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ウォルテニア戦記【Web投稿版】

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ウォルテニア戦記【Web投稿版】
ウォルテニア戦記【Web投稿版】
ホー
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
ウォルテニア戦記︻Web投稿版︼
︻Nコード︼
N1898I
︻作者名︼
ホー
︻あらすじ︼
青年が召喚された異世界は乱世だった。
絶対王政の世界。
選民意識に凝り固まった特権階級と世俗にまみれた宗教。
青年は自分の正義を胸に行動を起こす。
1
ウォルテニア戦記 用語集
アース
大地世界: 御子柴亮真が召喚された異世界。
群雄割拠の戦国時代であり、覇権を求めて大規模な戦乱が巻き起
こっている。
東方、西方、南方、北方、中央、の5大陸と、無数の島々に因っ
て構成されている。
リアース
裏大地世界:
アース
地球の事。
大地世界に住む人間が便宜上、自分達の世界の裏にあるもう一つ
の世界と言う意味で付けた名前。
アース
実際に表裏の関係で有るわけではない。
異世界人:
地球より召喚された人間達の総称。
アース
年間200人ほどが、戦争の駒として大地世界へと拉致される。
大地世界では、他の生物を殺害することで、自らの力を強化する
ことが出来る。
地球人はその吸収率が優れているため、盛んに召喚されているら
しい。 アース
西方大陸:
大地世界の西方に存在する大陸。
最長で東西三千五百キロ、南北千八百キロ
東部、西部、南部、北部、中部、の5地方に別れている。
2
<i15815|2150>
オルトメア帝国:
西方大陸中央部に存在する帝国。
覇権主義を掲げ、西方大陸統一に乗り出す。
ローゼリア王国:
西方大陸東部地方に覇を唱える3国の一つ。
豊かな水量を誇るテーベ河のお陰で非常に豊かな穀倉地帯を持つ。
西をザルーダ王国に、東をミスト王国に挟まれており、戦乱が絶
えない。
ホドラム将軍とゲルハルト公爵に実権を奪われていた。
ザルーダ王国:
西にオルトメア帝国と隣接する山岳国家。
峻険な山々に囲まれた天然の要害と、豊富に産出される鉄鉱石の
お陰で、なんとか帝国の侵略を食い止めている状態。
東に隣接するローゼリア王国から輸入される食糧に大きく依存し
ている。
ミスト王国:
西にローゼリア王国と隣接する貿易国家。
中央大陸とも交易が盛んで、西方大陸最大の貿易都市であるフル
ザードを支配下に持つ。
エルネスグーラ王国:
西方大陸北部を支配する王国。
覇権主義を掲げ、中部への侵入を悲願としている。
オルトメア帝国とは犬猿の仲。
3
キルタンティア皇国:
西方大陸西部を支配する皇国。
オルトメア帝国とは現在冷戦状態。
南部地方への侵攻を画策している。
南部諸王国:
西方大陸南部に群生する小国の総称。
西方大陸最大の激戦地帯で紛争が絶えない。
作品中では、タルージャ王国とブリタニア王国が登場している。
アース
法術:
プラーナ
大地世界に存在する技術の総称。
プラーナ
体内をめぐる生気を利用して、様々な効果を発揮する。
武法術:
体内の生気を使用して肉体の強化を行う技術。
プラーナ
呪文の詠唱が必要ない為、白兵戦では大きな威力を発揮する。
文法術:
体内の生気を他者に捧げて力を一時的に借り受ける技術。
呪文の詠唱が必要で、助力を願う存在に対しての知識も必要とさ
れる。
付与法術:
物に特殊な文様を刻むことで、特定の効果を付与できる技術。
物を硬くしたりすることが出来る。
ウォルテニア半島:
モンスター
ローゼリア王国の最北端に存在する半島。
強力な怪物や亜人種が徘徊する土地であるため、書類上はローゼ
4
リア王国の領土だが、長年放置されてきた未開の地。
ルピスの策略で、亮真の領土とされた。 5
第1章主要登場人物紹介
第1章主要登場人物
みこしばりょうま
名前:御子柴亮真
性別:男性
年齢:16
出身地:東京都杉並区
本作品の主人公。
190cmに近い長身で体重は100Kgを超える巨体。
アース
地球で高校生をしていた時の性格は温厚で人当たりは良かったの
だが、弱肉強食の世界である大地へ召喚された事によって普段は押
し隠していた本性がむき出しになってきている。
基本的に仲間や家族には優しいが、一度敵にすると冷酷な牙をむ
き出す。
祖父に仕込まれた古武術を駆使して、危機を切り抜ける。
趣味は読書とゲーム
再びもとの世界に戻るために帝国からの脱出を試みる。
名前:ローラ・マルフィスト
性別:女性
年齢:十代半ば
帝国の追手から逃げていた亮真に盗賊団に襲撃されていたところ
を助けられた双子の姉。
危機を助けてくれた亮真に対して恩義を感じて彼に付き従うこと
に。
元は中央大陸の騎士の家系だったが、国が滅びた際に部下に裏切
られ奴隷に身を落とす。
6
法術の使い手で小麦色の肌に銀の髪を持つ美少女。
名前:サーラ・マルフィスト
性別:女性
年齢:十代半ば
亮真に忠誠を誓う元奴隷の少女。
法術を使うローラの双子の妹で金色の髪を持つ美少女。
髪の色以外では見分けが着かないほどそっくり。
名前:セリア・ウォークランド
性別:女性
年齢:20代半ば
オルトメア帝国の次席宮廷法術師。
赤毛で胸の大きな女性だが、かなり冷徹な性格。
亮真をこの世界に召喚したガイエス・ウォークランドの孫娘。
敬愛する祖父を殺して逃げた亮真を追いかける追手の一人。
名前:シャルディナ・アイゼンハイト
性別:女性
年齢:20代前半
オルトメア帝国の第一皇女。
サキュバスナイツ
金髪青眼でかなり背が高い美女。
皇帝の側近の一人で夢魔騎士団の団長。
非常に切れ者で、亮真の逃走経路を予測して追跡する。
さいとうひであき
名前:斉藤英明
性別:男性
サキュバスナイツ
年齢:不明
夢魔騎士団の副団長。
亮真と同じく日本より召喚された異世界人。
7
170cm程の身長で見た目はどこにでも居る中年サラリーマン
アース
と言った風体。
弱肉強食の大地に召喚されて10年程で副団長にまで駆け上がっ
ただけあって、かなり抜け目の無い人物。
8
第1章第1話︻早朝︼其の1
5月8日
﹁早く打ち込んでこんか!﹂
閑静な住宅地の早朝に似合わない怒声が響いた。
怒声の主は、白髪を後ろで纏めた老人。
身長は170cm半ば程か。胸は厚く剣道着の間から見える腹筋
は見事なまでに6分割されている。二の腕は太く筋肉質で、其の右
手には白刃の2尺8寸近い刀が握られていた。
顔に刻まれた皺と白髪が無ければ誰も老人とは思わないであろう
程に見事なまでの肉体だ。
その老人の前には、一人の青年が同じように刀を手に持ち対峙し
ている。
﹁爺さん。刃引きしてない刀を打ち込んだら死ぬだろうが! 別に
爺さんが死ぬのはかまわないけど、警察の厄介にはなりたくないな
ぁ﹂
憎まれ口を叩いた青年の身長は180cmを明らかに超えていた。
ひょっとしたら190に届くかもしれない。
其の身長と、岩のごとき筋肉の鎧を考えれば体重は100Kgを
軽く超えていた。
これで悪鬼のような面構えなら彼に近寄る人間はまず居ないだろ
う。だが幸いなことに育ちが良いのだろうか、温厚さと人の良さが
にじみ出る其の顔は見る者を安心させる何かを纏っている。
9
﹁ふん。貴様にワシが殺せるのか?﹂
老人が鼻で笑う。
もっとも侮蔑は言葉だけで、青年の力を信じているのだろう。老
人の眼は慈愛に満ちていた。
﹁さあね? 俺もそれなりに稽古しているし、そろそろ俺の剣を受
け損ねて死ぬこともありえるんじゃねえか?﹂
﹁ほぉ? 貴様の剣がワシを超えるというのか? よかろう! 其
の時は毎朝の稽古は免除の上、ワシの遺産を貴様にくれてやるわ﹂
青年の言葉を老人は鼻で笑うと刀を正眼に構える。
﹁爺さんが死んだら朝稽古の免除も糞もないだろよ?﹂
ニヤつきながらも青年は同じように3尺近い刀を正眼に構えた。
﹁だが遺産が入るのは悪くないな!﹂
二人の目が虚空を睨み付ける。相手を視界に入れながらどこを見
ているか焦点が定まらない状態。
剣術の勝負において、防御=受け太刀はありえない。防御を考え
るのは剣道の試合の中だけだ。実戦では如何に相手より早く、的確
に急所を掻き切るかが勝負の分かれ目だ。先手必殺の心構えこそ、
剣術の極意と言える。
だからこそ、視線から狙っている場所を悟られないためには焦点
を定めない必要があるのだ。
﹁ふぉぉぉ!﹂
10
﹁かぁぁぁ!﹂
二人の口から呼吸が漏れた。
ジャリン!
鉄の擦れる音が響き、二人の人影が交差した瞬間、赤い火花が散
った。
2メートルは離れていた両者の位置が一瞬で入れ替わり、二人は
刀を再び正眼の構えへと戻す。
﹁この糞ガキが! 中段から本気で喉を突きおったな!?﹂
老人が青年へと詰め寄る。
殺せたら遺産をやると言った事など、既に忘却の彼方へと飛び去
ったらしい。
老人の目は、青年の繰り出した刀が纏った殺気を見抜いていた。
﹁刀を交えたら親でも殺せって教えた師匠が居るんでね⋮⋮つうか、
刀が擦れたってことは爺も喉狙ったんだろうが!﹂
老人の逆切れの所為か、青年の口調がかなり刺々しくなったのは
致し方ないだろう。
何しろ青年の技は全て老人が幼少より叩き込んだ物。
刀を抜くときは相手を切り殺すときのみと言う、実戦的な心構え
を叩き込んできたのは老人自身であった。
それなのに、老人の教えを忠実に実行した青年に対して怒るとい
うのだから、その理不尽さに青年が怒りを感じるのも当然と言える。
だがそんな当然の指摘も、血が頭に上った老人にとってはただの
11
戯言に過ぎない。
﹁当たり前じゃ! ワシの技は一技必殺よ! 刃を交える時は殺す
覚悟した時だけじゃ!﹂
﹁だからよぉ。使えないだろうが! そんな危ないもん。この日本
のどこで使うんだよ? その技。大体、稽古の時に弟子にそんな技
かけてどうすんだ?﹂
青年の至極当然な意見も耳に入らないのか、老人の額に青筋が浮
かぶ。
﹁あ∼うるさい! お前は黙って稽古すればええんじゃ!﹂
叫びと同時に老人の刀が青年へと振り下ろされる。
それは万が一にも青年が受け損なえば、彼の頭部を確実に断ち割
るだけの力が込められた斬撃。
﹁だから! 稽古なのに命のやり取りしてどうすんだってんだよ!﹂
ガツッ!
両者の刀が撃ち合わさる鈍い音が閑静な住宅街に響いた。500
坪を越える敷地のいまどき珍しい竹林の中で行われている稽古であ
る。周りの住宅に迷惑を掛ける事は無いが、早朝から元気な二人で
あった。
ギギギギギ⋮⋮
両者の鎬を削る音が竹林に響く。
12
老人と青年。勝敗は徐々に若い青年へと傾いてきた。
如何に鍛えようと純粋な力勝負では老人に勝ち目は無い。いや、
今まで拮抗するほどの力を老人が持っていることのほうが驚きと言
える。
少しずつ青年の力に押し込まれ、老人の首筋へ刃が近づいて行く。
シュ!
力での勝負が不利と判断したのだろう。
老人は両手で握り締めていた柄から左手を離すと、青年の瞳に指
を差し込もうとした。さすがにこの不意打ちで青年は体を引く。
﹁糞ったれが! 稽古で汚いまねすんじゃねえよ! いい歳こいて
!﹂
そろそろ青年の我慢も限界に近いのだろう。老人に対する口調が
汚くなってきた。
﹁フン。実戦を想定しない稽古に意味など無いわ! 汚いも糞もあ
るか!﹂
老人にとっての実戦とは余程汚いものなのだろう。
剣術の稽古中に素手の攻撃をしてもまったく悪びれる様子が無い。
尤も其の不意打ちを回避することが出来る青年もまた、普通とは言
えないのかもしれない。
彼らの稽古は昔からこのような実戦形式だったのだろう。老人は
後ろへ飛び下がると刀を納め近くの竹に立てかけた。
そして全身の力を抜き、自然体で立つ。
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﹁素手でこい! 其の馬鹿力が何の役にも立たないことを教えてや
ろう!﹂
﹁いいぜ? 相手してやるよ! だが刀で勝てない俺に格闘戦を仕
掛けて勝てるのかね?﹂
青年の口に嘲笑が浮かぶ。だが老人は何も言わず顎で刀を納めろ
と合図をした。
青年は言われるまま刀を納め木に立て掛けると、老人の方を向く。
左手の拳を顎の近くに沿え、右手は正中線を隠すように下へ下げ
る。左足に重心をかけ、右足は内側につま先を向ける。蹴りも拳も
使用できる構えでありながら、人体の急所を隠す攻防一体の構え。
ぐぅぅぅぅ。
突然、青年の腹が豪快に鳴った。
朝5時に起き出し、稽古を始めて既に1時間が過ぎようとしてい
る。空腹で腹が鳴るのも当然だ。だが彼の祖父は孫が空腹だからと
稽古を中断してくれるほど甘くない。
︵クソ! 腹減ったなぁ⋮⋮爺め、いい加減終わりにしねぇかな?︶
だが青年の祈りもむなしく老人の構えに隙は無い。やる気満々の
ようだ。もし青年が緊張を解けば其の瞬間に襲い掛かってくること
が目に見えていた。
﹁いいかげんにしなさ∼∼∼い! せっかく作った朝ご飯冷めるで
しょうが!﹂
その時、幸薄い青年にようやく救いの天使が舞い降りた。
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﹁まったく。二人とも朝から何じゃれついてるのよ?﹂
青年の視線の先には、黒髪を後ろでポニーテールにしたエプロン
姿の少女がいた。
背は175cmにやや足りない位だろうか。意思の強そうな黒い
瞳が魅力的な少女。
桐生飛鳥。それが彼女の名前だった。
﹁じゃれる? この爺とか? やめてくれよ⋮⋮﹂
﹁じゃあ? 何をやってたのよ?﹂
﹁殺し合い??﹂
ゴツ!
﹁痛っ⋮⋮﹂
パシッ!
﹁何を馬鹿な事言ってるのよ!﹂
少女はそう言うと手にしたオタマを振り上げて威嚇した。
どこから取り出してきたのか?青年の頭に一撃を加えるたのは、
今、彼女が握り上げているオタマであろう。
それはまさに電光石火の早業と言えた。
青年の身体能力は非常に優れているはずのなのに、彼の頭へ一撃
を加えたのだから。
その証拠に、お玉で殴られ蹲りかけた瞬間に繰り出された老人の
拳を、彼は手のひらで受け止めている。
15
︵本当に汚いよな⋮⋮この爺⋮⋮俺の隙をまだ狙ってやがった︶
ところが少女の攻撃だけは避けられない。尤もそれはまだマシと
いえる。
昔の漫画で同じような物がある。主人公が他の女へ手を出すたび
にハンマーで殴られると言う漫画が。
その作品もまた、普段は銃弾すらも避けられる主人公がヒロイン
のハンマーだけは避けられないと言う不思議な現象が書かれていた。
それに比べればまだましと言えるだろう。如何に青年の肉体が頑強
であろうとも、ハンマーの直撃を頭に喰らえば死ぬだろうから⋮⋮
﹁ふぉふぉふぉ。飛鳥ちゃんよ。夫婦漫才楽しいか?﹂
青年がオタマで殴られる事になった元凶が、したり顔で飛鳥に話
しかける。
既に稽古時に纏っている気迫や威圧感はかけらも残っては居ない。
どこにでも居る好々爺な爺さんである。
︵だから嫌いなんだよ⋮⋮この爺。︶
正直に言って、青年は自分の祖父でありながら、このギャップに
はついて行けなかった。
﹁お爺ちゃん!何言ってるのよ!私には彼氏いるし。大体、亮真じ
ゃねぇ?﹂
飛鳥が意味ありげな視線を彼へ向ける。
彼は大きくため息をつくと、心の中で呟いた。
︵冗談じゃない。俺だってゴメンだ︶
尤も其の心を言葉として出す勇気は無い。従兄妹の性格を、彼は
イヤと言うほど理解している。
﹁そういうが飛鳥ちゃんよ。こうやって毎朝食事の準備をしてくれ
16
るではないか。ただの幼馴染ならせんだろ?﹂
老人がしつこく飛鳥に絡む。
﹁タダじゃないから来てるんだよ? 正確にはお小遣い2万円アッ
プのために!﹂
飛鳥のことだから、善意だけで毎朝の朝飯を作ってくれるとは思
って居なかったが、どうやら叔母と交渉をしているらしい。
︵さすが飛鳥⋮⋮我が従兄妹ながらしっかりした女だ⋮⋮︶
﹁う∼む。我が血族は金の亡者じゃな⋮⋮﹂
老人の呆れの篭った呟きを聞き、青年の脳裏にあることが過ぎる。
︵そういや、叔母も株取引で財をなした人だったな⋮⋮︶
まさに納得と言った感じである。
桐生飛鳥は容姿端麗で頭脳明晰。親しみやすく、美人にありがち
な気取ったところも無い。
料理は美味いし掃除洗濯から繕い物まで家事に関してはまさに完
璧、金の管理には厳しいが、それも金銭感覚があると考えるならば
マイナス要素にはならない。
万人は彼女のような女性を理想と言うのだが、青年にとっては冗
談にしか聞こえない。たとえ血の繋がりが無くても正直に言って無
理だった。子供の頃を知りすぎると、相手を恋愛対象とは見れなく
なると言うのは本当のことらしい。
﹁あ∼∼∼!﹂
突然飛鳥は右手に嵌めた腕時計に目をやると大声を上げた。
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﹁私は弓道部の朝練あるからもう行くね。良いわね、亮真! 食器
はきちんと洗っておくこと!﹂
そう言い残すと、素早くエプロンを脱いで母屋へと走って行く。
﹁フォフォフォ⋮⋮慌しいことじゃな﹂
老人がしたり顔でそんなことを言った。
﹁爺がからかわなければ、時間喰うこともなかったんじゃねぇの?﹂
﹁お前が年寄りを敬わないからじゃ﹂
どうやら老人の辞書に反省の二文字は無いらしい。
彼の正論にも堪える様子が無い。
︵全く! 時々絞め殺したくなるぜ⋮⋮︶
本当に困ったものである。
﹁は∼∼∼⋮⋮﹂
青年は大きくため息をついた。
﹁何じゃ?﹂
彼はその問いを無視して母屋へ歩き出した。
爺の相手をすると飛鳥じゃないが時間が無くなってしまう。
彼も高校へ行く身支度をしなくてはならないのだから。
そんな朝のお約束が執り行われた関係で、当然彼が食卓ついた時
18
には用意された朝食がすっかり冷え切っていた⋮⋮
彼の名前は御子柴亮真。
見てのとおり幸の薄い16歳である。
彼は毎朝、祖父よりに稽古の名前を借りた虐待を受けてる。
彼が物心ついた頃からの日課なので、ざっと12∼3年は続けて
いることになる。
両親は彼が子供の頃に死んだらしい。らしいと言うのは死因を、
祖父が彼にはっきりと言わないからだ。
病死なのか事故死なのかもわからなければ、墓すら無い。
本当は何処かに有るのかも知れないが彼は墓参りをしたことが無
いので知らない。
案外何処かで生きているのかも知れないが、正直に言って今ここ
にいない親に彼は興味が無かった。
生きてるにしろ死んでるにしろ、彼を養ってくれないなら意味が
ないと考えているからだ。だから当然興味も無い。
そんな訳で彼は祖父と二人、この杉並区の閑静な住宅街に暮らし
てるのだ。
彼の顔は並ってところだ。
人に因ってその評価は変わる。
男らしい顔つきと言えば良く聞こえるし、濃い顔立ちと言えば悪
くなる。まぁ日本人らしい顔つきだろうか。
体型ははっきりいえば太い。しかし脂肪太りでは無い。徹底的に
鍛え上げ絞り込まれた鋼の筋肉。
眠れるクマ
。温厚さと人の良さがにじ
丸太の様な太い腕と足をしていて、今流行りの細マッチョとは対
照的と言える。
高校での彼のあだ名は
19
み出る顔&熊のような体型からつけられた渾名だ。
彼のコンプレックスは老け顔。それが彼の最大の悩みだった。何
しろ16歳の彼をつかまえて、周囲の人間達は25∼30に見える
と言う。ショックのあまりに寝込んでしまいそうな評価だろう。
彼の顔が老けている事で受けられる数少ない利点は、秋葉原でエ
ロゲーをすんなり買える事と酒を好きに飲めることぐらいだろうか。
祖父もその辺に関しては彼に対してうるさく注意する事は無い。
逆に晩酌を付き合ってやれば喜ぶくらいだ。
そんな彼であるから、当然のごとく彼女なんか居るはずも無い。
家では祖父に稽古という名の虐待をされ、高校では苛められない
にしろ格別何か楽しいことがあるわけでもない。
まぁクラスメイト達とはそれなりに話すが、格別に親しい人間は
居ない。
幸の薄い高校生。
それが御子柴亮真という人間だった。
それでも何時か可愛い彼女を見つけ結婚!などと言う平凡な夢を
見ていた彼は、この日の昼休みに地獄へ突き落とされることになる。
20
第1章第2話︻異世界召喚︼其の1
﹁ふぅ⋮⋮やっと飯か﹂
午前中の授業が終わり亮真は大きく息を吐き出すと、彼はかばん
の中から弁当を取り出した。
飛鳥が朝に作って置いていった弁当だ。
亮真が通っているの高校は12時から13時までの1時間が昼休
みとなっている。
彼は弁当箱とペットボトルのお茶を持つと、教室の扉を開けた。
﹁亮真君⋮⋮また屋上で食べるの? 偶には私達と一緒にどう?﹂
机を合わせて昼飯を食べる準備をしているクラスメイトが、亮真
に声を掛けて来る。
髪の長い目の大きな、中々に可愛い女の子だ。
亮真はその声を聞き、教室の入り口で止まった。
その顔に一瞬躊躇するような表情が生まれたが、直ぐに彼女の方
へ向き直ると笑顔で言い返す。
﹁ああ。悪い、また今度な!﹂
別にクラスメイトと食事をしたくないと言う訳ではない。
亮真が昼食をクラスメイトと一緒に食べない理由、それは単純に
弁当を人に見せたくないのだ。
なにしろ飛鳥の作る弁当は可愛すぎて彼のイメージに合わない。
少なくとも彼自身はそう思っていた。
21
世の中にはキャラ弁という物がある。
さまざまなキャラクターを弁当の具材で表現するという物で、世
のお母さん達はこれの出来栄えに心血を注ぐらしいのだが、飛鳥も
またこれの達人だった。
彼女のバリエーションは広く、ピカチューに始まり実に様々なキ
ャラを弁当の具材で表現するのだが、正直に言って亮真は、自分の
弁当でキャラ弁を作ることを、止めて欲しくて仕方が無かった。
高校生にもなって弁当にピカチューの顔が書いてあるなんて⋮⋮
女の子に受けは良いだろうが、男の面子は丸潰れだ。
ところが製作者である飛鳥は、そんな亮真の男心をまったく考慮
なんかしない。
中学校までは給食だったので、特に問題はなかったのだ。
ところが高校に入ってから弁当に持参となった。
両親がおらず、祖父も亮真の為に弁当を作ってやろうという様な
人間ではない為、購買部でパンを買って済ませるのが習慣だった彼
に、飛鳥が弁当を作ってやると言い出したのは4月の後半頃の話で
ある。
せっかくの好意と有難く受け、昼休みに弁当を広げた時の彼の驚
愕。
︵今でも寒気がする⋮⋮︶
未だに亮真はこの時の事を思い出すと、体が震えるくらいである。
周りに見られないよう必死で食べたおかげで彼のメンツは何とか
守られたが、帰宅後に飛鳥へ抗議の電話をしたところ、次の日の弁
当は日の丸弁当︵白米の真ん中に梅干1個︶にされる事になった。
︵朝飯も酷かった⋮⋮コーンフレークと牛乳のみって⋮⋮︶
結局として、亮真は内心の不満を押し隠し、飛鳥に謝罪をする羽
目になった。こうして彼の弁当は俗に言うキャラ弁となってしまっ
たと言う訳だ。
22
﹁今度今度って、いつもジャン! もぅ⋮⋮良いわ。でも次は絶対
に付き合ってもらうからね!﹂
彼女はそう言い頬を膨らませた。中々愛らしい表情だ。
だが、亮真が右手を挙げて拝むと、彼女は笑いながら椅子に座っ
た。
別にそこまで固執している訳でもないらしい。まぁ一般的な高校
生の社交辞令と言ったところか。
﹁悪い悪い。あぁ今度は付き合うからさ!﹂
天気の良い日はいつも屋上で食事をし、予鈴のチャイムが鳴るま
で昼寝するのが亮真の日課だ。
﹁ほんじゃぁ後でな﹂
亮真はクラスメイトに声を掛け、教室を後にした。
それは、亮真が屋上へ続く階段を上って居る時に突然起こった。
そう、彼の地獄はここから始まることになる。
フッ!
﹁あ?﹂
亮真の足元から床の感触が消えた。
突然、彼の体が垂直に落下し始める。
彼が階段を踏み外したと言う訳じゃない。確かに踏んでいたはず
23
の階段の板が突然消失し、そのまま下に落ちたのだ。
彼は左手を前に突き出しと、階段の縁に手を掛け体勢を立て直そ
うとしたが、板の消失はほぼ階段全体に及び、彼の手は何も掴む事
が出来なかった。
上を見上げれば、校舎の蛍光灯の光が少しずつ細くなっていく。
そして遂に光は消えた。
漆黒の闇の中を、彼はただ落ち続ける。
﹁あれ?﹂
亮真は突然異変に気が付いた。
いつの間にか彼の体が、落下ではなく浮上している事に。
﹁やべ∼。夢か幻覚か。俺どうかしたのかな?﹂
亮真は一人呟く。
それはそうだろう。
落下は物理的に言ってありえない事では無い。可能性は低いが、
校舎倒壊とかで床が抜ける事もあり得るからだ。
だが浮遊は絶対にありえない。人は空を自力だけでは飛べないの
だから。例えどれほど体を鍛えたとしても。
亮真は上を見上げた。
いつの間にか光が彼の頭上から降り注いでくる事に気が付いたの
だ。
体が浮遊する光が太く強くなる。
そして、亮真の体は遂に光の中へと飛び出した。
﹁何処だ? ここは⋮⋮学校にこんな場所があるはず⋮⋮無いよな
24
?﹂
亮真にとってここは校舎の中か、少なくとも高校の敷地内のはず
だった。
だから目の前に広がる神殿のような空間を前にしても、それが学
校の中の施設の一つだと思った。
だが彼のその認識は、目の前の人物を見た瞬間に崩れ去る。
亮真の目の前には五人の男が居た。
一人はゴテゴテと金糸銀糸で刺繍された真っ白なローブに身を包
んだ老人。
だがこれはさほど問題じゃない。
問題なのは、残りの四人の格好である。
彼らの身長と体格は亮真とさほど変わらない。かなり鍛えられて
居るのだろう。
二の腕の太さや太腿の発達具合を見れば、彼らが素人では無い事
が一目瞭然だ。
全身を金属を繋ぎ合わせた甲冑で覆い、古代ギリシャで使われた
ハルバード
コリュス式︵頭に鶏冠がついた兜でT字型の鼻あてがついている︶
の兜を被り、手には斧槍を持ち持っていた。
ハルバード
鎧兜が本物であるかどうかは判らない。しかし、祖父との稽古で
真剣を扱ってきた亮真の眼は、彼らの持つ斧槍が紛れもない人殺し
の道具である事を見抜いた。
となれば、彼らが腰に帯びている剣もまた本物であると推察でき
る。
鎧だけなら、亮真は彼らの格好を仮装衣装だと思っただろう。
金を掛ければ日本でも購入が出来ないわけではない。買うやつは
居ないだろうし、買って着込むやつはもっと居ないだろうが、少な
くとも現実にそれを着込む人間が居ると言う事実は、現実に起こる
25
事実として、理解できる範囲ではあった。
だが亮真はここを異世界とは思わなくても、自分が生きてきた日
ハルバード
常とはかけ離れた場所だと言う事だけは強く認識しない訳には行か
なかった。
ハルバード
彼に向けられた斧槍の全てが研ぎ澄まされた真剣だったからだ。
冗談で本物の斧槍なんてものをそろえるとは思えない。
ハルバード
第一、日本でこんな物を向けられる状況など想像ができない。
仮に強盗や通り魔だったとしても、わざわざ斧槍なんてものを用
意する奇特な人間など居るはずもないのだ。ナイフや包丁が精々だ
ろう。
そして彼らから亮真へ向けられる殺気は本物だった。
祖父から叩きつけられるのと同じ種類の気配。肌をピリピリと刺
すような感触。
︵オイオイ、マジかよ⋮⋮いや⋮⋮こいつはマジだ⋮⋮こいつらの
眼⋮⋮︶
亮真の心の中で、何かが切り替わる。日常から非日常へと。
彼の平凡な日々が壊れた瞬間であった。
﹁ほぉ? 今回の召喚は当たりだったようじゃな?﹂
ローブの老人が亮真へ視線を向けながら、隣に立つ男へ声を掛け
た。
話しかけられた男の被っている兜に飾りが赤い房飾りが付いてい
た。
一人だけやや豪華なところを見ると、彼らの隊長格なのだろう。
﹁いえ、ガイエス様。その判断はまだ早いと思われます。確かに大
26
した体格ですが、見掛け倒しということも考えられますから⋮⋮な
にせ、今までの100人以上召喚しモノになった人間は10数名足
らずですので⋮⋮﹂
二人の視線が亮真を射抜く。まるで商店に並ぶ品物を値踏みする
ような目だ。
﹁ふむ。それもそうか⋮⋮まあ良い。使えるかどうかは育ててみな
ければ判らんしな﹂
ハルバード
そう呟くと老人は顎で亮真を指し示す。
その合図に従い、3人の兵士は斧槍を突きつけながら亮真にゆっ
くりと歩み寄って来る。
連中の目的が何なのか、それは亮真には判らない事である。
何しろ、さっきまで学校に居たはずなのだ。それが突然、刃物を
突き付けられているこの状況。
理解出来るはずもなかった。しかし、彼にとって碌な事にならな
い事だけはハッキリしていた。
他人へ刃物を向ける時、それは悪意が有る証拠。
彼は素早く四方を見回すが、逃げ道になるような窓などはどこに
も無い。唯一の脱出路は老人の後ろにある鉄製の扉だけだ。
亮真は、生きるために選択しなければならなかった。
彼の脳裏に祖父の教えが浮かぶ。
︵自分の身を守る為⋮⋮か︶
碌でもない何かを受け入れるか、ここの連中を殺して逃げるかを。
そして状況が判らない以上、それを説明させるには誰かを問い詰
めなければならない。となれば選択肢はただ一つ。
一番弱いであろうローブの老人のみを生かして、残りの四人を殺
27
すのだ。
︵こっちは素手、それに対して相手は長柄の武器に鎧を着込んでい
るか⋮⋮真っ向から飛び掛かるのは不利だな⋮⋮虚を突いて確実に
殺さないとこっちが危ない⋮⋮︶
勿論、それは許されざる決断だ。
現代人として、それは決してしてはいけない選択。
だが亮真に迷いは無かった。彼は自らが生き残る道を選んだのだ。
例えそれが、血塗られた修羅の道であろうとも。
彼の頭脳が、現状から最も生存の確率が高い答えを導き出す。
彼は心の中の殺意を消した。そして手に持っていた弁当箱を床に
落とすと、満面の笑みを歩み寄ってくる兵士達へと向ける。
兵士達は自分達へ向けられた亮真の笑みに、一瞬戸惑ってしまう。
彼らも、まさか召還された人間が自分達へ笑いかけるとは思いも
しなかったのだろう。
それはそうだろう。誘拐された人間が、誘拐犯に笑いかけるよう
な物なのだから。
兵士達は戸惑い、歩みを止めてしまう。そしてそれは、亮真の狙
い通りの行動だった。
次の瞬間、亮真は背を屈めながら3人の中で一番左端に立ってい
た男に走り寄るとその男の左目に人差し指を根元まで突っ込んだ。
彼の指が、眼球と眼窩の間にある隙間に深々と突き刺さる。
﹁ぎゃぁぁぁぁ!﹂
兵士の口から獣のような絶叫が迸った。
眼は人体の急所の中でも特に危険で即効性のある急所の一つだ。
えぐ
小さな埃が一粒入っただけでも激痛を感じさせるこの急所を、亮
真は容赦なく抉った。
28
亮真はそのまま指を抜かずに眼窩に引っかけ、一気に腕を下へと
押し下げる。
兵士達の不運は鎧などを着込んでいたことだ。
いくら亮真でも、鎧の上から素手で殴って四人を殺すことなど出
来ない。
となれば、どこか隙間から急所を狙う必要があるという訳だ。そ
して尤も手っ取り早く効果が高いのが眼である。
指を眼に突っ込まれたままの兵士は、獣の如き叫びを上げて倒れ
こむ。亮真の目の前に、兜と鎧の間から彼の頚椎が曝け出された。
流れるような動作。無防備な男の首へ、亮真は手加減の無い肘を
落とす。100kgを超える亮真の全体重を掛けて。
グシャ
水気を含んだ何かが叩き潰されるたような、鈍い音が広間に響い
た。
亮真の体重を完全に掛けられた肘が、兵士の首の骨を砕いた音だ。
床に叩きつけられた兵士の口から血の泡を吹き出し、彼は床に横
たわった。
亮真は横たわる兵士の腰より剣を抜くと残りの三人へと向かって
いった。
﹁オラ!﹂
ブォ
亮真は走りながら手にした剣を、目の前に立ち竦む兵士の顔を目
29
がけて力一杯投げつける。
ハルバード
兵士の顔に驚きの色が浮かんだ。まさか唯一の武器を投げつける
とは思わなかったのだろう。
慌てて彼は亮真に向けていた斧槍を縦ると、柄の部分で飛んでき
た剣を弾く。
だがそれは亮真の狙い通りの行動だった。
さら
兵士は剣を避けようと体をのけぞらせるた結果、彼は鎧と兜に守
られて居た喉を曝け出してしまう。
どれほど全身を鎧で固めようと、どこかに必ずスキが出来る。そ
して隙が無いなら作れば良いだけの事。
亮真はがら空きになった男の喉に、右の貫手を叩き込んだ。
グシュリ
亮真の手に男の気道が潰された感触が伝わる。
即死はしないが、気道を潰された男に待つのは窒息死しかない。
亮真は素早く兵士から貫手を抜くと、身構える。残りは老人を入
れて3人。
﹁死ね!﹂
ハルバード
突然、亮真の背後より斧槍が突き出される。
亮真は喉を潰され倒れこんだ男の肩を掴むとそのままその体を飛
び越える。男の体を盾にしたのだ。
ガシュ
ハルバード
鈍い金属のぶつかるような音が響く。力一杯突き出された斧槍の
刃が、喉を潰され倒れ込んだ兵士の鎧を突き破り、体に刺さった音
30
だ。
︵馬鹿が︶
ハルバード
亮真は男の後ろより転がり出ると、そのまま必死で斧槍を抜こう
と必死でもがく兵士の無防備な喉へ再び貫手を叩き込んだ。
人間の体という物は意外と丈夫で、あまり深く胴体部分を刺すと
刃は抜けなくなることがある。
筋肉の収縮は一般人が思っているよりも強靭なのだ。しかも、今
回は鎧の上から突き通しているため、なおさら刃を抜けなかったの
だ。
︵残り2人︶
亮真の視線が立ちつくす2人を睨みつける。
残っているのは、他の連中とは違う飾りの付いた兜を被った隊長
らしき兵士と、ローブを着込んだ老人の二人だけ。
隊長は手に持っていた斧槍を床に投げ捨てると、腰の剣を抜いた。
亮真の攻撃を見て、小回りの利く剣の方が有利と判断したらしい。
4人目は今までのやつらとは出来が違うようだ。やはり兵士達の
隊長格なのだろう。
彼は最低限の状況判断が出来ていた。隊長は剣の刃先を下に向け、
剣が身体に隠れるように右脇に構える。
︵脇構え⋮⋮剣の長さを見せないつもりか⋮⋮一撃でこっちを斬る
つもりだな︶
亮真は隊長の構えを見て、彼の狙いを正確に把握した。
この構えから放てる斬撃は2種類だけ。
右から左へ薙ぐ胴斬りと、右足から左肩に切り上げる2つだけだ。
それ以外の斬撃を繰り出すには、いったん剣を構え直す必要が生
じる。
それは、致命的な遅れとなる。
31
目の前の敵をどうしたものかと考え込む亮真の耳に、突然老人の
呟きが飛び込んで来た。
﹁雷の神よ! 嵐の神よ!﹂
後ろを振り向くと、いつの間にかローブの老人がこちらに手をか
ざして何やら呟いている。
︵まずい!︶
亮真はこの時まで法術という物を知らなかった。
だが彼の生存本能が叫ぶ。
︵避けろ!︶
亮真は、とっさの決断で剣を構える隊長へと走り寄る。
一か八かの賭け。
亮真の胴を狙って隊長が放った右の脇構えからの斬撃を、彼は其
のまま隊長の左側へすり抜けるように体を回して避ける。
隊長の体の後ろへ回り込むように。
ドガッ
亮真はがら空きになった隊長の無防備な背に蹴りを入れた。
そして、そのままその場に伏せる。
ボルトストーム
﹁我が求めに応じ我が敵を砕け! 双神乱舞!﹂
亮真が地面へ倒れこむのと同時に、老人の手より放たれた暴風が
彼へと襲い掛かった。
32
第1章第3話︻異世界召喚︼其の2
﹁くたばりおったか!﹂
老人は必殺の呪文を放ち、肩で息をする。
荒れた息とは裏腹に老人の顔には必勝の笑みが浮かんでいた。
自らの使用できる法術の中でも、特に殺傷能力に優れて詠唱の短
い術を選んで放ったのだ。
あれを喰らって生き残れるものなど居ない。そう断言できるほど
の法術。
だから老人は気を緩めてしまった。亮真が本当に死んだかを確か
めず。
それが致命的なミスとなる。
地面に伏せていた亮真は、老人の気の緩みを察して飛び起きた。
100Kgを超える巨体とは思えないほどの身のこなし。彼と老
人との間合いが瞬く間に詰められる。
老人はそれに気がつくと、法術の詠唱を開始したが間に合わない。
﹁な! 馬鹿な! 全能なる⋮⋮﹂
ドグン
老人の右わき腹から低くこもった音が響く。
﹁グホォ﹂
容赦なく打ち込まれた亮真の拳が、老人の右の肺から強制的に空
33
気を叩き出し、詠唱を中止させる。
タネを明かせば簡単なことだ。
兵士の背を蹴り飛ばした後、亮真は床に伏せた。
ただ、それだけの事。
もし、老人の放った術が炎だったら、亮真の肉体はその高熱で直
撃をしなくても、大ダメージを負っただろう。
もし、老人の放った術が大地から石の槍を無数に突き立たせる術
だったら、亮真はその身を貫かれたに違いない。
だが、老人の放った術は雷電と暴風の術だった。
どちらも老人にとって殺傷能力の高い一撃必殺の術だ。
しかし、雷電は金属の鎧を来た男を前面に蹴り飛ばした結果、避
雷針の代わりになり避けることが出来たし、暴風も床に伏せること
で亮真の頭上を通り過ぎたのである。
人間は確信したときに最も油断をする。
自らの法術が絶対に当たるという過信。そして当たれば、必ず相
手を殺せるという過信。
この二つの過信が、亮真へ勝利をもたらした。
﹁な∼爺さん。ここ何処よ?﹂
肋骨の何本かが砕けたのだろう。右のわき腹を両手で押さえなが
ら蹲る老人に近寄り、亮真は穏やかな声で問いかけた。
﹁ぐうううう⋮⋮﹂
﹁な∼?﹂
ベキ
34
嫌な音が神殿に響く。枯れ枝をへし折ったような乾いた音。
ちゅうちょ
亮真の右の蹴りが老人の左の肘を砕いた音だ。
続けて、躊躇無く繰り出された亮真のつま先が、老人の左の脇腹
へ突き刺さる。
﹁な∼爺さん。質問に答えてくれよ? あんたらはさっき﹁死ね!﹂
だの﹁くたばりおったか!﹂なんて叫んでいたんだから、言葉が判
らないことないだろ?﹂
亮真の顔には邪気の無い笑みが浮かぶ。
だが、其の笑みこそが老人にとって、最も恐ろしい表情だった。
﹁ぐうううう⋮⋮﹂
だが老人は言葉を発することが出来なかった。老人はひたすら痛
みに耐え蹲るのみだった。
亮真の蹴りを喰らい、肋骨を数本砕かれた所為だ。
﹁な∼爺さん。俺はあんまり好きじゃないんだぜ? こういうこと
はさ!﹂
亮真は蹲る老人の左耳を掴むと、其のまま上にねじり上げた。
老人の体重が左耳にかかり千切れ始めたのか、少しずつ血が滴っ
てきた。
﹁や。やめろ。手を離せ!﹂
﹁あ∼ん。離せだ? テメェ人に物を頼む人間の態度じゃね∼な。
まったく。いい歳こいて口の聞き方もわからねえ様だな﹂
35
相変わらず薄ら笑いを浮かべてはいたが、その目は糸の如く細ま
り、その眼光は氷の如く冷え切っていた。
先ほど、クラスメイトに見せたごく普通の高校生と同じ人物とは
とても思えないほどに、彼の表情は変わっている。
眼は鋭く、顔は能面のように無表情である。
それは普段押さえつけられていた彼の本性なのかもしれない。
獣の本性。老人は、その亮真の本性を知る事になった最初の犠牲
者となった。
ゴグン
老人の右わき腹から再び鈍い音が響いた。
﹁ギャ∼∼∼∼!﹂
老人の口から獣のごとき悲鳴が放たれる。
容赦の無い左拳が、身長160cm体重60kg前後の老人の体
を2m程も吹き飛ばした。
右手で掴んでいた老人の左耳を放さずに殴ったため、亮真の右手
には老人の耳が残っていた。
﹁な∼爺さん。素直になろうぜ?幾つか質問を答えてくれれば済む
んだからよ﹂
うつ伏せに倒れる老人へ、ゆったりとした歩調で亮真が歩み寄る。
﹁や⋮⋮やめ⋮⋮ゴフゥ⋮⋮てくれ。話す、何でも⋮⋮話す⋮⋮﹂
砕けた肋骨が肺を傷つけたのだろう喋る度に老人の口から血の泡
が飛ぶ。
36
千切れた耳から滴った血の所為で彼の顔は真っ赤に染まった。
さすがにこれ以上の苦痛には耐え切れなかったのだろう。老人は
痛みに耐えながら、必死で言葉を繰り出した。
﹁ふぅ、良かった良かった。それじゃ質問その1な。ここ何処?﹂
﹁ここは⋮⋮オルトメア⋮⋮帝国の⋮⋮王宮じゃ。﹂
﹁オルトメア帝国?﹂
老人の言葉を聞いて、亮真の顔に疑問の色が浮かんだ。
社会科が好きな亮真は地理も得意である。
彼は地球上のほとんど全ての国名を言う事が出来た。だが老人の
言うオルトメア帝国なる国名に聞き覚えは無い。
﹁そう⋮⋮じゃ。西方⋮⋮大⋮⋮陸中央⋮⋮部の覇者じゃ。﹂
そういうと、老人は再び血の混じった泡を吹いた。
亮真の顔色の変化には気が付かなかったようだ。
﹁じゃぁ、次の質問な。なんで俺はここに居る?﹂
﹁⋮⋮ワ⋮⋮ワシが⋮⋮召喚したからじゃ⋮⋮﹂
﹁ふぅん。まぁそうだろうな﹂
亮真は老人の言葉に気のない返事を返した。
うかが
しかし、表面に出ない心の奥底で、彼がどう思っているのか、そ
れは誰も判らなかった。彼の心の中を窺い知る術は無いのだが。
37
﹁さて3つ目の質問だ。コイツが一番大事だからちゃんと答えてく
れよ? あんたの今後に大きく関係するからな!﹂
そう言うと、亮真は老人の顔を覗き込み尋ねた。
﹁俺は元の世界に帰れるんだろうな?﹂
声色は穏やかだ。言葉は荒っぽいが他人を威圧するような感じは
無い。まるで親しい知人に話しかけるような気安い態度。だがそれ
が余計に恐ろしい。
老人の心臓の鼓動が破裂寸前まで脈動する。今、老人が一番聞か
れたくない質問だ。
老人は、必死でこの場をやり過ごすための嘘を考える。
︵戻れると言うべきか?いや、戻れるなどと言えば間違い無く、コ
イツは早く戻せというだろう。なら、なんと言う?準備に時間がか
かるというべきか⋮⋮?︶
オルトメアの頭脳と謡われたオルトメア帝国主席宮廷法術師であ
るガイエス・ウォークランドが、このような下賤の者に殺されるわ
けには行かないのだ。
老人の双肩には、帝国の未来が掛かっているのだから。
︵やはり、このまま時間を稼ぐしかない⋮⋮異変を察すれば、警備
の兵士達が飛び込んでくるだろう︶
骨折の苦痛と戦いながら必死で頭を働かせるガイエスは、ふと自
分の首に亮真の指が添えられていることに気がついた。
﹁な∼爺さん。嘘はいけないぜ? 嘘は﹂
亮真はガイエスの髪の毛を掴み、顔を覗き込んで言った。
﹁な⋮⋮嘘な⋮⋮ど⋮⋮﹂
38
﹁考えてたろ?﹂
ガイエスの心中をズバリと言い当て、亮真は続けて言った。
﹁あんたの血さ。あんた。嘘を俺に見破られかもって恐怖したろ?
その所為で脈が速くなったのさ﹂
実のところ、亮真の言葉はタダのハッタリだった。
彼は確かに脈の速さを測りはしたが、それが嘘をつくなのか、骨
折のためなのか、単純に亮真に対して抱いた恐怖心なのかを判別は
出来ない。
だが亮真には確信があった。それは3つ目の質問を行った後のガ
イエスの顔に浮かんだ恐怖だ。
つまり亮真に殺されかねない程に悪い内容だという事。それを老
人が口にしないと言う事は、この場を切り抜けるための嘘を考えて
いると見るべきだ。
﹁き⋮⋮貴⋮⋮様そんな能力⋮⋮が﹂
﹁さ∼はっきり言いな。俺は帰れるのか?帰れないのか?﹂
散々悩んだ挙句、ガイエスは遂に口を開いた。
其の表情には諦めの色が浮かんでいる。
﹁無理⋮⋮だ。少なく⋮⋮てもワシでは⋮⋮﹂
﹁ふむ。まぁ爺さんの態度を見れば予想はついてたけどな。なら帰
る技術は有るのか?﹂
39
亮真の顔には相変わらず怒りが浮かんでいなかった。絶望的な老
人の言葉を聞いても、彼の口調は穏やかといってよい。
︵なんだ⋮⋮? こやつなぜ怒らない? なぜ動揺しないのだ?︶
ガイエスの心の中で、恐怖が一段と大きくなる。
彼が過去に召喚した、100人以上の異世界人の中には居なかっ
たタイプだ。
今まで召喚した異世界人の殆どはパニックを起こし喚き散らすだ
けだ。当然、何も出来ずに兵士達に拘束され、ガイエスが服従の呪
印を施す。
召喚した異世界人の中には、危険を察知したのか、ガイエス達へ
殴りかかる者も居た。だが、武装した兵士達の相手ではない。
兵士達に取り押さえられ、結局、ガイエスの前にひれ伏すことに
なった。
だが目の前に立つ青年は違った。
たった一人で召喚直後の異世界人が、4人もの兵士を殺せるなど
ありえるはずも無かったのに。
﹁ワ⋮⋮シの知る限⋮⋮りではどの国にも⋮⋮無いはずじゃ﹂
様々な疑問がわきあがる中、ガイエスは問いに答える。
﹁召喚できるが帰還は出来ないってことか。なんでだ?﹂
﹁そ⋮⋮それは﹂
いよいよガイエスの脈動は早くなる。
︵不味い⋮⋮どういえばいい? どういえばワシは生き延びられる
?︶
ガイエスには、亮真の問いをどのように答えれば自分が生き残れ
40
るのか判らなかった。
みじん
今までの亮真の行動を見ていれば、敵に微塵も容赦をしない、酷
薄無情な男である事がガイエスは十分に理解出来ていた。
そして今の問いに対して真実を答えたならば、この冷酷な男が自
分を生かしておくはずが無い事も。
答えるのを躊躇するガイエスを見て亮真の口に笑みが浮かぶ。
﹁ふむ。よほど答え難いらしいな⋮⋮良いだろう。なら俺が答えて
やるよ﹂
亮真の言葉を聞き、ガイエスの表情が恐怖と驚きで強張る。
彼の心臓が張り裂けんばかりに脈打った。
︵まさか⋮⋮いや、判るはずない。異世界に来た直後の人間などに
⋮⋮︶
いざな
だが、ガイエスの願いは叶えられなかった。亮真の口から放たれ
た言葉は、彼を地獄へと誘う。
﹁異世界人を送り返す技術が無いって事は、おそらく最初から召喚
した者を生かして帰す気が無いからだろ? 死体を帰す意味が無い
から帰還の技術を研究していない。だからどの国にも帰る術が無い。
そういうことだろ? どうだ! 違うか?﹂
41
第1章第4話︻異世界召喚︼其の3
﹁き、貴様⋮⋮﹂
亮真の言葉を聞き、ガイエスは覚悟を決めた。
ガイエスが言いたくなかった事。其の全てを、亮真が知ってしま
ったからだ、
︵もうどうにもならん。ここまで知られてしまったら⋮⋮ワシが何
をどう言おうと、コヤツがワシを生かしておくはずがない︶
召喚直後に関わらず、我々に対して先制攻撃を行う状況判断の早
さ。素手で四人もの兵士を殺害できる戦闘能力。情報を引き出すた
めに躊躇無く拷問を加えられる冷酷さ。其の上でガイエスの漏らし
た情報から、的確に考察する知恵。
︵この男を使役出来たならば⋮⋮我がオルトメア帝国は、西方大陸
の覇者となることも可能だっただろう⋮⋮︶
そんな思いが、ガイエスの心を過ぎる。だが、目の前の男は、完
全に帝国と敵対してしまった。
帝国が彼を呼び出した目的を理解してしまったのだから。
そして、自分達が異世界人をどのように思っているのかを。
︵ワシはここで死ぬのか⋮⋮いや! ここで死ぬわけにはいかん。
王とワシの夢をこんな所で潰される訳にはいかんのだ!幸い、傷は
法術で塞げる。機会を窺うのだ⋮⋮それしか活路はあるまい︶
帰還の手順が無い以上、この冷酷な男が自分を生かしておくとは
到底思えない。ガイエスは十分其のこと理解していた。
︵コヤツは今、ワシが怪我をしていると油断しているはずだ⋮⋮な
ら、コヤツがワシを殺そうとする一瞬に賭ける!︶
ガイエスは一瞬の勝機に全てを掛ける為、亮真の気配を探った。
42
亮真の警戒が緩む一瞬を。
﹁図星か⋮⋮参ったな﹂
亮真は天を仰いで嘆息した。
嘘をついていない事は、老人の顔色を見れば疑いようが無い。
好きでもない拷問をして情報を引き出したのは、嘘をつかれない
ためだ。だが、出た結果は最悪だった。
しかし、まだ足りない。直ぐに帰れないのなら尚の事、この老人
には色々と聞き出さなくてはならないのだから。
例えどんな手を使ってでも。自分自身が生き延びる為に。
﹁あんたら何で俺を召喚したんだ? 生かして帰す気が無いってこ
とは、奴隷か何かにでもして死ぬまでこき使う気か?﹂
亮真の問いに対してガイエスは返答に詰まった。
︵まただ、また要点を的確に聞いてくる︶
ガイエスは亮真の顔を見上げた。
︵ダメだ! この男にはすでに答えが出てる。私がどんな嘘をつい
ても見破るだろう⋮⋮この男が私に質問をする理由は確認の為だ︶
亮真の揺らぎのない瞳を見た時、ガイエスは悟った。
彼は亮真を騙すことを諦めて、真実を口にする。
﹁お主ら異世界人を使って⋮⋮戦争に勝つためだ﹂
それは、最も悪意に満ちた身勝手な理由。
地球から召喚された人間は、ただひたすらに戦場へと狩り出され
る。
だが、ガイエスの言葉を聞いても、亮真の表情は変わらない。た
43
だ、淡々とした表情で事実を確認していくのみだ。
﹁戦争にねぇ⋮⋮もうちょいと詳しく説明してくれよ。俺の知る限
り、俺の世界では、あそこの鎧の奴らみたいに、剣だの槍だの使っ
て戦うのにな慣れている奴なんていないはすだぜ? それに爺さん
みたいに手から雷を出すことが出来るヤツもな。それとも異世界っ
てのは複数あって、そういう力を持った奴を召喚するのが目的なの
か?﹂
﹁イヤ。ほかにも異世界はあるが人間が居る異世界はおぬしの世界
だけじゃ﹂
﹁ふぅん。俺の世界の人間呼んだって戦争なんか出来ないだろうに。
何が目的なんだ?﹂
この質問に答えるのは危険だった。だが、ガイエスは生きること
を諦めはしない。
彼は帝国を支える柱の一人なのだから。
﹁それはおぬしら異世界人が、この世界最高の戦士になる可能性が
あるからじゃ﹂
ガイエスの言葉を聞き、亮真の顔に疑問符が浮かぶ。
﹁最高の戦士⋮⋮ねぇ? 訓練もしてないやつらが最高の戦士にな
れるのかね?﹂
亮真の疑問は尤もだった。彼と同じく、召喚した人間に武術の心
得があるとは限らないのだから。
44
﹁ひょっとして召喚される人間には、一定の力を持つ者に限るとか
って条件でもつけてるのか?﹂
もし、そうで有るならば説明がついた。しかし、亮真の問いにガ
イエスは首を横に振る。
﹁どのような者が召喚されるかは完全に運任せじゃ﹂
だが、それが本当ならば大多数の人間は、戦う術を知らない人間
と言うことになる。
戦国時代ではないのだ。武術は既に文化になってしまっている。
現代社会で、武術を戦う為の道具として修練している人間など、
ほんの一握りでしかないのだ。
大多数の人間は、動物を殺す事だって忌避する。果たしてそんな
人間達を召喚することに意味があるというのか?
﹁なら、異世界からド素人を召喚しても何らかの利益があるってこ
とだな?﹂
亮真の言葉にガイエスが頷く。
﹁この世界では他の生物を殺す毎に其の力の一部が己の物になる。
そして異世界人はこの世界の人間よりも力の吸収率が良いのじゃ﹂
亮真はガイエスの言葉を理解しようと勤めた。
﹁なんだそりゃ? て、事は俺がさっき殺した4人の力が俺に宿っ
てるって事か?﹂
﹁その通りじゃ﹂
45
亮真は自分の体を見回した。しかし、別に普段と大差は無い。
腕が太くなることも、足が長くなることもない。外見上は何も以
前と違ってはいなかった。
﹁実感がないんだがな?﹂
﹁人間を殺したところで、吸収される力はたいしたことが無いから
じゃ﹂
﹁さっぱりわからねぇな?﹂
人を殺して力を吸収する。そんな現象を、亮真は聞いたことがな
いのだから、彼が理解できないのも当然だ。
﹁具体的に言うならば、1万人を殺して初めて人一人分の力を己の
物に出来るといったぐらいじゃ﹂
亮真は呆れた。
何を言い出すかといえば1万人を殺せと来た。人一人分の力を己
の物にする為だけにだ。
﹁効率が悪くねぇか? 正直そんなに大勢を犠牲にしてまでする価
値あるのかよ?﹂
亮真があきれるのも無理はない。一万人を殺す労力を考えれば、
全く割の合わない話なのだ。
﹁対象が人間ならばじゃ。例えばドラゴンを殺したのな1匹でおそ
らく10人分ぐらいは力を得られるはず
46
じゃ﹂
ガイエスは必死で話を続けた。
︵もう少し! もう少し時間を稼げば、きっと兵士達がやって来る。
何時までも戻らぬワシを不審に思いってやって来るはずだ!︶
其の思いが、彼の最後の希望だった。
﹁ふ∼ん。まぁ、その力を吸収するって話はわかったけどよ。結局
なんで異世界からわざわざ召喚するんだ?﹂
﹁一つは吸収率が高いからじゃ﹂
﹁あん?﹂
ガイエスの言葉に、亮真は再び疑問の言葉を浴びせた。
﹁つまり、異世界人とこの世界の人間が同じ種類同じ数を殺したと
仮定した時に、明確な力の差が出るからじゃ﹂
ガイエスの言葉を聞いた亮真の眼が細まる。
﹁なるほどな。召喚した後の成長率の差を重視したってことか⋮⋮
訓練経験が無い人間でも、最終的にはこの世界の人間より強くなる。
それなら異世界人を育てるほうが良いってことか⋮⋮﹂
突如、亮真のつぶやきが途切れた。そして、針の如き鋭い視線が
ガイエスに突き刺さった。
﹁そう言えば爺さんよ⋮⋮あんたの傷は治ったみたいだな?﹂
47
ガイエスの背筋に冷たいものが走った。
ガイエスは亮真に殴られた後、腹を抱えて蹲ったときからずっと
治癒術を使用していた。
それを見破られたからだ。
﹁な!﹂
驚きの声を上げるガイエスに、亮真は冷たい笑みを浮かべた。
﹁そりゃあ気が付くだろうよ。肺にダメージを与える様にアバラを
砕いたんだぜ? 話すにも血が絡んでゴホゴホやっていた爺さんが、
いきなり流暢に喋ってるんだ。となれば自分で治療したってことだ
ろうよ⋮⋮腹を抱えて蹲っていた間にな﹂
﹁き⋮⋮貴様! 初めから気が付いていたのか?﹂
亮真はガイエスの問いに肩を竦める事で答えた。
﹁なぜだ⋮⋮なぜ?﹂
﹁なぜ黙ってたかって? あんたが治療の時間が欲しくて色々と喋
るだろうと思ったからさ。それにあんた俺が隙を見せないか探って
いたな?﹂
﹁き⋮⋮貴様⋮⋮其処まで判っていたのか!﹂
﹁そんなに驚くこと無いだろ? ホントに俺の隙を狙うんなら、ず
っと重傷の演技を続けるべきだったな⋮⋮まぁ、いいさ。とりあえ
ずアンタの話は判った。アンタの言葉がどこまで本当かは知らない
けど、とりあえず直ぐに帰る事は出来ないのは確定みたいだな⋮⋮﹂
48
亮真の口に皮肉な笑みが浮かべガイエスへと近づく。 ガイエスは無意識に後ろへと後ずさった。亮真への恐怖が、彼の
体を無意識に動かしたのだ。
﹁ああ。余計なことはしないほうがいいぞ? とりあえずいろいろ
と教えてくれたからな。苦しまないように殺してやるからさ。代償
としてな⋮⋮どうだ? 悪くないだろう?﹂
亮真の言葉を聞きガイエスは最後の賭けに出た。
勝機は今しかなかった。例え其れが、どれほど0に近い勝機であ
っても。
﹁風の⋮⋮グハ﹂
ガイエスの喉に突き刺さる手刀が、彼の詠唱を妨害する。
﹁言ったろ?﹂
再びその場に蹲るガイエスへ、冷ややかな視線を向けながら亮真
は言い放つ。
亮真の下段蹴りが蹲るガイエスの後頭部へと吸い込まれた。
グシャ
水気を含む果物を踏み潰すような音が響く。
﹁余計な事をすると苦しむって﹂
この亮真の呟きが、ガイエス・ウォークランドのこの世で聞いた
49
最後の言葉だった。
50
第1章第5話︻脱出︼其の1
﹁マジで胸糞悪いヤツだぜ⋮⋮﹂
亮真は足元に横たわるガイエスの死体を蹴り上げた。
容赦の無い蹴りが、ガイエスの死体を3m近くも吹き飛ばす。
ガイエスが生きていた時には表に見せなかった怒気が、はっきり
と亮真の顔に浮かんでいた。それは鬼の如き形相であった。
怒りは判断を曇らせる。戦いの最中で冷静さを無くすなど、敵に
自分を殺してくださいと頼むような物だ。だが、人である以上、怒
りを感じないわけが無い。特に今回のような相手には。
だから、亮真はそれをグッと心の奥底に秘めて押し殺した。相手
の息の根を止める其の時まで。
ガイエス達は亮真が召喚されるずっと以前から異世界人の召喚を
やってきたのだろう。
その結果は想像に余りある⋮⋮。
どれだけの人がこの世界に召喚され、絶望に身を焦がしながら死
んでいったのだろう。
其の人達にも、夢や希望があっただろうに。
そう思うと亮真の心には、深い悲しみと老人に対しての怒りが湧
き上がるのだった。
敵には容赦が無くとも彼は人間だった。人の痛みや苦しみが判る
⋮⋮普通の。
51
ガンガンガン
﹁な⋮⋮んだ?﹂
突然、この部屋の鉄の扉が外側より叩かれた。
﹁いかがいたしました? ガイエス様?﹂
再び扉が強く叩かれる。
扉越しに、慌てたような男の叫びが聞こえてきた。
﹁先ほど衛兵より室内から大きな音がしたとの連絡があり、参上い
たしました。召喚の儀の最中とは存じておりますが、なにとぞお顔
をお見せくださいませ!﹂
﹁チィ⋮⋮﹂
扉の向こうから聞こえてきた言葉に、亮真は大きく舌打ちをした。
どうやら扉の前には、さっき殺したような兵士達が、中の異変に
気が付いて押し寄せてきたらしい。
この状況で打てる策は何か?
必死で亮真は考える。
何か。何か手段が無いか?
だが、どれほど考えても答えは出ない。
この部屋には窓が無い。唯一の出入り口。扉の向こうには兵士達
が集まっていて、とても脱出など出来ない。
だが、このまま何もしないで居るわけにも行かない。
亮真は、ガイエスと四人の兵士を殺しているのだ。
52
とても交渉の余地など無い。
イヤ、仮に交渉の余地が有ったとしても亮真は選ばない。
人としての尊厳が、それを許しはしない。
こんなやつらに屈するなど。
武器を確保しようと兵士の死体にある剣を外す為、うつ伏せにな
っていた死体を仰向けにした時、彼の脳裏に一つの策が閃いた!
それはかなり分の悪い賭けだった。
数秒の思考の後、亮真が出した結論は。
﹁賭けてみるか⋮⋮﹂
ガンガンガンガン
再び強く扉が叩かれる。
鉄製の扉で同じく鉄の閂が掛かっているとはいえ、本気でこじ開
ける気なら数分と持たずにぶち破ってくるだろう。
何しろこの世界には老人のように手から稲妻を出す人間が居るの
だから。
彼に残された時間は少ない。
亮真は5つの死体の懐を探ることから始めた。
何しろここは異世界だ。金も持たずに此の城から逃げ出したとこ
ろで、結末は強盗でもするか盗みでもするかしかない。
働く事を選ぶとしても、こんな異世界で高校生に就ける仕事があ
るかなんて判るわけがない。
こういう時にライトノベルの主人公には、衣食住の面倒を見てく
れる優しい協力者が現れるが、そんな幸運を期待するほど、彼は愚
かではなかった。
とりあえず金貨と銀貨と銅貨が入った革の袋を5つ死体の懐から
53
探り出す。此の金が亮真の希望だ。
少なくとも、此の金が消えるまでに何か仕事に就く事が出来なけ
れば、強盗でもしなければ生きていけなくなる。
貨幣価値がまったく判らない為、どの程度の生活費になるのかが
不安ではあったが、今の段階ではどうしようもない。
ガンガンガンガン
﹁ガイエス様! ガイエス様!﹂
再び扉が叩かれた。段々と扉を叩く音と、呼びかける声が強く大
きくなる。
外の連中も異変が起きたことを確信したようだ。
亮真に躊躇している時間は残されていなかった。
彼は着ていた学生服を脱ぎ、革のベルトを外すとそれを胸の辺り
に締めた。
傍からみれば滑稽な格好だがどうしようもない。
きっちりと締めたベルトに、貨幣の入った袋をしっかりと結わえ
付ける。
次に、亮真は死体の中から背格好の似ている死体の鎧と衣服を剥
いだ。死体に彼の学生服を着せ、死体の顔を松明で焼く。
勿論、顔が判らないようにだ。そして、自分は剥いだ衣類と鎧を
身に着ける。
﹁ふ∼。何とか着れたか﹂
安堵の言葉が亮真の口から洩れた。
何しろ今まで鎧など来た事が無い為、ずいぶんな時間が掛かった
が何とかなった。
54
此の鎧が一枚板を打ち出した鎧ではなく、各パーツを一つずつ体
に固定していく形式だったのも幸いしたようだ。
ガンガンガンガン
鎧を着るのに必死で、亮真の頭の中から扉の外の様子が意識から
消えていたが、いよいよ此の部屋へ強行突入をしてきそうな雰囲気
だ。
亮真は兵士の死体に歩み寄ると其の首の頚動脈を斬り血を床に流
した。そして、其の血溜りの中に其の身を横たえて待った。
扉が破られるのを。
﹁かなり分の悪い賭けだが、強行突破よりはマシか⋮⋮﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ひしめ
亮真が床に横たわった丁度その頃。
扉の前には大勢の兵士で犇いていた。
﹁ロルフ近衛騎士団長。ただいま次席宮廷法術師のセリア・ウォー
クランド様がおいでになられました!﹂
兵士の報告に続いて、赤毛の女が現れる。
﹁どういうことですか!? お爺様は?﹂
開口一番、彼女はロルフと呼ばれた男へきつい口調で問いただし
た。
整った顔立ちをしているが、其の眼の強さが人を恐れさせる。有
55
能だが、人に好かれるタイプでは無い様だ。
﹁落ち着かれよ。セリア殿﹂
ロルフの隻眼が光る。
﹁落ち着けるわけないでしょ!﹂
よほど急いで移動したのだろう。
普段は一部の隙も無く整えられた自慢の赤毛は大きく乱れ、その
たわわに実った豊かな胸が大きく弾む。
﹁落ち着かれよ!﹂
今度はロルフの怒声が響く。
近衛騎士として多くの戦場を経験したこの男は、かつて戦場にて
飛来した矢を皇帝の前に立ち身をもって防いだ事から、︻皇帝の盾︼
と謡われた歴戦の猛者だ。
セリアが産まれる何十年も前から血みどろの戦場を生き抜いてき
た彼の言葉は、素質に恵まれた若き次席宮廷法術師の心の動揺を取
り払う。
ロルフの怒声に打ちのめされ、ようやく落ち着いたセリアは大き
く深呼吸を行う。
﹁申し訳ございません。ロルフ様。お見苦しいところをお見せいた
しました﹂
そう言うとセリアは素直に頭を下げた。
彼女も自分が動揺していることに気がついたのだろう。髪を撫で
付け気持ちを落ち着けようとする。
56
﹁いや。それがしの方こそご無礼いたした。肉親であるセリア殿が
動揺されるのも致し方なきこと﹂
一つしかない右目の眼光が幾分和らいだ。
その目は厳しくも娘を見守る父親のようである。
﹁して、ロルフ様。現状は?﹂
セリアの口調は完全に落ち着きを取り戻していた。
そこにあるのは、冷静さと冷徹さを兼ね備えた︻吹雪の女王︼と
謡われし天才の顔だ。
﹁現在判っている事は多くありません﹂
﹁かまいません。わかる範囲でお教えください﹂
﹁ガイエス様が召喚の儀式を行うために、兵士4人を連れて部屋に
入られたのが3時間程前の事⋮⋮﹂
ロルフの言葉にセリアの表情が曇った。
﹁3時間ですか⋮⋮召喚儀式の準備に2時間、詠唱に30分を要し
ます。ということは残りの30分はいったい⋮⋮﹂
セリアの心に嫌な予感が広がる。
﹁はい。衛兵達の話では30分程前に大きな振動を部屋の方から感
それがし
じたとの事で、報告が私のところに来ましてセリカ殿に連絡を入れ
て某はこちら向かったのです﹂
57
﹁そうでしたか﹂
﹁扉の前でこの者達が待機しておりまして状況を確認したところ、
召喚の儀式中にこの部屋に入ることも物音を立てることも禁止され
ているので、指示を待っていたとの事でした⋮⋮そうだな? お前
達!﹂
そう言うとロルフは後ろの控えている2名の兵士に振り向いた。
﹁そう⋮⋮あなた達の判断に問題ないわ﹂
セリアの視線が立ちつくす兵士へと向けられ頷いた。
﹁は!﹂
セリアの言葉を聞き兵士の顔に安堵の笑みが浮かぶ。
彼らは、自分に与えられた職務に対して最善を尽くしたと自負し
ている。
だがそれを理解してくれない貴族は多い。最悪、﹁なぜ突入しな
かったのだ﹂と責められる可能性だって存在した。 それが無い事を理解できたのだから、彼らの表情が緩むのも当然
だった。
﹁ただ、時間が掛かりすぎているのは確かなので、私の一存で扉を
叩いてみたのですが⋮⋮﹂
ロルフが再び状況説明を始めた。
﹁反応が無いと?﹂
58
﹁はい﹂
セリアは考え込みながら自分の意見を言った。
﹁召喚の儀式の準備と呪文の詠唱には2時間∼3時間かかります。
お爺様は過去100以上この儀式を実施されているはずです﹂
﹁そのとおりです。過去121名を召喚されており、事故及び召喚
の失敗は0です﹂
ロルフが頷く。
﹁しかし何も問題が起きていないと仮定するなら、兵士が感じたと
いう振動の説明が付きません。召喚の儀式に振動が起こる要素はあ
りませんから﹂
﹁事故⋮⋮ということでしょうか?﹂
セリアの分析を聞いて、ロルフの顔が曇る。
今まで無かったからと言って、今回も無いと考えるほど彼はボケ
ていなかった。
そして法術の事故は非常に重大な影響を及ぼす事を知っていた。
最悪、国が傾くほどの。だが、ロルフの懸念をセリアは首を振っ
て否定する。
﹁いえ。おそらくですが攻撃法術を使用されたのではないかと﹂
彼女の言葉にロルフの隻眼が光を強める。
ガイエスが攻撃法術を使用したという事は、何者かと戦ったとい
59
う事だ。
﹁攻撃法術ですか⋮⋮しかし其れでしたらなぜガイエス様は部屋か
らお出にならないのか?﹂
ロルフが事故の可能性を捨て切れないのは此処だ。
オルトメア帝国の宮廷法術師であるガイエスの法術を喰らって、
生き残れる人間は大陸中どこを探しても居ない。
勿論、戦いに絶対という事は無いと理解していても、ロルフには
ガイエスが何者かに殺されるなど想像が出来なかった。
﹁もしくは出れないのか﹂
﹁まさか。ガイエス様ほどの方が⋮⋮﹂
セリアの言葉を聞きロルフは顔色を変えた。
意図的に其の可能性を無視してきたロルフに、セリアの言葉が突
き刺さる。
﹁最悪の事態も考えられるかと⋮⋮﹂
セリアの顔は硬く強張っている。それは肉親の死を意識した人間
の表情だった。
﹁申し訳ない!﹂
突然ロルフはセリアに頭を垂れた。
﹁な! 何をなされるのですか。ロルフ様﹂
60
セリアは慌てた。
それがし
﹁セリア殿。某の判断ミスでござる﹂
もし、サッサと部屋へ突入していたら、ガイエスを助けられたか
も知れない。
そんな思いが、ロルフの心に過ぎる。だがセリアは頭を横に振っ
た。
﹁いいえ。ロルフ様。召喚の儀式の最中はいかなる者でも妨げては
ならないのは国法となっております。ロルフ様が勝手な判断で部屋
に飛び込まれては、其れこそ大惨事を引き起こす可能性がありまし
た。例え、どのような結果にしろロルフ様が私を待ってくださった
のは適切なご判断だと存じます⋮⋮ですが事故の可能性は無いでし
ょう。もしそうなら既に何らかの影響が外に漏れ出すはずですから﹂
実際に、二次災害の可能性から召還の儀式中は何者も出入りが禁
じられている。
召還とはそれだけ注意深く行わなければならないのだ。
﹁セリア殿⋮⋮﹂
ロルフはセリアの肩が細かく震えているのを見た。
ただ一人の肉親を思う情を必死で堪えている。
﹁今のはあくまで最悪の場合です。とにかく中に入って確かめねば
!﹂
﹁扉は鋼鉄製の上、中から閂が掛かっております。ただいま攻城用
の破壊槌を準備させているところです。もう少々お時間を下され﹂
61
だが、セリアはロルフの言葉に従う積りはなかった。
﹁いいえロルフ様。時間が有りません。私が破ります﹂
ロルフは慌てた。
﹁そ。それは﹂
﹁火炎を司りし精霊よ! 汝の加護を受けし我が求めに応じよ!﹂
﹁セリア殿! いかん。全員下がれ∼∼∼∼∼∼!﹂
静止を無視して、セリアが詠唱を始めたのを見たロルフの叫びが
響く。
フレイムボム
﹁我が指し示しし敵を砕け! 火精爆裂!﹂
セリアの掌に球状の火炎が渦巻き、彼女の両腕が鋼鉄の扉へと突
き出された。
62
第1章第6話︻脱出︼其の2
ドッガガガ!
鋼鉄の扉から爆発音が響いた。
もっとも扉はびくともしていない。だが次の瞬間、扉は轟音を発
して砕け散る。
破れたのではなく砕けたのだ。
﹁さあ! 皆さん突入してください﹂
セリアの声が響く。
触れれば皮膚が張り付いてしまうほどの超低温に冷やされた扉を
超えて、兵士達が部屋の中へと飛び込んで行った。
﹁さすがですな。熱膨張の差を利用して扉を砕くとは﹂
ロルフの声にセリアは軽く頷いた。
最初セリアが火炎系の法術を使用したのを見て、ロルフは扉を高
熱によって溶かす事に因って破る気だと思った。
だからこそ、其の後の問題点を指摘しようとセリアを止めたので
ある。
だが、セリアはロルフが懸念している問題点を理解していた。
鋼鉄の扉を溶かす程の熱量を浴びせれば、周りの空気は灼熱地獄
の如くになる。
法術を使えるセリアやロルフなら問題ないが、一般の兵士には致
命的だ。
63
空気が冷えるまで部屋に入ることが出来なくなる。
だからセリアは扉を高熱で熱した後、氷雪系の法術を使用するこ
とで急速に熱せられた扉を冷やした。 熱膨張を利用したのだ。
﹁さあ。我々も中へ﹂
入り口付近で停止した兵士をかき分け、中に入った二人の前には
惨劇が広がっていた。
血液特有の、サビた鉄の様な匂が彼らの鼻に匂ってくる。
﹁これは⋮⋮﹂
﹁なんてことなの⋮⋮﹂
二人は絶句した。
心のどこかでは予想していながらも、目の前にある光景が信じら
れなかったのだ。
﹁お⋮⋮お爺様は?﹂
辺りを見回したセリアの眼に、床に倒れ付すガイエスが飛び込ん
でくる。
特徴的なローブ。見間違えるはずがなかった。
﹁イヤ∼∼∼∼お爺さま!﹂
セリアの膝が砕け、床へ倒れこんだ。
ロルフが慌てて抱え込むが、セリアは其の手を振り解きガイエス
へと走り寄る。
64
無我夢中でセリアはガイエスの体を抱え興した。
セリアの手に抱えられたガイエスを見て、ロルフは顔を顰める。
幾多の戦場にでたロルフですらこれほど容赦なく、執拗に攻撃を
受けた死体を見ることは稀だったのである。
後頭部を砕かれ床に顔を埋めている所を見れば、ガイエスは後ろ
から襲われたか蹲ったところを攻撃されたかのどちらかなのが判る。
また、仰向けに寝かせたガイエスの死体が喉を破られていること
を考えれば、犯人は気道を塞がれ蹲ったガイエスの後頭部へ止めを
刺したことが予想された。
﹁いったい誰がこのような惨い事を⋮⋮﹂
ロルフの口から、嘆きの言葉が漏れた。
幾多の戦場で殺し合いをしてきたロルフにとって、本来なら死体
を見たところで何も感じはしない。
ただ、弱者が死んだと思うだけだ。
だが、ガイエスは違う。
ロルフと共に長年戦ってきた戦友なのだ。
友人の死を目の前にして、平常心を保てる筈もなかった。
﹁決まっています! 召喚された異世界人よ!﹂
セリアの口から憎しみのこもった叫びが迸る。
彼女の目には祖父を殺された怒りの炎が暗く宿っていた。
彼女の目に宿る炎を見たとき、ロルフは揺れ動く自らの心を必死
で抑える。
指揮官である二人が冷静さを失うわけにはいかないのだ。
︵無理もあるまい⋮⋮親子以上に親密だったからな⋮⋮︶
セリアの両親は彼女が幼子の時に死んでいる。隣国との戦で戦死
65
したのだ。
その後、彼女を引き取り育てたのが祖父であるガイエスである。
彼は、セリアの法術の師匠であると同時にたった一人の肉親なの
だ。だから、セリアが取りみだしたのは当然と言えた。
しかし、彼女の叫びにロルフは疑念を抱いた。
﹁しかしセリア殿。異世界人は確かに育てれば強力な駒ですが、召
喚したてではまったくの弱者ですぞ?あちらの世界ではこちらと違
い戦争も無く、武器の携帯も禁止と聞いておりますし﹂
﹁でも!﹂
﹁確かに、現状疑わしいのは召喚された異世界人である事に間違い
はありませんが、その他の可能性が無い訳では有りません﹂
セリアの抗弁をやさしく嗜める。
今は彼女に落ち着いて貰うより他に選択肢がなかった。
セリアの激情に引きずられて、犯人を取り逃がす事だけは避けね
ばならないのだから。
﹁まず我々がすべきは正しく現状を把握し、何が起こったのかを正
確に知る事です﹂
ロルフに諭され、次第にセリアの顔が引き締まっていく。
彼女とて次席宮廷法術師に若くして任ぜられる程の英才。
ロルフの言葉を聞いているうちに、自らの役割と責任を思い出し
て心を静めていく。
﹁申し訳ございません。ロルフ様のおっしゃるとおりでございます﹂
66
頭を下げるセリアを押しとどめ、ロルフは兵達へ矢継ぎ早に命令
をくだす。
﹁直ちに倒れている兵士の生死を確認しろ! それとそこに倒れて
いる変な服装の男が確実に死んでいるかを確かめろ! 後の者はこ
の部屋の捜索だ。どこかから抜け出せる穴か何かが無いかを確認し
ろ! 後は⋮⋮何かあるかの? セリア殿?﹂
ロルフの問いかけにセリアは頭を振った。
冷静さを取り戻しかけているとはいえ、肉親の死はまだ彼女の心
に影響を及ぼしている。
未だ彼女の脳は其の怜悧な鋭さを取り戻してはいなかった。
﹁ロルフ様! セリア様!﹂
﹁生きてます。こいつ生きてます!﹂
しばらくして、倒れ伏す兵士達の生死を確認していた兵士がロル
フとセリアを呼んだ。
﹁﹁なに!?﹂本当なの?﹂
ロルフとセリアが駆け寄るとそこには血の海に横たわる兵士が居
た。
﹁ロ⋮⋮ロルフ様⋮⋮﹂
途切れ途切れに口から漏れる声は、確かにこの死体と思われた兵
67
士からの物だ。
﹁なんだ? いかがしたのだ?﹂
﹁何が? 何があったのです?﹂
唯一の生き証人だ。
ロルフもセリアも声を荒げて聞いた。
﹁⋮⋮ルフ様⋮⋮が化け物を⋮⋮﹂
兵士の言葉を聞き、二人の顔色が変わった。
この部屋で何が起こったのかを知る、唯一の生き証人なのだから。
﹁なに?! 化け物だと﹂
兵士の言葉に気になる単語を聞き付け、ロルフの顔色が変わる。
セリアも祖父が召還術で事故を起こし、予定外の異生物を召還し
たのかと慌てた。
﹁どういうことなのです! しっかりなさい﹂
﹁ガ⋮⋮ガイ⋮⋮が﹂
必死で問いかける二人だが、兵士の口から途切れ途切れに漏れる
言葉は不明瞭で、ハッキリとした意味を持たない。
辛うじて何か化け物が居た事だけは伝わったが、状況は相変わら
ず判らなかった。
﹁い⋮⋮いかん。誰か! 誰かこの者を医者の下に!﹂
68
﹁はっきりなさい! お爺様がお爺様がいかがしたのです!? 其
の化け物とは何のことです?﹂
必死で問い詰めようとするセリアを制止し、ロルフは運ばれて来
た担架に兵士を乗せると医務室へ急行するように命じた。
﹁なぜです?! なぜ止めたのです!?﹂
鬼を形相をして食って掛かるセリアをロルフははっきりと嗜めた。
ここではっきりと言わなければ、肉親を失い取り乱すこの少女を
止めることが出来ないと判断したのだ。
やはり経験の差なのだろうか。
能力はあってもセリアはいまだ感情のコントロールに難があるよ
うだ。
せっかく落ち着きを取り戻したというのに、兵士の﹁化け物﹂の
言葉を聞いて再び心を乱してしまった。
尤も、尊敬する祖父が召還術の失敗をした結果死んだかも知れな
いとなれば、致し方ないのかもしれないが。
﹁ですが、あのまま問い詰めたらあの者は死んだかもしれません﹂
食って掛かるセリアへ、ロルフは出来るだけ感情を抑えて冷徹に
事実だけを告げる。
ロルフの言葉は正論である。今、無理に尋問すれば、あの血だら
けの兵士は死んでいただろうから。
だが、セリアの心にはそれが届かない。
兵士一人の命より、祖父の情報を聞き出す方が先決だと本気で思
いこんでいる。
69
﹁其れはそうですが。今はあの者の命より何が起こったのかを確認
するべきでは無いのですか?﹂
だからセリアはロルフの諌めに必死で抗う。
自らも、ロルフの言葉が正しいと理解していながらも、彼女の心
がその判断を退けてしまう。 だが、ロルフは根気よく状況を整理してセリアの心を落ち着けて
いく。
﹁確かにそれは重要ではありますが、全てを知るのはあの男だけの
様です。あの者の怪我をそのままにして、尋問したところで有意義
な情報が取れたとも思えません。下手に問い詰めて情報を聞き出す
前に死んでしまったらそれこそ意味がありますまい。ここは多少時
間がかかっても、あの者の回復を待って確認した方が後々良いでし
ょう?﹂
ロルフにそこまで言われればセリアとしては無理も言えない。
ロルフの言葉は正しいのだ。
彼女が納得できないのは、肉親が犠牲になった遺族としての感情
の部分。
﹁ふぅ⋮⋮判りました。ロルフ様の判断が正しいと存じます。取り
乱してしまい申し訳ありませんでした﹂
大きくため息をついたセリアの心が冷静さを取り戻していく。
ロルフに食って掛かっ分だけ、彼女の心の負担が減った成果だろ
う。
如何に天才とはいえ、年齢から来る経験の差はどうしようもない
のだ。
70
﹁しかし、あの者が言った化け物とはいったい⋮⋮﹂
﹁まぁ、それはあの兵士の怪我が治ってからゆっくりと聞き出せば
よい。今は出来るところから手を付けましょうぞ﹂
セリアの言葉にロルフは落ち着いて答えると、召喚の間の捜索を
再開するように兵士達へと命じる。
だが、結果的にロルフの判断は裏目に出る事になる。
﹁た!大変です!ロルフ様∼∼∼!!医務室が!医務室が!﹂
﹁﹁!!﹂﹂
一人の兵士が召喚の間へと駆け込んできた。
其の切羽詰まった声は、明確に緊急事態である事を告げている。
﹁落ち着け! いかがしたのだ?!﹂
ロルフの怒声が部屋中に響き渡る。
怒声を受け兵士はロルフの剣幕に押され、息を切らせながら必死
で報告を始めた。
﹁はは! ただいま医務室より原因不明の出火が有りました⋮⋮火
の回りが早く、薬品庫の方にも火が﹂
﹁なんだと! 火はどうなった! 誰か消火へ向かっているのか?
!﹂
71
ロルフは兵士の報告を途中で遮り絶句した。
薬品庫には燃焼を促進させるような可燃物が幾つか保管されてい
る。
それに、ついさっき怪我人を医務室へ送ったばかりなのだ。それ
も唯一人の生き証人を。
﹁い⋮⋮いえ。直ちに宮廷法術師達に連絡が行った為、現在は消火
されております﹂
兵士の報告を聞きロルフは幾分落ち着きを取り戻した。
少なくとも宮殿の炎上と言う最悪の事態が防げたことに安堵した
のだ。
ロルフはセリアへ尋ねた。
心の中に、ある疑念が湧きあがってきた為に。
﹁セリア殿。どう思う?﹂
﹁不自然ですね⋮⋮﹂
﹁やはり⋮⋮セリア殿もそう思うか⋮⋮﹂
﹁えぇ⋮⋮あまりにもいろいろな事が重なりすぎています﹂
ロルフは考えこんだ。
彼の中である答えが浮かんできてはいた。
だが、それは彼の常識ではありえない事なのだ。
﹁一つだけ現状を説明できる仮説がある。だが⋮⋮﹂
72
﹁ありえないとお考えですか?﹂
セリアはロルフの考えを正確に察する事が出来た。
そして何を理由に言い出せないのかも。
﹁わからん⋮⋮﹂
ロルフは再び首を振った。
憶測は憶測でしかない。そして、ロルフが欲しいのは憶測では無
い。絶対な確証だった。
﹁ご報告いたします!﹂
二人の会話は探索を終了させた兵士達の報告により遮られた。
﹁うむ、報告しろ!﹂
﹁兵士の死亡を確認いたしました﹂
﹁それで? 死因は?﹂
セリアの問いかけに兵士達が顔を見合す。
報告しにくいようだ。
﹁どうしたの! はっきりなさい!死因は?﹂
セリアの剣幕におされ、一人の兵士が代表して前へ出た。
﹁お⋮⋮おそらく素手によるものではないかと⋮⋮﹂
73
﹁なに! 素手だと? なぜ判る?﹂
ロルフは声を荒らげて聞き返す。
﹁喉を潰されたと思われる死体が2体有るのですが、そこにはっき
りと指の痕が⋮⋮﹂
別の兵士が続けて言った。
﹁私が確認した死体の死因は後ろから首に打撃が加えられた事によ
る頚骨の粉砕です。ただ鎧と兜に一切傷が無く、武器を使用して殺
された形跡がありません﹂
別の一人が言った。
﹁それと気になる点が⋮⋮﹂
﹁なんだ!? ハッキリせんか!﹂
普段は温厚と言って良いロルフも、苛立ちを隠せなかった。
だがそれも無理もない。
﹁は! 異世界人と思しき顔の焼けた死体ですが⋮⋮其の⋮⋮ズボ
ンのベルトが⋮⋮﹂
ロルフの怒声に晒され、兵士は脅えながらも必死で報告を続ける。
﹁なんです! はっきりしなさい!﹂
74
セリアの苛立ちに、兵士はたじろぎながらも必死で報告した。
﹁は! ズボンにベルトが無いのです。其の状態ですと死体からズ
ボンが落ちてしまいます。とても戦闘を行えるとは⋮⋮﹂
それを聞きセリアとロルフ、二人の顔色がサッと変わる。
﹁しまった! ロルフ殿!﹂
そう言い残すと、セリアは風の様に部屋を駆け出す。
﹁お前達は城内の警戒に当たれ!﹂
ロルフは兵士達にそう命じるとセリアを追った。
様々な事柄が組み合わさり、彼らの脳が1つの結論を導き出す。
﹁勘が当たったようだな﹂
先行するセリアにロルフが後ろから声をかける。
﹁ええ。とりあえず医務室で確認すればはっきりするでしょう⋮⋮﹂
﹁しかし、そうなると戦う術を持った異世界人ということになるが
⋮⋮﹂
﹁ええ。それも武装した兵士を4人にお爺様ほどの法術師を纏めて
殺せるほどの⋮⋮﹂
﹁初期でそれほどの能力か⋮⋮﹂
75
ロルフの背に寒気が走った。
それほどの力を持った異世界人がこの宮殿の中をうろついている
のだ。
︵必ず捕まえて見せる!︶
そう決意すると彼は全身に力を漲らせる。
術式で肉体強化を行っている二人は30秒ほどで医務室の前まで
駆け抜けた。
﹁報告どおり鎮火しているようだな⋮⋮﹂
流水系の法術を使ったのだろう、医務室とそれに併設された薬品
庫の周りは水浸しだった。
二人の到着に気づき一人の青年が歩み寄って来る。
﹁セリア殿、ロルフ様。いかがなさったのですか?﹂
﹁オルランド。火は?﹂
セリアの問いにオルランドは鎮火された医務室に視線を向けて言
った。
﹁問題有りません。火の回りが速くて医務室は丸焼けですが、他の
ただ
なんなの?⋮⋮先程、
部屋に飛び火する前に何とか消えてくれました。ただ⋮⋮﹂
オルランドは口を濁した。
﹁オルランド! 急いでいるの! 召還の間から医務室にけが人が運び込まれているの! そいつは?﹂
76
﹁医務室から死体が3体出てきたんだが、どうも火で死んだ訳じゃ
無い様なんだ。それに、死体の数が一人足りない⋮⋮そのけが人の
事は知らないけど⋮⋮﹂
セリアの息を呑む音が聞こえた。
彼女達の予想が的中した事を悟ったからだ。
﹁なぜ足りないと判ったのかね?﹂
ロルフの質問にオルランドは答えた。
﹁はい。医師の一人がちょうど休憩に入ろうと医務室を出たところ
で、兵士2名が担架に怪我人を乗せて来たそうなのですが﹂
ロルフとセリアは顔を見合わせ頷きあった。
︵︵思ったとおりだ︶︶
﹁﹁それで!?﹂﹂
ロルフとセリアの声が重なる。
﹁怪我人はかなりの重症の様で直ぐにベットに寝かせたらしい。と
ころが鎮火したので医務室を確認したところ床に3人の死体しかな
い。ベットはもぬけの殻だった⋮⋮﹂
其処でセリアはオルランドの言葉を遮った。
既に必要な情報は得たのだ。後は行動あるのみだ。
﹁オルランド! 直ぐに法術師隊を編成して! ロルフ様は近衛隊
77
を編成してください! 私は陛下に兵の使用を許可していただきま
す! 合流は中庭で﹂
セリアはオルランドの言葉を遮り、指示を飛ばす。
﹁心得た!﹂
﹁ま⋮⋮待ってくれセリア殿。僕にはさっぱり⋮⋮﹂
状況がつかめないオルランドは、セリアの剣幕におびえながら訪
ねる。
﹁善いからオルランド殿、セリア殿の指示に従うのじゃ!﹂
﹁オルランドお願い! 時間が無いの。逃がしちゃう!﹂
セリアの必死の叫びにオルランドの表情が変わった。
普段は頼りなくとも、彼は第3席の宮廷法術師。
戦にも参加した事があるからこういった状況では胆が据わるのだ。
セリアの声から緊急事態だと察した彼は、心のスイッチを平常か
ら戦場へと切り替える。
﹁兵力は?﹂
低く冷たい声だ。
さっきまで動揺していた人間とは思えないほどに。
﹁出せるだけ出して! 相手はかなり危険なやつよ。緊急事態とし
て法術の使用を認めるわ!﹂
78
セリアは宮殿内での使用を禁止されている転移の法術の使用許可
を出した。
転移
テレポート
﹂
光を司りし最高神メネオースよ。汝との契約に従い。
それは第一級の非常事態である証。
﹁判った。
我に転移の加護を
其の事を理解したオルランドは素早く呪文を詠唱する。
彼は瞬時に法術師隊の宿舎へと転移した。
﹁さすが第3席の法術師じゃの∼。あれほどの短い詠唱で転移が出
来るとは﹂
﹁当然です。お爺様の弟子ですもの。あれぐらいは出来て貰わなく
ては話になりませんわ﹂
そしてセリアはロルフに向かって手を向けた。
﹁ロルフ様、時間が惜しいです! 私のほうでロルフ様を近衛隊の
宿舎へ転送します。兵の編成はよろしくお願いします﹂
﹂
光を司りし最高神メネオースよ其の力を示
﹁判った。陛下よりの許可は頼むぞ!﹂
﹁はい! 行きます。
テレポート
せ! この者をかの地へと誘え!転移
ロルフの姿が消えたのを確認し、セリアは再び詠唱を開始した。
光を司りし最高神メネオースよ。汝との契約に従い。我に転移
姿の見えぬ殺人者の影を追う為に。
﹁
79
の加護を
テレポート
転移
﹂
80
第1章第7話︻脱出︼其の3
ハルバード
セリアの胸に斧槍が突きつけられた。
テレポート
﹁何者だ! 宮殿内では転移を使用するとは!﹂
殺気の篭った怒声がセリアの体へ叩きつけられる。
﹁緊急よ! 陛下へ取次ぎなさい!﹂
セリアは衛兵の誰何を無視して皇帝への謁見を求める。
ハルバード
突然転移してきた曲者が次席宮廷法術師であることに気づき、皇
帝の間の扉を守る左右の衛兵は慌てて斧槍を立てた。
﹁セリア様でしたか。失礼いたしました! しかしなにゆえ転移な
ど⋮⋮法はご存じのはずでしょう?﹂
衛兵は訝しげな顔をして尋ねた。
それも当然である。
転移の法術を使えば、皇帝の寝室にすら忍び込める。そう軽々し
く破られるような法では無い。最悪の場合極刑までもあり得るのだ
から。
衛兵が事情を聞きたがったのは当然と言える。だが、セリアは衛
兵の問いを黙殺した。
今はそんな事に構って時間を浪費する訳にはいかないのだ。
﹁黙りなさい! 緊急といったはずです。一秒でも時間が惜しいの
! 取り次がないなら扉をブチ破るわよ!﹂
81
﹁お⋮⋮お待ちくださいセリア様。直ぐに御取次致しますので!﹂
セリアの剣幕に圧倒され、衛兵の一人が急いで皇帝へと取り次ぐ。
10秒も掛かっただろうか。
セリアの前の扉が静かに開かれた。
﹁どういうことだ! セリア・ウォークランド! あまりにも不敬
であろう!﹂
皇帝の前に跪くセリアへ鉄血宰相ドルネストの怒声が響く。
︵チィ、宰相が居るとは⋮⋮︶
セリアは心の中で盛大な舌打ちをした。
急ぐセリアにとって余り喜ばしくない展開だ。
宰相のドルネストは皇帝の忠義篤い忠臣だが融通が利かない。
特に法令を遵守することはまさに鉄のごとしと言われる男なのだ。
だが。セリアの無礼を取りなすものが居た。
玉座に座る皇帝その人だ。
﹁やめよ、ドルネスト。セリアがこれほどまでに火急の謁見を請う
のだ。何か起こったに相違あるまい?﹂
﹁しかし陛下⋮⋮﹂
ドルネストがそれでは示しがつかないと、皇帝へ食い下がった。
﹁くどい!﹂
皇帝の目が細まり鋭い眼光がドルネストを貫く。
82
如何に宰相と言えども、皇帝の言葉には逆らえない。
まして、現皇帝は唯のお飾りでは無い。
西方大陸中央部を力で切り取ったまさに覇王なのだから。
オルトメア帝国初代皇帝ライオネル・アイゼンハイトは、もとも
と西方大陸中央部の山岳地帯に存在した旧オルトメア王国の第3王
子として産まれる。
当時、旧オルトメアは貴族の専横と王家の内乱により疲弊し滅亡
の淵にあった。
そんな国の現状に憂いを感じ、ライオネルは祖国復興を志す。
彼は兄弟達のと継承権戦争に勝ち抜き、門閥貴族を粛清する事で
王家の力を増した。
その過程でライオネル自身、幾度も戦場で剣を振るってきた。
そして、今から40年前に隣国テーネ王国へ侵攻制圧したのを皮
切りに、国名をオルトメア帝国へと改称。
以来、西方大陸中央部の覇権争いに身を晒して来たのである。
血みどろの戦場を知る皇帝は、58歳になる今でも全身の筋肉が
研ぎ澄まされ、並みの武将を圧倒している。
﹁失礼いたしました。陛下﹂
ドルネストは皇帝へ頭を下げる。
﹁よい。ところでセリア。何用だ?﹂
﹁は! 陛下。恐れいりますが兵の使用を許可していただきたいの
です﹂
あまりに突然の話で、皇帝と宰相は絶句した。
83
﹁何を言い出すか! 貴様。次席宮廷法術師の分際で軍事に口を出
すつもりか! ガイエス殿は一体何と言ったのだ!﹂
宰相が怒りを露わにするのも当然だった。
セリアには権限が無いのだから。
だがドルネストの怒声とは反対の言葉が皇帝の口から出る。
﹁良かろう﹂
﹁へ。陛下! 何を仰せです﹂
﹁良いと言ったのだ。ドルネストよ﹂
狼狽するドルネストとは裏腹に、皇帝は至極落ち着いた口調で言
った。
﹁だがセリアよ。理由を聞こうか。なぜ宮廷法術師のお前が兵を欲
しがる? ドルネストも気にしておるが、ガイエスは此の事を知っ
て居るのか?﹂
高弟の言葉を聞き、セリアは沸き立つ悲しみと苛立ちを必死で抑
えた。
﹁お爺様は。いえ。ガイエス・ウォークランドは殺害されました﹂
セリアの言葉は皇帝と宰相に途轍も無い衝撃を与えた。
何しろガイエスはオルトメア帝国最高の法術師であり、ドルネ
ストと並んでオルトメアの内政、外交、軍事すべてを担って来たか
らである。
84
﹁バ。馬鹿な。ガイエス殿が⋮⋮﹂
﹁ありえぬ。ありえぬぞ! セリア!﹂
二人の口から否定の言葉が漏れる。
﹁いいえ陛下。宰相様。事実でございます⋮⋮ガイエス・ウォーク
ランドは異世界人に殺害されました﹂
﹁な⋮⋮何じゃと?﹂
﹁馬鹿な、セリア殿⋮⋮何を言われる﹂
皇帝と宰相から否定の言葉が漏れる。
セリアは苛立ちを必死で押さえ状況の説明をした。
ここで適当な説明をすればするほど時間が掛かるからだ。
﹁事実です⋮⋮陛下。私がこの眼で確認いたしました﹂
静寂が皇帝の間を支配した。
10数秒の沈黙を破ったのは皇帝だった。
﹁なぜだ?﹂
低く重い声。
皇帝は激情を必死で抑えて居た。
玉座の肘つきを握る手に力が入る。
﹁確たることは判りません。証拠も証人も居ないのです。ですが、
85
状況から犯人と思しき者は判っております﹂
﹁何者だ?﹂
﹁ガイエス様は本日召喚の儀を執り行われていました。殺害現場が
召喚の間である事、護衛の衛兵が全て殺害されている事を考えると、
犯人は召喚された異世界人ではないかと﹂
﹁ま⋮⋮まさか。信じられん⋮⋮﹂
ずっと口を閉ざしていたドルネストから思わず言葉が漏れた。
﹁また其の者が、城の兵士に成りすまして居る事も判っております。
現在、近衛騎士団長のロルフ様、宮廷法術師第3席のオルランドに
兵の編成を託しています。陛下の許可をいただき次第追跡に出たい
のです﹂
そこまでセリアの話を聞いた皇帝の反応は早かった。
﹁許可する! 命令書の発行に時間が掛かるゆえ、我が帯剣を我が
命の証とせよ!﹂
そういうと皇帝は腰の剣を外すとセリアへ投げ与えた。
﹁セリアよ。ガイエスは我が腹心にして、40年来の友であり師よ。
我が国の柱でもあった﹂
﹁はい﹂
﹁そのガイエスが殺害された。これは我がオルトメア帝国に対して
86
の反逆である! 必ずや犯人を見つけ出し拘束せよ! 無理なら殺
してもかまわぬ!﹂
セリアは頭を深く垂れ敬意と謝意を表すと、転移し姿を消した。
皇帝は深くため息をつくと、玉座の後ろに掛けられたカーテンへ
言葉を掛けた。
﹁シャルディナ。話は聞いておったな?﹂
﹁はい。陛下﹂
カーテンの影より現れたのは20台前半、金髪の女だ。
背は高いが均整の取れたプロポーションを持ち、何より其の青い
目が印象的な女だった。
どこと無く皇帝に似ている。
﹁ただいま影達からの情報を確認いたしました。ガイエス殿の死亡
は間違いないようです。また同時刻に医務室より出火があり、その
際に兵士の一人が行方不明となっています。セリア殿はこの消えた
兵士が異世界人だと思っているようですね﹂
﹁そうか⋮⋮シャルディナよ。どう思う?﹂
﹁犯人に関しての推測は正しいと存じます。少なくとも近隣諸国に
よる暗殺はありえません。ただ⋮⋮﹂
皇帝は射抜くような視線をシャルディナに向けた。
﹁タダ? なんだ﹂
87
﹁恐れながら、犯人捕縛の可能性は限りなく低いと言わざるえない
かと﹂
﹁なんと! シャルディナ様はセリア殿では無理とおっしゃられる
のか!?﹂
ドルネストが驚きの声を上げる。
﹁ドルネスト殿。セリア殿の所為では有りません。おそらく誰がや
っても同じでしょう﹂
﹁何故です!?﹂
﹁召喚された異世界人の顔も形も性別も何もかもが判らないのにど
うやって探すのです?﹂
﹁なんだと?﹂
皇帝が驚きの声を上げる。
セリアが犯人の顔を把握していない状況を考えていなかったのだ。
﹁どういうことだ?﹂
﹁ガイエス殿以下召喚の間に居た兵士は全て殺されています。負傷
を装い医務室へ行った際には兜で顔を確認していないそうです。医
務室へ運んだ兵士と医者は殺害されています。結果として誰も顔が
判らないのです﹂
﹁なんということだ⋮⋮ではセリアはどうやって犯人を見つけるの
88
だ?﹂
﹁賭けです。陛下。異世界人が兵士の格好をしていれば良し。また
城下で着替えたにしろ、慌しく城門を抜ければ兵士達に見咎められ
ます。もし無理でも、何かしらの情報は得られる可能性はございま
す﹂
﹁なるほど。なら可能性はあるのだな?﹂
﹁はい。しかし⋮⋮﹂
皇帝は苛立ちを隠せなかった。
﹁良い! そこまで判っておるのならシャルディナ! そなたも影
を率いて探索に向かえ!﹂
﹁へ、陛下? 宜しいのですか? シャルディナ皇女様を身辺から
御放しになって﹂
ドルネストの声に緊張が走る。
皇帝の身を守る最後の砦で有るシャルディナを、その身辺から離
すことなど過去一度として無かったからだ。
サキュバスナイツ
﹁くどい! オルトメア帝国第一皇女にして夢魔騎士団団長シャル
ディナ・アイゼンハイトよ! セリアと連携し犯人探索に従事せよ
!﹂
﹁かしこまりました。陛下。微力ながら全力を尽くします﹂
シャルディナは頭を垂れると皇帝の間から立ち去った。
89
オルトメア帝国が完全に亮真を敵とみなした瞬間だった。
ついに皇帝の間には皇帝と宰相のみになった。
﹁ドルネストよ。大事になったな﹂
﹁はい。陛下。近隣諸国にこの事が漏れる前に何とかせねばなりま
すまい﹂
﹁うむ。ようやく中央部を制圧し、いよいよ東部攻略という矢先に
これか﹂
﹁はい。無念でございます﹂
皇帝は頭を振った。
﹁いたし方あるまい。ドルネストよ。急ぎ主席宮廷法術師を任命す
るぞ。大臣達を収集せい﹂
﹁かしこまりました。やはりセリア殿を?﹂
ドルネストの声に不安が混じる。
﹁若いがいたし方あるまい﹂
﹁かしこまりました﹂
ドルネストが退出し皇帝は一人玉座に深々と腰を落とした。
﹁ガイエスの馬鹿め。ようやく我が覇業が見えかけてきたというの
90
に⋮⋮﹂
真紅の絨毯に水滴が落ちる。
其れは長い戦乱を共に生き抜いてきた友に対する、皇帝の精一杯
の情であった。
91
第1章第8話︻脱出︼其の4
時間は少し遡る。
召喚の間から連れ出された怪我人とは亮真の事だ。
彼は賭けに勝ったのだ。
当然ながら、ある程度の勝算は持っていた。
床一面に飛び散る血で彩られた部屋と、5つの死体。
せいさん
扉を破って入ってきた人間達に、冷静な判断など下せないであろ
うという亮真の判断は正しかった。
事実、突入してきた兵士達は血塗られた部屋の凄惨さに動揺した
のだ。
亮真の最大の懸念は、兜を脱がせて顔を見られる事だった。
もし顔を見らたら、兵士達に不振を抱かれたに違いない。
何しろ彼の顔を見知った人間など誰も居ないのだから。
また、その場は逃げられたとしても、顔を知られれば逃亡するに
は著しく不利だ。
だが、突入してきた二人の男女がお互いの名前を呼んでくれたの
は天の助けと言えた。
ロルフは自分の名前を呼んだと言うその事実によって警戒心を薄
め、亮真を医務室に連れて行くように指示したのだから。
ロルフは自分の名前を呼んだ段階で目の前の怪我人を味方と判断
したのだ。それが亮真の知略だとは夢にも思わずに⋮⋮
﹁ぐ⋮⋮ごほ⋮⋮ごほ﹂
92
亮真は担架の上で咳き込んで見せた。
﹁おい! しっかりしろ! 直ぐに医者に見せてやるぞ!﹂
﹁ああ! もう少しの辛抱だ! 良いか! 意識を保つんだ! 気
を失ったりするなよ? 死ぬぞ!﹂
担架を運ぶ兵士達は、口々に亮真を励ます。
彼らは純粋に、担架に横たわる兵士を仲間だと思い込んでいた。
亮真も必死で苦痛を訴える。
彼は別に役者を志した事など無かったが、人間必死になると大抵
の事は出来るらしい。
まさに、ハリウッド男優並みの演技力を発揮して、怪我人の振り
をする。
﹁よし! ついたぞ!﹂
そう叫ぶと兵士の一人が木の扉を叩いた。
﹁先生! 急患だ開けてくれ!﹂
数秒後、扉が内側へと勢い良く開かれる。
一人の若い男が医務室の扉のノブを掴んだまま大声で叫んだ。
﹁親父さん。急患だってよ!﹂
﹁聞こえてるわ! はよ中へ運べや!﹂
だが男は怪我人の治療を手伝う気が無いのか、そのまま医務室か
93
ら出て行った。
﹁ほんじゃあ親父さん! 俺は休憩行ってくるぜ? 昼飯も食えな
かったからな﹂
扉を出て行く若い医者の背に怒声が飛ぶ。
﹁おい! お前。怪我人をベットに寝かせるのぐらい手伝っていけ
や!﹂
だが若い男は聞こえない振りをして足早に去って行った。
﹁まったくしょうがね∼な! あの野郎!﹂
そう溜息を吐くと親父と呼ばれた中年の医者は、薬品や包帯の準
備を終え兵士達の方を向く。
長年、医者として経験を積んで来たのだろう。話しながらも、手
早く治療の準備を終えていたのだ。
﹁それで? 患者の容態は?﹂
﹁は! かなり危険な状態と思われます。﹂
﹁お∼お∼。血まみれだな? 何があったんだ?﹂
そう言いながら医者は亮真へと近づく。無警戒で⋮⋮
其の瞬間!
ザシュ
94
医者の首から勢い良く赤い液体が迸った。
演技を止めた亮真の剣が、医者に首に襲い掛かったのだ。
再び血が亮真の鎧を赤く染め上げた。
亮真は一気にベットから跳ね起きると、呆然と立ち尽くす近くの
兵士へと襲い掛かる。
今まで怪我人だと思っていた兵士達は、亮真の攻撃を避けること
が出来なかった。
何が起こったのかまるで理解していない兵士の喉を剣が切り裂い
た。
流石に、もう一人は呆然と立ち尽くしては居なかった。彼は外へ
逃げようと医務室の扉へ向かって走る。
下手に単独では戦わず仲間を連れてくる事を選択したらしい。
亮真は咄嗟に腰の鞘を外し、兵士の足へと投げつける。
別に、兵士を攻撃するためではない。足に絡んで一瞬でも彼の逃
亡を邪魔出来ればそれで良かったのだ。
ドシャ
運良く鞘は兵士の膝裏に当たり、彼はバランスを崩すと前かがみ
に床へと倒れ込む。
亮真は直ぐに駆け寄ると、鎧と兜の間に手を突っ込んだ。そして
兵士の喉を後ろから腕で締め上げる。
兵士はのしかかってくる亮真を必死で撥ね付けようとした。だが、
亮真の太い右腕が、万力の如く喉を締め上げると途端に動きが止ま
る。
抵抗が無意味な事を理解したのだ。
﹁ぎ⋮⋮ぎざま⋮⋮﹂
﹁悪いねぇ。ちとお聞きしたい事があるんだよねぇ﹂
95
兵士に選択の余地など無い。
﹁ば⋮⋮ばんだ⋮⋮﹂
喉を締め上げられているせいで、兵士の言葉はかなり不明瞭だっ
た。だが、意味が取れないほどでもない。
亮真はなるべく穏やかに兵士へと問いかける。
声を荒らげるより、穏やかに話す方が相手を威圧する事を亮真は
理解していた。
﹁いやね。此の城から出たいんだけど、どうやって出たら良いのか
な?﹂
極自然な口調。街中で道を訪ねるのと全く変わらない。
だが、それ故に兵士は恐怖を感じる。
彼は精一杯の抵抗を試みた。
﹁ぎざま⋮⋮ごごがらにげばれるとでぼ⋮⋮﹂
そういうと兵士は自分の喉を掴んでいる手を必死で叩く。
﹁あぁ、悪い悪い。下手に大声出されると不味いんで悪いがこのま
ま喋ってくれや﹂
亮真は兵士の言葉を理解したが、逆に腕の力を強めた。
力が緩んだ瞬間に助けを呼ぼうとした兵士の狙いは一瞬で崩され
る。亮真に油断など無かった。
﹁ところであまり時間が無いんでね。早いところ教えてくれないか
96
な?﹂
そう耳元で囁くと亮真は更に右腕へ力を込めた。
兵士の顔が真っ赤に染まる。
﹁ぐぐ⋮⋮ぐ﹂
﹁言う気あるか?﹂
亮真の問いに兵士は必死で首を縦に振る。このまま締め上げられ
れば、彼は間違いなく窒息死していた。
死への恐怖が兵士の心をへし折る。
﹁ごのままみぎのづうろをすすみ、ながにわをどおればじろのもん
にでる⋮⋮﹂
﹁出て右の通路を進み、中庭を通るんだな?﹂
兵士が頷くのを確認すると、亮真は腕に力を入れて喉をさらに締
め付けた。
頚椎をへし折るくらいに⋮⋮
﹁ぐ⋮⋮ぐぐ﹂
バキッ
何かが砕ける鈍い音が、亮真の腕の中から響いた。
必死で亮真の体を押しのけようと、最後の抵抗をしていた兵士の
体から力が抜けていく。
97
﹁悪いな﹂
亮真は締め上げていた腕を喉から外すと、眼下に横たわる兵士の
死体を見つめて呟く。
それは、亮真の身を仲間だと信じ、必死で心配してくれた敵兵に
向けて送れる唯一の言葉だった。
亮真は再び逃げるための準備に取り掛かる。
殺した3人の懐をあさり、金貨の入った袋を取り出すと鎧の腰に
つけた。さらに、沸いていた湯に包帯を浸すと、亮真の兜と鎧に飛
び散った血を拭い去る。
血がこびり付いたままでは、あまりに人目を引きすぎからだ。
血を全て拭い去ると、亮真はベットにカーテン、薬品棚に保管さ
れていた布と、医務室の中にある有りとあらゆる物に火を付けた。
燃焼しやすいものを選んで火をつけた所為で、火は瞬く間に医務
室全体へと燃え広がる。
亮真は黒煙が立ち込めだした医務室を出ると、大きく息を吸い込
んだ。
﹁火事だ∼∼∼火事だぞ∼∼∼!﹂
亮真の声が王宮内に響き渡たる。
オルランドは中庭からちょうど医務室の方へと歩いてきたところ
で其の叫びを聞いた。
﹁何!? 火事だと?!﹂
オルランドの顔から血の気が引いた。
98
王宮内で火事が起こるなど、一大事もいいところだ。
王族が暮らし、行政の中心でもある王宮が燃えれば、オルトメア
帝国そのものに大きな傷を受けてしまう。
彼が顔色を変え他のも当然だった。
﹁火事だぁ! 医務室から火が出たぞ∼∼∼!﹂
﹁火事? 火事は何処だ?﹂
﹁医務室から火が出たぞ! 直ぐに水を持って来い!﹂
﹁いや! 宮廷法術師を呼べ! 法術を使って一気に消火させるん
だ!﹂
﹁馬鹿な! 先ずは陛下と王族方を避難させなければ!﹂
兵、メイド、執事、多くの人間が必死で消火作業に携わる声が響
く。
誰もが、声を張り上げ右往左往している。
るつぼ
貴重品を運ぼうとするもの。指示を仰ぐために上司を探すもの。
消火しようとバケツを手に走る者。まさに混乱の坩堝と言ってよい。
そして、それとは対照的に貴族達は自らの兵を伴い、医務室の方
から中庭へと必死な形相で逃げ出して来ていた。
オルランドは中庭の花壇に足を踏み入れ、一気に医務室へと駆け
出す。
丹精に手を入れられた花々を踏み潰すのは罪悪感を覚えるが、今
はそんな瑣末な事を気にしている時ではなかった。
自分が向かえば、直ぐにでも火を消し止める事が出来るからだ。
だがそれゆえに、貴族の兵にまぎれていた亮真に彼は気がつかな
99
かった。近衛兵の鎧を着た亮真が貴族達に混じって、外へ出ようと
していた事に。
︵このまま、こいつらに紛れて進めば抜け出せそうだな⋮⋮︶
亮真にしてみればうれしい誤算だ。自然と笑みが浮かんでしまう。
火をつけ、混乱のドサクサに城門を突破する事を考えていたのだ
が、貴族達が我先に城門へと殺到したのは予想外だった。
亮真の目に、城門から外へ逃げ出す貴族達の姿が映る。
﹁ふ∼。とりあえず何とかなったか⋮⋮﹂
貴族達の流れに紛れ込む事で、亮真は兵士達に見咎められず、城
を抜け出す事に成功した。
亮真は、たった今抜け出す事に成功した白亜の城を睨み付ける。
其の威容に歯向かうかの様に⋮⋮
100
第1章第9話︻逃亡︼其の1
貴族達の流れに混じる事で、亮真は城門を通り抜けることに成功
した。今、彼の前に中世ヨーロッパ風の町並みが広がる。
﹁おお!﹂
おもわず感嘆の声が漏れるほど、其の町並みは整然と整理されて
いた。
城門から左右に数百メートル程まで立派な門構えの家々が立ち並
ぶ。城から逃げ出した貴族達が其の中へ消えていくところを見ると、
この地区に立ち並ぶのは貴族の屋敷なのだろう。
城門から大通りをまっすぐ五百メートルほど行くと城門が見えた。
どうやらその向こう側が平民区域のようだ。
屋根の大きさが格段に小さくなっているのが見て取れる。
亮真はまず平民区域に紛れ込む事にした。身を隠すには人ごみの
中が一番だからだ。
近衛兵の鎧を着ている所為か、時折どこかの貴族やメイド、鎧姿
の兵士とすれ違ったが、誰も亮真を見咎める者は居なかった。
十分ほど歩くと城門までたどり着いた。
城門は開け放たれており、跳ね橋も降ろしてあった。どうやら、
たたず
えしゃく
有事の場合にのみ、門を閉じるようだ。
亮真は城門の左右に佇む守衛に軽く会釈をして通り抜ける。
城門を出た途端、貴族地区には無かった活気と熱気が亮真の肌を
101
叩く。
いしだたみ
其処には多くの人々が行き交い、様々な露天や店が立ち並ぶ。
道は先ほど居た貴族地区のように石畳ではなく、道は土がむき出
しのままで、建物も乱雑に立ち並んでいる。
人々の服装はぱっと見た限り、ローブやマントを羽織った人々。
鎧を着ている者。シャツとズボンだけの者。エプロンをつけたおば
さん。と服装も性別も様々だ。
﹁意外と人が多い⋮⋮それに⋮⋮武装している奴が混じってるな⋮
⋮﹂
そう呟くと、亮真の眼が一点を見つめる。人ごみの中に武装した
人間が混ざっている事に気がついたのだ。
彼らは明らかに国の兵士には見えない。中にはどう見ても犯罪者
だろ! と言いたくなるほど凶悪な面構えをした者も居る。
髪の毛の色や肌の色も黒、白、黄色と様々だ。髪の毛が青や緑な
んて人間まで居た。
髪の色や肌の色で周りから浮いてしまう事も考えられただけに、
亮真はホッと胸を撫で下ろす。
これだけ外見に統一性がなければ、亮真の髪や眼の色が問題にな
る事は、まずないと思われたのだ。
﹁さてと。とりあえず服だな⋮⋮﹂
亮真がそう呟いた後に、彼の腹が空腹だと抗議の声を上げた。
なにしろ、昼飯を食べに屋上へ向かう途中でこの世界へ召喚され
た為、彼はまだ昼飯を食べていない。
だが幾ら空腹であろうと、先に服を調達しなければならない。近
衛兵の鎧兜のままでは、目立ちすぎる。
不満の声を上げる腹をさすりながら、亮真は辺り看板へ眼を走ら
102
る。
大通りを歩きながら、周囲を見回す亮真の目にドレスの絵が描か
れた看板が飛び込んできた。
メグ・レスターは其の日、不思議な客の応対をした。
午後1時を少し過ぎた頃だっただろう。彼女が勤める洋服店に其
の客は入ってきた。
﹁いらっしゃいませ!﹂
いつもどおりの接客をしようと、評判の元気のよい声で出迎えた
メグの前に、近衛兵の鎧兜を着けた男が立っていた。
もちろん、鎧兜を着たまま買い物に来るお客は普通に居る。
だが、近衛兵の鎧を着たままで来る客は初めてだ。
冒険者や傭兵と違い、国の兵士が買い物をする際にはたいてい私
服に着替えてくるからだ。
︵買い物以外の用事で来たのかしら?︶
メグが思ったのも当然である。だが、陳列された洋服を眺めてい
るのを見る限りでは、お客の様にしか見えない。
﹁何をお探しですか? よろしければ商品のご説明をいたしますが
?﹂
男を不振に思いながらも、メグは勇気を出して声を掛ける。する
と、ごく普通に返事が返ってきた。
﹁普段着として使える物を上下一式、下着とフード付きのマント、
あと革のベルトが欲しいんだけど﹂
103
︵ずいぶん丁寧なしゃべり方をする人ね? この人近衛兵の鎧を着
てるけど?︶
男の口調にメグは違和感を感じた。
普段、この店に来る客の殆どは威張り腐った横柄な奴ばかりだ。
特に、貴族や兵士は其の傾向が強い。
だが、亮真にしてみればごく普通に受け答えをしたに過ぎない。
流石に、平民に対する兵士達の態度までは予測できる筈もなかった。
﹁色にお好みはございますか?﹂
﹁黒でお願いします﹂
﹁かしこまりました。ご用意いたします。少々お待ちくださいませ﹂
別段、普通の客と違うところも無い。
普通に欲しい商品を告げ、好みの色を言う。
変に礼儀正しいところが、少し変わっていると言えば変わってい
たが、メグは気にしすぎた自分が可笑しかった。
︵洗濯でもして鎧以外に着る服が無かったのかも? あ! いけな
いサイズを聞くの忘れちゃった⋮⋮まぁ良いか。大きめのサイズを
幾つか揃えて持っていけば︶
そんな事を思いながら、要望の品を三つのサイズ毎に揃えて戻る。
﹁お待たせいたしました。こちらでいかがでしょうか?﹂
﹁それで良いです。包んでください﹂
︵あれ? この人サイズを言わないけど?︶
着る物を購入するときに試着をしないで買う奴はそうは居ない。
ましてやサイズの確認もしていないのだから、メグが首を傾げるの
104
も当然だった。
﹁あのぉ⋮⋮サイズはどうされますか? ﹂
メグは幾分控えめに尋ねた。
﹁あぁ、サイズ⋮⋮ね⋮⋮一番大きいサイズのでお願いします﹂
如何にもさっさと買ってしまいたいと言う投げやりな態度だ。か
なり怪しい態度である。だが、客が買うというのだからと、メグは
不審を振り払った。
﹁かしこまりました。合計で千バーツになります。ただいまお包み
ますので少々おまちください﹂
そう言って頭を下げ、メグがカウンターへ向かおうと後ろを向い
た時、男が声を掛ける。
﹁あぁ、ちょっとまって。急いでるんで金を預けるから、一緒に会
計してきてくれないかな?﹂
そう言うと、購入する服の上に貨幣の入った袋を置く。
﹁足りなかったら言ってくれる?﹂
︵どっかの貴族のお坊ちゃんなのかしら? でも近衛兵の鎧を着て
おうよう
いるし???︶
大抵こんな鷹揚な買い方をするのは貴族と決まっている。
︵どう見ても貴族とは思えないのよねぇ? でも、まぁいいっか!
お金は払ってくれるみたいだし!︶ メグは考える事を止めた。
105
金払いの良い客は例え怪しくても良い客だ。そんな思いが彼女の
心に浮かぶ。
﹁かしこまりました。少々おまちください﹂
再び頭を下げ、メグはカウンターの方へ向かった。
﹁ふ∼﹂
はばか
洋服店を出ると亮真は、人目も憚らず大きく息を吐き出す。彼に
は、買い物でこれほど緊張した覚えが無かった。
メグに﹁お会計千バーツです!﹂と言われて、貨幣を何枚出せば
判らず、とっさに袋ごと渡して切り抜けた時には心臓が破裂しそう
だった。だが、とりあえず目的の物は揃えられた。
﹁後は時間との勝負か﹂
そう呟くと、亮真は再び大通りを城外へ向かって歩き出した。
﹁おばちゃ∼∼ん。本日のお勧めっての一つ!﹂
大通りの裏側、薄暗い路地に其の店はあった。
店の名前は海鳴り亭。一見さんお断りのような、いかにも地元に
密着した感じの店だ。
だが、汚い外見とは裏腹に中は綺麗に掃除されており、客層も男
あり女あり子供ありとかなりアットホームな店のようだ。
時間は、午後三時を少し過ぎた辺りだろう。
亮真はようやく昼飯にありつく事が出来た。
106
彼はさっきメグの店で買った黒のシャツとズボンに着替えている。
︵なんとか間に合ったか⋮⋮︶
亮真は城外から戻ってきた時に城門のところですれ違った軍隊と、
其れを率いていた人間達のことを思い出した。
亮真は一度鎧を着た状態で城外へ出た。自分が城の外に逃げ出し
たと思わせるためだ。
本来なら、わざわざ戻ってくる事無く、どこか遠くへ逃げるのが
正解だろう。だが、地理も判らず装備も無い状況で、一体どうする
と言うのだ。
最低限の情報を取得した上で、どこに向かえば良いのか、其処は
どれくらいの距離でどの様に向かえば良いのかぐらいは確認しなけ
れば、其れこそ死にに行くようなものだ。
それに、亮真は馬に乗れない。現代人の殆どが乗馬の経験を持た
ないように、亮真も馬に乗った経験など無い。
街中で馬車を見かけたから、当然、追手には騎兵が含まれてくる
だろう。
徒歩と騎馬。いずれ追いつかれるのは目に見えていた。
だから、亮真は一度鎧のまま城外に出たのである。
帝国の連中は亮真の顔を知らない。
唯一の手がかりは近衛兵の鎧兜だけだ。だからこそ、城外に近衛
兵の格好をした者が出て行ったと知れば其れを追うはずだ。
懸念は追手の準備が早く終わり、亮真が城を出る前に捕まる事だ
ったのだが、天は亮真に味方したようだ。
城外の人目に付かない木陰で鎧兜を脱ぎ捨て、買ったシャツに着
替える。鎧兜は土の中に埋め、城内に戻ろうとしたところで追っ手
とすれ違ったと言う訳だ。
﹁はいよ! お待たせ!﹂
107
威勢の良い声と共に、テーブルの上に牛肉のから揚げに甘酢を掛
けた物、白身魚のフライ、サラダ、パンと結構なボリュームのラン
チセットが並べられた。
早速、パンと千切り、から揚げを頬張りながら、再び亮真は先ほ
どすれ違った追手を思い出す。
︵かなりの切れ者がいるな。まさか追跡メンバーを騎馬だけで構成
してくるとは思わなかったぜ⋮⋮︶
亮真が城門をくぐり食事をするための店を探そうとした時、彼ら
は城の方からやってきた。
先頭には四人の男女が居た。その中の二人は既に見知った顔だ。
︵ロルフとセリアだったな⋮⋮︶
歴戦の武人としての風格が漂うロルフ。
冷徹な知性を感じさせる法術師セリア。
そして、気の弱そうな名前のわからない青年。
だが、此の三人は侮れないが怖いという程でもない。
︵問題はあいつだ⋮⋮︶
金髪碧眼の女。
亮真の見立てでは、女でありながらロルフとほぼ互角の武力を持
っている。
自分も武術を修行してきた為、他人の力量を見抜く眼は培ってい
た。
︵しかも、あの目⋮⋮あれは単純に武人ってだけじゃない⋮⋮あれ
は⋮⋮︶
あの冷静さと知性にあふれた目。セリアと似た空気を纏っている
が、彼女には一つ決定的に違うところがある。
経験に裏打ちされた自信。
セリアが未熟な軍師なら、彼女は間違いなく円熟した将軍だ。
幾多の修羅場を潜り抜けてきた目。それもロルフのように直接戦
108
場で戦ってきた経験だけではなく、もっと深い戦略レベルの修羅場
を。
白身魚のフライを頬張りながら亮真は今後について考える。
︵ここから逃げるのがかなり難しくなってきたな⋮⋮︶
これが亮真とシャルディナ。後に西方大陸の覇権をかけて戦う二
人の最初の接点だった。
109
第1章第10話︻逃亡︼其の2
﹁はいよ!﹂
海鳴り亭の女将が亮真のテーブルに大ジョッキを2つ置いた。
並々と注がれた泡立つ琥珀色の液体が、テーブルの上に黒い染み
が広がる。
﹁⋮⋮頼んでないけど?﹂
亮真はジョッキと女将を交互に見た。
﹁店の奢りだよ! 飲んでおくれ!﹂
そう言うと女将はテーブルの椅子に腰掛ける。
﹁あんた見かけない顔だけど、旅の人かい?﹂
人懐っこい丸顔で亮真へ気さくに話しかけてきた。
﹁暇なんですか?﹂
亮真はどっかりと腰を落ち着けた女将に聞いた。
﹁まわり見てみな? 客はあんただけさ﹂
女将の言葉に従って回りを見れば、いつの間にか客は亮真だけだ
った。
110
亮真が店に入った時には、まだ数人の客が居たのだが、どうやら
帰ったらしい。
﹁時間も時間さ。ちなみにうちは3時でランチを終えるんだけどね。
あんたが2時58分に来たから店を閉められないのさ﹂
あお
そう言うと女将は、自分の前においたジョッキを勢い良く呷る。
﹁厨房の連中は先に休憩に入らせたけど、後片付けが残ってるから
ね。とはいえ、あんたが食べ終わるまであたしも一人で突っ立って
てもしょうがないからね。ま∼おばちゃんの話相手をしておくれ。
こいつは其の手間賃だ﹂
そう言って、女将はジョッキを亮真の前に押し出した。
﹁そうですか。すみません。お手間を取らせて﹂
﹁気にしない気にしない。それで?あんた旅の人かい?﹂
女将の口調は気さくで人当たりが良い。話好きなのが見て取れる。
︵せっかくだ。いろいろ教えてもらうとするか︶
亮真は考えてあった身の上話をする事にした。彼に必要なのは情
報だったから。
﹁ええ。そうなんですよ。ここは初めてで⋮⋮﹂
﹁へ∼帝都オルトメアは初めてなのかい。一人かい?﹂
﹁いえ。父と一緒だったんですが⋮⋮先日、父が病で亡くなりまし
て⋮⋮﹂
111
そう言うと亮真は顔を伏せた。
女将は不味い事を聞いたと思ったのだろう。慌てて言った。
﹁あ∼。そりゃ悪い事聞いたね⋮⋮﹂
亮真は伏せていた顔を上げて微笑んだ。
﹁いえ。病気じゃ仕方が無いですよ﹂
﹁そうかい⋮⋮病気だったのかい⋮⋮ならあんた、今後どうするん
だい?故郷に帰るのかい?﹂
﹁帝都で暮らそうかと思っています。ずっと父と一緒に旅から旅の
暮らしをしてきましたから、この辺で腰を落ち着けたいと思ってい
るんです﹂
︵さ∼ここからが本題だ。不審に思われないよう注意しながら話さ
ないとな︶
亮真は自らの求める情報を聞き出す切っ掛けをジッと待った。こ
こであせれば、女将に不審がられると理解していたから。
いか
女将はすっかり亮真の話を信じた。もともと人が良く、他人を疑
わない上に、亮真の話は如何にもありえそうな話だったからだ。
﹁そうかい。それであんた今後は何して暮らして行く気だい?﹂
︵きた!︶
亮真は待ちに待った話題が来た事に喜んだ。
何しろ、生活していくには働かなくてはならない。だが異世界人
112
の亮真にとって、この世界で就ける職業が判らなかったのだ。
しかも一般常識に近い情報な為、下手な聞き方をすれば不審がら
れる。
相手に顔を晒しているので、下手をすると帝国に亮真の顔がバレ
る恐れがあったのだ。
﹁それが⋮⋮正直に言って、今まで父の仕事を手伝った事がある程
度で特に何が出来るって訳でも⋮⋮せいぜい剣を人並みに使えるっ
て程度で⋮⋮﹂
﹁そうかい。ま∼あんたの歳じゃ∼職人や商人になるのは難しいだ
ろうね∼﹂
亮真の顔を見ながら女将が一人頷く。
﹁商人も駄目ですか?﹂
﹁駄目じゃないけど厳しいと思うよ?どっちも子供の頃から仕込む
必要がある仕事だからね∼﹂
﹁そうですか⋮⋮まいったなぁ﹂
亮真は残念がる振りをする。
﹁あんた。剣が使えるって言ったよね? なら無難に傭兵か冒険者
かね∼∼﹂
﹁やっぱりそうですか⋮⋮ただ、あれってどうやれば成れるんです
かね?﹂
113
﹁なんだい? 知らないのかい??﹂
﹁ええ。あんまり詳しくは⋮⋮もしご存知だったら教えていただけ
ますか?﹂
亮真の丁寧な口調は相手の警戒心をほぐし、助けてやろう教えて
やろうという気持ちにさせる。
もっとも礼儀さえ守れば、誰が聞いても女将は丁寧に教えてくれ
ただろうけど。
﹁詳しいって程でもないけどね。うちには冒険者や傭兵も酒を飲み
に来るんでそれなりにはわかるよ?﹂
﹁是非お願いします﹂
そう言うと亮真は頭を下げた。
﹁と!言っても大した事じゃ無いのさ。ギルドに行って固体情報を
登録すれば終わりだよ﹂
﹁あれ? 身元調査とか何とかが必要だって聴いた気がしたんです
けど⋮⋮?﹂
亮真が気になっていたのは此処だ。
異世界人である亮真にはこの世界の戸籍も身元保証人もいない。
もしこの辺が必要なら正直打つ手は無い。
強盗街道一直線だ。
だが、女将さんの返事はあっさりした物だった。
﹁冒険者になるのに身元保証人は必要ないよ。必要になるのは職人
114
や商人、あとは軍人になる時か
ねぇ。身一つでギルドに行けば向こうで登録手続きをしてくれるは
ずだよ﹂
亮真に満面の笑みが浮かぶ。
とりあえずは就職出来そうだ。
﹁本当ですか! いや∼女将さんに聞いて良かったな。俺が前に聞
いた時には身元保証が必要だとかって聞いた覚えがあって! 勘違
いだったんですね﹂
亮真はそういって大ジョッキのエール酒を勢い良く呷った。
﹁きっと商人か何かに成る時の話と勘違いしたんだねぇ。ちなみに
ギルドは店を出て左の路地を大通りに向かって行けば直ぐに見つか
るよ﹂
﹁ありがとうございます! 女将さん。これから早速行ってみます﹂
﹁そうかい? なら報告がてら晩御飯を食べにおいで﹂
﹁はい! それじゃ∼お会計を﹂
﹁あいよ! Aランチ1人前25バーツだよ﹂
そこで亮真は固まってしまった。別に金がない訳じゃない。問題
なのは別のこと⋮⋮
︵しまった。貨幣価値が判らん⋮⋮︶
さっき服を買った時には、袋ごと預けるという機転でなんとか切
り抜けたが、話の流れ上、此処で其の技は使えない。
115
仕方が無いので、亮真は一番価値が高いと思われる金貨を1枚取
り出してテーブルに置いた。
﹁ちょ⋮⋮ちょいとあんた。こんな店で1万バーツなんて出されて
もおつりが無いよ⋮⋮﹂
テーブルに置かれた金貨を見て、女将が呆れ顔に言った。
﹁100バーツ銀貨でならおつりが出せるけど無いかい?﹂
︵やった。貨幣価値がわかったぞ︶
金貨1枚=1万バーツ
銀貨1枚=100バーツ
︵てことは銅貨1枚=1バーツか?︶
﹁あっと⋮⋮ごめんなさい。ちょっと待ってくださいね﹂
慌てる振りをして、別の袋を懐から取り出した。
﹁こっちにあったかなぁ⋮⋮お! ありそうだ。銅貨25枚ですよ
ね?﹂
﹁そうだよ。25バーツだよ﹂
﹁あ! あったあった⋮⋮すみません。細かい貨幣はこっちに分け
てたんでした﹂
そう言いつくろいながら、テーブルの上に銅貨25枚を置く。
﹁はい丁度だね! 毎度あり﹂
116
前掛けのポケットに銅貨を突っ込むと、女将さんは亮真に聞いた。
﹁あんた、カードは持っていないのかい? うちでも使えるから次
回はカードを使いなよ﹂
︵カード? クレジットカードのことか?︶
知らないとは言えず、亮真は女将の話に合わせた。
﹁いや∼実はなくしちゃって困ってるんですよね⋮⋮現金でいくら
か持ってるんで当座は困らないんですけど⋮⋮﹂
﹁おや。そうなのかい。ま∼登録者にしか使用できないから預金は
安心だけど不便だねぇ。再発行してもらったらどうだい? ギルド
の並びに銀行があるよ?﹂
︵やっぱり銀行か。つうか銀行があるのか? この世界に⋮⋮︶
亮真はせっかくなので女将に聞いてみた。
﹁再発行って身元証明要らないんでしたっけ?﹂
﹁要らないよ。作る時と同じで銀行で申請して、個体情報の照会さ
えすれば直ぐにくれるよ﹂
﹁わぁ。そうだったんですか! 其れはしらなかったな∼。ありが
とうございます!﹂
そう言って亮真は女将さんへ頭を下げた。
﹁気にしない気にしない! また食べにおいで﹂
117
女将に見送られ、亮真は店を出ると大通りへ向かって歩き出した。
︵まずは銀行だ!︶
海鳴り亭の女将さんに聞いたとおり路地を曲がり大通りに出ると、
左手に貨幣の積み重なった看板と、甲冑を着た兵士の絵が描かれた
看板が目に入った。
︵判りやすい看板だな⋮⋮絵とは︶
そう思いながら、亮真は銀行の中へは入っていった。
7つも貨幣の詰まった袋を持ち歩くのは、正直なところ結構重い。
特に追手が居る状況では、少しでも身軽になりたい。
そんな訳で、亮真は冒険者ギルドに向かう前に銀行へと向かった
のだった。
﹁いらっしゃいませ。本日はどの様なご用件でしょうか?﹂
銀行の入り口をくぐり、ロビーへと入った亮真に中年の男が声を
掛けてきた。
まるで日本の銀行のような応対だ。
上下黒のスーツにレースの付いたブラウス。首には赤いループタ
イを結んでいる。
︵スーツ? なんでスーツなんか着てるんだ?︶
亮真にはどうもこの世界が良く判らなかった。
中世ヨーロッパ風なのかと思えば、やけに現代風なところもある。
スーツやカードなどはまさにそうだ。
︵まったく違うところと、ヤケに似てるところと⋮⋮えらい対象的
だな⋮⋮︶
﹁あの?⋮⋮お客様?﹂
118
男は亮真の視線を感じて、ややうろたえながら聞いてきた。
﹁あぁすみません。こういうところ初めてで⋮⋮口座の開設をお願
いしたいんですけど﹂
男は大きく頷き、亮真を先導した。
﹁こちらの受付になります。お客様﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁口座開設のお客様です。後は、お願いしますね﹂
そう受付の女性へ言い残し、て男はその場を離れた。
﹁いらっしゃいませ。口座開設でございますね?﹂
赤いリボンに紺のジャケット。制服に身を包んだ女性がカウンタ
ーのに座って居た。
極普通の受付嬢だ。
本来ならば驚きに値しない⋮⋮此処が異世界でさえ無ければ。 ﹁はい。初めてなので良くわかりませんが、よろしくお願いします﹂
亮真の良いところは判らない事を素直に聞けるところだ。
下手に知ったかぶりをするより、ずっと安全なのだ。
﹁かしこまりました。恐れ入りますがお名前のご記入をお願いいた
します﹂
119
そう言うと彼女は、羊皮紙とペンを差し出した。
︵なんで羊皮紙なんだ? ︶
亮真は湧き上がる疑問を押し殺して、ペンと羊皮紙を受け取る。
お名前=御子柴 亮真
ご年齢=16
記入欄は名前と年齢だけ、後は住所欄も何も無い。
特に意識せず自分の名前と年齢を記入し、受付の女性に戻した後、
亮真はあることに気が付いた。
︵あれ? 文字って⋮⋮日本語だったよな? 文字は共通なのか?︶
だが、受付の女性はまったく気にせず作業を行う。
少なくとも、日本語は通じるらしい。
﹁お名前は御子柴亮真様。年齢は1⋮⋮6歳。記入に間違いはござ
いませんか?﹂
受付嬢の視線が亮真の顔に刺さる。彼女には亮真が16歳には見
えなかったのだろう。
彼女は不審そうに亮真の顔を見えげた。
﹁ええ。見えませんか?﹂
大抵、自分の年齢を相手に言えば驚かれることが判っているので
腹も立たない。
︵どうせ俺は老け顔さ⋮⋮︶
﹁それとも16歳だと口座が作れなかったりします?﹂
120
亮真の問いに彼女が首を振る。
﹁いいえ。年齢は何も問題ございません。その⋮⋮お客様があまり
にも落ち着きの有る方なので、年齢を見てビックリしてしまって。
大変失礼いたしました。﹂
﹁ああ。良いんですよ。慣れてますから。なら口座の開設をお願い
します﹂
﹁かしこまりました。カードを作成いたしますので少々お待ちくだ
さい﹂
そう言うと彼女は、名刺程の大きさの紙になにやら記入を始めた。
その後、その紙を透明な板では挟む。
︵ラミネート加工か??︶
どうにも文化水準が高いんだか低いんだか判らない世界だ。
﹁おまたせいたしました。ではこちらの球に手を置いてください﹂
カードをガラス球の台座に開いた投入口に入れ、亮真の方へ押し
やった。
﹁こうですか?﹂
亮真がガラス球に手を置くと球が瞬き出す。
﹁はい。結構です。これでこのカードには御子柴様の固体情報が登
録されました。今後カードを紛失された際には最寄の銀行に御出で
くだされば再度お作りいたします﹂
121
そういうと、彼女はカードを亮真に差し出した。
﹁もう。終わりですか?﹂
﹁はい。口座の開設は以上になります。他に何か御用はございます
か?﹂
﹁じゃぁ。この口座に預金をしたいのですが﹂
﹁ご入金ですね。ありがとうございます。ではこちらにお預けにな
る貨幣と口座カードを入れてください﹂
そういうと、彼女はカウンターの上につり銭皿を置いた。
亮真は貨幣の入った袋から金貨10枚銀貨20枚銅貨50枚を抜
き出し、残りを全て皿に置く。
﹁はい、ただいま金額を確認いたします。少々お待ちください﹂
そういうと彼女は袋から全ての貨幣を出し、10枚ずつ重ねだす。
︵金額の確認は手作用なのかよ⋮⋮︶
カードが存在するくせに、自動で金額を確認するような機械は存
在しないらしい。
亮真の嘆きを余所に彼女は貨幣の山を作り続けた。
ざっと20分は待たされただろう。
3回の金額確認の後に彼女は言った。
﹁大変お待たせいたしました。金貨23枚銀貨58枚銅貨731枚
ですので合計で236531バーツのお預けになります。金額に間
違いはございませんでしょうか?﹂
122
︵海鳴り亭で食べたランチが25バーツだろ? とりあえず結構な
額だな︶
しばらくは食事代にも宿代にも困らなくて済みそうだ。
﹁ええ。お願いします﹂
﹁かしこまりました。それでは236531バーツ。確かにお預か
りいたします﹂
そういって彼女はカードをつり銭皿の上に置き、亮真に頭を下げ
たのだった。
当座の生活費は有るが、働かなくては生きていけない事に変わり
は無い。
亮真は銀行を出て隣のギルドへと入っていった。
扉の向こうにはいくつかのカウンターがあり、受付嬢が座ってい
る。
亮真は空いているカウンターの一つに腰掛けた。
﹁いらっしゃいませ。本日のご用件は?﹂
受付嬢が対応する。
﹁冒険者の登録と、仕事の紹介をお願いしたいのですが﹂
﹁かしこまりました。恐れ入りますが、銀行に口座はお持ちでしょ
うか?﹂
123
﹁これで良いですか?﹂
亮真はさっき作ったばかりのカードを出す。
﹁はい。結構です。最近では報酬の支払いをカードで行う事になり
まして、新規で登録される方には事前に口座の作成をしていただく
事になってるんです﹂
﹁へ∼。そうなんですか。特に何用意しなくて良いって聞いてたか
ら危なかったな﹂
﹁ええ。結構お持ちにならない方もいらっしゃいますね。其の時は
作成した後に来て頂いております﹂
そう言いながら彼女はカードをガラス球の台に開いた投入口に入
れた。
﹁はい。では登録は終了です。御子柴さん﹂
﹁え?﹂
﹁銀行のカード情報とギルドの登録情報は共有する事が出来るんで
すよ。そのため銀行のカードをお持ちになってくれれば、それにギ
ルド用の情報を読み込ませるだけで済むんです﹂
そう言いながら彼女は、なにやらが紙の束を取り出して調べ始め
た。
﹁ええっと、一緒に依頼も受けられるんですよね?﹂
124
﹁はい﹂
亮真は頷く。
﹁ギルドのシステムってご存知ですか?﹂
亮真は首を振った。
﹁じゃ∼ご説明しますね。判らない所があったら質問してください﹂
そう言うと彼女は一枚の紙を亮真の前に出した。
﹁ギルドに登録いただいて直ぐの初期状態はLV1です。ギルドラ
ンクはシングルI、最下級になります。ランクはカードの表面に記
載されます。冒険者としての身分証も兼ねるので大切にしてくださ
いね﹂
アイ
彼女は紙の一番下に書かれたシングルIの欄を指差した。
クエスト
﹁簡単に言うとLVは戦闘経験を、ギルドランクはギルドで依頼を
受けてどれだけ成功させたかを判りやすくしたものです。ちなみに
戦闘経験というのは、どれだけ他の生物の力を取り込んだかにより
ます。力の吸収に関してはご存知ですか?﹂
﹁ええ。他の生物を殺したときに其の力の一部が自分の物になるっ
てことですよね?﹂
﹁そのとおりです。単純計算でLV1ですと人間の持つ平均的な力
を持っており、LV10なら其の10倍の力を持っていることに成
ります。冒険をする上ではあまり関係が無いのですが、傭兵を主な
125
仕事にする場合は、この値で基本報酬が上下します。﹂
﹁なるほど∼。LV10なら10人分の給料がもらえるって事かな
?﹂
クエスト
クリアポイント
﹁ま∼基本的にはそういうことです。次にギルドランクですが、こ
れは依頼を受けて成功させる毎に依頼ごとに決められた達成値を貯
クエスト
めることでランクアップしていきます。よりランクが高ければそれ
クエスト
だけ報酬の良い依頼に就けます。請け負える仕事は自分のランクと
同じかそれ以下です﹂
亮真は紙に書かれた注意事項に目を引かれた。
﹁この注意事項というのは?﹂
クエスト
クリ
﹁はい。依頼は一度に何個請け負ってもかまわないのですが、依頼
アポイント
には期日があります。この期日を超えた場合は賠償金が発生し、達
成値が下がる事になります﹂
﹁ランクが下がる事もあるってことかな?﹂
クリアポイント
アイ
アイ
エイチ
﹁そのとおりです。ランクは達成値を100溜める毎に上がります。
クリアポイント
御子柴さんの場合ですとダブルI↓トリプルI↓シングルHという
クエスト
順番で上がります。もし達成値を100貯めてダブルに成った後で
依頼を失敗し100を切る場合はシングルIに落ちるという事です。
ただし⋮⋮﹂
彼女の指が今度は免責事項欄を指差す。
クエスト
﹁依頼の達成条件や内容に差異や不備がある場合、請け負った者が
126
クエスト
例え其の依頼を達成できなくても賠償金は発生しません。物によっ
ては依頼者へ賠償請求をする事も出来ます。そういった場合はギル
ドにご連絡いただければ対処しますので﹂
︵派遣の仕事みたいだな⋮⋮︶
﹁とりあえず以上で簡単な説明は終了です。何か疑問な点は有りま
すか?﹂
﹁いえ﹂
亮真は首を振った。
﹁では、御子柴さんの初仕事をお選びしますね∼﹂
アイ
彼女は再び引き出しから書類の束を取り出し、亮真の前に出した。
紙の一番上にはシングルIランクと記載されていて、その下には
無数の仕事が登録されていた。
クエスト
﹁えと。御子柴さんはどういう依頼をやって行きたいですか? 冒
険者? 傭兵?﹂
﹁正直どっちでも⋮⋮﹂
︵ほんとに面接かなんかを受けるみたいだな⋮⋮︶
亮真は高校受験の時に受けた推薦の面接を思い出した。
自分の将来設計を訪ねられるという点では同じ事なのかもしれな
い。
﹁う∼ん。戦闘技術に自信があるなら傭兵系の仕事がいいかなぁ﹂
127
そう言うと彼女は、幾つかの欄に赤丸をつけた。
ワイルドビー
ワイルドドック
﹁いま丸を付けたのが戦闘がメインな仕事ですね∼。野犬討伐とか
クリアポイント
野蜂討伐ですね。期間は特に無くて、終了報告時までに討伐した数
×銅貨3枚ですね。達成値は討伐数×1になってます﹂
亮真は考えていた事を聞いた。
別の町へ行く様な仕事だ。たとえば誰かを目的地まで護衛すると
か、物を運ぶとかの。
﹁他の町に行くような仕事って有りますか?﹂
アイ
﹁配達系ですかね∼。護衛系はIランクだと無いんですよ∼∼﹂
彼女は残念そうに首を横に振る。
﹁護衛系は依頼人の命に直接係るので、一定水準の能力を持つと認
定された人間しか受けられないんですよ。ランクでいえばcランク
以上ですね﹂
﹁じゃ∼其の配達系って奴で、出来れば国外に出るのなんて有りま
すか?﹂
アイ
﹁う∼ん⋮⋮Iランクで長距離の配達は無理ですねぇ。せいぜい隣
町への配達ぐらいしか受けれません﹂
ゲームと違って、さまざまな制限が有るようだ。
亮真の目に彼女の後ろの壁に貼り付けられた地図が見えた。
128
﹁ちなみに、其の隣町で探せば其の先へ行く依頼とかありますかね
?﹂
﹁タブン、あると思いますよ? 配達系なら﹂
﹁あの、申し訳ないんですけど地図ってお借りできますか?﹂
受付嬢は怪訝な顔をしたが、引き出しから折り畳んだ地図を出し、
カウンターの上に広げてくれた。
﹁え∼∼と。オルトメアってどの辺りでしょ?﹂
﹁此処が帝都オルトメアですね﹂
彼女の指が地図に中央部と南部の境界辺りにある大きな点を指し
示す。太く黒い文字で帝都オルトメアと記載されている。
しかもよく見れば、太く赤い線が中央部と西部の一部を囲ってい
る。
おそらくこの赤い太線がオルトメア帝国の領土をあらわしている
のだろう。かなり広い。
︵ガルイーク。メルフェレン。ギルダス。オイート⋮⋮向かうとし
たらこの四つの中から⋮⋮だな︶
亮真の眼が、4つの町へと吸いつけられた。どれも、帝都の近郊
に存在する町だ。
﹁メルフェレンへ行く配達の仕事ってありますか?﹂
亮真の問いに、受付嬢が書類の束に目を走らせた。
﹁ちょっと待ってくださいね⋮⋮え∼と。これはランクが足りない
129
クリアポイント
し⋮⋮こっちは請負人が決まってるのか⋮⋮う∼ん⋮⋮あ! あり
ますね! 手紙の配達です。報酬は銅貨30枚。達成値は5になり
ます﹂
新人で有る亮真が請け負える仕事は余りないのだろう。まして、
届け先の町を指定したのだ。そう都合よく仕事が舞い込んでいると
は限らないし、既に、請け負う人間が決まっている場合も考えられ
た。
だが、亮真は運が良かったのだろう。
書類の束を隅々まで探した受付嬢は、渾身の笑みを浮かべて亮真
へ視線を向けた。
﹁それをお願いします﹂
クエスト
亮真は直ぐにその依頼を受ける。
こういった場合、ものをいうのは決断力。迷っている暇などなか
った。
﹁はい。ではこれを受けると﹂
彼女はガラス球の置かれた台につながれたガラス板になにやら書
き込む。するとガラス球が瞬いた。
クエスト
﹁はい。終了です。達成期限は3日以内です。メルフェレンのギル
ドに手紙を届けていただいた段階で終了となります。他に何か依頼
を受けますか?﹂
﹁じゃぁ、さっきの討伐系の依頼で受けられるのをを全てお願いし
ます﹂
130
ワイルドドック
ワイルドビー
ワイルドラビット
﹁はい。では野犬討伐と野蜂討伐、それに野兎の討伐ですね。こち
らは期限がありませんので、ある程度のところでギルドに報告して
ください﹂
﹁判りました﹂
クエスト
﹁あ∼そうだ。言い遅れましたが依頼の報告は特定の指定が無い場
合、どこのギルドで行っていただいても結構です。では、がんばっ
てくださいね﹂
受付嬢は満面の笑みを浮かべて亮真を励ますと、頭を下げた。
﹁はい。ありがとうございました﹂
軽く頭を下げて亮真はギルドを後にする。
クエスト
亮真が依頼を受けたのには理由がある。
彼は帝国から追われる身だ。少しでも早く国外へ出たい。
だが問題がある。
追っ手が掛かっている事を考えると、町の移動にも危険が付きま
とう。だからこそ何か理由が欲しかったのだ。
街道を歩く理由が。
クエスト
其の点、手紙の配達という仕事は絶好の隠れ蓑だ。
そして東に位置するメルフェレンへ向かう依頼を選んだのにも理
由がある。
ギルドで見た地図によれば、帝都は領土の南東に寄った部分にあ
った。つまり北と西は帝都から国境までかなりの日数が掛かる事に
なる。
帝都から一番近いのは南の国境だが、追っ手の指揮官がキレ者だ
131
った場合、予測される危険性がある。
色々考え合わせ、東の国境を目指すのが一番安全だと判断したわ
けだ。
もちろんこの判断が正しいかどうかは、行って見なければ判らな
いのだが⋮⋮
132
第1章第11話︻逃亡︼其の3
ギルドを後にした亮真は、約束通り海鳴り亭へ再び足を向けた。
女将さんへ、登録が無事に済んだ事を報告する為だ。
﹁あぁ、あんたかい。登録は出来たのかい?﹂
カウンターに案内された亮真の前に水の入ったグラスを置くと、
女将は嬉しそうに尋ねた。
時間は午後5時過ぎ。
夕食時にはまだ時間が早い所為か、店にはまだ客が殆ど入ってい
ない。
﹁ええ。女将さんに聞いて良かったですよ﹂
そう亮真が言うと女将さんに笑顔が浮かんだ。
﹁そうかい! それは良かったねぇ。あたしが教えた甲斐が有るっ
てもんだ。⋮⋮ところで夕食はどうする? ランチを食べてから、
そんなに時間経ってないけど?﹂
女将さんは、壁に掛けられた時計に視線を向けて問いかける。
銀行での口座開設も、ギルドでの登録作業も、さほど時間が掛か
らずに終了してしまった。
人並み外れた体格を誇る亮真も、さすがにランチを食べてから1
133
時間ちょっとでは、夕飯を食べられるはずも無い。
﹁う∼ん。さすがにちょっと⋮⋮﹂
亮真は言葉を濁して自分の腹をさする。
彼の腹の中では、まだ、魚のフライが我が物顔で占領している。
﹁ま∼そうだろうねぇ﹂
うんうんと頷きながら、女将さんはふと亮真の服装に目を向けた。
亮真の格好に何か疑問があるらしい。
﹁ところであんた。荷物なんかは宿に置いてるのかい?﹂
﹁え? いえ特には⋮⋮﹂
﹁え? あんた其の格好で冒険者やる気かい? 荷物とかどうする
んだい? それに武器もないじゃないか?﹂
大抵の冒険者は、着の身着のままで、居る事が多い。
比較的高価な装備品は、宿屋に置いて置くより、身につけていた
ほうが安全であるし、不測の事態にも対応が出来る。
だから、女将さんが不審の目を向けたのは当然だった。
ここで亮真自分の格好へと眼を向けた。
シャツとズボンにマントを羽織った格好。きわめて一般的な服装
と言える。ただし、街中の住人ならばだが。
︵そうか⋮⋮素手でやるつもりだったけど失敗したな⋮⋮それに荷
物か⋮⋮隣町まで半日ってところだから、夜営の準備も要らないと
思ってたんだけど⋮⋮確かに準備しておいた方がいいか⋮⋮︶
134
﹁あぁ。武器は後で見に行こうと思ってたんですよね。荷物の方は
クエスト
もともと大して無かったし、ギルドで聞いたら初心者が請け負える
依頼って町の近くばかりらしいんでまだいいかと思ってたんですけ
ど⋮⋮﹂
女将は呆れながらもどこか納得した顔をした。
﹁まぁ新人だしそう思うのも無理ないけどね∼﹂
﹁マズイですか?﹂
亮真の言葉に女将はため息混じりに話してくれた。
﹁冒険者の仕事は危険なものなんだよ?冒険者や傭兵の死亡理由で
一番多いのは何だと思う?﹂
﹁なんです?﹂
クエスト
﹁油断して格下の相手に殺されるのさ⋮⋮確かにIランクの依頼は
難しいものではないさ。女子供でも物によっちゃ可能だよ?でもね、
冒険は何があるか判らないんだ。最悪に備えて出来る準備はしてお
かなくちゃいけないのさ⋮⋮死にたくないのならね﹂
亮真は考え込んだ。
︵俺はまだ日本に居るつもりだったんだな⋮⋮そうだ!確かに俺は
此の世界を知らない。追っ手もいるし何があるか判らないのに⋮⋮
女将さんの言う事はもっともだな⋮⋮︶
﹁すみません。女将さん。まだ心構えが足りなかったようです﹂
135
亮真は女将へ深く頭を下げた。
﹁よしとくれ。良いんだよ!⋮⋮うちの店は昼は此の界隈の住人相
手の定食屋だけど夜は傭兵や冒険者も相手にする酒場にもなるのさ。
其の所為で多くの冒険者を見てきたよ⋮⋮そんな中にはあたしに冒
険へ行って来ると言って出て行って、帰ってこなかったりする子が
ポーション
居るのさ。理由を聞くと近場だと思って毒消しをもって行かなかっ
たとか、魔法薬の補充を忘れてたとかそんな理由でね⋮⋮やりきれ
なくてね∼∼∼﹂
そう小さく呟くと女将はエプロンで浮かんだ涙を拭う。
今まで彼女は多くの冒険者を見てきたのだ。
その経験から善意で言ってくれた忠告で有る事は、彼女の表情を
見れば一目瞭然だった。
亮真は忠告を聞きいろいろと準備をする事に決めた。
︵俺は何も判っちゃいない。なら忠告には従うべきだ⋮⋮ここは地
球とは違うのだから︶
ディナー
﹁じゃ∼まだ時間もあるので先に準備してから夕食を食べに戻って
来ますよ﹂
亮真の言葉を聴いて女将の表情が明るくなった。
ポーション
﹁そうかい?⋮⋮うん!その方が良いよ!⋮⋮アンタ店の場所は判
るのかい?魔法道具屋は大通りのギルドの先だよ。其処で魔法薬を
買えば良い⋮⋮武器鍛冶屋はこの店をでで右に曲がってそのまま進
むとあるよ。そこの親父に海鳴り亭の女将に聞いてきたって言えば
親身になってくれるさ﹂
136
まるで母親の様に親身になってくれる女将の言葉に見送られなが
ら、亮真は店を出た。
自らの命を託す武器を求めに。
﹁おいオメエ何が欲しいんだ?﹂
海鳴り亭の女将より紹介された武器鍛冶屋は直ぐに見つかった。
外見は薄汚れていたが、店構えはかなり大きい。
店の裏のほうには大きな煙突が立っていて、其処から黒煙が噴出
していた。
亮真が店内に入り陳列された槍や剣を眺めていると、カウンター
に座った髭面のオヤジが亮真に声を掛けてきた。
﹁えぇと。なにか手頃な武器を⋮⋮﹂
亮真の言葉に悪意は無い。
純粋にこの店に有る武器の中から、自分が扱えそうな武器を買い
たいという意味で手頃な武器という言葉を使っただけだ。
しかし、亮真の言葉を聴いた瞬間親父の顔色が変わった。
﹁俺が作った武器にも、俺が目利きして仕入れた武器にも手頃なん
て武器はねぇ∼∼∼∼!帰りやがれぇ!﹂
親父の怒声が店内に響く。
ものすごい剣幕に亮真は圧倒されながらも必死で答える。
﹁す⋮⋮すみません。海鳴り亭で聞いて来て⋮⋮﹂
そう亮真が言うと親父の表情が幾分和らいだ。
137
﹁なんだおめえ。海鳴り亭の女将さんの紹介かい﹂
﹁は。はい!﹂
﹁ならお前は初心者だな?いや⋮⋮だが其の面で新米なのか?﹂
親父が疑いの目を向けた。
まぁ亮真の体格は見事なものだし、顔もフケ顔だ。
新人と言われても、すぐには信じられなかったのだろう。
だが、亮真は慌てることなく親父の言葉を肯定した。
年齢に関して疑われるのは何時もの事だ。
﹁えぇ。今日ギルドで登録してきたばかりです﹂
亮真がハッキリと言い切った事で信用したのか、親父は腕組みし
ながら大きく頷く。
彼の腕には火傷の痕が無数に付いていた。
武器の製造時に出る火花で負ったのだ。
それは、彼が熟練した職人で有ることを示していた。
﹁そうかい。まぁ、なら仕方がねぇなぁ。だがな新米。他の店はイ
ザ知らず俺の店で手頃だの適当だのって言葉は使って欲しくねぇな
!﹂
亮真は近くに飾ってある一本の短剣を手にして聞いた。
たんぞう
﹁ひょっとして鍛造式で武器を作成する人は少ないんですか?﹂
親父の顔色が変わった。
138
﹁お前! 違いが判るのか!?﹂
﹁ええ。それなりには﹂
たんぞう
短剣には何度も何度も鋼を叩き折り曲げ不純物を取り出して作ら
れた鍛造式で作られた刃物だけに現れる光沢と刃筋が見えていた。
ちゅうぞう
﹁そうかい!いやぁ嬉しいぜぇ∼。近頃は大量生産で作れる鋳造式
ちゅうぞう
を採用する鍛冶屋ばかりでな。買う冒険者共もそれでいいと思って
いやがる!鋳型に鉄を流し込むだけの鋳造式じゃ∼本当に良い武器
はできねえのにな!﹂
亮真はこの親父さんの職人の誇りを見た。
だからこそ、手頃な武器が欲しいといった亮真を怒鳴りつけたの
だ。
︵なるほどね。女将が薦めるわけだ。確かに腕も悪くない。だけど︶
亮真は親父の腕を認めたが、逆に有る問題に直面していた。
﹁それで、おまえさん何が欲しい。剣か? 槍か?﹂
そうなのだ、ここには剣と槍、それに斧が置いてあるが、刀が無
い。
︵まいったな。やっぱり刀が無い⋮⋮まぁなんとなく西洋っぽい雰
囲気だったから期待はしてなかったけどな⋮⋮︶
それでも亮真は親父に尋ねてみた。
﹁片刃で反りがある剣ってありますか?﹂
139
親父は考え込む。
﹁片刃で反りねぇ⋮⋮ひょっとしてお前さん、刀の事を言ってるか
い?﹂
﹁あるんですか?!﹂
亮真はかなり驚いた。
ハルバード
町は西洋風の造りの上、兵士達が持っていた武器も両刃の剣だの
斧槍だの西洋風の武器だったからだ。
﹁いや。悪いが俺の店には無いな﹂
親父は言葉を続ける。
﹁俺も知識としては知ってるんだがね。東方大陸で使われる武器さ。
だが扱いにはかなり特殊な訓練が必要であまり他の大陸に輸出され
ないんだ﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
バザール
﹁もしあるとしたら東部の港町フルザードの市場ぐらいだろうな﹂
﹁港町フルザード?﹂
﹁西方大陸一の貿易都市さ。あそこなら中央大陸経由で東方の品も
手に入るからな﹂
亮真は正直困った。
︵刀が無いとなると剣か? でも剣だと使い難いんだよな。それな
140
らいっそ槍にするか? いや⋮⋮槍だと郊外なら問題ないが街中だ
と厳しいしな。斧⋮⋮斧ねぇ? 別に斧が悪い訳じゃないけど⋮⋮︶
慣れない武器を使うと言うのは、自分の命を危険に晒す事に他な
らない。
﹁お前さん。普通の武器じゃぁダメみたいだな⋮⋮良し! なら、
俺のコレクションを見せてやる。其の中で使えそうなのがあるなら
持って行けや!﹂
﹁え?﹂
﹁いや。俺が目利きして良いと思ったものや、冒険者が持ち込んで
くる物の中には、作品としてはスゴイが扱いが難しくて普通の客に
売れない物や、扱い方が判らない物もあるんだ。そういった武器を
俺はコレクションとして集めているのさ! 刀なんて知ってるんだ。
コレクションの中にお前さんが使える物も有るかもしれん。有るな
らお前さんに譲ってやるよ!﹂
そう言うと親父は亮真をカウンターの奥にある地下への階段へと
誘った。
階段を下りた先には鋼鉄の扉が待っていた。
親父は懐から鍵を取り出し錠を外すと扉を開いて言った。
﹁さぁ入りな。お前さんの希望に沿う物が有るかどうかは判らねぇ
がな﹂
初対面の段階では新米だった呼び方が、いつの間にかお前さんへ
と変わっていた。
141
たんぞう
ちゅうぞう
︵どうやらある程度は認めて貰えたみたいだな⋮⋮︶
鍛造製と鋳造製の差が判る事を親父に言った辺りからか。
職人って奴は自分の仕事を認めてくれる客には愛想が良くなるら
しい。
親父に促され入った部屋はかなり広い。
三十畳以上あろうかという部屋の中には、いくつもの棚が並んで
いた。
﹁右側の棚が剣で順番に槍、斧、弓、となってるんだわ。本当の名
品でな。売る相手を選ぶ武器なのさ。それも相当な腕の持ち主をな﹂
そう言うと、親父は亮真を一番左の棚へと連れて行った。
﹁お前さんに見せたいのはこいつらさ﹂
そう言われ、亮真は棚に置かれた品々に目を向けた。
がびし
まず目に入ってきたのは木製のトンファー、続いて三節根、ヌン
チャクラム
チャク、サイ、さらには我媚刺と特殊な武具が並んでいた。
戦輪や特殊警棒なんて物まである。
︵なんだこりゃ⋮⋮なんでこんな特殊な物が⋮⋮︶
﹁どうだい?﹂
親父さんの問いに俺は首を振った。
﹁特殊過ぎですね⋮⋮﹂
﹁やっぱりか⋮⋮使い方も判らないか?﹂
亮真は首を振った。
142
﹁使うだけなら使えますけどね⋮⋮尤も練習した事は無いんですが﹂
そう言うと、亮真はトンファーを手に持った。
フォン
トンファーが鋭く回転し風を切り裂く。
﹁おいおい。それでダメなのかい?﹂
親父が興味津津といった表情で亮真に尋ねた。
亮真はトンファーを元に戻して言った。
﹁ダメですね。基本的な使い方は判りますけど応用が利かないし何
より1対複数の戦闘に向かないですからね。実戦じゃ使え無いんで
すよ﹂
亮真の答えを聞き親父は訝しそうに尋ねた。
﹁お前さん⋮⋮タダの新人じゃないね? あんたのような客は初め
てだよ。最初はタダの素人だと思ったのにさ。ところが言う事なす
事普通じゃない⋮⋮﹂
﹁イヤだな親父さん。俺はタダの初心者ですよ。俺の父に連れられ
てあちこち回ったおかげで他の人より知識が多いってだけでね﹂
亮真は苦笑いして答えた。
﹁そうかねぇ⋮⋮まぁいいさ。で、どうするんだ﹂
納得はしていないようだが、親父は亮真にどの武器を選ぶのかと
143
催促した。
﹁う∼ん⋮⋮﹂
生返事をしながら亮真は奥へと進んでいく。
︵使えないわけじゃないけどなぁ。あまり特殊な物を使って目立つ
のも考え物だし⋮⋮︶
武器にはそれぞれ利点が有る。
だが、その利点を活かす為には修練が必要だ。
それに、独特の形状を持つ武器は人目を引く。
追手が居る亮真としてはあまり目立ちたくないと考えていた。
﹁お!﹂
端の方まで来た亮真は、ある品に目を留めた。
両端に分銅と錘の付いた鎖だ。
長さは80cmほどか。鎖が細く服の中に隠しておける。
﹁そいつかい。異世界人が持ってきた鎖って話の物だが、そんな鎖
でなにするのかねぇ?﹂
親父が亮真の手にした鎖に視線を向けながら答えた。
﹁異世界人?!﹂
﹁ああ。この列の棚に置いてあるのはみんな異世界人が持って来た
り作ったと言われる武器なのさ﹂
なぜこんなに東西の文化が混ざっているのか不思議で仕方が無か
ったが、親父の話で亮真はようやく納得がいった。
144
大昔からさまざまな人種をランダムに召喚した所為だ。
︵そうか! 文化が高かったり低かったりするのもそれでか!︶
つまり召喚された人間が持っている知識の中から、この世界でも
使える知識だけを使っているのだ。
銀行のカードが良い例だ。
おそらく召喚された現代人の誰かが、銀行の管理ネットワークこ
の世界で応用した成果だろう。
パソコンも無いこの世界で何を応用して、実現したかは亮真には
理解不能だがおそらく間違いはないだろう。
逆に一部で羊皮紙を使っているのは、紙を作る技術を持った人が
少ないか、手作業での製作で数が作れないため紙が高級なのではな
いだろうか?
つまりこの世界の文化は一部では現代人並に高い水準であり、逆
に其の知識を持ってなかったり、持っていても応用できない物は中
世のままなのだ。
考え込んだ亮真に親父は話しかけた。
﹁どうしちまったんだよ?﹂
親父が亮真の顔を怪訝そうに覗き込む。
﹁あ! いや⋮⋮ちょっと考え事を⋮⋮﹂
自分の考えを隠すように亮真は鎖を手に取った。
︵悪くないな⋮⋮万力鎖は爺から習ってるし。隠し武器としてなら
悪くない。だが⋮⋮︶
この世界ではあまり武器を隠す事に意味が無い。
チャクラム
何しろ剣や槍を携帯して大通りを歩けるのだから。
亮真は悩んだ末に、投擲武器として戦輪を選んだ。
直径五センチほどの円形の輪で淵が刃になっている。
145
CDの周りが刃になっていると思うのがイメージしやすいだろう。
コイツを選んだ理由は三つ。
1:円形で投げやすい。
2:投擲の型に居合いの動作を応用できる。
3:全面が刃のため、通常の投げナイフなどと比べ殺傷能力が高い。
4:そして暗器としても十分に使用できる。
亮真はこれを二十枚抱えて言った。
﹁親父さん。コイツと剣を一本ください﹂
親父さんはちょっと驚いた顔をした。
﹁剣は気に入らなかったんじゃないのかい?﹂
クエスト
﹁いや。とりあえず明日は依頼に行きたいんで﹂
﹁そうかい。まぁ急ぐんならしょうがね∼な。片手で使えるのを見
繕ってやるよ﹂
﹁よろしくお願いします﹂
亮真は静かに頭を下げた。
146
第1章第12話︻逃亡︼其の4
チャクラム
東から上る朝日の光に、亮真は眼を細めた。
彼は剣を背負い、戦輪を入れた革袋を左右の腰にぶらさげ、街道
を東へ進む。
﹁しかし危ないところだったぜ⋮⋮﹂
アイテムショップ
ポーション
アンチドーテ
昨日、武器を買った後の話だ。
亮真は魔法道具屋で魔法薬&解毒剤を5個ずつ、 簡易テント、
西方大陸の地図とそれらを入れるためのリュックを買った。
防具をどうしようかと考えはしたが、試着した既製品ではサイズ
が合いにくくどうにも動き図らい。
今の亮真には時間が無いので後日、時間があるときに買う事とし
た。
とりあえず装備が整い、海鳴り亭で晩飯を食べている時、亮真は
其の事に気がついた。
﹁あ!﹂
酒場と化した海鳴り亭に亮真の声が響く。
酒場にいた客の視線が一斉に亮真へと向けられた。
﹁お。女将さん⋮⋮﹂
﹁なんだい? どうしたんだい?﹂
147
亮真の声に驚き、女将はそばにやって来た。
彼女は内心、食事の中に虫でも入っていたかと心配して駆け寄っ
てきたのだが、亮真の様子を見た限り、そういうことで声を上げた
わけではないらしい。
女将が恐る恐る訪ねると、亮真はか細い声で繰り返し呟いた。
﹁手紙。手紙を⋮⋮﹂
クエスト
﹁依頼の手紙を無くしたのかい!?﹂
亮真の呟きを聞き、女将の顔色が変わった。
これが事実ならとんでもない失敗だ。間違いなく違約金を支払う
事になる。
クエスト
クエスト
いや、金はまだいい。多少でも実績があれば別だが、全く実績の
ない新人が一番初めの依頼でミスを犯したとなれば、次の依頼を請
け負うことが難しくなる。
だが、亮真の答えを聞き、女将の顔に笑みが浮かんだ
﹁い。いや⋮⋮手紙を受け取ってない⋮⋮﹂
﹁はは∼∼ん。あんた、さては受け渡しカウンターに行ってないね
?﹂
﹁受け渡しカウンター?﹂
聞き耳を立てていた店の客も状況が理解できたのだろう。彼らも
ニヤニヤと笑みを浮かべて亮真を見ている。
﹁おい。新人だぜ。﹂
148
﹁あぁ、俺も初めての時はあんなふうだったなぁ﹂
﹁ギルドもお役所仕事だからな﹂
あちらこちらから聞こえてくるささやき声が亮真の耳にも届いた。
﹁あはははは﹂
女将が我慢できずに大きな声で笑う。すると周りの傭兵達も一緒
に笑い出した。
﹁?﹂
亮真は自分が何故笑われているか理解できなかった。
﹁いやぁ、悪い悪い。そうだねぇ、初心者の半分ぐらいはあんたみ
たいな目に合うんだよね﹂
憮然とした表情で黙り込んでいる亮真に気がつき、女将はエプロ
ンで口元を隠しながら誤った。しかし、その顔にはまだ笑みが浮か
んでいる。
﹁どう言う事なんです?﹂
亮真の問いに周りから言葉が飛ぶ。
﹁新人の試練にかんぱ∼∼い!﹂
﹁お役所仕事の犠牲者に栄光あれ!﹂
149
﹁新人! へこたれずにがんばれよ∼∼﹂
どうにも状況が判らない。亮真は女将へ疑問の視線を向けた。
そんな亮真の顔を見て、女将は首を振りながら肩を竦めて答える。
﹁あんた。ギルドで登録した後、何か貰わなかったかい?﹂
﹁ギルドでですか? 登録カードと後は⋮⋮あっ!﹂
女将の言葉を聞いて、亮真の脳裏に有る物が浮かぶ。
︵そうだ! 登録完了して帰ろうとした時に冊子を貰ったんだった
!︶
登録をした後に受付の女性から受け渡されたものだ。
亮真はそれを受け取ったまま背負い袋の中へ放り込んで、今まで
忘れていたのだ。、
﹁それの三ページ目を読んでみたかい?﹂
女将に言われ、亮真は慌てて冊子を開く。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
クエスト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
クエスト
各依頼の達成手順;
クエスト
︻依頼:配達系に関して︼
配達系の依頼を請け負った場合、配達対象物は、ギルド内にある
クエスト
受け渡しカウンターにて受け取る事。
依頼終了条件は、対象の町のギルド受け渡しカウンターへ依頼物
を届けるまでとする。
150
クエスト
︻依頼:討伐系に関して︼
討伐系の︽クエスト︾を請け負った場合、対象を討伐する度にラ
イセンスカードに自動で記録される。
なお、終了はギルド受け渡しカウンターへカードを提出した時点
とする。
特に指定が無い場合、どの町のギルドで報告してもかまわない事
とする。
注意;
討伐対象の生息範囲を指定されている場合、かならずギルド随行
員を伴い、生息範囲内での討伐である事を証明する必要がある。
この場合はカードに寄る自動記録は使用出来ないので注意する事。
クエスト
︻依頼:調達系に関して︼
調達系の︽クエスト︾を請け負った場合、対象調達物を、ギルド
受け渡しカウンターへ届けた時点で終了とする。
特に指定が無い場合、どの町のギルドで報告してもかまわない事
とする。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
タイトル
﹁こいつは⋮⋮﹂
クエスト
亮真が冊子の題を見ると︻ギルド初心者案内︼と書かれている。
初めて依頼を受けた人間が必要とする、基本的な情報が載ってい
る資料だ。
クエスト
﹁ギルドの受付カウンターで依頼を受けただろう?﹂
151
女将の問いかけに亮真は素直に頷く。
クエスト
クエスト
﹁受付カウンターは本当に受付だけをするのさ。だから配達系とか
の依頼を受けると、依頼を受けた後に受け渡しカウンターへ行って
依頼対象の物を受け取らないといけないって訳さ﹂
クエスト
言われてみれば納得だが、亮真はやや釈然としなかった。
別に言い訳をするつもりはないが、依頼時に窓口でそのまま依頼
対象を受け渡すほうが効率的に思える。
まぁ、手引き書を貰っておきながら、読まずに放置していた亮真
の言葉では説得力に欠けてしまうのだが⋮⋮
尤も、そういう人間はかなり多いようだ。
女将も今まで多くの新人が同じように読まないで困った事になっ
たのを、その目で見てきたのだろう。
﹁不満みたいだねぇ? まぁ、システム的にややこしいのでギルド
としても冊子を渡してるんだけど、大抵の新人はそこまで見ないの
さ。何しろ初登録&初仕事だ。緊張しちまって冊子のことなんか忘
れちまう。新人の最初の試練ってやつかねぇ?﹂
女将は亮真の不満を理解しているのだろう。笑みを浮かべながら、
丁寧に説明してくれた。
﹁ギルドってまだ開いてますかね?﹂
時間は夜の二十時半を少し過ぎた辺りだ。
酒場等の極限られた店を除いて、殆どは既に店じまいをしている
時間帯と言える。
﹁ふふふ。ギルドは三百六十五日二十四時間開いてるよ。ちなみに
152
その辺の事も冊子に書いてあるから後で読んでおきなよ?﹂
ディナー
それを聞き、亮真はディナーの焼き肉を急いで口に詰め込こんだ。
そして、カウンターに夕食代を置き、店の入り口で女将さんへ頭を
下げる。
向かうのは当然、ギルド受付カウンターだ。
﹁はい! こちらが依頼品になります。よろしくお願いしますね。
御子柴さん﹂
メガネを掛けた女性が油紙に包まれた手紙を亮真に渡す。
﹁蝋で封印がされてます。これが剥がれてしまうと、中を見る見な
いに関わらず違約金が発生しますから注意してくださいね﹂
ギルド入り口に掲げられた案内板を見て、地下1階の受け渡しカ
ウンターへ向かった亮真がカードを提出すると、受付の女性はあっ
さりと依頼品を渡してきた。
初めから手引き書を見ればこれ程簡単に事は済んだのだ。
ホテル
其の後は大通りに面した宿屋へ泊まり、明け方に帝都オルトメア
を出発したと言う訳だ。
﹁ふぁ∼∼∼∼﹂
亮真の口からあくびが出る。
ホテル
早朝の所為かメルフェレンへ続く街道には亮真の他は誰も居ない。
昨日ギルドで依頼品を受け取り、大通りにある宿屋に泊まった亮
153
真は、女将さんに言われたとおり︻ギルド初心者案内︼にざっと目
を通し、いろいろと購入した経費を考えていたら寝るのが遅くなっ
たのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ランチ
シャツ・ズボン・マント・革ベルト=1000バーツ︵銀貨10
枚︶
ディナー
海鳴り亭の昼飯=25バーツ︵銅貨25枚︶
海鳴り亭の夜飯=40バーツ︵銅貨40枚︶
チャクラム
剣=500バーツ︵銀貨5枚︶
ポーション
戦輪×20個=2000バーツ︵銀貨20枚︶
アンチドーテ
魔法薬×5個=1000バーツ︵銀貨10枚︶
解毒剤×5個=1000バーツ︵銀貨10枚︶
簡易テント=500バーツ︵銀貨5枚︶
西方大陸の地図=100バーツ︵銀貨1枚︶
ホテル
リュック=100バーツ︵銀貨1枚︶
宿屋代 ※朝食付き=100バーツ︵銀貨1枚︶
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 以上が、召喚さ
れて一日目に使った金額だ。
銀貨63枚と銅貨65枚でしめて6365バーツとなる。
ポーション
アンチドーテ
これを見て判るのは、食事代が安い事だ。
逆に、消耗品である魔法薬や解毒剤はかなり高い。
瓶に書かれた説明を見ると、怪我に関してはかなり効果が高いみ
たいだけど。
早々簡単に使える物ではないらしい。
︵ゲームだと一番安いアイテムの一つなのになぁ⋮⋮︶
もっとも、ゲームと違いこの世界で死んだらコンテニューは無い。
154
それを思えば、この薬を無理にケチる事など出来るはずも無かっ
た。
ホテル
モンスター
装備への投資分を抜いて考えると大体1日200バーツ︵銀貨2
枚︶を稼げれば、食事をして宿屋にも泊まれるようだ。
クエスト
︵しかし、街道を少し外れるだけでそんなに出るのかね?怪物が⋮
⋮︶
ワイルドドック
ワイルドビー
昨日読んだ︻ギルド初心者案内︼には、依頼の受け方、報告の仕
モンスター
方だけではなく、初期の 冒険者が受けるであろう野犬討伐や野蜂
モンスター
討伐と言った討伐系の対象怪物の生息地に関しての記載もあった。
ワイルドドック
それによると、基本的には街道を外れれば外れるほど怪物は強く
なるらしい。
今回受けた野犬などは、街道から5分も外れれば集団で居るとの
ことだ。
亮真は街道を外れ森の方へ進んでいった。
亮真が寄り道をしたのには理由がある。
下手に急ぐと怪しまれると考えたのだ。
もちろん、世の中には多くの人が居て、其の中には急いで街道を
歩く人も居る。
急ぐ=帝国に見つかる。では無いにしろ、通常の冒険者の様に討
伐系の仕事を行いながら町の移動を行うほうが、安全と考えたわけ
だ。
街道から5分ほどのところに深い森が見える。
森に入りさほど進まぬうちに、ブーンという羽音が聞こえてきた。
視線のやると、10メートルほど先の木の周りに5匹ほどの虫が
飛んでいる。
虫と言っても、犬並みの大きさだが。
︵あれか?︶
体型は普通の蜂のようだ。
だが、サイズが確実に違う。普通の蜂の百倍はあろうかと言う大
155
きさだ。
ワイルドビー
どうやらあれが野蜂らしい。
︻ギルド初心者案内︼によれば、体が大きいため、さほど素早くは
無いらしい。
ただ、猛毒を持っており、一度に5回以上刺されると死亡すると
いう事だ。
チャクラム
︵やってみるか⋮⋮︶
チャクラム
亮真は腰の袋から戦輪を取り出し居合いの様に腰を低くし、右足
を前に出した格好で、左側へ腰を捻る。
ワイルドビー
弓の様に引き絞られ力を貯めた体から戦輪が投げ出された。
フォン
戦輪が空気を切り裂いて野蜂に向かって飛ぶ。
ザシュ
そして
カッ
2つの音が続けざまに響く。
チャクラム
だが、亮真はそれを無視し、2枚目、3枚目、4枚目、5枚目と
ワイルドビー
続けざまに戦輪を投げた。
飛んでいた野蜂は全て地面に落ちている。
胴体の部分がちぎれた物、頭部が砕けている物、羽に穴が開き飛
べないもの。
ワイルドビー
当たった箇所はそれぞれ違うが、とりあえず5枚とも当たったよ
うだ。
亮真は剣を抜いて、野蜂へ近づく。
ワイルドビー
どれも瀕死のようである。
一番元気な羽の破れた野蜂から順番に頭部へ剣を突き刺し止めを
刺す。
︵ええっとそれで⋮っと︶
︻ギルド初心者案内︼を取り出し、ページを折っておいた部分を読
み直す。
156
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
モンスター
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−︻材料の調達に関
モンスター
して︼
怪物の討伐を行った後は、倒した怪物を解体し、材料の確保を行
モンスター
うようにしてください。
クエスト
マジックアイテムショップ
怪物の体は、部分によって薬、食料、法術の触媒など様々な使い
アイテム
道が存在します。
これらの品は︻依頼:調達系︼を受けるか、魔法道具屋へ売ること
で換金する事が出来ます。
モンスター
本書では、初期の怪物を対象にどのような部分が売れるかを説明
します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−︵えぇと? 羽の
ワイルドビー
部分と毒針が売れるのか⋮⋮︶
とりあえず、野蜂の尻の部分を切り裂いて毒針を取り出した。
むし
︵うへ⋮⋮軽く五センチはあるな⋮⋮︶
次に羽を毟ろうとして、亮真は3匹の羽に穴が開いていたり切れ
ているのに気がついた。
︵ヤバイ。確か⋮⋮︶
︻ギルド初心者案内︼を慌てて確認するとそこには。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
注意事項:
157
売り物であるので、各部位で損傷の激しい場合はお引取りできな
い場合が有ります。
ご注意ください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
売る事を考えれば、当然と言える条件だ。
だが、命の掛かった実践の中で損傷の度合いまではなかなか気が
回らない。
下手に欲を出して死に掛けたのでは目も当てられないのだ。
むし
︵ゲームなら売れるアイテムを拾うだけなんだがな⋮⋮︶
亮真は損傷の酷い羽を諦めて、比較的傷の無い羽を毟った。
︵頭を使わないと、せっかく倒しても損をするということか⋮⋮ま
ぁ本当にヤバイ時には金をあきらめるしか無いか⋮⋮︶
亮真は狩りの難しさを強く実感したしたのだった。
158
第1章第13話︻逃亡︼其の5
ワイルドビー
ホテル
ランチ
野蜂の解体を終え、亮真はさらに森の奥へと進む。
宿屋で昼食用に弁当を作って貰っている為、探索に掛ける時間は
十分ある。
︵とにかく、戦闘に慣れないとな︶
今、自分が持っている武器が使い慣れた愛刀なら。
チャクラム
ついそう思ってしまう。
戦輪は手裏剣術の応用で何とでもなる。だが、剣は残念ながら使
い難くて仕方が無い。
引き斬る=刀に対して力で押し切る=剣は根本的な使い方が異な
るため使い難いのだ。
しかし、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。とにか
く此の装備で国境を越えなくてはどうしようもないのだ。
おそらく帝国の追手は亮真を追い越して遥か彼方を探しているに
違いない。
馬の機動力を考えれば当然と言えた。
問題は亮真が選んだ東部方面に追手を差し向けたかと言う事だが、
亮真は向けていると予想していた。
︵俺なら、顔が分からない人間を見つけ出すのに、探索の人数をケ
チる事は無い。そして俺なら先ず国境の警備を厚くして、不審者を
一切国外に出ないようにする。後は国境から帝都へ向かって網を絞
り込んでいけば良い︶
森を進みながら亮真の思案は続く。
︵ただ今回は、帝都内で俺を拘束できなかった段階でほぼ俺の勝ち
は動かない。顔が判らないっていうのはそれだけ有利だ。後は国境
をどう越えるかだな⋮⋮︶
急に亮真の目の前が開けた。
159
森の木々が切れ、其の部分だけぽっかりと広場になっている。
グルルルルウ⋮⋮
突然亮真に警告の吼え声が響く。
そこには体長一メートルほどの犬が居た。その数十三匹。
ワイルドドック
おそらく家族だろう。其の中には明らかに子供も居る。
︵コイツが野犬か⋮⋮︶
まだ向こうは警戒しているものの攻撃まではしてこない。
チャクラム
おそらく子供が居るため、むやみに襲い掛かってくるのを躊躇っ
ているのだろう。
︵チャンスだな︶
亮真はすばやく戦輪を取り出すと、子供を庇う親に狙いをつけた。
チャクラム
フォン
ワイルドドック
ワイルドドック
戦輪が唸りを上げ空気を切り裂く。
ワイルドドック
野犬が避ければ野犬の子供に当たる。
チャクラム
避けなければ野犬に当たる。
ワイルドドック
次々と亮真は戦輪を投げた。
ザシュ
肉を切り裂く音。
キュイ∼∼∼ン
苦痛の叫び。
ワイルドドック
亮真はすばやく剣を抜き野犬へ走り寄る。
チャクラム
亮真へ突っ込んできた野犬は全部で八体。
五体は体を戦輪で切り裂かれ蹲っている。
先頭を切って走ってきた一匹が亮真から二メートル程離れたとこ
ろから飛び掛ってきた。
︵所詮畜生か⋮⋮︶
亮真は大きく開かれた口に剣を突っ込む。
飛び掛ると言うのは決してよい戦法ではない。
なぜなら翼が無い為、空中では身動きが取れなくなるからだ。
奇襲なら話は変わってくるが、今回のように正面からの戦闘では
160
ワイルドドック
飛び掛るのは下策だ。
もっとも野犬達にそんな知性は無い。
本能のままに亮真へと飛び掛ってくる。
ワイルドドック
七体目、八体目、九体目。
次々と飛び掛ってくる野犬を脇にすり避けて、すれ違いざまに胴
を薙ぐ。
機械的に処理して行くうちに亮真に油断が生まれた。
ワイルドドック
一匹が飛び掛らず、そのまま駆け寄ると右足へ牙を剥いた。
ドグン
うずくまワイルドドック
咄嗟に亮真の右足が大きく蹴り出され野犬の喉元に突き刺さる。
そして、亮真は喉を蹴り潰され蹲る野犬の頭に剣を突き刺し止め
を刺した。
︵ふぅ、危ねぇ。つい油断したぜ⋮⋮︶
ワイルドドック
残りは三体。
モンスター
野犬の子供だけだ。
さすがに怪物に分類されるだけあって、子供といえども獰猛らし
い。
亮真に対して威嚇のうなり声を上げる。
ざっと距離にして五メートル程だろうか。
亮真は剣を体の左側に構える。左下から右上への斬り上げを狙っ
た脇構えだ。
両者が睨み合い、次第に間の空気が重くなる。
亮真対三匹。
両者の殺気が爆発しそうになった瞬間、亮真は纏っていた殺気を
一気に消した。
今にも襲い掛からんとした三匹は殺気をいなされ思わず襲いかか
るのを躊躇した。
そこで亮真が一気に間合いを詰める。
左下からの右上への斬り上げ、一匹目の首を斬り飛ばす。
そして、頭上に掲げられた剣は再び同じ軌道を描いて二匹目の胴
161
を切断した。
チャクラム
その段階で身の危険を感じたのか、3匹目はついに後ろを向いて
逃げ出す。
︵逃がすか!︶
亮真は剣を地面に突き刺すと、戦輪を取り出し投げた。
︵ふぅ、全部で十三匹か⋮⋮︶
戦闘そのものは三∼四分といったところだろうか。
全て一太刀でケリが付いた為、さほど時間も掛からなかった。
チャクラム
額にかすかに浮かぶ汗を手で拭い、亮真は深く息を吐き出した。
チャクラム
︵戦輪悪くない⋮⋮ただ回収しにくいのが難点だな⋮⋮︶
柄が無く輪の外円が全て刃の為、威力は大きいのだが戦輪全体が
チャクラム
肉の中に埋まってしまうのだ。
投げた六枚の戦輪は全て血をぬぐって亮真は腰に下げた袋へ戻す。
。
ワイルドドック
︵さて、始めますか⋮⋮ええっと⋮⋮︶
︻ギルド初心者案内︼によると野犬で価値があるのは上顎に生えた
2本の犬歯と毛皮らしい。
亮真はなれない手つきながらも剣を使って毛皮の剥ぎ取りに取り
掛かった。
162
第1章第14話︻追跡者達︼
﹁みなの者、昨夜はご苦労だった!只今より新たな方針を伝える!﹂
ロルフの怒声が正午の強い日差しの中、城門前の広場に響いた。
﹁シャルディナ様、セリア殿、オルランド殿、そしてこのワシを部
隊長とし、それぞれ3∼40名ずつを付け各南と東の国境へ向けて
探索を開始する! 編成は事前に通知したとおりである。なお、皆
も知ってのとおり犯人と思われる異世界人はガイエス様を殺害して
いる。各自、十分に注意するように。では、各自速やかに移動を開
始しろ!﹂
兵達が編成されていくのと見ながらロルフは昨夜の事を思い出し
ていた。
亮真と城門ですれ違った帝国の追手達。
セリア、ロルフ、オルランド、シャルディナの4人は、午後から
夜半までを探索と追跡に当てた。
だが、城門を出た近衛兵は忽然と其の姿を消し、其の行方は様と
して掴めなかった。
﹁一体どうなっているの?!﹂
セリアの怒鳴り声が帝都オルトメアの城門に響き渡る。
四方に放った近衛兵達は、何の収穫も無いまま集合場所である城
門前に戻ってきたのだ。
163
何も掴め無かった彼らは一様にうなだれている。
結局判って居るのは、近衛兵の鎧を着た者が午後2時頃に出たと
いう事だけ。
セリア達が兵を編成して城門にやってくるわずか20分ほど前の
話だ。
それから夜半まで10時間にも及ぶ探索はまったくの無駄となっ
た。
﹁落ち着きなさい。セリア殿﹂
﹁シャルディナ様⋮⋮﹂
セリアの声のトーンが落ちる。
﹁今日はとりあえず此処までにしましょう⋮⋮みんな疲れているし﹂
シャルディナの目が周囲を見回す。
露骨に疲れをアピールしている兵士は居ないが、疲労が蓄積してい
るのが見て散れる。
﹁しかし⋮⋮このままでは⋮⋮﹂
セリアは抗弁したがシャルディナは引かない。
﹁いくら帝都の周りとはいえ夜は危険だわ。一度対策を練り直して
明日仕切り直しましょう﹂
﹁うむ。シャルディナ様の言うとおりだな。此処は一度仕切りなお
した方が良かろう。いかがかな?セリア殿﹂
164
ロルフの言葉にセリアとしても言うべき言葉が無い。
ただ感情の部分で、肉親を殺した犯人を野放しにしていると言う現
実を受け止められないのだ。
﹁オルランド殿、セリア殿を館へお送りしてくれ。ガイエス様がお
亡くなりになりセリア様も大変な一日だったからな﹂
﹁いいえ。一人で帰れます!﹂
ロルフの気遣いをセリアは拒んだ。
だが周りの眼には其れが虚勢であることが手に取るように判った。
﹁無理をしない方がいいわ?セリア殿。オルランド殿、セリア殿を
お願い﹂
﹁は!さぁセリア殿﹂
シャルディナの言葉にオルランドは素早く反応しセリアを抱きかか
えようとする。
﹁オルランド!離しなさい。私は一人で帰れます﹂
だが、オルランドの手を撥ね付けた拍子にセリアはバランスを崩し
て倒れこんだ。
無理も無い。
10時間以上休憩も無く必死で探索を行ったのだから。
結局セリアはオルランドに抱えられて館へと帰った。
﹁シャルディナ様。いかがいたしますか?﹂
165
﹁どうするも何も、もう無理でしょうね⋮⋮﹂
ロルフの問いかけにシャルディナは肩をすくめるとあっさり言い放
った。
﹁やはり無理ですか⋮⋮﹂
﹁勝負は例の近衛兵が城門を出てからの10分だったのよ﹂
﹁しかし⋮⋮これでも編成にはかなりの無理を﹂
シャルディナの言葉を聞き、兵を集める指揮を執ったロルフの顔に
苦渋の色が浮かんだ。
彼は最善を尽くしたと自負している、だが結果として捕縛出来なか
ったのであればその努力は意味が無いのだ。
﹁判っているわ。別にあなたを責めたんじゃないの。ロルフ殿﹂
シャルディナは視線を森へと移す。
﹁もともと帝都周辺で彼を捕縛する可能性は低かったのよ。何しろ
相手の顔も年齢も不明なのよ?。それでも近衛兵の格好のままでう
ろついてくれていれば確保の可能性も有ったけども⋮⋮﹂
﹁もう近衛兵の格好はしていないと?﹂
﹁おそらくは⋮⋮ね﹂
ロルフの言葉にシャルディナは頷いた。
︵私ならサッサと服を着替えるわ⋮⋮追手が掛かっているんだもの
166
⋮⋮︶
﹁では⋮⋮どうされますか?これから﹂
﹁国境は封鎖させたけどね、後は⋮⋮﹂
シャルディナは首を振った。
﹁明日から国境へ向けて探索をしながら進むしかないわね。﹂
﹁しかし。どの国境へ向かったのか⋮⋮﹂
ロルフの懸念は尤もだ。
確かにオルトメア帝国は西方大陸でも5本の指に入る大国だ。
ただし、内陸部の侵略国家なため、四方を敵対国家に塞がれている。
今回、追跡隊の人数がいくら急いで編成したとはいえ150名ほど
と言うのは、周辺諸国への防備で国境付近へ兵を貼り付けているか
らであり、帝都の近衛騎士団、親衛騎士団を大動員出来ないのは戦
端が開かれた時の備えの為だ。
対象者の顔も年齢もわからず、人海戦術も選択できない今、武人で
あるロルフに対策など建てられるはずも無い。
﹁とりあえず2択までは絞れるわね﹂
シャルディナの言葉にロルフは意外そうな視線を向ける。
﹁2択ですか?ならシャルディナ様は南か東だと?﹂
ロルフの脳裏に帝都から国境までの距離がおぼろげに浮かぶ。
2択と言う以上帝都から尤も近い南方と次に近い東方を思い浮かべ
167
るのは当然のことだ。
﹁ええ。でもおそらく東ね⋮⋮﹂
﹁理由をお聞きして宜しいですか?﹂
シャルディナは微笑みを浮かべて応えた。
﹁正直に言えば勘ね。ただしまず外れないと思うわ﹂
シャルディナはロルフに向き直って言った。
﹁この城を脱出し、我々の追跡を振り切るほどの奴だもの。無闇に
逃げたりしないわ﹂
﹁ならシャルディナ様は異世界人が地理を知っていると⋮⋮?﹂
ロルフの表情はそんなことは有り得ないと語っていた。
﹁おそらくね⋮⋮﹂
﹁ですが、それなら最短の南を選択するのでは?私なら東は選びま
せんが?﹂
少なくともロルフが逃走するなら最短ルートを選択する。
一刻も早く国外脱出を果たさなければ命が危ない状況なのだ。
態々遠い道を選ぶ必要など無い。
ロルフはそう考えていた。
﹁そう。逃げるだけなら南ね。ただし私達にもそれは予測される﹂
168
﹁予測される事を前提にして東を選択すると?まさか⋮⋮幾らなん
でもそれは﹂
シャルディナの顔に憂いが浮かぶ。
﹁ロルフ。私も杞憂であって欲しい。でもね此処まで裏を掛かれた
のよ?相手を見くびれば最悪国外に逃亡されかねない﹂
ロルフは考えこみながら言った。
﹁確かに⋮⋮しかし南の可能性も捨て切れません⋮⋮﹂
彼は現実的な判断をした。
其れが彼の優れたところであると同時に欠点とも言える。
﹁貴方の言いたいことは判っているわ。東に向かったと言うのはあ
くまでも私の勘よ⋮⋮だから南はセリア殿、ロルフ殿、オルランド
殿の3人に任せ私は東へ向かおうと思うの﹂
﹁確かにそれは悪くないと思います⋮⋮しかしそれならば2名2名
で分かれるべきでわ?﹂
彼の提案は尤もなことだ。
普通なら間違いなく隊を半分にするところだろう。
しかしロルフの提案にシャルディナは首を振った。
﹁いいえ、東はあくまでも私の勘よ。それにセリアを抑えるのにオ
ルランドだけでは怖いのよ⋮⋮まぁ私には優秀な副団長も居るし。
大丈夫だから﹂
169
ロルフは普段
吹雪の女王
とまで呼ばれる程に冷静で冷酷なセリ
アが逆上し、怒鳴るのと思い出した。
︵確かに⋮⋮殿下のご指摘どおり今の不安定なセリア殿を抑えるの
にオルランド殿だけでは危ないか⋮⋮まぁアヤツが居れば殿下に危
険は有るまい︶
シャルディナの言葉を聞いてロルフは瞬時に計算した。
彼の脳裏には、シャルディナの言う優秀な副団長の姿がハッキリと
浮かんでいた。
﹁判りました。それではそのように部隊を編成します﹂
﹁頼むわね。ロルフ殿﹂
ロルフは頭を下げると、疲れた体に鞭打ち徹夜で部隊の再編成に携
わった。
たった一人の異世界人を捕らえる為に。
﹁ロルフ様!兵の移動終了致しました!直ちに出発できま。﹂
副官の一人が報告に来た。
﹁シャルディナ様。行きますか?﹂
ロルフの言葉にシャルディナは剣を城門の彼方へ向けることで返事
をした。
﹁進軍!﹂
170
ロルフの怒声と共に150名の騎馬隊は走り出す。
影さえ見えない異世界人を追って。
先頭を走るシャルディナに副団長の斉藤が並走してきた。
﹁皇女殿下。ご命令通りにアデルフォの関所を閉鎖致しました﹂
﹁そう。御苦労さま。早かったわね﹂
昨日の午後に出した命令だ。
馬を乗り継いで行ったにしてもかなりの速さだ。
シャルディナは斉藤の報告に満足げな表情を浮かべた。
﹁アデルフォの町で捕らえるおつもりなのですか?﹂
斉藤は年のころ30半ば位か。
髪を七三分けにしたエリートサラリーマンのような風体だ。
眼鏡を掛けビジネススーツを着せてオフィス街を歩かせれば直ぐに
溶け込める。
理知的な空気を纏うこの男の問いにシャルディナはいたずらっ子の
ような笑みを浮かべて問い返した。
﹁あら?私そんなこと言ったかしら?﹂
﹁いいえ。ですからお尋ねしているのです。皇女殿下﹂
彼女の期待に沿った回答ではなかったのか、シャルディナは幾分不
機嫌な顔つきで問い返した。
171
﹁ならお聞きしますわ。私の優秀な参謀さん。アデルフォの町で異
世界人を捕らえられると思う?﹂
﹁いいえ。まず無理でしょう﹂
斉藤はあっさりと言い放った。
今度の答えはシャルディナのお気に召したらしい。
幾分笑いを含みながら問い返した。
﹁あら?どうしてかしら?﹂
﹁顔が判らない人間をどのように探すのです?それとも何か其の男
を特定出来る情報があるのですか?﹂
これが今回の任務の一番の問題点だった。
判っているのは異世界人の男で背が高く体格が良いという頭が良く
容赦のない性格。
そんなところだ。
はっきり言えばそんな人間は帝都に腐るほど居る。
いや帝都だけでなく西方大陸中に。
昨夜の追跡では相手が近衛兵の鎧を着ているということを前提に探
し回ったのだが、城門を出た後の足取りはまったく掴めなかった。
﹁そうね⋮⋮フフフ。顔もわからない相手じゃ探しようが無いもの
ね﹂
シャルディナの笑みに斉藤の目が細まる。
﹁ならどうするのですか?﹂
172
﹁大丈夫よ。私達が相手の顔を知らないのだもの。相手に教えても
らうしかないでしょ?犯人だって﹂
シャルディナの言葉を聞き斉藤の目に鋭い光が宿る。
彼の脳に主君の考えていることが伝わった証拠だ。
﹁成る程。アデルフォの関所を閉鎖させたのはその為ですか⋮⋮﹂
﹁そう。尤も使える人数が限られているからあまり期待は出来ない
けれどもね⋮⋮﹂
﹁アデルフォの守備隊を動かすというのはいかがですか?﹂
斉藤の提案にシャルディナは首を振った。
﹁其れは無理よ。国境の守備隊を動かせばザルーダに攻め込まれる
だけだもの。貴族連中に応援を頼むわけにもいかないしね﹂
﹁そうですなぁ⋮⋮貴族共にばれればこれ幸いと謀反を起こしかね
ませんな﹂
シャルディナは帝国貴族や近隣諸国に今回の事件が漏れた場合を想
像し苦笑いを浮かべた。
﹁いずれ公表するにしても今は不味いわ。だから手段を選ばなくち
ゃいけないの⋮⋮不利だけれどもね﹂
シャルディナの言葉に斉藤は無言で頷いた。
173
第1章第15話︻覚悟︼
夜の闇に包まれた街メルフェレン。
亮真は狩りを終えようやく最初の目的地メルフェレンへとたどり
着いた。
既に時間は夜の7時を過ぎた頃。
通常なら帝都からメルフェレン間は徒歩で3時間ほど。
距離にしておよそ11Kmと言った所だ。
だが、途中で亮真は狩りを行っていたため、到着が此の時刻にな
った。
﹁ふぅ、やっと着いたぜ﹂
やはり知人が居ないのは寂しいものだ。
ついつい独り言を言ってしまう。
わずか一日とはいえ、自分が生まれ育った世界からまったく別の
世界に連れてこられれば如何に亮真とはいえ寂しさを感じる。
此処から国境まではおよそ100Km程だろうか。
騎馬ならば4時間程で駆け抜けられるが、徒歩で平均時速3∼4
kmなら1日10時間歩くとして3∼4日、遅ければ7∼8日程掛
かる距離だ。
亮真のリュックには、狩りで得た材料が詰まっていた。
︵とりあえずギルドで報告だな︶
亮真は空腹に耐えつつ、重くなったリュックを背にギルドへの道
を歩むのだった。
﹁これをおねがいします﹂
174
﹁かしこまりました。確認するので少々お待ちください。⋮⋮大丈
夫ですね。封印は剥がれてないです﹂
亮真が差し出したカードと依頼品の手紙を受け取った受付嬢は、
クリアポイント
手紙の裏表と蝋の封印を確認した。
クエスト
ワイルドビー
﹁はい。問題有りません。では達成値5を追加しますね。討伐系の
ワイルドドック
依頼の方はどうされますか?一旦清算されますか?﹂
﹁ええ。お願いします﹂
亮真は頷いた。
ワイルドラビット
﹁かしこまりました。ええっと⋮⋮野犬討伐数54、野蜂討伐数9
1、野兎討伐数22。⋮⋮お疲れ様でした。結構な数を狩られたん
ですね﹂
﹁ええ。おかげで昨日買った武器の切れ味が血脂で鈍ってしまって
⋮⋮研ぎに出したいんですよね﹂
亮真の何気ない言葉を聞き受付嬢の顔に驚きが広がる。
アイ
︵此の人。剣で此の数を狩ったの?それも一日で? てっきり殲滅
系を使う法術士だと思ったのに⋮⋮シングルIランクの冒険者なん
てLVじゃないわ⋮⋮︶
クエスト
カードに記載されている依頼[の依頼請負日は全て昨日の日付だ。
亮真は彼女の視線に気づかず続けた。
﹁此の町で研ぎを頼める鍛冶屋なんてありませんかね?﹂
175
﹁ええっと⋮⋮ギルドを出て大通りを左にまっすぐ向かうとありま
すよ﹂
ワイル
﹁そうですか。後で行ってみます。ところで、清算おわりました?﹂
ワイルドドック
亮真の問いに彼女は自分の仕事を思い出した。
ドビー
ワイルドラビット
﹁あ! ごめんなさい。野犬の討伐数54×3で162バーツ。野
蜂の討伐数91×3で273バーツ。野兎の討伐数22×3で66
クリアポイント
バーツ。合計で501バーツ。達成値はそれぞれ討伐数とイコール
アイ
なので達成値は167ポイントです。おめでとうございます。御子
柴さん。ダブルIランクへ昇格ですね﹂
︵昨日登録して、もう次のランクに上がるのか⋮⋮︶
亮真は正直あまり嬉しくなかった。
別段苦労もしていないのだから当然の感想と言えた。
﹁あまり嬉しくなさそうですね?﹂
感情が表情に出ていたのだろう。受付嬢の質問に亮真は正直に答
えた。
﹁そんな事も無いんですが、あまり苦労しなかったので。正直⋮⋮﹂
﹁そうですねぇ。その辺は2パターンに別れますね。登録前にある
程度の訓練をされた方とだと、Gランクぐらいまでは1週間ほどで
上がっちゃいますからね﹂
﹁そうなんですか?﹂
176
アイ
﹁ええ。逆にまったくの素人の方がなる場合はダブルIランクに上
がれるかどうかが一つの山場ですよね﹂
﹁ふぅん。そうなんですか⋮⋮﹂
モンスター
亮真は気づかなかったが、初心者が一番引っかかるのは1対集団
の場合だ。
森に居る怪物の多くは集団で生活している。
パーティー
狩りをする場合、当然集団を相手にしなければならなくなる。
パーティー
そこでギルドでは隊の結成を推奨するのだが、必ずしも全ての人
間が隊を組めるとは限らない。
クエスト
実力が離れすぎていたり、考えが合わなかったり、目的に沿わな
パーティー
かったりと様々な理由で一人で依頼に出るものも多いのだ。
そして、隊に入りにくい一番の人間が初心者と言う事になる。
その中でも特に、何も訓練を受けていない初心者は嫌われる。命
のやり取りをする中で、弱者が居ると言う事は経験者の命まで危険
に晒すからだ。
パーティー
クエスト
そんな訳でギルドに登録した直後の初心者の多くは、同じ初心者
モンスター
森に居る怪物の多くは集団
モンスター
同士で隊を組めると言う幸運に恵まれた者以外は、一人で依頼を行
わなくてはならなくなる。
ということだ。
ここで問題となるのが先ほど言った
で生活している
一対一の場合なら素人でも問題なく倒せる怪物も集団となれば話
は別だ。
モンスター
前後左右あらゆる方向を警戒しながら戦わなくてはならない。
そのため殆どの初心者は、ハグレと呼ばれる一匹で行動する怪物
を探して戦う事になる。
但しこのハグレに遭遇する確立は非常に低い。丸一日森を這いず
り回って二∼三回遭遇すれば幸運と言えた。
177
結果、受付嬢の言った二パターンに分かれるわけだ。
一対一でしか戦う実力の無い者は必死で森を探索し、一対多で戦
える者は、亮真のように数日でランクアップを果たす事になる。
ちなみに配達系の仕事のみでランクアップする事も出来るが、こ
れは推奨されない。
なぜなら実戦における力を身に付けること無くランクアップすれ
ば、待っているのは死のみだからだ。
﹁ところで御子柴さん、こんなに討伐されたって事は相当に皮とか
牙とか貯まったんじゃないですか?﹂
マジックアイテムショップ
﹁ええ。解体するのに手間取りましたけどね。これから魔法道具屋
へ持ち込むつもりなんですけど﹂
クエスト
﹁なら調達系の依頼を先にやってしまいませんか?﹂
﹁調達系ですか⋮⋮?﹂
彼女の意外な言葉に亮真は首をかしげた。
マジックアイテムショップ
﹁はい。魔法道具屋へ持ち込むより金額は減りますけど、先にラン
クアップを果たしたほうが後々得なんですよ?﹂
﹁へぇ、そうなんですか?﹂
彼女の言葉に亮真は興味を持つ。自分の利益には敏感な男だ。
クエスト
﹁はい。依頼は自分のランクと同じかそれ以下を受けられる事はご
存知ですよね?﹂
178
ギルドへ登録したときに聞いた話だ。
﹁ええ、それが?﹂
クリアポイント
﹁実は、自分のランクより下の依頼を受ける場合は、達成値が0に
なる代わりに報酬が二倍になるんですよ﹂
これは新情報だ。︻ギルド初心者案内︼にも記載は無かった。
﹁え!?﹂
クエスト
﹁なので実力のある方はどんどんランクアップして、自分のランク
より下の討伐系依頼を数多くこなす方がお金になるんですよ﹂
﹁なるほど!﹂
︵ならランクアップも悪くない。せっかくだし上げてしまうか︶
﹁判りました。受付カウンターは1階でしたよね?﹂
﹁ええ。階段上がって正面です﹂
亮真は軽く頭を下げ、足早に階段を上っていった。
クエスト
﹁はい。調達系依頼を受けられるのですね?﹂
ワイルドワ
ドイ
ッル
クドワ
ビイ
ールドラビット
﹁ええ。野犬野蜂野兎の討伐で取得できる材料を納める依頼を全部
お願いします﹂
179
クエスト
ワイルドドック
受付のカウンターに居た青年は、慣れた手つきで次々と依頼の説
明をする。
ワイルドビー
﹁ええっと。それぞれ収めていただく材料1個当たり、野犬の牙が
ワイルドラビット
クリアポイント
2バーツ、皮が5バーツ、野蜂の毒針が2バーツ、羽が5バーツ、
野兎の耳が1バーツ、皮が5バーツですね。達成値は納品1つに対
して1ポイント。期限は特にありません。引渡しカウンターで品物
を渡してくだされば終了です﹂
﹁それでお願いします﹂
﹁かしこまりました。よろしくお願いします﹂
受付カウンターを後にした亮真は再び地下の受け渡しカウンター
へと向かった。
﹁依頼受けられました?﹂
﹁ええ。とりあえず全部受けてきました﹂
亮真がそう言うと、受付嬢は困った顔をした。
﹁え? 全部受けてきたんですか﹂
﹁え? 不味かったですか﹂
エイチ
クリアポイント
﹁いえ。でも御子柴さんがお持ちの材料を全部納品するとシングル
Hへランクアップされても達成値が余りますよ?﹂
そこで亮真は気がついた。
180
エイチ
クリアポイント
マジックアイテムショップ
シングルHへランクアップしてしまえば達成値は0になってしま
クリアポイント
う。
達成値が得られないのならギルドに納品するより魔法道具屋へ売
った方がお金になるのだ。
︵まぁいいか⋮⋮腹は減るし時間も時間だしな⋮⋮鍛冶屋に剣を研
ぎに出してからメシ食べて宿屋を探せば二十二時近くになる︶
ギルドの壁に掛かった時計は夜の二十時を過ぎた辺りを指してい
た。
クリアポイント
﹁今回は良いです。全部こちらで納品します﹂
クエスト
クリアポイント
依頼の破棄も可能だが、破棄すると達成値が下がるのでややこし
い事になる。
うまく数を調整して納品すれば無駄なく達成値を稼げたが空腹に
は勝てなかった。
﹁判りました。ではこちらに納品物を置いてください。﹂
亮真は背負ってきたリュックの中身をカウンターの上に広げたの
であった。
﹁ふざけるな!﹂
ギルド1階の受付カウンターに男の怒声が響く。
クエスト
﹁こっちは命がけで依頼を果たしたんだ! それなのに金が払えな
いってのはどういうことだ!﹂
181
クエストを
エイチ
亮真は調達系依頼終わらせランクをシングルHに上げた。
食事へ行こうと亮真が1階へ上がって来たところに其の男は居た。
髪を肩より下で束ね、鉄の鎧を纏った大男が怒鳴り散らしている。
相手をしているのは、先ほど亮真の依頼処理を行った青年と中年の
男性だ。
﹁ですから! 先ほどから申し上げているとおり、討伐対象が違う
以上報酬はお支払いできませんし、依頼期間を過ぎているので違約
金のお支払いをお願いします!﹂
ひ弱に見えた青年が毅然とした態度で大男に言い放つ。
﹁何をぬかしやがる! こちとら必死で探索してようやく見つけた
んだぞ!?﹂
﹁ゴラエスさん、だから私は言ったじゃないですか! きちんと確
認しないと不味いですよって!﹂
中年の男が言い出した。
﹁なにおぅ! テメエは監視員だろうが!﹂
青年は首を振りつつ言った。
﹁ゴラエスさん。あなたは傭兵としては非常に高い評価を得ておら
クエスト
れます。しかし冒険者としての力量はいまいちのようですね。今回
あなたは依頼︻紅月団︼の討伐を受けられました。しかし探索に手
間取り十分な調査をしないまま、たまたま見かけた盗賊を討伐され
た﹂
182
青年は中年の男に目をやった。
﹁ギルツさんも注意された様に、きちんと調査をするべきでしたね。
今回ゴラエスさんが違う盗賊を討伐されたのは間違いありません。
つい先ほど︻紅月団︼により近隣の村が襲われ若い娘さんが数人攫
われたとの情報が入ってきています﹂
青年の視線がゴラエスを貫く。
﹁もちろん此の被害の原因がゴラエスさん、全てあなたの所為だと
は言いません。でもきちんとあなたが対応していればひょっとした
ら今回の被害は防げたかもしてません! その辺を考慮の上でまだ
ギルドの対応にご不満ですか?﹂
すんてつ
まさしく寸鉄人を刺すだ。
あれほど息巻いていたゴラエスがだんだんと肩を落としていく。
さほど頭が悪いわけではないらしい。
少なくとも、自分の非を悟る知性と度量はあるようだ。
﹁くぅ⋮⋮すまねぇ⋮⋮判った⋮⋮違約金も払う﹂
ここで青年の顔も弛んだ。
﹁すみません。ゴラエスさん。少し言葉が過ぎました。あやまりま
す﹂
青年はゴラエスに頭を下げる。
﹁悪いのはこっちだ。すまねぇ⋮⋮ランクが低めだったんで受けた
が、やっぱり傭兵に冒険者の真似は無理か⋮⋮違約金は口座から引
183
き落としてくれ﹂
ゴラエスはそういい残すと、肩を落としてギルドを去っていく。
クエスト
︵依頼ってのは他人の人生が掛かるのか⋮⋮︶
たまたま目の前で起こったこの事件は亮真の心に強い衝撃を与え
た。
クエスト
亮真は自分の甘さを痛感したのだ。
クエスト
どこかで依頼を現実離れしたゲームの中の出来事だと思っては居
なかったか?
だからさっきのように依頼を破棄すれば良いなどと軽く思ったの
ではないだろうか?
亮真の視線に気がついたのか、青年はこちらに近寄ってきた。
クエスト
﹁御子柴さん。どうされました?﹂
クエスト
﹁あぁ、いえ、調達系の依頼を終えたので今日は宿で休んで、明日
改めて依頼を探しに来るつもりでした﹂
さっきまでの厳しい表情とは打って変わってにこやかに話しかけ
てくる青年にやや気押されながら亮真は言葉を返した。
﹁なるほど。それでさっきの場面に出くわしたと。びっくりされま
したか?﹂
﹁ええ⋮⋮そのとおりです﹂
﹁意外と多いんですよ。あぁいうこと﹂
184
青年の顔が曇る。
クエスト
﹁依頼の未達成ですか?﹂
﹁ええ。本人の特性や経験を自分で把握できないと今回のゴラエス
さんのようになりますね。あの人も優秀な傭兵なのですよ。だから
パーティー
戦闘技術に関しては何の問題も無いのです。しかし調査や探索に対
しての意識が無かった。それこそ他の冒険者と隊を組むという選択
も有ったんですけどね﹂
﹁なるほど。自分で出来ないなら出来る人間を仲間にしろというこ
とですか?﹂
亮真の返事を聞いて青年の表情が緩む。
﹁フフフ。あなたは素直だし賢い。今後も頑張ってくださいよ?﹂
﹁はい。ありがとうございます﹂
青年は亮真へ微笑みかけるとその場を離れようとしたが、何かを
思い出したかのように足を止めて振り返った。
﹁ああっ!そうだ。先ほど話しに出た︻紅月団︼ですがメルフェレ
ンからアルー間の街道や村々を縄張りにしています。もしそちらの
方面に行くなら注意してくださいね﹂
去っていく青年の背を見ながら亮真は考え込んでしまった。
︵アルー方面に盗賊が出るだと⋮⋮︶
アルー方面。それは帝都から東部方面国境までの街道沿いの町の
一つであり、亮真が次の目的地としている町の名だった。
185
﹁ダメだなこりゃぁ! 買いなおしたほうが安いぜ、アンチャンよ﹂
教えられた鍛冶屋で研ぎを依頼しようと剣を渡した亮真に、鍛冶
屋の親父は言い放った。
﹁ぜんぜんダメですか?﹂
﹁ああ。あんた一体どういう使い方をしたんだい? 刃は完全に丸
まっちまって、これじゃタダの棒だぞ?﹂
︵まいったな⋮⋮まさか一日で使い潰すなんて⋮⋮︶
亮真は確かに普通の人間よりは刃物の扱いには慣れている。
だが、日常ではそう何度も刃物で肉を切る経験など持つわけも無
い。
﹁ええっと⋮⋮狩りで使ったんですが⋮⋮﹂
﹁こんなに血脂で曇ってしかも刃がこんなに丸まって。あんた一体
何日手入れをしてないんだよ?﹂
﹁今日一日なんです。昨日買った新品なんです⋮⋮それ﹂
亮真の言葉に鍛冶屋の親父は目をむく。
﹁バカいえ。こんな状態になるなんて、十や二十斬っただけじゃこ
んなにはならんぞ? それこそ百は超えなきゃ⋮⋮﹂
186
だが、鍛冶屋の親父は亮真の顔を見て悟った。
﹁冗談じゃ⋮⋮ないみたいだな﹂
﹁ええ﹂
ちゅうぞう
﹁悪いがウチじゃぁ此の剣より良い物なんてないぜ? ウチは鋳造
専門でな﹂
それは亮真が店に入ったときに既に判っていた事だ。
﹁まぁ剣は良いです。手頃なの1本ください。それよりこれは研い
でもらえますか?﹂
チャクラム
そういうと亮真は脂で曇った戦輪十枚を差し出した。
﹁何だコリャ? これも刃物かよ?﹂
﹁縁が刃になっています﹂
チャクラム
初めて見たのだろう。親方は興味深そうに戦輪を手に取る。
﹁まぁこれはそれほど酷く無いな⋮⋮何時までに仕上げればいいん
だい?﹂
﹁出来れば明日の朝頃までに﹂
﹁そうだなぁ、一つ一時間掛かるとして明日の十時頃までで良けれ
ば引き受けてやるよ﹂
187
︵十時か。まぁ少し宿屋でゆっくりして、ここに寄った後ギルドに
行くか⋮⋮︶
﹁判りました。それでお願いします。お幾らですか?﹂
クエスト
﹁そうだなぁ⋮⋮剣も買ってくれるっていうし、四百バーツでどう
だ?﹂
クエスト
今日一日で二千バーツ近くを調達系の依頼と討伐系の依頼の達成
で稼いだ亮真にとってさほど問題になる金額でも無い。
︵帝都の鍛冶屋で買った剣より安いのは鋳造式の剣だからか⋮⋮︶
﹁判りました。明日十時にお伺いします﹂
そう言うと、半金を支払い亮真は鍛冶屋を後にする。
︵とりあえずはメシだな⋮⋮︶
空腹を抱えて亮真はメルフェレンの町へ消えて行った。
188
第1章第16話︻救出︼其の1
亮真が異世界へ召喚され三日目を迎えた。
時刻は正午ごろ。亮真はアルーへ向かう街道を歩いていた。
︶
この日亮真は少し遅めの起床し朝食を取った後、鍛冶屋へと向か
い研ぎに出した武器を受け取った。
︵盗賊団か。出会わなければいいがな⋮⋮
クエスト
アルーへ向かう前に依頼を受けにギルドへ出向いたときの事を亮
真は思い出していた。
クエスト
﹁さぁ! 腕に覚えのある人は是非此の依頼を受けてくれ!﹂
昨日受付の青年にギルツさんと呼ばれていた中年がギルド前に立
てた掲示板の前で大声を張り上げる。
人ごみを掻き分け亮真は掲示板に張り出された紙を見た。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 告
とうばつパーティー
メルフェレン∼アルー間に出没する盗賊団︻紅月団︼の討伐隊を編
成する。
条件:
盗賊団︻紅月団︼の殲滅。
必ず全員を殺害または捕獲する事が絶対条件。
報酬:
189
報酬は盗賊団員1名に対して5万バーツ。
確認されている団員は8名。
とうばつパーティー
ただしそれ以外でも盗賊団員を認めれば一名に対して五万バーツの
報酬を払う事とする。
盗賊団が所持している財宝および所持金に関しては、討伐隊の副収
クリアポイント とうばつパーティー
入とし良い事とする。
達成値は討伐隊全員へ五十ポイントを依頼達成報告時に加算するも
のとする。
とうばつパーティー
期間;
討伐隊編成から半月以内とする。
エフ
募集要項;
シングルFランク以上の者で以下の能力を保有している事。
戦士、法術士︵どの系統でも可︶どちらでも可とする。
傭兵経験を持つ者︵十分な戦闘経験が有るならば冒険者でも可︶
募集人数:六名
探索および調査能力を持つ者︵十分な探索経験が有るならば冒険者、
傭兵共に可︶
※戦闘能力を持つ者は優先して採用。
募集人数:4名
承認者:メルフェレン ギルド支部長 アクレス・レキーネ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
張り紙を見た亮真の耳に周りの男達の話し声が聞こえてきた。
190
﹁おい、一人倒せば五万だとよ! 八人で四十万だぜ! それにお
宝も討伐したヤツの物ってか!﹂
﹁うひゃぁ。ギルドもえらい奮発したな?﹂
メンツ
﹁仕方がねぇよ。ゴラエスが失敗したらしいからな⋮⋮ギルドとし
岩砕き
のゴラエスがか?﹂
ても面子が有るんだろうぜ﹂
﹁なに!? ﹁ああ。何でも別の盗賊団を始末して来たらしい﹂
﹁は! 調査もしないで討伐に行ったのかアイツ。馬鹿だねぇ⋮⋮
まぁアイツならそんなもんか! 強いのは強いがオツムの方は空っ
ぽだからな﹂
﹁おいおい。ゴラエスに聞かれたらお前の首なんざぁ引きちぎられ
るぞ?﹂
﹁おおっと⋮⋮口が滑ったぜ⋮⋮﹂
周りの男達も傭兵や冒険者のようだ。
︵ゴラエスさんも大変だな。そぅ悪い人でもなかったみたいだけど
⋮⋮︶
男達の心無い批評を聞きながら亮真はギルドの中へ入っていった。
はいたつけいクエスト
﹁大変申し訳ないのですがメルフェレン∼アルー間の配達系依頼は
全て停止とさせて頂いています。緊急の配達などもあるのですがこ
191
ちらはEランク以上の方のみとなっていまして御子柴さんへはご紹
介出来ないんです﹂
受付カウンターに居た女性は亮真にそう告げて頭を下げた。
﹁例の盗賊団ですか?﹂
﹁えぇ。ギルドとしては今回の失敗で大きく威信を損ないましたか
ら⋮⋮領主様や警備隊の方からもねじ込まれまして⋮⋮あ! ごめ
んなさい。今のは忘れてください﹂
とうばつけいクエスト
とうばつけいクエ
﹁いえいえ、それは良いんですが。それじゃぁ何か俺でも受けられ
る依頼ってありますか?﹂
スト
クリアポイント
﹁そうですねぇ。Iランクの討伐系依頼三種とHランクの討伐系依
頼ですかねぇ。現状だと﹂
クエスト
﹁Iランクの依頼って上のランクの人が受けると達成値は0だけど
報酬は二倍なんですよね?﹂
﹁ええ。そのとおりです﹂
﹁あと、期限に関してなんですけど?﹂
とうばつけいクエスト
﹁Bランク以下の討伐系依頼は原則期限はありませんよ﹂
﹁あぁ、そうなんですか?﹂
クエスト
﹁ええ。だからBランク以下の討伐系の依頼に関しては受けておい
たほうがいいですよ?﹂
192
エイチ
とうばつけいクエスト
﹁ならシングルHで受けられる討伐系依頼全部受けます﹂
﹁判りました。ではこちらをご覧ください﹂
とうばつけいクエスト
そういうと彼女は一冊の本を差し出した。
﹁これは?﹂
エイチ
エイチ
﹁Hランクで受ける事の出来る討伐系依頼の一覧と討伐対象名、報
エイチ
酬額、生息地を表にした物です。Hランクで受けられる依頼は20
とうばつけいクエスト
存在しています。全てを口頭で説明するのは大変なのでHランク以
上の討伐系依頼をはじめて受ける際に一覧をお渡しするんです。よ
く読んでおいてください﹂
﹁はぁ⋮⋮判りました﹂
それほど厚みが無いのが唯一の救いだ。
︵ランクが一個上がっただけでそんなに変わるのか⋮⋮︶
﹁では依頼の方はカードに登録したので手続きは以上です。お疲れ
様でした﹂
受付嬢はそういうと頭を下げる。
亮真は渡されたカードと本を手にギルドを後にしたのだった。
うっそう
メルフェレンを後にして2時間ほど過ぎた頃だろうか。
街道は鬱蒼と茂った森の中を貫いていた。
馬車が三台以上すれ違えるほどの道幅あるため歩くには問題ない
193
が、森に目を向けると大木が生い茂りってる。
その所為で日の光が遮断され昼間と言うのにやけに薄暗かった。
しかも例の盗賊団の所為だろう。街道なのに誰も歩いていない。
今街道を歩いているのは御子柴亮真タダ一人だ。
︵おいおい⋮⋮嫌な予感がするんだけど⋮⋮︶
薄暗い森に挟まれた街道。兵を伏せるには絶好の場所だ。
当然、盗賊団が襲ってくるのにもちょうどいい場所でもある。
︵まぁ大丈夫だと思うんだけどな⋮⋮︶
亮真がアルー行きを決行したのは、帝国からの追っ手を意識した
からだ。
少しでも早く国境を越えてしまいたい。
だがそんな彼の思惑は、女の絹を裂く悲鳴の所為で崩れ去った。
﹁きゃぁぁああ!﹂
﹁うるせい! 静かにしねえか!﹂
﹁イヤ! 離して!﹂
﹁おとなしくしやがれ!﹂
丁度道が右へ大きく曲がる地点だ。亮真の死角になっていて状況
が見えない。
亮真は声のする方へ駆け出した。そして、街道の曲がり角にそび
える大木に駆け寄ると木陰からそっと覗き見た。
そこに居たのは襲撃を受けた馬車と複数の男達、それに少女が二
人。
﹁ククク、今日も大漁だなぁ。オイ。最近ツキがめぐってきたんじ
194
ゃねぇか?﹂
﹁まったくだ。昨日の村も意外と溜め込んでいたしな﹂
﹁女も田舎の村の割には悪くなかったな。尤も俺らには回ってこな
かったが⋮⋮﹂
﹁そりゃぁしょうがねえさ。売り払うのに犯したのと手付けてない
のだと値段がぜんぜんちがわぁ﹂
﹁年増ばかり相手にするのも飽きたぜ。やっぱこいつらみてえに若
いのじゃねえとな﹂
一人が仲間が捕まえている少女達を指した。
﹁ハハハ。違えねえや!﹂
かしら
﹁おい! 商品に手を出すんじゃねぇぞ。頭領に殺されるぜ?﹂
金髪の少女を捕まえている男が仲間に言った。
﹁だがよぉ。これほどの上物だぜ?﹂
銀髪の少女を捕まえている男が言い返す。
﹁そうだぜ? それによ。ノルマはこの馬車の荷で十分じゃねえか
?﹂
馬車の中身を漁っていた男が出てきて言った。
あちこちから賛同の声が上がる。
195
彼女達ほどの美女を前に押さえが効かなくなってきているのだ。
﹁私達に手を出したら舌を噛みます!﹂
男達の話を聞かされ遂に我慢できなくなったのか、銀髪の少女は
毅然と叫んだ。
だが、男達の笑みは消えない。
﹁ハッ! 俺達はお前ら奴隷が其の首輪で自殺できない事も、反抗
できない事も知ってるんだよ!﹂
少女達の顔が真っ青に引きつる。
まさか盗賊たちが其の事を知っているとは思わなかったのだろう。
男の言うとおり首輪に付与された力が彼女達の行動を阻む。
自殺する事も反抗することも、彼女達奴隷には許されない事だっ
た。
﹁でもまぁ念のためだ。オイ、2人に布でも噛ませておけ﹂
﹁止めて。放して!﹂
二人は必死で男達の手を振りほどこうとするが、純粋な腕力で敵
うはずも無い。
﹁オイ! あんまり聞き分けが無いと、向こうの女がどうなるか判
らないぞ?﹂
抵抗した銀髪の少女が、もう一人少女に剣が突きつけられている
のを見て観念したのか、おとなしくなった。
196
﹁しかし、お前らのご主人様も薄情だよなぁ? 俺らに襲われて自
分だけ護衛とトンズラだもんな﹂
銀髪の少女に脅しをかけた男が彼女達をあざ笑う。
﹁ゲイツよ。そりゃぁしょうがねえんじゃないか? 俺ら︻紅月団︼
に狙われて命があるだけましよ﹂
﹁ちげえねえ!﹂
ゲイツと呼ばれた男が高らかな笑い声を上げた。
﹁オイ!これ見ろよ。五百万バーツはくだらねえぞ!﹂
幌の下か持ち出した品を物色していた男が叫んだ。
﹁うおぉぉ。信じられねえ。本当に五百万はあるぞ⋮⋮﹂
﹁これ全部金貨かよ⋮⋮﹂
コイン
雑貨類や衣装、宝飾品と言った物が詰まった箱の他に、貨幣の詰
まった箱が一つ。
中は殆ど金貨ばかりだ。それを見た男達の顔が厭らしく歪んでい
く。
﹁なあ、こんなに稼いだんだったら、この女共は好きにして良いん
じゃねえか?﹂
﹁おう。俺もそう思うぜ⋮⋮金貨に宝石類。こんなにあるんだ。先
におこぼれを貰ったってかまわないだろうよ﹂
197
かしら
﹁だが頭領にばれたら⋮⋮﹂
心配そうな表情を浮かべる男にゲイツは歪んだ笑みを浮かべて言
い放った。
﹁なぁに。犯した後で二人とも始末すればいいじゃねえか? どう
せ獲物に女奴隷が居たかどうかなんて俺ら以外には判らねえんだぜ
?﹂
ゲイツの言葉を聞き男達の顔にも厭らしい笑いが浮かんだ。
︵一・二・五⋮⋮七人か⋮⋮︶
大木より十メートル程先に男達は居た。
男達の服装は街中でみた傭兵や冒険者と大差ない。鎧を着、武器
を持っている。
だが、其の顔に浮かんでいるのは残虐な捕食者の顔だ。
他者を犯し、傷つけ、奪い、殺す。
自分達が強者であるとゆう驕りと自信。彼らの顔にはそれらが陰
のようにこびりついていた。
︵醜い面をしてやがる⋮⋮︶
亮真は十六年の人生の中で、これほど欲望に歪みきった醜い顔を
見たことが無かった。
︵どうする、助けるか?⋮⋮でも。ここで面倒に関わるのは不味い
⋮⋮︶
亮真は躊躇した。
︵ここで彼女達を助けても何も面倒は起きないかもしれない。だが。
起きるかも知れない⋮⋮。助けるなら七人全員を確実に始末しなけ
れば⋮⋮一人でも逃がせば援軍を連れて仕返しに来るだろう。でき
198
るか?この距離で彼女達を盾に取られれば俺に打つ手は無い︶
助けるべき理由。助けるべきではない理由。自分の保身。自分の
正義。帝国の追手。いくつもの要素が脳裏を駆け巡る。
そんな亮真の耳にゲイツの下卑た言葉が届いた。
亮真の顔に怒気と殺意が浮かぶ。
︵俺は何を悩んでいるんだ。こんな連中を生かしておいていいのか
?︶
正直な気持ちだ。
︵俺がここでコイツらを見逃して仮に元の世界に帰れたとしてそれ
で良いのか?俺はそれで納得できるか?︶
この訳の判らない異世界へ無理やり召喚され、元の世界に帰る為
にはどんな手段だって取るつもりだった。
この国の民全ての命と引き換えで帰れるのなら、引き換えても良
いとさえ思っている。
だが、それでも目の前の女の子が犯され殺されるのを黙ってみて
いる程、割り切れては居なかった。
︵俺の両手は血に染まっている。別にそれが悪いとは思わない。無
理やりこの世界に引きずり込み、死ぬまで戦わせようとした連中の
命など俺にとってゴミみたいなもんだ。元の世界に戻ってこのこと
で批判されたって俺は堂々と言える。﹁必要だから殺したんだ!﹂
と、だが彼女達を見殺しにして同じ事が言えるか?⋮⋮無理だ! 他人がどうのじゃなく俺自身が俺を許せねえ︶
目的のためには冷徹で冷酷になれる亮真も、基本的には善良な人
間と言う事だ。
世間一般の常識や正義感を持ち合わせて普通の人間。
唯一違うとすれば、それは覚悟だけだ。
相手を殺してでも其の正義を貫こうと言う覚悟だけが、普通とは
チャクラム
違うかも知れない。
亮真は戦輪を袋から掴み出すと、奇襲を掛ける為に最適なポジシ
199
ョンへと森の中を駆ける。
もし奇襲に失敗すれば人数上圧倒的に不利だ。それに今回は顔を
隠してない。
仮に一人でも逃がせば援軍を引き連れて仕返しに来るのは目に見
えている。
︵成功の確率を上げるにはしょうがねえか⋮⋮悪いな︶
亮真は心の中で危機迫る彼女達へ謝罪した。
200
第1章第17話︻救出︼其の2︵前書き︶
今後ともよろしくお願いします。
201
第1章第17話︻救出︼其の2
異世界召喚3日目昼
亮真は南側の森の中に居た。
少女達と男達の姿が全て視界に入る位置だ。
距離にして十メートル程だろうか。
木の枝と葉に遮られ街道の男達からは亮真の姿が見えない。
︵あいつら⋮⋮こんな街道のど真ん中で犯すつもりかよ︶
亮真は始めどこか場所を移すのではないかと考えていた。
だが、連中は街道の真ん中でヤル気らしい。
馬車を襲ってからかなり時間が経っているのも関わらずまるで気
にしていない。
いくら人気の無い森の中の街道とはいえ異常と言って良いほどの
ケダモノ
自信だ。
︵獣共が⋮⋮︶
亮真は彼らに嫌悪感を持つのと同時に、ある種の違和感を覚えて
いた。
だが、それらを全て振りほどき、亮真はタダ静かに待つ。
猛る怒りと殺意を抑えながら。
その時を⋮⋮
かしら
﹁よぉし。決まりだ! この事はここだけの秘密だ。頭領にバレれ
ばここに居る全員が殺されるんだからな!﹂
ゲイツの言葉に男達は一斉に頷いた。
202
﹁よし。ならこの金髪から犯そうぜ!﹂
金髪の少女を抱え込んだ男が言った。
﹁俺はこっちの銀髪だ!﹂
男達は好き勝手な事を言い出した。
﹁おい? ゲイツどうするよ?﹂
﹁あぁん? 好きにすればいいじゃねえか? まぁ俺はこの銀髪の
初物をいただければそれでいい﹂
﹁あ! ゲイツ。何テメエ勝手なことを言ってやがる! そいつの
初物は俺のモノだぞ!﹂
よほど餓えているのか、醜い言い争いを行いながらもようやく順
番を決めたらしい。
﹁おい!最後のヤツ。オメエらは見張りだ。まぁギルドの討伐部隊
は編成中らしいし、まだ帝国軍も動いてねえから心配は無いが、ま
たカモが来ないとも限らねえ。しっかり見張るんだぜ! 二番手は
しっかり女共の手を押さえつけてろ!﹂
ゲイツの指示に男達が従った。
︵アイツが集団のボスか︶ チャクラム
いよいよだ。
戦輪を掴んだ腕に力が入る。
﹁よし!﹂
203
ひたたれ
男達は一物を取り出すためにつけていた直垂とズボンを膝まで下
ろす。
︵いまだ! 死ね!︶
チャクラム
押さえ込まれた少女達に男達の体が覆いかぶさった瞬間、亮真の手
から戦輪が風を切り裂いてゲイツと呼ばれる男を目掛けて飛んでい
く。
﹁ぐはっ⋮⋮﹂
チャクラム
亮真の手から放たれた戦輪がゲイツの無防備な後頭部へと吸い込
まれ、ゲイツが少女の体に倒れこむ。
それを視界に納めながら亮真は2枚目3枚目を次々に放ち、森の
中から飛び出した。
チャクラム
狙いは少女達を押さえつけている男達だ。
﹁ぐぇぇぇl﹂
﹁ぎゃぁぁぁ!﹂
チャクラム
チャクラム
二枚目の戦輪は男の喉へ、三枚目の戦輪は男の眉間へと吸い込ま
れていく。
しかし四枚目の戦輪は狙った男が咄嗟に伏せた所為で、その頭上
を飛び越えていってしまった。
︵あと四人︶
亮真が少女達が犯されそうになるまで動かなかったのには理由が
ある。
それは武装の解除だ。
男が女性を犯そうとしたとき、ズボンを下ろす。
204
ひたたれ
今回のように直垂をつけていればそれと一緒に、腰の剣も外さな
くてはならない。
今回どうしても勝たなければならない亮真は、少女達の心の傷を
考えなくは無かったが、結局犯される寸 前まで待ったのだ。
しかし其の成果は十分に出た。
ひたたれ
初撃で集団の頭であるゲイツを倒された男達は連携を失った。
少女達を犯そうとした2名は直垂を外しズボンを膝まで下ろして
とっさ
いた。
咄嗟に戦闘体制を整えるなど不可能だ。
見張りとの距離がかなりある以上、亮真が最初に戦うべきは少女
達を抑える役をしている男達一人だ。
﹁なんだ? どうしたんだ?﹂
街道を見張っていた男達が異変に気が付き駆け戻ってくる。
﹁てめぇら何処を見張ってやがる! 襲撃だぁ!﹂
欲と恐怖で濁った目をした盗賊の一人が叫ぶ。
﹁何だテメエは!﹂
﹁ふざけやがって。︻紅月団︼をなめてるのか!﹂
怒声を上げながら駆け寄ってくる男達を無視して、亮真は少女達
の方へと駆け寄った。
﹁テメエ! 死にやがれ!﹂
チャクラム
戦輪を避けた男が、少女を押さえつけるのを止めて剣を抜く。
205
大きく上段へ振りかぶると渾身の力を込めて振り下ろした。
脇に構えられた亮真の剣が振り下ろされた剣の軌道に重なる。
ギギィン
鉄のこすれる音が響き火花が散った。
振り下ろされた剣。
振り上げられた剣。
勝ったのは振り上げられた剣だ。
男が狙ったのは亮真の頭だが、亮真が狙ったのは男の剣その物だ。
剣が手から弾き飛ばされる事こそ防いだが、男の右手は大きく後
方へ弾かれた。
グシュ。
水気を含んだスイカを叩ききるような鈍い音が響く。
亮真の剣は男の頭を叩き割った。
︵後三人!︶
だが、さすがに奇襲の効果も薄れてきた。
見張りに行っていた3人はしっかりと武装し、こちらの隙を伺っ
ている。
︵突っ込んでこねえか⋮⋮糞!︶
戦況はこう着状態に陥った。
三人の盗賊たちは武力だけなら亮真の敵ではない。
だが、巧みな連携を見せて亮真に隙を見せない。
亮真もまた剣を鞘に納め、腰貯めに相手の動きを待つ。
両者の間でにらみ合いが続く。
︵このままじゃ不味いな⋮⋮しょうがねえ勝負だ!︶
突然、亮真は構えを解くと、殺意を消した。
右手は剣を握ったままごく自然に脱力していく。
ほとばし
そして、亮真はゆっくりと盗賊たちのほうへ歩み始めた。
怒気と殺気が痛いほどに迸って居た今までとは裏腹に、その顔に
は何の感情も浮かんではいなかった。
まるで造り物の人形のように生気が感じられない。
206
﹁と⋮⋮止まれ!﹂
﹁何のつもりだ?!﹂
これは盗賊たちの虚を突いた。
体から力がぬけ、どう見ても隙だらけだ。
タダの一撃で殺す事が出来る。
そう思わせるほど亮真は無防備に見える。
一歩二歩⋮⋮
少しずつ自分達へ近づく亮真の姿に盗賊の一人が耐え切れなくな
った。
﹁ふ⋮⋮! ふざけやがって! 死にやがれ!﹂
大きく振りかぶった剣を亮真の頭上に落とす。
フッ
亮真の体が右側へ流れる。
ザシュ。
鮮血が盗賊の首から飛び散った。
﹁テ⋮⋮テメエなにをやりやがった?!﹂
人一人を切り殺し鮮血が顔に飛び散りながらも、まったく表情の
変わらない亮真に盗賊たちは恐怖を感じ始めた。
三人で連携していれば手を出す事は難しい。
だが、焦りと恐怖に縛られた盗賊に生き残る術はもはや無かった。
大きく振りかぶられた剣。
ザシュ
グシャ
207
ちぶ
盗賊のがら空きの胴を薙ぎ切った亮真は返す刀で最後の盗賊を袈
裟掛けに切リ捨てる。
最後の1人を斬り亮真は血振りを行って剣を鞘に戻した。
﹁ふぅぅぅぅ﹂
辺りを見回す亮真の口から深いため息が漏れた。
︵とりあえず何とかなったな⋮⋮︶
盗賊たちの死体の数を確認しながら亮真は思った。
﹁あ⋮⋮あの?﹂
背後から声が掛かる。
亮真が振り返ると銀髪の少女達が駆け寄ってきた。
﹁あ! お顔に血が﹂
銀髪の少女が自分が着ている服の袖で、亮真の顔の返り血を拭っ
てくれる。
﹁申し遅れました。私は姉のローラと申します﹂
﹁私は妹のサーラと申します﹂
銀髪の少女に続き金髪の少女が名前を告げた。
﹁あぁ、大丈夫だったかい?﹂
﹁はい。お助けいただきありがとうございました﹂
208
そう言うと彼女達は深々と頭を下げた。
﹁いや。俺のほうこそ怖い目にあわせて悪かったね。もっと早く助
けてあげられれば良かったのだけれども⋮⋮﹂
﹁いえ、此の身を汚される事が無いだけ良かったです﹂
﹁妹の言うとおりです。どれだけ感謝しても足りません⋮⋮本当に
ありがとうございます﹂
サーラの答えにローラが頷くと再び姉妹は深々と頭を下げた。
﹁そう言って貰えると俺も助かるよ⋮⋮!﹂
亮真は改めて少女達を見て其のあまりの美しさに心を奪われた。
小麦色の肌に彫りの深い顔。
見事に引き締まった肢体に、女性を意識させる大きな胸。
アラブの踊り子を思わせる服を身にまとっているが、やけに首輪
と手枷足枷が目立つ。
︵こりゃあ。確かに盗賊共が血迷うのは無理もないか⋮⋮︶
だが、亮真は彼女達に違和感を感じていた。
︵どう言うことだ? この子達盗賊より強いぞ?︶
彼女達の筋肉のつき方、身のこなし、目配り。
どれをとっても武芸の心得があるようにしか見えない。
少なくとも、あんな盗賊達に犯されるような少女達には見えない
のだ。
﹁あのう⋮⋮? なにか?﹂
209
亮真の視線を感じたのか、ローラが尋ねてきた。
﹁あぁ、いやごめん。ちょっと考え事を。ところで姓はなんていう
のかな?﹂
﹁⋮⋮奴隷に姓などございません⋮⋮﹂
ローラの返事に亮真の顔が歪む。
首輪などをしているのでひょっとしたらとは思っていたが、この
世界では奴隷が存在しているようだ。
﹁あぁ。ごめん⋮⋮﹂
﹁いえ。お気になさらないでください﹂
そう言いながらも彼女達の顔には陰が浮かぶ。
三人の間に微妙な空気が流れた。
︵まいったな⋮⋮余計な事を聞いちまった⋮⋮︶
頭では判っている。
何か言わなくてはいけないことを。
だが、実際にこんな場面に遭遇する事など早々無い。
いくら考えても帰ってドツボにはまるような言葉しか浮かんでこ
なかった。
結局この空気を変えたのはサーラの一言だった。
﹁あのぉ。失礼ですがお名前をお伺いしてもよろしいですか?﹂
210
いろいろ考え事をしてつい名乗りが遅れた。
﹁あぁ、俺の名前は御子柴。御子柴亮真って言うんだ﹂
﹁御子柴様⋮⋮御子柴様。改めて御礼を言わせてください。この度
は本当にありがとうございました﹂
そう言うと、二人は改めて深々と頭を下げた。
﹁いや。それはいいんだけどこれからどうする?良ければアルーの
町まで送るけど?﹂
だが、二人の返答は亮真を驚かせるものだった。
﹁いえ⋮⋮申し訳ございません。私達はだんな様のご命令が無けれ
ばここを動けないのです﹂
あまりにも予想外な発言を聞き亮真の思考が停止する。
二人を見るがとても冗談を言っているようには見えない。
亮真は恐る恐る二人に尋ねてみた。
﹁⋮⋮それ本気か?﹂
﹁はい!﹂
2人はそろって首を縦に振る。
﹁その旦那様っていうのは何処さ?﹂
襲撃を受けて死んだ中に居るのかと思いあたりを見回したが、死
211
体の衣服から判断するとどうも居るようには思えない。
﹁襲撃の際に、護衛達と共にお逃げになりました﹂
サーラの言葉に亮真は愕然とした。
まさか逃げた主の命令を待つ気でいるとは思いもよらなかったの
だ。
﹁もう一度聞くよ? 旦那様ってのは君達を置いて逃げたんだよね
?﹂
﹁はい﹂
﹁君達はそれでも此処に残るの?﹂
﹁はい。旦那様のご命令が無ければ動けません﹂
︵おいおい⋮⋮本気で言ってるのかよ︶
正直に言ってかなりめんどくさい展開と言えた。
亮真にしてみれば早いところ町に送っておさらばしたい。
帝国の追っ手の件もある。
だが、彼女達が動かないと言う以上、町まで連れて行くのは不可
能だ。
︵まぁ、仕方がないか。とりあえず夜営の準備と食料だけ置いてい
くしかないな⋮⋮︶
二人の意思が変わらない事を知った亮真は、少女達へ指示を出す
と夜営の準備を始めた。
212
もちろんこんな森の中に二人を置いていくのは心苦しいが、何時
までも彼女達にかまっているわけにも行かない。
︵まぁ出来る範囲で助けてやろう︶
ローラ達には夜営の準備を指示し、亮真は盗賊と護衛と思しき死
体を運ぶ事にした。
だが、これが思わぬ事態を起こす。
2体目の死体を街道から数十メートル程入った森の中に横たえて
いた亮真の耳に、かん高い少女の叫び声が響く。
︵サーラの声だ!︶
必死で夜営地へと駆け戻ると、木々の隙間から鎧を血に染めた盗
賊の一人が、サーラを小脇に抱え馬上で叫ぶのが見えた。
﹁てめえら、タダで済むと思うなよ! 面は覚えてるんだ。何処ま
でも追いかけて必ず殺してやるぞ!﹂
︵クソッ! 確かに殺したはずなのに!︶
だが、いくら亮真が考えても現実は変わらない。
腹を切り裂いて殺したはずの盗賊がサーラを抱えて馬で逃げよう
チャクラム
としているのは間違いない。
亮真は腰の袋から戦輪を掴みだすと、盗賊へ向かって走り出した。
︵まだだ。まだ遠い︶
213
あせる気持ちとは裏腹に、木の枝に邪魔をされ思うように走れな
チャクラム
い。
戦輪は威力の高い武器だが一つ欠点がが有る。
弓ほどの飛距離は出ないのだ。
弓は有効射程百二十メートルを超えるのに対し、戦輪は有効射程
はせいぜい十メートルが良い所だろう。
コンパクトで連射が効く戦輪だが飛距離は決して良くない。
亮真が街道に出たときには、盗賊は馬を駆り既に数十メートル以
上離れてしまっていた。
﹁くそ!﹂
辺りを見回すが、馬はあの一頭だけだ。
もっとも、仮に有ったにしても亮真は馬に乗れないのだから意味
はないのだが。
﹁御子柴様!﹂
サーラを庇おうとして殴られたのか、ローラの口が切れて血が滲
んでいる。
﹁大丈夫だ。俺が必ず何とかしてやる!﹂
安心させようとした亮真の言葉にローラが首を振る。
﹁いえ。お願いがあります!﹂
﹁お願い?﹂
214
﹁はい。申し訳ないのですが御子柴様の左手の薬指に傷をつけて頂
けませんか?﹂
状況を理解しているとはとても思えないローラの言葉に亮真は疑
問を覚えた。
﹁何を?﹂
だが、彼女の表情は真剣そのものだった。
﹁お願いします。時間が無いんです﹂
あまりの迫力に亮真は言われるまま剣で左の薬指を少し切った。
﹁これでいいの?﹂
﹁はい!﹂
ローラは亮真の剣を借りると同じように左手の薬指を少し切ると、
亮真の前に膝を付いた。
﹁偉大なる契約の神ハーヴァよ。我が宣誓を聞きたまえ﹂
︵こいつは⋮⋮祈り?︶
﹁わが身、我が心、我が魂の全てを我が主に奉げん﹂
亮真の戸惑いをよそに言葉は続く。
﹁全ては我が主の御心のままに!﹂
215
﹁御子柴様。左手をお出しください。﹂
ローラの言葉に導かれるように亮真は左手を差し出した。
﹁我れらが血の交わりを持って盟約となす。﹂
ローラの宣言と共に2人の指は重なり合い血が交じり合う。
その瞬間、鋭い光がローラの首から迸った。
突然彼女の首輪が音も無く砕け散り、手足の枷が外れる。
﹁よし、いける。早く!﹂
ローラは全身の筋肉に力を入れた。
ふくよかな女性らしい肉体に下で絞り込まれた鋼の如き筋肉が盛
り上がるのが感じられる。
﹁ご主人様。力を使う事をお許しください﹂
そうローラは言い放った。
訳の判らない無い亮真は其の迫力に押され頷いてしまう。
それを見たローラは呪文を唱え始めた。
ウィンドプロテクション
﹁風の精霊シルフよ。我が求めに応じよ。汝が如き風の速さを我ら
に! 風速加護!﹂
ローラの叫びと共に緑の光が2人の体を包み込む。
﹁さぁ、ご主人様。サーラを取り戻しましょう!﹂
216
第1章第18話︵前書き︶
書けるときに書かないとまた何時仕事が忙しくなるか判らないので。
まだしばらくは不定期に更新することになります。
217
第1章第18話
異世界召喚3日目︻救出︼その3:
﹁取り戻すだって?馬に今から追いつける訳が⋮⋮﹂
サーらの言葉を聞き、亮真の視線がはるか彼方を見る。
盗賊の駆る馬は既に150Mは先を駆けていた。
﹁まだ大丈夫です。﹂
ローラはそう言うと再び詠唱を開始した。
ッシュ
ウインドスラ
﹁風の精霊シルフよ。我が求めに応じ。かの者を切り裂け。疾風斬
撃!﹂
呪文を唱え終わったローラが右手を横に振りぬくと、其の軌跡に風
の刃が生まれ盗賊の方へと飛んでいく。
フォン
風斬り音が盗賊耳に響く。
﹁な・・クソ!。なんで法術が使えるんだ!あのやろうも法術士だ
ったのか?!﹂
亮真の顔を頭に浮かばせながら必死で馬を駆る。
218
だが盗賊がいくら悪態をつこうと現実は変わらない。
2発目3発目・・ローラの腕が振られるたびに腕の軌跡に沿って風
の刃が生まれ盗賊へ向けて放たれる。
﹁ち・・畜生!﹂
次々と放たれる風の刃が遂に馬の後ろ足を薙いだ。
右後ろ足を突然断ち切られた馬は、その場に崩れ落ちる。
﹁さあ。参りましょう。﹂
馬を足止めすることに成功したローラは亮真の手を引く。
﹁おっ。オイ。﹂
ローラに手を繋がれたまま駆け出した亮真は直ぐに異変に気がつい
た。
亮真の体もまた羽が生えたかの様に駆け出した。
まさしく10秒程で盗賊の倒れこんだ場所まで駆けつける。
亮真は今駆け抜けた距離を見返して愕然とする。
︵こいつは⋮⋮あの爺が使っていたのと同じ力なのか?さっき彼女
が使った風。あれは間違えなく同じ
力だった。なら今のこれはいったい⋮⋮︶
﹁風の法術の力ですわ。ご存知ありませんか?﹂
亮真の顔に戸惑いが浮かんでいるのを察してローラに不信感が広が
219
る。
︵この人は一体・・・あれほどの武芸の腕を持っているのに法術の
知識が無いの?⋮⋮いいえ、そんなことはありえないわ。でも⋮⋮︶
この世界での強者と法術は密接な関係を持つ。
仮に法術が使えないとしても知識としては誰もが持っていて当たり
前のものだった。
亮真は返答に詰まっていた。
︵知らないとは言えない。だが余計な事を言えばボロがでる。どう
する!?︶
沈黙がその場を支配した。
﹁姉さま。﹂
サーラが声を掛けてきたことで、2人の間に横たわった微妙な空気
が一変した。
﹁怪我はない?サーラ?﹂
﹁ええ!きちんと受身を取ったから大丈夫。﹂
︵受身⋮⋮確かに可能かも知れないが、あれだけ疾走していた馬か
ら放り出されて無傷で居られるとは⋮⋮︶
この姉妹は亮真の想像通りかなりの使い手らしい。
220
﹁そう。ところでサーラ。盗賊は?﹂
﹁馬の体に足を潰されて動けないみたい。どうしたらいい?姉様﹂
﹁ご主人様に決めていただきましょう。﹂
二人の視線が亮真に注がれる。
﹁俺か?﹂
︵まぁ悩む必要は無いんだよな。︶
亮真にとって盗賊など生かしておく利点が無い。
﹁俺が決めていいなら決めちゃうぜ?﹂
2人が頷くのを見ると亮真は剣を抜いて馬の方へと近づいていく。
﹁ブルブブブル﹂
﹁クソ!足がぁ!どけこのバカ馬が!﹂
馬の嘶きと共に、盗賊の悪態と馬に蹴りを入れる音が聞こえてくる。
﹁て・てめえ・・﹂
亮真が近づいてきた事に気がついた盗賊の顔が引きつった。
﹁おい!来るな来るんじゃねえ!俺に近づくな!﹂
221
だが亮真の足は止まらない。
亮真の手に剣が握られているのを見て盗賊の顔が恐怖に歪む。
﹁な⋮⋮なあ?勘弁してくれよ。金か?金ならやるよ!それとも女
か?そっちもやる!﹂
だが亮真は無言で歩みを進めるだけだ。
﹁て!てめ!下手に出れば付け上がりやがって!俺ら︻紅月団︼は
団員30名だぞ!?﹂
亮真は盗賊の前でゆっくりと剣を振り上げた。
﹁ま。待て!俺らはただの盗賊じゃねえ!ザルーダの私掠部隊だ!
俺らに手を出せばザルーダ王国が黙ってねえぞ!﹂
散々盗賊のわめきを聞いた後、無言だった亮真の口が開いた。
﹁バカか?お前?﹂
﹁なに?﹂
今まで無言だった亮真の言葉に盗賊は思わず聞き返してしまった。
﹁お前を殺せば誰がお前達を殺したかなんで判らないじゃないか?
死んでからそのザルーダ王国とかに知らせるのか?﹂
亮真の当然の疑問に盗賊の顔が呆けた。
﹁死人は何も出来ないさ。それにどっちにしろお前達を生かしてお
222
く気は無いよ。﹂
亮真の言葉の意味がわかったのか盗賊の顔色が変わる。
﹁や⋮⋮やめろ。止めてくれ。俺には娘が!﹂
悪党の態度というものは小説も現実も大差が無い。
弱いものには噛み付き、強いものには哀れみをこう。
ライトノベルの主人公なら躊躇するかもしれないが、残念ながら亮
真はそんなに甘くなかった。
﹁子供が居ようとどうしようと関係ないね。﹂
顔色ひとつ変えずに言い放つ。
﹁やめ⋮⋮やめろぉぉぉぉ!﹂
男の顔が恐怖で引きつる。
ザシュ
盗賊の頭上に無慈悲な鉄槌が振り下ろされた。
﹁よろしいのですか?あっさり始末してしまって。﹂
﹁?なにか問題あったか?﹂
剣を鞘に納めた亮真にローラが声を掛けた。
どうやらこの姉妹で一番交渉事に慣れているのはローラらしい。
223
﹁いえ。ですがいろいろと聞くべき事が有ったのではないかと?﹂
﹁いや。正直に言ってあまり興味ないな。それにアイツの言葉が本
当かどうかの判断材料も無いしね。﹂
﹁判断材料ですか?﹂
ローラの顔に訝しげな表情がよぎる。
亮真は内心人を信じやすい子だなと思いながらそれを口にすること
は無かった。
実際亮真の考え方は人間不信に近いものがある。
﹁あんな盗賊の言葉を信じるほどお人よしじゃないだけさ。まぁ真
実を喋っていたとしても関係ないけどね。⋮⋮ところで妹さん、無
事に取り戻せて良かったよ。﹂
﹁ありがとうございます。ご主人様。﹂
そういうと姉妹は深々と頭を垂れた。
亮真は謝意を受け入れながらも先ほどから気になっていた疑問を口
にした。
﹁いや。それはいいけどさ。其のご主人様って何?さっきから気に
なってたんだけど。﹂
﹁先ほど私達と血盟を結んでくださったではありませんか?私達の
主人になられたのですからご主人様とお呼びするのは当然ですわ。﹂
亮真の顔に疑問譜が浮かぶ。
少し考えた後に亮真の脳裏に浮かんだのは先ほどローラの求めで斬
224
った指の血だ。
﹁血盟ってさっきのヤツ?薬指を切って血を混ぜた。﹂
﹁はい。﹂
するとローラの後ろに居たサーラが前に出てきた。
﹁ご主人様。私とも血盟を交わして頂けませんか?﹂
﹁そうね。ご主人様、サーラとも血盟を結んではいただけませんか
?。﹂
︵なんだこりゃ・・・どうなってるんだ?︶
次々と話が勝手に進んでしまい、亮真は1人置いていかれたような
格好だ。
亮真は思わず天を仰いでしまった。
﹁悪いんだけど勘弁してくれよ。というかローラも俺に仕えてくれ
なくていいよ。﹂
亮真の言葉がよほど予想外だったのか、姉妹の顔に悲しみが浮かぶ。
﹁そ⋮⋮そんな。私達がお嫌いですか?﹂
サーラの目に涙が浮かびローラの表情が曇る。
﹁いや。そうじゃなくて。﹂
225
﹁そうじゃなくて?﹂
姉妹が亮真を上目遣いで見上げてきた。
絶世の美女といってよい二人の視線は亮真の心を掻き乱す。
乱れる心を抑え亮真は受諾の言葉を飲み込み尋ねた。
﹁君達、旦那様を待つんじゃないの?ここで﹂
﹁血盟を結んだ以上、アイツの命令を聞く必要はありません。﹂
ローラがあっさりと言い放った。
﹁ただサーラは今もアイツの拘束呪で縛られているので、此処から
動く事が出来ません。ですからサーラとも血盟を結んで頂きたいの
です。﹂
﹁?てことは町に向えるの?﹂
﹁﹁はい!血盟を結んで頂ければ。﹂﹂
二人の首が盾に振られる。
︵しょうがないか。出来ればこの子達を此処においては行きたくな
いしな。︶
追っ手から逃れる身でありながら、色々と厄介ごとに巻き込まれる
自分が恨めしくて仕方が無かった。
しかし、助けられる手段があるのに見殺しにも出来ない。
亮真は大きなため息を一つついて言った。
226
﹁判った。とりあえず其の血盟ってのを結ぶよ。其の後は馬車の荷
物を整理して金目の物を持ってアルーの町へ向かおう。今から向か
えば20時頃にはつくはずだし。ただし街に着いたらどういう事な
のかきちんと説明してもらうよ?﹂
﹁かしこまりました﹂
安堵の笑みを浮かべた姉妹の声が森に響いた。
亮真はサーラとの血盟の後、馬車まで戻り盗賊達が並べていた品物
を点検した。
﹁おいおい。ずいぶん高そうな物ばかりあるな?﹂
金貨の詰まった箱の他に、サファイヤやルビーと言った宝石を散り
ばめた髪飾りや腕輪などが多数見つかった。
﹁奴隷を売るときに着飾らせるんです。そうすると見栄えが良くな
って高値で売れるんです。﹂
﹁ふぅん・・・﹂
襲撃された馬車の大きさを考えれば10人前後は奴隷が居たようだ。
﹁この金貨は私達の仲間を売り払った代金なんです。﹂
ローラ達姉妹と同じぐらい美しいのならば、其の代金としてこれほ
ど多量の金を運んでいたことも頷けた。
姉妹の目には売られた仲間を思い出したのか涙が浮かんでいた。
227
ガサ・・・ガサ・・・パキ・・・
話を遮るかの様に森の奥から木々を踏み分ける音が聞こえる。
﹁ローラ。サーラ!﹂
亮真の声に姉妹が用意していた剣を抜いた。
もちろん盗賊の死体から剥ぎ取った剣だ。
即席にしてはかなり効率のよい陣形だ。
モンスター
︵怪物か?それとも盗賊の残りか?︶
亮真の予想を裏切り聞こえてきたのは人間の声だった。
﹁旦那ぁ!此処ですぜ!﹂
森の木々を掻き分けて男が街道へ出てきた。
男は辺りを見回し、亮真と姉妹の存在に気がついた。
﹁おお!荷物は?商品はどうなっておる?!﹂
男の後に続いて鎧姿の男が3人現れた。
声は其の後ろから発せられた。
﹁どうやら盗賊共は逃げたようですぜ?荷物の方はダメなんじゃ無
いですかね?⋮⋮商品は大丈夫みたいですぜ?此処に居ます。﹂
﹁なに!?ローラ達め。生きておったか!どうだ?盗賊共に汚され
228
た様子は無いか?傷物にされていれば値が下がってしまう!﹂
﹁其の心配は無いみたいですが、ちょいと厄介な事になっているか
もしてませんぜ?﹂
男の視線が亮真達3人に向けられている。
﹁なに!?どういうことだ?﹂
﹁旦那ぁ。とりあえず安全なようですし、いい加減こっちに来て下
さいよ。﹂
﹁本当に安全なんだろうな?﹂
そう言いつつ草木を踏みしめる音が聞こえてくる。
︵人か?これ︶
亮真が思うのも無理なかった。
現れたのは身長170程、体重200Kgを軽く超えていそうな豚
だった。
力士に見られるアンコ型といわれるような、筋肉の上に脂肪を纏っ
た体型ではなく、日ごろの運動不足と暴飲暴食でひたすら脂肪のみ
が蓄積されたような体だ。
上半身裸で袖の無いベストを直接つけ、頭にはターバンを巻きズボ
ンは白いアラビアンパンツとアラビアンナイトに出てくる商人のよ
うだ。
︵コイツが奴隷商人か。これならローラ達を置いて逃げたのも納得
だな⋮⋮︶
229
亮真は目の前に現れた豚を見てある意味納得した。
おそらく奇襲を受けて直ぐに、なりふり構わず自分とその周りの護
衛だけ連れて逃げたのだろう。
そうでなければこの肥満体で盗賊達の刃から逃げられるとは到底思
えない。
﹁おお!2人共無事であったか。盗賊たちに汚され殺されたか、連
れて行かれたかと思ったぞ!﹂
そう言うと姉妹達に歩み寄ってきた。
﹁来るな!﹂
サーラの剣が奴隷商人に向けられる。
﹁近寄れば刺します!﹂
だが奴隷商人にも護衛の男達にも嘲りの笑みが浮かぶ。
﹁旦那ぁ。お嬢様がえらい強気ですぜ?﹂
﹁まったく。奴隷としての分際をわきまえぬな。しつけが甘かった
かな?﹂
﹁なぁお嬢さんよ。忘れちまってるかも知れないが、こちらに居る
旦那がお前達の所有者だ。お前達はこ
の方の持ち物。持ち物の分際で主に剣をむけるたぁどういうつもり
だ?﹂
230
﹁黙りなさい!もはや私達はお前達の所有物ではありません!﹂
﹁ガァハハハ。貴様ら勘違いしておるな?お前達はワシの物よ。大
事に5年も掛けて磨き上げた大切な商品よ。﹂
﹁貴方は私達を捨てて逃げたではないですか!﹂
﹁当然じゃ?商品に固執してワシが死んでは意味が無い。だが捨て
た商品がこうして元の場所に落ちて居るんじゃ。再び拾って何が悪
い?﹂
まったく悪びれる様子の無い奴隷商人と護衛に、亮真は怒りより嫌
悪感を感じていた。
﹁まぁまぁ。旦那ぁ。此処は俺達に任せてくださいよ。﹂
﹁そうですぜ。いくらあいつらが強くても主の居ない状態じゃ使え
やしません。﹂
どうやら連中はローラ達姉妹が力を使えるようになったとは考えて
いないようだ。
5対3。
奴隷商人を倒せば、後は何とかなる。
﹁あそこの若造がなにやら吹き込んだんで調子に乗ってるんでしょ
うよ。﹂
そういうと連中の視線が亮真へと向けられた。
﹁なるほどな、貴様が余計な事を言ったのか。白馬の王子様って訳
231
だ。まぁいい。盗賊の襲撃でこっちもだいぶ損害を出したしな。奴
隷は1人でも多いほうが良い。オイ!お前らあの若造も生け捕りに
しろ。なかなか良い体格をしておる。労働奴隷としてなら売れそ⋮
⋮グフ。﹂
チャウラム
奴隷商人の首にいつの間にか銀色に輝く輪が突き刺さっていた。
無言のままに亮真の手から放たれた戦輪が、奴隷商人の喉を切り裂
いて其の言葉を途絶えさせる。
周りの護衛達に動揺が走る。
︵バカが。しゃべり過ぎだ。︶
相手に明確な敵意を見せていながら喋り続けるなど亮真から見れば
愚かとしか言い様がない。
︵わざわざ攻撃される隙を作るようなものだろうに⋮⋮︶
亮真の心の片隅に死んだ豚に対しての嘲りが広がる。
だが今は戦闘中だ。
亮真は侮蔑の心を押し殺し今やらねば成らないことを行う。
﹁今だ!﹂
亮真の声に反応して横の2人が前に飛び出す。
ローラとサーラが亮真の脇をすり抜けると、動揺し臨戦態勢を取っ
ていない護衛たちに襲い掛かった。
︵思ったとおりだな。︶
亮真の想像したとおりの結果が目の前に広がる。
232
姉妹の剣にはそれぞれ特徴があった。
ローラの剣は力の剣。
高速で振るわれる剣が振りかぶった相手の剣と激突した瞬間、相手
の剣を根元から折れ飛ばし、そのままの速度で男の頭部へと吸い込
まれる。
サーラの剣は技の剣。
突きかかってくる相手の剣を巻き込んでそのまま相手の喉を貫く。
﹁な、なんだテメエら⋮⋮なんで力が!﹂
一瞬の隙を突いた攻撃を受け瞬く間に護衛達は姉妹の剣に切り捨て
られる。
一番初めに街道へ出てきた男だけが亮真の前に残っていた。
﹁フンッ!﹂
姉妹の目が冷酷な光を放ち生き残った護衛を貫く。
﹁ま、まてよ⋮⋮オイ。﹂
ようやく自分の置かれている状況が理解出来たのだろう。
男の顔に焦りが浮かんだ。
﹁待てよ、なんで?なんで力が使える?⋮⋮主の無い貴様らには使
えるはずがないんだぞ!?﹂
護衛の言葉に姉妹が嘲りを含んだ笑みを浮かべた。
尤も全く油断していない。
全身に気が満ち、護衛が攻撃をしてくれば即座に反応出来る様に態
233
勢が整っている。
﹁こちらの方が私達の主ですわ!﹂
姉妹が亮真に視線を注ぐ。
﹁馬鹿な。奴隷が勝手に主など⋮⋮血盟を結べるはずが⋮⋮﹂
﹁私達は幼い頃から血盟の結び方を知っていたわ。私達のお父様か
ら伝えられていたのよ。﹂
サーラの言葉に護衛の顔色が変わる。
﹁なに!ならなぜ今まで!?﹂
﹁あなたに説明する必要など無いわ。﹂
ローラの言葉を聴きながら亮真はゆっくりと男に近づいていった。
﹁クッ。クソ!覚えてやがれ!﹂
男は最後の賭けに出た。
形勢不利と見て逃げ出したのだ。
︵判断は悪くない⋮⋮だが失敗したな。︶
逃げ出した男の背を見ながら亮真は心の中で呟いた。
モンスター
男は森へ飛び込まず街道を走り出した。
森の中には怪物が居る。
それを恐れてのことだろうが其の判断が男の命を消し去った。
234
チャクラム
亮真は戦輪を取り出し男の後頭部へと投げつける。
フォン
グシュ
チャクラム
戦輪の風を斬る音に続いて、骨を切り裂く鈍い音が続いた。
﹁さてと。色々と聞きたい事が有るんだけどとりあえずアルーの町
まで行こう。話は其の後だな。﹂
チャクラム
亮真は戦輪を回収して2人へと言った。
﹁﹁かしこまりました。﹂﹂
亮真へ頭を下げると、2人は金目の物を整理しに散らばる。
︵ちょっとした人助けのつもりがめんどくさい事になりそうだな⋮
⋮︶
亮真を主と慕う2人の後ろ姿を見ながら亮真は嘆息した。
235
第1章第19話︵前書き︶
いよいよ国境突破です。
今度は無事に書き終えたいな・・・
今後ともよろしくお願いします。
236
第1章第19話
異世界召喚3∼4日目︻休息と今後︼:
奴隷商人達を始末し其の死体を森の中に放置しした後、亮真達は金
モンスター
貨と宝石類をまとめて背負うとアルーの町へと街道を急いだ。
チェックイン
幸いな事に怪物や盗賊達の襲撃はなく、無事にアルーの町へ着いた
のが22時頃。
町の食堂は既に閉まり、亮真達は町で唯一の宿屋に宿泊したのだっ
た。
﹁じゃあ、食べながら話すか。立ってないで座れば?﹂
亮真達3人の前には、宿屋の主人に無理を言って暖め直させたシチ
ューとパンが用意されていた。
椅子を勧められた姉妹の顔に戸惑いの表情が浮かぶ。
﹁?どしたの?冷めるぞ?﹂
﹁奴隷がご主人様と同じ食卓で食べるわけには参りません。私達は
後で食べさせて頂きます。﹂
﹁はぁ?﹂
ローラの言葉を聞き、亮真は思わず聞き返してしまった。
﹁奴隷が主と共に食事をする訳には参りません。﹂
237
﹁いや⋮⋮有り得ないって⋮⋮目の前にシチューがあるのに。大体
冷めるぞ?﹂
﹁奴隷が暖かい食事をいただける事などありません。﹂
︵この子達って一体⋮⋮奴隷ってそんなに主人主人て言う物なのか
?つうか俺が主人なのか。やっぱり⋮⋮あ、いや!待てよ?︶
﹁確認する。主人に従うんだな?﹂
﹁﹁はい。ご主人様にお使えする事が奴隷の役目でございます。﹂﹂
亮真の言葉に姉妹が声をそろえて答えた。
﹁主人って俺だな?﹂
﹁はい。血盟を結んでくださった貴方様が私達の主です。﹂
ローラの言葉にサーらが頷くことで答える。
﹁なら主人として命令する。一緒に座って食事にしよう。﹂
﹁﹁え?﹂﹂
予想外の言葉だったのか姉妹は互いに顔を見合わせた。
﹁メシはやっぱり1人で食べても美味くないしさ。今後に関しての
話もしたいから、ほら!座って座って!﹂
238
2人はしばらく其の言葉に考え込んだ。
﹁⋮⋮かしこまりました。失礼いたします。ほら、主人様のご命令
です。早く席に着きなさい。﹂
意を決したローラが席に着きサーラを促した。
﹁よし!じゃぁ食べながら話そう。﹂
﹁﹁かしこまりました﹂﹂
亮真としては同じ食事なら楽しく食べたいと思うのが当然だったが、
姉妹にとってはかなり居心地が良くないらしい。
一匙二匙のシチューを口に入れるとスプーンを置いて押し黙ってし
まった。
︵どうもぎこちないな⋮⋮まあ話を聞いた限りでは奴隷ってのはか
なり待遇が悪いらしいしな。いきなり直せって言うのも無理か。︶
仕方なく亮真は血盟に関しての質問をすることにした。
食事時の話題としてはあまりふさわしくないことを自分でも自覚し
ていたがいつまでも放っておける問題でもない。
﹁なら状況確認からだな。繰り返すけど俺が君達の主人になってる
んだね?今﹂
﹁はい。先ほど結んだ血盟によって主従関係が結ばれております。﹂
﹁それだ!其の血盟ってなんなの?﹂
239
パンを頬張りなが亮真は尋ねた。
﹁血盟には2つの意味が有ります。1つは騎士階級が主君に忠誠を
誓う儀式を指す場合。この場合は形式だけの儀式で拘束力は有りま
せん。そしてもう一つが、戦奴隷≪いくさどれい≫が主に対して行
う場合です。﹂
亮真は手に持っていたパンを食べることを止めた。
いくさどれい
﹁戦奴隷?﹂
いくさどれい
﹁はい。奴隷には労働奴隷や性奴隷の他に戦奴隷と呼ばれる特殊な
奴隷がいます。読んで字の如く戦いに使われる奴隷なのですが、戦
う力が有るということは当然、主人に対して反乱を起こせるという
ことにもなります。そこで主人の許可を取らなければ一切の戦闘が
出来ないように封印を施されているのです。﹂
亮真の顔に嫌悪感が浮かぶ。
彼は他人が個人の意思を侵害するという事が気に入らないのだ。
今回の話も結局奴隷を使役する人間の都合を押し付けているにすぎ
ない。
奴隷の反乱を恐れると言う事は即ち反乱されるような扱いをすると
言うことだからだ。
﹁なるほどね。じゃあ次の質問だ。何で君たちはそれを結べた?﹂
今のローラの説明ならば、奴隷に主人と血盟を結ぶ方法を教わるは
ずがない。
亮真がこれを聞いたのには訳がある。
240
限りなく低いが、帝国の罠の可能性を考えたのだ。
わざと亮真に2人を助けさせて信頼させ、油断させる事を狙ってい
るのではないかと。
﹁そ⋮⋮それは⋮⋮﹂
よほど言いにくい事なのかサーラは口を挟んだが、ローラの目配せ
を見て押し黙る。
﹁いいのよサーラ。ご不審になるのも当然だもの。判りました。ご
説明いたします。ただし申し訳ないのですがこの話はご主人さまの
胸の中にだけ納めて頂きたいのです。﹂
その真剣で、決意と覚悟の浮かんだ眼差しに気押されながらも亮真
は大きく頷いた。
亮真にしても他人の秘密を吹聴するという趣味は無い。
﹁私達の姓はマルフィストと申しまして、元は中央大陸西沿岸にあ
るクィーフト王国に使える上級騎士の家系でございます。﹂
︵騎士の家系?ってことは貴族か?確かに美人だし気品はある。だ
がなんで貴族の姫さんが奴隷何ぞに⋮⋮︶
ローラの話は亮真の予想を超える話だった。
﹁てことは君たちの本当の名前はローラ・マルフィストっていうの
かな?﹂
﹁はい。マルフィスト家は古くから武人の家系としてクィーフト王
家に仕えておりました。今から5年前の話でございます。長年貿易
241
相手として付き合いのあった隣国シャドーラ王国との関税に関して
の問題から戦となりクィーフト王国は破滅したのです。父の領地は
王国の沖合に浮かぶ島でしたが、其処にも戦火の火の粉が降って参
りました。﹂
当時の事を思い出したのか、姉妹の目に涙が浮かぶ。
﹁父は必死で領民と王国の為に戦いました。しかし宰相らの寝返り
により国王が暗殺された後は一気に形勢が傾いてしまい、父は領地
の放棄を決定しました。﹂
﹁なら君たちはその時に逃げたのかな?﹂
亮真の言葉に姉妹が頷く。
﹁はい。数名の兵を護衛に付けて他国に落ち延びる予定でした。﹂
結局亮真以外はテーブルのシチューに手を着けなかった。
亮真ですら予想外に重い話を聞き食べるのを止めている。
﹁なんで護衛を付けた騎士のお嬢様が奴隷になんてなったのさ?﹂
﹁全ては私達の甘さが原因でございます。﹂
ローラの顔に苦渋の色が浮かぶ。
﹁私達は人の心の弱さを見抜けませんでした。あの日、領地の島よ
り商船に偽装した船で隣国の海岸に渡った夜の事でございます。護
衛達は私達を縛り上げると奴隷商人のアゾスへと私達を売り払った
のです。護衛はみな長年私たちによく使えてくれた信頼できるもの
242
たちばかりだったのですが⋮⋮﹂
信じていた護衛達に裏切られ奴隷として売り飛ばされる。
悲劇と言って良いだろう。
まあ弱り目に祟り目という言葉のある通り、一つ悪くなれば全部が
裏目に出てしまう事は良くあることだ。
﹁その奴隷商人のアゾスってのが昼に会った奴だな?﹂
﹁はい。私達は読み書きも出来ますし、武術も法術も基礎は習って
おりましたので、戦奴隷としての教育を受けることになったのです。
﹂
﹁なるほどね。それで血盟を結べた理由っていうのは?﹂
﹁父より血盟の儀式の行い方は聞いておりました。いずれ必要にな
ると言われて。﹂
﹁そう言うことか⋮⋮﹂
﹁はい。ただ奴隷の血盟は奴隷同士では出来ません。どうしても平
民以上の方と結ばなくてはならなかったのですが。﹂
ローラの言葉に亮真は頷いた。
これは当然だろう。
奴隷同士で血盟を結べるならば、拘束の意味が無くなる。
﹁信頼出来る人間を探していたということか⋮⋮なら俺を信頼した
ってことなのかい?﹂
243
﹁もちろんでございます。ご主人様はただお一人で、私達を守る為
に闘ってくださいました。私達がお仕えするのに相応しき方だと思
います。﹂
﹁私も同じ考えです。﹂
ローラの言葉にサーラの声が続く。
﹁ふぅぅ⋮⋮﹂
2人から事情を聴き終え、亮真の口から大きなため息が漏れた。
︵まいったな。︶
亮真の正直な思いだ。
2人の視線が亮真に集まる。
﹁話は判った。でもそれなら俺が君たちを自由にするよ。幸い奴隷
商人がため込んだ金もある。姉妹で人生をやり直せば良いじゃない
?﹂
﹁それは出来ません!﹂
ローラの言葉にははっきりとした意思が含まれていた。
﹁奴隷の身になったとはいえ私達は誇り高きマルフィストの血を受
け継ぎ者。私達の純潔と生命を命がけで助けて頂いたのです。我等
の命が尽きるまでお仕えさせてください。﹂
姉妹の目に覚悟の光が浮かぶ。
244
﹁いや。あのさ、恩を着せるために助けた訳じゃないし。そこまで
しなくても良いんだぜ?﹂
もちろん恩に感じないで良いとは言わない。
やはりお礼の言葉くらいは欲しいものだが、これはやり過ぎだ。
﹁いいえ!お仕えさせていただきます!﹂
ローラの言葉にサーラが頷く。
﹁まいったなぁ⋮⋮俺にも都合ってものが⋮⋮﹂
言葉を濁す亮真にサーラが口を開いた。
﹁それはご主人が異世界人だという事と関係していますか?﹂
亮真の顔には相変わらず笑みが浮かんでいた。
﹁何の話だい?﹂
だがほんの微かな変化だったが姉妹には亮真の動揺が瞬時に伝わっ
た。
﹁ご心配なく。他言する気はございません。ただ事情をお話しいた
だきたいと思います。﹂
少しの間沈黙が場を支配する。
﹁何故だ?﹂
245
亮真は口を開いた。
﹁亮真様にお仕えするには、状況をきちんと理解しておかなくては
なりません。だからぜひ事情をお話しいただきたいのです。﹂
再びの沈黙。
︵どうする?口封じも考えられるが⋮⋮いや、馬鹿な。そんな事を
するくらいなら見捨てた方がましだったじゃないか。俺は彼女達を
助けると決めた時に覚悟したはずだ⋮⋮なら。︶
様々な思考が亮真の脳裏を駆け巡る。
﹁判った。﹂
﹁﹁では!?﹂﹂
亮真の言葉に姉妹はテーブルに身を乗り出したが、亮真はそれを手
で押しとどめた。
﹁二人の気持ちは判ったが、少なくとも俺は奴隷なんていらない。
だから俺の事情を聞いてそれでも俺についてくるというのなら血盟
を結んだ奴隷としてではなく、自由な意思を持つ人間として来てほ
しい。﹂
奴隷として強制的に着いてくるのではなく、一人の意思をもった人
間として着いて来てほしい。
これが亮真に今出来る最大限の譲歩だった。
亮真の言葉に姉妹は互いに顔を見合わせ頷きあうと、ローラが高ら
246
かに宣言した。
﹁かしこまりました。それがご主人様の意思ならば!﹂
結局2人の決心は変わらなかった。
あの日亮真は自分が異世界により召喚された事。
召喚直後に兵士と召喚した術者と殺害して逃げ出した事。
現在帝国より追手がかかっている事。
顔が判られていない点が利点ではあるが、今後どうなるか判らない
事。
自分と一緒に居る危険性などを細かく説明したが姉妹の決意は変わ
らなかった。
それどころか、﹁顔が知られていないならば、私達と居る方が尚更
逃亡中だと判り難いのではないでしょうか?向こうは亮真様がこの
世界で共を見つけているとは想像していないはずです。﹂などと献
策してくるほどだ。
2人の決意と献策された利点、そしていずれ時期をみて奴隷の身分
より開放すると言う条件の元、共に行く事を決めたのだった。
﹁本当に着いてくる気かい?俺はいずれこの世界から消えるんだぜ
?﹂
亮真にしてみれば、いつまでもこの世界に居る気はないのだ。
例え誰も地球への帰還方法を知らなくても、自分で0から手段を作
れば良い。
それだけの覚悟をしていた。
だがローラは微笑みながら言った。
247
﹁それならばご主人様が基の世界へお戻りになるその日までお仕え
させてください。﹂
するとサーラが口を開いた。
﹁お姉様。私達も亮真様の世界へ一緒にお連れ頂けば良いんじゃな
い?﹂
﹁あら。そうね。いい考えだわ!それならずっとお仕え出来るわね。
﹂
サーラの言葉に亮真は愕然とした。
︵おいおい⋮⋮彼女達つれて戻るだって?爺に殺されるぞ、いや飛
鳥にだって。︶
亮真の葛藤をよそに姉妹の顔に笑顔が浮かぶ。
︵まぁ先の事はしょうがない。まずは国境を抜ける事が先決だしな。
︶
シミター
次の日、亮真達3人はアルーの町で装備をそろえた。
姉妹は共に曲刀を2本使うのが一番慣れたスタイルらしいが、あい
にくアルーの町では扱っていなかった。
防具もやはりサイズが合ず︵胸が大きいのに腰回りが細い為︶武器
屋で亮真の切れなくなった剣の代わりとあわせ、剣を3本と投擲用
の投げナイフを30本ほど購入して終わりとなった。
予想以上だったのは奴隷商人のアゾスの遺産だ。
銀行へ持ち込んだ金貨は予想通り500万バーツを超えていたのだ
248
が、宝石商へ持ち込んだ宝石に驚きの値がついた。
﹁全部まとめてで3000万バーツでいかがでしょう?﹂
﹁﹁﹁えっ!?﹂﹂﹂
宝石店の中に3人の声が響く。
﹁お値段にご不満ですか?私どもとしては正直これが精一杯でして・
・・﹂
3人の声は値段の高額さに対しての驚きの声だったが、宝石商はそ
んなもんかよ!と言われたように思ったのか下手に出てきた。
﹁あ!いやいや・・・良いんですけど。﹂
指輪や首飾りなどかなりの数が入っていることは知っていたがまさ
かそんなに高値がつくとは予想していなかったのだ。
だが亮真の返事を聞いたトタンに商人の顔に笑みが浮かぶ。
︵あぁん?コイツ・・・ひょっとして足元見てるのか?︶
亮真達を素人と思い宝石商が値段を不当に低く出した可能性は有る。
だが実際に亮真達には宝石の鑑定など出来はしない。
追っ手が存在しているのに、多量の貴金属を持ち運ぶのも問題だ。
此処で金に換えてしまうしか選択肢は無い。
﹁さようですか!ではすべて引き取らせて頂きます。たださすがに
この金額ですと現金では少々⋮⋮恐れ入りますが口座振り込みでよ
ろしいでしょうか?﹂
249
﹁あぁ⋮⋮えっと﹂
亮真は思わず姉妹を見た。
口座を持っているのが亮真一人であるため当然亮真の口座を使うし
かないのだが、自分一人の口座に振り込まれることに後ろめたさを
感じたためだ。
だが姉妹が頷くのを見て亮真は自分のカードを差し出した。
﹁じゃあこれで。﹂
﹁ギルド登録の前に、銀行だな。﹂
﹁そうなのですか?﹂
サーラが聞き返してくる。
2人には冒険者に関しての知識はあまりないようだ。
クエスト
﹁ああ。依頼の報酬も銀行振り込みで行われるので、口座がないと
登録も出来ないんだよ。﹂
﹁そうなのですか。﹂
姉妹の顔に尊敬と驚きの表情が浮かぶ。
︵この方は本当にスゴイわ。この世界に召喚されて数日しか経って
いらっしゃしゃらないのに、私達ですら知らないことをご存知だな
んて。︶
250
ローラが関心しているうちに亮真の足が止まった。
﹁さあ。此処だ。﹂
亮真達は大通りに面した銀行の玄関をくぐった。
30分後。
口座開設の後3人はギルドへと向かい、姉妹の登録を果たした。
﹁さて。今後に関してだけど。﹂
3人は有る情報をギルドで聞き再び宿屋の一室に戻った。
国境の封鎖である。
ギルドで姉妹を登録しそのままアデルフォの町へ向かうつもりだっ
たが、3人は予定の変更を余儀なくされた。
﹁はい。このままアデルフォへ向かうのは下策でしょう。﹂
ローラの言葉にサーラが頷く。
﹁私もそう思います。タダの封鎖なら町の守備隊へ大目にお金を払
えば通れるのですが。﹂
﹁シャルディナ皇女か・・・﹂
亮真の言葉に2人が頷く。
﹁はい。皇女直々の命令での封鎖となるとまずお金では解決出来な
いでしょう。﹂
251
大抵のことは金で解決できるが、さすがに皇女が直々に指揮をして
いる町で賄賂に目がくらんで目こぼしするヤツは居ないだろう。
﹁となると・・・・進むか・・・引くか・・・﹂
3人の前のテーブルには道具屋で買った帝国領内の地図が有る。
民間用の為、街道と町の場所それにおおよその距離しか書かれてい
ない物だが。
﹁引くとすれば向かう先は南ですかね・・・・﹂
モンスター
南の国境に向かうにはアルーから南西に怪物の蠢く森を突っ切るか、
一度帝都まで戻りそこから南下するしかない。
モンスター
どちらを選択してもおよそ10日程の行程だろうか。
森を突っ切れば距離的には短縮されるが怪物と遭遇することにより
結局日数は変わらなくなる。
﹁いや・・南に行く気はない。帝国も一番注意するのは南だろうか
らね。﹂
帝都から尤も近い国境は南である。
追っ手は逃亡者である亮真が最短距離を選択するであろうと予測し
ているだろう。
﹁そうなると北か西ですが・・・﹂
ローラの顔にお勧めできないとはっきり書いている。
地図を見れば一目瞭然だ。
どちらも遠すぎるのだ。
252
地図上の直線距離にしておよそ300km以上
一日20Kmを歩くとして実に半月以上掛かる計算となる。
それ程移動に時間を掛けるなら、ほとぼりが冷めるまで帝国領内に
留まる方がずっと安全だ。
だが時間を掛ければ帝国は其の豊富な兵力を動かして亮真を見つけ
出すかもしれない。
将来を見通すならさっさと他国に逃れるほうが良いのは自明の理だ。
その辺は姉妹も十分に理解している。
﹁結局このまま東の国境を抜けるしかないか・・・﹂
亮真の言葉に姉妹が頷く。
﹁そこでですが私に案があります。﹂
サーラに視線が集まる。
﹁街道を避ける案?﹂
ローラの言葉にサーラが頷く。
﹁東の国境を抜けるしか方法が無いが、アデルフォは通れない。そ
こで街道を使わず森を抜けて直接ザルーダ王国へ抜けるのは如何で
しょう?。﹂
サーラの指が地図上のアルーから街道を北に逸れ、森林地帯を抜け
てザルーダ王国へと辿り着く。
︵悪くない。だが・・・︶
253
決して劣っているわけでも何か明らかな欠点があるわけではない。
だが。
︵俺が東に逃げることを予測して国境を封鎖したヤツが気がつかな
いだろうか?︶
モンスター
この世界の街道には結界が張られよほどの上級怪物でなければ超え
られない。
街道を使えば安全に移動することが出来る。
これはギルドの初心者ガイドに書かれていることだ。
ただし必ずしも街道を通らなければ行き来が出来ないかといえばそ
うではない。
腕に自信が有り、安全で快適な宿屋での一泊を諦めて森の中で一夜
を過ごす覚悟が有るならば森を抜けるという方法も存在する。
今までの対応の早さから見てシャルディナ皇女はかなりのキレ者だ
ろう。
そういった人間が森を抜けるという選択肢を見逃すとは思えない。
だが道すがら聞いたところ追っ手はさほど多くない。
広大な森の全てをカバーしていることは無いだろう。
そういった意味ではサーラの提案はとても良い。
だが発見されれば間違えなく拘束される。
連中は亮真の顔を知らない。
其れは逆に大柄な人間全てを疑って掛かるということだ。
つまりローラ達を連れているからといって見逃される可能性は低い
というわけだ。
︵ローラ達を連れているからといって見逃される可能性は無いだろ
う⋮⋮なら一緒に行く意味は無い⋮⋮いや、まてよ⋮⋮︶
連中が2人を知ることは無い。
254
俺と連れ立って歩かなければ拘束されることは無いだろう。
そこまで考えた亮真の中で何かが閃いた。
﹁サーラ、ローラ。森を抜けることにする。ただし⋮⋮﹂
亮真の顔に酷薄な笑みが浮かび姉妹達の顔に驚きが広がる。
︵さてどちらが狙われているのか教えてやるぜ。皇女様よ︶
狩られる者と狩る者が入れ替わった瞬間であった。
255
第1章第20話︵前書き︶
ようやく前作に追いつきました。
後は亮真に国境を越えてもらうだけ・・・・
256
第1章第20話
異世界召喚6日目︻拘束︼:
ザッザッザッ
草木を踏み分ける音が盛りに響く。
亮真がアルーの町から北上し森に入って1日半が過ぎようとしてい
た。
彼の周りにローラ達姉妹の姿は無い。
アルーの町で野営の準備を済ませると、亮真はただ一人森の中に分
け入った。
森は闇が支配していた。
森は星の瞬きすら木々で遮られ火の光が無ければまったく何も見る
ことが出来ない。
﹁とりあえず何事もなしか⋮⋮﹂
大木の根元で火に当たりながら亮真は呟いた。
たかが2日程一緒に居ただけの姉妹の顔がやけに懐かしく思える。
異世界にいきなり放り出されれば少しばかり感傷に浸ったとしても
誰も責めはしないだろう。
町で購入した干し肉を口で噛み千切りながら周囲を窺う。
たった一日半ながら亮真は街道を逸れて移動することの恐ろしさを
十分に思い知らされた。
勿論亮真の手に余るほどの強敵は居ない。
街道を逸れたとはいえ、それ程大回りをしているわけではないから
257
だ。
モンスター
だがその数には圧倒される。
モンスター
1匹倒せば倒した怪物の血に誘われて別の怪物が来るという悪循環
ワイルドドック
に陥りやすいのだ。
先日野犬らを狩った時には意識しなかったが、疲れたら戦いを切り
モンスター
上げて安全地帯である街道に出られるのと、神経の休まる暇もない
くらい連続で襲い掛かってくる怪物を狩るのではおのずと違いが出
たのだった。
︵来たか?︶
火に当たり体を休める亮真の肌が微かな空気の流れを感じた。
モンスター
暗闇の中から視線を感じる。
怪物の物ではない。
もっと陰に篭った粘つくような視線だ。
同じように森を通り抜ける冒険者達の視線とも違う。
もし火に当たりたいのならそのまま声を掛けてくるはずだ。
こんな視線を相手に悟られれば盗賊と誤解されて先制攻撃を受けか
ねない。
それに盗賊とも違う。
欲に脂ぎった感じを受けない。
値踏みをしているのは間違いないが金銭関係の値踏みではない。
亮真は剣の柄に手を掛けた。
たとえ誰であろうと攻撃してくるならば斬るつもりだ。
其のとき暗闇から男の声が響いた。
﹁驚かしたようですね。申し訳ありません。﹂
亮真の手に力が入る。
258
﹁まあまあ。そう警戒なさらずに。少々お時間を頂きたいのですが
構いませんかね?﹂
癇に障る言い方だ。
言葉は丁寧だが有無を言わせぬ圧力がある。
﹁良いだろう。﹂
ガサ・・・ガサ・・・
亮真の言葉の後直ぐに木々を掻き分ける音が響く。
火を挟んで真向かいに立つ男の顔を見て、亮真の顔にわずかな動揺
が浮かんだ。
七三分けに整えられた髪。
細長い卵形の顔。
身長は170程か。
オフィイス街に行けば腐るほどいそうな日本のサラリーマンといっ
た風体の男だ。
もっとも鎧を着け剣を佩いている日本のサラリーマンは居ないが。
﹁おや?どうかされましたか?﹂
男が亮真の動揺を機敏に察して尋ねてくる。
﹁いや・・盗賊には見えないなと思ってね・・・﹂
亮真の言葉に男が笑みを浮かべる。
﹁いやいや。恐れ入りますね。此処に座っても?﹂
259
亮真の返事を聞かずにさっさと真向かいへ座る。
﹁許可した覚えがないんだけどね?﹂
亮真の言葉を聞いても男は悪びれない。
それどころか勝手に話し出す始末だ。
﹁まあまあ。2∼3質問をさせて頂くだけですから。﹂
何を言っても無駄だと諦め亮真は先を促した。
﹁あなたは冒険者のようですが何でこんな森の中に居るんですかね
?お仕事中ですか?﹂
男の問いに亮真は正直に答えた。
﹁アルーの町で国境が封鎖されたと聞いてさ。しかも何時解かれる
かも不明って話なんで。森を抜けることにしたのさ。まあ腕にはそ
れなりに自信が有るし野営の準備もしているのでね。﹂
﹁ほう・・・そうですか。しかしあまり関心出来ませんねぇ?いく
ら自信があるとは言ってもお一人で森を突っ切るなど。よほどお急
ぎの御用でもお持ちですか?例えば誰かに追われているとか?﹂
男の目が細まる。
﹁いや。ただ町で封鎖が解かれるのを待つより、少しでも経験を積
む方がいいと思ってね。﹂
260
﹁成る程成る程。﹂
此処で亮真は逆に男へ尋ねた。
﹁それでそんなことを聞きたがるあんたは何者だい?﹂
キュバスナイツ
サ
﹁おお。申し遅れました。私は斉藤英明と申します。オルトメア帝
国夢魔騎士団の副団長を務めております。﹂
︵やっぱり追っ手だったか・・・だけど斉藤?外見を見れば日本人
に見える。だけど⋮⋮︶
亮真は内心の疑問を押し隠し演技を続ける。
相手の出方が判らな今はただの冒険者を装ったほうが得策だ。
﹁其の副団長さんが何だってこんな森の中に居るんです?﹂
﹁いえね。実はある男を追っておりまして。この森に通って国外に
逃亡すると思われるのですよ。﹂
﹁へえ?ある男ね。なにやったんです?﹂
亮真の問いに斉藤はいかにも残念という表情をして答えた。
﹁いやあ。申し訳ない。極秘なんですよね⋮⋮﹂
これは亮真の予想通りの反応だ。亮真とてここで斎藤が正直に理由
を話す訳が無いことを知っていた。
だがここで斎藤に尋ねなければ逆に不振がられる事も判っていたの
だ。
261
﹁あぁ失礼。ところで、私に用って結局何なんです?まさか私を疑
ってるのですか?﹂
すると斉藤はとんでもないと言った表情を作って言った。
﹁いやいや。相手の男の顔が判らないんですよ。﹂
﹁え?顔が判らないのに追いかけてるんですか?﹂
︵ふう。やはり判ってなかったか⋮⋮ま、当然だな。顔を見たやつ
は全員殺しておいたんだから。︶
亮真は内心自分の判断を誇りに思った。
﹁まあ実際かなり大変でしてね⋮⋮上役からは早く捕まえろと催促
されていまして⋮⋮まあそこであなたにお願いしたいことがあるの
ですよ。﹂
斎藤は丁寧に切り出した。
﹁お願いですか?﹂
﹁ええ。少しばかりお時間を頂いて確認したいのですよ。何。形式
的なものです。身元の確認が出来れば直ぐに出発していただけます
から。まあ探している相手のの顔が判らない以上しょうがないので
すよ⋮⋮体格の良い男性で森を通ろうと言う方達全員にご協力いた
だいているんですよね。申し訳ないのですが。﹂
口では申し訳ないと言い笑みを浮かべてはいるが、斉藤の目は笑っ
262
ていない。
﹁もし⋮⋮協力できないと言ったら?﹂
亮真の言葉に斉藤は右手を軽く上げた。
﹁其の時はしょうがないですね。無理にでもご協力いただきます。﹂
ヒュ・・・・カッ
森の中から矢が亮真の直ぐ脇に打ち込まれる。
﹁成る程ね。こうなる訳だ。﹂
地面に突き立つ矢に視線を向けながら亮真が言った。
﹁ええ。ご理解いただけたところで改めてお願いします。どうか私
と一緒に来ていただけませんか?﹂
慇懃無礼とはこの事だ。
ノーと言えば森から矢が飛んでくるのに断れるヤツなど居るわけが
ない。
﹁しょうがないでしょうね⋮⋮お付き合いしますよ。﹂
しぶしぶといった表情で亮真は答えた。
﹁いやあ。ご理解いただけて良かった良かった。では我々の野営地
までご足労頂きますね。なぁに直ぐそこですよ。﹂
263
そういうと斉藤は手枷を取り出した。
﹁それは?﹂
亮真の問いに斉藤が悪びれずに言う。
﹁念の為に拘束させていただきます。なぁに形式ですよ。形式。上
司にお会いいただいた後は外しますから。それまで我慢してくださ
いな。﹂
有無を言わせぬとはこの事だ。
亮真は両手を差し出す他無かった。
﹁殿下。拘束しました。﹂
斉藤の言葉にシャルディナは命令書を書く手を止めて目を向けた。
﹁拘束した?誰を?⋮⋮異世界人を?﹂
﹁ええ。間違えなく異世界人。正確には地球の日本人ですね。﹂
亮真を連れて野営地へと戻った斉藤は、亮真をテントに残し見張り
を割り振った後にシャルディナへ面会した。
﹁⋮⋮なぜそいつが異世界人だと判ったの?顔も判らないのに。﹂
訝しげな表情で尋ねるシャルディナに斎藤が答える。
﹁私と同じ国の出身だからですよ。それにこっちの世界に来て間も
264
ない。匂いで判ります。﹂
斉藤の回答にシャルディナの顔が綻んだ。
﹁そう⋮⋮貴方が言うのなら間違えないでしょうね。それで?どう
するの?﹂
﹁陛下のご命令は拘束か殺すかだったと聞いていますが。﹂
斉藤の言葉にシャルディナが頷く。
﹁ええ。捕まえられなければ殺せと命令されているわ。﹂
﹁ということは捕まえた以上は帝都へ護送する必要が有りますな⋮
⋮﹂
斉藤の言葉にシャルディナが問いかけた。
﹁あら?何か問題でも?﹂
斎藤の表情が曇ったことを敏感に感じたからだ。
﹁ええ⋮⋮私は護送せず此処で確実に始末したほうが良いと思いま
す。﹂
幾分ためらいながらも斉藤ははっきりと言った。
皇帝の命令を無視するように進言したのだ。
其の重圧は想像を絶する。
サキュバスナイツ
斉藤の進言を聞きシャルディナの顔に戸惑いが浮かぶ。
彼女が夢魔騎士団の団長を就任してから5年。
265
その間、影から彼女を支えてきたのは斉藤だったからだ。
其の進言は適切で誤ったことなど無い。
その斉藤が言うのだ。
無下には出来ないが、皇帝の命令を無視することもまた彼女には出
来なかった。
﹁理由を聞かせて⋮⋮﹂
シャルディナの問いに斉藤の口が重々しく開いた。
﹁理由ですか⋮⋮理由は私の勘です。﹂
今度はシャルディナの顔が曇る。
いくら信頼する副官の進言であっても勘で皇帝の命令を無視するこ
とは出来ない。
﹁勘ね⋮⋮いくらなんでもそれじゃ無理よ。﹂
﹁申し訳ありません。ですが⋮⋮そのう⋮⋮実際にあいつと話した
ときにヤツは危険だと感じました。笑顔を浮かべて私を話していま
したが腹の中では何を考えているのやら。それに何の抵抗もせずに
拘束されたことも引っかかります。形式だけだといって手枷をさせ
た時にも過剰な抵抗はしませんでした。まるで本当に確認すれば自
分が解放されると確信しているかのように⋮⋮﹂
斉藤の話を聞きシャルディナの心がざわめく。
︵確かに気になるわね⋮⋮特に無抵抗だったというのが⋮⋮ガイエ
スを殺した事といい逃げるために宮殿に火を付けた事といいかなり
容赦の無い男のはず。逃げられないとしてもおとなしく捕まるとは
266
思えない。︶
﹁ねえ。本当にそいつが問題の異世界人で間違えないの?﹂
﹁異世界人であることは確実です。問題はガイエス様を殺したヤツ
かどうかですが、状況から判断してまず間違えは無いです。偶然ま
ったく関係ない異世界人が召喚されてこの森を通るなど在り得ませ
ん。﹂
斉藤の言葉にシャルディナも頷く。
証拠はないが状況を考えればまず間違いないというところだろう。
﹁なら方法は一つね⋮⋮﹂
﹁というと?﹂
シャルディナは椅子から立ち上がるとテントの入り口へと歩みだし
た。
﹁案内なさい。実際に話してみるしかないでしょう?こうなったら。
﹂
267
268
第1章第21話
異世界召喚6∼7日目︻奇襲︼その1:
亮真に宛がわれたテントへ2人の客人が来た。
﹁いやぁお待たせして申し訳ない。上司が直接お会いしたいと言う
のでお連れしたんだ。﹂
斉藤の後ろからシャルディナが前に出る。
﹁成る程。団長さんのお出ましか。﹂
亮真の言葉を聞き2人の顔に驚きが走る。
﹁あら?なぜ私が団長だと思うのかしら?別に団長さんじゃなくて
も上司になれると思うけど?﹂
﹁へぇ?まあ確信がある訳じゃないけれどもね。アデルフォの町を
サキュバスナイツ
封鎖したのがシャルディナ皇女様だって聞いてね。其のシャルディ
ナ皇女様が指揮するのが夢魔騎士団と聞けば誰にでも予測はつくさ。
﹂
﹁成る程。確かに普通で考えれば判る事かも知れませんな⋮⋮﹂
斉藤の言葉にシャルディナも表向きは納得したが、其の心にはシコ
リが残る。
269
確かに落ち着いて考えれば、導き出せる答えかもしれない。
しかし拘束された状況でそこまでの判断が出来るだろうか?
