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「障害者週間」作品コンテスト入賞作品集(PDF:3.5MB)

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「障害者週間」作品コンテスト入賞作品集(PDF:3.5MB)
平 成 28 年 度
岡山市心のふれあい事業
「障害者週間」作品コンテスト
入賞作品集
岡山市心のふれあい事業実行委員会
岡山市・岡山市社会福祉協議会
岡 山 市 障 害 者 団 体 連 合 会
は じ め に
12月3日から12月9日までの一週間は、国民の間に広く障害者の福祉についての関心と理
解を深めるとともに、障害者が社会・経済・文化その他あらゆる分野の活動に参加すること
を促進するために設けられた「障害者週間」です。
岡山市では、この「障害者週間」をより広く市民の皆さんに知っていただき、障害者に対
する理解と認識を更に深めていただくため、一般市民の皆様を対象として、障害者福祉をテー
マとした標語、作文、ポスター及び写真を募集し、コンテストを実施しています。
今年度は、標語237点、作文145点、ポスター56点及び写真8点のご応募をいただきました。
入賞作品は、
「障害者週間」を中心として、12月5日から12月7日まで市役所市民ホール、
平成29年1月11日から1月15日まで岡山シティミュージアム、平成29年3月2日から3月8
日まで東区役所において展示いたします。また、最優秀賞の作品については、12月4日に開
催される岡山市障害者福祉大会にて表彰し、併せて最優秀作文の朗読をしていただく予定で
す。
応募された皆様方、選考に携わってくださった皆様方に深く感謝申し上げます。
この作品集には、入賞作品を掲載していますので、ぜひご覧いただき、学校や地域などに
おいて障害者に対する理解を深める一助としてご利用いただければ幸いです。
平成28年12月
岡山市心のふれあい事業実行委員会
1
目
次
【標 語 部 門】
最優秀賞
岡山市北区
優 秀 賞
岡山市立芳田中学校
佳 作
佐 藤 丈 晴
7
1年
中 田 実
空
7
岡山市立岡山後楽館高等学校
1年
坪 根 聖 花
7
岡山市立富山中学校
1年
岩 田 湖
春
7
岡山県立瀬戸南高等学校
2年
岩 本 小 幸
7
藤 井 美 枝
7
5年
花 房 知 怜
11
4年
神
凜世矢
12
4年
友 野 徹 世
13
6年
國 清 圭 亮
14
3年
山 中 彩 瑚
15
3年
小 泉 敬 慈
16
2年
堀 内 綾 乃
17
2年
源 崚 司
18
2年
近 藤 悠 斗
19
1年
村 上 空 星
20
1年
森 遼太郎
21
3年
横 山 大 輝
22
岡山市北区
【作 文 部 門】
◎小学生の部
最優秀賞
しょう害者のために自分達ができること
岡山市立芥子山小学校
優 秀 賞
「がんをのりこえた声」
岡山市立芥子山小学校
パラリンピックの選手たち
岡山市立芥子山小学校
佳 作
障害者のためにできること
岡山市立芥子山小学校
しょうがいしゃスポーツの体けん
岡山市立幡多小学校
障がいのある人とともに
岡山市立幡多小学校
◎中学生の部
最優秀賞
心と心の繋がり
岡山市立高松中学校
優 秀 賞
障害者について考える
岡山市立高松中学校
「僕の挑戦」
岡山県立岡山盲学校中学部
佳 作
ぼくの妹
岡山市立高松中学校
散髪屋のおばさん
岡山市立竜操中学校
言葉は大切だ
岡山県立岡山聾学校中学部
3
◎高校・一般の部
最優秀賞
ダイヤモンド
岡山市北区
雅 子
23
2年
近 藤 あかね
25
岡山市立岡山後楽館高等学校
1年
石 田 陽
南
26
最優秀賞
岡山市立岡山中央小学校
3年
越 智 実祈乃
29
優 秀 賞
岡山市立宇野小学校
6年
藤 原 葉 月
30
岡山市立芥子山小学校
5年
池 口 遥 希
30
岡山県立岡山聾学校小学部
4年
小 川 寛 仁
31
岡山市立旭操小学校
6年
竹 谷 香々名
31
最優秀賞
岡山県立岡山大安寺中等教育学校 3年
藤 澤 舞
32
優 秀 賞
岡山市立桑田中学校
1年
伊 丹 都花佐
33
岡山市立竜操中学校
2年
柴 田 恵
33
岡山大学教育学部附属中学校
3年
安 達 祐 貴
34
岡山市立瀬戸中学校
1年
羽 納 沙也香
34
優 秀 賞
黒 住
「ありがとう」の伝え方
岡山市立岡山後楽館高等学校
佳 作
きっかけとなってくれた「祖母」に
【ポスター部門】
◎小学生の部
佳 作
◎中学生の部
佳 作
【写 真 部 門】
最優秀賞
応援
岡山市中区
平 井 肇
37
ありがとう
岡山市南区
金 山 稔
38
伴走者と走ろう
岡山市中区
防 田 知 子
38
優 秀 賞
佳 作
4
標 語
Slogan
標 語 部 門
最優秀賞
認め合う 心がつなぐ 絆の輪
佐 藤 丈 晴
優 秀 賞
ひとことで 心つながる 思いやり
中 田 実 空
助け合い 一人一人の 心がけ
坪 根 聖 花
佳 作
さしだす手 そこから生まれる 笑顔の輪
岩 田 湖 春
さしのべる その手の中に 思いやり
岩 本 小 幸
ハンディ越え 生きるあなたの 笑顔輝く
藤 井 美 枝
7
作
文
Composition
q 小学生の部 q
最優秀賞
しょう害者のために自分達ができること
岡山市立芥子山小学校 5年 花房 知怜
見た目は大人だけれど子どもの様なしゃべり方をします。私は一緒におすしを食べに行ったり、
