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インドネシア華人のコミュニティ団体の変容: スマラン

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インドネシア華人のコミュニティ団体の変容: スマラン
Kobe University Repository : Kernel
Title
インドネシア華人のコミュニティ団体の変容 : スマラン
和合会序説(Changes of a Community Association of
Indonesian Chinese : Preliminary Review of Hoo Hap
Hwee Semarang)
Author(s)
貞好, 康志
Citation
国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科
紀要,37:54*-75*
Issue date
2011-12
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81003771
Create Date: 2017-03-30
54
インドネシア華人のコミュニティ団体の変容
−スマラン和合会序説−
Changes of a Community Association of Indonesian Chinese:
−Preliminary Review of Hoo Hap Hwee Semarang−
貞好
康志
はじめに
東南アジアをはじめ世界に移住した中国系人(以下、国籍等に関わらず華
人と総称)は、盛んにコミュニティ団体を結成・維持してきた。中国での同
郷・同族結合に基づくものであれ、それ以外のものであれ、これらの団体は、
少なくとも当初は「異郷」であった各地に新たな生活拠点を築こうとする人
々にとって、社会活動や経済活動(時にはさらに政治活動)の基盤となり、
また世代を超えて中国由来の文化を伝える役割も果たした。20世紀に入る頃
に 現 れた 華人独自 の 学校(僑校)や 新聞(僑報)とあわせ 、中国語で 僑団
(または僑社)と呼ばれるコミュニティ団体は、各地の華人社会そのものの
存続と発展に不可欠な要素とみなされた1。他方、政治・経済・社会・文化
的な環境変化につれ、コミュニティ団体のあり方が変容してきた側面も見逃
せない。この場合、コミュニティ団体のあり方が、時代と共に移りゆく華人
社会自体の変貌の写し鏡となっている、とみることができる。
本稿はかかる視点から、インドネシア・中部ジャワの都市スマランで約90
年にわたって存続してきたコミュニティ団体、和合会(ホーハップフェー、
Hoo Hap Hwee)を事例に、スマランひいてはインドネシアの華人社会の
変容について考察しようとする研究の序説である。以下、まず第1節で、ス
マラン和合会について考える意義をインドネシア近現代の華人社会史全体に
対する筆者の視座とともに提示する。続く第2節で1900年頃∼1920年代の和
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合会設立に関わる諸問題を、第3・4節では草創期から現代にまで続く和合
会の自己アイデンティティや志向性に関わるポイントについて、順に考察し
てゆこう。
図1.インドネシア地図:スマラン(Semarang)はJakartaの東方、中部ジャワに位置する。
第1節
スマラン和合会への視座
後述するように、スマラン和合会は1900年頃に前身組織が結成され、1923
年に和合会として正式に発足した。前身組織を含めれば100年以上、和合会
としても90年近い歴史を持つ。これだけ長く存続した組織は、ジャワ有数の
「華人の町」として知られるスマランでも稀であり、オランダ植民地期から
日本軍政期、独立戦争期、スカルノ大統領期、スハルト体制期、ポスト・ス
ハルト期まで激動の連続だったインドネシア近現代における華人コミュニティ
のありようを考える上で、それだけでも貴重なサンプルである。
正確にいえば、スマラン和合会は一度の消滅と、何度かの消滅の危機を経
験している。一度の消滅とは日本軍政下における事実上の活動停止であるが、
インドネシアの主権獲得と共に再建されているから、潜伏といった方が適切
かもしれない。
他方、消滅の危機の最たるものはスハルト体制の発足である。反共・反中
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国の国軍を軸とするスハルト体制は、1966年の成立早々、華人に対する「同
化政策」を導入・実施した。その一環として華人の政治団体は禁止され、社
会団体も著しく制限された。コミュニティ組織の多くも解散または潜伏を余
議なくされ、インドネシア全土の華人集住区からは世界中でチャイナタウン
の景観を特徴づける「会館」や「漢字」がほとんど消え去った。
そうした中、和合会は組織として存続したのみならず、かなり表立って存
在していた、スマランでも数少ないコミュニティ組織の一つである。顕在性
の何よりの証として、組織の象徴でもあり活動の拠点ともなる建物、和合会
