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遺伝的デザインの哲学 - 哲学若手研究者フォーラム

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遺伝的デザインの哲学 - 哲学若手研究者フォーラム
哲学 の探求
第 33号
哲学若手研究者 フォー ラム 2CX16年 5月
(39‐ 52)
遺伝的デザイ ンの哲学
金森
修
は じめに
私は、この4、 5年 、ヒ トの生殖系列を対象 に した遺伝子治療や遺伝子改良 とい う、
かな り奇矯な話題につい て、何本か論孜を公表 してきた。主な論牧だけで も、英語
で3本 に観m昴 ,2003,2∞ 5■ 2∞5b)、
日本語 0本 (金 森 2CXXl,2∞ 1,2∞ 3,2CX15
a)に のぼる。 日本語 の ものは『 遺伝子改造』
した上で1冊 に纏 め、2005年
10月
(金 森
2∞ 5b)と して、若千書 き直
に公刊 した。 この風変わ りな話題にこれほ ど深 く
関わ ることになろ うとは思 つて も見なか ったが、いま一応の総括 を提示 した上で 、
この問題 を見直 してみ る と、この問題が、遺伝学 の特異的な話題 だけに絞 られ るこ
とな く、いろいろな論点 を含んでいるとい うことが分か る。それは、われわれ の文
化 とは何か とい う問題 一般 にまでも関わ つて くるだけの射程 の大きさをもつてい
る。い うまでもな く、私 は哲学系の人間 として作業 しているわ けだか ら、遺伝 学 だ
けの内部に沈潜す る とい うのではなく、具体的事例を起源 として、波のよ うに拡が
る文化的波及効果や哲学的含意の方に主に興味をもってい る。
議 論 の詳細 は、上記 の 諸論孜 を見て いただ く しかない。 ところで、議論 の 前
提 に な つてい る介 入 可能性 をひ ょっ とす る と総 体的 に瓦 解 させ るか も しれ な
い生 物学的限界 につ い て も、近年の遺 伝学 は示唆 し夕
台めてい る。 そ うな る と、
designer childな どの仮想 事例は、ほぼ純粋 に空想 と して留 ま り続 けるこ とにな
る。 ともあれ 、それ は最 終的には遺伝学的 で医学的な決着 を見 るべ き問題 であ
り、また 、現時点 ではい ずれ にせ よ決定的な こ とを言 える段 階 にはない。 だか
ら、 ここでは一 定 の 介入 可能性 を論理的 に担保 した上 で議論 を進 める。 また 、
紙数 の 関係 もあるので 、論 点 を絞 り込み 、 ヒ トゲ ノムが 操作 の対象 として開放
39
遺伝的デザインの哲学
され る と して 、そ の場合 に人 々の 介入 を大枠で規 制 す る倫理原則 は どんな もの
なのか 、 とい う問 い を中心に して議論 を組み 立 ててみ たい。
1
改造 の諧類型
体 )拙 稿 で も既 に論 じてあるよ うに、も しわれわれ が ヒ ト生殖系列 に介入 を始め
るとす るな ら、その最初期の様 相は、比較的明確 な輪郭 を帯びている。まず、その
背景になる大量の動物実験 がある。マ ウス・ ラッ トを主に使 うだろ うが 、可能的に
はチ ンパ ンジー な どの高等霊長類 を使 うこともあ りうる。いずれに しろ、最終的に
は人間 自体 を対象 に した人体実験 に入 らぎるを得 なし■ だが、この場合 、被験者 と
はいつて も、実際に影響 を受けるのはその人の子 どもや子孫だ。そ して、彼 らから
イ ンフォー ム ド・ コンセン トを取 る ことは原理的 にで きない。だか ら、その利点 と
リスクを説明 しよ うにも説明できないのだか ら、に もかかわ らずそれ が許 される実
験であるためには、被験者 に或 る重篤な遺伝病 があ り、それが子孫に多大の苦 しみ
を与える可能性 が高い場合 にのみ許 されるとい う限定 がつけられ るはずだ。それで
も当然 リス クは付 きものとい うことになるだろ うが 、現在で さえ、た とえば末期状
態の患者 に半ば実験段階の薬 を投与するなどとい うことはある。それが リスクを冒
すに値す る見返 りの可能性 を抱 え込む限 り、リス ク自体の存在や、そ の行為全体の
実験的性格 は別 に問題には され ない。そ してこの場合 、も し遺伝子治療 によつて遺
