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ヤフーの跳梁する世界 : 『ヴォイツェク』試論
谷口, 廣治
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
大阪府立大学紀要(人文・社会科学). 2000, 48, p.51-64
2000-03-31
http://hdl.handle.net/10466/12409
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
ヤフーの跳梁する世界
﹃ヴォイツェク﹄試論
ムロ
、マ
﹁人間が状況の奴隷にすぎないことを、これほど痛感させた時代はな
のは個々人の思惑など一顧だにせず、人間の生身の肉体すら踏み砕き
に把握する試みに対して頑強に抗う、ひとつのアポリアがそこには横
い−﹂と慨嘆するミニェの﹃フランス革命史﹄は、ビューヒナーがこ
ながら突き進む、歴史の必然性への恐怖である。革命の帰趨を回顧して、
たわっている。フランス革命史の研究に没頭した後、ビューヒナーが
の時期読んだ著書の一つだった。この歴史の宿命論を側面から支えて
字義通りに取れば、人間は﹁置かれた状況﹂の変化に応じて増減を繰
くらが罪を犯すまいとしても、自分の思い通りにはなりません。誰し
うたかた
が見えてきたのだ。︻⋮一一人一人の人間は波間に浮かぶ泡沫、大立て
り返す、従属変数にすぎないことになる。第三の考察として、生理学
ぼくは革命の歴史を研究した。そして歴史の宿命の恐ろしさに打ち
者もほんの偶然の産物、天才の統治といってもたかが操り人形で、鉄
的唯勿論をあげなければならない。医学研究の見地から、彼は理性的
も同じ境遇に生まれたら同じような人間になるし、境遇は人間の手の
の法則を相手取る笑止千万な悪あがきにすぎない。この法則を認識す
な意志に対する肉体の論理の圧倒的な優位性を知悉していた。それが﹁人
届かないものなのです﹂㊧﹀悶噂豊と両親宛の手紙で彼は断じているが、
るのが人間には精一杯のところで、これを支配することなどできたも
間の本性に潜んでいる同一性﹂の謂いである。ひょっとしてビューヒ
のめされるような思いだった。人間の本性に潜んでいるぞっとするよ
のではない。︻⋮一必然とは忌わしい呪いの言葉だ。人間は生まれ落ち
相之って、書簡には世界の一つの縮図が映し出されている。それは生
ような心境に陥ったのかもしれない。いずれにせよこの三つの考察が
裏切る形で進行する歴史の宿命を察知したとき、一切の夢が砕け散る
一時期に見定めていたのだろうか。そしてほとんど常に人間の願望を
ナーは、人間の本性と環境の調和的な関係が実現する社会を、未来の
うな同一性が、人間の置かれた状況に加えられた逃れようのない暴力
いる二つ目の考察が、フランス感覚論に学んだ環境決定論である。 ﹁ぼ
婚約者に宛てたいわゆる﹁宿命論の書簡﹂がそれである。
はじめに
廣
ゲオルク・ビューヒナーの生と文学を通覧するとき、両者を統一的
口
るとともに、この言葉の洗礼を受けている。[⋮㎞いったい何だろう、
ぼくらの心の中で偽り、人を殺め、盗みを働くのは? この考えをこ
れ以上先に進めることは、ぼくにはもうできない。書紀ムb。αムN①︶
この宿命論は三つの考察から組み立てられている。中枢に位置する
51
谷
ヴォイツェク事件
一八二一年六月ライプツィヒで、定職を持たずルンペンまがいの暮
理的自然と環境という横糸に緊縛され、歴史という縦糸に繋がれて、
破滅に向かいすべての人間が手繰り寄せられていく、呪わしい人形芝
らしをしていた一人の中年男が、身持ちの悪い中年女を惨殺するとい
革命運動が挫折して亡命を余儀なくされたのち、歴史の宿命論はさ
んである2。
進ずる。 ﹁宿命論の書簡﹂の扱いに、多くの批評家が頭を悩ますゆえ
彼はこの書簡を認めてまもなく革命運動に身を投じ、非合法活動に適
る情人に愛想を尽かしたのか、ヴォーストはやがて別の男に心を移し、
人関係を結んでいた。だが一向に職が定まらず、その日暮らしを続け
隊生活にけりをつけてライプツィヒに帰郷、それ以来ヴォーストと愛
ヴォースト、四十六才だった。ヴォそツェクは三年前、十二年間の軍
アーン・ヴォイツェク、被害者は未亡人ヨハンナ・クリスティアーネ・
う事件が起こった。犯人は四十一才の元婁職人ヨーハン・クリスティ
かつら
居の舞台にほかならない。人間の主体性にここまで大胆な破産宣告を
ク イ エティズム
らに深化している。戯曲﹃ダントンの死﹄では、昨日まで民衆の寵児
これを恨んだヴォイツェクが彼女に再三暴力を揮っていたことから、
下す者は、自らも静観主義的な生に甘んじるほかあるまい。ところが、
したた
だったダントンが、今日は同じ民衆の拍手喝采を浴びながら断頭台に
事件は情痴がらみの怨恨殺人として扱われた。ただし、当初から弁護
’人賦が被告の責任能力に疑義を挿んだため、早期に精神鑑定が実施さ
れている。しかしながら、ヴォイツェクがすべての罪状を認めたこと
立つ。しかも自らが設立した革命裁判所から、 ﹁祖国の敵﹂という烙
印を押されて。 ﹁おれたちは無だ。争いあう亡霊どもの手に握られた
剣に過ぎない﹂臼﹀い凸︶というダントンの台詞は、結局のところ時代
命論の書簡﹂に記された残る二つの考察を、すなわち生理的自然と環
ビューヒナ﹂は絶筆となった戯曲﹃ヴォイツェク﹄において、 ﹁宿
ずだ。
した経緯を明らかにしたことで、事件の様相は一変する。さらに被告
る得体の知れない声が、犯行の数日前に﹁ヴォーストを殺せ!﹂と唆
に悩まされてきた事情を告げ、とりわけ数年前から彼に取りついてい
ところがその後、ヴォイツェクが聴罪師に対してこれまで頻々と幻覚
で裁判は迅速に進み、その年のうち被告には斬首刑の判決が下された。
境の破壊的な力をテーマに選んだ。彼が主人公に据えたのは実在の殺
の心神の異常を証言する人間が名乗りを上げるに及び、弁護人側は裁
の流れから玩弄されるに終った、作者自身の真情の吐露でもあったは
がんろう
人犯だが、この人物には精神障害の疑いがあり、責任能力が疑問に付
判のやり直しと、より厳密な精神鑑定による真相の究明を主張した。
そこで死刑の執行は一旦差し止められ、第一回目の鑑定を司った宮廷
されていたという。必然の流れのままに犯罪という暗渠へ押しやられ
うたかた
ていく人間の、 ﹁波間に浮かぶ泡沫﹂に似た存在を描き出すには、願
て被告の精神鑑定を行った。面接・審問は五度にわたり慎重に実施さ
顧問官J.C﹁・A・クラールス博士が、裁判所の委託のもとあらため
追究することの無意味さを説く3ために、この作品を執筆したのだろ
れたが、最初の鑑定が覆ることはなかった。クラールスは被告がたび
ってもない素材である。だが果たして彼は、犯罪者の罪を問い責任を
うか。まずは、実際に起こった殺人事件の概要を辿ってみよう。
たび聞いたとする奇妙な声を、脳の血行障害や右耳の難聴が生んだ錯
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かのように、ドイツに伝統的な精神主義の立場を、要言すれば、なす
る傾向が強まっていたのに対して、クラ!ルスはあたかも時流に挑む
響を受け、精神病理の原因を大脳の器質異常などの身体的欠陥に求め
こすこととなった。当時の斯界ではフランスの実証的な医学研究の影
結審後クラールス博士が公表した鑑定書は医学者の間で論議を巻き起
この一件は当時のドイツの精神医学界に一石を投じる役割を果たし、
千人の市民が見物に集まるなか、ライプツィヒ市の広場で執行された。
たのである。裁判所はこの鑑定を採用し、一八二四年八月、死刑は数
の独り言にほかならない!﹂︶、被告の心神喪失、心神耗弱説を退け
覚と断定して、 ︵﹁ヴォーストを殺せと雷う声は、ヴォイツェク自身
兵士の懲罰用に使われる木を伐採するさなか、突如幻覚に襲われる。
の郊外に広がる野原、下級兵士ヴォイツェクは僚友アンドレスとともに、.
