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東アジアの米軍基地と性売買・性犯罪

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東アジアの米軍基地と性売買・性犯罪
『 ア メ リ カ 史 研 究 』( 日 本 ア メ リ カ 史 学 会 ) 第 29 号 、 2006 年
「特集
占領/基地/ミリタリズム」
東 アジア の 米軍基地 と 性売買 ・ 性犯罪
林
博史
はじめに
日 本 が 独 立 を 回 復 し た 1952 年 度 か ら 2004 年 度 ま で の 在 日 米 軍 に よ る 事 件・事 故 は 、公
務 上 ・ 公 務 外 を あ わ せ て 20 万 1481 件 、 そ れ ら に よ る 日 本 人 の 死 者 は 1076 人 に の ぼ っ て
い る( 表 1 )。沖 縄 が 統 計 に 含 ま れ た 1972 年 度 以 降 を み る と 、事 件 ・ 事 故 の 約 六 割 が 沖 縄
に 集 中 し て い る 。ま た 1973 年 度 以 降 だ け で み る と 、刑 法 犯 総 数 は 6933 件 、う ち 凶 悪 犯 は
683 件 ( 殺 人 34、 強 盗 441、 放 火 36、 性 的 暴 行 172) で あ る 1 。 こ の 数 字 に は 、 米 軍 に よ
る犯罪がきわめて多かった占領中の日本本土も、米軍支配下の沖縄も含まれていない。米
軍が第1次裁判権を有している公務中における日本国民に対する事故や犯罪について、
1985 年 か ら 2004 年 ま で の 20 年 間 に 軍 事 裁 判 に か け ら れ た 者 は わ ず か 1 人 だ け で あ り 、
懲 戒 処 分 を 受 け た も の も 318 人 に と ど ま っ て い る 2 。
表1
米 兵 による事 件 事 故 (日 本 )
14000
12000
10000
8000
6000
4000
(出 典 ) 防 衛 施 設 庁 資 料
(『 赤 旗 』 2 0 0 5 年 7 月 1 9
日)
(注 ) 1972 年 の 沖 縄 の 施 政
権返還前は沖縄分は含まれ
ていない。
2000
0
年 度1 9 5 31 9 5 51 9 5 71 9 5 9 1 9 6 11 9 6 31 9 6 5 1 9 6 71 9 6 91 9 7 11 9 7 3 1 9 7 51 9 7 71 9 7 9 1 9 8 11 9 8 31 9 8 51 9 8 7 1 9 8 91 9 9 11 9 9 3 1 9 9 51 9 9 71 9 9 92 0 0 1 2 0 0 3
た し か に 近 年 、 1950-60 年 代 に 比 べ れ ば 犯 罪 件 数 は 減 少 し て い る が 、 沖 縄 、 横 須 賀 、 横
浜、佐世保をはじめ各地で米兵による性的暴行や殺人、強盗、強盗致傷、轢き逃げ事件が
起 こ さ れ て い る 。 2005 年 11 月 に は 沖 縄 の 海 兵 隊 員 た ち に よ っ て フ ィ リ ピ ン で 集 団 強 か ん
事 件 が 引 き 起 こ さ れ た 。 2004 年 に は オ ー ス ト ラ リ ア で 3 人 の 水 兵 が 2 人 の 女 性 を 強 か ん
し た 容 疑 で 逮 捕 さ れ 、2000 年 に は コ ソ ボ に 平 和 維 持 部 隊 と し て 派 遣 さ れ て い た 米 軍 兵 士 が
11 歳 の ア ル バ ニ ア 少 女 を 強 か ん し た う え で 殺 害 し た 3 。 韓 国 に お い て 、 2000 年 か ら 2005
年 8 月 ま で の 在 韓 米 軍 兵 士 に よ る 犯 罪 は 、 韓 国 政 府 の 統 計 に よ る と 、 殺 人 3 件 、 強 盗 19
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
1
件 、強 か ん 5 件 な ど を 含 む 780 件 に の ぼ る が 、韓 国 の 捜 査 当 局 が 被 疑 者 を 拘 束 、捜 査 し た
ケ ー ス は 皆 無 で あ る 4 。在 韓 米 軍 の 報 告 で は 、指 揮 下 の 軍 人 に よ る 性 的 暴 行 は 、2003 年 86
件 、 2002 年 65 件 、 2001 年 81 件 と 報 告 さ れ て い る 5 。
米 軍 に よ る 犯 罪 、特 に 性 犯 罪 は 、駐 留 地 の 住 民 に 対 す る も の だ け で は な い 。1997 年 に は
米本国のアバディーン訓練場で訓練教官の軍曹による訓練生に対する数多くの強かん事件
が 発 覚 し た ( ア バ デ ィ ー ン 事 件 )。 2003 年 に は コ ロ ラ ド ス プ リ ン グ 空 軍 学 校 で 、 数 々 の 性
的暴行事件が表面化した。そのため軍が調査をおこなったところ、在籍していた女性軍人
659 人 の う ち 回 答 の 得 ら れ た 579 人 中 、 セ ク シ ャ ル ハ ラ ス メ ン ト を 受 け た 者 は 70 パ ー セ
ン ト に の ぼ り 、 さ ら に 109 人 ( 19 パ ー セ ン ト ) が 性 的 暴 行 を 受 け 、 う ち 43 人 ( 7.4 パ ー
セ ン ト )は 強 か ん な い し 強 か ん 未 遂 を 受 け た と 答 え た 6 。イ ラ ク や ア フ ガ ニ ス タ ン に 派 遣 さ
れ て い る 米 中 央 軍 に お い て は 、強 か ん な ど の 性 的 暴 行 を 受 け た と 報 告 さ れ た 件 数 は 、2002
年 24 件 、 2003 年 94 件 に の ぼ っ て い る 7 。 イ ラ ク の ア ル グ レ イ ブ 収 容 所 に お け る 性 的 虐 待
についてはくりかえし報道されてよく知られている。
米 軍 と 性 売 買 と の 関 係 に つ い て 一 例 を あ げ れ ば 、2002 年 に ア メ リ カ の フ ォ ッ ク ス・テ レ
ビが、韓国において米陸軍の憲兵が人身売買の実態を知りながら米兵の買春を容認してい
る 様 子 が 報 道 さ れ 、 議 会 で も 大 き な 問 題 に な っ た 8。
米 軍 が 海 外 に 大 量 の 軍 隊 を 派 遣 駐 留 さ せ る よ う に な る の は 、第 2 次 世 界 大 戦 中 か ら の こ
とである。ヨーロッパとともに東アジアは多数の米軍基地が置かれつづけている地域であ
る。本稿では、日本本土、沖縄、韓国を対象に、米軍が駐留するようになった戦後すぐか
ら 1950 年 代 ま で の 米 軍 基 地 と 性 売 買 ・ 性 犯 罪 に つ い て 取 り 上 げ 、 今 日 の 状 況 の 出 発 点 に
お け る 問 題 を 明 ら か に し た い 9。
1
米軍と性売買
米軍の性対策の経緯
ま ず 米 軍 の 性 対 策 に つ い て の 歴 史 的 経 緯 を か ん た ん に ま と め て お き た い 10 。19 世 紀 末 よ
り、ハワイ、フィリピン、パナマ、中国など海外に軍隊を駐留しはじめた米軍は将兵の性
病問題に本格的に取り組み始めた。試行錯誤の結果、娼婦を登録管理し、性病検査をおこ
なって兵士の相手をさせるという公娼制(あるいは集娼制)は、将兵の性病予防策として
は失敗であり、また国内世論からも許されないという結論を下し、米軍駐屯地周辺の娼婦
を摘発追放し、将兵が娼婦と接触しないことが最善の性病予防策であるという政策、すな
わ ち 売 春 禁 圧 政 策 を 1910 年 代 初 頭 に 採 用 し た 。 こ の 米 軍 の 政 策 は 、 公 娼 制 を 導 入 し た 日
本やかつての西欧諸国とは違ったものだった。米国内ではそうした政策を行政・民間の協
力を得て実施し、海外でも可能な所ではそのような対策を取ろうとした。ただ買春をする
なと言いつつも、もし買春した場合にはただちに予防措置(消毒)を取れとも指示してお
り、売春禁圧という政策は何よりも将兵の性病罹患を防ぐための手段として認識されてい
た。
第 2 次 世 界 大 戦 に お い て 、 米 軍 は そ れ ま で の 20 数 万 人 規 模 の 軍 隊 か ら 、 最 高 時 ( 1945
年 ) に は 1200 万 人 の 軍 隊 に 膨 れ 上 が り 、 世 界 各 地 に 派 遣 さ れ た 。 戦 争 の な か で 生 活 が 破
壊された現地社会では米兵相手の売春を営む女性が多く生まれた。各地に派遣された部隊
の司令官や軍医の中には、将兵に禁欲を強いる軍中央の政策に批判的で、娼婦の性病検査
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
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をおこなって将兵の相手をさせることを奨励するものもでてきた。
た だ し 軍 中 央 は 、米 軍 が 米 兵 相 手 の 売 春 宿 を 公 認 し て い る よ う な 事 例 が わ か る と 、た だ
ちに閉鎖させ、売春禁圧という政策は維持したが、終戦とともに軍紀の弛緩が進むと売春
禁圧策は有名無実化し、米兵の性病罹患率が急増する状況が生まれていた。
米 軍 と し て は 、将 兵 が 性 病 に 罹 る と 長 期 に わ た る 治 療 に よ り 勤 務 か ら 外 れ る こ と に な り 、
兵 力 を 損 失 さ せ る 重 大 な 問 題 と 認 識 し て い た 。 た だ 1943 年 か ら ペ ニ シ リ ン の 治 療 が 導 入
され、治療期間が急速に短縮されるとともに外来患者扱いで勤務をしながら治療ができる
状況が生まれてきた。つまり性病に罹ってもすぐには兵力の損失につながらないというこ
と で あ る 。 軍 と し て ほ ぼ 治 療 法 が 確 立 す る の は 1950 年 代 に な っ て か ら で あ る が 、 こ う し