︵成る程⋮⋮斉藤が口を濁すわけね、確かにいやな感じがする⋮⋮︶
斉藤の視線がシャルディナに向けられる。
︵どう思いますか?︶
斉藤の視線がそう訴えかけていた。
シャルディナは判ったと軽く頷くと亮真へ話しかけた。
﹁今回はわざわざお時間を割いてくださってありがとうございます。
帝国を代表してお礼を申し上ますわ。﹂
皇室の人間が一般人にかける言葉としては信じられないほど丁寧な
話し方だ。
﹁いえいえ。別に気にしてもらうほどの事ではないですよ。確かに
街道を使わずに森を通るなんて怪しいですしね。﹂
亮真の回答を聞き2人の顔に笑みが浮かぶ。
﹁思ったとおりでしたね。殿下。﹂
﹁ええ。確定ね。﹂
2人は頷きあった。
270
﹁ようやく見つけたわ!異世界人さん。﹂
﹁何の話です?それ?﹂
だがシャルディナの言葉を聞いても亮真は平然と答えた。
﹁無駄だ。この世界で王室の人間からあれほど丁寧な話し方をされ
て、そのまま受け答えの出来る平民など居やしないよ。﹂
斉藤の言葉を聞きようやく亮真の顔に変化が浮かんだ。
当然といえば当然である。
この王を頂点とする君主制の世界において王や貴族は神にも等しい。
もし亮真がこの世界の人間のふりをするならここは黙って地に頭を
擦り付けるべきだったのだ。
﹁ふ∼ん⋮⋮成る程。それは失敗したな。﹂
これ以上言い逃れは出来ないと判断したのかあっさりと認めた。
﹁さあこれでお互いに相手が誰であるかは理解できたわけだ。﹂
斉藤の言葉にシャルディナは頷くと亮真へ語りかける。
﹁初めましてと言うべきでしょうね。貴方の言ったとおり私はオル
トメア帝国第一皇女シャルディナ・アイゼンハイトよ。貴方の名前
は?異世界人さん﹂
﹁俺か?御子柴。御子柴亮真だ。﹂
シャルディナの言葉に亮真は平然と答えた。
271
﹁成る程。思ったとおり日本人でしたか。﹂
﹁そういうアンタも日本人みたいだな?斉藤さんよ﹂
斉藤が大きく頷く。
﹁ええ。立場も貴方と同じですよ。10年ほど前にこの世界に召喚
されましてね。﹂
﹁へえ?10年で副団長まで上り詰めたのかい?﹂
斉藤の顔に苦笑いが浮かぶ。
﹁まあ運が良かったのでしょうね。異世界人というメリットも大き
かったですしね。﹂
﹁それは力の吸収率のことを言っているのかい?﹂
亮真の問いに斉藤が目を見開いた。
﹁ほう、そんなことまで知っているのですか。驚きましたね⋮⋮﹂
﹁なあに。ちょいと俺を召喚した爺を締め上げてね。いろいろと聞
いたのさ。﹂
亮真の口に酷薄な笑みが浮かぶ。
﹁そうですか。やはり⋮⋮遺体の損傷が酷かったとは聞いていまし
たが、ガイエスを拷問しましたね?﹂
272
シャルディナの口調に怒りが混ざる。
﹁ガイエス?ガイエスって言うのが俺を召喚した爺の名前ならそう
だ。俺が口を割らせた。﹂
亮真はあっさりと拷問の事実を認めた。
隠したところで意味がないからだ。
﹁残念ですが貴方には死んでいただくことになります。我が帝国に
弓引くものを生かしては置けません。﹂
シャルディナの言葉に亮真が戸惑いの表情を浮かべた。
﹁残念?何を残念がるのさ?﹂
﹁私は貴方という人間を買っています。異世界という特殊な環境に
突然放り出され、右も左も判らない方が帝都を抜けこうやって国境
近くまで逃れてくる。これを見ただけでも非凡な力をお持ちだと判
ります。貴方ほどの力と知恵をお持ちの方を我が国に迎えられれば、
西方大陸統一も一段と楽になったでしょうに。﹂
亮真はシャルディナの言葉を聞き嘲笑った。
﹁冗談は止めてくれ。俺があんた達に仕える?馬鹿言ってるんじゃ
ねえよ。﹂
﹁馬鹿?﹂
﹁ああ。物語の主人公じゃあるまいし何で俺がお前達に使われなき
273
ゃならねえ?﹂
﹁あら?召喚された者が召喚した人間に従うのは当たり前でしょう
?﹂
﹁まあ。この世界の人間ならそう言うだろうよ。﹂
亮真の言葉にシャルディナが眉をひそめた。
﹁どういうこと?﹂
﹁別に。あんた達に話したところで意味がないさ。ただ一つだけ言
っておくぜ。俺が従うのは俺自身だ。他の誰でもねえ。俺が自分で
思い考え決定する。ただそれだけだ。﹂
﹁そう、それが貴方の意思⋮⋮でもね異世界人さん。この世界は貴
方の自由意志を認めるほど甘くないわよ?貴方は確かに自分の意思
を通したかもしれない。ガイエスも殺せた。でも結局はどう?貴方
は今此処に拘束されている。﹂
シャルディナの顔に嘲笑が浮かぶ。
どれだけ亮真が自分の誇りを言おうとそんなもの負け犬の遠吠えに
しかならない。
彼女の前に手枷を嵌められているのだから。
﹁貴方の誇りは立派なものよ。でもそれが何になるの?この世界は
ね。貴方の世界のように甘くない。力無き者は奪われ虐げられる世
界。貴方の意思?そんな物にしがみついた結果がこれよ。おとなし
く帝国に従えば斉藤みたいに取り立ててやったかもしれないのに。﹂
274
﹁ヘッ。犬みたいにあんた達に尻尾を振る気はないよ。﹂
﹁そう。馬鹿な男ね。この状況でそんなことを言うなんて。命乞い
をすれば助けてあげたのに。﹂
斎藤はシャルディナと亮真の言葉を聞きながら言い知れぬ不安を感
じ始めていた。
︵そうだ⋮⋮何故この状況でこんなことを言う?這い蹲り命乞いを
するのが普通ではないか。︶
シャルディナの言葉を聞き、斉藤の脳裏にいやな予感がよぎる。
勿論斉藤にはシャルディナの言葉が嘘だとわかっている。
たとえどれほど哀れみをこめて命乞いをしようと亮真の運命は決ま
っている。
死あるのみだ。
ガイエスを殺し帝国の威信に泥を塗った男に他の選択肢などある筈
もない。
それなのに亮真はまったく平然としている。
︵死を覚悟しているのか?︶
だが斎藤の目に映る亮真の顔には死を覚悟した悲壮感など漂っては
居なかった。
︵なら何故だ?この状況からコイツは生き残ることが出来るという
のか?。︶
シャルディナが今回引き連れている兵は30名。
森を広範囲で探索するために其のうち26名を2人1組で派遣して
275
いる。
シャルディナの居る野営地を守るのはわずかに4名。
亮真を発見し斉藤と相方の兵が戻ってきているので合計6名。
たった一人の異世界人を拘束しておくなど何の問題もない。
しかも夜が明ければ散っていた兵士達も戻ってくるはずだ。
状況は圧倒的に有利のはずだ。
しかし斉藤の心から不安がぬぐえない。
自分達にとって圧倒的に有利であるはずなのに。
其の瞬間、斉藤の脳裏にある想像が浮かんだ。
︵まてよ⋮⋮この状況はコイツが望んだことではないだろうか?︶
突拍子の無い想像。
なんの確証も無いただの想像。
だが斉藤はこれこそが真実だと確信した。
︵そうかそれなら理解できる。だが何のためだ?この状況がいった
いこの男にとってどんな利点にとなるのだ?⋮⋮いや。利点などど
うでも良い。今やるべきはこの男を此処で殺してしまうのだ。この
男が何を狙おうとこの状況で出来ることなど高が知れている。︶
斉藤の目に殺意が宿る。
﹁斉藤⋮⋮?﹂
自分の副官の雰囲気が変わった事にシャルディナは気がついた。
﹁殿下。申し訳ございません。この男は此処で殺すべきです。﹂
今まで黙って考え込んでいた副官の言葉にシャルディナは驚きを隠
276
せなかった。
﹁な⋮⋮そんなことは許されません!この男は帝都へ護送しなけれ
ば!﹂
﹁いいえ殿下。この男は危険です。生かしておけば何をするか⋮⋮﹂
﹁陛下の命に逆らうというのですか!﹂
シャルディナの言葉にも斎藤は首を振る。
﹁申し訳ありません。お咎めは後で如何様にも・・・﹂
そう言うと斉藤は剣を抜き亮真へ歩み寄る。
﹁待ちなさい斉藤!﹂
シャルディナの静止を無視して斉藤が剣を振りかぶる。
よしみ
﹁何か言い残すことはあるか?同郷の誼だ。聞くだけは聞いてやる。
﹂
﹁別に無いな。﹂
亮真は白刃の光を受けてもまったく動じず薄笑いを浮かべて言い放
った。
﹁そうか。いい度胸だな。﹂
﹁そんなことは無いさ。⋮⋮死ぬのはお前達だからな!﹂
277
亮真の大声が闇夜を切り裂き森へ吸い込まれる。
﹁突然何を⋮⋮!﹂
天幕を振るわせるほどの亮真の声に驚きを隠せないシャルディナ。
﹁なにを⋮⋮はっ!殿下!﹂
斉藤の勘が危険を告げた。
そして彼がシャルディナへ覆いかぶさるのと同時に野営地を烈風が
吹き荒れる。
278
第1章第22話︻奇襲︼其の2
異世界召喚7日目
野営地を襲った烈風は天幕を切り裂き支柱をなぎ倒す。
それはまるで巨大な刃が一刀両断に輪切りにするように陣内の天
幕を切り裂く。
数秒後、風が止み斉藤は体を起こした。
﹁殿下! 殿下!﹂
﹁私は平気よ⋮⋮何が起こったの?﹂
斉藤の言葉に斎藤の体の下に庇われたシャルディナが立ち上がり
辺りを見回す。
﹁殿下御無事で⋮⋮! しまった。それよりヤツは!﹂
だが斉藤はシャルディナの言葉を無視し亮真の方へ視線を向けた。
そこには見慣れない少女が居た。
﹁ご無事ですか? ご主人様﹂
そう言うと少女は亮真の手枷に剣を突き立てこじ開ける。
﹁ああ。タイミングもばっちりだ。助かったぜサーラ。ローラは無
事か?﹂
279
﹁姉は外の兵士達を始末しているころでしょう。ご主人様のおっし
ゃるとおり造作も無くかたずけることができそうですわ﹂
﹁あら。もう始末はつけましたわ。ご主人様﹂
斉藤の後ろから別の声がする。
﹁殿下!﹂
斉藤の声にシャルディナが反応し斉藤の背後を守る。
丁度背中合わせになる格好だ。
﹁怪我はないか? ローラ﹂
モンスター
﹁はい。風の法術を叩き込むだけで事は済みましたから。この方達、
怪物は警戒しても法術による攻撃は想定して居なかったようですね﹂
ローラの言葉に斉藤が怒鳴った。
﹁馬鹿な⋮⋮法術だと!﹂
これは斉藤もシャルディナにも完全に想定外の話だ。
そもそも異世界人に仲間が居ること自体がおかしいのだ。
其の上法術を使える者など。
そもそもこの世界で法術を使える者は少ない。
王国に仕えている者なら騎士階級以上。
傭兵や冒険者なら一流と呼ばれる者達のみだ。
なぜならこの希少性こそがこの世界の支配構造の根幹に位置する
ものなのだから。
280
法術が使える。ただそれだけで使えない人間5人分の戦力にはな
る。
亮真に殺されたガイエスなどは、一軍に匹敵する。
勿論、破壊力のある法術が使えるからといって必ず勝てるとは限
らないのは、亮真がガイエスを殺したことにより既に証明されてい
るが。
どちらにしろ異世界に召喚されて間もない人間に法術が使えるは
ずが無いし、使える人間と知り合うこともありえないはずだったの
だ。
あなた
﹁貴様達はいったい⋮⋮﹂
シャルディナの問いにローラが剣を構えながら答えた。
﹁私達はご主人様に仕える者。主の敵は私達の敵﹂
︵この子出来る! それに⋮⋮︶
ローラの構えを見てシャルディナの勘が警報を発する。
彼女ほどの使い手は自分の部下達の中でも数えるほどしか居ない。
だが実力ならまだシャルディナの方が確実に上だ。
しかしローラの瞳に浮かぶのは決死の覚悟。
シャルディナを相打ちとなってでも殺そうという決意だ。
そして斉藤もまた同じ決意をサーラから感じていた。
︵どういうことだ⋮⋮何故これほどの使い手がコイツに加担するの
だ。この世界に来てたかだか6∼7日だぞ?︶
シャルディナ達にとって亮真を捕まえることは重要な命令である。
だが、其れはあくまでもシャルディナ達が生き残った上での話し
281
だ。
斉藤とシャルディナのどちらかが死ぬか、あるいは重傷を負って
まで果たす任務ではないのだ。
斉藤にしろシャルディナにしろ、帝国では非常に重要な地位に居
る。
国の存亡を掛けた戦場でならいざ知らず。
こんな異世界人の一人を始末するために命を掛けるわけにはいか
ないのだ。
﹁斉藤⋮⋮此処は引くわ﹂
様々な損得計算が行われた末の結論だろうか。
亮真達へ聞こえないようにシャルディナが斉藤へ呟いた。
﹁はい。これほど予想外の展開になってしまえば一度引くしかあり
ませんね⋮⋮ただ素直に引かせてくれるか﹂
﹁ええ⋮⋮でも此処で死ぬわけにはいかない。ガイエスも死んでさ
らに私たちまで死ぬようなことになれば帝国の戦力が落ちすぎる⋮
⋮もし、そうなったら﹂
﹁周辺諸国も占領地もただではすみませんな⋮⋮﹂
周辺諸国を力で侵略してきた代償。
帝国の戦力が低下すれば、押さえつけられてきた占領下の民や貴
族が反旗を翻すのは目に見えている。
いくつのも思案が斉藤とシャルディナ。2人の脳裏を駆け巡る。
﹁引きたいなら引いてくれてかまわないぜ?﹂
282
亮真の言葉が膠着した状況を揺り動かす。
いち早く返答したのは斉藤だった。
﹁馬鹿な⋮⋮こちらが引く必要など無い! そこの女2人共々帝都
に護送してくれるわ!﹂
﹁へえ? 命がけで俺達を捕まえるってのかい?﹂
亮真の顔に嘲笑が浮かぶ。
﹁あんたらに命をかける度胸が無いことは、目を見れば判かるんだ
よ﹂
目は口ほどに物を言う。
視線やしぐさ、眼光からは其の人間の心の中が透けて見えるもの
だ。
斉藤がサーラの目から決死の覚悟を感じ取ったのと同じように、
亮真が斉藤の目から読み取ったとておかしくはない。
﹁ならどうだと言うの? 貴方の目的は私達を殺すことでしょ?﹂
﹁まあな。本来ならそれが一番良いんだけれども。この状況じゃあ
⋮⋮な﹂
亮真が肩を竦める。
︵やっぱり⋮⋮こいつ私達を殺すつもりで捕まったのね。道理でお
となしく連れてこられた訳だわ⋮⋮︶
283
シャルディナの背に冷たい物が流れる。
先ほどから感じていたいやな予感の正体。
其れは狩る者を狙う狩られる者の殺意だったのだ。
︵確かに有効な手段だわ。私達は向こうが逃げるだけだと思い込み、
私達に牙を向くなどとは夢想だにしなかった︶
その結果がこれだ。
率いてきた兵の殆どは森の中に散らばっており、野営地の警備に
ついていたものは先ほどの法術で全滅だ。
もし斉藤の機転がなければ、シャルディナも奇襲で死んでいたか
もしれない。
︵でもこの状況⋮⋮3対2なら向こうが有利のはず。この子達を捨
石にすれば私達を殺すことは不可能では無いのに?︶
﹁成る程な⋮⋮殺したくないと言う事か﹂
斉藤の言葉を聞きシャルディナが目を見張る。
この状況で亮真が殺したくない人間。
斉藤とシャルディナが対象だとは考えられない以上、残るのは2
人しかいない。
﹁そういうことさ。2人とも俺の為に命を張る気だ﹂
亮真の視線がサーラとローラへ注がれる。
﹁いくら俺が生き残る可能性が高いとはいえ、2人を犠牲にしてま
であんたらを殺すわけにはいかないだろうよ﹂
284
︵なるほど、それならばこの女達を盾に取れば。いや、この状況下
では其れは無理だ。それに自分の命を犠牲にしてまでこの男が女を
優先するとは思えん⋮⋮︶
﹁殿下。此処は致し方ないかと⋮⋮﹂
斉藤の進言はシャルディナの考えと一致した。
いくら考えてもこれ以上の手段は無い。
﹁良いでしょう⋮⋮此処は引かせていただきます。斉藤、剣を納め
なさい﹂
シャルディナの言葉を受けて亮真がローラ達に言った。
﹁ローラ、サーラ引け!﹂
亮真の言葉を聞き2人が剣を収め、亮真の傍らに寄り添う。
シャルディナ達が攻撃を仕掛けてきたら直ぐにでも亮真の盾とな
るつもりらしい。
﹁そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。オルトメア帝国第一皇女
の名においてこの場は引きます﹂
シャルディナの言葉は真実の気持ちだったが姉妹の態度は変わら
ない。
﹁悪いな﹂
亮真のほうが姉妹の態度を気にしたらしい。
シャルディナへ謝罪してきた。
285
﹁まあ良いでしょう。この場は引くとして、今後貴方への追求が止
むことは有りませんが其れは判っていますか?﹂
これは当然だろう。
シャルディナ達が亮真の捕獲を諦めて引くのは単にこの場の状況
が不利だからというだけのことだ。
極端な話、この場に数十名の兵士が居ればシャルディナ達が引く
といった選択は有り得なかった。
﹁そりゃそうだろうな。そっちから見れば俺は犯罪者だろうから﹂
亮真は悪びれずに言い放った。
﹁だが俺はあんた達に捕まるつもりはないぜ? あの爺を殺したこ
ともあんた達を殺そうとした事も悪いと思ってないからな。だから
追いかけるのはかまわないが命賭けるつもりで来な﹂
亮真の言葉を聞き斉藤は我慢できずに尋ねた。
﹁君は日本で犯罪を犯したことがありますか?﹂
斉藤は知りたかった。
地球から召喚された直後の人間がこれほどこの世界の法則になじ
めるものだろうかと。
この弱肉強食の世界は強さこそが全て。
人権などという甘い思想はどこにも無い。
踏みにじられたくなければ強くなるしかない。
斉藤がこれらを悟ったのはガイエスに召喚され、やりたくも無い
戦争に放り込まれ来る日も来る日もドロと血にまみれながら殺し合
286
いをしたを何年も過ごした後だ。
それほどこの世界と斉藤の地球での生活とはかけ離れていた。
だからこそ、この世界に召喚されて1週間ほどしか経っていない
亮真の考え方を知り愕然としたのだ。
﹁はぁ? なんだそりゃ。そりゃ立ちションくらいはしたことはあ
るけどな﹂
﹁いえ。そうではなくもっと重大な。そう⋮⋮人殺しとか﹂
﹁無茶苦茶言うな⋮⋮このおっさん。俺は至って普通の高校生だよ。
まあ多少は古武術の嗜みがあるくらいでな。前科なんてとんでもな
い!﹂
﹁なら何故です? 何故人を殺して平然としていられるのです? 恐ろしいとは思わないのですか?﹂
斉藤の言葉に亮真はやや考え込みながら答えた。
﹁俺は逆に聞きたいんだけどよ。自分の身を犠牲にしてまで俺の権
利を自分の都合で侵害しようとするヤツの心配をしなきゃいけない
ものなのか?﹂
斉藤の驚いた顔を尻目に亮真は言葉を続けた。
﹁俺はそうは思わねえ。侵害するのが向こうの勝手なら自分の身を
守るのは俺の勝手さ。人を殴って殴り返されないを思うほど馬鹿じ
ゃない。殴り返されると思うからこそ俺は他人を殴らない。相手に
殴り返される覚悟を持つとき意外にはね﹂
287
そう言い放つと亮真はローラ達に視線を向けた。
﹁さてと⋮⋮俺の人生哲学なんか話してる場合じゃないないな⋮⋮
ローラ﹂
亮真はローラに顎で天幕の入り口を指した。
﹁これ以上話していると兵士達が野営地に戻ってくるかもしれない
しな。俺はさっさと国境を越えさせてもらうぜ?﹂
ローラが天幕の入り口でシャルディナ達を牽制する。
シャルディナ達の言葉を完全に信用しきっていないのだ。
﹁良いでしょう。お行きなさい。でもこれだけは忘れないことね。
帝国は貴方を逃がしはしない。人相がばれた以上帝国領内には二度
と踏み入れないと思うことね﹂
此処で一息つきシャルディナの目に鋭い光が宿る。
﹁そしてせいぜい逃げ回りなさい。いずれ西方大陸は我が帝国によ
って統一される。そうなれば貴方の生きられる場所など何処にも在
りはしないのだから﹂
サーラを伴い天幕を出ようとする亮真へシャルディナが言葉の刃
を投げつける。
﹁そうかい⋮⋮なら、それまでに元の世界に返ることにするよ﹂
亮真達は振り返らずに森の中へと消えていった。
288
第1章最終話︻その後のシャルディナ︼
﹁いったいどういうおつもりなのですか!﹂
謁見の間に怒声が響く。
声の主は鉄血宰相の異名を取るドルネストだ。
謁見の間の主であるはずの皇帝は、玉座の肘掛に肘を乗せながら
シャルディナ達の話に耳を傾けている。
﹁報告は以上です。後は如何様にでも﹂
皇帝の前にはシャルディナと斉藤を始め、セリア、ロルフ、オル
ランドといった追跡隊を指揮した面々が跪く。
シャルディナの脳裏にあの後の数日間が蘇る。
亮真達を逃がした後、シャルディナは夜明けを待って森に散って
いた兵を纏め森を進んだ。追いつくかもしれないという一縷の望み
に賭けたのだ。
見逃すと言ったのはあくまでも兵が居ないあの場限りの事でしか
ない。
兵を集めてしまえば状況は変わる。
だが、結局シャルディナは亮真達を再び見つける事が出来なかっ
た。
﹁やはり無理ね⋮⋮﹂
シャルディナの呟きに斉藤が苦虫を噛み潰したような顔で応じる。
289
﹁いたし方ありません⋮⋮兵を纏めるのに手間取りましたから⋮⋮﹂
それは亮真達とて十分予想していたのだろう。
普通の人間ならあの場の見逃すを勝手に解釈し、少なくとも国境
を越えるまで追ってはこないだろうなどと判断しかねない。
﹁あの男、油断しなかった⋮⋮わね﹂
そういった甘い判断をしないところが亮真の最大の強さなのだろ
う。
シャルディナは己の認識の甘さに唇を噛み締める。
﹁仕方ない⋮⋮帝都へ戻るわ﹂
シャルディナの言葉に斉藤の顔が曇った。
確かに御子柴亮真の捕縛に失敗した今、何時までもこんな森の中
をうろついたところでしょうがない。
国境の警戒も早々に解かなくては経済に影響が出てしまうし、南
方を探索中のセリア達へ連絡もしなければならない。
そういった状況を十分に把握してはいたものの、斉藤が素直に賛
同出来ないのはシャルディナの処遇に不安を感じるからだ。
やはり亮真達を捕まえそこなったのは大きな失点である。特に最
悪なのは、一度は捕らえながら逃げられると言う事。
しかも、騎士団員に死傷者が出ている。
いくら亮真に仲間が居たという予想外の事態があったにしろ無視
出来る様な状況ではなかった。
﹁ドルネストの顔が真っ赤になるわね﹂
290
シャルディナの言葉に、思わず斉藤の顔が引きつった。
﹁でしょう⋮⋮ね﹂
斉藤の脳裏に皇帝の間でシャルディナ達を怒鳴りつけるドルネス
トの姿がはっきりと浮かんだ。
鉄血の異名をとる彼は、鉄のごとき意志の強さと血を流す覚悟を
持った政治家である。
皇族であるシャルディナに対してであろうと其の態度を変えるこ
とは無い。
今回の一件をうやむやにはしないだろう。
それに懸念はもう一つ存在する。
﹁セリア様の方も問題かと⋮⋮﹂
斉藤の押し殺したような言葉にシャルディナは無言のまま頷いた。
今回の任務に最も熱心なのは身内を殺されているセリアだ。
其のセリアになんといって話をするのか。
﹁まあ⋮⋮何とか成るでしょ。セリアも馬鹿じゃないわ。状況をき
ちんと説明すればそれ以上文句を言うはずないと思うわ﹂
︵普段のセリア様なら其のとおりだろうが⋮⋮︶
身内を殺された時に普段の冷静さを保てるのだろうかと斉藤は危
惧した。
其の顔色を読んだのだろうか。
シャルディナは肩をすくめて言った。
﹁まあ其の辺は私の方で何とかするわ。どちらにしろ帝都に帰還す
るしか選択肢はないしね﹂
291
シャルディナの前にはセリア、ロルフ、オルランドの三人が座っ
ている。
﹁そうですか⋮⋮﹂
セリアの言葉には普段の覇気が無い。
帝都帰還の決定後、南方へ出ていた3人を呼び戻したシャルディ
ナは皇帝に謁見する前に状況の共有を図るため、帝都の南方に位置
する町オイートにて合流することにした。
シャルディナ達の現在地から考えると帝都を通り越して向かうこ
とになるが、致し方ないという判断だ。
此処はオイート郊外の合流地点。
設営された天幕の中でシャルディナの話が終わったところだ。
﹁成る程⋮⋮そのような状況では取り逃がしたのも致し方ありませ
んな⋮⋮﹂
ロルフの顔にも苦渋が浮かぶ。
其の顔には自分がシャルディナと共に行くべきだったという後悔
が浮かんでいる。
オルランドの方も同様だ。
﹁しかし⋮⋮何故召喚されて間もないその⋮⋮御子柴亮真?ですか。
そやつに加担する者が居たのでしょうか? しかもそれほどの手練
が⋮⋮?﹂
ロルフの疑問にシャルディナは首を横に振った。
其れは帰還の道すがらシャルディナと斉藤が最も重視した疑問だ
った。
292
﹁其れは斉藤とも話し合ったんだけれどもね⋮⋮正直に言って判ら
ないわ﹂
首を横に振るシャルディナへオルランドが控えめに尋ねてきた。
﹁あのう⋮⋮陛下へはどのようにご報告なされるおつもりですか?﹂
これはシャルディナ以外の全ての人間が気になるところだった。
皇帝の命令は絶対である。
それを果たせなかった以上、最悪死刑まで考えられるのだ。
﹁有ったままの事を報告するわ﹂
シャルディナの言葉に斉藤もうなずく。
オイートへ向かう道すがらで既に二人の間で意見の合意が取れて
いたからだ。
﹁よろしいのですか?﹂
ロルフの顔に本当にそれで良いのかと言う疑問の色が浮かぶ。
ありのままに報告すれば、今回の責任は全て斉藤とシャルディナ
に被される事になるだろう。
皇族の一人とはいえただでは済まないかもしれないのだ。
﹁しょうがないわ。事実は事実だもの﹂
肩をすくめシャルディナは静かに答える。覚悟は既に出来ている
のだから⋮⋮
293
﹁いくら皇女殿下とはいえこのような報告を!﹂
﹁ドルネスト⋮⋮少し黙れ⋮⋮﹂
シャルディナを責め立てるドルネストの怒声を皇帝の声が遮る。
斉藤は脳裏に浮かんだ光景を振り払い、意識を皇帝の言葉へと向
けた。
﹁ワシは今回のシャルディナの対応を非難するつもりは無い﹂
重々しい声が玉座から響く。
ドルネストの顔に驚きが広がる。
﹁しかし⋮⋮陛下!﹂
﹁ワシの話を聞け⋮⋮ドルネスト!﹂
玉座の肘掛に肘を突き皇帝は低い声で言った。
﹁確かにワシの命令をシャルディナは果たせなかった。其れは事実
だ。しかし予想外の手練が着いていたのだ。どうしようもあるまい
?﹂
皇帝の言葉にドルネストは返答に詰まった。
確かに其れは事実だ。
いや、異世界人を一度でも捕縛出来ただけでも奇跡に近い。
当初、相手の名前も顔も何も判らなかったのだから。
其れはドルネストにも判っている。
﹁しかし⋮⋮それでも異世界人を逃すなど!﹂
294
﹁判っている。しかしだ。シャルディナと斉藤どちらも我が帝国に
は重要な戦力だ。いくらガイエスを殺したにくい男とはいえ、そや
つを殺すために帝国を戦力低下の危険に晒すわけにはいくまい?﹂
サキュバスナイツ
どれほど低い確率であろうと、帝国の誇る夢魔騎士団の団長と副
団長を一度に失う危険を冒すわけにはいかないのだ。
ガイエスが死に帝国の戦力が低下している今、新たに主力ともい
える人間を失うのは帝国の覇権を脅かすことでしかない。
もろもろを考え合わせれば、シャルディナの判断は実に的を得た
ものだったのだ。
﹁しかしだ⋮⋮﹂
皇帝の視線がシャルディナへ注がれる。
﹁如何に致し方なかったとはいえ、余の命令が果たせなかったのは
事実。よってそなた達にはガイエスの後を継ぎ、東部諸国攻略の任
を命ずる。シャルディナお前が指揮を執れ﹂
その言葉が玉座の間に響き渡った瞬間、シャルディナ達四人が一
斉にその場で頭を下げた。
皇帝が罰を与える代わりに、新たに勲功を立てる場を与え其の功
績で今回の失敗を相殺しようとしているのがわかったからだ。
﹁必ずやご期待にこたえて見せます。陛下!﹂
295
第2章主要登場人物紹介︵前書き︶
今更ですが第2章の登場人物紹介です。
本当に主要なキャラしか記載してません。
もしあのキャラも紹介に入れてと言う要望がありましたらご連絡く
ださい。
296
第2章主要登場人物紹介
第1章主要登場人物
みこしばりょうま
名前:御子柴亮真
性別:男性
年齢:16
出身地:東京都杉並区
本作品の主人公。
190cmに近い長身で体重は100Kgオーバーの巨漢。
コンプレックスは20代半ば∼30歳などと呼ばれる老け顔。
アース
地球で高校生活を送っていた時は温厚で人当たりのよい性格という
周囲の評価を受けていたが、弱肉強食の世界である大地へ召喚され
た事によって、今まで押し隠していた冷酷な本性がむき出しになっ
てきている。
祖父から習い覚えた古武術はかなりの腕前。
名前:ローラ&サーラ・マルフィスト
性別:女性
年齢:十代半ば
帝国の追手から逃げていた亮真に、盗賊団に襲撃されていたところ
を助けられ忠誠を誓う事になった双子の姉妹。
血盟と呼ばれる儀式を行ったことで、亮真に対して絶対的な忠誠を
誓っている。
騎士階級の出身で法術を使うことが出来る。
名前:リオネ
297
性別:女性
年齢:30代半ば
出身地:不明
紅髪金目の美女の姉御肌な女性。
クエスト
傭兵団︻紅獅子︼の頭。
とある依頼を亮真と受けたことにより知り合う。
亮真を﹁坊や﹂と呼ぶが実のところ其の頭脳を高く買っている。
名前:ボルツ
性別:男性
年齢:50代半
出身地:不明
傭兵団︻紅獅子︼の補佐役。
戦で左腕を失った歴戦の勇士。
亮真の事を尊敬し﹁若﹂と呼ぶようになる。
名前:ルピス・ローゼリアヌス
性別:女性
年齢:20代前半
出身地:ローゼリア王国
銀髪金目の美女。
ローゼリア王国の近衛騎士団騎士団長。
父である国王の後を継いで女王になろうとしているが⋮⋮。
名前:メルティナ・レクター
性別:女性
年齢:20代後半
出身地:ローゼリア王国
黒髪黒目の美女。
ローゼリア王国の近衛騎士団副団長。
298
ルピス王女への忠誠は篤いがイマイチ思慮が足りない。
名前:ミハイル・バナーシュ
性別:男性
年齢:30代後半
出身地:ローゼリア王国
ルピス王女への忠誠篤き騎士。
ローゼリア王国の親衛騎士団副団長。
亮真いわく脳筋。
名前:ラディーネ・ローゼリアヌス
性別:女性
年齢:10代半ば
出身地:不明
銀髪の少女。
ローゼリア王ファルスト2世の血を引くとされ娘。
ゲルハルト公爵の後ろ盾を得てローゼリア王国新女王の座を狙う。
名前:ホドラム・アーレベルク
性別:男性
年齢:50代半ば
出身地:ローゼリア王国
名門騎士の家系を誇るローゼリア王国の将軍。
ルピス王女を擁立し、貴族派と戦うが⋮⋮
騎士派の頭首。
名前:フリオ・ゲルハルト公爵
性別:男性
年齢:50代後半
出身地:ローゼリア王国
299
ローゼリア王国の公爵。
ラディーネ王女を擁立し、ローゼリア王国に内乱を起こした張本人。
貴族派の頭首。
名前:スドウ
性別:男性
年齢:40代前半
出身地:不明
ラディーネ王女の擁立をゲルハルト公爵に吹き込んだ男。
どこかの国に使えているようだが⋮⋮
300
第2章第1話︵前書き︶
皆様お久しぶりでございます。
新年明けて半月が早くも過ぎてしまいました。
更新を待ち望んでくださった方がいるかどうか不安ではございます
が、今後の展開が決まりましたのでまた更新させていただきます。
拙い作品ではありますがどうぞよろしくお願いいたします。
301
第2章第1話
異世界召喚63日目︻召喚されし者の絶望︼その1:
西方大陸北部。
黄砂の吹き荒れるドーシュ砂漠を3人の旅人が進んでいた。
彼らの纏うマントは其の過酷な旅を象徴するかのように薄汚れ擦り
切れていた。
彼らの足取りは重い。
﹁この砂丘の先にミレイシュのオアシスがあるはずです。﹂
﹁そこに居るんだな?そいつが・・・﹂
亮真の目がサーラの指差した砂丘の先へと向けられる。
其の瞳は絶望とほんのわずかな希望の混じった悲しい目をしていた。
﹁結論から言いましょう。お気の毒ですが貴方が元の世界へ帰る事
は不可能です。﹂
薄暗い部屋の中は黄ばんだ羊皮紙や書籍が所狭しと山積みとなって
いるこの部屋の主は、椅子に腰掛けながらそう言い放った。。
このかび臭く薄暗い部屋の主は麻の上下を着込んだ女性だった。
年のころは30半ばから40代前半といったところか。
容姿はどこにでも居る普通の女性だ。
取り立てて美しいわけでも醜いわけでもない。
黒髪に黒い目。
あまり特徴のある容姿とはいえない。
服装にしてもそうだ。
どこにでも居る平凡な女性。
だが彼女の真価は見かけではない。
302
其の脳裏に刻まれた西方大陸で1
にこそ彼女の真価である。
2を争うといわれる法術の知識
それゆえに亮真は彼女を訪ねてきたのだ。
ミレイシュの隠者といわれるこの女性。
アナマリアを。
﹁それは今現在技術が無いって事だろう?﹂
亮真の目にまたかという嘲りが浮かんだ。
其れはシャルディナ達の追撃を逃れてから今までの2ヶ月間の間に
訪ね歩いた法術師達が口を揃えて言った言葉だ。
だが彼女の口から放たれた言葉は亮真を打ちのめした。
﹁いえ。技術が無いから帰れないのではありません。技術を作れな
いから帰れないのです。﹂
﹁なんだと!﹂
亮真の口から怒声が飛び出す。
其れはサーラ達姉妹がこの2月の間共に旅をしてきた中で一度も目
にした事が無いほどの怒りだった。
この2月の間、亮真達3人はギルドの仕事をしながら、地球へ帰る
方法を見つけるために高名な術者を訪ね歩いた。
勿論、帝国領内に住む者を除いてではあったが。
そして其の全ての者達から同じ答えを貰っていた。
すなわち帰る方法などないと。
だがこうも言われていた。
技術を開発していないのだと。
だから亮真は彼らに尋ねたのだ、貴方は其の方法を開発できるのか
?と。
そして彼らは一様に言った。
自分達では無理だと。
そして幾人かの開発が出来そうな術者の名前を挙げた。
其の中の一人がアナマリアだったのだ。
303
﹁落ち着きなさい。興奮しても結論は変わりません。﹂
亮真の怒声を聞いてもアナマリアの表情はまったく変わらない。
元はどこかの国の文官を務めていたらしいが、国政に関して大臣と
対立した所為で職を辞したといわれるのも頷ける。
﹁悪かった。・・・大丈夫。落ち着いた。・・・何故帰れないのか
理由を説明してもらえるか?﹂
胸の奥から吹き荒れる憎悪と怒りを必死で押さえ込み、亮真はやっ
とそれだけを口にした。
﹁理由ははっきりしています。・・・・其の理由を説明する前に確
認したいのですが、貴方は法術というものをどのように理解してい
ますか?﹂
﹁法術についての理解・・・・か。﹂
亮真の脳裏にサーラ達から受けた法術に関しての知識が浮かぶ。
プラーナ
法術とは生命体の持つ生気を使う技術のことだ。
プラーナ
そしてどのように使うかにより3つの系統に分かれる。
1つは自らの体に宿る生気を自らの体に作用させる武法術。
プラーナ
詠唱を必要としないこの技術は接近戦では圧倒的な力となる。
そしてもう一つの系統が文法術。
これは神や魔、精霊といった人外の存在に生気を捧げる事で、力の
一部を一時的に借り受けるといったものだ。
詠唱が必要な為、接近戦には向かない。
プラーナ
ただし人外の力を借りるため、火を放ち風を操るといった人間には
出来ない現象を起こすことができた。
プラーナ
そして最後が付与法術。
これは剣や槍といった生気を持たない物質に生気を纏わせることで
強度を上げたりする技術である。
亮真の説明にアナマリアの表情がほころぶ。
304
﹁そう。基本は判っているようね・・・では質問するけど。異世界
から人を召喚する技術はどの系統に属するか判る?﹂
プラーナ
アナマリアの質問に亮真はいらだちを込めて答えた。
﹁文法術だ!﹂
その答えを聞きアナマリアは大きく頷く。
﹁その通り。そして異世界へ問題となるのは何に生気を捧げるかっ
てことなのよ。﹂
﹁・・・それはどういう意味だ?。俺はこの世界に居る。俺がここ
に呼ばれたのはこの世界の法術の所為だ!俺をこの世界に召喚した
時に頼んだ神へ祈れば済む話じゃないか!﹂
亮真の指摘はもっともだ。
だがアナマリアの表情は変わらない。
﹁この世界からは出れます。確かに。﹂
﹁なら!﹂
勢い込む亮真をアナマリアの口から出た言葉が絶望の底へとたたき
落とす。
﹁しかし永遠に時空の狭間を漂う事になりますが。﹂
305
第2章第1話︵後書き︶
前作ウォルテニア戦記の削除に関してなのですが、サイトのマニュ
アルには安易に削除はしないでくださいとの記載があるため、この
まま残すことにいたしました。
拙い作品でお恥ずかしい限りなのですが・・・・
なので今後も題名はウォルテニア戦記︻改訂版︼となります。
どうぞよろしくお願いいたします。
306
第2章第2話︵前書き︶
更新遅れて申し訳ありません。
今回は亮真が召喚された異世界の名前が出てまいります。
ちょっと名前の付け方がややこしい事になっていますがその辺の理
由は本編を読んでいただければと思います。
307
第2章第2話
異世界召喚63日目︻召喚されし者の絶望︼その2:
﹁何だと⋮⋮?﹂
亮真の問いにアナマリアは眉ひとつ動かさずに言ってのけた。
﹁永遠に時空の狭間を漂うと言ったのよ⋮⋮つまり貴方は死ぬ事に
なる﹂
﹁ふざけるな!﹂
この異世界に召喚されてからずっと亮真の中で押し込められていた
何かがはじけ飛んだ。
ダン! 亮真の拳が木製の机にめり込み無数の亀裂が机の幕板部分に走る。
かなり高価そうな机だが今の亮真にとっては関係ない。
﹁亮真様!﹂
﹁お手が!﹂
亮真の後に黙って控えていたローラ達姉妹が悲鳴を上げた。
手加減をせずに机へ叩きつけられた亮真の拳から血が滴る。
﹁亮真様!お手を﹂
308
﹁うるせえぇぇ!邪魔だ!﹂
治療の為に駆け寄る姉妹を振り払い、血の滴りを無視して亮真はア
ナマリアを睨みつける。
﹁もう一度言ってみろ﹂
リア
その瞳には暗く冷たい憎悪が宿り、その声には明確な殺意が含まれ
ていた。
ース
リアース
﹁脅されても結論は変わらないわ。あなたは元の世界。つまり裏大
地へ帰る事は出来ないわ﹂
リアース
﹁裏大地だと?﹂
アース
﹁そう。あなたが元居た世界。それを私たちは裏大地と呼ぶの。私
たちが住む世界、大地の裏側ってことね﹂
リアース
アナマリアの説明に亮真の心が冷静さを取り戻していく。
どれほど激昂しようと結論は変わらないのだ。
アース
なら今は話を聞く事が最優先だ。
︵だが⋮⋮この世界が大地?⋮⋮俺が住んでいたのが裏大地か⋮⋮
まぁ当然か。この世界の人間がつけた名前だもんな⋮⋮︶
これは現実世界でもよくある話だ。
どの国にも太陽は平等にその光を与えるのに日の本の国などとつけ
たり、地球は丸いのに世界の真ん中という意味で中華と国の名前を
付けるのと同じ。
名前を付けるときに裏表を表すなら、自分の住む世界を表とするの
は人間の心理として当然だ。
309
アナマリアは話を続ける。
﹁尤も物理的に裏表があるわけじゃない。人間が住む異世界が貴方
達と私達の住む2つしか見つからなかったから便宜的につけられた
だけの話﹂
アース
アース
﹁どっちが表でも良い!俺が帰れないっていう理由を言え!﹂
リアース
アナマリアは肩をすくめて言った。
プラーナ
﹁簡単な話よ。裏大地から大地に人間を召喚するには、大地に存在
アース
する神へ生気を捧げて召喚を許可してもらわなければいけないの。
リアース
それは大地には結界が張られていて、外からの侵入を阻んでいるか
らなのだけれども、その結界は裏大地側にも張られているのよ﹂
﹁ちょっとまて?結界が張られているのは良いとしてだ。現実に俺
はこの世界に召喚されたんだろ?俺をこの世界に入れた神へ祈れば
済む話じゃないのかよ?﹂
アース
リアース
﹁いいえ。結界内へ入れるかどうかはそれぞれの世界に存在する神
リアース
が許可するかどうかなの。つまり大地から出た後に裏大地へ入るた
めには、裏大地の結界を張っている神へ許可をもらわなければなら
ないって訳﹂
亮真の頭がアナマリアの言葉をわかりやすく変換していく。
︵出るのは自由?でも入るのは許可制⋮⋮これってオートロックの
ホテルで部屋から閉め出されるって状況と同じじゃないか?︶
ホテルなどでよくあるオートロックシステム。
中からは簡単に開くが扉が閉まると自動で鍵が掛かり、外からは入
るには鍵が必要というあれだ。
310
リアース
二つの世界をホテルの部屋に、時空の狭間をホテルの通路に置き換
えるとイメージがしやすいかもしれない。
アース
﹁つまり大地の結界を超えるだけなら可能だけど、裏大地側の結界
を超える事が出来ない。結果時空の狭間?に漂って死ぬことになる
ってことか⋮⋮﹂
﹁そういうことですね。﹂
リアース
﹁だがそれなら裏大地の結界を張っている神の名前が分かれば!?﹂
アース
亮真はそうアナマリアへ反論しつつも返される答えを頭の片隅で予
想していた。
一体いつから大地の人間が地球人を召喚していたかはわからないが、
アース
10年や20年なんて年月ではない事だけは確実だ。
つまり万単位の人間がこの大地へと無理やり召喚されたということ
だ。
そのうちの何人かは亮真と同じように逃げ出し元の世界に戻ろうと
したのではないか?
少なくとも、亮真が地球へ戻ろうとする地球人の第1号ではない事
だけは確実だろう。
ドサッ!
アナマリアはヒビの入った机の上に色あせた書籍を放り出した。
﹁これは今まであなたがた異世界人が元の世界に戻ろうとした記録
です。﹂
広辞苑に匹敵するほどの分厚さを誇る書籍を開きアナマリアは続け
311
た。
﹁送還術式を組むことはそれほど難しくありません。召喚術式を少
しアレンジするだけで出来ますから。ですが祈りを捧げる神の名が
分からなければどうしようもないのです。﹂
アナマリアが書籍のあるページを開き、亮真へ突き出した。
﹁ここに貴方がたの世界の神の名が記されています。つまりここに
のっている神の名を組んだ術式はすでに使用され効果がない事が確
認されているという事です。﹂
﹁つまり⋮⋮俺がここに記載の無い神の名前を知っていない限り⋮
⋮﹂
﹁元の世界に帰還する事は不可能だという事です﹂
非情な宣告が亮真の胸に突き刺さった。
﹁月読、スサノウ、天照⋮⋮エホバ、ヤハゥエ⋮⋮﹂
亮真はミレイシュの宿屋に戻ると、サーラ達姉妹を締め出しアナマ
リアより借り受けた書籍を必死で調べていた。
アナマリアの家から戻る亮真の顔には悲壮感が漂い、サーラ達姉妹
は言葉をかける事すら出来なかった。
亮真が籠る部屋の前の通路には、サーラ達姉妹が立っていた。
二人の視線は亮真の部屋のドアに注がれている。
312
﹁もう5時間よ⋮⋮﹂
サーラの言葉にローラが頷く。
時間は既に深夜に差し掛かっている。
﹁亮真様⋮⋮﹂
姉妹には亮真の気持ちが痛いほど良くわかっていた。
自分達が亮真の立場ならどうだろうかと想像するだけで震えが来る。
だが姉妹達に亮真を救うことは出来ない。
彼女達に出来る事はただ部屋の前で亮真の身を案じるのみだった。
313
第2章第3話︵前書き︶
更新遅くなりました。
今後ともよろしくお願いします。
314
第2章第3話
異世界召喚64日目︻召喚されし者の絶望︼その3:
窓から朝日が差し込んで来る。
ローラ達姉妹は顔を見合わせると、覚悟を決めたように亮真の部屋
の扉を叩いた。
トントン
彼女達が手にしているのは、宿屋の主人に頼んで調理してもらった
朝食を乗せた盆だ。
結局昨夜から夜が明ける今まで、亮真はただの一度も部屋から出る
ことはなかった。
夕食の誘いも夜食の差し入れも無視し、ただひたすらにアナマリア
から借り受けた書籍をめくる微かな音がドア越しに聞こえて来る。
姉妹の顔にも徹夜明けの疲労が色濃く浮かぶ。
それはひたすら憑かれたように書籍を調べる亮真を心配してのこと
だ。
トントン
今度は少し強めに叩く。
調べ物の邪魔をする事は姉妹の本意ではなかったが、昨夜から夕食
も夜食も食べず飲み物すら取っていない亮真を放っておく事は出来
なかった。
315
﹁亮真様⋮⋮?﹂
恐る恐るドア越しに声をかける。
やはり返事は無く、ページをめくる音だけが微かに聞こえる。
そしてついにその音も途絶えた。
﹁サーラ⋮⋮﹂
﹁ええ⋮⋮やるしかないわね姉様﹂
姉妹は顔を見合わせると、手にしたお盆を床に置き木製の扉へ向い
た。
ドガッ!
武法術で身体強化された足が扉を吹き飛ばした。
﹁﹁亮真様!﹂﹂
部屋の中は闇に支配されていた。
窓からは木漏れ日が差し込んでいるにも関わらず、暗く冷たい。
そしてそれは部屋の奥に座る一人の男から発せられる何かが原因だ
った。
﹁亮真様⋮⋮?﹂
サーラは恐る恐る問いかけた。
ドアを蹴破り侵入した姉妹に亮真は視線を向けず、ただ机の上を凝
視するのみだった。
316
何度も何度もめくり続けたのだろうか、書籍のページは一部擦り切
れており、汗が紙に染みつい皺がよっていた。
机の上と床には無数の紙が散乱しており、紙に記載されている名前
にはすべて横線が入っていた。
︵これは⋮⋮ご自分が知っている神の名前を書き出して、それが書
籍に記載されているかどうかを調べたのね⋮⋮︶
サーラがざっと見渡しただけでも数十枚の紙が散乱している。
﹁姉様⋮⋮﹂
ローラが床に落ちていた2枚の紙をサーラへと差しだした。
紙には裏表にびっしりと名前が書かれており、その全てに横線が入
っている。
そして良く見るとそれは全く同じ名前が書かれていた。
並び方も同じだ。
﹁これって⋮⋮﹂
サーラのつぶやきにローラが頷く。
亮真は自分の知りうる限りの神の名を書き連ねると、書籍の中に記
載があるかを調べ、ある者には横線を入れて消していった。
そして、すべてを消し終えた後再び間違えが無いか、記載漏れがな
いか、見落としが無いかと、再び同じ作業を行ったのだ。
そう何度も何度も何度も何度⋮⋮有りもしない希望を探して。
﹁⋮⋮無い⋮⋮﹂
亮真の口から微かに言葉がこぼれる。
317
﹁亮真様?﹂
﹁俺は⋮⋮帰れ無い⋮⋮﹂
今度は姉妹の耳にはっきりと聞こえた。
﹁帰れない⋮⋮帰れない⋮⋮帰れない⋮⋮﹂
亮真の口から漏れる言葉がだんだんと強く大きくなる。
それに伴い、部屋の中の闇は暗く深くなっていく。
﹁姉様!﹂
﹁ええ!﹂
姉妹は部屋に飛び込んでから強い違和感を感じていた。
二人が亮真に持っていたイメージは、強く冷静で冷酷です少し優し
いそんな人間だった。
だが今目の前に居る亮真は、はかなく脆く不安定。
それでいて禍々しく恐ろしい、そんなイメージを持たせる。
二人はとっさに亮真の頭を胸に抱えこんだ。
まるで赤子をあやす様に。
涙に濡れる幼子を安心させるように。
﹁大丈夫です。亮真様。私たちが居ます。ずっとお傍に⋮⋮ですか
ら⋮⋮﹂
どれほど時間がたったのだろうか。
いつの間にか部屋の中を覆っていた暗く重い空気は消えていた。
姉妹の胸の間から穏やかな寝息が洩れる。
318
﹁姉様。ベットに運んだ方がいいよね?﹂
ローラが亮真へ視線を向けて言った。
﹁そうね⋮⋮ローラ、そっちを抱えて﹂
100Kgを超す巨体を抱えて、二人はなんとか亮真をベットへ寝
かせる。
﹁これからどうする?﹂
ローラの視線が破壊されたドアへと向けられる。
﹁徹夜でお疲れだからきっと夕方まで目覚めないと思う。ドアの方
は宿屋の主人に話をして少し大目にお金を払えばいいわ﹂
ローラは躊躇う様に言った。
﹁亮真様怖かったね⋮⋮﹂
﹁ええ、でもそんな事は関係ないわ⋮⋮私たちは亮真様にこの身を
お助けいただいたの。だから私たちは亮真様の物。ただ亮真様の為
に尽くせばいいだけ﹂
﹁うん、そうだね。姉様﹂
姉妹はそう言って頷きあうと、ベットで眠り続ける主人へと視線を
向けた。
319
︵ここはどこだ?︶
亮真の意識は深い闇の中に居た。
暗く冷たく、心まで凍りつきそうな闇の中に。
︵俺は⋮⋮そうだ!。宿屋の部屋で調べ物をしていたはずだ︶
少しずつ亮真の意識がはっきりといしてくる。
﹁ここはお前の心の中よ﹂
感情の無い無機質な声が聞こえる。
︵心の中?俺の意識の中ってことか。?︶
﹁そうだ﹂
︵俺は言葉を出していないぞ?︶
﹁心の中だからな。言葉など意味が無い﹂
︵お前は言葉を発しているぞ?︶
﹁いや、お前が自分でそう思っているだけだ﹂
︵お前はなんだ?︶
﹁俺か?俺はお前の最も身近に居る、最もお前を理解している存在
だ﹂
︵なんだそれは?︶
﹁今はまだいい⋮⋮それはいずれお前自身が答えを見つけ出す﹂
320
そう言うと声が亮真に問いかけてきた。
﹁お前は何を望む?﹂
亮真は少し考え、もっとも強い願いを言葉にした。
︵俺は⋮⋮帰りたい。飛鳥に、爺さんに、クラスのみんなにもう一
度会いたい。元の生活に戻りたい︶
﹁だがそれは叶わない。お前はそれを自分で確認したではないか﹂
声は無情にも亮真の願いを切り捨てる。
︵俺は帰れないのか?もうあの生活に戻れないのか?︶
﹁戻れない。可能性自体は0ではないが。恐ろしいほどの犠牲を覚
悟するか、運にすがる以外に方法は無いだろうよ。お前も判ってい
るようにな。後はその犠牲を覚悟して行うのか、諦めるのかだ﹂
︵なんだ?何の事だ?お前は何を言っている︶
亮真の問いを声の主は冷徹な声で切り捨てる。
﹁お前は全てを認識し理解ている⋮⋮お前は、ただその答えを認め
たくないだけだ﹂
︵俺は⋮⋮俺は︶
﹁お前が憤怒を解き放つなら、この世界を滅ぼすことだって可能だ。
321
無理やりこの世界に呼び出され戦わされる。これは誰の所為だ?﹂
︵それは⋮⋮あの爺と帝国の奴らの所為だ︶
﹁違う。これはこの世界の成り立ち自体が問題なのだ。この世界は
お前達地球出身者の犠牲を前提に成り立っている歪んだ世界だ﹂
亮真の答えを声は否定した。
︵歪んだ世界⋮⋮?︶
﹁そうだこの世界は奪う事を前提にして成立している世界だ!壊せ。
殺せ。犯せ。奪われたものを奪い返せ。お前にはその権利がある!﹂
︵権利が⋮⋮あるのか?︶
亮真が声に頷きかけた時、声が世界に響いた。
﹁大丈夫です。亮真様。私たちが居ます。ずっとお傍に⋮⋮﹂
それは暖かく柔らかで、安らぎに満ちた言葉だった。
それを聞いた時、亮真は意識を失い闇の世界から消えた。
﹁ふむ。我を解放せずに戻ったか⋮⋮まあそれも良い。いずれ嫌で
も選択する。我を従えるか我に飲み込まれるを⋮⋮どちらであろう
とそれはお前自身が決める事⋮⋮我はお前自身なのだから﹂
亮真のいなくなった闇の中に無機質な声のみが響く。
322
第2章第4話
異世界召喚64日目夕方︻召喚されし者の絶望︼その4:
﹁う⋮⋮うぅん﹂
亮真がベットの上で目覚めたのは、日も既に落ち辺りを夜の帳が支
配し始めた頃だった。
﹁うん⋮⋮あぁ?﹂
亮真の口から大きなアクビが漏れた。
彼の眼にまず最初に目飛び込んできたのは、破壊された部屋のドア
だった。
ドア板がぶち破られ、大きな穴から廊下の照明の光が部屋に差し込
んでくる。
次に気になったのは自分の位置だ。
なぜかベットに寝ている。
プ∼ン⋮⋮
食欲を誘う美味しそうな香り。
ドア板に開いた穴からシチューの匂いが漂ってくる。
階下の食堂で食事が出されているようだ。
ドアに開いた穴といい、自分がベットに寝ている事といい、色々と
気になる点は多かったが空腹には勝てない。
彼は身支度をすると階下へと降りて行った。
323
﹁お!起きたのかい﹂
宿屋の主人が亮真に声を掛ける。
階段を下りた先にある受付に店主が顔を上げた。
どうやら帳簿の整理でもしていたようだ。
﹁あ、どうも。おはようございます﹂
宿屋にチェックインした時に顔を合わした以外、ろくに挨拶すらし
ていない亮真に対して店主は話しかけた。
﹁部屋の修理代はお連れの女の子からもらった分で足りるから。気
にしなくていいよ﹂
気さくに話しかけてくる店主の言葉に亮真は怪訝な顔で答えた。
﹁ああ。そうかあんた意識が無かったんだったな。なら詳細はあの
子たちに聞くといい。あの子たちがあんたの為に壊したんだからな﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
亮真は、状況がつかめず、主人の言葉に曖昧な返事をした。
﹁まあ、なんにしろ弁償はしてもらってるからあんたは気にしなく
ていい。今夜寝る時は新しい部屋に移りなよ?荷物は運んであるか
らな﹂
どうやら部屋を移る事になりそうだ。
まあ、亮真にとってもドアの壊れたプライバシーの無い部屋に寝る
324
のはごめんだ。
﹁判りました﹂
﹁ああ、そうだ!あんた昨夜から何も食べてないんだろ?⋮⋮家内
がシチューを作ったから部屋に持っていきな﹂
そういうと、調理場に居る奥さんへ声をかけた。
﹁あいよ!そんな怒鳴らなくても準備できてるさ!﹂
調理場から奥さんがすぐにお盆を掲げてやってきた。
どうやら亮真と店主が話す声を聞いて既に準備していたようだ。
﹁はいよ!﹂
威勢の良い声と同時にお盆が亮真の前に突き出される。
良く煮込まれたシチューの香りが食欲をそそる。
パンも焼きたてだ。
だが亮真は戸惑いを感じた。
お盆には3人分の食事が乗っていたからだ。
やけに大きな皿に注がれたシチューはまず亮真の分だろう。
なら後の二つの皿は?
ドガッ
突然亮真の右足の脛が蹴られる。
﹁あんた。それはお嬢さん達の分だよ!﹂
325
190cm近くの身長に100kgを超える巨体だ。
女性に脛を蹴られた程度でどうなる体でもないが、いきなり蹴られ
た事に驚く亮真へおかみさんは言い放った。
﹁あんた!どれだけあの子達に心配をかけたと思ってるんだい。え
え?でかい図体して﹂
よほど亮真の表情が気に入らなかったらしい。
﹁あんたが何を調べてたのか知らないけどね。血相変えて帰ってき
たと思ったら、夕食も夜食も食べずに部屋に籠りきってさ⋮⋮あん
たが食べないのはそりゃあんたの勝手だよ!でもねあんたが食べな
いのに自分たちが食べるわけにはいかないってあの子たちも食事を
しなかったんだよ?﹂
﹁え?あいつら食べて無いんですか?﹂
亮真の顔色が変わった。
﹁はぁ。これだから男ってのは⋮⋮良いかい!あの子達もそろそろ
目覚める頃合いだ!部屋に持って行って一緒に食べな!﹂
大きなため息をつくと呆れたように首を振りながら調理場の方へと
戻っていく。
﹁まぁ、あんたは一人じゃないってことさ。何を悩んでるか知らな
いが、思いつめすぎると他の大切な者を失うことになるぞ﹂
亮真の肩を叩き店主も帳簿整理の仕事に戻った。
326
︵俺は⋮⋮︶
亭主夫婦の言葉が亮真の頭の中でぐるぐると回る。
ただひたすらに地球へ帰るそれだけを目的に旅をしてきた亮真が、
サーラ達姉妹に支えられて来た事を強く意識させられた瞬間だった。
︵俺は周りを見ていなかったのか⋮⋮︶
亮真にとってこの世界は苦痛でしかなかった。
無理やり召喚された亮真がこの世界を好きになれるはずがない。
というより、正直に言って亮真はこの世界を憎んでいた。
当然この世界に生きる人間達も。
だが憎んでいたはずのこの世界の人間達にいつの間にか亮真は支え
られていた。
思い起こせば帝都で会った食堂のおばちゃんにしろ、ギルドで会っ
た受付嬢にも。
彼らはなにも知らない亮真に教えてくれたのだ。
様々な事を。
それは人と人との繋がり。
結局人は一人では生きられないのだ。
どれほどこの世界を憎もうと、それは変える事の出来ない真実。
コンコンコン。
﹁はぃ。どうぞ⋮⋮﹂
亮真は姉妹達の部屋に入った。
この日、姉妹と共に取った食事は、亮真がこの世界に来て最も美味
だと感じる食事となった。
327
328
第2章第5話
異世界召喚83日目︻強制依頼︼その1:
ミレイシュの町を後にした3人は、東部地方の港町フルザードへと
やってきていた。
アナマリアより借りた書籍により、元の世界︻地球︼へ戻る事の出
来る可能性が限りなく0に近い事を知った亮真は、帰還の手段を追
い求めることを止め、この世界で生きていくことを考え始めた。
その心境の変化の要因にはサーラ達姉妹の献身的な愛情も大きく影
響していた。
だが、この世界で生きるといっても何か目的があるわけではない。
クエスト
それこそ勇者として召喚でもされたのならまだ楽なのだろうが。
そこで亮真はギルドの依頼を受け金を稼ぎながら旅をする事にした。
自分がこの世界で生きる意味を探す旅に。
﹁これからどうします?﹂
フルザードの町のギルド前で3人は話し込んでいた。
3人はミレイシュの町から街道を通らず森を突っ切って南下してき
た。
その所為で相当な量の素材が溜まってきている。
なるべく嵩張らない物で高額な物のみを厳選して取得したのだがそ
の量は軽く40kgを超える。
戦闘を行いながら運ぶ量としてはかなりきつい量だ。
ミレイシュを離れてから20日。
3人の使っている剣も既にただの鉄の棒となっていたため、一旦フ
ルザードの町で装備の新調と物資の処分を行うことにしたのだ。
329
クエスト
クエスト
﹁姉様はこのままギルドの方へ行って。依頼の達成報告と次にどの
マジックアイテムショップ
依頼を受けるのがよさそうか下調べを。私たちは荷物を整理して、
モンスター
消耗品の買い足しと溜まった素材を処分しに魔法道具屋に向かいま
すわ。﹂
ミレイシュを後にしてから討伐した怪物の換金可能な素材がかなり
の量になっていた。
ローラ一人では無理だろうし、姉妹二人でも厳しいものがある。
どうしても亮真が運ぶしか方法は無い。
︵まあ。妥当だな。︶
マジックアイテムショップ
﹁そうだな。・・・ローラ。よさそうな依頼があるか確認だけして
クエスト
パーティー
魔法道具屋前に来てくれ。昼食をとった後に装備を新調してから受
ける依頼を決めようか。﹂
クエスト
ミレイシュの町を離れる際に3人は隊登録を行っていた。
依頼の報告や受注を一人で行え手間が省けるためだ。
﹁判りました。では後で。﹂
軽く頭を下げるとローラはギルドの建物の中へ消えた。
﹁さて。さっさと換金してくるか。﹂
そういうと亮真は山積みの角や皮を抱えて歩きだした。
クエスト
﹁はい。トリプルGランク。ローラ・マルフィスト様ですね。確か
に依頼の達成完了を確認しました。お疲れ様でした。﹂
モンスター
モンスター
クリアポ
受付嬢はローラへ登録カードと報酬の入った袋を差し出しながら言
った。
20日かけて討伐した怪物はかなりの数だ。
イント
尤も討伐した対象が全て自分より低いランクの怪物のみなので達成
値に変化はない。
︵そろそろFランクになるべきじゃないのかしら?︶
330
ローラはそう思わなくもないのだが、亮真はあまりランクを上げる
ことに興味が無いらしい。
実力的に亮真はDやCにも十分値するとローラは思うのだが。
そんな事を思いながら受付を離れようとしたローラへ声をかけた男
が居た。
﹁ほう。かなりの数を討伐されたようですな。﹂
受付嬢の後ろにある机で書類の束と格闘していた男が、席から立ち
上がりローラの方へと歩いてくる。
年のころ30代の半ばといったあたりだろうか。
丁寧に金髪を後になでつけた品の良い感じのする男だ。
パーティーメンバー
仕立ての良い服を着ているところを見てもギルド内でそれなりの地
位に居るのだろう。
﹁ローラ・マルフィストさんですな。隊員は御子柴亮真さん、サー
ラ・マルフィストさんのお二人で間違えありませんか?﹂
男は穏やかな口調でローラへ話掛ける。
﹁そうですけど・・あなたは?﹂
﹁申し遅れました。私はウォルス・ハイネケル。この町のギルドマ
スターをしております。﹂
この男と出会った事が亮真に新たな道を開く切っ掛けとなる。
﹁強制依頼だって?﹂
フォークに突き刺された肉にかぶりつきながら亮真はローラへと尋
ねた。
時間は午後13時を過ぎたあたりか。
マジックアイテムショップ
昼食時を少し過ぎた時間帯の為か、亮真達が入った食堂にも空席が
モンスター
目立つ。
怪物達を解体して調達した素材を魔法道具屋へと卸し、店の前でサ
331
ーラと合流した。
ックアイテムショップ
マジ
そして深刻そうな顔つきのサーラの話を聞くために入ったのが、魔
法道具屋の斜め向かいで営業するこの食堂だ。
﹁はい。どうやらそういう事のようです。﹂
亮真の言葉にローラは頷いた。
クエスト
﹁強制依頼ねえ・・・ギルドマスターや一部の上級管理職が特定の
傭兵や冒険者を指名して強制的に依頼を受諾させるシステムだった
な。だが?﹂
亮真は首を振りながら続けた。
﹁あれは高位の傭兵や冒険者だけのはずだ。少なくとも、貰った手
引書ではそうなってた。﹂
﹁でも変じゃない?私達はトリプルGランクなのに指名されるなん
て? と、いうかトリプルGって下級ランクですよね?﹂
亮真の言葉を聞きサーラが首をひねる。
﹁その辺の事情も含めて説明するので14時頃にギルドの方へ出向
くようにとの事でした。﹂
ローラ自身もあまり乗り気ではないようだ。
とりあえず伝言を頼まれたから言っただけという感じがにじみ出て
いる。
そして乗り気でないのはサーラも同様だ。
強制依頼ということは誰も受け手が居らず、しかも緊急を要する依
頼ということだ。
緊急でないなら請け負う人間が現れるまで放置でも問題はない。
ほの
そして誰も受けたがらない程、面倒で危険が大きいということだ。
まずろくな事にはならないだろう。
そこまで考えが及んだ亮真は、ローラへと尋ねた。
﹁それ、無視する方が良いよな。﹂
﹁出来ればそうしたいのですが・・・ギルド登録の抹消を仄めかさ
れまして・・・﹂
332
﹁脅してきたわけか。﹂
﹁そこまで露骨な言い方ではありませんでしたが言いたい事は同じ
です。﹂
ローラの言葉を聞き亮真は宙を見上げた。
頭の中で利害の算盤が弾かれる。
︵脅してきた事は気に入らねえ。それにそこまでの権限をギルドマ
スターといえど簡単に行使出来るだろうか?確かに権利はあるが一
方的に抹消は出来ないはずだ。︶
心情的には最悪と言っていい。
上から物事を押しつけてくる人間は亮真の一番嫌いなタイプといっ
てよい。
だがその一方で利害という点では別の答えが出ている。
︵だが万一という可能性がある。この世界で身分保障の無い俺が現
状持てる身分はこいつだけだ。金だけはアゾスから奪った金が手つ
かずに残っているし、狩りで稼いだ金もだいぶ溜まってきている。
金を使えば身分は買えるだろう・・・いや、権力者の知人もいない
のに金で身分が買えるわけもない。いずれギルドを抜けるにしろま
だ冒険者の身分は利用価値がある。多少の理不尽さは目をつぶって
でもギルドに残るべき・・・か・・︶
結局は現実の利益を取るか、自分の心情を取るかだ。
ローラ達姉妹は亮真の決定に従うだろう。
様々な思考の後、亮真はついに言った。
﹁行くだけ行くか・・・話を聞いてあまりにも割が合わないような
らまた考えることにする。﹂
亮真の言葉に姉妹は頷いた。
333
334
第2章第6話︵前書き︶
更新遅れて申し訳ありません。
今後もよろしくお願い致します。
335
第2章第6話
異世界召喚90日目︻強制依頼︼その2:
フォン・・
後方より放たれた矢が亮真の左の耳たぶを掠めて御者台に突き刺さ
る。
﹁亮真様!﹂
﹁うるさい!お前は黙って馬の制御をしてろ!サーラ!﹂
亮真は耳たぶから滴る血を見て叫び声を上げるサーラを怒鳴りつけ、
疾走する箱馬車の制御に専念させた。
馬に乗ることも馬車を操作することも経験したことが無い亮真にと
って、御者台に座るサーラの手綱さばきがこの襲撃から生き残る唯
一の希望だ。
たとえ自分の身を心配してくれたことから出た言葉であろうと、今
の亮真にとっては意味が無い。
馬車には全身ハリネズミのように矢が突き刺さっている。
本来なら板製の天蓋が着いている客席部分に居るべきだろうが、今
はそうもいかない。
後方から次々と射掛けられる矢の軌道が山形なため、車体を通り越
して天蓋の無い御者台に降り注いでくるからだ。
馬の制御が出来ない亮真は、サーラが手綱に集中できるように車体
の窓に掛かっていた厚いカーテンを剥ぎ取りそれを振り回すことで、
御者台を矢から守っていた。
336
﹁クソッタレが!まだ追ってきやがる!﹂
﹁亮真様。やはりこれは⋮⋮﹂
サーラの言葉に亮真が忌々しそうに履き捨てた。
﹁ウォルスの野郎⋮⋮舐めた事しやがって。いや今はそんなことを
言っている場合じゃないな。⋮⋮サーラ!ローラ達がそろそろ伏せ
ているはずだ。いいな!合図を見逃すなよ!﹂
﹁はい!﹂
亮真は矢を必死でたたき落としながら7日前の野営地での事を思い
返した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−
異世界召喚83日目夜
此処は東部地方の港町フルザードから北西に向かった森の中。
強制依頼の名の下に亮真達3人へ持ち込まれたのは、東部地方3王
国の1つローゼリア王国へ向かう商隊の警護だった。
ローゼリア王国は鉄の国と言われるザルーダ王国と港町フルザード
を含む海洋貿易王国ミスト王国との間に存在する国だ。
国土の大部分が平野であり、農耕牧畜が主な産業の国ローゼリア王
国。
報酬に色を付けると言う事と亮真達以外に傭兵を付けると言う話で
あったため、この引き受けることになったのだが、初めからこの依
337
頼は怪しい事ばかりだった。
商隊の警護として集められたはずの亮真達にあてがわれたのは立派
な天蓋付きの馬車であった。
とても傭兵や冒険者が乗る様なものではない。
次におかしかったのは商隊と言いながら他の荷馬車が空荷であるこ
とだ。
複数台ある荷馬車のうち幾つかが空だというのなら分からなくは無
いが、全てが空荷となれば怪しまざるおえない。
港町フルザードから出発することを考えれば、交易の為の商品など
いくらでも用意できるはずだ。
商売の効率を考えれば荷を空にして交易に出るはずがないのだ。
さらに言えば商人達に関してもかなり怪しい。
かなり絞り込まれた体つきをしているのだ。
しかも手にタコが出来ている。
商隊長へあいさつに行った際に交わした握手でその事に気がついた
亮真は、首を捻らざるおえなかった。
今この商隊の護衛を請け負った傭兵の主だった者はたき火を囲んで
車座に成りながら話し合いをしていた。
﹁あたいも気になってはいたのさ⋮⋮少なくとも、私は今までこん
な商隊を見たことが無いよ。﹂
亮真の今までこんな商隊を見たことが有るかという問いに傭兵団︻
紅獅子︼の頭であるリオネが答える。
女性ながら180を超える堂々とした体格に小麦色の肌。
豹の様に引き締まった筋肉を持ちながら、胸は大きく張り出し女性
であることを大いに主張している。
肩のあたりで切りそろえられた赤髪が金の瞳に良く調和していた。
年の頃は30半ばといったあたりか。
338
女としての成熟した色香を放つ魅力的な女性だ。
﹁あっしらも傭兵稼業は長いんですが初めてですね。﹂
彼はリオネが率いる傭兵団の補佐役で名をボルツという。
50代半ばの男で、左腕が無い。
戦に参加した際に失ったらしいが、初対面の亮真に軽く話すあたり
を考えると、本人はあまり気にしていないようだ。
リオネより長い傭兵稼業を営んできたボルツも初めてというからに
は、やはりこの商隊は何かあると言って良いだろう。
﹁あんた⋮⋮どう思う?﹂
リオネが亮真へ尋ねてきた。
﹁俺は正直この依頼を請け負った事を後悔していますよ⋮⋮﹂
亮真の言葉にリオネとボルツ二人が頷く。
﹁報酬が良いから請け負ったけどこりゃぁ失敗だったかな⋮⋮﹂
﹁ですがアネさん。ギルドを通して請け負ってる依頼だ。そうそう
気にしなくても良いんじゃないですかい?﹂
リオネの言葉を聞き亮真が名前を知らない傭兵が言った。
﹁バカだね。あんた。良くそんな程度の危機管理で今まで傭兵稼業
をやってこれたもんだ。﹂
﹁な!いくらアネさんでもそんな言い方はねえだろう!﹂
339
激昂する男をしり目にリオネは首を振りボルツは口を歪めた。
﹁あんた。ランクはBかもしてないけどね。判断力はそこの坊やに
も負けてるよ。﹂
リオネの言葉にその場に居た傭兵達の視線が亮真へと向けられる。
﹁そもそも皆をここに集めたのはあたしだけども、それを言い出し
たのはその坊やさ。﹂
﹁へ!こんな若造に指図される様じゃ︻紅獅子︼のリオネもたかが
知れてるな!おい!﹂
亮真はこの場に居る中でもっとも年若い。
実年齢16歳であり、老け顔のおかげで20台半ばに見られるとし
ても、周りはみな30以上40半ばがほとんどだ。
リオネにメンツをつぶされた傭兵が仕返しとばかりに大口を叩くの
も当然と言える。
﹁あぁん?アンタ誰に向かって口を利いてるつもりだい⋮⋮?﹂
穏やかな声だ。だがそれが亮真には嵐の前の静けさに聞こえた。
そしてそれは回りの傭兵達も同じように感じたに違いない。
大口を叩いた傭兵の尻馬に乗って囃したてていた声がぴたりと止ん
だ。
﹁まああんた達の気持は判った。今のところはっきりした事が分か
っているわけじゃないし、今日のところは解散という事にしよう。﹂
340
ボルツの言葉にその場の空気が緩む。
リオネもこれ以上揉めるつもりはないようだ。
﹁まいったね。こりゃ⋮⋮﹂
リオネの言葉にボルツと亮真がそろって頷いた。
﹁頭の悪い奴らばかり揃った様ですな⋮⋮﹂
﹁だが愚痴を言ってもしょうがないだろボルツ。最悪に備えておか
なければどうしようもないんだから。﹂
そういうとリオネは亮真に視線を向けた。
﹁坊や。どうする?﹂
﹁まぁ今のところはどうしようもないですね。ただ怪しいってだけ
で依頼を破棄するわけにもいかないでしょう。﹂
﹁そうだろうねぇ。しかし⋮⋮今回の依頼に裏が有るとしたらそれ
は何だと思う?﹂
リオネの言葉に亮真は深くため息をついて答えた。
﹁俺らを餌にして何かをおびき寄せるってところかな⋮⋮裏が有る
と仮定して事実を読み解けば。﹂
341
342
第2章第7話
異世界召喚90日目︻強制依頼︼その3:
亮真には判っていた。
この依頼が不自然な事を。
だが彼に出来たのは、リオネという後ろ盾を作る事だけ。
傭兵達との会合からすでに7日が過ぎたが、道中一度も問題が起き
モンスター
る事は無かった。
怪物や盗賊といった望まれぬ客人の来訪も無い。
本来なら何事も起きないのならそれに越したことは無い。
亮真とリオネ達以外の傭兵との間には会合いらい若干の衝突はあっ
たが、そんなことは些末なことに過ぎなかった。
彼は判っていたのだ。
何も起こらない事こそが嵐を予感させるのだと。
そして、フルザードの街を出立して7日目。
ついに亮真の予想は的中する。
ヒュ 矢が風を切り裂く。
ローゼリア王国国境付近の森林地帯でそれは起こった。
突然街道を挟む左右の森の中より矢が射掛けられたのだ。
﹁﹁﹁なんだ!﹂﹂﹂
343
﹁﹁奇襲だ!﹂﹂
次々に声を上げる傭兵を一人の商人が叱り飛ばした。
﹁皆落ち着け!。隊列を崩すな。﹂
馬車の周りで警戒していた傭兵達の口から、次々と警告が発せられ
る。
商隊の馬車は全部で10台。
御者は商隊の商人たちである。
傭兵達はその周りを固める様に馬に乗り警護していた。
そんな中の奇襲である。
いくら傭兵といえども不意を突かれれば動揺するのは当然と言える。
そんな中、落ち着いて周りを指揮する商人を亮真はジッと見つめた。
﹁落ち着け!。矢から身を隠せ!板でもマントでも何でもいい。翳
して少しでも矢を防げ!﹂
的確と言える指揮だろう。
飛び交う矢の雨の中で出来るのは、少しでも其の災いを逃れる事だ
けだ。
﹁亮真様!﹂
﹁ああ。遂にきたな。﹂
周囲の傭兵達とは対照的に、亮真の言葉に動揺の色は見られなかっ
た。
亮真の中ではこの商隊を襲撃してくる人間がいる事は想定済みだっ
たのだ。
344
ただ問題も有った。
それは誰が、何時、何のために襲撃してくるかだ。
﹁いいか。サーラ。ここからが勝負だぞ?﹂
﹁はい。判っております。⋮⋮姉様達の方は⋮⋮﹂
サーラの言葉に亮真は頷いた。
﹁大丈夫だ。リオネさんに付けてもらった傭兵は信用出来る。⋮⋮
後はこっちがどれだけ旨く連中を引き連れて向かうかだが⋮⋮やっ
ぱり予想どうりか!﹂
亮真の手に握られた槍が向かってくる矢を弾き飛ばす。
彼の乗る馬車に射掛けられる矢の数が明らかに周りに比べて多い。
僅かな間に亮真の乗る馬車がハリネズミの様になったのが証拠だ。
つまり襲撃者の狙いが確定したという事になる。
御者台に乗る自分たちと、馬車を曳く馬を狙う矢の雨を亮真とサー
ラは必死で防いだ。
︵怪しいとは思っていたが、予想どうりか。狙いは俺達だな⋮⋮問
題は誰の差し金かってことだ⋮⋮︶
最有力な候補はやはりオルトメア帝国の策略と言ったところか。
国境でシャルディナ皇女の追跡を振り切ってからかれこれ3月近く
になる。
そろそろなんらかのアクションが有っても不思議ではない。
だが亮真はここで考える事を放棄した。
︵バカだな⋮⋮俺は。今の状況では生き残る事が最優先だ。犯人探
345
しは後でじっくりやればいい。︶
ようやく矢の雨は止んだ。
時間にすれば1分ほどであっただろうか。
その間に雨に打たれて死んだ傭兵は7人。
此処に居る警護の傭兵は30名なのでおよそ4分の1が最初の奇襲
で殺された計算になる。
だが馬車に繋がれた馬の殆どが息絶えていた。
唯一無事と言えるのは亮真が乗った馬車の馬くらいだろう。
亮真は素早く辺りに視線を配る。
亮真達が乗る馬車はちょうど商隊の中間あたりに位置していた。
つまり前のも後ろにも逃げにくい位置なのだ。
﹁サーラ!行けそうか!?﹂
亮真の問いにサーラは手綱を握り締め前方の街道をにらみつける。
﹁無理です!馬車が街道を塞いでいます!﹂
奇襲を受けたせいで隊列が乱れたのだろうか。
十分に道幅が有る街道を前の荷馬車が塞いでしまっている。
まるで亮真達を逃がさないように業と置いたかのような絶妙な位置
取りだ。
亮真はその言葉を聞き後ろの隊列を確認し舌打ちをした。
まったく同じように街道を塞がれていたからだ。
﹁坊や!﹂
346
リオネが傭兵を率いて亮真の元にやってくる。
事前にある程度の予測をしていたため彼女の部下に死亡者はいない。
皆軽傷で済んでいる。
死亡したのはみんな亮真の予測を本気にしなかった者たちばかりだ。
ここで突然後方から鬨の声が上がる。
﹁来たな⋮⋮﹂
矢で足止めし後方より別働隊が襲いかかる。
悪くない策だ。
﹁坊や!﹂
リオネの顔に苛立ちが浮かぶ。
﹁リオネさん。計画どおりに。﹂
亮真の言葉にリオネは軽く頷くと横に立つ副官に向かって言い放っ
た。
﹁判った。すぐに前方の馬車を吹き飛ばして退路を確保しな!﹂
怒声を上げる傭兵とは裏腹にリオネは冷静に近くに居る傭兵へ破壊
の指示を出す。
﹁アネさん⋮⋮正気ですかい?商人達を見捨てるおつもりで?﹂
食い下がる傭兵にリオネは冷たい目を向けて言い放った。
347
﹁ごちゃごちゃうるさいよ!気に入らないならここで死にな!﹂
﹁あ⋮⋮アネさん⋮⋮﹂
﹁あんた達に納得しろとは言わないよ!でも生き延びたかったら従
いな!﹂
リオネの剣幕に傭兵達は押し黙った。
プロとしての職業倫理と生物の生存本能との鬩ぎ合いだ。
﹁アネさん!馬車に商人がまだ乗ってやがる!どうする?﹂
また別の傭兵がリオネの元にやってきた。
馬車に商人が残っている事に気が付き馬車を吹き飛ばす事を躊躇し
ているらしい。
亮真の予想では商人達は奇襲と共に戦場を離脱するはずだった。
︵どういうことだ?グルじゃないってことか?・・・・・・いや。
逆にグルだからこそ逃げてないのか・・・・・・︶
リオネがどうする?と視線で問いかけてくる。
亮真に取れる結論は一つだけだ。
亮真は軽く頷いた。
﹁構わないからそのまま一緒に吹き飛ばしな!﹂
﹁りょ⋮⋮了解!﹂
リオネの言葉に指示を仰ぎに来た傭兵は幾分恐怖を含んだ顔で答え、
元の場所に戻る。
348
数瞬後。
ドゴォォォォ!
亮真達の前方で街道を塞いでいた一台の馬車が爆炎に包まれ見事に
馬車を街道の片隅へと吹き飛ばす。
﹁アネさん開いた!﹂
﹁良いかい!生き延びたかったら後ろを振り返らずに走るよ!!!﹂
傭兵達に激を飛ばすとリオナは亮真へと向き直る。
﹁此処まではアンタの予想どおりだね。えぇ?坊や﹂
﹁可能性を考えただけですよ。ところでこの後の手順は大丈夫でし
ょうね?﹂
亮真の目が冷たく光る。
﹁あ⋮⋮あぁ。アタイは大丈夫だよ。後はあんたの大事なお人形と
ウチのボルツの奴が旨く準備してるかどうかさ。﹂
亮真の目に気押されながらもリオネは言った。
﹁なら結構です。ローラには十分に策を説明しています。頭の良い
ヤツですからミスをすることは無いでしょう。後は⋮⋮我々の足次
第ですね。﹂
349
﹁判ってる。あんたも十分注意するんだよ。﹂
﹁えぇ。リオネさんもご無事で。﹂
リオネは馬に一蹴り入れると、前方へ馬を走らせた。
﹁亮真様!きます!﹂
いつの間にか後方の馬車から聞こえていた剣戟の音が途絶えていた。
後方に居た傭兵達はみな襲撃者に始末されたのだろう。
﹁行くぞ!﹂
亮真の言葉にサーラは頷くと馬に鞭を当て走り出した。
疾走する亮真の視界には無人の街道だけが映る。
先行したリオネ達は馬を限界まで走らせて目的地まで掛ければ良い
が、亮真達はそうはいかない。
2頭立てとはいえ、重い客車部分を引くため馬車の速度はどうして
も遅くなる。
勿論、客車部分を捨ててしまい馬に乗って逃げると言う手段も有る
には有るが、亮真はそれを選択しなかった。
何故ならそれでは逆に襲撃者達を振り切ってしまう可能性が有る。
襲撃者を突かず離れず適度な距離を維持したまま目標地点に誘導す
ることが、亮真の目的なのだから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
350
風が亮真の顔を強く叩く。
相手の矢からサーラを守りきるのはなかなかに難しい。
すでに幾本もの矢が亮真の守りをすり抜けて御者台に突き刺さり、
サーラの体から赤い筋が幾本も服に染み出していた。
亮真も先ほど耳たぶをかすめた矢のおかげで激しく出血し、首を周
り胸元を赤く染め上げている。
﹁まだか!?﹂
降り注ぐ矢を振り払いながら問いかける亮真の声に焦りの色が滲む。
﹁もうそろそろ⋮⋮あ!あれです!見えました。﹂
まっ直ぐにどこまでも伸びる街道の真ん中で何かが翻る。
サーラの視界の中に、黒地に赤い獅子が踊る旗が飛び込んできた。
距離にして500M程と言ったところか。
﹁よし!何とかなったな。⋮⋮いいか!ここからが正念場だぞ?﹂
﹁判っています。﹂
そういうとサーラは手綱を緩め少しずつ馬車の速度を落としていく。
後ろの砂塵の中から亮真の視界に数人の馬に乗った男達が浮かび上
がってきた。
﹁よぉし⋮⋮良いぞ。もう少し速度を落とせ。⋮⋮向こうも少し速
度を落としてきたな⋮⋮よしよし。﹂
馬に乗る男達が弓を引く姿がはっきりと目に映る。
351
﹁やれぇぇぇぇぇぇぇ!﹂
亮真達が乗った馬車が街道に突き立つ槍の横を通り過ぎたとき、亮
真の手が槍を掴み高々と掲げられた。
グシャァァァァ!
馬車の後方で水気を帯びた何かが貫かれる音が響く。
それと共に後方から響いていた馬蹄の音がピタリと止んだ。
亮真は馬車を降り後方の石柱群へと歩き出した。
当然サーラも其の後ろにつき従う。
﹁うまく行ったようですね。﹂
サーラの言葉に亮真は軽く頷くことで答えた。
尤も亮真は成功したと現時点で確信していたわけではない。
油断こそ尤も恐るべき不幸なのだから。
亮真の歩みと共に森の中からリオネ&ボルツといった傭兵達が湧き
出してきた。
その数およそ10数名。
彼らは十分に警戒しながら街道の真ん中に突き出た石の柱の群れへ
と歩む。
﹁法術の効果範囲を逃れたヤツが居ないか確認しな!﹂
リオネの指揮の下、一斉に傭兵達が2人1組で散開する。
﹁ああ⋮⋮何人か逃げているのがいやすね。血の跡が森につづいて
352
らぁ。﹂
石柱に体を貫かれた追手達がうめき声に混じって傭兵達の報告が聞
こえる。
亮真の頷きを確認したボルツが軽く右手を払いのける様に合図する
と、それを見た傭兵達の内数人が森の中へ消えていく。
﹁若。これからどうするんですかい?﹂
ボルツの呼びかけに亮真は驚いた表情を浮かべた。
﹁なんです?若って?﹂
﹁いぁあ。ま!敬意の表れってやつですよ。﹂
どうやら今回の策略の結果を見てボルツの中の心象が大きく向上し
たのだろう。
亮真は苦笑いを浮かべたが何も言わなかった。
﹁それで坊や。これからどうするんだい?﹂
傭兵達の指揮を終えたリオネが亮真に問いかける。
こちらは呼び方を変える気が無いらしい。
もっとも亮真にしてみればどうでも良い話だが。
﹁まぁとりあえずは情報を集めてからですね。生き残っている方が
かなり居るようですから何とかなるでしょう。﹂
亮真の顔に酷薄な表情が浮かんだ。
それは歴戦の猛者と言えるボルツ&リオネの二人ですら背筋を凍ら
353
せる笑みであった。
サーラとローラは亮真の顔を見て神に祈った。
彼女達には予想出来たのだ、この愚かな襲撃者達の末路がどれだけ
悲惨なものになるかを。
354
第2章第8話︵前書き︶
ようやく時間が取れるようになりました。
書けるうちに書かないと⋮⋮
つたない作品ですが今後ともよろしくお願いします。
355
第2章第8話
異世界召喚90日目︻強制依頼︼その3:
ミハイル・バナーシュは縄で拘束されたままその場へ引き出された。
其処には30半ばの大柄な赤毛の女と、左腕を無くした初老の男、
20代半ばくらいの大柄な男に其の男の後ろに影のように付き従う
少女が二人。
ミハイルの心にざわめきが生まれる。
なぜなら今回の暗殺の標的は他ならぬ目の前の少女だからだ。
彼らが亮真達の罠に嵌まってからおよそ3時間程が経過しただろう
か。
石柱に貫かれた襲撃者達の内、息が有ったものはミハイルを含めて
ほんの数人しか居なかった。
彼らはみな最低限の止血だけをされると、猿轡をかまされ縄で拘束
されると馬車に放り込まれた。
それから何処かへ馬車は移動し、生き残った襲撃者達を一人ずつ何
処かへ連れ出したのだ。
そして遂に襲撃の指揮者であるミハイルの番となった。
﹁あなたが今回の襲撃を指揮したミハイル・バナーシュさんですね
?﹂
ミハイルは目の前に座る大柄の男の問いにただ頷くしか出来なかっ
た。
男の声は威圧的ではないし、何より口調は礼儀正しく穏やかだ。
356
尤も彼らを襲った側の人間であるミハイルにとってみれば、礼儀正
しく穏やかな口調などかえって不気味でしかない。
顔を真っ赤にし怒声を上げて尋問される方が、捕まった側の人間に
してはまだマシなのだ。
﹁おおよその話はあなたの部下達から聞いています。まぁ、お互い
に不孝なめぐり合わせというやつでしたかね。﹂
男の言葉にやや違和感を覚えながらミハイルはただ黙っていた。
騎士団の習得科目の中には、敵に捕らえられた際に身の処し方と言
う物がある。
相手に情報を与えないというのは戦の鉄則だからだ。
﹁あぁ。別にそう警戒しなくても結構ですよ。今のところあなたを
どうこうしようとは思っていませんから。﹂
男の言葉がミハイルには悪魔の囁きに聞こえた。
﹁なぜ殺さない?﹂
﹁殺す必要が今のところ無いからですよ。﹂
男は肩を竦めると簡単に言い放った。
それはつまり、必要なら殺すという事の裏返しと言う事だ。
﹁そんなのはお互いさまでしょう?﹂
男の言葉にミハイルは反論の余地を見いだせなかった。
ミハイル自身は決して殺人を好むわけではない、いやどちらかと言
えば殺しなどしたくは無いというのが本音だ。
357
しかしローゼリア王国の近衛騎士隊長として、国の為王女の為に必
要で有るならば其の手を血に染める事を厭うつもりはない。
今度の暗殺もまた彼の騎士としての誇りにおいては決して誉められ
る事ではなかったが、貴族派の野望を止める為には致し方ないと納
得させたのだ。
ミハイルの心を読むように男は言った。
﹁まぁ。貴方がどう思っているかは知りませんが、我々は決してあ
なた方の敵では有りませんよ。﹂
男の言葉にミハイルの顔に戸惑いが浮かんだ。
﹁⋮⋮どういうことだ?貴様は貴族派の人間ではないのか?﹂
﹁そう。そこですよ。問題はね。まぁとりあえずこれから幾つか確
認をさせてもらいます。ミハイルさん。貴方の疑問はそのあとでお
答えしますよ。﹂
そういうと男はミハイルの後ろに回り込むと首筋に指を添えた。
﹁⋮⋮なんの真似だ?﹂
﹁なあに、ちょっとしたおまじないです。害は無いので気楽に答え
てくださいな。﹂
男はミハイルの返答を待たずに金髪の少女に目配せをした。
少女は合図をみて頷くとミハイルの前に進みでた。
﹁では幾つか質問をさせていただきます。あなた方がローゼリア王
国の近衛騎士であるというのは本当ですか?﹂
358
﹁⋮⋮﹂
﹁貴方が商隊を襲撃した理由はローゼリア王国の王位継承争いに関
わっていますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁貴方は王女を守るために今回の奇襲を企てたのですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁貴方は騎士派に属し、貴族派と争っていますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ローゼリア王国の国王が急死し後継者として第一王女が継承する
はずが、貴族派からストップがかかりましたか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁貴族派は王の遺言状があるとして、庶子の王女を擁立しましたか
?﹂
﹁⋮⋮﹂
次々を少女の口から繰り出される問いをミハイルは必死で黙殺した。
どれ一つをとっても決してミハイルの口から肯定も否定も出来るは
ずがない。
359
﹁これは⋮⋮どうしますか?﹂
少女が男に問いかける。
﹁余程答えにくいらしいな。まあ無理も無いか。﹂
だが男の顔はさほど深刻な問題とは思っていないと書かれていた。
﹁ローラ。前へ。﹂
男の言葉に誘われ銀髪の少女がミハイルの前に立つ。
ミハイルへ金髪の少女が最後の質問を行う。
ミハイルの心臓はこの問いを聞き猛烈な高鳴りを覚えた。
﹁最後の質問です。貴方が殺そうとしたのは彼女ですか?﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
サーラの問いを聞いた時、亮真の指先はミハイルの鼓動の高鳴りを
伝えた。
﹁ドンピシャだな。﹂
亮真の表情が歪む。
そしてそれはこの場にいた全員の顔と共通したものだった。
真実とは必ずしも口から伝えられるとは限らない。
ミハイルの様に頑なな沈黙は時に雄弁な口よりも真実を表してしま
う。
360
彼が必死で表情を消そうとすればするほどに、周りの人間にはミハ
イルの心の内が手に取るようにつかめるのだ。
亮真の言葉を聞くまでも無く、リオネ達にはミハイルの心が見えて
いた。
﹁なるほどね⋮⋮ウォルスのクソ野郎⋮⋮アタイ達を嵌めたってわ
けだね。﹂
リオネの口から怨嗟の言葉が漏れる。
亮真の予測のおかげで自分の傭兵団から犠牲者は出ていないが、負
傷者はそれなりの数が居た。
ミハイル率いる奇襲部隊の矢の雨による負傷だ。
亮真の予測をもとに有る程度の準備をしたうえでの損害である、も
し亮真が予測をしなかったら、もしリオネが亮真の予測を本気にし
なかったら可能性の話だが死傷者はこの数倍、下手をすれば全滅の
可能性まで考えられる。
ギルドを通しての依頼である。
ましてや亮真達がこの依頼を受けた経緯を聞けばギルドマスターが
絡んでいるのは明白であった。
当然今までギルドに対して抱いた信頼は失われ、その信頼の深さに
対して同じだけの憎しみが掻き立てられる。
﹁まぁこれでウォルスの奴に嵌められた事はハッキリしたわけだ。﹂
亮真の言葉にその場にしたミハイル以外の全員が頷く。
﹁さて⋮⋮問題は今後だな。どうしたものだか⋮⋮﹂
﹁他のギルドに報告するってのはどうですかね?﹂
361
亮真の独白を聞いてボルツが言い出した。
﹁いや、アタイはそれはまずいと思う。ウォルスに騙された事は間
違えないがそれを証明出来ない。下手に他のギルドマスターに泣き
ついて証拠を出せと言われたら私たちはどうしようも無くなってし
まう。﹂
ボルツの言葉にリオネが反論すると、亮真達も一斉に頷いた。
ボルツ自身もあまり現実的な方法とは思っていなかったのか、其の
意見に執着する様子は見せなかった。
﹁まぁ方法は考えてあるんだ。ただ⋮⋮なかなか難しいものが有る
けどね。﹂
﹁貴様達はなにを言っているんだ!﹂
亮真達の言葉を聞き、ミハイルの頭は混乱を極めた。
目の前の銀髪の少女を殺すことが出来れば全てが解決するはずだっ
た。
少なくとも、騎士派に所属しているものにとってそれは共通の認識
だった。
国王崩御の知らせの後、早急に王位の継承をと急いでいた第一王女
ルピスに其の報告がもたらされたのは今から3月程前の事だった。
それは騎士派の面々には寝耳に水な出来事と言えた。
隣国ミスト王国で突然前ローゼリア王ファルスト2世の血を受け継
ぐ者だという娘が現れたのだ。
庶子自体は決して珍しいものではない。
支配階級で有ればある程、其の血は重くなる。
362
血によって支配の正当性を証明するのであるから有る意味当然と言
える。
それ故に一族の血を絶やさぬ為に子を多く作る。
妻を持ち妾を作る。
時には戯れで平民の娘を犯す時も有るだろう。
そういった結果、庶子は生まれる。
だからそれ自体は問題ではない。
問題なのは王が死んで王位が空白で有る今この時に名乗りを上げた
という事。
しかも王位継承者として。
其の報告が王都にもたらされた時、だれもがそんなバカなと取り合
わなかった。
だが直ぐに消えると思われたこの噂は何故か瞬く間に王国中を駆け
巡った。
そして噂は次第に真実となる。
そして騎士派の人間達にそれが真実だと認識させられる出来事が起
こる。
貴族派の党首であるゲルハルト公が王国全土にこの庶子の擁立を宣
言したのだ。
前国王の遺言状を掲げて。
騎士派の誰もがねつ造を疑った。
だが王国は真っ二つに割れた。
貴族派の掲げる遺言状の真贋が別れてしまった。
元々ルピス王女は近衛騎士団の団長を兼務している関係で非常に騎
士派と密接な関係を持っている。
それに対して、あまり内政に関しては関わりを持ってこなかった所
為で王国の内政をつかさどる貴族派とはあまり接点が無い。
其処に貴族派の党首であるゲルハルト公が庶子の擁立を宣言したた
363
め、騎士派2:貴族派3:中立派5のローゼリア国内の勢力バラン
スはそのまま王女派2:庶子派3:傍観派5の対立構造へと移行し
てしまったのだ。
元々軍人の集まりで有る騎士派は戦力という意味では非常に強力で
はあったが、政治にはまったく不向きで有り、中立派の抱き込みに
は苦戦を強いられていた。
逆に戦力と言う点では騎士派に及ばないものの、政治力と言う点で
は騎士派を遥かに超える貴族派は国内の中立派の抱き込みに尽力し、
中立派から貴族派へ移る者は後を絶たないのが現状である。
そんな劣勢の騎士派に朗報が入る。
ミスト王国より庶子がローゼリア国内に入るという情報である。
ゲルハルト公爵領に入り次第挙兵の計画らしいのだ。
これを知った騎士派は貴族派の浅慮を嘲笑った。
大切な神輿である庶子をローゼリア国への移動中に殺害してしまえ
ば全ては元の鞘に収まる。
庶子さえ殺してしまえば中立派は再び傍観へと鞍替えするに違いな
い。
そんな希望的観測を基に今回の暗殺は決行されたのだ。
﹁何?って言われてもねぇ。﹂
ミハイル以外の全ての人間が頷いた。
﹁まぁハッキリ言えばあなた方は嵌められたんですよ。貴族派にね。
﹂
亮真の言葉にミハイルの脳がフリーズを起こす。
364
元々武力はあってもあまり賢いとは言えない男だ。
﹁バ⋮⋮バカな⋮⋮いや騙されんぞ!﹂
﹁バカなって言われてもね。﹂
亮真はミハイルの言葉を聞き肩をすくめる。
﹁まぁ落ち着いてくださいよ。とりあえずご説明はしますから。﹂
そう言うと亮真はローラをミハイルの前に立たせる。
﹁まぁまずはっきりと言います。彼女は貴方達が探している庶子で
はありません。﹂
﹁嘘だ!﹂
ミハイルの叫びが天幕を震わせた。
﹁そもそも貴方がたがローラを其の庶子だと考えた理由はこの銀髪
でしょ?﹂
﹁そうだ!歳の頃は10代半ばで銀髪の女だ!﹂
ミハイルは声を張り上げる。
自分の心に浮かんだ疑念を振り払うかの様に。
﹁まぁ確かにローラは銀髪で十代半ばですがね。⋮⋮ですが逆に聞
きましょう。それは貴方達が探す庶子を確定する身体要素ですか?﹂
365
亮真の問いにミハイルは考え込んだ。
︵銀髪はかなり珍しいはずだ。それに年恰好まで近いとなれば⋮⋮︶
﹁そうだ!それで十分だ!﹂
ミハイルの答えを聞き亮真は呆れた。
﹁⋮⋮貴方達は余程愚かなんですね。⋮銀髪で十代半ばの女の子な
ど腐るほど大陸には居るでしょうに。﹂
﹁愚か者は貴様だ!我々が探しているのはただ銀髪で十代半ばなだ
けではない!フルザードからローゼリアへこの時期に入る娘だけだ
!そんな条件を満たす者などそう居るわけがない!﹂
ミハイルの顔にしてやったりの笑みが浮かぶ。
︵そうだ。偶然にこのような場所でこの時期に銀髪の少女が偶々通
りかかる事など有るわけがない。こいつが何を企んでいるかは知ら
んが私は騙されないぞ!︶
﹁確かに偶然通りかかる確率は物凄く低いでしょう。ですが必然で
通る事は有るんじゃないですか?﹂
自らの正しさを確信するミハイルに亮真は憐みの混じった視線を向
けた。
﹁どういうことだ?﹂
﹁つまり無関係な我々をフルザードから適当な依頼でローゼリア王
国へ向かわせその情報を騎士派に洩らす。当然騎士派はそれに関心
366
が向くでしょうからその間に本物の庶子を国内へと移動させる。ど
うです?それほど難しい話じゃないと思いますけど?﹂
ミハイルの勝ち誇った顔が氷付いた。
﹁バ⋮⋮バカな⋮⋮﹂
﹁そもそも騎士派の皆さんが貴族派の情報を手に入れたって所から
変なんですよ。﹂
亮真の言葉にその場の全員が視線を向ける。
﹁その庶子は貴族派にとって代えのきかない切り札のはずです。そ
れを国内に移動させようって言うならそれこそ貴族派の総力を持っ
て綿密に計画される事でしょう。何より情報が洩れる事に尤も注意
するはずです。それが騎士派に洩れた。﹂
此処で亮真は周囲を見渡した。
自分の話を理解しているかを確認するためだ。
﹁ワザと洩らしわけだね?坊や﹂
リオネの言葉に亮真は頷く。
﹁まぁ普通に考えればそうでしょう。そして貴族派はどうやったの
かウォルスを抱き込んで傭兵を探させた。銀髪で十代半ばの傭兵を
ね。﹂
﹁それが私達と言うわけですね。﹂
367
サーラの言葉にローラが疑問を投げかけた。
﹁ですがウォルスはギルドマスターです。そんな危ない橋を渡るで
しょうか?﹂
確かにギルドは公平中立が大原則だ。
傭兵荷も顧客にも同じように接し同じように信頼を得なければギル
ドなど運営出来るはずもない。
そういう観点で見れば今回のウォルスの行動は著しく不適切と言え
る。
商隊の護衛と言う名目で人を集めながらそれを囮≪おとり≫に使っ
たのだから。
となればウォルスが何も知らない可能性もあるのではないか?
ローラはその事を口にしたのだ。
﹁可能性は低いだろうね。なぜなら俺達は強制依頼でこの仕事を請
け負ったからな。﹂
亮真は続けて言った。
クエスト
﹁リオネさんにも聞いてみたがやはり強制依頼の対象は高位の、具
体的にはシングルB以上の人間にだけそれも緊急性が高い依頼にの
み発令されるらしい。﹂
姉妹の視線を受けリオネが頷く。
﹁つまり俺達がこの仕事を強制的に受けさせられる根拠は無いって
ことだ。となれば⋮⋮銀髪で十代半ばの傭兵を探した結果トリプル
Gのローラしかない無かった。そこで経験が浅い事を考慮にいれて
強制依頼なんてハッタリを利かせて俺たちに依頼を受けさせる。後
368
は騎士派の奇襲で死ねば良し。万一生き残ったとしても商隊の商人
に化けた貴族派の兵士が護衛対象だと思って油断する俺達をかたず
ける。そして真相は闇の中って訳だ。﹂
亮真の言葉を聞き其の場に居る殆どの人間に合点がいった。
商隊の荷馬車が空だったのは襲撃される事が前提だったからだ。
商人達の手にタコが有ったのも体格が良かったのも兵士なら説明が
つく。
亮真達にだけ天蓋付きの馬車を支給したのはそこに庶子が乗ってい
ると思わせるため。
騎士派の奇襲を受けた際に、進路を塞ぐように隊列を乱したのは亮
真達を騎士派に殺させるためだ。
今まで不自然だった要素が解き明かされ一つの結論が導き出された。
﹁⋮⋮なんという事だ⋮⋮それではあいつは我々を騙したと言うの
か⋮⋮いや⋮⋮しかしこれでは⋮⋮﹂
亮真の推理を聞きミハイルの口から後悔と悲嘆が漏れる。
彼の言うあいつとは恐らく騎士派に貴族派の情報をもたらした人間
だろう。
此処で亮真は悲嘆にくれるミハイルへ一つの提案を行う。
﹁まぁ此処で嘆いても自体は変わりませんよ。﹂
ミハイルが顔を見上げて亮真を見た。
其の視線には疑問が浮かんでいる。
﹁まぁ貴方達が貴族派に嵌められて窮地なのと同じで、私達も困っ
た状況に置かれていましてね。﹂
369
これは当然だろう。
今回の依頼はあくまでも商隊の警護である。
例えこれが偽りであったとしてもギルドの記録上ではそうなってい
るのだ。
すると一つ大きな問題が出てくる。
生き残るためとはいえ亮真達は商隊の荷馬車を攻撃している。
また商人を見捨てて襲撃から逃げ出している。
表面上だけ見れば亮真達は護衛の任務を放り出し、護衛対象の商人
を見殺しにして逃げ出した卑劣な臆病者と言う事になってしまう。
さらに悪く考えれば、騎士派の襲撃を単なる盗賊の襲撃とウォルス
が工作をすれば、亮真達傭兵が金に転んで裏切った事にすらされか
ねないのだ。
そして今の亮真達にはそれを阻む手段が無い。
なぜなら全てが状況証拠にすぎないからだ。
例えミハイルを証人にしようとしたところで彼が正直に話してくれ
るはずもない。
騎士派の汚点でしかないからだ。
しかも真実の決定はギルドマスターであるウォルスの胸の内で決ま
るのである。
自分達を嵌めた人間に自分達は陥れられたのだと主張したところで
意味が無い事は判り切っていた。
今の状況が判り切っているのだろう。
亮真の言葉にリオネ達は表情を変えなかった。
だからこそ亮真の判断に委ねたのだ。
亮真の知恵に一縷の望みを託して。
﹁だからどうです?ミハイルさん。我々と手を組みませんか?﹂
亮真の口から出た一言はこの後、騎士派と貴族派双方の運命を大き
370
く変えることになる。
371
第2章第9話
異世界召喚96日目︻謁見︼その1:
﹁あれがローゼリア王国の王都ピレウスだ。﹂
ミハイルの言葉を聞き、亮真は閉じていた目を見開き前方へ視線を
向ける。
﹁へぇ。あれが王都か⋮⋮かなりでかいな。﹂
﹁当然だ。西方大陸東部でも強国と名高いローゼリアの首都だぞ!
そもそも我がローゼリア王国は、﹂
ミハイルの優越感に彩られた説明を苦笑しながら聞きつつ亮真は目
の前に見え始めた城塞都市を観察した。
﹁とりあえず無事に着いて良かった。貴族派の襲撃も予想されたか
らな⋮⋮﹂
ミハイルはようやく安心したのかそんな言葉を口にすると、それを
聞いた亮真は微笑を浮かべながら言った。
﹁確かに可能性はあったけどな。恐らく偽装が俺達にばれて反撃さ
れたから、連中も用心して追撃しなかったんだろうよ﹂
﹁その程度で諦めるものか⋮⋮?﹂
372
亮真の回答が不満だったのか、ミハイルの口調が固くなる。
ミハイルと亮真の付き合いはまだほんの6日程の間でしかなかった
が、亮真はミハイルの武断的な性格をほぼ把握していた。
彼は逃げるや諦めると言う事にかなり嫌悪感を表す。
また困難や失敗にたいし、一度引いて仕切りなおすという事を極端
に嫌う。
どちらかと言うと勝つまで勝負を止めない性格のようだ。
﹁まぁ指揮を取っている者の考え方次第だけどな。策がうまくいか
なかったから安全を重視して全てを諦めて仕切りなおす方を選択し
たんだろうよ。﹂
﹁武人はそういった時こそ己の力で困難を克服し目的を達成させる
のではないのか?﹂
ミハイルの言葉には、そうであるべきだという強い信念が込められ
ていた。
だが亮真はそういったミハイルの誇りや信念と言う物に対してあま
り評価をしていなかった。
﹁皆が皆ミハイルさんのように騎士の誇りに執着していないんだろ
うよ。﹂
亮真の呆れたような口調を聞きミハイルの顔が赤く染まる。
﹁騎士の誇りを愚弄するか!?﹂
﹁騎士の誇りに目をつぶって暗殺を企てた人間の言う言葉じゃない
な。﹂
373
ミハイルの顔が固まった。
彼が尤も聞きたくない言葉を言われたからだ。
﹁ぐぅぬぬぬぬ⋮⋮そ⋮⋮それは。仕方なく⋮⋮﹂
ようやくそれだけの言葉を口から洩らすと、ミハイルは逃げる様に
後ろの怪我人達の方へと移って行くとローラの手から傷薬を受け取
った。
どれだけ言葉を並べたところで暗殺という手段を取ったことに変わ
りが無い事を自覚しながら。
それが判っていながら尚悩み揺れるミハイルの心。
ミハイルは自らの誇りと目の前にある国家の危機との間を彷徨って
いた。
﹁ふん。やっちまった事を悔やんだって仕方ないだろうに?まして
や決して間違った方法だとは思わないしな。﹂
﹁間違っては居ないんですか?亮真様。﹂
何時までも悔やみ続けるミハイルの背を見ながら洩らした亮真の言
葉を聞き、亮真の隣で手綱を握っているサーラが尋ねた。
﹁あ?あぁ⋮⋮暗殺という手段を選択する事自体は間違っちゃいな
いよ。俺も場合によっては同じ手段を取るかも知れないからな。﹂
暗殺は決して褒められた事ではないだろう。
しかしたった一人の人間を殺すことで多くの人間の犠牲を回避でき
るのなら、内乱を抑える事が出来るのなら、選択肢のの中から除外
するべきではないと亮真は考えていた。
374
﹁結局のところ暗殺だろうとなんだろうと手段の一つにすぎないっ
てことさ。ようは目的が果たせればいい。﹂
今回を例に挙げれば、騎士派は貴族派の擁立する庶子の王女を女王
にしたくないというのが目標だ。
そのために対象の王女を暗殺するというのは効率の観点から考えれ
ば貴族派と表だって戦争を行うよりずっと被害は少ないはずだ。
ただしそれは綿密で正確な情報の取得が大前提となる。
亮真が騎士派の愚かだと思うのはその点だ。
今回の様に騎士派の人間がもたらしたと言うだけで正誤も確かめず
に暗殺計画を練るなどただの馬鹿としか言いようがない。
目的を果たせない暗殺は相手に決起の口実を与えてしまうからだ。
﹁まぁミハイルさんを見た限りだと騎士派の人間は脳筋ばかりみた
いだしな⋮⋮﹂
﹁脳筋ってなんですか?﹂
説明の最後に亮真の呟いた脳筋という言葉に、サーラは不思議そう
な顔をした。
﹁あぁ。脳みそまで筋肉ってことさ。ようは考え無しって事。﹂
﹁あぁ。なるほどぉ。それで脳筋ですかぁ﹂
6日程一緒に行動しただけのサーラだったが、思い当たる言動は多
々あった。
確かにミハイルの生き残った部下を見ても直情的というか考えなし
というか、あまり賢そうではない。
375
あの日、亮真の提案はミハイルの心の激しく揺さぶった。
それも当然だろう。
今まで敵視していた人間から突然連携の話が出れば誰だって驚く。
ましてやミハイルは亮真の策の所為で部下を多数殺されている。
今回の暗殺の為にミハイルが率いて来たのは50名。
その内、今馬車の荷台で息をしている者は僅かに5名。
ミハイルを含めても6名しか生き残っていない事になる。
当然彼らの憎しみは強い。
それでもミハイルは亮真の提案を呑んだ。
いやの呑まざるを得なかったと言うべきだろうか。
亮真の提案を蹴ったところでミハイルのとれる選択肢は無い。
庶子の暗殺には失敗し、多くの部下を失っているのだ。
兵力の補充という観点だけで見ても、亮真達傭兵と手を組むのは騎
士派にとってプラスで有った。
だがミハイル自身は納得しても、部下の方はそう簡単に理解などし
なかった。
縄を解かれた彼らは、止血の為に巻かれた包帯に血がにじむのを無
視して亮真達へ臨戦態勢をとったのだ。
結局ミハイルの言葉を受け入れた彼らだが、その瞳には憎悪の炎が
ちらついている。
それは彼らの包帯を変えるために荷台に乗ったサーラへ向ける視線
を見ても明らかだった。
ロックバンブー
﹁まぁボルツさんの岩竹昇破陣はかなり強力だったからな⋮⋮﹂
怪我人の看護をするミハイルの後ろ姿を見ながら亮真は呟いた。
﹁えぇ。流石に歴戦の傭兵ですよね。あれだけ大きな範囲で法術を
掛けられるなんて﹂
376
﹁最初に聞いた時はどうなるものかと思ったけどな﹂
﹁旨く行って良かったですよね﹂
﹁あぁ。何しろ敵を全滅させては不味いけど数は大幅に減らしたい
なんて無茶な要望だったからな⋮⋮実際ボルツさんは良くやってく
れたよ。﹂
状況を把握する為には亮真はどうしても生きている人間が必要だっ
た。
つまりただ襲ってきた敵を殺せば良いという物ではなかったのだ。
当然選択できる手段は限られてくる。
﹁おっ!お呼びですかい?若。﹂
自分の名が出た事に気がついたボルツが馬車に馬を寄せて来た。
﹁いや。ボルツさんがあの時上手くやってくれたおかげで何とかな
りそうだって話さ。﹂
亮真の言葉を聞きボルツの顔に笑みが浮かんだ。
﹁若にそう言って頂ければこんなにうれしい事はねぇ!ですがね、
今回うちらが生き残れたのはは全部若のおかげですぜ?あっしの法
術なんかはまぁたかがしれてまさぁ。﹂
そう言い捨てるとボルツは顔を緩めながら馬車から離れていく。
よほど照れくさかったのだろう。
自分が呼ばれたわけではない事を確認するとサッサと元の場所に戻
ってしまった。
377
﹁ですがこれからどうするんですか?﹂
突然横からローラが声をかけて来た。
﹁なんだ?突然。怪我人の手当はいいのか?﹂
﹁はい。ミハイルさんがやってくれてますし。私がするより⋮⋮﹂
亮真の言葉にサーラの顔が曇る。
怪我の治療の為に尤も生き残りたちを接する機会が多いサーラの風
当たりは相当の様だ。
今のサーラの言葉を要約すれば﹁敵である自分が治療をするよりミ
ハイルにして貰う方が良いようです。﹂と言う事になる。
﹁まぁいいさ。それより︻紅獅子︼の連中はどうだ?﹂
﹁ええ。みなさん怪我の方は大したこと無かったですし、ほぼ完治
といって大丈夫ですね。それより亮真様の怪我の方が重いくらいで
すよ?﹂
まぁ重いと言っても矢の雨によるかすり傷が多いので出血が激しく
見えるだけだ。
実際全ての傷に瘡蓋が出来ており後は時間の経過と共に傷跡が消え
るのを待つだけである。
亮真はサーラの言葉を聞き笑みを浮かべながら言った。
﹁なら良い。⋮⋮最悪、一戦やらなければいけないかもしれないか
らな。﹂
378
亮真の言葉に姉妹の顔が緊張で引き締まる。
﹁謁見がうまくいかないかもしれないと?﹂
ローラの言葉に亮真は頷いた。
﹁まぁ可能性としては有るな。﹂
実際のところ今回の提案は亮真にとっても賭けなのである。
騎士派にしろ貴族派にしろ亮真にとっては、本来ならどちらが国の
実権を取ろうが関係ないのだ。
だが意図せず政争に巻き込まれたしまった以上はどちらかに加担せ
ざるをえない。
もしどちらかに加担しなかった場合どうなるか?
全ての責任を亮真達に押し付けたウォルスによりギルドから刺客が
送られてくる可能性が有る。
それもかなり高い確率で。
しかもそれに対抗する手段が亮真達にはない。
善悪を判断する人間が他ならぬギルドマスターのウォルスだからだ。
では、他の街のギルドマスターに談判するのはどうか?
実はこれもかなり危ういのだ。
一回の傭兵である亮真やリオネ達と自分の同僚であるギルドマスタ
ーのウォルス、どちらがより信用されるか。
ましてや、他の街のギルドマスターにとってこの件はあまり関わり
あいたくない事案である事は目に見えていた。
後ろ盾のない状況で亮真達が談判に及んでも、自分達の任務失敗を
取り繕っていると邪推されかねないのだ。
つまり亮真達が生き残るためには、有力な後ろ盾を持ったうえでウ
ォルス以外のギルドマスターと直談判をするしか道が無い。
自分達の主張を公平に判断してもらうためには。
379
そして今の亮真達に有力な後ろ盾が持てるとすればそれは騎士派し
かない。
傍観派にしろ他国の有力者にしろ、亮真達を助けるメリットは無い。
そして唯一騎士派だけが戦後において亮真達の後ろ盾になり得る可
能性が有るのだ。
亮真達が貴族派との政争において助力をするという見返りの代わり
に。
尤もこれは全て亮真達の都合で有る。
騎士派にとって亮真達の後ろ盾にならなければならない理由は無い。
それどころか、自分達の仲間を殺傷されているのだ。
直情的な人間であれば、亮真達の言い分など聞かずに首を刎ねかね
ない。
だからこそ賭けなのだ。
騎士派の主導部に冷静な判断が出来る人間がいると言う賭け。
そしてその人物に、亮真達の利用価値を認めさせると言う賭け。
ようやく馬車は城門の前へとたどり着いた。
﹁さぁてと⋮⋮後は俺の弁舌しだいだな。﹂
城門の下から見える城の屋根に視線を向けながら亮真は呟いた。
これより亮真がこの世界に来て3度目の生死を掛けた勝負が始まる。
其の目には強い意志の力が宿っていた。
380
第2章第10話
異世界召喚96日目︻謁見︼その2:
﹁ローゼリア王国第一王女ルピス殿下の御成りである!みな頭を下
げよ!﹂
赤い絨毯が敷き詰められた謁見の間に一人の女が入って来ると、王
女の入室を告げた。
亮真はミハイルが其の場で片膝を付き頭を垂れるのを見てそれを真
似することにした。
何しろ王族などと言う物がほぼ廃れた世界から来た人間である。
王族に対しての敬意の表し方など判るはずもない。
ただミハイルの真似をするだけで精いっぱいであった。
尤もリオネもまた亮真と同じように戸惑っていたので、この世界の
一般的な常識と言うわけではないらしい。
逆に先日まで奴隷であったとはいえ、さすが元上流騎士の生まれで
あるマルフィスト姉妹は、昔取った杵柄なのか其の動作は流れる様
に見事であった。
︵ローラ達に習っておけばよかったかな⋮⋮︶
優雅に礼をするローラ達を後ろ目に見ながら亮真は王女の入室をじ
っと待った。
謁見の間なのであろう。
ミハイルの案内で通された其の部屋はかなりの奥行きが有り、奥に
は金で彩られた玉座が有る。
玉座から入り口までは赤い絨毯が敷き詰められ、左右には完全武装
381
の兵士が立ち並ぶ。
其の数20名。
僅か4人しかいない亮真達にとってはかなり危険な状況である。
︵まぁ。その辺は仕方が無いか。会ってくれるだけでもまだマシな
方だな⋮⋮本当は密室で密談出来れば一番良かったんだけどな⋮⋮︶
入城した亮真達はミハイルの指示で数時間、与えられた城の一室に
軟禁された。
当然と言えば当然だろう。
どこの馬の骨とも判らない人間なのだから。
そしてどのような報告をしたのか判らないが、軟禁されていた一室
にやってきたミハイルはそのまま亮真達を謁見の間へと連れ出した
のだった。
ミハイルの報告の仕方次第では王女との謁見など無く首を刎ねられ
ていたかも知れない事を考えれば、かなり幸先は良いと言えるだろ
う。
少なくとも、亮真の弁舌を奮うチャンスは貰えたのだから。
頭を下げている内に玉座の奥から扉が開かれる音が耳に入ってきた。
続いて数人の足音が謁見の間に響く。
ルピス女王と其の側近達の入室する音であろう。
亮真達はただルピス女王の言葉を頭を下げた格好のままで待った。
おもて
﹁面を上げなさい。﹂
凛とした女の声が謁見の間に響く。
恭しく頭を上げた亮真の目に全身を純白の鎧で身を固めた銀髪の女
が映った。
382
﹁ミハイル親衛騎士団副団長。﹂
ルピス王女の第一声はミハイルへと向けられた。
其の顔は威厳と冷静さを兼ね備えた支配するものを顔であった。
︵副団長?こいつ⋮⋮それなりに高位の人間だったのか⋮⋮道理で
あっさり王女と謁見がかなったはずだ。⋮⋮だがこいつは直情的過
ぎる⋮⋮余程人が居ないのか?それとも血縁などが影響された結果
か?︶
亮真はミハイルが思ったよりも騎士派の首脳陣に近い身分だった事
を神に感謝せざるを得なかった。
ミハイルが直情的な性格で有る事を知っている為、ミハイルを軽く
見ていた亮真にとってはかなり意外な僥倖ではあった。
﹁報告はメルティナから受けています。貴方が使命を果たせなかっ
た事は非常に残念としか言えません。今回の失敗で多数の騎士が命
を落としました。⋮⋮みな王国の秩序の為に命を散らしたのです。
なのに貴方は指揮者でありながら生き残り私の前に居ます。⋮⋮私
は王女として貴方に今回の失態を死を持って償ってもらわなければ
なりません。﹂
ルピス王女の弾劾とも言える言葉に謁見の間が凍り付いた。
しかし此処でルピス王女の顔に笑みが浮かぶ。
﹁ですが、貴方は非常に優秀な騎士であり、王家への忠義の篤い。
祖国存亡の危機である今、貴方を失うのは大きな損失と言えます。
そこで私はミハイル貴方の今までの功績と、今回の任務そのものが
貴族派の罠であった事を考慮し貴方の刑の執行を貴族派との政争が
383
終了する其の日まで伸ばすこととします。そして貴方の罪は今後の
貴族派との戦で上げるであろう勲功と相殺する事とします。﹂
どよめきが謁見の間を支配する。
余程以外な裁定だったのか?ミハイル自身も茫然とした感じがする。
﹁王女殿下?宜しいのですか?﹂
最初に入ってきた女がルピス王女へ疑問を投げかけた。
﹁構いません。国難のこの時期に有能な人間を処罰することほどつ
まらない事はありません。それに私は刑の執行を伸ばしましたが、
無罪にするとは言っていません。﹂
ルピス女王の言葉を聞き、謁見の間に広がったどよめきがだんだん
と静まって行く。
ミハイルは其の場で深く頭を下げるとルピス王女の温情に最大級の
感謝を示した。
﹁必ずや王女殿下のご期待にこたえて御覧に入れます!﹂
︵なるほどね⋮⋮実利を重んじたってわけだ。ただでさえ劣勢な自
分達の派閥をわざわざ弱体化させる必要もないわな⋮⋮それに刑を
伸ばしただけで無罪にはしてない。今後ミハイルが自らの命に値す
る功績が挙げられなければ終わりってことだ。⋮⋮うん。悪くない。
甘いだけじゃなくてきちんと周りの感情まで考えて処遇を決めてる。
︶
もし単純にミハイルの助命をすれば、今回彼の指揮のもと奇襲をし
亮真の策によって死んだ者の遺族は納得しないだろう。
384
だからと言って首脳部全体が騙された作戦の失敗を現場指揮官一人
に押し付けるのも問題である。
となれば、後日の功績と相殺という折衷案は非常に政治的なバラン
スに長けた選択と言えるだろう。
︵悪くない⋮⋮いや、予想以上に俺は運が良い⋮⋮これなら俺の提
案の有効性と利点を理解してくれる⋮⋮だが⋮⋮問題もある⋮⋮︶
亮真はルピス王女がミハイルの助命を宣言した時の周りの反応を見
た。
すると有る事に気がつかされる。
謁見の間に居る幾人かの顔に悔しさが浮かんだのだ。
特にルピス王女の一段下の段に立つ年配の男は明らかにミハイルが
助命された事を悔しんでした。
勿論露骨な表情をしたわけではない。
ほんの一瞬本音が顔に浮かんだ感じだ。
︵こいつは、単純に騎士派、貴族派、傍観派と割り切れないかもし
れないな⋮⋮︶
ミハイルが有能であるかどうかはさておき、彼が死んで喜ぶ人間が
同じ派閥の中に居ると言うのだ。
普通に考えれば同僚や仲間の死を望む人間は居ない。
もし同僚や仲間の死を望むとすればそれは⋮⋮
︵騎士派の全てがルピス王女に忠誠を誓っている訳じゃないってこ
とか?⋮⋮いや、確かにそれなら説明が着く。⋮⋮だがそれならば、
なおさら俺がルピス王女に取り入る隙が有るってことだ。︶
亮真は自分に都合が良い材料が増えた事でこみ上げる笑いを必死で
385
我慢した。
この場で下手に笑みなど浮かべればそれだけで致命傷になりかねな
い。
︵待て⋮⋮落ち着け⋮⋮まだ俺は死地を抜けたわけじゃない。勝負
はこれからだ。⋮⋮王女とそしてあの女⋮⋮下手に疑われれば即、
殺されかねないんだ。︶
亮真の視線がルピス王女に疑問を投げかけた女へと注がれる。
黒髪の大柄な女である。
また腰に差した二本の剣はかなり使い込まれているように見える。
それにルピス王女からかなりの信頼を受けているのだろう。
ルピス王女の顔には疑問を投げかけられた事による不満が浮かんで
いなかった。
﹁ではミハイルの処遇に関しては以上です。では改めて本題に移り
ましょう。﹂
そういうとルピス王女の視線が亮真達4人へと移された。
﹁なるほど。確かに銀髪の10代半ばの少女ですね⋮⋮貴方がロー
ゼリア王ファルスト2世の庶子ではないと言うのは本当ですか?﹂
ルピス王女はまず最大の懸案事項を尋ねて来た。
﹁はい。私の名はローラ。ローラ・マルフィストと申します。此処
に居るサーラ・マルフィストの姉でございます。﹂
ローラの言葉にサーラが頷く事で答える。
386
﹁なるほど⋮⋮確かに良く似ていますね。髪の色以外は瓜二つだわ
⋮⋮﹂
視線が姉妹に集中する。
確かに彼女達は双子で在り、髪の毛の色以外は顔も体型もそっくり
である。
﹁殿下⋮⋮庶子に姉妹がいると言う連絡は入っていません。﹂
黒髪の女がそっとルピス王女へ耳打ちをする。
﹁マルフィストという家名も聞き覚えが有るわ⋮⋮たしか中央大陸
の騎士じゃなかったかしら?﹂
﹁はい。確かかなり高名な騎士の家系のはずです⋮⋮肌の色や顔立
ちも確かに中央大陸系ですし⋮⋮﹂
二人の視線がローラ達姉妹へと突き刺さる。
数瞬の間、両者の視線が句中で絡み合った。
﹁なるほど⋮⋮確かに連絡を受けた庶子とは違うようね⋮⋮﹂
ルピス王女は何処か諦めたようにそう呟いた。
それも当然であろう。
もしローラがローゼリア王ファルスト2世の庶子であるならば、彼
女を殺すだけで内乱の芽が摘み取れたのだから。
﹁そうなると私達としては貴方達に私の騎士と戦ったことを責める
わけにはいかないわね⋮⋮﹂
387
ルピス王女はそう困ったように呟いた。
﹁恐れ入ります。殿下の寛大な御言葉を頂き感謝の念に堪えません。
﹂
亮真はそう言うと恭しく頭を下げた。
実際のところ、亮真達は巻き込まれただけの被害者であるのだから
もっと強気に出る事も出来た。
だが今後の関係を考えるのであれば、必要以上に相手へ高圧的な態
度に出るのは考えものである。
亮真の殊勝な態度を見てルピス王女の顔に笑みが浮かぶ。
﹁そう硬くなる事はありません。私達の所為で迷惑をかけたのです
から⋮⋮何か望みはありますか?﹂
ルピス王女の言葉に亮真は考え込むふりをした。
既に亮真の答えは決まっていたからだ。
﹁望みと言うわけではありませんが⋮⋮是非とも一つ御力をお貸し
いただきたい事が御座います。﹂
亮真はさも申し訳ないという口調で切り出した。
﹁それはミハイルへ貴方が話した提案の事ですか?﹂
﹁はい。その通りでございます。﹂
亮真の言葉にルピス王女は困ったという表情を浮かべる。
彼女の立場で考えるならば此処はこれ以上亮真達にかかわらない方
388
が良いのだ。
出来れば小額の金を渡してさっさと放逐してしまいたい。
友人や同僚を今回の作戦で亡くしている人間にとって、亮真達は文
字通り仇なのだから。
﹁⋮⋮すぐには判断の出来ない問題ですね⋮⋮理由はおわかりです
ね?﹂
ルピスの視線が亮真へ突き刺さる。
つまりルピス王女としては手を組んでも構わないが、手を組んだ事
によって部下に不満がたまり貴族派との決戦前に騎士派が壊滅と言
う危険性が判っているのか?と言う問いだ。
﹁勿論理解しております。しかし率直に申し上げれば、現状維持を
した場合、まず王女様が勝つ見込みは無いでしょう。﹂
﹁﹁﹁無礼者め!下賤なものが増長しおって!﹂﹂﹂
複数の人間から怒声が飛んだ。
尤も王女や其の傍らに佇む黒髪の女の表情に変わりは無い。
声を荒げたのは、玉座の一段下に居る男たちだ。
﹁陛下!このような無礼な者など即刻処刑するべきです!﹂
先ほどミハイルの助命に対して顔を歪めた恰幅の良い男が王女へ進
言する。
﹁お待ちください。将軍。王女殿下のご意思をお聞きするのが先で
は?﹂
389
﹁何を言う!メルティナ!貴様このような侮辱を受けて黙っている
のか!騎士の誇りはどうした?!﹂
︵なるほど⋮⋮彼女がメルティナか⋮⋮王女の側近と言ったところ
だな⋮⋮︶
亮真は少しでも情報を得るためにメルティナと将軍と呼ばれた男と
の言いあいに耳を傾けた。
﹁お待ちください!この者は別段我らを侮辱などしてはおりません
!。あくまでもこの者を個人的な予測を述べただけに過ぎません!﹂
﹁何をバカな!この者はハッキリと我らに負けると言い放ったのだ
ぞ?これが侮辱でなくてなんだ!?﹂
論理的にはメルティナが言っている事は正しいのだが、人情として
は納得できないのだ。
特にこう言った場では感情が先走り論理的な判断など付かなくなる。
今の将軍が良い例だろう。
不毛とも言える言い合いに終止符を打ったのは、亮真の言葉を聞き
ひたすら考え込んでいたルピス王女だった。
﹁おやめなさい。客人の前ですよ!﹂
此処でいう客人が亮真達を指している事は間違えない。
下賤と蔑む者の前で仲間同士が言い合いをする。
其の滑稽さを認識したのかメルティナと将軍は黙った頭を下げた。
﹁見苦しいところを見せましたね。⋮⋮私としては少しでも兵の犠
牲を減らしたうえで、貴族派との戦に勝ちたいのです。⋮⋮貴方に
390
それが出来ますか?﹂
王女はようやく亮真の欲した言葉を口にした。
﹁勿論です。殿下のご期待に必ずや答えて見せましょう。﹂
そういうと亮真は王女に向かって深々と頭を下げたのだった。
391
第2章第10話︵後書き︶
ようやく亮真のなり上がり第一歩が踏み出せました。
今後は騎士派、貴族派の政争の中で少しずつ力を蓄えていく予定で
す。
今後ともよろしくお願いします。
※題名のウォルテニアに関してですが、第2章の最後で出てくる予
定です。
それがどういう名前なのかに関しては第2章最終話までおまちく
ださい。
392
第2章第11話︵前書き︶
頑張って書きました。
時間のあるうちに書かないと⋮⋮
感想は全て読ませて頂いています。
なかなか時間が取れないため返信はしておりませんがご了承くださ
い。
今後ともよろしくお願い致します。
393
第2章第11話
異世界召喚96日目︻謁見︼その3:
亮真はただ一人、城の一室へと通された。
あの謁見の後に一騒動有りはしたが、王女の決定が覆る事は無かっ
た。
亮真の頭に、謁見の間を退出する時の将軍の憎しみに満ちた目が浮
かぶ。
︵ふぅ⋮⋮新参者だししょうがないだろうな。︶
本当のところ悔やむ点はいくらでもある。
本来ならばもっと波風の立たない様な形で王女派に合流したかった
のだ。
だがそんな事を言ったところで時間が巻き戻りはしない。
︵王女に興味を持たれただけでも上出来か⋮⋮︶
実際、亮真達はいまだ正式な王女派の一員と言うわけではなかった。
それも当然だろう。
まだ何の実績も無いのだから。
そして実績はこれから作るのである。
そういまだ亮真の勝負は終わってなどいない。
いやこれからが本番とも言える。
394
﹁お待たせしました。﹂
そういうとメルティナを伴いルピス王女が入室してきた。
﹁いえ無理な願いをかなえて頂き感謝に堪えません。殿下。﹂
そういうと亮真は座っていた椅子を立ち上がり深々と頭を下げる。
具体的に今後どうするかを煮詰める為には、大人数がいる謁見の間
では不都合であった。
これは亮真にしろ王女にしろ同じであったため、両者は場所を城の
一室へと移した。
亮真しか呼ばれなかったのは、警護上の理由である。
﹁まぁそう硬くならなくても大丈夫ですわ。楽になさってください。
﹂
﹁はい。それでは失礼致します。﹂
ルピス王女とメルティナが腰を下ろしたのを確認して亮真も椅子へ
座りなおした。
﹁それでは話を始めましょうか。﹂
ルピス王女の視線を確認してメルティナが話し始める。
﹁貴方も判っているとは思うけど、兵力そのものは欲しい。﹂
これは亮真達を王女派に入れる事に関して構わないと言ったに等し
い。
此処メルティナは言葉を区切ると探る様な眼付を亮真へ向ける。
395
﹁ただし⋮⋮﹂
﹁今回俺達の所為で死んだ人間の友人や同僚、家族の不満を無視で
きない?﹂
亮真の言葉にメルティナが頷く。
﹁まぁ当然でしょうね⋮⋮それで?そちらの条件は?﹂
﹁利益を。﹂
亮真の問いにメルティナは短く答えた。
尤もこの返事の中には様々な思惑が隠されているのだが。
﹁なるほど⋮⋮単純な戦力としてだけではない利用価値を示せてい
うわけですね。﹂
﹁単純に戦力と言うだけならば他の傭兵を雇っても同じだからな。﹂
﹁なら殿下は大変御買い得な買い物をなされると思いますよ?﹂
亮真の言葉にメルティナは怪訝な表情を浮かべた。
﹁なぜだ?﹂
﹁俺が殿下に勝利をもたらすからですよ。﹂
ルピス王女がクスッと笑い声を上げた。
396
﹁すごい自信ね。貴方。﹂
﹁恐れ入ります。﹂
﹁でも言葉だけじゃ信じられないわね。﹂
﹁勿論です。﹂
﹁ではそれを証明してくださる?﹂
ルピス王女の口調はおどけているが、目は野獣のごとき殺気を孕ん
でいた。
﹁勿論⋮⋮と言いたいところですが、その前に幾つか確認させても
らえますか?﹂
﹁どういうつもりだ?貴様?殿下を騙したのか?﹂
メルティナが腰の剣に手をやる。
下手な言い訳をすれば即座に切りかかってくるつもりのようだ。
﹁いあいあ⋮⋮現状を正確に把握しなければ対抗手段なんて設けら
れないでしょ?と言うより⋮⋮さっきの謁見の間で何点か気になっ
た事が有りましてね。ミハイルさんから聞いていた状況とは違うよ
うなので。是非王女派の方から直接説明して頂ければとね。﹂
亮真の言葉を聞きメルティナはルピス王女へ伺いの視線を向ける。
﹁まず貴方の気になった点と言うのをお聞きしましょうか?﹂
397
ルピス王女は平静を保ちながら亮真へ言った。
﹁そうですね。まずミハイルさんからは騎士派はイコール王女派と
聞いていましたが、単純にそうではないですよね?﹂
亮真の指摘で二人の顔に動揺が走る。
ルピス王女は平静を装いながら亮真へ訪ねた。
﹁なぜそう思われるの?﹂
﹁気になったのはミハイルさんが助命された時に王女の一段下に居
た人たちが浮かべた苦々しげな表情ですよ。まぁ一瞬でしたけどね。
浮かべたの。そして確認したのはたった今です。王女の顔を見て確
信しました。﹂
﹁そう⋮⋮貴方はそれでどう考えているの?﹂
﹁王女殿下の支持母体が騎士派なのは間違いないでしょうね。ただ
し全ての騎士派が王女殿下の支持をしているわけじゃない。恐らく
メルティナさんと言い争っていた将軍ですか?あの人を中心にした
派閥が別にあるのでしょう?いや⋮⋮逆かな、騎士派はあの将軍を
中心とした派閥であり王女殿下はあくまでも神輿に過ぎないってと
ころではありませんか?﹂
長い沈黙が部屋を覆い尽くした。
亮真の言葉を聞いた二人の胸の内はどれほど激しく蠢いたのか。
それは彼女達の無表情さが全てを表していた。
︵ドンピシャって所か⋮⋮となると⋮⋮こっちも対応を変えないと
いけないだろうな⋮⋮いや、まずは王女の目的を聞かない事にはど
398
うしようもないか⋮⋮︶
﹁貴方はそれを今日の謁見で知ったの?﹂
﹁えぇ。﹂
長い沈黙の後、ルピス王女は絞り出すようにようやく言葉を発した。
﹁そう⋮⋮確かに貴方は御買い得かもしれないわね⋮⋮﹂
﹁殿下⋮⋮﹂
メルティナの言葉に悔恨と悲しみが滲む。
﹁良いのよ⋮⋮此処まで見透かされていては取り繕ったところで意
味はないでしょ?﹂
そういうとルピス王女は亮真に視線を向けた。
﹁貴方の言うとおり⋮⋮私は神輿でしかないわ。実権は全てホドラ
ム将軍が握っているわ。﹂
﹁なるほど、謁見の間でメルティナさんとやりあった人ですね?﹂
﹁えぇ。﹂
﹁なるほど⋮⋮とりあえず現状の説明をお願いできますか?勢力図
が分からなければ対策も立てられませんからね。﹂
亮真の言葉にルピス王女はやや考え込んでから切り出した。
399
﹁ええ。そうね⋮⋮まずは騎士派とは何かから説明しましょうか。﹂
ルピス王女の説明はところどころメルティナによって補足されなが
ら30分にも及んだ。
﹁成る程、確かに致命的ですな。仮に騎士派が今度の政争に勝った
としても王女殿下に与えられる未来は最悪となるでしょうね。﹂
全てを聞き終えた亮真の口からそんな言葉が出た。
実権をホドラム将軍が握っている以上、貴族派の政争が終わればル
ピス王女は文字通り傀儡となってしまう。
いやホドラム将軍が反逆の汚名を気にしない人物であれば、貴族派
の排除の後に自ら王の座に座ることすら考えられる。
つまり王女が生き残る為には、二つの条件をクリアしなければなら
ない。
一つは貴族派との政争に勝つ事。
もう一つは騎士派が貴族派に勝つまでに自分達の派閥︵王女派︶の
勢力を拡大し、ホドラム将軍の専横に対して対抗できるだけの力を
付ける事。
どちらか一つの達成であっても相当に困難なはずである。
それはメルティナもルピス王女も十二分に理解しているのだろう。
︵確かに順調にいきすぎると思ったけど、こういう事か。王女に忠
誠を誓うのが騎士派の3分の1だけとはな⋮⋮︶
彼女達王女派は追い詰められたネズミに等しかったのだ。
そしてだからこそ彼女達は藁にもすがる気持ちで、突然降ってわい
た亮真の言葉に興味を示したのだ。
400
自分達が生き残るために。
﹁私は殿下をこの国の主にしたいのだ!名実共に!貴様にそれが出
来るか!?﹂
﹁メルティナ⋮⋮ありがとう⋮⋮﹂
メルティナの言葉にルピス王女は感謝の言葉を述べた。
﹁そうですね⋮⋮まず条件を確認しますが、王女殿下がローゼリア
王国の王になられる事。そして騎士派の傀儡から抜けだす事。この
2点で間違いないですか?﹂
亮真の言葉に二人は大きく頷いた。
﹁ならば、何とかなりますね。王権を確立した後にそれを維持でき
るかどうかは殿下の力量次第ですが、取らせるだけなら可能です。﹂
﹁﹁本当︵か?︶ですか?﹂﹂
﹁えぇ。﹂
亮真の言葉に二人は嬉しさと懐疑の混じった視線を向けた。
﹁どうやるのだ?﹂
﹁中立派の切り崩しです。﹂
亮真の言葉に二人の顔が失望で曇った。
401
﹁フッ⋮⋮貴様のような男を信じた我らが愚かだった。﹂
メルティナは馬鹿にしたよな口調で呟いた。
﹁おや?御気に召しませんでしたか?﹂
﹁当たり前だ!そんな事はとっくに私が主導して行ったのだ!﹂
﹁ほう?メルティナさんがですか?﹂
亮真の顔に笑みが浮かぶ。
﹁そうだ!傍観派を王女派に鞍替えさせれば良い事など誰だって考
え付く!﹂
﹁そして誰にも相手にされなかったというわけですか。﹂
﹁キ⋮⋮貴様!﹂
嘲られたと思ったのだろうかメルティナは腰の剣を抜き放った。
﹁侮るか!﹂
︵成る程⋮⋮ちょっと挑発しただけでこれか⋮⋮︶
謁見の間で将軍と言い争ったところからかなり短気な性格ではない
かと予想していたが案の定だ。
︵王女への忠誠心と言う点では問題ないんだろうけどな⋮⋮もう少
し思慮深い策士タイプが欲しいところだな。︶
402
メルティナの白刃を目の前にしてそんな事を亮真は考えていた。
﹁おやめなさい!﹂
﹁しかし殿下!﹂
﹁メルティナ!落ち着きなさい!﹂
ルピス王女の叱責に渋々と言った様子でメルティナは剣を鞘へと戻
す。
﹁ですがメルティナが怒るのは尤もです。それとも貴方には傍観派
の切り崩しが出来るとでも言うのですか?﹂
ルピス王女の言葉には棘が含まれている。
主として度量は見せたものの、決して亮真の言葉を鵜呑みにしてい
るわけではないし、不快にも思っているのだ。
亮真はルピス王女の視線に苦笑いを浮かべながら言った。
﹁まぁ8割がた出来ますね。ですがその前に一つメルティナさんへ
頼みが有るんですが構いませんか?﹂
亮真の言葉にメルティナは王女と顔を見合わせた後に頷いたのだっ
た。
﹁遅かったですね!首尾はいかがでしたか?﹂
403
日はすでに落ち夜の帳が辺りを支配している。
既に夕食の時間は過ぎ去り、城のほとんどの人間はベットの中へと
潜り込んでいる時間だった。
﹁あぁ。というか二人ともまだ起きてたのか?﹂
王女達との打ち合わせを終え、亮真はあてがわれた自室の扉を開け
ると、既に眠っていると思われたローラ達が目の前に立っていたの
だった。
﹁勿論です。主の帰宅を待たずに寝るはずが御座いません!﹂
ローラの言葉にサーラが深く頷く。
﹁別に起きてたのはあんた達だけじゃないだろう?﹂
﹁なんだリオネさんも居たのか。﹂
﹁何だじゃないよ!まったく。こっちは交渉がどうなるかハラハラ
してしょうが無かったって言うのにさ!﹂
部屋の中央にあるテーブルの前に腰かけたリオネがぼやいた。
﹁ハラハラして待ってた様には見えませんがね?﹂
テーブルの上に散乱するワインの空き瓶を見る限りではとても亮真
を心配していたようには思えない。
﹁姉さんは若を信じて待ってたんですよ。﹂
404
﹁ボルツ!余計なことは言わなくていいよ!﹂
そういうとリオネは笑みを消して亮真へ尋ねる。
﹁それで?首尾はどうなんだい?アンタの思惑どおりにいったのか
い?﹂
一瞬で素面に戻ったところをみると、それなりに自制して呑んだよ
うである。
﹁えぇ。その辺の話は明日にしようと思ったんですけどね。リオネ
さんがいるなら丁度いい。ローラ、サーラ。二人ともこっちに来て
座ってくれ。﹂
﹁あの⋮御食事は?﹂
﹁あぁそんなのは良いよ。なぁに一食抜いたところで困りはしない
しな。﹂
﹁﹁かしこまりました。﹂﹂
何か亮真の為に夕食を準備していたのだろうか、奥の部屋に向かっ
た姉妹を椅子に座らせ亮真は王女との会見を説明した。
﹁なんだって!?そんなに劣勢なのかい?王女派は!﹂
亮真の説明を聞いたリオネがまず大きな叫び声を上げた。
ボルツや姉妹達の表情も憂いが浮かんでいる。
﹁まぁその辺はしょうが無いさ﹂
405
﹁ですが騎士派の内部で将軍派と女王派で派閥争いとは⋮⋮﹂
﹁まぁお偉いさんなんてそんなものかもしれないけどね。﹂
ローラの言葉にリオネは何処か達観したような言葉を返した。
この辺は人生経験の差なのかもしれない。
﹁しかしそんな状態であっしらを助けてくれるんですかい?﹂
﹁まぁこのままじゃ無理だろうね。少なくとも、貴族派を排除した
後で将軍派に潰されないだけの力が王女になければ終わりだ。﹂
謁見の間で見たホドラム将軍の口ぶりや亮真達を見る目つきを思い
起こせば、貴族派との戦いの後王女との約束を盾に助力を求めたと
ころで鼻で笑われて無視されるのがオチだろう。
下手をすれば邪魔者は死ねとばかりに兵を向けてきかねない。
﹁ならどうあっても王女派に力を付けてもらうしかないわけですな
⋮⋮﹂
ボルツの言葉に明るさが無いのは、現状を傭兵の冷徹な分析で図っ
た時に勝算が薄いせいだ。
﹁だが悪い事だけじゃない。少なくとも、王女派が力を付ければ俺
達の後ろ盾になってくれる事は間違えない。﹂
勝算が薄い劣勢の時だからこそ、その時に交わされた約定は強い拘
束力を発揮する。
406
﹁でも本当に傍観派を切り崩せるのかい?﹂
﹁あぁ。さっきメルティナに実際どういった交渉をしたのか実演し
てもらったからね。俺が行けば間違えなく釣れるよ。﹂
リオネの疑問に答えた亮真の顔を其の場に居た全員が不思議そうに
見つめた。
彼らにはどうしてメルティナの交渉を見た亮真が成功を確認したの
かが判らなかったからだ。
﹁まぁそれは実際に交渉を成功させた後に話すとしてだ、とりあえ
ずリオネさん達は王女直属の指揮系統に入れるようにした。開戦ま
では城の警護や訓練が主な任務なんだけど。﹂
此処で亮真は言葉を切ってリオネを見た。
﹁?なんだい?なんかあるのかい?﹂
﹁いや。リオネさん、紅獅子の人数って何人だい?﹂
﹁今戦闘に使えるのはあっしらを含めて22人ですかね。前回の奇
襲で矢を肩にくらった奴がいましてそいつの怪我が治れば23人で
すか。﹂
横からボルツが口を挟んだ。
﹁ちょっと人数的に少ないんだよね⋮⋮リオネさんギルドを通さな
いで後7∼80人くらい集められないかな?﹂
﹁そりゃ⋮⋮幾つか懇意の傭兵団があるから出来なくはないけど⋮
407
⋮金はあるのかい?﹂
亮真の言葉が以外だったのだろう、リオネは珍しく歯切れの悪い返
事をした。
﹁どれくらい掛かる?﹂
﹁そうだねぇ⋮⋮あたし等と同じくらいの力量の奴らを集めるとな
ると⋮⋮金貨300枚はほしいところだねぇ。﹂
﹁判った。明日ローラに金を降ろさせるから集めてくれる?﹂
﹁あ⋮⋮あぁ。金さえあるなら大丈夫だよ。﹂
あっさりと大金を出す亮真にやや気押されながらリオネは返事をし
た。
﹁とりあえず明日からが勝負だ!これからの俺達の行動が全てを決
める事となる!﹂
亮真の言葉にその場に居た全員が強く頷いた。
彼らは理解していたのだ、彼らが生き残るために負けられない戦で
有る事を。
408
409
第2章第12話
異世界召喚103日目︻揺れ動く者たち︼その1:
﹁御忙しいところに突然御邪魔をいたしまして申し訳ございません。
ベルグストン伯爵様の寛大な御心に深く感謝いたします。私は王女
殿下の使者を仰せつかりました御子柴亮真と申します。お見知りお
き下さいませ。﹂
亮真はそういうと深々と目の前に座る男へ頭を下げた。
此処はローゼリア王国の王都ピレウスから馬車で2日程離れたとこ
ろにある傍観派の所領である。
陽は今まさに中天に差しかかったころであるので、ごく一般的な常
識で考えれば昼食の時間帯で有ろう。
貴族を訪問する時間としてはあまり適切ではない時間帯だった。
﹁いや、王女殿下よりの使者となれば粗略にも出来まい。ましてや
殿下の側近であるメルティナ殿もご一緒となれば当然の事よ。﹂
そういうとベルグストン伯爵は鷹揚に笑い亮真達へ椅子を勧めた。
﹁して?どういったご用件かな?﹂
勿論この問いは本心ではない。
この政情が不安定な時に傍観派であるベルグストン伯爵に王女派か
ら使者が来たのだ。
少しでも目端が利く者なら察せ無いはずが無いのだ。
410
﹁そうですね、ではまず使命を果たす事にしましょう。﹂
亮真の言葉にベルグストン伯爵はやや眉を顰めた。
実のところベルグストン伯爵へ1月程まえにメルティナが既に王女
派への助力を願い出ていた。
勿論その際の伯爵の返事はノーだったわけだが、今回再び王女派か
ら使者が来たため同じ話の蒸し返しだと伯爵は内心呆れていたのだ
った。
﹁ほう?使命ですか?﹂
︵どういう事だ?⋮⋮そもそもこの男は一体何者なのだ?騎士派に
も貴族派にもこんな男は居なかったはずだが?︶
てっきりメルティナが話の主導を取るのだとばかり思っていた伯爵
は戸惑った。
それがまったく顔を見た事も無い男が話始めたのだ。
戸惑うなと言う方が無理である。
﹁はい。王女殿下は非常に悲しんでおられます。﹂
﹁ほう?何に対してです?﹂
ベルグストン伯爵の顔に変化は無い。
﹁ローゼリア王国の中でも名門に数えられるベルグストン伯爵家の
行く末に関してです。﹂
亮真の言葉を聞いたベルグストン伯爵は喉まで出かかった罵声を呑
みこむのに苦労した。
411
どうせ以前メルティナが勧誘に来た時と同じように、貴族派と騎士
派の派閥争いに関して嘆いているとい御決まりの口上だと思って聞
いていたからだ。
それが突然ベルグストン伯爵家の行く末の話になる。
それも王女の嘆きという前置きから考えれば、ベルグストン伯爵家
にとっては悪い話と言う事だろう。
助力を願いに来た人間だと思い対応した伯爵が罵声を上げたくなる
のも無理は無い。
王女派は他人の心配が出来ない弱者なのだから。
それでもベルグストン伯爵は何事も無いかのような笑顔を浮かべて
切り返してきた。
﹁ほう?わが家の行く末ですか。それはそれは王女殿下におかれま
しては様々な心労をお持ちであるのに我が家の様な弱小貴族の行く
末までご心配頂けるとは光栄の極みに存じます。殿下にはこのベル
グストン伯爵その御心に深く感謝したとお伝え願えますでしょうか
?﹂
ほぼ満点といってよい回答である。
貴族としての矜持を保ちつつ表面的には王女への感謝を表しながら、
裏には王女に対しての嘲りが含まれているのだ。
我が家の心配など出来る立場なのか?と。
︵ふん。まずは事前の情報どうりか。︶
亮真はベルグストン伯爵の言葉を聞いて有る意味安心した。
王女に今必要なのは知恵袋と言える人間だと亮真は考えていた。
別に軍事に限る必要はない、政治、経済、外交、文化、その全てに
おいて王女は欠けているのだから。
勿論それは王女だけの責任ではないのかもしれない。
412
だが現実にルピス王女の周りには武人ばかりが目につくのだ。
側近と言われているメルティナですら、個人的な武力や王女への忠
誠心と言った面はさて置いて、知略や政治感覚と言った面ではまっ
たくもってあてにはならないのだから。
それはある意味騎士と言う職業病なのかもしれない。
騎士に求められるのは武術の腕と王家への忠誠である。
勿論それはそれで重要なのだが、そういったものを重視するあまり
思慮深さや腹芸、或いは損得勘定と言った物を見下す傾向にある。
それはそれで悪くは無い。
騎士には名誉や誇りが必要なのだから。
だが組織と言う観点からみれば、歪で不完全としか言えないだろう。
だからこそ亮真は王女派に引き入れる第一番目の人間としてベルグ
ストン伯爵を選んだのだ。
すぐれた政治力を持ちながら慇懃無礼で傲慢な態度を嫌われ、ゲル
ハルト公からも亡きローゼリア王ファルスト2世からも疎まれたこ
の男を。
﹁ご謙遜を。ベルグストン伯爵家は広大な領土をお持ちの上、人口
も多いと聞き及んでおります。兵力としては1000程ですか?と
てもとても弱小貴族とは言えませんよ。﹂
﹁ほぅご使者殿は我が家を買い被っておられるようだ。それとも貴
族派との争いで正常な判断が出来なくなっておられるのかな? ハ
ハハハハ﹂
﹁いえいえ。私の判断は正しいはずですよ?その証拠にゲルハルト
公もベルグストン伯爵家に熱い視線を向けておいでとお聞きしてい
ますから。それとも既に貴族派に属されてしまいましたか?﹂
413
﹁なっ!⋮⋮困りますな。その様な根も葉もない御話をされては。﹂
一瞬浮かんだ驚きを巧みに隠しベルグストン伯爵は鷹揚に笑って見
せた。
﹁おぉそうですか、いや!それなら王女殿下も安心なされるでしょ
う。何しろ王女殿下はベルグストン伯爵が何も得られず飼い殺しに
なる事を憂いておいででしたから。﹂
﹁何!どういう事だ!﹂
亮真の言葉を聞きベルグストン伯爵の顔色が変わる。
﹁おや?どうなさいました?根も葉もない話ではなかったのですか
?﹂
亮真の言葉を聞きベルグストン伯爵は深く椅子に座りなおすと大き
く息を吐いて言った。
﹁フゥ⋮⋮もういい腹の探り合いをしても仕方が無い⋮⋮そっちは
私が貴族派に属した事を知っているのだろう?﹂
何処か諦めたような声をベルグストン伯爵は出した。
﹁えぇ。﹂
亮真の方はまるで判っていたとばかりの軽い口調だがメルティナ驚
きを必死で隠さなければならないほどの衝撃を受けていた。
︵馬鹿な!どういう事だ!?ベルグストン伯爵が貴族派に既に取り
414
込まれていた?⋮⋮一体いつからだ?⋮⋮いやそれよりこの男は一
体何時からそれが判っていたのだ?!⋮⋮いや駄目だ⋮⋮今は私の
任務を忠実に行う事だけだ。私が余計な事をしてこの男の足を引っ
張るわけにはいかない!︶
亮真は彼女にまったく何も説明をしていないからだ。
動揺するのは無理もないと言える。
メルティナにあてがわれたのは、新参者である亮真が王女派の人間
であることを証明する事。
ただそれだけである。
彼女の動揺をよそに亮真達の会見は続く。
﹁どこから漏れたかは知らぬがこの決断は変わらんぞ?﹂
ベルグストン伯爵は何処か探るような目つきで亮真を見た。
﹁えぇ別にかまいませんよ。﹂
﹁何だと?!﹂
﹁損をするのはベルグストン伯爵、貴方だけですから。﹂
亮真の言葉を聞きベルグストン伯爵は深く考え込んだ。
﹁どういう事だ?⋮⋮貴様は何を言っている?。私が損をするだと
?﹂
長い沈黙の後ベルグストン伯爵はようやくそれだけを言うと亮真へ
説明を促した。
415
﹁おや?お分かりではなかった⋮⋮そうですか、では御気の毒なの
で説明させて頂きますかね。﹂
亮真の口から出た説明はメルティナとベルグストン伯爵、両方へ強
い衝撃を与えた。
﹁ベルグストン伯爵は貴族派からどういった条件で勧誘されました
?﹂
亮真の言葉にベルグストン伯爵は渋々と言った表情で答える。
﹁貴族派が擁立するラディーネ王女が即位した暁には領地を加増の
上、財務大臣の地位を約束された。﹂
﹁ほう、それはすごい好条件ですね。﹂
﹁そうだ!王女派にこれだけの条件が出せるか!﹂
ベルグストン伯爵の言葉に亮真は嘲りを必死で隠さなければならな
かった。
﹁まぁ出せる出せないは別にして、貴方はその報酬を得るために何
を頼まれました?﹂
﹁⋮⋮﹂
ベルグストン伯爵は口を閉じた。
自分が損をするという話に乗ったせいで、自分が貴族派に属した事
416
はバレてしまったが、易々と貴族派の動向を王女派に言うわけには
いかなかったのだ。
﹁他の傍観派への勧誘とベルグストン伯爵家の兵を動かさない事。
どうです?そんなところでしょう?﹂
﹁何!﹂
ベルグストン伯爵の口から驚きの言葉が漏れる。
﹁まぁ他にベルグストン伯爵へお願いするような仕事が有りません
からね。貴族派には。﹂
﹁どういう事だ?﹂
﹁まぁそれはいいとして、その程度の働きに対する報酬としては破
格だと思いませんか?﹂
ベルグストン伯爵は亮真の言葉に考え込んだ。
確かに破格と言ってよい条件である。
傍観派に働きかけるのも、自分の兵を動かさない事もまったくと言
っていいほどベルグストン伯爵には損が無い。
﹁最初から守る気が無い約束だからですよ。﹂
亮真の言葉にベルグストン伯爵は顔色を変えた。
﹁バ⋮⋮バカな⋮⋮そんなはずは⋮⋮﹂
﹁そもそも実現が不可能なんですよ。貴方が財務大臣の要職に就く
417
のも領地の加増もね。なぜなら所属する派閥が貴族派なんですから。
﹂
そもそも貴族とは何であろうか。
王国から領地を下賜され一定の自治を認められた人間の総称である。
逆に騎士とは王家直属の兵士であり、貴族に準じる身分とは言え領
地は無い。
騎士は軍事力の要であり着く職も全て軍の役職である。
一部貴族でも騎士でも付ける特殊な役職が有るにはあるが、基本的
に貴族は内政を騎士は軍事を司どってきたのである。
さて此処で問題である。
軍事を司る騎士派を倒したからと言って、貴族が司る内政で重要な
職が空くだろうか?
答えはノーである。
貴族派が騎士派を倒した後に空く役職は全て軍事に関する物だけだ
ろう。
そして仮に財務大臣の席が開いたとしてもそれがベルグストン伯爵
に回ってくる可能性は0である。
なぜなら貴族派に以前から属している人間がその席を埋めるからだ。
圧倒的に劣勢な勢力が有る人物の助力によって勝利したならば、異
例の抜擢と言う事はあり得る。
だが今回の様に貴族派は既に騎士派よりも優勢なのだ。
勝ち馬に後から乗った所で、以前から所属している人間を追い越せ
るはずが無い。
そして領地の加増もまた少し考えればあり得ない事が分かる。
なぜなら騎士派を倒しても支配地を元々騎士は持っていないからだ。
となれば王家の直轄地を削るしかなくなる。
だが果たしてそんな事をゲルハルト公がするだろうか?
王家を弱体化させ自分がいずれは王権を奪うと言うのであれば可能
性としては有るかもしれない。
418
だが貴族派が勝てばその党首であるゲルハルト公は文字どおり女王
を操る最高権力者となる。
いずれ王権を自分で奪うと言う野望が有ったにしろ、わざわざ王家
の直轄地を後からやってきた傍観派の貴族などに分けるだろうか?
与えるにしても大した仕事もしていない途中から派閥に参加した貴
族などに分けるだろうか?
まずあり得ないと断言できる。
与えるなら長年自分の下に居た人間に与えるだろう。
またそうでなければ派閥自体が吹っ飛びかねない。
亮真の説明を聞きベルグストン伯爵の顔は真っ青になった。
﹁私が愚かだと言う事か⋮⋮﹂
伯爵の口からそんな自嘲の言葉が漏れる。
﹁納得していただけたようで良かった。﹂
実際横で聞いていたメルティナにも判り易く納得せざる得ない説明
だった。
︵こいつは⋮⋮︶
メルティナは亮真に対してその力が味方である事の安堵よりも恐怖
を強く感じていた。
︵こいつはどこまで読み切っているのだろう?⋮⋮ただの傭兵だぞ
?それが僅か1週間でここまで⋮⋮︶
419
﹁私はどうすればいい?﹂
ベルグストン伯爵は力なく亮真へ聞いた。
﹁そうですねぇ。このまま貴族派に居たところで行く末は見えてま
すし、騎士派に入ってもあのホドラム将軍につぶされるのが落ちで
しょうしねぇ?﹂
何処か含みのある言葉である。
ベルグストン伯爵は少し考えてから切り出した。
﹁王女殿下に助力したとして⋮⋮その⋮⋮﹂
言葉を濁してはいるが、様はどんな待遇をしてくれるかという事だ。
﹁そうですねぇ⋮⋮勿論財務大臣の椅子などは無理ですが⋮⋮﹂
亮真の言葉を聞きベルグストン伯爵の顔が曇る。
だが次の言葉を聞き彼の顔に生気が戻った。
﹁この戦いで王女殿下が勝てば勿論貴族派は一掃とまではいかなく
ても大幅に削減されるでしょうね⋮⋮となれば当然、いくつもの職
が空く事になるわけですから、そうなればねぇ?﹂
つまり王女が勝ち貴族派が占める多数の職が空く事になった時に、
その席に座るのは王女に助力した貴族である。
それも今王女の支持母体が騎士派である事を考えれば、今から王女
派に乗っても十分高い地位を望む事が出来る。
しかも対象が貴族であるため所領の没収が期待でき、当然ベルグス
トン伯爵にも加増が来ると言うわけだ。
420
亮真の言葉から其処までの未来を描く事が出来たベルグストン伯爵
の脳裏に王女派への加担が選択肢として加わる。
︵悪くない⋮⋮このまま貴族派に加担して飼い殺しになるよりずっ
と良い⋮⋮だがこれはあくまでも王女派が勝てばだ⋮勝てなければ
今の話はまったく意味が無くなる⋮⋮︶
﹁御子柴殿⋮⋮申し訳ないが少し考える時間がほしい。﹂
﹁結構ですよ。ただどれくらい必要ですか?こちらとしてもあまり
時間が無いものですから。﹂
亮真としても今此処でベルグストン伯爵が王女派への助力を決断す
るなどとは考えていない。
ベルグストン伯爵にとってみれば一生を左右する大きな賭けになる
のだから。
しかし亮真はベルグストン伯爵だけに時間を取られるわけにはいか
ない。
他の傍観派を切り崩さなければならないのだから。
﹁今夜一晩時間を頂きたい⋮⋮返事は明日と言う事で、今日は我が
屋敷に御泊り頂けないだろうか?﹂
﹁良いでしょう。賢明なご決断をお待ちします。﹂
ベルグストン伯爵が差し出した右手を亮真は握り締めるとそう答え
たのだった。
421
422
第2章第13話
異世界召喚103日目︻揺れ動く者たち︼その2:
﹁私はどうすればよいのだろう⋮⋮﹂
返答の期日を明日まで伸ばしたベルグストン伯爵は、自分の執務室
にこもりただひたすらに自問自答を繰り返していた。
﹁あの男⋮⋮あいつの言う事は尤もだ⋮⋮貴族派からの勧誘を受け
た時になぜ気がつかなかったのだ⋮⋮﹂
悔やまれるのはそこで有る。
もしベルグストン伯爵が傍観派のままであれば正直に言ってどちら
が勝とうと関係なかったのだ。
だが甘い言葉に騙され貴族派に加担してしまった以上彼に取れる選
択肢は2つしかない。
このまま貴族派に付くか騎士派に付くかのどちらかだ。
今更傍観派に戻れば今度は貴族派、騎士派の両方から狙われる事に
なる。
そしてもう一つの問題は、今回の話を持って来た人間が王女派だと
言う事だ。
ベルグストン伯爵は王宮の勢力図に関して十分な知識が有る。
そういった知識が無い貴族が領地を保つことなど不可能と言ってよ
い。
だから今の騎士派は王女の支持母体でありながらその実権はホドラ
ム将軍が握っているという事を、伯爵は十分に理解していた。
423
﹁あの男はメルティナ殿と一緒に来た⋮⋮と言う事はあの男は王女
殿下に直接繋がっていると見て良い。となれば⋮⋮今回の勧誘は騎
士派ではなく王女派へと言う事だろう。﹂
王女の決断如何では、貴族派との戦の後に王女派対騎士派と言う新
たな戦いが始まる可能性が有るのだ。
劣勢な勢力の中にあるさらに小さな派閥からの勧誘である、躊躇し
て当然と言える。
﹁もし加担するなら全てを投げ打つ覚悟がいる⋮⋮﹂
ベルグストン伯爵家と言う家名も、長年積み上げてきた冨も、それ
なりに治めて来た領地すらも投げ打つ覚悟が必要になるのだ。
﹁問題は王女殿下が勝てるのかどうかだ⋮⋮﹂
全ての問題はそこに行きつくのだ。
王女派に加担して勝てるのか勝てないのか。
ベルグストン伯爵は決して王家への忠誠が薄いわけではなかったが、
自分の家や家族を投げ打ってまでささげる忠誠心を持ってはいなか
った。
だからこそ1月前にメルティナが勧誘しに来た時には、内心侮蔑し
ていたし、その後に訪れた貴族派の勧誘にも乗ったのだった。
﹁あの時点では王女派が勝てる要素など何処にもなかったのだ⋮⋮﹂
メルティナの勧誘方法は単純である。
ただひたすらにルピス王女の正当性と王家への忠誠を訴えたのだ。
勿論それらは重要な物ではあるが、傍観派の心を動かす要素には成
りえなかった。
424
なぜか?
もし王家への忠誠や王女の正当性を重視する人間であれば、傍観派
などに成るはずが無い。
メルティナが勧誘する前に王女へ忠誠を誓っているはずなのだ。
ベルグストン伯爵が聞きたかったのは王女に助力した際に王女は伯
爵の忠義にどのような物で報いてくれるのかなのだ。
王女に加担するのは良い。
だが兵を動かすには武具兵糧に金がかかる。
兵が手柄を上げれば恩賞だって出さなければならない。
決して﹁御苦労!﹂の一言で済むわけではないのだ。
それがメルティナには判らない。
ただただ壊れたレコーダーの様に王女への忠義を訴えるだけ。
これではどんな貴族で有ろうと説得することなど出来るはずもない。
だからこそベルグストン伯爵は王女を見限った。
側近と言われるメルティナですらこれである。
王女のそばには人材がいないと判断せざる得なかったのだ。
そして貴族派からの勧誘に際しこれ幸いと乗ったのは当然と言える。
誰だって勝てる勝負には乗るものである。
それが権力や領地の加増という目に見える利権を示されればなおさ
らと言える。
だが此処で伯爵は大きく悩む事になる。
今日やってきた王女派の使者、御子柴亮真の所為で。
﹁アノ者がだれかは判らん⋮⋮だが⋮⋮切れる。切れすぎるほどに
⋮⋮﹂
御子柴亮真。
知恵者がいないと思われた王女派に突如として現れた切れ者。
昼間一回会っただけだが、あの男の状況判断能力は信頼できると言
ってよい。
425
人当たりも良いし外交ではかなりの力を発揮するはずである。
そうなると王女派の今後も変わってくる可能性が有る。
貴族派は自分以外の傍観派にも同じような報酬をちらつかせて助力
を募っているはずである。
だがあの男の話を聞いた後にまだ貴族派を信じる馬鹿がいるとは思
えない。
となれば大きく王女派に取り込まれる可能性は大と言える。
同じように騎士派の中からホドラム将軍に不満を持つものを王女派
に鞍替えさせる事も不可能ではないだろう。
そう、あの男の力が有れば王女が実権を持つ事も可能かもしれない。
だからこそ伯爵は悩むのである。
﹁アぁ⋮⋮私はどうすれば⋮⋮﹂
コンコン
﹁旦那様?夕食の準備が出来ました。御客様も既に食堂の方で御待
ちになっております。﹂
決断の付かないベルグストン伯爵を正気に戻したのは、屋敷のメイ
ドの声だった。
窓を見れば外はすっかり闇に覆われている。
亮真達との会見が終わったのは午後1時ごろのはずなので、ベルグ
ストン伯爵は5∼6時間も執務室で悩み続けた事になる。
﹁あ⋮⋮あぁ⋮⋮今行く。﹂
それだけメイドに言うと、ベルグストン伯爵は軽く身なりを整え食
堂へと向かった。
426
﹁貴方?心配ごとですか?﹂
夕食を食べ終えて再び執務室へ閉じこもった夫を心配してベルグス
トン伯爵夫人が部屋へ入ってきた。
﹁何だお前か⋮⋮どうもしないよ。どうした?こんな夜分に?﹂
伯爵は疲れを隠すようにそう言うと夫人をソファーへ座らせた。
﹁夕食の時の様子がおかしかったものですから⋮⋮何か心配ごとで
すか?﹂
夕食に出された鳥の丸焼きはベルグストン家の料理人の得意料理で
あったが、伯爵はほとんど手を付ける事は無かった。
とても食事を楽しむような気分ではなかったからだ。
﹁いや⋮⋮なんでもない。お前が心配するようなことは何も無いよ。
﹂
﹁いいえ!そんなはずはありません。連れ添って20年ですもの⋮
⋮貴方の様子がおかしい事に気がつかないはずが無いじゃありませ
んか!﹂
夫人は夫の身を心から案じていた。
俗にいう政略結婚だったのだが、夫人は今年43才になる夫を深く
敬愛していたし、夫もまた夫人を深く愛していたのだ。
﹁今日いらした御客様の所為ですか?﹂
427
今朝まで何でもなかった伯爵が昼過ぎから急に執務室へ閉じこもっ
たのだ。
原因が彼らにあると思うのは当然である。
伯爵の顔を見て夫人は切り出した。
﹁もしかして⋮⋮王宮の関係ですか?﹂
貴族の奥方といえど貴族同士の勢力争いと無縁ではいられない。
いやある意味、女同志の方がそういった物には敏感である。
ましてや王国の存亡にすら関わる様な話である。
伯爵の態度を見て夫人は確信した。
﹁貴方⋮⋮夫婦ではありませんか⋮⋮貴方の御力にはなれないかも
しれませんが、少しでも其の苦労を分かち合えるのなら私に御話く
ださいませんか?﹂
夫人の言葉を聞き伯爵は心の内をぶちまけた。
誰かに胸の内を聞いてほしかったのだろう。
それほどまでに伯爵は思い悩んでいたのだ。
﹁私は政治に関して詳しくありません⋮⋮ですが王女殿下が危機の
今、貴方が殿下へ助力するならば勝利した際には決して貴方を粗略
には扱わないと思います。﹂
伯爵の胸の内を聞いた夫人は躊躇いながらもハッキリと言った。
﹁それは判っている。だが問題なのはそこではない。私が助力した
として果たして王女殿下が勝てるかどうかなのだ!﹂
428
夫人に言われるまでもない。
劣勢の王女側には人材だっていないだろう。
だから勝てば重用される。
だが勝てればだ。
﹁貴方⋮⋮貴方が王女殿下を勝たせて差し上げれば良いではありま
せんか?﹂
夫人の言葉に伯爵は凍りついた。
﹁貴方は才能豊かな方です。私は貴方に嫁いでから一度たりとも貴
方の才を疑った事など有りません⋮⋮私は貴方がこのローゼリア王
国を担う御方だと信じております。だからこそ私は貴方が迷う姿は
見たくありません!かつての様に自信を取り戻してください!12
年前の貴方ならこの様な時に迷いなどしなかった!そう。かつての
貴方なら⋮⋮﹂
﹁かつての⋮⋮私⋮⋮﹂
ベルグストン伯爵の脳裏にかつての自信にあふれた自らの姿が浮か
ぶ。
12年前、当時30代前半のベルグストン伯爵は国内でも有数の有
力者だった。
それが崩れたのは、夫人の父親であり伯爵の後ろ盾であったローゼ
リア王国宰相エルネスト侯爵がゲルハルト公との政争に敗れた時か
らだ。
エルネスト侯爵は領地没収の上、家名断絶。
殆どの血族はその際に王国内から追放処分となっている。
エルネスト侯爵の血筋で王国内に残っているのは、他家へ嫁いだベ
ルグストン伯爵夫人とその妹のみである。
429
その結果ベルグストン伯爵は中央の政治から弾き出された。
彼の才能の有無は問題ではない。
彼がかつての政敵の娘を娶っている、ただそれだけの理由でベルグ
ストン伯爵はゲルハルト公から睨まれてしまったのだ。
それから12年、伯爵はただ領地を守るために必死だった。
傍観派に属したのも目立たず嵐が通り過ぎるのを待つためである。
守りの心、それは少しずつそして確実にベルグストン伯爵の牙を鈍
く錆つかせていった。
﹁かつての私なら悩まなかった⋮⋮か。﹂
悩まなかっただろう。
自らの能力に絶対の自信を持っていたから。
︵12年前の自分が今の立場ならどうしただろう?メルティナの勧
誘など待っていただろうか?いや⋮⋮否だ!私自らが王女派に率先
して属し殿下の力になっただろう。殿下が勝てるか判らない?馬鹿
な!判らないなら俺の力で勝たせるのだとなぜ思わない!︶
夫人の言葉は、12年間ただ守りのみを考えていた男の心の錆を落
とした。
そして若き日の野望と自信に燃えた心が戻ってくる。
﹁私が王女殿下に与すれば有るのは栄光か無かの二つしか無い。当
然お前も運命を共にする事になる⋮⋮構わないのか?﹂
﹁構いません。例え断頭台の露と消えようと私は貴方に付いていき
ます!﹂
430
夫人の決意を聞きベルグストン伯爵の心は決まった。
そして一度決断した伯爵が迷う事は無い。
勝つか負けるかを判断するのではなく、自分の力によって王女を王
にすると決めたのだから。
﹁私はすぐにエルナンの元へ行く。外出の準備を手伝ってくれ。﹂
﹁今からですか?﹂
夫人は怪訝な顔をした。
既に20時を過ぎた時間である。
外出するにしてもあまりにも遅すぎる。
﹁そうだ。御子柴殿には返答を明日まで延ばしてもらっている。だ
が明日ただ単に助力すると言うだけではつまらないではないか。﹂
エルナン・ゼレーフ伯爵。
ベルグストン伯爵領と境を接する傍観派の貴族に一人だ。
そしてベルグストン伯爵夫人の妹を妻に迎えた人物でもある。
当然ベルグストン伯爵と同じように、ゲルハルト公から睨まれてい
る。
︵私が貴族派から王女派に寝返ったところで功績となるのは御子柴
殿のみ⋮⋮だがエルナンを王女派に引き込めばそれは私の功績とな
る。それにエルナンとは義兄弟⋮⋮唯一信頼出来る人間だと言って
良い。︶
王女派に加担すると決断したベルグストン伯爵の頭脳は往年のキレ
を取り戻した。
ベルグストン伯爵がただ王女派に寝返っても評価されるのは寝返ら
431
せた亮真だけだ。
決して寝返ったベルグストン伯爵を評価するものはいないだろう。
だが、自分の寝返りと同時に他の貴族を一緒に連れて行けばどうか?
それはベルグストン伯爵の功績となる。
だから伯爵は寝返った後の王女派での立場を確保するためにも、決
して失敗するわけにはいかないのだ。
﹁お前は明日出来るだけ御子柴殿を引きとめてくれ。良いな!私が
戻るまで決して帰らせるなよ!﹂
﹁はい。御気を付けて行ってらっしゃいませ。﹂
夫人は往年の輝きを取り戻した夫を嬉しそうに見つめた後、深く頭
を下げたのだった。
432
第2章第14話
異世界召喚119日目︻揺れ動く者たち︼その3:
﹁一体どうなっておるのだ!﹂
ゲルハルト公は苛立ちを隠せなかった。
絶対的に有利なはずの自分達へ、此処数日の間に続けて不快な報告
がもたらされたからだ。
﹁そ⋮⋮それが⋮⋮﹂
﹁それがなんだ!?ハッキリ言わんか!﹂
実際のところゲルハルト公の側近である彼にも事の詳細はまったく
掴めていなかった。
彼らにもたらされたのは、助力を約束した傍観派が此処数日の間に
複数がルピス王女側へ寝返ったと言う事実だけだ。
寝返ったのはそれなりの領地を持つ貴族ばかりである。
どれもかなりの好条件で貴族派に引き込んだ者ばかりである。
しかも自分が求めた条件は兵を動かさない事とラディーネ王女への
支持、これだけである。
引きこんだ貴族達のリスクは限りなく少なく、それでいてメリット
は大きくしたのだ。
不遇の日々を送っていた傍観派の貴族は雪崩をうって貴族派に属し
た。
勿論ゲルハルト公に寝返った者達との約束を守る気などサラサラな
い。
433
そもそも正確に計算した場合、約束した領地の加増分だけで王国の
半分近くが費やされる計算になる。
少し考えればそんなことはあり得ないと気がついて当然の話なのだ。
﹁判っているのは2点だけでございます。助力を約束した貴族が次
々と王女派へ忠誠を誓っている事。そして⋮⋮﹂
此処で側近は言葉を切った。
次の言葉を言えば主が怒り狂う事が判っていたからだ。
だが同時に黙っていても同じ結果になる事は長年の経験でイヤと言
うほどに理解させられていた。
側近は主の雷が落ちる事を覚悟して己の職務を遂行した。
﹁寝返った貴族の中に非常に強硬な姿勢を我々に見せて居る人間が
います⋮⋮﹂
﹁どういう意味だ?強硬な姿勢?⋮⋮領地の防衛でも固めたか?﹂
何処か馬鹿にしたようにゲルハルト公は尋ねた。
﹁それが⋮⋮領地の兵をまとめて王都に入城した模様です⋮⋮﹂
﹁何だと!﹂
ゲルハルト公は驚きを隠せなかった。
これは決して見過ごせない話だ。
貴族派から王女派に寝返ったとしてもゲルハルト公はさほど困りは
しない。
だが貴族が領地の兵を王都に入れるとなるとこれはまったく状況が
変わってくる。
434
派閥から寝返る。
大きな戦力ダウンになると思われがちだが実のところはそうでもな
い。
なぜならこの時期に寝返る様な人間は自分が損をすることを極端に
嫌う。
派閥からの餌は貰う癖に派閥へまったく貢献しない人間。
例えば今回の話で言うなら、王女派の旗は掲げても兵や軍資金の提
供を行わないなどの非協力的な態度を取る事がほとんどなのだ。
少なくても今まではそうである。
そしてそれが分かっていたからこそゲルハルト公は傍観派の貴族を
勧誘する際に過度な協力を求めなかった。
求めても仕方が無い事が分かっていたからだ。
だからこそゲルハルト公は危機感を感じる。
領地に籠り、形だけの協力を王女派に見せるだけだと判断した事が
見事に外れたからだ。
﹁それはどういうことだ⋮⋮本心で王女派に属したということなの
か?いやそもそもそれは一体誰だ?﹂
﹁ベルグストン伯爵、ゼレーフ伯爵を筆頭に其の周辺の小貴族達が
入城いたしたようでございます。﹂
﹁ぬぅぅぅ⋮⋮ベルグストン伯爵め!どこまでもワシに逆らう気か
⋮⋮いや待て?王女派?騎士派ではなく王女派に属したのか?﹂
ゲルハルト公は予想外の知らせに狼狽したせいか、見落としていた
点に気がついた。
﹁はい、私も気になって何度も確認したのですが、騎士派ではござ
いません⋮⋮間違いなく王女派に属しています⋮⋮﹂
435
一見すると同じことのように思えるが実のところはまったく違う。
騎士派は間違いなく王女の支持母体である。
だが騎士派が王女を支持する理由は、彼女が王女だからでも、ここ
数年にわたり近衛騎士団の団長を勤めたからでもない。
騎士派の長であるホドラム将軍がルピス王女を擁立したからなのだ。
純粋にルピス王女へ忠誠を誓っているものなど、末端の下級騎士を
除けば近衛騎士団の副団長であるメルティナ他数えるほどしか居な
いのだ。
部隊を纏める中級以上の騎士の殆どはホドラム将軍の派閥に取り込
まれており、それはそのまま発言力へと転化される。
ルピス王女は騎士派のお飾りでしかない。
だが数人といえども貴族がラピス王女の支持に回るとどうなるか。
貴族はその所領の規模に応じて兵力を持つ。
ベルグストン伯爵などの中級貴族は大体1000程の兵力を持って
いる。
今報告にあったベルグストン・ゼレーフ両伯爵に近隣の貴族が王女
派に助力するとなると、戦力として王女は4000近い兵力がプラ
スされる事になる。
もちろん貴族派の筆頭であるゲルハルト公は現在およそ4万の兵力
を持つ。
これに自分の領地から更になりふり構わずに農民を徴兵した上で、
傭兵を雇い入れればおよそ6万を超える兵数になるはずである。
現在ホドラム将軍が握る兵力はおよそ1万5千強。
王女派の増兵分とホドラム将軍の兵を合わせても2万弱。
まだゲルハルト公が有利な情勢ではあるのだが、気になるのは寝返
った貴族が王女派に属したと言う事だ。
436
ゲルハルト公は側近を退室させると、椅子に深く腰を落ち着け思案
にふけった。
︵ルピス王女⋮⋮まさかホドラムから実権を取り戻す気か?︶
ゲルハルト公にその事が浮かんだ。
ベルグストン・ゼレーフ両伯爵の行動を見るとそうとしか分析のし
ようが無い。
そしてその考えを己で否定する。
︵いや⋮⋮無理だ。ルピス王女にそのような事が出来るはずが無い
⋮⋮︶
ゲルハルト公はルピス王女の能力を疑問視していた。
今ルピス王女は22歳。
近衛騎士団の団長を5年ほど務めているので決して無能と言うわけ
ではない。
しかし軍事に限ればという但し書きが付く。
それも当然だろう。
彼女はいまだ国政に参加した事が無いからだ。
彼女の資質がどうであれ、経験をした事が無い物をすんなりと行え
るはずが無いのだ。
これで知恵者の側近でも居ればまた話が変わるのだが、王女の側近
として名が挙げられるのは近衛騎士団の副団長であるメルティナだ
け。
しかも武力はともかくあまり知恵の働く人間ではない事はゲルハル
ト自身も良く理解している。
つまり王女独自の力ではローゼリア王国を維持する事自体が不可能
と言ってよい。
437
︵ルピス王女がせめて軍事か政治どちらかだけでも掌握できていれ
ばまた違っただろうがな⋮⋮まあだからこそホドラムもルピス王女
を擁立したのだ。自らの権力を強化する為に。︶
自分と同種の人間であるホドラムの考えなど手に取るようにゲルハ
ルト公には理解出来た。
︵ホドラムが王女を見捨てるのは遅くても3年以内⋮⋮その後は殺
されるか幽閉されるか、さもなければホドラムの妻にでもさせられ
るか。どちらにしろ碌な事にはならんだろうな。︶
ゲルハルト公自身はあまり王位に関心は無かった。
どちらかと言えば名より実を取る性格だからだ。
それに比べてホドラム将軍は名も実も取る性格である。
今は実だけで我慢していても、いずれ名を欲しがる事が眼に見えて
いた。
国王と言う名を。
︵まぁワシが勝った場合は死んで頂くしかないからルピス王女にと
っては同じ事か⋮⋮︶
すでにラディーネ王女と言う新たな神輿を持つゲルハルトにとって
ラピス王女は邪魔者以外の何者でもなかった。
王位を継ぐべき人間が二人もいれば再び戦の火種となるのは目に見
えている。
といっても実際のところゲルハルト公は自らが擁立するラディーネ
王女の真贋に関してはかなり疑問を持っていた。
確かに亡き王を同じ銀髪を持っているし、顔立ちもまったく似てい
ないわけではない。
王の遺言状も持参してきている為、偽物だと決めつけるわけにもい
438
かない。
だがゲルハルト公自身が政争に勝ち残った策士である為、現在の状
況に何処か作為的な物を感じてはいるのだ。
王が死に、その世継ぎが玉座に付く前に前王の子供が見つかる。
タイミングが良すぎると言ってよいだろう。
それでもラディーネ王女を擁立したのは、ホドラム将軍に対抗する
為にはどうしても王家の血を引く神輿が必要だったからだ。
もし神輿を担がないままにラピス王女を擁立する騎士派と戦になれ
ば、反逆者の汚名を着せられてしまう。
そうなれば子飼いである貴族派の中からも裏切る者が出かねない。
ゲルハルト自身は愚かな事だと思っているが、大義名分とは戦にお
いてどうしても必要な物なのだ。
例えそれが嘘の大義でも。
︵まぁ良い。例え偽の王女でもワシが認めれば本物になる⋮⋮それ
に偽者なら後で処分する際に楽だしな。︶
此処まで考えたゲルハルトの顔に笑みが浮かぶ。
共に王女と言う大義名分を掲げている以上、問題となるのは純粋な
戦力差のみである。
そして今のところはもともと貴族派の方が数の上では有利であった
し、傍観派の取り込みを順調である。
多少王女派に削られたところで貴族派の有利は動かない。
︵問題はなぜ急に王女派が動き出したかだな⋮⋮あの副団長の知恵
とも思えぬし。だれか補佐役が付いたか?︶
有利な状況に変化が無いので無視しても構わないのだが、急な王女
派の暗躍はゲルハルトにとっても決して好ましい行動ではない。
439
﹁誰か!﹂
ようやく思案がまとまったゲルハルトは隣室に控える側近を呼んだ。
﹁お呼びでございますか?﹂
﹁うむ。王女派の動向が気になる。﹂
﹁間者を放ちますか?﹂
﹁うむ。金は幾らかかってもよい。最高のウデを持つ者を雇え。﹂
側近は若干驚きの表情を浮かべた。
自らの主人が決して気前の良い人間では無いと理解していたからだ。
﹁そして王女の側近に切れ者が居ないか調査させろ⋮⋮もし居たら
直ちに殺せ!﹂
今まで数多くの政争に勝つことでのし上がってきたゲルハルト公は
決して甘い判断はしなかった。
彼は障害を未然に取り除くことで権力を手中に収めたのだから。
﹁かしこまりました。﹂
側近の男は恭しく頭を下げると部屋を出ていく。
﹁例え誰であろうと邪魔する者は殺すだけよ!﹂
ゲルハルト公はどんな手でも使う覚悟だった。
この国の支配者となる為に。
440
441
第2章第14話︵後書き︶
つたない本作品をご覧いただきありがとうございます。
頂いた感想は何時も読ませて頂いておりますが、何分仕事が忙しく
なかなか御返事を書くことが出来ない状況です。
誠に申し訳ありませんが、ご勘弁頂きたいと思います。
その代わりと言っては何ですが、出来るだけ本作品の更新を頑張り
ますのでよろしくお願い致します。
442
第2章第15話︵前書き︶
予定外に長くなったので途中で切りました。
中途半端に感じられたらごめんなさい。
続きはなるべく早くUPします。
443
第2章第15話
異世界召喚130日目︻揺れ動く者たち︼その4:
﹁貴方達の今後の忠勤に期待します。﹂
謁見の間にルピス王女の声が響くと、彼女の前に立ち並んだ5人の
貴族は一斉に頭を下げた。
﹁上手く行っていますね。﹂
寝返った貴族とルピス王女との対面が終わり、城の一室に集まった
亮真とベルグストン・ゼレーフ両伯爵は笑みを浮かべながら頷きあ
った。
﹁御子柴殿の指示の賜物かと。﹂
貴族であるベルグストン伯爵が亮真へ丁寧に頭を下げた。
伯爵達が王女派に属してから1月が過ぎようとしている。
その間に亮真とベルグストン・ゼレーフ両伯爵との間には、お互い
を信じあう絆の様なものが出来始めていた。
﹁いえ、伯爵方のご尽力のたまものですよ。私は所詮よそ者ですか
ら。﹂
これは謙遜では無い。
どれほど正論を吐こうと利で釣ろうとも、身分の壁を打ち破るのは
444
容易ではないのだ。
ベルグストン伯爵が亮真の話を聞き、味方に付いてくれたのは僥倖
と言ってよい。
それが分かっているからこそ、亮真は傍観派の切り崩しをベルグス
トン・ゼレーフ両伯爵に一任していた。
メルティナなどは﹁寝返った者を重用するのか!﹂などと言って反
対したが、亮真の説得により渋々引きさがった。
結果としてベルグストン・ゼレーフ両伯爵は期待以上の働きを見せ
る。
此処半月ほどの間に王都周辺の傍観派貴族を軒並み王女派へ寝返ら
せる事に成功していた。
勿論伯爵達の実力が大きく影響しているのだが、亮真の利と状況判
断による説明は勧誘の成功に大きな影響を与えていた。
だからこそベルグストン・ゼレーフ両伯爵は爵位を持たない亮真へ
決して横柄な態度を取らない。
また亮真も決して自分の手柄などと増長せずに立場をわきまえてい
た。
﹁実際のところ、今後も王女殿下へ忠誠を誓う貴族は増えますぞ。﹂
﹁えぇ。ゼレーフ伯爵の言うとおりです。貴族派に対して恨みを抱
いている傍観派は幾らでも居ますからな!﹂
長年中央の政治から疎外されてきた傍観派貴族の恨みは強い。
戦後、貴族派が一掃された後に政治を託されるのが自分達だと判っ
ている事もあって、王都にやってくる貴族は通常では考えられない
ほどの献身さをもって王女に忠誠を誓っていた。
﹁まぁ増えるのは良いんですがね⋮⋮﹂
445
笑みを浮かべる伯爵達を見ながら亮真は苦笑した。
本当のところは決して楽観出来る状況ではなかったからだ。
﹁御子柴殿は何かご心配ごとでも?﹂
ゼレーフ伯爵は亮真の顔色を窺いながら尋ねて来た。
﹁いえ⋮⋮このまま貴族派と決戦と言うのは不味いのが分かってい
るんですが⋮⋮どう対応した物かと悩んでまして。﹂
亮真の言葉にベルグストン伯爵はやや考え込んだ後に言った。
﹁ほぅ⋮⋮御子柴殿がお悩みなのは貴族派との決戦ですか?それと
も決戦後ですか?﹂
︵フン・・・⋮流石にそれくらいの知恵はあるか・・・・・・尤も
共まで理解したうえでの発言なんだか・・・・・・︶
﹁ベルグストン伯爵、それはやはり貴族派との決戦ではないのか?﹂
ベルグストン・ゼレーフ両伯爵は共に政治家としては一流だが、軍
略家としての才能はベルグストン伯爵の方が優勢の様である。
単純に目の前の問題しか見えないゼレーフ伯爵を窘める様にベルグ
ストン伯爵は自らの考えを口にした。
﹁いやそれはあり得ない。もともと兵数では大きく劣るものの騎士
派を擁する王女派は戦力と言う点では互角に近いものを持っていた
⋮⋮今は傍観派の貴族を吸収している為、貴族派と戦うだけなら兵
数でも戦力と言う観点でもかなり有利なはずだ⋮⋮となればやはり
⋮⋮﹂
446
自らの質問に自分で回答へとたどり着いたベルグストン伯爵は視線
で亮真へ尋ねる。
だがこれだけでは回答として不完全なのだ。
亮真はその先の答えを聞きたかった。
だがベルグストン伯爵の顔を見て諦めた。
理由が判らないと顔に書いて有るから。
亮真は諦めて何が問題なのかを二人に説明するため口を開いた。
﹁えぇ、おっしゃるとおり。私が悩んでいるのは貴族派との決戦の
後の事です⋮⋮まぁ決戦前に解決出来ればそれに越したことは無い
んですがね⋮⋮﹂
戦とは事前の準備が全てで有る。
事前にどれだけ備えが出来るかによって勝敗のほぼ全てが決すると
言ってよい。
亮真はそれを理解していた。
これは何も亮真だけの話ではない。
20世紀の日本人なら読もうと思えば古今東西あらゆる軍学書を見
る事が出来る。
ビジネスマンが孫子の兵法を学んで営業に生かすと言う事だって普
通に有るのだ。
戦争に使う使わないは別にして、現代日本人の知識は古の大政治家
アース
に匹敵するほどだ。
それに比べこの大地は戦国乱世である。
知識よりも武力を重視される環境は文化や知識の発達を大きく阻害
している。
そもそも国々の身分制度の壁が高く、支配階級と被支配階級では知
識において天地の差が有ると考えてよい。
447
首都から離れた農村に住む農民などは自分の名前を書くことすら出
来ない事さえ珍しくないのだ。
そして寝返った貴族達が率いてくる兵士の殆んどはこの農民達であ
る。
彼らは軍事的な訓練を受けていない。
ベルグストン伯爵が率いて来た兵は確かに1000だが所詮はずぶ
の素人集団でしかない。
もちろんその集団を率いるのはベルグストン伯爵家から扶持を貰う
事で使えている人間である。
彼らは軍事訓練を受けていたり、過去に傭兵としての経験を持つ者
であったりと素人では無い。
だが率いる兵がただの素人である以上その戦力に過度の期待は禁物
である。
勿論最初の敵である貴族派の構成は同じである。
自分の領地から引き連れた素人の集まり。
だが騎士派は違う。
全員が下級であれど法術を使う生粋の戦士達である。
彼らは国王から給金を貰い王国に雇われている。
入団には審査があり決して誰もが入れるわけではない。
本来で有れば王族を守る最後の切り札と言える存在なのである。
それがホドラム将軍によって専横されている。
尤も信頼出来るはずの兵力が敵に回っているのである。
亮真がベルグストン・ゼレーフ両伯爵へ自分の代わりに傍観派の切
り崩しを委託したのは対騎士派との戦いに向けての準備をしたかっ
たからだ。
そして騎士派に関しての情報を集めれば集めるほど問題が大きく深
刻になっていくのである。
兵数という点で言えば挽回は十分に可能だ。
448
専門職である為人数は限られている。
だから傭兵の雇用がどの戦場でも行われるのだ。
ただし傭兵はあくまでも応急処置でしかない。
能力にもばらつきが有り何より忠誠心と言う意味では騎士よりもは
るかに劣る。
また優秀な傭兵は雇用に大金が掛かる。
平均して騎士の年収の5倍程は払わなければならない。
その代わりに常時雇用する騎士と違い必要が無くなればすぐにクビ
に出来る為、決して雇用者が損をするわけではないのだが。
騎士を正規雇用、傭兵を非正規雇用と置き換えて考えれば理解しや
すいだろう。
そういう点を踏まえた上で亮真が悩んでいる問題、それはホドラム
将軍を配した後の王国の態勢維持についてだ。
貴族派との戦の後に騎士派と王女派で決戦を行う。
これ自体はルピス王女以下王女派に属する者の共通認識だ。
貴族派を倒してしまえばルピス王女は国政を司る事が出来る。
これにより傍観派の貴族は否応なくルピス王女への忠誠を誓う事に
なる。
国内の貴族全てを支配すれば如何に騎士派の戦力が大きくとも負け
る事は無い。
兵数だけでいうなら10倍近くの差が王女派と騎士派の間に出来る
はずなのだから。
では何が問題なのか。
それはルピス王女の勝利によって騎士派を排除した後に、ルピス王
女が何をもって自らを守る戦力とするかに有る。
乱世である。
国内にも国外にもローゼリア王国を食い物にしようと牙を研いでい
る人間は腐るほどいた。
449
騎士派を排除した後に、それに代わる兵が居なければ飢えた狼達は
躊躇い無く牙を向いてくる。
だが騎士はプロの戦士である。
農民から必要な数を選抜したところで直ぐに変わりが務まるはずも
ない。
しかし傭兵を雇えば高くつく。
しかも忠誠と言う点では信頼が出来ない。
騎士派を排除しなければ王女派は傀儡のまま何れは潰されるだろう
し、騎士派を排除しても騎士に代わる戦力が無ければ国力の低下を
見た近隣諸国の侵略に会うという出口の無い迷路に迷い込んでしま
ったような状態なのだ。
﹁成る程⋮⋮流石に先見の明がおありだ。﹂
﹁まったくですな。﹂
亮真の説明を聞き感嘆の声を上げたベルグストン伯爵にゼレーフ伯
爵は頷いた。
しかししきりと感心する二人を見て亮真の心はさらに冷たくなる。
︵こんなことが判らないのか⋮⋮こいつら⋮⋮切れ者だと言われる
この二人ですら考え付かないとなればルピス王女やメルティナに思
い浮かばないのも当然か。︶
亮真の心が冷めていくのは致し方ないだろう。
彼らは一般人ではない。
これから国を背負うと自負する人間が先の事を見る目を持たないと
なれば不安になって当然だ。
それに実のところ亮真個人としてはこの問題はあまり重要ではない
450
のだ。
亮真の目的はルピス王女後ろ盾を得て自分達の主張をギルドに通す
と言う事だけだ。
ローゼリア王国に住まないのならこの国が騎士派を排除後にどうな
ろうと知った事ではないのだ。
極端な話、亮真は騎士派を全滅させるだけなら手段は幾らでも講じ
られた。
この世界の騎士は策略や奇襲と言った物をひどく嫌悪する。
法術という要素が有るせいなのか、集団戦という物をあまり考えず
自らの武力で戦えばよいと言った考え方なのだ。
それはルピス王女に願い出てメルティナ達王女に忠誠を誓う騎士達
の考えや戦術眼を確かめたから間違いない。
正義と忠誠と誇り。
この3つが有ればどんな戦でも勝てると言うのが彼らの主張である。
実際彼らの教科書だと言う戦術書を見せてもらったが内容は酷いも
のであった。
礼儀作法から始まり、本の内容のほとんどが戦闘には関係のない作
法などに偏っているのだ。
実際補給の概念も無ければ陣形の概念もない。
決して全ての人間が無いわけではないだろうが、あまりにも知識の
平均が低すぎる。
そしてそれほどまでに直情的な人間を罠にはめる事など亮真にとっ
ては造作もない事だった。
それでも騎士ならばまだ良い。
彼らの価値は武勇なのだから。
だが貴族は違う。
武勇も大事だが先を見通す眼も重要である。
ましてや自分達が勝った後にどう国を治めるのかを考えれば、騎士
派の排除後に代替え戦力の必要となるで有ろうことなど見越して当
451
然だ。
勿論全ての人間が必ず気付ける訳ではないし気が付かないからと言
って一概に無能だとは言えない。
だがそれでも組織の上位に居る人間の全てが考え付かないとなれば、
それはやはり呆れてしまってもしかたがないのではないだろうか?
や
︵いっその事、騎士派排除後の事は一切無視して殺るか?︶
心の奥底から湧き上がってくる短絡的な思考の甘い誘惑を亮真は必
死で振り払った。
︵いや⋮⋮いくらなんでもそれは不味い⋮⋮さすがに不義理すぎる。
︶
そんなことをすればローゼリア王国は間違いなく滅ぶことになる。
亮真は利己的で合理的な人間ではあったが、その一方で恩讐や義理
と言った物を非常に大事にする人間であった。
一時的とはいえ手を組むことになった人間を見殺しにすることは彼
には出来なかった。
﹁どうされました?﹂
ゼレーフ伯爵は亮真の顔を心配そうに覗き込んだ。
余程亮真の顔色が変わったのだろうか。
﹁ふむ⋮⋮御子柴殿は騎士派に勝つ事自体は問題無いとお考えなの
ですな⋮⋮つまりホドラム将軍の排除をした後に近隣の狼どもの牙
からローゼリア王国を守る手段に悩んでおられると⋮⋮﹂
ベルグストン伯爵は念を押すように言うと亮真を見つめる。
452
﹁えぇ。それが問題なんですよね⋮⋮﹂
﹁それならばメルティナ殿を筆頭にして残った騎士派を統率させれ
ば良いのではないでしょうか?﹂
﹁おぉ!流石はベルグストン伯爵。素晴らしい案ですな!﹂
彼の案はホドラム将軍を排除した後に王女へ忠誠の篤いメルティナ
に騎士派を束ねさせればどうか?という事だ。
確かにこの案ならばホドラム将軍とその取り巻きのみの排除で済む
為、大きな戦力低下は起きない。
だが亮真は首を横に振った。
彼は事前にその事も考えたうえで無理だと判断したからだ。
﹁それは無理だ。メルティナの人間性を考慮すれば無謀に近い。﹂
メルティナは確かに勇猛であり正義感も強く王女への忠誠心も非常
に篤い。
能力的には確かに適任と言える。
だがの長所が逆に大きな問題となるのだ。
そもそも派閥争い自体をメルティナは嫌っている。
彼女は王国や王女への忠誠が非常に篤い。
そして問題は自分の価値観が絶対でありそれは他人も同じでなけれ
ばならないと考えているところにある。
具体的にいえば彼女は全ての人間が王家に無条件の忠誠を誓って当
然と考えているのだ。
勿論それは間違いではない。
ローゼリア王国に仕えている以上は当然の事ともいえる。
だが人間はそう簡単には割り切れない。
453
欲も有る。
保身もある。
考え方の相違も有る。
様々な理由が存在するのだ。
勿論自分達が絶対の強者なら他人の意思を其処まで考慮する必要は
ない。
力で押しつぶせる。
だが、現在ルピス王女が直面している状況はそんな強硬策がまかり
通るような甘いものではない。
単純な力関係だけでいえばルピス王女が一番の弱者なのだ。
ルピス王女へ忠誠を誓うように騎士派を導ける人間が必要なのだ。
それには他人の不満を理解し、それに対処する必要が有る。
とてもメルティナの様な直情的な人間には無理な話である。
﹁﹁⋮⋮﹂﹂
亮真の説明を聞いた両伯爵は押し黙ったままだった。
彼らは先を見る眼を持っていは居なかったが、目の前に出せれた問
題の重要性を理解するだけの知恵は持ちあわせていた。
だからこそ二人は余計に何も言えなかった。
彼らの脳裏にはメルティナの傲慢な態度への不満から暴発する騎士
派の行く末がありありと浮かんだのだ。
﹁成る程⋮⋮確かに不適格な人事ですな⋮⋮ですがそうなると如何
したら良いのでしょう?騎士派の中から王女派に寝返る者を探しま
すか?﹂
﹁いや⋮⋮なるべくならそれはしたくない⋮⋮第二のホドラム将軍
を生み出してしまう可能性が有るからな。﹂
454
ベルグストン伯爵の言葉に亮真は首を横に振った。
今の状況で騎士派から寝返ると言う人間は利益によって転ぶ人間と
言う事だ。
確かにそういう人間であっても普段なら問題ないのだが、今回はホ
ドラム将軍を排除した後に騎士派を纏めて貰わなくてはならない。
必然的に権限は強大になる。
だからこそルピス王女への忠誠は篤い者を選ばなければならないの
だ。
第二のホドラム将軍を生まない為にも。
﹁そうだ!一人うってつけの人間がおりますぞ!﹂
﹁え?!﹂
沈黙を守り思案していたゼレーフ伯爵の言葉に亮真は耳を疑った。
﹁本当かね?ゼレーフ伯爵!﹂
ベルグストン伯爵も驚きの表情を見せる。
﹁えぇ。彼女なら実績も人間性も問題有りません!私が自信を持っ
て保障致します!﹂
﹁彼女?女性かね?﹂
﹁おや?お判りになりませんか?ベルグストン伯爵!彼女ですよ。
ローゼリアの白き軍神と謳われた。あの方です!﹂
︻ローゼリアの白き軍神︼この言葉を聞きベルグストン伯爵の顔に
驚きが走る。
455
﹁一体どういう方なんですか?﹂
亮真の疑問にベルグストン伯爵は動揺を隠せないまま答えた。
456
第2章第16話
異世界召喚137日目︻揺れ動く者たち︼その5:
︵成る程な⋮⋮確かにこの人ならこちらの希望どおりに動いてくれ
るだろう⋮⋮だが?なんだ?引退している人間にしては⋮⋮何処か
オカシイ⋮⋮︶
王都ピレウスの城で亮真が彼女を見た第一印象はそれだった。
ゼレーフ伯爵が︻ローゼリアの白き軍神︼と言った彼女の名前はエ
レナ・シュタイナー。
今から10年前に騎士を引退した老女だった。
老女と言っても歳は50代後半か60半ばの間と言ったところか。
若いころはさぞ美しかったであろう金髪も、いまではところどころ
に白いものが混じっている。
一見どこにでもいそうな町のオバサンといった外見をしているが、
部屋に入って来た時の歩き方を見た限りでは、引退後もそれなりの
修練を積んでいたらしい。
﹁ホ!本日は⋮ヨ⋮ようこそおいで下さりました!﹂
余程興奮しているのだろう、メルティナの挨拶はとても見られたも
のではなかった。
そしてそれは無理にこの場に同席することを希望したミハイルにも
言える。
亮真の邪魔をしない事を条件に二人の同席を許可したが、長年憧れ
た人間を前に顔は赤く染まり、肩に無駄な力が入っているのがはっ
きりと判る。
457
まるで初恋に身を焦がす少女の様だ。
︵まぁこんなに緊張してれば余計な事も言う暇は無いか⋮⋮︶
尤も彼女達が緊張するのも無理はない。
何しろ︻ローゼリアの白き軍神︼ことエレナ・シュタイナーはロー
ゼリア王国が誇る生きた伝説なのだから。
一週間前、ゼレーフ伯爵から彼女の事を聞いた亮真は、エレナ・シ
ュタイナーに関して調べる事にした。
尤も大した労力は必要なかった。
何しろ彼女を知らないローゼリア国民は存在しなかったから。
それこそ町で遊ぶ子供達に聞いても彼女を知らないものは居なかっ
たらしい。
それほどまでに彼女はローゼリア国民から絶大な信頼を寄せられて
いた。
何しろ彼女の武勇伝は数多い。
そんな数ある武勇伝の中でも一際目立つのがノティスの戦いである。
ザルーダ王国とオルトメア帝国との国境に存在するノティス平原。
ザルーダ王国へ侵攻するためにこの平原に兵を集めたオルトメア帝
国に対して逆侵攻作戦を展開し、帝国の野望を阻んだ将こそが、援
軍としてザルーダ王国へ派遣されていた彼女だった。
文字通り救国の英雄である。
﹁フフフ⋮⋮そんなに緊張することはないわ。お茶でも飲んで落ち
着きなさいな。﹂
﹁は!はい!失礼しました!﹂
458
せっかく向こうが気を使ってくれているのに、メルティナはガチガ
チに固まってしまった。
﹁まぁ彼女は放って置くとして、エレナ様。わざわざおいでくださ
りありがとうございます。﹂
亮真の言葉にエレナは軽く頭を下げる事で返した。
﹁御手紙を頂いた時には驚きましたけどねぇ。何しろ私が騎士を引
退して既に10年ですから。﹂
﹁ご無理を聞いて頂き感謝に堪えません。﹂
﹁まぁルピス王女直筆の御手紙を頂いたからには参上しないわけに
もいきませんけどね。﹂
そういうと彼女は優雅にカップを口元へ運んだ。
﹁そう言って頂ければ王女殿下に無理を言って手紙を書いて頂いた
甲斐があります。﹂
エレナの顔に怪訝な表情が浮かぶ。
一国の王女に手紙を書かせたというのだからその疑問も当然かもし
れない。
﹁そういえばまだ貴方のお名前をお聞きして無かったわ。﹂
エレナの心に亮真への興味がわいたようだ。
﹁御子柴亮真と言います。﹂
459
エレナの顔に驚きが走る。
﹁あら⋮⋮貴方が⋮⋮あまり策士って感じはしないわね。﹂
確かに亮真の体格と筋肉を見ればどう見ても肉体派だ。
少なくても頭で勝負するタイプには見えない。
﹁私の事を御存じなのですか?﹂
﹁あら?当然でしょう?引退したとはいえ私はこの国を愛していま
すから。大抵の事なら知っていますよ。騎士を引退してから10年
も経つのに私を忘れないでくれる人も居ますからね。彼らが私に土
産話をしてくれるのですよ。﹂
エレナの顔を見て亮真は彼女がいまだに騎士派の人間と連絡を取り
合っている事を確信した。
︵成る程⋮⋮こいつはいまだに騎士派に繋がっているな⋮⋮渡りに
船ってやつか⋮⋮︶
今でこそ騎士派は王女に対して絶対の忠誠を誓っているわけではな
いのだが、これは王家に対して野心を持つホドラム将軍が筆頭だか
らである。
もともと騎士は王国と王族に忠誠を誓う物で有り、貴族に対しての
対抗手段だったのだ。
職の為、生きる為にホドラム将軍に従っては居ても、内心不満を持
っている騎士は意外と多いのかも知れない。
彼女がそう言った騎士の不満の受け皿になっているのだろう。
460
﹁そうですか。︻ローゼリアの白き軍神︼に名前を覚えていただけ
るとは光栄ですね。﹂
亮真の言葉にエレナはやや顔を歪めた。
﹁あら⋮⋮古い事を御存じなのね。もうずいぶん昔の事だわ。私が
そう呼ばれたのわ。﹂
﹁あまりこの呼び名が御好きでは無いようですね。エレナ様。﹂
﹁昔の事ですからねぇ⋮⋮ところで私が呼び出された理由をお聞き
して無かったわね。﹂
あまり触れられたくない話題なの彼女は話題を変えた。
﹁単刀直入に申しましょう。ルピス王女に助力して頂きたい。﹂
エレナの表情が固まる。
これ程端的に理由を切りだすとは思ってもみなかったに違いない。
﹁あら⋮⋮まぁ⋮⋮本当に単刀直入ね⋮⋮﹂
そしてしばらく考え込むと笑みを浮かべて言った。
﹁でもまぁ判りやすくて良いわね。私は好きよ、そういうの。﹂
何処か亮真を値踏みするような口調と視線である。
﹁それはありがとうございます。してご返答は?﹂
461
﹁あら?幾ら私の様なお婆さんでも女でもよ?女性をそう急かすも
のでは有りませんよ。﹂
﹁おぉこれは失礼しました。確かに性急な御誘いはマナーに反しま
すね⋮⋮とはいえ我々には時間があまり有りませんしね。﹂
亮真はエレナの言葉を受け流す。
﹁それに王女殿下にもお会いしてからでないと御返事のしようが無
いと思うのですけど?﹂
﹁おや?エレナ様は王女殿下にお会いになりたいのですか?⋮⋮正
直に言って無駄な時間は我々には無いんですがね?﹂
﹁﹁﹁なっ!﹂﹂﹂
亮真の言葉にエレナ、メルティナ、ミハイルの口から同時に驚きの
声が漏れた。
﹁きっ!貴様!﹂
激昂して椅子から立ち上がりかけたメルティナへ亮真の冷たい視線
が突き刺さる。
それは彼の眼を見た人間にとって何よりもハッキリと判るサインだ
った。
黙らなければ殺す!と言う。
威圧されるかのように浮きかけたメルティナの腰は再び椅子へ押し
戻された。
﹁失礼しました⋮⋮どうも彼女はこういう交渉事に慣れていないよ
462
うで⋮⋮﹂
メルティナが座った事を確認した亮真はエレナへ頭を下げた。
﹁驚いたわ⋮⋮大した気迫ね⋮⋮歴戦の勇者でも貴方程の気迫を持
つ者は少ないわよ⋮⋮﹂
﹁恐れ入ります。何しろこっちは命が掛かっていますからね。﹂
亮真の言葉を聞き息を整えたエレナは話を元に戻す為に質問を投げ
かける。
﹁それで?なんで私がルピス殿下に会う事が無駄なのかしら?﹂
﹁殿下に会う事で助力頂けるくらいなら、とっくの昔にエレナ様ご
自身が自発的に城へ出向かれていたはずですから。﹂
10年も前に引退した人間である。
それを再び現役に戻そうと言うのだ。
並みの条件では無理に決まっている。
そして彼女には金も名声も意味が無い。
将軍位まで上り詰めた彼女は金に不自由はしないし、救国の英雄以
上の名誉など有りはしない。
王家への忠誠心と言う点でも駄目だろう。
もしそれで説得できるのなら、彼女ほどの人間だ。
既にルピス王女かラディーネ王女へ仕えているだろう。
それをしないと言う事は、どちらに正当性が有るかの判断が出来な
いと言う事だ。
ゲルハルト公の擁立するラディーネ王女を偽物と断じ切れない以上、
亡き主君の遺児である可能性が有るのだ。
463
王家に忠誠心が篤い為にかえって動けないと考えるべきだろう。
エレナの立場に立って考えれば彼女が今の状況でルピス王女に加担
するはずが無いのだ。
つまり会うだけ無駄と言う事になる。
﹁そう⋮⋮其処までわかっていてなぜ私を呼び出したのかしら?﹂
﹁どうしても助力して頂かなくてはいけないので。﹂
亮真の言葉にエレナの顔が曇る。
﹁あら?それは無理矢理に言う事を聞かせると言う事かしら?﹂
利でも駄目、道理でも駄目ならば残るのは実力行使しな無い。
エレナの顔に侮蔑の表情が浮かぶ。
﹁買い被りすぎたかしら?ルピス王女に切れ者が付いたと聞いて期
待していたのに。﹂
﹁いえいえ。そんな失礼なことはしませんよ。﹂
﹁どういう事?﹂
エレナの疑問に亮真は笑いながら答えた。
﹁金でも名誉でも動かない。でも貴方は殿下からの手紙でやってき
た。と言う事は交渉の余地が有ると言う事でしょ?⋮⋮おそらく何
か希望が御有りのはずだ。金でも名誉でもましてや忠義からでもな
い。貴方個人的なね。﹂
464
亮真の言葉は部屋の空気を支配した。
誰もが驚きで言葉も出ない。
﹁そぅ⋮⋮成程ね。確かに貴方は切れ者だわ。﹂
ようやくエレナの口から言葉が漏れた。
そして彼女の言葉によって亮真の推測が正しかった事が判る。
﹁なら教えてくれるかしら?私は何を望んでいるかを⋮⋮その答え
によっては⋮⋮良いわ、ルピス王女へ力を貸してあげる。﹂
﹁判りました⋮⋮正直に言って私には貴方の望みに関して予想が付
いてます。﹂
亮真の言葉にメルティナとミハイルは驚きの表情を浮かべたがエレ
ナはさもありなんと言った顔つきをしている。
﹁当然でしょうね⋮⋮それくらいの事が予想出来ないのなら見込み
が無いわ。﹂
﹁といっても確証が無いので勝負は出来ません。﹂
﹁ふ∼ん⋮⋮慎重なのか腰抜けなのか判断に迷うところね⋮⋮﹂
エレナの視線が亮真へ突き刺さる。
彼の心に僅かでも怯えや躊躇が混じっていれば決して彼女は亮真を
認めないだろう。
亮真はエレナの視線をまっすぐに受け止めた。
自らの価値を証明する為に。
465
﹁まぁ知恵で勝負するならそれくらいの慎重さは必要か⋮⋮いいわ。
考える時間を少し上げる。そのうえで答えを聞かせて頂戴。﹂
エレナは亮真の瞳に映る意思を見た。
そして賭けてみる気になった。
自らの命を。
︵この子は⋮⋮この子こそ私が待ち望んだ最後の欠片?⋮⋮10年
待ち望んでようやく現れた最後の⋮⋮︶
彼女が騎士を引退して10年が過ぎた。
だが彼女自身は騎士を止めたつもりはない。
あくまでも止めさせられたのだ。
あの男。
ホドラムによって。
︻ローゼリアの白き軍神︼?
エレナの口元が嘲笑で歪む。
そう確かにそう彼女は呼ばれていた。
ローゼリア王国は勿論近隣諸国にもその名は広まった。
誰もが彼女を称賛した。
だが彼女は判らなかった。
自分のすぐ後ろに自分を狙う刃が忍び寄っていた事を。
自らの名声が高まれば高まるほど、その名声を妬む者が居る事を。
︵この子に私の願いが見通せるなら⋮⋮それほどの思慮が知恵が有
るなら⋮⋮私は⋮⋮私は望みが果たせる!︶
エレナの瞳に期待と不安が浮かぶ。
自らの望みが果たせるかもしれないと言う期待と、再び時節を待た
なければならないのではないかと言う不安が。
466
亮真にはエレナの心の内が読めた。
彼女が自分の対して期待をしている事を。
そしてその期待にこたえられるかどうかに全てが掛かっている事を。
亮真は事前に調べた彼女に関しての知識と実際に彼女に会った事に
よって得た情報をすり合わせて仮説を組み上げていく。
︵彼女の望みは騎士派への復讐だろう⋮⋮ただどこまでだ?ホドラ
ム個人への復讐か?それとも騎士そのものへの復讐か?あるいは他
の誰かか?︶
騎士を引退して10年。
いまだに騎士に対して影響力を持つと言う点と、修練を欠かしてい
ない点を考えると復讐の機会を待っていると言うのが一番しっくり
とくる理由だ。
もし騎士を自分の意思で引退したのなら日々の修練をする必要は無
い。
それに︻ローゼリアの白き軍神︼という異名を言った時の彼女の表
情。
自分の異名に関しては嫌悪感を持つ割に今でも騎士と交流が有るの
なら騎士自体を憎んでいる可能性は低いと言える。
︵まぁ単純に日々の日課だって理由も考えられるけどな⋮⋮︶
勿論幾らでも彼女が此処に居る理由は考えられる。
だが彼女だけではかなえられない望みが有るからこそ交渉になるの
だ。
必然的にその要求の難易度は高くなる。
467
︵う∼ん⋮⋮今のところはそこまでか⋮⋮なら後は勝負するしかな
いか⋮⋮︶
亮真は覚悟を決めた。
仮説は所詮仮説である。
いくら考えても確証など得られるはずもない。
ならば自分が事前に彼女を調べた事によって得た知識と実際に会っ
た印象から導き出された答えを信じるしかない。
﹁復讐ですか⋮⋮?﹂
亮真の言葉を聞きエレナの顔に驚きと喜びが浮かぶ。
﹁なんでそう思うの?﹂
﹁実際にお会いした時に感じました。貴方は引退していないと。だ
から修練を怠っていないし騎士派の情報にも詳しい。だが実際には
10年前に騎士を引退されている⋮⋮となれば貴方は自分の意思で
引退していないと言う事になる。そして貴方が引退した後にホドラ
ム将軍がその座に付いた。⋮⋮実際にホドラム将軍に会いましたか
ら特権意識に凝り固まった人間だとすぐに判りました。⋮⋮そして
失礼ですがエレナさん⋮⋮あなたは元農民だ。貴族でも騎士の家系
でも無い⋮⋮となればあの将軍の性格を考えると何か裏工作でもし
たと考えるのが普通でしょう。﹂
﹁そう⋮⋮其処まで判っているのね⋮⋮﹂
エレナは押し隠していた憎しみを漏らす。
﹁⋮⋮私の望みはホドラムの首よ⋮⋮アイツは⋮⋮夫と娘の敵なの
468
⋮⋮﹂
エレナの言葉を聞き亮真は自分の仮説が正しかった事を理解した。
そして彼女の中に渦巻く憎悪の炎を⋮⋮
469
第2章第17話
異世界召喚137日目︻揺れ動く者たち︼その6:
10年前、エレナ・シュタイナーはローゼリア王国の将軍であった。
平民から騎士、そして将軍へ。
類まれな能力と実績が彼女を軍の最高位へと押し上げた。
ローゼリア王国の民は誰しも彼女を慕った。
だが彼女を妬む者が居た。
光あれば影が存在するように。
その者の名はホドラム・アーレベルク。
彼は恵まれた体格を持っていた。
騎士に必要な武術の才も有った。
代々上級騎士を排出してきた名門と呼ばれる家柄もあった。
ほぼ騎士として完璧であった彼が唯一持たなかった物。
それは自制心である。
なまじ人よりも優れている為、彼は満足すると言う事を知らなかっ
た。
騎士としてほぼ頂点と言ってよい騎士団長の地位に居ながら彼は更
に上を目指した。
ローゼリア王国軍の最高位は将軍である。
ローゼリア王国に存在する6騎士団の内、王直轄の近衛、親衛騎士
団以外の4騎士団を統括する者。
王より任命されると言う形式をとってはいるが、この職は代々前任
の将軍が引退時に後任を指名することで決まる。
彼は先代の将軍が引退する時に自分を指名するよう同僚に働きかけ
ていた。
470
だが後任に選ばれたのはエレナだった。
彼女の人当たりの良さと︻ローゼリアの白き軍神︼という名声。
先代がエレナを指名したのも当然と言える。
だがホドラムは諦めなかった。
彼の選民意識が農民出身のエレナを許せなかったのだ。
ホドラムはエレナを引きずり下ろす為に様々な裏工作を施した。
暗殺から汚職の捏造まで考えられるあらゆることをだ。
だが彼女はその全てを切り抜けた。
騎士団に居る友人達も彼女を助けた。
そして業を煮やしたホドラムの牙はエレナの家族へと伸びた。
その日、彼女は小領主の反乱鎮圧で2月程空けた我が家にようやく
帰り付いた。
だが玄関の扉を開けても誰も出迎えに来ない。
農民出身とはいえ彼女は将軍である。
そこそこの屋敷を構えていたし、使用人もそれなりに居る。
なにより自分が帰宅した時には必ず飛び出してくる10歳になる愛
娘の姿もない。
不審に思いながらもエレナは家族が集まる居間の方へと進んだ。
そして扉を開けるとそこは⋮⋮。
﹁私が見つけたのは夫の首だったわ⋮⋮﹂
扉を開けたエレナの眼に飛び込んできたのは、平民出の夫の首だっ
た。
彼は苦悶の表情を浮かべてテーブルの上に鎮座していた。
エレナの脳は現実を受け止められなかったらしい。
彼女の記憶が残っているのはそれから数日後に同僚の家のベットに
寝ているところからだ。
471
将軍は決して楽な仕事ではない。
遠征から帰っても家でゆっくりと出来るのは帰還したその日だけ。
次の日からは報告書の作成といった事務処理が山のようにある。
だから次の日に何時までも顔を出さないエレナを不審に思い、騎士
団の同僚がエレナの家を訪ねてくれたのが良かった。
彼が発見した時エレナは居間で夫の首を抱いて座り込んでいたらし
い。
正気を失ったエレナを自分の家へ連れて行き彼はエレナの屋敷へ戻
った。
﹁手紙がね⋮⋮あったの。娘は預かったって言う⋮⋮条件は騎士を
引退する事⋮⋮﹂
悔しさで身が斬られるほどなのだろう。
彼女の言葉の一言一言には恐ろしいまでも気迫が感じられた。
﹁私はね⋮⋮農民から努力して将軍にまでなったの⋮⋮騎士は決し
て楽な仕事じゃないわ。基本男の仕事だしね⋮⋮﹂
男女差別というより適正の問題かもしれない。
筋力と言う点では女性は男性に1歩も2歩も後れをとる。
当然エレナは男社会の手痛い洗礼を受ける事になる。
だが彼女は女性らしさを最大限に使う事で男性以上の力を示した。
個人ではなく集団としての力。
騎士は戦場で戦う時、必ず1対1で戦う事を美徳とする。
一人を複数で囲む事に嫌悪を示す。
騎士の誇りと言えば聞こえはいいが、効率が悪いのは事実だ。
だからエレナは騎士の連携を提案した。
初めは誇りを既存概念から反対した騎士達も、エレナの人柄と戦場
での効果を眼のあたりにする事により少しずつ理解を示し始めた。
472
それは彼女の努力による成果だ。
﹁それを捨てる事の意味が貴方に判る?﹂
亮真は首を横に振った。
想像は出来る。
だがそれを真に理解出来るのは同じ立場に立った事の有る人間のみ
だ。
﹁それでも私は娘の為なら惜しくは無かったの⋮⋮娘が無事に帰っ
てくるなら⋮⋮﹂
40歳に手が届いたころに授かった娘だ。
騎士としての職務の所為で、30歳を過ぎてから結婚したエレナは
自分の子供を持つ事を諦めていた。
現代日本と違い医療技術などたかが知れているこの世界では高齢出
産などまず出来ない。
だから妊娠を知った時のエレナの喜びは格別だった。
諦めていた女の喜びを知ることが出来たのだから。
﹁だから私は友人達の言葉を無視して騎士を引退した⋮⋮甘い判断
だったとは思うけど他に選択の余地は無かったの⋮⋮﹂
﹁戻ってこなかったのですね⋮⋮﹂
亮真の言葉にエレナは頷いた。
﹁この件自体を私は無理に隠ぺいして貰ったわ。下手に犯人を刺激
したくなくて⋮⋮でも1月が過ぎ2月が過ぎ⋮⋮1年待っても娘は
戻ってこなかったわ⋮⋮その間にホドラムが将軍の座に就いた。﹂
473
事件自体を被害者が隠ぺいしたのであれば、この話が一般に広がっ
ていないのも当然である。
此処で亮真はエレナへ疑問を投げかけた。
﹁どういう事です?将軍の位は前任者の指名で受け継がれるのでし
ょ?﹂
﹁確かにそう⋮⋮でも前任者が後任を指名しないで死ぬ事も有るか
ら⋮⋮そういった場合は騎士団長の投票で決めるの⋮⋮﹂
エレナは娘を心配するあまり塞ぎがちになったらしい。
そんな状況で後任人事など考えられるはずもない。
﹁娘の帰りを待って5年が過ぎたわ⋮⋮私は内心諦めていたの⋮⋮
夫の敵を討ちたくても相手も判らない。連れ去られた娘の行方を捜
したくても手がかりもない⋮⋮生きる事自体が苦痛で仕方なかった
わ。﹂
当然だろう。
子供は親にとって宝に等しい。
いや自分の命と言っても過言ではないのだ。
﹁ご存知かしら?5年前に国内で暗躍していた奴隷商人が斬首刑に
処せられたのを﹂
エレナはメルティナに話を振った。
﹁え!⋮⋮は、ハイ!⋮⋮﹂
474
奴隷商人自体は違法ではない。
だがそれはあくまでも戦の過程で捕虜になった敵国の人間や、罪人
とその家族といった条件が付く。
少なくとも町の住民を攫って奴隷とするなどどこの国だろうと許さ
れはしない。
領主の考え方にもよるが、表立って奴隷狩りを推奨する貴族も居な
い。
そんな事をすれば領民はその土地から直ぐに逃げ出してしまう。
だがいつの時代にも馬鹿な人間と言う物は居る。
節度を守って商売をすれば見逃してもらえるものを、大っぴらにや
る。
5年前に斬首となった商人もそんな馬鹿な奴の一人だ。
﹁そいつはね、金になるならどんな人間でも売り買いしたの。それ
こそ王都の住人から何から手当たり次第にね。﹂
有力貴族の血縁者を攫ったことがその商人の命取りになった。
それも王族とも関係の有る者を。
王国の関係者に金をばらまいていると言う自信がその大胆な行動の
源だったらしいが、自分と付き合いの有る貴族以上に力を持つ者を
怒らせれば行く末は見えている。
﹁そいつを捕縛したのは騎士団だったの。それなりに大きな私兵団
を持っている奴でね⋮⋮警備隊では手が出せなかったというわけ。﹂
﹁それで娘さんの行方が判ったというわけですか?﹂
﹁そう⋮⋮何しろ色々と噂の多い奴でね、騎士団の方で拷問に掛け
たの。﹂
475
亮真の問いに答えるエレナの口調は静かだがその内容は陰惨なもの
だった。
﹁そしてそいつが拷問の末に吐いたのが私の家族の暗殺だったとい
うわけ⋮⋮﹂
実際には暗殺者を集める仲介の様な仕事だったらしいがエレナにと
っては同じ事だ。
﹁拷問を担当した騎士が私の元部下だったおかげで私は直接そいつ
に会う事が出来た。﹂
簡単に言うが相当に危ない橋を渡っている。
将軍のままでいるならともかく、引退して既に当時で5年である。
元とはいえ一般人でしかないエレナと犯罪者を会わせるなど⋮⋮
﹁成る程⋮⋮そこで聞いたわけですか。ホドラム将軍が黒幕だった
と⋮⋮﹂
﹁えぇ。﹂
短い答えだがそれが全てを語っていた。
﹁なぜ今まで待ったのですか?﹂
﹁簡単よ⋮⋮その話は所詮表に出せない話だったの⋮⋮出したとこ
ろ握り潰されてこっちに暗殺者が送り込まれるだけ。私が引退して
5年でホドラムの権勢は大きく成り過ぎていた。奴隷商人の証言だ
けでは彼を失脚させる事が出来ないほどに⋮⋮﹂
476
沈黙が部屋を支配した。
誰もがこれ程深い因縁だとは思いもしなかった。
ミハイルもメルティナもあまりの話に何を言えば良いのか判らなか
った。
﹁そうでしたか⋮⋮﹂
亮真の口も重くなる。
有る程度の予想はしていたがこの恨みは深すぎる。
︵まいったな⋮⋮こりゃメルティナに騎士派を任せるより不味いか
?︶
﹁大丈夫よ。貴方が心配しているような事はしないわ⋮⋮私が欲し
いのホドラムとその家族。ただそれだけなの。﹂
エレナは亮真の顔色から彼の懸念を理解した。
だからこそ自分の望みを正直に口にしたのだ。
︵成る程⋮⋮こっちの懸念は理解できてるのか⋮⋮確かに彼女の能
力も人間性も悪くない⋮⋮後はこっちが腹をくくるだけか⋮⋮︶
エレナは亮真達が求める人材で有ることに変わりは無い。
彼女の能力は既に実証されているのだから。
あとはホドラムとその家族を彼女の復讐から守るか守らないかでし
かない。
法に則れば復讐は悪である。
だがそんなことは彼女も十分に理解している。
だからこそ彼女は待ったのだ。
自分が復讐を行える好機を。
477
エレナは自らの売値を提示した。
後は亮真がそれを払うかどうか。
︵選択肢は無いか⋮⋮まぁホドラムの家族が気の毒と言えば気の毒
だが諦めてもらうしかないな。︶
亮真は自分の正義感に蓋をした。
現状では他に選択肢が無いのだから仕方が無い。
それに所詮は敵とその家族である。
しかも有る意味自業自得と言える。
彼の家族が巻き込まれるのが気の毒だとは思うが。
︵俺は良いとしてだ⋮⋮問題はルピス王女か⋮⋮︶
亮真自身は見て見に振りをするととして問題は王女である。
彼女に会って既に1月以上が経っている。
おおよその人柄を把握するには十分な時間と言えよう。
︵良くも悪くも理想を追い求め過ぎる⋮⋮そんな人間に報酬として
ホドラムへの復讐を認めさせられるか?⋮⋮無理だな⋮⋮だがどう
する?⋮⋮ここで断れば彼女は間違いなく貴族派へ向かうだろうし
⋮⋮︶
彼女の行動原理は復讐である。
勿論ローゼリア王家への忠誠は有るだろうが、それは今のところ関
係無い。
もし彼女へ亮真達より先に貴族派が声を掛け、彼女の言い値を貴族
派が払うと言えば彼女は躊躇することなく貴族派へ加担しただろう。
︵仕方が無い⋮⋮俺が被るか⋮⋮︶
478
亮真は此処で腹を括った。
王女の裁断を仰がずにエレナの復讐を認める事にしたのだ。
﹁良いでしょう⋮⋮そちらの要求を呑みます。﹂
﹁﹁な!﹂﹂
メルティナとミハイルの口から驚きと非難の声が漏れるが亮真は黙
殺した。
交渉事には波が有る。
此処で王女の裁断を仰ぐので時間をくれなどと言えばエレナの熱が
冷めてしまう。
今此処で決断するしか無いのだ。
﹁良いの?王女殿下に話をしないで?﹂
エレナは探るように亮真を見た。
﹁えぇ。今回の話に関しては全て私に一任して頂いていますからね
⋮⋮確かに越権行為と言われかねませんが⋮⋮そこは私が何とかし
ます。ご安心ください。﹂
亮真の言葉を聞きエレナはジッと亮真の眼を見つめる。
一片の嘘でも有れば許さないと。
どれほど見つめあっただろうか。
エレナの表情が緩む。
﹁良いでしょう、貴方を信じますわ。御子柴殿。﹂
479
信頼の証かエレナは遥かに年若い亮真へ敬意を表して呼んだ。
﹁ありがとうございます。エレナ様﹂
﹁それで?私は何をすればいいの?騎士派の切り崩しでいいのかし
ら?﹂
エレナの問いに亮真は考え込んだ。
﹁実際どれくらいの人間がホドラム将軍に不満を持っているんです
かね?﹂
﹁そうねぇ⋮⋮大体全体の3分の2は不満を持っているわね⋮⋮﹂
﹁3分の2!﹂
エレナの言葉に亮真の口から驚きが漏れた。
過半数以上が不満を持っているのにホドラムが派閥の長で居られる
はずが無い。
﹁それはあり得ないでしょう?﹂
亮真の疑問にエレナは笑みを浮かべて言った。
﹁そう、確かに普通なら無理ね⋮⋮でも彼はそれを成し遂げたのよ。
騎士同士の相互監視によってね。﹂
﹁相互監視ですか?﹂
﹁密告を奨励したと言えば判りやすいかしら?﹂
480
地球でもこの制度を導入している国は幾つかある。
ソ連崩壊前の共産主義圏はほとんどがこの制度を導入しているし、
北朝鮮などは2010年現在でも未だに政権維持の大事なシステム
となっている。
システムを簡単に説明すればそれは裏切りの奨励である。
同僚や家族がふとした時に洩らした不満を上司に報告するのだ。
そして組織の中で昇進したり報奨金を貰ったりする。
このシステムは人間不信に陥りやすい。
それも当然である。
人間誰でも不満はある。
だがそれを誰かに聞かれ密告されば自分が殺されかねないのだ。
同僚にも友人にも心は開けなくなる。
﹁成る程⋮⋮なら確かに切り崩しやすいでしょうね。﹂
このシステムの弱点は強固な割にたった一人の人間が勇気を出した
だけで崩壊する可能性がある脆弱さだ。
強固なのに脆弱と言うのも変な話だが事実である。
問題はその勇気ある人間が出にくいと言う事だ。
誰だって不満を持ってはいるがそれを他人に話せないのだ。
話すには命をかける覚悟が居る。
だからこのシステムは強固である。
だがたった一人の人間が不満を他人に言えばどうだろう。
勿論話す人間を選ぶ必要は有るが高い確率で不満を共有できるだろ
う。
そしてそれはお互いが話をするうちに高ぶり遂には関から溢れ出す。
そうなればもう誰も彼らを止められない。
押さえつけられていた不満は荒れ狂いながら噴き出す事になる。
そして今回はその口火を切り人間が目の前に居る。
481
ローゼリア王国の英雄が焚き付けるのだ。
さぞ盛大な不満の炎が燃え上がる事だろう。
あまりお頭の宜しくないメルティナやミハイルは何の事だか判らな
いようだが、亮真の脳裏にはハッキリとしたイメージが浮かんだ。
﹁良いでしょう。その辺はお任せします。ただ⋮⋮状況の報告だけ
はしっかりと行ってください。﹂
﹁えぇその辺は信頼して下さって構わないわ。老いても私は元将軍
ですからね。﹂
﹁一つお聞きしていいですか?﹂
﹁あら?改まって何かしら?﹂
会談を終え部屋を出て行こうとするエレナの背中に亮真は問いかけ
た。
不謹慎だと判っていてもどうしても問わずには居られなかったのだ。
﹁娘さんは⋮⋮﹂
亮真の問いにエレナはしばらく答えなかった。
余程言いたくない話だったのだろう。
亮真は自分の浅はかさを悔やんだ。
﹁あ!わすれ﹁娘はね⋮⋮攫われた後、散々に犯されたせいで気が
ふれたらしくて⋮⋮売り物にならないからと⋮⋮殺されたわ⋮⋮そ
の奴隷商人にね⋮⋮﹂⋮⋮すみません。﹂
482
ある程度の予想が付いたこととはいえ被害者の親から聞く言葉は重
い。
答えなくていいと言う前に彼女に言われてしまった。
︵俺は馬鹿だ⋮⋮聞かなくていい事を聞いてしまった⋮⋮︶
﹁良いの⋮⋮気にしないで⋮⋮でもね⋮⋮だからこそ私は引けない
の⋮⋮絶対に!﹂
部屋を出ていく彼女の後ろ姿からは万人の上に立つ者だけが放つ何
かと同時に、一人の母親が持つ純粋な怒りの炎が浮かんでいた。
483
第2章第18話
異世界召喚165日目︻開戦︼その1:
﹁まいったな⋮⋮予定が狂っちまったぜ⋮⋮﹂
くさりかたびら
亮真は城の自室に籠ると宙を見つめながら頭を掻いた。
この部屋にはメイド服の下に鎖帷子を着こんだサーラとローラの二
人しか居ない。
しかし姉妹が亮真へ話しかける事はない。
主の思案に邪魔が入らないよう気を配るのが今の彼女達の職務だか
らだ。
実際に亮真の言葉は返事を期待して言った言葉では無い。
ただ深く考え込んだ時につい洩らした独り言に過ぎない。
姉妹はそれを5カ月近くを共に過ごした事により理解していた。
﹁姉様⋮⋮亮真様、すごく考え込まれてるけど⋮⋮晩餐会の開始時
間が過ぎてるの判ってないよね?﹂
﹁えぇ⋮⋮でも今は邪魔をしては駄目よ⋮⋮何れ考えが纏まったら
私達にお声をかけてくださるから⋮⋮その時にお断りの連絡を入れ
たことを報告すればいいわ。﹂
既に姉妹の間では晩餐会の欠席は確定事項だった。
﹁うん⋮⋮判った⋮⋮私ちょっと行って断ってくるね。﹂
﹁えぇ。お願い⋮⋮私は亮真様のお側から離れたくないし⋮⋮王女
484
殿下にはよろしくお伝えして。﹂
﹁うん⋮⋮この前見たいに暗殺者が来たら大変だもんね⋮⋮﹂
﹁えぇ⋮⋮亮真様のことだから大丈夫だとは思うけれど⋮⋮あぁそ
れと厨房を借りて夕食の準備をしておいて。きっとお腹を空かされ
るはずだから。﹂
﹁うん⋮⋮判った。﹂
そういうとサーラは静かに部屋から抜け出していく。
外は既に漆黒の闇に支配されていた。
新月の為月の光すらない今夜は暗殺者にとって絶好の機会と言える。
勿論城の警備は万全と言ってよいが人間のやる事だどうしても不備
は残る。
それに彼らが第一に考えるのはルピス王女の安否に他ならない。
幾ら王女に助力している人間であっても、後回しにされるのは当然
と言えた。
実際のところ亮真は先日暗殺者に襲われたばかりだ。
飛来した矢に気が付いた亮真が咄嗟に身を屈めた為、矢が彼に傷を
負わせることは無かったがその矢には猛毒が塗られており掠っただ
けで死ぬことになっただろう。
暗殺者の行方もつかめていない今、再度の襲撃に警戒するのは当然
と言えた。
ローラもサーラも共に亮真の盾になる覚悟は出来ていた。
とはいえ亮真が姉妹の命を犠牲にして助かったところで喜ばない事
くさりかたびら
は十分に理解しているので、事前に出来うる限りの準備をしている。
メイド服の下に着込んだ鎖帷子も対策の一つだ。
485
﹁ふぅ⋮⋮腹が減ったな⋮⋮﹂
サーラが王女達に断りの言葉を伝えに行ってから既に2時間近くが
過ぎていた。
﹁今何時頃だ?﹂
﹁22時05分でございます。﹂
すかさずローラが答えた。
ばんさんかい
﹁あぁそうか⋮⋮っ!おい今日は晩餐会があった﹁私がお断りして
おきました。﹂そうか⋮⋮悪い助かった。﹂
本来なら今日の夕食はルピス王女と共に食する予定だった。
しかし午前中にもたらされた報告が状況を一変させた。
当然亮真はそれの対策に頭を捻らなければならなくなったのだ。
﹁何か伝言は?﹂
﹁対策に頭を悩ましているのでしょうと言われ欠席に関しては気に
しないようにとのお言葉でした。ただ明日の午前に会議を開くので
そこで方針を示せる様に準備しておいてほしいとのことです。﹂
ばんさんかい
王女主催の晩餐会を欠席するという有る意味王女の顔に泥を塗るに
等しい行為を行った亮真に対してルピス王女は驚くほど好意的だっ
た。
勿論それはこの日の午前中にもたらされた報告の内容が如何に重要
だったかを物語っている。
486
亮真はローラの言葉を聞いて胸をなでおろす。
﹁判った⋮⋮ふぅ明日までか⋮⋮﹂
グゥゥゥ
亮真の腹が不満の声を上げた。
時折お茶を口にする程度で昼食以来何も食べていないのだから致し
方ない。
﹁腹が減ったな。何かあるかい?﹂
﹁はい。サーラが厨房を借りて準備して有りますので。﹂
﹁そうか⋮⋮なら二人も一緒に食べよう。どうせ食べてないんだろ
?﹂
亮真は彼女達が自分より先に食事をすることが無いことを理解して
いるのでそういうと、ローラは嬉しそうに頷いた。
﹁直ぐにご用意いたします。﹂
﹁さてと。時間も無いし食べながらで良いから聞いてくれ。﹂
亮真の言葉に姉妹は視線を亮真へ向け頷いた。
彼女達はメイドであり護衛であると同時に亮真にとって大切な相談
相手になっていた。
自分の考えを説明することで亮真自身の理解が深まると同時に、ル
ピス王女などへ説明する時のリハーサルにもなる。
487
特に重要なのは単語の意味や言い回しの確認である。
アース
元上級騎士の家系に産まれた姉妹の受けた教育水準はこの大地では
最高といってよいほど高いものだ。
亮真から見ればせいぜい小学校高学年レベルといったところだが乱
世であるこの世界では博識といってよい知識量を誇る。
なにしろ人口の9割以上を占める平民の殆どが自分の名前すらかけ
ないレベルなのだ。
数学に関しても同じである。
商人が足し算引き算を使う程度。
庶民レベルでは数字すら見たことが無い人間もざらにいた。
そういう世界であるから亮真が策に関して話をしても回りに伝わら
ないことがある。
概念そのものが無い言葉を話されても話された人間は意味を理解で
きない。
だから亮真は姉妹に一度説明をするのである。
そうすれば姉妹がわからない言葉や判りにくい言葉を認識すること
が出来る。
後は其の言葉を言い回しを変えたりより噛み砕いて説明してやれば
よくなる。
﹁二人ともホドラム将軍が貴族派と合流したことは知っているな?﹂
亮真の言葉を受け姉妹は頷いた。
本来なら限られた人間にのみ知らされるべき情報だが、こういった
情報は得てして漏れやすい。
今日の午前中にもたらされたこの凶報は夕刻には城に勤めている者
なら誰もが聞いた公然の秘密となっていた。
亮真としては簡単に国の機密が漏れるこの状況を苦々しく思ってい
488
るが、個々の危機管理意識が薄いため対策のうちようが無い。
御子柴亮真は所詮異世界から召喚された余所者。
一朝一夕で国の有り方を変える事など出来るはずもない。
今目の前にある問題の中で最優先な物から対処するしかないのだ。
とはいえ漏れたのはホドラム将軍が貴族派に合流したようだと言う
結果のみ。
其の過程に関しての情報は錯綜していた。
﹁そうか。なら⋮⋮まずは経緯から説明するか。﹂
亮真は口に含んだワインで肉を胃へ追い落とすと話し出した。
国内治安の回復という名目で、自らが団長を勤める白剣騎士団を率
い王都ピレウスをホドラム将軍が発ったのは今から4日ほど前の事
だった。
亮真自信はこの事を知らされてはいなかった。
後から聞いた話ではホドラム将軍がルピス王女に直談判に及んだら
しい。
事実貴族派がラディーネ王女を擁立して以来ローゼリア王国の治安
は悪化し続けている。
治安を維持するためには王国に権力が無ければならないが、其の権
力を維持するためには戦力がいる。
力なき正義はただ踏み躙られるだけだ。
それでも王都ピレウスやそれなりに大きな地方都市では、戦略上貴
族派王女派のどちらかが兵を駐屯させているため極端な治安悪化は
見られなかったが、逆にそういった戦略上の価値が無い村や辺境の
都市からは騎士や兵の姿が消え、急速な治安悪化が報告されていた。
勿論これは致し方ないことではある。
ルピス王女にしろゲルハルト公にしろ無限の兵力を持っているわけ
489
ではないのだから。
亮真自身も気にしてはいたが打つ手が無い状況だった。
そしてホドラム将軍はこれを利用したのである。
﹁民あっての王国でございます!﹂
この一言が悩むルピス王女の心を揺さぶった。
ホドラム将軍のこの言葉を亮真やエレナが聞けば決して彼を信じた
りはしなかっただろう。
確かに正論である。
だが今まで特権意識に凝り固まっていた野心家が急に民を思いやる
ことなどありえるだろうか?
勿論﹁無い!﹂と断言はしない。
可能性は常に0では無いから。
だが限りなく低いことははっきりしている。
亮真やエレナがその場に同席していたなら決してこんな話を信じた
りはしなかっただろう。
少なくともホドラム将軍が直接指揮を執るようなことだけは避けた
に違いない。
だがルピス王女にはそれが判らなかった。
いや判ってはいたのかもしれない。
だがホドラム将軍の吐いた正論に屈した。
彼女自身もまた民の安寧を望んでいたから。
結果としてホドラム将軍の提案を受け入れてしまった。
そして案の定ルピス王女は騙されることになる。
﹁というわけだ。﹂
490
亮真の話を聞いた姉妹の表情は動かなかった。
リオネ辺りに話をすれば100も200も罵倒が飛ぶだろうが彼女
達がそれを表に出すことは無い。
亮真と共に過ごす中で怒りを面に出しても何の価値も無いことを彼
女達は理解しているからだ。
﹁そうでしたか⋮⋮それで亮真様が気にされているのはホドラム将
軍が貴族派に合流されたという事実ですか?それとも?﹂
ローラの目が探るように亮真を見上げた。
﹁サーラは俺が何を気にしてるか判るか?﹂
ローラの問いに答えず亮真はサーラへと話を振った。
﹁亮真様は今回の寝返りが誰か第三者の手による工作ではないかと
疑っておられるのですね?﹂
そう、それこそ亮真が半日近くも悩んだ理由である。
エレナを登用したこと自体は正解だった。
だが彼女は劇薬だった。
効き目がある薬というのは飲みすぎれば毒となる。
そして亮真はエレナという劇薬の取り扱いを間違えた。
彼女は確かにすばらしい働きを見せた。
もともと接触していた自分の仲間と連携して一気に騎士派に食い込
んだのである。
彼女が亮真に言った騎士派のホドラムへの不満は本当のことだった。
わずか半月の間に騎士派の半数がエレナへ傾いたのだ。
もともとホドラムへの不満は騎士派の中に渦巻いていた。
491
エレナが復帰したことにより不満の捌け口を見つけた騎士達はこぞ
ってエレナへと靡いたのだ。
そして日が経つに連れて其の数は増えていった。
最終的にホドラムの手に残ったのは、自らが団長を務める子飼いの
騎士団2500のみである。
自らの派閥を食い荒されホドラムは驚いただろうが其れは亮真も同
じだった。
元々亮真達の予定では貴族派の問題を処理した後にホドラムの排除
という流れであった。
しかし自らの派閥を食い荒されたホドラムがおとなしく王女を擁立
するとは考えにくい。
余計なことをされる前にホドラムを討つ。
其の方針が固まったのはつい1週間前の話である。
﹁そうだ、あまりにも不自然すぎる⋮⋮確かにホドラムは追い詰め
られている。だから援軍が欲しい⋮⋮それは判る⋮⋮だがゲルハル
ト公がそれを受け入れるというのが判らない。それにあのホドラム
将軍が自分から政敵に頭を下げるとはどうしても思えない。﹂
亮真の脳裏には、謁見の間で初めてホドラム将軍と会ったときの彼
の目を忘れてはいなかった。
欲と野心に満ちた目だ。
そして亮真を見たあの目。
﹁下賎な平民め!﹂彼の目ははっきりとそう言っていた。
尊大で差別的で、自分の敵は容赦しないタイプの人間である。
其の上プライドが恐ろしく高い。
政務を司ってきたゲルハルト公との仲も最悪なことが判っている。
窮地に立ったことを自覚したとしてもまず自分から頭を下げる訳が
無いのだ。
だからこそ亮真はホドラム将軍が貴族派に合流することを予測でき
492
なかった。
﹁確かに⋮⋮ですがゲルハルト公の方から持ちかけたとは考えられ
ませんか?﹂
﹁確かにそれ以外は考えにくい。だが問題は誰がそれをゲルハルト
公に進言したかだ。﹂
ホドラム将軍が自ら頭を下げる可能性が薄い以上、今回の話は貴族
派から持ちかけられたことが予想出来る。
確かに政略を司ってきた貴族派である。
そういった裏工作は得意なのかもしれないが利害が対立する人間同
士での話し合いは妥協点を見つけるのに時間が掛かり感情のシコリ
も無視できない問題となる。
だがもしそういった問題の調整が貴族派の人間に出来るのなら、ゲ
ルハルト公は態々庶子のラディーネ王女など担ぎ上げる必要はなか
ったはずだ。
ルピス王女を貴族派側へ取り込めば済むだけなのだから。
﹁成る程⋮⋮そうなると⋮⋮ひょっとして周辺諸国から工作の手が
?﹂
﹁あぁ⋮⋮俺が一番心配しているのはそこさ⋮⋮杞憂ならいいんだ
けどな。﹂
ローラの言葉に亮真は頷いた。
過去にエレナが援軍で赴いた西側のザルーダ王国とローゼリア王国
とは関税の問題から現在は対立状態へと陥っている。
東側のミスト王国とは仲が悪いわけではないがかといって良いわけ
493
でもない。
過去にオルトメア帝国の進攻を協力して阻んではきたが、格別3国
間の中が良いわけではない。
いや逆に悪いくらいと言える。
隙あれば牙を剥くくらいに。
﹁国外の情報が無さ過ぎるんだよな⋮⋮この国には⋮⋮﹂
この国特有なのかこの世界全体がそうなのかは今の亮真には判らな
いが、情報が無さ過ぎるのである。
今現在他国の情報を取得する手段は1つ。
傭兵や商人と言った国を移動する人間から情報を得る手段のみであ
る。
だがこれは鮮度の悪くなった情報である。
しかもこちらが求めている情報を持ってくるとも限らない。
彼らの仕事は情報を運ぶ事ではないのだから。
亮真のぼやきの理由を姉妹は十分に理解していた。
ここ数カ月のあいだ亮真と行動を共にしたせいで、情報の大切さ、
事前の準備の重要性が判っていたからだ。
だが同時に亮真の望みがかなわない事も判っていた。
情報の重要性をこの世界の特権階級はあまり意識していないのだか
ら。
どうしても欲しければ自分で人を雇うしかない。
だが今の状況では時間的余裕が無いのだ。
﹁亮真様⋮⋮判らない事を悩んでも致し方ございません。此処は周
辺諸国が牙を剥く前にホドラム将軍とゲルハルト公を討ち果たすし
かないのではありませんか?﹂
494
ローラの言葉に亮真は頷くしかなかった。
自分自身も他に手が無い事が判っていたからだ。
﹁ゲルハルト公がおよそ6万。これにホドラム将軍の2500と傭
兵が加わるとして約6万5千。こちらは騎士団1万2500にベル
グストン伯爵以下貴族達の兵が約2万。合計で3万2500ですか。
数の上では圧倒的に不利ですね⋮⋮﹂
サーラの言葉に亮真は頷いた。
﹁もともと貴族派のほとんどが伯爵位以上の中級か上級貴族ばかり
だから領地が大きく兵の徴兵数も多い。兵数と言う点でいえば貴族
派に勝つのは無理に決まっている。﹂
﹁ですがそれは既に判っていた事です。それに戦力的には拮抗して
います。﹂
騎士は全員法術を使う事が出来る。
習得度に個人差はあるが全員が身体能力の強化位は出来るのだ。
戦力として非常に大きい。
﹁まぁな⋮⋮結局ホドラムが敵に与しただけで状況は前と変らない
ってことだな。﹂
﹁そうですね。ただ見えない敵の事は気にしすぎてもいけませんが
無視しても不味いと思います。﹂
ローラの言葉は現状をきちんと把握していた。
一番怖いのはホドラムとゲルハルトを始末する前に他国の侵略を手
引きされる事だ。
495
確証は無いがその可能性は決して無視できない。
﹁なら、迅速にケリを付けるのが一番ってことか⋮⋮﹂
亮真の眼が宙を睨む。
ただの一戦で勝負を決める為に。
496
第2章第18話︵後書き︶
つたない作品ではありますが今後ともよろしくお願い致します。
497
第2章第19話
異世界召喚166日目︻開戦︼その2:
﹁何?ではお前はイラクリオンへ進軍しろと言うのか!?﹂
早朝の会議室にメルティナの声が響く。
切迫した事態を打開する会議は、夜明けと共に開始された。
﹁なぜ急に?確か以前お聞きした時はピレウスへ相手を引き込んで
の決戦を想定されていたはずでは?﹂
ミハイルも疑問を投げかけた。
それも当然だろう。
王都ピレウスとゲルハルト公の本拠地イラクリオンの間にはエレク
シュアの森とテーベ河という2つの難所が存在している。
エレクシュアの森は広大な森林地帯で、そのド真ん中を一本の街道
が突っ切っていた。
一般の旅人や商隊が往来するには問題無いのだが軍隊が行軍するに
は道幅が狭すぎるのだ。
うっそう
しげ
勿論通れないわけではないが、隊列が細長くなり進軍速度は低下し、
また鬱蒼と茂った木々が伏兵を容易にしてしまう。
そしてエレクシュアの森を過ぎるとテーベ河がその姿を現す。
ザルーダ王国との国境に位置すオウル山を源流とするこの河は、ロ
ーゼリア王国を南西から北東に貫きローゼリア王国の農業を支えて
いる。
この河のおかげでローゼリア王国は農業の国として生きていける訳
だが、兵を動かすという観点から言えばこの河は邪魔者でしかない。
498
河幅は500m近くありとても橋を架ける事が出来ない。
水深もかなり深く徒歩では渡れない。
となれば当然船となる。
この河の両側には渡河の為の渡し舟が幾つも有った。
だが一般人ならさほど大きな問題とならないテーベ河の渡河も、軍
隊規模の渡河となれば話が変わってくる。
まず船といっても何百人もの人間が一度に乗れる大型船等は無い。
一番大きい船でも20人も乗れば満杯だろう。
物資の輸送も考えなければならない。
替えの槍や馬具。
兵糧に馬。
負傷した際の医薬品。
数え上げればキリがない。
そう言ったものをいちいち船に乗せ換え対岸まで運ばなくてはなら
ないのだ。
かなりの時間がかかる事を予想できる。
しかも兵を一度に輸送する事が出来ない。
そうなると借り受けた船に兵を少人数で乗せて往復する事になる。
これが問題なのである。
各個撃破の的にしかならないからだ。
ちなみに過去ローゼリア王国はイラクリオンを経由してミスト王国
と戦争をした事がある。
だがその時と今では状況がまるで違う。
ミスト王国との戦争時では、戦場は両国の国境付近。
イラクリオンまでの安全が保障されている状況だったため、兵を分
散して輸送しても何の問題もなかったのである。
だが今回の敵はゲルハルト公。
テーベ河から東は完全にゲルハルト公の勢力下と言ってよい。
とても悠長に渡河出来る状況ではない。
499
だからこそ亮真はルピス王女にゲルハルト公を王都ピレウスへ引き
込んでの決戦を献策していた。
相手の大軍を自領に引き込んで補給線を断つ。
亮真の狙いは其処に合った。
だから今さら亮真が作戦を翻した事に会議に出た一同は揃って驚き
の声を上げたのだ。
驚かなかったのは昨夜の内に話を聞いていたマルフィスト姉妹だけ
である。
﹁成程ね⋮⋮さすが亮真君ね⋮⋮よく相手方の心理と状況を理解し
ているわ。﹂
驚きながらも亮真の狙いを理解したのだろう。
エレナの口からそんな言葉が出た。
﹁それはどういう事です?﹂
﹁今なら相手領土を攻めるのが簡単だって事ですよ。ルピス殿下。﹂
ルピス王女の疑問に亮真は答えたが、彼女の疑問が晴れる事は無か
った。
彼女には何故今攻める事が簡単になるのかが判らなかったからだ。
亮真は会議に出席した全ての人間になるべく丁寧に説明を行った。
﹁私は初めに王都へ敵を引き入れる事を献策したのは、敵地への侵
攻が困難だったためです。﹂
難所を通過する間に相手方の攻撃を受ける心配があったため、ルピ
ス王女とゲルハルト公のどちらも相手領土への侵攻を見合わせてい
500
3日の間は。
たわけだが、今はその心配をする必要がない。
少なくてもここ2
なぜか?
ホドラム将軍がゲルハルト公に合流したためである。
﹁ホドラム将軍がゲルハルト公と合流した事を私は少しも問題だと
は考えていません。むしろ相手方の失策だと考えています。﹂
もともと権力争いをしていたような人間達である。
しかもどちらも傲慢で鼻持ちならない人間だ。
とても相手と歩み寄りを考える人間ではない。
﹁そんな彼らが合流したとして、指揮権はどちらが握る事になると
思いますか?﹂
戦をする上で大切なのは指揮権である。
どれほどの大軍を集めようと、大将に確固たる指揮権がなければ勝
利は望めない。
それは数々の歴史が証明している事である。
会社に置き換えて考えてみれば理解しやすいかもしれない。
例えば課長と部長の指示が相反した時、自分ならどちらを優先させ
るだろうか?
普通はより上位である部長命令を優先させる。
なら社長と部長ならどうか?
社長を優先させるだろう。
なら社長が2人居たらどうなるだろう?
共に自分の上司である。
その二人が相反する命令を自分に出したらどうするだろうか?
誰もが戸惑うはずである。
501
どちらの命令を守るべきなのかの判断が出来ないからだ。
そして今回も同じことが言える。
これがもしゲルハルト公が軍事能力に優れるホドラム将軍に自分の
兵の指揮権を委ねられるほど度量の大きい人間であったり、ホドラ
ム将軍が自分の持つ兵力が僅かな事を理解してより大きな兵数を持
つゲルハルト公に従うという潔さを持っていたならば亮真も決して
彼らが合流した事を楽観しなかっただろう。
彼らの人間性の低さ、度量の狭さ、傲慢さ。
それらをキチンと理解しているからこそ亮真は今なら攻める事が出
来ると判断したのだ。
﹁⋮⋮そういう事ね⋮⋮﹂
亮真の話を聞きルピス王女の顔にようやく理解の火が灯った。
周囲の人間にも亮真の狙いが理解できたらしい。
﹁だがそれは何時までも続かないのではありませんか?﹂
ベルグストン伯爵が疑問を投げかける。
確かに彼らは傲慢で度量も狭い。
だがこの国の最高権力者である。
決して愚か者ではない。
﹁だからこそ2∼3日が勝負なんですよ。﹂
彼らが合流して間もない今だからこそ隙があるのだ。
彼らの間で話し合いが行われ合意に至ればこの隙は無くなってしま
う。
﹁しかし御子柴殿⋮⋮今から兵を発するとしてどんなに急いでも兵
502
がテーベ河に至るのに7日は掛かる。とても間に合わないのではな
いか?﹂
ゼレーフ伯爵の指摘は当然である。
どんな好機もつかめなければ意味がない。
だがそんなことは亮真も十分に理解している。
﹁確かに全軍を動かすのは無理でしょう。ですが少数、具体的には
2000程の騎士と傭兵で編成した騎馬隊なら十分に間に合わせる
事が出来ます。﹂
ゼレーフ伯爵の言う7日は徒歩騎士や民兵を含めた話である。
法術が使える人間だけを馬に乗せて進軍させれば、馬の休息時間を
治癒法術を使用することで無視する事が出来る。
また徒歩の人間が居なければ行軍速度が速くなるのは当然と言えた。
﹁だが⋮⋮2000でテーベ河を渡ったとしてそれでどうする?相
手の兵数は6万を超えるのだぞ。2000ではどうしようもないだ
ろう?﹂
メルティナは渡った後の事を心配した。
確かに2000の騎馬隊なら3日以内にテーベ河へたどりつくこと
は可能だろう。
だが河を渡り切ってしまえばそこは相手の勢力下。
ただの自殺行為としか彼女には思えないのだ。
﹁その辺は考えています。勿論2000で6万をまともに相手にす
ることはできません。騎馬隊が出発した後直ぐに王都を発てば全軍
がテーベ河に着くのは7日。2000兵でも数日なら持ちこたえる
事が出来ます。﹂
503
亮真の言葉にその場に居た人間は誰もが首を捻った。
亮真は自信を持って居るようだが、2000で30倍の敵を防ぐの
である。
そう易々とは賛同できるはずもない。
﹁策があるのね?﹂
ルピス王女の言葉に亮真は深く頷いた。
チャンス
彼とてまともに戦って防げるとは思っていない。
チャンス
だが同時にこの機会を逃すべきではないと思ってもいる。
もしここでこの機会を見逃せばゲルハルト公とホドラム将軍の間に
協力関係が構築されるかもしれない。
多少無茶でも今は攻める流れなのだ。
室内は静まり返った。
そして部屋の全ての人間の視線がルピス王女へと集まる。
彼女の意志が全てを決定するからだ。
︵本当に攻めて勝てるの?いえ⋮⋮それ以前にまず2000の兵で
6万を超える敵を防げるの?︶
ルピス王女は亮真の言葉をただひたすらに考え続ける。
自分の決断がこの国の行く末を決定する事を十分に理解しているか
らだ。
長い沈黙を破ったのはエレナだった。
こまね
﹁私は彼の策に乗るべきだと思います⋮⋮このまま手を拱いていて
504
も事態が良くなる筈がありません。それに彼の言うとおり今は攻め
る流れだと思います。﹂
﹁エレナ⋮⋮判りました。貴方に2000の兵を預け先発隊の指揮
を任せます。本隊が到着するまで必ずや死守するのですよ!﹂
エレナの言葉を聞きルピス王女はついに決断を下した。
﹁判りました。お任せください。﹂
亮真はそういうと深々と頭を下げた。
﹁全く!坊やはいい度胸をしているよ⋮⋮わざわざ危ない橋を渡る
事は無いだろうに。﹂
リオネはそういうと笑みを浮かべた。
言葉程に非難している訳ではないようだ。
ルピス王女の決断で出兵が決まり会議が解散した後、亮真、リオネ、
ボルツの3人は一室へと集まった。
彼らとここには居ないがマルフィスト姉妹とミハイルが先発隊のメ
ンバーである。
﹁まぁ攻められるなら攻めたほうが良いですからね。﹂
﹁エレナ様もおっしゃってましたが確かに今なら攻められますな。﹂
亮真の言葉を聞きボルツも頷く。
実践経験豊富な人間にとって亮真の言う流れはよく理解できる。
505
ふせ
﹁ですが若。どうやって2000の兵で6万の兵を防ぐんです?﹂
ボルツが控えめに尋ねて来た。
彼は亮真を深く尊敬していたが決して無条件の盲信はしていない。
6万対2000では普通なら勝負は見えている。
それを可能にする策が有るならば聞かせてほしいのは人情である。
﹁まぁそれはボルツさん達の腕次第ですね。お二人には幾つか頼み
ごとをしていますがその成果次第というところです。﹂
﹁え!あれですか?⋮⋮確かにあれはスゴイですが⋮⋮本当にあれ
で防ぎきれるんですかい?﹂
﹁なぁに坊やの注文通りに訓練はしてあるから大丈夫だよ!﹂
ボルツは顔色を変えたがリオネの方は涼しい顔をしている。
﹁新しく雇った人達も大丈夫ですよね?﹂
﹁あぁ。みんな最初は面喰ってたけどね。アタイがビシッと仕込ん
でおいたからね!安心して良いよ。﹂
亮真の問いにリオネは胸を張った。
亮真の注文はかなりこの世界の傭兵にとって特殊なものだったはず
だが、リオネはそれを上手く達成したようだ。
﹁それなら問題ないと思いますよ、ボルツさん。﹂
亮真の言葉を聞きボルツの顔にいくらか笑みが戻る。
506
﹁それにローラ達に頼んでいた物が揃いましたからね。﹂
﹁なんだい? それ﹂
﹁まぁそれを使うのは防衛戦の後の話ですけどね﹂
亮真の言葉にリオネは辺りを見回すと言った。
﹁ふぅん⋮⋮それであの子たちはここに居ないのかい。﹂
﹁えぇ。陣へ確実に運んでもらわないと不味いので﹂
﹁そうかい。まぁアタイ達は坊やに賭けたんだ。後はアンタが期待
外れでない事を祈るだけさ。﹂
リオネの口調は戯けていたがその目は真剣そのものであった。
それは彼女が少数とはいえ傭兵団の長であり、人の上に立つ人間の
責任というものを理解していたからに他ならない。
﹁まぁ期待外れでない事は保証しますよ。﹂
亮真は肩を竦めそう答えるしかなかった。
彼は神ならぬ人の身で、絶対に勝てるとは言い切れなかったからだ。
﹁行くぞ!﹂
﹁﹁﹁出発!﹂﹂﹂
亮真の声を皮切りに中隊長達が部隊を進軍させる。
507
亮真が乗る馬の側にはマルフィスト姉妹がぴったりと並走していた。
﹁亮真様。ご指示通り例の物の手配は終わりました。﹂
﹁判った。﹂
ローラの言葉に亮真は軽く頷いた。
﹁それともう一つのご指示の方ですが見つけました。﹂
サーラの言葉を聞き亮真の目が細まる。
﹁傭兵部隊に混じっていたのか?﹂
﹁おっしゃる通りです。新規で雇用した傭兵団の中に紛れていまし
た。﹂
﹁そうか⋮⋮目を離してはいないな?﹂
﹁はい。その辺は十分に注意いたしましたから。﹂
﹁どこの手の者か判るか?﹂
亮真の問いにサーラは首を振った。
﹁そうか⋮⋮まぁ良い。今は泳がせておけ。いずれ使い道が出来る
だろうからな。﹂
﹁畏まりました。﹂
508
サーラは頷くと傭兵団の方へと馬を進める。
﹁亮真様。先に始末した方がよろしいのでは?﹂
﹁いや。手持ちの札は多い方が良い。下手に処分しても別の奴が来
るだけだしな。﹂
ローラの問いに答えると亮真の目が細く鋭くなる。
まるで消えない敵の姿を見破る鷹の如く。
509
第2章第20話
異世界召喚169日目︻防衛戦︼その1:
﹁良いか!これから傭兵達の指示に従って防御施設を作ってもらう。
これの性能が我々の命綱となる!みんなその事を自覚し最善を尽く
してほしい!﹂
太陽が天空の真ん中で照り、雲ひとつない空はまるで亮真の勝利を
約束しているかのように晴れ渡っていた。
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉぉ!﹂﹂﹂
亮真の言葉に答えるように無数の拳が天に突き上げられる。
彼の目の前には王女より預かった2000の騎士とリオネが率いる
傭兵達100名が立ち並んでいた。
僅か3日で予定通りテーベ河の渡河に成功した亮真率いる先発隊は、
テーベ河東の岸辺に防御施設を整えることになった。
これから4日のうちにテーベ河西岸に現れるであろうルピス王女率
いる2万の本隊が無事に渡河出来るようにする為だ。
そして本隊到着まで自分達が生き残る為でもある。
﹁敵がこちらの行動を察知し我々を攻撃しようと向かってきている
いか
はずである!時間は限られている!だが向こうの攻撃前に有る程度
の堀と柵を作る事が出来れば、如何に相手の兵数が30倍で有ろう
と精鋭である諸君らなら必ずや勝ち残れるはずである!﹂
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉぉ!﹂﹂﹂
510
亮真の言葉に再び雄叫びが上がる。
︵ふぅ、とりあえず士気は問題無しだな。後は俺の指示通りにどこ
まで準備できるかだな。︶
亮真の演説が終わり各小隊が持ち場へと散って行くと、彼の前に一
人の男が立った。
﹁御子柴殿。それでは私は騎士500を率いて偵察に出てきます。﹂
ミハイルの言葉に亮真は軽く頷いた。
全体の4分の1を偵察に裂くのはかなり痛いが、敵の動向を見過ご
して奇襲を受けるよりははるかにましだ。
亮真はそう判断した。
﹁えぇ、繰り返しますが偵察だけです。敵と遭遇しても応戦せずに
撤退してください。﹂
敵を発見してもらわなければ偵察の意味は無い。
だが、偵察の任務はあくまでも情報収集である。
敵と態々戦う必要はない。
﹁判っております。騎士としては敵に後ろを見せるのは気に入りま
せんが⋮⋮これも作戦の内ですからな。﹂
ミハイルはいかにも口惜しいと言った表情で答えた。
尤もルピス王女から指揮権を得ている亮真の指示を無視するわけに
もいかないので我慢するといった風である。
511
﹁敵に見つかっても損害を出したくないからこそ精鋭であるあなた
方にお願いするんです。今回の作戦の成否は貴方達に掛かっている
と言っても過言じゃないんですよ?﹂
本来なら思慮の足りないミハイルには荷が重い役割だが、他に動か
せる人間が居ない。
どうあってもミハイルに任せるしかないのだ。
﹁判っております。では!﹂
そういうとミハイルは踵を返した。
亮真はただミハイルの後ろ姿を眺めるしかなかった。
他に人材が居ないためどうしようもない人選だったが、亮真はこの
判断を後に深く悔むことになる。
﹁いいか!訓練通りにやればいいんだ!落ち着いてやれ!﹂
﹁﹁﹁大地を司りし精霊よ。汝の加護を受けし我が求めに応じその
姿を変えよ!﹂﹂﹂
ボルツの声に従い傭兵達が一斉に詠唱を開始する。
アースシンキング
﹁﹁﹁大地陥没﹂﹂﹂
大地に干渉する低級の精霊法術。
詠唱終了と同時に手が大地へ叩きつけられると、詠唱者の前方1M
から大地が一斉に沈んでゆく。
﹁よぉし!良いだろう。1班の詠唱者は15分の休息後再び穴を掘
512
ってもらう。2班の詠唱者は術の効果範囲から外れた部分の処理を
してくれ!﹂
﹁どうだい?作業の進み具合は?﹂
工事の陣頭指揮をとるボルツに後ろから声をかけた者が居る。
日は西に傾き始めたところか。
ボルツ達が作業を始めまだ3時間ほどしか経ってはいない。
だが既に幅20M深さ5Mの堀が亮真達の陣の前方にその姿を現し
始めていた。
全長500M程の堀を造る工事にしては異様なほどの早さである。
﹁あ!若!⋮⋮そうですね、まぁ予定通りと言ったところですか。﹂
ボルツは視線を前に向けたままで答える。
﹁しかし⋮⋮若は本当にすごいですね。こんな方法を思いつくなん
て。﹂
アース
ボルツの称賛は決して大げさではない。
大地において法術とは武器でしかなかった。
ただ戦争に勝つ為の道具。
剣や槍と同じ扱いだったのである。
﹁そう大したものではないさ。﹂
亮真はボルツの称賛を軽く受け流したが、実際のところ亮真のアイ
ディアはこの世界の軍事と経済の両方にに大きな革命をもたらした
と言えよう。
相手に対しての直接的な攻撃手段としてしか使用されなかった法術
513
を、それ以外の用途、特に建設に応用することで圧倒的な効率性を
実現した。
アースシンキング
大地陥没という法術は、使用すると直径5M、深さ5Mの落とし穴
が作られる。
だが所詮穴である。
使用方法としては敵の足元に発現させることで相手を落とすという
のが一般的な使い方だが、術者のほとんどはこの術を実戦で使う事
がない。
直径5Mと言うとそこそこ効果範囲が大きいように感じられるが、
実戦ではほとんど役に立たない。
なぜなら相手はじっと一か所に留まっている訳ではないからだ。
動く相手の行動を見定めてその足元で術を発現させるのは難しい。
アースシンキング
しかも深さが5Mと浅くは無いが、落ちた人間を確実に殺せるとい
うほどの深さでもない。
土系統に限らずどの系統にも大地陥没より狙いやすく殺傷能力の高
アースシンキング
い法術はいくらでもある。
だが大地陥没を落とし穴ではなく堀として使えばどうだろうか?
