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フィヨルドを貫く「叫び」 - a-bombsurvivor.com

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1849.フィヨルドを貫く「叫び」 ムンク生誕150年 盛り上がるオスロ
産経ニュース2013.6.9.
「叫び」1893年、オスロ国立美術館蔵。「叫び」の絵画は4点あり、ムンク美術館が2点所蔵。残る1
点は昨年、絵画競売史上最高額の約1億2000万ドル(当時のレートで約96億円)で落札され話題
となった(C)Munch Museum/Munch-Ellingsen Group/BONO 2013
(傍線:吉田祐起引用)
「ある夕刻、私は道に沿って歩いていた。(中略)私は疲れ果て、病気だった-立ちすくみ、フィヨ
ルドのほうを見渡した。太陽が沈んだ-雲は真っ赤になった-まるで血のように。私は自然を貫く
叫びのようなものを感じた」(ムンク美術館編『叫び』より)
今年はノルウェー出身の世界的画家、エドバルド・ムンクの生誕150年にあたる。故郷の首都オ
スロでは、オスロ国立美術館とオスロ市立ムンク美術館が計271点で画業を振り返る大型展を共
催。ムンクイヤーで盛り上がるオスロで、画家の足跡を探した。
ムンクは幼少期から青年期をオスロ(当時はクリスチャニア)で過ごし、同市郊外で80年の生涯
を閉じている。パリやベルリンなど海外でも暮らし、後半生はオスロから少し離れた海辺に居を構
えたが、生涯を通じてオスロフィヨルドの入り江の景観から離れることはなかった。そこはムンクに
とって身内の死や病への不安、愛や裏切り、孤独を経験した愛憎半ばする地であり、ライフワーク
の連作〈生命のフリーズ〉を生む揺籃(ようらん)だった。連作の中核を成す名画「叫び」も「生命のダ
ンス」も、オスロフィヨルドが描かれている。
「ムンク芸術を理解する上で、この言葉を覚えてください」とオスロ国立美術 館の教育担当、スサ
ンヌ・ローアルさんは語りかける。ムンクの言葉「私は見るものでなく、見たものを描く」だ。画家は
過去に目にした光景や体験をもとに、同じモチーフを何度も描いた 。写実ではなく、自らの内面世界
を独特の色彩で表した作品は、20世紀表現主義の出発点とされる。
ムンクは何を見たのか。オスロ中心部には、イプセンや芸術家仲間と集った「グランド・カフェ」や
-1-
オスロ市庁舎の「ムンクの間」、壁画「アウラ」があるオスロ大学講堂など、画家ゆかりの場所が集
中する。ただ今回ぜひ訪れたかったのは、ムンクが12歳から20代半ばまで暮らしたグリューネル
ロッカ地区。工場群で働く労働者らが暮らす新興の街で、既に母を亡くしていたムンクは、慕ってい
た姉も結核で失った。
喪失感と死への恐怖は後年、絵画「病める子」「病室での死」へと昇華された。父が医者とはいえ
貧しいムンク家はこの地区で引っ越しを繰り返した。うち1カ所は今、ムンクにちなんだカフェになっ
ており、周辺はしゃれた雑貨店も多く若者に人気という。と同時に、19世紀末と変わらないだろう、
庶民の生活の匂いも感じられた。
もう一つ、市の南東部にあるエーケベルグの丘にも足を延ばした。「叫び」の舞台とされる場所
だ。
冒頭の文章はムンクが1892年1月22日と記した日記の一節。彼は「叫び」の背景について複
数書き残しており、友人と散歩中に体験したことらしい。前景の人物は叫んでいるのではなく、自然
の叫びに耳をふさいでいるのだ。「空もフィヨルドも人も揺れている。この絵で大切なのは自然で
す」とローアルさん。
5月の北欧は日が長い。午後9時過ぎ、急いで丘をのぼったが、辺りはまだ明るい。自然の叫び
は…残念ながら聞こえなかった。
それはやはり、ムンクの心が聞いた声ではなかったか。同時代の哲学者、ニーチェの著作を読み、
ドストエフスキーの小説を手放さなかった画家は、神なき世で近代人のさまよえる心を描いた。や
がて夜の帳(とばり)が降りるころ、一瞬空が血の色に染まるのを見た。(黒沢綾子)
チョコレート工場 社員食堂に壁画
ムンク作品に囲まれて食事ができる格好の場所がある。といっても、限られた人しか入れない。
なぜならそこは、チョコレート工場の社員食堂だから。
ノルウェーを代表するチョコレートブランド「フレイア」は1889年創業。ムンクはオーナーの依頼
で、食堂を飾る12点の連作「フレイア・フリーズ」を1922年に完成させた。当初は女性用食堂だっ
たことから、画家は女性が喜ぶであろう、楽しい海辺の情景を描いたつもりだった。
「でも当時の庶民にとって、良い絵とは写実的な絵でした。加えてムンクの報酬が8万クローネ
と、労働者が16年働いて得る給金に相当したので、大変不評だったそうです。今では皆、誇りに思