館(Hoo Hap Hwee Kwan)が、スハルト体制期にも華人集住区の一隅に
存在し続けたことが挙げられる。単に建物が存在しただけでなく、人の出入
りが絶えず、コミュニティ活動が継続された。調査研究をする立場からいえ
ば、人々の出入りする会館が存在するということは、華人性(華人であるこ
と、華人らしさ)の放棄を迫る「同化政策」のもと、イデオロギー上も実際
上も「不可視」に近い状態となってしまった華人社会にアクセス・参与観察
することを比較的容易にしてくれる貴重な与件であった。
図2.スマランの和合会館(左下に掲げられているのはインドネシア国旗)
57
スマラン和合会は複合的な機能を持つコミュニティ団体であるが、活動の
最も重要な柱の一つは葬儀互助であり、もう一つは芸能活動である。葬儀互
助の団体はスマランに限らずインドネシア各地にスハルト体制期も存続して
いたが、少なくとも筆者が直に観察してきた1990年代以降は、葬儀互助の本
来的な性格上、また会員の高齢化に伴い「老人クラブ」に近い状況に陥って
いる例が少なくなかった。他方、芸能部門のうち特に中国由来の伝統芸能で
ある龍・獅子舞を担うのは小学生から高校生くらいの青少年が多い。スマラ
ン和合会は両者を併設しているため、その構成員が特定の年齢層に偏らず、
老若男女のメンバーや関係者を擁する、つまり比較的バランスよく華人社会
の構成を反映する、という点ではスマランでほぼ唯一のコミュニティ団体で
あった。
インドネシア 華人社会 を 論 ずる 時、 プラナカン ( peranakan ) とトトッ
(totok)の区分に留意することが不可欠である。プラナカンとは、古くは
移民男性と現地女性の通婚による子孫を指したが、現在ではインドネシア生
まれでインドネシア系諸語を母語とする人々を意味する。トトッは元々移民
一世である生粋の中国人を指したが、現在では大陸中国・台湾をはじめイン
ドネシアにとっての外国生まれ、もしくはインドネシア生まれであっても中
国系諸語を母語とする人々を意味する。スマラン華人社会の写し鏡として和
合会の変容を考察する上でも、その指導者や構成員がプラナカンなのかトトッ
なのかという点は、時代を追って重要な論点となる。少なくとも筆者が直に
観察した1990年代には、スマラン和合会は紛れもないプラナカンの組織となっ
ていた 。 その 和合会 が 、葬祭儀礼や 龍・獅子舞 など 最も 「伝統中国的」 な
(と我々の眼に映る)社会文化的活動を、「同化政策」体制下、最後まで維
持し担っていた、という点に筆者はことのほか興味を覚えた。
スマラン和合会に、華人以外の人々、いわゆるプリブミ(pribumi「生粋
のインドネシア人」を意味する)が少なからず関わっていた点も見逃せない。
特に会館の事務作業や葬儀・芸能活動の補助役はジャワ人が担っていた。こ
のほか、会館のスペースを華人のみならずジャワ人をはじめプリブミの人々
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の婚礼などの行事にもしばしば貸し出していることから、和合会館は華人集
住区 と 言 いながらプリブミも 多 く 混住 するスマランの下町地区 で 、両者 の
「共生」の拠点ともなっていた。
一世紀近い歴史を有するだけでなく、スマラン和合会については、ある程
度まとまった史資料が存在する点も魅力である。1930年代初めまでのスマラ
ン華人社会の歴史を纏めたリム・チアン・ユの『スマランの歴史(Riwajat
Semarang)』〔Liem 1933〕には草創期から同時代までの和合会についての
記述がある。1950年代半ばにスマラン華人社会の社会学的調査を行なったウィ
ルモットも、著作〔Willmott 1960〕の中でインドネシア独立後の再建期に
あった和合会に触れている。スマラン和合会自身も二回にわたって記念冊子
を刊行している。設立33周年および新館落成を記念した1956年の〔HHA〕
と、設立50周年を記念した1973年の〔HHB〕である。さらにスハルト体制
末期の1995∼1998年には、筆者自身がスマランで臨地調査を行ない、和合会
館を参与観察と聴き取りの拠点とした。
これらの基幹資料に関連刊行物・新聞雑誌の記述などを補完的に用いて、
スマラン和合会の百年史を描くことができれば、それはいまだ数少ないイン
ドネシアの華人社会史や都市社会史叙述の試みにもつながると筆者は考えて
いる。1998年のスハルト体制終焉以降、新たな変動のさなかにあるインドネ
シアと華人社会であるが、変動分析の前提となるべき過去の社会実態につい
ての研究は、いまだ極度に不足している。スマラン和合会の研究はその欠落
を埋める第一歩なのである。
次節では、まずオランダ植民地支配下での和合会の設立史に関わる幾つか
の問題について考察を進めよう。
第2節
スマラン和合会の誕生
スマラン和合会の設立の経緯は、同会自身が1956年と1973年に編纂した記
念冊子の中の説明によれば概ね次の通りである。
59
1900年、既に長くインドネシア(当時のオランダ領東インド)に定住した
広東出身の移民の子孫たちが 、スマランのブバアン通り(Jl. Bubaan) を
本拠に、コン・ギ・シアン(Kong Gie Siang、廣義祥)という名の友誼団