病院について行ったりしますが、その時に歩き方やしゃべり方が人とちがうからか、周りの人に
じろじろ見られていやな気持ちになることがあります。本当はいろいろなところへ遊びに連れて
行ってあげたいけれど、周りの人の冷たい視線にはばまれて連れて行くことができません。
大声を出したり、知らない人に向かってきたない言葉を言ったりすることは、彼にとっては、
思います。身体の不自由な人と比べて知的しょう害者への理解はまだまだ足りません。なぜなら
彼らに興味が無いからだと思います。世間の人達がもっと彼らに、興味をもてば愛情表現のこと
も理解できるのではないかと思います。自分がその立場になって考えてみて下さい。自分にしょ
う害があったら。自分の兄弟にしょう害者がいたら。自分の子どもがしょう害をもって生まれた
ら。
私の親せきは、私をふくめ両親にも兄弟にもみんなに愛されています。大切にされています。
人とちがっていても、奇異の目で見たり無視したりするのではなく、ふつうの人と同じように接
してほしいと私は思います。
しょう害者も健じょう者も同じ様に愛され、同じ様に生きています。みんなが助け合いの心を
もち勇気を出して実行していくことが大切なのだと思います。
11
生
この人は目が見えないんだなと思い、力になってあげます。ですが、知的しょう害者の人が愛情
表現として、きたない言葉を言ったりするとみんな何事もなかったかのように通りすぎていくと
学
愛情表現なのですがそれを理解していない人達が大勢います。理解していないからやさしいまな
ざしで見守ることができないんだと思います。たとえば目が見えなかったりする人が前を通ると、
作 文 部 門 小
私には知的しょう害者の親せきがいます。身体の不自由もあります。彼は、マヒがあり上手に
足が動きません。口も自分が思うように動きません。病気で知のうの発達が止まっているため、
優 秀 賞
「がんをのりこえた声」
岡山市立芥子山小学校 4年 神 凜世矢
ぼくの大好きなおじいちゃんの声は聴き取りにくいちょっと変わった声です。15年前は、今の
声とちがうやさしい声だったそうです。このあいだ、電話のおじいちゃんの声が聴きとれず何を
作 文 部 門 小
言っているのかわかりませんでした。
ぼくのおじいちゃんは、15年前の7月12日、こうとうがんの進行がはげしく、13時間の大手じゅ
つで、こうとう、声帯全て摘出したそうです。アーティストのつんく♂さんと全く同じじょうた
いだったそうです。成功率50%と宣告された大手じゅつは無事に成功しました。今、
おじいいちゃ
んが元気でいてくれることは、奇跡だと思いました。
それからやく二年半、声がでなかったけれど、毎日訓練をして「食道発声法」という方法で声
がでるようになったそうです。
学
おじいちゃんは、手じゅつでのど仏の辺りに呼吸のための穴をあけた時も、声を失うことになっ
た時も、悲しんだり、弱音を吐いたりせずに、
生
「早くつりに行きたい。」
「早くお酒を飲みたい。
」
と言って、一日でも早く手じゅつ前の生活にもどそうという気持ちをもちつづけたと、お母さん
から聞きました。ぼくだったらどうなっていただろう。悲しみが大きすぎて、前を向くこともで
きなかったと思います。それでも悲しみや苦しみにたえたおじいちゃんはすばらしいです。
おじいちゃんは声を出す時、
「腹式呼吸」を使っているので、言葉を話すことがとても大変そ
うです。ぼくは、おじいちゃんの話を聴く時、目を見て、口元も見て一生けん命聴きます。一言
発声するにも体全体を使って必死に伝えようとするおじいちゃんの声を聴きのがしたくないので
す。
一度声を失ったおじいちゃんが、これまでの15年で一番苦しく辛かったことは、
「命は助かっ
たけれども、声がでるのか、ちゃんと会話ができるようになるのか、見当がつかなかった最初の
半年」だそうです。
そんなかっこよくて勇かんなおじいちゃんの孫だから、ぼくも、悲しい事やいやな事がたちふ
さがってきても、勇気をもってそのかべを打ちやぶっていきたいです。
ちなみにおじいちゃんは、退院してすぐに、
「岡山県喉摘者福祉団体(新声会)」に入会して、
発声練習のリハビリを始めました。四年前からは、新声会の会長として、さまざまな活動もして
います。八月三十一日に、RSKの番組「声ふたたび∼声帯を失っても歌いたい∼」に出えんし
ます。おじいちゃんの活動やがんばりがテレビで放送されると思うとワクワクします。
この番組やぼくの作文を多くの人に見てもらい、ぼくの自まんのおじいちゃんのことを知って
もらいたいと思います。そして、ぼくの子供や孫にもおじいちゃんの姿を伝えていきたいです。
声を失っても、生きていてくれて、すばらしいおじいちゃんに会えて、本当によかったです。
12
優 秀 賞
パラリンピックの選手たち
岡山市立芥子山小学校 4年 友野 徹世
今年は、四年に一度のオリンピックの年です。ぼくは、オリンピックなどの、スポーツを見る
事が、大好きです。オリンピックの選手のがんばるすがたを見ていると、ぼくもいろんな事をが
パラリンピックに、出場する人々は身体に障害のある人々です。生まれつき障害のある方もい
れば、交通事故などである日、とつぜん障害者になると聞きました。ぼくは、今、自分の思うよ
うに動けて、幸せです。二年生の三月に、ぼくは、はくりこっせつと、ケーラー病で、二カ月ギ
プスで右足をこていして、四カ月スポーツきんしの期間をけいけんしました。ぼくが、できなかっ
た事を友達が、助けてくれた時には、とてもうれしかったけど、大好きなスポーツができなかっ