伝病 が克服 され るなら、その成果 は、その後の世代 に無際限に続 くことになるので、
その偉業 の価値はきわめて高い と判断 されるはず である。ともあれ、この最初の判
断をも う一度確認 してお く。ヒ ト生殖系列への介入 の第一歩は、治療 目的以外の も
のではあ りえない。
では、そ の後 の行路を、思考実験 的に展開 してみ よ う。以下の論述は既出の拙論
(金 森
2∞ 5■ 21X15b)と 大幅 に重なるが、重要な部分 なので、 ここで も再論 して
お く。
まず、そ の治療的介入が所期 の 目的を果たせず 、子 どもに思いがけない危害が加
えられ るこ とが、幾つ もの具体的事例で明 ら力ヽこな る場合。その場合 は、その (重
40
篤な遺伝病)が もた らすマイナ ス面 と、介入起源 の危害 のマイナ ス面 との比較がな
され、後者の方がむ しろ大きい とい う評価が下 され るとき、その実験は頓挫す る。
とい うの も、
重篤 な遺伝病でも、遺伝子操作 しか手だてがないとい うわけではな く、
先端的 な通常医療でも或る程度のケアはできるか らだ。このよ うな ことが続 くとき、
生殖系列遺伝子改造は端的に実際の社会空間か らは撤退 し、
SFの なかでかろ うじて
生 きなが らえるだけになる。
次 の可能性
=つ
ま り、その治療的介入が、もちろん全部が最初か らとい うことは
あ りえないに して も、或る程度 の効果をあげ、い くつかの重篤な遺伝病 の出現比率
が低 くなるとい う実効性 をもつ に至 る場合。その場合 には、この遺伝子改造は重 い
遺伝病 を各個撃破的に一つひ とつ取 り上げてい くとい う壮大な研究計画 として、し
ば らくの間、 〈
繁栄)を きわめるはずだ。ただ、その場合で も、 〈
失敗事例)に 対
す る制度的ケアが問題 になるだろ う。まず考えられ るのは、先端的な医療技術の導
入時であるだけに、できる限 り失敗は した くない とい うことで、普段に も増 して綿
密な検査が改造 された初期胚や胎児に対 して行われ 、なにか異常が見つか り対処法
が見当た らない場合 には、中絶 が行われ るだろ うとい うこと几 ただ、その種 の綿
密 な検査 で も分か らない異常が出産以降に見つ かる場合 は当然考えられ る。その場
合、その新生児 の世話は、当該の親だけに任せ るのは無理があるので、なかば公的
な医療機関や支援機 関によつて独 自のサポー ト体制 を作 るとい う手法が採用 され
るだろ う。 もちろん、この仮想的ケースでは、数多 くの成功事例 と、比較的少ない
失敗事例 とい う、全体 としてみた ときには介入に許容性 を与えるよ うな相互比率に
留まるとい うことが前提なので、このサポー ト体制 も、それほど大規模な ものでは
な くて もいい とい うことになるはずだ。
こ うして、失敗すれば頓挫 し、成功すれば生殖系列遺伝子治療は続け られ るとい
う、なかば 自明の確認 をした。だが この
(自
明の翻
は、次の段階に進むために
は必要な確認だつた。問題 になるのは、この治療的介入が通常い う意味での治療 な
のか、それ とも治療以上のことなのかが徐 々に分 か らな くなるような状況が どん ど
ん出て くるだろ うとい うことだ。
41
遺伝的デザインの哲学
o)た
とえば正常な両親か ら成長ホルモ ン欠乏症 の子 どもが生まれた場合 と、非
常に身長 の低 い両親か ら正常な子 どもが生まれた場合 とい う2つ の ケースを考える。
そ の二つ とも、その子 の成人後 の予測身長値は約 15∝ mだ 。 もし、そ の2つ のケー
スにおいて、共に成長 ホルモ ン剤投与療法が行われ るとして、前者は 〈
治療 )で 、
後者は
(改 良 。
強化〉 (enhancement)と
い うことになるのだろ うか (Pa-1998)。
前者 の家族が子 どもに治療 を施す とい うことに仮に反対す る人がいた として、その
人 の反対の理由付け としては、その医療行為に内在す る危険性が想定以上に大きな
ものだろ うか ら、とい うよ うな ものがあるだけだ。さて、その種 の批判はあるか も
しれないが、それで も治療 なのだか らとい うことでとにか く実際に実施 され、その
成功事例が徐 々に増 えてい くとす る。す ると、その有効性 を確認 した後者のよ うな
