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6 アクター分析:エージェンシー

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6 アクター分析:エージェンシー
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アクター分析:エージェンシー
本章では会議通訳業界におけるエージェンシーの役割と機能を分析する。
昨今では日本人のプロ野球選手が、アメリカのメジャーリーグに移籍を希望するケース
が増えている。その際、球団側との窓口となり、選手に代わって交渉を行う代理人の存在が
注目を浴びている。会議通訳の世界においても、代理人(エージェント)や仲介業者(エージェ
ンシー)が存在する。本章においては会議通訳業界におけるエージェンシーの機能と付加価
値を検証する。
6.1
エージェンシーとは
6.1.1
語彙
エージェンシー(Agency)という言葉を辞書で引くと、「代理権、本人と代理人との関
係、代理行為、代理職、代理業・・・」と続き、ふたつ目の意味として「仲介的手段、媒体、
媒介者」と出ている(リーダーズ英和辞典、研究社)。別の辞書を引くと「斡旋、世話」と
いう意味合いも載っている(研究社新英和辞典)。次に、エージェント(Agent)という言
葉を辞書で引くと、
「代行者、代理人、仲介者、周旋人」と出ている(研究社新英和中辞典、
リーダーズ英和辞典)。
6.1.2
ビジネス構造
会議通訳業界におけるエージェンシーとは、通訳者の名簿を資産とし、その運用と管理
により、通訳者を求めるクライアントを相手に利益を上げる会社である。通訳者名簿という
資産の活用を通し、クライアントの要望に適合する通訳者の紹介と手配を行う。通訳者を必
要とするクライアントと、仕事をしたいと思っている通訳者のマッチングし、その橋渡しを
する。すなわち、仲介の労をとり、その仲介料(マージン)を売上とするビジネス構造であ
る。マージンの中身は、エージェンシーの付加価値の価格であり、エージェンシーが果たす
機能に対する料金である。
会議通訳業界におけるエージェンシービジネスとは、クライアントと通訳者双方にメリ
ットを提供し、両者からそのサービスに対する料金を徴収し、そこから事業利益をあげるこ
とである。エージェンシーがさらに良質な通訳者を確保していき、資産である通訳者名簿を
拡充していくためには、通訳者に対しても、そのエージェントに登録するだけの魅力を提供
する必要 がある。 優秀な 通訳者 を獲得していくための エージェンシー の資産( てこ=
leverage)は、クライアントに対する営業力や過去の受注実績となる。対クライアントでは通
訳者名簿がウリ(資産)となり、対通訳者では営業力(過去の受注実績)や、通訳者個人で
はクライアントに提供できない組織としての信用力がウリ(資産)となる。
6.1.3
エージェンシービジネスの発生
ビジネスの発生点は、通訳者を必要とするクライアントが、通訳者を求めて、エージェ
ンシーに問い合わせをしてくる場合と、エージェンシーのほうからビジネスチャンスの存在
しそうな見込み顧客に売り込みをする場合の両方がある。接触が成立すると、エージェンシ
90
ーが自社の強みや料金、システムなどを説明する。クライアントは自分たちの求める通訳サ
ービスの詳細を説明する。双方が納得すれば、そこからサービス提供が始まる。クライアン
トの要望する場面で通訳がきちんとできる通訳者を手配することが、エージェンシーの約束
するサービス(Deliverable)である。
官庁や民間の大型案件だと、まず老舗エージェンシーと新興エージェンシーを合わせた
5∼10 社ほどが呼び出され、事業の概要が知らされる。その後、企画書の提出が求められ、
その企画書と見積もりを元に、エージェンシーが選定される。
6.1.4
仲介の手順
仲介の具体的手順としては、まずクライアントの要望を聞き、通訳する内容やスケジュ
ール等に合致する適切な通訳者を選定することから始まる。次にクライアントに代わり、エ
ージェンシーのコーディネーターが通訳者に連絡を取り、その通訳者に仕事の案内と打診を
する。クライアント名、仕事の中身、スケジュールなど、業務の説明がなされ、選定された
通訳者が引き受ける旨の返事をすると、その通訳者とエージェンシー間で、業務請負の契約
が交わされる。クライアントには通訳者が見つかった旨の連絡をし、通訳者名と、場合によ
っては過去の実績表などを提示する。マッチングが成立したあとは、エージェンシーは、双
方の間に立ち、通訳者が業務を全うし、クライアントが満足するのに必要となる環境を整え
る。具体的には仕事がやりやすくなるための資料を準備したり、現場の地図を通訳者に送っ
たり、クライアントや通訳者の双方の疑問や要望に応えることである。当日、無事通訳者が
通訳をし終えると、「きちんと通訳のできる通訳者を手配する」というクライアントへの約
束した提供財が納入されたとこととなり、仲介料を回収することができる。
6.1.5
エージェンシーの社員構成
エージェンシーには、対通訳者の仕事をするコーディネーターと、対クライアントの仕
事をする営業社員がいる。加えて経理、人事、総務等の一般の企業活動に必要な業務を行う
部署もある。社長以下、役職、管理職もあり、一般社員と派遣社員が働いている。主に書類
をコピーして届ける役割のアルバイト社員も多い。通訳者は、エージェンシーの社員ではな
い。
大きな会議であればあるほど、通訳者個人の能力に加えて、エージェンシーが担当者と
してあてがうコーディネーターの質も問われることとなる。コーディネーターとは、通訳者
とクライアントをつなぐ役割を果たす。クライアントの要求を詳しく聞きに行って、それを
通訳者に伝えたり、通訳者のために必要な資料を集めたり、現場では通訳者のためにのどを
潤すための水を用意したりと、いわば、芸能人とそのマネージャーの関係にも通ずるものが
ある。コーディネーターがクライアントと通訳者の間できちんと橋渡し役を果たさないと、
クライアントと通訳者の間で期待値にずれが生じ、双方に不満が生じる。またコーディネー
ターの気が利かないと、通訳者が機嫌を損ねたり、クライアントの反感を買ったりする。本
来クライアントが支払っている通訳サービス料の約 30∼40%をエージェンシーがマージン
として徴収し、斡旋寮およびコーディネート料として双方に事実上請求する価格構造になっ
91
ているため、コーディネーターに対する要求基準は高いと言える。
6.1.6
エージェンシービジネスの要素
通訳産業におけるエージェンシービジネスの要素は、1.供給物の準備(商品開発)の部
2.需要喚起(顧客開発)の部、3.斡旋(需要と供給のマッチング)の部
と分けることがで
きる。
まず、1 の供給物の準備は、メーカーにたとえると、商品企画、商品開発、商品製造等
に例えられる。通訳産業におけるエージェンシーの供給物準備を考えると、通訳者の養成や、
すでに市場で活躍している通訳者の発掘と採用などをあげることができる。2 の需要喚起に
ついては、例えばメーカーの場合には市場調査や、マーケティング、売り込み(営業)など
に相当する活動である。老舗エージェンシーであれば、クライアントから電話がかかってく
るのを待っているだけでも需要が十分にあった時代もあったが、近年では新興エージェンシ
ーの攻勢が激しく、積極的に売り込む必要性が出てきている。ただし、老舗の場合は、実績
の積み立てがあるため、信用力という顧客がもっとも重視する側面で立場が強く、競合他社
にも差をつけやすい。一方、新興エージェンシーの場合は、価格面で譲歩することでとっか
かりを作り、徐々に実績ベースを広げようとする戦略になりやすい。
去年も受注した案件で、今年の開催も決まっている場合など、クライアントにあてがあ
る場合は、早くから挨拶に行き、提案書を提出することができる。他社の顧客であるクライ
アントに向かうときは、自社で今まで手がけてきた案件の中で比較的内容の近いものの実績
を示し、見積もり額をなるべく抑えて提案をする。一番仕事がしやすいのが、他クライアン
トからの紹介が入った場合である。既に自社のサービスを利用していて、満足している顧客
から、別の顧客を紹介してもらえた際は、信用を既に得ているわけであり、受注はほぼ確実
である。
最近ではインターネットなどを見て、クライアントから直接問い合わせをしてきたとい
うこともある。この場合は、おそらくインターネット上、他社との比較を積極的に行ってい
るであろうから、実績内容と価格が折り合うかどうかでエージェンシーが選定される。また、
通訳者から名刺をもらったから、という理由でクライアントが連絡を取ってくることもある。
