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1 ギッシング讃歌 - 国際言語文化研究科

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1 ギッシング讃歌 - 国際言語文化研究科
.......
に手紙を交わし、彼が死ぬまでは陰に陽に力になっ
てくれた。
「イギリスでの評判は着実に高まっていま
ギッシング讃歌
すよ。あなたはハーディ、メレディス、ジェイムズ
−没後百年によせて−
の次に尊敬されている立派な小説家です」−これ
はギッシングの死ぬ約1ヵ月前にウェルズが病床の
先輩に書き送った手紙である。事実、知名度の点で
松 岡 光 治
生前のギッシングは、彼が小説の序文や批評を書く
漱石が留学でイギリスに滞在していた1900年10月
ほどに憧れていたディケンズは無論のこと、上記の
から1902年12月は、ジョージ・ギッシングの生涯の
作家たちの後塵を拝していた。ギッシングはディケ
最晩年にあたるが、それは残念ながら彼がロンドン
ンズのミコーバー的な楽観主義を過小評価し、悲観
にいなかった時期である。彼は悲惨な貧困生活と不
主義的な Little Dorrit を過大評価したという G. K.
幸な結婚生活の中で執筆活動の場としていたロンド
チェスタトンの警抜な指摘どおり、その悲観主義が
ンから逃れ、セーヌ川に臨むルアンで1899年5月6日、
彼の人気を妨げていたのである。
中流階級の才能あふれる理想の女性(11歳年下のフ
..
ランス人 Gabrielle Fleury)と秘密裡に重婚をしたあ
ギッシングは死後半世紀にわたって冷評を受け
た。それは彼に悪意を抱いた心ない者たちのせいで
と、ブーローニュの森に近いアパートで生活してい
ある。ギッシングの死後出版となる歴史小説 Vera-
た。しかし、その幸せも長続きせず、やがて持病の
nilda (1904) の序文を彼の弟 Algernon から依頼され
肺充血のために静養をかねてスペイン国境近くの海
たウェルズは、先輩の人格と作風を酷評した序文の
辺の町へ移り、彼の宿命とも言える引っ越しを繰り
受け取りを拒否されるや、それを別の所で発表した。
返しながら、最後は1903年12月28日にピレネー山麓
案の定、ウェルズは多くの新聞から攻撃されたが、
の村イスプールで息を引き取った。ギッシングが死
ぬ直前の高熱による精神錯乱や周囲の者たちの揉め
事もあろうに腹いせとして1912年に “The Truth
事については、彼に末期の水を飲ませた H. G. ウェ
.
ルズ−実際には、病人に滋養たっぷりの食事を無
..
理に与え、それが死を早めたと妻のガブリエルは主
about George Gissing” という小論を雑誌に寄せ、故人
......
は「ユーモアのない堅物で、人を軽蔑する楽しみに
張していた−が記憶を呼び起こして綴った
たと痛罵した。奇しくも同じ1912年に出版されたギ
Experiment in Autobiography の第8章第3節と Tono-
ッシングに関する最初の伝記と研究書、すなわち旧
Bungay の第4編第1章に詳しく描写されている。
友 Morley Roberts の The Private Life of Henry Mait-
耽溺した、本当に恥ずかしいほど臆病な俗物」だっ
このように46歳の若さで、ギッシングがまるで
land という事実を粉飾した伝記と、駆け出しの作家
エ グ ザ イ ル
故郷喪失者のように異邦の地で不帰の客となってか
Frank Swinnerton の嫉妬に駆られた研究書もまた、こ
ら、はや百年が経過しようとしている。没後百年を
の小説家の死後の名声を傷つけた。その結果、批評
記念して今年は国際会議や論文集などが企画された
書 Charles Dickens: A Critical Study (1898),旅行記 By
が、ここでは国内外におけるギッシング研究の今ま
the Ionian Sea (1901),随筆集 The Private Papers of
..