生活ではこまる事が多いのではないか、と考えます。たとえば、道路のだんさです。ぼくは、全
く気づかない小さなだんさでも、目の見えない人や車いすに乗っている人には、きけんな場所に
なります。ぼくは、こまっている人を見つけたら声をかけたり、助けてあげられる人になりたい
です。
さまざまな困難や、きびしい練習を乗りこえたからこそパラリンピックの選手として、活やく
しているのだと思います。夏休みが終わるころ、パラリンピックが開まくです。日本代表の人た
ちには、メダルもとってほしいけど、自分のベストをつくしてほしいです。ぼくはテレビの前で
しっかりおうえんしたいです。
13
生
いました。
スポーツをしている時のパラリンピックの選手たちは、とてもかっこいいと思いますが、日常
学
た時は、くやしかったです。ぼくは、四カ月で、かんちしましたが、パラリンピックの選手たち
は、障害に負ける事なく、スポーツを楽しんでいるように、見えます。心がとても、強いなと思
作 文 部 門 小
んばりたいと思えたり、元気や勇気がもらえた気分になります。オリンピック後の、パラリンピッ
クに出場する人たちを見ても、とても感動します。
佳 作
障害者のためにできること
岡山市立芥子山小学校 6年 國清 圭亮
ぼくが、障害者のためにできると思うことは、まずその人の事をちゃんと理解することです。
その上で、障害者の気持ちになり、健常者にどんな事をしてもらったらうれしいか、どんな事を
に知り合う事が大切です。すると、障害者は、
「この人は、信頼できる。」
と思い安心することができます。そうさせることで健常者は、初めて障害者の気持ちになること
ができるのです。
障害者の気持ちになるには、障害者を理解することも大切ですが、障害者のことを障害者と思
学
わないで、同じ人間として受け取ることが大事なのです。障害者の事を障害者として受け取って
いると、その障害者を障害者としてしか見ることができなくなります。そうなると、障害者を嫌っ
生
作 文 部 門 小
されたら悲しいかよく考えることだと思います。
障害者の事を理解するには、まず、その障害者と話し、どんな人でどんな性格なのかおたがい
てしまい、障害者を理解することが難しくなると思います。
今年の7月に起こった、やまゆり園殺人事件の容疑者、植松聖容疑者があんな事をやったのは、
障害者を理解していなかったからだと思います。植松容疑者は、植松容疑者なりに障害者のこと
を考えていたのだと思います。しかし、障害者を理解する事ができなかったからあんな行動に移っ
てしまったのだと思います。
ぼくは、障害者を理解するために、ノートルダム清心学園の渡辺かず子さんの
「健常者は、障害者を助けるために生きている」
という言葉が大切だと思います。健常者が多く、障害者が少ない理由は、まさにこれだと思うの
です。また、この言葉は障害者の助けになると思います。だから、ぼくは渡辺かず子さんの言葉
を常に頭に入れていきたいと思います。
14
佳 作
しょうがいしゃスポーツの体験
岡山市立幡多小学校 3年 山中 彩瑚
わたしは、旭川そうのたつの口りょうで、しょうがいしゃの人とボッチャやたっきゅうバレー
をしました。たつの口りょうには体にしょうがいがあって、車いすの人がたくさんいます。家族
チャをしました。
ボッチャは、
ヨーロッパで生まれた手足のしょうがいが重い人のために考えられたスポーツで、
パラリンピックの正式しゅ目です。やってみて、
わたしのチームのリーダーの人は手が使えなかっ
たので、ランプスというすべり台みたいなボールをころがす道具を使ってやっていました。ねら
いどおりにころがっていってたのですごかったです。さいしょになげたボールにちかづけるのが
6人でわたしや他の小学生の子の間に車いすの人がすわってたいせんをしました。たっきゅう台
の上にバレーみたいな少し小さいネットをはって、そのネットの下をころがしてうっていって
たっきゅう台からピンポン玉が落ちたらまけです。ラケットがにぎれない人は手にくくってやれ
るようにしていたのでちゃんと工夫してあるんだなと思いました。やってみて、ナイスプレイが
あったりしていいスポーツだなと思いました。車いすの人もできる所もいいと思いました。
車いすにのる体けんもさせてもらいました。車いすのたたみかたや広げ方も教えてもらいまし
た。少しかたくてむずかしかったけど広げられた時はうれしかったです。のってみたりおしてみ
たりもしました。のってみて、はやいとこわいし、がたがたしたし、ハンドリムを回すのがおも
かったりと車いすもいろいろたいへんだなと思いました。お母さんにのってもらってすすんだり、
上げたりする時は声をかけないといけないし、おすのもおもたかったです。はじめて知ることが
たくさんありました。先生がふくしはしあわせといういみがあると言っていました。道路の横だ
ん歩道も、音が鳴るしんごうもレストランの子どもいすもふくしの一部だそうです。これから町
の中でふくしをさがしてみようと思いました。
15
生
次にたっきゅうバレーをしました。たっきゅうバレーは、重いしょうがいのある人もいっしょ
に楽しく体を動かせるようにと考えられました。子どもからお年よりまで楽しめます。6人たい
学
むずかしかったです。手が使えない人でも工夫してスポーツが楽しめるようにしていたのですご
いなと思いました。
作 文 部 門 小
やまわりの人に車いすの人がいないから少しどきどきしたけど入ってみるとしょうがいのある人
でもたくさん工夫して、ふつうに生活していました。まず、しせつの人のせつめいを聞いてボッ