体を結成した。その後、廣義祥は[現在東ジャワの州都である]スラバヤに本
拠を置く和合会(Hoo Hap Hwee)の傘下に入り、スマラン和合会と改称
してスラバヤ和合会の支部になる。と同時に、広東系に限らず福建系など全
ての華人に門戸を開いた2。それからほどない1923年半ば、スマラン和合会
は全ての活動領域においてスラバヤ和合会との支部・本部という関係を断ち
独立した。この1923年がスマラン和合会の誕生の年である。当時の会の本拠
地は、スマランの華人集住区のプランピタン(Plampitan)のチョクロ集落
(Kampung Cokro)に置かれた。初代のトワコ(twako、長兄を原義とす
る最高指導者の意。後述)はリム・チアウ(Liem Tjiauw, 林照)であった 3。
これに対し若干の異説もある。オランダ植民地期スマランの華人ジャーナ
リストにして郷土史家でもあったリム・チアン・ユ(Liem Thian Joe)が、
1930∼31年にかけて地元紙『ジャワ・テンガ(Djawa Tengah、中部ジャワ
の意)』に連載し、1933年に単行本として刊行した『リワヤット・スマラン
(Riwajat Semarang、スマランの歴史)』の中にスマラン和合会の起源に関
する次のような記述がある。
リム・チアウ(Liem Thiauw)氏やリー・シック(Lie Sik)氏の努力に
より、1899年ブバアン集落にコン・ギ・シアン(廣義祥)という団体が設立
された。この団体は1923年にスラバヤの団体・和合(Hoo Hap)と合体し、
その時から名称も和合[会]と変更されたのである4。
両説の相違の一つは、廣義祥の設立年を前者は1900年、後者は1899年とし
ていることである。より大きな違いは、前者が廣義祥はスラバヤ和合会の傘
下 に 入 ることでスマラン 和合会 と 改称 し 、 やがて 1923 年 に 「独立」 した
60
(berdiri sendiri)と記しているのに対し、後者は同じ1923年に初めてスラ
バヤ和合会と関係を持った、それも両組織が「合体」した(digabungkan)
と表現していることであろう。いわば全く逆の説明である。
和合会の2回の記念冊子で略史を執筆したのは同一人物、すなわち1950年
代以降に会の書記を長く務めたティオ・ジン・リー(Thio Djing Lie)であ
る。彼が1956年の冊子中で断っているところによれば、初期の会史の拠り所
となるべき文書類は1942年からの日本軍政期に全て失われてしまった、従っ
て自分は往時のことを多少とも記憶していると思われる古老たちへ聴き取り
を行なって叙述を進めた、というのである5。つまり、スマラン和合会自身
の刊行物といえども、1899ないし1900年からは半世紀以上、1923年からも30
年以上の時間を経て人々の記憶と聴き取りを頼りに書かれたものであり、正
確な史実を再現している保証はない。他方、リム・チアン・ユの著作は、1923
年 から10年と 経ない1930年代初頭に 書 かれているのだから、 こちらの 方 が
「記憶違い」の可能性は低いかもしれない。ただし、リムの書は(大量の新
聞雑誌記事を主な情報源にしているようであるが)どの記述にも典拠を示し
ておらず、こちらも正確性を即断しがたい。
いずれにせよ、確かに言えそうなことは、スマラン和合会はスマランにお
いては広東系移民と子孫を中心とする廣義祥をルーツとしていること、1923
年を境に和合会に改名したこと、同時に改組すなわち福建系をはじめとする
全ての華人に門戸を開いたらしいことである。廣義祥がどのような団体であっ
たのか、記念冊子中の友誼団体(perkumpulan persahabatan)という記述
以外、判断材料がない。また、廣義祥とスラバヤ和合会との「合体」や「独
立」の前後関係や詳しい事情、内実は明らかでない。ただ、現在に至るまで
スマラン和合会の関係者たちが、自分たちのインドネシアにおける起源は廣
義祥にあるが、和合会としての設立年は疑いの余地なく1923年だと意識して
いることは、1990年代半ばに行なった筆者の聴き取り調査においても明確で
あった。
次に、こうして生まれたスマラン和合会の二つの側面、すなわちこの団体
61
が中国的伝統、特に会党(秘密結社)の系譜を受け継ぐという自己アイデン
ティティを連綿と伝えていること、その反面、設立当初から従来の会党的性
格を克服して「近代的」な組織に脱皮しようという目的意識を、少なくとも
指導者層が有していたさまを順にみてゆこう。
第3節
洪門の系譜意識
スマラン和合会のメンバーは自分たちのルーツが中国の秘密結社(中国語
で秘密社会)、特に清末の会党組織「洪門」に連なる、という自己アイデン
ティティを、現在に至るまで強く抱いている6。それが前身の廣義祥の時代
からなのか、スラバヤ和合会の傘下に入ってからであったのかは詳らかでな
い。ともあれ、「洪門(福建系の発音でHong Bun)」の系譜を強調すること
は、会の出版物やメンバーの発言にもしばしばみられる。例えば1956年の記
念冊子冒頭の巻頭言(中国語とインドネシア語を併記)で、トワコすなわち
最高指導者チウ・ギ・クウィ(Thioe Gie Kwie、周義桂)は、「我らの伝統
である洪門の精神を発揮しよう!」と呼びかけている7。同じ記念冊で「洪
