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第 4 節 カンボディアの歴史と文化
カンボディア援助研究会報告書 第 4 節 カンボディアの歴史と文化 −クメール文化の深い精神性を探る− 石澤 良昭 1. 国際政治に翻弄されたカンボディア現代史を 理解するために カンボディアに関する 「生」 の情報は主に国営通信 社などの公式発表に限定され、自由な取材活動や調 査研究が許されていなかった。カンボディアについ 1−1 1975年の「解放」の中味は何か −ヴィエトナムとの「特別な関係」− カンボディアの人たちにカンボディアらしさを何 ての数多くの報告書・証言集・記事などはこうした 制約下で発表されたものであり、政治的情報操作の 疑いもあり、慎重に扱わねばならない。 で感ずるかと聞くと、まずクメール語を話し、もと 概論としてとらえれば、ポルポト政権につながる から国王がいて、仏教を篤信している人たちのこと カンプチア民族統一戦線 (1970) とその後のヘンサム であるという。これがカンボディア人としての存在 リン政権につながる救国民族統一戦線(1978)は、崇 感(レゾレデートル)である。カンボディアは1970年 高な政治理念や民族解放の理想を掲げて政権の座に からヴィエトナムとラオス両国の内戦に連動する形 ついたが、実際に政治を執り行なっていく段階で、 で反アメリカを掲げて解放闘争に加わり、そして、 理想と現実の間にある大きな落差や実務面における 「解放」という名の国内統一を1975年に実現した。そ 様々な困難にぶつかっていた。国内外において表明 の意味で1975年は、カンボディアにとってこれまで した崇高な理念や主張は、そんなに簡単に実現しな 続いてきた伝統的な王国体制の枠組みを社会主義路 かったのである。結論から言えば、理想と現実は全 線に基づく新しい枠組みに作り替えていく出発点と く別であった。これがカンボディアの人々を苦難に なったし、現代史における一大転換点となった。 陥れ、直接的な災厄となって降りかかったのであっ 1985 年はヘンサムリン政権下においてフン・セン た。国民感情の中には潜在的に反ヴィエトナムの気 外相が首相に選出された年である。そして「カンボ 持ちが強いが、そのヴィエトナムに支援されてポル ディア解放」後十余年の現実は、依然として内戦の ポトの恐怖政治から解放され、その結果へンサムリ 戦火がくすぶり、駐留ヴィエトナム軍とヘンサムリ ン政権が誕生した。人々にとっては不可解な組み合 ン軍がポルポト派の本拠地マライ山を攻略したこと わせであった。さらに人々にとって理解できないこ もあった。カンボディアの人々にとっては、苦難の とは、カンボディア内戦に介在したヴィエトナム軍 連続であった。ポルポト政権下では、恐怖の虐殺が と中国が1975年以降は急に反目し、中越が武力衝突 行われていた。その後のへンサムリン政権下におい を起こした(1977)ことであった。それは、かつては ても、第三次インドシナ戦争がタイとの国境附近で 反米救国を高らかに掲げて共闘と連帯をうたいあげ 続いていた。カンボディアは1979年にヴィエトナム た身内同士の戦いであった。 と「友好協力条約」を締結し、ヴィエトナム軍の駐留 を認め、様々な分野でヴィエトナムから支援があっ た。ヴィエトナムがカンボディアとこうした政治 的・軍事的な「特別な関係」を結んだことに対して、 82 1−2 ポルポト派とは何か −搾取のない理想的社会の実態− 1970年北京で旗揚げをしたカンプチア民族統一戦 世界世論は自由と独立を掲げる民族解放の指針とは 線(以下「統一戦線」)には、反米・救国を掲げて諸勢 逆の結果を作り出したと厳しく非難した。 力を糾合し、クメール・ルージュ系(ポルポト派)の ヴィエトナムとの 「特別な関係」は経済分野にも波 勢力、クメール・ベトミンの流れを汲むクメール抵 及し、ヴィエトナムで採り上げられた新経済政策の 抗派、旧人民党系、シハヌーク支持派などが参画し 方針が、やはりカンボディアの経済政策の中に反映 ていた。統一戦線は反ロンノルと反米を掲げ、ヴィ し、例えば、カンボディアの請負的色彩の強い「連帯 エトナム戦争と同時進行という形をとりながらカン グループ」制など多くの事例が見られる。 ボディア国内に戦闘を拡大していった。その当時国 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 内では、クメール・ルージュが地方において小規模 しかし増産体制を推進するには多くの問題が露呈 ながら武装戦線を行っていた。これらの武装小勢力 してきた。例えば測量の専門家がいないまま建設さ はカンボディア共産党の書記長ポルポト (サロート・ れた新しい灌漑水路は、水が流れなかった。市場経 サル)、キュウ・サンポーン、フー・ニム、フー・ユ 済を否定し、通貨を廃止した。同政権下では、新憲 オンなど、かつてのパリ留学生左翼グループが小集 法に掲げた搾取のない理想的な社会は絵に描いた餅 団を個別に率いて各地に分散し、抵抗運動の指揮を であった。 とっていた。 この統一戦線がシハヌーク殿下の参画により大き 1−3 カンボディア・中国・ヴィエトナムをめぐる く膨らみ、中国側の強力な支援をとりつけていた。 国際関係 こうした背景が、後に第三次インドシナ戦争の原因 −ヴィエトナムの覊絆からの脱出を求めて− の一つになるのであった。そして 1975 年 4 月 17 日、 カンボディアの政治体制を通観すると、権力をめ プノンペンがポルポト派を中心とする勢力により占 ぐっていつも分裂・分派が起こり、それがカンボ 拠され、新政府の民主カンボディアが成立した。 ディアをねらう外国勢力と結びつき混乱を増幅して その新憲法には、貧富の差のない幸福で平等な社 いくのが常である。クメール・ルージュは 3 派に分 会の建設を掲げている。そのためにこれまでの伝統 かれていた。第一のグループは、闘争の初期におい 的な農村体制を打ち壊し、新しい集団労働方式の協 てカンボディア北東部山岳地帯に拠点を持っていた 同組合(サハコー)を組織した。この協同組合は、一 ポルポト、イエンサリを中心とした人たちで、毛沢 種の人民公社的性格を持ち、これが日常生活から生 東思想の影響を受け、1975 年からは政府の中枢部を 産活動までの一つの組織単位となり、個人の自由な 掌握していた。政策などに異議を唱える高官やその 生活はなく、衣食住全てが集団管理のもとにおかれ 同調者を逮捕し、容赦なく粛清を行っていた。第二 ていた。現場では組織(オンカー)と呼ばれる政府委 のグループは、南部地方に拠点を持っていたフー・ 員の指揮のもとに、その成員だれもが労働を分担す ニム、フー・ユオンを中心とした人たちで、中国文 るという仕組みであった。さらに、過去の伝統的村 化革命の礼讃派であった。このグループは解放後す 落との心理的つながりを断ち切るために農民たちの ぐに政治的粛清を受けてしまった。第三のグループ 居住地の入れ替えを実施し、200 万人といわれるプ は、ヴィエトナムと国境を接する東部地方を押さえ ノンペンなどの都市住民を強制的に全国各地のサハ ていた旧クメール・ベトミン系の流れを汲む人たち コーに振り分けたのであった。そしてこのサハコー で、ヘンサムリンなどを中心に親ヴィエトナム派を 組織を動員し、灌漑網の建設と農産物の増産が実施 作っていた。この3派の確執が、粛清を増幅していっ された。組合成員は 1 日 10 時間以上も炎天下で重労 た。このポルポト政府は、カンボディアが初めて外 働に従事し、健康を損ねた多くの人たちが病死した 国の支配と従属から脱し、真の民族独立が達成でき ようである。現場ではオンカーが反抗する者や怠業 たと自画自賛していた。しかし国内ではかつて経験 の素振りのある者には容赦なく制裁を加え、処刑し したことのない社会主義体制の大実験が実行に移さ ていたようである。国内の移動が禁止され、学校が れ、協同組合の現場では多くの犠牲者が出ていた。 閉鎖された。 真相は不明のままであるが、国内の混乱や現場での 教育といえば、政労教育が実施されていた。この 不満から国民の眼を外へ向けさせるために、これま ポルポト政権は、各地にあった社会施設やぜいたく でカンボディアの施政者が用いてきた常套手段であ 品を作る工場などを打ち壊し、 外国製品を排除した。 る対ヴィエトナム憎しの看板で民族感情を煽り、意 外国語を話す人や専門職の知識人は敵視され、不自 図的にヴィエトナムとの国境紛争を引き起こした。 然な死に追いやられた。仏教などは有害な宗教とし 中国は、カンボディアに対して1970年の統一戦線 て禁止され、寺院やパゴダ、キリスト教の教会やイ の結成以来強力な支緩を行ってきた。ポルポト新政 スラームのモスクなどが爆破された。僧侶は強制的 権は中国への傾斜を強め、中国と緊密な連帯関係を に還俗させられた。 結び、それを背景にカンボディアの自立独立路線を 83 カンボディア援助研究会報告書 確立しようとしていた。それによってヴィエトナム 1−4 ソ連邦・東欧圏の崩壊が「カンボディア和平」の の覊絆から離脱できると考えていたようである。ポ 追い風になった−同床異夢の3派連合政府− ルポト政権成立直後からカンボディアには中国から ヴィエトナムとの国交断絶後、中国は大量の軍事 使節団が到来し、 大量の援助物資が送達されていた。 物資をコンポンソム港に届け、軍事顧問団も派遣し 1977 年 9 月ポルポト首相が訪中し、軍事援助などが ていた。1978年5月にはカンボディア側からは、ヴィ 加速されてきた。そしてその 3 カ月後の 12 月 31 日 エトナムに対し侵略の停止、インドシナ連邦案 に、ヴィエトナムとの国交断絶が発表された。特に (ヴィエトナム、ラオス、カンボディアが連帯して連 メコン河デルタ地帯では両国軍の激戦が続いていた。 邦を作る)の放棄など 4 項目の和平提案がなされた。 国境紛争の第一の背景は、カンボディア人の対ヴィ ポルポト政権は政府内部の親ヴィエトナム派を次々 エトナムへの心理的恐怖感にあった。それは両民族 と逮捕して処刑していた。親ヴィエトナムの人たち の複雑な歴史的葛藤と軋轢の中で形成されてきたも は、ヴィエトナムへ逃げ込んだ。親ヴィエトナム派 のである。結論からいえば、カンボディア人には の軍人たちが、ヘンサムリンを中心に 1978 年 12 月 ヴィエトナムに併呑されてしまうという潜在的危機 3 日にカンプチア救国民族統一戦線を結成した。ポ 感が内在していた。中国はそうしたカンボディア人 ルポト側及び世界各国はこれをヴィエトナムの傀儡 の民族感情を巧みに汲みとっていた。カンボディア 組織であると決めつけた。 にとっては、中国の後ろ楯はヴィエトナムの影響下 から離脱できる好機であると考えたのであった。 ヴィエトナムに在住するカンボディア人などを集 めた救国戦線軍は、同年 12 月 25 日から精鋭ヴィエ 紛争の第二の背景は、 「コーチシナ」の帰属問題に トナム軍とともにカンボディア東部、南東部で大攻 端を発していた。1949 年 3 月のフランス・ヴィエト 勢を開始し、第三次インドシナ戦争が勃発した。両 ナム新独立協定において、 「コーチシナ」が南ヴィエ 軍は 1979 年 1 月 7 日に首都プノンペンを占領し、1 トナム(当時)に帰属すると取り決めた。それに対し 月 10 日にカンプチア人民共和国が成立したのであ て、1954年のジュネーブ会議においてカンボディア る。 シハヌーク殿下は陥落前にプノンペンを脱出し、 は「コーチシナ」の領有権を主張し、その態度を留保 北京へ舞い戻った。タイ国境まで退却したポルポト した。カンボディアはコーチシナの帰属問題が未解 政権は、ヴィエトナムを侵略行為と糾弾し、徹底抗 決との態度を終始一貫して表明し続けてきたし、そ 戦を声明した。 れは現在も続いている。 第三の背景は、カンボディア東部の一部を通る ヘンサムリン政権はヴィエトナムと平和友好協力 条約を締結した。この条約は、ヴィエトナム軍のカ ホーチミン・ルートにはヴィエトナム人兵站部隊が ンボディア駐留と救国戦線軍の支援戦闘を合法化し、 居すわっていたが、終戦後もそのまま既成事実化す ヴィエトナムとの「特別な関係」を確認したもので るのではないかということを憂慮したからであった。 あった。中国はこうしたヴィエトナムを懲罰するた ヴィエトナム戦争の激化に伴い 1960 年代後半から めに1979年2月17日にヴィエトナムへ侵攻し、ラン は、軍需物資の輸送量が増加し、これを担当する ソン地域で激戦があった。 ヴィエトナム人兵員がルート沿いに人海戦術を展開 していた。そして、北ヴィエトナム・南ヴィエトナ カンボディアでは、この時期には約65万人(推計) が国境外へ脱出し、難民となった。 ム解放戦線は、カンボディア領内を将兵の退避場所 ヘンサムリン政権はヴィエトナムの強力な支援を や休養基地・野戦病院などに使用していた。戦争終 受けて実効支配地域を広げ、タイ国境付近ではポル 了後も一部の部隊が残留居住し、カンボディア側は ポト派が反越ゲリラ闘争を継続していた。閣僚評議 人口稀薄なルート沿いの地域においてヴィエトナム 会が内閣に相当し、議長が首相にあたる。人民革命 人の不法占拠が既成事実化してしまうことを危惧し 党は唯一の合法政党であり、ヴィエトナム共産党及 ていた。 びラオス人民革命党と兄弟関係にあたるという。 ヴィエトナム軍(1986年推計で約14万人)が駐留し、 人民革命軍を支援して、タイとの国境付近で 3 派の 84 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 ゲリラ軍と戦闘を交えていた。 ポルポト派に加えて、 での劣勢を跳ね返すためにこのポト派勢力を取り込 他に反越反共で共和制を目指すソンサン(元国立銀 み、利用しようとした。人民党側はこれに激しく反 行総裁)派(クメール・セライ軍)、同じく反越反共 発して武力行使に及んだというのが真相である。そ で旧王制に共感を寄せるシハヌーク派(シハヌーク の衝突は、6 月 17 日にプノンペン市内で人民党とフ 軍)がゲリラ活動を行っている。これら同床異夢の3 ンシンペック等の要人警備兵間で衝突事件が起き、 7 派は、1982 年 7 月に民主カンボディア連合政府(以 月5日から6日にかけてフン・セン首相軍がラナリッ 下連合政府)を発足させた。この連合政府が国連に ト第一首相軍に武力攻撃をかけラナリット軍を壊滅 おいて正統政府として議席を占め、約75カ国が承認 させ、ラナリット首相を追放した。 していた。このカンボディア問題は、東西両陣営、中 この騒動の原因は、第一に第一首相側が重火器を ソ・中越の国際的な政治対立が複雑にからみ合い、 含め武器を不法に持ち込んだ点、第二に非合法のポ 単なる国内問題ではなくなっていることも事実で ルポト派軍要員を引き入れた点にある。これは 1998 あった。ヘンサムリン政権をヴィエトナム・ソ連・ 年 5 月の総選挙をにらんだ二人の首相の勢力基盤拡 東欧諸国が支援し、連合政府を中国・ASEAN諸国が 大争い及び権力闘争であり、武力行使はあったが 後押ししていた。しかし東西の雪解けに誘われて、 クーデターではない。両派の衝突は「つい手が出た」 1987 年 12 月にパリで両政府の和平会談が開かれた。 というもので、一言でいえば民主主義の未熟から来 そしてソ連邦・東欧圏の崩壊で1990年代初めに東西 るものであった。シハヌーク国王とフン・セン第二 対立の冷戦構造がほぼ終わり、カンボディア和平が 首相は、1987 年に和平の基本的な枠組みを最初に 一気に進むのであった。