家族 が、少 しでも高い身長 を子 どもに与えてや りたい と願 い、ホルモ ン療法を受け
よ うと決断す るとい うことにはな らないだろ う力、 ところが、それは、治療 とはい
えずに単なる強化なのだか ら、とうてい正 当化 されない として、両親 の意向は拒否
され るべ きなのだ ろ う力、 またその場合 、も し子 ども当人が望んだ場合 には どうな
るの力、 このよ うに、治療的実践 の成果 の存在 自体が、治療 の枠 を破 る改良的な医
療行為への道 を開いて しま うとい う構図が、否応な く透視 されて くる。
もう少 し考えてみ よ う。或 る人が重大事故 のせいで片足 の膝 か ら下を失 つて しま
う。 ところが同時代の医療 の粋 を尽 くした精巧な義足が装着 され る。その結果、そ
の人は、かえつてそれ までよ りも若干早 く走れ るよ うになる。 これは治療なのか、
強化なの力、 これは直接 の契機は治療的なものだ とい うのは確かだが、結果的には
一種、強化的な効果 をもた らす治療 だ。また、怪我 を したその人を心配 していた友
人が、結果的にその人がかえつて早 く走れ るようになつたの をみて、怪我な どは じ
ていないのに、意図的 に両足を切断 し、その後で精巧な義足 を切断部位 に装着 した
い と望む とすれば、それは許 され ることなのだろ う力ち その人は、いわば 自らの身
体 を (サ イボー グ化〉す ることを願望す るとい うことになる。だが、この事例 の場
合、それによつて迷惑 をこ うむ る他者がい るとは考えに くし、
今後、このよ うな事例は どん どん出て くる可能性 がある。治療は、自らの洗練化
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とい うまさにその事実によつて、その適応可能性を広め、それは結果的に、従来の
健康概念を変えてい く。つ ま りそれ までごく普通の正常な健康状態 と見な されてい
たものまで もが、単に事実的に健康 なだけであ り、理念的・ 可能的には さらに一層
強固な健康状態を実現できるとい う思想的 。技術的援護 を受けるよ うになる。こ う
して、治療 は、現在の 日で見 るな ら強化 。改良的な行為 とな し崩 し的に一体化 して
い くことになる。病人は、健康な普通人 と、健康な普通人は 〈
スーパーマ ン)と 重
な り合い、融合 し合 い、境界を量 か し合 ってい く。
c)さ て、それ では、
1生 殖系列遺伝子治療 が遺伝病対策 として或 る程度成功す るとい う事実 が順調 に
蓄積 された状態 (ぃ )で 論 じた こと)
‖治療がそれ 自身 の境界をな し崩 し的に乗 り越えなが ら、治療以上 の改 良 。強化的
側面 と融合す る場面が幾 つ も出現す る事態の浮上 (o)で 論 じた こと)
一― この二つを前提条件 とした場合 、次の段階が ど うなるかを考 えてみ る。 この
条件を満 たす状態にな つた時点、またそれ以降に展開 され ることを含 めて、C段 階
と呼んでお く。
条件 iか ら、生殖系列 へ の介入 自体に対す る反発や違和感はそ うと う減 ってい
る、と推定できる。 また条件 五 か ら、そもそ も治療 とい う概念 自体が、大 きな揺
れ を起 こし、どこか らどこまでが治療 なのか、そもそ も何が治療 なのか とい うこと
までも、常識的な 自明性 を失 い始めていると推定できる。拙論 (金 森 2∞5alで は、
このC段 階に出現 し うる多様 な改造 として、以下の よ うな もの を想定 しておいた。
o
人体 の纏 ま りや心理的一体性 に大きな毀損 を加 えない装飾的な改造
(こ
こでは、
議論の都合上、失敗 の可能性 については当然 の前提 とす る。失敗例が増 えれば、当
然、この種 の行為には制動がかかる。以下も同様である)。 ちょうど現在で も、ボ
ディ・ピア ッシングや タ トゥー な どで身体に装飾的付加 を与えることにあま り禁忌
感 をもたない人 々がいるの と同 じよ うに、C段 階では、生命維持にそれ ほ ど大きな
意味を持たず、別に α とい う所与が
oで はな くて も困 らない よ うな周辺的な身体
事実に手を加 える可能性がでて くる とい う問題だ。た とえばわれわれは黒い 目をも
43
遺伝的デザインの哲学