門の子(anak Hongbun)」を自任するスマラン和合会のメンバー、ウン・
スウィ・セン(Oen Swie Sen)は、「洪門の精神(semangat Hongbun)」
を「兄弟としての絆(tali persaudaraan)」だと言い換え強調している。
ちなみに、洪門とは清末中国の代表的な会党である天地会の代称とされる
こともあれば[周1993: 593]、天地会・三合会・三点会をひとまとめにした
同胞組織で「大きな門」の意だと説明されることもある[リン 1995:22]。一
見(一聞)おどろおどろしげな中国の秘密結社の「正体」や、中国の社会と
歴史に果たしてきた役割については、筆者の知る限り、山田賢の目の醒める
ような著作[1998]が最も有用である。同書によれば、洪門の「洪」の字は天
地会に代表される会党系秘密結社のシンボルカラー「紅」に通じる(洪と紅
は中国語でも同音である)点に意味があるという8。
会党からの系譜意識は、既に触れた役職呼称にもみられる。和合会の最高
指導者の職にある者は外向けには中国語で「主席」
、インドネシア語で「ketua」
62
などと表現 されることもあるが、会 の内部 では常 に尊敬 と親 しみを込 めて
「トワコ(twako)」と呼ばれる。これは長兄を意味する「大哥」の福建音
である。同様に、次席指導者は次兄を原義とする「ジコ(jiko、弐哥)」、第
三位の指導者は三番目の兄の意味で「シャコ(shako、三哥)」と呼ばれる。
こうした慣例は、中国の秘密結社が元来何の縁もない赤の他人同士を、参入
儀礼の契りを経て実の兄弟以上の相互扶助関係に取り結ぶものだったこと、
ゆえに特に移民社会にあっては
「氏族の代用」の機能を果たし
たことと関わっているだろう9。
未知の人間同士が互いに同じ
結社のメンバーであることを知
らせ合う工夫として、様々な隠
語 や 符丁 がある10。 このうち 例
えば、握手をする際の独特の指
の形、机上に帽子を置くやり方
などについては、1990年代半ば
の筆者の現地調査の折、スマラ
ン和合会のメンバーから「最近
ではめっきり廃れ忘れられつつ
あるが、ひと昔前には仲間内で
盛んにやっていたものだ」と教
えられたことがある。
図3.スマラン和合会の定款手帳の表紙〔HH③〕
秘密結社の系譜(の意識)を現在まで比較的明瞭に伝える物的痕跡の一つ
に、会のロゴマークがある。図3は、スマラン和合会の定款(総則・内規)
を記したポケットサイズの手帳である。1954年に法人として登記(1982年に
一部改訂)されて以降、会員に配られるようになったものだという。法人登
録するということ自体、和合会が少なくとも1950年代にはもはや「秘密」結
63
社ではない、ということを明確に示していようが、そのこととは別に、中央
に描かれたロゴは幾つもの点で興味深い。
まず、意匠の中心をなす秤(はかり)は、会党系秘密結社の儀礼に用いら
れる代表的な呪物の一つだということである。山田〔1998:70〕によれば、
「反清復明」を奉じる会党において、秤は「清に対して明を量り、かつ叛逆
に対して忠義を計る正義と公道の表象」だという。また、秤の右側、八卦図
に囲まれた漢字様の文字は作り字と思われるが、「共同和合」の四文字を組
み合わせたものである。スマラン和合会の幹部だった故ガン・コック・ホウェー
(Gan Kok Hwee)氏によれば、「和合会」の名はおそらくこれに由来する
という11。同じ作り字は山田の書〔1998:76〕の「三合会の会員証」図にもみ
えるし、四文字にばらした「共同和合」の合言葉も同書71頁の「秘密結社の
『祭壇』」図の中にみられる。他方、秤の左側の作り字(特に「郡」の部分)
の全体的な意味はこれまで筆者には不明だが、山田〔1998:214〕に紹介され
ている「金蘭兄弟」という成句(同心の友の契りは金よりも固く、蘭の花よ
りも香 り高い、の意)と関連 すると思われる12。「金蘭」 の語 は、スマラン
和合会の1956年記念冊子に会員のリオン・ホン・ユ(Liong Hong Ju, 梁鴻
裕)が寄せた漢詩にも「金蘭結義」
「金蘭互助」と二回出てくる〔HHA:54〕
。
秘密結社、とりわけ洪門の系譜と意識を示す物的証左の二番目は、スマラ
ン和合会館にある祭壇である。二階建ての会館の上階北側(海側)には三つ
の祭壇が並んでいる。そのうち、最も明示的なのは向かって左側の祭壇であ
る(図4参照)。祭壇正面に書かれた三列の文字のうち、中央に「洪門歴代
先祖総神位」と大書されている。「洪」の字の左右には、例の八卦図に囲ま
れた「共同和合」の作り字のロゴが配されている。右列には「忠心結拜同享
太平」、左列には「義氣聯盟共楽天國」と書かれている。写真では小さくて
見えにくいが、「忠心…」の右肩には「壟川(スマラン)和合會館新厦落成
誌慶」、
「義氣…」の左下方には「會友
林正美・陳文徳拝賀」とあるから、
この祭壇がスマラン和合会の現在の会館が竣工した1956年に林・陳両名によっ
て寄贈されたことがわかる13。
64
三つの祭壇のうち、向
かって右側は関帝聖君す
なわち関羽を祀るもので
ある。天地会系の秘密結
社と関羽の結びつきにつ
いては山田〔1998:68-69〕
に詳しい。同書によれば、
関羽が「義」と「武」の