が発症している。戯曲の冒頭を取り上げよう。場は軍隊が駐屯する町
ヴォイツェクの妻マリーとなる︶。しかもちょうどこの頃から、彼の﹁劃一
きていた︵ただし戯曲ではヴィ.︸ンベルクとヴォーストが合体して、
ヴィーンベルクという女性と内縁関係にあり、二人の間には子供がで
く状況は実話に近接することとなる。当時軍隊に務めていた被告は、
る時代にまで引き戻したわけである。それによって、主人公を取り巻
被告ヴォイツェクの生活史をいわば四分の三に圧縮し、およそ十年遡
戯曲の主人公ヴォイツェクは三十才、作者はヴォースト殺害に至る
べきことはなしうるという、カントの倫理学的見地を貫いたからであ
れと同時に、ヴォイツェクの犯した犯罪が一精神病者の特異な症例と
ォイツェク﹄で、何よりも自由の物質的根拠を明示しようとした。そ
この虚偽意識としての﹁意志の自由﹂論だった。そのため彼は戯曲﹁ヴ
転化する事情を雄弁に物語る。ビューヒナーが敵視したのは、まさに
人間存在の社会的な被規定性を排斥する観念論が、特権階級の思想に
ルスの見解は、衣食と礼節の相即不離の関係を切り捨てたものであり、
ヴォイツエク おれの背後で、足の下で何かが動いている。 ︵地面を
︻⋮︼
用者︼
リーメーソンさ、しつ、静かに!︻・棺桶の中に横たわる、の意−引
リーメーソンの仕業だったんだ、アンドレス。おれは突き止めた。ブ
つと、そいつは鉋屑の上で寝る・ことになった。 ︵小声で︶そいつはブ
の首を拾い上げた奴がいる。ハリネズミかと思ったのさ。三日二晩経
ヴォイツエク そうなんだ、アンドレス。そこの草地一帯に縞模様が
いう枠を越え、可能な限りの普遍的な意味を開示するよう工夫を重ね
踏み固めて︶空っぽだ、音でわかるだろう? この下はすっかり空っ
る4。鑑定書の序論において、 ﹁道徳的な堕落﹂を招いた、被告の﹁不
たのである。この二つの狙いに沿って鑑定書は換骨奪胎の操作を受け
ぽなんだ。フリーメーソンの仕業だ!
浮いている。晩になるとそこに生首が転がっているんだ。ある時、そ
ており、戯曲と照応する箇所は数量的に限定されている。その箇所に
[:山
安定で荒廃し、無思慮かつ怠惰な生活﹂︵臣H温◎。◎。︶を断罪するクラー
見られる両者の異同を追えば、作者の意匠の一半が推し測れよう。
光だ! 空一面に炎が立ち、まるでラッパのような音が降ってくる。
ヴォイツェク ︵あたりを睨みつける︶アンドレス! なんて眩しい
ヴォイツェクの病識
53
藪の中に引きずり込む︶
火が空に登って行くそ。後ろを振り返るんじゃない!︵アンドレスを
だが戯曲と鑑定書を対照すると、いくつかの差違が目に入る。その
を形成したことに、疑いの余地はない。
を選んだのだと思った﹂︵国﹀がαεという。この叙述が第一場の骨格
いることである。たとえば、ヴォイツェクが深夜墓場を俳徊する幽霊
一つは鑑定書に満載された﹁怪奇﹂現象のほとんどを、戯曲が省いて
アンドレス ︵しばらくして︶ヴォイツェク! まだ何か聞こえるか?