後はカンボディア和平パリ 作ったということで両者には信頼関係があり、さら 会議(1991 年)、カンボディア再考評議会(SNC)設 にポルポト問題を何とかしなければならないという 置、国連カンボディア暫定統治機構(UNTAC)によ 点で同じ意見であった。 る PKO 開始(1992 年) 、総選挙実施と新憲法の公布、 シハヌーク国王再即位(1993 年)、となった。 国際社会がこの衝突事件をどう見たかというと、 「武力を行使せず」がパリ和平協定の大原則であり、 それを無視して 7 月 5 日に武力で排除したことは違 1−5 カンボディア和平成立後の混乱 −ウサギの裁判官の調停はいかに− 反行為である。フンシンペック党は海外から帰国し た王党派の人たちが中心、人民党は国内にとどまり ラナリット第一首相とフン・セン第二首相、二人 実効支配をしてきた農村出身の人たちが中心で、両 の首相が並び立つという変則的な新カンボディア体 党は水と油であった。3年6カ月にわたり国王の指導 制は、1993 年 9 月から始まった。総選挙の結果、フ で共同統治を行ってきたが、きしみがひどかった。 ンシンペック党が58議席、人民党側が51議席となっ この衝突にはその背景にポルポト派の影があり、ポ た。第一首相にフンシンペック党のラナリット、第 ルポト派としては二人の首相の対立を利用して起死 二首相に人民党のフン・センがそれぞれ就任し、こ 回生を図ろうとした。ポルポト派の主張は反ヴィエ の大連合により連立政権ができ、政治的安定が図ら トナムなどであった。 れ、曲がりなりにも機能していた。その時カンボ もっと平易にいえば、カンボディア人は内戦とそ ディアは 5 つの課題に直面していた。①戦争からの の混乱で身も心もボロボロであったが、欧米の民主 復興、②脱社会主義化と市場経済導入、③貧困から 主義や選挙という薬をもって治療し、少しずつ回復 の脱却、④国際社会への復帰、⑤民族和解に向けて してきた。しかし、この衝突は一つのアレルギー反 の文化アイデンティティの確立である。 応であった。 カンボディアの農村と都会は全く違う。 1998 年 5 月に予定される総選挙を前に、かねてか 田舎では字が読めない人が多い。村人にはどれだけ ら二人の首相の両派が選挙に向けての活発な広報宣 総選挙が理解できるか。これまでの村落は自給自足 伝活動を行っていた。こうした時期に北西部でゲリ で平和に暮らしてきた。平和が保たれ、農作業がで ラ活動を続けてきたポルポト派は、フンシンペック きればそれでよい。カンボディアの民話の中にはウ 党と手を結ぼうとした。フンシンペック党は総選挙 サギの裁判官が登場し、争う両者の言い分を聞いて 85 カンボディア援助研究会報告書 調停する、というのがあるが、これはカンボディア たトラウマを今も引きずっているのが現状である。 人の生きていく知恵でもある。 このトラウマが癒されない限り、21世紀に向けた平 カンボディアの和平の内実は、連立政権と国会の 和の定着は望めない。 維持、憲法の擁護、パリ和平協定の尊守であった。こ 「大河を泳ぎきった村人が、 水牛の憩う水たまりで れに基づきカンボディア人自身の手により 1998 年 7 死ぬ」。苦労して大事業を成し遂げても、ちょっとし 月の自由で公正な総選挙が実施されるかどうかを見 たつまずきで命を落としてしまえば全てが台無しで 守る必要があった。 ある。平和を願う率直な気持ちを表現したカンボ ディアの諺である。暴力体質から脱皮し「クメール 1−6 総選挙をめぐるトラウマ(心的外傷) −自信の回復が更生の道− ながら地道な努力を続ける意外に道はない。3 つの 1998 年 4 月、カンボディア政府の大きな不安定要 要素がカンボディアの政治的安定に必要である。一 因であったクメール・ルージュ(ポルポト派)ではか つはシハヌーク国王の存在である。7 8 歳の高齢 つての最高実力者ポルポト元首相が死去した。ポト (2001年現在)で病気説も時折流れたが、国王は農村 派武装勢力は分解した。 1998 年 7 月の総選挙では、フン・セン氏は政敵ラ ナリット氏の参加を認めるとともに「自由で公正な 部に依然として圧倒的な信望があり、この国の政治 的安定には不可欠の存在であることに変わりはない。 第二には仏教である。国王とともにカンボディア 選挙を」と呼びかけ、約40もの政党が名乗りを上げ、 の人々の精神的な支柱である仏教の再生が、平安へ 選挙戦を展開した。しかし実際の選挙キャンペーン の礎である。僧侶による平和行進が行われ、たくさ で目についたのは政権党である人民党のポスターば んの村人が参加した。 かりであり、とりわけカンボディア国土の大半を占 第三に、学校教育を通じた「自信の回復」が重要な める農村部ではこの大きな看板が目についた。中央 要素である。長い内戦下では学校教育どころではな の権力争いが農村に持ち込まれ、様々な「約束」や かったのが実状であった。全国レベルにおける教育 「モノ」 と引き換えに支持を強要する 「政治」 が村の人 の再活性化こそ急務であるといえる。 たちの心を引き裂いた。樹頭に扇子を広げたような この国には12世紀に大寺院アンコール・ワットを 葉をつける、独特の形をしたオオギヤシの林が点在 建立した輝かしい文明の歴史がある。私は1980年以 するのどかな農村風景には似つかわしくない 「政治」 来この遺跡の調査や保存修復事業に関わってきた。 が繰り返された。選挙が「自由で公正」に行われたと 保存保護事業を通じた現地の人々との交流や石工の しても、問題はその後どうなるかであった。平和が 養成など、カンボディア人自身による保存修復事業 定着するか、 人々が心の平安を取り戻せるかである。 の体制作りも「自信回復」への一助となるであろう。 カンボディア人はもともと仏教への信仰心が篤く、 日本は経済援助とともに 「クメールの心」 の蘇生に協 温和で平和を愛する人々である。 農作業に精を出し、 力する道を真剣に探るべきであろう。それがカンボ 地域の神々を敬い、貧しくても精神的な充足に価値 ディア人を勇気づけることになる。 を抱いている。 「クメール人の心」の真髄はそこにあ そして総選挙は 1998 年 7 月 26 日にカンボディア るといえる。この国の民話には、争いごとが起きる 全土で実施された。その結果人民党が 64 議席(41 とウサギの裁判官が登場し、両者の言い分を聞いて %)、フンシンペック党が 43 議席(31%)、サム・ラ 丸く収めるストーリーが受け継がれている。ところ ンシー党が15議席(15%)であった。シハヌーク国王 が、1970 年代から続いた内戦、とりわけポルポト政 は選挙の結果を認めないとするフンシンペック党と 権の大虐殺に象徴される「恐怖政治」は、人々の間に サム・ランシー党を呼び、第一党の人民党との仲介 暴力的な体質を植え付けてしまった。優しい微笑み を行なった。その結果一人首相のフン・セン首相が の陰から突如として現われる狂暴性、そして暴力が 選出された。 日常化し、利害対立には力で決着をつけようとする 傾向が社会の各層に染み込んでいる。人々はそうし 86 の心」をいかにして取り戻すか、この諺を噛み締め 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 1−7 カンボディアを両隣国ヴィエトナム・タイの 級官吏を重用したため、ヴィエトナム人が直接カン 関係から再考察する−ヴィエトナムによる ボディア人の日常生活を支配するかたちとなり、両 カンボディア支配の悪夢の想い出− 民族の小さな摩擦が増幅された。さらにフランス領 カンボディアとヴィエトナムの両民族の本格的な インドシナという行政下においてはヴィエトナム人 交流は、15 世紀末ごろから始まった。それまでは 労働者・商人・大工・運転手などがカンボディアに ヴィエトナム南部地方にはチャンパ国が存続してい 流入し、カンボディア人の職業を奪い、特にメコン たが、1471年にレ(黎)朝の攻撃によりチャンパが敗 河の河川航行業や漁業を独占、各地にヴィエトナム れ、散り散りとなった。そのため 15 世紀以降ヴィエ 人集落ができた。 トナム人の南進が加速され、フエ地方を居城とした ヴィエトナム人はその昔から武力を背景とした南 グエン(阮)氏が 1623 年にメコン・デルタのプレイ・ 下政策を進め、既成事実化により農地を占拠し、カ ノコール (現ホーチミン市付近) における商業活動の ンボディア南部地方では農民との軋轢を増幅した。 認許をカンボディア王から受けた。グエン氏は華僑 さらに両民族は歴史・文化背景が異なるところから 勢力などを引き入れてメコン・デルタを開発、1731 日常生活レベルでも相入れない部分がある。ヴィエ 年にはカンボディアに圧力をかけ南部 2 州を割譲さ トナム人は中国文化の影響下で大乗仏教・道教・儒 せ、58年にカンボディアはヴィエトナムの宗主権を 教を受容してきたが、カンボディア人はインド文化 認めた。弱体化したカンボディア王の勅令にはヴィ の影響下で上座仏教を受容し、異質な文化対立が背 エトナム人顧問の副署が必要であった。1806 年ア 景にあるのである。 ン・チャン 2 世が即位(シャムより帰国)し、すぐに ヴィエトナムの宗主権を再び認めてしまった。 カンボディアはシャム (現タイ) の宗主権も認めて 1−8 ポルポト政権の恐怖から救われたカンボディア 人たち−複雑な民族感情はいかに− いたため、両隣国がカンボディアの帰属をめぐって 第 2 次大戦後ヴィエトナムが南北に分かれて独立 争うことになった。1834 年にはアン・メイ女王が即 を果たしたため、南北ヴィエトナムとカンボディア 位し、政務をヴィエトナム人高官に委ね、地方行政 との関係は東西冷戦構造下において、その時々の国 もヴィエトナム人の管理下に置かれ、全てヴィエト 際政治により翻弄され、複雑化した。1954 年 4 月ベ ナム風に改められた。1841年にカンボディアはヴィ トミン(ヴィエトナム独立同盟)軍の一部がカンボ エトナム・グエン朝に併合されてしまった。アン・ ディア東北部に侵入したが、間もなく撤退、同年の メイ女王及び高官たちはサイゴンへ連行された。 ジュネーブ会議ではカンボディアはコーチシナの領 ヴィエトナムはその習俗などを強制したため各地で 有権を主張して調印を留保した。この背景にはコー クメール人反ヴィエトナム蜂起があり、45 年にア チシナにはクメール人(クメール・クロム)が昔から ン・ドゥオンがシャムから帰国し、シャム・ヴィエ 居住しているという問題があった。1950 年代後半か トナム合意により即位し、カンボディアの独立は回 ら1960年代にかけてカンボディアの中立化政策をめ 復した。 ぐり、北ヴィエトナム、南ヴィエトナム解放民族戦 1847 年にフランス軍艦がダナンを砲撃し、5 隻の 線、南ヴィエトナムの3者の間に駆け引きが続き、そ ヴィエトナム船を沈めた。そして19世紀後半からは れにヴィエトナム戦争がからんだこともあって対 ヴィエトナムは対フランス交渉に忙殺され、カンボ ヴィエトナム関係は流動化していた。 ディアどころではなかった。1863年カンボディアは 1970 年 3 月にカンボディア南部で反ヴィエトナム 保護条約によりフランス領下に入り、旧領土のコー のデモが起こり、 ヴィエトナム人の家宅が襲われた。 チシナ(メコン河デルタ地帯)もフランス領となっ アメリカの支援を受けたロンノル政権と南ヴィエト た。 ナムが提携した時期もあった。かつてカンボディア 1887年、カンボディアはヴィエトナムとラオスと はヴィエトナムの支配下に置かれてきたという歴史 ともにフランス領インドシナ連邦を形成する。カン 的背景から反ヴィエトナム感情は強く、ポルポト政 ボディアではフランス人理事官がヴィエトナム人下 権下ではその極端なクメール民族中心主義のもとで、 87 カンボディア援助研究会報告書 多数のヴィエトナム系カンボディア人が虐待・処刑 され、ヴィエトナムとの国境戦争が起こった。カン ボディアのポルポト政権は1977年から国境地帯での 1−9 クメール文化の深い精神性−フランス植民地に おいてタイとヴィエトナムの覊絆から離脱− ここでは対タイの歴史的関係を再考察いたしたい。 ヴィエトナム領への攻撃を展開し、同年 12 月には カンボディア人 (クメール人) とタイ (シャム) 人との ヴィエトナムが自らの主導する 「インドシナ連邦」 に 交流は古く、そのタイ人の場面は12世紀のアンコー カンボディアを組み込もうとしているとしてヴィエ ル・ワットの浮彫りの中に描出されている。タイ人 トナムを非難して、断交を宣言した。1978 年末に とカンボディア人が東北タイ (イサーン) で混住して ヴィエトナム軍に護衛されたカンプチア救国民族統 いるように、14 世紀以前はカンボディアの主導で、 一戦線軍がカンボディアに入り、1979年にヴィエト それ以降はタイの主導で両国関係が展開した。タイ ナム軍20万の駐留のもとにへンサムリン政権が誕生 におけるアユタヤ朝成立(1351)後、領土をめぐって した。 両国は争い、1431年頃カンボディアはアユタヤ軍に 1975年からのポルポト政権を中国が支援したこと 攻められ、アンコール都域を放棄した。その後もタ は、南北統一間もないヴィエトナムにとっては安全 イは執拗にカンボディアを攻略し、1474 年にトモ・ 保障上の重大な脅威と受け止められた。中国との対 リャチャ王が即位したが、タイ(アユタヤ朝)の宗主 立も公然化した1978年秋、北に位置する中国と南西 権を認めさせ、以来一時を除いて1863年まで影響下 のカンボディアから同時に軍事的圧力を受ける危機 に置いた。1555年ごろにカンボディアが旧領土を一 (はさみ打ち)を回避するため、ヴィエトナムは救国 時的に奪回する。それはアユタヤ朝がビルマのバイ 戦線という反ポルポト派カンボディア人の組織を支 ナウン王の攻撃を受け 1569 年アユタヤ城が陥落し、 援するというかたちをとり、主に自らの軍事力でポ 18年間ビルマの属領となった。この間カンボディア ルポト政権を打倒することを決意した。 はアンコール・ワットの未完成箇所を追加工事で完 ヴィエトナム人とカンボディア人は歴史的対立に 成させ、 王宮を一時アンコールに移したりしていた。 も起因することもあって相互不信も根強く、反ヴィ 1594年に王都ロヴェックが縮落、再びタイの宗主権 エトナムを掲げるタイとの国境のポルポト派の一掃 を承認した。 も困難であった。これらの時期多くの難民が国外へ カンボディア人王族はタイの宮廷で幼少時から育 脱出した。カンボディア国内ではヴィエトナム軍の てられ、青年に成長したのちカンボディアに送り返 行動によってポルポト政権下の死の恐怖から救われ されていた。18世紀後半からカンボディアはヴィエ たとする人も多かった。ヘンサムリン政権はヴィエ トナム・タイ両国の宗主権を認めることとなり、18 トナムの支援を受けて相対的に強力な国内基盤を早 世紀末にはバンコクの運河掘削のためカンボディア 期に形成した。 人 1 万人が連行された。カンボディア西北部(アン 前述のとおりであるが、1989年のヴィエトナム軍 コール地域を含む)はタイ領に帰属し、さらに 1796 の撤退とともに1991年パリでカンボディア和平協定 年にはカンボディア王の死去にもかかわらず、新王 が調印され、1993年に新生カンボディア王国政府が を即位させず高官ポックがカンボディアを統治した。 成立し、ヴィエトナムの影響下から脱することと 1806 年バンコクから帰国したアン・チャン 2 世が なった。