神として一般に広く尊崇
されていたことに加え、
「桃園の誓い」により義
兄弟の契りを結んだ劉備、
張飛、関羽の関係が、盟
約を以って「洪」姓の兄
弟となる会党秘密結社の
いわば理想的元型と見な
されたこと、さらに関羽・
張飛は劉備を推し立てて
図4.「洪門歴代先祖」を祀る祭壇
「漢」の復興をめざしたがゆえに「反清復明」のスローガンと二重写しになっ
て意識されていたと推測される、という。
三つの祭壇のうち中央のものには謎が多い。この祭壇だけは固く扉の閉ざ
された小部屋の奥に安置されており、普段は見ることができない。和合会や
華人社会の祝祭日など特別な機会にのみ開帳され、やや遠くから眺めること
ができるが、そのような機会でも写真を撮ることは憚られる雰囲気が濃厚に
漂っている。図5の写真は筆者自身の撮影ではなく、スマラン和合会の厚意
で頂戴したものである。
65
この祭壇に祀られてい
るのが「洪門五祖(Hong
Boen Ngo Co)」である
ことははっきりしている。
祭壇中央の上方にもそう
明記した横断幕が掲げら
れているし、スマラン和
合会の指導者や一般メン
バーも、ここには「五祖
( Ngo Co )」 が 祀 ら れ
ている、としばしば口に
するからである。しかし、
その「洪門五祖」とは何
者なのか、正体が判然と
しない。
和合会のメンバーによ
る説明もまちまちで一定
図5.「洪門五祖」を祀る中央祭壇
しない。一考に値する説
の一つは、中国における天地会系秘密結社の起源伝承に登場する、武勇で名
高い少林寺の五人の僧だというものである14。先に紹介した左側の祭壇、す
なわち「洪門歴代先祖総神位」を祀る祭壇(図4)の卓上には小さな黒色の
位牌が二つ置かれている。そのうち、中央の牌は「前印尼国(インドネシア
全土の)廣義祥・和合会諸先哲之神」を祀る。他方、左側の牌には「少林武
師先祖神位」という神名が「義武局」という文字と共に彫られている。義武
局とはスマラン和合会のスポーツ・芸能部門(特に往時盛んだったというカ
ンフー武術団)の別称であり、彼らが秘密結社の起源における少林寺伝説を
自分たちの組織の系譜と重ね合わせて考えているさまが窺える。
だが、少林寺の五僧説話は清代康熙年間(1662∼1722)を背景としている。
66
これに対し、五祖とは清末から辛亥革命の時代に孫文を支援した実在の人物
だ、と語る和合会メンバーも少なくない。実は五祖の祭壇に入る扉の頭上に
は孫文の写真が掲げられている。また、図5では見にくいが、祭壇上にはな
んと五祖の「真影」とされるモノクロームの写真が安置されているのである。
これが本当に五祖だとすると、写真の存在しなかった17-18世紀の少林寺の
僧らとは少なくとも直接の関係はなく、孫文の革命事業を支援した会党系秘
密結社の指導者たちだとする説の方が有力に思える。
白石隆の研究〔1975:80-81〕によれば、1877年シンガポールに存在した全
会党の上位組織、義興会はその公所に洪家廟を持ち、ここで年二回、「五祖」
を祭る儀式が全会党合同で執行されたという。その「五祖」は三合会の創始
者で実名もわかっている。すなわち、蔡徳忠、方大洪、馬超興、胡徳帝、李
式会の五名である。これらの人物の生没年や三合会の創始年は現在のところ
筆者の調べがまだついていないので、スマラン和合会の五祖祭壇の「真影」
の五名と直ちに結びつけることはできない15。
いずれにせよ、スマラン和合会が中国由来の秘密結社の系譜を有すること、
少なくともメンバーたちがそのような自己意識を現在まで持ち続けているこ
と、またその具体的な根拠の数々については以上の記述から明らかにできた
と思う。
第4節
「近代化」の志向
スマラン和合会の人々が会党の系譜意識を持ち続けていることは事実であ
るが、それはこの組織が「伝統回帰」の志向に偏っている、ということを必
ずしも意味しない。むしろ、会党という中国由来の結社の形式や素材を一面
で保持活用しつつ、他方では自分たちが現に生活しているインドネシア(創
設時はオランダ領東インド)の社会で存在を許容され、組織ひいては華人コ
ミュニティ全体の発展を期すために、少なくとも指導者層においては「近代
化」の必要性が強く意識されていた面を見落とすわけにゆかない。
例えば、前節冒頭で紹介した1956年記念冊子の巻頭言で、トワコ(最高指
67
導者)のチウ・ギ・クウィは、会誕生の歴史に触れ、次のように記している。
「33年前〔1923年〕、広府の出身者たちは廣義祥に集っていた。その数は少
なくなかったが、考え方が閉鎖的で行動様式も封建的であるために、同じ地
に住んでいる同胞〔華人〕同士の間でもコミュニケーションが悪く、少しの
行き違いで容易に抗争を生み、野蛮な殺し合いに至ることさえあった」、
「そ
こで進歩的な思想を持つ当時の指導者たちがこうした状況を改善しようとイ
ニシアティブを取り、ここに廣義祥から和合会への〔広東出身者から全ての
華人への門戸開放を眼目とする〕改組が成ったのである」16。同じ巻頭言の
末尾で、チウは既に紹介した「我らの伝統、洪門の精神を発揮しよう」とい
〔華人〕社会の近代化という目的に到達するよう、会務の
う言葉に続けて、「
推進に努めよう」と呼びかけている17。
スマラン和合会には、ライバル組織すなわち三萬興(サン・バン・ヒン、