つ が、この色が黒でなければ生きてはい けない とい うよ うなものではない以上、日
の色 を変 える操作を子 どもに加える、とい うようなた ぐいの介入可能性 がでて くる。
青 い 目をもつ 日本人、またはそれまで人類 にはないよ うな 目の色をもつ人間 の誕生
だ。ただ、この場合 、少な くとも最初期 にはその種の子 どもは少数派になる し、子
・ コンセン トは もちろん とれないわ けだから、否定的評価
どもへ のイ ンフォーム ド
を受 ける可能性は小 さくない。それで も、或 る特殊な信念 をもつ人々がこれ を強行
した場合 、それ が 〈
身体的危害)に 当た るか どう力平ま微妙 な問題であるだけに、絶
対に こん な ことは起 こらない とまでは断言できない (私 の議論は、まず政治的には
リバ タ リア ンな風土を前提に している。そ して、その場合、自分が どうこ うす ると
い うよ りは、誰 かが特殊な改造 を した場合 に、その人 の 自由を侵害 してまで も、そ
の改造 に待 つたをかけるだけの根拠 は どこにあるのか、 とい う作 り方にな ってい
る)。 確 力ヽこ、日の色な どは装飾的価値 しか もたない ともいえるので、大 した重要
性 はな く、む しろ (碧 眼金髪〉な どとい う言葉が、或 る特定の文化的優位性 をもつ
とで もい うかの ような事態が、自由な改造 の頻出によつて無意味になる方が文化的
には健全なのだ、といつていえない こともない。黒い 目を したス ウェーデ ン人や青
い 目を した中国人で溢れている方が、 (碧 眼金髪)で なければ
)で はな
(高 等人種
い 、な どとい うよ うな世界 よりはま しではないか、 と。一一 この話が、 ほぼ連続
的に次 の事例にわれわれを導 く。
り のと良 く似た、ただ し反転 した事例 も考えることができる。改造企図の根源が、
社会的 で歴史的な成分 を強 くもつ タイプの改造の出現である。まさに日の色 をラン
ロ を担 っていた (碧
ダムに変 えるとい うのではなく、歴史的にみて (プ ラスの価イ
眼金髪)の 方向に近づ けるとい う改造だ。 日の色同様、髪 の色 も、別に所与 の状態
でなければな らない とはいえないのだか ら、どうせ改造 して もいいのな ら、歴史的
にみて有利 だ つた金髪に変えた方が子 どものためになるか、と考える親たちの出現
である。映画『 白いカ ラス』 12m3)で の 、自人の肌 に見紛 うような肌 をもつ黒人
の ことを思い出 して欲 しい。彼は、最終的には失脚す るとはいえ、比較的高い社会
的地位 をもつていた。も し、黒人が、自らの肌 の色のせ いで社会生活に不利だ と感
44
じ続 け、もし皮膚 の色が自分 のアイデ ンテ ィテ ィ破壊 には繋が らない と考える人が
増 えるな ら、彼 らのかな りの数 の人 々が肌 の色に改造を加 え始めるな どとい う事態
が、絶対に来ない とは言い切れなしЪ い うまで もな く、黒人 には彼 ら独 自の文化的
アイデ ンテ ィテ ィがある。だが、肌 の色のせ いで理不尽な差別 を受 けることを苦 々
しい と感 じる人が多いの もまた事実のはずだ:黒 い肌は、まさに自分たちのアイデ
ンテ ィテ ィと考え、黒い肌 と彼 らの音楽 、服装、身体能力が密接に関わつていると
考えるな ら、 こんな改造は しないだろ う。 だが、 も しそ うではな く、音楽、服装、
身体能力 な どを十全に保護 しなが らも、若干肌 の色を自人的なものに近づける くら
いは、どうとい うことはない、と考える人 もい るか もしれなし、 後者 の よ うな考 え
方をす る人がい る可能性がある以上、一定程度 の黒人たちが、この種 の介入 に手を
染めるとい うのは考えられないこ とではなし、
o
前 の事例 が社会的起源 をもつ改造群だ とい うのな ら、今度は環境問題に関係 し
た改造群だ:未 来の環境劣化 を見越 して、かな りSFめ くが、それほ ど笑 えない事例
として次のよ うなものが考え られない力、 た とえば重金属の排泄機構 の強化、また
は重金属へ の防御職能 ←fメ タ ロチオネイ ン)の 強化 とい う改逸 放射能耐性は、
当の放射能 がま さに遺伝子に大 きなダメー ジを与え るものであるだけに、遺伝子設
計 の 目的 としては難 しいか も しれなし、 だが、重金属対策だけではな く、よ り少な