ヴォイツェク 静かだ、全く静かだ、まるで世界が死んだみたいに。︻:山
9舜b。。。b。︶,
水辺から﹁さあ、飛び込め!﹂と唆し、時には無人の隣室から﹁奴は
の姿を目撃したこと。あるいは不気味な声が耳に取りついて、時には
ビューヒナーはヴォイツェクの正常と異常の二つの局面を、巧妙に
来るぞ! と叫びを上げ、その後も数時間のあいだ、階段をうろつい
いま何をしている?﹂と誰か他の者に問いかけ、その都度ヴォイツェ
という迫害妄想を抱きだす。フリーメーソンという名称にさしたる意
ていた﹂︵国>H・お㊤︶。ヴォイツェクの供述では、この時彼の身に死の
繕り合わせている。異常時、ヴォイツェクの眼前に自然は突如おどろ
味はない。あの人道主義的な秘密団体を悪辣な謀略組織とする偏見が、
迫り寄る気配がしたという。最後の事例は冒頭の場に活かされたと思
クが髪の毛の逆立つような恐怖に襲われたこと。時にはこの声が二手
当時民衆の間にはびこつていたというだけのことなのだが、時折経験
えなくもないが、残る症状は戯曲には現れない。ちなみに省かれた症
おどうしい姿で立ち現れる。空洞と化した大地の表皮に生首が転がり、
する﹁心臓に針が触るような﹂不快な症状が、 ﹁針一本で人を殺す﹂
例中、複数の人間が当人をめぐって噂話をするという﹁対話性幻聴﹂や、
に分かれ、対話や口論という形を取ったこと。ヴォイツェクの幻覚症
というこの秘密組織の風説と合致したためか、ヴォイツェクは奇異な
後述する﹁思考の剥奪﹂現象は、後に精神病理学者K・シュナイダー
炎に覆い尽くされた空の彼方、世界の終末を告げるかのように不気味
現象に触れるたび、それをフリーメーソンの威嚇と解して怯えている。
が分裂病の一級症状として定めた病識である6。
状は、犯行の数ヶ月前著しく昂進している。当時の下宿の女将は、彼
たとえば、 ﹁ある十月の夕刻、およそ七時頃、被告はグラウデンツの
ビューヒナーはヴォイツェクの慢性的な知覚異常を、ほぼこの冒頭
な音が立ちのぼる。彼はこれらの現象をフリーメーソンが操る魔術と
要塞から半時間離れたところにある町に出かけた。その時空に三本の
の場に凝縮した。それだけでなく、彼はこの場で生起する﹁超常﹂現
が﹁夜の十一時頃階段を降りてきてはまた登り、延々と同じ動作を繰
火の縞模様が見え、その模様はやがて消えていった。振り向くと空の
象に世界の破滅という黙示録的な色調を施し、またソドムとゴモラの
思いこみ、激しい恐怖にとらわれている。クラールス鑑定書によれば、
反対側に一本の似たような縞模様が見え、地の底から沸いてくるかの
没落にまつわる形象を付加している。そのため、これをフリーメーソ
り返しているのを目にした。それからやっと彼は口を開き、来るぞ、
ような鐘の音が聞こえた。被告は当時なおフリーメーソンのことで頭
ンの魔術とする主人公の固定観念を越え、一つの形而上的な性格をこ
被告ヴォイツェクもこの頃から、フリーメーソンに付け狙われている
が一杯だったため、︻⋮︼この組織がまたもや威嚇の徴を変え、別の徴
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の現象は備えることになる。上述したように、作者はヴォイツェクを
と女が、人間と獣が。昼の日中にやれ、蚊のように、人の手のひらの
ならんのか。みんながみだらに重なり合って、転げ回れるように。男
いるのだ。しかも地の底に開く穴とは、おそらくはパスカルに由来し、
もっと、か。 ︵立ち上がる︶あの男! 女の身体を手探りしていやがる、
上でやれ。一あの女めゆ一あの女、火照っていやがる!一もっと、、
インマ コツ けだもの
精神病という、常人との接点のない袋小路に封じこめることを避けて
存在の脆さ、・生の寄る辺のなさを教えるビューヒナー特有の暗喩にほ
女の身体を。あいつめ、あいつは女を、⋮⋮1おれが最初やったみた
いに。[⋮一︵ヴォイツ・エクは走り去る︶︵軍b。ミ︶
インマ コツ かならない7。非日常的な法則が支配する戯曲冒頭の広野は、日常的
な秩序の奥に潜んでいる災厄や、常人の目に閉ざされた罪を暴きだす、
インマ コツ インマ ロツ ﹃ヴォイツェク﹄では、断片的なスケッチ風の場面が目まぐるしく
殺害を唆す声
倫をこの時ヴォイツェクは確信する。打ちのめされたヴォイツェクは
性の陶酔のさなかに洩らす喘ぎのような生々しさを孕み、マリーの不
男と纏れあうようにして踊るマリーの赤い唇から発せられたこの声は、
スロー﹂のたぐいのダンスの掛け声に過ぎない。だが身体を火照らせ、
特殊な磁力を備えているかのようである。
交代する。・だがこの作品は狭義の﹁開かれた戯曲﹂ではない、。ヴォ
﹁もっと、もっと﹂という台詞は、﹁クィック、クィック、スロー、
イツェクが破滅に向かって追いつめられていく過程が作品を縦に貫き、
そのまま幻覚の世界に滑り抜け、続く第十二場、広野を彷貰う彼の耳
に不気味な声が囁きかける。
個々の場を統率しているからだ。ヴォイツェクの内縁の妻マリーに目
を付けた軍の鼓手長が、彼女を誘惑する。神経を病む夫とは好一対、 ﹁獅
インマ ヒツ インマ ヒツ ヴォイツエク もっと! もっと! 音楽め、瀞まれ。一︵地べたに
子のように逞しい﹂鼓手長の魅力にマリーは屈することとなる。やが
てヴォイツェクは、白を切り通そうとする妻の浮気の動かぬ証拠を掴む。
腹這いになる︶おい、何だ、何を言ってるんだ?もっと大きい声で言
もっと、刺せ、刺し殺せ。室︾鍾◎。︶
インマ コツ インマ ヒツ そう聞こえる、風までそ・星口げているのか? まだ聞こえるぞ、もっと、
殺せ。おれにやれというのか? やるしかないのか? おれの耳には
ってくれ、刺せ、あの雌狼を刺し殺せだと? 刺せ、あの雌狼を刺し
場面は第十一場の祭り、料亭の外では大酒を図る徒弟連中が酔態に耽り、
中では男女が汗を滴らせながら踊りに熱中している。
r−︻:山︵ヴォイツェクが窓辺に座る。マリーと鼓手長は彼に気づかず、
踊りなが﹁ら通り過ぎる﹀。[:由
マリー︵踊りながら通り過ぎる︶もっと、もっと。
イ ン マ ド ロ ツ ミ イ ン マ ツ この二つの場面は、ビューヒナーの希有な表現力の雄弁な証左となる。
イ ン マ ド ロ ツ イ ン マ ヒ ツ ヴォイツユク・転︵息を詰まらせ︶もっと、もっと、か。 ︵がばと跳ね
憤怒と絶望に圧倒されたいま、ヴォイツェクの乏しい言語能力では言