一瞬で直径5M、深さ5Mの穴が術者の数だけ造られるのだ。
﹁いえ。若はご自分の価値を理解していらっしゃらない!﹂
アースシンキング
従来の法術を評価する上での価値観である直接戦闘に使う法術とし
アースシンキング
てみた時には、大地陥没は使えない術の一つでしかなかった。
だが直接相手を倒す事にこだわらなければ、大地陥没は全く別の可
能性を秘めていたのだ。
その可能性を見つけ実現させたのが亮真で有る事を考えればボルツ
の称賛も当然と言えた。
514
﹁そうかねぇ?﹂
亮真は首をひねる。
現代人の亮真にとって、自分の発想が格別凄いとはどうしても思え
なかった。
逆にこの程度の事をどうして今まで誰も気がつかないのかという思
いの方が強い。
﹁そうですとも!﹂
ボルツが力強く頷くのを見て亮真は苦笑いをした。
﹁まぁ偵察の結果次第だけど、あまり時間は無いと思う。ボルツさ
ん頼んだよ。﹂
アースシンキング
﹁へい!お任せくだ⋮⋮おい!そこキチンと距離を測って術を発動
させないと意味が無いじゃないか!良いか!大地陥没で造った穴が
連なるように調整するんだ!適当な事してるとブチ殺すぞ!⋮⋮す
いやせん、若。失礼しやした。﹂
亮真と話しながらでもキチンと作業現場の状況を監視していたらし
い。
流石に歴戦の猛者である。
亮真は頼もしく思いながら話題を変えた。
堀の建設具合と共に亮真が此処に来た目的の一つだったからだ。
﹁ところでサーラは今どこに居る?﹂
﹁サーラ嬢ちゃんですかい?⋮⋮あ!あそこでさ。若の言われたと
515
おりにぴったりと張り付いてますぜ。﹂
ボルツの指差す方向で金色の髪が揺れ動いていた。
﹁とすると隣の黒髪の女が例のヤツか?﹂
﹁ヘイ。そのとおりでさ!﹂
亮真の視線がサーラの横で作業している黒髪の女へ突き刺さった。
﹁今のところサーラ嬢ちゃんがぴったりと張り付いてますからご安
心くだせい!﹂
﹁あぁ。もしあれに裏を掻かれれば俺らはかなりヤバイことになる
からな。﹂
﹁ヘイ。十分判ってまさぁ!﹂
﹁もし手に負えない状況になったら下手な欲を出さずに始末してく
れ。﹂
亮真の言葉にボルツはやや驚きの表情を浮かべた。
アイツをうまく利用することも今回の作戦の中に組み込まれていた
からだ。
ボルツの顔色を見て亮真は笑いながら言った。
﹁確かにアイツを利用するつもりで泳がせているけど、それが罠の
可能性も有るからな。不味いと思ったらボルツさんの判断で良いん
で始末してくれ。﹂
516
﹁判りやした。こっちの方はお任せくだせい!﹂
ボルツはそういって亮真へ頭を下げると再び作業の指揮に戻る。
﹁さてと、次はリオネの様子を見なくちゃな⋮⋮﹂
そう呟くと亮真はその場から立ち去った。
﹁だいたい予定に沿って準備出来てるよ!⋮⋮後はボルツの方の作
業が終わり次第だね。﹂
リオネは素早く亮真の姿を見つけると手を振りながら大声で叫ぶ。
亮真は彼女の声に苦笑いし軽く手を振りながらやってきた。
﹁柵の準備は万端ってところか。﹂
﹁あぁ。材料の木材は森に入ればいくらでも手に入るしね。﹂
リオネは彼女の後に山と重ねられた柵へ視線を向けた。
既に切り出された木は一定の太さに加工され、縄を使って組み合わ
されている。
後はボルツの堀造りが終了すれば直ぐに立てるだけとなっていた。
﹁橋の制作は?﹂
﹁それはこれから準備する事になってるよ。今は材料の木を切り出
してるところさ。﹂
森の方から続々と男達が木を担いで陣へと戻ってきている。
517
亮真の指示を守って法術を使って身体強化をしているのだろう。
普通ならとても一人では持ち運べないような太い木材を軽々と肩に
担いで運んでいる。
亮真は頷いた。
﹁騎兵が渡れる程度の耐久性を保ってくれよ?﹂
﹁大丈夫!わかってるよ。うちの傭兵の中から大工の経験が有る奴
に指揮をとらせて造る予定さ。何しろ今回の作戦の重要な役割だか
らね!﹂
リオネはそういうと片目を瞑って見せた。
﹁あぁ任せた。﹂
亮真はリオネのにそういうと自分の天幕へと戻っていった。
彼には他に幾らでも仕事が有るのだから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
の高台に居た。
亮真達が必死で防衛拠点の敷設に携わっているころ、ミハイルは陣
地からおよそ5Km
既に彼が陣を出て3時間が過ぎようとしているのにまだ5Kmしか
進んでいないというのは遅いと感じるかもしれないがそうではない。
彼の任務が偵察である以上、敵に発見されないよう慎重に移動する
のが当然なのだ。
﹁ふぅ⋮⋮今のところ敵兵は無しか?﹂
518
﹁は!﹂
眼下には一面の草原であり、仮にイラクリオンより兵が放たれても、
確実のその動向を確認する事が出来た。
ミハイルは敵兵が居ない事を確認すると足元に転がる手ごろな石に
腰を据えた。
︵この前哨戦で今後の流れが決まる⋮⋮か。だがあいつのあの顔⋮
⋮俺を侮っているのか?︶
ミハイルの脳裏から亮真の憂いに満ちた表情が消えない。
亮真とミハイルが出会ってから既に3月近くが過ぎている。
表面上は亮真と打ち解けてきて居るように見せてはいたが、実際の
ところミハイルは不満でどうしようもなかった。
暗殺の任務に失敗し自分の部下のほとんどが亮真の策によって殺さ
れた事も原因ではあるが、何よりルピス王女の信頼が古参であるは
ずの自分よりもどこの馬の骨とも判らない流れ者の傭兵である亮真
に向けられていると感じているからだ。
︵そもそもあいつは騎士を何だと思っているんだ!⋮⋮騎士は戦う
戦士だ!農民の様に大工仕事などさせおって!︶
強烈な騎士の誇りを持つミハイルにとって亮真の今回の作戦はとて
も我慢の出来るものではなかった。
確かに効率は良いだろう。
それはミハイル自身も認めなくはない。
だがだからと言って騎士が法術を使って木を切り堀を掘るなどとて
も納得できる事ではなかった。
実際のところそういった意識を持つローゼリアの騎士は多い。
519
殆ど全てと言ってもよい。
それでも彼らが亮真の指示に従ったのはルピス王女より指揮権を託
されたという事実と、圧倒的兵力差を覆す良い案を他に思いつかな
かったの過ぎない。
ミハイルが偵察任務を志願したのはまだ偵察任務の方が同じ下等な
任務で有っても大工仕事よりましだと判断したという理由からだっ
た。
彼の災難は、彼自身が亮真の方針やアイディアの効果を理解し、ル
ピス王女の信頼が亮真に移ってしまった事を理解するだけの能力を
持っている事だろう。
そして彼の強烈な騎士の誇りは彼の心に強い亮真への嫉妬を生み出
す。
彼自身のルピス王女への忠誠は疑いようがない。
メルティナに比肩するほどである。
プライド
だが現状ルピス王女の役に立っているのは忠誠心の厚い彼ではない。
それでもまだ同じ騎士ならば彼の誇りは保たれただろう。
だが現実は違う。
そして彼自身も自分に亮真の真似をする事が出来ない事を理解して
いた。
だからこそミハイルは妬むのだ。
許せないのだ。
自己に正当性がない事を理解するがゆえに彼の心は闇に落ちる。
﹁ミハイル様!前方に土煙です。おそらく敵の偵察隊ではないかと
!﹂
思案に耽るミハイルの耳に部下の叫びが響いた。
520
﹁何!敵だと!?﹂
﹁は!兵数はまだ確認出来ませんがそれ程多くはない模様です!﹂
﹁なんだその報告は!キチンと確認せんか!﹂
ミハイルの怒鳴り声を受け部下は敵の確認へと向かう。
︵敵兵は多くない?⋮⋮まずは敵の数を確認した上で御子柴殿へ⋮
⋮︶
ミハイルはこの時はまだ冷静に自分の任務の重要性を意識していた。
敵の偵察と自兵の損耗を最少に保つことである。
特に自兵の損耗に関しては亮真の口から直接しつこいほどに注意を
受けていた。
現状では僅か2000しかいないのである。
敵の数を減らす事より、自兵の損耗を避ける方が重要なのは当然の
事だ。
だがそんな意識は再び駆け寄ってきた部下の報告げ吹き飛ぶ事にな
る。
﹁ミハイル様!確認いたしました!敵兵およそ100!﹂
﹁100だと!?間違いないのか!?﹂
ミハイルの顔に笑みが浮かぶ。
︵100だと⋮⋮こちらの5分の1ではないか⋮⋮周囲には他に敵
兵の影は見当たらなかった⋮⋮おそらく敵の偵察部隊だろう⋮⋮テ
ーベ河を渡河され慌てて偵察隊を送ってきたに違いない⋮⋮︶
521
﹁ミハイル様!直ちに本陣へ帰還のご命令を!﹂
傍らに侍る副官がミハイルへ進言してきた。
確かに彼の言う事は間違ってはいない。
だがそれでは何の功績にもならない。
そんな思いがミハイルの脳裏に浮かぶ。
︵相手は所詮偵察隊。こちらは騎士500。勝負するまでもない。
だがここで少しでも敵兵を減らせば後々我らが有利になる⋮⋮︶
この段階でミハイルの心には自分の功績しかなかった。
彼は戦闘でしか手柄をあげられないのだから。
ミハイルは腰かけた石から素早く立ち上がると大声で叫んだ。
彼の顔には戦場に出る兵士特有の殺気が浮かんでいる。
﹁いや!総員戦闘準備に掛かれ!あの程度の敵、一撃で粉砕してく
れる!﹂
戦場の空気を受けミハイルの心は高揚した。
そして高揚した心は彼の功名心と混ざり合って彼の判断を狂わせる。
彼は忘れてしまった。
自分の任務とその重要性を。
そして彼の判断は亮真を苦境へと追いやる事になる。
522
第2章第20話︵後書き︶
いつも拙い本作品を読んでくださりありがとうございます。
感想に返事はしておりませんが、いつも読ませていただいておりま
す。
本作品を定期的に更新する事で返事とさせてください。
今後ともよろしくお願いいたします。
523
第2章第21話
異世界召喚169日目︻防衛戦︼その2:
﹁良いか!手加減など無用!一気に敵を踏み潰す!ローゼリア騎士
の力を今こそ見せるのだ!﹂
ミハイルの命を受け、高台に500名の騎士が臨戦態勢で整列して
いる。
彼の激励を聞き騎士たちの間に静かな緊張が漲った。
相手の数は100名ほどと兵力では余裕があるものの、亮真の指示
を完全に無視することにしたミハイルとしては決して敗れるわけに
はいかなかった。
抜け駆けも作戦無視も結果的に勝てば許された。
だが裏返せばそれは負ける事が許されないということだ。
お
指揮官の命令を無視して負けた人間を庇ってくれるものなど何処の
世界にも居りはしない。
ルピス王女ですら助命の沙汰を下すことは出来ないだろう。
︵私は⋮⋮負けぬ!︶
ミハイルの脳裏には勝利しかなかった。
だが勝利を渇望する心は時として真実を覆い隠す。
﹁突撃ぃぃぃいl!﹂
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉぉ!﹂﹂﹂
524
ミハイルの剣が敵の偵察隊を指すと同時に、500名の騎士は砂塵
を巻き上げながら一気に高台を駆け下りた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁なんだと!?もう一度言え!﹂
怒号が陣営に響く。
亮真は目の前に横たわる名も知らぬ騎士の報告が信じられなかった。
イヤ信じたくないというのが正解だろうか。
﹁は⋮⋮は⋮い。ミ⋮ハイル⋮様⋮以⋮下偵⋮察隊は⋮全⋮滅い⋮
たし⋮まし⋮た。﹂
裂傷から血が滴り落ちて、彼の足元に小さな水溜りを造っている。
彼の言葉がところどころ不明瞭なのは、彼が負った傷の幾つかが内
臓を傷つけ喉に血が絡まるからだろう。
マルフィスト姉妹によって施され続けている回復術も、彼の死をほ
んの数分先送りにするだけの効果しかない事は誰の目にも明らかだ
った。
常人で有れば既に死亡しているであろう重傷を負いながら、この男
は強烈な意思の力によってその命の火を保っているのだ。
彼の眼に宿る光がそれを証明している。
﹁ミハイルは⋮⋮どうした。死んだのか?﹂
525
そんな命を賭して報告をしている人間を怒鳴りつけるという失態を
犯した亮真は、必死で気持ちを落ち着けると出来るだけ平静を保ち
ながら尋ねた。
既に彼は死んでいるのだ。
後は魂が肉体から離れるのを待つだけの体。
だがそんな彼が燃え尽きる最後の命の火を使って伝えようとしてい
る事が有るのだ。
男なら彼の意思を尊重し、彼の持つ情報を出来るだけ受け取るべき
だ。
それが彼への最高の敬意なのだから。
﹁ミハ⋮イル⋮様はケ⋮イルを追⋮って敵軍へ⋮突撃さ⋮れました。
﹂
﹁ケイル?﹂
亮真の初めて聞く名前である。
訝しげに亮真はその名前を繰り返した。
﹁は⋮いミ⋮ハイル⋮様は初⋮め冷⋮静に⋮指揮をさ⋮れ⋮ており
ま⋮した⋮あ⋮の裏切⋮り者⋮であるケ⋮イル⋮イルーニア⋮が⋮
敵部隊の指⋮揮官だ⋮と判明⋮する⋮まで⋮は﹂
亮真が辺りを見回すと、その場に居た騎士達の顔色が変わっていた。
ケイル・イルーニアという名に心当たりが有るのだろう。
だが今それを彼らから聞いている暇は無い。
﹁そうか⋮⋮其の裏切り者を倒すためにミハイルは軍を突進させた
んだな?﹂
526
亮真の言葉に騎士は精一杯の力を振り絞って頷いた。
亮真の脳裏にその場の情景がはっきりと浮かんできた。
︵おそらく其のケイルっての言うのが指揮を取っていると判るまで、
ミハイルは冷静だったに違いない⋮だが何かの拍子に敵の指揮官が
裏切り者だったと判った⋮⋮ミハイルの性格を考えれば抑えきれな
いのも無理もないか⋮⋮︶
亮真とてミハイルが焦りを感じている事は理解していた。
だから彼に偵察隊を指揮させることに不安を感じていたのだ。
しかし同時に彼の能力を信用していた。
功を焦ったにしろ引き際を知っていると思っていた。
だからこそミハイルが隊を全滅させるまで引かなかった事が信じら
れなかったのだ。
だが裏切り者を目の前にしたのならばミハイルの理性が吹き飛んだ
のも理解できる。
騎士は裏切りを一番憎むものだから。
﹁それで?敵は今どこまで接近している?兵数はどれくらいだ?﹂
亮真は様々な思いを心の奥に追いやると今一番聞かなければならな
い質問へと集中する。
今大切なのは敵がこの防衛施設にいつ頃やってくるのか。
そしてそれがどれくらいの兵数なのかを確認することだ。
ただでさえ兵数の劣る亮真達は偵察隊の全滅によりさらに劣勢へと
追いやられている。
ここで敵から奇襲を喰らえば堀や柵といった防御施設を準備してい
るとはいえ、本当に全滅しかねないのだ。
527
﹁兵数⋮はおよそ5⋮千⋮後続⋮の兵⋮数は不⋮明⋮およ⋮そ1⋮
5分⋮程で先⋮方隊が⋮ここへ到⋮着する⋮か⋮と⋮﹂
亮真の顔色が変わった。
﹁リオネ!ボルツ!各々兵400ずつを指揮して北と南の守備に!
中央は俺とローラが600で。サーラ!お前は残りを指揮して例の
準備した後に後方で待機!後は誰か偵察隊を出して敵の現在位置を
確認!急げ!﹂
亮真はサッと立ち上がるとリオネ達へ守備の持ち場を割り振る。
リオネ達も事前にある程度の人数や持ち場を割り当てられていたの
で戸惑いは無い。
彼らは頷くと直ぐに天幕を出て行こうとした。
﹁み⋮御子⋮柴⋮様⋮﹂
﹁なんだ?まだ何かあるのか?﹂
﹁も⋮⋮申しわけ⋮ございません⋮貴方様の⋮ご指示⋮を無⋮視し
て⋮しまい⋮ました。﹂
彼の言葉を聞いた亮真はローラ達へ頷き、彼女達を天幕の外へと出
すと自分は彼の横に膝まずいた。
敵の襲来に備えるための時間は惜しい。
だが命を賭して戻ってきた騎士の最後の言葉である。
亮真はただ黙って彼の言葉を聞くしかなかった。
﹁良い。判っている。﹂
528
亮真はただ深く頷いた。
彼はミハイルの指揮に従ったにすぎない。
其の彼を死に際に責めることなど出来るわけがなかった。
亮真は血に濡れた彼の体を抱きかかえた。
そうしなければ聞こえないほど彼の言葉はか細く弱々しくなってい
た。
﹁御子⋮柴様⋮ル⋮ピス殿下を⋮必⋮ずや⋮ローゼリアの王に⋮﹂
それだけ言うと彼の体から力が抜けた。
伝えたい思いはまだ多く有っただろうが、彼の命の火は亮真へ謝罪
の言葉を伝えるだけで消えかかった。
だからこそ彼は最後の力を振り絞って亮真へ託したのだ。
彼が尤も強く望む願いを。
﹁馬鹿が⋮⋮﹂
名も知れない騎士の願いを聞いた亮真の口から憐みとも嘲笑ともと
れる言葉が漏れた。
﹁御子柴殿!前方1km先に敵影!数およそ7000!﹂
先ほど受けた報告より2000も多い。
︵チィ。援軍が合流しやがったか!︶
亮真は舌打ちを必死で隠した。
劣勢である今、指揮官が動揺を露わにすれば命令を受ける側にもそ
の動揺は広がってしまう。
529
それでは勝てる戦も勝てなくなる。
﹁判った!リオネ・ボルツの両名には指示どうりに防衛してくれと
伝えろ!中央は俺が指揮する!﹂
亮真の指示を受け伝令がリオネ達の元へと走り去る。
亮真は頭から骸になった騎士の言葉を追いだす。
︵ルピス殿下を国王にか⋮⋮︶
今そんな余計な事を意識すれば自分の命を失いかねない。
戦場に必要なのは生きようとする欲と強固な殺意。
それだけだ。
︵まずは生き残らなきゃな⋮⋮全てはその後だ!︶
亮真は槍を掴むと己の持ち場へと駆けだした。
己の未来を掴むために。
﹁どういうことだ!なぜこんな短時間でこれほど強固な陣地を築け
る!﹂
陽が西の空から消えようとしている。
陽が落ちてからの戦は困難であることを考えれば、攻撃を掛けるに
はギリギリの時間帯である。
本来なら偵察隊500を全滅させた勢いをそのまま本体にぶつける
のが常道である。
何も躊躇する必要はない。
530
だが夕日に照らされた目の前の陣を見たケイルは突撃命令を下す事
を躊躇った。
︵どうなっている?⋮これではゲルハルト閣下のご命令を遂行出来
ないではないか!︶
﹁しかしケイル様。ゲルハルト閣下の御命令を無視するわけにも⋮
⋮﹂
副官の賢しらな進言がケイルの鼻に付く。
自分が心に思った事を他人に言葉にされると腹が立つものだ。
﹁判っている!﹂
ケイルの怒声を受け副官は首を竦ませた。
︵馬鹿が!この防御施設を見ても何も思わんのか!︶
彼らの目の前には幅20mは在ろうかという空堀が横たわっていた。
先ほど受けた偵察隊の知らせでは、敵陣をぐるりと三日月型に覆っ
ている。
全長は1Km程もあるだろうか。
深さもそれなりである。
そう簡単に突破する事は出来そうにない。
︵しかし⋮⋮僅か3∼4時間だぞ?一体どういう手品を使ったのだ
!︶
ケイルの驚きも当然と言えた。
土木機器の無いこの世界では、建設は人力によって行われてきた。
531
そしてそれらを担うのは農民達である。
つまり人数が必要なのだ。
︵近隣から農民を徴発したという話は聞いておらん!⋮⋮なら王都
より人を連れて来たのか?⋮⋮いや有り得ん。そんな事をすれば行
軍速度は遅くなる⋮⋮ならどうやった?2000程の兵力のはずだ。
全員で作業を行ったとしてもこのスピードは有り得ん⋮⋮︶
堀の淵には木材を組み合わせて造られた柵がずらりと並んでいる。
それらの作成時間だって必要なのだ。
とても今日の昼に部隊が到着してから用意したとは思えないほど強
固な防備である。
︵クッ!ミハイルなど放っておいてサッさと本陣を攻めるべきだっ
たか?︶
ケイルの脳裏に先ほど倒したミハイルの顔が浮かんだ。
︵糞ったれが!何処までも俺の邪魔をしやがる!︶
ケイルは湧き上がる怒りを抑えきれなかった。
逆恨みで有る事は十分に理解していたが、腹立たしいものは腹立た
しい。
﹁ケイル様⋮⋮いかがされますか?﹂
副官が再び訪ねた。
ケイルの苛立ちを理解しているのだろう。
その声は恐る恐るといった感じだ。
532
﹁突撃しかあるまい!﹂
﹁ハッ!﹂
実際ケイルに取れる選択肢は他にはないのだ。
周辺住民の通報によって相手側の兵数が少ない事を知ったケイル自
身が、自らゲルハルト公へ願い出た出陣である。
出陣を許可されるにあたり、主人であるゲルハルト公から敵の壊滅
を厳しく命じられていた。
防御施設が完成していて手も足も出ませんでしたでは済まないので
ある。
︵ミハイルの偵察部隊がおよそ500程。それを全滅させた今なら、
敵の数は1400∼1500。それに対して我らは7000!およ
そ5倍弱。負ける要素などありはしない。急ごしらえの堀など何の
役にも立たん事を証明してくれる!︶
ケイルの心は次第に落ち着いてきた。
いや、落ち着いたフリをした。
予想外に強固な防衛準備をされたとはいえ兵数では圧倒的にケイル
側が有利なのである。
︵絶対に負けられん!⋮いや⋮勝つ!︶
ルピス王女の側近でありながらゲルハルト公に寝返ったケイルに退
路は存在しない。
彼もまた貴族派の中で生き残る為には、どうしても功績が必要なの
だ。
だが彼は知らなかった。
彼の今の心理状態は、先ほど自らが打ち破ったミハイルの心と酷似
533
していた事を。
﹁ケイル様!準備が整いました!﹂
副官の言葉を聴きケイルは大きく頷いた。
ケイルは腰の剣を引き抜くと敵陣を指示して叫ぶ。
﹁突撃ぃぃぃぃい!﹂
旗手はケイルの指示に従い全軍突撃の旗を高々と掲げる。
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉぉ!﹂﹂﹂
7000の兵士達が鬨の声を上げながら空堀へと突っ込んで行く。
彼らは知らない。
彼らの行く手に仕組まれた死の罠の存在を。
ここに今、ローゼリア王国の未来を掛けた戦が幕を開けたのである。
534
第2章第22話
異世界召喚169日目︻防衛戦︼その3:
﹁良いかい!外すんじゃないよ!敵はこっちの5倍だ!目を瞑って
たって当たるんだからね!﹂
リオネの怒声に曝されながら騎士達は配布された弓に矢を番え強く
引き絞った。
﹁良いかい!まだだよ⋮⋮まだ!﹂
リオネの受け持つ南側の門に敵兵は雪崩の如く押し寄せて来た。
彼らは獣のごとく鬨の声を張り上げ、顔は真っ赤に充血し全身から
は殺気が迸る。
それは飢えた狼が獲物を前に自制が効かないのと同じような状況だ
った。
彼らは正規兵ではない。
ゲルハルト公や其の仲間の領地から徴兵された農民兵である。
当然軍事訓練など受けた事は無いし、装備も槍を一本と粗末な皮の
鎧を渡されるだけ。
兜や盾を貸し与えられる事は無い。
それほどまでに彼らの命は貴族にとって無価値なのだ。
だがだからこそ彼らは今、猛り狂っていた。
目の前に居る2000の敵がお宝であると感じて。
この世界の徴兵制度は苛酷である。
彼らは領主の命令一つでその命を危険にさらす。
535
しかも領主達から彼らへ報酬が支払われる事は一切ない。
それは一種の税と言う扱いだからだろうか。
だがそんな彼らにも救いはある。
敵から略奪した物は自分達の物になるという決まりだ。
敵兵を殺せば其の相手の持つ剣や槍、鎧に幾ばくかの現金。
そう言った物が全て自分の物になるのだ。
侵略戦争となればそれはさらに旨味をもたらす。
女を犯し、家を焼き財産を奪う。
男は労働奴隷として、女は性奴隷として売り払う。
命を代償として大きな利益を得られるかもしれない。
だからこそ、この世界の農民は貴族を憎み嫌だ嫌だと拒絶しながら
も戦場へと赴くのだ。
より弱い者を踏みつけ、自らの苦しい生活を少しでも楽にするため
に。
騎士の装備は高価である。
鎧にしろ剣にしろ馬にしろ。
騎士としての誇りの全てを自らの武具に注ぎ込むのだから当然と言
える。
勿論騎士をただの農民が殺すのは非常に難しい。
程度の差はあれど全員が法術を使う騎士の戦闘能力は農民兵の3倍
以上。
騎士とは人の形をした猛獣に等しい。
だが1対1では勝機の無い戦いも戦場と言う特殊な環境では大きく
変わる。
一人で勝てないなら人数を増やせば良い。
象を喰い殺す蟻の群れのように。
﹁良いか!敵から奪ったものはすべてお前達の物だ!ゲルハルト公
爵様の名において保障してやる!進め進め∼∼∼!﹂
536
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉぉ!﹂﹂﹂
後方から響く檄に呼応して前線が大きく前へと前進してきた。
今彼らの目には亮真達が宝の山に見えているのだろう。
それは自分達の人数が圧倒的に多数であるという自信である。
彼らは何の躊躇もなく空堀へと足を踏み入れた。
自らの数が敵に勝るという慢心が彼らの恐怖心を麻痺させていたか
ら。
彼らの先頭が柵まで後5m余りまで近寄った時それは響いた。
﹁今だ!第一陣放て∼∼∼∼∼!﹂
リオネの怒声を受け騎士達は引き絞った矢を放つ。
ヒュヒュヒュヒュ
風切り音が響くと敵の先頭が数人矢に貫かれた。
﹁﹁ぎゃぁl﹂﹂
﹁糞!矢が!﹂
矢を受けた農民兵たちの恨みの声が響く。
先頭を進んでいた何人かが矢に射抜かれると、それまで忘れていた
恐怖心が彼らの中に蘇る。
そしてそれは彼らの歩みを鈍らせた。
﹁何をしている!進め進め∼!敵兵は僅かなのだぞ!一気に攻め落
537
とせ!金目の物が欲しくは無いのか!さぁ進むのだ!﹂
後方から敵の指揮官が叫ぶ。
敏感に進軍速度が鈍った事を感じたのだろう。
再び農民達の心に欲という名の鞭を振るう。
農民の生命を考えるのなら、矢を避ける為の盾を支給するべきなの
だが、彼らにそんな発想は無い。
彼ら貴族にとって農民兵こそが盾なのだ。
極端な話、農民がどれ程死のうと貴族である彼らは全く気にしない。
農民達の死体を踏みつけ、その上に勝利の旗を立てるのだから。
﹁第二陣!放て∼!﹂
再びリオネの指揮の下、放たれた矢が農民兵を貫いた。
﹁くっ!何を怯んで居るか!敵は少数!矢とて無限にあるわけでは
あるまい!数はこちらが上なのだ!さぁ進め∼!一番最初に柵まで
辿り着いた者には特別に報奨金を出してやる!さぁ進むのだ!﹂
敵の指揮官の狙いははっきりとしている。
数の有利を生かして接近しての消耗戦を望んでいるのだ。
彼らは農民兵が5人死んでも騎士1人を殺す事が出来れば帳尻は合
う。
逆に亮真達にとっては、ある程度の距離を保ったまま戦えば基本性
能が勝る騎士に有利となる。
乱戦に持ち込みたい貴族側、ある程度の距離を保って戦いたい亮真
達。
だがやはり数の暴力を防ぐのは難しい。
最初は柵から5m程の所までで射抜いた農民兵達は少しずつ前進を
重ねた。
538
仲間の屍を踏み越え。
時には仲間の死体を矢の盾として。
3m、2m、1m、リオネの指揮の下で射掛けられる矢の雨に耐え
ながら彼らは前進する。
﹁着いた!俺が一番乗りだ!﹂
一人の農民兵がついに柵まで辿り着くと叫ぶ。
珍しくケチな貴族が報奨金を出すと宣言したのだ。
其の金は高い税金にあえぐ自分達の生活を少しは癒してくれるに違
いない。
だからこそ此処は盛大にアピールをしなければならない。
自分が一番乗りを果たしたのだと。
だがその代償は大きかった。
そう彼の命だ。
﹁第三陣前へ!﹂
リオネの指示で弓隊が後方へ下がると、槍と手にし鋼鉄の鎧兜で身
を固めた騎士達が入れ替わりに前へ出る。
﹁突き出せぇぇ!﹂
リオネの号令の下柵の隙間から一斉に槍が前へと突き出される。
狙うのは農民兵達の顔面。
一番乗りを果たしたと叫んだ男は左目に槍を突き込まれる。
﹁ぎゃぁぁっ!﹂
539
獣の叫びにも似た声が男の喉から迸った。
﹁槍引け!﹂
突き出された槍が一斉に柵の内側へと吸い込まれる。
﹁突き出せぇぇ!﹂
再び柵の間から無数の槍が突き出され、愚かな農民兵達の命を刈り
取った。
﹁糞!兄貴!ロイド!⋮糞!よくも兄貴を!殺してやる!﹂
﹁目が!俺の目が!﹂
﹁ひぃぃいぃ!やってられるか!⋮俺は嫌だ!死にたくねぇ!﹂
戦場に怒号と嘆きの声が響き渡る。
前へ出ようとする者と槍から逃れるために下がろうとする者。
両者のぶつかり合いは、もともと陣形などと言う高尚な技術を持た
ない兵達の足を止めさせた。
そして彼らの隙を逃すほどリオネは甘くはない。
長年傭兵として戦場を駆け抜けて来た人間の嗅覚は鋭かった。
﹁第一陣第二陣!構え!放て∼∼∼∼!﹂
彼女は槍隊を後ろへ下げると、再び弓隊を前列に出し乱射を始めた。
﹁良いかい!撃って撃って撃ちまくるんだ!遠慮なんてするんじゃ
ないよ!矢は腐るほど有るんだ!思いっきり撃ちまくるんだよ!﹂
540
リオネの激を受け、騎士達の放つ矢は農民兵へ雨のように降り注ぐ。
﹁くっ!埒が明かぬか⋮⋮仕方ない!。伝令!ケイル様へ南側は敵
の抵抗が激しく一時撤退の許可をいただきたいと伝えよ!さもなく
ば増援部隊を回していただきたいと。﹂
一気に南門を突破しようとした貴族は、一度仕切り直しをする為に
後退の命令をケイルへ申請する。
実戦経験の無い彼もさすがにこのまま力押しで攻めても無駄な事を
理解したのだろう。
﹁糞!こちらは敵の5倍だぞ!何故こんなに手間取るのだ!﹂
バキッ
彼は苛立ちのあまり手にした指揮棒を圧し折った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁撤退だと!?ふざけた事をぬかすな!我らは圧倒的に優勢なのだ
!何故撤退しなければならん!﹂
伝令の言葉を聞きケイルは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
﹁し⋮しかし⋮南門の抵抗は激しくとてもこのまま攻め落とせると
は⋮もしこのまま攻めよというご指示でしたらせめて増援を⋮﹂
例えどんなに怒鳴られようと伝令は引かなかった。
541
それが保身なのか忠義心からなのかは別にして彼は職務に忠実であ
った。
だがだからこそ彼の言葉はケイルの心を苛立たせる。
﹁ふざけるな!﹂
ドカッ!
﹁貴様!私にはゲルハルト様の命を遂行する義務が有るのだ!﹂
ケイルは怒りのあまり伝令の顔に拳を叩きつけると、這い蹲る彼の
頭に向かって怒鳴る。
普段の彼なら決してこのような事はしなかった。
冷静な判断力こそ彼の持ち味だったはずなのだから。
だが今は其の持ち味は見る影もない。
先ほど南側だけではなく北側を攻めている部隊からも一時撤退か増
援を求める伝令が来たばかりなのだ。
だが中央を攻めているケイル自身も、亮真の守りを突破出来ないで
いる。
とても増援部隊など回せるはずもない。
それどころか中央部へ増援を寄こせと命令したいくらいなのだ。
﹁そちらに送る援軍は無い!与えられた兵力で敵の守備を突破する
のだ!⋮⋮いやそもそも5倍もの兵力を持ってして何故敵陣を突破
出来ない?手緩いのではないかと伝えるのだ!﹂
実際のところケイルの言葉はイチャモンに他ならないのだが伝令は、
ケイルの剣幕に伝令は抗弁する言葉を持たなかった。
下手な事を言えば斬り殺されかねない。
そんな狂気をケイルは身に纏いつつあった。
542
慌てて馬を駆る伝令の背を見ながらケイルは心の中で毒づいた。
︵無能な奴らめ!俺の脚を引っ張りやがって!︶
見かけだおしと思われた堀も柵も頑強に自分達の侵攻を阻む。
ミハイル以下500の兵を全滅させられ士気が落ちていると判断し
たのだがそれもない。
兵数が圧倒的に多いという有利さも今の状況では全く意味がないの
だ。
︵何故だ!何故これほど強固な守りが出来る⋮⋮何故切り崩せない
!︶
ケイルはどうしてもこの戦に負けられない。
戦の指揮能力を買われて王女派から貴族派へ寝返った以上、戦で負
けるわけにはいかなかった。
いやそれどころか苦戦してもダメだ。
なぜなら兵数の上では圧倒的に自分達が有利だからだ。
有利なはずの自分が苦戦して勝利すれば貴族派の誰もがケイルを侮
る。
ケイルの力を認めているゲルハルト公ですらケイルの実力を疑い出
す。
そして一度張られた無能のレッテルは容易には剥がせない。
それは王女派を裏切ったケイルにとって死刑宣告に等しい。
︵糞!糞!どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!︶
ケイルは自分が苦戦しているという今の状況を認めたくなかった。
周りが自分の足を引っ張る為にワザと手を抜いているのだと思いた
543
かった。
なまじミハイルが率いる偵察部隊を鮮やかに撃破している為、なお
さら自分の能力が相手の指揮官より劣っているのだと認めたく無か
った。
﹁私が前線へ出る!﹂
ケイルの言葉に副官達は顔色を変えた。
総指揮官であるケイルが前線に出るという事は、今まで後方に温存
していた騎士を前線に投入すると言うことである。
今回ケイルが率いている兵の割合は騎士が2000農民兵が500
0である。
ただしこの騎士は決して軽々しく消耗してよい戦力ではない。
騎士派に対抗するためにゲルハルト公が密かに揃えた切り札なので
ある。
ゲルハルト公爵はホドラム将軍を嫌ってはいるが騎士の能力を不当
に評価した事は無い。
法術を使う事が出来る人間だけで構成された騎士は強力な戦力とな
る。
それはゲルハルト公自身も法術を使う為よく理解している。
だからこそゲルハルト公は、国王と国境を警備する為に4大公にの
み持つ事が許されている騎士団を隠れて集めたのだ。
老練な傭兵、他国から追放された騎士、罪を犯して称号をはく奪さ
れたローゼリアの騎士。
そう言った者たちを高額の報酬で自らの騎士団に組み入れたのであ
る。
その総数6000名。
ケイルに与えられたのはその中の2000である。
彼はその重要性は身に十分に理解していた。
544
﹁お待ちください!まだ早いのでは?﹂
副官達は顔色を変えてケイルを止めた。
当初の予定では農民兵に門を突破させた後に騎士団を突入させて相
手を一気に殲滅するつもりだったからだ。
﹁黙れ!農民などに敵陣を突破させようとした私が甘かったのだ!
⋮⋮なぁに敵は農民を追い払うので消耗しているはず。今なら騎士
の突撃を防げるはずもない!﹂
だがケイルは副官の進言を撥ねつけた。
そして今こそが勝機なのだと訴える。
彼のこの発言はあくまでも彼の願望である。
だが副官達の心に彼のこの言葉が毒の様にしみ込んだ。
彼らもまた自分達が置かれている状況をよく理解していたからだ。
ケイルの補佐が役目である以上、ケイルの任務失敗は副官達の失敗
でもあるのだ。
そしてゲルハルト公は無能な人間をそのまま放置するほど甘い人間
ではない。
降格や済めばまだ良い。
負け方によっては死罪すらあり得る。
﹁判りました!ですがそれならば南北両部隊にも全軍突撃の伝令を
出しましょう。3か所同時に攻めかかればあの程度の堀も柵も問題
にはなりますまい。﹂
副官の一人がケイルの言葉に追従すると後は誰も反対する人間はい
なかった。
545
﹁うむ!直ちに伝令を出せ!陽が沈む前に終わらせるのだ!﹂
陽が沈むまで残り30分程であろうか。
夜戦の用意をしていない以上、陽が落ちれば後は辺りは闇夜となる。
だが敵陣に雪崩込んでしまえば後は放火することで光源を確保する
事が出来る。
そう言った計算の下でケイルは全軍突撃の指示を出した。
貴族派、王女派の戦は初日から双方が引くに引けない総力戦へとそ
の姿を変える。
どちらが勝つか。
この初戦を制した側が大きく有利に傾くのは誰の目にも明らかだっ
た。
546
第2章第22話︵後書き︶
いつもウォルテニア戦︻改定版︼をご覧下さりありがとうございま
す。
皆さまのおかげで本作品の総合評価も6000を超え︻小説家にな
ろう︼サイト上でも57位と高い評価をいただいております。
これも拙い作品ながら読んでくださる皆様のおかげだと感謝してお
ります。
今後とも頑張って更新していきますのでどうぞよろしくお願いいた
します。
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第2章第23話
異世界召喚169日目︻防衛戦︼その4:
﹁御子柴様!敵陣に動きが!﹂
中央部の指揮を執る亮真に騎士の一人が注進してきた。
﹁うん?⋮⋮兵を引くと言う訳ではなさそうだな⋮⋮敵の指揮官め
⋮⋮一気にケリをつけるつもりか?﹂
亮真の目が敵陣の動きを素早く察知する。
﹁敵本陣の周りが慌ただしくなってきていますね⋮⋮﹂
﹁あぁ、どうやら今日中にケリを付けたいみたいだな⋮⋮何を焦っ
ているんだか⋮⋮﹂
亮真はケイルと言う人間を知らない。
当然ケイルがゲルハルト公に自ら進んで出陣を願い出た事も知らな
い。
だが彼の用兵から何かに焦りを感じている事だけは判る。
︵門の有る南北と中央の3か所は空堀を渡りやすくしているとはい
え、何の準備もしていない部隊が超えられるはずもない。それが判
らない程に愚かなのか?⋮⋮いやそうじゃない。たぶんこっちの防
御を甘く見たんだ。数で威圧すればこちらの心が折れると踏んだ。
だから強引に攻めて来た⋮⋮だがなら何故兵を引かない?⋮⋮幾ら
548
農民の命が軽いからと言って無駄にするとは思えないが⋮⋮︶
幾ら人の命の軽い世界とはいえ、農民が減れば税収にも影響を及ぼ
す。
確かに大事にはしないだろうが、むやみに消費するとは思えない。
相応の理由がなければ。
︵何を焦っている?こちらの増援の到着か?いや⋮⋮向こうだって
行軍に時間がかかることは判っている筈だ⋮⋮となれば︶
﹁おい!ケイルってのを知っているヤツはいるか!?﹂
﹁は!私はよく存じております!﹂
亮真の声を聞き、そばにいた騎士の一人が手を上げた。
﹁どんな性格だ?﹂
﹁そうですなぁ⋮⋮非常に利己的で狡猾で腰抜けの卑怯者で⋮⋮﹂
亮真の疑問に其の騎士はケイルを吐き捨てるかのごとく罵倒するこ
とで答えた。
まぁルピス王女を裏切ったのなら、王女に忠誠を誓う騎士からは蛇
蝎のごとく嫌われるだろう。
︵どうもこいつ等の言い方は偏った評価をするんだよなぁ⋮⋮︶
この辺も亮真は不満であった。
ケイルを嫌うのはいい。
だが其の能力を正当に評価できなければ戦には勝てない。
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好きな人間だから彼は強い。
嫌いなヤツだからアイツは弱い。
個人の好き嫌いと其の人間の能力はまったく無関係である。
ガキ
だがローゼリアの騎士はその辺の分別が著しく劣っていた。
つまり未成熟な子供なのだ。
利己的というのはおそらくリスクとメリットを量ることが出来ると
いうことだ。
狡猾というのは思慮深いということだろう。
臆病者という評価も視点を変えれば慎重な人間ということである。
悪意を持ってみるかどうかで人物の評価はガラリと変わる。
︵だが⋮⋮どういうことだ?それだと完全に別人ということになる
⋮⋮そのケイルってのが指揮を執っているんじゃないのか?︶
亮真は騎士の評価と目の前の状況を比較するとどうしてもケイルが
指揮しているとは思えなかった。
そう、次の言葉を聞くまでは。
﹁アイツはプライドが高く傲慢で大口を叩くヤツでした!﹂
﹁?プライドが高くて大口を叩く?⋮⋮ちなみにどんな大口を叩い
たか内容を知ってるか?﹂
﹁は!あれは今から4年ほど前でしょうか。当時ローゼリア王国で
天覧武術大会が開催されまして⋮⋮﹂
この騎士の言葉を要約するとこうなる。
4年前の武術大会で当時優勝候補といわれていたミハイルを1分で
破って見せると豪語した挙句、逆に第一回戦でぶつかった際にたっ
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た一太刀で剣を弾き飛ばされミハイルに負けたらしい。
なんでも酒場でローゼリア王国一の騎士は誰かという話題から出た
大言壮語らしいが⋮⋮
﹁私もその場に居ましたので間違いありません。﹂
﹁ちなみにケイルの腕前ってのは公平に見てどうなんだい?お話に
ならないほど低いのか?﹂
問題はその大言壮語を吐くに値するだけの能力を持っていたかどう
かである。
勝負事は運不運も影響する不確定なものである。
だからケイルが負けた事が直ぐに彼の能力を証明はしない。
極端な話、ミハイルよりは弱くてもケイルが国内二位の実力の持ち
主なら彼の言葉は愚か者の寝言ではなくなる。
亮真の言葉を聞いて騎士は顔を歪ませた。
つまり言いたくないほど良い腕だと言うことである。
︵成る程⋮⋮ケイルは少なくとも馬鹿じゃない⋮⋮ミハイルに負け
た事でこいつらはケイルを侮っているらしいがローゼリア王国一を
目指しても恥ずかしくない実力はあるって事だ。︶
此処まで考えた亮真は気がついた。
︵そうか!自分に自信があるケイルはゲルハルトに調子の良い事を
言ったんだ。私に任せてくれれば敵軍など直ぐに蹴散らして見せま
すとか何とか⋮⋮それなら理解できる⋮⋮敵があれだけ焦っている
理由が⋮⋮そうか⋮⋮ならこちらの策もやり易くなったな。︶
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亮真はケイルの置かれた状況を正確に把握した。
裏切り者というからには貴族派での立場は相当に脆い筈だ。
自己の立場を強化するために功績を欲して無理をする人間はよく居
る。
︵クククッ⋮⋮向こうがその気ならこっちも安心して策が使える⋮
⋮︶
亮真はケイルの用兵に裏が無いことを確信すると準備した策を使う
ことを決断した。
﹁伝令!これから敵は南北と中央の3箇所を同時に攻め寄せるはず
だ。予定より早いが第一段目の策を使うとボルツとリオネに伝えろ。
サーラには北に移動して合図を待てと言え!﹂
﹁はっ!﹂
亮真の指示を受け騎士はサーラの元へと走り出す。
亮真は回りに居る騎士達を率いて前線を守るローラの下へと向かっ
た。
﹁いい?もっと速射の速度を上げなさい!敵は無数に居るんだから
!﹂
ローラの守る中央の門もまた大激戦が繰り広げられていた。
敵兵はまさにイナゴの如く門へと押し寄せる。
﹁不味い!槍隊前へ!⋮⋮突け!﹂
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矢の雨を防ぎきり再び柵の前へ農民兵がたどり着く。
ローラは何度目かの命令を再び槍隊へと命じた。
﹁ローラ様!敵の数が多すぎます⋮⋮このままでは⋮⋮﹂
ローラのそばに居た騎士がそんな泣き言を言った。
切れ目の無い敵の突貫は、防衛に携わる騎士達の神経へ多大なスト
レスを与えていた。
逸れも当然だろう。
﹁黙りなさい!私達のどこが劣勢です!私達は亮真様の指揮の下で
誰一人として失わずに門を守っているではありませんか!﹂
ローラの指摘どおり、亮真の作戦は今のところ上手くいっている。
堀と柵で相手の進軍を阻むみ、敵の兵力を3箇所の門に集中させる
ことで少ない兵力を効率よく運用する。
そして矢に因る遠距離攻撃を行い安全な柵の内側から敵兵を射殺す
ことで敵兵力を削る。
騎士の個人技を完全に禁止し、隊としての連携を強化。
各騎士たちが、相互に援護することで死傷率を下げる。
騎士達には不評であったが、ローラは亮真の作戦を高く評価してい
た。
そしてローラは幼き日の思い出に残る彼女の父親の姿を必死で思い
起こしながら彼を叱咤した。
﹃ローラ覚えておきなさい。上に立つ人間は決して弱みを見せては
いけない。怖くても、逃げ出したくてもそれを表には出さずどれだ
け毅然としていられるか。それが上に立つ者の資質だ。﹄
どれほど亮真の作戦がすばらしかろうと、此処でローラが弱気なと
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ころを見せれば戦線は一気に崩壊しかねない。
戦場で最後にモノを言うのは人間の精神力である。
彼が吐いた弱気な言葉をそのままにすれば、其れは毒のように全体
に広がり隊の士気を下げてしまう。
﹁そのとおりだ!敵はもう直ぐ全滅させる!それまで持ちこたえる
んだ!﹂
﹁亮真様!﹂
ローラは驚きの声を上げた。
亮真は中央の門を守ってはいたが全体の指示も出さなければならな
い。
其の為前線には出ずに少し離れた本陣で指揮を執っているはずなの
だ。
﹁敵の本体が動く⋮⋮おそらく一気にケリを付ける気だな。﹂
﹁其れで⋮⋮やけに敵からの圧力が強まったと思いました。﹂
ローラは頷いた。
﹁だと思ってな、俺も前線で指揮を執る⋮⋮﹂
亮真の視線が前線に向けられる。
今のところは特に問題はなさそうである。
﹁大丈夫なのですか?⋮⋮其の⋮⋮リオネさん達の方は?﹂
﹁あぁ。そっちの伝令は既に出した。後はサーラへの合図を何時出
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すかだけだ。﹂
﹁よろしいのですか?⋮⋮其の⋮⋮いま使ってしまって⋮﹂
亮真の言葉を聞いたローラが尋ねた。
其の策は敵の本体が出陣したときの足止め用のはずだ。
﹁あぁ。予定より早いが敵さんが死にたいって言うんだ、仕方ない
だろう?⋮⋮それに殺せるときに殺した方が後々楽だしなぁ⋮⋮な
ぁに、手はまだある。大丈夫だよ。﹂
亮真は酷薄な笑みを浮かべた。
其れは愚かな指揮官と逸れに率いられた哀れな兵達に送る嘲笑だっ
た。
兵数の劣る亮真達は勝つために2つのことを重視しなければならな
い。
1つ目は自分達の損害を極力減らすこと。
2つ目は自分達の士気を落とさないこと。
堀と柵に守られている今、1つ目の損害を減らすということは十分
に達成できている。
だが2つ目の士気を落とさないということに関してはどうか?
正直に言って最低ラインがギリギリ保たれているだけだ。
これは致し方ないといえた。
士気とはどうしても攻撃側のほうが優勢になる。
守るより攻めた方が心理的なストレスは軽いのだ。
それに亮真の指揮している人間は用兵以外はルピス王女から指揮権
を委託され騎士である。
流れ者の亮真に対する信頼は決して高くない。
防衛戦で一番重要な指揮官への信頼が低いのだから士気は当然低く
555
なる。
今はまだ損害が出ていないため亮真の指揮に従ってはいるが、どこ
かの門を破られれば亮真達が敵を押し戻すだけの気力は保てないだ
ろう。
だから亮真は騎士達へ戦果を示さなければならない。
自分の指示の正しさと共に。
﹁良いか!もう少しだ!もう少しの辛抱だぞ!﹂
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉおお!﹂﹂﹂
指揮官の激励に騎士達が答えた。
﹁何をしている!まだ破れんのか?!﹂
ケイルが苛立ち紛れに叫んだ。
騎士2千名を前線に出したのだ。
彼は直ぐにでも柵を引き倒し敵陣の中へ切り込んでくれるものと期
待していた。
だが、いまだに亮真達の守備を突破することは出来ていない。
彼は空堀内に自らも足を踏み入れた。
自ら死地へと足を踏み入れたのだ。
そしてそれを見逃す亮真ではなかった。
﹁今だ!サーラへ合図を送れ!﹂
亮真の指示が彼の後ろで待機していた傭兵へと伝わる。
火矢が天高くへと打ち上げられた。
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それはこれから起こる虐殺を告げる狼煙となった。
﹁お嬢!御子柴様の合図ですぜ!﹂
サーラの下に付けられた傭兵の一人が南に空に打ち上げられた赤い
光跡を指差す。
﹁こっちの準備はどう?水量は!?﹂
﹁大丈夫ですぜ!いつでもいけまさぁ!﹂
テーベ河の川岸にUの字型に設置された堰が、河の流れを一部阻害
している。
流石に豊富な水量を誇るテーベ河。
堰が出来てから僅か3∼4時間足らずでは有るが、空堀を満たすに
は十分な水量が蓄えられていた。
﹁堀を水で満たすくらいの量は十分でさぁ!﹂
﹁いいわ!やって頂戴!﹂
﹁﹁﹁へい!﹂﹂﹂
サーラの号令の下、傭兵達は一斉に詠唱を開始する。
﹁﹁﹁大地を司りし精霊ノームよ。汝の加護を受けし我が求めに応
じその姿を変えよ!﹂﹂﹂
﹁良い!陥没させるのはテーベ河と空堀の間にある地面20Mだけ
557
よ!目測を間違えないで!﹂
アースシンキング
﹁﹁﹁大地陥没﹂﹂﹂
傭兵達の手が一斉に大地へと叩きつけられた。
バシャァァァアア!
堰き止められたテーベ河の水が出口を見つけ、一気に空堀へと流れ
込む。
今まで押さえつけられた鬱憤を晴らすかのように。
其の音に気がついたのは、北側を攻めているある農民兵だった。
周囲は喚声と怒号が響き渡り渡っている。
だが彼の本職は狩人であり目も耳も職業柄かとても鋭かった。
﹁おい!何か聞こえなかったか?﹂
彼は戦闘中でありながら隣の同僚に声を掛けた。
彼の脳裏に嫌な予感が過ぎったからだ。
﹁馬鹿!しゃべってる暇があるか!死ぬぞ!﹂
話しかけられた人間は同郷の人間である。
其の為か罵声ではあったが彼の言葉に返事をしてくれた。
柵の内側からはボルツが指揮する騎士団が矢が雨のように叩きつけ
てくる。
そんな状況で話をしようというのだから彼は相当に命知らずである。
558
﹁いや!本当に聞こえなかったか!?﹂
﹁何を言っているんだ!今はそんなことに気をとられている場合じ
ゃないだろう!﹂
同郷の男の言葉は正しい。
戦場で目の前にある戦いから目を逸らした人間が生き残れるはずも
無い。
だが彼は自分の感じた予感を捨て切れなかった。
彼は視線を北へと向けた。
そして見てしまう。
水の壁が空堀の中を満たしてゆくのを。
﹁み⋮⋮水だぁぁぁ!﹂
彼の口から悲鳴が漏れる。
空堀一杯に満たされた水の壁が自分のほうへと押し寄せてくるのだ
から其れは当然の叫びだった。
戦場の喧騒がピタリとやんだ。
誰も声を上げる人間は居ない。
その場に居る兵士達の耳にも水の押し寄せる音がはっきりと聞こえ
る。
其れは彼らにとって最後の審判に吹き鳴らされるという天使のラッ
パにも似た死の音色だった。
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第2章第24話
異世界召喚169日目︻暗殺者︼その1:
水が満ちた堀の中に無数の死体が浮かんでいた。
陽は既に落ち、辺りは松明の淡い光によって照らし出されている。
﹁フン、ずいぶん溺れ死んだみたいだな⋮⋮﹂
亮真は目の前に浮かぶ水死体に目を向けるとそう呟いた。
その言葉には若干の影が感じられる。
自らの策による結果で、数千にも及ぶ死者を出したのだ。
多少感傷的になったとしても誰も責めはしない。
数ヶ月前までただの高校生だった事を考えれば、狂わない分亮真の
精神力は並外れていると言ってよい。
﹁はい、亮真様の読みどおり泳げる人間は圧倒的に少なかったよう
です。﹂
亮真の後につき従うローラが答えた。
ほとり
亮真はテーベ河の畔に橋頭保を作ることにした時からテーベ河の豊
富な水量を上手く利用することを考えていた。
兵数としては圧倒的に不利な状況である為、自然でもなんでも利用
出来るものは利用しなければ生き残れなかったのだ。
水は現代の地球人、特に日本人にとってさほど恐ろしいものではな
い。
極一部の例外を除けば学校の授業で水泳を習う為、泳げないという
560
人間は驚くほどに少ない。
アース
だがそれは地球の話である。
この大地世界は違う。
漁師、船員、船頭といった水に関する職業に携わらない人間で泳ぎ
を習得している人間は非常に少ない。
それも当然と言えよう。
子供ですら日々の生活に追われて家の農業に携わらなければ生きて
いけないのだ。
森の小川で泳ぐ機会等、無いに等しい。
そういう子供が大人になるのである。
大人になれば子供時代に輪をかけて日々の生活に追われる。
事実、亮真が指揮する傭兵団と騎士団のなかで泳ぎが出来る人間は
50名にも満たない。
その事実を知った亮真がこれを利用しない訳がなかった。
しかも敵の農民兵が着ているのは革の鎧である。
革は水を良く含む。
槍は手放せばそれで済むが、身につけている鎧は簡単に脱ぐことな
ど出来ない。
普通の服を着ていても水にぬれれば肌に張り付き行動を阻害する。
泳ぎの心得の無い農民達が溺れ死ぬのは当然と言えた。
﹁そうか。どれくらい死んだ?﹂
﹁ご指示どおり捕虜は取っていません。全て殺していますので、お
およそですが5000名は下らないかと。﹂
敵兵の総数は7000。
そのうちの5000である。
溺れ死んだ者、柵の側にいた所為で退却する事が出来ずに打ち取ら
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れた者。
水が押し寄せる事にいち早く気が付き対岸へ戻った人間以外は全て
死んでいる。
生き残りがまだ残っているとはいえ、もはや戦にはならない。
﹁北側を攻めていた敵軍は壊滅、中央と南は北側よりは若干の余裕
があった為、兵を引けた結果だと考えられます⋮⋮それと重装備の
敵騎士団をかなり削ることが出来ました。これはかなり幸運な結果
だと考えられます。﹂
ローラの報告に亮真は軽く頷いた。
鉄の鎧兜で身を固めた騎士は接近戦では非常に強力な力を持つ。
ケイルが焦って温存していた騎士団を前線に出したことで、空堀の
中に侵入してきていたのだ。
そこを水が襲った。
敵指揮官の焦りに助けられた感はあるが亮真は運も実力の内だと考
えていた。
﹁とりあえず数日は時間が稼げるな⋮⋮見張り部隊を残して休息に
入る様に伝令を出してくれ。﹂
亮真の指示にローラは頷くとその場を離れる。
﹁さて⋮⋮後はどうしたもんかな⋮﹂
一人になった亮真は呟く。
亮真は綿密な計画と事前の準備を大事にしてはいるが、それに固執
する事は無い。
どちらかといえば臨機応変が彼の本質ともいえる。
今回の水を使った策にしろ、本来なら今この場で使う予定ではなか
562
った。
敵本隊が攻撃して来た時に初めて使う予定だったのである。
︵まぁ防衛戦は戦果が見えにくいからな、殺せるときに殺しておか
ないと後が辛くなるのも事実だし。︶
事実、圧倒的に劣勢な自分達が敵兵の死体を山と積んだ事により、
騎士達の士気は高まっている。
亮真の指揮の的確さを目に見える形で示されたのだから当然である。
それに6万5000の敵兵を6万に減らしたことも大きい。
︵まぁこれであの策が使いやすくなった訳だし良いか⋮⋮後は敵の
本隊がどう動くかだな⋮⋮このままルピス王女が来るまで動かない
でくれれば一番いいんだけど⋮⋮ま!それはありえないか。ゲルハ
ルト公にしろホドラム将軍にしろこのまま黙って引き下がる訳が無
い。︶
次に敵が攻めてくる時には、それなりの準備をしてくるはずだ。
そして彼らはルピス王女が率いる本体の到着前に仕掛けてくるはず
なのだ。
︵今回の生き残りから状況を聞きだすのに1日。聞きだした情報を
下に攻める準備をするのに2日。少なくても3日分は時間を稼いだ
事になる⋮⋮今日を含めれば4日。後3日分の時間稼ぎが出来れば
こちらの勝ちだ。︶
亮真の顔に笑みが浮かぶ。
︵敵が準備に時間を使えば使うほど俺が有利になる。逆に敵が焦っ
て突っ込んできてもこっちの準備は出来ているから十分に対処でき
563
る。︶
亮真の読みが正しいかどうか。
それは全てが終わってみなければわからない。
勝負が終わるまで結果は誰にも判らないのだから。
﹁貴様⋮良く私の前に姿を現せたな⋮⋮その度胸だけは褒めてやる。
﹂
ゲルハルト公の冷たい声がケイルへ叩きつけられる。
時間は既に深夜。
城砦都市イラクリオンに在るゲルハルト公の屋敷の執務室からは未
だにランプの明かりが外へと漏れていた。
通常ならゲルハルト公は既に就寝している時間帯である。
だが今日だけは違った。
昼間、意気揚々と出陣したケイル率いる7000の兵が壊滅して戻
ってきたのだ。
とても寝て等いられなかった。
﹁ハッ!誠に申し訳ございません。﹂
ケイルは頭を下げた。
それ以外に彼に残された選択肢が無かったとも言える。
﹁徴兵した農民兵が4000、騎士団が1000⋮⋮ずいぶんと景
気よく負けたものだな。﹂
副官から差し出された書類を見てゲルハルト公が顔を顰める。
人間というものは真に怒りを感じた時程、冷静で理知的になるらし
564
い。
少なくともゲルハルト公はそういう人間の様である。
﹁ハッ!申し訳ございません。﹂
ケイルは再び頭を下げた。
﹁農民兵等はどうでもよいが、貴様に貸し与えた騎士の価値を知ら
ないとは言わさんぞ。﹂
ゲルハルト公の声に力が加わる。
事実数年ををかけて集めた虎の子の騎士団である。
それを接近戦に持ち込んだのならともかく、敵の策に嵌まって半数
を失ったとなればゲルハルト公としても怒りを覚えずにはいられな
い。
ましてや指揮をしたのは戦の才能を買って騎士派から寝返らせたケ
イルである。
彼の才能を買った分、その反動で失望も大きい。
﹁ハッ!⋮⋮申し訳ございません⋮⋮﹂
ケイルはオウムの様にただ謝罪の言葉を吐き頭を下げる。
彼自身もっと気の利いた言葉を言いたいのだろうが、状況がそれを
許さない。
下手な言い訳をすればそれだけでゲルハルトから見限られてしまい
かねないのだ。
彼にはどのような弁解の余地も残されてはいなかった。
﹁しかし貴様⋮⋮良く生き残ったな?﹂
565
ゲルハルト公は書類に目を落としながら呟いた。
﹁馬が私を乗せて泳いだので⋮⋮﹂
﹁ほぅ、ワシはまた恥も外聞もなく兵を見捨てて逃げ帰ってきたの
かと思ったぞ。﹂
ゲルハルトから痛烈な皮肉が飛んだ。
ケイルはゲルハルトの侮辱に必死で耐えた。
それ以外に選択肢などない。
事実ケイルが生き残ったのは運以外の何物でもなかった。
前線に出ようとしていたケイルは空堀の半ば辺りまで進んでいた。
そこに水の壁が押し寄せたのである。
前後左右には騎士達が隙間なくケイルの身辺を固めており身動きは
つかない。
鉄の鎧を着こんでいたこともあり、ケイルはその他の騎士達と同様
に水におぼれて死ぬはずだったのだ。
その運命を変えたのが彼が乗っていた馬である。
ケイル自身が鎧の外せる部分を捨てたことも大きく影響した。
偶然か幸運か。
彼を乗せた馬は濁流に呑まれながらも必死で泳ぎ、何とか対岸へと
たどり着いたのだ。
その背にケイルを乗せて。
﹁まぁ良い。貴様の処分は後回しにしてやる。﹂
ゲルハルトの言葉を聞きケイルはホッと胸を撫で下ろした。
ゲルハルトの性格を考えれば死罪に処せられても不思議ではなかっ
た。
いや、死罪にしない方が変である。
566
ケイルの出した損害はそれほどまでに大きい。
﹁何を安堵している?殺しはしない。だが許しもしないぞ。﹂
ゲルハルトの言葉にケイルは凍りついた。
﹁まぁいい。今日のところは下がっていいぞ。﹂
ゲルハルトは手を振り退室を促す。
﹁そ⋮それでは失礼させていただきます。﹂
ケイルは頭を下げると素早く執務室から出て行った。
まるで逃げるかのように。
﹁フン。無能が!﹂
ケイルが退室した後、ゲルハルトは侮蔑の言葉を吐いた。
言葉自体はとても短いが、そこに込められた悪意は強い。
﹁宜しいのですか?放っておいて。﹂
﹁では貴様はケイルを今処分しろと言うのか?﹂
副官はゲルハルトの言葉に頷いた。
﹁馬鹿が。貴様はあの愚か者の命で今回の損害が埋められると思う
のか!﹂
ゲルハルトはケイルを既に見放していた。
567
チャンス
彼の処分を見送ったのは彼に情けや再起の機会を与える為ではない。
今回受けた損失の穴を少しでも埋めるために、効果的な死に場所を
与える。
ただその為に処分を保留にしたにすぎないのだ。
﹁農民兵はどうでもよい良い。だが騎士団に損害を出すとは⋮⋮あ
の愚か者め!﹂
戦には絶対という事は無い。
どれほど有利であろうと、負ける時は負ける。
だがそれを理解していてもゲルハルトの心から怒りが消えることは
無い。
︵時期が悪すぎる⋮⋮ホドラムが合流した今、アヤツに付け入れら
れる様な傷は負いたくないというのに⋮⋮︶
ホドラム将軍とどちらが主導権を握るかで交渉中の今、ゲルハルト
にとって戦の指揮に疑問を投げかけられるような結果は大きな枷と
なってしまう。
ホドラム自身は将軍としてこの10年ローゼリア王国の軍事を司っ
てきた人間である。
それに対してゲルハルトは内政に携わってきた。
本来であれば、ホドラム将軍に指揮を委ねるのが流れとしては自然
である。
自分達の兵の内ほとんどがゲルハルト公以下貴族派の兵士であった
にしろ。
そのこと自体はゲルハルト自身も理解している。
だがそれではホドラムに全てを奪われかねない。
︵アヤツの野心は判り切っている。下手に指揮権を委ねれば間違い
568
なくワシの首を狙ってくる。アヤツはそういう人間だ⋮⋮まったく、
アヤツの野心がもう少し小さければワシも安心して指揮権を委ねら
れるものを⋮︶
ゲルハルトとしてもホドラムの能力は得難い戦力なのである。
だからこそ落ち目となった彼を受け入れたのだ。
だがいざ受け入れて会ってみれば、ホドラムの野心が以前と少しも
変わっていないことが見て取れた。
いや、騎士派の党首としてルピス王女を担いでいた時の方がまだ自
分の野心を隠そうという努力が感じられた。
今はもうその必要が無いと判断したのか、飢えた狼のごとき欲望が
彼の体からほとばしっている。
︵スドウの進言も当てにはならんな⋮⋮やはりあのような者の言葉
を信じてホドラムを受け入れたこと自体が間違いだったのだろうか
?︶
ゲルハルトの脳裏に一人の男の姿が浮かぶ。
ラディーネ王女につき従うその男こそ、ゲルハルトにホドラム将軍
の受け入れを提案した人間である。
そしてラディーネ王女とゲルハルトを結びつけた人間でもある。
どこにでもいそうな平凡な顔。
体格は中肉中背。
唯一挙げられる特徴といえば闇の様に真っ黒な髪と瞳であろうか。
常にラディーネ王女の側を離れない為、貴族派の人間でも彼に会っ
たことがある人間はゲルハルトを含めて数人しかいない。
︵いや⋮⋮スドウの進言どうりホドラムは貴重な戦力だ⋮⋮今回の
戦で失った騎士の事を考えれば其の価値はより大きくなる⋮⋮問題
はあの野心の強さか⋮︶
569
極端な話、ゲルハルトとしてはホドラムが軍部の実権を握ることに
不満は無い。
ローゼリア王国の全てを握るという事が言葉で言うほど簡単でない
ことを理解しているからだ。
ゲルハルトが求めているのは、既得権益を侵されない事。
ただそれだけである。
︵だが残された時間は少ない⋮⋮このままルピス王女率いる本体が
到着してしまえば戦況は一気に相手側へと傾きかねない。︶
農民は弱者であるが同時に強かでもある。
ゲルハルトに従っているのは彼が領主であるのと同時に、兵数でル
ピス王女を圧倒しているからに他ならない。
だがもしゲルハルトが橋頭保を築いた2000の兵を壊滅できない
ままルピス王女の本隊が到着すればどうなるか?
農民はゲルハルトの力を疑いだす。
元々正当性という観点で言えばルピス王女の方に分がある以上、力
にまで疑いを持たれては一気に離反されかねない。
そういう観点も含めて考えれば、ケイルの敗戦は痛手等という軽い
言葉では足りない。
︵致命傷になりかねない⋮か?⋮⋮いや⋮まだだ⋮⋮まだ勝負は決
まってなどいない。︶
弱気な心を振り払うかのようにゲルハルトは首を振った。
︵ケイルの処分は後で考えるとして⋮⋮敵の指揮官め。相当に切れ
るな⋮⋮こいつを消せばまだ勝機はあるか?︶
570
愚か者よと侮蔑していてもケイルはゲルハルトがその才能を見込ん
で寝返らせた逸材である。
それに勝つ程の指揮官を暗殺出来ればゲルハルト側は有利になる。
スパイ
︵以前、一度暗殺に失敗したと連絡が来てそのままだったな⋮⋮確
かその暗殺者はそのまま間諜として敵の傭兵部隊に紛れ込んでいた
はず⋮⋮ならば今回率いられた先陣の傭兵部隊の中にいるはずだ⋮
⋮隙を見て指揮官の暗殺も可能か⋮⋮︶
ゲルハルトは酷薄な笑みを浮かべた。
どうせ暗殺者など使い捨てである。
それに敵は戦勝に浮かれて警備が手薄になることも考えられる。
︵やるなら今のうちか⋮⋮︶
スパイ
﹁直ちに敵陣に紛れ込んでいる間諜へ指揮官の暗殺を命じるのだ!
急げ!﹂
﹁ハッ!直ちに!﹂
副官が直ぐさま執務室から駈け出して行く。
﹁ククク!目に物見せてくれるわ!﹂
ゲルハルトの声が執務室に響く。
彼の野望は未だ衰えることは無かった。
571
572
第2章第25話
異世界召喚170日目︻暗殺者︼その2:
亮真達が橋頭堡を築いてから2日目の朝が来た。
﹁予想どうり夜襲は無しか⋮⋮﹂
﹁はい、流石にこの短期間で軍の再編成は無理だったようですね。﹂
亮真の言葉につき従うローラが答える。
﹁敵さんは軍の再編成に手間取るとみて間違いないか⋮⋮﹂
﹁おそらく2∼3日は確実に費やす事になるかと。﹂
﹁なら次の仕込みは今のうちにやっておいた方がいいな⋮⋮﹂
亮真の言葉にローラの目が光る。
﹁例のアレですか?タイミング的には良いと思います。丁度今回の
水攻めでかなりの死者を出していますから揺さぶるには丁度良いか
と。それにアノ策は効果が出るまで時間がかかりますからルピス王
女が準備しては決戦に間に合いませんし。﹂
﹁リオネさん達の準備は出来てるのか?﹂
亮真はもっとも大切な点を聞いた。
573
﹁はい、王都に居る段階で人員の選抜もその他の準備も終了してい
ます。﹂
﹁分かった。なら朝食の後にみんなを集めて会議と行きますか⋮グ
ゥ⋮ちなみに朝食は?﹂
亮真の腹の虫が空腹で鳴いた。
人間は何時でも何処でも腹を減らす。
例えそれが命を掛けた戦場でも。
﹁既にご用意出来ております。﹂
ローラは既に亮真の為に食事の準備を終えていた。
本来なら調理班が居る為、ローラたち姉妹が亮真の食事の準備をす
る必要はない。
だが彼女達は決して亮真の身の回りの世話を人には任せなかった。
それは王宮に居た時から変わらない不文律である。
﹁なら温かいうちに食べるとしますか。﹂
そういうと亮真は自分の天幕へと戻っていく。
こうして戦場2日目の朝が始まる。
﹁まぁ、アタイをしては別に文句を言う理由はないねぇ。﹂
﹁あっしの方も問題有りやせん。事前に準備をしてやすし何時でも
やれますぜ。﹂
574
朝食を終え、亮真の天幕にはリオネ、ボルツ、マルフィスト姉妹の
4人が集まっている。
﹁ならあまり大人数でも怪しいので、紅獅子の人間から10人程選
んで今日中に行って貰らいますかね。﹂
亮真の言葉にリオネとボルツが頷く。
﹁それとサーラ、例の件は何処まで分かっている?﹂
亮真の質問にサーラは慎重に答えた。
﹁彼女の名前はサクヤ、実際に何処と繋がっているかは不明ですが、
王都に居た時から定期的にどこかと連絡を取り合っているのは間違
いありません。﹂
﹁そうか⋮⋮まぁ今のところは泳がせておいて構わない。﹂
実際のところ亮真はサクヤの使い道に関して明確な目的を持ってい
るわけではない。
スパイ
彼女がどういう人間なのか。
間諜なのか暗殺者なのか。
何処の勢力に繋がっているのか。
全て不明なのである。
排除するだけならば簡単に出来るが、下手に排除して別の人間が送
り込まれてこないとも限らない。
それくらいなら、怪しいと目星がついてる人間をそのまま残した方
が安全なのだ。
﹁しかし、良くそいつが怪しいと目星がついたもんだねぇ?﹂
575
リオネが疑問を挟む。
それも当然だろう。
﹁なぁに、リオネさんの伝手を使ったお陰だよ。﹂
﹁アタイの?﹂
今回引き連れてきた傭兵は全てリオネの伝手を使ってギルドを通さ
ずに雇った人間が9割以上を占める。
勿論ピレウスの城下町に滞在していた傭兵も居なくはないがその数
は1割にも満たない。
﹁なるほど。だから姐さんに傭兵を募集させたってわけですかい。﹂
﹁どういう事だい?﹂
亮真の言葉を聞いて納得するボルツに、リオネは矛先を変えた。
﹁監視するにしても、数を減らす事が出来やすからね。﹂
つまりリオネの知人達で構成された部隊に、まったく面識の無い人
間が入ってくれば当然その人間は浮き上がる。
浮き上がればその人間の行動は目につきやすい。
何時も一人で行動している人間などすぐにピックアップする事が出
来るのだ。
後は目星がついた人間に張り付けば良い。
その人間がしっぽを出すまで。
スパイ
﹁なるほどねぇ。傭兵部隊に敵の間諜が紛れ込むこむ事を予測して
576
たってわけかい。﹂
リオネは感心したように呟いた。
﹁俺も余裕があればやりたいですからね。﹂
スパイ
敵の動向を知る為に間諜を使うなどやって当たり前、やられて当た
り前である。
色々な状況があるのでやれるやれないは別にして、そういった発想
を持たない人間が指揮官として存在する方が怖い。
亮真はそう考えていた。
﹁なるほどねぇ。﹂
リオネがひとしきり感心したところで今回の会議は終わりを告げた。
﹁サーラさん、あの人たちは何処に行くんですか?﹂
いかだ
サクヤは柵の近くに横たわる死体を始末する手を止めると、水堀を
筏で渡る一団へ視線を向けて言った。
死体の処理は疫病の蔓延を防ぐためにも早急に行わなければならな
い。
ちなみに水堀の中に浮かんでいた水死体の多くは既にその姿を消し
ていた。
堀の南側の土手を崩してテーベ河に繋げたのだ。
そのおかげで鉄の鎧を着込んだ騎士以外の死体は、川の流れに乗っ
て海へと流されていく。
人道的にはどうかとも思うが、効率の面から考えればとても良い手
である。
577
ちなみにサーラ達が行っている柵の周りに横たわる死体の始末方法
は簡単である。
死体の装備をはぎ取りテーベ河に流すだけなのだから。
﹁あぁ、あの人たちは近隣の商人よ。商談に来て帰るところ。﹂
サーラは軽く返事をした。
﹁商人⋮⋮ですか?﹂
﹁えぇ、何?何か不審なところでもあった?﹂
サーラにそう言われてしまえばサクヤとしてもそれ以上言う事はな
い。
﹁いえ⋮⋮別に⋮⋮﹂
そういうとサクヤは再び視線を足ものとの死体へと向けた。
︵どういうことかしら?商人?こんな戦場に?⋮⋮いやそれよりも
私は彼らが来た姿を見ていない⋮⋮隠れて堀を渡ってきた?⋮⋮う
うん、もしそうなら帰りの姿だって隠すはずだわ⋮⋮︶
サクヤは湧き上がる興奮を抑えきれなかった。
それも当然だろう。
彼女が傭兵部隊にその身を投じて1月が過ぎようとしている。
その間に彼女が手に入れた情報は皆無といってよい。
︵もしかして⋮⋮何か重大な秘密でも!︶
578
そう考えたとしても無理もない。
事実、この時堀を渡った商人たちはある重要な役割を任されている
のだが、その事がわかるのはもう少したってからである。
尤もサクヤがその情報を調べ上げる可能性は0に等しい。
なぜならサーラがぴったりと張り付いて居たからだ。
︵どうしてこの人は私のそばから離れないんだろう?⋮⋮もしかし
て気が付いてる?︶
サクヤの脳裏にそんな不安がよぎる。
だがサクヤはその不安を打ち消した。
︵そんなはずない。もしバレテいたら私を生かしておくはずがない
もの⋮⋮︶
サクヤは御子柴亮真という人間を調べている。
どういう経緯でルピス王女に助力しているのかまではまだ調べきれ
ていないが、彼が容赦の無い人間であることだけは理解していた。
いや、否が応でも理解させられたと言う方が正しいかもしれない。
昨日の水攻めという策によって。
ピカッ
そんな事を考えながら作業を続けていたサクヤの顔に光が一瞬横切
った。
ピカッ⋮⋮ピカピカピカ
︵連続して2回、少し間を置いて3回⋮⋮雇い主がもう一回御子柴
亮真を暗殺しろと言うのね⋮⋮︶
579
潜入前に連絡員との間で取り決めた指令の連絡方法だ。
敵陣に潜入する以上、味方との連絡には細心の注意が必要である。
実際に会うのは勿論。
状況によっては密書が使えないこともある。
だから光の反射による連絡方法を事前に決めておいたのだ。
この方法の利点は敵に内容を悟られない事だろう。
その上、光の反射なら偶然を装うのにも困らない。
サクヤは表情を変えずに作業を続ける。
だがその秘められた心は冷たく研ぎ澄まされていく。
御子柴亮真暗殺という与えられた任務を遂行する為に。
︵確実に殺すなら接近戦に持ち込むしかないわ⋮⋮毒を塗った刀で
傷を負わせれば⋮⋮︶
前回、弓による狙撃を試みたが偶然にも亮真がその矢を避けてしま
い失敗している。
2度目の暗殺となれば今度はもう失敗は許されない。
尤もそうなれば彼女自身が生き延びるという可能性は限りなく低く
やら
なるのだが、彼女は覚悟を決める。
やる
︵殺か殺れるかだわ。︶
一流と呼ばれる暗殺者といえど命を賭けるには覚悟がいる。
だから彼女は気がつかなかった。
彼女の背中をじっと見つめるサーラの視線に。
2日目の夜が過ぎようとしていた。
580
月は雲に隠れ、陣屋を照らすのは所々におかれた松明のみである。
フッ
影が天幕と天幕の間を素早く駆け抜ける。
だがそれに気がつく歩哨は誰もいない。
黒い覆面に黒い服、手は黒の手袋に覆われ靴まで黒く染められてい
る。
そんな人間が松明の照らす範囲を的確に避け、風の様に駆け抜ける
のだから歩哨が気がつかないのも当然ともいえた。
︵ここか⋮⋮︶
影は目を凝らしてとある天幕を凝視する。
日中なら迷うはずもない敵司令官の天幕だが、光の無い闇夜で正確
に見分けるのは至難の業だ。
尤も暗殺に携わる人間としては夜目など利いて当たり前の事である。
影が注意深く確認したのはあくまでも用心深いからに他ならない。
影は腰に刷いた刀を抜く。
そして懐よりガラスの小瓶を取り出すと刀身に注意深く垂らし始め
る。
ドロリと粘着性のある黒みがかった液体が刀身を覆う。
影は小瓶に栓をすると懐に仕舞い、今度は一枚の布を取り出した。
布を刀身の根元に被せると力を入れすぎないように注意しながらゆ
っくりと刀身に沿って滑らせていく。
︵これでよし⋮⋮後は御子柴亮真をこの手で始末するだけ⋮⋮︶
黒い液体が刀身に適度に覆われている事を確認すると、影はゆっく
581
りと天幕の入口へと移動する。
亮真の天幕には警備兵が居ない。
自信があるのかわずらわしいから置かないのかは分からないが、彼
が自分の天幕に警備の兵を置かない事ははっきりとしていた。
これがもしここ数日の間で急に置かなくなったということならば影
は罠を心配しただろう。
だが御子柴亮真という人間が虚栄を嫌うと同時に、ある意味無頓着
と言えるほど自己の警備に無関心な事を影はここ1月の間の調査で
知っていた。
ろうそく
影は入口から素早く中へ視線を走らせる。
亮真が眠っているせいだろう。
天幕の中は完全に真っ暗であり、蝋燭の灯り一つない。
数人が囲む事が出来る会議用のテーブルが中央に置かれその奥には
亮真が普段使う机が置かれている。
ベット
ひとがた
入り口に向かって左側には亮真が付ける鎧や剣が立てかけられてい
た。
逆側には寝台が置かれその上に黒い人型の何かが横たわっていた。
だが闇に閉ざされた天幕内では、その何かの正体までは判別は不可
能であった。
影はそれ亮真が横たわる姿と判断し寝台へと静かに歩み寄る。
︵今のうちだ!︶
影は静かに刀を振り上げた。
チャンス
周囲にはだれも居ない。
チャンス
殺すなら今が最大の機会である。
その機会を生かさない暗殺者など存在するはずもない。
582
フヒュ
振り上げられた刀が鋭く風を切る。
影は自らの任務達成を確信した。
だがその確信は無情にも打ち砕かれる。
ガンッ
肉を斬る音とは似ても似つかない金属音が天幕に響いた。
そして呆気にとられて影が茫然とした一瞬の隙を逃さず後ろから忍
び寄り攻撃した人間がいた。
ドガッ
そいつの拳が影の横隔膜を的確に打ち抜く。
﹁グッ⋮﹂
影はのど元まで出かかった呻き声を必死で噛み殺した。
だがその噛み殺すという行為そのものが再び影を無防備な状態にす
る。
そいつは続けて影の右肩に拳をたたき込んだ。
正確に打ち込まれた拳が右肩の急所を打ち抜く。
影は腕の力を一時的に痺れさせ手にした刀を落とした。
︵不味い!罠だ!︶
影はようやく自らの陥った状況を理解した。
だが横隔膜を打ち抜かれた後遺症は影の体裁きに影響を及ぼす。
583
︵不味い⋮⋮身体のキレが戻らない!︶
右腕も痺れたままである。
徐々に痺れは取れ始めてはいるが、大きなハンデになっているのは
間違いない。
影は抵抗を諦め逃走経路を探して視線を配る。
︵天幕の入口はあいつの後ろに一つだけ⋮⋮でも今の状況じゃ突破
は無理。なら⋮⋮︶
下手な抵抗を考えず素早く逃走へと切り替えたのは影が一流の暗殺
者である事の証明である。
幸いなことに天幕は所詮布で出来ている。
木と違い布なら手持ちの刃物で切り裂き無理やりに抜け出しことも
出来る。
影は素早く身を翻すと、天幕の入口とは正反対の方へと走り出した。
ビビビビビッ
影は机の上を飛び越えると、その勢いのまま天幕へ刃を付きたて一
気に身体を押し込んだ。
﹁こんな夜更けにどうしたのかしら?﹂
天幕を飛び出した影の頭上からサーラの声が響いた。
﹁!﹂
584
影の覆面で隠された顔に同様の色が浮かぶのをサーラははっきりと
感じた。
﹁それほど驚くような事かしら?﹂
影はサーラの言葉を無視して周囲に視線を走らせる。
︵何処?何処が一番手薄なの!?︶
最後まで諦める事の無い影の姿勢ははまさにプロと言えた。
だがサーラが此処に居る以上、影が逃走出来る可能性は0である。
﹁無駄よ!﹂
サーラが手を挙げると闇の中から完全武装の傭兵たちがその姿を現
した。
リオネ・ボルツを先頭にその数およそ20。
如何に一流の暗殺者といえどその包囲網を突破する術などあるはず
もない。
﹁まず身体に仕込んだ武器を捨てなさい!﹂
サーラの命令に影は一瞬躊躇うと、懐へと手を伸ばす。
傭兵達の間に緊張が走る。
﹁大丈夫。⋮⋮良い!ゆっくりと出すのよ!﹂
傭兵達の動揺を抑えサーラは再び命令した。
︵油断は無し⋮⋮か。強行突破は無理ね⋮⋮︶
585
影は素早く計算すると懐から小瓶を取り出し足元へ捨てる。
チャンス
︵でも⋮⋮武装解除を命じるなら少なくとも殺されはしない⋮⋮な
らまだ機会はある。︶
影は強かに計算するとサーラの命令に従って、身体に隠した武器を
足元に放り出した。
自らが生き残る可能性に賭けて。
586
第2章第25話︵後書き︶
少し頑張って更新しました。
今後ともよろしくお願い致します。
※今まで小説を読もうにユーザ登録をされていた方のみの感想を受
け付けておりましたが、この度閲覧して下さった方全てに感想を書
き込んで頂けるように設定を変更いたしました。
もしご意見ご感想が御座いましたら遠慮なく書き込んで下さい。
誤字修正
宜しくお願い致します。
※8/19
587
第2章第26話︵前書き︶
助言してくださった方が居てキャッシュを調べたところ何とか前の
物を入手できました。
ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。
588
第2章第26話
異世界召喚171日目︻暗殺者︼その3:
月が雲の間から顔を出し辺りを照らす。
﹁まずは覆面を外して貰おうか。﹂
亮真の言葉に影は素直に従い、顔を覆う覆面の結び目へと移動させ
る。
ハラリッ
黒髪の傭兵、サクヤと呼ばれている女の顔が現れた。
﹁これでお互いの顔を見て話し合いができる状況になったわけだ。﹂
﹁話し合い?尋問の間違いじゃないの?﹂
亮真の言葉を聞きサクヤは馬鹿にしたように周囲を見渡す。
この天幕の中には、亮真とサクヤのほかに。リオネ・ボルツ・マル
フィスト姉妹といった面々が顔を揃えており、天幕の外は10人以
上の傭兵達によって警備網が敷かれていた。
確かに話し合いというには物々しい雰囲気ではある。
﹁その辺は認識の相違ってやつだろう?少なくとも俺は話し合いを
するつもりだよ。﹂
589
亮真の言葉にサクヤは胸を撫で下ろした。
︵とりあえず拷問の可能性は少なくなったわね⋮⋮問答無用で斬り
殺されるかと思ったけどそうでもなさそうだし。︶
ひとまず身の危険がない事をサクヤは理解した。
尤も彼女は完全に油断したわけではない。
あくまでも少し緊張の糸を緩めただけだ。
物理的な攻撃に対しての警戒は。
﹁それで?自分を殺しに来た暗殺者と何を話し合うつもり?﹂
﹁そう警戒しなくてもいいんじゃないか?﹂
亮真は苦笑しながら答える。
サクヤの身体に張りつめていた緊張が緩んだので、少しは友好的に
なるかと考えたのだが、それほど甘くはなかった。
サクヤの顔には身の安全に関しては信用するが、余計なことは言わ
ないぞ!とはっきりと書いてある。
︵さてと⋮⋮どうしたものかな⋮⋮︶
亮真としてはサクヤから何か情報を引き出すつもりはない。
彼女からもたらされる情報の真偽を確かめる術が無いからだ。
下手に嘘をつかれて騙されるより最初から完全に無視してしまった
方がある意味安全という判断である。
だがそうなるとサクヤという人間の利用価値が無くなる。
﹁別に何か聞きたいわけじゃないんだよね。どうせ喋ってくれない
だろうし、それが本当かどうかも判断できないしね。﹂
590
亮真の言葉にサクヤは顔色を変えた。
亮真の言葉を鵜呑みにすれば、サクヤを生かしておく必要は無くな
る。
︵こいつ、一体何が目的なの?︶
サクヤの中で生まれた小さな疑問は次第に彼女の心を不安で埋め尽
くしていく。
相手の狙いが分からないほど不安になる要素は無い。
﹁ならなぜ私を生かしておくの?利用価値なんて無いでしょ?﹂
そう言い放ちながらもサクヤは心の中である理由を導き出していた。
そう、女性としてはあまり的中して貰いたくはないある理由を。
︵もしかして私の身体が目当て⋮⋮?︶
彼女がそう思うのも無理はない。
彼女の外見は非常に優れている。
長く艶やかな黒髪。
健康的に焼けた小麦色の肌はきめ細かく張りがある。
暗殺者としての修練の所為か身体は引き締まっているが、胸は適度
のその存在を主張している。
つまり十分に男の欲望を掻き立てる美女なのである。
暗殺者として人の世の汚い部分を見続けてきたサクヤも女である。
力で男に無理やり犯されるという恐怖を潜在的に持っていた。
暗殺者として任務に失敗すれば命を失うという覚悟はある。
だが女としてその身をけがされる恐怖は消し去れるものではなかっ
た。
591
ましてや男を知らない身ならば尚更である。
︵いや⋮⋮それは無い⋮⋮もしそうなら女を同席させるはずが無い。
︶
サクヤは素早くリオネ達女性陣に視線を向けて自らの考えを否定し
た。
だがそうなるとなおさら御子柴亮真という男の狙いが理解出来なく
なる。
﹁まぁ個人的な興味ってのが一番の理由かな。﹂
亮真はサクヤの心の動きを敏感に感じながら答えた。
﹁個人的な理由?﹂
サクヤの顔に疑問の色が浮かぶ。
﹁これさ。﹂
亮真はサクヤが持っていた刀を彼女の前に突き出した。
﹁これがどうしたっていうの?﹂
サクヤにとって亮真が何を気にしているのかが理解できなかった。
長さは2尺3寸。
およろ70cm程の刀である。
確かに西方大陸では見かける事が少ない珍しい武器である。
それは理解できる。
だが自分を暗殺に来た人間を生かす理由としてはあまりに弱い。
592
﹁なぜこれを使っている?﹂
亮真の質問の意図をサクヤは理解できなかった。
暗殺者にとって刀はただの武器である。
人を殺す為の道具。
それ以外の理由など暗殺者であるサクヤには無かった。
亮真はサクヤの顔に浮かぶ戸惑いを見て質問を変えた。
﹁君は日本人か?﹂
だがサクヤの顔には亮真の予想した変化は起きなかった。
まるで意味不明な単語を聞いた人間の様な顔だ。
﹁何それ?どういう意味?﹂
サクヤの回答は亮真の予想を外した。
︵どういう事だ?刀を持っている暗殺者で黒髪に黒い眼、肌だって
日に焼けてはいるが黄色人種の物だ⋮⋮なのに日本人か?という質
問に何の反応も起こさない⋮⋮ただの偶然?⋮⋮いや、そんな偶然
等⋮⋮︶
亮真の中で様々な疑問が浮かぶ。
それまでサーラにサクヤの監視を一任していた為、サクヤの顔を亮
真は知らなかった。
遠目で彼女が黒髪の女であることを知ったのは2日前。
実際に彼女の名前がサクヤという事を知ったのは先日のサーラの会
議での報告でだ。
亮真は自覚していなかったが、彼女の名前をサーラから聞いたとき
593
に感じたのは懐かしさだった。
サクヤ。
漢字に直せば咲夜もしくは咲耶。
当て字なら他にも考えられるが、素直に考えればサクヤという名前
は日本人の名前である。
少なくとも純粋な西洋人に付ける名前ではないだろう。
︵同じ日本人かも!︶
アース
亮真がそう思うのも無理はなかった。
いや、この大地へ召還されて既に6ヶ月弱にもなる。
異郷の地に同胞が居たとなれば懐かしくて当然であろう。
ちなみにオルトメア帝国の斎藤に関して言うならば亮真は全く親し
みを感じていない。
彼と出会ったのは召還直後であり自分の身の安全も危ぶまれた時期
である。
まして亮真にとって恨み骨髄の帝国に与して亮真の命を狙ってきた
のだから、印象が最悪なのは当然であった。
その点でいえば暗殺者も斎藤と同じく亮真の命を狙ってきたとはい
え、背後関係も不明なら動機も不明。
単純に敵だからと切り捨ててしまうのは人情としては難しい。
無理やり召還されて暗殺者にされた気の毒な人間の可能性だってあ
るのだから。
しかもサクヤは女性であり美人である。
もし困っているのなら助けてやりたいと思っても不思議ではない。
御子柴亮真は冷酷で冷徹な人間ではあるが、人間である以上優しさ
や労りといった感情も持ち合えわせている。
矛盾しているが人間というのはそういうものだ。
会社ではものすごく面倒見の良い上司が家庭では家庭内暴力を奮う
594
場合もあるし、逆に会社では高圧的で嫌味な人間が家庭では人情味
のある温かい家庭を築く場合だってあるのだ。
その点でいえば亮真はある意味分かりやすい。
彼の行動原理は簡単である。
生き残りたいのだ。
自分が生き残る。
その為に必要であるならば彼は何人でも殺すだろうし、それを後悔
することはないだろう。
だが自分の生命がある程度安全であり、目の前に困っている人間が
いればどうか?
出来る範囲で力になってやろうとするのは人間として自然な行為だ
ろう。
絶対に助けてやれるとは限らない。
問題が自分の力を遥かに超えている場合だってあるからだ。
だが少なくとも話は聞いてやる。
それが人間である。
そういう要素も含めた上でのサクヤの捕縛である。
極端な話、そんな理由でもなければ御子柴亮真という人間が自分の
命を狙った暗殺者を殺さない理由など無いのだ。
だからサクヤが日本人という言葉に反応を示さないのは亮真にとっ
て誤算だった。
﹁本当に日本人じゃないのか?﹂
﹁しらないわ、一体どこの国?西方大陸の国じゃないわね?﹂
再度問いかける亮真の問いにサクヤははっきりと答えた。
595
﹁ならなぜ日本刀を使う?﹂
亮真は少し考え込みながら尋ねる。
亮真はもう一つの可能性を思い描いていた。
そう、海鳴り亭の女将に紹介された鍛冶屋の親父が言っていたでは
ないか。
東方大陸と呼ばれる地では刀を使うと。
︵東方大陸の人間なのか?︶
亮真は当然そう思った。
だがサクヤの言葉は再び亮真の予想を覆す。
﹁日本刀?それは私の一族に伝わる刀という武器よ。﹂
﹁一族に伝わる?﹂
サクヤの回答に亮真は違和感を感じた。
﹁そうよ。私達の一族は刀を使ってきたの。ずっと昔から。﹂
﹁東方大陸出身なら誰でも使うんだろう?﹂
﹁東方大陸?私達は西方大陸から出た事は無いわ。﹂
此処までの情報を整理してみよう。
サクヤという名の女性は、日本人の外見的特徴を満たしている。
また使う武器も日本刀である。
だが日本人、もしくは日本刀という言葉を知らない。
これは現代日本人なら考えられない事である。
596
となれば、サクヤがこの世界に無理やり召還された地球人である可
能性は皆無と言える。
ではサクヤ東方大陸出身なのだろうか?
身体的な特徴が地球人である日本人と異世界人である東方大陸人に
共通するかどうかは不明だが、可能性はある。
そう考えるならサクヤという名前も東方大陸人には付けてもおかし
く無いのかもしれない。
しかも以前鍛冶屋の親父から聞いた話では、東方大陸なら刀を使う
らしい。
と、すれば刀を武器としている理由は納得がいく。
︵全て可能性の話で確証はない。でも⋮⋮そう考えるなら説明は付
く︶
そこまで考えて亮真はその可能性を自分で否定した。
彼女は一族の武器と言った。
もし彼女が東方大陸の人間なら、﹁私の一族に伝わる刀という武器
よ。﹂とは言わない。
少なくともサクヤは刀を一般的な武器とは捉えておらず、それを使
うのは自分の一族のみと言う認識だと考えられる。
︵一族⋮⋮一族ねぇ⋮⋮︶
サクヤの言葉を証明する証は何もないが、亮真はサクヤの言葉を疑
ってはいなかった。
嘘をつく意味が無いからである。
暗殺者という職業を考えれば依頼人の素生に関して素直に喋るとは
考えにくい。
もし話すとすれば9割以上嘘と判断できる。
597
だが亮真が聞いたのはそういった内容とは無関係な情報である。
勿論敵に教えたくない場合もあるだろうが、もし教えたくないのな
ら沈黙を守ればいい。
わざわざ嘘をつく必要性が無いのだ。
そう考えば彼女の言葉は信用できる。
﹁じゃあサクヤの一族ってのはみんな刀を使うのか?﹂
亮真は質問を変えた。
﹁そうよ。﹂
﹁本当に東方大陸の出身じゃないんだな?﹂
亮真の念押しにサクヤは黙って首を縦に振った。
沈黙が天幕を支配した。
マルフィスト姉妹はもともと亮真の邪魔はしないし、リオネやボル
ツも沈黙を守っている。
言いたい事はあるのだろうが、成り行きを見守るという姿勢である。
﹁姐さん⋮⋮若は一体何を知りたいんですかね?﹂
ボルツが隣に立つリオネにそっと耳打ちをした。
﹁さ∼ね⋮⋮ただ坊やの策に必要とかそういう話じゃ無いね⋮⋮﹂
﹁やはりそうですかい⋮⋮﹂
598
﹁何か個人的な理由だね⋮⋮多分。﹂
亮真のやり取りを見ていればそんくらいの事はこの天幕の中に居る
誰もが理解していた。
﹁まぁ何にしても今は黙って見てるしかないね。﹂
リオネの回答にボルツは黙って頷いた。
﹁一族か⋮⋮どれくらいの人数が居る?﹂
長い沈黙を破り再び亮真はサクヤに尋ねた。
︵どういうつもり?なぜ一族の事を気にするの?︶
サクヤは亮真の問いにどんな裏があるのか必死になって考えた。
だがどれほど考えてもこれだという理由が見つからない。
﹁200名ぐらいよ⋮⋮﹂
サクヤは遂に答えた。
﹁200名⋮⋮﹂
亮真は言葉を詰まらせた。
200名。
言葉で言うのは簡単だが、現実的にはかなり多い。
結婚式を思い浮かべてみればいい。
599
新郎新婦の親戚一同に友人関係を含めても普通の人間はせいぜい1
00名がいいところである。
それが新郎の親戚一同で200名となれば其の多さもイメージが付
くのではないだろうか。
亮真が驚くのも当然と言える。
﹁200名ってことは⋮⋮どこかの村に集まって住んでるのか?﹂
200名と言えば小さな村なら総人口にすら匹敵する。
だが亮真の言葉にサクヤは首を振った。
﹁いいえ。﹂
﹁じゃあ、町に分散して住んでる?﹂
亮真の問いに再びサクヤは首を横に振った。
﹁いいえ。﹂
サクヤの言葉に亮真は戸惑う。
集まって住んでるわけでも分散して住んでるわけでもない。
となれば考えられるのは。
﹁放浪してるのか?﹂
亮真の問いにサクヤは頷いた。
その時天幕の中に男のしわがれた男の声が響く。
﹁致し方あるまい。それがわが一族の運命よ⋮⋮﹂
600
第2章第26話︵後書き︶
何時もウォルテニア戦記改訂版をご覧下さり有難うございます。
今回より再び頂いた感想に返信を付けさせて頂く事にしました。
仕事が忙しく中々返信をする時間が無かったので、ずっと返信が出
来なかったわけですが、仕事も最近は落ち着いてきましたので26
話の投稿を期に再び感想に返信をさせていただきます。
ただ以前に頂いた感想に返信するのもいまさらなような気が致しま
すので、申し訳ありませんが26話投降後に頂いた感想よりと言う
事にさせて下さい。
身勝手ではありますがご理解の程、宜しくお願い致します。
601
第2章第27話
異世界召喚171日目︻暗殺者︼その4:
天幕に響き渡った声が収まると、一人の老人が天幕の入口に降り立
つ。
天幕の上に居たのだろうか?
確かに天幕を支える柱の上に乗れば乗れない事は無いだろうが、身
軽さは大したものである。
﹁亮真様⋮⋮﹂
サーラとローラが素早く俺の脇を固めると小声でささやいた。
﹁良い。そのまま待機だ﹂
亮真も小声でささやき返しリオネ達へも小さく頷いて彼らへ待機を
命じる。
︵さぁて、暗殺者の一族か⋮⋮どういう話をするか見ものだな ︶
奇襲を掛けてくるならともかく、今の状況で暗殺者が一人増えたと
してもあわてる必要はない。
亮真は好奇の目を向ける余裕があった。
サクヤの視線が老人の顔に突き刺さる。
余程予想外の人間が現れたのだろう。
彼女の顔は驚きで引きつっていた。
602
﹁お爺様⋮⋮何故此処に⋮⋮﹂
サクヤの口からそんな言葉が漏れた。
白い髪に白い髭。
サクヤと同じように黒い服に黒い靴を身に着けた老人の顔一面には、
深い皺と傷が刻み込まれており彼の過酷な人生を色濃く物語ってい
る。
そして彼の左手には少し弧を描くように曲がった杖を持っていた。
﹁ほぉ⋮⋮ワシが来ても驚かぬか⋮⋮状況を理解できぬほどの馬鹿
なのかそれとも大物なのか理解に苦しむところじゃなぁ⋮⋮﹂
うそぶ
老人はサクヤの問いを無視し周囲にすばやく視線を配るとそう嘯い
た。
﹁いや、十分に驚いていますよ? 何しろご招待していないお客様
のご来場ですからね﹂
亮真はにこやかな笑みを浮かべて言い返すが、周囲の反応に目をや
れば老人の目には彼らが驚いているようには見えなかった。
︵大した者だ。この若造⋮⋮完全にこの場に居る人間を支配してお
る ︶
老人は少なからず驚きを感じた。
トップが泰然としていれば部下も動揺することは無い。
つまり部下を若い御子柴亮真と言う人間が完全にコントロールして
いるという事だ。
603
﹁フン! まあ良い⋮⋮ワシが聞きたい事は唯一つよ⋮⋮貴様そこ
の娘を殺さない? 自分を殺しに来た暗殺者など生かしておいて何
になる?それになぜワシを捕らえようとせん? ﹂
﹁おや、それを理解されているからご老人はこの天幕に姿を現した
のでしょう? ﹂
亮真はニヤつきなら答える。
サクヤを助けるだけならば態々声を掛けて姿を現すなどしない。
老人が姿を現したという事は、亮真に対して敵意を捨てたという証
である。
ひのもと
﹁成る程な⋮⋮状況判断は出来ていると言うことか⋮⋮なかなかに
冷静だな若造⋮⋮では改めて聞こう。貴様は日ノ本の民だな? ﹂
老人は亮真へ問い返した。
その目には一切の嘘を許さないという揺ぎ無い意思の力が込められ
ひのもと
ている。
ひのもと
日ノ本とは古い言い方で日本を意味する。
つまり日ノ本の民と言えば日本人の事を指すのだ。
だが現代人はそんな言葉を日常会話の中で使用することは無い。
使うとすれば時代小説の中に書かれるのが関の山といえる。
ひのもと
﹁えぇその通り。確かに俺は貴方の言う日ノ本の人間ですよ﹂
亮真は老人の言葉に頷ずくと心の内で老人の言葉からある答えを導
き出す。
ひのもと
︵日ノ本の民か⋮⋮こんな古風な言い方をするってことは⋮⋮やっ
604
ぱりか⋮⋮ ︶
ひのもと
もののふ
ちゅうちょ
﹁ふむ⋮⋮近頃の日ノ本の民は戦を忘れ腑抜けばかりと聞いていた
が⋮⋮まだ貴様の様な武士がいたとは⋮⋮驚きよ﹂
そういうと老人はサクヤの方へと向き直る。
﹁サクヤよ、立って服を脱げ ﹂
﹁え?⋮⋮ここ⋮⋮でですか? ﹂
老人に言葉にサクヤの顔色が変わる。
暗殺者とはいえ女性。
彼女はその場に立ち上がりはしたが、服を脱ぐ事には躊躇が見られ
た。
とまど
まぁ特殊な嗜好を持った人間でない限り、複数の人間がいる中で裸
になる事を躊躇わない人間などいないだろう。
﹁くどい! ﹂
カチャ
老人の言葉と同時に杖から銀の光が一瞬あふれたかと思うと、再び
元の杖へと吸い込まれた。
それを見た亮真の目が鋭く光る。
亮真の目は老人の右手が一瞬の間に杖に仕込まれた刃を抜き放ち、
サクヤの着物を下段から斬り上げたのを捉えた。
﹁ほう⋮⋮居合ですか。大した腕前ですね。肌に傷を付けず服だけ
切断するとは⋮⋮﹂
605
亮真の言葉に呼応するかのようにサクヤが身に付けていた服が左右
にゆっくりと離れていく。
老人は亮真の言葉に笑みを浮かべると、サクヤの身体をジロジロと
確認しだした。
老人の手がサクヤの肩を触る。
﹁ふん、思った通りか⋮⋮正確に急所に一撃を加えておる。しかも
この打撃痕の小ささ⋮⋮唯の拳では無いな⋮⋮貫手か?﹂
亮真は老人の問いに黙って拳を突き出す。
﹁ふむ⋮⋮成る程、人差し指の第二関節を突き出すようにして作っ
た拳か⋮⋮確かに急所を狙うには効果的だな⋮⋮﹂
突き出された拳の形を見て老人が呟く。
﹁えぇ。一本拳と言う握り方です ﹂
亮真の答えに頷くと老人はサクヤの腹部に手を触れる。
﹁痛っ! ﹂
サクヤの顔が苦痛に歪む。
﹁ふむ。こちらは拳による打撃か⋮⋮成る程のう。狙う箇所によっ
て拳の握りを変えるか⋮⋮ワシらの一族にも似たような技が伝わっ
ておる⋮⋮これは呼吸を妨害する為の技じゃな? ﹂
﹁えぇ ﹂
606
老人の問いに亮真は頷いた。
﹁サクヤ程度⋮⋮何時でも殺せたという事か⋮⋮大した腕じゃなそ
なた ﹂
そう言うと老人は深くため息をつく。
それがサクヤの実力に対しての嘆きなのか、亮真の技量に対しての
感嘆なのかは誰にも判らなかった。
急所を突く。
言葉は簡単だが実戦の場でそれを行うには両者の間に明確な実力の
差が無ければ難しい。
目や金的と言った軽く当たっても重大な怪我に繋がる急所と違い、
肩や横隔膜への打撃は効果を発揮する為にある程度のパワーと的確
な角度というものが必要になる。
ただ当てれば済むというものではないのだ。
そして一流の暗殺者であるサクヤの急所を、不意打ちとはいえ暗闇
の中で的確に打ち抜くという事は、御子柴亮真と言う人間の技量を
正確に表している。
﹁不意打ちでしたからね。正面から戦えばどうなるかは判りません
よ ﹂
﹁バカが。正面から戦う暗殺者が居るか? ﹂
老人の言葉に亮真は苦笑せざるをえなかった。
まさしく老人の言葉は正論だったからだ。
﹁それもそうですね⋮⋮おっと、とりあえずサクヤさんがお気の毒
607
なのでこれをどうぞ﹂
亮真はそういうとベットの上から毛布を手に取りサクヤへと渡す。
﹁ア⋮⋮ありがとう ﹂
﹁いえいえ、俺にとっても目に毒ですからね ﹂
亮真の言葉を聞いてサクヤはとっさに胸を手で隠した。
自分の上着が切り裂かれて胸をはだけていた事を思い出したのだ。
﹁ふん。貴様、女を知らんわけではあるまい? ﹂
﹁知る知らないではないですよ。ま!女性に対する最低限の礼儀っ
てやつですかね﹂
亮真は老人の言葉に肩を竦めて答える。
亮真は女好きではあるが、少なくとも服を切り裂かれた女性の裸を
不躾に見る趣味は無い。
個室で二人っきりと言うのならともかく、周りに人がいる状況では
尚更だ。
まぁこの世界ではその配慮が当然なのかどうかは判らなかったが、
亮真は命にかかわる場合以外では自分の常識を無理に逸脱しようと
は考えていなかった。
﹁さてと⋮⋮ではこちらも幾つかお聞きしたい事があるんですが宜
しいですかね?﹂
亮真は話題を変えた。
608
何時までも老人の質問に答えている訳にはいかない。
まだこの老人が何者で、なぜ姿を現したのかも不明なのだから。
﹁かまわん⋮⋮だが貴様は答えの殆どを予想しているだろう? 今
さらワシに何を聞く?﹂
老人は亮真の問いに答えた。
﹁予想と現実は違いますからね ﹂
亮真の言葉に老人は考え込んだ。
﹁成る程⋮⋮慎重じゃな⋮⋮まぁ一軍を率いるとなれば当然か⋮⋮
良かろう。答えてやる ﹂
﹁ではまず確認ですが、貴方達の一族は昔召還された方の末裔です
ね? ﹂
﹁そうじゃ、初代達がこの世界に呼ばれたのは今から500年程前
に召還されたと伝わっておる⋮⋮ ﹂
亮真の問いに老人はあっさりと答える。
﹁500年ですか⋮⋮? 達?一人じゃないってことですか? ﹂
老人の回答に一部予想外の単語が混じっている事に亮真は気が付い
た。
﹁そうじゃ、わしらの先祖は村ごと召還されたからな ﹂
609
﹁村ごと⋮⋮ですか? ﹂
亮真の言葉に老人は頷く。
﹁そうじゃ⋮⋮まぁ20名程の小さな村だったらしいがのう⋮⋮﹂
伝え聞くところによれば、彼らの先祖は家で布団を覆って寝ている
アース
リアース
状態で召還されたらしい。
まぁ時間の流れが大地と裏大地で同じ様であるから、夜間に召還の
儀式をされればそういう事もあり得るだろう。
﹁なら今も村ごと召還されるという事が起こりえるんですか?﹂
亮真の知る限りではそんな怪奇現象を聞いた覚えがなかった。
情報が世界中に飛び回る現代である。
村ごと人が消えるなんて事が起これば話題に上らないはずが無い。
﹁いや、それは過去の話よ。今は召還に必要な触媒が稀少で高価に
なった所為で、よほどの大国でも年に数人を召還するのがやっとの
はずじゃ ﹂
︵という事は⋮⋮俺は相当に運が悪いってことか⋮⋮︶
1国で年に数人。
世界にどれほどの国があるか判らないが年間にしても200∼30
0人といったところか。
亮真は決して自分が運の良い人間だとは思っていなかったが、老人
の言葉を聞いて自らの運の無さを呪わずにはいられなかった。
﹁成る程⋮⋮では次に何故今も暗殺者を? ﹂
610
500年前に召還された。
その事は良い。
だがそんな昔に召還されたとして何故、今暗殺者などと言う家業を
しているのだろう?
そもそも一族単位の暗殺者とは一体どういうことなのだろうか?
亮真はその点を確かめたかった。
らっぱ
﹁わが一族は乱波よ ﹂
すっぱ
亮真とサクヤ以外の誰もが老人の言葉をきょとんとした顔で聞いて
らっぱ
いる。
乱波とは素波とも草とも呼ばれるある特定の職業の事である。
他にも様々な名前で呼ばれるが尤も有名でなじみ深い名前はこれだ
ろう。
忍者。
そう、サクヤの一族は忍者の一族だったのである。
︵成る程ね⋮⋮先祖が召還されてから500年も経っているのに一
アース
族がこうして残っている訳が判ったぜ⋮⋮︶
確かに忍者が戦乱の大地に召還されればその技術を使わないなどと
言う事はありえない。
彼らは500年の間を自らの戦闘技術を磨く事で生き抜いてきたの
だ。
そして乱波であるという事はサクヤ達は暗殺者と言うだけではない、
破壊工作も、情報かく乱もそして要人の警護もできるという事だ。
﹁そういう事ですか⋮⋮ちなみに何処の流派ですか? ﹂
﹁さあな、乱波は乱波。盗み奪い殺す。ただそれだけよ ﹂
611
確かに流派の名前など意味は無い。
人の世に広める事を考えれば必要だろうが、一族でのみ伝えられて
いくのなら他人の技術と区別する為の名前など必要が無いのだ。
﹁ちなみにご先祖様が住んでいた地方の名前って判ります? ﹂
﹁地名はしらん。ただ大きな湖の近くの山に住んでいたとだけ伝わ
っておる ﹂
老人は亮真の問いに正直に答えた。
隠す価値など無い情報だからだ。
︵湖⋮⋮琵琶湖か?という事は伊賀か甲賀の出身ってことか⋮⋮︶
まぁ有名な忍者の里である。
可能性としては十分にあり得る。
﹁そうですか⋮⋮では最後に⋮⋮貴方は先程、俺の問いに対して﹃
それがわが一族の運命よ⋮⋮﹄と言われた。⋮⋮どういう意味です
? ﹂
亮真の最後の疑問だ。
そしてこの答えは亮真にとっても予想が付かない。
日本の忍者は特定の地域に住居し必要に応じて雇い主を探すか、特
アース
定の主に仕えるかのどちらかだ。
戦乱の大地ならいくらでも彼らの力を欲する権力者は腐るほど居た
筈だ。
それが500年も放浪している。
何か特別な理由が無ければ考えられない状況だ。
612
﹁ふむ⋮⋮それは部外者には言えぬ。一族の掟に触れる故にな ﹂
老人の顔が意味深に歪んだ。
﹁そうですか、失礼しました ﹂
亮真は老人の答えを聞くと素直に頭を下げた。
﹁ほぉ⋮⋮貴様、興味が無いのか?﹂
あまりに亮真の態度があっさりとしている為か老人が探るように尋
ねる。
﹁俺は他人の秘密を探る趣味は無いんでね。⋮⋮それに好奇心は猫
を殺すともいうしね ﹂
人間として、他人の秘密に興味を持つのは本能ともいえる。
隠されれば隠されるほどに興味を惹かれるのは当然だ。
だが、秘密が秘密として隠されているにはそれなりの理由がある。
いがさ
他人にとっては大した事が無くとも本人にとっては命より重い秘密
というものだってあるのだ。
︵余計な事を知って命を狙われたら堪らないからな⋮⋮︶
げんおう
命の価値が軽いこの世界で余計な危険を冒す必要などない。
亮真はそう考えていた。
きげんおう
﹁大した自制心だな⋮⋮善し気に入った! ワシの名は厳翁、伊賀
崎厳翁じゃ。以後よろしゅうにのう ﹂
613
﹁以後?⋮⋮ですか?﹂
亮真は厳翁の言葉に戸惑った。
あまりいも突然の話だったからだ。
﹁?何を言っておる。サクヤを助けたのも自分の仲間にしたかった
からであろう?ならその祖父であるワシも一緒に仲間になってやる
というとるんじゃ! ﹂
げんおう
厳翁はしてやったりという顔をした。
今までしかめっ面をしていた分、笑うと好々爺と言った感じになる。
﹁お爺様⋮⋮?﹂
サクヤは恐る恐る尋ねた。
﹁なんじゃサクヤ不満でもあるのか?⋮⋮任務に失敗したお主は本
来なら死なねばならぬ。じゃがせっかく御子柴殿が助けて下さった
命じゃ。この方の為に使ったとて罰はあたるまい?﹂
げんおう
厳翁は亮真の事を御子柴殿と呼んだ。
若造・貴様からランクアップしたということは間違いなく亮真に仕
える気らしい。
﹁え⋮⋮いえ⋮⋮はい ﹂
げんおう
サクヤも厳翁の決意の固さを悟り頷かざるを得なかった。
﹁かまわんじゃろ?御子柴殿 ﹂
614
げんおう
厳翁の問いに亮真は考え込んでしまった。
確かに日本人ならば助けてやるつもりだった。
げんおう
サクヤの暗殺者の力量を上手く利用したいと思ったのも確かだ。
だが突然やってきた厳翁の所為で話がとんでもない結末を見せ始め
る。
︵どうなってる? ︶
亮真にとっては渡りに船ともいえる。
ローラ・サーラ姉妹以外はあくまでも同盟関係にあるにすぎない。
リオネやボルツと言った傭兵団はまだ個人的に信用できるが騎士団
に関して言えば何時裏切られても不思議では無い。
彼らが亮真の指揮に従うのはルピス王女が亮真の指揮を認めている
からに他ならない。
もしルピス王女が亮真を見限れば、騎士達は途端に亮真の指揮を無
視するだろう
だから腕利きが亮真の仲間になる事自体は歓迎するべき事だ。
だが⋮⋮
︵話が急すぎる⋮⋮俺を殺しに来たやつらだぞ?だが⋮⋮確かにこ
いつらの腕は利用価値がある。本当に味方になるなら悪くない⋮⋮
問題はこいつらが何が目的でそんな事を言い出したか⋮⋮もし本気
だったら⋮⋮ ︶
げんおう
亮真の視線が厳翁に突き刺さる。
両者の間で火花が散った。
﹁良いだろう ﹂
亮真は決心した。
615
使える手駒は欲しいのだ。
︵諜報が出来る人間は欲しい⋮⋮問題はこいつらの持ってくる情報
が正しいかどうか⋮⋮いや⋮⋮そこは俺の判断力次第だな ︶
さくや
﹁ではわが孫娘の咲夜共々仕えさせて頂きますぞ。主殿 ﹂
げんおう
厳翁は咲夜を促して亮真へ頭を下げた。
616
第2章第27話︵後書き︶
何時もウォルテニア戦記改訂版をご覧下さりありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。
617
第2章第28話
異世界召喚171日目︻暗殺者︼その5:
﹁お爺様!何故あのような事を! ﹂
げんおう
咲夜は抑えていた苛立ちを厳翁へとぶつける。
げんおう
此処は堀を渡ったところにある森の中。
周囲には咲夜と厳翁の二人だけである。
夜空に浮かぶ月だけが二人のやり取りの目撃者だった。
﹁何を怒っておる? ﹂
げんおう
厳翁の冷静な声が余計に咲夜の心を刺激する。
﹁何をって⋮⋮あの男の本気で仕える気ですか! ﹂
﹁不満か? ﹂
げんおう
咲夜の怒りを厳翁は軽く受け流す。
﹁不満が無いわけが無いでしょう! 第一、請け負った依頼を放棄
した上に暗殺の対象者に仕えるという事を素直に頷けるはずがない
でしょう!大体何故お爺様があの場に現れるのです!今回の仕事は
私に一任されていたはずです! ﹂
咲夜の口から次々に不満の言葉が飛び出る。
618
彼女は18歳にして一族の若手の中でも腕利きと評判をとっている。
其の自分が仕事を失敗したうえに捕らわれの身になった。
げんおう
それだけでも腹立たしいのに、その場に一族の長老の一人である祖
父が姿を現す。
一族の長老の一人として現場に出てくる事が無い厳翁がその場に出
向いたという事は、咲夜の実力を長老衆は疑いの目で見ていると言
う事の他ならない。
自他共に咲夜の実力を認めていると思っていただけに咲夜の心は屈
辱で張り裂けそうだった。
げんおう
その上、祖父は勝手に自分と咲夜を御子柴亮真に仕える事にしてし
まった。
怒りを持つなと言う方が無理であろう。
しかし、血の繋がったの祖父とはいえ咲夜と厳翁、二人の間には絶
対的な身分の差がある。
何れは祖父の跡を継いで長老衆の一人になるとはいえ、それはまだ
まだ何十年も先の事、今はタダ腕が立つ下忍の一人に過ぎない。
其の長老に文句を言うのだから余程頭に血が上っていると言える。
︵こやつ⋮⋮まだまだ心の修行が足りぬ⋮⋮この程度で激昂すると
げんおう
は⋮⋮まぁ良い⋮⋮今回は見逃してやるとするかのう⋮⋮︶
げんおう
怒りの冷めやらぬ咲夜に冷たい視線を向けながら厳翁は心の中で呟
いた。
普段なら咲夜のこのような物言いを許す厳翁では無い。
だが彼は今、すこぶる機嫌が良かった。
咲夜を殺す事をしなかったのだから。
﹁貴様、誰に口を利いている ﹂
げんおう
その場の空気が殺気に満ちる。
厳翁の目が糸のように細まり咲夜の顔に突き刺さる。
619
ガタッ⋮⋮
咲夜の背が氷水を浴びせられたように冷気が走り、膝から崩れる。
わきま
︵殺される⋮⋮ハッ!私⋮⋮は何を⋮⋮︶
自分の言動が如何に身分を弁えぬ言葉だったかを悟り、咲夜の心が
一気に冷める。
長老衆は老いぼれの養老院ではない。
確かに彼らは暗殺などの依頼を受ける事は無い。
だがそれは彼らが弱者であるという事の証ではないのだ。
彼らは人生の殆どを汚れ仕事に従事してきた。
そして齢60を数えるまで生き残ってきた生え抜きの猛者である。
腕利きとはいえ18歳である咲夜とは命のやり取りをした経験の量
は比べるまでもない。
﹁も⋮⋮申し訳ありません﹂
咲夜は謝罪の言葉を絞り出すだけで精一杯になった。
叩き付けられた殺気が咲夜を現実へと引き戻す。
﹁よい⋮⋮﹂
げんおう
厳翁は足元にひれ伏した孫娘から視線を外した。
﹁まぁお主の言い分も判らぬではない。だがな、あの男を殺すのは
惜しい ﹂
﹁利用価値があると?⋮⋮しかしそれでは契約が⋮⋮﹂
咲夜は恐る恐る問い返しす。
620
暗殺者にとって契約は非常に重大だ。
信用の無い物に暗殺の依頼など来るわけが無い。
ましてや、暗殺対象に勝手に仕えるなど許されるはずもない。
げんおう
一族の死活問題になりかねないのだ。
だが咲夜の抗議を厳翁は鼻で笑った。
﹁くだらん。契約など意味は無い! 貴様もわが一族が受けてきた
屈辱は嫌という程に知っておろうに!お前は本当にあのゲルハルト
とかいう貴族が、我らに約束した報酬を払うと本当に思っておるの
か? ﹂
げんおう
厳翁の言葉に咲夜は抗弁の言葉を無くした。
契約前では調子の良い事を並べながら、いざ仕事が終われば報酬の
支払を渋るのは当たり前。
悪辣な人間なら兵を出して殺しに掛かる。
咲夜もまた過去に幾度も依頼人から裏切られてきている。
ましてや、ケチと評判高いゲルハルト公爵である。
今回提示してきた金額はかなり高額ではあるが、それがまともに払
われるかどうかは別の問題なのだ。
﹁ですが⋮⋮それでは我らに依頼してくる人間が今後減るのでは⋮
⋮?﹂
﹁構わん、別にこの国で仕事が出来なくなろうとも困りはせん。所
詮我らは漂泊の民。別の国で仕事をすれば良いだけよ。ワシらの腕
を欲しがる国はどこにでもあるしのぅ。それよりワシはあの男が気
に入ったのじゃ⋮⋮ひょっとするとアヤツ⋮⋮ ﹂
げんおう
厳翁は其処で言葉を切った。
621
︵⋮⋮まだ咲夜には言えんな⋮⋮それに長老衆に報告もせねばなら
んし⋮⋮しかしあの男⋮⋮ただのお人好しなら期待外れだが⋮⋮も
しそうでないなら⋮⋮ワシらの放浪は終るかもしれん⋮⋮︶
げんおう
厳翁は心の中で呟くと今日の出来事を思い出す。
げんおう
咲夜が捕らえられた時、厳翁は孫娘の死を覚悟した。
一族の中でも腕利きである咲夜が暗殺に一度は失敗した相手である。
げんおう
長老衆としても、ただ命令を与えるだけというわけには行かなかっ
た。
だから祖父である厳翁が保険として出張ってきたのだ。
げんおう
咲夜の実力を確認するのと共にもし彼女が2度目の暗殺に失敗した
其の時は、厳翁自らの手で任務を遂行する為に。
げんおう
だが祖父の色目を抜きにして見ても咲夜の行動は大したものだった。
身軽さ、気配の消し方、覚悟の決め方。
どれもが十分に一流の水準を誇っていた。
だが相手が悪かった。
げんおう
悪すぎたと言ってよい。
のぞ
長く修練を積んだ分、厳翁の夜目は咲夜よりも利く。
上に張られた天幕の一部を切り裂いて作った覗き穴から、厳翁は亮
真の策の一部始終を見ていたのだ。
︵寝台の上に鎧を着せた死体を置いて自らは鎧を着込んで置物のよ
うに座っているとはな⋮⋮︶
亮真は天幕の隅に置いてある鎧を着込んで置物のように座っていた。
ただそれだけのことだが、天幕内に明かりが無ければ十分に騙せる
のだ。
そして寝台の上に鎧を着せた死体を置いて咲夜が来るのを待つ。
622
まさか寝ている人間が鎧を着込んでいるなどとは思いもしない咲夜
は、振り下ろした刀が鎧に弾かれ一瞬の隙を作ってしまった。
隙を作った人間の急所を打つなど御子柴亮真にとっては容易い事だ
げんおう
っただろう。
厳翁は亮真の策に関心するしかなかった。
﹁あの⋮⋮お爺様⋮⋮?何故あの男に仕えるのです? ﹂
ふけ
黙りこんで思案に耽る厳翁︽厳翁︾へ咲夜が声をかけた。
咲夜としてもこの点だけは祖父の怒りを覚悟してでも聞かなくては
ならない。
﹁わが一族の放浪が終るかも知れないからだ ﹂
﹁え?!﹂
げんおう
厳翁の言葉に咲夜は驚きを隠せなかった。
彼らの一族は500年の長きに渡りこの世界を放浪してきた。
それが終わりを告げるかもしれないという。
﹁それはどういう事ですか⋮⋮?﹂
﹁お前はまだ知らなくてよい⋮⋮あくまでも可能性に過ぎぬのだか
らな⋮⋮さて、話はもうよいか?貰った期限は2日だからな。もう
行かねば間に合わなくなるぞ ﹂
げんおう
厳翁はそういうと北に向けて森の中を進みだした。
一族が野営しているのはイラクリオンの北20Km程の所にある森
の中だ。
亮真から貰った猶予は2日である。
623
鍛え抜かれた身体能力を優れる二人と言えど、2日の期限内で往復
した上に長老衆への報告をするとなればギリギリの日程である。
﹁はい﹂
げんおう
咲夜は頷くと厳翁の背を負って歩き出す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
げん
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
異世界召喚172日目
おう
﹁一体どういうおつもりだ!そもそも咲夜が使命を果たせぬ時は厳
翁殿が変わりに遂行するという手筈だったではないか!それを勝手
に中止し暗殺の対象に仕える約束をしてくるとは!一体何をお考え
か! ﹂
長老の一人が罵声を張り上げた。
それも当然と言えよう。
祖父の横に座らせられた咲夜としても彼が言う糾弾の正当性は認め
ざるを得ない。
﹁そ⋮⋮それは⋮⋮﹂
だが咲夜としても言いたい事はある。
少なくとも彼女は任務の遂行を諦めるつもりは無かったのだ。
長老の一人である祖父に従ってやむなくそうなっただけの事。
咲夜はそう言おうとしたした。
624
﹁黙れ。貴様になど聞いてはおらん⋮⋮だいたい貴様が暗殺を失敗
しなければこのような事は起こらなかったのだぞ! ﹂
別の長老が咲夜の言葉を打ち消した。
粗末な板張りの小屋に怒声が響く。
本来この場に居る事が出来るのは一族の行く末を決める5人の長老
げんおう
のみである。
厳翁の孫娘であっても所詮下忍でしかない咲夜が居て良い場所では
ないのだ。
だが当事者である以上、居ないわけにもいかない。
少なくともキチンとした報告をしなければならない。
げんおう
﹁まぁまぁ、そう声を荒らげんでも。咲夜にしてみれば、厳翁殿の
命令に従っただけ。下忍なら当然の事でしょうよ、それを責めるの
は酷というものでしょう ﹂
げんおう
﹁ほんに⋮⋮それに厳翁殿がただ気まぐれでそのような事をしたと
は思えん、何か理由があるならそれを聞くのが先では無いかぇ? ﹂
怒声を上げた長老を宥めてくれたのは、お梅とお冴という女の長老
げんおう
である。
厳翁を含めてお梅とお冴、そして竜斎と甚内と言う名の5人が一族
を統べる長老衆であった。
不満はあっても同じ長老からの取りなしである。
怒声を上げた竜斎も咲夜を責めた甚内も矛を収めるしかない。
げんおう
﹁しかし厳翁殿、竜斎殿の言う事も尤もな事じゃ⋮⋮納得のいく理
由を聞かせてもらわんとのぅ﹂
625
げんおう
お梅はそういうと鋭い視線を厳翁へ向けた。
﹁それはそうじゃ。ただ単に気まぐれを起こしたわけではないでし
ょうからのぅ ﹂
げんおう
お梅に同調してお冴も厳翁の方に顔を向けた。
げんおう
彼女達はあくまでも中立。
別に厳翁へ加担するつもりは無い様だ。
﹁あの男は初代様達が求めておいでの男かもしれん⋮⋮ ﹂
げんおう
厳翁の言葉にその場の空気が凍りつく。
げんおう
﹁厳翁殿⋮⋮それは⋮⋮﹂
長老達の顔に驚愕の色が浮かんだ。
げんおう
﹁それはまことですか?⋮⋮厳翁殿﹂
﹁それが真なら⋮⋮我らは⋮⋮いかん!其の方をすぐにお迎えせね
ば!﹂
竜斎の言葉に甚内が頷く。
普段冷静な長老衆が狼狽する様をみて、咲夜は驚きを隠せなかった。
﹁止めよ!⋮⋮可能性と言ったはずじゃ﹂
﹁﹁しかし!﹂﹂
げんおう
厳翁の制止に竜斎と甚内は揃って講義の声を上げる。
626
﹁くどい!﹂
げんおう
厳翁は声を荒らげた。
げんおう
ひのもと
﹁まぁ待ちなされ、厳翁殿とて可能性の話をされておるにすぎぬ⋮
⋮時に其の者が初代様方と同じ日ノ本の民なのは間違いないのかの
ぅ?﹂
ひのもと
﹁我らと同じく黒髪に黒眼、肌は黄色い。それに咲夜の事を日本人
と呼びおった⋮⋮あの男が日ノ本の民なのは間違い無い。﹂
﹁そうかい、なら血に関しては問題ないようだねぇ⋮⋮後はその男
の資質と心か⋮⋮﹂
げんおう
お梅の問いに答える厳翁の言葉を聞いてお冴は一人頷いた。
﹁お梅殿、お冴殿、なら直ぐにでも其の方をお迎えして確かめた方
が良いのではないか? ﹂
﹁竜斎殿のいうとおりじゃ!たしか其の方はゲルハルト公爵と戦の
最中じゃ!もし何かあれば如何致す?わが一族の宿願を果たす機会
が再び遠のくのじゃぞ?﹂
竜斎と甚内の二人は積極派な人間のようである。
それに対しお梅とお冴の女性陣は慎重派なようだ。
﹁なぁに、急ぐことは無かろうて。初代様方が望まれる男なら必ず
や自らの力で生き残るはずじゃ ﹂
627
﹁ほんに⋮⋮500年も待ったのじゃ⋮⋮お迎えするのは其の方の
資質を確かめた後でも良かろうて⋮⋮﹂
長老衆5人の内3人までが慎重論を唱える以上、竜斎・甚内の二人
にしても異論の余地は無い。
﹁まずはワシと咲夜の二人であの方に仕えてみる。なぁに、器がは
っきりするのにそれほど時間は掛かるまいて。まぁ長くてもゲルハ
ルト公爵との戦が終るまでにははっきりするだろうよ⋮⋮﹂
げんおう
﹁厳翁殿がそう言われるのならばアタシには異存はないのぉ﹂
﹁お梅殿と同じじゃぁ ﹂
げんおう
厳翁の言葉にお梅とお冴の二人が賛成すればもう決まったようなも
のだ。
﹁本当に二人だけでええのか? それこそ一族の若い者をみんな付
けたってええんだぞ?﹂
げんおう
﹁ワシも甚内殿に賛成じゃ。戦場では何が起こるかわからん! 数
いこん
はおった方がええのと違うか?厳翁殿 ﹂
げんおう
竜斎と甚内は厳翁に遺恨があるわけではない。
げんおう
むげ
純粋に二人と亮真の事を心配して提案をしているのだ。
それを判っているから厳翁も無碍な断り方はしない。
かんぐ
﹁いや⋮⋮事の経緯を考えればあの方がワシらを信じる道理が無い。
無断で若い衆を連れていけば勘繰られるのが落ちじゃ。それにあく
までもこの話は可能性があると言うだけの事、若い衆に話すのはま
628
だ早いじゃろうて ﹂
元々咲夜が亮真の暗殺に行ったのが事の発端である。
げんおう
げんおう
日本人と先祖に日本人を持つ一族であるから、同郷の人間と言えな
くもない。
だがそれだけで亮真が厳翁達を無条件で信じるはずもない。
ちゅうちょ
今は様子見をしているというのが亮真の本心だろう。
もし少しでも怪しまれるような行動をとれば亮真は躊躇なく厳翁と
咲夜を殺すだろう。
げんおう
﹁そうじゃのぅ⋮⋮疑いを掛けられるような行動は取るべきではな
いのぅ。それに⋮⋮確かに厳翁殿に目利きをしてもらうのがスジじ
ゃなぁ﹂
甚内の言葉に残りの4人が頷いた。
彼らは湧き上がる喜びを必死で押し殺す。
御子柴亮真という人間が探し求めている人間かどうかはまだはっき
りとした訳ではないのだから。
629
第2章第28話︵後書き︶
何時のウォルテニア戦記︻改訂版︼をご覧下さりありがとうござい
ます。
作者の励みにもなりますので感想や評価ポイントなどを下さると大
変うれしいです。
今後とも本作品を宜しくお願い致します。
630
第2章第29話
異世界召喚174日目︻決戦︼その1:
﹁亮真様⋮⋮本当に信用して宜しいのですか?﹂
げんおう
﹁あぁ?⋮⋮厳翁達のことか?﹂
そう言いながら亮真は手に握っている刀を抜き放つ。
﹁どうだ?良い輝きをしてると思わないか?﹂
亮真はローラの問いには答えずに刀の輝きに見入っていた。
﹁亮真様!﹂
﹁なんだ?そんなに不満か?﹂
へきえき
亮真はローラの剣幕に辟易としながらも尋ねるしかなかった。
﹁はい⋮⋮彼らは亮真様を暗殺に来た暗殺者ですよ?何時裏切るか
⋮⋮﹂
﹁そんなことは判り切ってただろう?最初から泳がせるつもりだっ
たんだし⋮⋮まぁ予定は狂ったけどな﹂
﹁そんな事を言って!本音は其の刀ですか!?﹂
631
ローラの目がつり上がり厳翁が亮真へ献上した刀へと突き刺さる。
﹁ま!無関係じゃないな!確かに﹂
亮真は悪びれずに認めた。
ごまかしても仕方のない話題だからだ。
﹁それにあいつらはキチンと期日内で帰ってきただろう?﹂
亮真にそう言われればローラとしてもこれ以上強くは言えない。
何しろ、首脳陣の中で亮真だけが厳翁達が返ってくる事を信じてい
たのだから。
一族の人間に状況を報告したいので陣を空けたいと申し出た厳翁と
咲夜の願いを、亮真は快く承知した。
ローラ・サーラはもとよりリオネやボルツも激しく抗議したが亮真
は耳を貸さなかった。
本当に自分へ仕える気なのかどうかは判らなかったが、少なくとも
彼らがこのまま何処かへ逃走する可能性だけは無いと考えていたか
らだ。
暗殺を諦めたのならむろんのこと、諦めていないのであっても標的
である亮真のそばにいた方が都合がよいのは間違い無いからだ。
﹁それはそうですが⋮⋮﹂
亮真の言葉を聞いてもローラの顔は不満の色を浮かべたままだった。
それも致し方ないのかもしれない。
マルフィスト姉妹は亮真と半年近く行動を共にする中で、亮真に対
もうじゅう
しての忠誠心をより篤くしていた。
それは単純に亮真へ盲従するという事には繋がらない。
632
彼女達は自らの意思で考え、行動する。
かんげん
亮真の意思は尊重するし亮真の害になるようなことはしないが、姉
妹は諫言や忠告を積極的に行うようにしている。
御子柴亮真と言う人間が、強く賢い人間であっても無敵の英雄では
無い事を理解していたからだ。
︵嫌われてもいい。疎まれたって構わない⋮⋮亮真様の意識の盲点
を指摘してあげる事が私達の役割︶
そう、彼女達は自らに課しているのだ。
そして亮真もまた彼女達姉妹の心を理解していた。
だから亮真は彼女達姉妹を信頼しているのだ。
﹁まぁローラの懸念は理解できるし、それは正しいと思う。ただ純
粋な意味で俺が信頼できる手駒はお前達だけだ⋮⋮それは理解して
いるな?﹂
亮真の問いにローラは頷いた。
自らの置かれた状況が決して楽観視出来る状況では無い事をローラ
もサーラも十分に理解している。
﹁ですが⋮⋮信用出来ないというのなら、あの者達とて同じではな
いでしょうか?﹂
ルピス王女から預けられた騎士と自分を殺しに来た暗殺者。
ローラの目から見れば、まだルピス王女から預けられた騎士達の方
が信用できるように思える。
それは咲夜と厳翁に陣屋の中を案内しているサーラと同じ意見だっ
た。
信用できないのは同じだが、騎士はルピス王女の命令が無ければ亮
真を害そうとはしないはずだ。
だが自分達の主である亮真はローラとは全く逆の懸念を抱いている
633
ように見える。
厳翁達の方が騎士よりも信用できると言わんばかりなのだ。
﹁同じだよ、ただローラ⋮⋮お前は一つ勘違いをしている⋮⋮まぁ
それはいいか。宿題にしておいてやるから判ったら言いに来な ﹂
﹁宿題⋮⋮ですか?﹂
﹁あぁ、サーラやリオネとかと一緒に考えてみると良い⋮⋮あ!ボ
ルツはダメな。あれは意味を知ってそうだからな ﹂
亮真は最近ローラ達に考える力を付けさせるためにこんな事を言う
ようになった。
手駒の数が少ない以上、駒の持つ1つ1つの力を上げていくしかな
い。
亮真の行動の理由を考えさせることは、考える力を付けるとともに
御子柴亮真と言う人間の理解にも繋がる一石二鳥の学習方法なのだ。
そして人生経験の長いボルツは流石に知恵が回る。
現場指揮官として優秀だから引き抜くことは出来ないが、亮真とし
てはマルフィスト姉妹と同じく傍について意見を貰いたいとすら思
っていた。
﹁判りました⋮⋮でも本当に其の刀が理由なんじゃないんですか?﹂
ローラの目が再び亮真の手に注がれる。
﹁はぁ⋮⋮そんなに信用ないんかね?俺って⋮⋮流石にこんな刀一
本貰ったからって信用する程単純じゃないぜ?﹂
亮真はやれやれと首を振る。
634
だがローラの追撃は止まらない。
天幕の隅に立てかけられた槍を見てローラの嫌味が炸裂する。
﹁確かあの槍もあの者達からの献上だったはずでは?﹂
其の槍は今までローラが目にした事の無い形状をしていた。
西方大陸で一般的使われている槍は剣の刀身のようにまっすぐな穂
ハルバート
先が付いたものが殆どだ。
また斧槍と呼ばれる槍の穂先の横に斧の刃を取り付けたような武器
もある。
だが刀身の左右共に鉤が付いている十文字槍など見た事が無い。
それに良く見れば柄の部分に何やら鉄製の管が被さっているように
見えた。
じゅうもんじくだやり
﹁アぁ⋮⋮まぁ確かに其の十文字管槍も貰ったけどな⋮⋮でも物を
貰ったからって信用したんじゃないぞ?本当だぞ? ﹂
亮真の言い訳がましい言葉にローラはこみ上げる笑いを抑えるのが
精いっぱいだった。
念を押して言い訳をすればするほどドつぼに嵌るというやつだ。
﹁まぁ結構です。亮真様が考えられた末での決断ならば私達に異存
はありません﹂
そういうとローラは亮真へ頭を下げ天幕を後にする。
ローラとしてももう亮真へ言うべき言葉は無い。
最悪亮真が騙されたとしてもローラ達は既に覚悟している。
自らの身を盾にしてでも亮真の身を守る事を。
635
﹁怒らせたかな?﹂
天幕に一人残された亮真は呟いた。
最近気が付いた事だが、ローラやサーラは何処となく従妹の飛鳥に
似ている。
亮真に意見を言う時などそっくりだ。
﹁良いか⋮⋮貰った物に魅せられてるのは事実だしな⋮⋮﹂
実際、厳翁が献上した刀は予想以上に良い物だった。
圧重ねと言わせる通常以上の厚みを持った刀身。
戦場で使うのに適した長さ。
そして物を貰った事以上に嬉しいのが、日常の手入れや使った後の
研ぎなおしを厳翁が請け負ってくれた事だ。
亮真自身は日常の手入ならともかく、欠けた刃を埋めるための研ぎ
直しの技術は持っていない。
そして研ぎの技術に関してはどうしても専門の技術者が必要なのだ。
実際に刃物を使うと刃は欠けるし、人を斬れば其の油と血で鋭さが
落ちる。
刀の柄は滑らないように柄糸と呼ばれる糸が巻かれているのだが、
人を斬れば柄糸まで血が垂れる。
其の血が柄糸を腐らせるのだ。
美術品としての価値を求めているのではないので、刃紋の美しさや
鍔の細工などはどうでもいいが、切れ味の落ちた刀を持って戦場に
行けない。
そうなると、手入が出来ない刀と言うのは武器としては失格と言う
事になる。
其の問題を厳翁が解決してくれるのだから、亮真としては感謝する
他にない。
636
﹁態々条件にしただけの価値はあったか⋮⋮﹂
厳翁の願いを聞いたとき、交換条件として亮真が出したのがこの刀
の献上である。
咲夜の持っていた刀を見て思いついたことだったが、想像以上に上
等な物を献上してくれた。
﹁ま!だからと言って信じた訳じゃないけどな⋮⋮﹂
ひょうほう
刀と槍を献上してくれた事自体は感謝している。
アース
亮真が祖父から仕込まれた兵法は刀や槍を使う。
大地世界の槍や剣で応用できなくはないが、やはり手に馴染んだ刀
や十文字管槍の方が戦いやすいのだ。
だが、物をくれたからと言って厳翁を信じる程、亮真は甘くは無い。
︵まぁ後はゲルハルト公爵との決戦が終るまで、余計な事を興さな
いように祈るか⋮⋮問題は例の策がどれくらい効いてるかだな⋮⋮
ケイルを撃退して5日⋮⋮予想以上にゲルハルト側に動きが見られ
ない⋮⋮俺の策が効いてのことか、それとも何か裏があるのか⋮⋮
どちらにしろルピス王女の到着まで後2日⋮⋮決戦はもうすぐか⋮
⋮︶
亮真は神を信じない。
だが今は何かに祈りたかった。
これから起こるゲルハルト公爵との戦の勝利を。
この日の夕日がゆっくりと地平線に沈んでいく。
﹁編成は済んだのか!?﹂
637
ゲルハルト公の執務室に彼の怒声が今日も響き渡る。
ケイルが大敗した後、ゲルハルト公は貴族派の全てに動員令を発し
ていた。
もともとイラクリオンに集めていた3万程に加え、自分の領地で出
兵の準備をしていた貴族派の面々に檄を飛ばし、集結させようとし
たのだ。
厳命した期日は2日。
だが貴族達の集まりは思った以上に悪い。
いや、問題は貴族達だけではなかった。
﹁いえ。それが予想以上に手間取っておりまして⋮⋮﹂
傍に控える副官がゲルハルトの怒りが頭上に降り注ぐ事を覚悟して
報告する。
﹁バカな!何をやっておるのだ!命令を発して既に3日が過ぎるの
だぞ?貴族共を脅しても構わん!明日中には兵をまとめてイラクリ
オンに入れと伝えるのだ!﹂
﹁それが⋮⋮問題は貴族の方々だけではありませんので⋮⋮﹂
副官は必死で食い下がった。
中途半端に命令を受けて実行できなければ自分が責任を負わなけれ
ばならない。
無理な物は無理と主に伝えなければ自分の首が飛びかねないのだ。
﹁どういう事だ!何が問題なのだ!﹂
ゲルハルトの言葉に副官は恐る恐る問題を説明する。
それはゲルハルトの予想をはるかに超える深刻な問題だった。
638
︵一体どうなっている!何故農民共が戦を嫌がるのだ!討った敵の
装備は取り放題だと約束しているのに!︶
副官の状況説明を受けたゲルハルトは彼らを全て追い出し、執務室
の椅子に深々と腰掛けていた。
︵いや⋮⋮原因は判っている。あの男の所為だ⋮⋮︶
ゲルハルトの脳裏に御子柴亮真の名前が浮かぶ。
副官から受けた説明はこうだ。
ゲルハルトの総兵力はケイルが5千の損害を出したため6万である。
これはゲルハルトが直接収める領地と自らが盟主である貴族派の全
ての農民を徴兵した数となる。
此処で問題となるのは、イラクリオンには6万の兵力を維持するだ
けの生産能力が無い事だ。
いや、おそらくどの都市でも恒久的に6万の兵力を張り付ける事は
出来ない。
まぁオルトメア帝国程に大きな国はまた違ってくるが、少なくとも
ローゼリア国内の都市では無理である。
つまり兵力6万を全てを使う事が出来るのは限られた短期間のみと
言う事になる。
そして今、ゲルハルトはわずか2千の兵である亮真を攻める為に総
動員令を発した。
これはルピス王女が亮真の作った橋頭保を使って押し寄せてくると
考えられる為でもある。
どうせルピス王女と総力戦をやるならば目の前に居る目障りな亮真
を先に叩き潰したいと考えるのは自然だ。
だから発令した動員令だがその効果が上がらない。
理由は農民達の間で交わされる噂である。
639
それはイラクリオンを中心に周辺の農村や貴族派の領地にまで其の
広がりを見せていた。
︵ケイルの愚か者が!此処でもワシの邪魔をするのか!︶
ゲルハルトは心の中で毒づいた。
もし目の前にケイルが居れば其の手で斬り殺しかねない。
それほどの怒りだ。
亮真の謀った水攻めによって7千名の内5千もの命が消えた。
その事実が誇張されイラクリオンの中を駆け巡る
﹁おい!知ってるか?ケイル様が負けたんだってよ!﹂
﹁あぁ。なんでも敵の4倍近い兵力で負けたって話だろ?﹂
﹁らしいな!なんでも指揮した軍の殆どが殺されたらしいぞ?﹂
﹁おぉおっかねぇ⋮⋮﹂
﹁なぁ?敵の指揮官の名前ってしってるか?﹂
﹁あぁ!なんでも御子柴亮真って言う血の涙もない悪魔らしいぞ!﹂
﹁なんだそりゃ!悪魔だって?バカらしい!﹂
﹁バカ!そんなこというもんじゃねぇ!なんでもそいつはテーベ河
を氾濫させて兵を溺死させたんだって言うぞ!﹂
﹁本当かよ?⋮⋮法術を使ったって⋮⋮無理だろう?それは?いや
640
人間にそんなことできるのか?﹂
﹁だから悪魔だっていうんじゃないか!﹂
そんな根も葉も無いような噂が無責任に広がっていく。
亮真が聞けば笑ってしまうような噂だが、農民達のとっては笑えな
い。
なぜなら其の悪魔が自分達の敵なのだから。
﹁おい⋮⋮それってやばくないか?﹂
﹁あぁ。敵には情け容赦ないって言うしな⋮⋮﹂
﹁捕虜も皆殺しにあったって聞いたぞ?﹂
事実と嘘が一つの虚像となって亮真のイメージを悪魔に変えていく。
そんな噂が流れる中での動員令である。
余程の命知らずでもない限り、自分から兵に志願する人間はいない。
結果、ゲルハルトのもとに集まったのは総動員の命令を掛けたのに
も関わらず3万程であった。
﹁糞っ!﹂
ゲルハルトの口から恨みの言葉が飛び出した。
状況はゲルハルトの予想を超えて悪くなっていく。
副官には騎士を農村部に派遣して強制的に兵をかき集めてくるよう
に厳命したのだが、予定の6万と言う数字はとても集まらないだろ
う。
641
﹁5万がいいところか⋮⋮いや⋮⋮最悪5万を切りかねないか⋮⋮﹂
むりじ
あまりに無理強いをすれば村を棄てて逃げ出しかねない。
それほどまでに御子柴亮真という名前への恐怖が蔓延していた。
兵の質という点ではルピス王女率いる騎士団には到底敵わない。
どうしても兵数で勝負するしかない。
だが其の肝心の兵が集まらないのだ。
るふ
﹁まさか⋮⋮これがすべて敵の策ではないだろうな⋮⋮?﹂
ゲルハルトの脳裏に不吉な仮定が浮かぶ。
ケイルが負けた事自体は忌々しいが事実だ。
だがなぜこれほどまでに詳細な内容が市民に流布しているのか。
あまりにもゲルハルトにとって不利な状況である。
偶然ならば神を絞殺したくなる。
だがもし必然ならば?
7千の兵を阻むだけではなく、もっと大きな視点で策を施していた
としたら?
単純に敵兵を水で溺死させる事が目的ではなかったとしたら?
そして、今回の噂を流した人間が御子柴亮真だったとしたら?
﹁いや⋮⋮あり得ぬ⋮⋮そんな事は断じて!⋮⋮それでは、それで
はまるで千里眼を持つ本物の悪魔では無いか!﹂
ゲルハルトは必死で脳裏に浮かんだ恐怖を振り払う。
だが、彼の心は確実に御子柴亮真と言う人間への恐怖を持った。
そしてそれが後に御子柴亮真の運命を変える事になる。
642
第2章第29話︵後書き︶
何時もウォルテニア戦記改訂版をご覧下さりありがとうございます。
この話で遂に主人公のメイン武器が出ました。
尤も戦場ではもう1個の武器を使うので刀を使う描写は少ないはず
ですが⋮⋮
今後も頑張って更新しますのでよろしくお願い致します。
※作者の励みになりますので、もしよろしかったら評価ポイントや
感想、レビューなどをして頂けると嬉しいです。
643
第2章第30話
異世界召喚175日目︻決戦︼その2:
﹁スドウ⋮⋮頼む知恵を貸してくれ⋮⋮﹂
夕日に赤く染まったイラクリオンの城の一室でゲルハルト公爵はフ
ードで顔を覆った男に頭を下げた。
﹁公爵様、お顔を上げて下さい。私の様な人間に貴方様の様な高貴
なお方が頭を下げるなど﹂
フードの奥から礼儀に沿った返礼がでる。
もっとも男の口調は慇懃無礼ともいえたが。
﹁頼む!ワシにはお主しか頼れるものがおらんのだ!﹂
普段のゲルハルトからは考えられないほどの低姿勢である。
だがスドウはフードの奥に隠された顔に嘲笑を浮かべていた。
なぜこれほどまでにゲルハルトが低姿勢なのか、その理由を知って
いたからだ。
話はこの日の午前中に戻る。
﹁では!貴様は軍の全権を渡せと言うのか!ホドラム!﹂
﹁勿論です。あなた方が指揮すれば勝てるものも勝てなくなる。そ
644
れがお分かりになりませんか?ゲルハルト公爵閣下﹂
﹁貴様!落ち延びてきた分際で何を偉そうに!﹂
今後の方針を決めるはずの会議は今やゲルハルトとホドラム、両者
の主導権争いの場と化していた。
﹁しかし、私が指揮をとれば間違いなく勝てるのですぞ?失礼なが
らゲルハルト公は指揮ができる人材をお持ちではないようだ。なら
ば非才ながら私が指揮をとる方がよろしいのでは?﹂
初めゲルハルトは指揮権の一部をホドラムに与える事で、上手く利
用しようと考えていた。
だがホドラムにしてみれば、態々実戦経験の無い人間を頭にする必
要はない。
自らが指揮するほうが効率が良いからだ。
会議開始早々にホドラムがゲルハルトの提案を蹴ったことにより、
会議は紛糾している。
﹁何を言われる!ゲルハルト公の配下には歴戦の勇士も多い!ホド
ラム殿に指揮をお任せする必要などない!﹂
﹁ほう?そのような強者が居るとは初耳ですな⋮⋮何と言ったか?
4倍の兵を誇りながら敗れた⋮⋮そうそうケイルとかいう騎士の名
なら耳にした事があるのですが﹂
ホドラムの顔に侮蔑の色が浮かぶ。
ホドラムに言い返した副官はホドラムの言葉を聞いて返答に詰まっ
てしまった。
事実としてケイル以上の指揮官をゲルハルトが持っていない為だ。
645
﹁そっそれは⋮⋮﹂
﹁第一!私はそのような能力もない人間を軍の指揮官に任命したと
いう事実が、ゲルハルト公爵閣下ご自身の能力をも表していると考
えているのですがね?﹂
﹁な!﹂
﹁無礼な!﹂
ホドラムの傍若無人とも言える発言を聞き、ゲルハルトの副官達は
色めきたった。
﹁ほう?事実を指摘されて怒りを表すとは、器がしれますなぁ?ゲ
ルハルト公爵閣下!﹂
ホドラムの口調が完全にゲルハルトを馬鹿にしている。
慇懃無礼?
いや完全に無礼としか言いようのない状況だった。
﹁貴様⋮⋮何を考えている⋮⋮?﹂
ゲルハルトはホドラムに尋ねた。
︵何故だ?なぜこれほどまでに強気に出れる?⋮⋮奴の指揮下には
騎士が2000だぞ?こちらは編成中とはいえ2万は居る⋮⋮それ
がなぜ?︶
確かに御子柴亮真の所為で状況が芳しくない事は事実だが、ホドラ
ムがこれほどまでに強硬な姿勢を見せる根拠がゲルハルトには理解
できなかった。
646
﹁私はこの度の戦に勝つ事を望んでいます。ただ勝つために必要な
事を主張しているにすぎません﹂
︵そんなことはワシも理解しておる⋮⋮だがそれが全てでは無かろ
う!︶
公平に見てホドラムの主張は正しい。
指揮能力という観点のみで見ればホドラムに比肩する人材は見当た
らない。
だが⋮⋮
﹁私はホドラム将軍の意見に賛同いたします!﹂
ゲルハルトの葛藤は部屋の片隅に居た一人の男によって破られる。
﹁﹁﹁な!﹂﹂﹂
その場に居た全員の視線が其の男へと向けられる。
﹁聞こえませんでしたか?ならばもう一度言いましょう!私はホド
ラム将軍へ全ての指揮権を委任するべきだと申し上げたのです!﹂
会議の場は水を打ったように静まりかえった。
誰もがあまりの事に声一つ立てる事が出来なかった。
﹁どういうつもりだ⋮⋮?裏切るのか?ケイル!﹂
ゲルハルトの声が低く冷たくなる。
よりにも寄ってホドラムに口実を与えたケイルが賛同を示したのだ。
これで怒りを抑えろという方が無理である。
647
﹁何をおっしゃいます!閣下!私は己の責務に最善を尽くしている
だけで御座います!﹂
﹁なん⋮⋮だと?﹂
居直りともとれるケイルの言葉にゲルハルトは絶句した。
﹁そもそも私がゲルハルト様に仕えているのは軍事の才を見込まれ
ての事!私はゲルハルト様がこの戦に勝つために最善を尽くす義務
があるのです!﹂
此処でケイルは言葉を切ると会議室に居る貴族達を見まわした。
﹁ですから私でも勝てない相手に勝つためには、私以上に経験豊富
な指揮官に全権を与え指揮して頂くしか道が無いのです!﹂
﹁ケ⋮⋮ケイル⋮⋮貴様!﹂
ゲルハルトはケイルの狙いが読めた。
︵こやつ⋮⋮先手を打ってホドラムに取り入るつもりか!しまった
!⋮⋮コヤツなどこの会議に出席させるべきではなかった!︶︶
ゲルハルトの信用が先の敗戦で失われている事を悟ったケイルが自
己保身に走ったのだ。
迂闊と言えば迂闊である。
ゲルハルトは先の敗戦報告をケイルから受けた時に、ケイルを切り
捨てる事を決断していた。
だがそれをケイルが自覚しているとは思いもよらなかった。
使えるだけ使ってやろうというゲルハルトの欲がケイルに逆転の機
会を与えてしまったのだ。
648
︵糞!なぜケイルを此処に呼んだのだ!︶
ゲルハルトの視線が隣に座る副官に突き刺さる。
だがこれはゲルハルトが悪いのである。
彼は副官がケイルの処罰を進言した際に、後ですると処分を保留に
している。
だが此処でケイルの権限を凍結するという命令を出していないのだ。
するとどうなるか。
ケイルの扱いは処罰が前提とはいえ以前と同じ待遇だという事だ。
とすればホドラム将軍との今後の方針に関して相談するという重要
な会合の場に、ケイルを出席させない訳にはいかなくなる。
﹁ほぉ!貴殿がケイル殿か!⋮⋮いや、噂とはあてにならないもの
だ!これほど状況判断に優れている方とは思いもしなかった!﹂
﹁過分なお褒めを頂き恐悦に存じます﹂
先程までケイルの事を罵倒していたはずの口が今度は全く逆の言葉
を吐く。
ケイルもホドラムが先程まで罵倒していたのを聞いているはずなの
に気にする様子もない。
﹁成る程⋮⋮ケイル様がそうおっしゃるのならば私も賛同するしか
ありませんな!﹂
﹁な!﹂
﹁馬鹿な⋮⋮!アーデルハイド伯爵!何をおっしゃるのです?﹂
ゲルハルト側の人間がまた一人賛同を示した。
副官の顔が真っ青に変わっている。
649
それも当然だろう。
貴族派の第2位。
つまり長年ゲルハルトを支えてきた右腕がホドラムの意見に賛同し
たのだから。
﹁申し訳ありませんな。ゲルハルト公。⋮⋮悪く思わんで下さい。
私ども家臣に責任があるのです⋮⋮このまま座して死を待ちわけに
はいかないのです﹂
如何にも苦渋の選択をしましたと言った口調だが、ゲルハルトは騙
されなかった。
長年ローゼリア王国を食い物にしてきたのだ。
家臣?
そんな殊勝な心があるわけがないとゲルハルトは見切っている。
だが、好々爺といった顔でさも申し訳ないという顔をされれば周り
の人間はそれに騙されてしまう。
︵これは⋮⋮もう駄目だ⋮⋮︶
敵意と怒りが心を支配する一方で、ゲルハルトの脳は冷徹に現状を
把握していた。
貴族派第2位の実力者であるアーデルハイド伯爵がホドラムに賛同
してしまえばもうゲルハルトの意見などゴミ屑同然である。
事実関を切ったように貴族派の面々が次々とホドラムの意見に賛意
を示す。
﹁では!私が兵の全てを指揮させていただく!﹂
ホドラムのこの言葉で会議は終了してしまった。
茫然と椅子に腰かけるゲルハルト公爵唯一人を残して。
650
﹁頼む!スドウ!⋮⋮ワシは其の方しか頼る人間がおらんのだ!⋮
⋮頼む!﹂
ゲルハルト公爵の嘆願をスドウは冷めた目で見ていた。
自らの嘆願を黙殺するスドウにゲルハルトは必至で縋った。
ケイルかホドラムか?
どちらの策かは判らないが、午前中の会議の結果、ゲルハルト公爵
が自らの派閥を乗っ取られた事だけははっきりとしている。
ゲルハルトにしてみればルピス王女の援軍が迫っている事を自覚し
ているだけに、切羽詰まっているのだ。
︵これがローゼリア王国の宰相だった男か⋮⋮権力闘争に敗れれば
タダにゴミにしかすぎんな⋮⋮︶
スドウの心にゲルハルトを侮蔑する思いが浮かんだ。
︵権力者と言えど、権力の座から落ちればただの人か⋮⋮まぁその
辺は政治家も同じだからな︶
だがスドウの任務を達成する為にはゲルハルトを見捨てるわけには
いかない。
少なくとも今は。
︵本国からの命令では半年⋮⋮まぁ最悪こいつさえ生かしておけば
また策を施す余地はあるか⋮⋮︶
﹁ご安心くださいゲルハルト公。私は貴方様のお力になりますよ﹂
スドウは彼のローブを握りしめるゲルハルトの手を優しく包んだ。
﹁おぉ!本当か?本当に助力して下さるのか?!⋮⋮だが⋮⋮ワシ
の置かれた状況は⋮⋮﹂
651
いつもの高圧的な様子は微塵もない。
靴をなめろと命じたら本当に舐めかねない程の卑屈さだ。
﹁大丈夫です。私に策が御座います﹂
﹁何!この状況を打開できるというのか!﹂
だがゲルハルトの口調は一瞬でもとに戻る。
結局のところ彼が卑屈さを演じたのも、高圧的な態度を取らなかっ
たのも演技に過ぎないという事だ。
だがスドウはゲルハルトの態度を気になどしなかった。
﹁まぁとはいっても閣下にも相応の負担をして頂くことになります
がね?﹂
スドウの言葉にゲルハルトの顔が曇る。
﹁負担か⋮⋮金か?権力か?⋮⋮まさかワシの首というのではない
だろうな?﹂
︵こいつは⋮⋮この期に及んでもまだ欲が抜けないのか︶
スドウは貴族と言う人種の汚さと欲深さに内心呆れながら首を振っ
た。
﹁首は大丈夫でしょう。ただし金と権力は諦めて頂くより他にどう
しようもありませんな﹂
﹁馬鹿な!⋮⋮それでは意味が無いではないか!﹂
﹁いえいえ、そうではありません。諦めると言っても対処出来ない
652
訳ではありません﹂
スドウの言葉にゲルハルト公爵の顔つきが変わった。
﹁どういう事だ?﹂
﹁現状、ゲルハルト公爵閣下が打てる手は多くありません。ホドラ
ム将軍に兵の指揮権を奪われてしまいましたからね﹂
﹁判り切った事は言わんでよい!﹂
スドウの言葉にゲルハルトは声を荒らげた。
傷口に塩を刷り込まれたような物なのだろう。
﹁ですがそれはある意味幸運ともいえます﹂
﹁何だと?どういう意味だ!?ホドラムに指揮権を奪われ何が幸運
だ!﹂
﹁正直にいって敵の指揮官は相当なキレ者です。はっきり言ってこ
ちらに勝ち目はないでしょう﹂
﹁何だと!貴様!﹂
スドウのあまりの言葉にゲルハルトは睨み殺してくれるといった視
線をスドウへ向ける。
﹁お聞きください﹂
スドウの声は変わらない。
653
だが雰囲気が明らかに変わる。
冷たく鋭く、叩きつけるような殺気。
ゲルハルトに向かって叩きつけられたそれは、彼の心を正常に戻す。
﹁す⋮⋮すまぬ⋮⋮﹂
ゲルハルトの口から謝罪の言葉が漏れる。
﹁では説明を続けさせて頂きます。私も半信半疑でしたが、ケイル
殿を討ち払った水攻めはかなりの物です。其の後の情報操作も的確
と言えます。﹂
﹁情報操作?⋮⋮例の噂のことか?﹂
﹁えぇ。間違いなくアレは敵の指揮官の策です﹂
﹁やはり⋮⋮そうか⋮⋮﹂
ゲルハルトも理解したようだ。
﹁それほどまでに綿密な策が練れる人間にホドラム将軍が勝てると
お思いですか?⋮⋮予想ですが敵にはまだ奥の手があるはずですよ
?﹂
﹁本当か!?﹂
﹁えぇ。私なら少なくとも手を緩めるようなことは致しません﹂
スドウのフードに隠された顔が笑ったようにゲルハルトは感じた。
654
﹁ならばどうする!?ホドラムに忠告でもしてやるのか!?﹂
誰もが考え付くであろう提案をゲルハルトはした。
落ち着いて考えればそんな事をしてもゲルハルトの立場を良くする
事には繋がらないと判るはずなのだが、どうやらそこまで意識が回
らなかったらしい。
スドウは横に首を振って否定した。
﹁それでは意味がありません。それよりもそれを利用するのです﹂
﹁利用?どうするのだ?﹂
﹁このままホドラムに何も言わずルピス王女の軍に負けてもらいま
す﹂
﹁馬鹿な!それでは何もかもが終ってしまうではないか!﹂
ラディーネ王女を擁立しているという大義名分があるとはいえ、ル
ピス王女から見れば今回の戦は反乱でしかない。
ゲルハルトは其の首謀者である。
ルピス王女との戦に負ければ責任を取らされることは間違いない。
だがスドウは再び首を振った。
﹁それでいいのです。全ての責任をホドラムに押し付けてしまうの
です﹂
﹁何だと!﹂
﹁せっかく主導権を奪われたのです。この状況を最大限に利用しま
しょう﹂
655
スドウの顔に酷薄な笑みが浮かんだようにゲルハルトは感じた。
﹁だが⋮⋮そんな事が可能なのか?そもそも責任を押し付けると言
ってもワシが軍を起こした事実は変わるまい⋮⋮﹂
﹁えぇ。ですがその責任は上手く軽減する事が出来ます。ルピス王
女としても内乱の首謀者として誰かを処刑せねばなりません。通常
ならゲルハルト閣下が其の標的になりますが⋮⋮﹂
﹁そうか!今はホドラムが居る!﹂
﹁そのとおりです。首謀者として処刑できる人間が2人なら、交渉
次第で1名は命を助ける事が出来ます﹂
﹁だが⋮⋮ルピス王女がワシの命を助けてもよいと思うような交渉
の札などあるか?﹂
反乱の首謀者を助命するほどの物などそうは無い。
ホドラムをゲルハルトが捕らえてルピス王女に差し出してもおそら
く無理だろう。
だがゲルハルトの苦悩を余所にスドウはあっさりと言い放った。
﹁あるではありませんか?地下牢に﹂
﹁地下牢?⋮⋮地下牢⋮⋮地下牢!﹂
スドウの言葉にゲルハルトはある人間を思い出した。
﹁だが⋮⋮あれにそれほどの価値があるのか?﹂
656
確かにスドウの言う交渉道具は思い浮かんだ。
だがゲルハルトにはそれが自分の命を助けてくれる程に価値がある
とは到底思えない。
﹁なぁに。ご心配なく。ルピス王女は必ず交渉に応じますよ⋮⋮必
ずね﹂
フードの奥からスドウの含み笑いが聞こえる。
ゲルハルトは漠然とした不安を抱えながら頷くより他に術が無かっ
た。
彼は今、絶体絶命の危機に瀕しているのだから。
こうして決戦の日は刻一刻と近づいてゆく。
其の結末を知る者はだれも居なかった。
657
第2章第30話︵後書き︶
何時もウォルテニア戦記改訂版をご覧下さりありがとうございます。
この話で第3章への伏線も仕込み終わりいよいよ最終決戦へと話は
進みます。
なるべく早く皆様にご覧頂けるように頑張りますので今後も本作品
を宜しくお願い致します。
※作者の励みになりますので、もしよろしかったら評価ポイントや
感想、レビューなどをして頂けると嬉しいです。
658
第2章第31話
異世界召喚176日目︻決戦︼その3:
ついにルピス王女と交わした約束の7日目の太陽が昇る。
亮真達はテーベ河の畔に立ち、対岸で煌めく槍の穂先へと視線を
向けた。
視線の先には、エレナ率いる第一陣が、テーベ河を渡りかけてい
る姿が見える。
﹁何もなかったですね⋮⋮﹂
﹁あぁ。夜襲でもあるかと思ったんだけどな⋮⋮ゲルハルトがどう
いうつもりで攻め寄せてこなかったんだか⋮⋮﹂
サーラの問いに、亮真は首を傾げながら答えた。
予定では、ケイルの軍勢を撃退後にゲルハルト公爵率いる本隊が
攻め寄せてくるはずだったのだ。
だが、敵の本隊はその姿を見せることなく、ルピス王女率いる援
軍が到着予定日を迎えたのである。
期限最終日の昨夜は、敵本隊の夜襲の可能性を考え厳戒態勢で警
備をしたのに空振りとなってしまった。
﹁亮真様の流した噂が効果を発揮したのでは?﹂
﹁確かにアレは効果的だけど、敵兵を0に出来るわけじゃない。多
く見積もっても3割ほど削れれば良い方だろうよ﹂
659
サーラの指摘どおり、確かに亮真の流した噂は農民達へ動揺を与
えた。
だが、いくらなんでもゲルハルトが全く農民を徴兵出来なかった
という事はあり得ない。
武力で脅す。
金で釣る。
命令した後にこれらの力を行使すれば、嫌々でも農民は徴兵に応
じる。
勿論、数は減る事になるだろうが、まったく0で誰も集まりませ
んでしたという事はあり得ないのだ。
亮真は自分の策略の効果を疑っては居なかったが、同時に過信も
していなかった。
﹁イラクリオンにまだ動きは無か?﹂
﹁はい、偵察部隊が監視しています。もし敵に動きがあればすぐに
知らせが来るはずです﹂
﹁渡河途中で攻撃を仕掛けてくるつもりなら、そろそろイラクリオ
ンを出なければ間に合わないはずなんだけどな⋮⋮﹂
サーラの答えに、亮真は首をかしげた。
﹁そうなると⋮⋮敵は平原での決戦を望んでいるのでは?﹂
﹁決戦ねぇ⋮⋮?﹂
テーベ河の畔に陣を張る亮真達と、ゲルハルト公爵の本拠地であ
るイラクリオンの間には、森林地帯と平原が挟まれている。
特に平原はかなりの面積を誇り、テーベ河の支流を引き入れて小
660
麦などの生産を行っている穀倉地帯が広がる。
イラクリオンはローザリア王国の中でもかなり裕福な領地である。
しかし、其の裕福な土地も、一度戦場となれば全てが灰と化す。
それなのに現状を分析すれば、ゲルハルト公爵の狙いは決戦とい
う事になる。
攻撃加えるのに絶好の機会である渡河途中を逃すのであれば、ゲ
ルハルトの狙いは他に考えようがないのだ。
平原は大軍を指揮するにはうってつけではあるので一概に愚策と
は言えないが、今後ローゼリア王国を運営していくという観点で見
れば大きな損害を出してしまう。
亮真としてはかなり違和感を感じる話だ。
︵どうにも胡散臭い? というかチグハグな感じを受けるんだよな
⋮⋮まるで誰かが今回の戦を裏で操っている感じが⋮⋮︶
亮真は状況を整理していくうちに何者かの作為を感じた。
︵だが⋮⋮ゲルハルトを勝たせようって感じじゃない⋮⋮いや逆に
負けさせようとしているように感じる⋮⋮どういう事だ?︶
﹁亮真様?﹂
亮真の顔を覗き込むようにサーラは声をかけた。
﹁あぁ⋮⋮悪い、ちょっと考え事をな⋮⋮﹂
﹁いえ、お邪魔でしたら席を外しますが?﹂
﹁なぁに、ちょっとした物だから気にするな⋮⋮それより、サーラ
は籠城戦の可能性は考えていないのか?﹂
サーラの言葉をはぐらかすように亮真は話題を変えた。
︵今は其処まで考える必要はない⋮⋮か。こっちが不利にならない
661
なら放って置く方が良いな⋮⋮︶
胸の中でそんな損得勘定が働いている事を隠し、亮真はサーラへ問
いかける。
﹁籠城戦ですか?⋮⋮可能性はほとんどないと思います﹂
亮真はサーラの回答を聞いて思わず笑みが浮かんだ。
ちなみに亮真はゲルハルトがイラクリオンに籠城する可能性をま
ったく考慮していなかった。
何故ならイラクリオンの都市規模から考えて、市民の他に数万人
もの兵力を維持するだけの兵糧が無い事を見抜いていたからだ。
つまり兵力を集めてもそれを維持するだけの力が無いのだ。
持って半月がいいところだろうと亮真は見ていた。
﹁本来持つ兵力だけではイラクリオンに籠城してもルピス王女の軍
を防ぎきることは難しいでしょうし、防衛が可能な兵数をイラクリ
オンに入れれば、1月余りで兵糧が尽きる事は目に見えています﹂
結局のところ帯に短し襷に長しなのだ。
最大兵力まで集めなければ籠城は難しい。
だが、集めれば兵糧が足りなくなる。
結局ゲルハルトが選択できるのは最大兵力を短期間にルピス王女
へぶつけるしかないのだ。
尤もそれはルピス王女とて同じことなのだが。
亮真はサーラの回答に深く頷いた。
ここ数カ月でマルフィスト姉妹の戦術眼はかなり磨かれたと言え
る。
それは亮真にとってとても喜ばしい事なのだ。
彼が生き残る可能性が上がるのだから。
662
﹁亮真様! エレナ様以下3000の騎士が渡河されました﹂
﹁判った。エレナさんは俺の天幕へ案内して、他は天幕を割り当て
て休息して貰え﹂ 報告に来た騎士へ指示を出すと、亮真はサーラを伴って自らの天
幕に戻る。
全てはこれからが本番なのだから。
﹁大したものね⋮⋮これほどの橋頭保を確保するなんて⋮⋮﹂
エレナが感嘆の言葉を亮真へかけた。
﹁大したものじゃなりませんよ﹂
﹁謙遜も時によっては嫌味よ? 少なくとも私には造れないわね。
王女殿下もきっと驚かれるでしょう﹂
肩をすくめて謙虚に返事をする亮真へ、エレナは容赦なく称賛を
浴びせた。
﹁俺としては叱責されそうで怖いんですがね⋮⋮﹂
亮真の言葉を聞いてエレナは不思議そうな顔を浮かべる。
エレナの見た限り亮真の成果に叱責の余地など見当たらない。
だが、亮真はある事を気にしていた。
ミハイル・バナーシュの事を。
663
亮真は全てを隠さずにエレナへ報告した。
少しでも隠しだてをすれば疑いをもたれると思ったからだ。
﹁そう⋮⋮ミハイルが⋮⋮﹂
﹁えぇ戦死したかどうかの確認も出来ていないんですが、少なくと
も偵察任務の後に彼の姿を見たものは居ません。彼の死体も含めて
ですけど⋮⋮まぁ命令無視なのはハッキリとしているんですが、ミ
ハイルはルピス王女の側近ですから⋮⋮﹂
エレナの口から呆れとも悲しみともつかないため息が漏れる。
︵参ったわね⋮⋮確かにこれはちょっと問題になるかも⋮⋮︶
亮真が隠さずミハイルの事に関して報告した事で彼女は亮真の懸
念を正確に把握した。
ミハイルは亮真の部下だが、同時にお目付け役だった。
これは亮真の様な新参者に重要な役割を任せる上で、どうしても
必要な役目である。
兵を預けるルピス王女としては、途中で裏切られるわけにはいか
ないのだ。
だからルピス王女の家臣の中でもメルティナに次いで忠誠の篤い
ミハイルを付けたのである。
それだけミハイルがルピス王女から信頼されていたという事なの
だ。
それが命令無視での自業自得とはいえ、亮真の指揮下で死んだ。
生死不明ではあるが聞いた状況ではまず生きてはいない。
となると、ルピス王女から見れば、亮真の所為で自分の忠臣が死
んだ事になる。
それも、まだ戦の中で死んだと理解してくれればマシだ。
最悪、亮真が裏で手をまわして殺したとすら思いかねない。
664
﹁考えすぎだと思います?﹂
亮真の問いにエレナは答えに詰まった。
考えすぎだと笑い飛ばすのは簡単だ。
だが、現実的に考えて、亮真の懸念は決して考えすぎとは言えな
い。
﹁いいえ⋮⋮でも報告しないわけにはいかないでしょ?﹂
﹁そうなんですよねぇ⋮⋮まぁだからこそエレナさんへ一番初めに
話したんですけどね﹂
もし、亮真がミハイルを罠に嵌めたとしたら、此処に居る150
0の騎士達は決して亮真の指揮を受け入れないだろう。
エレナにしてみれば、亮真が橋頭保を築き、援軍の到着まで持ち
こたえた事自体が、亮真の潔白を証明する証だと思える。
だが、ルピス王女がそれで納得するかどうかは賭けである。
亮真もエレナも、ルピス王女とは付き合いが浅い。
しかも王女と臣下の間柄である。
会議などで同席する他に接点は無いと言ってよい。
ルピス王女がミハイルをお目付け役として寄こしたように、亮真
もルピス王女を信用しては居ないのだ。
﹁まぁ良いわ⋮⋮私の方から報告するしかないでしょうね⋮⋮﹂
エレナは自分が被る事を決意した。
いくら正論を振りかざしても、当事者が言えば嘘くさく聞こえて
しまう。
だが、エレナが状況を説明すれば、ルピス王女とて感情的に判断
665
はしないだろう。
﹁すみません、エレナさん。お願いします﹂
亮真は素早くエレナの意図をくみ取ると、彼女に全てを任せてし
まう。
﹁良いのよ、貴方に此処で潰れて貰っては困るんだから⋮⋮そうね
ぇ。貴方は陣の再編成を優先させてちょうだい。どうせ誰かがしな
ければいけない仕事ですからね⋮⋮今夜の夕食時までには上手く話
を付けておきます﹂
エレナは亮真へ仕事を割り振った。
ルピス王女へ亮真が直接報告に行かない理由作りだ。
長年ローゼリア王国の将軍位について居たのは伊達では無い。
﹁判りました⋮⋮では﹂
頭を下げて天幕を出ていく亮真の後ろ姿を見ながらエレナは深い
ため息をつく。
﹁さぁて⋮⋮どう報告したものかしら⋮⋮いや、ルピス王女に直接
するよりメルティナに一度⋮⋮﹂
戦とは直接関係は無いが、もし此処で対応を間違えてルピス王女
に変な不信感を持たれれば、亮真の指揮にも影響が出かねない。
﹁やっぱりメルティナに報告してからの方がいいわ⋮⋮﹂
そういうとエレナは、第二陣で到着する予定のメルティナを迎えに
666
桟橋へと向かった。
﹁ぅぅぅん⋮⋮﹂
ため息とも嘆きともつかない声がメルティナの口から洩れた。
﹁だからね、別に亮真君のミスと言うわけではないの﹂
﹁いや、それは理解しました⋮⋮唯⋮⋮﹂
﹁唯なに?﹂
メルティナの煮え切らない返事にエレナも語気が強くなる。
﹁いえ、ミハイルは姫の警護騎士として幼少から仕えていた人間で
して⋮⋮正直に言って私よりも姫との繋がりが深いのです⋮⋮﹂
メルティナの言葉にエレナの顔色が変わる。
亮真の懸念したとおりの展開だからだ。
﹁やっぱり亮真君を疑う?﹂
﹁いえ、それは無いと思います⋮⋮状況を説明すれば、ルピス王女
は悲しまれたとしても、其の怒りを御子柴殿へぶつける事は無いで
しょう⋮⋮﹂
エレナの懸念をメルティナは即座に否定した。
メルティナとしても今亮真にルピス王女への不信感を強められる
訳にはいかない。
667
王女側の優勢は全て御子柴亮真の策略に因るのだから。
﹁なら王女殿下への報告は私がするより貴方に任せた方が良いかし
ら?﹂
﹁はい。この件の報告は私の方から殿下へ致す事にします﹂
エレナの問いにメルティナは頷いた。
夜も更け、ルピス王女率いる2万3000の兵は全てテーベ河の
渡河を終了した。
陣屋の天幕は亮真の指揮によって増設され、新たな住人達を受け
入れている。
そんな新たに増設された天幕の一つにルピス王女は居た。
﹁⋮⋮ミハイル⋮⋮﹂
王族が眠るには粗末なベットに腰を下ろした彼女の口から、ミハ
イルの名が漏れる。
﹁ミハイル⋮⋮私を何時までも守ってくれるのでは無かったの⋮⋮﹂
メルティナからミハイルの生死不明を聞いたルピス王女の脳裏に
はミハイルと過ごした幼き日の思い出が浮かび上がる。
ルピス王女は其の両目から真珠のごとき涙が零れ落ちた。
メルティナから報告を受けた後、ルピス王女は必死であふれ出る
激情を抑え込んだ。
王女としての責任が、亮真を責める事を拒んだのだ。
668
王として公平に見れば亮真の指揮に問題など無い。
責められるべきは命令を無視し、500もの損害を出したミハイ
ルである。
それは理解している。
頭では。
だが、人としての心の部分が其の理性的な判断を否定する。
結果、ルピス王女は夕食を早々に切り上げ自分の天幕に籠ったの
だ。
其のままいれば、亮真へ当たり散らしてしまうかもしれないと自
覚したから。
﹁アぁ⋮⋮ミハイル⋮⋮私をお嫁さんにしてくれると言ったのに⋮
⋮﹂
王族であるルピス王女を一介の騎士が娶ることなど出来ないし、
彼女自身もそれを本気で望んでいたわけではない。
幼少期の戯れに近い口約束。
だが、普段は頭の片隅に追いやられて思い出す事がない記憶も、
こういった状況では次々と浮かび上がってくるものだ。
﹁私をずっと守ってくれると言ったのに⋮⋮﹂
ルピス王女にとって、メルティナと並びミハイルは最も忠誠の篤
い信頼できる家臣である。
ホドラム将軍の専横に立ち向かうよう進言したのも彼だ。
同じ女であるメルティナが姉妹なら、ミハイルはルピス王女にと
って兄や父親に近い存在ともいえる。
それを失った悲しみは、実の親であるファルスト2世が崩御した
時よりも深いかもしれない。
疎遠であるわけではなかったが、父と娘である前に国王と王女と
669
言う関係であったため、中々肉親の情を育む事が出来なかったのだ。
﹁ほぅ。思ったとおりかなり悲しんでおられるようですな。ルピス
殿下﹂
突然ルピス王女の背後から男の声がした。
﹁誰!? 刺客?!⋮⋮誰かいないの!誰か!﹂
ルピス王女は一瞬の判断で叫び声をあげる。
天幕にどうやって入ってきたかは不明だが、周囲には警護の騎士
が居るはずだ。
彼女の叫びを聞けば直ぐに飛び込んでくるはずだった。
しかし、幾ら待っても天幕の入口から警護の騎士が飛び込んでく
る様子はない。
﹁無駄ですよ殿下。私の法術で皆さんには少し眠って頂いています
から﹂
男の言葉を聞いて、ルピス王女の脳が状況を把握し始める。
彼女はベットに立てかけてあった剣を抜き放った。
﹁刺客じゃないわね⋮⋮何が目的?﹂
言葉と行動がチグハグな気もするが、ルピス王女はまじめだった。
こんなふうに言葉を掛ける暗殺者は居ない。
でも、自分に危害を加えないとも限らない。
男の目的がはっきりとするまで彼女は警戒を緩める気は無かった。
﹁目的⋮⋮そうですねぇ。確かに時間もないですし単刀直入に話し
670
ますか⋮⋮ズバリ貴方と取引をしたくてやってきたのですよ﹂
男の言葉を聞いてルピス王女の緊張が緩む。
﹁どういうこと?そもそも貴方は誰?どうやって此処まで来たの?﹂
ルピス王女の問いに男はフードで隠した顔をあらわにする。
﹁申し遅れました。私は須藤、須藤秋武と申します﹂
そう言って須藤は頭を下げる。
それは敵意の無い証であった。
671
第2章第32話
異世界召喚176日目︻決戦︼その4:
ルピスは目の前に現れた男の顔をまじまじと見た。
黒い髪に黒い眼。
中肉中背で肌は黄色い。
背丈の差以外は非常に御子柴亮真と似通った特徴を持つ男だ。
特徴の一部を持つ人間は今まで見た事があったが、全ての特徴を併
せ持った人間を見たのは初めての事であった。
そう、御子柴亮真以外では。
﹁そんなに見つめないでください、照れるじゃありませんか﹂
男の口調は王女に対する口調としてはあまりにもぞんざいだったが、
彼の表情が其の口調を納得させてしまう。
そんな雰囲気をまとった男だ。
中年と言ってよい顔立ちをしており、若干腹が前へとせり出してい
るように見える。
年のころは40代か?
しかし、首や腕は明らかに太く固そうであり歴戦の戦士にも見える。
砕けた口調とは裏腹に、ルピスは緩めた警戒を再び強めた。
﹁まぁこんな夜分にお邪魔したんですからそう警戒されるのは致し
おっくう
方ありませんがね⋮⋮せめて座っても構いませんかね?いやぁ年を
取ると立っているのも億劫で⋮⋮﹂
672
そういうと須藤はルピスの返答を待たずに椅子へ腰掛ける。
﹁もう一度聞くわ、貴方は何者?﹂
ルピスは椅子に座る須藤の喉元に剣を突き付ける。
﹁私は須藤秋武といいます﹂
﹁目的は?﹂
﹁ルピス王女殿下との交渉です﹂
﹁どうやって入ってきたの?﹂
﹁テーベ河の上流から泳いで陣内に潜り込みました。いやぁ、こち
らの指揮官、御子柴さんでしたか。優秀ですねぇ、水堀側は完璧に
警戒されていて年甲斐もなく水泳をさせられてしまいましたよ⋮⋮
いやぁ参った参った﹂
そういうと須藤は屈託のない笑い声を上げる。
︵こいつ⋮⋮テーベ河を泳いだというの⋮⋮︶
確かに心得のある人間なら泳げなくはない。
それにある程度の警備はされていたが、正面側より警備が手薄なの
も事実だ。
問題はなぜそこまでして陣に須藤が忍び込んできたのかだ。
﹁どういうつもり?交渉って⋮⋮﹂
﹁其の前にこの物騒な物を退けて頂けませんかねぇ?何しろ気が小
さいもので⋮⋮姫将軍と呼ばれるような方に剣を突き付けられたま
673
までは落ち着いて話もできません﹂
本当にそう思っているのかいないのかルピスの目には目の前に居る
須藤と言う人間が判らなかった。
とはいえ、交渉に来たと主張する人間に剣を突き付けたままという
のもあまりである。
いくら相手が深夜に王女の天幕へ忍び込んできた怪しい男でも。
躊躇いながらもルピスは剣を鞘へ納める。
尤も何時襲われても良い様に剣は傍に置いたままだったが。
﹁結構⋮⋮これで安心して交渉が出来ます﹂
﹁余計な事を言わなくていいわ。本題に入りなさい﹂
ルピス王女の視線が須藤へ突き刺さる。
だが須藤の表情はいまだに飄々としたままだ。
﹁ご想像いただけているとは思いますが、私はゲルハルト公爵閣下
にお仕えしているものです。⋮⋮まぁ正確にはちょっと違うんです
がそうご理解ください﹂
かるぐち
人を食ったような言葉をルピスは無視することにした。
須藤の軽口に付き合っていては何時まで経っても本題に入らないと
思ったからだ。
ルピスの視線で彼女の意思を感じたのか、須藤は表情を引き締めた。
﹁それでですね。⋮⋮ズバリ言うと、ゲルハルト公爵はルピス王女
殿下へ恭順の意を示されたいとお考えになっています﹂
﹁恭順?降伏の間違いでしょ?﹂
674
ルピスは須藤の言葉を言いなおした。
彼女とて経験こそないが、王族の一人としてある程度の教養も知識
もある。
この状況で須藤がゲルハルト公爵から何かを命じられたのならばそ
れは降伏の願い出か、彼女の暗殺、そのどちらかしなかないと考え
ていた。
﹁いいえ、ゲルハルト公爵閣下はルピス王女へ恭順の意を示された
のです﹂
須藤の言葉にルピスは顔をしかめた。
﹁貴方?状況が判っているの?なぜ今さらゲルハルトの恭順を受け
入れ無ければならないの?﹂
降伏と恭順では結果が大きく変わってしまう。
降伏の場合、ゲルハルトは戦争責任を取らされて斬首刑が普通だ。
領地も没収されるし財産も根こそぎ奪える。
これに対して恭順の場合、降伏とは違ってゲルハルトを殺す事が出
来ない。
また領地も縮小は出来ても完全に潰してしまう事は出来ないし、財
産もある程度は保障する必要が出てくる。
戦で白黒を付けた結果に起こる降伏に対して戦を実際に行わず、抗
戦戦力を残しての恭順となればあまり強気な要求は出来ないのだ。
だが戦力が拮抗している状況ならまだしも、現状ルピス王女がゲル
ハルトへ配慮をしなければならない状況ではない。
それを理解しているルピスは全く話にならないと須藤の言葉を撥ね
つけた。
675
それで無くともゲルハルトはラディーネと言うどこの馬の骨かわか
らないような庶子を遺言状を盾にして女王に擁立した反乱者。
ルピスから見ればゲルハルトこそ全ての元凶であり首謀者である。
それを助命することなど彼女にはあり得なかった。
須藤の言葉を聞くまでは。
﹁ミハイル・バナーシュと言う騎士はご存知ですかな?﹂
ルピスの顔色が変わった。
今まで死んだと思って嘆いていた人間の名がこの場で出たのだ。
動揺するなと言う方が無理だ。
﹁え?⋮⋮どういう事?⋮⋮まさか!﹂
死んだ人間の名を、交渉に来た敵の使者が口にした。
それはルピスの心に一つの可能性を浮かび上がらせる。
﹁まさか⋮⋮ミハイルが⋮⋮ ﹂
其の時、彼女の言葉をさえぎるように何かが天幕の中へと投げ込ま
れた。
シュッ カッ!
シュッシュッ
再び何かが空を斬って須藤が腰かけていた椅子に突き刺さった。
﹁え?﹂
676
ルピスは言葉を失った。
中年で鈍重そうな体つきをしていたはずの須藤の姿が椅子の上から
消えて立ちあがっている。
彼女の目には何時須藤が椅子から立ち上がったのかを捕らえる事が
出来無かった。
﹁危ないですねぇ?警告も無しに攻撃してくるとは、幾ら私が不審
者であっても酷くは無いですか?﹂
チャクラム
須藤が椅子に突き刺さった戦輪を抜いて手に持った。
せんりん
﹁ほうこれはまた珍しい⋮⋮戦輪とはね⋮⋮これを使うような人間
は⋮⋮御子柴亮真君ですか?﹂
チャクラム
須藤の言葉に答えるように天幕の入口から再び戦輪が須藤めがけて
投げ込まれる。
﹁おやおや、無視ですかぁ⋮⋮﹂
飛来した戦輪を須藤は椅子を盾にする事で防ぐ。
チャクラム
須藤と言う男の口調は相変わらず軽いままだ。
亮真が次々と戦輪を投げ込んでいるというのに。
﹁いい加減姿を現してもらえませんかね?一人で話していたら私が
まるで馬鹿みたいじゃないですか?﹂
チャクラム
声に伴い手に持った戦輪が須藤の手から天幕の入口に向かって放た
れる。
尤も須藤はそれが亮真に当たるとは微塵も考えていない。
彼はただ挑発したのだ。
677
須藤は相変わらずの口調だ。
だが其の目は油断なく天幕の入口へと注がれている。
それが亮真の策とは知らずに。
﹁殿下!こちらへ!﹂
天幕を斬り裂きメルティナがルピス王女の後ろから中へ飛び出して
きた。
布で作られた天幕なのだから、剣で容易に切り裂ける。
﹁メルティナ!﹂
﹁殿下!さぁ急いで!﹂
裂け目から天幕の外に出ると周囲は騎士達でびっしりと囲まれてい
る。
﹁申し訳ございません殿下!この失態は後で必ず!﹂
そうルピス王女に頭を下げるととメルティナは叫んだ。
﹁御子柴殿!殿下は無事だ!﹂
其の言葉に呼応するように周囲の騎士が松明を手に前へ出た。
﹁やれ!﹂
亮真の声に合わせて松明が天幕に向かって投げつけられる。
678
﹁待って!彼は殺しちゃダメ!⋮⋮お願いメルティナ!早く水を!
消し止めて!﹂
ルピスは声を振り絞った。
︵まだ駄目!須藤の口ぶり⋮⋮ひょっとしたらミハイルが⋮⋮︶
そんな思いが彼女の心を占領する。
だがルピスの叫びはあまりにも遅い。
一斉に投げ込まれた松明が天幕を容赦なく焼きつくす。
しかも須藤が飛び出してくる事を想定して、抜刀した騎士が容赦な
く待ち構えている。
﹁殿下!何をおっしゃるのです?彼とは暗殺者の事ですか?﹂
メルティナにしても状況が理解できない。
王女が危ないという知らせを聞いて直ぐに駆けつけ其の後は亮真の
指示に従っただけなのだから、状況が判るはずもない。
まして、須藤がミハイルに関して生存をほのめかすような言動をし
たことなど想像すら出来るわけが無い。
﹁良いから!彼を助けるの!﹂
﹁しかし⋮⋮これでは⋮⋮﹂
布で作られた天幕は火に包まれてしまっている。
この状況で中に居るのなら酸欠になるか火に焼かれるか。
どちらにしろ須藤の生存はあり得ないと言える。
だが此処でメルティナ耳に歓声が響いた。
﹁うぉ!こいつ﹂
679
﹁槍隊!前へ!﹂
﹁良いか!逃がすな!﹂
メルティナ達と天幕を挟んで反対側から騎士達の声がする。
﹁メルティナ!﹂
﹁は!﹂
状況は判らないがルピス王女は暗殺者を殺したく無い様だ。
そう判断したメルティナは主君の望みを叶える為に走り出した。
﹁まったく⋮⋮酷い事をしますねぇ?容赦無さ過ぎじゃありません
か?﹂
亮真の前に須藤が姿を現した。
服は所々焼け焦げているが、目立った外傷もない上に、声もしっか
りとしている。
﹁てめぇ⋮⋮人間か⋮⋮?﹂
火に包まれた天幕の入口から堂々とした足取りで出てくれば亮真と
しても驚かざるを得ない。
﹁お!ようやく口を開いてくれましたか!いやぁ嬉しいですなぁ﹂
だが亮真は須藤を無視し無言で刀を抜いた。
680
﹁おや⋮⋮まただんまりですか?まったく無愛想にも程があるの⋮
⋮﹂
ビュ
須藤の言葉を無視して亮真は一瞬のうちに間合いを詰めると一気に
刀を薙いだ。
ジャリン
鈍い金属のこすれる音と共に赤い火花が両者の間に飛び散る。
須藤の手にいつの間にか短剣が握られていた。
﹁獲物の差を考慮して決着は後日と言う事にしませんか?﹂
一気に力で押し切ろうとする亮真に須藤は短剣で抗しながらそんな
言葉を吐いた。
本気なのか本気で無いのか。
余裕があるのか無いのか。
回りを囲んでいる騎士達にも須藤の本心が見えない。
ドガッ!
亮真の右足が強く大地を踏みつける。
足の甲を踏みつけようとして須藤が足を引いて避けたた結果だ。
須藤は亮真の一瞬の隙をついて大きく間合いを空ける。
﹁やれやれ⋮⋮こっちの話は全く無視ですか⋮⋮私は今貴方と戦う
わけにはいかないのですがねぇ⋮⋮﹂
681
亮真は無言のまま刀を頭の上まで振り上げると全身の筋肉に力を貯
める。
其の目には明確な殺意が暗い光となって須藤を威圧する。
﹁上段、火の構えですか⋮⋮参ったなこりゃ⋮⋮﹂
須藤の口から諦めにも似た言葉が漏れた。
振り上げられた刀は鍛え上げられた渾身の力と常人の2倍近い体重
を持って須藤を襲ってくる。
短剣しか持たない須藤に其の必殺の一撃を防ぐ術は無い。
下手に防いでも力で押し切られる事が眼に見えている。
︵不味い⋮⋮此処で死ぬ訳には⋮⋮︶
須藤の脳裏に死の文字が浮かび上がる。
だが彼の命運はまだ尽きてはいなかった。
﹁待て!御子柴殿!﹂
メルティナが騎士をかき分けようやく二人の前に姿を現した。
叫びながら走ってきたようで、胸が激しく上下している。
﹁どういうつもりだ?⋮⋮何故止める?﹂
亮真は構えを解かずにメルティナに問いかけた。
視線は須藤に向けられたまま、一切の油断が無い。
﹁判らん!だが殿下のご命令なのだ!﹂
﹁ルピス殿下の?⋮⋮本当なのか?﹂
682
﹁あぁ。間違いない。私が直接命じらられた﹂
亮真は大きく息を吐くと振りかぶっていた刀を下ろす。
﹁判った。だが状況が判らないとどうしようもない。悪いが殿下を
此処へ連れてきてくれ。﹂
﹁私は此処に居ます﹂
騎士をかき分けルピスが姿を現す。
﹁⋮⋮ご説明いただけますか?﹂
亮真は刀を納めないままルピスへ問いかけた。
幾ら王女が助命を求めようと陣に忍び込んだ不審者を生かしておく
理由など亮真には無い。
それに何時、須藤が牙を向かないとも限らないのだ。
﹁⋮⋮良いでしょう⋮⋮須藤、貴方にも聞きたい事があります!場
所を変えて話したいのですが構いませんか?﹂
﹁えぇえぇ構いませんとも。是非落ち着いて先程の話の続きがした
いものですなぁ﹂
ルピス王女の言葉に須藤は躊躇なく頷く。
﹁では亮真、天幕を新しく用意して頂戴。メルティナはエレナを呼
んできて!﹂
683
﹁判りました⋮⋮ですが十分にご用心を⋮⋮﹂
それだけ言うと亮真は釈然とはしないながらもルピスの命令に従い
その場を後にする。
須藤はルピスの言葉を聞き怪訝な顔をした。
﹁殿下?何故人を集めるのですか?私としては殿下と直接お話がし
たかったのですが?﹂
ルピスの対応を見れば交渉の余地は十分にありそうに見える。
それに自分を殺させなかったという事はミハイルの安否にも興味が
あるという事だ。
それなのに人を集める。
何故?
ルピス王女としては私情に捕らわれる話である。
あまり人には知られたくないはずだと須藤は読んでいた。
﹁国の大事を決める以上、王であっても独断は出来ませんから。そ
れとも私と二人っきりで無いと話せないのですか?﹂
須藤はルピス王女を侮っていた事を理解した。
︵ふぅん⋮⋮思ったほど愚かじゃなかったか。まぁこの程度なら少
しの修正で済む⋮⋮所詮経験の無いお姫様よ⋮⋮だが⋮⋮問題はあ
の男か⋮⋮ガイエス様を殺したと言うからどれ程の者かと思ったが
⋮⋮確かに厄介だ︶
須藤は心に湧き上がってくる黒い殺意を必死で抑えた。
今はまだ御子柴亮真に関わる時ではない。
須藤には命じられた使命があるのだから。
684
︵何れ殺すとしても一筋縄ではいかんかもな⋮⋮無理に手を出すの
は危険か⋮⋮まぁいい。今は任務を優先させるとするか︶
須藤は素早く計算すると、承諾の意思表示としてルピスへ頭を下げ
た。
685
第2章第33話
異世界召喚176日目︻決戦︼その5:
﹁そういうわけで、ゲルハルト公爵閣下はルピス王女への恭順を決
意されたという事です⋮⋮その証として現在イラクリオンで保護し
ているミハイル・バナーシュ殿をこちらにお返し致したく、私が交
渉役として参った次第です﹂
須藤の言葉を聞いて、天幕の中は重苦しい空気に支配されていた。
誰もが須藤の提案に言葉を失っていた。
いや、彼の提案があまりにも突飛な為に思考回路がが上手く働かな
くなったという方が正しいだろう。
内乱を起こした首謀者が決戦前に恭順してくるというのはそれだけ
予想外な出来事なのだ。
﹁姉様⋮⋮これって⋮⋮不味いよね?﹂
サーラが周囲に漏れない程度の小声でローラへ耳打ちをした。
﹁不味いわね⋮⋮亮真様の計画にも影響が出かねないし⋮⋮﹂
ローラの視線が表情を消して須藤の言葉を聞く亮真へと注がれる。
この場に居る人間は16人。
ルピス王女・メルティナ・エレナ・亮真の4人は当然として、ロー
ラやサーラ、リオネにボルツ、ベルグストン伯爵以下有力な貴族達
と文字通り王女派の主要なメンバーが一堂に集まっている。
686
天幕の中央にデン!と置かれた円卓を囲むように各員は腰掛けて須
藤の言葉を聞いていた。
﹁やっぱり影響って出るのかな?﹂
﹁えぇ⋮⋮結構大きく出ると思う⋮⋮﹂
姉妹の小声は周りのざわめきにかき消されて周囲には漏れない。
リオネはボルツと、ルピスはメルティナとそれぞれ小声で何かを話
し合っていたし、貴族は貴族で隣同士で耳打ちし合っている。
無言のままなのは亮真とエレナの二人のみだ。
﹁亮真様⋮⋮どうするつもりかな?﹂
サーラに問われローラは答えに窮した。
結局彼女は無言のまま視線を亮真へ向けた。
どのような結論が出ようとも姉妹にとっては関係が無い。
ただ御子柴亮真と言う男の為に動けばいいのだから。
亮真は眼を閉じ、ゆったりと椅子に座りなおした。
そうすることで自分の湧き上がる感情を表に出さないように抑えつ
けたのだ。
そして頭で状況を整理し、的確な対応を考える。
それだけが現状を打開する唯一つの手段だった。
︵頭痛がするぜ⋮⋮︶
これが亮真の本音だった。
人間的に信用は出来ても、能力的には全く信用が置けないとは理解
していたが、ルピス王女がこれほどまでに愚かだとは亮真も全く想
687
像していなかった。
︵須藤の言い分⋮⋮前王の遺言に従っただけでローゼリア王家に対
して謀反をする気は無いだって?無茶苦茶言いやがる⋮⋮いくらな
んだって酷すぎる⋮⋮それにホドラムが寝返り彼が王家に謀反を企
んでいる為、王国の臣下として許せないから恭順したい?馬鹿にし
てるのか?⋮⋮︶
須藤の言い分を聞いて亮真が思った率直な気持ちだ。
ゲルハルトはルピス王女と戦った事を前王の遺言に従っただけとい
う言い方ですり抜ける気だ。
しかもホドラムを寝返らせておきながら、ホドラムが王家に謀反を
企んでいるので許せないから恭順して王国への忠誠を示したいと言
ってきた。
謀反人の汚名を全てホドラムに被せる気なのだ。
しかもその話を人を集めて須藤に言わせる。
最悪と言っていい。
別に人を集めた事自体は問題ない。
支配者として考えればどうかとは思うが、亮真は最初からルピス王
女の政治的な能力を信用はしていない。
だから王女が独断で判断するよりずっとましだ。
彼女が己の至らなさを自覚していたという事だから逆に褒めたって
いいくらいだ。
ただし其の判断を褒めてやれるのは、議題がミハイルの返還に絡ん
だゲルハルト公の恭順で無ければだ。
この議題に関して言えば、人を集めたのは最悪だ。
なぜか?
結論が出てしまっているからだ。
︵結局ルピス王女はミハイルを殺したくないという事か⋮⋮︶
亮真の心が冷たくなる。
688
確かにミハイルは忠誠篤く武力に優れた人間である。
王女に取って信頼できる忠臣の一人と言ってよい。
だから王女が殺したくないと思う事自体は人間として普通である。
それ自体は亮真も咎めるつもりは無い。
だが。
支配者は其の心を殺さなくてはならない。
抑えつけなければならない。
ミハイルが信頼できる忠臣であるとかそういう問題ではない。
幾ら大切な忠臣であっても、ゲルハルトの命とは比べられようもな
い。
ゲルハルトはルピス王女に対して反旗を翻した謀反人。
其の命を幾ら忠臣とはいえ一家臣の命と引き換えに助命するとは⋮⋮
確かにまだルピス王女は自分の気持ちを公言していない。
だからルピス王女がミハイルを助けたいと思っているというのは亮
真の推測にすぎない。
だが亮真は自分の推測が事実である事を確信していた。
もしそれを希望していないのであれば須藤を生かしておくはずが無
い。
王女の天幕に無断で忍び込んだのだ。
どんな刑罰を受けても文句の言いようが無い。
それを助命し態々須藤の言葉を聞く為にみんなを集めた。
これだけでルピス王女の心の内が透けて見える。
︵ミハイルを殺したくない、だからゲルハルトの要求をのみたい。
だけど正当性が無い事を自分で自覚している。だから全員を集めた
自分が泥を被らない為に︶
王女が独断でこの話を受ければ当然反発が出る。
謀反人であるゲルハルトを助命するのだから当然だろう。
だからルピスは会議をした。
689
それは責任の所在をあいまいにするためだ。
﹁では、皆の意見を聞きたいわ﹂
ルピスの言葉に亮真は舌打ちをしたくて堪らなくなった。
だがどれ程腹立たしくとも今この場でその怒りをぶちまけるわけに
はいかない。
﹁誰か意見がある人はいないの?﹂
ルピス王女の言葉に誰もが無言のまま黙り込んだ。
彼女の視線が円卓を囲む人間達を順繰りに見据えた。
だが誰だってババは引きたくない。
この場に居る全員がルピス王女の心の内を見透かしていた。
亮真自身は、ミハイルの命がゲルハルトの助命とつり合いが取れる
とはどうしても思えなかった。
一介の騎士の命と反乱の首謀者の命を秤にかける事自体間違ってい
ると言える。
だがルピスがミハイルを助けたいと望んでいる以上何を言っても無
駄である。
もし此処でミハイルの命を見捨てるように進言すれば間違いなくこ
の会議の後で
﹁ミハイルを見殺しにするのか!﹂
﹁忠臣を助けずして何とする!﹂
﹁新参者のくせに何を言っているんだ!﹂
とミハイルの同僚である騎士達が騒ぎ出す事は目に見えていた。
それに亮真が此処でミハイルを見捨てるように進言してもルピスは
それを受け入れないだろう。
そうなれば、亮真だけが悪者になる。
690
それにミハイルの暴走による結果とはいえ亮真の指揮下で捕虜にな
っている。
此処で見殺しにするように進言したら亮真がミハイルを殺したがっ
ていると邪推されかねなかった。
正論は時に人情を犠牲にする。
そして支配者が人情に溺れれば、必ずどこかで歪みが生じる。
亮真が幾ら正論を唱えても聞く支配者に聞く耳が無いのなら言わな
い方がいい。
エレナの縋るような視線を亮真は感じた。
﹁無駄です⋮⋮﹂
亮真はエレナに小声で呟くと首を横に振った。
彼女の視線から言いたい事は伝わってきた。
だが、それを言えば間違いなくエレナと言えど悪者になってしまう。
﹁なら私が⋮⋮﹂
﹁止めて下さい。今ここで貴方に対する不信感を王女が持ったら、
今後の立て直しが更に難しくなります⋮⋮﹂
エレナの提案を即座に否定する。
彼女とてミハイルやメルティナ程にはルピス王女の信頼を得ていな
い。
︻ローゼリアの白き軍神︼の名を持つから亮真が言うよりはマシだ
ろうが、王女がミハイルの命を諦めるとは思えなかった。
691
﹁ならどうするの?このままじゃ⋮⋮﹂
エレナは亮真と同じように現状の危険性を理解していた。
ミハイルの命を引き換えにゲルハルト公爵と言うローゼリア王国は
獅子身中の虫を生き残らせることになる。
更にラディーネ王女を王族として認める事になれば、彼女には第2
位の継承権が与えられることになる。
ルピス王女は更に危険な立場へと其の身を晒そうとしていた。
これはゲルハルトの恭順を受け入れる以上致し方が無い。
アース
謀反の首謀者は斬首。
これが大地世界の共通認識である。
ゲルハルトの命を助けるとなれば、彼の起こした今回の内乱は謀反
では無いという立場を取るしかなくなる。
となれば、前王の遺児を担ぎ出したゲルハルトの言い分を完全否定
は出来なくなってしまうのだ。
つまり前王の遺言に従っただけで、ローゼリア王国に謀反しようと
したわけじゃありません!と言うゲルハルトの言い分を認めるしか
なくなる。
詭弁と判っていてもどうしようもない。
︵打開出来るとすればメルティナか⋮⋮︶
亮真の視線がルピス王女の隣に座るメルティナに向けられる。
︵だめだ⋮⋮単純にミハイルが生きてる事を喜んでやがる⋮⋮まぁ
同僚が生きてて嬉しいのは判るが⋮⋮状況が悪くなっている事を理
解してない⋮⋮か⋮⋮こいつは無理だな⋮⋮となると⋮⋮︶
単純に笑顔を浮かべているメルティナに見切りをつけ亮真は必死で
打開策を考えだす。
︵ゲルハルトを殺すことは無理⋮⋮今回の戦でホドラムを始末出来
るだけで善しとするか⋮⋮問題は其の後だ⋮⋮ルピス王女じゃゲル
692
ハルトを制することなど出来ない⋮⋮一時的に力を削いでも何時か
盛り返される⋮⋮待てよ?何時か⋮⋮か。︶
亮真の中で冷たい考えが浮かんできた。
そう、何も亮真は無理にゲルハルトを殺す必要は無いのだ。
︵死にたい奴は死なせてやるか⋮⋮︶
亮真はルピスを見捨てた。
正確には彼女の将来を切り捨てたのだ。
︵安心しな殿下、俺はアンタを裏切りはしない。だがこのままなら
アンタは確実に死ぬ。何年後かは知らないが俺には其の日が眼に浮
かぶよ⋮⋮だからエレナ達に忠告だけはしてやる。だが俺はもうア
ンタを助けるつもりは無い。後はローゼリア王国の人間で対処して
くれ。せいぜいゲルハルトの動向に気を配るんだな︶
心の中でそう呟くと亮真は発言の許可を得る為に手を挙げた。
﹁では!僭越ですが構いませんでしょうか?﹂
ルピスの目が一瞬脅えるような色を浮かばせた。
彼女も自分の判断が正しいとは思っていないのだ。
だが人情が、彼女の優しさがミハイルの命を見捨てると言う選択を
拒む。
﹁どうぞ亮真﹂
﹁では!﹂
亮真はルピスの言葉を受けて椅子から立ち上がる。
﹁私は須藤殿の言い分を受け入れゲルハルト公の恭順を受け入れる
693
べきだと考えます!﹂
亮真の言葉に天幕が震えた。
﹁な!本気ですか!御子柴殿!﹂
﹁えぇベルグストン伯爵、本気ですよ﹂
彼もまた貴族でありながら軍事にも知識がある。
外交や宮廷闘争も経験がある為、須藤の提案がどれほどルピス王女
にとって危険かをおぼろげながらに理解していた。
﹁何か⋮⋮狙いがあるのですか⋮⋮?﹂
敵の使者である須藤が居る場でそう尋ねずにはいられないほど、亮
真の言葉は伯爵にとって意外でしかなかった。
﹁いいえ?ですが忠誠篤きミハイル殿を見捨てるわけにもいきませ
ん。それにゲルハルト公の言い分にも一理あると言えます。戦は無
い方がよい。イラクリオン周辺は穀倉地帯ですからあそこで大軍を
ぶつけ合えば今後の収益にも影響が出る。ゲルハルト公が王女殿下
へ恭順されるなら其の方が良いでしょう?﹂
亮真の言葉にウソは無い。
確かに公爵軍とぶつかれば今後の税収に大きな痛手を受ける。
だが伯爵は亮真の言葉を聞いても釈然としない様子であった。
元々イラクリオンに進軍する際に、今後の税収に影響が出る事は織
り込み済みだったのだから。
﹁ですが殿下!公爵の恭順を受け入れるのに際して、私達の方から
694
も条件を幾つか付けるべきだと考えます﹂
﹁どういう事?﹂
﹁幾らなんでもミハイル殿の返還だけではつり合いが取れなさすぎ
です。公爵には爵位の返上と賠償金の支払いを命じられては如何で
しょう?﹂
亮真の言葉にルピスは考え込んでしまった。
彼女自身、須藤の持ってきた話が自分達に不利であるという自覚が
ある。
ミハイルの返還という条件が無ければ考慮に値すらしない。
だから亮真の言い分は彼女にとって理解しやすい。
だが下手に交渉して決裂すればミハイルの命は無い。
一度は死んだものと諦めたのだが、それが生きているとなればどう
しても助けたくなる。
正論と人情のはざまでルピスの心は揺れ動く。
﹁良いでしょう。私はゲルハルト閣下からそのような条件が出た際
には一存でお受けして構わないと委任されております⋮⋮公爵位と
返上の上5億バーツの賠償金をお支払いしましょう﹂
﹁﹁﹁5⋮⋮5億だと?﹂﹂﹂
須藤の言葉に天幕の中は再びどよめきで溢れた。
須藤の提示した金額は、今回の戦費を十分に埋める事が出来る。
貴族達の中で安堵の気持ちが生まれた。
少なくとも部下に恩賞を出し、自分の家に臨時収入がもたらされる
ぐらいの物を確保できるのだから
695
﹁いや。それと一緒に今後5年間宮廷内の役職には一切付かないと
約束して頂きたい﹂
亮真の言葉に須藤の顔が歪む。
︵ふん⋮⋮やはり賠償金と公爵位返上は予想してたか⋮⋮だが役職
に就けなくなる事までは想定外だったみたいだな︶
だがそれは亮真としては絶対に引けない条件だ。
もしこれが無ければ、政治能力の劣るルピス王女はゲルハルトの餌
食になってしまう。
だから5年。
5年あれば王女を支持する貴族達も国の運営になれゲルハルトの魔
の手を払いのける事が出来るようになるはずだ。
﹁良いでしょう⋮⋮ゲルハルト公爵閣下に変わり私が其の条件を承
諾致します。それでよろしいでしょうか?殿下﹂
須藤は茫然と立ちつくすルピス王女に話を振った。
﹁えぇ⋮⋮それでいいわ⋮⋮﹂
彼女としては頷くほかない。
﹁結構です。ではこれよりイラクリオンに戻りましてゲルハルト公
へ報告の上で、ミハイル殿をお連れ致します﹂
そう言い残すと須藤は王女に頭を下げ天幕を出て行った。
須藤が立ち去り会議は終了となった。
此処には亮真とボルツ・リオネ・マルフィスト姉妹の5人だけが残
696
っている。
﹁良いのかい?本当にあれで?﹂
リオネの問いに亮真は頷くしかなかった。
﹁最善ではないけどね⋮⋮あの状況で打てるだけの手は打ったから
ね⋮⋮あれ以上は無理だ﹂
実際、亮真は最善を尽くしたと自負している。
人情に縛られたルピス王女の下で良くあれだけの損害で済ませられ
たと自分を褒めてやりたいくらいだ。
﹁5年で何とかなるんですか?﹂
﹁さぁな?⋮⋮正直其処までは面倒見切れないよ﹂
サーラの問いに亮真は肩を竦める。
亮真が今回したのは、延命処置に過ぎない。
今回の話を病に例えるなら、ゲルハルトとホドラムはローゼリア王
国に巣くう病気である。
亮真は其の病気を戦と言う手術で完治させようとした。
だが手術を望んだ患者であるルピスがゲルハルトを取り除くことを
拒んでしまった。
ならば亮真としては次善の手を打つしかない。
ゲルハルトと言う病原菌を5年間封じ込め其の間に患者の体力を回
復させ、対抗出来るようにする。
それ以外に選択の余地などなかったのだ。
後は亮真が与えた5年と言う猶予をルピス王女が上手く使う事を祈
るだけである。
697
そしてそれは、ローゼリア王国に住む人間が行う事だ。
偶々この戦に巻き込まれた亮真が考える事ではないのだ。
﹁まぁこれで残るのはホドラムと其の配下の騎士2000のみだ⋮
⋮﹂
亮真の言葉にリオネ達は頷いた。
後はホドラムを始末すれば全てが終る。
﹁明日か明後日かな⋮⋮﹂
﹁イラクリオンに攻め入るんですね﹂
﹁あぁ。そこで最後の戦だ!﹂
ローラの言葉に亮真は頷いた。
残るはホドラムとの決戦のみ。
ローゼリア王国の内乱は遂に最終局面を迎える事になる。
698
第2章第34話
異世界召喚178日目︻決戦︼その6:
﹁みなさん!遂に私達はこの戦場に到達しました!⋮⋮これから最
後の決戦が行われようとしています。これはローゼリア王国の未来
を決める戦です!敵の兵は総数2500。私は皆さん一人一人が最
善を尽くせば勝利は揺るがないと確信しています。私は皆さんの忠
義と力を信じています!⋮⋮我らに勝利を!ローゼリア王国に栄光
を!﹂
﹁﹁﹁﹁ウォォォォォォ!我らに勝利を!勝利を!勝利を!ローゼ
リア王国に栄光あれ!﹂﹂﹂﹂
壇上に立ち、騎士達を鼓舞するルピス王女に呼応して騎士達の歓声
が平原に轟く。
騎士達は腕を天高く突きあげ槍の石突︵穂先とは反対の棒の先端部
分︶を地面にドンドンと突き立てて気勢を上げた。
それは長年ホドラム将軍に抑圧されてきた騎士達の恨みの念が火山
のように噴火した結果である。
彼らは遂に其の恨みを晴らす機会を得たのだ。
それも圧倒的に有利な状況によって。
ルピス王女へ恭順の意思を固めたゲルハルトの行動は素早かった。
亮真から提示された条件を全て呑むと、直ぐにアーデルハイド伯爵
以下貴族派の主だった人間に裏工作を掛けたのだ。
それは亮真に指示された策がルピス王女に対する自らの印象を少し
でも良くしたいと言うゲルハルト公爵の打算と混ざり合った結果、
699
信じられないほど迅速に行われた。
そして其の策の効果は劇的な程に発揮された。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁おぉ、ゲルハルト公爵様⋮⋮先日は失礼いたしました⋮⋮﹂
ゲルハルト公の突然の訪問に戸惑いを隠せないアーデルハイド伯爵
は、それでも無礼にならない程度の礼儀をもって彼を迎えた。
彼はイラクリオンの郊外に天幕を張って野営していた。
﹁いやいや、突然押しかけてしまいこちらこそ失礼した﹂
この辺は社交辞令として当然の挨拶である。
ゲルハルト個人としては、長年貴族派を支えてきたアーデルハイド
伯爵が自分を裏切りホドラム将軍に与した事を根に持っている。
人間としては当然の感情だろう。
へりくだ
だが今の彼の表情から、其の怒りを窺い知ることは出来ない。
彼は傲慢な男だが、必要なら幾らでも謙った態度をとれる男だった。
演技が上手いともいえる。
勿論長年ゲルハルト公爵の下で貴族派のナンバー2を務めてきたア
ーデルハイド伯爵には通用しないのだが、それでも円滑に話し合い
を進められるという効果はある。
誰だって高圧的に話されるより、穏やかに話をした方が聞きやすい
のだ。
﹁して?どのようなご用件ですかな?⋮⋮ホドラム将軍に言われた
様に出陣の準備を整えなくてはならないので忙しいのですが⋮⋮い
よいよ決戦ですからなぁ⋮⋮﹂
700
アーデルハイド伯爵の言葉は礼儀正しいが、含みがであった。
つまり落ち目のゲルハルト公爵と話す時間など無いと言外に匂わせ
ているのだ。
﹁おぉ、それは申し訳ない⋮⋮ですがアーデルハイド伯爵はご存知
ですかな?今王女は大胆な手を打とうとしている事を﹂
如何にも意味深な言葉である。
アーデルハイド伯爵も公爵の手だと判っていても聞き返さずにはい
られなかった。
﹁大胆な手?⋮⋮ルピス王女は一体何を企んだというのです﹂
ルピス王女が何らかの策略を企てているのなら伯爵は無視すること
は出来ない。
それが例えゲルハルトの言葉でも。
﹁殿下は騎士を少数に分けホドラム将軍に与する貴族達の領地を焼
き討ちに向かったようなのです﹂
﹁ま!⋮⋮まさか!⋮⋮そんなことは在る筈が無い!⋮⋮あの殿下
がそのような事を!﹂
伯爵が声を荒らげるのも無理は無い。
今は争っているとはいえ同国人同士の戦なのだ。
つまりルピス王女が貴族の領地に焼き打ちを仕掛けると言う事は、
ローゼリア王国の経済に打撃を与えると言う事であり、それは自分
自身にも被害が及ぶ捨て身の策と言う事になる。
焼き討ち自体は珍しい事ではない。
701
村を焼き食糧を奪う。
戦術としては格別目新しいものではない。
それは裏を返せば、非常に効果的な戦術と言える。
だが自国民にそれをするというのを伯爵は聞いた事が無かった。
﹁信じられません⋮⋮あの殿下がそのような策を取るなど⋮⋮何か
の間違いでは?﹂
アーデルハイド伯爵がそう問い返したのも無理は無い。
ゲルハルトは伯爵が自分の話術に取り込まれた事を確信した。
﹁確かに!殿下はお優しい方ですからな⋮⋮﹂
﹁そうでしょう?何かの間違いですよ!そんな事をなさる筈が無い
!ローゼリアの民をルピス王女が傷つけるなど!﹂
反乱に加担したくせアーデルハイド伯爵は、自分がルピス王女と敵
対している事をいまいち理解していないような口ぶりだ。
まぁルピス王女を直接知っているだけに、伯爵が信じられないのも
無理はないのだが。
こみ上げてくる笑いを押し隠しながらゲルハルトは神妙な顔をして
話を続けた。
﹁ですが⋮⋮殿下の下に居るあの男はそのような事を気にはします
まい⋮⋮﹂
ゲルハルトの言葉に伯爵の表情が固まった。
﹁あの男⋮⋮それはあの悪魔の事ですか⋮⋮﹂
702
﹁左様⋮⋮︻イラクリオンの悪魔︼と言われているあの男ですよ⋮
⋮﹂
﹁御子柴亮真⋮⋮﹂
アーデルハイド伯爵の言葉にゲルハルト公爵は無言で頷いた。
5000もの兵を水攻めで溺死させた上、生き残った人間は全て殺
すと言った対応をした亮真をイラクリオンとその周辺に住む人々は
恐怖を込めて︻イラクリオンの悪魔︼と呼んだ。
それは亮真がまき散らした噂が誇張されていった結果の虚像だった
が、教育をまともに受けていない農民たちはその噂を信じ込んでい
た。
それは伯爵の耳にも届いている。
何しろその噂を聞きつけ、領地から率いてきた農民達が帰りたいと
嘆願してくるくらいだったからだ。
﹁しかし⋮⋮それは噂でしょう?本当に悪魔だと言うのですか?﹂
﹁悪魔かどうかと言えばそれは噂でしかありません。ですがあの男
が悪魔に匹敵するほど残忍で容赦無い人間なのは間違いないと思い
ますよ?﹂
無論、御子柴亮真は悪魔では無い。
敵には容赦が無くとも、むやみに殺しを楽しむような性癖も無い。
だが今は其の悪魔と呼ばれるイメージが大事だった。
﹁⋮⋮確かに︻イラクリオンの悪魔︼なら⋮⋮しかしそれは本当の
事なのですか?﹂
伯爵はまだ信じ切れていないようだった。
703
尤もゲルハルトもそんなことは判っていた。
彼は唯、伯爵を揺さぶりに来ただけなのだから。
﹁なぁに、ワシはそういう噂を聞いたという話をしただけの事。信
じるかどうかは伯爵が考えるべき事でしょう⋮⋮さて。お忙しい伯
爵をいつまでもお邪魔するわけにもいかん。ワシはこの辺で失礼い
たしますよ﹂
﹁え?もうお帰りですか?そのように急がずとも!﹂
伯爵は最初の言葉を忘れたかのようにゲルハルト公爵を引きとめた。
人を不安にさせたままで帰られてたまるかという伯爵の心が滲み出
る。
伯爵はもっとはっきりとした言葉が聞きたいのだ。
﹁いやいや、余りお邪魔するのも良くないからな⋮⋮そうだ、もし
今の話が気になるのなら町の商人達に聞いてみると言い。ワシは其
処から聞き込んだのだ。きっとワシよりも詳しく話をしてくれるだ
ろうよ﹂
其処まで言われれば伯爵としても無理に引きとめる訳にもいかない。
﹁判りました。面白いお話をありがとうございます﹂
﹁いやいや、お忙しいところをお邪魔して申し訳なかった。それで
は失礼する﹂
ゲルハルトはそう言い残すと伯爵の天幕を後にする。
伯爵は直ちに副官達を呼び集めた。
ゲルハルト公爵が言い残した噂の真偽を確かめる為に。
704
﹁では本当の事だと言うのか!?﹂
アーデルハイド伯爵は自分の副官達がもたらした報告に愕然とした。
﹁本当かどうかは不明ですが⋮⋮確かにイラクリオンにやってきた
商人達がこの話を噂しているのは確かな事です⋮⋮﹂
副官の言葉が伯爵の心を打ちのめす。
元々彼ら貴族は本能的に勝ち馬に乗るように刷り込まれている。
家名を権力を領地を、それらを保つ事が最優先なのだ。
彼らは自分の領土に固執する。
農民を大切にする意識は無くとも、自分の領地を荒らされるのを黙
っている領主は居ない。
其の自らの本拠地が焼き討ちに遭うという。
当然屋敷には家族を残してきている。
しかも今回の出兵で領内の男を殆どかき集めてきてしまった。
残されているのは女子供のみ。
防衛戦など考えもつかないだろう。
︵不味い⋮⋮非常に不味い⋮⋮だが⋮⋮どうすればいい?︶
伯爵は湧きあがってくる不安に身を焼かれた。
噂が本当ならば領地と自らの家族を守る為に戻るしかない。
だが何も得られずに領地へ戻れば、残るのは借金だけだ。
部下も働いていないとはいえ、まったくの無給と言うわけにはいか
ない。
農民だって農業を放り出して従軍しているのだ。
このまま帰れば其の不満は確実に噴き出す事となる。
︵しかし⋮⋮もし本当なら⋮⋮家族が⋮⋮妻が孫が⋮⋮︶
705
奴隷商人に売られるならまだ良い。
いずれ買い戻す機会だってある。
だが︻イラクリオンの悪魔︼とまで呼ばれるような男の事だ。
女子供だろうと容赦なく殺すだろう。
アーデルハイド伯爵の心は恐怖で縛りあげられる。
傍らに控える伯爵の息子達も父の苦悩の原因を理解しているだけに
掛ける言葉が無い。
いや、彼らの本心はこの場から直ぐに領地へと戻りたかったのだ。
自分の子供と妻の為に。
﹁伯爵様!失礼いたします﹂
天幕の入口に兵士の姿が現れた。
何か報告があるらしい。
思案の邪魔をされたアーデルハイド伯爵はジロリと冷たい視線を向
けると、追い払う様に手を振った。
﹁なんだ!邪魔をするなと言ったはずだ﹂
だが、兵士は伯爵の言葉に躊躇うような表情を浮かべて言いだした。
﹁はぁそれは判っていたのですが⋮⋮ロマーヌ子爵他貴族の皆様が
連れだって閣下に面会を求めておいでです⋮⋮一応閣下の命令をお
伝えして後日にして頂きたいと申し上げたのですが、火急の要件と
の事で⋮⋮其の⋮⋮如何致しましょう?﹂
其の顔を見た伯爵は、ため息を一つ付いて兵士へ言った。
なぜ子爵達が此処に来たのか、その理由に想像がついたからだ。
706
﹁⋮⋮判ったお通ししろ﹂
﹁は!﹂
兵士の後姿を見ながら伯爵は隣に控える長男へと語りかける。
﹁どう思う?⋮⋮やはり﹂
﹁父上のお考えどおりかと⋮⋮﹂
﹁お前もそう思うか⋮⋮だがどうする?﹂
伯爵は自分の長男がそれなりに知恵のある人間に育った事に嬉しさ
を感じた。
﹁此処は領地へ戻るのが最善ではないかと⋮⋮﹂
﹁ご長男のお言葉は的を射ておる!﹂
天幕の入口に幾人かの人影が立った。
﹁おぉ。子爵殿に皆様⋮⋮よくおいで下された⋮⋮しかし、今のお
言葉はどういうおつもりか?ルピス王女の軍が迫っている今、領地
に戻ることなど出来るはずもない﹂
伯爵は先頭に立って天幕の中に入ってきた小柄な中年へそう問いか
けた。
小柄な中年は無作法にも椅子も勧められるうちにドッカリと腰を座
らせる。
だが誰もこの男の態度を咎めようとはしなかった。
707
言っても無駄だったからだ。
﹁伯爵殿。建前は良い。今はそんな無駄な事を言っている暇は無い
⋮⋮ワシらは領地へ戻る事にした﹂
﹁な!﹂
ロマーヌ子爵の言葉にアーデルハイド伯爵は顔色を変えた。
子爵は伯爵の派閥に属してはいるが生来傲慢な性格の為扱いにくい。
ただ其の強気な性格が良い方に出たのか、下級貴族の親分格として
の地位を築いている。
少数貴族が持つ兵力は数十∼百ほど。
しかし小さな戦力も数がまとまればそれなりに大きな戦力となる。
だから伯爵としてもロマーヌ子爵の無礼を黙認してきたのだ。
だが勝手に撤退を決めたと宣言したロマーヌ子爵を、其のままにし
ておくことは出来なかった。
伯爵は精一杯の威厳を込めて怒鳴りつける。
﹁馬鹿な!何を勝手な事を!ゲルハルト公を裏切るおつもりか!﹂
既にアーデルハイド伯爵達貴族派はゲルハルト公爵からホドラム将
軍に乗り換えている。
だが、建前上はいまだにゲルハルト公爵の軍勢なのだ。
例え実権が無くとも、公爵が旗頭な事に変わりは無い。
だが子爵は軽く唇を歪めて冷笑した。
﹁何を今更。ゲルハルト公を見限ったのはつい先日の事。幾ら高齢
とはいえ忘れるにはチト日数が短すぎるのではないですかな?﹂
侮蔑ともとれる子爵の発言に伯爵の周りに控えた副官達が剣に手を
708
掛けた。
﹁止めよ!﹂
今にも斬りかからんとした副官達にアーデルハイド伯爵の怒声が飛
ぶ。
そして子爵の方を向くと、諦めた顔をして言った。
﹁確かに⋮⋮取り繕っても致し方ないな⋮⋮本題に入ろう⋮⋮何故
だ?﹂
これは何故子爵達が領地に戻る事を決断したのかという問いだ。
その理由を伯爵は予想してはいるが、子爵の口からハッキリと確認
したかったのだ。
そしてその結果によっては自らの身の振り方を考えなければならな
い。
﹁判り切っているだろう?⋮⋮例の噂だ⋮⋮﹂
子爵の顔が苛立ちで真っ赤になる。
﹁やはりそうか⋮⋮噂は真実と言う事か?﹂
伯爵の問いに子爵は首を振った。
﹁では噂の真偽を確かめずに撤退を決めたと言うのか?⋮⋮そなた
ら全員が﹂
﹁真偽など関係無いのです。伯爵殿﹂
709
子爵の後ろに居た青年貴族が声を上げた。
アーデルハイド伯爵の記憶には彼の名前が思い浮かばない。
ロマーヌ子爵の下に属する下級貴族の一人だろう。
﹁どういう事かな?﹂
﹁既に農民達にこの噂が広がってしまいました。その結果、彼らは
どうしても自分達の家に帰ると言ってきました﹂
焼き討ちをされて一番困るのは農民である。
家も財産も全てが奪われ灰になる。
貴族はまだ、親族の援助を受けると言う可能性が残されるが、生活
の苦しい農民達は自分の生活を守る事で精一杯。
とても他人の生活までは面倒を見切れない。
だから彼らは言えに帰りたいのだ。
ささやかな財産と自分の家族の命を守る為に。
﹁下らん!農民など見せしめに何人か傷めつければ済む話ではない
か?﹂
伯爵の言葉はこの世界の貴族が常習的に行う政治手腕である。
そしてそれはとても効果的な方法だ。
通常ならばだ。
﹁それが⋮⋮農民達は反乱も辞さない覚悟らしく⋮⋮こちらに抗っ
てきたのです﹂
﹁何だと!?農民がか!﹂
これは伯爵にとってもかなり意外だった。
710
農民たちが其処まで追い詰められているとは思いもしない。
﹁はい。どうにかその場は取り沈めたのですが⋮⋮調べてみるとこ
れは陣の全てで起こっています⋮⋮それに⋮⋮﹂
﹁それに何だ?まだ何かあるのか?﹂
伯爵はもうこれ以上彼の話を聞きたくなかった。
これ以上状況が悪くなるなど彼には耐えられない。
﹁シュバルツェン侯爵と其の一派の軍が既に撤退を開始しています﹂
﹁馬鹿な⋮⋮そんな勝手な事を!﹂
貴族派にも派閥がある。
シュバルツェン侯爵は貴族派のナンバー3。
ゲルハルト公爵からの信頼と言う点でアーデルハイド伯爵が勝って
いた為に派閥内の序列では下だが、領地の広さと爵位の高さでは貴
族派でもゲルハルト公爵に次ぐ高位の人間である。
今回の軍の編成でも、侯爵の兵数は貴族派の中でも2番目に多い。
それが無断で戦線を離脱したとなれば無視することは出来ない。
﹁ホドラム将軍には報告したのか?!﹂
伯爵としては最も気になるところである。
だが青年貴族は顔にいやしい笑みを浮かべて首を振った。
﹁今更あの方に報告したところで何も変わらないでしょう?⋮⋮シ
ュバルツェン侯爵の軍勢は邪魔をすれば戦も辞さないと通達してき
ました。ならばもう我らに打つ手はありません⋮⋮となれば、下手
711
にホドラム将軍に報告して時間を無駄にするよりも、我ら貴族が生
き延びる算段をするべきではありませんか?﹂
﹁ホドラム将軍を生贄にしてか?⋮⋮諸兄らも同じ意見か?﹂
伯爵の言葉に彼らは無言だった。
つまり、無言の肯定と言う事だ。
吐き気がするような汚さである。
だが伯爵は嫌悪感を持ちながらも彼らの態度に理を感じた。
それは家名を残すために幼少から叩きこまれた貴族の生存本能なの
かもしれない。
﹁ふぅぅぅ⋮⋮良かろう⋮⋮貴殿らが其処まで覚悟されているなら
私ももはや言うべき言葉は無い⋮⋮貴殿らの意見に従うとしよう﹂
﹁では、直ちに撤退をするとしよう。噂の真偽がどうであれ領地の
防衛にあたらなければならんからな!﹂
アーデルハイド伯爵の言葉を受けてロマーヌ子爵は踵を返して天幕
から出ていく。
其の後ろ姿を見ながら、アーデルハイド伯爵は呟いた。
﹁ゲルハルト公を裏切り、直ぐまたホドラム将軍を切り捨てるか⋮
⋮家名を保つとは綺麗事では無いのだな⋮⋮﹂
伯爵の横に控えている副官達は皆一様に無言のままだった。
彼らもまた貴族の過酷さを噛み締めていた。
712
713
第2章第35話
異世界召喚180日目︻決戦︼その7:
﹁では殿下!進軍のご指示を!﹂
メルティナが全軍を前にして立ち尽くすルピス王女へ進軍を促した。
亮真の策により、イラクリオン周辺に駐留していた貴族派の軍勢は
皆それぞれの領地へと帰ってしまっている。
そしてゲルハルトがルピス王女に恭順した今、残るのはホドラム直
属の騎士2500のみである。
それに対してルピス王女の軍は総勢2万5000。
圧倒的に劣勢だったはずの王女達の戦力はいつの間にか逆転してい
た。
王女の目の前に立ち並ぶ騎士達は、王女の命令を今や遅しと待ちわ
びている。
実に10倍もの戦力差なのだから彼らの士気が高ぶるのは当然と言
えた。
だがルピス王女の心は目の前で高ぶる騎士達の気持ちとは反対に、
暗く沈んでいた。
圧倒的に劣勢だった自分が、勝利を掴み掛けている。
狂喜乱舞しても不思議ではないこの状況を彼女は喜べなかった。
ある男への恐怖が、彼女の心に影を差す。、
︵これがあの男の力⋮⋮あれほどの劣勢を覆した男⋮⋮御子柴亮真
⋮⋮私はあの男が怖い。あの知略が怖い、容赦の無さが怖い、王家
714
の血に対してまったく敬意を持たないあの心が怖い⋮⋮ホドラムを
倒せばあの男はこの国から出て行く。其れは良い⋮⋮其れは最初の
約束だから。でも⋮⋮もしアイツが敵に回ったら?⋮⋮私なんかじ
ゃ太刀打ちできない⋮⋮この国にあいつにかなう人間が居る?もし
あいつが私達の敵になったら?⋮⋮ホドラムやゲルハルトなんか問
題にならないほどの脅威になってしまう⋮⋮︶
それは最初から判っていたことだ、いや、判っていると思い込んで
いた。
理解していたはずの不安がホドラムを倒す段階になって、心の奥底
から湧き出してくる。
だが彼女は其の不安を振り払った。
︵いいえ⋮⋮それは後で考えれば良いわ。今はホドラムを排除する
ことが先決よ!︶
メルティナに軽くうなずき返すと、ルピス王女の目が前方を見据え
た。
﹁えぇ!全軍進軍!﹂
メルティナの言葉に頷くとルピス王女の剣が抜き放たれ、イラクリ
オンを指し示す。
今はホドラムに勝つことが全てなのだ。
︵全ては⋮⋮この戦の為に戦ってきたのだから!︶
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉお!﹂﹂﹂
再び歓声が響き騎士達が一斉に進軍を開始した。
目指すのはホドラム・アーレベルクの首。
唯一つだった。
715
﹁亮真様⋮⋮宜しいのですか?﹂
ルピス王女率いる騎士団が砂塵を上げてイラクリオンへと向かう。
其の進軍を少し離れた高台から眺めている一団が居た。
﹁あぁ、俺達がイラクリオン攻めに参加したところで意味は無いか
らな﹂
ローラの問いに亮真は軽く答える。
その場に居るのはリオネ・ボルツ率いる傭兵達とマルフィスト姉妹
の総勢80名程である。
全員が戦支度をしており、何時でも戦場に向かえる準備をしている
というのに指揮官である亮真はその場から動こうとはしない。
﹁ですが若⋮⋮イラクリオンを攻めなければこの戦は終わらないの
では?﹂
ボルツが疑問を言葉にした。
それはその場に居た全員が気にしている疑問だった。
﹁?イラクリオンを攻めなきゃ戦が終らない?⋮⋮成る程⋮⋮みん
なもそう思ってるのか?﹂
亮真の問いにその場に居た誰もが頷く。
ホドラムがイラクリオンの町から軍を動かさない以上、攻めるより
他に手段は無いのだ。
既にゲルハルトが王女に恭順しているとしても。
716
ボルツの言葉の意味を理解した亮真は顔には笑みを浮かべた。
﹁じゃあ質問だ。今イラクリオンに居るのはホドラム率いる250
0の騎士だけだ。ゲルハルトが王女に恭順した今の段階では敵と呼
べるのはそいつらだけだ。それは判るな?﹂
亮真の言葉に全員が頷ずく。
亮真の流した焼き討ちの噂によって、貴族達は自分の領土の防衛に
戻ってしまっている。
その所為でイラクリオンの周辺からは兵の姿が消えていた。
だからこそルピス王女は決戦に踏み切ったのだ。
ゲルハルトが恭順している以上、ルピス王女の敵はホドラムと其の
配下だけになっている。
その事は全員が十分に理解していた。
﹁ルピス王女の兵力は?﹂
﹁2万5000程です﹂
﹁サーラの言うとおりだ、じゃあホドラムの方は?﹂
﹁2500ですぜ!﹂
ボルツがすかさず叫んだ。
﹁その通り、実に10倍近い差があるわけだが、みんなはホドラム
がイラクリオンに立て籠もる思うか?﹂
717
亮真の視線が全員を順繰りに見回す。
誰もが其の言葉で亮真が何を考えているのか察した。
﹁なら坊やは立て籠もらないと思っているって訳かい?﹂
リオネが自分の考えを言葉にする。
﹁あぁ。まぁ確率的には5分5分だけどね⋮⋮俺が知る限りホドラ
ム将軍ってのは傲慢でいけすかない親父だが、同時に強かで諦めが
悪いとみてる﹂
﹁じゃあ、どうするって言うんだい?諦めの悪いホドラム将軍は?﹂
﹁普通に考えてたてこもったところで援軍の見込みはまず無い。一
度見限った貴族派の面々が再びホドラムの為に兵を出すことは無い
からな。となればホドラムに残されるのは玉砕か逃亡かの2択って
訳だ⋮⋮だが俺はホドラムが玉砕を選択するとは思えない﹂
﹁なら逃亡しか残らないじゃないか⋮⋮でもあの戦力差でそんな事
が出来るのかい?10倍だよ?10倍﹂
亮真の言葉を聞いたリオネの返事は懐疑的だった。
多くの戦場を経験しているリオネは撤退戦の難しさを十分に理解し
ている。
軍は進むのは簡単だが引くとなると途端に難しくなる。
しかも騎士は個人技に長けている半面、集団連携になると途端に其
の力が落ちる。
だが退却戦で重要なのは個人の力では無く、騎士が苦手な集団連携
の力なのだ。
718
お互いがお互いをフォローしあえれば生還の確率は高くなる。
逆に個人が連携を無視して退却すれば残された人間は死ぬしかなく
なる。
これは歴史が証明している事実である。
唯でさえ騎士が苦手な退却戦でしかも戦力差が10倍とくれば、ホ
ドラム将軍達が生き残る可能性はほぼ0と言えた。
﹁確かに、それは俺もそう思う。まぁそうなるように色々と小細工
をしたわけだけどな⋮⋮だがそれはホドラムが軍を率いて退却すれ
ばってことだ⋮⋮俺は最悪ホドラムが配下の騎士を見捨て逃げ出す
可能性を考えている。⋮⋮少数の側近と自分の家族だけを引き連れ
てな﹂
リオネの疑問に亮真は頷いた。
だが同時に、軍単位で退却を試みないなら可能性はあるとも考えて
いる。
﹁まさか⋮⋮そんな⋮⋮幾らなんだって﹂
﹁若!それは幾らなんででも⋮⋮﹂
亮真の言葉に全員が絶句した。
配下を見捨てて単身逃げだせば確かに逃げる事が出来るかもしれな
い。
だがそれが一国の将軍位にまで上り詰めた騎士が選択する行いだろ
うか。
傭兵として幾多の戦場を知っているリオネやボルツでも其処まで恥
知らずな人間に覚えは無かった。
719
勿論、傭兵や農民を捨て駒にする騎士は多くいたが、はたして軍の
最高指揮官が⋮⋮
﹁まぁ今のはあくまでも可能性の話さ⋮⋮イラクリオンを攻めなけ
ればならない事に変わりは無いからな。ただ俺達程度の人数がイラ
クリオン攻めに参加しなくても大勢に影響はしないだろう?だから
ルピス殿下に頼んで別行動を許可して貰ったのさ﹂
亮真は決して断言はしていない。
だがその場に居た全員には亮真が言う確率が5分5分どころかほぼ
確実に起こる未来であると予感していた。
確かに圧倒的に有利な状況である以上、亮真達がイラクリオン攻め
に参加しなくても勝敗自体には影響が無いだろう。
だが戦後の恩賞まだ考慮に入れるなら、ここで参加しないという決
断は不利にはなっても決して有利には働かない。
それを踏まえても尚、亮真が此処に居ると言う事はホドラム将軍が
逃亡する可能性が極めて高いという事になる。
﹁まだ納得いかないか?﹂
亮真の言葉に全員が首を振った。
此処まで説明されれば納得せざるを得ない。
げんおう
﹁さてと⋮⋮後は厳翁達が戻るのを待つか⋮⋮﹂
﹁厳翁ですか?﹂
亮真の言葉にローラは周囲を見回した。
確かに厳翁と咲夜の二人が見当たらない。
720
﹁なぁに⋮⋮あいつらにイラクリオンに紛れ込んでるヤツラと繋ぎ
を取ってくるように頼んだのさ⋮⋮お!噂をすれば二人が来たな⋮
⋮どうだった?厳翁、咲夜﹂
先日より商人に変装した傭兵達が、イラクリオン周辺に散らばって
諜報活動を行っている。
殆どの任務は、農民達に対して御子柴亮真という人間の噂を流すこ
とだったが、同時にイラクリオンへ潜入し、敵側の動向を探ると言
う任務が与えられている。
そしてゲルハルトが恭順した今、彼らはホドラム将軍の動向を全力
で監視している。
其の連絡役として厳翁と咲夜の二人がイラクリオンへと潜入してい
たのだ。
亮真の眼がイラクリオンから駆けてきた二人の姿を捕らえた。
﹁お待たせ致しました。御子柴殿﹂
﹁遅くなりました﹂
二人は軽く亮真へ頭を下げ時間がかかった事を詫びると、其のまま
本題の報告へと話を繋げた。
﹁御子柴殿の予感は当たりましたぞ⋮⋮ホドラムの屋敷を見張って
いた者たちによれば、昨日今日と屋敷に町の商人達が呼び出されな
にやら商談が行われた模様です﹂
﹁商談ねぇ⋮⋮内容は掴めているのか?﹂
厳翁の言葉に亮真は軽く頷くと尋ねた。
721
彼の報告は亮真にとって予想されていたものだが、それだけで決め
つけるのは危険だ。
﹁はい、屋敷から出てきた商人の一人を問いただしたところ、なん
でも衣類や権利書の類を売り払ったようです、現金化したかったよ
うですな﹂
厳翁の言葉に亮真は頷いた。
資産を現金化したということの意味は一つだけ、ホドラムは国外逃
亡を考えているということだ。
﹁まぁ逃亡資金を調達したと見るべきだろうな⋮⋮﹂
﹁それに保存食を買い求めたという話も入っています﹂
﹁保存食ねぇ⋮⋮部下を切り捨てる気だな⋮⋮﹂
もし部下を引き連れていくのなら、ホドラム自身が食料を買う必要
は無い。
軍には兵糧を管理する部隊が居る。
総大将であるホドラムがわざわざ商人から買う必要など無いのだ。
それが態々商人を呼び出して買った。
つまり自分の行動を部下に知られたくないということだ。
﹁おそらく﹂
亮真の言葉に厳翁が頷く。
﹁逃走経路に関してはどうだ?予測はつくか?﹂
722
﹁いえ、さすがにそこまでは。ただ⋮⋮﹂
﹁なんだ?気になることでもあるのか?﹂
﹁家族を連れてとなれば、徒歩はありえますまい。馬車に荷物を積
んでいたところを見ても街道を使うはず﹂
﹁亮真様!これを﹂
すばやくサーラが携帯していた地図を亮真の前に広げた。
﹁ここがイラクリオン⋮⋮可能性としては4択か﹂
亮真の目が素早くイラクリオンより伸びる7本の街道を捉えた。
このうちの3本はルピス王女の勢力圏を通らなければならない。
裏をかく為にワザと王女の勢力圏を通るという選択肢も有るが、家
族連れではあまりにも危険だ。
亮真はホドラムがローゼリア王国内に顔を広く知られていることを
考へ選択肢を絞り込んだ。
﹁南東、南、南西、西の4街道ですね⋮⋮家族連れとなると、西の
ザルーダ王国に抜ける道は除外しても良いかと﹂
ローラの指摘に亮真は軽く頷く。
︵確かに、鉄の国の名を持つザルーダ王国は峻険な山が多い。家族
を引き連れて逃げるにはあまりにも厳しい地形だ︶
﹁なら同じ理由で南西も除外だな⋮⋮残りは南東と南か⋮⋮﹂
南と南東は共に南部地方へと続いている。
723
そこは小国が乱立する西方大陸の中でも最大の激戦地帯だ。
だが身を隠すにはある意味、絶好の場所ともいえる。
﹁2択か⋮⋮さてどうしたもんかな⋮⋮﹂
亮真の目が空を見上げた。
手持ちの兵力はおよそ100名。
全員が戦士として一流の力量を誇るが、相手も必死で抵抗してくる
はずだ。
実力は伯仲と考えたほうがよい。
そうなるとものを言うのは頭数ということになる。
ホドラムもさほど大人数ではないと考えられるが、警護として50
名程の騎士は引き連れているはずだ。
︵2手に分けるの愚策だな⋮⋮だが逃がすわけにもいかないし⋮⋮
どうしたもんか︶
ローゼリア王国の未来を考えるなら、ここはどうしてもホドラムを
殺しておきたい
それにエレナとの約束もある。
亮真の脳裏にさまざまな案が浮かんでは消えていく。
いくら彼が策に優れていようとも、物事には限界がある。
物理的な不足を策で補えるはずも無かった。
﹁亮真様﹂
﹁?なんだ?どうかしたか?﹂
思案に耽っていた亮真にサーラが耳打ちをした。
﹁今、こちらに向かってくる部隊が居ると報告がありました﹂
724
﹁敵か?﹂
亮真の問いにサーラが首を振った。
﹁いえ、エレナ様です﹂
﹁エレナさんが?⋮⋮あの人はルピス王女とイラクリオン攻めに参
加しているはず⋮⋮確かか?﹂
﹁はい、まもなくこちらに到着されるかと﹂
﹁判った。ここにお連れしてくれ﹂
亮真の言葉にサーラは頷くと、その場から離れた。
725
第2章第36話
異世界召喚180日目︻決戦︼その8:
﹁ふぅ、よかった。間に合ったわ!﹂
そう言うとエレナは亮真の前で馬から飛び降りると、薄い笑みを浮
かべながら言い放った。
亮真は彼女の笑顔にどこか暗い情念を感じた。
﹁エレナさん⋮⋮何故ここに?イラクリオン攻めに参加しているは
ずでは?貴方が居ないと不味いのではありませんか?﹂
﹁あら?あなただってイラクリオン攻めに参加していないでしょう
?私だって⋮⋮ねぇ?﹂
亮真はエレナの言葉に苦笑いを浮かべた。
︵さすがに救国の英雄といわれるだけのことは有る⋮⋮体は老いて
いても頭のキレは流石だな⋮⋮最後の始末は自分の手でか⋮⋮︶
亮真はエレナの表情から、彼女が此処へやってきた理由を察した。
彼女は亮真と同じように、ホドラムが国外に逃走すると読んだのだ。
そして自らの手で決着をつけることを覚悟している。
﹁兵数は?﹂
﹁私の側近を300﹂
︵完全に殺す気か⋮⋮まぁそれも当然か⋮⋮︶
726
エレナの心に宿るのは復讐の暗い炎。
今回の戦で彼女が直接の指揮権を持つ兵数はおよそ3000。
その中から自分の側近300のみを率いてこの場にやってきた事が、
エレナの覚悟を表している。
自分の側近だけを連れてきたということは、どんな手段を使っても
ホドラムを確実に殺すという意思表示に他ならない。
例えホドラムが降伏を選択しようと無視する心算なのだろう。
﹁それで?状況は?ホドラムは既にイラクリオンを脱出したのかし
ら?﹂
エレナの問いに亮真は首を振って答えた。
﹁そぉ⋮⋮まさかイラクリオンに篭って玉砕を選択するなんてこと
は無いでしょうね?﹂
エレナの顔に不安の色がよぎる。
予想はあくまで予想でしかない。
彼女は自分の予想が常に正しいと考えるほど愚かではないのだ。
だが今回の予想を外すわけににはいかない。
もし外せば彼女の復讐は此処で終わってしまうのだから。
﹁其れは無いでしょう。俺の部下が調べたところでは逃走資金の調
達をしていますからね⋮⋮﹂
﹁⋮⋮やはりね⋮⋮あの男の考えそうなことだわ﹂
エレナは吐き捨てるように言い放つ。
﹁どこに向かうつもりか判っているの?﹂
727
亮真はサーラから地図を受け取ると、エレナの前に広げる。
﹁2択まで絞り込みました⋮⋮馬車を準備している事と、荒事に慣
れていないホドラムの家族が一所にいる事を考え合わせると、まず
南方方面に逃げるつもりではないかと考えています﹂
亮真の指が地図をなぞる。
﹁成る程⋮⋮東を避けるというのは正しいでしょうね。この状況で
そちらに向かえば王女に媚を売りたい貴族達から狙われるからね⋮
⋮﹂
亮真は頷いた。
今やルピス王女の勝利は目前だ。
今まで傍観していた者や敵対していた者は、何とか家名を守るため
にルピス王女へ取り入ろうとしている。
そんな状況でホドラムが東へ向かうのは自殺行為といえる。
誰もがホドラムの首を手土産に王女へ取り入ろうとすることが目に
見えていた。
﹁西も無いわね⋮⋮ザルーダ王国との国境地帯は山が多いし⋮⋮後
は南方か⋮⋮﹂
エレナの分析も亮真と同じ結論に達したようだ。
尤も彼女の顔は悩んでいるようには見えない。
何か確信があるのだろう。
﹁亮真君、貴方は南か南西か2択で悩んでいるのよね?﹂
728
亮真は無言で頷く。
﹁なら私が其の問題を解決してあげるわ。ホドラムの逃走経路は南
よ。他には考えられないわ﹂
エレナは自信を持って言い切った。
﹁根拠は?﹂
﹁彼の妻がタルージャ王国の貴族出身だからよ﹂
タルージャ王国。
イラクリオンから南に100kmほど行った所にある国の名だ。
確かに妻の出身国なら逃走先としては無難な選択といえる。
縁が多少でも有るならば、庇護も求めやすいだろう。
﹁成る程⋮⋮縁があるならタルージャ王国を目指すのは有り得ます
ね⋮⋮ただそれを見越して裏をかかれる可能性は無いんですか?﹂
亮真は別にケチを付けたい訳ではない。
エレナの言葉にある説得力は彼も認めている。
だが彼自身が、オルトメア帝国から脱出した際に選択したように、
最善の手段が常に良い結果をもたらすとは限らないのだ。
最善の手とは、他人から見て予測されやすい。
だからこそ次善の手を選択することで、相手の目を惑わすことが出
来る。
其の可能性を亮真は気にしていた。
﹁ワザと最善を採らないってことね。でも其の心配は無いわ⋮⋮何
故ならイラクリオンから南東へ進めばブリタニア王国に着くわ﹂
729
エレナの指がタルージャ王国の隣を指差す。
﹁距離的にはタルージャ王国とほぼ同じくらいですよね?このブリ
タニア王国に逃走する可能性は無いのですか?﹂
亮真の問いにエレナは首を振った。
﹁其れは無いわ⋮⋮タルージャとブリタニアは長年の宿敵同士。ホ
ドラムのみが逃げるならともかく、タルージャ出身の奥方を連れて
行くことは出来ないわ。そしてホドラムは奥方を捨てることも出来
ないの。それをしてしまえばホドラムを助力してくれる勢力が0に
なってしまう﹂
﹁エレナさんはホドラムがタルージャ王国で勢力を盛り返す気だと
?⋮⋮まだ権力を追い求めると?﹂
﹁えぇ、間違いなくアイツはこのまま引き下がるような男じゃない
⋮⋮そんな甘い男じゃないわ﹂
エレナの言葉が正しいのなら、ホドラムがタルージャ王国を目指す
のは確実と言えた。
まったく縁の無い国より、奥方の出身国の方が逃亡先としては都合
が良い。
だが亮真はエレナの言葉を聞いて新たな懸念を持った。
それは今まで気にしなかったホドラムの妻に関してだ。
エレナの復讐はホドラム本人の命だけではない。
その家族にもその刃は向けられる。
当然ホドラムの妻にも⋮⋮
730
問題はホドラムの妻を殺した結果、ローゼリア王国に新たな敵を作
ることにならないかという懸念だ。
︵エレナさんの方がホドラムという人間をよく知っている⋮⋮此処
は彼女の判断に従うべきだろうな⋮⋮ただ気になるのは奥方が他国
の貴族だって事だ。そんなのを殺しちまって大丈夫なのか?︶
だが亮真は湧きあがった懸念を振り払った。
﹁判りました。貴方の指揮に従います﹂
その言葉はエレナの復讐を最優先にするという意思表示だった。
亮真の言葉にエレナは深く頷いた。
﹁それでどうします?連中がイラクリオンを出てすぐに襲いますか
?それとも少し離れた所でやります?﹂
﹁私は此処が良いと思うの⋮⋮どうかしら?﹂
亮真の問いにエレナは軽く頷くと地図の一点を指差す。
地図によるとその場所は、森となっている。
兵を伏せて置くには都合のよい場所だ。
﹁成程⋮⋮ならば部隊を2手に分けた方が良いでしょうね⋮⋮そう
ですねぇ、俺が200ほど率いて猟犬役をやりますか?その方がエ
レナさんも都合が良いでしょう?﹂
亮真はエレナの意図を察した。
それはエレナにも伝わる。
﹁ありがとう⋮⋮亮真君﹂
731
その言葉が、彼女の心を表していた。
そしてホドラムとその家族の運命も。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁ケイルよ。追手はおらぬだろうな?﹂
ホドラムの言葉に、ケイルは馬の後方へと目を向ける。
﹁はい、閣下⋮⋮今の所は⋮⋮まだ我らの脱出に気がついた者は居
ないのではないでしょうか﹂
﹁そうか⋮⋮貴様の進言に従って、ルピスの軍勢が押し寄せるタイ
ミングで脱出を図ったのは正解だったようだな、ケイルよ﹂
﹁は!有りがたきお言葉!﹂
ホドラムの言葉にケイルは深く頭を下げた。
チャンス
ホドラムは資産を現金化すると、自らに付き従う少数の側近たちを
屋敷に集め、時期を待った。
彼らがイラクリオンの場外に出る機会を。
そしてそれは、今日訪れた。
ルピス王女の軍勢による、イラクリオン攻めの開始に因って。
イラクリオンの街は大混乱に陥った。
ゲルハルトとルピス王女の間では、既に恭順の話は纏まっていたが、
一般市民にまでその話は広まっていない。
732
その結果、住民にはルピス王女がゲルハルト公爵の粛清に軍を進軍
させたようにしか見えなかったのだ。
支配階級が何をしようと、市民には本来関係はない。
だが、軍が街を目指して攻め寄せてくるとなれば、市民には当然犠
牲が出る。
だから住民たちは、自らの命とわずかな財産を守るために街を逃げ
出すことになった。
ホドラム達は、その混乱の隙をついたのだ。
﹁フン!このままで済むとは思うなよ!ワシを陥れた報い⋮⋮ルピ
スめ!ゲルハルトめ!必ずや思い知らせてくれる!﹂
追手が見えない事に安心したのか、ホドラムの口から呪詛の言葉が
漏れた。
彼は完全に開き直っていた。
王族の名を呼び捨てにするなど、不敬の極みともいえる。
だが、彼は既にローゼリア王国における自らの地位を諦めていた。
貴族、騎士、そして王族。
ホドラムはローゼリア王国の支配階級から切り捨てられてしまった。
だが彼の恨みに正当性は無い。
別にルピス王女がホドラムを陥れたなどという事実はないのだ。
彼はただ単に自分でルピス王女を裏切り、ゲルハルトを陥れた。
あくまでも裏切ったのはホドラム自身である。
だが彼の頭はそんな風には働かない。
彼の陥った苦境はあくまで他人の所為としか考えられないのだ。
またそういう人間だからこそ、彼は国外に逃亡するまで落ちぶれて
しまったのだ。
733
﹁妻と娘の様子はどうだ?問題はなさそうか?﹂
ホドラムは後方に追走する馬車へ目を向けた。
其れには彼の家族が乗り込んでいる。
﹁は!馬車の中は快適に過ごすことが出来るよう、最善を尽くして
おります﹂
﹁うむ。あれはワシの最後の切り札だからな!良いか!間違いは許
さぬぞ!﹂
﹁ご安心ください閣下。必ずやタルージャまで無事にお連れ申し上
げます!⋮⋮そうだな?!﹂
ケイルは並走する騎士達に同意を促した。
﹁﹁﹁我らにお任せ下さい閣下!﹂﹂﹂
ホドラムの切り札は、ケイル達この場にいる全員の切り札である。
この場にいる誰もがホドラムと同じようにローゼリア王国では生き
ていけない者ばかりだ。
其れはホドラムの威光を盾に好き勝手なことをしてきたツケである。
だからこそ、彼らはホドラムを裏切らない。
ホドラムが浮けば自分達も浮き、ホドラムが沈めば自分達も沈む。
其れはホドラムへの忠誠ではなく、単純な損得の話だった。
﹁うむ!タルージャ王国の王子へ、ワシの娘を嫁がせてしまえばワ
シは外戚として権力を握ることが出来る!そうなればお前たちにも
相応の待遇を約束してやるぞ!﹂
734
﹁﹁﹁は!﹂﹂﹂
側近達は声を揃えて頭を下げた。
ホドラムに残された最後の切り札、其れはタルージャ王国内の貴族
である妻と其の娘であった。
彼は、自分の娘をタルージャの王子に嫁がせることにより、自らの
身を立てようと目論んでいた。
尤もそれはまだ、ホドラムの願望でしかない。
彼はまだ、タルージャ王国の貴族や王家に対して何の工作もしてい
ないのだから。
だが彼に残された選択肢は少ない。
その中でも権力の中枢に返り咲く可能性が最も高いのが、是である。
彼の心は未だに折れてはいない。
︵ワシは⋮⋮このままでは終わらぬ!必ずや再び権力を我が手中に
!︶
其れは、権力という果実を口にした人間の業なのかもしれない。
人を支配する快感。
其れは麻薬にも似ていて、人の心を蝕む。
﹁このまま終わってたまるか!﹂
ホドラムの目には暗い妄執の炎が浮かんでいた。
735
第2章第37話 異世界召喚182日目︻決戦︼その9:
日は中天に差し掛かり、日差しが大地へと降り注ぐ。
街道には今回の内乱の影響か全く人影が無い。
ホドラム達はただひたすらに馬へ鞭を振るい駆り立てると、街道を
疾走する。
鎧兜を身に付け馬を駆る騎士と、それに守られた数台の馬車。
総数はおよそ200名程だろうか。
やがて彼らの目の前に、広大な森林地帯が其の姿を現した。
﹁ようやくここまで来たか⋮⋮追手の方はどうか?﹂
ホドラムが疲れ切った口調で言葉を吐いた。
﹁はい⋮⋮まだ追手は姿を見せておりません⋮⋮ここまでくればそ
の心配もございますまい⋮⋮この森を通過してしまえばタルージャ
国境まで後1日程の行程ですし﹂
ケイルの言葉を聞き、ホドラムの顔に笑みが浮かんだ。
﹁もう少しか⋮⋮﹂
ホドラムの視線が、心配そうに後部の馬車に向けられた。
736
ケイルの視線もその後を追う。
﹁お二人ともよくご辛抱くださりました﹂
ケイルの言葉にホドラムは大きくため息をついて答える。
﹁うむ⋮⋮あれらはよく辛抱しておる⋮⋮だがもう無理のようだ。
食事が喉を通らないし、水も飲むのを嫌がる。吐き気がすると言っ
てな⋮⋮娘も同じ状態だ⋮⋮流石に体力の限界なのだろう﹂
イラクリオンを脱出して3日。
馬車に揺られながらの移動は、ホドラムの妻と娘に大きな影響を与
えていた。
観光の旅ではない。
命がかかった逃避行という特殊な状況が、深窓の貴婦人である二人
には耐えがたい重圧となって圧し掛かっているのだ。
それでも、文句の一つも言わずに二人が馬車に揺られてきたのは、
ホドラムが置かれた状況をキチンと理解していたからに他ならない。
﹁ケイルよ。今日は野営に都合の良い場所を見つけたら、早めに休
息を取らせたいと思うがどうだ?﹂
ホドラムの顔には、自分の妻と娘の体を心から心配する夫としての
責務と愛情の念が浮かんでいた。
まだ陽は高い。
だが、彼は無理せず早めに夜営の準備をしたいようだ。
彼は妻と娘の体力の限界を感じとっていたのだ。
それに此処で二人に死んで貰っては困るのだ。
妻にはホドラムとタルージャの貴族との仲介が、娘には王族との婚
姻という大事な仕事がある。
737
人情と打算。
両方の理由から、ホドラムは二人の体調を心から心配していた。
﹁良いご判断かと⋮⋮奥様達の体力は限界に達しております⋮⋮森
の中に入った後、騎士達に夜営地を探させます﹂
ケイルもホドラムの妻と娘が体力の限界に達している事を十分に理
解していた。
タルージャとの国境までは後1日程。
しかも、イラクリオンから脱出した後、一度として追手の姿を目に
したことは無い。
︵大丈夫だ⋮⋮俺たちは追手の手を逃れた⋮⋮恐らく全く別の方面
に追手を差し向けたのだろう。ならば今重要なのは奥方とお嬢様の
お体よ⋮⋮お二人は我らの命綱なのだから︶
油断と打算。
その2つが、彼らの運命を決定づける。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
今夜の月は天空から、その優しい光で大地を照らしていた。
かがり火は最小限に抑えられているが、それでも月明かりのおかげ
でさほど困りはしない。
﹁運が悪いなぁ俺達は﹂
﹁あぁ全くだ⋮⋮今日に限って見張りの当番が回ってくるとわな⋮
738
⋮﹂
二人の騎士はそうボヤキながら闇に閉ざされた森へと視線を向けた。
二人とも鎧を着込み槍を手にしている。
年頃は二人とも同じくらいだが、背は右側の男が高い。
今夜は、ホドラムの命で3日ぶりに鎧を脱いで休む事を許可された
貴重な夜だったのだ。
だが彼らと極一部の運の無い騎士達は、見張りの当番が回ってきて
しまい、鎧を脱いで休む事が出来ない。
3日に及ぶ逃避行は確実に彼らの体を疲労させていた。
勿論、職業軍人である彼らはまだ体力的に余裕はある。
だが人間である以上キツイ事に変わりはない。
だから彼が自らの不運を嘆くのも当然といえた。
﹁だが明日は国境越えだ。越えてしまえば後はもう⋮⋮﹂
背の高い騎士が、呟いた。
﹁あぁ⋮⋮もうここまでくれば⋮⋮﹂
その言葉を聞き、もう一人の騎士が言葉を続ける。
﹁しかし⋮⋮ローゼリアを捨てる事になるとは⋮⋮な⋮⋮フゥゥゥ
ゥ﹂
背の高い騎士は大きくため息を付いた。
彼の家は騎士の名門である。
代々ローゼリア王国に忠誠を誓ってきた家柄だ。
尤もそれは先代までの話。
739
彼自身に王家への忠誠など欠片もない。
だから、自分の欲望を満たしてくれるホドラムに従ってきたのだ。
金を、女を、騎士団内の地位を。
王家に忠誠を尽くしたところで、与えられることの無い全てをホド
ラムは自分に与えてくれた。
だが全ての歯車は狂ってしまった。
ホドラムの傀儡でしかなかったルピス王女は、自らホドラムの呪縛
を断ち切り、国内の貴族達はホドラム達を見捨てた。
今や彼らにローゼリア王国で生きる場所など何処にもなかった。
彼らに残された道は2つ。
新たな主君を見つける日まで放浪するか、ホドラムにこのまま仕え、
彼の再起に賭けるかだ。
つい数ヶ月前まで彼らは人生の絶頂に居た。
それが今や故国から追われる身。
彼の心は嘆きで埋め尽くされていた。
﹁言うな!﹂
背の低い騎士が相棒を叱りつける。
﹁だがよぉ⋮⋮﹂
背の高い騎士が食い下がった。
﹁五月蠅い!判ってるんだよ!そんな事は﹂
背の低い騎士も気持ちは同じだ。
740
だが、他人に言葉にされると腹立たしく感じるものだ。
﹁悪かったよ⋮⋮すまん﹂
背の高い騎士は相棒の剣幕に押され謝罪の言葉を口にした。
﹁とにかく!今は見張りに専念すればいいんだ!明日にはタルージ
ャとの国境を越えられるん⋮⋮﹂
何かが森の中から空を切ったように感じた。
そして背の低い騎士の言葉が途中で止まる。
﹁?どうした⋮⋮?﹂
背の高い騎士は不振に思い、隣に立つ相棒に目を向ける。
彼の目に相棒の姿が映る。
ただ森に視線を向けたまま、直立不動の体勢だ。
だが彼の目には何処か相棒の姿がいつもと違って見える。
︵?なんだ?⋮⋮どこか?︶
ヒュ⋮⋮ガッ!
だが彼の思考は其処で途絶えた。
再び森より放たれた矢に因って⋮⋮
咲夜の目に、物言わぬ骸と化した騎士の姿が映る。
彼女は万一標的に息があった場合、止めにを刺すために引絞ってい
つが
た弦を静かに戻す。
その弓に番えていたのは真黒に染め抜かれた矢だ。
741
やじり
鏃まで真黒なこの矢を、闇夜で射られれば避けるのはまず無理だろ
う。
それは彼女の一族に伝わる暗殺用の弓矢だ。
忍びの一族である彼女達の技は、闇に紛れるのに好都合な技が多い。
﹁亮真様⋮⋮仕留めました﹂
﹁あぁ⋮⋮行くぞ﹂
咲夜の言葉に亮真は小さく頷くと後ろに控えていたサーラに手で合
図を送る。
﹁では⋮⋮予定どおりに⋮⋮﹂
サーラは小さく亮真に囁くと、後ろに控える傭兵達に手で合図を送
る。
﹁あぁ。良いか。俺達の役目は猟犬だ⋮⋮せいぜい派手にな﹂
亮真の言葉にサーラは無言で頷くと、身を屈めて夜営地へと向かう。
その後ろには、10名程の傭兵が付き従う。
げんおう
ローラと厳翁に率いられた別働隊も準備が終わった頃だろう。
﹁若!準備終わりましたぜ!﹂
傭兵の一人が報告に来た。
﹁始めろ!﹂
742
その言葉を聞き、亮真は周囲にいた傭兵達に命じる。
何人かの傭兵が素早く森の中へと消えた。
しばらくして夜営地が赤い光を放ち始める。
始めは闇の中にポツンと有る赤い小さな光だったが、それは見る見
るうちに夜営地全体を赤々と照らしだす。
﹁火だ!火事だ∼∼∼∼!!!火事だ∼∼∼!﹂
﹁いや!敵だ!敵襲だぞ!﹂
街道から少し奥まったところに設置された夜営地に叫びが響く。
その声に交じって、鋼の打ち合う音が聞こえてくる。
﹁何!敵だと!?﹂
ホドラムは横たえていた体を素早く起こすと叫んだ。
﹁誰か!いったいどうなっておるのだ!﹂
毛布を撥ね退け、ホドラムは立て掛けてあった愛用の剣に手を伸ば
した。
﹁アナタ?一体何が?﹂
隣で眠りに就いていた彼の妻が目覚めた。
﹁お父様⋮⋮﹂
743
少し離れたところより娘の心配そうな声がした。
見張りの叫びに目が覚めたのだろう。
﹁大丈夫だ。ワシが付いておる。何も心配することはない!﹂
ホドラムは怯える二人に優しく声を掛けた。
﹁閣下!﹂
騎士の一人が天幕の外より声を掛けてきた。
﹁うむ!どうなっておる?火事という声と一緒に敵襲の声が聞こえ
てきたが﹂
天幕越しに騎士へと状況を尋ねる。
﹁は!申し訳ございません。現在ケイル殿が手勢を率いて防衛をし
ております。閣下は直ぐに出立できるようご準備を⋮⋮﹂
騎士の言葉にホドラムの顔色が変わる。
﹁判った!⋮⋮おい、聞こえたな?直ぐに此処を離れる!﹂
ホドラムは躊躇しなかった。
この程度の事で判断を躊躇う様では、ローゼリア王国の将軍など勤
められはしない。
ホドラムの顔はすでに、幾多の戦場を潜り抜けてきた戦士の顔に変
っていた。
﹁アナタ、私達はすでに準備は出来ております﹂
744
ホドラムが振り返ると、妻子は既に服を着ている。
どうやら状況を素早く判断して、サッサと準備したようだ。
﹁うむ!行くぞ!﹂
ホドラムは妻子を連れて騎士に守られながら馬車へと向かう。
﹁閣下!ご無事ですか!﹂
﹁ケイルか!どうなっておる!﹂
ホドラムが馬車の中へ妻子を押し込んだところでケイルが走り寄っ
てきた。
ホドラムの前に姿を現したケイルは、鎧を着込み手には剣を握って
いる。
ケイルの姿をみてホドラムの顔が少し緩む。
敵襲を予測し、緊張をとかなかったケイルが頼もしく見えたのだ。
﹁ケイル!状況はどうなっている?ルピスの追手に間違いないのか
?!﹂
ホドラムはケイルに向かって矢継ぎ早に問いかける。
﹁旗印が無いのでルピス王女の軍勢かどうかは不明です⋮⋮現在見
張り者達20名程を指揮して敵と交戦中です。火は奴らが放ったも
のかと!﹂
745
ケイルは的確な状況報告をする。
見張りはルピス王女の放った追手と判断したようだが、夜間である
上に旗印がなければどこの軍勢かを特定するのは困難である。
追手であろうと、野盗であろうと襲われれば選択しは2つだけだ。
逃げるか戦うか。
﹁そうか⋮⋮どうだ敵の攻撃は防げるのか?﹂
ホドラムの問いにケイルは首を横に振った。
﹁いえ⋮⋮ですが時間を稼ぐことは可能です⋮⋮閣下は直ちに奥様
達を連れ逃げてください﹂
ケイルは馬車の扉を開くとホドラムへ乗り込むように促した。
﹁さぁ閣下。御早く!ここは私が引き受けますので!﹂
ケイルの言葉にホドラムは素早く頷く。
﹁⋮⋮うむ!後は頼むぞ!⋮⋮ケイル!タルージャの首都で会おう﹂
そう言い放つと、ホドラムは素早く馬車へと乗り込む。
彼は全てをケイルに託した。
ここで彼が残ったところで何の意味も無い。
ホドラムは生き延びなければならないのだ。
彼が生き延びてこそ部下達の働きに報いることが出来るのだから。
彼は傲慢だが、全てを自分の力で解決できると考えるほど愚かな人
間ではなかったのだ。
﹁さぁ!急いで!⋮⋮貴様!早く馬を走らせないか!﹂
746
ホドラムが馬車に乗り込むのを見届け、ケイルは手綱を握る騎士を
怒鳴りつけた。
﹁ハッ!﹂
ビシッ
騎士の鞭が空を斬り、馬の尻を一撃した。
馬車は、緩やかに加速しながら闇に閉ざされた街道へ突入していく。
その周囲には、ケイルが命じた警護の騎士達が槍を小脇に抱えなが
ら周囲に目を配る。
その数およそ30名程。
油断なく鎧を着込んだまま休んでいた騎士達を優先してホドラムの
警護に回した結果だ。
多くの騎士がホドラムの命に従い鎧を脱いで休んでいた中で、彼ら
とケイルだけがホドラムの好意を無視し、鎧を着たまま休んでいた
のだ。
﹁閣下⋮⋮ご無事で!﹂
ケイルはそう呟くと周囲を見回す。
辺りには、着の身着のままで飛び出してきた騎士達が取り囲んでい
た。
槍と剣を持ってはいるが、鎧を脱いでしまっている彼らは戦力とし
て数えるには余りに無力だった。
相手が素人ならば良い。
だが夜襲を行うような敵がただの素人のはずがない。
その場に居る誰もがケイルの指揮を待っていた。
747
彼らは理解しているのだ。
この状況で自分達が生き残るにはケイルの指揮に従うしかない事を。
﹁良いか!此処に横陣を敷く!良いか!鎧を脱いでしまったお前達
が生き延びるためには槍で間合いを保ちながらゆっくりと引くしか
ない!!接近戦には持ち込まれるな!間合いを取るんだ!﹂
ケイルの言葉に騎士達は無言で頷くと、槍を手に陣を敷き始める。
﹁来たぞ!構えろ!﹂
ケイルの号令に従って、騎士達は槍を構えた。
彼らが生き延びるために。
748
第2章第38話
異世界召喚182日目︻決戦︼その10:
ケイルが素早く残存兵力を纏めて敷いた横陣を見て、亮真は軽く唇
を釣り上げて笑みを浮かべる。
﹁ふぅん⋮⋮やるねぇ?⋮⋮大したもんだ。奇襲を受けながらこれ
程素早く防衛体勢を整えるとはね⋮⋮﹂
﹁どうするの?坊や⋮⋮突っ込むかい?ある程度の犠牲を覚悟する
なら破れなくは無いよ?﹂
ケイルの敷いた陣形は、最も単純で簡単なものだ。
個人技を重視する騎士達は、武芸や法術の訓練はしても、連携や陣
形の訓練はしない。
だからケイルは、ただ並ぶだけで済む横陣を敷くしかなかったのだ。
だが、ただ並ぶだけの横陣でもチョットした工夫で強固な陣形へと
姿を変える。
そして、ケイルにはそれを思いつくだけの発想があったのだろう。
彼らは最前列に大型の盾を並べその隙間から槍を突き出すという形
を取った。
盾で敵の攻撃を防ぎ、盾と盾との隙間から槍を繰り出すことで敵を
削る。
徹底的な防御陣形といえた。
とはいえ、あくまでも破りにくい強固な陣形だというだけのこと。
749
リオネの言葉通り、ある程度の損害を覚悟するなら、真正面からの
力攻めでも亮真達の勝利は動かない。
﹁いや⋮⋮一撃でケリを付ける!⋮⋮連中の後方で待機しているロ
ーラ達へ連絡を!連中の後ろから急襲させて前後から挟み撃ちにす
る。まずはこちらから派手に手を出して、連中の意識をこちらへ引
きつけるぞ﹂
亮真は残党狩りの為にケイル達の後方へと配置しているローラ達別
働隊との挟撃を提案する。
彼は徹底的にケイル達を狩るつもりだった。
一切容赦をするつもりはない。
ホドラムとそれにつき従うケイルと騎士達は、ローゼリア王国にも
御子柴亮真にも、活かしておく価値のない存在だった。
いや、生かしておけばそれだけ自分達の安全を脅かす危険な要因で
しかないのだ。
﹁了解!⋮⋮連中の眼をこちらに引き付けるねぇ⋮⋮矢を射かける
より法術をぶつけた方がいいかね?﹂
リオネの言葉にボルツが頷く
﹁まずは電撃系がいいだろう!良いかいアンタ達!派手にブチかま
して連中の眼をこっちに引き付けるんだよ!!﹂
リオネの指揮に従い、傭兵達が敵陣へと掌を向ける。
いかずち
﹁﹁﹁雷を司りし精霊よ。我が血を代償とし、その力を顕現せよ!
盟約に従い我が敵を撃ち砕け!﹂﹂﹂
750
彼らが一斉に詠唱を開始すると、その手の中に小さな雷球が出現す
る。
それは彼らの声に従い徐々にその体積を大きくして行く。
﹁放ちな!﹂
ボルトブリッド
﹁﹁﹁雷弾爆裂﹂﹂﹂
彼らの手から一斉に雷球が放たれ騎士達へと襲いかかる。
それは、それぞれが干渉し吸収しあいながら、一つの巨大な雷球へ
とその姿を変貌させた。
かざ
﹁総員抗術防御!盾を翳して防げ!﹂
ケイルの叫びに呼応して、盾を翳す騎士達は腰を低く保つと、全身
の筋肉に力を込める。
バチバチバチ!
甲高い放電の音が森に響き渡る
雷球が盾に炸裂し、周囲へ荒れ狂ったような雷撃を浴びせた。
﹁良いか!盾には抗術付与がされている!決して放すな!放電が収
まるまで盾を放すんじゃないぞ!後列!前列に全力で防御法術を!﹂
ケイルは、放電で真っ白に染まった視界に目を細めながら叫んだ。
此処で一カ所でも突破されれば、雷球は其処から騎士達へと襲いか
かってくる。
誰もが必死で雷球の脅威が過ぎ去るのを待ちわびた。
751
彼らの脳裏から後方への警戒が消え、前方から打ち込まれる法術へ
の対処が刷り込まれていく。
それが亮真の策だとも知らずに。
﹁二列目!詠唱開始!﹂
再びリオネの指揮の下、後列に待機していた傭兵達が前へ出ると、
ケイル達へ向け詠唱を開始する。
﹁﹁﹁風を司りし精霊よ。荒々しき者よ!契約に従い汝の義務を果
たせ!我が命に従い嵐となりて我が敵を吹き払え!!!﹂﹂﹂
﹁放て!﹂
チャージングウィンド
﹁﹁﹁疾風圧撃﹂﹂﹂
突風。
傭兵達の手から、成人男性をも軽々と吹き飛ばされるほどの風がケ
イル達へと襲いかかる。
﹁チッ!無駄な事を!防御態勢をこのまま維持!!敵の法術はこち
らには届かないんだ!⋮⋮このまま法術を放ち続ければ直ぐに疲弊
してしまう!良いか!それまで堪えるんだ!﹂
ケイルは舌打ちしつつも、自らの優勢を確信していた。
︵ふん!どうやら野盗だったようだな⋮⋮こちらが騎士であること
を理解していれば、こんな攻撃はしてこないはず!追手かと思った
が違ったようだ⋮⋮ならばこのまま法術を放たせればいい。こちら
は抗術付与した盾もあることだし十分に防げる。後は連中が息切れ
752
を起こすのを待つだけだ!︶
元々法術は、防御側が圧倒的に有利なのだ。
プラーナ
法術師は無意識的にに、敵から放たれた攻撃的な法術から身を守る
ために生気を身に纏っている。
プラーナ
また、今回の様に敵が法術を使って攻撃してくることが分かれば、
一時的に体を守る生気を厚くすることでより強力な防御が可能なの
だ。
更に騎士が身につける鎧兜には大抵、敵から放たれた法術の威力を
削ぐ付与法術と言う物が組み込まれている。
プラーナ
これらの技術により、大抵の法術は防がれてしまうのだ。
無論生気を消費し続ける為、永遠に防ぎ続けることは出来ないが、
それは攻撃する側と手同じこと。
いや、消耗頻度でいえば、攻撃側の方が圧倒的に消耗しやすい。
だからこの世界の戦闘は、相手に法術を使える人間がいる場合、自
分の身体能力を法術で向上させ、肉弾戦に持ち込むのだ。
﹁﹁﹁うぉぉぉぉお!﹂﹂﹂
突如、後方の森の中より鬨の声が上がる。
それと同時に複数の影が森の中より陣の中に飛び込んでくる。
﹁殺せ!殺せぇぇ!﹂
﹁良いか!一人も逃すんじゃないぞ!﹂
男達は明確な殺意をむき出しにしながら、手に持った剣を容赦なく
騎士の無防備な背中へと振りおろして行く。
753
﹁な!敵襲!後方から敵が!﹂
﹁馬鹿な!一体なぜ?敵は前だけじゃないのか?﹂
﹁馬鹿!そんなことはどうでもいい!早く後方の敵に対しても防備
を固めるんだ!﹂
﹁無茶だ!今陣形を崩せば!﹂
﹁黙れ!死にたいのか!﹂
リオネ達が打ち込んだ法術の防御に集中していた時に受けた奇襲で
ある。
誰もが思い思いの行動を叫んだ。
法術を防ぐことに専念しようとする者。
後方からの奇襲に対処しようとする者。
ケイルの支持を待つ者。
その判断はどれも間違ってはいない。
だが、正しくもなかった。
そう、亮真達の接近を許してしまうという最大のミスを犯してしま
ったのだから。
﹁いまだ!突っ込みな!﹂
リオネの号令に従い傭兵達は剣を抜き放ちケイル達へと突き進む。
﹁くっ!前列!構えを崩すな!﹂
ケイルは必死で声を張り上げる。
754
まだこの状況では勝敗は決まっていない。
彼の指揮に騎士達が従えばまだ勝利の可能性は残っていた。
だが彼の言葉はもはや誰の耳にも届か無い。
それも当然だろう。
自分の後方から、攻撃を受けているこの状態で、陣形を崩さずに居
るには相当の訓練と指揮官への信頼が不可欠である。
そして、ケイルと騎士達にはその両方が欠けていた。
強固な陣形はローラ率いる後方からの奇襲と、リオネの前方からの
突貫という挟み撃ちに合い、少しずつその形を崩していく。
まるで、波に削られる砂で作られた城の様に。
﹁ケイル殿!もう無理です。此処は引いてください!﹂
騎士の一人がケイルに叫んだ。
﹁無駄だ⋮⋮この状況で逃げ場など⋮⋮﹂
ケイルは何処か諦めたかの様に首を振った。
彼の周囲に残っているのはわずか20名程。
前後からの挟撃を受けたケイル達は、完全に部隊を分断され、孤立
してしまっていた。
森の中に逃げ込もうとした者。
その場に留まって防戦した者。
亮真へ一矢報いようと突撃した者。
そのどれを選択した人間にも等しく同じ結果が出ることになる。
死だ。
755
︵クソ!なぜだ!なぜこんなことになる⋮⋮前後から挟撃だと!?
野盗ではないのか?⋮⋮まさかルピスの追手が⋮⋮クソクソ!︶
ケイルは湧き上がる罵声を必死でこらえた。
嘆いても喚いても現実は変わらない。
此処でケイルが取り乱せば、本当に何もかもが終わってしまう。
︵残ったのは20名程だけ⋮⋮森に逃げ込むか?さもなければ敵を
しんがり
蹴散らして突破するしか⋮⋮どっちだ?⋮⋮此処で死ねば何のため
に殿を引き受けたか判らなくなってしまう⋮⋮十分手持ちの戦力で
防げると思ったからこそ志願したというのに!︶
ケイルがホドラムを先に逃がしたのは善意からではない。
いや、彼には彼なりの打算があってホドラムと家族を逃がしたのだ。
︵此処で敵を防げばホドラム将軍の覚えも更に良くなる。落ち目の
ホドラムだからこそ真に信頼出来る部下を欲しがるはずだ!︶
これがケイルの計算高いところだ。
彼は落ち目のホドラムに忠誠厚いところをアピールすることで、タ
ルージャ王国内での自分の待遇を上げようと考えていた。
そういう理由でも無ければケイルの様な男が、ホドラムやその家族
しんがり
を優先させて逃がすなど行うはずもない。
さらに言うならば、彼が危険な殿を引き受けたのは、相手がただの
野盗だと判断したからだ。
唯の野盗なら騎士のみで構成されるケイル達に敵うはずもない。
例え奇襲を受け一時的に劣勢になったとしても、地力と装備で上回
る自分達が最終的に勝ちを得るという予測をしていたのだ。
それがルピス王女の追手ということになれば、全ての条件がひっく
り返ってしまう。
︵どうする?どうすれば生き残れる?︶
ケイルは必死に周囲を見回す。
756
辺りから剣戟の音が徐々に小さくなっていく。
分断された騎士達が、傭兵達に始末されているせいだ。
︵不味い!このままでは完全に退路を断たれる⋮⋮森は無理だ⋮⋮
なら!︶
ケイルの眼が前方に向けられた。
このまま単純に逃げても、追撃されるだけ。
追手を振り切るにはどうしても相手を混乱させなければならない。
︵あれだ!あそこが敵の本陣!あそこを一撃して通り抜けるしか方
法はあるまい!︶
ケイルの前方には全く動かない一団が佇んでいる。
彼はそれを敵の主将がいる本陣だと判断した。
﹁良いか!前方の敵を粉砕し敵の主将へ一撃を加える!﹂
﹁敵中を突破すると!?﹂
ケイルの言葉に騎士達はざわめいた。
だがそれは直ぐに静まって行く。
彼らもまた、それ以外に生き残る手段を見いだせなかったから。
﹁良いか!目の前の敵を殺すことだけ考えろ!邪魔する奴は全て斬
り殺すんだ!﹂
ケイルは騎士達へたった一つの事しか求めなかった。
目の前の敵を唯殺すことだけ。
単純にして明解な命令は、死への恐怖で固まった騎士達を現実の世
界へと引きもどす。
︵そうだ!殺せ殺せ殺せ!︶
︵生き延びたかったら殺すんだ!︶
︵敵を殺せ!殺すんだ!︶
757
騎士達の心に生への渇望と、亮真達への憎悪が広がる。
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉぉ!﹂﹂﹂
騎士達の心に再び闘志が燃え上がった。
﹁突っ込めぇぇぇぇぇえ!﹂
ケイルの号令に従い、騎士達は傭兵達へ襲いかかる。
きゅそねこ
窮鼠猫を噛む。
亮真の策に因って窮地に追いやられたケイル達はまさに猫に追い詰
められたネズミに等しい。
そして今、ケイル達はその命を掛けて亮真という猫に噛みつこうと
していた。
﹁クッ!なんだこいつら!急に勢い付きやがって!﹂
﹁落ち着け!最後の悪あがきだ!﹂
勢いを盛り返した騎士達に押され、傭兵達の動きが止まる。
﹁バカ!!何をやっているんだい!﹂
﹁不味いですぜ姐さん!このままじゃ前線を破られちまう!﹂
ボルツの言葉にリオネは舌打ちをすると、愛剣を抜き放った。
﹁もういい!アタイが前線に出る!﹂
758
元々彼女は一人の戦士だ。
軍の指揮も執れるが、真価はあくまで戦士としての力量にある。
だがボルツは此処で彼女を送りだすわけには行かなかった。
﹁だめです!姐さん!若の言葉を忘れたんですかい!﹂
﹁馬鹿!そんなこと言ってる場合じゃないだろう!このままじゃ!﹂
戦の女神が今度はケイル達へ微笑んだ。
リオネとボルツが言い争う間に、ケイル達が前線を突破してきたの
だ。
﹁姐さんあぶねぇ!!﹂
リオネの体にボルツが覆いかぶさってきた。
その上を剣が高速で通り過ぎる。
﹁クッ!邪魔をしやがって!﹂
状況がつかめないリオネの言葉に被さるように、男の声が響く。
﹁アンタは!﹂
﹁お前がこいつらの頭か?!なぜ俺達を襲った!?⋮⋮まぁ良い!
野盗だろうとルピスの追手だろうと此処で死ぬことに変わりはない
からな⋮⋮﹂
ケイルの剣がリオネの頭上に振り上げられる。
其処には濁ったような明確な殺意が二人を見据えている。
759
﹁死ぬがいい!﹂
﹁クソ!姐さん!﹂
﹁どけ!退くんだよボルツ!﹂
ボルツとリオネは死を覚悟した。
ヒュ
どこからか風を切り裂く音が響く。
ガッ
﹁誰だ!?邪魔をしやがるのは?﹂
ケイルは、痺れる手に力を入れ直すと叫んだ。
ヒュ ヒュヒュ
ガッガガッ
どこからともなく飛来する刃をケイルは必死で叩き落とす。
﹁クソ!姿を現しやがれ!﹂
ケイルの周囲を、同じく前線を突破した騎士達が囲む。
その数5人。
760
﹁坊や⋮⋮﹂
リオネの眼に亮真の大柄な肉体が映る。
﹁無事ですか?リオネさん﹂
﹁あ⋮⋮あぁ!あんたこそいつの間に!﹂
﹁良いから此処は任せて⋮⋮リオネさんはボルツと残党狩りの指揮
をお願いします﹂
﹁でも!﹂
﹁良いから⋮⋮こいつは俺が始末します﹂
亮真の眼が冷たく光る。
その眼光はケイルとその周囲を固める騎士達を射すくめた。
﹁貴様か!邪魔をしたのは!﹂
ケイルの叫びを無視して、亮真は手にした刀を抜き放つ。
﹁アンタには消えてもらうよ?ケイル・イルーニアさん﹂
亮真はそう言うと、刃を体に隠すように陰構えに構えた。
﹁貴様!ケイル殿に手は出させんぞ!﹂
ケイルの周囲を固める騎士達が身構える。
だが、次の瞬間、彼らの首から赤い鮮血が飛び散った。
761
﹁主殿の邪魔をするでない。若造共﹂
大地に倒れ伏す彼らの後ろから、血が滴る刀を手にした厳翁の姿が
浮かび上がる。
どれほどの早技なのか?
戦場の混乱した状況とはいえ、手練の騎士を5人。
一瞬で首を描き切って殺したその手腕は、まさに死神にも等しかっ
た。
﹁な!なんだ!貴様!﹂
ケイルの眼に驚きと恐怖が浮かぶ。
﹁ワシのことなどどうでもよい。ワシは邪魔な物を消しただけ。貴
様の相手は主殿よ⋮⋮﹂
厳翁の冷徹な言葉がケイルの心を打ちのめす。
亮真とケイル。
両者の因縁に今、終止符が打たれようとしていた。
762
763
第2章第39話
異世界召喚182日目︻決戦︼その11:
この戦場に居る、誰もがただ二人を遠巻きにして固唾を呑んだ。
周囲の喚声は徐々に消えて行き、静寂がこの場を支配する。
騎士達を狩った傭兵達が、徐々に集まりだし、亮真とケイルの二人
を中心とした輪は、段々と大きくなっていく。
﹁姐さん⋮⋮どうしやす?﹂
何時までもその場から動こうとしないリオネへ、ボルツは半ば諦め
たかのように声を掛けた。
長年の付き合いである。
今、彼女が何を考えているかなど、ボルツには手に取るように判っ
ていた。
ボルツの言葉にリオネは顔を向けずに答える。
其の先には、ケイルと亮真が静かに対峙していた。
彼女の眼は、二人の挙動を見逃すまいと睨み付けている。
﹁喚声が消えたって事は敵の殆どを始末したって事じゃないのかい
?ならアタイが残党狩りの指揮を執る必要は無いさ⋮⋮それに是ほ
どの勝負⋮⋮早々拝めやしないよ。アンタだって戦士の血が騒ぐだ
ろう?﹂
リオネの言葉にボルツは苦笑いを浮かべて頷く他なかった。
彼もまた、長年戦士として戦場を渡ってきた男だ。
764
左腕を失ってから、白兵戦を避けるようになったとはいえ、彼の戦
士としての腕は錆付いていない。
リオネの言葉通り、歴戦の戦士であるボルツから見ても二人は卓越
した使い手だ。
その両者が命を掛けて戦う場面など、そう立ち会えるものではない。
そして、戦士は戦士の矜持を理解し、重んじる。
その場に居た誰もが、同じ気持ちなのだろう。
ケイルの背後から襲いかかろうとする傭兵は誰一人として居なかっ
た。
いや、ケイルより放たれる殺気に縛られ、誰もそんな考えが浮かば
なかったというほうが正しいのかもしれない。
﹁ですが⋮⋮ケイルが手練と言う話は聞いておりやしたが⋮⋮まさ
かこれ程とは⋮⋮﹂
﹁あぁ。片腕のアンタじゃ相手にするのは自殺行為だねぇ、こいつ
は⋮⋮アタイでも一対一の勝負じゃぁまず勝ち目はないだろうね﹂
リオネは悔しげに吐き捨てた。
それは、ケイルの剣の腕が自分より、遥かに勝る腕前だという事を
見抜いたためだ。
戦場で最も重要なのは、相手の力量を見定める眼力だ。
敵の力量が自分より上なのか下なのか。
敵の装備は自分より質が良いのか悪いのか。
敵が一対一に強いのか、乱戦に強いのか。
戦場で生き残るためには、この眼力が全てといってよい。
どれほど自分が強くても、敵がそれ以上に強ければ何の意味も無い
のだ。
765
長年戦場を生き抜いてきた生え抜きの傭兵である彼らは当然、それ
を持ち合わせている。
其の彼らが見入ってしまうほどの技量を亮真とケイルは持っていた。
﹁まぁそれは仕方ないでしょう⋮⋮姐さんにしろアッシらにしろ、
正式な剣術ってのを学んだ訳じゃありやせんから⋮⋮アッシらの剣
は戦場の剣ですからね。乱戦の中でならアッシらにも十分勝機は有
るとおもいやすよ?﹂
傭兵の剣は、周囲を敵に囲まれた乱戦の中で磨かれてきた剣だ。
それは別に強い弱いと言う事ではない。
単純な用途の違いだ。
傭兵はより戦場の乱戦で生き残るための剣なのに対し、ケイルの剣
は、一対一の戦闘に特化した剣と言うだけのこと。
ボルツの言葉にリオネは軽く頷く。
彼の言葉が真実であると理解したから。
﹁しかし若の方も負けちゃいねぇ⋮⋮ケイルの野郎に一歩も引けを
とってねぇ⋮⋮なんて気迫だ⋮⋮クソ!こっちにまで気押されちま
う⋮⋮﹂
実際に刃を交えていなくとも、両者の力量は明白だった。
はっきりと空気が違う。
冷たく、鋭く研ぎ澄まされた空気が二人の間から周囲に放たれる。
﹁このまま動かないつもりかね⋮⋮坊やは﹂
バックラー
﹁お互いに隙を探ってるんでさぁ⋮⋮それにケイルのあの鎧と盾⋮
⋮あれだけガチガチに防備を固められたらそう簡単に手は出せませ
んよ⋮⋮﹂
766
バックラー
ケイルは鎧兜を着込んだ上で、右手には剣を左手には小型の盾を構
えていた。
騎士として完全装備をしている。
それに対して亮真は、武器こそ厳翁より献上された刀を両手に握り、
防具は革の鎧という姿だ。
身軽で機動性に富む格好だが、防御力と言う点ではケイルに対して
圧倒的に劣る。
﹁ケイルは重装備だ⋮⋮定石どおりならこのまま対峙して相手の体
力を削るところだけどねぇ⋮⋮﹂
﹁えぇ、ですが法術で身体強化をしているでしょうからそれはあま
り期待できないんじゃねぇかと⋮⋮﹂
﹁あぁ⋮⋮あの重い鎧を着込んでもケイルの敏捷性は少しも損なわ
れはしないだろうよ。坊やが法術を使えない以上、不利なのは間違
プレートメイル
いないのに⋮⋮なんであの子はこれ程の気迫を保てるんだい?﹂
リオネの言葉にボルツは返す言葉を持たなかった。
プレートメイル
武法術によって身体強化をしているケイルは、重い全身鎧を着込ん
でいながら、少しの敏捷性も損なわれはしない。
ケイルは、亮真と同じくらい身軽に動きながら、全身鎧に因る強固
な防御力を保持している。
状況は亮真に絶望的なまでに不利だ。
だが、亮真から放たれる気迫には全く揺らぎが無い。
無心。
まるで恐怖も動揺も何も無い。
それは彼の絶対の自信に因る物なのだろうか?