Sam Bam Hien)が存在する18。リム『スマランの歴史』によれば、三萬興
は 廣義祥 のライバルだった 会党・洪義順 が1907年 に 改名 したものだという
〔Liem 1933:168-169〕。両者の改組・改名後も、少なくともオランダ植民地
期いっぱい暴力的抗争(中国の秘密結社の文脈でいえば「械闘」もしくはそ
の真似事であろう)は続いたらしい19。上述のチウの「近代化」への呼びか
けが「封建的な抗争」の改善とセットになされていることは、民国成立後の
中国でなお遅々として進まない国民統合を目指して孫文らが苦闘し、インド
ネシアでも近代的ナショナリズム運動が進展した1920年代という時代背景を
考慮すれば、いっそう理解できよう。
オランダ植民地期のスマラン和合会の規約等は、日本軍政時代に失われた
らしく、残念ながら会にも残っていない。が、スラバヤ以外にもジャワに存
在した和合会の兄弟組織の一つ、バタビア和合会の1938年版の定款手帳を筆
者は偶然ジャカルタの古書店で入手することができた〔Hoo Hap Batavia,
。その表紙に特徴的なことの一つは、図3に見たスマラン和合会の1954
1938〕
年版定款手帳と同じロゴが中央に描かれていることである。二番目に、表紙
に記された標題が「総則および内規」を意味するオランダ語(Statuten en
68
Huishoudelijk Reglement)で表記されていることである。中身に目を移す
と、内規の方はバタビア和合会独自のものであるが、総則の方はスラバヤ和
合会のそれを転載したものである(Statuten dari Perkoempuean Hoo Hap
Soerabaiaと題されている)ことがわかる。さらに、総則の前頁に、スラバ
ヤ和合会の組織はオランダ植民地政府の諸法規に則り、1915年に法人登記の
申請がなされ、翌1916年に許可が下りたものであることが明記されている。
既述の通り、スマラン和合会がスラバヤ和合会と関係をもつことで廣義祥
から改組成立したこと、おそらく1923年までスラバヤの傘下にあったことを
想起すると、オランダ植民地期、スマラン和合会もまたバタビア和合会と同
様、オランダ植民地政府の認可を得た法人、つまりこの点において中国の秘
密結社とは程遠い「近代的」組織として存在していたのではないかと推察さ
れる。バタビア和合会(従ってスラバヤ和合会本部)の総則の地の文は全文
マレー語(厳密にはいわゆる華人マレー語)で記されており、中国語は一切
ない。逆に、会員(leden)や入会(entree)など定款特有のキーワードに
は、しばしばオランダ語の単語がちりばめられている。これらから推察する
と、ジャワの各都市に成立した和合会は、オランダ植民地期において既に、
中国移民一世であるトトッ中心の組織ではなく、少なくとも指導者層におい
ては、マレー語を母語とする(しばしばオランダ語教育を受けた)プラナカ
ン中心の組織だったのではないかと思われる。
オランダ植民地期に華人もインドネシア・ナショナリズムへ参入ないし連
帯 すべきことを 唱 えて 結成 されたインドネシア 華人党( Partai Tionghoa
Indonesia,略称PTI)という政党がある20。PTIは1932年9月25日にスラバ
ヤで旗揚げされたが、同年10月9日にスマラン支部が設立されている。800人
余の聴衆を集めたと伝えられるその設立集会は、当時ピンギル小路(Gang
Pinggir)にあったスマラン和合会館を会場として行なわれた21。会館を結婚
式などの催事に貸し出すことは当時から行なわれていた(そのため和合会館
は現在も何百人も収容できる空間と大量の椅子、什器などを有している)か
ら、このこと自体は、和合会とPTIの組織としてのつながりを示すものでは
69
全くない。ただ、1930年代半ばにタン・ホン・ブンが編纂したジャワ華人名
士録〔Tan 1935:129〕によれば、スマランに程近いサラティガ(Salatiga)
の町の和合会のメンバーであったタン・チュン・タット(Tan Tjoen Tat)
という人物は、PTIサラティガ支部にも加入していたらしい。さらに、タン・
チュン・ タットは、サラティガの中華会館(Tiong Hoa Hwee Kwan)の
役員でもあった。1900年にバタビアで最初に設立され蘭領東インド各地に拡
がった中華会館は、孔子教の復興など中国志向と映る側面もあったが、西洋
式の学校経営を中心とする「近代化」を通じ、東インド植民地における華人
の地位向上、より端的には法体系における「ヨーロッパ人と同等の待遇獲得
(オランダ語でgelijkstelling)」を目指す組織であった〔貞好2011:30-32〕
。
スマラン和合会に話を戻すと、歴代の最高指導者、トワコたちの肖像写真
を33周年記念冊子 で見 ることができるし〔HHA :41〕、額に 入った同 じ 写
真が現在の和合会館二階の上方壁面に(三つの祭壇のある北側を除き)ぐる
りと掲げられている。初代のリム・チアウ(林照)に始まり、二代目のロー・
、三代目および八代目のカム・イン・ホワッ
ユ・ギー(Lo Yoe Gie、呂有義)
ト(Kam Ing Hwat, 甘栄發)、四代目のチウ・ティック・リー(Tjioe Tik