佳 作
障がいのある人とともに
岡山市立幡多小学校 3年 小泉 敬慈
ぼくには、夏休みに一番心にのこる出会いがありました。それは、もう学校に通っているぼく
と同じ小学三年生の男の子です。
のために、トルコ行進曲、花はさく、ラ・カンパネラ、この四曲です。一番たくさんはく手をし
てくれた曲は、ラ・カンパネラです。どの曲もリズムという船にのったかのように体を左右、上
下にゆらしながらまるで宙をまう、たくさんの音符をりょう手でたたきつぶしていくように手を
たたいてくれました。えんそうが終わると、
「すごいじょうずだね。
」
学
と、ほめてくれました。その時ぼくは、また今度聞いてもらおうかなと思いました。聞いてくれ
た男の子は、ぼくのピアノえんそうに入りこんで聞いてくれていたらいいなと思います。入りこ
生
作 文 部 門 小
ある日、この男の子にぼくのひくピアノを聞いてもらいました。すると、ぼくのピアノえんそ
うが終わるまでたくさんはく手をし続けてくれたのでとてもうれしかったです。曲は、エリーゼ
んで聞いていてくれていたらとてもうれしいです。
これからも、いろいろな障がいがある人たちに、ぼくがひくピアノを聞いてもらえたらいいな
と思います。その人たちも、ピアノえんそうに入りこんで聞いていてくれたらとってもうれしい
です。
これからは、手話などをして分からないところがあったら、じしょなどをひいて大人になった
らしえん学校の先生になりたいです。その学校でもたくさんの人に音楽をたくさん聞いてもらえ
るようにピアノもがんばります。
16
q 中学生の部 q
最優秀賞
心と心の繋がり
岡山市立高松中学校 2年 堀内 綾乃
な体の人がいることをそれまで知らなかったからだ。そんな私の様子を察しながらも、彼女はに
こっと笑って、
「よろしくね。
」
と挨拶をしてくれた。そのときの彼女の笑顔に、私は自分にはない強さを感じた。
彼女とは、三年間学校生活を共にした。体育で跳び箱をしたときは、当たり前のように生徒た
生
ある日、低学年の女の子が彼女に、
「なんでそんなに小さいの?」
学
ちでビニールテープを張って、彼女も跳べる跳び箱を作った。毎年行われる持久走記録会では、
自分たちが走り終わるとすぐに走っている彼女の元に駆けつけ、みんなでゴールまで走った。
作 文 部 門 中
私が小学三年生のときに転入した学校には、とても背の低い女の子がいた。生まれつき障害を
持っている女の子だった。初めて彼女を見たとき、正直私はびっくりしてしまった。彼女のよう
と聞いた。どきっとした。なんでそんなことを言うのだろう。相手が傷つくのが分からないのだ
ろうか。でも、しばらくしてはっとした。自分も彼女に初めて会ったとき、同じようなことを思
い、同じような反応をしてしまったからだ。しかし彼女は傷ついた様子をするどころか、女の子
に自分の体のことを力強く話し始めた。最後には女の子も納得し、お互いのことを受け入れるこ
とができていた。彼女は、傷つくこともつらいことも最後には笑顔に変えることができる。彼女
は強い。そう改めて感じた。
私たちが彼女の支えになりたいと思えたのは、彼女自身が私たちの支えになってくれていたか
らだと思う。彼女はどんなときも笑顔で、周りを明るくしてくれた。だからこそ一緒にいたいと
思えたし、支え合いたいと思った。
彼女と三年間過ごして、教えてもらったことがある。それは、「大切なのは、心と心の繋がり」
ということだ。障がい者と健常者というカテゴリーに分ける前に、私たちは心と心で繋がってい
る。心を通わせ、尊重し合い、認め合う。これは、障がい者や健常者関係なく、人と関わるうえ
でとても大切なことだと思う。そして、彼女から特に強く教えてもらった「心の強さ」を自分の
軸にできるよう、心がけていきたい。
17
優 秀 賞
障害者について考える
岡山市立高松中学校 2年 源 崚司
津久井やまゆり園で障害者が命をうばわれる事件が発生しました。この事件で、19人が死亡、
26人が重軽傷を負っています。容疑者は、
「障害者なんていなくなればいい」と供述したと言わ
う自閉症と診断されております。要するに、僕の弟は障害者なのです。
しかし僕は、容疑者のように障害者がいなくなればいいと思ったことはありません。
それには様々な理由があります。まず弟は発達の障害があり脳の発達が未熟です。そのため弟
は話すことができませんし、伝えたいことがあっても言葉で伝えることができません。僕として
は兄弟だが話せることがなく、お兄ちゃんと呼ばれることがないので、とても残念に思っていま
学
す。しかしそれはさびしいことではありますが、それは弟の意思でなまけているのではないし、
僕に害をもたらすことはありません。なので弟がいなくなればいいと感じたことはありません。
生
作 文 部 門 中
れます。
僕はこの一言に腹が立ちました。なぜなら僕の弟には発達の遅れがあり、重度の知的障害を伴
僕の弟は障害の特性からか、人ごみや大きな音など苦手なことが多々あります。そのために公
共の乗り物で遠出をしたり、家族そろって出かけられないことがあるのも残念です。
しかしそんな時には僕の祖父母が弟を預かってくれたり色々と助けてもらっています。親せき
も弟のことをよく気にかけてくれるのでとてもありがたいです。
そう考えると、弟が周りを不幸にしているという明確なものはないのかもしれません。むしろ
弟がいるからこそ、うちの家族はまとまっているし、弟がいつも家族の中心にいると感じます。
先出の事件の容疑者が、
「障害者はいなくなればいい」と供述したのを聞いたとき、僕は腹が立っ