767
それともただ単に自らの技量を見誤った愚か者なだけなのだろうか?
ギャリン
唐突に両者の間で火花が散った。
二人の間合い一気に詰められ、刀と剣が撃ち合わされる。
ギギギギギ
剣と刀が互いに擦れ、甲高い悲鳴を上げる。
最初は拮抗していた両者の力比べだが、刀が段々とケイルの首筋へ
と近づいていく。
両手で刀を押し込む亮真に対し、ケイルは剣を片手で握っている。
その両手か片手か。
武器を握り締める腕の差が出てきたのだ。
だが勝負はまだ決まりはしなかった。
ドガッ
肉を叩く低い音が響く。
ケイルは素早く盾を自分と剣の間に滑り込ませると、全身に力を入
れ亮真を弾き飛ばした。
両者の体が離れ、再び間合いが広がる。
︵クソ!なんだコイツは⋮⋮私と互角に打ち合うだと?ローゼリア
王国の騎士の中でも、有数の使い手である私と互角とは⋮⋮それに
コイツ⋮⋮なんだコイツの武器は⋮⋮片刃で反りの有る刃⋮⋮斬る
768
バックラー
事に特化した武器か?⋮⋮︶
ケイルは舌打ちをすると、盾を翳して防御を固めた。
︵いや⋮⋮落ち着け。相手は軽装備。あんな革の鎧などわが剣にと
っては紙も同然⋮⋮アイツの打ち込みを盾で防ぎ其のまま胴を薙げ
ばそれで全てが終わる⋮⋮アイツは盾を持っていない⋮⋮それだけ
でもこちらが有利だ⋮⋮あわてず防御を固めて隙を見せるのを待て
ば良い⋮⋮︶
バックラー
彼の持つ剣は代々伝わる家宝の剣。
鎧や盾を同じく、彼の先祖がローゼリア王国に仕えた時から伝えら
れる物だ。
彼は手に力を入れなおし、しっかりと柄を握り締める。
﹁ちぇりゃぁぁぁあ!﹂
亮真の口から奇声が迸り、ケイルの左手に強烈な衝撃が走った。
盾を保持している左手が痺れ、盾が彼の体の直ぐ傍まで押し込まれ
る。
バックラー
︵クソなんて打撃だ⋮⋮腕が痺れる⋮⋮さっきよりも重い斬撃だと
!⋮⋮ダメだ!盾を保持するだけで精一杯だ⋮⋮隙を突いて剣を振
るう余裕がない⋮⋮クソ!⋮⋮化け物め⋮⋮︶
高速で振り下ろさせる刃には、100kgを超える亮真の全体重が
掛かる。
全身の筋肉を連動させて繰り出される斬撃はまさに必殺と言えた。
バックラー
其の証拠に、ケイルの盾に深々と斬撃の跡が印されている。
木と革を主原料とし、表面を薄い鉄で覆われた盾は、表面の鉄を切
り裂かれ、間から木の部分が顔を覗かせている。
亮真の目は其の事実を捉えていた。
769
︵表面を切り裂けたか⋮⋮流石に鋼鉄製の盾じゃ無かったって訳か
⋮⋮︶
如何に亮真と言えど、何センチも厚みの有る鋼鉄製の盾等切れるは
ずも無い。
だが、傷ついた盾が亮真の懸念を一つ消した。
地球の常識から言ってそんな盾を手に持ったまま、戦闘を行えるは
ずも無いのだが、何しろ此処は異世界。
法術による身体強化技術がある以上、まったく無いと判断するのは
危険だった。
︵あんな金属の鎧を着て、あれだけ動けるってのは確かに凄い⋮⋮︶
亮真は冷静に両者の戦力を比較していた。
鎧兜と言うものは非常に重く、行動を制限する。
材料に鉄を使えば尚の事だ。
其れが、革の鎧しか着ていない亮真の速さに対応している。
刀を盾で防いだ事実が何よりの証拠だ。
鋼鉄の防御力を持ちながら、其の鈍重さを無視して身軽に動けると
なれば、確かに戦場で騎士が圧倒的な強さを誇る事は用意に想像が
つく。
︵武法術か⋮⋮大した技術だな⋮⋮詠唱が必要な文法術より遥かに
厄介だ⋮⋮︶
プラーナ
言葉に因る詠唱を必要としない武法術は、自分の体にしか効果を発
アース
揮出来ない反面、詠唱を必要とせず、生気の消費も軽い。
まさにこの大地世界の戦争において主役ともいえる技術である。
法術が使えるかどうかは、支配される人間とする人間と間に越えら
れない壁として存在していた。
︵だが⋮⋮絶対の技術じゃない⋮⋮あくまでも人間以上じゃない︶
亮真の目は、ケイルの弱点を見切っていた。
︵ケイル⋮⋮テメェは此処で絶対に殺す!⋮⋮見せてやるぜ!爺直
伝の技って奴な!︶
770
亮真の纏う空気が冷たく鋭く尖る。
﹃亮真よ⋮⋮刀は己が体の一部。刀を振るうのではなく腕を振るえ
⋮⋮そして刀を抜くときは決して迷うな。迷いは気と意識を惑わせ
それは刀にまで伝わる。唯一つ!斬る事だけに集中するのだ!そし
て信じろ。己の修練と技を!己が振るう刀を!﹄
亮真の心に、祖父の言葉が浮かび上がる。
︵斬ることにだけ集中しろ⋮⋮狙うのはただ一点!︶
﹁キェェェェェエィ!﹂
再び亮真の口から奇声が迸る。
亮真は八双の構えのまま一気にケイルへと走りよった。
︵来い!貴様の一撃を盾で防ぎ其のまま薙ぎ払ってやる!︶
ケイルは手に力を込め衝撃に備える。
バッ!
走りよってきた亮真の体が宙に飛んだ。
かざ
︵何!飛んだだと!バカめ!着地した後、貴様は無防備になる!︶
一瞬の判断で、ケイルの左手が頭上へと翳される。
亮真の体が大きく宙で仰け反った。
手にした刀は背中にピッタリと着けられ、全身の筋肉に力が込めら
れる。
﹁喰らえぇぇぇえ!﹂
771
弓のように引き絞られた全身の力が、ただ一箇所に集中した。
それは亮真の全体重と共にケイルの頭上へと襲い掛かる。
バキ!ドチャ!
何かが割れる音が響いた。
そして水気を含んだ何かを絶つ鈍い音が彼の耳に届く。
﹁何だと⋮⋮?﹂
ケイルの顔に驚愕が浮かぶ。
バックラー
彼はゆっくりと自らの左手へと視線を向けた。
まず初めに眼にしたのは、彼が手にした盾が半分になった姿。
続いて目に入ったのは、左腕に食い込む刀。
徐々に左腕が熱くなり、肌が湿って行く事が感触で判る。
ヌルヌルとした生暖かい其の液体が鎧の中を通り、肘にまで達する。
ポタ⋮⋮ポタポタ
地面に赤黒い点が広がる。
それは徐々に其の面積を広げて行く。
﹁クソ!﹂
ケイルは驚愕で停止した思考を切り替え、亮真へ剣を振るった。
尤も、それは破れかぶれの悪あがきに過ぎない。
体勢も悪く、力の篭らない其の剣は、容易く亮真に避けられる。
バックラー
︵左腕⋮⋮ダメだ⋮⋮動かない!感覚が麻痺しちまってる⋮⋮クソ
!なんて奴だ!盾を切り裂いて俺の腕を斬ったのか?鎧に覆われた
772
この腕を!⋮⋮なんて⋮⋮なんて化け物!︶
﹁其の出血量⋮⋮骨と動脈を断った。これで終わりだ﹂
ケイルの睨み付ける視線を浴びながら亮真は無表情に宣告した。
彼が言葉を発したと言うことは、勝負が決まったと言うことだ。
﹁ふざけるな!まだ勝負は終わっていない!俺はまだ戦える!﹂
ケイルは剣を構える。
確かに戦うだけならばケイルの言うとおり可能かもしれない。
まだ彼は息をしており、右手も無傷だ。
だが勝負は既についていた。
﹁無駄だ⋮⋮盾を使っても防げなかった俺の斬撃を、右手の剣だけ
で防げるはずが無いだろう?それに其の出血。直ぐに手当てしなけ
れば出血死をする。だがこの場でアンタを手当てする味方は居ない
⋮⋮アンタの負けだ﹂
ケイルの顔が歪む。
亮真の言葉どおり、勝敗は既に決まっていた。
ケイルの左腕は、既に骨まで断たれ動かなくなっている。
バックラー
かざ
それに動脈まで刃が達していた。
盾を翳していた事。
そして金属製の篭手を着けていたおかげで腕を切断こそされなかっ
たが、左腕は完全に殺されてしまった。
少なくとも適切な治療を受け、休息をとらない限り彼の左腕が動く
ことは無い。
そして動脈から流れ出す血が、ケイルの体力を容赦なく削っていく。
直ぐに止血をしなければ、後数分で彼は失血死する事になる。
773
戦場の真っ只中。
それも味方は誰一人としておらず、敵と対峙した状況で、止血など
出来るはずも無い。
﹁此処までと言うことか⋮⋮﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
ケイルの呟きに亮真が頷く。
﹁⋮⋮まさかこんなところで死ぬ事になるとは⋮⋮俺はつくづく運
の無い男らしい﹂
ケイルの顔には死を前にした戦士の、諦めにも似た覚悟が浮かんで
いた。
﹁お前が御子柴亮真か?﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
﹁そうか⋮⋮あれだけの策士でありながら俺以上の戦士か⋮⋮化け
物だな﹂
ケイルは化け物と言う言葉を使ったが、そこに侮蔑の色は無い。
それどころか、彼の顔には賞賛の色すら浮かんでいた。
﹁俺は俺以上に優れた騎士は居ないと自負してきた⋮⋮剣でも頭の
キレでも俺は優れている!この国のどんな騎士より先が見える!⋮
⋮だがお前にはどちらも敵わなかった⋮⋮兵の指揮でも剣の腕でも
な⋮⋮俺は何故負けた?⋮⋮お前が俺よりも才に溢れた男だからか
774
?﹂
﹁違う⋮⋮俺はアンタより優れちゃいない⋮⋮劣っているとは思わ
ないが優れているとも思わないよ﹂
ケイルの問いに亮真は本心で答えた。
其れが死を目前にした男への礼儀だと思ったから。
﹁ならば何故、俺は負けた?﹂
﹁アンタは自分の心に負けたのさ。自己の力を誇る驕りにな⋮⋮﹂
亮真の言葉を聞いてケイルの眼が見開かれた。
﹁驕り⋮⋮驕りか⋮⋮フフッ。まさかミハイルの言葉通りになると
はな⋮⋮一つだけ聞かせてくれ。お前は何故ルピス王女に加担する
?金か?権力か?⋮⋮そんな物ただの空手形だぞ?この国において
身分の壁は厚い⋮⋮王女が払おうとしても周りの貴族がそれを許し
はしない!﹂
﹁金も権力も俺は王女から貰うつもりは無いよ﹂
亮真はケイルの問いに首を振った。
﹁⋮⋮馬鹿な⋮⋮それでは何故お前は戦う。何故俺達と敵対した!﹂
ケイルは口調を荒らげ問いただす。
彼は知りたかった。
自分を死に追いやった敵が戦う理由を。
775
﹁簡単さ⋮⋮俺達はアンタの所為でルピス王女に加担する羽目にな
ったのさ﹂
﹁俺の所為だと⋮⋮?﹂
﹁あぁ。アンタ、ミハイルを嵌めたろ?﹂
亮真の言葉にケイルの顔が驚きで歪んだ。
そしてなにやら考え込むと、納得したかのように頷いた。
﹁ラディーネ王女がローゼリア王国内へ向かったという話か?﹂
クエスト
﹁そうだ⋮⋮俺達はギルドから依頼を受け、ローゼリア王国へ向か
う途中で襲われた。ラディーネ王女の身代わりとしてな﹂
﹁あぁ、ミハイルに偽の情報を流して囮を襲わせた。其の間に本物
のラディーネ王女を国内へ移動させたって訳さ⋮⋮あれは本当に上
手く言った⋮⋮あれが上手く言ったおかげで俺はゲルハルト公爵に
寝返ることを許されたのだからな!﹂
ケイルの言葉には、どこか自分の策を誇る気持ちが浮かんでいる。
亮真は薄笑いを浮かべながら言った。
﹁あぁ、確かに上手い手だったと思うぜ?⋮⋮俺達を巻き込みさえ
しなければな!﹂
それは、ケイルの責任ではないのかもしれない。
彼が意図して亮真達を巻き込んだわけではないからだ。
偶然、ローラの髪が銀髪だった事。
偶然、フルザードの港町に銀髪の傭兵が彼女しか居なかった事。
776
様々な偶然が重なった結果、亮真はケイルの前に居る。
亮真の言葉を聞き、ケイルの顔が歪む。
誰だって亮真の説明を聞けば、自らの運命を呪わずには居られない
だろう。
自分の策が発端になって、自らの首を絞めることになったのだから。
﹁俺は運が悪かった⋮⋮﹂
ケイルの口からそんな言葉が漏れる。
それは、運命の女神に嫌われた男の嘆きの言葉だ。
﹁あぁアンタは運が悪かった⋮⋮﹂
亮真は静かに頷く。
﹁最後に一つだけ頼みがある﹂
ケイルの言葉に亮真は無言で頷いた。
彼の顔は出血の所為で既に青ざめ、後は死を待つばかりである。
死を前にした人間の言葉を無碍にするほど亮真は冷酷ではなかった。
﹁騎士として⋮⋮戦って死にたい⋮⋮相手をしてくれるか?﹂
亮真は無言で頷くと刀を構えた。
﹁感謝する⋮⋮ありがとう﹂
﹁あぁ﹂
777
亮真は無言で頷くと刀を振り上げた。
ケイルは剣を脇に構えると、じっと佇む亮真へ最後の力を振り絞り
走り出す。
﹁キェェェェェエィ!﹂
ケイルの剣が亮真の胴体を薙ごうとした瞬間、亮真の口から奇声が
響いた。
ガツ!
次の瞬間、彼の頭上に振り上げられていた刀がケイルの兜へと叩き
込まれる。
ケイルの体が、そのまま亮真の横を走り抜けた。
2歩3歩4歩。
徐々にケイルの走る速度は遅くなり、やがて前のめりに大地へ倒れ
こんだ。
778
第2章第40話
異世界召喚182日目︻エレナの復讐︼:
ケイルが亮真の刃に因って大地に伏した頃、森の奥ではエレナの復
讐が大詰めを迎えようとしていた。
﹁クソ!将軍と奥方達を守れ!﹂
﹁俺についてこい!このまま囲みを突破するぞ!﹂
あちらこちらから、異なる命令が飛び交い戦場は錯綜していた。
ホドラムの周囲を守ろうとする者。
伏兵の囲みを突破しようと自分の周りに騎士を集めようとする者。
彼らは鎧を軋ませながら、周囲から襲いかかる刃を必死で掻い潜る。
しかし、現実は無情である。
かざ
彼らの健闘が報われる事は無かった。
盾を翳し、剣を振りまわして敵の包囲を斬り破ろうとするが、一人
また一人と大地に沈んで行く。
ホドラム側の人数はおよそ30名程。
それに対してエレナの指揮する部隊は200名。
共に完全武装した騎士であるが故に、両者の人数差が絶対と言って
よい戦力差となって現れる。
夜営地にて亮真の奇襲を受けたホドラムは、森の中でエレナの待ち
伏せを受けた。
779
それは最初から仕組まれた罠。
猟犬役の亮真がホドラムを追い立て、猟師役のエレナが仕留める。
それは正に必殺の策だった。
﹁エレナ様⋮⋮ご指示通り事は進んでおります。後はホドラムとそ
の家族の首を取るだけです﹂
﹁えぇ。この状況ではもはや結果は見えています。亮真君は良い仕
事をしてくれたわ﹂
戦況を報告に戻った騎士の言葉に、エレナは暗い笑みを浮かべて頷
いた。
﹁しかし⋮⋮まさかこれ程上手く運ぶとは⋮⋮あの青年⋮⋮恐ろし
いですな⋮⋮﹂
さつりく
副官は前方で繰り広げられる戦闘に目を向けながら呟いた。
じゅうりん
彼の眼の前には、一方的な殺戮とも言える戦闘が繰り広げられてい
た。
無論、敵を蹂躙しているのはエレナ達。
一人の騎士に4∼5人もの騎士が一団となって掛れば、余程の強者
でもない限り勝負の結果は見えていた。
更にその周囲を予備の騎士が十重二十重に囲んで逃亡を妨害する。
ホドラムに従う騎士達には、死という名の未来しか残されてはいな
い。
この状況を作り出したのは、御子柴亮真という男の策。
彼の眼には、亮真に対しての恐れが浮かんでいた。
﹁そうね、彼は大したものだわ⋮⋮貴方は彼が怖い?﹂
780
エレナは亮真の策をにこやかに褒めると、副官に向き直って問いか
ける。
その表情には、先ほどの笑みなど欠片も残ってはいなかった。
彼女の問いに副官は沈黙を守った。
それが彼の気持ちを雄弁に語っている。
少なくとも、今まで亮真がローゼリア王国に対して不利益な行動を
取ったという事実は無い。
本来なら頼もしい味方と称賛しても良いはずなのだ。
だが彼の脳裏には有る不安がこびりついて離れない。
︵彼は確かに素晴らしい功績を立てた。策の立案と実践⋮⋮指揮能
力も高い⋮⋮だが、彼はこの国の人間ではない。唯の流れ者だ⋮⋮
もしこれ程の策士が敵国に登用されローゼリア王国を侵略しに来た
ら⋮⋮︶
彼は亮真の力を認めている。
そして自分の想像が、全く根拠の無い想像だということも理解して
いた。
しかし、其処まで理解していても尚、彼は亮真に対して恐れを抱い
ている。
それは、亮真がローゼリア王国に対して何のしがらみも持っていな
いということに起因している。
彼はルピス王女へ忠誠を誓っているわけでもなければ、王国へ親近
感を持っているわけでもない。
積み重なった偶然が、亮真とルピス王女を繋げただけ。
その事実をルピス王女以下、幹部達の間では共通の認識として持っ
ている。
だから、副官は亮真が恐ろしいのだ。
781
﹁やはりそう⋮⋮貴方が不安に思っている理由は理解している⋮⋮
既に数人から同様の相談を受けているのよ⋮⋮﹂
エレナは寂しげに呟いた。
彼女の言葉に副官の顔色が変わる。
彼の脳裏に最悪の選択が過った。
暗殺という最も危険な選択が⋮⋮
﹁尤も全員には私から余計な事を画策しないように話をしているけ
れどもね⋮⋮それこそ藪をつついて蛇を出すことになりかねないか
ら﹂
エレナは肩を竦めて言った。
﹁それは⋮⋮御子柴殿の暗殺も有り得るということでしょうか?﹂
副官の問いをエレナは否定しなかった。
少なくとも其れを提案した人間が居た事は事実なのだろう。
︵出る杭は打たれるということか⋮⋮︶
副官の心に寂しさとも悔しさともつかない何かが過る。
確かに彼は御子柴亮真を恐れている。
だが、その脅威を取り除く為に彼を暗殺しようという考えは無かっ
た。
︵だが、彼ほど今回の内乱で功績を立てた人間はいない。ルピス王
女がホドラム将軍やゲルハルト公爵を取り除けるのも彼のおかげだ
⋮⋮例えローゼリア国の国民でわない流れ者とはいえ、最大の功績
者を暗殺で排除しようとは⋮⋮︶
782
国を保つと言うことは綺麗ごとではない。
それは彼も十分に理解している。
だが、それでも彼は亮真を暗殺することに納得出来なかった。
それに副官の心情とは別にもう一つ問題がある。
暗殺を選択するのは良い。
だがそれには条件が付く。
確実に殺すことだ。
絶対に失敗は許されない。
もし生き延びられたら、ローゼリア王国はホドラムやゲルハルトと
比較にならないほど危険な敵を作り出すことになる。
彼はそのリスクを冒してまで亮真を暗殺する必要を感じていなかっ
た。
︵一番良いのはこのまま王国に仕えて頂くことだ⋮⋮そうすればこ
の国も御子柴殿も共に栄えられる⋮⋮︶
尤もそれは口にするほど容易いことではない。
身分の壁は厚く、ローゼリアの国民ですらない亮真を貴族にするに
は多くの問題点が考えられた。
﹁エレナ様はどうお考えなのです?﹂
﹁私?⋮⋮私は反対よ。勿論ね⋮⋮ホドラムを殺せるのは彼のおか
げなのだから⋮⋮それに彼を殺すのを失敗すれば、王国はさらなる
脅威を抱え込むことになる⋮⋮﹂
副官の問いにエレナは口を濁した。
少し考えればこの程度の結論は容易に導き出せる。
問題なのは、自分の知らないところで決断され決行されることだ。
その時、亮真は決して王国を許すことは無いだろう。
彼にとってみればローゼリア王国が、自分を裏切ったとしか見ない
783
だろうから。
それでもエレナはローゼリア王国の騎士だ。
国の害になるのなら誰であろうと戦わざるを得ない。
﹁でも⋮⋮もし彼がローゼリア王国に牙を剥くなら⋮⋮その時は⋮
⋮﹂
だが副官の耳にエレナの最後の言葉は届かなかった。
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉ!﹂﹂﹂
﹁﹁捕えた!捕えたぞ!﹂﹂
戦場から湧き上がった歓声にかき消されて⋮⋮
﹁お前達!怪我はないか?これから囲みを破る!⋮⋮良いかワシの
手を決して放すな。周囲に目を向けずワシの背だけを見続けろ!﹂
ホドラムは妻と娘を背に庇いながら必死で囲みを突破しようと走り
回る。
馬車は真っ先に馬を殺され、無用の長物と化している。
彼は素早く妻と娘を馬車から降ろすと、森へ逃げ込もうとした。
だが、エレナの包囲網は正に鉄壁と言えるほど強固であり、逃げ道
は全て塞がれた状態である。
結局彼は、騎士達を駆り立て包囲網を強行突破するより他に選択肢
がなかった。
だが、そんな捨て身の突撃でどうにかなるほど、この世界は甘くな
かった。
無茶とも言える突撃を繰り返したため、周囲にいた警護の騎士は一
784
人二人と討ちとられ、今や彼の周囲は敵だらけという状況である。
﹁お父様﹂
娘の顔は周囲の殺気に当てられ、真っ青と言ってよいほど血の気の
失せた顔をしていた。
つい数週間前まで、彼女は国でも有数の令嬢であった。
戦場の殺伐とした空気に免疫など有る訳もない。
しかも、タルージャ王国へと急ぐ旅が、彼女の体力を削っている。
﹁大丈夫だ!ワシが付いておる!お前はワシの背だけを見て走れば
よい!﹂
ホドラムは、妻子を安心させるために声を張り上げる。
少しでも弱気なところを見せれば、彼女達の心が折れてしまうこと
を悟っていたからだ。
﹁大丈夫です。お父様を信じるのです﹂
妻の言葉に娘も頷く。
いや、それ以外にどのような選択肢があるというのか。
﹁行くぞ!﹂
ホドラムの声に警護の騎士が頷く。
その数4名。
30名ばかりいた警護の騎士達は既に4名にまでその数を減らして
いた。
﹁﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉぉお!﹂﹂﹂﹂
785
しゃにむに
彼らは一丸となって包囲網へと突進した。
剣を振り上げ、盾を翳し、彼らは遮二無二体を割り込ませる。
奇声を張り上げ剣を振りまわす様はまるで狂った犬のようだ。
彼らは防御を捨てた。
どの道、ホドラムが終われば自分達も終わりなのだ。
その事実が、彼らを命知らずへと変貌させる。
﹁閣下!今です!此処を!﹂
彼ら4人の捨て身の攻撃に怯んだのか、包囲網が一瞬崩れる。
﹁行くぞ!前を見て一気に森へ駆け込むのだ!﹂
ホドラムの言葉に妻と娘が頷く。
彼はそれを確認すると一気に走りだした。
﹁閣下!お早く!﹂
警護の騎士の叫びに背中を押され、3人は脇目も振らずに駆けだす。
森まで後3m⋮⋮1m⋮⋮
︵もう少しだ!森に逃げ込めば何とでもなる!このまま、このまま
逃げ込めれば!︶
無論、森に入ったからと言って確実に助かる保証など無い。
だが、包囲網を突破出来れば生き残る可能性は残される。
﹁きゃぁぁぁあ!﹂
突如ホドラムの背後から娘の悲鳴が響く。
786
﹁無礼な!その手を離しなさい!私を⋮⋮﹂
ドガッ!
肉を撃つ鈍い音が響いた。
﹁お母様!⋮⋮止めて!乱暴しないで!﹂
振り向いたホドラムの眼に、腹を抱えて蹲る妻と騎士に羽交い絞め
にされてもがく娘の姿が映る。
騎士に殴られたのだろう。
妻の口から胃液と涎が漏れている。
騎士道という観点から見れば、女性に手を上げるなど許されるはず
もない。
だが、戦場ではそんな綺麗事など消え去ってしまう。
彼は躊躇した。
︵クソ!もう少しの処で⋮⋮どうする?助けるか?⋮⋮いや⋮⋮も
う無理だ。この状況で戻る?⋮⋮だが娘を見捨てるなど︶
彼と娘の視線が交差した。
彼女の眼が母と自分を助けてくれと訴える。
だが彼は動けなかった。
もう少し、もう少しで彼は生き延びられるかも知れないのだ。
此処で妻と娘を助ける事は現実的に不可能と言える。
彼の冷徹な部分が、損得をはじき出す。
無理だと。
妻子を見捨てて逃げろと。
だが、同時にそれは彼の運命を決めてしまう。
︵妻と娘を見捨て、自分だけ逃げてどうなる?タルージャへの亡命
787
すら危うくなる⋮⋮︶
タルージャ王国がホドラムを受け入れてくれるのは、妻の実家がタ
ルージャの貴族だからだ。
もし妻を見捨てて逃げれば、妻の実家はホドラムを決して許しはし
ない。
保身がホドラムの体を縛る。
どっちを選択した所で彼に残された道は破滅だけ。
﹁ホドラム将軍!武器を捨て投降されよ!それともこのまま死を選
ばれるか!﹂
騎士の一人が、進み出て大声で叫ぶ。
チャ
ホドラムが躊躇った隙に周囲はエレナの騎士達で取り囲まれ、既に
どうしようもない状況になっていた。
︵くっ!しまった!︶
既に森への退路は騎士達に阻まれとても突破など出来はしない。
ンス
妻子を見捨てるにしろ、奪え返すために戦って散るにしろ、もう機
会は過ぎ去ってしまった。
﹁どうされる!この場で奥方と娘の首が飛ぶのをご覧になるか?﹂
再び冷徹な言葉がホドラムに突き刺さった。
妻子は共に羽交い絞めにされ、共に首に剣を突き付けられている。
﹁貴方⋮⋮﹂
﹁お父様⋮⋮﹂
二人の眼が父で有り夫で有るホドラムへと突き刺さる。
勝負は既に決した。
788
ホドラムは手にした剣を大地に放り出す。
﹁投降⋮⋮する﹂
﹁結構!﹂
ホドラムの言葉に騎士は軽く頷くと、手を軽く上げた。
素早く幾人かの騎士が飛び出し、ホドラムの手に手枷をはめる。
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉ!﹂﹂﹂
﹁﹁捕えた!捕えたぞ!﹂﹂
歓声が森に響き渡る。
誰もが剣を天へと振り上げ、勝利に沸く。
﹁終わりだ!これでローゼリア王国は新しい時代を迎える!﹂
﹁ルピス殿下に栄光を!ローゼリア王国に繁栄を!﹂
騎士達の口から次々に歓喜の言葉が叫ばれた。
﹁私達はどうなる?⋮⋮裁判は何処で開かれるのだ?王都か?イラ
クリオンでか?⋮⋮結審するまで妻子の安全は保障してくれるのだ
ろうな?﹂
ホドラムは傍らに立つ騎士に問いかけた。
﹁裁判?そんな事を求められる立場だと思っているのか?﹂
789
問いかけられた騎士は、ゾッとするほど冷たい目をしてホドラムを
見る。
﹁何!どういうことだ!私は投降したのだぞ?正式な裁判を受ける
権利がある!﹂
ホドラムは拘束されていることも忘れ、その騎士に掴みかかろうと
する。
彼は投降を選択したことにより、王女直々の裁判に掛けられるもの
だと思っていたのだ。
少なくとも、問答無用で斬り殺されることは無いし、裁判が決着す
るまで身の安全は保障される。
またルピス王女の甘さを計算に入れているホドラムは、最悪でも家
族を処刑されることは無いと計算していたのだ。
︵弁明の⋮⋮弁明の機会さえあればまだ何とかなる!少なくともル
ピスが妻や娘を処刑する事だけは無い!︶
それが根底から覆されたのだ。
﹁どういうことだ!王女がルピス王女がそう命じたのか!?﹂
﹁いいえ!それは違う!﹂
ホドラムを包囲していた騎士達がサッと道を空けた。
そしてその道を悠然と白い甲冑に城のマント、全身を純白で染め上
げた騎士が進む。
﹁何か勘違いなさっているようね⋮⋮ホドラム将軍﹂
﹁その声⋮⋮それにその姿!エレナ⋮⋮エレナ・シュタイナー⋮⋮
790
貴様、なぜ此処に⋮⋮イラクリオン攻めに参加していたのでは?﹂
ホドラムの顔色が変わった。
兜を脱ぎ現れたのは、まぎれもなくエレナ・シュタイナーその人だ
ったからだ。
﹁エレナ・シュタイナー様?︻ローゼリアの白き軍神︼と呼ばれた
あの?﹂
﹁本当にあのエレナ様⋮⋮なのですか?﹂
ホドラムの妻子は突然現れたエレナに驚きの言葉を漏らした。
つぐ
まさか、こんな場面で救国の英雄に会うなど思っても居なかったの
だろう。
エレナは二人に軽く頷くと口を噤む様に言い、ホドラムへ視線を戻
す。
﹁私が貴方の考えを予測出来ないとでも?﹂
﹁ワシの行動を全て読んだというのか!馬鹿な!⋮⋮そんな事が貴
様に出来るはずがない!﹂
ホドラムは声を荒らげた。
﹁あら?⋮⋮相変わらず貴方は現実が見えない人の様ね⋮⋮自分の
能力を過信し、他者の能力を貶める⋮⋮私達が初めて会ったあの日
から、貴方は何も変わっていない⋮⋮現実に貴方はこうして捕まっ
た。それが全てじゃないの?﹂
﹁黙れ!平民風情が!ワシは!ワシは名門アーレベルグの人間!貴
791
様等に負けるはずがない!﹂
ホドラムの言葉にエレナは苦笑を浮かべるしかなかった。
︵愚かな男⋮⋮野心も知恵も力も血筋も⋮⋮才に溢れていながらな
ぜこの男がこれほどまでに愚かなのだろう⋮⋮︶
﹁貴様!貴様のような平民がワシより!ワシより優れているはずが
ない!﹂
﹁哀れな人ね⋮⋮だからフリード様は貴方ではなく、私を将軍に指
名した⋮⋮貴方のその特権意識と驕り高ぶった人間性が国を蝕むと
気が付いていたから⋮⋮そして実際にその通りとなった!周囲を見
てごらんなさい!この場に居る騎士達の貴方達を見る眼を!﹂
﹁ふざけるな!フリード殿は人を見る眼が無かっただけだ!ワシを
!名門アーレベルグの人間であるワシを差し置いて平民出身で有る
貴様などに将軍位を与えるなど!⋮⋮貴様ら!貴様らは何とも思わ
ないのか!栄光有るローゼリアの騎士でありながら平民の女等に使
われて!﹂
ホドラムは声を張り上げ周りを見回した。
だが、誰ひとりホドラムの言葉に同調する者はいない。
いや、騎士達の眼は冷たくホドラムを蔑む。
﹁な⋮⋮なんだ貴様ら!その眼は!﹂
ホドラムに向けられる眼。
それは彼が平民に向けてきた蔑みの眼に似ている。
一つ違うとすれば、それは虐げられてきた憎悪が混じっていること
だろうか。
792
﹁馬鹿な人ね⋮⋮彼らは下級騎士や平民出身の者たちばかり。貴方
達名門騎士達が虐げ搾取してきた人間よ⋮⋮結局貴方は何も見てい
ないのよ!自分の地位と血筋に胡坐をかき、それを支える人間の存
在を見なかった!﹂
同じ騎士という役職でも、先祖代々騎士である人間もいれば、平民
でありながら努力を重ねて騎士になる人間もいる。
但し平民が騎士になるには、倍率100倍を超える狭き門を潜らな
ければならない。
それは血を吐く程の努力が居る。
だがそれほどまでの努力をして騎士になっても、平民出身と名家の
出身とでは明確な壁があった。
せっかく平民出身の騎士が手柄を挙げても、名家出身の騎士が横か
ら手柄を奪い取るなど日常茶飯事だ。
閲兵式で華やかな行進をするのはいつも名家の騎士。
平民出身者は裏方や日常業務に携わるだけだ。
この場に居る騎士達の中には、恋人を無理やり奪われた人間だって
いた。
汚職を告発しようとして逆に罪を着せられてしまい、裁判に掛けら
れそうになった人間だっている。
何時だって得をするのは名家出身の騎士。
汚れ仕事を引き受け損をするのは平民出身の騎士。
それはホドラムという、騎士の頂点に立つ将軍自身が名家の出身で
あり、特権意識に凝り固まった人間だったからだ。
トップがそういう考え方をすれば、部下が腐るのは当然と言える。
﹁ふざけるな!我らは対等ではない!貴様ら平民などが騎士になる
事そのものが間違っているのだ!貴様らは情けを掛けられて騎士に
成れたのだ!おとなしく我らに従っていればよいのだ!﹂
793
ホドラムの感情は高ぶり、顔は紅潮していた。
彼の言動は今一つ不明瞭ではあったが、言いたいことだけはこの場
に居た誰もが理解した。
平民出身の騎士は名家出身である自分に従えと。
﹁本当に腹立たしい人ね。貴方は⋮⋮まぁ良いわ⋮⋮貴方のその不
愉快な考え方とも今日でお別れだから⋮⋮﹂
﹁貴様!国法を破るつもりか!⋮⋮我には裁判を受ける権利がある
のだぞ!﹂
エレナの言葉にホドラムは驚きを隠せなかった。
彼自身はこれまでにいくつもの法を破ってきている。
不当な人事を行い、気に入らない人間を辺境警備に飛ばしたりもし
た。
軍費の横領もしているし、出入りの商人から賄賂も受け取っている。
出世の妨げになる同僚を罠にはめて罪を着せることだってしてきた。
だが、人生の最後に彼が頼ったのはやはり法だった。
すが
それがどれだけ筋の通らない理不尽な行為だとしても。
彼にはもう、それしか縋る物が無かったのだから。
﹁勘違いしないで?公式の記録ではホドラム・アーレベルグは投降
を装いエレナ・シュナイダーの殺害を企て返り討ちにあう。彼の家
族は逃亡を企て騎士に因って斬り殺される。それが全てよ⋮⋮貴方
のお得意の手段でしょ?ねぇ?﹂
エレナは皮肉たっぷりな笑みを浮かべた。
794
﹁馬鹿な!それが!それが正義か!そんなもの!﹂
﹁正義?正義なんかじゃないわよ?⋮⋮これは復讐⋮⋮10年前貴
方に殺された夫と娘のね﹂
エレナの言葉にホドラムの顔が凍りついた。
傍らに寄り添うホドラムの妻と娘にも驚きの表情が浮かぶ。
﹁何を言っているのだ!知らん!ワシは貴様の家族など知らんぞ!﹂
﹁無駄よ⋮⋮5年前、貴方が命じたと奴隷商人だったハインツから
聞き出している。彼が証人よ﹂
エレナの言葉に従い、隣に佇む副官が頷いた。
﹁知らぬ!そんな男など知らぬ!第一アヤツは既に処刑されている
!どうやって証明するのだ!そんな証言など証拠になどならん!﹂
﹁貴方⋮⋮一体どういうことです?本当に⋮⋮エレナ様のご家族を
?﹂
﹁お父様⋮⋮?﹂
﹁何だ!その眼は!ワシは知らぬと言っておろう!父の言葉を信じ
られぬのか!﹂
ホドラムは家族からも疑惑の眼を向けられ激昂した。
だが、彼が自己弁護すればするほどに周りの眼は冷たくなる。
誰の眼にもホドラムが罪を犯した事は明白な事実として伝わった。
795
﹁そうね。証拠にはならないでしょう⋮⋮でもねそんなものは必要
ないの。私は貴方を殺したいだけなのだから⋮⋮﹂
﹁貴様⋮⋮﹂
ホドラムはエレナの眼に宿る狂気にようやく気が付いた。
そして自分が決して彼女の刃から逃げられないという事実にも。
﹁安心しなさい⋮⋮貴方の妻も娘も一緒に始末してあげる⋮⋮娘は
犯されて死んだけどそれは良いわ⋮⋮許してあげる﹂
そう言うとエレナは腰の剣を抜き放ち、ホドラムの妻子へと歩み寄
る。
﹁待て!妻と娘は関係ない!﹂
ホドラムはエレナの前に立ちはだかろうとして、騎士達に抑え込ま
れる。
﹁関係ならあるわよ?貴方の家族ですもの﹂
﹁待て!誰か!誰かあいつを止めろ!こんな事!こんな事許される
はずがない!﹂
エレナの言葉にホドラムは必死で周囲に助けを求める。
だが、その場に居る200人もの人間は誰一人としてホドラムの言
葉に従おうとは思わなかった。
誰もが、彼と彼の家族の死を望んでいたのだから。
﹁いやぁぁあ⋮⋮お願いです⋮⋮助けて⋮⋮﹂
796
娘の眼に涙が浮かぶ。
彼女は自分の父が犯した罪を理解した。
そして父がどれほど人に憎まれているのかも。
200人もの騎士が周りを取り囲んでいるのに、誰一人として憐憫
の情を浮かべる人間が居ない事が何よりの証拠だ。
﹁さようなら⋮⋮貴方自身に罪は無いけどね⋮⋮運が悪かったわね。
せめて苦しまないようにしてあげる⋮⋮﹂
﹁やめろぉぉぉぉぉお﹂
ホドラムの叫びも虚しく響いた。
エレナの剣が大きく振りかぶられ、そのまま娘の首に振り下ろされ
る。
ザシュ
娘の体から力が抜け、そのまま倒れこむと大地を血で赤く染め上げ
る。
ザシュ
返す刃で今度は妻が心臓を切り裂かれた。
﹁貴様!妻を娘を!殺してやる!殺してやるぞ!﹂
ホドラムの眼は裂け、口から涎が飛び散る。
だが、数人がかりで押さえつけられ、身じろぎすら出来ない。
797
﹁そうよ!その言葉を聞きたかったの!その為に私は生きてきたの
だから!﹂
エレナは無邪気な笑みを浮かべホドラムの傍らに立つ。
︵これで⋮⋮これで終わる⋮⋮貴方⋮⋮サリア⋮⋮これで安らかに
眠れるでしょ?⋮⋮貴方達の無念はこれで晴れるわ⋮⋮︶
10年のもの間、積もり積もった恨みの念が全て解き放たれるのだ。
彼女の心に、夫と娘の姿が浮かぶ。
﹁これで終わりよ⋮⋮ホドラム・アーレベルグ!﹂
エレナの剣が頭上に振り上げられる。
﹁クソ!貴様等に!平民などに!﹂
これがローゼリア王国の将軍にして、反乱の首謀者であるホドラム・
アーレベルグの最後だった。
此処に数カ月に及ぶローゼリア王国の内乱は終止符が打たれたので
ある。
798
第2章第41話
異世界召喚212日目︻王女の憂鬱︼:
﹁⋮⋮どうしたものかしらね⋮⋮﹂
ルピス王女は、王都ピレウスの自室の窓から外に眼をやる。
純白のドレスは胸元が大きく開いていて、彼女の美しさを十分に際
立たせていた。
つい先日まで鎧を着込み、姫将軍と呼ばれた女性と同一人物とは思
えないほどの淑女振りである。
だが憂いに満ちた其の眼が、彼女の美しさから、明るさと言う要素
を打ち消してしまっていた。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
彼女の口から大きなため息が漏れた。
窓の外からは、国民の喧騒が城にまで届くほど活気で漲っていると
言うのに。
国民の誰もが、内乱が終わりルピス王女の統治が始まることに希望
を膨らませている。
ホドラム・アーレベルグと其の家族がエレナの剣によって討ち取ら
れたことにより、ローゼリア王国の内乱は終結した。
途中から反乱に加わったホドラムが殺され、真の首謀者であるゲル
ハルト公爵が生き残っていることに、釈然としない部分はあるが、
ホドラムの首を取ったことにより、ローゼリア王国としてのメンツ
799
は保てたと言うことだ。
内乱が終わり今日で一ヶ月が過ぎようとしている。
だが、本来なら希望に満ちているはずのルピス王女であるが、彼女
の心はある悩みに支配されていた。
﹁父上⋮⋮ルピスはこの国の王に相応しいのでしょうか?⋮⋮あの
男の処遇一つでこれ程迷う私は果たして⋮⋮﹂
幾度となく、死んだ父へ問いかける。
とはいっても、既に死んだ人間が彼女の問いに答えるはずも無い。
答えてくれるはずの無い父への問いかけ。
其の行動は、彼女の心を克明に表している。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
再び深いため息が彼女の口から漏れた。
﹁殿下⋮⋮﹂
その姿をメルティナは悲しげに見つめた。
彼女はルピスの戴冠に伴い、近衛騎士団長への就任が確定している。
本来ならそちらの業務を遂行しなければならないのだが、彼女は相
変わらずルピスの補佐として傍に付き添っていた。
︵⋮⋮やはり⋮⋮ミハイル殿を謹慎させられたのは痛手か⋮⋮しか
し私だけでは殿下を支え切ることが出来ない⋮⋮︶
頭の出来から言えばメルティナもミハイルも大差は無い。
しかし10歳という年齢差は意外に馬鹿に出来ない。
騎士達への影響力でも、ミハイルの方が上なのだ。
内乱が終わり、ローゼリアの王になることが確定しているとはいえ、
まだ権力基盤は不安定なのだ。
800
少しでも信頼出来る人間で政権を固めたいと願うのは当然といえた。
だが、肝心のミハイルは今、王都に有る自らの屋敷で謹慎中である。
内乱が終わり、ゲルハルト公はミハイルの身柄をルピスへ引き渡し
た。
当然ルピスやメルティナは現職復帰と考えていたのだが、流石にそ
れは無理だった。
別段、亮真が何かをしたわけではない。
元々ミハイルは処罰を延期されていた身だ。
それを、今後の功績で相殺するという名目で見逃されてきたのだ。
2度目の失敗に、ルピスやメルティナもベルグストン伯爵や元傍観
派だった貴族からの追求よりミハイルの身を守り切れなかった形だ。
﹁ねぇ⋮⋮ミハイルを⋮⋮復職させることは無理かしら?⋮⋮降格
でも良いの⋮⋮謹慎を解いてあげられない?﹂
ルピスから、これで何十回めかの問いがメルティナにぶつけられる。
ミハイルが謹慎処分となって半月余り。
それからずっと繰り返している問いだ。
メルティナはため息が漏れるのを押し殺しながら無言で首を振った。
﹁いくら殿下の御言葉でもそれは無理でございます⋮⋮無論私とし
ては謹慎処分を解いて差し上げたいのは山々ですが⋮⋮﹂
メルティナとしてもルピスの願いをかなえたいとは思っている。
ミハイルが居たから問題解決に役立つとは思えないが、ルピスの精
神的な支えとしては信頼出来る為、出来れば復職させたいのはメル
ティナも同じなのだ。
だが、今の状況で安易に賛同するわけにはいかなかった。
道理から言えば、ルピス王女の行動に問題がある。
いくら信頼している騎士とはいえ、2度も失敗を起こしている人間
801
を何の処分もしないと言う訳にはいかなかった。
ケイルの策にはまった形の1度目の失敗はまだ取り繕うことが出来
るが、2度目の失敗は致命的といえた。
一時的とはいえ、上官の命令を無視して独断専行した挙句に捕虜に
なったのだ。
しかも、当初の計画を変更し、ゲルハルト公爵を処刑する機会を失
わせる切っ掛けにもなっている。
幹部の間では処刑するべきと言う声すら上がっていたくらいなのだ。
其のミハイルの謹慎を解くことは、例えルピス王女としても不可能
と言えた。
いまだ権力基盤を確固たるものとしていない彼女にとって、政権を
揺るがしかねない行為なのだから。
﹁そう⋮⋮よね⋮⋮メルティナ、ごめんなさい。無理を言って⋮⋮﹂
ルピスもその点は十分に理解している。
問題は、彼女が頭で理解していても情の部分で納得していないとこ
ろにある。
メルティナは心の中でため息をつくしかなかった。
﹁まぁミハイルの事はいいわ⋮⋮それよりも例の件はどうなってい
るの?﹂
ルピスは気持ちを切り替え、メルティナに問う。
彼女の抱える問題はミハイルに関してだけではないのだから。
﹁御子柴殿の件ですね⋮⋮やはり思ったようには⋮⋮貴族・騎士共
に反発が予想されます⋮⋮部隊長クラスの騎士程度としてなら押し
込めなくもないのですが、彼の功績に見合った職となると⋮⋮﹂
802
﹁そう⋮⋮﹂
メルティナの答えにルピスは顔を歪めた。
問題は御子柴亮真の今後の処遇に関してだ。
最初の約束では、彼らはルピス王女に助力した後、ローゼリア王国
が彼らの後ろ盾となることで彼らの潔白を証明すると言うことにな
っている。
そして証明された後、彼らはこの国から去るということになってい
るのだ。
内乱が終結して直ぐに、ルピスはローゼリアの王女として各地のギ
ルドへ状況を説明する書簡を送りつけている。
これにより、御子柴亮真とその仲間達に落ち度がない事が既に認め
られているのだ。
唯一の不満は、港町フルザードのギルドマスター・ウォルス・ハイ
ネケルの悪意を証明できず、事務手続き上のミスということで、何
の処罰も与えられなかった事だが、この辺はいたしかたないだろう。
ゲルハルトの証言を信じるなら、全ての手配をしたのはケイルらし
い。
そのケイルも亮真に因って殺されている今、証言も証拠も見つける
のは困難を極めた。
周辺のギルドマスターとしても、同僚のウォルスを証拠も無しに追
求は出来ない。
事実上、手の出しようが無かった。
だが、亮真達の潔白が証明された以上、ルピスとの約束は既に果た
されているのだ。
何時彼らが出て行っても、誰にも止めることは出来ない。
だが彼らは未だ王都ピレウスの城に留まっている。
それは、ルピスが戴冠式が終わるまでと願ったからだ。
803
﹁騎士の反応はやはり良くありません⋮⋮名門・平民出身を問わず、
どちらからも否定的な意見が多く出ています⋮⋮﹂
﹁そぅ⋮⋮﹂
﹁やはりローゼリア国民で無い人間を国防の重要ポストに就ける訳
にはと言うのが大勢を占めています⋮⋮まぁ本当にそう考えている
かまでは判りませんが、理屈としては頷けなくも有りません⋮⋮た
だ、あれほどの男が騎士団に入るとなれば重要なポストが確実に1
つ減ります。上の地位を狙う人間にとっては邪魔なだけですので、
そういう感情も含まれているとは思いますが⋮⋮﹂
メルティナの言葉にルピスの顔が曇る。
彼女は御子柴亮真を恐れている。
それは、圧倒的に不利な状況であったはずの自分が、ローゼリア王
国の新女王として戴冠式を目前にした今、彼女の心から溢れだすほ
どに増大していた。
﹁私としてもあの男を殿下の身辺近くに侍る騎士に取り立てたいと
は思いません⋮⋮あの男は殿下に対してもローゼリア王国に対して
も敬意も忠誠も持ち合わせてはいません⋮⋮あの男は己の為にしか
動かない⋮⋮私はこの数カ月あの男の行動を見てきてそう感じまし
た。少なくとも騎士として王家を守る盾として用いるのは危険すぎ
ます﹂
御子柴亮真の能力に対しての評価は高い。
それは、彼の騎士登用に否定的な人間達からも同様の評価を得てい
る事で確認ができる。
だから力だけならば騎士だろうと何だろうと就かせる事が出来た。
804
だが、信用度となれば途端に下がってしまう。
騎士は王国の盾であり剣だ。
国王が国内を統制するうえで必要な武力なのだ。
その武力が信用できない人間に支配されたら?
ホドラム将軍の時代に逆戻りとなる。
王は傀儡となり、国が乱れる。
ルピスはこれから国を立て直さなければならないのだ。
それなのに王家に対しての忠誠が疑問視される人間を騎士になど取
り立てられるはずもない。
これは彼女自身も、王国の首脳陣達も共通の意見と言える。
﹁でも⋮⋮彼をこのまま国から出すのだけはダメ!絶対にダメよ!
⋮⋮もし彼が他国に登用されたら⋮⋮﹂
ルピスは声を荒らげて否定する。
彼女の恐怖は此処に行きつく。
身辺において重用するには信用できない。
だからと言って約束どおり国から出すには危険すぎた。
﹁判っています⋮⋮それは私としても同感ですから⋮⋮殿下⋮⋮此
処はやはり⋮⋮そのう⋮⋮﹂
ためら
メルティナが躊躇いがちに口を開く。
ルピスは彼女の眼から何を言いたいのかを敏感に感じ取った。
﹁ダメよそれは⋮⋮いくらなんでもそれだけはダメ!﹂
ルピスの否定にメルティナはそのまま押し黙る。
両者の間に、沈黙が流れた。
805
メルティナが言葉にしなかった手段。
既にそれは首脳陣、特に貴族達から提案されている手段だ。
其の手段とは暗殺。
確かに殺してしまえば、他国に登用される心配は無いし、自分達も
枕を高くして眠れる。
︵それは判る⋮⋮でも⋮⋮まだ彼が敵に付いた訳でもない⋮⋮彼は
私との約束を守ってくれた。なのに私は感謝ではなく彼の死をもっ
て報いるというの?それに⋮⋮︶
彼女は良くも悪くも善良でそれなりの知恵を持っていた。
もし彼女が愚かであれば、亮真との約束を履行してさっさと国外に
出しただろう。
もし彼女が悪であったら、流れ者との約束など無視して処刑を命じ
たに違いない。
悪に染まれないから暗殺はしたくない。
愚かでないから、このまま国外には出したくない。
しかし、流れ者の傭兵を騎士に登用することも難しい。
そしてもう一つ、ルピスが暗殺という手段を選択したくない理由が
ある。
彼女の心の奥底に秘められた、決して表には出さない理由。
それは⋮⋮
︵もし暗殺を選択するとして、この国の騎士で彼を討てるの?⋮⋮
もし⋮⋮もし失敗して、私が命じた事を悟られたら⋮⋮︶
無論、一国の戦力を結集すれば、御子柴亮真個人など問題無く討て
るはずだ。
個人が国に勝てるはずもない。
だが、逃れることは出来るかもしれない。
冷静に考えてその確率は万分の一以下だろう。
だが絶対ではない。
806
そして、御子柴亮真は其の可能性を引き当てるかもしれない何かを
感じさせる。
彼女をこの国の王にしたように⋮⋮
︵あの男は⋮⋮私を決して許さない⋮⋮︶
其の恐怖がルピス王女の心を縛りつける。
コンコン
すどう
﹁失礼いたします、殿下⋮⋮須藤様がお見えになられました。お通
ししても宜しいでしょうか?﹂
ルピスとメルティナ。
両者の間に降りた沈黙を、メイドの扉を叩く音が破る。
メルティナはルピスが頷くのを確認した。
﹁お通ししろ﹂
彼女の声と同時に部屋の扉が開かれ、貴族風の服に身を包んだ須藤
が入ってくる。
﹁失礼いたします殿下⋮⋮おぉ?何やらお悩みのご様子。いけませ
んなぁ⋮⋮お美しいお顔をそのように曇らせては。僭越ではありま
すが私でよければご相談に乗りますよ?ルピス王女様⋮⋮いえ新女
王陛下﹂
彼は入ってくるなりいきなりそう言い放った。
元々、礼儀をわきまえているとは言い難い男だ。
﹁貴様!殿下に向かって何と無礼な!﹂
807
メルティナは腰に下げた剣を抜き放った。
この場合、彼女を短気と攻める人間は少ないだろう。
須藤の態度は、とても王族に対しての礼儀を弁えているとは言い難
いものなのだから。
﹁剣をしまいなさいメルティナ⋮⋮須藤⋮⋮貴方も礼儀を少し弁え
こうべ
た方が良いわ。今回は大目に見ますが次は有りませんよ?﹂
うやうや
ルピスの威厳ある言葉に須藤は恭しく頭を垂れた。
尤もそれが形だけであることはお互いに理解している。
﹁まぁ良いでしょう⋮⋮それで本日はどういう用件なのかしら?私
は暇ではないの。端的に言ってちょうだい﹂
ルピスは須藤に着席の許可を与えると、間髪いれずに切り出す。
﹁なぁに、さほどお時間は頂きません。殿下が戦後処理にお困りの
様ですので、其の憂いを取り除いて差し上げようかと思い、お時間
を頂いた次第﹂
ひそ
メルティナの眉が顰められた。
ルピスが彼女の顔をどういうことか?と見上げた。
だが、彼女としても全く予想外な事に、どういうべきか言葉が見つ
からない。
﹁そう⋮⋮それは心強いわね⋮⋮でも私が何に悩んでいるか判って
いるの?須藤﹂
ルピスは疑わしげに須藤へ問いかけた。
808
﹁無論。と言うよりも、多少でも物が見える人間なら誰でも気がつ
くでしょう⋮⋮御子柴亮真の処遇に関してですな?﹂
須藤の言葉にルピスは必至で動揺を押し殺す。
一国の王となる彼女が、そう簡単に動揺を表すわけにはいかないの
だ。
︵ダメ!ダメよ!ルピス!コイツに心を見透かされてはダメ!落ち
着いて⋮⋮落ち着くのよ!︶
﹁何の事?須藤﹂
ルピスは何でそんな事を言い出したの?と首をかしげながら須藤に
問い返す。
尤も、そんな彼女の必死の演技は須藤の眼から見れば、田舎芝居に
等しいものだった。
﹁ほぉ⋮⋮これはヨミが外れましたか⋮⋮では、お忙しい殿下のお
時間をこれ以上取るわけには行きませんなぁ﹂
須藤はそう言うと腰を上げた。
メルティナとルピスの顔色が変わる。
﹁またれよ!須藤殿⋮⋮殿下は貴殿の話を聞くためにお忙しい中、
態々時間を御取りになったのだ。それを勝手に帰ろうとするとはど
ういうつもりだ!﹂
とっさ
メルティナは、咄嗟に機転を利かせて須藤を押し留める。
﹁はぁ?ですが殿下のお悩みが御子柴亮真の処遇に関してでないと
809
おいとま
なると⋮⋮これは全く意味の無い事。お忙しい殿下のお時間をこれ
以上無駄にするのは気がひけますし。ここはやはりこのまま御暇を﹂
殊勝な言葉だが、彼の表情を見ればそれが偽りであることなど明白
な事実だった。
彼はルピス達をからかっているのだ。
ルピスとしても須藤の提案は聞いてみたい。
手詰まりである現状の打開策に繋がるかもしれないのだから。
だが、御子柴亮真の処遇を迷っていることを認めるわけにもいかな
い。
﹁そうね⋮⋮須藤。せっかく時間を取ったのだし、聞くだけ聞いて
あげる。話してみなさい﹂
ルピスは精一杯の虚勢を張って須藤へ命じた。
﹁はぁ。では、せっかくですので﹂
須藤はこの辺が潮時と判断したのか、再び腰をソファーへと沈ませ
た。
﹁以上の事から、御子柴亮真の処遇は大変難しい訳です。彼が王国
に忠誠厚き人間なら騎士にも登用できるでしょうが、傭兵である彼
にそれはあり得ない。だからと言って国外に出せば他国が彼を登用
してしまう可能性がある⋮⋮何時かローゼリア王国へ攻め込んでく
る可能性もあり得るわけです﹂
須藤の言葉に二人は顔色を変えた。
彼女達が悩んでいるのは正に須藤の指摘どおりなのだから。
810
﹁騎士には出来ない、国外にも出せない。だからと言って殺してし
まうわけにもいかない⋮⋮あれ程の功績をあげた人間を殺してしま
えば、今は良くとも将来に必ず禍根を残します﹂
うかが
須藤は言葉を切り、上目つかいにルピスの顔色を窺う。
︵ふむ⋮⋮思った通り持て余していたか。まぁシャルディナ殿下と
渡り合った程の男を、この女程度が御しきれるはずもない⋮⋮︶
彼の眼は冷徹にルピスの能力を見極める。
﹁ふぅ⋮⋮それで?貴方はそれをどう解決するというのです?﹂
ルピスは興味の無い振りを止めた。
もう隠しても意味が無い事を理解したのだ。
須藤は笑みを浮かべて言った。
﹁騎士には出来ない、他国にも出したくない。なら貴族にすれば良
い﹂
彼の言葉にルピスは絶句した。
それは傍らで聞いていたメルティナも同じだった。
﹁馬鹿な⋮⋮貴様は何を言っている⋮⋮平民を⋮⋮それも何処の馬
の骨とも判らない傭兵を貴族⋮⋮にだと?﹂
絞り出すようなメルティナの言葉に須藤は頷いた。
﹁ふざけるな!﹂
部屋に彼女の怒声が響く。
811
﹁そんなこと出来るはずがない!⋮⋮いや、仮に出来たとしても貴
族がそんなことを認めるはずもない!誰が平民出の貴族など認める
!騎士に登用する方がまだ現実的だ!﹂
彼女の言葉にルピスは頷くしかなかった。
﹁それに所領はどうする!直轄地を削るのか!?﹂
貴族にするには所領が必要だ。
無論、王家直轄地や今度の内乱で取りつぶす貴族の所領を与える事
もできる。
だがそれでは王家の力を強める事が出来ない。
今度の内乱を機にルピスは国家の主権を完全に己の物にしたいと考
えている。
その為には、何よりも土地だ。
貴族達が連合しようと、王と騎士だけでも戦いぬけるだけの戦力が
必要となる。
平民に対する貴族達の心情と考え合わせれば、新たに御子柴亮真を
貴族にするという選択はあり得ないはずだった。
だが、須藤には彼女達の反論など想定済みだった。
彼はポケットより一枚の地図をテーブルの上に広げる。
﹁これは?西方大陸東部の地図?﹂
ルピスの言葉に須藤は頷くと、地図上の一点を指し示す。
﹁此処を彼の所領にします。どうです?此処ならば直轄地を削る必
要も無いし、貴族達の反感を買うことも無い⋮⋮しかも此処ならば
812
変に力をつけて反乱を起こされる心配も無い⋮⋮爵位はそうですね
ぇ?最下級の男爵位で良いでしょう⋮⋮まぁ所領の大きさだけなら
公爵が必要ですが場所が場所ですからねぇ﹂
須藤の言葉にルピスもメルティナも言葉を失った。
須藤の指し示した土地は広大だ。
ローゼリア王国全土の10分の1にも匹敵する。
これ程の所領を平民出に与えるとは正気とは思えないほどの暴挙だ。
だが、彼の言うとおり貴族達から反発を買う恐れはゼロと言えた。
誰もかの地を所領にしたいとは思わないだろうから⋮⋮
﹁ウォルテニア半島⋮⋮﹂
ルピスの口から呟きが漏れる。
再び御子柴亮真の運命の輪は回り出した。
813
第2章第42話
異世界召喚227日目︻召喚されし者の決意︼:
︵結局、これが結末か⋮⋮俺が甘いと言われれば甘いんだろうな⋮
⋮︶
王都ピレウスの城内に与えられた自室のベットに横たわりながら、
亮真は空を見据えた。
彼の脳裏に浮かぶのは、ルピス王女の固く強張った顔だ。
午前中、謁見の間へ呼び出された亮真は、ルピス女王から男爵位の
叙勲とウォルテニア半島の下賜についての話をルピス女王より受け
た。
それは彼にとって全く予想していなかった事態だった。
彼は、そろそろこの国から出て行こうと言う話をマルフィスト姉妹
達としていた矢先だったのだから。
だが、彼はこの恩賞の話を断らなかった。
無論、それは喜んだからではない。
彼は気が付いたのだ。
ルピスの表情の裏に隠された自分に対する恐怖を⋮⋮
そして、彼女の傍らに侍るメルティナの自分への殺意に。
もし此処で亮真がこの話を断れば、メルティナは即座にこの部屋の
警護に就いている騎士達を彼に襲いかからせたに違いない。
彼女達はそれほどまでに、御子柴亮真と言う人間を恐れたのだ。
それを敏感に察した彼は、この場での即答を避けた。
この話に、どんな裏が有るか⋮⋮それを確かめる事が先決なのだ。
︵例え断れない話にしろ、対応する手段は有る⋮⋮まずはこいつら
814
が何を狙っているかだ⋮⋮︶
亮真は湧き上がる疑惑と怒りを押し隠し、ルピス王女へ感謝の意を
表した。
謁見の間より、生きて出ていくために⋮⋮
︵ウォルテニア半島か⋮⋮中々面白い事をしてくれるぜ。あのクソ
女め⋮⋮︶
亮真は午前中の出来ごとを思いだして、罵った。
尤も其れを口に出すことはしないが。
この部屋には、彼の外は誰も居ない。
常に彼の傍らに居るはずのマルフィスト姉妹すら部屋から追い出し
て、彼は一人思案にふける。
窓から差し込む赤い夕陽が彼の顔を真っ赤に染め上げた。
その表情は氷のように冷たく、その眼の奥底には憤怒の暗い炎が立
ち上っている。
それは純粋なまでの殺意。
信じた人間の手ひどい裏切りに因って生じた憤怒の心。
自らの心を自制しながらも湧き上がってくる彼女への憎悪。
そして、愚かにも彼女の様な人間を信じた自分の愚かさへの自虐。
だが、彼はそれを面に表すわけにはいかない。
少なくても今は⋮⋮
何故なら、彼を裏切ったのはこの城の主であり、この国の新女王な
のだ。
︵壁に耳あり障子に眼ありというしな⋮⋮用心にこした事はねぇ⋮
⋮それこそのぞき穴だって無いとはいえねぇからな⋮⋮今ここで俺
が不満を持っていることを悟られるのは絶対に不味い⋮⋮それこそ
ガイエスの爺を殺した時より状況は最悪だからな︶
亮真の脳が冷徹なまでに事実を一つずつ明確にしていく。
815
オルトメア帝国から逃げ出すのは難しくは有ったが、彼には十分に
勝算があった。
だが今は、あの時とは違う。
今は、あの時とは条件が違いすぎるのだ。
この場から逃げると言う手段は現実的に不可能なのだ。
︵まず俺の顔と名前を知っている奴が多すぎる⋮⋮それに此処で上
手く逃げだせたとしても、ルピスがギルドの方へ手を回せばそれで
こっちはアウトだ⋮⋮少なくてもギルド経由の仕事は出来なくなる
だろう⋮⋮︶
亮真達はルピスの手紙に因ってギルドへの釈明をし、自らの無実を
証明した。
それは逆を言えば、ルピスが﹃そんな手紙は知らない﹄、もしくは
﹃嘘を書いた﹄とギルドへ証言すれば全てがひっくり返る可能性が
あるということだ。
ルピス女王の証言と後ろ盾で得られた無実は、ルピス王女の証言と
圧力で失われる事を意味する。
︵クソ⋮⋮王族に権力が有るっていうのも困りもんだな⋮⋮︶
自らの無実を証明されたと喜んでいた過去の自分の愚かさに反吐が
出そうだ。
王族の権力を甘く見たツケかもしれない。
良くも悪くも国の力は強大だ。
白を黒と言う事も、黒を白と言う事も、国の力を持ってすれば可能
なのだから。
︵さっさとこの国を出ちまえば良かった⋮⋮いや、それは無理か。
警護と称して騎士が四六時中ぴったりと張り付いていたからな⋮⋮
下手に逃げ出すそぶりを見せたら殺されていたかもしれない⋮⋮ケ
ッ!俺は本当におめでたい男だぜ⋮⋮ルピスの言葉を鵜呑みにして
喜んでいたんだからな。何が私の戴冠式が終わるのを見届けて頂戴
だ!舐めやがって⋮⋮︶
816
元々、内乱が終わればこの国で出ていくつもりだったのだ。
だからこそ、亮真は勝つために手段を選ばなかった。
ちゅうちょ
必要以上に貴族達へ関係をむすぶ事は避けたし、ルピス女王の意向
に対しても躊躇せずに諫言した。
周りから自分がどう見られるかを意識するつもりが無かったのだ。
其のツケが今、彼に圧し掛かってきている。
内乱が終結して一カ月余り。
亮真達はギルドへの釈明が済んだ後も城に留まった。
ルピス女王の強い要望があったからだ。
亮真は其れを不安の表れだと捕えた。
国を背負っていかなければならないという責任への不安。
ミハイルと言う腹心が謹慎処分となった今、自分達が留まることで
その不安が和らぐならと彼は軽く承諾したのだが、其れが完全に裏
目に出たということだ。
亮真はこの1月余りを与えられた自室で過ごした。
豪勢な食事を食べ、リオネやマルフィスト姉妹を相手に武術の稽古
をして軽く汗を流す。
時間が有ればボルツや厳翁と他愛のない会話をして時間を潰す。
それは彼がこの世界に召喚されて初めて過ごす、心穏やかな日々だ
った。
だがそれはこの国を出ていくという前提の下での話。
この国に残る事を最初から考慮していたなら、彼はそんな日々を過
ごしはしなかっただろう。
今の彼に必要なのは、己の心に向き合う静寂さだった。
静かに、そして確実に亮真は現状を分析していく。
︵まさか、あの女が約束を破るとは思いもしなかった⋮⋮いや、俺
は意図的にその可能性を考えない事にしたんだ⋮⋮あの女を舐めて
817
いたと言ってもいい⋮⋮あの女の善良さを過信しすぎたともいえる︶
自分が恐れられていることは理解していた。
ふっしょく
だからこそ彼はこの国から出るつもりだったのだ。
だが、ルピスの抱いた恐怖はそんな事では払拭されなかったようだ。
︵ウォルテニア半島か⋮⋮素直に考えれば、大出世だ。だがルピス
が今そんな事をするとは思えない⋮⋮なぜなら平民を貴族にすれば
反発が起きて当然。ルピスの王権はまだ不安定。その状態で俺を貴
族にするとなれば⋮⋮何か裏が有るはずだ︶
亮真の前に示されたのは貴族位と領地。
普通に考えれば大出世と言える。
だが、亮真は其れを額面どおりに受け取るほど愚かではなかった。
ルピス女王は事前に何の連絡も無く、約束を反故にして男爵位と領
地を押しつけてきたのだ。
もし、本心から御子柴亮真の力を借りたいのであれば、そんな事を
するはずが無い。
事前に今後も助力してほしいと願うのがスジと言える。
自分の状況。
ローゼリア王国の現状。
そしてルピス女王の態度と表情。
其れらを脳裏で組み上げていくことで、ルピス女王の狙いが見えて
くる。
︵成程⋮⋮俺を封じ込める気か⋮⋮︶
まず、亮真の力に恐怖を感じている人間が、彼を貴族にして領地を
与えること自体が不自然だ。
ならば、貴族にすることで逆に何らかの制限を掛けてくる可能性が
ある。
︵まず考えられるのは与えると言うウォルテニア半島だな⋮⋮此処
に問題がある可能性が大きい。隣国との国境が近く紛争が絶えない
818
かとか⋮⋮そんなところだろう⋮⋮だが向こうが押し付ける気で来
る以上、ただ断るのは無理だな⋮⋮断るには其れなりの理由が必要
になる⋮⋮正当な理由が⋮⋮ならどうする??︶
女王が与えると言う領地と爵位を受け取らないと言うには、彼女の
メンツを潰さないだけの正当な理由が必要になる。
ただ断れば、ルピスの権威に泥を塗ってしまう。
いまさらルピスの事がどうなろうと亮真は気にもしないが、その結
果どうなるか?
ルピスやメルティナは意地でも亮真を殺そうとするだろう。
受け取っても受け取らなくても彼は地獄を見ることになる。
﹁結局俺が弱いということか⋮⋮﹂
亮真の口から自嘲の言葉が漏れた。
彼は国と言う権力に押しつぶされそうなのだ。
個人の力では勝っていても、彼はルピスの命令に逆らえない。
無理に逆らったところで、意味は無い。
それはつまり、亮真がルピスよりも弱いということだ。
ならばどうするか。
︵国に勝てるのは⋮⋮国だけ⋮⋮︶
亮真の心に有る思いが浮かんだ。
﹁お悩みの様ですな主殿﹂
考えにふける亮真に声を掛けた人間がいた。
彼は素早く身をベットより起こすと、無言で声の主を睨みつける。
﹁どうやって入った厳翁?﹂
819
﹁ドアより⋮⋮﹂
亮真の問いに厳翁は落ち着き払って答える。
﹁どういうつもりだ?俺はお前を呼んだ覚えは無いぞ?﹂
﹁まぁそう言われずに﹂
亮真の言葉を軽く受け流すと、厳翁は椅子へと腰を落ち着けた。
﹁状況は既に確認しております。ウォルテニア半島⋮⋮また厄介な
地を押しつけられることになりそうですな⋮⋮﹂
﹁なぜ其れを知っている!?﹂
亮真は厳翁の言葉に眼を細めた。
姉妹にすらまだ告げていない事を、この老人は口にしたのだ。
﹁私共の生業は忍び込み探り出すこと。この程度は造作も無き事﹂
﹁そうか⋮⋮そうだったな﹂
厳翁の答えに亮真は頷いた。
彼らは忍びの一族。
情報を探り出すことなど、容易いのだろう。
﹁なぁに⋮⋮双子のお嬢達に頼まれましてなぁ。主殿の様子がおか
しいと。それでワシと咲夜の二人で探ってみたというわけですわい﹂
﹁あいつらが?﹂
820
厳翁が深く頷く。
恐らく姉妹は、亮真の表情の変化を敏感に察知して厳翁に頼んだの
だろう。
彼女達の心配りは正に見事と言える。
﹁なら状況は判っているだろう?﹂
﹁えぇ⋮⋮確かに厄介ではあります。ですが有る意味これは幸運と
もいえましょう﹂
﹁幸運?これが幸運だと言うのか!﹂
亮真は思わず声を荒らげた。
透けて見えるルピスの思惑。
そして押し付けられようとしている土地への不安。
不利な要素ばかりが目につく。
だが厳翁は首を横に振った。
﹁主殿⋮⋮ルピス女王の思惑に乗りなされ。そして力を蓄えるので
す﹂
亮真は厳翁の言葉に頷くことは出来なかった。
其れは彼自身も考えてはいるのだ。
﹁我らが信じられませんか?﹂
亮真の顔色を呼んだのか、厳翁の言葉が核心に切り込んでくる。
﹁既に我らの意思は決まっております。リオネ殿もボルツ殿も、無
821
論お嬢達もワシらもです⋮⋮﹂
厳翁の眼が亮真を見据える。
彼の言葉は何よりも強い意志が込められていた。
﹁そういうこと⋮⋮なんで着いて来いって言わないのよ坊や﹂
﹁若!何処までもお供いたしやす﹂
扉が開き、リオネ・ボルツ・咲夜にマルフィスト姉妹が連れだって
部屋へ入ってきた。
どうやら厳翁の言葉通り彼らの意思は既に決まっているようだ。
フッ
亮真の表情が緩む。
﹁保証は出来ないぞ?⋮⋮何しろ俺は領地経営などした事の無い平
民だからな﹂
亮真の言葉に厳翁は無言で頷いた。
そんな事は誰もが理解しているのだ。
それでも彼らは、御子柴亮真という人間を信じたのだ。
﹁しかし!坊やにあれだけ世話になって置きながらこんな仕打ちを
するとはねぇ⋮⋮だから貴族はいけすかないんだよ!﹂
リオネの乱暴な口調はその場にいる人間の心を代弁していた。
822
今後の方針を決める為に、彼らはテーブルを囲んでいる。
まず大事なのは、明日のルピスへの返答だ。
回答期限は明日の正午。
其れまでに、爵位と領地を受け取るかどうかを決めなければならな
い。
彼らはこれから徹夜をしてでも対策を練り上げる必要があった。
﹁まぁ彼女には彼女の立場がありますからね﹂
亮真の言葉は何処か冷めている。
もっと怒りを面に表しても良いというのに。
﹁腹立たしくは無いのかい?﹂
リオネは探るような視線を亮真へ向けた。
﹁そうですねぇ⋮⋮まぁ向こうがその気ならば俺も容赦はしません
よ﹂
リオネの問いに亮真は唇を釣り上げて笑う。
其の顔を見たとき、彼らの背筋に冷たいものが走る。
わら
其れは、鬼の嗤い。
悪意と憎悪。
そして野心に満ちた暗く深い闇。
︵ルピス⋮⋮アンタの立場は判らなくは無い⋮⋮だがアンタは俺を
裏切った。まぁ其れは良い。騙された俺が悪いからな⋮⋮だが今度
はアンタに代償を払ってもらうぞ!︶
823
この夜、彼の部屋からランプの灯が消されることは無かった。
824
第2章最終話
異世界召喚260日目︻暗躍する者達︼:
﹁と言うわけですが⋮⋮此処まではご理解いただけたでしょうか?
殿下﹂
須藤は目の前の椅子に腰かけ、じっと彼の報告に耳を傾けているシ
ャルディナ皇女へ問いかけた。
此処は帝都に有るシャルディナの私室。
シャルディナは机に肘をつきながら、ローゼリア王国へ潜入してい
た須藤の中間報告を受けている。
﹁そうねぇ、とりあえずは順調の様ね⋮⋮色々と予定外の事もあっ
たようだけど、ローゼリア王国の弱体化は問題ないと言えるわ⋮⋮
斉藤、今までの話の中で気になるところは有るかしら?﹂
シャルディナは傍らに立つ斉藤へと話を振る。
﹁そうですねぇ、須藤さんの御蔭で策の修正は最小限で済んだのは
良かったと言えます。あのままゲルハルトを殺されてしまえば、彼
に担がれたラディーネ王女も反逆者として始末されてしまう。其れ
をあの状況から二人を生き残らせる事に成功するとは⋮⋮流石は須
藤さんですねぇ。ゲルハルトはともかく、ラディーネの方はかなり
金を掛けて仕立てた人形ですから﹂
斉藤の賛辞に須藤の顔が綻ぶ。
825
﹁いやいや、私の力ではありませんよ。あの王女⋮⋮今は女王です
か。何にしてもあの女が馬鹿で良かったですよ!いくら信頼してい
る側近とはいえ、たかが騎士一人の命と天秤にかけたほどの馬鹿で
すからねぇ﹂
けんそん
須藤はそう言って謙遜して見せたが、彼の眼には自分の知略への強
い自負が浮かぶ。
日本人特有の奥ゆかしさと言うところか。
尤も、其れは形だけの事。
彼は自負心が強く傲慢な性格である事を、シャルディナ達は十分に
理解している。
彼の人を食った態度はまさにその象徴と言えた。
﹁其れなりに頭は良いのですが、どうにも決断力に欠けますなぁ⋮
⋮一言でいえば馬鹿な善人と言ったところですか﹂
須藤のルピスに対する批評には、一切の容赦がなかった。
彼は心の底から、ルピスを軽蔑しているのだ。
﹁あぁ、さっきの報告にも有ったわね⋮⋮全く何を考えているのだ
か⋮⋮まぁ敵が愚かなのは良い事ね。尤も余りに愚かだと、相手を
するのも飽きてきてしまうけれどもね﹂
シャルディナはそういうと肩を竦め、唇を歪めて笑った。
彼女の言葉に頷く須藤に対して、斉藤はやや顔をしかめながら言い
返す。
﹁しかし殿下。余り歯ごたえのある敵と言うのも困り物ですよ?﹂
826
﹁あいつの事⋮⋮ね⋮⋮全く!邪魔ばかりする男ね。本当に嫌にな
る!﹂
斉藤の言葉にシャルディナは吐き捨てるように言い放った。
彼の言葉を聞いて彼女の機嫌は瞬時に悪くなる。
彼女の脳裏にあの老け顔の体格の良い青年の顔が浮かび、苛立たし
げに首を振った。
其れも当然だろう。
彼女にとって、最も聞きたくない男の話題なのだから。
﹁まぁ須藤さんの話を聞く限りでは、あの男はあくまで巻き込まれ
ただけの事⋮⋮帝国の意図を読んだ上での参加ではないようですが
⋮⋮﹂
﹁だから尚更腹立たしいのでしょ! 全く!何処に逃げたのかと思
ったらローゼリアの内乱に参加しているなんて! しかも偶然に?
!あいつの所為で危うく策が崩壊しかけたのよ!? どれだけ疫病
神なのよ!あいつは!﹂
斉藤の指摘にシャルディナは語気を強めた。
﹁まぁ因縁? と言うやつですかねぇ⋮⋮何しろガイエス様を殺し
た男が、ガイエス様の立案した策を邪魔したわけですから⋮⋮クッ
クックッ﹂
﹁因縁ねぇ⋮⋮﹂
須藤の含み笑いを見ながら、シャルディナはため息をついた。
827
今回のローゼリア王国内乱は、亡きガイエスが東部地方侵攻に際し
てたてたオルトメア帝国の策略である。
西方大陸中央部に覇を唱えるオルトメア帝国は今、北部のエルネス
グーラ王国、西部のキルタンティア皇国、両国からの圧力に耐えな
がら東部侵攻を企てていた。
両国とオルトメア帝国の国力軍備力はほぼ互角。
三つ巴の戦が此処20年余りわたり続けられて来たのだ。
2つの国が争えば残りの1国が漁夫の利を得る。
其れを誰もが理解している為、三国の戦は終わらない。
国境地帯でにらみ合いを続け、互いの隙を窺いあう。
だが大戦にはならない。
残った3つ目の国が介入してくることが眼に見えているから。
宮廷法術師でありオルトメア帝国の軍師であったガイエスは、この
状況を打破する為に一つの策を皇帝に提示した。
北のエルネスグーラにしろ、西のキルタンティアにしろ、今の帝国
の力で討ち滅ぼすことは難しい。
だからと言って1方と同盟を結び残った国を攻めるのも現実的には
不可能と言える。
3国間は積年の恨みと利害関係が複雑に絡み合い、とても同盟を結
ぶ余地など無かったのだ。
其処で彼は、西方大陸東部と南部へ眼を向けた。
東部南部のどちらかを侵略し、二カ国との国力に差をつけようとし
たのだ。
そして彼は東部に眼を向けた。
南部は15の小国に分割された激戦区である。
必然的に小競り合いが多く、兵の実践経験も多い。
言うなれば強兵の国なのだ。
其れに対し東部は、ザルーダ・ローゼリア・ミストの3王国による
統治が長く戦の経験もさほど多くない上に、身分制度が厳格であり、
828
貴族の統治が長いこの地方は平民が搾取される傾向が強く、多少税
率を下げるなどのアメを民に与えることで占領後の支配統治が容易
だと判断された。
このガイエスの立案した策は、皇帝の命によって即座に実行された。
そこでまず行われたのが、ザルーダ王国の隣国、ローゼリア王国に
対しての謀略である。
ザルーダ王国へ直接謀略を仕掛けなかったのは、ガイエスがキレ者
と言われる処だろう。
東部3国のそれぞれの国力はオルトメア帝国と比べるまでもなく低
い。
だが、東部3国が連合すれば、オルトメア帝国といえども簡単に勝
利は掴めないのだ。
其処で東部を分断する為の謀略として引き起こされたのが、ローゼ
リア王国の内乱である。
﹁ガイエスの命を受け、須藤がラディーネを見出したのが2年前。
その後、前ローゼリア王ファルスト2世を毒に因って徐々に弱らせ
病に見せかけて殺し、準備が整ったというところであの男が現れた
⋮⋮其の所為でガイエスは殺され、今回も危うく全てをぶち壊され
るところだった⋮⋮確かに因縁ねぇ⋮⋮﹂
全ての計画はガイエスがあの男、御子柴亮真を呼びだしたことに因
って狂ったと言える。
﹁確かに⋮⋮﹂
シャルディナの言葉に斉藤も深く頷く。
﹁それで?あいつは方どうなったの?﹂
829
﹁御子柴亮真ですな⋮⋮いやいや⋮⋮中々に曲者ですなぁ⋮⋮結論
から言うと狙い通りの展開には成ったのですが⋮⋮﹂
須藤は此処で言葉を切った。
彼の表情から、判断に迷っている事が見て取れた。
﹁どういうこと?ウォルテニア半島を押しつけることにしたんでし
ょ?﹂
﹁えぇ⋮⋮其れはそのようになったのですが、あの男⋮⋮土壇場に
なって条件を付けてきたんですよ﹂
﹁えぇ?どういうこと?男爵位とウォルテニア半島⋮⋮このほかに
条件を付けたってこと?﹂
驚きの表情を浮かべるシャルディナに須藤は真顔で頷いた。
﹁これがまたあの男らしい⋮⋮実に相手の急所を抉る弁舌でしてね
ぇ⋮⋮結局ルピス女王は其れを飲まされたというわけでして⋮⋮﹂
須藤はそう前置きをすると、あの日謁見の間で起こった事を語り始
めた。
其の日、亮真はルピスが謁見の間に入ると聞くとすぐに面会を申し
込んだ。
﹁やけに早いわね⋮⋮御子柴。答えは出たということかしら?﹂
830
ルピスは、表情を強張らせたまま亮真へ問いかける。
﹁はい陛下⋮⋮今回のお話。私としても大変嬉しく思っております
⋮⋮出来る事ならば私としても有りがたく頂戴したいところなので
すが⋮⋮﹂
此処で亮真はいったん言葉を切ってルピスへと視線を向けた。
彼の眼には、前日の激情など微塵も残ってはいない。
純粋にルピスへの敬意の念が浮かんでいる。
﹁其れは断りたいという事なの? 御子柴⋮⋮?﹂
ルピスの声が低く冷たくなる。
王が平民を貴族にしてやると言っているのだ。
這いつくばって感謝するべきなのに目の前の男は断ると言うのか?
言葉にはしなくとも、彼女の雰囲気が彼女の心を亮真に告げてくる。
︵ふん⋮⋮馬鹿が︶
亮真は心に湧き上がるルピスへの罵倒を内に秘め、さも申し訳な下
げに言いだす。
﹁そのような恐れ多い事⋮⋮私としても陛下の温情は感激の極みで
ございます⋮⋮ですが⋮⋮﹂
﹁なんなの?﹂
﹁この話をお受けいたす前に、殿下へ一つ確認したいことがござい
ます⋮⋮其れをお聞きするまでは私といたしましても何とも⋮⋮﹂
のらりくらりとした亮真の言葉に、ルピスの中で苛立ちが募ってく
る。
831
﹁陛下⋮⋮此処はこの男が何を言いたいのか聞いてみたらいかがで
しょう⋮⋮このままのらりくらりと逃げられるよりは宜しいかと⋮
⋮﹂
玉座の傍らに立つメルティナがルピスへ耳打ちをした。
﹁良いでしょう⋮⋮御子柴。何を聞きたいというの?﹂
ルピスの許可を受けて、亮真は恭しく頭を下げて感謝の意を示すと
おもむろに切り出す。
﹁陛下⋮⋮まずは確認でございますが⋮⋮ウォルテニア半島の現状
を何処までご存知でしょうか?﹂
﹁どういう意味?﹂
ルピスの表情に疑問の色が浮かんだ。
其れは傍らに居るメルティナも同様である。
﹁勿論、私も詳しく知る訳ではありませんが、このウォルテニア半
島⋮⋮相当に問題があるようですね﹂
﹁あら? ⋮⋮そうなの?﹂
ルピスは亮真の言葉をさも初めて聞いたという風に問い返す。
とぼ
流石に、此処で亮真の問いを正直に答える様な愚かな事はしなかっ
た。
勿論、彼女がそうやって惚けることなど亮真にとっては想定内だが。
832
﹁えぇ⋮⋮私も陛下からお話を頂き急いで調べたので判ったのです
が⋮⋮﹂
此処で亮真は探るような視線をルピスに向ける。
﹁このウォルテニア半島ですが、ローゼリアの最北端に位置した半
島で、大きさはおよそローゼリア王国全土の10分の1⋮⋮領地の
大きさとしては過分と言えます⋮⋮ですが此処には幾つか問題があ
りまして⋮⋮﹂
そう言って亮真が語った半島の問題点は以下の通りになる。
1:ローゼリア王国の罪人を追放する流刑地をして使用されてきた
モンスター
ため、税を納める民がウォルテニア半島においては0である点。
2:強力な怪物達が多数生息しており、普通の平民では生活するこ
とが困難である点。
3:人間に対して敵対的な亜人種の集落が存在する事。
4:沿岸部を根城にしている海賊達の問題。
5:隣国ザルーダ王国との国境が近く、紛争が絶えない地域である
事。
特に1と2は非常に大きな問題である。
貴族の税収に直結する話なのだ。
つまりルピスは税収の無い土地を与えようとしていた事になる。
貴族の収入は領地の民が治める税に因る事を考えれば、今回の話が
どれだけ悪意に満ちた物か理解出来るだろう。
そもそも、この地はローゼリア王国の領土内では無い。
国の書類上はローゼリア王国の領土となってはいるが、この国が半
島を支配しているという事実は無い。
何しろ国民が0なのだから。
833
一晩徹夜してこの事実を書庫の書類から知った時の亮真の顔。
それはまさに鬼の顔であった。
其れはルピスの悪意を示す明確な証拠と言えた。
だが、亮真はそれをルピスの前では見せない。
怒りも憎しみも相手より強くなったときに初めて見せるべきものな
のだ。
﹁成程! 流石は御子柴殿⋮⋮短い間に良くそこまで半島の情勢を
掴まれた!それで⋮⋮御子柴殿は其れを理由にこの話をお断りされ
たいというのかな?陛下の期待を裏切って!﹂
亮真の指摘を受けて黙り込んだルピスを援護しようとメルティナが
声を張り上げる。
﹁御子柴殿! 貴殿はホドラム、ゲルハルト両名の討伐に際し輝か
しい功績を示された! だからこそ殿下は慣習を破ってまで貴殿を
貴族としようとなされているのだ! ⋮⋮確かにウォルテニア半島
は豊かとはいえぬ!だが半島とてローゼリアの領土!其れも公国に
匹敵するほどに広大な土地だ。其れをこのまま放っておくには余り
にも惜しい! そうは思われぬか?﹂
﹁成程⋮⋮陛下はウォルテニア半島を民の住める土地に開発したい
と?﹂
﹁その通り!確かに困難な土地ではあるが、貴殿程の人間ならば殿
下のご期待にも沿うことができよう! ⋮⋮いかがか?﹂
﹁メルティナ殿のお言葉を陛下のご意思と理解して宜しいでしょう
か?﹂
834
メルティナにしては上手い言い回しをしてきたと言えよう。
困難な領地を与えるのは、貴方が優秀だからだ。
そう言って持ち上げたのだ。
だが、亮真はそんな言葉に惑わされるはずもない。
亮真はメルティナから視線を外すと、玉座に座って顔をこわばらせ
るルピスへと問いかける。
彼の問いにルピスは無言で頷くしかなかった。
本人を目の前に、貴様を封じ込める為に未開の土地を与えるとは口
が裂けても言えるはずがない。
尤も、メルティナの切り返しも亮真にとっては想定内の話だったが。
﹁いや、そうでしたか!⋮⋮それならば私としても陛下にお願いが
しやすい!﹂
﹁どういう事です? ⋮⋮貴方の願いと言うのは、私の意思を確認
したいと言う事ではないのですか?﹂
亮真の言葉を聞いて、ルピスの顔色が変わる。
彼女は、自分の考えを聞くこと自体が亮真の願いと解釈したのだ。
無論そんなつまらない事を亮真が望むはずもない。
全ては布石。
ルピスとメルティナの二人を追い詰める為の⋮⋮
ためら
﹁いいえ陛下! 願いと言うのは簡単な事です⋮⋮ただ陛下のご意
思を確認しなければ私としても口に出すのを躊躇われる事ですので
⋮⋮ですが陛下が半島を開発したいという、確固たるご意思をお持
ちならば⋮⋮﹂
835
亮真の言葉に二人は嫌な予感を感じた。
﹁なん⋮⋮です?﹂
﹁いえ⋮⋮半島を開発する為に資金をお借りしたいのです⋮⋮ただ
額が額ですので陛下のご意思を聞いてからでないと中々⋮⋮いやぁ。
陛下が私に其処まで期待をしてくださっていたとは光栄の極み。私
も陛下のご期待に応えるよう粉骨砕身させていただきます!﹂
そういうと亮真は深々とルピスへ頭を下げる。
﹁待て!資金提供だと?何を言っている!ウォルテニア半島は貴殿
の領地!その為の資金など王室が出すはずが無いだろう!﹂
メルティナが怒声を張り上げた。
尤も亮真の表情は変わらない。
﹁はぁ? これは異なことを! 陛下はウォルテニア半島の情勢を
ご存じであり、私に半島の開発と繁栄をお求めになられた訳です﹂
﹁その通りだ!だからこそ貴殿は己の才覚で半島の開発を行わなけ
ればならない!﹂
﹁ですがご存じのとおり私はただの平民。財産とてございません。
其れはメルティナ殿も陛下もご存じのはずでは?﹂
﹁其れはそうだが⋮⋮﹂
﹁私自身に金が無い以上、私は陛下のご期待に答える為に誰かから
資金を借りなければなりません⋮⋮ですが、まずどの商人も半島の
836
開発などに資金は貸さないでしょう﹂
モンスター
商人はリスクを嫌う。
怪物や亜人種がすむ半島の開発など、リスクばかりで肝心のメリッ
トが見えない。
そんな危ない話に商人達が、投資などするはずもなかった。
﹁其れは貴殿の才覚で⋮⋮﹂
メルティナは必死で食い下がる。
此処で言い負かされては、全てが水の泡となる。
御子柴亮真を封じ込める事も出来ず、ルピスのメンツだけが潰され
る事になる。
それだけ絶対に避けなければならなかった。
﹁無論!私は其れなりに才がございます。ですが私としても神では
ございません!なんの元手も無くかの地を開発など出来るはずもご
ざいますまい!⋮⋮無論その点に関しては、聡明なる陛下におかれ
ましてもご理解いただけるかと思いますが?﹂
亮真の矛先がルピスへと向けられた。
彼女の表情が青ざめる。
元々彼女自身も無茶を承知の上で押し付けようとした話。
其れを此処まで見透かされてしまえば、彼女としても打つ手は無い。
結局彼女は、亮真の望むとおりの言葉を口にした。
﹁いくら必要なの?﹂
﹁陛下!﹂
837
メルティナの叫びをルピスは黙殺した。
この場には、彼女達だけではない。
傍観派の貴族も居れば、警護の騎士達も居る。
彼らの前で、これ以上無様な様子を見せるわけにはいかなかった。
あくまでも平民を重用する、英明な君主であると思わせなければな
らないのだ。
﹁流石陛下!ご聡明でいらっしゃいます⋮⋮そうですねぇ概算では
ございますが、およそ1000億バーツ程は必要かと!﹂
ブッ
須藤の説明に、斉藤は覆わず吹き出してしまった。
とが
冷静で礼儀正しい彼にしては、珍しい行為だ。
尤もシャルディナも彼の不作法を咎める気持ちは無かった。
彼女自身も大きな驚きを受けたのだから。
大体、町の安宿なら一泊で100バーツ。
昼と夜の食事を町の食堂でとれば大体100バーツ。
人一人が一日暮らすには200バーツ程度が必要と言うことになる。
となれば、彼の提示した金額の大きさも理解できるかもしれない。
﹁なんて無茶な額を⋮⋮それではローゼリア王国に入る収入のほと
んどを貸し付けなければならないことになる!﹂
斉藤の言葉にシャルディナも呆れ顔をした。
﹁帝国でもそれだけの額を一度に出すのは無理ね⋮⋮﹂
838
出せないわけではない。
だが、これだけの額をいきなり言われて出せる国は西方大陸の何処
を探しても無いだろう。
国の収入は事前に使い道が固定されている。
役人の給料や、軍への設備投資など、重要でおろそかには出来ない
物がほとんどである。
もし帝国でこの額を出すとなれば、何年も時間を掛けて予算をやり
ねんしゅつ
くりする必要がある。
帝国ですら捻出には時間が掛る額なのだ。
帝国よりも国土の小さいローゼリア王国に出せるはずがない。
シャルディナの言葉に須藤は無言で頷いた。
﹁おっしゃる通り⋮⋮ですが、あの半島を開発するとなればそれく
らいの資金を投下しなければどうにもならない事も事実でしょう﹂
森を切り開き、道を通す。
海賊や、亜人の襲撃に備える為に常備兵力を雇う。
住民を移住させるのにも金が掛る。
本当に半島を開発するのならば、それくらいの金が掛って当然と言
えるのだ。
﹁其れはそうかもしれないけど⋮⋮そんな額⋮⋮あ!そう⋮⋮そう
いう事!﹂
﹁流石は殿下⋮⋮気づかれましたか﹂
シャルディナの言葉に須藤は眼を細めて微笑む。
﹁あいつは最初からその額を貰おうなんて思ってなかったのね? 839
⋮⋮まずは資金提供を断らせた上で何か別の条件を提示した!そう
でしょう?﹂
須藤は内ポケットより、一枚の紙を取り出してシャルディナへと差
しだした。
﹁これは?﹂
﹁御子柴亮真がルピス女王へ提示した条件の一覧です⋮⋮私も確認
しましたがかなり厄介な内容ですね⋮⋮完全にローゼリア王国から
独立するつもりの様です﹂
この紙に書かれている条項は細かく書かれており、項目はかなりの
数に上る。
シャルディナはザッと上から下まで各条件へ眼を通した。
彼女の表情が曇る。
亮真は、大まかに言って2つの事を求めていた。
法、軍事、外交、経済の全てを御子柴亮真へ一任する事。
そして、貴族が王国へ払うべき税金の免除。
つまり男爵と言う地位で有りながら、亮真は公国としての権利を主
張したことになる。
﹁これを⋮⋮本当に認めたの?ルピス女王は⋮⋮﹂
呆れ顔のシャルディナの問いに須藤は無言で頷く。
﹁馬鹿だとは聞いていたけれど⋮⋮やってくれるわね。毒蛇に自由
を与えたようなものだわ⋮⋮﹂
840
﹁最初に提示された資金の額に眼を眩まされて、まともに考えない
で許可を与えたようですなぁ﹂
﹁だからと言って⋮⋮こんな事⋮⋮﹂
危険な男に態々自由を与えてやったようなものだ。
しかも土地付きで。
﹁まぁ救いなのはいくら権利が有ろうと、あの半島は税収が全くな
い未開の地だということです。流石にあの男でも無から有は作り出
せますまい⋮⋮﹂
﹁斉藤⋮⋮貴方本当にそう思うの?﹂
シャルディナの問いに斉藤は口を濁した。
モンスター
税収の無い土地。
徘徊する怪物。
ローゼリア王国の援助も無い。
そんな状況で何ができると言うのか?
だが、斉藤は其れを口にすることは出来なかった。
自分自身も、御子柴亮真と言う男の持つ何かを恐れているのだから。
シャルディナは斉藤から視線をそらした。
この場に居る誰もが、同じ不安を感じていたのだ。
﹁須藤⋮⋮貴方の策⋮⋮裏目に出るなんてことはないでしょうね?﹂
須藤は無言で答えた。
ルピスの不安につけ込み、亮真を貴族にするよう提案したのは須藤
自身。
841
其れは、御子柴亮真の居所を確実に掴んでおくための布石。
シャルディナもまた、他国に亮真が登用される事を嫌ったのだ。
特に北部と西部に存在する大国に。
だが、其れが裏目に出るかもしれない⋮⋮
そんな不安が3人を縛る。
﹁いいわ⋮⋮須藤⋮⋮でもアイツから眼を離しちゃダメよ?﹂
言葉少なく命じるシャルディナの言葉に須藤は頷く。
﹁では殿下⋮⋮次回の報告はザルーダ侵攻が始まってからというこ
とで宜しいでしょうか?﹂
﹁えぇ⋮⋮予定通り来月には侵攻を始めるわ⋮⋮須藤!手筈は判っ
ているわね?﹂
﹁ご安心ください。今回の内乱で貴族も騎士も動揺が広がっており
ます。いくらでも付け入るすきはございますので⋮⋮ローゼリアが
ザルーダへ援軍を出す事は無いでしょう﹂
﹁そう!ならば良いわ!ローゼリアの抑えは任せたわよ!﹂
シャルディナの言葉に須藤と斉藤、両名が無言で頷く。
此処に今、オルトメア帝国が其の鋭い牙を剥いたのだ。
842
第3章登場人物紹介︵前書き︶
感想に人物紹介が欲しいと投稿がありましたので、急いで造ってみ
ました。
今後、話が進むに連れて追記いたします。
843
第3章登場人物紹介
第1章主要登場人物
みこしばりょうま
名前:御子柴亮真︵男爵︶
性別:男性
年齢:16
出身地:東京都杉並区
本作品の主人公。
190cmに近い長身で体重は100Kgオーバーの巨漢。
アース
コンプレックスは20代半ば∼30歳などと呼ばれる老け顔。
オルトメア帝国の宮廷法術師であったガイエスの手によって大地
世界へと召喚された高校生。
紆余曲折の後にローゼリア王国の内乱に巻き込まれることによっ
て運命が一変する。
ルピス王女の裏切りによってローゼリア王国の北に位置する未開
の地。ウォルテニア半島を領有することになった。
名前:ローラ&サーラ・マルフィスト︵騎士︶
性別:女性
年齢:十代半ば
帝国の追手から逃げていた亮真に、盗賊団に襲撃されていたとこ
ろを助けられ忠誠を誓う事になった双子の姉妹。
自分達を奴隷の身分より開放した亮真に対して深い敬愛と忠誠を
誓う。
844
名前:伊賀崎厳翁
性別:男性
アース
年齢:60代後半
500年前に大地世界へと召喚さえれ忍びの一族の末裔。
亮真を暗殺しに来たのだが、其の器を知り孫娘の咲夜と共に仕え
ることになった。
一族の長老衆の一人であり、大きな権力を持つ。
初代から受け継がれる一族の悲願が達成できる日を、待ち望んで
いる。
名前:伊賀崎咲夜
性別:女性
年齢:10代後半∼20代前半
忍びの一族の末裔。
亮真暗殺の命を受け陣に忍び込んだが失敗。
祖父であり一族の長老である厳翁の命で亮真に仕えることになっ
た。 名前:リオネ︵騎士︶
性別:女性
年齢:30代半ば
出身地:不明
紅髪金目の美女の姉御肌な女性。
亮真と同じくローゼリアの内乱に巻き込まれた元・傭兵団︻紅獅
子︼の頭。
亮真が男爵位を受けた後、彼の騎士として登用される。
長年、荒くれ者の傭兵を指揮してきただけあって、統率力はかな
りの物。
845
名前:ボルツ︵騎士︶
性別:男性
年齢:50代半
出身地:不明
傭兵団︻紅獅子︼の補佐役。
戦で左腕を失った歴戦の勇士。
亮真の事を尊敬し﹁若﹂と呼ぶ。
長年の傭兵生活によって培った経験はかなりの物。
亮真の知恵袋的存在。
名前:ルピス・ローゼリアヌス︵国王︶
性別:女性
年齢:20代前半
出身地:ローゼリア王国
銀髪金目の美女。
ローゼリア王国の新国王。
民に対しても寛大と評判だが、身内に甘く決断力に乏しい。
御子柴亮真の助力によって内乱を治め国王の座に着いたのだが亮
真の立てた戦功に恐れをなし、彼との約束を破って未開の辺境ウォ
ルテニア半島を押し付け封じ込めることを画策する。
名前:トーマス・ザルツベルグ︵伯爵︶
性別:男性
年齢:40前
出身地:ローゼリア王国︵城塞都市イピロス︶
隣国ザルーダへの備えとして存在する、城塞都市イピロスの領主。
846
歴戦の勇士らしいが、内政にも其の手腕を発揮する逸材。
王国の内乱時には隣国からの侵攻を阻止すると言う名目で、貴族、
傍観、王女の三派とも距離を置いていたかなりの曲者。
名前:ユリア・ザルツベルグ
性別:女性
年齢:30前半
出身地:ローゼリア王国
ザルツベルグ伯爵の妻。
表向きは浪費家で派手好きと言われ悪妻と噂されるが、実は夫を
影から操る女傑。
イピロスの経済にも大きな影響を与えているミストール商会の娘。
名前:シモーヌ・クリストフ
性別:女性
年齢:20前半
出身地:ローゼリア王国︵城塞都市イピロス︶
イピロスを拠点にするクリストフ商会の跡取り娘。
商売敵の商人たちより妨害をうけ、今ではすっかり弱小商会にな
ってしまったクリストフ商会を必死で守り続けている。
すどうあきたけ
名前:須藤秋武
性別:男性
年齢:40代前半
出身地:日本
御子柴亮真と同様に、帝国によって地球より召喚された日本人。
飄々とした態度で通すが、かなりの策略家。
847
ローゼリア王国の上層部に食い込み、帝国を有利にするべく暗躍
している。
848
第3章第1話
異世界召喚275日目︻半島へ︼其の1:
﹁今頃どの辺りかしら?﹂
蒼く澄み渡る空。穏やかな風が、王都ピレウスを駆け抜ける。
ついこの間まで、この王国が内乱状態だったなどと誰が思うだろ
う。
エレナの眼の前に広がる景色は、平穏で活気に満ち溢れている。
そんな風景を執務室の窓から眺めながら、エレナはふと呟いた。
﹁御子柴殿⋮⋮ですか? 王都を発たれて既に半月余り。何事もな
ければ今頃は半島の入り口、城砦都市イピロスに差し掛かった頃で
しょうか﹂
傍らに着き従う副官が書類をめくる手を止めて、エレナの呟きに
答えた。
﹁そう⋮⋮ね。そんな処かしら﹂
彼女の視線が、北へと向けられる。
﹁悔やんでおいでですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
副官の問いにエレナは答えなかった。
849
いや、発する言葉が無かった。
﹁致し方ございません⋮⋮ルピス陛下ご自身が命じられた事。国王
の裁決に異議を唱える事は⋮⋮﹂
エレナの心情をくみ取りつつも、副官自身はルピス女王の決定を
支持していた。
彼が格別、特殊な心情なのではない。ローゼリアの多くの騎士や
貴族達も同じ考えである。
︵エレナ様⋮⋮確かに私どもはあの男に借りがございます。ですが
⋮⋮︶
出る杭は打たれる。副官には其れが当然の事の様に思えた。
﹁此処だけの話、ミハイル殿を将軍位に推したいというのが陛下の
お考え。此処でエレナ様が不満を漏らされては! 此処はご自重く
ださい﹂
副官の諫言にエレナは頷くほかは無かった。
ミハイルの失態はローゼリア国中が知っている。だがルピスにと
って、彼は最も信頼出来る人間なのだろう。
騎士、貴族を問わず多くの人間達から諫言されたため、ローゼリ
ア王国の新将軍はエレナとなったのだが、ルピスの本心は誰もが知
っている。もし、エレナの忠誠心に僅かでも疑いの余地が有れば、
ルピスは喜んで彼女を解任しミハイルを将軍へと推すことになる。
エレナはミハイルを決して過小評価しているわけではない。将来、
メルティナとミハイルがローゼリア王国の軍を率いていく人材な事
は間違いないのだ。
しかしエレナは、今の彼に一国の軍事を任せるのは時期尚早だと
考えていた。冷静さ、読みの深さ、軍略や策略の知識。そのどれも
が今の彼には欠けている。
850
功名に焦って偵察の任務を放り出す人間に軍を率いる資格など無
い。
︵そんなことは判っている。今のミハイルに将軍を任せる訳には行
はかり
かない⋮⋮でも、私は彼を裏切ってしまった⋮⋮そして王国を選ん
だ⋮⋮この国の未来と彼を天秤に掛けた⋮⋮︶
甘い事は自覚している。
彼が善意で自分を助けたのではない事も理解している。だが、自
かっとう
分がホドラムを殺す機会を得る事が出来たのは彼のおかげなのだ。
彼女の心に葛藤と後悔が渦巻く。だが、それでも彼女は産まれ育
った王国を捨て切れなかった。
何故なら、今のローゼリア王国は危機に瀕しているのだから。
エレナの眼から見て、ローゼリア王国の新国王であるルピス女王
は未熟であった。
政治に、外交に、経済に。唯一、マシなのは軍事だが、其れも及
第点スレスレでしかない。
一国の王としては、非常に頼りない。
其の原因はハッキリとしている。経験の無さと彼女の人の良さだ。
知識は王族として育てられているだけあって、十分な物を持って
いる。
民を愛する心も持っているので、本来なら統治者としては悪くな
いはずである。それなのに、王としては問題なのだ。
特に王自身が権力を握るという、ルピスが目指す権力構造は彼女
にとってはマイナスでしかない。
決断できない王。利口とはいえない側近達。暗躍をし始めた貴族
派の生き残り。そして、最悪なのが身内に甘いと言われるルピスの
心。
謹慎していたミハイルを2月余りで復職させたのだ。
国の立て直しにはルピスの信頼できる人間が必要な事は判る。
だが、あれほどの失態を犯した人間を短期間で復職させ、平民と
851
はいえ内乱終結にあれ程の功績を立てた人間を、ウォルテニア半島
などと言う辺境に押し込めた彼女を周りがどのような眼で見ている
か。
彼女は其れを理解していない。
内乱が終わり、国力の低下は最小限に留められた。なのに、内憂
は少しも減っていない。
いや、逆に悪くなったとも言える。
王国は表面上、平穏で安定を取り戻したかに見える。だが、彼女
の眼には其れが砂の上に建てられた楼閣にしか思えなかった。
何時崩れ去っても不思議ではない、微妙な小康状態。其れが、ロ
ーゼリア王国の情勢と言えた。
女王を補佐する者がもっと思慮深ければ状況は違ったかもしれな
い。あるいは、女王自身が決断力に富んだ人物であるならば状況も
変わっただろう。
だが現実は違う。
平民と支配階級との間に横たわる身分の壁は厚く、貴族も騎士達
も内乱であれだけの功績を残した青年を疎んじた。もし彼が、ルピ
スの側近となってこの国の舵取りに関わっていたとするならば、今
の危機的な状況もまた変わっていたと言えよう。
エレナは、御子柴亮真がこの国を出ていくこと自体は反対してい
た。
彼女は、彼がローゼリア王国に残る事を願った。
だが、ルピスは彼を恐れ疎んじた。そして、彼は北方の辺境であ
るウォルテニア半島を押し付けられる。
﹁はぁ⋮⋮﹂
エレナは大きくため息をつくと、再び書類へと眼を向け始める。
852
いくら悩んでも、現実は変わらない。彼女は選んだのだ。
ローゼリア王国の将軍として、この国の立て直しに尽力する事を。
だからこそ、彼女はルピスの決定に何も言わなかった。
今此処で、新女王の決定に将軍であるエレナが異議を唱える事は
出来ない。権力基盤の固まっていない現状でそんな事を言えば、国
が割れてしまう。
﹁今は国内の立て直しが先決です。多少不義理であるとしても、こ
の国の未来には変えられません。其れにどのような土地である平民
が貴族に叙せられた。最初の約束とは違っているようですが、其れ
は問題にはなりますまい﹂
﹁多少⋮⋮ね﹂
エレナは副官の言葉に軽い恐怖を感じた。殆どの人間が彼と同じ
考えをしているに違いない。彼女の危惧を理解しているのは、ベル
グストン伯爵以下極少数の人間達だけ。
︵彼に半島を押し付けたのは、毒蛇を野に放つのと同じ事でしょう
に⋮⋮︶
エレナの眼には、彼の押し隠された怒りと憎悪の火がくっきりと
映し出されていた。其れは地面の下を流れるマグマのように、静か
にそして確実に蠢いている。
彼女自身も夫と娘の復讐を誓い日々を過ごしてきただけあって、
亮真がいくら押し隠していたとしても其れを隠し通せるはずもなか
った。
︵権力⋮⋮特に王や特権階級へ憎悪⋮⋮私も身に覚えがある︶
選択肢として本来ならば、ルピスの選んだ手段は褒められたもの
ではないにしろ、其処まで非難されるものではない。
しかし、彼女は手順を間違えた。
事情を話し、亮真の了解を取ればよかったのだ。だが、王族と平
853
民という身分差がモロに出た。
平民は黙って王や貴族の命令に従うべき。ルピス女王の態度が其
れを雄弁に物語っている。
身分をかさに平民の意思を踏みにじる事はこの世界では良くある
ことだった。
彼女自身、平民出身という事もあり、若い頃は随分と悔しい思い
をしたものだ。そして彼女は、其の悔しさをバネに騎士として将軍
位にまで上り詰めた。
しかし其れは、彼女がこの国の国民であったが故の話。
この国に何の愛着も持たない人間は、ただ屈辱と怒りに震えるの
み。
︵何時か⋮⋮彼と戦うことになる⋮⋮のかしら︶
彼女の中に不安が過る。尤も彼女はその危険を声高に叫ぶつもり
はない。
もし彼が復讐に来るならば、彼女はただ無言で剣を交えるのみだ。
彼の怒りは正当であり、当然の権利なのだから。
︵5年⋮⋮か︶
エレナの脳裏に亮真が王都ピレウスを発つ前日、別れの晩餐を共
にした時に言われた言葉が浮かぶ。
この国に残された猶予は少ない。
ゲルハルト公爵は爵位を3つ下げ子爵となり、ローゼリア王国の
南部、国境付近へと領地を変えられている。
イラクリオン周辺を納めていたときから比べれば収入には格段の
差が有る。だが、今まで溜め込んだ私財に関しては一切手が出せな
かった所為で、経済的には何の問題もない。
内乱終結後から1ヶ月余り。
彼の周辺には既に処罰を免れた貴族派の人間がすり寄ってきてい
854
るとも聞く。
ルピス女王が中立派だったベルグストン伯爵らを重用した結果、
弾き出されることになった人間達だ。
彼らは、再びゲルハルトを筆頭に貴族派の再建を行っているらし
い。
当然、彼らが擁するのはラディーネ王女。
ゲルハルトを助命したおかげで、彼女は正式に王族の一員として
認められてしまった。
何の事は無い。ゲルハルトの処刑を躊躇ったせいで、全ては振り
出しに戻った。
いや、内乱の勝者でありながら、ルピスは追い詰められている。
タルージャ王国と密接な関係を持っていたホドラムが死に、両国
間は今微妙な緊張状態にある。
ザルーダ、ミスト両王国とも、戦にはならずとも外交的には疎遠。
両国共に何か切っ掛けさえあれば戦端が何時開かれても不思議では
ない。
決して、ローゼリア王国は安全とは言えないのだ。
外の敵へ備えつつ、ローゼリア国内の主権をルピス女王へ集める
為に残された猶予は5年。
但し、其れはあくまで最大に見積もっての話。それより短くなる
事も十分に考えられた。
﹁5年以内に全ての準備が出来なければルピスは死ぬことになる⋮
⋮まぁ判っているとは思うけど念の為に⋮⋮エレナさんには無理を
言って巻き込んだからね﹂
そう言って笑った亮真の笑顔。
其れを見た時に、エレナは亮真の心が完全にルピスから離れてい
る事を理解した。
855
彼の言葉は純粋にエレナに対しての心配なのだ。見込みが無い王
へ従って自滅する事は無いという忠告。
﹁5年⋮⋮か﹂
﹁は? 何かおっしゃいましたか?﹂
思わず漏れたエレナの言葉に副官が怪訝そうな顔で問い返す。
﹁いいえ、何でもないわ⋮⋮次の書類を⋮⋮﹂
彼女の言葉に従い副官が新たな書類を彼女の前に差し出した。
素早く眼を通し、判を押す。
彼の予言の日まで、残された時間は少ない。
︵亮真君⋮⋮生きて⋮⋮そしてもう一度⋮⋮︶
孫程に歳の離れた老け顔の青年の安否をエレナは心から祈る。
何時か再び出会う日を願って。
さんぜん
天空には燦然と輝く太陽が、街道を行き交う人々を照りつける。
ローゼリア国内は内乱の爪あとの所為で、一時的に流通が阻害さ
れてきたのだが、内乱が終結して2ヶ月あまり。ようやく、内乱前
の穏やかな生活が、国民の手に戻りつつあった。
そんな中、特徴的な紋章を掲げた一団が街道を進む。
黒く染め抜かれた生地。剣に絡みついた金の双頭蛇をあしらった
旗。蛇の赤い眼が周囲を睨み付ける。
御子柴亮真が男爵位を拝領したのに際して、王都ピレウスで作ら
せた御子柴家の紋章である。
剣は武力を、蛇は狡猾さと知恵を象徴したこの紋章は、まさに御
856
子柴亮真と言う人間を明確に表したものと言えた。
﹁坊や! そろそろ城砦都市イピロスに着く!﹂
なび
燃えるような深紅の髪を靡かせ、リオネは後方に怒鳴った。
﹁えぇ。やっとですか⋮⋮流石に尻が痛くなってきましたよ﹂
﹁まぁ亮真様⋮⋮さぞ痛いでしょう? もう少し我慢してください。
宿に着かれたら薬を塗って差し上げますわ﹂
﹁もし宜しければ馬車に乗り変えられては? 馬車の中でならば、
薬を塗って差し上げられますし﹂
ちょう
ローラの言葉に、すかさずサーラが割り込む。どうやら姉妹間で
は主人である亮真の寵を争って戦の真っ最中のようだ。
﹁あ⋮⋮あぁ、良いよ。馬にも慣れないとな⋮⋮﹂
亮真は尻の痛みに耐えながら答える。
今まで彼に馬に乗った経験など有るはずもない。
自動車のシートは言うに及ばず、自転車のサドルであっても馬の
鞍よりかは遥かに柔らかく座り心地が良い。
そんな現代人である彼が、長時間馬に乗れば擦れるのも当然と言
える。
ホドラム追跡に際して、乗馬の技術は姉妹に教わりはしたが、所
詮付け焼刃。
半月に及ぶ行軍で其のメッキも剥がれて来たのだろう。
﹁まぁ、もう少しの辛抱だよ! この坂を上ってしまえばイピロス
857
の城壁が見えてくるはずさ!﹂
リオネを先頭にしたこの一団は総数30名。
リオネ・ボルツを筆頭に傭兵団︻紅獅子︼の傭兵達23名に加え
て厳翁に咲夜・マルフィスト姉妹と亮真である。
傭兵稼業をする分には大人数と言えるが、領土を納めるには余り
にも手が足りないと言えた。
︵事務処理ができる人間が必要か⋮⋮︶
亮真の視線に入ってくるのは、見事に軍事方面に偏ったメンツば
かりである。
チョットした書類整理程度ならともかく、国と言う単位を運営す
るには余りにも貧弱と言えた。
︵まぁ其れは少しずつやっていくしかないか⋮⋮いきなり俺の求め
る国が出来る訳は無いからな︶
亮真はため息交じりに呟くと、視線を前に向ける。
︵俺は生き残るぞ! そして⋮⋮ルピス! 必ずこの落とし前は付
けてやる⋮⋮利息も付けてな︶
新たな決意を胸に秘めて。
この日、城砦都市イピロスを訪れた一団が大陸の情勢に関わってい
くなど誰が予想出来るだろうか?
アース
西方大陸暦2812年8月5日。
大地世界の歴史に新たなページが刻まれる。
858
第3章第2話
西方大陸暦2812年8月5日︻半島へ︼其の2:
城砦都市イピロス。
ローゼリア王国の北西に位置する、国境の要所である。
周囲は10数Mにも及ぶ高い石の城壁と深い水堀が外敵の侵入を
阻む。
入り口は3箇所。東西と北側に存在し、南には領主でザルツベル
グ伯爵の居城が聳える。
この都市が鉄壁ともいえる防御施設であることは、ローゼリアや
ザルーダ王国の国民ならば誰もが知っている事実である。実際幾度
と無く西の隣国ザルーダ王国からの侵攻を阻止してきたと言う実績
が彼らの認識を裏づけている。しかし、この都市に住む住民は誰も
が理解していた。自分達が住むこの地が、地獄の釜の抑え蓋なのだ
と⋮⋮
ここは、イピロスの大通りに面した宿屋の一室。
先ほど、正規の手続きを得て彼らは遂にウォルテニア半島の玄関
口と言える、城砦都市イピロスへとたどり着いたのだ。
部屋で休息していた亮真の下にボルツ以下、主だったメンバーが
集合したのはつい先ほどの事。
今は、今後の方針に関しての会議中である。
﹁国境の町ですから防衛に力を尽くすのは当然なんでやすが、どう
やらザールダに対する備えってだけじゃないようなんで﹂
ボルツは肩を竦めて言った。
859
流石に長年傭兵稼業に就いてきただけの事は有る。
他のメンバーが宿で一息入れている間に、この町のギルドで色々
と情報を仕入れて来たらしい。
モンスター
﹁怪物達がローゼリア側へ侵入してこないようにする為の防波堤か
?﹂
亮真の答えにボルツは頷いた。
﹁思った以上に厳しい土地のようですぜ⋮⋮﹂
誰もがボルツの言葉を聞き頷く。すでに王都に居た段階から、困
難な土地である事は判っていたのだから。だが、
﹁この町で準備を整えるのが最優先⋮⋮だな?﹂
今の彼らに必要なのは、城砦都市イピロスとウォルテニア半島に
関しての詳細な情報である。今のまま、半島に入ってもただ死にに
行く事になるだけ。地理的な情報に、必要な装備、全ての面におい
て亮真達は不足しているのだ。
それに、半島内には海賊の拠点と亜人の済む村しか無いらしい。
となれば、食料や水をどうするかが問題となる。
まさか、海賊や亜人達から水や食料は買えないだろう。そうなる
と、島内に町を作り自給自足が可能になるまでの間は、この町から
食料を仕入れなければならない事になる。町にある複数の商会から
取引相手を慎重に選ばなければならないのだ。
この辺の状況判断は既に出尽くしている。
誰もが自らが生き残るために最善を尽くそうとしていた。
860
﹁商会の方は私達姉妹で回ります⋮⋮﹂
﹁あぁ頼む﹂
ローラが素早く、自らの役割を申し出て来た。
今の状況で何が必要なのかを明確に理解している証拠である。
サーラの方も、其の事は十分に理解しているのだろう、姉の言葉
に黙って頷く。
モンスター
﹁じゃあボルツはギルドの方を頼む。出来るだけ詳細な半島の情報
が欲しい。特に川や湖の位置。それと生息している怪物に関しても
あっしにおまかせくだせい﹂
判るだけ全部だ!﹂
﹁判りやした若!
ボルツが右腕で自分の胸を叩く。
亮真は頷き、今度は厳翁の方へと視線を向けた
情報を集めると言う仕事に彼と咲夜以外で適任な人間はいない。
亮真の視線に気づき、厳翁の眼が鋭く光る。
﹁厳翁はこの町の有力者に関して調べてくれ。家族構成や性格⋮⋮
弱みも強みも全部だ!今後しばらくはこの町を拠点にする事になる
⋮⋮﹂
﹁成程⋮⋮確かにこの町の有力者を味方にするのが一番確実ですな﹂
厳翁の答えに亮真は満足げな表情を浮かべて頷いた。
﹁ただし、目立つ事はするなよ? 今は下手な事をして敵対される
のが一番困るからな﹂
861
﹁お任せ下され⋮⋮なぁに明日までには主殿のご期待に答えられる
でしょう﹂
厳翁が恭しく頭を下げた。
﹁坊や⋮⋮ならアタイは傭兵の方を受け持とうかねぇ?﹂
咲夜は厳翁と共に町の有力者達の身辺を探るとして、まだ仕事が
割り振られていないのは亮真とリオネの二人だけ。
尤も、リオネも自分の役割は十分に理解している。
﹁えぇ。ただリオネさんがこれはと思った、腕利きの人間を選抜し
てください⋮⋮本当なら数を増やしたいところですが、収入がほと
んど見込めない現状で数をそろえるのは無理ですしね⋮⋮﹂
﹁騎士って事で良いのかい?﹂
﹁いえ⋮⋮将来的には直属の騎士になってもらいますが、現状では
傭兵としての雇用ですね﹂
騎士として雇いたい気持ちは有るが、見通しのきかない状況で雇
用するのは余りに危険である。何しろ、彼らの払う給料を確保でき
るかどうかすら怪しいのだから。
﹁そうだねぇ⋮⋮領地開発が軌道に乗るまで騎士の雇用は見合わせ
て置いた方がいいかもねぇ﹂
リオネも傭兵団を率いて来た経験上、軍が金食い虫である事を十
分に理解している。
862
﹁まぁそっちは任せて置きな! ただ何人くらいを考えてるんだい
? 腕利きとなれば金がかなり掛る事になるよ?﹂
腕の良い傭兵の給料は当然高い。どれくらいの予算を出せるのか
がわからなければリオネとしても話の進めようがないのだ。
彼女の問いを受けてに亮真はローラへと視線を向けた。既に彼は
自分の金の出し入れをマルフィスト姉妹達に任せてしまっている。
﹁資金としてはおよそ3500万バーツほどあります。これが純粋
に亮真様の個人資産と言うことになります﹂
アンタ随分と金持ちなんだね!﹂
ローラの言葉を受けてリオネが目を丸くした。
﹁へぇ!
其れも当然だろう。
中級貴族並みの資産なのだから。
姉妹を助ける際に奴隷商人から奪った金貨や宝石の代金が其のま
ま残っているのだ。
﹁ただし、俺達は村を起こすところから始める事になる。それも全
く人の手が入っていない未開の地でだ﹂
﹁余裕が必要になるって訳だね?﹂
リオネの問いに亮真が頷く。
この金が彼らの生命線になる。いくら節約したとしてもしすぎる
ことはないのだ。
863
﹁ならば500万バーツ程かねぇ? それで1年は維持できるだけ
の人数⋮⋮大体200名前後ってところか。それくらいなら食料や
水を買い込む事を考えても余裕が有るだろう?﹂
リオネの言葉にローラが頷く。
﹁えぇ、それくらい余裕が有ればなんとかなるでしょう﹂
﹁あいよ! 任せて置きな﹂
亮真の言葉を受けてリオネは力を込めて頷いた。長年傭兵団を率
いて来た彼女にとって、傭兵の実力を見抜くのは朝飯前の事だ。彼
女にぴったりの役割と言える。
これで仕事が決まっていない人間は亮真一人になった。
﹁それで、亮真様はどうされるのか?﹂
﹁俺か⋮⋮俺はザルツベルグ伯爵に面会してみようと思う﹂
サーラの問いに亮真は、ずっと考え続けていた事を告げた。
﹁イピロスの領主じゃないか? 何だってまたそんな奴に? ⋮⋮
下手に会って厄介事に巻き込まれたりはしないのかい? それこそ
平民上がりと侮って嫌がらせをしてきかねないよ?﹂
リオネの言葉に、誰もが頷く。
彼女の危惧は尤もと言えた。
なにしろこの国の王であるルピスの裏切りによって彼らはこんな
864
目に会っているのだ。王家や貴族に対して不信感を持って当然と言
えた。
だが逆に厳翁は亮真の意見に賛成のようだ。
﹁成程⋮⋮悪くないお考えですな﹂
﹁どういうことだい? 厳翁﹂
リオネは厳翁が賛成した理由が掴めなかったらしい。
彼女は視線を厳翁へと向ける。
彼女の優れている処はこう言うところだろう。相手の意見に耳を
傾け、理解しようとする姿勢。これは、ローゼリアの貴族達に大き
く欠けている資質と言える。
﹁確かにこの国の貴族はろくな人間がおりません⋮⋮リオネ殿が危
惧された様に余計な事を画策しないとも限りませんしな⋮⋮ですが
イピロスがウォルテニア半島と隣り合っているという現実を考えれ
ば、ここでかの伯爵と面会をしておく事は悪くありますまい⋮⋮そ
れこそ主殿が挨拶に行かない事を根に持って、嫌がらせでもされた
ら困りますからな﹂
厳翁の言葉を聞いたリオネの脳裏には、嫌がらせをされる自分達
の姿が鮮明に浮かび上がった。
何しろ自分達が半島で生活するためには、どうしてもこの都市か
ら物資を補給しなければならないのだ。伯爵の機嫌を損ねて、商会
に変な圧力を掛けられたりすればそれだけで亮真達は干上がってし
まうことになる。
﹁⋮⋮確かに⋮⋮それはありえやすね﹂
865
﹁だねぇ⋮⋮貴族ってのはプライドだけは高いからね﹂
誰もが厳翁の言葉に納得させられる。
﹁まぁ、一度会ってどういう人間か見てみるのが一番だろう? 敵
になるにしろ味方にするにしろ⋮⋮な﹂
亮真の言葉に全員が頷く。
貴族や王族が信用に値しない事は身を持って体験した。だが全て
の貴族を信用しない訳にもいかない。
結局は自分の眼で見て確かめるしかないということだ。信に値す
るかどうかを⋮⋮
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁主殿⋮⋮何かワシにお話でも?﹂
話し合いが終わって部屋を出て行ったはずの厳翁が一人、再び部
屋へと戻ってきた。
亮真の視線を感じてのことである。
﹁あぁ⋮⋮ちょっと聞いておきたいことがあってな﹂
亮真は音も無く部屋の扉を開けた厳翁に対して驚きの顔一つ浮か
べない。
︵ふむ、ワシの気配を感じたのか?⋮⋮ワシの腕も鈍ったかのぅ⋮
⋮イヤ、この男の実力か︶
若い時分には幾多の修羅場を潜り抜けてきた厳翁である。長老衆
の一員となり現場仕事からは離れたが、その腕前はいまだ一族屈指。
866
︵やはり⋮⋮この男こそ初代様達が求めた⋮⋮︶
厳翁﹂
厳翁の視線が亮真を貫く。
﹁どうかしたか?
亮真は厳翁の視線に篭る熱い思いを敏感に感じ取ったのだろう。
部屋の入り口から黙ったまま立ち尽くす厳翁へ訝しげな表情を向け
た。
﹁いえ、失礼いたしました⋮⋮して?何か御用でしょうか?﹂
厳翁は恭しく頭を下げると、亮真の対面に腰を下ろした。
﹁なぁに⋮⋮厳翁にちょっと頼みごとがね⋮⋮ただそれを頼む前に
聞いておきたいことがあって、こうして席を改めたんだわ﹂
﹁判りました⋮⋮なんでもおっしゃってください﹂
こうして、一度解散した後に呼び出したのだ。ボルツやリオネに
は聞かせたくない話と言う事なのだろう。
︵恐らく⋮⋮ワシと咲夜に関してのか⋮⋮信用はしても信頼は仕切
れない⋮⋮そんなところか︶
厳翁は、亮真の心を素早く察した。何しろ最初の出会いは彼を暗
殺しに行った時だ。
自分を暗殺に来た暗殺者を殺すことなく使っている。それは御子
柴亮真と言う人間の度量の大きさを示していた。だが、同時に彼は
厳翁や咲夜に対して何処か一歩引いたところから見ている。
彼は厳翁や咲夜を信頼しきれていないのだ。
︵いや⋮⋮それも当然の事⋮⋮何しろワシもこの方に全てを打ち明
867
けてはおらんからな⋮⋮︶
厳翁は心の中で呟いた。
お互いがお互いを信頼しきれない関係。だからと言って疑ってい
るという訳でもない。現状は様子見しているというのが正確な表現
だろう。
それが今、亮真からのアプローチに因って大きく変わるかもしれ
ない。
︵ここで全てを話すか?⋮⋮いや⋮⋮まだ早い⋮⋮今いきなり一族
の未来をこの方に託す事は出来ん︶
一族の未来が掛る選択。
厳翁が慎重になるのも当然と言えた。
﹁なに、聞きたいのは一つだけさ厳翁⋮⋮なぜ俺に付いてきた?﹂
厳翁の心の内を読んだのだろうか。亮真が鋭く切り込んできた。
その問いは厳翁が心に秘めて来た物。
彼は、亮真の問いに沈黙で返した。
﹁今はまだ言えない⋮⋮か?﹂
亮真の視線を正面から受け止める厳翁。
︵嘘は付きたくない⋮⋮︶
この思いが、厳翁の口を重くする。
嘘ならいくらでも言える。だが、それでは真の信頼など得られる
はずもない。
彼が選択出来るのは、否定も肯定もしない沈黙のみ。
長い沈黙の後、亮真は諦めたかのように肩を竦めた。
868
﹁良いだろう⋮⋮何か言えない理由が有るってことだろうからな。
無理には聞かないよ﹂
亮真の言葉を聞き、厳翁の顔に驚きが広がる。
﹁宜しいので?﹂
﹁良くはないさ⋮⋮だがアンタに悪意が有るとは思ってない。まぁ
色々と隠し事が有るみたいだけど、それは何れ時期をみる事にする
よ﹂
厳翁が何かの目的を持って亮真に仕えている事は、亮真自身が一
番強く感じていた事だ。
無論それは悪意が有っての事ではない。
もし僅かでもそんな気配を感じれていれば、亮真は容赦なく厳翁
と咲夜を始末していた。例えそれが日本人の血を受け継いだ人間で
も。
︵まぁ良いさ⋮⋮何れ時期が来れば向こうから話すだろよ⋮⋮まず
は例の件を処理してしまわないとな︶ 亮真はそう頭を切り替えた。
なにしろ彼は今、少しでも使える手駒が必要なのだ。
﹁ところで厳翁⋮⋮あんたの一族に仕事を頼みたいんだけど雇える
か?﹂
﹁それは⋮⋮無論﹂
亮真の言葉を聞き厳翁の心が冷静さを取り戻す。それと同時に、
冷徹な彼の頭脳が亮真の依頼内容を推察し始める。
︵ワシの一族を雇いたい⋮⋮ワシと咲夜を動かしたくないというこ
とか?⋮⋮ならどのような仕事であれイピロス周辺の仕事ではある
869
まい⋮⋮まさか!ルピスの暗殺?︶
亮真の性格を考え合わせれば一番可能性が高いと言える。彼は恩
を忘れない半面、決して仇も忘れない。
その事は短い付き合いである厳翁にも十分に理解出来ている。
ウォルテニア半島などと言う辺境を無理に与えたルピスの悪意を
考えれば、亮真が暗殺という報復手段を取っても不思議とはいえな
い。
だが、厳翁はその答えを自ら否定する。
︵いや⋮⋮それは有るまい⋮⋮今そんな事をしても利は薄い⋮⋮︶
王都に居る間で有ればまだ選択肢の中に入っていた。だが彼らは
既に半島を目前にしているのだ。此処まで来てしまっているのに、
態々ルピスを殺す意味は無い。
︵今ルピスを殺せば王国内は再び混乱の渦に巻き込まれる⋮⋮自ら
の拠点すらないこの状況で選択するのは余りに無謀⋮⋮だとすれば
?︶
半島を領地として開発するには何年もの時間が掛る。いま国内を
混乱させてしまえば、領地開発を行う時間を失うことになる。
そんな選択を利に聡い亮真がするとも思えなかった。
﹁始末してほしい人間の名はウォルス⋮⋮ウォルス・ハイネケル。
港町フルザードのギルドマスターだ﹂
亮真の口から洩れた名前に厳翁は首を傾げる。
無論その人間の名は厳翁も聞いていた。何しろ自分の主を陥れた
人間の名前だ。仲間達との会話の中でも幾度となく出て来た名前。
理由が判らないか?﹂
だが、全てはケリが付いたはずだ。
﹁不思議そうな顔をしているな?
亮真の問いに厳翁は素直に頷く。
870
﹁はい⋮⋮ルピスの尽力で主殿の潔白は証明されたはず⋮⋮いまさ
らそやつを始末することにどういう意味が?﹂
単純な復讐心からなのだろうか?もしそうなら厳翁は亮真の事を
見損なっただろう。
今は少しでも金が必要な時期なのだ。個人の復讐心を満足させる
ために金を出すような人間には未来など無い。
そんな人間に一族の未来など託せるはずもない。
だが、厳翁の不安はただの杞憂に過ぎない。
﹁確かにルピスの力で俺やリオネ達は潔白を証明できた。だがそれ
は同時にルピスの力で再び罪を着せられかねないということだろ?
⋮⋮ウォルスは一度俺達を嵌めた。嵌められた俺達があいつを恨
むのは当然だが、其れをあいつも理解している⋮⋮となれば、あい
つにとっても俺達は邪魔者なのさ。何時ルピスと手を組んでこちら
に仕掛けてくるとも限らんからな﹂
亮真の言葉を聞き、厳翁もその可能性に気がつかされた。
ローゼリア王国の国王とギルドマスター。確かに、手を組まれれ
ば厄介な事になる。
﹁芽吹く前に摘むという事ですな﹂
亮真は無言で頷いた。
﹁判りました⋮⋮一族の者から手練を派遣いたします﹂
﹁助かる⋮⋮厳翁や咲夜に頼もうかとも思ったんだが、場所が遠い
しな﹂
871
イピロスからフルザードまで往復で1月半ほど、暗殺の準備期間
を入れれば2ヶ月は欲しい。
目の前の問題が最優先である以上、そんな時間は無かった。
﹁それで報酬だが⋮⋮どれくらい掛かる?﹂
⋮⋮いや⋮⋮何か条件が有るのか?﹂
﹁いえ、お金は結構です﹂
﹁⋮⋮本気か?
ギルドマスターと言えばかなりの大物。10万や20万では済ま
ないはずなのだ。それを代金はいらないという。何かお金では無い
別の条件が付くのは当然と言える。
言ってみな﹂
﹁はい⋮⋮一つお願いが⋮⋮﹂
﹁いいぜ?
この日、亮真と厳翁の間にどんな密約がされたのか。
それは、天に輝く月だけが知っている事だった。
872
第3章第3話
西方大陸暦2812年8月7日︻半島へ︼其の3:
一台の馬車が、伯爵邸の玄関口に横付けされた。
陽はすっかりと落ち、辺りは蝋燭の火に因って照らされるのみ。
黒塗りの2頭立ての馬車は、外見は武骨で飾りも最小限にとどめ
られている。とても貴族が使うような代物ではなかった。
尤もそんなことを馬車の主は気にも留めない。
信頼する姉妹が、貴族としてメンツに関わるとあまりにも五月蠅
い為に、急きょ街で調達した物なのだから。
馬車から地面へと降り立った亮真を、玄関口で整列する使用人達
が一斉に頭を下げて出迎えた。
﹁﹁﹁ようこそおいで下さいました。御子柴男爵様﹂﹂﹂
流石に伯爵家に仕える使用人達。一部の隙もない挙動で客である
亮真を迎える。そして彼らの言葉を待っていたかのように、二人の
人物が屋敷の扉から姿を現した。
﹁良くおいで下された! 歓迎いたしますぞ。御子柴男爵殿﹂
そう言って大仰に腕を振り上げ歓迎の意を示す男は、この城砦都
市イピロスの支配者であるザルツベルグ伯爵。
身長は180程。年齢は30代後半だろうか?
中年にさしかかり、やや腹が前へと迫り出してはいるが、国境付
873
ひとかど
近に領地が有るせいか、立ち居振舞いから武人としても一廉の人間
であることが見て取れる。
バカ
︵ローゼリア王国建国当時から続く名門と聞いていたが⋮⋮単なる
貴族じゃないか⋮⋮でも何でコイツこんなに丁寧なんだ? ⋮⋮逆
に気持ちが悪いくらいだ⋮⋮︶
亮真は、あまりに丁重な出迎えを受け逆に不安になる。
爵位の上から言えば、彼の持つ伯爵位は男爵位の二つ上となる。
亮真は、其の生粋の貴族が先日までただの流れ者であった初対面
の自分に対して、もろ手を挙げて歓迎する様に不自然さを感じたの
だ。
彼は、軽く気を引き締めた。何しろ、ルピスの心情を読み間違っ
亮真は満面の笑みを浮かべると、ローラ達から教わった貴族の
とはいっても、其れを面に出す訳には行かない。
おもて
たばかりである。警戒心が生まれるのも当然と言えた。
礼儀作法に従って恭しく頭を下げた。
﹁本日は突然の訪問を快くお許し下さり恐悦の極み。若輩者ではご
ざいますが、今後ともよろしくお引き立て賜りたいと存じますザル
ツベルグ伯爵様﹂
今日、彼が着ている服装は決して華美ではない。
奴隷商人のアゾスを殺して奪った金はまだ十分に残ってはいるが、
貰った領地が領地だ。金はいくらあっても足りはしない。だが、貴
族にはメンツが有る。流石にいつもの様な黒の麻シャツとズボンと
いうわけにもいかない。
そんな訳で、今日の彼は黒い絹のシャツにズボンを履き、ベルト
は金のバックルという少し上等な格好だった。
屋外に出るときはこの上マントを羽織る。しかしそれは貴族とし
て最低限の服装。
874
貴族として保つべき最低限のメンツを守ったに過ぎない。
そんな彼の目の前にいるザルツベルグ伯爵は彼とは対照的だった。
生まれながらの貴族と言うのに相応しいだけの、様々な宝石達を身
につけて自らの権威を表す。
それらの輝きは下品ではなく、彼の風采を品よく彩る。シャツの
ボタンに使われているのは形の良い真珠。胸を飾るブローチも非常
に精巧な花を象った一品だった。
尤も華やかさで言えば、彼の隣で佇む奥方は更に凄まじい。
歳は30に手が掛るかどうかと言ったところか。
全身を包むのは胸を大きく開いた斬新なデザインの絹のドレス。
純白に染められた其のドレスが金色に輝く髪と良く調和している。
頭には小さな白銀の冠を付け、手には大粒のルビーやサファイアの
指輪をはめていた。
まさに歩く宝石といえる。
現代人の感覚からすると、彼女の姿は装飾品のつけすぎの様に感
じられる。
だが目の前で微笑む彼女には貴族としての気品が漂い、宝石達と
絶妙なバランスで美を保っていた。
︵派手だが下品では無いな⋮⋮これが貴族の品格ってやつかねぇ?︶
亮真は目の前で微笑む二人をそう評価した。
﹁良くおいで下さりました。王都よりの長旅はさぞ大変だった事で
しょう。今夜は我が家でゆっくりとおくつろぎください。ねぇ? 貴方﹂
夫人の言葉にザルツベルグ伯爵も大きく頷いて賛同する。
﹁妻の言葉どおり、本日は長旅の疲れを癒してください。何しろウ
ォルテニア半島の中に入ってしまえばもう町も村も在りはしません
からな⋮⋮今後領地が発展するまではイピロスから物資を運びこま
875
ねばなりますまい。これも領地が隣り合ったご縁! 末永くお付き
合いください﹂
﹁はぁ⋮⋮それではお言葉に甘えまして⋮⋮今後も宜しくご指導く
ださい﹂
亮真は素直に伯爵へと頭を下げる。
︵ふん⋮⋮こっちの目的は読まれたか⋮⋮口では物資の購入に協力
的のようだが⋮⋮まずはこいつらの腹の内を知ることが先か⋮⋮︶
亮真の眼が鋭く光った。
亮真は伯爵に伴われ食卓へと導かれる。
﹁さぁ今宵は御子柴男爵を歓迎するために、料理長には格別に腕を
振るうよう命じました。此処は王都と違い僻地ゆえ大した産物もご
ざらぬが量だけはございますので、存分にご賞味ください﹂
ザルツベルグ伯爵の声と共に、広間の扉が開け放たれるとメイド
達が台車に料理を載せて入ってきた。
﹁これはまた⋮⋮﹂
目の前の食卓に並べられた料理を見て亮真が絶句したのも当然だ
ろう。
豚一頭を丸ごと焼いた物を中心に、鳥、牛、魚をメインに揃え、
サラダも海藻に野菜とバリエーションに溢れたものだ。砕かれた氷
が盛りつけられた金の器では季節の果物が冷やされている。
20人以上は余裕で腰かけられる食卓の上には、とても3人では
食べ切れるはずもない程の料理が所狭しと置かれているのだ。
876
﹁いや⋮⋮お恥ずかしい。王都から来られた方には馴染みが無いの
かもしれませんが、我が領地では賓客を迎える際には食べきれない
ほどの料理で歓待するのが習わしです⋮⋮まぁ田舎の風習と思いに
なってお付き合いください﹂
わら
そういうとザルツベルグ伯爵は髪を撫で上げて嗤った。
﹁いえ⋮⋮私の様な成り上がり者にこのような宴を⋮⋮ザルツベル
グ伯爵様⋮⋮感謝いたします﹂
﹁ハッハッハ! 成り上がりとはまたご謙遜が過ぎますな。御子柴
殿は先の内乱で大変な功績を立てられた。女王のご信頼も篤いと聞
く⋮⋮其れがしなど先の内乱では、ザルーダの侵攻を警戒してこの
地より一歩も動けませんでしたからなぁ﹂
伯爵の自虐の言葉に亮真は愛想笑いで答えた。
﹁アナタ? お話はもうそれくらいにしてくださいな。お客様に冷
えた料理を食べて頂く気?﹂
伯爵の妻であるユリアが、夫をたしなめる。
﹁おぉ! これは失礼いたした⋮⋮オイ! 御子柴男爵殿のグラス
にお注ぎしろ﹂
伯爵の言葉で、亮真の前に揃えられたグラスへ深紅のワインが注
がれた。
﹁では⋮⋮御子柴殿と当家の繁栄を祝って! 乾杯!﹂
877
伯爵の掛け声と共に、亮真はグラスをあおる。
彼の口に豊潤なブドウの香りが広がる。そして少し香辛料の様な
刺激的な風味がアクセントをつける。 二度三度と口の中でワイン
を噛むと、深いコクと味わいが全身へ広がっていく。
そして最後に喉を滑り落ちる感覚。まるで上質の絹のような滑ら
かさだ。
︵上質⋮⋮それも最高級のワインだな⋮⋮︶
アース
高校生である亮真は本来なら酒の味など判るはずがない。しかし
奔放な祖父の影で日本に居た時から酒を嗜んできたし、大地世界に
召喚されてからは日常的に飲んできている。
その彼から見て、今回伯爵が提供したワインは最上級の物と言え
る。
ピレウスの城に滞在している間は高級な酒を提供されてきたのだ
が、それと比べても確実に一段上の品質だ。
︵料理と言い酒と言い⋮⋮どういうつもりだ、コイツ⋮⋮いやそれ
以前になぜこれだけの事が出来る? 税だけでこれ程の物が出来る
のか?︶
料理にしてもそうだ。
吟味された素材。惜しげもなく使われている香辛料の数々。
いくら歓迎しているとはいえ、成り上がり者の男爵をもてなすに
しては度が過ぎている。
︵ひょっとして⋮⋮これがこいつらの普通なのか⋮⋮だとしたら⋮
⋮?︶
伯爵夫妻の服装を見ても、豪華で金の掛った物である事は一目瞭
然だ。
亮真を歓迎する為に無理をしたのではなく、単純に彼らの生活水
準が高いとしたら?
︵無理⋮⋮だな。税だけじゃこれだけ豪華な生活は維持できない⋮
878
⋮となれば⋮⋮︶
断定は出来ない。まだ情報が少なすぎるのだから。だが亮真の想
像通りだとしたならば⋮⋮
︵みんなの報告を聞いてからだな︶
﹁おぉ。あまり食が進まないようだが、男爵殿のお口に合いません
かな?﹂
ワインを飲み干した後、黙って座り続けたままの亮真へ伯爵が声
を掛けて来た。
﹁きっと長旅でお疲れなのよアナタ。肉料理は脂がきついのではな
いかしら?⋮⋮アンヌ。男爵様へ冷えた果実をお出しして頂戴。き
っとこれならば男爵様も気に入ってくださいますわ﹂
夫人の言葉に従って、メイドの一人が亮真の前へ金の器に盛られ
た果実を運んでくる。
﹁すみません。お気づかい頂いて﹂
そういうと亮真は、器から良く冷えたオレンジを一つ掴むと口へ
運んだ。
実際は考え事をしていただけなのだが、伯爵の誤解を態々訂正す
る必要はない。
﹁やはりお疲れのようですな?⋮⋮御子柴殿は一流の武人とお聞き
したが⋮⋮まぁ王都からイピロスまでは馬でも半月は掛る⋮⋮致し
方ないことですかな?﹂
879
﹁アナタ!それは男爵様に失礼よ⋮⋮きっと、突然貴族に叙せられ
て気疲れなされたんだわ⋮⋮ねぇ男爵様﹂
ユリアの言葉は亮真への気遣いで満ち溢れている。
﹁えぇ⋮⋮何しろ突然の事でしたから⋮⋮私は平民出ですし、領地
など頂いても正直にいってどうしたものかと困っていると言ったと
ころですか⋮⋮﹂
そう言って亮真は、自分の皿に盛られた牛肉を一切れ口へ運ぶ。
﹁そうですか⋮⋮まぁ御子柴殿は才知に優れたお方と聞いておりま
す。私も出来る限りの助力は惜しまぬつもりです。領地が隣同士な
のも何かの縁。今後はお互い助け合っていきましょう⋮⋮おや?何
か料理に不備がございましたかな?﹂
肉をじっくりと噛み締める亮真の顔を不審そうに見ながら、伯爵
が声を掛ける。
﹁いぇ⋮⋮思った以上に塩が効いていまして⋮⋮ふんだんに使われ
た香辛料と言い、塩と言い、王都で出された薄味の食事とは対照的
だったので﹂
香辛料と同じく、塩もこの世界では貴重なものだった。
何しろ塩は生活の基本でありながら、塩田を作るか岩塩を掘り出
すかの2通りしか得る為の手段が無い。
海に面した領地を持っていれば塩には困らないだろうが、ザルツ
ベルグ伯爵の領地内で海に面した土地は無いはずである。
となれば岩塩を掘り出したか、他の土地から輸送してきたかのど
ちらかになる。
880
﹁ハッハッハッ。いや、王都の薄味に慣れた方は確かに驚かれるか
もしれませぬな﹂
亮真はここで大きく伯爵へ切り込んでいく。
目的はもちろん、揺さぶりだ。
﹁伯爵の領地に海に接した場所はなかったはず⋮⋮岩塩の鉱脈でも
お持ちなのですか?﹂
﹁いや、実﹁えぇその通りですわ⋮⋮近年、大きな岩塩の鉱脈が見
つかって﹂﹂
亮真の問いに伯爵は笑顔で答えようとしたが、夫人がそれを遮っ
た。 ﹁ほう。それはうらやましい。﹂
亮真は夫人の言葉をそのまま笑顔で受け入れる。
別にこの場で伯爵を追及する必要はないのだ。
︵塩か⋮⋮これも調べてみる価値が有りそうだな⋮⋮︶
亮真は、塩と胡椒の聞いた牛肉を飲み込んだ。
この後、会食は何事もなく終わり、伯爵と亮真は大いに話を弾ま
せ親交を深めた。
伯爵は秘蔵のワインを空け、夫人も会話の中に混じる。
彼らは、貴族の驕りを全く表には出さず、終始亮真を歓待した。
そして、伯爵が是非にと引きとめ、亮真は伯爵邸に泊まることに
なった。
881
メイドに案内された部屋に入り亮真はため息を漏らす。
シルク
家具はどれも職人が丹精込めた一品。カーテンもシーツも当然の
ように絹。芸術に疎い亮真から見ても何やら風格漂う絵画や花瓶。
一流ホテルのスイートルームにも匹敵するような豪華な装いの部
屋である。
︵これ一個くらいパクッていくか?︶
亮真はベッドにその巨体を放り出すと、枕元に置かれた花瓶を手
にとって呟いた。
まさにこの部屋は宝の山。領地開発で金が必要な亮真にそんな思
いが過った。
︵相当の経済力を持っているという証拠か⋮⋮事前に王都で調べた
限りで大した産物も無いはずなんだが⋮⋮?︶
伯爵や夫人の態度もいまいち腑に落ちない。
上辺だけ見れば、親切で気さくな夫婦の様にしか見えないのだが、
何やら裏の顔が有るように思えて仕方が無いのだ。
コンコン⋮⋮
思考の海へ身を委ねていた亮真は、扉を叩く音で意識を現実へと
引き戻された。
﹁男爵様⋮⋮入っても宜しいでしょうか?﹂
掠れる様にか細い女の声がする。
﹁あぁ⋮⋮何か用かい? 鍵は掛けてない﹂
﹁失礼⋮⋮致します﹂
882
亮真の声に従い、扉が開かれメイドが部屋へと入ってきた。
﹁伯爵に言われたのかい?﹂
﹁あ⋮⋮その⋮⋮奥様に⋮⋮男爵様の⋮⋮﹂
入ってきたメイドの姿を見て、亮真は大体の察しが付いた。
メイドの肌を隠すのは白のベビードール。その下には扇情的なピ
ンクのパンティとブラが透けて見える。
肩を震わせ、何かに必死で耐えるような彼女の表情を見れば男な
ら誰でもすぐに理解できた。
﹁必要ないって言ったら君は困るかい?﹂
亮真の言葉を聞いて彼女の表情に絶望の色が浮かんだ。
﹁あ! あの⋮⋮私⋮⋮その⋮⋮初めてですけど⋮⋮その⋮⋮男爵
様に精一杯⋮⋮その⋮⋮私じゃダメ⋮⋮ですか?﹂
余程きつく言い含められているのだろうか、彼女は懸命で食い下
がる。
顔を真っ赤に染める彼女を見て誰がこのまま返せるだろう。
﹁良いよ⋮⋮こっちに来な﹂
亮真は彼女を怖がらせないように、出来るだけ優しく声を掛けた。
無論、亮真とて女性経験が豊富にあるわけではない。
だがここで弱気なところを見せては、男の沽券に関わる。
差し出した手をメイドはおずおずと掴む。
883
﹁はい⋮⋮﹂
か細い声でメイドが答えるのを聞き、亮真は彼女の体を自分の方
へと引き寄せる。
枕元の蝋燭の灯が消え、辺りを闇が支配した。
884
第3章第4話
西方大陸暦2812年8月8日︻半島へ︼其の4:
﹁まったく⋮⋮あれほど歓迎しなくてはいけなかったのかね?﹂
ザルツベルグ伯爵は紅茶を一口飲むと、対面に座る妻へ不満の言
葉を漏らす。
朝食を共にして亮真を屋敷の玄関まで見送る時まで浮かべていた
人の良さそうな笑顔は、既に伯爵の顔から消えていた。
今の彼の顔には、貴族の血に対する傲慢さと平民に対しての侮蔑
しかない。
﹁そうねぇ⋮⋮メイドも抱いたようだし、とりあえずはこちらの思
惑通りといっていいんじゃないかしら?﹂
そう言って微笑む妻をザルツベルグ伯爵は苦々しげに睨み付ける。
﹁そもそも其れが気に入らん! あの娘は私が眼をつけていたんだ
ぞ? それをあんな成り上がりに宛がうとは!﹂
狙っていたメイドの少女を、他人に宛がったのだから伯爵の不満
も当然と言える。
﹁別にいいじゃないの? メイドなんていくらでも居るんだし⋮⋮
どうせ1月もたたないうちに飽きて捨てることになるのよ?﹂
885
﹁それとこれとは話が別だ! 例え私が飽きて捨てたとしても他人
にくれてやるのは我慢ならん! ましてや私も手を出してない少女
だぞ? ⋮⋮まったく! あれはなかなかおらぬほどの女だったの
だ!﹂
伯爵の怒りは収まりそうにも無い。
ユリアは内心呆れながらも、伯爵のなだめに回る。
︵まったく⋮⋮どうしてこの人はこう女癖が悪いのかしら⋮⋮奴隷
や玄人の女ならいくらでも用意してあげると言っているのに、素人
の生娘にばかり手を出して⋮⋮どうせ一二回抱けば飽きて奴隷商人
に売り払うくせに⋮⋮︶
処女の素人娘にばかり執着する夫を見る眼が冷たくなる。
だが、それを面に出すわけにはいかない。
彼女の生活を守るためには、ザルツベルグ伯爵がどうしても必要
なのだ。
うっぷん
さんざん愚痴と不満をぶちまけ、ザルツベルグ伯爵の鬱憤も晴れ
たのだろう。
彼は大きく深呼吸をすると、ソファーに深く体を沈めた。
﹁まぁ良い⋮⋮今さらあんな平民の食い残しなどに興味はない⋮⋮
だが、なぜ鉱山の事をアイツに告げる必要が有った? 興味を引い
てしまうだけではないか?﹂
伯爵の色欲に濁った眼が鋭く光る。
彼は人間的に最低の人間ではあったが、支配者として、また指揮
官として優秀な能力を持っている。
無論、そうでなければザルーダ王国の侵攻が危ぶまれる、この国
境地帯の領地を維持する事は出来ない。
886
﹁そうねぇ⋮⋮確かに必要と言う意味ではないわね⋮⋮でもそれは
どちらでも同じ事よ⋮⋮あの男は私達の話を鵜呑みにはしない⋮⋮
否定もしない代わりに、決して信じもしない。どちらにしろ塩に関
して興味を持ったのなら自分で調べようとするはずよ。ならばあそ
こで隠しても意味ないじゃない? 正直に言えばそのまま調べるの
を止めるかも?﹂
﹁フン⋮⋮其処までのキレ者とは思えんがな⋮⋮大体、なぜそんな
ことが分かる? 傭兵として雇われ、先の内乱で少しばかりの功績
を挙げた成り上がりだぞ? 塩が何処から入ってきているかなどど
う調べると言うのだ? 家臣と言ったって内乱時に行動を共にした
薄汚い傭兵共をむりやり騎士に任命したと聞いている。そんな者達
など戦にしか使い道はあるまい?﹂
ザルツベルグ伯爵の眼から見て、亮真は体格の良い若造にしか見
えなかった。
妻の進言で、最上級のもてなしをしたが、内心では亮真の事を侮
っている。
︵あの体格⋮⋮確かに武人としてはそれなりの物を持ってはいそう
だが⋮⋮あの顔。とても知恵者には見えん⋮⋮︶
人柄の良さや、穏やかさは見えたが、キレ者の雰囲気は全く見ら
れなかった。
人当たりの良さは心の弱さを表すし、穏やかと言う事は覇気が無
い事に等しい。
少なくともザルツベルグ伯爵の評価は、体格以外は全く話になら
ないという結論なのだ。
﹁確かに彼はあまり知恵が回るようには見えなかったわね。でもそ
んな訳ないのよ⋮⋮絶対にね﹂
887
﹁チッ⋮⋮確かに噂は入ってきているがねぇ⋮⋮何処まで本当の事
なんだか。私が思うにエレナ・シュタイナーに取り入っただけでは
ないのかね?﹂
妻の言葉が余程不満だったのか、伯爵は大きく舌打ちをすると、
自分の空想を彼女へ披露する。
﹁あのエレナ様がそんなことするとは思えないわ⋮⋮﹂
﹁フン⋮⋮まぁそれはここで言っても仕方が無いか⋮⋮それで? あの娘を宛がっただけの情報は得られたのだろうな?﹂
伯爵の言葉に首を振った妻の言葉に、伯爵は忌々しげに吐き捨て
た。
﹁そんなにいきなり聞けるはずもないわ⋮⋮昨夜は本当に抱かれた
だけ⋮⋮後日、私の方から彼にあの娘を引き取ってくれるように頼
むのよ。まぁ、あの娘の報告を聞いた限りでは御人好しみたいだし、
断らないと思うわ﹂
ユリアは既に亮真に抱かせたメイドより、昨夜のやり取りに関し
て報告を受けている。
︵まぁ女には甘いようだし⋮⋮閨を共にすれば大抵の男は情報を漏
らすものだしね⋮⋮︶
彼女は皮肉の含んだ視線を自らの夫に向ける。
﹁全く⋮⋮あんな平民のご機嫌取りをする羽目になるとは⋮⋮面倒
くさいことだ⋮⋮それもこれもあの馬鹿姫が原因か⋮⋮﹂
﹁馬鹿姫じゃなくて馬鹿女王でしょ? 先日ローゼリアの新女王と
888
して戴冠されたんだから﹂
ルピスの評価に馬鹿が付く事は確定らしい。
新国王に対してあまりにも不敵な言葉であるが、それが夫妻の共
通認識だった。
﹁今さら他人にウォルテニア半島を与えるとはな⋮⋮我らの苦労も
知らずに余計な事ばかりしてくれる!﹂
﹁もぉ愚痴はもういいわ⋮⋮今は、あの男に余計な事をされないよ
う監視するしかないしね⋮⋮﹂
憤りのおさまらない伯爵を夫人は軽く嗜めた。
どうやらこの夫婦は、夫人の方が実権を握っているようである。
﹁そうだな⋮⋮そして最悪の時は⋮⋮﹂
モンスター
﹁決まっているでしょ? 半島の怪物が喜ぶだけよ﹂
夫人の言葉に伯爵は冷たい笑みを浮かべて頷いた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁若! 昨夜はお楽しみだったようで﹂
御者台に座る中年が亮真へ声を張り上げた。
︻紅獅子︼の傭兵達はボルツを見習ってか、亮真の事を若と呼ぶ。
ローゼリアの内乱を共に切り抜けて来た者同士、既に打ち解けた
889
仲だ。
﹁あん? マイクが何で知ってるんだい?﹂
イピロスの大通りを伯爵邸から宿屋に向かって走らせるだけだ。
街中な事も有って、馬をゆったりとしか走らせられない所為か、余
程暇と見える。
手綱を握るマイクが亮真へ話しかけたのは、伯爵邸を出てすぐだ
った。
﹁なぁに⋮⋮使用人達が噂していたのをちょいと小耳にね!﹂
﹁ボルツに言われたのかい?﹂
﹁えぇ⋮⋮伯爵邸に泊まる場合は使用人達と話をして、情報を引き
出せと命じられてまして﹂
亮真の問いにマイクは髭を撫でつけながら答えた。
﹁流石ボルツだな⋮⋮抜け目ない﹂
﹁全くで。姐さんは戦には長けた方ですが、搦め手は余り強くねぇ
⋮⋮其処をボルツの旦那が上手くフォローしてきたって訳で!﹂
マイクはリオネの率いる傭兵団︻紅獅子︼の中でも中堅クラスの
傭兵だ。
大抵の仕事をそつなくこなす器用さを持っている。
今回、伯爵邸を訪ねる事になった亮真の、護衛兼御者を任されな
がら、諜報の仕事も与えられていたらしい。
890
﹁まさか本当に旦那の御言葉通り、伯爵邸に泊まることになるとは
思いませんでしたがねぇ⋮⋮﹂
﹁まぁな⋮⋮俺も気持ちが悪くなるほどの好待遇だったよ⋮⋮﹂
﹁アッシの方もで⋮⋮流石に女は付きませんでしたがね。酒も料理
も使用人に出されるような物じゃない⋮⋮寝室も綺麗なもんでさぁ﹂
﹁そっちもか⋮⋮﹂
﹁へぇ⋮⋮正直言って気味が悪いくらいで﹂
マイクの言葉に亮真は軽く頷き返すと、目を閉じて考え込んだ。
誰もが同じ事を感じていた。
﹁何であそこまでしたんだと思う?﹂
黙り込んでいた亮真が、マイクへ疑問を投げかけた。
﹁まぁ、あっしは若やボルツの旦那ほどの頭は持ってませんから⋮
⋮﹂
そう一言挟むと、マイクは自分の感じた通りの事を口にする。
﹁単純に若に何か頼みたい事が有るか、さもなきゃ気分よくこの地
から追い出したいかのじゃないかと﹂
﹁出ていってほしいが、敵対はしたくないってことか⋮⋮あり得る
な﹂
891
その場合、裏で糸を引いているのはルピスの可能性が強くなる。
ルピスにとって、半島に亮真達が入りまでは不安で仕方がないだ
ろう。
ウォルテニア半島へ亮真達が入るのをザルツベルグ伯爵へ見届け
るように命令したという事は十分に考えられた。
︵どちらにしろ、俺が取れる選択肢は少ない⋮⋮か。ダメだ⋮⋮ま
ずは情報だな。ボルツや厳翁の成果を聞いてからじゃないと判断が
つかないか⋮⋮︶
﹁御者に対してまであれだけのもてなしをするというのは⋮⋮﹂
﹁裏が有るってことか⋮⋮﹂
﹁へい⋮⋮恐らく﹂
亮真の言葉にマイクは慎重に頷く。
﹁ところでマイク! ローラ達には昨夜の事を黙っていてくれよ?﹂
亮真は話題を切り替えた。伯爵達の真意がわからない以上、今こ
の場で出来る事をするべきなのだ。そして今一番大切な事がマイク
への口止め⋮⋮
亮真の言葉を聞いて、強張った表情を崩さなかったマイクが笑み
を浮かべた。
﹁まぁそうでしょうねぇ⋮⋮若が昨夜お楽しみだったと聞けば⋮⋮
おぉ怖! お嬢達が怒り狂いやすぜ?﹂
892
アース
文明が未発達なこの大地世界において、性行為は数少ない娯楽の
一つである。
無論、亮真も傭兵達に連れられて幾度か歓楽街へと繰り出してい
た。
﹁オイ! 本当にやめてくれよ? あいつらなんでだか知らないけ
ど本当に怒るんだからさ!﹂
マイクの言葉に亮真は思わず声を荒らげた。
﹁まぁ仕方が無いんじゃないですかね? 大体、若だってお嬢達の
気持はお気づきでしょ?﹂
自分の息子と言っても不思議ではない亮真へ、マイクが年長者と
して言葉を掛ける。
﹁まぁ⋮⋮な⋮⋮﹂
亮真は歯切れの悪い返事を返した。
マイクに言われるまでもない。姉妹の気持ちを亮真は十分に理解
している。
﹁ならお分かりでしょう? お嬢達は若に抱かれたいんですぜ? それをあの二人は心底望んでいやす﹂
奴隷商人から二人と助け出したのは、亮真がこの世界に召喚され
て直ぐの事。それから既に8カ月以上が経つ。
その間ずっと彼ら3人は共に行動してきたのだ。男女の感情が生
まれても不思議ではない。
893
亮真自身も、彼女達を女として意識している。
﹁そんなことは判っているんだけどな⋮⋮﹂
リアース
﹁裏大地世界への思いが断ち切れやせんか?﹂
亮真の境遇に関しては、既に紅獅子の傭兵達へも説明している。
厳翁を仲間にした際に話題になった、日の本の民という言葉に関
して問い詰められたからだ。
﹁まぁな⋮⋮頭では判っているけどな⋮⋮踏ん切りがつかないとい
うか⋮⋮﹂
マイクの言葉に珍しく亮真は言葉を濁した。
彼の合理的な頭脳は既にこの世界に残らざるを得ない事を理解し
ていた。だが、心はそう簡単には割り切れない。彼の友人も家族も、
日本に残してきているのだ。
自分に悪意を持つ敵へは微塵も容赦しない苛烈な性格の亮真だが、
彼も人間。悩むのも当然と言える。
︵あいつらを抱くには⋮⋮覚悟がいる⋮⋮この世界に残り、そして
あいつらを⋮⋮︶
商売女なら、さほど気にする必要はない。全ては金が解決してく
れた。
だが、マルフィスト姉妹は亮真に対して、打算の無い愛情を示し
ている。
そんな女を抱いて、自分ひとり日本に帰れるだろうか?
いいや、亮真はそれほどに薄情な男ではなかった。
﹁まぁ⋮⋮若はアッシらを騎士にして、半島の領地化を選んだんで
すから、既に決断は出来てるんでしょ﹂
894
﹁あぁ⋮⋮みんなを巻き込んでおいて、俺だけ帰るなんて出来ない
さ⋮⋮﹂
運命の歯車は回りだしている。此処で、亮真が地球にもし帰れば
残されたリオネ達がどうなるか?
︵例え帰る手段があっても⋮⋮俺は⋮⋮︶
既に結論は出ていた。そして、亮真自身の覚悟も⋮⋮
﹁まぁ、昨夜の事に関しては、お嬢達に黙っておきやすよ⋮⋮その
代わり! 今度、奢って下さいよ?﹂
マイクはそういうと、髭ヅラの顔を歪めて笑った。
﹁あぁ⋮⋮好きなだけ飲ませてやるよ!﹂
マイクが話題を変えたのは、亮真を思いやっての事。
其の気遣いが、亮真の心を暖かくする。
︵全ては俺次第⋮⋮か⋮⋮︶
895
第3章第5話
西方大陸暦2812年8月8日︻半島へ︼其の5:
﹁お帰りなさいませ⋮⋮ボルツの予想通り、昨夜は伯爵邸に泊まら
れましたか﹂
﹁あぁ⋮⋮なかなか手厚い歓迎だっだぜ?﹂
マント
宿屋の玄関口まで迎え出た厳翁が、亮真の外套を受け取ると、恭
しく畳んで手に持った。
﹁ほう⋮⋮それはそれは。さぞかし後ろ暗い事があるようですなぁ﹂
厳翁は亮真の言葉を軽く受け流す。
いつもと変わらない声の調子。其れが何を意味しているのか⋮⋮
亮真は直ぐに察しがついた。
﹁あぁ⋮⋮裏で何をやっているかわかったモノじゃないな⋮⋮厳翁
⋮⋮お前ぜんぜん驚いてないな?⋮⋮そっちも収穫有りってところ
か?﹂
﹁えぇ⋮⋮ですがそれは後で。皆も主殿の部屋で待機しております﹂
厳翁の言葉に亮真は肩を竦めた。
﹁全く⋮⋮つくづく優秀な連中だな⋮⋮もう調べがついたって言う
のか⋮⋮ならさっさと行きますかね﹂
896
伯爵邸から帰ってきて自分の部屋で息をつく暇もない。
︵全く慌しいこった⋮⋮だが、まぁしょうがないか⋮⋮なんだか嫌
な予感がするしな⋮⋮︶
伯爵の裏を調べなければ、自分の命に関わるかもしれない。そん
な思いが、亮真の心を過ぎった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁それじゃぁ坊やも戻ってきたし、サッサと始めるとするかねぇ⋮
⋮先ずはアタイの報告から﹂
亮真が椅子に座ると、リオネは待っていましたとばかりに、束ね
た羊皮紙を全員へ配る。
﹁姐さん⋮⋮? コイツは﹂
﹁アタイがここ数日で面接した傭兵共の一覧だよ!﹂
疑問の声を上げたボルツに、リオネは胸を張って答えた。
﹁これ全部ですかい⋮⋮﹂
ボルツが驚きの声を上げたのは無理もない。A4用紙程の大きさ
に、傭兵の名前やランク、リオネが面接した際の印象と実にこと細
かく記載されている。
羊皮紙には、表に二人分の記載がされており、どうやら裏面にも
あるらしい。其れが、十枚以上。
897
実に50人近い傭兵の履歴が書かれていることになる。
彼女は傭兵団︻紅獅子︼の団員と言う名目で、傭兵達へ募集を掛
けたようだ。
クエスト
﹁こいつはまた⋮⋮名前やランクだけじゃない⋮⋮出身や依頼の達
成率⋮⋮得意な武器や法術に関してまで⋮⋮しかも、リオネさんの
印象も細かく書かれているのか⋮⋮良くこれだけの事を数日で⋮⋮﹂
亮真は、羊皮紙にびっしりと書き込まれたリオネのコメントに眼
を奪われる。
単純な第一印象から始まって、喋り方や眼の配り方。其の人間の
挙動から、事細かな追記がなされていた。
﹁少しでも腕の立つ奴が欲しい所だけどねぇ⋮⋮信頼できない奴を
入れて寝首を掛かれたんじゃぁ⋮⋮ね。それに協調性がない奴もダ
メだしねぇ⋮⋮50人ほど面接して、雇えそうなのは10人チョイ
と言う所かねぇ⋮⋮名前を赤丸で囲っているのが、雇用を考えてい
る奴等だよ﹂
成る程、リオネの言葉通り名前を赤丸で囲われた傭兵がいる。
﹁? ⋮⋮名前を赤丸で囲ったのは判ったけど⋮⋮この赤で横線を
引かれている奴は?﹂
亮真が羊皮紙にザッと眼を通したところ、そのまま何も書かれて
いない者、名前を赤く囲まれている者の他に、3人ほど名前に横線
を入れてあるものが有る。
赤丸が雇う積りの傭兵で、何も書かれていないが採用しない傭兵
なら、横線を入れられた傭兵は一体何を意味するのだろう?
898
﹁あぁ⋮⋮問題はそいつらさ⋮⋮﹂
リオネが言葉を濁す。
﹁なんだい? 何か問題でもあるのか?﹂
﹁黒狼のヨハン⋮⋮赤土のセレス⋮⋮それに⋮⋮遠矢のリウイです
か⋮⋮どいつも一流どころでヤスね﹂
亮真の問いを遮ると、ボルツが羊皮紙に書かれた名前を一つ一つ
確認しながら読み上げる。
﹁有名なのですか?﹂
﹁えぇ⋮⋮傭兵でこいつらの二つ名を知らないのは、昨日今日登録
した駆け出しだけでさぁ﹂
﹁腕の立つ方々なのですね⋮⋮?﹂
﹁えぇ。ですがこいつらは一匹狼の傭兵でさぁ⋮⋮戦場に出るとき
も周囲を無視して、単独で前線へ突っ込む奴らでして⋮⋮﹂
しか
ローラの問いにボルツは顔を顰めながら答えた。
﹁なるほど⋮⋮ね。リオネさんが気にしてるわけが判ったよ﹂
﹁確かに⋮⋮あまりにも不可解ですな﹂
亮真と厳翁がお互いに頷きあう。
899
﹁あぁ⋮⋮腕は3人とも一流だ。一騎打ちならアタイでもかなり危
ないくらいね⋮⋮ただ、どいつも自分の腕前が一番だと信じ込んで
いる奴等でね⋮⋮とても傭兵団に入ろうなんて考えるような奴等じ
ゃない⋮⋮しかも3人とも金にはトコトン固執するタイプだ⋮⋮汚
い仕事だろうと報酬さえもらえれば躊躇しない。アタイは正直に言
って何か裏があるようにしか思えないのさ﹂
﹁探りを入れに来た⋮⋮って所かな?﹂
亮真の言葉にリオネが無言で頷く。
﹁う∼ん⋮⋮裏で糸を引いているとすれば、ルピスかザルツベルグ
伯爵ってところか⋮⋮﹂
﹁いや。素直に考えればその二つが最有力ですが、他国に雇われた
可能性も考えられますぞ?﹂
厳翁が別の可能性を示す。
スパイ
確かに、ウォルテニア半島が国境近くに存在することを考えれば、
ローゼリア王国侵攻を企む他国が間者を放ってくる事も十分に考え
られた。
﹁他国ねぇ⋮⋮となると今の情報だけで絞り込むのは無理か⋮⋮﹂
今の段階で判っている事は、面接した三人が怪しいと言うだけの
事。
極端な話、気まぐれで傭兵団に入ろうとしている可能性だってあ
り得るのだ。
﹁とりあえず、回答は後日って事にしているけど⋮⋮やっぱり断っ
900
ちまった方がいいかねぇ?﹂
リオネの言葉は最も危険の少ない意見だ。彼女自身も、判断に迷
っているのだろう。
だが、厳翁は彼女の言葉に首を振った。
﹁イヤそれは得策とは言えますまい⋮⋮もし何者かの思惑が有った
場合、ここで断ってしまえば、また別の人間が送り込まれてくるだ
けの事。次回もリオネ殿が気付けばよろしいが、それが出来ない可
能性もございます。ここは知らん顔をして3名を採用し、行動を監
視した方がよろしいかと﹂
﹁そうだなぁ⋮⋮それが一番良いか⋮⋮だが監視っていっても誰が
やる? 紅獅子のみんなには話せないぞ?厳翁と咲夜には別に頼み
たい仕事が有るしな﹂
亮真はそう言って腕を組んで唸る。
︵紅獅子のみんなに理由を話して監視するか? いや、それじゃぁ
あまりにも露骨だ⋮⋮この3人が監視されていると感じ取ってしま
うだろうしなぁ︶
問題点はハッキリとしている。手が足りていないのだ。人数が少
ない上に、やるべき仕事は山積みな状態。
亮真としても頭の痛いところだ。
﹁ならば⋮⋮ワシの一族から幾人か呼び寄せませんか?﹂
﹁厳翁のか?﹂
﹁はい。今、主殿に必要なのは手駒⋮⋮それも信用できる者達。我
が一族ならば必ずやご期待に沿えるかと﹂ 901
﹁報酬は⋮⋮前回と同じでいいのか?﹂
﹁結構でございます﹂
亮真の問いに、厳翁は恭しく頭を下げた。
﹁判った⋮⋮リオネさん。厳翁の一族を何人か傭兵団に入れてくれ。
彼らに内部の監視をしてもらう。それでいいかな?﹂
﹁あいよ! 経歴はアタイの方で上手く誤魔化しておくよ﹂
リオネが大きく頷く。
﹁なら、傭兵の雇用に関してはいったん終わる。今後、また問題が
有ったら報告してくれ⋮⋮次はボルツ。半島の情報はどの程度集ま
った?﹂
亮真は、ボルツに問いかけた。
﹁そうでヤスねぇ⋮⋮若のご命令通り、ギルドに保管されていた情
モンスター
報に目を通しました。ただ、半島の地形や現状に関して言えば、事
モンスター
前に調べた内容とさほど違いは有りやせん。怪物と亜人の巣窟って
ところでヤスね﹂
﹁巣窟ねぇ⋮⋮﹂
亮真は深いため息をつく。
﹁へい。河や湖に関しての情報はまだでヤスが、生息している怪物
902
モンスター
に関しては詳細な情報が有りやしたので、それをご覧いただければ
モンスター
判りヤスがかなり高位の怪物ばかりでして、一般人じゃぁ、とても
暮して行けやしません⋮⋮怪物の餌になるのが落ちでさぁ﹂
そう言うと、ボルツも用意してきた羊皮紙を広げる。
モンスター
﹁何だいこりゃ⋮⋮最低でもEランク⋮⋮殆どD以上に分類される
ヤツばかりじゃないか!﹂
モンスター
リオネは羊皮紙に記された怪物の名を見た途端、悲鳴を上げた。
それも当然だろう。そう滅多に出会うことの無い、高位の怪物の
名前がビッシリと書き込まれているのだから。
モンスター
怪物達はギルドに因って、最上級でSランクを筆頭にA⇒B⇒C
⇒D⇒E⇒F⇒G⇒H⇒Iと10段階にランク分けされていた。そ
して、これは傭兵達の力量を示すギルドランクと連動している。
個人の力量が、必ずしもギルドランクと一致しているわけではな
モンスター
いが、大まかな指標にはなるのだ。それで判断すると、ウォルテニ
モンスター
ア半島に生息する怪物達はE以上。これは、人間に害を与えていな
い怪物のランクとしては最上級となる。
Cから上のランクに分類されるのは、村や町を襲ったり、交通の
要衝に巣を構えて旅人を餌にしたりと言った、人的被害が出ている
モノだけなのだ。そういう被害がでて初めて、Cランクと言った分
類をされるのだ。つまり、種族として分類されるランクの最高位は
Dまでと言うことになる。
﹁最低でもEって事は⋮⋮法術が使えなければどうしようもないっ
てことだねぇ⋮⋮﹂
﹁そうなりヤスね⋮⋮確かに歴代の王がこの地の放置してきたのも
903
頷けヤス。これじゃぁ民を連れてきても町の守備に維持費がかかり
すぎヤスから⋮⋮騎士か法術が使える傭兵でなければ守ることすら
出来やせんからね⋮⋮その上、直ぐに利益が見込めないとなれば⋮
⋮﹂
モンスター
歴戦の傭兵であるリオネやボルツは、怪物との実戦経験も豊富だ。
だからこそ、この場に居る誰よりも正確に、半島の困難さを理解
できた。
モンスター
モンスター
人間と怪物との間には、分厚い身体能力と言う名の壁が有る。筋
力、反射神経、持久力。どれをとっても人間は怪物と呼ばれる生命
体に対して著しく劣っていた。
生命体として人間は圧倒的に劣った存在なのだ。
傭兵や冒険者は修練によって技を習得し、その差を埋めていくわ
けだが、身体的なスペックの差は埋めようもない。何処かで必ず乗
り越えられない壁にぶつかる事になる。
だが、人間は一つの技術を生み出すことで、その壁を乗り越えた。
モンスター
その技術こそが法術と呼ばれる戦闘技術。弱者である人間が、強靭
アース
な生命力を誇る怪物に対抗する為に生み出した技術。
だが、今の大地世界では、人と人が争う為の手段に成り下がって
いる。術が使えるか使えないかが明確な身分の壁となってしまって
いるのだ。支配者である王が、領地開発の為とはいえ、民に法術の
習得を勧めるはずもない。
結果的に、ウォルテニア半島は見捨てられて来たという事なのだ
ろう。
﹁法術⋮⋮ねぇ﹂ 亮真も、既に知識としては持っている。地球に帰る為にマルフィ
904
スト姉妹から基礎的な教育を受けているのだ。だが、習得そのもの
はしていない。
法術を習得するには、最短でも4月程掛る。
ローゼリア王国の内乱時は習得に割く事の出来る暇が無かったし、
それ以前はこの世界の常識を習得したり、地球に帰る方法を探した
りと時間も無かったのだ。
︵法術が使える人間だけを選別する? いや、それはいくらなんで
も無理だな。第一金が掛りすぎる。傭兵や騎士と言った、法術が使
える人間は重宝がられていて、給料も良いはずだ⋮⋮なら一般人に
法術を習得させるしか無い⋮⋮か⋮⋮いや、逆だな、これを利点に
すればいい。民の全てが法術を使える国⋮⋮圧倒的な戦力になる⋮
⋮法術自体は誰でも習得が出来るが⋮⋮問題なのは教える人間が居
ない事か⋮⋮これは傭兵団のみんなで教育していけばなんとかなる
か?後は⋮⋮誰に教えるかだが⋮⋮町の住民を勧誘⋮⋮は不味いか
⋮⋮どの領主だって自分の民を持っていかれたら怒るよな⋮⋮︶
亮真は素早く頭の中で計算するが、上手い案が浮かばない。
簡単な思いつきで何とかなるような問題ではないのだ。
﹁まぁそれについては後日にしよう。みんなも考えておいてくれ⋮
⋮ボルツは引き続き地形の情報を﹂ ﹁了解でさぁ!﹂
亮真がそう言って締めくくると、ボルツが大きく頷く。
︵全く⋮⋮次から次へと問題が浮かび上がってきやがる⋮⋮︶
亮真が嘆くのも無理は無い。
何しろ、まだ報告が終わったのは二人だけ。
マルフィスト姉妹と厳翁の報告がまだ残っている。
905
︵特に厳翁の報告は⋮⋮さっきのあの口ぶり⋮⋮絶対何か掴んでき
たんだろうな⋮⋮︶
亮真は深いため息を漏らすと、沈む気持ちを切り替える。ここで
彼らの報告を聞かないという選択肢は無い。どれほど過酷でも、現
実は変わらないのだから。
906
第3章第6話
西方大陸暦2812年8月8日︻半島へ︼其の6:
﹁じゃぁ⋮⋮今度は厳翁の報告を聞くか?﹂
気持ちを切り替えた亮真が、厳翁へ顔を向ける。
残っているのは姉妹と厳翁。亮真的には、嫌な予感がする厳翁の
報告を先に聞いてしまいたかった。
姉妹の報告は食料物資の購入先を決めるだけの事。さほど問題は
無いはずなのだ。
だが亮真の言葉に、厳翁は頭を横に振った。
﹁いえ⋮⋮ワシの話は最後の方が宜しいかと⋮⋮先にローラ様達の
話を﹂
何やら思惑が有るらしい。
亮真は訝しさを感じながらも頷き、マルフィスト姉妹へと話を振
る。
﹁ふぅん⋮⋮何か理由が有るってことか⋮⋮判った。じゃあローラ、
サーラ。商会の方の報告を頼む﹂
﹁かしこまりました⋮⋮では﹂
ローラ達は頷くと、調べた事を話し始めた。
そして、楽観視してた亮真を奈落の底へとつき落とすことになる。
907
﹁結論として殆どの商会が、領主であるザルツベルグ伯爵家と強固
な関係を結んでいるようです﹂
﹁強固な関係?﹂
ローラの言葉に亮真は首を傾げる。彼女の言葉からは、通常の領
主と商会との関係以上の物を感じたからだ。
﹁はい、それもかなり密接なものです﹂
そう言うとサーラが地図をテーブルの上に広げる。
﹁コイツは⋮⋮イピロスの地図か?﹂
﹁はい。そしてこの赤い点がこの町に存在する商会です﹂
サーラの指が、地図上に記された赤い点を指し示す。
その数、10個。それが、この城砦都市イピロスに存在する商会
の数である。
﹁ミストール商会⋮⋮ラフィール商会⋮⋮﹂
サーラが次々と点の横に書き加えられた商会名を読みあげていく。
﹁これら10の商会が、連合を組んでこのイピロスの経済を完全に
掌握しているのですが⋮⋮問題は伯爵夫人が、連合の代表であるミ
ストール商会の一人娘だと言う事です﹂
﹁本当なのか⋮⋮?それ﹂
908
亮真の顔色が変わる。それも当然だろう。
ウォルテニア半島では食料の自給をする事が出来ない。つまり、
食料自給の目途が立つまでの一定期間、このイピロスから食料を運
モンスター
びこんでくる他に、選択肢が無いのだ。
モンスター
まさか、怪物を狩ってそれを主食にするわけにもいかない。食べ
られる怪物も居る事は居るが、食べられない物の方が圧倒的に多い
のだ。
水と食料に関しては、我慢すると言う事が出来ない。生きていく
上で、絶対に必要な物。
それに対して、伯爵夫人の実家が大きな影響を及ぼす。
あまり想像したくない未来である。
﹁はい⋮⋮一定以上の食料物資を安定して購入するには、どうして
もこの10商会の何れかと取引するしかありません⋮⋮しかし、伯
爵夫人が連合代表の娘となると⋮⋮﹂
ローラは言葉を其処で切った。後は言わなくてもその場に居る全
員に理解出来る。
常に亮真達は、ザルツベルグ伯爵の意向を無視できなくなる。
伯爵が商会へ圧力を掛ければそれで終わりだ。亮真達は半島で飢
え死にしかねない。
﹁どうやらこの、ミストール商会の代表と言うのが相当な野心家と
言われていて⋮⋮元々連合の代表はクリストフ商会だったのですが、
娘がザルツベルグ伯爵に嫁いだ事を笠に着て奪い取ったという話で
⋮⋮﹂
﹁なるほどね⋮⋮娘を貴族に嫁がせてその威を借りて勢力を広げた
って訳だ⋮⋮まぁ、よく聞く話だな⋮⋮﹂
909
亮真の言葉に全員が頷く。
確かに、そう珍しい話ではない。日本でだって無い話ではないの
だ。
﹁しかし⋮⋮貴族が良く商人の娘を妻にしたな?﹂
身分制度上、商人は平民でしかない。どれほど金が有ってもただ
めかけ
の平民でしかないのだ。
貴族の妻。それも妾ではなく正妻となると、亮真が首を捻るのも
当然と言える。
﹁それも調べたのですが⋮⋮どうやらザルツベルグ伯爵家の財政は
かなり圧迫されていたようでして⋮⋮﹂
﹁ふぅん⋮⋮融資を餌にしたってところか? ⋮⋮そもそも何でそ
んなに財政が悪化してたんだ? やっぱり軍事費か?﹂
商人の娘を正妻に迎えるほど財政が圧迫される⋮⋮貴族のメンツ
モンスター
を捨てても実利を取ったという事は、相当にザルツベルグ伯爵が追
い込まれていた証拠。
問題は、なぜそこまで伯爵が金に苦しんだかだ。
﹁はい。伯爵家は国境守備と半島から時たま侵入してくる怪物対策
の為に、軍関係に割かれる予算がかなり大きいのです﹂
ローラの言葉に全員が頷く。
軍と言うのは最大の金食い虫なのだ。
何も生産せず、ただ、物資を消費するだけの飢えた怪物。それが
軍と言う物の本質である。
910
だが、その怪物には最高で大量の餌が必要になる。
兵に払う給料から始まり、鎧兜と言った武具購入に馬の飼育。兵
に支給する食料と、実に多くの物を軍は消費する。
しかもこれはあくまでも平常時の話。一度、開戦となれば、消費
量はさらに跳ね上がる。いくら資金を注いでも終わると言う事が無
い、まさに其処の抜けたバケツに等しい存在だ。
だが、それでも軍に金を掛けるしかないのだ。国を民を領地を、
守るべき物を守るためには。
それが隣国の警戒を任される貴族となればその重責は更に重くな
る。
ザルツベルグ伯爵の財政が火の車なのは有る意味当然なのだ。 モンスター
﹁まぁ当然だろうねぇ⋮⋮ザルーダと国境を接しているだけじゃな
く、半島から侵入してくる怪物に対しても備えなければならないだ
ろうからねぇ?﹂
モンスター
﹁アッシの調べた資料によると⋮⋮大体10年に1度は半島から大
規模な怪物の侵入があるようです﹂
ボルツの答えを聞いたリオネは、当然といった風に大きく頷く。
﹁捕捉させて頂きますと、この周辺は余り農地にも適しておりませ
ん。特筆するような産物も無く、あまり豊かな土地ではないようで
すな﹂
﹁塩に関してはどうだい? 昨日チョット小耳にはさんだんだけど、
どうやら岩塩の鉱脈が有るらしいんだが?﹂
厳翁の言葉に、亮真は疑問を投げかける。
911
少なくても、昨日の伯爵の服装考えれば、金に困っているように
は見えない。
貴族のメンツを守るために無理して見栄を張った可能性もあるが、
それにも限度が有る。
衣服にしろ、提供された食事にしろ、伯爵が金に困っているよう
には到底見えない。初めから明らかに食べきれないほどの料理を卓
上に並べたのだ。
しかも貴重な香辛料をふんだんに使用して。もし、金に困ってい
るなら、そんなことは出来ない。
となれば、怪しいのは岩塩の鉱脈だ。生活必需品である塩は高値
こそつかないが、需要が一定している。これを伯爵家が本当に所有
しているのなら、財政の建て直しは十分に可能と思える。
﹁いえ⋮⋮伯爵家の領地内で岩塩の鉱脈は存在しません﹂
そう言って首を振った厳翁は、意味ありげな笑みを浮かべた。
︵どういうことだ? 伯爵領に鉱脈がないなら一体どうやって財政
を立て直した? 何か他の産業を持っているのか?︶
亮真の頭脳が様々な可能性を導き出す。
︵もし他の財源を持っているなら夫人は何故、岩塩の鉱脈を持って
いるなどと嘘をついた? なぜ態々塩にしたんだ?︶
上手い嘘のつき方、それは嘘に真実を混ぜる事。
全てを嘘で固めると言うのは意外に難しい。現実との整合性が取
れずに破綻しやすいのだ。
﹁あ! ひょっとして⋮⋮﹂
突然サーラが声を上げる。
912
﹁何、サーラ? 何か思いついたの?﹂
ローラの言葉にサーラは頷くと、厳翁へ眼を向ける、
﹁もしかして⋮⋮伯爵は領地外に岩塩の鉱脈を持っているのでは?
例えばウォルテニア半島内に﹂
﹁﹁﹁﹁あっ!﹂﹂﹂﹂
誰もが驚きの声を上げた。
そんな中、厳翁のみが悠然と笑みを浮かべる。
﹁良く気づかれましたな。其のとおり、伯爵は半島内に鉱脈を持っ
ているのですよ。王国にも秘密でね﹂
予想外の事実ではあるが、厳翁の言葉を聞けば納得は出来る。
﹁伯爵が勝手に半島内の鉱脈を横領しているってことかい? 王国
に無断で? 見捨てられた土地とはいえ、大した度胸だねぇ⋮⋮ば
れたら一族郎党処刑されかねないよ?﹂
亮真に与えられるまで、ウォルテニア半島の正式な帰属は王家で
ある。
幾ら放置されていた土地であるとはいえ、無断でその土地の資源
を使って良い訳がない。
そんなことが、王家にばれれば、伯爵家は断絶。親類縁者まで巻
き込んで、大規模な処刑が行われることになる。
リオネが大した度胸だと伯爵を褒めるのも当然だ。彼らは文字通
り危ない橋を渡っているのだ。
913
﹁そういうことか⋮⋮クソ! やけに愛想が良い筈だぜ。あいつら
俺をサッサと半島に行かせたかったんだな﹂
亮真の中で独立していた断片が繋がり、伯爵の思惑が浮かび上が
ってくる。
﹁最初から俺を殺しに掛からなかったのは、出来れば大事にしたく
ない為か⋮⋮俺が死ねば王国が調査に来る可能性もあるからな﹂
﹁主殿を歓待したのは、このまま何も知らずに半島へ行かせる為で
すな⋮⋮そして万が一、半島の秘密を知れば其の時は⋮⋮﹂
モンスター
﹁怪物達の餌って訳か⋮⋮﹂
亮真の目が鋭く細まる。
﹁どうなされますかな? ワシと咲夜なら伯爵の首を取る事も可能
ですが﹂
﹁それはどうでしょう? 現状では逆に損をしてしまうのではない
でしょうか?﹂
﹁ほう? サーラ殿は反対ですか⋮⋮理由をお聞きしてもよろしい
か?﹂
ほの
伯爵暗殺を仄めかした厳翁にサーラが待ったをかける。
﹁確かに暗殺と言う手段は、伯爵の思惑を崩すには有効です。です
が、私達の目的が半島の領地化である以上、イピロスの安定は絶対
条件になります。もし暗殺が成功した場合、伯爵の魔の手は逃れる
914
ことが出来ますが、其の後に誰がこの地を治めるか? 下手にルピ
ス女王の息が掛かった人間が来れば⋮⋮﹂
狼を殺して、虎を招き入れる事になりかねない。
ルピスが亮真に対して警戒心を持っている以上、どんな嫌がらせ
をしてくるか予想できないのだ。
サーラの主張は、理にかなっていた。
﹁ふむ⋮⋮確かにサーラ殿の懸念は当然ですな。これはワシが安易
な提案をしたようだ﹂
厳翁もサーラの言葉に納得したのか、しきりに頷く。
﹁そうだな⋮⋮それに、今の俺達じゃ岩塩の鉱脈を伯爵から奪って
も販売経路がない。伯爵と事を構えてまで固執するほどのものじゃ
ないか⋮⋮﹂
﹁そうだねぇ⋮⋮収入源としては惜しいけどねぇ。仮に伯爵から鉱
脈を奪い返したとしても、イピロスの商人は取引を断ってくるだろ
うしねぇ﹂
﹁まぁ、そうでヤスね。伯爵と商会連合の長とが親密な関係である
以上、圧力を掛けて取引を妨害してくることが眼に見えていヤス﹂
せっかく伯爵から鉱脈を奪い返しても、塩を現金に換えられない
のなら意味はない。
他の町へ塩を持ち込めるならば話が変わるのだが、イピロスを経
由しない為には、海路しか選択しがない。将来的には海上貿易も視
野には入れているが、現状、直ぐに出来るものではない。
915
﹁ならばいっその事、伯爵にこのまま任せてしまえばいかがでしょ
う?﹂
﹁このまま好きにさせておくと言う事か?﹂
しか
ローラの言葉に、亮真は顔を顰めた。
自分の領地で、好き勝手な事をされて喜ぶ領主は居ない。
亮真の反応も当然と言える。
﹁ですが、この話を王家へ持っていくことも出来ません。そうすれ
ば伯爵家は間違いなく断絶。私達が伯爵を暗殺するのと結果が変わ
らなくなります﹂
﹁まぁ⋮⋮な﹂
これが一番の問題だ。
伯爵を殺してしまうのは良い。暗殺にしろ王家へ密告するにしろ、
伯爵を殺すだけなら幾らでも選択肢があるのだ。
だが、それではルピスが介入してくる余地を与えてしまう。
﹁いっそ、伯爵に鉱脈を譲ってしまい、我々に対して援助を約束さ
せる⋮⋮そして、伯爵の援助を受けている間に、こちらの体勢を整
える⋮⋮将来、伯爵を潰す為に。如何ですか?﹂
ローラの案は最善ではないが、現実的な提案である。
問題は、伯爵がこの提案を呑むかどうか。
﹁ワシはローラ殿の案に賛成いたす﹂
﹁そうだねぇ⋮⋮其れが現実的かもしれないねぇ⋮⋮しばらくは伯
916
爵に良い様にされて、アタイとしてはムカツクけどねぇ﹂
﹁そうでヤスね⋮⋮ですが、悪くないと思いヤス﹂
リオネ達が次々に賛同する。
︵悪くない⋮⋮これで時間を稼ぎ、こっちの体勢を整えるか⋮⋮問
題は伯爵が俺と手を組むかだ⋮⋮イヤ、組まないと言う選択肢はな
いか。向こうとしても王家の注目を引きたくないはずだ。正式に領
主である俺が許可を与えるとなれば、伯爵としても怯えずに済む⋮
⋮この利点は大きい。伯爵が乗ってくる可能性は大いにあるか⋮⋮
まぁ、大切な財源だが、俺達じゃそれを金に出来ない以上、拘って
も仕方がないか⋮⋮︶
亮真のなかで覚悟が決まる。
先ずは自分達が伯爵よりも力を持たなければならない。
それは単純な武力と言う意味ではない。経済、政治、そういった
部分での力だ。
﹁良いだろう⋮⋮時間稼ぎとしては悪くない⋮⋮後は其の時間を使
ってこっちの体勢を整えるだけか﹂
亮真の言葉を受けて、全員が頷いた。
﹁じゃあ、伯爵との取引は良いとしてだ。まず、何が必要だ?﹂
亮真の問いに、ローラがすばやく意見を述べた。
﹁まずは、信用できる商人を探す事でしょう⋮⋮食料物資の購入や、
将来的には塩の販売を任せる事も視野に入りますし⋮⋮狙うとすれ
ば、クリストフ商会かと⋮⋮ミストール商会に連合長の地位を奪わ
れ落ち目ですから﹂
917
﹁私も姉様と同じです。他の8商会はミストール商会の傘下に入っ
ているので、此処との取引は全て伯爵へ筒抜けになりかねないと思
います。唯一クリストフ商会のみが連合の中で独立を保っています
から、交渉の余地は十分にあるかと﹂
流石である。各商会の現状まで、既に調べ上げてきたらしい。
亮真は、自分を支えてくれる優秀な仲間に感謝するしかない。誰
もが、亮真を助けようと全力を尽くしてくれる。ただの若造でしか
ない亮真へ忠誠を誓ってくれる。
︵伯爵⋮⋮先ずはアンタに譲ってやる⋮⋮だが、最後に笑うのは俺
だ!︶
其の思いが、亮真の心を満たす。そして、彼の決意をさらに強固
なものへと変えた。
亮真は負けることが出来ない。彼の敗北は、自分に従う仲間達の
死と同じなのだから。
918
第3章第7話
西方大陸暦2812年8月9日︻半島へ︼其の7:
城砦都市イピロスの大通りを東に1Kmほど向かうと、10M近
くもある、高い城壁が見えてくる。王都の城壁にも匹敵するこの高
さが、この地の重要度を物語っていた。
交易も盛んなのだろう。大通りの道幅は20Mほど。ゆったりと
余裕を持たせた作りだ。
石畳で舗装された道の上を、大勢の人や荷馬車が行き交う。
通りに面した店はどれも大きく立派で、人の出入りも多い。
今は日中、それも15時頃である。商売をするにはまさに絶好の
時間帯と言えた。その証拠に、周りの店には人が群がり活気に満ち
ている。
そんな中。亮真達が見上げるその建物は、周囲の喧騒から切り離
されたかのように、ひっそりとたたずんでいた。
建物の大きさは周囲の店と比べても格段に大きい。石を組み上げ
て作られた頑強な建物。
店の看板も、上質なオーク材を使用した一品である。まさに、伝
統と格式を兼ね備えた店と言って良いだろう。しかし、それも客が
居なければ虚しいだけ。
立派な外見に、細部にまで行き届いた手入れをしていながら、そ
の建物には、何処か薄汚れた影の様なものが付きまとっていた。
﹁ここか⋮⋮なるほどねぇ⋮⋮こりゃかなり目の敵にされている感
じだな?﹂
919
亮真の眼が、周りの店と目の前の店とを見比べる。
周囲の喧騒を余所にクリストフ商会の前だけが、人影すら無いの
だ。まるで両者の間には見えな壁が有るかのように。
大通りに面し、東の城門からもほど近い。本来なら、交易品を
満載した荷馬車が密集していても不思議ではないはずなのだ。
なのに、現実は全く違う。
立地条件からすれば、これはかなり不自然な現象だ。まるで誰か
の悪意が、この店を覆い隠しているかのように、人々はこの店の存
在を無視し続けている。
しつよう
﹁はい。ミストール商会の執拗な嫌がらせを受けて、店の経営はガ
タ落ち。客もミストール商会の圧力に耐えかねて、クリストフの店
から手を引いています﹂
﹁私と姉様が調べた結果ですと、残っている大口の顧客は殆ど有り
ません⋮⋮それでも、この商会がなんとか保っていられるのは、会
長の一人娘、シモーヌ・クリストフの卓越した経営手腕に因るとこ
ろが大です﹂
既に、マルフィスト姉妹の調査に因って、クリストフ商会の現状
は把握できていた。
﹁ふ∼ん⋮⋮女性なのにやり手なんだな﹂
亮真の言葉にローラは頷くと、説明を続ける。 ﹁はい。寝たきりになった父親の代わりに商会を切り盛りしていま
す﹂
﹁寝たきりねぇ⋮⋮病気かい?﹂
920
﹁サーラが周辺の人間に聞き込んだ話ですと、連合長の地位を奪わ
れた後、急速にボケたと﹂
最前線でバリバリ仕事をしている人間にはよくある話だ。
恐らく、連合長として仕事をしてきた重圧がいきなり無くなり、
気が抜けたのだろう。
しかし、それはあくまで噂での事。事実はこれから本人へ聞いて
みるしかない。
ただ、原因が何であれ、父親が倒れ、娘のシモ︱ヌが商会を切り
うと
盛りしている事は事実だった。
﹁成程ね⋮⋮ミストールには疎まれ、親父さんは頼りにならない⋮
⋮うん、交渉の余地は十分にあるな﹂
亮真は一人呟くと、冷たい笑みを浮かべた。
彼が欲しいのは使える手駒だ。圧倒的に不利な状況である今、形
振り構ってなどいられないのだ。
例えそれが、シモ︱ヌの弱みにつけ込む様な事であっても。
﹁では亮真様。そろそろ約束のお時間ですので﹂
サーラはそう言うと、店の扉を開く。
亮真は姉妹を後ろに引き連れ、クリストフ商会の中へと足を進め
た。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
亮真達の前に広がるのは、エントランスホール。
921
足下の真っ赤な絨毯が、やわらかく亮真達を出迎える。店といっ
ても、この建物は商談にだけ使われるようだ。
調度品の質と言い、伯爵邸となんら遜色はなかった。
唯一違うところがあるとしたなら、それは、品物の統一感かもし
れない。
単純に高い安いではなく、品良く、そして年月を感じさせる配置。
伯爵邸も決して成金趣味ではなかったのだが、こちらと比べれば
残念ながら役者が違った。
﹁ようこそおいで下さいました。御子柴男爵閣下。ただいま、商会
長代行のシモ︱ヌが取り込んでおりますので、恐れ入りますが客室
にてお待ちいただけますでしょうか?﹂
そういって、中年の男が亮真達を出迎えると、頭を下げた。
歳の頃は40代半ばといったところか。陽に焼けた黒い肌が白い
ワイシャツのそで口から覗く。
柔和な感じの男だが、眼の光り方が普通とは違う。そして、彼の
体からは何処となく潮の匂いを発していた。
﹁解った。では待たせて貰うよ⋮⋮案内してもらえるかい?﹂ 案内に従おうと足を踏み出した亮真に、男が待ったをかける。
﹁恐れ入りますが閣下。御腰の物を御預かりしても宜しいでしょう
か? そちらのお付きの方も同様に願います﹂
﹁剣を預けろというの!?﹂
ローラは叫ぶと、サーラと共に剣の柄を握り締める。
922
男の言葉はかなり無礼な要求である。
商人が客である貴族に対して、武装解除を求めるなど、そうは無
い。
﹁我が商会の規則でございますので⋮⋮恐れ入りますが会長代行に
お会いになられるのならば、どうか﹂
言葉づかいは丁寧だが、彼の体からは一歩も引かない!と言う信
念が感じられる。
単に商会の規則と言うだけでは無いのだろう。
︵何か目的が有っての事か⋮⋮そうか暗殺を警戒しているのか⋮⋮
こっちを信用していないんだな⋮⋮まぁ、仕方が無いか。彼女達か
らすれば伯爵の仲間が訪ねて来たようなものだから⋮⋮︶
亮真とザルツベルグ伯爵の関係は、外から見れば同じ貴族の仲間
という事になる。
事実がそうであるかは問題ではない。問題なのは、シモ︱ヌ達か
ら見て亮真が伯爵の仲間に見えると言う事だけだ。
﹁良いだろう⋮⋮ローラ! サーラ!﹂
亮真の声に従い、姉妹が腰から剣を外して男へ手渡す。
姉妹としては、信用できない人間と会うのに、丸腰と言うのは不
安であったが、主の言葉だ。
﹁そうか⋮⋮ならば、コイツも不味いよな? アンタに預けておく
よ﹂
亮真は腰の刀を男に手渡すと、腰にぶら下げた革の袋を外す。
﹁ほぅ⋮⋮これはまた⋮⋮﹂
923
チャクラム
差し出された袋を覗き込み、男の目が細まる。
袋の中に入っていたのは、戦輪。投擲武器としてはかなりの威力
を誇る。
ただし、貴族が持ち歩くような武器ではない。
男の目が亮真達を射抜いた。
時間にしたらホンの数秒だろう。男は亮真から視線を逸らすと、
丁寧に頭を下げ、階段へと足を掛けた。
﹁では⋮⋮どうぞこちらへ。2階の客室へご案内いたします﹂
チャクラム
どうやら、戦輪を自分から差し出したことが好印象になったよう
だ。
亮真は、軽く頷くと男の後に付き従い、階段を上っていく。
﹁では⋮⋮こちらでお待ちください。まもなく、シモーヌが参りま
す﹂
階段を上がって一番手前の部屋へ亮真達を案内すると、男は再び
頭を下げて退室していく。
﹁どう思う?サーラ﹂
亮真は姉妹にギリギリ聞こえる程度まで、声を小さくして尋ねた。
部屋にどんな仕掛けがあるか判らないのだ。盗聴の可能性だって
考えられた。
﹁かなりの使い手ではないかと⋮⋮それと気になるのは、あの陽に
焼けた肌⋮⋮﹂
924
サーラの言葉にローラは軽く頷く。
誰もが、あの男に注目していたのだ。彼の目つきも動作も商人と
はとても思えない。
明らかに、戦う術を持つ人間の挙動だ。
﹁何処となく潮の匂いを感じさせる人ですね⋮⋮ザルツベルグ伯爵
領には海が無いはずですが⋮⋮﹂
﹁ローラの言うとおりだな。俺もそれは感じた⋮⋮単に他の町から
流れてきただけか⋮⋮それとも?﹂
考えられる可能性はいくつもある。だが⋮⋮
﹁まぁ、今は考えても仕方がない⋮⋮まずは、シモーヌと話をする
事が先決だからな﹂
コンコン
亮真の言葉を待っていたかのように、部屋の扉が控えめに叩かれ
た。
﹁よろしいでしょうか?﹂
若い女の声だ。穏やかな、そして、その奥にシンの強さを感じさ
せる様な声。
﹁どうぞ﹂
亮真の言葉に従って、扉が開かれ一人の女が部屋の入り口で、丁
925
寧に膝を折った。
彼女は栗色の髪を丁寧に結い上げ、銀の髪飾りで留めている。
絹のドレスは、薄い水色に染められ、品のよさと涼しげなイメー
ジを演出している。
﹁失礼いたします⋮⋮お待たせいたし申し訳ございませんでした。
わたくし
御子柴男爵閣下であらせられますね? お目通りが適い恐悦に存じ
ます。私が当クリストフ商会の代表代理を務めております、シモー
ヌ・クリストフでございます﹂ 流石に、落ち目とはいえ元、商会連合の長を務めた男の娘だ。
完璧なまでの礼儀作法と、謝罪の言葉だろう。
流れるような動作には、気品が漂っている。
︵ふぅん⋮⋮伯爵夫人と良い勝負って所か⋮⋮︶
亮真は、先日あったばかりの伯爵夫人と目の前のシモーヌとを比
べてみた。
どちらも、共に美しい。だが、両者は全く真逆の美しさを誇って
いた。
婦人の方は、いうなれば華美。
計算された豪華な宝石とそれに負けないだけの美貌。
暴力的なまでに強い自己主張。
それに対して、目の前のシモーヌはまさに清純。
透き通った白い肌に、丁寧に手入れをされた艶やかな髪。
最小限に抑えられた装飾品。
どこか控えめで、おとなしい感じを受ける。
例えるなら、バラとユリと言った感じだろうか。
だが、亮真はその穏やかな顔の下に隠された、獰猛な獣の気配を
敏感に感じ取っていた。
926
何より彼女一人でこの部屋に来たところから気に喰わない。さっ
きの男が護衛として付き添うものだとばかり思っていたのだ。
︵こりゃぁ⋮⋮一筋縄じゃいかないかもしれないな⋮⋮︶
﹁あのぉ⋮⋮お加減でも?﹂
無言のまま立ち尽くす亮真へ、シモーヌは遠慮がちに尋ねた。
﹁あっと⋮⋮失礼しました。私は御子柴亮真。本日は急にお尋ねし
て申し訳ない﹂
﹁いえ。御気になさらないでくださいませ⋮⋮男爵閣下は、大切な
お客様なのですから﹂
予約を入れたのは今日の午前中。
礼儀を守っているとはいえない訪問であったのだが、シモーヌは
不快な表情など微塵も出しはしなかった。
穏やかに微笑むのみだ。
﹁それはありがたいお言葉⋮⋮本日、こちらにお伺いした甲斐があ
ると言うものだ﹂
シモーヌが亮真の向かいに腰を下ろしたのを待って、亮真が話し
始めた。
﹁まぁ! 嬉しいお言葉ですわ⋮⋮ですが、今、私共の商会は立て
込んでおりまして⋮⋮正直に言って何処まで男爵閣下のご期待に答
えられるか⋮⋮ご存じないかもしれませんが、今、私の父であり、
商会長を勤めるルイズ・クリストフが病に冒され、意識がありませ
ん。その為、私が若輩の身ではありますが代理を務めている次第で
927
す﹂
﹁ほぉ⋮⋮意識不明ですか⋮⋮町の噂では連合長の座をミストール
商会に奪われ、ボケてしまったと聞きましたが?﹂
亮真は、ワザと相手を怒らせるように、皮肉な言い方をして挑発
した。
相手の出方を見るためだ。
﹁そうですか⋮⋮ご存知だったのですね⋮⋮男爵閣下がそれをご存
知とは⋮⋮数日前にイピロスへ入らしたばかりなのに。さぞ優秀な
部下をお持ちなのですね? それも当然ですわね。男爵閣下のご活
躍を考えたら⋮⋮イラクリオンでの閣下の策略を見ても、閣下が情
報の重要性を理解されていることは明白ですわ。あれは素人である
私から見ても、独創的で斬新な策略⋮⋮あのような策を考え付かれ
た閣下の智謀は、恐るべきものですわ﹂
悠然と微笑むと、シモーヌは穏やかな視線を亮真へ向ける。
其処には、無理をして怒りを押し殺しているような気配が微塵も
ない。
逆に、亮真方へ切り返してくる余裕が有る。
﹁ほぅ⋮⋮イラクリオンでのことをご存知とは⋮⋮ひょっとして私
がこちらを訪ねることを予想されてましたか?﹂
亮真は探るように、悠然と微笑むシモーヌを見つめる。
アース
大地世界の情報伝達手段は限られている。
TVもラジオもインターネットもない世界だ。精々、伝書鳩か手
紙を出すくらいで、後は人づてに伝わる噂話がいいところだ。
928
それを考えると、情報の大切さが判る。
そして、シモーヌは亮真がイラクリオンで行った情報操作を知っ
ていた。
それは、単純に亮真がルピス女王を勝利に導いたと言う話を知っ
ているのとは訳が違う。
現地へ行って、詳細に調べなければ知る筈のない内容なのだ。
それを知ると言うことは、シモーヌがただの金持ちの娘であるは
ずがない。
﹁そうですわね⋮⋮正直に言って5分5分と言うところかしら。閣
下程の智謀をお持ちならば、ザルツベルグ伯爵の思惑を読むとは思
っていましたわ⋮⋮ですが、イピロスにいらして数日で私のところ
にお出でになるとまでは予想していませんでした。最悪、こちらか
ら働きかけなければと思っていましたから﹂
﹁なるほど⋮⋮なら私のおかれた状況はご理解いただけていると?﹂
シモーヌは亮真の問いを聞いても、全く表情を変えない。
﹁無論ですわ。閣下のおかれた状況もルピス陛下の思惑も、それに
ザルツベルグ伯爵のことも⋮⋮ね。⋮⋮あらイケナイ! 私とした
ことが、お客様にお茶もお出ししていませんでしたわ 誰か誰か!﹂
そういうと、彼女は手を叩いてメイドを呼びお茶を頼んだ。
まるで、これから友人同士でお茶会でも開くかの様に。
929
第3章第8話
西方大陸暦2812年8月9日︻半島へ︼其の8:
メイドが用意した紅茶を見たとき、亮真の目が細まる。
﹁さぁどうぞ。キルタンティア特産の葉を使用したものですわ﹂
丁寧に処理された最高級の茶葉。それを、高い位置からポットへ
と注ぎ込み、ジャンピングと呼ばれる、茶葉の対流を引き起こした
ときにのみ開かれる芳醇な香。
茶請けとして添えられたクッキーの甘味の抑え方と言い、まさに
職人芸と言える。
﹁これは⋮⋮美味い! 茶葉の質も最高だが、淹れ方が完璧だ!そ
れにクッキーの甘さも丁度良い⋮⋮これを用意した方は熟練の域に
達していますね﹂
別にどこかの食通のように産地まで当てることは出来ないが、亮
真の舌は肥えている。
彼の祖父が非常に道楽者な所為だ。
まぁ、そういったことを抜きにしても、美味い物は誰が食べても
美味い。
実際、横でカップに口をつけた姉妹は驚きで眼を見開いていた。
﹁まぁ! お分かりになりますの? 男爵様はとても教養がおあり
なのね﹂
930
シモーヌが感心したように笑顔を浮かべる。
﹁教養ですか? まぁ、美味いか不味いかの判断がつく程度ですか
ね﹂
リアース
﹁そう⋮⋮裏大地は、さぞかし豊かなのでしょうね﹂
亮真は心の動揺を必死でこらえた。ここで、彼女の言葉を肯定す
るわけには行かない。
︵この女⋮⋮何処まで知ってやがる?︶
﹁何の事でしょうか?﹂
亮真は顔色を変えずにそう尋ねた。
﹁別に隠す必要はありませんわ⋮⋮男爵閣下の其の智謀⋮⋮それは、
ただの平民では決して持ち得ないものです。となれば、貴族と言う
ことになりますが、男爵閣下の過去はどれだけ探っても出てきませ
んでした。8月ほど前にギルド登録をされるまで、一切の情報が。
本来、そんなことはありえません⋮⋮例え確証こそつかめなくても、
それなりに調査できるだけのものを私の情報網は持っております。
仮に、対象が王族の隠し子であったとしてもです。それなのにアナ
タの過去は何も出てこない⋮⋮それこそ⋮⋮いきなりこの世界に現
れない限り⋮⋮ね。そして、男爵様がギルドに登録されたのはオル
トメアの帝都。おそらくオルトメアに召喚されたのでしょう?﹂ とぼ
﹁なるほど⋮⋮そこまで知られていたら、惚けるのは無理みたいで
すね﹂
亮真は諦めの表情を浮かべる。
931
︵クソッ⋮⋮こりゃぁ最悪、殺すしかないかな⋮⋮あんまり女は殺
したくないんだけどな⋮⋮︶
別にフェミニストを気取るつもりはない。だが、喜んで女性を殺
すような歪んだ性癖を亮真は持ち合わせては居なかった。
︵しかし⋮⋮大したもんだ⋮⋮彼女の情報網ってのは⋮⋮︶
亮真の過去を調べられなかった。だから、彼女は亮真を、異世界
から召喚された人間だろうと予想したのだろう。
それはつまり、彼女が自らの持つ情報網に、絶対的な信頼を置い
ていると言う事に他ならない。
﹁えぇ⋮⋮ですが正直に言って本当に異世界人だとは思いませんで
ギアス
した。可能性は高いと思ってはいましたが⋮⋮普通は、逃亡されな
いように召喚されて直ぐに拘束の術を掛けられるものですから⋮⋮﹂
﹁なるほど⋮⋮ね。それでどうします? 俺と敵対しますか?﹂
亮真の体から殺気が迸った。
無論、これは脅し。本気で殺すつもりなら、無言のまま彼女の喉
に貫手を叩き込んでいる。
それは、シモーヌも理解しているのだろう。亮真から発せられた
殺気をまともに浴びている筈なのに、彼女は身動き一つしない。
﹁いいえ⋮⋮其のつもりはありません。このお話を正直にしたのは
私達の情報網の価値を知って頂きたかったのと、私達が、男爵様に
敵対するつもりがないという証としたかったからです﹂
確かに、自分達が得た情報を相手に正直に話すと言うのは、敵意
のない証と言える。
もしシモーヌに敵意があれば、それを正直に亮真へ伝えることは
しないだろう。
932
﹁なるほど⋮⋮お互い腹を割って話すべきのようですね﹂
亮真は、殺気を収める。
﹁流石ですね⋮⋮あまりに強くて、身動きすら出来ませんでした⋮
⋮﹂
﹁其の割には余裕があるように見えますけど?﹂
﹁男爵様が本気でない事を知っていましたから⋮⋮﹂
シモーヌの顔が悪戯っ子のような怪しい笑みを浮かべた。
﹁なるほど⋮⋮だが、壁の中で息を殺している人間はそう思ってい
ないみたいだな⋮⋮気配を感じるぜ?﹂
﹁仕方ありません。ミストールの手の者が暗躍していますから⋮⋮
私の身を案じてのことです。どうか私に免じてお見逃しください﹂
そういうと、シモーヌは深々と頭を下げた。
それに伴って、壁を通して感じた強い気配が消える。
﹁さっき俺達を案内した男か?﹂
﹁はい。彼は私の側近兼護衛です⋮⋮そうそう、剣を預かった事も
お詫びしなくては﹂
﹁別にかまわないさ。身辺警護にそれくらい気を使う人間の方が、
組む側としても安心できるからな﹂
933
亮真の言葉を聞き、シモーヌは苦笑するとソファーに座りなおす。
﹁では、商談の方を始めましょう。男爵様のご要望はこちらでもあ
る程度は把握しています。ウォルテニア半島で自給自足が出来るま
での期間、イピロスから食料物資の購入を考えておられる。いかが
ですか?﹂
シモーヌの表情はにこやかなままだ。しかし、商談に入ってから
の彼女の気配は一変した。
鋭く、研ぎ澄まされた刀のような鮮烈な気配。
﹁あぁ⋮⋮それと、将来的には半島に港を作り、交易を考えている。
クリストフ商会には、今後、我々の専属として物資の調達や、交易
品の販売を任せたい﹂
亮真の言葉に、シモーヌの表情が動く。
彼女も其処までの計画とは考えていなかったのだろう。
﹁それは⋮⋮壮大な計画ですわ⋮⋮それが実現できれば、半島は非
常に豊かな財源を得られます⋮⋮それも、半恒久的な枯れることの
ない財源を⋮⋮その手助けを私共に任せると?﹂ シモーヌの声は震えていた。それも無理はない。
亮真の話が実現すれば、それを手助けしたクリストフ商会には、
巨万の富と他の商会とは比べ物にならないほどの特権を与えられる
ことになる。
力のない商人なら、はなから実現不可能だと笑い飛ばして相手に
しないような計画。だが、シモーヌの脳裏には、ウォルテニア半島
に作られた港の姿がはっきりと浮かんだ。
934
﹁ただ、それをするためには相当な時間と金が掛かる⋮⋮それに、
途中で降りることも出来ない。つまり、資金を出すなら俺達は一蓮
托生ってことになる﹂
亮真の話は、あくまでも将来の話。
其処に行き着くためには、半島に町を作り、交易路を確保する必
要が有る。
何年後に!と言うような話ではないのだ。
もし、亮真の話に乗るのならば、クリストフ商会の運命を亮真へ
賭ける必要が有る。
だが、シモーヌの中では、既に結論は出ていた。
いや、亮真がもし何も言わなければ、彼女の方から資金提供を申
し出る予定だったのだ。
﹁結構ですわ⋮⋮私は初めから其のつもりでしたし⋮⋮まぁ、此処
まで大きな話になるとは思いませんでしたが⋮⋮﹂
﹁なるほど⋮⋮やっぱりギリギリだったんですね?﹂
亮真は探るような目つきでシモーヌを見つめた。
店はキチンと手入れをされているし、長年受け継がれて来たであ
ろう高価な調度品もそのままだ。
見た目だけならば、クリストフ商会はとても経営危機に瀕して居
るようには見えない。
しかし、そんなはずがないのだ。
取引先をことごとく奪われ、新規の顧客すら開拓できない商会に
未来はない。
﹁えぇ⋮⋮商会の資産がありますので、直ぐに潰されると言う事は
935
ないのですが、このままの状態なら、保って3年が良い所でしょう。
私達はそれまでに決断しなければなりませんでした。イピロスを捨
て、新天地を求めるか、伯爵とミストール商会に対抗できるだけの
力をつけるか⋮⋮﹂
﹁なるほど⋮⋮なら、もう少し話し合う必要がありますね﹂
亮真の言葉にシモーヌが頷く。
﹁えぇ⋮⋮もう少しお互いを詳しく知る必要がありますわ﹂
亮真の目的と将来の展望は語った。
後は、それを実現できるだけの力があると、シモーヌに認めさせ
る事。
そのためには、亮真の力を示さなければならないのだ。
﹁ところで、何故キルタンティアの茶葉が手に入るんです? キル
タンティアといえば大陸西部の大国。海路にしろ陸路にしろかなり
日数がかかる筈ですが?﹂
クリストフ商会の現状を説明された後、亮真は先ほどから気にな
っていた疑問をシモーヌへぶつける。
遠くから運ばれたものは高い。運送代が値段に反映されるからだ。
経営難であるクリストフ商会が態々高価な茶葉を使った。
それもキルサンティア産を。其処に亮真は隠された意図を感じた
のだ。
﹁お気づきになられましたか⋮⋮今回お出しした茶葉は先日、フル
ザードから取り寄せたものです﹂
936
そういうと、シモーヌは卓上に地図を広げた。
﹁ミスト王国にある交易都市フルザードはご存知ですか?﹂
﹁えぇ。一度行った事があります﹂
亮真の言葉にシモーヌは頷くと、地図の左端を指差す。
﹁お出しした茶葉はキルタンティアの国でも最高級の物。他国でも
非常に高値で取引される一品です⋮⋮この茶葉は此処、キルタンテ
ィア北西部の都市で生産されています﹂
彼女が指差したのは、海岸線から少し離れた山岳部の都市だ。
﹁此処で生産された茶葉は、近くに有る交易都市ロルカーナへと運
ばれ、船で東部まで輸送されることになるのです﹂
そういうとシモーヌの指が、ロルカーナから大陸の南をグルリと
回ってフルザードまで移動する。
ロルカーナの位置は、キルタンティア北西の隅だ。明らかに、遠
回りをしているようにしか見えない。
実に、西方大陸を3分の2周近く航海していることになる。
亮真は訝しげにシモーヌを見つめた。
﹁お気づきになられましたか⋮⋮﹂
﹁何でこんな遠回りを⋮⋮いや、待てよ! そうかウォルテニア半
島か!﹂
937
﹁其のとおり。遠回りの理由はウォルテニア半島です⋮⋮この地が
北周り航路が使えない、最大の理由です﹂
海賊達が出没する前から、北周り航路は船乗り達に忌避されてき
た。
理由は簡単だ。半島には補給港が一切ない。
モンスター
人が居ないのだから当然だが、其の所為で、緊急時に一切の手助
けが期待できないのだ。
海は何が起こるかわからない。
沿岸部とはいえ、海に生息する怪物も存在するし、嵐に遭遇する
事だってありえる。
何かの弾みで舵が壊れる事だって考えられるのだ。
そういった場合に、半島へ上陸して修理や救援を待つと言う選択
肢が取れないのだ。
通常の船で半島を越えるには7日∼10日ほど掛かる。
その間の危険度を考えれば、船乗り達が北周り航路を選択しない
のも当然だった。
﹁しかも、今は海賊が根城にしています。当然北周り航路は廃れま
した⋮⋮ですが﹂
﹁逆に言えば、ウォルテニア半島に補給港を作り、海賊を抑えられ
れば⋮⋮大きな利益になるって事だな⋮⋮シモーヌ、あんたはこの
話をしたくて態々キルタンティア産のお茶を出したって訳か⋮⋮初
めから半島に港を造るつもりだったんだな?﹂
﹁はい⋮⋮半島に港が出来れば、キルタンティアだけではありませ
ん。エルネスグーラや他の大陸とも貿易が可能です⋮⋮半島はまさ
に宝の山に変わります﹂
938
シモーヌの目が妖しく光る。
まさに、彼女は賭けていたのだ。亮真の智謀と発想に。
﹁なるほど⋮⋮俺がアンタを試したんじゃない⋮⋮アンタが俺を試
したんだな?﹂
今回の会談は、彼女の計画を理解し、力を貸してくれるかどうか
を見定める場だったのだ。
そして、もし亮真が愚か者だったら、彼女はイピロスを離れる覚
悟だったのだろう。
﹁正直に言って、男爵様が其処まで優れた方だとは思いませんでし
た。まさか、私と同じようなことを考えていたなんて⋮⋮ですが。
それならば私もクリストフ商会を賭ける決心がつきます﹂
﹁合格ってことか?﹂
亮真の言葉にシモーヌは穏やかに微笑むと右手を差し出した。
﹁勿論ですわ。是非とも我がクリストフ商会にお力をお貸しくださ
い﹂
彼女の笑みは、厳しく、そして美しい。
それは戦う覚悟を持ったものだけが持つ、気高い戦士の顔だった。
939
第3章第8話︵後書き︶
940
第3章第9話
西方大陸暦2812年8月9日︻半島へ︼其の9:
﹁ほう⋮⋮主殿を試すですか⋮⋮若い女の身で商会を率いているだ
けあって、キレ者だったようですな⋮⋮しかし、主殿の事を其処ま
で綿密に調査するとは⋮⋮侮れない情報網をお持ちのようだ。敵に
回すと厄介な事になりますな﹂
亮真とシモーヌの会談結果を聞いた厳翁の眼が細まる。
主である亮真を試したシモーヌに対する、厳翁の評価は高いらし
い。
単純に忠誠だけを誓う人間だと、こうは行かない。そういう人間
は、主を試すとは不届きな奴!と言う評価をしがちだが、流石にこ
の場に居る人間でそんな態度をとる奴はいなかった。
﹁まぁ、今のところ彼女が俺達の敵に回る可能性は、まずないと思
って良い。クリストフ商会がイピロスに残る事を選択する限り、彼
女には俺がどうしても必要だ。ウォルテニア半島の領有権を持つ俺
がね⋮⋮まぁ、そう言ってもだ、何時状況が変わるか判からないか
らな。厳翁、注意だけはしておいてくれ﹂
﹁かしこまりました⋮⋮しかし彼女の情報網は大したものですな⋮
⋮恐らく商人達を使ったものだと思いますが?﹂
﹁そうみたいだな。歴史ある商会なだけに国内外に協力関係を持つ
商会がいくつかあるらしい。そう言ったところから定期的に伝書鳩
が往復して情報交換をするって訳だ﹂
941
﹁歴史ある商会の強みと言う訳ですな⋮⋮そうやって得た情報を整
理して、詳細な情報は現地へ人をやって調べると言う事ですが﹂
﹁あぁ、交易の為の商隊を派遣して調べるらしい。⋮⋮今後は厳翁
とも連携してもらうからそのつもりでいてくれ⋮⋮聞いた限りじゃ、
自衛は出来ても戦い専門って訳じゃ無いらしいからな﹂
﹁ならば、彼らと共に影から主殿を御支えする事に致しましょう﹂
大人数を使って広範囲の情報取得ならば、シモーヌ達の方が上。
だが、拷問や盗み、後方撹乱と言った仕事に関しては厳翁達の方が
専門。
お互いの長所を上手く組み合わせる事が出来れば、強力な諜報組
織となる。 厳翁も、自分達の価値が下がるわけではないと聞いて、何処か安
堵しているようだ。
普段、冷徹な表情を崩さない彼の顔に、穏やかな笑みが浮かんで
いた。
﹁まぁ何にしても、話し合いが済んでよかったんじゃないかい? 予定外で優秀な諜報組織の協力も取り付けられた。これで食料物資
の購入はクリストフ商会に任せちまうんだろう? 坊や﹂
﹁いや⋮⋮少なくても直ぐにクリストフ商会と取引を始めるつもり
はない﹂
﹁え? どういうことだい!? 取引を始める為にさっき話し合い
に言ったんだろう? クリストフ商会と取引しないって言うなら、
一体何処から物資を買う気だい?﹂
942
リオネが驚きの声を上げるのも当然だった。
伯爵の息のかからない商会を求めていたのだ。そして、念願のク
リストフ商会と協力の約束を取り交わしてきた。それなのに亮真は
クリストフ商会と取引をしないという。
イピロスに商会は残り9つ。
しかし、ミストール商会を筆頭にザルツベルグ伯爵の側に組する
商会ばかりなのだ。
﹁勿論、ミストール商会からさ⋮⋮まぁ、それもこれもさっきシモ
ーヌと話して決めたんだけどな⋮⋮今の段階でクリストフ商会と俺
達が表だって連携するのは不味い。伯爵を刺激するだけだろ? ﹂
亮真の言葉に、誰もが納得の表情を浮かべた。
ザルツベルグ伯爵にしてみれば、自分が嫌っているクリストフ商
会に亮真達が取引をすれば間違い無く危機感を募らせる。
なぜ、態々自分に敵対している商会と取引をする?自分に反攻す
る気なのか?と疑われてしまう。
亮真達にとって、あまり得となる選択ではないのだ。
だから、亮真とシモーヌは、協力を確約した後の話し合いで、伯
爵側から圧力が掛けられるまでは何食わぬ顔で、ミストール商会と
その傘下の店と取引することにした。
その代り亮真は伯爵側から洩れる情報をシモーヌへ流し、シモー
ヌは近い将来、伯爵が亮真へ圧力を掛けてくる時の為に備える。
それに、亮真を成り上がりと侮るザルツベルグ伯爵なら、亮真が
這いつくばって頼み込めば様々な便宜を図ってくれるだろう。
伯爵には、岩塩の鉱脈を横領していると言う弱みがあるのだから。
﹁成程⋮⋮確かにその方が安全ですな⋮⋮﹂
943
﹁そうでヤスね﹂
亮真の知恵袋二人は共にこの話に賛意を示す。
﹁まぁ、坊やらしい策なんじゃないかい? 特に伯爵を利用できる
だけ利用しようってところがねぇ﹂
リオネは何処か、からかうようにそう言って笑った。
アース
相手を油断させ、一撃で始末する。効率を重視し、無駄な見栄を
張らない。大地世界では卑怯と呼ばれる手段も、平気な顔で選択で
きる人間。
敵に回すと一番恐ろしいタイプの人間だ。
﹁ですが亮真様⋮⋮ミストール商会と会う前にクリストフ商会に出
向いた事⋮⋮伯爵側にばれてしまっていませんか?﹂
サーラが不安げに亮真へ視線をむける。
﹁まぁ、シモーヌの話だとクリストフ商会の建物にはびったり見張
りが張り付いてるらしいしな⋮⋮俺がシモーヌと面会した事は誤魔
化せないだろうね﹂
﹁では、どうされるおつもりですか?﹂
﹁正直に言うさ。必要な物資の購入を頼みに行って断られたって⋮
⋮そこでザルツベルグ伯爵に泣きつくってわけさ。ミストール商会
を紹介してくれってね﹂
初めから伯爵へ頼みに行かなかったのは、伯爵にご迷惑を掛ける
944
わけにはいかないと遠慮した為。
初めにクリストフ商会を訪ねたのは、単純に店が暇そうだったか
ら。
そこで、購入を断られ、イピロスの力関係を知った亮真が、慌て
て伯爵に泣きつく。
別にクリストフ商会と取引をしようとしたわけじゃありません。
自分達は、伯爵の意向に逆らうつもりは無いのです⋮⋮と。
シモーヌや厳翁から聞いた伯爵の人物像は、彼の感じた違和感と
も一致している。
先日、亮真を歓待した伯爵の人の良さは演技なのだ。
傲慢で、特権意識が強く、他者を見下す。
そう言った伯爵の性格を考えれば、亮真が正直に泣きつけば優越
感を満たされ、彼の思考は其処で止まる。
自分が、亮真に騙されるなど思いもつかないだろう。
﹁なるほど⋮⋮伯爵の性格まで計算しているわけですか﹂
﹁相変わらず若は恐ろしいでヤス⋮⋮﹂
何処か呆れた様な口調で知恵袋二人がため息をついた。
﹁上手なウソってのは真実に嘘を混ぜるっていう事さ⋮⋮これで、
伯爵の油断を誘い、彼の援助を引き出す。後は、必要が無くなるま
でしゃぶりつくすだけさ﹂
そう言うと、亮真は冷たい笑みを浮かべた。
ザルツベルグ伯爵の油断を誘う計画なのだ。伯爵と戦う為に⋮⋮
945
﹁物資の方はそれで良いとして⋮⋮後は住民をどうするかですなぁ﹂
厳翁が困ったような声をあげた。
傭兵雇用の問題と、物資の購入に関してはとりあえず目途が付い
た。
残っているのは、住民の問題だ。
﹁それかぁ⋮⋮みんなは案が有るか?﹂
ハッキリ言って、これは非常に頭の痛い問題だった。
そもそも、住民を移住させるというのは難しい。
近隣の村や都市に立て札を立てて、移住希望者を募ったとする。
だが、ウォルテニア半島などと言った未開の大地に、誰が好き好ん
モンスター
で移住するだろう。
強力な怪物達が徘徊し、亜人の集落があり、海賊達が根城にして
いる大地。
ある程度開発されているならともかく、全く手の付いていない土
地だ。多少、税金を優遇する程度では誰も希望しないだろう。
それに、もう大きな問題がある。元の土地を治める貴族達だ。
税を納めるのは自分の領地に住む平民達。その住民を移住させれ
ばどうなるか?税を納める人間の数が減れば、貴族に入る収入が減
る。
彼らはルピスに不満を訴えるか、実力行使をするかのどちらかを
選択するだろう。
そして、どちらを選択されても、亮真は終りだ。
将来的にはともかく、現状はその辺の弱小貴族にすら劣る存在な
のだから。
亮真の言葉に誰もが黙り込み、解決手段を模索する。
彼らも、亮真と行動を共にする間に、独創的な発想と言うものを
946
アース
会得した。
大地世界の常識を無視した発想。それこそが、現状を打ち破るカ
ギになる。
﹁一つ⋮⋮お金が掛りますが、今後、恒久的に住民を増やせます⋮
⋮それに、貴族達からの反発も考えなくてよい方法です﹂
サーラへ周りの眼が集まる。
彼女の言葉は、今の亮真達にとってかなり都合のよい話だ。いや、
都合が良過ぎるといってよい。金で解決できると言う事は、亮真達
の都合だけで決められると言う事だ。
欲しいときに金が許すだけの住民を得られる。そんな都合の良い
話があるのだろうか?