インマ ロツ インマドヒツ 起き、それからベンチに座り込む︶もっと、もっと、か。 ︵両手を組
葉の機能が凍結し、獣めいた叫喚しか想定できないところ、作者は原
けだもの
み合わせて︶回れ、転がれ。なぜ神様は太陽を吹き消しておしまいに
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クの乱脈な男性関係を噂に聞いてから体の異変を感じ、それに伴い﹁怪
定書も同様である。まず被告ヴォイツェクは、内縁の妻ヴィーンベル
ヴォイツェクの犯行の直接的な動機を嫉妬と定めている点では、鑑
かのような切迫感を生みだしている。
悪弊で起爆力の高い単語を束ね、まさに﹁閉ざされた言葉の扉を叩ぐ﹂
突如エホバがつむじ風の中から語りかけてきたように、風は神の﹁使者﹂
霊の棲む陰府にほかならず、一方神の義を巡って苦悩するヨブに対し、
ら到来する。聖書では地の底は﹁滅びの穴﹂ ︵イザヤ書二九i四︶、悪
罪の裁き手に命じる。それを命じる声は地の底から、次には風の中か
第一場では死をもってヴォイツェクを威嚇した存在は、一転して彼を
苦しめた。犯行のおよそ一月前、たまたまナイフの刃を買ったとき、
反して、複数の兵士とおおっぴらに関係を結ぶヴォーストは彼を心底
と一体化し、被告ヴォイツェクより遙かに決然として滅びの道を選ぶ
いずれにせよヴォイツェクは神性を、あるいは魔性を帯びたある意志
に真意を包み隠そうとする、いかにもビューヒナーらしい技法だが、
︵詩篇一〇四i四︶とされている。意味の背反する語彙を連ねてそこ
彼に取りついているいつもの声が﹁ヴォーストを刺し殺せ1﹂と囁き
のである。
奇現象﹂を経験しはじめる。彼女の不倫が風評の域を出なかったのに
かける。それを聞き、おれはしないそと思ったところ、その声はこう
トラウ マ
透視能力か、後遺症か
答えた。 ﹁おまえはきっとやる1﹂。やがてヴォーストが逢引きの約束
を破り、あまっさえ彼に罵倒を浴びせた日、ヴォイツェクは逆上して
つの悲劇を構築するが、そこにはまた、自然科学者の冷徹な判断が貫
ビューヒナーは鑑定書の叙述を覆し、新たな要素を導入しながら一
き裂けるほど怪力を備え、道で出会った人々が何の危害を加えなくとも、
かれている。戯曲の第十三場、殺害を唆す声を聞いた当夜の出来事が
このナイフを揮う。その時彼は﹁自分が何でもかんでもずたずたに引
頭と頭を鉢合わせにしてやらずにはおれないような﹂︵出>H、α8︶怒り
その一例となる。アンドレスとヴォイツェクが、一つのベットに寝て
来ない﹂︵=﹀押αOO︶思考の剥奪状態と表裏一体を成す現象だった。殺
眠れないんだ。目を閉じるとあたりがぐるぐる回りだして、バイオリ
ヴォイツエク︵アンドレスの身体を揺る︶アンドレス! アンドレス!
いる。
の暴発状態にあった。それは﹁一旦頭に想念が宿ると、とりわけそれ
が不快な想念の場合には、 ︹⋮︺ひっきりなしにそのことばかり考え
害を命じる声を重ねて耳にすることがなかったと、被告ヴォイツェク
インマ コツ インマ ロツ 続け、最後には思考力が麻痺してしまい、もう何一つ考えることの出
は供述しているが、これが分裂病に特有の幻聴だっだ可能性は極めて
洩れてくるんだ。お前、何にも聞こえないのか?
ンの音とか、もっと、もっと、という声が聞こえてくる。壁の中から
高く、その場合この声の由来を辿ることは、もはや何の意味も持たな
む︶。
アンドレス ああ。好きに踊らせておけ。︻⋮一アーメン︵再び眠り込
これに反してビューヒナーの作品では、この声はある一つの意志か
ヴォイツエク 瞼の問に、ナイフのようなものがちらちらする。
いnQ
ら発せられている。第十二場は劇の冒頭と同じ広野、この空間を支配し、
56
アンドレス 焼酎を飲むんだ、薬を混ぜてな。そしたら熱が引く。
蓋然的な予測にすぎない。被告ヴォイツェクは夢や予感に象徴的な機
力はその一部を成していたのだろうが、ビューヒナーは経験律を尊ぶ
能を託し、オカルト的な観念連合を組み立てていた。超常的な予知能
この場がヴォイツェクの受けた衝撃の余韻を伝えるのに対して、鑑
科学者として鑑定書からそれを削除した。そして事態を予測したヴォ
室器︶
定書では奇妙なことに時の順序が食い違う。クラールスは被告ヴォイ
イツェク︵第十場︶にそのまま現場へ向かわせ︵第十一場︶、耳に残
の楽曲が、バイオリンとバスの入り交じったような音楽が、そればか
るのかもしれないと思った。すると被告は奇妙な状態に陥り、ダンス
接的な方法で認識される﹂毎戸憶§と定めた自らの哲学的な見地を、
と周りの事物の存在は、思考の機能とは無関係な、純粋に実証的、直
すなわちデカルトの方法的な懐疑を否定し、 ﹁われわれ自身の存在
シュモリング事件
よって、事態を本来の秩序に組み直したのであるE。
った踊りの楽曲と掛け声に悩まされる様子を示す︵第十三場︶ことに
ツェクの供述を、次のように記しているからである。 ﹁ヴォーストへ
の嫉妬は、被告が市の兵隊パイファーの許に寝泊まりしている頃から
始まった。ゴーリスで祭りがあったとき、被告は夕方ベッドに横たわ
りかタクトに合わせてもっと、もっと、と言う声まで聞こえてくるよ
ビューヒナーは文学の領域でも守ろうとしたのだ。とは言え、一切を
ってヴォーストのことを考え、彼女がそこで他の男とダンスをしてい
うな気がした。︻⋮︼翌日被告はヴォーストが事実ほかの男とゴーリス
りの掛け声も馴染みのはず。従って彼がベットに寝転がって思い浮か
の多情さを彼はとうに心得ていたし、祭りに付き物の素朴な楽曲も踊
兵舎に入っていた︶、近辺の人々は挙って出かけるもの、ヴォースト
た兵士は別として︵当時食い詰めたヴォイツェクは軍務に戻るつもりで、
らない。歓楽の機会に乏しい当時のこと、祭りとなれば軍規に縛られ
かったからだ。ゴーリスの祭りの模様を想像するのに特殊な能力は要
な凶、。だが作者はそれを避けている。被告のこの供述に信を置かな
二つの場で示されるのは、ビューヒナーの演劇術では珍しいことでは
に進行しなければならない。そして、同時に生起した事件が連続した
していたわけである。この供述に即すなら、第十一場と十三場は同時
クは医学博士を前にして、遠方の出来事を探知する特殊な能力を自慢
世間を震撚させた。この人物が周囲から一様に温厚な性格と評されて
だった。この男が十入才の恋人ヘンリエッテ・レーネを惨殺した事件は、