その場合、通訳者は既にその顧客の信用を得ているため、同じ通訳者を手配すれば顧客は満
足するであろうから、この場合も受注活動は比較的容易である。
3 の斡旋の部は、仲介業独特の、マッチングサービスと言える。クライアントの要望に
かなった人材とサービスを提供する能力にかかっている。この能力は、クライアントの要望
をどのくらい正確に把握できるかという把握能力と、なるべく適した人材を提供するために
できるだけ多く、高品質の人材ベースをかかえ、それを維持する保有力に連動する。
6.1.7
エージェンシーと通訳者との関係
エージェンシーと通訳者との間に労使関係および雇用関係はない。通訳者はそれぞれ個
人事業主であり、エージェンシー会社の会社員ではない。エージェンシーは、クライアント
から通訳者の手配要請を受けたら、通訳者に連絡を取り、仕事の紹介をする。通訳者は、そ
92
の仕事をやりたければ、その案件を請負う。請け負った案件ごとに報酬が支払われる。クラ
イアントはエージェンシーに料金を支払い、エージェンシーはそこから仲介料をとり、通訳
者に報酬支払いをする。会議通訳者は独立した業務請負者であり、案件ごとにクライアント
と会議通訳者をつなぐ役割を果たすのがエージェンシーである。
これは人材派遣会社と派遣通訳者の関係とは大きく異なる。人材派遣業は、自社に登録
した人材を、自社のスタッフとしてクライアントに派遣し、労働に従事させ、その労働分の
対価を得る事業である。派遣通訳者はまず派遣会社に雇用され、派遣会社のスタッフとして
クライアントに派遣される。派遣通訳者の雇用主は派遣会社であるため、給与、社会保険、
有給休暇、交通費等の労務管理はすべて派遣会社によって行われる。
人材派遣業は市場における労働力の需給調整システムのひとつとして制度化されたもの
であり、一方エージェンシー制度は、独立したスペシャリストの個別業務請負を斡旋するこ
とにより、市場で不足している特殊技能のサービスを提供する制度だ、とみることができる。
その場合、エージェンシーと派遣業には機能にも差があると考えることができる。第 7 章「ア
クター分析:通訳者」も参照。
6.2
エージェンシービジネスの機能展開
6.2.1
紹介・仲介機能
まず紹介および仲介機能が考えられる。仲介業者としてのエージェンシーの役割は、通
訳者には仕事を紹介し、クライアントには通訳者を紹介し、両者の間を取り持つことである。
6.2.1.1
紹介・仲介機能に対する通訳者側の需要が、日本独自の商慣習の中で発生する背景
通訳者が仲介者(エージェント)を求める理由は、仕事の取りやすさの向上を目指すか
らである。通訳者が個人として仕事を請け負いにくい環境下では、個人通訳者に仕事を紹介
するエージェンシーの機能は、個人通訳者のニーズにこたえていると言える。日本社会の商
慣習として、クライアントは、専門サービスを依頼するときに、個人に発注するより、企業
化された組織に発注するケースのほうが圧倒的に多い。この要因としては、個人事業主に依
頼する際の個人専門職者の信用性を判断する難しさ、決済システムの制約、そして入札への
参加制限があげられる。
6.2.1.1.1
信用評価
専門技能を持った個人が、個人事業主としてフリーランスの立場で案件ごとに請負契約を結
び企業に対し専門サービスを売るという商慣習が日本では根付いていない。主な理由はその
信用性評価の難しさである。通訳職のように、国家資格やその他認定団体による資格制度が
存在しない職種においては、その信用性を客観的に図ることは難しい。知り合いの紹介を受
けて、信用できるビジネスパートナーだと認めても、それは目に見える形で立証されている
わけではない。あくまでも知人の紹介という伝聞に賭けただけである。他方、エージェンシ
ーのような企業法人であれば、巷の信用調査会社を通して信用力の評価をすることができる。
ビジネスパートナーとしての信用力を第三者機関によって調査することができないフリー
93
ランス(自由業者)の通訳者を、取引先として認めることができない企業の多くは、個人通
訳者ではなく、個人通訳者を束ねる機能を果たしているエージェンシーに向かう。法人格を
持つエージェンシーは、信用調査が可能だからである。ここに、エージェンシーを介して通
訳者の通訳サービスを入手したいという発注側のニーズがある。他方、個人では上記の理由
から仕事が多く取れないという個人通訳者は、エージェンシーに登録することで仕事の機会
が増えることを期待し、エージェンシーに向かうのである。ここに通訳者側の信用力を求め
るニーズがある。これら両者からのニーズを受けて、間に立ち、両者に価値を提供している
のがエージェンシーだと言える。
6.2.1.1.2
決済システム
多くの企業では、専門サービスを購入したときの支払いが、物を購入したときと同じよ
うに、社内の経理システム上で処理される。すなわち買掛金から支払いが発生するまで、社
内の経理システム上にひとつのアカウント(経理項目としての金銭取引のある相手先)とし
て計上されている。最近では経理システムの大幅なパワーアップや革新的なERPソフト
(Enterprise Resource Planning Software = 企業における資源配分をサポートするソフト
ウェア)の登場により、柔軟な扱いが可能となったが、90 年代前半までは、アカウントが、
法人格を持たない個人であると処理しにくいという問題があった。個人か法人かでは税法上
の扱いも違い、経理上の面倒を避けたいがために、個人へ発注することを避ける傾向もあっ
た。
6.2.1.1.3
入札資格
政府が実施する国際会議や多国間会議においては、その通訳サービス提供者を選定する
ためには、入札制度が採られている。入札においては、主催者側から会議の概要が説明され、
入札参加希望者にはその内容に基づいた企画書と見積書の提出が要求される。その企画書と
見積書をもとに、落札者が決められる。すなわち、入札に参加して、書類を提出しなければ、
サービス提供は不可能である。
個人通訳者には、入札参加資格がなく、法人格が必要とされている。したがってもし政
府主催の会議を受注したければ自ら法人格を取得しなければならない。しかし個人の通訳者
単位で法人を設立するのは容易ではない。専門職としての通訳者と経営者としての会社運営
両方を一人でするのは困難である。よって、個人通訳者は、政府の仕事はエージェンシーに
落札・受注してもらい、そのあとで自分の専門職としての本領を発揮するというスタイルを
志向する。このような需要の下、エージェントの仕組みが発達し、エージェントシステムが
定着した。
6.2.1.2
6.2.1.2.1
紹介・仲介機能に対するクライアント側の需要が市場で発生する背景
情報不足
クライアントが紹介・仲介会社(エージェンシー)を求める理由のトップに、情報不足
があげられる。クライアントの多くは、通訳市場について知識をほとんど有していない。会
議の開催が決まり、スピーカーが外国人であれば通訳が必要だと認識しても、それでどこか
94
ら誰を持ってきてどのように通訳してもらえばいいのか分かっていない場合が多い。特に、
会議開催経験や多言語間プロジェクトの実施経験が浅いクライアントは、通訳の市場に関し
て全く情報を持っていないことも多い。社内や組織内の英語の上手な人に頼めるかと思った
り、少し心当たりをあたってみて断られたり、という経験をする。人材派遣会社にも通訳部
門があり、通訳エージェンシーを名乗る会社もあり、業界全体がどのような仕組みになって
いるのか分からないのである。
さしあたってインターネットで情報検索をしたり、知り合いに話を聞いてみたりすると、
料金に大きな幅があることに気がつくが、その差が何に起因するのかは見当もつかない。ク
ライアントの情報不足は、主に 3 つの分野に現れる。いい人を知らない、仕組みが分からな
い、レベルが分からない、という3つである。
6.2.1.2.2
いい人を知らない
英語が得意な人に通訳を頼んでも断られることが多い。それは、通訳は特殊技能である
ため、専門の訓練を受けていないと精度の高い仕事をするのは難しいからだ。一般的に、英
語が得意な人であればあるほど、この点を理解しているため、自分は通訳はできないと断る
ことが多い。英語の得意な知人に断られたあとは、もはや心当たりがなく、専門技能者をど
こで見つければよいのか分からない、となってしまう。
日本では、通訳者として看板を掲げて事務所を構えたり、通訳者として電話帳に自分の
名前を掲載したりしている通訳者は少ない。歯科医や会計士の場合は、街中で医院や事務所
の看板を見かけるが、通訳者の場合は個人事業主であるにもかかわらず、一般向けのマーケ
ティングは全くといっていいほど行われていない。したがって、クライアントにとって、エ
ージェンシーを介せずに通訳者個人を捜し当てるのは、非常に難しい。何かの伝手で、誰か