﹁この町の裏通りには奴隷商人がいくつも店を開いています。其処
から労働奴隷を買うのはいかがでしょう?それならばこちらは奴隷
を購入する代金だけで済みます。法術はどちらにしろ一般人では習
得していませんから、私達で教育しなければなりません。ならば、
他の貴族領から住民を引き抜いて恨みを買うより、奴隷を買う方が
ずっと安全なのではないでしょうか?﹂
サーラの言葉に誰もが、すばやくメリットとデメリットを比較す
る。
最も初めに沈黙を破ったのは厳翁だった。
﹁悪くありませんな⋮⋮気になるのは、買われた奴隷が主殿へ反旗
を翻す可能性ぐらいですか⋮⋮﹂
﹁厳翁殿の懸念ももっともですが、そもそも、資金的にも厳しくは
アリヤセンか?﹂
947
﹁おそらく、労働奴隷ならば其処までの高値にはなりますまい⋮⋮
それに、一度に購入すれば値引きの交渉も可能でしょう⋮⋮金の方
は何とでもなりましょう﹂
一度にまとめて購入すれば、奴隷一人辺りの金額を交渉して値引
きすることが出来る。
今後、定期的に購入すると言うことにすれば、奴隷商人達も無下
にはしない。
決して、悪い話ではない。
﹁でも、反乱のほうはどうする気だい? 金の方は何とかなるとし
て、果たして奴隷が亮真の民になるのかい?﹂
﹁それは奴隷身分の解放と引き換えにすれば問題ないのではないで
しょうか?﹂
サーラの言葉にリオネが訝しげな視線を向けた。
﹁はぁ? 金を出して奴隷を購入して、解放するって言うのかい?﹂
﹁はい。私もお姉様も元は戦奴隷⋮⋮それを亮真様に解放して頂き
ました。私達姉妹は亮真様へ絶対の忠誠と献身を奉げておりますが、
もし、奴隷身分のままだったら⋮⋮﹂
今の様な忠誠心はもてなかっただろう。
サーラが言わなかった言葉の続きを誰もが理解した。
誰だって、奴隷のまま主に忠誠心を持つ事はありえない。
鞭を恐れ仕えはしても、心の中に渦巻くのは憎悪と殺意だけ。
何時か主の隙を突いて殺してやろうと言う敵意だけだ。
948
﹁なるほどねぇ⋮⋮あんた達⋮⋮そうだったのかい﹂
リオネがどこか納得したような口調で呟いた。
彼女もボルツも、何故マルフィスト姉妹が御子柴亮真に対して強
い忠誠と信頼を持っているのか疑問と言えば疑問だったのだ。
︵なるほどねぇ⋮⋮奴隷は命ある物。物から人にしてもらったらそ
りゃぁ恩義も感じる⋮⋮か︶
リオネは、奴隷の生活も苦しさも屈辱も理解している。
彼女は平民出身。そして平民と奴隷は紙一重。
税が払えなくても、国が戦争に負けても、平民は簡単に奴隷とし
て売り飛ばされることになる。
其の後に続くのは、人としての尊厳を死ぬまで踏みつけられる茨
の道。
﹁なるほど、奴隷身分から解放する事で主殿へ忠誠心を持たせ、貴
族に対しての敵対心を煽る⋮⋮悪くないですな﹂
大切なのは領主である亮真に対しての忠誠心。あるいは、愛国心
と言う言葉でもよい。
成り上がり者でしかない亮真では、決して持ち得ない物が得られ
ることになる。
よほどの愚策を強行しない限り、奴隷から解放された民が亮真に
背く事は無くなる。
﹁良いだろう⋮⋮奴隷から人を救えて俺も得をする⋮⋮悪くない選
択だ。明日から早速、奴隷を扱う店をまわる。サーラ、ローラ一緒
に来い。厳翁は引き続きザルツベルグ伯爵の近辺を探れ! リオネ
さんは傭兵の雇用を、ボルツは半島の情報を引き続き頼む!﹂
949
亮真の言葉に全員が頷いた。
亮真は人を物として扱う奴隷と言う制度を心の底から憎んでいた。
彼は、自らの意思ほど大切なものはないと思っているのだ。
ルピスを憎むのも同じ理由。
身分をかさに着て、亮真の意思を無視した結果だ。
虐げられた亮真が、虐げられた奴隷の力を借りて復讐する。
これ程に胸躍る話があるだろうか。
︵身分制度? クソったれが! 今にテメエらの驕りってやつを砕
いてやるぜ!︶
この日、虐げられた人々は一筋の光明を得る事になった。
この部屋から溢れ出た意思が、やがて西方大陸全土を飲み込むこ
とになる。
950
第3章第10話
西方大陸暦2812年8月10日︻半島へ︼其の10:
﹁此処が裏通りか⋮⋮﹂
陽が天頂を過ぎ去り、西の空に傾きだした頃、亮真はイピロスの
北地区に居た。
亮真の目の前には、薄暗く腐臭の漂う路地が延々と続いている。
大通りから一本内側へ入っただけなのに、表通りにはない陰気な
暗さが道を覆い尽くしていた。
﹁この奥に奴隷を扱う店が立ち並ぶ一角があります﹂
ローラの声に亮真は軽く頷くと、城塞都市イピロスの暗部へと足
を踏み入れた。
イピロスの町に潜む、深い闇の底に向かって。
﹁良くおいでくださりました。貴族様! 当店は初のご来店で? 光栄の極みでございます。私共アブタール商会はイピロスの奴隷商
人では最大手でございます。労働奴隷、性奴隷を初め、戦奴隷まで
種類、数共に多数在庫を抱えております。必ずや貴族様のお眼鏡に
適う奴隷が見つかることでしょう﹂
そう言うと店主と名乗ったひげ面の大男が店先で大仰に頭を下げ
た。
951
周囲には、鎖に繋がれた奴隷達がうつろな眼で宙を見つめている。
店の主らしい男の肌は脂ぎっていて、眼は金と色とで濁って居た。
彼の顔には﹁私は強欲です﹂とはっきりと書いてある。
体型は縦にも横にもデカイ。身長は亮真より少し低い程度だが、
横幅は確実に3倍はある。
身なりは裾の長いローブを纏い、体中を宝石で飾りつけていた。
そんな身なりの中で、彼の腰に下げられた革の鞭がやけに生々しい。
きっと反抗的な奴隷を鞭打つのだろう。柄に巻かれた滑り止めの
革が、使い込まれている証拠に滑らかな光沢を放っていた。
﹁奴隷が⋮⋮欲しい﹂
亮真は出来るだけ感情を押し殺して店主へ言葉を掛ける。
彼は心の中から湧き上がって来る強い感情を押し殺すのに精一杯
だった。
もし、サーラとローラが亮真が羽織ったマントの裾を握り締めて
いなかったら、彼は目の前でニヤ着いている奴隷商人の顔へ拳の雨
を叩き込んでいたに違いない。
だが、店主はそんな亮真の心の中を理解してはいなかった。
﹁おぉ! これは毎度ありがとうございます。それで貴族様。お求
めになるのは労働奴隷ですか? それとも閨で遊ぶための精奴隷で
しょうか? 戦奴隷ですと数は限られてしまいますが、在庫はござ
います。どうぞ何なりとおっしゃってくださいませ﹂
満面の笑みを浮かべながら、しきりにもみ手をする店主。
この男は、鈍重そうな体型をしているくせに、見かけによらず口
が回るようだ。
それに、客を見定める眼力も大したものと言えた。
少なくとも亮真の格好を見て、直ぐに貴族だと判断できる人間は
952
少ないだろう。
ザルツベルグ伯爵に面会するために買った、絹のシャツにマント
を羽織った格好だが、貴族の身分を示すような装飾品は一切身につ
けていないのだから。
﹁奴隷だが、数が要る。それに幾つか条件が有る。年齢は10∼1
5までの男女で数は大体同じ割合⋮⋮買うのは健康で五体満足な者
だけ。とりあえず300名ほどは欲しい⋮⋮お前の店だけで数が揃
わないならば、この町の同業者に声を掛けて集めさせろ﹂
亮真の言葉に、店主が怪訝そうな顔をした。
あまりにも予想外の言葉だったからだ。
﹁失礼ですが貴族様それはあまりにも若すぎませんか? 労働奴隷
でしたらもっと年齢の高い⋮⋮そうですなぁ、20歳前後の男のみ
の方が? それに、玩具にするにしても労働奴隷では大した体はし
ておりませんぞ? 幼女にしろ少年にしろ容姿の良い者はみな性奴
お
隷として売られておりますので、労働奴隷として売られる者に容姿
の良い者など居りませんが? しかも300名とは⋮⋮当店はイピ
ロス最大の奴隷商ではございますが、とてもとてもその数は⋮⋮失
礼ですが、貴族様は一体何に使われるおつもりなのでしょうか?﹂ そう言うと店主が探るような視線を亮真へ向ける。
労働奴隷は主に農業用に使われる。農耕牛や農耕馬と同じ扱い。
となると、労働奴隷の価値は其の体に培われた筋力の量と言う事
になる。
女より男の方が筋力は上だし、子供より20前後の働き盛りを欲
するのが当然と言える。
数が足りない場合に、女の奴隷を買うと言うのならともかく、初
953
めから男女同数で注文する人間は居ない。
ロリータコン
少なくとも、店主は長い奴隷商の経験の中で初めてだった。
プレックス
しかも、成長の途中である10代前半を指定する人間は、少女性
愛者でもない限り、先ず居ない。
先ず第一に、筋力が大人に比べて未発達であること。そして、成
長期であるため食費が余分に掛かること。
つまり燃費が悪い車みたいなものなのだ。態々そんな車を選んで
買う人間は少ないだろう。
店主が疑問に思って尋ねたのも当然と言える。だが、亮真は店主
の疑問に冷たい冷え切った声色で答えた。
﹁お前に関係あるのか?﹂
其の声が発せられた時、亮真の後ろに立っていた姉妹の体が、一
トーン
瞬震えた。そして、それは店主も同じだった。
別段、声を荒らげたわけではない。声の声調から言えば穏やかだ
とさえ言える。
だが、其の声に含まれた殺意は冷たい刃となって周囲を切り裂く。
それは、武術の素養がない店主にもはっきりと伝わった。
︵殺される⋮⋮︶
店主の脳裏には、自分の首が斬り飛ばされる光景が鮮明に浮かん
だ。
彼は、今まで数多くの奴隷を殺してきた。
年をとりすぎた奴隷。反抗的な奴隷。体の一部を失った奴隷。病
に冒された奴隷。そして、最も多く手に掛けてきたのが子供の奴隷
だ。
労働力として期待できない子供など、邪魔なだけ。
954
最初、安く買い集めてきた子供達を首輪に鎖を繋いで店先へと並
べる。
先ずは、見目の良い子供や、年齢以上に体格のがっしりとした子
供が優先的に買われていく。使い道があるからだ。
だが、何時までも買い手の着かない子供も当然居る。そういった、
一定期間経っても売れない普通の子供は、奴隷商人達の手によって
殺されることになる。
食事を与える経費が勿体無いから⋮⋮
そして、彼らの手元には莫大な売り上げが残る。
そうやって、彼らは肥え太ってきたのだ。無数の屍の上に。
れんびん
それでも彼はなんとも思いはしなかった。彼が殺したのは所詮奴
隷。人の形をした物に過ぎない。
人は人を物としてみたとき、一切の感情が消える。憐憫も何も感
じはしない。何故ならそれはただの物だから。
そして今、店主を見つめる亮真の目は、店主が普段奴隷達へ向け
るのと同じ光を放っている。
﹁い⋮⋮いえ! 失礼いたしました! お許しください。申し訳ご
つくば
ざいません! どうか⋮⋮どうかお許しください! お願いいたし
は
ます。どうかどうか⋮⋮﹂
店主は咄嗟に地べたへ這い蹲った。
周りに奴隷が居ることなど全く眼中にはなかった。つまらない見
栄を張っている場合じゃない。
哀れみを乞う以外に、自分が生き残れる道がない事を悟ったのだ。
目の前に立つ男が貴族かどうかは問題ではない。彼が平民だとし
ても、いや、例え奴隷だったとしても店主は同じことをしただろう。
明確な力の差が両者の間を隔てていた。
﹁亮真様⋮⋮﹂
955
床にひれ伏したまま動かない店主を見下ろしながら、ローラが亮
真のマントを強く引く。
いんさん
正直なところ、ローラもサーラもこの奴隷商人を殺したくて仕方
がなかった。
それほど、この店に来るまで彼らが見た光景は陰惨でこの世の物
とは思えないほどおぞましい光景だった。
薄汚れた肌。無数に走る鞭の痕。何ヶ月も風呂になど入っていな
いのだろう。子供達の髪は捩れ衣服など本当に最低限の下着だけ。
いや、下着をつけている子供はまだ運が良い。大多数の奴隷は裸の
ままだ。
彼らの眼からは意思の光が消え、虚空を見つめている。
それは、人の形をした絶望だ。
サーラもローラも元々は奴隷だ。
しかし、彼女達は上級騎士の家に産まれ、教育も受けられていた。
そして、何より彼女達は美しかった。だから、彼女達は奴隷とい
っても、この路地に繋がれた子供達のような扱いを受けたことがな
い。
そういう意味では、姉妹を買った奴隷商人のアゾスはまだましな
人間だったとさえ言えるのだ。
目の前に這い蹲る男に比べれば。
﹁亮真様⋮⋮今は⋮⋮﹂
再びローラが亮真のマントを強く引く。
﹁判ってる⋮⋮大丈夫だ⋮⋮俺は我を忘れたりなんかしないよ⋮⋮﹂
亮真はそういうと、吹き上がる憤怒の感情を必死で抑えようとす
る。
956
︵落ち着け⋮⋮ダメだ⋮⋮今はどうしてもダメだ⋮⋮今此処でコイ
ツを殺してどうなる? 誰も救えやしない。そう⋮⋮誰もだ⋮⋮︶
路地を進む中で、亮真は次第に怒りを感じた。
しかし、それを今この場所で爆発させることは出来ない。
此処はザルツベルグ伯爵の領地。そして、奴隷商人達は伯爵の許
可を受けた真っ当な商人なのだ。
もし、此処で騒ぎを起こせば悪いのは商売の妨害をした亮真と言
うことになってしまう。
今、亮真が出来る事は何もない。それを理解しているからこそ、
鞭打たれ、泣き叫ぶ子供を素通りしてきたのだ。
だが、この目の前に居る店主の訳知り顔な言葉が亮真の怒りに油
を注いだのだ。
押さえつけていたタガがはじけ飛びそうになるのを、亮真は必死
で堪えた。
﹁もういい⋮⋮顔を上げろ⋮⋮﹂
﹁は! はい! 申し訳ございません﹂
亮真の言葉に、店主は直ぐに反応した。
ろうそく
顔色を窺うなどと言う無駄な事を彼は選択しなかった。
もし、再び亮真の機嫌を損ねれば、自分の命が蝋燭の灯火ように
消される事を本能的に察知したのだ。
﹁もう一度聞く⋮⋮健康で五体満足な10∼15歳までの男女の奴
隷300人。用意できるのか? 出来ないのか?﹂
亮真は再び、同じ質問を繰り返した。
﹁も⋮⋮勿論、貴族様のご要望どおり揃えさせて頂きます! お任
957
せください。私の命に賭けて必ずやご満足いただけるようにいたし
ます﹂
今度は、店主も無駄口など叩かなかった。
迅速に亮真の問いに答える。
﹁良いだろう⋮⋮まず金額だが、300人分合計で幾らだ?﹂
﹁は! ⋮⋮年齢も年齢ですし⋮⋮男女で金額が変わり⋮⋮﹂
﹁幾らだ?﹂
口ごもる店主の言葉を手で遮ると、亮真は苛立たしげに問い直す。
﹁全部で150万バーツではいかがでしょうか!?﹂
一人頭、5000バーツと言ったところか。日本の円換算で実に
10万程でしかない。
亮真の殺気に気圧され割り引いたのか、はたまた、この世界の子
供の価値がこの程度なのかは判らないが、亮真としても、十分に許
容できる値段だ。
﹁良いだろう⋮⋮何時までに揃う?﹂
﹁は! はい! 当店だけでは数が揃いませんので、1週間ほどお
時間を頂戴できれば!﹂
﹁判った⋮⋮受け渡し場所は?﹂
﹁申し訳ございませんが、300名ともなると、街中ではちょっと
958
⋮⋮郊外ではいかがでしょうか?﹂
確かに店主の言うとおり、こんな路地裏で300人もの奴隷を受
け渡せる筈もない。 それなりに広い空間が必要になる。
︵どちらにしろ、法術の訓練をするには郊外に出るしかないか⋮⋮
北はウォルテニア半島、西はザルーダとの国境地帯⋮⋮野営するな
ら東の郊外だな︶
亮真はすばやく計算すると、店主へ向かって言った。
﹁東の郊外で受け取る事にする⋮⋮金は今、半額払う。残りは受け
取った後だ。良いな?﹂
サーラの手から金貨の入った袋を受け取ると、亮真は空の袋へ一
枚ずつ枚数を数えながら移し変えていった。
﹁75万バーツだ。確認の後、受け取りをくれ﹂
﹁ただいま! 少々おまちくださいませ﹂
そう叫ぶと、店主は亮真から渡された金貨入りの袋を掴み店の中
に駆け込む。そして手に受け取りを握り締め、直ぐに店の外へと飛
び出してきた。
袋の中の確認など全くしていない。
商人にはあるまじき行動だが、この場合、店主を責める人間は居
ないだろう。
﹁では⋮⋮一週間後、東門の外で⋮⋮良いな?﹂
﹁はい! ご利用頂き誠にありがとうございました。一週間後には、
959
必ず商品を東門の外までお届けにあがりますのでご安心ください!﹂
体を90度近くまで折り曲げて深々と頭を下げた店主を無視して、
亮真はその場を足早に離れる。
これ以上、この場に留まって居たくなかったのだ。 亮真はこみ上げてくる吐き気を必死でこらえた。
人の放つ欲望が、反吐が出そうなほどの悪臭を放つ悪意が、亮真
の心を打ち据えていたのだ。
足早に路地裏を駆け抜けた亮真達は、ようやく大通りの明るい町
中へと戻ってきた。
穏やかな西日の中で3人は大きく息を吸い込む。
﹁亮真様⋮⋮大丈夫ですか?﹂
亮真の背に向かって、ローラが心配そうに声を掛けた。
﹁あぁ⋮⋮平気だ⋮⋮二人の方こそ大丈夫か?﹂
亮真の言葉に、姉妹は無言で頷く。
彼女達の表情こそ固く強張ってはいたが、落ち着きを取り戻し始
めているようだった。
﹁これがこの町の闇か⋮⋮クソッタレが!﹂
事前に判っていた事だ。奴隷と言う制度に関しても⋮⋮
だが、現実は亮真の想像以上に過酷で汚らわしかった。
︵変えてやる⋮⋮絶対に変えてやるぞ!︶
亮真は心の中で誓う。
960
アース
其れがただの自己満足に過ぎないことは理解していた。
これが、この大地世界の現実だと言う事を。そして、亮真が救う
ことが出来るのは、全体の極ほんの僅かなのだと言う事を。
961
第3章第11話︻強き者︼其の1:
アブタール商会と交わした約束の1週間が過ぎた。
亮真達は、イピロスで拠点に使っていた宿屋を引き払い、東門の
外3Kmほどの平地に陣を設営している。
半島に入る前に、最低限の訓練を行わなければならないのだ。し
かし、イピロスの街中で、訓練を施せるだけの空間は、ザルツベル
グ伯爵の私設軍関係のみ。
流石に、伯爵へ場所を貸してくれるように頼むわけにもいかない
ので、亮真達は町の外に野営することを選択したのだ。
﹁とりあえず、準備は完了か⋮⋮後は何人残るかだな⋮⋮﹂
天空から降り注ぐ日差しの中。亮真の目がイピロスの城壁を睨み
付ける。
﹁三百人全員がモノになることは先ずありますまい⋮⋮半分も残れ
ば御の字ではありませんかな?﹂
背後に立つ厳翁が、亮真の背に向かって言った。
﹁まぁ⋮⋮な﹂
厳翁の言葉に亮真は肩を竦めて答えた。
自分に選択肢がない事を理解していても、表情は晴れない。
これから行うのは選抜。より強い者。より賢い者。そして強靭な
意志を持つ者。
962
選ばれた子供だけが、将来の自由を約束される。
アース
本来なら、誰もが自由である筈なのに⋮⋮
大地世界で自由を得ることができる人間は強者だけ。
それでも、今回買われた子供達は運が良いのだ。
チャンス
自由を得られるかどうかは別にして、少なくても其の機会は与え
られるのだから。 ﹁お気になさいますな⋮⋮主殿が買わなければ、殆どの子供は殺さ
れる運命⋮⋮﹂
厳翁の言葉に亮真は顔を顰めた。
そんなことは言われるまでもなく、十分に判っているのだ。だが、
理性では判っていても心は割り切れない。
むじな
︵子供を買って利用する俺と、子供を売り買いする奴隷商人⋮⋮所
詮、同じ穴の狢か⋮⋮︶
そんな思いが、亮真の心にわき上がってくる。
しかし、今此処で歩みを止めるわけには行かない。歯車は回りだ
してしまったのだから⋮⋮
﹁若! 今、商人達が陣の中に入りヤシた! ﹂
背後から、ボルツが大声で声をかける。
﹁判った! すぐに行く⋮⋮行くぞ、厳翁﹂
亮真はそう言って広場の方へ歩き出す。其の顔にはさっきまでの
迷いは微塵も無い。
現実が、過酷で無情な事を彼は誰よりも理解していたから。そし
て、悩んだところで、現実は何も変わらない事を⋮⋮
963
﹁この度は、我がアブタール商会をご利用くださり、誠にありがと
うございます。お約束の品を用意いたしました。どうぞ、ご検分く
ださい﹂
そういって店主は、先日と同じように亮真へ丁寧に頭を下げた。
﹁手間を掛けさせたようだな?﹂
亮真の人柄の良さはこういうところで出る。彼はどんな相手に対
しても、労いの言葉を忘れないのだ。
﹁とんでもございません。これも商売ですから⋮⋮それに、此のく
らいの年齢ですと、何処の店も買い手がつきにくいので、逆に感謝
されたくらいでして⋮⋮何しろ、無駄飯を食わせずに済みますので﹂
顔の前で手を振って亮真の言葉を否定した店主へ、亮真は冷やや
かな視線を向けた。
少し視線を走らせた限りだが、店主の後ろに立ち並ぶ奴隷達は、
女の数が多いように思える。
亮真は、店主へ強い口調で問いただした、
﹁まぁ良い。それで? 人数や比率はこちらの要望どおりなんだろ
うな?﹂
﹁はい⋮⋮実は今回、全部で320名、連れてきております。男女
比で言うと7対3で女の方が⋮⋮﹂
﹁多いのか?﹂
964
﹁はい⋮⋮どうしても、労働奴隷としては男の方が売れ易いので⋮
⋮お約束の300名より多いのは、その⋮⋮﹂
口ごもる店主に、亮真は不機嫌さを隠さなかった。
﹁男が少ない詫びのつもりか?﹂
店主は無言のまま愛想笑いを浮かべた。
﹁まぁいい⋮⋮五体満足ではない者は入れていないな?﹂
﹁はい。それは十分に吟味しております。病持ちもおりません﹂
鞭で打たれた傷跡は殆どの奴隷が持っているようだが、回復の見
込める範囲の傷だけのようだ。
流石に、奴隷商人達も信用が掛かっているので、その辺は十分に
確認してきているらしい。
﹁判った。お前を信用しよう⋮⋮では、全員を引き取る。残りの残
金は七十五万バーツだな?﹂
﹁はい、左様でございます﹂
亮真は軽く頷くと、用意してあった袋を店主へ差し出した。
﹁毎度ありがとうございます﹂
かばん
店主は差し出された袋の中身を確かめようともせずに鞄の中にし
まうと、丁寧に頭を下げた。
そして、2枚の書類を亮真へと差し出す。
965
サイン
﹁それでは最後に、こちらの引渡し書へ署名をお願いいたします⋮
⋮はい、これで正式にこの場に居る奴隷の所有者は御子柴様となり
ました。一枚は貴方様が、もう一枚は私共の控えとなります﹂
かばん
書類に亮真の名前が書き込まれたのを確認し、店主は満足そうに
頷くと手元に残った書類を鞄へ入れる。
ひいき
﹁それでは私共はこれで。今後とも、我がアブタール商会をどうぞ
ご贔屓くださいませ﹂
買い手の着かない奴隷を処分して、ホクホク顔の店主は、再び頭
を下げると、店の店員達を引き連れて陣を後にした。 ﹁さてと⋮⋮リオネ! 全員に用意してある服を配れ。其の後は⋮
⋮ローラ! メシの準備は出来ているな?﹂
アース
大地世界の気候は温暖なようだが、流石に、裸のままでは病気に
なる。
先日、裏路地に軒を連ねた店の店頭で、奴隷がどんな扱いを受け
ているか見てきた亮真は、奴隷用に衣類と下着、そして暖かい食事
を準備していた。
引き渡すときに、奴隷の服くらいは店側で準備しているかと思っ
たが、この世界にそんなサービスは存在しないらしい。
先ずは、裸のままの奴隷達に、衣服を着せてやらなければならな
い。
紅獅子の団員達が、首輪をされたまま意思を持たない人形のよう
に、その場に立ち尽くす奴隷達へ服を配っていく。
966
﹁坊や! とりあえず配り終わったけど⋮⋮﹂
服を配り終えたリオネが困ったような表情で亮真を見た。
原因ははっきりとしている。服を手に持ったまま立ち尽くす子供
達の所為だ。
一般的に、自分が裸同然の状態で服を渡されれば、先ずは渡され
た服を着る。
少なくても、着ていいかどうかを尋ねるくらいはする。
ところが、この場に居る子供達は戸惑いの表情を浮かべたまま、
無言で立ち尽くす。
渡された服を素直に受け取ったのに、手に持ったまま何もしない
のだ。
﹁こいつは⋮⋮何で服を着ないんだ? まさか着方を知らないって
いうんじゃないよな?﹂
三つや四つの幼児ではない。幾ら奴隷だとは言え、服の着方が判
らないなどと言う事があるだろうか。
﹁亮真様⋮⋮私に任せてください﹂
ローラはそういうと、子供達の前へ歩み寄り、やさしく語りかけ
た。
穏やかでやさしい声。
すると、子供達の顔に変化が生まれた。
初めは驚き、そして疑いのまなざし。だが、ローラが話しを進め
るうちに怯えながらも、彼らは手にした服を身につけ始めた。
ローラに話しかけられた子供達が先ず服を着だすと、それは周囲
へ瞬く間に伝染する。
967
﹁何を言ったんだ? いったい⋮⋮﹂
亮真が驚きの声を上げたのも当然だった。
奴隷の子供達の表情はまだ暗い。だが、ローラの言葉を聞いた後、
少しだけこちらに対して興味を持ったように感じられた。
それは、本当に僅かな気配ではあったが、今までの無表情で人形
の様な状態からほんの少し人間へ近づいたように亮真は思えたのだ。
﹁簡単な事です。渡した服は貴方達の物だと言ったんですよ﹂
﹁どういうことだ? そんなの当たり前だろ?﹂
亮真の疑問は当然だ。彼にとって、配った服は既に子供達へ与え
たものなのだ。
だが、ローラは首を振った。
﹁奴隷はそう考えません。主人から明確な言葉を受けて初めて与え
られたと考えるのです⋮⋮私達姉妹もずっとそうやって生きてきま
したから⋮⋮﹂
少し考えれば判る事だ。
物として、扱われてきた彼らは常に人の顔色を伺い、己の意思を
殺してきた。
買われるまでは奴隷商人達の、買われてからは主人の意向が、彼
ら奴隷の生死を決める。
彼らは意思を持たないのではない。意思を持たないように自制し
ているだけ。
不興をかって殺されないように。
﹁あぁ⋮⋮そういうことか﹂
968
ローラの言葉に、亮真はようやく状況を理解した。
子供達は明確に亮真から許可を貰わなければ何も出来ないのだ。
いや、してはいけないと思い込んでいるのだ。
亮真はまず、子供達に告げなければならなかった。彼らは人間な
のだと。意思を持つ、人なのだと。
高らかに言ってやらなければならなかったのだ。彼ら自身が人で
あることを思い出すために⋮⋮
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
メリッサの運命は其の日、人生2度目の劇的な変化を迎えた。
彼女の運命が始めて大きく変わったのは、今から3年前の事。
ザルーダ王国の小さな漁村に生まれた彼女は、貧しいながらも、
両親と兄妹に囲まれそれなりに平穏で幸せな日々を過ごしていた。
だが、そんな生活は突然終わりを告げる。
ウォルテニア半島を根城にしている海賊達の略奪にあって⋮⋮
数年前より半島を根城にした海賊達が、交易船を襲っている事は、
彼女も子供ながらに聞いていた。
さつりく
だが、交易船に満載された品は高価だが、こんな漁村を襲ったと
ころで得られるものは高が知れている。
事実、それまでは一度だって彼女の村が襲われた事はない。
誰が、魚の干物を奪うために村を襲いに来るものか。
だが、そんな思いは現実の前では無力だ。
襲われるはずがないと言う思いは、目の前で繰り広げられる殺戮
に何の意味も持たない。
両親は海賊達が振るう槍に貫かれ死んだ。兄妹や幼馴染は散りじ
969
りになってしまいどうなったのかすら不明だ。
当時11歳だった彼女に出来る事はただ一つ。その場から逃げる
事だけ。
海賊達の手によって放火され、黒煙が充満する村の中を彼女は必
死で駆けた。
ただただ、生き延びるために。
この後の事を彼女は何も覚えていない。
村の外へ向けて走った事だけは鮮明に覚えていたが、彼女の記憶
はそこで途切れていた。
次に覚えているのは、どこかの町の片隅で、一人の男に拾われた
事。
そして、いつの間にか首に首輪を付けられ、店の表に裸同然で並
べられている自分の姿だ。
何故自分がそんな眼に合うのか、彼女は全く理解できなかった。
だが、次第に覆しようのない現実が彼女に襲い掛かる。
何を言っても鞭を振るわれる現実。
泣いても鞭を振るわれ、叫んでも鞭を振るわれ、懇願しても鞭を
振るわれた。
そうやって、体に鞭によって出来た傷跡が増えるたびに、彼女は
身の処し方を学んでいく。
彼女が生きる為には、自らの感情を殺し、何も感じない人形を演
じる他にない。
そして、其の思いは、何時までも買い手の付かない奴隷を処分す
る商人達の姿を見続ける事で、より一層彼女の心を縛り付けた。
女である彼女は、決して体力には恵まれていない。顔も可愛いと
はいえ、絶世の美女と言うわけでもない。
これでもう少し年齢が上だったらば、性奴隷として売られたのか
もしれないが、彼女は今年14。
数年に及ぶ奴隷の生活によって、彼女の体はやせ衰えており、決
970
して男の獣欲を掻きたてるような体つきではなかったのだ。
おそらく、彼女は御子柴亮真が購入しなければ、売れ残りの不良
品をして殺されていたに違いない。
だが、運命は気まぐれにも彼女に生きる余地を与えた。
︵この服は⋮⋮何? どうしろと言うの?︶
奴隷商人達に仲間と共に連れてこられたメリッサは、ひげ面の男
から服と下着を一式貰った。
周りも同じように服を手にしているが、誰もが困惑した表情を浮
かべている。
︵これは何? 着ても良いの?︶
今のメリッサが身につけているのは、何ヶ月も着たままの下着と、
鞭で引き裂かれボロ布のようになったシャツが一枚。それだけだっ
た。
服を着替えたい。そんな思いは当然彼女も持っている。
だが、其れが叶えられる事は無い。何故なら彼女は物でしかない
から。
普通に考えれば、手に握っている服は自分達へ与えられた物だ。
だが、同時に、そんな筈はないと言う否定の気持ちがメリッサの
心を埋め尽くす。
︵ダメよ⋮⋮私は物なの⋮⋮物に服を与える人間はいない⋮⋮︶
今までも似たような事は有った。
食べ掛けの肉をワザと彼女達の前に放り捨てるのだ。如何にも﹁
さぁ食べろ﹂と⋮⋮だが、それは奴隷商人の意地の悪い罠。もし、
其の肉を拾って口に運べば、待っているのは鞭の嵐。
メリッサも過去幾度となく目にしてきた光景だ。
日々の食事で奴隷に与えられるのは、硬いパン1個と冷めた塩の
スープのみ。
肉が出される事など天地が逆さまになってもあり得ない。
971
そんな食生活の中である。例え地べたに落ちた肉であってもそれ
を食べたいと思うことは無理からぬ事だった。
それを見越して、奴隷商人達はワザと肉を奴隷の前にぶら下げる。
奴隷と言う身分を彼女達の体の芯まで植えつけるために。
この広場に居る全ての子供達は、そんな光景を幾度となく見てき
た。
だから、誰も動かない。
ただただ、その場に立ち尽くすだけ。
だが、事態は思わぬ方向へと転がりだす。
金髪の女が自分達の前に立つと、思いもしなかった言葉を口にし
たのだ。
﹁寒いでしょう? それは皆さんの服です。皆さんに私の主人であ
る御子柴亮真様が与えたのです。安心して其の服を着なさい⋮⋮主
もそれを望んでいます﹂
其の言葉を聞いたとき、メリッサは自分の耳を疑った。
︵奴隷に服を与える? 本当に? こんなに良い服を?︶
別に絹製な訳ではない。街中の洋服屋で幾らでも買うことのでき
る品だ。
だが、麻で織られたこの服はとても奴隷が着るような品ではない。
町の平民が普段着にするような品なのだ。
それも新品である。古着ではない。
奴隷へ与えるには過分な品と言えた。
メリッサは周囲の顔色を窺う。
誰もが、女の言葉を聞いて半信半疑なようだ。
だが、女の口調は穏やかで、澱みがない。とても嘘を付いている
972
ようには思えなかった。
﹁大丈夫です⋮⋮さぁ早く服を着なさい! この後は皆さんに食事
も用意していますから!﹂
其の言葉に促され、一人の少年が服を身につけ、女の方を見た。
そして彼女が少年に頷くのを見ると、周囲の奴隷達も服を身に付け
始める。
そして、全ての奴隷が服を着替えると、一人の男が彼女達の前に
立つ。
まるで、彼らの王のように堂々とした態度で⋮⋮
この日、奴隷として日々を過ごしてきた彼らの運命が変わる。
それは、より過酷で自由な人生の始まりであった。
973
第3章第12話︻強き者︼其の2:
服を着替えたメリッサ達奴隷は、いくらか小ざっぱりとした格好
になった。
とはいっても、何年も風呂になど入ってはいなかったし、髪の手
入れ等も行っていないので、伸び放題に伸びた髪が所々よじれて団
子の様な状態になっている。
言うなれば、路地に座り込む浮浪者と程変わらない状態なのだ。
今、配られた新品の服が逆に、彼らの汚れを際立たせてしまった
とも言える。
﹁まぁ⋮⋮取りあえずは飯が先か⋮⋮風呂は⋮⋮この人数じゃ厳し
いか⋮⋮いや⋮⋮でもこの格好はちょっとなぁ﹂
亮真の嘆きも当然と言えた。
彼の前に虚ろな目をして立ち尽くす奴隷の集団。何しろ320名
もの大人数なのだ。
服や食事はまだ、何とでもなるが、風呂は流石に厳しい。
街中には一般住民向けの共用浴場が存在しているが、一人は二人
ならともかく、320人もの人数は流石に受け入れきれない。
第一、これ程までに薄汚れていたら金を幾ら払っても、恐らく使
用は拒否される可能性が高い。
一所に入っている一般人が慌てて飛び出て行く光景が眼に浮かぶ。
だからと言って、風呂屋を一軒貸切ることもまず無理だろう。
勿論、貴族と言う身分を笠に着れば無理を押し通す事は可能だが、
イピロスはザルツベルグ伯爵の領地。
他人の領地で横車を押すのは、賢明な判断とは言えなかった。
974
﹁まずは食事を取らせましょう。せっかく暖かい物を準備している
のですから⋮⋮お風呂はそうですね、お湯を沸かして拭うのが精一
杯ですね⋮⋮流石に街中にこの人数は不味いでしょうし﹂
ローラの言葉に従い、亮真はリオネ達へ向かって頷いた。
﹁判った⋮⋮リオネ! 始めてくれ!﹂
やるべきことは、幾らでもあるのだ。
﹁ほら! アンタ達! ここに並ぶんだよ! ﹂
リオネの言葉に従い、子供達は5カ所に分かれて列を作る。
うかが
あまり機敏な動作ではないが、こちらの言うことには従うらしい。
戸惑い、周りの顔色を窺いながら動く子供達。
彼らは、未だに鞭の痛みに怯えているのだろう。仮に従わないと
しても、亮真は鞭を使って脅しつけるような事は考えていないのだ
が、そんな思いは奴隷である彼らに伝わるはずもない。 ローラの言葉に従い、服を着替えても、彼らの眼は未だ人間の意
思ある目にはほど遠かった。
﹁良いかい! 熱いからね。注意して食べるんだよ!﹂
リオネの言葉をメリッサは信じられなかった。目の前の椀に湯気
を立てたスープが注がれ、自分に手渡されてもだ。
丼の様に大きくて底の深い椀には、たっぷりとスープと具が注が
れている。
人参、玉ねぎ、ジャガイモ、それに肉だ。恐らく牛の肉を1cm
角に切って煮込んだのだろう。
975
平民でも、日常的には食べられないほど豪華な具だ。
大抵の平民は、玉ねぎやトウモロコシのスープがほとんどである。
数種類の野菜に、肉を入れるのは特別な祝い事が有る時くらいな
物だ。
少なくとも、貧しい漁村で暮らしていたメリッサには、目の前の
スープがとてつもなく贅沢な料理に見えた。
︵これって⋮⋮どういう事? なんでこんな贅沢な⋮⋮︶
メリッサは椀から感じる熱気が信じられなかった。
奴隷になって、買い手を待ち続けたこの数年の彼女の食生活は悲
惨としか言いようがない。
ダシ
食事は日に朝と夜の二回だけ。
平皿に注がれるスープは出汁などろくに取っていない上に、塩を
ケチっている為、僅かに味が付いたような物でしかない。
しかも、大量に作り置きした物で、湯気が出ていることなどまず
無い。冷たい水の様なスープなのだ。
そして、それに付くのが焼いてから何日も経ってカチカチに固く
なったパン。
そのままではとても噛み切れないそれを、スープに浸して柔らか
くして食べるのだ。
最下級の平民でも、もう少しマシな物を食べていた。年に何回か
は肉だって口にする事が出来る。それほど、奴隷の食事は貧しく酷
いのだ。
だからこそ、目の前の現実が信じられない。
メリッサの脳裏に、忘れかけていた奴隷になる前の記憶が浮かび
上がってくる。
︵暖かい⋮⋮そう⋮⋮お母さんが作ってくれたスープみたいに⋮⋮︶
貧しくとも、メリッサの母親は何時も食卓に暖かいスープを出し
た。
勿論、貧しい平民の食事だ。
具は大した物が入っていた訳ではない。野菜が少し入っているだ
976
け。肉や魚なんかは年に何回か口に入れば良い方だ。
それでも、メリッサにとって母のスープは最高のご馳走だったの
だ。
いつも熱々で、心に沁みる味⋮⋮
﹁熱っ!﹂
椀の中を見つめていたメリッサの横で、少年の口から驚きの言葉
が響いた。
それに伴い、彼の椀が地面へ落ち、中のスープが地面に浸み込む。
手で口元を抑えているところを見ると、我慢する事ができなくて、
主人の意思も確認せずにスープを口に入れたのだろう。
周囲に居た子供達の顔に怯えの色が浮かぶ。
彼らにとって、主人の許しを得ずに食事をするなど命を捨てるの
と同じ事なのだ。ましてや、これ程に贅沢なスープを零したとなれ
ば⋮⋮
周りに座り込んでいた子供達が、すばやく蹲る子供の傍を離れた。
これも奴隷の処世術なのだろう。鞭打たれる仲間の傍に居たら、
どんなとばっちりが自分に降りかかるか予想もつかないのだ。それ
を保身と蔑むのは簡単だが、人間はそんなもんである。
だから、周囲の子供達は銀髪の少女が彼に駆け寄ってきた時、た
だでは済むまいと心の中で神に祈った。
その予想が裏切られる事も知らずに⋮⋮
﹁大丈夫? 火傷はしていない?﹂
優しく穏やかな声。
怒声を覚悟していた少年が恐る恐る声の主を見上げた。
977
﹁本当に大丈夫? 足とかにスープが掛ってたりしてない?﹂
サーラはそう言いながら、地面にひっくり返った椀を掴んだ。
椀の縁から湯気が立ち上る。
ものの見事にひっくり返された椀の中身は全て地面にぶちまけら
れ、食欲を掻き立てる匂いを周囲にまき散らしていた。 ﹁うん⋮⋮とりあえず火傷は口元だけみたいね⋮⋮慌てて食べるか
らよ? 注意しないと⋮⋮ね?﹂
サーラの言葉に少年は驚きの表情を浮かべた。
彼女の言葉が、純粋に自分の体を心配しているのだと言う事を理
解したのだ。
それは、周囲で成り行きを見つめている他の子供達も同じだった。
﹁うん⋮⋮今度は注意して食べるのよ? ⋮⋮て⋮⋮え?! 待っ
て! 待って待って!﹂
彼のスープは既に地面に吸い込まれていて、流石に食べる事は不
可能だ。
ちゅうちょ
ひざまず
だからサーラは新しくスープを貰って来いと言ったのだが、少年
はそうは取らなかったらしい。彼は躊躇なくその場に跪くと、土の
付いた野菜や肉をかき集める。
サーラが止めなければ、彼は迷うことなく土が付いた具を口に入
れたに違いなかった。
﹁そうじゃないの⋮⋮ええっと⋮⋮あそこ! あそこに居る赤い髪
の女の人からもう一回スープを貰ってきて食べなさいって事﹂
978
あまりに予想外の行動を目にした為、サーラはかなり動揺しては
いたが、必死にリオネの方を指し示した。
彼女の言葉に少年は不安と疑いの混じった視線を向ける。その眼
が彼らの過去を全て物語っていた。
サーラはそんな彼らの不安を振り払おうと、周囲に聞こえる様に
声を上げた。 ﹁大丈夫だから。ね! 良い? 落としたものは食べなくていいの
! ちゃんとみんなの分は有るんだから! 良い? 今度は注意し
てゆっくり食べるのよ?﹂
サーラの言葉に促され、彼らは恐る恐る我慢していた椀へ口を付
ける。
少なくても、食べて良い事だけは理解したようだ。
﹁ふぅ⋮⋮本当に大丈夫なのかしら⋮⋮﹂
彼女は亮真の心を理解している。
暖かい食事も、新しい服を与えた事も決して善意だけではないの
だ。
人としての意思を持たせる事。それは欲を思い出させることに他
ならない。
食べ物に、着る物に、住み場所に。
他人と比べ、自分の境遇を理解し、その差を憎む。だからこそ人
は向上心を持ち、努力する。
欲は人を行動させる原動力としては最も強い物だ。欲が有るから、
人は求め、渇望する。
しかし、奴隷にはそれが無い。
それも当然だ。彼らの根幹にあるのは諦め。変えられないと思い
込んだ現実。
979
決して手に入らないという諦めを持たれては、どれだけ条件を提
示しようと意味は無い。
何しろ初めから手に入らないと、諦めているのだから。
だが、それはたった一つの事を思い出させるだけで変わる。
自分達が人間である事。前に進む意思を持つ生き物である事を思
い出させるのだ。
勿論、今すぐ思い出させる事は無理だ。彼らの絶望は、今この場
で直ぐにどうにかなるほど甘いものではない。
彼らはマルフィスト姉妹と根本的なところで違っている。彼女達
姉妹は、戦奴隷ではあったが、家系の誇りを持った人間であった。
心の拠り所が有ったのだ。
だから、亮真は六ヶ月と言う期間で彼らを教育する事を計画して
いる。
それが彼らに与えられた猶予。
その間に、彼らが人としての意思と欲を取り戻せば良し。だが取
り戻せなければ⋮⋮
︵一体どうされるおつもりなのかしら⋮⋮︶
正直に言って、今その答えを知る人間は誰も居ない。
亮真自身ですら明確な答えを持っていないのだから。
むさぼ
そこまで考えたサーラは思考を止め、周囲を見回す。
誰もがスープとパンを貪る様に口へ詰め込んでいた。
彼らが無言である事を除けば、まさに活気ある光景とも言える。
既に、大鍋の前にはお替りを貰う為に長蛇の列が出来ていた。
少なくとも彼らは美味い食事をして、食べる喜びを思い出したの
だろう。
︵どうやら⋮⋮まずは成功みたいね⋮⋮︶
少し離れたところで子供達に話しかけていたローラも同じような
事を思っていたのだろう。妹のサーラの視線を感じたのか、無言で
頷いてきた。
980
まずは飴を与えた。明日からは鞭の番だ。
それはリオネやボルツ達紅四肢の傭兵達によって行われる過酷な
訓練。
初めは基礎体力を向上させ徐々に戦闘技術を教え込む。
しご
槍と剣をメインに、馬の乗り方、素手での戦い方。
一ヶ月の間、彼らは徹底的に扱かれることになる。その後は体を
鍛えながら法術の習得。
そして最後の一ヶ月で彼らは実戦を経験する。
モンスター
亮真に戦う事の出来ない戦士は必要ない。
人を殺し、怪物を殺し、そうやって命のやり取りをして残った子
供だけが、自由を手に入れる事が出来る。
もし、それが出来なければ待っているのは逃亡奴隷の道か死しか
ない。
アース
御子柴亮真が欲しているもの、それは強者だけ。
過酷なこの大地世界で、みんな平等だとか、弱者救済などと言う
思想は害悪にしかならなかった。
努力の出来ない人間や生きる意思の無い人間を助ける余裕などな
いのだ。
強くなる為の手助けは出来る。だが、強くなるかどうかは個人の
意思次第。
子供たちが弱者のまま死ぬか、強者として生まれ変われるか⋮⋮
それを知る者はだれも居なかった。
981
第3章第12話︻強き者︼其の2:︵後書き︶
982
第3章第13話
西方大陸暦2812年8月19日︻交渉︼其の1:
﹁おぉ、御子柴殿。良く来てくれた⋮⋮ずいぶんと奴隷共を買い集
めたようだが、半島開発の準備の方は順調に進んでいるかね? ま
ぁ、奴隷に眼をつけたのは悪くはないが、半島の開発には不向きな
モンスター
のじゃないかと心配でね。何しろ所詮は牛や馬と変わらん労働力で
しかない。半島を徘徊している怪物共の餌にしかならない気がして
仕方がないんだがね﹂
ザルツベルグ伯爵は応接間へ入ってきた亮真を見るや否や、いき
なり探りの言葉を浴びせてきた。
流石に、イピロスの支配者だけある。亮真の行動は既に筒抜けの
ようである。
夫妻の格好は、先日ほど華美ではない。
仕立てのよい服ではあるが、装飾品も最低限であり、自室で寛ぐ
ための服のようだ。
亮真の為に用意したのか、テーブルの上には湯気の立つカップが
3つ置かれていた。
﹁まぁ貴方ったら⋮⋮男爵様が座っても居ないのにいきなりそんな
事を聞いて⋮⋮申し訳ありません。男爵様⋮⋮ウチの人ったらせっ
かちで。さぁどうぞ、お座りになってくださいな﹂
伯爵夫人は夫を嗜めると、亮真に椅子を勧める。
983
﹁これは申し訳ない! 何しろ女王陛下より幾度も使者が来ていて
な⋮⋮つい、焦ってしまったのだ。いや、失礼した﹂
そういうと、伯爵は髪を撫で付けながら頭を下げた。
流石、夫婦。息はぴったりである。
﹁いえ、御気になさらないでください。⋮⋮実は本日急にお時間を
頂いたのは其の事なのです⋮⋮閣下﹂
亮真はいかにも困ったと言った表情で伯爵を見る。
﹁ほう? 何かお困りかな? まぁ、昨日、突然使者を貰った時か
ら何かあったとは思っていたがね。やはり奴隷の件かね? ずいぶ
ん若い奴隷ばかり大量に買った様だが、使い道に困ったかな? よ
ければ私の方から口利きしてあげてもかまわないよ? なぁに、全
額は無理だが奴隷商人共から上手く金を取り返してあげよう﹂
伯爵はそういってにこやかに笑う。
よほど、亮真に対して恩を売りたいらしい。
用件も何も聞いていないのに、伯爵は奴隷の使い道に困って亮真
が泣き付いてきたと思いたいようだ。
︵よほど子供ってのは売れない様だな⋮⋮それに、やはり俺達を監
視してたか⋮⋮問題はルピスの差し金かこいつらの独断かだな⋮⋮︶
別に亮真が伯爵邸を訪ねたのは、奴隷を引き取ってもらいたいか
らではない。
もっと別の物を売りに来たのだ。
だが、伯爵の態度は余りにも恩着せがましい。余程、亮真に対し
て関わりを持ちたいようだ。
伯爵の早とちりに嘲笑が湧き上がってくるのを押し隠すと、亮真
は戸惑うっているように見せかけながら用件を切り出す。
984
﹁はい⋮⋮実は困った事になりまして⋮⋮﹂
﹁やはり奴隷の件かね?﹂
伯爵の問いに亮真は無言で首を振った。
一昨日、奴隷商人から購入し、今日から基礎訓練を行う手はずに
なっている。
その子供達を売り渡しにくるはずがない。
亮真が否定した事で、婦人は探るような視線を向けた。
﹁まぁ? では、何ですの? 我が家は女王陛下より男爵様のお力
になるようにと勅命を受けております。何なりとおっしゃってくだ
さいませ。きっとお力になれると思いますわ。ねぇ? 貴方﹂
伯爵夫人の言葉を聞いて、亮真の背に冷たいものが走り抜ける。
何気ない一言だが、婦人の言葉にはある事実が含まれていた。
︵お力になるように命じられた⋮⋮ねぇ? やっぱり監視役を命じ
られていたか⋮⋮あのクソ女め⋮⋮流石に、このまま俺を無視する
とは思わなかったがな⋮⋮伯爵に命じていやがったか⋮⋮まぁいい。
其れならそれでやりようは有るしな⋮⋮︶
亮真を警戒しているルピスが、そのまま放置しているはずがない。
案の定、ザルツベルグ伯爵の方に見張りを命じていたようだ。
お力になるように命じられた、と言う婦人の言葉を鵜呑みにする
ほど、亮真はボケていなかった。
﹁そうでしたか⋮⋮﹂
先日の歓待も女王の命令の影響なのだろう。ただし、この夫婦は
ルピスの飼い犬ではない。
985
外面は忠義者のように装って入るが、王家の資源を横領するよう
な人間だ。
︵やはり、自分の利益になるなら何でもやるタイプの人間か⋮⋮な
らば、交渉の余地は有るか⋮⋮鉱脈を売り渡す条件に、ルピスへの
報告は適当に情報を誤魔化してもらうって条件を上乗せして話すの
が一番だろうな⋮⋮まぁ、全ては俺の演技力次第⋮⋮下手に勘繰ら
れればそれで終わりだ︶
伯爵夫妻を侮るのは危険だ。
タイミングを見計らわなければならない。
用件を切り出す最適なタイミングを⋮⋮
﹁うむ⋮⋮だから御子柴殿も遠慮なく相談してくれ。出来るだけ力
になるからね⋮⋮それで? 奴隷の件ではないとすると、一体どう
したのかね?﹂
伯爵が探るような視線を向けた。
よほど亮真の行動が気になるらしい。
﹁実は⋮⋮半島に有る塩の鉱脈の事で⋮⋮﹂
亮真の言葉によって、室内が凍りついた。
﹁⋮⋮どういうことかね? 何故、君が其の事を知っている? 自
分で調べたのかね?﹂
伯爵の顔から笑いが消え、亮真へ鋭い素線を向けた。
疑惑と猜疑心に凝り固まった眼。
とぼけると言う選択をしなかったのは、もはや言い逃れをする意
味が無いということだろう。
︵クソ! 何故、こいつが鉱脈の事を知っている? あそこは、ミ
986
ばんさん
ストール商会の手で厳重に管理されているはず⋮⋮やはり、先日の
晩餐で何か気がついていたのか? どうする? 殺すか? いや、
最終的には殺すとして、其の前に確認する必要があるか⋮⋮︶
最悪、亮真を殺せばそれでカタはつく。
男爵と伯爵、同じ貴族ではあるが位の差は大きい。
まして、此処はザルツベルグ伯爵の屋敷であり、王都は遠く離れ
ている。
はっきり言って、どうにでも出来るのだ。ただし、其の選択をす
る前に、伯爵は確かめておかなければならないことがあった。
﹁実は⋮⋮先日、こんな物を受け取りまして⋮⋮﹂
﹁何! 貸せ!﹂
亮真が差し出したのは一枚の手紙。
街中の店で普通に買える紙とインク。筆跡を隠すためにワザと乱
いわ
されたミミズの這ったような文字。
如何にも曰く有り気な手紙だ。
伯爵は手紙の内容を素早く斜め読みをすると、黙り込んだ。
︵チィ! 何処の誰がこんな余計な事を⋮⋮?︶
伯爵は激昂した心を落ち着けて、亮真の言葉を分析する。
︵クソ。誰がこんな余計な事をコイツに告げた? クリストフの小
娘か⋮⋮恐らく間違い有るまい。あの小娘は曲者だ⋮⋮こちらの動
静を把握していても不思議ではない︶ けお
今、イピロスの町で伯爵に対して敵対的な行動を取る人間は限ら
れている。
その中でも、連合商会長の座から蹴落とされたクリストフ商会は、
最も危険な敵だった。
伯爵がミストール商会へ肩入れして居る為、イピロスの経済はミ
ストール商会を中心に動いている。
987
だが、長年イピロスの連合商会長を務めて来たクリストフ商会に
は、歴史の重みが有る。
︵ミストールが商会長の座に就いて既に3年。後2∼3年で、クリ
ストフの小娘の息の根を止める事が出来ると思っていたのだがな⋮
⋮いや、だからこそ⋮⋮か。︶
今まで、伯爵の圧力に耐えるだけだったクリストフ商会が反撃に
出る。最も可能性の高そうな話であった。
︵情報をコイツにもたらしたのがクリストフの小娘として、コイツ
は何故、私のところに来た?︶ シモーヌ・クリストフがウォルテニア半島に存在する塩の鉱脈を
付きとめたのは良い。
若い女で有りながら、商会を維持しているのは伊達ではないのだ
から。だが、問題はそのあとの行動だ。
︵あの小娘が鉱脈の事を知ったとして、なぜ自分で動かない? 態
々目の前の男に知らせたのは何故だ?︶
半島に存在する岩塩の鉱脈を横領している。この事実を効果的に
使うには、王家に対しての密告が一番効果的に思える。
何しろ、王家の資源を横領しているのだ。一族郎党処刑されるこ
とになる。
それを態々、目の前に座る成り上がり者に告げる。ハッキリ言え
ば、余り意味が無いと言えた。
︵まぁ良い⋮⋮焦る必要はない⋮⋮この成り上がり者の話を聞いて
からでも遅くは無い⋮⋮何しろここは私の領地なのだから⋮⋮︶
ザルツベルグ伯爵の眼が鋭く、冷たく光る。彼は隠していた牙を
剥き出しにした。かつて、自らの父親に剥いた牙を⋮⋮
ザルーダ王国との国境近くに領土を持っているザルツベルグ伯爵
家は、度重なる軍事予算の増加に因って破産寸前だった。
兵の増員。武具の調達。砦の建設。数え上げればキリがないほど、
988
軍は金を食らう。
それでも、王家は何もしない。ザルツベルグ伯爵領はザルツベル
グ伯爵家の裁量で運営されている。
それはつまり、口も出さないが、金も出さないという事。
だが、領土を、国を守るためにはどうしても軍の増強は外す事が
出来ない。
節約に次ぐ節約。
貴族としての最低限の体裁をなんとか維持できる程度でしかない
程、伯爵家は貧しかった。
それでもローゼリア王国の貴族として、王家への忠誠の為、歴代
のザルツベルグ伯爵家は歯を食いしばって耐えて来た。
だが、現当主であるトーマス・ザルツベルグ伯爵は違った。彼は、
己の欲を満たすために手段を選ばなかったのだ。
元ローゼリア王家直轄地であり、今は御子柴亮真男爵の領地とな
ったウォルテニア半島。
そこに塩の鉱脈が有る事を知ったのは今から5年前の事。
モンスター
イピロスから徒歩で1日程半島へ入った山に其の鉱脈は存在した。
それは、本当に偶然の出来事。
ウォルテニア半島には住民が居ない。それは、凶暴な怪物や亜人
が徘徊する土地である事が理由なのだが、住民は居なくても、人間
は居なくはないのだ。
犯罪者、流刑人、そう言った人間の他に、ある特定の職業に就く
人間が時たま半島へ向かう事が有る。
冒険者、傭兵。
戦う事を職業にする人間。彼らにとって半島は実戦経験を積む良
モンスター
い戦場であり、金の稼ぎ場所であった。
何しろ、生息するのは高位の怪物ばかり。皮も牙もかなり良い値
段で取引される。
989
命がけではあるが、それに見合った物を得る事が出来るのだ。
塩の鉱脈を見つけたのは、そう言った目的で半島へ入った冒険者
の一団。とはいっても、彼らは別にそれを、自分たちでどうにかし
ようとしたわけではない。
さば
塩は必需品であるし、それなりの値段で取引がされるが、大量に
採掘して捌かない限り採算が採れない。
彼らも、ギルドに採取した品を納める際に、ポロっと漏らしただ
けの話。
それが、周り回って伯爵家にもたらされたのは、幸運だったのか
不幸だったのか⋮⋮
少なくとも、軍事予算の増加にあえぐザルツベルグ伯爵家に取っ
てそれは、神の祝福にもにた出来事だった。
当時、まだ伯爵家の嫡子でしかなかった30歳のトーマスは、当
チャンス
主である彼の父親に必死で懇願した。
伯爵家の財政を立て直す最後の機会だと訴えた。
ちゅうちょ
何しろ、目の前に宝の山が埋まっている事を知らされたのだ。そ
れで平常心を保てと言う方が無理である。
これが、もっと半島の奥地であったなら、トーマスは躊躇しただ
モンスター
ろうが、徒歩で1日ならさほどでもない。
怪物の徘徊する魔境とはいえ、イピロスから1日程度なら、まだ
入り口付近と言える。遭遇率もさほど高い物ではないのだ。
ぶべつ
だが、トーマスの父は彼の言葉を無視した。いや、単に無視した
だけではなく、侮蔑の眼を向けたのだ。
父親にしてみれば、それは当然の事だった。
長年、ザルーダ王国との国境を守ってきた自負と誇り。それは、
ローゼリア王家への揺ぎ無い忠誠心を基盤としている。
いくら目の前にあるとはいっても、ウォルテニア半島は王家の領
土。そこにある岩塩の鉱脈を使って財政を立て直そうと言うトーマ
990
スの主張は、王家の所有する資源を横領しよう言っているのと同じ
事だ。
決して豊かではないにしろ、伯爵家の誇りがトーマスの主張を撥
ね退けた。
だが、幼いころから倹約を押し付けられて来たトーマスにとって、
ローゼリア王家に対する忠誠等欠片も持ってはいなかった。
王都からは遠く離れた国境地帯では、王家の目が行き届く訳も無
い。それに、伯爵家に対して、王家が何か資金援助をしているとい
う事実も無い。放置に近い程の無干渉。
無論、ザルーダからの侵攻が本格的になれば援軍は来るが、小競
り合い程度の戦は、全てザルツベルグ伯爵とその周辺貴族達の受け
持ちになっている。
父にとってそれは、王家がザルツベルグ伯爵家を信頼している証
なのだが、トーマスにとっては違った。彼にとってそれは、割に合
わない、一方的に損をさせられている状態にしか思えなかったのだ。
トーマスは、目に見えない信頼等と言うあやふやな物よりも、目
に見える実利を重んじた。具体的に言えば金や資源、あるいは特権
といった物だ。
トーマスと彼の父との話し合いは並行線を辿った。それはそうだ
ろう。お互いに妥協の余地は無い。
実利と誇り。相反しない場合も存在するが、今回の場合はどちら
か一方しか選べない。
結果、トーマスは父親をその手にかけた。
そうする以外に、彼の求める物を得る手段が無かったのだ。
︵誰にも私の邪魔はさせんぞ⋮⋮︶
伯爵は心の中で呟く。
彼に今の生活を手放すことなど出来ない。
実の父親を殺してまで、手に入れた物なのだから⋮⋮
991
992
第3章第14話
西方大陸暦2812年8月19日︻交渉︼其の2:
﹁貴様は⋮⋮何を求めている?﹂
無言で睨みつけていた伯爵が、ゆっくりと口を開く。
既に、貴族に対しての礼儀など守るつもりはないのだろう。伯爵
の言葉は明確に、格下の人間に対する口調へと変わっている。
もたら
猜疑心と警戒心が、好人物を装う作り物の仮面を、伯爵から捨て
させたのだ。
伯爵は鉱脈の情報を御子柴亮真へ齎した人間を思い浮かべること
が事が出来た。だが、どんな理由で彼女が自分で動かないのかが判
らない。
伯爵を失脚させるのは十分な情報を持っているのに、それを自分
では使わず、他人に教える。
そして、其の情報を与えられた人間は、王家ではなく伯爵の下へ
とやってきた。
ゆする
伯爵の脳裏にある可能性が浮かぶ。
げせん
︵強請るつもりか?︶
下賤な平民が、金になる情報を偶然得た時に良く行う行動だ。
目の前に座るこの男は、貴族ではあるが所詮は平民出身。金欲し
さに、強請りに来たとしても不思議ではない。
︵馬鹿が⋮⋮素直に私が金を払うと思うのか? いや、仮に払った
として、それでどうするつもりだ?︶
もし本当に伯爵を脅迫するつもりなら、直接会うべきではない。
脅迫者が自分の身元を明かして、有利になることなど何もないのだ
993
から。
だが、伯爵の予想は亮真の言葉によって裏切られた。
﹁そうですね⋮⋮実は伯爵閣下に買って頂きたい物がありまして﹂
伯爵の鋭い視線を受けても、亮真の声に動揺はない。
彼は真正面から視線を受け止めた。
﹁買う? 何を買えと言うのだ? 私はてっきり強請りに来たのか
と思ったがな﹂
いぶか
伯爵も伯爵夫人も訝しげな視線を向ける。
買うと言う言葉も、言い方や雰囲気では強請りの要素を含むが、
伯爵の耳には、亮真の言葉がそのままの意味にしか聞こえなかった。
それは、隣に座る伯爵夫人も同じだったのだろう。
二人が放つ疑問の視線は、亮真の言葉を正確に理解したと言う
証だ。
ためら
﹁強請り⋮⋮ですか、考えはしましたが、其のつもりはありません
⋮⋮それをすれば、閣下は躊躇うことなく、私達を始末するでしょ
うから﹂
わら
亮真の飾らない言葉に、伯爵は唇を歪めて嗤った。
まさしく其のとおりだからだ。
脅迫された者は、脅迫した者を決して放っては置かない。脅迫が
一度では終わらないからだ。
2度、3度と際限なく金を毟り取られることになる。
伯爵が、完全に破滅するまで何度でもだ。だから、伯爵は決して
脅迫者を生かさない。
994
例え金を払ったとしても、それは脅迫者を殺すための時間稼ぎに
過ぎないのだ。
﹁なるほどな⋮⋮結果を理解しているとは、平民出身にしては中々
良いヨミだ﹂
塩の鉱脈を横領し始めて5年。
厳重に秘匿されているとはいえ、何かの弾みでこの秘密をかぎ当
てた人間は極僅かだが存在した。だが、この話が今でも王家に洩れ
ていないのは、伯爵がそういった邪魔者を的確に容赦なく排除して
きたからだ。
伯爵自身も自分が危険な橋を渡っていることを十分に理解してい
る。だからこそ、彼は慎重で、容赦をしない。
﹁貴方⋮⋮私は男爵様の売りたい品に興味があるわ﹂
﹁そうだな⋮⋮御子柴男爵。売りたい品とは何だ?﹂
夫人の言葉に伯爵は頷くと、亮真の答えを待つ。
今度の口調は、相変わらず上から目線だったが、平民上がりと馬
鹿にしたような高圧的な態度が消えた。
今、彼は好奇心に支配されていた。自分の性格をこれほどまで把
握している亮真が、どんな物を売りに来たのか、伯爵は確かめたく
なったのだ。
﹁では、これをご覧ください﹂
亮真は、用意してきた書類を伯爵夫妻の方へと押しやった。
995
﹁これは⋮⋮﹂
﹁契約書? ですわね﹂
﹁塩の鉱脈の譲渡に関しての契約書です﹂
亮真の言葉に従い、夫妻はすばやく内容を確認する。
﹁確かに⋮⋮だが⋮⋮﹂
﹁どういうこと? これには金額が書いてないわ﹂
夫妻の疑問は当然だった。
売りに来たはずなのに、売値が書いてないのだから。
﹁売りには来ましたが、お金を払って頂くつもりはありません﹂
亮真の言葉に、伯爵も夫人も不思議そうな顔をした。
﹁では、何と引き換えに売る気だ?﹂
﹁伯爵様には、私の後ろ盾となって頂きたいと考えております﹂
﹁どういう意味だ? 私は先日、貴様に助力は惜しまないと言った
筈だが?﹂
伯爵の言葉に、亮真は無言で首を振った。ただ、それだけのこと
だが、伯爵夫妻には亮真が求めていることが伝わる。
確かに、先日の晩餐の時にも、今日会った時にも、伯爵は亮真に
996
対して友好的な態度をとり、助力する事を約束している。
だが、其れが伯爵の本心からの言葉かと言えばそうではない。
ルピス女王の命令による監視と、岩塩の鉱脈を横領していると言
う負い目が、彼に言わせただけの事。
本当に手を貸す気などないのだ。少なくても今までは⋮⋮
︵なるほどな⋮⋮見せ掛けではなく、本当に私の助力が欲しいのか
⋮⋮︶
伯爵は亮真の要求を正確に理解した。
︵まぁ、別にこの男に助力をするのは構わんか⋮⋮王都でふんぞり
返って命令を出すだけのルピスより、コイツは礼儀を知っている⋮
⋮それに、平民にしては知恵が有る⋮⋮少なくとも、馬鹿ではない。
特に金を要求しないところが⋮⋮な︶
伯爵の表情が弛むのを見た亮真も、穏やかに笑みを浮かべた。
︵やっぱり金ではなく、助力にして正解だったか⋮⋮まぁ、王家の
資源を横領してまで金にこだわるほどの人間だからな⋮⋮俺に金な
んか払う筈もないか。何しろ現実に鉱脈を握っているのは伯爵。例
え、本来の持ち主に対してだろうと、金を出したくないだろうと考
えたのは正解だったな︶
伯爵は金が必要で、塩の鉱脈を横領したのだ。
其れが正当な要求であったとしても、ザルツベルグ伯爵に金を出
す気持ちなどあるはずがない。
亮真は、伯爵が金に固執する人間である事を見抜いていた。
その判断の正しさが今、伯爵の表情に現れている。
わたくし
﹁御子柴男爵様? 私にはこの書類の価値が判りませんの。申し訳
ないけれど、説明して頂けるかしら?﹂
997
商家出身の伯爵夫人は、非常に優れた政治家でもある。
ザルツベルグ伯爵家の建て直しの為に、嫁いできたのだが、彼女
は立派に其の役目を果たした。
其の彼女の目から見て、この書類には値千金の価値が有る。だが、
彼女はあえて価値が判らないという表情を浮かべて亮真へ問いかけ
た。
理由は2つ。
足元を見られて値を吊り上げられないためと、この筋書きを考え
付いたのがこの男なのかを確かめるため。
裏に黒幕が居ないかと疑ったのだ。
﹁そんな事は、私が改めて説明する必要もないでしょう? 夫人が
そういった法の専門家である事は有名ですからね﹂
亮真は夫人へ笑顔で答え、揺ぎ無い視線を夫人へ向けた。
両者の間で、無言のやり取りが行われた。
︵揺らぎのない視線⋮⋮その場しのぎで言っているんじゃない。コ
イツは本心からそう思っているのね︶
﹁良いでしょう⋮⋮アナタの提案に価値があることは認めます。で
すが、少し時間をいただきたいわ。夫とも相談したいから﹂
﹁判りました。今日のところはこれで⋮⋮ご連絡をいただければ改
めてお伺いいたします﹂
夫人の言葉に頷き、亮真は席を立った。
彼は初めから、この場で商談が成立するとは考えていなかったの
だろう。表情に落胆の色はない。
︵まぁ当然だな⋮⋮伯爵側からも条件を付けたいだろうし。今日、
998
この場で署名される方が怖い⋮⋮後で、手のひらを返されかねない
からな︶
チラつかせた餌にザルツベルグ伯爵は興味を持った。後は、彼が
喰いつくのを待つだけ。
静かに、ゆっくりと時間を掛けて待てば良い。
︵たっぷり時間を掛けて悩んでくれ⋮⋮そう、たっぷりとな⋮⋮︶
﹁えぇ⋮⋮お手数を掛けて申し訳ないけれども。では、日を改めて﹂
夫人の言葉に一礼すると、亮真は扉の外で待機していたメイドに
先導されて屋敷を出て行く。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁帰った⋮⋮しかし、良かったのか?﹂
窓から亮真が乗り込んだ馬車を見つめていたザルツベルグ伯爵が、
ソファーに座る夫人へ声を掛けた。
﹁えぇ、あの男もそれを初めから理解していた筈よ⋮⋮まぁ演技だ
った可能性もあるけれど、もしそうだったならば、彼は天才的な嘘
つきね﹂
夫人はそういって肩をすくめた。
彼女は、自分の人を見る眼に絶対的な自信を持っている。
実家の商会を切り盛りしていた頃は勿論、伯爵家に嫁いできてか
らも、彼女の周りには海千山千の曲者ばかりが集まってくる。
999
そんな連中と渡り合っているうちに、自然と身についた特技だ。
﹁そうか⋮⋮私は、御子柴の話に乗っても良いと考えているが⋮⋮
ユリア、お前はどう思う?﹂
伯爵は夫人の前に腰を下ろすと、自分の心境を口にした。だが、
実権を握っているはずの伯爵の口調には、どこか夫人に対して遠慮
しているように感じられる。
それも当然なのかもしれない。伯爵はどちらかと言えば武人タイ
プの人間だ。
積極的な行動力と、冷酷な性格。だが彼は、自らが完全ではない
事を知っていた。
特に、外交や政略と言った部分では、自分の力が平凡なものでし
かない事を理解しているのだ。
だからこそ、伯爵は夫人の意見を重要視する。
パートナー
金の亡者達と長年渡り合ってきた夫人は、伯爵にとっても、最も
頼りになる相棒と言えた。
﹁幾つか気になるところはあるけれども、私も話しに乗っていいと
思うわ﹂
﹁気になること?⋮⋮クリストフの小娘の事か?﹂
伯爵にとって、一番気になるのは其の事だ。
イピロスの経済を掌握する商会連合の長を奪われた筈のクリスト
フ商会。本来ならとっくに潰れている筈なのだ。しかし、未だにク
リストフ商会は規模を縮小しながらも存在し続けている。
だが、夫人は伯爵の言葉に首を振った。
﹁ちょっと違うわね⋮⋮私が気になるのはあの男の本心の方よ﹂
1000
﹁御子柴の事か? 確かにアヤツは平民ながら分を弁えている。礼
儀も悪くない⋮⋮頭の方もなかなかだしな。私は正直に言って、あ
の男を見くびっていたと思っているのだが、お前は違うのか?﹂
﹁いいえ、アナタと同じよ。今回の話も裏があるわけじゃないと思
うわ⋮⋮ただ⋮⋮﹂
言葉を濁した夫人に伯爵は不思議そうな顔をした。
﹁ただ、なんだ? 何を気にしている?﹂
いず
﹁何れ、あの男に私達が潰されるかもしれないと言う事よ⋮⋮﹂
﹁ク! ハッハッハッハッ。ユリア、お前の知恵には今までずいぶ
んと助けられてきた。だから、私はお前の言葉を信用している。だ
が、幾らなんでもそれはありえまい? 私と御子柴の間にどれだけ
の差があると思っている? 100年後の話ならともかく、10年
や20年で埋まるような差ではないんだぞ?﹂
夫人の言葉を伯爵は豪快に笑い飛ばした。そんな事は、決してあ
りえないと。
御子柴亮真とザルツベルグ伯爵の間には、明確な力の差が存在し
ている。
経済力、政治力、外交力、軍事力。
領地を運営するに当たって必要な力の全てにおいて、伯爵は亮真
に勝っているのだ。
そして最も大きいのが、領地の差。
国境に面している紛争地帯ではあるが、交易もそれなりに行われ、
1001
モンスター
塩の鉱脈を握っている伯爵家と、領民は0の上、亜人や怪物が多く
徘徊するウォルテニア半島の御子柴亮真。
本来ならば、比べる価値すらないほどの差。
﹁そうね⋮⋮そうよね﹂
﹁そうだぞ、ユリア。幾らなんでも心配しすぎだ。まったくお前と
言う女は⋮⋮クックック⋮⋮まぁ良いだろう。それほど心配なら例
のメイドを送り込んで情報を流させれば良いだろう。そのために準
備したのだしな。どうだ? それでもまだ心配か?﹂
伯爵の言葉に、夫人は頷いた。
彼女自身、何か確信あってのことではないのだ。
ただ、漠然と感じた不安である。だから、彼女はこの時これ以上
気にしなかった。
其れが将来、どれだけの代償を払う事になるかまでは、神ならぬ
人の身では予測できる筈もない。 ﹁良いわ。そうしましょう⋮⋮では、幾つか条件を追加して、この
話を受けることにします。正式に塩の鉱脈を確保できれば、私達も
安心できるものね﹂
﹁うむ。その辺に関してはお前に任せる﹂
この言葉が、伯爵家の運命を決めた。 金を払うことなく鉱山を手に入れた伯爵と、ただの口約束で鉱山
を支払った御子柴亮真。どちらが真に得をしたのかは誰にも判らな
い。両者が矛を交える其の日まで⋮⋮
1002
第3章第15話
西方大陸暦2812年9月17日︻法術習得への道︼其の1:
﹁おらぁ! オマエら気合入れろ! 剣の振りが弱い! もっと力
を込めるんだ! 例え敵が鉄の鎧を着込んでいようと、力で押しつ
ぶすつもりで振れ!﹂
太陽の日差しが降り注ぐ中、20名の子供達が全身を汗みどろに
しながら剣を振る。
昼食を食べた後、訓練を始めて既に2時間が過ぎようとしていた。
少し離れた場所では、同じように剣を振る子供達の姿が見える。
グループ毎に別れた子供達を、紅獅子の傭兵が教師役として、子
供達を見守るシステムなのだろう。
﹁若がお優しいからってブったるんでるんじゃないぞ! 戦場に出
て死ぬのは若じゃない! オマエらだ! 良いか! 目の前に憎い
相手を思い浮かべろ! そしてそいつを斬り殺す気で振れ!﹂
げいは
平原に響き渡る怒号と気合い声。それは正に兵の訓練である。
実戦では鯨波を上げる事が、非常に重要である。声は己を奮い立
たせ、相手を威圧するのだ。 そして訓練においても、気持ちを高ぶらせると言う効果は無視で
きない。疲労の度合いも声の出し方一つで大きく変わる。
指導している傭兵は其の事を十分に理解しているのだろう。子供
達の声が弱くなると、直ぐに怒声が飛ぶ。
1003
﹁マイク! どんな感じだ?﹂
﹁お! これは若。見回りですかい? 良し全員止め! 少し休憩
にしてやる。汗で体を冷やすんじゃないぞ!﹂
亮真の声に、マイクは眉間に皺を寄せていた強面の顔を緩めた。
この気の良い男が、強面でずっと怒鳴り続けたのは、この仕事が
子供達の命に関わる事を理解していたため。
生徒に舐められるようでは教師役は務まらない。
真に相手を育てる気持ちがあるのなら、相手に嫌われ疎まれよう
と、必要なら殴ってでも教え込むべきなのだ。
﹁あぁ⋮⋮各班共に順調なようだな⋮⋮明日からはいよいよ法術の
授業も始まるけど大丈夫か?﹂
一月前。
亮真は受け取った奴隷の子供達を、5人ずつ1班とし、それを4
つ集めて1隊と言う単位に編成した。
隊を率いるのは古参の傭兵である紅獅子の面々。
つまり20人に一人の割合で紅獅子の傭兵が付く計算になる。
そして、リオネとボルツを総監督として、隊を率いない紅獅子の
傭兵は、各隊を回って訓練の補助を行っていた。
紅獅子の傭兵を頭にして班を作ったのは、全て実戦の為。個人技
を捨て、連携を強化する方が、生存確率が高いと判断したのだ。
それは、エレナの実績を見ても明らかである。
騎士の誇り等と言うつまらないメンツを捨て去ることで、彼女は
︻ローゼリアの白き軍神︼とまで謳われるようになった。
つまり、強い者が単独で戦うより、効率的で安全な戦闘を行える
わけだ。
それならば、初めから個人技を捨ててしまった方が習得は早い。
1004
無論、将来的には個人技も学んでいかなくてはならないだろうが、
即戦力を育成するならどちらか一方に絞った方が学びやすいのは当
然の事だ。
5人1班として分け、食事も寝る場所も同じと言う生活を1月さ
せたことで、彼らの中には連帯感と言うものが芽生え始めている。
仲間意識があれば、互いに庇いあう事で団結を強め、兵の質が向
上する事に繋がる。
まさに、亮真の狙い通りの成果と言えた。後は、一月と言う短い
期間で、彼らがどれだけ基礎的な部分を習得してきたか、其処が問
題である。
﹁そうですねぇ⋮⋮ボルツの旦那や姐さんにも聞かれましたが、俺
としては順調に来てると思ってますよ? だいぶ声も出るようにな
うかが
りましたし、仲間同士でなら話もしているようですしね⋮⋮後は、
俺らの顔色を窺わなくなれば、まずまずってところじゃないですか
ね?﹂ まだ、子供達の中から不信感や不安が消えたわけではないが、無
気力では無くなったようだ。
美味い飯を食べ、洗濯された服を着る。寝床は天幕の中に準備さ
れた物で、ベットの様に柔らかくは無いが、それでも奴隷として売
られていた時に比べれば、格段に良い待遇だった。
それに何より、彼らの表情を明るくした要因は、自分達が鞭で打
たれると言う恐怖から解放された事だろう。
少なくても、理不尽な理由で鞭が振るわれることがない事を、理
解したのだ。
其の証拠に、子供達の眼はマイクに対して恐怖の色を浮かべてい
ない。
強面の顔で怒鳴り声を上げられても、マイクが子供達を対等の人
間として扱っている事を理解しているからだ。
1005
これは、この訓練を始める前に亮真が全員に対してしつこく注意
した点だ。
幸いな事に、平民出身者で構成された紅獅子の傭兵達は亮真の言
葉に理解を示した。
もしこれが、騎士階級や貴族出身者だったとしたら、奴隷に何を
甘い事をと鼻で笑い、亮真の命令には従わなかっただろう。
﹁そうか⋮⋮みんな良くやってくれてるな⋮⋮とりあえずは剣も振
れている様だし⋮⋮﹂
﹁えぇ。その辺は十分にやらせていますからねぇ。1ヶ月でも形に
はなりまさぁ⋮⋮﹂
今彼らが握っているのは、ミストール商会から仕入れた大人用の
剣だ。
先日の会談の後、ザルツベルグ伯爵の口利きでミストール商会と
の繋がりができたのだ。
一ヶ月の間。十分な食事を与え、適度な睡眠と適度な訓練を施し
た結果、成長期である子供達の体は、筋肉が付き徐々に発達してき
ている。
無論、僅か一月の訓練で劇的に変わるはずもないが、少しずつ、
そして確実に彼らは成長していた。重く武骨な剣を振るっても体が
泳がないくらいまでには。
奴隷商人が引き渡しに来た時は全員が、貧しい食事でやせ細って
はいたのだが、健康な奴隷を選んで連れてきたと言う商人の言葉に
嘘は無かったようだ。
﹁ですがやっぱり、褒美に飴玉を配るっていうのは効果的ですね⋮
⋮みんな目の色変えて訓練をおこなってまさぁ⋮⋮褒美をぶら下げ
て訓練をさせるとは、さすが若! 何せ、取り組む意気込みが違い
1006
ますからね﹂
﹁そうか⋮⋮まぁ、甘い物は平民でもあまり口にする機会が無いだ
ろうからな⋮⋮こっちの狙い通りってわけだ﹂
﹁まぁ奴隷だったこいつらに、いきなり金をやっても使い道もあり
ませんからね⋮⋮悪くない手だとおもいますよ﹂
訓練の最後に、教師役から一日のご褒美として小さな飴玉が配ら
れる。
教師役から見て頑張っていれば2つ、普通なら1つ。
さぼらない限りは必ず貰えるこのシステムは、子供達にとって最
高のシステムだった。
あくまでも、自分が頑張ったかどうかであり、他人と比較する必
要が無いこのシステムは、彼らのやる気に火を付ける。
砂糖そのものが高価なこの世界では、飴玉1つで有ろうと平民で
はそう簡単には口にできない高級品である。
それを、亮真はイピロスの町で買い付け子供達へと配ったのだ。
その効果はまさに劇的だった。
飽食な日本では、飴玉で子供のやる気を釣る事は出来ないが、こ
の貧しい世界では十分に餌として使うことが出来る。
﹁そうか⋮⋮まぁそれなりの値段だったからな。効果が出てくれな
きゃ大損だ⋮⋮まぁ良い。マイク、明日からの法術訓練も頼むぞ﹂
﹁へい! お任せください﹂
人数が居る上に、飴玉自体の価格が非常に高い。
だが、金を掛けた分だけの効果は現れているようだ。
マイクの威勢のよい返事を背に受けながら、亮真はその場を後に
1007
した。
︵各班とも、まずまずの成果か⋮⋮後は明日からの法術の習得次第
⋮⋮俺も明日からローラ達に教えてもらわないとな⋮⋮︶
亮真も今だ知らない未知の領域。彼自身も法術を会得しなければ
前へは進めない。
ウォルテニア半島で生き残るためは、法術という新たな力が必要
なのだから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
翌日、朝食を食べ終わった亮真のもとへマルフィスト姉妹がやっ
てきた。
余程、亮真に対して法術の指南を行うことが嬉しいらしい。既に
姉妹の顔には笑みとやる気が満ち溢れている。
﹁亮真様、今日から法術の習得を始めますが、よろしいでしょうか
?﹂
﹁あぁ。悪いけどよろしく頼む﹂
亮真は姉妹へ頭を下げた。
少なくとも、法術に関して亮真は弟子と言う事になる。師に当た
る姉妹へ相応の礼を尽くすのは当然だった。
サーラは何か言いたげな表情を浮かべたが、ローラが首を左右に
振るのを見て、言いかけた言葉を押し殺す。
彼女はきっと、奴隷で有る姉妹に対して主人である亮真が礼を尽
くす事に驚きを感じたのだろう。
だが、彼女達は既に亮真の心を理解している。
彼は、決して驕り高ぶらないし、人に対しての礼節を守る。其れ
1008
が極自然な行動として、彼の体に染み付いているのだ。
﹁それでは始めましょう。亮真様には以前ご説明しているのですが
覚えておいでですか?﹂
姉妹は、天幕の中央に亮真を座らせた。
本来なら訓練初日である今日は、法術とは何かの説明をする日な
のだが、既に亮真は法術と言うものを知識としては教わっていたが、
姉妹は先ず、法術に関しての知識をおさらいするつもりのようだ。 ﹁詠唱が必要な文法術、詠唱を必要としない武法術、それに物に宿
らせる付与法術の3つの事だな?﹂
放浪していた時に、法術に関しては一通りの知識を姉妹から教わ
っている。
其の時に法術を習得しなかったのは、旅の途中では落ち着いて学
ぶことが出来なかった為だ。
プラーナ
﹁其のとおりです。全ての法術は生気を消費して効果を発揮します﹂
ローラの言葉に、亮真は無言で頷く。これも既に聞いている話だ。
プラーナ
﹁生気は生命体に必ず宿るエネルギーです。ですから本来ならどん
な人間でも使うことが出来ます﹂
﹁あぁ⋮⋮だから、子供達にも習得させることが出来る⋮⋮だろ?﹂
万人が使うことの出来る技術。性別にも、年齢にも左右されない
技術なのだ。
1009
﹁其のとおりです。教えを受ければ早ければ4ヶ月ほど、遅い人間
でも5ヶ月程で基本は習得することが出来ます。まぁ、本当に基本
的な部分だけですけど⋮⋮それでも、習得していない人間とでは比
べ物にならない強さを得られます﹂
﹁あぁ。以前言ったとおり、たった4ヶ月で完璧に習得できるなん
てことは俺も思っちゃ居ない。俺が望んでいるのは法術の基本を仕
込む事。それだけでも、子供が大人2∼3人分の労働力になる⋮⋮﹂
別に亮真は法術を戦に限定して使うつもりはない。法術を使うこ
とが出来れば、子供でも大人数人分の力仕事を行うことが出来る。
木を伐採する。石を運ぶ。家を建てる。幾らでも日常生活で活用
する場面はあるのだ。
アース
それを、使わないと言う選択肢は亮真にはない。例えその考え方
が、この大地世界では異端と呼ばれる考え方であったとしてもだ。
この世界では、法術を神の与えた力と特別視している。
光神メネオース。
この世界を造ったと呼ばれる6神のうちの一柱であり、主神と呼
ばれる存在である。
そして、この神から人間が授かった力とされるのが法術と呼ばれ
る技術である。
これが事実かどうかは問題ではない。
西方大陸で広く信仰されている光神教団と呼ばれる一団が、この
神話を真実ととして広め、多くの人間がそれを信じている事に問題
があるのだ。
数ヶ月前の戦で、亮真は法術を使用して陣を構築させたことがあ
った。亮真にとって見れば、土木機械の変わりに使った便利な技術
1010
程度の認識しかないのだが、あれですらこの世界の人間は驚きを感
じていたらしい。
戦に使う陣の構築と言う理由がなければ、傭兵はともかく、騎士
達は断固反対したに違いない。
傭兵や平民にとっては其処まで固執する話ではないらしいが、特
権階級である貴族や王族にとっては大問題らしい。
自分達が民を支配する権利を有していると言う眼に見える証拠と
して、法術を神から与えられた力だと刷り込まれているから。
そして、自らを守るためだけに許された力だと考えているため、
戦闘行為に限定となっているのだ。
神がくれた神聖な力を戦いに限定して使うと言う思想に、亮真と
しては強い矛盾を感じるのだが、宗教とはそういった非合理なもの
なのだろう。
とはいっても、亮真は宗教観を議論するつもりはない。問題なの
アース
は自分にとって利用価値が有るかどうか。使えないなら単純に無視
するだけの話だ。
そして、日本人である亮真にとって、大地世界の神に敬意を払わ
なければならない理由など何処にもない。単純に神は道具でしかな
いのだ。利用出来るのか出来ないのか。日本人特有の宗教観といえ
る。
マルフィスト姉妹は亮真の言葉に頷くと、亮真の後ろ側へと回り
込む。
﹁では、前置きは此のくらいにして、始めますか﹂
﹁あぁ、頼む﹂
亮真は事前に教えられたように、地面へ胡坐をかくと頷いた。
姉妹の手が、亮真の背に当てられた。
1011
﹁﹁いきます!﹂
彼女達の言葉の後、亮真の背に熱い何かが注がれた。それは、姉
妹の手から少しずつゆっくりと、背骨に沿って上へ上へと上ってく
る。
何かが這い上がってくるような、ゾクゾクした感覚が亮真を襲う。
﹁大きく鼻から息を吸ってください。そして、ゆっくりと口から出
して⋮⋮心を落ち着けて、気持ちを楽に⋮⋮背中から広がる熱い何
かを感じますか?﹂
亮真はローラの言葉に軽く頷くと眼を閉じた。そして、ゆったり
と背に広がる熱い感触へと意識を飛ばす。
自らの体に広がる熱い何かを、自らの意思でコントロールする為
に。
1012
第3章第16話
西方大陸暦2812年9月17日︻法術習得への道︼其の2:
﹁っ! 体が燃える⋮⋮﹂
りょうま
亮真の顔が苦痛で歪み、彼の口からうめき声が漏れた。
それは本当に小さな呟き。だが、普段冷静な顔の亮真が苦痛で表
情を変えたという事実が、その痛みの大きさを明確に示している。
初めは姉妹の手を中心に周囲がほんのりと暖かいだけであったは
ずが、いつの間にか背中全体が火にあぶられているような感覚へと
切り替わっていた。
亮真は痛みと熱さで叫びだしたくなるのを必死で堪える。
苦痛を噛み締めた時に力を入れすぎたのだろう。彼の口に錆びた
鉄を舐めた様な味が広がった。
プラーナ
﹁今、私達の手から亮真様の中へ生気を送り込んでいます。このま
ましばらくご辛抱ください⋮⋮さぁ、熱さを亮真様の意思で操って
ください﹂
プラーナ
サーラの言葉に従い、亮真は再び意識を背中へと向ける。
姉妹の手のひらから注がれる生気が亮真の体を少しずつ侵食して
いく。
5分もこの状態が続いただろうか。亮真の体は、頭の上からつま
先まで、火のように熱く燃え上がっていた。
体中から汗が噴出している所為で、彼のシャツをびしょびしょに
1013
濡らし、地面に敷いた毛布には幾つもの沁みが汗に因って作られて
いた。
﹁如何ですか? もし、熱さに耐え切れないようでしたらおっしゃ
ってください﹂
プラーナ
姉妹の顔にも苦痛の色が浮かんでいる。
プラーナ
それも当然だろう。亮真が生気をコントロールできない限り、姉
妹はひたすら亮真に生気を注ぎ込まなければならない。
プラーナ
それは、穴の開いたバケツに水を注ぎ込む事と同じ事だ。
姉妹の生気が尽きるのが先か、亮真の第1段階突破が先か⋮⋮
﹁あぁ⋮⋮かなり熱いな⋮⋮だが、大丈夫だ。まだやれる。続けて
くれ﹂
口を開いた途端に、滴り落ちる汗が口の中へ飛び込んできた。口
いっぱいに広がる塩辛い汗の味。
大量の発汗によって亮真の体は水を欲しがっている。
幾ら鍛え上げられた肉体を持つ亮真といえども、決して余裕など
プラーナ
は持っていない。だが、此処で止めるわけにはいかなかった。
プラ
止めてしまえば、明日も姉妹の生気を体に注ぎ込む処から始めな
ければならないのだ。
ーナ
チャクラ
︵ガイエス⋮⋮ケイル⋮⋮俺の体の中には、あいつらから奪った生
気が宿っている⋮⋮俺には出来るはずだ⋮⋮輪を回転させる事が!︶
チャクラ
亮真は荒れ狂う灼熱の塊を己の下腹部へ移動させるイメージを必
死で行う。
未だ、微動だにしない己の輪を回転させる為に。
法術の基本とは、自分の肉体を生気によって強化する、武法術の
事を指す。
1014
プラーナ
プラーナ
生気の存在を感じ取り、それを己の体に作用させる武法術を使う
プラーナ
ことが出来てこそ、他の存在の力を借りる文法術や、物に生気を纏
わせ強化する付与法術への道が開かれる。
プラーナ
何故なら、文法術にしろ、付与法術にしろ、己の体に宿る生気を
使うことに違いはない。
プラーナ
そして、自分の体内に宿る生気が操れないのに、体の外に放った
生気を操れるはずがない。
プラーナ
チャクラ
えいん
そして、武法術を習得するには3つの課題をクリアする必要があ
る、
プラーナ
1つ目は、生気を認識し、己の意思で操る事。
チャクラ
2つ目は、体内の生気を使い、最下級の輪である会陰に存在する
ムーラーダーラと呼ばれる輪を回す事。
チャクラ
3つ目は、回転させたムーラーダーラを自らの意思で止める事。
武法術とは、体内に存在する輪を回転させた状態の事を指す。
チャクラ
これを回転させる事により、人の肉体は筋力以上の力を発揮する。
チャクラ
チャクラ
そしてそれは、回転させた輪の数によって飛躍的に増幅していく。
プラーナ
人体に存在する輪は全部で7つ。亮真は其の一番最初の輪、ムー
ラダーラをマルフィスト姉妹の生気を借る事で回転させようとして
いた。
プラーナ
︵感じる⋮⋮血液じゃない⋮⋮何か熱い血とは別の物が俺の体を駆
プラーナ
け巡っている⋮⋮これが⋮⋮生気?︶
それは、姉妹の注ぐ生気に触発されて体の奥底に眠っていた何か
が目覚める。
体の中で何かが暴れ狂うような激しい躍動を、亮真は必死で抑え
込む。それは鎖に繋がれた獣が牙を剥きだし荒れ狂う様に似ていた。
プラーナ
亮真の体から、姉妹の注いだ生気に抵抗するような感触が姉妹の
手に伝わってくる。姉妹はその感触を感じたとたん、手を亮真の背
1015
中から離した。
﹁如何ですか? ﹂
チャクラ
プラーナ
﹁あぁ⋮⋮感じる⋮⋮体の中で獣が暴れまわっているような⋮⋮そ
んな感覚だ⋮⋮クッ!﹂
えいん
心配そうな声をあげたサーラに、亮真は慎重に答える。
今、亮真の下腹部、会陰の輪・ムーラーダーラは姉妹の生気によ
って激しく回転を始めた。
気を緩めれば、亮真は血に飢えた野獣のごとく姉妹の体へ飛びか
かっていたかもしれない。
他者を傷つけたいと言う欲、他者を犯したいと言う欲、他者を殺
したいと言う欲、欲⋮⋮欲⋮⋮欲。
亮真の心の底からとめどなく溢れだす欲望。
普段、理性と言う鎖で繋がれた欲望という名の獣が、其の鎖を引
き千切ろうともがき続ける。
︵落ち着け、ゆっくりと息を吐くんだ⋮⋮そう、ゆっくりと⋮⋮︶
だが、亮真の体は彼の意思を無視して活性化する。
筋肉は躍動を初め、心臓は其の脈動を強く早くしていく。皮膚の
感覚は鋭敏になり、全身の細胞が目覚めた様な、そんな感覚が亮真
の体を包み込む。
マルフィスト姉妹は互いに無言で頷きあうと、そのまま天幕の外
へと出ていった。この場で彼女達に出来る事はもはや何もなかった
から。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1016
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁どうだい、坊やの様子は? こっちは全員分終わらせたんで報告
に来たんだけどね?﹂ ﹁リオネさん⋮⋮まだ、亮真様は中で⋮⋮﹂
天幕の入り口に立ったまま警護していたマルフィスト姉妹へ、子
供達への訓練を終えたリオネが声を掛けた。
プラーナ
320人いる子供達へ、法術とは何かを説明し、一人一人に軽く
生気を注ぐところで本日の訓練は終りである。
だが、報告相手の亮真の方がまだ訓練を終えていないらしい。
姉妹が無言のまま首を横に振るのを見たリオネは、布の隙間から
天幕の内部へ視線を走らせ、納得したかのように頷いた。 ﹁⋮⋮結構長いねぇ⋮⋮昼前だろ? 坊やが始めたの﹂
既に時刻は15時を過ぎていた。 ﹁えぇ⋮⋮既に5時間ほど⋮⋮﹂
サーラの言葉にリオネは目を剥いて驚いた。
チャクラ
﹁アンタ達が外に出てるってことは、輪の方は⋮⋮﹂
﹁回転したままです⋮⋮﹂
ローラの顔には不安げな表情が浮かんでいた。
それを見たリオネも顔を顰める。
懸念する事は同じだ。
1017
プラーナ
プラーナ
﹁5時間⋮⋮かなりの数を殺して生気を吸収しているからね⋮⋮相
当な量の生気を持っているんだから仕方ないだろうけど⋮⋮5時間
か⋮⋮結構やばいかもね⋮⋮だからアタシは最初に止めたんだけど
ねぇ⋮⋮﹂
チャクラ
プラーナ
輪を回転させることに因って法術を習得する事は同じだが、子供
プラーナ
達と亮真では、前提条件が大きく違っている。
それは、今までの彼らが吸収してきた生気の総量だ。
今まで自分の手で他の命を奪った経験が無い子供達の持つ生気は
単純に己の体に元から存在する量だけだ。
モンスター
プラーナ
それに対して、亮真はガイエスやケイルと言った法術を使うこと
の出来る人間や、数多くの怪物を殺してきており、その生気を吸収
してきた結果、常人の倍近くとなってきている。
本来ならば総量が多い方が良いのだが、武法術の習得と言う観点
だと逆に不利となってしまう。
逆に自分の意思でコントロールする事が困難になるから。
其の事は誰もが判っていた事だ。事前に忠告もした。だが、亮真
チャクラ
は其の忠告を無視した。
4ヶ月の間で亮真の輪が自然に回転するかどうかがわからなかっ
た為だ。
チャクラ
﹁まぁ、それは此処で今更言っても仕方がないか。⋮⋮アンタ達も
少し休んだ方が良いんじゃないかい。坊やの輪を動かすのに相当使
ったんだろう? 坊やはアタシが見てるからアンタ達は食事をして
少し休んできな﹂
リオネは体を気遣う様に、優しげな視線を姉妹へ向けた。
﹁お気遣いありがとうございます⋮⋮ですが、リオネさんもお疲れ
1018
のはずですし⋮⋮﹂
プラーナ
﹁姉様の言うとおりです。リオネさんも子供達の何人かには生気を
注がれたんでしょ?﹂ 姉妹の言葉にリオネは声を出して笑った。 プラーナ
プラ
﹁馬鹿だねぇ。アンタ達は⋮⋮子供の5人や6人に生気を注いだか
ーナ
らってどうなるもんじゃないよ。坊やと違って、あの子達の体を生
気で満たすなんて大して手間にはならないよ﹂
プラーナ
実際、リオネはさほど疲労の色は見えない。
それはつまり、亮真の生気が子供達に比べて膨大である証拠であ
った。 ﹁良いから! あんた達は少し休⋮⋮﹂
ドサッ
天幕の中から何かが倒れる音がした。
3人は直ぐに天幕の中へと飛び込む。
﹁﹁亮真様!﹂﹂﹁坊や!﹂
かざ
うつ伏せのまま大地に横たわる亮真を抱え上げると、リオネはす
ぐさま口へ手を翳す。
﹁大丈夫。気を失っているだけだ⋮⋮ローラは直ぐに寝床の準備を
しな。サーラは水を持っておいで!﹂
1019
脈拍にも乱れはない。軽度の脱水症状と疲労による一時的な気絶
だと判断したリオネは、矢継ぎ早に姉妹へ命じた。
﹁﹁判りました! 直ぐに﹂﹂
自らも疲れていたはずなのに、姉妹は機敏に駆け出す。
﹁まったく⋮⋮だから止めとけって言ったのに⋮⋮﹂
リオネは亮真に命の危険が無いと判断すると、苦笑いを浮かべて
呟いた。
自分達に時間がない事はリオネ自身も理解している。
だが、亮真一人くらいなら法術を使えないとしても周りが何とで
もフォローできる。
其処まで固執する必要は本来ない筈なのだ。
だが皮肉な口調とは裏腹に、リオネは内心嬉しかった。
頭である亮真が法術の習得に固執する。
それはつまり、彼が自分達と同じ目線で生きていると言う証。自
らの手を血で汚そうと言う覚悟。
亮真の性格は短い付き合いだが十分に理解している。
だが、こうして目の前で気絶する亮真の姿によって、彼の覚悟の
強さを改めて見せ付けらたのだ。
︵亮真⋮⋮アンタに賭けて良かったよ⋮⋮アンタなら⋮⋮アンタな
ら変えてくれる。アタイ達の運命を⋮⋮︶
傭兵の運命など先が見えていた。
依頼人に裏切られるか、戦場で敵に殺されるか。どちらにしても
決して明るい未来にはならない。
足をあらい、老後を暮らせる傭兵などほんの一握りにも満たない
のだ。
1020
だから、彼女達は死を恐れない。だが、無駄死にはゴメンだ。
避けられない死なら、せめて納得して死にたい。
︵アンタなら⋮⋮アンタの為になら⋮⋮︶
リオネは腕の中で気絶したままの亮真の髪をやさしく撫で付けた。
まるで、わが子を慈しむ様に。
1021
第3章第17話
みこしばりょうま
西方大陸暦2812年10月未明︻東部侵攻︼其の1:
御子柴亮真が法術の習得に向けて日々鍛錬をしていた丁度その頃、
隣国ザルーダ王国には戦雲が立ち込めていた。
大陸中央部の覇者オルトメア帝国が遂に其の牙を剥き出し、東部
侵攻を開始したのだ。
片方は国の発展と覇権の為に。片方は国の存続と安定の為に。
国境に広がるノティス平原を舞台に、決して敗北が許されない戦
が始まろうとしていた。
﹁どうなっているのかしら? 各部隊の状況は﹂
後方の本陣で指揮を取るシャルディナは、テーブルに広げられた
巨大な地図を睨みつけながら、傍らに立つ斉藤へ声を掛けた。
地図の上には、赤と黒に色分けされた駒が陣形を組んで配置され
ている。
﹁はい。伝令の報告によりますと、主力軍は予定通りのルートを進
んでいます。先鋒の3部隊が現在、ノティス平原の東に陣取るザル
ーダ王国の騎士団と交戦中との報告がありました﹂
そう言うと斉藤は、端の方にひと塊りで置かれていた赤い駒を3
方向へと配置し直す。
この駒の一つ一つが敵と味方の部隊を表すらしい。
1022
赤がオルトメア帝国、黒がザルーダ王国の部隊を表しているのだ
ろう。
中央に置かれた赤い駒の数は15。かなり離れた北と南にそれぞ
れ5個ずつ。
一つの駒がおよそ1000の部隊として総数2万5000。 ﹁敵の兵数は?﹂
斉藤は、ノティス平原と山岳部の境目辺りに黒い駒を並べていく。
その数は20。
﹁全て騎士で構成された軍団で、数はおよそ2万とのことです﹂
ちょうしょう
斉藤の答えにシャルディナは唇を吊り上げ、嘲笑を浮かべた。
それは、馬鹿な獲物が罠にかかった事を確信した猟師の笑みだ。
﹁そう⋮⋮やはり国王の命令で直ぐに動かせる全兵力を叩きつけて
きたわけね⋮⋮良いわ。予定通りよ﹂
﹁まぁ、他の選択肢を選べないように、我々でコントロールしてい
ますからね⋮⋮﹂
すく
シャルディナの言葉に、斉藤は肩を竦めて答えた。
﹁宣戦布告から今日までの日数はわずか5日。農民を徴兵するにし
ても時間が足りないものね﹂
徹底的な情報封鎖を実施した結果、ザルーダ王国側にはオルトメ
ア帝国軍の動向がつかめていなかった。
ザルーダ王国は、峻険な山々に守られた天然の要害。
1023
だが、今回の様に敵国の動向を掴んでいない状態で侵略を受ける
しゅんけん
と、其の天然の要害が逆にザルーダ王国の動きを封じる。
峻険な山々に分割された領土は、豊富な鉱石を産出する宝の山だ
が、兵を運用するには不向きな土地だ。
要害もそれを活かすための備えが無ければ逆に足かせにしかなら
ない。
﹁ワザとこちらの主力部隊の兵数だけを漏らし、王家直属の騎士団
を総動員すれば五分に持ち込めると錯覚させた事に因って、野戦に
引きずり出す⋮⋮流石はシャルディナ殿下﹂
斉藤は心の底からシャルディナの智謀を称賛した。
オルトメア王家の姫君でありながら、シャルディナが軍を率い戦
に出るのはこの才あっての事。
其の事を彼は嫌と言うほど理解している。
ザルーダ王国の総兵力はおよそ7万。但し、この数には農民兵や
貴族の私兵も含んでの数である。
ザルーダ王国が直ぐに動員できる戦力は、王家直属の騎士、およ
そ2万5000。
事前に帝国の動向を掴んでいなかったザルーダ王国は、貴族に触
れを回し兵を整える時間が無かった。
それはつまり、王都に存在する王家直属の騎士団のみで防衛しな
ければならないということだ。
その事を知るザルーダの軍部は焦っただろう。そして必死で敵軍
に関しての情報をかき集める。
敵を知ることに因って、苦境を打開する突破口を求めたのだ。
帝国軍を率いる将の名前。兵数。予想される進軍経路。
無数に集められる情報。それらを分析し、対策を練る。その結果、
彼らは気が付いた。
1024
シャルディナの率いている兵数がそれほど多くない事に。そして、
王の直轄軍を全て動員したならば、十分に勝機が見込める事を。
自国内へ兵が侵攻して来れば、最終的に勝ったとしても、ザルー
ダ王国には大きな傷が付く。
初め、ザルーダの軍部は多少の犠牲を覚悟した上で、国内へオル
トメア軍を引き込む事を考えていた。
しかし、シャルディナが率いる兵数が多くないのなら話は変わっ
てくる。
野戦、それも国境付近での戦ならば、ザルーダ王国の国力に傷は
付かない。
誰でも損は嫌だ。
まして、損しないかもしれない選択肢があるのに、確実に損をす
る選択肢を選ぶ人間は居ない。
ザルーダの軍部は僅か5000の騎士を残し、ノティス平原へと
兵を進めた。
だが、彼らをそう考えるように誘導したのはシャルディナ。彼ら
が思い描いた未来は、ワザと目の前にぶら下げられた決して実現す
る可能性の無い希望なのだ。
﹁北と南の別働隊はどう? 予定通りに進んでいるのでしょうね?﹂
シャルディナの鋭い視線が斉藤を射ぬいた。
今のところ罠は完ぺきに作動している。
だが、少しの油断が状況を逆転させてしまう事を、シャルディナ
は過去の経験から身を持って理解している。
だから彼女は決して油断しない。
元から豊富に備わった才覚と戦場での経験。そして、亮真を逃が
した事に因って味わった挫折と教訓。それらがシャルディナの中で
1025
混じりあい、彼女を細心にして大胆な、まさに理想的な指揮官へと
成長させた。
﹁はい。両部隊とも予定の場所に待機しているとの連絡が来ており
ます﹂
シャルディナは斉藤の答えに満足したのだろう。笑みを浮かべて
頷く。
﹁良いでしょう⋮⋮手筈は判っていますね? 斉藤﹂
﹁はい。私にお任せください殿下﹂
斉藤の口調はいつもと変わらない。
穏やかで丁寧な口調。そして、シャルディナへ一礼すると彼は天
幕の外へと出て行った。
とても、これから戦の渦中へ飛び込もうとしている人間とは思え
ないほどの落ち着きぶり。
だが、シャルディナには斉藤の秘められた闘志が手に取る様に伝
わる。
彼の背中から発せられる激しい炎の幻影を、シャルディナはその
瞳にハッキリと捕えていた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁皆、準備は良いか?﹂
馬上の人となった斉藤が、周りの副官達へ声を掛けた。
1026
﹁﹁﹁﹁﹁は!﹂﹂﹂﹂﹂
短く力強い言葉が斉藤の鼓膜を震わす。
彼の後ろに就き従うのは重装備の騎士達。その数1万。
けんこんいってき
シャルディナの本陣を守るのは、僅か2000あまりの小勢。
主将の警護を最低限まで減らした、まさに乾坤一擲と言える戦力
だ。
この戦、そして今後の侵略戦争の全てが斉藤の双肩に掛っていた。
斉藤の目の前には、先鋒部隊が必死でザルーダの騎士達と矛を交
えている姿が映し出されている。
﹁副団長。ご命令を﹂
副官の一人が、斉藤へ出陣の命を求めた。
斉藤は無言のまま腰の剣を抜き放つと、高々と天を指す。
誰もが無言で、次の命令を今や遅しと待ちわびる。
彼らは誰もが酔っていた。斉藤の無言の気迫にだ。
そして、兵達の全身に闘志がみなぎった事を感じた斉藤は、無言
のまま剣を降ろすと前方の敵を指し示した。
﹁﹁﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉおおおぉ!﹂﹂﹂﹂﹂
げいは
斉藤の傍らを鯨波を上げながら駆け抜けていく兵士達。
限界まで引絞られた矢が、遂に放たれたのだ。
騎馬に乗る騎士達が敵影目がけて突進してゆく。
全身を鋼鉄の鎧で覆った重装備の騎士達だ。
馬にまで鎧を着せた彼らは、まさにこの世界における戦車である。
武法術に因って身体能力を強化された彼らは、徒歩の騎士を踏み
1027
つけ、跳ね飛ばし、槍で貫いてゆく。
﹁殺せぇぇ! 皆殺しにしろぉぉ!﹂
﹁逃げるな! オルトメアの犬に後ろを見せる事は許さん!﹂
﹁クソ! 腕が⋮⋮俺の腕が⋮⋮﹂
﹁うっせぇぇ! 喚いてる暇が有るなら剣を振れぇぇ!﹂
戦場のそこかしこから放たれる野蛮な怒号と悲鳴。
じゅうりん
徒歩の騎士達による白兵戦が主体だった戦場へ飛び込んだ帝国騎
馬騎士達の戦果だ。
彼らは、ザルーダの騎士達を存分に蹂躙してゆく。
だが、そのまま蹂躙されたままでいるほど、ザルーダの騎士は甘
くなかった。
﹁徒歩騎士は陣形を組め! 敵の騎馬を食い止めろ!﹂
﹁良いか! 所属小隊にこだわるな! 直ちに陣形を組むのだ﹂
機転のきく部隊長達が、素早く状況を察知して声を張り上げた。
騎馬に騎馬をぶつけるより、徒歩騎士達で陣形を整え騎馬に因る
攻撃を防ぐつもりらしい。
指揮系統が混乱したザルーダの騎士達は、指揮官の命に従って素
早く陣形を組み直す。
﹁こちらも徒歩騎士を前へ!﹂
騎馬部隊の一撃に因って生じた混乱を、敵の指揮官が立てなおし
1028
た事を察し、斉藤は突撃した騎馬部隊を後方へ下げ、代わりに徒歩
騎士達を全面へと押し出す。
アース
重装騎馬は非常に強力な兵だが、幾つか難点が有った。
日本の馬に比べて体格が大きく馬力の有る大地世界の馬だが、そ
の体力には当然のことながら限界が存在する。
騎馬の利点は重量と速度。
逆に言えば、走れない馬は格好の標的にしかならない。
兵はいわばジャンケンと同じ事。
最強の兵種など存在しないのだ。
﹁良いか! オルトメアの侵略者をこの地で葬り去るのだ! 引く
事は許さん! 進めぇぇぇえ!﹂
かち
ザルーダ側の前線指揮官が、騎士達の準備が整ったのを確認する
と、声を張り上げた。
隊列を整えたザルーダの徒歩騎士達が、足並みを揃えて前進して
いく。
﹁ザルーダの騎士等にひるむ事は許さん! 我らは誇り高きオルト
メア帝国の騎士! 敵を蹴散らすのだぁぁぁ! ﹂
部隊長の指揮の下、次々と前線へ飛び込んでいく騎士達。
初めは整然と整えられていた隊列は、両者がぶつかるごとに歪み、
崩れていく。
両軍共に騎士のみで編成された部隊である。
分厚い鉄の板で作られた鎧。鋭い剣や槍。武法術に因る身体強化。
騎士一人の戦力に大きな差は存在しない。
両軍互角であるために、敵を一人殺す毎に、味方が一人死んでい
1029
く。
それはまさに不毛な消耗戦の筈だった。だが、戦の勝敗は既に決
まっていた。
指揮官の持つ能力の差が、両軍の運命を分ける。
1030
第3章第18話
西方大陸暦2812年10月未明︻東部侵攻︼其の2:
シャルディナの目的は、ザルーダ王国の主力部隊の撃滅。
王家直属の騎士を潰す事が出来れば、残るのは各地方の貴族が持
つ私兵しか残らなくなる。
オルトメア帝国のザルーダ王国平定は飛躍的に進む事となるのだ。
その為に、シャルディナは幾つかの謀略を実行してきたのだ。
北の巨獣が眼を覚ます其の前に⋮⋮少しでも早くザルーダ王国全
土を占領をする為に⋮⋮
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
︵そう⋮⋮私はあの時油断した⋮⋮あそこまで御子柴の行動を予測
しておきながら、最後の詰めを誤ってしまった⋮⋮でも、ある意味
あれは良い教訓になったわね。どれほど有利な状況を作ったとして
も、小さな油断が命取りになる場もあり得るし⋮⋮︶
本陣の大天幕の机の上に広げられた地図を凝視するシャルディナ。
彼女の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
彫りの深い老け顔の青年。
一見すると、穏やかで人のよさそうな男だが、其の隠された素顔
は獰猛な野獣だ。
シャルディナと斉藤が対峙した時の彼の眼は冷たく冷酷で、鋼の
強さを纏った男。
彼女の張り巡らした包囲網を力で食い破り、帝国の追っ手から逃
1031
げ延びた男。
︵もしアイツが敵の指揮官だったら⋮⋮?︶
意味の無い仮定が、シャルディナの心を埋め尽くして行く。
何度も何度も精査し実行された必勝の策。だが、彼女の心を居る
筈のない男の影が縛り付ける。
﹁殿下⋮⋮そろそろ頃合かと⋮⋮合図を送ってもよろしゅうござい
ますか?﹂
思考の海を漂っていたシャルディナは、副官の言葉を聞き我に返
る。
﹁えっ! えぇ⋮⋮そうね⋮⋮合図を送りなさい﹂
内心の同様を悟られないように、彼女は平静を装って命じた。
︵ダメよ⋮⋮同じ過ちを繰り返すつもり? 今は戦況に集中しなく
ちゃ︶
戦の勝敗は既に決している。
其の為に、様々な手を打って準備してきているのだ。しかし、少
しの油断が戦況をひっくり返してしまう可能性は常にある。
戦が終わらない限り、勝った事にはならないのだから。
過去の教訓がシャルディナの心を慎重にする。
︵私は⋮⋮負けない! 絶対に⋮⋮負けられない⋮⋮︶
優勢であるはずのシャルディナ。策をめぐらし、此処までは順調
に進んでいる。
後は最後の仕上げをするだけのはずなのに、彼女の心は激しく揺
れ動いていた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1032
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁副団長! 合図です! 本陣より合図の銅鑼が鳴らされました!﹂
傍につき従う側近の一人が、本陣から鳴り響く銅鑼の音に気がつ
くと声を上げた。
斉藤は黙って耳を澄ます。敵と味方入り乱れての喚声と、剣戟の
音によってかなり聞き分けにくいが、側近の言葉通り、後方の本陣
から銅鑼の音が彼の耳にも届いた。
てはず
﹁えぇ、間違いありません⋮⋮事前に命じられたシャルディナ殿下
の合図の銅鑼です。みなさん、手筈は判っていますね?﹂
﹁﹁﹁は! 直ちに﹂﹂﹂
斉藤の鋭い眼光を受け、側近達が方々へと散らばっていく。
﹁良いか! このまま後方へ引くぞ! 引き上げの鐘を鳴らせぇぇ
ぇえ!﹂
斉藤の叫びの後、退却を知らせる鐘の音が戦場に響き渡る。
﹁引け! 退却だ!﹂
﹁良いか! 慌てるな! お互いに庇い合いながら引くのだ!﹂
連携を意識しないとはいえ、戦場において完全に単独で行動する
事はありえない。
組織立っては居ないものの、彼らは互いに庇いあいながら後方の
本陣へ向かって退却を始める。
1033
周囲に気を配り、敵に殺されそうな味方が居れば、最も近くに居
る騎士が助けに行く。
別に敵を殺す必要など無い。
退却の号令が出た段階で、攻撃側と守備側が明確に分かれてしま
っているのだ。
退却するオルトメア帝国の騎士達にとって最も重要なのはただ一
つ。少しでも多くの仲間が無事に後方まで退却できる事。
それに対し、ザルーダの騎士にとって大切なのは、少しでも多く
の騎士をこの場で殺しておく事。
相反する目的のために、両国の騎士達は互いに剣を振るう。
﹁ベルハレス将軍! オルトメアの侵略者共が撤退を始めました!﹂
前線から駆け戻ってきた伝令の声が天幕の中に響いた時、初め、
天幕の中を支配していた喧騒はピタリと止まった。
そして伝令の言葉の意味を中に居た人間たちの脳が理解すると、
再び天幕の中は活気と喧騒を取り戻す。
﹁何! それは本当か!﹂
国の興亡をかけた一戦だと、天幕の中に居る誰もが理解している。
オルトメア帝国とザルーダ王国の国力差から考えて、それは圧倒
的に不利な戦の筈だった。
それなのに敵が退却を始めるという、降って湧いた予想外の好機。
これに賭ける以外に勝機は無いと副官達が思うのも当然だった。
﹁オルトメアが兵を引いただと! 其れが本当なら好機だ! 直ぐ
に追撃を掛けるべきだ!﹂
1034
﹁閣下! 追撃のご命令を! これこそ神がわがザルーダ王国を見
放さなかった証!﹂
次々と浴びせかけられる威勢のよい言葉。副官達の言葉に頷きな
がらも、ザルーダ王国軍の最高指揮官であるベルハレス将軍は、顎
に蓄えられた白く長い髭をしごきながら考え込んだ。
周囲に待機した副官達が盛んに進軍を進言する中、彼だけが、一
人瞑想したまま微動だにしない。
﹁親父殿⋮⋮どうするつもりだ?﹂
一人の男が、ベルハレス将軍へ問いかけた。
その言葉は他の副官達とは違い、意見を言うと言うより、将軍の
意見を聞きたいと言うスタンスから発せられた言葉のようだ。
ベルハレス将軍に話しかけたのは、将軍を若返らせたかのような
容姿をした、20代前半の男。
副官達は黙り込むと、その若い男へと刺々しい視線を向けた。
いしゅく
侮蔑、嘲笑、其の視線には、人間の負の感情が溢れんばかりに込
められていた。
普通の神経を持った人間がこんな視線を受ければ、萎縮してしま
うのが普通なのだが、この男は悪い意味で図太いらしい。
副官達の視線を受けても全く動じる様子が見えなかった。
﹁お前はどう思っているんじゃ? ジョシュア﹂
将軍は末席に座ってふんぞり返る三男へと視線を向け問いかける。
﹁フン! 言うまでもない。追撃するつもりなら⋮⋮全滅覚悟でシ
ャルディナの首を落とすしかないぜ?﹂
1035
そう言い捨てると、彼は口に咥えた葉巻へ指先を近づけた。
﹁﹁﹁え?﹂﹂﹂
ジョシュアの言葉に、副官達は思わず間抜けな言葉を発してしま
った。
それほど、彼の言葉は副官達にとって予想外だったのだ。だが、
驚きの表情浮かべる副官達を横目に、ベルハレス将軍は満足げな笑
みを浮かべて頷く。
指先に灯した火で葉巻に火をつけたジョシュアは、禁煙である筈
の軍議の場で悠然と煙草の煙を吸い込む。
其のあまりにも平然とした態度が逆に、ジョシュアの言葉を不気
味に感じさせた。
﹁ふむ⋮⋮それでお前はどうする? 此処で引くか?﹂
父親であるベルハレス将軍の試す様な問いかけに、ジョシュアは
肩を竦めて答えた。
﹁生き残りたいなら引くべきだな⋮⋮﹂
此処でジョシュアは言葉を区切ると、周囲に鋭い視線を向けた。
先ほどまで彼の体からにじみ出ていたやる気の無さは完全に消え
去り、その代わりに彼の体から発せられるのはむせ返るような殺気
と闘志。
﹁ザルーダ王国を守りたいなら⋮⋮此処は勝負するしかないだろう
ぜ﹂
ゴクッ
1036
誰かの唾を飲み込む音が天幕内に響く。
幾多の戦場を生き抜いてきた副官達が、目の前に座る若造に気圧
された証だ。
﹁ジョシュア殿⋮⋮失礼ですがそれはどういうことでしょう?﹂
ジョシュアの言葉に副官の長老格が恐る恐る問いかける。
今まで、副官達にとってジョシュアは単なる邪魔者でしかなかっ
た。
年長者を敬わず、酒と金に汚いジョシュアの悪名は王都で生活し
ていれば嫌でも耳に入ってくる。
毎晩のように貧民街の酒場に繰り出し、博打に喧嘩と武勇伝には
事欠かない。
いわば犯罪者予備軍とも言うべき人間なのだ。
今回の出陣に際して、父親であるベルハレス将軍がジョシュアへ
従軍を命じた事はこの場に居る副官全員が知っている事だ。だが、
それは将来の無い鼻つまみ者の三男に,何とか箔をつけたいと言う
親心の表れだと、副官達は考えていた。
だから彼らは、軍議にジョシュアが参加していても意見を聞いた
ことなどない。ただの生きた粗大ゴミとしか思っていなかったから。
﹁判らないか? 罠だよ⋮⋮ワザとこちらの軍を引き込んで挟撃す
る。使い古された手だがそれは其の手段が有効だって証拠さ⋮⋮逆
にアンタたちに聞きたいんだが、本当にこのまま追撃するつもりか
?﹂ ジョシュアの眼には副官達への侮蔑の色が浮かんでいた。
1037
﹁馬鹿な⋮⋮何を根拠にそのような⋮⋮﹂
﹁考えすぎだ!﹂
﹁将軍! 所詮戦を知らない素人の戯言です。千載一遇の好機をみ
すみす見逃されるおつもりですか?﹂
副官達は矛先をベルハレス将軍へと変えた。
内心、ジョシュアの指摘を受けてオルトメア側の策の可能性を考
慮した副官も居た。
歴戦の戦士である副官達も愚かではない。あまりに予想外の幸運
に我を忘れて追撃を進言したものの、ジョシュアの言葉によって其
の熱も下げられた。だが、それを素直に認める事はできない。
今まで影で馬鹿にしてきた人間の言葉に何の不満も持たずに従え
る人間など居る筈もなかった。
彼らはオルトメアとの戦に勝つ為ではなく、自らのプライドを守
る為、追撃に固執する。
﹁皆少し黙れ⋮⋮ジョシュア。お前は先ほど2つの選択肢を言った
が、あれはどういう意味だ? 何故罠だと知っていながら追撃を容
認するような発言をした?﹂
ベルハレス将軍の言葉に、騒いでいた副官達も押し黙る。
罠だと予測したのなら、選択肢は軍の撤退以外にはありえない。
一度、陣へ戻り、仕切りなおすのが戦場の常識と言える。
それなのにジョシュアは追撃を容認するような発言をしている。
しかも、ザルーダ王国を守りたいならばなどと言う、意味深な言葉
を添えてだ。
興味を惹かれない筈がなかった。
1038
﹁親父⋮⋮それは俺が言う必要はないだろう? アンタだって十分
に判っている筈だぜ?﹂
﹁もう一度言う。皆に説明せよ﹂
どこかあきれたような口調で首を振るジョシュアの言葉を切り捨
て、ベルハレス将軍は鋭い視線をジョシュアへ向けた。
﹁ふぅ⋮⋮良いぜ⋮⋮なぁに話は簡単。戦略的観点から見れば、こ
のオルトメアとの戦は既に負けてしまっているって事さ﹂
ジョシュアの言葉に天幕の中は静まり返える誰もが彼の言葉に耳
を疑ったのだ。
﹁き⋮⋮貴様! 何を言っているのか判っているのか!﹂
静寂を破り、副官の一人が怒りの叫びを上げる。
彼は今まで取り繕っていた、将軍の息子に対する礼儀を完全に無
視して掴みかかろうとジョシュアへ向かって走る。
前線では今も血みどろの戦が繰り広げられている。誰もが祖国の
平和の為に、命を賭けて侵略者の手から国土を守ろうと必死で戦っ
ているのだ。それを既に負けていると言い放つのは、死んでいった
騎士への侮辱に他ならない。彼の手が腰の剣に添えられたのもある
意味当然といえた。
﹁待て! 何をするつもりだ! 此処は軍議の場だぞ!﹂
副官の手が剣の柄を握ったことに気がついた同僚は、咄嗟に彼を
羽交い絞めにして圧しとどめる。
副官の怒りはその場に居る誰もが理解できた。だが、だからと言
1039
って軍議の場で味方を切り殺すのを黙ってみているわけにもいかな
い。
誰もが無言だった。口を開けば罵声しか出てこない事を誰もが理
解していたから。
ジョシュアの言葉を聞いて表情を動かさなかったのはただ一人、
ベルハレス将軍のみだ。
﹁ふむ⋮⋮まぁ礼儀を弁えていない言葉だが⋮⋮間違っては居ない
か⋮⋮﹂
それは小さな呟きだった。だが、静まり返った天幕の中に将軍の
言葉はやけに大きく響く。
まるで死の宣告の様に⋮⋮
1040
第3章第19話
西方大陸暦2812年10月未明︻東部侵攻︼其の3:
ベルハレス将軍の言葉に副官達の顔は青ざめた。
まさか、最高指揮官がこの場で負けを認める様な発言をするなど、
誰が予想出来ただろう。
﹁か⋮⋮閣下⋮⋮﹂
ベルハレス将軍の名を口にした副官の声は、あまりの衝撃に震え
ていた。
この世界の戦争は肉体を使った白兵戦が主流であり、その勝敗を
決めるのは兵の士気に他ならない。
そして、其の士気を保つためには指揮官への信頼が何よりも大事
だ。
指揮官が勝利すると思うからこそ、兵は命を賭けることが出来る。
逆に言えば、勝てない指揮官のために命を賭けることができる人間
は圧倒的に少ない。
それにベルハレス将軍はこの戦においてザルーダ王国軍の最高責
任者でもある。
それはつまり、勝敗は彼の考え方一つに掛かっているという事だ。
どれほど兵を失おうと、指揮官が負けを認めない限り勝敗は決し
ない。戦意さえ失わなければ其の戦場では負けたとしても、戦その
ものは終わらないのだ。
しかしそれは同時に、戦意を失ってしまえば兵が幾ら残っていて
1041
も負けるということを意味する。
つまり、軍の指揮官に求められる最高の資質は不屈の精神力と言
う事になる。
軍略の才は部下を選べば補うことが出来る。しかし、人の心や精
神力を他人の力で補う事はできない。
そういった意味で、ベルハレス将軍はまさに最高の指揮官だった
はずだ。
オルトメア帝国、エルネスグーラ王国。この2国の東部地方侵攻
を長年阻んできたのは彼だからだ。
ローゼリア、ミストといった東部の王国と連合し、幾度となく大
国の野望を阻止してきた名将。
其の名将の口から、負けの言葉を聞いた副官達の心はまさに絶望
としか言えない。彼らの脳裏から、ジョシュアの傲岸不遜で言葉を
選ばない態度を気にする気持ちは消え去っていた。
﹁閣下⋮⋮それは、それはあまりのお言葉ではありませんか! 前
線ではいまだ多くの騎士達が勝利を信じて命を削っております⋮⋮
それなのに、今此処で閣下が負けをお認めになるなど!﹂
副官の一人が、顔を真っ赤に紅潮させてベルハレス将軍へ詰め寄
る。
本来であれば決して許されない暴挙だったが、彼を止めようとす
るものは誰も居ない。
皆同じ思いだったからだ。だが、ベルハレス将軍はゆっくりと右
手を挙げて彼を制止すると、周囲に鋭い視線を向ける。
﹁誰が戦の負けを認めた?﹂
低く落ち着いた声だ。
幾多の戦を勝ち抜いてきた戦士の自負と威厳が、ベルハレス将軍
1042
の声ににじみ出ている。
其の言葉には怯えも揺らぎもない。ただ確固たる意思だけが存在
していた。
﹁え? しかし先ほど閣下は⋮⋮﹂
﹁ワシは戦に負けたなどとは一言もいっておらん。それに⋮⋮ジョ
シュアもな﹂
副官達は皆、将軍の言葉の意味が理解できなかった。
確かに彼らは其の耳で、将軍の口から負けたという言葉を聞いた。
それは決して聞き間違い等と言う事ではない筈だ。
﹁ワシ等は戦略で負けたといったに過ぎん⋮⋮まぁ戦略面で大きく
負けが確定してしまっていれば、勝敗の行方はほぼ決まってしまう
がな﹂
此処で大きくため息をつくと、どこか自虐的な暗い笑みを浮かべ
たベルハレス将軍は静かに語り始めた。
﹁オルトメアは今回の戦に戦略レベルで様々な手を使い、こちらの
行動を制限してきた⋮⋮どういう意味だか判る者は居るか?﹂
誰も口を開く者は居ない。皆、押し黙ったまま言葉の続きを待つ。
彼らが判らない事はある意味仕方の無いことだった。
戦場で命を散らす事が仕事の騎士に、国家の戦略レベルの視野を
持てと求める事の方が無茶なのだ。
ベルハレス将軍は副官達に理解できるよう、少しずつ語り始めた。
﹁そもそも、我々が野戦による決戦を選択した理由はなんだ?﹂
1043
﹁それは⋮⋮オルトメアの動員兵力が思ったほど多くなく、陛下直
属の騎士団を総動員すれば勝てる可能性があったからです﹂
﹁うむ、其の通りだが、過去に我が国単独でオルトメアと戦をした
ことがあったか?﹂
過去、ザルーダは単独でオルトメアと戦った事はない。常に隣国
からの援軍と連合した上で迎え撃ってきたのだ。
副官達の脳裏に其の事実が浮かび上がった。そして、其れは将軍
の言葉と結びつき一つの結論へと辿り着く。
﹁﹁﹁あっ!﹂﹂﹂
﹁まさか⋮⋮ローゼリアの内乱は⋮⋮﹂
副官の一人がベルハレス将軍へ探るような視線を向ける。
﹁其のとおりだ⋮⋮無論、確証が有る訳ではない。だが、今度の侵
攻はあまりにもオルトメア側に有利すぎる⋮⋮おそらく、何年も前
から準備した上での策だろう⋮⋮わが国へ援軍を派兵させないため
のな﹂
国土、人口、経済力。全ての点で、ザルーダ王国はオルトメア帝
国に劣っている。
それでもザルーダ王国が独立を維持できてきたのは、東部地方の
同盟国の存在だ。ローゼリア、ミスト、両王国が有事の際には常に
援軍を差し向けてくれた。だからこそ、今までザルーダ王国は存続
できたのだ。
無論それは善意からではない。
1044
ザルーダ王国が滅びると言う事は、東部地方に大国の領土が広が
る事を意味する。
そしてそれは、ローゼリアとミストの両国へも侵略の魔の手が伸
びてくると言う事に他ならない。
﹁ローゼリアは今回、内乱の後遺症でとても他国へ援軍を派遣する
余裕はない⋮⋮出したくとも、物理的に不可能なのだ。そしてロー
ゼリア王国が混乱している以上、ミスト王国はローゼリア国内を通
って兵を派遣することが出来ない⋮⋮かといって、海路を使うのも
難しい。南回りの航路ではあまりに時間を喰い過ぎるし、北周りに
はウォルテニア半島と言う難所が有る⋮⋮誰が考えた策かは知らぬ
が、ローゼリア一国を内乱に陥れる事で残りの二国の行動をし封じ
込めた⋮⋮まさに大したヤツよ﹂
両国よりの援軍がこれない事を副官達は皆十分に理解していた。
だが、其れが全てオルトメア帝国の策謀による結果だったとなれば
⋮⋮
将軍の説明に副官達は息を飲んだ。此処まで説明されれば、彼ら
にも自分達が如何に危険な立場なのか理解できたのだ。
﹁では⋮⋮ジョシュア殿が言われた罠と言うのは⋮⋮﹂
親の七光りと蔑んできた男の言葉に真実の可能性があることを悟
りったのだろう。其の声はか細いものだった。
﹁それほどまでに綿密な準備をしてきた敵が、そう簡単に退却など
すると思うか? まず間違いなく、兵を伏せているだろうよ⋮⋮こ
ちらの息の根を止めるためにな﹂
ベルハレス将軍の言葉に副官達は異の唱えようがなかった。
1045
オルトメア側の退却を聞き、予想していなかった勝機に己を見失
いはしたが、冷静さを取り戻せば、今回の一連の動きが罠である事
を理解できないほど、彼らは愚かではなかった。
﹁では⋮⋮もはや戦の勝敗は決したと言われるのですか⋮⋮この戦
は無駄だと⋮⋮そういうことですか?﹂
悲壮と絶望に彩られた言葉だ。
勝つと思うからこそ戦える。大事な者を守れると思うからこそ命
を賭けられる。ベルハレス将軍の勝利を信じて戦ってきた人間にと
って、将軍とジョシュアが突きつけた現実は過酷だった。
この言葉を呟いた副官はきっと断腸の思いで口にしたのだろう。
だが、ベルハレス将軍は其の言葉を静かに首を振って否定した。
﹁そうではない。今までの話はあくまでも有利不利と言うだけの話。
まぁ絶望的なまでに不利なわけだが、まだ勝機はある⋮⋮﹂
﹁本当ですか!﹁それはどのような!﹂﹂
絶望した人間ほど、希望と言う甘美な誘惑に弱い。
勝機の見込めない現実を認識させられた上で突然出された希望。
副官達がそれに飛びついたとしても誰が責められるだろう。
だが、彼らの前に示された道はあまりにも過酷な死への道だった。
﹁敵軍の最高指揮官であるシャルディナ・アイゼンハイトの首を狙
う⋮⋮﹂
ベルハレス将軍の言葉に天幕の空気は凍りついた。
それはあまりにも可能性の低い、殆ど自殺行為に近い策だ。
確かに敵の最高指揮官を討ち取る事ができれば勝利はザルーダの
1046
物だ。
戦略的な敗北も、シャルディナの首を取るという戦術的な勝利に
よって覆す事が可能で有る。
確かに理論的に将軍の言葉は間違ってはいない。
﹁⋮⋮しかし閣下⋮⋮それはあまりに無謀では⋮⋮﹂
年配の副官が意を決して将軍に問いかけた。
敵の罠を逆手にとって、敵司令官の首を狙う。
言葉にすればとても容易いが、実行するとなればそれは針の穴を
通すほどに僅かな可能性。
だが、副官達はベルハレス将軍の体から漂う決意を感じ、黙り込
んだ。
﹁判っておる⋮⋮敵の罠を力で噛み破ろうと言うのだ⋮⋮こちらも
全滅を覚悟せねばなるまい⋮⋮だが、ほんの僅かだがこの国を救う
可能性が残る⋮⋮今のままでは、仮に我ら全軍がこのまま退却して
もオルトメアは困らぬ。温存した兵力を使って、侵略拠点をザルー
ダ国内に作るだけの事⋮⋮元々の国力差を考えれば、ザルーダ国内
に前線基地を作られた段階で、我らはそれを取り戻す事ができなく
なる﹂
峻険な山々に守られた天然の要害であるザルーダ王国。
敵国からの侵略を阻む地形の険しさ。
国内に敵国の拠点を作らせてしまうと、其の険しさがザルーダの
領地奪還を困難なものにしてしまう。
まして、オルトメア帝国の国力はザルーダ王国よりも大きい。 もし拠点に大量の兵を守備兵として動員されたら、ザルーダ側は打
つ手がない。
砦を攻めるのに必要な兵力が守備側の3倍以上と言われるのは兵
1047
法の常識と言える。
だが、オルトメア帝国に対して国力そのもので劣るザルーダ王国
に、それだけの兵力は存在しないのだ。
﹁それに策士は策に溺れ易いもの。此処まで相手の戦略どおりに展
開しているのだ。どれほど用心深くとも勝利を確信している筈。其
の油断を突く﹂
既に他の選択肢は存在していない。
唯一、残された希望に彼らは縋るしかなかった。
﹁閣下は⋮⋮既に決断されているのですね?﹂
﹁うむ、済まぬが皆には死んでもらう事になる⋮⋮﹂
ベルハレス将軍の言葉は非情だった。
生きて戻る可能性が殆どない戦術を選択し命じたのだから。だが、
将軍の命を聞いて怯えを見せた人間は誰も居ない。
初め、副官達の心は絶望で満たされていた。誰だって負けが決ま
った戦に命など賭けられるはずもない。
そこを上手くベルハレス将軍は操った。
死を覚悟した人間ほど強く恐ろしいものは無い。
﹁良かろう⋮⋮これより本陣に残る全部隊にて追撃を行う。退却は
無い! 良いな!﹂
﹁﹁﹁はっ!﹂﹂﹂
彼らの体からは、悲壮なまでの闘志が火の様に激しく噴出してい
た。自らの窮地を自覚した事によって、ただ無駄死にをするより、
1048
祖国の為に命を捨てると覚悟した人間の意思の表れだ。
ザルーダとオルトメア。両国の戦は今、最終局面を迎えた。
1049
第3章第20話
西方大陸暦2812年10月未明︻東部侵攻︼其の4:
﹁﹁﹁突撃ぃぃぃぃいいい!﹂﹂﹂
雄叫びを上げながら、騎馬にまたがった騎士達が槍を構え、次々
とオルトメアの戦列へと突進してくる。
其の後から徒歩の騎士が続き、騎馬の突撃に因って生じた隙間を
広げようと槍を振り回す。
﹁何をしている! 槍を構えろ! このまま取り囲んで殺すのだ!
決して逃がすな!﹂
前線を任されたオルトメアの指揮官が怒鳴り声を上げた。
馬の突撃に怯えた混乱した部下達へ的確な指示を与える。其の彼
の叫びが、浮き足立った騎士達の頭を冷やしていく。
前線指揮官の命は次々と伝令に因って各部隊長にまで伝えられた。
﹁取り囲め! 離脱させるな!﹂
状況を把握した部隊長達が口々に部下を叱咤する。
兵達の槍がザルーダの騎馬騎士達へと向けられた。
﹁戦の常道を知らぬ馬鹿め! 騎馬の真価は機動力と突進力よ! 足の止まった馬など目立つ的に過ぎぬ!﹂
1050
ザルーダの騎馬を逃がさぬように退路を塞いだ部隊長の一人が、
獰猛な笑みを浮かべた。
騎馬は攻撃力や機動力が優れている反面、持久力や防御力には難
が有る。
全身を金属の鎧で固め、武器を構えた人間を乗せて走るのだ。如
何に馬の体力が優れていようと所詮生き物。当然限界が存在する。
まして、敵陣に飛び込んだまま離脱せずにその場で戦うのは決して
賢い選択とはいえないはずだった。
事実、その場で槍を振り回すザルーダの騎士達は一人、また一人
と馬の足を刈られ落馬して行く。
馬を走らせようにも、接近戦に持ち込まれ距離が取れない彼らは、
その場で槍を振るうしかないのだ。
そして、無謀ともいえる突撃の代償は大きい。騎馬の後ろに付き
従っていた徒歩の騎士達も数に圧され
その数を半数にまで減らしていた。
﹁よし! このまま押し潰してしまえ! 勲功は思いのままだぞ!﹂
オルトメアの部隊長は欲望に歪んだ笑みを浮かべて叫ぶ。
騎士の中でも馬に乗れる者は身分が高いと決まっていた。そうい
った人間を討ち取る事は、戦後の論功行賞に大きく影響する。 彼の表情が弛むのも無理もない。だが、彼の期待は残酷な形で裏
切られる事になる。
﹁部隊長! 新手です! ﹂
﹁な! 何!?﹂
部下の報告を聞いた部隊長の脳が一瞬フリーズを起こす。
1051
それはあまりに予想外な報告だったからだ。
﹁どうしますか!? このままでは前後を挟まれる事に!﹂
部下に言われなくても、彼は自分の置かれた危険な立場を十分に
理解していた。
新手の部隊を相手するには、部隊の方向を後方へと向けなければ
ならない。
だが、それをしてしまえば、せっかく取り囲んだザルーダの騎士
に隙を見せてしまう事になる。
︵仕方が無い⋮⋮部隊を前後で分けるしかないか⋮⋮︶
前後に敵を持ってしまった場合に取れる手段は少ない。そして彼
の判断は決して間違っては居なかった。だが、彼には現実を打破す
るだけの策も時間も残されては居ない。
部下の言葉に気をとられ対応策を思考した其の時、彼は取り返し
のつかないミスを犯した。
彼の腹を冷たい何かが抉る。
周囲の騒音が彼の耳から消えた。そして、わき腹の辺りから生暖
かい何かが肌を滑り落ちていく感覚。
痛みはない。ただ、驚きと体中の力が抜けていくような倦怠感が
彼の体を支配した。
﹁貴様⋮⋮﹂ 次の瞬間、彼の腹に槍が強く押し込まれる。
途切れゆく意識の中で彼の眼が最後に捕らえたのは、全身を己の
血を返り血で真っ赤に染めたザルーダの騎士の憎悪に燃え上がる瞳
と、その騎士の体に襲い掛かる部下達の姿だった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1052
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1000名ほどの部隊が新たにオルトメアの前線部隊へ襲い掛か
った。
彼らは先に突入した部隊と合流すると、オルトメア側の思惑に反
して陣の奥へと再び突進してくる。
斉藤の思惑に反して、彼らは取り残された部隊の救出に来たわけ
ではないらしい。
﹁くっ! 何故、兵を引かない? どういうつもりだ! ヤツら命
を捨てるつもりか!﹂
ザルーダの騎士達はただ一心不乱に前へ前へと突き進んでくる。
彼らはまるで、猛り狂った猛牛のように猪突猛進を繰り返す。ど
れだけ殺しても彼らはひるむ様子を見せない。
本来、一度突撃した部隊はすぐさま前線を離脱し、体制を立て直
すのが普通だ。
敵に取り囲まれて引けない場合も当然存在するが、自らの意思で
離脱を選択しない事は先ずありえない。騎馬を運用する場合は特に
だ。
無論、戦は勝つことが全てだ。勝つために手段を選ぶ必要はない。
だが、斉藤の目にはどうしてもザルーダの攻撃が常軌を逸した凶
行にしか見えなかった。彼の目にはザルーダ王国の指揮官は勝つこ
とを放棄して、ただオルトメアの兵を殺す事を選択したように映る
のだ。
﹁一体どういうことだ? 何故連中の進軍速度が下がらない。この
ままでは殿下の策が狂いかねんぞ!﹂
1053
斉藤は忌々しげに前方を睨み付けた。
彼の役目は、兵を伏せ居ているポイントまでザルーダの部隊を引
き付けることにある。
適度にザルーダ軍をあしらいながら兵を誘導するこの任務は、如
何に自軍の兵を温存できるかが重要になる。
敵側に不自然と思われない程度に戦いながらも、決して乱戦に持
ち込まれることなく兵を引く事を要求されるのだ。
それなのに、斉藤とザルーダ軍は泥沼とも言える乱戦を繰り広げ
ていた。
兵を引きたいオルトメア軍。喰らい付いて離れないザルーダ軍。
特に問題なのは、ザルーダ全軍が突進してきているわけではない
事だ。
横一文字の布陣したザルーダ軍だが、突撃を繰り返しているのは
中央に布陣したおよそ4000程。
左右に展開する部隊は前に進むと言うより、オルトメアの部隊を
その場に釘付けしようとしているように感じられる。
﹁斉藤副団長! 左翼右翼ともにダメだ! 中央へ援軍を出すどこ
ろか、逆に増援を求めて来てる! ザルーダの奴ら、部隊を前に進
軍させてこないがこっちの部隊が引こうとするとしつこく食い下が
って来る。完全にこっちの足を止めさせるつもりだ!﹂
夜魔騎士団の一人が、死に物狂いで前線を駆け抜けてきた伝令達
の報告を聞き、叫び声を上げた。
﹁チッ、一体何を狙っている?﹂
斉藤の目から見て、この状況はあまりに不自然だ。
命を捨てる覚悟で突進してくるザルーダの中央部隊。
後退させまいとオルトメアに食い下がる左翼と右翼の部隊。
1054
意図せずにオルトメアは鶴翼の陣形に、ザルーダは魚鱗の陣形へ
と姿を変えていた。
︵まさか⋮⋮こいつら⋮⋮︶
斉藤の脳裏に有る仮定が浮かんだ。
︵まさか、殿下を狙っている?︶
其の事に思い至った斉藤は思わず身震いした。
ザルーダ側の壮絶にして強固な戦意を感じたからだ。
︵正気か? 殿下を狙う⋮⋮確かにシャルディナ殿下を討ち取れば
この戦にザルーダは勝利する。だが、それを実現できる可能性は5
%もあれば良い方だろう。それに、成功してもしなくてもザルーダ
の兵は殆ど壊滅する事になるはずだ⋮⋮それでも賭けに出た⋮⋮何
故だ? いや、理由はどうでもいい。先ずは戦線を立て直さなくて
は⋮⋮︶
斉藤は沸きあがる疑問を振り払うと、対応策へと思考を進める。
どちらにしても、ザルーダの中央部隊の狂気ともいえる特攻のせ
いで、横一文字に並んでいた陣形は真ん中からくの字の形へ折れ曲
がってしまっていた。
早急に体勢を立て直さなければ、オルトメアの中央を貫かれ、後
方に布陣しているシャルディナに危険が及ぶ。 其処まで考えが及んだ斉藤は素早い決断を下す。
﹁伝令! 策を一部変更し、このままこの地でザルーダ軍を迎え撃
つ。直ぐにシャルディナ殿下へ状況を伝えろ! 良いな! ザルー
ダの狙いが殿下の首かもしれない事も伝えるんだ﹂
北と南から平原を大回りで迂回してきている味方部隊との合流地
点は西に3kmほど離れた場所だ。
西北南の三方向を小高い丘で囲まれた其の土地は、奇襲にはうっ
てつけと言える。
其処にザルーダ軍をおびき寄せるのが斉藤の仕事であり、もし実
1055
現すれば、文字道理ザルーダ軍を皆殺しに出来る筈だ。
だが、この状態でザルーダ軍を其の地点まで引き連れていく事を
斉藤は諦めた。
勢いづく敵に押され、偽装退却である筈が本当に敗走しかねない
状況まで追い込まれてしまっている。
万が一にも戦線を突破されるような事にでもなれば、後方に布陣
しているシャルディナに危険が及びかねない。無論、直属部隊に警
護されてはいるが、それを破られないと言う保障はないのだ。
となれば、残る選択は一つしかない。退却を止め、ザルーダの攻
勢を防ぎきるのだ。
︵殿下へ状況を報告すれば、殿下は必ず別働隊をこちらに廻しザル
ーダの後方を襲う筈⋮⋮襲う場所が変わるだけの事だ⋮⋮だが⋮⋮
損耗は予想以上に激しくなる⋮⋮クソっ! 悪あがきを︶
この戦はただ勝つだけではダメなのだ。
出来るだけオルトメア軍の損耗を減らさなければならない。
其れが出来なければ、オルトメア帝国は真の敵に対して備えるこ
とが出来なくなる。
其の事を十分に理解している斉藤は、心の中でザルーダの指揮官
を罵倒した。
﹁中央で待機している全ての予備部隊に伝えろ! この場でザルー
ダの連中を迎え撃つ! 直ぐに殿下が援軍を差し向けてくださる!
それまで絶対にザルーダの連中に突破されるな!﹂
斉藤は普段の落ち着いた雰囲気をかなぐり捨て大声で命じる。そ
れだけ切羽詰っていると言う事なのだろう。また其の言葉を聞いた
部下達も事の重大さを理解し緊張で強張っていた。
﹁絶対に此処で喰い止めるんだ!﹂
1056
﹁﹁﹁はっ!﹂﹂﹂
斉藤の言葉に部下達は一斉に頷くと、一斉に持ち場へと散って行
った。
ザルーダとオルトメア。両軍の戦は総力戦へともつれ込んでいく。
1057
第3章第21話
西方大陸暦2812年10月未明︻東部侵攻︼其の5:
﹁やってくれたわね⋮⋮流石はベルハレス将軍と言ったところかし
ら⋮⋮直ぐにこちらから伝令を出して別働隊を向かわせる。一時間
⋮⋮良い? 一時間だけ持たせるように斉藤へ伝えなさい!﹂
斉藤からもたらされた伝令を聞きシャルディナは小さく舌打ちを
すると、目の前に広げられた地図を凝視しながら叫んだ。
伝来からもたらされた情報を聞いたシャルディナは、瞬時にベル
ハレス将軍の意図を察したからだ。
︵斉藤の言うように私の首を狙ってきてる⋮⋮いいえ、多分其れだ
けじゃない⋮⋮ベルハレス将軍の狙いは⋮⋮︶
﹁はっ! 直ちに﹂
彼女の剣幕に圧され、伝令は脱兎の如く天幕の外へと駆け出す。
﹁誰か! 別働隊へ伝令を走らせなさい! 直ぐに斉藤の下へ援軍
に向かうよう伝えるのです!﹂
﹁ご安心ください、殿下。既に私が命じて走らせております﹂
シャルディナの叫びに続き、落ち着いた男の声が天幕に響いた。
何時の間にやってきたのだろうか。声のした天幕の入り口へと視
線を向けたシャルディナの眼に、にやけ面をした須藤の顔が映る。
ローゼリアに対しての謀略が一段落した須藤は、今回の戦に参加
1058
するにあたって、一時的にシャルディナの護衛部隊を率いていた。
裏工作が得意な須藤は戦でも、軍師的な役割を担っていた。
須藤に斉藤。
シャルディナがこの有能な日本人である彼ら二人を投入したと言
う事は、それだけこのザルーダ侵攻に賭けている証だった。
﹁須藤⋮⋮そう、アナタが⋮⋮ありがとう﹂
﹁いえいえ、殿下の為ならこの須藤、いかなる事でも﹂
そういうと須藤はいつものようにおどけた表情で肩をすくめた。
状況を理解していないわけではないだろうに、この男の表情は何
時もと変わらぬままだ。
﹁フゥ⋮⋮ずいぶんと余裕ね? 須藤﹂
言いがかりである事は十二分に理解していたが、シャルディナは
ついつい皮肉を口にしてしまった。
自分の置かれている状況を理解していれば居るほど、心の奥底か
ら沸きあがってくるのは不安と焦燥だ。 ﹁焦ったところで状況は変わりませんからねぇ⋮⋮まぁ殿下が焦る
お気持ちはこの須藤、痛いほど理解しておりますがね﹂
シャルディナの皮肉を聞いても須藤の表情は変わらない。
それどころか、彼の口調はより一層落ち着いて聞こえる。
﹁まぁ、ザルーダ軍もまんざら馬鹿ではなかったようですな⋮⋮軍
の指揮官はベルハレス将軍だとか。流石に歴戦の勇士だけあるとい
ったところですか。王や大臣達の意向に振り回された感じを受けて
1059
いましたが、最後でこんな手段をとってくるとは⋮⋮いや、大した
ものです﹂
﹁それは私の首を狙ってきた事を言っているの?﹂
須藤の言葉にシャルディナは探るような視線を向けて尋ねた。
彼女の言葉を聞き、須藤の唇が釣りあがる。
﹁ご冗談を⋮⋮私が褒めているのは其の先の話ですよ。ベルハレス
将軍とて本当に殿下を討ち取れると思って突撃を命じたわけではな
いでしょうからね﹂
須藤の答えに、シャルディナは自分の感じた予感が正しかった事
を確信した。
﹁やはり⋮⋮其れが狙いだとアナタも思う?﹂
﹁えぇ⋮⋮連中の戦い方はどちらかと言えば相打ち狙い。完全に消
耗戦を望んでいるようにしか思えません。我が国とザルーダの国力
差を考えれば本来ありえない選択の筈。それを選択したということ
は⋮⋮﹂
﹁第三国⋮⋮エルネスグーラ王国の参戦を望んでいると言う事ね﹂
﹁恐らくは⋮⋮﹂
シャルディナの言葉に須藤は深く頷く。
其の表情には、今までのような笑みはかけらも残っては居ない。
冷たく鋭い刃のような視線。それは幾多の戦場を生き抜いてきた
人間だけが持つ、圧倒的な威圧感。
1060
﹁戦略的な劣勢を覆す事が出来ない事を悟り、捨て身の策を選択し
たわけね⋮⋮全く、無茶な事をするものね⋮⋮﹂
﹁恐らくはベルハレス将軍の独断でしょう。ザルーダの国王や大臣
達がこれ程危険な賭けを許可するとは思えませんからね﹂
須藤の言葉に、シャルディナも頷く。
﹁何処の国王だってこんな策を許可なんて出さはずがないもの⋮⋮
自国内にエルネスグーラを引き込んで私達と噛み合わせようだなん
てね﹂
シャルディナは忌々しげに吐き捨てた。
﹁後はどれだけこちらの損耗を抑えられるかに掛かっています⋮⋮
もし、半数近くまで減らされたとなれば⋮⋮﹂
﹁判っているわ⋮⋮半数まで兵力が落ちればザルーダの国内制圧に
時間が掛かる。そうなれば⋮⋮﹂
﹁北のエルネスグーラが黙っては居ますまい⋮⋮ザルーダに侵攻し
て漁夫の利を狙ってくるか、さもなくば逆にザルーダを援助するか
⋮⋮連中にしてみればザルーダがどうなろうと我々に対して抵抗し
てくれれば良い訳ですからねぇ﹂
ザルーダ王国そのものを占領する事は、オルトメア帝国の国力を
考えれば比較的容易と言えた。
ローザリア、ミストの両王国が援軍に来たとしても十分に勝利を
見込む事はできるのだ。
1061
それなのに、長い時間を掛けて策を巡らし、戦略的に有利な状況
を演出したのは全て北と西に隣接する2大強国の影を意識したから
に他ならない。
西のキルタンティアはともかく、北のエルネスグーラはザルーダ
王国と国境を接している。
オルトメア帝国がザルーダの占領に時間が掛かった場合、エルネ
スグーラは必ずオルトメアの領土拡大を嫌い妨害してくることが眼
に見えていた。
﹁エルネスグーラの雌狐はどっちを選択すると思う?﹂
﹁そうですねぇ⋮⋮あの方は己を汚さずに結果だけを横取りする方
ですからね⋮⋮﹂
シャルディナの問いかけを聞き、須藤の脳裏にエルネスグーラの
若き女王の姿が浮かぶ。
容姿はまぁ普通だ。ローゼリアのルピス王女やシャルディナ殿下
と比べればまさに月とすっぽん。比べるだけ無駄と言うものだ。だ
が、其の平凡な容姿とは裏腹に彼女はあまりにも恐ろしい存在だっ
た。
冷酷で冷徹で、目的のためには平気で身内すらも切り捨てること
が出来る生まれながらの帝王。
過去に2度ほど面会したことがあるだけだが、其の強烈な個性は
須藤の頭に焼き付いている。
北の雌狐と謳われる知略に優れた女王。其の彼女が、絶好の機会
を見逃す筈がない。
﹁まず間違いなくザルーダへ兵を進めてくるでしょう⋮⋮我らにだ
け領土を増やされまいとして⋮⋮﹂
1062
﹁其の過程で、我々とエルネスグーラは必ずぶつかる事になる。そ
うなればザルーダにも交渉の余地が生まれるか⋮⋮全く、なんてし
ぶといのかしら﹂
﹁弱い国には弱い国なりに、国を存続させるため必死なのですよ﹂
苛立つシャルディナの言葉に、須藤は静かに首を振った。
﹁まぁそれはいいわ。とにかくこの戦に勝つ。其れが大前提なのだ
から﹂
今問題なのは、ザルーダの軍に勝つことだ。勝利した後で初めて、
今までの仮定が意味を持つ。
﹁えぇ、可能性は低いですが、戦意で圧倒されてザルーダに敗北す
ると言う可能性も無いわけでは在りませんからね﹂
最大の懸念は其処だ。勢い盛んなザルーダ軍に前線を突破される
か否か。
﹁私も⋮⋮前に出ます﹂
シャルディナは緊張と恐怖で強張った顔のまま、須藤を見つめた。
選択としては愚策と言ってよい。態々、敵の目の前に目標を差し
出すことに他ならないからだ。
だが、須藤は彼女の言葉を聞いても、頭から否定はしなかった。
シャルディナの瞳に宿る強固な意志を感じたためだ。それに、彼
女の提案に大きな利点があることも須藤は理解していた。
1063
﹁なるほど⋮⋮賭けに出られますか⋮⋮﹂
﹁私が前線に進めば、私の護衛についている2000の兵力も戦に
まわすことが出来るわ⋮⋮それに、私が前線に出れば兵の士気は上
がるでしょう?﹂
オルトメアが兵数で互角の筈のザルーダに圧されている理由はた
だ一つ。
ザルーダの騎士達が死を恐れない士気の高さに有る。
高揚感と言ってもいい。
彼らは、ほかに選択肢がないという危機感と祖国ザルーダのため
と言う使命感に酔っているのだ。
﹁殿下が前線出でれば確かに士気は上がるでしょう⋮⋮護衛部隊も
戦に投入できますから十分に別働隊がやってくるまで持ちこたえら
れるとは思いますが⋮⋮﹂
此処で須藤は言葉を濁した。
確率的に言えば、勝算は十分に有る。
最高指揮官が前線に出ることで、オルトメアの将兵は決死の覚悟
で戦う事だろう。
だが、参謀と言う立場で考えたとき、シャルディナの提案はあま
りに危険が大きすぎた。
安全か冒険か。
どちらを選択しても絶対はない。
絶対に勝つとも、絶対に負けるとも言えない状況。
﹁危険は承知のうえよ⋮⋮﹂
須藤はこのシャルディナの言葉を聞き決断した。
1064
このまま、決断を先延ばしにして何も選択しないうちに負けてし
まうなど馬鹿げている。
後は、最高指揮官であるシャルディナの決断を信じ付き従うだけ
の事。
﹁かしこまりました。直ちに護衛部隊を前線へ援軍に差し向けます﹂
須藤はそう答えると、静かにシャルディナへ頭を下げる。
それは、指揮官の勇気有る決断に対しての最大の敬意だった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
其の日、ノティス平原を舞台にしたザルーダ王国とオルトメア帝
国の戦は、オルトメアの別働隊による挟撃によってオルトメアの勝
利に終わった。
だが、決してオルトメアによる完全勝利だったわけではない。
ザルーダの指揮官である、ベルハレス将軍を討ち取ったことによ
って、オルトメアが勝利を掴んだ事は事実だが、シャルディナの思
惑が大きく外れる結果となったからだ。
ザルーダの戦死者数16000に対し、オルトメアの戦死者数1
7000。
ほぼ同数の損害を出した事により、オルトメアは一時的にザルー
ダ侵攻を停止するより他に選択肢はない。
国境付近の貴族領を制圧したシャルディナは、其処を拠点に戦力
の回復を図った。
だが、彼女がザルーダへの侵攻を再開する事は出来なかった。
当初からの懸念どおり、北の巨獣・エルネスグーラ王国がザルー
ダ北部の国境線を超え、其の牙をむき出しにしたからだ。
1065
るつぼ
此処に、ザルーダ、オルトメア、エルネスグーラ、三国による三
つ巴の戦いが開始されたのだ。
そして、ザルーダ王国が動乱の坩堝と化した事により、御子柴亮
真は貴重な時間を手に入れることになる。
自らが生き残るために必要な時間を⋮⋮
1066
第3章第22話
西方大陸暦2813年1月15日︻ウォルテニア半島︼其の1:
グシュ
水気を含んだ果物を踏み潰したような鈍い音が、薄暗い森の中に
響く。
森の木々が放つ青臭い匂いの中に、鉄の錆びた様な異臭が混ざり
サーラの形の良い鼻を刺激した。
﹁亮真様⋮⋮調子の方はいかがですか? 体に違和感を感じられた
りはしていませんか?﹂
そう言いながら、サーラは手にしたタオルを眼の前に立つ黒い影
へと差し出す。
﹁あぁ⋮⋮全く問題は感じないな。たいしたもんだぜ、武法術って
のは。まるで自分の体が猛獣にでもなったような気分だ﹂
﹁既に亮真様は武法術の基本を習得されています。後は実戦を重ね
て経験を積んでいくだけです﹂
﹁経験を積む⋮⋮か。素手でこんな猛獣を殺せるんだ。鍛え上げれ
ばどれだけのことが出来るかな﹂
そう言うと、亮真は唇を吊り上げ笑みを浮かべた。其の姿はまさ
に悪鬼の如き様相を呈している。
1067
彼の顔に飛び散った赤黒い飛沫は明らかに血の跡だ。
両腕は肘の部分まで真っ赤に染まり、今でも地面にポタリポタリ
と雫を落としている。
そんな彼の足元に横たわるのは、獰猛な狼の死骸。
其れが全部で5匹。
体長は1.5Mを超え。体重も50Kgを軽く超えるような巨体
だ。
この森の中で強者の部類に入る筈の狼達が、今、亮真の足元で静
かに大地へ横たわっている。
それは生存競争に負けた敗者の姿であった。
地面に伏した其の体からは、赤い液体が止め処なく溢れ地面を浸
し、凶暴な顔は無残にも踏み砕かれていた。
﹁正直に言ってこれ程容易く素手で殺せるようになるとは思わなか
った。単純に腕力が強くなっただけじゃない。感覚が鋭くなってい
るし、体の切れも段違いだ﹂
どこかあきれたような口調で、亮真は足元に横たわる狼達の死骸
へ目を向けた。
体の奥底から湧き上がる高揚感とは別に、目の前の事実がどこか
自分の空想によって生み出された幻のように感じられて仕方が無い
のだ。
人間の持つ筋力は動物に著しく劣る。
本来、銃や刃物で武装していたとしても、絶対に勝てるとはいえ
ない。
人間と動物との間にはそれだけの差が存在しているのだ。
それを己の肉体のみで殺せた。しかも、複数を同時に相手取って
の結果だ。
さらに、手にしたタオルで拭いた亮真の体には目立った外傷が見
当たらない。
1068
それは、武法術を使用した亮真の肉体が、野生の動物以上である
事を示している。
狼の腹に突き入れた手刀が感じた内臓の生暖かい温度。
モンスター
噛み付こうと大きく口を開けた狼の顎に手をかけ、上下に引き裂
いたときの感触。
ましてや、亮真が殺したのはただの野獣ではない。怪物に分類さ
れる凶暴な生物だ。
今まで出来なかった事が出来るようになったことによる達成感。
そういった感情が、亮真の体を支配していた。
﹁勿論、誰もが出来る事ではありません。亮真様の肉体そのものが
鍛え抜かれている事。そして、実戦経験を持っていらっしゃる結果
です﹂
サーラの言葉通り、亮真の肉体は祖父に因って鍛え抜かれていた。
また、地球では経験しようのない命のやり取りも潜り抜けてきてい
る。
そういった様々な要素が武法術と言う新たな力を得た事で絡み合
い、相乗効果を発揮した結果なのだろう。
﹁実際、同じ様に武法術を習得した子供達ですが⋮⋮そのぅ⋮⋮か
なり苦戦していると聞いていますし⋮⋮﹂
そう言うと、サーラは薄暗い森の奥へと視線を向ける。
表現を濁してはいるが、彼女の言葉には珍しく、どこか亮真に対
しての非難の色が窺えた。
﹁苦戦ねぇ⋮⋮サーラは不満か?﹂
サーラの言葉に亮真は眉をひそめてサーラへ視線を向けた。
1069
彼女の言葉に含まれた自分の選択に対しての不満を、敏感に感じ
取ったからだ。
自分の選択が絶対に正しい等と思い上がる程、亮真は愚かではな
い。
だが、今回の選択は仮に正しくないとしても絶対に必要な事だ。
例えサーラに非難されたとしても、他に選択の余地はない。
今の亮真に、弱者を救う余地などないのだから。
亮真の揺ぎ無い瞳に真正面から見据えられ、思わずサーラは視線
を逸らす。
彼女自身も理解してはいるのだ。
問題は、頭で理解していても、感情的には割り切れないと言う点
だろう。
﹁勿論、亮真様があの子達を此処へ連れてきた理由は理解していま
すけど⋮⋮﹂
姉のローラはさほど感じては居ないようだが、サーラは自らが経
験した奴隷生活に対して強いトラウマを持っている。
奴隷商人達の欲と色に染まった卑しい顔つき。何時売られていく
のかと言う不安。そして、自らが家畜も同然に扱われる事への絶望。
そういった感情が、戦うために鍛えられている子供達を視界に入
れるたびに彼女の心の奥から湧きあがってくる。
それでも、彼女が子供達へ戦う術を教え込むように命じた亮真を
批判しないのは、彼に対して恩を感じていると言う事以上に、ほか
アース
に選択肢がない事を理解しているからだ。
大地世界の根幹は弱肉強食。
生きる権利すら自らの力によってでしか得られないこの世界で、
弱いと言う事は罪でしかならない。
いや、他人の力に虐げられて構わないのなら弱者のままでも良い。
1070
奪われ、犯され、殺される。それらが自らと自分の守りたい人間
の身に降りかかってくる可能性があると覚悟するのであれば、別に
強くなる必要はない。
モンスター
野盗の襲撃を受け財産を根こそぎ奪われる事も、貴族の横暴で妻
を犯される事も、怪物に襲われ食い殺される事も、覚悟の上ならば、
戦う手段を学ぶことなく弱者のままで居ればいい。
だが、自分が人としての権利と誇りを持って生きて行きたいのな
ら。大切な何かを守りたいのなら、選択肢は一つだ。
強くなる事。
金でも良い。暴力でも良い。知恵でも良い。権力でも良い。
ただ、力だけが正義だった。
それを理解している人間から見て、亮真の行動は優しいとすらい
える。
弱者である奴隷の子供達へ読み書きを教え、武術を仕込み、法術
という力を与えた。
それは、弱者に一筋の希望を与えたのだ。
チャンス
例え其の選択が亮真自身のためだったとしても、其の行為自体は
非難されるようなものではない。
子供達は幸運なのだ。弱者から強者に変わる機会を与えられただ
け。
そして今、彼らは生死の境を彷徨いながら、弱者から強者へと生
モンスター
まれ変わろうとしていた。
この怪物が徘徊する森の中を生き抜く事によって⋮⋮ サーラは視線を暗い森の奥へと向けた。
そして、静かに子供達の無事を祈る。
一人でも多くの子供が無事にこの試練を生き延びる事を⋮⋮それ
だけが彼女に出来る唯一の事だった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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1071
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁メリッサ! 何をやっているんだ、ぼさっとすると死ぬぞ! 剣
を構えろ! また、突っ込んでくるぞ﹂
仲間の少年の叫びに、メリッサは反応することが出来なかった。
彼女の目には、牙を向いて走りよってくる黒い獣の姿が映し出さ
れている。
それは、黒い毛皮の虎。
口元からは刀のように湾曲した鋭い牙が二本突き出ており、メリ
ッサの体を引き裂こうとしていた。
3Mを超える巨体が、風のように駆け抜けてメリッサを襲う。 ﹁きゃあああぁぁぁぁあぁ!﹂
メリッサの口から恐怖の叫びが零れた。
思わず、剣の柄を握る彼女の手に力が入る。
だが、彼女は恐怖でそれ以上の行動を取る事が出来なかった。
虎の放つ眼光。鋭い二本の牙。そして、自分の体を遥かに超える
巨体。
其の事実が、実戦経験のないメリッサの心と体を縛り付け動きを
封じる。
﹁バカ野朗! クラン! メリッサを後ろに下げろ! コイル! 俺と虎を防ぐぞ!﹂
棒立ち状態のメリッサを押しのけると、少年は手にした剣を構え
虎を威圧した。
少年の体から虎に対しての殺意が放たれる。
それは、虎にとってさほど脅威になるようなものではない。
1072
だが、ただの餌として見えていた少年達への評価を変えるには十
分だった。
虎は足を止め、ゆっくりと隙を窺うように少年達の周りを回り始
めた。
﹁メリッサ! 早く下がれ!﹂
クランと呼ばれた少年が、メリッサの体を掴み強引に後ろへ引き
ずる。
﹁え! 痛い! まって、ちょっと待って﹂
力一杯引かれたメリッサが思わず抗議の声を上げる。
そして、虎とにらみ合いを続けていた少年は思わず其の声に反応
してしまった。
虎は其の瞬間、引き絞られた弓から放たれる矢のように少年へと
襲い掛かる。
﹁クソッ!﹂
次の瞬間、飛び掛ってきた虎の口へ少年の握り締めた剣が突き入
れられた。
そして、少年を其の巨体で押し倒した虎の腹をコイルと呼ばれた
少年の剣が抉る。
虎に襲いかかられた瞬間、少年は思わず剣を前に突き出した。
それは、自分の身を守ろうとする本能的な行動だったのだが、運
命の女神は少年の命を惜しんだのだろう。
大きく開いた虎の口に突き出した剣が突き刺さったのだ。
だが、数百キロの虎の巨体に圧し掛かられ、彼の姿は完全に虎の
1073
下敷きになった。
﹁無事か! ケビン!﹂
コイルは、虎に押し倒された少年の名を叫ぶ。
自らの剣によって虎は既に絶命しているが、それを誇ろうなどと
いう余裕はない。
ただひたすらにコイルの心はケビンの無事だけを心配していた。
モンスター
﹁クラン、手伝え! 虎をどかす! メリッサは周りを警戒しろ!
良いな、別の怪物が襲ってこないとは限らないんだ。絶対に見逃
すなよ!﹂
モンスター
目の前の敵を倒したからと言ってそれで終わりとは限らない。
モンスター
この森の中には、幾らでも怪物が徘徊しているのだ。
倒した虎の血に惹かれ、別の怪物が襲い掛かってこないとは限ら
ない。
﹁う⋮⋮うん﹂
力なく頷くメリッサの言葉を聞いているのか居ないのか。
コイルとクランはメリッサへ背を向けると虎の死体に手を掛けた。
﹁クソ! なんて重さだ⋮⋮クラン! 力を入れろ!﹂
﹁判った!﹂
少年達は、互いに声を出しながら300Kgを超えるであろう虎
の巨体を持ち上げる。
1074
﹁ケビン! ケビン! 今だ。這い出せ!﹂
虎の死体とケビンの体の間に隙間が生まれた瞬間、クランがケビ
ンへ呼びかける。
幾ら武法術で身体強化を行っているとはいえ、13∼15才とい
った年齢の彼らは肉体的に成熟しては居ない。
奴隷生活によって厳しい生活を送ってきた所為もあって、彼らの
筋力は決して優れているわけではないのだ。
其の彼らが虎の体を僅かでも動かすことが出来たのは、4ヶ月に
及ぶ訓練の成果と言えた。
﹁クソっ! ダメだクラン! ケビンのやつ気絶してるのかも知れ
ない!﹂
何時までも動かないケビンの姿に、コイルは叫んだ。
﹁メリッサ! ケビンを引き出せ! 急げ﹂
﹁えっ!? まって﹂
﹁早くしろメリッサ! クランも俺も、こんな重たい死体を何時ま
でも支えられないんだ!﹂
少年の怒声がメリッサを打ち据える。
﹁何してる! ケビンを殺すつもりかよ! 早く引き出せ!﹂
動けないメリッサに少年達は苛立ちを隠せなかった。
4ヶ月以上も彼らは苦楽を共にしてきたのだ。
其の結束は固い。
1075
別にメリッサに対しても含むところはない。あくまでもケビンの
安否を優先させているからこその言葉だ。 ﹁だ⋮⋮大丈夫だ。今抜けでるから⋮⋮もうチョイ持ち上げててく
れ﹂
﹁ケビン!﹂
虎の体の下から響く言葉に、コイルは思わず叫び声を上げる。
やがて、ケビンは少しずつ体を揺らしながら虎のしたから這い出
してきた。
﹁無事か、ケビン!﹂
﹁あぁ、肩を怪我した以外は大丈夫だ﹂
コイルの言葉にケビンは左肩を抑えながら答える。
彼の左腕はダランと垂れ下がっていた。
虎に圧し掛かられたときに関節を外したか、最悪肩の骨を砕いた
のだろう。
まぁ、虎に襲われて致命傷を負わなかっただけでも運が良かった
と言うべきなのかもしれないが、この森の中で、戦える人間が減る
と言うのはそれだけ生存の確率が減る事を意味する。
﹁メリッサ、見張りは俺達がやる。お前はケビンの肩を見てやって
くれ﹂ クランはそう言うと剣を握りなおし、周囲へ視線を向ける。
それは、この数ヶ月叩き込まれてきた、兵士としての行動。
仲間が心配でも、周囲への警戒を怠るわけには行かない。
1076
コイルも無言で頷くとクランとは反対方向へと足を進めた。
ただ立ちすくんでいたメリッサも、慌てて背負い袋から医薬品を
取り出すと、ケビンの肩を確認する。
彼女が確認したところ、幸運にもケビンの肩は脱臼しただけで済
んだ。
マジックポーション
応急手当の手段として傭兵達から教えられたように肩へ当て木を
し、魔法薬を飲んだので、数日で彼の肩は普段どおりに動かす事が
出来るようになる。
戦力低下は最小限に抑えられたと言えた。
だが、メリッサの心は晴れなかった。
自分の失敗でケビンに怪我をさせたと思い込んだからだ。
﹁ごめんなさい。ケビン⋮⋮﹂
ケビンの肩に包帯を巻きながらメリッサは謝罪の言葉を口にした。
虎に襲われた瞬間、恐怖で身がすくみ動けなくなった事。
ケビンを虎のしたから引き出すことが出来なかった事。
しか
そういった事を全てをひっくるめて、メリッサはケビンに謝りた
かった。
だが、彼女の言葉を聞いたケビンは逆に顔を顰めて答える。
﹁馬鹿、何で謝るんだよ? 俺たちは仲間だろ?﹂
ぶっきらぼうな言葉だ。
だが、彼の言葉には親愛の情がが含まれていた。
﹁で⋮⋮でも⋮⋮﹂
﹁言ったろ? 俺達はチームだ。生きるも死ぬも一緒だ⋮⋮だろ?﹂
1077
ケビンは笑顔でそういうとメリッサの頭を撫でる。
それは、絶対の信頼と親愛によって裏打ちされた優しさだった。
1078
第3章第23話
西方大陸暦2813年2月25日昼︻ウォルテニア半島︼其の2:
﹁出発!﹂
部隊の先頭で馬にまたがっていた赤い髪の女が大声で叫ぶ。そし
て彼女は手にした槍を高々と掲げた。
其の声に従い、300名程の一団が城塞都市イピロスの北門を抜
け、一路ウォルテニア半島へ歩み始める。
それは厳粛で荘厳な光景だった。
道の両端を行き交う商人や農民達も、其の部隊の姿を眼に入れる
と足を止め黙り込んでしまう。
誰も口を開こうとする人間は居ない。
歓声をあげたりする余地が無いほど、彼らは気圧されてしまった
のだ。
其の部隊の装備はかなり特殊で人の目釘付けにした。
黒黒黒⋮⋮
彼らが身につけた革の鎧以下、シャツも靴も、いや、剣の鞘や槍
の柄の部分でさえも、其の全てが黒い。
馬具の金属ですら黒く塗られているのだ。
馬だけは黒毛の馬のみで揃えては居なかったが、それにしても其
の装いは異様と言えた。
そして、そんな中で彼らの掲げるが旗が更に人の目を釘付けにす
る。
黒地に一本の剣。其れに巻きついた金に染められた双頭の蛇。
1079
其の蛇の目の部分だけが赤く縫い取られ、周囲を鋭く威圧してい
る。
別段、それぞれ単独で見ればそれほど奇抜とはいえないデザイン
だ。
剣も蛇も、紋章に幾らでも使われている。
それなのに、この一団が掲げる旗は其の姿を眼にした人間の心を
縛り付けた。
まるで大地の奥底から湧き出して来た闇の様な、そんな印象を人
々へ強烈に与えるのだ。 ﹁あれがあの男の側近の一人ですか⋮⋮名はたしかリオネとか。歴
戦の傭兵と聞いていましたが⋮⋮なるほど。所詮は女と言いたい所
でしたが⋮⋮大したものですな﹂
イピロスの城壁の上に設置された物見台の上から、白髪の老人が
呟く。
温和な表情の老人である。
そして、明らかに富裕層の人間でもある。
絹製の衣服に宝石のついた指輪。そして、大きく前へせり出した
恰幅の良い腹が何よりの証拠だ。
﹁義父殿はユリアと同じく心配性ですなぁ⋮⋮無能ではないでしょ
うが、其処までわれらが気にする必要等ありますまい?﹂
老人の傍らで同じく眼下を見下ろすザルツベルグ伯爵は、どこか
あきれたような口調で言い返す。
実際、彼は老人の言葉にうんざりしていた。
妻であるユリアからも散々に御子柴亮真への警戒を促されている。
1080
傭兵の中に伯爵の息の掛かった人間を紛れ込ませたのもユリアの
提案だ。
伯爵としてはそんなまどろっこしい事をするより、軍を動かし討
ち取ってしまえば済むと提案したのだが、ユリアはそれを決して認
めようとはしない。
まるで御子柴亮真と敵対する事を恐れるかのように、彼女は慎重
だった。
だが、伯爵からみれば亮真の勢力などゴミのようなものだ。何し
ろ、自らの拠点すらない状態なのだ。
自分の妻の能力を決して軽んじているわけではないのだが、伯爵
としては何故其処まで慎重な対応が必要なのかがわからない。
其の疑問は不満を産み、不満は少しずつ伯爵の心を慢心で埋め尽
くしていく。
﹁果たしてそうでしょうか? あの部隊は元は素人の奴隷。其れが
あれほど整然と隊列を組んでおるのですぞ? 御子柴男爵が奴隷共
を購入し、教育を始めたのは僅か数ヶ月前の事。それであれほどの
錬度とは⋮⋮ザルツベルグ伯爵閣下。私は正直に言って恐怖すら感
じるのですが﹂
老人は自分の鑑定眼に絶対の自信を持っていた。
イピロスの町で決して有力とはいえなかったミストール商会を運
営し、商会連合の長にまで上り詰めたのはこの老人の持つ才覚の結
果。
其の事実が、己の力量に対しての絶対的な自負をもたらしている。
其の彼の目から見て、眼下を北へと進む一団は脅威に見えた。
﹁くだらんですな。確かに義父殿から買い付けた武具は良い物でし
ょうが、使う兵が傭兵上がりと奴隷どもの混成部隊ではタカが知れ
ているでしょう。あの黒で統一された装いはこけおどしとしては大
1081
したものですがね。まぁ、実戦経験のない義父殿から見れば、あの
ような子供騙しでも効果があるようですがな﹂
ザルツベルグ伯爵はそういうと、老人へ蔑むような視線を向ける。
自分の妻の父親である。
だが、伯爵はこの目の前に居る老人を見下していた。
その理由の何割かは、自分に対して決して崩さない敬語にあるの
かもしれない。
無論、目の前の老人が義父として権利を主張した所で、伯爵がそ
れを考慮する事はないのだが、だからと言って娘婿である自分に対
してあまりにも他人行儀な態度なのだ。
それに、ザルツベルグ伯爵にとって亮真が作り上げた部隊など評
価に値しないのだ。
数は僅か300名前後。
其の上、傭兵と子供の奴隷で編成された部隊とくれば、他の貴族
が見ても同じ評価を下すだろう。
唯一、伯爵が評価に値すると思うのは、兵士達の鎧の色を黒く染
めた事ぐらいしかない。
そしてそれは、こけおどしにはなっても、決して軍の強さには結
びつかないのだ。
そんな伯爵にとって当たり前の事を理解できないこの老人に対し
て、伯爵の態度が冷淡になるのも当然と言えた。 ﹁そうは言われるが⋮⋮あの統率の取れた隊列は中々の物では?﹂
確かに一切乱れのない行軍である。
無論、300名前後の小部隊であるから、指揮官の意向が届きや
すいことは事実だ。
だが、それだけで数ヶ月前まで素人だった人間に、あれほど整然
とした行軍は出来ないと言うのが老人の評価だ。
1082
とはいっても、老人は自分の意見に固執しない。
ザルツベルグ伯爵の、意固地な性格を理解しているのだろう。
真正面から伯爵の言葉を否定するのではなく、疑問と言う形で相
手の意思を誘導する。
非常に高度な交渉術だった。
﹁まぁ、行軍だけを数ヶ月仕込めばアレくらいはできるでしょう﹂
自らもまた一軍の将であるがゆえに、数ヶ月で兵がモノになるは
ずがないという先入観が彼の思考を曇らせていた。 隊列を組み街道を歩く。ただそれだけの事を素人に教え込むだけ
でも、それなりの労力を必要とする。
ましてや、教え込んだのは奴隷の子供。
意思なき生ける屍とすらいえる彼らに教え込むのは、相当に手間
のかかる作業だった筈なのだ。
だが、老人はこれ以上ザルツベルグ伯爵の機嫌を損ねるような事
を言うのを止めた。
これ以上抗弁しても、伯爵は自分の意見を変えないと理解したか
らだ。
﹁まぁ素人の他愛無い感想ですので、御気になさらないでください﹂
そういう老人の言葉に伯爵は軽く頷くと、きびすを返した。
﹁ではこれで失礼しますよ。私も暇ではないので⋮⋮あぁ、暇を見
て屋敷の方へ訪ねてください。たまにはユリアと共に夕食を取るの
も良いでしょう?﹂
﹁えぇ。では後日⋮⋮﹂
1083
老人の言葉に伯爵は満足そうな顔で頷くと、階段を降りていった。
﹁困った男だ⋮⋮能力はあるがどうにも詰めが甘い。それに平民や
奴隷を侮りすぎる。まぁそれでも他の貴族達に比べればまだましだ
が⋮⋮まったく、アヤツにつぶれてもらってはわしらが困ると言う
のに⋮⋮﹂
ただ一人物見台の上に取り残された老人は、周囲に誰も居ない事
を確認した後、小さく呟やいた。
今、老人の顔つきは変わっていた。
ザルツベルグ伯爵と話していた時の彼の顔は、温和で何処となく
頼りなさげな雰囲気を纏っていた筈だ。
自分の娘婿に対してですら、一歩も二歩も引いた男の筈だ。
それが、今は一変している。
ザルツベルグ伯爵が今の老人の顔を見たら、伯爵は老人に対して
の評価を改めただろう。
それほどまでに、厳しく油断のならない光を老人の目は放ってい
た。
﹁あの軍は油断ならん⋮⋮短期間であれほどの練兵を行うとは⋮⋮
だが、今の段階では確かにユリアの言うとおり監視に留めて置く方
が利口だ。下手に干渉してこちらと敵対する事にでもなればかなり
厄介な事になる﹂
そう呟きながら、老人の脳は高速で動く。
北へと進む黒い部隊を睨みつけながら。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1084
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁お父様。よろしいでしょうか?﹂
机の上に覆いかぶさるように眠っていた老人は、自分へ掛けられ
た声に驚き飛び起きた。
いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。
ろうそく
老人の記憶ではまだ日中の筈だったが、執務室の窓から月の光が
室内へと差込、蝋燭の変わりに室内を照らし出している。
余程深い眠りに陥っていたのだろう。
﹁ユリアか⋮⋮﹂
女の手にした蝋燭の光が、彼女の顔を照らし出す。
黒いローブにフードを被った彼女の姿は、とても伯爵夫人とは見
えない。
普段の彼女の服装から考えれば信じられないほど地味な格好だ。
﹁はい。およびと聞きましたので⋮⋮お邪魔でしたか?﹂
余程、気がかりな事があるのだろう。
老人はどこか疲れたような声でユリアへ尋ねた。
﹁いや、お前の方こそ急に呼び出して済まなかった。早めに話し合
いたいことがあってな⋮⋮人払いはしているか?﹂
老人の問いかけにユリアは無言で頷くと、後ろでに執務室の扉を
閉めた。
今日、この執務室に呼び出された事の意味を理解しているユリア
にとって、改めて言われるまでもないことだ。
1085
﹁一体どうされたのですか? 夫に疑惑の目を向けられないために
も、連絡は定期的にする以外は行わないはずだったのでは?﹂
﹁済まんな⋮⋮どうしても早めに話すべきだと思ったのだ﹂
﹁御子柴亮真⋮⋮ですか?﹂
机の前に立ち尽くしたままどこか不安げに問いかけるユリアの言
葉に、老人はゆっくりと首を縦に振る。
それだけで、ユリアは目の前に座る父の心理をすばやく察した。
彼女自身も感じてた不安。
それと同じものを、イピロスの経済を支配する父親が感じたのだ。
﹁お父様もアレを危険だとお考えですか?﹂
﹁危険だろうな⋮⋮まぁ誰にとって危険かは判らんがな。少なくと
もザルツベルグ伯爵にとっては危険だろう⋮⋮数日前、食料を納品
する際に御子柴男爵と言葉を交わした時にも感じたが、今日、部隊
を見たときにより一層強く感じた﹂
もし他人に其れが何なのかと尋ねられても、二人は納得させられ
るだけの回答を持っては居ない。
ただ単純に、商人としてのカンが警報を発しているのだ。
このままでは危険だと言う事を。
﹁夫は愚痴っていましたわ⋮⋮義父殿は私に似て臆病だと﹂
屋敷に帰ったザルツベルグ伯爵から見張り台の上で老人と交わし
たやり取りを聞かされたのだろう。
1086
﹁どうもザルツベルグ伯爵は金や武力と言う目に見える力しか認め
ない傾向があるな⋮⋮﹂
﹁現実的ともいえますが⋮⋮﹂
﹁判っている。伯爵は決して無能ではない。無能ならお前を嫁に差
出はしなかった⋮⋮差し出す必要などなかった﹂ 吐き捨てるかのように老人は、顔を伏せると両手を握り締める。
︵そう、トーマス・ザルツベルグ伯爵が無能だったら、誰が可愛い
娘を嫁に差し出すだろう︶ 老人はイピロスの経済を支配している。
だからこそ、ザルツベルグ伯爵の素行の悪さはイヤと言うほど耳
にしていた。
女癖の悪さ、金の汚さ。どちらも娘の婿に相応しいとはとてもい
えない。
それでも娘を伯爵の嫁に出したのはただ一つ。
どうしても出さないわけにはいかなかったのだ。
決して自らが望んだ結婚ではない。だからこそ二人は決して伯爵
と共に沈むわけには行かない。 ﹁まぁ、今はいい。半島の開発には時間が掛かる。直ぐに動く事は
ないだろう。それに何人か密偵を紛れ込ませている。お前の方も同
じだろう?﹂
﹁はい。屋敷のメイドを何人か男爵の身の回りの世話をする為にと
押し付けました。今後、彼女達から定期的に手紙が来る予定です﹂
先日、亮真がザルツベルグ伯爵の屋敷を訪ねたときから準備され
1087
ていた娘達だ。
彼女達の親族が伯爵領内の村々で生活している以上、彼女達が裏
切る事はない。
格好の密偵である。
﹁うむ、表立って敵対するのは下策だ⋮⋮だが、放置は危険すぎる。
監視と情報収集をするしかないだろうな。其の娘達の手紙を向こう
がどう扱うか。それで向こうの考えがいくらか判る﹂
別にものすごい秘密を知らせてくる必要は無い。
彼女達に求められるのは日常的な情報なのだ。
食べ物はあるか、水はどうか、天候は? 誰とあったかなど等、
それ単体では意味の無い情報。
だが、キチンと整理し其の価値を知る者が聞けば、千金にも値す
る貴重な情報源となる。
そして、彼女達の手紙を差し止めるなどの対応を行えば、それは
御子柴亮真が自分達を敵視しているという判断基準になる。
どちらに転んでも損はない。
ユリアは自分の父親の持つ冷静な判断力に安堵しながらも、恐る
恐る心に秘めて来たある事柄を口にした。
それは、伯爵の妻になってからずっと彼女の心の奥底に秘められ
た思い。
﹁お父様⋮⋮場合⋮⋮﹂
探るような視線を向けるユリアに老人は無言で頷く。
﹁判っている。だが、今の段階では判らんとしかいえない⋮⋮今は
まだ動けない。済まない。ユリア﹂
1088
そういうと老人は腰掛けていた椅子を立った。
そして無言でユリアの体を抱きしめる。
それは、泣きじゃくる幼子をあやすかのような、優しさと力強さ
に満ち溢れていた。 1089
第3章第24話
西方大陸暦2813年2月28日夜︻ウォルテニア半島︼其の3:
﹁此処までは予定通り来れたか。明日はいよいよ⋮⋮だな?﹂
念を押すかのような亮真の言葉に、机を囲んで座る誰もが強く頷
く。
彼らの浮かんでいるのは不敵で獰猛な笑みだ。
自分たちの領土。自分たちの国。
そういった物へのあこがれや渇望とは別に、彼らの心には危険
モンスター
地帯を無事に切り抜けたという絶対の自負が存在していた。
半島に入り、彼らが怪物の襲撃を受けた回数は実に14回を数え
た。
3回が良いところと言える。
意図的に獲物を追う狩人であったとしても、一日で獲物に出会う
のは2
モンスター
それと比較すれば、半島内での遭遇率は驚異的な数字と言えた。
しかも、どの怪物をとっても中級、もしくは上級に分類される危
険なモノばかり。
それを、数人の負傷者を出したとはいえ、死者を出すことなく殲
滅したと言う事実が、成果として目の前に出たのだ。
高揚するなというほうが無理である。
ウォルテニア半島へ入って既に3日が過ぎようとしていた。
イピロスから続いていた街道はすでに途絶え、部隊が人跡未踏の
奥地へと足を踏み入れているのだ。
1090
草深く、木々の枝葉は密集して人の進入を拒絶する。
行軍するにも、一々枝を払い足元を注意して進まなければならな
い。
だが、それほどまでに過酷な環境でありながら、彼らは水の補給
にも野営地の選定にも困る事はなかった。
本来なら最も苦労する筈であった事だ。
しかし、亮真は数ヶ月と言う時間を掛けて、事前に半島内部の地
形を調査している。 その結果、効率の良い行軍路を選択する事で、適度に休息を取り
ながら半島奥地へと進んでこれた。
そして今、彼らは厳翁によって作られたウォルテニア半島の地図
を広げながら、机を囲み今後の方針を話し合っていた。
﹁行軍が予定通りに進んだのは、兵の質が高い事もありますが、や
はり事前に地形の把握を命じていたのが大きいのではないでしょう
か? イピロスのギルドで調べた情報だけでは不足でしたから﹂
サーラの言葉に誰もが頷く。
人跡未踏の奥地ではあるが、全く人が入らないと言うわけではな
い。
冒険者が金目当てにウォルテニア半島へ赴く事もないわけではな
いのだ。
そういった人間からもたらされた情報は、イピロスの冒険者ギル
ドへ保管されていたわけだが、亮真は厳翁の進言によって、彼の一
族の中の手練者に半島の調査を命じていた。
其の成果は大きい。
彼らの前に広げられた地図には、森や谷、河の大まかな流れと言
った情報が記載されている。
この地図がなければ、どれほど行軍に苦労を強いられた事だろう。
少なくとも、一人の脱落者も出さずにここまで来る事は出来なか
1091
った筈だ。
﹁そうだねぇ。厳翁の方で水場や野営地の場所を確かめてくれてい
たのは助かったねぇ。厳翁、助かったよ﹂
実際の所、多くても1グループが10人前後ほどでしかない冒険
者と、少ないとはいえ300名ほどの軍隊とでは、求める水場の大
きさが異なってくる。
岩の間から零れ落ちる湧き水だけでは300名もの人間を潤す事
は出来ない。
野営地にしても同じだ。
人数によって、必要とされる場所の条件は当然異なってくる。
そういった情報を事前に調査した厳翁に、リオネが感謝の言葉を
投げかけたのも当然の事といえた。
尤も、水の確保に関して言うと、法術を使うことによって安定し
た量を得ることが出来るし、野営地にしても同じ事が言えるのだが、
手間が少ない方が良いのは当然といえた。
﹁一族の者でも手練者を使いましたからな⋮⋮ですが、やはりこの
地は一筋縄ではいかないようですな⋮⋮奥地へ向かわせた2組は未
だに怪我が回復しきってはおりません。海賊の件もそうですが、例
のアレには注意が必要かと﹂ ﹁例のアレ⋮⋮亜人の事ですね?﹂
厳翁の言葉にサーラが問いかけると、その場の穏やかだった空気
が一瞬で引き締まる。
既に報告されている情報ではあるのだが、ウォルテニア半島に入
ってから改めて聞かされるのは、やはり衝撃的だった。
1092
﹁亜人ですかい⋮⋮生き残っていると言う噂は聞いてイヤしたが本
当に居るとは思いやせんでした﹂
﹁それはアタイだって同じだよ、ボルツ。まさか本当に生き残って
いるなんてねぇ⋮⋮それも集落単位って話じゃないか?﹂
奴隷達の調練に掛かりきりであったボルツやリオネにとって、今
後の方針に関しては大まかな所までしか聞いていない。
物資の補給、野営地の選定、行軍路の選択。
訓練の指揮を取る以外にも、彼らにはやるべきことは幾らでも存
在している。
だから、御子柴亮真が亜人に対してどう考えているかを、二人は
知らなかったのだ。
そもそも亜人とはなんだろうか。
アース
其れは、人の様に2足歩行をし、一定の文化水準を持つ人間以外
の種族。
其れがこの大地世界における亜人だ。
獣の頭を持った獣人も、ドワーフやエルフと呼ばれる存在も言葉
を話し一定の文化を持っている人間以外の種族であれば、全てひっ
くるめて亜人である。
アース
だが、ファンタジーの世界で有名な種族であるはずの彼らを、こ
の大地世界で町に住む一般の人間が見かける事はない。
いや、大陸各地に残る秘境へ足を踏み入れる冒険者達ですら、そ
の姿を見ることはほぼ皆無といえる。
何故なら彼らは、遠い昔に人間の手によって絶滅させられた伝説
の住人であるのだから。
メネオース
絶滅の要因は複数あるのだが、其の最大の理由は光神教団の存在
1093
アース
だろう。
メネオース
大地世界を創造したとされる六柱の一柱。其の神々の中で光を司
るとされる光神メネオース。
かの神を信仰する教団こそが光神教団と呼ばれる宗教組織である。
彼らの教義は単純だった。人を作り出したとされる光神メネオー
スを最高神とし、其の最高神によって作られた人間と言う存在を至
上の物としたのだ。
とはいえ、其れらはどんな宗教であっても多かれ少なかれ入って
くる要素だ。
宗教とは、人と言う種が自分たちに都合が良いように作り出す物
であるのだから、人間を特別な存在として位置づけるのはある意味
当然な事ともいえる。
そして、本来であればさほど気にする必要は無い要素だ。
選民意識を多少持った宗教が存在する所で、大きな問題にはなら
メネオース
ない筈だったのだ。
事実、この光神教団が設立されてから資料上は1000年以上の
歴史を数えている。
そして、亜人が穢れた存在として駆り立てられ滅亡へと追いやら
れたのは、亮真達が生きる時代から見ておよそ400年ほど前のこ
と。
つまり、教団設立当初から400年前までの間は亜人廃絶へと動
いていなかったということになる。
アース
そう、今から400年前、二人の男が歴史に現れなければ、この
大地世界は現代日本人が夢見るエルフや獣人といった種族が繁栄す
る世界のままだったのかもしれない。
しかし、現実は違う。
亜人と言う種族は遥か昔に絶滅したものとされ、大陸の秘境と呼
ばれる場所の更に奥地に、僅かな数が生存していると言う噂が囁か
れる程度でしかないのだ。
1094
﹁亜人の方は今の所なにかこちらから働きかけるつもりはないよ。
すでに厳翁には話したけれど、彼らの集落がある北部の森に手を出
す気はない﹂
亮真の答えにリオネとボルツは軽く眼を見開く。
どんな形であれ、半島調査に向かった自分の配下が怪我を負って
戻ったのだ。
それを何の手も打たずに見過ごすと言うのは、リオネ達から見て
不自然な決定に感じられた。
亮真の性格や考え方から考えると、実力行使に出ないまでも、使
者を送り抗議するくらいに事はして当然と言えるのだ。
﹁正直に言って、今連中を刺激するのは得策じゃないからな⋮⋮ザ
ルツベルグ伯爵とルピスの動向の方に注意しなくちゃいけない今、
あまり敵を増やしたくないのさ。それに、連中の集落へ勝手に近づ
いた俺達の方にも責任は有る。まぁそういうわけで暫くは連中を放
置する事にした﹂
そういうと亮真は、机の上に開かれた地図上に赤い大きな丸を書
き込む。
ウォルテニア半島の北4分の1近くを占める大きな丸だ。
つまりこの丸が亜人と自分たちとの境界線を示しているのだろう。
﹁まぁそれもそうか⋮⋮ザルーダの情勢も混沌としている今、あま
り敵対勢力ばかり造ってもしかたがないかねぇ? こちらが不用意
に連中のテリトリーへ近づいたって考えれば、それほど腹も立たな
いか⋮⋮﹂
1095
亮真の言葉にリオネは深く頷く。
彼女自身、亜人に対して特に嫌悪感を持っているわけではない。
必要なら戦いもするが、自ら進んで敵対しようとは思っていない
のだ。
それに亮真の考え方は、非常に論理的で公平な物だった。
自分の部下が攻撃されたことだけを問題にしないという態度は、
リオネから見ても好感の持てる判断といえる。
﹁だが海賊の方はどうするつもりだい? シモーヌの準備が終わっ
ても受け入れる港がなければ困るだろう?﹂ 亜人に対しての対応を確認したところで、リオネはもう一つの懸
念を口にした。
亮真とシモーヌの間に交わされた密約には、どうしても海賊達の
存在が邪魔になる。
懐柔するにせよ殲滅するにせよ、彼らの扱いは大きな問題だった。
今までは仕事の忙しさにかまけていた部分ではあるが、半島へ入
った今、リオネが亮真へ明確な方針を尋ねるのは当然の事だった。
﹁そっちに関しては結論は一つさ。はっきり言って俺の国に彼らは
必要ないよ﹂
リオネの言葉に亮真は肩をすくめながらあっさりと答える。
天幕の中は、火が焚かれ適度な温度に保たれている筈だ。
だが、亮真の言葉を聞いた全員の背筋に冷たいものが走る。
亮真の言葉は普段と何も変わらない、落ち着いた穏やかな口調だ。
しかし、其の言葉の意味を取り違える人間はこの天幕の中には居
ない。
1096
﹁殲滅と言う事⋮⋮ね﹂
リオネの呟きがやけに大きく天幕の中に響いた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁メリッサ、どうかしたか?﹂
手に持ったシチューをスプーンでかき混ぜるばかりで、一向に口
へ運び込もうとしないメリッサへコイルが心配そうに声を掛けた。
彼らは焚き火を囲みながら、暖かい夕食を口へと運ぶ。
行軍中の緊張感はすでに弛み、周囲からも年相応の笑い声が聞こ
えてくる。
珍しく、酒も少量なら飲む事を許されているので、羽目を外すし
て騒ぐ者も多い。
そんな喧騒のなかで、メリッサの周りだけが静かだった。
いや、静か過ぎると言ってもよい。
﹁ううん⋮⋮別になんでもないよ﹂
﹁何でもないか⋮⋮当ててやろうか? ハンナのことを考えている
んだろう?﹂
メリッサの言葉にコイルは探るような目つきで問い返した。
﹁⋮⋮!﹂
自分の心の内側を見透かされ驚きの眼で見返すメリッサに、コイ
1097
ルは大きくため息をつく。
彼女の心の動きなど、数ヶ月もの間同じ班として共同生活を送っ
てきたコイルから見れば一目瞭然だった。
﹁今更逃げ出した奴の事をどうこう考えたって仕方が無いだろう?
運が良けりゃどこかの町で生き延びられるだろうさ﹂
コイルはあきれた口調ではき捨てる。
彼にとって、逃亡したハンナは恩知らずで裏切り者だった。
追いかけてまで殺したいとは思わないが、町の路上で行き倒れた
としても気にならない程度には恨んでいるのだ。
その感情が、彼の言葉ににじみ出ていた。
﹁そんな言い方って⋮⋮﹂
コイルの言葉にメリッサは思わず語気を荒げる。
ハンナはメリッサと同じ班に居た奴隷の少女だ。
だが、今彼女の姿は此処にはない。
訓練が辛く、彼女は同じよう訓練に耐え切れなかった仲間と共に
逃げ出したのだ。
悪いのは誰であろう、逃げ出したハンナだ。
それはメリッサも判ってはいる。だが、自分の目の前に出された
暖かいシチューなど、今のハンナは口に出来る筈がない。
いや、逃亡奴隷の末路などすでに確定していると言っていいのだ。
﹁仕方ないだろう。アイツは訓練が辛くて逃げたんだぜ? それと
もメリッサは俺達を解放してくださった御子柴様の恩を忘れて、逃
げ出した奴らの肩を持つ気かよ﹂
コイルは感情を高ぶらせていた。
1098
今夜はウォルテニア半島と言う魔境を踏み分け、遂に明日は目的
地へ到着するという、自分たちの主である御子柴亮真にとって節目
となる夜だ。
夕食に配られたシチューの具材を見ても、飲酒が許された事を見
ても、今夜は特別な配慮がされている事が明らかだ。
其の祝いの日に、メリッサは主の配慮を無視して主を裏切り逃げ
出した少女の事を思い沈みこんでいる。
とても許せなかった。
﹁アイツらは裏切り者だ!﹂
コイルは吐き捨てるように叫んだ。
余程その叫びは大きかったのだろう。一瞬周囲の喧騒がやむと、
周囲から探るような視線が突き刺さってくる。
だが、コイルはその視線を無視した。
普段は押し隠していた感情が、メリッサの態度を見て沸々と心の
置くから湧きあがってくる。
辛い訓練だった。実戦の恐怖を乗り越えられなかった奴もいる。
誰もがクリア出来る物でなかった。それはコイルだって理解して
いる。
だが、それでも自分達を奴隷と言う身分から人にしてくれたのは、
御子柴亮真なのだ。
チャンス
其れが全くの善意でないことはコイルも理解している、
チャンス
それでも、這い上がる機会をくれた事に変わりはない。
この世界で、弱者が這い上がる機会を得る事など殆どないのだ。
チャンス
だからこそ、コイルは逃げ出した仲間達が許せなかった。
稀少な機会を得ながら、それを活かせず逃げ出した仲間達を⋮⋮
﹁それは⋮⋮﹂
1099
コイルの冷徹な反論にメリッサは返す言葉がなかった。
﹁おい、コイル。その辺にして置けよ﹂
﹁ケビン⋮⋮﹂
コイルの言葉が感情的になってきたのを察したのだろう。
それまで黙って二人の会話を聞いていたケビンが、静かに割って
はいる。
この班のリーダーはケビンだ。
其の彼に止められればコイルとしても矛を収めるしかない。
コイル自身、メリッサを責めるつもりだった訳ではないのだ。
﹁悪い⋮⋮言い過ぎた⋮⋮﹂
コイルはそういうと立ち上がった。
﹁何処に行く?﹂
ケビンは、訝しそうな目でコイルを見る
﹁他の班のヤツラのところに行って来るよ﹂
コイルはそういうと、ケビンを見返す。
揺ぎ無い眼だ。其の視線に含まれた意味をケビンは悟った。
﹁判った⋮⋮クラン、お前もコイルと一緒に外せ﹂
コイルの言葉の意味を察したケビンは、ただ一人黙ったままシチ
1100
ューを口に運んでいたクランへ矛先を向けた。
この場はどうしてもメリッサと二人きりで話をしなければならい。
ケビンの強い視線から、クランは無言のまま立ち上がると、コイ
ルの後に続く。
二人の背中が、見えなくなったのを確認したケビンは、ためらい
がちにメリッサへ疑問を投げかけた。
1101
第3章第25話
西方大陸暦2813年2月28日夜︻ウォルテニア半島︼其の4:
﹁お前⋮⋮恨んでいるのか?﹂
ケビンの表情は硬くとても冗談を言っているようには見えなかっ
た。
﹁え?﹂
ケビンの言葉を聞き逃すはずはない。
低く周囲をはばかるような口調だったが、ケビンの言葉はメリッ
サの耳にしっかりと届いている。
それでも彼の言葉の意味が理解できず、メリッサは問い返してし
まった。
﹁⋮⋮お前が⋮⋮ハンナの⋮⋮逃げ出した連中の事で御子柴様を恨
んでいるのかって聞いたんだよ﹂
ためら
躊躇いがちに再び告げられたその言葉を聞き、メリッサは思わず
ケビンへ驚きの視線を向けた。
ケビンの問いかけは、メリッサにとってあまりにも予想外だった
のだ。
そして、だんだんとケビンの言葉の意味が彼女の脳の中に染み込
んで来る。
1102
﹁そんな! 何で?﹂
メリッサは思わず叫び声をあげた。
ジッとケビンは無言のままメリッサの顔を見つめる。
まるでメリッサの心の奥底まで見通そうとするかのように、その
視線は鋭く揺ぎ無い。
どのくらい二人は見つめあっただろうか。 パチッ
メリッサの耳に、焚き木の爆ぜる音がやけに大きく響く。
﹁⋮⋮本当に恨んでいるわけじゃないようだな﹂
そう言うと、ようやくケビンは強張った表情を緩めた。
メリッサの顔から、彼女の本心を察したのだろう。
しかし、メリッサはそんなケビンの心情を無視して叫んだ。 それも致し方ないのかもしれない。
彼女にとってそれはあまりにも予想外な嫌疑だったのだから。
﹁なんで? 何でそういうことになるの?﹂
普段のメリッサからは考えられないほどの勢いで、彼女はケビン
へと食って掛かる。
﹁メリッサ⋮⋮やっぱりお前、判っていなかったのか﹂
メリッサの反応を見たケビンは、呆れた様な、それでいてどこか
納得したような表情を浮かべた。
1103
﹁どういう意味?﹂
﹁言葉通りの意味さ⋮⋮お前は自分の置かれた立場を判っていない
って事﹂ メリッサは、ケビンの言葉に眉をひそめた。
﹁私だって御子柴様のご恩は十分に理解しているわよ?﹂
最後の試練を耐え抜き、兵士の一員として認められたあの日の事
を、メリッサは決して忘れはしない。
始めは320名いた仲間たちは、その日、196名にまで減って
いた。
そして、最後まで残った彼らに、御子柴亮真は約束どおり奴隷身
分からの解放を行ったのだ。
広場に集められた彼らの目の前で、彼らを縛る奴隷の契約書は灰
となった。
それは彼女にとって、いや、この場に今いる彼ら全員にとって、
どんな事にも勝る絶対的な恩義である。
文字通り彼らは人生を取り戻せたのだから。
それを一瞬たりとも忘れた事など無い。
だが、ケビンはそんなメリッサの言葉に首を振った。
﹁そうじゃない⋮⋮俺が言いたいのはその先さ⋮⋮﹂
﹁その先?⋮⋮﹂
メリッサにはケビンの言葉の意味が判らない。
御子柴亮真から恩を受け、それを自覚している自分達。
1104
その先にいったい何があるというのだろう。
﹁良いか? 御子柴様は慈悲深い方だ。俺達を奴隷から解放し、た
だの労働奴隷でしかなかった俺達に戦う術と教育を与えてくださっ
た。衣食住を提供してくださってもいる⋮⋮だが、それはまったく
の善意からじゃない。無論、善意が無いわけじゃない。だが、きち
んとした目的があってあの方は俺達に力をくれたんだ﹂
それは、メリッサとて薄々感じていた点だ。
わざわざ安くない金額を奴隷商人に払い、手間と時間をかけて奴
隷だった子供に戦う術を教え込んだ。
そして、それが御子柴亮真の哀れみや同情といった感情から行わ
れた行動で無いことは、彼女自身も理解していた。
﹁あの方は今、俺達を試している⋮⋮﹂
﹁試している? 何を試しているというの?﹂
ケビンは周囲に目を配ると、小さかった声をさらに低めてメリッ
サの言葉に答えた。
﹁俺達が本当に御子柴様に従うかどうかをさ﹂
奴隷に戦う術を教えるという事は、主に歯向かう手段を与える事
に等しい。
だからこそ、通常の奴隷に教育など施さないし、戦奴隷には厳重
な封印が施され、主の許しが無ければその力を振るう事が出来ない
ように制限されている。
だが、御子柴亮真は、イピロスで買った子供達へ何かの制限を加
えた事は無い。
1105
実際、訓練が始まった当初は、逃亡を防止するような手段を講じ
ていなかったために、訓練の過酷さから逃亡してしまった奴隷も多
い。
﹁俺達は初め、子供だけで5人1で班だっただろ?﹂
ケビンの言葉にメリッサは無言で頷く。
亮真は当初、子供達を5人1組にして基礎訓練を施していた。
5人で常に行動させ、寝起きも5人1組である。
﹁だが今は俺達4人に傭兵1人を加えて5人1班だ。この意味がわ
かるか?﹂
法術の習得を始めたあたりから、班の編成が変わったのは事実だ。
子供だけ5人で作られた班は解体され、新たに子供4人に対して
イピロスで新たに雇った傭兵1人という編成に変わっている。
単純に実戦経験を持った小隊指揮官を配置するという話だったの
だが、事はそう単純な物では無いらしい。
メリッサの心にある予感が過ぎる。
﹁ひょっとして⋮⋮監視?﹂
メリッサの呟く様な言葉に、ケビンは無言で頷く。
それを見たメリッサは、ようやくケビンやコイルがこれほどまで
に、何を気にしているのかを理解した。
﹁いいか、俺達は振るいに掛けられたんだ。そして、今も振るいに
掛けられている﹂
ケビンの言葉が、メリッサの心へ楔のように打ち込まれた。
1106
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
翌日。
晴れ渡る青空の下、御子柴亮真率いる300の部隊は目的地であ
る入り江へとたどり着いた。
鬱蒼と茂る森の木々を掻き分け、400m近い川幅を誇る大河の
ほとりを西に進むと、急に目の前の景色が切り替わる。
まず目に入るのは延々と南北に広がる白い砂浜だ。
くすぐ
其の先に広がるのは、海の底まで見通せるほどの透明度を誇る蒼
い海。
浜辺に打ち寄せる波は穏やかで、潮風が亮真達の鼻を優しく擽っ
た。
遥か湾の奥には、幾つかの島影が微かに見える。
人の手が全く入っていないこの土地は、自然の荒々しさと美しさ
の両方を見事なまでに具現化していた。
三方を切り立った小高い山に囲まれたこの地は、まさに天然の要
害であると同時に、森を切り開けば、海へと流れ込む大河を引き入
れる事で、十分に食料の自給も可能である。
そして何より、全長10Kmを超える海岸線は、少し手を入れれ
ば十分に港として活用することができた。
﹁なるほど⋮⋮報告は受けておりましたが、これは実に良い土地で
すな﹂
浜辺突き出た丘の上で、二人の男が眼下の浜辺を見下ろしていた。
彼らは、周辺の地形を確かめる為に此処へやってきたのだ。
1107
げんおう
厳翁は馬上の上で、強烈に降り注ぐ太陽の光に目を細めながら、
傍らの亮真へと話しかける。
其の顔には、一族の者が持ち帰った情報の確かさに対し、誇らし
げな表情が浮かんでいた。 ﹁あぁ。これ以上無いってくらい最高の立地だ⋮⋮彼らには上等の
酒を振舞ってやってくれよ﹂
亮真はそういうと、周囲の地形に目を走らせる。
大河と森、そして浜辺の境目あたりに存在する少し開けた場所。
其処で、多くの人間が蠢いているのが見えた。
野営の準備だろうか。
次々と丸太が大地に突き立てられ、天幕が張られていくことが見
える。
其の光景を見ながら、亮真は満足そうに頷いた。
湾に流れ込む大河は飲み水や農業用水と、幅広い利用が出来る上
に、城を作る際には水堀としても活用が出来る。
木材は周囲の森から切り出す事で、いくらでも手に入るし、木々
を切り出せば切り出すほど農地に利用する事が出来た。
イピロスから4日ほどの距離というのも手ごろ。
今後の発展性や防衛の容易さ。どれをとっても完璧といってよい
立地条件である。
亮真の言葉を聞き、厳翁は嬉しそうに顔をほころばせる。
主に仕事の成果を認められる事ほど誇らしい事はない。
そして、御子柴亮真は、部下の功績に報いる事を最も大切だと知
っていた。
別に金を払うことだけが報いる事ではない。
大切なのは達成までの苦労を理解しねぎらう事。
ご苦労様。良くやってくれた。ありがとう。
其のちょっとして気遣いの言葉が、人と人との付き合いには大事
1108
なのだ。
﹁ありがたきお言葉。アヤツ等も主殿のお言葉を聞けば喜ぶでしょ
う﹂
﹁何しろ、拠点の場所を自由に選べるのは数少ない利点の一つだか
らな。最高の土地を求めるのは当然さ。だが、正直これ程の場所と
は思ってなかった。これなら直ぐに村を作れるな﹂
人の手が入っていない未開の土地という事は、逆に言えば亮真の
好きな場所に拠点を作る事が出来るという事だ。
もし小さな村がこの未開の半島に1つでも存在していたら、亮真
には選択の余地が無かった。
領民の安全を保障するという観点から考えても、たとえ其の村が
どんなに不利な立地条件であったとしても、その村を拠点として開
発を進めるしかない。
新たに自分の拠点を構築しながら、村の安全を保証するだけの兵
力を、今の亮真は持っていないからだ。
﹁若! 天幕の準備が出来やした。どうぞ、こちらへ﹂
どうやら、野営の準備が出来たらしい。
ボルツの声が丘の上に響いた。
明日からはいよいよ、森を切り開き、村造りが始める。
﹁全ては此処から⋮⋮か﹂
亮真は挑むような視線を南へと向けた。
1109
まだ姿なき敵を睨み付けるかのように。
1110
第3章第26話
西方大陸暦2813年4月15日夜︻視線︼:
﹁おい⋮⋮俺の目はどうかしちまったのか?﹂
そう呟くと、男は手にした望遠鏡から目を離す。そして、自分自
身が目にした光景を信じることが出来ず、何度も手で瞼をこすった。
潮風に晒され続けた彼の髪は薄茶色に変色し、其の肌は強い日光
の所為で赤黒く日に焼けている。何処からどう見ても彼は熟練した
船乗り。そして、其れはこの小さな船の舵を取る船尾の男も同じだ。
彼らのそばに寄れば、其の体からは強い潮の香りが鼻につく。彼ら
が長い時間を海で過ごしてきた結果だ。そして、潮の匂いと共に、
彼らの体から発散されるのは鉄臭い血の匂い。この二人普通の船乗
りではない証だった。
﹁いや、俺の目にも同じ物が写っているぜ⋮⋮自分の目が信じられ
ねぇけどな﹂
船尾で舵を握る男が、海岸線を睨み付けながら答える。
海岸線から2km以上離れた海原からの偵察とはいえ、数十年も
海で生きてきた男達だ。二人の視力は仲間内からも高い評価を得て
いる。其の二人が共に自分の目を疑ったのだ。
牛の角のように海へ突き出た岬。其の角の間から見えるのは、ど
う見ても町だった。いや、少し小さな港湾都市と言っても過言では
ないのかもしれない。
夜の闇に抵抗するかのように、その港はかがり火が盛大に焚かれ、
1111
二人が港の全体を確かめるのに不足は無かった。
﹁だがよぉ⋮⋮本当にこんな事が有り得るのか?﹂
﹁有り得るもクソもないだろう。目の前にある以上な⋮⋮﹂
そう船尾の男は吐き捨てた。
﹁それはそうだけどよぉ。お頭に何て言えば良いんだ? 絶対信じ
ちゃくれねぇぜ。こんな話﹂
今、実物を目の前にしても信じられない話だ。ありのままを報告
したところで、信じて貰えるとはとても思えない。其れこそ、酒で
も飲んで夢でも見たんだろうといわれるのがオチだ。
﹁だからと言ってお前⋮⋮頭に嘘の報告でもする気か? ばれたら
生皮を剥がれて鮫の餌にされるぞ?﹂
其れは身の毛もよだつほど残酷な私刑。掟破りや裏切り者に課せ
られる見せしめの刑。実際に幾人もの人間が、この残酷な私刑の餌
食となっている。
過去の情景が脳裏に浮かび、彼は思わず身震いした。
﹁ならどうすりゃいいんだ!? お前だって他人事じゃねぇんだぞ
?﹂
頭の冷酷さは身に染みて理解している。特に部下の嘘を彼は決し
て許さない。
だからといって、ありのままを報告しても自分自身が信じられな
いのだ。他人に話して信じてもらえるとはとても思えない。
1112
︵糞っ! なんて貧乏くじを引いちまったんだ︶
自分が傍観者であるなら何も問題は無い。運の悪い奴だと鼻で笑
えば其れで済む。だが、当事者となれば話は別だ。自分の命に関わ
ってくる。
﹁方法は一つしかねぇ。明日の朝一番にあの岬に上って、もっと間
近から確かめるしかねぇな﹂
﹁正気かお前。頭に命じられたのは様子見だけだぞ?﹂
頭の命令に背けば鮫の餌にされる。其れが彼らの掟だ。だが、船
尾の男は首を横に振った。
﹁どっちにしろ今のままじゃ鮫の餌にされちまう。なら、頭の命に
背いても確実な情報を調べるべきじゃねぇか?それともいっその事、
逃げ出すか?﹂
﹁馬鹿言え⋮⋮こんな小船で逃げ出せるわけねぇだろうが﹂
彼らの乗る船は、上陸用に帆船に備え付けられた小船の一つ。沿
岸部を移動する分には困らないが、遠距離を航海するのは不可能。
第一、水も食料も残りは1日分しかない。北の湾に停泊している母
船へ戻る片道分のみ。
モンスター
これが普通の場所であれば、それほど悩む必要は無いが、ここは
魔境とも言われるウォルテニア半島。下手な場所に上陸すれば怪物
共の餌になるだけだ。国の権力から隔絶された場所であるが故に、
彼らは警吏による捕縛の心配をしなくて良い。だが、其れは同時に、
彼ら自身もまた限られた手段でしか外界と交われない事を意味して
いる。
1113
﹁なら、道は一つしかねぇ。頭だって、キチンと理由を言えば、そ
う無下にはしねぇさ﹂
船尾の男はそういうと、肩をすくめて見せた。
﹁本当にそう思ってるのか?﹂
﹁他に選択肢があるのか?﹂
質問に質問で返され、男は言葉に詰まる。彼もまた、他に選択肢
が無いことは十分に理解している。
問題なのは、どちらを選択してもあまり明るい未来は望めないと
いう事。彼は視線を足元へ落とすと、黙り込んだ。
︵クソ! どっちにしても俺達は⋮⋮しかたねぇ、頭の命令を無視
してでも、確認するしかないか︶
フゥ
大きなため息をつき、男は顔を上げた。
﹁判った。船を岬に寄せろ。夜が明ける前に岸に着けるんだ﹂
男の声に無言のまま頷くと、船尾の男が錨を引き上げる。船は静
かに岸へ向かって動き出した。
﹁こいつは⋮⋮俺達の見間違いでもなんでもねぇ。信じられねぇ、
一体どうやってこんな短時間でこんな⋮⋮﹂
北の岬に船を着けた二人は、夜の闇にまぎれて斜面を登った。そ
1114
して、かがり火に照らし出された町並みに思わず息をのむ。
﹁町? いや、こりゃ小さな地方都市くらいの整備はされてやがる
⋮⋮﹂
西側の海岸線は全て石畳で補修され、港としての機能を完全に有
している。東側は深い堀が掘られ、北側に流れる川の水を引き込み、
都市と森とを完全に隔てていた。南側には、城壁らしき影が見える。
万全では無いにしても、港湾都市としての機能は十二分に果たせ
そうである。だが、それだけならば、二人は此処まで驚きはしない。
問題なのは、此処がウォルテニア半島と言う魔境であり、この眼
下に広がる都市は少なくとも此処2ヶ月程の間で創られたからだ。
﹁あれは石か? 少なくとも木じゃねぇな⋮⋮一体どうやって建て
たんだ? イピロスから運び込んだのか? まさか、そんな事は⋮
⋮だが、他にどうやって﹂
望遠鏡を覗く男の口から呟きがもれた。
海の上から見た時より、格段に得られる情報は多くなったが、疑
問は逆に深まってしまった。
全てが木造というのならばまだ理解は出来る。労働力をどうやっ
てこの魔境で確保したのかという疑問にさえ目を瞑れば、周囲は鬱
蒼とした森だ。決して不可能ではない。だが、石材を使っていると
なるとこれは問題になる。
この湾を囲むように小高い山はあるが、どう見ても石切り場を造
れるような地形には思えない。
海岸の岩場から切り出すというのも考えられないが、それにして
も限度という物がある。
それに、もし其の推測が正しいのであれば、海岸付近に石切り場
1115
が無くてはならないのだが、そんな様子はどこにも無い。
となれば、何処かの都市から運んできたと考えるのが普通なのだ
が、あいにくのところ此処は普通の場所ではない。イピロスにつな
がる街道は未だ整備されておらず、とても資材の輸送など不可能だ
った。いや、大部隊を護衛に着けてなら可能かもしれないが、そん
な様子があれば、イピロスに潜り込んでいる仲間から連絡が来ない
はずが無い。
﹁海路をつかって⋮⋮いや、それなら俺らが気づかないはずはねぇ
か﹂
男の呟きに答えるかのように、舵を取っていた男が自問自答する。
彼の考えたとおり、海路を使うと言う事も可能性としては考えら
れるのだが、それでも目の前に広がる都市を造り上げるには1度や
2度の輸送では無理だろう。そして、もし、そんな大船団が組まれ
ていたとしたら、彼らがが気づかない訳が無かった。
何しろ、隣接する海域にまで網の目のような警戒網を引いており、
航行する船舶は勿論、沿岸部に存在する町にまで監視の眼を光らせ
ているのだから。
﹁クソ! どうなっていやがる。あの野郎が半島に入ってまだ2ヶ
月足らずだぞ? どうやったらそんな短期間でこんな都市が造りだ
せるって言うんだ﹂
望遠鏡を掴む手に力が入った。
イピロスに潜り込んだ仲間から、ウォルテニア半島が貴族に与え
られたという報告が齎されたのは、今から半年以上前の事だ。
其の報告を聞いた彼らは、其の貴族をあざ笑った。
半島の環境を嫌というほど理解している彼らにとって、この半島
1116
を領地にするなど夢物語にしか思えなかったのだ。
事実、半島を貰った貴族はイピロスに到着した後、何時までも半
島内へ入ろうとはしなかった。
其れを聞いた彼らは、当然だと思った。貰ったは良いが、領地と
しての価値など微塵もない事に気がつき、イピロスに留まっている
のだろうと、そう考えたのだ。
だが、彼らの考えは間違っていた。其れは目の前に広がる都市が
何よりも雄弁に語っている。
﹁帰るぞ⋮⋮お頭に信じてもらえるかどうかは判らねぇが、見た事
を有りのままに言うしかねぇ⋮⋮﹂
背筋を冷たい汗が滴り落ちる。彼の望遠鏡を握る手が震えていた。
其れが何に対しての恐怖なのか、其れは彼自身も理解しては居な
かった。
彼らは逃げるように岬を駆け下りると、岩場に泊めていた小船に
転がるように乗り込むと、母船目指して一路北へ進路を取る。
だから、彼らは気がつかなかった。彼らの動向をジッと闇の中か
ら伺う者の存在に⋮⋮
モンスター
夜が明け、朝日が町を照らし出す。
怪物の襲撃を避けるために煌々と炊かれたかがり火は其の役目を
終えた。
﹁おはようございます。亮真様﹂ ﹁あぁ、おはようローラ。何かあったか?﹂
1117
夜が明けたとはいえ、時間にすれば午前5時を少し過ぎた辺り。
まだベットから抜け出すには早い時間だ。だが、亮真は既にローラ
の来訪を承知していたかのようにはっきりとした声で答えた。 ﹁咲夜が参っています﹂
﹁獲物が喰いついたかな?﹂
其の言葉だけで、亮真は何が起こったのかを正確に予想した。と
言うよりも、そのために彼は一月以上も準備してきたのだから、餌
に喰いついてくれなくては困ってしまう。
﹁恐らく﹂
淡々と答えるローラの言葉を聞き、亮真は人の悪い笑みを浮かべ
る。
﹁なら、さっそく半島の大掃除と行きますかね﹂
亮真の呟きにローラは無言で頷いた。
1118
第3章第27話︻無情の業火︼其の1:
其の入り江には一隻の帆船が、静かに錨を下ろしている。
其の船は、三本のマストを持つ快速船。尤も、今は全ての帆を畳
み、静かに主の号令を待っている。
見かけは、ごく普通の木造船だ。竜骨を持った、西洋風の船。
全長は三十メートル半ば程だろう。船種としてはガレオン船に近
い。十五世紀ごろから始まった大航海時代で頻繁に造船された船に
似ている。
唯一、地球の帆船との違いを上げるとすれば、大砲といった火器
が見つからない事くらいだろうか。
恐らく、火薬と言う存在が一般的ではないのだ。
入り江の北側に生い茂る森の隙間から、幾つのも鋭い視線が其の
船に注がれていた。
黒く染められた服と、顔全体を覆う覆面が、彼らの姿を闇を同化
させている。
彼らは文字どおり闇の住人。
怪物の蠢く森の中であろうと、彼らは何も恐れはしない。
何故なら、彼らこそが最も恐るべき怪物なのだから⋮⋮
﹁みんな、手はずどおりよ﹂
咲夜の呟きを合図に、微かな風が木の葉を揺らした。
そして、咲夜の周囲から気配が消えていく。それは、同種の人間
にだけ感じ取れる、微かな気配。
彼女は今回、一族の中でも特に腕利きばかりを連れて来ていた。
餌は既に撒かれている。後は、獲物が罠にかかるのを待つだけ。
1119
﹁さぁて、あなた達の巣穴は何処なのかしら? 早く道案内してく
ださいな﹂
咲夜の顔に冷たい笑みが浮かび上がる。其れは、冷徹な狩人の顔
であった。
﹁おめぇら⋮⋮そんな話をお頭が信じるとでも思っているのか?﹂
潮の匂いが充満する薄暗い部屋の中で、10名ほどの男達が2人
の男を取り囲んでいた。
部屋の中を仄かに照らすランプが左右にゆったりと揺れる度に、
室内の影が乱舞する。
どの顔を見ても、潮風と日に赤黒く焼けた船乗りの顔だ。
もっとも、其の体から発散される血の匂いを嗅げば彼らの職業が
何なのか予想がつく。
低く冷たい声が、跪く2人の男へ突き刺さった。
﹁ですが⋮⋮俺達は本当に見たんです。この眼で⋮⋮なぁ、そうだ
よな?﹂
そう言うと男は、傍らで黙ったままの相方へと話を振った。
﹁えぇ、こいつは望遠鏡ではっきりと目にしましたし、俺もこの眼
でしかと見ました。こいつの言うとおり、あそこには信じられねぇ
規模の町が作られていました。いや。あれは町なんてもんじゃねぇ。
小さな地方都市くらいはありましたぜ﹂
其の言葉を聞き、二人を取り囲んでいる男達の一人が吐き捨てる
1120
ように言い放った。
﹁ケッ、ふざけた事を抜かしやがる。おめぇ、一体どうやって、二
ヶ月足らずで町を造るって言うんだ? 出来るって言うなら説明し
て見やがれ!﹂
其の言葉に、周囲から嘲笑と賛同の声が上がった。
誰が聞いても、二人の言葉を信じる人間はいないだろう。 ﹁そんな事はねぇ。俺達は確かに見たんだ﹂
だが、自分の命が掛かっている事を理解している男は、必死で食
い下がった。
嘘の報告をしたと判断されれば確実に殺されてしまうのだ。それ
も、見せしめとして背筋も凍る様な残忍な殺し方で⋮⋮
﹁ふざけるな! どうせ酒でも飲んでいたんだろう!﹂
別の誰かが、声を荒げて叫んだ。
﹁そんな事はしねぇ! 俺達は見たんだ! 本当に見たんだ!﹂
﹁本当だ。俺達は酒も薬もやっちゃいねぇ。頭の命に従っただけだ﹂
二人は血相を変えて叫ぶが、二人に注がれる視線は冷たい。
﹁少し黙れ﹂
低く硬い声だ。
普通であれば聞き逃してしまうほど其の声は低く小さい。だが、
1121
其の男の言葉はその場に居る全員の耳にハッキリと届いた。
全員の視線が、この場でただ一人椅子に腰掛けている男へと向け
られる。
がっしりとした体格と、潮風にさらされ赤茶けた髭。落ち窪んだ
眼が酷薄そうな光を放つ。
日に焼けた赤黒い肌が、絹製のシャツの隙間から見え隠れする。
如何にも海の男といった風情だ。
男の名はヘンリー。他の海賊達から︻鮫︼と呼ばれ恐れられる男
である。
もとはエルネスグーラ王国にある小さな漁村の漁師だったが、税
に関するトラブルから、村を治めていた貴族を殺し逃亡したという
豪の者。
鮫の様に静かに近寄り、無言のまま食いちぎるのだ。
﹁頭⋮⋮﹂
﹁お⋮⋮俺達は⋮⋮﹂
二人は縋る様な視線をヘンリーへと向けた。
自分達の命は、椅子の座る男の気分一つで決まるのだ。其の事に
恐怖を感じないはずが無い。
﹁まぁ、良い⋮⋮ご苦労だったな。お前達、メシでも食って来い﹂
﹁え?﹂
冷酷な頭が口にしたあまりにも予想外な言葉に、二人を最も声高
に責めていた男の口から間抜けな言葉が漏れる。
だが、男は慌てて口を塞いだ。 1122
﹁行け﹂
注がれる周囲からの奇異の視線を無視し、ヘンリーはヒラヒラと
手で二人に去れと命じた。まるで犬でも追い払うかの様に⋮⋮
﹁へ、へい。失礼しやす﹂
﹁失礼しやす。お頭﹂
哀れみを乞うかのように、床にはいつくばっていた二人は、ヘン
リーへ頭を下げると、脱兎の様に部屋を飛び出て行く。
ヘンリーの気まぐれか理由があっても事かは不明だが、せっかく
拾った命を失いたくは無かったのだろう。
﹁頭、どういうおつもりで? あいつらの話をまさか信じられた訳
じゃありますまい?﹂
部屋に残った男達の一人が、椅子に悠然と座るヘンリーへ問いか
けた。
彼らは航海長を初めとする、この船の幹部達だ。
一般の船員と異なり、船長であるヘンリーに対してもある程度の
質問が許される。
勿論、絶対権力者であるヘンリーの機嫌を損なわないよう、細心
の注意が必要だが⋮⋮
﹁あいつ等が、俺に嘘をつく度胸があるとは思えねぇ。それに、も
し仮に嘘をつくなら、もう少し真実味のある話をするとはおもわね
ぇか? 俺のやり方はお前達も知っているだろう?﹂ 顎鬚を手で撫で付けながら、ヘンリーは問いかけてきた男へ鋭い
1123
視線を向けた。
事実、ヘンリーは二人の話を嘘だとは思っていない。自分に対し
て嘘をつけばどうなるか、幾ら頭の悪い部下達であっても、理解し
ていると自信を持って言い切れる。それだけの数を見せしめとして
処刑してきているのだ。
確かに、二人の話しはあまりにも荒唐無稽な内容だが、もし、裏
切りを画策しているとしたら、もう少しましな話を造るだろう。
ヘンリーの言葉に皆が無言のまま頷く。
確かにあまりの馬鹿馬鹿しい報告に頭から二人の言葉を否定はし
たが、落ち着いて考えてみればあまりにリスクが高すぎる。
自分達の頭がどれだけ冷酷な人間なのか、この船に乗る船員なら
ば誰もが骨身に染みているはずなのだから⋮⋮
﹁それは⋮⋮確かに。ですが、それじゃぁ、あの若造は一体どんな
手品を使ったんです? あいつが半島に入ってまだ二ヶ月と経っち
ゃいませんぜ?﹂
二人が嘘を付いていないという事は理解できた。だが、そうなる
と新たな疑問が浮かび上がってくる。
﹁さてな。だが、見せかけるだけなら可能だろうよ﹂
﹁見せかける?﹂
ヘンリーの言葉に、男達は首を傾げた。
荒事には慣れているが、頭を使う事は苦手な面子ばかりだ。
彼らの頭の大部分は、酒と女の事で占められているのだから。
﹁遠目からなら、幾らでも誤魔かしは出来るだろう? あの二人、
岬から確認したといっていたが、所詮、近くに寄って確かめたわけ
1124
じゃねぇ。案外、木で作った張りぼてだった可能性だってあらぁな﹂
﹁張りぼてですか?﹂
﹁まぁ、可能性の話だけどな﹂
﹁頭。この後、どうしやすか? 確認に向かうしかないと思いやす
が﹂
実際のところ、このまま議論しても答えの出ない話である。なら
ば、確認に赴くしかない。
だが、部下の言葉にヘンリーは首を横に振る。
ね
﹁いや、其の必要は無ぇ﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁オメェ、俺に楯突く気か?﹂
抗弁しようとした男の言葉を、ヘンリーは鋭い視線を向けて遮っ
た。
﹁今から戻れば月一の会合に間に合わなくならぁ。それともテメェ
があいつ等に話つけるか?﹂
ヘンリーの言葉に、その場に居る誰もが息を呑む。
﹁そ⋮⋮そりゃぁ﹂
﹁なら、戻るしかねぇだろうが。確かに、あいつ等が信じるかどう
1125
か微妙な話だがな⋮⋮﹂
ヘンリーの脳裏に、自分と比肩する二人の顔が浮かぶ。
どちらも普段なら余り顔を合わせたくない人間。
しかし、今回の話はヘンリーの独断で動くわけにはいかないのだ。
その煩わしさに、ヘンリーは思わず舌打ちをした。
﹁どちらにしろ、俺らだけじゃ動きようがねぇ。攻めるにしろ交渉
に持ち込むにしろ、会合で話をするしかねぇだろう﹂
今の段階では推測するしかないのだ。
ただし、一つだけはっきりとしている事もある。
見せ掛けの罠か、本当に備えたのかは別にして、御子柴亮真とい
う人間が、自分達ウォルテニア半島を根城にする海賊を意識してい
ると言う事だ。
︵厄介な事になってきたな︶
馬鹿な貴族が思いつきで始めた開拓事業かと思っていたが、どう
やら其の考えは少しばかり甘かったらしい。
御子柴亮真という男は、本気でこの不毛の半島を開拓する気の様
だ。
﹁よし、錨をあげろ。港へ戻るぞ!﹂
ヘンリーの号令の下、錨が巻き上げられ、帆が張られた。
船は初めゆっくりと、そして、だんだんと風を受けて速度を上げ
ていく。
彼らの根城を目指して⋮⋮
その町は、ウォルテニア半島の北端に位置していた。
1126
人のいないはずのこの地で、その町の住人は強かに生き抜いてき
た。
彼らが何処から来たのか、其のルーツは彼ら自身も理解してはい
ない。
半島に追放された貴族や其の子孫。国から賞金を賭けられ、行き
場の無くなった犯罪者。そんな彼らが、ある者は荒れ狂う海を超え
てを、またある者は魔境と言われる森林を通り抜けて、ついに辿り
着いた楽園。いや、ある意味其処はこの世の地獄なのかもしれない。
確かに其処は、既存のいかなる権力も力の及ばない場所だ。貴族
の横暴にも、国の圧政にも無縁な町。それだけ聞けば人はその町を
楽園と呼ぶかもしれない。だが、其の町を支配する物が何かを聞け
ば誰もが其処を地獄だと言うだろう。
その町を支配するのは力。強い事、其れだけが、町の法律だった。
性別も年齢も其処では一切考慮されない。
そんな町である。
切立った崖に囲まれた其の小さな湾に、其の町はあった。まるで、
人の目に触れるのを恐れるかの様に⋮⋮
1127
第3章第28話︻無情の業火︼其の2:
﹁なるほどねぇ⋮⋮それで、あんたはノコノコと戻ってきたと言う
わけかい﹂
そう言うと、女は手にしたジョッキのエール酒を呷る。
塩風に晒され、くすんだ金髪。醜いと言うほどではないが、顔
の造りは極めて平凡だ。小柄な上に胸も小ぶりで、女としての魅力
はお世辞にも高いとは言えない。
しかし、それを理由に彼女を侮る男はこの町には居なかった。
男社会の中で生き抜いてきたと言う自信。其れが瞳から鋭い刃と
なって周囲を威圧する。
彼女の名はルイーダ。
︻海蛇︼の異名を持つ彼女は、ヘンリーと同じこの町を支配する
頭の一人である。
﹁鮫もヤキが回ったようだ。そんな話をこの場に出して来るとはな
⋮⋮﹂
ヘンリーの向かいに座る禿げ頭の男も、ルイーダの言葉に同調す
るかのように呟いた。
男の名はアンドレ。
︻津波︼の異名を持つこの男は、女性の腰周りにも匹敵する、太
い二の腕が自慢の巨漢だ。
彼は、綺麗に剃りあげられた頭を叩きながら、ヘンリーへ探るよ
うな視線を向けた。
この円卓を囲む三人こそが、この町の支配者であり、各々が率い
る海賊団の船長である。
1128
彼らは、ガレオン船を旗艦とし、キャラベルやキャラックと呼ば
れる中型、小型の船を数隻ずつ持っており、ウォルテニア半島と其
の周辺海域を荒らしまわっていた。
今日は、月に一度開かれる定例会議。この町の行く末を決定する
大事な会合である。
そして今、この会議で最大の懸案が、半島を領有する事になった
御子柴亮真の動向だった。
国から見捨てられた土地だからこそ、彼らは拠点にしてきたのだ、
其の半島に公的権力が介入してくる。とても見過ごす事は出来な
かった。
﹁本気でそう思うのか?﹂
低く落ち着いた声だ。
︵まぁ、こいつらが不審に思うのも当然だ。もし立場が逆なら、俺
もこんな話、不審に思うだろうしな︶
そんな思いが、ヘンリーの心を落ち着かせる。
ヘンリーの言葉にルイーダは肩をすくめ、アンドレはそのまま沈
黙を守った。
二人はヘンリーの実力を十分に理解している。
ヘンリーはこの不毛な町を力で取り仕切るボスの一人なのだ。
彼の実力を疑う必要は無い。貴族のような生まれ持った特権に守
られている訳ではないのだから。
もし、ヘンリーの力が他人より衰えれば、彼は直ぐさま死体とな
って海へ捨てられている事だろう。
彼が生きてこの場に居る。其の事実が、ヘンリーの実力を明確に
示している。 ﹁俺は、現状出来るだけの事はした。確かに、上陸して調べる事も
考えたが、罠の可能性も捨て切れなかったからな﹂
1129
俺の判断に文句があるかと問い掛けるかのように、ヘンリーは椅
子に腰掛ける二人を睨み付けた。
三人の視線が卓上で交差する。
﹁罠か⋮⋮確かにな﹂
﹁備えをしている事自体、御子柴の野郎が用心していると言う表れ
だものね﹂
﹁そう言う事だ﹂
ヘンリーの言葉を最後に、三人はそのまま押し黙った。
長い沈黙がこの部屋を支配する。
問題なのは、この後どうするかだ。それ次第で、彼らの運命が決
まりかねない。
﹁思い切って襲う⋮⋮か。人数的には、三百そこそこって話だろ。
俺達全員を合わせれば五百を超えるんだ。力押しでも勝算はあるん
じゃねぇか?﹂
この中で一番交戦的で血の気の多いアンドレが、力押しを提案し
た。
︻津波︼の異名は彼の襲撃の仕方に由来している。
波が静かに引くかのように獲物へと忍び寄り、圧倒的な物量で押
し潰すのだ。
単純な力押しではない。綿密な下調べと準備をしたうえで、一気
に奇襲を掛ける。そう簡単に出来る事ではない。
其れを実現できる力を持つからこそ、アンドレはこの町に君臨す
る事が出来るのだ。
1130
だが、アンドレの提案にヘンリーは首を振った。
﹁いや、下手に手を出すのは不味い⋮⋮備えの無い相手を奇襲する
ならともかく、相手が備えている可能性がある以上、そいつは下策
だ。数は少ないが、歴戦の傭兵も居るらしいからな﹂
普段なら迷わずアンドレの提案に乗るところだが、今回はダメだ。
﹁不確定要素が多すぎるか⋮⋮だが、其れならばどうする?﹂
アンドレ自身も思うところがあったのか、ヘンリーに否定されて
も、あまり気にした様子は無い。
確かに人数はヘンリー達の方が多いし、実戦経験も豊富。
しかし、彼らの実戦経験は基本的に海上での物。
国や同業者達と繰り広げる海の上での戦いならば、彼らは幾度と
無く潜り抜けてきた歴戦の猛者達だが、陸の上の戦闘経験は村や町
を略奪する時のみだ。
彼らは奪う事が目的であって、戦う事が目的ではないのだから。
それに、彼らの最大の武器は奇襲だ。
警戒心が緩んだ一般人を襲う事には慣れていても、真正面から備
えのある町を力で攻め落とすだけの戦力は無い。
﹁ならどうするの。このまま黙って不干渉を貫く?﹂
モンスター
同じ半島に居るとはいえ、亮真達が拠点にしている入り江と、こ
の町の間には、怪物の蠢く森林地帯が広がっている。
この町自体が、周囲を切り立った崖に囲まれた入り江に、人の眼
から隠されるように造られた町であり、そうたやすく見つける事は
出来ない。
ルイーダの提案は消極的ではあるが、決して間違っては居ない。
1131
︻海蛇︼の異名を持つ彼女は、執念深く、何より待つ事が出来る
人間だ。
﹁それで機会を窺う⋮⋮か﹂
ヘンリーの言葉に、ルイーダはニヤリと笑いを浮かべて頷く。
動く事を選択できる人間は多いが、ジッと機会を待ちながら動か
ない事を選択する事が出来る人間は少ない。
彼女が実力者として君臨出来たのも、静かに先代の力が衰えるの
を待つ事が出来たからだ。
其れもただ待つだけではない。少しでも早く其の機会が訪れるよ
うにと、自らの力を蓄えるのと同時に、先代の力を削ぎ落とす事に
従事してきたのだ。
毒が徐々に体を蝕んで行くかの様に⋮⋮
彼女が︻海蛇︼と呼ばれる由縁である。
だが、再びヘンリーは首を横に振ると、自らの考えを口にした。
﹁其れも一つの手だが、俺はこの際、御子柴男爵と交渉を持つ方が
良いと考えている﹂
其の言葉を聞き、アンドレとルイーダは訝しそうにヘンリーを見
つめる。
二人にとって、彼の言葉はあまりにも予想外だったからだ。
﹁交渉⋮⋮ねぇ。御子柴を油断させて襲おうって腹かい?﹂
﹁案としては悪くないが、御子柴は俺達を警戒していると考えた方
が良い。それに、そんな誘いに乗って警戒を緩める様な男では無い
だろう⋮⋮奴に関しての噂が本当ならばな﹂
1132
大男総身に知恵が回りかねと言う言葉があるが、アンドレは人並
み以上の知恵を持っている。
それは、大陸間を行き来する交易商人であった彼の前身を考えれ
ば当然の事だ。
季節外れの大嵐で交易船が沈没し、多額の借金を負うと言う不運
さえなければ、彼は海賊などに其の身を落とす事は無かっただろう。
今でこそ、荒っぽい手段を使う事を厭わなくなってはいるが、元
々は口先一つで巨万の富を築いたほどの男だ。
幾多の商談を纏めた経験から、彼の人を見極める目は三人の中で
一番確かだった。
はかりごと
其のアンドレから見て、御子柴亮真と言う人間は、他人を信じな
い謀に長けた人間だ。
そういった人間から信用を勝ち取るのは、そう容易い事ではない。
それこそ、謀ったつもりが、逆に謀られることにすらなりかねな
いのだ。
だが、ヘンリーは再び首を振る。
﹁そうじゃない⋮⋮交渉は取っ掛かりにすぎねぇ。最終的には御子
柴の傘下に入るのさ。本当にな﹂
﹁正気⋮⋮か?﹂
アンドレの問いにヘンリーは無言のまま頷く。
﹁お前達も判っているはずだぞ⋮⋮﹂
何をとは言わない。其れはこの町に住む人間ならば薄々感じてい
る事だし、この場に居る三人にとっては、正に御子柴亮真よりも重
大な問題なのだから。
1133
﹁確かに⋮⋮俺達には後が無い⋮⋮だが⋮⋮﹂
﹁アタイもどうかと思うねぇ。そもそも、御子柴がアタイ達と交渉
を持つかどうかすら怪しいんだよ?﹂
しかし、懐疑的な目を向ける二人の視線を、ヘンリーは真っ向か
ら見据えた。
﹁だが、このまま海賊家業を続けても先は見えている。だろう?﹂
其の言葉に、二人は押し黙る。其の態度が、ヘンリーの言葉が正
しい事を証明していた。
実際のところ、略奪による見入りと言うのはあまり多くないのだ。
村を略奪する、と言うのは確かに短期で見れば大きく稼ぐ事が出
来る。
貴族に搾取されているとはいえ、平民は平民なりに貯蓄をするの
だから。
収奪は、其れを正に根こそぎ奪うと言う事だ。農業で言えば、来
年種まきに使う分を残さないで収穫した全てを食べてしまう事に等
しい。
結果、継続した収入にはなりえない事になる。
では、どうするか。
一つ二つの村や町を根こそぎ奪い、周りの町からは税金と言う形
で定期的に金を毟り取るのだ。
血も涙も無い海賊。襲われれば女子供も容赦なく殺し、犯し、奴
隷として売り払う。
そんなイメージが、牙を持たない一般人の心を縛りつけ、その恐
怖から逃れる為に海賊へ金を払う。
安全の為に⋮⋮
1134
そして、これは商船を襲う際にも同じ事が言える。
航路を通る船が居てこそ、襲う事が出来るのだ。
海賊が出没し、襲われれば荷も命すらも根こそぎ奪われる。そん
な航路を誰が航海するというのか。
多くの場合、海賊は商人から通行税を納められる。
積荷の何割分かの荷か代金か。
また、そうしなければ次が無くなってしまうのだ。
無論、イメージを維持する為に定期的な生贄を必要とするが、根
こそぎ奪う事が、海賊の本来の姿ではない。
しかし、今ヘンリー達三人が率いる海賊団の後には焦土しか残ら
ない。
文字通り村を襲う際には、奪い尽くし、殺し尽くす。
商船を襲う際にも同じだ。
生き残った船員は奴隷として売り払い、荷は全て奪いつくす。
十年ほど前から其の頻度は加速度的に増え、今では毎回そんな略
奪の限りを尽くすようになった。
﹁其れは分かっている⋮⋮今では獲物を探しにかなり遠出をしなけ
りゃならねぇ﹂
吐き捨てるかの様に呟いたアンドレの言葉にルイーダが頷く。
北方地域からの商船は、西方大陸の北周り航路を途中で止めてい
る。
現在、定期的に運行しているのは、エルネスグーラ東端の港町ま
で。
其処からは陸路を使って大陸中央部を横断し、貿易都市フルザー
ドまで輸送するのが全てと言ってよい。
船による大量輸送と比べて、手間も人件費も余計に掛かるが、海
賊に根こそぎ奪われるよりマシと言うのが商人たちの判断であり、
其れは正しい認識だろう。
1135
全ては、ヘンリー達の荒っぽいやり方が原因なのだ。
﹁かと言って、今の収益でも暮らしていくのがやっとだ⋮⋮とても
昔みたいに、甘い事をやってるゆとりはねぇ﹂
昔、この町にこれほどの住民は居なかった。増えても年に数家族。
十人を超えて増える事などまず無かったのだ。それが、十年ほど前
から急激に人が流れ込んでくる事になった。
理由はハッキリとしている。オルトメア帝国の侵攻が活発になっ
た時期だ。
オルトメア帝国が領土拡大をしていく中で、西方大陸中部に存在
した国々が、次々と滅ぼされていく事になった。
其の過程で、多くの人間が難を逃れて故郷を捨てた。
勿論、そのままオルトメア帝国の国民として生きていく事を選ん
だ人間は大勢居る。
だが、帝国の民になる事を拒み、新天地を求めた人間も決して少
なくない。
いや、特権階級の属した人間の殆どが、放逐か処刑のどちらかを
選ばされたのだ。
そういった人間の多くは、見知らぬ空の下で土に還る事になるの
だが、幸運な一部の人間は新天地へと辿り着く。
そして、其の中の一部が、このウォルテニア半島に存在する名も
無き町へと流れ込んで来た。
﹁あの時の判断は間違っていた。其れは現状を考えれば間違いねぇ﹂
﹁今更其れを言っても、どうしようもないじゃないか﹂
苛立ち紛れに吐き捨てるヘンリーに、ルイーダは慰めの言葉を掛
ける。
1136
モンスター
当時の状況を思い返しても、結論は一つしかなかった。結論が見
えた今だからこそ、間違いだったと言えるだけの事。
当時の熱狂を考えれば当然だった。
数は力だ。
一人でも二人でも、町の住民が増えれば、それだけ怪物の襲撃に
怯えなくて済む。
少しずつ、大きくなっていく町。
自分の住む町が拡大していく事を喜ばない人間は居ない。
まして、其れまで人の眼を避けるように隠れ住んできたとなれば
尚更だ。
初めは森林地帯を突破したごく一部の幸運な人間だけを受け入れ
ていたのだが、其れは次第にエスカレートして行った。
各地の港町に船を向かわせ、これは見込んだ人間を海賊家業に誘
い出したのだ。
初めは全て順調に行っていた。海賊の頭数が増え、襲える船や町
の規模がどんどんと大きくなっていく。
周辺国から散発的に派遣された討伐部隊に怯える必要も無くなっ
た。ウォルテニア半島周辺の海域は文字通りヘンリー達の領土とな
ったのだ。
モンスター
そう、其れが地獄の扉を開く事になるなど、当時のヘンリー達に
予想がつくはずが無い。
町の住民が増える。其のおかげで、半島に生息する怪物からの襲
撃は目に見える形で減っていった。 町の住民が増える。其のおかげで、襲う事が出来る町の規模は大
きくなって行く。
彼らが有頂天になったのも当然だった。
だから彼らは忘れてしまったのだ。彼ら自身は何も産み出さない
という事を。
通行税にも、村々からの上納金にも限度がある。
彼らだって生活していかなくてはならない。
1137
だが、無計画に町の住人を増やしてしまった事により、それらの
収入だけでは町を維持していく事が出来なくなったのだ。
そして、一度崩れたバランスは二度とは戻らない。
より大きな収益を上げるために人数を増やし、人数を増やした結
果より大きな収入が必要になる。
終わりの無い自転車操業の始まりだ。
そして、彼らは次第に収奪の回数を増やしていく事になる。
自給自足が困難な立地である半島を根城にしている彼らに、他の
選択肢は無かったのだ。
﹁俺達はやりすぎた。今、この海域を通ろうって物好きは居ねぇ。
海岸線にある町や村もめぼしいところは皆奪い尽くした後だ﹂
ヘンリーの言葉にアンドレもルイーダも黙ったままだ。
だが、其の眼はヘンリーの言葉の裏側に隠された意図を正確に読
み取り、強い光を放っていた。
﹁だが、だからこそ、御子柴と交渉の余地がある。俺達の力を売り
込む余地がな﹂
1138
第3章第29話︻無情の業火︼其の3
西方大陸暦2813年4月18日夜
﹁交渉の余地⋮⋮か﹂
あごひげ
な
ヘンリーの言葉に、アンドレは顎鬚を撫でながら呟く。
元商人としての感覚からすれば、ヘンリーの言葉は十分に実現が
可能な様に思えた。
さと
海軍として軍事力を担う事も、自衛出来る貿易船として交易に携
わる事も不可能な事ではない。 其の一方で、問題は御子柴亮真と言う男がそういった利害に聡い
男かどうかだ。
海賊と言う、世間一般からは嫌悪される職業である自分達を使う
だけの度量の大きさ。
せいだく
善悪に拘るような人間では恐らく交渉は無理だろう。
清濁併せ呑む事の出来る器量を持つかどうか⋮⋮
そんな思いがアンドレの脳裏に浮かんだ。
﹁何か手土産が要るねぇ⋮⋮それに、仮に手土産を渡したところで
御子柴の野郎が話を聞いてくれるかは賭けになるよ?﹂
それまで黙って話を聞いていたルイーダが口を挟んだ。彼女の問
いにヘンリーは当然だと言うように深く頷く。
確かに彼女の懸念は当然の事。本来なら然るべき仲介役を立てる
べき話だ。
勿論、海賊である彼らに其れは不可能であるが、せめて心象を良
くする為にも手土産は必要だった。
1139
﹁手土産か⋮⋮何を出す気だ。金か?﹂
アンドレの問いに二人は押し黙った。
選択肢としては悪くない。
何のひねりも無い直球であると言う点を除けば、万人が必要とす
るものだし、現金を貰って喜ばない人間は居ないだろう。
使い道も無限に考えられる以上、持て余す事も無い。
だが、其の一方で現金は送った人間を印象付ける事が無い。
提案したアンドレ自身、幾度と無く賄賂という手段を使ってきた
からこそ理解できる。
現金は即効性がある反面、持続力が無い。
定期的に賄賂を贈り続けるというのならともかく、初対面の人間
への手土産としては余り相応しくないのだ。
﹁出来れば俺達の利点を印象付けられるようなものが良い。それも
なるべく物珍しい奴が﹂
それなりに見栄えがし、金銭的な価値が高い物。
滅多に手に入らない稀少価値の高い物が特に良いだろう。
更に言えば、消耗品ではダメだ。なるべく形が残るものが良い。
そんな思いがヘンリーの言葉に滲んでいた。 ﹁珍しくて俺達の利点を印象付けられる物⋮⋮か﹂
﹁どうだ、何か無いか?﹂
ヘンリーの問いに、アンドレは考え込んだ。
アース
倉庫には交易船を収奪した際に得た珍品も無い訳ではない。
物流が発展していない大地世界では、他の大陸から輸入されてく
1140
る品はどんな物でも高値がつく。
だが、其の一方で、今倉庫に眠っている物の多くは実用的ではな
い上に、本当の意味での珍品だった。
香辛料、装飾品、衣類、武具。こう言った物は使い道がはっきり
しており、なおかつ需要が高い。
すいぜん
逆に、書物や絵画、骨董品と言った類の物は、欲しい人間にとっ
いわゆる
ては垂涎の品だが、興味の無い人間にとってはゴミにしかならない。
つまり、需要が他の品に比べて少ないのだ。
今倉庫に残っているものと言えば、そういった所謂金に換えにく
い品物ばかりだった。
﹁半島を開拓中である今の状態では、美術品などを送っても持て余
すだけだろう⋮⋮﹂
ウォルテニア半島での開拓が終わった後でならば箔をつけるとい
う意味で良いが、開拓途中である今の状況で美術品などを送っても
せっかく
邪魔にしかならない事が目に見えている。
折角贈り物をするのに、相手に喜んでもらえないのでは意味が無
い。
沈黙が部屋を支配した。
御子柴亮真との交渉に自分達の運命が掛かっている事を、ヘンリ
ーもアンドレも十分に理解していたから。
﹁しかし、あんた達の頭は肝心な時に働かないねぇ⋮⋮﹂
馬鹿にしたような声が、沈黙を破った。
ヘンリーの鋭い視線が、卓に頬杖をつきながらニヤつくルイーダ
へと突き刺さる。
﹁どういう意味だ?﹂
1141
低く押し殺した声。其処に含まれているのは明確な敵意。
彼ら三人に共通するのは、強靭な意志と、強固な肉体。そして、
他者を圧倒する覇気だ。他人に侮られて黙っている事など無い。
﹁待てヘンリー⋮⋮どういう意味だ? ルイーダ﹂
敵意の篭った視線でルイーダを睨み付け、今にも飛び掛らんとす
るヘンリーの顔の前に、アンドレは手を突き出して押し止めた。
其の眼は、ルイーダの真意を推し量ろうとしている。
﹁丁度良いのが有るじゃないのさ。あたし達の利用価値を示し、尚
且つ半島でしか手に入らない貴重品がさぁ﹂
アンドレとヘンリーは顔を見合わせ、ルイーダの言葉を考える。
﹁半島でしか手に入らないだと?﹂
ヘンリーが確かめるかのように呟いた言葉を聞き、アンドレの脳
裏に有るモノが浮かんだ。
﹁そうか⋮⋮アレか﹂
﹁そうさ。男なら誰だってアレを送られて喜ばない人間は居やしな
いよ﹂
アンドレの言葉を聞き、何処か卑しさの混じった笑みをルイーダ
は浮かべる。
其の笑みを見たヘンリーの脳裏に、ようやく彼女の言う貴重品が
思い浮かんだ。
1142
﹁テメェ⋮⋮アレは俺たちが散々苦労して⋮⋮﹂
ヘンリーはルイーダへ食って掛かる。
それもある意味当然の事だ。アレはそう簡単に手に入るような物
ではない。
多大な労力と、運。どちらを欠いても手に入れる事が困難な品物。
﹁そんなことは分かっているわ。だからこそ贈る価値があるんじゃ
ないの? アレならどんな男だって喜ぶもの﹂
元々ルイーダは、娼婦としてこの町に連れてこられた奴隷だった。
しかし、彼女の容姿では客を取れないと判断され、娼婦達の管理
という仕事を任されたのだが、これが彼女の才能を開花させた。
人を管理し、人を操る。
この才能にルイーダは長けていたのだ。
娼婦達を介して次第に彼女は勢力を拡大していった。
何しろ娯楽等ほとんど無いと言って良い世界の事だ。
女達を支配するということは、女の肌に触れずには居られない多
くの海賊達も支配すると言う事。
そうやって彼女は昇り詰めたのだ。三首領の地位まで。
﹁良いだろう。お前を信じよう⋮⋮どちらにしろ直ぐに買い手を見
つけられるような様な品物じゃない。なら、此処で贈り物にするの
も悪くないからな﹂
﹁チッ⋮⋮仕方ねぇか﹂
アンドレの言葉に、ヘンリーも舌打ちしながらも頷く。
金に換えられないほどの貴重なアレ。
1143
それほどの物を贈れば、海賊である自分達の話を聞いてくれるか
もしれない。
そんな思いが三人の中に浮かんでいた。
コーン、コーン
朝日の差し込む窓から、木槌を打ち込む音が響いて来た。
へんぴ
それに、大勢の怒鳴り声や、人の蠢く雑多な音が彩を添える。
人口と言う意味では、辺鄙な村程度でしかないはずなのに、外か
ら聞こえてくるのはまるで都会の様に活気に満ち溢れた光景だ。
みなぎ
強固な目的意識を持った人々が、何かを作り上げる途中とはこう
いうものなのだろう。
亮真の眼に写る人々の顔には希望が漲っていた。
︵町はだいぶ形になってきた⋮⋮石畳の道路に大型船も受け入れら
れる港湾。城壁の方も実用に耐えられるレベルまで出来ている⋮⋮
問題は例の件か⋮⋮シモーヌからの積荷は既に届いている。後は咲
夜からの連絡待ちだな︶
既に街は移民を受け入れる為の住宅の建築が始まっている。
最後の問題さえ片がつけば、ウォルテニア半島は新たな姿へと生
まれ変わる事が出来るのだ。
そして準備は既に整っている。後は時期を待つだけ⋮⋮
﹁亮真様。よろしいですか?﹂
﹁あぁ。ローラか。何かあったのか?﹂
窓から見える街の風景をぼんやりと眺めながら物思いに耽ってい
た亮真は、扉を叩くノックの音を聞くと扉へと視線を向けた。
﹁ご報告が﹂
1144
そう言うローラの顔には、戸惑いと驚きが入り混じったなんとも
いえない表情が浮かんでいる。
余程、予想外な事が起こったのだろう。
︵何か起こったな⋮⋮︶
亮真は無言のまま眼で先を促した。
そして彼女の報告を聞いた亮真の顔に、驚きの表情が浮かんだ。
其の部屋は粗末だった。
木で作られた柱と壁。
それらは強固に造られてはいたが、むき出しのままであり、とて
も貴族の執務室とは思えない。
部屋は爵位持ちの人間が使う部屋である為、それなりに広く造ら
れている。
だが、それも部屋に設えられた家具が木目の粗い執務用の机と椅
子だけとなれば、逆に粗末さを際立たせてしまう。
それもある意味当然なのかもしれない。
亮真がこの部屋を使うのは日に2回。朝と夜の報告を受ける時だ
けなのだから。
勿論、シモーヌから購入する品物の一覧や明細の確認など、書類
仕事もあることはあるが、其の件数は圧倒的に少ない上に、そうい
った細かい仕事の大部分はボルツやマルフィスト姉妹に任せてしま
っている。
亮真が確認するのは、彼らだけでは決済出来ないごく一部の書類
だけだ。
では、亮真は何をしているのかと言えば、毎朝、現場監督として
アース
周りに喝を入れつつ、率先して街造りに参加していた。
自らが率先して体を動かす。
あざとい手段だが、階級社会である大地世界ではこれが事の外、
1145
大きな効果を齎した。
何しろ、多くの兵士達にとって貴族とは、支配する者であり、搾
取する者なのだ。
貴族とは、自らは何も産み出さず領民から奪うだけの存在。
実際には大きな責任と代償を払っているのだが、支配される人間
から見れば、そういった負の部分は眼に入らない物だ。
其の支配階級の一人である亮真が、自分達の中に混じって体を使
う。
其の試みは亮真と兵士達との距離を確実に縮めたのだ。
共に汗を流し、言葉を交わす。
同じ食事をし、粗末な木のベットで眠る。
亮真のそう言った態度は、確実に兵士達の信頼を得ていた。
全ては順調に進んでいたのだ。そう、ローラからあの報告が齎さ
れるまでは⋮⋮
︵クソッ。どうする⋮⋮︶
机の上に置かれた羊皮紙を睨み付けながら、亮真は心の中で舌打
ちをした。
幾度と無く繰り返した問いかけだ。
既に夜の帳が辺りを支配している。
ローラの報告を聞いた亮真は、一日中部屋の中に篭り続けた。
昼食もとらず、亮真はひたすら自問自答を繰り返している。
いや、実のところ結論は既に出ているのだ。
問題は、結論を実現する為にどうするかと言う事⋮⋮
︵亜人⋮⋮か︶
海賊から届けられた交渉を求める手紙。其の中に書かれた贈り物
こそ、亮真を半日の間苦しめる事になった原因だった。
亜人。
其れは、ウォルテニア半島に存在すると噂される、一般的には絶
滅したはずの種族。
1146
もたら
今朝、湾に入り込んできたいっそうの小船が齎したのは、亮真と
の交渉を求める手紙と、一人の亜人だった。
彼女の肌は紫水晶を思わせる艶のある黒。髪は透き通るような銀
ダーク
髪で、耳は人間より尖っている。
一般的に黒エルフと呼ばれる種族だ。
生きた宝石。
そういう形容詞が相応しいほど、彼女は美しい。
男なら誰でも彼女の放つ魅力の虜となるだろう。
いや、女ですら例外ではない。
ローラやサーラはもとより、ボルツやリオネと言った人生経験豊
富な人間も、彼女を目にした瞬間から其の美貌に眼を見張ったのだ。
ダーク
確かに、彼女はウォルテニア半島という特殊な土地ならではの贈
り物と言えた。
亮真も男である以上、美しい黒エルフなどを贈られて喜ばないは
ずが無かった。
そういう意味で言うなら、海賊達の選択は正しかったと言える。
だが、彼らは思い違いをしていた。
そして其の勘違いが、全ての歯車を狂わせる事になる⋮⋮
1147
第3章第30話︻無情の業火︼其の4
西方大陸暦2813年4月25日昼
港の桟橋には、何隻かのガレオン船が錨を下ろし静かに帆を畳ん
でいた。
﹁﹁﹁ようこそおいでくださいました。御子柴男爵閣下﹂﹂﹂
ガレオン船から桟橋に降り立った亮真を、10人近い人間が出迎
える。
先頭はヘンリー、アンドレ、ルイーダと言った三人の首領達。
其の後ろに並ぶのは、彼らの側近達だ。
﹁私の名はアンドレ。この町の長の一人でございます。このような
辺鄙な土地ではタカが知れておりますが、本日は精一杯おもてなし
させていただく所存です﹂
アンドレは一歩前に進み出ると、深々と腰を折る。
元交易商人だけあって、こういった場面の場数を踏んでいるから
だろう。
その風貌とは対照的に、まるで流れるような完璧な作法だ。
彼の動作に続いて後ろに控えてる者達も一斉に頭を下げる。
事前に綿密な打ち合わせを行ったのだろう。
彼らは海賊でありながら完璧な礼儀作法で亮真を迎えた。
﹁いや、こちらこそ態々迎えの船までよこして貰って⋮⋮今日はど
うぞよろしく﹂
1148
そう言うと、亮真は軽く頭を下げた。
アース
日本でならまず無難な挨拶だろうが、身分制度の存在する大地世
界では、亮真の態度はかなり違和感を感じさせる。
其の上、身分的に亮真は爵位持ちの貴族であり、アンドレ達は所
詮平民であり犯罪者でしかない。
形式的には、亮真がアンドレ達に頭を下げなければならない理由
は存在しない。
アンドレ達は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、それをこの場で
口にするほど愚かではなかった。
にこやかな笑みを浮かべると、先頭に立って亮真を町の中へと案
内する。
﹁お供の方々の数が少ないように見受けられますが?﹂
ルイーダは亮真に続いて船を下りてきた兵士達を見て首を傾げた。
ざっと数えた所20名前後くらいしか居ない。
兵士は黒一色で染められた革の鎧を着込んだ上で槍を手にしてお
り、これから戦にでも出ようかと言うほど完全武装ではあるが余り
にも少なすぎる。
必要最低限の人数しか連れてきていないのだろう。
﹁えぇ、余り大人数でもね﹂
﹁はぁ⋮⋮?﹂
そういって脇を通り過ぎた亮真の答えに、ルイーダは内心首を傾
げた。
別に護衛の兵が少ない事はルイーダ達にとって悪い事ではない。
ただ、其の一方で釈然としないのだ。
1149
別にルイーダ達は亮真を騙そうとしている訳ではない。
彼らは本心から亮真の傘下に入りたいと思っている。
だが、其れはあくまでもルイーダやヘンリー達の都合であり、亮
真がどのように受け取るかとは別問題なのだ。
亮真の今の言葉を素直に受け取るならば、友好的な相手に大人数
の警護兵を連れて行く必要は無いという風に受け取れるが、ルイー
ダは其処に違和感を感じたのだ。
アンドレに先導されながら会談の場へ向かって進んでいく亮真と
護衛達の後姿に視線を向け、桟橋に佇むルイーダは傍らに立つヘン
リーへ疑問をぶつけた。
﹁あんた⋮⋮どう思う?﹂
﹁あん? 何がだ?﹂
﹁何がって⋮⋮アイツの事さ⋮⋮嫌な感じがしないかい?﹂
﹁そうかぁ? 俺は別に感じないけどな。いや、俺は逆に良いと思
うぜ? 何しろ俺らを対等にあつかってくれてるからなぁ。外の貴
族が考えられないだろうよ。やっぱり平民上がりだからかねぇ。普
通の貴族ならありえねぇわな﹂
あごひげ
ヘンリーはそう言うと顎鬚を撫でながらニヤリと笑った。
それこそ平民が頭を下げても鼻も引っ掛けない貴族が大勢居る中、
亮真は海賊であるヘンリー達へ軽くでも頭を下げ挨拶を返している。
其の態度がヘンリーには衝撃的だった。
だが、其れは別に悪い印象と言うわけではない。
いや、貴族に虐げられてきたヘンリーにとって、其れは新鮮で評
1150
価に値する態度だ。
﹁アタイが気になっているのは其処さ⋮⋮なんでアイツはアタイ達
にあんなに愛想がいいんだい?﹂
﹁そりゃぁおめぇ、俺達の利用価値を知っているからだろうよ。そ
れに、アレを送った事が印象を良くしたんじゃねぇのか? 大体、
相手が友好的なのの何処に問題があるって言うんだ?﹂
﹁それは⋮⋮でも、アタイ達に都合が良すぎやしないかい?﹂
ルイーダが気になるのは此処だ。あまりに自分達にとって都合よ
く行き過ぎている。
亮真の態度もそうだ。
平民上がりの貴族だからこそ、こういった場面では高圧的な態度
をとって当然なのに、微塵もそんな様子は無い。
﹁あぁ? 何言ってるんだオメェ。印象を良くする為に亜人の中で
も飛び切りの上玉をアイツに送ったんだぜ? アレを受け取ってお
いて俺達の印象が悪かったら丸損じゃねぇか。大体、印象を良くす
る為にアレを送ろうと言い出したのはオメェだろうが?﹂
ダーク
今、ヘンリー達が捕獲している亜人は全部で三人。
全員肌の黒い黒エルフの女だが、其の中でも特に若くて美しい女
を送ったのだ。 希少価値が高すぎる為、そう簡単に換金は出来ないが、捨て値で
も数千万から一億バーツはするという亜人。
それほどの贈り物をしたのだから、亮真の態度が友好的なのは当
然だとヘンリーは思っている。
1151
﹁それは⋮⋮﹂
ルイーダはヘンリーの言葉を聞き押し黙った。
﹁疑い深いのも時と場合によるぞ? せっかく上手く進んでるんだ。
つまらない事を気にしてアイツの機嫌を損ねるような事はするなよ
?﹂
そう言い残すと、呆れる様に首を振りつつヘンリーは桟橋を後に
した。
﹁確かに⋮⋮ね﹂
全ては自分が思い描いたとおりの展開をしている。
狙い通り御子柴亮真とは交渉の場を設ける事が出来たし、自分達
への印象も先ほどの態度を見れば悪くないように見える。
護衛の数が少ない事も、亮真がルイーダ達を信用している表れだ
ろう。
桟橋に残されたルイーダは一人呟くと、湧き上がってくる不安と
疑念を振り払う。
折角上手く進んでいるのだ。此処でつまらない疑念を口にして台
無しにする訳にはいかない。
そんな思いが、彼女の心を縛り付けていった。
﹁さぁどうぞ御掛けください。今、冷たい物を持ってこさせます﹂
﹁えぇ、では失礼して﹂
1152
アンドレの進めに従って、亮真がゆったりとソファーに腰を下ろ
すと、其のタイミングを見計らったかの様に扉をノックする音が響
いた。
﹁入れ﹂
アンドレの言葉に従い、一人の女が飲み物とお茶請けの菓子を盆
に載せて入ってきた。
30台半ばくらいか。
容姿は悪くないが、何処と無く蓮っ葉な感じのする女だ。
おそらく酒場で働く女に付け焼刃の礼儀作法を叩き込んだのだろ
う。
不慣れな手つきで卓の上に飲み物を置き、彼女はギクシャクしな
がら一礼すると部屋を出て行く。
︵俺の機嫌を損ねないように必死か⋮⋮ご苦労なこった︶
亮真はこみ上げてくる冷たい嗤いを必死で押さえ込んだ。 ﹁後ろの方々もよろしければ如何ですか? 良く冷えておりますよ﹂
﹁いえ、私達にはお構いなく﹂
ローラは表情を変えずに、アンドレの誘いを跳ね除けた。
亮真の後ろに直立不動で立つのは、マルフィスト姉妹。
この部屋に居るのは、亮真とアンドレ、そして警護役のマルフィ
スト姉妹の四人のみだ。
くつろ
﹁そうですか⋮⋮失礼いたしました⋮⋮あぁ、申し送れましたが、
他の護衛の方々は別室にて寛いでいただいております﹂
姉妹に提案をすげなく切り捨てられたアンドレは、間を持たせよ
1153
うと分かりきった事を口にした。
そもそも、会談の場に全員を入れられないからと、護衛の大半を
別室に案内したのはアンドレ自身なのだ。
だが、亮真は笑みを浮かべると軽く頭を下げた。
﹁えぇ。お手数を掛けます﹂
﹁とんでもございません。精一杯おもてなしをさせていただきます
ので⋮⋮ところで⋮⋮閣下⋮⋮﹂
どう切り出そうか迷うような口ぶりのアンドレに、亮真は笑みを
浮けべて切り出した。
﹁先日ご提案いただいた件ですね? 皆さんが私の傘下に入ってく
ださると言う﹂
先週送られて来た手紙には、アンドレたちの考えが全て書かれて
いる。
彼らが何を考えて、何を望んでいるかを既に亮真は理解している。
今日行われるのは、亮真の決定をアンドレ達へ通知する為だけの
もの。
余計な言葉を言う必要は無い。
﹁は⋮⋮はい。其の通りです。先日お送りした亜人は私共の誠意の
印でございます﹂
﹁誠意ですか⋮⋮なるほどなるほど﹂
﹁正直に申し上げて、あれほどの一品はそうそう手には入りますま
い。何せ連中は村の周りに強固な結界を張り巡らしており、捕らえ
1154
るには連中が結界の外に出てくるのを待つしかないのですから⋮⋮﹂
モンスター
一口に結界の外に出てくるのを待つと言っても、ここは怪物が徘
徊するウォルテニア半島。
そんな場所で獲物が出てくるのをじっと待つ為には、大変な労力
が必要になる。
﹁なるほど、大変な手間隙を掛けて捕らえた物を贈って下さった訳
ですね。いやいや、そうでしたか⋮⋮﹂
亮真はしきりに頷く。
最後のダメ押しとばかりに、アンドレは自分達がどれほどの労力
を掛けたのかを力説した。
危険をアピールすればするほど、自分達の印象がよくなると判断
したのだ。
其れは元商人であるアンドレにとって幾度と無く経験してきた物
だ。
相手に高値で物を売りつけるのなら、其の品物がどれほど貴重な
のか、其れを得る為にどれだけの労力を費やしたのかを説明すれば
いい。
﹁それほど貴重な物を⋮⋮なるほど、皆さんのお気持ちは良く分か
りました﹂
ひとしきり黙ってアンドレのアピールを聞いた亮真は、静かに頷
いた。
﹁おぉ、では!﹂
亮真の言葉に、アンドレは歓喜の笑みを浮かべた。
1155
其れは、自分達の望んだとおりの結果を得たと言う会心の笑みだ。
︵ルイーダの言うとおり、所詮男か⋮⋮やはりアレを贈ったのは正
解だった︶
いや、既にアンドレの中では結論が出ていた。
もし否なら、御子柴亮真が態々此処に来る必要など無い。
今日この場に来た。この事実が全てを物語っているとアンドレは
考えたのだ。 だが、彼の思いは無残に打ち砕かれた。
冷たい笑みを浮かべた亮真の言葉によって⋮⋮
﹁えぇ、貴方達には消えてもらいます﹂
其の言葉が亮真の口から放たれた瞬間、後ろに控えていたロー
ラとサーラの剣がアンドレへと襲い掛かった。 あまりに予想外な言葉にアンドレはなす術も無く体を貫かれる。
﹁では、始めるか。手はずは分かっているな?﹂
驚愕のあまり眼を見開いたまま事切れたアンドレの死体を冷たい
眼で見下ろしながら、亮真は姉妹へ問いかける。
﹁はい﹂
﹁やれ!﹂
静かに頷くマルフィスト姉妹に亮真は鋭く命じた。
﹁﹁太陽の欠片、火の申し子、地に落とされし汝ら火の神の子らよ、
今こそ其の罪を浄化し天へと帰らん﹂﹂
1156
バーニングピラー
プラーナ
詠唱に伴いチャクラが回転をはじめ、彼女達の生気が唸りをあげ
る。
﹁﹁火神天昇覇﹂﹂ 最後の句と共に、姉妹の手が地面へと叩きつけられる。
其の瞬間、轟音と共に大地が揺れ、灼熱の火柱が屋敷の天井をぶ
ち抜いた。
1157
第3章第31話︻無情の業火︼其の5
西方大陸暦2813年4月25日昼
眼下に広がる町の中心部から吹き上がった炎の柱。
湾を囲む切り立った崖の上に居る全員が待ち望んだ合図の炎。 黒い覆面で顔を覆った男が、無言のまま咲夜の背後に進み出る。
其の気配を感じたのか、咲夜が後ろへ振り向いた。
﹁分かっています。貴方達、準備は出来ているわね?﹂
咲夜の言葉に黒い影は無言のまま頷くと、襷掛けにした皮のベル
トに挟まれた小ぶりの花瓶を手にした。
取り立てて眼を引くような物ではない。
胴体の部分はずんぐりと丸く、首の部分は細くなっている、何処
にでもありそうなごく普通の陶製の花瓶である。
ただ、いくつか普通とは違う点もあった。
一つは其の花瓶には花ではなくボロ布が詰め込まれている事。
そしてもう一つが花瓶の数。
忍達のベルトに紐で固定された花瓶の数はおよそ10個。 彼らの数はおよそ二〇人ほどであるから、この場には用途不明な
花瓶が二〇〇個ほどもある計算になる。
態々動きを妨げないように工夫されているところを見れば何かに
使うのだろうが、この姿だけを他人が見れば思わず笑い出してしま
う事だろう。
だが、この場に居る誰一人として、自らの格好を恥ずかしがる様
子など無い。
いや、それどころか、彼らの眼には冷たい刃の様な鋭さが浮かん
1158
でいる。
彼らは自分達が何をするのか、何故其れを行うのかをきちんと理
解していた。
︵初めは何故そんな説明を下忍一人一人に行うのかが分からなかっ
たけれど⋮⋮︶
末端の実行人員にまで目的を説明するのは非常に時間と手間の掛
かる作業だ。
実際、咲夜が一族から仕事を命じられた時には、そんな説明はさ
れた事が無い。
長老衆や、其の側近達から仕事を命じられれば其れをただ実行す
るのみだ。
何故などと理由を問い返す必要は無かったし、其の権利も無かっ
た。
だが、今回は違っている。
亮真は咲夜や厳翁、リオネなどを介して末端の兵にまで其の目的
と必要性を明確に説明した。
今までの状態でも別に忍び達は不満に思ってはいないだろう。
︵でも、明らかに戦意が違う⋮⋮︶
気配の消し方も冷静さも普段と少しも変わらない。
其れでいながら、明確な目的意識は彼ら一人一人の心理を高揚さ
せ、彼らを戦場へと駆り立てている。
︵それも当然か⋮⋮ようやく形になってきた自分達の街を、他人
に干渉されるわけには行かない⋮⋮例えそれがこの国の支配者であ
るルピス女王でも⋮⋮︶
咲夜の脳裏に、先日行われた会議の光景が過ぎった。
其の日、外から木槌の音か飛び込んでくる一室で、大きな円卓を
囲み7人の男女が腰をかけている。
彼らの多くには、亮真の説明を聞き戸惑いの表情が浮かんでいた。
1159
﹁そう言う訳で、みんなに集まって貰ったって訳さ⋮⋮忙しいとこ
ろ悪かったな。特に咲夜﹂
﹁あっ、いえ。そういう事情でしたら⋮⋮それに見張り役を何人か
置いてきていますし﹂
亮真の言葉に咲夜は首を横に振る。
海賊の殲滅を命じられた咲夜は、つい先日、彼らの偵察隊を逆に
追跡する事によって場所を特定していた。
彼女は徹底的な偵察を行い、彼らの船数や人員、町の地形等を詳
細に調べ上げ、後は亮真の命令を遂行するだけの手筈だったのだ。
彼女のもとに亮真からの帰還の命令が届いたのは、全ての準備が
整おうとしていた丁度其の頃の事だ。
﹁それで⋮⋮亮真様はどうなさるおつもりなのですか? 海賊達の
恭順をお認めに?﹂
咲夜の問いかけに答えたのはリオネだった。
﹁そいつは⋮⋮難しいんじゃないかい。あの子達は今のところは従
順だけど、そんな事をしたら不満をもつどころじゃないはずだよ?﹂
﹁そいつは当然でしょう⋮⋮海賊の略奪によって故郷の村を焼かれ
たうえに、親兄弟を殺され、自分は奴隷に売り飛ばされた訳ですか
ら。幾ら、奴隷の身分から解放されたと言っても、其の恨みが消え
るはずがありえやせん﹂
ボルツの言葉に、誰もが無言のまま頷いた。 1160
全ての奴隷は亮真によって兵士の身分と引き換えに解放されてい
る。
しかし、奴隷になったと言う過去がそれで消え去るわけではない。
いや、現在が満ち足りているからこそ、奴隷時代の悲惨な生活は
より鮮明に彼らの脳裏に刻み込まれている筈だ。
﹁しかし、海賊の戦力を切り捨てるのは惜しい。殲滅を前提にして
いたのは、連中がこちらに従うとは考えられなかったからだ。連中
から恭順してきた今、あの戦力は使い道があるのでは?﹂
厳翁の問いに、誰もが押し黙った。
彼の言葉を否定する要素は無いのだ。
別に海上戦力としてだけの価値だけではない。
海域の支配権確保から始まり、交易そのものの実施など、利用価
値は無数にある。
モンスター
将来的な展望はともかくとして、現在のウォルテニア半島には農
地も漁場も存在していない以上、財源として考えられるのは怪物か
ら得られる材料を売るか、亜人を奴隷に売り払うかぐらいしかない
のだから。
﹁それはそうだけど⋮⋮それじゃぁ兵の不満を切り捨てるのかい?﹂
目先の利益だけを考えるのであれば、海賊達の恭順を受け入れる
事は悪い事ではない。
だが、長期的な展望に立って考えた場合、恐らく兵と海賊達の間
で軋轢が起こる。
直ぐには噴出さなくても、近い将来必ず⋮⋮
圧倒的に不利な状況下で、亮真の持つ数少ない強みの一つが兵達
一人一人の質と高い忠誠心。
法術の習得と最高級ではないがそれなりに質の高い武具。最近で
1161
は読み書きや計算と言った教育まで行っている。
奴隷身分からの開放とこれらの待遇は、兵一人一人に強固な忠誠
心を植え付けていた。
問題は海賊達の恭順を認める事で、其の忠誠心にひびが入るかも
しれないと言う事。 兵の束ね役であるリオネやボルツにとって最重要な懸念点だ。
﹁俺はあいつ等の恭順を認めるつもりは無いよ﹂
低く冷たい声が部屋に響き渡る。
﹁よろしいので?﹂
厳翁は恐る恐る亮真の顔色を窺う。
別に厳翁は自分の意見に固執しているわけではなかった。
最終的な決定をするのは亮真の仕事であり、自分達は考慮点を挙
げ彼の思考を補助する事だと、この場に居る誰もが理解していたか
ら。
﹁あぁ、連中の思惑がどうであれ、受け入れるのは不可能だ。何し
ろ連中は凶悪な犯罪者だからな﹂
アース
心情がどうのこうのと言う話以前の問題だ。
幾ら人の命が軽いこの大地世界とはいえ、法が無い訳ではない。 適切であるかどうかは別にして、全くの無法では国が成り立たな
い。
ウォルテニア半島は、形式上はローゼリア王国の領土。
当然、海賊達はローゼリア王国の法で裁かれる。
そして、海賊行為は死刑だ。
それも海賊個人のみならず、其の家族も含めて。
1162
通常の殺人より刑が重いのだが、それは海賊が自分達の利益の為
に、日常的に他者を害すると言う事だからだ。
また、そういった見せしめを行わなくては、治安の維持が難しい
上に、何より国民が納得しない。
慈悲や倫理観と言ったものは、時代や教育、生活環境に因って大
きく左右される。
現代日本では明らかに野蛮な法と言われるだろうが、この世界で
アース
は其れが当然であり、下手に慈悲をかければ、慈悲をかけた人間が
責められる事になる。
海賊達が更正したかどうかなど、この大地世界の人間には無意味
で無価値なのだ。
そして、其の血塗られた財貨で生活した其の家族も同罪でしかな
い。
勿論、亮真がルピスより得た自治権を盾に法を無視する事は可能
だが、それでは周辺の貴族や其の領民との間に無用な軋轢を生む。
亮真が絶対的な強者であるならともかく、ローゼリア王国の新興
貴族でしかない今の状況でそれは余りに大きなリスクである。
﹁俺がこの半島を領地として賜った以上、治安維持の責任は俺に有
る。今の所は何処からも来ていないが、俺が連中の恭順を認めれば、
過去に遡って責任を求められかねない﹂
長年放置された土地であり、統治が困難だと分かっているからこ
そ誰も何も言わないだけで、このまま放置すれば其の責任の全ては
亮真に負わされることになる。
それはある意味当然の事。
誰も責任者が居なかったからこその放置であり、御子柴亮真と言
う責任者が出来た以上、其の責任は亮真が負わなければならないの
だ。
1163
﹁まぁ色々と理由を述べたが、はっきり言って俺は連中が嫌いだ﹂
亮真はそう言って嗤った。 海賊達の境遇は理解している。
望んで海賊になった訳ではないのかもしれない。
彼らは被害者なのかもしれない。
同情の余地が無いとは言わない。
だが、彼らが被害者としての権利を主張できるのは、彼らを傷つ
けた加害者に対してのみだ。
決して、無関係な一般市民にそのツケを負わせて良いはずが無い。
心理的にも、実利的にも海賊達の恭順は受け入れられない事だっ
た。
﹁だから、俺は連中に消えてもらう。異論があるか?﹂
冷たく鋭い視線が、円卓を囲む全ての人間に突き刺さる。
この瞬間、海賊達の運命は決したのだ。
﹁咲夜様、ご命令を﹂
咲夜は男に声を懸けられ、我に返った。
︵ダメ⋮⋮集中しなきゃ⋮⋮︶
将棋で言えば既に詰みの状態。
海賊達に逃れる術は無い。
だが、それは油断をして良いと言う事ではない。
咲夜は無言のまま頷くと、手を高々と振り上げる。
﹁散りなさい。時間は余りありません。半数はお爺様と合流し、目
的の者をすばやく確保! 残りは私と共に火を付けます。次の合図
1164
があるまでは、決して亮真様達の退路を断たないように!﹂
引き絞られた弓から矢が放たれるが如く、咲夜の命に忍達は静か
に駆け出した。
入念な打ち合わせを事前に行っているので、今更、咲夜に言われ
るまでも無い。
彼らは無言のまま、太い木にしっかりと結び付けられた綱を手に、
崖から宙へと飛び出して行った。
ヘンリー達が作り出したこの名も無き町は、正に天然の要害と言
える。
三方を切り立った高さ10数mの崖に囲まれ、北側に広がるのは
大海原。
モンスター
崖には人がすれ違うのがやっとと言う道幅の階段が2本あるのみ。
元々は森の中を徘徊する怪物達への備えだろうが、其れがそのま
ま戦の際には防壁となる。
アース
森側から正攻法で町を攻めるには、岩肌をくりぬいて作られた細
い階段を下りる他に手段は無い。
モンスター
ただし、其れはあくまで正攻法にこだわればの話だ。
怪物には無理でも、人間ならば幾らでも方法はある。
そう、綱に掴まりながら降りる方法などが⋮⋮
現代社会で眼にするよなカラビナなどの器具は無いが、大地世界
に生きる彼らにとっては無くて当たり前。
彼らはたった一本の命綱に全てを託し、崖を軽やかに滑り降りて
いく。
﹁ボルツさん、後はお願いしますね﹂
そう呟くと、咲夜は綱を手にして虚空へと其の身を投げ出した。
1165
﹁若⋮⋮お待たせいたしました﹂
アンドレを始末した亮真達の下に、厳翁が静かに姿を現した。
黒染めの服に黒の頭巾。
忍び装束に身を固めた其の男の顔を確かめる術は無かった。
だが、僅かに布の隙間からこぼれる鋭い眼光と低く押し殺した声
は厳翁しかいない。
﹁見つかったか?﹂
亮真の問いに厳翁は静かに頷く。
﹁無論です⋮⋮既に確保を終え、護衛を付けて船着場の方へ向かわ
せています﹂
厳翁の役割は捕らえられた亜人の確保。
彼らは昨夜のうちに、西側の岬から泳いで湾内へと回り込んだ。
忍びは総合職というが、確かに彼らは何でもそつなくこなす器用
さを併せ持つ。
夜陰に紛れて、海側から泳いで進入する事も彼らには不可能な事
ではない。
そして、亜人が捕らえられている牢を見つけた厳翁と其の配下は、
亮真の合図を静かに待っていたのだ。
﹁流石だな。なら、さっさと船着場に向かって次の段階に移ります
か。咲夜達も始めたようだしな﹂
窓の外ではあちらこちらから火の手が上がり、町は混乱の坩堝と
化している。
1166
﹁崖側の階段はボルツ殿が封鎖済み⋮⋮船着場さえ押さえてしまえ
ば、この町の連中に逃げ場はございません﹂
﹁あぁ、予定通りって事だな﹂
亮真の顔に冷たい笑みが浮かぶ。
亮真は決して人殺しが好きな訳ではなかった。
だが、必要ならそれを躊躇う事もない。
︵罪深き町か⋮⋮燃えちまえ! 良いも悪いも無い。全てを灰にす
るまで⋮⋮︶ 弱者が弱者を踏みつける事で発展した町。
そうする事でしか生き残れなかった人々。
これ程、救いが無く歪んだ構図があるだろうか。
この町はあってはいけない町。
この町の住人は生きていてはいけない。
全ては亮真が前に進むための糧。
︵俺は強くなる⋮⋮絶対に!︶
アース
沸き上ってくるのは憎悪。
この不条理で、狂った大地世界への限りない怒りだった。 亮真は厳翁とマルフィスト姉妹を連れ、黒煙と悲鳴が渦巻く町へ
と歩き出す。
全てを終わらせる為に。
1167
第3章第32話︻雌伏の時︼其の1
西方大陸暦2813年6月12日昼
城塞都市イピロスの下町。
その薄汚れた裏路地にある連れ込み宿に一人の男が入ってきた。
大柄な其の男は、無言のまま宿屋の受付に金貨を放り投げる。
フードを深く被りまるで人目を避けるかの様な男に、椅子に座り
ながら帳簿整理を行っていた宿の亭主は軽く目を吊り上げると、目
で二階へ上がれと男に促す。
男が誰かと尋ねる必要は無い。
既に話は通っているのだ。
﹁204号室だ﹂
階段に脚をかけた男の背に、宿屋の主人は呟くように部屋の番号
を告げる。
必要な事を告げると、宿屋の主人は再び視線を背けた。 こう言った商売に必要なのは見ざる言わざる聞かざると言う態度
だ。
人目を避けるようにして訪れる客は多い。
連れ込み宿でありながら、男女の組み合わせではない客も居る。
だが、金さえ払ってくれるなら後は主人にとってどうでも良い事
だった。
長生がしたいから、客の詮索などしない。
好奇心という魔物は猫どころか人間の命をたやすく吹き消してし
まう。
1168
放り投げられた金貨を懐から出した財布にしまい、主人は再び帳
簿に目を向ける。
彼が誰かに今日の事を尋ねられたらきっとこう答えるだろう。
﹁うちみたいな宿屋に客なんて来る訳がねぇだろう﹂と。
﹁お久しぶりでございます御子柴男爵閣下。この度は海賊の討伐を
無事に終えられたとの事。おめでとうございます﹂
男が主人に指示された部屋へ脚を踏み入れると、椅子に腰掛けて
いたシモーヌが立ち上がり静かに頭を下げる。
大きく胸元を開けた赤のドレスに、くっきりと赤く紅が引かれた
唇。
スカートには大きな切り込みが入れられ、其の隙間からほっそり
とした白い足が亮真の目に飛び込んでくる。
今日の彼女は、まるで道端に立つ娼婦のように扇情的で退廃的な
装いをしていた。
彼女の顔を見知った人間でも、今の彼女とクリストフ商会の会長
代理を結びつけるのは困難だろう。
何処からどう見ても、今のシモーヌは本物の娼婦だった。
﹁あぁ、ひさしぶりだな、シモーヌ⋮⋮相変わらず大した早耳だ﹂
つい先ほどザルツベルグ伯爵と婦人に報告したばかりの情報を既
に得ているシモーヌに、亮真は苦笑しながら被っていたフードを外
した。
﹁噂では既に一月ほど前から流れていましたから。何より、海賊の
被害が激減したのが証拠ですわ。男爵閣下もイピロスにおいでにな
られましたし﹂
1169
そう言うとシモーヌは穏やかな笑みを浮かべた。
ある日を境にして、海賊に襲われたと言う被害者の話を聞かなく
なったのだ。
少し目端の利く商人なら何が起こったのかと情報を集めようとし
て当然だった。
まして、シモーヌは亮真にとって御用商人と密偵、両方の役割を
期待されている。 以前からの集めていた情報と久しぶりにイピロスへ姿を現した御
子柴亮真を結びつければ、結論は自ずと出た。
﹁しかし凄いところを指定してきたなシモーヌ﹂
苦笑する亮真の言葉に、シモーヌはまるで悪戯が成功した子供の
ような笑みを浮かべる。
今の段階で、二人が直接顔を合わせる事は、ザルツベルグ伯爵に
無用な警戒心を持たせてしまう。
そんな中、人目を忍ぶ場所としてシモーヌが指定してきたのはこ
の薄汚れた連れ込み宿。
最下級とはいえ男爵の爵位を持つ貴族と、落ち目とはいえ以前は
イピロスの商会連合長を務めたクリストフ商会の商会長代理。
そんな二人が会談を行う場所とするには、あまりにみすぼらしく
不釣合いな場所だった。
﹁男女の密会には丁度いいですから﹂
確かに人目を避けるには悪くない場所だ。
薄汚れた下町の裏路地。
胡散臭いというより、限りなく黒に近い地域だが、金さえ払えば
大抵の無理が利く。
1170
シモーヌや亮真に付けられたザルツベルグ伯爵の監視の目を眩ま
せるのにも都合が良い。
万が一、亮真が尾行されていたとしても、娼婦と客なら幾らでも
言い訳は立つ。
女を買いに出たと言えば、顔を隠し人目を避けるようにしていた
理由にもなる。
ちなみに、シモーヌの方は数日前から病で自宅で臥せっている事
になっていた。 ﹁それで? そっちの準備は何処まで進んだ?﹂
内心、シモーヌの放つ妖しい魅力に度肝を抜かれながらも、亮真
は用件を切り出した。
何時までも彼女の姿にばかり目を向けている訳にもいかない。
どうしても直接会って話をする必要があったからこそ、危険を冒
して此処へやってきたのだから。
﹁私どもの方は既に船を二隻買い上げ、ミスポスに停泊させていま
す﹂
シモーヌは椅子の下に置いた布袋から地図を取り出すと、テーブ
ルの上に広げる。
ミスポスはエルネスグーラ王国東端の港町だ。
西方大陸最大の貿易都市であるフルザードには劣る物の、大陸屈
指の貿易都市といって良い。
亮真がウォルテニア半島内に拠点を造る間、シモーヌはミスポス
にて商船の準備を始めていた。
﹁二隻か⋮⋮大きさは?﹂
1171
﹁販売されている最大級のガレオン船。船員は全て熟練した者達の
みで、海戦の経験も豊富な者達です﹂
﹁なるほど、ずいぶん思い切った事をしたな﹂
﹁軍船への転用も視野に入れていますから﹂
亮真の問いにシモーヌはきっぱりと言い切った。
クリストフ商会の資金で購入したにもかかわらず、有事の際には
軍船として亮真が使っても構わないと言い切ったのだ。
彼女の言葉に亮真は呆れたような笑いを浮かべる。
﹁大した勝負師だ﹂
亮真とシモーヌは既に一蓮托生な関係だが、だからと言って其処
まで思い切れる人間は少ない。
決して安くはないはずの交易船を軍船として利用しても良いとい
う発言は、シモーヌの覚悟の表れと言えた。
亮真の言葉にシモーヌは静かに微笑を浮かべると、探るような視
線を亮真へ向ける。
﹁港の方はいかがですか?﹂
事前の取り決めで両者の役割は完全に分担されている。
シモーヌは船の調達と販路の確保。
亮真は、海賊達の排除と港の建設。
既に海賊の排除は終わっているが、肝心の港に関しての情報はま
だ何も聞かされて居ない。
亮真の能力を疑うわけではないが、半島に向かってまだ数ヶ月し
かたっていないのだ。
1172
シモーヌが不安に感じるのも当然の事だった。
﹁問題ない。既に町並みも城壁も出来ている。後は人だけだな﹂
亮真の答えに、シモーヌはジッと黙ったまま亮真の顔を見つめる。
揺るがない瞳。
︵本当に準備は出来ているみたいね⋮⋮︶
亮真の言葉に嘘がないことを見抜いたシモーヌは深いため息をつ
いた。
目の前の男は出会ってからわずか数ヶ月の間に、あの魔境で自ら
の基盤を作り出したことになる。
︵この人は⋮⋮︶
シモーヌの心に浮かんだ気持ちを言葉にするなら、其れは恐怖と
いうより畏怖と言う方が正しいのかもしれない。
恐怖は排除に結びつくが、畏怖は服従に結びつく。
格別整った美男子とは言えない顔つき。
見かけは体格が良いだけのごく普通の青年だ。
だが、シモーヌは知っている。
海賊達は殲滅されたのだ。
断片的な情報しか手に入っていないので確かな事は分からないが、
海賊とその家族は文字通りただの一人も生き残れはしなかった。
何処かの商人が真実を確かめる為に半島へ人を遣わし確かめた情
報だ。
入り江に隠されるように造られたその町は、灼熱の炎に焼き尽く
され、焼け焦げた建物と死体が放置されているだけだったらしい。
焼け焦げ放置された死体を鳥が啄ばむのを見て、其の男は地獄だ
と思ったそうだ。
海賊達の末路は惨いとは思うが、同時に当然の報いだとも思って
いた。
1173
何でも厳格に法を守ればよいと言う訳ではない反面、無視すれば
良いと言う物でもない。
確かに無茶で非合理的な法もあるが、其の一方で社会を維持する
為に不可欠な法も存在する。
もし、亮真が海賊達へ情けを掛けていたら、シモーヌは亮真と手
を組む事を止めていたかもしれない。
確かに戦力としては申し分ないだろう。
だが、彼女の部下にも海賊達によって家族を奪われた人間は居る。
そう言った人間は決して海賊達を許しはしないだろう。
もし、海賊達を仲間にするなどという選択をしたのならば、何れ
重大な問題を引き起こされる事が目に見えていた。
だが、亮真は殲滅を選んだ。
買い取った奴隷を解放するという甘い所が有るかと思えば、必要
なら幾らでも非情な選択が出来る男。
リスクとメリットを氷の心で天秤に掛ける事が出来る男。
︵私の判断は⋮⋮正しかった︶
わら
すが
そんな思いがシモーヌの心に湧き上がる。
ミストール商会に利権を奪われ藁に縋る思いで掴んだ其の手は、
藁では無く頑強なロープだったようだ。
甘いだけでも非情なだけでも人の上にたつ事は出来ない。
両者を兼ね備えた男だけが頂に立てるのだ。
︵覇王⋮⋮︶
其の言葉が心に浮かんだ時、彼女の背中に電撃が走る。
﹁どうかしたか?﹂
視線を亮真の目から動かさずジッと黙りこんだシモーヌに、亮真
はうろたえながら言葉を掛ける。
﹁いえ、失礼いたしました﹂
1174
﹁大丈夫か?﹂
﹁はい﹂
そう言って頭を下げるシモーヌに釈然としない物を感じながら、
亮真は話を進めた。
﹁まぁ街のほうは既に出来ているからな、後は住民だけだ﹂
既に街並みは出来ており、何時でも住民を受け入れる準備は出来
ている。
﹁分かりました。早急にミスポスより奴隷を運ばせます﹂
﹁あぁ、頼んだ条件で集めてくれたか?﹂
﹁勿論です。十歳から十五歳までの健康な男女千人。既に現地で確
保済みです﹂
イピロスで購入するより、ザルーダやエルネスグーラで購入する
方がザルツベルグ伯爵に悟られずに済む。
シモーヌが船をミスポスで購入したのと同じ理由だ。
モンスター
﹁分かった。代金は怪物達の牙や皮で良いか?﹂
モンスター
亮真の言葉にシモーヌは無言で頷く。
モンスター
半島内で取得した怪物達の牙や皮はかなり良い値で取引される。
定期的に狩る事が出来るのならば、怪物達の牙や皮は重要な特産
品となるのだ。
1175
﹁処で⋮⋮亜人に会ったという噂が流れていますが本当ですか?﹂ 何気ない興味本位な問いかけだったが、シモーヌ其の言葉に亮真
は顔色を変えた。
﹁何処で其の話を聞いた?﹂
鋭く射抜くような視線にシモーヌは思わず息を呑んだ。
敵を見る目でないというだけで、其の眼は冷たく鋭い光を放って
いる。
どれくらい時間がたったのだろうか。
フッと亮真の目が穏やかさを取り戻す。
﹁あぁ、悪い⋮⋮だが、こいつはちょっとややこしい事になってる
んだ﹂
気圧されたシモーヌに気がつき、亮真は笑みを浮かべながら謝罪
した。
別にシモーヌを脅えさせようとした訳ではないのだが、事が事だ
けに思わず鋭い視線を向けてしまったのだ。
﹁一体どうされたと言うのです? 本当に亜人と会われたのですか
?﹂
息を整えるかのように大きく深呼吸をしたシモーヌが、亮真へ理
由を尋ねてくる。
シモーヌにとって亜人は絶滅した種族だ。
いや、ごく一部の人間を除き、西方大陸に暮らす大多数が彼女と
1176
同じ認識だろう。
大陸各地に未だ隠れ住むと言う噂は時折耳にするものの、所詮噂
レベルの話に過ぎない。
彼女自身、本気で亮真が亜人と出会ったなどとは思っていなかっ
た。
以前から噂されているウォルテニア半島に亜人が隠れ住むと言う
話が、実際に半島を領有する事になった御子柴亮真と結びついたた
だの根も葉も無い噂。
ちょっとした話題提供。
そう軽く考えていた訳だが、今の亮真の態度はとても噂で済むよ
うな話ではないようだ。
探るような視線を向けるシモーヌに、亮真はため息交じりに話は
じめた。
それは決してうやむやには出来ない話。
亮真の話が進むにつれ静かに聴いていたシモーヌの顔が段々と暗
く変化していく。
其れは、亜人が持つ人間への深い憎悪の物語だったから⋮⋮
1177
少し短いですが、これで第三章は終了です。
第3章最終話︻雌伏の時︼其の2︵前書き︶
第三章で書ききれていない幾つかの伏線は第四章以降で回収しま
す。
※出版日が変更されました。
11月10日ごろとのことです。
申し訳ありませんが宜しくお願い致します。
1178
第3章最終話︻雌伏の時︼其の2
西方大陸暦2813年6月12日夜
にお
扉を開けたとたん、ユリアは思わず顔をしかめた。
びやく
じゃこう
部屋の中に充満するのは生臭い雌の臭いと、ネットリと肌にまと
わりつく甘い媚薬の香り。
中央大陸から輸入された麝香を精力剤として焚き込めたのだ。
この部屋で何が行われたかなど一目瞭然だった。
ザルツベルグ伯爵はかなり派手に楽しんだらしい。
悠然とソファーに寝そべりながらワインを飲む伯爵の髪は、其の
行為の激しさを物語るかのように乱れ切っている。
部屋の隅で床に体を横たえたまま顔を伏せていたメイドを立たせ、
乱れた服をなおしてやったユリアはそのまま彼女を部屋から出した。
これからする話は使用人に聞かせられないものだったから。
﹁アナタ⋮⋮ずいぶんお楽しみだったようね?﹂
ユリアはため息混じりにそう言いながらソファーに腰を下ろすと、
目の前に座る夫の表情を探るような目で見つめる。
自分の妻の冷めた視線を前にしても、伯爵の顔には一切悪びれる
様子がなかった。
彼女もいまさら怒りなど感じない。ただ呆れるだけだ。 ﹁フッ。これが楽しまずに居られるものか⋮⋮ウム、美味い。お前
もどうだ?﹂
1179
ゆったりとソファーに体を沈めたまま、ザルツベルグ伯爵は手に
したワイングラスを一息に呷る。
グラスの底に残っているワインの色は赤。
エルネスグーラ王国で収穫された最高の葡萄を、適切な温度管理
の下で長い年月熟成させた最高級のワインだ。
特に秘蔵していたこれをわざわざ開けるほど、伯爵は上機嫌だっ
た。
﹁全く⋮⋮正直に言って私はアナタの様に楽観視なんて出来ないわ﹂
伯爵の勧めを無言で断わると、苦虫を噛み潰したかのように顔を
しかめながらつぶやくユリアの言葉に、伯爵は笑い声を上げた。
夫人が何を気にしているのか、伯爵には手に取るように分かって
いる。
﹁そうか? 私は正直に言って先行きが面白くなってきたと思って
いるんだがな﹂
伯爵の顔に浮かんだのは強者の余裕。
はるか高みから弱者を見下ろす傲慢さが浮かんでいる。
余程、御子柴亮真と行った昼間の会談がお気に召したらしい。
﹁あれは使える男だ⋮⋮海賊共の討伐も無事に終えたようだしな。
王都でふんぞり返っている馬鹿なルピス女王より、よほど使い道が
ある﹂ ﹁其れは分かっているわ⋮⋮でも、切れすぎる刃物には注意が必要
よ?﹂
ユリアの言葉には、いつかその切れる刃が自分達に向けられるの
1180
ではという恐れが含まれていた
﹁確かに其れは否定しない。だが、排除するのはいつもで出来る。
なら利用出来るだけ利用するべきだ⋮⋮だろう?﹂
欲望に濁った視線だ。
だが、その頭は冷徹な計算を弾き出していた。
海賊を排除することが出来たということは、御子柴亮真が治安を
モンスター
維持出来るだけの能力を持っているという証明に他ならない。
いまだに怪物が徘徊している魔境とはいえ、統治者に治安を維持
するだけの能力が有ると証明されれば人は集まってくる。
つまり、ウォルテニア半島の開発が可能だということだ。
そして手つかずの大地は、多くの可能性を秘めている。
他人の領地であるとはいえ、隣接するイピロスにもかなりの恩恵
が期待できた。
ザルツベルグ伯爵は、既に御子柴亮真を排除しようとは考えてい
なかった。
排除するより、利用する方が得だと理解したのだ。
モンスター
半島の治安維持を行ってくれるだけで、伯爵は半島より流れ込ん
でくる怪物対策に使う軍備を削減することが出来た。
完全に無くしてしまう事は無理にせよ、かなりの負担軽減になる。
今後見込まれる半島の発展性と並んで、大きな利点だ。
これを考えれば、今の段階で御子柴亮真を排除し、わざわざこの
流れを断ち切る理由はない。
ザルツベルグ伯爵の言葉にユリアは無言のまま頷いた。
伯爵の言う利点を覆すだけの理由を彼女は持っていないのだから
⋮⋮ 1181
ウォルテニア半島を拠点に、暴威を奮っていた海賊達が御子柴亮
真に討伐され二ヶ月が過ぎようとしていた。
じんそく
スト
季節は夏に入り灼熱の太陽が照りかえる中、一〇〇人程の一団が
森の木々を切り開きながら一路南を目指している。
彼らは三つの部隊に分かれて作業を行っていた。
一つは森の木々を切り倒し道を切り開き、地面を固める部隊。
一つは切り開かれた道を石で舗装する部隊。
きびん
最後は周囲の警戒を行う部隊だ。
彼らの行動は機敏で迅速だった。
かいな
個々の役割を完全に理解したうえで作業を分担しているのだ。
﹁詠唱を始めな!﹂ ーンウォール
﹁﹁﹁母なる大地よ 汝が堅き腕で汝が子を禍より守りたまえ 石
壁隆起﹂﹂﹂
リオネの号令に従い十数人の兵士が詠唱を終え大地に掌を叩きつ
ける。
大地系に属する下級の防御法術の一つだ。
通常なら敵の矢や法術を防ぐのに使われる術なのだが、彼らは自