Henry Ryecroft (1903) といったギッシングの散文は
での展開と現状を踏まえ、この作家の魅力と研究の
意義について述べてみたい。
それなりに読まれていたにもかかわらず、小説の方
はほとんど評価されず、そのまま世界大戦という不
ギッシング批評の歩み
毛の時代を迎えてしまったのである。
ウェルズが1896年に初めてギッシングに会った
日本では『ヘンリー・ライクロフトの私記』だけ
時、彼の年収は The Time Machine の成功で千ポンド
に特権が与えられていた。今まで10回以上も翻訳さ
を超えていた。それでも、彼が貧乏な先輩作家に対
れ、英語講読用に編集された教科書は無数にある。
して親近感を抱いたのは、ギッシングが同じ下層中
1908年に初めてギッシングを日本に紹介した平田禿
流階級出身だったから、そして New Grub Street
木以来、辻邦生、阿部昭、北方謙三など多くの作家
(1891) で克明に描かれた作家としての苦節の時代を
が『ライクロフト』を愛読書として挙げているが、
経験していたからである。実際に、ウェルズは1895
それは四季折々の自然を愛し、もののあわれ、幽玄、
年に出版された Eve’s Ransom や The Paying Guest
わび・さびの伝統を持つ日本人の心の琴線に触れる
に対して好意的な書評を書き、ギッシングとは頻繁
1
随筆だったからである。ギッシングの小説は日本で
ドイツから亡命した社会主義者 Eduard Bertz,子供
も短篇集 The House of Cobwebs (1906) 以外ずっと評
時代の学友で医者となった Henry Hick,ギッシング
価されなかった。特に労働者階級を独創的に描いた
を社交に導いた銀行家 Edward Clodd などの書簡集
1880年代の長篇は、欧米列強に追従して殖産に励む
が陸続と出た。1978年にはクスティヤス氏の編集に
国では無視された。1933年に日本で初めてギッシン
よって待望のギッシングの日記が出版され、1987年
グの研究書を出した織田正信ですら、注釈本として
.......
は貧困とは無縁の教養ある主人公を描いた Sleeping
までには John Spiers によって Harvester 社からギ
ッシングの18作品が再版された。それ以来、ギッシ
ング関係の出版物は相当な量で増え続け、その数は
Fires (1895) を選んでいる。織田がギッシングに悪意
粗野な性格ゆえに彼が蔑んだ(朝食時にナイフの平
を抱いたスウィナトンの小説 Nocturne(
『ノクター
で蜂を圧殺した)ハーディには劣るが、彼の独創性
ン』
、新潮社、1940年)を訳したのは意外だが、彼が
を評価して The Unclassed (1884) を出版してくれた
「もしも讀後に、人生を何等かの意味で新しい眼で見
メントール
良き師、メレディスを上回っている。
せてくれる作品が、讀みたい人であるならば、僕は
、、、
スウィナトンの作品をお勸めしかねる。新しいと言
、
ふ言葉が、何か讀者になかつた眼を與へるものとす
ギッシングの世界における最近の動向
『ギッシング・ニューズレター』の編集者たちの
るならば、スウィナトンは何一つさうしたものを持
国籍が端的に示すように、1960年代以降に急激に勢
つて居ない」と評している点は興味深い。なぜなら
いを増したギッシング研究は豊かな国際性を特徴と
ば、ギッシング文学の真骨頂は読者に新しい視点を
していた。その後イタリアやオランダの学者たちが
与えることにあるのだから。例えば労働者階級の実
加わったことで国際性は更に高まった。実際にギッ
情を伝える時、大人の実体験に立脚したギッシング
シングはイギリス本国よりは海外で盛んに研究さ
の描写は、子供時代の記憶に基づいたディケンズや
れ、その研究は1969年にコールグ氏の衣鉢を継いで
距離を置いた同情に根ざしたギャスケルの場合と
『ニューズレター』
(1991年に名称が変更されて The
は、明らかに視点が異なっている。ギッシングの新
Gissing Journal)の編集長となったクスティヤス氏を
しい視点や独創性はメレディスやハーディのような
中心に進展して行った。自他とも学界の第一人者と
作家には即座に評価されたが、その執筆の意図や趣
認めるクスティヤス氏の関連著作は枚挙にいとまが
向はしばしば誤解された。しかし、ギッシングの死
ないが、現在もギッシングの網羅的な書誌、短篇小
後の名声が危機に瀕した1912年に、労働者階級の貧
説の完全収録版(全3巻)
、そして伝記の決定版が準
困を斬新に描いた彼の小説を高く評価したヴァージ
備されている。クスティヤス氏の調査研究について
ニア・ウルフのように、慧眼の持ち主が何人かいた
は、彼が Paul F. Mattheisen と Arthur C. Young との
ことも忘れるべきではない。
共同編集でオハイオ大学から出版した全9巻の The
戦後は Walter Allen を代表とする若い世代によっ
Collected Letters of George Gissing (1990-97) に、その
てギッシング研究が再開されたが、この小説家の悲
徹底ぶりが窺える。各巻にはギッシングの生涯に関
観主義は依然として主観が色濃く入った反論を受け
する様々な事実を提示した序文が付され、それぞれ
続けた。以後、Raymond Williams,John Lucas,P. J.