殺人犯ダーニエル・シュモリングは当時三十八歳、独身の煙草職人
した殺人事件である。
八一七年ベルリンで起こり、やはり犯人の責任能力を巡って物議を醸
その事例は、断片的に﹃ヴォイツェク﹄に転用されている。それは﹂
に抱える闇の深さを窺わせる一つの事例を、彼は知っていた。しかも
もこいつも深い淵だ。覗きこんだら眩量がする﹂︵竃﹀軸ミ︶。人間が内
して、彼はヴォイツェクにこう眩かせている。 ﹁人間って奴はどいつ
強く意識する人だった。背徳を犯しながら無事を装う妻マリーを前に
がりを常に視野に収めていたためか、彼は生の不可解さを常人よりも
明証性の光の下に照らしだそうと努めながら、なお残る彪大な闇の広
インマ のツ インマ ツ に行き、そこで楽しく過ごしていたと聞いた﹂︽臣目噂盟む。ヴォイツェ
べた情景は、所与の条件から無媒介的に成立した予知や透視ではなく、
57
は薄らいだものの、[⋮︸殺意はずっと心の中に居座っていました。犯
驚き、自分に腹が立ちました。同僚に歌をうたってもらうと、その時
不意に湧いて出たのです。なぜこんな考えが生まれたのか、自分でも
述を追うことにしよう。殺意が生じたのは犯行の三週間前、 ﹁殺意は
いただけでなく、犯行が一切の動機を欠いていたからである。彼の供
リングは後日監獄で代理看守を務めていた折り、ある上流階級の囚人
斯界の注目を集めたという。ちなみに、保安拘禁処分となったシュモ
事件第二審の弁護状は一八二五年、それぞれ医学関係誌に発表され、
に減刑されている。ホルン博士の鑑定書は一八二〇年、シュモリング
士の進言もあり、王立上級控訴裁判所が一書下した死刑判決は終身刑
イ ン サ ニ アオ
ロクルダ
支持して、被告の病を貯。。磐冨82一$ ︵潜在的狂気︶と命名した。博
を殺害している。
行前の[⋮︼夜は、眠るとすぐに目が覚め、殺意が繰り返し蘇ってきて
激しい不安に襲われたのです﹂B。犯行の当日シュモリγグは逢い引
ならば、彼はシュモリングを主人公に設定しただろう蛎。だが選ばれ
もしビューヒナーの関心がもっぱら人間心理の謎に向けられていた
のち、彼女の身体を抱きしめながら尋ねる。 ﹁おれがここで死んだら、
たのはヴォイツェクの方である。シュモリングの犯罪が、先天的な病
きを装い、レーネを夕暮れの林に連れ出して野原の木の下に座らせた
おまえも一緒に死んでくれるかい?﹂Mもしもあんたが死んだら、も
質に帰着する特殊で内閉的な事例であるのに反して、精神と生の相関
作中の場面に託された特殊な意味を示唆するが、レーネを凶刃にかけ
ドクター どういうことだ、ヴォイツェク? 男の約束だぞ。
人を殺める凶器としての学問
書とは別個に作られた第八場である。
に追いやった原因を戯曲の中で明確に指し示している。それは、鑑定
らではないだろうか。しかもビューヒナーは、ヴォイツェクを心の病
関係を探るうえで、ヴォイツェク事件の方が多くの素材を提供したか
うどんな男も決して傍には寄せないとレーネが答えたとき、シュモリ
ングはすでにナイフを揮い、彼女の鳩尾に凶器を突き刺していた。取
り調べの折りにも繰り返し繰り返し、シュモリングは語っている。 ﹁レ
ーネを殺す理由など何一つありません。殺意は勝手にやってきたのです。
どうしてあんな気持ちになったのか、自分でもわかりません﹂め。
る経緯もまた、殺意を秘めたヴォイツェクがマリーを夕暮れの森に連
ヴォイツエク 一体何のお話で、先生?
同僚の歌を聞くと殺意が薄らいだという供述は、アンドレスが歌う
れ出す場に活かされた可能性がある。恋人との逢瀬が一転して死出の
ドクター わしは見たんだ、ヴォイツェク。貴様、道で立ち小便しお
歩き回る︶ヴォイツェク、もういつものエンドウ豆は食ったのか?
︻⋮]小便ひとつ我慢できんとは。 ︵頭を振り振り、両手を背に当てて
︻⋮︼
シェン払っているというのに。︻:山
った。まるで犬みたいに、壁に小便を引っかけおった。毎日ニグロー
旅に変じたとき、レーナの心を圧した驚愕と悲哀の深さが、ビューヒ
ナーの胸に深く刻み込まれたのではないだろうか。
専門家はこの﹁動機なき殺人事件﹂から、隠れた動機を探しだそう
として面接を重ねた。最初の鑑定を行った医師メルツドルフ博士は、
犯行時被告が翫侮臣彫臨醗︵潜在的意識障害︶の発作状態だったと
診断し、被告の責任能力を否定、枢密顧問官ホルン博士もこの鑑定を
58
あるんです!
あたり一帯炎に包まれて、恐ろしい声が自分に話しかけてきたことが
てやつを見たことがありますか?お日様が空のてっぺんに懸かると、
ヴォイツエク ︵うち明け話の口調になり︶先生、自然の二重の姿っ
︻⋮︼
尿素○・一〇、塩酸アンモ三ウム、過酸化窒素。
1学問に革命が起きるぞ渦わしは学問を粉々に吹き飛ばしてやるのだ。
ミンEを破壊する物質である。発病過程は脱毛、周期的な眩量や震え、
ウ豆に含まれた微量の青酸、蛋白質の新陳代謝を阻害する酵素、ビタ
や直腸の麻痺、神経症、頭脳障害が発症するという。原因は、エンド
分までエンドウ豆で構成された食事をと.るとう脚の痙攣性麻痺、膀胱
験はきわめて危険なものだった。三ヶ月から半年間、三分の一から半
である。二等兵ヴォイツェクには知る由もないことだが、この食餌実
の結果を測定するため必ず自分の実験室で排尿するよう命じていたの
頭痛、幻覚、そして性障害を伴うという−が、ヴォイツェクに幾つか
フ
の症状が発していることは、戯曲の中で跡づけられ、あるいは暗示さ
︻⋮︼
ドクター ヴォイツェク㍉お前はもっとも見事な局部性精神錯乱の第
れている。幻覚に襲われる戯曲冒頭の場が災いして誤解が生じがちだが、
彼は精神病の素因を持っていたのではなく、健常から病への転機は三
二種だ。特徴が鮮やかに出ておるわい。ボーナスをやるぞ、ヴォイツ
ヶ月前、金に釣られてドクターの実験台になったその時点に遡るのだ。
た女性の肉体を蝕む業病と、同質のものと位置づけているわけである。
ェク。︻⋮︼お前、万事いつも通りにこなしているな、隊長の髭は剃っ
ドクター 豆は食っているな?
・食餌実験は貧民対策や軍隊の経費節減などを目し、十九世紀前半フ
ビューヒナーはヴォイツェクの精神病を、生活苦から公界に身を沈め
ヴォイツエク いつもきちんと食べております、先生。軍の食費は家
ランスやドイツで化学者によって盛んに実施されていた。実験は動物
ているんだな?