たのとともにこの容疑者は最低で心ない人間だと思いました。被害にあわれた障害者の方にも大
切な家族や仲間がいたはずです。そのような人達とのつながりを無惨に断ち切ってしまった容疑
者を僕は許すことができません。障害者が悪いわけでもなく、命の長さなどは誰にも決める権利
はありません。それなのに容疑者は障害者の命の長さを勝手に決めるというのはとても酷いこと
だと思います。
この事件を受け、障害者とどう向きあえば良いのか、僕なりの意見を述べます。
まず大事なのは障害は本人の意思に関係なくあるものです。それを周りがどう受け止めてカ
バーするかが大事です。例えば弟がご飯を食べるのを助けてあげたり水びたしになったときタオ
ルでふいてあげたりと自分が弟にできることをするのが大事な事だと思いました。障害の有無に
かかわらず誰にでもできることやできないことがあります。これも、周りがどう受けとめるかで
変わっていきます。僕が思うには、弟はしゃべることができませんが、自分の気持ちを伝えよう
と行動に表しています。だから僕がわかり合おうとするだけでも環境が変わっていくと思います。
このようにまず必要なことは、障害者について理解しようとその人の気持ちによりそうことで
す。そして、自分が障害者に何ができるかを考えて、障害者と接していくことが重要になってい
くと思います。
18
優 秀 賞
「僕の挑戦」
岡山市県立岡山盲学校中学部 2年 近藤 悠斗
僕は、盲学校の中学部二年生。
ガイドヘルパーの方に介助をしていただきながら、電車で通学している。朝の電車はとても混
と声をかけて、席をゆずってくださる人がいる。とてもありがたい。僕には相手の顔は見えない
が、心を込めて
「ありがとうございます。」
と帽子を取る。
僕は、趣味でマラソンをしている。視覚障害がある人たちが集まって、伴走をしてもらいなが
生
「段差があるよ。」
「登り坂だよ。」
学
ら走る「ももたろうパートナーズ」の会に参加している。伴走者の方はとても優しい。走ってい
る時は、
作 文 部 門 中
んでいる。ほとんどいつも座れない。僕が持っている白杖を見て、
「どうぞ。
」
と周りの様子を教えてくれる。
僕に障害があっても、別に特別扱いされるわけではない。みんなと同じように接してくれる。
そこは、あたり前のようにいられる、い心地の良い場所。とてもありがたい。
盲学校も僕にとって、とても楽な場所だ。なぜなら、周りの人も自分と同じように障害をもっ
ている。僕は特別な存在ではない。
盲学校では、地域の中学校と交流をもつ機会がある。そんな時、僕はなかなか自分から関われ
ない。自分だけ周りとは違う存在のような気がする。とても緊張する。とても不安になる。
ももたろうパートナーズの参加者の中に、中途失明の人がいる。
「視覚障害者になってから、マラソンが好きになった。」
とその人は言った。だから、僕も引き下がってはいけないと思う。
僕は、白杖を持って、かっこよく歩きたい。景色の一部には、なりたくない。特別にもなりた
くない。点字ブロックの上に自転車を置きそうになった時、僕の姿を思い出して、そっとよけて
くれるといいなと思う。
これからは、一歩ずつ外の世界に出ていこうと思う。多くの人との出会いが待っている。助け
てもらった時には、感謝の気持ちを伝えたい。そして、僕も、助けられるだけでなく、だれかの
ためにできることをしていきたい。
19
佳 作
ぼくの妹
岡山市立高松中学校 1年 村上 空星
ぼくには、この夏一歳になる妹がいる。妹は左手に障害を持って生まれてきた。平成二十七年
八月二十九日ぼくの妹は生まれた。小さな病院で生まれた妹は、生まれてすぐ、救急車で大きな
らいの赤ちゃんや機械に囲まれた赤ちゃんがいた。ぼくは何度も妹に会いに行きたかったけれど、
一度しか行けなかった。初めて見るその病室は、とてもつらいものだった。ぼくは、健康で生ま
れてくることが当たり前だと思っていたけれど、そうではなく健康で生まれてくる事は、すごく
うれしい事だということが分かった。
二週間後ぼくの妹は退院できた。家に帰ってくると妹がラックの中で眠っていた。左手は指先
学
以外の肩から下は全く動かなかった。妹が退院できてうれしい気持ちもあったけど、左手が動か
ない悲しさもあった。三ヶ月がたったころ、右手を動かすと、左手もほんの少しピクピクと動き
生
作 文 部 門 中
病院に運ばれた。それから一週間後大きな病院に面会に行った。病室に入る前には、面会用のガ
ウンを着せられ、手洗いと消毒を何度もしなければいけなかった。そして中に入ると、手の平ぐ
始めた。母がうれしそうに「見て見て見てー」と言った事を、とても覚えている。そして首がす
わり、あやすと笑ってくれるようになった。それから人見知りが始まり、ぼくが抱っこしても泣
くようになり、さみしい時もあった。ハイハイが出来るようになり、もうすぐ一歳になる今では
歩く練習をしている。左手は少しずつだけど、動くようになり、今では物をつかめるようになっ
た。
一歳を迎えるこの夏、左手のリハビリのため、いつも通っている病院とはちがう病院を紹介し
てもらった。そこは障害をもって生まれた子ども達がたくさん通っていると母が言っていた。初
めて母がその病院へ行った日、色んな事を教えてくれた。妹の左手の障害は、ほんの小さな事だ
という事。それでも親として少しでも普通の動きが出来るようになるためにリハビリに通ったり、
出来る事はすべてしていきたいと思っている事。
ぼくは、妹の左手のためにぼくが出来る事はしていきたいと思う。そして、妹が生まれてきた