分の身を守る為にこの術を使ったわけではない。
﹁掘り起こせ!﹂
号令に従い、武法術によって身体強化をされた兵士達が、地面か
らせり上がってきた幅二メートル、高さ三メートルほどの石壁に手
早く縄を掛け、ゆっくりと地面に引き倒していく。
地面に埋まっている土台の部分を掘り起こすとおよそ五メートル
1182
ほどにもなる巨大な石の壁だ。
厚さ10センチ近いそれらの石壁を、彼らは注意深く地面に横た
える。 五列に並べられた石の壁が綺麗に横たえられると、そこには巨大
な道路が姿を表した。
﹁良し! 此処で一時間程休憩するよ。警戒部隊は交互に休憩しな
!﹂
リオネの号令に部隊の空気が緩んだ。
﹁フゥ⋮⋮これでやっと半分ってところかねぇ?﹂
この作業を始めて十日ほどが過ぎただろうか。
自分達が来た方向には、石畳で舗装された道路がまっすぐに続い
ている。
距離にして既に二∼三〇キロは進んできただろうか、
プラーナ
石の形を整える手間も必要ない上に、幅と高さの規格も同じ。た
だ並べるだけで良いのだ、
その上、下級の文法術であるため、習得難易度も低く生気の消費
も少ない。
資材の調達や輸送に掛かる手間や経費を考えれば、異常と言って
よいほどの効率だった。 ﹁砦の方は順調ですかねぇ?﹂
背後から突然言葉をかけられリオネが振り向くと、マイクが髭を
なでながら笑っていた。
﹁ボルツの奴が指揮を取っているんだ。問題ないだろうよ﹂
1183
﹁そうでしょうね。幸い天気にも恵まれてますし⋮⋮まぁ、少し良
すぎる気がしますがねぇ﹂
そう言うとマイクは、腹立たしげに天空に浮かぶ太陽を睨み付け
た。 晴れてくれなくては工期が延びてしまうのだが、この強い日差し
の下で肉体労働をするのはツライ。
﹁後十日ちょいと言ったところですかねぇ?﹂
﹁そうだね。今ようやく半分てところだから、それくらいかねぇ﹂
マイクの問いに石壁で敷き詰められた道路へ視線を向けながらリ
オネが頷く。
距離にして五十キロ近い森を切り開き、石壁で舗装しようという
この工事が二十数日で終わる計算だ。
﹁それでも、一ヶ月掛からない計算ですからね⋮⋮全く、若の頭は
どうなっているのやら﹂
もし、通常どおりの手順でこの工事を行うとしたなら、人数だけ
で数千人。
石材の確保からに始まり、形を成形し運ぶ手間。
費用も時間もけた外れに掛かる。
実際、この世界で今リオネ達が行っている規模の道路工事を行う
アース
ならば、年単位の時間と巨額の予算がなければ不可能なのだ。 それをわずか一か月足らずで終えるなど、亮真の発想は大地世界
の常識を根底から覆したと言える。 1184
﹁まぁ街の方もあらかた形は出来ているし、後はエルフ達だけね﹂
﹁上手くいくんですかね?﹂
マイクは疑わしげな視線をリオネに向けた。
﹁さぁね? 連中は半端じゃない程の人間嫌いだからねぇ⋮⋮まぁ、
坊やが何とかするんじゃないのかい?﹂
そう言うとリオネは視線を北の空に向け呟いた。
﹁何しろ、あの子は⋮⋮﹂
リオネの唇から洩れた小さな呟きがマイクの耳に届くことはなか
った。
これからしばらくの間、御子柴亮真はウォルテニア半島の開発に
専念する事になる。
新たな戦雲が西よりもたらされるその日まで⋮⋮
1185
第4章主要登場人物紹介
みこしばりょうま
名前:御子柴亮真︵男爵︶
性別:男性
年齢:17
出身地:東京都杉並区
本作品の主人公。
190cmに近い長身で体重は100Kgオーバーの巨漢。
アース
コンプレックスは20代半ば∼30歳などと呼ばれる老け顔。
オルトメア帝国の宮廷法術師であったガイエスの手によって大地
世界へと召喚された高校生。
ウォルテニア半島を領有する貴族。
半島を根城にしていた海賊達を排除し、領地開発に着手している。
目的の為には手段を選ばない非情さと、弱者の痛みがわかる矛盾
した人間性を併せ持つ。
名前:ローラ&サーラ・マルフィスト︵騎士︶
性別:女性
年齢:十代半ば
帝国の追手から逃げていた亮真に、盗賊団に襲撃されていたとこ
ろを助けられ忠誠を誓う事になった双子の姉妹。
自分達を奴隷の身分より開放した亮真に対して深い敬愛と忠誠を
誓う。
名前:伊賀崎厳翁
性別:男性
年齢:60代後半
1186
アース
500年前に大地世界へと召喚された忍びの一族の末裔。
亮真を暗殺しに来たのだが、其の器を知り孫娘の咲夜と共に仕え
ることになった。
一族の長老衆の一人であり、大きな権力を持つ。
初代から受け継がれる一族の悲願が達成できる日を、待ち望んで
いる。
暗殺等の表に出せない裏の仕事を一手に引き受ける。
何時も仕込杖をを持ち歩く居合の達人。
名前:伊賀崎咲夜
性別:女性
年齢:10代後半∼20代前半
忍びの一族の末裔。
亮真暗殺の命を受け陣に忍び込んだが失敗。
祖父であり一族の長老である厳翁の命で亮真に仕えることになっ
た。 名前:リオネ︵騎士︶
性別:女性
年齢:30代半ば
出身地:不明
紅髪金目の美女で姉御肌な女性。
亮真と同じくローゼリアの内乱に巻き込まれた元・傭兵団︻紅獅
子︼の頭。
亮真が男爵位を受けた後、彼の騎士として登用される。
長年、荒くれ者の傭兵を指揮してきただけあって、統率力はかな
りの物。
1187
名前:ボルツ︵騎士︶
性別:男性
年齢:50代半
出身地:不明
傭兵団︻紅獅子︼の補佐役。
戦で左腕を失った歴戦の勇士。
亮真の事を尊敬し﹁若﹂と呼ぶ。
長年の傭兵生活によって培った経験はかなりの物。
亮真の知恵袋的存在。
名前:ルピス・ローゼリアヌス︵国王︶
性別:女性
年齢:20代前半
出身地:ローゼリア王国
銀髪金目の美女。
ローゼリア王国の新国王。
民に対しても寛大と評判だが、身内に甘く決断力に乏しい。
御子柴亮真の助力によって内乱を治め国王の座に着いたのだが亮
真の立てた戦功に恐れをなし、彼との約束を破って未開の辺境ウォ
ルテニア半島を押し付け封じ込めることを画策した。
名前:トーマス・ザルツベルグ︵伯爵︶
性別:男性
年齢:40前
出身地:ローゼリア王国︵城塞都市イピロス︶
隣国ザルーダへの備えとして存在する、城塞都市イピロスの領主。
歴戦の勇士らしいが、内政にも其の手腕を発揮する逸材。
1188
王国の内乱時には隣国からの侵攻を阻止すると言う名目で、貴族、
傍観、王女の三派とも距離を置いていたかなりの曲者。
名前:ユリア・ザルツベルグ
性別:女性
年齢:30前半
出身地:ローゼリア王国
ザルツベルグ伯爵の妻。
表向きは浪費家で派手好きと言われ悪妻と噂されるが、実は夫を
影から操る女傑。
イピロスの経済にも大きな影響を与えているミストール商会の娘。
名前:シモーヌ・クリストフ
性別:女性
年齢:20前半
出身地:ローゼリア王国︵城塞都市イピロス︶
イピロスを拠点にするクリストフ商会の跡取り娘。
商売敵の商人たちより妨害をうけ、今ではすっかり弱小商会にな
ってしまったクリストフ商会を必死で守り続けている。
御子柴亮真と出会い、現状を打破するために協力を約束する。
今は、エルネスグーラ王国の交易都市ミスポスを拠点に商売をし
ながら大陸の情勢を収集している。
名前:ジョシュア・ベルハレス
性別:男性
年齢:20代前半
出身地:ザルーダ王国
ノティス平原の戦いで父親であったベルハレス将軍を失い、彼の
1189
意思を継ぐ。
酒と女にだらしがなく放蕩息子と評判だったが、軍事的な才能は
すどうあきたけ
父親も認めていた。
名前:須藤秋武
性別:男性
年齢:40代前半
出身地:日本
御子柴亮真と同様に、帝国によって地球より召喚された日本人。
飄々とした態度で通すが、かなりの策略家。
ダーク
ローゼリア王国の上層部に食い込み、帝国を有利にするべく暗躍
している。
名前:ネルシオス
性別:男性
年齢:600歳前半
出身地:ウォルテニア半島
ウォルテニア半島の森林地帯に隠れ住む黒エルフ族の部族長の一
人。
年齢は600歳を超えるが、外見は多く見積もっても30歳前後
にしか見えない。
半島に隠れ住む亜人全体でも五本の指に数えられるほどの強者。
海賊に捕らえられた部族の少女を救い出した御子柴亮真に興味が
ある。
第四章大陸図
<i34277|2150>
1190
第4章第1話︻忍びよる戦雲の影︼其の1︵前書き︶
本日より第4章が開始されます。
今後も本作品を宜しくお願い致します。
1191
第4章第1話︻忍びよる戦雲の影︼其の1
西方大陸暦2813年10月6日昼
凪いだ大海原を、アタランタ号と名付けられた一隻のガレオン船
が北東へ向かって疾走していた。
まるで順風を帆いっぱいに受けているかのような船足である。
いや、事実その船の帆は風を受け大きく膨らんでいた。
﹁報告! 北東にセイリオスの港が見えまさぁ﹂
水平線上にうっすらと陸地が見え始めた。
﹁分かったぁ。今ブラス船長を呼ぶ﹂
見張り番の船員が大声で叫ぶと、下にいた船員が艦内へ飛び込ん
だ。
﹁フム、確かにセイリオスの街だ。⋮⋮オイ! もうすぐ着くから
停泊する準備を始めろ﹂
手にした望遠鏡で港街を確認すると、日に焼けた黒い肌の船長が
船員達に命じる。
︵風待ちをしなくて済む上に、常に追い風を受けるのに等しい訳か
⋮⋮速い訳だ︶
ブラスは伸ばした望遠鏡を畳みながら一人心の中で呟いた。
1192
ミスポスの港を出港したのが九月の末だから、およそ四日程でセ
イリオスの街まで着いた計算になる。
前回の航路とは異なり、沿岸部を航行するのではなく大海原をま
っすぐ突っ切る航路を選択したのだが、それにしても早い。
︵初めはどうなるかと思ったが、あの青年の提案を飲んで正解だっ
たという訳だ⋮⋮ど素人のくせに舐めた口をきくと思ったが、どう
やらこっちの負けらしい︶
ブラスの顔に苦笑いが浮かんだ。
長年海の男として生きてきたブラスに、あの若造は一定の敬意を
示しながらも、航路を指定し航海日数の短縮を命じた。
通常なら、風待ちの日数を含めて七日は掛かって当然のところを
五日と言われた時には正気を疑ったが、確かに是なら納得する事が
出来る。
ブラスは船尾にいる一団へ視線を向けた。
セイリオスからミスポスへ戻る航海では、初めての船旅と言うこ
とで全員が船酔いとなり全く何の役に立たなかったのだが、今回は
違った。
彼らは皆一様に若い。十五歳に手が届くかどうかといったところ
だろうか。
その上、彼らは船乗りではない。
黒く染められた革の鎧に身を包んだ彼らは、御子柴男爵家の兵士。
船に乗った経験すらないど素人達だが、今は熟練の船乗り以上に
大切な存在だ。
﹁ブラス船長、風はどうですか。もう少し強めますか?﹂
ブラスの視線の気がついたのだろう。
一団から一人の少女がブラスに声を掛けた。
1193
﹁いや、これ以上強めると帆が破れる可能性が有るかもしれない。
それに、もうすぐセイリオスの港だ。今のままで十分。ありがとう
メリッサ殿﹂
ブラスは自分の娘と言ってよいほど年の離れたメリッサに丁寧な
言葉を返す。
﹁分かりました。じゃぁこのままの風速を維持しますね﹂
明るい笑顔を浮かべて頭を下げたメリッサに、ブラスは穏やかな
笑みを浮かべた。
まるで自分の娘を見るかの様に⋮⋮
アース
大地世界で使われる船は帆船かガレー船のどちらかである。
どちらにも異なる利点があるのだが、積載量の多さから貿易船や
輸送船にはガレオン船が多く使われる。
そのガレオン船の最大の欠点が風頼みと言う事だ。
おうはん
じゅうはん
ガレオン船を、含め全ての帆船は幾つもの帆で風を受け前に進む。
幸いな事に横帆や縦帆などとは別に様々な補助帆も開発されてい
たが、風が止んだ凪の状態になってしまえば、オールを持たない普
通の帆船は波に揺られながら風が吹き出すのを待つしかない。 天候を制御する事など人間には不可能なのだから、船乗りに出来
ることは神に祈る事だけだ。
そう、これまでは⋮⋮
メリッサ達は何も難しい事をしている訳ではない。
突風を起こす術は文法術の中でも初級に属する。
通常は圧縮した風を一気に解き放つ、風属性の術の中では基本中
の基本と言える攻撃方法。
これを一度に圧縮して放つのではなく、範囲を拡散させ少しずつ
放つだけだ。
1194
攻撃力は皆無だが、船に必要なのは適度な風。
帆を破いてしまうような強風では逆に使えない。
術者として未熟で有る彼女達だが、だからこそ意味があるのだ。
おど
そして、未熟な自分達の術が目に見える形で意味を持つ事にメリ
ッサ達の心は躍った。
術者の錬度を上げるにはもってこいの方法と言える。
自分達が必要とされているという自信が彼女達の表情に表れてい
た。 それに、数ヶ月ぶりにセイリオスへ戻ることが出来る喜びも彼女
の気持ちを高揚させているに違いない。
他人からは魔境と畏れ忌み嫌われていても、セイリオスの街は間
違いなく彼女達の第二の故郷なのだから。 ﹁良いか! シモーヌお嬢様からも言われているが、此処で見た事
を他で絶対にしゃべるな。分かったな?﹂
いかり
普段の穏やかな態度とは裏腹に、ブラスは厳しい口調で船員達へ
命じた。
船長の言葉に船員たちは無言で頷き、錨をおろす準備を始める。
しょくしょう
既にミスポスからセイリオスへの船旅は二回目。
くどい位に念押しされ船員達はいささか食傷気味ではあるものの、
同時に何故口止めされているのかを嫌というほど理解している。
そして、この口止めを無視すればどうなるかも彼らは理解してい
た。
それだけ、セイリオスの街へ初めてやって来た前回の航海は彼ら
に驚きを与えていた。
きちんと区画整理された町並み。
道路はかなり余裕をもった道幅を保ち、全て石材で舗装されてい
る。
城壁はかなり高く、街全体をぐるりと取り囲んでいた。
1195
勿論それだけならば驚くには値しない。
同じ規模の街なら大陸の少し大きな貴族領に行けば見ることが出
来るから。
なおさら
しかし、それがウォルテニア半島に造られたとなれば誰もが驚く
ことになる。
それも、わずか数カ月で造られたと知らされれば尚更だ。
おれ
﹁船長⋮⋮俺の目がどうかしたんですかねぇ?﹂
次第に大きくなっていくセイリオスの街並みに、一人の船員が目
をこすりながらブラスへ話しかける。
何がとは、ブラスは問い返さない。
彼自身もまた、自らの前に広がる光景が信じられなかった。 ﹁安心しろ。お前の目が狂ったわけじゃない﹂
﹁じゃぁ。やっぱり﹂
絞り出すような声を出した船員に、ブラスは頷いた。
﹁あぁ。街がでかくなってやがる﹂
ブラス達が初めて一ヶ月前にセイリオスへやって来た時とは、明
らかに街の規模が大きくなっている。
海岸線に造られた港の規模だけでも一.五倍は大きいように見え
た。
︵こんな話誰にも言えないな。鼻先で笑われるのがオチだ︶
そんな思いがブラスの脳裏に過ぎる。
場所が場所だ。
何万何十万といった人間を湯水のように使い潰せば可能かもしれ
1196
ないが、ウォルテニア半島という場所が其の選択を不可能にする。
二ヶ月程前、シモーヌが所有するメラニオン号と名付けられたも
う一隻のガレオン船と共に、ブラスは千人の奴隷をセイリオスの街
へと運んだのだが、それを計算に入れても目の前の光景はありえな
い。
ましてや、運んだ奴隷は皆、体の出来あがっていない若い少年少
女達。
奴隷商人達によって過酷な扱いを受けた彼らは、皆衰弱していて、
とても労働に使えるような状態ではなかったはずだ。
船内ではそれなりにまともな食事を与えてはいたが、急に体力が
回復する筈もない。
︵お嬢様が他言無用を念押しするはずだ。とても人には言えない︶
ブラスの視線が船尾にいるメリッサ達へ向けられる。
彼はおぼろげながら、目の前に広がるこのありえない光景のカラ
クリに気がついたのだ。
﹁何をボヤっとしている。さっさと錨をおろす準備でもしないか!﹂
湧き上がる好奇心に蓋をして、ブラスは呆然と行く手を見つめる
船員たちを叱り飛ばした。
好奇心は猫をも殺すと知っていたから⋮⋮ その街の名はセイリオス。
ギリシャ語で﹁焼き焦がすもの﹂﹁光り輝くもの﹂という意味を
持つ街だ。
﹁亮真様。先程、ミスポスよりアタランタ号が到着しました﹂
﹁あぁ、分かった。積み荷に被害は?﹂
1197
亮真の問いに、羊皮紙へ視線を落としながらサーラが報告を始め
る。
﹁ブラス船長の報告ですと、ミスポスへ行きの航海ではメリッサ以
下全員が船酔いの為役に立たなかったとのことですが、戻りは十分
に役目を果たしたそうです﹂
﹁船酔い? それで予定より遅くなった訳か。そこまでは計算して
なかったな﹂
確かに、いきなり船に乗せて仕事をさせるのは無理だろう。
体質的に船酔いを起こしにくい人間は存在するが、今回ブラスの
船に乗せた兵士達に其の体質の持ち主は居なかったようだ。
いや、戻りの航海で全員が船酔いを克服したという事の方が驚き
と言える。
︵まぁ、生まれて初めて船に乗ったんだ。動揺もするか⋮⋮乗り物
酔いは精神的な部分が大きいって言うからな︶
亮真は軽く苦笑いをして報告をうながした。
﹁積み荷の方は問題ありません。幸い天候にも恵まれ、水を被った
り荷の破棄などは無いそうです﹂
嵐に遭遇すれば、荷崩れが起きたり、船倉に水が入り積み荷をだ
めにしてしまうことがあるのだが、今回は運にも恵まれたようだ。
モンスター
﹁分かった。引き続き武器と保存の利く食料を中心に運ばせてくれ。
代金の支払いはいつもの様に怪物から狩り取った牙や皮で大丈夫だ
な?﹂
﹁代金としては足りるようです。でも、シモーヌさんの手紙に因る
1198
と、取引先からの注文が多く在庫が足りないので、もう少し量を増
やしてくれないかとの事でした﹂
﹁増量かぁ﹂
モンスター
サーラの言葉に思わず亮真は考え込んだ。
ウォルテニア半島に生息する怪物は高位のものが多く、市場に流
せばかなり良い値段がつく。
本来なら取得した全ての牙や革をシモーヌに任せたいところだが、
今現在イピロスの商人に売っている分を減らすわけにもいかない。
減らせば、販売経路がイピロスの商人以外にも存在すると気が付
かれる恐れがある。
﹁訓練の方はどうなっているんだ?﹂
﹁まだ訓練を初めて二ヶ月に満たないですから﹂
モンスター
えさ
使える兵士が増えれば狩る量も増やせると考えたわけだが、有る
程度まで訓練が終わっていなければ怪物に餌を与える事にしかなら
ない。
﹁なら、もうしばらくシモーヌには待って貰うしかないか⋮⋮仕方
ないな﹂
拡大する需要に供給が追い付かないのだから仕方がない。
︵まぁ、調子に乗って売りまくっても値崩れしちまったら意味がな
いし、丁度いいか︶
亮真は一人頷いた。
﹁それと⋮⋮ちょっと気になる事が﹂
1199
サーラの言葉に亮真は顔をしかめた。
こういう言い方をサーラがした時にはたいてい碌な事にはならな
い。
別に彼女が悪い訳ではないのだが、思わず身構えてしまうのも仕
方の無いことだった。
﹁亜人に関係する話か?﹂
﹁いえ、シモーヌさんの手紙に書かれていた事でちょっと⋮⋮﹂
今、亮真の持つ最大の懸念は亜人達である。
先日、海賊達の手から救い出した三人の少女を部族長の一人に引
き渡したのだが、そこに行きつくまでに、亮真は散々苦労させられ
た。
小説などでは助け出された事に感謝し急速に仲が良くなると言う
展開が多いが、現実はそれほど甘くはなかった。
いや、彼らは感謝していないわけではない。
だが、その一方で、御子柴亮真という人間を信じきれないでいる
のも事実なのだ。
人間達による長い迫害の歴史。
その歴史の重さが彼らの心を縛り付けていた。
彼らの本心は、人間とは関わり合いになりたくない。
その一言に集約されてしまう。
それを亮真はかなりの時間をかけて説得した。
亮真にとって亜人は決して放置することが出来ない。
へきち
最低でも不可侵、出来れば彼らの勢力を吸収したいのだ。
そうしなければ、僻地であるウォルテニア半島を拠点にする意味
がない。
制海権を維持してしまえば、ウォルテニア半島への侵入経路はイ
1200
ピロス側だけ。
南へ戦力を集中させることが出来る。
それが大陸の隅に位置する半島の最大の利点だ。
それなのに、半島内で自分に対して友好的ではない勢力が存在し
ては意味がない。
一定の戦力を保険として確保しておく必要があるからだ。
だから、亮真は部族長であるネルシオスへ一つの提案をした。
彼が提案したのは、ネルシオスや他の部族長達が半月毎にセイリ
オスの街を訪れ亮真と共に食事をするという事。
定期的に会い、共に食事をすることで人間に対する不信感を少し
でも払しょくしようと言うのだ。
迂遠な策だが、それ以上の要求をすれば交渉自体が決裂してしま
うほど、彼ら亜人の人間に対する不信と恐怖は強かった。
だからこそ、亮真は亜人に対して神経を使っているのだが、逆に
いえばそれ以外で問題になるような事柄はないはずだった。
シモーヌの手紙に書かれた内容を読むまでは⋮⋮
1201
第4章第2話︻忍びよる戦雲の影︼其の2
西方大陸暦2813年10月6日夜
﹁エルネスグーラ王国に動きあり。近々ザルーダ王国に新たに数万
規模の軍勢を向かわせる模様⋮⋮ねぇ﹂
最後までシモーヌより届けられた手紙を読み終え、亮真は鋭く舌
打ちをすると手紙を握り潰す。
手紙には剣や鎧と言った武具や食料の値段が高騰している事。
西部でキルタンティア皇国に備えている幾つかの騎士団が東部方面
に転戦してきている事から、遅くとも一ヶ月以内に何らかの動きが
あるはずとの事で、引き続き情報収集に努めるという言葉で終わっ
ていた。
﹁諜報組織としてかなり形になってきたようですね﹂
シモーヌの役目は貿易を行い物資を調達する事と諜報活動の二つ。
厳翁達が半島に入り込む密偵を始末する防諜や、敵対者の暗殺と
言った仕事を担うのに対し、シモーヌ達に求められるのは大陸の大
ききん
えきびょう
まかな情勢を逐一知らせる事だ。
飢饉、疫病、戦争、反乱。
これらが発生する前後には必ず何らかの動きが市場経済に起こる。
飢饉の時には食料が高騰し疫病が発生すれば医薬品の値が上がる。
経済活動は国や領地の情報を余す所なく映し出す鏡と言えた。
今回のように武具や食料の購入から軍事計画を予測するのは容易
い。
1202
そう言う意味で、シモーヌは其の役目を十分に果たしたと言える。
﹁あぁ、頑張ってくれているみたいだな﹂
サーラの言葉に亮真は静かな声で頷いた。
だが、其の表情は言葉とは裏腹に険しい。 ﹁時期が悪い⋮⋮ですね﹂
ぐち
﹁まぁ、愚痴を言っても仕方がないけれどもな﹂
亮真はサーラの言葉を聞いて表情を緩め、肩を竦めて笑った。
戦争は静かな水面に投げ込まれた大きな岩に等しい。
投げ込まれた岩は激しく水面を波打たせ、波紋が何処までも広が
っていくのと同じように、戦争は近隣諸国に様々な影響を与える。
良いか悪いかは立場によって変わるが一つだけはっきりとしてい
る事が有る。
必ず何らかの影響を受けると言う事だ。
そして問題なのは、其の影響が何処に出るか予測がつかないとい
う事。
物資の値段が上がるだけで済むかもしれないし、状況によっては
ローゼリアからザールダへ援軍を出す事になるかもしれない。 ボルツは今、領内警備の責任者として、ティルト山脈の麓に建造
された砦へ精兵五十名と共に赴いている。
モンスター
先日の会談でザルツベルグ伯爵に許可を貰らい建造されたこの砦
は、表向きはウォルテニア半島よりイピロス方面へ南下する怪物達
を阻む為と防衛設備と言う名目で建てられた。
だが、実際の所は其の反対に、ウォルテニア半島内へ進入しよう
とするイピロスからの冒険者や密偵達を排除するための関所だ。
1203
モンスター
怪物は通常ならば害獣だが、現在のウォルテニア半島では大切な
産業の一つ。
更に亜人の問題もある。
亜人との信頼関係構築のためには、御子柴亮真と言う人間を信じ
てもらう必要があるが、冒険者がウォルテニア半島内でどんな行動
を取るかは予測が不可能だ。
それこそ海賊と同じく亜人を奴隷とするために半島へやってくる
人間も居る可能性があった。
彼らとの信頼関係が築けていない現在の状況では致命傷になりか
ねない。 今、冒険者達の勝手な行動を許すわけには行かないのだ。
そして亮真の狙いどおり、ボルツの働きによって冒険者達の侵入
は目に見えて減ってきていた。
街道を使用せずに侵入しようとする者もいるが、そちらの処分は
厳翁やその一族に任せており、そちらも軌道に乗っている。
出足は悪くない。
だが、その大切な時期に隣国の戦が拡大するかもしれない。
いや、確実に戦火は広がる事になるだろう。 そして、それはウォルテニア半島開発に力を注ぎたい今の亮真に
とって、決して歓迎する事の出来ない事態だった。
﹁ですが、主戦場はザルーダ王国。私達に直接的な影響はあまりな
い筈です⋮⋮﹂
確かに、サーラの言葉は正しい。
影響が出る事は間違いないが、仮にローゼリアがザルーダへ援軍
を出す事になったとしても、亮真が其の援軍に従軍するような事態
にさえならなければ、直接的な影響を受ける事は先ずない筈だ。
ばくぜん
よ
しかし、サーラの言葉に亮真は頷かなかった。
漠然とした不吉な予感が亮真の脳裏に過ぎる。 1204
今現在の亮真の保有する兵数は少ない。
先日、厳翁の一族が合流し多少増えたとはいえ、今すぐに戦力と
して数えられるのは四百名にも満たない。
シモーヌより届けられ奴隷達がモノになるにはまだ少し時間がか
かる。
それに、彼らの訓練が終わったと仮定して計算しても、亮真が動
かせる兵力が千を超える事は無いだろう。
上手くいってで八百から九百。下手をすれば六百程度と言ったと
ころだろうか。
通常の一騎士団が二千五百名ほどで構成されているから、半分に
も満たない程度の戦力という事になる。
勿論、一地方領主の持つ常備兵数としては破格の戦力。
全員法術を使えるとなれば尚更だ。
領地の防衛力としてはかなりのものだと言える。
だが⋮⋮
︵多少ハードルを下げてでも増員するしかないな。シモーヌに千人
程追加するように伝えるとして⋮⋮後は、アレの準備を急がせるか︶
アース
亮真の勘が今の兵数では危険だとしきりに訴えかける。
この大地世界に召喚され、命のやり取りを経験していく中で磨か
れたそれに亮真は従った。
事前に準備が出来るかどうかこそが、自分と仲間達の生死を決め
るのだと理解していたから。
﹁ふぅむ。随分と凝った造りの街だ。道の脇に溝があるがアレは雨
水を逃がすための物かのぉ?﹂
じんない
窓の外に広がる光景に、甚内は眼を細めながら呟いた。
月明かりが、街並みを照らし出す。
1205
先日、亮真より伊賀崎一族に与えられた区画。
その中心に建てられた屋敷の一室で、五人の男女が卓を囲んでい
る。
伊賀崎一族の意思を決定する長老衆の面々だ。
﹁そうじゃ。主殿の発案でな。街道にも同じ細工がされておる﹂
﹁色々工夫されておるようじゃなぁ﹂ げんおう
厳翁の答えに甚内は感心したかのように頷いた。
﹁武骨じゃが、なかなか機能的な街じゃ。それに驚くほど早い﹂
竜斎が感嘆の言葉を漏らした。
窓の外に広がる街の風景は、日を追うごとに変化していく。
拡大していく街。
それも乱雑に発展しているわけではない。
綿密な計算の下、キチンとした区画整理を行いながら発展してい
るのだ。
﹁ただ、雅さには欠けるねぇ﹂
お冴が竜斎の言葉にからかうような口調で返す。
お冴の言葉どおり、セイリオスの街は機能性と言う点では十分に
考慮された造りだが、芸術的な美意識に関しては完全に無視されて
いる。
人工的で無機質な感じを受けるのだ。
木材をメインにした日本家屋ならまた印象も違うのだろうが、火
事を警戒した亮真は石材をメインにして建物を建てていた。
それが余計に、この街を武骨に見せているのだろう。
1206
﹁まぁ、今は戦乱の世じゃぁ。雅さなど何の役にも立ちゃせんわ﹂
﹁そうは言うが甚内さん。京の都の様に、雅さも必要じゃぁないか
ね? 何せ、辺境の一領主で終わってもらっては困るんじゃからな
ぁ﹂
雅さの重要性を無視するかのような甚内の言葉をお梅は軽く嗜め
た。
雅さ。
それは文化の香り、もしくは洗練された芸術性と言う言葉で言い
表すと良いのかもしれない。
武骨さは決して悪いわけではないが、それだけではダメだ。
文化は力。
暴力とはまた違う、重要な国の力。
これは国盗りをする上で武力と並んで重要な要素の一つ。
かしら
﹁まぁ、その辺は今後の話じゃろうて。ワシは逆に、今の段階で雅
さを追い求めるような頭では逆に不安じゃろうが﹂
文化は国にとって大切な要素の一つだが、それに傾倒するあまり
に国を滅ぼした人間は数多くいる。竜斎の言葉はもっともな意見だ。
﹁主殿はどうも亜人共の文化に興味があるようだが。まぁ、それも
これもあの者達の心を盗ってからの話じゃ。ずいぶん先の事になる
じゃろうて﹂
厳翁の脳裏に亜人達の堅いおびえた表情が浮かぶ。
初めて会った時よりは大分話をしやすくなってはいるものの、打
1207
ち解けた関係とは言い難い。
唯一の救いは、自分達人間側に亜人に対しての嫌悪感が見られな
い事だろう。
セイリオスの街に住む人間の年齢は十代前半がほとんどだったし、
傭兵達も光神メネオースを狂信的に信仰してはいない。
亜人が敵対する事を選べば容赦なく排除する事になるだろうが、
宗教的な理由で亜人という事だけで敵視する意思がない事は亮真に
とってかなり幸運な事だった。
後は時間が両者の間に横たわる溝を埋めていくはずだ。
わざ
﹁ワシはやはり、御子柴亮真様こそが初代様の求めた御方だと思う
んじゃが、皆の衆はどうじゃ?﹂
厳翁の言葉に誰もが無言のまま黙り込んだ。
初代伊賀崎衆頭領の願い。
其の為に、一族は五百年もの長きに渡って自らの一族に伝わる業
を磨き続けてきたのだ。
さげす
主を持たず放浪し、彼らは探し求めた。
異邦人として蔑まれ、時には迫害されながらだ。
きこく
そして、遂に見つけたのだ。御子柴亮真と言う名の男を。
﹁分家の衆に話をする時期かもしれん⋮⋮後は御子柴様に鬼哭が抜
けるかどうか⋮⋮じゃなぁ﹂ 呟くようなか細い声がお梅の口から洩れる。
しらさや
五人の視線が神棚の前に祭られた一本の刀に注がれた。
鬼哭と名付けられた其の刀は、白鞘に納められ眠り続ける。
己を使うにふさわしき主を待ちわびながら、ただ静かに⋮⋮ 1208
第4章第3話︻隣国よりの使者︼其の1
西方大陸暦2813年11月3日正午
其の日、ローゼリア王国の首都ピレウスにそびえ立つ王城は重苦
しい空気につつまれていた。
上級官僚達は顔を真っ青にしながら関連部署へと走りまわり、軍
部の主だった隊長格は有無を言わさず会議室へ強制招集をされる。
騎士達は、当番非番の区別なく所定の宿舎に待機し、自分が使う武
具の手入れを命じられた。
誰もが慌ただしく、王宮内を動きまわる。
しかし、彼らの多くは命じられた事をそのまま行っているに過ぎ
なかった。
実際のところ、極限られた一部の有力者のみが状況を把握してい
るに過ぎない。
いや、其の彼らですら事態を正確に把握しているとは言い難かっ
た。
彼らは王宮のとある一室の前を通る時、足早に通り過ぎながらも
不安げな視線を扉へ向けた。
分厚い鉄製の扉で堅く閉ざされた王宮の一室を⋮⋮ ﹁そう⋮⋮分かったわ⋮⋮でも、無理よ⋮⋮﹂
深いため息がルピスの口から洩れる。
メルティナの説明は、彼女の心をさらに暗くするものだった。 いや、ピレウス城の奥まったこの一室に集まった誰の顔にも憂い
1209
と不安の色が浮かんでいる。
女王であるルピスを筆頭に、側近であるメルティナやミハイル。
軍部からは責任者として将軍のエレナ。文官からはベルグストン伯
爵他、数名の有力貴族。
﹁ですが陛下⋮⋮無視出来る問題では⋮⋮﹂
﹁分かっているわ⋮⋮けれども、今の我が国にそれだけの力がある
の?﹂
メルティナの言葉に、ルピスは諦めにも似た口調で尋ねた。
ルピスとしても決して無視して良いと思っているわけではない。
いや、それどころか、無視出来るような問題ではないというのが
彼女の結論だ。
アース
彼女は情に流され易いと言う欠点を持ってはいたが、決して無能
ではないのだから。
王族として、彼女は大地世界でも最高水準の教育を受けている。
冷静さを失わなければ、彼女はそれなりに現実を見る事が出来る
支配者であった。
其の彼女から見て、今回持ち込まれた難題はローゼリア王国を抜
き差しならない状態へと追い込んでしまった。
﹁いいえ、とても無理です⋮⋮貴族派の動向にも注意が必要な今は
特に⋮⋮ですが⋮⋮﹂
﹁ですが、今回の要請を無視する事は出来ません⋮⋮内乱中や鎮圧
直後ならともかく、終結してから一年近くが過ぎようとしています。
勿論国力の復興という観点では、まだまだ時間がかかりますが、そ
れを言い訳にするのはもう無理でしょう⋮⋮それに今回は﹂
1210
言い淀むメルティナに続き、ベルグストン伯爵が口を開く。
彼の視線は卓上に置かれた二通の書状に向けられていた。
内乱時に王女派に鞍替えした彼は終戦後、卓越した其の政治的手
腕を買われ側近の一人として重用されていた。
特に、政治的なパワーバランスに対しての嗅覚は鋭く、諸外国の
動向に目を向けるだけの器量も備わっている。
さき
其の彼から見て、今回この国にもたらされた難問は、回答の無い
迷宮への誘いと言えた。
︵恐らくどちらをとってもこの国の未来は⋮⋮︶
そんな思いが彼の脳裏に浮かぶ。
ルピスの前に置かれた二通の書状。
一通はオルトメア帝国がザルーダ王国へ侵攻して以来頻繁に送ら
れてきている、ユリアヌス一世よりもたらされた援軍の求め。
ローゼリアの内乱が終結した後から幾度となく送られてきた内容
だ。
ノティス平原での戦でオルトメア帝国に敗れたザルーダ王国はそ
の領土を大きく削られていた。
この状況を打開するためにザルーダが同じ東部地方にあるローゼ
リア王国、ミスト王国に援軍を求めるのは当然である。
西方大陸中部を支配するオルトメア帝国の領土は広大で、その軍
事力はザルーダ一国で防ぎきれるものではない。
だが、西方大陸東部の三国。ローゼリア、ミスト、ザルーダの三
国が連合すれば対抗することは不可能ではない。
事実、過去の戦でオルトメア帝国の侵攻を防いでいる。
しんしほしゃ
別に義侠心や友情などというものではない。
単純に両者が唇歯輔車の関係だと言うだけの事。
ザルーダという防波堤が無くなってしまえば、ローゼリアは直接
波を被ることになる。
自分の利益を守るために、両国はザルーダへ援軍を派遣したと言
うだけの話。
1211
しかし、ルピスはこの一年の間、ユリアヌス一世よりもたらされ
る援軍の求めを国内の鎮静化と国力回復を理由に断ってきた。
いや、派遣したくても今のローゼリア王国に他国へ兵を向かわせ
るだけの力が無い。
長年軍部の実権を握ってきたホドラム将軍を排除した結果、騎士
団の再編成という作業が発生し、それがローゼリア王国の戦力を低
下させている。
︵やはり、恭順など認めずゲルハルト公爵を始末しておくべきだっ
た⋮⋮いや、今は子爵だったか。どちらにせよ、爵位が下がったこ
となどゲルハルト子爵には関係ないのだ。だから、アイツはあっさ
りと条件を呑んだのだ︶
ベルグストン伯爵の心にそんな思いが浮かぶ。
実際、爵位を公爵から子爵にまで落とされていながら、ゲルハル
トが持つ貴族達への影響力に陰りは見えない。
いや、それどころか、ラディーネ王女が正式に王族として認めら
れたことにより、ルピスへ不満を持つ貴族達は強固な団結を結び始
めていた。
ルピスは自らが主体の権力構造を造り出すため、内乱終結と共に
多くの貴族が王宮内から追われた。
彼女にしてみれば、ゲルハルトに尻尾を振ってきた人間を切り捨
てることは当然の選択と言うだろうが、切り捨てられた人間が納得
するはずがない。
それでも、ゲルハルトを殺していれば不満を持ってはいても結束
は出来なかっただろう。
ゲルハルトの持つ実力と、ラディーネの持つ大義名分。
それが、ルピス女王の前に立ちふさがる。
︵たとえミハイル・バナーシュを見殺しにしたとしても⋮⋮今更言
っても遅いがな︶
ベルグストン伯爵の視線が、メルティナの横で腕を組んだまま黙
り込んでいるミハイルへと向けられる。
1212
彼が悔むのはそこだ。
完全な勝利を手に入れることが出来た筈なのだ。
あの時、ゲルハルトの恭順を受け入れさえしなければ。
︵他に選択肢がなかったとはいえ⋮⋮御子柴殿も何か手を考えて下
されば良かったものを︶
当時の状況はベルグストン伯爵も理解している。
彼自身も会議にも参加していたし、エレナから説明を受けていた。
致し方ない事だったとは思ってはいる。
かた
だが、この状況下では、何も反論せずにルピスの言いなりになっ
てゲルハルトの恭順を肯定した御子柴亮真を恨んでしまう。
少なくとも、あの時ゲルハルトの恭順を認めず、ラディーネを騙
りとして処刑していれば、ローゼリア王国が今持っている問題の半
分は解決していた。
国内の不穏分子は表面的にでもルピスに従ったはずなのだ。
そうなれば、もっと早い時点でザルーダへの兵を派遣することも
可能だった。
﹁最大の問題はミスト王国の動向です。既に東の国境に援軍を終結
させており、我々が国内の通行を認めれば直ぐにでも向かうとなれ
ば⋮⋮我が国はそれを拒めない⋮⋮拒めばミスト王国と戦になる。
それにザルーダを救える可能性も今が最後でしょう﹂
ベルグストン伯爵の言葉に室内の空気が重くなる。
皆の視線が卓上に置かれたもう一通の書状へと注がれる。 ミスト王国は絶対に引かないだろう。
じゅうりん
ザルーダ王国を見捨てれば、オルトメア帝国の軍勢が雪崩のよう
に東部地方を蹂躙するのがわかっているから。 そして、三国が個々に立ち向かっても勝機はない。
個々の国力はオルトメア帝国の足元にも及ばないのだ。
1213
逆に、良く今までローゼリアの態度に我慢してきたとすら言えた。
﹁我が国も兵を派遣するしかない⋮⋮わね﹂
ルピスは首を振りながら呟いた。
他に選択肢はない。 ﹁問題はどれほどの兵力を差し向けられるかですが、国内の情勢か
ら考えると、一個騎士団を派遣するのが精いっぱいです﹂
メルティナの言葉に落胆の空気が室内を覆う。
﹁二千五百⋮⋮﹂
呆れたようなベルグストン伯爵の呟きはその場にいる全ての人間
の気持ちを代弁していた。
一国が派遣する援軍としてはあまりにも少なすぎる数だ。
最低でも五千。
現状を考えれば一万は出したい。
無論、全てを王国直属の騎士だけで編成する必要はないのだが、
貴族達の協力は見込めない。 誰もが、ローゼリア王国を覆う不穏な空気を感じており、ゲルハ
ルトの動向に注目している状態なのだ。
この場合、派閥は問題ではない。
ルピス女王の側近として重用され始めているベルグストン伯爵や
ゼレーフ伯爵といった貴族達でも兵を出すことは出来ない。
かいじん
他国へ出兵している間に再び内乱が起これば、その貴族の領地は
灰燼に帰す事になるのが目に見えているのだ。
ローゼリア国内ならともかく、他国の手伝い戦に参加する余裕は
ない。
1214
﹁貴族達は動けません。後は農民等を徴兵するしかないのですが⋮
⋮正直に言って大して数が集まるとは思えません。無論、脅せば別
ですが⋮⋮﹂
﹁かえって足を引っ張ることになるわね﹂
メルティナの言葉にルピスはため息混じりに首を振る。
徴兵すれば兵数はそろう。
二万でも三万でもお望みのままだ。
いや、十万でも可能だろう。
だが、戦力として言うならはっきり言って期待は出来なかった。
それどころか、逆にお荷物になりかねない。 問題は、今回の戦が侵略戦争ではないという点だ。
侵略戦争ならば、徴兵された民は喜んで戦に参加する。
村や町を略奪し女を犯すことが許されているからだ。
そして、生き残った住民を奴隷として売り払う。 命を賭けるに足る確かな利がそこにはある。
だが、今回は援軍。
好き勝手に略奪暴行を許可するわけにはいかない。
それを許可してしまったら、何のための援軍だかわからなくなる。
確かに衣食住は保証されるがそれも最低限のもの。
戦場で敵の指揮官でも討ち取ることが出来れば別だが、そんな幸
運はそうあるものではない。
殆どの兵は国が支払うスズメの涙の様な金だけが報償だ。
とても命を賭けるだけの価値があるとは言えない。
兵の士気は最低になるだろうし、もめ事も多くなる。
一番怖いのは、不満が暴発してザルーダの街を襲うことだ。
国内での短期的な運用ならまだしも、とても他国への援軍に徴兵
した兵を差し向けることは出来なかった。
1215
﹁となれば、両国が納得する指揮官を差し向けるしか有りませんな﹂
ゼレーフ伯爵の言葉に誰もが頷いた。
絶対に負けられない戦。
もし負けてしまえば、オルトメア帝国の牙がローゼリア王国へ向
けられることは目に見えている。
そして、ザルーダ、ミストの両王国に侮れらないだけの戦果が求
められる戦。
援軍に出した兵数が少ないうえに、もし勝利に貢献出来なかった
ら、ザルーダ、ミストの両国は決してローゼリアを許さないだろう。
交易関係で大幅な譲歩を求めてくるだろうし、下手をすれば戦に
なる。
﹁私が行きます﹂
会議が始まって以来、ずっと沈黙を守っていたエレナがようやく
口を開いた。 誰もが無言のまま、室内に沈黙の幕が下りる。
﹁良いの? エレナ﹂
ようやくルピスが口を開いた。
その顔には、戸惑いと罪悪感が浮かんでいる。
わず
それはある意味当然だった。
援軍に出せるのは僅か二千五百。
その上、ただ援軍に向かえばいいというものではない。両国を納
得させるだけの戦果を求められる。
はっきり言って貧乏くじも良いところだ。
1216
﹁無論です、陛下﹂
頷くエレナの目には強い意志の光が宿っていた。
ローゼリア王国を救う為には、他に手段がないのだ。
ルピスの側近ではあっても、メルティナやミハイルでは他国に名
が広まっていない。
うた
僅か二千五百の兵に指揮官が無名の青二才では、誰も納得はしな
あつれき
いだろう。
余計な軋轢を生うむことが目に見えていた。
その点、︻ローゼリアの白き軍神︼と諸国に謳われたエレナなら
ば誰もが納得する。
﹁ならば、主将はエレナ様にお願いするとして、誰か補佐役をつけ
る必要がありますね﹂
誰もがエレナの言葉に頷くのを見て、メルティナは口を開いた。
﹁確か。誰か、有能な補佐が必要でしょうな⋮⋮ですが、一体誰を
つけるのです。ミハイル殿ですか、それともメルティナ殿ですかな
?﹂
ゼレーフ伯爵の疑問は当然だった。
今のローゼリア王国に、名のある武官は数えるほどしかいない。
また、そういった人間程、代わりの利かない仕事を担っていた。
一度援軍として派遣されれば、ローゼリアに戻れるのは早くても
半年後。戦況によっては何年も先のことになる。
とても、そんな余裕はないのだ。
だが、だからと言って死地にも等しい戦場へエレナ一人を向かわ
せるわけにはいかない。
誰もが、無言のまま黙り込んだその時、一人の男が沈黙を破った。
1217
﹁御子柴殿にお願いすればよいのではありませんか?﹂ 1218
第4章第4話︻隣国よりの使者︼其の2︵前書き︶
街の位置関係を記した略図を第四章登場人物紹介の最後にUPし
ました。
ご意見等あれば感想かメールでいただければ幸いです。
1219
第4章第4話︻隣国よりの使者︼其の2
西方大陸暦2813年11月3日正午
﹁馬鹿な! 一体何を言っているのだ、ミハイル。自分が何を言っ
ているのか分かっているのか?﹂
ベルグストン伯爵の怒声が室内に響き渡った。
礼儀を完全に忘れた叫びには、怒りが含まれている。
彼はミハイルを呼び捨てにしたが、誰もそのことを咎めようとは
しない。
ミハイルの言葉があまりにも予想外であると共に恥知らずな提案
だったからだ。
︵コイツ⋮⋮謹慎が解かれて大人しくしていると思ったら︶
しりょ
会議が始まってからずっと黙り込んでいたので、己の分を弁える
だけの思慮深さを身につけたのかと思っていたが、どうやらベルグ
ストン伯爵の思い違いだったようだ。
﹁ミハイル殿⋮⋮一体どういうおつもりですか?﹂
ゼレーフ伯爵は深く息を吸い込みゆっくりと吐き出す。そしてミ
ハイルへ探るような視線を向けた。
その言葉にはミハイルへ対しての警戒心がにじみ出ている。
﹁どうもこうも、他に選択肢がありますか? 実績から考えても最
善の選択だと自負しているのですが﹂
1220
確かに能力だけを考えるのであれば、ミハイルの提案は正しいと
言えた。
圧倒的に劣勢だったルピス女王に勝利をもたらしたのは、間違い
なく御子柴亮真という人間の力だからだ。
本来なら真っ先に彼の名前が挙がって当然といえるが、今まで誰
も其の名を口にはしていない。
いや、意図的に頭の中から彼の名前を削除していたともいえる。
﹁もし本気でおっしゃっているのなら、見識を疑いますな﹂
ゼレーフ伯爵の目に怒りが浮かぶ。
普段はベルグストン伯爵の影に隠れ、あまりこう言った場で発言
することがない人物であるだけに、その言葉は重い。
だが、ミハイルは冷たい光を瞳に浮かべながら、笑みを浮かべて
言い放った。
﹁そうでしょうか。平民出身の彼を貴族に叙したのです。ローゼリ
アの危機にその力を使ってもらうのは当然ではありませんか。それ
に、恐らく今が最後の機会でしょう。今を逃せばこの国は遠からず
滅ぼされる事になる。違いますか?﹂
間違ってはいない。
確かに、御子柴亮真は平民。それも、どこの馬の骨とも分からな
い傭兵上がりの人間だ。
そこだけに注目したのなら、確かにミハイルの言葉は正しい。
モンスター
それこそ王家の恩に報いるため、死と引き換えに国を守って当然
とすらいえる。
そう、ルピスが御子柴亮真の力を恐れ排除するために、怪物の徘
徊する魔境とも言えるウォルテニア半島を押しつけたと言う真実を
無視するのであれば。 1221
ルピスはミハイルの言葉に無言だった。
だが、彼女の顔に浮かんでいるのは罪悪感と恐怖。そして、一抹
の希望。
誰の目にもルピスの心の内が手に取るように分かる。
彼女自身、心の片隅でミハイルと同じことを考えていたのだろう。
いや、この場に居る誰もが其の可能性を考えていたのかもしれな
い。
確かに、今のローゼリア王国を救える可能性はそれしかないのか
もしれない。
﹁名目があるのは認めますが⋮⋮果たして彼が納得するかどうか﹂ ベルグストン伯爵が首を振りながら疑問を口にした。
そして、その口ぶりには鋭い棘が含まれていた。
どこか人をバカにしたような口調。
勿論、伯爵自身は御子柴亮真に頼みたいと考えてはいた。
内乱時の彼の手腕を考えれば、今のローゼリア王国にとって切り
札的存在とすら言える。
そして、今のローゼリアの状況を考えれば、切り札を温存する余
力は無い。
ザルーダ王国がオルトメア帝国に屈すれば、次は必ずローゼリア
へ攻め込んでくる。
そして、その時にはろくな抵抗も出来ずに滅ぼされる事になるだ
ろう。
ローゼリア王国の大半は平野である。
水利にも恵まれ農業に向く土地柄から人口は多いが、要害と呼べ
るような地形は数が限られている。 平野で行われる野戦は兵力が大きくものをいう。
ザルーダ王国との国境に位置する西の山脈を超えられれば、圧倒
1222
的な兵数に蹂躙され滅ぼされる事になるだろう。 一度国内に侵攻されれば、ミスト王国からの援軍も恐らく意味の
ないモノになってしまう。
だから、王国の都合だけを考えるのであればミハイルの提案は正
しい。
カード
彼の言葉は的確に時勢とローゼリア王国の国力を捉えている。
最強の札も勝負の場に出さなければ意味がないのだから。
いやみ
だが、御子柴亮真に頼めるならば初めから悩みはしない。
ベルグストン伯爵の言葉に嫌味が含まれていたのも当然だった。
全ての原因は何を隠そう、ミハイル・バナーシュその人から始ま
っているのだ。
彼が戦功に固執し、ゲルハルトに捕らえられるような事にさえな
らなければ、こんな状況にはならなかったのだから。 だが、ベルグストン伯爵の言葉を聞いてもミハイルは顔色一つ変
えずに言い放った。
﹁納得させる必要などありません。ただ命じればいい。そして、万
が一にも断ったその時は謀反人として討ち取ればよいだけ。国家存
亡の危機に際して王命を断るなど貴族として失格ですからね﹂
その言葉にはおよそ人らしい感情等かけらも存在しない。
ただ冷たく無機質な声が室内に響いた。 ﹁馬鹿な⋮⋮貴様正気か?﹂
ベルグストン伯爵はルピス女王の前である事を忘れ、思わずミハ
イルの正気を疑った。
﹁ベルグストン伯爵、何かおかしなことを言いましたか。王家への
忠誠心がない貴族等生かしておいてどうするのです?﹂
1223
﹁何を言っている。大体、貴族の義務がどうのと言うのならば、こ
の国にいる貴族の大半が対象になるではないか﹂
二人の声は興奮し、互いに敵意をむき出す。
みこし
今のローゼリア貴族の大半は王家に対して無条件の忠誠等持ち合
わせてはいないだろう。
あれば、ラディーネという神輿があるにせよ、これ程までに非協
力的な態度はとらない。
ベルグストン伯爵自身、内乱終結後にルピスが重用しているから
忠誠を誓っているだけの話。
それにだって限度という物が有る。
︵一年前と何も変わっていないではないか⋮⋮︶
一年前の内乱時、ベルグストン伯爵は傍観派だった。
幾度となくメルティナや王女派と呼ばれる人間から助力を求めら
れたが承諾はしなかった。
それは彼女達がただひたすらに王家への忠誠を求めたからだ。
王家への忠誠。確かに心地よい響きだ。
だが、それだけで人は動かない。
その事をミハイルは知っている筈だ。
一年前、御子柴亮真は彼女達の目の前でその事を実証したのだか
ら。
﹁何をそんなに焦っているの?﹂
突然、二人のやり取りを黙ったまま見守っていたエレナの口が開
いた。
﹁焦る? 当然でしょう。我々に残された時間は少ない。御子柴男
爵を見せしめに処刑し貴族の意思を統一させるのが一番早いのでは
1224
ないでしょうか?﹂
思わぬところから掛けられた問いに、ミハイルは思わず動揺して
しまった。
﹁そう⋮⋮それがアナタの本音なのね﹂
エレナの言葉にミハイルの顔が歪んだ。
思いがけない問いに、思わず言わなくても良い事まで言葉にして
しまったのだ。
確かに見せしめは国内の意思統一という観点で見れば有効だろう。
いけにえ
だが、それだけなら何も御子柴亮真を対象にする必要は無い。
他に幾らでも生贄の候補は居るのだから。
︵コイツ⋮⋮やはり自分の恨みを︶
ベルグストン伯爵は瞬時に悟った。
確かにミハイルの主張は一見するとスジの通ったものだ。
だが、それは真実を知るものにとっては難癖でしかない。
それを強行に主張すると言う事は、其処に何らかの意図が有ると
言う事。
﹁何の事だか私には分かりかねます﹂
どうやらとぼける事にしたようだが、正直に言って今更遅い。
﹁それほど御子柴殿が憎いかね? アレは君の失態だ。彼を恨むの
は筋違いだと思うがね﹂
﹁何の事だか私には分かりかねます﹂
再びそう言い放ったミハイルの目を見た瞬間、ベルグストン伯爵
1225
の背中に冷たいものが走る。
︵なんて目だ⋮⋮︶
もうしゅう
ミハイルの目に浮かんでいるのは憎悪。妄執にも似た暗い炎だ。
今までのミハイルからは考えられない態度。
確かに思慮の浅い人間ではあったが、これ程一個人に対して敵対
心を露わにする事は初めてだ。
両者の間に火花が散った。
﹁止めなさい!﹂
室内にルピスの叫びが響く。
﹁もういいわ⋮⋮王命を下します。まずはエレナ。御子柴男爵に王
都へ出向くように連絡をしなさい。必ず断られると決まっているわ
けでもないのだから、彼に話をした後で断られたときに改めて処分
をどうするか決めればいいでしょう。それでいいわねエレナ﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
唖然とするメルティナの呟きを無視するかのように、ルピスは矢
継ぎ早に命を下す。
これ以上、無駄な議論をする余裕はない。
その思いが迷い続けてきたルピスを決断させた。
いや、恐らくそれだけではないだろう。
室内を覆うミハイルへの冷たい感情を感じ、彼を守ろうとしたの
だ。
﹁ザルーダには援軍を派遣すると使いを。遠征の準備が必要だから
向かうのは一ヶ月後。それと、国境で待機中のミスト王国の軍勢に
は通行の許可を与えると伝えなさい。良い? ベルグストン伯爵一
1226
ヶ月で全ての準備を整えなさい﹂
﹁一ヶ月ですか⋮⋮ギリギリですな。それにミストの軍勢を国内に
入れてよろしいので?﹂
﹁仕方ないでしょう。ただでさえ今まで動かなかった所為で両国の
印象は良くないのだから。それに、こちらの準備が整ってから国境
を越えさせたら時間が余計に掛かってしまうし⋮⋮皆もそれでいい
わね?﹂
軍を動かすには時間が掛かる。
しか
特に国外へ派兵するとなれば食料から武具の予備まで膨大な物資
が必要だ。
ベルグストン伯爵が顔を顰めるのも当然だったが、何しろ時間が
足りない。
だが、もうこの国に残された時間は限られている。
ザルーダから届けられた書状の文面から見ても、それは明白だっ
た。
どんな理由にせよ、王が決断したのだ。
臣下としてはただ頷くよりほかに無い。
﹁﹁﹁かしこまりました。陛下﹂﹂﹂
椅子に腰掛けていた全員が立ち上がると、一斉に腰を折り王命に
服する。
全てはローゼリア王国を守り抜く為に。
﹁何故あんな事を言ったの?﹂
1227
会議が終わり、殆どの物が退室した部屋に三人の人影が残ってい
た。
﹁臣下としてこの国を守るために最善の策を提案したに過ぎません﹂
ちゅうちょ
ルピスの問いに、ミハイルは躊躇なく言い放った。
過去の彼からは考えられないほど冷たい声だ。
﹁本当にそれだけ⋮⋮なの?﹂
﹁それはどう言うことでしょうか?﹂
ルピスの探るような視線を受けてもミハイルの表情は変わらない。
まるで感情を置き忘れた人形のように揺るがないのだ。
﹁ミハイル殿。そのような態度は陛下に対して﹂
﹁いいの。メルティナ!﹂
﹁しかし⋮⋮失礼しました﹂
ミハイルを叱責しようとしたメルティナを抑えると、ルピスは悲
しい目をミハイルへと向ける。
﹁いいわ、下がって頂戴﹂
﹁では、失礼いたします﹂
最後まで表情を崩すことなく部屋を出て行くミハイルの背を、二
人は悲しそうな目で見送るしかなかった。
1228
﹁何故こうなったのかしら⋮⋮﹂
ルピスの呟くような問いにメルティナは答える事が出来なかった。
理由はハッキリしている。
だが、それを言葉にすることは出来ない。
﹁陛下は何も間違ってはおりません﹂
メルティナはタダそう言うより他に言葉がなかった⋮⋮
1229
第4章第5話︻隣国よりの使者︼其の3
西方大陸暦2813年11月3日深夜
王都ピレウスの城に与えられたミハイルの私室で、深夜にも関わ
らず、二人の男が卓の上に置かれたランプの明りを挟んで対峙して
いた。 一人はこの部屋の主。
そしてもう一人は、この部屋にいるはずのない人間だった。
﹁予定どおり出兵が決まったようですねぇ﹂
すどう
しか
思いがけない須藤の言葉に、対面のソファーに深く腰掛けていた
ミハイルは思わず顔を顰めた。
﹁何故それを貴様が知っている。まだ公にはしていない話だぞ?﹂
昼間の会議で決められたザールダ王国への援軍。
公職に就いている人間へは既に通達済みだが、目の前の男は公職
に就いてはいない。
何れは伝わるにせよ、決定したその日の夜に洩れているとなれば
顔を顰めて当然だった。
﹁幾ら隠そうとしても、こういった話は直ぐに洩れるものですよ﹂
人を食ったような須藤の言葉にミハイルは不機嫌そうに鼻を鳴ら
した。
1230
すどう
﹁相変わらず大した耳の良さだな。須藤﹂
ほ
ぶべつ
いっけん褒め言葉のようにも聞こえるが、ミハイルの目は明らか
に須藤を侮蔑していた。
卑しい平民が城の中でこそこそとまるでネズミの様に嗅ぎ回りお
って。
言葉には出さなくても、ミハイルの目がそう須藤に告げていた。
﹁私には他に能がありませんからねぇ﹂
﹁フン。貴様のような奴を何故ラディーネ様が側近にしているのか
分からんな﹂
﹁ミハイル様と同じく、裏表の無い王家への忠誠心を評価して頂い
ているのでしょう﹂
﹁貴様などにローゼリア王国への忠誠心など有るとは思えんがな﹂
あざわら
不機嫌そうにミハイルは言い捨てる。
それを見て、須藤は心の中で嘲笑った。
︵全く愚かな男だ。そんな虚勢を張らなくては心を保てないとは︶
昨年の内乱以降、ミハイルの評価は下降線を辿っていた。
いやはっきり言えば、最低どころかマイナスにまで落ち込んでい
たのだ。
︵この馬鹿も大分追い詰められてきたようですね⋮⋮後は仕上げを
残すのみ。さて、どう転ぶか見ものですなぁ︶
かつてはルピスの側近として、また、ローゼリア一の剣士として、
ミハイル・バナーシュの名は栄光と賞賛に包まれていた。
ローゼリア一の剣の使い手にして、ルピスの信頼篤き側近。
1231
その忠誠心はまさにローゼリア王国の宝とすら言える。
それが今では、功を焦って捕虜になって生き恥を晒し、処罰され
るどころか数カ月の謹慎を命じられた後は、ルピスの命令で編成中
の親衛騎士団長に取り立てられた結果、部下にも同僚にも白い目を
向けられる始末。
無論、ルピスにすれば身近に信頼できる側近を配するのは当然の
事だが、周囲の人間にはそれが分からない。
周りから見れば、ミハイルはルピスに取り入る卑怯者でしかなか
った。
そして、須藤の手によって真実と嘘を絶妙な配分で混ぜ合わされ
た噂が、王城の内外に広められたことにより、ミハイルの評判は地
に落ちた。
同僚や部下からの蔑み。貴族からの嘲笑。
誇り高いミハイルにとってまさに生き地獄に等しかった。
彼が本当に卑劣な人間ならばそんな周りの評価など気にはしない。
真に誇り高き人間だからこそ、今の現実が耐えられない。
だから他人を貶め、自らを高めようとする。
それが自分の首を絞めることになると理解していながら⋮⋮
他に縋るものが無く、縋るがゆえに周囲から孤立していく。そし
じじょうじばく
て、孤立するから更に縋る。
そして、ミハイルに自縄自縛の連鎖から逃れる手立ては残されて
いなかった。
﹁無論、私などミハイル様の足元にも及びません。ただ、ラディー
ネ様は庶子。王族として認められたとはいえ、今だに心から忠節を
奉げている臣下は少ないですから。私のような卑しい人間でも評価
してくださるのですよ﹂
﹁なるほどな﹂
1232
須藤の答えにミハイルは満足そうな笑みを浮かべた。
彼の言葉に含まれた毒が、ミハイルの小さな自尊心を満足させる。
目の前でにやけた笑みを浮かべる男の言葉が、見え透いたお世辞
である事を彼は十分に理解している。
だが、その毒は甘く芳しい香りを放ち、部下や同僚達から浴び得
られてきた嘲笑と侮蔑にさらされ、すっかり弱くなってしまったミ
ハイルの心を侵していく。
嘘だと分かっていても縋りたくなるほどに⋮⋮ ﹁ところで⋮⋮貴様の言うとおりに会議で提案はしてみたが。本当
にこれで良かったのか?﹂
﹁無論です。失礼ではありますが、ミハイル様には他に手がござい
ましたか?﹂
ミハイルの問いに須藤は問い返した。
﹁それは⋮⋮だが、素直に従うとは思えんぞ? 最悪内乱の可能性
すら⋮⋮﹂
流石に、御子柴亮真憎しの念に凝り固まっていても、そのくらい
の判断力は未だに残っていたらしい。
︵まさに矛盾ですねぇ。そこまで分かっていながら会議の場で提案
すると言うのだから、この男の頭のつくりはどうなって居ると言う
のか⋮⋮まぁ、操り人形には丁度いいですがねぇ︶
沸き上る侮蔑と嘲笑を押し隠し、須藤は柔らかな笑みをミハイル
へ向けた。
自分がそうなるように仕向けたとはいえ、ミハイルの思考に一貫
性はない。
あるのは、自分の置かれた立場への嘆きと、その元凶となった御
1233
子柴亮真への恨みだけ。
焦り、憎しみ、嫉妬、憎悪。
ざわめく心がミハイルの心を縛りつけ、正常な判断を失わせてい
く。
かんしん
﹁それならそれでよいではないですか。陛下の傍から奸臣が除かれ
ミハイル様のような忠臣が再び日の目を見ることになりましょう﹂
﹁だが!﹂
﹁正義を行うのに血を流す事を恐れてはなりません﹂ ﹁だが⋮⋮本当に上手くいくのか?﹂
ミハイルの顔が不安で歪んでいた。
﹁ミハイル様。恐れてはなりません。周囲の者も何れはミハイル様
が正しいと気がつきます。つまらぬ罪悪感にとらわれていては国家
の運用など不可能なのです。時には不条理な事を行ってでも国を守
らなければならないのです。そして、今それが出来るのはミハイル
様のみ。どうかローゼリア王国を、ルピス殿下をお救いください!﹂
須藤の強い言葉にミハイルは黙り込んだ。
一分、二分。両者の視線が卓上の上で交差する。
﹁分かった⋮⋮貴様を信じよう﹂
﹁結構でございます。では、後は計画どおりに﹂
そう言い放つと、須藤はミハイルに頭を下げ部屋を出て行く。
1234
ミハイルは無言のままその背中を見送った。 ミハイルの部屋を退室した須藤は、人目を避けるように自室へと
足早に向かった。
︵まぁ良く踊ってくれたと褒めてやるべきでしょうかねぇ︶
先ほどの会談を思い出し、須藤の顔に暗い笑みが浮かぶ。
人は信じたいものを信じる生き物。
内乱終結後、ミハイルは能力と人格を否定され続けてきた。
だからこそ、須藤の口から出た肯定の言葉はミハイルの心を侵し
ていく。
彼の心の奥底にあった御子柴亮真への恨み。
それは逆恨みでしかない。
だが、一年近い時間を費やし、須藤はミハイルの根拠無き恨みを
正義とすり替えた。
ローゼリア王国を守るという正義とだ。
︵しかし、国を想い、王家に忠節を尽くせば尽くすほど国を蝕むと
はねぇ。クックッまさに喜劇というやつですか︶
ルピスの信頼も裏目に出ている。
彼女が庇えば庇うほど、ミハイルは周囲の視線に追い込まれ暴発
する。
それをまたルピスが庇う。悪循環も良い所。
まぁ、そうなるように王城内に噂を流したのは須藤自身なのだか
くんしん
きずな
ら当然のことだ。
︵君臣の絆も度が過ぎれば害になるということですかねぇ︶
皮肉な話だ。
忠節に篤いミハイルにはその力は無く、忠誠の欠片も持たない御
子柴亮真がこの国の行く末を担うのだから。
︵後は、御子柴亮真がどう動くかですか⋮⋮彼は予測しにくいです
からねぇ。ですが今度で三度目⋮⋮流石にそろそろ消えてもらいた
1235
い所ですが。さてさて、どうなりますかねぇ︶
御子柴亮真がこの世界に召喚され、既に二年近くが経とうとして
いる。
オルトメア帝国の宮廷法術師であったガイエスを殺し、ローゼリ
ア王国の内乱に絡み、御子柴亮真と係わり合いになるのは今度で三
度目だ。
︵参加しないでくれたほうが我々にはありがたいのですが、恐らく
彼はザルーダへの援軍に参加するでしょう⋮⋮問題は条件を付ける
かどうかですが⋮⋮まぁ、タダでは動かないでしょうねぇ︶
ザルーダへの援軍に赴きたいか否かで答えるならば否だろうが、
情勢がそれを許さない。
援軍への参加を断った場合、援軍の勝敗に関わらず御子柴亮真は
危険な立場におかれる。
戦争終結までに独立の準備が整うのならば話は別だが、常識的に
考えればまず不可能だろう。
となれば、後の問題はタダで参加するか、交渉によって何かを得
ようとするかの二択になるが、御子柴亮真の性格とルピスの今まで
の行いから考えてまず条件を付けてくるはずだ。
︵金か、領地か⋮⋮意表をついて爵位の可能性もありますが⋮⋮ま
ぁ、無難な所で金ですかねぇ︶
ウォルテニア半島の開発が終わっていない今の段階で、新たに領
地を追加されても管理仕切れなくなるのが目に見えている。
半島に隣接する領地ならまだしも、飛び地になれば目も当てられ
ない。
︵たしか、半島に最も近いのはザルツベルグ伯爵のイピロスだった
はず⋮⋮あそこはザルーダとの国境が近く、まず、新参の男爵等に
は与えられないでしょうから、まず無理ですねぇ。となれば、爵位
か金ですが、彼の性格を考えると爵位はまずないでしょうねぇ。彼
は何れローゼリアを捨てるつもりのはずですから、そんな国の爵位
をわざわざ求めはしないでしょう︶
1236
ローゼリア王国に骨を埋める覚悟ならともかく、自分の国を興す
にせよ、他国の庇護下に入るにせよ、ローゼリア王家の与えた爵位
など何の価値も持たない事になる。
それに、ウォルテニア半島の開発には莫大な金が掛かるはず。
︵そうすると金ですか⋮⋮さて、どれくらい求める気ですかねぇ︶
その金額によって、御子柴亮真の今後の動きが予測できる筈だ。
︵求める金額が数千万なら十年以上と言うところですが、もし億を
超える金額を求めるとなると⋮⋮こちらの予定も少し繰り上げない
といけませんねぇ︶
須藤は楽しくて仕方が無かった。
この世界に召喚されたとき、生活環境の落差に嘆くしかなかった
はかりごと
が、どうやら彼はこの世界の方が向いていたらしい。
人を操り、謀をめぐらす。
日本でのぬるま湯に浸った人生からは考えられないほどの充実感。
特に、今回のように自分の策略によって戦争の勝ち負けとは別の
ところで、既に勝利が確定しているとなれば尚更だ。
︵さてさて、どうなりますかねぇ︶
須藤の顔に浮かんだそれは、勝利を確信した人間の笑みだった。
1237
第4章第6話︻隣国よりの使者︼其の4
西方大陸暦2813年11月6日昼
セイリオスの街は活気に満ち溢れていた。
先日新たに運ばれてきた奴隷の子供達は、自分達が掴んだ幸運を
手放すまいと必死で剣を振るっていたし、五ヶ月余りの訓練を終え
て奴隷の身分から解放され自由を手にした子供達は皆、己の新たな
故郷を造る為に汗を流した。
誰もが己の持てる力の全てを惜しみなく使い、着実に街を育んで
行く。
奴隷の身分に落とされた時に子供達の誰もが奪われ、御子柴亮真
の手によって取り戻した人としての尊厳を胸に抱きながら。 椅子に腰かけながら、亮真が王都ピレウス寄り送られてきたエレ
ナの手紙を読み上げると、部屋の空気が変わった。
手紙の日付を見ると一昨日のものだ。
王都とウォルテニア半島の距離を考えるとかなり早い。
最重要機密扱いで、使者が各地で馬を乗り換えながら駆け抜けた
成果だろう。 ﹁坊やから事前に聞いてたから今更驚きはしないけど、予想どおり
過ぎて笑えないねぇ﹂
リオネはそう言うと、苦笑いを浮かべる。
この部屋にいる誰もが同じ心境だったのか、彼らの顔にも呆れの
1238
色が浮かんでいた。
唯一、穏やかな笑みを保っているのは、御子柴亮真だけだ。
﹁せっかく街の拡張も軌道に乗ってきて、いざこれからと言う所で
⋮⋮困ったものですな﹂
窓の外から部屋の中へと飛び込んでくる喧騒に目を細めながら、
厳翁が呟く。
メンツ
﹁まぁな。だが、どちらにしても行くしかない。それこそ呼んでく
れただけまだマシさ。連中のつまらない面子に固執して、俺達を呼
ばずに援軍に向かった揚句負けましたじゃ、こっちまで巻き添えを
食らいかねないわけだしな﹂ 亮真はそう言って笑みを浮かべた。
その言葉に室内にいる誰もが頷く。
理由をつけて要請を断るのは簡単だが、その後の結果を考えると
そう簡単には行かない。
ローゼリア王国は沈みかけている。
それは否定の余地がない事実だ。
ルピスの目指す権力構造は、決断力の欠けた彼女にとってはマイ
ナスにしかならない。
確かに、長い間実権をホドラムやゲルハルトに奪われてきた王家
の人間にしてみれば、国王を中心とした運営を考えて当然だ。 ただし、ルピス・ローゼリアヌスと言う人間の持つ性格が大きな
問題になる。
︵悪い奴じゃない。いや、善人だと言える。頭も悪いわけじゃない。
知識もそれなり。民への配慮も出来るから、本来なら支配者として
及第点を貰えるはずだ︶
亮真のルピスに対しての評価はそれほど悪い訳ではない。
1239
側近にいるメルティナやミハイルといった騎士達も、欠点はある
もののそれなりの人物だと言える。
王家に対しての忠誠心も、武力もこの国では第一級の水準を誇る
人材のはずだ。
少なくとも彼らは無能ではないはずだ。
︵結局、己を知らない事が最大の問題かねぇ⋮⋮︶
孫子の兵法にこんな言葉がある。
敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず。
この言葉は、孫子の兵法を知らない人間でも一度は聞いたことが
有る程有名な言葉だが、これには以下の続きがある。
敵を知らずして己を知れば、一勝一負す。
敵を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず危うし。
何が言いたいかといえば、戦う前に情報を集めなさいうことだ。
そして、自分自身の事を理解しなさいと言うこと。
自分を知り相手を知ってから戦えば、勝機があるかどうかが分か
る。
そして、勝機があるか無いかの判断がつくなら、戦いに勝つこと
も容易だ。
もし勝機が無くても、事前に勝敗が分かるのなら、戦いを避ける
ことも出来る。
だが逆に、敵の力も、自分の力も知らなければ、戦いようが無い。
結果、戦うたびに負けることになる。
大切なのは、自分がどんな人間か。
優れている点は何か。
欠点はどこにあるか。
それらを理解する事だ。
もし、ルピスが自分の欠点を理解していれば、自分を中心にした
政治体系にはしなかったはずだ。
王の仕事は決断することだが、彼女はその心が優しく情に篤い人
間である反面、決断力に欠ける性格なのだから。
1240
宰相や大臣達の権限を強化した上で合議制を導入し、ルピスは大
臣達の決定を追認するような政治形態が良かったのではないかと亮
真自身は考えている。
勿論、ゲルハルトの時のように専横される可能性は残るが、近衛、
親衛の直属騎士団の兵権を確保していればそこまで大きな問題には
ならない。
実際、もしルピスが余計な策謀を行わずにスジを通したうえで亮
真へ相談したら、彼はそう答えていたはずだ。 ﹁巻き添えはご免だけど、やっぱり行くしかないのかい? アタシ
は正直に言って、あまり気乗りがしないんだけれどもねぇ﹂
いつもと変わらない軽い口ぶりではあったが、リオネの目は真剣
だった。
彼女にしてみれば他人事では済まないのだから。
彼女とボルツは奴隷としてつれてこられた子供達の訓練を一手に
担っている。
戦となれば駆り出されるのは彼らであり、もっとも命の危険が高
いのも彼らだ。
このセイリオスの街を守るためというのであればリオネは彼らに
死ねと命じる。
だが、この下らないローゼリア王国の為に彼らが死ぬのは納得が
いかない。
﹁リオネさんには悪いけれどそこは譲れないな。こいつはローゼリ
ア王国やルピスの為に行くんじゃない。俺達が生き残り、今よりも
力を伸ばすためには絶対に避けられないんだ﹂
﹁オルトメア帝国の侵攻に対抗するためですな﹂
1241
厳翁の言葉に亮真が頷く。
﹁ザルーダが滅べば次はローゼリアに攻め込んでくるだろう。国土
や国力を考えると、東部三ヶ国が連合してやっとオルトメアの侵攻
軍に対抗できるんだ。ミスト、ローゼリアの二ヶ国だけじゃ⋮⋮﹂
﹁まず無理だね﹂
リオネが首を振りながら答える。
彼女自身も現状を理解していないわけではない。
ただ、ルピスを結果的に助けることになるのが納得出来ないだけ
だ。
﹁まぁ、そう言うこった。それに、これを機会にルピスからかなり
毟れるはずだ﹂
亮真は肩をすくめて答えた。
﹁毟る?﹂
言葉の意味が掴めなかったのか、リオネが怪訝そうな目を亮真へ
向けた。
﹁大分、街の形が出来て来たんで、ここらで本格的に半島の開発を
進めたいのさ。具体的にいえば、農民と特殊な技能を持った職人の
移住。後は、文官を何人か派遣してもらうってところかな﹂
﹁援軍に参加する条件にするってわけですかい?﹂
﹁あぁ、何しろ人口を増やそうにも奴隷だけじゃ足りないしな。受
1242
け皿が幾らデカくても中身が無いんじゃ仕方ないだろう?﹂
﹁確かに⋮⋮城壁や道の整備は終えてやすし、家も出来てやすから、
何時でも受け入れは出来やすが⋮⋮﹂
ボルツの声に戸惑いが混じる。
事実、今のセイリオスには伊賀崎衆の他には奴隷としてつれてこ
られた子供達か傭兵達しかいない。
兵士に傭兵、それに忍者とその家族。
忍者達の中には鍛冶の技能を持つ人間がいるので武具の修繕には
困らないが、商人も農民もいない兵士だけの異質な街だ。
唯一の例外はザルツベルグ伯爵家より送られた数人のメイドくら
いか。
勿論、何時までもこのままでいけるとはボルツ自身も考えてはい
ない。
何れは、農地を開墾し、産業を興さなければ税もとれないのだか
ら。
だが、何故今なのか。
その疑問がボルツの脳裏に浮かんだ。
﹁今なら、多少無理してでもこっちの条件を呑むさ。例え俺達の勢
力が拡大することを警戒していてもね﹂
農民はともかく、技術者の移住を簡単に許す支配者はいない。
技術は一朝一夕で習得することは出来ないし、モノによっては秘
匿されている。
それは身につけさせるまでに時間と費用がかかるからだ。
自分の権益を損なってまで、他人に利を与えようとする人間はい
ない。
だが、切羽詰まった今の状況なら、普段飲まない条件も呑ませる
1243
ことが出来る。
いや、ルピスならば下手に金や領地を求めるよりも簡単に承諾す
るだろう。
﹁なるほど⋮⋮これを機会に半島の開発を一気に進めるってことね﹂
亮真にとって、ルピスは既にただの獲物でしかなかった。
彼が飛躍するための糧。
﹁せっかくの御誘いだからな。精々毟ってやらないと﹂
リオネの言葉に亮真は冷たい笑みを受けべて笑う。
そして、笑みを浮かべたまま一人の男へと視線を向けた。
﹁ネルシオスさん。何か疑問でも?﹂
亮真の問いに、男は顔に困惑の色を浮かべながら一歩前に出る。
細身だが、大柄で筋肉質な男だ。
青みがかった黒い肌に金色の瞳。
日の光を受け白銀の髪が光り輝く。 彫の深い顔は、誰が見ても彼を絶世の美男子だと褒め称えるだろ
う。 ﹁何故、私をこの場に呼んだのですか?﹂ 低く落ち着いた声だ。
彼の外見は三十前後といったところだが、声の感じではもっと年
配の人間のように感じさせる。
﹁ご迷惑でしたか?﹂
1244
亮真の問いにネルシオスは静かに首を横に振った。
﹁いいえ⋮⋮ですが、不思議に思ったのは確かです。なぜ、亜人で
ある私をこの場に呼んだのかと﹂
ネルシオスが戸惑うのも当然だった。
この場にいるのは、御子柴男爵家の中核を担う人間ばかり。
その中でただ一人異質な存在が彼だ。
彼は御子柴男爵家とは全く関係の無い他人だ。
少なくても彼はそう考えていた。
﹁あぁ。あまり気にしないでください。とりあえず今はネルシオス
さんに出てもらうことが目的ですからね﹂
﹁はぁ? それはいったい﹂
亮真の言葉にネルシオスは首を傾げる。
意見を求められたわけでもない。
何か物資の援助を求められたわけでもない。
ただ、この場に呼ばれ彼らの話に耳を傾けていただけだ。
何らかの要求を伝えられるのではないかと考えていたネルシオス
にとって、予想外の展開だ。
裏があるのではないかと疑うネルシオス視線を真っ向から受け止
めながら、亮真は笑みを浮かべた。
﹁まぁ、何れ⋮⋮ね﹂
亮真のこの言葉を最後に、会議は終わった。
1245
そぶ
︵不思議な男だ。我らを恐れる素振りがまるでない。それに、何故
あの男は私を呼んだのだろう︶
数日前から寝起きに使っている家へ向かいながら、ネルシオスは
先程の会議を思い返していた。
︵いや、不思議なのはあの男だけではないか⋮⋮︶
あの部屋にいた誰もがネルシオスに嫌悪を向けることがなかった。
亜人である彼をだ。
この数ヶ月の付き合いを通して感じていたことだが、彼らに亜人
に対しての偏見はない。
共に語りあい、飲み食いをすることで実感してはいた。
だが、心のどこかでいまだ信じきれていなかったのだろう。
今日の朝、使いの人間から会議に出てくれと伝えられた時、ネル
シオスの心に落胆が広がったのは確かだ。
こいつもやはり人間だったかと。
ダーク
だが、彼は今日もただ笑みを浮かべただけだ。
エルフや黒エルフがもつ付与法術の知識。
はるか昔に失われたと伝わる秘宝。
また、彼らエルフは生まれながらにして並みの騎士を問題にしな
いだけの力を持つ。
彼らの持つ力は強大だ。
だが、初めて会ったあの日、そのどれも御子柴亮真は欲しがらな
かった。
技術を提供しろとも、兵を出せとも彼は言わない。
海賊に捉えられた部族の娘達を取り戻そうとするネルシオスに亮
真が求めたのは、半月に一度セイリオスの街を訪れることだけ。
初めはただ来ただけだった。
話掛けられても、ただ機械的に受け答えをするだけ。
だが、数を重ねるにつれ、冗談を言い合い、物をやり取りし、共
1246
に食事をする仲になった。
初めに取り交わした半月に一度の訪問も今では形だけ。
最近では、宿泊用の家を与えられ、常時数人がこの街に留まる様
になっている。
部族の中でも若手と呼ばれる二百歳未満の者達は、人間によって
迫害された歴史は知っていても実際に体験した者はいない。
亜人が自らの尊厳と存在を賭けて人と矛を交えたのは、今から四
百年近くも昔の話だ。
勿論、部族の中には人間を敵視し憎悪する者達が居る。
家族を殺され、美しかった故郷を追われた恨みはそう簡単には消
えない。
ネルシオスの事を人間にすり寄る卑怯者と罵倒する者も存在する
のだ。
︵そうか⋮⋮私をあの場に呼んだのは、私に見せる為か︶
ネルシオスはそのことに思い至ると、思わずうめき声を上げた。
︵自分達は何も隠すつもりはない。そう言うことか︶
それは、御子柴亮真という人間が自分達亜人を信じると言う表明
だった。
彼は言葉ではなく、態度で示したのだ。
ネルシオスはもと来た道を戻り始めた。
このまま、あの男の思い通りにさせるわけにはいかなかった。
いにしえ
恨みには恨みで返すのが道理であるならば、信頼には信頼で返す
のが道理。
彼は誇り高き黒エルフの部族長の一人なのだから。
人への恨みを忘れることは出来ない。
それは彼自身にも言える。
だが、目の前に広がる未来を無視することも出来なかった。
もしかしたら、人と亜人が共に暮らしたと伝えられる、はるか古
の時代に戻れるかもしれない。
1247
その思いが、ネルシオスの背中を押した。
1248
第4章第6話︻隣国よりの使者︼其の4︵後書き︶
1249
第4章第7話︻理想と現実の間で︼其の1
西方大陸暦2813年11月14日昼
一年数ヶ月ぶりに、亮真はローゼリアの首都ピレウスへ訪れてい
た。
久しぶりの大都会。
城塞都市イピロスも貴族の支配する城塞都市としては破格な規模
を誇るが、王国の首都と比べれば数段見劣りしてしまうのは当然だ
った。
アース
まぁ、人口や街並みは東京や大阪といった都市とは比べるまでも
ないが、それでもこの大地世界では屈指の大都市といえる。
﹁あんまり空気が良くないな⋮⋮﹂
しか
第一の城門を抜け、街の中に入った亮真は顔を顰めた。
空気が良くないと言っても、悪臭がするとかそういう話ではない。
無論、注意深く嗅げばほのかに汚水の臭いが鼻をつくが、それは
どこの街でも同じだし、大都市の表通りならそれなりに整備されて
いるため声を大にして言うほどのものでもない。
日本人特有の清潔感を基準にするなら言いたいことは色々とある
が、そこまで劣悪な環境とも言えないのだ。
ここで言う空気とは、街を覆う重苦しい雰囲気のこと。 周囲を二十名程の兵士に囲まれながら、亮真は王城に向かって馬
を進める。 1250
﹁何処となく落ち着きが無い感じですかね?﹂
﹁露天商も活気があまりないようですね﹂
サーラとローラも同じことを感じたのだろう。
どこか訝しげに周囲を見渡す。
﹁問題は何かってことだな﹂
亮真の視線が通りの先を見据える。
内乱終結直後の街はもっと活気と希望に満ちあふれていたはずだ。
通りは人込みで溢れ、広場に造られた露天商は声の限りに客の呼
び込みをしていた。
本来なら、その客を呼び込む声が此処まで響いてくるはず。
それが聞こえて来ないと言うことは、露天商が店仕舞いをしたか、
商売をする熱意を失っているかのどちらかだ。
﹁ルピス女王の統治があまり上手くいっていないのかもしれません
ね﹂
﹁だろうな⋮⋮﹂
サーラの言葉に亮真は鋭く舌打ちをすると忌々しげに王城を睨む。
統治が上手くいっているならこんな状況にはなっていないだろう。
大通りはさほど大きな変化が無いが、横道裏に蹲っている流民の
数が増えたように感じられる。
﹁まぁ、これなら農民の確保はそれほど困らないだろうな﹂
流民は家や土地を捨てた人間の総称である。
1251
難民とほぼ同じだが意味合いだが、戦争や宗教弾圧によって自分
の国を追われた民を難民と言うのに対し、流民は経済的な理由で家
や土地を奪われた人間に使う場合が多い。
まぁ、どちらも帰る家を失い行く当てもない人々だ。
彼らの前には二本の道しかない。
アース
奴隷として売られるか、誰かに省みられる事もなく道端で死ぬか
だ。
残念ながら現代社会と違い、この大地世界には生活保護も、NP
Oの援助も存在しない。
そんな彼らなら、たとえウォルテニア半島という未開の土地でも、
移住を選択する可能性は大いにある。
﹁ルピス女王も厄介払いが出来ますからね。特に反対はしないと思
います﹂
﹁あぁ。俺達には好都合だな。だがなんでこんなに悪化してるんだ
?﹂
ローラの指摘どおり、ルピスは喜んで彼らをウォルテニア半島へ
移住させるだろう。
彼ら流民の存在は治安の低下を生む。
王都に留まられるくらいなら、彼らを半島に追いやったほうがル
ピスにとっても得なのだ。
ここで問題になるのは、何故この一年余りの間に流民が増えたの
かだ。
無論、どんな世界でも運の悪い人間は存在する。
博打好きで借金をこしらえる人間も居るし、病気や怪我で働けな
くなり家を失った人間も居るだろう。
一年前にもそういう人間はこの王都に少なからず存在した。
しかし、路地裏で座り込んでいる人間の数は確実に一年前より増
1252
えている。
未だローゼリア国内に戦火は及んでいない。
それにもかかわらず流民の数が増えているとなれば、政治に問題
が有るとしか思えなかった。
﹁可能性としては、貴族が税の搾りをきつくしたか、官僚の汚職っ
てところだろうな⋮⋮﹂
他に原因が有るのかもしれないが、一番可能性が高そうなのはル
ピスが政治の実権を握ったせいで逆に現場レベルで混乱をきたして
いる可能性だ。
理想を掲げた改革者が、既得権益を守りたい人間と衝突するのは
良くあること。
どちらにせよ、ルピスの統治が上手くいっていない証拠だ。
︵かなり孤立してるな、こりゃ︶
王国の首都でこの有り様ならば、地方の貴族領がどんな状態かは
想像するに難くない。
そうなると一つ大きな問題が出てくる。
ラディーネ王女の動向。
こういった政情不安の状態の時には、現状を打破しようと言う勢
力が必ず台頭してくるだろう。
そして必ず乱が起こる。戦にまで発展するか、穏やかな政権交代
で済むかは別にしてだ。
内乱終結時、亮真はローゼリア王国の寿命を五年と予想したのだ
が、どうやらそれよりも短くなりそうな気配だ。
︵こっちに飛び火してこなけりゃいいが⋮⋮無理だわな︶
だが、亮真の思いとは裏腹に、このザルーダへの援軍が国を留守
にする間に必ずや動きが有ると言う確信が彼には有った。
いくら距離的に離れ放置されてきた土地であろうと、ウォルテニ
ア半島はローゼリア王国の一部だ。
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同じローゼリア王国という船に乗っている以上、影響を受けない
と言う訳にはいかないだろう。
︵まぁ、その辺もボルツと厳翁に任せるしかないか︶
エレナの手紙を読んだ後、既にある程度の対応方法は相談済みだ。
本来ならば側近全員を連れ援軍に参加したいところだが、セイリ
オスを空には出来ない。
今の人員で内政を任せることが出来そうな人材というと、長年、
傭兵団︻紅獅子︼の裏方としてリオネをサポートしてきたボルツく
らいだろう。
亮真は集団の最後尾で周囲に目を配っているボルツへと視線を向
けた。
ボルツ自身は戦場に出られない事が不満のようだが、亮真は彼の
内政的な手腕を高く買っている。
確かに教育は受けていないだろうが、世間というものを実体験で
知っており、その経験を生かすだけの知恵が彼にはあるからだ。
武人型の多い今の状態で、専門ではないにせよ内政的な能力を持
つ人間は貴重だ。
亮真は自分の運の良さを噛み締めながら城の跳ね橋を渡った。
﹁亮真様⋮⋮少しよろしいですか?﹂
城内に入り、案内された一室でサーラが声をかけて来た。
周囲に人がいないことを確認した上でだ。
あまり他人に聞かせたくない話らしい。
﹁あぁ、どうかしたのか?﹂
亮真は穏やかな笑みを浮かべながらサーラへ視線を向ける。
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﹁いえ⋮⋮ただ、何故亮真様がネルシオスさんの言われた援助を何
故断られたのか気になって⋮⋮﹂ 先週の会議の後の話だ。
戻ってきたネルシオスは室内に残っていた亮真に対して、かなり
好条件といえる提案を行った。
具体的に言うと、人間とエルフの融和を目指し、若手のエルフ達
を半島の守備に回すと言ったことがメインだったのだが、亮真はそ
の場で断ってしまう。
そして亮真は、それ以降誰にもその話をしてはいなかった。
ただ一人、その場で成り行きを見ていたのはたまたま室内に残っ
ていたサーラだけだったが、彼女には何故断ったのか理由がわから
ない。
あの時から一人で考えていたのだが、どうしても答えが出ないの
だ。
﹁あぁ、先週の話か﹂
亮真は納得したかのように大きくうなずくと、静かに問いかけた。
︵なるほど、一人で考えて答えが出なかったか︶
一人思い悩むサーラの姿が頭に浮かび、思わず顔がにやける。
﹁サーラが気になっているのは、俺があの場でネルシオスさんの提
案を断ったこと。そして、みんなにその話をしなかったことの二点
かな?﹂
﹁はい﹂
サーラがその場で聞いた限りでは、かなり有利な条件だった。
若手のエルフが半島警備に回るのも、エルフの持つ技術の提供も
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今の亮真達にとっては大きな助けとなるはず。
特に、セイリオスの街へ若手を移住させるという提案は亮真の理
想を実現するためには、とても魅力的なように思える。
実際、亮真が亜人との融和を目指していることは誰もが知ってい
た。
融和を目指さないのであれば、今頃亮真は亜人達を攻めている。
海賊達を滅ぼしたのと同じようにだ。
だから、せっかくのネルシオスからの提案をその場で断った意味
がサーラにはわからない。
結果的に断わるにせよ、その場での回答は一旦保留にし、ローラ
やリオネ達全員の意見を聞くのが今までのやり方だったはずだ。
﹁簡単さ。あれはネルシオスさんが俺を試したんだよ﹂
何でもないことのように言い放った亮真の言葉にサーラは困惑を
隠せなかった。
﹁試したですか?﹂
﹁あれはね、俺っていう人間がどこまで本気で亜人との融和を考え
ているのかを探ろうとしたのさ。サーラは何故俺がネルシオスさん
をあの場に呼んだか分かるかい?﹂
亮真の問いにサーラは躊躇いがちに自分の考えを口にした。
﹁人間と亜人の融和⋮⋮その思いを伝える為ですね?﹂
サーラの言葉に無言で亮真は深く頷く。
彼女は亮真の思いを確実に理解していた。
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﹁でも、それならばネルシオスさんの提案は渡りに船だったんじゃ
ないんですか?﹂
﹁確かにね⋮⋮だが、それが実現してしまうと逆に俺達が困ったこ
とになる﹂
﹁困る⋮⋮ですか?﹂
苦笑いを浮かべながら亮真は静かに頷く。
︵まぁ、まだ理解できないのも仕方ないか︶
それは経験の差なのかもしれない。
あるいは才能か。
どちらにせよ、それは支配者にとって絶対に必要な能力の一つだ。
ルピスなどはそれが欠けているために全てを失いかけているのだ
から。 ﹁簡単さ。俺達は亜人に対して何の忌避感もない。だが、それは俺
達だけの事情だ。ウォルテニア半島に移住してくる農民がどう思う
かまでは予想出来ない。違うかい?﹂
﹁光神教団⋮⋮﹂
サーラの中で、亮真の言葉の意味が繋がった。
︵そうか、私も姉さまも中央大陸出身であまり気にしていなかった
し、今、亮真様の下にいる人間のほとんどは傭兵か奴隷出身。それ
ほど厳格に光神メネオースを信仰しているわけではない。でも、新
たに移住してくる農民がどうかまでは分からない⋮⋮︶
光神教団の本拠地である聖都メネオースは南部諸王国とキルタン
ティア皇国の境目辺りにある。
距離的な問題で、西方大陸東部や北部では比較的緩やかな信仰で
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はあるものの、信仰の度合いは個人差があるだろうし、下手をすれ
ば武装蜂起が起こるかもしれない。
ダーク
無論、所詮は平民だから武力鎮圧は容易いだろうが、亜人達の人
間に対する感情は確実に悪化するだろう。
﹁それに、ネルシオスさんの話は元々ありえないんだ。あの人は黒
エルフ族の部族長だが、独裁者じゃない。あの人の考えだけで亜人
全体が動くなんてことはないのさ﹂
ネルシオスは確かに有力者だろうが、独断で兵を動かすことは難
しい。
ましてや、亜人達の迫害の歴史はそう簡単に拭いされるものでは
ない。
﹁ネルシオスさん個人の感情はともかく、人間への恨みが捨てられ
ない奴もいるだろうから、歩み寄りには当然時間が必要さ。勿論俺
達の方にもね﹂
﹁それじゃ、ネルシオスさんの提案は⋮⋮﹂
﹁俺が現実を見ているか試したってわけさ。理想は認めても、それ
を実現するだけの資格が有るのかをね。もし俺がネルシオスさんの
提案に飛びついていたら、あの人は二度と俺を信じなかっただろう
な﹂
静かに笑みを浮かべる亮真を見て、サーラの背中に冷たい物が過
ぎる。
︵この人の目は何を見ているのだろう。遠くの理想? 近くの現実
?︶
そんな思いが、サーラの心に浮かんだ。 1258
第4章第7話︻理想と現実の間で︼其の1︵後書き︶
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第4章第8話︻理想と現実の間で︼其の2
西方大陸暦2813年11月14日昼
重苦しい空気が謁見の間を覆う。
赤い絨毯を挟んで左右に立ち並ぶ警護の騎士達の顔には緊張の色
が浮かんでいた。
それもある意味当然のこと。
これから内乱を終結に導いた救国の英雄と、それを排除しようと
した支配者が久しぶりに顔を合わせるのだから。
衛兵や文官。そして有力貴族の面々。
この場に立ち並ぶ全ての人間の視線が、跪いて女王の入室を待つ
男とその背後の警護役達へ注がれていた。
﹁久しぶりね御子柴男爵。顔を上げなさい﹂
玉座の前で亮真が跪き顔を伏せていると、衣擦れの音と共に頭の
上からルピスの声が響いた。
玉座の左手に立つメルティナが挑みかかるかのような鋭い視線を
向ける。
傍らにはメルティナを控えさせているのは、初めて会った時と同
じだ。
﹁お久しぶりでございます。陛下﹂
ルピスの声に従い、跪いたまま亮真は穏やかな笑みを浮かべなが
ら顔を上げた。
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彼の顔には、ルピスへの嫌悪も怒りも侮蔑も何も浮かんではいな
い。
完璧な貴族の作法。
そして、人の良さそうな穏やかな笑み。
その姿を見て、謁見の間を覆う空気が緩んだ。
表立っては言葉にしないものの、上層部のほとんどがルピスと御
子柴亮真の間にある確執を理解していた。
彼らはこの会談がかなり刺々しい展開になるのではと心配してい
たのだが、思いのほか和やかな滑り出しである。
彼らが胸を撫で下ろしたのも当然だった。
だが次の瞬間、ルピスの口から放たれた言葉に彼らの顔が一斉に
強張った。
﹁状況はエレナの手紙にも書かれていたと思うから単刀直入にいう
わ。貴方にはエレナの補佐としてザルーダへ援軍に参加して貰いた
いの﹂
彼らは皆、ある程度形式的な挨拶を交わした上で切り出すものだ
とばかり思っていた。
何しろこれまでの経緯が経緯だ。
他愛のない会話で場の雰囲気が和んでから切り出すのではないか
と思っていたのだが、ルピスの選択は違ったようだ。
単刀直入。
形式を重んじる貴族にとってはあまり好ましい手段ではないのだ
ろうが、無駄な形式を嫌う亮真にとっては好印象だった。
周囲が固唾をのんで見守る中、亮真は穏やかな笑みを浮かべると
しっかりとした声で答えた。
﹁お引き受けいたします﹂
1261
その言葉にどよめきが起こった。
確かに、御子柴亮真という人間を知っている者ほど、目の前の光
景が信じられないだろう。
彼の性格的な部分もあるが、何よりウォルテニア半島などという
未開の辺境を領地にして、一年数ヵ月後程。長年王国から見捨てら
れた魔境。税を納める民すらいない土地。
現実的な問題として、あんな土地を押しつけられてから、この短
時間で兵を出すだけの力を蓄えられるわけがないのだ。
当然、この謁見の間に立ち並ぶ殆どの人間は亮真がルピスの要請
を断ると思っていた。
そう思わなかったのは、エレナを筆頭に御子柴亮真の性格を良く
知る一握りの人間のみ。
﹁ただ、幾つかお願いがございます﹂
亮真の言葉に、再びどよめきが謁見の間を包む。
︵まぁ、当然でしょうね⋮⋮︶
ルピスは静かに頷くと、亮真に先を促した。
表面上落ち着いていたが、彼女自身、内心では自らの頼みを拒絶
されると覚悟していたのだ。
逆にあまりにももあっさりと受諾されてしまい一旦は毒気が抜か
れたが、流石に目の前の男は甘くは無い。
人の良さそうな笑みを浮かべた老け顔の男だ。
体格は良いが、どちらかといえば凡庸な容姿。
だが、ルピスはイヤと言うほど理解している。
目の前の男が血肉を貪る凶獣である事を。
当時公爵だったゲルハルトが、前の国王でありルピスの父である
ファルスト二世の子としてラディーネ王女を担ぎ出したのは、僅か
一年ほど前の事。
本来は王家の盾と矛である騎士団。 1262
その八割方をホドラム将軍に牛耳られていたルピスにとって、頼
れるものは長年自分の警護役として仕えてきたミハイル・バナーシ
ュと、メルティナ・レクターの二人だけだ。
希望の光すらない状況で、彼は現れた。
傍観派と呼ばれる貴族達を切り崩し、テーベ河では橋頭堡を作る
こうかつ
ために数千の敵兵を溺死させた︻イラクリオンの悪魔︼。
しんし
狡猾で残忍で冷酷で⋮⋮必要ならどんな手段でも取れる男。
だが、その一方で彼はルピスに対して真摯で誠実だった。
少なくとも、後背定かならぬ貴族等より余程信じられた。
︵それなのに、私は彼を裏切った⋮⋮︶
確かに表向きは戦功の褒美として貴族に叙し、ウォルテニア半島
と言う領地を与え厚遇した。
だが、それが目の前の男に対しての恐怖心から出た行動なのは、
ルピス自身が一番理解している。
いや、長年王国から放置されてきた税収も期待できないような未
開の辺境を領地として与えておきながら、厚遇も糞もない。
実際、ローゼリア王国の支配階級では公然の秘密だ。
﹁言ってみなさい﹂
ルピスはそう言うと覚悟を決めた。
決断したのは自分だ。
だから、責任は全て自分にある。
ルピスは国を守るためにどんな条件でも飲もうと決めた。
それがどれほど痛みの伴う要求でも。
他にこの国を守る手段は残されていないのだから。
その夜、王城の一室で亮真はエレナの訪問を受けていた。
ソファーに腰を下ろし、二人は視線を交わす。
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﹁思ったよりも早い再会だったわね﹂
エレナは母親の様な優しい笑みを浮かべて亮真の顔を見つめる。
﹁えぇ。俺も驚いていますよ﹂
卓上に置かれたランプの光が、エレナの顔を照らし出す。
︵少しやつれたかな︶
こじわ
エレナの言葉に頷きながら、亮真の視線はエレナの顔に刻まれた
小皺に向けられた。
謁見の間で見たときには遠目だったため気がつかなかったが、相
当に苦労しているらしい。
﹁あの忠告は無駄になってしまったかしら?﹂
エレナと別れる際に亮真が送った忠告のことだ。
﹁えぇ。正直に言ってこれ程悪くなるとは思いませんでしたよ⋮⋮
エレナさんにはなんて言ったらいいか⋮⋮﹂
亮真は隠すことなく自分の考えを告げた。
ホドラムへの復讐を認めると言う代価は支払っているにせよ、エ
レナを現職に復帰させたのは亮真自身だ。
泥船に近いローゼリア王国という船に乗せた責任は免れない。
その思いが、亮真の背中を押した。
﹁やはり⋮⋮あの時、ゲルハルト子爵を処刑しておくべきだったわ
ね﹂
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ため息混じりに呟くエレナの言葉に亮真は首を振った。
﹁今の状況を見ると、仮にミハイルを見捨ててゲルハルトを処刑を
したとしても結果は大差ないでしょうね﹂
﹁王の資格がないと?﹂
ひぼう
亮真の顔に向けられたエレナの目が細まる。
それは国王を誹謗したに等しい言葉。
﹁失格とは言いませんが、あまり適正がないのは事実でしょうね。
まぁ、誰か信頼できる人間が実権を握り、彼女が象徴的な存在で治
めるならかなり結果は変ったでしょう﹂
肩をすくめて答える亮真にエレナの目は鋭さを失い、悲しそうな
表情を浮かべた。
悔恨。
それがエレナの心に突き刺さる。
﹁そうね⋮⋮確かにその方がこの国にもルピス陛下にとっても良か
ったでしょうね。もし、貴方の様な人が彼女の支えになってくれて
いれば⋮⋮﹂
それは仮定するだけ無駄な意味の無い空想だ。
内乱時の戦功が有るとはいえローゼリア王国の国民ですらなかっ
た亮真に対して、血統や門閥で固められたこの国の貴族や上級騎士
達の反発は強い。
彼らは自らの家柄や血縁を誇りにする一方で、平民に対しては高
圧的な考え方を持っている。
それでも、同じローゼリアの民ならば納得できる部分もあるのだ。
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不承不承ではあったとしても。
しかし、亮真は違う。
彼はどこの馬の骨とも分からないただの傭兵でしかない。
結果的に亮真は男爵位に叙され貴族の一員にはなったが、それは
飼い殺し的な意味合いが強い為、声高に問題視する人間がいないと
いうだけの話。
ウォルテニア半島という特殊な地形が貴族達の拒絶を抑え込んだ
だけで、通常ならばありえない措置だ。
そんな国で御子柴亮真が国の運営に携われるはずが無いのだ。
無論エレナも平民出身ではあるが、彼女の場合は長い年月をかけ
て実績と味方を造ってきた。
周辺諸国にまで広まった異名も大きい。
亮真とはあまりに立場が違いすぎた。
そして、最大の理由はルピス自身が亮真を遠ざけたということだ。
全ての条件がエレナの言葉が有りえない事を示していた。
それでも、エレナは悔しいのだ。
もしかしたら。
その言葉がエレナを縛り付ける
﹁まぁ、其の話は良いわ⋮⋮﹂
深くため息をつくとエレナは表情を引き締め、亮真に向かい合う。
仮定は所詮仮定に過ぎない。
悔んだところで現実は変わらない。
︵今出来ることをするしかないのね︶
そう、今のローゼリア王国には大国の牙が迫っているのだから。
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第4章第8話︻理想と現実の間で︼其の2︵後書き︶
1267
第4章第9話︻理想と現実の間で︼其の3
西方大陸暦2813年11月14日夜
﹁それで? 何故あんな条件を出したの?﹂
昼間の謁見の時に亮真が出した条件の事だ。
つうよう
亮真から出された条件の全てをルピスは承諾した。
ルピスにとってもさほど痛痒を感じない程度に抑えられていたの
だから当然だろう。
うかが
大臣達を含めた会議に掛けられる事なく、ルピスがその場で即決
した事からもそれは窺う事ができる。
まぁ、亮真が即決できるようわざと条件を抑えたと言うのが本当
のところなのだが、彼らにしてみればそんなことは分からない。
﹁何か不審な点でもありましたか? エレナさん﹂
エレナの問いに亮真は笑みを浮かべて答えた。
その表情からはとても裏があるようには見えない。
だが、エレナには確信があった。
﹁不審? そんなものはないわ。いいえ、なさ過ぎるのよ﹂
断言するように語気を強めたエレナに、亮真は驚きを隠せなかっ
た。
﹁いや、ないのに責められるってどういう事ですか?﹂
1268
それは当然の反論だ。
不審な点があって問いただされるならまだ理解できるが、不審な
点がないのに問いただされるのは納得がいかなくて当然。
しかし、エレナの表情は変わらなかった。
﹁亮真君⋮⋮何を考えているの?﹂
その目は真剣で、揺らぎがない。 納得のいく回答が得られない限り、エレナが引く事はないだろう。
︵やれやれ⋮⋮まぁ、確かにエレナさんから見れば不自然に見える
か︶
思わず亮真の顔に苦笑いが浮かんだ。
別に大した裏があるわけではないのだ。
限りなく低い勝算を少しでも上げようと提案しただけの事。
戦場に赴く以上、最善を尽くさなければ死ぬのは自分だ。
そして、亮真の率いる事のできる軍勢では、とても戦局を左右す
るほどの力はない。
国同士のぶつかり合う戦場で、僅か数百の軍勢がどれほどの働き
を出来るか。
出来るとすれば隙を突いての一撃必殺。そんな所だろうか。
戦場での主役はエレナの率いる騎士団やミスト王国の援軍だろう。
少しでもエレナの負担を下げようと言うのが本当の所だ。
ただ、ほんの少し自分達に有利になるようにしただけ。
迷惑料としても破格の安さだ。
︵仕方がない。エレナさんに不審をもたれちゃこっちが不味くなる
からな⋮⋮︶
亮真はため息を一つつくと、静かに問いかける。
﹁軍資金の件ですか?﹂
1269
王都やその周辺に暮らす流民や平民の半島への移住許可に、援軍
に参加する為の一ヶ月ほどの準備期間。
技術者の移住が多少はネックになったようだが、それでも声を大
にして言うほどのことではない。
流民の移住は悪化する王都の治安回復になるし、援軍に参加する
為の準備期間として一ヶ月ならばむしろ短いとすら言える。
となれば、エレナが気にしているのはルピスから軍資金の名目で
得た五千万バーツの件しかない。
﹁武具兵糧はこちらで準備すると伝えていた筈よ?﹂
エレナは探るような視線を亮真へ向けた。
軍資金の名目も不自然だし、額も少ない。
ウォルテニア半島の開発に資金が必要なのはエレナも理解してい
るが、それなら正直に言えば良いだけのことだ。
亮真に対して無理を強いているのは誰もが知っている。
半島開発の為の資金援助を援軍参加の条件に付けても誰も文句は
言わないだろう。
何もこんな状況で軍資金などと名目をつける必要はない。
﹁確かに、ですが王都の状況を見たら怖くて任せられませんよ﹂
﹁どういう意味?﹂
﹁そのままの意味ですよ。陛下は今の王都を掌握しきれていない。
自分の膝元をですよ? そんな状況で国内から物資を集めて管理で
きると思いますか?﹂
亮真の言葉にエレナの顔が強張る。
1270
﹁まぁ、陛下が直接集めるわけじゃ訳じゃないですけれど⋮⋮ね﹂
肩をすくめて含み笑いを浮かべる亮真に、エレナは背筋が冷たく
なるのを感じた。
︵この子⋮⋮王都の状況からそこまで読み切ったというの?︶
とんざ
確かにルピスの改革は決して上手く行っていない。
いや、殆ど頓挫したと言ってよい。
元々、ルピスは近衛騎士団の団長を務めていた所為で、あまり官
僚や貴族達との接点がない。
その結果、ルピスの目指す国王への権力の集権化は既存の官僚や
貴族達の権限を大きく制限するとして大きな反発を招いていた。
彼らにしてみれば、右も左も分からない政治のど素人が王の権力
を盾にして自分の領分を侵している。
そんなイメージしか持っていないのだ。
これでゲルハルトが死んでいたならば、彼らも諦めたかもしれな
いが、ラディーネと言う王族を擁立したゲルハルトは爵位こそ公爵
から子爵へと大きく下げたものの、実権という点では逆に強くなっ
ていた。
具体的にいえば頭である大臣クラスは確かに入れ替わった。
ゼレーフ、ベルグストン伯爵らを筆頭に、今まで傍観派として不
遇な毎日を送ってきた貴族達が就任している。
だが、彼らの命を実行するのはゲルハルトが実権を握っていた時
代から仕える中級下級の官僚達だ。
その彼らにそっぽを向かれて国が上手く動くはずがない。
実際、ザルーダへの援軍が決定してから今まで、王都を中心に武
具や兵糧など物資の調達を命じていたが、必要な三分の二程度が集
まったにすぎないのだ。
無論、ザルーダ王国からも物資の補給は貰うことが出来るだろう
が、全てを任せるわけにはいかない。
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援軍に赴く以上、現地で略奪するわけにはいかないし、自分達で
ある程度の準備をしていくのは当然のこと。
実際、ミスト王国も威風堂々とした騎士団を先頭にした軍の後ろ
には、多くの物資を満載した荷車が続いていた。
食糧はもとより、予備の武具や馬の飼い葉。負傷した兵の為の医
療品。
﹁亮真君⋮⋮貴方﹂
エレナは言葉を失った。
目の前の青年はこの若さで軍とは何かを知っているのだ。
軍とは巨大な生き物に等しい。
それも膨大な物資を食い散らすだけで、自らは何も生み出さない
巨獣。
その癖、餌が不足すればたちまち軍と言う生き物は暴走を始める。
だが、それを理解する人間は少ない。
軍人でも上級幹部と呼ばれる一部の人間以外、この感覚は身に就
いていないだろう。
だが、驚く一方でエレナの心にある疑問が浮かぶ。
︵この子⋮⋮一体どこから調達してくるつもりなのかしら?︶
確かに、物資は必要だ。だから、軍資金の話は分かる。
だが、幾ら金が有っても物資を売って貰えなければ意味がない。
軍が消費する物資の量はけた外れだ。
エレナの率いる一個騎士団と、亮真の率いる数百人の兵士。両者
を合わせても三千に満たない数だが、それでも街中の商店で買い揃
える事の出来る量ではない。
それなりの規模を誇る商会に依頼するより他に選択肢はないのだ
が、一見の客ではそんな注文を受ける商会などないだろう。
それなりに実績がなければ、商会とて請け負うことは出来ない。
仕入れにはリスクが付きまとうからだ。
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﹁あぁ、大丈夫ですよ。正直なところ、既に話は出来ているんで。
後は金を支払うだけですから﹂
﹁え?﹂
何でもないことのように軽く言い放った亮真の言葉に、エレナは
思わず問い返した。
﹁イピロスの商会に既に話を通しているんですよ。まぁ、幸運でし
た。だから、向こう半年の物資はこちらでも確保してるんです﹂
﹁そう⋮⋮それで一ヶ月なのね﹂
目の前で悠然と穏やかな笑みを浮かべる青年は、全ての準備を整
えた上でこの王都へとやってきたのだ。
事前に、呼び出される可能性を考えていたとしか思えない。
亮真は自ら進んでこの国の為に働こうとしている。
それは本来喜ぶべきことだ。
だが、過去の仕打ちを考えればそんな事はありえないのだ。
︵一体何時から⋮⋮いえ、そうじゃない。一体何のために?︶
エレナは自らの心にわき起こった疑問を亮真へ問いかけはしなか
った。
言葉に出したら全てが崩れる⋮⋮そんな気がして。
1273
第4章第10話︻西へ︼其の1
西方大陸暦2813年12月17日正午
イピロス郊外の平野に兵士の一団が野営していた。
兵士の数は三百名前後と言ったところか。
それに、みすぼらしい服を着た男達が百名程地べたに腰を下ろし
ていた。
ひるが
黒く染められた革の鎧を身につけた兵士達が、幼さの残した顔に
似合わぬ鋭い眼を周囲へ配る。
突然、風に吹かれて野営地に掲げられた黒染めの旗が翻えった。
旗に縫いとられた意匠は剣に絡みついた金の双頭蛇。その蛇の赤
い眼が妖しい光を放つ。
周囲を威圧するかのような風格漂う旗。
もっとも、この野営地にいる誰もがこの旗を誇りを持って見上げ
る。
剣は力。それを守るようにからみつく双頭の蛇は政略と謀略の証。
それはまさに、自分達の主人を体現するかのような意匠であり、
自分達の手で育んで行く新たな国の証なのだから。
﹁魚の塩漬け四十樽﹂
﹁干したデーツ五十樽﹂
﹁豚の干し肉五十樽﹂
1274
野営地の南側に留められた十台もの荷馬車の上から兵士達の声が
次々と響いた。
﹁大変でしょうけど、一つ一つキチンと蓋をあけて中身を確認する
のよ﹂
ローラの言葉に兵士達は無言で頷くと、再び確認作業に戻る。
その傍らで、恰幅の良い商人らしき男が兵士達の声に合わせて、
手にした羊皮紙の束をせわしなくめくる。
﹁これで全部ですか⋮⋮いやはや、ザルツベルグ伯爵様のお声掛か
りとはいえ、この量を短時間に揃えるのは苦労しましたよ﹂
ようやく全ての荷台を確認し終え、商人は大きくため息をついた。
この商人が野営地に運び込んだ荷車だけで十台。
その荷台に山積みされた荷を一つ一つ台帳と照らし合わせて確認
をするのだ。
疲労の色が浮かぶのも当然の事。
それでも二時間近くかかった作業が終わり、その丸々とした顔に
笑顔が浮かんでいた。
﹁その分を上乗せしているでしょう。それも、ずいぶんと割高の様
ね?﹂
手に持った羊皮紙の束に視線を落としながらぼやく商人へ、ロー
ラは冷たい目を向けた。
検品の結果、品数にも品質にも問題はないが、ローラへ差し出さ
れた請求書の金額はあまりにも高い。
実際のところ、ここにいる商人達は皆商売熱心であり、油断のな
らない相手だった。
1275
こしたんたん
それこそ、下手な貴族より商談や交渉事に手慣れておりかなり強
かな存在だ。
彼らは抜け目なく、自らの利益を少しでも増やすために虎視眈眈
と機会を狙っているのだから。
ローラの前で満面に笑みを浮かべながらせわしなく羊皮紙をめく
る、この人の良さそうな笑顔を浮かべた恰幅の良い商人に対しても
決して油断はできない。
こうかつ
﹁御冗談を。ザルツベルグ伯爵様にお納めしているのと同じ値段で
すよ﹂
商人はさも心外だと口をとがらせ抗弁する。
さりげなく伯爵の名前を出すところがこの商人の狡猾なところだ
ろうか。
確かに、ザルツベルグ伯爵の名を出されれば、爵位の下の貴族は
口を閉じるしかなくなる。
下手に騒ぎを起こし、ザルツベルグ伯爵の耳にでも入ればどんな
ことになるか。
そんな恐怖が彼らの心を縛るのだ。
この男の運んできた品は干し肉や干し魚といった保存の効く食糧。
一般家庭でも日常的に消費される品であるため、確かに量をそろ
えるのは大変だっただろうが、商人がローラへと差し出した羊皮紙
に書かれた金額は頂けない。
亮真からは無理を言った手前、一割程度の上乗せならば黙って支
払うようにと言われていたが、流石に三割増しは無茶な額だ。
市場の価格調査は事前に行っているし、正直なところ目の前の商
人以外からも同じ量を購入しているのだ。
それらを見比べれば適正な値段というものは簡単に割り出すこと
が出来る。
相手の言い分を鵜呑みにして、商人達の口車に言いくるめられる
1276
ほど亮真達は甘くないのだ。 ﹁そう? なら持って帰って頂戴。他の商会にお願いするから﹂
ローラは何の躊躇いもなく荷を持ち帰るように告げた。
確かに物資は必要だが、何事にも限度と言うものがある。
ここは引くことが出来ない場面だ。
﹁な! それはあんまりでしょう。ザルツベルグ伯爵のお声掛かり
とあって我らも無理を押して品物をそろえたのです。それを今更持
って帰れとは⋮⋮今後のお付き合いにも差しさわりが出ますぞ?﹂
ローラを女子供と甘く見たのだろう。商人はザルツベルグ伯爵が
後ろ盾にいると匂わせながら脅しに掛かった。
確かに、普段ならば効果があっただろうが、この後彼は自分の言
葉を呪うことになる。
﹁一体どうしたのかね?﹂
﹁な!﹂
商人の後にいつの間にか騎士達に守られたザルツベルグ伯爵の姿
があった。
少し前からそこにいたのだろう。
彼の口元が僅かに震えていた。
﹁これはザルツベルグ伯爵様。ようこそおいで下さりました﹂
貴族の作法に従いローラが完璧な動作で伯爵へ敬意を表す。
1277
﹁うむ。御子柴殿の遠征に伴い、別れの挨拶をしようと思ってな。
事前に使いを出しておらんのだが、お時間はおありだろうか?﹂
さも愉快そうに笑みを浮かべるザルツベルグ伯爵は、鷹揚な声で
ローラに尋ねる。
﹁確かに出陣の準備で忙しいのですが、色々とご配慮を頂いており
ます伯爵様の御越しとなれば、否と申すはずがございません﹂
﹁そうか⋮⋮うむ、では案内を頼もう﹂
ここでザルツベルグ伯爵は言葉を切ると、顔を青白く染めた商人
へ視線を向けた。
﹁貴様はラフィール商会の者だな﹂
ザルツベルグ伯爵は別段語気を強めたわけではないのだが、商人
はまるで死刑宣告を受けたかのように身を強張らせる。
めと
イピロスの経済を握る商会連合の代表であるミストール商会の一
人娘を娶った領主の言葉だ。
顔を引きつらせたこの商人にとって、伯爵の言葉は神の託宣にも
等しかった。
﹁御子柴殿はローゼリア王国の為に身を粉にして働かれるのだ。そ
の辺を考えてはくれないか?﹂
別に伯爵は何かをしろと商人へ命じたわけではない。
だが、その言葉の裏に隠された真意を見抜けないほどこの男は愚
か者ではなかった。
1278
﹁た、大変失礼いたしました。手違いがあったようで⋮⋮﹂
露骨な値引きの強要だが、その場であからさまに値引くと言うよ
うな事を商人はしなかった。
ザルツベルグ伯爵もそれ以上何かを言う事はない。
自らの意思が正確に伝ったと理解したのだ。
﹁うむ、商会連合の皆には無理を強いているが、それも全てこの国
の為だ。よろしく頼むぞ﹂
﹁はい。大変失礼いたしました。直ちに荷を改め直します﹂
恐らく再度荷を改め直した結果、数か品の等級が間違っていたと
言う事にでもするのだろう。
︵運が悪かったわね︶
ローラは目の前で顔に脂汗を浮かべながら再び荷の確認を始めた
商人の顔を見つめ、心の中で笑った。
この男は、より多くの利益を求めた為に、普通よりも値を下げる
必要に迫られた。
まぁ、こんな場所でザルツベルグ伯爵が声を掛けてくるなど予想
できる筈もないから、この男は自分の欲の深さを反省するより、己
の運のなさを嘆くという方が適切だろうか。
﹁では参ろうか﹂
何事も無かったかのようにザルツベルグ伯爵がローラへ案内を命
じた。 たしな
実際、伯爵にとっては取るに足らない出来事だ。
欲深い商人をちょっと窘めてやっただけなのだから。
1279
﹁まったく、貴公も人が良いな。いくら泣きつかれたとは言え、ザ
ルーダへ援軍に赴くとは。命が幾つ有っても足りんだろうに﹂
ザルツベルグ伯爵はローラに案内された天幕の中に入ると、亮真
の顔を見た途端に唇を歪めて言い放った。
もっとも、その表情には笑顔が浮かんだままだし、彼の口調を聞
いた限り別に嫌味を言っているわけではない。
どちらかと言えば、友人に対しての憎まれ口に近い感じだろう。
﹁お久し振りです。ザルツベルグ伯爵閣下。この度はいろいろとご
助力頂きありがとうございました﹂
素早く横に移動したローラから耳打ちをされた亮真は、驚きの表
情を浮かべることなく伯爵を出迎える。 ﹁あぁ、つまらん挨拶は良い。貴公には今回の件で大分儲けさせて
貰ったからな﹂
頭を下げようとする亮真を手で押しとどめ、ザルツベルグ伯爵は
上機嫌で近くにあった椅子に腰を下ろす。
﹁とんでもございません。伯爵閣下にお口添えを頂た御蔭で、順調
に物資も集まっております﹂
﹁うむ。今後も、お互い持ちつ持たれつといこう﹂
再び丁寧に頭を下げた亮真を見て、ザルツベルグ伯爵は満足げな
笑みを浮かべる。 まぁ、それも当然のことだろう。
1280
今回、ザルツベルグ伯爵が行ったのは単にミストール商会の商会
長である義父へ連絡し、商会連合に所属する全ての商会へ物資の確
保を命じただけだ。
伯爵自身が何か汗をかいたと言う訳ではない。
それでいながら、大量受注を仲介したとして、亮真よりかなりの
仲介料を贈られているのだから機嫌が悪い筈が無い。 それにプラスして商会側からも、何らかの見返りを得ているはず
だ。
ザルツベルグ伯爵がどれくらい今回の物資購入で儲けたのかは不
明だが、恐らく百万バーツを下る事はないだろう。
そして、それだけの利益を伯爵にもたらしながら、亮真は決して
それを恩に着せようとはしなかった。
伯爵の様な人間の考えなど、亮真には手に取るように分かる。
彼の様な人間は人に恩着せがましい態度を取られるのを嫌うのだ。
その反面、義理がたい一面もあるので、相手が下手に出ればそれ
なりの見返りを確保してくれる。
大切なのは相手のプライドを刺激しないことだ。
﹁ところでエレナ・シュタイナーは既にザルーダへ赴いているのだ
ったな?﹂
ひとしきり場が和んだところで、ザルツベルグ伯爵が戦の話題を
口にした。
元々武人肌な人間だけあって、今回の援軍出兵にも強い関心があ
るらしい。
﹁えぇ、流石にこれ以上の遅延はザルーダにもミストにも良い印象
を与えませんからね﹂
正確には良い印象を与えないどころの話ではない。
1281
これ以上、時間を引き延ばしたらミスト王国はローゼリアに対し
て宣戦布告をした可能性すらあるのだ。
﹁まぁ、当然だろうな。ミストにすればザルーダは大切な盾。良く
一年以上も我慢したと言うべきだろう﹂
﹁ローゼリアの状況を分かっていたのでしょう。陛下が貴族達をま
とめきれていない状況でローゼリア国内を通るのはミスト側も避け
たいでしょうからね﹂
﹁それでなくとも遠征は難しいのに、情勢が不安定な国を通るのは
確かにな⋮⋮﹂
軍を遠征させるのはかなり難しい。
故郷から切り離された兵の士気を保つことだけでも一苦労なのだ。
さらに物資の調達に国内の防衛。
懸念点は幾らでも有る。
これに加えて通過する国が情勢不安となれば、幾らザルーダへ援
軍に出向きたくとも遠征を決断するのは困難だろう。
﹁貴公はこれからどうするのだ?﹂
﹁イピロスを西に進んで、ザルーダ国内に入ります。後は街道を南
に進んでザルーダの首都ペリフェリアでエレナさんと合流ですね﹂
﹁まぁ、当然の選択だろうな⋮⋮後は貴公の運次第か﹂
どこかからかう様な視線を向けるザルツベルグ伯爵の言葉に亮真
は無言で答えた。
今更改めて言われるまでも無い事だ。
1282
アース
リアース
運のある人間は生き残り、運のない人間は死ぬ。
それは、大地世界でも裏大地世界でも変わりはないのだから。
会談を終え、護衛兵士を引き連れて野営地を離れようとしたザル
ツベルグ伯爵は、ふと風に翻る黒染めの旗へ視線を向けた。
︵ふむ⋮⋮蛇に剣か⋮⋮全くあの男に似合いの意匠だな︶
少なくとも蛇は確実にあの男を的確に表している。
︵あの男の思惑に乗っては見たが、さて、どうなるか見ものだな︶
別に信頼も信用もしていない。
ただ、あの男が利を齎したから少しばかり力を貸してやっただけ
の事。
会談で浮かべた友好さなど、所詮上辺だけの見せかけに過ぎない。
そして、それを共に理解している。
︵あの男がザルーダを救えれば良し。ダメでも別にその時は北部の
貴族共を纏めてオルトメアと交渉すれば良いだけの事︶
ローゼリア王国の存続にさえ固執しなければ、貴族が生き残る手
段は幾らでもあるのだ。
ただ、だからと言ってオルトメアに侵攻して欲しい訳ではない。
戦には金がかかるのだ。
たとえ矛を交えなかったとしても。
︵あの男はあの意匠の通り蛇の知略を持っている⋮⋮後は剣の武力
か。意匠がこけおどしかどうか見物だな︶
ザルツベルグ伯爵の顔に冷たい笑みが浮かんだ。 まるで、弱者が足掻く姿を高みから悠然と見下すかのように⋮⋮
1283
第4章第11話︻西へ︼其の2
西方大陸暦2813年12月22日 夕方
黒染めの鎧兜に身を包んだ兵士達が、長い隊列を組み街道を南進
して行く。
その後ろに続くのは、荷台から溢れんばかりの物資を山積みした
荷馬車の一団だ。
遠く山脈の合間から差し込む真っ赤な夕陽を背景にして進む彼ら
は、まるで血に塗れた悪鬼の群れを見る者に想像させた。
プラウ
﹁おい! ありゃ、一体どこの貴族様の兵士達だ?﹂
うね
街道沿いの畑で畝作りをしていた中年の男が、犂から手を離すと、
プラウ
鞭を手にした妻へ声をかけた。
馬に引かせた犂を固定するのはかなりの重労働で、一息入れたか
ったのも妻へ話しかけた理由だろう。
男はしびれ始めた掌をこすり合わせながら、再び視線を街道へと
向けた。
その目には言い知れぬ嫌悪の炎が渦巻いている。
︵開けても暮れても、戦⋮⋮戦⋮⋮戦。全く、貴族様が何をやろう
と俺達には関係ねぇのになぁ︶
日々苦しくなる生活が、男の心はそんな思いを浮かべた。
ごく普通の農民にとって、税を納める人間が誰だろうと構いはし
ない。
結局のところ、自分達の安全で安定した生活を保証してくれれば
1284
良いのだ。
ひん
今このザルーダ王国はオルトメア帝国に攻め込まれ亡国の危機に
瀕している。
幸いな事にザルーダ王国の北東部は未だ戦禍から逃れられていた
が、何れこの地にも戦の火の粉は飛び火してくる。
しかも、北東部は直接的な戦禍からは逃れられているとはいえ、
影響がない訳ではない。
この一年で国内の物価は急激な上昇を続け、戦時下の名目の下、
領主よりかなりの額の臨時徴税を課せられていた。
生活は厳しくなるばかりだ。
︵まぁ、それでも俺はまだマシか⋮⋮︶
男の家は土地を自分で持っている。
支払う税は領主だけでいい。
それに比べて土地を地主から借りて農業を行う連中は、領主への
税とは別に土地の使用料を地主へ払わなければならない。
男の脳裏に、先日税を払う為に一人娘を奴隷商人に売り払った近
所に住む男の顔が浮かぶ。
︵あの子はまだ八つやそこいらなはずだ⋮⋮クソッ︶
澄んだ青い目が魅力的な、なかなかかわいらしい栗毛の女の子だ。
親も目に入れても痛くない程の可愛がり様だった。 例年通りならあの子は奴隷商人へ売られる事はなかったはずだ。
︵全く、早く終われって言うんだ。どうせ俺達には何の関係も無い
んだからよぉ︶
さっさと滅ぶなら滅びればいいのだ。
何時までも抵抗するから戦費は膨れ上がり、そのしわ寄せが彼ら
に押しつけられるのだから。
もっとも、彼はそこまで論理的に考えているわけではない。
彼はただ単純に日々の暮らしを圧迫していく税が嫌いなだけだ。
﹁あぁ? 何をサボっているんだい。良いからサッサと終わらせる
1285
よ!﹂ プラウ
うね
夫の手が犂から離れた所為で、畝が蛇行し始めた事に気がついた
妻が、二頭の馬に鞭打つのを止めると声を荒らげた。
かなり気の強い感じの女性だ。
夫を尻に敷くタイプなのだろう。
だが、そう言いながらも夫の視線が気になったのか、彼女も顔を
街道へ向ける。
﹁なんだい⋮⋮ずいぶんと気持ちの悪い兵だね⋮⋮﹂
黒黒黒。
遠目から見ると頭の天辺からつま先まで真っ黒のように見える。
﹁あぁ、お前何処の兵士だか分かるか?﹂
﹁あんな連中見た事ないよ﹂
﹁あぁ、俺もだ。この近辺の貴族様じゃねぇな﹂
身震いをしながら答える妻に無言で頷くと、男は視線を街道に戻
しながら呟いた。 あれほど特徴的で印象に残る軍隊も珍しい。
数は決して多くはないようだが、それでも金を掛けて全員が同じ
色に染められた鎧兜を身に付けさせる貴族は少ない。
それこそ、王国の騎士団でも忠誠と実力が飛びぬけた近衛や親衛
騎士団などか大貴族に限られるはずだ。
﹁それに、あの旗⋮⋮﹂
1286
﹁あれは蛇かい? 紅い目をして気持ちが悪いねぇ﹂
風に翻る黒染めの旗。
そこに縫いとられたのは剣に絡みつく金の双頭蛇。
かなり独特の意匠だ。
一度見たら決して忘れることがないくらいに。
﹁あんたぁ⋮⋮村長に話をしてご領主様に連絡した方が良いんじゃ
ないかい?﹂
夫を見つめる妻の目が不安げに揺れ動く。
﹁村長か⋮⋮﹂
確かに妻の言葉には一理あった。
未だ直接的な戦禍を免れているとはいえ、今、このザルーダは戦
の真っ最中だ。
国内に所属不明の軍隊が行軍しているのを放っておくのは危険す
ぎる。
﹁それこそ、うちの村が略奪にでもあったら⋮⋮﹂
おびえた表情を浮かべる妻の言葉に、男は思わず息を呑む。
なるべく考えない様にしていた言葉だからだ。
放たれた火。
黒煙の充満する村。
地面に倒れ伏す村人達から流れる紅い血の河。
そして、奴隷として首輪に繋がれた女子供。
︵クソッ! 戦場はもっと西のはずだろうが! こんなところにい
るはずが⋮⋮いや、だが、まさか本当に?︶ 1287
村には戦火を逃れた流民が数家族、親族を頼って流れ込んで来て
いる。
彼らから聞いた話では、戦場はもっと南西のオルトメアの国境近
くだったはずだ。
最近は劣勢に立たされているともっぱらの噂だが、いきなりこん
な北東部の街道に表れるはずがない。
だが、目の前の光景は夢でも幻でもないのだ。
﹁おい、村へ知らせに帰るぞ﹂
震える妻の手を握ると、男は農具や馬を放り出すと南へ向かって
歩き出した。
うね
なるべく街道を進む兵士達から身を隠すかのように身を屈めると、
畑を突っ切る。
せっかく午前中から作った畝を踏み壊したが、そんな事を気にし
ている余裕はなかった。
最も助かる確率が高いのはこのまま二人だけで何処かに隠れる事
だが、二人が暮らすのは街道から少しは外れた小さな村だ。
村人は全員、家族と言っていい。
男は追いすがる妻の手を引きながら、村に向かって足を速める。
家族を見捨てることが出来なかったから⋮⋮
﹁亮真様⋮⋮農民が﹂
ローラが馬を寄せ街道の両側に広がる農地の一角を指差した。
確かに指差す先には、黒い人影が身を屈めるように農地を踏み荒
らしていく。
︵あぁあぁ、あんなに畑を荒らしちまって。全く、こっちは善意の
味方だって言うのに⋮⋮︶
1288
イピロスを出立して以来、幾度となく繰り広げられた光景を見な
がら亮真は深いため息をつく。
﹁あぁ、下手に構うな⋮⋮それこそ、敵だと誤解されて襲いかから
れちゃ堪らないからな﹂
すきくわ
農民といえども、犂鍬を手に襲いかかってくれば立派な脅威だ。
下手に奇襲でもされれば、負けることはないにせよ、少なからず
損害は出る。
それに、幾ら襲われたとはいえ、援軍に赴いた国の民を傷つけて
はわざわざ此処まで来た意味がなくなってしまう。
長時間、馬に揺られている為、尻が擦れて時折痛みが走るのだが、
それが気にならなくなるほど頭が痛い問題だ。
別に村を上げて自分達を歓迎しろとは言わないが、もう少し対応
を考えて欲しいと言うのが正直な気持ちだ。
せめて、先行部隊でもつくって事前に知らせを走らせれば良いの
だろうが、農民達は兵士が自分達へ近づくと我先にと逃げ出してし
まう。
それに、あまり部隊を分けると各個撃破されてしまう可能性もあ
る。
確かにザルーダ北東部は比較的安全なはずだが、戦場では何が起
こるか分からないのだ。
数日前など、危うく領主の集めた混成軍と戦端を開きかけた。
彼らは亮真達を敵国の略奪部隊と勘違いしたらしい。
幸いな事に、矛を交わす前に誤解が解けたので事なきを得たのだ
が、正直に言って気が気ではない。
﹁後何日だ?﹂
﹁距離的には残り十日と言ったところですね⋮⋮ですが﹂
1289
ザルーダ王国の王都であるペリフェリアまでの日数の事だ。
エレナより借り受けた地図は軍事用なのでそれなりに精度が高い。
無論、人工衛星などはないので、あくまでもこの世界のレベルで
の話と言うことにはなるのだが、民間で使われる物と比べれば格段
の差があるのだ。 馬に揺られながら器用に地図を広げたローラの顔が曇る。 ﹁ここから王都に進むと弱小貴族の小領地が複雑に入り組んできま
す﹂
﹁連絡が漏れている所もあるって事か⋮⋮﹂
しか
ローラの答えに亮真は顔を顰めた。
先日の一件で、ローゼリア王国からの援軍であるとの伝令を頼ん
ではいるのだが、戦時中と言うこともあってか人手不足の様で、情
報が伝わっていない貴族も居る。
そして、その傾向は小貴族程強い。
街道から外れた農村などを領地にしている貴族も居るのだ。
城砦都市イピロスを出発して五日。
既に二百キロ近くを進んできた計算になる。
しちょう
かなりの強行軍を強いて、一日四十キロ以上を進んでいるのだ。
時速にして四キロ強。
隊列を組んだ歩兵部隊に、食糧物資を運ぶ輜重部隊。
行軍速度としてはかなり早い。
それほど無理をしてザルーダ王国へ援軍に赴いたと言うのに、連
絡ミスから敵と誤認され貴重な兵士を失っては元も子もなかった。
﹁仕方ない⋮⋮騎馬であいつ等を追わせろ。いいか、絶対に傷つけ
るなよ?﹂
1290
此処まで来て変ないざこざを起こす訳にはいかないのだ。
亮真の命を受け、周りを警護していた騎馬騎士の中から数人が遠
ざかる人影を追った。
︵多少時間がかかっても、エレナさんと一緒に行った方が良かった
かな⋮⋮︶
彼女の方は、ザルーダ王国から派遣された先遣部隊が村や町へ先
乗りして混乱が起きない様にしている。
これで、亮真が諸国に名を馳せていればまた対応も違ったのだろ
うが、ローゼリア王国内でも限られた人間しか知れない家紋を掲げ
る黒染めの一団が領内を行軍していれば、知らせを受けていないザ
ルーダの貴族が亮真達を敵と誤認するのも致し方ない事なのかもし
れない。
身分証明の為にルピスから与えられた書状は一枚だけ。
打つ手は限られている。
︵全く、先が思いやられるぜ⋮⋮︶
亮真は再び大きくため息をついた。
1291
第4章第12話︻力の証明︼其の1
西方大陸暦2814年1月3日 午前
﹁男爵様、見えてまいりました。あれがペリフェリアの都です﹂
りんかく
声に従い亮真が傍らを歩く村娘の指し示す方向へ目を凝らすと、
平野の彼方に何か灰色の点のような物が見えた。
その小さな点は、一団が街道を進むにつれ徐々にその輪郭を鮮明
にしていく。
高い城壁に囲まれた堅固な城砦都市。
ただ、流石に一国の首都だけあり、同じ城砦都市であるイピロス
とは比べ物にならないほど巨大だ。
﹁あ! 父さん﹂
ペリフェリアの方から亮真達へ向かって来る一団の先頭に父親の
姿を見つけた村の娘は、嬉しそうに手を振った。
仕事とはいえ、数日の間家族が引き離されたのだから、有る意味
当然なのだが、亮真は思わず苦笑いをうかべた。
外見上は、既に成人を迎えたはずの村の娘の姿がやけに幼く見え
たのだ。
︵結構、気を使ったんだけれどもな。まぁ、仕方がないか⋮⋮︶
それは、亮真の後に控えるマルフィスト姉妹も同じように感じた
ようだ。
恐らく村の娘の行動は、不安と恐れの表れなのだろう。
食料と幾ばくかの金を代金に、ペリフェリアまでの道案内と先触
1292
れ役を引き受けた彼らにとって、この数日間はまさに緊張の連続だ
ったはずだ。
戦時中と言う名のもとに課せられた臨時の徴税が彼らの生活を抜
き差しならない所まで、追いつめていたとはいえ、他国の軍勢に雇
われると言うことはかなりの博打である。
ローゼリアの援軍と言う話で引き受けてはいても、本当にそうか
は分かりはしない。
それこそ、敵国が味方と偽っている可能性だって考えられる。
もしそうであったなら、村人は裏切り者として処刑されるだろう。
祖国の裏切り者として。
騙されたと彼らが主張しても、恐らく無視される。
見せしめとして処刑を行う方が、国の統治には楽なのだ。
そう言った事は、農民の方が良く認識していた。
何しろ、自分達の命がかかっているのだ。
知恵や知識を持ち合わせてはいなくとも、本能的な部分で彼らは
理解している。
それでも、亮真の提案に乗ったのは、それだけ村が危機に瀕して
いたと言う事に他ならない。
両者の間の距離が縮まり、ハッキリと一団の姿が目に入ってくる
と、亮真は有ることに気が付き眉をひそめた。
一団の先頭を歩く男の顔に刻まれているのは怯えだ。
父親の表情に気がついたのだろう。娘の顔にも憂いの色が浮かぶ。
︵なんだ? 追われているって訳でもなさそうだけれどもな︶
もし、敵兵に追われているのならば、あれほどゆっくりとは歩か
ないだろう。
それに、彼の後ろには武装した騎士達がつき従っている。
︵あいつらはザルーダの騎士だろう⋮⋮なんで怯えてるんだ?︶
﹁亮真様⋮⋮﹂
1293
心配そうな視線を向けるサーラの頭に軽く手を置き、亮真は笑み
を浮かべた。
﹁大丈夫だ。二人は此処に居ろ⋮⋮それと、分かっているな?﹂
﹁お気をつけて⋮⋮﹂
ローラの言葉に無言のまま頷くと、亮真は行軍を停止させ騎士達
の前に一人で進み出た。
何にせよ、状況が分からなくては手の打ちようがないのだから⋮⋮
騎士達がさっと左右に分かれると、馬に乗った騎士が、警護を引
き連れながら、亮真の前に姿を現す。
身につけられた鎧兜を見たところ、かなりの上級騎士らしい。
それに、警護に付けている騎士達も、かなり質の良さそうな装備
で身を包んでいる。
︵騎士団の団長か、将軍ってところか⋮⋮︶
亮真の目が細まる。
︵なんでわざわざそんな高位の人間を出してきたんだ? それだけ
追いつめられていると言う事か?︶
﹁貴公がローゼリアの援軍か?﹂
亮真の顔を見た途端、高位の人間と思しき男が鋭い眼を向けなが
ら訪ねてきた。
初対面の人間が取る態度としては、かなり礼を逸した。
少なくとも、遠路を援軍に駆け付けた人間へ向ける態度ではない。
だが、亮真は怒りを面にすることなく、静かに頭を下げる。
1294
わたくし
﹁私はローゼリア王国の男爵にして、御子柴亮真と申します。この
度は、貴国の危機に際し、ローゼリア王国ルピス・ローゼリアヌス
陛下の命を受け援軍にはせ参じた次第です。ザルーダ王国国王ユリ
アヌス一世陛下への謁見を求めたいのですが、ご許可いただけます
でしょうか?﹂
ほぼ完璧と言える礼。
にわか貴族である事を考えれば、十分に合格と言えた。
だが、亮真の示した礼儀は、目の前の男は無造作に踏みにじられ
る。
兜を脱ぎ、後ろに控えた従者へ渡すと、男はジロリと鋭い視線を
亮真の背後え向けた。
金髪を短く刈り込んだ、壮年の男だ。
四十代前半から半ば程と言ったところだろうか。
馬に跨ったままの状態な為に確かな事は言えないが、かなり大柄
な体格をしている。
分厚い肉の壁。
人と言うより、ゴリラに近いと言えるかもしれない。
﹁ふん⋮⋮見たところ五百に満たないようだが、そんな兵数で何が
出来るのかね?﹂
唇を釣り上げて笑う男の口から放たれたのは、鋭い嘲りを含んだ
言葉。
一瞥しただけで兵の数を把握したのは見事と言えるが、どれほど
素晴らしい能力を持っていようと、男のそれは全てを台無しにする
高圧的な態度。
あまり、付き合いたいと思う様な人間ではないらしい。
1295
﹁貴国のルピス・ローゼリアヌス陛下は、我がザルーダ王国をお見
捨てになるおつもりかな? 度重なる援軍要請をことごとく無視さ
れ、ようやく軍を派遣してきたかと思えば、はるか昔に現役を退い
た老いぼれと、何処の馬の骨とも分からない若造を寄こす、とても
我が国の状況を理解されているとは思えないのだが?﹂
もはや男の言葉は、体裁を取り繕うことすら止めていた。
メルティナやミハイル辺りが今の言葉を耳にしていたら、ザルー
ダとローゼリアの間で戦が起こっていた事だろう。
それほどまでに、男の言葉はルピスを侮辱している。
だが、ローゼリア王国にもルピスに対しても全く敬意を持たない
亮真にとっては、意味のない挑発でしかなかった。
けいがん
﹁閣下のおっしゃる通り、兵数は三百程、物資を運ぶための人間が
百五十程です。御見事なご慧眼かと⋮⋮さぞご高名な御方とお見受
け致しますが、宜しければお名前をお教え頂けないでしょうか?﹂
きょうじ
﹁貴公は矜持と言うものをお持ちではないのかな?﹂
全く表情を変えない亮真の態度に、男の顔に呆れたような表情が
浮かんだ。
︵馬鹿が、人前で簡単に感情を露わにするか!︶
あまりにも明け透けな男の挑発に、亮真は心の中で嘲笑った。
大切なのは、自分の気持ちを相手に見せない事。
自分の本心を隠す事。
御子柴亮真が幼いころに体験した有る事件から悟った真理の一つ
だ。
そして、その真理はこういう戦乱の世界でこそ真価を発揮する。
﹁我が国が貴国の要請に一年余りもの間、お答え出来なかったこと
1296
は事実です。それに、未だ国内の情勢は収まりきっておらず、先発
されたエレナ様率いる一個騎士団と我ら合わせて三千にも満たない
事も事実。貴国の懸念は当然の事かと。⋮⋮我らに出来ますのは戦
場にて証を立てるのみでございます﹂
﹁ほぉ、それが本心ならば殊勝な事だな⋮⋮﹂
亮真の言葉に、男は値踏みでもするような視線を向けた。
確かに、言葉だけ聞けば、なかなか洒落た言い廻しのようにも聞
こえる。
﹁良かろう⋮⋮エレナ殿は既にペリフェリアにて軍議に参加されて
おる。貴公もこれから陛下に謁見した後にそのまま軍議に参加して
頂く﹂
亮真の言葉を鵜呑みにしたのかどうかは分からないが、男の表情
が緩んだのは確かだ。
︵既にお膳立てはされてるって訳か⋮⋮て、事はコイツの態度は芝
居か⋮⋮まぁ、向こうにしてみればこっちが気になって当然だしな︶
恐らく、いきなり侮辱する事で、亮真の態度からこちらを推し量
ったのだ。
国王との謁見が既に予定されていると言う事実だけを見ても、そ
れは明らかだ。
﹁そう言えば、自己紹介がまだだったな。わしはザルーダ王国近衛
騎士団の団長でグラハルト・ヘンシェルと言う。まぁ、宜しくな﹂
そう言うと、グラハルトはついて来いとばかりに馬をペリフェリ
アへと向けた。
1297
︵さてさて、これからどうなりますかねぇ︶
グラハルトの後ろ姿を見つめながら、亮真は懐から準備していた
金貨を取りだした。 道端で状況がつかめず目を白黒させている男へ、報酬を支払って
やる為に⋮⋮
1298
第4章第13話︻力の証明︼其の2
西方大陸暦2814年1月3日 午後
王都ペリフェリアの城の一室で、二人の男女が顔を合わせていた。
一人は、穏やかな笑みを浮かべた初老の女性。
戦人として無類の実績と実力を誇りながら、彼女の放つ雰囲気は
穏やかで暖かだ。
︵この方は何時までもお変わりない⋮⋮︶
口元へ上品に手にしたティーカップを運ぶエレナの姿を見て、グ
ラハルトは心の中で呟いた。
︻ローゼリアの白き軍神︼の姿をグラハルトが初めて見たのは彼
がまだ騎士団に入団して直ぐの頃だった。
当時も気さくな人柄に多くの騎士達が魅了されたものだが、彼女
の魅力は、老年に差し掛かっても衰えを見せてはいない。
容姿の美しさは歳とともに衰えるが、人間的な魅力は歳を重ねる
ごとに磨かれていくものらしい。
﹁それで、どう思われましたか? 実際に彼をご自分の目で見られ
た感想は?﹂
一回り近く歳の離れたグラハルトへ、エレナは丁寧な口調で話し
かける。
両者の間にある実績や経験の差を考えれば、グラハルト自身はこ
そばゆい感じがするのだが、幾ら頼んでも言葉遣いを変えようとし
ないエレナに苦笑いを浮かべながら自分の感じたままを口にした。
1299
﹁エレナ様のお言葉ではございますが⋮⋮正直に言って私には判断
がつきません﹂
躊躇いながらも、グラハルトははっきりと自分の感じたままを口
にした。
﹁確かに、彼個人は強固な自制心を備えているようですが、やはり、
率いている兵数が少なすぎます。とても戦況を左右するとは思えま
せん⋮⋮それに﹂
グラハルトは言葉を選ぶように一旦口を閉じた。
﹁それに、率いている兵の歳が若い上に女性も多い⋮⋮でしょう?﹂
そう言うとエレナは、まるで悪戯が成功した時の子供のように無
邪気な笑顔を浮かべる。
﹁ご存知だったのですか?﹂
グラハルトの表情に驚きの色が広がった。
﹁いいえ、さっき遠目からね﹂
﹁さっきですか?﹂
恐らく、グラハルトが亮真達を野営地へ案内する姿を、どこから
か見ていたのだろう。
﹁午後の謁見前にあの子と話をしたかったのだけれども⋮⋮ね﹂
1300
﹁致し方ありません。陛下としてもローゼリアからの援軍には期待
する所が大きかったので⋮⋮それに、御子柴殿とエレナ様を先に会
わせてしまえば、講和派がどんな言いがかりを付けてくるか分かり
ませんから﹂
ザルーダ王国の置かれている状況は決して楽観し出来るものでは
ない。
一年近くも単独でオルトメア帝国の侵攻に抗戦して来た為、国土
は疲弊し将兵にも厭戦気分が広がってい。
前線に近い農村の田畑は焼き払われ、働き盛りの男達は、農民兵
として徴兵されており、残された女子供は近隣の都市部に身を寄せ
るしかない。
そして、領主から十分な保護を受けることが出来ず、生活苦から
奴隷として身売りする者が増えている。
チャンス
ザルーダ王国の国力は目に見える形で低下し始めている。
だからこそ、今がザルーダ王国に残された最後の機会なのだ。
今ならば、ローゼリア、ミスト両国の支援を受けながら、国内戦
力を一気に叩きつける決戦が可能だ。
勿論、それは国の存亡を掛けた博打だが、やる価値の有る博打。
少なくとも、国王を筆頭にグラハルト以下、ザルーダ王国の存続
を望む人間はそう考えている。
﹁グラハルト⋮⋮貴方の気持ちは判るけど、講和派の人間の主張を
頭から否定してはダメよ?﹂
グラハルトが講和派と言う単語を口にした時に見せた微かな感情
の揺らぎを敏感に感じ取り、エレナは子供を窘める母親の様な口調
で語りかけた。
﹁しかし!﹂
1301
﹁いい? 講和派は裏切り者じゃないの。彼らは彼らなりに考え、
この国とユリアヌス陛下にとって最善の選択をしようとしている。
たとえそれが貴方達騎士団とは違う方法だとしても、求めているも
のは同じ⋮⋮でしょう?﹂
︵まぁ、その悪意のない彼らなりの考えと言うのが最大の問題なの
だけれどもね⋮⋮︶
エレナは自分の言葉に心の中で苦笑した。
善意こそが、国を蝕む最も危険な毒だと彼女は知っていたから。
それでも、この場でグラハルトを窘めて置かなくては、彼は自ら
の正義を実力で達成しようとするだろう。
武力による意思の統一。
確実で正しい選択かもしれないが、それは全ての可能性が潰され
た後、最後に取るべき手段だ。
﹁無論⋮⋮ザルーダ王国の存続﹂
そんなエレナの心を知らないグラハルトは搾り出すような声で答
える。
﹁オルトメア帝国の属国となっても、ザルーダ王家が生き残れれば、
それはそれで選択肢の一つではあると思うの⋮⋮無論、代償は大き
いけど、全てを失うよりはマシ。そう考える人間がいるのは当然じ
ゃない?﹂ ﹁⋮⋮エレナ様はそれでよろしいのですか?﹂
内心、崇拝に近い感情を持っているエレナの口から、聞きたくな
い言葉を聞かされ、グラハルトは苦悶の表情で歪んでいた。
1302
﹁私が何の為にわざわざ軍を率いて、この国まで来たと思っている
のかしら?﹂
その言葉がエレナの口から放たれた瞬間、室内の空気が凍りつい
た。
眼光も、表情も、何も変わってはいない。
ただ穏やかに笑みを浮かべているだけだ。
それなのに、グラハルトは恐怖でその体を震わせる。
﹁愚かな事を申しました⋮⋮申し訳ございません﹂
ザルーダ王国がオルトメア帝国に吸収される事を黙って見ている
はずがない。
黙認できるのなら、エレナ・シュタイナーを援軍の将に任じはし
ない。
それでも、エレナは顔色を変えることなく、更にグラハルトを打
ちのめす言葉を発する。
﹁まぁ、私は所詮、一度引退した老いぼれですから、貴方が不安を
覚えるのも致し方ない事なのかもしれませんけれどもね﹂
﹁お、お聞きになっていたのですか⋮⋮﹂
亮真と初めて顔を合わせた時に、態度を見ようと言い放った暴言
だが、まさかそれがエレナの耳に入っていたとはグラハルトは想像
すらしていなかった。
上司の陰口をトイレで同僚と話していたら、本人がドアの外で聞
いていたのと同じくらいに気まずい空気が室内を覆う。
﹁えぇ、老いぼれはしても、まだまだ目と耳は良いのよ﹂
1303
﹁ご冗談を⋮⋮﹂
ここで言う目と耳は、恐らくエレナの身体機能を指しているので
はないはずだ。
あの場所にエレナが居たと言うことは絶対にあり得ない。
と、すれば、エレナはザルーダ王国の中に情報源を持っているの
だ。
︵怖い方だ⋮⋮︶
多くの人間が、エレナ・シュタイナーを︻ローゼリアの白き軍神︼
と呼ぶが、彼女の本当の恐ろしさは戦場における武略や知略ではな
い。
一体どういう手段で手に入れてくるのか誰も知らないが、彼女に
は大陸の様々な情報を自分の下に集める力がある。
そうやって集められた多種雑多な情報から、自分の求める物を抜
き出し仮説を組み立てる。
戦場での彼女は確かに軍神と言える威風を放つが、それは彼女の
一面に過ぎない。 グラハルトはエレナから視線を外し俯いた。
﹁えぇ、冗談よ⋮⋮勿論ね﹂
その言葉に、呆気にとられたように口を開けて固まったグラハル
トを、可笑しそうに口元を隠しながら笑うエレナ。
﹁お人の悪い⋮⋮﹂
﹁このくらいで驚いていたら、あの子の手綱を制御するのは無理よ
?﹂
1304
﹁それ程ですか?﹂
エレナの言葉にグラハルトは目を細めて尋ねた。
ここで言うあの子が何を示しているのかが分からないほど、彼は
察しの悪い人間ではない。
﹁えぇ、私が見て来た中でも最高に凶暴な荒馬って所かしら﹂
﹁荒馬⋮⋮ですか﹂
﹁もっとも、頭の方は蛇か蠍かって所だけれども﹂
人物批評としては大きく矛盾している様にグラハルトは感じた。 荒馬。
確かにこの批評は理解できなくもない。
御子柴亮真の体格は確かに目を見張るものがある。
顔つきは穏やかで人当たりが良い感じがするが、エレナの様に戦
場では人が変わるのかもしれないと想像する事が出来た。
だが、蛇や蠍となると、あの時の亮真の顔からは想像がつかない。
﹁グラハルト、あの子を甘く見てはダメよ。喰い尽されたくなけれ
ばね﹂
﹁とても味方に対しての批評とは思えませんな﹂
エレナの口ぶりは、まるで敵国の将軍か、国内の政敵で論ずるか
のような口調だ。
だが、グラハルトの言葉にエレナは静かに首を振った。 ﹁勘違いをしないで、グラハルト。私はあの子を信頼しているし、
1305
あの子も私を信じてくれている。でも、グラハルト、貴方達はまだ
あの子にとって敵でも味方でもない。だから、あの子に礼を尽くし、
素直に助力を求めなさい⋮⋮敵と認識され、己の全てを奪いつくさ
れる前に﹂
﹁本当に⋮⋮あの者がエレナ様の言葉の通りの力を持っていれば⋮
⋮その時は⋮⋮必ずや﹂
沈黙が室内を支配する。
﹁良いわ、直ぐに嫌でも理解する事になるでしょうから⋮⋮この国
の誰もが⋮⋮ね﹂
エレナは静かに微笑む。
若き毒蛇が牙を向くその姿を思い浮かべて⋮⋮
1306
第4章第14話︻力の証明︼其の3
西方大陸暦2814年1月3日 午後
ピンと張り詰めた空気が、謁見の間を支配する。
扉から真っ直ぐに玉座まで敷き詰められた真紅の絨毯を挟むよう
に、衛兵達が微動だにせずに立ち並ぶ。
その後ろには絨毯を挟んで左右に文官と武官がわかれて整列して
いる。
文官の多くは爵位をもつ貴族なのだろう。
金糸銀糸をふんだんに使用した絹製の服には、彼らの権力を象徴
するかのように、大粒の宝石が散りばめられ燦然と光り輝いていた。
それでも、装いが下品にならないのは、彼らの体に流れる高貴な
血のおかげなのだろうか⋮⋮
祖国存亡の危機に直面していても、彼らは自分の面子を保つため
に、精一杯の虚勢を張っているのだ。
もっともそれは武官である騎士達にも同じ事が言える。
確かに彼らは鎧を着け腰に剣を帯びてはいた。
しかし、熟練した職人の手によって施された凝った意匠が、それ
らの武具を実戦で使う武器と言うよりも観賞用の美術品の様に感じ
させる。
︵まぁ、あんまりみすぼらしい格好じゃ、兵の士気に関わるだろう
けど⋮⋮また、この手の奴らとやりあうのか⋮⋮︶
亮真は彼らの装いを有る程度は認めつつも、心の中でため息をつ
く。
この世界に召喚されて以来の経験に基づくと、有能無能は別にし
て、豪華な服に身を包み身分の高い貴族ほど亮真にとって危険でろ
くでもない奴らばかりだったのだから⋮⋮
1307
﹁どうぞ、御前へお進みください﹂
傍らに侍る侍従に耳打ちされ、亮真はゆっくりと玉座へ向かって
進み始めた。
︵コイツはまた⋮⋮︶
謁見の間には、ズラリと騎士や貴族達が立ち並んでいた。
彼らの顔に浮かぶのは実に様々な感情だ。
歓喜、期待、失望、呆れ、嘲笑。
大まかに分けてこの五つの感情が、この広い謁見の間に渦巻いて
いる。
割合とすれば、歓喜や期待が三分に嘲笑や失望が七分といったと
ころだろうか。
︵援軍に期待していたのに、来たのが俺みたいな無名の若造じゃ、
落胆して当然か︶
思わず自虐的な思いが亮真の心に浮かんだ。
だが、その一方で、亮真の冷徹な部分が周囲の状況から様々な情
報を読み取っていく。
︵数は⋮⋮思った以上に多いな。これが、王位を継いだばかりのル
ピスと、凡庸と言われようと王位を三十年近く守り続けてきた人間
の経験の差って奴かねぇ︶
いろんな思惑が交差する宮廷とはいえ、人がこの場にいるという
事はユリアヌス一世にまだ影響力があるという事。
もし、これがルピスのように未熟な君主だったのなら、自己保身
に走る貴族が続出している事だろう。
実際、内乱初期の段階で、ルピスの下に集った貴族は居ない。
騎士の多くは領地を持たず、雇用主から給金をもらい生活してい
るのに対し、貴族は豊かかどうかは別にして、領地を保有するある
意味独立勢力の意味合いが強い集団だ。
その為、平時は国王を頂点とした中央集権を維持していても、ひ
1308
とたび王の統治能力に疑問が生じれば彼らは迷う事なく自己保身へ
と走る。
それを考えれば、今のザルーダ王国はまだ見込みがあった。
勿論、裏切り者はいるだろうし、様子見をしている人間が殆どで
あろうが、その一方で、様子見をするという事は、彼らは未だにザ
ルーダ王国が勝ち残る可能性があると考えていると言う事だ。
可能性にすればほんの数パーセントもあるかどうかだろう。
しかし、ひょっとしたらという気持ちが、彼ら貴族の心を縛り付
け王宮から離れることを拒むのだ。
彼ら貴族が祖国の負けを意識し、周囲の目を気にせずなりふり構
わずに保身へと走り始めた時こそ、本当の最後。
︵正に、今が最後の機会だった訳か⋮⋮いい読みだ。ルピスかメル
ティナか? いや、ベルグストン伯爵の可能性もあるか⋮⋮どちら
にしても皮肉だな︶
自国は掌握しきれなくとも、隣国の状況を掴む事は出来た訳だ。
亮真はこみ上げてくる嗤いを必死で押し殺す。
そんな中、玉座へ進む亮真は自分へ注がれる視線の中に冷たい感
情が含まれている事に気がついた。
︵値踏み⋮⋮と言うよりも、怒りや殺意に近い⋮⋮な︶
亮真はその元を探るため、視線を感じた方向へと顔を向けた。
︵あいつ等か⋮⋮俺も随分と嫌われたもんだな︶
玉座に程近い一角に、視線の持ち主達は固まっていた。
誰もが初対面の人間。
それで居ながら、彼らの視線に含まれているのは、侮蔑や嘲笑で
はなく、もっと暗く明確なもの。
言葉で表すなら敵意と言う事になるだろう。
周囲と比べても一際豪華な衣装。
彼らの身なりからすると、かなり身分が高いことが窺える。
そして、彼らの立ち位置を考えれば、かなりの権力者である事も
⋮⋮
1309
実際のところ、身分と実権は必ずしもイコールではありえない。
実権のないお飾りのような公爵が居る一方で、王の信任が篤く側
近として重用される男爵も居る。
だが、亮真へ敵意を向ける一団は、身分と実力の両方を兼ね備え
ているようだ。
︵チッ⋮⋮面倒なこった。どうして何時も何時も、すんなりといか
ないのかねぇ︶
ローゼリア王国の内乱時と言い、今目の前に居る一団と言い、御
子柴亮真と言う人間は常に有力な貴族や権力者と敵対する運命の様
だ。
︵しかし、あのゴリラが居ないな⋮⋮確か、グラハルトとか言って
いたが⋮⋮︶
自らの運の悪さにため息を付きたくなるのを我慢しながら、亮真
はグラハルトの姿を探した。
今、一番気になるのは彼の立場。
この謁見の間におけるグラハルトの立ち位置は、彼の立場を明確
に示すはずだ。
騎士達が立ち並ぶ中にグラハルトの顔は見当たらない。
亮真が視線を玉座の方向へ向けると、玉座の左手にグラハルトの
姿が見えた。
彼は、王の傍らに立つにもかかわらず、他の騎士達と同様に鎧を
着込み腰に剣を帯びている。 ︵へぇ⋮⋮あのおっさん、随分と国王の信頼があるんだな︶ 大柄な体格を誇示するかのように立つグラハルトの姿は、玉座を
守る国王の盾を思わせる。
︵あのおっさんが王の側近と言うことは⋮⋮昼間の態度はやっぱり
誰かの入れ知恵って可能性のほうが高いな⋮⋮まぁ本人の考えって
可能性も捨てきれないが、一番怪しいのはエレナさん⋮⋮だな︶
玉座に近ければ近いほど、その人間の発言力は強く身分は高くな
る。
1310
だが、玉座の横に立つとなれば話は別。
単純に身分や実力だけではダメだ。
身分や実力と同じくらいに、王から信頼される必要が有る。
近衛騎士団や親衛騎士団は王の盾であり矛だ。
それでも、国王が自分の傍らに侍らせるとなれば、篤い信頼を寄
せているとしか思えない。
立ち位置的にはルピス女王にとってのメルティナやミハイルと同
じ様なものだろうか。
そんな人間をわざわざ王都の郊外まで亮真を迎え入れるために出
した。
御子柴亮真という人間をユリアヌス一世が詳細に知り尽くしてい
るとは考えられない。
それほど緻密な情報網があるのであれば、これほどまでにザルー
ダ王国が劣勢に立たされているはずがない。
誰かが国王へ進言したのだ。
当然、そこには何らかの狙いがある。
︵だが、たとえエレナさんの発案でも、それを受け入れるだけの度
量がなければ意味はない⋮⋮ユリアヌス一世か⋮⋮変に舐めて掛か
らない方がいいな︶
亮真は空の玉座の前で跪きながら、気を引き締しめ待ち続けた。
凡庸と噂される国王が姿を現すのをただじっと⋮⋮
﹁良くこられたな。遠路ご苦労であった﹂
玉座の前に跪いた亮真の頭の上から、穏やかな声が掛けられた。
﹁は!﹂
﹁そう、かしこまる必要はない。ローゼリアの誇る若き英雄の顔を
1311
余にみせてくれ。貴公はザルーダの貴族ではないのだ。もっと楽に
してくれて良いぞ?﹂
その言葉に従って顔を上げた亮真の目に、真っ白な髭を豊かに生
やした老人の姿が映る。
赤い絹製のマントを羽織り、その頭上には燦然と輝く大粒のダイ
ヤをあしらった金の王冠が老人の身分を証明している。
深い皺が刻まれた穏やかな顔。
青い瞳には理知的な光が宿っていた。
決して大柄な体格ではない。
玉座に座っているため正確な数字は分からないが、中肉中背の体
つきはなんとなく見て取れる。
しかし、老人が纏う雰囲気は紛れもなく支配者の威厳。
連綿と受け継がれてきた高貴な血と、数十年に及ぶ王国の支配者
として生き抜いた確かな実績。
それらが渾然と混ざり合い、亮真の体を威圧する。
︵参ったな⋮⋮これが凡庸と噂されたユリアヌス一世か⋮⋮人の噂
ってのはあてにならねぇな︶
確かに、ユリアヌス一世の治世には目立った功績が見られない。
彼自身の評価は可もなく不可もなくといった所だろう。
だが、終わりの見えない戦乱の時代に、受け継いだ領土を維持し
てきたということ自体が凡庸ではない証拠なのかもしれない。
﹁うむ、エレナ殿から事前に話は聞いていたが⋮⋮なるほど﹂
ユリアヌス一世が穏やかな笑みを浮かべる。
︵やっぱりエレナさんの差し金か⋮⋮︶
国王の言葉に、亮真は一つの事実を掴み取った。
やはり、ザルーダ王国の国王とエレナとの間に親密な関係が築か
れていたのだ。
1312
﹁今、我が国はオルトメア帝国の脅威にさらされ、抜き差しならぬ
ところまで追い込まれておる﹂
その言葉に、亮真は無言のまま頷いた。
﹁だが、ミスト・ローゼリアの二カ国より援軍が届いた今こそ国土
奪還の好機を考えるが、貴公の考えはいかがかな?﹂
まるで試すかの様なユリアヌス一世の言葉に、亮真は静かに首を
振った。
確かに、ミスト、ローゼリアより派遣された援軍が到着した今こ
そ、興亡を賭ける好機のように見える。
事実、この謁見の間に立ち並ぶ多くの人間が、援軍の到着を待っ
て決戦を望んでいたのだ。
﹁ほぉ⋮⋮貴公は好機ではないと考えるのか?﹂
﹁好機ではないとは申しませんが、好機であるとも申せません。ま
ずは今まで集めた情報を精査し、状況を把握した上でご返答申し上
げたいと思います﹂
貴族達の間からどよめきが起こり、亮真へ向けられていた敵意が
より一段と鋭さを増した。
それは、単純な反感なのか、それとも何か理由があっての事なの
か⋮⋮
国王の問いかけに対して、堂々と己の意見を口にした亮真の態度
に、この広間に立ち並ぶすべての人間が呑み込まれる。
﹁ほぉ⋮⋮ずいぶんと慎重な事よ﹂
1313
玉座の座るユリアヌスの強い視線が亮真の目を射抜く。
心の奥底まで見抜こうとするかのような鋭い目だ。
いつの間にかどよめきは消え、謁見の間を沈黙が支配した。
︵揺らぎのない目だ⋮⋮︶
ユリアヌス一世は亮真の瞳に中に強固な意志を感じた。
そこにあるのは、人の形をした鋼。
︵どのような生き方をすれば、この若さでこのような目が出来るの
だろう︶
ユリアヌス一世は目の前で自らの視線を堂々と見返すこの若者と
同じ目を宿している人間を二人知っていた。
一人は、ザルーダ王国の守護神であった、今は亡きベルハレス将
軍。
そして、もう一人は︻ローゼリアの白き軍神︼と謳われしエレナ・
シュタイナー。
自らの中に絶対を持ち、それを確信している者だけが宿す光。 ﹁良かろう⋮⋮エレナ殿と共に貴公の力をわが国に貸してほしい﹂
探るような鋭さがいつの間にか消え、ユリアヌス一世の目に穏や
かな光が戻る。
﹁微力ではございますが最善を尽し、必ずやザルーダ王国へ勝利を﹂
亮真は静かに頭を垂れると、勝利を国王の前で誓う。
﹁うむ、期待しているぞ⋮⋮﹂
﹁お待ちください!﹂
1314
亮真の返答に満足げにユリアヌス一世が頷いたその時、一人の男
が衛兵の制止を振り払い玉座の前へと進み出た。
1315
第4章第15話︻力の証明︼其の4
西方大陸暦2814年1月3日 午後
﹁何かな? シュバルツハイム伯爵﹂
ユリアヌス一世はどこか愉快そうに視線を玉座の前に跪く男へ向
けると、頬杖をついて発言を促す。
シュバルツハイム伯爵と呼ばれた男は金糸をふんだんに使った絹
製の服を着込み、ちりばめられた宝石の数や凝った意匠を見たとこ
ろ、宮廷でもかなりの有力者らしい。
何より、衛兵を押しのけて国王の前へ進み出ていながら、そのま
ま発言を許された事自体が彼の権力の大きさを物語っている。
金髪を後ろへ撫でつけた四十前後の男で、まるで布袋様のように
腹が前へとせり出していた。
しかし、百七十あまりの背丈に似合わぬ肩幅と丸太を思わせる二
の腕が、彼がただの権力者ではない事を示している。
﹁恐れながら、陛下のご不興を被る事を覚悟の上で申し上げたき事
がございます﹂
顔を伏せたまま言い放つと、貴族は隣にいる亮真へ向かって鋭い
視線を向けた。
憎しみ、怒り、嫉妬、侮蔑。
初対面の人間に向けるにはあまりにも生生しい陰の感情がそこに
宿っている。
︵おいおい、なんだコイツ⋮⋮︶
誰でも、顔も知らない人間からいきなり憎しみの視線を向けられ
1316
て平静を保てるはずがなかった。
亮真は湧き上がる動揺を必死で押し殺す。
敵と味方が入り乱れるこの謁見の間で弱みを見せる訳にはいかな
い。
もちろん、わざと相手を油断させるために舐められるというのも
策の一つではあるが、今、亮真が必要としているのはザルーダ貴族
達に絶対的な畏怖を植え付ける事。
その為にも、自らの表情には細心の注意が必要になる。
﹁何か存念があるのなら申してみよ﹂
﹁臣が思いますにこの御子柴なる者、とても陛下のご期待に沿う力
を持つとは考えられませぬ。直ちに兵を国元に引き揚げさせるべき
かと存じます﹂
他国の派遣した援軍に対して、あまりにも挑発的かつ礼儀を弁え
ない態度に、謁見の間をどよめきが包んだ。
﹁ほぅ、伯は遠路はるばる援軍に赴いた御子柴殿をこのまま国元へ
返せと申すか?﹂
﹁御意﹂
ユリアヌス一世の問いに、シュバルツハイム伯爵は悪びれた様子
もなく頷く。
﹁伯は自分が何を主張しているのか分かっているのだろうな? 伯
はローゼリア王国と我が国との間に亀裂を生じさせるつもりかな?﹂
﹁確かにその懸念はございますが、陛下はこの者が率いてきた援軍
1317
と称する一団を直接ご覧にはなられていらっしゃらないので、その
ようなことをおっしゃられるのです﹂
シュバルツハイム伯爵の言葉に謁見の間を包んでいたどよめきが
消えた。
﹁エレナ殿よりは、選りすぐりの精鋭とお聞きしているが?﹂
﹁もし、本当に陛下へエレナ・シュタイナー将軍がそのように伝え
られたのでしたら、それは大きな誤りだと申すしかございません。
臣が確認しましたところ、兵数はわずかに三百。その上、兵の大多
数が年端も行かない平民の女子供では、戦場に出したところで物の
役には立ちません。下手に戦場へ連れて行き敵の餌食にでもなれば、
我が軍の士気は低下し、無用の動揺を全軍に齎しかねないと考えま
す。また、一年近くの防衛戦で我が軍には物資に余裕がございませ
ん。戦力として使い物にならない以上、速やかにローゼリア王国へ
引き返させることが上策かと存じます﹂
謁見の間にシュバルツハイム伯爵の声だけが響き渡った。
ローゼリア王国の援軍はエレナの率いる二千五百と亮真の率いる
三百の合計二千八百。
名高きエレナを主将にしているとは言え、ミスト王国が派遣した
精鋭一万の援軍に対してあまりにも少ないのは周知の事実だ。
隣国より遠路はるばる援軍に来た人間に対して、あまりにも無礼
な態度ではあるが、シュバルツハイム伯爵の意見自体が間違ってい
るとは言えない。
弱い味方は強い敵よりもはるかに厄介な存在なのだ。
戦は人の心を如何にして圧し折るかということに懸かっている。
確かに、軍を指揮する将を打ち取っても戦は終わるし、最後の一
兵まで皆殺しにするまで勝敗がもつれることもある。
1318
しかし突き詰めていくと、将軍が討ち取られて戦の勝敗がつく理
由も、結局は兵の心が将軍の死という現実の前にへし折られてしま
う事によるのだ。
戦の勝敗の多くは兵の心とそれを率いる将の心が、死に怯え負け
を意識して圧し折れた時に着く。
︵へぇ⋮⋮戦と兵の心理を分かってやがる。こいつ馬鹿じゃねぇな︶
理路整然とした明確な理由。
亮真は隣のシュバルツハイム伯爵を正直に言って見直した。
見かけは傲慢で愚鈍な貴族という印象を受けるのだが、人の真価
は容姿とは無関係なのだという事に改めて気付かされる。 そして、偏見が消えれば、亮真にはシュバルツハイム伯爵の真意
が見えて来る。
︵可能性は二つ。本気か誘いか⋮⋮本気ならこいつは信頼できる人
間だ。逆に、もし誘いなら大した悪党だな︶
亮真は静かに、声高に叫ぶシュバルツハイム伯爵の横顔を見つめ
た。
伯爵の心を見透かそうとするかの様に⋮⋮
シュバルツハイム伯爵の指摘と懸念は、ある意味当然の物と言っ
ていい。
表面だけを見れば、亮真の率いてきた三百の兵などゴミ以下の価
値しかないのだ。
兵数は僅かの上、軍を構成する兵の多くは平民の女子供。
これがもし、壮健な男性のみで構成されていれば、シュバルツハ
イム伯爵もここまで言葉を荒らげはしなかっただろう。
通常、援軍に徴兵した農民兵を差し向ける事はないのだが、ロー
ゼリア王国の内情はある程度伝え聞いている。
内乱からの復興に力を尽くしている今、隣国に出せる兵が少ない
のはある意味いたしかたないのだから⋮⋮
だから、ローゼリア王国が最善を尽くした結果とし、二千五百の
1319
騎士を経験豊富なエレナに率いさせて来た事は素直に感謝している
し、評価も出来た。
しかし、御子柴亮真が率いてきた兵は違う。
実績のない新興貴族に率いられた、戦力とはとても思えないよう
な兵士達。
︵このような兵を援軍に差し向けるなど、我が国を愚弄するか!︶
その怒りが心を苛立たせる。
シュバルツハイム伯爵から見れば、軍の体裁を整えるために平民
を兵士に仕立て上げたようにしか見えなくて当然だった。
﹁遠路、援軍に来ていただいた事は感謝するが、我等には余裕がな
いのだ。貴公が何を目的にこのような軍を起こしたかは存ぜぬが、
はっきり言って甚だ迷惑! 僅か三百とはいえ、戦力と数えられぬ
者に回す食糧物資など我等には残されていないのだ!﹂ 怒号が謁見の間に響き渡った。
確かに、使い物にならない兵へ貴重な物資を分け与える事は決し
てプラスにはならない。
﹁シュバルツハイム伯爵、少し言葉が過ぎませんか?﹂
﹁何を言う、ヘンシェル団長。そもそも貴殿は一体何を考えている
のだ? 王都郊外まで迎えに行ったと聞いたが、事前に知っていた
のなら何故陛下へお知らせしていない。本来なら謁見などする前に
貴殿が追い返して当然ではないか!﹂
それは抗弁の余地を残さない正論。
ザルーダ王国は欲しているのは援軍であってお荷物ではない。
その意思がグラハルトの援護を無情に切り捨てる。 他の貴族達はいざ知らず、シュバルツハイム伯爵は心の底からザ
1320
ルーダ王国と王家の存続に全てを賭けようと考えている。
周辺諸国からは凡庸と侮られてきたユリアヌス一世だが、シュバ
ルツハイム伯爵の目から見れば、十分に仕える価値のある主君だっ
たのだ。
︵陛下は凡庸ではない。この戦乱の世において、たび重なる戦乱を
潜り抜けて国を保ってきたではないか!︶
その思いが、シュバルツハイム伯爵を突き動かした。 ﹁ふむ、伯の懸念は分った⋮⋮だが、余は御子柴殿を帰国させるつ
もりはない﹂
ユリアヌス一世は穏やかにほほ笑むと、白鬚を撫でつける。
そして、そのブレのない言葉が謁見の間に響き渡ると、再びどよ
めきが起こった。
﹁何故! 何故でございますか!﹂
予想外の言葉に、シュバルツハイム伯爵は血相を変えて玉座へ詰
め寄る。
﹁陛下に対して無礼ですぞ!﹂
グラハルトの巨体が、シュバルツハイム伯爵の体を抑え込んだ。
﹁クソ! 放せ! 陛下、何故なのです!﹂
顔を赤く染め、シュバルツハイム伯爵はグラハルトの手を払いの
けようともがき続ける。
﹁ヘンシェル。良いから放してやれ﹂
1321
その落ち着いたユリアヌス一世の声に、シュバルツハイム伯爵は
自らの行動の意味を悟る。
感情のままに玉座に詰め寄るなど、謀反と取られても仕方がない
行動だ。
﹁失礼いたしました⋮⋮陛下、私は⋮⋮﹂
身を縮めるようにその場にひれ伏すシュバルツハイム伯爵に、ユ
リアヌス一世は手で立つように促す。
﹁良い。伯の懸念はもっともだ⋮⋮﹂
そう言うと、さも愉快そうに黙り込んだまま跪いていた亮真へと
視線を向けた。
﹁どうかな? 今、この場にいる皆もシュバルツハイム伯爵と同じ
懸念を持っているかも知れぬ。貴公には煩わしい事だと思うが、一
度貴公と貴公の兵の力を皆に見せてやってはくれんかな?﹂
﹁どなたかと戦えと言う事でしょうか?﹂
﹁その通りじゃ。それとも、シュバルツハイム伯爵の懸念は事実な
のかな?﹂
亮真の問いに、ユリアヌス一世は人の悪い笑みを受かべ挑発した。
︵なるほど⋮⋮な。良いように話を進められるのはムカつくが、ま
ぁ良い。どうせどこかでやらなきゃいけないことだからな。予定が
繰り上がっただけと思えば良いか⋮⋮︶
元々、ザルーダ王国の防衛だけが目的で援軍に来たのではない。
1322
ウォルテニア半島の主権を掌握した今、次なる飛躍をするために
必要なのは名声。
その名声を得る事こそが、最大の目的といっても過言ではない。
そして、その名声を得るために必要なのは生贄。
流れる血が多ければ多いほど御子柴亮真の名は西方大陸の大地に
広まる。
﹁いいえ、我が軍の兵士の力を陛下と皆様の前で証明して見せまし
ょう﹂
その言葉と共に、亮真の顔が歪む。
それは、愚かな獲物を目の前にして舌舐めずりをする肉食獣の笑
み。
しかし玉座の前に跪き、伏せられたままの亮真の顔を見る事が出
来た者は誰一人としていなかった。
1323
第4章第16話︻力の証明︼其の5
西方大陸暦2814年1月3日 夕刻
演習場に煌々とかがり火が焚かれ、普段は兵士以外誰も訪れるこ
とのないこの場所に、多くの貴族や王族の姿が見える。
﹁随分と暇人ばかりのようだな﹂
﹁仕方がないわよ、何せ、戦時中でこれ程注目されるような見世物
はないのだから。それに、彼等だけじゃないわ。私ですらどんな結
果になるか今から楽しみだもの﹂
周囲の野次馬を見まわし鼻先で笑う亮真を、傍らにたたずむエレ
ナが窘めた。
ローゼリア王国内乱終結から今まで、顔を直接合わせるのは久し
ぶりな二人だが、両者の関係には微塵の気まずさも存在はしない。
やさしい祖母と孫。
傍目から見る分には、両者はまさにそんな関係のように見えた。
﹁やれやれ、エレナさんまで他人事みたいな顔をして⋮⋮﹂
﹁それは当然でしょう。貴方と貴方の率いる兵士達の実力を見る機
会なのだから私にとっては他人事よ?﹂
朗らかな笑みを浮かべたエレナに苦笑しながら、亮真は反対側に
陣取る一団へと視線を向ける。
これから行われるのは、ザルーダ王国親衛騎士団と御子柴男爵家
1324
との親善試合。
通常ならばお互い遺恨を残さない様に使用する武具には制限が課
せられるのだが、今回は相手側からの強い希望によって、より実戦
に即した試合と言う事で、使用する武具に対して一切の制限が取り
払われている。
鋼鉄の板鎧に身を固めた彼らの手に握られているのは抜き身の槍。
刀身が放つ鈍い煌めきがこれから行われる戦いが試合ではない事
を示していた。
﹁まぁ、貴方の事だから勝算はあるのでしょうけれど、油断はしな
い事ね。彼等はザルーダ王家が誇る盾と矛の片方なのだから⋮⋮連
中、貴方と貴方の兵士達を殺す気よ?﹂
何時の間にかエレナの顔から笑みが消えていた。
その代りに浮かぶのは鋼の意思。
まるでこれから戦場へと赴こうとしているかの様な、そんな顔だ。
﹁エレナさんは随分と心配症ですね。俺が負ける勝負をすると思い
ますか?﹂
からかう様な視線を向ける亮真にエレナはため息と共に首を横に
振った。
﹁冗談ではないのよ? 勿論、私は貴方を知っているわ。貴方がロ
ーゼリア王国でも屈指の剣士であったケイル・イルーニアをたった
一人で打ち取った事もね。でも、貴方は良いとしてあの子達はどう
なの。今からでも遅くないわ、貴方の率いてきた兵士の中には熟練
の傭兵も何人か混じっていたはず。彼らと入れ替えるべきだわ⋮⋮
もし、引っ込みがつかなくなっているのならば私に任せなさい、何
とかしてあげるから﹂
1325
エレナの問いに、亮真は穏やかな笑みを浮かべたまま沈黙を守る。
無論、援軍の将でしかないエレナにここまで話の進んでしまった
事態を収める事は出来ない。
ユリアヌス一世に個人的なつながりを持つエレナであっても、ザ
ルーダ王国の貴族や騎士階級にそこまで大きな力を発揮出来る訳で
はないのだから。
下手な事をすれば、ただでさえ苦しいローゼリア王国を更なる苦
境へ追いやることになりかねないのだ。
それでも、エレナは無駄と知りつつも亮真に確かめずにはいられ
なかった。
エレナの視線が二人の後方で待機している一団へと向けられる。
その目に映る兵士達は皆若い。
若輩というよりも幼いという表現がぴったりくるような容姿の兵
士もいる。
少年だけでなく、少女の姿も見られた。
無論、手にした武具の手入れを見た限りは、熟練した傭兵にも劣
らない見事な手並みだが、実際に戦うとなれば話が変わる。
エレナは多くの戦場で幾度となく年若き子供の死体を目にしてき
た。
徴兵された農民兵。
年若く家を継いだ騎士の若者。 本人が望む望まないに関わらず、戦場では誰の下にでも等しく死
神の祝福が舞い降りる。
そこには身分など何の意味も持たない。
それは避けようのない現実。
だからこそ、エレナは戦場以外の場所で子供の死体を目にしたく
はないのだ。
︵所詮、自己満足に過ぎないのだけれども⋮⋮ね︶
エレナの心にそんな自虐的な思いが浮かんだ、
1326
それは、過去に権力闘争に巻き込まれた愛娘の死と無関係ではな
いのだろう。
﹁では、これより御前試合を執り行う。ローゼリア王国御子柴男爵
殿、ザルーダ王国親衛騎士団長オーサン・グリード殿。お二人とも
中央へ﹂
その声が演習場に響き渡った時、周囲の喧騒がピタリと止んだ。
﹁おっと、呼んでいますね⋮⋮では、ちょいと行ってきます﹂
審判役の老貴族の呼び声に、亮真はニヤリと唇を吊り上げて笑っ
た。
試合は五人対五人の集団戦。
戦士としての個人的な技量より、戦場における兵士としての集団
戦に対応できるかどうかを見たいと言うシュバルツハイム伯爵の強
い希望による。
そのシュバルツハイム伯爵だが、彼は余程御子柴亮真と言う人間
が気に入らないらしい。
事前にグラハルトがユリアヌス一世へ亮真の率いてきた兵士達の
真実を報告しなかったと言う理由で当初対戦相手として名前を挙げ
られていた近衛騎士団ではなく、全く初対面である親衛騎士団を強
く推したのだ。
﹁大丈夫ですよ。あぁ、折角なので連中の賭けに混ざってくるとい
い。一儲け出来ますよ。実は俺は既に賭けさせているんで⋮⋮おっ
と、今のは内密に﹂
そう、小さくエレナへ耳打ちすると、亮真は無言のまま背後の兵
1327
士達へ手で合図した後、演習場の真ん中へと進んだ。
どうやら亮真はザルーダ貴族の間で行われている闇の賭博に一
枚噛んでいるらしい。
ザルーダ王国存亡の危機だと言うのに悠長な事だとは思うが、何
処にでも頭の悪い人間は居る。
まぁ、人間の緊張というものは適度に休息を挟まなければ持続出
来ないので、ある意味いたしかたないのだろう。 ︵私の言葉に揺れるような子じゃない⋮⋮か。けれども⋮⋮︶
自らの勝利を確信したかの様な亮真の笑顔を目にし、そんな思い
がエレナの心に浮かんだ。
傍観者の立場ならば不謹慎だと思う一方で、賭けもいたしかたな
いと思う。
だが、今の状態で自分に賭ける事が出来る御子柴亮真と言う人間
は、ただ単に神経が図太いと言うだけではない。
︵何か勝算があると言う事ね⋮⋮︶
御子柴亮真と言う青年が持つ、氷の刃の様な切れ味を誇る智謀。
その鋭さをエレナは十分に見知っている。
エレナ自身、その助力を得る事で長年待ちわびた復讐を遂げる事
が出来たのだから⋮⋮
今、エレナの中には二つの相反した気持ちがせめぎ合っていた。
いくさびと
一つは、御子柴亮真と言う男が育て上げた兵士達の実力を見てみ
たいという戦人としての気持ち。
もう一つは、若い子供の死など見たくはないと言う、子を持つ母
親としての気持ち。
先ほど、亮真へとかけた言葉はどちらもエレナの本心だった。
︵貴方を信じているわよ⋮⋮亮真君︶
エレナは期待と憂いに満ちた視線で亮真の背中を見つめた⋮⋮
﹁さて、双方共に準備はよろしいかな?﹂
1328
審判役を任命された白髪の老貴族が、亮真とグリードへ確認する。
若い頃の武勇伝が自慢のこの老貴族は、自らこの場へ審判として
名乗り出た。
しかし、実際のところは審判と言うよりも司会進行役兼勝負の見
届け人と言った方が正しいだろう。
一度、試合が始まれば彼の様な老人に力で完全装備の騎士達を押
し留めるなど無理だ。 まぁ、形だけでも審判がいれば、これから行われる試合とも呼べ
ない殺戮劇の凄惨さを多少なりとも薄める事が出来るだろうという
ザルーダ貴族達の願いの現われなのかもしれない。
﹁無論だ﹂
口数少なく頷くと、グリードは冷たい蔑みの視線を亮真へ向けた。
グリードの顔に僅かに浮かぶのはこの試合への不満。
﹁何故、王家の矛である親衛騎士団があんな子供の相手などしなけ
ればならないのか﹂、とでも思っているのだろう。
この演習場に居る殆ど全ての人間は、勝ち敗けに興味はない。
屈強な体格を誇る完全装備の騎士と、若い少年少女達の勝負だ。
装備は頑強な革の鎧とそれなりの物を身に付けているように見え
るが、元々の体格が違いすぎる。
近代格闘技の多くが体重別階級性を採用しているのも、体格が大
きく体重の重いものほど強いという現実を考慮している。
柔よく剛を制すの思想は柔道の思想として非常に有名な言葉だが、
現実的には剛よく柔を断つ場合が殆どなのだ。
無論、グリードがそんな言葉を知っていると言う訳ではないのだ
ろうが、世界が違えど人間の考える事など似通ってくるものだ。
勝って当たり前の勝負。
グリードの心には、やるだけ無駄だという思いが渦巻いているの
1329
だろう。 ただし、それを表に堂々と表さない程度の分別は残っているらし
い。
ザルーダ王国の国王であるユリアヌス一世の前で行われる試合。
たとえ不満があるにせよ、やる気のない態度を国王に見せる訳に
はいかなかったのだ。
﹁えぇ、こちらは何時でもかまいませんよ﹂
穏やかな笑みを浮かべて答えた亮真の言葉に、グリードの形の良
い眉がピクリと跳ね上がる。
﹁結構。では、双方前へ⋮⋮勝敗の結果には決して遺恨を残されぬ
ように! よろしいな?﹂
審判役の貴族が亮真とグリードへ前に進めと促した。
どうやら試合前に握手でもしろという意味らしい。
﹁どうぞよろしくお願いします﹂
亮真はそう言うと、グリードへ右手を差し出す。
しかし、グリードはまるで亮真を馬鹿にでもするかの様に鼻を鳴
らすと、そのまま背を向け歩き出した。
﹁お、おい。グリード団長、一体どう言うつもりだ﹂
グリードの態度に老貴族が驚きと戸惑いの声を上げた。
どの様な理由があろうとも、あまりに礼節を弁えない非礼な態度
である。
1330
﹁失礼、試合前に敵となれ合うつもりはありませんので⋮⋮お叱り
は後で承りましょう﹂
グリードは背を向けたまま吐き捨てるかの様に答えると、そのま
ま部下達の方へと歩み去った。
﹁困ったな。こいつはまた、酷く嫌われたもんですね﹂
亮真はグリードに無視された右手で自分の頬を掻いた。
だが、その表情には言葉ほど困ってはいない。
﹁グリードの奴め⋮⋮試合を前にして気が立っておるようだ。御子
柴殿、どうか悪く思わんでくだされ﹂
﹁えぇ、グリードさんの立場なら仕方ないでしょう。それに、いき
なり我々の対戦相手を命じられて面白くもないでしょうしね。ご老
人もあまりお気になさらないでください﹂
きびす
亮真は老貴族を慰めるかの様に穏やかな笑みを浮かべると、踵を
返した。
グリードの態度になど心の底から興味はない。
彼は所詮、御子柴亮真の前に並べられた餌でしかないのだから⋮⋮
﹁さぁ、宴の始まりだ⋮⋮精々派手に踊ってくれよ﹂
亮真の唇から小さなつぶやきが漏れた。
1331
第4章第17話︻力の証明︼其の6
沈黙が演習場を支配していた。
周囲のかすかな息遣いだけがケビンの耳へと聞こえてくる。
百メートルほどの空間。その周りをぐるりと貴族や上級騎士達が
取り囲む。
古代ローマの闘技場の様な観客席など何もない。有るのはむき出
しの地面と小石のみだ。
︵でかいな⋮⋮まともにやり合ったらこっちが不利か⋮⋮︶
五十メートルほど離れた場所で開始の合図を待つ騎士達の姿に視
線を向けたケビンの心に、そんな思いが浮かんだ。
勝負は彼我の戦力を冷静に見極めるところから始まる。
孫子の兵法書にある最も有名な﹃彼を知り己を知れば百戦危うか
らず﹄の一文は決して誇張でも嘘でもない。
戦いに赴く者にとって当然の準備に過ぎない。
それは集められた奴隷の子供達が訓練を始めた一番最初に教わっ
た心構え。
ケビンは普段と同じ様に、目の前に立ち並ぶ五人の騎士達を観察
する。
未だ成長期である十代半ばのケビンと比べれば、百七十前半を誇
る身長はさておき、体の厚みと言う点に関しては明確な差が存在し
ている。
単純な筋力という視点から見れば勝敗は目に見えていた。
身につけている武器にしてもそうだ。
騎士達が身につけているのは重厚な鋼の板鎧に顔をすっぽりと覆
った兜。手にしているのは三メートルほどの槍だった。
それに比べ、ケビン達の体を守るのは亮真から支給された革の鎧
1332
に金属で補強した木製の盾。
無論、幾重にも重ねられた怪物の革を丁寧に処理したこの鎧は、
決して鋼の鎧と比べて大きく劣ると言う訳ではないのだが、機動性
を重視した結果、関節部分まで金属で覆われた板鎧と比べれば防御
力においてはどうしても見劣りしてしまう。
無論、山岳国家であるザルーダ王国なので、機動性を重視した軽
装備は決して間違った選択という訳ではないのだが、真正面からの
力勝負と言う視点でみれば明らかに不利。
緊張で唇が乾いていくのが自覚出来た。
鼓動は早鐘の様にケビンの耳に大きく響き渡り、腰骨のあたりが
ムズムズとむず痒くなってくる。
それは恐怖という名の虫が這いずる感触。
戦いが始まる前に必ず忍び寄ってくる、最も慣れ親しんだ感情。
乾いた唇を舌で湿らせると、ケビンは愛用の鉄剣を握りしめなが
ら、傍らで同じように顔を強張らせている仲間達の姿へチラリと視
線を向けた。
︵皆同じ⋮⋮か。無理もない。まだ二度目だからな︶
命を賭けた実戦への恐怖。
自分の命を奪われるかもしれないと言う恐怖と、敵の命を奪って
しまうかもしれないと言う恐怖がケビンの心を侵していく。
復讐と言う強固な目的があった海賊討伐の時でさえも感じた恐怖
だ。
しかし、ケビンはその湧き上がってくる恐怖を否定する事なく、
自分の力へと変えていく。
恐怖は決して弱さではないという事、そして、恐怖は力であると
いう事を理解しているのだ。
あれから数ヶ月。
ウォルテニア半島に生息する怪物達との戦いをケビン達は生き抜
いてきた。 恐怖こそが最も身近な友であり、生き延びる為の武器。 1333
︵考えるな。こっちの方が弱いんだ⋮⋮下手に躊躇なんかすれば容
赦なく殺されるぞ︶
形式上は試合であっても、これから行われるのは命を賭けた真剣
勝負。
勝敗は死亡するか、意識を失うか、戦意を喪失したと判断された
時。
ラウンド制もポイント制もない。有るのは倒すか倒されるかの二
択だけだ。
戦力を数値で表すならば騎士達を百とした場合、ケビン達は精々
七十から良くて八十と言ったところだろう。
強弱で言うのならば、ケビン達は間違いなく弱者だ。
しかし、勝敗は力の強弱だけでは決まらない。
︵いつもと同じだ。ただ、教官達から教わった通りに⋮⋮戦えば良
い。俺と仲間が生き残る為に︶
過酷なウォルテニア半島での生活は、既にケビンの体を人の姿を
した獣へと変貌させている。
後は、その体を己の意志で操るだけだ。
そして、恐怖がケビンの心から理性と倫理を塗りつぶしていった。
﹁いつも通りだ⋮⋮﹂
プラ
ケビンの唇から洩れた小さな呟きに、傍らの仲間達が無言のまま
頷いた。
恐怖は殺意へと昇華され、ケビン達の体を駆け巡る。
ーナ
ウォルテニア半島を徘徊する怪物共を屠る事によって培われた生
気が、激流の様に会陰のチャクラ・ムーラダーラへと流れ込み、彼
らの体に人ならぬ力を齎す。
戦意が弓の様に静かに引き絞られていく⋮⋮ ﹁始め!﹂
1334
審判役の老貴族の声が沈黙を破った。
﹁レオンとリナは右から。アネットは俺と左へ。メリッサ! タイ
ミングを合わせろ!﹂
正式に兵士として認められた後に編成された五人一組の小隊。
あれから数ヶ月。既に幾度となく繰り返し、彼ら五人の体に染み
ついた戦法だ。
ケビンの合図と同時に、引き絞られた矢が射られたかの様に四人
が一斉に飛び出した。
もっとも、その速度は人の持つ能力の範疇でしかない。
左右に大きく弧を描くかのように回り込んでいく四人。
騎士達の真正面に立ち尽くしているのはメリッサ唯一人だ。
﹁なんだ? 所詮、餓鬼どもがやる事か⋮⋮馬鹿め、わざわざ分散
するとは勝負を捨てたな﹂ 騎士の一人が馬鹿にした様に鼻を鳴らして呟いた。
開始直後に飛び出して来た事は驚きを感じたが、法術の使えない
子供達など何人束になろうと所詮敵ではないのだ。
その上、彼らが身に付けているのは革製の鎧。
勝敗は初めから見えていた。
少なくとも、それが騎士達が持つ共通の認識。
彼らに残された数少ない勝機は五人一固まりに塊、防御に徹して
隙をつくくらいしかないはずだった。
﹁おい、団長から手加減はするなと言われているからな⋮⋮あまり
気は進まんがサッサと始末するぞ﹂
1335
小隊長の言葉に無言のまま頷くと、騎士達は手にした槍を握る手
に力がこもる。
命令ならば、人殺しを厭う事などない。
それでも、人殺しを楽しいと思う事はなかった。
︵せめて苦しまずに⋮⋮︶
他人から見ればつまらない偽善だが、それが彼らの本音だ。
騎士達は自分達へ向かって駆けよってくる子供達の姿を見つめな
がら槍を構える。
彼らに武法術を使うつもりなどさらさらなかった。
しかし、その代償は高くつく⋮⋮
﹁やれ、メリッサ!﹂
﹁猛々しき風 精霊の息吹よ 今こそ我が祈りに応えて 大地を覆
え﹂ ケビンの叫びが演習場に響いた瞬間、彼らの走る速度が爆発的に
速まり、両者の間に残されていた二十メートル程の間合いが一瞬の
うちに詰められる。
続いて後方で待機していたメリッサの口から詠唱が響いた。
﹁なっ! 文法術だと!﹂
﹁まずい、防御だ!﹂
プラーナ
メリッサの動作を見て、騎士達は慌てて生気をチャクラへと流し
込むが間に合わない。
彼等は一斉に手にした槍の柄を盾の様にかざして身構える。
通常ならば、盾に付与された防御術式を起動させるのだが、相手
をなめきっていた彼らはその準備をしていなかった。
1336
それでも、武法術による身体強化で十分に防御可能なはずだった。
普通ならば⋮⋮ 詠唱を終えたメリッサは体を弓のように引き絞る。
ウエーブウィンド
﹁疾風衝波陣﹂
次の瞬間、メリッサの手がまるでアンダースローの様に地面ぎり
ぎりを通り天高く振り上げられた。
初級の文法術の中でも下位に属する術。
決して殺傷能力に優れているとは言えないただ風の波を広範囲に
放つだけの術だ、 風を圧縮するという工程を省いて放つため、習得難易度が低く扱
いやすい反面、戦いに使用出来るような威力はない。
体感的には精々﹁今日は風が強いな﹂と服を少し厚着したくなる
と感じさせる程度の風。
騎士達もメリッサの放った術がなんであるか知り、侮蔑の笑みを
浮かべる。
しかし、彼らは知らなかった。
メリッサの狙いが他にあると言う事に。
疾風が地面すれすれを這うように騎士達の方へ向って突き進む。
大地の土を大気へと巻き上げてながら。
土砂で作られたカーテンを引連れて⋮⋮
﹁クソ! 目が!﹂
騎士達の視界が風に巻き上げられた大量の土砂と土煙りによって
奪われる。
元々視界の悪いフルフェイスと呼ばれる顔面まで覆う形の兜を身
に付けていた彼等に抗う術はない。
そして、視界を奪われ動揺する彼らをケビン達の剣が襲いかかる。
1337
先ほどまでの擬態を捨て、彼等は武法術による身体強化を露わに
した
﹁馬鹿な! この餓鬼共も、法術を!﹂
﹁こいつら一体!﹂
驚きの声とともに繰り出される槍。
しかし、意表を突かれた騎士の槍には普段の練習時に見られる鋭
さなど欠片もない。
殺意の抜けた攻撃など、怪物達との戦いを経験してきたケビンに
してみれば静止しているのと同じ。
ケビンは突き出された槍の穂先を体を逸らして避けると、槍を握
る騎士の指へ目がけて剣を振るった。
いくら防御力の高い鉄製の鎧とはいえ、人体の構造上、関節の可
動部分は比較的装甲が薄い。 分厚い鉄の板で指を覆ってしまえば、
物を握る事も出来なくなってしまう。
﹁ギャァァァ! クソっ! 指が、俺の指がぁ!﹂
槍の柄に沿う様に襲いかかるケビンの剣が騎士の指を切り飛ばす。
普段ならこれほど無様な悲鳴を上げる事などないのだが、なんの
覚悟もない今の状態では仕方ない。
﹁どうなっている? こいつらただの餓鬼じゃないのか!?﹂
苦痛に喘ぎその場で蹲った仲間の姿を見降ろしながら、騎士の一
人が茫然と呟く。 それは戦闘中でありながらあまりにも無防備な
姿だ。
そして、その隙を見逃すほど騎士達の前に居る敵は愚かではなか
1338
った。
ケビンはそのまま棒立ちの騎士の足へ渾身の一撃を加える。狙う
のは膝の関節部分。
枯れ木をへし折ったような感触がケビンの手に響く。
しかし、それで終わりではない。
苦痛を押し殺しながらその場に蹲る騎士の無防備な頭部を、背後
から追走してきたアネットの剣が襲い掛かった。
兜の上から加えられた横殴りの一閃。
亮真から事前になるべく殺さずに済ますようにと命じられていな
ければ、このアネットの一撃は確実に騎士の頭部を切り飛ばしてい
たはずだ。
それでも、武法術によって身体強化を行ったアネットの一撃は騎
士の意識を途切れさせるには十分な威力を誇る。
事実、アネットの一撃を受けた騎士はその場に糸の切れた操り人
形の様に崩れ落ちた。
﹁そう、そう言う事なのね。あの子が何であれほど自信に充ち溢れ
ていたのか分かったわ⋮⋮﹂
ユリアヌス一世やグラハルトと共に試合を見ていたエレナの口か
ら感嘆のため息が漏れる。
目の前で繰り広げられた攻防を見れば、御子柴亮真の育てた兵士
達の質は一目瞭然だった。
﹁まさか⋮⋮あんな子供が法術を? ありえぬ、平民の子供が、そ
んな﹂
﹁グラハルト、事実は事実として認めなさい。近衛騎士団団長とし
ての器が問われるわよ﹂
1339
エレナの鋭い指摘に、茫然とした表情を浮かべていたグラハルト
の顔が羞恥で赤く染まる。
目の前の事実が認められない人間に指揮官の資格などないのだ。
﹁し、失礼しました。お見苦しいところを⋮⋮申し訳ありません﹂
グラハルトは慌てて頭を下げた。
﹁なるほど、あの者が率いて来た兵士全てが目の前の兵士と同等だ
とすると⋮⋮大した戦力だな﹂
ユリアヌス一世は白い顎鬚を撫でながら小さく呟く。
﹁陛下⋮⋮まさか、三百人全てがですか?﹂
到底信じられないと首を振るグラハルト。
アース
そして、その認識は正しい。
大地世界の常識からいって亮真の持つ程度の所領から維持できる
戦力は限られている。
グラハルト自身、シュバルツハイム伯爵の発言は正しいと思って
いた。
ウォルテニア半島の噂は隣国まで鳴り響いている。
あんな未開の地を領地としても収益など上がるはずもない。 そして、税収がなければ軍は維持出来ないのだ。
﹁だが、あの者たちだけがごく限られた一握りの者であると仮定す
る根拠もあるまい。平民に法術をどのように会得させたか方法はさ
ておき、五人に会得させる事が出来たのならば、他の者に会得させ
ていないはずはあるまい。自然に考えれば御子柴殿が率いてきた三
1340
百の兵全てが法術を使うと見るべきではないかな? 無論、我々に
そう思い込ませる為のハッタリと言う可能性もあるがのぉ﹂
そう言って愉快そうに笑みを浮かべるユリアヌス一世の目は、今
までの好々爺といった雰囲気が消え獲物を見つけた鷹の様な鋭さを
纏っていた。
1341
第4章第18話︻力の証明︼其の7
﹁馬鹿な⋮⋮まさか、こんな事が⋮⋮﹂
オーサン・グリードは目の前で繰り広げられる光景に己の目を疑
った。
若き日より幾多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦の勇士であるグリ
ードの唇の間から、小さな呟きが漏れる。
いつの間にか、堅く握りしめられたグリードの拳の中がじっとり
と汗ばんでいた。
隣国オルトメア帝国との侵攻を長年防ぎ続け、尚武の国と謳われ
るザルーダ王国の中でも屈指の精鋭で構成される親衛騎士団。
今回選抜されたのは、その中でも折り紙つきの実力を持った者達。
無論、対戦相手が隣国の援軍の上に格下と目される相手だった為、
親衛騎士団の中で最高の実力者を選抜したという訳ではないが、彼
らは皆豊かな天性の資質と数多くの実戦経験を積んだ実力者達だ。
西方大陸に割拠する何処の国の騎士団と矛を交えても、五分以上
の戦いが出来ると自信を持って断言出来る。 その強者達が今、幼く年若き獣達の猛攻を前に膝を屈しようとし
ていた。
﹁信じられません⋮⋮平民の子供があの若さで法術を会得している
など⋮⋮﹂
側近の一人が発した言葉に周囲が無言の賛同を示す。
なるほど、確かにその言葉は正しい。
法術自体は修練を積めば誰でも会得する事が出来る技術だが、通
1342
プラーナ
常、一般的な平民が法術を会得する機会などまず存在しない。
法術を会得する方法は二つ。
多くの生命を奪い、己の保有する生気が自然にチャクラを回すの
を待つか、法術を会得した師に教えを受けて会得するかのどちらか
しかない。
しかし、師などそう簡単には見つからないのが現実だ。
その最大の理由は取得に費やされる経費の問題。
法術は非常に強力な武具であり防具であり医術であり身分の象徴
でもある。
法術を会得している全ての人間が貴族という訳ではないが、貴族
の身分を持つ者は全て法術を会得している事が必須の条件だ。
その根幹に流れるのは、法術を会得した者は神々によって認めら
れた存在であるという選民思想が強く影響しているのだが、そう言
った特別視される技術を容易く教えてなど貰えない。
実際に神に祝福された存在になるかどうかは別にして、現実的に
法術を会得した人間はまず一生涯日々の生活に困る事がなくなる。
平民が騎士として貴族や王家へ仕官する事も可能になるし戦功に
恵まれれば貴族の地位すらも夢ではない。仮に仕官の道を選ばずと
も傭兵や冒険者として十分に豊かな生活を送る事が出来るだろう。
便利で稼げる技術。
それほどまでに一人の人間の人生を左右する技術なのだ。それを
そう簡単に会得する事など出来るはずがなかった。 もし、平民が縁故関係のない法術の師を探すとなれば、余程の幸
運に恵まれなければ出会う事が出来ないだろうし、仮に探し当てら
れたとしても膨大な金額を謝礼として求められる。
必然的に、平民が法術を会得するには冒険者や傭兵としてひたす
ら戦い続け、自然にチャクラが回り始める日を待つしかないのだ。
しかし、ただ平民が法術を使用したという点にだけ驚きを露にす
る部下達を尻目に、親衛騎士団の団長であるグリードの目はケビン
達五人に共通するもう一つの脅威を敏感に見抜いていた。
1343
︵何と言う事だ⋮⋮あの年であいつらは完全に法術を使いこなして
いる⋮⋮しかも、あの五人の流れるような連携⋮⋮相当な修練と実
戦が必要だ︶
法術は強力な技術だからこそ、その扱いは困難を極める。
騎士が武法術で強化された身体能力を過信するあまり単独で突出
プラーナ
し、複数の兵士に囲まれ討ち取られると言う光景はさほど珍しい事
ではない。
人が持つ生気の保有量には個人差はあっても必ず限界がある。
車がガソリンを消費して動くのと同じように、法術は生気を消費
して人以上の力を術者に与えるが、生気そのものがなければ法術は
使えない。
そして、法術が使えなければ騎士の戦闘力は平民より少し上とい
う程度でしかないのだから、いかに一騎当千と謳われた騎士でも、
本当にたった一人で敵陣へ突っ込めば生きて帰れるはずがない。
それでも突出する人間が減らないのはそれだけ法術という技術が
強力で習得した人間を魅了するという事に他ならない。
しかし、ケビン達は法術を会得し巧みに使用していながら小隊と
して互いに庇いあいながら確実にザルーダの親衛騎士達の体力を削
り、止めの一撃を加える機会を虎視眈々と狙っている。
︵不味い⋮⋮このままでは人数の差で押し切られてしまう⋮⋮ここ
は止めるべきだが⋮⋮︶
目に見える形で戦況が不利となっていく部下の姿にグリードの手
が小刻みに震えた。
個人の技量や実力的にはザルーダの騎士達の方が優れている。 しかし、油断していたところに先制攻撃を受け、一人は指を切断
されて武器を握る事が出来ず、一人は頭部を強打して昏倒している
今、勝敗は既に確定していた。
ケビン達の完璧な連携と五人対三人の人数の差が個人の実力差を
覆したのだ。
︵だが⋮⋮それでは、我等はあんな子供に屈した事になる⋮⋮︶
1344
アネットの一撃が首を切り落とさず騎士を昏倒させただけで止め
ためら
たところから、ケビン達に騎士達を殺す意思がない事は見て取れた。
しかし、その一方で指を切断する程度の怪我を負わせる事に躊躇
いは感じられない。
︵殺しさえしなければ良い⋮⋮そんな所か⋮⋮クソッ。ふざけた真
似を︶
勝敗の見えた今、部下達の体を優先させるなら止めるべきなのは
理解している。
しかし、この試合に負けるという事の意味を理解しているグリー
ドには、どうしても部下の体を優先させ試合の停止を申し出る事が
出来ない。
﹁陛下⋮⋮﹂
グリードの視線はこの状況を打開する事の出来る唯一人の男へと
向けられた。
﹁メリッサ! 大技は必要ないからな。良いか、いつもと同じ様に
相手を牽制して体力を削るんだ。アネットは俺の援護に回れ。止め
は相手の戦闘力を削ぎ落としてからだぞ!﹂
矢継ぎ早に指示を飛ばし、ケビンは油断なく目の前の親衛騎士達
へ剣を構える。
最初の奇襲でザルーダ側の騎士二名を無力化し、一旦距離を取っ
た両者は睨み合いを続けていた。
アネットの一撃を受け意識を失い昏倒した同僚を足元に横たえた
まま陣形を組み守りを固めるザルーダの親衛騎士達。
彼らの中からケビン達を平民と侮る気持ちはすでに消え去ってい
る。 1345
全身を守る板金鎧の防御力を利用しながら活路を見出そうとする
ザルーダの騎士達と、軽快な一撃離脱を繰り返しながら徐々にそし
て確実に彼らを追い詰めていくケビン達五人。
﹁小隊長。このままじゃジリ貧だ。ここは一か八か相討ち覚悟で突
っ込むしかねぇ﹂
ケビン達の猛攻を必死で防ぎながら叫ぶ部下の言葉に、小隊長は
押し黙った。彼自身、同じ事を考えていたのだ。
︵こいつの言う通り勝負を仕掛けるとすれば今しかない⋮⋮︶
一撃一撃の威力は軽いが、その手数の多さと速さに翻弄され体力
を削られてきている今、このまま守備を固めてもいつか限界が来る
事が目に見えていた。
となれば、残された道はただ二つ。
潔く負けを認めて降参するか、騎士の誇りを胸に玉砕するか⋮⋮
戦場ではないので負けを認めれば自分達の命が保証されている事
は彼ら自身も十分に理解している。
しかし、自分達の意志ではないとは言え、対戦相手を殺す気で臨
んだ試合だ。
劣勢になったからと言って、自分達の事を棚に上げて試合という
形式に頼り生き残ろうとは誰も考えてはいなかった。
それでは余りにも自分達が惨めになる。
余人は知らなくとも、彼ら自身の心は彼ら自身が一番良く分かっ
ている。
そして、もしそんな選択をすれば、尚武の国として培ってきたザ
ルーダ騎士としての誇りは地に落ち、諸国からは嘲笑と侮蔑の的と
なる。
﹁やるぞ!﹂
1346
小隊長の言葉にレオンの剣を防いでいた騎士が頷く。兜に覆われ
顔の表情は分らないが、彼はきっと死を覚悟した人間のみが見せる
清らかな笑みを浮かべている事だろう。
︵すまんな⋮⋮貧乏くじを引かせたようだ⋮⋮だが、勝利は得る事
が出来ずとも、我等に負けはない︶
勝利を得ても得られる誉などなく、命を失わせる事になった試合。
これほど無駄で意味のない戦いに部下を巻き込んだという自責の
念が小隊長の心に浮かんだ。
それでも、ザルーダ王国の国名を汚す訳にはいかない。
命を捨ててでも騎士の誇りを守らなければ、オルトメアの侵攻に
抗する術を失ってしまうのだ。
悲愴な決意を固め、騎士達が特攻を仕掛けようとしたその時、両
者の間に突然グラハルトが抜き身の剣を翳して割って入った。
そして、それとほぼ同時にユリアヌス一世の言葉が広場に響き渡
る。
﹁もう良い! それまで!﹂ 周囲の声援や罵声がぴたりと止み、沈黙が場を支配する。
ケビンと騎士達の間で仁王立ちしたまま微動だにしないグラハル
ト。
そして、玉座から立ち上がり周囲を見下ろす国王。
人々の視線が両者の間をせわしなく行き来する。 ﹁へ、陛下。何をおっしゃられるのですか! 勝負はまだ決してお
りませぬぞ!﹂
静寂を破り、審判役の老貴族が顔を紅潮させて叫んだ。
﹁いや、これ以上は無用だ。これ以上戦えば死傷者が出る事になる
1347
だろう。それでは双方に大きなしこりが残りかねん。御子柴殿が率
いてきた兵は我が国の騎士と互角に戦われた。それだけで十分では
ないか?﹂
事の発端を考えればユリアヌス一世の判断は正しい。
援軍に来た兵士と生死を賭けた勝負をする必要など本来はないの
だから。
しかし、周囲の貴族や騎士達の反応は実に様々だ。
その通りと頷く者もいれば、あんな子供を相手に情けないと嘆く
者もいる。
そんな中、最も不満を露にしたのは中立であるべき審判役の老貴
族だった。
﹁陛下! このままではザルーダ騎士としての誇りに関わります。
そうだな? グリード団長﹂
老貴族の矛先がグリードへと向けられる。
審判役でありながら中立とはとても言えない老貴族の発言に亮真
は眉を顰めた。
﹁いいえ、申し訳ありませんが私もこれ以上の勝負は無用と考えま
す﹂
﹁なんだと! 貴様、それでも栄えある親衛騎士団の団長か! 恥
を知れ!﹂
老貴族の言葉にグリードの肩が震える。
彼自身納得はしていないのだろうが、国の興亡を賭けた決戦なら
ばいざ知らず、部下にこんな試合で死ねとは命じられないのだろう。
1348
﹁もう良い、止めよ。これは国王としての命である。この試合は引
き分け。勝者も敗者もない。皆もそのように心得ろ⋮⋮御子柴殿も
それで宜しいかな?﹂
ユリアヌス一世の言葉に周囲の視線が、人垣をかき分けるように
して現れた亮真へと向けられる。
﹁無論です。ザルーダ騎士の皆様に胸を貸していただけこれほどの
栄誉はございません。私共の力が陛下と皆様の一助となれる事を望
むだけです﹂
ユリアヌス一世の言葉に亮真は恭しく片膝をついて答える。
﹁うむ。この試合を見て貴殿の兵を邪魔者と蔑む者はおらん。この
国の為に今後もよしなに頼むぞ⋮⋮皆も良いな﹂
ユリアヌス一世は高らかに宣言すると周囲へ鋭い視線を向けた。
国王にそこまで断言されてしまえば、それに抗弁など出来るはず
もない。
内心の不平不満を押し隠し、周囲の人間達は押し黙る。 ︵さて、大筋こちらの思い通りの展開でケリがつきそうだな⋮⋮ま
ぁ、本当に俺達の勝利に賭けたのならエレナさんには悪い事をした
が、そこは勘弁してもらうか︶
真剣勝負である事を周囲へアピールする為に亮真自ら自分達の勝
利に賭けた上でエレナを巻き込んだ訳だが、実際のところ試合の勝
敗は初めから引き分けの勝負なしを目的としている。
少なくとも、亮真にはこの試合で相手の騎士達を殺し勝利を得よ
うとは考えていない。
︵しかし、こいつは大した親父だ⋮⋮これで周辺諸国じゃ凡庸な国
王だって言われ続けているんだから、人の噂ってのはあてにならね
1349
ぇ︶
最初の計画では亮真の方からユリアヌスへ提案するという形をと
るつもりだったのだが、その提案をする前にユリアヌスは決断をし
た。と言う事は、ユリアヌスは少なくとも亮真達にザルーダの騎士
が負けると言う事が何を意味するか理解している。
それをおくびにも出さずに勝負なしの引き分けを宣言したのだ。
実に大した狸と言えた。
人を見る目が周辺諸国の人間にないのか、己自身の牙を隠し続け
てきたのか⋮⋮
︵まぁ、ルピスあたりじゃ太刀打ち出来ねぇな⋮⋮それに、この親
父は気がついていやがる︶
己の国に撃ち込まれた毒針の存在を。
亮真は片膝をついて顔を伏せたまま、後を盗み見た。
その視線の先に居るのは試合の審判役を務めた老貴族。
御前試合で審判役を仰せつかった事による責任から出た言葉なの
か不明だが、国王の言葉に真正面から抗弁するというのは並の器量
では出来ない。
だが、この老貴族の発した言葉には二つの可能性が考えられる。
︵こいつは⋮⋮さてさて、どっちの意味で国王に抗弁したんだかな︶
己の国を愛するが故の無邪気な言葉か悪意を持っての事か⋮⋮
亮真の唇が吊り上がり酷薄な笑みが浮かんだ。
1350
第4章第19話︻それぞれの思惑︼其の1
﹁難しい命令を良く達成してくれた。ご苦労だったなケビン。他の
皆も怪我をしていないか?﹂
なるべく威厳を持たせながら、御子柴亮真は目の前に跪く五人へ
と声を掛けた。
それでも、五人の体を本心から気遣う思いが言葉に滲んでいる。
亮真は基本的にもっとフレンドリーなやり取りを望むのだが、兵
に対してはもっと威厳を持って接するべきだとリオネに指摘されて
いた。
それから数ヶ月。まだ多少のぎこちなさを感じさせはするものの、
貴族としての立振舞いは大分板についてきている。
基本的に権力者に対して嫌悪感を持っている亮真だったが、階級
社会である大地世界では下手に平民に対して親しげな態度を見せる
と周囲の貴族や騎士達から侮られるらしい。
︵くだらない見栄だと思うけどな⋮⋮︶
しかし、そう思う一方で一定のケジメが必要である事も理解はし
ていた。
尊大で傲慢な態度では兵から信頼を得られない反面、兵に媚びへ
つらう様では軍の規律は維持出来ない。
﹁もったいないお言葉です。御屋形様﹂
そう言って頭を深く下げたケビンの返答と同時に、後ろに控える
四人もその場に片膝をついたまま頭を垂れて敬意を表す。
御屋形様は御子柴亮真をケビン達兵士が呼ぶ時の敬称。
男爵様ではいかにも貴族と言う感じを受け、あまり亮真自身が好
1351
まないが、若様やご領主様も何か違う感じを受ける。
リオネのように坊やと呼ぶ訳にもいかず、最終的に落ち着いたの
が伊賀崎衆が使いだした御屋形様という呼称だ。
実際、亮真が暮らしているのはセイリオスの町の中心に建てられ
た屋敷なので間違いではない。
﹁何とか切り札を使う事なく命を達成する事が出来ました﹂
腰の後ろに下げた小瓶に手をやりながら答えるケビンの言葉に亮
真は無言のまま頷く。
今度の戦の為に用意した切り札の一つだが、何とか使う事なく目
的を達成する事は出来た。
亮真の後ろに控えるリオネの顔にも満足げな笑みが浮かんでいる。
自らが手塩に掛けて零から育て上げた兵士。
リオネや紅獅子の傭兵達にとっては我が子同然とも言える存在。
その力を目に見える形で示され嬉しくない筈がなかった。
﹁あぁ、アレをいきなり使えば勝利する事自体は簡単だが、それを
使用すれば今後のザルーダとの関係が面倒な事になるからな﹂
法術の習得と隊の連携に加えて、ケビン達へ与えた切り札。
試合開始前に亮真が最悪でも勝利出来ると確信していた理由。
それを使えば勝利を得る事自体は難しくはない。
しかし、それは諸刃の剣。
戦場でならばいざ知らず、名目上とは言え試合にアレを使えば卑
怯者と叫ぶ人間が出る事は目に見えている。
敵の油断を誘う為に法術を習得している事を隠していたのとは訳
が違ったのだ。
︵まぁ、そいつを使わなくても勝てるだろうと思ったからこそこの
五人を選んだんだから当然だけどな︶
1352
ウォルテニア半島での怪物達の脅威にさらされた生活で得た肉体
と、日々の過酷な修練で練り上げた技。それに加えて、ケビン達に
は同じ境遇から這い上がった仲間同士の強固な結束力と生きる事に
対しての執念がある。
未だ年若く伸びる余地がある一方で、既に彼等は騎士として兵士
として一人前と呼んで良い水準に達していた。
﹁はい、その点に関してはローラ様より事前に注意を受けておりま
した⋮⋮使うのは、どうしても負けそうな場合のみでと言う事で⋮
⋮﹂
ケビンの言葉に後ろの四人が小さく頷く。
五人の目に浮かぶのは理知の光。そして己の命を捨ててでも使命
を果たそうとする確かな覚悟。
自分達が与えられた役割をきちんと理解している証。
平民に対して高みからただ高圧的に命じただけでは決して得られ
ない成果だ。 ︵俺の考えは間違っていなかった訳だな。最善は勝負なしの引き分
け⋮⋮こいつらはその意味を分かっている。そして、あの親父もな
⋮⋮︶
天幕を後にする五人の背中に視線を向けながら、亮真の心に浮か
んだのはユリアヌス一世の顔だった。
負ける事が許されないのは当然だが、この試合は勝つ事も決して
最善の結果ではない。
御子柴亮真個人の名声を高めるだけが目的ならば試合に勝っても
良いが、最善なのは見物人に亮真達の力を認めさせた上で決着がつ
く前に試合中止となる事。
タイミングを見て亮真の方から提案するつもりだったのだが、ユ
リアヌス一世が自ら決断してくれた事は嬉しい誤算だ。
1353
凡庸な国王と評判なユリアヌス一世に亮真は初め正直に言って大
した期待をしていなかったのだが、その評価は謁見の間の対面から
少しずつ変わっている。
勝敗の行方を敏感に察し、自分が最も傷つかない選択を選ぶ。
言葉にすれば簡単だが、それをするには己の欲に負けない自制心
が必要だ。
﹁ここまでは予定通り⋮⋮ですね﹂
椅子に深く腰掛け寛ぐ亮真にサーラが声を掛けた。
﹁あぁ、何とかな⋮⋮これで明日の軍議において俺達が献策しても
連中から無視される事はないだろう﹂
グラスに注がれた赤ワインを一息に呷り、亮真は深く息を吐く。
﹁それに、あの国王陛下が思ったよりも切れ者だって事が分かった
のは幸運だったねぇ﹂
﹁それは私も感じました。亮真様、やはり陛下があそこで試合を止
められたのは⋮⋮﹂
リオネの言葉にローラが頷く。
﹁負けてしまっては困ると理解していたんだろう。審判に命じて試
合を止めるのではなく、直接グラハルトに命じて割って入らせたの
が証拠さ。俺が文句をつけないと見抜いてやがる﹂
亮真の本心を見抜いていたからこそ、ユリアヌスは事前に何の相
談もなく試合の中止を宣言したのだ。
1354
﹁それに加えて、体を蝕む寄生虫まであぶりだそうとしたって訳だ
ねぇ。確かに切れ者だよアレは﹂
リオネの言葉に亮真は鋭く舌打ちをした。
﹁チィ、大した狸親父だぜ。こっちの意図を見破った上で利用しや
がった﹂
だが、言葉ほど亮真は不機嫌ではない。
空いたグラスにサーラがワインを注ぐ。
﹁これなら坊やの策が実を結ぶかもしれないねぇ﹂
﹁あぁ、俺自身策を実現できるかどうか半信半疑だったが、可能性
が出て来たな。ルピスの許可を事前に得た事が無駄にならなくて済
みそうだ﹂
リオネの言葉に亮真は唇を吊り上げて笑った。
﹁後は明日の軍議次第⋮⋮ですね﹂
サーラの言葉に亮真は無言のまま手にしたワイングラスを傾ける。
グラスに注がれた赤ワインの表面に浮かぶランプの灯が妖しく瞬
く姿を楽しそうに見ながら⋮⋮
﹁予想外の結果ですな⋮⋮﹂
男の言葉に、周囲の人間が賛同の声を上げた。
1355
﹁全く、まさかこんな結果になろうとは思いもしませんでした﹂
﹁グリードの奴もだらしのない。あんな子供に負けるような部下し
か持っていないとは﹂
城下に立ち並ぶとある貴族の屋敷の一室で円卓を囲む八人の男達。
服装を見れば誰もが高位の貴族である事が見て取れる。
いや、その顔に刻まれた傲慢さを見れば、彼らの素生など一目瞭
然だ。
﹁閣下⋮⋮一体どうなされるおつもりですか。此度の試合はザルー
ダとローゼリアの関係に楔を打ち込む為に我々がわざわざ仕組んだ
もの。それがこのような中途半端な結果ではあの方も納得されない
でしょう﹂ ﹁その通りです。これでは私がわざわざあの頑固者の尻を叩いた意
味がない﹂
その言葉に、円卓を囲む男達の口から笑い声が上がる。
それは道化をあざ笑う悪意に満ちた笑いだ。
﹁シュバルツハイム伯爵か、滑稽な事だ。謁見の間でのあの男の行
動。私は噴き出すのをこらえるのに必死だったぞ﹂
﹁全くだ。身の程知らずの頑固者め、己の行動がザルーダにとって
も敬愛する国王にとっても害にしかならないと知った時、一体どん
な顔を浮かべるだろうと思うと楽しくて堪らぬ﹂
国を思い、決死の覚悟を持って王へ諫言したシュバルツハイム伯
1356
爵の姿を思い浮かべ、男達は再び笑い声を上げた。
そして、ひとしきり笑い合った後、部屋の奥側に座った一人が声
を潜めて呟く。 ﹁しかし、あの若造は確かに危険だ⋮⋮斉藤殿やシャルディナ殿下
が危惧されるのも分かる気がする﹂
男の言葉に、周囲は半信半疑といった表情を浮かべる。
﹁そうでしょうか? 私にはあの若造がそこまで危険とは思えませ
んが⋮⋮﹂
﹁私も同感です。確かにウォルテニア半島などと言う僻地を領有し
ていながら兵を揃えて来たと言う点は評価に値しますが、戦は所詮
数です。五百にも満たない兵では単独で戦場には出られませんし、
見ず知らずの貴族と混成部隊を作ったところで大した働きなど出来
ないでしょう﹂
その判断は決して間違ってはいない。
戦況を左右する戦力としてならば最低でも一個騎士団二千五百前
後は欲しい。
五百に満たない少数部隊の単体での運用はあまりにも危険すぎる。
実戦ではおそらく、同じ位の規模を持つ貴族と組んで混成部隊を
作る事になるはずだ。
そうなれば、御子柴亮真の部隊は歩の一つでしかなくなる。
亮真の部隊がどれだけ優れていようとも、共に行動する貴族の練
度が劣れば部隊全体としての戦力は格段に落ちてしまう。
﹁うむ、それは私も分かってはいる。だが、やはり気になるのだ⋮
⋮﹂
1357
沈黙が室内を覆った。
円卓を囲む男達の視線が、閣下と呼ばれる声の主に集まる。
気の迷いと笑うには、男の持つ力は強大過ぎた。
﹁ジョシュア・ベルハレスと同じ様に帝国の進攻を邪魔すると?﹂
﹁うむ、確かに戦場では大した役に立たなくとも、あれだけの質を
持つ兵を育て上げた智謀を侮るのは危険だ⋮⋮下手に動かれれば我
等が交わしたシャルディナ殿下との密約も反故にされかねん﹂
この部屋に居る男達は皆多くの共通点を持つ。
傲慢で強欲で、名誉や権力に飢えているのは皆同じ。また、ザル
ーダ王国の中でも指折りの家柄を持ち広大な領地を治める領主でも
ある。 だが最大の共通点は国を売り渡してでも己の栄耀栄華を優先させ
る売国奴であると言う事だ。
﹁ベルハレス将軍を初戦で上手く排除したにもかかわらず、その後
はあまりこちらの思い通りには進んでいませんからな﹂
﹁ジョシュア・ベルハレス。鼻つまみ者の三男という噂でしたが、
どうしてどうして⋮⋮この一年、奴にはシャルディナ殿下も手を焼
いている様ですしな﹂
男達の口からため息が漏れた。
﹁まぁ良い。どちらにせよ今直ぐに打てる手はない。明日の軍議の
行方を確かめてからでも遅くはないだろう。では、何時もの様に我
等の繁栄を祈ろうではないか﹂
1358
男の言葉に次々と賛同の声が上がり、男達は円卓の前に置かれた
ワイングラスを手に取った。
﹁全ては我等が一門の繁栄の為に!﹂
﹁﹁﹁繁栄の為に!﹂﹂﹂
一息に飲み干すと彼等は一斉に床へグラスを叩きつけた。
﹁我等の邪魔はさせぬ⋮⋮誰であろうとな﹂
そう呟くと、閣下と呼ばれた男は割れたグラスの破片を踏む。
まるで足元に這い寄る虫けらを踏み潰さんとばかりに⋮⋮ 1359
第4章第19話︻それぞれの思惑︼其の1︵後書き︶
1360
第4章第20話︻それぞれの思惑︼其の2︵前書き︶
ザルーダ王国略図
<i43917|2150>
1361
第4章第20話︻それぞれの思惑︼其の2
演習場で繰り広げられた試合の二日後。
城の大部屋には三十人以上の人間が集められていた。 ﹁以上が我が国の現状である。本日はこの状況を打破する為に諸兄
らには活発に論議して頂きたいと思う﹂
大きな卓上に広げられたザルーダ国内の地図。
その上に配置された部隊と砦を表す駒を指揮棒で指し示しながら、
グラハルトは声を張り上げた。
﹁我が国を守り抜く為にも、皆の力を貸して欲しい﹂
グラハルトの隣に腰を下したユリアヌス一世が口を開いた。
王城の大広間を使用し、初めて開かれた東部三国合同の軍議。
ミスト、ローゼリア、ザルーダの各王国から選び抜かれた将軍や
騎士団長に加え、ザルーダ王国の外交や財政を担う上級貴族達が一
つの部屋に集められ、初めて互いに顔を会わせたのだ。
そんな中に、ザルーダ国王ユリアヌス一世の姿もある。
今まで、ユリアヌスが軍議の場に姿を見せたことは数えるほどし
かない。
それだけ、ザルーダ王国の現状が楽観視出来ないという事なのだ
ろう。
国王臨席の軍議は、開始当初から白熱した。
﹁いや、それがしはこのまま前線を維持し、周辺諸国に対してオル
1362
トメア帝国への締め付けを強化するように働きかけるべきだと考え
る!﹂
恰幅の良い貴族が声を大に叫ぶと、隣に座っていた若い騎士がそ
の言葉に噛みついた。
﹁なにを言うのだ! それではオルトメアの思う壺ではないか。奴
らの狙いは我等が手を拱いている隙をつき国土を占領する事だぞ!﹂
﹁落ち着かれよ。私が思うに、ザルーダ、ミスト、ローゼリアの三
国だけでは太刀打ちできまい。ここはやはりエルネスグーラの参戦
を待つべきではないのか?﹂
﹁それは、開戦当初から続けているが、この一年の間、なんの進捗
もないではないか﹂
﹁しかし、我が国のみで戦線をこれ以上維持することは難しいだろ
う。ここはどうしてもエルネスグーラを引き入れるべきだ。それに
全力を尽くすべきではないのか?﹂
﹁馬鹿な! エルネスグーラが我が国に助力してくれるはずがある
まい。かの国の女王が何と呼ばれていると思っているのだ!﹂
﹁左様! のらりくらりと我等の送った使者と会談を続けながら、
国境付近に軍を進めたのは間違いなく我が国の国土を狙ってのこと
!﹂
古老達はオルトメア帝国の抱える問題として、補給線の確保が困
難である事と、四方が敵国に囲まれた大陸中央部であるという立地
を理由に持久戦を提案し、若手の騎士達は徴兵した農民兵の士気を
1363
維持する為に積極的に打って出るべきだと自論を展開する。
皆、己の知恵を振り絞り、活発に意見を言い合っていた。
そんな中、人目を避けるかの様に部屋の片隅に固まる亮真、リオ
ネと、マルフィスト姉妹の四人は冷めた視線を彼らへと向けていた。
﹁フン、活発もクソもねぇなぁ⋮⋮この状況じゃぁ既に詰んじまっ
てるだろうに。何を今さら分かり切った事ばかり叫んでいるんだか﹂
亮真の呟きを聞き、傍らに立つリオネが苦笑いを浮かべた。
小声で言う程度の配慮はしているが、軍議の場で口に出すような
言葉ではない。
それでも、リオネが亮真をたしなめようとはしない理由ははっき
りとしていた。
︵全く、きついことを言う坊やだよ⋮⋮まぁ、事実なだけに否定の
しようがないけれどもね⋮⋮︶
目の前で繰り広げられる激論の内容は、この場に居ない咲夜を含
めた五人の中で、既に考慮され検討された内容ばかり。
亮真達にとって、目の前の激論は茶番にすぎなかった。 そもそも、ザルーダ王国の国力はオルトメア帝国の三分の一以下。
東部三カ国が連合してようやく対等になる計算なのだ。
しかし、ローゼリアは内乱によってその国力を疲弊しており、肝
心のザルーダ王国もノティス平原での敗戦が響いて兵力を大きく損
なっている。
︵今のままじゃ、勝敗は目に見えている⋮⋮か︶
亮真の状況判断に揺らぎはない。
都合の悪いことを真正面から見据えることの出来る精神力。
それこそが、御子柴亮真という人間が生き残ってきた理由だとリ
オネは理解している。
﹁首都近郊まで前線が押し込まれている段階でアウトだな⋮⋮この
1364
まま国土の南北を両断されて各個撃破。それでこの国はおしまいさ
⋮⋮﹂
ザルーダ王国は南北に広がる長方形に近い国土だ。
首都ペリフェリアは、中央部より東に寄ったあたりに位置してい
た。
前線はその首都から南西に徒歩で三日ほどの山岳地帯。
ジョシュア・ベルハレス率いる一万五千の軍勢が決死の覚悟で戦
線を維持していた。
しかし、はっきり言って、日々オルトメアの侵攻軍によってザル
ーダ王国の国土が侵されていくのを、ほんの少し遅らせているとい
うのが真実だろう。
一刻も早い増援が必要だ。
﹁まぁ、真っとうな手段でこの状況をひっくり返そうって言うのは
無理だろうね。少なくとも、アタイはそんな博打を打ちたいとは思
わないねぇ⋮⋮﹂
リオネは苦笑いを浮かべて首を振った。
既に、ザルーダ王国の状況は、亮真達の中で共有できている。
亮真の脳裏に昨夜の話合いで使った地図が浮かび上がった。 一年前、ノティス平原での決戦に勝利したオルトメア帝国はその
まま軍を東進させ、国境の山岳地帯を越えたあたりで一旦進軍を止
めた。
そして、砦を構築すると、西方大陸中央部の覇者という豊富な国
力に物を言わせて、大量の物資と兵をザルーダへと送り込んできて
いた。
後は砦を起点として、じわじわと東進すれば良い。
そして、無理に首都ペリフェリアを攻略するつもりがないのは、
1365
地図上に示されたオルトメアの進軍経路からも明らかだ。
わずかに首都ペリフェリアの南を通り過ぎるような経路。
そこから見えてくるオルトメアの狙いは、ザルーダ王国の南を分
断すること。
一度分断されてしまえば、ザルーダ王国の南を領有する貴族達は
首都との連絡を阻まれ動揺し、各個撃破されていくだろう。
﹁やはり、亮真様の策以外にこの状況を打開は⋮⋮﹂
サーラの問いに、リオネは唇を吊り上げ肩をすくめる。
﹁無理だろうねぇ。まぁ、確かに昨日聞いたあれが実現出来るなら
今の状況は激変するだろうよ。ただし、本当にそんな事が出来るの
かどうかが問題だけれどもねぇ。何せ事が事だからね。そう簡単に
はいかないと思うよ?﹂
﹁問題はミスト王国の動きですね⋮⋮こちらの話に乗ってくるかど
うか﹂
リオネの答えにローラは小さく頷く。
﹁まぁ、ミスト王国はまだいい。咲夜に命じて情報を集めさせてい
るところだからな。それに、例の話はまだ、ユリアヌス陛下にすら
通していない。とりあえずは、エレナさんとユリアヌス陛下を説得
してからだ﹂
亮真の視線が、グラハルトとエレナの間に立つ一人の若い女へと
向けられた。
漆器を思わせる艶やかな黒髪と、雪の様な白さを誇るきめ細かな
肌。
1366
年の頃は二十代半ばから三十代前半といったところだろうか。
どこかの姫君と紹介されても納得してしまう様な、気品あふれる
立振舞いと容姿。
美しさだけならば、ルピス女王と良い勝負だろう。
﹁エクレシア・マリネール⋮⋮︻暴風︼の異名を持つ将軍さ⋮⋮ま
ぁ、あの顔を見た限りじゃ、そんな風にはとても見えないけれども
ね﹂
リオネは苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めながら小さく呟い
た。
確かに、亮真の目に映るエクレシアの姿は、どう見ても貴族の令
嬢にしか思えない。
﹁リオネさんは過去に彼女と一度やり合ったことがあるんですよね
?﹂
ザルーダへ出発する前に、ボルツの口から聞いた話だ。
亮真がそのことを知っているとは思わなかったのか、リオネは目
を見開いて驚きの表情を浮かべる。
﹁ボルツだね⋮⋮全く、あのおしゃべりめ⋮⋮あぁ、その通りだよ。
数年前にミストと南部諸国の一つが領土をめぐってぶつかった時に
やり合ったのさ。もっとも、多少名前が売れたところでアタイ達は
戦場の駒の一つだ。向こうはアタイ達なんざ知りもしないだろうけ
れどもねぇ﹂
脳裏に浮かぶのは苦い敗戦の記憶。
その悔しさを吐き出すように、リオネは言葉を続ける。
1367
﹁ヤバイと思って追撃を打ち切ったのが良かったのさ。何とかうち
の連中だけは被害がなかったけれども他の連中は全滅させられたよ
⋮⋮結果、負け戦さ⋮⋮あの時、あの女の策であたし等は皆殺しに
なっていたとしても不思議じゃなかったよ⋮⋮全く、虫も殺さない
ような顔をして怖い女さ。あいつはね﹂
悔しさと共に、エクレシアという人間の力を認めようというリオ
ネの態度を見て、亮真はかすかな笑みを浮かべる。
亮真の目から見て、リオネは指揮官として優れた能力を持ってい
た。
冷静な判断力と、兵を鼓舞する威。
多少、頭に血が上りやすいところはあるが、それを自覚し抑えよ
うという意識もある。
平民という身分の縛りがなければ、どこの国でも重用されるだけ
の力を持っているのだ。
そのリオネがここまで言うエクレシア・マリネールという将の力
を侮ることはできない。 ︵まぁ、できる奴が増えるのは悪くない⋮⋮この劣勢をひっくり返
すのに俺やエレナさんだけじゃ話にならないからな⋮⋮前線を維持
しているジョシュア・ベルハレスと共に一度話をするべきだろうな
⋮⋮だが、ミスト王国か⋮⋮連中がこの戦をどうしたいのかが問題
だな︶
未だにその心の内が見えないミスト王国と援軍の将。
彼らの狙いがどこにあり、どこまで犠牲を許容できるのか。
その見極めがつかない今の状況で、亮真が練り上げた策を披露す
るのは危険すぎる。
﹁器量に期待ってところか﹂
国を守る為にどこまで犠牲を払う事が出来るか⋮⋮
1368
それは何もユリアヌス一世だけに向けられた言葉ではなかった。
亮真は小さく呟くと、静かに部屋の片隅から激論を繰り広げる愚
者達を見続けていた。 1369
第4章第20話︻それぞれの思惑︼其の2︵後書き︶
1370
第4章第21話︻それぞれの思惑︼其の3
﹁本当にそんな事が出来ると思っているのか! 貴様はザルーダ王
国を⋮⋮われら騎士をそこまで愚弄するのか! そんな屈辱に耐え
てまで生き延びる事を望む人間などこの国にはおらん!﹂
深夜、ほとんどの住民達が寝静まった王城の一室に、大声が響
いた。
憤怒、その叫びに含まれているのは誇りを傷つけられた獅子の咆
哮。
グラハルトは怒りで顔を真っ赤に染め、血走らせた目で亮真の顔
を睨みつける。
事前に人ばらいを命じてはいたが、その声のあまりの大きさに、
ユリアヌスは思わず部屋の扉に視線を向けた。
声が大きいことは、兵の指揮を高めるという点で戦場においては
大きな利点だが、こういった密談の場には向かない。
亮真の隣に腰かけたエレナと、グラハルトの左に座っている女の
顔にも、苦笑いが浮かんでいた。
﹁出来る出来ないじゃないんですよ。他に方法はありません⋮⋮そ
れとも、このままオルトメアに滅ぼされますか?﹂
グラハルトの体から放たれる激しい怒気を真正面から受け止めな
がら、亮真は顔色一つ変えずに切り返す。
﹁何を言う! まだ我等が負けると決まってなど居ない。第一、貴
様の提案は机上の空論もいいところだ。我が国だけならばまだしも、
ローゼリアとミストを巻き込むなど正気とは思えん。両国がこの提
1371
案に乗ると本当に考えているとしたら、貴様は度し難い愚か者だ!﹂
﹁まぁ、確かに⋮⋮ね。ですが、グラハルトさんはこれ以外に勝つ
方法を考えられますか? 滅亡を数年先延ばしにするだけで満足な
らばいくつか方法はありますけど、ザルーダ王国という国を残して
勝ちたいと願うのであれば⋮⋮他に方法はないでしょう﹂
﹁それを話し合うための軍議だったのだ! 部屋の片隅でなんの意
見も出さず黙り込んだままだった貴様が、今さら何を偉そうに。陛
下! エレナ様の顔を立ててこの場を設けましたがこれ以上聞くに
堪えません。これ以上は時間の無駄です。お部屋へお戻りください﹂
グラハルトはユリアヌス一世の方へ顔を向けると、席を立つよう
にと促す。
しかし、ユリアヌス一世は白い顎鬚を撫でながら、目を細めて言
い返した。
﹁まぁ待て、グラハルト。せっかく、深夜に人目を忍んで場を設け
たのだ。結論を急ぐこともあるまい﹂
内密にという亮真の願いを聞き、細心の注意と多大な労力を費や
して設けられたこの会談だ。
中途半端なところで話を切り上げる必要などどこにもなかった。
﹁しかし、陛下⋮⋮こやつの話は絵空事も良いところです。第一、
この男の言う通りにすれば、我が国はエルネスグーラの属国になり
果ててしまいます﹂
だが、ユリアヌスの口から洩れた言葉は、グラハルトが予想もし
ないものだった。
1372
﹁良いではないか、グラハルト﹂
その言葉が部屋に響いた後、沈黙が場を支配する。
エレナですら、大きく目を見開いて驚きを隠せなかった。
﹁へ⋮⋮陛下﹂
﹁何を驚くのだ? このまま手をこまねいていれば、我等に残され
る道は、オルトメア帝国へ臣従し属国となり果てるか、さもなくば、
我が民を道ずれにして玉砕といったところしか残らぬではないか。
どちらにしても結果はたいして変わらぬ。ならば、少しでも条件の
良い方へ臣従するのもありだろうて﹂
最後まで抗戦すれば、当然ザルーダ王国の国土は荒廃する。
国民の生活は滅茶苦茶になるだろう。
しかし、それはオルトメア帝国へ臣従を申し入れたところで同じ
こと。
戦争は経済活動の一つ。
費やした戦費が莫大であればある程、臣従を受け入れたオルトメ
アが戦後、ザルーダから搾り取ろうとする金額は多くなる。
毎年、求められる莫大な献上品。
そして不平等な関税率。
即死か、緩慢な死かの差だけで、死ぬという結果は何も変わらな
い。
しかし、それはオルトメア帝国が悪で非道な国家だからではない。
費やした戦費をどこかで回収しなければ、自分達の国が滅びるこ
とを知っているのだ。 ﹁エルネスグーラへ臣従すること自体はかまわん。だが、御子柴殿
1373
よ。それがオルトメアへの臣従と変わらんのならば意味がない。ど
うじゃ、ちがうか?﹂
ユリアヌスの問いに亮真は無言のまま頷いた。
それは、当然出てくる質問であることを理解していたから。
﹁その為にミスト、ローゼリア、ザルーダのそれぞれを代表する方
に集まってもらったわけです。まぁ、一つ訂正すると、私の提案は
臣従ではなく、エルネスグーラを頂点とした四ケ国の連合という事
ですが⋮⋮まぁ、属国化という認識でも間違いではないでしょうね﹂
﹁一番気に入らんのはそこだ! 何故我が国の事情に他国を巻き込
む。それに、エルネスグーラへはノティス平原での戦の後から頻繁
に使者を送り参戦を促してきた。だが、この一年余りのらりくらり
と言を左右して動こうとはしておらぬ。とても貴様の思い通りにな
ど事が運ぶとは思えぬぞ﹂
亮真の言葉にグラハルトが再び噛みついた。
策に対しての嫌悪感から発した指摘だが、間違っているわけでは
ない。
︵全く⋮⋮どうしてこう、人の話を最後まで聞かないかねぇ⋮⋮ミ
ハイルの奴も同じ様な感じだったが、騎士の職業病か?︶
亮真は内心深いため息をついた。
グラハルトの指摘は間違っていないが、それを考慮した上で亮真
は策を練っているのだ。
話を最後まで聞けばそれが分かるのだが、度々、話の腰を折られ
ると煩わしさと苛立ちが募る。
国を守りたいと焦る気持ちが空回りしている結果なのだろうが、
亮真としてもそろそろ我慢の限界だった。
︵大体、テメェ等が無能だから俺が態々援軍に駆り出されたんじゃ
1374
ねぇか。ノティス平原で負けたのだって敵の罠に真っ向から突っ込
んだ結果だ。馬鹿共が! そんなに俺の策が気に入らねぇならテメ
ェ等の手で尻拭いしやがれ!︶
亮真としては、出来るだけザルーダ王国にはこのまま存続しても
らいたい。
今、ザルーダ王国という盾を失えば、オルトメアは雪崩のように
西方大陸東部を蹂躙する。
ミスト王国はその豊かな経済力に支えられた騎士団の力で多少は
持つだろうが、ローゼリア王国は未だ一年前の内乱で低下した国力
を回復しきれていない。
いや、ルピスの政策が上手く機能していない今、一年前よりも国
力が落ちている可能性すらある。
そんな状況下でオルトメア帝国の進攻軍を迎え撃てる訳がなかっ
た。
亮真としては、そんな絶望な状況を何とかひっくり返そうと知恵
を絞ったのだ。
それなのに、話の途中で怒鳴り声を上げ、席を立とうとユリアヌ
スを扇動するなどとても許せない。
亮真の心に、暗い炎が灯った。
そして、それは少しずつ亮真の理性を蝕んでいく。
︵いっそ、殺しちまうか⋮⋮︶
そんな考えが亮真の脳裏に浮かんだ。
伊賀崎衆の中から指折りの人間を差し向ければ、たとえ騎士団長
を務める強者だろうと十分に暗殺は可能なはずだ。
﹁どうも結論を急ぎ過ぎますね。グラハルト様? 御子柴様は未だ
にすべてを説明されたわけではございません。ユリアヌス陛下がお
っしゃられた様にせっかく人目を忍んでこうして集まったのです。
愚策か奇策かを決めるのは、最後まで話を聞いてからでも遅くはあ
りませんわ?﹂
1375
場の空気にそぐわない、明るくさわやかな女の声が響いた。
その声を聞き、亮真の中で育ちつつあった怒りの火が急速にしぼ
んでいく。
︵ヤバいヤバい、どうも最近、考え方が短絡的になってきてるな⋮
⋮結構、俺も追い詰められてるんだろうな⋮⋮︶
邪魔者は消す。
間違った選択ではないだろうが、それだけでは生きていける筈が
ない。
短絡的な行動は新たな敵を生み出すだけだ。
それに、今の様な劣勢の状況下では、多少愚かでも味方は多けれ
ば多い方がいい。
切り捨てるのは、本当に最後の手段。 ﹁マリネール殿⋮⋮貴方はこの男の策を聞く価値があると言われる
のですか?﹂
思いがけない人間の思いがけない言葉に、グラハルトは顔を歪め
た。 援軍に派遣された隣国の将軍が聞くという以上、たとえグラハル
トに不満があってもここは引くしかない。
﹁無論ですわ。中々興味深いお話でしたから⋮⋮﹂
そういうと、エクレシアは顔を亮真の方へと向けた。
﹁御子柴様⋮⋮でしたわね? お名前を聞いたことがあります。昨
年のローゼリア内乱時にはルピス陛下と共に闘い、素晴らしい戦果
を上げたとか。そうですわね? エレナ様﹂
1376
﹁はい、彼は私の知る中でも屈指の戦略家であり戦術家です⋮⋮グ
ラハルトさんには事前に話をしていたのですが、どうやら私の言葉
を信じては貰えなかったようですね⋮⋮﹂
エレナはそう言うと、さも残念だとばかりに首を振った。
﹁し、しかしこの男の策はとても聞くに値するとは⋮⋮﹂
﹁もう良い、グラハルトよ。御子柴殿の話を黙って聞けないのなら
部屋を出ておれ﹂
主君に諭され、グラハルトの顔に迷いが浮かんだ。
﹁話の腰を折り申し訳なかった。グラハルトも分かったようだ。こ
のまま話を続けていただけるかな?﹂
﹁勿論です。陛下﹂
ユリアヌスの言葉に、亮真は静かに頷くと、己の策を話し始めた。
﹁エレナ様⋮⋮彼は中々の切れ者ですわね⋮⋮﹂
﹁えぇ、私の知る限り、策士としては一流以上でしょう﹂
﹁そして、一人の戦士としても⋮⋮ですわね﹂
会談が終わり、部屋に残されたのはエレナとエクレシアの二人だ
け。
対面で座り、卓の上に置かれたワインを傾けていく。 1377
﹁奇策⋮⋮ではないのでしょうね⋮⋮﹂
エクレシアの呟きにエレナは静かに頷いた。
﹁奇策ではないでしょう。先日の軍議の場でも盛んに出された案で
すから⋮⋮﹂
﹁でも、それはこの一年の間、誰も実現できなかった策⋮⋮エレナ
様は御子柴様なら可能だとお考えですか?﹂
探るような問いかけに、エレナは首を横に振った。
﹁分かりません。先ほどの会談で、あの子ならあるいはと感じはし
ましたが⋮⋮本当に、北の雌狐を動かせるかどうか⋮⋮﹂
エレナの言葉に嘘はない。
可能性という観点ならば、十分にあるといえる。
だが、絶対に可能かと問われれば首を横に振るしかない。
正直なところ、良くて五分五分といったところだろう。
﹁エクレシアさんはどうされるのですか? やはり、ミスト本国へ
この事を⋮⋮﹂
今度はエレナがエクレシアへ問いかける。
﹁勿論、今夜中に伝令を向かわせるつもりです。流石に、私一人の
独断で結論を出すには重すぎますから⋮⋮ですが、私個人はこの策
に乗るべきだと考えています﹂
1378
亮真の策に乗るか乗らないか、その決断をこの場で下す権限を持
たないのは、エレナとエクレシアの二人。 しかし、国力を疲弊させ選択肢が殆ど残されていないローゼリア
と違い、ミスト王国は未だに単独でも数年は抗戦が可能なだけの経
済力と軍事力を保持している。
東部三ヶ国で協調する意味はないと考え、ミスト王国単独による
開戦の可能性もあるのだ。
﹁戦後のことも考えると、ここは三ヶ国で協調した方が良いと思い
ますから⋮⋮少し、御子柴様の思惑通りの展開すぎて、癪に障りま
すけれど﹂
そう言うとエクレシアは、悪戯っ子の様な笑みを浮かべて肩をす
くめる。
﹁そこまでエクレシアさんが分かっていらっしゃるなら、私が余計
な事を言う必要はないわね⋮⋮わざわざ残っていただいて申し訳な
かったかしら?﹂
﹁そんな事はありませんわ。︻ローゼリアの白き軍神︼と謳われた
エレナ様とこうしてお話が出来たのですから﹂
﹁あら、︻暴風︼と呼ばれるエクレシアさんにそんな風に言われる
と、照れてしまいますね﹂
二人は共に笑い声を上げ、手にしたグラスを傾ける。
﹁今回の戦、一体どうなるものかと不安でしたが、御子柴様のお陰
で大分面白くなってきましたわ⋮⋮﹂
1379
エクレシアの口から小さな呟きが漏れた。 1380
第4章第22話︻それぞれの思惑︼其の4
ザルーダ王国内に造られた、オルトメア帝国の砦。
国境線上に連なる山脈地帯の麓に建てられたこの砦は、ザルー
ダ国内を侵略するオルトメア帝国の最重要拠点。
その砦の一室で、シャルディナはソファーの上に体を横たえなが
らセリアの報告に耳を傾けていた。
﹁ノティス砦に集められた物資と兵員は、後一ケ月ほどで予定して
いる数に達するはずです。補給状態に関してのご報告は以上となり
ます﹂
白い紙の書類に記載された数字を読み上げると、セリアは一旦言
葉を切った。
ノティス砦はオルトメア国内から集められた物資の集積場となっ
ている。
そこから、山脈地帯の谷間をうねるように造られた街道を通り、
ザルーダ国内へと運び込まれてくるのだ。
﹁良いわ⋮⋮やっと、決着をつける事が出来そうね⋮⋮﹂
シャルディナは形の良い眉を曇らせながら、ため息交じりに首を
振る。
年単位の時間と、膨大な労力を費やした東部侵攻。
その初戦であるザルーダ王国との戦は、波乱の幕開けだった。
開戦からどんなに長くとも半年以内での決着を考えてたシャルデ
ィナにとって、この一年は予想外の事態がたび重なる呪われた年だ。
ノティス平原での戦でベルハレス将軍を打ち取りながらも、ほぼ
1381
同数の騎士を消費したシャルディナは、ザルーダ王国北部の国境線
を侵したエルネスグーラの動向を探る為に主力部隊の進軍を止めた。
大国エルネスグーラの横槍を警戒し、軍を主力と侵攻部隊の二手
に分けたこと自体は、軍を預かる指揮官としては当然の判断だった
といえる。
今思い返してみても、あの時の判断が間違っているとシャルディ
ナは思っていない。
しかし、結果としてそのシャルディナの決断が、ザルーダ王国攻
略を長引かせる事になった原因の一つとなったのは事実だ。
ノティス平原での戦の後、間髪入れずに全軍を持ってザルーダ王
国の敗残軍を殲滅させていれば、今頃は首都ペリフェリアを攻略し、
ローゼリア王国の攻略を進めることが出来た筈なのだから⋮⋮ ﹁ようやくこれで、あの煩わしい男を始末出来るわね⋮⋮﹂ そして、この戦が長引いた最大の原因を思い浮かべ、シャルディ
ナは丁寧に整えられた親指の爪を噛みながら呟いた。
苛立った時に出る、シャルディナの持つ悪癖の一つだ。
﹁ジョシュア・ベルハレスの事ですね﹂
﹁あの男の所為でこちらの予定は狂いっぱなしよ⋮⋮﹂
ノティス平原で父親であるベルハレス将軍が玉砕した後、ジョシ
ュアは生き残った兵を引き連れ撤退した。
兵の死傷者数が同数だったとはいえ、ザルーダ側の最高指揮官で
あるベルハレス将軍が戦死している以上、勝利はシャルディナのも
のだったのだ。
尚武の国として騎士個人の力量は素晴らしくとも、戦において大
切なのは連携や指揮力。
1382
シャルディナにしてみれば、国の守護神とまで言われたベルハレ
ス将軍を打ち取っている段階で勝利を確信して当然だった。
事実、ザルーダ王国には亡きベルハレス将軍に匹敵する名声と実
績を誇る人間は存在していない。 しかし、草刈り場となるはずの侵攻戦は、ジョシュア・ベルハレ
スの指揮の下で戦うザルーダ側の反撃にあい、逆に少なくない犠牲
を強いられ失敗している。
エルネスグーラへの備えに、侵攻部隊の兵数を多く出来なかった
とはいえ、将軍が戦死し、指揮系統の混乱した敗残軍を打ち破り、
ザルーダ国内深くに侵攻するには十分なだけの準備をした部隊。
それをジョシュア・ベルハレスによって打ち破られた。
それは、シャルディナが愚かなのではなく、谷間や視界の悪い曲
がりくねった街道など、山岳地帯の特徴を上手く使い、追撃部隊へ
奇襲をかけたジョシュアの指揮が見事だとほめるべきなのかもしれ
ない。
そして、防衛戦を指揮したジョシュアの手腕は、父親である亡き
ベルハレス将軍の名声と相まって、国と己の領地を守る為に腐心し
ているザルーダ貴族達の心を惹きつける。
救国の英雄として⋮⋮ 鼻つまみ者の三男が表舞台へと躍り出た瞬間だ。
﹁西方から山岳戦に強い騎士団を臨時で引き抜きました。今後は、
今までの様にジョシュア・ベルハレスの好き勝手にはさせません﹂ 戦は兵数が多い方が有利だ。
そのこと自体は正しいが、必ずしも全ての戦場で常に正解かと問
われるとそうではない。
ザルーダ王国の国土を寸断する峻険な山々と深い森は、土地に不
慣れな指揮官が大軍を運用するには不利だった。
さらに、騎士達が身に付けている金属製の全身鎧は、平地では抜
1383
群の威力を発揮するが、高低差のある山岳地帯では体力を無駄に消
耗させる重荷でしかなかない。 だが、膨大な時間を費やし地元民から集めた情報を元に作った地
図と、広大なオルトメア帝国の領土に点在する、不正規戦を得意と
する騎士団を投入すれば勝利を得ることができる。
地の利と兵の質さえ互角になれば、勝敗を決める要素は兵数しか
残らないのだから。
︵それにザルーダ貴族の寝返りが進めば、戦略的な勝利は間違いな
い⋮⋮後は、私がミスをしなければいい。目の前で獲物に逃げられ
るなんて一度で十分よ⋮⋮︶
油断、慢心、驕り⋮⋮
一瞬の判断ミスが勝者を敗者へと導くことをシャルディナは知っ
ている。
戦略的勝利はあくまで勝利の九十九パーセントを占めるだけ。勝
利を百パーセント確かなものにするには戦術的な勝利が必須だった。
﹁それと、帝都の陛下よりシャルディナ殿下へ書状がまいっており
ます⋮⋮﹂
シャルディナが思考の海を漂っていると、セリアが懐の中より書
状を取り出した。
﹁お父様ったら⋮⋮どうせ、ザルーダを早く攻め落とせという催促
でしょう?﹂
溜息をつきながら、シャルディナはソファーに横たえていた体を
起こした。
この一年間、週に一回は早馬と鳥を使用して届けられてきた手紙
は、どれも同じ内容のものだ。
︵お父様は焦っておられる⋮⋮お気持ちは分からなくもないけれど
1384
⋮⋮︶
当然の事ながら国力にも動員兵力にも限界がある。
それでなくとも、エルネスグーラとは西の国境をめぐって争いが
絶えないのだ。
早く戦を終えたいと思うのは当然のことだった。
﹁貸して頂戴﹂
セリアは無言のまま書状を手渡した。
﹁チィ﹂
書状の封を剥がして皇帝からの文を流し読みしたシャルディナの
顔が曇り、形の良い唇から小さな舌打ちが漏れた。
日頃から帝国の第一皇女として、優雅で気品ある行動を心がけて
いるシャルディナには不釣り合いな行為。
︵あまり、良い話ではないようね⋮⋮︶
セリアの心に胸騒ぎが起こる。
﹁貴方も読んでごらんなさい⋮⋮﹂
﹁宜しいのですか?﹂
そう答えつつ、セリアは差し出された書状を手にした。
︵なるほど⋮⋮どおりで⋮⋮︶
ざっと書状を斜め読みしたセリアの表情が同じように曇る。
﹁北の雌狐。ついに動き出したのですね⋮⋮﹂
エルネスグーラ軍動くの文字を見て、セリアの口からため息は漏
1385
れた。
﹁まだ、第二陣がザルーダの国境付近に駐留しているだけの様だけ
れどもね⋮⋮﹂
開戦当初から、いつかこの時が来ると予想はしていた。
だが、ノティス平原での戦いから一年余りが過ぎ、今このタイミ
ングで再び動きを見せ始めるとはあまりにタイミングは悪すぎる。
﹁ザルーダの南北分断も目前という矢先に⋮⋮全く、どうしてこう、
こちらの予定通りにいかないのかしらね﹂
まるで、運命の神がオルトメア帝国の隆盛を嫌っているかのよう
な、めぐり合わせの悪さ。
恐らく、エルネスグーラは多数の密偵をザルーダ王国内へ放ち、
シャルディナの動向を監視しているに違いない。 ﹁今度も見せかけだけという可能性はありませんか? 一年前、エ
ルネスグーラは確かにオルトメア、ミストの両国に宣戦布告をしま
したが、未だに北部国境の街を占領しただけで南下しようという兆
しはありませんでした。積極的に介入しようというつもりなら一年
前に動いたはずです﹂
﹁エルネスグーラに南下の意志は無いというの?﹂
シャルディナの問いかけにセリアは頷いた。
ノティス平原の戦の後、エルネスグーラはザルーダ王国の国境線
を突破し、北西部の街をいくつか占領している。
しかし、この一年、エルネスグーラ軍は占領した街に駐留したま
ま、何も動きを見せてはいない。
1386
ザルーダ側の使者を適当にあしらいながら、じっと北西部から動
かないのだ。
﹁一年前。殿下はエルネスグーラ参戦の情報に、軍の進軍を停止さ
せました。今回も我が軍の侵攻を遅らせる為のブラフなのではない
かと思うのですが⋮⋮﹂
﹁仮にそうだとしても、対策を考えなければならない事に変わりは
ないわ﹂
この問題で厄介なのは、たとえブラフであろうと備えだけはして
おかなければならないという点だ。
何の備えもしない状態でエルネスグーラ軍の南下を止めることは
できない。
そして、今南下の意思がエルネスグーラに無いからと言って、今
後も無いと断言する事は出来ない。
シャルディナはエルネスグーラが国境線を突破した段階で使者を
送り、ダメ元でザルーダ王国の分割占領を提案したが、やはり取り
付く島もなく追い返されている。
そんな状況下で、無防備な横腹をさらけ出して首都ペリフェリア
の攻略を進めるわけにはいかないのだ。
﹁どうされるおつもりですか?﹂
セリアの言葉にシャルディナは眉間にしわを寄せて黙り込んだ。
︵部隊が届くのを待って、ジョシュア・ベルハレスを野戦へ引きず
り出しそこで勝つ⋮⋮そして、ザルーダ側の士気を下げたところで
南北を一息に分断する⋮⋮短期決戦⋮⋮これしかないか︶
シャルディナの脳裏に浮かんだのは、開戦前に練った策への回帰。
交渉の場にすら引っ張り出す事が出来ない北の大国。
1387
その動きをいつまでも気にして出方をうかがっていては、このま
ま何年掛かってもザルーダ王国占領など出来はしない。
シャルディナは卓の上に紙を広げると、羽ペンを猛烈な勢いで走
らせる。
﹁須藤をローゼリアから呼び戻しておいて。西から転戦してくる部
隊の移動が終わり次第、勝負を仕掛けます。それと、これをお父様
へ⋮⋮﹂
差し出された手紙の内容にセリアは目を見開いた。 ﹁ロルフ殿を呼び寄せるのですか?﹂
︻皇帝の盾︼と謳われ諸国に名を馳せた近衛騎士団長。
皇帝の信頼厚き側近の一人にして、身辺警護の最高責任者。
ロルフが前線に出るのは皇帝自らが戦場に赴く時だけだ。
﹁防衛戦でロルフ以上の指揮官がいない以上、仕方がないわ⋮⋮私
達が前線へ軍を動かした後、この砦を万に一にでも落とされるわけ
にはいかないの﹂
﹁ザルーダ側が後方の遮断に出ると?﹂
セリアの問いにシャルディナ無言のまま頷く。
シャルディナが兵を前線に進めた隙を突かれこの前線基地を落と
されれば、オルトメアの将兵は本国との連携を断たれ孤立してしま
う。
ザルーダ側の残存兵力や指揮官の質を考え合わせると、このよう
な博打を打てるとはとても思えないのだがシャルディナは完璧を目
指した。
1388
﹁流石に近衛騎士団を動かせとは言わない。側近だけ連れてこの砦
を守ってもらうつもりよ。申し訳ないけれど、お父様には納得して
いただくほかないわ⋮⋮次の戦は絶対に負けられないのだから﹂
シャルディナの言葉に含まれた固い決意に、セリアは無言のまま
頷くと、踵を返して部屋を出て行った。
﹁そうよ⋮⋮絶対に負けられない⋮⋮﹂
シャルディナは自らの決意を確かめるかのようにもう一度同じ言
葉を小さく呟くと、窓の外に広がる東の空を睨んだ。
様々な思惑が交差する中、ザルーダ王国の存亡を賭けた一戦が刻
一刻と近づいていく⋮⋮
1389
第4章第23話︻北の雌狐︼其の1
ジョシュアは切り立った崖の上から、真下の街道を進むオルトメ
ア帝国を示す不死鳥の紋章を掲げた輸送隊を見下ろしながら、指に
挟んだ葉巻を口元へと運んでいく。
ザルーダ王国の国境線上に連なる山々。その谷間を縫うように結
ばれた街道を、無数の人馬が覆い尽くしていた。
皇女シャルディナが広大なオルトメア帝国領からかき集めた物資
を運ぶ一団。
いったいどれだけの兵士と物資を運び込んできたのだろう。
西方大陸の中で三強の一角であるオルトメア帝国。
その絶大な国力を見せ付けるかのような光景だ。
︵事前の情報通り⋮⋮か。あの女も相当焦れてきてるという事だな︶
これだけの人と物資を集め、一つの戦線へ投入するのは、如何に
強大な国力を誇るオルトメア帝国といえど簡単ではなかったはずだ。
︵ご苦労なこった⋮⋮︶
苦笑いと共に、ジョシュアの脳裏にこの一年矛を交え続けたオ
ルトメア帝国第一皇女の姿が浮かんだ。
もっとも、脳裏に浮かぶシャルディナには顔がない。
風の便りでジョシュアはシャルディナが美しい女である事を知っ
てはいたが、写真もTVもない大地世界では、敵国の姫の顔など見
知っているはずがなかった。
︵国力に物を言わせて一気にこちらを踏み潰そういう腹だな⋮⋮や
はり、それを選択してきたか。まぁ、確実な戦術だからな︶
どこか投げやりで精気の抜けた顔。
全く手入れをしていない不精髭。
髪もぼさぼさのまま、全身からは酒と葉巻の匂いが漂っている。
1390
流石に娼婦が使う安っぽい香水の匂いだけはしないが、その外見
は、まさに王都の貧民街に入り浸っていた鼻つまみ者の三男の姿だ。
ジョシュアは指先に灯した法術の火を葉巻へ近づける。
そして、静かに息を吸い込み、口の中で煙草の香りを楽しむ。
︵エルネスグーラの動きを察して、邪魔の入らないうちにケリをつ
けようってことだろうな。いよいよ尻に火がついたってところか⋮
⋮もっとも、後がないのはこちらも同じだな⋮⋮︶
ジョシュアの頭脳は、既にザルーダ王国に残された時間が少ない
ことを理解していた。
そして、オルトメア帝国にとっても同じであることを⋮⋮
この一年、山岳地帯特有の地形を上手く使った非正規戦はオルト
メア帝国の進攻速度を落としはしたものの、根本的な解決には至っ
ていない。
末期の病人に対して延命処置だけを施し、未知なる新薬に全て
を賭けるようなものだ。
そして崖の下を突き進む人の群れは、病人に無慈悲な死を告げる
死神に等しい存在。
︵まぁ良い。どちらにせよ、俺はあの男の策に俺の命とこの国の運
命を賭けたのだ⋮⋮俺は俺の仕事を果たすだけだ︶
ジョシュアの脳裏に、先日初めて言葉を交わした男の顔が浮かぶ。
周囲から若造と陰口を叩かれ続けたジョシュアよりさらに若い青
年。
それも、何処の馬の骨とも分からない平民出身の貴族。
しかし、青年の提示した策はジョシュアに全てを賭けさせるに足
る価値を持っていた。
策その物は取り立てて奇抜という訳ではない。
少し知恵が回れば、あの程度の策なら誰でも考え付くだろう。
しかし、考え付くことができるからと言って、実現することがで
きるとは限らない。
︵面白い男だ⋮⋮堪らなく⋮⋮な︶ 1391
御子柴亮真の不敵な笑みが脳裏に浮かび、ジョシュアの唇が吊り
上がる。
ジョシュアは自分がどうしようもない博打好きな事を自覚して
いた。
ハイリスクハイリターン。
場末の酒場で幾度となく潜った修羅場。
その度に、ジョシュアの背骨を何とも言えない痺れる様な甘い
感覚が走るのだ。
﹁さて⋮⋮と、そろそろか⋮⋮﹂
これから始まるのは、過去に一度も経験したことのない大博打。
西方大陸東部三国の命運を賭けた博打だ。
足元へ葉巻を投げ捨てると、ブーツの踵で火を踏み消す。
その瞬間、どこかけだるそうだったジョシュアの顔に、獣の様な
獰猛さが浮かび上がった。
﹁まったく、アタイに仕事を全部押しつけて自分は一服かい⋮⋮良
い御身分だねぇ﹂
ジョシュアの背後からからかいと呆れの入り混じった声を掛けた
のは、燃えるような赤い髪を持つ女の傭兵。
﹁準備は終わったのか?﹂
﹁あぁ、何時でも行けるよ﹂
背後を振り向くながらリオネは自信をもって頷く。
﹁そうか⋮⋮ご苦労だったな。リオネ﹂
1392
﹁あぁ。なかなか手のかかる悪餓鬼共さ﹂
そういって笑みを浮かべるリオネを見て、ジョシュアは唇から溜
息が洩れる。
リオネの言葉以上に簡単ではない事を、ジョシュアは十分に知っ
ていた。
﹁うちの連中は腕は良いが、どいつもこいつも癖のある奴らだ。そ
れこそ自分より上だと認めない限り鼻もひっかけやしねぇよ﹂
実際、王都ペリフェリアから派遣された騎士達の指揮には断固と
して従わない。
彼らは亡きベルハレス将軍が特別に編成した特殊兵団。父親が死
んだ今は完全にジョシュアの私兵であり、ジョシュアだけの兵なの
だ。
何しろ、彼等は元々ザルーダ国内を荒らしまわっていた山賊や盗
賊などの犯罪者。
優れた騎士であると同時に、優れた軍略家でもあったベルハレス
将軍は、真っ当な騎士の戦い方に固執しては、いずれオルトメア帝
国の国力の前に屈すると考えていた。
国土の大きさも、国力も、人材も、何もかもが違いすぎるのだ。
いかにザルーダ王国が尚武の国として、一人一人の騎士の質が高
かろうとも、数の暴力には耐えきれない。
その上、肝心のザルーダ王国は決して一枚岩ではなかった。
元々、国土を森や山々で寸断された土地。
ザルーダ王国の国王は統治者や貴族達の盟主ではあっても、支配
者ではないのだ。
皇帝の意志の下にほぼ統一されているオルトメア帝国と、貴族達
1393
の顔色を伺いながらでなければ決断することが難しいザルーダ王国。
どちらが有利かは赤子でも分かる。
だから、ベルハレス将軍は、オルトメア帝国とザルーダ王国の間
にある国力差を埋めるために様々な手段を講じた。
その中には、騎士の道から外れる策も当然盛り込まれている。
その手段の一つが、オルトメア帝国内の治安低下。
その為に、ベルハレス将軍は死罪の決定していた盗賊団の首領達
を助命と引き換えにオルトメア帝国領内へと送り込んだのだ。 そんな、元々傭兵や冒険者以上に荒っぽい生活を送ってきた男達
だ。それを従わせたという事実がリオネの能力を証明している。
﹁そうでもないさ。確かにチョイとばかりはしゃぎはしたから、尻
を蹴とばしてやったけれどもね。可愛いもんだよ﹂
リオネは金色の瞳を細めながら笑う。
かしら
実際、リオネにとって、ジョシュアの部下達を仕付けるなど造作
もなかった。
伊達や酔狂で女の身でありながら︻紅獅子︼の頭を張ってきたわ
けではない。
︵なるほど⋮⋮確かにあの男の言うとおり、使える女だ。それに、
あの男を信頼している︶
御子柴亮真はこの場所に居ない。
彼は今、東部三国の命運を賭けて北の雌狐の下へと向かっている
はずだ。
ジョシュアとリオネが担うのは、オルトメア帝国の進攻を策が実
現するまで少しでも阻むこと。
捨て駒にされた。
そう考えても少しも不自然ではないこの状況下において、リオネ
の顔には何処にも不安げな様子は見られない。
中途半端な忠誠心や義務感ではない確かな絆が、御子柴亮真とリ
1394
オネの間にはあるのだろう。
﹁良いだろう。始めてくれ﹂
﹁あいよ。了解﹂
ジョシュアの言葉に頷くと、リオネは背後へ振り向いた。 しんがり
﹁いいか! いつ、何処から襲ってくるとも限らん。十分に周囲を
警戒しろと先導の兵へ伝えろ。無論、殿の部隊にもだぞ!﹂
馬上の指揮官が声を上げると、伝令が一斉に散っていく。
﹁少し警戒が過ぎるのではありませんか?﹂
副官の言葉に指揮官は首を横に振った。
自分自身も警戒しすぎだという気持ちがある反面、この一年の間、
多くの部隊長がジョシュア・ベルハレスの奇襲によって討ち取られ
ている。
前任者達の二の舞いだけは避けなければならない。
特に、今回の輸送任務はどうしても失敗するわけにはいかなかっ
た。
﹁シャルディナ殿下より固く言いつけられた事だ。それとも、貴様
は俺にこの任務を失敗させたいのか?﹂
絡む様な上司の言葉に、副官は慌てれ首を横に振った。
﹁御冗談を⋮⋮﹂
1395
﹁ならば黙って従え⋮⋮この任務は今までと規模も重要性も段違い
なのだ⋮⋮それは貴様も分かっているだろう?﹂
シャルディナの命によって、ノティス平原の砦にはオルトメア帝
国全土から兵士と物資が山の様に運び込まれている。
しかし、後方の補給基地にいくら物資を貯め込もうと、それを前
線へ運べなくては何の価値もない。
指揮官の問いに、副官は無言のまま頷いた。
﹁始めな!﹂
かいな
スト
リオネの声に従い、二百人を超える兵士達が一斉に詠唱を開始し
た。
ーンウォール
﹁﹁﹁母なる大地よ 汝が堅き腕で汝が子を禍より守りたまえ 石
壁隆起﹂﹂﹂
大地から次々に岩の壁が隆起していく。
巨岩。そういう表現がぴったりと合う様な重く分厚い壁だ。
従来なら防壁にしか使用しない術だが、彼らの表情に迷いはない。
﹁押し倒しな!﹂
再び、号令に従って兵士達が岩の壁に力を込める ﹁オぉぉぉ! 押せ押せ!﹂
﹁力を込めろ!﹂
1396
﹁無駄飯ぐらい共め。気合い入れて押すんだ!﹂
数トン近い重量の壁だ。
武法術で身体能力を強化した彼らでも、そう容易く押すことはで
きない。
彼等は顔を真っ赤に数人がかりで力を込める。
筋肉は膨れ上がり、血液が体中を駆け巡った。
﹁そのまま崖下へ一気に落としな!﹂
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉお!﹂﹂﹂
最後の一押しと、兵士達は最後の力を振り絞って石壁を押し込む。
崖下を通るオルトメアの部隊を押し潰す為⋮⋮ ﹁なんの音だ?﹂
頭上から突如響き渡った山鳴りに指揮官は首を傾げた。
﹁閣下! 岩です。崖から岩が落ちてきます﹂
副官の指さす報告へ視線を向けると、土煙りを巻き上げながら、
巨大岩の壁が崖を転がり落ちてくる。
円形でないため、互いにぶつかり合いながら不規則な動きで進路
を変えて転がり落ちてくる岩の壁。
その動きは予想が難しく、避けるのは難しい。
﹁く! ザルーダの奇襲か⋮⋮斥候は何をしていた﹂
1397
﹁そのような事は後です。閣下、お逃げください!﹂
無論、逃げ道など彼等には残されているはずもない。
街道いっぱいに広がった隊列は進むことは出来ても退くことなど
出来ないのだから⋮⋮
この日、ジョシュア・ベルハレスの奇襲によって甚大な被害を出
したオルトメア軍は、その進軍速度をさらに低下させる事になる。
そしてそれは、御子柴亮真に貴重な時間を与えることとなった⋮
⋮
1398
第4章第24話︻北の雌狐︼其の2
ザルーダ王国北方の国境付近。
大森林地帯を横切る街道を、とある一団が北西へ向って駆け抜け
ていた。
元々、さほど交易が盛んだったとは言えない地域。その上、エル
ネスグーラの動向が不透明な今、この道を使うのは周辺の農村に生
きる農民達ぐらいのものだ。
その為、彼らがどれだけ馬を走らせようと事故が起こるような事
はない。
何しろ、馬蹄の音が遠方からでもはっきりと耳に届くのだ。
土煙りを確認したら道の脇へ除ければそれで済んだ。
その一団はみすぼらしい格好をしていた。
恐らく、旅の行程を短縮する為に、結界で守られた街道以外の脇
道も使用したのだろう。
風除けのためのマントは獣の爪にでも引っ掻かれたのかひどく擦
り切れており、何日もろくに風呂にも入っていないのか、彼等の体
からはほのかな異臭が漂っていた。
恐らく、宿に泊まるのではなく、野宿してきたのだ。
彼等が馬に乗り、武装していなければ、その姿は戦火を逃れる難
民かにしか見えはしない。
二十人ほど居る一団の顔には、旅の疲労が色濃く浮き彫りとなっ
ていた。
﹁団長、見えました!﹂
一団を先導する若い騎士の一人が、後ろを振り返り叫んだ。
1399
敵味方の未だ定まらぬエルネスグーラ王国が占領した土地を進む
上で、先導者は斥候の役目も担う。
その重圧からようやく解放されるという安堵感が彼の声に滲んで
いた。
親衛騎士団の中でも特に視力に優れた男の言葉に、皆の視線が前
方の小高い丘へ向けられる。
﹁あれが北の城塞都市メンフィスだ﹂
亮真の横を駆けるオーサン・グリードが指さす方向を見ると、小
さな黒い点が馬が進むのに合わせて徐々に明確な形を現していく。
やがて亮真の目にもはっきりと城壁が幾重にも連なった都市の姿
が見えた。
ザルーダ王国の北の要であるメンフィスがエルネスグーラに占領
されてから一年。
城壁にはエルネスグーラ王国の旗が翻っている。
﹁あぁ、ようやくだな⋮⋮﹂
亮真は馬の速度を落とすことなく、視線を前方の城壁へと向けた。
﹁ここまで四日か⋮⋮﹂
不満と焦りの含んだ亮真の呟きが、馬を並走させているマルフィ
スト姉妹の耳に届いた。
﹁通常と比べればかなり早いと思います⋮⋮法術で馬を強化しなが
ら昼夜関係なく走らせたのですから、当然ですが⋮⋮それに、途中
の街で馬を替えられたのもかなり大きいです。馬の休息に費やす時
1400
間を最低限に抑えることができましたから⋮⋮﹂
ローラの言葉に、サーラは無言のまま頷く。
プラーナ
馬の鞍と馬蹄には付与法術が施されており、騎乗者が生気を流す
ことによって速度強化と体力回復の効果が得られるようになってお
り、単純に馬を走らせるよりもはるかに早い速度で長時間移動がで
きるのだ。
亮真達はとにかく馬を全速力で走らせ、街に着くと、グリードが
親衛騎士団長という立場を利用して駐屯している警備隊から譲り受
けた馬に乗り換えるという荒業を繰り返しながら、時間を短縮して
きたのだ。
﹁まぁ、仕方がないか⋮⋮﹂
亮真は吐き捨てるかのように呟くと、視線を前に向ける。
﹁ご不満ですか?﹂
サーラの心配げな言葉に無言のまま首を振り、亮真は馬の速度を
上げた。
︵不満は不満だな⋮⋮言ったところでどうしようもないが⋮⋮クソ
ッ、間に合うか?︶
法術という技術は汎用性が高く便利ではあるが、欠点が皆無とい
う訳ではない。
幾ら法術で馬を強化しようと生命体である以上、疲労は蓄積され
ていくし、早さにも限界がある。
その為に、途中の街々で馬を乗り換えたのだ。 更に、馬の体力を消耗させないために、荷物や服装にもかなり気
を使っている。
ザルーダ騎士の多くは全身を厚い金属の鎧で覆う事が多いが、今
1401
の騎士達は全員傭兵の様に革をなめした軽鎧を身に付けていた。
彼等のマントに縫い込まれたザルーダ王国の紋章である剣と盾の
意匠がなければ、騎士と認識する人間はいないだろう。
武器も腰に帯びた長剣が一振りだけ。
槍も替えの武器もない。
後は携帯用の水と、保存食として干し肉を少し入れた布袋が、鞍
に括り付けられているだけだ。
軽装という形容詞を通り越して、無謀に近い装備。
如何に街道に点在する街で補給するつもりだったとはいえ、地球
とは違い何が起こっても不思議ではない環境なのだ。
実際、普段の御子柴亮真であれば、こんな装備で旅になど絶対に
出ない。
今が勝負を賭ける機だと判断したからこその博打に近い行動だっ
た。
︵あの二人なら確実に日数は稼げるだろうが、オルトメア帝国とは
兵数が違いすぎる。地の利を考えてもいいところ十日前後ってとこ
ろだろう⋮⋮仮に話が上手く纏まっても、決戦に間に合わない可能
性だってある︶
亮真の脳裏にリオネとジョシュアの顔が浮かんだ。
自分の腹心としてリオネの指揮能力には絶対的な信頼を置いてい
る。
その上、短い顔合わせの時間しか取れなかったものの、亮真はジ
ョシュアに対して、自分と同じ匂いを感じていた。
二人の能力に対しては何も心配していない。
しかし、奇襲戦法にも、物資の輸送を断ち進軍速度を低下させる
のにも限界がある。
︵後は、エルネスグーラの女王様が、噂通りの切れ者であることを
祈るだけか⋮⋮︶
無論勝算はあるが、絶対ではない。
亮真は唇を強く噛み締めると、前方に翻るエルネスグーラ王国の
1402
旗を睨みつけた。
﹁貴公が御子柴殿か、ザルーダ王国の使者という話だったが⋮⋮随
分とお若い方だな。その若さで一国の命運を背負うとは中々のご器
量だ﹂
亮真とオーサン・グリードが案内された一室には、三十代後半く
らいの男がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。
突然の来訪にも関わらず、彼の顔に不快感は微塵も浮かんではい
ない。
まるで、予定通りと言わんばかりの表情を見て、亮真は一人心の
中で頷いた。
︵やっぱり、こちらの動きを読んでいたか⋮⋮まぁ、そうでなくち
ゃ話にならねぇ︶
城門で名乗っただけで、大した身分確認も無いまま直ぐに城のこ
の部屋へと連れてこられた時点で、エルネスグーラの人間が亮真達
を監視、もしくは情報を集めていたと見るべきだろう。
幾らマントにザルーダ王家の紋章を縫い取っていたとしても、そ
んな物はいくらでも偽造する事ができ確たる証にはならないのだか
ら⋮⋮
﹁これは失礼。先に名乗るのが礼儀ですな⋮⋮私の名はアーノルド・
グリッソン。エルネスグーラ王国で将軍の地位にある者です。そし
て、東部方面の最高司令官でもあります﹂
痩せぎすで、青白い顔をした男だ。
あまり健康そうには見えない。
苦労人なのか、まだ若いだろうに真ん中あたりで左右に分けた金
髪の髪には、ところどころ白いものが混じっている。 1403
銀縁の眼鏡を掛けた、あまり武人という風には見えない外見。
商人か学者とでも言われた方がはるかに納得できる。
﹁突然の来訪、誠に申し訳ありません。グリッソン様。ザルーダ王
国の危急存亡の瀬戸際ゆえ、なにとぞご容赦いただきたいと思いま
す。私の名は御子柴亮真。こちらに居るのがザルーダ王国親衛騎士
団長のオーサン・グリード殿です﹂
丁寧に腰を折って頭を下げる亮真の態度に、グリッソン将軍の目
が細まる。
二人へ椅子をすすめ自分も腰を下ろすと、グリッソン将軍は亮真
の顔を見つめながら穏やかに口を開いた。
﹁ほぉ⋮⋮お若いのに礼儀を弁えられた方だ。元平民出身と聞き及
んではいましたが、板についた物腰ですな﹂
厭味という感じはしない。
いや、どちらかと言えば、亮真に対して好意的な様にさえ見える。
︵本心⋮⋮かねぇ。まぁ、楽観して考えない方が良いだろうな︶
本心を隠し、ザルーダ貴族達の様に嘲りや侮蔑を露骨に向けてこ
ないだけの分別を持っているだけという可能性もある。
どちらにせよ、これから重大な交渉を行わなければならない亮真
にとって、気を緩めるわけにはいかなかった。
﹁申し訳ありませんが、時間が惜しいので本題に入らせていただき
ます﹂
亮真は話の主導権を握る為に、単刀直入に切り出す。
﹁良いでしょう。私もそこまで暇という訳ではありませんからね﹂
1404
グリッソン将軍は、さあどうぞと肩を竦めて話を促す。
﹁話は簡単です。ザルーダ王国への助力をお願いしたい﹂
亮真の言葉に、グリッソン将軍は片方の眉を器用に上げ、さも驚
いたといわんばかりの表情を浮かべる。
﹁ザルーダ王国への助力⋮⋮ですか﹂
グリッソン将軍の呟きに、亮真は無言のまま頷く。
﹁まぁ、確かにこの状況下で、ザルーダ王国から他のご用件で使者
が来られるはずはありませんが、少々しつこいですなぁ﹂ ﹁今更ですか?﹂
亮真の問いにグリッソン将軍は穏やかな笑みを浮かべた。
﹁我等がこのメンフィスを占領してから一年余りが経ちます。今ま
で、幾度となく使者の方がお見えにはなりましたが、我等はザルー
ダ王国へ助力していない。我等の方針はそこから十分にご理解いた
だけると思うのですがね?﹂
﹁無論、分かっています。エルネスグーラ王国としては、オルトメ
ア帝国に一度ザルーダ全土を占領させた方が都合が良い。そういう
ことでしょう?﹂
亮真の言葉にグリッソン将軍は唇を吊り上げ笑った。
それは、今までの人当たりの良い表情とは比べ物にならないほど、
1405
暗い笑みだ。 ﹁なるほど、こちらの思惑をご存じとは中々⋮⋮ふむ、流石に若く
して平民から貴族へのし上がっただけはありますな⋮⋮大した状況
把握ですな。その通りです。我等はザルーダ王国の存続を望んでは
いません。今の状況でザルーダ側から出せる条件は領土の割譲くら
いでしょうが、そんなものではとても釣り合わないのですよ⋮⋮オ
ルトメア帝国と本格的に矛を交えるには⋮⋮ね﹂
確かに、グリッソン将軍の言葉は正しい。
エルネスグーラ王国にとって、オルトメア帝国と矛を交えてまで
ザルーダ王国を助けなければならない理由など何処にもない。
領土の割譲などを条件にして中途半端にザルーダ王国を存続させ
るより、一度ザルーダ王国全土をオルトメア帝国に占領させた上で、
その支配から解放するという名目で再占領を狙う方がエルネスグー
ラとしては楽なのだ。
勿論、それにはタイミングが重要となる。
オルトメアの占領統治が軌道に乗る前、ザルーダ国民の中に、オ
ルトメア帝国への不満と憎悪が残っている間しか効果がない。
だからこそ、エルネスグーラは国境の街であるメンフィスを占領
したまま一年近くもの間、動きを見せなかったのだ。
ただし、亮真はグリッソン将軍がその戦略の全てを話していない
事も読み切っていた。
﹁当然でしょうね﹂
何の躊躇いもなく亮真が自分の言葉に頷いたのを見て、グリッソ
ン将軍の表情が変わった。
その瞳に浮かぶのは疑いと困惑。
亮真の態度と言葉は整合性の取れない矛盾したものだ。
1406
少なくとも、グリッソン将軍の耳にはそう聞こえた。
﹁おかしな話ですねぇ⋮⋮貴方はどうやら事前に読み切っていたよ
うだが⋮⋮私達の狙い把握し私達がザルーダ王国へ援軍など出さな
いという事も理解している。では、貴方は一体ここへ何をしに来た
のですか?﹂
グリッソン将軍が疑問に思うのも当然だった。
﹁無論、助力を請いにですよ﹂
何のためらいもなく言い切る亮真の言葉を聞き、グリッソン将軍
の顔に初めて侮蔑と嘲りの色が浮かんだ。
﹁どうやら貴方は、遠路はるばる私をからかいに来られたようだ⋮
⋮なかなか愉快な話だったが、これ以上は時間の無駄でしょうな﹂
話はこれで打ち切りだとばかりに、グリッソン将軍は椅子から腰
を上げた。
﹁な! 待ってくれ﹂
亮真の後ろで成り行きを見守っていたグリードが思わず叫んだ。
事前にある程度の話は聞いていたが、交渉自体は亮真に一任され
ていた。
グリード自身、自分がこういった交渉事に不向きな事は理解して
いる。
だからこそ、椅子に腰掛け沈黙を守ってきたのだ。
しかし、交渉は決裂しかかっている。
グリードが思わる声をだすのも当然と言えた。
1407
﹁これ以上何を聞けと? これではこの一年の間、貴国から送られ
て来た使者達と何も変わらんではないか﹂
吐き捨てるかの様なグリッソン将軍の言葉。
氷の様に冷たく相手を切り裂く陰に籠もった声。
その冷たい怒りを前に、グリードは言葉を続ける事が出来ない。
しかし、グリッソン将軍の怒りを見ても、亮真の表情に陰りは見
えなかった。 ﹁茶番は終わりだ⋮⋮お帰り願おうか﹂
グリッソン将軍の刃の様な視線が亮真の顔を貫く。
絶対的な命令。
武人には見えない外見でも、大国エルネスグーラが東部方面の戦
略を任せる将軍。
並の人間ではその言葉に従うしかない。
しかし、亮真の表情に変わりはない。
︵ここが勝負所だな⋮⋮︶
亮真は大きく息を吸い込み己の心を落ち着けると、今持ち得る最
高の切り札を切った。
﹁それでは、エルネスグーラ王国女王、グリンディエナ様と直接お
話しさせていただきたい﹂
1408
第4章第25話︻北の雌狐︼其の3
テーブルを挟み、両者は無言のまま見つめ合っていた。
十秒、二十秒⋮⋮永劫にも似た時間。
卓上に置かれている凝った彫り物を施されたゼンマイ式の置時計
だけが、ただ静かに時を刻んでいる。
︵こいつは今何と言った⋮⋮?︶
背筋を這い上がってくる恐怖を押し殺し、グリッソンは亮真の言
葉を心の中で繰り返した。
エルネスグーラ王国の女王、グリンディエナ・エルネシャールは
前線基地であるメンフィスから遠く離れた王都ドライゼンに居る。
それだけが、目の前の青年が知り得るただ一つの現実。
真っ直ぐな視線を向ける青年の言葉は、ただの戯言のはずだった。
世迷言をと豪快に笑い飛ばそうとしたが、グリッソンの口はいつ
の間にかカラカラに乾き、喉が張り付く。
︵まさかこいつ、陛下の思惑に気がついたというのか?︶
間者や商人達の報告から、目の前に立つ青年が切れ者である事は
聞いている。
平民出身でありながら、その智謀は一国の命運をも左右したと⋮⋮
︵いや、ありえん⋮⋮陛下の思惑が読めるという事は、陛下に比肩
するという事に他ならん⋮⋮そんな事が⋮⋮︶
﹁馬鹿な⋮⋮陛下は王都ドライゼンに⋮⋮﹂
長い沈黙を破り、ようやく絞り出されたグリッソンの言葉を聞い
て、御子柴亮真は唇を吊り上げて笑った。
その表情を見ただけで、亮真は己が賭けに勝ったこと確信してい
る。
1409
﹁王都ドライゼンですか⋮⋮そんな筈はないと思いますがね﹂
亮真の刺すような視線にグリッソンの顔が歪む。
﹁一体、何を根拠にそんな事を⋮⋮﹂
先ほどまで、場の主導権を握っていたのは確かにグリッソン自身
だった。
しかし、場の雰囲気は一変した。
今、この場の主導権を握るのは、目の前で薄ら笑いを浮かべる
青年だ。
年若き若造と侮るつもりは初めからなかったが、これはグリッソ
ンの想像を超えていた。
グリッソンは思わず壁に掲げられた鏡へ縋る様な視線を向ける⋮⋮
﹁根拠はありますよ⋮⋮ただ、今ご説明するよりも、グリンディエ
ナ様を交えてから話をさせていただいた方が手間が省けると思うの
ですがね﹂
﹁そ⋮⋮それは⋮⋮﹂
グリッソンは再び言葉を詰まらせる。
肯定も否定もグリッソンには出来なかった。
﹁困りましたね⋮⋮グリッソン将軍もご存知の様に、我々にはあま
り時間がないのですよ﹂
亮真はさも困ったと言わんばかりに首を振った。
事実、亮真に残された時間は少ない。
1410
何時までも権限のない人間に関わって時間を浪費するわけにはい
かないのだ。
亮真はチラリと壁に掛けられた鏡へ視線を向けた。
その視線の意味に気がついたグリッソンの顔が青ざめる。
︵こいつ⋮⋮何故?︶
﹁ですが、突然訪ねてきて陛下に会わせろと言うのも無礼ですから
ね⋮⋮今日のところは一先ずグリッソン将軍のお言葉に従って帰り
ますか。グリード団長、失礼するとしましょう﹂
﹁オッ、オイ﹂
そう言うと、亮真は傍らで成り行きを見守るグリードを促し席を
立とうとする。
そして、亮真は壁に掲げられた鏡へ向って頭を深々と下げ、扉へ
と向かった。
その行動の意味を知るのは、グリッソンともう一人の人間だけ。
グリードは目を白黒させながらも、亮真の後に続いて席を立った。
﹁では、これにて失礼。部下がメンフィスの城下町に宿を取ってい
るはずですので、後で宿屋の名前をお知らせに参ります。グリッソ
ン将軍には申し訳ありませんが、グリンディエナ様へ私の事をお伝
え頂きたいと思います﹂
再び丁寧に頭を下げ、亮真は部屋のドアノブを回す。
だが、亮真は背後から掛けられた女の声に、開きかけた扉を閉め
た。
﹁腹の探り合いはもういいわ。お互い茶番はここまでにしましょう﹂
1411
亮真が振り返ると、そこには今まで存在しなかったはずの女の姿
があった。
いつの間にか壁に並んでいた本棚の一つが斜めになっている。
恐らく、マジックミラー越しに亮真達の行動を見ていたのだ。そ
して、交渉の余地があると判断し、隣室の隠し部屋から出てきたの
だろう。
﹁貴方の事は色々と報告を受けているわ。ローゼリアの若き英雄に
して、オルトメア帝国に召喚された異世界人。ねぇ、御子柴男爵﹂ 鈴の鳴るような美声。
そして、その声には人を平伏させるだけの意志が込められている。
圧倒的な存在感を放ち、その女はグリッソンの傍らに立っていた。
しかし、亮真は落ち着いた表情のまま、静かに頭を下げる。
﹁ご尊顔を拝し恐悦至極にございます。グリンディエナ・エルネシ
ャール様﹂
その姿を見ながら、煌びやかな王冠を被ったエルネスグーラの若
き女王グリンディエナ・エルネシャールは優雅に微笑みを浮かべた。
﹁では、話を聞きましょうか﹂
ソファーに腰を下したグリンディエナは対面に座る亮真の顔へ視
線を向けた。
確かに彼女は絶世の美女とは言われないだろう。
レースや宝石を使用した豪華な純白のドレスに身を包んでいると
はいえ、容姿の美しさだけを比較したならば、ルピスやシャルディ
ナに数段劣ると言ってよい。 1412
しかし、丁寧に櫛を入れた金髪は優雅に波打ち、アーモンド形の
瞳には強烈な意志の光が宿り見る者を惹きつける。
年の頃でいえば二十代半ばから三十に手が掛かるかどうかといっ
たところだろう。
それが北の雌狐と噂される女の姿だ。
﹁どちらの話からしたら良いでしょうか?﹂
物怖じする事なく問い返した亮真の言葉を聞き、グリンディエナ
は目を見開いて楽しそうに笑った。
﹁そうねぇ。グリッソンも気にしているようだから、私がメンフィ
スに居ると判断した理由から聞きしましょうか。グリッソンもそれ
で良いわよね?﹂
グリンディエナが傍らに立つグリッソンへ視線を向ける。
﹁それでは⋮⋮﹂
グリンディエナの問いに無言のまま頷くグリッソンを見て、亮真
は静かに口を開いた。
﹁正直に申しまして、私はグリンディエナ様がここにいらっしゃる
と事前に分かっていた訳ではありません。ただ、様々な条件を考え
合わせると、メンフィスに駐屯するグリッソン将軍と緊密な連携が
取れる手段をお持ちだとは考えていました﹂
﹁それはつまり、私の望みを理解していると、そう考えていいのね
?﹂
1413
グリンディエナは目を輝かせ嬉しそうに手を叩く。
﹁完全ではないですが⋮⋮おおよそのところは﹂
亮真は静かに頷くと、卓の上に持参していた西方大陸の地図を広
げた。
﹁良いわねぇ、貴方。お馬鹿なザルーダの連中は私が散々ヒントを
上げていたのに一年以上も時間を無駄に費やして、まだ分からない
のだもの⋮⋮正直に言って、このままオルトメアに滅ぼされてしま
うつもりなのかと内心では心配していたのよ﹂ 一国の存亡を話題にしながらも、グリンディエナの口調はまるで
世間話でもする様な軽いものだ。
︵やはり、どちらに転んでも良い様に天秤に掛けていたか⋮⋮流石、
雌狐なんてあだ名されるだけはあるぜ︶
グリンディエナの態度を見て、亮真は改めて自分の予想が正しか
った事を悟った。
﹁では、貴方の答えを聞きましょうか﹂
グリンディエナの目がまるで玩具を貰った子供の様に輝く。
﹁えぇ、それでは⋮⋮まず、私が最初に注目したのはエルネスグー
ラ軍が一年前、あれほど迅速に軍を起こしていながら、メンフィス
を占領した後ピタリと侵攻を止めたことです。私はそれを交渉の合
図だと感じました﹂
オルトメアにザルーダ全土を侵略されてしまっては、エルネスグ
ーラとしても黙ってはいられない。
1414
しかし、だからと言って馬鹿正直にザルーダと組んでオルトメア
と戦ったところで、エルネスグーラに齎される利は薄い。
ザルーダ王国自体は山岳地帯にある為、食糧の生産には不向きな
土地だ。
良質の鉄鉱は取れはするもののそれを譲り渡せと要求するのは、
他にこれといった産業を持たないザルーダ王国にとって、国を滅ぼ
されるのと同じ事になってしまう。
貴族達はザルーダ王国に対して愛国心を持ってはいるものの、基
本的に独立独歩の気風であり、国王の命令に対しても決して従順と
は言えない。
いや、ザルーダ王家そのものが、貴族達の盟主的な位置づけに過
ぎないのだ。
ザルーダ国王ユリアヌス一世は世間では凡庸と噂されているが、
それも当然の事だった。
彼はあくまでも調停役や代表者であってザルーダ王国の支配者で
はないのだ。
﹁この一年、ザルーダ王国は幾度となくエルネスグーラへ使者を送
ってきましたが、話し合いは進展しませんでした﹂
﹁そう、貴方はそれを聞いてどう思ったのかしら?﹂
グリンディエナは悠然と紅茶の注がれたカップを口にしながら探
るような視線を向ける。
いくらザルーダから土地と譲り受けようと、そこから利益が生ま
れなければ何の意味もない。
﹁無論、グリンディエナ様の判断は当然だと思います。いや、あの
条件で軍を動かされたとしたら、逆に何か裏があるとしか私には思
えません﹂
1415
亮真の答えを聞き、グリンディエナは満足げに頷いた。
﹁まぁね。あのお馬鹿さん達は断腸の思いで条件を奮発したつもり
らしいけど⋮⋮ね。あの程度の条件で私をこき使おうとは随分と甘
く見られたものだわ﹂
﹁やはりそうでしたか﹂
﹁当然でしょう? 独立心旺盛な貴族達のお守まで一緒に押し付け
られる事を考えたら⋮⋮ね﹂
グリンディエナは呆れた様に溜息をついた。
ザルーダ王国側が提示してきた領土は、およそザルーダの国土の
北部。全体にして五分の一程度といったところだった。
しかし、その条件にグリンディエナが難色を示したのは当然の事
だ。
確かに、条件としては破格とも言える。
ザルーダ側にしてみれば血を吐く思いで提示した条件といえるだ
ろう。
何しろ戦をせずに領土を譲るのだから。
だが、それはあくまでザルーダ側の勝手な思いでしかない。
彼らには、譲り受ける側であるグリンディエナがどう受け取るか
という観点が抜けている。
自分が欲しい物が、必ずしも万人が欲しいと思うものではないと
いう事を分かっていないのだ。
元々、農業には不向きな山岳地帯を多く有する国だ。鉱山を有す
る土地ならともかく、多少広い領土を貰った程度では割に合わない。
その上、提示された領土の半数には領主が居る。
全てがザルーダ王家の直轄領でない事が最大の問題だった。
1416
何故なら、彼等貴族達がグリンディエナの統治に大人しく従うと
はとても思えないからだ。
国境に後背の定かではない貴族を配置しておくわけにはいかない。
そんな人間を放置すれば、隣国からの干渉を受け思わぬ火種を抱
え込むことになる。
だが、だからと言って彼等の領地を替える訳にもいかない。
余程、今治めている領地より豊かというのであれば別だが、同じ
程度の領地では代々治めてきた領地の方が土地柄を把握している分、
治めやすいからだ。
だから、彼等が納得するような豊かな土地をグリンディエナが用
意しなければ、彼等は決して自らの領地を手放さない。
そして、無理に領地替えを押し付ければ、結局彼等は反乱を起こ
す。
グリンディエナ側から見れば、厄介者を押しつけられたとしか感
じないだろう。
﹁それならばいっそ、ザルーダをオルトメアが滅ぼした後、統治者
が変わって支配が揺らいでいる間に攻め込んだ方が良い。そうすれ
ば、邪魔な貴族達を排除する口実にもなる。グリンディエナ様はそ
う思われた﹂
亮真の言葉に、傍らで黙ったまま成り行きを見ていたグリードは
思わず息を飲む。
事前に説明は聞いていたものの、ザルーダ王国に仕える人間には
酷な話だった。
ザルーダ王国の存亡に一欠けらの興味もないと言われたようなも
のだからだ。
