
なかった年代もありましたが、ご寄稿執筆者始め皆様のご協力で何とか纏め
ることが出来ました。
特にOBの皆様からは当時の思い出はもとより、空手に対する熱い情熱が
文面からも伝わって感じられました。
ご寄稿いただき厚く御礼申し上げます。
また本誌制作につきましてご協力いただきました早稲田大学倉田さん、金
子さん、福田監督、泉さん、慶應義塾大学仁井さん、河野監督、豊田さん、
小林さん、永瀬さんには心より感謝申し上げます。
特に予算面、編集・製作面で全面的にご協力いただきました(有)永瀬事
務所 永瀬さんには、重ねて感謝申し上げます。
編集後記
49
この小誌が次の空手早慶戦100年へのキックオフ誌とならんことを祈念
いたします。
本誌編集委員 早慶空手定期戦 50 周年記念誌
46
Fly UP