た治療法の進歩によって、売春対策=性病対策であった、それまでの状況は変わったとい
え る 。 1900 年 か ら 1945 年 ま で の 46 年 間 の う ち 病 気 に よ る 勤 務 除 外 の う ち 性 病 が 第 1 位
で あ っ た の が 25 年 を 占 め て い た が 、 1950 年 12 月 の 極 東 軍 ( 日 本 、 沖 縄 、 フ ィ リ ピ ン な
ど を 管 轄 )に お い て は 、病 気 と ケ ガ に よ る 勤 務 除 外 1000 名 中 38 名 の う ち 、性 病 に よ る も
の は 1000 名 中 わ ず か 0.08 名( 日 本 だ け で は 0.16 名 )に す ぎ な く な っ て い た 11 。た だ 軍 中
央の性病問題への関心は薄れたといえるが、病気であることには変わりはないし、ペニシ
リン治療がきかない体質の者もおり、また治療が遅れたり誤ると、深刻な問題をおこすの
で 、 各 派 遣 軍 に お い て 性 病 対 策 は 一 つ の 課 題 と し て 残 さ れ て い た 。 1940 年 代 後 半 か ら 50
年代にかけての時期は、このように過渡期にあたる時期だった。
東アジア占領地における性対策
ま ず 沖 縄 に お い て は 、 遊 郭 街 で あ っ た 那 覇 の 辻 は 10.10 空 襲 で 消 失 し 、 ジ ュ リ ( 辻 の 遊
女)たちの多くは日本軍「慰安婦」として動員されていた。沖縄戦によって沖縄本島は焦
土と化し、多くの土地が米軍に接収されたため、生きていくために米軍キャンプの近くに
やってきて米兵相手に性を売る女性も少なくなかった。戦後しばらくの間、売春の支払い
の多くはタバコであり、職業的な売春業が復活した本土とは様相を異にしていた。
そうした状況が反映しているのか、沖縄に駐留していた琉球軍司令部指揮下の将兵の性
病 罹 患 率 は 、 統 計 が わ か る 46 年 11 月 よ り 48 年 末 ま で 年 間 千 分 比 で 二 桁 台 に と ど ま り 、
そ れ ほ ど 大 き な 問 題 に は な ら な か っ た 。た だ 那 覇 だ け で も 4000-6000 人 と 言 わ れ て い た 娼
婦 の 存 在 は や は り 無 視 で き な く 、1947 年 2 月 の 米 軍 政 府 内 の 会 議 で 、売 春 の た め の 前 借 金
の禁止、米軍人への売春禁止、性病に罹った者の届出・治療義務などを実施する方針を決
め 、 そ れ ら の 内 容 の 軍 政 特 別 布 告 を 3 月 1 日 付 で 公 布 し 31 日 よ り 施 行 し た 。 米 軍 へ の 売
春のみを禁止した理由は、沖縄社会では現地の慣習として売春が認められてきたのでそれ
を禁止することはできないと判断し、米軍人の健康と安全を守る観点から米軍人相手の売
春 の み を 禁 止 す る と い う 措 置 を と っ た か ら で あ る 12 。
日本の敗戦時点においては沖縄では日本本土進攻作戦のための中継補給基地として基地
建 設 が 進 め ら れ 、 陸 軍 だ け で 約 25 万 人 が 駐 留 し て い た が 、 終 戦 と と も に 基 地 建 設 は ス ト
ッ プ し 、陸 軍 の 兵 員 は 1948 年 夏 に は 1 万 人 ほ ど に ま で 減 少 し て い た 。し か し 49 年 5 月 に
国 家 安 全 保 障 会 議 は 沖 縄 の 長 期 保 有 と 基 地 建 設 を 決 定 、10 月 に は シ ー ツ 少 将 が 琉 球 軍 司 令
官兼軍政長官として赴任し、新たな基地建設が開始された。それとほぼ時を同じくして、
越来村(現在の沖縄市)に「八重島」特飲街、別名ニューコザが米軍の示唆で作られ、さ
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
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らに小禄村などにも米兵向け特飲街が生まれた。これらの地域は表向きは飲食店などが立
ち並び、売春街ではないとされていたが、実際には売春が公然とおこなわれる歓楽街にな
っていった。その後、このニューコザについては、極東軍などから軍の方針に反するので
オフリミッツにせよと指示されるが琉球軍はそれを無視してニューコザを維持した。
琉 球 軍 内 の 米 兵 の 性 病 罹 患 率 は 、 1949 年 に 入 る と 上 昇 し 8-9 月 に は 年 間 千 分 比 300 を
超 え る 高 い 水 準 に な っ た 。そ の 後 、朝 鮮 戦 争 勃 発 時( 50 年 6 月 )に は 126 ま で 下 が る が 、
そ の 後 は ま た 上 昇 し 朝 鮮 戦 争 中 は 200 台 か ら 100 台 の 高 い 水 準 に あ っ た 。こ の 朝 鮮 戦 争 中 、
さらには後のベトナム戦争中においても沖縄は米軍の中継兵站基地となり、休暇で沖縄に
立 ち 寄 る 米 兵 も 多 く 、 米 兵 相 手 の 売 春 は 大 き な 社 会 問 題 に な っ た 。 米 軍 は 1953 年 か ら A
サイン方式を導入し、米兵に性病をうつすとその店あるいは地区をオフリミッツにするこ
とによって、経済的打撃をおそれる業者らに自発的に売春女性の性病検査と治療をおこな
わ せ る よ う な 対 策 を と り 、 米 兵 に よ る 買 春 行 為 自 体 は 放 任 さ れ た 13 。
南 朝 鮮・韓 国 に お い て は 、1948 年 2 月 に 米 軍 政 府 は 公 娼 制 廃 止 を 実 施 す る が 、そ の 措 置
と並行して「接客婦」の性病定期健診と強制治療の措置を推進した。定期健診を受けない
者からはライセンスを取り上げることとし、実質的な売春管理をおこなった。その後、韓
国の独立とともに米軍は軍事顧問団を除いて撤退したが、朝鮮戦争が勃発し大量の米軍が
再 び や っ て き た 。特 に 38 度 付 近 で 戦 線 が 停 滞 し は じ め た 1951 年 初 頭 よ り 、米 兵 の 性 病 罹
患 率 が 急 増 し た 。 戦 争 当 初 は 、 千 分 比 10-30 台 と き わ め て 低 い 水 準 だ っ た の が 、 51 年 1
月 に は 84、3 月 に は 100 と な り 、大 き な 問 題 と な っ た 。プ サ ン な ど 南 部 に は 難 民 が 押 し 寄
せ、売春をせざるをえない女性が急増した。そこで米軍は、韓国政府やプサン市、警察な
どを使って娼婦やウェイトレス、ダンサーらの定期健診を導入し、売春をおこなう女性に
は 政 府 か ら 身 分 証 明 書 を 発 行 す る 措 置 を プ サ ン か ら 順 次 実 施 し て い っ た 。ま た 韓 国 政 府 は 、
1951 年 5 月 に は 国 連 軍 向 け の 慰 安 所 と ダ ン ス ホ ー ル 設 置 を 決 定 し 、プ サ ン を 手 始 め に 設 置
し て い っ た 。 同 時 に 韓 国 軍 向 け の 慰 安 所 ・ 慰 安 隊 も 設 置 し た 14 。
韓国においては、米軍が行政当局を指導して売春管理制度を導入していった。韓国政府
もその方針を採用するとともに、米軍向けや韓国軍向けの慰安所を設置した。朝鮮戦争後
は 、む し ろ 韓 国 政 府 が 積 極 的 に 米 軍 向 け 売 春 街 を 整 備 、提 供 し て い き 、
「 基 地 村 」と 呼 ば れ
る 歓 楽 街 が 生 ま れ て い っ た 15 。
日 本 本 土 で は 、日 本 に 進 駐 し て き た 米 軍 に 対 し て 、日 本 の 内 務 省 が 米 軍 向 け 慰 安 施 設 R
A A ( 特 殊 慰 安 施 設 協 会 Recreation and Amusement Association) を 設 置 提 供 し 、 占 領
軍幹部たちもそれを利用する方策を取った。その経緯はすでにかなり明らかにされている
の で 省 略 し 、 一 つ だ け あ ま り 知 ら れ て い な い 例 を 紹 介 す る と 16 、 日 本 占 領 に あ た っ て 米 海
軍の性病対策にあたっていた海軍の軍医中佐は、東京では売春宿が閉鎖されてまったく管
理がなされておらず、娼婦がいなくなるどころか拡散しただけだと考え、2軒の売春宿に
衛 生 管 理 を お こ な っ て た だ ち に 再 開 さ せ る 措 置 を と っ た 。軍 医 は 2 人 の 有 名 な 業 者 を 訪 ね 、
業 者 は そ れ ぞ れ 約 50 人 ず つ の 女 性 が 働 く 売 春 宿 2 軒 を 2 日 以 内 に 開 業 す る と 約 束 し た 。
軍医がとった管理方法とは、売春宿を訪ねる兵士や水兵は身分証明書を階下の当番兵に預
け、予防注射を受けてから、帰るときにようやく返してもらえるというものだった。占領
軍 の 軍 医 や 各 司 令 官 た ち が 売 春 禁 圧 で は な く 、積 極 的 に 売 春 管 理 策 を と っ た こ と が わ か る 。
た だ こ う し た 対 応 を と っ た 結 果 、米 軍 将 兵 の 性 病 罹 患 率 は 急 増 し た 。第 8 軍 の 将 兵 の 性
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
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病 罹 患 率 は 、 年 間 千 分 比 で 45 年 9 月 33 か ら 45 年 12 月 に は 153、 46 年 3 月 に は 250 と
一 気 に 増 え た 17 。米 軍 は 罹 患 率 を 50 以 下 に 抑 え る と い う 方 針 だ っ た の で 、こ う し た 性 病 の
急増は軍中央でも問題になり、また米軍が売春禁圧政策に反して売春を公認していること