い食料摂 取量で も延命可能なよ うに生化学的調整 をす る、な どとい うよ うに、他 に
もまだい ろいろな手法はあ りうるだろ う。いずれ に しろ、より厳 しい環境 の なかで
なん とか生 き延びるとい う方法を探 るなかで、未来人たちがこの種の改造に手を染
めることは絶対 にあ りえない、 とはいえなし、
の よ り本来的に医学的で、ただ し治療 。虐待、改良・ 改悪 の境界 がよ り不明確 な
仮想事例 も幾つ も考えることができる。ここでは、あま りにSF的 になるのを避 ける
ために、現在す でに取 り沙汰 されたことのある例 を二つ あげて、それ らの敷街・ 延
長・ 極端化 の過程 のな力ヽこ、問題性 の在処を探 つてみ よ う。
19907代 前半に、オランダの或 る家系か ら暴力や攻撃行動に関係す る遺伝 マー カ
ーが見つ け られた として、一時期ずいぶん話題にな ったことがある。それはセ ロ ト
45
遺伝的デザインの哲学
ニ ンの代謝に関係す るモ ノア ミンオキシダーゼAと い う物質 の変異 をめ ぐるもの
だつた (cf Wassc― n2CX11:chap.1)。
も しその遺伝子 が特定 され るな ら、その遺
伝子 に改変を加 えることに よつて攻撃性 の発現を少 な くす るな どとい うことはで
きるのだろ う力、 そ してそれが技術的に可能だ として、そ もそ もそんな ことを して
もいいのだろ う力、
も う一つ、似たよ うな事例を。セ ロ トニ ン 。トランスポーター
(セ
ロ トニ ンの再
取 り込みをす る部分)に 見 られ る多型が、人の情動のあ り方に関わるとい う学説で
PRと い う部分は5‐ I『 とい う遺伝子 の活動 を制御 し
ある。第 17染 色体上の5‐ Ⅲ ¬し
ている。その1つ また1也 つのS型 ア リル (対 立遺伝子)を もつ人は、2つ のL型 ア リ
ル をもつ人よりも、なにか嫌なことがあった ときに、よ り鬱状態 にな りやす い とい
うのだ。 この場合 、子 どもがそれほ ど簡単に鬱状態にはな らない よ うに、と、親は
L型 ア リル をもつ よ うな改造を して もいいのだろ う力、
この2つ の事例は、攻撃性 、躁鬱状態の傾性 とい うよ うに、社会的成分 も含む気
質 に関係す る問題だ とい える。これ を改造の対象 に して もいいのだろ う力ゝ もちろ
ん、まずは科学性 の問題がある。 つ ま り本 当に科学的にみて、攻撃性 関連遺伝子、
鬱関連遺伝子があるとい うことが正 しいのか どうかの慎重な査定が必要だ。 いま、
それが或 る程度確認 された とす る。その次によ うや く、この種の情動調整的な改造
を して もいいのか どうか、とい う問題になる。確力1こ 、 〈
攻撃的で陰気な人間〉よ
りは、 〈
朗 らかで社交的な人間)の 方が好ま しく、社会的にも有利 さが増す よ うに
も思える。だが、ウィットコウアーの古典『 数奇な芸術家たち』 (WmottH963)
を見ても推察されるように、古来、メランコ リーがちな人間たちのなかから、数多
くの優れた芸術家や科学者たちが輩出したという事実もある。たとえば水素の発見
等で有名な、あのキャベ ンデ ィッシュ (Hmy CavendisL 1731‐ 1810)は 、生涯ほと
んど誰 ともまともな付き合いをしないほ どに含羞癖や孤独癖が強い人だつた。確か
に、面白い人生だったとはいえないのかもしれないが、しか しそれは彼 自身にとつ
て見ればそうではなかったのかもしれない。それに、歴史に名前を残すほどに大切
な仕事をして、われわれ人間の文化を豊力ヽこしてくれた。陰気で孤独癖をもつ人間
46
とい う描像は、気楽 な社会的調整の対象 にはな らない、人間 の複雑 さを表す重要な
徴表なのか もしれ な しЪ また、陰気 さや非社交性は、集 中力や一貫 した関心 の持続
に とつては、む しろ好 ま しい精神的特性なのか もしれな い。だか らこの種 の人間が
いた としても、それ が非難や矯正の対象になるとは必ず しもいえなしゝ ま してや 、
それ を (改 良〉す るための遺伝子操作な どは、とうてい許 されない。とりあえずは
この ようにいえるよ うに思える。
だが、遺伝子改造論 で私が一貫 して取 る政治的 ス タンスは リベ ラル なもの なので、