ヴィエトナムが国際的孤立からの脱却を求 新王として即位したものの、1814年にはカンボディ めたこと、ソ連・東欧の社会主義体制の崩壊で国際 ア北部 3 州をタイ領へ帰属させた。タイとカンボ 的支援者がいなくなったことなどがあいまって、 ディアは上座部仏教という共通基盤はあるものの、 ヴィエトナムはカンボディアからの撤退を余儀なく タイ人に長年苦しめられたという民族感情が強く、 された。しかしポルポト派ゲリラは反ヴィエトナム 対タイ不信が現在も続いている。 の旗印を掲げて残存したことは、これまでの両民族 1863年カンボディアを保護下に置いたフランスが の対立・抗争・軋轢を反映していたものであった。 1893年フランス・シャム条約によりタイから西北部 3 州を獲得し、1904 年と 1907 年にも同様の条約で旧 カンボディア領を取り戻し、現在のカンボディア西 88 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 北部国境が形成された。41年タイはフランス支配時 れぞれ行われていた。宗教行事は村人たちの生活や 代に失った旧タイ領土を奪回すべく西北部を占領し, 文化にひとつの規範を与え、村人がみているところ 日本の調停により再支配を既成事実化したが、1945 で魂の救済を求めて出家僧が修業していた。村内に 年の日本の敗北により占領地の放棄を余儀なくされ は祖先神や土地神の小祠もあって、村人は現実の生 た。 活のご利益や加護をお願いしていた。立村の基盤は 戦後タイは両国の国境の開閉に政治的要求をから ませ、カンボディアをしばしば苦境に追い込んだ。 農業であり、稲作は一毛作がほとんどであった。 浸水した田地から田植えが開始される。村人の生 1960 年代にタイがアメリカ寄りの政策を採ったた 活はこうした農作業のカレンダーに沿って営まれて め、シハヌークの掲げる中立化政策はタイにより妨 いる。しかし、粗放農業であるために天候に左右さ 害されてきた。 れやすい。村人は所有する農地(平均3ヘクタールほ 1978年以降タイは国境に陣取るポルポト軍へ中国 ど)を人力(家族労働)と畜力(牛 2 頭)で耕し、家族 から来る武器供給などの支援を通じて、カンボディ が消費する分と税として差し出す分を収穫してきた。 ア問題に間接的に干渉してきた。親ヴィエトナムの 伝統的な民族衣裳では、女性はサロン(腰巻き)を着 ヘンサムリン政権に対して、ポルポト派、ソンサン け、頭上にクロマー(布切れ)をのせて働いている 派、シハヌーク派の 3 派をまとめた連合政府を裏か が、祭礼や寺院へ行くときは民族衣裳の“サンポッ ら演出したのはタイであった。国際世論の圧力でタ ト”を着る。主食は米飯であるが、ウドンや自家製の イもポルポト支援から手を引くかたちとなり、1991 プラホック(魚の塩辛の一種)が添えられ、簡素であ 年のパリのカンボディア和平協定の締結をもたらし る。 カンボディアの農村部は今も自給自足の経済体制 た。 カンボディアは15世紀以降、西のタイと東のヴィ であり、自転車やバイクの後にブタ 1 頭を乗せて近 エトナムに挟撃されて苦しみ、18世紀後半から両国 くの市場へ行き、帰りに生活道具や学用品やニッ の属領的な状況下に置かれていた。首都はプノンペ パ・ヤシの壁パネルと交換して持ち帰るのが常であ ン、ロヴェック、ウドンと移転し、カンボディア王 る。経済統計には載らない経済活動が昔から続いて 家は1860年ごろ王都のウドン近隣にしかその支配が きたのである。つまり農村で採れるものを大切にい 及んでいなかった。西北部はタイが占領し、南部は ただくことが農村の大原則である。従来の農村の成 ヴィエトナムが事実上支配していた。両国の出兵の り立ちから想像していけばこのところの貨幣経済が たびにカンボディア人が多く拉致連行され、人口が 全てではないということである。 減少し、しだいに活力を失っていった。国内の混乱 農村が都市型経済に類似した消費社会に染まって と荒廃の原因は、王家内部の権力争いに端を発し、 いけばどうなるのであろうか?カンボディアの人口 両隣国の領土拡張の思惑もからみ、カンボディアに の80%以上が住む農村地帯では農業を大切にするこ おいて両国軍が戦闘を交えていた。 とが重要である。そして、貧困をなくし生活の向上 をはからねばならない。富の平等を実現しなければ 1−10 貨幣経済に染まりつつある農村 ならない。これも必要である。 −新農村社会像を求めて− 戦争と治安の悪さから平野部の肥沃な田地は放置 され、農民はジャングルの中で小村落を作り、自給 1−11 カンボディア人の精神価値体系 −上座仏教における 「極楽浄土」と「功徳」− 自足の閉鎖的な社会を作っていた。カンボディア人 カンボディアでは生きる喜びが満ち溢れているの のほとんどが農民であり、集落は多くは冠水しない を感じる。貧しいのになぜなのか。それは人々の心 自然堤防上や山の斜面に作られ、50∼80戸の規模が か満たされているからにほかならない。言い換える 平均であった。村には用水池や中小の河川があり、 と、人間の本来的な考え方が健全に機能し、巨大な 水田や畑地が拓けている。村には村長(メ・プム)や 自然とまっすぐ向き合って暮らし、それぞれが生活 補佐役がいて、相互扶助の集団を作り、農作業がそ の中で満足を覚えている、という当たり前のことで 89 カンボディア援助研究会報告書 ある。上座仏教を心の拠り所に精神の平安を得た 人々である。 その生きる術とは何かを探ってみたい。 の経典はタイ・ミャンマー・ラオ・カンボディアの ドミニコ会会士ガスパール・ダ・クルスは、1555 各文字で綴られているが、同一の内容である。村人 年にマラッカからカンボディアに赴き最初の福音を たちは経典そのものを扱うよりも、その経典を体現 説いたが、布教は全く失敗に帰してしまった。ダ・ し身体化した存在として僧侶を重視している。だか クルスはカンボディアの僧侶から聞いた話として、 ら僧侶は生きている戒律といわれ、僧侶に向かって カンボディアには極楽浄土(天国)が27あり、そこに 礼拝するのである。そして在家の寺院を運営する組 おいては全ての生き物、それはノミやシラミでさえ 織が寺院ごとにあるが、それは篤信する近隣の村人 も輪廻転生ができるという。地上に近い第一番目の が関わり、寺に関わる行事儀礼の実践を遂行してい 極楽浄土へ行くのは人間であって、そこには食物や る。したがって功徳を積む儀礼は個人が積んで来世 飲み物があり、 とりわけ魅力的な天女かいるという。 につながるというものではなく、 生きている人たち、 その上には第二番目の極楽浄土が広がっていて、そ また死去した人たちとも時間・空間を超えて結びつ こへ行けるのは僧侶たちである。その功績の順番に きたいと願うのが功徳である。だから自分自身と同 したがって昇る段階がいくつかある。中でも「酷暑 じく生きている他人に対する儀礼でもあり、自分の の大地で暮らした聖僧」 は応酬として 「風で涼をとり 現在と少し先の未来・来世・死んでしまった人たち ながら休息する至福」が与えられる。 に対して順序を踏んで執り行う儀式である。こうし そして最上界には第三番目の極楽浄土がある。そ た儀礼の実践が受け継がれ、連綿と続けるために組 こは全ての欲望を捨て去った者が赴くところであり、 織された村人の運営手伝い人が重要となってくる。 ブラフマー神の体内の生き物と同じように「毬のよ このように功徳を積む儀礼には時空を超えた結びつ うな丸い身体」となるという。カンボディア人は現 きがあるが、過度の功徳主義に走っているタイ仏教 在でもこの 3 種類の極楽浄土があると信じている。 は、村人に来世の極楽だけを結びつけるので、少々 極楽浄土と平行して13の地獄かあり、罪の深さに 誤解を招いている。しかしカンボディアの寺院では よりどの地獄に落ちるかが決まるという。 90 上座仏教はパーリ語の三蔵経を護持しており、そ 経典の内容の伝達をほとんど文字を使わず口伝によ そうした極楽浄土のことがわかっているのになぜ り暗唱して村人に伝えている。パーリ語で書かれた 人の間で争いが起きるのであろうか。それは人に欲 経典は、それを長い時間研究し解釈してきた僧侶で があってモノに目が眩むからであるという。それで ないとわからないという。 人々はしっかりと仏法(ダルマ)の教えを学び、それ もう一つの考え方は、経典を文字で書くことをす を実技していく。その実践修行の最後の段隋で悟り れば、その仏典の有難さや効力が失われるといわれ を得て、涅槃の境地に至るという。 ている事実がある。 しかし村人たちは僧侶に出会うことでこの世の カンボディアの人々は上座仏教を篤信し、功徳を 種々の苦しみから解放され、救われたいという気持 積みたいと願っている。村人が托鉢に戸口に立つ仏 ちを持って接している。そうした仏教の教えを村人 僧に丁寧に接することは、解脱への期待を込めた敬 はどのように実践し判断しているのであろうか。カ 虔な行為なのである。そして最も関心があるのは極 ンボディアの民話の中にはウサギの裁判官や悪知恵 楽浄土のことであり、誰もが第一番目の極楽浄土を の働くワニ、悪者のトラなどが登場し、騒動を起こ 目指している。魅力的な天女がいるというのである し世の中を騒がせる。だがその行為の善悪やその動 から考望者が多いであろうし、なかなか茶目っ気が 静を黙って見ているのは、田んぼにいる田螺である ある。当時の人たちは酸いも甘いもかみ分けたとこ という。田螺は誰よりも知恵を持っていて、真実を ろがあるのかもしれない。上座仏教は出家者の仏教 知っていたという。そしてゆっくりと田んぼの中を であり、自力救済主義である。カンボディア僧侶は 一歩ずつ動く。世の中の「仏浅(ダルマ=真理)」を体 妻帯せず、実践的な修行により涅槃の境地を得るこ 具しているのは田螺なのである。やはり「稲作の民」 とを最終目標としている。その僧侶の道連れにぜひ カンボディア人ならではの達見である。 と願うのは、 カンボディア人の切なる気持ちである。 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 2. 文化遺産の保存修復の国際協力−アンコール・ ンマーから元マンダレー大学のタントゥン教授(福 ワットに塗布された深い精神性の調査・研究から− 岡アジア文化賞受賞者) 、 日本からは日本学士院会員 の故山本達郎先生、 神田外語大学長の石井米雄先生、 2−1 現地に暮らす人たちの自立を助ける人材養成 文化財の保存修復の重要性及び緊急性については、 ボロブドゥール修復の故千原大五郎先生、元 東京国 立文化財研究所長の伊藤延男先生が参加くださった。 既に多く議論がなされてきた。21世紀には科学技術 それに、ユネスコの元アジア課長の河野靖氏が加 が飛躍的に発展し、情報化が著しく進み、世界全体 わってくださった。そして、ボロブドゥール・パガ の均一化と機械化がさらに進みつつある。文化財の ン・スコータイ・アンコールの 4 遺跡を採り上げた。 研究と保存修復の事業は、こうした世界の均一化現 ユネスコからは東南アジア版の地域文化協力プロ 象とは反対に、個性豊かな民族の伝統と、その国(地 グラムという位置づけがなされ、 高い評価を受けた。 域)固有の文化及び歴史成果を私たちに実証してく その間に7回に及ぶ現地国際シンポジウムを開催し、 れると同時に、未解決の歴史・文化・社会などの問 遺跡の現地検証研究を行い、日ごろ地元で保守作業 題を究明する重要な手掛かりを与えてくれる。こう に従事している専門家たちにも出席を求めた。討論 した保存修復活動の推進の背景には、一つに文化財 に参加してもらい、事例研究を発表してもらった。 の存在する国もしくはその民族の立場に立った考え 「アジア現地に学ぶ研究」の姿勢は、私たちの基本的 方があり、もう一つに世界的人類的な立場に立った な考え方であった。これら 4 遺跡を守るための専門 考え方がある。私たちは何よりも第一の立場を重視 家同士の国際協力は、シンポジウムの成果として し、そのためにどのような調査・研究・保存修復の 1400ページに及ぶ重厚な英文報告書Cultural Heritage 手伝いができるか、それがその国の文化財の保存修 in Asia, vols. 1-7 (Institute of Asian Cultures, Sophia Uni- 復活動の将来にどのようにつながるのか見極める必 versity, 1985-1992)にまとめられた。 要がある。 結論として、文化遺産は民族の誇りと伝統の象徴 民族文化のアイデンティティの発掘につながる東 である。その修復はそこに住む人達の手でなされる 南アジア 4 大遺跡(ボロブドゥール、パガン、スコー ことが原則である。民族の固有な文化を世界へ向 タイ、アンコール)の比較研究は、1984年から始まっ かって説明できる人々は、誰よりも現地に暮らす た。これらの遺跡研究とは、遺跡と民族という視点 人々である。遺跡などの保存修復に関する国際協力 から考えるならば、そこに住む人たち、またはかつ は、何といっても人材養成などそこに暮らす人々の て住んだ人たちに民族のルーツを考える手掛かりを 自立を助ける協力がその基本でなければならないと 発掘し、アイデンティティの基礎となる資料を提供 考える。 することである。こうした学術的裏付けにより、住 民は民族的誇りと自信を持つことになる。各国とも 歴史の研究、遺跡の保存とその公開・観光を重要な 文化政策に位置づけている。遺跡研究の現代史的な 意義は大きいといわねばならない。 2−2 鎮魂の意味を込めたアンコール遺跡の 保存修復の手伝いと人材養成プロジェクト カンボディア西北部のシアムリアプ市郊外には世 界的に有名なアンコール・ワットをはじめ、主要な 私たちは1984年から、遺跡を守る努力はまず「人」 遺跡 62 カ所があり、ちょうど東京 23 区ほどの広さ の国際協力から始める必要があるという方針を掲げ、 である。そこは約 550 年にわたりアンコール朝の首 「東南アジア文化遺産の保存修復に関する比較基礎研 都であったところで、各時代の王たちが造営したた 究」プロジェクトを発足させた。それは日本・タイ・ くさんの寺院・僧院・祠堂・貯水池・橋などの大道 インドネシア・ビルマの 4 カ国の専門家 32 名で組織 跡が集中してみられる。ほとんど現存する遺跡群は され、そのメンバーの中にはインドネシアから元ボ 石造りである。 ロブドゥール公団総裁のハリヤティ・スバデオ女史、 私たちはアンコール遺跡を破壊から救済するため、 タイから元シラパコ大学長のディサクン殿下、元タ 1980年からシアムリアプへ出かけ、応急保護工事な イ教育省芸術局長のニコム・ムシガカマ博士、ミャ どを手助けしてきた。国交がないにもかかわらず、 91 カンボディア援助研究会報告書 後の上智大学アンコール遺跡国際調査団が入り、日 人たちの精神的復興の一助となり、本当の意味での 本として初めて遺跡の保護活動を開始した。上智大 自負と自信を取り戻す一つの契機になることを願っ 学、ユネスコ、フランス極東学院、ワールドモニュ てきた。そして観光事業などにより得られた経済的 メントファンド、インド考古局の枠組みを国際協力 収益は、その国(地元)に還元され、調査研究と保存 版に切り換える遺跡救済国際会議が1994年に東京で 修復のイニシアティブ発揮に役立つと同時に、経済 開かれ、それ以来プノンペンもしくはシェムリアッ 的自立と地域発展の一助にされなければならない。 プにおいて日仏大使及びユネスコの主催による「ア ンコール遺跡国際調整会議(ICC)」が継続されてい 人材養成プロジェクトを開始して11年目にしてやっ る。 