が さ ま ざ ま な ル ー ト で 知 ら れ る と こ ろ と な っ た 。 そ の た め 陸 軍 省 の 指 導 で 1946 年 3 月 に
はRAAをオフリミッツ(立入禁止)にし、利用をやめさせた。その後の占領期における
米軍の政策については省略するが、紆余曲折を経て、これから述べる朝鮮戦争期の対応に
な っ て い く 18 。
朝 鮮 戦 争 期 の R&R セ ン タ ー
朝鮮戦争の時期には、日本本土でも沖縄でも米兵による買春が横行し、社会的にも大き
な問題になった。その理由の一つとして休暇制度が整備されたことが指摘できる。兵士と
しての 勤務期間の限定 あるいは部隊・将兵 のローテーション制度については、第 2 次世界
大戦中から導入されはじめていたが、太平洋戦線では地域が広範囲であり、後方に下げて
休暇を取らせるにも輸送上困難だったことなどから十分には活用できなかった。朝鮮戦争
が は じ ま る と 、1950 年 12 月 朝 鮮 半 島 に 派 遣 さ れ た 第 8 軍 と 日 本 兵 站 司 令 部 に よ っ て「 休
養 回 復 計 画 Rest and Recuperation Program」 が 策 定 さ れ た 。 6 か 月 な い し は 7 か 月 の 勤
務 を お こ な っ た 陸 軍 兵 士 に は 5 日 間 の 休 暇 を 与 え ら れ 、 日 本 の 休 養 回 復 セ ン タ ー R&R
Center に 送 ら れ る こ と に な っ た 。
兵 士 と し て の 前 線 勤 務 が 6 か 月 を 越 す と 、死 傷 者 が 急 激 に 増 え て し ま う と い う 研 究 か ら 、
そ の 期 間 が 決 め ら れ た 。た と え ば 、第 2 次 大 戦 中 の 1944 年 12 月 に 米 陸 軍 軍 医 総 監 部 が ま
と め た レ ポ ー ト に よ る と 、歩 兵 の 前 線 実 戦 日 数 が 200 日 か ら 240 日 に な る と「 平 均 的 な 兵
士 の 軍 事 価 値 は ほ と ん ど ゼ ロ に 」な り 、
「実戦に役立たないばかりでなく後輩兵士の士気を
挫 く よ う に な る 」 と し 、 交 代 制 度 を 導 入 す る よ う に 提 案 し て い る 19 。
当 初 、R&R セ ン タ ー は 九 州 の 小 倉 キ ャ ン プ と 羽 田 空 港 近 く の マ ッ ク ニ ー リ ー・キ ャ ン プ
に 設 置 さ れ 、ま も な く 伊 丹 空 軍 基 地( ま も な く 奈 良 に 移 転 )と 埼 玉 の 朝 霞 に も 設 け ら れ た 。
R&R セ ン タ ー に 到 着 し た 兵 士 た ち は そ こ に 滞 在 し て ダ ン ス ホ ー ル な ど 娯 楽 施 設 を 利 用 し 、
あ る い は 各 地 を 観 光 し た 。R&R セ ン タ ー を 利 用 し た 国 連 軍 将 兵 は 1953 年 6 月 末 ま で に 計
80 万 人 に 達 し た 。
こ の R&R セ ン タ ー 周 辺 に は 米 軍 将 兵 を 相 手 と し た レ ス ト ラ ン 、 バ ー 、 ギ フ ト シ ョ ッ プ
などが集まり、売春業も盛んになった。売春を含む歓楽街ができあがったのである。その
た め R&R は I&I、 す な わ ち 「 セ ッ ク ス と 酩 酊 Intercourse & Intoxication」 と も 呼 ば れ た
20 。
奈 良 の R&R セ ン タ ー に つ い て 見 て み る と 21 、 以 前 、 米 軍 宿 舎 に あ て ら れ て い た 場 所 に
1952 年 5 月 R&R セ ン タ ー が 大 阪 か ら 移 転 し て き た 。 施 設 内 に は 宿 泊 施 設 を は じ め 食 堂 、
売 店 、 ダ ン ス ホ ー ル 、 ボ ー リ ン グ 場 な ど が あ り 、 利 用 す る 兵 士 は 5 日 間 で 1 ド ル 50 セ ン
ト( 後 に 2 ド ル )を 支 払 う こ と と な っ て い た 。53 年 6 月 時 点 で セ ン タ ー の 正 門 前 に は 、カ
フ ェ ・ バ ー 34 軒 、 ギ フ ト シ ョ ッ プ 12 軒 、 飲 食 店 (「 パ ン パ ン ・ ポ ン 引 用 」) 7 軒 、 キ ャ バ
レ ー 4 軒 、 ス ト リ ッ プ シ ョ ー 3 軒 、 写 真 店 4 軒 な ど 73 軒 が 立 ち 並 ん で い た 。
奈良市内の駐留軍指定のキャバレーなどで作られた駐留軍サービス協会の資料によると、
1953 年 6 月 末 時 点 で 、 週 1 回 検 診 を う け 、 性 病 を も っ て い な い と い う 証 明 で あ る N・ E・
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
5
S と 書 か れ た バ ッ ジ を 交 付 さ れ て い た 「 女 子 従 業 員 」 が 388 人 い た 。 こ う し た 措 置 を と っ
た背景には、米軍奈良地区司令官より性病対策を取るように要請があったことがある。米
兵 は そ の バ ッ ジ を 目 印 に し 、 買 春 相 手 を 求 め る こ と が で き た 。 ま た 1952 年 の 1 年 間 に セ
ン タ ー 周 辺 な ど で 検 挙 さ れ た 売 春 婦 は 376 人 に の ぼ る 。そ の 多 く が そ う し た 登 録 を し て い
な い 女 性 と 推 定 さ れ る の で 、R&R セ ン タ ー に 滞 在 す る 米 兵 向 け の 売 春 に 関 わ る 女 性 は も っ
と 人 数 が 多 か っ た と 思 わ れ る 。 兵 士 た ち が R&R セ ン タ ー に 到 着 す る 前 か ら ポ ン 引 が 交 渉
を す す め 、 5 日 間 で 2 万 5000 円 と い う よ う な 契 約 を 結 び 、 娼 婦 と そ の 場 所 ( 民 家 ) を 提
供 す る こ と も あ っ た 。 こ の 奈 良 R&R セ ン タ ー は 、 53 年 9 月 に 神 戸 に 移 転 し ( 正 式 閉 鎖 は
55 年 3 月 )、 R&R セ ン タ ー 前 の 歓 楽 街 は 消 滅 す る こ と に な る 。
休 暇 制 度 と は 別 に ロ ー テ ー シ ョ ン 制 度 も 1951 年 春 か ら 実 施 さ れ た 。 兵 士 た ち は 戦 闘 地
域 で 一 月 勤 務 す る と 4 ポ イ ン ト 、後 方 部 隊 勤 務 は 2 ポ イ ン ト 、日 本 で の 勤 務 は 1 ポ イ ン ト
な ど の ポ イ ン ト を 獲 得 し 、36 ポ イ ン ト に な る と 除 隊 帰 国 す る こ と が で き る と い う シ ス テ ム
だった。一般の歩兵の場合、生き残ることができれば、おおむね一年以内に帰国すること
が で き た 。 51 年 4 月 に は こ の シ ス テ ム に よ っ て 最 初 の 兵 士 が 帰 国 し 、 1952 年 中 ご ろ に は
毎 月 平 均 3 万 5000 人 が 交 代 し た 22 。
5 日 間 の 休 暇 制 度 は Little R、 ロ ー テ ー シ ョ ン 制 度 は Big R と 呼 ば れ て い た 。 ロ ー テ ー
ション制度によって兵士たちは次々に交代していったが、その中継地となったのが日本だ
った。米本国からまず日本に送られ、交代センターに数日滞在してから朝鮮半島に送られ
た。帰国する場合も日本に寄ってから帰国した。その際に、日本でつかの間の休暇を楽し
ん だ 。そ う し た 事 情 も 米 兵 に よ る 買 春 の 機 会 を 増 大 さ せ た 。た と え ば 、1952 年 3 月 に 韓 国
に い た 第 3 歩 兵 師 団 で は 性 病 感 染 者 が 201 人 い た が 、 そ の う ち 109 人 が 休 暇 で R&R セ ン
ターにいたときか、韓国に配属される前に日本の交代センターでの待機中に性病に罹った
と 報 告 さ れ て い る 23 。
こうした制度は、戦争神経症などによる兵士の精神的消耗や士気の低下を防ぐために導
入されたものであるが、そのことが後方の休養基地となっていた日本本土での将兵たちに
よる買春や飲酒にともなう非行・犯罪の増加を生み出すことにつながった。しかもその時
期は、ちょうど性病治療法が改善され、性病罹患がそれほど兵力の損失につながらない段
階に入っていたときだった。
日米共同の売春管理策
日本において米兵向け売春が横行し、米軍憲兵隊がそれを容認しているという問題につ
いて米議会でも取り上げられ、オハラ上院議員が国防長官に実情調査を要望した。それに
対 す る 米 陸 軍 の 回 答 ( 1952 年 7 月 23 日 付 ) は 「 日 本 で は 売 春 は 過 去 数 百 年 来 行 わ れ て お
り 、政 府 も こ れ を 黙 認 し て い る 」
「 若 干 の 地 方 条 例 を 除 き 、日 本 の 取 締 法 規 は 売 春 禁 止 よ り
は性病予防を目的としている」
「 米 陸 軍 当 局 に は 売 春 を 行 っ た り 、ま た は こ れ に 関 係 あ る 日
本人を取締る管轄権はない」というもので、もっぱら日本社会の問題であるとし米軍の関
わ り を 表 向 き は 認 め よ う と し な か っ た 24 。
米軍と売春問題の関連について日本の国会でも取り上げられているが、そのなかで外務
省 国 際 協 力 局 長 伊 関 佑 二 郎 は 、 次 の よ う に 米 軍 の 政 策 に つ い て 説 明 し て い る 25 。
「 日 本 側 も 同 様 で ご ざ い ま す が 、向 う の は も つ と 厳 重 で 、売 春 婦 は 認 め て お り ま せ ん か ら 、