もし或 る両親がこの種 の情動調整的介入 を試みた として も、それがその子 どもに対
して明 らかな (危 害〉になると認定 され るとい うので もない限 り、なかなか外部的
規制を加 えにくい とも考えられる。陰気 で孤独癖 をもつ 可能性 を減 らしたか らとい
って、そのことによつて、その子が科学や芸術で素晴 らしい成果 をあげ られ る可能
性 が低 くな った とまではいえないか らだ。 一一 この問題 は、あま りに微妙 で繊細
な精神的特性に関わ るものなので、当然、関係者には慎重 さが期待 され るが、いず
れに しろ、これが許容・不認可の境界線 で長 らく浮動 し続 ける難 しい事例だ とい う
ことは、いまの簡単な分析からでも明 らかなはずだ。
c)そ れに比べ る と、もう少 し明確な際 どさを抱えた改良が構想できる。次 の具体
例で考えてみ よ う。最近、ときどきマスコ ミでも話題 にな り始めている難 しい 自閉
症 の一種、ア スペル ガー症候群の例に依 つてみる。そ の症候群の症状は複雑 で、き
わめて微妙なずれや ぶれ を含むが、社会性 の障害、コ ミュニケー ションの障害、想
像力 の障害 とい うよ うにも纏められ る。一人遊び、特定 の ものへのこだわ り、他者
へ の気遣 いの欠如、言葉 のオ ウム返 し、ぎこちない態度 な ど、複雑 で一言では捉 え
がたい病像が描 かれ る。その記載は多 くの場合大変興味深 いのだが、ときどき少 し
気になる記述に行 き当たる。たとえば、アスペルガー症候群 の症状を思わせ る特定
分野へ の集 中、頑 固な反復性、社会的孤独癖等 とい う精神特性は、或る種 の重要な
文化的活動を した人 々にも見 られ る特性だ つた とい う記述 だ。もつとはつき りい え
ば、た とえば ウィ トゲンシュタイ ンな どは、実はアスペ ル ガー症候群だ つたのでは
ないか、 とい うよ うな病跡学的記載 が見 られ るとい う事実だ (Ginberg 2∞ 2ぬ 筆
47
遺伝的デザインの哲学
15)。
ここで、こんな微妙 な症状 をだす症候群が簡単な遺伝的規定をもつ はずはな
い とい う直感 を保持 しつつ も、或 る技巧的思考実験 に よつて、次の よ うな問いかけ
をしてみる。も し万一 、未来にお いてアスペルガー症候群を規定す る複数 の遺伝子
群がほぼ特定 された とする。その場合 、ウィ トゲンシ ュタイ ン・ クラスの (天 才)
として自分 の子 どもが人生を送って欲 しいか ら、と、故意にアスペルガー症候群に
なる可能性がある遺伝子型に、自分の子 どものそれ を改造す るとい うことは、その
子の尋常な らざる未来に対す る賭 け的な企図なのか 、それ とも明 らかな迫害なのか、
いつたい どち らなのだろ うか
(こ れ は思考実験なので 、技術的にそんな ことはでき
るわけはない とい う直感 は、棚 上げにする)。 社会生活 が若干困難になる可能性 を
引きず りなが らも、或 る特定分野へ の才能の特化 の可能性 もない とはい えないよう
な改逸 これ は悪いことなのか、それ ともかな り冒険的 とはいえ、必ず しも悪い と
はいえないの力、
この私 の問 いか けに対 しては、別 にアスペルガー症候群 の患者に対す る潮 1撼 の
表 白云々 とい うことではな く、やは り多 くの人が違和感 を感 じるはずだ。その違和
感の根拠は、やは り、そんなことをすれば子 どもの経験可能性 を或 る特定の未来に
誘導する狭 さと特異性 を与えるか らだ と、一応考え られ るか らだ と答えてお くこと
ができる。それは、そんなことを して も本当に天才的人物になれるか どうかわから
ないか ら、とい うよ りは、仮にそれ によつて天才になつた としても、そんなことを
最初か ら軌道 づ けす ることは良 くな いことだと考え られ るか ら、とい う理 由付けに
基づ く判断だ。
つ さらには もつ とあか らさまな問題性 を抱えた もの も、その気になれば幾つでも
構想できる。かつ て、デ ィ ドロは、植民地奴隷や貧民 を下級単純労働 に就かせ るな
どとい うことを しないで も済む よ うに と、山羊と人間 との 中間雑種を造 り、彼 らを
召 し使い として使 えばいいではないか、 と示唆 した ものだ (Diderot 1769)。 それ