と、新進気鋭の遺跡専門研究の候補者が成長してき 現在日本からは政府アンコール遺跡救済チーム (JSA)及び上智大学アンコール遺跡国際調査団が遺 たことをご報告申し上げたい。 上智大学アンコール遺跡国際調査団 (以下調査団) 跡の保存修復工事及び調査研究を実施している。カ は、前述のとおり1980年から遺跡保護の応急工事な ンボディアでは1970年から内戦に入り、国連のPKO どを手伝ってきた。応急工事といっても石材の落下 活動が始まる 1993 年までの 24 年間にわたり国内は を防ぐ支柱を立てるとか、遺跡内にたまった水を抜 内戦のため混乱し、そのために遺跡の保護活動が止 くとか、熱帯の植物の下生えを除去するとか、村人 まり放置されてきた。しかし、カンボディア側は平 たちの手による掃除が中心であった。 和になったからといってすぐに保存修復の仕事が始 カンボディア人の緊急人材養成プロジェクトは、 められるわけではない。さらにカンボディアは1980 平和のきざしが見えてきた 1990 年 3 月から始まっ 年から1989年まで10年あまり内戦中ではあったが、 た。それは考古発掘調査及び保存修復を指揮できる タイ国境付近にいた同床異夢の三派連合政府や実効 将来の遺跡保存官及び中級レベルの技術を持った技 支配中のヘンサムリン政権もアンコール遺跡群の保 官と石工の養成の三本立てであり、現在も続いてい 護と救済には同意していたので、私たち調査団は る。 「文化遺産の修復」という錦の御旗を掲げて、食糧も プノンペンの王立芸術大学考古・建築両学部の学 十分でないカンボディア人作業員とともに毎日数カ 生の現場研修は、調査団が担当しているバンテア 所の遺跡を駆け回っていた。 イ・クデイ遺跡において実施されている。1995 年か アンコール・ワットをはじめ、これらの文化遺産 ら、両学部の学生 5 名ずつを選び、彼らは毎年 3 月・ はカンボディア民族の誇りと伝統の象徴である。し 8 月・12 月の調査団の調査・研究活動に参加し、日 かしながらカンボディアではポルポト政権の時代 本人の先生方から、より実践的な現場実習の指導を (1975-79)に、遺跡の保存修復の専門家約 36 名がほ 受けてきた。これらの学生は、1991 年に芸術大学が とんど不慮の死に追いやられた。それは西欧の思想 再開されると同時に入学してきた学生たちであった。 や言葉に毒された知識人抹殺政策であった。遺跡調 上智大学では、彼らが合宿して講義を受け、出土品 査・保存修復する専門家がゼロになってしまったの の処理や図面作成ができるアンコール研修所 (2階建 である。 て、約 290m2)を 1997 年 8 月に建設した。 個人的なことを言わせていただければ、1961年か 芸大卒業後の彼らを研修生として採用し、この研 ら一緒に遺跡の保存修復に取り組んできたカンボ 修所に出勤して考古・建築などの課題をこなし、引 ディア人同僚たちが無念遣る方無い思いで死んでし き続き日本人の先生方から指導を受けてきた。それ まったのである。アンコール遺跡の修復に私を駆り まで実習に参加してきた研修生の中から 4 名が選抜 立てるものは、彼らに対する鎮魂である。なぜ私が、 され、民間財団の奨学金を受けて上智大学大学院地 また、私たち日本人がカンボディア人の文化遺産専 域研究専攻で学位を取得するため来日した。彼らは 門家を養成するのかという理由をご理解いただけた 修士課程において、カンボディア人の視座からアン と思う。 コール遺跡研究についてユニークな修士論文を提出 アンコール遺跡の保存修復事業はカンボディアの 92 専門家が不在になってから四半世紀の歳月が流れ、 した。そして現在は、博士課程において博士論文を 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 準備中である。 ない。 第 3: 遺跡保存の修復研究における中・長期的展望 2−3 人間(村落)・自然(環境)・文化(遺跡)共存共生プロジェ クト−必ずしも貫徹しない日本方式の技術や方法論− の必要性。綿密な遺跡調査を行うとともに、 これに基づいた中期及び長期的なマスタープ 私たちは遺跡の保存・修復だけすればそれでよい ランによって保存修復について考えなければ と考えているのではない。遺跡の周辺で生活してい ならない。長期とは 30年、50 年という単位で る村人たちの村落社会の発展と伝統文化を再興する 保存修復を継続し、伝統工法や技法を再発見 プロジェクトも進行中である。つまり遺跡保存修復 し、評価していく。そして現在のカンボディ と併せて、人間と自然と文化を考えるプロジェクト アにおいて使えるように改良しながら先端技 を 1991 年 8 月から始めている。近隣の森林の自然環 術と土着工法を組み合わせていくということ 境の調査(植物・生態など)及びバンテアイ・クデイ が理想である。遺跡をとりまく自然環境につ 遺跡周辺の村落経済調査や水利・地形の調査、地質 いても、水利灌漑や植物・生態環境も長期的 調査・水質調査などが実施されている。さらにシェ な展望に基づき考える必要がある。文化協力 ムリアップ州の無形文化財についての調査研究、特 は地味な長期にわたる仕事なのである。 に小型影絵芝居(スヴァエ・トゥイチュ)、トロット (鹿頭行列) などのインベントリー作成調査が続けら 日本において東南アジア地域の言語を学び、考古 れている。村の民話の採話も一つのプロジェクトで 学や建築学を修めた専門家は、その数が限られてい ある。特に北スラ・スラン村の経済・社会調査や伝 る。日本人のほとんどが日本の技術は最高で、支援 統文化の調査成果が積み上げられている。これが する資金もあり、有能な研究者・専門家がいると考 「村落」 と 「森林」 と 「遺跡」 の共存共生プロジェクトの えている。それは事実である。だから日本がカンボ 第一歩である。 私たち調査団には日本の9大学と5機関が参加し、 次のような方針と哲学を掲げて活動している。 ディアにやってあげるという意識が潜在的にある。 このようにアジアの中で日本上位の考え方に立つと、 そこには相互の信頼関係は生まれてこない。私の約 40年の経験に基づいていえることは、カンボディア 第 1: カンボディアの文化遺産はカンボディア人の などの熱帯アジアと日本では風土が異なり、想像で 手で責任を持って守ること。カンボディアの きないような障害のために日本方式の技術や方法論 文化遺産はカンボディア人の専門家が保存修 が必ずしも有効とは限らないということである。 復し、これを後世に伝えていくべきであると 日本の専門家・研究者の中には、稀れではあるが いう考え方にもとづき、遺跡を守る専門家 遺跡などの文化遺産をその地域社会から切り離し、 (研究者と技術者)の養成が 10 年目に入って カンボディア文化の文脈で読み込むことをせず、た いる。カンボディアの学術的自立を授け、文 だ修復すればいいという考え方の人がいる。技術的 化主権について発言できる人材の養成であ 観点から修復のみに終始する技術至上主義、もしく る。 は日本上位主義の人たちのことである。これはいた 第 2: 文化遺産の調査・研究と保存修復事業の密な だけない。遺跡を守る協力は、ただショベルカーで る連動。文化遺産の保存修復は破壊箇所を直 掘ってクレーンで石材を積み直せばよいというもの して後世に伝えればいいというだけでは不十 ではない。まず、何よりも遺跡に村する綿密な基礎 分である。それらの文化遺産がどの時代の、 調査や研究、石積み手法などの研究と経験が必要で どんな材料で作られ、その目的、その宇宙観、 ある。現地の技術レベルに適合した技術導入から始 様式などの科学的解明に基づかない修復は本 まり、現場を見ながら徐々に新機器や先端技術を持 来のものを破壊することになる。つまり、ご ち込まなければならない。 く当たり前のことであるが綿密な学術的調 こうしたその地域の文化や社会を尊重しながら文 査・研究に連動する保存修復でなければなら 化協力を進めていくという原点を踏まえておかない 93 カンボディア援助研究会報告書 と、文化遺産の保存協力は決して実らない。むしろ 多くの遺跡が放置されたままのポルポト時代があっ 遺跡破壊といわれてしまう恐れがある。私たちがこ た。S.O.S. アンコール遺跡が叫ばれながら誰も手伝 れまで 20 年間の経験から得た結論は、 「カンボディ いに入ってこない時代のヘンサムリン時代に、私た ア人による、カンボディア人のための、カンボディ ちは 1980 年に大学 NGO として手伝いに入った。そ アの遺跡保存修復」 が必要であるということである。 してカンボディア和平が達成された1993年に、ユネ こうした文化遺産の研究や保存協力には、発掘手法 スコもフランス人も入ってきた。私たちは誰も入ら に習熟した考古学者、修復経験を積んだ建築家、石 なかったカンボディアで、地雷もあり内戦中にもか 材を動かせる有能な石工など、まず何よりも「人」の かわらずなぜアンコールを手伝ったか、なぜカンボ 養成から始めなければならない。私たちは王立芸術 ディア人を助けなければならなかったか。それは前 大学の先生方と共同で人材養成や発掘及び修復事業 述のとおり亡くなったカンボディア人保存官30数名 を行っている。また、アプサラ(APSARA=アンコー に対する鎮魂の意味で手伝うことにした。要するに ル地域遺跡整備機構)と共同事業も始めている。 御霊安らかにということである。だから私たちはカ 私たち調査団の専門家・研究者たちは本当のとこ ろ、これまでに色々なところで文化摩擦を起こして ンボディア人の中堅幹部を養成するプロジェクトを 進め、現場実習のために調査団を派遣している。 いる。日本では当たり前のやり方がアジア諸国では 調査団は既に32回にわたって派遣された。調査団 そうでないという事例がたくさんある。しかし、現 には建築班や考古班や窯跡班の他に、6つの班、それ 地の村人や地域住民から学ぶことがたくさんある。 は地質班、水利環境班、村落班、民話伝統文化班、遠 この地方の影絵芝居を観るとか、民話を開くことも 距離文化遺産調査班、そして小学校リュック・サッ ある。いつ田植えをするとか、どうすれば雨水が通 ク配布班がある。このように、とにかくカンボディ り抜けていくかとか、この木の実にはこんな薬効が アの人たちが少しでも勇気づけられる、あるいは国 あるとか、住民に教えられることがあるのも事実で 家建設に励もうという気持ちが起こるような援助が ある。こちらが善意と思っても、現地側は干渉と受 必要なのではないだろうかと考え、彼らの求めに応 け取る場合がある。日本のやり方だけがよいとは思 じこれら 9 班が稼動している。そのための人材養成 わない方がいい。こうした文化摩擦はいい意味での である。中途半端な人材養成はやはり避けるべきで 相互理解の始まりだと考えている。 ある。私たちはシアムリアプに上智大学アンコール アンコール・ワットはカンボディア民族の象徴で 研修所(2階建て、約290m2)を建設し、王立芸術大学 ある。その保存修復はあくまでも現地の人々の手で の考古学科や建築学科を卒業したカンボディア人を 将来なされることを願っている。そして、特に私を 研修生に採用し、徹底的にカンボディアの文化、そ アンコール・ワットに駆り立てる原点は、不慮の死 の背景、歴史と土着技術、そしてカンボディア独自 に追いやられた約30名のカンボディア人保存官に対 のシステム(=伝統)、要するにこれまで村落におい する鎮魂である。 て営まれてきた生活のシステムをきちんと知っても らい、その延長線上に文化遺産を保護する必要があ 2−4 アンコール・ワットに塗り込められた メッセージを読み取る努力 ただ単に村の近くにあるアンコール遺跡群からやれ 私たちがカンボディアで実施しているアンコール ばいいというのではない。アンコール・ワットを含 遺跡保存修復調査研究の手伝いは、1980 年から始 めてカンボディアの歴史・文化・社会を世界史の文 まっている。その協力の哲学は「カンボディア人に 脈の中でどういうふうに位置づけていくか、常にそ よる、カンボディア人のための、カンボディアの遺 ういう問いかけや姿勢が必要である。 跡保存修復」を助けることである。カンボディアの 上智大学アンコール研修所において 3 年なり 5 年 人たちを助けるには、彼らを「勇気づけるきめ細か なり研修を受けた学生や研修生を日本へ送り出し、 い仕組み」を組み立てなければならない。 学位を取得させ、そして本国へ戻すという気の遠く 振り返ってみると、アンコール・ワットをはじめ 94 るということを位置づけていこうとするものである。 なるような人材養成プロジェクトをやっている。こ 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 の難しい中・長期の文化協力は、あと 20 年・30 年の プランでやっていくことになる。 村に行って感じるが、アンコール遺跡の浮彫りに 刻まれている一部の風情が、周辺の村落に残ってい それからもう一つ、調査団がカンボディアをなぜ るのである。彼らは小さい時から五感でまわりの生 長く調査・研究・保存・修復活動をやるのかという 活だとか、風土風物だとか、信仰、生活、そういう と、やはりカンボディアから学ぶことがたくさんあ ものを体得しているわけである。そのカンボディア るからである。アンコール・ワット修復にしても、あ 人たちがそれなりの保存修復マニュアルとノウハウ るいはバイヨン修復にしても、そこに塗り込められ と技術を持てば、アンコール的な、過去から現在ま ている文化や伝統の固まりに、往時の人々の願いや で継承してきている伝統文化、アンコール遺跡の保 信仰、宇宙観など、その精神価値体系やメッセージ 存修復の細かいところまでカンボディア土着方式に を看破し、学んでいくと、学ぶべき課題がたくさん 反映できる。 あるのである。 1997年のフン・セン派とラナリット派がプノンペ カンボディアは貧しい、内戦があったし、気の毒 ンで武力衝突した時、多くの外国人援助団の人たち だという同情の気持ちだけでは息の長い文化協力は はすぐにバンコクに出てしまい、結局遺跡の現場に できない。日本人は謙虚な気持ちでカンボディアに はカンボディア人以外誰も残らなかった。 学ぶべきものがあるということを再認識しなければ 私は1980年にカンボディアに入った。現在では国 ならない。カンボディアにはカンボディアで組み立 際社会や遺跡の専門家が口を開けばアンコール遺跡 てられ継続している伝統や日常生活がある。そのカ がどれほど重要な文化遺産であり、そのために寝食 ンボディア的慣習枠組みの中で今後のアンコール遺 も忘れて保存修復をやらねばならないと言っている。 跡を取り上げ、文化遺産の保存修復のあり方を考え それならばどうして1980年からの困難な時代に誰も ていく必要がある。 もちろん技術研修も必要である。 救済に手を貸さなかったのか。それにはヘンサムリ そういう国際文化協力の哲学や基本方針というもの ン政権が傀儡政権だからという政治的な理由があっ が、これまで日本の社会の中で十分議論されてこな た。しかし、私はアンコール遺跡の崩壊の状況をユ かったのではないか。日本人は金と技術と人材があ ネスコ、日本政府、国連など、色々な関係機関に訴 るからカンボディアでは何でもできるという過信と え、救済を求めてきた。そして 1993 年に国交が正常 おごりがあることも事実である。 化され色々な国や機関、専門家たちが入ってきた。 