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
6
これを認めるような制度というものは向うとしてはできないのであります。ですから立入
り 禁 止 を ――む し ろ こ れ を 認 め ま す な ら ば 赤 線 区 域 を つ く る わ け な ん で す が 、 立 入 り 禁 止
区域をつくつて入れぬところをつくる。これがたくさんできれば、結果においては赤線区
域になるわけでありますが、初めから直接に赤線区域をつくるということになると、向う
は主義上の問題として向うの国内法の適用を受けてできない。ですから今立入り禁止区域
というように、間接に赤線区域ができる結果になるようなやり方に持つて行つているわけ
であります。向うとしましてもこれは本国の父兄の間で非常な問題になつておるわけであ
ります。ことに母親あたりは、非常に若いいまだかつて遊んだこともないような兵隊がお
りまして、それが日本へ来ますと、営門を一歩出ると群がつて来る。こうなればやはり若
い者だからつい誘惑に負けて遊ぶ、性病にかかるということで、向うでも非常にやかまし
い声が起きている。何とか取締れということを言われている。ですから米軍の方でも一生
懸 命 で す 。 ま た 性 病 の 罹 病 率 が ふ え る と 基 地 司 令 官 の 成 績 に も か か わ る 26。 病 人 が 出 る こ
ともまた司令官としては困る。日本側も米側も取締りたい、何とかしたいという気持は同
じなのです。これがなかなか名案が浮ばない。各省で集まりまして、何べんか協議してお
りますけれども、結果として出ましたものが先ほど申し上げたようなものであります。」
将兵の買春を認めないという公式立場をとりながらも、実質的には娼婦の性病管理を日
本側にやらせて将兵の性病罹患を防ぎたいという米軍の事情と意図を、日本側も的確に把
握していたと言えるだろう。
1955 年 に 労 働 省 婦 人 少 年 局 が お こ な っ た 調 査 報 告「 戦 後 新 た に 発 生 し た 集 娼 地 域 に お け
る 売 春 の 実 情 に つ い て 」 2 7 で は 、 赤 線 青 線 区 域 30 か 所 と 基 地 周 辺 20 か 所 を 取 り 上 げ て い
る 。 赤 線 青 線 区 域 に つ い て は 、「 昭 和 23 年 頃 ま で は 、 元 業 者 が 最 初 は 進 駐 軍 に 備 え て 、 後
に は 日 本 人 相 手 に 切 換 え て 計 画 的 に つ く っ た も の が 多 く ( 中 略 )、 26、 27 年 に 発 生 し た も
の 10 地 域 の う ち 、5 地 域 は『 警 察 予 備 隊 、保 安 隊 が 設 置 さ れ た の で 出 来 た 』と 回 答 に 出 て
い る 」 と さ れ て い る 。 調 査 対 象 地 区 の う ち 1948 年 ( 昭 和 23 年 ) ま で に 作 ら れ た の が 8 地
域 で あ る の で 、調 査 対 象 地 区 50 か 所 の う ち 半 数 以 上 は 、米 軍 な い し は 警 察 予 備 隊・保 安 隊
(のちの自衛隊)を相手にして生まれたことになる。軍隊の駐留が売春地区を生み出すう
え で 大 き な 要 因 に な っ て い る こ と が う か が わ れ る 。 基 地 周 辺 の 20 か 所 に つ い て は 、 う ち
15 か 所 で 日 米 ( ま た は 英 ) に よ る 地 方 連 絡 協 議 会 が 設 置 さ れ て お り 、 連 絡 協 議 会 の な い 4
か所(1か所は不明)についても非公式の協議をおこなっていたり、警察と憲兵の打ち合
わせ会を開いて毎夜合同でパトロールをおこなっていたり、米軍病院の担当士官と業者組
合の代表者が協力して性病取締をおこなっていたり、なんらかの協力関係にあった。
1953 年 5 月 の 厚 生 省 公 衆 衛 生 局 防 疫 課 調 査 に よ る と 、 日 本 全 土 ( 沖 縄 は 含 ま れ な い )
に お け る 集 娼 地 区 は 1288、業 者 数 1 万 6849、売 春 婦 数 5 万 9018 人 、ほ か に 散 娼 6 万 3035
人 ( う ち 「 主 と し て 外 人 を 相 手 に す る 」 洋 パ ン 2 万 9262 人 )、 芸 妓 4 万 5978 人 ( う ち 売
春 を お こ な わ な い 者 1 万 1602 人 も 含 ま れ る )と さ れ て い る 。こ れ ら の 数 字 か ら 、売 春 を お
こ な う 女 性 は 合 計 15 万 6429 人 と い う こ と に な る 28 。
同 じ 調 査 の 別 の デ ー タ に よ る と 、「 駐 留 軍 基 地 周 辺 散 娼 」 は 4 万 4943 人 と さ れ て い る 。
R&R セ ン タ ー の あ っ た 奈 良 市 に は 1711 人 、小 倉 市 1360 人 と 多 く 、ほ か に は 横 須 賀 市 3550
人 、 横 浜 市 3300 人 、 東 京 都 立 川 市 1200 人 、 神 戸 市 4300 人 、 佐 世 保 市 1700 人 な ど と な
っている。
「 駐 留 軍 基 地 周 辺 散 娼 」数 が 、主 に 日 本 人 を 相 手 に す る 集 娼 地 区 の 5 万 9018 人
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
7
の8割以上に相当することを見ると、米軍相手の売春業の多さが際立っている。この時期
の 日 本 の 売 春 業 に と っ て 米 軍 は 大 き な 存 在 で あ っ た 29 。
な お 1952 年 中 に 日 本 の 警 察 に よ っ て 検 挙 さ れ た 売 春 婦 は 計 2 万 9476 人 に も の ぼ り 、 彼
女 た ち は 健 康 診 断 を 受 け さ せ ら れ 性 病 に 罹 っ て い る 者 は 治 療 を さ せ ら れ た ( 同 前 調 査 、 86
頁 )。検 挙 さ れ る 娼 婦 の 多 く が「 散 娼 」で あ り 、し か も そ の 多 く が 米 軍 相 手 の 女 性 た ち で あ
ったことから考えると、日本の警察が米兵相手の娼婦たちに強制的に性病検査と治療を受
けさせ、米兵が性病に罹っていない娼婦を相手にできるようにするシステムであったと言
える。
日 本 本 土 で は 、 1957-58 年 に か け て の 売 春 防 止 法 の 施 行 と 、 そ れ と 時 期 を 同 じ く す る 米
地上軍の撤退までの時期、米軍は表向きは関わっていないという建前を維持しながら、こ
う し た 米 軍 相 手 の 売 春 が 、日 本 の 行 政・業 者 た ち の 協 力 に よ っ て 維 持 さ れ て い た の で あ る 。
なお韓国と沖縄においてもこの時期、米軍相手の売春の占める比重はきわめて大きかった
30
。
ベトナム戦争期におけるベトナムでの米軍による売春管理についても触れる余裕がない
が、ここでは米軍と南ベトナム当局が協力して売春管理をおこなっていた。この時期、沖
縄や韓国はもとよりフィリピンやタイでも休暇でやってくる米兵向けの売春がひどかった
時 期 で も あ る 31 。 米 軍 に よ る 売 春 の 広 が り は 、 東 ア ジ ア か ら 東 南 ア ジ ア へ と 一 層 広 が る こ
とになったのである。
2
駐留米軍の性犯罪
占領期
1945 年 8 月 28 日 に 占 領 軍 の 先 遣 隊 が 厚 木 に 入 り 、 本 格 的 な 日 本 本 土 進 駐 は 30 日 に お
こなわれた。この日午後ダグラス・マッカーサーが厚木に到着し、ただちに横浜の司令部
に 入 っ た 。 海 軍 は 第 3 艦 隊 が 29 日 に 東 京 湾 に 入 り 、 30 日 か ら 海 兵 隊 ら が 横 須 賀 に 上 陸 し
た 。東 京 湾 の 戦 艦 ミ ズ ー リ 号 艦 上 で 降 伏 調 印 式 が お こ な わ れ た の は 9 月 2 日 で あ る 。本 土
に 進 駐 し た 連 合 軍 の 人 数 は 、 1945 年 12 月 は じ め に は 43 万 人 に 達 し た 。
神 奈 川 県 警 察 資 料 に よ る と 、最 初 の 米 兵 に よ る 強 か ん 事 件 は 8 月 30 日 午 前 11 時 ご ろ に
起 き て い る 。横 須 賀 市 内 に お い て 、
「米兵二名検索の為め同家に侵入し一旦引揚げたるも約
五分にして再び引返し一名は□□の妻□□当三十六年を階下勝手口小部屋に連行他の一名
は□□の長女□□当十七年を二階に連行し何れも拳銃を擬して威嚇の上之を強姦せり」と
報 告 さ れ て い る 。ま た 同 日 午 後 6 時 ご ろ 横 須 賀 市 内 で ガ ラ ス 商 の 留 守 番 を し て い た 女 性 を
強 か ん す る 事 件 も 起 き て い る 32 。
横須賀に上陸した海軍(あるいは海兵隊)が検索と称して市内に入っているので、かれ
らによる犯行をみられる。この二つの事件について、米軍の捜査報告書が残されている。
し か し 証 拠 は 不 十 分 で あ る な ど の 理 由 で 捜 査 は 打 ち 切 ら れ た 。 翌 31 日 に は 強 か ん 事 件 は
報告されていないが、9 月 1 日には横浜で売春宿から娼婦が拉致されて集団強かんされた
事件がおきている。この事件についても捜査報告書があるが、ここでも証拠不十分で捜査
は打ち切られている。
内務省警保局外事課がまとめた報告によると、首都圏(東京、神奈川、千葉)における
8 月 30 日 か ら 9 月 10 日 ま で の 占 領 軍 兵 士 に よ る 強 か ん 事 件 は 9 件 、 強 か ん 未 遂 6 件 、 計
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
8