からこそ分かった事がたくさんある。この経験を生かして、自分の出来る事で社会に役立てられ
たらいいと思うし、障害のある人もない人も差別なくみんなで助け合っていける社会になればい
いと思った。
20
佳 作
散髪屋のおばさん
岡山市立竜操中学校 1年 森 遼太郎
これは、飛び込みで入った初めての散髪屋での僕の体験話だ。
入った時にどこからともなくピーピーという音が聞こえてきた。
だと分かった。それでぼくは、理解が出来た。
「ここの散髪屋のおばさんは耳が聞こえにくく、あまりしゃべるのが得意じゃない。」
ということを。最初に入った時から散髪が終わるまでその音を聞いていてとても怖かった。しゃ
べろうとしているけど声が思うように出ていない。でも言葉の面影はある。お母さんとは、親し
そうにしゃべっている。僕は、不思議に思った。
学
「しゃべっていて怖くないのかな?」
散髪が終了し、家へと帰る途中お母さんが、
作 文 部 門 中
「この音は何だ?」
と思った。そしてその音の正体はすぐに分かった。その正体は、散髪屋のおばさんの補聴器から
生
「さっきの散髪屋、カットが上手だから次も行ってみよう」
と言われたが、
「イヤだ。怖いからもう絶対行かん」
と僕はとっさに言った。なぜならピーピーという聞いた事の無い音とおばさんの声がトラウマで
怖かったからだ。
でも家に帰りお母さんと話をした。
耳が聞こえないのもあまりしゃべるのが、得意じゃないのも、人それぞれの個性なのだ。車イ
スの人や体が自由に動かない人だっている。目が見えない人もいる。それも一つの個性だ。
僕は考えた。本当に自分はその補聴器の音やおばさんのしゃべる声が怖かったのだろうか。そ
う考えるとそうではなかったような気がする。
外見などではなく、意思の疎通が出来ない事が一番不安だったのだと思う。
でも、お母さんをよく見ていると大きな口でゆっくりと体全体を使って意思の疎通が出来てい
た。そして会話もしている。それを見て、だんだん通っていくうちに、もう全く怖くなくなった。
なぜなら、自分にもおばさんと会話できるようになったからだ。だからもう不安はない。
今後からは、人を見た目で判断せずに、また遠ざけるのではなく、自分から
「僕に何か出来る事はありませんか」
と、声かけをしたい。でもなかなか出来ないと思うがただその一言で相手も自分も気持ちは全く
違うと思う。
なぜなら困っている人は、なかなか自分から手を貸してとは言いにくいと思う。だから僕から
声をかけると、不安がなくなっていくと思うから。
でも時には、断られてしまうこともあるだろう。だけど、あきらめずにしっかり声をかけて少
しでも多くの手助けが出来たらいいなと思う。
声かけだけではなく、自分には何が出来るかを考え自分の出来る精一杯の事をしたいと思う。
21
佳 作
言葉は大切だ
岡山県立岡山聾学校中学部 3年 横山 大輝
ぼくは、今中学三年生で岡山聾学校に通っている。朝バスで岡山駅まで行き、電車に乗りかえ
る。電車の中では、倉敷から来る友達と合流し、おしゃべりをするのが毎日の楽しみだ。学校に
ぼくは、実は小学六年生まで手話を全く知らなかった。中学から聾学校に入り、手話を少しず
つ覚えた。目で見てわかる手話は、わかりやすいと思った。中学部は、とても明るく元気な友達
がたくさんいる。その友達と手話で話す事ができて楽しい学校生活を過ごせている。
ぼくは、小学五・六年の時いじめを受けた事がある。そのいじめとは、
「アホ」
、
「耳が聞こえ
ないヤツは、キライ」と悪口を言われたことである。心の中が悲しさでいっぱいになった。腹が
学
立ったがぼくは何も言えなかった。どうすればよいかわからなかったので思いきって先生に相談
した。先生は、ぼくの話を聞いてくれてとてもほっとしたことを覚えている。あの時は、いじめ
生
作 文 部 門 中
着くと他の友達や先生たちがいる。手話でゲームなどいろいろな話をする。とりとめのない会話
が楽しくてしょうがない。
が収まった。しかし、しばらくすると、またいじめが始まった。学校に行きたくないと思ったこ
ともある。しかし、いじめに負けたくいないのでガマンして通った。
言葉の暴力は、本当にイヤなものだ。即刻やめてもらいたい。しかし、自分はどうだろうか。
自分が、知らない内に人を傷付けてしまう事があるかも知れない。人間は、自分のしたことを覚
えていなくても、されたことは忘れないものだ。小学時代の経験からぼく自身は言葉に気を付け
ていきたいと思う。
今は、聾学校に入って友達もできて良かったなと思う。この学校では、障害者として困った事
は、あまりない。障害者というよりも、一人の人間として学級活動や部活動、行事などを通して、
友達と力を合わせることの楽しさ、助け合うことのすばらしさを多く学んだ。あたたかい言葉は
人の心をやさしくし、いい思い出を作ってくれる。
改めて言葉の力はすごいと思う。言葉の使い方によって良くも悪くも変わる。将来、社会に出
たら、ぼくは障害者として困ることがあるかもしれない。しかし、人を傷付けるような言葉は使
いたくない。あたたかい言葉でまわりの人も自分も楽しく生きていきたいと思う。
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q 高校・一般の部 q
最優秀賞
ダイヤモンド
岡山市北区 黒住 雅子
した。
二年間心療内科のM病院に入院しましたが、病状が悪化したため、O大学病院の精神科閉鎖病
棟に転医しました。