に紹介してもらう以外は、一般的に、個人の通訳者へのアクセスポイントがほとんど存在し
ないからである。
6.2.1.2.3
レベルが分からない
どこかから通訳者個人の連絡先を入手したとしても、その人にいきなり連絡をするのは
はばかられるであろう。その人物の実力が分からないまま、仕事の依頼をするのはリスクが
高い。その通訳者の技能レベルを保障してくれるものは何もない。通訳は国家資格ではない
ため、通訳者は国家試験を受けているわけではない。国がレベル認定を行っていないため、
評価といえば、市場での評価しか存在しない。しかし、通訳市場についての情報を持ってい
なければ、市場評価は知る由もない。たとえ評判のいい通訳者だと紹介されても、何を持っ
てよい通訳者とされるのか、すなわちどのような基準で通訳者が評価されているのか、分か
る人は少なく、果たして頼みたい分野や領域において、高レベルで高品質の仕事をしてくれ
るのか、判断するのは難しい。
そのような中、エージェンシーは、自らで大まかなレベルわけを行っている。レベルが
高い人は値段がそれだけ高くなるわけだが、予算と必要に応じて、エージェンシーの薦める
レベルの通訳者を手配してもらえば、失敗がないという安心感が得られる。
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6.2.1.2.4
仕組みが分からない
通訳者に仕事を依頼する場合、どのような流れで業務が行われ、完結するのか、また業
界の仕組みや就業の条件についてもほとんど知られていない。報酬金額の水準も然りである。
時給制なのか、プロジェクト制なのか、報酬形態もほとんど知られていない。そういう中で、
通訳サービスをビジネス・生業としているエージェンシーに、仕組みと料金を説明してもら
い、個別の相談に乗ってもらえることは、クライアントにとって心強いことであろう。
通訳者のような知的サービスや専門技能を売る商売の場合、報酬の計算法はさまざまに
存在する。コンサルタントのような、プロジェクト制の場合もあれば、会計士・税理士のよ
うに顧問契約などが結ばれて月額で決められている場合もある。弁護士や医師の場合は国が
定めた統一基準がある。写真家などの場合は、各人の料金設定がある。たとえば撮影した写
真枚数によって請求がされたり、拘束時間や実働時間に応じ時間給で請求されたり、それら
に加えて技術料や能力給が個々で設定されていたり等、いろいろな方式がある。写真家それ
ぞれが独自に料金表を作成している。
通訳者の場合は写真家ほど請求方法に開きはないが、通訳者の技能レベルに応じ、いく
つかの異なった料金請求方法がある。通訳産業には、さまざまなレベルの通訳者が存在し、
通訳だけでなく、秘書業務やその他庶務的な役割とともに仕事をする社内通訳者は、主に時
給で支払われているが、通訳技能だけで「食べていく」いわゆる専門家に相当する会議通訳
者は拘束時間で報酬が支払われている。
実働ではなく拘束時間で請求がなされることは、一般的に知られていない。拘束時間が
3 時間ないし 4 時間以内の場合は半日の拘束とみなされ、半日拘束料金が支払われる。7 時
間実働 8 時間現場拘束までは全日の拘束とみなされ、全日拘束料金が支払われる。会議通訳
に関しては、料金はこの二種類しかないことが多い。30 分の仕事でも 3 時間の仕事でも、
同じ半日料金が請求される仕組みは一般的に知られていないが、この報酬システムの背後に
あるのは、通訳者は専門職であり、知的技能を提供する職人であるため、体(存在自体)が
資本である、という考え方である。すなわちその体を拘束している時間分、請求がなされる
のである。また、一件の仕事を請け負ったら、その時間は他の案件を引き請けることができ
ないため、機会損失が発生する。拘束費で機会損失を埋め合わせるという考え方から、出張
の場合は、移動時間に対しても移動拘束費が発生する。キャンセルの場合も同様の考え方を
もとに、その仕事案件を予定していたがために他の案件を引き受ける機会を失ったとみなす。
よって遺失利益に対して機会損失費用としてのキャンセル料が請求される。これらの報酬慣
習は、一般的にはほとんど知られていないものである。
以上、クライアントは、通訳市場において情報不足である。エージェンシーが情報提供
者となることは、クライアントにとってメリットとなる。またこれら日常的になじみのない
報酬体系や就業条件を、役務提供する通訳者本人から直接告げられるより、仲介媒体である
エージェンシーから告げられたほうが信用力があるとして、クライアントに受け入れやすい
という面もある。
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6.2.2
代行機能
エージェントは仲介者であるだけでなく、代行者でもある。クライアントに通訳サービ
スを提供する営みにおいては、純粋な通訳役務提供以外に、周辺的な作業が多く発生する。
一方、通訳者個人においては時間的・物理的制限があり、すべてを自分で行えないため、代
わりに、エージェンシーが、営業、経理、総務などのさまざまな企業機能に相当する部分の
代行を行う。専門職としての個人事業主である通訳者個人の代行組織としてのエージェンシ
ーの機能がここにある。
他方、クライアントも、エージェンシーに通訳者手配の手間を代行してもらうことによ
り、自らが通訳者を探して短期採用するという手間が省ける。通訳者手配が煩雑な場合は、
それを他社に任せて、自らは本業に専念して取り組み、利益を上げるほうが効率がよいとい
える。
6.2.2.1
通訳者にとっての代行機能
ほとんどの会議通訳者において、就業条件や料金形態を自ら考え出し交渉に時間をかけ
るという個人事業主としてのアイデンテティよりも、精度の高い通訳を提供する専門職人と
してのアイデンテティが強いようである。本来、会議通訳者一人一人は独立請負人の個人事
業主であり、自らが就業規定を設ける立場にあるが、仕事の内容において、極めて高いレベ
ルの集中力が求められる会議通訳者には、職人気質の人が多い。ほとんどの会議通訳者が、
その職務遂行においては、自らの専門能力を高め、最高レベルの技術を提供し、最も精度の
高い正確な通訳をすることこそ最重要と考えている。自分の本職は通訳をすることであって、
その他のマネージメント業務は周辺業務だという意識である。したがって、実際の通訳以外
の「面倒で、さほど重要でない部分」は誰かが代行してくれるのはありがたいのである。
経済的にも代行してもらうことに意味がある。競争優位性に基づく資源の最適配分をふ
まえると、規模の経済が全く生じない環境下で、通訳者が通訳以外のマネージメントや周辺
業務に時間やコストを投入しても、それに見合う利益は得られない。限られた時間と体力を、
どんどん通訳業務に注ぎ、特化するほうが、生産性が高い。
分業特化の理論があてはまる。たとえば資源の制約を考えると、一つには時間の制限が
ある。通訳者が、通訳をしながら同時にマーケティングや営業活動を行うことには時間的な
限界がある。会議通訳者という専門職でありながら、同時に自らを売り込むマーケティング
や営業活動に精を出して行うのは、相当負荷が大きい。両立をするといっても、時間の希少
性からして、マーケティングや営業活動等の通訳周辺業務に力を入れていたら、本業の通訳
をする時間が減ってしまう。通訳に配分するのか、周辺的な作業に配分するのか、資源の最
適配分を考えなくてはならない。
二つ目には人的資本の制限もある。一人身で行う作業では非効率が多く、規模の経済が
生じない。大勢の通訳者のマーケティング、営業、経理活動など、周辺マネージメント業務
を全て一手に引き受けてエージェンシーが一括代行する方が、規模の経済が生じ、効率がよ
い。
97
また、競争優位の観点から見ても、特化することが望ましいと言える。通訳能力におい
ては極めて強い競争優位をもつ A クラスの会議通訳者であっても、マネージメント能力やビ
ジネスセンスにおいて優れているとは限らない。例え、ある会議通訳者の周辺業務の処理能
力が人並み以上であったとしても、「手に職」部分の会議通訳能力が市場で有する極めて高
い競争優位性と比べたら、周辺業務の処理能力の競争優位性はなくなるであろう。したがっ
て例え周辺業務もいとわないという志向性をもっていたとしても、通訳能力と周辺業務処理
能力の希少性の比較をおこなって、競争優位を計算すれば、分業特化して、通訳者は通訳に
専念した方が、生産性が高くなる。
6.2.2.2
クライアントにとっての代行機能
企業や組織が、自らのコアの事業を行いながら、通訳者手配のビジネスをも行おうとす
ると、非効率が生じる。企業や団体、またはその中でも一事業部や一課が、その都度業務に
ふさわしい通訳を選定し、業務依頼をするのは煩雑であると言える。いつも依頼している会