しかし残念なことは、1980 年の S.O.S. アンコールに 2−5 カンボディアの文化遺産は誰が責任を 持つのか−カンボディアの文化主権問題− カンボディアの文化主権、それを体現しているカ ンボディアの文化遺産は誰が守るのか、国際的な援 応えて、国交がなくとも遺跡のために個人的に一人 でもあるいは二人でも、心があるならばと願ってい たのであるが、誰も入ってこなかったことである。 そして現在、 各国が保存修復の手助けをしている。 助で守るわけではない。やはりカンボディア人が守 それは高く評価いたしたい。ただ、そこで重要な視 るべきである。カンボディアの文化主権についての 点はカンボディア人たちの将来を考えているかどう 責任は誰が持つのか。これもやはりカンボディア人 かである。 「カンボディア人による」というのは、誰 が持つべきであろう。早く自立できる自前の人材を が主人公なのかということを明確にし、それぞれの 養成し、彼らがイニシアティブをとって保存修復の 立場で再考する必要がある。私たちはカンボディア 方針を決めやっていくべきである。 で仕事をしながら学んでいる。もちろん日本が資金 アンコール遺跡の保存修復活動は国際的な やノウハウは提供しているが、私たちは事実上アン ショー・ウィンドウでもある。各国が手伝っている コールの保存修復をめぐってたくさん学ぶことが 保存修復も同じくショー・ウィンドウ的色彩が強い あった。カンボディアでは日本の考古学や建築学で が、それはあくまでもカンボディアの文化主権を尊 開発した手法が必ずしも通用しないような場合がよ 重してのショー・ウィンドウである。文化の最終的 くあった。謙虚な立場に立って文化協力をやってい な責任は、 カンボディア人が持つということである。 く。カンボディア人たちの文化主権というものを尊 95 カンボディア援助研究会報告書 重し、カンボディアから学んでいくということがそ 民地時代を含めて1908年から1971年(フランス人専 の基本にあるのではないだろうか。 門家撤退)まで 63 年間にわたりフランス人主導のも とにアンコール・ワットの保存修復事業が実施され、 2−6 アンコール・ワットの原風景を求めて −民族審美観とは何か− ショー・ウィンドウとして展示されてきた。しかし アンコール・ワットの第一塔門からあたりを見渡 その保存と整備の具体的作業は、技術的な面はさて すと、オオギヤシの数本の樹林の遠くに広い天空を おき、フランス的な審美眼をもとに基本設計がなさ 背景として 5 尖塔が峻立し、荘厳な信仰に似た渇仰 れ、観光うけのする清潔なイメージの大伽藍として の気持ちが湧いてくる。 これは現在の風景であって、 演出されてきたところがあるのではないか。 往時の原風景はどのような光景であったのか分から これは私見であるが、ベルサイユ宮殿の裏側のト ない。想像するならばワットのまわりは幾重にも門 リアノン宮殿を思い出していただきたい。そこには 前町が形成され、木造の高床式の家宅がびっしりと 大小の池があり、きれいな樹木がところどころにあ 建ち並び、市場では色々な商品が売られ、呼びかけ り、そこは広い見通しのきく空間である。アンコー る声が飛び交っていたのではないだろうか。その木 ル・ワットの整備にあたってコマイユは、無意識の 造の家々は長年の歳月で消え去り、そこに下生えが うちにベルサイユ宮殿の整備の原型が頭の中にあっ 生い茂り、巨木や樹木が密生し、一部の場所では現 たのであろう。そのことについてはどこにも言及さ 在タ・プローム寺院に見られるようにガジュマル系 れていないが、そこにはフランス的美的固定感覚が の大樹が覆っていたと思われる。少なくとも現在の あったかもしれない。そうした微妙な美的感覚が反 アンコール・ワットや他のアンコール遺跡に見られ 映してしまうほど、遺跡の整備保存はデリケートで るように、樹木もほどほどに切り取られ、すっきり ある。フランス極東学院が63年にわたりアンコール とした感じの遺跡ではなかったといえる。 遺跡の保存修復に貢献してきたことは、高く評価い 1908年にフランス極東学院の保存官として赴任し たしたい。しかしながら文化遺産の保存と修復には てきた J. コマイユ氏は、ワット境内の西参道第一塔 カンボディア人的感覚が必要であり、カンボディア 門を越えたところの十字型テラスに掛けた高床式家 の風土の中で培ってきたカンボディア人の五感と美 屋に住み、事務所兼住居としていた。コマイユがま 的感覚を尊重いたしたい。 ず着手した作業は、下生えや樹木の取り除きであっ たと報告している。カンボディア人作業員を動員し て、境内随所にとどまった土砂を取り除き、整地し たと記録している。そして密生したオオギヤシの樹 林を間引きし、 見通しのきく広い空間を作り出した。 整地したところに芝生を植え、作業員に雨季の後何 回か刈り込をさせた。だからどちらかというと現在 の風景は人工的に作り出され清掃されたものである。 アンコール・ワットは建立以来うち捨てられて廃虚 になることはなかったが、それでも境内には樹林が 密生していた。1431 年頃の王都陥落の後、一時期は 人々は寄りつけなかったが、その後上座仏教寺院に 衣替えをして現在まで仏教の聖地として存続してい るのである。 私たちはアンコール・ワットの前に立つとその大 伽藍の壮大さに眼が奪われ、まわりの景観について はあまり気を払わないで過ごしてきた。フランス植 96 フランス文化の対外的な貢献として世界への 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 BOX 4 − 1 ユネスコ/日本信託基金によるアンコール遺跡への協力 1908 年から 1971 年にかけては、フランス極東学院 (EFEO)がアンコール遺跡の保存維持・修復活動を実 施していたが、近年の相次ぐ戦争や紛争により遺跡の 荒廃が進んだ。 日本政府は信託基金をユネスコに設置後まもなく、 その最初のプロジェクトとして 1990 年にバンコクに おける「アンコール遺跡の保存に関する第一回専門家 円卓会議」の開催を支援した。この会議は「アンコール 遺跡保存のための行動計画」の一環としてユネスコに より提案され、アンコールに関する最初の技術会合と して、国際的専門化、カンボディア人専門家、国際機 関、政府及び非政府機関代表など約30名が参加し、将 来の活動に関する一連の勧告を採択した。 カンボディアの和平実現の過程で、1991年にユネス コのマヨール事務局長はアンコール遺跡救済を国際社 会に訴え、国際的な関心を高めた。400万平方キロメー トルにも及ぶ地域に多くの建造物を擁し、類いまれな 美しさと人類普遍の価値を持つアンコールの遺跡群 は、翌1992年12月ユネスコ世界遺産委員会により「世 界遺産リスト」に登録され、また同時に、遺跡救済活 動の強化をめざして 「危機に瀕する遺跡」 として宣言さ れた。 1993 年、日本政府は「アンコール遺跡の救済及び開 発のための政府間会議」を開催した。カンボディア王 国はもちろんのこと、30カ国以上の各国政府代表、国 際機関、在世期間、非政府機関の代表が一堂に会し、 「東京宣言」を採択した。これによってカンボディア政 府当局(APSARA アプサラ:アンコール地域遺跡保護 整備機関、 (−1995年2月の王令により設立)を支援す るために、プノンペンでの「アンコール遺跡の救済及 び開発のための国際調整委員会(ICC)」の設立が決定 された。国際調整委員会は、日本及びフランスが共同 議長を務め、ユネスコを事務局として 1993 年 12 月よ り定期的に開かれている。日本政府はその信託基金を 通じ ICC の会議運営を支援している。 最近終了、または現在進行中の以下の 4 つのアン コール関係主要プロジェクトを紹介する。 バイヨン寺院と王宮前広場に的を絞った調査・修復活 動が行われている。 ①アンコール遺跡保存・修復 カンボディア政府の要請に応え、日本政府は 4 回の 予備調査団を現地に派遣し、1994年にはユネスコ文化 遺産日本信託基金の枠組みで具体的なプロジェクトを 実施するため「日本国政府アンコール遺跡救済チーム (JSA)」を結成した。日本国際協力センター(JICE)の 協力を得て、長期にわたる本プロジェクトでは、現在 ②アンコール保存事務所への技術支援 本プロジェクトは、遺跡の保存・維持を管轄するア ンコール保存事務所の強化に寄与することを目的とし ている。その第一歩として、本信託基金を通じ「グロ リエの家」とも呼ばれる 27 番の建物、及び中央事務所 として使われている25番の建物の修復が行われた。プ ロジェクトの開始直後(1993 年)に、シアムリアプの a) バイヨン寺院 アンコール・トム最後の都市の中 心に位置するバイヨン寺院(12 世紀末∼ 13 世紀初 め)は、歴史的にも建築学的にも、アンコール歴史 公園の中で最も重要な建築物の一つであるが、損壊 の度合が激しい。本プロジェクトでは、崩壊の危機 にある北経蔵の修復とバイヨン寺院全体に関するマ スタープラン(保存・修復主要計画)の策定を目的と している。 工事は 1999 年 9 月に完成した。1996 年に行われ た基壇の解体によって、壁・屋根の崩壊の原因に なっている基壇の変形は数世紀にわたる内部の土の 流出による不等沈下によって引き起こされたことが 判明した。JSAは「象の足」と呼ばれる伝統的な道具 で砂の層を突き固め、消石灰を若干添加して砂層の 強度を高めることを行った。 解体及び修復作業の過程で収集されたデータと劣 化の科学的な分析結果などは現在公開されており、 今後マスタープラン策定のための基礎資料として活 用される。建築物の本来の姿を最大限尊重するとの 原則に基づき、そのための最良の保存・修復方法を 見出すため、JSAでは1996年より毎年バイヨン寺院 に関するシンポジウムを開催し、カンボディア政府 当局及び国際専門家と討議を深めている。 b) 王宮前広場 王宮前広場のプラサート・スープラ (12塔)とテラスについては、具体的な修復工事に向 けての様々な調査が行われている。現在各塔につい て詳細な建築学的調査が進行中である。プラサー ト・スープラ北群では、創建当初の遺跡群の検出、 その後のテラス改装 (増改築) 過程や他の構築物の変 化過程の解明を目的とした発掘調査が行われた。崩 壊の懸念されるいくつかの塔については、地下水の 変動に伴って繰り返す地盤の収縮膨張が、構造物の 傾斜の一因であることが判明した。 ユネスコ/日本信託基金によるアンコール遺跡の主要プロジェクト プロジェクト 経費総額(米ドル) 期 間 国内受け入れ機関 アンコール遺跡保存・修復 9,600,000 1994 - 1999 APSARA アンコール保存事務所技術支援 669,500 1992 - 1998 APSARA 王立芸術大学における人材養成 1,288,900 1997 - 1998 文化・芸術省 アンコールの碑文集 79,100 1997 - 1998 ユネスコ 97 カンボディア援助研究会報告書 BOX 4 − 1 続き 治安が悪化し、プロジェクトの進渉に支障をきたして いたが、修復された建物は保存事務所や APSARA に よって現在十分に活用されており、27番の建物にはユ ネスコの資金援助により国際資料センターも設置され た。 さらに彫刻などの古美術品を収納する三つの建物 (3、4、5 番)が修復されたほか、支切壁の建設及び鉄 柵の新設、鉄格子の設置による盗難防止対策も著しく 強化された。 3番の建物にはドイツプロジェクトによって石材の 研究・保存のための試験所も設置された。 これら修復工事は、ユネスコ/フランス信託基金に て行われた収蔵美術品の目録作成事業と調整をとりつ つ実施された。また、石工作業場として12番の建物を 修復し、研修用にJSAが供与した石切断機が備えられ た。 ③王立芸術大学人材養成 国内専門家の養成は、文化遺産保存活動を持続させ るために極めて重要である。 本プロジェクトの開始当初(1993 年)は、もっぱら 外国人講師を王立芸術大学考古学部へ招へいするもの であったが、1996年度から同大学の建築・都市計画学 部への支援も開始した。 1996 年からは、トヨタ財団、国際交流基金アジア・ センターの協力を得て、講師などの採用、モニタリン グ、評価活動を行った。またカンボディア人の助手及 び事務職員スタッフへのトレーニングも開始された。 1997年度にはプロジェクトの地元への定着はさらに 促進され、採用された講師 13 人と助手 17 人中、25 人 がカンボディア人であった。 本プロジェクトを通じて、大学の学問の質が向上し ただけでなくカンボディア人講師の教育技術や事務職 員の能力が著しく向上した。また、二つの学部の教科 課程も大幅に改善された。英国大使館との共同拠出で 行われた南キャンパスの図書館改修などによって、大 学施設が整備され学術環境もかなり改善した。 ④アンコールの碑文集 カンボディアの碑文に関するまとまった書物は現在 のところ残存していないが、こうした書物は碑銘学を 学ぶ学生にとって必須であるのみならず、他の関連学 問分野の研究者が正確に碑文を解釈するために有用で ある。また専門外の識者にとっても貴重な資料とな る。こうした背景から本プロジェクトはアンコールに おける碑文集を作成することを目的としている。 この碑文集は、プノンペン大学のロン・シアム教授、 上智大学外国語学部教授の石澤良昭教授及びパリ高等 学術研究所研究部長のクロード・ジャック教授が共同 で制作中である。序章では、クメールの古文書学及び サンスクリット韻律学の概要を説明し、三部構成の本 文では、1)クメールの歴史、2)宗教、3)社会をテーマ に、それらに関連する碑文の前文または一部分を紹介 する。サンスクリット語及びクメール語の20以上の文 章が注釈も付して翻訳され、本文中に引用される全て の碑文テキストの彫版複写が巻末で紹介される。さら に付録としてアンコールやその近郊で見つかったタイ 語、ミャンマー語、日本語、さらにアラビア後の碑文 の例も紹介される。 石澤教授によってアンコール・ワットの日本人墨書 跡(1632 年)の研究も付け加わる。クメールの初期数 世紀の歴史を理解するうえで、中国語文献は大変重要 なものである。 『ユネスコ日本信託基金 文化遺産保存のための活動』 (ユネスコ刊、1998 年 11 月)より転載 98 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表 アンコール遺跡関連年表 [石澤] カンボディアへ渡航・アンコール保存事務所 において B.P. グロリエに師事 今川幸雄ほか『アンコールの遺跡−カンボディアの 文化と芸術』霞が関出版 1964 217p 毎日新聞主催、「カンボディア王国秘宝展」開催 ( 1963 年 5 月∼ 6 月・東京、名古屋、大阪) ・ 165 点を展示 三島由起夫『癩王のテラス』中央公論社 1964 125p [石澤] カンボディア調査 [石澤] カンボディア調査 [石澤] 日本学術振興会派遣によりフランス極東学院 で碑文研究 [石澤] 日本学術振興会派遣によりパリ大学高等学術 研究院(オート・ゼチュド)で碑文研究 [石澤] 第 1 回アンコール遺跡予備調査(8 月) ・ テレビ班(日本テレビ)参加 上智大学アンコール国際調査団結成 [上智] 第 1 回予備調査報告書:石澤良昭監修 『埋もれた文明アンコール遺跡』 日本テレビ出版部 1982 144p 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 1907 フランス・シャム条約:バットンボーン・ シアムリアプ・シソポンの諸州仏領となる 1908 フランス極東学院、アンコール遺跡保存事務所開設 1911 アンコール地域の修復の保存の一部として、 森林管理の ための保存政策が発表される 1925 東南アジア初の国立公園として、 アンコール遺跡公園設 立(Angkor Historic Park) 1953 独立式典(以後独立記念日・11 月 9 日) 1954 ジュネーヴ協定調印。