私の母シングルマザーです。独りで、仕事、家事、精神障害者の私の世話をしていました。そ
のため、母は何度も倒れました。
そんな生活が二十年以上続き、母は疲れ果て、重いうつ病になり、糖尿病、軽度の認知症も併
発し、普通の生活も送れず、一日中横になって過ごしていました。そんな母の介護をすべて私が
していました。
糖尿病のため食事は毎食カロリー計算した物をだしていました。母だけにそれを食べさせるの
が可哀想で私もそれを食べていました。
母はよく失禁もしていました。当時二層式の洗濯機を使っていたので、一日五、六回の洗濯は
本当にきつかったです。
母は買い物依存症も患い、ひと月五、六十万くらいブランド品の洋服やバッグ、貴金属などを、
クレジットカードや消費者金融からお金を借り、買いあさっていました。無論、返せないので、
毎日返済を迫る電話が鳴り響き、督促状が届いていました。私は考えたあげく、弁護士に相談し
法テラスを利用して母を自己破産させました。
けれど、母は私のお金を当てにするようになりました。精神科の主治医からは、
「お母さんにお金を貸してはいけない」
と強く言われていましたが、お金を貸さなければ私は、殴る、蹴るなどの暴力を振るわれ、酷い
時には、手を三十数か所カミソリで切りつけられ、もっと酷い時には、柱に頭を思いっ切り打ち
付けられ気を失ったこともあります。母にお金を貸さなければ私は命が危ない状態でした。私は
それまで貯めていた障害年金(マンションが一部屋買えるくらいの金額)を、母に貸すしかあり
ませんでした。
母は日中、昼寝ばかりしているので、早朝四時には起床し、淋しいからといっては私の身体を
揺すり続けて無理矢理起こします。
家事、家計の遣り繰り、母の世話に疲れ果て、十分な睡眠をとることさえも許されず、私の思
考は介護の辛さから、母と心中することばかり考えるようになりました。
ある晩、母の眠っている部屋にこたつのコードを手に入り、首を絞めて母を殺した後、自死す
るつもりでいました。けれど、子どものような母の無邪気な寝顔を見ているとできませんでした。
自分だけ死のうかとも考えましたが、残された母のことを思うと自殺もできません。私は死ぬこ
とさえも許されず、母の介護をするしか道はありませんでした。
精神障害者が年老いた精神障害者の介護をすることは想像以上に大変なことです。でも、誰も
23
作 文 部 門 高 校 生・一 般
私は統合失調症という精神障害者です。二十六年前の十九歳の時に発病しました。
発病当時、とても調子が悪く、毎日リストカットなどの自傷行為、自殺未遂を繰り返していま
助けてくれないのが現状です。
ある早朝、私は起床し、一階のトイレに入ると、母が倒れていました。母は急性心不全で突然
この世界を去りました。
母が亡くなった悲しみから私は一年間、引きこもりになり、毎日、泣いてばかりいましたが、
時が経つにつれ母との思い出や、自分の気持ちをノートに綴るようになりました。
「書きたい」
という自分の想いに気づき、勇気をだしてカルチャーセンターの門を叩きました。
『公募を楽しむ』
という講座を見学し、受講することに決めました。そこで講師のM先生と出逢いました。
作 文 部 門 高 校 生・一 般
カルチャー教室でM先生のご指導のもと必死で文章の書き方を基本から学びました。M先生は
精神障害者の私にも真剣に向き合ってくださり、丁寧に、時には厳しくご指導してくださいまし
た。私は一生懸命文学を学び、徹夜することもしばしばありました。あまりの厳しさに心が折れ
そうになったことも何度もあります。
がんばった結果、佳作ですが、私が創作した文章が入選することができました。そして、六ペー
ジですが、自作のエッセイが入選し、本の一部になって全国発売されました。その講座で賞をとっ
たのは障害者の私だけです。
けれど、M先生が体調を崩し辞めることになりました。大好きなM先生との別れが辛くてたま
りませんでした。と同時にM先生という補助輪なしにこれから創作していけるのかとても不安に
なりました。
この頃から、急に意欲が低下し、何もできなくなり、毎日横になって過ごすことが多くなりま
した。病院で診察してもらうと重度の更年期障害でした。
書くことができなくなった私は、カルチャー教室を離れてからも、交流のあったM先生に手紙
で相談しました。するとM先生から、
「書けないときは本を読みなさい。体調の良い時に一文で
もいいので、自分の気持ちや、日々の暮らしのなかで心の響いたことなどを書くといいですよ」と、
葉書でアドバイスをいただきました。私は本を読むのもしんどいくらい更年期障害が酷かったの
ですが、彼女の助言に従い、一年間で二百冊以上の本を読みました。
お陰様で市の文学賞の随筆部門で賞を頂き、表彰台に立つことができました。私が数々の賞を
頂けたのは自分一人の力ではなく、常に私を応援し支えてくださった皆様のお蔭です。
私は母の介護の苦労と、刻苦して文学に励んだ経験を通して、心が鍛えられ、自傷行為をやめ
ることができました。以前より強い人間に成長できたように思います。障害者でも明日は今日の
自分を超えられるよう、一歩ずつ、半歩ずつでも前に向かって努力を続けていればいつか必ず、
光り輝く美しいダイヤモンドになれます。たとえ、今は原石でも。
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優 秀 賞
「ありがとう」の伝え方
岡山市立岡山後楽館高等学校 2年 近藤 あかね
「ありがとう」って言うのは当たり前みんなそう思っているはずだ。