内に渡しています。︻・←
に限らず、ヴォイツェクと同じ下級兵士に施されることもあった。す
ヴォイツエクはあ。
ドクター、.お前は面白い事例だ。おい、実験動物ヴォイツェク、ボー
でに当時から食餌実験の危険性を医学研究者らが指摘しているBかぎり、
である。実験動物が思惑通りの症状を顕わし始めたからだ。ドクター
ドクターはヴォイツェクから知覚の異常を告げられて、欣喜雀躍の体
は戯曲全体を解読するうえで.決定的に重要な位置を占めているのだ。
この場の持つ深刻さは時に見落とされることがあるゆだがこの第八場
あまりにも矯激なドクターの言動が幕間狂言めいた観を呈するためか、
肉による食餌実験が予定されているからだ。この非情な実験のデータ
彼はこれで免除されるわけではない。別の草稿︵国ま︶では、次に羊の
される三・〇一%を大きく下回り、すでに草食動物の域に達しているが、
ろう。ヴォイツェクの尿素はこの時点で○・一〇%、人間の平均値と
豆を主とした糧食で兵士の体力がどこまで保つかを験そうとしたのだ
がない。戯曲に登場するドクターはおそらく軍事医学を研究する軍医、
その種の実験の非人間性にビューヒナーが着目したことは、疑う余地
ナスをやる。頑張るんだぞ。脈を見せろ、よしょし。︵§b。畠南ハω︶
は若干の手当と引き替えに、ヴォイツェクにエンドウ豆のみ食し、そ
59
ヴォイツェクはこののち殺人犯として処刑台に登るか、池で水死する
ない。こんな鈍物に、刮目に値する学問的発見が叶うものだろうか。
が﹁学問に革命﹂を起こすまで、彼がドクタ⋮から解放されることは
まさに馬と人間の関係が逆転するのだから、、
ち洩らす感想を、ここで思い浮かべる必要がある。この見せ物小屋では、
えた馬、フゥイヌムの主人がガリバーから人類の特徴を聞かされての
定めだが、そうでなくともこの野心家に骨の髄まで利用され、早晩廃
呼び込み︵調教された馬を相手に︶お前の才能をご披露しろ! お前
︵見世物小屋の中︶
要なテーマの一つだが、ビューヒナ⋮は見事にこれを先取りしたので
の畜生的理性をご披露しろ! 人間社会を辱めるんだ! お客様、た
人と化したことだろう。科学の非人間性への告発は二十世紀文学の重
ある。
の折り何かにつけて被告の脈を取った、クラールス博士の姿が見え隠
ヴォイツェクを実験動物に既めたドクターの背後には、面接と審問
ヤフーの蝟集する世界
よう、こ奴は畜生のように馬鹿な個体ではございませぬ、こ奴は人間
を横に振る︶皆様、これが複合理性でございます。これぞ蓄相学。さ
務めておりまする。[:山アカデミーにも駿馬はいるのか?︵駿馬は首
すべての学会に所属し、学生が乗馬や剣術を学ぶ当地の大学で教授を
だいまご覧のこの畜生、尻に尻尾、四本の足にひずめを付けながら、
れする。しかも授業中実子に耳を動かす実演をさせたというギーセン
でござりまする! 人間であり、尻尾を付けた人間であり、それでい
て畜生、凱でござりまする。 ︵馬は不作法な真似をする︶そら、人間
大学のドンキホーテ、血液の循環を否定していた医学部教授ヴィルブ
ラントの風貌をそこに加味することにより、ビューヒナーはまことに
社会に恥をかかせろ! ︻⋮一ご覧下さいまし、理性の何たるやを。
︵軍b。ω◎。︶
醜悪な知識人像を作り上げた。第九場、軍の隊長がマリーと鼓手長の
密会を灰めかし、ヴォイツェクが血相を変えて現場に急ぐとき、実験
動物が興奮時に示す生理的反応を確かめようと、ドクターが勇躍その
枠をはみ出て発せられた作者自身の嘲笑と解せよう。そしてドクター
人物の欺購的な虚飾を剥ぎ、その獣的な本性を人々の鼻先に突きつけ
辱めよ!﹂と呼び込みが繰り返す台詞に合わせ、ビューヒナーは登場
筋の流れに関わりなく、外から無理矢理はめこまれたかのようなこ
の走る道は、そのまま祭りの夜を背景にした第三場、見せ物小屋の舞
ようとしているのだ。ドクトルも、隊長も、鼓手長も、いや殺害され
後を追う。二人が一目散に駆けだす様子を目にして隊長は失笑する。 ﹁グ
台に通じているのである。 ﹁しかし、もし理性の所有者だと称してい
たマリーですら、おのれの罪に戦きながらなお鼓手長への欲望を断ち
の場は、戯曲全体の狙いを代弁する役割を担っている。 ﹁人間社会を
る者がこれほどの残虐行為を犯しうるとすれば、その理性の力は完全
ロテスクだ! グロテスクだ!﹂という隊長の台詞は、演劇的虚構の
に腐敗しきっていて、単なる獣性よりもさらに恐るべきものとなって
エクが彼女と鼓手長の肉の饗宴を、 ﹁獣姦﹂に喩えていたことを思い
ソドミ 切れずにいるとき、あの下劣な画聖ヤフーの一変種とされ︵ヴォイツ
いるのではないか、と疑わざるをえない﹂p、という、あの理性を備
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出そう︶、ヴォイツェクを囲製する世界は、まざにソドムとゴモラの頽
手長から殴り倒された後、彼は﹁ひとり、ひとりだ﹂舞鍾9という、
物の、胸に芽生えた反逆の息吹が感じられる盟。やがて仇敵である鼓
いじょう
廃の臭気を帯びることになる。、
れ︵第五場、第九場︶、暴行を受け︵第十四場︶、さらには実験動物に
さらには鼓手長などの上層部の人間から酷使され︵第十八場︶、罵倒堪
な支配関係を導入した。二等兵ヴォイツェクは軍の隊長、ドクター、
からである。ビューヒナーはクラールス鑑定書に、何よりもまず苛烈
この覆いの下には、煮え渡るような社会的告発が厚い層を成している
い2D。いや、むしろそれは社会的抑圧の代名詞と考えるべきだろう。