の手紙には極めて詳細な注釈が施されているので、
Keating などがギッシングを厳しく批判するように
ギッシング大辞典としても使用できる。MLA の
なったが、それは彼が下層階級を自然主義の立場か
......
ら描きながらも、民衆としての労働者たちを嫌い、
Morton N. Cohen 賞を受けた『書簡集』が、20世紀の
ギッシング研究における金字塔であることは間違い
マルクス主義に対して否定的だったからである。し
ない。
かし、ジョージ・オーウェルによるギッシング讃歌
が死後出版された1960年以降は、ギッシング批評に
ギッシングの正式な学会はまだ設立されていない
おいて画期的な出版が相次いだ。このギッシング・
が、今年は7月24日から26日までロンドンで “Gissing
ブームの火付け役はアメリカの Jacob Korg 氏で、
and the City” というテーマの国際会議が開催され、
10
1963年にギッシングの本格的な評伝を上梓し、1965
ヵ国から88名の参加があり、8ヵ国の研究者たちが31
年にはフランスの Pierre Coustillas 氏と日本の小池
件の研究発表を行なった。これはギッシングの没後
滋氏と一緒に季刊誌 The Gissing Newsletter を刊行し
百年を記念した特別企画の大会だが、4年前の1999
た。その後も、H. G. ウェルズ、ガブリエル・フルリ、
年9月にアムステルダム大学で初の国際ギッシング
2
会議が行われたことを考えると、今後も4年ごとに催
心したという漱石の話−があることを指摘した。
される公算は極めて高い。ここ数十年、学会に代わ
しかし、この点に関して確たる証拠となるのは面会
って世界中のギッシング研究者を結び付けてきたの
者の追憶記ではなく、漱石自身が世界大戦について
は、クスティヤス氏の編集による『ニューズレター』
書いた『点頭録』の「軍国主義(二)
」の方である。
と『ジャーナル』である。その目次に関しては毎号
ギッシングのウェッブ・サイト (Gissing in Cyber-
かつてギッシングの書いたものを読んだら、小さいうち
space) で紹介している。論文と書評については、1965
学校で体操を強ひられるのが、非常の苦痛と不快を彼に
年の創刊号から最新号まで全部を書き出した一覧表
与へたといふ事が精しく述べてあつた末に、もしわが英
が上記のサイトで公開されているので、いつでも検
国で本人の意思に逆つて迄も徴兵を強制するやうにな
索可能だ。ネット上でのギッシングの待遇は非常に
つたと仮定したら、自分は何んな心持になるだらう、さ
恵まれている。彼の作品は全て電子化されており、
ういふ事実は万々起る筈はないのだけれども、たゞ想像
それを格納した筆者のホームページではサイト内検
して見てさへ堪へられないと附け加へてあつた。
(
『東京
くわ
ど
はず
た
朝日新聞』1916年1月12日)
索をコンコーダンス代わりに使うことができる。オ
ーストラリア・フリンダーズ大学の Peter Morton の
これは漱石の作品の中でギッシングが直接言及され
サイトには、
『ヘンリー・メイトランドの私生活』の
た唯一の箇所であり、学校時代に校庭で行なわれた
電子テキストをはじめ、様々な学術情報がある。更
軍事教練の思い出によって徴兵制度が非難される
に、没後百年を記念して今年の6月には、ギッシング
『ライクロフト』の「春」第19章を指している。この
専用のメーリング・リストがイギリスの Mike New-
作品の英語教科書の使用を日本の文部省が1928年に
......