以外にも、例 えば知能水準を低 く設定 して、下級単純 労働 に就かせ るよ うにするこ
と、体力を尋常な らざるものにす る代わ りに寿命 をきわめて短 く設定 し、危険労働
や戦闘に従事 させ るとい うよ うな blade nlmcrシ ナ リオな どが、直ちに想像でき
48
る。ただ、美貌を与えて女優に しよ うとす ること、長身に して特定のスポーツ選手
に させ ようとす ることな どは、思 いの外、子 どもの人権侵 害 にはな らない可能性 が
ある、とかつ て私は拙論で論 じておいた (金森
201Xl)。
ともあれ 、 この 山羊召使
いや、blade nmnerシ ナ リオを実現に移 しても問題ない、 と考 える人はいないはず
亀
とい うことは、つ ま り、われわれは、今後 の仮想的な改造群 を単に、治療 の成功 。
不成功 とい う医学的規範に則 して判断す るのではなく、なん らかの倫理的規範に即
して判断す るだろ うとい うことを意味 している。仮に遺伝子治療が絶大 な成功をお
さめるようなことがあつた として も、だ か らといつて、地滑 り的に 「何で もあ り」
の状態 にはならないだろ う。あま りに 自明のことなが ら、われわれの子 どもや子孫
は、別にわれわれ の持 ち物ではないのだか ら。だか ら、次 に、 ごく簡単になが ら、
生殖系列遺伝子改造 を社会的に許容可能 なものにするに当た り、最低限 これだけは
守 るべ きだと思 う倫理原則 を提示 してみたし、
2
政 自時代の倫理原則
い ま 「ごく簡単に」述べ る、 と書 いた。そ うなのだ、 この倫理原則 につい ては、
あま り余計な注釈 を加 えない方がいし、 この倫理原則 はC段 階に入 つて以降、 とり
わけ重要性を帯びて くるものだ。改造 に当た り、以下の3つ の原則 が、不可侵 の大
原則 だ と考えられ る。
i
子 どもの 自由 (libew)の 保護
五
子 どもの自律性 lautOnomy)の 保護
五i 子 どもの統合性 (integrity)の 保護
以上である。そ して、もしこれに違反す ることを医療機 関や特定の個人 が行 つた
ことが明 ら力Jこ な つた場合には、倫理的非難 を浴びせ るだけではな く、罰金や監禁
等 の可能性 を含む刑事罰 の対象 にす べ きである。だか ら、ガイ ドライ ンの よ うな関
係者 の内部規範でお茶 を濁す のではな く、その法的基盤 を整備す るために、明確 な
対象限定をもち特別に誂 えられた法律 を作 る必要があるだろ う。また、もしこの種
遺伝的デザインの哲学
の改造 が社会 のかな り広範な部分 に拡がってい るとす るな ら、本当に この規範 が遵
守 されてい るのか どうかを専門に調査 し、監視す る公的機関も必要にな って くるか
も しれなし、
確かに第 1節 (C)り で取 り上げた装飾的改造の よ うに、両親がそれな りの熟慮 と
確信に基づいて行 つている場合、上記 の三条件に明確 に違反 しているか否かがなか
なか見えに くい もの もある。また、(C)の で述べ たよ うな、対環境汚染用 の改造の
場合、環境劣化 が破局的なものにな り、それに対す る一種緊急避難的な色彩 の遺伝
子改造が行われ るときには、これ らの倫理原則に抵触 して もやむを得ない と判断 さ
れ ることもあ りうる。だが、だか らといつて、この三条件 の重要性が揺 らぐことは
ない。この倫理原貝1に 抵触す るか しないかが見極めに くくても、それが明 らかに抵
触す るか しないかをチェ ック し続 けることで問題性 は回避できる。また後者の緊急
避難的な原則 との抵触 も、それがあ くまでも緊急避難だ とい うことのな力」こ、その
例外性や特殊性 が含意 されてい るので、それによつて倫理原則全体の普遍性 が揺 る
が され ることはない。仮 に緊急対応 の場合 にも、倫理原貝1か らの離反 は、質・量 と
もに、最小限 に抑 えられる努力がな され るはずだ。
自由と自律性 とい う概念 の相違 については若千不明確か もしれない。強 いていえ
ば、後者は子 どもが 自分を主体的エー ジェン トとして いつ も感 じることができるよ
うな状態 とい う意味を中核 として もつ 、とい う意味で、前者 よりも若千特定的性格
の強い狭 い概念 だ といっていいだろ う。また く
統舗
とい う概念は少 し分 か りに