っていますよ」と同社の管理責任者。予約制の見学ツアーも実施しているという。
【ガイド】ムンクの全画業を振り返る「Munch150」展は、オスロ国立美術館とオスロ市立ムンク美
術館で10月13日まで。1902年に独ベル リンで発表された歴史的展示(後に<生命のフリーズ
>と呼ばれる連作)を約110年ぶりに再現。詳細はスカンジナビア政府観光局ホームページ (ww
w.visitscandinavia.org/ja/Japan)。また、ムンク美術館を出光興産が社会貢献の一環とし
て支援したことが縁で、出光美術館(東京・丸の内)ではムンク美術館から毎年3点の作品が貸し出
され、展示している。
【プロフィル】エドバルド・ムンク
Edvard Munch 1863年、ノルウェー南東部ヘードマルク県生まれ。1歳でオスロに移る。5
歳で母、13歳で姉を亡くし自身も病弱だったことから、病や死への眼差(まなざ)しが作品の基調を
なす。81年、王立美術工芸学校に入学。パリ留学を経て、92年からベルリンを中心に活動し高い
評価を受けた。1908年、精神を病みデンマークで療養後、翌年ノルウェーに帰国。晩年も旺盛に
制作活動を展開した。44年、独ナチス占領下のオスロ市郊外で没。遺言により2万2000点余の作
-2-
品がオスロ市に寄贈された。
ヨシダコメント:
あらためてムンクの芸術を肌で感じた気がします。と、偉そうなことを言うヨシダですが、ホンネは
若い頃からこんな芸術にもっと親しんでおればヨカッタものを・・・と。でも、人生はこれからが本番
です。ちなみに、ムンクは80歳で他界しています。ヨシダはもっと生きて、生かされて、活かされて、
こんな調子で少しでも多くの皆さんのお役に立ちたいと念願します。神さまはきっと、手助けしてく
ださると確信しています。その分、自我の心を捨てて、少しでも皆さんのお役に立つことに専念しま
す。
なお、以下は勉強方々、ヨシダが選んだ作品や説明です。お楽しみください。
叫び
【全体図】
(The Scream) 1893年
91×74cm | 油彩・カゼイン・パステル・厚紙 |
Nasjonalgalleriet (National Gallery), Oslo
表現主義の画家エドヴァルド・ムンクの傑作『叫び』。≪生命のフリーズ≫と題された中核的主題で
描く不安系列の代表作。フィヨルドのほとりの道を歩いて夕方、ふと空を見上げると、血に染まった
かのような赤い雲を見た。その時ムンクはそれを自然を貫く叫びを感じたと言っている。人間の不
安に共鳴する幻聴を血の朱色で描いた。自然に対する実存的な不安を叫ぶ、独特のタッチで描か
れた表情が、見る者を余計に刺激している本作のまるで血に染まったかのような赤い雲は夕方フィ
ヨルドのほとりの道を歩いていたムンクが、この夕景を見て、自然を貫く叫びを感じ表現したもので
ある。その不安定な感情をより一層掻き立てるのが、赤い空に対比している暗い紺色の背景であ
り、流れるようこの背景は、画面にも安定を与えることはない。
【不安を叫ぶ姿】
-3-
自然に対する実存的な不安を叫ぶ姿。独特のタッチで描かれた表情が、見る者を余計に刺激して
いる。
【赤い雲】
まるで血に染まったかのような赤い雲。夕方フィヨルドのほとりの道を歩いていたムンクは、この夕
景を見て、自然を貫く叫びを感じた。
【暗い紺色の背景】
不安定な感情をより一層掻き立てるのが、赤い空に対比している暗い紺色の背景。流れるようこの
背景は、画面にも安定を与えることはない。
以下は「ムンク展」から拾った写真&説明です。お楽しみください。
(文章はサイトのものですので、そのまま通常の黒文字で表示ます。)
「生命のダンス」(1925-29 年 オスロ市立ムンク美術館)
ムンクは、自らが描いた作品のうち、その核となる一連のものを「生命のフリーズ」と名づけてい
る。それは、個々の作品をひとつずつ独立した作品として鑑賞するのではなく、全体でひとつの作
品として見る必要があると彼が考えたからだ。
それは、まさにオーケストラの奏でる交響曲のようなもので、それぞれの楽器のパートの演奏が
ひとつにまとめられたときに初めて、作品として完成するものだからだ。
-4-
そのような絵画による交響曲を、ムンクは時に作曲家として、時に指揮者として作り上げようとし
ている。
晩年を過ごしたエーケリーのアトリエで、ムンクは自らの作品を手放そうとはせずにできるだけ手
元に置いておき、それらをさまざまに組み合わせ、並べ替えて、全体でひとつの装飾的な壁画とな
るように構想していった。その様子は、残された何枚かの写真によって確認することができ、特に
特徴的なのは、作品の一部を、扉を飾る「門型」に配置している点だ。
この章では、これらの写真から彼が試みた展示を再構成することによって、彼が奏でようとしてい