議通訳者一人や二人に連絡をするだけであればそれほど手間にはならないが、一人や二人で
話がまとまらない場合、それ以外の通訳者の連絡先を探しだし、連絡を取り、仕事を引き受
けてくれる人を自らのリスクで選び、業務完了まで責任を負うのは面倒であるといえる。そ
こで、代わりに、自分たちの必要なときに必要な手配を行ってくれる代行業者としてのエー
ジェンシーの機能が有用となる。
このような代行企業を求める動きが強くなったのは、90 年代以降日本経済が停滞期に入
った時期と重なる。
70 年代の高度経済成長時代、80 年代のバブル経済期など、日本経済全般的に企業経営
が上向き状態であった頃は、状況は違った。企業は本業以外の周辺事業にも多角的に手を出
していた。たとえば、80 年代には、多くの大企業が、自らの系列旅行代理店を有していた。
というのは、従業員の多くが出張を繰り返すのであれば、その都度外部の旅行代理店に手配
を頼んでいると、その代理店の上客として、その売上に貢献することになるが、自社の儲け
には貢献しないからである。旅費経費となるだけで、利潤は全くない。そこで、旅行代理店
ビジネスを自社でやってしまおうと考え、系列子会社が設立されたのである。
この考え方は、企業が、自社ビルや保有地についてのビルメンテナンスや不動産事業を、
外部の業者に任せず、自社や関連会社でやるという考えと通ずる。どうせ企業活動に必要な
ことであれば、外部委託をして、外部の業者にそのマージン(利幅)を持っていかれるより
も、自社でやってしまおう、という論理である。同様に、人材派遣ビジネスにも、多くの企
業が参加した。自社向けに人材を派遣するとき、外部の人材派遣会社に頼むと、仲介料や紹
介料が多く発生する。すなわち外部委託では他者の利益に貢献するだけである。そこで自ら
人材派遣業をやってしまおうと判断する企業が多く台頭した。
また、従業員を顧客層として取り込もうという考え方も、この頃広まった。たとえば、
クレジットカード会社を自社でやってしまうという発想である。どうせ従業員の多くが活用
するサービスであれば、自社で提供し、その利潤を自社に計上しよういうのである。
98
このように 80 年代のビジネス拡大期、また業務多角化の時代には、多くの企業が、こ
のような周辺ビジネスならびに総務ビジネスに手を出した。
それが一転し、90 年代半ばには、不景気のあおりでコアコンピタンスへの回帰が叫ばれ
るようになり、「選択と集中」というキーワードが流行った。自らの事業に専念し、その他
の周辺事業からは手を引こうという呼びかけである。多角化路線とちょうど正反対の方向で
ある。不況期に突入した企業は、自らが群を抜く専門性や競争力を有している中核の事業以
外からは撤退し、多様化・多角化ではなく本業専念に回帰する動きが顕著となった。
他方、こういう時代だからこそ、取れる利益はすべて取ろうと、経費削減の意味でも、
自社向けの総務ビジネスをてがける子会社を存続させる企業もあった。例えば 21 世紀に入
った現在でも人材派遣ビジネスを行っているメーカーや金融機関等が存在する。みずほグル
ープなどがその一例である。また松下のグループ企業である松下エクセルスタッフでは、一
般の人材派遣業だけでなく、エージェンシー業務も行っている。人材派遣や通訳者手配を主
に自社向けに行っているが、受注に成功した場合は、他社にも人材を派遣している。
しかし、このように通訳者手配を外部に頼らず、自らが人材派遣会社や通訳者手配エー
ジェンシーを子会社として経営しているのは、いずれも超大手企業に限られている。通訳手
配の案件数が多ければ、規模の経済が働くため、採算が取れるであろうが、そもそも自社で
の需要が小さい場合は、みずからがエージェンシーを経営するメリットはほとんどないから
である。大手の通訳エージェンシーが多数存在する中、それらの専門エージェンシーと競合
し、他社の案件を取っていくのは相当難しい。また取り扱い案件が少ない場合は、エージェ
ンシーとしての実績や専門性を蓄積するのも難しい。系列エージェンシーを設立して、かか
る人件費やその他投入コストに見合うだけの採算性が見越せるのは、きわめて少ない超大手
優良会社に限られていると思われる。また、自社で人材派遣会社を有している場合でも、そ
れだけでは手配が足りない場合もあり、その際には更に外部の会社を利用することとなる。
自社で会議通訳者の手配エージェンシーを作らない場合は、代わりに通訳者手配を代行
してくれる会社はありがたい存在である。
6.2.3
代弁機能
また、当事者である自分が直接言いにくいことを第三者が代わりに言ってくれるという、
代弁者としてのエージェンシーの機能もありがたい。これは通訳者にとってもクライアント
にとっても当てはまる。
6.2.3.1
通訳者にとっての代弁機能
立案、交渉、実施を含むマネージメント能力は通訳能力よりも劣るという多くの通訳者
にとっては、エージェンシーの代弁機能は重要なサポートとなる。
例えば、通訳者の移動手段をあげる。エージェンシーの業務条件および料金規定表では、
会議通訳者の移動に関しては飛行機の場合はビジネスクラス、新幹線はグリーン席を利用す
ると、明言されている。この交通費はもちろんクライアントに請求される。一般企業では役
員クラスでないとビジネスクラスには乗れない会社も多いこのご時世にあって、フリーラン
99
ス通訳者で、特に年若い女性などがビジネスクラスで移動するのは異例なことであろう。も
ちろん、通訳というきわめて高度の集中力を瞬間的に出し切らなくてはならない職業柄、業
務前に疲れてしまい、最高のパフォーマンスが出せずにクライアントに迷惑をかけてはいけ
ないという根拠からこのような移動手段の規定があるわけだが、この要望は、個人の通訳者
では主張しにくい時がある。しかし第三者であるエージェンシーの社員が、自社の請負い条
件として移動条件を明示し、代弁してくれれば両者において取引が円滑に進むと考えられる。
移動手段は一例であるが、そのほかにも、個人の通訳者として主張しにくいことを、エ
ージェンシーを介して集団として主張する、もしくは、エージェンシーに窓口となってもら
い、第三者として代わりに主張してもらう、というのは、通訳者にとってありがたい代弁機
能である。例えば、たかが 10 分の仕事であっても、3時間仕事をした場合と同じ半日料金
を支払うことに戸惑いを覚えるクライアントもいるかもしれない。個人交渉のレベルではな
かなか受け入れてもらえない報酬体系であったとしても、通訳者を紹介するエージェンシー
が一貫してすべてのクライアントと通訳者に同じ条件を適用・要求することで公共性が生ま
れ、このような独自の慣習も幅広く適用されるようになる。
よって、エージェンシーは、通訳者のニーズ、利便性、利益(Interest)を代弁し、クラ
イアントに折衝・主張する機能を負っていると言える。
6.2.3.2
クライアントにとっての代弁機能
クライアントにとっても、通訳者に直接言いにくいことを、代わりに伝えてもらえるエ
ージェンシーの存在と機能は有用である。何か否定的なことを伝えたい場合は、特にそうで
ある。騒音が激しいとか、喫煙室であるとか、通常より好ましくない環境下での仕事を依頼
する場合や、どうしても予算の関係上、通常より安いレートの人を手配してほしいという依
頼の場合など、第三者のエージェンシーに伝えるほうが容易である。また、特に、事後にク
レームを言いたいときなどは、本人には言いにくいことがある。クライアントが通訳者と親
しくなっている場合や、本人に悪気がなかったことが分かるときなど、直接本人には言いに
くいこともある。そういった場合にも、エージェンシーを介して伝えてもらうことで、気持
ちが楽になるクライアントもいる。ここにも代弁機能の有用性がある。
6.2.4
リスク負担機能
エージェンシーはリスク負担の機能(Risk Bearing Function)をもっている。
6.2.4.1
6.2.4.1.1
通訳者にとってのリスク負担
現場に通訳者が向かえない緊急時の代替を探す機能
通訳者は、自分の体ひとつが資本である。翻訳者のように、自分の好きな時間に原稿を
仕上げて、それを締め切りまでに提出すればよいのと違い、会議開催時間中、現場にいて、
その時間において自分の耳と頭と口で通訳サービスを提供しなくてはいけない。したがって、
自分の体に何かあって、急に現場にいけない事象が発生してしまうと、通訳サービスの提供
はできない。するとクライアントに多大な迷惑をかけることなり、今後の仕事の受注状況に
も影響があることも考えられる。このリスクは、「現場性」の仕事を個人でしていて、自分
100
の体(頭脳)が資本であるという専門職すべてに共通する。建築士であれば、自分の図面さ
えあれば、現場に自分がいなくても話が通じることもあるかもしれない。また会計士も、自