しかし、実際にきちんとありがとうと言うのはとても難しい。でも「ありがとう」と口で言え
まな人が来る。もちろん、視覚障がいの方、言語障がいの方、軽度のマヒをもった方、知的障が
いの方、車イスの方、サラリーマンや主婦、子ども、高齢の方などさまざまだ。
私は、約一年半、接客の仕事をしてきて気付いたことがある。それは「ありがとう」の伝え方
だ。いつも来る言語障がいのおばさん、最初は何を聞いても答えてくれない人でも最後はとても
ステキな笑顔を「ニコッ」と私にして帰っていく人だった。ある日私がいつもどおり接客をして
いると、いつも通り、おばさんが来た。私は今日も何も言わずに帰るだろうなと思っていた。す
るといつもは「ニコッ」とするだけなのになにか大きな声で言っていた。でも、言葉になってい
なかった。でも私はすぐに分かった。
「ありがとう」と言っていたのが。私はすぐにその方が言
語障がいの方だと分かった。私はとても嬉しかった。
「ありがとう」はハッキリとした言葉でな
くても伝わる。気持ちがあればきちんと伝わるということがわかった。
また、気付いたことがもう一つ。私たちは何かしてもらって当たり前、少しのことならいいや
と思ってしまい、ありがとうと言わなくなっていることが多いと思う。接客をしていても最後
「あ
りがとう」みんなが言うわけではない。しかし、障がいをもった方は八割以上言葉でなくても、
ありがとうと何か伝わるような何かをする。目を見て礼をしたり、手を合わせたり、笑ったり、
頑張って「ありがとう」と言ったり。きっと障がいをもっている方は、私たち以上にありがとう
の大切さを分かっているのではないか、何かをしてもらって当たり前という感覚があまりないの
かもしれない。
私自身、してもらって当たり前という感覚があった。しかし、小さなことでもしてもらったら
「ありがとう」と伝える。それはとても大切なことだと思った。私たちも障がいのある方をしっ
かり見習うべきだと思った。
25
作 文 部 門 高 校 生・一 般
なくてもありがとうの気持ちはきちんと伝わると私は思う。
私は、コンビニエンスストアーでアルバイトをしている。コンビニエンスストアーにはさまざ
佳 作
きっかけとなってくれた「祖母」に
岡山市立岡山後楽館高等学校 1年 石田 陽南
「福祉の仕事をすること」それは私にとっての、人生の課題である。
この夢を思い描くようになったきっかけはたくさんあるがその中でも一番夢を見させてくれた
作 文 部 門 高 校 生・一 般
思い出がある。それは中学二年生の頃、そろそろ夢を決めてそのために頑張っている友達が増え
だし、あせる一方、自分は何をしたいのか、何をするべきなのか分からなく、部活や遊びに逃げ
るように熱中していた。しかしそんな中でも夢に繋げてくれるきっかけとなってくれたのは私の
祖母だ。
私がまだ幼い頃から入退院を繰り返している祖母がいる。祖母は、毎回私達がお見舞いに行く
とすごく喜んでくれる。毎回、「ありがとう、ありがとう」と笑顔で言ってくれ嬉しいが、うま
くコミュニケーションを繋げることができない。もっともっと話したいのにあせってしまう自分
が悔しかった。
その時、祖母と介護士さんが笑顔で楽しそうに会話しているのを見た。私はその頃、介護士さ
んの仕事は、ただお風呂に入れてあげたり、寝かせてあげる手伝いをしたり、車イスを押してあ
げたりなど、身の周りのできないことを手伝うだけのコミュニケーションを取らない冷たい仕事
だと思っていた。
しかしその姿を見てから福祉に興味を持った私は、職場体験やボランティアなどで、さまざま
な老人ホームや障害者施設に行き、高齢者の方々や障害者の方々などとふれあうことができとて
も貴重な体験をすることができた。それぞれの施設でやることは全く異なっていたのに、
「コミュ
ニケーション」だけは、どれだけ違うサービスをしようとどこでも同じように一番大切だった。
コミュニケーションをこまめに取ることによって利用者さんから信頼されやすくお互いにとって
良い介護ができるそうだ。
私はこのきっかけを逃さぬように、一生懸命勉強して介護を学ぶことができる高校に入学する
ことができた。ベッドメイキングや、介護のやり方などたくさんの種類があるため覚えるのも一
苦労だが楽しくやっている。
今の私があるのも夢をつくるきっかけをつくってくれた祖母のおかげなので、次は私から夢が
叶ったら「ありがとう、ありがとう」と感謝を込めて言いたい。
26
ポスター
Poster
小学生の部
最優秀賞
ポスター部門 小
学
生
岡山市立岡山中央小学校3年
越 智 実祈乃
29
優秀賞
ポスター部門 小
岡山市立宇野小学校6年
藤 原 葉 月
優秀賞
学
生
岡山市立芥子山小学校5年
池 口 遥 希
30
佳
作
ポスター部門 小
岡山県立岡山聾学校小学部4年
小 川 寛 仁
佳
作
学
生
岡山市立旭操小学校6年
竹 谷 香々名
31
中学生の部
最優秀賞
ポスター部門 中
学
生
岡山県立岡山大安寺中等教育学校3年
藤 澤 舞
32
優秀賞
ポスター部門 中
岡山市立桑田中学校1年
伊 丹 都花佐
学
優秀賞
生
岡山市立竜操中学校2年
柴 田 恵
33
佳
作
ポスター部門 中
岡山大学教育学部附属中学校3年
安 達 祐 貴
学
佳
作
生
岡山市立瀬戸中学校1年
羽 納 沙也香
34
写 真
Photo
最優秀賞
岡山市中区 平
写 真 部 門
応援
井 肇
37
優秀賞
ありがとう
岡山市南区 金 山 稔
佳
作
写 真 部 門
伴走者と走ろう
岡山市中区 防 田 知 子
38
Fly UP