た交響曲の再現を試みている。
「マドンナ」(1895年 オスロ市立ムンク美術館)©Munch Museum,Oslo
ムンクは、幼少の頃、結核で母親と姉を亡くし、そして本人も病弱であったため、 病気と死の恐怖が
終生つきまとったそうだ。
1881年、17歳の時、クリスチャニア(現在のノルウェーの首都、オスロ)にあった美術工芸学校
に入学すると、この時期、ボヘミアン(社会の習慣にしばられず、芸術などを志して自由気まま生活
する人)仲間に啓発され、またロシア文学などにも影響を受けた。
1885~90年に3度にわたりフランスに滞在し、ピサロ、ゴッホ、ゴーギャン、ロートレックなどの
作品に強く影響され、1889年頃から「生命のフリーズ」について構想を抱き始めた。
1892年~1908年までベルリンに滞在した際には、どこか恐ろしい感じのする暗闇や白昼夢の
ような幻想を多く表現し、その代表作に「叫び」などがあり、この間、「生命のフリーズ」を具体化した
ものを展覧会で発表し、以後ドイツやノルウェーで壁画装飾を手がけ、1944年、享年80歳で亡くな
っている。
本展の核となるこの<生命のフリーズ>とは、1918年に開催されたムンク展(オスロ、ブロ ンク
-5-
ヴィスト画廊)のカタログに掲載された彼自身による文章「生命のフリーズ」によると、『生命のフリー
ズは、全体として生命のありさまを示すような一連の装飾的な絵画として考えられたものである。』
そこでこの展覧会では、オスロ市立ムンク美術館などからの代表作約百十点をこのムンクによる
いくつかの装飾プロジェクトにそれぞれ1章をあてて構成し、彼の「装飾画家」としての軌跡をたどる
ことができるものとなっている。
では、本展を構成する7つの章と見どころを少し紹介しよう。
「浜辺の人魚」(1893年 オスロ市立ムンク美術館)©Munch Museum,Oslo
「ムンクが初めて描いた装飾パネルは、ノルウェーの実業家アクセル・ハイベルクの注文によるも
のだった。
このハイベルクは、美術品コレクターとして、若手芸術家への支援を活発に行っており、オスロ近
郊にあった自邸を飾る壁画の制作をムンクに依頼し、その壁画にムンクが取り上げた主題は「人
魚」だった。ここでは、この壁画「人魚」に関連のある作品や習作の素描などが展示されている。
「浜辺の出会い(ラインハルト・フリーズのための習作)」
(1906/07年 オスロ市立ムンク美術館) ©Munch Museum,Oslo
-6-
「太陽(習作)」(1912年 オスロ市立ムンク美術館)©Munch Museum,Oslo
ムンクが完成させた最も壮大な装飾プロジェクトは、オスロ大学の講堂の壁画「オーラ」だった。
彼は、1909年から16年までかなり長い期間にわたってこのプロジェクトに取り組んでいる。中核
となった主題は、「太陽」「歴史」「アルマ・マーテル」など、象徴的、寓意的なもので、「生命のフリー
ズ」とは異なるテーマが選ばれているが、ムンクは、この講堂壁画と「生命のフリーズ」が密接に関
連するものとみなしている。
本章では、この壁画の下絵となった油彩画を中心にこの装飾プロジェクトが紹介されている。
「森へ向かう子供たち」(1921年 オスロ市立ムンク美術館)©Munch Museum,Oslo
1921年、ムンクは、オスロにあるフレイア・チョコレート工場の職員食堂を飾る壁画の制作を依頼
され、彼は、「生命のフリーズ」のテーマと労働者を描いた作品とを組み合わせて、この装飾パネル
を完成させた。
-7-
第7章の会場
1910年前後から、ムンクは「生命のフリーズ」とは異なる新たなテーマも探求するようになる。
そして彼が目を向けたのは労働者たちの姿であった。彼はこの主題をもとに、もうひとつのフリー
ズ、いわゆる「労働者フリーズ」を構想し、その構想は、1920年代後半から、当時建設計画のあっ
たオスロ市庁舎の装飾壁画として完成させるプランへと発展していった。
ヨシダコメント後記
・・・・や~!編集しながら大いに楽しみました!凝り性のヨシダですが、写真をレイアウトしたりす
ることも結構楽しく、かつ、パソコン操作技術向上に寄与します。
No.1(1-300) No.2(301-400) No.3(401-500)
No.4(501-700)
No.5(701-900)
No.8(1101-1300) No.9(1301-1500) No.10(1501-1700)
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No.7(996-1100)
No.11(1701-1900)
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