15 件 と な っ て い る ( 神 奈 川 11 件 、 千 葉 4 件 、 東 京 0 件 )。 そ の 他 の 事 件 を 含 め る と 513
件 で あ る 。 多 く は 金 銭 や 物 品 の 強 奪 で あ る 33 。
9月の米兵による強かん事件のいくつかは日本の警察資料でも米軍資料でも確認でき、
日本政府からの抗議を受けて米軍もある程度の捜査をしていることがわかる。しかしいく
つかの捜査報告書を見る限り、いずれも証拠不十分や犯人を特定できないとしてうやむや
の ま ま に 捜 査 は 打 ち 切 ら れ て い る 34 。
こ う し た 米 兵 に よ る 犯 罪 は 、 9 月 中 は 新 聞 で も 報 道 さ れ て い た が 、 そ の 後 、 GHQ の 検
閲 の た め か 、 一 切 報 道 さ れ な く な っ た 。 ま た 現 在 残 さ れ て い る 警 察 資 料 も 10 月 は じ め で
終 わ っ て い る 。10 月 4 日 に GHQ か ら い わ ゆ る 人 権 指 令 が 出 さ れ 、治 安 維 持 法 を は じ め と
する一切の弾圧法規の廃止、内務省警保局や特高警察の廃止、警察幹部の罷免がなされる
が、民主化政策の実施が、米軍犯罪の実態を隠してしまうという皮肉な結果となった。
ただ日本政府からの度重なる抗議を受けて、南西太平洋方面軍司令部(最高司令官マッ
カ ー サ ー ) は 9 月 6 日 に は 第 8 軍 ( 東 日 本 を 管 轄 )に 対 し て 、こ う い う 犯 罪 が お こ ら な い
よ う に 直 ち に 措 置 を と る よ う に 指 示 し て い る 。 西 日 本 を 管 轄 し て い た 第 6 軍 で は 45 年 11
月 ま で に 計 604 名 を 軍 法 会 議 に か け た と い う 報 告 が あ る 。 少 し 後 に な る が 、 46 年 8 月 中
の 米 兵 に よ る 日 本 人 へ の 犯 罪 は 、 強 か ん 29 件 を 含 む 619 件 と い う 報 告 が 日 本 政 府 か ら
GHQ に 伝 え ら れ て い る 。1947 年 一 年 間 に 米 軍 が 把 握 し て い る 強 か ん 事 件 は 136 件( 日 本
本 土 の み )、う ち 70 人 を 逮 捕 し 、有 罪 に な っ た も の は 31 人 と 報 告 さ れ て い る 。ま た 1949
年 6 月 か ら 11 月 の 6 か 月 間 で は 、 強 か ん 事 件 は 月 平 均 6.66 件 と い う 報 告 も あ る 35 。
米軍占領下の日本本土における米兵の犯罪の全体像はよくわからないが、断片的に報告
されている米軍資料による数字だけでもかなりの件数にのぼる。しかも強かんなど性犯罪
は報告される件数自体が氷山の一角であることも考慮しなければならない。
米 軍 の 直 接 占 領 下 に あ っ た 沖 縄 の 状 況 は は る か に ひ ど か っ た と 言 わ ざ る を 得 な い 。「 基
地・軍隊を許さない行動する女たちの会」が作成した「沖縄・米兵による女性への性犯罪
( 1945 年 4 月 ~ 2001 年 6 月 ) 第 5 版 」 36 に よ る と 、 米 軍 上 陸 ま も な く の 1945 年 4 月 か
ら 強 か ん 事 件 が 次 々 と 発 生 し て い る 。 米 軍 政 報 告 書 37 に お い て も 「 不 幸 に し て 、 少 数 の 兵
士 は 米 軍 の 沖 縄 上 陸 と 同 時 に 、住 民 を 苦 し め た 。と く に 性 的 犯 罪 が 多 か っ た 」、5 月 8 日 に
沖縄島司令部司令官が強かんを犯すものは死刑に処すと警告を発したが、強かんは減らな
かったと述べられている。女性を拉致した米兵を追いかけていた警察官が逆に射殺される
事 件 も お き て い る( 45 年 11 月 )。そ の 後 、沖 縄 は「 極 東 軍 司 令 部 の 落 伍 者 の は き だ め 」と
米軍自身が嘆くほど軍紀が乱れた将兵が集まっていた。
米 兵 に よ る 米 軍 内 の 女 性 へ の 強 か ん 事 件 も 発 生 し 、1946 年 に は す べ て の ア メ リ カ 人 女 性
に対して、軍駐留地から離れるときにはピストルを所持するように命令を出さざるをえな
か っ た 。米 軍 政 府 公 安 局 長 で あ っ た ポ ー ル・ス キ ュ ー ズ は 、
「 こ の 措 置 は 、わ れ わ れ の 女 性
を貧しくて従順な現地住民から守るためではなく、我々自身の兵隊たちから守るために採
ら れ た も の で あ る 」 と 嘆 か ざ る を 得 な か っ た 38 。 米 軍 の 構 成 員 で あ る 女 性 で さ え も 同 僚 か
らの性犯罪を恐れざるを得なかった状況は、住民の女性にとってどのような状況だっただ
ろうか。
南朝鮮においては、米軍司令部から軍紀の悪化への警告がくりかえし出されている。た
だ 具 体 的 な 性 犯 罪 に つ い て の 資 料 は こ れ ま で の 筆 者 の 調 査 で は よ く わ か ら な い 39 。
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
9
朝鮮戦争期とその後
1950 年 代 に ア メ リ カ は 各 国 と 軍 事 同 盟 を 締 結 し て 、米 軍 が 駐 留 す る 態 勢 を 整 備 し て い っ
た。日本や韓国、西ドイツなどでも占領は終了し同盟国への駐留軍に変わったが、沖縄で
は占領が継続していた。
米 陸 軍 法 務 総 監 部 の 年 次 レ ポ ー ト の 1950 年 代 前 半 の 各 年 版 を 見 る と 40 、韓 国 に お け る 事
例として、盲目の韓国女性への暴行強かん、プサンでの強盗強かん、5人の米兵による集
団 強 か ん 、 女 性 が 強 か ん さ れ 別 の 男 性 が 射 殺 さ れ た 事 件 ( 以 上 、 韓 国 )、 ド イ ツ で 14 歳 の
少 女 と 淫 行 し た 事 件 、リ ビ ヤ で の 少 女 強 か ん 事 件 、場 所 は わ か ら な い が 、16 歳 少 女 の 強 か
ん、9歳の少女の強かん、夫への暴行と妻の強かん、海兵隊の女性が強かんされた事件、
など各地での性犯罪のケースが取り上げられている。
朝 鮮 戦 争 が 始 ま る と 、 日 本 は 朝 鮮 半 島 に 向 か う 米 兵 の 中 継 基 地 と な り 、 特 に R&R セ ン
ター周辺はすでに述べたように売春地帯となっただけでなく荒れた米兵による犯罪が多発
した。強盗、強かん、オフリミッツ違反、憲兵への抵抗暴行などが多発した。日本が独立
を回復するとマスメディアも米兵の犯罪を報道できるようになった。朝鮮戦争休戦後のデ
ー タ で あ る が 、日 本 政 府 の 調 査 で は( 表 1 )、1954 年 か ら 57 年 に か け て 事 件・ 事 故 件 数 41
が 毎 年 1 万 件 を 超 え て い る ( 最 高 は 1956 年 1 万 2988 件 )。 事 件 ・ 事 故 に よ る 死 者 数 で は
1952 年 114 人 、 53 年 103 人 と 100 人 を 超 え て お り 、 そ の 後 は 漸 減 し て い る 。 1957-58 年
にかけて日本本土に駐留していた米地上軍(陸軍と海兵隊の歩兵部隊など)が撤退したこ
とにより、件数は急激に減少していることがわかる。
1953 年 10 月 29 日 か ら 55 年 5 月 31 日 ま で の 米 兵 に よ る 犯 罪 統 計 が あ る( 表 2)。そ れ
に よ る と 、犯 罪 件 数 は 1 万 631 件 に の ぼ る が 、そ の う ち 起 訴 さ れ た も の は 240 件 に す ぎ ず 、
不 起 訴 9993 件 、 未 済 258 件 と な っ て い る 。 強 か ん と 強 か ん 致 死 傷 を あ わ せ て 、 一 割 強 し
か起訴されていない。凶悪犯罪でもこれほど低い起訴率であり、単なる傷害や暴行などで
はほとんど起訴もされていないことがわかる。
表 2
総計
米 兵 に よ る 犯 罪 ( 1953.10.29-55.5.31)
殺
強
強
盗
強
強
か
人
盗
致
死
か
ん
致
ん
死傷
傷
受 理 件
傷害
暴行
業務上過
窃盗
失致死傷
10631
6
178
126
67
48
1285
747
1872
1041
240
2
30
40
4
14
20
0
86
13
数
起 訴 件
数
( 出 典 ) RG554/215/2( 米 国 立 公 文 書 館 資 料 )
別 の 資 料 で は 1956 年 中 の 米 兵 に よ る 犯 罪 件 数 が わ か る が 、そ れ に よ る と 計 3992 件 、う
ち に 日 本 に よ っ て 起 訴 さ れ た も の は 126 人 、軍 法 会 議 に か け ら れ た も の は 476 人 に す ぎ な
い 。 全 体 の う ち 1458 件 は け が 人 を 出 し た 交 通 事 故 で あ る が 、 処 罰 率 が 極 め て 低 い 状 況 は
変わっていない。この年の米兵による犯罪問題が議論された極東陸軍内の会議では日本人
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
10
に よ る 米 軍 に 対 す る 犯 罪 が 3604 件 あ る と 指 摘 し 、 犯 罪 は お 互 い 様 で あ る と い う 旨 の 指 摘
が な さ れ て い る 。 し か し 日 本 人 に よ る 犯 罪 の う ち 3215 件 は 窃 盗 で あ り 、 米 軍 物 資 を く す
ねたものであって、米兵による犯罪とは質的に異なっているのを無視する弁解でしかない
42 。
朝 鮮 半 島 で は 、朝 鮮 戦 争 の 戦 線 が 38 度 付 近 で 停 滞 し は じ め た 1951 年 は じ め よ り 米 兵 に