禁止する原因となったいわくつきの章である。
「小さ
man によって開設された。
ギッシング研究は昔も今も豊かな国際性を誇って
いうち学校で体操を強ひられる」というのは漱石の
いる。それはある国の単独覇権を支える文化帝国主
記憶違いだが、それは帰国後に買って読んだ『ライ
義的なグローバリズムではなく、各国の文化を尊重
クロフト』
(初版の発行は彼が博多丸で日本に着いた
するローカリズムが融合した多元的な研究である。
1903年1月)を散逸してしまい、
『点頭録』執筆時に
例えば、自然への繊細な感受性を持つ日本人は『ラ
チェックできなかったことが原因だと考えられる。
イクロフト』について多くの研究成果をあげたが、
この随筆集が漱石山房蔵書目録から抜けた所以であ
その情緒的・感覚的思考は論理的・合理的思考を得
る。
意とする欧米の研究者の間でも評価されている。こ
ギッシング没後百年の時期にイラク戦争が勃発し
の半世紀だけで日本では130本以上の関連論文が書
たことも何かの因縁だ。この時事問題の点だけでも
かれた。1988年には小池氏の責任編集によって『ギ
今まさにギッシングの作品を読むことには意義があ
ッシング選集』
(全5巻)が出版され、現在では長篇・
る。石油業界に擦り寄る国の政権がイラクを攻撃し
中篇の10作品の翻訳が利用できる。百年近くのギッ
た時、ギッシングであれば、大量破壊兵器の保有と
シング受容史を持つ日本の若い研究者には、今後は
いう攻撃の口実の背後にある大企業の利益を代弁し
『ライクロフト』以外でも国際的に貢献できる新しい
た帝国主義を弾劾したであろう。漱石は『点頭録』
視点や価値判断を提示することが切に望まれる。
の中で人類と文明に破滅をもたらす世界大戦を軍国
主義の単なる発現と考えたが、ギッシングもまた
ギッシングの魅力と研究の意義
シンジケート
漱石の特集となった『英語青年』の1977年1月号で、
The Crown of Life (1899) でボーア戦争を企業連合に
中野記偉氏は漱石山房蔵書目録に『無階級の人々』
、
基づくイギリス帝国主義の発現として非難し、彼と
『三文文士』
、
『ヴェラニルダ』
、そして The Town Tra-
同様にトルストイの影響を受けて兵役を拒否した
veller (1898) があるのに、一番有名な『ヘンリー・ラ
霊の戦士に見られるロシアの精神性を帝国主義の解
イクロフトの私記』がない点に不審を抱きながらも、
毒剤としている。
ド ゥ ホ ボ ル
『点頭録』で軍国主義下の列強を土俵で四つに組
石田憲次博士の追憶記「夏目先生の談片」に漱石が
んだ力士にたとえた漱石は、4ヵ月後に書き始めた遺
『ライクロフト』を読んだ証拠−ギッシングがなけ
著『明暗』において、互いにヘゲモニーを握ろうと
なしの金でギボンを買って繰り返し読んだことに感
する津田夫婦の関係を「愛の戦争」と表現した。つ
3
The Odd Women (1893) を出版したのち、ギッシング
のによい歴史資料はないだろう。科学技術文明をも
..
たらした近代人の理性は全てをコントロールするこ
は親友ベルツに宛てた手紙の中で、
「どんな社会平和
とができなかった。人類の絶滅に直結する兵器開発
も女性が男性と同様に知的な訓練を受けない限りは
や環境破壊はその反証である。戦後の急速な工業化
成就されない」と述べている。女性の社会的制約は
と都市化を経てテクノロジー万能社会にいる現代の
彼の多くの作品で扱われる問題だ。今年の国際ギッ
日本人は、産業革命後に同じ道を先に歩んだ近代イ
シング会議における東京大学の吉田朱美氏の発表で
ギリス社会の人々のように、様々なものから疎外さ
は、芸術による女性の解放という問題について、ギ
れて自己が分裂し、全体性を見失ってしまっている。
ッシングが The Whirlpool (1897) の女性ヴァイオリ
.