分の専門性と頭脳を働かせて書面上にその成果を出せば、後日、現場にいなくても仕事が成
り立つこともあるかもしれない。一方、通訳者は、何があっても現場にいなくては全く役に
は立たず、業務を遂行することができない。この「現場性」は、通訳業における大きな特徴
であり、それゆえに発生する「現場に到着できないリスク」を回避する必要が出てくる。そ
のひとつの回避策が、エージェンシーを介して仕事を請けることである。エージェンシーに
間に入ってもらうことにより、バッファーの役を果たしてもらうのである。
通訳者がいったん引き受けた仕事を何らかの理由で下りることはほとんどない。これは、
信用を大事にする個人事業主の姿勢である。しかし、どうしてもやむをえない状況で、現場
に出向できない事態になったときに、エージェントに連絡をし、エージェントに他の通訳者
の手配を頼むことができる。他の通訳者がその時点で見つかるという確証はないが、仕事に
穴を開けないために、連帯意識を持って共にピンチヒッターを見つける努力をしてもらえる。
というのは、その通訳者を紹介したエージェンシーとしての責任感もあるからだ。自分が、
現場に出向できないほどの切羽詰った状況の時に、一人で精一杯替わりを見つけようとして
も、一人で当たれる人数にも限りがある。またそもそも仕事現場に出向できないほどの緊急
の状況のときに、自分で代わりの通訳者の連絡先を探しあて、電話をしている余裕はなかな
かないであろう。このような事態に陥ることは、実際はほとんどないが、「保険」のような
位置づけで、リスク負担機能をエージェンシーに負ってもらっていると考えることが可能で
ある。
ただし実際は、通訳者の代わりにエージェンシーがリスクを負っているとは言いがたい
実情もある。むしろエージェンシーが仲介者としての機能を十分に果たさなかったゆえに、
通訳者の負うリスクが高まった例も多々ある。
一例を挙げる。エージェンシーからは「研究所での仕事である」ことしか聞かされてお
らず、実際に通訳者が現場に行ってみると、その研究所の中でも原子同位体(アイソトープ)
取り扱い危険区域での業務であった。そこは、危険物取り扱い区域で、放射線被爆空間でも
あった。立ち入る人物は皆、線量測定器を身につけ、防護服をまとい、入室時刻と退室時刻
を記入し、退室時には洗浄シャワー風を浴びる定めがあった。これらの定めが記載された、
古びたポスターが壁に貼ってあったが、現場では守られていなかった。通訳者に防護服も与
えられず、被爆放射線を計るための線量計も身につけられず、洗浄シャワー機も故障中のよ
うであった。放射物・危険物取り扱い区域での通訳業務であることが事前に通訳者に知らさ
れていなかっただけでなく、その中でもさらに規定が守られていない劣悪環境での業務であ
ることは全く知る由もなかった。現場で、精一杯身の安全を確保しようと努めたが、大して
取れる手段の選択肢はなかった。妊娠していたら、母体や子供に影響があったかもしれない
ことを考えると、この通訳者は激しい憤りを覚えたそうだが、なすすべのない、怒りのもっ
て行きようのない個人事業主のふがいなさを同時に感じたそうである。また、このような状
101
況は、エージェンシーを介していたからこそ生まれたという側面もある。個人の通訳者が直
接クライアントとやり取りをしていたのであれば、エージェンシーよりもっと詳しく労働条
件や業務環境を詰めていたであろう。自らが現場に出向く身である通訳者の方が、実際には
現場で業務を行うことのないエージェンシーの社員より、危機感を持って詳細を詰めるのは
当然である。エージェンシーを介することによって、情報伝達の効率性が落ち、情報が制限
されることがあるということだ。したがって、例外的ではあるが、リスクがかえって高まる
こともあると言える。
6.2.4.1.2
料金回収機能
通訳者がエージェントを通さずに仕事をする場合、個人で案件を受注し、通訳サービス
を提供し、料金の請求と回収を行うことになる。通訳サービスの提供は、エージェントを通
じていてもいなくても同じ質のサービスが提供できると考えられるが、料金回収においては、
法人格としてのエージェントが行ったほうが、速やかに支払われる場合が考えられる。とい
うのは、通常は相手が個人であれ法人であれ、通訳サービスをきちんと提供すれば、クライ
アントはその報酬を速やかに支払うのであるが、悪質なクライアントで支払いを渋るような
場合、個人で太刀打ちするのはなかなか困難なことである。このような場面に遭遇したこと
のある通訳者の話はたまに聞く。クライアントに金の支払いを渋られるリスクは低いといえ
るが、万が一のことを考えると、金の回収を代行してくれるエージェンシーは、個人事業主
にとってリスク回避の観点からするとありがたい存在である。
6.2.4.2
6.2.4.2.1
クライアントにとってのリスク負担機能
通訳者を誰かしら手配する機能
エージェンシーの存在は、通訳者が見つからないかもしれないというクライアントのリ
スクを解消する。急な会議の場合、スケジュールのあいている通訳者を見つけるのが困難か
もしれない。もしくは、日程がまだ先でも、知っている通訳者数が少なければ、その中でス
ケジュールのあいている人を見つけるのは難しい。翻訳やプログラマーなど、場所や時間に
とらわれずに仕事ができる知的技能サービス提供者と違い、通訳者は、会議現場にその時間、
身を置いていなければサービス提供ができない職種である。したがって、同じ時間に複数案
件を入れることはできない。国際会議が多く開かれるシーズンでは、通訳者の手配が困難に
なることも多々ある。または、一人当てにしていた通訳者が、急に間近になって断ってくる
かもしれない。エージェンシーに間に入ってもらっていれば、誰かしら通訳者を手配しても
らえるという安心感がある。
6.2.4.2.2
最適な通訳者を選定する機能
クライアントは、通常、通訳者の名簿を有しているわけではなく、レベル別の管理や、
実績の管理はしていない。始めて通訳者を手配するときには、通訳者間のレベルの比較のし
ようもない。何度も通訳者を手配したことがあれば、その経験内ではレベル別、実績別に名
簿の管理がされているかもしれない。しかし、その場合でも、そのサンプル数には限りがあ
り、通常、エージェンシーの通訳者名簿と比べると規模がだいぶ小さくなる。通訳者の名簿
102
を包括的に管理しているエージェンシーに、その手配を依頼すれば、包括的な通訳者プール
から、適切な人材を選んでくれるという安心感がある。
6.2.5
クレーム処理機能
リスク負担の裏返しが、クレームの引き受けである。
6.2.5.1
通訳者にとってのクレーム引き受け・処理機能
たとえば、大幅な時間延長があって、延長料金を請求したい場合や、迷惑な行為を受け
て、不服を述べたい場合など、通訳者が直接クライアントに不服申し立てをするのでなく、
エージェントに仲裁してもらうことができる。間にエージェントが入ることによって、問題
が必ずしも解決するとはいえないが、少なくとも問題の持って行き場があると言える。
また、何か不条理な扱いを受けた場合、通訳者が個人で戦おうとするより、エージェン
シーという公の組織で戦うほうが規模のメリットも得られる。たとえば、自分が通訳した肉
声が知らない場面で二次使用された場合、一人ではどのような対応をすればいいか、分から
ず、そのままになってしまうことが多い。
一方、エージェンシーに訴えれば、通訳業界全体の足並みをそろえて、異議を唱えるこ
とができる。日本のように、エージェンシーが業界水準を形作る業界団体のような役割を果
たしている状況下では、エージェンシーに一定のクレーム処理機能があると考えられる。
6.2.5.2
クライアントにとってのクレーム引き受け機能
始めて通訳者を手配する場合や、また若干の手配経験があっても、手配に際し、不安を
感じるクライアントはいる。レセプション挨拶で大変好ましい通訳をした通訳者が、株式取
得の交渉時に優れた通訳をしてくれるかはなかなか分からない。今回自分が通訳をしてほし
い場面で、適切かつ的確な通訳をしてくれるだろうかと考える。よい通訳者手配ができない
と、よい話し合いができず、よい成果が上げられないと、自分がよい評価を得られないと危
惧するクライアントもいる。そのような危惧を抱いている中、何かうまくいかなかったらど
うしてくれるのか、という不安感をぶつける場所としてのエージェンシーの存在がある。
実際には、エージェンシーが何かをできるわけではなくても、何か不満があったらそれ
を言う先があるという安心感をクライアントに提供しているのである。エージェンシーは、
自らの信用にかけて通訳者を斡旋しているため、クライアントに対しリスクを連帯している
という安心感を提供し、かつ、万が一の際には文句を受け止める機能を持っている。つまり
エージェンシーは、クレームの引き受け機能を負っていると言える。