よ る 韓 国 市 民 に 対 す る 犯 罪 が 問 題 に な り は じ め て い る 。51 年 3 月 に は 在 韓 米 陸 軍 司 令 部 は 、
韓国市民への暴行など米兵による非行が増えており、共産主義の宣伝に利用されると警告
を 発 し て い る 。 翌 4 月 ま で に 最 近 6 ヶ 月 で 30 人 の 米 兵 が 軍 法 会 議 で 有 罪 に な り 、 司 令 部
に衝撃を与えた。そこで犯罪者の捜査を迅速におこない処罰すると同時に犯罪の予防措置
をとるように指示している。ちょうどこの時期から米兵向けの売春が問題になっていたこ
とはすでに述べたとおりである。
韓 国 に お け る 米 軍 に よ る 犯 罪 統 計 は 、 1967 年 以 降 し か な い ( 表 3)。 こ れ は 駐 留 軍 の 地
位 を 定 め た 韓 米 行 政 協 定 が 1966 年 ま で な か っ た た め で あ る 。 そ れ 以 前 の 米 兵 に よ る 犯 罪
は 、「 駐 韓 米 軍 犯 罪 根 絶 の た め の 運 動 本 部 」 が ま と め た 報 告 書 で か な り の 件 数 が わ か る が 、
統 計 は な い 。な お 1987 年 ま で の 21 年 間 の 犯 罪 の う ち 韓 国 に 第 一 次 裁 判 権 の あ る ケ ー ス は
計 3 万 3154 件 あ る が 、そ の な か で 裁 判 権 を 行 使 し た の は わ ず か 234 件 351 人 に す ぎ な い 。
そ の う ち 強 か ん 72 人 、 殺 人 32 人 な ど で あ る 43 。
表3 米兵よる犯罪件数(韓国1967-1987)
3000
2500
2000
件
数
1500
1000
500
19
67
19
69
19
71
19
73
19
75
19
77
19
79
19
81
19
83
19
85
19
87
0
年度
(出典)韓国外務部資料(『駐韓米軍犯罪白書』124-125頁)
日本復帰前の沖縄については、たくさんの文献が出されているのでここでは繰り返さな
い 44 。 こ う し た 米 兵 に よ る 犯 罪 を 考 え る と き 、 1957-58 年 の 日 本 本 土 か ら の 米 地 上 軍 の 撤
退問題が重要である。日本本土では米兵による犯罪や米軍演習などによる事故、米兵によ
る買春の横行などに対する反発が広がり、反基地運動が盛り上がった。また原水爆禁止運
動の急速な発展により、核兵器の持込みも問題にされるようになってきた。そうした中で
米軍は、東アジアでの米軍配備について検討するが、地上軍については沖縄に海兵師団、
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
11
韓国に陸軍師団を配備することとし、日本本土からは地上軍を撤退させた。また核兵器の
配備についても地上発射核ミサイルについては、韓国と沖縄に配備することとし、日本本
土には配備しなかった。このように日本本土に対しては一定の配慮を示しつつ、軍事負担
は韓国と沖縄にかけるという政策をとったのである。軍事負担とは米軍による犯罪や事故
に よ る 被 害 を と も な う も の で あ っ た こ と は 言 う ま で も な い 45 。
3
東アジアの性売買と軍隊―日本軍と米軍
ここで日本を中心とした東アジアにおける性売買の歴史についてかんたんに整理してお
きたい。
19世 紀 は 世 界 的 規 模 で の 人 の 移 動 が お こ な わ れ た 時 代 で あ り 、そ れ に と も な っ て 女 性 の
人身売買も世界的規模でおこなわれるようになっていった。その一環として、中国や日本
女性が東南アジアや太平洋周辺地域に広がっていった。その多くは娼婦としてであり、中
国 女 性 は 「 猪 花 」、 日 本 女 性 は 「 か ら ゆ き さ ん 」 と 呼 ば れ た 。
そ の 後 、日 清 戦 争・日 露 戦 争 で 植 民 地 を 獲 得 し た 日 本 は 、朝 鮮 、台 湾 、満 州 な ど 植 民 地 ・
居留地に公娼制を拡大していった。同時に女性の人身売買ネットワークも形成された。つ
まり東アジア規模での性売買・人身売買のネットワークが形成されたのである。そのネッ
トワークは、
「 か ら ゆ き さ ん 」な ど に よ っ て シ ン ガ ポ ー ル や イ ン ド 、シ ベ リ ア 、ハ ワ イ 、ア
メリカ西海岸など大日本帝国外にも広がっていた。
しかし第一次大戦後、国内外での公娼制批判、国際連盟による人身売買廃絶への努力な
どをうけて、大日本帝国外の日本女性の売春は縮小していく。たとえば、シンガポールや
マレー半島ではイギリスの公娼制廃止の世論を受けて、英植民地当局も廃娼に動き、その
地 域 か ら「 か ら ゆ き さ ん 」は 消 滅 し た( 少 な く と も 大 幅 に 減 少 し た )。日 本 政 府 も 国 際 連 盟
の常任理事国になるなど「一等国」としての「帝国の体面」から海外での日本女性の売春
の一掃を図った。ただし、帝国内部では公娼制を維持し、帝国内の売春・人身売買は依然
として続いていた。
そ の 後 、 帝 国 日 本 内 部 で は 廃 娼 運 動 が 展 開 し た だ け で な く 、 た と え ば 、 1932年 に 上 海 に
日本海軍慰安所設置にあたって、
「 内 地 」か ら 女 性 を 連 れ て 行 こ う と し た 業 者 ら が 、女 性 の
国 外 移 送 誘 拐 罪 で 検 挙 さ れ 、1936年 2月 に 長 崎 地 裁 で 有 罪 判 決 が 下 さ れ 、さ ら に は 大 審 院 で
も 37年 3月 に 有 罪 が 確 定 し た 4 6 。つ ま り た と え 日 本 軍 の た め で あ れ 、売 春 目 的 で の 女 性 の 海
外移送は違法であると警察が判断して検挙し、司法もそれを支持したのである。日中全面
戦争開始直前におけるこの大審院の判決は日本軍「慰安婦」制度そのものを大きく制約す
るものであり、帝国日本の性売買ネットワークにとって大打撃になりうるものだった。
ところが内務省警保局は、日中戦争が始まり、中国での日本軍慰安所開設が本格化した
1938年 2月 に「 支 那 渡 航 婦 女 の 取 扱 に 関 す る 件 」と い う 通 牒 を 出 し て 、日 本 軍「 慰 安 婦 」の
中国への送り出しは「必要已むを得ざる」として認める措置をとったのである。さらに太
平 洋 戦 争 が 始 ま る と 、東 南 ア ジ ア 地 域 へ の「 慰 安 婦 」の 送 り 出 し に つ い て 、1942年 1月 外 務
省 は そ れ ら の 女 性 に は 旅 券 を 発 給 し な い こ と を 決 め 、軍 の 証 明 書 で 処 理 す る こ と を 認 め た 。
従来、外務省は日本女性が売春目的で海外に行こうとすると旅券を発行せず海外渡航を許
さない措置をとってきたが、軍「慰安婦」については関知せず、軍に自由にやらせるとい
う対応をとったのである。
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
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つまり日本軍「慰安婦」制度は、帝国日本が「大東亜共栄圏」として東南アジア・太平
洋地域にまで拡大したことに対応して、性売買・人身売買のネットワークを地理的に拡大
し、さらに公娼制・人身売買を規制しようとする動きを封じ込めて、制約のない、より暴
力的な人身売買・拉致のネットワークを作ったと言えるだろう。特に戦場や占領地におい
ては、平時の公娼制ではとてもできないような日本軍による拉致・監禁など暴力がむき出
し の 方 法 が と ら れ た 47。
こ う し た 日 本 の 公 娼 制 と「 慰 安 婦 」制 度 は 日 本 の 敗 戦 に よ り 瓦 解 し た が 、第 2 次 大 戦 後 、
進駐してきた米軍将兵を相手として売春が再建された。RAAに見られるように、米軍が
将兵相手の売春を積極的に認めただけでなく、日本政府が進んで売春の復活を組織した。
売春女性を集めてくるために人身売買も復活した。人身売買の実態はなかなか把握できな
い が 、 警 察 資 料 で は 1951 年 中 の 人 身 売 買 に 関 わ る 検 挙 者 数 は 3868 人 、 そ の 被 害 者 7255 人
( 1952年 上 半 期 の み で は 、 そ れ ぞ れ 3714人 、 7653人 ) と な っ て お り 、 売 ら れ た 先 は 農 業 手
伝 い や 子 守 ・ 家 事 手 伝 い も あ る が 、 多 く は 売 春 に 関 わ る と こ ろ で あ る 48。 米 軍 が 現 地 の 売
春を復活させるうえで大きな役割を果たしたのは、沖縄、韓国、フィリピンでも同様だっ
た 。 さ ら に 1960年 代 の ベ ト ナ ム 戦 争 期 に は 南 ベ ト ナ ム や タ イ で も 同 じ 状 況 が 生 ま れ た 。 米
軍基地と売春とは密接に結びついていた。
その後、米軍の撤退あるいは現地の経済成長にともなう生活水準の向上とドルの価値の
低 下 な ど の 諸 要 因 に よ り 、 日 本 本 土 で は 1950年 代 末 の 地 上 軍 の 撤 退 後 、 沖 縄 で は ベ ト ナ ム
戦争の終結と日本復帰後、タイではベトナム戦争終結にともなう米軍撤退後、米軍による
買春は著しく減少したが、それに代わって一般の男性を顧客とする売春に切換えられてい
った。韓国やフィリピンにおいては依然として米軍は顧客の一つではあるが、それ以上に
一 般 男 性 や 観 光 客 が 大 き な 顧 客 に な っ て い る 。 1970年 代 以 降 、 韓 国 へ の 「 キ ー セ ン 観 光 」
やタイ、フィリピンなどへの売春ツアーが問題になるのはそうした状況の表れである。海