Lie)、五代目および十代目のリー・ホー・スン(Lie Hoo Soen、李和順)、
六代目のリム・ティアン・チュ(Liem Tiang Tjoe, 林長珠)、七代目のオ
ン・ イン・ ヒアン(Ong Ing Hian, 王栄賢)、九代目 のリム ・ ギョク・ ス
ン(Liem Giok Soen, 林玉巽)に至るまで、その服装はことごとくオラン
ダ植民地官吏風の詰襟か、背広にネクタイ、つまり洋装である22。
スマラン和合会の「近代化」志向の側面を代表する指導者として、五代目
および十代目のトワコを務めたリー・ホー・スンのプロフィールを垣間見て
おきたい。リーは1896年蘭領東インド(おそらくスマラン)に生まれ、オラ
ンダ式教育を受けた。当時としては領内最高のオランダ式高等学校(Hoogere
Burger Shool, HBS)を出ているから、洋式教育を受けたプラナカンの典
型的なエリートと言ってよい。その後リーは、製糖業を中心に東南アジア最
初の華僑財閥として発展した黄仲涵財閥(ウィ・チョン・ハム・コンツェル
70
ン、OTHC。統括会社はスマランに本拠を置く建源公司)に勤め、幹部とし
て重用された。二代目当主のウィ・チョン・ハウ(黄宗孝)とは個人的友人
でもあった23。これらのキャリアを基盤に、リーはスマランの華人コミュニ
ティ団体の活動にも積極的に関与し、1926年には29歳の若さで草創期の和合
会のトワコに選挙で選ばれている。積極的な(おそらく近代的)改革に努め
たリーはいったん同職を退いたが、1936年には再びトワコに再任され、葬祭
互助が中心だった和合会に芸能部門(義武局 Gie Boe Kiok)を設けるなど
会の発展に貢献した。満鉄東亜経済調査局が1940年に発刊した『インドネシ
アにおける華僑』の中でも、彼は「主要都市華僑重要人物調査表」のスマラ
ンの項に、「李和順:46歳、当領生まれ、和合総理、建源公司不動産係主任」
として名を挙げられ(目をつけられ)ている24。リーは母語としてのマレー
語(インドネシア語)およびジャワ語と教育で身につけたオランダ語や英語
には堪能だったが、中国語は福建系の挨拶言葉(決まり文句)を除きほとん
どできなかったらしい。このような人物が植民地期スマラン和合会の代表的
な指導者だったのである。
おわりに
1942年3月以降、東南アジアに侵攻し旧蘭領東インドをも支配下に置いた
日本軍は全ての政治団体を解散させた。スマラン和合会は政治団体ではなかっ
たが活動停止に追い込まれた。日本軍政は全ての華人を統合する翼賛機構と
して「華僑総会」を設立したが、和合会関係者はこれへの協力に消極的だっ
たと伝えられる25。トアコを務めていたリー・ホー・スンは捕えられ、他の
多くの華人指導者と共に裁判もないまま投獄させられた。日本軍政期に逮捕
投獄された華人は、中国国民党や共産党の支持者の嫌疑を受けたか、親オラ
ンダとみられたかの場合が多いが、リーの場合はおそらく後者ではなかった
かと思われる26。和合会館の「家具什物」は、おそらく黄仲涵財閥と縁の深
かったリーの関係の賜物であろう、「建源公司の倉庫に保管」されたという
〔HHA:6〕。日本軍政と対オランダ独立戦争の時代、活動停止していたスマ
71
ラン和合会が再建されるのは1950年代初頭のことである。
以上、本稿では主としてオランダ植民地期のスマラン和合会の設立の経緯、
会党系秘密結社など中国起源の素材を用いつつ、むしろ現地社会と時代の要
請に根ざした「近代的」志向を当初から有していたことを明らかにしてきた。
同会が1950年代いかに再建され発展したか、さらに「華人同化政策」の敷か
れたスハルト体制期をどのように生き延びたか、などインドネシア独立後の
組織の実態と変容の諸相については、稿を改めて論じたい。
注
1
このことから、僑団・僑校・僑報をまとめて華人(華僑)社会の「三宝」と呼ぶ
こともある。
2 華人を本人または祖先の出身地別に分けた場合、ジャワにおいては福建系がマジョ
リティである。1930年の統計で、スマランの華人27,423人中、福建系が19,599人で
71.5%を占める一方、広東系は1,982人で7.2%に過ぎなかった〔Volkstelling 1930:
91-93〕
。また、Hoo Hap Hwee(和合会)という組織名をはじめ、後述するTwako
(トワコ、大哥)などの役職名も福建語読みである。
3
以上、〔HHA:1、10-11〕,〔HHB:20-25〕の記述を総合した。
4
Liem〔1933:168〕.
5
〔HHA:10〕
.
6
本文次段に言及する山田賢の研究〔1998:60、72〕は、中国の秘密結社を元末か
ら顕在化した 白蓮教系と 清末以降に 現れる会党系に区別 している。本稿では 後者
(会党系秘密結社)の意味で、「会党」と「秘密結社」の両語を適宜互換的に用い
る。
7
〔HHA:0-1〕
8
山田〔1998:66,72,77-78〕。なお同書によれば、三合会とは天地会系秘密結社の
清末における改称ないし異称である〔山田 1998:64,146,180〕。この点、本文に引
いたリンの説明とは合致しない。
9
山田〔1998:13-14,74-77,106-110など〕、およびリン〔1995:22-23〕参照。
72
10
山田〔1998:78-83〕.