6.2.6
代表機能
エージェンシーは代表機能(Representative Function)をも負っている。個人を束ねて
集団格を持たせる機能である。個人の主張を束ねて、集団の主張へと組織化する機能とも言
える。組織として規定が設けられ、主張されれば、「個人の要望」から「業界基準」へと変容
し、信頼性が高まる。すなわち、エージェンシーがいくつか原則やガイドラインを作り、す
べてのクライアントに対し同じ条件を適用し、登録している通訳者全員に同じ規定を適用す
ることにより、事実上の統一条件が生まれる。エージェンシーには、個人の通訳者の声を吸
103
い上げ、集団の声としてまとめあげ、事実上の業界基準を設定した上で、通訳者集団を代表
し、クライアントに代弁する機能がある。
通訳者を束ねることである一方、クライアントのニーズを束ねることでもある。クライ
アントの要望に共通項があれば、それを束ねて市場の要望とし、集合体として考えることに
より、通訳者人口は、より焦点のあった役務提供が可能となる。
このような代表機能は、通常、業界団体が担う機能であると言えるが、日本には通訳者
の職業団体が存在しない。通訳者にとっても、通訳者を手配したいクライアントにとっても、
職業団体に類似する何らかの組織が存在し、そこで決められた統一ガイドラインに則って産
業が統制されることは便宜がよい。まとまりのない個人流儀が散在するよりも、産業内に合
議(Consensus)が存在し、サービスの提供側と消費側の双方において共通の認識が存在す
ることが、役務提供の円滑な遂行に役立つ。日本においても他の専門職従事者においては何
らかの統一業界団体が存在することから、職業団体の存在意義が大きいことがわかる。
ヨーロッパでは AIIC(Association Internationale des Interprètes de Conférence、英
語では International Association of Conference Interpreters)という会員制の職業従事者
による業界団体が存在する。この職業団体 AIIC では細かく職業従事の規則が規定されてい
る。AIIC は、いわば中世の Guild にも似た組織と言われることが多い。会議通訳職の社会
的身分や就業条件の向上などに取り組んでいる。例えば、労働条件について言えば、一日の
就業時間について、上限の制限が設けられている。また、同時通訳は何時間までは何人体制
で行い、それ以降は何人体制で行う、といった定めもある。同時通訳ブースという作業環境
についても、換気口がついていなくてはならないことや、高さと横幅の長さについてなど、
規定が存在する。
日本の会議通訳産業においてはこのような団体は存在しないが、実際には一人一人の通
訳者が、それぞればらばらに、別々の基準で仕事をしているのではなく、ある程度共通の合
意事項に基づいて行動している。これは単なる暗黙の了解という次元ではない。これら共通
の合意事項の多くが、日本においてはエージェンシーにより提案され、形作られ、文書化さ
れ、施行(Enforce)されている。
これには背景理由がある。日本では老舗の主力エージェンシーが、初代の通訳者によっ
て設立されたことが挙げられる。初代の通訳者が、海外で通訳をしてきた経験をもとに、海
外での職業慣習と規定を持ち帰り、日本で自らエージェンシーを立ち上げた。日本で通訳者
が希少な存在であった中、エージェンシーがその供給母体となり、通訳市場と業界を作り上
げていった。そして、初代通訳者が創設したエージェンシーが、その自ら作り上げた新興市
場において主導権を握り、業界基準を形成した。また次世代に向けた通訳者養成の取り組み
も主にエージェンシーが行っていた。日本にはまだ存在していなかった世界の通訳業界のノ
ウハウ(Global Standard)がすべてエージェンシーとその創設者のうちに存在していたか
らである。日本の初代のエージェンシーは、主に AIIC の規定を取り入れ、自社の規定とし
た。そして通訳業に従事する関係者らは、徐々にこれを業界全体の水準として利用するよう
104
になった。国家資格やその他の認定制度がない中、初代エージェンシーの設定した取り決め
が非公式な取り決め(Informal Rule)ながらも事実上の業界標準(De Facto Standard)と
なっていった。やがてエージェンシーを介さずに仕事をすることが可能となるほど通訳職が
自立してきた現代においても、歴史的に効力を発してきたエージェンシー規定が、事実上の
業界標準として機能する状態が続いている。したがって、日本のエージェンシーには産業内
の合意事項、業界の共通ルールを形作り施行する業界団体のような機能があると考えられる。
6.2.6.1
通訳者にとっての代表機能と業界団体機能
通訳者にとっての業界団体機能とは、通訳職の存在と意義の社会認知を推進する機能と
考えられる。通訳者個人の振興ではなく、通訳職の全体を社会でアピールするとなると、個
人より団体がそのことを行った方がふさわしい。個人が普及できる範囲には制約があるため
である。前述のとおり、通訳職従事者の専門団体がない日本の現状では、エージェンシーが
その役割を担っているが、それは通訳者人口全体の便益となると言える。
「個人はそれぞれの利潤の最大化のために行動する」という資本主義市場経済の前提で
ある視点からみれば、自らの通訳請負事業を制限してでも通訳職全般の認知を高める活動に
取り組もうとする個人通訳者は多く存在しないであろう。通訳職全体の便益を高めることに
努力しても、個人の見返りが直接的には見込めないからである。公共財の管理には個人でな
く政府が適していると言う考え方からしても同様である。
経済的側面だけではなく、嗜好や向き不向きの観点からみても、通訳者たちが自らまと
まって業界団体を作ろうとする機運は生まれにくいようだ。「一匹狼気質」の通訳者が多い
中、通訳者のグループをまとめ上げて、一丸となって職業の地位を高めようとする「組合リ
ーダー」のような立場を取り、リーダーシップ能力を発揮する通訳者はほとんどいなかった
ようだ。また、例えそのような人物が稀にいたとしても、同調者が多くその動きを支え、組
織を作り、通訳者の中でも加盟したいという意見が大勢を占めない限り、業界統制は成り立
たない。
よって、通訳界全体に貢献するために、ビジネスではなく非営利で職業職従事者団体を
作ろうとする献身的な行為(Selfless Act)をとるために、能力面でも嗜好面でも適格者が
いない中、通訳という職業が社会に根付くためには、法人格を持つエージェンシーが、いわ
ばビジネスの一環として業界統一見解のようなものを作り出し、業界統制をすることとなら
ざるを得なかったといえる。通訳者にとってみれば、何も形のないところで仕事をするより
は、自分の専門サービスを提供する上での基盤があることは望ましいため、エージェンシー
がその役割を担って業界団体機能を果たしてくれることは、面倒が省ける上、本職に専念で
きて、ありがたいというところである。通訳サービス提供に関わる種々の合意事項や、就業
スタイルの骨組みを、エージェンシーが業界代表として体系化し、具体化することは、通訳
者全体の利益にかなっていた。
6.2.6.2
クライアントにとっての代表機能と業界団体機能
エージェンシーの代表機能・業界団体機能は通訳者を束ねることである一方、クライアン
105
トのニーズを束ねることでもある。クライアントの要望に共通項があれば、それを市場の要
望として束ね、集合体として考えることにより、より焦点のあったサービス提供が可能とな
る。
クライアントにとっても、業界共通の就業条件等が定まっているメリットは大きい。そ
れぞれの通訳者が個別に独自の就業条件や仕事のやり方を提唱していると、産業内で需要側
でも供給側でも混乱が生じる。通訳者に依頼するたびに、その通訳者がどのような前提で仕
事をしてくれる(役務提供する)のか、確認しなければならない。通訳サービスは目に見え
るものではないため、サービスがどのような前提でどのように提供されるのか、明確な合意
があることが円滑な取引のために望ましい。
またどの通訳者を手配するのか選定をする際にも、各通訳者で就業条件が異なると、難
しくなる。純粋な通訳技術レベルに基づく経済性比較ができないからである。技術レベル以
外の就業条件や就業前提など多変数を考慮した上での通訳者の比較と選定は、非常に複雑で
ある。エージェンシーの基準による分類分けがあれば、比較的シンプルに予算と条件に応じ
ての人選ができる。
すなわち、業界水準と就業規定を作り実行したエージェンシーの機能と功績は大きいこ
とがわかる。
6.2.7
エージェンシーによる技能レベル判定
日本では通訳者は国家資格を持って認定されるのではなく、大学や大学院レベルでの教