外からの売春ツアーが送り込まれてくる途上国では、それにとどまらず女性が日本や韓国
などの先進国に人身売買などによって送り込まれ、売春女性の供給源にされている。東ア
ジアでの戦後の売春の隆盛は、米軍とともに始まったと言えるし、その人身売買のネット
ワークはそれに対応して形成された。それが、米軍による買春が減少していくなかで、売
春を容認肯定する文化として現地社会に定着し、東アジアだけでなく、それを超えた世界
的な規模での人身売買のネットワークが作られている。
東アジアの性売買・人身売買を考える上で、戦前の日本・日本軍の役割とともに戦後に
おける米軍の役割の大きさを指摘しないわけにはいかない。
まとめにかえて―現在の米軍と性売買・性暴力
今 日 の 米 軍 と 性 売 買 を め ぐ る 状 況 は 、1970 年 代 初 頭 ま で と は か な り 異 な っ た 様 相 を 示 し
ているように見える。たしかに韓国ではまだ米兵相手の売春地域が存在しているし、フィ
リピンやタイに米軍が立ち寄った際には、米兵による買春がおこなわれている。しかしそ
の一方で、日本本土や沖縄ではそうした状況はあまり見られなくなったし、韓国でもそう
した傾向が進んでいる。ドルと円の関係から、日本で買春できるほどの経済力を米兵が持
っていないことが大きな理由であろう。日本女性や韓国女性と米兵との性的関係は社会問
題になっているが、少なくとも米兵による買春という関係ではなくなってきている。
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
13
また近年の米軍の軍事作戦は中東ないしその周辺地域でおこなわれることが多い。サウ
ジアラビアやクウェートなどに駐留した場合、かつての東アジアのような公然とした売春
地 区 が あ る わ け で は な い し 、ま た ア ラ ブ 諸 国 や そ の 民 衆 か ら 反 発 を 受 け る こ と を 危 惧 し て 、
性的非行について軍指導部はかなり神経を使っているようである。そういう点では買春を
やらせないというかつての米軍の政策が―その理由はまったく異なるが―中東では実行さ
れていると言えるかもしれない。海軍の場合、中東で作戦をおこなって帰る途中、タイな
どに立ち寄って兵士を遊ばせることはやっているようだが、陸軍兵士の場合、中東にある
交代センターでは買春をできるような環境にはなく、また米本国へはそこから直接空輸さ
れ る の で 、か つ て 朝 鮮 戦 争 時 に 途 中 で 日 本 に 寄 っ て 買 春 し て い っ た と い う 状 況 と も 異 な る 。
断定できるほどの十分な資料がないが、そうした状況を見ると、米軍の駐留するところ
では売春がはびこるというのは必ずしも時代を超えた普遍的な現象ではないのかもしれな
い。軍隊と買春が結びつきやすいという議論は可能であろうが、それ以上に両者が結びつ
く諸条件の分析が必要であろう。
ただそうした状況は米軍が性暴力を克服したことを意味するものではない。近年、米軍
においても重大な問題として認識されているのが米軍内におけるセクシャルハラスメント
や強かんなどの性暴力であり、冒頭で触れたように米軍将兵による一般女性に対する性犯
罪も依然として深刻な問題となっている。湾岸戦争以来、現在のイラク戦争・イラク治安
維持のための戦争を含めて、絶え間なく戦争状態に置かれている米軍においては、戦争神
経症が多発し、そうした精神的ストレスが他者への攻撃・破壊(強かんをはじめ、アブグ
レイブ収容所での性的侮辱などの虐待も含めて)となって表れているのかもしれない。
2006 年 1 月 27 日 、 退 役 軍 人 省 は 、 イ ラ ク と ア フ ガ ニ ス タ ン か ら 帰 還 し た 退 役 兵 の う ち 、
2 万 人 近 く が 心 的 外 傷 後 ス ト レ ス 障 害 PTSD と 診 断 さ れ 、 そ れ 以 外 に う つ 病 や 薬 物 ・ ア ル
コール依存症などが確認された者も同程度いると発表している。つまり帰還後に医療施設
な ど で 受 診 し た 退 役 兵 12 万 人 の う ち 3 分 の 1 に あ た る 4 万 人 が 何 ら か の 「 心 の 病 気 」 と
診 断 さ れ た こ と に な る 49 。 陸 軍 の 精 神 医 学 専 門 家 た ち の 分 析 に よ る と 、 イ ラ ク か ら 帰 っ て
き た 陸 軍 と 海 兵 隊 兵 士 の 3 分 の 1 が 精 神 的 な 問 題 で 助 け を 求 め て お り 、12 パ ー セ ン ト が 治
療 を 受 け る べ き 精 神 障 害 を 負 っ て い る と 報 告 さ れ て い る 50 。
イ ラ ク 戦 争 前 の デ ー タ し か な い が 、 ア メ リ カ に お け る ホ ー ム レ ス は 1990 年 代 末 に お い
て 200 数 十 万 か ら 300 数 十 万 人 と 推 計 さ れ て い る が 、1999 年 12 月 に 発 表 さ れ た「 ホ ー ム
レ ス に 関 す る 政 府 省 庁 間 協 議 会 」 が 発 表 し た 報 告 に よ る と 、 ホ ー ム レ ス の 23 パ ー セ ン ト
は 退 役 軍 人 で あ り 、 男 性 の ホ ー ム レ ス に 限 る と 33 パ ー セ ン ト に の ぼ っ て い る 51 。
1998 年 時 点 に お い て 、 刑 務 所 に 収 容 さ れ て い る 退 役 軍 人 は 22 万 5700 人 ( 退 役 軍 人 の
総 数 は 約 2500 万 人 )に の ぼ っ て い る 。州 刑 務 所 に 収 容 さ れ て い る 退 役 軍 人 の 16.8 パ ー セ
ン ト が 殺 人 、 17.8 パ ー セ ン ト が 性 的 暴 行 と い う 凶 悪 犯 罪 で あ り 、 非 退 役 軍 人 が そ れ ぞ れ
12.8 パ ー セ ン ト 、 7.2 パ ー セ ン ト で あ る の に 比 べ て 大 き く 上 回 っ て い る ( 連 邦 刑 務 所 で も
同 じ 傾 向 )。 軍 刑 務 所 に お い て は 1997 年 時 点 で 収 容 者 の 30.6 パ ー セ ン ト が 性 的 暴 行 に よ
る も の と な っ て い る 52 。
イラク戦争開始後、こうした状況は一層深刻になっていると見られる。つまり兵士たち
の精神的ダメージは、社会への適応を困難にしホームレス化を促進し、他方では犯罪を犯
す傾向が高まり、特に殺人や性的暴行を起こしやすくなると言ってよいのかもしれない。
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
14
現在、米軍では買春はやりにくくなりつつあり、また軍隊内でのセクシャルハラスメン
ト対策の強化がすすんでいるが、将兵たちを殺人マシーンに訓練しつつ正当性のない戦争
に送り込んでいることが将兵の精神に深刻なダメージを与え、そうしたことがさまざまな
形で暴力となって表面化しているのではないだろうか。性暴力はそうした現れの一つと言
え る だ ろ う 53 。
1970 年 代 に お い て は 、 兵 士 た ち の ラ ン ニ ン グ で の 掛 け 声 と し て 、 ”I wanna Rape Kill
Pillage’n’ Burn,annnn’ Eat dead Baaa-bies”(「 レ イ プ す る ぞ
焼き捨てて
死んだ赤ん坊を
ぶっ殺すぞ
ぶんどって
食 っ て や る 」)と い う 歌 が 歌 わ れ て い た が 、今 日 で は こ の よ
う な 歌 は 米 軍 内 で は 許 さ れ な い 54 。 兵 士 の 訓 練 、 士 気 高 揚 の た め に 女 性 へ の 蔑 視 差 別 を 煽
るような手法は現在の米軍の中では公然とはやりにくくなっている。女性兵士が大量に増
え た こ と ( 2005 年 4 月 末 現 在 、 全 米 軍 137 万 9198 人 中 20 万 1759 人 、 14.6% ) や 1990
年代に入ってようやくセクシャルハラスメントや性暴力が軍当局によって深刻な問題とし
て 認 識 さ れ る よ う に な っ て き た こ と な ど が 背 景 に は あ る だ ろ う 55 。
しかし、米軍が現在の戦争体制と兵士の訓練システムを維持しているかぎり、建前とし
て い く ら 性 暴 力 を 抑 え よ う と し て も 不 可 能 で あ ろ う 。 た だ 1970 年 代 ま で の あ り 方 と は 違
っており、軍隊における性暴力の表れ方も、その軍隊のおかれた諸条件によって異なって
くると考えるべきかもしれない。こうした問題はまだよく整理できていないので今後の課
題としておきたい。
本 稿 が 扱 っ た 時 期 は 、 第 2 次 大 戦 直 後 か ら 1950 年 代 ま で の 時 期 で あ り 、 そ の 段 階 で は
米軍と性売買との関連はきわめて大きかったし、それが東アジア社会に与えた負の遺産も
大 き い 。し か し 1980 年 代 あ る い は 1990 年 代 以 降 の 状 況 は か な り 違 っ た 様 相 を 呈 し て い る
ように見える。いずれにせよ軍隊と性暴力の関連については、歴史的変化を含めた諸条件
の中で具体的に分析し解明する作業を一歩ずつ積み重ねる必要があると思われる。本稿は
そのための初歩的な一作業にすぎない。
(注)
『 琉 球 新 報 』 2005 年 7 月 2 日 、『 赤 旗 』 2005 年 7 月 19 日
衆 議 院 外 交 委 員 会 で の 大 林 宏 法 務 省 刑 事 局 長 の 答 弁 、2005 年 7 月 1 日 。な お 軍 事 裁 判
を 受 け た ケ ー ス の 詳 細 に つ い て 日 本 政 府 は 公 表 を 拒 否 し て い る ( 同 委 員 会 7 月 15 日 )。
3
以 下 に 記 し た ア バ デ ィ ー ン 事 件 を 含 め 、 こ う し た 米 兵 に よ る 性 犯 罪 に つ い て は 、 T.S.