11
2000年7月31日に和合会館で行なったインタビューによる。
12
山田〔1998:209-210,214〕によれば、「金蘭兄弟」は「拝把子」の別表現である。
「拝把子」とは、清末から民国初期の中国社会一般に盛行した慣習で、異姓の男性
間、女性間において義兄弟、義姉妹の契りを結ぶものであったという。
なお、上方に掲げられた「聚忠堂」の意味や由来は現在までのところ筆者には不
13
明である。
14
少林寺と関わるこの起源伝承は山田〔1998:64-68〕に詳しい。
15
和合会の五祖祭壇の写真を間近でしげしげと眺めることは筆者個人の心情として
も会員との関係上もおおいに憚られるため、これまでのところ実現していない。し
かし、純学術的にいえば、例えば「五祖」が辮髪をしているか落としているかなど、
服装や背景を含めた写真の精査が必要であろう。
以上〔HHA:0〕の中国語版と〔同:1〕のインドネシア語版を総合して訳出し
16
た。
17
前注に同じ。中国語版では「現代化」とされている部分を近代化と訳した。
18
三萬興もかつては葬祭などの互助団体でもあったらしいが、筆者が調査した1990
年代半ばにはその機能は失われ、会館もなく、龍・獅子舞や武術を中心とする芸能・
スポ ー ツ 団体 としてのみ 存続、名称 もポルシガプ ( Porsigab, Perguruan Olah
Raga Silat gaya Akrobatikの略)とインドネシア風に改められていた。団旗には
「山東少林団」という文字がみられた。
19
1956年の和合会33周年及び新館竣工記念冊子〔HHA:29,86〕に三萬興代表から
祝辞が寄せられている様子などから、この時期になってようやく一応の「手打ち」
がなされたらしいことが見て取れる。
20
PTIについては貞好〔1993〕で発表したほか、より詳しいフル・ヴァージョンを
貞好〔2011〕に収録した。
21
〔Djawa Tengah, 11 October,1932〕.
22 歴代トワコの名前と順序については、同じ書き手(1950年代以降書記を務めたティ
オ・ジン・リー)によるものでありながら〔HHA:10-12〕と〔HHB:20-25〕とで
若干(3∼5代目について)順序が異なっている。どちらが正しいか判別しかねる
ため、ここでは仮に前者に従った。
73
Yoshihara〔1989:106c〕にリー・ホー・スンがウィ・チョン・ハウ一家と食卓を
23
囲 んでいる 1934 年頃 の 写真 が 掲載 されている 。 キャプション 中 で 、 リ ー は 、“ a
professional manager of Oei Tiong Ham Concern as well as Oei Tjong Hauw’s
friend”であったとされている。
24
満鉄東亜経済調査局〔1940:付録篇23〕。
25
〔HHA:6,11〕、〔HHB:23〕.Siauw〔1981:18〕によれば、日本の東南アジア
侵攻に約10年先立つ満州事変の際、オランダ領東インドの華人の間でも日貨排斥運
動が起きたが、少なくともスラバヤの和合会はこれに加わり、依然日本商品を扱っ
ている華人商店への嫌がらせなどを行なったという。
26
他方、1945年の日本降伏に続く対オランダ独立戦争の時代には、リーはインドネ
シア共和国側を支援して活動し、オランダ当局に逮捕拘束されている〔Buku Peringatan
240 tahun…:112〕。
言及した参考文献
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75
Changes of a Community Association of Indonesian Chinese:
Preliminary Review of Hoo Hap Hwee Semarang
This paper examines some aspects of Hoo Hap Hwee Semarang, a Chinese
community association located in Semarang, capital city of Central-Java Province
of Indonesia. Hoo Hap Hwee Semarang is one of few Chinese community associations which have survived almost a century of modern-contemporary Indonesian
history . Thus changes of the association are supposed to be reflecting the
changes of political, economic, and cultural environments surrounding Chinese
communities in Indonesia.
Part 1 reviews the early history of Hoo Hap Hwee Semarang. It was originally a Canton immigrants based association named Kong Gie Siang, but reorganized
under the influence of Hoo Hap Hwee in Surabaya and open the door to the
all immigrants and offsprings of Chinese descent. It gained independence from
Surabaya in 1923.
Part 2 analyzes the “Chinese origin” aspect in Hoo Hap Hwee Semarang’s
identity, especially of Hong Bun, a coalition of Chinese Secret Societies that
emerged at the late era of Ching Dynasty.
Part 3 points out another aspect of Hoo Hap Hwee , i. e ., the orientation
towards “modernization” of the association as well as Chinese community as
a whole. Such aspect is seen in discourses of the leaders, their profiles, and
the fact that Hoo Hap Hwee obtained juridical person’s status to be recognized
in the framework of modern colonial rule by the Dutch.
Keywords:
Chinese, Indonesia, community association, Hoo Hap Hwee, Semarang
華人,インドネシア,コミュニティ団体,和合会,スマラン
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