育を持ってその実力が認められるわけでもない。通訳業界においては、エージェンシーに通
訳者として認定されることが、通訳者としての資格や技能認定に結びついているといえる。
技術レベルに関しては、国やその他の公的団体が判断をする仕組みがない。したがって、
エージェンシーが、その料金設定を行う際に、同時に技能レベルの判断も事実上行っている
といえる。
エージェンシーが語学試験を実施して、レベル判定を行うことは頻繁ではない。統一試
験が行われているとなると、エージェンシーが本格的な技能レベル認定審査機関となってし
まう。そのような公の役割や機能を負うことをエージェンシーは望んでいない。エージェン
シーは、自分たちの判断が絶対だという意識は持っていない。あくまでも私的な判断として
の技能レベル判定を行っているというのが、エージェンシーの立場である。
したがって、極端な場合には、あるエージェンシーでは最高ランクであるAクラスとい
うトップレベルの通訳者と判断されていても、別のエージェンシーでは最も下位の導入クラ
スに分類されているということもありうる。ただし、多くの場合は、あるエージェンシーで
一定の評価を受けている通訳者は、他のエージェンシーでも同等の評価を受けているといえ
る。
エージェンシーの判断項目には、基本的な言語運用能力としての通訳の力、クライアン
トの評価、そして同僚の評価、が挙げられる。
106
6.2.7.1
言語運用能力としての通訳力
言語運用能力としての通訳力に関しては、通訳技能試験を語学試験のように実施するこ
とが考えられる。しかし、言語運用能力においては、すでに通訳者は、語学力を駆使する仕
事をしている人たちの中においても最高レベルにあるというのが前提である。単に英語が話
せる人ならたくさんいる。また日本語も英語も両方話せるというバイリンガルもいる。しか
し通訳をするに足る言語運用力とは、文脈やコンテクストの中でのふさわしい言葉の選び方
や、同時通訳の場合は語尾や文末が定まらない時点での文節の組み立て方などが含まれ、複
雑な意思の交錯する場面での通訳は、話し手の微妙なニュアンスを的確につかみ、それを滑
らかで自然な表現で伝えることなどが含まれる。すなわち、単なる語学能力だけではない、
コミュニケーション能力とも言うべき、通訳するために必要な独特の言語運用力が必要とさ
れている。そのような独特な通訳能力を判断するには、その評価対象の通訳者以上の言語運
用能力とコミュニケーション能力の保持者がふさわしい。しかし実際にはそのような判断を
下せる人材は極めて少ない。通訳者以外には通訳能力を判定できない、とする意見もある。
したがって通訳者の技能レベルを判定するための定期的な試験を実施しているエージェン
シーは、圧倒的に少ない。実施している場合は日本におけるトップ通訳者の五本の指に入る
ような人物が審査をしているほか、ネイティブスピーカーが表現の使いまわしの自然さなど
いくつかの項目を審査している。よって、実際には、評価と審査の困難さゆえ過半数のエー
ジェンシーでは、通訳の力を判定する際、試験を行うのではなく、過去の実績を持って言語
運用力としての通訳能力を評価している。ある程度の通訳実績を有する通訳者を新たに自社
で登録する際のレベル判定は、語学や技能の試験ではなく、今までの実績を基に評価するの
が通常である。実績を見ることによって、どの程度の難易度の仕事をどれだけコンスタント
にこなしてきたかを把握することができるからである。
6.2.7.2
クライアントの評価
エージェンシーは、通訳者がどのようにクライアントに評価されたかによっても通訳者
を区別している。通訳業はサービス業であるため、最終的には、クライアントが満足してく
れたかどうかで、仕事の質が評価される。ある通訳者が業務を行なった後に、クライアント
が、「とてもよい通訳をしてくれた」とエージェンシーに言ったり、実際に同じ通訳者を指
名して次回に再度依頼をしたり、通訳者のパフォーマンスが、エージェンシーのビジネス機
会を広げることに貢献したとみなされれば、そのエージェンシーにおけるその通訳者の評価
も高まる。
クライアントが通訳者を評価する基準は、必ずしも語学力の基準とは一致しない。クラ
イアントは語学の達人ではない。だからこそ通訳者を雇っているのである。すると英語の能
力については正当な評価ができていないことも考えられる。クライアントの評価項目として
は、自分の代弁を十分にしてくれたか、自分と同じ立場に立って誠実に伝えようとする姿勢
が感じられたか、自分の仕事が円滑なコミュニケーションのおかげでうまくいったと言える
か、などがあると考えられる。主観的な印象や人間的な相性もあるが、それだけではなく、
107
計量化できずともコミュニケーション能力と呼ぶことのできる独特のスキルをクライアン
トが感じ取っていることは明らかである。たとえば、自分の伝えたいことを、自分の言葉が
不十分であっても、汲み取ってくれる、もしくは汲み取ろうとしてくれる把握力や、話の内
容と個々のトピックの相対的重み付けを的確に捉えられる教養に基づく状況の総合理解力、
文脈を把握するスピードや勘のよさ、頭の回転、分野の背景と専門知識、TPOや現場の空
気に敏感に対応できる人間性や感度、柔軟性等がそのスキルを構成する。また、話し手を理
解するだけでなく、メッセージを伝える相手(聞き手)を理解する洞察力と理解力も必要で
ある。通訳者が手配される場面は様々であるが、その多くが、クライアントにとっての通常
業務外の、非日常場面である。たとえば、刑事裁判前の弁護士との相談、不良品を出してし
まった後のお詫び、労使間の団体交渉など、決してクライアントにとって毎日おきる事象で
はない、特殊な場面でこそ通訳者が手配される。したがって、個別で固有の場面において、
それぞれクライアントの相手方にどうすれば適切に伝わるかを臨機応変に感じ取る能力も
必要とされる。そしてその相手方にふさわしい表現法でメッセージ伝達を行う。例えばクラ
イアントが話している相手方が、話題の内容について素人であれば、専門用語を使わずなる
べく大和言葉で表現すれば、やわらかく伝わる。逆に技術者同士の話し合いであれば、カタ
カナでオリジナル用語をそのまま日本語に置き換えずに使う方がストレートに伝わる。また
は、クライアントの話している相手方が年配の方々であれば、大きめの声でゆっくり通訳を
話すことが望ましいし、聞き手が子供であれば、子供の語彙力の範囲内で言葉選びをし、子
供の理解力に適したスピードでその目を見て話すと、メッセージがよりよく伝わる。聞き手
が、特別な属性を持っている場合は、言葉選びに特別な配慮が必要な場合もある。たとえば
病院で、病人の方々を相手に医者が話す言葉を通訳する場合などは、不安感を刺激するよう
な威圧的でうるさい口調や音調を避け、医師が言った内容を特に正確に訳す必要がある。病
状についてなど、通訳を介すことによって情報があいまいになってしまわないよう気をつけ
なくてはならない。また病人が気落ちしている場合など、病状にかかわる用語には特に気を
つけ、なるべくやさしい態度で通訳をすることも配慮であろう。また、英語や日本語を母国
語としない人を対象に、英語や日本語で通訳をする場面も日本では多い。少数言語(英語外
全般)の通訳者を見つけるのは困難であり、その通訳者の技能レベルにもばらつきがあるこ
とから、聞き手がたとえ英語のネイティブでなくても、彼らに英語と日本語を理解する能力
がある場合は、日英の通訳者が手配されることが非常に多い。少数言語の通訳者手配にまつ
わるリスクを考えると、日英通訳で済ませるほうが簡便であり、安全かつ円滑と判断される
からである。このように日本語や英語を母国語としない聞き手を相手に通訳をする場合は、
現場で通訳をしながら早期に聞き手の英語・日本語の理解力を把握する必要がある。彼らの
理解力に応じた言葉選びをしなくてはコミュニケーションが成立しないからである。
一例を挙げる。アジアの発展途上国各国の青年団が、日本の技術移転プログラムに参加
するため来日するときなど、日本人講師の講演を通訳するため日英の通訳者が手配されるこ
とが多くある。タイ、インドネシア、フィリピン等、複数の言語圏からこのプログラムの参
108
加者が来ているため、聞き手のプロファイルも複雑に構成される。それぞれの言語別に通訳
者を手配するのはコスト的に高くつく。すると、インドネシア人でもフィリピン人でもタイ
人でも、全員がある程度共通で理解できる英語が機軸となる。誰にとっても母国語ではない
が、最低限の理解力はあると判断される。それ以外の言語を選ぶと全く理解できない人が出
てきてしまうため、「最大公約数」として英語が選ばれる。したがって、日英通訳者が日本
人講師の公園を英語に訳すことになるが、聞き手の英語理解力は英語を母国語とするネイテ