﹁当然の判断でしょう? 私はエルネスグーラの女王ですもの。兵
達に死ねと命じるからにはそれなりの利というものがなくてはね﹂
1417
おどけた様に肩を竦めて笑うグリンディエナの姿に、グリードは
戦場で感じる物とは別の言い知れぬ恐怖を感じた。
顔は笑っていても、その目には支配者としての責務を自覚し背負
う者だけが宿す峻烈な光を放っている。
﹁だが、それではオルトメアと全面対決になる。国力はエルネスグ
ーラがやや勝ってはいるものの、ほぼ同じと言ってよい以上、勝敗
はどちらに転ぶか分からない。ましてや、土地勘の少ないザルーダ
国内での戦。出来れば自国だけで戦う事は避けたい﹂
穏やかだった亮真の目に、いつの間にか刃の様な鋭さが宿ってい
た。 ﹁それで?﹂
﹁だからこそグリンディエナ様、貴方はメンフィスを占領したまま
軍を動かさなかった。そして、王都ドライゼンを空けてまで此処に
いらっしゃる。貴方の目的を正確に理解し、共に手を携えて戦うに
足る人間が訪れるかどうかを見極める為に﹂
亮真の言葉にグリンディエナは愉快そうに笑い声を上げると、表
情を一遍させ鋭い視線を向ける。
それはまさに北の雌狐と呼ばれるにふさわしい顔だ。
﹁当然よ。馬鹿と組む気はないわ⋮⋮良いでしょう、そこまで分か
っているのならサッサと本題に入りましょうか⋮⋮貴方は一体どん
な条件を持ってきたのかしら?﹂
まるで剣で切り合っているかのような空気が部屋の中を支配する。
1418
いや、彼等は今言葉という剣を振るっているのだ。
一国の命運を賭けて⋮⋮
﹁えぇ、ご満足いただけると確信していますよ﹂
そう言うと、亮真は懐から出した書状をグリンディエナへと差し
出した。
1419
第4章第25話︻北の雌狐︼其の3︵後書き︶
更新が遅くなってしまい申し訳ございません。
※第二巻に関してですが5月18日に発売されました。 Web版
ともどもよろしくお願いいたします。
※拙い作品ではございますが、評価ポイントやお気に入り登録、感
想などを頂けると嬉しいです。
今後も本作品を宜しくお願いします。
1420
第4章第26話︻北の雌狐︼其の4
﹁大筋は陛下の予想通りに事が進んだ⋮⋮という事ですかな⋮⋮﹂
グリッソンは外した眼鏡の曇りをハンカチで拭うと、大きなため
息を溜息をついた。
彼の胸中に浮かぶのは、己が主の予想が的中した事への恐れか⋮
⋮それとも、己が主に比肩するかもしれない人間が現れた事への恐
れだろうか。 ﹁あら、アーノルド、ため息をつくと幸せが逃げると言うわよ?﹂
亮真達が去った部屋のソファーにだらしなく寝そべりながら、グ
リンディエナは楽しそうにグリッソンをからかう。
最高の職人が仕立てたドレスにしわが寄っているが、グリンディ
エナは全く気にしない様子だ。 まるで幼子の様な行儀の悪さに、グリッソンの口からもう一度深
はかりごと まつりごと
い溜息が洩れた。
謀にも政にも戦にも非凡な才を見せる、敬愛するべき己が主。
︵これで、この子供の様な性癖さえ直ってくれれば⋮⋮まぁ、完璧
な人間などいないか⋮⋮︶
グリンディエナの行動は頭の痛い事だが、愛おしさを感じる部分
も確かにある。
彼女が人間であると⋮⋮
﹁御冗談を。陛下のお傍に仕えるようになり、今更私に幸せなど残
ってはいませんよ﹂
1421
﹁うぅん、何か今、変な事を言わなかった?﹂
グリッソンの答えに、グリンディエナは首を傾げた。
何か自分の予想したのとは全く正反対の言葉を吐かれたような気
がする。
﹁そうですか。陛下が何をお思いだったかは存じませんが、私は誓
って真実しか申し上げてはおりませんよ?﹂
君臣の分をわきまえているとは言い難い発言だが、グリンディエ
ナは苦笑いを浮かべただけで、それ以上グリッソンを咎めようとは
しない。
大国エルネスグーラに居る四人の将軍。
その中でも、グリッソンはグリンディエナが父親である先王から
王位を簒奪した時から仕える側近の一人。
公の場では決して見せないが、彼らの間には君臣の隔たりを越え
た確かな絆が存在している。
﹁まぁ、良いわ⋮⋮それで、軍の方は何時でも動かせるように準備
してあるわね?﹂
﹁無論です。既に副官へはメンフィスに守備隊を残し、残りの全軍
を動かせる様に命じてあります﹂
戦の準備自体は既に終わっている。
アーノルド・グリッソンが率いる八個騎士団は弓が引き絞られ
るがごとく、開戦の狼煙を待っている。
後は、何処に向けて攻めかかるのかを決めるだけだ。
﹁問題はどう攻めるかですが⋮⋮出来ればザルーダ国内を戦場とし
1422
たくはないですな﹂
別段、グリッソンにとってザルーダ王国の荒廃などに興味はない
が、ザルーダ王国領内での戦は避けたいと考えている。
山岳地帯で大軍を動かすのは難しい。
鬱蒼と生い茂る森林に視界を遮られ、山間を縫う様に続く道は細
く曲がりくねっている。
そんな土地で大軍を指揮するのは至難の業といえる。下手をすれ
ば、兵数の多さが逆に軍の動きを妨げ足を引っ張りかねない。
両軍合わせて十万を超える大規模な戦をするのであれば、平野な
ど出来るだけ視界を妨げるものが少ない場所でのぶつかり合いの方
が良いのだ。
﹁多少は密偵からの情報があるとはいえ、詳細な土地勘があるわけ
ではないものね⋮⋮まぁ、それは明日の軍議で御子柴の意見を聞い
てから決めましょう。多分、腹案があるはずだから﹂
﹁恐らくそうでしょう⋮⋮この書状と言い、侮れない男の様ですな
⋮⋮﹂
グリッソンの目がグリンディエナの顔を凝視する。
﹁問題は我等に仇なすかどうかですが⋮⋮陛下はあの男をどの様に
見ておいでなのですか?﹂
だが、楽しそうに笑みを浮かべたグリンディエナを見て、グリッ
ソンはため息交じりに首を振った。
味方であるうちはいいが、敵に回れば厄介な事になる。
そのこと自体はグリンディエナも理解しているだろうに、彼女の
顔には微塵も不安など浮かんではいないのだ。
1423
﹁そんな心配はいらないわよアーノルド。四カ国連合が続く限り、
御子柴亮真は絶対にエルネスグーラに牙を剥くことはないわ⋮⋮彼
は経済の重要性とそこから上がる利益をきちんと分かっているから﹂
卓の上に投げ出された書状と地図へ目を向けながらグリッソンの
懸念を笑い飛ばすと、グリンディエナは飴玉を一つ摘み上げ口の中
へと放り込んだ。
ローゼリア、ミスト、そして当事国のザルーダ。三ヶ国の国王達
からの書状は決して軽々しく卓の上に放置していて良い物ではない。
︵全く⋮⋮これが北の雌狐と異名をとる我が主の姿とは⋮⋮︶
グリッソンは喉元まで込み上げてきた諫言をのみ込むと、卓上の
飴の入った籠を小脇に挟み、書状を広げた。
﹁しかし、中々上手い手を考えたものですな。連合の成立と共に通
商条約を絡めてくるとは⋮⋮四カ国全てが得をするように出来てい
る﹂
﹁ザルーダにしてみれば、我が国が盟主として形式的に上へ立つと
いう事を我慢するだけで援軍を得られるのだもの。この程度の代価
で命の次に大事な領地を維持出来るとなれば飛びつくに決まってい
るわ﹂
グリッソンはグリンディエナの言葉に無言のまま頷いた。
﹁内乱で国力を疲弊させたローゼリアはもともとこの戦に対して消
極的のはず。我が国が参戦することによって終戦の時期が早まれば
それだけで喜ぶでしょう⋮⋮それに、国力の回復を図る今、我が国
を後ろだてと出来る今回の連合は渡りに船でしょうな﹂
1424
﹁そう、そして我が国とミストは交易を活発化させ経済力が強化さ
れる。誰も損をしない見事な策⋮⋮表向きはね﹂
そう、誰も損をしない。
いや、誰もが得をする見事な策だ。
だが、裏に隠された亮真の意図を二人は完全に見抜いている。
﹁本当に上手く出来ているわ⋮⋮四カ国全てが得をするように出来
ていながら、最大の利益を上げるのはウォルテニア半島を領有する
彼なのだからね﹂
グリンディエナの目が妖しく輝き、地図上に描かれたウォルテニ
ア半島を睨みつけた。
北回り航路の最大の問題点は、魔境とも秘境とも呼ばれるウォル
テニア半島の存在。
凶暴な怪物達が徘徊し、海賊が根城とする厄介な地。
だが、彼の地はこの四カ国連合が成立すればまさに宝の山と変わ
るだろう。
今回送られてきた書状の中には、国防に関しての他に、交易に関
しての条項が含まれている。
特に関税率の一律化は輸出入を大きく増やすはずだ。
これは主に他の大陸との貿易港を持つエルネスグーラやミストに
対して大きな利を生むが、ローゼリア、ザルーダの両国にとっても
決して損にはならない。
商業の活性化は税収へと直結するからだ。
四カ国はこぞって商業に力を入れることになるだろう。
そうなれば、物資の輸送量は加速度的に増加する。
陸路だけでは需要を満たせず、商人達はいずれ海路をつかった輸
送を検討することになる。
1425
﹁物資の輸送は陸路を使うより海路の方が大量に早く運べる。ウォ
ルテニア半島から海賊が一掃された今、必然的に北回りの航路は見
直されることになり、半島の街は交易の中継地点として富み栄える
ということですな﹂
ウォルテニア半島は船の補給港としてだけではなく、ローゼリア
国内への荷揚げ港としても活用されるだろう。
余程愚かな政策を実施しない限り、繁栄は約束されている。
﹁彼の性格がはっきりと出ているわね。慎重で大胆。それに、極力
自分の実力を小さく見せ警戒されないようにと気を配る警戒心。フ
フッ、怖い男よ⋮⋮最大の利益を確保していながら、周りから不満
が出ないようにうまく立ち回っているところが特に⋮⋮ね。まぁ、
今の彼が持つ戦力ではどうしようもないという面もあるでしょうけ
どね﹂
得られる金が巨額であればある程、人は独占しようとするもの。
だが、それでは妬みを買ってしまう。
無論、独占出来るならするだろうが、今の彼に己の権益を独占す
るだけの力はまだない。
その事を御子柴亮真は弁えているのだ。
﹁陛下の思惑と少しずれましたな。本来ならば周囲から孤立させこ
ちらへとり込むはずでしたが⋮⋮﹂
﹁まぁね。彼があそこまで切れるとは思わなかったわ。少し甘く見
過ぎたみたいね﹂ 横たえていた体を起こし、グリンディエナは卓の上に置かれたテ
ィーカップを口下へと運ぶ。
1426
ウォルテニア半島の持つ地政学的価値に、グリンディエナはずい
ぶん前から注目していた。
何しろ、彼の地さえ何とかすれば、ミスト王国からエルネスグー
ラ王国までの航路が確立できるのだ。
商業というものの価値を知るグリンディエナにとって、長年彼の
地を放置してきたローゼリア王国の政治方針は正気を疑うものだっ
た。 ﹁まぁ、良いわ。私としては特に不満はないもの﹂
﹁しかし本当によろしいのですか? 交渉次第では彼の地を譲り受
けることも可能ですが﹂
グリッソンの言葉にグリンディエナは唇を吊り上げ笑う。
﹁別にウォルテニア半島を直接支配することに固執するつもりはな
いわ。御子柴亮真がきちんとあの魔境を統治して私に利益を齎して
くれるなら⋮⋮ね﹂
その笑みは、まさに北の雌狐と噂されるに足る妖艶さと威厳に満
ちていた。
グリンディエナにとって最も重要なのは、今回の四カ国連合の成
立に因って交易網が広がったという事だ。
それにより、エルネスグーラは今よりも確実に豊かになるだろう。
領土の拡張は確かに重要だが、あまりに広大な領土は統治の足枷
にもなることをグリンディエナは理解している。
下手に領土を広げ反乱の温床にでもなれば目も当てられないのだ
から⋮⋮
1427
﹁いやぁ、噂どおり怖い人だったな⋮⋮流石、北の雌狐って呼ばれ
るだけはあるか。ルピスなんかとは比べ物にならねぇや。化け物だ
ぜ? あれはさ﹂
グリンディエナとの謁見が終わった亮真は、城下に取った宿の一
室で深くため息をつくと、テーブルの上に置かれたグラスを一息に
呷った。
エール
その顔に影の様にこびり付くのは北の雌狐への畏怖だろうか⋮⋮
ローラの法術によって冷やされた麦芽酒が、亮真の火照る心を癒
す。
﹁ですが、会談自体は首尾良く終わったのではないのですか?﹂
卓の上に叩きつけるかのように置かれたグラスへローラは手に持
った酒瓶を傾けながら、亮真を労う様に優しく微笑む。
何時の間に買いそろえたのか、マルフィスト姉妹の服装は薄汚れ
た旅の服から、こざっぱりとした町娘風の装いへと姿を変えていた。
麻で織られた何処にでもある様な服だが、動きやすくそれでいて
それなりに華やかなデザインだ。
そして、微かにその体から香るのは薔薇の香り。
恐らく、メンフィスの城下町で服を買い替えた時に、一緒に香油
を買っていたのだろう。
﹁そうですよ。グリード団長も上手くいったと上機嫌でしたよ?﹂
﹁まぁ⋮⋮な﹂
無邪気なサーラの笑顔に苦笑しながら、亮真は再びグラスを一息
に呷った。
1428
﹁何かご心配事でも?﹂
﹁あぁ、少しばかりやりすぎたかもしれないと思ってな⋮⋮﹂
亮真の心を縛るのは別れ際に見せたグリンディエナの目。
獲物を狙う肉食獣の目だ。
自分が間違ったことをしたとは思っていないが、もっと他にやり
ようがあったのではないかとも思う。
﹁もう少し牙を隠すべきだった⋮⋮な﹂
直接自分では動かず、ザルーダ貴族の中から適当な人間を選んで
操った方が良かったかもしれない。
︵まぁ、それじゃぁ向こうに勘ぐられるかも知れないと思ったから
こそ自分で動いたんだが⋮⋮︶
亮真が裏方に徹した場合、グリンディエナはザルーダの急な対応
に不信感を持つだろう。
オルトメアとの決戦まで時間がないことも、亮真の決断を後押し
した。
﹁ですが、これ以上時間を掛ければリオネさん達が持たないかもし
れません。やはり、これが最善だったのではないでしょうか?﹂ ﹁まぁ⋮⋮な﹂
ローラの言葉に亮真は頷くしかない。
グリンディエナに警戒されるのは痛手だが、その心配は後でも出
来る。
大切なのは、最前線でオルトメアの猛攻を防ぐリオネ達を助ける
事だ。 1429
﹁姉様の言う通りです。予定通りならば、今頃はウシャス盆地あた
りでオルトメアと対峙中のはずです。ザルーダ、ミスト、ローゼリ
アの三ヶ国が組んだとはいえ、オルトメアの攻撃を防げるのは半月
ほどでしょう﹂
サーラの言葉に亮真は宙を睨む。
︵時間、時間、時間⋮⋮思いの他すんなりとエルネスグーラの方は
話がまとまったが、やっぱりかなりギリギリか⋮⋮クソッ、間に合
ってくれよ⋮⋮︶
元々圧倒的なまでに劣勢な勝負をひっくり返そうというのだ。
何所かで博打を打たなくてはどうしようもない。
いや、それも一つの博打に勝てばよいというものではないのだ。
﹁まぁ、今ここでごちゃごちゃ言っても始まらねぇ。リオネさんと
ジョシュアが上手い事やってくれることを信じるしかねぇ⋮⋮俺ら
がノティス砦を落とすまで持ちこたえてくれることをな﹂
亮真の脳裏に遥か南の戦場に居る二人の顔が浮かんだ。 1430
第4章第27話︻ウシャス盆地攻防戦︼其の1
険しい岩山に周囲をグルリと囲まれた中、ポッカリと広がる広大
な平地。
ウシャス盆地は、岩山や森林地帯など耕作地には向かない土地
の多いザルーダ王国の中で、比較的水利に恵まれた穀倉地帯といえ
る。
農作物の多くを隣国からの輸入に頼る一方で、国内に数か所点在
するこれらの穀倉地帯では、主に主食となる小麦の栽培を担ってい
る。
幾ら農業に適さない国土とはいえ、食糧という生命線を他国から
の輸入のみで賄えるはずもない。
嗜好品は諦めるとしても、主食となる農作物まで他国に頼り切っ
てしまえば、大きな弱点を抱え込むことになる。
食糧の輸出を止めると隣国から脅されれば、ザルーダには手の打
ちようがないからだ。
正にウシャス盆地はザルーダ王国にとって心臓部と言っても過言
ではなかった。
また、国防の観点からもこの地は無視する事は出来ない。
ウシャス盆地はザルーダ王国の首都であるペリフェリアから南西
へ百キロ程の距離にあり、ザルーダ王国の南部や西部へ向うには必
ず通らなければならない通行の要衝である。
また、見渡す限りの耕地は地形の起伏に乏しく、奇襲戦法などが
使い難い地形で正攻法でぶつかり合う事が求められる。
つまり、不測の事態が起こりにくい土地だ。
そして、盆地の東側に築かれた頑強な砦。
盆地を形成する山々の谷間に鎮座するそれは、正にザルーダ王国
の誇る守護神。
1431
長年ザルーダ王家が拡張し続けてきた砦は、山中に点在する各砦
と連携する事により、元々の地の利と相まって難攻不落の要塞と言
っても過言ではない。
ゆえに、王都ペリフェリアへの侵攻を狙うルトメア帝国軍六万五
千は、二ケ月近くも攻略に手こずっていた。
そして、今日もまた、鋭い穂先を光らせながら、ウシャス砦へと
オルトメアの兵が押し寄せる。
ただただ勝利を得んが為に⋮⋮
﹁皆さん! ここが正念場です。我等東部三ヶ国の力を結集すれば、
オルトメア帝国と言えどこの要害を攻略する事はな出来ません! 敵の補給は滞り兵の士気は低いはず。さぁ、力を合わせて侵略者ど
もに正義の鉄鎚を!﹂
﹁﹁﹁﹁東部三ヶ国に栄光を! 侵略者共へ死を!﹂﹂﹂﹂
ミスト王国の誇る美貌の将軍、エクレシア・マリネールの声が城
壁の上に響き渡ると、天地を揺るがす歓声が沸き起こる。
天に向かって突き上げられる無数の拳。
彼等は目の前で黒髪をなびかせ悠然と微笑みを浮かべる指揮官に
対して、絶対的な信頼を寄せていた。
それはエレクシアが他国の将であろうと関係はない。
周囲の山々に設置された砦や王都からの援護があるとはいえ、エ
クレシアの卓越した指揮のお陰で未だにウシャス砦は六万五千もの
大軍を相手にしながらも持ちこたえているのだから⋮⋮
﹁弓を構えぇい! 第一列引き絞れ、第二列第三列は待機! 攻城
兵器が来るぞ。射程に入り次第一斉に射かける。後方は火矢の準備
を怠るな! 油の準備は出来ているな? 良いか! 一兵たりとも
1432
生かして帰すな! 生き残りたければ一人でも多く殺せ!﹂
部隊長達の叫びが城壁の上に木霊する。
油をしみこませた布を巻きつけた矢。
大釜の中には数百度にまで熱せられた油が湯気を上げている。
眼下に押し寄せるオルトメアの兵へと降り注げば、皮膚は焼け
爛れてさぞや凄惨な姿になる事だろう。 そして、その後に続くの
は火矢の洗礼。
この連続攻撃を無傷でくぐり抜けられる人間はいない。
オルトメアの兵達にとってウシャス砦はまさに地獄の門だ。
﹁退くな! ローゼリア王国の騎士達よ! 今こそ真価を見せなさ
い!﹂
空堀を渡ろうと押し寄せるオルトメアの兵に向かって特注した強
弓の弦を引き絞りながら、エレナは周囲の騎士達を怒鳴りつけた。
無論、多少の地の利を持つとは言え、決して楽な戦ではない。
オルトメア帝国は西方大陸中部を制した国力を惜しみなくつぎ込
んでくる。
人、人、人。
まさに人の波だ。
その圧力は並大抵ではない。
如何に高い城壁でその身を守ろうとも、最後に物を言うのは人の
心。
次々に矢を射かけ、法術を放ってくるオルトメア軍の攻撃を前に、
エレナは必死で兵達を鼓舞した。
籠城戦において最も重要なのは兵の士気をどうやって維持するか
という事に尽きる。
押し寄せてくる敵の放つ圧力に負け心が折れれば戦は終わる。
それを防ぐ方法はただ一つ。敵の屍を積み上げ続ける事だけだ。
1433
﹁破城槌が来るぞ!﹂
城壁の上に設置された物見櫓の上から警戒の叫びが上がる。
森から切り出した大木に取っ手を付け、先端部を鉄で補強しただ
けの簡素な物だが、幾度も叩きつけられれば、如何に分厚い鉄の城
門といえども無事では済まない。
﹁火矢だ! あれを狙って火矢を放て!﹂
部隊長の素早い判断の下、攻城槌の上へ次々と火矢と油の入った
壺が雨の様に降り注いだ。
どうやら、火を警戒して槌全体を濡れた布で覆っているようだが、
そんな小手先の応急処置ではどうしようもない。
やはり、急場しのぎの兵器では駄目なのだ。
︵如何に大軍とはいえ、戦術の選択肢を狭められてしまえばこんな
ものか⋮⋮後は、あの子の思惑通りに事が運ぶまで、こちらの士気
を保てれば⋮⋮︶
幾度となく繰り返されるオルトメア帝国の攻撃を城壁の上から見
下ろしながら、夕日に顔を赤く染めたエレナは、一人唇を吊り上げ
暗い笑みを浮かべた。
﹁そろそろ今日の攻撃も終わりですね﹂
前線で指揮を執るエレナの背後から、鈴の鳴る様な女の声が掛け
られる。
﹁そうね⋮⋮陽も落ちてきたし、敵も仕切り直しをするでしょうね
⋮⋮ところで、総指揮官様が最前線に出てくるなんて何かあったの
1434
?﹂
エレナは普段と変わらぬ口調で問い返す。
そんなエレナの態度に、エクレシアは苦笑いを浮かべて首を横に
振った。
﹁特には何も。山中に進軍した敵もグラハルトさんの方が上手くや
ってくれているようですし﹂
﹁彼も指揮官としては有能だから当然でしょうね﹂
エレナはさも当然という風に頷く。
ザルーダ王国近衛騎士団の団長であるグラハルト・ヘンシェルは
ザルーダ王国屈指の武人である。
戦場全体を指揮する視野こそ持たないが、一戦場の指揮官として
は十分に有能であり経験も豊富だ。 そんな彼が、自分達の生ま
れ育った国の山岳戦でオルトメア帝国に負ける筈がなかった。
そもそも、如何に東部三ヶ国がオルトメア帝国の脅威にさらされ
ている仲間だからと言って、他国の兵に王都へ続く最後の砦を任せ、
グラハルトが周辺の山中に点在する砦の指揮に回るなど、通常では
ありえない選択と言える。
それでも、エレナやエクレシアは強硬にグラハルトを山側の防衛
へと回るようにと提案した。
そして、大荒れに荒れた作戦会議の後、国王であるユリアヌス一
世の勅命の下にようやく実現できたのだ。
そんな無理をエレナ達二人が押し通したのは、グラハルトがザル
ーダ王国の地形に精通しているからに他ならない。
幾ら堅牢な砦と地の利があるとはいえ、迂回されてしまえば意味
はない。
砦の裏を取られれば一気に兵の士気は落ちてしまうのだ。
1435
﹁とりあえず、今日はこれで終わりの様ですわね⋮⋮これで二十日
程は時間を稼いだ訳ですね﹂
少しずつ後退していくオルトメア軍の様子を見下ろしながら、エ
クレシアが楽しそうに笑みを浮かべた。
夜襲の可能性もあるが、すでにその辺はぬかりなく準備している。
不用意に連中が襲いかかってくれば、逆に手痛い一撃をくれてや
るだけだ。
﹁えぇ、後はあの子が上手くやってくれるはずよ﹂
エクレシアの問いに、エレナは視線を北の方へと向ける。
戦況を覆す一手を待ちわびるかの様に⋮⋮
﹁斉藤、あなたが指揮してもまだ攻め落とせないの?﹂
シャルディナの苛立たしげな叫びが天幕を振るわせる。
普段の彼女からは考えられないような態度。
ひどい顔だ。
長引く戦による心労は、宝石の様な輝きを放っていたシャルディ
ナから光を奪い去ったのだ。
目の周りに浮かんだ隈が彼女の置かれた立場を物語っていた。
綺麗に梳かされていた金の髪からも艶が失われている。
﹁申し訳ございません。谷間に造られた砦が思いのほか強固で突破
に時間が掛かっております﹂
神妙な顔をして斉藤は深く頭を下げた。
1436
別段、斉藤個人の責任という訳ではない。
今回の総指揮権は全てシャルディナが握っている。
逆にいえば、この状況を招いた責任は全てシャルディナにあるの
だ。
その上、斉藤はあくまでも一部隊の将である。
責任と言う意味から言うのであれば、負うべきなのはシャルディ
ナやその側近である参謀役とし赴任しているセリアに他ならない。
しかし、それを今のシャルディナへ面と向かって口にするほど、
斉藤は子供ではなかった。
最も大切なのはこの戦を勝利する事。
それを理解している斉藤にとって、シャルディナの精神を不安定
にする様な発言はもっとも忌むべきものだ。
しかし、そんな斉藤の配慮をあざ笑うか様に、邪魔者が口を開く。
﹁いやいや、それだけではありません。連中、遊撃部隊を山中に分
散させてこっちが砦の攻略に専念するのを邪魔してきます。こっち
が応戦しようとすればさっさと山の中に逃げ込んで埒があかないの
です。正面からの力押しでは何万の軍をもってしても無駄でしょう
な⋮⋮﹂
﹁須藤さん!﹂
適格な状況報告だが、斉藤は忌々しそうに須藤を怒鳴りつける。
元々斉藤は須藤の事を好んではいない。
同じ様に地球からこの大地世界へと召喚された人間同士のため、
共感する部分は確かにあるのだが、元々の性格が水と油ほどに違う。
どちらかと言えば武人肌である斉藤にとって謀略や策略を好む須
藤は、その必要性や優秀さを認めつつも、相容れない存在だった。 ︵悪い人じゃないんだがな⋮⋮この人はどこか壊れてる⋮⋮まぁ、
仕方のない部分もあるんだろうが︶
1437
須藤はどこか血が流れるのを好むところがある。
人間的にどこか壊れているような印象を斉藤は受けるのだ。
しかし、それにもまして、須藤の勘に障る物言いが、シャルディ
ナの心をかき乱しかねないと斉藤は心配した。 ﹁良いのよ、須藤。言いたい事があるなら言ってちょうだい﹂ どこか諦めたような口調で、シャルディナは斉藤の言葉を遮った。
彼女自身、決して須藤の言葉を聞きたいと思っているわけではな
い。
しかし、須藤の持つ戦術、戦略に対しての能力はシャルディナか
ら見ても一流以上と言えた。
多少、性格に難があるとはいえ、須藤の言葉を無視することは難
しい。
シャルディナの言葉を聞き、須藤は勝ち誇ったような視線で斉藤
を一瞥すると、唇を吊り上げた。
﹁ウシャス砦は噂以上の要害。それに今回は攻城兵器に関しても備
えがありませんからね⋮⋮短期決戦の為に機動力を重視した事が裏
目に出ましたね﹂
法術による攻撃は、要塞の城壁に施された付与法術の効果によっ
て意味を持たない今、基本的な攻城手段をとるしかない。
しかし、攻城兵器の殆どは重く輸送には不便である為、シャルデ
ィナは今回の戦において殆ど準備をしていない。
無論、多少の備えは存在していたし、森の木を切り出して即席の
攻城兵器を作ってはいるものの、やはりその性能は帝都の職人が手
掛けた物より数段劣る。
特に、防御の面では穴だらけと言っていい。
いくら水を浸した布を覆いかぶせようと、頭上から降り注ぐ火矢
1438
や油を木では防げないのだ。
﹁その上、手なずけていた筈のザルーダ貴族共の動きも鈍い。恐ら
く、こちらが手こずっている事を察して日和見に走るつもりでしょ
う﹂
攻城戦において、一番確実な攻め方は内部からの手引き。
つまり、内通者の手助けによって落とすのが一番楽なのだ。
だが、その頼みの綱である、貴族達の動きがいまいち鈍い。
﹁天秤に掛けるつもりだと?﹂
﹁まぁ、私が連中の立場ならそうしますな。奴らには信義がない。
まぁ、そういう輩だからこそこちらの提案に乗ってベルハレス将軍
を死地へと追いやった訳ですがね﹂
シャルディナの問いに須藤は嫌らしい笑いを浮かべる。
一年前の協力的な態度が嘘の様な態度。
須藤の態度を見て、シャルディナは思わず腹立たしげに親指の爪
を噛み切った。
︵恐らく連中は、長引く戦況を見て帝国の力を疑いだしたね⋮⋮ク
ソっ、だから短期決戦で臨んだのに⋮⋮︶
﹁いいわ⋮⋮ならば貴方はどうしろというの? 須藤﹂
﹁上策なのはこれまでの占領地を維持しつつ、一旦兵を本国まで引
せがれ
く事ですな。北の動向も不明ですし、補給も限界でしょう。ベルハ
レス将軍の倅が山中で輸送隊を襲撃し続けている所為で、こちら思
うように物資を運べていません。何より、ザルーダ側が村や畑の一
切合財を焼いて撤退した所為で現地調達も厳しいですからな﹂
1439
これは焦土戦術と呼ばれる戦法。
世界史的にも事例は幾つも存在する。
これをされると物資を現地調達出来ず、補給が非常に困難になり
軍が軍として維持出来なくなるのだ。
山岳地帯や寒冷地など、輸送が困難な地域へ大軍が侵略してきた
場合には絶大な効果を発揮した実績のある戦術と言える。
ただし、効果的な策である反面、当然の事ながら欠点も多い。
この策の最大の欠点は、戦後の復興がさらに困難となる事だろう。
つまり、ザルーダ側は肉を切らせて骨を断つ作戦を使ってきたと
いう事に他ならない。
この戦術を破る方法は、補給を気にする必要がないほど短期間で
勝敗をつけるか、本国より物資を運び込むかの二択しかない。
そのどちらも上手くいかない以上、兵を引くのは戦の常道と言え
る。
しかし、シャルディナはゆっくりと首を振った。
﹁ダメよ⋮⋮須藤。今更ここで引けると思う?﹂
理性の部分では、須藤の言葉は正しいと理解している。
しかし、ここで簡単に兵を引く訳にはいかない。
そして、その事は須藤自身も十分に理解していた。
﹁まぁ、正直に言って難しいでしょうなぁ。少なくとも殿下のお立
場はかなり不味くなります。無論我々もですがね﹂
この一年、シャルディナがつぎ込んだ戦費は五億バーツを超える。
その金額は、小国の国家予算並みとさえ言える莫大なものだ。
如何に西方大陸中部地方を掌握しているオルトメア帝国といえど
1440
も、そう簡単には捻出する事が出来る金額ではなかった。
しかし、金額そのものはこの場合さほど問題ではない。
オルトメア帝国の国力を考えれば、二∼三年程で穴埋め出来る程
度の額だからだ。
では、何が問題なのか。
それは費やした経費を回収する事が出来るか否かという事に他な
らない。
戦争は極めてまれな例外を除き、そのほとんどが経済的な理由に
よる。
領土の占領も、その土地から得られる税や資源を狙っての事だ。
金を注ぎ込むこと自体は問題ではない。
問題なのは、つぎ込んだだけの金額に見合う何かを得られるかど
うか。
﹁兵を引くとなればザルーダと交渉をするしかありません⋮⋮です
が﹂
斉藤が言葉を濁した。
もう少し戦況がオルトメア側へ傾いている状況下であれば、交渉
も悪い選択ではない。
国を滅ぼしてしまうのが理想だが、従属国として残しても構わな
いとはオルトメア帝国皇帝ライオネルからも事前に言われてはいる。
しかし、今の状況ではそれを選ぶことは出来ない。
﹁少なくとも、ウシャス盆地を手に入れなければこちらとしては、
つぎ込んだ戦費の元が取れません⋮⋮ですが、今の状況ではまず無
理でしょうな﹂
﹁分かっているわ⋮⋮だから、砦の攻略を最優先にしているのでし
ょう?﹂
1441
沈黙が天幕の中を支配した。
須藤も斉藤も黙り込んだまま、シャルディナをじっと見つめる。
ウシャス砦の攻略が終わる前にザルーダ側と交渉を始めたところ
で、得られるものは高が知れている。
国の食糧庫とも言える重要な土地を、ザルーダ側がそう簡単に放
棄するはずがないのだ。
だが、それ以外の土地ではオルトメア帝国にあまり旨味がない。
つまり、費やした戦費に釣り合わないのだ。
﹁どうやら、このまま攻撃を続けるしかなさそうですな﹂
﹁ですが須藤さん!﹂
﹁退く事が出来ないのなら進むしかない⋮⋮だろう?﹂
須藤の問いかけに、斉藤は再び口を閉じた。
シャルディナは皇帝からの篤い信頼を寄せられているが、それを
妬む人間は多い。
特に彼女の二人の兄はその傾向が顕著だった。
出る杭は打たれるという奴だが、今回の遠征が不首尾に終われば
宮廷に暗躍する怪物達の格好の標的となってしまう。 それは、たとえ王族であったとしても同じだ。
処刑はされないとしても、ただでは済まないだろう。
﹁明日勝負を掛けます⋮⋮須藤、この前提案してきた策を使うわよ
⋮⋮﹂
シャルディナの目に鋭さが戻った。
己の置かれている立場を再確認し、腹をくくったのだ。
1442
﹁なるほど、全軍による波状攻撃ですか⋮⋮失敗すればそれで終わ
りですな﹂
シャルディナの言葉を聞き、須藤は楽しげに微笑む。
︵須藤さんが以前言っていた車掛りの陣を参考にしたって奴か⋮⋮
確かにあれなら⋮⋮他に選択肢はない⋮⋮しかし⋮⋮︶
大地世界へと召喚されて以来、磨かれてきた野生の本能が斉藤の
脳裏に警鐘を鳴らす。
だが、他に選択の余地がない事もまた事実だ。
﹁斉藤、貴方も明日は前線に出てもらうわよ﹂
﹁はい⋮⋮殿下﹂
黙り込んでいた斉藤へ、鋭い視線を向けるシャルディナ。
その勢いに押され、斉藤は一抹の不安を感じながらただ頷くしか
なかった。 1443
第4章第27話︻ウシャス盆地攻防戦︼其の1︵後書き︶
大変お待たせいたしました。
本業の方が忙しい上にフェザー文庫の方の準備でWeb版の更新が
できませんでした。
心より、お詫び申し上げます。
もうしばらく不定期更新が続きますが、今後も本作品をよろしくお
願いいたします。
1444
第4章第28話︻ウシャス盆地攻防戦︼其の2
翌朝、空がオレンジ色を帯び始めた頃、エレナは城壁の上に設置
された櫓の上から遥か遠方に野営しているオルトメア軍を見つめて
いた。
山から吹き降ろしてくる冷たい風が、エレナの髪を靡かせる。
︵陣の動きが普段よりも激しい⋮⋮今日明日で一気にケリをつけに
来ると見ていいわ。連中、大分焦れてきたようね︶
長年戦場で暮らしてきた武将の嗅覚が、微妙な空気の違いを嗅ぎ
分けたのだ。
武法術による身体強化により、通常以上の視力を持った目が数キ
ロ先の敵陣を鮮明に映し出す。
︵ついに来るわね⋮⋮︶
無数に立ち上る白い煙を睨みながら、エレナは心の中で呟く。
戦場で煙が立ち上る可能性は限られている。
恐らく時間からして、朝食の準備だろう。
﹁おはようございますエレナ様。いよいよ敵は捨て身の勝負を仕掛
けてくる様ですわね⋮⋮﹂
エレナの背後から鈴の鳴る様な美声が掛けられた後、エクレシア
が護衛役の騎士達を引き連れ櫓の上に姿を現す。
早朝にもかかわらず丁寧に櫛で梳かされた艶やかな黒髪。
香油でも使ったのか、ほのかな香りが鼻をくすぐる。
その気品あふれる立振舞いは、由緒ある名門貴族の深窓のご令嬢
と言われても何の疑問も感じない。しかし、その身を包むのは絹の
ドレスではなく、無骨な鋼の鎧。
その表面には細かい無数の傷跡が見える。
1445
エクレシアがただのお人形ではない証拠だ。
﹁おはよう、エクレシア⋮⋮どうやらそのようね﹂
エレナは後ろを振り返る事なく、立ち上る煙を見つめ続ける。
﹁大体、御子柴様の予想した通りの展開ですね﹂
エレナの横に肩を並べ、エクレシアは手を翳して前方へと視線を
向けた。
﹁朝食をしっかりと取らせ腹ごしらえをするつもりの様ね⋮⋮恐ら
く、日暮れになっても連中は引かないわよ﹂
戦が始まってしまえば、砦という防御設備のあるエレナたちとは
違い、攻城側のオルトメア軍は兵を引くまで食事をする暇などない。
無論、携帯用の保存食がない訳ではないのだが、煮炊きをせずに
口に入れられる物と言えばナッツや干した果物などが関の山だ。 何も口にしないよりはマシだろうが、戦への活力が湧くとはとて
も言えない。
それにウシャス盆地は高地特有の気候で気温は低い。
どうしても、戦の始まらない朝のうちにしっかりと腹を満たして
おく必要があった。
その指揮官の思いが普段よりも多く立ち上る煙りに表れている。
﹁なるほど⋮⋮夜戦ですか﹂
エレナの言葉にエクレシアが形の良い唇を吊り上げ笑った。
夜戦を行うには多くの準備を必要とする。
戦が始まる前に出来る限るの手を打ちたいと思うのは指揮官とし
1446
て当然の事だ。 しかしどれほど周到な準備であろうとも、それが相手側へ筒抜け
になってしまえば意味がない。
相手の動きが見えれば対策は幾らでも講じる事が出来る。
﹁正確に言えば、夜通しこちらを攻撃し続けるつもりでしょうね。
連中の兵力から考えて、三部隊か四部隊に分けて攻撃の手を休めな
いで⋮⋮﹂
﹁こちらの士気と体力を削ろうと言う訳ですね﹂
エクレシアが顎に指をあてながら頷いた。
炊事の煙は多くの情報を見る者へもたらす。
軍の食糧事情に始まり、兵の士気から、敵の指揮官の思惑まで実
に様々な物を⋮⋮だ。
もっとも、立ち上るただの煙からそれらの情報を読み取れる人間
は数少ない。
読み取れるか読み取れないかが、将軍とそれ以外の兵との差とも
言える。
﹁ならば、こちらはどう対処します?﹂
質問の形を取っていたが、エクレシアの言葉には強い確信が含ま
れている。
既にこの状況下で打つ手は決まっているのだ。
エクレシアの瞳がまるでダイヤモンドの様に輝いているのを見て、
エレナは苦笑いを浮かべた。
それはまるで、お菓子を目の前にして待てと母親に命じられてい
る子どもの様だ。
1447
﹁そうねぇ、砦に籠って戦うのもそろそろ飽きてきたと思わない?﹂
﹁えぇ、私正直に言って恋愛も戦も受身は好きじゃないんですよね﹂
エレナの言葉にエクレシアは肩を竦めて答えた。
暴風の異名を持つエクレシアの真価は侵略戦。
圧倒的な機動力を用いての電撃的奇襲こそがエクレシア・マリエ
ールの持つ最大の武器。
﹁なら、ちょうど良い機会じゃない⋮⋮ね?﹂
同じ将軍同士の会話だ。
エレナの言葉は謎めいていたが、エクレシアは正確にその意図を
読み取った。
今回、エクレシアが率いて来た援軍の中には、彼女の直属部隊が
混じっている。
今まで、防衛戦においては活躍の機会に恵まれなかったが、一度
攻めに転じれば彼等は今までの不満を発散するべく恐るべき牙を剥
き出しオルトメアの兵を容赦なく切り裂くだろう。
﹁えぇ、本当に⋮⋮では、エレナ様のお言葉に甘えて久しぶりに暴
れさせていただきますわ。どうも防衛戦は苦手です﹂
受身を苦手だと自称するエクレシアの言葉にエレナは首を振った。
この数ヶ月を共に過ごし、エレナは彼女の持つ実力を十分に認め
ている。
そして、それはエクレシアから見ても同じ事が言えた。
﹁あぁ、それとグラハルトにはこちらから連絡を入れておくわ⋮⋮﹂
1448
﹁時間的に今から間に合うのですか?﹂
首をかしげるエクレシアの言葉にエレナは苦笑いを浮かべた。
﹁大丈夫よ。彼もこの国では指折りの人間ですからね。上手く貴方
に合わせると思うわよ?﹂
名将と呼ばれたベルハレス将軍の影に隠れてしまい周囲の評価は
いま一つパッとしないが、エレナはグラハルトの実力とザルーダ王
家への忠誠心を高く評価している。
実力はあっても忠誠心の低い人間。忠誠心はあっても無能な人間。
そんな人間が多い中、グラハルトはどちらも高い水準で持つ稀有
な存在だった。
それは、山中に点在する砦の指揮権をグラハルトに委ねている事
からも明らかと言える。
﹁分かりました。そちらはエレナ様にお任せします⋮⋮では、失礼
します﹂ その事を察したエクレシアは、エレナへ優雅に一礼すると踵を返
す。
その顔には獰猛で意味深な笑みが浮かんでいた。
まるで獲物を見つけて舌なめずりをする雌狼の様な⋮⋮
﹁おい、早くしろよ! 部隊長にどやされちまうだろうが!﹂
﹁本当だよな。それでなくても今日は朝っぱらから叩き起こされて
たまらねぇって言うのによぉ⋮⋮たまらねぇぜ。全く⋮⋮﹂
1449
大鍋の前に列を作った兵士達の口から次々に不満の声が漏れる。
元々、食事の時間は戦争に等しい。
あちらこちらに設置された大鍋の中でグツグツと湯気を上げてい
るスープは大量だが、兵士全員が満腹になるかどうかギリギリのラ
インだ。
もたもたしていれば、最悪の場合具なしの汁をすするだけになっ
てしまうだろう。
戦場でも前線に出ることの多い下級兵士にとって、食事の量と質
は命に直結する大事な部分だ。
その上、今日は上からの命令で普段よりも起床時間が早い。
兵士達が苛立つのも当然と言えた。
﹁ごちゃごちゃうるせぇな。文句があるなら上役にでも言えや!﹂
体格の良い料理番の一人がオタマで鉄鍋の縁を叩くと怒気の籠っ
た目で周囲を睨みつける。
白い前掛けに白のシャツ。この辺は料理人としてごく普通の格好
だが、胸板は分厚く腕は丸太の様に太い。
恐らく、戦場で実際に戦った事があるに違いない。
その気迫と迫力は周囲の荒くれ者達を黙らせる。
﹁全く、こっちの都合もお構いなしにあれだこれだと無茶な命令ば
っか出しやがって⋮⋮ほら、次! さっさとしないか! ぐずぐず
してると尻を蹴り上げるぞ!﹂
周囲に聞こえないように口の中で小さく上役への不満を呟くと、
もっと注げと目で訴えかけていた兵士を怒鳴りつけた。
食事の配給は戦場において一番気を使う部分だ。
少しでも周囲と差を感じれば兵士は躊躇する事なく噛みついてく
1450
る。
いや、少しでも隙を見せれば自分だけは特別待遇をしろと脅して
くるのだ。
それに負ける様では料理番は務まらない。恐れられるくらいで丁
度良いのだ。
﹁全く⋮⋮どいつもこいつもぐちぐちと文句ばかり言いやがって⋮
⋮そんなんだから出世できねぇんだよ⋮⋮﹂
料理番は小さく吐き捨てると、怪訝そうに眉を顰め陣の外を見た。
小刻みに震える大地の感触が足の裏に伝わる。 初めはほんの小さな違和感だが、足裏から伝わる振動はだんだん
はっきりとしてくる。
︵地鳴り⋮⋮か?︶
周囲の兵士たちも気がついたのだろう。
皆、食事の手を止め周囲を見回す。
﹁地震⋮⋮いや、違う。馬蹄の響きだ!﹂
﹁敵襲だ! 敵が来たぞ!﹂
﹁斥候は何をしていた!﹂
﹁何をもたもたしてやがる。飯なんぞ気にしている場合か!﹂
陣のあちらこちらから勘の良い兵士の叫びが木霊する。
そして次の瞬間、天空から無数の矢が雨の様に降り注いだ 1451
第4章第29話︻ウシャス盆地攻防戦︼其の3
ウシャス砦を飛び出したエクレシアの前にオルトメア陣営の天幕
がはっきりと姿を現した。
距離にして三百メートルから四百メートルといったところだろう
か。
本来であれば弓の有効射程内とは言えない距離だが、エクレシア
は構わず命令を下す。
﹁第二射準備! 遠慮はいりません。タップリと矢の雨をオルトメ
アの犬共に食らわせてやるのです!﹂
エクレシアの檄を受け、疾走する馬上の騎士達が再び弓を引き絞
る。
﹁放てぇぇぇ!﹂
エクレシアが手にした剣がオルトメアの陣営へ向かって振り下ろ
された。
未だに夜も明けきらぬウシャス盆地に無数の弓鳴りが響き渡る。
彼等が手にしているのは独特な湾曲を描く小型の弓だ。形状とし
ては、トルコ弓や遊牧民が使う物などが近いだろう。
長弓と呼ばれる大型の弓を用いる事が多い大地世界において、か
なり珍しい形状と言える。
少なくとも、西方大陸ではまず見かけない。
確かに馬上で使うには便利な形状だ。しかし、当然ながら良い
事ばかりでもない。
小型で速射性に優れており馬上での取扱も容易だが、その反面、
1452
飛距離や貫通力では長弓に一歩後れをとる。
いや、そもそも弓自体が大地世界のみに存在するとある理由か
らあまり活用されてこなかったと言う方が正しいだろう。
戦における最大の武器は武法術で強化した肉体。
それが大地世界における常識だったのだ。
だが、エクレシア率いる騎士団が手にしているこの弓は、全て
において違っていた。 それは、ミスト王国が長い年月と莫大な開発費を投下し、改良に
改良を重ねて作り出された大地世界における最先端の武器。
貿易国家の特性を生かし、遠く中央大陸から輸入された技術とミ
スト王国が独自に開発した技術の融合だ。
単一素材から作成された一般的な丸木弓と比べて、薄い金属板
を基とした上に様々な生物の革や骨を使用した複合弓は、並の人間
ならば引く事さえ不可能なほど強い張力を誇る。
普通の人間では弓を引く事すら困難な品物だ。
いしゆみ
ましてや、不安定な馬上からの射撃となれば不可能と断言出来る。
基は弩として使われていたのだからそれも当然だろう。
しかし、武法術によって強化された身体能力誇る騎士にとっては
何の問題もなかった。
もちろん、激しく揺れる馬上からの射撃なので平地に立った状態
ほどの命中率は望めないが、今の状況ではそこまで精密な射撃をす
る必要はない。
広いオルトメア側の陣内に届きさえすればよい。それだけで敵兵
を動揺させる事が出来るのだから。
﹁敵は良い感じに混乱している様ですね⋮⋮﹂
﹁当然だわ。こちらに先手を取られるとは夢にも思っていなかった
でしょうからね。ずっと砦に籠って好きでもない防衛戦だけを行っ
てきた甲斐があると言うものだわ﹂
1453
並走する副官の言葉にエクレシアはニヤリと唇を吊り上げて笑う。
それはまるで、獲物を前に牙を剥きだした野獣の様な笑み。
いくら普段の態度が貴族の令嬢の様に洗練された立ち振舞いで
あっても、彼女の本質は御子柴亮真と同じ獰猛な肉食獣。
また、そうでなければ一国の将軍になど上り詰められる筈がない。
﹁確かに⋮⋮﹂
ボクシングを例に挙げるならば、試合開始直後からひたすら防御
に徹し、相手が焦れて一撃で決めようと大ぶりになったところに合
わせて鋭いカウンターを食らわせてやったと言った所か。
﹁分かっているとは思うけれど、別に無理をする必要はないわ。ち
ゃんと次の手は準備しているんですからね﹂
エクレシアの意味深な視線を受け、副官が深く頷く。
﹁ご心配なく。引き際は十分に分かっておりますから﹂
この奇襲はあくまでも相手の出血を広げる為のものでしかない。
幾重にも張り巡らされた罠。
一撃でオルトメア侵攻軍の息の根を止める。その策の準備が整う
までの場繋ぎ的な物なのだから⋮⋮ エクレシアは側近の背中を見ながら小さく呟いた。
﹁貴方は甘いのよ⋮⋮お嬢様。幾ら兵数を揃えようとアナタじゃ私
にもエレナ様にも勝つ事は無理だわ⋮⋮そしてあの男にもね﹂
シャルディナの基本的な考えである大兵力の投入は、戦略上決し
1454
て間違っている訳ではない。
だが、その思想が常に最善であるかと言われればそうではないの
だ。
兵力が多ければ多いほど軍の動きは鈍重となり、物資の消費はけ
た外れに加速していく。
大軍を効率良く運用するには、経験か才能のどちらかが絶対的
に必要だ。
問題は、シャルディナ自身がその事を十分に理解していない事⋮⋮
﹁さぁ、反撃の幕開けよ⋮⋮我がミスト王国の力をその目に焼きつ
けなさい﹂
東部三カ国連合とは言えば聞こえが良いが、所詮は戦乱の時代の
同盟。
隙があれば、利があれば、機会があれば⋮⋮
お互いがお互いへ、笑顔の裏に隠した牙を突き立て様とする。
そう言う意味から言えば、このオルトメア帝国との戦において大
切なのは自国の軍事力を見せつけ侮られない様に印象付ける事だ。
エクレシアは戦の終わりが見え始めた今こそ、自らが育て上げた
切り札を切る。
自国の力を見せ付ける為に⋮⋮
﹁敵が掛かったら⋮⋮退くわよ!﹂
陣営の中であわただしく蠢く姿を見ながら、エクレシア・マリネ
ールは形の良い艶やかな唇を吊り上げ笑った。
﹁伝令! 敵軍約二千五百が我が陣営に奇襲! 弓の斉射を受け数
百人ほど損害が出たもようです﹂
1455
その報告がもたらされた瞬間、シャルディナの手からスープの入
った皿が零れ落ちた。
あまりに予想外の報告に、一瞬シャルディナの思考が止まる。
それは、共に食卓を囲んでいた斉藤やセリアにしても同じだ。
そして、状況を理解したシャルディナの口から叫び声が迸った。
﹁奇襲ですって? 斥候は何をしていたの! 砦の動きには細心の
注意を払いなさいと強く命じていたはずです!﹂
般若の様な形相をして、鋭い視線を向けるシャルディナの前で伝
令は矢継ぎ早に報告を口にした。
﹁申し訳ございません。敵側の動きがあまりにも早く間に合いませ
んでした﹂
肩に矢を突き刺した伝令が息も絶え絶えにシャルディナへ頭を下
げた。
その姿を見て、シャルディナの唇から小さな舌打ちが漏れる。 ﹁もう良いわ。各部隊に伝令して直ぐに反撃しなさい! ﹂
幾ら事前に命じていようと、こうして奇襲を受けたのは事実だ。
︵何て事なの⋮⋮こちらが攻勢を強め様としたとたんに出鼻を挫い
てくるなんて⋮⋮︶
勿論、シャルディナもザルーダ側の反撃を警戒はしていたが、エ
クレシアの率いる騎士団の疾風迅雷とも言える機動性の前に意表を
突かれたのだ。
﹁殿下! お待ちください。ここは慎重に⋮⋮﹂
1456
性急に反撃へ移ろうとするシャルディナの言葉に対し、斉藤が口
を挟んだ。
﹁斉藤、何を悠長な事を言っているの。兵力ではこちらが上なのよ。
向こうから砦を出て来たのよ? 今勝負をしなくてどうするの!﹂ ﹁ですが殿下、今までずっと守勢を維持していたザルーダ側が攻勢
に転じたのです。何か裏がある可能性も⋮⋮﹂
﹁そうです、ここは一度体制を立て直してから!﹂
セリアの言葉に斉藤が頷く。
確かに、わずか一個騎士団程度の戦力で奇襲を掛けたところで、
初めの一撃は良いとしても、その後が続く筈もない。
いずれ、数の暴力に押される事が目に見えている。
ならば、ザルーダ側の狙いはどこにあるのだろう。
その事に思い至り、シャルディナは大きく息を吸い込み深呼吸を
する。
︵冷静に⋮⋮良い、落ち着くのよ⋮⋮連中の狙いはどこ?︶
遠距離から放物線を描いて飛来する矢の雨。
確かに多少は兵数を削る事が出来るだろうが、決定打とはとても
なりえない。
一撃目は予想外の遠距離から斉射を受けそれなりの損害が出た様
だが、一度、戦闘態勢に移行すれば被害は格段に少なくなる。
特に、戦の勝敗を左右する最重要戦力である騎士団が身に付けて
いる鎧兜は、並の弓では小さな傷をつけるのが精一杯の筈だ。
︵ならば、単なる嫌がらせ? まさか⋮⋮ね︶
確かに出鼻を挫かれはしたが、それだけだ。
いずれは混乱を鎮静化し、オルトメア側の指揮は正常に戻る。
1457
真正面から力攻めへ持ち込むには敵方が率いる二千五百という兵
力はいかにも少な過ぎた。
﹁囮の可能性はありませんか?﹂
斉藤の言葉にシャルディナは形の良い眉を顰めた。
﹁正面に私達の意識を集中させて、側面から砦を攻めるというの?﹂
少し考え込んだシャルディナは、傍らに立つセリアの顔をちらり
と見る。
﹁いえ、それはないかと。この野営地の周りは平坦で起伏が少なく
かなり見通しが良い地形ですから﹂
﹁そうね⋮⋮幾等なんでもそんな性急な攻め方に切り替えるとは思
えないわ⋮⋮﹂
﹁勿論、可能性がない訳ではありませんが⋮⋮﹂
開戦当初からザルーダ側の方針は一貫していた。
損害を出来るだけ減らす為に砦に籠り、周囲の山の中に点在する
砦と連携しながら地の利を生かした防衛戦に徹している。
その方針を急に転換する可能性は限りなく低い。
︵では⋮⋮何故今になって⋮⋮︶
どんな行動にも必ず意味がある。
その意味をどれだけ早く正確に読み解く事が出来るか。
形の良い顎に指をあてながら考え込むシャルディナの疑問に答え
を出したのは天幕へ掛け込んで来た伝令だ。
1458
﹁報告! 我が軍の一部が正門より出撃。ザルーダ側の兵を追い、
ウシャス砦へ向って進軍中です!﹂
その報告を聞いた瞬間、シャルディナの頭の中で全ての事柄が組
み合わさっていく。
そして、出来あがった一枚の絵が脳裏に浮かんだ瞬間、シャルデ
ィナの背に冷たい何かが走る。
︵釣られ⋮⋮た? まさか、これが狙いなの?︶
その思いは、天幕の入り口に立った男の皮肉げな口調によって確
信に変わった。
﹁これは少々不味い展開ですなぁ⋮⋮斉藤君、君は直ぐ騎士団を纏
めに向かってください。ロルフ殿には既に向ってもらっていますが、
君にも現場に向って貰った方がシャルディナ殿下も安心でしょう。
これ以上連中が暴走しない様に⋮⋮ね﹂
﹁須藤さん⋮⋮それは一体どう言う⋮⋮﹂
状況のつかめない斉藤が須藤へ歩み寄ろうとする。
だが、その動きをシャルディナが手で遮った。
﹁斉藤、悪いけれど直ぐに向かって頂戴。良い? 絶対にこれ以上
兵を出撃させないで!﹂
事態は一刻を争う。
ロルフの力量は十分に理解しているが、確かに保険は必要だった。
須藤の言葉どおり、確かにこれ以上の暴走は侵攻軍にとって致命
傷と成りかねないのだから。
シャルディナの目に光る強い光に、斉藤はそれ以上問い掛けるの
を止めると、天幕の外へと走り出す。
1459
﹁クククッ、敵もいよいよ本格的に動き始めた様ですなぁ⋮⋮エレ
ナ・シュタイナーとエクレシア・マリネールですか。こちらの状況
をよくご存じの様だ。流石に歴戦の将だけはあると言うところです
か。動いた我が軍がどの程度かで今後の展開がかなり⋮⋮﹂
﹁いい加減その口を閉じなさい。須藤!﹂
シャルディナの怒声に、須藤は何時もの皮肉気な笑みを浮かべ両
肩を竦める。
その態度を横目で睨み付けながら、シャルディナは椅子に腰掛け
た。
﹁あぁ、光神メネオースよ、どうかどうか我等にご加護を⋮⋮二人
がどうか間に合いますように﹂
シャルディナの口から普段口にした事のない神への祈りが漏れた。
だが、傍らに佇むセリアには状況が全く分からない。
﹁殿下⋮⋮一体何が⋮⋮﹂
神に祈るかの様に握りしめた拳に顔をうずめるシャルディナ。
その姿にセリアは驚きの言葉を漏らさずにはいられなかった。
1460
第4章第29話︻ウシャス盆地攻防戦︼其の3︵後書き︶
新年明けましておめでとうございます。
今年はWeb版の更新と書籍出版の両立に頑張ろうと思います。
今後もWeb版、書籍版共によろしくお願いいたします。
1461
第4章第30話︻ウシャス盆地攻防戦︼其の4
森羅万象、全ての事がらには因果関係が必ず存在する。
それは、科学に支配された地球だろうと、神秘と奇跡が今なお消
えていない大地世界であろうと変わらない。
必ず原因があって結果がある。
︵何かが問題なんだわ⋮⋮今後の我が軍の動向を左右するほど大き
な⋮⋮問題は、それが何なのか?︶
須藤とシャルディナ、二人の態度が指し示す意味は同じだ。
セリアは顔を伏せたまま微動だにしないシャルディナの背を見つ
めながら必死で脳を稼働させる。
︵私は軍師役としてここに居る。考えなさい。今分かっている事は
何⋮⋮あの伝令が報告に来てからの事を思い出すのよ︶
ザルーダ側の奇襲が報告された後の一つ一つの会話がセリアの脳
裏に思い起こされて良く。
そして、セリアはついにある事に気がついた。
︵待って⋮⋮あの伝令は何て言った? 我が軍の一部が出撃したと
⋮⋮︶
その後に浮かぶのは須藤の言葉だ。
︵須藤は言った。これ以上暴走させれば致命傷になるかもしれない
と⋮⋮暴走? つまり、彼等は殿下の思惑とは違う形で出撃した。
陣営から彼等は釣り出された⋮⋮つまり、奇襲を仕掛けてきた部隊
は囮⋮⋮ならば、出撃した部隊は⋮⋮︶
そこまでセリアの思考が進んだ時、彼女の脳裏に全てのピースが
繋がった。
︵動いた軍の数次第では、今後の展開が変わると須藤は言った⋮⋮
そして、ロルフ様と斉藤殿を各部隊の鎮静に向かわせた真意︶
それは言葉にするのも恐ろしい結末。
1462
﹁この奇襲は囮⋮⋮そして、餌を目当てに釣り出された部隊に待ち
受けるのは⋮⋮﹂
セリアの唇から洩れたその言葉に、顔を伏せていたシャルディナ
が鋭い視線を向けた。
憤怒と悲哀に満ちた目。
それは、セリアの出した答えが正しい事を示していた。
黙り込んだまま見つめあるシャルディナとセリア。
その横で、須藤はいつもと変わらぬ不敵な笑みを浮かべている。
そんな中、天幕の中に駆け込んできた騎士によって重苦しい沈黙
が破られた。
余程急いで走ってきたのだろう。
彼は荒い息を整える間もなく、シャルディナの前に跪く。
﹁伝令! 斉藤様、ロルフ様より各部隊の沈静化に成功との事﹂
その言葉にセリアは思わず胸を撫でおろす。 本来、後方の砦の守備を任されているはずのロルフが、最前線で
あるウシャス盆地へ来ていたのは不幸中の幸いと言える。
総力戦を掛ける為に陣を守れる人間を欲したシャルディナの判断
だったが、思わぬところで吉と出たのだ。
ロルフの様な威風に溢れた実績のある人間でなければ、猛り狂う
兵達を宥め落ち着かせる事など出来なかっただろう。
斉藤も決して悪い訳ではないが、この事態は彼一人の手には余っ
たはずだ。
喜びを安堵の笑みを浮かべるセリア。
しかし、シャルディナの顔から険しさは消えていなかった。
﹁どれくらいの兵が無断で出陣したの?﹂
1463
﹁はっ! 確認したところ、西部方面第三、第五、第八の 三個騎
士団を中心に、およそ八千程かと﹂
その言葉を聞き、シャルディナの唇から鋭い舌打ちが漏れた。
もしこのザルーダの奇襲がオルトメア帝国軍を釣り出す罠であっ
た場合、彼等の生還する可能性は限りなく低い。
︵八千⋮⋮予想以上に多い。やはり西部方面から引き抜いた補充を
狙われたのね⋮⋮私の指揮が行き渡っていない事を見越して⋮⋮︶
シャルディナに無断で出撃したのは、急きょ増援として送り出さ
れた部隊が大半だった。
広大な国土を持つルトメア帝国の弊害。
同じオルトメア帝国軍を名乗ってはいても、長年自分の指揮下で
動いてきた騎士団とはやはり勝手が違った。 シャルディナ自身、彼等を十分に活かしきれたとは言えないのだ。
﹁ロルフ様より、救援の為の出撃許可を求められておりますが?﹂
伝令の言葉にシャルディナは黙り込む。
何も手を打たなければ、釣り出された八千の兵に残されるのは死
だけだ。
だが、罠と知りつつその中に飛び込む事が正しいかどうか⋮⋮
﹁やはりここは、損切りするしかありませんねぇ﹂
沈黙を守るシャルディナの横から、須藤が口を挟んだ。
癇に障る声だ。
この危機を前にして須藤の態度は普段と微塵も変わらない。
﹁損切り?﹂
1464
セリアは言葉の意味が分からず首を傾げる。
耳慣れない言葉。
少なくともセリアは今まで聞いた事がなかった。
﹁えぇ、損切りです。ここで下手に彼等を救おうとして傷口を広げ
れば、本当に取り返しのつかない事になりかねませんからねぇ﹂
損切り。
株式の用語だが、簡単に言えば損を確定させるという事だ。
値上がりすると思った株が買った直後から値を下げた。
無論、株価は日々上下に変動する。
だから、値が上がる事を信じて株を持ち続けるという判断も出来
きるだろう。
しかし、その一方で株価が下落し続ける事もあり得る。
百円で買った株が翌日に九十円に下がった。
つまり十円の損だ。
ここで翌々日に値が百円に戻ると信じれば売らないという選択に
なり、値が八十円に下がると判断すれば値が九十円のうちに手放し
た方が良いという判断になる。
ここで、更に値が下がり続けると判断し、十円の損を覚悟で株を
手放してしまう事を株式の世界では損切りと言う。
では、須藤が言う損切りとは具体的に何を指すか。
それは⋮⋮
﹁救援部隊を送らず見捨てろと言うのね?﹂ 憎々しげな光を放ちながら須藤を睨みつけるシャルディナの言葉
に、セリアは息を飲んだ。
1465
﹁勿論、殿下がどうしてもとおっしゃるならば⋮⋮この須藤、救援
部隊を出すなとは言いません。ですが無礼を承知で更に言わせてい
ただくと、救援部隊を出した場合、当然ですが今後の展開はさらに
厳しいものになる覚悟が必要でしょうねぇ。それに、今さら向かえ
ば各個撃破の的にしかならないでしょうから﹂
須藤は厭らしい笑いを浮かべた。
その顔には決断するのはお前だと書いている。
さぁ、決断しろと⋮⋮
﹁アナタはそれを選んだ場合どうなるかも分かっていて進言してい
るのよね?﹂
︵須藤秋武⋮⋮今は亡きガイエス・ウォークランドの懐刀⋮⋮︶
癇に障る嫌な人間だが、その戦士としての実力と、謀略の才を認
めない訳にはいかない。
事実、須藤は言うべき事を言っているだけだ。 忠言は耳に痛いという格言通り、正しい言葉は人の心を苛立たせ
る。
﹁無論です。救援部隊を出さずに見殺しとすれば、我が軍の士気は
低下するでしょう。ですが、問題はどちらを選んでも被害を受ける
事は確定という事ですよ。ならば、より被害の少ない選択を⋮⋮最
善を諦め次善を選ぶだけです﹂
﹁士気の維持を選ぶか、兵数の維持を選ぶか⋮⋮か﹂
シャルディナは思わず爪を噛んだ。
︵救援部隊を送らなければ兵は私の指揮に対して不満を持つ⋮⋮最
悪反乱が起きる可能性だって⋮⋮でも、罠の確立が高いこの状況で
1466
救援部隊を出せばさらに傷口を広げかねない⋮⋮︶
どちらを選択してもオルトメア帝国軍にとっては大きな損害であ
り、ザルーダ王国侵攻を頓挫させかねない大問題だった。
どちらを選んでも難しい状況。
正解はおそらく存在しないだろう。
不自由な二択と言う奴だ。
だが、ここで決断しないと言う選択肢は存在しない。
そして須藤の言う通り、全てはシャルディナの双肩に掛かって
いる。
それが、軍を率いる者の責任。
﹁分かったわ⋮⋮﹂
苦渋の選択。
長い沈黙の後、シャルディナはついに口を開く。
だが、その後に続く言葉は誰の耳にも永久に届く事がなかった。
﹁大変です! シャルディナ殿下に至急お目通りを!﹂
天幕の中に駆け込んできた新たな伝令の叫びに打ち消されてしま
ったから⋮⋮
エレナはウシャス砦の一角に当てが割られた自室の椅子に腰かけ
ると、窓の外に広がる闇へと視線を向けながら手にした盃を傾ける。
強い酒精が喉を滑り落ちエレナの臓腑を焼く。
普段はあまり酒を口にする事のないエレナだが、戦場では時折無
性に飲みたくなるのだ。
特に、戦の後には⋮⋮
普段であれば、今は亡き戦友達の姿がエレナの脳裏に浮かんでは
1467
消えていく。
だが、今エレナの心を占めているのは一人の女の姿。
豪奢な鎧に身を包んだ、年若き乙女。
顔は霧がっ掛かった様に白く何も見えない。
そう、それがエレナが思い浮かべるオルトメア皇帝ライオネルの
腹心にして最も寵愛深き娘の姿だ。
﹁ふぅん⋮⋮絶対に救援部隊を出してくると思ったけれども、思っ
た以上に冷静な様ね。これは少し甘く見たかしら⋮⋮﹂
小さなため息共に、エレナは対面に腰を下ろすエクレシアの前に
置かれた杯へ酒瓶を傾ける。
﹁私としては中々見事な判断だと思いますわ。彼等も薄々罠だとは
気がついていたはずですから。まぁ、一軍の将としてはこれくらい
の判断は当然とも言えますが﹂
エクレシアが悠然と笑みを浮かべた。
実際問題として、シャルディナが釣り出された部隊の救援の為に
兵を出さなかったのは英断と言えた。
ただし、それは最悪を回避したと言うだけにすぎない。
﹁まぁね﹂
﹁問題はこの後彼女が兵達の信頼を取り戻せるかどうか⋮⋮ですね﹂
兵にとって大切なのは自分の命だ。
指揮官の最善が兵にとっても最善とは限らない。
シャルディナが救援部隊を向けなかった事により、オルトメア兵
達の間では、彼女に対して強い不信感を募らせるはずだ。
1468
自らも使い捨ての捨て駒にされるのではないかと言う不安に駆ら
れて⋮⋮
﹁まぁ、若い彼女じゃ無理でしょう。戦の経験はあっても全てオル
トメア帝国の国力を背景に行った勝敗の見えたものばかりだもの。
一度傾いた戦の天秤をオルトメア側へ引き戻すには経験が足らなさ
すぎるわ﹂
それは、強者が弱者の足掻きに向ける余裕の笑み。
実際、いくら才智に富んでいようと、エクレシアやエレナから見
れば、シャルディナは尻に殻をつけた雛鳥と同じ。
圧倒的に実戦経験が少な過ぎるのだ。
特に、絶望的に劣勢の戦を生き抜いたと言う経験が。
﹁後は補佐役次第⋮⋮と言ったところですか﹂
﹁そうね⋮⋮まだ、油断は出来ないわね﹂
エクレシアの言葉にエレナが頷く。
シャルディナの器量は大体予想がついている。
後は、彼女を補佐する人間の力量次第だった。
﹁まぁ、今あれこれ考えても結論はでないわ。とりあえず、今は戦
の勝利を喜ぶ事にしましょう﹂
そう言うと、エレナは盃を掲げて見せた。
﹁えぇ、グラハルトさんは思った以上に良い仕事をしてくれました
ね。これでおおよそ敵兵の五∼六千ほどは削った訳だし⋮⋮﹂
1469
エクレシアの奇襲によって一撃を与え、退却する彼女を追って釣
り出されたオルトメア兵の横腹にグラハルト率いる部隊がさらなる
奇襲を掛ける。
二重に張り巡らされた奇襲こそが、今回の罠の肝。
策そのものは成功と言って良い筈だが、エクレシアはやはり心の
どこかで物足りなさを感じているのだろう。 ﹁手間と時間をかけた大がかりな仕掛けの割には少し物足りない気
もしますが、仕方ないですわ。今はこれで満足するべき⋮⋮ですね﹂
その言葉にエレナは苦笑いを浮かべた。
この罠の準備にはかなりの時間と犠牲を払っている。
エレナやエクレシアが援軍到着後ずっと砦に籠り守備に徹してい
たのも全てはこの日の一瞬の為だ。
オルトメア兵を五∼六千ほど削った成果と、費やした時間と手間
そして代償を比べた時、果たして天分がどちらに傾くかは正直に言
って微妙なところだろう。
﹁まぁ良いわ。十分足止めの役は果たせたし、別にこれで勝負を決
めるつもりではないのだから﹂ ﹁それはそうですが⋮⋮これで私達が持っていた切り札は0です⋮
⋮奥の手の弓騎馬隊も使ってしまいましたからね。後は本当に防衛
に徹する他に選択肢はなくなりました﹂
肩を竦めて答えるエレナにエクレシアは首を振った。
だが、その顔に不安の影はない。
二人の顔に笑顔が浮かぶ。
笑い合う二人に不安はなかった。
遠くオルトメア帝国領内に楔のごとく撃ち込まれた一人の男を信
1470
じていたから⋮⋮
そして、突然エレナの私室の扉が慌ただしくノックされた。
運命の女神の手によって⋮⋮
﹁大変です! オルトメア軍の陣が慌ただしくなっています﹂
騎士の叫び声が扉の外から聞こえてくる。
その言葉にエレナとエクレシアは互いに頷き合う。
﹁どうやら始まった様ね⋮⋮エクレシア﹂
﹁その様ですわね⋮⋮﹂
何がと問う必要はなかった。
昼間の一戦においてオルトメア帝国軍は兵の数だけではなく、兵
の士気にも大きな傷を受けている。
そんな状況で、オルトメア帝国側が夜襲を行うとは考えにくい。
となれば、残された可能性は一つしかない。
信じてはいた。 信じていなければ、エレナがウシャス砦の防衛に掛かりきってい
た訳がない。
だが、心のどこかで一抹の不安を感じていた事は確かだ。
﹁本当にやり遂げたのね⋮⋮御子柴亮真⋮⋮﹂
感嘆のため息と共に、エレナの口から一人の男の名が漏れた。
ノティス平原の戦いに始まった一年数カ月にも及ぶザルーダ王国
とオルトメア帝国の戦。
それが遂に終わりを迎えようとしていた。
一人の男の力によって⋮⋮
1471
第4章第31話︻収穫の時︼其の1
全ての発端。それはオルトメア帝国第一皇女シャルディナ・アイ
ゼンハルト率いるザルーダ侵攻軍が慌ただしく撤退の準備を始めた
日から数日前へと遡る。
煌々と明かりを灯された巨大な砦が、何処までも続く平坦な大地
の上にそびえ立つ。
石造りの堅牢な要塞は生半可な攻撃ではびくともしないだろう。
中に駐留する数千に及ぶ守備兵が油断なく近づく人間を警戒する。
砦の中に設置された倉庫の中には、ザルーダ侵攻の為にオルトメ
ア帝国の各地から集められた食料と武具が山となって収められてい
た。
そして、後方に点在する都市部との連携。
もし真正面からの力攻めと選ぶのであれば、数万の兵を揃え、多
数の攻城兵器を用いた上で数ヶ月以上の月日を費やさなければなら
ないだろう。
﹁あれがノティス砦か⋮⋮なるほど、確かに大した砦だな﹂ 馬の背にゆられながら男は兜の面当てを上に持ち上げると、徐々
にその姿を大きくしていく砦を見つめる。
実際、ノティス平原の西端に造られたこの砦は、建造されてから
数十年の間、対ザルーダ王国に対しての防衛拠点として存在し続け
ていた。 ザルーダにとってウシャス砦がオルトメアの侵略を阻む最後の防
波堤であるように、オルトメアにとってはこのノティス砦こそが東
部方面防衛の要だ。 1472
﹁はい、ですが今ならば⋮⋮﹂
男の呟きに傍らにつき従う小柄な従者が鈴の鳴る様な美声で答え
た。
豊かな曲線を描く胸。
面当てを下しているので顔は分からないが、兜の隙間からこぼれ
るのは絹の様な光沢を放つ銀の髪。
少女の言葉に男は肩をすくめて頷く。
﹁まぁな⋮⋮その為にあれこれとお膳立てをしたんだ。ここで失敗
すればエレナさんに会わせる顔がない﹂
確かに、正攻法ではノティス砦を落とす事は難しいと言える。
だが、手段さえ選ばないのであれば絶対に不可能という訳でもな
い。
その為に多くの犠牲と時間を掛けて準備して来た。
そして、遂に訪れたのだ⋮⋮この時が⋮⋮
﹁お待たせいたしました。多少説明に手間取りましたが、我々の入
城を許可するそうです﹂
砦から馬を走らせて来た騎士が、男の前で息も絶え絶えに声を張
り上げた。 その姿に軽く右手をあげて労うと、男は自分の背後に続く長い隊
列を振り返る。
︵全ての準備は終わった⋮⋮連中は俺の予想通りの動きをしている
⋮⋮︶
表面上は平静を装ってはいても、男の心は不安と焦燥で荒れ狂っ
ていた。
1473
一国の存亡がその分厚い肩の上にずっしりとのしかかっているの
だ。
まともな人間ならば尻ごみして動けなくなるのが関の山だろう。
だが、そんな自分の心の中に、戦うと言う事に対しての飢えた渇
望が混じっている事を男は知らない。自らの力を存分に見せつける
機会を得た事に対しての喜びが混じっている事を知らない。
︵大丈夫だ⋮⋮きっと上手く行く⋮⋮あの時と本質は何も変わらな
い︶
唇が緊張と興奮でからからに乾く。
何年も前に過ぎ去った筈の子供の頃の情景が脳裏に浮かんだ。
自分の居場所と誇りを守る為に必死だったあの頃を⋮⋮
﹁行くぞ!﹂
男の言葉に周囲は無言のまま頷く。
アデルフォの町からノティス砦へと続く街道を、その一団はゆっ
くりと進んでいった。
無数の馬と馬車の車輪の音。
闇夜の中で松明の明かりに照らされ、銀色の鎧が煌く。
それは冥府からの死を告げに訪れた使者の群れ⋮⋮
舞台はオルトメア帝国とザルーダ王国の国境線に程近いノティス
平原。ザルーダ王国の守護神と呼ばれたベルハレス将軍が玉砕した
この始まりの土地へと戻る。
﹁ようやく次の輸送部隊が着いたか⋮⋮護衛部隊は二千か⋮⋮うむ、
何はともあれこれで一息つけそうだな⋮⋮﹂
堅牢なノティス砦の一角に設けられた無骨な執務室。
深いため息と共に、ノティス砦の守備隊長であり後方支援の責
1474
任者であるグレッグ・ムーアは口から紫煙をゆっくりと立ち上らせ
た。
中央大陸産の最高級品である葉巻の味が、苛立つ心を落ち着かせ
ていく。
﹁はい、帝都に集められた武具や食料を運んで来たとの事です﹂
ムーアは手にしていた葉巻を灰皿の上に置くと、側近から差し出
された書類を受け取った。
確かに、オルトメア帝国の印が押された正式なものだ。
﹁なるほど⋮⋮しかし、予定されていた数より多いようだな?﹂
﹁はい⋮⋮恐らく襲撃を受ける事を前提にしているのではないかと
⋮⋮﹂ その言葉を聞き、ムーアのこめかみがピクリと動いた。
﹁ジョシュア・ベルハレスか⋮⋮﹂
金髪を短く刈り込んいかめしい顔だ。
がっしりとした体格。
そして、体から発せられる長い間戦場を生き抜いてきた人間の放
つ特有の匂い。
左の頬に走る裂傷の痕が他人へ重苦しい威圧感を感じさせる。
年齢によるものか多少腹が出て来てはいるが、戦士としての力量
は疑うべくもない。
そんな戦士として一流以上の力量を持ちながら、彼がこのノティ
ス砦の守備隊長と後方支援の責任者に任じられているのには当然理
由がある。
1475
ムーアの大きな手が無意識に右足の太腿をさすった。
ノティス平原の戦いにおいてザルーダ騎士達と戦い受けた傷。
馬の蹄鉄に踏みつぶされた結果切断を余儀なくされ、本来なら既
に失ったはずの足だ。
高価な秘薬を湯水の様に使い、高位の法術師による手厚い治療の
結果ようやく再生した足だが、やはり以前とは多少違和感を感じて
いる。
日常生活には何ら支障はない。
だが、鎧を身に着け愛用の大剣を振るうとどうしても足の踏ん張
りが利かない様な気がした。
武法術の使えない雑兵相手ならば何の問題もないだろう。法術が
使えるかどうかの差はそれほどまでに大きいから。
法術を会得した直後の若手の騎士が相手でも問題はない。自らの
力量を見極められない勘違いした戦士など、ムーアの目から見れば
雑兵と大差はないのだから。
だが、武法術を会得し幾多の戦場を生き抜いた歴戦の戦士を相手
するには不足だ。
それはほんの小さな違和感。
しかし、その小さな違和感が戦場では命取りとなるのだ。
︵この足さえまともなら⋮⋮俺自らが前線へ出向いて、殿下と共に
叩き潰してやるものを⋮⋮︶ 後方守備という任務を決してけなすつもりも侮るつもりもないが、
長く前線に出て敵を屠って来たムーアにとって歯がゆい事には変わ
りなかった。
壁に立て掛けられている愛用の大剣をチラリと視線を向ける。
﹁忌々しい害虫よ⋮⋮勝敗が既に見えていながら未だに足掻くとは
な⋮⋮親子揃って腹立たしい奴らだ。我がオルトメアの偉業を阻も
うとするなど⋮⋮まぁ、良い。これでようやく殿下のご機嫌を宥め
る事が出来るだろう﹂
1476
長引く戦況。
最前線がウシャス盆地に釘付けとなっている事は伝え聞いている。
前線に立てない苛立ちからムーアは忌々しげに吐き捨てた。
﹁ザルーダ側へ向かわせた輸送部隊も敵の攻撃によってかなり被害
を出しておりましたから、殿下のお怒りは当然と言えば当然ですが
⋮⋮﹂
ザルーダ側が焦土作戦を選択した結果、現地での物資調達は困難
を極めていた。
そして、いくら兵数に大きな差をつけようと、食糧や替えの武具
がなければその真価は発揮出来ないのだ。
﹁このところ、シャルディナ殿下から矢の様な催促が来ていたが、
これでようやく私の面目も保てそうだな⋮⋮﹂
無論、全てを奪われている訳ではないが散発する奇襲を警戒する
為に、輸送部隊の速度は極端に低下している上、物資にも少なくな
い損害が出ていた。
その最大の理由は、ザルーダ側が物資を持ち帰ろうとはしなかっ
た事に尽きるだろう。
一切躊躇う事なく、積み荷へ火を放ち岩で押し潰すのだ。
収奪すれば自軍にとっても決して不利にはならないはずなのに、
一切の色気を出さない。
山々の間を縫う様に切り開かれた細い街道という地の利を生かし、
自らが最も効率良く襲う事の出来るポイントで奇襲を仕掛けてくる。
奇襲を警戒すれば警護部隊の兵数を増やさなければならないし、
輸送速度は低下する。
逆に速度を重視すれば、運ぶ物資の量や警護の兵数はどうしても
1477
限られてしまう。 ﹁まぁ、それもどうやら終わりの様だな﹂
ムーアが唇を吊り上げ笑う姿を見ながら側近は無言のまま頷く。
前線からは、シャルディナがついにウシャス砦に対して総攻撃を
かける決断をしたと言う情報がもたらされている。
﹁はい⋮⋮後は、この物資を前線へ運ぶだけです。まぁ、今回来た
連中に二千ほど警護の兵をつけてやれば十分でしょう﹂
ザルーダの山岳地帯を跳梁するジョシュア率いる奇襲部隊は、数
百から多くても一千程と見積もられている。
軽快な機動力を維持する為にはそれくらいの兵を指揮するのが精
いっぱいだからだ。
﹁うむ、四千近くの兵力ならば、あの忌々しい若造もそう簡単には
手が出せまい。問題は砦の守備兵の数が一時的とは言えかなり落ち
込む事か⋮⋮﹂
側近の言葉を聞きムーアが顎鬚に手をあてながら考え込む。
当初は五千を数えたノティス砦の守備兵も、今は二千五百を少し
超えるかどうかというところまで低下していた。
そこから二千も警護につけるとなればノティス砦の兵は五百近く
まで低下する事になる。
盗賊の襲撃などには十分に対応できるであろうが、幾らオルトメ
ア国内とは言え重要拠点を守る数としては非常に心もとない。
﹁派遣した部隊の帰還を待つと言うのはどうでしょうか?﹂
1478
﹁いや、前線のひっ迫具合を考えるとなるべく早く届けた方がいい
だろう﹂
引出しから取り出した命令書を見ながらムーアが側近の問いに首
を振る。
総攻撃を掛けようと言うシャルディナの意志を邪魔する訳にはい
かない。 そのムーアの表情から決意を読み取り、側近は小さく頷く。
﹁では私は準備がございますので、これで失礼します﹂
側近が一礼して執務室を後にする。
その後ろ姿を見ながら、ムーアは小さく呟いた。 ﹁もう少しだ⋮⋮この戦が終われば全ては元通りになる⋮⋮﹂
大国ではあるが、その支配基盤は他国に比べて脆い。
そして今、オルトメア帝国の支配は大きく揺らいできていると言
って良いだろう。
その最大の理由は、ザルーダ侵攻に伴いオルトメア帝国国内にお
ける国内警備に空洞化が生じた結果だ。
短期決戦を想定していたシャルディナは国内各地よりかなりの数
の兵を引き抜いている。
特に、小さな農村や戦略上あまり重要視されない小都市部などか
らは最低限の治安維持部隊のみを残してという場合もかなりの数に
のぼる。
四方を敵国に囲まれたオルトメアにとって国境守備隊から引き抜
く事が事実上不可能であった為、致し方ない判断ではあるが、その
結果としてオルトメア国内の治安は極端に悪化していた。
特に、主要な街道から少し外れた町や村では盗賊の被害がかなり
1479
多発している。 別にムーアは平民を甘やかそうと言う訳ではない。
支配者の義務などという高尚な使命感からでもない。
この大地世界において大切なのは国家であり個人ではないのだ。
ましてや、平民の命など塵芥の様に扱われている。
しかし、治安の低下は侵略国家であるオルトメア帝国にとって決
して放置していて良い問題ではない。
価値がないとは言いつつも、平民を完全に無視する様な政策をと
る事は難しい。
治安が悪化するという事は、国の威信に傷がつくという事であり、
平民はオルトメア帝国の支配に疑問を持ち始めるだろう。
心の中では平民を塵芥の様に思ってはいても、実際に反乱を起こ
されればそれはそれで困った事になる。
一度反乱が起これば、不満が連鎖し収集がつかなくなる可能性が
あるからだ。
そして、税収や交易にも大きな影響が出るだろう。
ザルーダ王国攻略が道半ばな今、国内情勢が悪化すれば侵攻軍は
敵地で孤立しかねなかった。
︵今、平民の不満を爆発させては不味い。生かさず殺さずが最善⋮
⋮︶
武人でありながらその事を認識しているムーアは、オルトメア帝
国の中でも得難い人材と言って良いだろう。
広大な国土を誇るオルトメア帝国には。強いだけの人間ならばム
ーアに比肩する人間は幾らでもいた。
ムーアよりも学があり智謀に長けた人間も多いだろう。
だが、その両方を高い水準で両立出来ている人間は少ない。
つい先日も、アデルフォ近郊の村々が大規模な盗賊団の襲撃を受
け甚大な被害を出していた。
その後始末をする為に、ムーアは帝都オルトメアへ治安維持の為
の部隊を派遣するように打診していたし、守備隊からかなりの人数
1480
を割いて各地の治安回復に派遣している。
物資の輸送部隊を安全に行き来させる為にも治安回復は最優先と
言って良かったからだ。
﹁シャルディナ殿下⋮⋮もうしばらくご辛抱下さい⋮⋮﹂
窓の外に広がる満天の星空へと目を向けながら、ムーアは遥か彼
方で戦うシャルディナへ祈るように呟いた。
それはオルトメア帝国に忠誠をつくす騎士として正しい姿ではあ
るだろう。
しかし、だからこそグレッグ・ムーアは気がつかなかった。
自らの背後に忍び寄る死神の姿に⋮⋮
1481
第4章第32話︻収穫の時︼其の2
﹁ふむ⋮⋮﹂
小さな呟きの筈がやけに大きく部屋に響いた。
ノティス砦の中心にそびえる中央塔。
その最上階の一角に設けられた寝室のベッドの上に横たわり一人
の男が宙を見つめていた。
幾度このため息にも似た呟きを漏らしたのだろう。
﹁うぅむ⋮⋮﹂
再びムーアが寝返りを打つ。
目を閉じ羽毛の枕に顔を埋めるが、また直ぐに仰向けに戻る。
一体どれくらいの時間こうしていたのだろうか⋮⋮
窓の外に広がる闇はその濃さを少しずつ薄め様としている。後三
十分も経たずに、地平線から朝日が顔を出す頃だろう。
︵眠れん⋮⋮な︶
ベッドに横になった時間は普段と大して変わらなかったはずだ。
つまりムーアは何時間も眠れぬままベッドに横たわっていた事に
なる。
何かが己の体の中を蠢く様な感覚。
実にもどかしく、何とも言えない思いがムーアの心を揺さぶって
いた。
戦場において、眠れる時に眠る事と、眠りから目覚めへの切り替
え。この二つは自分の命を守る上で最も大切な心得である。
人は必ず眠らなければならない。
しかしその一方で、いつ何時敵が攻めてくるか分からない戦場で
1482
は十分な睡眠を取れる筈がなかった。
それ故に眠れる時に眠り体を休める事と、敵の来襲時には素早く
意識を鮮明にする事は戦士として身に付いていて当然の習慣と言っ
てよい。
だが、今のムーアはどうしても眠れなかった。
︵諦めて起きるとするか⋮⋮︶
ベッドに起き上がり、枕元に置いてある呼び鈴を鳴らした。
﹁失礼いたします⋮⋮何かご用でしょうか?﹂
次の間に控えていた警備兼小姓に水を持ってくる様に命じる。
︵ふむ⋮⋮美味い︶
水差しから水をコップへ注ぐ口下へと運ぶと、程良く冷えた水が
喉を滑り落ちムーアの体の渇きを癒やしていく。
思った以上に悶々とした思いが体を蝕んでいたらしい。
そうして一息つくと、ムーアは再びベッドの上に横たわった。
今度は眠る為ではない。
︵分からん⋮⋮一体どうしたというのだ?︶ ムーアの持つ武人としての勘がしきりに警鐘を鳴らしている様な
気がする。
強いて言えば、戦場で夜襲を受ける時に感じる感覚に似ているだ
ろう。
背筋を虫が這う様な何とも言えないムズムズとした感触。
しかし、ムーアが居るここはオルトメア帝国の国内。しかも、強
固な石壁と数千の兵に守られる鉄壁の要塞の中であって、最前線の
野営地ではない。
仮にノティス平原の西端に建設されたこの砦が敵襲を受けるとな
れば東部方面、つまりザルーダ王国側からの可能性が一番高いがそ
れはつまり、ザルーダ遠征中であるシャルディナ率いる遠征軍が敗
れた時だけの筈だ。
1483
しかし、ムーアの下には未だに敗戦の報は届いていない。
仮に遠征軍が敗れたとなればそれはオルトメア帝国の存亡に関わ
る大事となる。
いかなる犠牲を払おうと絶対にムーアの下へ報告が届けられない
と言う事はない筈だ。
﹁やはり気の⋮⋮いや⋮⋮﹂
そう言い掛けてムーアは小さく首を振るとベッドから降りた。そ
して、壁に立てかけてある愛用の大剣を握る。
合理的に考えればムーアの胸騒ぎはただの気の迷いに過ぎないだ
ろう。
だが、勘とは事実の積み重ねと己の経験則から出た答えだ。
結局は自分自身を信じられるかどうかという事に尽きる。
︵俺が生き残ってきたのは自分の勘を信じてきたからだ︶
独特の複雑な文様が刻まれた鋼の刀身。
最高級の鍛冶が鍛えぬいた品に、最上級の術師が付与法術の法印
を刻み込んだ名剣。
数多の戦場をムーアを共に潜り抜けたまさに己の分身と言って良
い。
峻烈な輝きが顔を照らし、手に握った冷たい柄の感触がムーアの
心を鎮めていった。
そして、その武人の勘は決して間違ってはいなかったのである。
今まさに、彼の背後から飢えた狼の群れがその牙を剥き襲いかか
ろうとして居たのだから⋮⋮
砦の中庭に無数の人影が蠢いていた。
彼等の前には、砦の中庭に停められた荷車が長い列を作っている。
夜も大分遅い刻限での入城であった事と、どうせ翌朝直ぐにでも
1484
物資輸送の為にザルーダへ向けて出発するという事で、砦の倉庫へ
運び込まれる事なく放置されていた。
無論それは、夜半にノティス砦へ着く様に亮真が調整した結果だ。
︵馬鹿が⋮⋮︶
確かに効率的な選択だとは思う。
直ぐに砦から運び出される事が分かっていて、態々夜更けに積み
荷の出し入れをしたいと思う人間は居ないだろう。
だが、その一手間を惜しんだ結果、ノティス砦は大きな代償を支
払う事になった。
きちんと荷馬車の積み荷を確認すれば、提出した書類と実際の積
み荷に大きな差がある事に気がつくことが出来た筈だから⋮⋮
目の前の光景に亮真は唇と吊り上げて笑う。
﹁始めろ﹂
亮真が手を前方に向かって振る。
その合図に従い、オルトメア帝国の鎧を着込んだエルネスグーラ
の騎士達が砦の内部へと一斉に散らばる。
彼等が手にしているのは大量の油。
如何に堅牢な石造りの砦であろうと、一旦内部から火が出てしま
えば延焼は免れない。
全てを石材のみで作る事は不可能なのだ。
﹁さぁて、こちらの思惑通りに踊ってくれよ⋮⋮﹂
祈る様な小さな呟きが亮真の唇から洩れる。
早朝は深夜と並んで、人の警戒心が落ち不意打ちをするのに都合
の良い時間だ。
夜襲を警戒して徹夜した警備の兵達も疲労から注意力も集中力も
落ちる。
1485
いかにノティス砦が頑強な防御力を誇ろうが、内部から食い破ら
れれば意味はない。
やがて、静かに夜明けの時を待っていたノティス砦は混乱の渦へ
と叩きこまれた。
﹁火だ! 火が出たぞ!﹂
﹁消せ! 水だ、水を汲んでこい!﹂
初めは小さなざわめきが、次第に大きくなっていく。
﹁敵襲だ! ザルーダ側の敵襲だぞ!﹂
﹁違う。落ち着け。部隊毎に集まって命を待て!﹂
﹁馬鹿な! このまま火にまかれて死にたいのか! 早く水を持っ
てくるんだ﹂
燃え盛る火が人の恐怖を煽り、黒煙が視界を妨げる。
火事の恐ろしさ。その本質はたとえここが異世界だろうと何も変
わりはしない。
そこかしこから次々に迸る怒号。
情報が錯綜し、誰も真実を把握する事が出来ない。
誰もが思い思いの事を口走っていた。
そして、更にオルトメア兵に扮したエルネスグーラの騎士達が次
々に出鱈目な流言をまき散らす事で指揮系統の混乱を助長していく。
﹁頃合いだな⋮⋮サーラ、ローラ。それぞれ五百を率いて物資の貯
蔵庫を重点的に火を付けろ。今なら警備の目も緩んでいるはずだ﹂
1486
﹁﹁はい﹂﹂
砦内に建てられた兵舎や監視塔などを初めに燃やし、オルトメア
側が混乱したところで物資の貯蔵庫へ火を掛ける。
それが当初からの計画だった。 まぐさ
﹁良いか、油も火種用の秣もたっぷりあるんだ。思いっきり派手に
やれ! この砦を丸焼けにしろ﹂ 亮真の言葉に小さく頷くと、サーラとローラが己の兵を率いて走
り出した。
事前に砦の構造を把握している二人に迷いの色はない。
﹁さてと、俺もそろそろ動きますか⋮⋮﹂
走り去るマルフィスト姉妹の後ろ姿を見つめながら、亮真は腰に
吊るしていた剣を鞘から抜いた。
﹁行くぞ。片っぱしから斬りまくれ! 捕虜など必要ない。皆殺し
だ!﹂
﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉおおおお!﹂﹂﹂
その叫びに背後に従うエルネスグーラの騎士達から雄叫びが上が
った。
﹁火事だと?﹂
地の底から響く様な低い声が部屋に飛び込んできた側近の顔を打
1487
つ。
寝まきから鎧に着替え、既に臨戦態勢を整えていたムーアの姿に
驚きつつも側近は言葉を続けた。
﹁はっ! 西塔東塔を始め砦内の各棟から一斉に火が出ております﹂
﹁何だと⋮⋮?﹂
荒い息を整える間もなく叫ぶ側近の報告にムーアは眉を顰める。
﹁どういう事だ。警備の兵は何をしていた?﹂
﹁分かりません。あっという間の出来事で⋮⋮今、各部隊が懸命に
消火しておりますが⋮⋮とても手が⋮⋮﹂
側近の言葉に黙り込むムーア。彼の脳が事実を積み重ねて行きや
がて一つの仮定を導き出す。
そして、昨晩から感じていた違和感がムーアの中で明確な確信と
なった。 落ち着いて考えれば不自然な点は幾らでもあったのだ。
︵しまった⋮⋮連中はやはりザルーダの⋮⋮ならば、狙いは俺の首
か? いや、不味い。連中の狙いがあれなら、ザルーダ遠征はとん
挫してしまう。最悪シャルディナ殿下も⋮⋮︶
確かに、消火活動は最優先ではある、
だが、明らかにこの火事は誰かに仕組まれたものだ。
決して、ありきたりな火の不始末などではない。
そして真の狙いは⋮⋮
﹁馬鹿者が! 持ち場を離れる奴があるか﹂
1488
鋭い舌打ち。ムーアはわき目も降らずに駆け出した。
︵まだ何とかなる⋮⋮今ならまだ⋮⋮︶
混乱した指揮系統を鎮静化させ、ムーアが効率良く命令を出さば
まだ形勢を覆す事が可能な筈だ。
ただし、その為にはムーア自身が陣頭指揮をとる必要がある。
己の姿を兵達に見せ鼓舞しなければならないのだ。 ﹁し、しかし⋮⋮これは一体どうなって⋮⋮﹂
慌ただしく寝室を飛び出したムーアの背中を側近は必死で追いか
けた。
その後には警護として中央塔に詰めていた数十人程の兵士が続く。
階段を必死の形相で駆け降りるムーア。
甲高い鎧の金属音が砦の中に木霊する。
だが、中央塔の一階まで駆けおり扉から中庭へ出ようとしたムー
アの前に無数の人影が立塞がった。
﹁何だお前達は! ムーア隊長の前を遮るとは一体何を考えている
!﹂
側近が声を荒らげたのも無理はない。
身分の隔たりが激しい大地世界の事だ。
上級騎士でありノティス砦の守備隊長を任せられているムーアの
前に立ちはだかり、行く手を遮る様な人間などこの場には存在しな
い。
状況が状況なので本気で咎めるつもりはないが、秩序の回復を周
囲に見せつけるには丁度良い生贄といえ言えた。
﹁貴様、何処の部隊の者だ。名を名乗れ!﹂
1489
行く手を遮っていた人壁が左右に分かれ一人の男が前へと進み出
る。
その堂々とした足取りにかすかな違和感を感じながらも、側近は
声を張り上げた。
﹁兜を取れ! 顔を見せろ!﹂
無警戒のまま男へ向って足早に近寄る側近。
﹁待て! そいつから離れろ!﹂
﹁えっ?﹂
ムーアの叫びが砦に中に木霊する。
そして、思わず後ろを振り向いた側近の腹に何か冷たいものが刺
し込まれた。
それは散々腹の中身をかき回しながら外に向かって出ていく。
﹁う⋮⋮うぅ⋮⋮ゲボッ﹂
喉の奥から鉄の味がするドロリとした何かが込み上げてくる。
戦場で幾度となく味わった懐かしい味だ。
﹁何⋮⋮故だ⋮⋮﹂
目の前の男の手に握られている血塗られた短剣を見つめる側近。
瞳から次第に光が失われていく。彼には最後まで己がなぜ殺され
たのかその理由が分からなかった。
1490
﹁やはり、そう言う事だったか⋮⋮貴様、ザルーダの手の者だな﹂
その言葉にムーアの背後に控えていた兵士達が一斉に剣を抜いた。
目の前で繰り広げられる展開についていけず茫然としていた彼等
をムーアの言葉が現実へと引き戻したのだ。
﹁名を聞いておこうか⋮⋮﹂
底冷えのする声。
限界まで研ぎ澄まされた殺意がムーアの体から放出される。
﹁えぇ、良いでしょう﹂
そう言うと、男は被っていた兜を脱ぎ顔を曝す。
人の良さそうな男くさい顔だ。
魅力がない訳ではないが、好みの分かれるところだろう。
﹁お初にお目にかかります。ローゼリア王国ウォルテニア半島領主、
御子柴亮真と申します。どうぞ、よしなに﹂
朗らかでまるで太陽の様な屈託のない笑み。
そして、敵を目の前にしていながら丁寧に頭を下げる。 だが、その人の良さそうな柔らかな笑みが、今のムーアには恐ろ
しかった。 まるで人の形をしていながら人ではない、何か得体のしれない物
を目にしたような気がして⋮⋮
1491
第4章第33話︻収穫の時︼其の3
中央塔一階に設えられた大広間。
両者が睨みあいを続ける中、鎧のぶつかり合うカチャカチャと言
う音が響く。
周囲から聞こえてくる荒い息遣いは、自分達を半円状に取り囲む
十倍以上の敵兵に対しての恐怖からだろうか。いや、目の前で悠然
と立つ男の放つ何かを感じているのだ。
︵そうか⋮⋮この男がガイエス様を⋮⋮︶
ムーアは目の前で薄ら笑いを浮かべる男の顔を見つめた。
一見、体格の良い何処にでもいそうな青年だ。
人の良さそうな笑顔。
だが、その瞳の奥底に隠された剣呑な光をムーアは確かに見た。
それはオルトメア帝国というものに対しての憎悪。
︵擬態か。なるほど⋮⋮確かにこいつは我が国にとって危険だ⋮⋮︶
御子柴亮真に対しての噂話をムーアは今まで幾度となく聞いてい
る。
一番危険な獣とは、自らの牙を意図的に隠す獣。
その上、この獣には毒がある。智謀という名の毒が⋮⋮
︵こいつの噂は嫌となるほど聞いている。慎重で抜け目ない男だ。
そんな奴が幾ら有利とはいえ、自ら前線に立つなど⋮⋮︶
ムーアは傍らに立つ側近へ小さく目配せして、顎で階段を上がる
様に指示する。
それは本当に小さなサインだったが、長年の付き合いからその側
近はムーアの伝えたい事を正確に理解した様だ。
数人の兵を引き連れ側近の一人が塔の階段を足早に掛け上がって
行く。
︵これで良い⋮⋮時間さえ稼げれば最悪は防げる筈だ︶
1492
この中央塔の書庫には、決して敵に渡す訳にはいかない様々な物
が保管されている。
側近の後ろ姿を横目にムーアは小さく頷くと、視線を目の前で笑
みを浮かべたまま動こうとしない亮真へと向けた。
︵余裕か⋮⋮それとも何か狙いがあって動かないのか? まぁ良い。
時間を稼ぎたいのはこちらも同じだ︶
なにしろオルトメア帝国と言えば、西方大陸中央部の覇者として
海を隔てた他の大陸にまでその名を轟かせている。そんな巨大な帝
国から逃げ切った、ただ一人の男。奴隷以下とすら言える異世界人
の分際で、オルトメア帝国を支える柱の一人であった首席宮廷法術
師ガイエス・ウォークランドを殺害し、帝国の面子を潰した逃亡者。
表向き、ガイエスの死は事故死という事で処理されている。
一国の重臣が皇帝の住まう城の中で殺され、犯人が国外逃亡した
など、とても公に出来る筈もなかった。
絶対的な権力を持つ皇帝の命令の下、閉鎖的な城の中での出来事
だった事も功を奏した結果、オルトメア帝国はなんとか面子を取り
繕う事が出来た。だが、真実とは隠そうとすればするほど漏れやす
いものだ。
一般の国民までには伝わっていなくても、国の仕事に携わる人間
ならば一度や二度は噂を耳にしていて当然だった。国の面子を重ん
じ決して声高には語られないが、御子柴亮真はオルトメア帝国にと
って仇敵とも言えた。
しかし、周囲の様子を素早く見まわし、ムーアは鋭い舌打ちをし
た。
︵だが、不味いな⋮⋮皆この男の雰囲気に呑み込まれている︶
帝国を窮地へと追いやった男を憎んでいない訳ではないのだろう。
しかしその一方、でムーアの周りを固める騎士達からは、称賛と
も恐怖ともつかないざわめきが生まれていた。
単純に考えればオルトメアの騎士達にとって御子柴亮真は憎ん
でも憎み切れない敵でしかない。
1493
ここ最近のオルトメア帝国の苦戦。それが軍師役であった筆頭宮
廷法術師であるガイエス・ウォークランドの死によって始まってい
るとしたら⋮⋮
その全ての元凶はこの目の前に立っている男と言っても過言では
ない。
しかし武人として、一人の男として、心のどこかで御子柴亮真と
言う人間を認めてもいた。
何しろ、己の身一つで警備の厳重な帝都オルトメアを脱出し、た
び重なるシャルディナの追撃を振り切り国外へ逃亡してのけたのだ。
国家と個人。彼我の力の差は比べるまでもないだろう。
天地以上の隔たりが両者の前に横たわっている。それにも関らず、
目の前の男はオルトメアの牙を潜り抜けて見せたのだ。
その功績と実力は、敵であるオルトメアの騎士達から見ても認め
ない訳にはいかない。
人は自分にない物を持つ人間に憧れを抱く。
たとえ敵味方に分かれていようとも⋮⋮
︵仕方がない、ここは少し時間を稼ぐ事に専念するしかないな⋮⋮︶
最悪よりはほんの少しだけマシと言うだけの選択。
だが、今のムーアにはそれ以外に選べる道はない。
周囲の反応を予想していながらも、ムーアは重苦しい口を開いた。
﹁なるほど⋮⋮噂に違わぬ面白い男だな。前線に我が国の注意を惹
きつけ、こちらの食糧庫を焼き討ちし戦わずして遠征軍を崩壊させ
るか⋮⋮﹂
なるべく余裕を見せる為に落ち着いた口ぶりを心がけたが、所詮
無駄な悪足掻きだったらしい。その言葉に、周囲の視線が一斉にム
ーアへと注がれる。
眉一つ動かさず、相変わらず悠然と笑みを浮かべているのは目の
1494
前に立つ亮真だけだ。
その態度が、ムーアの予想が正しかった事を示唆している。
︵無理もない。俺ですらこの状態になるまで気がつかなかったのだ︶
予想外の言葉に絶句する側近達の視線感じながら、ムーアは折れ
そうになる自らの戦意を必死で保とうとする。
予想はついていた。だが、それを言葉にした途端、それは重圧と
なってムーアの体を締め付ける。
大軍を用い、ザルーダ王国の領土を一方的に侵略していたと思っ
ていたのだ。それが一瞬でひっくり変えされたのだ。
兵士達が動揺するのも当然と言える。
圧倒的に有利だと思われていた自分達が、実は薄い氷の上ではし
ゃいでいる愚か者に思えた。
︵何と言う男だ。全て計算されているのか⋮⋮まてよ、そうなると、
近隣の村や町を襲ったと言う盗賊団⋮⋮あれもこの男の差し金か?︶
ムーアの中で少しずつパズルのピースが組み合わさり、一つの形
を描き出していった。
そもそも、ノティス砦の周辺に点在する町や村が一斉に襲われ、
救援部隊を差し向け兵力の低下したタイミングをつかれるなど、あ
まりにもムーアにとって不利に傾きすぎている。
これを偶然と思えという方が無理だろう。
︵だが、一体どうやって国内に侵入した? ザルーダやエルネスグ
ーラに接する国境線は特に厳重な監視をしていた筈だ⋮⋮いや待て
よ⋮⋮まさかこいつ︶
ムーアがたどり着いた可能性はただ一つ。しかし、それは過酷な
道だ。
現実問題として、ザルーダからエルネスグーラまでの広大な国境
線を完全に監視出来る筈はない。
衛星からの監視も無線機も大地世界にはないのだ。
街と街を繋ぐ街道は西方大陸を縦横に張り巡らされ、その管理も
明確になっている。
1495
しかし、街道から離れた辺境と呼ばれる深い森や険しい山岳など
の無人地帯では、国境線と言っても扱いは非常に曖昧なものだ。
地図上では国境線を引いていても、実際に監視者がいる訳ではな
い。
あくまでも街道の要所や都市を起点とした監視に過ぎなかった。
だから、街道を避け未開の地である森林地帯や山々を超えれば理
論上、何処の国へも侵入する事が出来る。 実際、冒険者や傭兵とい言った戦いを生業とする人間や、盗賊な
どの裏社会に属する人間が街道を避けて森超えや山超えを行う事は
珍しい事ではない。
しかし、軍を動かすとなれば話は全く変わってくる。
補給の問題に始まり、行軍速度の問題。そして何より、いくら危
険を冒しても一軍がまとまって動くとなればどうしても、その動き
は潜入している間者達に察知されてしまう。
その危険性は、軍の規模が大きくなればなるほど増加していくだ
ろう。
だが、獰猛な怪物が蔓延る辺境を安全に通り抜けるとなれば兵数
を増やしていくしかない。 その上、地図に関しても決して現代で使われるような精巧なもの
ではない。
測量技術そのものが国家の管理となっており、国内の地理は軍
の機密情報として扱われる。
そんな状況で、辺境や敵国の詳細な地理が書かれた地図など有る
筈もなかった。
安全をとれば兵数を増やす必要があり、行動を読まれまいとすれ
ば兵数を抑えるしかなくなる。相反する二つの条件。
だからこそ、大地世界では長い歴史の中で幾度か実施されはした
ものの、戦術の一つというよりは博打や奇跡として考えられてきた
訳だ。
だが、今ここにその奇跡が再現されたのだ。オルトメア帝国にと
1496
って最悪な状況下で⋮⋮
﹁全ては貴様の策だな⋮⋮﹂
﹁えぇ、かなり苦労しましたがね﹂
ムーアの問いに亮真は肩を竦めて答えた。
短い言葉だったが、ムーアの言いたい事は手に取るように分かる。
﹁盗賊団の襲撃はノティス砦を中心にしてかなり広範囲に散らばっ
ていた。細かく分けた少人数の部隊で国境を超えさせ、村や町を襲
撃しながら合流したという訳だな﹂
﹁えぇ、エルネスグーラとザルーダの騎士、そしてベルハレス将軍
が作られた私兵団の中から、辺境の地理に強く腕の立つ人間を厳選
しましたからね。かなり博打に近かったんですが上手くいきました﹂
﹁ベルハレスの私兵? 紅月団の事か⋮⋮﹂
今は亡きベルハレス将軍が作った私略部隊。
元盗賊を集めただけあり、彼等は凶悪で情け容赦がない。
その名はオルトメア帝国の東部に住む住民達に蛇蝎の如く嫌悪さ
れ憎まれていた。
﹁どうやら最初から彼等にはオルトメア領内の地形を把握するよう
に命令が出ていた様ですね。今回はそれを有効活用させてもらいま
した﹂
﹁勝つ事が全てだと⋮⋮そう言うつもりか?﹂
1497
﹁えぇ、たとえ犯罪者でも利用価値があれば使いますよ。勝つ為に
⋮⋮ね﹂
そう言って亮真は穏やかな笑みを浮かべる。
実際、帝都よりの脱出行の途中で彼等と刃を交えている亮真自身
も、紅月団の面々が非常に凶悪な犯罪者である事を理解していた。
ローラやサーラなどは亮真が助けなければ、その純潔を無残に奪
われていただろう。
亮真の持つ正義感とは正反対の人間達。
好きか嫌いかだけで言えば、亮真は彼等が嫌いだった。それこそ
皆殺しにしたい程に⋮⋮
しかし亮真には、それにこだわり勝機を逃すつもりはなかった。
︵何と言う男だ⋮⋮こいつは、一体なんなのだ?︶
別に連中の行いを全て水に流し許す必要はない。
ただ、連中の力が必要な間だけ我慢するだけだ。
そんな思いを亮真の目から察し、ムーアは思わず息を飲んだ。
それは戦士や騎士の考えではない。正にそれは老練な政治家や外
交官の考え方。
その鋼の様な意志を前にムーアは恐怖を感じた。
︵こいつを生かしておくことは出来ん⋮⋮この男は我が国にとって
あまりに危険だ︶
この不利な状況下であっても、ムーア一人ならば切り抜けられる
可能性は残されていた。
ムーアの実力と手に握りしめた法剣を最大限に発揮し、周りを守
る部下達の命を犠牲とすれば⋮⋮だ。
だが、ムーアは逃げる事よりも戦う事を選ぶ。
︵時間は十分に稼いだ⋮⋮後はケリをつけるのみ︶
﹁俺と一騎打ちをしろ! 御子柴!﹂
1498
唐突な言葉。
この場の誰もが驚きの視線をムーアへ向けた。
しかし、亮真が絶対に断らないと言う確証がムーアにはあった。 この申し出を拒むくらいならば、最初からこの場に姿を現すはず
がないのだ。
︵何を企んでいようが関係ない︶
戦意がムーアの体を掛けめぐり、闘志が折れかけた心を奮い立た
せる。
全身の筋肉が膨らみ、血が沸き立つ。
プラーナ
会陰のチャクラ、ムーラダーラが高速で回転を始める。
それは荒れ狂う生気の流れ。
ムーアは静かに息を整え、生気の流れをコントロールしていく。
そしてムーアの意思に従って、第二、第三のチャクラであるスワ
ーディシュターナとマニプーラの二つがゆっくりと動き始める。
︵準備は出来た⋮⋮たとえ刺し違えようとも⋮⋮貴様はここで殺す
!︶
手に握る愛剣がムーアの意志に従い、刀身に刻み込まれた文様が
青白き光を放ち始めた。
1499
第4章第34話︻収穫の時︼其の4
黒煙をまき散らしながら盛大に燃え上がる食糧倉。その中に納め
られた兵糧の燃える焦げた臭いが辺りに充満している。
周囲から響く剣戟の打ち合う音と怒号。
そして、無数の悲鳴と苦痛。
それは、おびただしい死者を産み出す殺戮劇だ。
そんな戦場の中で身じろぎ一つせずに立ち尽くすローラの視線は、
ただジッと火の明りに赤に染められた中央塔へと注がれていた。
﹁お姉様。こちらは?﹂
無数の鎧が打ち合うガチャガチャと言う音と共に、背後から鈴の
鳴る様な声が掛けられた。
戦場には似つかわしくない美声だ。
その言葉に、ローラは後ろを振り返る事なく答える。
﹁えぇ、問題ないわ。亮真様がムーアを足止めしてくださっている
御蔭で倉庫の方は順調に燃えている。今更消火活動を始めてもこの
火の勢いを止める事は不可能でしょう⋮⋮たとえムーアの持つ水を
操るという法剣の力を使ったとしてもね⋮⋮﹂
目の前に立ち並ぶ倉庫からは盛大な火の粉が飛び散っている。
今回持ち込んだ輸送物資の中には大量の油を惜しみなく使かった
結果だ。
初期の段階ならばいざ知らず、ここまで燃え広がれば最早人の手
で止める事など出来ないだろう。
勿論、砦の守備隊長であるムーアが自ら陣頭指揮を執ればほんの
1500
僅かに可能性があるが、亮真に足止めされている現状では望むべく
もない仮定でしかない。
﹁そっちの首尾は?﹂
﹁こちらも特に問題はありません。連中は私達を味方だと信じ込ん
でいましたから⋮⋮突然の火事で指揮系統も混乱していますし、オ
ルトメア兵を始末するのは簡単でしたよ﹂
﹁そぅ、どうやら怪我もない様ね⋮⋮貴女が無事で良かった﹂
血に濡れた鉄の剣を握りしめながら答えるサーラに視線を向ける
事なく、ローラは小さく頷いた。
確かに声の感じから状況を把握する事は出来る。
だが、本当に心配ならばもっと違った態度を現しても良い筈だ。
しかし、そんな姉の態度に怒りを露わにする事もなくサーラ静か
にローラの横に立った。
サーラ自身、姉と同じ思いなのだ。
信頼していた家臣に裏切られ、戦奴隷として売られ様としていた
自分達に人間としての自由と尊厳を与えてくれた老け顔の青年。
その命はマルフィスト姉妹にとって絶対のものだ。
それこそ、自らの命を躊躇なく犠牲に出来る程に⋮⋮
﹁今頃亮真様は⋮⋮﹂
サーラの声に含まれた微かな憂いを感じ、ローラは視線を改めて
隣に立つ妹へと向ける。
﹁恐らく⋮⋮ムーアと一騎打ちをされている頃かしら?﹂
1501
ローラに何か確信がある訳ではない。
事前の打ち合わせでもそこまで言及はしていないのだ。
だが、高い武名を持つグレッグ・ムーアの首を取る事が出来れば、
この戦が終わった後の論功行賞で更なる恩賞が見込める。
それは、ウォルテニア半島の発展と自分の基盤造りに積極的に動
こうとしている亮真にとって実に魅力的な話だ。
金にしろ資源にしろ権利にしろ、全てにおいて今の亮真には足り
てはいない。
御子柴亮真の性格から考えれば、この機会をむざむざ見捨てると
は思えなかった。
﹁やはり⋮⋮私達も向かった方が?﹂
不安と憂いに満ちた言葉。
どれほどムーアがが強かろうとも、数の勝負に持ち込めば殺す事
は不可能ではない。
だが、ローラは静かに首を横に振った。
﹁必要ないわ⋮⋮本当に勝算がないのであればあの方は決して勝負
をしない。それはサーラも分かっているでしょう?﹂
亮真はシモーヌや伊賀埼衆から事前に多くの情報を集めていた。
そこから浮かび上がったのは、御子柴亮真がグレッグ・ムーアよ
りも弱いという事実だ。
武法術を会得したとはいえ、幾多の戦場を潜り抜けてきたムーア
と比べれば、術者としても戦士としても亮真は大きく見劣りする。
そして、ムーアの持つ法剣の性能。
いかに御子柴亮真が異世界人という特性を備えていてはしても、
実戦経験や武具の差までは埋める事が出来ない。
だから、サーラの心配は正しい。
1502
それはローラとて理解している。しかし、それでもなおローラは
亮真の勝利を疑いはしなかった。
いや、信じようと必死なのだ。 ﹁私達はただ自分の役目を完璧に成せば良いの﹂
心の奥から絞り出すような声。
心配でない筈がない。戦いと言うものに絶対がない事をローラは
知っている。
それは亮真を信頼しているとかしていないとかいう問いとは無関
係な問題。
大切な人間の側にいたいと思うのは自然な心だった。
しかし、その一方で自分達に与えられた仕事の重要性もローラは
十分に理解している。
それは主人の身を案じると共に、主人の信頼に答えたいと言う思
い。
その葛藤がローラの言葉に滲んでいた。
﹁幾ら奇襲を受けて指揮系統が混乱しているとはいえ、時間が経て
ば混乱はやがて沈静化してしまう。オルトメアの兵士達を生かして
いては危険なだけよ。余計な心配をせずに自分の仕事に専念なさい﹂
その目に浮かぶのは鋼の意思。
だが、微かに肩が震えているのをサーラの目は見逃さなかった。
︵お姉様⋮⋮︶
言いたい事は幾らでもある。
だがローラの心中を察し、サーラはもう一度だけ中央塔へと視線
を向けると静かにその場を後にした。
自らの役目を果たす為に⋮⋮ 1503
ローラとサーラの視線が中央塔へと向けられていた丁度その頃、
亮真とムーアの戦いもまた序盤の睨みあいを終え、勝負は佳境へと
差し掛かっていた。
鈍い銀色の光が亮真の顔を照らす。
伊賀崎衆の中でも指折りの鍛冶が打った鉈以上の厚みを誇る戦場
刀。
それは、歴史に名を刻む様な名工の作り出した刀と比較しても何
ら遜色のない出来栄えだ。
亮真は乾いた唇を舌で軽く湿らせると、刃を己の巨体に隠すかの
様に脇構えに構える。
︵飛斬のムーアか⋮⋮︶
目の前に立ちふさがる騎士の異名を思い浮かべ、亮真の目に歓喜
の色が浮かんだ。
安全策を取るのであれば、背後を固めるエルネスグーラの騎士達
に襲わせれば良い。
だが、それでは旨味がない。
ムーアを討ち取ったという事実は変わらないが、その過程によっ
て得られる成果は格段に変わってくる。 ︵たまらねぇ⋮⋮ぞくぞくと背筋が痺れる⋮⋮︶
戦場ではこのような形で一騎打ちに持ち込める機会はまず無いと
言って良いだろう。
だから、ムーアの提案はまさに渡りに船と言える。
ムーアの体から発せられる空気は、亮真の祖父である御子柴浩一
郎に通じるものがあった。
それは強者特有の匂い。
事実、ノティス砦の守備隊長であるグレッグ・ムーアは、大剣の
使い手として近隣諸国にまで届く高い名声を誇っていた。
これを討ち取ったとなれば、その戦功は計り知れない。ルピスに
対してもウォルテニア半島開発の為に更なる条件を求める事も出来
るだろうし、御子柴亮真の名は一気に大
1504
陸中を駆け巡るだろう。そういう意味から言えば、この一騎打ちは
まさに絶好の機会とも言えるのだ。
だが、そんな計算された理由とは別に、亮真は自分の中から湧き
上がってくる高揚を感じていた。
﹁うぉぉぉぉおぉ!﹂
ムーアの口から雄叫びが迸り、頭上に剣を高々と振り上げた。
プラーナ
その気魄がビリビリと部屋の空気を震わせる。
十分に練り込まれたムーアの生気が、大剣の刀身に刻まれた術式
を起動させる。
両者の間は未だ十メートル以上間合いが開いていたが、ムーアは
その場から動く事なく刃を一気に振り下ろした。
すると次の瞬間、振り下ろされた大剣の軌道に沿って三日月状の
透明な何かが亮真へ向って放たれる。
本能的にそれに合わせるように振りぬかれた刀。
亮真の手に衝撃が走り、肩から血が飛び散った。
﹁クッ⋮⋮﹂
刀で衝撃を緩和していなければ、亮真の腕は肩から切断されてい
たかもしれない。
左肩から感じる鈍い痛み。
しかし、亮真の目に宿る戦意は些かも衰えはしなかった。
︵こいつが水の法剣の威力か。事前に情報を集めていなければ防げ
なかったかもな︶
刀身についた水滴を見て、亮真は心の中で呟く。 切断加工用ウォーターカッター。
昔、TVの教育番組で見た知識が脳裏に蘇る。
1505
高い圧力を掛けた水が小さな穴から飛び出し、その勢いによって
鉄すらも切断する事の出来る技術。
正確な事は不明だが、恐らく基本的な原理はこれと同じはずだ。
ただし機械とは違い、ムーアの手にした剣に圧縮機能が付いてい
る訳ではない。
プラーナ
水を貯めておくタンクの様なものを身に付けている訳でもない。
ムーアの生気と剣に施された付与法術。この二つだけで成り立っ
ているのだ。
そう言う意味では、かなり使い勝手の良い攻撃方法だろう。
︵剣の振り下しに合わせて高速で水が飛んでくるのか⋮⋮要は、刀
身が飛んでくるみたいなもんだな⋮⋮︶
高速で飛来する水の刃。イメージ的には斬撃自体を飛ばしている
のと大して変わりはしない。
広い間合いを保ちながら一方的な攻撃が可能な上に、文法術の様
に詠唱を必要としないのだ。一瞬の間が生死を分ける戦場において、
そのアドバンテージはかなり大きい。
剣の延長として使える上に、横に剣を薙げば対集団戦においても
驚異的な威力を発揮するだろう。
だが、欠点がない訳ではない。
水刃自体のスピードは速いが、ムーアの剣を振るうという動作が
起点となるため、飛来するタイミングを察する事が出来る。
腕の振り、足の位置などを注意すれば生身の力だけでも十分に防
ぐ事が可能だ。
︵確かに厄介な武器だ⋮⋮だが、剣の軌道に沿って放たれるだけな
ら対応は出来るな⋮⋮まだだ、まだ武法術を使わなくても捌ける⋮
⋮︶
背中越しに後ろへ視線を向けながら、亮真は刀を中段に戻し次の
攻撃に備える。
脇構えからでは、高速で飛来する水刃の対処に不利だからだ。
︵水の斬撃が効果を最大限に発生するのは、あいつの体を起点とし
1506
て恐らく半径二十メートル以内ってところか︶
それは予想でありながらも、確信に満ちている。
なぜなら、最初の一撃で亮真の肩を切り裂いた水刃は、周囲を遠
巻きに囲むエルネスグーラの騎士が身につけた鉄の鎧に弾かれてい
たからだ。
水に掛かった圧力と速度が、自然の法則によって減衰されるとい
う良い証拠だろう。
日本で使われるようなウォーターカッターに比べれば大分射程距
離が長いようだが、それでも本当の意味でこの大地世界がファンタ
ジーならば、ムーアの繰り出した水の斬撃はその威力を衰えさせる
事なく、エルネスグーラの騎士の体を切り裂いたはずだ。
そして、水の斬撃が純粋に水だけで構成されているのも問題だっ
た。
粉状の研磨剤や小さな石でも混ぜていれば話は変わるのだろうが、
純粋な水だけでは切断力が限られてしまう。
生身の体を切断するには十分でも、分厚い鉄の鎧を斬るには威力
が足りないのだ。
それは、斬撃とぶつかった刀の刀身が折れ飛んでいない事からも
分かる。
だが、勿論無傷で済んだという訳ではない。
刀身に刻まれた刃こぼれに舌打ちをしながら、亮真はムーアの心
理を読もうとする。
︵間合いには注意だ⋮⋮おそらく法剣の特性を生かし遠距離でこっ
ちを牽制する気だ︶
亮真の目がムーアの動きを探る様に睨みつけた。 そんな亮真の予想通り、水刃による初撃を防がれたムーアは小さ
く舌打ちをすると、再び大きく剣を頭上へと振り上げた。
そして再び剣から繰り出された水の刃が亮真へ向って放たれる。
一撃目、二撃目、三撃目。
息もつかせぬ連続攻撃が亮真を襲う。
1507
唐竹割りから、右切り落とし、左切り落としへと繋げるムーア。
大剣が空を斬り裂き唸り声をあげる。
次々と繰り出される斬撃を刀で防ぎながら、亮真は何か予感めい
た物を感じた。
︵さっきと同じか? いや、単調すぎるな⋮⋮︶
振り下ろしによる斬撃のみでは単調で避けやすい。
それを態々繰り出してきたのはなぜだろうか?
その疑問の答えは直ぐに現れた。
三撃目の剣が振り下ろされた瞬間、一度振り下ろされた刀身がそ
のまま止まらずに下から上へと跳ね上がる。
丁度〆の様な軌道を描いたのだ。
初の様なつもりでいたら、恐らく亮真の無防備な胴体を横から薙
ぎ払われていただろう。
連続して繰り出された水刃を刀で打ち落とし、亮真は再び油断な
く中段の構えに戻る。
︵縦から横⋮⋮成程な。これが狙いか︶
単調な攻撃を繰り返し、突然タイミングの違う攻撃を繰り出す。
ほんの少し油断していれば、今頃亮真は死んでいた。
睨む会う両者。
周囲を取り囲むオルトメアとエルネスグーラの騎士達も固唾を飲
んで勝負の行方を見守る。
︵さぁて、このまま守りを固めても勝負には勝てないか⋮⋮思った
以上に不利な勝負だったかな?︶
亮真が勝つにはムーアとの間に横たわる間合いを詰める必要があ
る。
逆にムーアにすれば、水刃の遠距離攻撃を主軸に亮真の体勢を崩
し隙を狙う方だろう。
そして、最後の一撃は恐らく斬撃ではなく⋮⋮
︵こいつの狙いは最速のアレだろうな⋮⋮いや、逆に勝機はそこか︶
亮真の脳裏に浮かんだのは、剣という武器の中で最も早い技。恐
1508
らくそれに全てを賭けてくると予想していた。
だが次の瞬間、このまま遠距離戦を望んでいるという亮真の予想
を覆し、ムーアが一気に間合いを詰める。
第三のチャクラであるマニプーラが高速で回転し、ムーアの体に
人ならぬ速力と筋力を与えた。その速度は人の領域を超えまさに獣。
次の瞬間二人の間に激しい火花が飛び散り、けたたましい金属音
が広間に響き渡る。
一瞬、亮真の巨体が宙に浮いた。
弾丸の様な勢いを殺すために自ら後方へと飛んだのだ。
︵危ねぇ危ねぇ。遠距離に意識を向けさせておいて一気に間合いを
詰めるか⋮⋮やるねぇ︶
不敵な笑みを浮かべる亮真の頬から一筋の血が垂れ、口の中に錆
びた鉄の味が広がった。
間合いを詰める際に放たれた水刃。それが亮真の頬を掠めたのだ。
遠距離攻撃を牽制として、一気に間合いを詰め接近戦に持ち込む。
詠唱時間と言う隙が必要な文法術ではなかなか難しい戦い方だ。
そして、亮真の手にした刀に刻み込まれた斬撃の跡。
剃刀の様な鋭さを誇っていた刀身に細かい刃こぼれが見える。
︵武器の性能ではこっちが不利か⋮⋮まともに打ち合えば刀身が折
れ飛ぶな︶
かなりの業物と言える圧重ねの戦場刀だが、ムーアの手にした法
剣とは違い付与法術などは施されていない。
プラーナ
つまり、耐久性だけなら普通の鋼と何も変わらないのだ。
それに対して、ムーアの持つ法剣は違う。
血糊などによって刃が鈍る事はなく、持ち手の生気を使う事で強
度を飛躍的に高めている。
亮真自身も法術を使う事が出来るが、共に武法術の使い手ならば
どうしても術者としての経験はムーアに劣ってしまう。
そして、今の攻防でムーアは亮真の刀に付与法術が施されていない
ことを悟ったはずだ。
1509
︵まぁ良いさ、要は弱ければ弱いなりに戦い方を考えれば良いだけ
さ︶
手にした武器の性能の差。そして、斬り結んだ瞬間に感じたムー
アと自分との間に存在する法術者としての力量の差。
単純な強い弱いという視点で見れば、亮真はムーアに及ばない。
確かに、力が強い人間の方が価値を得やすいのも事実だ。だが、
弱い人間が必ずしも勝てないと決まっている訳ではない。
寝込みを襲う、味方の数を増やし集団戦に持ち込む、相手の家族
を人質に取る、毒を使う。
倫理観や周囲の評判などを考慮しないのであれば、弱者が強者に
勝つこと自体は不可能ではない。
仮にそこまで腹をくくらなくとも、自分が諦めさえしなければ道
は必ず見つかるものだ。 その事を祖父に幼いころから教え込まれてきた亮真の心は怯むと
いう事を知らない。
︵武器の差と武法術を使っていないことを悟り、こいつは嵩にかか
って一気に攻め込んでくるだろう⋮⋮そろそろ苛立ってくるころだ
しな。次の一撃が勝負⋮⋮か︶
数秒後にやってくる最後の瞬間。
その瞬間こそが亮真に与えられた勝機だった。
1510
第4章第35話︻収穫の時︼其の5
激しく刃が打ち合わされ剣戟の音が広場に鳴り響いた。
そして、数秒後には重なり合っていた二つの影が共に後方へと飛
び退る。
いったい幾度繰り返されたのだろう。荒い息遣いと共に、二人の
肩が大きく上下する。
﹁予想以上に手強い⋮⋮﹂
ムーアは油断なく中段に構える亮真の構えを睨みながら小さく呟
いた。
法剣の能力を最大限に生かした水刃による遠距離攻撃は思った以
上に成果を上げる事が出来ず、接近戦に持ち込もうとしても上手く
いなされてしまう。
︵こんな戦闘法があるとはな⋮⋮これがこの男の、異世界人の戦い
方か⋮⋮︶
それは大いなる勘違いではあったが、長い戦歴を誇るムーアも正
面から一対一で異世界人と刃を交えた経験はない。
ムーアの戦い方はまさに剛。
鍛え抜かれた全身の筋力を武法術によって強化し敵を叩き潰すと
いう単純にして明快な戦い方であり、ムーアにとってもなじみ深い。
筋力を最大限に使う剛の闘法は大地世界の騎士達が使う戦闘法と
して一般的なものだ。
それに対して亮真の戦い方は己の肉体の力を最大限に使う剛とと
もに、脱力や相手の力を利用する柔の闘法を加えた剛柔一体の闘法。
亮真には剛にも対しても柔にも対してもこだわりがない。それは
彼にとって戦いとは敵を殺す事だけが目的だからだ。
1511
時には剛に出て力を使って防ぎ、時には体の力を抜き柔によって
捌く。
両方を上手く混ぜ、力の緩急を上手く利用しているのだ。
それは剛に対して柔の戦い方。剛対剛による勝負にどっぷりと漬
かってきたムーアにとって初めての感覚だった。
柔法はその性質上どうしても、敵の力の流れを見極めコントロー
ルする為に高い技術と集中力を要する。目の前の敵以外にまで意識
を割かなければならない戦場という特殊な環境で、この困難な作業
を完璧にこなしきれる人間は限られていた。
おそらく、亮真の師である御子柴浩一郎であってもそれは難しい
かもしれない。
無論、ムーアはそのような事情を知る由もないが、亮真の戦い方
が今まで自分が経験してきた戦い方と大きく違う事は肌で感じてい
る。
︵まぁ良い。俺はするべき事をするだけだ︶ 勝利を得る為に、ムーアは一つずつ得られた情報を検証し勝利へ
の方程式を組み立てていく。
プラーナ
︵このまま水刃で奴の体力を削るか? いや、連刃すら防いだのだ。
多少のかすり傷は負わせる事は出来ても致命傷は無理だな⋮⋮生気
を無駄遣いするだけだ︶
かすり傷でも敵に傷を与えられればまったく無意味ではない。ど
プラーナ
んな小さな傷一つでも、数が多ければ出血量が増え、その結果敵の
体力は低下していく事となる。
だが、そのかすり傷一つを敵に与えるのと引き換えに膨大な生気
を消費する訳にはいかない。
戦闘でも商売でも最も大切なのは費用対効果。
つまり、経費や投下資本に対してリターンがどれだけ見込めるか
という事に直結するのだ。
ムーアの目が、手に握りしめた愛剣をチラリと見る。
詠唱も必要としない付与法術は確かに便利ではあるが、決して無
1512
プラーナ
敵で万能の技術と言う訳でもない。
特にその生気の消費量は、戦闘を行う上で大きな問題だった。
それは、歴戦の戦士であり第三のチャクラであるマニプーラまで
も回転させる事の出来るムーアにとっても決して無視は出来ない問
題だ。
プラーナ
プラーナ
いや、チャクラと言うエンジンを三台も稼働させながら、更に法
剣にまで生気を注ぎ込むのだ。いかにムーアが豊富な生気量を誇ろ
うとも何時かは必ず枯渇してしまう。
どれほど高性能の自動車であろうと、ガソリンと言う燃料がなけ
ればただの置物になり下がってしまうのと同じだ。
︵ならば接近戦に持ち込むか?︶
だが、その考えをムーアは自ら否定した。
︵いや、奴がこのまま防御に徹すれば、そう簡単に致命傷を与える
事は無理だ。仮に接近戦に持ち込んだとしてもズルズルと勝負を引
き伸ばされるだけ。そうなれば俺の生気が切れた瞬間に全てが終わ
ってしまう︶
確かに、総合的な強さで言えばムーアは御子柴亮真よりも強い。
しかし、一対一という限定された殺し合いにおいては必ずしもそ
の評価は正しくないだろう。
プラーナ
ムーアの強さの根幹は武法術という技術に習熟しているという点。
逆に言えば生気を枯渇させた瞬間、ムーアはごく普通の騎士に戻
ってしまう。
それでもムーアが弱いという事にはならないが、武法術を使って
仕留める事が出来なかった亮真を、武法術を使わずに殺せるはずが
ないのだ。
ムーアの前に居るのは人の智謀と獣の肉体、そして鋼の意志を兼
ね備えた人の形をした獰猛な肉食獣。
一瞬でも隙を見せれば、その瞬間、目の前の獣は嬉々として喉笛
を噛み切ろうと襲い掛かってくる。
︵恐らく、技量だけなら向こうが上か⋮⋮︶
1513
武法術を使っているムーアと使っていない亮真。
認めがたい現実だが認めない訳にもいかない。
戦いとは常に現実の積み重ねだから⋮⋮
しかし、それは当事者である二人にしか分からない事だ。
﹁﹁﹁﹁うぉぉぉぉぉおお! ムーア様に勝利を! 我が祖国オル
トメアに栄光を!﹂﹂﹂﹂
後ろから浴びせられるオルトメア兵士達の叫びがムーアの耳に木
霊した。
一方的に攻撃しているようにしか見えない今の状況ならば、オル
トメア兵士達の士気が高まるのは当然と言える。
敵である亮真に対しムーアは無傷。
周囲が勝利を確信しても不思議ではなかった。
︵チッ。馬鹿共が勝手な事を⋮⋮︶
チラリと視線を周囲に向け、ムーアは小さく吐き捨てた。
普段ならばその声援は喜ぶべき事だ。
確かに背中に浴びせられる声援はムーアの体に力を与える。
しかし外目からはともかく、実際に攻めあぐねていると感じてい
るムーアにとって、何も分かっていない無責任とさえ言える周囲の
声に、苛立ちと煩わしさを感じた。
そして、徐々に大きくなる足の違和感がさらにムーアの心をざわ
つかせる。
︵微妙に踏ん張りが利かん⋮⋮連刃が防がれたのはこの為だな⋮⋮
やはり、今少し完治には時間が必要だったか⋮⋮︶
特に連撃を繰り出そうとする時この足の踏ん張りが特に重要とな
るのだが、それが上手くいかないのだ。
小さな違和感。それが何時までも体のどこかに巣食い何時までも
ムーアの体を蝕む。
それを庇うために本来の型から外れた身体運用を行い、それが更
1514
に体のバランスを崩し違和感を大きくしていく。
︵やはり、接近戦⋮⋮しかないか︶
一度は自ら除外した戦法だが、他に手がないのであれば致し方な
かった。
︵ならば⋮⋮︶
温存してきた最後の手札を切るしかない。
それはムーアにとって大きな代償を払う。そして、一度使ってしま
えば切り札は切り札とはなりえない。
しかし、ムーアは決意した。
武法術で強化しているとはいえ、大剣を振り回すには下半身の踏
ん張りが最も重要となる。
︵もう少しだ⋮⋮何とかもう少しだけ持ち堪えてくれ⋮⋮︶
疼く足へと微かに視線を向け、ムーアはゆっくりと手にした大剣
を振り上げた。 限界まで研ぎ澄まされた殺気と殺意が風となってムーアの体から
放たれる。
上段に大きく振りかぶられたムーアの大剣が、ランプの光を反射
し煌めいた。
﹁死ねぇぇぇっぇぇえええ! 御子柴!﹂
ムーアの口から雄叫びが迸る。
︵初撃、上段からの袈裟切り︶
武法術によって強化された体。それは脳の思考速度や反射神経にま
で恩恵を齎す。
極限の集中によって引き伸ばされる一瞬という名の時間。
左上から右下へ向けて軌跡を描くムーアの大剣に大量の生気が注
ぎ込まれ、今までの物とは倍近くも違う大きな水の刃が生み出され
る。
そこから更に刀身が止まる事なく振りぬかれた大剣。
1515
︵二撃、右薙︶
今度は刀身が跳ね上がり、再び生み出された水刃が亮真の右の脇
腹を襲った。
︵ちっ⋮⋮やはり防がれたか⋮⋮︶
亮真の手に握られた肉厚の刀。その刀身が飛来した水の刃を切り
裂き打ち砕く。
今までならこれで終わりだ。
しかし、今回は違った。
ムーアは小さく舌打ちをすると、全身にさらなる力を込める。
この勝負の中で一度として見せなかった三撃目。
決して多用は出来ないが、ムーアは大剣を使っての三連続攻撃を
可能としている。
大剣という武器の重量と長さの関係で、一度勢いがついた大剣を
切り返す事が容易ではない。
全長一・五メートル近い全長の上、戦場での使用を考え通常の二
倍近い肉厚な刃を誇る大剣。
その重さは十キロを超える。
確かに、持ち上げるだけならばそれほど困難と言う様な重さでは
ないが、これを武器として戦うとなれば話はとたんに変わる。
一般的な片手剣の重量が一・五キロ前後。両手で使う大剣の平均
的な重さが倍の三キロから五キロといったところに対して、ムーア
の持つ大剣は実に三倍近い重さを誇った。
その上、大剣を勢いよく振れば遠心力がかかりその分だけ重量は
何倍にも増加する。
たゆまぬ努力の積み重ね。一つの武器を効率良く使うというのは、
如何に鍛え上げられた強靭な肉体武法術で強化していようと難しい
のだ。
ムーアの目に亮真の脱力した姿が映し出される。
連続で飛来し特大の水刃を防ぎ切り緊張が緩んだように見える。
︵馬鹿め、油断したな!︶
1516
それは、時間をかけた刷り込み。今まで二連撃しか見せていない
この状況下では、御子柴亮真にとって致命傷とも言うべき奇襲とな
るはずだった。 ︵喰らうがいい!︶
遠心力によって重くなった大剣がムーアの手に食いこんだ。
慣性の法則を無視し、無理やり全身の筋力を使って勢いづいた大
剣を止めたのだ。
一斉に苦痛と悲鳴を上げる全身の筋肉。
無茶な身体運用によって千切れてく筋肉線維。
特に全ての土台となる足や腰の負担は大きい。
だがムーアはその苦痛を無視する。
強く噛み締め過ぎたせいか、ムーアの口の中に錆びた鉄の味が広
がった。
ムーアの持つ技の中で最速の技。
引き絞られた体全身ごと敵へぶつける突き技だ。
︵終撃⋮⋮刺突!︶
プラーナ
己の全てをこの一瞬に賭ける。
その思いで体に残っていた生気の全てをマニプーラへと注ぎこん
だムーアは、全身の力を溜める為に僅かに腰を落とした。
そして次の瞬間、異様な金属音と共に赤い火花が飛び散り二つの
人影が交差する。
十数メートルという間合いを一瞬に駆け抜けた二つの影。
静寂が大広間を支配した。
︵何⋮⋮だと︶
首筋から流れ落ちる生暖かい何か⋮⋮
気道と食道を完全に切り裂かれたのだ。
喉の奥から熱いものが込み上げ、ムーアの唇から赤い血が零れ落
ちる。
全身の力が抜け、ムーアは思わず大地へ倒れ込んだ。
︵そうか、こいつ⋮⋮武法術を⋮⋮︶
1517
ムーアは確かに見たのだ。
それは、御子柴亮真が武法術を使う事が出来ないならば、決して
起こりえない光景。
人ならぬ速度をもって間合いを詰めた御子柴亮真。その手にした
刀が、渾身の力を込めて突き出した己の大剣を下から擦り上げる様
に弾き飛ばし、首筋を切り裂いたその瞬間を⋮⋮
そして理解する。
御子柴亮真の狙いの全てを⋮⋮
悠然と自分を見下ろす御子柴亮真の口元に浮かんでいる笑みの意
味を⋮⋮
﹁殿下⋮⋮申し訳⋮⋮﹂
薄れる意識の中、最後の力を振り絞りムーアは己の不甲斐無さを
ザルーダの地で戦うシャルディナに詫びた。
それがただの自己満足に過ぎないと理解していても⋮⋮
1518
第4章第35話︻収穫の時︼其の5︵後書き︶
何時もウォルテニア戦記wEB版をご覧下さりありがとうございま
す。
ぜひ、評価ポイントや感想をいただければ励みとなりますのでよろ
しくお願いいたします。
フェザー文庫版の方ですが、諸事情により発売日が五月に伸びそう
です。
原稿自体は今年の初めには準備出来ていたのですが、思いのほか延
び延びになってしまいました。
申し訳ございません。
発売日が確定しましたら改めてご連絡させていただく予定です。
今後もウォルテニア戦記をよろしくお願いいたします。
1519
第4章第36話︻表裏︼其の1
﹁貴殿か、オルトメアの使者というのは⋮⋮今まで見たことのない
顔だな。確か須藤とか申したか?﹂
重苦しい沈黙に包まれた執務室。
深く椅子に腰かけたユリアヌス一世は、目の前の跪いた中年の男
へ憐みと嘲笑の入り混じった視線を向ける。
それは、今まで耐え忍んできた弱者にとって、最高の瞬間だった。
逆転した立場。
強者としての余裕と優越感が、ユリアヌスの心を甘く溶かして
いく。
﹁はい、陛下。ご尊顔を拝し恐悦に存じます﹂
﹁それで、この度は一体どのような御用かな? また、我が国へ降
伏を勧めにでも来られたか﹂
痛烈な皮肉がユリアヌスの口から洩れた。
オルトメアの後方補給基地であるノティス砦が、御子柴亮真の手
によって完膚なきまでに破壊されたという報がもたらされたのはつ
い数日前のことだ。
その結果、ウシャス砦に攻め寄せていたオルトメア帝国軍は、食
料や物資の補給線を絶たれザルーダ国内に孤立していた。
それはつまり、オルトメア侵攻軍六万近い将兵が袋のネズミにな
ったという事を示唆している。
いかに大軍と言えども、本国と切り離されたという事実は重い。
指揮官クラスならばともかく、学のない徴兵された農民や、機に
1520
聡い傭兵達が動揺するのは目に見えていた。
そんな状況下で、オルトメア帝国がユリアヌスへ降伏勧告の使者
など送ってくるはずがない。
あり得ない降伏勧告。
それをユリアヌス自身が口にしたという事実が、何よりも痛烈な
皮肉となって須藤の耳に響いた。
もっとも、須藤にはユリアヌスの心の動きなど手に取るように読
み切れている。
この程度のことで怒りを感じることはない。
須藤はゆっくり顔を上げると、目の前に座る哀れな道化師へ向か
って口を開く。 ﹁とんでもございません。降伏勧告など⋮⋮﹂
須藤はとんでもないと言う表情を浮かべ顔を横に振った。
﹁では、何をしに参られた? まさか茶飲み話に来たわけでもある
まい。今の貴殿らにそのような余裕があるとは思えんからな﹂
言葉の端々に見え隠れする驕り。
ユリアヌスの言葉に、須藤は思わず苦笑いを浮かべる。
それはたった一度の勝利。
だが、この勝利が意味するところを知らない人間はいない。
今まで、主導権を握ってきたのは常にオルトメア帝国側だった。
何時何処を攻めるか。その選択権を握れるかどうかは戦の趨勢を
大きく左右する。
そういう意味では、ノティス砦が落ちた今、オルトメアとザルー
ダを頭にした連合国。両者の攻守は入れ替わったといえた。
そんな隠し切れない喜びを必死でこらえようとするユリアヌスの
姿に、須藤は込みあがってくる笑いを必死でかみ殺す。
1521
︵馬鹿な男だ⋮⋮まさに道化。自分の力で得た勝利でもあるまいに
⋮⋮︶
確かに、ザルーダ王国に希望の光が灯ったという一面は存在する。
オルトメアにひたすら領土を蚕食され続けていたザルーダ側の現
状を考えれば、今回の後方遮断作戦は起死回生の一手といえた。
だが、それが今目の前にある問題の全てを解決してくれるわけで
はない。
解決する問題が存在する一方で、より一層解決が困難になる問題
も山積している。
何よりも、ザルーダ王国自体の力で状況を打開した訳ではないと
言う事が何よりも致命傷。
︵さて、それではザルーダの置かれている立場を言うものを認識し
ていただきますかねぇ︶
確かに形勢は逆転し、今現在オルトメア軍は窮地に立たされては
いる。
だが、それはしょせん一時的なものにすぎない。 ﹁本日はこの不幸な戦を終わらせたいと思い参上した次第です﹂
須藤は一つ一つ区切るようにゆっくりと口を開く。
まるで聞き分けのない幼子を窘めるかのように。
﹁何だと?﹂
須藤の言葉の意味が分からず、ユリアヌスは眉を顰めた。
﹁端的に申し上げれば、我がオルトメアはザルーダ王国との和睦を
望んでおります﹂ 須藤が和睦という言葉を口にした瞬間、ユリアヌスの傍らに立つ
1522
ヘンシェルの体から殺気が迸った。
冷たい吹雪のような殺意が須藤の肌を叩く。
︵この場で怒りを露わにするほど馬鹿ではないか⋮⋮甘い︶
事前に有る程度情報を集め予想が出来ていたとはいえ、ヘンシェ
ルもユリアヌスも思った以上に冷静だった。
だが、外交で勝ちたいのならば己の心を隠しきれなければ意味は
ない。 ︵ユリアヌスといい、このヘンシェルという男といい、思った以上
に悪くない。これなら十分に交渉の余地はある︶
攻め込んできたオルトメア帝国側から告げられた突然の和睦交渉。
一方的に攻め込まれ国土を蹂躙されてきたザルーダの人間である
ヘンシェルの心の奥底に怒りが湧き上がって来て当然だろう。
それでも表面上は無表情を貫けるのは、ヘンシャルの強い自制心
によるもの。
感情的になっても何の意味もないということを理解している証拠
だ。
それはつまり、交渉の余地があると言う事を暗示している。
︵激情に駆られて切りかかられては交渉もくそもないからな︶
話さえできれば、須藤は己の勝利を確信していた。
﹁失礼、貴殿の言葉の意味が分からん。一体どういう事かな?﹂
﹁そのままの意味でございます。陛下。オルトメア帝国はザルーダ
王国との一時的な和睦を望んでおります﹂
瞳に浮かぶ揺らぎのない光。
﹁本気⋮⋮のようだな﹂
須藤の言葉が偽りでないことを察し、ユリアヌスは深いため息を
1523
ついた。
その心に浮かぶのは呆れ。
他国を侵略しておきながら、形勢が不利と見たらすかさず和睦交
渉を行うという恥知らずな態度にユリアヌスは怒りを通り越して呆
れてしまった。
﹁貴殿は今回の戦がどのようにして引き起こされたのか分かってい
るのかな?﹂
﹁勿論でございます陛下。我が国が貴国に攻め込んだことが発端で
ございます﹂
ユリアヌスの問いに須藤は悪びることもなく平然と答えた。
それは予想された言葉。
この程度のことで動揺するような軟な神経では外交交渉など出来
るわけもない。
大切なのが傲慢なまでの自信だ。
﹁それが分かっていながら、和睦をオルトメア帝国側から切り出す
とは⋮⋮﹂
須藤の瞳に映る揺らぎのない強い意志の光。
ユリアヌスの心にもやもやとした何かが生じた。
それは、須藤の態度から感じた一抹の不安だ。
﹁恥知らずが⋮⋮﹂
思わず零れたのだろう。
隣に佇むヘンシェルの口から小さなつぶやきが須藤の耳に響く。
1524
﹁貴殿は我が国がそんな話に耳を傾けると本気で思っているのかな
?﹂
数ヶ月前ならばユリアヌスはこの話に飛びついただろう。
しかし、戦の天秤はザルーダ側へと大きく傾いているのだ。
わざわざこのタイミングで和睦を受ける必要性をユリアヌスは感
じなかった。 しかし、須藤はユリアヌスの言葉に動揺することなく、笑みを絶
やすことなく口を開く。
﹁えぇ、貴国の置かれている立場をご理解いただければ、必ずや承
諾いただけるものと確信しております﹂ ﹁どういう意味だ?﹂
﹁どうもこうもございません。私としては貴国へ助け船を出しに来
たつもりなのですが?﹂
須藤の傲慢なまでの態度と言葉にユリアヌスは一瞬怒鳴りつける
ことを忘れ絶句する。
一国の王を前にこれほど傲慢な態度をとる人間がいるとは⋮⋮
それでも、ユリアヌスはこの目の前で悠然と笑みを浮かべる無礼
な男を切れと命じることが出来ない。
それは、臆病な愚者の生存本能とも言うべき予感だった。
﹁そもそも陛下は勘違いしておられませんか?⋮⋮ご自分が優位に
立ったと﹂
須藤の唇が吊り上がり厭らしい笑いが浮かぶ。
それは嘲笑。
1525
己の立場を弁えぬ愚者への憐れみだ。 ﹁違うと言うのか? オルトメア軍六万は本国から切り離されもは
や袋の鼠。その上、我が軍の奇襲によって補給も滞りがちだった事
を考え合わせれば、今そなたの軍に備蓄されている物資とて底が見
え始めているはずだ﹂
須藤の強気な態度にユリアヌスは一抹の不安を感じながらも、精
一杯平静を保とうとした。
﹁食糧もなく、替えの武具とて満足に揃えられまい? それでは如
何に大軍であろうと張り子の虎よ﹂
﹁確かに、それは事実ではあります。陛下のおっしゃられるように、
わが軍はいずれ立ち枯れることでしょう。ですが、その事を指して
陛下が自らを優勢とお考えであるならば、それは幻想としか申せま
せん﹂
︵正念場だな⋮⋮︶
交渉という名の流れ。その分水点に差し掛かったことを須藤は肌
で感じた。
﹁左様です。そもそも陛下は今回の戦をどのように終わらせるおつ
もりなのでしょうか? 我がオルトメアを本気で滅ぼせるとお考え
なのですか?﹂
﹁何だと?﹂
言葉の意味が分からず、ユリアヌスは眉を潜める。
1526
﹁そのままの意味でございます、陛下。戦を終わらせる方法は三つ。
敵を完膚なきまでに打ち破り根絶やしにするか、敵に負け首をはね
られるか、さもなければ戦の途中で交渉し和睦するかのどれか⋮⋮
さて、陛下は今回の戦をどのような形で終わらせるおつもりですか
?﹂
勝つか、負けるか、さもなくば引き分けか。
本当はもう少しそれぞれにバリエーションが存在するものの、端
的に言えばこの三つの状況しかありえない。
﹁それは⋮⋮﹂
須藤の指摘にユリアヌスは言葉を詰まらせた。
それは己のビジョンのなさを指摘されたからだ。
先日、ノティス砦陥落の報告を得たエレナ達ザルーダ軍は、軍を
後方へと引き始めたオルトメア軍と矛を交少なくない損害を敵に与
えている。
戦の趨勢は確かザルーダ側へと傾き始めていた。
しかし、それはあくまでも今回の戦という限定的なものでしかな
い。
ザルーダ国内には独立心旺盛な貴族が割拠し、王家直轄の近衛騎
士団や親衛騎士団は少なくない損害を出し、その戦力を低下させて
いるし、頼みの綱である隣国の援軍は、決してオルトメアへの侵攻
など認めはしない。
こんな状況下でオルトメア国内への逆侵攻作戦など出来る筈もな
かった。 オルトメア国内へ兵を向けられなければ、オルトメア帝国という
巨獣を滅ぼす事はできない。 そうなれば、残された結論は二つ。
ザルーダが滅びるその日まで不毛で勝機のない戦を続けるか、何
1527
所かで見切りをつけ和睦交渉を持ち込むか。
そういう意味から言えば、今まで降服勧告の使者しか訪れる事の
なかったこの場に、停戦の使者が訪れたと言う事は大きな前進と言
える。
﹁お立場をご理解いただいたところでもう一度お聞きしましょう、
陛下。勝算なき戦をこのままお続けになられますか?﹂
それは悪魔の誘惑。
悠然と笑みを浮かべる須藤の言葉に、ユリアヌスは無言のまま頷
くより術がなかった。
その日、ザルーダ王国の首都ペリフェリアを熱狂が覆い尽くして
いた。
いや、これはなにもペリフェリアだけの話ではない。ザルーダ王
国の各地でにたような光景が繰り広げられている事だろう。
つい先日までこの王都を覆い尽くしていた暗雲が晴れた証しだろ
う。
王都の中央を貫く大通りの両脇には、びっしりと人が立ち並んで
いる。
彼らは老若男女の区別なく、母親に手を引かれた幼子も杖を手に
した老人も目の前を行進する兵士達に向かってひたすら手をふりつ
づけ、口々に歓声を上げた。
﹁万歳! ザルーダ王国万歳!﹂
﹁陛下に神の祝福を! 我が国に栄光を!﹂
人々は満面の笑みを浮かべながら大通りへと立ち並び、口々に勝
1528
利の言葉を口にする。 つい先日、一年以上も続いたオルトメア帝国との戦が、和睦とい
う形で終わりを告げたのだ。
それは、今まで戦時特例として課せられていたさまざまな税が元
に戻り、徴兵された夫や息子が帰ってくるという事。
かつての穏やかな生活へと戻れるという希望を彼らにもたらすの
だ。
しかし、そんな歓声で沸き立つ城下街の雰囲気とは無縁の人間が
いた。
一人はこの国の国王であり、今回の決断を下した男。
彼は今、自らの執務室に設置された長椅子に深く腰を下ろし、天
を見上げていた。
﹁正しい判断だと思うか?﹂
深くうち沈んだ声。
自らの決断に自信が持てていない証拠だ。
﹁分かりません⋮⋮﹂
ユリアヌスのすがるような視線を受け、ヘンシェルはゆっくりと
首を横に振った。
﹁とりあえず時を稼いだ⋮⋮それだけは事実です﹂
﹁時⋮⋮か﹂
オルトメア帝国軍はザルーダ国外へ退去を始めている。
一時的とはいえ、今後の交渉次第では数年の時を稼ぎだすことも
1529
可能だ。
損耗した騎士団の再建に必要な時間をひねり出すことも可能だろ
う。
﹁限られた時間を無駄に出来ぬな⋮⋮﹂
﹁御意﹂
ユリアヌスの言葉にヘンシェルは深く頷いた。
1530
第4章第37話︻表裏︼其の2
ここは、ペリフェリアの中央に建てられた王城の一室。
御子柴亮真と彼に率いられた襲撃部隊は、ノティス砦を攻略した
のち突然訪れたザルーダの使者に和睦の一件を告げられ、王都ペリ
フェリアまで兵を引いていた。
︵何も知らずに浮かれてやがる︶
亮真は窓の外に広がる城下町へ嘲笑に満ちた視線を向ける。
無知は幸せなり。まさにこの言葉は至言と言えた。
︵気の毒なこった︶
自分たちがどれほど危険な状況に置かれているかわかってはな
いだろう。
彼らは目先のことしか見えないし理解できない。薄い氷の上で遊
んでいる子供と同じようなものだ。
何時かは必ず奈落の底へと落ちる。
︵だが、先が見えるってのも厳しいもんだ⋮⋮な︶
亮真の脳裏に、ザルーダ王国国王ユリアヌスの顔が浮かんだ。
未来を予測できるというのは必ずしも良いことばかりではないの
だ。
いくつもの事象をつなぎ合わせ未来を予測できる人間はごく一握
りしかいない。
そして、予測ができたからと言って、災いを避けられるとは限ら
ない。
万全の準備をしても予想外の出来事はいくらでも起こり得るし、
ましてや今のザルーダに万全の体制を整えるだけの余力はないのだ
から。
︵後は爺さんの手腕次第だが⋮⋮まず、無理だろうな︶
一縷の望みをかけて停戦を承諾したようだが、既にオルトメア側
1531
はユリアヌスの動きに対して先手先手を打っているはずだ。今更ユ
リアヌスがどう動こうと、大勢にはさしたる影響を及ぼせはしない
だろう。
現実的に考えて、ザルーダの国力や状況が悪すぎる上にそれを改
善するための時間が圧倒的に足りない。そして何より、オルトメア
は既に勝利を見据えているからこそ停戦交渉を提案してきたのだろ
う。
亮真の予想ではザルーダ王国に属する貴族の中にはかなりの数の
裏切り者がいる。それもかなりの有力者がだ。そうでなければ説明
がつかない。
︵今後の交渉次第だが、戦端が再び開かれるまで粘って一年あるか
どうか⋮⋮︶
オルトメアはこれから本格化する交渉をのらりくらりと引き伸ば
した上で、再び戦争の準備が整ったところで交渉を打ち切るはずだ。
そして、再度ザルーダ王国へと侵攻してくるだろう。
オルトメアにとって今回の停戦交渉はあくまでも侵攻軍の壊滅を
避けたかっただけの事でしかなく、本気でザルーダ王国と停戦しよ
うと考えての話ではないからだ。
そうなった時、目の前で歓声を上げる民達は一斉に手のひらを返
し、怨嗟の声を上げる事だろう。
勝手に期待をし、その期待通りの結果が得られなければ手のひら
を返して罵声を浴びせる。個人的に嫌いな人間ではないため、ユリ
アヌスの行く末を思い浮かべた亮真の瞳に憂いの色が宿っていた。
︵まぁ仕方がない。打てるだけの手は打った。それに、俺の目的が
最低限達成出来た今、これ以上この国の行く末にかかわるべきでは
ない⋮⋮︶
民は純粋に戦の終結を喜び歓声を上げているが、事はそれほど
単純ではない。
亮真の脳裏にはこの国の行く末が浮かんでいた。
しかしそんな亮真の思いは次の瞬間、背後から聞こえてきた能天
1532
気な会話の所為で霧散してしまった。
﹁今まで飲んだことのない風味だけれども、随分と良い茶葉を使っ
ているわね。産地は何処かしら?﹂
﹁はい、リスノルス産と聞いております﹂
﹁中央大陸の?﹂
エレナの問いにサーラは静かにうなずくと、手にした陶製のポッ
トを差し出す。
﹁亮真様お気に入りなのでセイリオスより運んできていたものです。
お代わりはいかがでしょう?﹂
エレナは空になったカップの底を見つめながら黙り込んでいたが、
小さく唇を吊り上げる。
﹁茶葉の持つほのかな渋みが香りと相まって何とも言えず良いわね
⋮⋮そうね、頂くわ﹂
そんなエレナへ、今度はローラが手にした皿をそっと差し出した。
﹁あら? これは﹂
﹁亮真様からお聞きして作ったお菓子でマカロンといいます。とて
も美味しいですよ﹂
﹁まぁ、そうなの? 面白い形をしているわね﹂
1533
そういって一つ摘みしげしげと見つめるエレナは、ゆっくりとマ
カロンを口へと運こび味わう様に咀嚼する。
﹁これは⋮⋮わざと砂糖の量を抑えているのね﹂
﹁はい、そういう風に作るのが亮真様の故郷では一般的らしいです
よ﹂
より正確に言えば、無理に砂糖の消費量を抑えているわけではな
い。
何よりも大切なのは甘さのバランスを崩さないこと。
﹁へぇ⋮⋮悪くないわね亮真君﹂
﹁えぇ、材料をそろえるのにかなり苦労はさせられましたがね﹂
エレナの言葉に亮真は苦笑いを浮かべた。
甘い物と言えば果物や干果が一般的な大地世界において、料理人
の手によって作られる砂糖を使った菓子は、上流階級に属する人間
しか口にすることの出来ない贅沢な食べ物だ。
そして、そういった上流階級に属する人間ほど自らの権威付けの
ために、惜しみなく砂糖を使う様に料理人たちへと命じる。
それは普段の食事にしても同じこと。
味やバランスよりも、自らの財力や政治力を誇示する為の道具に
なってしまっているのだ。
その結果出来あがるのが、日本人の目から見ると実に鈍重でくど
く野暮ったい味の砂糖の塊。
一口目は食べられても、二口三口と口に運ぶ毎に飽きてしまう。
酒も飲めるが甘いものも嫌いではない亮真にとって、実に歯がゆ
い思いをしてきたのだ。 1534
︵飛鳥に感謝だな⋮⋮︶
無理やり調理につき合わされたときは不満しか感じなかったが、
こうなってみるとあの従妹には感謝するしかない。
亮真はサーラからお茶の入ったカップを受け取るとエレナの前の
ソファーへと深く腰を下ろす。
﹁これで戦はひとまず終わり⋮⋮ね﹂
目を伏せながら、エレナがゆっくりと口を開いた。
﹁えぇ、十分満足のいく結果だと﹂
﹁そうね⋮⋮﹂
亮真の言葉にエレナは押し黙る。
ひとまずは、オルトメア軍を国境まで引かせたのだ。援軍の将と
しては十分な実績を上げたと言える。
たとえそれが、ほんの一時の時間稼ぎにしか過ぎないとしてもだ。
﹁停戦の使者が状況の説明に来た後、私もエクレシアと少し話をし
たの⋮⋮﹂
﹁何か言ってましたか?﹂
﹁本国と連絡を取りつつ、今後の動きを見極めると言っていたわ。
まぁ、彼女もオルトメア側の思惑は分かっているようだけれども⋮
⋮正直手の打ちようがない﹂
﹁増援は?﹂
1535
亮真の問いにエレナは静かに首を横に振った。
﹁ミストにも決して余裕があるわけではないから⋮⋮はっきり言っ
てこれ以上の援軍は無理の様ね﹂
ザルーダ、ローゼリア、ミスト。この東部三ヶ国と呼ばれる国の
中で最も安定した強国は中央大陸との交易が盛んなミストだ。
だが、豊かであるがゆえに敵も多い。
南部との国境線は常に一触即発の緊張状態が続いているし、ミス
トの最大戦力が海軍であることを考えると、ザルーダへ派遣できる
兵の数は多くないのだ。
その上、本国から遠く離れた異国での戦。
援軍の必要性を認識しているからこそ軍を差し向けはしたものの、
決して戦を好んでいるわけではない。
そういう意味からいっても、今回の停戦は決してミストにとって
損な話ではないのだ。 ﹁そうなると、やはり⋮⋮﹂
﹁えぇ、私も急いでローゼリアへ戻るわ⋮⋮急いで兵を補充し次の
戦に備えないとね。ルピス陛下の改革がどれくらい進んでいるかが
問題だけど⋮⋮﹂
ザルーダへ援軍の赴いてから一年以上の時間が過ぎている。
それだけの時間を稼げれば何らかの成果をルピスが得ていても不
思議ではないはずだ。
﹁まぁ、碌な事にはなってないと思いますがね﹂
亮真のそっけない言葉にエレナは黙ったまま苦笑いをうかべる。
1536
エレナ自身、改革が進んでいるとは思っていなかったのだろう。
﹁どのくらい猶予があるかは、ユリアヌス陛下の手腕次第⋮⋮ね﹂
﹁後の事はみなさんにお任せしますよ。俺は十分に役割を果たしま
したし、これ以上ウォルテニア半島を放置するわけにはいきません
からね﹂
これ以上自分をまきこむな。
そんな伏線を張ろうという亮真の言葉にエレナは探る様な視線を
向けた。 ﹁私の思っていた以上に余裕ありそうだけれども?﹂
﹁嫌だなぁ、余裕なんてあるわけがないじゃないですか。ぎりぎり
ですよ。正直に言って﹂
そういいつつも、亮真は軽く微笑みを浮かべる。
余裕はない。その言葉に嘘はなかった。ただし、それは真実でも
ない。そう言う事だ。
予定通りならば、既に本拠地であるセイリオスの街の初期開発は
終わりを告げようとしているはずだ。
後は、少しずつ時間をかけて半島全土を勢力下に治めていけばよ
い。
そういう意味では亮真には余裕がある。
だが、その余裕は出来れば自らの領地であるウォルテニア半島の
発展ために使いたいのだ。
それに⋮⋮
︵これ以上この戦に関わっても得られるものは少ないからな⋮⋮︶
この想いが亮真の中に強く存在している。
今回の寡兵での援軍で仁義にあつい将であるという評判も得るこ
1537
とが出来たし、戦略家としても周辺諸国に名を売ることができた。
そして何より、エルネスグーラやミストといった有力な国々との
パイプが持てたのはかなり大きな成果といえる。
︵評判、コネ、実利⋮⋮︶
もっと上を狙えない訳ではない。
極端な話、亮真は本当の意味でザルーダを戦に勝利させる手段が
思いつかないわけではないのだ。
だが、亮真はそれを行おうとは思わない。
問題なのは手間と実利。そして、予想は出来ても予言は出来ない
不確定な未来像。
それこそ、どこでどんな落とし穴が待ち構えているかは神ならぬ
亮真に見通すことなど不可能。
︵まぁ、流石にこれ以上狙うのは欲張りってもんだ︶
当初の予定通りの成果を手にした今、これ以上の利は逆に害とな
る。利は人から妬みを買う最大の理由だから。
そういう面からいっても、ここで手仕舞いにしたほうが正解だろ
う。
個人的な思いだけで言えば、亮真はルピスなどよりも強い親近感
をユリアヌスに感じているが⋮⋮
﹁まぁ、良いわ⋮⋮確かにこれ以上は亮真君に負担を掛けられない
から﹂
そんな亮真の想いをくみ取ったのか、エレナは小さくため息をつ
く。
エレナ個人としては、再び起こる戦を前に少しでも使える手駒を
手元に置いておきたいと言うのが本音だ。
だがウォルテニア半島の領有化も完全に終わっていない亮真の負
担を考えれば、これ以上の無理は言えなかった。 ︵あの子も亮真君の様に、もう少し政治を理解してくれれば良い将
1538
になるのに⋮⋮︶
自らの側近として手塩にかけて育てている金髪の青年の顔がエレ
ナの脳裏に浮んだ。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁えぇ⋮⋮クリスの事で少し⋮⋮ね﹂
﹁クリス? あぁ、エレナさんの側近の彼ですか﹂
亮真の顔に苦笑いが浮かんだ。
エレナがなぜ顔を曇らせたのか察したのだ。
﹁今回の停戦を聞いて、さぞ激怒したんじゃないですかね?﹂
おどけた口調で肩を竦めて見せた亮真にエレナは小さく頷く。
﹁えぇ、私にも散々噛みついたわ﹂
﹁ほぉ、それはそれは⋮⋮相当お怒りですな﹂
女性に見まごうばかりの美貌の青年。
その美しい顔を般若のように歪ませエレナに食って掛かるクリス
の姿が脳裏に浮かび、亮真は唇を吊り上げて笑った。
﹁まぁ、仕方がないでしょうね。現場指揮官としては正しいと思い
ますよ? エレナさんはご不満の様ですが﹂
亮真が提案した今回の包囲殲滅策は膨大が時間と労力を費やした
一撃必殺の秘策だった事は否定の仕様のない事実だ。
1539
この策を実行するために、一体どれほどの血が大地に流れた事だ
ろう。
そして、二度目は通用しない立った一度きりの勝機。
それを、この戦の当事国でザルーダの国王が、援軍にやってきた
国々に了承も取らずに勝手に停戦した。それも、いざこれから包囲
網を絞り上げオルトメアの侵攻軍を撃滅しようとした矢先に⋮⋮だ。
当然か当然でないかと言えば、クリスが激高するのは当然と言え
る。
しかし、所詮それは一現場指揮官としての判断基準でしかない。
正しい選択とは立場によっていくらでも変わってくる。 山の麓と山頂では見える景色が違うのと同じように⋮⋮
﹁当然よ。それではあの二人と何も変わらないわ⋮⋮﹂
それはクリスに期待を寄せている証し。
エレナは将来的に自分の後継者としてローゼリアの軍事を任せた
いとすら思っている。
自らの娘を殺されたエレナの取って、苦楽を共にした側近が残し
た孫は息子のように感じるのかもしれない。
だからこそ、自分で答えを見つけてほしいのだ。
﹁まぁ、仕方がないでしょう何しろ、クリスさんは不遇の期間が長
かったみたいですからね。意味はお分かりでしょう?﹂
ローゼリア王国騎士派の長であった今は亡きアーレベルグ将軍。
長きにわたって彼に疎まれ続け貧乏くじを引かされ続けて来たク
リスとしては、自己の正当な評価や手柄というものに飢えている。 なまじ優れた智謀を持つために、周囲の評価が低いことが我慢で
きないのだろう。
それは彼の美貌と相まって彼のコンプレックスになっている。
1540
周囲から侮られたくない。周囲に自分を認めさせたい。そんな思
いがクリスの心の中に渦巻いているのだ。
亮真はそんなクリスを野心家だとは思わない。
誰でも人から正当な評価を受けたいものだから⋮⋮
﹁えぇ⋮⋮そうね﹂
亮真とクリスを比べるべきではない事は、エレナも十分に分かっ
ている。
クリスの剣の上では騎士団の中でも十指には入ってくるし、頭の
キレも悪くない。優秀か優秀ではないかで言うならば、クリスはま
さにローゼリア王国の次世代を担うエリートの一人と言ってよいだ
ろう。
だが、若さゆえか荒が目立つ。
特に人間の心の動きの読みが甘い。そして、国という物に対して
の理解も⋮⋮
︵そう、そして私はどうしてもこの子とクリスを比べてしまう。そ
れがクリスをさらに焦らせている原因の一つである事も理解してい
るのに⋮⋮︶
しかし、ローゼリアの置かれた状況を考えればどうしても思って
しまうのだ。
この目の前で薄笑いを浮かべる凡庸な顔立ちの青年が自らの傍ら
にいてくれればと⋮⋮ 深いため息を一つつくと、エレナは手にしたカップを飲み干した。
1541
第4章最終話︻裏表︼其の3
西方大陸南西部にその国は存在した。
荘厳なる大理石を基調とした神殿を中心に発展した都市国家。
南部諸王国と三大強国の一角であるキルタンティアとがしのぎを
削る国境にありながら、長い年月をこの国は独立を維持しながら生
き残ってきた。
周辺国の国境線がいかに変わろうと、この地には何の影響もない。
中央部の覇者であるオルトメア帝国すら、港湾都市欲しさに南部
の一角を攻め落としはしたものの、この地に手を付ける気はない。
ただ静かに眠り続ける巨獣。しかし、ひとたび眠りから目覚めれ
ば、かの獣の牙は大陸全土をやすやすと切り裂くだろう。
その都市の名は聖都メネスティア。
光神メネオースを祀る神の城であり、西方大陸全土に根を張り巡
らす光神教団の本拠地である。
だが神殿とは言いつつも、そこは絶対不可侵の聖域ではない。
戦乱の世にあって権威や抽象的な神権のみでは教団と言えどその
身を守ることが出来ないのだ。
深い堀と高い城壁に守られた白亜の城。そして何よりも、かの地
を守る為に警備の任に就いている衛兵達の目は鋭く険しい。
分厚い鉄の鎧を着こみ、手にした斧槍の穂先が鋭い光を放ってい
た。
そして、神殿を中心に放射状に広がる町のいたるところを巡回す
る彼らの目に宿る光はぎらぎらとした欲望に満ち満ちている。
神に仕えし者が持つはずの慈悲や慈愛とは無縁な人間達。
そして、そんな光を宿すのは兵士達だけではない。
彼らはまるで飢えた狼の群れに等しい。
神の祝福を得たと勘違いし、己の行動の全てを神に許されると勘
1542
違いした愚者達の群れだ。
彼らは己の欲望を満たすための道具として神の御名を叫ぶ。
そして都市の中央にそびえたつ神殿の奥深くで、この都市で最
も高貴とされる人間が、玉座にも似た豪奢な椅子にゆったりと腰を
据え、手にしたグラスを弄びながら楽しげに部下からの報告へと耳
を傾けていた。
白を基調とし金糸をあしらった豪奢な法衣。その衣が放つ光沢は
絹。
それは傍らに立てかけられた宝石をちりばめた錫杖と共に、男の
地位を如実に表している。
﹁ほぉ、オルトメアがザルーダより兵を引いたと?﹂
﹁はい、聖下⋮⋮ノティス砦を破壊された上に守備隊の長であった
ムーアが討ち取られたとの事です﹂
﹁兵の損害は?﹂
﹁密偵の知らせによれば、後方を遮断された後すぐにオルトメア側
が停戦交渉へと持ち込んだため、包囲殲滅事態は免れました。しか
し、それでもエレナ・シュタイナーとエクレシア・マリネールの二
人に率いられた軍に襲撃されおおよそ一万程度は損害が出たと﹂
目の前に跪く老人の言葉に男は唇をつり上げ笑う。
その笑みは正に悪魔の嘲笑。
大抵の人間はその表情を見ただけで怖気で体を震わせることにな
る。
だが、主の悪意に満ちた笑みを見ても老人は能面のように眉ひと
つ動かしはしなかった。
1543
﹁なるほど⋮⋮一万か。オルトメアの国力を考えれば致命傷とは言
えぬが⋮⋮﹂
﹁ノティス砦を失い貯蔵していた物資の全てを灰にされております
ゆえ﹂
﹁まぁ、軍を引いたのは正解だろう⋮⋮両国共にな﹂
﹁はい﹂
﹁ザルーダの王もしぶとい男の様だな﹂
﹁暗愚な王という噂でしたがなかなかどうして﹂
老人の言葉に、男は満足げに頷いた。
それは目の前に跪いた老人が使える人間であるという証拠だから
だ。
オルトメア軍の包囲殲滅を目前にしての停戦。その上、交渉を行
う前にオルトメア軍を国外へ無傷で帰してしまっている。
その部分だけをみればユリアヌスは正に愚王としか言えない。
表面上、オルトメアに国土を一方的に踏みにじられ、何も得る物
もなく敵軍を帰国させたとなれば当然と言えた。
普通の人間ならば、少しでも損害を補てんするために賠償金をオ
ルトメア側に求めるだろう。
だが、そこに落とし穴がある。オルトメア側が仕掛けた罠だ。
そもそもザルーダとオルトメアの国力差を比較した場合、交渉が
無意味という事に多くの人間は気が付いていない。
どんな約束も交わしただけでは意味はない。約束事とは違約した
場合の罰則があって初めて効力を発揮する物だ。
一番理解しやすいのは法律だろう。
1544
法は警察力という物理的な力があって初めて意味を持つ。
法を破った人間を探し出し、刑罰を与える存在。それがあって初
めて人は法を守ろうとする。
法だけが存在しても意味がないのだ。 そして、それは交渉事でも同じだ。
確かに交渉は両者がその約束事を守るということを前提としてい
る。
だが、両者の立場に圧倒的な差があった場合どうだろう?
親子の関係、教師と生徒、社長と新入社員そして、大国と弱小国。
それぞれスケールは違うが、本質は何も変わらない。
今回の場合で言えば、オルトメアとザルーダの国力は大人と子供
だ。
仮にオルトメアとザルーダの間で何らかの交渉が成立したとして、
果たしてザルーダにそれをオルトメアに履行させるだけの力がある
かどうか。
強者と弱者の間に約束事が成立しないという訳ではない。
オルトメアにとってザルーダとい存在が必要ならば交渉の余地は
十分にある。
だが、今回の場合は違う。
オルトメアにしてみれば無理にザルーダの顔色をうかがう必要は
ないのだ。
玉座に座る男は、手にしたグラスをゆっくりと回しながら思考を
進める。
︵まず無理だな。そして、その事にユリアヌスは気が付いた。どん
な交渉をしようと最後は力で踏みつぶされると︶
長い時間を掛け、多額の賠償金を仮にオルトメアから得る事が出
来たとして、それが実際に払われるかどうかは全くの別問題。
多くの人間はその事に気が付かない。
交わされた約束とは必ず守るものであり守られるものだと無邪気
に信じているから。
1545
﹁交渉を開始する前に、とにかく国内からオルトメアの軍を引かせ
る⋮⋮か。ふむ、悪くない判断だな﹂
﹁はい、交渉の間中ずっとザルーダ国内にオルトメア軍が居座って
いては軍備の再編にも手間取るでしょうし、国内に対してオルトメ
アの軍を引かせたという明確なアピールにもなります﹂
﹁貴族達の中に希望を感じ、力を貸す人間が出るかもしれないと?﹂
﹁少なくとも、オルトメアが国内の駐留しているよりは可能性があ
るかと﹂
無論、オルトメア側に多くの貴族達が靡いている状況下でどこま
で効果があるかは不明ではある。 だが、どんな形にせよオルトメア帝国軍を引かせたという事実は、
一つの確固たる成果として貴族達を説得する武器の一つとなるはず
だ。
﹁ザルーダにすればわずかでも希望の光を感じる展開だな﹂
﹁はい、あのまま戦を続けていればザルーダの敗北は免れますまい。
仮に包囲殲滅策が成功したとしても、オルトメアが黙っている訳が
ありません。それに、あの策では総大将であるシャルディナを打ち
取ってしまう可能性がありました﹂
﹁うむ、本来ならば歓迎するべき展開なのだろうが﹂
敵軍の大将首を取れば本来ならば戦は終わる。
だが、今回で言えばそれは次の戦の到来を早めるだけにすぎない。
1546
﹁ザルーダの立場で考えれば決して上策とは言えません。勿論、あ
のまま手をこまねいていても結果は同じですので選択の余地がない
からこその包囲策でしょうが⋮⋮﹂
﹁愛娘であり皇族の一人が打ち取られたとなれば、皇帝は国内事情
を放置しザルーダ攻略を最優先にするだろうからな﹂
﹁はい、恐らく数ヶ月も立たずに第二陣が編成されていたはずです。
しかし、それではザルーダ側の準備が間に合わないでしょう。それ
に対してた対策を考えていた可能性はありますが、オルトメア側が
停戦を申し込んできた以上、無理に固執するより最終的に勝機があ
ると考えたのだと思われます﹂
﹁目先の勝利に拘らず、最終的な勝利に向けて時間稼ぎを選択した
⋮⋮うむ、悪くないな﹂
﹁はい、悪くはありません。ただ⋮⋮﹂
﹁ザルーダの王が必死で生き残ろうとすればするほどこの戦は長引
く。そして、それは連中の目論見どおりの展開と言う訳か﹂
﹁はい、この戦が始まってから西方大陸全体の物価は天井知らずに
高騰を続け、手の者が調べた限りでも連中の息のかかったかなりの
数の商会が利益を上げております。恐らくですが、今回の停戦も連
中の手の者が裏で動いたのではないかと⋮⋮﹂
﹁まるで腐肉にたかるハゲワシだな﹂
にやにやと笑みを浮かべた男の口から痛烈な皮肉が飛び出す。
1547
だが、確かに戦を食い物にして己の利益を図る人間にはお似合い
の言葉ではあった。
﹁聖下のおっしゃるとおりかと﹂ まさかザルーダへこれ以上抗戦するなと使者を出すわけにもいか
ないし、出したところで意味はない。
二人にとってザルーダ王国の存続はそれほど重要ではないが、ザ
ルーダ王国の国王であるユリアヌスにすれば自国の存続こそが最優
先なのだから。
長い沈黙が広間を支配した後、男はおもむろに口を開く。
﹁何か策はあるのか?﹂
﹁ございます﹂
﹁ほぅ﹂ ﹁聖下は城塞都市イピロスに拠点を構えるクリストフ商会と言う名
を耳にされた事は?﹂
老人の言葉に男は無言のまま首を横に振る。
光神教団を収める教皇の耳に一地方に存在する小さな商会の名前
など入りはずがないのだ。
﹁そのクリストフ商会とやらがどうしたのだ?﹂
﹁連中と同じ手法を使い、今回の戦で巨額の利益を上げております﹂
老人の言葉を聞き男の眉間がピクリと動いた。
1548
﹁連中の仲間か?﹂
﹁それは現状では分かりかねますが、その商会と裏で手を組んでい
ると思われる貴族がおります﹂
そこまで聞けば、男は老人が何を考えているのか手に取るように
理解出来た。
﹁なるほど、その貴族を揺さぶり反応を見る⋮⋮か﹂
﹁はい、連中の仲間ならば動向を監視すれば良いですし、万が一連
中の仲間でないとすれば﹂
﹁良い駒になるか﹂
﹁はい﹂
﹁良いぞ良いぞ。それで行くとしよう﹂
男は両手を叩いて笑い声をあげる。 玉座の間に男の狂ったような笑い声だけが響いた。
1549
第4章最終話︻裏表︼其の3︵後書き︶
これにて第4章は終了となります。
長い間読者の皆様をお待たせしてしまい申し訳ございませんでし
た。
第5章の展開も決まっておりますし、順次更新をかけていきたい
と考えております。
※書籍版のほうですが、年内での発売をめざし鋭意制作中です。
そちらもご期待いただければと思います。
時間が取れず返信が出来ていませんが、いただいた感想には目を
通しております。
今後も感想やポイントをいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
1550
第5章第1話︻帰還︼其の1
﹁はぁ、はぁ、はぁ、はぁ⋮⋮﹂
荒い息遣いが、耳に大きく響く。
それが敵に自分の位置を知らせる愚行だと頭ではわかってはいた
が、体がそんな若者の想いを許しはしない。
確かに幾多の戦場を潜り抜けてきた若者の体は鋼の如く鍛えられ
ていたし、武法術によってその優れた身体機能は更に強化されては
いた。
しかし、筋力も持久力も常人とは比べ物にならないほど強化され
はしても、所詮それは人間という存在の枠の中。
酸素を肺に吸い込み、糖や脂肪を燃焼させエネルギーを生み出す。
そして生み出されたエネルギーは筋肉によって消費され、酸素は二
酸化酸素へと変化して体外へと放出される。それら一連の人間とい
う生物の持つ基本的な構造原理は何も変わらない。
たとえ若者がダブルcランクという、ギルドの若手の中でも指
折りの腕利きだったとしても⋮⋮
滝のように額から滴り落ちる汗を乱暴に手で拭い、若者は腰に吊
り下げた皮袋を口元へと運ぶ。
皮の味が染みついた生ぬるい水。
お世辞にも美味いといえる様な味ではないが、それでも今の若者
にとっては最上級のワインにも等しい生命線だ。 ﹁これでお終いか﹂
最後の一滴まで絞りつくすように口に含むと、若者は苛立たしげ
に袋を投げ捨てる。
1551
森の中に点在する水場までたどり着く事が出来れば、水を補給す
る事は可能だ。
若者とて、事前にギルドに保管されていたウォルテニア半島の地
図に目は通している。
それは、現代日本で使われるような精密な地図とはとても比較に
ならないお粗末なものだが、それでも水場のある方向くらいは掴ん
ではいた。
しかし、その水場にたどり着く可能性は万に一つもなかった。
︵連中は意図的に俺を水場とは逆の方向へ追い立ててやがる⋮⋮体
力を消耗させてから狩る気だ︶ 苛立たしげに唾を吐くと、若者はちらりと後方へ視線を向ける。
整備された平坦な街道を十キロ走ってもさほどの疲労感を感じは
しないだろうが、ここはその名も高き人外魔境。鬱蒼と生い茂る森
の草木とそこに生息する怪物達が逃走を遮り、後方からは姿なき追
跡者達が追いかけてくるとなれば、肉体的にも精神的にもかなり追
い詰められていた。
どこかで一度小休止を入れたいというのが正直な思いなのだ。
︵くそったれが︶
この仕事を受けようと言い出した仲間は、既に黄泉への旅路を歩
み始めている。
金に汚い人間ではあったが、若者とは不思議とうまがあった。
仕事が終わり懐具合がよくなった夜はよく連れ立って酒場や娼館
へ繰り出したものだ。
しかし、今の若者の心を埋め尽くすのは死んだ相方への尽きぬ罵
声とこの仕事を引き受けた自分の浅はかな判断への後悔。
報酬として提示された金額は相場の五倍。それも、前金払いの上
で、調査の結果次第ではさらにボーナスまでつけるという。
とある貴族から直接依頼されたギルドを通さない怪しい仕事では
あったが、ただの調査でこの金額はかなり美味しい依頼の筈だった。
だからこそ若者もこの話に乗ったのだ。
1552
だが⋮⋮
︵何が簡単な調査だ。あの野郎。こんなクソみたいな仕事に俺を巻
き込みやがって︶
ウォルテニア半島。
それはギルドに所属している荒事を生業とする人間ならば、一度
は耳にした事のある地名だ。
実際、若者も過去幾度となくこの土地の噂は耳にしていた。
曰く、海賊の根城と汚れた亜人の隠れ集落が存在すると噂される、
見捨てられた土地。
曰く、凶暴で強靭だが、非常に高値で取引される皮や牙を持った
高位怪物共がひしめく宝の山。
そんな話を聞かされる度に、いつかは自分も腕を上げてかの地へ
行くのだと、仲間達と酒場で気勢を上げたものだ。
何しろ、かの地に行って生きて帰って来る事が出来れば、ギルド
や同業者からは腕利きと認められ一目も二目も置かれる様になる。
駆け出しの若者が恐怖と共に憧れを抱く様になって当然だった。
そんなウォルテニア半島に変化が訪れたのは今から二年年ほど前
の事。突然、今まで見たことも聞いたこともない名前の貴族が誕生
し、ウォルテニア半島をローゼリア国王より賜った。
それはまさに青天の霹靂。
その事を聞いた多くの人間は、まず無名の傭兵が貴族に叙せられ
た事を驚き、次にウォルテニア半島を押し付けられた事に嘲りの笑
い声をあげたものだ。
名目こそ報酬ではあるが、普通に考えてそれは嫌がらせや罰ゲー
ムに等しいものでしかないのだから。
確かに、ウォルテニア半島は一貴族が領地にするには広大な土地
ではある。
それこそ、西方大陸全土を見渡しても、これほどの土地を領する
貴族は数えるほどしかいないのだ。
しかし、如何に広大な領土であろうとそこに住む人間が居なけれ
1553
ば何の価値もない。
何も生み出さない不毛な土地を得た、治める民もいない裸の王様。
いや、この場合は貴族様か。
どちらにせよ、御子柴男爵への世間一般的な評価としては、名前
に惑わされ貧乏くじを引いたアホな貴族という評価が多かったのだ。
だが、その評価が大きな間違いだった事を若者は身をもっておも
い知らされた。
﹁あれを作った奴は⋮⋮化け物だ⋮⋮﹂
若者の脳裏に自分が丘の上から目にした光景が浮かび、感嘆とも
罵りとも取れる言葉が唇から洩れた。
それはローゼリアの片田舎で生まれた若者が、今までの人生で見
てきたどの都市よりも立派で巨大だった。
確かに、ギルドへの登録のために訪れた王都ピレウスや、仲間達
から伝え聞くオルトメア帝国の首都といった巨大都市に比べれば幾
分規模は劣るかもしれない。
だが、高く分厚い城壁で幾重もの囲まれた街と、海岸を埋め尽く
すように設けられた巨大な港を見れば、誰が冷静でいられるだろう。
そして、湾の中央に建設されつつある巨大な城。
その壮大で機能的な城は若者と彼の仲間達の心を圧倒した。
﹁伝えるんだ⋮⋮あそこの事を⋮⋮﹂
今、ウォルテニア半島の実情を正確に知っている人間はいない。
それは、御子柴男爵が領内へギルドの支部を作ることを拒み、ザ
ルツベルグ伯爵領の北に関所を設けて殆ど全ての通行を遮断してい
る為だ。
そのため、今ギルドにはウォルテニア半島へ資源を採取する依頼
が増え、ギルドを通さない裏の仕事では半島の実態調査を希望する
1554
周辺貴族達の依頼が引きも切らない。
そんな時、報酬の良さから今回の仕事を引き受けた訳だが、現実
は無情だった。
﹁あそこが化け物の巣だと⋮⋮みんな口封じに消されたんだと⋮⋮﹂
御子柴男爵がウォルテニア半島を領ししばらくしてから、かの地
へ向かった傭兵や冒険者達がみな消息を絶つという事件が起きた。 初めは、自分の実力を勘違いした馬鹿な連中が怪物の餌になった
だけだと思われていたのだが、若者はその真の理由を身をもって理
解していた。
あの丘の上から見た巨大な城塞都市が全てを物語っている。
わずか数年でこの人外魔境にあれほどのものを作り出した手腕は
まさに化け物を言う言葉がふさわしい。
自分が得た情報を依頼人へ持ち帰らなければならないという使命
感が若者の体を浮き動かす。 それが仲間達を失い、一人だけ生き残った自分に出来る唯一の償
いだと信じて⋮⋮
やがて若者の行く手が開けてきた。
山裾の広がる森を抜け、ザルツベルグ伯爵領の境近くまでたどり
着いた証拠だ。
若者は酷使され疲労の極みに達し悲鳴を上げる体へ最後の力を込
める。
︵もう少し⋮⋮もう少しだ︶
若者は必死で走り続ける。だが、あともう少しというところで、
突然木の上から黒い影が降ってくる。
そして、何かが光ると共に何か冷たい物が若者の喉を掠めた。
﹁え?﹂
1555
思わず足を止め喉に手を当てた若者の目が恐怖と驚愕で凍りつく。
どろりとした粘着質の液体。汗以外の何かが、若者の首筋から流
れ出る。
自分の命を刻む時計の針が鈍くなっていく事を感じ、若者は恐る
恐る自分の両手を目の前へと持ち上げる。
﹁血⋮⋮だ⋮⋮﹂
心臓が鼓動を打つたびに、首から液体が胸へと滴り落ちた。
赤黒く染まった手。
喉の奥から熱い物が込み上げてきて、若者はその場に崩れ落ちる。
﹁ここまで逃げてくるとは、運のいい男だ﹂
手にした小太刀の血を布で拭いながら、黒い影は無機質な視線で
若者の死体を見下ろす。 ﹁あいつらも懸命に修練を積んでいるようだがまだまだだな。厳翁
殿に少し厳しく仕込むように言っておくか﹂
﹁まぁそうお言いでないよ、竜斎殿。ここ数ヶ月仕込んだだけにし
てはあの子達の腕は中々のものさね。あまり過酷な修行を行って潰
してしまったら元も子もないからね。お館様が出立される前に、あ
まり無茶な修行をさせるなと釘を刺されてるんだろう? まぁ、焦
らぬ事よ﹂
しわがれた女の声が背後から掛けられ、影はゆっくりと振り向く。
﹁そうは言うがお梅殿。お館様が戻られる前に少しでも腕を上げさ
1556
せたいではないか﹂
竜斎が不満そうに口を開いた。
伊賀埼衆の長老として一族の興亡に人一倍の責任を感じる竜斎と
しては、少しでも亮真に対して自分達一族の利用価値をアピールし
たいというのが本音だ。
忍びとは生きた道具。
そして、道具とは使おうとする人間がいてこそ存在する意味があ
るのだ。
﹁まぁ、確かにその気持ちは分からなくもないけどね。侵入者五人
のうち四人まではあの子達だけで始末をつけたんだ。そこは認めて
やっても良いんじゃないのかい?﹂ ﹁こいつの腕が予想以上だったという事か﹂
忌々しげに竜斎が足元の遺体へ蹴りを入れる。
﹁そうさ。それに、偶に紛れ込むこういう腕利きを始末する為に私
達がわざわざここにいるんだからねぇ﹂
その言葉に、竜斎はしぶしぶ頷く。
実際、伊賀埼衆の中でも最高位である長老衆に属する人間が二人
もこんな辺鄙な場所にいるのは、単なる物見遊山ではない。
﹁確かに⋮⋮お梅殿の言われるとおりだな﹂
﹁実際お館様が考えられた訓練方式はかなり成果を上げているよ。
何しろただの子供がまがいなりにもいっぱしの忍びとして働くだけ
の力をつけたんだからね﹂
1557
﹁わざと連中に国境を越えさせてから口封じのために狩ると言われ
た時には意味が分からんかったがな﹂
そういうと竜斎は苦笑いを浮かべた。
セイリオスの街の発展は今はまだ他人に知られる訳にはいかない。
何れは大陸全土に知らせ交易を盛んにすることとなるだろう。し
かし、御子柴亮真という領主がザルーダ遠征に赴き不在の今、この
情報が外へ洩れればどこでどんな動きが起こるか予想がつかないの
だ。
だから、情報封鎖の為に国境を封鎖した事自体は正しい。
問題は、亮真が下したもう一つの命令だ。
﹁そりゃあたしだって同じさ。あの方以外の一体誰が、わざわざセ
イリオスの街まで密偵を引き入れてから始末するなんて危ない修行
方法を考え付くんだい。確かに一度実戦を経験すればそれだけで腕
は格段に上がるだろうけどね﹂
国境線で密偵の侵入を阻むのではなく、いったんセイリオス近郊
まで侵入させた上で口を封じる。
一見すると非合理で無駄な危険を冒しているように思えるが、実
のところは真逆だった。
それは極限まで人の命を利用しようという実に利己的で冷酷な思
考だ。
そして、実際この策は上手くいっている。
わずかな期間で、奴隷として各地より買い集められたただの子供
が、紛いなりにも忍びとしての仕事を出来るようになるまで育った
のだから。
﹁獅子は子に狩りを教える時に弱らせた獲物を与えて教え込むと聞
1558
くが、それと同じか⋮⋮﹂
﹁まぁ、確かに度胸をつけるには良い手だよ﹂
﹁だが、そうなるとそろそろこの修行法も危なくなってきたという
訳だな﹂
﹁そうだね。竜斎殿にままだ伝えていなかったけれども、このとこ
ろあの子達の追跡を振り切って国境近くまで辿り着く腕利きが増え
て来ていてね﹂
﹁ふむ、それでワシを呼んだと言う訳だな﹂
お梅の言葉に竜斎は深いため息をついた。
確かによほどの馬鹿でない限り、何の対策も取らずに密偵を送り
込み続けるはずがないのだ。
﹁あぁ、もうしばらくは持つと思うけれども、早めに手を打ってお
いたほうがいいと思ってね﹂
帰還者が居なければ当然の事ながら、依頼人やギルドは派遣する
人間の質を上げてくる。
初めはシングルEやFランクといった人間ばかりだったようだが、
最近はBランクやそれに近い腕利きの人間も混ざってきている。
このままいけば何れはAランクに属する一流と呼ばれる人間が派
遣されてくるだろう。
そうなれば如何に地の利が自分達にあるとはいえ、何時までも侵
入者達を確実に始末できるとは限らない。たとえ、伊賀埼衆の手練
れが決して逃さないように十重二十重の防衛網を張っていたとして
もだ。
1559
﹁今後もこの程度の人間が派遣されてくるのなら問題はないが⋮⋮
甘い考えだろうな﹂
﹁まぁ、その辺の事はお館様がお戻りになられた後に相談すればい
いさ﹂
その言葉に竜斎は小さく頷くと、遥か南の空を見上げた。
王都にて帰還の報告を終えた己が主の帰路を想い。
﹁後二日というところか﹂
﹁あぁ、そんなところだろうね﹂
1560
第5章第1話︻帰還︼其の1︵後書き︶
お待たせしました。第五章の開始です。
ネタバレを防ぐために今回は章のタイトルを伏せておこうかと考え
ております。
頑張って更新していきますので、よろしくお願いいたします。
1561
第5章第2話︻帰還︼其の2
夜の闇に包まれたセイリオスの街。
その中心に建てられた屋敷の窓からは、深夜にもかかわらず未だ
に明かりが漏れていた。
ローゼリアの王都ピレウスで行われた祝賀会を終え、一年以上
も留守にした自分の領地へ戻ったのは今日の昼過ぎあたり。
それから一息入れる間もなくずっと執務室の椅子に腰かけ書類仕
事に追われている。
だが、今の亮真に休みはない。
︵まさに貴族の鏡⋮⋮だな︶
自嘲の笑みが漏れた。
亮真は執務机に肘をつきながら、分厚い報告書の束をめくってい
く。
そこには伊賀埼厳翁の手によって、今後ウォルテニア半島の全体
に張り巡らされる予定の防諜に関しての計画が詳細に記載されてい
た。
︵問題点の指摘に改善提案。それに優先順位をつけている。厳翁も
ボルツも伊達に年をくってねぇな︶
予想以上の成果に亮真は満足げに小さく頷く。
もちろん、二人は文官ではないので書類仕事を得意としていたわ
けではない。
記載された文章も決して質の高い物ではない。いかにも武骨で、
書類仕事に慣れていないのが丸わかりな書き方なのは事実だ。
恐らくローゼリアの王宮に仕える文官達にこの書類を見せれば、
無教養な野蛮人の書いた落書きだと無数の指摘を受けた後にろくに
読まれることもなくゴミ箱行きだろう。
しかし、読みやすい書類、形式を守った書類を作る重要度は確か
1562
に高いものの、亮真にとってそれは必須とは言えない。
今ウォルテニア半島に最も必要とされているのは、理想的な組織
の全体像を構築しその理想へ向かうための道順をイメージ出来る人
間。
そして、他に任せられそうな人材が居なかったとはいえ、亮真は
決して何の勝算もなく二人に半島を任せた訳ではなかった。
組織を管理運営するための基本的な考え方は常に同じだ。
短期的な目標、中長期的な目標。その中からそれぞれに対して優
先度をつけ、さらにリスクとメリットを明確化して対応していく。
それは現代社会でも十分に通用する思考。いや、いつの時代であ
ろうと必要とされる、上は国家の壮大なプロジェクトから、下は庶
民の家計にまで共通する考え方といえる。
だが、組織を作り運用していく上で必須な考え方でありながら、
これを理解し実行出来る人間は意外なほど少ない。
︵あの二人に任せて正解だった︶
二人が持つ人生の先達という圧倒的な経験値。俗に言う年の功と
いうやつだろう。
それは、今の亮真にとって何よりも重要な宝の一つだ。
厳翁は長年伊賀埼衆という組織を率いてきただけあって、その視
点は厳しい上に的確だし、それは先ほど読み終えたボルツの報告書
に関しても同じだ。
この結果から見ても、亮真の判断は的確だったと言える。もし仮
に不満を言うのであれば、もう少しきれいな字で簡潔に書いてくれ
というくらいだろうか。
︵まぁ、ご愛嬌ってところか⋮⋮それに、俺も作れと言われて作れ
る自信はないしな︶
慣れない書類作りに必死の形相で取り組む二人の顔が浮かび、亮
真の顔に人の悪い笑みが浮かぶ。
自分も作れないのだという事を棚に上げて。
1563
﹁ふぅ⋮⋮あと少しだな﹂
最後の一ページを読み終えた亮真は、ため息と共に大きく伸びを
すると、目を通し終えた報告書を傍らに立つローラへと渡たす。
﹁はい、後はシモーヌ様の報告書で最後となります﹂
﹁了解﹂
若干うんざりしたような表情を浮かべつつも、亮真は素直に手渡
された書類へ視線を向ける。 流石に、ウォルテニア半島に帰還してから今まで、ずっと執務室
に籠って報告書の確認に時間を費やしていれば嫌気がさしてくるの
も当然だった。
だが、その反面、この不毛な作業の重要性を理解してもいる。
亮真はボルツや厳翁といった面々を信用はしていたが、無条件の
信頼はしていない。
信用と信頼の差。そして信じて仕事を任せるのと、放置は違う。
︵難しいところだがな⋮⋮︶
口を出しすぎれば自分を信用していないのかと反発を買うだろう
し、放置が過ぎれば自分に関心がないのかと腐るのが人間。
それは規模こそ違え、家族でも会社でも社会でも本質的には同じ
事。
そして⋮⋮
﹁本質を理解していれば応用が出来る⋮⋮か。なるほどな﹂
それは亮真の祖父である御子柴浩一郎が幾度となく口にした言葉。
耳にこびり付くほど繰り返されてきたそれが脳裏に浮かび、亮真は
思わず苦笑いを浮かべた。
1564
日本で暮らしていた時には口うるさい戯言と思っていたが、この
異世界に呼ばれてから、亮真の命を救ってきたのはその戯言の数々。
︵祖父≪じい≫さんに教わった考え方がここでも活かせるとはな︶
面倒な作業ではあるが、こういった書類仕事は基本。それを疎ん
じるようでは組織の管理は出来ない。
そして、基本を積み重ねた先に奥義が存在するのもまた、武と同
じ。
︵ましてや、俺の望みはその先にあるんだからな⋮⋮︶
自らの最終目標を頭に想い描≪えが≫いた瞬間、背筋に電流が流
れる様な感触が走る。
それは平和を絵に描いたような日本での生活からは想像も出来な
い偉業。
男ならだれもが一度は夢に見た事はあるだろう。だが、実現の可
能性はまず皆無と言える空想だ。
しかも、それ自体が目的なのではない。あくまでもそれは亮真の
望みを達する為の手段でしかない。
︵まぁ、焦らずやりますか。先は長いんだしな︶
猛り狂う想いを沈めるために亮真は深く息を吸い、ゆっくりと吐
き出す。
心の奥に秘めた野望と憎悪の火は、未だ亮真の心を燃え上がらせ
ている。だが、それに振り回されていては身を滅ぼしかねないのだ
から。
﹁お疲れ様でしょう。今、お茶をお持ちいたします﹂
﹁あぁ、そうだな。一息入れるか﹂ 自分でも集中力が切れてきたのを自覚していたのだろう。サー
ラの言葉に亮真は素直に頷くと、軽く首を回す。
羊皮紙が一般的な大地世界において紙はかなりの貴重品だが、今
1565
の亮真にとってはさほど痛手でもない。
紙の確保と安定供給は、領内発展の為の資金稼ぎと共に、シモー
ヌに幾つか命じていた事の中でもかなり優先度の高い物だ。
その確保に成功した事は亮真にとって実に喜ぶべき成果だった。
しかし⋮⋮報告書の記述が中盤に差し掛かったあたりから亮真の
表情が曇りだした。
︵おおむね予定通りだが、少しばかり気に入らないな⋮⋮まぁ、全
てが俺の思い通りになる訳がないが︶
いや、亮真の思い通りに事が進まない事など幾らでも存在する。
問題は、思い通りに行かなかったからと言って放置するのか、少し
でも自分の意向に沿うように修正しているのかの違いだ。
亮真は眉間に皺を寄せながら更に手にした書類を読み進めていく。
シモーヌに命じた仕事の中で、紙を筆頭に鉄や木材といった資源
の確保と供給はおおむね満足のいく成果が出ている。諜報機関とし
ての組織作りもまずまず順調であり、西方大陸東部三ヶ国に関して
はかなり綿密な情報網の構築に成功していた。
シモーヌは及第点以上の成果を上げている。ほぼ完璧と言ってい
い成果。そう、たった一つを除いて。
机に置かれた紅茶を一口すすり、亮真は再び思考の海へとその身
を沈めていく。
︵予定していた金額の半分にも満たないか⋮⋮まぁ、直近で使う予
定が合わるけじゃないし、交易が順調のようだからいずれカバーは
出来るが⋮⋮︶
シモーヌに命じた最優先事項。領内開発のための資金集めだが、
思った以上に成果が出ていない。
書類に記された金額は約三億バーツ。それは当初、亮真がザルー
ダへ出征する前にシモーヌと打ち合わせをした際に想定していた金
額の三分の一程度に過ぎなかった。そして、問題はそれに対しての
理由がどこにも記載されていないのだ。
︵シモーヌの経営手腕に問題があるとは思えない︶
1566
実際、シモーヌの経営手腕は卓越している。
当初はわずか二隻に過ぎなかった商会のガレオン船が今や八隻ま
でに増え、西方大陸北部の海を交易品を満載にして駆け巡っている
のだ。
確かにエルネスグーラと東部三ヶ国の間に結ばれた協定によって
商業圏は広まってはいた。完全に自由貿易と言う訳ではないが、そ
れでも今までより格段に商売はやり易くなっている。そして目端の
利くエルネスグーラやミストは国家主導の下、国内の有力商人と連
携して製品の生産や輸出入を活発化させていた。
大きな商機。しかし、それは同時に同業者との戦いが激しさを増
した事を意味する。
そんな中で確実に利益を出しているのだからシモーヌに商才がな
いとは言えないだろう。
だが、そうなると問題は更に深刻さを増す。
亮真の脳裏にザルーダ国王ユリアヌスから告げられた忠告の言葉
が思い浮かんだ。
︵嫌な感じだ︶ その事が今回の件に関連していると、何か確かな裏付けがある訳
ではない。
しかし、亮真の勘がしきりに警報を鳴らす。
恐らくシモーヌはわざと理由を記載しなかったのだろう。
︵問題は書けなかったのか、書かなかったのかだな⋮⋮シモーヌに
確認するか⋮⋮︶
壁のかけられた時計の針は午前一時を指していた。うら若き女性
を呼び出すには適切とは言えない時間だが仕方がない。
何となく今後の動き方を大きく変える転換期になる様な気がする
のだから。
︵やはりあの件かしら⋮⋮︶
1567
深夜の急な呼び出しにも関わらず、シモーヌの顔に戸惑いはない。
提出した資料に詳細を記載してはいたが、あの事に関してだけは記
載していない。
亮真の性格を考えれば直接確認したがると容易に予想出来る。
︵でもまぁ、まさかこんな時間に呼び出されるとは⋮⋮ね。少し私
の読みが甘かったかしら。でも、ちょうどいいわ。私も直接お聞き
しておきたいことがあったし⋮⋮︶
シモーヌとして夜が明けてから面会を申し込もうと思っていたの
だが、亮真はそれ以上にこの件を注目しているようだ。
しかし、ある程度予感していたとはいえ眠りを妨げられてから大
急で身支度した女の身。髪の毛のセットに十分な時間が取れなかっ
たせいで、少し形が気になり髪へ手が伸びた。
﹁シモーヌ・クリストフ様がお見えになりました。お通ししてもよ
ろしいでしょうか?﹂
執務室の扉を守る衛兵がシモーヌの来訪を告げる。まだ顔に幼さ
の残る年若い兵士だ。
だが、その挙動は十分に熟練している。
︵よくもまぁあの子達へ礼儀作法まで仕込んだわね⋮⋮︶
もちろん、上級貴族の館に使える生え抜きの使用人に比べれば幾
分質は劣るだろうが、商売柄貴族とやり取りをする機会の多いシモ
ーヌの目から見ても十分に許容できる範囲。
その上、この衛兵は年若さに似合わず兵士としても優秀なはずだ。
何しろ全ての兵士が武法術を習得しているウォルテニア半島の中
で、その支配者の執務室へ続く扉を守るのだ。忠誠心に篤く腕の立
つ人間を選ぶのが当然なのだから ﹁えぇ、お通ししなさい﹂
1568
鈴の鳴る様な声。
執務室の扉がゆっくりと開かれ、シモーヌの体が前へと進む。
久しぶりに顔を合わせた亮真の顔は普段と変わらぬ穏やかな笑み
を浮かべている。
︵まるで主人のそばを離れようとしない犬みたい⋮⋮相変わらずの
様ね⋮⋮︶
その後ろに影の様に控えるのは金と銀のの髪を持つ双子の姉妹を
見て、心の奥底から嫉妬によく似た感情が湧き上がるのを感じ、シ
モーヌは思わず苦笑いを浮かべた。
それは、御子柴亮真が過去一度としてシモーヌに言い寄ったこと
がない事への不満からだろうか。
﹁夜中にすまなかったな﹂
﹁いえ、お気になさらずに﹂
亮真の勧めに従いソファーに腰かける。先日シモーヌが買い揃え
た家具の中で高価な者の一つだけあり、座り心地は最高だ。
︵ダメよ⋮⋮今は仕事に集中しなきゃ︶
湧き上がってくる女としての不満を押し隠すかのようにそっとス
カートによった皺を伸ばすと、シモーヌは真剣な表情を対面に座る
青年へ向ける。
﹁なるほど、直接聞く事にして正解だったようだな﹂
﹁えぇ、私としても早いうちにお時間をいただいたほうが良いと考
えてはいましたから⋮⋮ただ、お戻りになられてからこれほど早く
呼び出されるとは思いませんでしたけど﹂
だが、その言葉に隠されているのは非常識な時間に呼び出した亮
1569
真への嫌味ではない。実際、シモーヌは亮真の判断の速さを称賛に
値すると考えている。
﹁悪かったな、まぁ、俺もどうしようか悩んだんだが、ザルーダの
王から言われた忠告もあってな﹂
﹁忠告ですか?﹂
﹁あぁ、シモーヌの話に関係しているか確信があるわけじゃないが
⋮⋮﹂
珍しく歯切れの悪い亮真の言葉にシモーヌの顔に疑問符が浮かん
だ。
﹁それは一体どのような?﹂
凡庸な国王として有名なザルーダ国王ユリアヌスの言葉。
今度の戦に関しても、ローゼリア王国内でのユリアヌスの選択に
対しての評価は冷ややかだ。
実際、シモーヌ自身も疑問に感じている。
︵そもそも、この方があの和平を聞き素直に引き下がった事が変だ
わ⋮⋮第一、あそこで戦が終わりになってしまえば当初の予定が崩
れてしまうもの⋮⋮︶
ちぐはぐな決断。
少なくともシモーヌはそう感じていた。
だが、その問いに亮真は答えるつもりがないのか言葉を遮る。
﹁シモーヌが聞きたい事は分かっている。リオネさんにも散々問い
詰められたからな。だが、悪いが今は後回しにさせてくれ。どうせ
厳翁やボルツにも説明が必要だからな﹂
1570
主にそこまで言われればシモーヌとしては多少不満を感じても黙
って頷くしかない。 ﹁では時間も時間だ。早速話を聞かせてもらおうか⋮⋮﹂
亮真の問いにシモーヌはゆっくりと口を開く。 その日、シモーヌと亮真の間で行われた話し合いは夜明けまで続
いた。
1571
第5章第3話︻帰還︼其の3
金。それはある一定の水準を超えた文明社会において万能の武器
であり防具。
金は食料になり衣類になり住居になる。知識になり時間になり場
合よっては人の生死すら支配する。
まさに究極とすら言える力。
︵それは異世界だろうとなんだろうと変わりはしない⋮⋮まぁ、そ
ういう意味ではこの世界が貨幣もない未開の地じゃなくてよかった
ぜ︶ 極端な話、貨幣の意味も価値も知らぬ原始人が暮らす異世界が存
在しないとは言い切れない。
何しろ自分がこの大地世界にいること自体が荒唐無稽なおとぎ話
なのだから。 頬杖をつきながら会議の進行を聞いていた亮真の視線が手の中輝
く黄金の貨幣へ注がれた。
︵いい感触だ⋮⋮たまらなく︶
黄金特有のずしりとした確かな重量感。そして、金属特有のひや
りとした感触に自然と唇が吊り上がる。
紙幣に比べ金貨は重く持ち運びに不便ではあるが、紙では決して
持ちえない充実感があるのだ。
﹁意味が良くわからないねぇ⋮⋮つまり坊ややあんたの狙いは初め
から金だったって事なのかい?﹂
会議室と名付られた一室。巨大な黒檀の円卓を囲むのはウォルテ
ニア半島の支配者とその側近達。
その一人であるリオナは会議開始当初から椅子に深く腰掛けなが
1572
ら沈黙を守っていたが、シモーヌの話を聞き終えるやいなや開口一
番に噛み付く。
その瞳の奥に隠された暗い怒りに気が付き、亮真は苦笑いを浮か
べた。
︵機嫌が悪いな⋮⋮予想通リの反応か⋮⋮リオネさんらしいが︶
問題はその怒りの理由。
一回の傭兵としてならリオネの怒りは正しい。戦場の部隊指揮官
としても彼女は正しいだろう。だが、亮真が彼女へ求めるのはそん
な低い次元ではなかった。
いや、それは別段リオネだけに求めているわけではない。 ︵うすうすは気が付いていたんだろうけどな⋮⋮︶
そうでなければリオネは本気で怒ったはずだ。そして、短気な彼
女が本気で怒りを感じたのならばとっくの昔に席を立っていただろ
う。
﹁リオネさん、それは少し語弊があるかと。私の仕事は確かに資金
や物資の確保ですが、亮真様にとってはそれが全てではありません
ので﹂ シモーヌの落ち着いた反論にリオネは顔をしかめた。
恐らくシモーヌの言葉に一定の理解を示したのだ。
︵まぁ、嘘は言ってないしな︶
少なくとも亮真はリオネ達へ嘘を言った事はない。確かに全てを
説明したかと問われれば否と言うしかないが、騙したと責められる
理由はない。
亮真が責められるべき理由があるとすればそれはたった一つ。全
てを説明しなかった事だけだ。
﹁なるほど、当初若が言われていたように、我々の力を周辺諸侯に
見せつける事とザルーダを防波堤に時間稼ぎをする事ですな﹂
1573
リオネの隣で腕組みをしながら沈黙を守っていたボルツが口を開
く。
﹁はい、その亮真様のお言葉に嘘はありません。実際問題としてそ
れらは私達にとって必須と言えましたから﹂
﹁ただし、全てを話した訳でもないと言う事ですかな?﹂
﹁端的に言えばそうなるかと⋮⋮﹂
﹁なるほど⋮⋮つまりこれで全てとは限らないという事ですかね?﹂
そこでボルツは意味深な視線を亮真へ向けた。
﹁いやいや、流石にこれ以上の隠し事はありませんよ。というか別
に隠していたつもりもありませんしね﹂
﹁なるほど⋮⋮こりゃぁシモーヌさんの言ううとおりだ。確かに我
々も尋ねませんでしたからね﹂ 大げさな身振りで首を横に振るとボルツは髪を掻き毟った。
﹁まぁ良いさ。納得は出来ないけど、確かにアタイも聞かなかった
からね⋮⋮﹂
恐らく頭では亮真の想いを理解していたのだろう。不承不承なが
らも納得はしたらしい。
﹁じゃぁ、改めて話を聞こうじゃないか。別に今更その話の為だけ
1574
にみんなをこんな朝早くから集めたんじゃないんだろう? という
か、アタイも坊やに聞きたい事があったのさ。いろいろと⋮⋮ね﹂
リオネの探る様な視線を受け、亮真は肩を竦める。
確かに聞きたい事は多いはずだ。亮真自身説明を避けていたとい
う自覚があるのだから、
﹁聞きたい事というのはユリアヌス陛下の件か?﹂
今までずっと事あるたびにリオネから問い続けられ、そしてはぐ
らかせていた一件の事だ。
﹁あぁ、あの爺さんが帰国の前日のあの夜に、一体あんたへ何を話
したのかずっと気になっていたんだよ﹂
﹁それは一体どういう⋮⋮﹂
話の流れが見えないボルツがリオネの顔を不思議そうに見つめる。
いや、それはこの円卓を囲むほかの出席者も同じだ。一斉に注がれ
る視線。だが、リオネは亮真から視線を外す事なく無言の圧力をか
け続ける。
﹁何もなかったとは言わせないよ。あの夜のあんたの態度は絶対に
普通じゃなかったんだからね﹂
詰問するような口調。よほど亮真の態度を我慢してきた現れなの
だろう。
︵まぁ、ちょうど良いか⋮⋮︶
長い話だ。そしてかなり込み入ってもいる。
はっきり言って亮真としてもどこから話すべきか悩んでいたとい
1575
うのが正直なところだろう。
﹁そうだな⋮⋮とりあえずそこから話をするとしようか﹂
亮真は一つ大きなため息をつくと静かに口を開いた。
﹁ユリアヌス陛下から言われたのは、今回の戦⋮⋮と言うよりもこ
の西方大陸で行われている戦の多くが、ある特定の集団の意思によ
って左右されているのではないかって話さ﹂
そして、その開いた口から洩れたのは特大級の爆弾。
あまりに予想外な言葉にリオネは唖然とした表情を浮かべた。 ﹁は? 何だいそれ⋮⋮﹂
いや、リオネだけではない、誰もが驚きの表情を浮かべて亮真を
見つめる。
驚いていないのはただ二人、亮真の左右に座るマルフィスト姉妹
のみ。
﹁まぁ、いきなりこんな話を聞いても信じられないわな﹂
実に自然な反応。というよりも、こんな話を何の前触れもなく聞
かされ納得してしまうような人間では亮真のほうが今後の付き合い
方を考えなければいけなくなる。
重苦しい沈黙が部屋を支配した。
誰もが言葉もなく亮真を見つめる。
彼らから見れば、亮真のこの発言はまさに正気を失った異常者の
妄言にも聞こえたのだろう。
1576
﹁ま、まぁ、若の話を最後まで聞いてみましょうぜ﹂
やっとの事でボルツが口を開く。
彼自身思うところはあるが、何はともあれ話を最後まで聞くべき
だと判断したようだ。
ただし、彼の瞳の奥に疑問と猜疑心が浮かんでいるのは致し方の
ない事だろう。
﹁悪いなボルツ。じゃぁ話を元に戻そう﹂
周囲を見回し彼らの心が落ち着きを取り戻した事を確認すると、
亮真は再び口を開いた。
﹁まず最初に言っておく。俺も決してユリアヌス陛下から聞いたこ
の話を鵜呑みにした訳じゃない。正直にいってあまりに突拍子もな
い話だからな﹂
その言葉に円卓を囲む誰もが無言のまま深く頷いた。
それは、既に亮真から話を聞いていたサーラやローラにしても同
じだ。
﹁だからこの話をユリアヌス陛下から聞かされた後、俺は誰にも話
さなかった。正直に言って俺はあの爺様の正気を疑ったよ。だが、
帰国の道すがら一人でいろいろ考えていたら俺はこの話が全くの妄
言ではないかもしれないと思う様になった。少なくともオルトメア
側に戦を長引かせたいと考えている人間が少なからず居るのは確定
だろう﹂
﹁というと?﹂
1577
﹁一つはジョシュア・ベルハレス﹂
如何に地の利があるとはいえ一年近くもジョシュアがオルトメア
帝国軍の侵攻を防いだという事実。
落ち着いて考えていくと確かに不自然ではある。
敵の物資輸送を阻むのは戦略の基本。しかし、その事はオルト
メア側も十分に理解しているはずだ。
何の対策も取らなかったのだろうか?いや、ジョシュアの奇襲戦
法に対してそれ相応の対策を取った言うほうが自然だ。
そんな状況下でジョシュアは多くの奇襲を成功させてきた。
もちろん全てを成功させたわけではない。それでもオルトメア帝
国の侵攻速度を低下させた。
それを亮真はずっとジョシュアの能力が優れているからだと思っ
ていた。
しかし、落ち着いて考えていくとそれだけでは説明がつかないよ
うに思えてきたのだ。
﹁つまり、オルトメア側に情報の提供者がいると言う事かい?﹂
﹁敵の中に味方を作るのは戦略の基本だからな。その辺は厳翁や竜
斎のほうが詳しいだろう?﹂
リオネの問いに頷くと、亮真は沈黙を守る厳翁達へと視線を向け
た。 ﹁なるほど⋮⋮確かに⋮⋮ですが、咲夜に聞いた限りザルーダに調
略に長けた人間がいるとは思えませんが?﹂
頷きつつも腑に落ちないという表情を浮かべる伊賀埼衆の面々。 確かに優秀な情報機関があればザルーダ王国があれほど劣勢に追
1578
い込まれる前に何らかの手を打つ。
その動き自体が見えなかったという事は、ザルーダ王国に密偵な
どの情報組織は存在しないか、あってもごく小規模な物のはずだ。 ﹁あぁ、だから俺も最初はジョシュアの才覚の結果だと思ってたさ﹂
調略は戦において基本だが、それだけに奥が深い。
緻密で巨大な情報網を構築し、優秀な人間が多数必要だ。
そして何よりも、そこで働く人間達には高い忠誠心と使命感が求
められる。
それは内部抗争に国力を消耗し続けて来たザルーダ王国には決し
て持ちえないものだろう。
それを持ちえる可能性があるのは、両国の国力差を直視し不正規
戦に活路を見出そうとした故ベルハレス将軍と彼の跡を継いだジョ
シュアの二人だけだ。
﹁だが、どうやら違ったらしい﹂
終戦後ジョシュアへ直接尋ねたところ、密偵を放つなどあくまで
一般的な情報収集に留まっていたようで、オルトメア帝国内に内通
者などはいないという話だ。
もちろんジョシュアの言葉が本当である証拠はないが、亮真自身
あの状況下でオルトメア側に内通者を作れるとは考えていなかった。
ならば結論は一つ⋮⋮
﹁オルトメア側の誰か⋮⋮それも遠征軍の司令部に近い人間が情報
を意図的に漏らしていたと?﹂
﹁落ち着いて考えてみれば、確かにオルトメア軍の失速は不自然だ
1579
ったからな﹂
リオネの問いに亮真は小さく頷く。
ザルーダの守護神と呼ばれたベルハレス将軍を殺した初戦の鮮や
かな策略に比べ、その後のオルトメア軍の動きは精彩さを欠いてい
る。
﹁俺はそれを始めはシャルディナの足を引っ張りたい誰かが帝国内
に居るんだと思った。主導権を巡る内部抗争なんて如何にもあり得
そうな話だからな﹂
シャルディナ・アイゼンハイトは皇帝の長女であり皇帝ライオネ
ルのお気に入りだ。
その信頼度は皇太子であるシャルディナの兄よりも恐らくは上だ
ろう。
それを嫌う誰かがシャルディナの足を引っ張ろうとした可能性は
十二分に考えられる。
亮真の言葉はあくまで推測ではあったが、この話を聞いた面々に
可能性を感じさせるには十分なだけの論理が存在していた。
﹁ですがちょいと待ってください。若の話の真偽はともかくとして、
今の推測はあくまでオルトメア帝国内部の話なんでしょう? それ
とユリアヌス陛下の言葉とどういう関連があるんですかい?﹂
話を整理しようという意図からか、ボルツが口をはさんだ。
それは当然の疑問。
﹁あぁ、ボルツの疑問は当然だ。確かに今の話はオルトメアの内部
で対立構造がありそうだって話にしかならない。だが、これから俺
の話を聞けば納得してもらえると思う﹂ 1580
﹁それは坊やがシモーヌに命じていたっていう資金稼ぎの話かい?﹂
﹁あぁ、俺はシモーヌへ十億バーツほどを目標に稼ぐ事を命じてい
た。今回の戦を利用してな﹂
﹁十億⋮⋮そいつはまた⋮⋮﹂
何でもない事の様に亮真は金額を口にしたが、事前に話を聞いて
いなかったリオネ達は驚きで目を見張った。
それは日本円に換算しておよそ百億円近くにもなる金額。
普通に暮らしていけばまずお目にかかることのない金額だ。
だが、亮真は顔色一つ変えずに言い放つ。
﹁なぁに驚くほどの事じゃないさ。俺の最終目標にはそんなはした
金じゃ全然足りないんだからな﹂ 実際問題として、今の亮真にとって金はあればあるほどいい。
十億バーツ程度ではウォルテニア半島の整備開発で終わってしま
う。だが、それでは先に進めないのだ。
﹁だけどさぁ、アンタ達は本気でそんな金を稼げると思ったのかい
?﹂
リオネの懐疑的な視線に周囲のどよめきが止んだ。
目標を立てるの良いが、それが実現不可能な目標では意味がない。
それに常識的に考えれば今の亮真達が十億バーツもの金を稼ぐの
はかなり難しいはずだ。
だが、その言葉を待っていたかのようにシモーヌが口を開いた。
1581
﹁えぇ、予定通りに事が進めば十分に可能な範囲の金額です﹂
﹁予定通り?﹂
﹁はい、ザルーダとオルトメア。この二国間で行われている戦を使
えば十分に可能なはずだったのです﹂
シモーヌの言葉にリオネが首を傾げる。
︵まぁ、当然の反応か⋮⋮戦争特需なんてこの世界の奴が普通に知
る様な知識じゃないものな⋮⋮だが、そうなるとやはり⋮⋮︶
その様子に亮真は自分の予想が正しい事を実感した。そしてそれ
は、自分と同じ知識を持つ人間がいる可能性を示唆している。
﹁やはり動くしかない⋮⋮な﹂
シモーヌの説明が会議室に響く中、亮真は小さく呟いた。
1582
第5章第4話︻帰還︼其の4
帝都オルトメア。西方大陸中央部の覇者にして、大陸全土をその
支配下に置こうという強国の首都。
ガイエス・ウォークランドの死を皮切りにここ数年来その覇業が
停滞しているとはいえ、平民にとっては何ほどの事でもない。
まだ、宵の口だ。帝都の大通りには酔客とそれを狙う娼婦達の
姿が見られる。
︵まいったな⋮⋮すっかり遅くなってしまった︶
王宮での仕事が予想以上に長引いた為、指定された時間を大きく
過ぎてしまい、男は月明かりに照らされた石畳を足早に北の歓楽街
へと進む。
﹁ちょいとお兄さん。アタイと楽しんでいく気はないかい? アン
タなら百バーツで良いよ﹂
﹁いいや、アタイなら七十五でいいよ。サービスするからどうだい
?﹂
男の手入れの行き届いた服装から金の匂いを嗅ぎつけた娼婦達が
我先にと声をかけるのを無視し、男は更に足を早める。
もともと待ち合わせの時間に遅れるかもしれない事は伝えている
ので、本来であればそれほど急ぐ必要はない。だが、生来の生真面
目さゆえか、男の足は少しも速度を落としはしなかった。
そんなつれない態度に業を煮やしたのか、女の一人が男のマント
を強引に掴む。
安い香水と煙草、そして汗のすえた様な匂いが混じった何とも言
えない体臭にが鼻につき、思わず男は顔を顰めた。
1583
春を売るだけあって普通の市民に比べればそれなりに手入れはし
ているのだが、それでも日本とは違い風呂に入る習慣のない下級娼
婦の相手をしてやろうとは思わない。正直に言って、男は女ならば
誰でも良いと盛るほど不自由をしていないのだ。
女の手を強引に振り払うと、男は振り返る事なく足を進める。そ
んな男の背後に女の罵声が浴びせられた。
恐らく、振り払われた際にバランスを崩し、膝を擦ったのだろう。
︵馬が使えないというのもどうにもな⋮⋮まぁ、事前に遅れるとは
伝えてあるが︶
馬車や馬が使えれば殆どの問題は片付くのだが、残念な事にこの
北の歓楽街では一切の乗り物が禁止されており、どんな高貴な身分
であろう徒歩で歩くしかない。 江戸時代の吉原遊郭が医者以外の籠乗りを禁じたのと同じような
ものだ。
︵まったく。毎度の事ながらどうもここは落ち着かないな︶
活気と喧騒は嫌いではないが、それも程度によりけりだ。
今まで何度となく感じた苛立ち。もっとも、こういった場所の方
が会合に適しているのは理解しているので不満を同僚や上司へ言葉
や態度として出した事はない。 何しろ、人目をはばかる集まりなのだから。
やがて見えてきたのは上級貴族の屋敷と見まごうばかりの立派な
門。高い塀と屈強な門番に守られたこの屋敷こそは、帝都最大にし
て最高級の女達が居る娼館だ。
﹁失礼ですがお客様。会員証をお持ちでしたらお出しいただけませ
んでしょうか。もしくは会員のどなたかのご紹介でしょうか?﹂
門の前で立ち止まった男に気づき、門番がその凶悪な人相に似合
わぬ丁寧さで訪ねてきた。
上級貴族ところか皇族ですらお忍びで通うと噂されるだけあり、
1584
この門番にも徹底した教育が施されているらしい。
﹁これでいいか?﹂
男はいつもと同じように懐より一枚のカードを取り出すと顔見知
りの門番へ手渡す。
今まで幾度となく繰り返してきたやり取り。
それに、門番が組織の一員である男の顔を見忘れる訳がないのだ。
いい加減顔パスでも良いのではと思わない訳でもないのだが、この
館の重要性を考えればセキュリティを重視するのは悪い事ではない。
少なくとも、その慎重な姿勢は秘密を守るのに最も重要な資質だ
ろう。
﹁はい、結構でございます。ではどうぞお通りください﹂
表面に書かれた番号と名前を素早く確認すると、門番は詰所の中
に置いてあった機器の台座へカードを差し込む。
そして水晶に表示された内容を確認し小さく頷くと、仲間へ開聞
の合図を出した。
重苦しい音を立てながら金属製の門がゆっくりと内側へ開いてい
く。
﹁皆様は既にお待ちでございます。斉藤様﹂
その言葉に斉藤は小さく頷くと、門の中へ足を踏み入れた。
男の名は斉藤英明。オルトメア帝国第一皇女シャルディナ・アイ
ゼンハイトの側近であり、夢魔騎士団の副団長にまで上り詰めた男
の名だ。
1585
屋敷に入った斉藤はメイドの一人に導かれ、シャンデリアの眩い
煌めきに満たされた大広間の階段を上る。 ﹁これは⋮⋮お待たせして申し訳ありません﹂
館の三階。その奥まった一室に通された斉藤は、ソファーに腰か
けた男達の顔を見るや否や反射的に頭を下げて詫びた。
部屋に居たのは二人の男。
そのうちの一人は何の問題もない。斉藤がこの館を訪れたのは彼
と話をする為なのだから。
だが、思いがけない人間の顔を見つけ、斉藤の背筋に冷たい物が
走る。 ﹁あぁ、挨拶はいいですよ。では、これで全員集まった事だし早速
話を始めましょうか﹂
二十代後半から三十代半ば。年の頃は斉藤と同じくらいだろうか。
日焼けした肌に短く刈り込まれた黒髪。大柄な体格で斉藤より二回
りは確実にデカい。丁寧に磨かれた白い歯を見せながら男はさわや
かな笑みを浮かべた斉藤を座らせる。
﹁カーターさん⋮⋮これは一体⋮⋮﹂
ソファーに腰を下ろしながら、斉藤は小声で隣に座る金髪の白人
へ話掛けた。
﹁斉藤君。良いから⋮⋮﹂
鋭い視線を向けられ斉藤は思わず言葉を飲み込んだ。
黙って座れ。この館の主人であり、帝都に張り巡らされた組織の
1586
情報網を束ねるジェームス・カーターの目がそう語っていた。元は
英国情報部に在籍していたと噂される男の視線に流石の斉藤も黙っ
た従うしかない。
︵一体どう言う事だ⋮⋮やはりザルーダ侵攻の件か⋮⋮でも、まさ
か菊川取締役が出張って来るなんて⋮⋮︶
言い知れぬ不安が斉藤の心を揺さぶる。多少は叱責される身に覚
えがあるので、斉藤としても気が気ではない。だが、追放ならばわ
ざわざこの男が姿を現すはずがなかった。
︵まさか⋮⋮追放。いや⋮⋮︶
それはオルトメア帝国皇帝ライオネル・アイゼンハイトを前にし
ても感じた事のない恐怖だ。
﹁別に固くなる必要はありませんよ。斉藤君。別に君を叱責に来た
訳ではありませんからね﹂
﹁いや、ですが⋮⋮では、なぜ?﹂
にこやかな笑みを浮かべる菊川に斉藤は言葉を濁した。
素直に頷ける訳がないのだ。
年齢こそ同じくらいではあるものの、組織の序列で言えば菊川は
上位十席の中に数えられる人間。それに対して斉藤は実動部隊の長
としてそれなりの権限を持たされているが、立場的には組織の中級
幹部にしか過ぎない。
会社でたとえるならば、この二人の間には課長と取締役なみの差
がある。 そんな男がこの場に姿を現したということ自体が非常事態なのだ。
だが、そんな斉藤の不安をよそに菊川は穏やかな表情のまま口を
開いた。
﹁いやいや、対帝国側との交渉の窓口役兼責任者として、ここしば
1587
らくは帝都を拠点にしていましてね﹂
だいぶ儲けましたよと笑みを浮かべる菊川。 ︵そうか⋮⋮この人の表の顔はギルド直営商会の商会長だったな。
なら帝都に居ても不自然じゃないが︶
国と直接取引を行える特権。それを持ち巨大な資本力と国の運営
にまで影響力を持つ商人達。
菊川が政商と呼ばれる有力商人達の一人である事を思い出し斉藤
の緊張がほんの少し緩む。
とはいえ、今の話が本当ならばここ数年来、菊川はずっと帝都に
いたはずだ。
︵何故急に⋮⋮︶
そんな斉藤の疑問を肌で感じたのか菊川は肩を竦める。
﹁なぁに、単純に帝都に居るから皆さんの労いも兼ねて伝令役とし
て命じられただけですよ。商売の方もザルーダ侵攻軍が帰還して暇
になってきたところですからね﹂
﹁それは⋮⋮﹂
自分の対応の不味さを遠回しに指摘されたような気がして、何と
答えたらよいのか言葉に詰まる斉藤。
そんな彼の表情を楽しそうに見つめながら菊川は言葉を続ける。
﹁まずは皆さんの働きに感謝の意を示したいと思います。特に斉藤
君、君には大いに感謝しないとね。あのシャルディナ嬢を上手くコ
ントロールしてくれたからこそ今回の計画が成功したのだから﹂
オルトメア帝国が勝ちすぎても負けすぎても戦は簡単に終わって
しまう。
1588
だが、それでは今回のザルーダ侵攻戦を商売にしようという組織
にとっては都合が悪いのだ。
そんな微妙なバランスを保つ為、斉藤は輸送部隊の行軍経路をザ
ルーダ側に漏らし、オルトメア軍の侵攻を遅らせた。それはザルー
ダ侵攻軍の中枢に席を置く斉藤にしても容易い事ではない。少しで
も疑われれば首を斬られていた事だろう。
﹁いやぁ、あの気難しいじゃじゃ馬姫の相手はさぞ大変だったでし
ょう? あの電撃戦を考えたのもあの女という話ですしね﹂
皇女シャルディナは決して愚か者ではない。
ここ数年は巡りあわせの悪さからさしたる結果を残してはいない
が、それでもノティス平原の戦において守護神と呼ばれたベルハレ
ス将軍を打ち取った智謀と作戦立案力は侮れない。
斉藤が上手い事ブレーキを掛けなければ、今頃ザルーダ王国は世
界地図の上から消えていたはずだ。 ﹁いえ⋮⋮連中は術式が解除された事を知りませんから﹂
菊川の問いに斉藤はゆっくりと首を振る。
服従の術式。それは地球より召喚された人間に施される術法の名
だ。いや、呪いと言った方が正しいのかもしれない。
この術式を強制的に埋め込まれた所為で、一体幾人の召喚されし
人間達がやりたくもない戦で命を散らしただろう。
﹁確かに。服従の術法が解呪されている事を知らなければ連中が君
を疑う事はないだろうからね。勿論それが我々の狙いでもある訳で
すが﹂
斉藤の言葉に菊川は唇を吊り上げ笑った。
1589
通常ならばこの術式を勝手に解除する術はない。そもそもとして、
大地世界の人間にとって斉藤を初めとした地球人は人の形をした獣
という扱い。少なくとも、同じ人間という意識は低い。もちろん、
一部の開明的な人間が居ないわけではない。だが、大抵の支配階層
にとっては意思があり言葉を交わす事の出来る都合の良い駒でしか
なかった。
初めから解放など選択肢にすら入らないのだ。
だから奴隷に用いられる通常の術式とは異なり、地球人へ用いら
れるのは希少な触媒を用いた解呪不可能と呼ばれる強力な術だ。反
抗心を抱けば痛みを感じ、それを行動に移せば死を招く呪い。召喚
者にって絶対の安全を保障する命綱といえる術。これがあるからこ
そ斉藤や須藤は一定の権限と自由をオルトメア帝国から与えられて
いるのだ。
獣に与える飴と鞭。だが、その絶対の保障も裏を返せば隙になる。
﹁だが、君がやりすぎれば疑問に思う人間が出てくるのも事実だ。
それに、今すぐ連中を殺して恨みを晴らしたいだろうに、それを少
しも悟らせていないのは称賛に値する自制心だと思うよ。そういう
意味からいっても君はよくやってくれている﹂
枷が外れた獣はすぐに牙を剥きたくなる。そしてそれは人も同じ。
たとえそれが己の破滅になると知っていても⋮⋮
だからこそ、斉藤のような男が必要なのだ。
﹁今更連中を一人二人殺したところで何も変わりはしませんから﹂
復讐という甘美な誘惑。その誘惑に耐える事が出来る人間は少な
い。 それを相手に悟らせる事なくザルーダ侵攻軍の内部情報をリーク
し続けた手腕は実に優れたものと言える。
1590
殺意と憎悪の宿った瞳。
押し隠してきた斉藤の闇がほんの少し顔を出す。
﹁君の恋人の事は知っているし気の毒だとも思っている。だが、も
う少しの辛抱だ。今回の戦で目標金額にかなり近づいたからね﹂
菊川の言葉に斉藤は無言のまま頭を下げた。
他人から慰めの言葉など貰ったところで失われた物は戻りはしな
いのだから。
︵辛抱か⋮⋮一体いつまで俺は⋮⋮︶
十年近くも斉藤は泥水をすすり血を流してきた。それもこれもた
だ一つ残された己の願いを叶える為だ。
そんな斉藤の想いを感じたのか、菊川は大きく前に身を乗り出し
て言葉を続ける。
﹁今回の計画が成功した事により我々はかなり資金に余裕が出来た。
そこで先日委員会は新しい戦略を打ち出す事に決定した﹂
そこで菊川は言葉を切ると、斉藤の目をジッと見つめる。
それは菊川にとっても大きな転換期。いや、組織の誰もがこの瞬
間を待ち望んでいたのだ。
﹁君に新しい仕事を頼みたい﹂
腹の奥底から絞り出すような低い押し殺した声が斉藤の耳に響く。
﹁仕事ですか?﹂
﹁あぁ、王太子とシャルディア。この二人を噛み合わせて欲しいん
だ﹂
1591
その言葉の意味を察し、斉藤の顔は醜くゆがんだ。
1592
第5章第4話︻帰還︼其の4︵後書き︶
今後も頑張って更新しますのでよろしくお願いいたします。
1593
第5章第5話︻帰還︼其の5
闇が街を支配し、娼婦と客達が共に一つのベッドの上で甘い夢を
引っ立て居た頃、娼館の一角に設けられた秘密の部屋では一人の男
が未だ姿を見せない客を待ちわびていた。
﹁ふむ⋮⋮随分と長引いているようですねぇ﹂
一人の男が足を組みながら壁に掛けられた時計の針へ視線を向け
楽しそうに笑みを浮かべる。そして、ソファーの傍らに置いた盃を
手にしながら、中の真っ赤な液体にそっと唇を付けた。
芳醇な香りが口いっぱいに広がると、男は満足げに深く頷きゆっ
くりと嚥下していく。
体中を包み込むような至福の時間。策謀と暴力で全身を真っ赤に
染めあげてきた男にとって唯一心休まる時間だ。
もっとも、神は男の事がよほどお気に召さないらしい。
扉をノックする音に余韻を感じる時間を邪魔され男は小さく舌打
ちをするが、すぐさま普段の表情に戻し悠然と入室を許可する。
それは上司が部下に対して掛ける態度だ。 ﹁須藤さん、とりあえず斉藤くんへの話は終わりました﹂
﹁ご苦労さん。随分と時間が掛かっていたようですが、何かありま
したか?﹂
扉を開けて入ってきた菊川を一瞥すると、男はいつもの様に人を
食ったような笑みを浮かべる。
その言葉に菊川は壁に掛けられた時計へ視線を向け、小さくため
1594
息をついた。
確かに当初予定していた時刻を一時間以上過ぎている。
﹁申し訳ございません。少しばかり手間取りました⋮⋮まぁ、彼の
立場から考えれば十分理解出来ますが﹂
家族を失った痛み。それは人に耐えがたい苦痛と悲しみを与える。
それが病や事故ならば、まだ心の整理はつけやすい。だが、他者
に力によって奪われたとなれば話は変わる。
組織に属する人間の多くが抱く激しい憎しみの炎。それは、表面
的には冷静で冷徹と見られている斉藤にしても同じだ。
いや、普段はそれを押し隠し、憎い敵に仕えている彼にしてみれ
ば、復讐の日が刻一刻と近づいている今の状況を平静に受け止めら
れないのも道理だろう。
﹁なるほど。彼にとっては当然でしょうね﹂
﹁えぇ﹂
そういって苦笑いを浮かべる菊川に須藤は手招きをした。
﹁それはそれはご苦労さまです。まぁ、菊川君。そんなところに立
ってないで、まずは一杯付き合ってくださいよ﹂
組織の上級幹部を目の前にしても須藤の態度は普段と何も変わり
はしない。言うなれば自然体。
逆に不自然なのは、菊川がそれを当然の事として受け止めている
事だろう。
﹁えぇ、それでは失礼します﹂
1595
館の一室でソファーに腰かけ悠然と盃を傾ける須藤の前に腰を下
ろし、菊川は卓の上に置かれた杯を手にする。
精細な彫り物が施された銀の杯。
その見事な造形をひとしきり愛でた後、菊川はゆっくりと杯を傾
けた。
﹁良い酒ですね。男二人で飲むのはもったいない﹂
芳醇な香りが菊川の鼻腔を擽る。
良質の葡萄から作られたワイン。それを少なくても数年から十数
年は寝かせた一品だ。
﹁あぁ、なんでも南部でも有名な蔵が秘蔵していた一品を買ったと
いう話ですよ。ふむ。確かに美女と共に飲むなら最高でしょうなぁ﹂
極上の美女に囲まれながら美味い料理と酒に酔いしれる。男なら
だれもが一度は夢想する光景。 まして、娯楽の少ない大地世界において色事の他に楽しみと言え
るような物など数えるほどしかない。
﹁確かに魅力的な提案ですが、先に仕事の方を済ませてしまいませ
んと﹂
そう言って小脇に抱えていた書類を差し出す菊川に、須藤はまる
で子供のわがままを聞いた父親の様にやれやれと肩を竦めてみせた。
﹁真面目ですねぇ。まぁ⋮⋮だからこそ、その若さで重役の一人に
抜擢されたのでしょうがね﹂
1596
﹁そちらが今回の報告書です﹂
﹁なるほどなるほど、彼の性格を考えれば当然の動きですね﹂
差し出された書類にざっと目を通し、須藤は片眉を吊り上げてみ
せる。
そこにはシモーヌ・クリストフと彼女の協力者であるに御子柴亮
真の一連の狙いと彼らの動きが記載されていた。
﹁須藤さんから話を聞いていましたから今回は何とか防げました。
ですが、御子柴亮真。彼は相当に厄介です﹂
ザルーダとオルトメア。二ヶ国間で行われた今回の戦によって西
方大陸全体の物価は大きく上昇している。
それはある意味で自然なことだ。
物を大量に消費する戦は商人にとって最高の仕事場であり、消費
が上向けば物資が不足し値が上がる。
少し頭を働かせれば誰でも理解できる経済の初歩と言えるだろう。
問題は頭で理解できる事と、実際に行動出来る事は別であるとい
う点か。
﹁まぁ、そうでしょうねぇ、彼は若さに似合わず老獪なところがあ
りますから﹂
一体どれだけの人間が御子柴亮真と同じような動きを出来るだろ
う。
ほとんどの人間は機会が訪れてもそれを生かすことは出来ない。
﹁援軍として赴いたザルーダはさておき、まさか敵対国であるオル
トメアにまで食い込もうと動くとは思いませんでした。その上、ク
1597
リストフ商会などという一地方の没落商会に帝都でしのぎを削る政
商とのパイプがあるとは⋮⋮﹂
﹁彼にしてみれば自分以外の誰がどうなろうと知ったことがないと
いうのが正直なところなのでしょうね。運もかなり良いですし、そ
れを活かすだけの器量と行動力も持っている。いやぁ、なかなか将
来有望な若者ですよ。彼は﹂
本心を隠してはいるようですけどと肩を竦める笑う須藤の態度に、
菊川は呆れたように首を横に振る。 確かに、須藤の人物評価を間違っていると否定するつもりはない。
実際、御子柴亮真は運命の女神に愛されているような強運と、そ
れを生かすだけの器量を兼ね備えた青年だ。
だが、それはつまり組織にとって放置する事の出来ない障害物に
なる可能性を秘めているという事でもある。
﹁笑い事ではないでしょうに。今回も私の方で彼らの取引先へ圧力
を掛けていなければ一体いくら稼がれる事になったか。もしそうな
ったら⋮⋮﹂
﹁値が崩れる前に防げて良かったですねぇ﹂
値を吊り上げるのは風船に空気を送り事に似ている。そして空気
をパンパンにため込んだ風船は針の先で少しつついてやるだけで簡
単に破裂する。
何れは破裂させるつもりではいても、そのタイミングを決めるの
はあくまで組織の判断によるものでなければならない。
そして、それまでの間は絶妙なバランスで高値を維持しつつ、資
金稼ぎを行うのだ。
1598
﹁まったく⋮⋮あなたという人は﹂
まるで他人事のような態度を崩さない須藤に、菊川は呆れたとば
かりに小さくため息をつくと首を横に振る。
もし対処が遅れていたら、組織の当初の目標額には達せず、計
画の見直しを迫られることになった可能性すらあったのだ。
組織が何年も費やして準備した計画。それがとん挫するなど考え
ただけで寒気が走る。
それはつまり、組織の悲願が遠のく事を意味するのだから。 ﹁嫌ですねぇ、私は初めから言ったはずですよ? 彼には注意して
おいた方がいいとね﹂
恨みのこもった強い視線を向けられながら、須藤はどこ吹く風と
いう態度を崩さず盃を傾ける。
﹁それは分かっています。ですが、こうなる危険性を感じておられ
たのならば、もう少しやりようがあったのではありませんか? ﹂
確かに、須藤は事前に組織へ御子柴亮真の事を伝えている。そし
てその際に注意するべきだと警告もしてい
た。だが、それはあくまで念の為の情報展開という意味でしかない。
だから須藤から提出された情報を組織は重く受け止めなかった。
責任がどちらにあるかを問えば、それははやり須藤の言葉を重視
しなかった組織の上層部にあるのだろう。
その事は菊川自身も理解してはいる。だが、やはり恨み言の一つ
も言いたくなるのは当然と言えるのだ。
だが、そんな菊川に須藤は動じることもなく言葉を続ける。
﹁それに、どうやっても結果は変わらなかったと思いますよ。もし
1599
仮に、私が今回の彼の動きを予測しあなた方へお伝えしていてもね。
幾ら私の言葉でも代表達がそのまま信じたとは思えませんし、下手
に彼の監視を強化すればその分のしわ寄せが必ず出てきてしまいま
すからねぇ﹂
一体誰があの状況からこんな手を打ってくると思うだろう。予測
しろという方がはじめから無理なのだ。
それに、須藤の情報を重要視したとしても、今の組織に御子柴亮
真の動向を監視し、動きを封じるのは不可能だったに違いない。
組織は国家間に暗躍する巨大な力を持ってはいるものの、それに
匹敵する光神教団とキルタンティア皇国という巨大な敵がいる以上、
どうしてもそちらへ力を振り分ける以外に選択肢はない。 ﹁まぁ、どちらにせよ今後も彼からは目を離さないほうがいい﹂
﹁私も他の方々もそのつもりではいます。とはいってもほとんど情
報はありません。先日もギルドの支部を設置したいと申し入れをし
たのですが、怪物達への対応に忙しくてそれどころではないとあっ
さり断られましたし﹂
そんな菊川の言葉に須藤は目を細めて尋ねる。
﹁ほぉ、未だに半島内部の情報は完全になしですかぁ?﹂
﹁えぇ、ギルド支部の設置を拒否されたため、東部近郊に居る腕の
確かな人間を選んで送り込んで見たのですが、全く音沙汰なしです。
半島の付け根に作られた砦が一応窓口なんですが、そこに問い合わ
せても怪物にやられたんだろうと回答するばかりでして。最近では
噂が広がって冒険者や傭兵も意図的にウォルテニア半島がらみの仕
事は避けています﹂
1600
﹁なるほど⋮⋮意図的に情報封鎖をしていると考えるべきでしょう
ね﹂
﹁やはり須藤さんもそう思いますか⋮⋮﹂
本来、怪物達への対応が必要であればギルドの力を頼るのが一般
的だ。
もちろん、有力貴族の中には強力な家臣団を編成し自前で対処す
る人間もいるが、成り上がりの貴族である御子柴亮真がギルドの力
を頼らない理由は通常ならばあり得ない。
考えられる可能性があるとすれば、ウォルテニア半島内の情報を
何としても外に出したくないと考えた場合だけだろう。
﹁どうしますか? 猟犬の中から何人かを動かし半島を急襲すると
いう選択もありますが?﹂
﹁ふむ⋮⋮Sランクを動かす気ですか﹂
表向きはギルドの最高戦力と呼ばれるSランクに属する手練れ達。
彼らは文字通りの一騎当千を誇る化け物達であり、組織が持つ最
高の戦闘集団でもある。
彼らを二十人ばかり派遣すれば、ウォルテニア半島は直ぐに灰燼
と帰す。
︵確かに彼を排除するだけならそれでも構いませんが⋮⋮ねぇ︶
殺すのは簡単で確実ではあるが、それでは組織にとっても須藤に
とっても旨味がない。
しばらく黙りこんでいた須藤はゆっくりを首を横に振る。
1601
﹁それは止めておいた方がいいでしょう。今猟犬を動かして聖堂騎
士団に隙を見せるのは、どう考えても得策ではありませんからね﹂
猟犬達が組織の切り札ならば、光神教団には聖堂騎士団という切
り札がある。
両者の戦闘力はほぼ互角と言っていい。
そんな拮抗した状況下で戦力を動かすのは危険な判断だった。
﹁ではどうされます?﹂
自分の提案を否定され、菊川の言葉に険が混じった。
だが、須藤の口から飛び出た言葉に思わず目を見開く。
﹁そうですねぇ⋮⋮このまま放置するっていうのはどうですか?﹂
あまりに予想外の言葉に菊川は思わず言葉に詰まり目を白黒させ
る。 ﹁正気⋮⋮ですか? あの男の危険性は十分に分かっています。そ
れを放置するなど⋮⋮﹂
﹁まぁ、確かに危険な男ではありますが、使い道さえ間違えなけれ
ば良い盾になってくれると思いますよ。特に彼は我々と同じ匂いの
する人間ですからねぇ﹂
意味深な視線を向けられ、菊川は思わず首を傾げる。
だが、しばらくの沈黙ののちに彼の脳裏には一つの答えが浮かん
でいた。
﹁盾⋮⋮まさか、キルタンティアと教団の目を引き付ける囮に?﹂
1602
﹁えぇ、彼が情報封鎖をすればするほど、教団やキルタンティアは
我々との関係を疑うでしょう。分からないというのは想像以上に危
機感を掻き立てるものなのですからね。それに、今回の動きは傍か
ら見れば我々と組んで動いているようにも見えますし。恐らく彼ら
が疑惑を拭い去ることは不可能でしょうね。そうなれば、彼らが黙
っているはずがありません。絶対にウォルテニア半島と御子柴亮真
に手を出してくるはずです。どうです、絶好の盾になるとは思いま
せんか?﹂
﹁ですが、そう上手くこちらの思い通りに行きますか?﹂
﹁だからこそ、上手くいかせるためにも手を出さずに放置するんで
すよ﹂
御子柴亮真が組織の全貌を知っているとは思えないが、自分と同
じことを考えている組織の存在をおぼろげながらも認識しているは
ずだ。
だが、逆に言えば今はその程度でしかない。
目の前に実力行使をしてくる別の組織が立ちはだかれば、その対
応を優先しようとするはず。
﹁優先順位の差を突くという事ですね﹂
﹁えぇ、彼ならその程度の判断は造作もなく出来るでしょうからね﹂
自分の家が燃えているのに、親戚の家が地震に襲われるかもと心
配をする人間がいないのと同じ事だろう。
﹁なるほど⋮⋮悪くない策ですね﹂
1603
須藤の策を聞き菊川は素直に感心した。
薬は特効薬と呼ばれる強い薬ほど扱いを間違えた時には致命的な
毒となるものだ。
逆に言えば、薬と毒の差は使う人間の力量次第ともいえる。
御子柴亮真という毒を排除しようとした菊川に対し、須藤の策は
薬に使おうという真逆の案。それは菊川と須藤の力量の差を如実に
示している。 ﹁分かりました。代表には今の須藤さんの策をお伝えしておきます。
恐らくですが代表も反対はなさらないでしょう﹂
﹁そうですか。まぁ、そちらは菊川君にお任せしますよ﹂
﹁では、お時間もお時間ですのでそろそろ失礼しようと思います。
須藤相談役﹂
﹁はい、ご苦労様。また何かあったら連絡をください﹂
言うべき事は言った。後はご勝手にという態度を崩さない須藤に
菊川は深く一礼すると部屋を出ていった。
一人部屋に残された須藤は、ソファーにゆっくりと体を預けなが
ら天井を見上げる。
﹁クックックッ。楽しくなりそうですねぇ⋮⋮﹂
須藤にしてみれば、組織の理想や悲願などもはやどうでも良い事
でしかなかった。多少の義理があるから縁を切らずにいるというだ
1604
けの事でしかないのだ。
赤い血⋮⋮血⋮⋮血
それこそが須藤の体を駆り立てるただ一つの欲求。
﹁さてさて。御子柴君はどう動きますかねぇ﹂
楽しげに笑い声をあげる須藤の声が部屋に響き渡る。
それは、強者が弱者のあがきを悠然と眺める気持ちにも似た感情。
しかし、そんな彼もまた既に御子柴亮真の新たな策が動き始めて
いる事を知る由もなかった。
1605
第5章第5話︻帰還︼其の5︵後書き︶
あけましておめでとうございます。
今年もがんばって更新していきますので、読者の皆様の変わらぬご
助力をいただければ幸いです。
1606
第5章第6話︻冒険者︼其の1
目の前に広がる草原地帯。
その雄大な景色の中に平べったい巨大な黒い何かが地響きを轟か
せながら大地を移動している。
︵なるほど、確かにデカい⋮⋮あれが大喰らい≪ビックイーター≫
か︶
岩影からそっと顔を出して前方を見つめるケビンの目に、ムカデ
の化け物が無数の脚と触覚を蠢かせながら走る姿が映る。
距離にして数百メートルほど離れているだろうか。
吐き気を催す醜悪な姿。つい先日、ギルドによって正式に指定
された固有名称が脳裏に浮かぶ。
︵十五メートル⋮⋮いや二十メートル近いのか。ムカデを始末する
なら踏み潰すのが一番だが、流石にあれを足で踏みつぶすのは無理
だな︶
自分があの大ムカデを踏みつける姿を思い描き、ケビンは思わず
苦笑いを浮かべる。
体高はさほどでもないのでムカデの頭部を踏みつけること自体は
不可能ではないだろうが、とてもすんなりと踏まれてくれるとは思
えない。いや、仮に踏みつけたとしても、あの巨体だ。同年代の男
の中では比較的がっしりした体つきと言えるが、ケビン程度の体重
では何の痛痒も感じない可能性の方が高い。
︵定石通り接近戦から片足を狙ってバランスを崩すか? どちらに
せよ、あの素早さをどうにかしないことには無理だろうな︶
意外と俊敏な動きをする上に、あの獰猛な攻撃性だ。
逆にあっという間に噛みつかれ、体の上下がサヨウナラとなる確
率の方が高いだろう。
まず何らかの手段であのムカデの動きを鈍らせなければ、仮に接
1607
近戦に持ち込んだところで結果は見えている。
︵ここが岩場なら岩を落として動きを封じ、ゆっくりととどめを刺
すかのが一番だが⋮⋮無理だな︶
ケビンの目が周囲を見回す。
周囲は見晴らしの良い草原地帯。とても落石を仕掛ける様な地形
ではない。
︵そうなると、後は武法術による正面突破か文法術を使って搦め手
か。まぁ、幾らなんでも正面からやりあう事はないだろうが⋮⋮さ
てさて︶
そっと背後へ視線を向け、ケビンは小さくため息をついた。
︵俺なら文法術を使って足止めをするか、罠を張り囮を使って誘い
込むってところだが⋮⋮はたしてリック団長がどちらを選ぶか⋮⋮︶
信頼関係を築き切れていない人間と命を賭けた仕事に臨むのは大
きな賭けだ。
個人の力量も不明だし、集団の連携にも不安が残る。
とはいえ、ケビンが今所属しているのは、怪物討伐や資源採取
など冒険者としての仕事を専門に請け負うクラン︻蒼天の雲︼。そ
の団長であるリーダーのリックは、今現在ローゼリア国内で活動し
ている冒険者達の中でも頭一つ抜きんでた評価を貰っている評判の
手練れ。
リック個人のギルドランクはダブルAを持っているし、クラン全
体としてもシングルAの評価を得ている。これは、ケビンを鍛えた
︻紅獅子︼の団員達よりも上の評価だ。
もちろん、傭兵と冒険者というスタンスの違いはあるし、ギルド
のランクが必ずしも個人の強弱に直結する訳ではないのだが、この
ランクまで達した人間が弱いという事はあり得ない。
︵まぁ、そこはやってみるしかないか⋮⋮まぁ、どちらにせよよう
やく殺しがいのある獲物が出来て事だしな︶
不安と高揚感がケビンの体を揺り動かす。
鋼鉄の鎧にも匹敵する甲殻に、昆虫種特有の強靭な筋力。その両
1608
方を兼ね備えるあのムカデはまさに生きた悪夢だ。
だがそれは、あの大ムカデが絶対的上位に属する捕食者である事
を示している訳ではない。
人という肉体的には脆弱とさえ言える種族が、この大地世界の大
部分を支配しているのはただの幸運ではないのだ。
ケビンの脳裏にはあの大ムカデを仕留めるためのプランが幾つも
浮かんでいた。
ウォルテニア半島の奥地にはもっと危険な生物が山ほど生息して
いる。あの程度の怪物に後れを取るようでは生き残ることなど出来
はしないのだ。
見た目は十代半ばの尻の青い子供であろうと、彼が持つ実戦経
験は本物。
ウォルテニア半島を後にして二ヶ月半。ようやく巡り合った獲物
を前に自然と顔がほころんでいく。
﹁どうだ、ケビン。あれがギルドの特定危険種に先日認定された通
称大喰らい≪ビックイーター≫。つまり今回の獲物だ﹂
背後から野太い男の声が響き、ケビンは肩を叩かれた。
その瞬間、ケビンの表情が瞬時に変わる。それは骨の芯まで染
み込まされた弱者の表情。
︵おっと、不味い不味い⋮⋮下手を打つわけにはいかないからな︶
獲物を前に湧き上がる高揚感を抑えながら、ケビンはゆっくりと
後ろを振り向いた。
今のケビンは没落騎士の隠し子という身の上話≪カバーストーリ
ー≫を持つ、素人の子供なのだから。 ﹁えぇ、あれほど大きいとは思いませんでした⋮⋮本当にあれを相
手にするんですか? リック団長﹂
戸惑いと若干の恐怖が入り混じった声。
1609
それは、新兵が初めて戦場に向かう時に浮かべる表情と同じ。
その瞳に映るのは武装した一組の男女。ケビンが所属するクラン
のナンバーワンとナンバーツーのご登場だ。
短く刈り込んだ短髪の中年が茶目っ気のを含んだ視線をケビンへ
向けた。
﹁そうだ、それにただデカいだけじゃないぞ。表皮は下手な鎧なん
か目じゃないほど固い上に、昆虫種とタメを張る生命力だ。もとは
ただのムカデだったとはいえ、あそこまで育ったらかなりヤバい。
知能は低いから文法術を使うことはないが、あの固い甲殻に筋力は
それだけで脅威だ。本当か嘘かは分からないが、ギルドに保管され
ている記録で過去に確認された最大級の奴だと、下位の幻獣種や竜
種に匹敵したらしい。もとはちっぽけなムカデなのに⋮⋮な﹂
﹁竜⋮⋮ですか﹂
大地世界には下位の竜から上位の龍王までさまざまな竜種と呼ば
れる生命体が存在するが、その力は人間など足元にも及ばないほど
強大だ。
数が少なく、自らの縄張りを滅多に出ないため人が目にする機会
は少ないが、彼らが一度暴れだしたらその被害は甚大。村や町は灰
燼と帰し、対処を間違えれば確実に国が傾く。
竜種による被害が竜害と呼ばれ、台風や地震と同じ自然災害と目
されている所以だ。
如何に魔境と呼ばれるウォルテニア半島とはいえ、流石のケビン
にも竜とやりあった経験はない。
いや、神話の時代まで遡っても、竜と戦い生き残った人間など何
千年という大地世界の歴史を見回しても百人にも満たない。
脅すような男の言葉にケビンは思わず唾を飲み込んだ。
1610
﹁まぁ、今の話は冗談だが、このまま放っておけば何れは冗談じゃ
済まなくなる。本来、ああいう大物が人前に表れる事は少ないんだ
が、たまぁにああやって這い出して来ることがある。なんでだか分
かるか?﹂
そんなケビンの反応を楽しむかの様に、リックは網を浮かべなが
ら問いかける。
﹁えぇ、人の肉の味を覚えたって事ですよね?﹂
他者の命を糧に自らの力を増大させるのは何も人だけではない。
いや、人以上に昆虫や獣の方がその恩恵を強く受けていると言っ
ても過言ではないだろう。
弱肉強食の原理。
喰らい喰らわれ、殺し殺される。そんな生存競争を勝ち抜いてき
た強者達。
それでも普通ならばここまで大事にはならない。
人が竜に勝る事もできる世界であるとはいえ、それが実現する可
能性は何十万、何百万。いや、何十億に一つの奇跡。
確率的な話をすれば不可能と断言してかまわないほど小さな可能
性だ。
だがそれは不可能ということを意味するわけではないし、その恩
恵は人という種族にだけ与えられている訳でもない。
運命の女神は時として、時にちっぽけな一匹の生命へ恐るべき力
を与える事がある。
食物連鎖の法則を覆すほどに⋮⋮
﹁そうだ。新人のくせによく勉強しているようだな。お前の言うと
おり、森の中で冒険者や傭兵なんかを喰った奴がその味を覚えて這
い出して来る訳だ。生気を吸収しレベルを上げた冒険者や傭兵は連
1611
中からみて格好の獲物だからな﹂
ケビンの答えにリックは満足そうに頷く。
味が良いのか、生気の吸収が容易いのか、はたまた何か別の理由
なのかはさておき、一定の力を持ちえた生物にとって人は格好の餌
らしいのは事実だ。
だからこそ、人は生き残るために戦わなければならない。
﹁それに実際、今のところ確認できてるだけで五人ほど返り討ちに
あってるわ。あれが居たとされる森から帰ってこない冒険者も何人
かいるから、被害者は十人以上ってところね。ギルドが最優先での
討伐を私達へ依頼してきたのも当然って訳よ﹂
妖艶という表現がぴったりな女が柔らかな笑みを浮かべながら、
ケビンを脅すように言葉を続ける。
長くウェーブのかかった金髪を結い上げ、金縁の眼鏡をかけた才
女だ。
クラン︻蒼天の雲︼のナンバーツーであるアナスタシアの言葉に
ケビンは思わず顔を顰めてみせた。
﹁この人数で本当に狩れるんですか? もう少し人数をそろえた方
が良いのでは﹂
ケビンの視線が奥に佇む武器を手にした男達へと注がれる。
その数はおよそ二十人ほど。
平均的な隊≪パーティー≫の編成が四人から十人と言ったところ
だから、この場には二隊分の人数が集まっている計算になる。
少ない人数と言う訳ではないが、決して多いとは言えない。
彼らの佇まいから歴戦の戦士である事は見抜けるが、それでも真
正面からあのクラスを相手にするには不足だとケビンは考えていた。
1612
︵あのクラスを討つなら、最低でのこの倍の人数は欲しい︶
可能であれば五十人規模の編成を行いたいところだ。不安と憂い
に満ちた視線がアナスタシアへ注がれる。
それは半分は演技であり、半分は本気だった。
ケビンはあの大ムカデを恐れるつもりもないが、甘く見るつもり
もない。
実際、ケビンは過去に仲間達とウォルテニア半島に居た際にあの
クラスの怪物を何匹も討ち取っている。
だが、それはあくまで血よりも濃い結束で結ばれた信頼できる仲
間達と、血みどろの訓練を潜り抜けた後で得た結果だ。
クラン︻蒼天の雲︼にケビンが加入してまだ二ヶ月に満たない。
ギルドにおいてこのクランの評判が高い事は知っているし、今まで
の付き合いの中で彼らの力量もある程度は把握してはいるが、完全
に理解しているとは言い難い。
そして、連携不足は時として致命的な事態を引き起こす。
︵本当に勝算があるのかどうか⋮⋮もしヤバいならサッサと消える
しかない。御館様の命を果たさずに死ぬわけにはいかないからな︶
引く事のできる状況下ならば、勝てる見込みのない勝負はする
な。その教えがケビンの体に染み込んでいる。
あのムカデを狩りたいと思う高揚感を押し隠し、ケビンは慎重論
を口にした。
だが、そんなケビンの態度はリック達から見ると、新人特有の不
安にしか見えないのだろう。
﹁どうした、ビビったか? なぁに、アナスタシアの指揮に従えば
何の問題もないさ。まぁ気持ちは分かるがそう不安そうな顔をする
な。ツキが落ちるぞ﹂
﹁大丈夫よ。あなたは自分の仕事に専念すれ良いの﹂
1613
そういうとリックは、ケビンの背中を叩き不安を吹き飛ばそうと
するかの様に豪快に笑い声をあげる。そして柔らかな笑みを浮かべ
るアナスタシアを連れて仲間達の方へと踵を返した。
﹁これ以上は無理か⋮⋮まぁ仕方がない﹂
本来なら作戦の詳細な説明を受けたいところだが、新人のケビン
がそれを求めればどうしても不自然な印象を持たれてしまう。
︵では、御館様の期待に添えるだけの力量をお持ちか、お二人のお
手並みを拝見と行きますか︶
遠ざかる二人の背中をじっと見つめていたケビンの唇が吊り上り、
新人には似つかわしくないふてぶてしい笑みを浮かべた。
ただ一人の主から下された密命を胸に。 1614
第5章第7話︻冒険者︼其の2
陽も既に西の地平線へ沈み城塞都市が酔客の喧騒に包まれている
頃、一人の男がランプの淡い光の下で無数の書類に埋もれていた。
階下からは仕事の成功を祝い、盛んに気勢を上げる団員達の声が
聞こえて来る。
ギルドから緊急の指名依頼と言う形で請け負った久しぶりの大仕
事。
あの大ムカデは実に歯ごたえのある化け物だった。それを数名の
軽傷者を出すだけで仕留めたのだ。
団員達が浮かれ騒ぐのも当然だった。
︵随分と楽しんでいるみたいだな⋮⋮良い事だ︶
リックは団員達の声を聴き、僅かに羨望の混じった苦笑いを浮か
べる。
団員達は今、︻蒼天の雲︼が借り上げているこの宿屋に設えられ
た食堂で、酒を浴びるように飲み、肉を豪快に噛み砕いている。そ
してある程度腹を満たしほろ酔いとなったところで、彼らは夜の街
へと消えていくだろう。死線を越えた事による高揚を抑える為に、
男達は女の柔らかで温かい乳房と甘い蜜を求めて。
それらは、人間が持つ本能的な欲。
リック自身、若い頃は一仕事を終え金を手にする度に仲間達と連
れ立って娼館へと向かったものだ。
だが、今のリックの立場では若い駆け出しの頃の様に本能のまま
振舞うという自由はない。
団長として、苦手な書類仕事を片付けてしまわなければならない
からだ。
商人達から回ってきた分厚い請求書の束を確認していたリックは、
深いため息をつきながら最後の一枚へと手を伸ばす。
1615
﹁よし、これで最後だ⋮⋮﹂
怪物達との戦いでも経験した事のない重苦しい疲労感がリックの
体を支配する。
ワルツ
リックの本質は生粋の戦士。戦闘でも重鎧で身を固め最前列で戦
うタイプの男だ。う
敵の血を啜り、生死の境で死神と円舞曲を踊る。己の実力とほん
の少しの幸運。それだけを武器にこの稼業を生き抜いてきた。
そんな歴戦の勇者である彼にとって最も苦痛と言えるのがこの書
類仕事。
リックがクランの長を務めるようになってから幾度となく繰り返
されてきた何時もの仕事であるが、彼の体がこの疲労感に慣れる事
はない。
︵まさかこんな事になるとは思いもしなかった⋮⋮オヤジが引退す
るからクランを引き継げと俺に言った時、安請け合いをするんじゃ
なかったぜ︶
言っても仕方のない事と理解はしていても、リックとしては幾度
となくため息と共に思い返してしまう。
とある戦乱に巻き込まれ両親と暮らしていた村を一夜にして失っ
た哀れな孤児。そんなリックを拾い、彼の面倒を見てくれた男こそ、
このクランの前の長であるドノバンである。
ドノバンがどういうつもりでリックを拾ったのかは、正直に言っ
て分からない。
都合の良い労働力としてか、何か光るものを幼かったリックの目
から感じ取ったのか、はたまたただの気まぐれだったのか⋮⋮
だが、どのような意図でリックを拾ったにせよ、ドノバンは焼け
落ちた村でただ一人呆然と立ち尽くしていた彼を一人の戦士として
育て上げた。時に厳しく、時に優しく、実の父親の様に育て上げた
のだ。
1616
そんなドノバンが、この冒険者という家業からの引退を決意した
よわい
のは今から五年も前の事。クランの団員達からオヤジオヤジと慕わ
れた彼も、齢六十を超え流石に若い頃に比べ体も思う様に動かなく
なったと言うのがその理由だ。
無論、幾ら年老いたとはいえギルドでは名の通った手練れ。その
プラーナ
気さえあればまだまだ現役を続ける事は可能だった。武法術を会得
し、多くの生気を吸収した彼は一般人と比べ老いが遅くなる。 圧
倒的な経験値と研ぎ澄まされた肉体。仮にドノバンが仕官を求めれ
ば、どんな国でも喜んで騎士の爵位と大隊長クラスの地位を用意し
た事だろう。
そんなドノバンが何を思って冒険者稼業からの引退を決意しした
のか。その本心をリックはついに聞く事はなかった。
だが、クランの長となり何となくその理由がリックには理解出来
たように感じた。
︵まぁ、嫌気がさして当然だよな⋮⋮︶
やみくもに個人の力量を磨き、ただ強ければ良いと言う訳ではな
いのだ。
冒険者としてクランを維持していくには金が掛かる。
収入と支出。利益と経費。
ソロの冒険者や傭兵ならば、仮にどんぶり勘定でも問題はないが、
何人もの部下を持ち、︻蒼天の雲︼という一団を維持していかなけ
ればならないリックがそんな適当な事をする訳にはいかない。
戦いを生業とする以上、武具の消耗は当然発生するし、使った後
の手入れは必須だ。また、特定の拠点を持たない根なし草である以
上、宿に泊まるか野宿をするしかない。
団員に負傷者が出ればその治療費は大きいし、仮に再起不能と診
断されれば、所属年数と功績を考慮の上でそれなりの金額を包んで
やる必要がある。
勿論、それらは法律によって強制されているものではない。人権
という思想すら形を成していないこの世界で雇用の概念や労災と言
1617
う言葉は存在しないからだ。
だがその一方で、言葉には出来なくとも考え方が存在しないと言
う訳でもない。 人が生きていくという事において、世界の違いは関係ないのだ。
必要なものは必要。あるのは、その事実を認識し、対応するかど
うかと言う事だけだ。
勿論、法で決まっていない事だ。だから誰も対応しろと強制は
しない。
だが、その辺の必要性を、前の長であったドノバンは十分に理解
していたのだろう。そして自分にはそれらの作業が向いていない事
も。
︵まぁ、俺だってとても向いているとは思えないけどな︶
机の上に積まれた書類の束へチラリと視線を向けリックは苦笑い
を浮かべた。
素人が海千山千の商人達を相手に交渉するのはかなり難しい。最
終的には良い様にカモられてしまう訳だが、それでもカモられ方と
いう物がある。
相手の主張を全て丸呑みにする交渉と、七分三分あたりで取引を
まとめるのとでは、同じカモられるにしても結果がまるで違うのだ。
そんな面倒な交渉をしなければならない団長という立場は、リッ
クにとってまさに損な役回りにしか思えなかった。
いや、今のリックにはそんな商人達との交渉以外に頭の痛い事が
ある。
︵それに、最近はどうもきな臭い事が多すぎる⋮⋮大仕事を成功さ
せたところで懐にも大分余裕が出来た事だし、ここらでローゼリア
から離れるって選択も有り⋮⋮か︶
戦いを生業として選んだ以上、冒険者も傭兵も等しく国や権力者
しがらみ
と言う存在からは逃れられない。ギルドのランクを上げ力を持てば
モンスター
持つほど、大なり小なりの柵を持つ頃になる。
怪物の大群が村や町を襲えば、傭兵であろうと冒険者と同じよう
1618
に怪物退治へ駆り出されるだろうし、自分が拠点にしている町が戦
火に巻き込まれれば冒険者と言えども無関係でいる事は難しい。そ
れが、普段から懇意にしている有力者となれば尚更だ。
だからこそ、冒険者や傭兵は情報収集に余念がない。情報を知っ
ているかしないかで生き残れるかどうかが決まってしまう事を理解
しているから。
︵ルピス殿下⋮⋮いや、今は陛下か︶
リックは一度だけ、王都へ行った事がある。その時偶然目にする
事が出来たルピスの顔が脳裏に浮かび、彼は苦笑いを浮かべる。
民を愛し、正義を重んじる性格。誰からも好かれ、国民から愛さ
れたルピス・ローゼリアヌス。
ゲルハルト公爵を追い落とし政治の表舞台に立った彼女の治世に
対して、多くの国民は喝采を上げた。
ローゼリア王国建国以来、長い間繰り返されてきた貴族達の横暴。
どの国でも貴族と言う特権階級が居る以上、ある程度は仕方のな
い事とはいえ、ゲルハルト公爵がこの国の実権を握ってからの数年
は特に過酷を極めていた。
そんな中で起きた政権交代。
︵まぁ、期待して当然だな︶
抑圧された生活をしてきた民にとって、ルピスの存在は希望の光
だったに違いない。彼らはただ喜び期待した。それが大いなる幻想
である事を知らずに。
冒険者であるリックには、ルピスの何が問題だったのかを分析す
る術はないし、その意思もない。ただ彼に分かるのは、今のローゼ
リア王国が先の内乱期よりもさらに危ない状態だという事だけ。
ギルドには盗賊退治の依頼や警護の依頼が引きも切らず、多くの
村々は自警団を増強し始めている。
誰も彼もが嵐の匂いを感じ備え始めているのだ。
そして今、クランの中にも気になる人間が居る。
その男は、新人とは思えないほど腕が立ち、度胸も据わっている。
1619
冒険者としての力量は低いが、単純な戦闘に関しての実力だけな
らばクランの中でも中堅格に匹敵するだろうし度胸もある。
ギルドの職員が言ったように、確かに有望な若手と言えた。
だが⋮⋮
︵この時期に腕の立つ新人が加入する。単純に考えれば喜ばしい事
だが。問題は偶然か必然か⋮⋮だな︶
その男が単純に傭兵や冒険者として腕を磨きたい、あるいは生き
ていく手段としてクランと言う集団に帰属したいというのであれば
何も問題はない。
問題なのは彼がそれ以外の理由でクランに加入してきた場合だ。
︵アナスタシアと話をする時期かもな︶
リックは自分が決して頭の良い人間だとは思っていない。
クランの長として経験を積み重ねた結果、それなりに視野が広が
ってはいるものの、彼の本質は戦士であり最前線に立ってこそ真価
を発揮する。契約書を読み解き、依頼人と交渉を行うなど彼の本分
ではないのだ。そんな彼にとって副団長であるアナスタシアの存在
はまさにの頭脳と言える。
貴族の庶子として生まれたアナスタシアは、平民であるリックや
他の団員達に比べて格段に思慮深い。
﹁おい、ロイドちょっと良いか?﹂
リックの声が部屋に響くと直ぐにドアが開かれ、中年の男が顔を
覗かせる。
﹁呼びましたか、団長。ようやく仕事の方は終わりっすか?﹂
期待に輝いた瞳。リックの口からある言葉を聞きたくて仕方がな
いと言う顔。彼の全身がまるで遠足へ出かけるのを待つ子供の様に
そわそわとしている
1620
﹁馬鹿、まだまだ全然だ﹂
そんなロイドの想いに気が付きながらも、リックは無情にも彼の
希望を打ち砕く。
﹁そおっ⋮⋮すか﹂ 先ほどとは打って変わった沈んだ表情。
ロイドは今日、運の悪い事に団長付きの日に当たっていた。
団長付きとは団長であるリックに付き従い雑務と警護する役目の
事だ。
当然ながらリックの仕事が終わらない限り、ロイドは仲間達が楽
しそうに酒を酌み交わす様を指をくわえてみているしかない。
﹁ロイド、どうせ今日は酒を飲めないんだ。諦めてアナスタシアを
呼んできてくれ。多分自室に居るはずだ﹂
﹁分かっていますよ⋮⋮まったく、こんな日に団長付きが回ってく
おご
るなんてツイてねぇ。酒と女は諦めますから、団長の仕事が片付い
たら美味い飯を奢ってくださいよ﹂
﹁分かった分かった。酒も一杯だけなら飲ませてやる。さっさとア
ナスタシアを呼んでこい﹂
未だに不満そうな表情を浮かべるロイドを追い払うと、リックは
背もたれに体重を預けながら宙を見据える。
︵まぁ、アイツの気持ちが分からん訳じゃないからな︶
リック自身が望んだ事ではないが、副団長であるアナスタシアか
ら強く提案されて始めた制度であり、これのおかげで何度か命拾い
1621
をした事がある為、今更やめる訳にもいかない。
実際、有力なクランの団長ともなればどうしても政治と無関係で
はいられないからだ。
依頼を無事に成功させた祝いの席。リックとしても、ロイドの想
いは痛いほど理解できていた。彼自身、団長と言う立場でさえなけ
れば、こんなつまらない仕事など放り出して夜の街へと繰り出して
いる。
﹁因果な商売だな﹂
リックは机の上に置かれた葉巻入れから一本取り出すと、吸い口
を作る為に小刀を取り出し小さくため息をついた。
﹁随分と遅いな。アナスタシアの奴、一体何をしてやがるんだ?﹂
紫煙を立ち上らせながら、リックは首を傾げた。
ロイドの報告では、どうやらタイミングが悪かったらしい。
アナスタシアの部屋の扉を叩いたところ、直ぐに行くという返事
を貰ったらしいのだが⋮⋮ 几帳面ともいえる性格のアナスタシア。そんな彼女がリックをこ
れほど待たせる事などそうあるものではない。
もう一度アナスタシアを呼びに行かせようかと考えリックが声を
掛けようとした時、扉が三度静かに叩かれた。
﹁団長、お待たせしました。よろしいでしょうか?﹂
少し聞いた限りでは、普段と変わらない妖艶な声だ。
だが、リックはアナスタシアの声にほんの僅かな緊張が混じって
いる事を本能的に感じる。
1622
それは共に死線を越えてきた仲間だからこそ感じる事のできた違
和感と言えるだろう。
︵誰かに脅されている? いや、そんな感じじゃないな。どちらか
と言えば感情の高ぶりを抑えているみたいだ︶
﹁あぁ、アナスタシアか。入ってくれ﹂
心の中で首を傾げながらリックはアナスタシアへ入室を許可する。
﹁では、失礼します﹂
ゆっくりと開かれた扉。
﹁なるほどな⋮⋮そう言う事か﹂
遅かったなと言おうとしたリックの唇から、別の言葉が漏れた。
アナスタシアの背後に立つ男の顔を見て。
この日、話し合いは深夜にまで及んだ。彼ら三人が、どんな話を
したのかは当事者である彼らだけしか知らない。
だが、この日を境にクラン︻蒼天の雲︼は積極的にローゼリア国
内の仕事を請け負っていく事となる。
それから、数ヶ月の月日が経ったとある日。歴史の歯車は軋みを
上げながら再び回り始める。多くの人間の血と涙を糧にして。
1623
第5章第7話︻冒険者︼其の2︵後書き︶
更新が遅くなってしまい申し訳ございません。
1624
第5章第8話︻そして開演のベルが鳴る︼其の1
太陽の光が燦然と降り注ぐとある暑い日。
蒼天には白い雲が浮かび、青々とした牧草が生えた丘には、羊毛
を取る為に飼われている羊が草を食んでいる。
ゆっくりと穏やかに流れる時間。
確かにこの大地世界は盗賊や怪物達といった脅威が存在する。だ
が、それらが堀と柵で囲われた村を襲う事は少ない。
確率的にはせいぜい数年に一度襲われるかどうかといったところ
だろう。
如何に戦乱の世とはいえ、平和な時が全くないという訳でもない
のだ。
だが、そんな平穏はほんの少しの悪意で容易く破られてしまう。
むしろ戦略上重要な拠点が近くに存在しないちっぽけな村にとっ
て脅威なのは、外敵よりも味方であるはずの領主や王国から派遣さ
れる役人といった自国の人間達だった。 そして今、そんな穏やかな時を過ごしていたローゼリア王国の片
田舎にある小さな村に、その平穏な風景には不似合な怒声が響き渡
る。 村の中心に設けられた広場。そこに、不安と怯えの混じった表情
を浮かべる村人達の輪が出来ていた。 彼らの視線が注がれるのは
勿論、輪の中心に居るとある一団。
いやより正確に言えば、その一団の前に立つ一人の男だった。
﹁お許しください。もうこれ以上は⋮⋮これでは我々は生きて﹂
中年の男が必死の形相で口にした嘆願の言葉が、鈍い打撃音によ
って途切れる。
1625
よだれ
金属製の小手に包まれた大きな拳が男の奥歯を容易く砕いた。
うずくま
口いっぱいに広がる錆びた鉄の味。真っ赤な鮮血の混じった涎が
蹲った男の口から零れ落ち、大地へ赤黒い染みを作り出していく。
﹁お父さん⋮⋮﹂
不安と恐怖の混じった目。涙をいっぱいに溜めた少女が母親の手
を振り払い、村人達の輪から飛び出した。
まだ幼いという表現が似合う少女だ。自分が飛び出したところで
何が出来る訳ではない事を、彼女自身も十分に理解していた。だが、
それでも少女は自分の父親の蹲る姿を無視する事など出来なかった。
そんな愛娘を少しでも落ち着かせようと、血に染まった手で娘の
肩をやさしく抑える。
本当ならばまだ幼い娘には見せたくなかった光景。
︵なぜだ⋮⋮なぜこんな事になるんだ︶
男の頭の中で様々な思いが浮かんでは消えて行く。
確かにルピス・ローゼリアヌスが玉座についた時、誰もが新しい
変革の波を感じていた。彼女が騎士団の団長である当時から、庶民
に親しまれる人柄と公正な性格は人々の口に上っていたからだ。
これで生活も楽になると酒場で仲間たちと歓声を上げた時の事は、
男の脳裏に今でも鮮明に焼き付いている。
いや、確かに変化は訪れた。ただし、その変化が男にとって良い
変化ではなかったというだけの事なのかもしれない。
﹁もう一度聞く。命じられた税をいつまでに納めるのだ?﹂
男を殴りつけた騎士を背に、徴税官が下卑た笑みを浮かべながら、
蹲る男へ冷たい言葉を投げかけた。
己が圧倒的に優位である事を当然とし、他者を踏みつける事に何
の痛痒も感じない人間。
1626
徴税官にしてみれば、男の価値は税を納めるという一点にしかな
いのだろう。
猟師が獲物に感情移入をしないのと同じだ。
﹁勿論払えるものならば私共も喜んでお支払いします。ですが、本
当にもうこれ以上は⋮⋮﹂
無理。そう言おうとした男の言葉が鈍い衝撃と共に再び途切れる。
横隔膜を強打され男の呼吸が一瞬止まる。先ほどの騎士が再び牙
を剥いたのだ。
﹁まったく平民とは度し難い存在だ。つくづく頭が悪い。私はいつ
払うのかと聞いたのだ。貴様の都合など聞いてはおらん﹂ 徴税官の無慈悲な言葉に、男は腹を手で押さえながら頭の中で罵
声を浴びせる。
︵くそくそくそ⋮⋮好き放題言いやがって︶
湧き上がってくる暗い殺意。男は心の中で何かいこの胸糞の悪い
徴税官を殴り殺した事だろう。
元々、徴税官が命じた税など払える訳がない。たとえそれが、こ
の村の中ではかなり裕福といわれていた男であってもだ。
男は別に税金を払う事、それ自体を否定しようとは思ってはいな
かった。
女王の言うローゼリア王国存亡の危機と言う物が、元は旅の行商
人として世間というものを見てきた男にはそれなりに想像する事が
出来たからだ。
だからこそ、男は厳しい生活の中で貯めた蓄えを切り崩したのだ。
この小さな村の現金収入などもともと微々たる物でしかない。
自給自足が基本であり、足りないものは近隣の村々と物々交換を
1627
する事で補う。
現金を使うのは冒険者や傭兵が立ち寄った時か、行商が訪れた時
ぐらいだろうか。
この片田舎の小さな村の中で生きて行くだけならば、金はそれほ
ど必要ではなかった。そう、村にこの下卑た笑みを浮かべる徴税官
が姿を現すまでは。
︵蓄えの殆どを持っていかれちまった⋮⋮その上まだ払えというの
か⋮⋮︶
初めは国を立て直すための痛み、と言うお決まりのお題目から始
まった。
勿論、最初はその言葉に誰もが進んで協力しようとした。ルピス
王女への期待と、自分の国を愛するがゆえに。
だが、それは一度では終わらない。一度が二度に、二度が三度に、
延々と繰り返される終わりの見えない追加の徴税。初めはそれほど
生活に影響しない小額だったが、次第に要求はエスカレートしてい
る。
真綿で首を締め付けられるかの様な粘着質な圧迫感。
心の底から湧き上がる怒りが男の身体を駆け巡る。
正確に言うならば、あと一回か二回なら払えない訳ではなかった。
ただし、それで男の手元には本当の意味で何もなくなる。残される
道は一家心中か家族の誰かを奴隷に売り払うか。さもなくば村を捨
て流浪の旅にでも出るしかない。本当の意味での最後の蓄え。
︵俺にもっと金を稼ぐ能力があれば⋮⋮俺はまた全てを失うのか⋮
⋮︶
後悔と恐怖が男の体を駆け巡る。
商人として男は決して優秀ではなかった。
だが、誠実であり面倒見がいい性格であった男は、裏路地に座り
込む物乞いへ少ない稼ぎを施し、商売相手には親身になって相談に
のったものだ。友好関係は広く、多くの人間が彼を慕った。
善良な男。もし仮に男が現代社会、それも先進国と呼ばれる国に
1628
産まれたとしたら、彼は周囲から尊敬と賞賛を受けた事だろう。だ
が、本来であれば美徳とされるべき彼の人間性は、この大地世界に
おいては純粋に弱点という事でしかなかった。
ある時、彼は昔から親しく付き合っていた知人の商人から、急に
現金が必要になったため数日の間だけで良いので金を貸して欲しい
と頼まれる。
ちょうどその頃、行商人から足を洗い町に自分の店を構えようと
していた男の手元にはかなりの現金があった。将来を賭けた男が人
生の中で経験したことのない大きな取引に使う為の金が。
だが、男は大地に額をこすりつけて懇願するその知人へ金を渡し
てしまう。必ず期日までに金を返すという口約束を信じて。
だが、期日を迎え知人の家へ訪れた男が目にしたのは、おびただ
しい数の債権者の群れ。貿易業を営んでいた知人の船が嵐によって
高価な積荷ごと海の藻屑となったのだ。
知人は男が貸した金を持って姿を消した。全てを投げ捨てて。
その結果、男は全てを失った。
将来を賭けた大取引は当然のごとく流れたし、急な取引中止は男
の信用を大きく損なった。
そして何よりも信用していた知人に騙されたと言うその事実が、
本来被害者であるべき男の商人としての力量に疑問符を投げかけた
のだ。人を見る目のない人間だと。
口約束であった事も男にとっては不利に傾いた。
領主に訴えはしたものの碌に話を聞きもせずに追い払われたし、
そもそも論として、片田舎の一領主が既に姿を消した人間に対して
打てる有効な手立てなどない。
情報化社会と呼ばれる地球であれば治安維持機構の力も強いが、
この大地世界では目の前に進行中の障害に対して対応するだけで精
一杯なのだ。
とても人を出して他の領地を捜査を行う余地などなかった。
善意を踏みにじられ全てを失った男。そんな落ち目の彼に手を差
1629
し伸べようという奇特な人間は誰も居ない。そう、今まで彼が親身
になって面倒を見ていた商売相手も含めて⋮⋮
失意のどん底に落ちた彼は拠点にしていた町を捨て放浪するしか
なかった。ただ動く屍のようなぼろぼろの姿で。
だが、そんな彼がたまたま立ち寄った村で出会った娘によって運
命は再び変わる。彼女との間に芽生えた愛が死人のごとき男に再び
命の炎を宿したのだ。
そして彼女との間に産まれた新しい愛すべき命。
︵駄目だ。絶対に娘を妻を守らなくては︶
この厭らしい徴税官の目に映るのは大地に蹲る男ではない。この
男の目に映るのは自分の背中にすがって震えている娘。そして、娘
を奪った後は男の妻を奪おうとするだろう。
二人は片田舎の小さな村人にしては垢抜けている。明るい気性と
相まって美人とまではいかなくても、十二分に人の心を掴める容姿
だ。
気兼ねのない付き合いを望む男ならば、絶世の美女よりも二人の
様な容姿を好む人間もいるだろう。
二人の体を金に換える方法はそれほど難しくはない。
娼館に叩き売ってもよいし、夜のお楽しみを含めた奴隷としても
十二分に需要があるだろう。
そして、二人を売った金の内、一部は税として納められ、残りは
手数料と言う名の名目で徴税官の懐を潤すという寸法だ。
いや、この下種な徴税官ならば、まずは味見と己の下種な欲望を
存分に発散させてから二人を売る事すら考えられる。
問題はそれが分かっているのに止める手立てがないという事。
︵陛下は我々の暮らしを変えてくれるんではなかったのか?︶
血の混じった唾液を大地へ吐き捨て、男はゆっくりと立ち上がっ
た。
固く握りしめた拳。その瞳には暗い怒りの炎が宿っている。
1630
﹁黙っていては分からんぞ。そもそも今回の徴税は女王陛下よ領主
様へ厳しく命じられたものだ。この国を立て直し我々国民の安全を
守る為の⋮⋮な﹂
粘りつくような笑みを浮かべながら徴税官は男へ歩み寄る。
息が届くほどの近間で睨みあう二人。
徴税官の生暖かい息に含まれた安い煙草の匂いが男の鼻をついた。
﹁ルピス・ローゼリアヌス陛下が国を守り育む為に必要とされてい
る税。それを払えんとは領主殿だけではない。陛下に。そして祖国
ローゼリアに逆らうのと同じ。つまり裏切り者。反逆者よ﹂
﹁反逆者⋮⋮﹂
﹁そうだ、そうなれば当然ながら貴様の家族もタダでは済まぬ。貴
様がどうあがこうと結果は変わらん。どちらにせよな﹂
徴税官は唇を吊り上げ高笑いをあげる。
反逆者の汚名を着せられれば当人は死刑だし、家族も奴隷として
売り払われる。
今ここで家族を奴隷商人に売り払い税を支払おうと、死を覚悟で
反逆を起こそうと最終的な結果に大きな違いはない。
先に視線を逸らしたのは男の方だった。
それまで彼の体を支配していた天にまで届くかと思われるほどの
怒りが、目の前で下卑た目を向ける男の一言で一瞬のうちに掻き消
える。
男の愛国心が罪悪感を感じさせたわけではない。
感じたのは恐怖。国と言う巨大なシステムが持つ圧倒的なまでの
力への恐怖だ。
徴税官の無慈悲な言葉に打ちのめされ、男は力なく大地を見つめ
1631
た。
小さな村に住むただの平民が、一国の王に逆らうなど想像したな
どない。
日常の中の小さな不平不満を村人の中で口にした事はあっても、
本当の意味で逆らおうとなど考えた事すらないのだ。
もさく
︵どうすれば良い? どうすれば家族を⋮⋮この村を守れる?︶
男は解決策を必死で模索する。それは平民として産まれたこの男
の人生において、最も頭を酷使した時間だろう。
村の為、家族の為、自分の幸せの為。男は必死で頭を働かせる。
長い沈黙が広場を支配していた。
だが、永遠とも思われる静寂も何時かは破られる時が来る。
そして、ついにその時が来た。誰もが予想だにしなかった形で。
1632
第5章第8話︻そして開演のベルが鳴る︼其の1︵後書き︶
大変お待たせしました。
次の話も直ぐに投稿します
1633
第5章第9話︻そして開演のベルが鳴る︼其の2︵前書き︶
連続投稿しています。
最新話を表示すると内容が飛んでしまう可能性がありますのでご注
意ください。
1634
第5章第9話︻そして開演のベルが鳴る︼其の2
︵怒りと焦燥、そして諦めと絶望。様々な感情が入り混じった実に
堪らない表情だ︶
重苦しい空気の中、能面のような表情を保ったまま徴税官の後ろ
に立ち並ぶ騎士達。その中に込みあがる笑いを必死でかみ殺す男が
居た。
その男の名はエリオット・チェンバレン。白い肌に赤茶けた色の
髪の毛。ローゼリア王国において比較的目にする機会の多い身体的
特徴を持った男だが、元アメリカ合衆国はニューヨークに暮らして
いたイギリス系アメリカ人だ。
彼は笑い声こそ押し殺す事に成功したものの、体が小刻みに震え
ることまでは抑えきれない。
身に着けた金属製の鎧がカチャカチャと立てる音に、彼の隣に立
つ騎士がいぶかしげな視線を向けた。
無論、まともな神経を持っていれば目の前で繰り広げられる光景
を楽しんで眺められるはずがない。
それが平民上がりの多い騎士ともなれば尚更の事だ。
彼らが徴税官を止め様としないのは単に上司である騎士団長から
任務の遂行を厳命されているいるからに過ぎない。
騎士と言う仕事に対しての義務感と個人の正義感の間で、この場
にいる多くの騎士達は揺れ動いていた。 だが、チェンバレンだけは違った。そう、彼にとって大地世界の
人間は意志を持ったおもちゃという価値しか持たない。
遥か高みから虫けらが足掻く様を眺めるのは、チェンバレンにと
って出来の良い喜劇の様なもの。
そう、たとえ同僚達から疑惑の目にさらされようともその彼の持
った性質は抑えきれないのだ。
1635
圧倒的な優位を保つ徴税官。その暴虐の前に屈服を余儀なくされ
る平民の男。
両者の心の中を支配する憎悪と嘲笑。そして限りない悪意と憎し
みを感じチェンバレンの股間が硬く力を漲らせる。
︵実に良い感じに煮詰まってきた⋮⋮これならば須藤さんの策が実
るのもそう遠い事ではないだろう︶
自分と仲間達が命じられたローゼリア国内での工作活動。その苦
労の成果を今、チェンバレンはしっかりと肌で感じていた。
先の内乱において表向きには爵位に降格となったゲルハルトだが、
貴族派に属する人間の多くは未だに彼を公爵として遇している。
ローゼリア王国有数の穀倉地帯として名高いイラクリオン周辺か
ら、王国南部の僻地へと転封されたにも関わらずだ。
表向きの爵位は確かに重要ではある。
実際、子爵にまで爵位を下げたのは、ゲルハルト公爵にとっては
大きな痛手であり、不名誉な事であったのは紛れもない事実だ。
内乱終結直後はかなりの数の貴族がゲルハルト公爵から距離を置
こうとしたのも当然の事と言える。
だが、それも今では笑い話でしかない。
この臨時徴税官の任を拝命した男爵の様な下種が、利権と言う名
の誘蛾灯に導かれた、再びゲルハルトの下へと集まり出したのだ。
そしてその流れを作り出した張本人こそが誰であろう、このエリ
オット・チェンバレンとその仲間達なのである。
︵須藤さんも実に楽しい仕事を命じてくださる。趣味と実益を兼ね
るとはまさにこの事だ。出来れば須藤さんも一緒に楽しめれば良か
ったんだがな︶
今は遠くオルトメアの帝都へと去った須藤に対し、チェンバレン
は深く感謝していた。そして、それと同時に敬愛する上司がこの喜
劇の最大の見せ場を見逃してしまう事を深く残念に思った。
︵だがまぁ、オルトメアの方がごたついている以上致し方ないか。
まぁ良い、須藤さんの分まで楽しむことにしよう︶
1636
彼にとってこの世界の住人が憎み合い殺しあう姿を見る事こそが
楽しみなのだ。
︵殺しあえ。もっともっと苦しんでお互いを憎み殺しあえ。死ね死
ね死ね死ね⋮⋮どいつもこいつも死んでしまえ︶
それは愛するものを無残に奪われた人間が持つ妄執。
七年前、ニューヨークはウォール街で相場の動向と日々にらみ合
いを続けていたエリオット・チェンバレンは、何の因果か恋人のバ
ネッサと共にこの世界へ召還された。
容姿端麗な美女とやり手のビジネスマン。物語の主人公としては
実にありふれた設定といえる。
愛する彼女と共に召還された勇者。そして両者の間に割り込もう
とする美しき令嬢達。物語の設定としては実に使い古されたものだ。
だが、現実は物語の様にはいかない。
チェンバレンに求められたのは勇者ではなく取替えの聞く都合の
いい戦争のコマとして地獄の訓練を化せられ、モデルとして活動し
ていたバネッサは、その美しさゆえに戦士としてではなく貴族達の
毛色の変わった珍しいおもちゃとされた。
特に運が悪かったのは、このバネッサをおもちゃにした貴族達が、
他人の悲鳴を聞く事に何よりも喜びを感じるという歪んだ性格の持
ち主達であった事。そして、バネッサがモデル業の傍らにチャリテ
ィ活動や人権問題に関しての運動を積極的に行っているようなリベ
ラリストだったことだ。
彼らにしてみればバネッサはまさに歯ごたえのある獲物。一定上
の教育を受け、高い教養をもつベネッサが彼らを罵り人としての権
利を高らかに語れば語るほど、それを力でねじ伏せ彼女に悲鳴を上
げさせる事に喜びを感じた。
従順な意思のない人形よりもある程度歯ごたえのある反抗的な獲
物を相手にしたほうが楽しいという理屈だ。
その結果、いつ終わるとも知れない拷問じみた暴行を受け続けた
バネッサの心は粉々に砕け散った。そして目から意思の光が消え、
1637
半開きになった口から涎を垂れ流すまるで人形のようになったバネ
ッサを、貴族達は壊れたおもちゃに様はないとばかりにチェンバレ
ンへと投げ与えた。何のためらいもなく、まるで生ゴミでも捨てる
かの様に。
貴族の中でも特に有力とされる彼等は、おもちゃに出来る人間を
幾らでも調達する事が出来たからだ。
そして、呪印を刻まれ服従するより他になかったチェンバレンは、
その光景を見せられ続けた。
貴族達にしてみれば、恋人を暴行されても止めることの出来ない
チェンバレンの苦悩と慟哭を見ることが楽しくて仕方がなかったの
だ。
泣き叫ぶ最愛の恋人。日々繰り返されるその光景を黙って見てい
る他にどうしようもない自分自身。チェンバレンの心の中がどのよ
うなことになったかを想像するのはそれほど難しいことではない。
終わりの見えない暗闇の中。その結果、どこにでも居た善良な一
人の男の心はゆっくりと正気を失い壊れていく。
そして、これ以上苦しませるには忍びないと、最愛の女の首をそ
の手で絞めた後に残ったのは、やり手の金融ビジネスマンの姿をし
たこの世界の全てを憎む一匹の鬼だ。
いつか必ずあの貴族達とその家族を殺す。ただそれだけを生きる
望みとして、チェンバレンは地獄の様な戦場を生き延びた。
体を鍛え、法術を会得した。ただひたすらに力を求めたのだ。
それは隷属の呪印を刻み込まれたチェンバレンにとって適わぬ夢
だった。そう、組織に救われるその日まで。
︵そうだ、もっとだ。もっと踏みつけろ。そして恨みを買え。買っ
て買って買いまくってその恨みの重さに押し潰されろ︶
確かに、今のところ平民達は貴族の横暴にも重税にも我慢してい
る。それは貴族達が法術という力を持っているが故の事。だが、そ
れにも限界はある。物に耐久性の限界があるのと同じだ。
調子にのって圧力を掛けすぎれば必ず破たんする時が来る。
1638
︵本気で国を立て直したいのなら、貴族派は切り捨てるべきだった
な。女王陛下︶
チェンバレンは心の中でルピス女王を嘲笑った。彼や地球出身の
人間から見て、ルピス・ローゼリアヌスはまさに夢見る乙女だ。
理想に燃え、民を愛し、この世界では高水準の教育を受けている。
本来であれば彼女の治世はこの世界でも屈指の優れた物になれたか
もしれない。
だが、ルピスの持つ中途半端な甘さが全てを台無しにしている。
ゲルハルト子爵を粛清せず、領地の移転と罰金だけで済ました事
は、貴族達に反逆しても殺されないという幻想を抱かせ、その後に
取ったルピスの平民重視の政策がそれに拍車をかけた。
貴族たちは思ったはずだ。ルピス・ローゼリアヌスは甘い女だと。
勿論、国を統治する方法として、恐怖は決して最善の方法とは言
えない。恐怖は疑心と言う種を育て、やがて反抗心と言う名の実を
つける。だがそれでも、舐められるくらいならば恐れられた方が遥
かにマシだ。
その結果が、この目の前に広がる光景なのだから。
︵アンタの中途半端な対応のおかげで、貴族達の尻を叩くのはそれ
ほど難しくはなかったぜ︶
元々選民思想に凝り固まっていた連中。このような暴挙に出る素
養は元々あったのだ。だが、それでも彼らは自分の領地でこれほど
の暴虐を行う人間は少ない。
民の統治は税収に直結する。確かに力を誇示し民から税を搾り取
れば一時的に収入は上がるだろう。だが、二度三度と繰り返せば繰
り返すほど、得られるものは少なくなっていうのが道理。 そして、治安は悪化し、人の心は荒廃していく。そうなれば王国
がその貴族を潰すか、民の反乱で潰されるかのどちらかになる。貴
族はその事を十分に理解していた。
だから、大部分の貴族は心の底から平民を見下してはいても、生
かさず殺さずの微妙なバランスを保ちながら己の領地を維持してき
1639
たのだ。
だが国を立て直す為と言う大義名分と、ルピス・ローゼリアヌス
の力を侮る心。その二つが彼ら貴族の心を狂わせた。
︵それに、今回臨時徴税官を任命された貴族は有能ではあっても、
人間的には三流と言われるような人間が多い。態々ゲルハルトに命
じてそういった人間が任命されるように工作させた甲斐があったっ
てもんだ。アホのくせにつまらないところで疑り深い野郎だったし
な︶
チェンバレンは面当ての隙間から徴税官の背に冷笑を向ける。
下級貴族の小悪党らしく自己の保身に長けていたこの小心者の徴
税官に、チェンバレンはアメリカ時代に培ってきた巧みな話術を持
って取り入った。そして信用を得た後は、ひたすら彼に言葉の毒を
流し込んできたのだ。
︵この感じならば後二∼三ヶ月ってところだな。まぁそれまでは上
手い事調節しないとな⋮⋮さて、そろそろ今日は御仕舞ににするか。
もう少しこの光景を眺めていたい気はするが⋮⋮ね︶
無様に這いつくばった村人を一瞥しながら、チェンバレンは徴税
官の傍らに歩み寄りそっと耳打ちをする。
ローゼリア国民の不満を高め反乱を起こさせる。だが、それには
タイミングが最も重要になる。より正確に言えば、組織が最大の利
益を得るためのタイミングがだ。
そして未だに組織から最終的なゴーサインは出ていない。今この
場で村人を追い詰めすぎて反乱を起こされる訳にはいかないのだ。
﹁閣下、この連中も閣下の恐ろしさは十分に身に染みたはずです。
今日のところはこのあたりで引き揚げましょう⋮⋮﹂
﹁何故だ? もう少し脅せば金を出すぞ﹂
1640
徴税官は欲と暴力に酔った目をチェンバレンに向けながら首を傾
げた。
彼にしてみれば、その金の何割を懐に入れられるかを計算する事
で頭の中が一杯なのだろう。
﹁分かっております。このまま締め付ければ連中は税を払うでしょ
う。ですが、あまり締め付けすぎて反乱でも起こされれば閣下の進
退に影響が出ます。ここは恩を着せる形で一旦引いた方が後々閣下
の為になります﹂
保身と欲が徴税官の心を揺らす。
金は欲しいが、泥を被る度胸はないのだ。
﹁ふむ⋮⋮君がそこまで言うなら、良かろう。今日は引き上げると
しよう﹂
やがて、閣下の進退に影響が出るという一言が効いたのか、数秒
の間黙り込んだ徴税官は渋々とチェンバレンの言葉に頷く。
︵馬鹿め。今更多少締め付けを緩めた程度でこいつらが恩を感じる
訳がないだろうに︶
﹁ありがとうございます閣下。閣下のお慈悲は必ずや⋮⋮﹂
チェンバレンは徴税官の言葉を内心では馬鹿にしつつも、大仰に
頭を下げて感謝の意を示す。
そして感謝の意を表すために頭を下げたその時、それは起こった。
矢が風を切る鋭い音がチェンバレンの耳に響く。
そして次の瞬間、二本の矢が徴税官の脳を貫いた。
1641
﹁閣下! 閣下!﹂
﹁閣下をお守りしろ!﹂
﹁円陣を組め。急げ! 反乱だ! 反乱だ!﹂
大地に倒れ伏す徴税官へ護衛の騎士達が次々と駆け寄ってくる。 そんな中チェンバレンはただ一人、冷静さを保っていた。人とし
ての感情など今のチェンバレンにはかけらも残ってはいない。ただ
必要に応じて演じるだけだ。
だが今はそんな演技をしている猶予などなかった。
︵クソ! 即死か⋮⋮︶
徴税官の首に手を添えて脈を診たチェンバレンは小さく舌打ちを
する。
何れ死んでもらう道具とはいえ、今この場でこの徴税官が死ねば
組織の計画は大きく修正しなければならなくなる。
︵こうなると問題は誰がなんの為にこいつを殺したのかだな︶
額から引き抜いた矢は何処の街でも買う事の出来る取り立てて特
徴のない量産品。だが、矢じりにはべったりと黒い粘性の液体がこ
びり付いている。