精神病理の問題は︵戯曲﹁ヴォイツェク﹂の表面的な覆いに過ぎな
三重の層を成す戯曲﹃ヴォイツェク﹄
を濃厚にしているのである。このように見れば、ヴォイツェクが下し
社会的弱者が強者に対して挑む、破れかぶれの孤独な反逆という色彩
長を殺し復讐を完遂するという目標があったからなのだ。彼の行為は
たのに比して、彼は生き延びようとして画策する。それは、次に鼓手
なり、彼は確信犯なのである。しかも被告が犯行工まず自殺を思案し
形見分けしている。衝動的にナイフを揮った被告ヴォイツェクとは異
める。また決行の直前には、自分の乏しい持ち物を僚友アンドレスに
るからだ。彼は広野で殺害を唆す声を聞いた後、ナイフを自ら買い求
ヴォイツェクとは大きく異なる行動をとるのは、この言葉が働いてい
謎めいた言葉を吐いている。マリー殺害の前後、戯曲の主人公が被告
既められる。鑑定書は、ヴォイツェクの個人史をもっぱら心身の病歴
の鮮烈な自覚である。それは善に昇華されもすれば、悪に雪崩落ちて
た決断の背後にあるのは、ひたすら従属の鎖を断ち切ろうとする、個
少年時代に両親を失い、職人として異国に渡ったのち、やがて貧に窮
いく可能性も秘めた、いまだ混沌とした情念にほかならない。
という視点から考察しており、社会的な抑圧を顧慮していない。だが
して軍隊の傭兵になり、ナポレオン失脚後めまぐるしく変わる欧州の
ールスの視野には決して映じてこないものを、ビューヒナーはこの戯
民衆の苦難を舐め尽くしたはずである。特権的なエリートであるクラ
つめようとした。前者について、彼は﹁宿命論の書簡﹂とは異なる一
盗みを働く﹂ものの正体を、悪の源を、人間の外と内の両面から問い
ビューヒナーはこの作品で、 ﹁ぼくらの心の中で偽り、人を殺め、
戦局に翻弄されながら諸国を流浪した被告ヴォイツェクは、最下層の
曲で正面に据え、ヴォイ.ツェクの背後に多くの下積みの庶民の不幸を
つの解釈を提示している。環境決定論者なら人間の背後の社会関係に
まず眼差しを向けるべきところ、ドクターを筆頭とする我執の徒はむ
重ね合わせようとしたのだ。
厳格な階層秩序の末端に位置するヴォイツェクにとって、支配・被
しろ悪そのものとして描かれ、とりわけドクターの形象に、作者はあ
せよう。言うまでもなく、過激な道徳主義は意志の自由を前提とす
ェク﹄は作者の峻厳な倫理意識をもっとも直裁的に表明した戯曲と称
からさまな憎悪を込めている。彼が遺した四つの作品中、 ﹃ヴォイツ
支配という関係の外に立つのは、同僚アンドレスと妻のマリーだけだ
った。だからこそ、マリーの浮気を灰めかす隊長に彼は言う、 ﹁隊長
どの、自分は貧乏つたれであります⋮この世には女房のほか何も持っ
ておりません﹂︵ζ>N戯q︶と。この台詞には服従を旨としてきたこの人
61
る毘。従ってビューヒナーが随所で披渥している環境決定論には、本
質的な制限を施さなければなるまい。この理論を、彼は上流階級の自
然淘汰論的な見解を覆し、社会的弱者を擁護する武器として、絶対的
な平等思想と抱き合わせの形で用いているのである。生活苦に喘ぐヴ
ォイツェクら下層民には与えられない意志の自由を、上流階級である
ドクターらは保有していると、彼は少なくとも自らの文学作品で断言
していることになるのだから。
だが人間の内なる自然に対して、ビューヒナーは拒否的な構えをさら
N凶日δ”竃鶴昌98δ◎◎Q。・
一、閃卜ζ督。酔”田。。8冨αo戸口ぎピ島。昌男黙5適当・認盆踊8b切畠φ
℃巴ω目◎◎ω◎◎﹂W二一糟ψ◎o一
二、この問題を巡る従来の論争については、拙著﹁理念と肉体のはざ
まで I G・ビューヒナーの文学﹄ ︵人文書院一九九七年︶第四章
を参照されたい。
三、<笹≧げ⑦旨ζΦ凶。﹁⋮○①o鎖切9ゴ昌①5ぎくNΦoざζぎ畠①昌お叙”ψ鱒μ・
四、Qり菩冒。密げ涛⋮璽①冨山王諸①畠§凶重目8邑。。oげ。ロき蒔OΦo彊
五、ビューヒナーは没後約半世紀にわたり文壇やゲルマニスティクか
切々げ器お’ω巳琶巳㊤一・ψ一2.
か認めていないからだ。彼は醜悪なヤフーを鋭く断罪しながら、人間
らほぼ等閑視された。その間に自筆原稿をはじめとした基礎的な資料
版の一つと言われる︵屋。ヨ器ζ凶6匿2ζ馨﹃”Nロ。ぽ貫。昌昌。犀。昌冨。段§9
鴨昌嘗巳遵﹁宰轄αOω=︼︶芭集房=二日⑦昌εoくNΦo写目籠畠8鐸Φp宣
O鯉げ・メ ㊤◎。◎。\◎。ρψ嵩ω︶ミュンヒェン版を用いることによって、校訂上
62
に強めている。それは人間の本性に、いまはひたすら罪に傾く趨性し
が究極的にヤフーの域から脱することができないのを知悉しているの
は、皮肉なことにテクスト構成がもっとも厄介な作品にあたる。自筆
文献が消失したため、ビューヒナーの文学作品はすべてが校訂上の難
とになる。そのテーーマはヴォイツェクがマリーを殺す直前の場、老婆
原稿は四種類のいずれも未完の草稿︵誕一三八︶であり、そのうちの三
であるお。そのために、 ﹁ヴォイツェク﹂には告発の虚しさを伝える
の語る童話に凝縮されている。この童話はまた、 ﹁ヴォイツェク﹂を
つは筋の展開が部分的に似通っているものの、推敲の過程を辿ること
問を抱えているのだが、例外的に自筆原稿が残存する﹃ヴォイツェク﹄
キリスト教的文脈から解読する流派に対する、もっとも雄弁な反措定
は難しく、最終稿に近い草稿を確定できない。そのため編集者はおお
もう一つのテーマが、しかもこの作品の一番深部に黒々と横たわるこ
を成しているのだが、すでに与えられた紙数は尽きた。機会を改めて
むね自分の判断を頼りに完成版を作らざるを得ず、恣意の紛れ込む余