べトミン撤退決まる(7 月 21 日) カンボディア、対日賠償請求権放棄を日本に通報 (11 月 27 日) 1955 シハヌーク、日本公式訪問(12 月 4 日) 日本−カンボディア友好条約調印(12 月 9 日) 1957 岸首相、カンボディア訪問(11 月 21 日) 1959 プリア=ヴィヒア寺院問題を国際司法裁判所へ提訴 (10 月 6 日) 1960 日本−カンボディア貿易取り決め調印(2 月 10 日) 1961 1962 国際司法裁判所、 プリア=ヴィヒア寺院のカンボディア への帰属を判決(6 月 15 日) 1964 1965 日本の援助による農業技術センター落成式挙行 (7 月 8 日) 1969 1970 カンボディアが内戦状態に入る 1972 カンボディア、文化財不法取引禁止法加盟 1975 ポルポト派軍、プノンペン入城(4 月 17 日) ・ ポルポト政権成立 1976 新憲法を発布、国名が「民主カンボディア」となる (1 月 5 日) 1978 ヴィエトナム軍、カンボディア南部国境で大攻勢・ 第 3 次インドシナ戦争勃発(12 月 25 日) 1979 カンプチア人民革命評議会 (ヘンサムリン政権成立・1 月 8 日) 文化情報省に遺跡保存局・アンコール遺跡保存委員会 設立 アンコール保存事務所再開(10 月) 文化財保護法成立(11 月) 1980 1981 ユネスコによるアンコール地域中立化提案 National Geographic によるアンコール遺跡取材 1982 ヴィエトナム・ポーランド・仏・インドがカンボディア に対して援助を申し出る 国連本部におけるアンコール・ワット展 (ユネスコと National Geographic Society 協力) (4 月) [上智] 第 2 回アンコール遺跡予備調査(11 月) 99 カンボディア援助研究会報告書 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 [上智] 国際研究プロジェクト 1984 「アジアの文化遺産の再発見」研究開始 [ポーランド] 国家保存委員会チームによる 1985 プノンペン・シルバーパゴダの回廊壁画修復 [上智] 国際シンポジウム「アジアの文化遺産再発見 −東南アジア遺跡の保存・修復・研究−」 開催(4 月 19 日∼ 20 日・会場:上智大学) [上智] 第 1 回アンコール救済国際シンポジウム開催 「アンコール救済問題」 (4 月 20 日・会場: 上智大学)・アンコール遺跡救済に関する ソフィア・アピール採択 [印] インド政府はカンボディア政府とアンコール・ 1986 ワット修復に関する 6 年間の作業協定に同意 [上智] 国際シンポジウム「ボロブドール遺跡の保存・ 修復・経験に学ぶ」開催 (10 月 30 日∼ 11 月 2 日・ 会場:ボロブドゥール、インドネシア) [印] アンコールへ調査隊派遣開始 1987 パリにおいてカンボディア問題解決のための [印] 考古総局アンコール・ワットの修復開始 第 1 回直接会談(シハヌーク殿下・フン・セン首相) [上智] 国際シンポジウム「スコータイ遺跡の保存・ (12 月 2 日∼ 4 日) 修復・経験に学ぶ」開催(11 月 21 日∼ 25 日・ 会場:スコータイ、タイ) [上智] <第 1 回アンコール遺跡調査(3 月)> 1988 カンボディア、 「ユネスコ世界文化開発 10 年計画」参加 (∼ 97 年) [上智] 国際シンポジウム「パガン遺跡の研究・修復・ 発展に関するシンポジウム」開催 (8 月 2 日∼ 6 日・会場:パガン、ミャンマー) [上智] <第 3 回アンコール遺跡予備調査(3 月)> 1989 日本政府「ユネスコ文化遺産保存日本信託基金」設立 (1999 年末現在 3,566 万 1,000 ドル拠出し、 15 カ国 19 遺跡に助成) ユネスコによる第 1 回アンコール遺跡調査団派遣 (石澤良昭、クロード・ジャック教授) [米] アメリカによるアンコール遺跡第 1 回調査団 派遣(ワールド・モニュメント・ファンド) [上智] <第 2 回アンコール遺跡調査(5 月)>・ 22ヶ所の遺跡の調査 朝日新聞主催により「アンコール遺跡救済の写真展」 開催・調査団より 3 名講演 (石澤、河野靖、井川一久)10 月・東京 第 2 回調査報告:石澤良昭 『甦る文化遺産・アンコール・ワット』 日本テレビ出版部 1989, 160p 第 1 回アンコール遺跡救済国際円卓会議がユネスコと 上智大学の共催で開かれる (12 月 15 日・会場:バンコク、タイ) 石澤良昭、千原大五郎、遠藤宣雄、河野靖 国際シンポジウム「8 世紀から 13 世紀までのタイ国 東北部における歴史的遺跡国際シンポジウム」開催 (12 月 18 日∼ 23 日)スリン県・タイ (石澤、千原、遠藤、河野、坪井の 5 名) [上智] <第 3 回アンコール遺跡調査(12 月 23 日∼ 1 月 6 日)> 100 プノンペン芸術大学再開 カンボディア和平パリ国際会議(7 月 30 日) ユネスコ総長とシハヌークの会合(9 月 1 日) シハヌークと 4 つの政党がアンコール救済援助を ユネスコに正式要求(10 月) ユネスコの文化遺産課より 2 名が派遣され、現状把握 調査が WMF との協力のもとに行われる(12 月) 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 [石澤] パリのギメ美術館シンポジウムにてアンコー ル遺跡破壊状況講演(2 月 25 日) [仏] アンコール遺跡への調査団派遣 朝日新聞主催、国際シンポジウム 「危機にたつアンコール遺跡を救う」開催(3 月 1 日∼ 2 日・会場:東京朝日ホール) ・シンポジウムの結果 「東京アピール」が採択される 年 1990 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 ユネスコ主催「アンコール遺跡保存に関する 第 1 回専門家円卓会議」開催(6 月 4 日∼ 8 日・バンコク・ 「アンコール遺跡保存のための行動計画」を提出・石澤、 河野、千原、坪井出席) [上智] <第 4 回アンコール遺跡調査(7 月 28 日∼ 8 月 13 日)> 合意(6 月 4 日・5 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院、タ・プロム寺院を 中心に活動することをカンボディア政府と協議 [ポーランド] 遺跡局によるアンコール遺跡修復作業 開始 [EFEO]フランス極東学院アンコール・トムの修復を 開始 カンボディア和平東京会議・SNC (最高国民評議会) 設置 ユネスコ・EFEO・上智大学 3 機関会議 (9 月 12 日∼ 18 日・パリ) [上智] 国際プロジェクト「アジアの文化遺産の 再発見」第 2 期準備のための国際会議実施 (10 月 29 日∼ 11 月 2 日) EFEO、アンコールにてフィールド調査実施 (上智大学・ミシガン大学・PKZ・インドなども参加) (12 月 10 日∼ 91 年 1 月 6 日) [上智] 文化情報省へトヨタ・ランドクルーザー 1991 2 台贈呈(1 月 10 日∼ 18 日) 第 2 回アメリカ調査団と共同で実施 . 米・仏・英・ ユネスコ事務局長マイヨールがアンコール遺跡救済を ソ連・カナダ・オーストラリア・ベルギー・日本・ アピール カンボディアの 9 カ国からの専門家が参加 [上智] <第 5 回アンコール遺跡調査(3 月 5 日∼ 3 月 30 日)> バンテアイ・クデイ寺院第 1 回発掘調査(3 月) [上智] プノンペン芸術大学考古・建築学生 24 名及び アンコール保存事務所職員 2 名、計 26 名の アンコール遺跡における第 1 回研修実施 (3 月 12 日∼ 3 月 25 日) [上智・米]WMF とアンコール遺跡インベントリー作り を共同研究プロジェクトとして実施 日本においてアンコール遺跡救済委員会が設立(4 月) 会長石川六郎、事務局長石澤良昭、 事務局長補佐遠藤宣雄 アンコール遺跡救済委員会:使節団(平山郁夫団長 以下 35 名)がアンコール遺跡調査実施 (4 月 27 日∼ 5 月 4 日) ユネスコ・EFEO・上智大学 3 機関保存修復会議 (4 月 26 日∼ 5 月 14 日・パリ) [上智] 芸術大学にて特別集中講義を実施 (8 月 13 日∼ 14 日) [上智] <第 6 回アンコール遺跡調査 (8 月 10 日∼ 8 月 31 日)> 101 カンボディア援助研究会報告書 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 [上智] プノンペン芸大考古学生 7 名・建築学生 5 名 に対してアンコール遺跡において 研修実施(8 月 15 日∼ 8 月 28 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 2 回発掘調査 (8 月 19 日∼ 26 日) [上智] 遺跡・村落・森林の共存共生プロジェクト 開始 [上智] <第 7 回アンコール遺跡調査 (3 月 7 日∼ 28 日)> 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 ユネスコ主催「第 2 回アンコール遺跡保存専門家国際 円卓会議(9 月 9 日∼ 11 日・パリ) パリ和平協定(10 月 23 日) シハヌーク、ユネスコへマスタープランの作成を 依頼する(11 月) カンボディア世界遺産条約に加盟(11 月 28 日) 1992 明石特別代表、着任。UNTAC(国連カンボディア暫定行政 機構)による PKO 開始(3 月 15 日) カンボディア復興国際会議準備会合(3 月 30 日∼ 31 日・ 東京) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 3 回発掘調査 (3 月 16 日∼ 21 日) [上智] 芸術大学において特別講義実施 (3 月 10 日∼ 14 日) [上智] 現地研修として芸術大学考古学生 10 名・ バンテアイ・クデイ遺跡発掘調査に参加。 建築学生 10 名が建築調査に参加 (3 月 16 日∼ 21 日) [GACP]ドイツ政府によるアンコール・ワットを中心 ユネスコ事務局長マヨールによるアンコールへの とした遺跡修復援助開始 基金呼びかけ(4 月 30 日) [上智] <第 8 次アンコール遺跡調査 (8 月 8 日∼ 28 日)> [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 4 回発掘調査(8 月) ユネスコ、プノンペン事務所開設(8 月) [上智] 芸術大学において特別講義実施 (8 月 10 日∼ 14 日) [上智] 芸術大学建築学生 10 名・考古学生 10 名に 対するアンコール遺跡における現場研修 (8 月 15 日∼ 26 日) ユネスコ・上智大学共催「アンコール遺跡保存のための マスタープラン検討会」開催(8 月 23 日・24 日・ プノンペン)石澤、遠藤、坪井 3 名参加 [JSA] <第 1 回調査実施(予備・10 月)> [奈文研]カンボディアとの「アンコール文化遺産保護 第 16 回世界遺産委員会会議 共同研究」を開始 (12 月 7 日∼ 14 日・米サンタフェ) ・アンコールが登録 [WMF]プリア・カーン修復プロジェクト開始(11 月∼) [JSA] <第 2 回調査実施(1 月)> 1993 [上智] <第 9 回アンコール遺跡調査 日本政府「ユネスコ無形文化財保存振興日本信託基金」 (2 月 27 日∼ 3 月 14 日)・ 設立 治安不安定のためアンコール地域に入れず (1999 年末現在 211 万 8000 ドル拠出) プノンペンのみ> [上智] 芸術大学にて特別講義実施(3 月 1 日∼ 5 日) [JSA] プラサートスープラ、バイヨン北経蔵、 アンコール・ワット外周壁内北経蔵の 3 遺跡に対象を絞る 上智大学・EFEO 共催「第 1 回アンコール遺跡国際 UNTAC の管理下総選挙実施(5 月 23 日∼ 28 日) シンポジウム」 (3 月・シアムリアプ) 暫定国民政府発足(7 月 1 日) 上智大学・朝日新聞共催「アンコール遺跡を解明する SCNC(国民文化最高評議会)設立(8 月 27 日) −ハイビジョンによるアンコール遺跡調査報告会」 (6 月 25 日・会場:松下電器情報通信システムセンター) [上智] 東北タイ遺跡の調査実施(8 月) 102 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 [上智] 芸術大学において遠藤氏によるアンコール 地域の社会文化発展に関する第 1 回 ワークショップ実施(10 月 18 日∼ 28 日) [上智]「アンコール遺跡を解明する−ハイビジョンに よる第 2 回アンコール遺跡調査報告会」 (11 月 13 日・会場:松下電器情報通信 システムセンター) [上智] <第 10 回アンコール遺跡調査 (12 月 19 日∼ 30 日)> 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 新カンボディア王国憲法公布、シハヌーク国王再即位、 ラナリット第 1 首相、フン・セン第 2 首相による 双頭の新内閣成立(9 月 24 日) 日本政府「アンコール遺跡の救済及び開発のための 政府間会議」開催(10 月・東京) 東京宣言採択 [日仏両国共同議長]第 1 回アンコール遺跡の救済及び 開発のための国際調整委員会 (ICC)会議(12 月 21 ∼ 22 日) [JSA] <第 3 回調査実施(12 月)>・ 3 遺跡に対する事前調査実施 [上智] アンコール・ワット西参道第 1 回調査実施 (12 月 27 日) [上智] 芸術大学において遠藤氏によるアンコール 1994 地域の社会文化発展に関する 第 2 回ワークショップ実施(2 月 14 日∼ 18 日) [JSA] JSA 専門家が駐在開始(2 月∼) [上智] <第 11 回アンコール遺跡調査 日本・カンボディア友好橋修復完工(2 月 26 日) (3 月 5 日∼ 26 日)> [日仏両国共同議長]ICC 会議(3 月 21 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 5 回発掘調査(3 月) [上智] 芸術大学にて特別講義実施(3 月 7 日∼ 12 日) [上智] 芸術大学建築学生 5 名・考古学生 5 名に対する バンテアイ・クデイにおける発掘実習実施 (3 月 13 日∼ 22 日) [上智] <第 12 回アンコール遺跡調査 (4 月 27 日∼ 5 月 8 日)> [上智] アンコール・ワット西参道第 2 回調査 (4 月 29 日∼ 5 月 7 日) ゾーン規制を発令(5 月 28 日) [上智]「アンコール遺跡を解明する−ハイビジョンに アンコール遺跡 4 者協議(カ・仏・日・ユネスコ、6 月) よる第 3 回アンコール遺跡調査報告会」 (6 月 25 日・会場:松下電器情報通信システム センター) [JSA] 北クリアン北方に仮設小屋 