くいか も しれ なしヽ それは或る種 の調和、全体の纏 ま りのよ うなもの を意味 してい
る。だか らた とえば極度 に高い知性 を改造で多 くの人間に付与するな どとい うこと
を してはいけない、 とい うことが この条件 か ら帰結す る。 (極 度 に高い知0は 、
人間精神 の これまでの、かろ うじて の纏 ま りを破壊 し、解体す る可能性 を手むか ら
である。そ の一方で 目の色の改変な どは、統合性 を明 ら力ヽこ破壊 しているとはいえ
ない、 とい う判断が可能だ。
もし技術 が円熟 し続けるな ら、明 ら力ヽこ治療的な改造は繁栄を極めるだろ う。だ
が、それ を除 いた段階で、この三条件 にたえず注意 を払 いながらで しか改造 を試み
50
てはいけない とい うことになると、強化的な改造が徐 々に出現 し始めるとして も、
事実上、その種類 は比較的限 られたものに留まるだろ う。それは生物学的強化 とい
う特徴にほぼ博られ るはずだ。
大山鳴動 して鼠一 匹、と思 う読者 も多いに違いなし、 だが 、どこに、最 も大きな
議論場 の構築性があ ったのか を見極めてみて欲 ししゝ それ は実は、「あれ これ とい
う生殖系列改造は してはい けない」 とい う倫理細則による拘束 のな力ヽこではな く、
「生殖系列改造を絶対 の悪 と考えてはいけない」とい う哲学的 開放 のな力ヽこあった
人体 とい う く
所与〉は純粋 な所与性か ら出離脱 し、われわれ の文化的判断が作 り出
す (作 品〉になるの だ。
人体でさえ、その よ うな意味での設計の時代に入 るとき、われわれの文化 の質 が、
本 当に繊細で上品な もの であ り続けるためには何 を した らいいのか、または何 をす
べ きではないのか、この本 当の意味で哲学的な含意 をもつ 問 いか けが、いままさに
な され よ うとしてい る。そ してその場合、自然がわれわれのグノムをこのよ うに造
つて くれたのだか ら、そ の ゲノムの理に合わせて、われわれの身体を作 り直す必要
がある、と考えるので はな く、ゲノムの 自然性はもちろん念頭 に置 き、その論理 の
統辞 を理解 しなが らも、人間が長年築き上げてきた文化 を保護 し、
敷街 し、
強化 し、
増幅 させ るよ うな方向で、ゲ ノムを彫琢す るとい う判断 が、最終的には勝つ だろ う、
と私は予想 している。 自然主義は、敗北す るの洩 自然が 自分 の論理を開示す るこ
とで文化を付き従 えるのではなく、文化 が、 自然 の論理 を 自家薬籠中の物 として、
それ を自分の良い よ うに変 えてい く、とい うことである。私があえて、やや奇矯 な
執拗 さで何年間もこの話題 を追求 してきたのは、それ らの議論 を通 して、この文化
的 自党 を読者 と分かち合 いたい とい う願 いがあるか らだった。設計企図が 自分 自身
に反射 し、それが文字通 りの意味で肉化す る嘲
tわ れわれの近未来は、そん な時
代 になつているはずである。
(な お 、本稿 は既 出 の拙 論 (金 森 2∞ 5a)と 大幅 に重複す る文章か ら成 り立 っ
てい る。だが、そ こで 論 じた内容は この話題 につい ての重 要 な論点を含む と考
えてい るので 、違 う場所 に も公表 してお いた方 が 、よ り多 くの人 々の 目に触れ
遺伝的デザインの哲学
る機会が あ るだ ろ うと考 え、あ えて再利用 してお い た。ご了承 いただ きたい。)
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金森 修,2C願 ヽ 「遺伝子改良の論理 と倫理」現代思想,28,Ю
98‐ 117
金森 修,21Xll,「 遺伝子改造社会のメタ倫理学」現代思想 ,29,1074‐ 98
金森 修,2∞ 3,「 リベ ラル新優生学 と設計的生命観」現代思想,31,918● 202.
金森 修,2∞ 5■ 「設計の 自己反射 。離陸する身体」現代思想,33,&99‐
113.
金森 修,2CX15b,『 遺伝子改造』勁草書房
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(か なもり おさむ/東 京大学)
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