ニスト(渦が象徴する社会変化の体現者 Alma)を
この自己疎外に代表されるヴィクトリア朝末期の諸
通して前期の作品より深く掘り下げている点と、女
語青年』の1989年4月号に掲載された「ジョージ・ギ
性解放の理論と実践における齟齬が考察された。
ッシングと19世紀英国」における小池氏の言葉を借
とにフェミニズム文学の古典として読まれてきた
問題を活写したギッシングの作品を読むことは、
『英
ここで重要なのは、ギッシングの女性観が、ロン
りるならば、
「百年前のイギリス社会・文明を概観す
ドン大学で経済学の学位を取った最初の女性 Clara
るに留まるわけではなく、現代日本の社会・文明に
Collet のような〈新しい女〉に対する敬意と、最初
対する肉迫ともなる」であろう。
と二度目の妻たちのように教育しても無駄な労働者
例えば、現代思想としての環境問題の点から見れ
階級の女に対する蔑視との間で、揺らいでいたこと
ば、ギッシングはディケンズやギャスケルの流れを
である。この揺らぎは彼に相克の苦しみを与え、作
汲む初期のエコロジストとして位置づけることがで
品の中では女性の問題だけでなく様々な問題におい
きる。遺産を相続して社会主義に燃える Richard Mu-
て、同一対象へのアンビヴァレンスとして現われて
timer の工場によって自然を破壊された渓谷が、彼の
いる。このようなジレンマの苦悩は、産業革命後に
没落によって再び以前の人里はなれた静けさを取り
前近代的な帰属意識を喪失し、都市空間における孤
戻す Demos (1886) の最終章は、そのようなエコロジ
立によってアイデンティティの危機に陥った近代人
ストが下した断罪に他ならない。漱石はロンドンで
の宿命だと言える。ギッシング文学のトポスの一つ
痰を吐くと真っ黒な塊が出ることに驚いたが、首都
である〈エグザイル〉は、オーエンズ・カレッジで
の環境汚染は『渦』で「ロンドンの空が吐き出す煤
将来を嘱望された彼が、街の女を更正させるために
けた唾」と表現されるスモッグだけではない。都市
犯した窃盗で放校処分を受け、アメリカに逃げた時
の景観を損なう節度のない広告の増大に対して辛辣
から異邦の地フランスで死ぬまで、常に彼を脅迫し
な攻撃がなされる In the Year of Jubilee (1894) など
ていた観念である。帰国後の14年間に彼はロンドン
も、現代のエコクリティシズムにとって恰好の題材
で14回の引っ越しをした(2年間で5回の漱石には頻
となるはずだ。その他、貧困、教育、結婚、家庭、
度で負ける)が、これもまたアイデンティティの喪
階級、都市、大衆、商業、科学、自然、宗教、芸術、
失による不安と無関係ではない。このエグザイルの
狂気などに関するギッシングの言説は、現代が我々
問題は、修めた学問ゆえに知的に対等な仲間と交際
に社会的現実として提起する問題に対して新しい視
する資格があるのに、貧困ゆえに自分の存在が否認
点を与えてくれる。これらについては、没後百年記
されているという疎外感として、ギッシングの多く
念として出版されるクスティヤス、コールグ、小池
の作品で扱われている。自叙伝的色彩の濃い Born in
各氏と日本人研究者11名による『ギッシングの世界
Exile (1892) の中で、学問的な自負心と階級的な劣等
−全体像の解明をめざして』
(近刊、英宝社)の中
感との相克によって孤独の生活に逃避し、故郷を棄
で詳しく論じられている。
てて漂泊の旅に出る Godwin Peak は、その典型例で
(名古屋大学助教授)
ある。
漱石は『それから』の代助に「文明は我等をして
孤立せしむるものだ」と解釈させたが、ギッシング
の生涯の物語と彼の分身的人物が数多く登場する作
品ほど、近代の文明社会が人間に強いた孤立を示す
4
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