2 棟建設(7 月) [JSA] <第 4 回調査実施(6 月∼ 9 月)>・ 関連各分野から専門的調査開始 [上智] <第 13 回アンコール遺跡調査 [日仏両国共同議長]ICC 会議(10 月 8 日) (7 月 28 日∼ 8 月 28 日)> [上智] ワット西参道オーガ試掘(8 月 3 日∼ 5 日・ 建築班と地質班の協力による) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 6 回発掘調査(8 月) [上智] 芸術大学考古学学生 7 名・教官 2 名に対する 現場研修実施(7 月 31 日∼ 8 月 19 日) [JSA] プラサートスープラ発掘調査開始 [JSA] 芸術大学建築学学生 3 名・考古学学生 3 名に 対する現場研修実施(第 4 次調査期間) [JSA] 事務所及び宿舎をシアムリアプに開設(9 月) [奈文研]考古学研修生 2 名が奈良国立文化財研究所 にて 3 カ月の研修を受ける [JSA] アンコール遺跡保存事業開始式(11 月 21 日) [JSA] 第 1 次フェーズ開始(11 月∼ 1998 年 10 月) [JSA] <第 5 回調査実施(11 月∼ 99 年 4 月)> 103 カンボディア援助研究会報告書 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 [JSA] 芸術大学建築学学生 5 名に対する現場研修 実施(第 5 次調査期間) [JSA] 「JSA News」創刊(11 月) [上智] <第 14 回アンコール遺跡調査 (12 月 17 日∼ 30 日)> [上智] 小杉氏による石工のトレーニング実施 [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 7 回発掘調査(12 月) [上智] 芸術大学考古学生 7 名に対する現場実習実施 (12 月 19 日∼ 23 日) [上智] 芸術大学建築 5 名に対する現場実習実施 (12 月 24 日∼ 28 日) [上智]「アンコール遺跡を解明する−ハイビジョンに 1995 よる第 4 回アンコール遺跡調査報告会」 (1 月 21 日・会場:松下電器情報通信システム センター) [EFEO]バプオン修復事業開始式・[JSA]アンコール 遺跡保存事業説明式(2 月 21 日) [JSA] < JSA 第 6 回調査実施(2 月∼ 4 月)> [JSA] 芸術大学建築学学生 5 名・考古学学生 5 名に 対する現場研修実施(第 6 回調査期間) [上智] <第 15 回アンコール遺跡調査 SCNC 法的に改正・アンコール地域遺跡保護整備機構 (2 月 28 日∼ 3 月 22 日)> (APSARA)設立(2 月 19 日王令) [上智] 小杉氏による石工のトレーニング実施 [上智] 芸術大学における特別講義実施 (2 月 20 日∼ 2 月 25 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 8 回発掘調査(3 月) [上智] 芸術大学考古学生 5 名・建築 5 名に対する 現場実習実施(2 月 28 日∼ 3 月 21 日) [JSA] プノンペン事務所開設(3 月) [日仏両国共同議長]ICC 会議(3 月 31 日) [上智] <第 16 回アンコール遺跡調査 (7 月 20 日∼ 8 月 31 日)> [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 9 回発掘調査(8 月) [上智] バケン窯跡初視察(8 月 9 日) [上智] タニ窯跡初視察(8 月 15 日・18 日) [上智] 芸術大学考古学生 5 名・建築学生 5 名に対して アンコール遺跡において研修実施 (8 月 1 日∼ 8 月 17 日) [JSA] 「アンコール遺跡調査報告書 1995 年」刊行(7 月) [JSA] ワークショップ併設(7 月) [JSA] <第 7 回調査実施(7 月∼ 9 月)> [JSA] 芸術大学建築学学生 7 名・考古学学生 8 名に 対する現場研修実施(第 7 次調査期間) [イタリア]プレループ修復プロジェクト [日仏両国共同議長]ICC 会議(10 月 8 日) 第 1 次フェーズ開始(10 月) [上智] 石澤良昭団長、シハヌーク国王より銀盃拝受 (11 月 29 日) [JSA] <第 8 回調査実施(11 月∼ 96 年 1 月)> [JSA] 芸術大学建築学学生 7 名に対する現場研修実施 ホテル・ゾーンに関する法律の発令(10 月 13 日) (第 8 次調査期間) [日仏両国共同議長]ICC 会議(12 月 2 日) [上智] 遠藤氏による北スラ・スラン村落調査 (12 月 1 日∼ 1996 年 9 月 30 日) [上智] <第 17 回アンコール遺跡調査 (12 月 14 日∼ 1 月 10 日)> 104 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 [上智] 西参道第 3 回調査実施 (12 月 14 日∼ 96 年 1 月 10 日) [JSA] <第 9 次調査実施(2 月∼ 4 月)> 1996 [日仏両国共同議長]ICC 会議(1 月 9 日) [JSA] バイヨン寺院北経蔵の解体工事開始 [JSA] 芸術大学建築学学生 6 名・考古学 5 名・ 文化財法公布(1 月 25 日) 考古研修スタッフ 1 名に対する現場研修実施 (第 9 次調査期間) [奈文研]スラスラン付近における窯跡探査(3 月) [上智] <第 18 次アンコール遺跡調査 (3 月 1 日∼ 4 月 7 日)> [上智] 西参道第 4 回調査実施(3 月 11 日∼ 24 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 10 回発掘調査(3 月) [上智] 芸術大学考古学学生 5 名に対するバンテアイ・ クデイ寺院における現場研修実施 (3 月 2 日∼ 20 日) [上智] タニ窯跡分布調査実施(3 月) [インドネシア]アンコール・トム王宮門修復工事開始 (5 月) [JSA] 日本政府外務省 HP において JSA 活動報告 掲載開始(6 月) [JSA] 「アンコール遺跡調査報告書 1996 年」刊行(7 月) [JSA] <第 10 回調査実施(7 月∼ 10 月)> [JSA] 芸術大学建築学学生 7 名・考古学 7 名及び 考古研修スタッフ 1 名に対する現場研修実施 (第 10 次調査期間) [JSA] 第 1 回バイヨン会議(8 月 31 日) [上智] <第 19 回アンコール遺跡調査 (7 月 15 日∼ 8 月 31 日)> [上智] アンコール・ワット西参道修復工事計画作成 [上智] タニ窯跡第 1 次発掘調査(8 月) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 11 回発掘調査(8 月) [上智] 芸術大学考古学学生 5 名に対するバンテアイ・ クデイ寺院・タニ窯跡の現場研修実施 (8 月 12 日∼ 30 日) [上智] プノンペン芸術大学建築学学生 5 名に対する 現場研修実施(7 月 15 日∼ 8 月 31 日) 第 1 回世界クメール学会(上智・トヨタ財団共催・ 8 月 23 日∼ 30 日・プノンペン) [JSA] <第 11 回調査実施(11 月∼ 97 年 1 月)> [上智] アンコールワット西参道修復工事起工式及び 上智大学アンコール研修所開所式(8 月 29 日) [上智] <第 20 回アンコール遺跡調査 (11 月 16 日∼ 12 月 31 日)> [上智] 芸術大学考古学学生 5 名・建築学生 4 名に 対する現場研修実施(11 月 17 日∼ 12 月 30 日) [上智] 西参道実測調査実施 [JSA] <第 12 回調査実施(1 月∼ 4 月)> 1997 [JSA] 芸術大学建築学学生 2 名・考古学学生 3 名・ 考古通年研修生 1 名の現場研修実施 (第 12 次調査期間) [日仏両国共同議長]ICC 会議(1 月 14 日・プノンペン) [上智] <第 21 回アンコール遺跡調査 (2 月 27 日∼ 3 月 26 日)> 105 カンボディア援助研究会報告書 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 年 [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 12 回発掘調査 (3 月 5 日∼ 22 日) [上智] 芸術大学考古学学生 5 名に対するバンテアイ・ クデイ寺院における現場研修実施 (3 月 5 日∼ 22 日) [上智] プノンペン芸大建築学生 3 名に対する 現場研修実施(3 月 5 日∼ 3 月 19 日) [上智] 西参道実測調査及びベンチ・マーク設置作業 [JSA] 「バイヨン寺院保存修復計画策定プロジェクト 成功祈願式」 (4 月 27 日) [JSA] 保存修復専門家養成コースとして長期研修生 1 名採用(5 月∼ 98 年 2 月) [上智]「アンコール遺跡を科学する −第 5 回アンコール遺跡国際調査団報告会」 (5 月 24 日・会場:上智大学) [上智] 宗教法人真如苑奨学金によりカンボディア人 学生 2 名が上智大学大学院に留学(6 月) [JSA] <第 13 回調査実施(6 月∼ 10 月)> [JSA] 「アンコール遺跡調査報告書 1997 年」刊行(7 月) アンコール・ワット西参道南側環濠護岸自然崩壊 (9 月 26 日) [上智] 上智大学アンコール研修所に荒樋が国連ボラン ティア(UNV)として常駐開始(11 月) [JSA] <第 14 回調査実施(11 月∼ 98 年 1 月)> アンコール・ワット西参道中央テラス北側シンハ像 2 体をアンコール保存事務所へ移送 バンテアイ・クデイ寺院西門彫刻石材盗難事件 (11 月 2 日) [JSA] 第 2 回バイヨン会議(11 月 22・23 日) [上智] <第 22 回アンコール遺跡調査 (11 月 15 日∼ 12 月 30 日)> [上智] 芸術大学建築学学生 4 名及び石工 7 名に対する 西参道及び各遺跡における現場研修実施 (11 月 15 日∼ 12 月 14 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 1 回清掃作業 (12 月 13 日) [上智] 芸術大学考古学生 4 名に対する現場研修実施 [上智] 西参道実測図(平面・立面)調査実施 [JSA] 保存修復専門家養成コースとして長期研修生 1 名採用(12 月∼ 98 年 12 月) [上智] サンボールクレイ・クック遺跡調査 (12 月 15 日∼ 17 日) [JSA] <第 15 回調査実施(1 月∼ 4 月)> [JSA] 芸術大学考古学学生 2 名に対する現場研修実施 (第 15 次調査期間) [JSA] 保存修復専門家養成コースとして長期研修生 1 名採用(1 月∼ 99 年 1 月) [JSA] 考古学専門家養成コースとして長期研修生 1 名採用(3 月∼ 7 月) 106 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 人民党とフンシンペック党の要人警備兵間で衝突事件 発生(6 月 17 日) 日本外務省アジア・ユース・フェローにより 2 名来日 (うち 1 名は上智大学大学院へ) フン・セン第 2 首相軍、ラナリット第 1 首相軍に武力 攻撃を加え後者を壊滅させ、ラナリットを追放 (7 月 5 日∼ 6 日) 1998 JICA によるアンコール地域 5 万分の 1 の地形図が 作成される 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 年 [上智] バンテアイ・クデイ寺院散水作業実施 (1 月 29 日∼ 4 月 6 日) [上智] <第 23 回アンコール遺跡調査 (3 月 4 日∼ 4 月 5 日)> [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 13 回発掘調査 (3 月 3 日∼ 18 日) [上智] 芸術大学考古学学生 3 名に対するバンテアイ・ クデイ寺院における現場研修実施 (3 月 3 日∼ 18 日) [上智] 芸術大学建築学学生 3 名及び石工 7 名に対する 西参道及び各遺跡における現場研修実施 (3 月 7 日∼ 3 月 28 日) [上智] アンコール・ワット西参道第 2 回調査・ 西参道 139m 地点内部構造調査実施 (3 月 11 日∼ 4 月 4 日) [上智] タニ窯跡群第 2 回発掘調査(3 月 23 日∼ 29 日) [上智] <第 23 次アンコール遺跡追加調査 (4 月 25 日∼ 5 月 26 日)> [上智] 西参道北側にて土嚢による擁壁建設作業実施 (4 月 25 日∼ 5 月 26 日) [上智] 芸術大学建築学学生 3 名及び石工 7 名に対する 西参道における現場研修実施 (4 月 7 日∼ 4 月 30 日) [上智] 石澤[中川]両教授にカンボディア国王シハ ヌーク陛下よりサハメトリ章親授(5 月 17 日) バンテアイ・クデイ石材盗難事件(6 月 10 日) [JSA] <第 16 回調査実施(5 月∼ 7 月)> [上智] 芸術大学建築学部卒業生を常駐建築班研修生 として 3 名受け入れ(5 月) [JSA] 「アンコール遺跡調査報告書 1998 年」刊行(7 月) [上智] <第 24 回アンコール遺跡調査 (8 月 2 日∼ 9 月 30 日)> [上智] 西参道基礎部調査、側柱 3 本解体実施 (8 月 3 日∼ 15 日) [JSA] <第 17 回調査実施(8 月∼ 10 月)> [JSA] バイヨン北経蔵解体修理事前調査実施 [JSA] 芸術大学建築学学生 4 名・考古学学生 4 名に 対する現場研修実施(第 17 次調査期間) [上智] 芸術大学考古学部卒業生を常駐考古班研修生 として 4 名受け入れ(9 月) [上智] 石工 7 名に対する西参道における現場研修実施 [上智] タニ窯跡第 3 次発掘調査(9 月 1 日∼ 13 日) [上智] 上智大学アンコール研修所に丸井研究員が 常駐開始(9 月) [上智] 西参道東端側柱・ナーガ解体(12 本)、 基礎発掘調査、レベル測定実施(11 月) [JSA] <第 18 回調査実施(11 月∼ 99 年 1 月)> [JSA] 保存修復専門家養成コースとして長期研修生 2 名採用(12 月∼) [JSA] 考古学専門家養成コースとして長期研修生 1 名採用(12 月∼) 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 地形図を JICA からカンボディア政府(アプサラ)へ 引き渡し、シンポジウム開催及び地形図展示会 (5 月プノンペン・シアムリアプ) [日仏両国共同議長]ICC 会議(5 月 19 日) カンボディア総選挙(7 月 26 日) 日本政府「ユネスコへの拠出金」 (1998 年実績)979.3 万ドル フン・セン内閣設立(11 月 30 日) 107 カンボディア援助研究会報告書 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 [上智] <第 25 