ィブの人々に比べて低いため、ネイティブを相手にするときの言葉選び(word choice)で
はなく、ノンネイティブにも分かる基礎的な言葉に徹せねばならない。このような、聞き手
の英語力に応じた表現(Rendering)を臨機応変にするには、ずば抜けた感知力、表現力、
また気遣いが必要であり、その持ちようが通訳者の評価を分ける要件となる。その場で何が
望まれていて、何に対して相手が敏感になっていて、何に対する配慮が必要かを感知する能
力は、通訳者に対するクライアント評価の大きな部分であろう。定量化不可能で、必ずしも
言語化および明確化されていないが、通訳者がクライアントに評価される際には、これらの
人間的要素が無意識に評価項目となっていると考えられる。
また、中には、クライアントも英語の達人ではあるが、自分の本業に専念するために、
通訳にエネルギーを注がなくて済むように専門家である通訳者を手配する場合もある。たと
えば、外国法務弁護事務所の日本人弁護士など、アメリカで弁護士資格を取得するだけの英
語力を持っている場合でも、弁護士としての業務に専念するために通訳者を別途立てること
が非常に多い。証人や判事の言葉をすべて落とさず漏らさず正確に通訳するにはフルタイム
の注意力が必要であり、たえず集中して専念していなくてはとてもできない。通訳者も宣誓
してから通訳するため、通訳者の責任もとても大きい。その他のことをする余地はない。弁
護士がいくら語学に堪能であっても、尋問の論理組み立てなどに注力するためには通訳は専
門家に任せる必要がある。
このようなクライアントの場合、英語力の判断はかなりつくため、通訳者の技能評価を
する際、語学力の評価の占める割合が高い。英語が自ら得意な日本人クライアントには、英
語が特にきれいな通訳者が高く評価される傾向が見られる。発音がネイティブに近いこと、
それが求められる場面では自然な表現が使えること(証人によるたどたどしい証言の場合は、
たどたどしさを残した忠実な訳をしなくてはならない)、そして母国語レベルのスピードで
言語処理・言語運用ができることが評価項目となる。通訳を介してもいかに自分の仕事のテ
ンポが乱されずに、スピーディーにことを進められるかが、評価を分けるポイントとなる。
クライアントは、以上に挙げた定性的な要素をかんがみ、エージェンシーに「いい通訳」
や「いい通訳者」だったかどうかをフィードバックする。クライアントが「いい通訳者だった」
とエージェンシーに伝えれば、エージェンシーはその通訳者を高く評価する。次回の発注に
つながる可能性を高める仕事をしてくれたからである。次回同じクライアントから依頼が来
た際に、最初に声をかけるのが、この再発注につなげる仕事をしてくれた通訳者に対してで
ある。
109
6.2.7.3
同僚の評価
(Peer Evaluation)
エージェンシーによる評価のもうひとつの重要な部分として、同業者である通訳者の評
価がある。パートナーの先輩通訳者がどのような評価を下すかによって、新人通訳者のエー
ジェンシーにおける信頼性が決まる。通訳者の評価は通訳者にしかできない部分がある。同
じ技にまい進しているものにしか捉えられない微妙な通訳における機微があり、その部分の
評価には同じ通訳者が一番適しているのである。これは技術の面の評価である。特にその評
価が、ベテラン通訳者による場合、経験に裏打ちされた技術評価として、エージェンシーは
その言葉を重く捉える。
また、エージェンシーの社員は、現場に常駐するわけではないため通訳者の仕事の出来
をその場で評価できない。しかし一緒に通訳をしているパートナーであれば、その技術評価
が現場で可能である。よって、通訳者から、パートナーの通訳者についてのフィードバック
があった場合、エージェンシーはその言葉を重視する。
加えて同業者評価の中には、人間的な意味での一緒に仕事のやりやすさという協調性の
観点からの、パートナーシップの評価もある。コミュニケーションをつかさどる立場にある
通訳者が、同じ通訳者から見て仕事をともにしたいと思う相手かどうかは、エージェンシー
から見ても重要な評価ポイントとなる。通訳業務そのものは基本的に個人で行う作業である
が、パートナーの通訳者と健全なチームワークを築けるかどうかで、通訳役務のアウトプッ
トの質も多少なりとも影響を受けることが考えられる。
チームワークの例を挙げる。通訳者は通常時間で交替する。同時通訳であれば 15 分毎
に交代し、逐次通訳であれば 30 分程度で交代するのが一般的である。同じ講演者の話を、
数人の通訳者が時間ごとに分担することも頻繁に起こる。その場合、話題と演者が同じであ
る以上、話に出てくる主要用語を統一することが望ましい。しかし一つの単語や情報単位を
訳すのには何通りもの表現の選択肢があり、その中でどれを採択するか、通訳者間で相手の
訳を聞きながら、調整をする。それによって複数の通訳者が一つのスピーチを分担してもア
ウトプットが分断されずに自然につながるようになる。例えばスピーチに出て来る人物を
「さん」と呼ぶのか「氏」と呼ぶのか、「様」と呼ぶのか、一貫性を持たせることも考えら
れる。このような細かい部分で、どのように、またどの程度気持ちよく協調し合えるかで、
通訳者のパートナーシップが問われる。
また、通訳技能そのものは個人の能力や技術であっても、実際の作業場面においては、
お互いに助け合うことが多い。席の配置上、講演者と通訳者の距離が遠かったり、間にノイ
ズを発生させる障害物があったり、環境上の制約から、音がどうしても拾いにくい場合があ
る。その際、片一方の通訳者の耳に聞こえても、その時間を担当している通訳者には聞こえ
なかったら、聞こえたほうがサポートをして、紙にその言葉を書くなどし、補っていく。誰
かが咳払いやくしゃみをしただけで、肝心の音が聞こえなくなることはよくある。したがっ
て、休んでいる番の通訳者も、いつでもサポートできるように、注意を払っていると親切で
あり、パートナーとして相手の役に立つ。
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急遽新資料が会場で配布されるときなど、休んでいるほうの通訳者が急いで一部もらい
にいって、その時間担当している通訳者に渡すことも必要である。本来、講演がスムースに
進むためにも通訳者に真っ先に資料を持ってきてほしいのが通訳者の本音であるが、ブース
に入ってしまうと存在が忘れられていることもある。そのような場合は手の空いている通訳
者が積極的にクライアントに向かい、資料集めをすることで、通訳が途切れることなくスム
ースに行える。
また同時通訳ブースで通訳しているときは、演者の口元が見えないことが多い。講演者
が前面スクリーンに映し出されるパワーポイント資料の一部分をポインターで参照してい
るときも、通訳ブースからだと字が小さくて読めないことがある。そんな時、パートナーの
通訳者が、情報を補って、主担当の通訳者をサポートすると、業務が円滑に行える。このよ
うなサポートを気持ちよく提供し合える人間性と、お互いの能力が高まるようなサポートを
提供しあえるプロ意識が、パートナーシップと連携協力の基盤である。
中には、メモをとってあげたつもりが、かえってその紙をめくる音がうるさく、主担当
の通訳者に迷惑を結果的にかけてしまうこともあれば、逆にまったく気が利かず、メモを取
って欲しいと思われている場面で何か他のことをしている通訳者もいる。
プロ意識を持って、同僚と連携していく意志は通訳者にとって必要なものであり、この
性質は、エージェンシーも重要視している。パートナーから、「一緒にやりにくい相手」と
思われている通訳者は、エージェンシーからも高く評価されない。通訳者が「あの通訳者と
は組みたくない」とエージェンシーにその好みを伝えていることは多く、単なる嗜好性の場
合を除き、一般的に他の通訳者に敬遠される通訳者は、プロ意識を持ってパートナーシップ
を基盤に連携する能力に欠けているとエージェンシーに判断されてしまう。同僚の評価
(Peer Evaluation)をエージェンシーは重視しており、現場における通訳者間の連携能力
については、エージェンシーは同僚の評価をもって判断することが多い。
6.3
まとめ
以上、日本の会議通訳業界におけるエージェンシーの役割と機能を概観した。日本の通
訳産業がいまだ成熟産業ではなく、規制、規定、資格、統一評価基準等が存在しないこと、
また日本の経済社会システムがフリーランスの就業スタイルを積極的に支持・奨励する状況
にない現状を鑑みると、個人の専門職従事者であるフリーランス通訳者と企業やその他クラ
イアント組織の間を橋渡しする社会的役割を持つエージェンシーの存在意義は大きいとい
える。
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