﹁﹁ヴォイツェク﹂をめぐる校訂の基本的諸問題﹂ ︵日本独文学会発
ているのは、第十七回ドイツ語学文学振興賞に輝いた森光昭氏の論文
地は決して小さくない。ちなみに、この問題をもっとも的確に分析し
論じることとする。
ぎ留至仁3ぴ8冨さO醇巨曽ゴ窪ぴ℃=§亀O量Qり冨§ロ巳国&m
季○嘆轟ロゥ信。ぎ震”蒙鱒①巨α切dユ昏.︵ζ雪9昌。﹁﹀=紹菩①︶●牙’
蓄妾魯図冨ゴ巽5。四三 ⋮=§号薦一⑩ON⇔コ匹 ”=§凝おコ●
﹀ロ理乱。、Y頸ω8勢。匿醸・。畠。﹂ぎ紹90目一呂ぎ自昌。昌韓●=笏瞬く8 行﹁ドイツ文学﹂五六号︶﹂である。筆者は現在もっとも精度が高い
=﹀ど閏胴08磧ロd薗量﹁⋮綬§已90奪§ユ切ユ。寅︵国9。矧げロ韓﹁
註
の問題を素通りさせていただいた。そのことをあらかじめお断りして
ぐ笹ζ鍵ユ8dご⑦目”岸①O§§oh雪。詳>Oユ9巴Qり9身。︷08お
前はルイだが、ルイとシュモリングを同一人物と見る解釈も存在する。
¥7器,O§げ話¢μ㊤刈9ψb●b●鉾
おきたい。
六、必修精神医学︵改訂第二版︶笠原嘉他誌 南江堂一九九一年、一
〇六−一〇七頁 一
七、 ﹃ダントンの死﹄二幕口熱︵臣 恥O︶と、 ﹁パンセ﹄断章一九九
一七、︿伽q一.﹀罵。昌。。O露6犀”Oo﹁竃①昌ωoゴ①昌く。諺犀。汀O凶Φ閃。=o畠。﹁
≦ω器昌8ゴ聾冒08磧しd麟9§霧εoKNΦoぎO切一α\ ㊤Q◎μψ鼠S
一八︵≦瞬¢αoぎ夢⋮08嶺口d麟。げ昌①冴名oKNΦo用脚の暮ユ葺凶ω8ユωoげ①。。
ることができない。ロート氏の特別のご好意により、原稿を拝読する
っているが、同巧はまだ刊行されていないため、ここでは頁数を上げ
uoo
八、<笹ロd嘗唇語聾Oo匹昌Φ霊∪凶Φ窯5巳§αq傷①ωεoKN⑩o置ゴδ67器匠鳥
Oざ
幕ヨ。昌ρこの論文はビューヒナー年鑑第九号に掲載される予定にな
一㎡①尋♂ωω窪。閃。コ5=.ぎ”08磯弓ご9ぎ①こ葺げ雷畠為.︵お◎。◎。\紹︶.=庭.
<8霞。巳器ζ間竿器︼≦蓬℃冒げ碁。昌 8 りψ置8
二年、七七頁参照
じ小説には、次のようなくだりがある。 ﹁首相は老いぼれた女中やお
えた可能性は、検討するだけの値打ちがあると思われる。たとえば同
八○年、三四八頁。ちなみに、スウィフトがビューヒナーに影響を与
一九、スウィフト”﹃ガリバー旅行記﹄ ︵平井正穂訳︶岩波文庫一九
機会に恵まれた。
九、O①o茜oQり冨5。o﹁ Oo﹁ぎ畠戯①﹃だO巳φ国ぎ§鉱零げ①﹁国ω婁.おON
︼≦麟昌魯O昂−≦♂戸ψbのbのρ
=、 ﹁ダントンの死﹂の四幕六場と七七、 ﹃ヴォイツェク﹄=轟の九
気に入りの従僕の言うことならなんでも聞くのが普通で、こういつた
一〇、内村祐之、吉益脩夫監修﹃日本の精神鑑定﹂みすず書房一九七
場と七場はその一例である。
第十二場とその夜を扱った第十三場は、○露輿島陰§嵐のファクシミ
曖昧さがっきまとうが、広野でヴォイツェクが不思議な声に唆される
文学的ビジョンの人﹂ ︵和田敏英“﹁﹁ガリバー旅行記﹂論争﹂案文
センの急使﹂には溜められる。少なくとも、 ﹁拒否の論理の側に立つ
いっても間違いではない﹂︵三六一頁︶。これとよく似た語句が﹃ヘッ
いる。そんなわけで、︵究極的には︶この連環こそわが王国の支配者と
連中は、首相が他の人々に恩恵を施す際のトンネルの役目も果たして
リ版を見る限り、草稿その四︵頃ら︶では一枚の原稿用紙の上下に書き
一二、前述したように、 ﹃ヴォイツェク﹂には常にテクスト構成上の
込まれている。従って、この二つの場の順序を逆転させてはならない。
昭和五四年、二六六頁︶という作家的個性において、スウィフト
=二、08日切自愛昌3εo︽NoΩド冒馨屋巳Uo蒼ヨ魯3黒鉱ω魯社
蓼 瞬
はビューヒナーに極めてよく似た面を持つ。
二〇、当時シュモリング事件とならび、被告の責任能力が争点となっ
く8凝。旨寄慧給。宰き喜答巴≦﹂8ρψミ↑ミ朝.
一四、9Pψ嵩O・
たものにディース裁判、リヴィエール裁判がある。後に獄中死したデ
ィースの死体解剖に、ビューヒナー本人が立ち会った可能性が指摘さ
一五、99ψ 謹’
=ハ、事実、 ﹃ヴォイツェク﹄の最初の草稿︵国 ︶では、主人公の名
63
︵﹃パスカル著作集﹂W、田辺保母、教文館二九七頁︶を対照されたい。
】W
れており、また実母と弟、妹の都合三人を殺したりヴィエールの事件は、
ビューヒナーのストラスブール亡命時代にかなり大きく取り上げられ
たが、この二つの事件は﹁ヴォイツェク﹂にはほとんど活かされてい
ない。いずれも特殊で内閉的な事例だったからではないだろうか。
<覧国§冨コ 軽雛口昌鳥Uoざ日。ロ508鎖切忌95①﹁”≦貫﹃=藷.
≦肖冒浮輿切。∋ω92韓・Qリロ鼠翼一ミ鱒︼≦o凶.霊①コ6竪Φおゆ昌き榊甜。愚
§語Φ8︾§鋤。励8霞2ヨOロ.津話.q昌Soo匹OO聾。匡①碧葵Ooo凶曾δ
思器昌竃冒胃ζ凶OずユぎロOき冒蛋。りおお・.
二一、︼≦凶。げ8一望§o駐”O①oおロd盈。ゴ昌Ω・げεoくNΦoぎZ象一∂蒔お◎◎P幹雛↑
二二、・ぎ憂5伽q≦爵。≦隆”○①oお切自。ぴ昌05勺①藪巳冒葬。鮮壽一昏自F
≦δ蒔.誠①置O間げO薦お刈◎◎.Qり.bの鳶●
二三、ヴォイツェクは社会ではなく、自然の力によって滅ぼされたと
いう解釈は、ここから生じている。<αqドO﹂︶葺F空07母畠ω”08渥
06自Oげ昌O誘εoくNΦo置置滞6﹁O臨。昌置昌ユゴ蒔8巨言昌伽q・⇔dO目お◎◎ρω・戯ら・
64
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