回アンコール遺跡調査 (12 月 17 日∼ 12 月 30 日)> [JSA] 第 3 回バイヨン会議(12 月 18 日・19 日) [上智] 西参道擁壁下部の凸部実測実施 [上智] 芸術大学建築学学生 3 名に対する西参道及び 各遺跡における現場研修実施 [上智] 芸術大学考古学生 4 名に対する現場研修実施 [日仏両国共同議長]ICC 会議(12 月 14 日・15 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 14 回発掘調査 (12 月)D08 発掘 [上智]「アンコール遺跡を科学する 1999 −第 6 回アンコール遺跡国際調査団報告会」 (1 月 23 日・会場:上智大学) [上智] バンテアイ・クデイ寺院発掘調査第 1 回 現地説明会実施(1 月 30 日) [イタリア]プレループ修復プロジェクト 第 2 次フェーズ開始(1 月) [上智] バンテアイ・クデイ寺院散水作業実施 (2 月 4 日∼ 4 月 25 日) [JSA] <第 19 回調査実施(1 月∼ 4 月)> [JSA] 芸術大学考古学学生 4 名・建築学学生 6 名に 対する現場研修実施(第 19 次調査期間) [上智] <第 26 回アンコール遺跡調査 (2 月 7 日∼ 4 月 21 日)> [上智] バンテアイ・クデイ寺院側柱殿北表面採集調査 (2 月 18 日∼ 19 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 15 回発掘調査 (3 月 2 日∼ 24 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院発掘調査 第 2 回現地説明会実施(3 月) [上智] タニ窯跡第 4 次発掘調査(3 月 11 日∼ 24 日) [上智] サンボールクレイ・クック遺跡調査 (3 月 12 日∼ 14 日) [JSA] 第 1 次フェーズ終了(∼ 4 月) [JSA] 第 2 次フェーズ開始(5 月∼) [上智] アンコール・ワット清掃作業(4 月 21 日∼ 24 日) [上智] 調査団・アンコール遺跡修復活動のため 国連ボランティアに参加(5 月∼・三輪悟) [上智] 調査団・アンコール地域の文化発展のため 国連ボランティアに参加(6 月 3 日∼・遠藤宣雄) [上智] <第 27 回アンコール遺跡調査 [日仏両国共同議長]ICC 総合会議(6 月 22 日) (6 月 15 日∼ 9 月 22 日)> [上智] 西参道修復工事現場作業小屋建設 [上智] バンテアイ・クデイ寺院芝生植え作業 (6 月 26 日∼ 7 月 13 日) アンコール・ワット西参道中央テラス北東隅部自然崩壊 (6 月 29 日) [JSA] 「アンコール遺跡調査報告書 1999 年」刊行(7 月) [上智] スラスラン南東畑において考古表面採集実施 (7 月 5 日∼ 7 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院サポート作業実施 (8 月 9 日∼ 9 月 8 日) [奈文研・上智]クーレン山窯跡分布調査実施 [上智] タニ窯跡第 5 次発掘調査(8 月 1 日∼ 15 日) [上智] タニ窯跡現地説明会実施(8 月 16 日) 108 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 [上智] バンテアイ・クデイ寺院発掘調査 第 3 回現地説明会実施(8 月) [上智] 第 1 回クリーニングプログラム・ 上智大学緑陰講座実施(8 月・5 名参加) [JSA] バイヨン寺院北経蔵の解体・ 再構築工事完了式典(9 月 29 日) [上智] 常駐建築班研修生として 2 名雇用(10 月) 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 フランス極東学院による象のテラス北階段の修復作業 終了(10 月 9 日) 第 5 回「アンコール遺跡保存シンポジウム」 (11 月 6 日) [JSA] 第 4 回「アンコール遺跡保存シンポジウム」 (11 月 6 日) APSARA、ICCROM、SPAFA、UNESCO による 第 1 回タ・ネイプロジェクト開始(11 月∼ 2000 年 3 月) [上智] <第 28 回アンコール遺跡調査 (11 月 11 日∼ 2000 年 1 月 25 日)> [上智] 西参道テラス東側ナーガ、側柱解体 (危険回避)実施、敷石砂岩の解体開始(初回) [JSA] 第 4 回バイヨン会議(12 月 12 日∼ 14 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 16 回発掘調査(12 月) [上智] 常駐考古班研修生 1 名が上智大学大学院へ留学 [日仏両国共同議長]ICC 技術会議(12 月 17 日∼ 18 日) 京大東南アジア研究センター: 科研「東南アジアにおける乾燥地の発展と停滞研究」 (代表:福井捷朗)アンコール地域調査 (12 月 25 日∼ 1 月 24 日) [上智] 芸術大学考古学部卒業生 2 名を常駐考古班 研修生として受け入れ [上智] バンテアイ・クデイ寺院現地説明会(1 月 10 日) 2000 小渕総理、カンボディアを訪問(1 月 10 日∼ 12 日) [JSA] 小渕首相のシェムリアップ訪問(1 月 12 日)・ JSA によるバイヨン寺院の説明 [JSA] アンコール・ワット北経蔵周辺発掘予備調査 実施(1 月∼ 2 月) [上智] 小渕首相の来アンコール・ワットに際して 石澤、片桐がご説明(1 月 12 日) 第 2 回第 2 回世界クメール学会 (上智・トヨタ財団共催 1 月 26 日∼ 28 日) [上智] 第 1 回「アンコール・ワット国際シンポジウム」 日本政府「ユネスコ分担率」 (2000 年予算)25%となる 開催(共催・2 月 19 日・会場:日本大学) [上智] 常駐考古班研修生より 1 名東京芸術大学 大学院へ留学(2 月) [上智] <第 29 回アンコール遺跡調査 (2 月 15 日∼ 3 月 31 日)> [上智] バンテアイ・クデイ寺院散水作業実施 (1 月 25 日∼ 4 月 12 日) [上智]「アンコール遺跡を科学する −第 7 回アンコール遺跡国際調査団報告会」 (2 月 26 日・会場:上智大学) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 17 回発掘調査 (3 月 5 日∼ 19 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院発掘調査 第 3 回現地説明会実施(3 月 24 日) [上智] タニ窯跡群第 6 次発掘調査(3 月 25 日∼ 4 月 7 日) [上智] プノンペン芸術大学建築学学生 10 名に対する 現場実習実施(3 月 6 日∼ 3 月 31 日) 第 1 回タ・ネイプログラム終了(∼ 3 月) 109 カンボディア援助研究会報告書 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 年 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 [中国] 中国政府チームによるチャウ・サイ・デヴォダ の修復工事起工式典(3 月 29 日) [上智] 常駐建築班研修生として 2 名雇用(4 月) [上智] 建築研修生 1 名・神奈川国際研修センターへ 10 カ月の研修留学(5 月∼) [上智] 西参道中央テラスより東端までの敷石砂岩 解体終了(6 月 3 日∼ 21 日) [上智] 第 30 回アンコール遺跡調査 (6 月 10 日∼ 9 月 5 日) [上智] 西参道ラテライト擁壁部一部解体開始(6 月) [日仏両国共同議長]ICC 会議(6 月 20 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院芝生植え作業 (6 月 26 日∼ 7 月 7 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 18 回発掘調査(8 月) [上智] 芸術大学建築学学生 8 名に対する現場研修実施 (8 月 14 日∼ 8 月 28 日) [上智] 第 2 回クリーニングプログラム・ 上智大学緑陰講座実施(8 月・22 名参加) [上智] バンテアイ・クデイ寺院現地説明会実施 (9 月 7 日) [上智] 国際シンポジウム「アジアにおける歴史水利 日本政府「文化遺産無償協力」創設 都市と文化遺産−巨大遺跡を農業と「水」の かかわりから検証する−」開催 (9 月 19 日・20 日・会場:上智大学) [ニュージーランド政府]The origins of Angkor Archaeological Project 開始(9 月) [上智] 国際シンポジウム「アジアの文化遺産と 21 世紀 −遺跡保存現場から文化遺産学に向けて−」 開催(9 月 21 日・22 日・会場:上智大学) [JSA] 第 5 回「アンコール遺跡保存シンポジウム」 (10 月 22 日・東京) [上智] <第 31 回アンコール遺跡調査 (10 月 20 日∼ 12 月 31 日)> [WMF] APSARA 及び GACP の協力のもと、タ・ソム プロジェクト第 1 次フェーズ開始(11 月∼) 鹿児島大新田栄治によりシアムリアプ地域先史時代 第 2 回タ・ネイプログラムが APSARA により実施 集落遺跡調査実施(11 月) (12 月∼ 2001 年 4 月) [上智] 調査団・アンコール遺跡修復活動のため 国連ボランティアに参加(12 月∼・高橋正時) [JSA] 「アンコール遺跡調査報告書 2000 年」刊行(12 月) [JSA] 第 5 回バイヨン会議(12 月 11 日∼ 12 日) [日仏両国議長]ICC 会議(12 月 14 日∼ 15 日) [上智] カンボディア・密林の中の 5 大遺跡調査実施 (12 月 16 日∼ 29 日) [上智] <第 32 回アンコール遺跡調査 2001 (2 月 25 日∼ 4 月 10 日)> [上智] 第 1 回草の根文化遺産無償協力で調印式 内閣官房副長官補佐室主催 (3 月 1 日・プノンペン日本大使館) 「国際文化財保存修復協力からの教訓」 (1 月 30 日・会場:東条会館) [上智] バンテアイ・クデイ寺院第 19 回発掘調査 (3 月 1 日∼ 3 月 26 日)・仏像 103 点出土 [上智] プノンペン芸術大学建築学学生 10 名に対する 現場研修実施(3 月 11 日∼ 24 日) [上智] バンテアイ・クデイ寺院専門家に対する 現地説明会(3 月 31 日) 110 第2部 第1章 第4節 歴史・文化 表 4 − 1 アンコール地域における国際協力年表の続き アンコール遺跡関連年表 年 [上智]「カンボディア密林の巨大遺跡 −謎のクメール帝国」NHK 放映 (4 月 22 日・28 日・7 月 4 日) [WMF] タ・ソムプロジェクト第 1 次フェーズ終了予定 (∼ 5 月) [WMF] タ・ソムプロジェクト第 2 次フェーズ終了予定 (5 月∼) [上智] 第 8 回「アンコール遺跡を科学する」 (活動報告シンポジウム)開催予定(5 月 12 日) 出所:筆者作成 日本・カンボディア・ユネスコ関連事項 (2001年4月14日) 111 カンボディア援助研究会報告書 <参考文献:上智大学アンコール遺跡国際調査団刊行物> <報告書及び刊行書> <欧文> 石澤良昭(1999) 『アンコールの王道をいく』淡交社 Institute of Asian Cultures (1986) Cultural Heritage in Asia 198p. -----・荒樋久雄・丸井雅子共著(2000) 『アンコール・ ワットへの道』JTB 出版部 140p. -----・河野靖・千原大五郎・遠藤宣雄共編(1989) 『ヴィ エトナムの文化遺産−ヴィエトナム文化財調査 報告』上智大学アジア文化研究所 103p. 片桐正夫編 (2001) 『アンコール遺跡の建築学』 ( 「アン コール・ワットの解明」第 3 巻)連合出版 上智大学アジア文化研究所(1985) 『アジアの文化遺 産−東南アジア遺跡の保存・修復・研究マニュ アル』第 1 号 68p. ----(1987) 『アジアの文化遺産−東南アジア遺跡の保 存・修復・研究マニュアル』第 2 号 108p. ----(1989) 『アジアの文化遺産−東南アジア遺跡の保 存・修復・研究マニュアル』第 3 号 91p. ----(1990) 『アジアの文化遺産−東南アジア遺跡の保 存・修復・研究マニュアル』第 4 号 198p. -----(1989-2000) 『カンボディアの文化復興』第1号− 17 号 上智大学アンコール遺跡国際調査団(1993-2001) 『ア ンコール遺跡を科学する−アンコール遺跡調査 報告書』第 1 号− 8 号 坪井善明編(2001) 『アンコール遺跡と社会文化発展 −遺跡・住民・環境』 (石澤良昭監修、 「アンコー ル・ワットの解明」第 4 巻)連合出版 286p. 中尾芳治編(2000) 『アンコール遺跡の考古学』 (石澤 良昭監修、 「アンコール・ワットの解明」第 1 巻) 連合出版 310p. 盛合禧夫編(2000) 『アンコール遺跡の地質学』 (石澤 良昭監修、 「アンコール・ワットの解明」第 2 巻) 連合出版 166p. 112 (1):Study and Preseravation of Historic Cities of Southeast Asia, The Japan Times, 168p. ----- (1987) Cultural Heritage in Asia(2):Study on Borobudur, Sophia University, 182p. ----- (1988) Cultural Heritage in Asia(3):Study on Sukhothai, Sophia University, 176p. ----- (1989) Cultural Heritage in Asia(4):Study on the Conservation of monuments and sites and Socio-Cultural Development, Sophia University, 239p. ----- (1990) Cultural Heritage in Asia(5):Study on Pa- gan, Sophia University, 190p. ----- (1992) Cultural Heritage in Asia:Sophia Project Meeting on the preparation of its Second Phase, Sophia University, 111p. ----- (1992) Cultural Heritage in Asia:Study on Historic Cities in lower Northeastern Thailand A.D.8th−13th Centuries, Sophia University, 303p. ISHIZAWA, Yoshiaki (1999) Along the Royal Roads to Angkor, Weathrhill, 199p.