チェンバレンはそっと指先でそれをぬぐうと、舌の先に塗り直ぐ
に吐き出した。
︵毒だな⋮⋮こいつは厄介な事になった︶
毒の種類まで特定はできないが、舌を刺激する苦味は植物系の毒
によく見られる特徴。それもかなり強力な毒だ。
︵毒を使ったのならば農民ではないかもしれない。だが、それでは
誰が?︶
矢が飛んできた方向は間違いなく農民たちの作る壁の向こう側。
徴税官の頭に刺さった矢を見ても飛んできた矢の方角は確実だ。後
の問題は誰がと言う事になる。
1642
普通に判断すれば、農民達の誰かが恨みを晴らす為に徴税官を射
抜いた様に見える。だが、毒矢を使ったとなると、農民達が犯人と
断定するのは危険だった。
混乱する周囲。
騎士達が作り出した盾の壁に囲まれながら、チェンバレンは推理
を進めていく。
﹁おい、チェンバレンどうする! 何かやばいぞ!﹂
同僚の一人が考え込むチェンバレンの肩を揺すった。
その手が微かに震えているのは恐怖だからだろうか。
﹁一体どうした。少し黙⋮⋮﹂
顔を上げたチェンバレンの目に殺気立った農民達の顔が映る。
男も女も子供も老人も、その眼に宿すのは殺意殺意殺意。
元々反乱の覚悟を心の片隅でしていたのだろう。彼らの手にはい
つの間にか鋤や鍬といった農具が握られていた。
﹁なるほどな⋮⋮これが狙いか﹂
チェンバレンはため息交じりに小さく呟いた。
徴税官が矢に射抜かれて死んだ。それもこの村の中でだ。
いくら村人達の出来の悪い頭でも、この状況で自分達が無関係と
主張したところで聞き入れられないことくらいは理解できる。
国に訴えたところで無駄だ。何しろ裁くのは貴族なのだから。農
民達の言い分を聞く気など全くないだろう。
罪に問われれば結論は見えている。その事を村人達も理解してい
るのだ。そして、そんな彼らをさらに憎悪の炎が煽る。
今の村人達に冷静さなど欠片もない。あるのは獣の様に狂った熱
1643
狂。 騎士達を円形に取り囲みじりじりとその輪を狭める農民達。彼ら
の狙いはチェンバレン達の命だ。
﹁こっちは俺を入れて六人。村人は少なくとも百人を超える。とて
も防ぎきれん﹂
一人で十人分ともいえる戦力を保持する騎士達。だが、それも心
と肉体がベストな状況であってこその事。
相手は自国の民。その上、彼らは追い詰められた鼠だ。同じ死と
言う結末を迎えるならば、騎士達の首を取り、戦って死のうと覚悟
を決めている。
そんな敵を相手にこの状況下で、騎士達が普段のパフォーマンス
を発揮できるとは思えない。
﹁仕方がない。無理矢理にでも突破するぞ。生き延びたかったらつ
いてこい﹂
同僚の泣き言に、チェンバレンは腰に差した剣を抜いて答える。
法術を会得した騎士と言えども、僅か六人。幾ら一人で十人分の
戦力を誇る騎士と言えども孤立無援のこの状況で蟻の様に群がる村
人の牙を避けきれる保証などない。
護衛任務ならその程度の人数で十分だが今回は裏目に出た。
︵こいつは偶然の暴発なんかじゃない。わざとこのタイミングで反
乱を起こさせたんだ⋮⋮不味い、こいつは他の村々にも一気に飛び
火する︶
国や貴族に対しての不満や反感はローゼリア国内で十分に熟成さ
れている。
一度それに反乱と言う火がつけば、容易に消すことなど出来ない。
︵どう考えても今更反乱は抑え込めない。当初の予定と違うタイミ
1644
ングでの反乱。こいつが組織の計画にどう影響してくるか俺には判
断がつかん⋮⋮仕方がない。仲間に連絡をして次の手を考えるしか
ないか︶
方針が決まれば覚悟も決まる。
チェンバレンは村人達の包囲を切り抜けるべく、チャクラを回し
始めた。
ローゼリア王国の片田舎で起こった農民達による反乱。
当初は早期に鎮圧されると思われた反乱だったが、国内全体に蔓
延っていた不安や不満を糧に、恐るべき大火となって国中を焼く。
後にローゼリア王国滅亡の引き金と呼ばれる事になる第二次ロー
ゼリア内乱の幕開けであった。
1645
第5章第9話︻そして開演のベルが鳴る︼其の2︵後書き︶
長らくお待たせして申し訳ありません。
諸事情により執筆する時間がどうしても取れませんでした。
新作の方もなかなか思うように動けていない状況です。
とはいえ、だいぶ落ち着いてきましたので、12月からは週一の更
新を目標に頑張る予定です。
今後もウォルテニア戦記をよろしくお願いいたします。
1646
第5章第10話︻そして開演のベルが鳴る︼其の3
大きな歴史の転換期。
後に西方大陸史に深く刻まれる事になるその事件の始まりは、
何時もと変わらない朝の一コマから始まる。
﹁それをどうにかするのが貴様らの役目だろう。何の為にお前達を
登用したと思っている。出来る出来ないではない。何としても部下
共に仕事をさせるのだ﹂
ローゼリア王国の首都、ピレウス。
その中心にそびえたつ白亜の城の一室で、今日もまた甲高い女の
怒鳴り声が響く。
かんしゃく
部屋の外で直立不動の姿勢を崩さない二人の警備兵は、分厚い樫
の扉越しに聞こえてくる部屋の主の癇癪を聞き、軽く死線を合わせ
ると今日もまた深いため息をついた。
二人は決して部屋の主を嫌ってはいない。
若くして王の信頼を得て行為についた部屋の主が、どれほどロー
ゼリア王国の為に身を粉にして働いているのか十二分に理解してい
るからだ。
しかし、だからと言って毎日の様に怒鳴り声が聞こえてくればた
め息の一つもつきたくなって当然だった。他とへ自分達に向けて放
たれたものではないにしても。
︵今日はご機嫌が悪い⋮⋮いや、今日も⋮⋮か︶
そんな思いが男の脳裏に浮かび苦笑いを浮かべた。
実際、この部屋の主の機嫌が良かった日などちょっと思いつかな
い。
初めての大仕事を任され、彼女が満面の笑みを浮かべながら勢い
1647
込んでこの部屋にやってきたのは一体何時の事であっただろう。
そんな部屋の中ではこの数ヶ月の間、毎日の様に繰り返される光
景が広がっていた。
﹁ですがレクター卿。私共としてもただ手をこまねいていた訳では
⋮⋮﹂
痩せた長身の若い男がメルティナの怒りを前に、慌てて言い訳を
始めた。
神経質っぽいこの男の細面の額には、薄らと汗が浮かんでいる。
それに次いて側らに立って成り行きを見守っていた中年の男が後
を追う様に口を開く。
こちらは、まるで布袋の様に突き出た腹が印象的な脂ぎった男だ。
余程緊張しているのか、大粒の汗が絹のシャツに大きな染みを作
っていた。
﹁その通りです。正直に言って今の我々には他に打つ手はないかと。
勿論、陛下がご決断くだされば全ての問題は解決します。ですが、
その可能性は低い。ならばここは焦らずに時間をおいて少しずつ切
り崩し味方を作っていくしか⋮⋮﹂
年若い上に女であるメルティナから頭ごなしに怒鳴りつけられ、
不満げな表情を浮かべながらも男達は自分は悪くないと言い訳を始
める。
風采は上がらずとも、二人は共に長年下級官僚として様々な案件
に携わってきた。経験と実績。この二つを彼らは兼ね備えている。
そんな彼らから見れば、この状況でメルティナの求める成果が出る
訳がない事を十二分に理解していた。
︵何を偉そうに喚いている、政治の初歩すら知らぬド素人が! 貴
1648
様、一体何様のつもりだ。陛下の腰巾着の分際で︶
己の心に秘められた暗い想いを今この場で存分に吐き出せれば、
一体どれだけスッキリとする事だろうか。
メルティナを容赦なく怒鳴りつけたくなる欲求に男は必死で堪え
た。
彼らとて高慢ではないが、人としての矜持は持っている。まして
や、自分に非がないと思っていなければ尚更だ。
それでも、今ここでメルティナへ己の怒りをぶつける訳にはいか
ない。
正しいか正しくないかとか、礼儀的な理由ではない。単純に今後
の仕事に悪影響が出るという話だ。
そして実際に彼らは決して悪くはない。ルピスの政策が思い通り
に進まない根本的な原因は分かっており、それに対する対策も彼ら
は早い段階でメルティナや前任者へ提案しているのだから。
二人は二人の職分の範囲で出来る限りの手を打った。それで結果
が出ないとしても、それは二人の責任とは言えないだろう。
しかし、そういった正論を言ったところで、メルティナが理解を
示してくれるかどうかは別の話。
いや、メルティナの性格を考えれば結論は見えている。
己の正義や想いに固執し、聞く耳を持たないだろう。いやそれど
ころか、己の正義を否定する敵だと相手を憎むかもしれない。
だが、そんな二人の態度にメルティナは形の良い眉を潜めた。よ
ほど苛立たしいのか机の上に置かれた指が華麗なタップダンスを踊
る。
︵時間を掛ける? 馬鹿な事を⋮⋮そんな時間があると本気で思っ
ているの?︶
二人はルピスが王座を得てから引き揚げられた役人だ。
若手や中堅の役人達の中でも特に優秀と噂されたこの二名だが、
本来であれば彼らがこの場に居る事はなかった。少なくともルピス・
ローゼリアヌスが玉座に座るまでは。
1649
家柄的には下級貴族でしかなかった彼らが、上級官僚として王城
で重用されているのはひとえにルピスの引立てによるもの。
そんな彼らにノーと言う権利はない。
ただし、だからと言って出来ないという結論も現実も変わりはし
ないのだが。 ﹁時間をおいてだと? ふざけるな。そう言ってお前達は一体いつ
まで時間を掛けるつもりだ﹂
ルピスが女王として国政を担うようになってからかなりの時間が
過ぎ去っている。
メルティナが責任者として抜擢された時から数えても数ヶ月は経
った。
︵それでいて何一つ変わってはいない。相変わらず何も⋮⋮︶
ルピスは玉座を得た。このローゼリア王国の支配者となった。
だが、それで何かが変わったのかと問われれば答えるべき言葉は
思い浮かばない。いや、変わりはした。ただ戴冠前と比べてより全
てが悪くなったというだけ。
その事はメルティナ自身も十分に理解している。
問題はそれを軽々しくは認められない事だ。すんなり自分達の手
には負えないと認められたらどれほど楽な事だろう。
﹁もういい、お前達の顔を見ていると胸糞が悪くなる。さっさと自
分の部屋に帰って仕事をしろ。明日はもう少しまともな報告を期待
している﹂
苛立たしげに手で二人を追い払うと、メルティナはソファーに深
く腰を下ろす。
バタンと言うドアの閉まる音と共に出てくるのは、深いため息と
愚痴だ。天井を見上げながら、メルティナは手で瞼を覆う。
1650
その手はほんの少し濡れていた。
﹁なぜだ。なぜ誰もが陛下に協力しようとしない。なぜ自分の利益
ばかり追い求める。誰もこの国を愛してはいないというのか?﹂
メルティナにとってローゼリア王国は全てにおいて勝る母親にも
等しき大事な物。彼女は、その大切な物の為に身を切り血を流すの
は当然の義務だと考えている そんなメルティナから見て、今の状態はとても我慢の出来ないも
のだ。
ルピスが玉座に座る前はゲルハルト公爵に国政を牛耳られ、多く
の民達が明日への不安と恐怖に苛まれていた。富栄えるのは上級貴
族と彼らの手足となって働く豪商達だけ。メルティナはそんな現実
を変えたいと思った。
そして、正統な嫡流であるルピスを国王の座に座らせるためにあ
らゆる努力をした。
周囲から見て、その努力が適切だったかどうかはこの際問題では
ない。大事なのは、メルティナ自身が己の全てを賭けたと信じてい
ると言う事実だけ。
実際、努力そのものはしているし、彼女の周辺に居る人間もそれ
を目にしている。
だが、メルティナの努力にも関わらず、この国は何一つ変わらな
い。国を蝕み特権を盾に己の栄達のみを貪る貴族、豊富な資金力と
貴族達とのコネを活かして癒着する豪商。そして、身を切ることを
嫌がるくせに、不満だけは声高に言う民。誰もがルピスを批判し貶
める。
︵このままではこの国は⋮⋮だが一体どうしたら︶
メルティナとしても、今の状況に問題がある事は十分に理解して
いる。だが、それに対してどう対処すればよいのか分からない。
それはまるで、誰も到達したことのない山を征服しようと挑む登
1651
山家。遥か彼方に上るべき山頂は見えているのに、そこに至る為の
地図も登山路も分からない様なものなのかもしれない。
﹁ふぅ、ダメだダメだ。陛下は私以上にお辛い立場なんだ。私がし
っかりと支えて差し上げなければ﹂
小さくため息をつくと、メルティナはソファーからゆっくりと体
を起こす。そして、部屋の片隅に置かれた姿鏡の前に立った。
美しい何時もと変わらない髪にビシッと決めた服装。だが、鏡の
中のメルティナの顔は疲れが浮かび、少し瞼が腫れていた。
ひど
﹁全く酷い顔だ⋮⋮これから会議だと言うのに⋮⋮﹂
そっと頬を撫で、メルティナは棚に置かれた化粧箱を開いた。幾
ら化粧が得意ではないとはいえ、こんなやつれた顔で会議に出る訳
にはいかないのだから。
﹁では、これで今日の議題は終わりですね。他に何か追加の議題は
ありますか?﹂
夕日に照らされ真っ赤に染まった円卓に座る面々を見回しながら、
ルピス・ローゼリアヌスはゆっくりと口を開く。
午後二時から毎日開催されているこの会議に、ルピスは心底うん
ざりしていた。
むな
何時もと変わらぬ会議室で、何時もと変わらぬ顔ぶれが、何時も
と変わらぬ議題に、何時もと変わらぬ議論を行う。これほど空しく、
時間の無駄があるだろうか。
ほんの少しでも前に進んでいるという実感。それがルピスには全
く感じる事が出来ない。
1652
会議の進行役としての責務も、こんな状況ではただの貧乏くじで
しかなかった。
︵今日もただ会議を開いただけ。何も決まらず、何も改善されない。
彼らはただただ互いを罵り、責任をなすりつけようとするだけ⋮⋮︶
この場に居る人間は全てルピス自身が選んだ人材だ。
えが
貴族派に属さず、己の領地を問題なく統治するだけの能力を持っ
た人間。
清廉で公平な国。ルピスの描く理想郷を作る為に選ばれた人材だ
った筈なのだ。
零れ落ちそうになるため息をルピスは必死で押し隠す。ただでさ
え周囲に自分の力量を認められていない今の状況で、政治に対して
無関心と取られるような態度や言動を見せる訳にはいかない。
ルピスはルピスなりに、ローゼリア王国の国王としての責務を果
たそうと努力していたのだ。
︵誰か、誰か何かないの? この国をどうしたら良いの?︶
ルピスは縋る様な目で周囲を見回す。彼女としても、今この国が
置かれた状況を理解していない訳ではない。いや、問題を解決した
いと思う気持ちは、この会議に出席している誰よりも強く真摯な物
と言えるだろう。
だが、残念ながらルピスにはその問題を解決する為の方法が思い
つかなかった。彼女に出来るのはただ誰かが問題を解決する手段を
提案してくれるように祈る事だけ。
だが、ルピスの視線を受けて誰もが目を逸らす。
それは側近であるメルティナやミハイルであっても同じだ。
﹁何もないようね⋮⋮では﹂
期待と諦めの籠った目でもう一度周囲を見回したルピスが会議を
終えようとしたその時、それは起こった。
ルピスの左隣に座るベルグストン伯爵が静かに手を上げたのだ。
1653
﹁陛下、少しよろしいでしょうか﹂
その言葉に周囲の視線が一斉に伯爵へと注がれた。
1654
第5章第11話︻そして開幕のベルが鳴る︼其の4
︵一体、何を言う気なのかしら⋮⋮私への批判? それとも⋮⋮︶
早鐘の様に打ち鳴らされる鼓動。不安と微かな希望がルピスの
心を乱す。
今、ルピスの配下の中で最も政治にという物を理解している人間
といえば、ベルグストン伯爵とその義弟の二人だろう。本来であれ
ば、改革の主導権を握っているべき人材名のは彼であるべきだった。
、ルピスが玉座に座った当初は、ベルグストン伯爵こそが改革の実
行責任者としてその手腕を存分に発揮していた。誰もが将来に夢と
希望を感じていた時期だ。
だが、蜜月の時間は長くはなかった。
停滞する国内の改革を進める為に断固とした強権の発動を提案し
たベルグストンに対し、ルピスはそれを拒んだ。 その時から、両
者の間には目に見えない亀裂が入っていたのだろう。
そしてその亀裂は、ザルーダ王国への援軍に際してルピスとベル
グストン伯爵との間で意見が対立した事により決定的なものとなる。
より正確に言えば、己の非を顧みずに他者へ正論を押し付けたミハ
イルを周囲の冷たい視線から庇おうとした結果だったが、それはル
ピスとベルグストン伯爵との間に大きな禍根を残したのだ。
結局はルピスの決断で御子柴亮真とエレナをザルーダへ援軍とし
て派遣した。彼女に残された選択肢は他になかったのだ。
そしてそれ以来、ベルグストン伯爵は会議には出席してはいても
積極的な政策の立案を行わなくなり、その義弟であるゼレーフ伯爵
も王都から姿を消した。
その結果が今の政治的混乱だ。
忠誠心はあっても政治的な能力に欠ける人間。能力はあっても忠
誠心に欠ける人間。そしてそのどちらにも問題のある人間。
1655
チェスに例えれば、クイーンやナイトが消え、ポーンだけが並ん
でいるような状況。
尤もチェスのポーンは敵陣の再奥地まで駒を進めればポロモーシ
ョンと言うルールによって、最強の駒であるクイーンにもなれるの
と同じ様に、人もまた使い方次第で最弱のポーンが最強のクイーン
になる事も出来るだろう。
︵でも私にはベルグストン伯爵の様に、彼らを使いこなす才能も技
量も経験もない⋮⋮︶
結局のところ、全ては指し手の力量次第と言う事だ。
︵本当ならば、ベルグストン伯爵へ謝罪し助力を求めるのが一番な
のだけれど⋮⋮無理ね︶
ルピス自身もまた、己の決断に後ろめたさを感じている。他に手
段がなかったと理解していてもだ。
しかし、今のルピスの立場では簡単に己の非を認める訳にはいか
ない。
そもそも国王とは国の最高位。現実はどうであれ周囲からは絶対
者として見られている。そんな立場の人間が安易に謝罪をしていて
は鼎の軽重を問われる事になる。
ただでさえ、確固とした実績のないルピスに対して、為政者とし
ての力量を疑問視する声が大きいのだから。
そして何よりもルピスが恐れているのは、己の非を認める事によ
って、非難の矛先がミハイル・バナーシュへと向けられてしまう事。
ルピスにとっては、メルティナと並んで信頼する事の出来る側近
中の側近。それは周囲から白眼視されている今でも変わらない。
国の行く末を考えればミハイルを切り捨てるのが道理である事は、
ルピス自身も十分に理解している。
だが、如何に国王と言えども全ての私心を捨て去る事など出来る
はずもなかった。
兄ともいえる男の為に、ルピスはただ時が全てを解決してくれる
事を祈るしかない。そんな時に今まで沈黙を守りぬいてきたベルグ
1656
ストン伯爵が突然に発言の許可を求めてきたのだ。彼女が思わず身
構えてしまうのは致し方ない事だろう。
だが、この場でそれを表に出す訳にはいかなかった。
﹁えぇ、構わないわ。発言を許します、ベルグストン伯爵﹂
﹁ありがとうございます。陛下﹂
ルピスの微かにうわずった声を聞き、ベルグストン伯爵はゆっく
りと椅子から立ち上がる。そして、大きくルピスへ向かって一礼す
ると、机を囲む面々を見回し大きく息を吸った。
﹁陛下を初め皆も理解していると思うが、我が国は現在、幾つもの
大きな問題を抱えている﹂
部屋中に響く大きな声。
決して威圧的ではなく、穏やかでありながらも、一言一言がはっ
きりと耳に届く。
圧倒的な自信と信念に裏打ちされた男の声だ。
﹁基本的にどの問題も早期解決が望ましいが、特に優先度が高い問
題と言えば、オルトメアのザルーダ侵攻だろう﹂
その言葉に円卓を囲む誰もが無言のまま頷いた。
この部屋に居る誰もが、いずれ来るその時の為に必死で国を立て
直そうとしているのだから。 ﹁先年勃発したオルトメア帝国のザルーダ侵攻は、我ら東部三ヶ国
とエルネスグーラが同盟した事により今のところは落ち着きを見せ
ている。しかし、これで全てが終わると考えて居る人間はいないだ
1657
ろう。今のところはザルーダとオルトメアの間で交渉を続けている
と聞いているが、これがまとまることはまずないと言える。何れオ
ルトメアは何らかの理由を付けて再びザルーダへ軍を向けるだろう﹂
今度はあちらこちらから賛同の声が上がる。
﹁その時オルトメアは必ず東部三ヶ国の連携を分断しようとしてく
る。この場合可能性が一番高いのはなんだろうか。我がローゼリア
王国がザルーダの戦よりも国力を裂かなくてはならない事態とは何
か?﹂
ベルグストン伯爵の問いかけに、誰かの口から小さな呟きが漏れ
た。
﹁南部諸王国⋮⋮﹂
部屋の空気が一瞬のうちに凍りつく。
ほんの少しでも物事を考えられる知性があれば、西方大陸中央部
の覇者であるオルトメア帝国がこのまま黙って引き下がるはずがな
い事は子供でも分かる理屈だ。力で他国を支配下に置いてきたオル
トメア帝国が国力のザルーダとの戦に負ければ、帝国内でジッと機
会を伺っている不満分子達が一斉に活動を開始するだろうから。
となれば、次のザルーダ再侵攻はオルトメアにとっては決して負
けられない戦になる。必勝の策を用いて来る事は想像に難くないだ
ろう。
この時オルトメアが選択するであろう戦略の中で最も最も可能性
が高いのは、南部諸王国のいずれかに対して餌をちらつかせ、ロー
ゼリアとミストの二ヶ国に対して戦端を開かせる事。
そもそも、今回の停戦交渉は御子柴亮真に兵站基地であるノティ
ス砦をを襲撃されオルトメアの侵攻軍がザルーダ国内で孤立化しそ
1658
うになった事と同時に、西方大陸北部の支配者であるエルネスグー
ラ皇国とザルーダ、ローゼリア、ミストの東部王国が帝国に対して
連携して対処しようとした事に尽きる。如何に大国とはいえ、流石
に四ヶ国を相手に力押しで勝利を得る事は難しい。
となれば、次にオルトメアが考えるのはこの四ヶ国の連携をどう
やって切り離すかと言う事。
そうなった時に一番簡単な手段なのは、自分も味方を増やし相手
を分断する事だろう。
そして、一番オルトメア帝国が味方に引き入れやすいのは大陸南
部で血みどろの戦を繰り返す小国群。 南部の国は国土は狭く国力
も決して高くはないが、兵士一人一人の技量はとびぬけて高い事で
有名だ。実際、ローゼリア王国は過去幾度となく南部の国と矛を交
え、少なくない被害を出している。
国力差が大きい事から、国が亡ぶような事はないだろうが、それ
でもザルーダへ援軍を派遣する余裕はなくなる。
︵尤も、それはあくまで国内が安定し、国王の下で纏まっていれ場
の話⋮⋮国内で勢力争いをしている今の状態で南部からの侵攻を食
い止めるは難しいだろう。そう言う意味で言えば、ルピス様を神輿
にしたままアーレベルグ将軍が権力を握る形にするか、素直にゲル
ハルト公爵が宰相として国を運営する方がマシだった訳だ︶
思わず脳裏に浮かんだ皮肉に、ベルグストン伯爵は小さく鼻を鳴
らす。
今は亡きホドラム・アーレベルク将軍とゲルハルト元公爵は確か
に問題の多い人間ではあった。
共に傲慢で、独善的で、己の栄達の為には手段を択ばない男であ
り、国王を傀儡にしてこのローゼリア国を牛耳ろうとした野心的な
人間。
一人の人間として彼らを評価したならば紛れもなく下種の類だ。
だからこそ、二人を国政から排除し王家の手に実権を取り戻す為に
戦までした。
1659
だが、その結果はどうだろう。
今のローゼリア王国は羊飼いの居ない羊の群れだ。
︵だが、それでも何とかしなければならない⋮⋮これが全てを変え
る筈だ︶
静まり返る部屋。誰もがベルグストン伯爵の次の言葉を待った。
場の視線を一身に受けながら、ベルグストン伯爵は最後の切り札
を足元に置いた鞄から取り出す。その為に彼は何ケ月もの間、沈黙
を守ってきたのだから。
しかし、運命の女神はまたもやベルグストンの想いを裏切る。
﹁では、これより⋮⋮﹂
ベルグストン伯爵が大きく息を吸い込み言葉を続けようとしたそ
の時、部屋の扉が激しく乱打された。
1660
第5章第11話︻そして開幕のベルが鳴る︼其の4︵後書き︶
想定外に年末が忙しく、執筆時間が取れませんでした。何とか今
年中に今の部分だけ終わらせたかったのですが、難しい様です。
なるべく早く続きをUPしますのでご勘弁いただければと思いま
す。
今年は更新が滞り読者の皆様には大変ご迷惑をおかけしました。
来年は皆様に大きなご報告も出来ると思いますので、今後もウォ
ルテニア戦記に変わらぬご支援をいただければと思います。
よろしくお願いいたします。
1661
第5章第12話︻そして開幕のベルが鳴る︼其の5
屋敷の執務室で一人の男が苦悩の表情を浮かべながら天を仰ぐ。
城から帰宅してから、彼は一体どれだけの時間を微動だにせずこ
の状態で過ごしたのだろう。
十分、二十分、三十分。それとも既に一時間を超えているのか。
男の胸中は言い知れぬ葛藤と後悔、そして己への無力感でいっぱ
いだった。
男の人生で今ほど脱力感と空しさを覚えた事はない。
︵何が悪かったのか。私達の見込みでは今少し時間があったはず⋮
⋮私たちが時期を見誤ったのか⋮⋮それとも初めからこの国を救う
術などなかったのか︶
ゲルハルト公爵との権力争いに養父が破れ結果、己が領地へ引き
籠るしかなかった若かりし頃ですら、これほど心が打ちのめされた
事はない。 男にとって、それだけ今回の策は賭けだったのだ。
﹁失礼いたします。ゼレーフ様がお見えになりました。こちらへお
通ししてもよろしいでしょうか?﹂
部屋の扉が軽く叩かれ、年老いた執事の声が男の意識を現実へと
呼び覚ました。
﹁あぁ、構わない。通せ﹂
会いたいと思う心と、会いたくないという相反する想いが、男の
心の中で一瞬交差する。
視線の先にあるのは机の上に置かれた紙の束。
1662
ほんの数時間前まではこのローゼリア王国を変える為の切り札だ
ったが、今では焚き付けに使うくらいしか使い道のないゴミだ。し
かし、このゴミの山を準備する為にどれだけの労力と犠牲を払った
のだろうか。その事を思うと、男は心から信頼を寄せる義弟の顔を
まともに見る勇気がなかった。
たとえ義弟が男を責めるような人間ではないと理解していても。
﹁浮かない顔ですな。義兄上殿﹂
扉を開けて姿を現したゼレーフ伯爵が、開口一番にベルグストン
伯爵の顔を見て眉を潜める。
よほど顔に心労が表れていたのだろう。
﹁それは仕方がない。この状況では⋮⋮な﹂
対面に設えられたソファーにその肥満気味な体を沈めたゼレーフ
伯爵の言葉に、ベルグストン伯爵は深いため息を交えて答えた。
﹁少し小耳に入れたのですが、なんでも会議中だった女王陛下が急
報を聞いて御倒れになったとか?﹂
ゼレーフ伯爵の言葉にベルグストン伯爵は思わず義弟の顔を穴の
開くほど見つめる。
﹁あぁ、反乱が起こったという報告を聞くなり突然気を失われた。
今日は寝室で休まている。あの方もあの方なりにお心を砕いていた
ようだからな。だが、お前良くそれを知っているな。城の人間には
箝口令を敷いたはずだが﹂
そんなベルグストン伯爵の言葉にゼレーフ伯爵は肩を竦めて答え
1663
た。
黙っていろと命じるのは簡単だが、それが実行される事が如何に
困難な事であるか。諜報を得意とするゼレーフ伯爵にとっては自明
の理。
﹁箝口令を敷いたところで、何の意味もないですよ。元々人の口を
完全に塞ぎ切るのは神でも難し
い。ましてや誰もがこの国の行く末に不安を感じている今は特に⋮
⋮ね﹂
元々、人間とは噂話が好きな生き物なのだ。そして、人から人へ
と波紋の様に広がっていく。真実も嘘も織り交ぜて。
その人の本能ともいうべき物を力で押さえつける事は難しい。
﹁致し方なき事⋮⋮か﹂
﹁致し方なき事かと﹂
ベルグストン伯爵の問いにゼレーフ伯爵は同じ言葉を返す。
見つめあう二人。
長い沈黙の後、ベルグストン伯爵はゆっくりと口を開いた。今は
ルピスの体調など、何時までも気にしている場合ではないのだ。
﹁お前に揃えて貰ったこれも無駄になってしまった⋮⋮損な役回り
を頼んでおきながらこのような結果になってしまい本当に済まない﹂
ベルグストン伯爵は対面に座るゼレーフ伯爵へ深く頭を下げた。
だが、ゼレーフ伯爵の顔は普段と変わらぬ穏やかな笑みが浮かぶ
だけだ。
1664
﹁それはお気になさらずに、義兄上﹂
﹁だが!﹂
﹁仕方ありません。元々分の悪い賭けでしたから﹂
ゼレーフ伯爵の顔には何の憤りも浮かんではいない。彼は本心か
ら今回の結果を仕方がないと割り切っているのだ。
︵こいつは⋮⋮それとも私がまだまだ甘いと言う事なのか?︶
そんな義弟の態度に、ベルグストン伯爵はもう一度机の上へ視線
を向けた。
机の上に置かれたこの分厚い紙の束には、今ローゼリア国内で行
われている徴税に関しての情報が詰まっている。
誰が、何時、どこの村で、どれだけの金額を、どのような手段で
集めたのか。そして税として集めた金のうち、自分の懐に幾ら入れ
たのか。その全てが克明に記された資料。
ベルグストン伯爵はこの情報を元に、貴族派に組する人間達の粛
清を考えていた。 今ローゼリア王国内で起こっている問題の多くが、ゲルハルト子
爵の下に再び集いだした貴族派によって引き起こされているからだ。
ルピスに対しての不満を煽り、国防に口を出し、官僚達へ圧力を
掛けて政務を滞らせる。
そういった行動の一つ一つは決して致命傷ではないものの、無視
出来る様なものでもない。そして悪意ある非協力は敵意を露骨に向
けられるよりもはるかに質が悪く、対応が難しい。
いや、正確に言えばルピス・ローゼリアヌスの立場と性格が対応
を難しくしていた。
今のこの状況を打破する一番簡単な解決策は、そういった非協力
的な貴族の中から政治力の低い家を二∼三家を選んで一族郎党を粛
清する事だろう。
1665
家を潰す。これこそが自らを特別な存在と自認する貴族にとって
最も恐れ忌むべき事であり、その恐怖は必ず貴族達の心を縛り、矛
先を鈍らせる。
後は硬軟織り交ぜて少しずつ貴族達を手なずけていけばいい。
粛清の理由にもそれほど困ることはない。
政治を担う以上綺麗事だけでは済まないのは当然の事だ。どの家
にも後ろ暗い事の一つや二つはあって当たり前だし、最悪、罪をで
っち上げる事も可能だろう。多少、自らに傷がつく事さえ我慢出来
るのであれば、国王と言う絶対的な権力者であるルピスにとって不
可能な事ではない。
だが、性格的に穏やかで穏当な対応を選びがちであり、国王にな
ってから何の実績も上げていないルピスには、自らが強権を発動し
強引に彼ら貴族派の人間を粛清する事を選ぶ事が出来なかった。
だからベルグストン伯爵は貴族派に対して何の対策も行う事なく
静観し続けたのだ。
貴族派の人間達が警戒を緩め、その暴虐の牙と醜い本性を白日の
下にさらけ出すその時まで。
﹁私は正直に言って上手くいけば幸運だと思っておりました。元々
あまりにも条件が難しい策でしたからね﹂
ここでゼレーフは一旦言葉を切ると、軽く息を吐く。
貴族派をわざと自由にしその暴虐の証拠をつかんで一気に排除す
るという今回の策は、正攻法ではあり国の法にも則った正当なもの
ではあるが、その分タイミングが難しかった。
特に一番の問題は、ルピスの命令を逆手にとって貴族派達が平民
の不満をわざと煽る様な行動をとって居た事だ。
彼ら貴族派の狙いは平民達の反乱。
幾ら武力に劣る存在とはいえ、虐げられた弱者が何時までも言い
なりになっているはずがない。
1666
生かさず殺さず税を絞る。
民を愛する必要はないが、民に反抗されるようでは統治者として
は失格だ。そんな事は領地を維持していく上で当然抑えていて然る
べき知識。それを無視して貴族派が好き勝手に動いているというこ
と自体が、彼らの狙いを如実に表している。
これを防ぐ手段は二つ、多少の汚名は覚悟の上で強硬策に出るか、
彼らの動向を把握し、平民達の不満が噴き出る前に国法をもって貴
族達を裁くか。
だが、その策も全ては水泡へと帰した。
たった二本の矢。それが、とある村に訪れた徴税官の命を奪い去
った時に。
﹁別に私としてもローゼリア王国の臣下の端くれ。女王陛下への忠
誠は持っております。だからこそ義兄上の求めに従い策を練りはし
ましたし、微力ながらもお力添えをした訳ですから⋮⋮ですが、も
うこれ以上は無駄です﹂
﹁ゼレーフ⋮⋮お前﹂
言外の滲ませたゼレーフの意を察し、ベルグストン伯爵は思わず
息を飲む。
﹁義兄上殿。あなたが気が付かれて居ないはずはないでしょう﹂
何時もの穏やかな笑みが消え、ゼレーフ伯爵の眼が怪しい光を放
つ。
それはまるで末期の病人の下に訪れた死神の宣告にも似ていた。
﹁止めろゼレーフ。それは臣下として⋮⋮﹂
1667
分かり切っていた指摘。この後ゼレーフの口から放たれる言葉は、
現実から目を背けようとしていたベルグストンの心を打ちすえるだ
ろう。その事が分からないベルグストンではない。
だが、ベルグストンはその言葉を自分のもっとも信頼する義弟か
ら聞きたくはなかった。
聞けば、己が最も信頼を寄せる義弟と道を共にするか、それとも
分かつのか選ばなければならくなるから。
しかし、ゼレーフとて生半可な気持ちでこの時を迎えた訳ではな
かった。
ベルグストンの気持ちを理解していても尚、ゼレーフはゆっくり
と言葉を紡ぐ。 ﹁義兄上、いい加減に現実を見ましょう。もう十二分に国への忠義
は尽くしたはずです。これから先は我らが生き残る為の道を探るべ
きではないでしょうか﹂
﹁だが⋮⋮それでは⋮⋮﹂
ルピスを見捨てるのか。そう、ベルグストンの目が問いかけた。
しかし、ゼレーフは引かない。ここで引けば彼と彼の家族に大い
なる災いが降りかかることは目に見えている。
最悪の場合、義兄であるベルグストンですら切り捨てる。それだ
けの覚悟をもってゼレーフはこの場にの居るのだ。
﹁どちらにせよ、陛下に勝利の芽はありません。反乱を鎮圧できな
ければ、平民達は恨み骨髄ともいえる陛下を生かしてはおかないで
しょうし、仮に反乱を鎮圧したとしても﹂
﹁ゲルハルトがラディーネ王女を押し立てて、ルピス陛下を潰す⋮
⋮か。無能な国王を廃するという大義を盾にして﹂
1668
ベルグストンの言葉に、ゼレーフはゆっくりと頷く。
大義名分や正統性と言ったものほど状況や使い手の力量が問われ
る物もないだろう。
時には最強の剣となって敵を切り裂くが、時には己の身を蝕む毒
にもなる存在。
前回の内乱ではこれらの大義はルピスにとって最大の武器であっ
た。だが、国王という立場と責任が逆に毒となって彼女を追い詰め
ている。
﹁ならば平民達と交渉をするというのは﹂
武力での鎮圧ではなく、交渉による平和的な解決。これならば確
かにルピスが受ける傷は最小限で済む。だが、そんなベルグストン
の提案をゼレーフは一顧だにせずに切り捨てた。
﹁無駄です。平民が我々の言葉を素直に信じるはずがありませんし、
貴族達も平民に譲歩するような判断を認めはしないでしょう﹂
大地世界に限らず、国家安定の秘訣はどれだけ恐怖を維持できる
かと言う事に尽きる。
武力で、財力で、権力で、あるいは法の力で。人が国家に従うの
は国家が強く恐ろしい存在だからだ。
良くも悪くも、平和には力による保障が絶対に必要と言うなのだ
ろう。
そして、今のルピスにはその力がない。力がないから信用がなく、
信用がないから彼女の言葉には意味がない。
﹁原因はさておき、今ルピス陛下の統治能力を多くの人間が疑問視
しています。この状況での今回の反乱は致命傷です。国内の貴族達
1669
はこぞってゲルハルトを支持するでしょう﹂
﹁我々が口説いたとしても無理か?﹂
﹁無理でしょう。元々ゲルハルトの影響力はこの国の貴族達の四割
近くに及んでいます。その上この状況です。余程個人的に強い恨み
でも持っていない限り、中立派の貴族達はゲルハルトの下へ流れる
でしょうな﹂
唯一、ルピスが持つアドバンテージであった正統な王という地位。
しかし、今の状況ではその事を貴族達に説いて回ったところで、
今後ゲルハルトが掲げるであろう愚王を討つという大義の前には霞
んでしまう。その上、ラディーネを旗頭に据えられれば、正統性と
言う観点からも文句を付けようがない。
﹁打つ手なし⋮⋮か﹂
﹁せめてラディーネ様の事だけでもなんとかしていれば、まだ打つ
手もございましたが⋮⋮﹂
ラディーネさえいなければ、いくらゲルハルトに大義があろうと、
ルピスを排除すると言う動きに対して、王位の簒奪という印象が拭
いきれない。
貴族の中にはそういった後ろ暗いイメージを嫌い、ルピスに従う
事を選ぶ人間も居たであろうし、ベルグストン達の話に耳を傾けて
もくれただろうが、今の状況下ではそれも難しい。
﹁全ては手遅れか。結局は、あの時の判断が致命的だったという事
⋮⋮だな﹂
1670
ベルグストンは天を仰ぎ大きなため息をつく。
︵やはり先の内乱時にゲルハルトを完膚なきまでに叩き潰しておく
べきだったのだ︶
過去を悔いる事に意味がない事を理解はしていても、悔やまずに
はいられない。輝かしきローゼリア王国の夜明けは、確かにあの瞬
間に一度は訪れたのだから。
︵だが、全てはもう遅い。栄光に包まれた輝かしき未来は手のひら
から零れ落ちてしまった。そして、今回の反乱で陛下の治世は完全
に終わりだ。ならば⋮⋮︶
ルピス・ローゼリアヌスと共に滅びるか、それとも己の活路を探
るべきか。
ローゼリア王国の臣下としての義務感と、貴族として領民や家臣
に対しての責任。そのどちらも捨てる事の出来ない大きな物だ。
だが、今はどちらかを選ばなければならない。
長い長い沈黙が部屋の中を支配する。ゼレーフはただ静かにベル
グストンの決断を待った。
そして、決断の時は訪れる。
﹁分かった。お前の意見を聞かせてくれ。どうすれば家を守る事が
出来る?﹂
ルピスの判断。それは一人の人間として決して間違っていたと言
う訳ではないだろう。また、国政を担う人間としても決して間違っ
てはいない。だが、それだけだ。
間違ってはいないだけで彼女は正しくない。より正確に言えば、
政治にとって正しい選択とは結果だ。結果が悪ければどれほど間違
ってはいない選択をしたところで意味はない。
︵陛下⋮⋮申し訳ありません︶ ベルグストンは心の中で血の涙を流す。彼は決してルピスと言う
人間を嫌ってはいなかった。
1671
時折愚かで子供じみた判断をするルピスではあるが、人柄は悪く
ないし仕えがいのある人物と言える。
少なくとも、ベルグストンは先の内戦からルピス・ローゼリアヌ
スという人間に誠心誠意仕えてきた。
しかし、この状況下では既に選択の余地はない。
ベルグストンには守るべき家族と、長年彼と苦楽を十にした家臣
達の運命が掛かっているのだから。
﹁賢明なご判断です。義兄殿﹂
ゼレーフの言葉にベルグストンは唇を噛み締めながら頷いた。
1672
第5章第12話︻そして開幕のベルが鳴る︼其の5︵後書き︶
お待たせいたしました。今年一発目の更新になります。
まだ詳細は出せないのですが、今年はウォルテニア戦記にとって
大きな節目となる年になります。
精一杯更新していきますので、皆様の応援をいただければ幸いで
す。
本年もよろしくお願いいたします。
1673
第5章第13話︻そして開演のベルが鳴る︼其の6︵前書き︶
何時もウォルテニア戦記をご覧くださりありがとうございます。
少し遅くなってしまいましたが、続きを投稿させていただきますの
でご覧ください。
今後も本作品をよろしくお願いいたします。
1674
第5章第13話︻そして開演のベルが鳴る︼其の6
﹁恐ろしいまでに澄んだ青い月だ⋮⋮まるで全てを見通している様
な﹂
夜の闇に支配された街道を進む馬車に揺られながら、ゼレーフは
窓の外に浮かぶ青い月を見上げる。
森の木々の間から見えるのは美しい月だ。真円を描き一点の曇り
もない美しさ。
そんな月を見てゼレーフの心に浮かぶのは己の汚さだ。国王を見
限り保身に走れと義兄に説いた。
しかし、そんな感傷に浸る時間はゼレーフには残されていない。
﹁これで先ず一つ山を超えた訳だが、問題はエレナ殿の意向⋮⋮そ
して﹂
先日行われたベルグストンの屋敷で今後の方針はある程度固まっ
ている。
そのうち最大のカギとなるのは西の国境に駐屯しているエレナの
動向だ。
オルトメア帝国の再侵攻に備え、ザルーダ王国より帰国したエレ
ナは国境付近の街に張り付かされている。彼女の手にはローゼリア
国中からかき集められた自由騎士や傭兵などを含めておよそ三個騎
士団。八千ほどの兵力が存在していた。これは、このローゼリア国
内において質と量ともに最大級の戦力だ。
それらを一手に握るエレナ・シュタイナーの動静は今後の命運を
大きく左右するだろう。
エレナには様々な選択肢が存在している。騎士としての道理にし
たがってルピスに忠誠を誓うのか、それとも愚王と打つという大義
に従ってゲルハルトに従うのか。はたまた、沈黙を守り動静を見守
るという選択もあり得るだろう。
1675
だが、そのエレナ以上に気になる存在がゼレーフの心に影を落と
していた。
︵一番良いのは我々に協力して頂く事だ⋮⋮だが、エレナ殿の事は
今はまだいい。これから真意をただせば済む話だ。問題は⋮⋮︶
ベルグストンには話していないが、ゼレーフは今回の策の成功を
七割がたは成功すると見ていた。
確かにタイミングが難しかったのは事実ではある。しかしゲルハ
ルトやその近くに居る貴族達の動向は逐一報告を受けていたし、そ
こから導き出される時期にも予想がついていたのだ。
︵平民の不満が爆発するまでにはもう少し時間があったはずだ。単
に私が読み違えただけなのかあるいは⋮⋮︶ 今回の反乱が誰かの策にって意図的に起こされた事であるのはゼ
レーフにも分かっている。そいつが貴族派を操作している事も突き
止めた。
分からないのはその存在の正体と狙いだ。
可能性が一番高いのはもちろんオルトメア帝国だろう。東部地方
へ兵を進めたいオルトメアにしてみれば、ローゼリア国内の分裂を
狙うのは悪くない策だ。可能性としては一番高いといえる。
ただしこれにはゲルハルトがオルトメア帝国に通じているという
事が前提になる。
︵あの男がそれを選ぶかどうか⋮⋮いや、あの男は馬鹿ではないが
そこまで切れ者と言う訳でもない。知らずに協力させられている可
能性もあるな︶
良くも悪くもフリオ・ゲルハルトいう男は欲が深く利己的である
と同時に、名声に拘り対面を重んじるタイプの人間だ。
どんな利を提示されるかにもよるだろうが、そうそうオルトメア
と通じて売国奴の汚名を被るとは思えない。それよりも、オルトメ
アの人間がゲルハルトに忠臣顔をしながら操っている可能性の方が
高いだろう。
︵もしくはゲルハルト個人の策謀である場合か? いや⋮⋮︶
1676
次に考えられるのはゲルハルト個人が野望に燃えて玉座を欲した
場合だが、これはゼレーフ自身も可能性は低いとみていた。
今回の策はわざと無茶な徴税を行い平民を反乱に駆り立てるなど
かなり危険な手段を用いている。確かに現女王であるルピスを追い
落とす理由には十分ではあるし、新たな王朝を打ち立てるにも都合
がいいだろうが、反乱の鎮圧に失敗した場合や他国からの侵略など
リスクが高い上、仮に全てが上手く行きゲルハルトが新たな王とし
て玉座に座ったとしても、彼の手に残されるのは荒廃した国土だけ
だ。
︵それに、幾ら愚王の打倒という大義を掲げようと、ゲルハルトが
さんだつしゃ
玉座に座ってしまえばそれは簒奪と言われても仕方がない。王位の
簒奪者と言う売国奴に勝る汚名を進んで選ぶだろうか? あり得ん
な。いや、それよりも自分は宰相にでも収まりラディーネ様を玉座
に据え、実権を握るという考えの方があの男らしくて自然だ。だが
そうなると、ゲルハルトの策略と言う可能性も否定しきれんのか⋮
⋮だが、いずれの場合であっても、何故今の時期で反乱を誘発させ
たかと言う疑問が残る︶ オルトメアが黒幕であるなら、反乱を起こさせる時期としてはザ
ルーダ侵攻が始まる直前か直後あたりが望ましいだろう。あまり早
いタイミングで反乱が起きても、鎮圧されてしまう可能性があるか
らだ。
そして、ゼレーフが知る情報から分析した限り、オルトメアのザ
ルーダ再侵攻は後一年近く猶予があるはずだった。
まるで深い闇の深淵を覗き込んでいるかのような恐怖がゼレーフ
の心に湧き上がる。
︵仲間が欲しい。私を手助けしてくれる仲間が︶
義兄であるベルグストンは信頼出来る男である事は間違いない。
非常に頭の良い人間であり軍事や政治の分野でならまさにローゼリ
ア王国が誇る一級の人物である事は事実だ。しかし、完璧な人間か
と問われれば、ゼレーフは機微を横に振るだろう。
1677
知恵者を気取る割には、義兄であるベルグストンには人の良いと
ころがあるし、彼は謀略や諜報といった分野には少しばかり疎い。
勿論、他の馬鹿な貴族に比べれば万倍もマシだが、完璧とはとて
も言えない。
しかし、今ゼレーフが欲しているのは最高の人材。
︵あの男ならばどう動く?︶
脳裏に浮かぶのは遥か北の辺境で沈黙を守る男の姿だ。
平民どころか、流れ者の冒険者からローゼリア王国の機族に叙せ
られた男。劣勢だったルピス・ローゼリアヌスの頭上に王冠を被せ
た男。
謀略を得意とするゼレーフから見てもあの男は恐ろしいまでの切
れ味を誇っている。
そう、己自身に匹敵するほどの。
︵まぁ、良い。何れは分かる事だ⋮⋮︶
突然受けた衝撃にゼレーフの思考が途切れた。馬車が急停車し、
体が前に放り出される。
﹁何が起こった⋮⋮おい! どうしたんだ﹂
ソファーに頭を強く打ち付け、意識が朦朧とする。
問いかけに答えない御者を不審に思い、額に手を当てながらゼレ
ーフは馬車の外に出た。
額を切ったのか、仕立ての良い服には赤黒い血が点々と染みを作
っていた。
﹁おい、一体何を⋮⋮﹂
思わずゼレーフは目の前の光景に言葉をなくした。
御者台に崩れ落ちる二人の男。彼らの胸には無数の矢が深々と突
き刺さっている。
﹁馬鹿な。これは一体⋮⋮﹂
御者の男は長年ゼレーフの下で働いてきた信頼出来る男達であり、
諜報部隊の長としても戦士としてもかなりの腕を誇る。
彼らは、たった一人で盗賊の十二や二十人は軽く始末するだけの
1678
力量があったのだ。
そんな護衛である彼らが何の抵抗もする暇もなく、無残な屍を曝
す事になるとは、流石のゼレーフにも予想がつかなかった。
﹁くそ! どうなっている﹂
無意識のうちに零れる罵倒。 護衛が多すぎれば迅速な行動が難しい上に、人目を引いてしまう。
だからこそ僅か二人の護衛を付けるだけで動いたのだが、その判断
が裏目に出た。
手練れの護衛達を容易く仕留めた腕は、明らかに何らかの訓練を
受けた人間である事を示唆している。
︵野盗の襲撃ではない。間違いなく私の命を狙った暗殺だろう。問
題はこれが誰の差し金かだ︶
再び闇を切り裂いて無数の矢が御者台を襲う。
ゼレーフは、とっさに護衛の死体を盾にして防いだ。
︵弓か⋮⋮文法術師が居ないのが救いだな︶
弓矢ならばこのまま死体を盾にしてやり過ごす事が可能だが、文
法術を使われればその選択肢は使えない。相手の文法術師がどのよ
うな属性の術を得意としているにせよ、馬車の一台くらいは容易く
吹き飛ばすだろう。
逆に言えば、初手で弓矢を使ってきたという事は、敵に文法術師
が存在しない事を示唆している。
︵義兄上殿と違い、剣はあまり得意ではないのだが⋮⋮仕方がない
な。黙って殺されてやる訳にもいかんだろう︶
護衛の腰から剣を拝借し、ゼレーフは矢の間隙をついて立ち上が
ると客車の影に身を潜める。
周囲は鬱蒼とした森に覆われた街道。それも人気のない深夜だ。
第三者の助けが来る可能性は限りなくゼロに近い。
その上ゼレーフは決して戦士ではない。貴族の嗜みとして法術を
会得し、武術の手ほどきを受けてはいるが、贔屓目に見ても一戦士
としての技量は新人の騎士より少しはマシと言った程度。下手をす
1679
れば、年齢の若い分、新人の騎士の方に軍配が上がる可能性も十二
分にある。
いや、それよりも問題なのはゼレーフ自身の心。如何に技術を持
っていようと、それを使う心が恐怖で萎縮していれば何の意味もな
い。
しかし、それでもゼレーフがこの場を無事に切り抜ける方法はた
だ一つだけ。暗殺者をその手で始末するより他になかった。それが
どれほど低い可能性であったとしても。
だが、そんな悲壮な決意をしている間に、ゼレーフの運命は大き
く変わてっていた。
﹁矢が尽きたのか?﹂
絶え間なく馬車へ向かって射られていた矢がいつの間にか止んで
いる。
そっと、客車の影から顔をだし、ゼレーフは周囲の様子を窺った。
静寂が周囲を支配し、遠くに梟の鳴き声が聞こえてくる。
︵罠か? だが、このままではいずれにしてもジリ貧だ⋮⋮︶
二度三度と周囲を警戒しながら、ゼレーフはゆっくりと客車の影
から出ていく。
﹁誰だ!﹂
森の奥から木々をかき分ける音が響き、ゼレーフはとっさに慣れ
ない剣を向けた。
緊張で剣先が小刻みに震える。
喉はカラカラに乾き、心臓が早鐘の様に鼓動した。
﹁剣をお納めください。ゼレーフ伯爵様。既に暗殺者はこちらで始
末しましたから﹂
森から出てきた人影が、穏やかな声でゼレーフへ話しかける。
﹁馬鹿にするな! 貴様は一体何者だ﹂
あまりにも予想外な言葉。だが、それを鵜呑みにするほどゼレー
フは愚かではない。
汗ばんだ手でもう一度剣の柄を固く握る。
1680
﹁私をお忘れですか?﹂
徐々に近づいて来る声の主。やがて、月明かりに照らし出された
その顔を見て、ゼレーフは思わず驚きの声を上げた。
1681
第5章第14話︻そして開演のベルが鳴る︼其の7
﹁そうか⋮⋮間に合ったか。ゼレーフ伯爵が無事でなによりだ﹂
ローゼリア王国西方の都市トリストロンからもたらされた報告を
聞くと、深い安堵のため息と共に亮真は右手に握ったペンを机の上
に置いた。
﹁はい。サーラからの知らせでは、最初の襲撃でゼレーフ伯爵の護
衛が殺されてしまいかなり危ない状況だったようですが、何とかサ
ーラと咲夜さん達が暗殺者を始末し、その後は無事にエレナ様と会
談を行ったとの事です。会談の内容は亮真様の予想通り⋮⋮お二人
ともルピス女王を見限る事で合意されたとの事。また、エレナ様か
らはこの国の行く末に関して是非とも亮真様と相談したいとの書状
が届いています﹂
ろうそく
かざ
そういって差し出された書状に素早く目を通すと、亮真は満足げ
に笑みを浮かべながら蝋燭の火に翳す。
エレナは有能な軍人であっても政治家としての適正は決して高く
ない。
貴族として町地を収めるというならばともかく、一国の王として
君臨する器ではない事をエレナは十分に自覚している。
今後を表面上は今後を相談させてほしいという内容だが、その実
は亮真の傘下に入りたいという意思表示とみて間違いはないだろう。
焦げ臭いにおいが室内に立ち込める中、亮真は深く椅子に寄りか
かると天井を見上げる。その顔にはどこか楽しそうな表情が浮かん
でいた。
﹁やはりゼレーフ伯爵は俺の思った通りに動いたな、まぁ、この時
期にあの人が王都を離れてエレナさんに会う理由なんて、限られて
いるけどな﹂
﹁はい。ルピス女王を見限るようにベルグストの伯爵を説得した上、
1682
エレナ様と連携しようと動くなんて⋮⋮まさかゼレーフ様がこれほ
どの行動力をお持ちとは思いもよりませんでした﹂
ローラは手にした書簡に再び視線を投げかけた。その顔にはいま
だにこの報告書の内容に首を傾げている心の内が見て取れる。
少なくとも彼女から見たゼレーフ伯爵は、義兄の影に隠れた地味
な小太りの中年男と言う評価しかない。人は見かけではないと頭で
は理解していても、あの愚鈍とも取れる容姿の何処に、これほどの
才を隠していたのかと驚くばかりだ。
﹁驚いたか?﹂
﹁はい⋮⋮未だに信じられません﹂
亮真の問いかけに、ローラはその美しい顔に困惑の色を浮かべな
がら素直に頷いた。
事前に聞かされてはいても、ローラにはいまだにあの凡庸な容姿
をしたゼレーフがこれほどの動きを見せた事が未だに信じられなか
った。
だが、そんなローラの態度を見て亮真は高らかに笑い声をあげる。
﹁それがあのおっさんの手さ。あの人は自分の容姿が周囲に与える
影響をちゃんと計算しているのさ﹂
﹁計算⋮⋮ですか?﹂
﹁そう、計算さ﹂
共に有能な政治家と名高いあの義兄弟だが、片方は洗練されたス
マートな容姿と長身を誇るダンディな中年であり、もう片方が背の
低い地味な小太りの中年となれば、周囲の評価はおのずと決まって
くる。両者を比べれば、どうしてもゼレーフ伯爵はベルグストン伯
爵の子分、もしくは引き立て役と言う位置でしかないのだ。
それが自然であり当然の結果。だからゼレーフはそれを逆手に取
った。
自らが政治の闇の部分を背負う事で。
﹁あの人は自分の容姿が地味で人目を惹かない事を自覚していた。
そして、普段はベルグストン伯爵の影に隠れて一歩も二歩も周囲か
1683
ら離れていたのさ﹂
﹁それはつまり⋮⋮人の注目を惹かない為ですか?﹂
﹁まぁ、言うなれば役者と裏方みたいなものだな﹂
舞台の上で観客の喝さいを一手に受け輝くのは役者だが、その存
在を輝かせるには影から彼らを支える裏方の存在が必要不可欠と言
える。地味で評価されにくい仕事だ。しかし、だからと言って裏方
が裏方に徹しなければ舞台は成り立たない。
ゼレーフとベルグストンの関係もこれとよく似ている。
派手な活躍を見せるベルグストンを影から支えて汚れ役を担って
きたゼレーフ。彼らは二人で一つの運命共同体と言えるだろう。 ﹁どちらにせよこれで手駒が三つ増えた訳だ﹂
﹁エレナ様、ゼレーフ伯爵、ベルグストン伯爵の三名ですね﹂
﹁あぁ、どれもかなりの大駒だ。特にゼレーフ伯爵を引き入れたの
は大きい﹂
﹁ゼレーフ伯爵ですか?﹂
亮真の言葉にローラは思わず首を傾げる。
三人とも有力な駒であるという評価に異存はない。だが、三人の
中で最も有力な人間と言えば当然エレナかベルグストン伯爵の名前
が上がると思っていた。
今回の一件からゼレーフ伯爵が見かけに寄らない策謀家である事
を知ったにせよ、軍人として多くの実績を持ち近隣諸国に名を轟か
せるエレナや、ルピス女王の下で采配を振るってきたベルグストン
に比べればどうしても格下にしか思えないのが普通だ。
だがそんなローラの表情を見て、亮真は窘めるようにゆっくりと
首を横に振る。
﹁あの人の持つ情報網は伊賀埼衆では手に入れにくい情報を入手出
来るからな。今後、ローゼリアを切り崩していく上で一番重要なの
さ﹂
諜報や防諜の担い手として伊賀埼衆は亮真にとって非常に重要な
駒であるが、彼らだけでこれらの仕事が完璧と言われればそう言う
1684
訳でもない。
伊賀埼衆は女子供も含めて二百人ほど。奴隷として購入した子供
に忍の技術を教え込んでいるが、それも使い物になるのは百人前後
と言ったところだろう。
勿論、今後伊賀埼衆はその規模を拡大していく予定だが、今後増
える領土を考えればどうしても手が足りない。
特に、貴族達の動向を掴むには社交界に精通した人間が必要不可
欠だった。
︵まぁ、あまり貴族を残す気はないが⋮⋮ね︶
亮真の脳裏に描かれた理想の国。それは徹底した実力主義の国だ、
基本的に亮真は貴族と言う存在が好きではない。
いや、より正確に言えば、有能なごく一部を除いた大多数の貴族
は平民から税を搾取し悦楽に浸る害虫だと言う認識だ。
そして、自分の国と言う花園に貴族と言う害虫が蔓延る事を許容
出来るほど程、御子柴亮真と言う人間は甘くはない。
だが、理想はローゼリア国内の全ての貴族を攻め滅ぼし全土を直
轄領とする事だろうが、それではあまりに手間が掛かりすぎる。
となれば残る選択肢は一つ。
多少時間を費やしても玉と石をより分け、より分けた玉を更に選
別すればいい。
その為にはどうしてもゼレーフ伯爵という人間の手腕が必要だ。
ローゼリア国内の貴族達の裏を知り尽くした男の力が。
とはいえ、ゼレーフ伯爵が亮真の下でその真価を発揮するのはま
だまだ遠い未来の話。
辺境の小領主では夢に想い描くのもおこがましいという物でしか
ない。
︵とりあえずは、目先の第一歩だが⋮⋮どうだ。いけるか?︶
当初の計画通り、ローゼリア国内には内乱が起こり国王以下政府
官僚達はその対応に追われて辺境へ力を割く事が難しい状況だ。
今の状況下であれば多少の無茶も力ずくで押し通す事が出来る。
1685
それを如実に表しているのが今回のゼレーフ襲撃だろう。
通常であればこれほどあからさまな襲撃を行う事はない。
毒殺にせよ脅迫にせよ、人目を惹きにくい対処法は幾らでもある
はずだ。
そんな中、わざわざ馬車を襲撃した。ルピスに不満を持つ貴族達
への警告を含んでいるとみるのが自然だ。
この時期、ルピスの為にそこまで危ない橋を渡ろうという人間は
一人だけだろう。
﹁頃合いだな⋮⋮大至急シモーヌと厳翁を呼んでくれ﹂
亮真の口から放たれた二人の名前を聞き、ローラは瞬時にその意
図を理解した。
﹁亮真様⋮⋮では、いよいよ﹂
﹁あぁ、イピロスを乗っ取る﹂
その言葉を聞きローラは二人を呼びに部屋を出ていく。
部屋の中に一人残された亮真は、執務机の脇に立てかけられた日
本刀へと視線を向けた。
伊賀埼衆から一族の意思を受け継ぐ者の証しとして譲り受けたそ
れは、数百年もの間、使い手を待ち続けて来たのだ。
窓から差し込む夕日に照らされながら、亮真の顔には笑みが浮か
んでいる。それは誰か別の人間がこの部屋に居たならばきっと、血
に染まった鬼の顔に見えただろう。
﹁これで、ようやくお前さんにも働いて貰えるな⋮⋮精々気合い入
れて頑張ってくれよ鬼哭﹂
亮真はゆっくりと鯉口を切ると、優しげな口調でその武骨な日本
刀へと囁き掛ける。
その瞬間、どこからともなく亮真の耳に風のうなり声が聞こた。
まるで鬼の慟哭の様な声が⋮⋮
1686
第5章第14話︻そして開演のベルが鳴る︼其の7︵後書き︶
お待たせいたしました。これでようやく謀略系の話は終わりです。
今後も本作品をよろしくお願いします。
HJノベルス版の作業も進んでいます。またご報告できる事が決ま
りましたら活動報告を含めてご連絡しますので、よろしくお願いし
ます。
1687
第5章第15話︻双頭蛇の毒牙︼其の1 その日、御子柴男爵領とザルツベルグ伯爵領。両者の隣り合う領
土の境界線近くに建てられた砦の二階の窓に、一人の男は姿を現し
た。
﹁ようやくここまで来た﹂
亮真は眼下に整然と列をなす黒色で染められた兵士達の放つ圧力
を目にし満足げに頷く。
ただの高校生だった御子柴亮真が運命の女神が織りなす悪戯によ
ってこの大地世界に召喚されて数年。
この場にたどり着くまで一体どれほどの労力と血を費やしたもの
か。
数は力。その原則は地球も大地世界もさほど変わりはしない。
そして今、亮真はその培ってきた力を初めて世間に見せつけよう
としている。長年隠し育て続けて来た力を。
そのでも亮真の心に湧き上がるのは一抹の不安。
︵一度始めれば後戻りは出来ねぇ。何が何でも勝つしかない︶
自分という存在が周囲から疎んじられている事は十分に理解して
いる。
ローゼリア貴族の大半から見れば、ただの成り上がりの平民でし
かなく、騎士達から見れば、まさに嫉妬の対象でしかない。
亮真の力を見抜き、彼の力になろうという人間もいるが、その数
は両手の指で足りる程度。
アー
御子柴亮真は、ローゼリアに棲む大半の人間にとって異端者なの
だ。
ス
そして、人は異端者を嫌い排除する。その心理は地球でも大地世
1688
界でも変わりはしない。
それでも今まで周囲から潰される事無くなんとかなった理由は、
亮真自身が自分の持つ力をなるべく隠し、なるべく過少に評価され
るようにと調整してきたからだ。
︵大丈夫だ⋮⋮エレナさんとは既に話がついている。あの女からも
十分に満足のいく返事を得た。全ては俺の計画通りに進んでいる⋮
⋮後は︶
己が手塩にかけて育て上げた軍だ。自信がない訳ではない。 だが、ザルーダへの援軍に連れて行ったごく一部の兵を除く大部
分は未だ実戦経験の無い兵士。
当然だが実力はある。ウォルテニア半島に生息する怪物達を狩り
続けて来たのだ。戦力としてなら彼ら一人一人が他国の中堅騎士以
上の力を持っているのは確実だ。
だが、人対人の殺し合いをする戦場は、異形の怪物達と戦うのと
やはり別物。
強者が必ず勝てるとは限らない。
人が持つ他者への強烈な殺意と生への渇望。それらが混ざり合っ
たあの空気はやはり特別なのだ。
﹁大丈夫です。必ずや⋮⋮﹂
側らに立つローラが亮真の無意識に震える手をそっと握った。
如何に図太い神経をしていようとも、流石に今後の未来を賭ける
戦に赴くとなれば平静を保つ事は難しいのだろう。
御子柴亮真個人の未来だけでは済まないのだから。
﹁いよいよ悲願の第一歩を踏み出すと言うですな。御子柴殿﹂
そんな普段は決して他人に見せない場の途中で突然背後から声を
掛けられ、亮真は照れ笑いを浮かべながらゆっくりと顔を向けた。
1689
﹁驚かさないで下さいよ。ネルシオスさん﹂
﹁いや、これは失礼。我々は狩りが生業の一つですのつい癖で気配
を消してしまいます﹂
そう言って笑いながら銀髪の髪を掻く黒肌の男に亮真は肩を竦め
た。
彼の背後には護衛なのか、フードの付いたマントで顔を隠した数
人の兵士が跪いている。
﹁今日は見送りに来ていただきありがとうございます﹂
ネルシオスの立場は未だあやふやではある。
セイリオスの亮真の建てた屋敷に足しげく通ってはいるし、大事
な会議の場には大抵ネルシオスの姿があるものの、彼は御子柴男爵
家の家臣ではない。
強いて言うならば同盟者と言ったところだろう。
﹁なぁに、今や御子柴殿は我々にとって大事な取引の相手ですから
ね。我々に出来る事は少ないですが、出来得る限りの援助は惜しみ
ませんよ﹂
そう言うとネルシオスは服の内ポケットに手を入れ、一本の葉巻
をとりだす。
そして二三度指でくるくると回してみせると、先端を食いちぎっ
た。
﹁失礼。どうにも最近はこれを口にしていないと落ち着かなくて⋮
⋮﹂
1690
そう言うとネルシオスは、指先に灯した法術の火を口元へと近づ
けていく。
﹁喜んでいただけている様で俺としても嬉しい限りです﹂
決して礼儀正しいとは言えないネルシオスの態度ではあるが、亮
真は穏やかな笑みを浮かべて頷く。 ウォルテニアに暮らす亜人種はその身体能力と種族特性を存分に
活用した結果、一定水準の暮らしをこの魔境で営んでいる。彼らは
長い時間を掛けてこの魔境での生活に適応したのだ。
だが、その生活は決して豊かではない。
日々の糧は怪物達の肉や鬱蒼と生い茂る森の中に自生するキノコ
や木の実を採取する事で糊口をしのぐ事が出来るものの、嗜好品の
類を手に入れることは殆ど不可能と言える。
精々が木の実を原料に作る酒くらいのものだが、その生産量はた
かが知れていた。 暮らしに余裕がないのだ。
彼らはただただ生きるだけの存在。勿論それはウォルテニア半島
と言う環境で暮らすことを考えれば当然なのかもしれない。高い武
具の生産能力や法術の知識に比べ、贅沢や娯楽と言う文化的な部分
はあまりにも低かった。
だからこそ亮真は彼らの嗜好品を与え人生の楽しみを教えたのだ。
娯楽の少ない亜人達の懐に潜り込むために。
﹁実に壮観です。これだけの兵が立ち並ぶ姿は⋮⋮まるで神話に出
てくる英雄の軍団の様ですね﹂
神話に出てくる英雄と同列視するという亮真に対してのさり気な
いお世辞と、その軍団を作ることが出来た功労者は誰かと言外にア
1691
ピールしてくるネルシオスに亮真は軽い引っ掛かりを感じた。
もっとも、それは不快感と言うよりは、ネルシオスから感じる必
死さに対しての苦が笑いだ。
︵まぁ、この人の立場から考えれば仕方がないか。今更外部との接
触を断つ事は無理だろうからな︶
一度生活の質を上げてしまうと、下げるには並々ならない努力と
強固な意志が必要となる。
﹁それもこれもネルシオスさんを始めとした、部族の皆さんの協力
があってこそですよ。感謝しています。付与法術を刻み込んだ武具
をこれだけ揃えるというのは、人間にはなかなか難しいものですか
ら。それに法術関係の知識はあなた方の方が進んでいますしね﹂
亮真の口から放たれた感謝の言葉にネルシオスは満足げに頷いた。
実際、兵士達の身に着けた武具を他国の騎士が一目見れば、目
を剥いて驚きの声を上げるはずだ。
付与法術師は文法術師よりも更に数が少ない貴重な存在であり、
その多くは国家や有力な商人に囲い込まれている。
また付与法術を施された武具は貴重で、大抵の国は有力な中級以
上の騎士などに優先的に授与することが多く、一個騎士団全員に装
備させる事の出来る国は西方大陸の中でも、オルトメアを初めとし
た三大国くらいだろう。それとて、国王に侍る近衛騎士団や親衛騎
士団を初めとした一部の部隊に限られる。
そんな高価な武具を一地方領主である御子柴亮真の兵が身に着け
ている事の不自然さはこの軍団を目にした誰もが感じる異常さと言
えた。
そして、その異常さを実現させた原動力こそウォルテニア半島に
暮らす亜人達なのである。
﹁そう言っていただければ我々としてもうれしい限りですね。今後
1692
も継続して取引させて頂きたいです⋮⋮そこで﹂
そう言うとネルシオスは背後に跪く兵士達を立ち上がらせた。
﹁実は今日は、我々の関係を更に前に進める為の提案があります﹂
﹁と言うと?﹂
﹁お前達、顔を御見せしろ﹂
ネルシオスの言葉に首を傾げる亮真の問いに笑みを浮かべながら、
ネルシオスは兵士達へフードを取るように命じる。
亮真の目に生きた宝石がその神々しいまでの姿を現した。
﹁これは⋮⋮﹂
﹁我が部族の中でも特に容姿と力量に優れた者を選んで連れてきた。
御子柴殿の良い様に使ってくれ。護衛としても術者としても腕は確
かだ。それに何なら子を作ってくれても構わぬ。全員既に了承して
いるからな﹂
いたずらっ子のような笑みを浮かべながら声を上げて笑うネルシ
オスに亮真は返す言葉もなかった。
︵こいつはまいったな⋮⋮こう来たか︶
亮真の頭の中がこの奇襲攻撃の狙いを把握しようとフル回転を始
める。
︵ネルシオスさんの想いを考えれば受け取らないのは悪手だな⋮⋮
抱くかどうかはさておいて、護衛として傍に置くしかないか︶ 酒や煙草を初めとして嗜好品に、野菜や薬などを筆頭にウォルテ
ニア半島では自給しようのない品と半島ならではの特産を交換する
1693
試みは、ネルシオス達にとってまさに半島以外の世界と繋がる唯一
無二ともいえる機会と言える。
そして、この交渉相手はこの世界で御子柴亮真と言う男しかいな
いのだ。
少なくとも、ネルシオスが自分で他の取引先を探すというのは不
可能と言い切って構わないだろう。
西方大陸はその影響度に強弱はあっても、基本は亜人排斥を唱え
る光神教団の教えが広まっている。
だからこそ、亜人はこのウォルテニア半島と言う危険地帯に隠れ
住んできたのだ。
亜人を弾圧しようとしない領主が果たしてどれほど大陸に存在し
ているだろう。また、仮に存在したとして、その領主とネルシオス
が出会う可能性はどのくらいになるか。
そう言う要素を考えれば、ネルシオスにとって御子柴亮真と言う
男は換えの利かない大事な駒だ。
少なくとも、亮真がよほど無茶苦茶な要求を押し付けない限り、
ネルシオスが裏切る心配はない。
︵だからこそネルシオスさんは不安なんだろうな⋮⋮もう少し取引
量を増やすか︶
亮真から見てもネルシオスは十分手を握るに値する存在だが、追
い詰められ迫害されてきた民を率いる一人としては繋がりを強固に
したいと望むのは当然と言えるだろう。 ﹁では、お礼として以前ご要望として挙げられていた酒と煙草の交
換量を増やしましょう﹂
﹁おぉ、それは実にありがたいですな。どちらも皆の間で大人気で
すので﹂
自分が望んでいた願いを正確に察してもらえ、ネルシオスは満面
1694
を笑みを浮かべた。
当然だが協力した見返りは欲しい。しかし、自分達の望みを言葉
にするのはこの場合、かなり危険な賭けになる。
恩を着せたと受け取られ、亮真の機嫌を損ねる可能性もあり得る
からだ。
とはいっても、要求を何も口にしない事もまた問題が発生する可
能性もあるので、その辺はバランスと言ったところだ。 ﹁時間か⋮⋮では、今日のところはこれで。もし留守中に問題が発
生した場合はシモーヌとボルツに相談してください﹂
側らに立つローラの耳打ちに小さく頷くと、亮真へ別れの言葉を
口にする。
﹁分かりました。ご武運を⋮⋮﹂
颯爽とマントを翻して会談へと向かう亮真にネルシオスは深く頭
を下げた。
それは覇王に対する臣下の礼だった。
こうして西方大陸暦二千八百十四年のその日、金と銀の頭を持つ
双頭の蛇は静かにこの大陸を飲み込もうとその牙を剥き始める。
勿論、その事を知る人間は未だ誰も存在してはいなかった。最初
にその毒牙を向けられる事になる獲物達ですらも⋮⋮
1695
第5章第16話︻双頭蛇の毒牙︼其の2 その日、城塞都市イピロスの中央にそびえるザルツベルグ伯爵の
屋敷の通路に、上品で控えめなノックの音が響いた。
﹁貴方。お楽しみのところ申し訳ないですが、少しお時間を頂けま
すかしら?﹂
昼日中からドア越しに聞こえる女の喘ぎ声を聞きながら、ユリア・
ザルツベルグは部屋の主に声を掛ける。
その声が聞こえたのだろう。女の荒い息遣いとギシギシと床のき
しむ音が一瞬止まり、中から苛立ちに満ちた男の声が響いた。
﹁何だユリアか? 今良いところなのでな。急ぎでないのなら後に
しろ﹂
それはまるで主人が使用人に命令する時の様な傲慢さと自信に満
ちた声。
昼間から幼さの残る若いメイドを自室に引っ張り込み情事にふけ
るその最中に、自分の妻から声を掛けられたにもかかわらず、夫で
あるトーマス・ザルツベルグ伯爵の声にはなんの後ろめたさも感じ
られない。
今の言葉と声を普段のザルツベルグ伯爵を知る人間が聞いたとし
たら、きっと己の耳を疑う事だろう。 ザルツベルグ伯爵と夫人の
力関係は表向き、夫人の方が強いと思われているのだから。
それに、今のザルツベルグ伯爵の態度は貴族と言う特異な世界で
あっても異常と言える光景だ。如何に伯爵がユリアを己が妻として
見ていないかが良く理解できる。
1696
現代社会であれば、これは一種の精神的な虐待ともいわれかねな
い行為。
まともな神経の持ち主ならば、離婚や別居を考えるのが当然と言
えるだろう。
だが、ユリアにその選択を選ぶ権利はない。
︵私はただこの人の為に奴隷の様に働くだけ。別れる事はおろか、
別居ですら私には出来ない⋮⋮それは私の立場では望むべくもない
事⋮⋮でも︶
ユリア自身は別段自分を潔癖症だとは思っていない。
もし自分の夫が側室を持ちたいと望むのであれば、本心はさてお
いてその願いを聞き届けるくらいの度量は持ち合わせているつもり
だ。もっというのであれば、正妻の座を降りる事さえ視野に入って
いる。
元々はイピロスの有力な商人の娘と言う身分でしかなかったユリ
ア。幾ら経済的に裕福であったとしても、商人は身分制度の枠組み
から見れば所詮平民でしかない。
確かに豪商と呼ばれる商人の中には、国家間を飛び回り、一国の
趨勢をも左右する力を持つ人間も存在する。そんな商人ともなれば、
身分は平民であろうとも、国王ですら相応の礼を尽くさなくてはな
らないのも事実ではある。だが、そんな商人は世界中を見回しても
一体何人存在するだろうか。
だが、それも自分が妻として伯爵に認められればこその事。
伯爵にとってユリア・ザルツベルグがどういう存在であるかは、
その態度を見ただけで一目瞭然だった。彼女は形式的にこそ伯爵家
の正室であっても、本質的に見れば使用人と変わらないのだ。
初めから覚悟していたことではあっても、夫の心無い仕打ちや態
度を見るたびに心が悲鳴を上げる。
沸き立つ嫌悪感と苛立ち、そして深い悲しみが入り混じった感情。
己のあまりな境遇に叫びだしたくなる気持ちを抑えながら、ユリア
は静かに用向きを告げる。
1697
﹁ウォルテニア半島の御子柴男爵から書簡が来ました﹂
その言葉に部屋の中から大きな舌打ちが聞こえた。
幾らお楽しみの最中とはいえ、流石に状況の判断は出来ているら
しい。
﹁分かった⋮⋮少し待て、今着替える﹂
その声にユリアは小さくため息をつく。
イピロスの主である現ザルツベルグ伯爵の放蕩ぶりは今更である。
幼い頃から厳格に育てられ、質素倹約に努めてきた反動なのだろ
う。彼は父親を蹴落としザルツベルグ伯爵家当主の座に座った日か
ら、その抑圧されてきた欲望の発散をためらう事はなかった。今の
彼の頭の中にあるのは美食と女が大部分を占めている。そして領主
としての業務を行うのは彼の妻であるユリアの仕事。
伯爵にしてみれば、貴族出身ではないユリアは自分の庭を手入れ
する庭師の様な存在でしかないのだ。 イピロスと言う名の庭を手
入れするという。利用価値が失われれば、すぐさま別の人間をあて
がわれるだけの⋮⋮
その事は、ユリア自身が一番良く理解している。
半ば人身御供の様な形の望まぬ結婚ではあったが、ユリアは彼女
なりに夫を愛そうと努力したし、事実十数年もの間ひたすらに尽く
してきた。 国境地帯を長年安定して統治してきたというザルツベルグ伯爵の
声望と実績。そして、ローゼリア北部の貴族達を束ねる盟主として
の軍事力。
それらを支える為、ユリアは一身にこの城塞都市イピロスの経済
を担ってきたのだ。その功績は決して軽いものではない。
だが、現実は無情だった。
1698
︵私はこの人にとって道具でしかない⋮⋮︶
周囲からはザルツベルグ伯爵を裏で操る烈婦と目されていたとこ
ろで、真実はこんなものでしかないのだ。
その部屋の扉を開けた瞬間に襲いかかってきた淫らで生臭い匂い
にユリアは思わず顔をそむける。
﹁何をしている。用があるならさっさと入れ﹂
冷たい無機質な声。お楽しみを邪魔されて不機嫌なのだろう。
部屋の入口に立ったままのユリアへ、ザルツベルグ伯爵は顎で中
に入れと命じる。
その声を聞いた瞬間、ユリアの心は決まった。
﹁ここはいいから。呼ぶまで誰もこの部屋に近づかないように﹂
そう扉を開けたメイドに命じると、ユリアはゆっくりと部屋の中
へ足を踏み入れた。
﹁あの若造から書簡だと? 一体何の用だ﹂
そう言ってザルツベルグ伯爵は訝しげな表情を浮かべながらユリ
アの前に手を突き出す。
﹁しっかりと封蝋をしている⋮⋮あの若造に似合わず、随分と物々
しい事だ﹂
受けとった書簡に施された封蝋は、双頭の蛇が剣に絡みついた意
匠であり、この書簡の差出人が御子柴男爵からである事を表してい
る。
ザルツベルグ伯爵は繁々︽しげしげ︾と書簡を眺めると、部屋の
1699
隅に置かれた机より開封用の小刀を取り出す。 ﹁どれ⋮⋮あの若造が一体何を言ってきたのか見てみるとするか﹂
ゆっくりと伯爵の視線が書簡の上をなぞっていく。
やがて書簡を読み終えたザルツベルグ伯爵は、ゆっくりと紙を畳
んだ。
やがて重苦しい沈黙が支配する部屋に甲高い笑い声が響き始めた。
﹁くくくくく⋮⋮ははははっはは! これは愉快だ。実に愉快だぞ﹂
顔を右手で覆い天に向かって哄笑を放つ姿は、心の底から相手を
馬鹿にしている証拠だ。
﹁一体何が書かれているのです?﹂
己が心を押し隠しつつごく自然に問いかけるユリアへ、伯爵は手
にした書簡を突き出した。
既に内容を父親から知らされ把握しているユリアではあったが、
まさかそれをこの場で口にする訳にもいかない。彼女は黙って書簡
を受け取った。
﹁お前はどう思う?﹂
笑い声を収めたザルツベルグ伯爵の眼がユリアを鋭く射抜く。
﹁宣戦布告⋮⋮でしょうね﹂
それは嘘偽りのない感想。実際、この書簡に書かれた文面を要約
すれば他に解釈のしようがないのだ。 だが、そんなユリアの言葉
1700
をザルツベルグ伯爵は鼻で笑った。 ﹁馬鹿が。そんな分かりきった事など聞いていない。私が聞いたの
は何故あの若造が公然と私に牙を剥いてきたのか⋮⋮その理由だ﹂ この書簡に書かれているのは、近年ザルツベルグ伯爵によって密
偵が送り込まれ、領内の破壊活動を行ってきた事に対しての謝罪と
賠償。そして、平民達の反乱によって国土の荒廃が激しいローゼリ
ア王国内の治安回復の為にイピロスに駐留する軍の全指揮権を御子
柴男爵に委任する事の二つだ。
だが、このどちらの理由も建前でしかない事をザルツベルグ伯爵
は理解している。
第一に、半島内へ密偵を送り込んだ事は事実ではあるが、そんな
事は何処の領主でも行っている事であるし、何より密偵に領内の破
壊工作など命じた事はただの一度たりともないのだ。
また、仮に破壊活動を命じたとして、それを正直にザルツベルグ
伯爵が認める訳がない。
謝罪と賠償などと言う言葉を使ってはいても、これは最初から否
定される事を見越しての宣戦布告と見るのが妥当だろう。
また、ローゼリア国内の治安回復の為に軍の指揮権を委任しろと
言うのも無茶苦茶な要求と言える。
一体どこの世界に自分の領地を守る為の軍を他人に渡す人間が居
ると言うのだろう。
ましてや、委任する相手は領内に間者を送り込んで破壊工作を仕
掛けて来たと因縁をつけてきているのだ。ザルツベルグ伯爵を敵視
している人間へ自分の領土を守る為の軍を渡す。これほどの喜劇は
そうある物ではない。
どんな大義名分を掲げようが、この状況で軍の指揮権を渡す領主
など存在しないと断言して良いだろう。
となれば考えられる可能性は二つ。この要求を書いた人間は権力
1701
者と言う人種を理解できない馬鹿か、初めから要求が受け入れられ
ない事を理解した上で意図して書いたのかだ。
だが、ユリアもザルツベルグ伯爵も、御子柴亮真と言う男を成り
上がりの愚か者と判断するほど呆けてはいない。
﹁最近多発している平民の反乱を勢力拡大の機会と考えたんだと思
うわ﹂
﹁なるほど⋮⋮今の状況なら王都から横槍が入る事もないか⋮⋮﹂
ユリアの言葉に、ザルツベルグ伯爵は暗い笑みを浮かべた。
御子柴亮真と言う男の立場は、ローゼリア国内において実に微妙
なものがある。
魔境と呼ばれほとんど税収の期待できない僻地でしかなかったウ
ォルテニア半島。だが、東部三ヶ国とエルネスグーラ王国の間で結
ばれた通商協定がかの地を変えた。大陸北回り航路を使用するにあ
たって欠かす事の出来ない交易の中継地点として。
また、半島に生息する怪物達の中には、薬や武具の材料として非
常に価値の高い値で取引されている物が多く存在する。
それらの富を一介の成り上がり者が手にしているのだ。
周辺の貴族達にしてみれば面白くないと感じるのは当然。まして、
御子柴亮真を辺境に封じようとしたルピス女王にしてみれば苦々し
い限りだ。
そして、それらの不満はいずれ必ず戦火が起きる。
周辺の領主達は利権と言うパイの分け前を求めるだろうし、女王
は領地替えを画策するだろう。
そして、当然の事だが御子柴亮真がそんな自分の不安定な立場を
理解していない訳がない。その対抗策の一つが今回の書簡だ。
﹁兵を養う土壌を一から作るのは難しい。となれば、周辺の領地を
1702
攻め取るしかない訳だ﹂
﹁あの男が生き残りたいのであれば選択肢は一つだけ。南へ打って
出るしかないもの﹂
新興の成り上がり者として、貴族社会からは異端とみられている
御子柴男爵家に協力しようという貴族は限られている。
それはつまり、周辺貴族からの圧力や王家の干渉に対して圧倒的
に不利と言う事。
仮に御子柴男爵家に正統性があろうとも、何の効果も発揮するこ
とはない。
正義とは常に多数決でしかないのだ。
しかし、国内が騒乱に満ちている今の時点であれば話は変わる。
御子柴亮真が武力によって領土を切り取っても、それを咎めるだ
けの余力を王家は持っていないのだから。
﹁ふむ⋮⋮まぁ、奴の思惑はそんなところだろうな﹂
ユリアの言葉に深く頷くと、ザルツベルグ伯爵は腕を組んで黙り
込んだ。
︵一見すると無謀な選択にも思える今回の挑発だが、あの男の立場
では他に選択肢はないか⋮⋮後はこれが一か八かの博打なのか、そ
れとも何か勝算があっての事なのかだな⋮⋮︶
伯爵の脳裏に様々な予測が浮かんでは消えていく。
﹁それで、どうするおつもりなのかしら?﹂
﹁半島の様子が分からない以上、気乗りはしないが周辺の貴族達に
声を掛けるしかないだろうな⋮⋮﹂
1703
長い沈黙を破ったユリアの問いに、伯爵は重い口を開いた。
多くの密偵を送り込んでいながら、半島の状況は全くつかめてい
ない。あり得ない事とは思うが、豊富な資金力を背景にザルツベル
グ伯爵家の兵力を上回る可能性もない訳ではないのだ。
亮真を成り上がり者と馬鹿にしつつも、歴戦の猛者であるザルツ
ベルグ伯爵の判断は実に堅実だ。
﹁兵を集めて野戦で一息に叩き潰す訳ね。確かに⋮⋮旨味は減るけ
れども仕方がないわね。分かりましたわ。それでは早速書簡の準備
を⋮⋮﹂
そう言うと優雅に一礼し、ユリアは足早に部屋を後にする。
その時、ザルツベルグ伯爵はほんの少しだけ違和感を感じた。
伯爵は黙り込んだままじっとユリアの背中を見つめ続ける。まる
で彼女の心の奥底を見透かそうとするかの様に。
1704
第5章第17話︻双頭蛇の毒牙︼其の3 ザルツベルグ伯爵が御子柴亮真から宣戦布告とも言える書簡を受
け取り、直接対決を決意した日から一週間が過ぎようとしていたと
ある日。
分厚く重苦しい雲が空を覆う下を、騎馬隊が街道を東へと進んで
いた。
またが
今にも大粒の雨が降り出してきそうな天気に、隊の先頭を進む白
馬に跨った鎧姿の男が苛立たしげに舌打ちをする。
ここはイピロスへ向かう街道のど真ん中。
周囲を見渡して目に映るのは広大な牧草地帯のみで、とても雨宿
り出来そうな場所はない。仮に少しばかりの木陰があったとしても、
百人を超える一団のうち大半は濡れ鼠になること間違いなしだ。
﹁ちっ、今にも降り出してきそうな雲行きだぜ。ザルツベルグの糞
親父の為の手伝い戦ってだけでも腹立たしいのに、天気まで俺をい
らつかせやがる﹂
白馬にまたがったこの大柄の男は忌々しそうに天を睨むと、地面
に向かって唾を吐いた。
年の頃は二十代後半と言ったところだろうか。
四肢は太く鍛え抜かれており、体格も周囲の兵に比べて二回りは
大きい。
顔立ちは実に男臭く凶悪であり、特に右の頬に刻まれた深い傷跡
が人目を引いた。
大抵の人間は男を見て山賊か傭兵のどちらかと判断するに違いな
い。
もっとも、人が見かけによらないというのはこの大地世界であっ
1705
ても同じ事らしい。
男の不満を耳にした騎士の一人が馬を寄せて来る。領地を出てか
らずっと繰り返されてきた主人の不満を反感を買わない程度の正論
で宥める事が側近としての彼の役目だ。
何しろこの男ときたら、一度自分がこうだと思い込んだが最後、
何が何でも自分の意見を曲げないという非常に厄介な性格をしてい
る。
一本木な性格と言えば聞こえは良いが、貴族として必須であるは
ずの腹芸が出来ないという致命的なまでの欠点を有していた。
だが、それでいてこの男は意外に情勢を的確に分析する目をもっ
ているのだから、周囲としても扱いに困る。
一言でいうなら空気の読めない男とでも言うのだろうか。
﹁若、若のお気持ちは十分に理解しておりますが、此処は我慢する
しかありません。北部十名家の全てが兵を出すのです。少なくとも
我がベルトラン男爵家だけがザルツベルグ伯爵家の要請を真っ向か
ら断るという状況はあまりにも危険過ぎます﹂
騎士の言葉は正論だった。それも当然だろう。この一団が領地の
館を出発する前から宥め続けている言葉なのだから。
ローゼリア北部に所領をもつ貴族は全部で十家。
その中でも、唯一伯爵の爵位を持つザルツベルグ家は巨大な兵力
と潤沢な財力を誇り、北部地方の盟主としての地位をローゼリア建
国当時から確立してきた。
北部の貴族達にとってザルツベルグ伯爵家は自分達の所領から遠
く離れた王都に君臨する国王よりもはるかに神経を使う相手なのだ。
﹁そんな事を言っているから御子柴男爵家を怒らせるんだ。第一、
同じ国の貴族がこの不安定な状況下で角を突き合わせてどうする⋮
1706
⋮だから俺は反対したんだ。それを親父や兄貴が口を揃えて伯爵家
への義理がどうの、ローゼリア貴族としての誇りがこうのと五月蠅
いから⋮⋮結局相手を怒らせ戦になっちまいやがった﹂
﹁所詮は成り上がり者。出る杭は打たれると申します。それに今回
の戦は必ずしも手伝い戦だとも言い切れません。ウォルテニア半島
は我々が思った以上に富を生むようですから勝てば十分に恩賞が出
るかと﹂
嫌らしい笑みを浮かべた騎士の言葉に男は鼻を鳴らして笑う。
﹁ふんっ、それが栄光あるベルトラン家に仕える騎士の言葉か。ご
立派な事だな﹂
痛烈な皮肉だ。
しかし、その言葉を向けられた騎士は何の痛痒も感じてはいない
らしい。
﹁致し方ございません。騎士の誇りでは食べていけませんから。そ
れにこれまでの経緯はどうであれ先に戦を仕掛けてきたのはザルツ
ベルグ伯爵ではありません。そこのところは考え違いをなさらぬよ
うにお願いいたします﹂
﹁挑発に乗って隙を見せた方が馬鹿⋮⋮そう言う事か﹂
実際、中立的な観点で見れば御子柴亮真の主張は至極当然と言え
るだろう。
権力者にしてみれば密偵や間諜と呼ばれる存在は言うなれば情報
という宝を盗む泥棒だ。その上、状況次第で彼らは暗殺者にも破壊
工作員にもなる。
1707
領地と言う花園を荒らす危険な害虫。そんな危険な存在を意図的
に領内へ送り込んだのだ。
戦乱の世であり、貴族が他の貴族へ密偵を送り込む事が当然の事
と認識される世の中であっても、送り込まれた方が不快感を感じな
い訳がない。
それでも一人や二人ならば許容できる部分もあるだろう。彼我の
戦力差を比べてじっと我慢する事を選ぶかもしれない。
しかし、何十人と際限なく送り込まれて来れば話は変わる。
ましてや、ウォルテニア半島はあくまでローゼリア王国の一部で
あり、御子柴男爵は成り上がりとはいえれっきとしたローゼリア貴
族の一員なのだ。
にもかかわらず周辺の貴族が半島へ執拗に密偵を送り込めば、御
子柴亮真が危機感を抱いて当然なのだ。
だが、如何に挑発されたとはいえ、身分上は男爵対伯爵の争い。
よほどの事がない限り、身分の差はそのまま善悪の関係へと移行
してしまう。
︵まぁ、親父が兄貴が目の色を変えたのは当然だ。ウォルテニア半
島が宝の山と化した今では特に⋮⋮な︶
良くも悪くも、貴族とは領土を増やし富を蓄えようとするもの。
戦乱の世である今は特にその傾向が強い。
自分の家名を保つ為に絶対的に必要な事なのだ。
だから、旨味があると判断すれば腐肉に群がるハイエナの様に群
れを成して襲いかかる。
脅し、すかし、泣き落とし、懐柔に買収とありとあらゆる手段を
用いて利権に食い込もうとするものなのだ。
︵だが、待てよ。そうか⋮⋮わざと挑発して御子柴から宣戦布告を
させた可能性もあるな⋮⋮あの連中ならやりそうな事だ︶ わざと際限なく密偵を送り込み御子柴男爵の緊張を煽りに煽る。
そして、やがて暴発したところで一気に武力をもって叩き潰す。
後に残るのは、西方大陸北回りの航路で重要な商業港として価値
1708
を急上昇させたウォルテニア半島。その利権を周辺貴族で分配する。
別に何か格別の証拠がある訳ではないのだが、男の頭の中では今
回の戦の絵図がだんだんとその輪郭を現し始めていた。
︵えげつない事を考えやがる。そんなに成り上がり者が許せないか
ねぇ︶
確かに、御子柴男爵はローゼリア王国貴族の大半から疎んじられ
ているのは事実。どこの馬の骨とも知れない流れ者の傭兵が、たま
たま内乱時に戦功を上げ、身分の上下も弁えずに貴族の地位を得た
というのが大半の見方だ。 その上、与えられた辺境の地で細々と暮らしているならばまだし
も、何時の間にやらお荷物でしかなかったウォルテニア半島が、今
や大きな経済力を持つ旨味のある土地に変わりつつあるとなれば、
選民意識に凝り固まった貴族達が黙っている理由がない。
︵だが、一体誰がこの絵を描いた?︶
自分の父親や兄にそれだけの謀略を画策する才覚は肉親の贔屓目
でみてもないと断言していい。
二人とも領民から税を搾り取る事や日々の享楽にしか興味のない
俗物であり、戦場に出た経験すらない腰抜けだ。
︵ザルツベルグの親父か? いや、あのおっさんが絵を描いたにし
ては少しばかり風味が違う気がする。となると、毒婦とも呼ばれる
ユリア夫人の方か?︶
そう思いつつも、男は自らの想像を打ち消す。
︵いや、夫人は経済的な事に関しては凄腕だが、こういう謀略が得
意とは聞いたことがない⋮⋮しかし、もしかしたら⋮⋮だが⋮⋮︶
男の脳裏に北部十家の当主やその側近達の顔が次々と浮かんでは
消えていく。
そのどれもが、一連の策謀の首謀者である可能性がある人間達だ。
﹁若、あちらをご覧ください﹂
1709
思考の海に埋没していた男を騎士の声が現実へと引き戻す。
﹁赤地に翼を広げた金の鷲⋮⋮ガルベイラ男爵家か﹂
南西と南東。二つの方向から続く道がイピロスに向かい合流する
この場で、いま二つの男爵家の軍が交わろうとしていた。
﹁全軍停止!﹂
男の号令に従い、騎馬隊がその歩みを止めた。
街道の道幅はそれなりに広いが、二つの軍が同時に進めるほどの
広さはない。
となれば、どちらが先に軍を進めるかを調整する必要が出てくる
訳だ。
﹁少し待っていろ﹂
そう傍らに寄り添う騎士に命じると、男はただ一人ゆっくりと馬
を進める。
普通であれば、指揮官である男が直接交渉をする必要などない。
だが、男には確信があった。
そして、どうやら相手も男の意図を察したらしい。ガルベイラ家
の軍からも一人の男が馬を進めて来る。
﹁やはりお前が軍を率いて来たか。久しいなシグニス﹂
その言葉に、シグニスと呼ばれた男が白い歯を見せて笑うと馬を
下りて両手を広げた。
﹁それはこちらも同じだ。ロベルト・ベルトラン。相変わらずの間
1710
抜け面が見れて嬉しい限りだ﹂
﹁抜かせ。この男爵家の冷や飯食いが!﹂ ﹁それはこっちおセリフだ!﹂
ひとしきり悪態をつきながら、両者はしっかりと互いの肩を抱き
合った。
﹁こうして直接顔を合わせたのは三年ぶり⋮⋮いや、四年ぶりか?﹂
﹁あぁ、エルネスグーラと国境で小競り合いをしたとき以来だな﹂
シグニスの言葉にロベルトはため息交じりに答える。
﹁ふむ、まぁ仕方があるまい。お互いに男爵家の四男坊と言う立場
では⋮⋮な﹂
貴族社会において家を継ぐ長男と違い、次男三男となればその存
在価値は長男に不測の事態が起こった場合の保険と言う意味合いが
強い。
そして、保険とは不測の事態が起こらなければ無駄になってしま
う。
当然ながら、長男に比べて次男三男に対する待遇は悪くなるのが
一般的だ。ましてや、それが四男ともなればその待遇の悪さは推し
て知るべしだろう。
貴族同士の交流の場に呼ばれる事はほとんどなく、仮に呼ばれた
としても精々が人数合わせ程度の価値。
普通であれば、臣籍に落とされるか家を出されて自立するしかな
いのが普通だ。 1711
﹁その様子だとロベルト、お前のところも相変わらずか﹂
﹁あぁ⋮⋮だがそれはお前のところも同じだろう?﹂
ロベルトの問いにシグニスは諦めの表情を浮かべながら頷いた。
﹁あぁ、こんな厄介事の時だけ上手く使われてるよ﹂
二人の境遇は実に似通っている。
決して裕福ではない貴族の四男として生を受けた事。家族の中で
自分の居場所が見つからなかった事。騎士として類まれな才能があ
った事。
特に、彼らの戦士としての才能は突出したものだった。そう、親
兄弟が彼らの才能を手放したくないと思うほどに。
領内に出没する野盗や怪物の始末など、治安維持を初めとした荒
事関係は全て二人の仕事となっている。
それでいて、領地経営には口を出せないし、家での地位も最下層
と言うのだから気の毒と言う他はなかった。
﹁仕方がないさ。こればかりは俺達じゃどうしようもない﹂
﹁まぁ⋮⋮な﹂
今の状況から一発逆転を狙うなら、親兄弟を殺して家督を奪うく
らいしか方法はないが、流石に幾ら冷遇されていても肉親の情は捨
てきれないのが本音だ。
シグニスの言葉にロベルトは小さく頷いた。
﹁いつまでもこうしていても仕方がない。とりあえずこちらが先に
1712
進ませてもらうぞ。イピロスに着いたら一杯やるとしよう。積もる
話もあるしな﹂
﹁あぁ、分かった良いだろう。その代わり酒はシグニス、お前の奢
りだろうな﹂
﹁良いだろう。一杯だけなら奢ってやるよ﹂
ロベルトの言葉にシグニスは笑みを浮かべて頷くと、再び馬上の
人となる。
﹁では、イピロスで!﹂
﹁あぁ﹂
去りゆく旧友の後ろ姿を見送りながら、ロベルトはゆっくりと踵
を返した。
その脳裏には、先ほどまで占めていた疑問など欠片も残されては
いなかった。
それが吉と出るか凶と出るか、今の段階で分かる人間は誰もいな
い。
ローゼリア王国北部は今まさに嵐の時を迎えようとしていた。
1713
第5章第18話︻双頭蛇の毒牙︼其の4
イピロスの城門にほど近い大通りに面した宿屋の二階から鋭い目
で通りを見下ろしていた男が、背後の椅子に悠然と腰かけた自分の
上役である伊賀埼甚内に向かって報告した。 ﹁また一軍がイピロスの城門をくぐりました。旗の紋章は赤地に翼
を広げた金の鷲です﹂
﹁ふむ、鷲の紋章か⋮⋮ならばガルベイラ男爵家で間違いないな。
数は?﹂
数百年前に同じ日の本から召喚されたという男からこの大地世界
へ伝わったとされる、精巧な細工の施された銀細工のキセルを咥え
ながら、甚内は悠然と男に問いかける。
﹁およそ百騎﹂
甚内の問いに男は淀みなく答えた。
忍びとして暗殺や破壊活動に対し十分な経験と技能は持っている
が、その中でも男が最も得意とするのは戦場を想定した諜報活動だ。
敵陣に密偵として潜り込んだり、敵軍の兵数を知らせる事が主な
仕事。
軍の兵数を一目で把握出来るように訓練は嫌と言うほど積んでい
る。
﹁騎士のみか﹂
1714
﹁はい、全て甲冑を着込んだ騎士だけです﹂
﹁なるほど⋮⋮領民の徴兵はせずに派遣できるギリギリまで兵を出
してきたか⋮⋮﹂
キセルに詰まった灰を取り除きながら、甚内はその大仏のような
丸顔に笑みを浮かべた。
﹁恐らく反乱を警戒しての事かと﹂
﹁だろうな⋮⋮流石にこの情勢下で平民達の徴兵を行うほど馬鹿で
はなかったという事だろう﹂
部下の言葉に甚内はゆっくりと頷く。
︵これで今のところイピロスへ入城した北部十家は全部で七家。兵
数にして二千騎を超えた︶
イピロスとその周辺の領主であるザルツベルグ家を除いて残り二
家が残っている計算だ。
基本的に貴族は多かれ少なかれ私設の軍事力を持つ。
建前上は絶対的な王権の下に支配されているとはいえ、貴族の自
治権が認められている以上、多かれ少なかれ貴族には軍事力が必須
だった。
町や村を囲う堀や塀の外は人の支配する領域ではない。折に触れ
て怪物達の脅威が人を襲い、町や村から追い出された犯罪者が弱い
人間を虎視眈々と狙う弱肉強食の世界だ。
いや、正直に言えば町や村ですら完全に安全とは言えない。
竜種やそれに匹敵する怪物が村や町を襲う事も頻繁とまでは言わ
ないものの、それほど珍しいと事ではないからだ。
しかし完璧ではないにせよ、豊かで安全な街や村は経済に大きな
影響を与える。
1715
安全だからこそ人が集まり、人が集まるから物が集まる。そして
安全は人々に活気をもたらし経済活動を促進する。
余程特殊な事情でもない限り、誰だって稼いだ金を何時奪われる
かビクビクしながら生きなければならない様な治安の悪い街よりも、
家に鍵を掛ける必要のないほど安全と言われる様な街に住みたいと
思うものであり、治安維持に力を入れる領主の下で暮らしたいと思
うものだ。
その想いを特に強く持つのは有力な豪商達。治安の悪い街では当
然の事だが商売はしにくい。当然、彼らは治安の良い街へと商売の
拠点を移すだろう。
土地に縛られる農民と違い、商人達は比較的簡単に移動する事が
出来る。より治安の良い街に映るのは当然の判断だ。
そういった現実の脅威に対しての対応や領内の商業活性の為に、
騎士の雇用などを初めとした軍事力の強化は領主が行うべき当然の
責務と言って良い。
ただし、軍事力が必要だからと言ってむやみやたらに騎士を仕官
させる事もまた難しい。
王から見れば貴族が強大な軍事力を持つ事は、いつの日か自分の
玉座を狙う潜在的の存在を容認することに等しい。
当然、軍事力を増強する貴族は王家に睨まれてしまう。場合によ
っては反逆者という汚名の下に一族郎党が根絶やしにされる状況も
ありえた。
生きる為に軍事力は必要でも、過度に増強すれば王家に叩き潰さ
れる。
生き残る為に必要な相反する条件。
その為、貴族は常備兵力である騎士の仕官を必要最低限に抑え、
不足分を傭兵や領民の徴兵によって補うのがこの大地世界における
常識だった。
ローゼリア王国で平均的な領土を収める男爵家を例に上げると、
騎士の数は五十から百名前後が一般的であり、徴兵可能な兵数は五
1716
百前後。
子爵家で騎士百五十から二百で、徴兵可能な兵数はおよそ千人。
伯爵家では騎士三百人前後に領民兵二千から三千と言ったところか。
勿論、これらはあくまでも平均値の話。当然ながら統治する領地
の状態でこれらの兵数は上下するし、侵略か防衛かでも動員兵数は
変わってくる。
︵騎士だけを率いての出兵と言う事は、各家が統治する領地の治安
に不安を感じている証しと考えて良い。ここまでは全てお館様の思
惑通りの展開か⋮⋮流石は厳翁が惚れ込んだだけの事はある︶
平民と貴族との間に横たわる身分の壁を考えれば、貴族が平民に
配慮する理由は極めて限られてくる。
それこそ反乱を警戒するような場合でもなければ、大抵の貴族は
躊躇なく領民を徴兵した事だろう。
そうなった場合、豊かな経済力を持つザルツベルグ家を筆頭とし
た北部十家の動員兵数は領民兵だけで一万を超える。
これは通常の動員兵数からはかなりかけ離れた数値ではあるが、
彼らの領地に対しての諜報活動を行ってきた甚内としてはかなり自
信のある予想数値だ。
それこそ自分の首を賭ける事が出来る程度には。
元々、ローゼリア北部は王都から離れた僻地と言う風潮が強く、
国王の権威が届きにくいという立地の上に、対ザルーダ王国や対ミ
スト王国向けの国防を北部貴族が主導してきたという歴史的な経緯
がある。
またザルツベルグ伯爵家の治めるイピロスは商人ギルドの助力を
得てローゼリア北部で最大の商業都市としての顔を持つ。
当然ながらその恩恵は周辺の領地を治めるそれぞれの家にももた
らされる。
軍事と経済の両方から見て、北部の貴族達はローゼリア国内でも
抜きんでた存在と言って良いだろう。 また、周辺貴族の横槍を考えずに動員兵力ギリギリまで使えると
1717
いうのも大きな理由だ。
余程の事がない限り、精強な北部の軍と矛を交えようとするロー
ゼリア貴族はいない。
他国と直接国境を接する東のガルベイラ男爵家と西のベルトラン
男爵家を除けば、彼らの領地が他者から攻められる可能性はかなり
低いと考えて良いだろう。
﹁頭! 恐らく奴がシグニス・ガルベイラかと﹂
窓から通りを見張り続けていた男の目に隊の中ほどを進む一人の
騎士がとまった。その言葉に甚内の目が一瞬、獲物を目にした蛇の
様な鋭さを見せる。 ﹁東のガルベイラか⋮⋮やはりザルツベルグ伯爵は最高の持ち駒を
持ってきたか。ならば西のベルトランも必ず来るな﹂
北部を支配する貴族十家。その中でも特にガルベイラとベルトラ
ンの両家は、将棋に例えるならばザルツベルグ伯爵家にとってまさ
に飛車角と言えた。
両家は爵位も男爵位であり、領地にも特別目を見張る点もないご
く普通の家ではあるが、ただ一点他の家とは一線を画すものを持っ
ている。
﹁北の双剣⋮⋮まずはその手並みが噂程の物か見せてもらうとしよ
う﹂
甚内は不敵な笑みを浮かべた。
その夜、ザルツベルグ伯爵家では盛大な晩餐会が開かれていた。
1718
貴重な香辛料や食材を惜しみなく使い、貴族階級でもなかなか
口にする事の出来ないシャトーで作られた高級品と目されるワイン
の栓が惜しみなく開けられていく。
北部の盟主として、また今回の戦の呼びかけ人として恥ずかしく
ないだけの贅を尽くしたものだ。
唯一残念なのは、女性の姿が極端に少ない事。
給仕に勤しむメイド達はどれも粒ぞろいの美女ばかりではあるが、
どれもザルツベルグ伯爵のお手付きと言う噂があり、手を出そうと
いう貴族はまずいない。
︵まぁ、仮に貴族のご令嬢が居たにしたって、声を掛ける訳にはい
かないがな︶
ロベルト・ベルトランは己の境遇を呪いながら、手にした皿に乗
せられた鶏肉を口へ運ぶ。
家を継ぐ嫡男であればこういった晩餐会では少しでも周囲の貴族
達と交流を深めようとするのが普通だ。
しかし、嫡男ではないロベルトがこういった場で他家と交流する
訳にはいかない。
ロベルト自身に野心はないが、周囲はそう捉えてはくれないのだ。
ただでさえ、ロベルトには武人としての高い武名がある。それは
武の才能を持たなかった文人肌の嫡男や、彼を生んだ正妻にしてみ
れば苦々しいものだ。
側室の産んだ子に家名を継がせてなるものか。そういった想いは
ある意味では致し方ないとも言えるが、その犠牲にされるロベルト
にしてみればたまったものではないだろう。
ましてや、今回の様な戦の時にだけ都合よく一門としての責務
だけを求めてくる。
﹁相変わらず金掛けてやがるな。クソ、家じゃまず食えない様なも
のばかりだ⋮⋮おい、ワインをくれ﹂
1719
手にしたグラスを一息で開けると、近くに居たメイドへ追加を持
ってくるように命じる。
どうしても飲み食いがメインになってしまうのは致し方のない事
だ。
そんなロベルトの肩を後ろから誰かが叩いた。
﹁相変わらずだな﹂
﹁ザルツベルグ伯爵⋮⋮お久しぶりです﹂
﹁うむ、どうやら楽しんで貰えているようだな⋮⋮何よりの事だ﹂
チラリと空になった料理の皿へと視線を向けると、ザルツベルグ
伯爵は深く頷く。
貴族としての品位がないと責めているような視線だ。
﹁えぇ、家では滅多に口に出来ない様な物ばかりですからね﹂
﹁体調も良いようだな⋮⋮まぁ、お前が戦で働いてくれれば何をど
れだけ食べようが私は何も言わんよ。タップリと精を付けてくれ﹂
若干の呆れと侮りに満ちた言葉。
それでも、ザルツベルグ伯爵が自分から声を掛けて来たのはロベ
ルトの実力が無視できない証しだ。
実際、伯爵が今回の戦で最も重要な駒だと考えているのがシグニ
スとロベルトの二人。
﹁しかし、本当に北部十家全てを動員する必要があるんですかね?
勿論、御子柴男爵の噂は聞いていますし、半島内で何やら動きが
あるのも事実の様ですが﹂
1720
伯爵自らが話しかけてきたのを折角の機会と考え、ロベルトは己
の心の中に秘めた疑問を口にした。
相手は所詮男爵家。それもウォルテニア半島という未開の地を領
地とする様な相手との戦だ。
それに比べて、北部十家はそれぞれが一般的な爵位以上の戦力を
誇る。常識的に考えれば今回の戦は矛を交える前から勝敗がついて
いるのだ。 ﹁さぁな⋮⋮正直に言えば私は過剰反応だと思ってはいる⋮⋮ただ、
あの男の行動を予想することが難しい事も事実だ。妻が安全策を取
りたがる理由も理解は出来る⋮⋮まぁ、何れにせよ後数日の内には
答えが出るだろう﹂
とばり
そういうとザルツベルグ伯爵は窓の外へと視線を向ける。
夜の帳によって隠された北の地を見透かすかのように。
そして数日後。イピロスの北に漆黒の闇を纏った一軍がついにそ
の姿を現した。
1721
第5章第18話︻双頭蛇の毒牙︼其の4︵後書き︶
お世話になっております。ホーです。
HJノベルス版ウォルテニア戦記一巻の発売日が確定しました。
その他、今回の出版に関する情報を活動報告にてご連絡させていた
だきますのでよろしくお願いいたします。
1722
第5章第19話︻双頭蛇の毒牙︼其の5
金髪が強風にたなびく中、シグニスは目を細めた。彼の目に映る
のは黒で染め抜かれた鎧兜。昼の日差しの中では何よりもはっきり
と見えるのに、夜の闇には同化してしまいそうなほどの漆黒だ。
城門から数キロ離れた場所に陣を敷いた敵兵の頭上に翻る金と銀
の双頭蛇が絡みついた剣の紋章。蛇の赤い目が周囲を威圧的に睨む
という、あまり見た事のない意匠だった。
︵なるほど、数はおよそ千と言ったところか。統一された装備⋮⋮
恐らく御子柴男爵が買い揃えた物を兵に与えたのだろうが、余程資
金に余裕があると見える⋮⋮兵数では確かにこちらが有利ではある
が、御子柴殿をただの男爵と侮るのは愚かだな⋮⋮力押しで一気に
叩き潰すという話だったがこれは⋮⋮︶
北部十家の騎士が勢ぞろいしているザルツベルグ伯爵軍の兵数は
およそ二千。
敵軍接近の報告を受け、城壁の上に集まった諸将達。武法術によ
って強化された視力は、御子柴軍の陣営と、そこに蠢く兵士達の姿
を克明に写していた。
﹁どうだ、シグニス﹂
両腕を組みジッと敵陣の動きを見つめていたシグニスの背後から
ロベルトが声を掛けた。
﹁この戦⋮⋮ひょっとすると少しばかり手こずる事になるかもな﹂
後ろを振り返ることなく遠方を見つめ続けるシグニスの唇から微
かな呟きにも似た言葉が零れた。
1723
それは戦の開始を目前にした人間が口にするべき言葉ではない事
を、彼自身が十分に理解している証しだろう。
何しろ兵の数ではザルツベルグ伯爵軍の方が二倍近くも優勢なの
だ。しかも、伯爵軍は城塞都市として名高いイピロスを拠点に軍を
動かす事が出来る。
都市を拠点にすれば物資の補給はもとより、場合によっては住民
を徴兵する事もギルドから傭兵を雇う事も可能だ。
有利不利を論じれば、ザルツベルグ伯爵軍の有利は動かないはず
だ。
こんな状況下で悲観的な言葉を口にすれば、周囲から臆病者と馬
鹿にされかねない。
しかし、シグニスはあえて己の心に感じた不安を口にした。
熟練の戦士は口を揃えて戦には匂いがあると言う。それは戦場を
体験し生き残った人間に自然と備わる勘の様なものだ。
その戦士の勘が遠方の軍を見たとたん、しきりに警報を鳴らして
いるのだ。
﹁ふぅん。まぁ、お前がそう言うならそうなんだろうな﹂
﹁お前は何時もと変わらんな﹂
ロベルトの何時もと変わらない泰然とした態度にシグニスは苦笑
いを浮かべる。
ザルツベルグ伯爵軍の中で、圧倒的な力と戦歴を誇るロベルトと
シグニス。二人にはこの戦の先陣を任される事が決まっている。
この大地世界で言う先陣とはまさに敵陣に向かって最初に突撃を
する切り込み隊長の事。
彼らの活躍に周囲の兵は指揮を上げ、後発の第二陣が第三陣が戦
況を確定させるのだ。それは正に戦局を左右する大事な任務と言っ
て良い。
1724
本来であればそれは戦に生きる男として名誉な事だ。その認識自
体は間違いないが、同時にそれは危険と隣り合わせであるという事
を意味していた。
そんな大事な任務を担っているにも関わらず、シグニスの言葉を
聞いたロベルトの態度は平静そのもの。肯定も否定もしない。いや、
どちらかと言えば無関心と言う方が正しいのかもしれない。
﹁なぁに、どうせ俺達仕事は変わらんよ。ただ目の前の敵兵を殺す
だけでいい⋮⋮後は糞親父と太鼓持ちのカス共が上手い事やるだろ
う﹂
そう言うとロベルトは皮肉交じりの視線を周囲へと向ける。その
冷ややかな目が彼の伝えたい言葉を如実に表していた。
﹁あれが御子柴男爵の兵か⋮⋮これはまた随分と御大層な格好だな﹂
﹁ですがあの装備を見る限り、ウォルテニア半島が想像以上に裕福
な土地である様ですな﹂
﹁伯爵から聞いた通り、どうやら奴隷を買い集め兵にしたようです
が⋮⋮﹂
﹁数は中々に立派なものだが、本当に必要なのは個々の質。成り上
がり者が随分と頑張ったようだが、さてさてあの兵士達の一体何人
が使い物になる事やら﹂ ﹁私が伯爵から聞いた話では、ザルーダへ援軍として向かった三百
程の兵は全て法術を会得したものばかりだったと聞きましたが⋮⋮﹂
﹁実にくだらないハッタリだ。どうせ数人の手練れを雇い全軍が同
1725
じ力量ですと吹いたのだろうよ﹂
﹁まぁ、私もそうは思っていますが⋮⋮﹂
若干の呆れの含んだ嘲りがあちらこちらから漏れ聞こえてくる。
シグニス達から少し離れた場所に固まる一団。北部十家を形成す
る貴族の当主や領地の継承を担う嫡男達。同じものを見ているはず
なのに、シグニスと彼らが感じた感想には天と地ほどの差があるよ
うだ。
多少慎重論を唱えた人間もいたようだが、他者の強硬な意見に異
議を唱えるほどの確証を持っている訳ではないらしい。
まぁ、それもある意味では仕方のない事ではある。御子柴亮真と
言う男と彼の領地であるウォルテニア半島に関する情報は極めて断
片的なものだけなのだから。
﹁あまり余計な事に囚われるな。俺達は俺達の立場で最善を尽くせ
ばいい﹂
ロベルトは皮肉交じりの笑みを消すと、シグニスの目をジッと
見つめる。
そのあまりの鋭さに、シグニスは思わず目を逸らした。
シグニスにとって、この戦は気の乗らない手伝い戦であることは
ロベルトと同じだが、それでも勝つ為に最善を尽くすべきだと考え
ていた。
だが、ロベルトはどうやら違うらしい。
﹁だが、それではこの戦の行方はどうなる? それにザルツベルグ
伯爵も元は生粋の武人だ。俺が理を尽くして話せば!﹂
将として、兵の命を預かる者として最善を尽くす。その想いがシ
1726
グニスの体を突き動かす。
危機に対して対策を取っていれば被害は最小に抑える事が出来る。
極端な話、しばらくイピロスに籠城し、情報収集に専念するだけ
もかなり選択肢は変わるはずだった。
そんなシグニスを想いをロベルトは理解していながらも首を横に
振った。
﹁どうせ何を進言しようが誰も俺達の意見なんか聞く気はない。身
の程知らずと疎まれるか、伯爵に取り入って家督を奪おうと狙って
いると思われるのがオチだ。それに、そんな噂が家の連中に聞かれ
てみろ、仮にこの戦に勝ったとしてもお前殺されるぞ?﹂
家督に興味がないと思われているからこそ、シグニスもロベルト
も生きてこられたのだし、武勇に自信のない嫡男の便利な身代わり
として軍の指揮権を持たされているのだ。逆に言えばその部分にほ
んの少しでも疑惑を持たれれば二人の命は瞬く間にかき消される。
戦場の強者が日常でも強者とは限らないのだ。 ﹁シグニス、考えすぎるのがお前の悪い癖だぞ。もっと気楽に自分
の事だけを考えていればいいんだ。ただ目の前の敵を殺すことに集
中すればいい。仮に罠があったとしても俺達だけなら力で食い破れ
る﹂
﹁だがそれでは⋮⋮﹂
﹁だから言っただろう? 自分の事だけを考えろってさ﹂
そう言うとロベルトは、シグニスの方を軽く叩いて背を向けた。
その姿に、シグニスの唇から小さな呟きが漏れる。
1727
﹁お前⋮⋮本当にそれでいいのか?﹂
その問いに長年の友は背を向けたまま答える事はなかった。 ﹁お館様。たった今、甚内様より既に北部十家全ての兵がイピロス
へ入城したとの報告がまいりました﹂
天幕の外に立っていた警護兵の一人が、そっと駆け寄り亮真へ耳
打ちをした。
天幕の中に設えられた指揮所。
大きなテーブルの上に広げられた地図にはイピロスのみならず、
ローゼリア北部全域の地形が詳細に記載されている。
﹁それと、こちらがご命令の物との事です﹂
そういって差し出したのは厳重に封をされた一枚の紙。
亮真はそれを手にすると、封を開くことなく無言のまま胸元へと
差し入れた。
﹁分かった。ご苦労だったな。報告を持ってきた奴には十分な休息
を取らせた後、甚内の下に戻ってもらう﹂
﹁かしこまりました﹂
そういうと兵士はさっと一礼して天幕の外へと走り去る。
﹁なんだい坊や? また隠し事かい﹂
そう言ってからかうような笑みを浮かべるのは、赤い髪を肩くら
1728
いの辺りで切りそろえた蓮っ葉な女だ。
だが、そんな言葉に今更動揺するほど亮真は初心ではない。
﹁えぇ、隠し事ですよ。まぁ、おいおい説明はさせて貰いますけど
ね﹂
隠し事だと言いつつも、亮真は正に平静そのものだ。
﹁ふぅんそうかい⋮⋮からかいがいのない子だねぇ。全く、だんだ
んふてぶてしくなってきちまって﹂
﹁俺のやり方はもうご存知でしょう?﹂
そういって笑みを浮かべる亮真にリオネは苦笑いで返す。
﹁そりゃそうだ。坊やは最初に会った日から悪巧みばっかりだから
ね。最初は若いくせになんて子だいと思ったもんだけどねぇ。あれ
から何年もたってアタシはすっかり慣れちまったよ⋮⋮あんたもそ
うだろう? ボルツ﹂
リオネはそう言うと長年連れ添った隻腕の腹心に話の矛先を向け
る。
﹁まぁ、あっしは今更驚きませんけどねぇ。何せ若はこれから大博
打を打とうとしていなさるんだ。これくらい慎重であるほうが安心
できまさぁ﹂
﹁まぁ、そりゃぁ確かにアタシだって、考えなしの馬鹿よりかは腹
黒で慎重な方がいいねぇ﹂
1729
含みのある視線が亮真へと向けられた。
﹁ならとりあえず俺は合格ですかね。リオネさん達が未だに俺を支
えてくれていますから﹂
﹁ふん⋮⋮こいつは一本取られたね﹂
冷静に返した亮真の答えにリオネの顔は一瞬赤く染まった。
鼻を小さく鳴らして明後日の方向を向くリオネ。その態度が照れ
隠しである事を、この場に居る誰もが察している。
長年傭兵団を率いて戦を飯のタネをしていたリオネと、彼女を支
え続けた副官のボルツ。
ギルドと言う後ろ盾があるにせよ、雇い主が信用できる人間かど
うかの判断を最終的に下すのは団長とその副官である二人。
傭兵が命を賭け金にする仕事である以上、取引相手の人間性が見
抜けるかどうかは生死に関わる問題だった。当然、彼らの人間を見
る目は冷徹で確かだ。
それに、リオネやボルツが御子柴亮真に仕える事になった経緯は
成り行きという他にない。
多少の義理人情はあるにせよ、御子柴亮真という男が利にならな
い、仕える価値がない人間だと判断すれば、リオネは傭兵団を率い
て他国に向かうだけの事だ。
つまりリオネがこの場に居るということ自体が、リオネと亮真の
間にある信頼関係を表している訳だ。 とはいえ、今更真顔で面と向かって貴方を信頼しています等と
言われると、リオネの様な女でも照れてしまうものらしい。
しばらくの間、天幕の中に穏やかな空気が流れる。とはいえ、そ
れはほんの一時の間だ。
﹁さて、では余興はここまでとして本題に入るとしましょうか。ま
1730
ぁ、全ては事前にお話しした通りの展開なので、改めて言う必要は
ないんですがね﹂
亮真の低く冷徹な声が天幕の中に響いた。
机を囲んで穏やかな笑みを浮かべていた、リオネやボルツを初め
とした達幹部の顔が瞬時に引き締まる。
﹁とりあえず、イピロスには予想通り北部十家が集まっています。
兵の総数もおよそ二千程との事です﹂
亮真の手が、地図に書かれたイピロスの上に馬に乗った騎士の駒
を二つ置く。
﹁全て騎士ですかい?﹂
﹁えぇ、ボルツさんの言うとおり騎士だけです﹂
﹁なるほど、若の策が上手く行ったようですな﹂
﹁領民兵がいくら弱いと言っても、野戦をする以上、兵数は重要な
要素ですからね﹂
亮真の言葉に周囲が無言のまま頷く。
ふ
将棋に例えれば騎士は正に飛車や角の存在、それに引き替え領民
兵は正に歩だ。
両者の能力差は今更比べるまでもないが、勝負は能力差だけでは
決まらない。差し手の戦術次第では府が飛車角を殺す事も可能だ。
﹁とりあえずここまでは全て予定通りか⋮⋮後は初戦の結果次第っ
て事だね。なら初戦は?﹂
1731
リオネの顔に危険な笑みが浮かぶ。指揮官として卓越した技量を
誇るものの彼女の本質は獰猛な戦士だ。
その戦士の本能が、これから起こる流血の祭を敏感に察したのだ
ろう。
﹁えぇ、軍対軍のぶつかり合い。正攻法です﹂
その言葉が亮真の口から放たれた瞬間、天幕の中に戦鬼達の雄叫
びが響き渡った。
1732
第5章第19話︻双頭蛇の毒牙︼其の5︵後書き︶
HJノベルス版に関して活動報告に更新があります。
そちらも合わせてご確認いただければと思います。
今後も本作品をよろしくお願いします。
1733
第5章第20話︻双頭蛇の毒牙︼其の6
﹁さてと、敵さんもやる気十分の様だな⋮⋮﹂
遠方にそびえたつイピロスの城壁。その手前には北部十家の紋章
が描かれた無数の旗が翻っている。
ザルツベルグ伯爵軍の兵力が自分の二倍近い以上、敵方も防衛施
設に籠って戦うほうが有利である事を理解していないはずはない。
それにも関わらず野戦を選んだという事は、一気にケリをつけた
いのだろう。 どちらの選択にも一長一短が存在するが、伯爵や他
の貴族達は後者を選んだのだろう。
もっとも、成り上がり者の男爵一人を相手に、北部十家の全てを
総動員しての戦だ。勝って当たりまえ、ほんの少しでも苦戦するよ
うな事にでもなれば、家名に傷がつくことは必至。彼らはローゼリ
ア王国のみならず、西方大陸全土から嘲笑を受ける事になるだろう。
上は同じ貴族から、下は平民達にまで。
︵良し良し、敵さんの領地にはそれほど兵を残してきていない証拠
だな⋮⋮︶
情報が足りない敵を戦う時、選択肢は二つ。
一つは、情報が揃うまで防衛に徹して損害を防ぐ方法。もう一つ
は、持ちえる最大兵力を使って一気に叩き潰す方法だ。
彼らはそれを恐れていたのだ。無意識の奥底で。
︵連中は俺の思惑通りに動いている。まぁ、プライドの高い人間っ
てのは比較的行動が読みやすいからな︶
そして、今のローゼリア国内の情勢が彼らの選択肢を更に狭める。
わざわざ手間暇を掛けて準備した甲斐があったという物だ。
彼らは欲しいのだ。目に見える圧倒的な勝利と言う美酒が。 1734
﹁それでは始めるか﹂
既に言葉を交わす状況は過ぎている。後はただ、本能に任せて武
器を振るうだけ。
それに、今更檄を飛ばして兵士達の指揮を高揚させる必要もない。
亮真の言葉に従い、傍に控えていた兵士の一人が角笛を高らかに
吹き鳴らした。
両軍の陣形は共に横陣。進行方向に対して各部隊を一列ないし二
列以上に並べて作る形。
陣形としては非常にオーソドックスな基本形であり、地球では古
今東西の戦史にその姿が記載されている。
とはいえ、基本形と言う事はそれほど習得に時間が掛からない反
面、これと言った特色が少ない。
強いて言うなら、敵味方の兵の接触面は非常に広がる為、乱戦に
なりやすく遊軍が少なくて済むという点だろうか。
これを御子柴亮真は先鋒の前陣と備えの後陣の二つにそれぞれ五
百名ずつを振り分けている。
それに対して兵数で勝るザルツベルグ伯爵軍は前陣、中陣、後陣
の三つに分けいた。
﹁連中、徒歩の癖にえらく速い! あの噂は本当だったのか? く
そ、弓隊は何をしている。間合いが詰まるぞ!﹂
ザルツベルグ伯爵軍の後方より部隊長の罵声が響く。
金属の鎧を着ているとは思えないほどの速度。いや、仮に革製の
鎧であったとしても、目の前の敵の移動速度は異常だった。
となれば、得られる結論はただ一つだ。
1735
﹁なるほど、一気に乱戦に持ち込むつもりか。来るぞ。全員気を引
き締めろ!﹂
最前列に立つ騎士の一人が槍を構えながら声を張り上げる。
今まで幾度となく戦場を生き抜いてきた彼の言葉に動揺は微塵も
ない。
双頭の蛇を掲げる黒い津波の様な軍勢を目の前にして、彼の心は
ただただ透き通っていた。
﹁構えろ!﹂
その言葉に周囲から鬨の声が上がった。 騎士の目に黒い鎧を全身に纏った人間の姿がはっきりと映る。彼
は意識を集中し己がチャクラを回し始めた。
騎士が回せるチャクラの数は全部で三つ。臍の周辺に存在すると
されるマニプーラ・チャクラまでだ。
これは、この大地世界においてまず手練れと言われる力量を備え
ているという証し。
チャクラは彼の意思に従って高速に回転を始め、身体能力を強化
していく。
三歩、二歩、一歩⋮⋮敵兵の足が槍の間合いに入った。
﹁死ねぇ!﹂
罵声と共に振り下ろした槍が、相手の手にした斧槍とぶつかり合
う。
その瞬間、赤い火花が両者の間で瞬き、腕から全身へと鈍い痺れ
が襲った。
二撃目、三撃目と次々と打ち下ろされる槍の衝撃。
騎士は思わず握った槍が吹き飛ばされそうになるのを、必死の
1736
思いで堪える。
︵この俺と互角⋮⋮こいつが部隊の指揮官か︶
腕に覚えのある騎士の多くは前線に出たがる。すれは部下を持ち
責任のある立場になっても変わらない。
熟練の騎士一人で、一般的な兵士の何人分もの働きが出来るから
だ。
プラーナ
そして、この世界の法則が弱肉強食の理論に拍車を掛ける。そう、
己の手で殺した生物の生気を吸収し、己を強化できるという法則が
強者を更に強者へと導く。
だから騎士は目の前の敵が己と同じくらいの年齢の熟練した手練
れだと思っていたのだ。
しかし次の瞬間、騎士は己の耳を疑った。
﹁ドイル、後方から援護しろ。残りは左右の敵を潰せ。こいつの相
手は俺がする。行け!﹂
内容自体は大した事ではない。問題なのは、声の主。
若い男の声だ。声の高さや感じから十代半ばから、二十代前半だ
ろうか。
︵馬鹿な⋮⋮私の息子と同じくらいの年頃だと?︶
一瞬聞いただけだが、騎士の屋敷に暮らす自分の大事な跡取り息
子と大差ない年頃である事が分かる。
それにもかかわらず、目の前の敵の力量は自分に匹敵するのだ。 日々の訓練で息子の腕前を理解している所為で、 余計に彼が
受けた衝撃はあまりにも大きい。
︵こいつらは一体何なのだ⋮⋮幾ら何でもこんなバカげた事が⋮⋮︶
騎士が長い年月を掛けて磨き上げてきた必殺の連撃を、目の前の
敵は躱し、防ぎ、反撃してくる。
それは騎士にとってまさに悪夢と言える。
やがて少しずつ騎士の攻撃が精彩を欠いてきた。
1737
繰り出す技は単調になり、一撃に込められる力は確実に少なくな
っていく。
肉体的な疲労が原因ではない。騎士の体は持久力、耐久力共に人
間の範囲を超えているのだから。
しかし、精神的な疲労までは超人の領域に住む騎士であっても普
通の人間と変わりはしない。
︵馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な! こんなことが起こるはずがない︶
戦場での勝負はほとんどの場合、最初の一撃で雌雄が決する事が
多い。
それが既に十数合を超える打ち合いをしてなお、勝敗が決まらな
いのだ。
長い戦歴を誇る騎士の人生の中で、これほど手間取った経験など
片手で数えるほどしかない。
己が強者であるという自負。その強烈なまでの意思が今、完全に
崩壊しようとしていた。
﹁クソガキが、いい加減に死ねぇ!﹂
罵声と雄叫びが戦場に響き渡り、騎士は己の持つ最高の一撃を振
り下ろそうとする。
しかし、背後からくわえられた激しい衝撃の後、天高く振り上げ
られた二本の腕は力なくその場に垂れ下がった。
騎士の喉に熱いネバネバした液体が腹の底から込みあがってくる。
口の中いっぱいに広がる錆びた鉄の匂いと味。
騎士はここが戦場である事を忘れ、その場に蹲る。
背中に手を回すと温かい液体に触れた。その感触は今更間違いよ
うのない物だ。
騎士は肩越しに背後に立つ兵士を睨みつけた。
﹁悪魔共め⋮⋮地獄に落ちろ﹂
1738
息も絶え絶えな騎士の口から、呪詛の言葉が放たれる。 それが
何の意味もない事を知りながら。
1739
第5章第21話︻双頭蛇の毒牙︼其の7
初めは四角い長方形だった二つの陣。
両者は矛を交えるうちに少しずつその形を変えていく。黒い波が
少しずつ白の陣地を蚕食していくのだ。
﹁おぅおぅ、こいつはまた随分と面白い事になってるな。うちの騎
士共と真っ向からぶつかって互角とはなぁ﹂
馬上で愛用の柄の長い戦斧を握りながら、ロベルトは前線の様子
に視線を細める。
﹁全く、何を他人事の様な事を。こちらが押されているんだぞ?﹂
この状況を楽しんでいるかのようなロベルトの態度を見て、シグ
ニスは呆れたように首を横に振った。
もっともそんなシグニスの顔にも皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
彼としてもこの状況はいくつか事前に想定していた状況の一つでし
かない証しだ。
﹁アホくさい。お前が相手の手の内を見たいって言ったんだろうが
⋮⋮おっ、最前列の部隊長が打ち取られたか﹂
息せききって戦場を駆け抜けてきた騎士の報告にロベルトはニヤ
リを唇を吊り上げて笑う。
それは正に人の死を何とも思わない邪悪な笑みだ。実際、ロベル
トにしてみればあの部隊長は部下と言うよりも邪魔者と言う側面の
方が強いのだから仕方がないとも言える。
1740
﹁お目付け役が上手い事、戦死したようだな﹂
﹁あぁ、何かにつけて当主の意向を盾にするうっとうしい奴だった
からな﹂
そう言いつつもロベルトはシグニスの言葉に不満げな表情を見せ
る。
﹁だが、勘違いするなよ。別に俺があいつを殺したわけじゃない。
日頃から大口ばかり叩くから、少しばかり目の前に手柄をちらつか
せてやっただけさ。武功を上げる機会を与えたんだから感謝しても
らいたいくらいだぜ﹂
ロベルトが言葉巧みに名誉欲と保身を刺激した結果、騎士は最前
列の指揮を執ることを引き受けた。
その結果は見ての通りだ。
ロベルトは邪魔で使いづらい部下を犠牲にして、敵軍の実力を見
極める事に成功した。
﹁どちらに転んでも損はないと言う訳か。ロベルト。相変わらずお
前はバカだが人の本性を見抜く目だけは抜群だな﹂
﹁ふん。俺はお前と違って小難しい事をごちゃごちゃ考えるのは嫌
いなんだよ。大体人間なんて少し見ればそいつがどんな奴か分かる
だろうが。それが分からねえっていうなら、世間の方に人を見る目
がなさすぎるのさ﹂
そう言ってふてくされた表情を浮かべるロベルトの横顔を、シグ
ニスはジッと見つめる。
1741
二人の付き合いは長い。同じ戦場で初陣を飾り、境遇が似ていた
事から二人は意気投合しそれ以来親密な付き合いを続けてきている。
まさに親友と言って良い関係だ。
しかし、そんな二人の本質は正反対と言っていい。
緻密な理論派であるシグニスに比べ、ロベルトは正に野生の獣だ。
本能のままに狩りをする天性の狩人。
同じ先陣を任されるほどの猛将でありながら、彼らに対しての周
囲の評価は正反対と言える。
︵だが、それでいてこの男は一人の武人としての力量以上に、謀将
としての才を持つから性質が悪い︶
普段の空気を読まない発言や、武人としての高い武名から猛将と
言う評価は得ているロベルトは、周囲から猪武者だと認識されてい
るが、彼はその周囲の評価を本能的に利用している。
理屈ではなく感覚で最適解を導き天才肌の人間なのだろう。
﹁まぁ良い。必要な情報は手に入れた訳だし、そろそろ本腰を入れ
るとするか。シグニス﹂
﹁そうだな。初戦で手こずるのはあまり良くない﹂
プラーナ
そう言うと、二人はゆっくりと第一のチャクラであるクンダリー
ニ・チャクラを回し始めた。
呼吸に合わさり、気脈を通じて全身に生気の篤い力がみなぎって
いく。
会陰から込みあがる熱い力の塊が、徐々に上へ上へと這い登って
くる。
彼らが回す事の出来る最も高位のチャクラである第五のヴィシュ
ッダ・チャクラ。
全部で七つあるとされるチャクラの内、喉元に存在するとされる
この第五のチャクラまで回す事の出来る手練れは極めて少ない。
1742
たぐいまれな才能と厳しい修練、そして数多の実戦を潜り抜けた
先に存在する境地と言って良いだろう。
﹁行くぞシグニス! お前は左翼だ﹂
﹁分かった。任せておけ!﹂
二人は馬に一蹴りいれると、猛然と黒い津波を目掛けて切り込ん
だ。
最前線で槍を振るうドイルはその瞬間、確かに戦場の空気が変わ
った事を感じた。 優勢だったはずの空気が一瞬にして逆転したのだ。
︵なんだこいつは? まるで巨獣を初めて目の前にした時に似た感
覚だ︶
背筋を虫が這うようなむず痒い感覚。それは言葉にすれば恐怖を
感じているという事だろうか。
もっとも、ドイルは己の心に湧き上がる恐怖を否定しようとはし
ない。恐怖を感じることは決して弱さではないのだ。
奴隷だったドイルは半島で己が未来を掴みとる際、その事を彼の
戦士としての師である紅獅子のメンバー達から徹底的に教え込まれ
ていた。
恐怖は人間の持つ大事なセンサーの一つ。恐怖を感じなくなった
人間は、戦士としては二流でしかない。
恐怖を正常に感じるからこそ、己が身を守る事も、危険に対処す
ることもできるのだ。
︵不味いな⋮⋮こいつはまさか︶
戦の前に告げられた己が主からの言葉がドイルの脳裏に蘇る。
前方の敵が突然左右に分かれた。
1743
目の前に現れたのは。巨大な柄の長い戦斧を振り回しながら仲間
達をいとも簡単に蹴散らしていく一人の騎士の姿。
まるで無人の野を掛ける騎士。彼の振るう刃を恐れザルツベルグ
伯爵軍ですらも彼の背後を追走している。
﹁手練れだ! みんなで囲むぞ!﹂
ドイルの生存本能が目の前の騎士に対してしきりに警報を鳴らす。
︵お館様のお言葉に会ったロベルト・ベルトランとシグニス・ガル
ベイラのどちらかだな。面白い、半島の巨獣とどっちが上か見せて
もらおう︶
この戦で最も注意するべき猛将の姿を前に、ドイルの心は恐怖と
それに勝る高揚を感じていた。
それはドイルの指揮する隊の仲間達も同じだったのだろう。
﹁俺の名はロベルト・ベルトラン! 命のいらない野郎は掛かって
きやがれ!﹂
それは正に人の形をした暴風雨。 プラーナ
野獣のごとき雄叫びと共に頭上より戦斧が振り下ろされる。
鋼の肉体とそれを強化する圧倒的な生気。そしてそれらを完璧な
までに制御する意思によってもたらされた圧倒的な暴力だ。
激しい金属のぶつかりあう音が戦場に木霊した。それでもドイル
は渾身の力を込めて、その圧力に抗う。
︵重い。なんて強烈な打ち込みだ︶
馬上と徒歩と言うハンデを考慮しても、ロベルトの一撃はあまり
にも強烈だった。
戦斧を受け止めた槍の柄は無残に曲がりドイルはその場で片膝を
付いた。
兜に守られていた為、致命傷でこそないが衝撃でドイルの意識が
1744
朦朧とする。
﹁ほぅ⋮⋮こいつは驚いた。俺の一撃を防ぐとはな﹂
戦場に似合わない余裕に満ちた言葉がドイルの耳に入る。
しかし、そんな言葉を口にできるほど、ロベルトは強者なのだ。 ﹁そら! こいつならどうだ?﹂
振り下ろされた戦斧が同じ軌道を描いて振り上げられる。
掬い上げるように放たれた一撃が、ドイルの体を襲った。
1745
第5章第21話︻双頭蛇の毒牙︼其の7︵後書き︶
一つ書籍化の件でお伝えし忘れた事があるので、活動報告を更新し
ています。
そちらもよろしければご確認ください。
1746
第5章第22話︻双頭蛇の毒牙︼其の8
野獣のような咆哮と共に響く金属音。
激しい剣戟の音が響く戦場において尚、ロベルトの両腕から繰り
出された渾身の一撃は兵士達の耳にはっきりと届いた。
目にも留まらぬ速さで振るわれた戦斧。
ドイルの体は羽の様に宙を舞った。そう、まるでトラックに正面
から撥ねられた人間の様に。
幾ら武法術によって身体強化をしているとはいえ、普通であれ
ばまずは即死する様な衝撃のはずだ。仮に即死は免れたとしても、
全身の骨は粉々に砕け自力では身動き一つ取れないに違いない。そ
してそれは、戦場において死人と同じ事。
ドイルが将軍や近隣諸国にも鳴り響く武名高い武人と言うのであ
れば別だが、ただの一般騎士であれば執拗にとどめを刺す必要はな
い。 普段のロベルトであれば大地に横たわるドイルを無視して他の獲
物を探したはずだった。
しかし、そんな戦場の定石に反してロベルトは悪鬼の様な笑いを
浮かべながら再び戦斧を振り上げると、猛然と馬を走らせる。
自分を手こずらせたドイルを確実に殺すつもりなのだろう。
しかし、黒い鎧に身を包んだ騎士の一人が、ドイルとロベルトの
間に割って入った。
﹁おい! 誰か今のうちにドイル隊長を後方へ運んで治療をしてく
れ! それと援軍を呼んで来い。こいつを絶対に逃がすな!﹂
黒騎士の口から手負いの獣に似た叫びが放たれる。
彼は全身を震わせながらロベルトの一撃に必死で抗っていた。 1747
﹁おいおい、一体どうなっているんだこりゃぁ。俺の一撃を受け止
める奴が二人だと? それも今度は完全に防ぎやがった﹂
戸惑いと驚きが一混じったような言葉がロベルトの唇から零れる。
夢幻の類だと思いたいところだが、残念ながら目の前の光景は現
実のものだ。
それは今までロベルトが培ってきた自信に大きな傷を残す。
︵無意識に手加減をした? まさか⋮⋮だが、それならなぜこいつ
らは俺の一撃を防げた? 武法術は使えるようだがそれだけじゃ説
明がつかない︶
武法術が使えない平民はもとより、騎士や歴戦の傭兵達が相手で
も、ロベルトは自分の戦斧を防がれた覚えが数えるほどしかない。
それも大抵の場合は返す二撃目の刃で事足りてきたのだ。
己の培ってきた武力。人の領域を遥かに超えた圧倒的な力を持つ
人間の自負。
ロベルト・ベルトランと言う男を構成する重要な要素にほんの少
し揺らぎが生じた瞬間だった。
そしてそれは、普段の彼であれば決して見せない隙を生じさせた。
突然ロベルトの体が沈んだ。そして次の瞬間、彼の体は前方へと
倒れそのまま宙へ放り出される。
︵クソ! 油断した︶
ロベルトの心の隙を突き、敵に馬の前足を刈られたのだ。
宙を舞いながら一瞬のうちにロベルトは己の状況を把握した。 そして、戦斧の柄を大地に突き刺し杖代わりにすると、器用に体勢
を整え大地へと着陸する。
油断なくロベルトは戦斧を構え周囲を睨みつける。
︵まいったな⋮⋮こいつは厄介だぞ︶
改めて周囲の状況を確認すると、自分の周りは敵兵ばかりだった。
自分の後方に付き従っているはずの部下達がいつの間にかロベル
1748
トと切り離されていた。
︵的確に鎧の隙間を狙う鋭い突きだ⋮⋮うちの騎士達の中でも上位
に入る⋮⋮︶
左右から突き出された槍を素早く躱しながら、ロベルトは戦斧を
水平に薙ぎ払った。 激しい金属のぶつかる音と共に戦場に赤い火花が散る。
︵後ろに跳んで衝撃を吸収したな⋮⋮クソ。どいつもこいつもかな
りの手練れだ︶
今度はロベルトの背中へ無言のまま槍が突き出される。
︵おっと⋮⋮危ない危ない。背後も注意しないとな︶
野生の勘に従い身をひるがえしたロベルトは、己の背に冷たい汗
が滑り落ちていくのを感じた。
ロベルトを取り囲む黒騎士は全部で五人。
彼らは全員かなりの手練れではあるものの、ロベルトと比べれば
戦士としての力量は一∼二段下だ。
ロベルトがヴィシュッダ・チャクラまで使える事を考え合わせれ
ば、ロベルトの勝利はまず揺るがない。
ただしそれは、一対一の試合形式、もしくは背後を部下に任せる
事が出来る様な状況であればだ。
流石にロベルトがどれほど強くても、たった一人で手練れ五人を
相手にするのはかなり危険だった。ましてや、今の彼は敵軍の中に
取り込まれてしまっている。
この五人を殺したところで、囲みを突破できなければロベルトに
残された道は死だけだ。
︵甘く見すぎたか⋮⋮こいつはいよいよ覚悟しなけりゃならないか
?︶ ロベルトの基本的な戦のススメ方は自ら敵陣へ切り込み、そこか
ら前線に穴をあけて主導権を握るという方法だ。
戦術ととして捻りはないし、自らの武力を頼みに将が切り込むス
タイルは危険も大きく、周囲から猪武者だと侮られる原因でもある
1749
が、同時にロベルトの武力をこれほど効率よく使う戦術もない。
事実、今までの戦では連戦連勝だったのだから、ロベルトが今回
も同じ戦火を得られると考えたとしても致し方ないだろう。
それが今回は裏目に出た。
多少手ごわい相手だという認識を持ってはいたものの、まさかこ
れほどまでに騎士一人一人の質が高いなどとは夢にも思いはしなか
ったのだ。
︵俺一人でこの囲みをを突破するのは難し厳しい⋮⋮何とかシグニ
スの奴と合流出来れば流れを変える事も可能なのだが⋮⋮︶
ゆっくりと包囲の輪を狭めていく敵兵。彼らから突き出される槍
を躱しながら、ロベルトは静かに機会が訪れる瞬間を待った。
一体どれほどの時間が経ったのだろうか。
数分か、数十分か、今のロベルトには分からない。
荒い息遣いと大量の汗。愛用の戦斧と鎧にこびり付いた赤黒い血。
ただ必死で本能のままに戦斧を振り回し続けた結果が彼の体にこ
びり付いている。
﹁ロベルト、無事か!﹂
突然包囲網の一角が乱れ、馬に乗ったシグニスが叫びながら姿を
現す。
彼もまたよほどの激戦を潜り抜けて来たのか、手にした鉄棍には
人の肉片がこびり付き、被っていた筈の兜は脱げてしまっている。
﹁ここだシグニス!﹂
ロベルトはあらん限りの力を込めて己の居場所を叫ぶ。
﹁無事だったか⋮⋮徒歩のままでも行けるな。このまま一気に駆け
1750
抜けるぞ!﹂
﹁分かった。俺の方は気にするな!﹂
一瞬でロベルトの状況を理解したシグニスは馬を止める事なく、
再び敵兵に向かって切り込んでいく。
馬の勢いを一瞬でも殺してしまえば、瞬く間に自分も包囲網に取
り込まれる事を理解しているのだ。
やがてロベルトとシグニスは黒い波を振り切る事に成功した頃、
両陣営より退却の鐘が打ち鳴らされた。
1751
えが
第5章第23話︻双頭蛇の毒牙︼其の9
満天の星空。
中天には真円を描く月が煌々︽こうこう︾と辺りを照らし出す。
それは正に最高の景色。
無限の宇宙への憧憬と可能性を感じさせるもの。神秘性と芸術性
に富み、人の心に安らぎを与える。
しかし、今この下に蠢く人間達には、そんな風情を楽しむ余裕は
なかった。
そう、昼間行われた戦を終えた御子柴軍、ザルツベルグ伯爵軍の
両陣営共に⋮⋮
﹁失礼したします。ご報告にまいりました﹂
その言葉に亮真は手にしていたペンの動きを止め。
今処理を行っている書類は、どれも自分自身が確認をする必要の
ある優先度の高い物ばかりだが、今の彼の取ってローラの報告ほど
待ち望んでいた報せはない。
﹁ローラか⋮⋮入れ﹂
その声に従い、天幕の入口がほんの少し開けられた。
その間から姿を現したのは、波打つ金の髪を揺らめかせながら笑
う一人の女神。
彼女の顔に浮かんでいる笑みを見た瞬間、戦に神経を注ぐ亮真の
心に安らぎを与える。
﹁その顔を見ると、大方計算通りの損害で済んだようだな﹂
1752
﹁はい。死者は今のところ十三名。怪我人は重傷者だけで二十二名
です。ただし、重傷者の方は秘薬と文法術による治療を施していま
すので、命の危険はありません。体力の回復を待って二∼三日中に
は原隊へ復帰する見込みです。また、死傷者のほとんどが例の二人
によるものとの報告が上がってきています﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
ローラの報告に、亮真は深いため息をつくと、腰かけた椅子の背
もたれに体を深く横たえた。
その心の内は一体どんな想いで満たされていたのだろう。
自分の命によって人が死ぬ。
事故や不可抗力ではなく、初めから戦場で戦い死んで来いと命令
するのだ。
兵士をいう職業の持つ当然の職責とはいえ、その命令は普通の人
間ではとても担うことが出来ないほどに重い。
︵慣れないな⋮⋮まぁ、この思いに慣れちまうような人間はクズ以
下⋮⋮か︶
矛盾した思いだろう。
今までも、亮真は彼らに死んで来いと命じて来たのだから。
半島に徘徊する怪物を討伐する時も、周辺貴族が送り込んできた
密偵を始末して来いと命じた時も、兵の生命に危険がなかった訳で
はない。
勿論、亮真は様々な策を巡らし、兵士達へ与えうる最高の武具を
支給したのは事実だ。
だが、どれほど策を巡らそうと、高価な武具を与えようと、死者
は出た。
その度に感じるのは、己の所業の汚さと、必要性だ。
結局のところ、世界は地球であろうと、異世界であろうと変わら
1753
ない。
犠牲なくして成果はなく、上に立つ人間は他人を犠牲にして前に
進むという事だ。
それはひどく残酷で非情ではある。
犠牲にされる側に立って考えればとても許容できないのも分かる。
しかし、誰も犠牲にならない世界など、神ですら創造できなかっ
たのだ。
神ならぬ人の身では望むべくもない物だろう。
ならば御子柴亮真にとれる道は一つだけ。犠牲を己が胸に刻み、
少しでも犠牲を減らす努力をするという事だけだろう。
﹁これであの二人が本物の化け物である事と、俺の軍が周辺諸侯の
軍隊を凌駕する精兵である事の二つが同時に証明された訳だ﹂
﹁はい。ネルシオス様を介して購入した武具の性能は驚くべきもの
です。何しろ他国ならば金貨十枚はくだらないと思われるような品
ですから﹂
﹁まぁ、期待通りの性能だった訳だ﹂
亮真が今回の戦に際してもっとも心を砕いた事。それは兵の命を
どうやって守るのかと言う事だった。
元々、ウォルテニア半島の人口は零。亜人が暮らす集落は存在す
るが、人間を敵視する彼らから税や塀を徴収する訳にはいかないと
いう半島特有の事情がある。
今後の飛躍を考えれば、どうあっても領地の拡大は必須だが、拡
大の為には他国と戦をしなければならないし、その為には軍隊が必
要だ。
しかし、他国の様に領民を徴兵して数で押すのは難しい。
実に矛盾した状況だ。
1754
最終的には、奴隷を買い集め教育する事で軍は何とか構成できた
が、コストと言う視点で考えた時、奴隷兵は非常に割高な存在と言
える。
とても他国の支配階級の様に、平民など虫けら以下よと使い潰す
ような運用など出来るはずがなかった。
そうなると残された方法は兵一人一人の質を高める事しかない。
当然、そんな手間暇を掛けて育成した兵を無駄に殺すのは大きな
損害だ。
そこで亮真は亜人、特にエルフ族の持つ付与法術の技術に着目し
た。
今でも西方大陸の各地では、過去に亜人が制作したとされる武具
が現存しており、その性能から高値で取引されているからだ。
﹁軽量化、硬化の二つはどちらも一般的な付与効果ですが、あの効
率化は人間種では再現するのがかなり難しいと思います﹂
﹁プラーナの消費は戦場で勝敗に大きな影響を与えるからな。やっ
ぱりネルシオスさんとの取引は正解だったか⋮⋮﹂
鎧兜の性能は材質と厚みが大半を占める。
固く粘りがあり、なるべく分厚く、それでいて出来るだけ軽い物。
これら相反する要素を両立させることの出来る亜人の技術は戦う
者にとって垂涎の的だ。
︵とりあえずこの情報は外部に絶対洩らせないな⋮⋮伊賀埼衆に警
戒を強化するように命じておくか︶
ネルシオスから購入した武具を身につければ、兵士達はその実力
を大きく向上さ他国を蹂躙できる。だが、それは所詮道具の性能の
差だ。
道具は敵味方を選ばない。
勿論、仮に武具を盗まれたところでそう簡単に技術の複製など出
1755
来はしないだろうが、不安の芽は摘んでおくに限る。
︵だが、これで今後の方針は確定だな⋮⋮︶
既に亮真の中には幾つかの策が既に出来上がっていた。
後は今の状況の中から考えられる最善策を選ぶだけ。
︵防戦に徹すればこの兵力差でも前線を破られる可能性は少ない。
問題は例の二人をどうするか︶
シグニスとロベルト。この二人は単騎で戦況を左右する事の出来
る存在だ。
亮真は手塩にかけて育て上げた兵士達の囲みを食い破った事がそ
の証拠だろう。
一番確実なのは伊賀埼衆に命じて暗殺する事。もしくはザルツベ
ルグ伯爵に二人を殺させるように仕向けるかだが、亮真としてはそ
のどちらも選ぶつもりはなかった。
敵にすれば実に恐ろしい相手だ。彼らが己の生死を顧みずに亮真
の首を狙ってきたらどうなるかはまさに神のみぞ知る事。
︵だが⋮⋮味方にすればこれほど頼もしい存在もない︶
亮真の望みはローゼリア北部の支配ではない。彼の想い描く夢を
形にするには多くの優れた人間達が必要だった。その為にはたとえ
敵であっても味方にするだけの器量がいる。
︵勝負するしかないな︶
﹁俺は砦に残した兵五百を率いて南下する⋮⋮﹂
その言葉を聞いた瞬間、ローラの形の良い眉がピクリと動いた。
﹁かしこまりました。それでは前線の指揮は私が?﹂
﹁あぁ、ローラに任せる。リオネさんに補佐をしてもらえ﹂
決心を固めた亮真の言葉にローラはただ静かに頷いた。彼女には
1756
亮真の狙いが全て理解できていたから⋮⋮
さまざまな思惑が交差する中、小手調べとも言える戦の初日はこ
うして幕を下ろした。
1757
第5章第24話︻双頭蛇の毒牙︼其の10
御子柴亮真の宣戦布告から始まったイピロス郊外の戦は、ザルツ
ベルグ伯爵軍の思惑とは異なる展開を見せ始めていた。
当初彼らはローゼリア北部を収める北部十家の連合の前に、御子
柴軍はなすすべもなく敗れ去るであろうと考えていたのだ。
勿論、それは貴族達がただ単に選民意識の塊と言うだけではなく、
それなりのきちんとした理由を持っている。
ウォルテニア半島と言う人の居ない特異な領地の上、領地を下賜
されてから日が浅い事。そして何よりも、御子柴亮真と言う男が、
元々ただの平民どころかローゼリア国民ですらなかったという特異
な出身。
そのどれを取ってみても、北部十家の貴族達にしてみれば自分達
の敵として警戒心を掻き立てるものではない。
それにも関わらず、両者がイピロス郊外の平野で矛を交わし始め
てから、既に十日が過ぎようとしてもなお、戦況は硬直したままだ
った。
﹁クソったれが! どいつもこいつも好き放題抜かしやがって!﹂
イピロスの中央にそびえ立つザルツベルグ伯爵の屋敷。その一室
に激しい罵声が響き渡る。
顔を真っ赤に染めたロベルトの脳裏に先ほどまでの会議の様子が
ありありと浮かぶ。
大した戦の経験もないような若造や、金で武功を買ったと噂され
るような腰抜けが、したり顔で初戦から今までの戦の推移を評する
のだ。
1758
元々、他の貴族達とは違って当主や世継ぎと言う確固たる地位を
持たないロベルト達二人が槍玉に挙げられるのは致し方ない。
とはいえ、延々と繰り返される心無い誹謗中傷にロベルトが苛立
つのも当然と言えた。
﹁おい、少し落ち着け⋮⋮怒鳴り散らしたところでどうなるもので
もあるまい。こいつは伯爵秘蔵のワインらしい。金貨十枚という値
段も納得の味だぞ。お前も座って楽しんだらどうだ?﹂
顔を真っ赤にして怒りを露にするロベルトを見ながら、シグニス
はゆっくりとテーブルの上におかれたグラスを傾けた。
鼻いっぱいに広がる豊かな香り。
続いて一口目を少量口に含む。豊かなコクと適度な酸味、そして
自然な渋みが絶妙なバランスで舌の上に広がっていく。
口福の瞬間とはまさに今のシグニスを指す言葉なのだろう。
たかが下級貴族の四男風情では一生縁のない味だ。
しかし、そんなシグニスの態度に対しロベルトは己の猛る怒りを
ぶつける。
﹁何を悠長な事を言ってやがるんだ。お前だってこのままじゃまず
い事は分かっているだろうが! それをあの能無し共が、余計なち
ゃちゃを入れやがって!﹂
野獣のような咆哮と共に、ロベルトの巨大な握り拳がテーブルへ
と叩きつけられる。
二メートルを超える肉体。それも幾多の戦場を潜り抜け鍛え抜か
れた凶器だ、
いかに樫材を用いた頑丈なテーブルとは、抗う事は出来ない。
グラスと陶製の皿が高らかな悲鳴を上げながら床の上で砕け散る。
部屋に敷き詰められた絨毯の上には赤黒いシミが作られ、部屋の
1759
中をワインの豊かな香りが広がっていく。
肩を怒らせながら、血走った視線を向けるロベルトに、シグニス
がゆっくりと首を横へ振った。
﹁まったく⋮⋮お前って奴は勿体ない事をするな⋮⋮こんな上等の
酒を口に出来る機会なんて、俺達の立場じゃ一生に一度あるかない
かだって言うのに﹂
そう言うと、シグニスは名残惜しそうに手にしたグラスを口元へ
と運ぶ。
今のシグニスにとって最も重要なのは手にしたグラスに残された
ワインの味に専念する事だけなのだろう。
そんなシグニスの態度に拍子抜けしたのか、ロベルトは深く息を
吸い込み心を落ち着ける様にゆっくりと吐き出す。
﹁シグニス。お前のすまし顔を見てたら、こっちが馬鹿らしくなっ
てきた﹂
﹁とりあえず落ち着いたみたいだな。ツマミは全て駄目になったが、
ワインの方はもう一本だけ伯爵から貰っている。お前も飲むだろう
?﹂
戸棚から封のされたワインを取り出すと、シグニスはグラスに注
いだ。
﹁あぁ⋮⋮貰うぜ﹂
手渡されたワインの香りがロベルトの鼻腔をくすぐる。
﹁確かに、こいつは美味いな﹂
1760
﹁少しは落ち着いたか?﹂
﹁悪かったな﹂
シグニスの問いに、ロベルトは視線をそらせた。
彼自身も、自分の態度が褒められたものではない事を自覚してい
る証だろう。
﹁そうだな、その上ここは伯爵の屋敷だ。幾ら部下に命じて人を遠
ざけているとはいえ、少しばかり無用心だ。だがまぁ、お前が怒鳴
り散らさなければ俺が連中の口に剣を突き立てに向かったかもしれ
んがね﹂
﹁お前が連中をか?﹂
シグニスの思いもよらぬ過激な発言に、ロベルトは驚きで続ける
言葉を失った。
﹁そりゃぁそうさ。お前が腹を立てるなら俺だって腹が立つさ。だ
が、俺までお前と一緒になって連中の言葉に腹を立てていたらこの
戦は負けだ。幾ら伯爵でもあの連中を御しながら敵の相手は難しい
からな﹂
周囲からはロベルトの押さえ焼くとして認識されているシグニス
であっても、彼の本質はロベルトと同じ戦に餓えた狂戦士だ。
そうでなければ幾ら自分達が卓越した戦士であるとしても、将の
立場で前線に単騎で突っ込むなどと言う戦法を取る訳がない。
基本的には言葉で説得するよりも相手を殺す方が速いと考えるタ
イプの人間だ。
1761
そんなシグニスが実力行使に出ない理由はただ一つ。
北部十家の当主や次期当主を殺せば、弁明の機会など与えられず
に自分が処刑される事を理解しているからに他ならない。
シグニスとしてはあんな豚共と引き換えに自分の未来を諦めるつ
もりは毛等ないのだ。
﹁それに、腹立たしいが連中の兵もこの戦に勝つ為には絶対に必要
だしな。それはロベルトも分かっているだろう?﹂
﹁そうだな⋮⋮ここ数日の戦況を見た限り、兵の質と装備は御子柴
軍の方が上と見ていい。この目で見てもまだ信じられない事だがな﹂
﹁あぁ、全くだ。一体どんな手段を使えばあんな兵が育つんだか⋮
⋮是非とも教えて欲しいくらいだ﹂
ため息混じりにシグニスは苦笑いを浮かべる。
類まれな闘志と、高品質の武具。
恐ろしいほど集団戦に長けている反面、兵一人一人の武芸の腕も
なかなかに侮れない。
何しろシグニスやロベルトの突撃を受けても前線を崩壊させずに
反撃してくるのだ。
敵軍の錬度と士気の高さは十分に脅威だった。
﹁唯一の救いは兵数で勝っている事だけか﹂
ロベルトの問いに、シグニスは皮肉交じりに周りを浮かべる。
﹁そうだ、野戦は六四でこちらが不利だ。だが、連中の数は千に届
かない。逆に我々は二千ほど。イピロスに籠もっての篭城戦をすれ
ば負けはない。じっくり腰を据えて策を練るのも一つの手だろう。
1762
それに最悪の場合は⋮⋮﹂
﹁援軍も頼める⋮⋮か﹂
北部十家の各領地には数十名の騎士が留守居役として居る。
最悪の場合はそれらを一時的に援軍として派遣して貰う事も可能
では在るのだ。
﹁勿論、国内情勢が不安定な今の状況で領地をがら空きにすればど
うなるかは分からないがね﹂
仮にこの戦に勝っても、己の領地で平民の反乱でも起きれば全て
は水の泡となる。
﹁まぁ、どちらにせよ、イピロスがある以上負けはない。伯爵もそ
の事が分かっているから会議の場で沈黙を守ったのだろうよ。俺達
がいびられるのを横目にな!﹂
ロベルトは腹立たしそうにグラスを一息に傾ける。
この時まで、誰もが深い堀と高い城壁に守られた城砦都市イピロ
スの守りを信じていた。
そう、慌ただしく部屋の扉が乱打されるその瞬間まで。
1763
第5章第25話︻双頭蛇の毒牙︼其の11
時系列はロベルト達の部屋の扉が叩かれる十分ほど前までさかの
ぼる。
﹁おい⋮⋮なんだか外の様子がおかしくないか?﹂
﹁わざわざ南に回りこんでか⋮⋮小ざかしい真似をしやがるぜ。成
り上がりの貴族様は小細工が得意って訳だ。おい、お前行ってきて
くれ﹂
最初に異変に気がついたのは見張り台の上で寝ずの番をしていた
兵士の一人だった。
﹁確かにな。こういう日は何かある。何だか嫌な予感がするぜ﹂
同僚の一人が、闇を見通そうとするかのように目を凝らす。
月のある夜とはいえ、今は雲に隠れてしまいその光は大地に届い
ては居ない。
視覚ではまだ何も捕らえては居ない。しかし、肌に感じる悪寒は
何か良くない事が起こる前触れだ。
少なくとも、戦場を経験した人間はこういった勘を決して馬鹿に
はしない。
勘とは人間が積んだ経験から導き出された直観的な答え。
過程を飛ばしている分他人には説明づらいが、決して根拠のない
世迷言ではないのだ。 ﹁夜襲⋮⋮かもしれない。誰か隊長を呼んできてくれ﹂
その言葉に兵士の一人が小さく頷くと詰め所へ向かって駆け出し
1764
ていく。
﹁くそ、こう暗くっちゃ何も分からねぇな﹂
﹁だが⋮⋮やはり何かある﹂
城壁の上にはかがり火が焚かれているが、その光が照らす範囲は
極めて限られている。
城壁の真下ならば多少は見えるが、ほんの数メートルも離れれば
そこは闇の領域だ。
それでもその闇を通して何者かの気配を感じるのだ。
そして、雲間から青白い月の光が大地を照らし出した時、答えは
彼らの目の前に現れた。
﹁なんだありゃ。敵か?﹂
兵士の一人が何かを見つけ、遠方の森を指差した。
それは本当に目を凝らさなければ分からない様な黒い染みだ。 そして、その黒い染みは兵士達の視線を一身に集めながら少しず
つ形を成していく。
﹁いや、兵士には見えないな。なら夜襲じゃない⋮⋮だが、そうな
るとあれは一体﹂
人、人、人、人。それは人の群れ。隊列も組まずにばらばらと進
む統制のとれていない動きは、彼らが兵士でない事の証明。遠目か
ら見た限りでもそれは明らかだった。
﹁だが、兵士じゃなくてもあの数はただ事じゃない﹂
1765
兵士の一人が顔をゆがめながら呟く。
森から続く一本線。
数百ではきかない。少なくとも数千という単位の人の群れだ。い
や、下手をすれば万に手が届くかもしれない。
﹁物凄い数だぞ。街道が⋮⋮これは一体﹂ イピロスへ続く街道を埋め尽くすかの様な光景。黙々とイピロス
を目指して街道を進む人々に兵士は恐怖を感じたのも致し方ない事
だろう。
突然、馬蹄を響かせながら一人の伝令が闇夜を駆け抜けてきた。
兵士達の視線がかすかな松明の光に照らし出された彼の姿に注が
れる。
そして伝令は城門の前で大声を上げた。
﹁開門! 開門! 私はエリングランド子爵家に仕える者。我が主
からザルツベルグ伯爵様へ火急の知らせがある! 開門!﹂
その叫びを聞き、兵士達は互いの顔を見合わせた。
﹁エリングランド子爵家⋮⋮北部十家の一つだよな?﹂
﹁あぁ、今イピロスには次の子爵様が乗り込んできている筈だ﹂
﹁子爵家からの緊急の伝令⋮⋮こいつは大事だぞ﹂
通常、都市の門は日暮れと共に閉じられ、日の出と共に開けられ
る。
つまり、夜間に都市の中へ入る事は基本的に不可能なのだ。そし
1766
てこれは、西方大陸の何処の都市でも変わらない一般常識的なルー
ル。
ただし、例外も存在する。
盗賊や怪物達などの脅威が街を襲った場合などの緊急事態には、
例外が設けられているのだ。
しかし、その一方で今のイピロスは御子柴男爵軍と矛を交えてい
る。
そういった状況を考えあわせると、一兵卒でしかない彼らにはと
ても開聞するべきかどうかの判断はつかない。
兵士達は上司が一秒でも早く姿を現してくれる事を祈りながら、
伝令の叫びを聞き続けた。
﹁もう少しだ。もう少しでイピロスに着く⋮⋮つらいのは分かって
いるが頑張ってくれよ﹂
男は側らで涙を浮かべながら歩く娘へと声を掛けた。
背負った荷物袋が肩に食い込み、農作業で鍛えた体がこの数日の
逃避行で悲鳴を上げている。
それでも、男は精一杯の笑顔を浮かべた。
﹁うん⋮⋮﹂
そんな父親の問いかけに小さく頷くと、少女はズキズキと痛む足
を動かし続けた。
幼いながらも彼女は本能的に理解していたのだ。
今この場で泣いたところでどうにもならないという事を。
確かに周囲に人はいる。だが、彼らに他人を助けるだけの余裕は
ない。
自分とその家族が生き延びるだけで精一杯なのだ。泣こうが喚こ
1767
うが彼らは何の興味も持たずに素通りしていくだけだ。彼ら自身が
この場にたどり着くまでに他人を見殺しにしてきたのと同じように。
今この場で生き延びる為には、ただひたすらにイピロスを目指す
しかない。
﹁大丈夫。イピロスに着けば何とかなる。この森を抜ければ直ぐだ。
もう少しの辛抱だからな﹂
やがて森を抜けた男の前に、城塞都市が闇夜に浮かび上がってく
る。
男は娘の手を引きながらただただ同じ言葉を繰り返した。それが
ただの気休めでしかない事を知りながら。
1768
第5章第25話︻双頭蛇の毒牙︼其の11︵後書き︶
二巻に向けてのご報告を活動報告に記載しております。
1769
第5章第26話︻蠱毒の城︼其の1
雲一つない蒼天。柔らかな陽の光が大地を包み、時折吹き抜ける
穏やかな風が人の心をさわやかな気分にする。そんな一年にそう何
度もないような素晴らしい朝。
本来であれば、誰もが生に感謝をし人生を謳歌するような日だ。
しかし、非常に残念な事ながら世の中は平等ではない。天の恵み
は平等に人々を包み込んでいるのに⋮⋮
そして、そんな不幸な人間達が城塞都市イピロスにはひしめいて
いた。
丁寧に磨き抜かれた純白の鎧を身に着けた馬に乗った一団が、石
畳の敷かれた大通りをゆっくりと進む。
そんな彼らに向けられるのは、諦めと不満、そして激しい怒りと
いう名の負の感情が入り混じった何とも言えない濁った視線だ。
まるで奴隷が酷薄な主人を見る様なそんな目がそこら中から注が
れる。
﹁酷いありさまだな⋮⋮他も全てこんな感じか?﹂
汚物と汗の入り混じった何とも言えない臭いに顔を顰めながら、
ロベルトは側らの騎士の一人に視線を向けた。その声は普段の彼か
らは考えられないほど力のない。
﹁いえ⋮⋮残念ですが、この通りはまだマシな方です。大通りやそ
の周辺は治安維持の為に比較的巡回を多めに行っていますから。城
壁近くの裏道などこの程度じゃ済みませんよ。ましてや門の外は⋮
⋮﹂
1770
そう、ため息交じりにロベルトの問いに答えながら、騎士は周囲
を油断なく警戒している。
それは、まるでここが敵地であるかのような態度。実際、彼はこ
こ数日の間でろくに睡眠時間も取れていないのだろう。
目の周りにはうっすらと隈が出来ていた。
︵頭の痛い事だ⋮⋮たかが治安の維持をするだけでこのありさまと
は。これでは戦に影響が出て当然だな⋮⋮︶
今回の戦はこのイピロスをザルツベルグ伯爵家が守りきり、御子
柴軍が引き上げれば勝ちと言える。
かって
本来であれば守備側の方が圧倒的に有利なのだが、今回は残念な
がら今までとは勝手が違うらしい。
そう、二週間ほど前にイピロスの郊外に現れた一団によって全て
は変わったのだ。
突如、通りに激しい怒号が響き渡った。
どうやら住民と難民との間でまた諍いが起きたのだろう。
ロベルトは無言のまま背後の騎士達へ命令を下す。
︵こいつは俺達の身の振り方について、本格的にシグニスと話をし
た方が良いな⋮⋮︶
元々、それほどこの戦に乗り気だったとは言えないロベルトは、
深いため息と共に背後にそびえ立つ伯爵の城を見上げた。
﹁ですから伯爵。私としては早急に私の領民だけでもイピロスの中
に向かい入れて頂きたいのです。このまま南門の外に放置するとい
うのは幾らなんでもあまりに惨い。そう思われませんか?﹂
そう言うとバエンナ子爵は机を両手で勢い良く叩く。
爵位としては伯爵よりも一段下の位階なので、本来であればかな
り無礼な態度だ。
だが、本人も必死なのだろう。
礼儀を無視し顔を怒りと焦りで真っ赤に染めている。
1771
そんな子爵の態度に、ザルツベルグ伯爵は今日何度目かのため息
と共に首を横に振った。
﹁確かに惨いとは思うし、バエンナ子爵のお気持ちは痛いほど理解
できる。だが、子爵。実際問題として幾らイピロスがローゼリア北
部で最大の都市であるとはいえ、限界があるのは事実だ。ましてや
今は御子柴男爵軍との戦の最中。幾ら連中がこの十日余り動きを見
せないからと言って油断など出来る訳がない。今は少しでも食料を
温存したいのだ﹂
﹁確かに伯爵の言う事も道理です。ですが領民をこのまま飢えさせ
る訳にはまいりません。それでは領主として面目が経ちません。是
非とも伯爵には長年の我が家の忠節をご考慮頂きたいと思います﹂
伯爵を睨む子爵の目には追い詰められた人間特有の狂気が宿って
いる。
両者は机を挟み無言のままにらみ合いを続けた。
﹁分かりました。今日のところはこれで⋮⋮何卒ご配慮頂けますよ
うにお願い申し上げます﹂
結局、先に視線を逸らせたのはバエンナ子爵の方だった。
流石にこれ以上強引に押すのは危険と判断したのだろう。
自らの無礼を謝罪するかのように深く頭を下げると、バエンナ子
爵はゆっくりと部屋を出て行った。
﹁馬鹿者め⋮⋮何が領民の為だ。貴様の考えが分からない私だと思
ったか?﹂
正論とその裏に隠されたバエンナ子爵の本音。
1772
その両方が透けて見えたザルツベルグ伯爵は、深いため息の後に
椅子の背もたれへ体を深く預ける。
そして、机の上に置かれた呼び鈴をゆっくりと鳴らした。
﹁シグニスとロベルトの二人を呼べ。早急にだ﹂
音もなく開かれた扉から姿を現したメイドに鋭く命じると、ザル
ツベルグ伯爵は静かに目を閉じる。
混沌とし始めた戦況を切り抜ける手段を求めて。
1773
第5章第27話︻蠱毒の城︼其の2
﹁それで、どう動くつもりだ?﹂
部屋に入ったシグニスとロベルトが挨拶を口にする前に、ザルツ
ベルグ伯爵は端的に要件を切り出す。
それは主人が家臣に対してとる態度。
勿論、伯爵と男爵家の三男坊では身分に天地の隔たりがあるので、
決して無礼ではないだろうが、傲慢と受け取られかねない行動であ
るのは事実だろう。
周囲がロベルト達二人を嘲ってきたのに対し、一貫して彼らの力
量を認め礼儀と節度を持って接してきたザルツベルグ伯爵にしては
かなり珍しい態度だ。
︵化けの皮がはがれて来たという事か。それだけ追い詰められてい
る訳だな⋮⋮だが︶
その伯爵の態度に、シグニスは心の内に激しい怒りが湧き上がる
のを感じた。
勿論、ザルツベルグ伯爵の心境と戦況は十二分に理解しているつ
もりではある。
圧倒的に有利であったはずの今回の戦は、いつの間にか先の見え
ない長期戦へと姿を変え始めているのだ。
伯爵が苛立ちのあまり隠してきた本性を見せ始めたとしても致し
方ない部分はある。
しかし、それが分かっていても尚、納得できないのが人の心とい
う物だろう。
︵落ち着け⋮⋮今は戦の最中だ。つまらない事で諍いをいていたら
ただでさえ不利な戦況がますます悪くなる︶
己の怒りを押し隠し、シグニスはロベルトへ目配せをする。ロベ
1774
ルトの手が怒りで震えているのが見えたからだ。
そんな二人の態度を見ながらザルツベルグ伯爵は底光りする視線
を向けた。 ﹁もう一度聞こう。今後どう動く?﹂
再び投げかけられた問いにシグニスとロベルトは顔を見合わせる。
︵嘘をついても仕方がない。ここは正直に言うべきだな︶
ザルツベルグ伯爵にとってはあまり聞きたくない提案だが、言う
べきことは言わなければならない。
シグニスは若干目を伏せながら己の考えを口にする。
﹁安全策を取るのであれば早期の停戦が一番かと﹂
数週間前であれば鼻で笑うような策だ。しかし、今の状況を考え
れば極めて妥当な提案と言える。
︵まさか、北部の領民達を武器に使ってくるとは思いもしなかった
⋮⋮︶
城塞都市イピロスはローゼリア王国北部における国土防衛の要で
あり、最大の人口を誇る。城壁に囲まれたまさに難攻不落とも言え
る都市だ。
元々食料の備蓄や武具の整備には余念がなかったし、今回の戦に
合わせて大幅な増加を行ってはいる。
しかし、今のイピロスには食料や消耗品の余裕がなかった。
僅かの期間でこれほど状況が変わった理由。それこそがイピロス
の南門に寝起きし城門が開かれるのを待ち続ける無数の難民の存在
だ。
彼らはローゼリア北部の村や町に暮らす領民達。
そんな彼らが日々の生活を捨ててイピロスまで逃げてきたのには
当然の事ながら理由がある。
1775
そう、御子柴男爵軍の別働隊と思われる一団によって行われた襲
撃の影響だ。
領主達が今回の戦の為に手持ちの騎士達の多くをイピロスへと派
遣したせいで、領地の防衛は極めて手薄となっていた。
勿論、盗賊の類や怪物達の襲撃などに備えの兵を置いてはいたも
のの、数百もの騎士による襲撃を防げるほどの戦力は何処の領地に
も残されてはいない。
敵はその隙をついてきた。
イピロスの南に存在する北部十家の領地を次々と焼き討ちしたの
である。
住む慣れた家を無残に焼かれ、行場のなくなった住人達は安全と
思われるイピロスを目指して移動するしかなかった訳だ。
自分達の領主がイピロスに居る事を知っていたのも理由かもしれ
ない。
そして今、イピロスの街と外には無数の民がひしめき合い、北部
十家の盟主にして最大の勢力を誇るザルツベルグ伯爵の庇護を求め
ている。
﹁気に入らんな⋮⋮今、多少想定外の状況に置かれているからと言
って、我々が不利と言う訳ではない。兵数としても我らの方が未だ
に多いのだし、備蓄に関しても直ぐに飢えるという訳でもないはず
だ﹂ ﹁勿論です。ですが、このまま戦を続けても勝利はかなり難しいと
思われます。敵は我々に干殺しを仕掛けてきている。我々が攻勢に
出たところでジッと守勢を崩さずに時を待つつもりでしょう。それ
を今の我々が敗れるかどうか⋮⋮ロベルト、お前はどう思う?﹂
﹁先日一当たりしたが、連中の練度はかなり高いと見た方が良い。
それこそ王国の正規騎士団並みと思った方が良いだろうな。普段の
1776
俺達なら勝負するのも悪くないが⋮⋮﹂
シグニスの問いにロベルトは肩を竦めてみせる。
一か八かの博打と言う意味では実に魅力的な賭けではあるものの、
賭け金が自分の命と言うのはお断りだった。
﹁北部十家の足並みが乱れている今の状態では⋮⋮無理か﹂
そんな二人の態度に、深いため息をつきながらザルツベルグ伯爵
は首を横に振った。
誰もが不満をため込んでいる。
そんな状況では、伯爵の盟主としての力量にも制限がついてしま
う。
﹁えぇ、全ての問題はそこです。そして、御子柴男爵は巧みにその
弱点を突いてきている﹂
今のイピロスは様々な思惑が入り乱れ統制がつかない状況だ。
まず、難民と既存の住民との諍いが絶えない。イピロスの住人達
にしてみれば、薄汚れた難民などただの邪魔者でしかないのだ。
水場の利用から食料の配給に至るまで、諍いのネタも尽きない。
しかし、それでもイピロスの中に収容された難民達はまだいい。
南門の外にはその何倍もの民があふれかえっている。
城壁の外にいる彼らの下にはザルツベルグ伯爵の施しすらも殆ど
届かないのが現状だ。
そして、そんな難民達の不満を受けて北部十家の当主達が連日の
ように伯爵の下へとやってくる。
同じ難民でありながら、片方は紛いなりにも城壁の中に居て、粗
末でも食事にありつけているのに、城壁の外ではむき出しの土の上
で眠るしかないというのだから、不満が出るのは当然だった。
1777
そして、領主達もそんな領民の不満を放っておく訳にはいかない。
普段は税を搾り取るだけの道具としてしか見ない貴族でも、道具
の手入れはするのだ。
ただし、ザルツベルグ伯爵としても他に手の打ちようがないのだ。
いくら北部最大の都市とはいえイピロスの収容人数には限界があ
る。
食料も水も決して無限ではない。
家や野営用の天幕とて難民全てにいきわたるほどの数を揃えるこ
とは難しい。
そして最大の問題は、今後それらの物資が決して増える事がない
という事実。
答えのない袋小路。
夕焼けに部屋が真っ赤に染まる。
それは三人の運命を予感させるものだった。
1778
第5章第27話︻蠱毒の城︼其の2︵後書き︶
HJノベルス版ウォルテニア戦記第二巻の情報を活動報告に乗せて
いますので、合わせてご覧ください。
1779
第5章第28話︻蠱毒の城︼其の3
イピロスの南に広がる広大な森林地帯。
天には分厚い雲が垂れさがり、月の光が完全に遮られた漆黒の闇
が世界を支配している。
そんな森の中にぽっかりと広がった広場には、無数の天幕がひし
めき合い、無数のかがり火が闇夜を照らしていた。
かしら
﹁お館様。頭の言葉をお持ちいたしました﹂
天幕の中にまるで影の様に表れた男が、亮真の前に片膝を付く。
そんな影の登場に驚くような様子もなく、亮真は執務机の上に広
げた地図を見ながら問いかけた。
﹁何か問題はなかったか?﹂
﹁いえ、全てはお指図どおりに⋮⋮お館様のご命令さえあれば何時
でも取り掛かることが出来るとの事です﹂
影は言葉少なく要点だけを答える。
﹁そうか⋮⋮流石に本職だけあって甚内の仕事は早いな﹂
﹁いえ、全てはお館様の神算鬼謀によるものかと﹂ 影の言葉を聞いた瞬間、亮真の表情が一瞬歪んだ。
覆面で顔を覆っているとはいえ、影の声から察するに年齢は三十
代半ばから四十代と言ったところ。
1780
自分よりもはるかに年上の男から手放しの称賛を受けて平然とし
ていられるほど亮真は図々しくはなかった。
︵鬼謀ねぇ。随分と大仰な表現だ⋮⋮だが、面と向かって否定する
訳にもいかない⋮⋮難しいもんだ︶
これからの展開を考えれば、上に立つ人間が不用意に弱みを見せ
る訳にはいかない。
亮真はこれからも彼らに対して死を賭けた任務を命じなければな
らないのだから。
だが、だからと言って影に向かってありがとうと感謝の言葉を返
すのも実に間抜けな話だ。
少し考え込んだ後、亮真は尻の穴がむず痒くなってくるような影
の言葉に対して無言のまま小さく肩を竦めてみせた。
下手に言葉を返すより、無言の態度の方が、遥かに雄弁な状況も
あるからだ。
︵さて、これでイピロスの中に爆弾が仕込まれたって訳だ⋮⋮後は
何時こいつを爆発させるかだな︶
亮真は手した黒駒を地図に描かれたのイピロスの上に置く。
十個ほどおかれた小さな白駒の中にたった一つだけ置かれた黒い
駒には御子柴男爵家の紋章である金と銀の双頭蛇の紋章が掛かれた
小さな旗がついていた。
地図の上に置かれた数十もの駒。その一つ一つが、数百から数千
の軍勢を意味している。
︵エレナさんにトリストロンの防衛を放棄させてイピロス攻略に動
かすか⋮⋮︶
地図の上に置かれた駒の色は白、黒、そして何も塗られていない
木目の物の三つ。
黒は味方を、白は敵を、そして木目の物は中立を表している。
そんな中、地図上で最も置かれた数が少ない駒が黒駒である事は
今更言うまでもない。
︵いや、今回の戦に勝つだけならエレナさんをイピロスへ呼ぶのは
1781
有りだ⋮⋮だが、イピロスに爆弾を上手く仕込んだ今の状況で今後
を考えると⋮⋮下策だな。王都のルピスがザルツベルグ伯爵へ援軍
を送ってくる可能性を考慮すると、このまま備えとして置いておい
た方が良いか︶
ローゼリア西方の都市トリストロン。その上に大小合わせて数個
の黒駒が置かれている。
王都ピレウスに置かれた兵数を超えるローゼリア国内最大規模の
戦力だ。
勿論、ローゼリア国内各地の主だった領主や王家直轄領に置かれ
た駒を合計すれば、圧倒的に黒駒の数が少ないのも事実だが、この
ピレウスに置かれた兵の利点はその兵力だけではない。
亮真とエレナの間には既に密約が出来ている。
亮真がトリストロンの上に黒駒を置いたのがその証しだが、この
事実を知っている人間は極めて限られているのだ。
当然、この事を知らないルピスやその周辺の人間は、今後の戦略
を考えるときエレナを自分達の味方として計算するだろう。
攻守共にエレナと言う駒は実に大きな意味を持つ事になる。
︵王都からの援軍が来るか来ないかが問題だな⋮⋮とりあえず、ル
ピスの動向を探るように密偵は放っているが⋮⋮やはりここは一気
にイピロスを落とすべきか︶
亮真の作戦はどれも基本的にかなり流動性を持たせている。
一つの策の成否に固執せず、複数の策を策を同時進行させる事に
よって、リスクをコントロールするのが彼のやり方だ。 ﹁ご苦労様だがマイクを呼んでくれ。その後は甚内の下に向かって、
三日後の朝に次の策を始めるようにと伝えろ。それに呼応してこっ
ちも動く﹂
﹁御意﹂
1782
地図上の駒をジッと見つめ続ける亮真の命に、影は小さく頷くと
再びその姿を闇へと溶け込ませた。
1783
第5章第28話︻蠱毒の城︼其の3︵後書き︶
HJノベルス版ウォルテニア戦記第二巻に関してのご報告を、活動
報告に乗せています。そちらも合わせてご確認ください。
1784
第5章第29話︻蠱毒の城︼其の4
自分の天幕で書き物をしていたマイクは、微かな空気の動きを肌
に感じた。
普通ならば暗殺者を警戒しなければならないところではあるが、
ここは兵士達によって十重二十重に固められた陣の最奥。
その上、周囲の闇の中には伊賀崎衆から派遣された数人の手練れ
が、護衛として副官を任せられているマイクのそばに付き従ってい
るのだ。
それらの守りを、これほど静かに突破する事の出来る暗殺者は片
手で数えるられる程度しか存在しない。
そしてそれほどの腕前を誇る暗殺者が、わざわざマイクのような
副官を狙う為に雇われるとは考えにくい。もし狙うとすれば御子柴
亮真の命を直接を狙うだろう。
となれば、答えは一つしか残らなかった。
﹁何かあったのか?﹂
視線を手元の羊皮紙から動かすことなく、マイクは静かに問いか
ける。 その言葉と共に、マイクの前には一人の男が片膝を付いていた。
﹁夜分に失礼いたします。お館様がお呼びです﹂
﹁若が? なるほど、イピロスから連絡が入ったのか﹂
顔を覆面で隠した伝令の言葉に、マイクは驚いた様子もなく静か
に問いかける。
1785
はじめはかなり慌てたものだが、幾度となく繰り返されるうちに
自然と慣れてしまった。
かしら
﹁はい。イピロスに潜り込んでおります頭からの言葉をお伝えした
ところ、御屋形様がマイク殿をお呼びせよと﹂
﹁そうか、ならば甚内殿の方は上手く行った訳だな﹂
マイクの問いに影は沈黙で答えた。
影が己の役目以外の言葉を話す事は極めて少ない。
勿論、喜怒哀楽といった人間らしい感情を完全に捨て去っている
訳ではないが、任務中にそれらを表に出すことが極端に少ないのだ。
﹁若は他に何か?﹂
﹁いいえ。マイク殿をお呼びするようにと仰せつけられただけです﹂
﹁そうか⋮⋮分かった。ご苦労さん﹂
マイクの言葉に影は無言のまま小さく頷くと、再びその姿を闇の
中へと溶け込ましていく。
﹁ふぅ⋮⋮とりあえず全ては若の思惑通りに動いている訳か⋮⋮問
題はこの後だな﹂
机の上に広げていた筆や書類を手早く片付けると、マイクは椅子
に深く腰掛け天を仰いだ。
所在なく空を見つめる目の奥で、マイクの脳は思考の海へと埋没
していく。
本来であれば己の主君に呼び出された以上、早々に出向くのが筋
1786
ではある。
だが、マイクの主は普通の主とはかなり違った性格をしている。
何故呼んだのか。何が問題なのか。どう動くべきか。リスクは?
メリットは?
周囲に様々な要素を考え合わせた上での意見を求めてくる亮真の
やり方は、ただ、呼ばれたからすぐぬ出向きましたという答え方を
決して許さない。
︵どう動く? イピロスの方は若の思惑通りになった。このまま力
攻めでも甚内殿と連携すれば十分落とせるだろうが⋮⋮いや、それ
ではこちらの被害が大きくなる⋮⋮︶
勝利を得ることが戦の最終目的ではあるのは事実だが、今回の戦
が既に勝利を確定している以上、勝ち方もまた重要になってくる。
少なくとも、今回の戦でイピロスを力押しに攻めて自軍の兵を無
駄に消耗させる必要はない。
︵それに、次の戦の為の下準備もしなくちゃならんしな⋮⋮︶
今回の戦に勝利すれば、御子柴亮真はローゼリア王国北部の支配
権を確立するだろう。
つまり、北部十家を叩き潰し彼らの持つ領土を奪う事になる。
そして、その後に出来るのは、王国の四分の一近くを占める広大
な御子柴男爵領。
名実共に公国にも匹敵する国が出来るのに等しい。
しかしそれは、ローゼリア王国の国王となったルピス・ローゼリ
アヌスにとって絶対に見過ごす事の出来ない事態だ。 ︵あの時は、まさかこんなことになるとは思いもしなかったが︶
マイクの胸中に苦いものが過る。
元々、御子柴亮真とルピスの二人は、先の内乱時に共に手を取り
合った仲だ。
フルザードのギルド長であるウォルスの策謀によって思わぬ苦境
に立たされた亮真とリオネが率いる傭兵団の一行は、自らの身を守
る為に、どうしても強力な後ろ盾を欲していた。
1787
同時に、当時圧倒的に劣勢だったルピス王女は、その状況を打開
できる人間を渇望していた。
能力はあれど権力を持たない人間と、権力はあれど力弱き人間。
この両者が出会ったのはまさに天の配剤ともいうべき運命だった
のは間違いないだろう。
それこそ、あのまま二人の関係が良好であれば、千年続く英雄叙
事詩≪サーガ≫として語り継がれたかもしれない。
だが、蜜月の時は長くは続かなかった。
両者の関係が拗れ出したのは、内乱終結直後の事だ。
︵まぁ、ルピス女王の気持ちも分からない訳ではないがね︶
産まれた瞬間から、大地世界の厳格な身分制度の中で生きてきた
マイクにとって、ルピスが感じた恐怖は理解出来る。
誰かに入れ知恵をされたのか、自分で考え抜いた末の決断かは定
かではないものの、ルピスは御子柴亮真をウォルテニア半島に封じ
て飼い殺しにしようと企てた。
支配者にとって、身分の低い有能な人間ほど恐ろしい存在はない。
ましてや、今は戦国乱世。
親兄弟ですら無条件に信頼する事が難しい時代だ。
だから、信頼しきれない有能な人間を配下に加えた時に取る選択
肢は二つ。
容赦なく殺すか、飛躍の出来ないように閑職や辺境の地に閉じ込
め飼い殺しにするかしかない。
そういう観点で言えば、ルピスの選んだ選択はまだ穏当な判断と
言えない事もないだろう。
殺す事を選ぶ方が後腐れがないのは明白だからだ。
しかしそれは所詮、権力者の持つ傲慢さでしかない。
そして、一度掛け違ったボタンは次第に両者の間の亀裂を大きく
していく。
野に放たれた蛇は獲物を喰らいながら、その毒牙を研ぎ続けてき
た。
1788
ようやく思案がまとまり、マイクはゆっくりと腰を上げ天幕を出
た。
﹁良い月だ⋮⋮﹂
雲の切れ間から顔を出した満月を見上げながらマイクは獰猛な笑
みを浮かべた。
そう、まるでこれからの戦を暗示するかの様な赤く染まった月を
⋮⋮
1789
第5章第29話︻蠱毒の城︼其の4︵後書き︶
活動報告にHJノベルス版三巻目の情報を載せていますので、そち
らもご確認ください。
今後も本作品をよろしくお願いします。
1790
第5章第30話︻蠱毒の城︼其の5
人の心には我慢の限界というものがある。
どれほど強靭で打たれ良い人間であっても、人が人である以上、
必ずや限界はあるのだ。
そして問題なのは、その我慢の限界が本人自身にもはっきりとは
自覚していないという事。
残念ながら、ゲームのステータスの様に数値化し客観的に判断で
きるようなものではない。
例えるならばコップの縁ギリギリまで満たされた水が、ちょっと
した事で零れ落ちるのと同じ様なものだろうか。
注いでいる時にちょっと目を離しても、あるいは誰かとぶつかっ
ても、または自分一人で転んだとしても、水は簡単にコップの中よ
り零れ落ちるだろう。
それと同じ様に、人の心の限界もまた、簡単にその沸点を超える。
本当にちょっとしたタイミングだ。
それは俗にキレるという状態。普段であれば決してしないような
行動や言葉が無意識にあふれ出てくる。
そして、怒りや不満は時に人へ容易に伝染する。
まるで疫病の様に人の心を侵していく。
ローゼリア王国各地で蔓延している悪意と憎悪の烽火。
それが今、再びこの城塞都市イピロスで起きようとしていた。
とある男の一言によって。
城壁の内部。その外縁に位置する下町の一角にその酒場はひっそ
りと佇んでいる。 此処はスラムという程に荒れてはいないが、決して豊かではない
貧困層達が寄り添う界隈。
1791
この酒場はそんな貧しい者達の日々にほんの一時の夢を与える場
所だった。 だが、今は悪意と不満の渦巻く魔窟でしかない。 そう、城門の外に多くの難民達が姿を現した頃から⋮⋮
﹁うぅぅ、クソったれが﹂
店内のそこかしこから聞こえてくる男達の呻き。
普段ならば日頃の疲れを癒さんと、一杯ひっかけた酔客で賑わい
を見せる時分だが、今日聞こえてくるのは酒場の活気に満ちた陽気
さとは似ても似つかない呪詛の声。
ギラギラと光る危険な色に満ちた目をしながら、店のそこかしこ
に横たわる男達。
その合間を十人近い数の女達が忙しなく駆け回っている。
﹁アンナ。悪いけど、包帯の代わりになる様な物を探しておくれ。
それとお湯だ。うちの店だけじゃ手が足りないからね。近所の連中
に声を掛けてジャンジャン沸かして持ってきておくれよ。あんたは
先生を読んできておくれ。急いでだよ!﹂
床にうずくまる男のシャツを切り裂きながら、恰幅の良い中年の
女が隣で呆然と佇む若い女へと声を掛ける。
本職の医者に比べれば多少おぼつかない手つきではあるが、酒場
の女将という仕事柄こういった怪我人の扱いは心得ているのだろう。
べしゃりという水気を含んだ音と共に、シャツが床に落ちた。
男の二の腕からは、心臓の鼓動に応じて血が噴き出している。
﹁動脈まで逝っちまってる⋮⋮少し痛むけど我慢しな﹂
女将は真っ赤に染まった両手で男の腕の付け根を力一杯に抑える。
1792
血流を止めてでも、今は出血量を抑えるべきと判断したのだろう。
とはいえ、そんな事で血を止められるならば医者など必要になる
筈もない。
︵ほとんど反応がない⋮⋮︶
傷口を力一杯圧迫しているにもかかわらず、男の反応は弱い。
意識が混濁し、目には力がないのだ。
﹁女将さん⋮⋮彼は?﹂
胸の前で祈る様に組まれた女の両手が小刻みに震えている。
騒動の原因が自分にある事を自覚しているのか、女の顔に浮かぶ
のは後悔と罪悪感。 顔からは血の気が引き、目には大粒の涙が浮かんでいた。
﹁良いから、しっかりするんだよ。ここであんたがごちゃごちゃ繰
り言を繰り返したって何もかわりゃしないんだ。この子を助けたい
なら早く動くんだよ!﹂
未だに呆然と佇む女を怒鳴りつけると、女将は必至で男の腕から
血が流れ落ちるのを止めようとする。 ︵駄目だ⋮⋮体が冷たくな
ってきちまった⋮⋮これじゃぁ秘薬でも使わなくちゃどうしようも︶
鼓動が弱まり、それに伴って傷口から吹き出る血にも勢いがなく
なっていく。
それは、男の下に死神が忍び寄ってきている証だ。
﹁兄貴!﹂
突然、酒場の扉が勢いよく開け放たれると、一人の青年が店の中
に飛び込んできた。
1793
周囲の目が一斉に男へと注がれる。
彼の顔は床に横たわる男と実によく似ていた。
﹁おい! 兄貴はどこなんだ?﹂
周囲を睨み付ける様に見渡す男へ、女が恐る恐る声を掛ける。
﹁アラン⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂ ﹁ジャニス⋮⋮﹂
女の表情を見た瞬間、アランは全ての事情を察した。
アランの恋人であるジャニスが難民達への炊き出しや物資の配給
を手伝うようになったのはつい先日の事だ。 平民に対して寛容ではないといわれるザルツベルグ伯爵も、長引
く戦と今回の難民騒動では北部十家の手前重い腰を上げざるを得な
かった。
御子柴男爵軍の勢いが弱まってきたのも、その背景にはあるだろ
う。
全ての人間に十分なケアなど出来るはずもないが、一日二回の食
糧の配給と寝具の分配を行うようになったのだ。
その為の人手として、ジャニスはわずかな手間賃と引き換えに働
きだした。周囲が止めるのも振り切って。
アランは拳を固く握りしめその場に立ち尽くした。
︵最悪だ⋮⋮こんな事になるんじゃないかと心配してたのに⋮⋮何
が何でもジャニスを止めるべきだった︶
周囲がジャニスを止めたのには当然ながらきちんとした理由があ
る。
難民に対しての隔意。
食料や水の割り当てに関しての不満。
1794
理由を上げればきりがないが、中でも最大の問題はイピロスにお
ける治安の悪化だ。
ローゼリア北部一帯から押し寄せる人の群れ。その全てを収容す
る事は如何に城塞都市として名高いイピロスでも難しい。
殆どの人間は着の身着のままで逃れてきており、宿屋に泊まるこ
とも家を借りることも難しい。必然的に多くの難民達は風雨を遮る
屋根すらも持つ事が出来ない事になる。
必然的に彼らは路地の暗がりに身を寄せ合う事になる訳だ。それ
も、騎士達の目の届きにくい貧民街に集中して。
貧民街の住人と難民達との間に軋轢が生じたのは極めて当然だろ
う。
己の将来に対しての展望のなさ。
終わりのない飢えと渇き。
社会に助けてもらえない人間の怒り。
そういった負の感情が、地元で暮らしていれば平凡な農民であっ
た彼らを鬼に変えていく。
初めのいざこざが何だったのかは、正直に言ってアランも知らな
い。いや、情報通で知られるこの酒場の女将ですら確かな情報をに
握っているとは思えなかったし、誰も調べようとは思っていなかっ
た。
ただ、双方の敵意がはっきりとした形で目に見えるようになった
のは、とある水場の使用を巡って双方がぶつかった時だ。
どちらが先に使うか。
初めは水を汲みに来た女同士の口喧嘩に過ぎなかった対立は、あ
れよあれよという間に敵意が燃え上がり、最終的には、双方に数十
人近い怪我人を出し騎士団が鎮圧する騒ぎにまで発展した。
傍から、見れば何をつまらない事でと呆れる様な理由だ。
子供でもあるまいし、双方が一歩ずつ譲り合えばそれで済んだ筈
の他愛もない出来事。
だが、一度ぶつかり合い、溢れ出した敵意はそんな当然の理屈な
1795
ど無視して悪意を広げていく。
そして、相手を同じ人として認識できなくなった時、たどる結末
はいつも同じ。
つい先ほどの事だ。
難民の若者が仕事帰りのジャニスに声を掛けた。
単純に自分たちの為に働くジャニスへ礼を言いたかっただけなの
か、それとも何か下心があっての事だったのかは今更確かめようも
ない。
問題は、難民の若者が路地裏を通るジャニスを呼び止めた事。
そして、その光景をたまたま自警団を気取る貧民街の若者達が目
撃してしまったという事だ。
ジャニスが町の若者達にあこがれを抱かせる程度には美しかった
というのも不味かった。
最初はただの警告だった筈が、売り言葉に買い言葉でエスカレー
トし、あっという間に周囲で様子を見ていた町の人間や難民を巻き
込んでの乱闘にまで発展してしまう。
そして今、乱闘のどさくさに紛れた誰かに腹部を刺されたアラン
の兄が最後の時を迎えようとしていた。
﹁兄貴、俺だ。聞こえるか? おい!﹂
アランが握る男の手から力が抜けていく。
必死で肩をゆすり、耳元で叫ぶが答えはない。
﹁おい、兄貴! 兄貴!﹂
アランの必死の願いも虚しく、床に横たわる男の息が掠れる様に
消えていく。
誰もが、兄の傍にうずくまり肩を震わせるアランを無言のまま見
つめていた。
1796
どれほど、静寂が続いただろうか。
﹁もうこれ以上耐えられねぇ! 絶対にぶっ殺してやる! あいつ
ら、どいつもこいつも我が物顔で! ご領主もご領主だ。なんで俺
達が我慢しなきゃならねぇんだ﹂
一人の男の血を吐く様な叫びが酒場の中に響き渡る。
それは、イピロスに生きる民の慟哭。
そして、この一連の戦の最終局面を告げる角笛だった。
1797
第5章第30話︻蠱毒の城︼其の5︵後書き︶
HJノベルスにて書籍版のウォルテニア戦記︵1∼3巻︶が発売さ
れております。
内容もグレードアップしておりますので是非お買い求めいただけれ
ば幸いです。
今後も本作品をよろしくお願いします。
1798
第5章第31話︻蠱毒の城︼其の6
その夜、闇夜の中を無数の松明の火がまるで川の様に城へ向かっ
て流れていた。 罵声と怒号、そして目に見えない熱気がイピロスを包み込んでい
る。
﹁ついに始まった⋮⋮か。あの者の言葉通りだな﹂
シグニスは窓のカーテンをそっと閉める。
そして、机の中から一通の手紙を取り出すと、ソファーに深く腰
を下ろして静かに目を閉じた。
心の中に次々と湧き上がってくるの感情は、怒り、悲しみ、そし
て葛藤と罪悪感。
それらが濁流の様にシグニスの心に押し寄せてくる。
︵全ては事前に分かっていた⋮⋮難民とイピロスの住人達の間に植
え付けられた確執は我慢の限界に来ていた。後はタイミングを見計
らってほんの少し天秤の秤を傾けてやるだけだった筈だ。あの男の
手勢にとっては造作もあるまい︸
誰もが己と家族の命と日々の生活を守る為に必死なのだ。
この大地世界は光神教団の僧侶達が説く理想郷とは似ても似つか
ない地獄。
そしてそれは、ローゼリア北部において最強とも目される騎士の
一人であるシグニスであっても変わりはしない。
ここでは弱い人間、愚かな人間は利用され踏みにじるしかない。
︵結局、全てはあの男の目論見通りに事が動いた。後は、私がどう
動くかだけか⋮⋮︶
脳裏に浮かぶのは、つい数週間前にこの部屋で起こった出来事。
1799
シグニス・ガルベイラが御子柴亮真の配下と名乗る男から接触を
受けたのは、開戦直後にイピロス郊外で矛を交えてから直ぐの事だ。
まるで暗殺者の様に全身を黒い装束で包んだ覆面の男は、影の様
に何の気配も感じさせる事もなくシグニスに貸し与えられた城の一
室へと忍び込んで見せた。
常時でも限りなく困難な所業。
しかも今は戦の最中であり敬語も通常の倍は厳重。
恐るべき手練と言えるだろう。
そして、驚き腰の剣を手にしたシグニスにこう囁き掛けたのだ。
ロベルト・ベルトランと共に御子柴亮真へ仕える気はないかと。 勿論、その時シグニスは男の提案を一笑に付した。
仮に、御子柴両真の率いる兵の質が並外れていようと、それだけ
で戦の勝敗は決まらないからだ。
そして何よりも、シグニスにはガルベイラ家を裏切ることの出来
ない事情がある。 その事情がある限り、ガルベイラ家の主であるザルツベルグ伯爵
を裏切る事もまた出来ないのだ。
︵いや⋮⋮出来なかったという方が正しいか︶
イピロスに南方から多くの難民が押し寄せてきたあの夜、男は再
びシグニスの前に姿を現すと、無言のまま一枚の手紙を差し出し消
えた。
その手紙を読んだ時、シグニスの受けた衝撃は筆舌に尽くしがた
いものがある。
最初は謀略である事を疑い、次に手紙が本物であることを悟り絶
望し、最後に、己が運命の岐路に差し掛かっている事を悟った。
︵祖父が死んだ今のガルベイラ家がどうなろうと知った事ではない
⋮⋮だが伯爵には義理も恩もある⋮⋮それは事実⋮⋮︶
幼少の頃から心の奥底に隠してきた暗い感情がほんの一瞬、表面
へと湧き出してきた。
シグニスはガルベイラ家の六男ではあるが、正室の子供ではない。
1800
もっと言えば、側室の子でもない。
現ガルベイラ家当主である彼の父親が、爵位を継承する前に戯れ
でただ一度だけ抱いた農民の娘の腹に宿った子供。
それがシグニスという男だ。
まぁ、ろくに避妊の概念もないような世界。男女の交わりを行え
ば子供が出来るのは当然だった。
娘からの子供が出来た事を告げられたシグニスの父親は当然、子
供を堕ろせと命じた。
最下級とはいえ男爵家というれっきとした貴族の家の後継者と農
民の娘では身分の差を改めて言うまでもない。
しかも、父親には既に正室や側室との間に子供が産まれていた。
次男や三男であれば、後継者のスペアとしての価値があるが、流
石に六男ではスペアとしての価値は低い。
ましてや、母親の身分が力のある商人は大地主の娘であればばと
もかく、ただの農民では実家からの援助も期待出来ないだろう。
余計な継承権争いを避けるという意味でも、我が子を堕ろせと命
じたシグニスの父親の判断は貴族として正しいといえるだろう。
同じ事が、母親である娘にも言えた。
身分の差を考えれば、彼女が側室になる可能性はほとんどない。
いや、仮にシグニスの父親がそれを望んだとしても、周囲との軋轢
を考えれば決して得策ではないのだ。
下手をすれば、次代の男爵を我が子に与えたいと考える正妻や側
室達の闘争に巻き込まれかねない。
両親から望まれぬ赤子。
普通であれば、シグニスという赤子が育つ事はなかっただろう。
聡明さを謳われた先代のガルベイラ男爵の鶴の一声がなければ⋮⋮
貴族の慣習を無視してシグニスは男爵家に引き取られ正式な六男
として認知される事になる。
それが先代男爵の単なる哀れみだったのか、それとも何か運命的
な予感を感じての決断だったのか。今のシグニスには確かめようも
1801
ない事だ。
だが、少なくともシグニスは祖父に助けられた命を無駄にする事
なく、男爵家の一員として文武の修練に勤しんだ。折り合いの悪い
継母達や自分に対して冷淡な父親を見返す為に。
結果として、シグニスはローゼリアでも屈指の騎士へと成長した。
それがさらなる悲劇の始まりとも知らずに。
︵居場所が欲しくて必死で努力した⋮⋮だが、その結果として俺は
ガルベイラ家の潜在的な敵になってしまった︶
立場が弱い人間が努力して己の居場所を勝ち取る。いかにも物語
でありそうな境遇。
だが、物語と違い、現実の世界は物語程甘くはない。
必死で己の居場所を得ようと努力するシグニスの姿は、彼を疎ん
じ迫害してきたガルベイラ家の人間にとって目の上のたん瘤である
と同時に、恐怖の根源だった。
それも当然だろう。
いつ復讐されるか。己の所業が決して褒められる事ではない事を
理解している男爵家の人間にとって、シグニスが強くなれば強くな
るほど、騎士としての名声が高まれば高まるほど危険性が増すのだ。
それでいて、彼らはシグニスを殺す事も放逐する事も出来なかっ
た。
若くして多くの修羅場を潜り抜けてきたシグニスの実力と名声は、
ガルベイラ家の軍事力を大きく増減してしまう程になっていたから。
気が気ではなかっただろう。
そして彼らは気が付いてしまう。
シグニスの最大の弱点に⋮⋮
︵とりあえず手紙を読む限りエルメダは無事の様だ︶
幼少の頃より慣れ親しんだ乳母の筆跡。
実の両親の筆跡は見誤る事があったとしても、乳母であるエルメ
ダの筆跡を見誤る可能性はない。
凛とした文字が整然と紙の上に踊っている。 1802
そして、その筆跡から彼女の身が無事である事は容易に見て取れ
る。
︵この手紙には自分が無事だとしか書いていない。だが、御子柴男
爵の配下がこの手紙を持ってきたということは⋮⋮意味は一つか︶ エルメダはシグニスにとって唯一の身内と言ってよい存在。
父親にも母親にも肉親の情など感じてはいないが、エルメダだけ
は違う。彼女の為ならばシグニスは死をも恐れる事はないだろう。
﹁シグニス、俺だロベルトだ。不味い事になっている。直ぐに動く
べきだ﹂
突如、部屋の扉が乱暴に乱打される。
恐らくロベルトも外の様子に気が付いて、すっ飛んできたのだろ
う。 荒い息遣いがドア越しにシグニスの耳に響いた。
︵大分慌てているな⋮⋮お前は良い奴だよ。ロベルト︶
世の中に背を向け、斜に構えたところのあるシグニスの友人。
今回の戦で貴族達から最もやる気がないと目されていた筈の男。
シグニス自身もロベルトの口から直接今回の戦に対しての不満を耳
にしている。
だが、そんな男がザルツベルグ伯爵の危機に血相を変えて走りこ
んできた。
単に将の一人としての責任感からの行動ではないだろう。
普段は周囲に対してクソ親父と悪態をつきながらも、ザルツベル
グ伯爵の事を心の中では慕っていた証だ。
︵腹を括るしかないな⋮⋮︶ シグニスはゆっくりとソファーから腰を上げると、机の引き出し
から白い紙の薬包を取り出す。
︵ロベルト⋮⋮開戦前、お前は俺へ自分の事だけを考えればいいと
言った⋮⋮悪いが今回はその言葉に甘えさせて貰う。全てが終わっ
1803
た後でお前の裁きを受けよう⋮⋮例えお前が俺の首を望んだとして
も⋮⋮な︶
﹁今開ける。少し待て⋮⋮﹂
そう言うと、シグニスはグラスを二つテーブルの上に置くと、そ
の一つに薬包の中身を入れた。
1804
第5章第32話︻蠱毒の城︼其の7
その夜、ザルツベルグ伯爵は城内の喧騒を他所に、書斎に一人籠
っていた。
彼は今、長年身に着ける事のなかった、家伝の鎧を身に着け、椅
子の横には愛剣を立てかけており、そのの周りには無数の酒瓶が散
乱している。
普通の人間であれば、酔っぱらって眠り込むような量だ。
しかし、ザルツベルグ伯爵の脳は冴え渡り、その目は獣の様に爛
々と光を放ちながら宙を見据えていた。
︵この肌が焼けつく様なヒリヒリとした感覚⋮⋮実に久しぶりだ︶
ザルツベルグ伯爵が父親から爵位を奪い取ったあの日まで、毎日
の様に感じていた感覚。
これは第六感とも言うべき人間の持つ本能。
命のやり取りを日常的に行う人間が自然と身に着ける勘の様なも
のだ。
︵あの頃は、この感覚が嫌で嫌でたまらなかったものだが⋮⋮︶
ザルツベルグ伯爵の父親は高潔で忠義にあふれた男だった。
聡明で、誰からも慕われた人格者である事も確かだろう。
領主として、戦士として、彼の力量は水準以上であった事も否定
できない事実だ。
だが、少なくともザルツベルグ伯爵にとって、彼の父親は尊敬に
値する人物ではない。そう、あの時に長年信じてきた父親の偶像は
砕け散ったのだ。
︵ふむ⋮⋮来たようだな︶
ザルツベルグ伯爵は待ちわびた客人がようやく訪れた事を感じた。
開戦当初から感じていた怒りは既にない。
あるのはただ、己の運命を受け入れた男が持つ覚悟と戦意。
1805
﹁入られよ。鍵は開いている﹂
その言葉がザルツベルグ伯爵の口から放たれた後、直ぐに扉が開
く。
﹁ほぉ⋮⋮多少は躊躇うかと思ったが。豪胆なのか考えなしなのか
悩むところだ﹂
目の前に現れた男の顔を見て、ザルツベルグ伯爵は笑みを浮かべ
た。
素直というにはあまりにも思慮のない態度。 確かに、ザルツベルグ伯爵の言う通り、此処は敵陣の真っただ中。
不意打ちも騙し討ちもやれて当然であり、やられて当然の戦場だ。
そういう意味から言えば、入れと言われて躊躇う事なく入るなど
愚の骨頂ともいえるだろう。
﹁まぁ、考えなしの方なんじゃないですかねぇ。あなたほどの男が
つまらない小細工などしないと勝手に思いこんでいましたから﹂
そう言うと、亮真は照れくさそうに頭を掻く。
﹁成る程、そう言われてしまっては私としてもこれ以上何も言えな
いな﹂
そんな亮真の態度にザルツベルグ伯爵は声を上げて笑った。
﹁久しぶりだな。御子柴男爵。直接顔を合わせたのは先のザルーダ
援軍の際だったか? 何時も付き従っていたあの姉妹はどうした?
姿が見えないな﹂
﹁えぇ。その節はお世話になりました。今あいつらには色々と用を
言いつけてまして少し離れています﹂
ザルツベルグ伯爵の問いに、亮真は笑みを浮かべながら頭を下げ
た。
実際、多額の仲介料を取られたと言え、何のコネも伝手もない亮
真にとって、ザルツベルグ伯爵のローゼリア北部における人脈が非
常に有益だった事は紛れもない事実。
そういう意味から言えば、ザルツベルグ伯爵は亮真にとって恩人
ともいえるのだから。
1806
そんな亮真の態度を楽しそうに見ながら、ザルツベルグ伯爵は口
を開く。
﹁そうか、貴公も色々と大変な様だな﹂
﹁全くです。成り上るってのもこれでなかなか苦労が絶えません﹂
﹁結構結構。若いうちの苦労は身になるというからな。頑張る事だ﹂
そう言うと、ザルツベルグ伯爵は探る様な視線を亮真へ向ける。
﹁ところで話は変わるが、昨夜からの騒動は全て貴公の差し金だな
?﹂
﹁えぇ、警備の目を逸らす為に⋮⋮﹂
二人の口から放たれたその言葉の内容は実に剣呑だ。
しかし、両者はまるで茶飲み友達の様な気やすさで会話を続ける。
﹁ふむ、狙いは成功したな。騒ぎの鎮圧に警備の兵も大半が町へ出
ている。中々見事だと言いたいところだが、少しばかり卑怯ではな
いかね? 初戦の後、シグニスやロベルトから話を聞いたが、君の
軍の兵士達はかなりやるらしいじゃないか。年若い女子供が多いと
聞いて侮っていたが、正直言って驚いている⋮⋮彼らなら、策など
使わずとも我々と互角にやり合えただろうに﹂
﹁馬鹿正直に正面から戦を仕掛けたところで、無駄に死人が増える
だけですからね﹂
その言葉に、ザルツベルグ伯爵は苦笑いを浮かべる。
確かに、兵を無駄に殺す必要はない。兵士はチェスや将棋に例え
ればポーンや歩であり、消耗品としての側面が強い反面、無駄に消
費してよいという物ではない。
ましてや、相手は物言わぬ駒ではなく人である以上、あまりに無
体な扱いも出来ないという側面も当然あるだろう。
亮真の言葉は将として極めて当然の心得に過ぎない。
だが、ザルツベルグ伯爵はその言葉の裏に隠された真意を敏感に
感じ取っていた。
﹁成る程。戦力の低下を嫌ったか⋮⋮と言う事は、この戦で打ち止
めにするつもりはないのだな? 次の獲物はルピス・ローゼリアヌ
1807
スの首か?﹂
ザルツベルグ伯爵の問いに、亮真はただ静かに沈黙を守った。
しかい、その顔に浮かんだ獰猛な笑みが全てを物語っている。
﹁ふむ⋮⋮だが、いまいち貴公が分からぬ。何故そうやって意地を
張る? 確かにルピス陛下は貴公との約定を破ったかもしれんが、
相手は国王。身分の差を考えれば極めて当然の結果だ。それに、破
ったと言っても別の形でそれなりに報いても居る。平民を領地持ち
の貴族にするなどこの国ではまずありえない事なのだからな。それ
が分からぬ貴公でもあるまいに⋮⋮﹂
﹁だから、あの女の意に従って下を向いて生きろと?﹂
ザルツベルグ伯爵の問いに、亮真は嘲笑を浮かべた。
確かに、身分制度の存在するこの大地世界の常識から考えれば、
間違っているのは御子柴亮真である事に間違いはない。
確かに亮真の怒りは正当ではあるだろう。だが、それが通用する
のは両者が対等の立場である場合だけだ。
生徒の過ちを咎める教師はいるが、教師の過ちを咎める生徒は少
ないし、それをするには相当な覚悟と労力が必要になる。
社長が部下の過ちを責める事は簡単だが、部下が社長の過ちを責
めるのは難しいだろう。それこそ辞表を覚悟しなければならない。
現代に身分差がないと言うのは所詮幻想であり、人は今でも決し
て対等ではないのだから。
﹁確かに、私も多少は腹立たしいと思うがね。だが、彼女に従う事
は決して貴公にとって損にはならないだろう? 貴族の身分は多く
の物を君に与えてくれる。金も女も思いのままだ。豪奢な衣装を身
にまとい、うまい酒と料理を楽しみ、美しい女と閨を共にする。戦
をするよりずっと価値があるとは思わないかね?﹂
﹁まぁ、確かに⋮⋮﹂
ザルツベルグ伯爵の問いに亮真は静かに頷いた。
御子柴亮真とて健全な男だ。
美女と甘い一夜を過ごしたいという願望はあって当然だし、食事
1808
だってうまいものが食べたいと思うのは当然だった。
衣服にはさほど興味はないが、それでもボロボロの当て布だらけ
の服よりは、きちんとあつらえられた服が良いに決まっている。
だが⋮⋮
﹁伯爵の言いたい事は分かります。ですがね、俺はそんな物よりも
大事な物があると思うんですよ﹂
﹁ほう? それは何だね?﹂
︵はて、改めて聞かれると迷うな⋮⋮大義? 仁義? 忠義? 王
道に覇道。愛に友情⋮⋮怒りに憎しみ。どれもそれなりに正しくて
どれも間違っている気がするな︶
ザルツベルグ伯爵の問いを受け、亮真の心に無数の言葉が浮かん
では消えていく。 ﹁さぁ? 何なんでしょうねぇ﹂
苦笑いを浮かべながら肩を竦めて言った言葉。それは実に亮真の
心の内を現している。
どんな崇高な意思も、それを言葉にした途端に土塊へと姿を変え
てしまう物。
だが、己の心を言葉に表す事は出来なくとも、亮真の心に迷いは
ない。
瞳の奥に宿る光は、己に対しての絶対的な自負。
それはザルツベルグ伯爵にとって、父親を殺して爵位を奪ったあ
の日に失った何か。
﹁若いなぁ、貴公は。羨ましい事だ⋮⋮私は、そんな気持ちなど、
とうの昔に捨て去ってしまったよ﹂
羨ましそうに目を細めながら、ザルツベルグ伯爵はゆっくりと首
を横に振った。
事実、ザルツベルグ伯爵は御子柴亮真が羨ましかったのだ。彼の
持つ揺らぎのない何かが。
﹁それは、例の一件が原因何ですかね?﹂
その言葉を聞いた瞬間、ザルツベルグ伯爵の顔色が変わった。
1809
﹁何の事かな?﹂
精いっぱい平静を保ちながらも、ザルツベルグ伯爵の表情は明ら
かに強張っていた。
武人として、為政者として、伯爵位を継ぐ前のザルツベルグ伯爵
は卓越した手腕と実績を誇っていた。
それが突然、己の享楽に溺れるようになったのには理由がある。
﹁ザルツベルグ伯爵、あなたの事はエレナさんから色々と聞いてい
ます。ローゼリア王国北部の要として国防の最前線を支え続けてき
たあなたが豹変した理由を⋮⋮﹂
それは、問う必要のない問い。
亮真にとって大切なのは今この場でザルツベルグ伯爵を殺す事だ
けだ。
だが、亮真は知りたかった。伯爵を変えた何かを。 ﹁ほぅ⋮⋮そうか、そういえばエレナ殿もあの時あの場所に居たの
だったな﹂
亮真のまっすぐな視線を受け、ザルツベルグ伯爵はゆっくりと己
の過去を語り出した。
1810
第5章第32話︻蠱毒の城︼其の7︵後書き︶
ちょいと長くなったので分割しました。
続きも近いうちに載せます。
活動報告も更新していますので、そちらもご覧ください。
1811
第5章第33話︻蠱毒の城︼其の8
﹁私が初めて戦場に立ったのは一体いつだったか。あの頃は毎年の
様にザルーダ王国やミスト王国との戦が絶えなかった時代だから⋮
⋮もう二十年数年にもなるか﹂
おもむろに口を開いたザルツベルグ伯爵の目が、遠い過去を見つ
める。 トーマス・ザルツベルグが初めて戦場に立ったのは十代もまだ前
半の頃の事。
父親から受け継いだ体格と武の才能。
そして、母親から与えられた地球人としての殺した相手の生気を
より多く吸収出来るという特性。
恵まれた天賦の才とそれを延ばす最適な環境を持って生まれたザ
ルツベルグ伯爵は、大地世界の支配階級としてふさわしい力量を備
えた戦士となっていた。
﹁初陣で私はザルーダの騎士を二十五人殺し、徴兵された多くの平
民共を血祭りにあげたものだ﹂
自信と誇りに満ちた言葉。
地球の常識で考えれば、貴族の嫡子が前線に出る必要はないし、
立場を弁えない危険な行為として忌避されやすい物なのだが、この
大地世界では話が変わる。
地位の高い者ほど、強さを求められるのだ。 これは、大地世界の各地に広がる戦火と、怪物と呼ばれる獣の範
疇をはるかに超えた危険な生物の存在。そして、法術と言った技術
などの要因が絡み合った結果だと言えるだろう。
武法術に練達した手練れは一騎当千。伝説では万夫不当とまで謳
われた戦士も存在しているのだ。
そして、問題は大地世界のそれらの形容詞が文字通りの意味を指
1812
すという事。
数は確かに重要な要素だが、卓越した個人の武力はその数の論理
を圧倒してしまう。圧倒してしまうがゆえに、将や王もまた己の力
を高めなければならない。
己が生き残る為に。
そんな世界であるから、大地世界の王侯貴族は武に秀でた人間が
非常に多い。
逆に、そうでない人間が家を継ぐには余程特殊な事情があるか、
武以外の余人には代えられない何かを持っているかだ。
若き日のザルツベルグ伯爵にはその全てがあった。そして、大い
なる理想も⋮⋮
﹁若い頃の私は、ただただ領民に慕われる良い領主でありたいと思
っていた。領民の暮らしを安定させ国土を侵略者の手から守り抜く
事こそ全てだと思っていた﹂
その言葉に、亮真は無言のまま頷く。
伊賀崎衆に命じて集めさせた情報では、確かに爵位を継ぐ前のザ
ルツベルグ伯爵は今と明らかに違っていた。
苛烈な戦場の最前線にその身を置き、ローゼリア王国の北部国境
を守り続ける忠義篤き武人。
民の平穏を第一に考える若き伯爵家の跡継ぎ。
今のザルツベルグ伯爵からは想像もつかない評価だろう。
だが、そう言われるだけの物を若き日の伯爵は確かに持っていた
のは確かだ。 全てが変わったのは、今から十数年前。
それはエレナ・シュタイナーが今は亡きホドラム・アーレベルク
の策謀によって最愛の家族を失う事になった日よりも更に一年程前
の事。 ﹁あの日も外はこんなどんよりとした雲で覆われた夜だった⋮⋮﹂
ザルツベルグ伯爵の呟きに頷きながら、亮真は静かに窓の外へと
視線を向けた。
1813
﹁あなたが当時の許嫁を失われた日の事ですね?﹂
﹁そうだ。私が心から愛した女を一瞬のうちに失った日だ﹂
当時の情景はザルツベルグ伯爵の脳裏に過った。
それは、決してほほえましい記憶でもなければ、懐かしむような
記憶でもない。
強いて言えば屈辱と嘲笑に満ちた苦痛だろう。
︵まぁ、あんな目に合わされれば人間が歪むのは仕方ないか⋮⋮実
に勿体ないとは思うがね︶
亮真は無言のまま肩を竦めた。
英雄ともいえるザルツベルグ伯爵の道を誤らせた元凶。
それは多くの神話に語られるように、情愛と欲望のもつれ、そし
て人の持つ嫉妬と妬みだ。
ザルツベルグ伯爵には幼い頃から将来を誓い合った許嫁が居た。
相手は、ミューヘバッハ子爵家の次女、アステリア。
ミューヘバッハ子爵家は、領地は小さいものの、王都ピレウスに
ほど近い商業の発展した土地を収める有力者であり、貴族派の首魁
であるゲルハルト公爵家とも血縁関係を持つ名門に数えられる家だ。
この、ザルツベルグ伯爵とアステリア・ミューヘバッハ嬢との関
係だが、幼い頃は実に親密だったらしい。
互いの屋敷を行き来し、庭でまま事遊びに熱中する二人の姿は、
ザルツベルグ伯爵家に古くから仕えている使用人にとって実に思い
出深い物だったようだ。
だが、幼い頃に親密であったと言って、将来も同じ関係でいられ
るとは限らない。
多くの場合、時が過ぎれば関係も変わってきてしまう。
王都近郊に領地を持ち、貴族派の中でもそれなりの地位を持つミ
ューヘバッハ子爵家には、夜会にお茶会、観劇と、様々な貴族とし
ての付き合いが求められてくる。
それはまさに、きらびやかで洗練された紳士淑女の別世界。
それに対してザルツベルグ伯爵家はどうだろう?
1814
領地の広さと爵位では確かにミューヘバッハ子爵家よりも上だ。
ローゼリア王国北部の辺境地帯と言う立地と、魔境ウォルテニア
半島を初めとした外敵の存在が、彼の家を貴族でありながら武門の
名家へと押し上げた。
しかし、ローゼリア王国内の勢力図で見た時、ザルツベルグ伯爵
家は辺境の一独立勢力でしかない。
その影響力はローゼリア北部一帯のみという極めて限定的な物で
あり、宮廷内の序列は爵位通りのものでしかなかった。
名声は高くても、実利が伴わない。
これで、歴代のザルツベルグ伯爵が武力だけではなく、政略にも
長けていたならば結果は変わっていたかもしれないが、生憎と彼ら
は武人が持つ特有の清廉さの所為で、派閥を作る事を極力控えてき
た。
確かに、ローゼリア王国に仕える武人として、歴代の伯爵達が選
んだ道は間違ってはいないのだろう。
だが、貴族家としてみた場合はどうだろうか。
人は異質なものを嫌う。
そして、貴族でありながら武名高く、ほとんど宮廷に姿を見せる
事のないザルツベルグ伯爵家は、多くのローゼリア貴族にとってま
さに異質な存在だったのだ。
それでも、両者は微妙な均衡の下にバランスと保っていた。
だが、トーマス・ザルツベルグの存在がそのバランスをぶち壊し
てしまう。
そして、遂にあの夜の事件が起こった。
﹁彼らにしてみれば、私の得た栄誉は癇に障る物だったらしい﹂
とあるミスト王国との戦で、トーマス・ザルツベルグは敵軍の大
将を討ち取り、ローゼリア軍に勝利を齎した。
そして、その事は援軍として北部国境に赴いたエレナの手によっ
て当時の国王へと奏上された。
1815
当時、ローゼリア王国の軍事を司る将軍であったエレナとしては、
至極当然の事をしたに過ぎなかったのだが、その結果、事態は最悪
の方向へと進んでしまう。
王都に招聘されたトーマス・ザルツベルグは国王主催の舞踏会
に出席した。
そして、その時見てしまったのだ。己の婚約者が、どこぞの貴族
の若様と二人、婚約者である自分を差し置いて舞踏の輪の中へ歩ん
でいく姿を。
当然ながら、若きトーマスは直ぐに二人を留め様とした。しかし
⋮⋮
﹁それが連中の狙いだったのよ⋮⋮﹂
苦々しげに吐き捨てるザルツベルグ伯爵の顔に憤怒の色が浮かぶ。
若き日のトーマスは、婚約者である自分を差し置いてアステリア
が別の男を踊る意味が分からなかった。
そして、それを許したミューヘバッハ子爵家の思惑と立場も。
あの時、さも偶然気が付いたかのように装いながら、腹に一物あ
る貴族達は、自分の婚約者に無視されたトーマスを徹底的にこけ下
した。
婚約者に逃げられた哀れな英雄という嘲笑と共に。
英雄として参加したはずの宴で、己の婚約者にメンツを潰される。
これほどみじめな事はそうある物でもない。
そして、蔑みの視線を背に、トーマス・ザルツベルグは城を後に
した。湧き上がる憎悪を胸に押し隠しながら。
﹁それが全ての原因ですか﹂
確かに、気の毒な話だとは思う。だが、この事だけが伯爵の心を
捻じ曲げた訳ではないだろう。
貴族の婚姻と言うのは、どうしても家の意向が優先されるもの。
ザルツベルグ伯爵の話を聞き終え、亮真がため息交じりに問いか
ける。 1816
﹁まぁ、発端の一つ⋮⋮と、言ったところだろうかね﹂
ザルツベルグ伯爵の顔に、獰猛の笑みが浮かんだ。
愛した女との思いがけない破局。そして、周囲からの嘲笑。
言うなれば、伯爵は悟ってしまったのだろう。
自分の楽しみを捨ててまで、この国や民に尽くす価値などないと
いう事に。
だが、それだけがザルツベルグ伯爵の心を壊した訳ではない。
他に何か、決定的な出来事があった筈なのだ。
﹁なるほど⋮⋮ぜひその辺のお話もお聞かせいただけると嬉しいの
ですが⋮⋮﹂
だが、そんな亮真の言葉にザルツベルグ伯爵はゆっくりと首を横
に振ると、傍らに立てかけていた剣を鞘から引き抜く。
﹁いや、夜も大分更けた。これ以上は剣で語るとしよう﹂
氷の様に冷たく硬い声。余程他人に話したくない内容らしい。
中段に構えられた剣が蝋燭の淡い光を反射して輝きを放つ。
その姿は、雄弁にこれ以上の会話を拒んでいる。
﹁そうですか⋮⋮まぁ、良いでしょう﹂ 正直に言えば、亮真はザルツベルグ伯爵と会話を続けたかった。
ローゼリア北部の統一を果たした後、亮真は再び王都ピレウスへ
と赴く事になる。
そんな亮真の最大の敵は、ルピス・ローゼリアヌスと彼女を担ぐ
貴族達。
敵の手の内を知るという意味から言っても、ザルツベルグ伯爵の
言葉は貴重な体験と言える。
だが、同時にそれが伯爵の心を傷つけているという事も亮真は分
かっていた。
﹁それではお相手頂くとしましょう﹂
そう言うと亮真は、ゆっくりと鬼哭を鞘から抜き放ち八相の構え
をとった。
1817
第5章第33話︻蠱毒の城︼其の8︵後書き︶
更新遅くなり申し訳ありません。
活動報告も更新しておりますので、そちらもよろしくお願いします。
1818
第5章第34話︻蠱毒の城︼其の9
部屋の中に激しい金属音が鳴り響く。
一瞬、亮真の目の前に無数の赤い火花が散った。
亮真の眼の前にザルツベルグ伯爵の顔が近づく。
吐息が吹きかかるのを感じられるほどの間合い。しかし次の瞬間、
重なり合った影が再び飛びのく。
︵一つ受け損ねたか︶
右腕に受けた裂傷の痛みに心地よさを感じながら、亮真は目の前
に佇むザルツベルグ伯爵を見据える。
その構えには一部の隙もない。
祖父である浩一郎との稽古を通して、亮真は痛みに対しての耐性
を得ている。
勿論、無痛症ではないので、痛みを感じないわけではない。
言うなれば究極の我慢強さと言ったところか。
しかし、これが出来るか出来ないかで勝敗は大きく変わってくる。
特に命を賭けた勝負では⋮⋮
︵また一つ、爺さんに感謝だな⋮⋮︶
痛みを感じないのは問題だが、痛みによる恐怖で技が鈍るのもま
た大きな問題だ。
そう言った本能を精神力や闘争心で無理やりねじ伏せる訳だが、
そうなるとどうしても技が荒くなる。
それを防ぐ方法はただ一つ。慣れる事だ.
そんな亮真の姿に、ザルツベルグ伯爵の唇がかすかに吊り上がっ
た。
その顔はまるで、血肉を貪る肉食獣の様な笑み。
伯爵は心底楽しんでいるのだ。一瞬の攻防を。
﹁ほう⋮⋮やはり多少は腕が経つ様だ。大抵の人間なら今ので終わ
1819
るところだぞ⋮⋮これはアナーハタだけでは駄目そうだな﹂
皮肉と称賛の入り混じった言葉に、亮真は思わず苦笑いを浮かべ
た。
様子見のつもりか、未だにザルツベルグ伯爵は全力を出してきて
はいないが、それでも伯爵の力量は亮真に十分に伝わっている。 ︵この一瞬で三連撃⋮⋮速さ、力、技、どれをとっても今まで戦っ
た敵の中で指折りだな⋮⋮エレナさんの人物評を疑っていた訳じゃ
ないが、忠告通り大した手練れだ︶
大地世界に召喚されて以来、御子柴亮真が幾多の死線を潜り抜け
てきた。
中でも、ローゼリア王国の内乱の時に相手にしたケイル・イルー
ニアと、ザルーダ王国の救援に向かった際に対峙したオルトメア帝
国の騎士であるグレッグ・ムーアの二人は、亮真にとって特に印象
深い手練れだ。
武法術で強化した身体能力。そして、幾多の戦場を潜り抜けてき
たという経験と自負に裏打ちされた強固な精神。
ケイルとグレッグの二人が、この大地世界において十分に一流と
呼ばれるだけの力量を誇っていたのは確かだろう。 また、神速の槍使いにしてエレナの側近であるクリス・モーガン
とは、王都イピロスを離れる前に幾度か手合わせをしても居る。
未だに歳若く未熟な部分を多く持つ青年ではあるが、その才能と
技量は亮真がこの世界で出会った仲でも屈指の人間だった。
彼ら三人は紛れもなく大地世界における強者と言える。
しかし、それでも今あげた彼ら三人の力量は今目の前で剣を構え
るザルツベルグ伯爵に遠く及ばない。
心、技、体の全てを、ザルツベルグ伯爵は非常に高い水準で平均
値を保っていた。
その上、伯爵の言葉を信じるとすれば、今の攻防でザルツベルグ
伯爵はアナーハタ・チャクラまでしか使っていないという事になる。
1820
︵事前に調べた話じゃぁ、伯爵のレベルは六。つまり、眉間に有る
アージュニャー・チャクラまで開くことができるって事だ︶
頭頂にあるとされるサハスラーラは一説には千手観音の手のひら
の目と同じだとも言われている。仏教的な思想で言えば悟りの境地
に他ならない。
道教的な思想で考えれば、仙人と同じ様な物。一種の超人と言え
るだろう。
そう考えるとアージュニャー・チャクラを開けるというのは、ま
さに人という枠の中で納まる最高の到達点と言える。
それが一体どれほどの力を放つのか亮真には想像が付かないが、
ただ一つ確実な事が有る。
それは、ザルツベルグ伯爵が今まで対峙してきた敵の中で最強だ
という事。
だが、そんな客観的にみて絶望的な状況であっても、亮真の心に
湧き上がるのは溢れんばかりの闘志のみだ。
︵まぁ、それはこの戦を始めると決めた時から分かっていた事だ⋮
⋮後は︶
亮真はマルフィスト姉妹の助力によってチャクラを開いている。
プラーナ
その後、ウォルテニア半島での戦闘とザルーダ援軍の時に吸収し
た生気によって、第三のチャクラであるマニプーラまで開放してい
た。
大地世界において、御子柴亮真もまた、十分に強者と呼ばれるに
ふさわしいが、その一方でザルツベルグ伯爵と比べれば見劣りする
のもまた事実。
真正面から矛を交えれば、何れは伯爵の持つ刃が亮真の体を切り
裂くだろう。 だが、亮真には奥の手が有る。
︵後は⋮⋮俺がこいつの主としてふさわしいかどうか︶
亮真は両手に握る鬼哭へ少しだけ視線を向けた。
伊賀崎一族の五百年の悲願。その結晶とも言うべき秘宝が今、そ
1821
の全貌を表そうとしていた。
1822
第5章第35話︻蠱毒の城︼其の10
再び、執務室の中を二つの影が乱れ舞う。
鋼の打ち合う音と荒い息遣いが部屋の中に木霊する。
﹁ふむ。第五のチャクラであるヴィシュッダを開いてもまだついて
くるとはね⋮⋮未だにマニプーラを開くのが精いっぱいなのか、そ
う思わせたいだけなのかは知らないが、どちらにせよ本当に大した
ものだ﹂
それは、含みの多いザルツベルグ伯爵にしては珍しい本心から出
た純粋な称賛の言葉だ。
プラーナ
基本的に法術、特に武法術を使う者同士が戦った際に勝敗を分け
るのは、生気の保有量と、解放されたチャクラの数だ。
車に例えれば生気はガソリンであり、チャクラはエンジンの様な
存在だと言える。
当然、エンジンを多く積んでいれば馬力はその分大きくなるし、
ガソリンが豊富なら稼働出来る時間も長くなるという寸法だ。
モータースポーツならば不公平や不正だと言うだろうし、そもそ
もそれだけの差があって戦いを選ぶ事自体がナンセンスとも言える。
既にザルツベルグ伯爵は喉に存在するヴィシュッダ・チャクラま
で開放していた。
それにも関わらず、御子柴亮真が伯爵の剣を防ぎ切ったのは驚嘆
の一言だろう。
﹁貴公の剣術には戦場で叩き上げた傭兵にはない、理論的な洗練さ
リアース
を感じる。どこのなんと言う流派かは知らないが、余程良い師に手
ほどきを受けたようだ⋮⋮実に羨ましいことだよ。裏大地では皆そ
のような剣術を使うのかな? 確か貴公は日本という国で生まれた
と聞いたが⋮⋮﹂
その言葉に、亮真は思わず苦笑いを浮かべた。
1823
必死に自分の素性を隠すつもりはないが、その一方で、隠せる情
報は隠しておきたいのも本心。
情報には、隠すべき情報と、拡散させるべき情報の二種類が存在
する。
それは根源的な原則。大地世界や地球でも変わりはしないだろう。
政府のごく一部しか知らない情報もあれば、全世界に対して意図
的に発信されるような情報もある。
具体的に例を挙げると、前者で言えば国防や外交の機密情報など
が当てはまるだろうし、後者で言えば新商品の発売広告などがそれ
にあたるだろう。 どちらにせよ大切なのは、情報の性質によって時期や範囲をコン
トロールするという事。
そういう観点で言うと、御子柴亮真と言う人間の情報は出来るだ
け秘匿しておきたい性質のものだと言える。
特に出身が日本であるという事は隠しておきたい情報だ。
何故なら、料理と同じで、武術には国の歴史や風土と言った特色
が強く出る。
例えば、ブラジルの伝統武術であるカポエイラは足技が主体の武
術だが、それはかつての奴隷制時代、手を鎖でつながれていた事に
よる影響だと言われている。
また、古流の空手では剣や槍ではなく、棒や鎌を武器として使う
技術が残されているが、これも空手を修練した人間の多くが武人で
はなく、琉球王家によって武器の携帯を禁止されていた平民が主体
だったからだと言われている。 まぁ、事の真偽はさておいても、武術が歴史や風土に根ざしてい
るという事実に変わりはないだろう。
いや、影響は武術だけにとどまらない。思想も教育水準も分かる
人間には有る程度想像が出来てしまうからだ。
どれほど影響が出るかはさておき、出身国を知られるのは御子柴
亮真にとって決して有利には働かないだろう。
1824
例え此処が、異世界であったとしても⋮⋮だ。
︵ザルツベルグ伯爵は加虐性の強いサディスト型の人間だ。それに
うぬぼれも強い。自分が圧倒的に有利ならあるいは⋮⋮︶
情報源の特定は必須。最悪の場合、伊賀崎衆に命じて口封じをし
なければならない。
思わず舌打ちをしたくなるのを我慢しながら、亮真はさり気なく
ザルツベルグ伯爵へ探りを入れた。
﹁俺が日本から召喚されたとご存じだったんですね﹂
﹁当然さ。貴公が私を調べた様に、私も貴公を調べたよ。それこそ、
貴公が岩塩鉱の件で取引を持ち掛けてきた直後にね﹂
﹁それはまた⋮⋮でも、まぁ自然な行動だとは思いますよ﹂
取引相手の素性を確認することなどやって当たり前、やられて当
たり前の事と言える。だが、問題はザルツベルグ伯爵にそう言った
危機管理意識が存在したという事だ。
︵こいつは、伯爵を大分侮っていたな⋮⋮甘く見たつもりはなかっ
たんだが、もっとイケイケの脳筋だと思っていたぜ︶
女癖が悪く、金に汚いというザルツベルグ伯爵の行動が亮真の目
を曇らせていたのだろう。今まで関わってきた大地世界の貴族達の
おのれ
あや
中でも、伯爵は武以外の部分でも十二分に一流の水準と言えるだろ
う。
か
﹁貴公もそう思うか﹂
﹁えぇ、彼を知り己を知れば百戦殆うからずって奴です﹂
リアース
亮真の言葉を聞き、ザルツベルグ伯爵の顔が綻んだ。 ﹁なるほど、裏大地のことわざか⋮⋮言い得て妙だな。だがまぁ、
そんな基本的な事が出来ない人間達がこの大陸にはごまんといるの
だよ。実に嘆かわしい事⋮⋮だがね!﹂ その言葉と同時に、ザルツベルグ伯爵の剣が再び亮真へと襲い掛
かった。
1825
第5章第36話︻蠱毒の城︼其の11
赤い火花と共に亮真の右頬をザルツベルグ伯爵の剣が抉る。
その瞬間、まるで焼き鏝でも押し付けられたような強烈な熱さが
亮真を襲った。
初めは外見上なんの変化もない。
しかし、やがて少しづつ傷口が開きだし、皮膚の下の生々しい肉
が顔を出し始める。
だが、桃色の果肉が顔を出したのもほんの一時の事。
次第に真っ赤な点が無数に浮かび上がってくると、やがてそれら
は無数の糸となり、静かに亮真の胸元へ向かって滴り落ちていく。 亮真は痛みを感じなかった。
強いて言うなら、頬が濡れた感触だけが不快なくらいだろうか。
それは、生命の危機に際して脳内でアドレナリンが大量に生成
されている結果だろう。
今、亮真の胸中に湧き上がるのは驚嘆であり、称賛だった。
奇襲を仕掛けたザルツベルグ伯爵の姑息さに対しての憤りでも、
その一撃を防ぎきれなかった己への怒りでもなかった。
確かに、会話の途中での一撃は奇襲になる。
一般的な感覚で言えば卑怯としか言われない一撃なのは間違いな
いだろう。
だが、そんな批判に何の価値があるというのか。
不意打ち、騙し討ち、言葉の刃で相手の動揺を誘うなんて戦いの
初歩も初歩。そんな事はやって当たり前、やられて当たり前の事で
しかない。
今この部屋で剣を向け合う二人は、ダンスをしている訳ではない。
彼らは命を懸けて殺し合いをしているのだ。
殺し合いにルールなどない。
1826
あるのはただ結果だけ。生者と死者という⋮⋮
では、何が亮真の心を揺さぶったのか、その答えは実に簡単だっ
た。
﹁驚きましたね⋮⋮まさかあなたが縮地を使うとは。油断していた
つもりはありませんが、かなり重いのを頂いてしまいました﹂
多少、弱まったとはいえ、亮真の頬からは未だに血が止め処なく
流れ落ちてきている。止血効果のあるアドレナリンの大量分泌にも
かかわらずこれほどの量が出るというのは、この傷がかなり深手で
ある証拠と言えるだろう。
右頬を真っ赤に染めながら、亮真は笑みを浮かべる。
そんな亮真の言葉に、ザルツベルグ伯爵は楽しそうに笑い声を上
げた。
﹁いやぁ、本当に貴公は良い戦士だ。今の一撃をその程度の傷で防
ぐ手練れなどワシの記憶の中にも数える程しかおらん。しかも今の
はどの様に言い訳しようと不意打ちだ。それが非難ではなく称賛の
言葉を貰えるとは思いもしなかった﹂
﹁卑怯だなんだという言葉は敗者の戯言でしかありませんから⋮⋮
ね﹂
そう言うと、亮真は肩を竦めて見せた。
スポーツにはルールがある。だが、殺し合いにはルールがない。
いや、より正確に言えばないわけではないのだが、正直に言って
意味がないのだ。 何故なら、決闘の様な特殊な環境で立ち合い者が居ない限り、殺
し合いは基本当事者同士で決着を付ける。
そして、殺し合いを始める前に両者の間で共通のルールを決める
事もないし、それを紙に残して証跡とすることもない。
ルールに対しての共通意識が戦う人間の間で持てない以上、反則
など存在しないのだ。
ましてや、周囲に観客がいるのならばともかく、この部屋にいる
のは御子柴亮真とザルツベルグ伯爵の二人だけ。
1827
仮に戦いの方法を定めた書類を残していたところで、それに何の
意味が有るだろう。
ルールがルールとしての効力を持つには、絶対的な力を持つ何か
による監視が不可欠だ。
ひとたび約を違えれば恐るべき罰則を加えられるような。
それが出来ないからこそ、地球で戦争が嫌だと言いながらも各地
で戦火が絶えない訳だ。
今の攻防に関して言えば、相手の卑怯を責めたところで何の意味
もないどころか、冷静さを失い墓穴を掘るのが関の山だろう。
それが分かっているからこそ、亮真はザルツベルグ伯爵を非難な
どしない。
だが、そんな亮真の態度がザルツベルグ伯爵の琴線に触れたのか、
再び高らかに笑い声を上げる。
﹁良いなぁ、実に良い。騎士道とやらに固執し、戦場を知らぬ最近
の騎士では決して口にできぬ言葉だ﹂
﹁まぁ、騎士道に固執する方は多いようですからね﹂
﹁そういえば、先の内乱時は貴公も大分それで苦労したらしいし⋮
⋮な﹂
その言葉が誰を指しているのか察し、亮真は苦笑いを浮かべる。
﹁えぇ、それはもう⋮⋮﹂
自分の利の為ならどんな手段でも取れる冷徹さと合理性の化け物。
正直に言って、亮真とザルツベルグ伯爵は同じ資質を持つ将と言え
る。本来であれば、最優先で味方に引き入れたいところだろう。
︵実に勿体ない⋮⋮とはいえ、今更手を組むのは無理⋮⋮か︶
様々な人間の思惑が絡み合い、既にザルツベルグ伯爵の死亡は必
須事項とされている。
幾ら首謀者とは言え、御子柴亮真の思惑一つで覆すことの出来る
段階を既に過ぎているのだ。
︵だが⋮⋮伯爵が縮地まで使う化け物となると⋮⋮︶
先ほどザルツベルグ伯爵が繰り出した一撃はまさに絶技というに
1828
ふさわしい技。
縮地。
本来は道術において仙人が使うとされるワープの様な移動方法の
事だが、日本の武術でこの言葉を使う場合は少し意味が変わる。
高速で幻惑的な歩法を用いて間合いを詰め、そのまま予備動作を
消して攻撃を繰り出すことを指すこの技は、心技体の三要素を長い
年月をかけて積み重ねた先に到達できる極致だ。
それはつまり、御子柴亮真にとって、圧倒的に格上の相手だとい
うことになる。
﹁仕方がありません。奥の手を使わせて貰う事にします﹂
﹁ほぉ、まだ貴公には切り札があるのか! いやいや、実に面白い
男だ﹂
ため息を一つついて肩を竦める亮真の言葉に、ザルツベルグ伯爵
は愉快そうに笑い声を上げる。
﹁えぇ、あるんですよ⋮⋮もっとも、あまり使いたいとは思わない
手なんですがね﹂
柄を握る両手に力が入る。
以前一度だけ使ったこの切り札は、亮真を人を超えた武神の領域
へと誘う。巨獣と呼ばれる怪物を一人で屠れるほどに。
だが、強大な力はその制御に失敗すれば己の身を亡ぼす刃にもな
るだろう。
﹁目覚めろ、鬼哭。そしてその身に宿しし怨念を我が糧に捧げよ﹂
亮真の唇から囁きが零れ落ちた。
1829
第5章第37話︻蠱毒の城︼其の12
御子柴亮真の言葉に呼応するかのように、赤黒く染まった鬼哭の
刀身に無数の文様が浮かび上がる。
それはまるで呼吸でもしているかのように瞬きを繰り返していた。
やがて、刀身が血の様に赤く染まる。
その瞬間、ザルツベルグ伯爵の背中に冷たい物が流れ落ちた。
︵これは一体なんだ⋮⋮︶
戦場ですらも感じた事のない寒気が肌を襲う。
殺気や闘気とは明らかに一線を画す空気。
濃密なまでの死の香りを含んだ風。決して生ある者が纏うべきで
はない気。
それはまさに、鬼気という言葉が相応しいだろう。
ザルツベルグ伯爵は微かな金属の擦れる音を耳にして視線を己の
手へと向ける。
︵震えている⋮⋮恐怖を感じているとでもいうのか?︶
ザルツベルグ伯爵は強者だ。国王であるルピスですら、ある意味
では伯爵に遠く及ばない。 では、その力の源とは何か。
それは圧倒的なまでの個の力。戦士としての実力だ。
ローゼリア王国北部の支配者という立場的な強さや伯爵という爵
位も確かに力を持ってはいるが、それらはザルツベルグ伯爵にとっ
てあくまで付属的なものでしかない。
若き日よりひたすら戦場で人を殺し続け、領内の森やウォルテニ
ア半島より現れる怪物達を屠り続けてきた。
その数は百や千では足りはしない。
その結果積み重ねてきた戦闘経験と培った生気の量に裏打ちされ
た戦闘能力は、ローゼリアの白き軍神と謳われたエレナ・シュタイ
1830
ナーすら凌駕する。
ローゼリア最高の剣士として名高いミハイル・バナーシュも神槍
と呼ばれるクリス・モーガンでもザルツベルグ伯爵を相手にすれば、
ほんの数合で殺されてしまうだろう。
そんな力量を誇るザルツベルグ伯爵が、御子柴亮真の放つ死の香
りに気圧されていた。
﹁私が圧倒されるとは⋮⋮その剣⋮⋮ただの法剣ではないな。これ
ほどの力を持つとなると⋮⋮恐らく魔剣か妖刀の類か﹂
自らの手に握る家伝の法剣へチラリと視線をやり、ザルツベルグ
伯爵は小さく舌打ちをした。
︵これが幾ら家伝の剣とはいえ所詮は名剣の域を出ない。格ではこ
ちらが不利か⋮⋮付与法術で強度を上げているとはいえ、あれとま
ともに斬り合えば容易く刀身を切り裂かれるな︶
大地世界では付与法術を刻まれた剣を法剣と呼ぶ。
刻印された武具は使用者の生気を糧として様々な効果を発揮する。
決して刃毀れを起こさず、切れ味も落ちない剣や槍。
戦場に生きる戦士にとって、これほど素晴らしい武器はないだろ
う。
武具に刻まれた刻印によっては、風を巻き上げ、炎を放つ事すら
可能だ。
付与法術を施された武具は、使用者の力量を一段上に押し上げる。
だが、何事にも上には上がある用に、同じ法剣でも各というもの
がある。
そして、そんな法剣の中でも特に強力な力を持つ物を総称して聖
剣や神槍あるいは、魔剣や妖刀と呼ぶ訳だ。
それら聖剣や魔剣と呼ばれる武具が持つ力は千差万別と言って良
い。
しかし、ただ一つ言える事が有る。
それは、それらの武具がしかるべき力量を持つ戦士に振るわれた
時、その威力は単騎で巨獣すらも屠る事が出来るという事。
1831
﹁面白い。最初に貴殿の事を耳にした時から思っていたが、貴殿は
実に面白い男だ!﹂
ザルツベルグ伯爵の口から洩れた哄笑が部屋に響き渡る。
事実、ザルツベルグ伯爵はこの状況が楽しくて仕方がないのだ。
あの日から、騎士としての誇りを、貴族としての誇りを見失った
あの日から、ザルツベルグ伯爵の心は常に渇いていた。
それは、民から搾り取った財産でも、戯れに犯した少女達の嘆き
でも、贅を凝らした美食でも癒やせなかった渇き。
それはまるで、惰性の様な人生。
しかし今、ザルツベルグ伯爵の心は満たされている。
彼は命のやり取りでしか生を感じられない人間なのだ。
﹁貴殿ならばきっとこの渇きを癒やしてくれる﹂
そう言うと、ザルツベルグ伯爵はゆっくりと剣を鞘に納め、腰を
落とした。
それは、亮真にとって実に見慣れた構え。
﹁その構えは⋮⋮居合い。何故貴方がそれを知っている?﹂
戸惑いを隠せない亮真の態度に、ザルツベルグ伯爵はニヤリと唇
を釣り上げて笑う。
﹁そう、貴殿の世界。裏大地に伝わる技だ﹂
それは実に堂に入った構え。
少なくとも単なる破れかぶれの思い付きではないらしい。
︵向こうは完全に待ちの構え。こちらから攻め掛かるのは不利か⋮
⋮︶
万全の構えから放たれる抜刀術はまさに神速。
亮真には、ザルツベルグ伯爵を中心とした半径三メートルほどの
制空圏が見えていた。
不用意に間合いを詰めれば待っているのは無慈悲な一撃が襲って
くるだろう。
︵となれば、取れる手段は一つだけ⋮⋮︶
亮真は静かに鬼哭を鞘に納めると、ザルツベルグ伯爵と同じ構え
1832
をとる。
制空圏には制空圏。
二人は気を圧縮し溜め込みながら、十メートルほどの距離を互い
にじりじりと狭めていく。
どれほどの時間が過ぎ去っただろう。
その瞬間。二人の見えない制空権がわずかに触れた。
1833
第5章第37話︻蠱毒の城︼其の12︵後書き︶
何時もお世話になっております。
活動報告を更新しております。
大変喜ばしいご報告がありますので、ぜひご覧いただけると幸いで
す。
1834
第5章第38話︻蟲毒の城︼其の13
亮真の右頬から額に掛けて一筋の刀傷が走っていた。
パックリと開いた傷。
顎から胸元へとめどなく流れ落ちる血液の勢いから見てもかなり
の深手と言えるだろう。
﹁避け切ったつもりだったが⋮⋮噂以上の手練れか⋮⋮鬼哭の力が
なければアウトだったな。厳翁にはお礼を言わなきゃな⋮⋮﹂
床に倒れ伏したザルツベルグ伯爵を見下ろしながら、亮真は大き
く息を吐く。
双方、一撃必殺を狙った居合いの打ち合いは、御子柴亮真の勝利
に終わった。
もっとも、それは紙一重の差で何とか掴み取ったというだけの事。
切り札である鬼哭の力を使い、何とか第六のアージュニャー・チ
ャクラまで強引にこじ開け身体能力的には五分まで持ち込みはした
ものの、その反動はあまりにも大きかった。
技量に関しても、ザルツベルグ伯爵の腕は並々ならぬものがある。
呼吸、間合いの取り方、体重移動の滑らかさ。
騎士として習い覚えたであろう剣術は長い戦場で磨き抜かれ、ザ
ルツベルグ流として一つの流派を興しても遜色のない領域にまで達
していた。
大地世界の人間が何故居合いを使えたのか理由は分からないが、
少なくともザルツベルグ伯爵の斬撃は祖父である御子柴浩一郎の一
撃にも比肩し得る程のものあったことは事実。
亮真とザルツベルグ伯爵。この二人が心技体の内、技と体の二つ
に関して互角であったのはまず間違いないところだろう。
では、互角の筈の両者。その明暗を分けたのは何か。
︵心構えの差だな⋮⋮︶
1835
亮真にとって、この戦は自らが生き残る上で避けられない戦。
手をこまねいていれば、何れはルピス女王の手によって叩き潰さ
れていたのは目に見えてる。
それを避ける為には、どうしてもザルツベルグ伯爵領を手始めと
したローゼリア王国北部一帯を支配下に置く必要があったのだ。
一種の背水の陣とも言えるだろう。
ましてや、亮真の双肩には己を信じて付き従う配下の命と未来が
掛かっている。
その重圧は、豪胆な亮真であっても耐えがたいほどのものだ。
それに対して、ザルツベルグ伯爵はどうだろう。
以前のザルツベルグ伯爵であれば結果は違っただろうが、今の伯
爵は世の中に背を向け、享楽に溺れ富を貪る愚かな貴族でしかない。
己の命をも賭した剣と、贅に溺れた男の剣。
その差こそが、両者の運命を決めたと言えるだろう。
もっともそれは所詮、紙切れ一枚ほどの厚さもないあやふやな物。
もう一度勝負を行えば、どちらに軍配が上がるかは神のみぞ知る
と言ったところだろうか。
︵まぁ、二度目なんてないけどな︶
己の脳裏を過った馬鹿げた仮定に亮真は唇と釣り上げて笑った。
それは、まるで自分がスポーツ選手の様な考えが浮かんだ事に対
しての自嘲。
別段、スポーツ選手を貶める気はない。
だが、試合と殺し合いには決定的な違いが存在する。
試合と殺し合いの差。それは、次の勝負があるかないかだ。
試合はあくまでも何時か来るかもしれない本番に対しての予行演
習に過ぎない。
本来の意味から言えば、所詮は予行演習なのだから、極端な話を
するとどれだけ負け続けても構わないのだ。 確かに、競技大会などで行われる試合には選手の人生が掛かって
いるのは事実だし、それに掛ける情熱や真剣さに疑いの余地はない。
1836
だがその一方で、試合には次がある。
その時参加した大会は終わってしまったとしても、次の大会もあ
るいは別の大会も存在しているのだ。
決意を表す意味から命を賭けるという言葉を吐く選手もいるが、
実際死ぬ選手はいない。
いや、選手生命という意味で引退を表明する選手すら限られてい
る。
まぁ、たかが一試合結果で一々命だの選手生命などを賭けられて
も正直ファンとしては困るのだが、それに対して殺し合いは違う。
極々まれに、両者の実力が伯仲しており、立会人の判断で引き分
けになったり、両者相打ちになる場合もあるが、極めて限られた状
況と言えるだろう。
少なくとも、一度始まればどちらか一方の死がその段階で確定し
ていると言っていい。
そこには、もしかしたらとか、あぁしたら勝てたとか言う可能性
を論議する余地がない。
もの言わぬ死体が目の前にあるだけなのだから。
それは、動かしようのない現実。
一体どれくらいの間、亮真は床に倒れ伏すザルツベルグ伯爵を見
つめていたのだろう。
数十秒か、それとも数分か⋮⋮
いつの間にか、亮真の背後に影がこつ然と立っていた。
﹁御屋形様⋮⋮﹂
﹁城内の方は?﹂
亮真は振り向く事なく問う。
今更、誰何する必要はない。
この城は既に伊賀崎衆と黒エルフの精鋭たちの手によって完全に
制圧されているのだから。
﹁問題ございません。シグニス・ガルベイラ殿とユリア・ザルツベ
ルグ伯爵夫人の手引きで当初の予定通りに⋮⋮﹂
1837
﹁そうか⋮⋮ロベルト・ベルトランはどうなった?﹂
﹁そちらも問題はございません。今は薬が効いておりますので、正
午頃までは目覚める事はないかと﹂
﹁良いだろう。とりあえず丁重に扱ってくれ。ただし、見張りは複
数人付けておけよ﹂
﹁畏まりました﹂
亮真にとってシグニスとロベルトは共に手に入れたい大駒と言っ
ていい。
態々手間を掛けてシグニス・ガルベイラの唯一の弱点とも言える
乳母のエルメラを無傷で捕らえたのも、全てはシグニスを自分の配
下へと引き入れる為。
そして、降伏を選んだシグニスは亮真の命に従い、親友であるロ
ベルトに睡眠薬を入れた酒を飲ませた。
シグニスの立場では降伏の証として、他に選択肢はなかったのだ
ろう。
﹁後は⋮⋮城下の鎮圧か﹂
亮真は視線を窓の方へと向けた。
自分達で火をつけたとはいえ、このまま火事を放置するわけには
いかない。
城塞都市イピロスは、もはや御子柴男爵家の領地なのだから。
だが、そんな事は今更亮真に言われるまでもない事だ。
﹁そちらも既にリオネ様が手配済みでございます。ユリア殿の協力
もあり、鎮圧にそれほど時間は掛からないかと⋮⋮お伝えすべき事
は以上でございます﹂
早く勝利の報告を伝えたいのだろう。
影の言葉の中に、若干の興奮が感じられ、亮真は微かに微笑んだ。
﹁分かった⋮⋮行け﹂
その言葉を聞き影は小さく一礼すると、暗闇の中へと消えていっ
た。
︵これでまずは第一歩を踏み出した訳だ⋮⋮︶
1838
今後の処理次第だが、ザルツベルグ伯爵と筆頭に、ローゼリア北
部を領有する北部十家は今回の戦の結果、大きく力を削がれる事に
なる。
それは、御子柴亮真が描く国造りの第一歩だ。
しかし、それは宿怨の敵との死闘が近づいてきた証でもある。
︵後は、ルピス女王がどう動くか⋮⋮力を行使してくるかあるいは
⋮⋮︶
良くも悪くも、この世界は力の世界。
弱者は強者によって喰われ、強者は更なる強者によって喰われる。
終わりなき修羅の世界だ。
︵まるで蟲毒⋮⋮だな︶
毒虫を一つの甕の中に入れ、最後の一匹になるまで共食いを指せ
る中国より伝わった呪術の一種。
その効果の程はさておき、亮真にはこの大地世界がその蟲毒の甕
の様に思えたのだ。
イピロスと言う甕の中では最強の一匹になっても、次はローゼリ
アという甕が待ち受けている。そして当然その先にも⋮⋮
︵だが⋮⋮だからと言って今更引く訳にはいかない⋮⋮︶
亮真はザルツベルグ伯爵の死体へ静かに手を合わせた。
それが、己の手に掛かって死んだ敵に対して贈る事の出来る唯一
の手向けだったから。
1839
第5章第38話︻蟲毒の城︼其の13︵後書き︶
活動報告を更新いたしました。そちらも合わせてご確認いただけれ
ば幸いです。
1840
第5章第最終話︻そして舞台は再び王都へ︼其の1
御子柴亮真がザルツベルグ伯爵を討ち取り、城塞都市イピロスを
制圧してから数日が経った。
ここはローゼリア王国の王都イピロスより南西に位置する国境の
都市トリストロン。
元々、ザルーダ王国との交易拠点の一つとして栄えてきたこの都
市は、非常に豊かで王都に次いで治安が良い事でも有名だった。
﹁まぁ、それも今は昔と言うしかないけれどもね﹂
そんなエレナの言葉にクリスは眉を顰める。
確かにエレナがボヤキたくなるのは理解出来るし、その分析も正
しいだろう。
だが、今このトリストロンがまがいなりにも現状維持できている
のはエレナの力と名声があればこそ。
エレナの不用意な発言一つで何がどう転ぶか予断を許さないのだ。
今この部屋にはクリスしかない。
だからその不用意な一言が表に出る事はないだろうが、どんな事
にも絶対はありえない。
一番安全なのは口にしない事なのだ。 ﹁お気持ちは分かります。ですがここは⋮⋮﹂
濁された言葉の意味を察し、エレナは再びため息をつくと、クリ
スへ次の書類をよこせと手を突き出す。
次から次へと自分の下に上がってくる報告書は、トリストロンの
住民から上がってきた治安改善の嘆願書に始まり、巡回を行う守備
隊からの増員要請。さらにはトリストロンの経済を牛耳る商会連合
からの陳情書
と次から次と切れ目なく送られてくる書類の山にエレナは苛立ちを
感じずにはいられなかった。
1841
無論、捌く自信がない訳ではない。
事実、エレナは戦で占領した土地の統治経験も持っている。
敵国だった民でも上手くコントロールしてきたエレナにとって、
自国民の相手が出来ない訳もない。
だが、能力的なものはさておき、今の状況がエレナにとって負担
であり、同時に大きな越権行為である事は否定できない事実だろう。
勿論、状況が状況であるだけに罪に問われる様な事はないだろう
が、それでも無用なリスクを負いたいわけではない。
︵とは言っても、手を出さなければトリストロンの行政が麻痺する
のが目に見えているわ。そうなれば、ザルーダから援軍要請が来て
も動き様がなくなる⋮⋮︶
エレナの役割は、ザルーダ王国より再度の援軍依頼が来た際に即
応部隊として出陣する事。
一時はオルトメア帝国が兵を引いたものの近いうちに再度侵攻し
てくることは火を見るよりも明らかだからだ。
元々、このトリストロンには領主が居ない。つまり、王家直轄領
の一つであり、都市の行政は王都から派遣された代官が領主の代わ
りに取り仕切っている。
では、なぜ代官ではないエレナ・シュタイナーの下にそういった
行政関係の書類が来るのかと言えば、単純に能力的な問題なのだ。
︵まぁ、アレに今更陳情書を出そうなんて考える人間はいなくて当
然でしょうけど⋮⋮ね︶
脳裏に浮かんだ男の顔にエレナは再びため息をついた。
元々、このトリストロンという街はさほど手の掛からない事で有
名だった。
ザルーダ王国との間で頻繁に戦が起こっていた数十年前ならばと
もかく、日々の巡回以外で守備隊を動かすなど近年では年に一度か
二度あるかないかと言ったところ。
それも、二百人いる守備隊の全てを動員する事などまずなかった
のだ。
1842
商業は十分に発展し、王都からは適度に距離がある。
へき地という程田舎ではなく、王家の目が行き届くかと言われれ
ば微妙な距離。
懐の寂しい下級貴族が代官として赴くには実に旨味のある土地と
言えるだろう。
それこそ、黙っていてもトリストロンを根拠地とする商会がこぞ
って金貨の山を作ってくれるのだから。
だが、ここにきて事情が大きく変わってきた。
確かに、先の内戦時の傷跡がかなり大きかったのは事実だろう。
ローゼリア王国の支配階級を二分した戦いの余波が小さい筈もな
い。
何しろ、双方共に動員出来る兵力の限界を超えて調整したのだ。
国内の生産や治安に影響が出て当然だった。
しかし、本来であればそれらの傷は既に癒えていてもなんの不思
議でもないのだ。
イラクリオンの攻防戦で多少の犠牲は出たが、数万単位の兵がぶ
つかり合った戦としては、意外な程に人的な被害が少ないのだから。
︵そう⋮⋮あの戦の被害は驚くほどに少なく済んだ⋮⋮︶
ゲルハルト元公爵が開戦前にルピス女王へ恭順の意を示した事に
因って、イラクリオン攻城戦は当初考えられていた凄惨さを免れた。
アーレベルク将軍に忠誠を誓う騎士派の残党がイラクリオンの一
部を占拠したのを排除する為に、多少の血が流れた程度だろう。
だが、その後に起こったザルーダ王国への援軍あたりから雲行き
が怪しくなってきた。
多くの農民が田畑を捨ててしまいローゼリア王国全体で流民が増
えた。
都市部、農村部を問わず流民が流れ込んできた結果、治安は極端
に悪化。
そうなると連鎖的に流民の数は増え王国内に盗賊が激増する事に
なる。
1843
そして、残念な事にトリストロンの代官であるヨーゼフ・シュタ
イン男爵にはこの難局を乗り切る力量がなかった。
いや、正確に言えば力量云々以前の話。
何しろ彼は自分の側近を引き連れ急病と称して代官屋敷に引き篭
もっているのだから。
そうなると、エレナが取れる選択肢は一つしかない。
その結果が、今の惨状だ。
︵でも、これもあと少しの間⋮⋮イピロスの戦が終われば⋮⋮次は
⋮⋮︶
先日エレナの下を訪れたゼレーフ伯爵との密談。
その時交わされた会話は、決して臣下として許されるものではな
いが、他に現在のローゼリア王国を立て直す選択肢はない。
その事はエレナ自身が嫌という程に理解している。
そんな思いを心に抱きながら、エレナは書類にペンを走らせ続け
た。
その日の夜、城門を占める寸前に息せき切って駈け込んで来た伝
令がもたらしたのは、イピロス陥落との知らせだった。
そして舞台は再び王都ピレウスへと移る事になる。
そう、無数の思惑が火花を散らしながら鎬を削りながら。
1844
第5章第最終話︻そして舞台は再び王都へ︼其の1︵後書き︶
これにて5章完結です。
次からは王都ピレウスに舞台を移した6章が始まります。
※活動報告を更新しておりますので、そちらもご確認いただければ
幸いです。
今後もウォルテニア戦記をよろしくお願いします。
1845
第6章第1話︻主の資格︼其の1
星一つ見えない曇天。
それはまるで、このローゼリア王国の行く末を暗示しているかの
様だ。
冷たい北風が唸り声を上げながら平原を駆け抜けていく。
闇夜の中にそびえ立つ城塞都市イピロスの城壁を、ぶ厚い雲の隙
間から微かに顔を出した月が照らし出す。
﹁嫌な夜だな⋮⋮﹂
ロベルト・ベルトランはそう言って鉄格子の間から一瞬だけ見え
た血に染まった様な月を一睨みすると、絹のカーテンを手荒に閉め
た。
昔から赤い月は凶兆の証として伝わっている。
確かに、普段は青白い月が赤く染まっているとなれば、不安を感
じるのは致し方ないところではある。
ましてや、ロベルトは生粋の戦人。
命を惜しむ訳ではないが、験を担ぎたくなるのは当然だろう。
ましてや、今のロベルトはこの部屋に閉じ込められた状態。言う
なれば籠の中の鳥だ。
﹁しかし⋮⋮一体外はどうなっているんだ? 戦は御子柴男爵側の
勝利で終わったらしいが⋮⋮﹂
テーブルの上に置かれたブランデーの瓶に直接口を付けて呷ると、
ロベルトはソファーに深く腰を沈ませる。
体中を駆け巡る強い酒精の燃える様な感触。
口の中に広がる芳醇な香り。
ザルツベルグ伯爵に目を掛けて貰えたおかげで、普通の貴族より
は目が利くロベルトですら疑う余地がないほど最高級な酒だ。
何しろ、今ロベルトが口にしたブランデーはどんなに安くても金
1846
貨一枚以上は確実にするのだから。 続いて、テーブルの上に置かれたつまみのチーズを一欠片口に放
り込む。
﹁こんな状況だっていうのに、何度飲んでも堪らない味⋮⋮だ﹂ 実家であるベルトラン男爵家は貴族の端くれだが、決して裕福と
いう訳ではない。
有望な鉱脈でもあれば違っただろうが、残念ながらベルトラン男
爵家の主要産業と言えば農業や畜産が殆ど。
ザルーダ王国との国境近くなので林業も多少は行われているもの
の、領内の需要を満たす程度でしかない。
領民達は日々の暮らしで精いっぱいな状況。
当然、領主もそれ相応の経済力しか持てない。
まぁ、弱小男爵家とはいえ貴族だ。流石に日々の食べ物に事欠く
というような事はないが、嗜好品に金を使う余裕は殆ど無いと言っ
ていい。
無論、過酷な徴税を行えばベルトラン男爵家の領地でもぜいたく
な生活が可能ではあるだろう。
だが、そんな無理は何時までも続く訳はないし、それが理解出来
ないような愚物は家を保てはしない。
必然的に、ベルトラン男爵家は質素倹約を重視する家風になる訳
だ。
しかし、その一方である程度は貴族としての体面を保たない訳に
はいかない。
馬鹿馬鹿しい見栄と言えばそれ前だが、秩序を維持するという意
味合いもある以上、あまり無視する事は出来ないのだ。
ましてや、ロベルトはベルトラン男爵家の世継ぎではない。
気楽と言えば気楽な立場ではあるが、衣食住において常に割を食
ってきたものだ。
だが、幸いなことにロベルトは卓越した武勇を持っていた。
そして、ザルツベルグ伯爵もそんなロベルトを事あるごとに気に
1847
掛けて来た結果、彼はその身分に反してかなり舌の肥えた男になっ
た。
そんなロベルトの目から見ても、今の状況はあまりにも居心地が
良すぎる。
︵酒も飯も食い放題の飲み放題⋮⋮頼めば城の書庫から大抵の本は
差し入れてくれる。外の様子が分からない事さえ除けばまさに楽園
だな⋮⋮ただ、問題は敗軍の将に何でこんな待遇をするのかって事
だが⋮⋮︶
ロベルトがこの部屋に留め置かれて既に一週間が経とうとしてい
た。
ここはイピロスの城の一角に設けられた貴人を監禁しておくため
の部屋。 部屋の広さは大体高級ホテルのスィートルーム程度だろうか。
簡素だが風呂も付いているし、トイレも完備している。
ベッドは柔らかく、寝具も毎日定期的に交換され清潔であり、食
事も城の料理人が手間暇をかけて作った物だ。
頼めば伯爵家の書庫から大抵の書籍は持ってきてくれるので、暇
を潰すにも事欠かない。
唯一の難点は、世話係が若いメイドではなく、完全武装したむさ
くるしい騎士達だという事くらいか。
恐らくロベルトが逃亡を企てようとする可能性を考慮しての事だ
ろう。
︵まぁ、理由は幾つか考えられるが⋮⋮︶
再びブランデーの瓶を呷ると、ロベルトは静かに目を閉じる。
ロベルトは自分の置かれた状況を理解していた。
捕虜を生かしておく可能性は幾つか考えられる。
その中でも特に可能性が高いのは、何かの交渉を行う上でのカー
ドとして使うか、身代金を要求するかのどちらかだろう。
だが、ロベルトはベルトラン男爵家にとって腫物の様な存在。友
人であるシグニスほどではないが、家族から疎まれている事に違い
1848
はない。
特に嫡男や彼を生んだ正室からは蛇蝎の様に嫌われている。
彼らにしてみれば、ロベルトは自分の地位を脅かす脅威でしかな
いのだ。
もし仮に、御子柴亮真がベルトラン男爵家へ何か要求する為にロ
ベルトを人質に取ったとしても、ベルトラン男爵家がそれをのむ可
能性はまずないと見ていい。
︵身代金なんてビタ一文払わないだろうな︶
彼らは自分の手を汚さずにロベルトを始末できると小躍りして喜
ぶだろう。
そんな自分の家族のあさましい姿が脳裏に浮かび、ロベルトは無
言のまま嘲笑を浮かべた。
︵まぁ、そういった事情を知らない可能性も有るにはあるが⋮⋮︶
だが、あれほど緻密な策謀を巡らす男がそんな手抜かりをする可
能性は低いだろう。
何しろ、自分よりもはるかに理性的で義理堅いシグニス・ガルベ
イラをいとも容易く調略して見せたのだから。
︵そうなると後は⋮⋮︶
そこまでロベルトの考えが及んだ時、部屋の扉が軽くノックされ
た。
﹁どうぞ。入ってくれて構わないぜ﹂
ゆっくりと部屋の扉が開く。
そこに立つ男の顔をみてロベルトはゆっくりとソファーから立ち
上がった。 1849
第6章第1話︻主の資格︼其の1︵後書き︶
これより第6章の連載を開始します。
活動報告を更新しておりますので、そちらもご確認ください。
1850
第6章第2話︻主の資格︼其の2
ロベルトは己の目に映る友の憔悴しきった姿に、思わず苦笑いを
浮かべる。
シグニスはロベルトを裏切った。それは間違いのない事実だ。
しかし、親友に裏切られたロベルトよりも、親友を裏切ったシグ
ニスの方がつらそうな表情を浮かべているのはどんな皮肉なのだろ
う。
そんな親友の姿にロベルトは怒りよりも強い憐れみを感じる。
﹁よう、シグニス⋮⋮どうした? 何時にもまして随分と不景気な
顔をしてやがるな。まぁいい、どうだ、旨い酒があるぞ。飲むだろ
?﹂
そう言うと、ロベルトは机の上に置かれたブランデーの瓶を掴み
シグニスの前で振って見せる。
聞きようによっては皮肉とも嫌味とも受け取れるような言葉だ。
しかし、そんな言葉づかいこそが、二人の間では普通のやり取り
だった。
事実、ロベルトにシグニスを責めるような意図はない。
それはただ、長年の友人が浮かべるやつれ切った表情に対して、
友が向ける真心から出た言葉だ。
そんなロベルトの態度に、シグニスは曖昧な笑みを浮かべて頷く。
﹁あ⋮⋮あぁ⋮⋮﹂
普段のシグニスからは考えられない程に弱々しく煮え切らない態
度。
余程、自分の選択に罪悪感を感じている証拠だ。
︵馬鹿な奴だ⋮⋮戦でならどんな策謀だって巡らせられる男のくせ
に⋮⋮自分で自分の首を絞めてやがる︶
部屋に入ろうとせずその場に立ち尽くすシグニスの態度に、ロベ
1851
ルトは小さくため息をついた。
既にロベルトはシグニスが裏切った理由を大方ではあるが察して
いた。
はっきり言ってシグニス・ガルベイラという男は、機会主義的で
あり己の欲望を優先させる傾向の強いロベルトなど足元にも及ばな
い程に義理堅く誠実な人間だ。
今回の戦に参加した人間の中で、ザルツベルグ伯爵が最も裏切り
を警戒しないで済む人間の名を一つ上げるとすれば、それは間違い
なくシグニス・ガルベイラの名だろう。
そんなシグニスが裏切りを選んだとなれば、そこには相応の理由
がある筈だ。
﹁どうした? 何時まで突っ立っている。こっちに来て座れよ﹂
入り口で黙ったまま立ち尽くすシグニスに、ロベルトはもう一度
声を掛けた。
言葉にシグニスもようやく決心が固まったのだろう。
無言のまま部屋の中へと足を踏み入れる。
義理堅く誠実な男。
普通に考えれば、それらの性格は欠点とは言えないだろう。
だが、義理堅いとか誠実とかいう言葉は、必ずしも良い事だけを
齎す訳ではない。
置かれた状況によっては義理堅さや誠実さが己の手足を縛る鎖に
なる場合もあるのだ。
そして残念な事に、戦乱の絶え間ない大地世界においては、多く
の場合で裏目に出てしまう場合が多い。
何しろ、血縁関係がある実の親子ですら騙し合い殺し合いをする
ような様な世の中なのだから。
﹁ほら、お前もグッといけ﹂
ロベルトは一口呷ると、ブランデーの瓶をシグニスの前へと突き
出した。
グラスも使わずに回し飲みなど、まるで野盗か傭兵の様な荒々し
1852
い態度だ。
少なくとも、貴族階級に属する人間の行動ではないだろう。
だが、そんな飾らない姿こそが二人の日常なのだ。
﹁どうした? まさかお上品にグラスをよこせなんて言うつもりは
ないだろうな?﹂
そう言うと、ロベルトはニヤリと笑って見せる。
そんな普段と変わらぬロベルトの態度に、シグニスはようやく酒
瓶を手にする。 そして、まるで何かを振り払うかの様に三分の二以上はあった瓶
の中身を一息に飲み干した。
唇の端から零れた琥珀色の液体がシグニスの胸元を濡らす。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
シグニスが乱暴に手で口元を拭う。
決して良い酒の飲み方とは言えない。
鼻腔をくすぐり口の中に広がる芳醇な香りを楽しむことも、長い
年月を費やして作られた琥珀色の熟成と言う時を目で楽しむことも
ない、ただ体の中に入れたというだけの飲み方。
どれほど職人が丹精込めて仕込んだ酒でも、こんな飲み方をすれ
ば全て台無しだ。
だが、今のシグニスに酒の味を楽しむような余裕はなかった。
ソファーに悠然と腰を据えるロベルトをじっと見つめるシグニス。
まるで何かを求める様な目だ。いや、何かではない。シグニスは
ロベルトに罰を与えてくれと求めていた。
だが、そんな彼にロベルトは何の言葉も掛けなかった。
長い長い沈黙が部屋の空気を重くする。
﹁何故黙っている⋮⋮ロベルト⋮⋮お前は俺を責めないのか?﹂
やがてシグニスは顔を伏せると、心の奥底から絞り出すような震
える声でロベルトに問う。
シグニスにしてみれば、罵倒され命すらも奪われる覚悟で此処へ
来たのだ。
1853
勿論、自らが全てを覚悟の上で選んだ選択だ。
他に選択肢もなかったのだ。最愛にして唯一の家族を守る為には。
だから、シグニスに悔いはないし、それを言い訳にあの夜の事を
正当化するつもりもない。
だが、シグニスの予想とは裏腹に、ロベルトの態度は普段と何も
変わらなかった。
ロベルトはただ黙ったまま酒瓶を呷る。
そしてゆっくりと口を開いた。
﹁責める⋮⋮か﹂
﹁そうだ⋮⋮俺はお前とザルツベルグ伯爵を⋮⋮﹂
﹁あぁ、裏切った⋮⋮な。確かに﹂
ため息と共にロベルトの口から零れた言葉。
そこにあるのは悲しみと憐れみだ、
﹁別に構わんさ﹂
﹁何? それはどういう⋮⋮﹂
﹁エルメダは無事か?﹂
思いがけないロベルトの言葉に、シグニスは伏せていた顔を上げ
た。
驚きの表情を浮かべながら。
1854
第6章第2話︻主の資格︼其の2︵後書き︶
活動報告も更新しておりますので、ご覧ください。
1855
第6章第3話︻主の資格︼其の3
エルメダ。それはとある女の名だ。
年は四十も半ばを過ぎた頃か。容姿は特に優れても劣ってもいな
い。
彼女はガルベイラ男爵の屋敷が在る街の片隅に住む平民の一人で、
気さくで人当たりが良い人間で街の人間から慕われているが、取り
柄と言えそうな物はそれだけだ。
大地世界のどこにでもいる平民の女。
だが、そんな平凡な彼女の存在が、シグニスにとっては何よりも
かけがえのないものだった。
そう、己の矜持を曲げる事すらも厭わない程に。
﹁お前⋮⋮何故その事を﹂
シグニスの口から驚きの声が零れた。
そんなシグニスの姿に、ロベルトは呆れた様と言わんばかりに首
を横に振る。
﹁馬鹿かお前は⋮⋮何年お前と付き合ってきたと思っている。お前
がザルツベルグ伯爵を裏切る可能性なんてそう幾つもあるもんじゃ
ないだろう?﹂
そう言うとロベルトは再びブランデーの瓶に口を付ける。
事実、シグニスは富や名声と言った人間の持つ欲望に関心が薄い。
全くないという程に無欲ではないが、人を裏切ってまで求める様
な貪欲さはない。
金、女、権力、名誉。
多くの人間が道を踏み外す原因となる様々な誘惑も、鋼の自制心
を持つ男にとっては何の効果もない。
エルメダはそんなシグニスの殆ど唯一の弱みといっていいだろう。
﹁俺もあの時、御子柴男爵が何を考えているか気が付くべきだった﹂
1856
﹁あの時⋮⋮初戦を終えた後の事だな。僅かだが攻勢が弱まった⋮
⋮﹂
ロベルトの言うあの時が何時か、シグニスには直ぐに分かった。
自分達は間違いなく御子柴軍の動きに違和感を持ったのは確か
だ。
勿論、それは本当に微かな違和感。
実際に前線で矛を交える人間にしか感じ取れないような物だ。
﹁所詮俺達はただの都合の良い道具だ。あの男の狙いに気が付いた
からと言って、今回の策略を防げたかと言われると疑問だがね﹂
﹁ロベルト⋮⋮﹂
自虐的な表情を浮かべて肩を竦めて見せたロベルトに、シグニス
は掛ける言葉がなかった。
もし仮に、シグニスとロベルトのどちらかに今回の戦での指揮権
をザルツベルグ伯爵から移譲されていたならば結果は変わったかも
しれない。
いや、指揮権とまではいかずとも、もう少し周囲の理解があれば
結果は確実に変わっただろう。
目の前で落とし穴が口を開けているのが分かっているのに、それ
を無視して足を進めなければならないこと程馬鹿げた話はないだろ
う。
だが、物事を自分の意思で決定する権利がないうのはそういう事
だ。
﹁まぁ、それは良い。今更どうなるもんでもないからな⋮⋮それで
? エルメダは今どうしてる?﹂
ロベルトの問いにシグニスは苦笑いを浮かべると重い口を開く。
﹁この城に居るよ﹂
﹁人質として連れてこられたか?﹂
それは今更問うまでもない事だろう。
エルメダはあくまでシグニス・ガルベイラという猛獣を飼いなら
1857
す為の鎖でしかない。
事実、ガルベイラ男爵家はエルメダを長年監禁する事でシグニス
の動きを封じてきたのだから。
だが、シグニスの口から零れた言葉はロベルトの予想を超えてい
た。
﹁いや⋮⋮御子柴男爵家にメイドとして働いている⋮⋮本人の希望
だそうだ﹂
シグニスの言葉にロベルトは軽く方眉を吊り上げて見せる。
﹁ほぅ⋮⋮それはまた﹂
ロベルトにはシグニスのその言葉だけで、エルメダの考えが手に
取る様に察せた。
︵随分と見込んだものだ。あのエルメダが⋮⋮なぁ︶
生涯結婚をしなかったエルメダにとって乳飲み子の頃から育てて
来たシグニスは唯一の息子だ。
血の繋がりこそなくとも、二人の関係は親子。
血縁者から疎まれて警戒され続けて来たシグニスにとってはガル
ベイラ家において今は亡き祖父を除けば唯一の味方と言っていい。
そんなエルメダが自分から侵略者である御子柴男爵家に仕える。
︵シグニスの主として認めた訳か⋮⋮そして、自分が率先して仕え
る事でシグニスに対しての余計な警戒心を解こうとした⋮⋮相変わ
らず良い度胸をしている。大した婆さんだぜ︶
エルメダは今のガルベイラ男爵家に強い不満を持って来た。
愚かな惰弱な嫡男に血統しかとりえのない傲慢で浪費家の正妻と
その取り巻き。
そして、それらの問題を認識していながら解決しようとしない現
男爵。
表向きは決して態度に出した事はないが、エルメダがシグニスこ
そガルベイラ男爵家の当主に相応しいと考えていた事はロベルトも
薄々察していた。
その想いは極めて当然だろう。
1858
シグニスの武勇はこのローゼリア王国全土を見回しても並外れて
いる。
それでいて兵の指揮にも長けているのだ。
王都に出れば確実に近衛騎士団で頭角を現す逸材と言っていいだ
ろう。
それこそ機会にさえ恵まれれば。ローゼリアの白き軍神と呼ばれ
たエレナ・シュタイナーの後を継ぎ将軍位に上る事すらも夢ではな
かったかもしれない。
それ程の男が辺境で長い間燻ってきた。
家族から虐げられ蔑まれ、戦功を上げてもそこに名誉も報酬もな
く、ただガルベイラ男爵家の良い様に利用され続けてきたのだのだ。
母親としてどれほど悔しく悲しかっただろうか。
︵そこに今回の戦だ⋮⋮エルメダにしてみれば千載一遇の好機か︶
ただ人質として御子柴家に居るのではなく、メイドとして仕える
事で積極的な支持を打ち出した訳だ。
エルメダ自身の価値。そしてシグニスの今後の立場をきちんと理
解していなければ、こうも素早く動くことは難しいだろう。
エルメダの狙いは一つ。
︵シグニスに飛躍の機会を与えたいと言ったところか。御子柴男
爵の立場で考えれば、悪い話ではないだろう⋮⋮な。少なくともシ
グニスの忠誠を得る切っ掛けにはなる︶
御子柴亮真の狙いが何処にあるのか、正直に言ってロベルトにも
読み切れてはいない。
兵を引きウォルテニア半島に引き篭もるのか、北部十家を完全に
滅ぼし実効支配に乗り出すのか。
そしてその先の事も⋮⋮
だが、どちらにせよ御子柴亮真が人材を求めている事だけは分か
っていた。
︵そうでなければ俺の待遇の説明がつかないからな⋮⋮︶
シグニスに対する警戒心も相当に低くなる。
1859
監視を付けないという事はないだろうが、少なくともガルベイラ
家で行われていたような束縛や嫌がらせは無くなると考えて良い。
味方からの妨害さえなければ、シグニスは自力で力を示す。
︵自分の身を捨てて子供の未来を切り開いたか⋮⋮羨ましい事だ︶
目を閉じたまま大きくため息をついたロベルトへシグニスは訝し
そうに首を傾げた。
﹁ロベルト?﹂
﹁お前⋮⋮良い母親を持ったな﹂
それは、己が決して持ちえない宝を持つ友に対して告げる、心か
らの言葉だった。
1860
第6章第3話︻主の資格︼其の3︵後書き︶
活動報告も更新しています
1861
第6章第1話︻主の資格︼其の4
﹁まぁ、それは良い⋮⋮それで⋮⋮お前が此処に来たのはエルメダ
の事を伝える為じゃないだろう?﹂
重苦しい沈黙を破り、ロベルトはついに本題へと切り込む。
﹁ロベルト、お前⋮⋮分かっていたのか⋮⋮﹂
﹁当たり前だろう? 敗軍の将にこれほどの待遇をしてるんだぜ。
裏があって当然さ﹂
だが、そんなロベルトの言葉にシグニスは顔を歪めて見せる。
﹁何だその顔は。まさかお前、俺をそこまで馬鹿だと思っていたん
じゃないだろうな﹂
﹁お前の事だからな⋮⋮正直に言えばその可能性はあると考えてい
た﹂
﹁長年の友人に酷い事を言いやがるぜ﹂
ロベルトはそう言うとシグニスを睨み付けた。
見つめあう二人。
そして、どちらともなく吹き出すと大声を上げて笑い合った。
どれほどの時が流れただろう。
やがてシグニスは浮かべていた笑みを消してロベルトへと視線を
向ける。
﹁まぁ、冗談はさておき⋮⋮そこまで分かっているならば単刀直入
に言おう。御屋形様がお前の力を欲しておられる。お前の力を貸せ、
ロベルト。お前はこんな片田舎で埋もれる様な器じゃない筈だろう
? それとも、本気でこのままこの北の辺境に骨を埋めるつもりな
のか⋮⋮お前は己の器量を本気で試してみたいとは思わないか?﹂
それは、普段は冷徹で冷淡ともいえるシグニスが見せた本心。
今まで周囲の目を気にして親友であるロベルトの前ですら口にす
ることなく押し隠してきた望み。それをシグニスは初めて口にした。
1862
だが、彼の言葉で何よりも注目するべきなのは別にある。
その言葉を聞いた瞬間、ロべルトの目が鋭い光を放った。
﹁御屋形様⋮⋮ねぇ﹂
﹁あぁ、御屋形様⋮⋮だ﹂
シグニスはロベルトの言葉をもう一度繰り返す。
その言葉から感じられたのは深い畏敬の念。
たかが呼び方ではあるが、シグニスの本気さが十二分に伝わって
来る。
︵まさかこの数日でシグニスが此処まで入れ込むとはな⋮⋮︶ ロベルトの知るシグニス・ガルベイラという男は、端的に言うな
らば己の本心をあまり表面に出す事のない人間だ。
勿論それは、表面的に見える物ではない。
見かけの態度や言葉遣いだけで判断するならば、シグニスはロベ
ルトよりもはるかに社交的であり友好的だろう。
恐らく、多くの人間がロベルトよりもシグニスを律儀で従順な性
格であると誤解している筈だし、シグニス自身も周囲から自分がそ
う見える様に演じて来た。
だが、それはあくまでもシグニスの本心を隠す擬態でしかない。
親族に恵まれず、側室の子以下の待遇を押し付けられてきた彼に
とって、周囲に己の不満や野望を欠片でも見せる事は、文字通り命
に関わる問題だったからだ。
シグニスの本心を知る人間と言えば、乳母であり育ての親である
エルメダとロベルトの二人位な物だろう。
あれだけシグニスを頼りにしていたザルツベルグ伯爵にすら、シ
グニスは一度として己の心の内を見せた事はない。
いや、長年の親友であるロベルトですら、シグニスの本心を彼の
口から聞いたことは一度としてないのだ。それが⋮⋮
そこでロベルトはある事に気が付いた。
﹁そうか⋮⋮お前﹂
ロベルトの言葉に含まれた意味を察し、シグニスは唇を釣り上げ
1863
て笑うと、机の上の酒瓶に口を付ける。
﹁あぁ、お前の想像通り。今は俺がガルベイラ家を継いでいる﹂
それはつまり、側室の子ですらない平民の娘から生まれた四男が、
正室腹の兄を押しのけて家督を継いだという事だ。
これは大地世界における貴族社会ではまず考えられない措置だろ
う。
如何に能力があろうとも爵位を継ぐ順番は厳格に規定がされてい
る。そう、彼らが生きていれば⋮⋮
﹁お前か? それともエルメダか?﹂
その問いにシグニスはゆっくりと首を横に振った。
﹁いや、俺もエルメダも知ったのは全てが終わった後だ﹂
﹁どういうことだ?﹂
シグニスの言葉が真実であるならば、一体誰がシグニスの兄達を
始末したのだろうか。
﹁あの方のご意思さ﹂
﹁御子柴男爵か?﹂
その言葉にシグニスは深く頷いて見せる。
﹁戦が終わりあの方に初めてお目通りをした際にハッキリと言われ
たよ。俺以外、ガルベイラ家で生かしておきたい人間はただの一人
もいないとね﹂
﹁そいつはまた⋮⋮﹂
敵の一族を滅ぼすというのは言葉にするほど簡単ではない。
相手の領地経営に大きな問題がなく、領民がその支配に強い不満
を持っていない場合などは特にだ。
攻め落とす事と占領し己の領土とする事。二つはとても似通って
いて密接な関係を持ってはいるが、同時に両者の性質は全くの別物
とも言えるだろう。
﹁あの方は全てをご存知ったよ。各領地の地形や町や村の特産物の
有無に始まり、税の額から各家が抱えていた問題点まで洗いざらい
⋮⋮な﹂
1864
その言葉を聞いた瞬間、ロベルトは開戦以来抱いていた疑問が氷
解していくのを感じる。
﹁そうか⋮⋮やはり、綿密な準備をした上でこの戦を起こした訳か﹂
﹁そういう事だ﹂
ロベルトの言葉にシグニスは笑みを浮かべる。
常識的に考えれば、如何に広大なウォルテニア半島を領有すると
はいえ、数年前までは領民など一人もいない魔境。居るのは亜人に
海賊、それと強力な魔獣くらいだろう。
領民の収める税金によって生活する貴族にとってはまさに地獄と
言っていいような土地だ。
それに比べて北部十家の収めるローゼリア北部はイラクリオン平
原の様な穀倉地帯程ではないにせよ、十二分に豊かな土地。
そこを長年支配してきた北部十家との戦力比は本来であれば比べ
るまでもない事だろう。
大人と子供どころか大人と赤ん坊の戦といってもいい。
少なくともザルツベルグ伯爵をはじめとした北部十家の殆どがそ
う思っていたはずだ。
︵単純に戦が強いとか領地経営に優れているってだけじゃない⋮⋮︶
その瞬間、ロベルトの背筋に冷たい物が流れ落ちた。
確かに、そういった部分も無い訳ではないだろうが、重視するべ
き点は他にある。
﹁密偵を放ち、北部十家の事を徹底的に調べつくしていたのだろう
が⋮⋮一体何時からだ?﹂
御子柴亮真が男爵に叙せられ彼の地にやってきたのは今から数年
前の事。
その後しばらくしてからはオルトメア帝国の侵攻に抗うザルーダ
王国へ援軍に赴いている。
時系列を考えると、一番可能性が高いのはザルーダ王国から帰国
して直ぐという事になるが、それでは機関として半年ほどしかない。
だが、僅か半年で北部十家の内情を全て調べ上げるのはかなり難
1865
しい筈だ。
﹁恐らくはウォルテニア半島を領有することになって直ぐ⋮⋮だろ
うな﹂ ﹁シグニス、お前もそう思うか⋮⋮﹂
﹁確信はないが、恐らく⋮⋮な﹂
その言葉の指し示す意味を理解し、ロベルトは思わず生唾を飲み
込む。
︵面白い男だ⋮⋮︶
貴族として最下級でしかない男爵でありながら、その目は常に天
を見上げているのだろう。
そんな男の存在に、ロベルトは己の心の中に熱い何かが産声を上
げるのを感じた。
﹁さて、もう一度聞こう。どうする?﹂
その問いにロベルトは大きく息を吐くと、シグニスの目を見つめ
ながらゆっくりと己の心の想いを口にした。
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第6章第1話︻主の資格︼其の4︵後書き︶
お待たせいたしました。
今年初の更新です。
完結に向けて頑張って更新していきますので、今年もご支援の程、
宜しくお願いします。
※活動報告を更新していますので、そちらもご確認ください。
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第6章第4話︻新体制︼其の1
御子柴亮真がザルツベルグ伯爵を討ち取りローゼリア北部一帯を
治める様になって一ヶ月程が過ぎたとある日の午後。
風もほとんどなく、柔らかい日差しのおかげか、外気は適度な暖
かさを保っている。
まさに、外を出歩くのであれば最適とも言うべき日だ。
ろくな雨具を持たない平民の多くは、雨天に外出などしない代わ
りに、こういった天気の良い日にまとめて用事を済まそうという傾
向が強いのは致し方ない事だろう。
実際、街の大通りは普段以上の賑わいを見せている。
また、ちょっとした庭を持つ家に住むことの出来る人間ならば、
庭木に囲まれながら読書やお茶の時間を優雅に楽しむのも一つの選
択肢に入る様な、そんな穏やかな日。
しかし、実に残念な事にこの城塞都市イピロスを収める支配者の
下にそんな安寧が訪れる事はなかった。
﹁こちらもご確認をお願いします﹂
ザルツベルグ伯爵邸の一角に設けられた執務室で朝から書類と格
闘をしていた亮真は、ローラから差し出された書類の束に苦笑いを
浮かべる。
﹁まだあるのか﹂
手の中に感じるのはかなりの重量感。
ちょっとした筋トレ用のダンベルくらいはありそうだった。
既に時刻は夕刻に差し掛かっている。朝からずっとこの部屋で書
類仕事に明け暮れて来た亮真としてはあまりうれしくない展開だろ
う。
﹁申し訳ありません。これでも内容は厳選しているのですが⋮⋮﹂
そう言うと、ローラは申し訳なさげに頭を下げる。彼女としても
1868
敬愛する主に負担は掛けたくはないのだ。
イピロスを制圧してから今日まで、亮真の睡眠時間が一日四時間
程しか確保できていない状況を理解していれば猶更と言える。
だが、それでも睡眠時間が確保できているだけマシと言えるのだ。
残念な事に新たなる北部の盟主にしか処理できないものがあまり
にも多すぎた。
リオネやボルツと言った古参を筆頭に、新たに登用した新人達を
フル活用しながら仕事を割り振ってはいるのだが、それでも亮真で
なければ判断のつかない事案が次から次へと彼の下に持ち込まれて
くる。
信頼の出来る家臣の数に限りがあるのは、新興貴族故の弊害とい
うべきだろうか。
﹁仕方ないか⋮⋮こちらも色々と無理を言っているからな﹂
そう言うと、亮真は諦めたような力ない笑みを浮かべて書類の束
を机に置いた。
もっとも、ここまで業務量が増えた理由を考えれば、それは御子
柴亮真の自業自得としか言いようがない。
ザルツベルグ伯爵を討ち取り、彼に従った北部十家の当主達を根
こそぎ排除したのは、他ならぬ亮真自身の所業なのだ。
領地が広がれば当然の事ながらその管理の手間は飛躍的に増大す
る。
特に、今回の様な武力を用いての併合は色々と弊害が大きいのは
確かだだろう。
その上、亮真は今回の新領統治に辺り、今までにない統治法を実
施しようとしていた。
それは大地世界において実に画期的な施策なのだが、だからこそ
実現するには様々な試行錯誤がひつようとなる。
その所為で余裕がなくなっているのは否定のしようがない。
︵少しばかり甘く見積もり過ぎた⋮⋮かな︶
頭の中で考えた事を現実に起こす反映するには多大な労力が費や
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される。
極めて当たり前の事だ。
しかし、その当たり前を本当の意味で理解していたのか。
そんな思いが亮真の心の中を微かに過る。
だが、必要か必要ではないかで言えば、亮真にとって今の仕事は
どれも絶対に必要な事だ。
そして、実施するタイミング的にも今しかない事も⋮⋮
ただし、それが分かっていても尚、地味な書類仕事が亮真にとっ
て苦痛な事に変わりはない。
︵まぁ、愚痴を言っても仕方がない⋮⋮とにかく少しでも片付けて
いくしかないか︶
今更、全てを投げ出す訳にはいかないのだ。
御子柴亮真が担っているのは、もはや自分の命一つではないのだ
から。
大きくため息を一つつくと、亮真は気持ちを切り替えた。
だが、どうやら運命の女神は亮真にとってあまりにも底意地が悪
いらしい。
諦めて亮真が手元の書類に視線を向けた瞬間、再び執務室の扉を
ノックする音が響いた。
約束していた来客が到着したのだろう。
壁に掛けられた時計の針へ軽く視線を向け、亮真は椅子から腰を
上げた。
﹁ローラ﹂ 亮真の視線を受けローラは無言のまま小さく頷くと、執務室の扉
を開ける。
次の瞬間、灰色の様な執務室の空気が俄かに彩りを見せた。
それは、彼女の持つ天性の魅力なのだろうか。
﹁お仕事中に失礼いたしますわね﹂
そう言うと、ユリア夫人はにこやかな笑みを浮かべながら亮真の
方へと軽く頭を下げる。
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今日の彼女は前に顔を合わせた時とはまるで装いが違っていた。
ザルツベルグ伯爵の喪に服しているのだろうか。
黒で統一されたシックなデザインのドレスだ。身に着けている装
飾品も、前回に比べてかなり数を抑えているのは明らかだった。
そんなユリア夫人を亮真も笑顔を浮かべて迎え入れる。
﹁とんでもない。さぁ、どうぞこちらへ﹂
亮真は部屋の一角に設えられた応接用のソファーにユリア夫人を
案内する。
﹁失礼いたしますわ﹂
そう言うとユリア夫人はソファーに深々と腰を下ろした。
﹁どうぞ⋮⋮﹂
何時の間に用意したのか、ローラが二人の前に紅茶の入ったカッ
プを置いた。
﹁あら、ありがとう﹂
ごく自然な態度と言葉。
小さく頷いて謝意を表すと、ユリア夫人はほんのわずかな警戒の
色すらも浮かべることなく、カップに口を付ける。
﹁ふふ⋮⋮やっぱり⋮⋮ね﹂
ユリア夫人の唇から微かな笑いが漏れた。
たった一杯の紅茶だが、そこに含まれた意味を正確に理解した証
だろう。
﹁やはり、この場で出すならそれでなければと思いましてね﹂
﹁そうね⋮⋮その通りだわ﹂
両者の間に漂うのは実に和やかな雰囲気。
だが、それは本来であれば異常と言えるだろう。 何しろこの二人は、一ヶ月前に夫を殺された妻と、その夫を殺し
た当事者なのだから。
しかし、ユリア夫人に御子柴亮真への恨みなど欠片もない。
﹁不思議な物ですね⋮⋮男爵様と初めてお会いした時、私は漠然と
した何かを感じたのは確かです。ですが、まさか本当にこんな日が
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訪れる事になるとは考えもしませんでしたわ。それも、これほど早
くとは⋮⋮﹂
﹁えぇ⋮⋮それは、俺も同感ですよ﹂
感慨深げに呟くユリア夫人に亮真は深く頷いて見せた。
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第6章第4話︻新体制︼其の1︵後書き︶
投稿が遅れました。
申し訳ありません。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n1898i/
ウォルテニア戦記【Web投稿版】
2017年3月3日11時05分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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