Nelson, For Love of Country: Confronting Rape and Sexual Harassment in the U.S.
Military , (New York: The Haworth Maltreatment and Trauma Press, 2002)、 が く わ し
い 。 ま た Stars and Stripes や CNN、 国 防 総 省 の ウ ェ ブ サ イ ト で も し ば し ば 報 告 さ れ て い
る の で 参 考 に な る 。な お 表 記 に つ い て 、
「 強 姦 」の「 姦 」に は 女 の 不 義 と い う 意 味 が 含 ま れ
て い る の で 妥 当 で は な い と 判 断 し 、「 強 か ん 」 と 表 記 す る 。
4 『 赤 旗 』 2005 年 9 月 29 日 。
5
Stars and Stripes(Pacific Edition) , June 26, 2004(同 誌 の ウ ェ ブ サ イ ト
http://www.estripes.com/ 2004 年 10 月 31 日 ア ク セ ス ).
6
CNN.com./U.S., August 29, 2003(CNN の ウ ェ ブ サ イ ト http://www.cnn.com/ 2004 年
10 月 31 日 ア ク セ ス ).
7
Stars and Stripes(European Edition) , May 15, 2004( 同 誌 の ウ ェ ブ サ イ ト
http://www.estripes.com/ 2004 年 11 月 17 日 ア ク セ ス ) .
8
Christopher H. Smith 上 院 議 員 の 2003 年 8 月 7 日 付 ニ ュ ー ス ( 同 氏 の ウ ェ ブ サ イ ト
1
2
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
15
http://www.house.gov/apps/list/press/nj04_smith/prpentagon.htm
2004 年 3 月 11 日
ア ク セ ス )。 拙 稿 「 ア メ リ カ 軍 の 性 対 策 の 歴 史 - 1950 年 代 ま で 」(『 女 性 ・ 戦 争 ・ 人 権 』 第
7 号 、 2005 年 3 月 ) で 少 し く わ し く 紹 介 し て い る 。
9
戦後東アジアにおける米軍基地の形成過程とそのなかでの性売買問題については、拙
稿 「 基 地 論 ― 日 本 本 土 ・ 沖 縄 ・ 韓 国 ・ フ ィ リ ピ ン 」(『 岩 波 講 座 ア ジ ア ・ 太 平 洋 戦 争 第
7 巻 支 配 と 暴 力 Ⅳ 支 配 の 継 続 と 再 編 』 岩 波 書 店 、 2006 年 ) を 参 照 し て い た だ き た い 。
10
詳 細 は 、拙 稿「 ア メ リ カ 軍 の 性 対 策 の 歴 史 」参 照 。米 軍 の 性 対 策 を ア メ リ カ に お け る
「男らしさ」のあり方との関係で議論する必要があるが、今後の課題とさせていただきた
い (E. Anthony Rotundo, American Manhood: Transformations in Masculinity from the
Revolution to the Modern Era (New York: Basic Books,1993)や 、 兼 子 歩 「 ア メ リ カ 史 に
お け る ジ ェ ン ダ ー・セ ク シ ャ リ テ ィ と ナ シ ョ ナ リ ズ ム 」
(『 ア メ リ カ 史 研 究 』第 27 号 、2004
年 ) を は じ め と す る 兼 子 氏 の 一 連 の 研 究 な ど 参 照 )。
11
US Navy, Interviewer ’s Aid , 1948, p.6 な ら び に 極 東 軍 軍 医 部 の 月 例 報 告 よ り
( RG407/429/345)。な お RG を 記 し た 資 料 は す べ て 米 国 立 公 文 書 館 所 蔵 資 料 で あ る 。数 字
は 、 Record Group/Entry/Box を 示 す 。
12
RG554/67/62. 年 間 千 分 比 と は 1000 人 中 1 年 間 に 性 病 に 罹 る 人 数 の 率 で 、米 軍 は こ
の数字を各部隊に報告させていた。
13
A サ イ ン 方 式 の そ の 後 の 展 開 に つ い て は 、小 野 沢 あ か ね「 米 軍 統 治 下 A サ イ ン バ ー の
変 遷 に 関 す る 一 考 察 ― 女 性 従 業 員 の 待 遇 を 中 心 に し て 」(『 琉 球 大 学 法 文 学 部 紀 要 日 本 東
洋 文 化 論 集 』 第 11 号 、 2005 年 3 月 )、 参 照 。
14
韓 国 軍 向 け 慰 安 所 に つ い て は 、金 貴 玉「 朝 鮮 戦 争 と 女 性 ― 軍 慰 安 婦 と 軍 慰 安 所 を 中 心
に」
( 徐 勝 編『 東 ア ジ ア の 冷 戦 と 国 家 テ ロ リ ズ ム 』御 茶 ノ 水 書 房 、2004 年 )、ア ク テ ィ ブ ・
ミ ュ ー ジ ア ム「 女 た ち の 戦 争 と 平 和 資 料 館 」編『 戦 時 性 暴 力 を な ぜ 記 録 す る の か 』
(同資料
館 、2005 年 )所 収 の 金 貴 玉 氏 の 講 演 録・資 料 な ど 、国 連 軍 向 け 慰 安 所 に つ い て は 、Lee Im
Ha, “Korean War and Mobilization of Women,”unpublished paper( 世 界 女 性 学 大 会 で の
報 告 、 2005 年 6 月 20 日 、 ソ ウ ル に て ) 参 照 。
15
韓 国 女 性 ホ ッ ト ラ イ ン 連 合 編 ( 山 下 英 愛 訳 )『 韓 国 女 性 人 権 運 動 史 』 明 石 書 店 、 2004
年 、 第 5 章 、 Katharine H.S. Moon, Sex Among Allies: Military Prostitution in U.S.Korea Relations (New York: Columbia University Press, 1997)、 参 照 。
16
Harry Benjamin & R.E.L. Masters, Prostitution and Morality (New York: The
Julian Press, 1964), pp.408-409. RAA の 経 緯 に つ い て は 、 拙 稿 「 ア メ リ カ 軍 の 性 対 策 の
歴 史 」 の ほ か 、 ド ウ ス 昌 代 『 敗 者 の 贈 物 』( 講 談 社 、 1979 年 )、 参 照 。
17
RG338(第 8 軍 資 料 )、 RG112(陸 軍 軍 医 総 監 部 )の さ ま ざ ま な ボ ッ ク ス の 資 料
(RG338/A1-136/1048,338/A1-132/312,112/1012/402)よ り 集 計 。
18
藤 目 ゆ き 『 東 ア ジ ア 冷 戦 と ジ ェ ン ダ ー 』( 科 学 研 究 費 補 助 金 ( C ) 研 究 成 果 報 告 書 )、
2003 年 、 第 3 章 参 照 。
19
日 本 の 戦 争 責 任 資 料 セ ン タ ー 編 ・ 解 説 ( 文 責 林 博 史 )、 川 島 め ぐ み 翻 訳 協 力 「 ア メ リ
カ軍ならびに日本軍における戦争神経症についてのレポート」
(『 季 刊 戦 争 責 任 研 究 』第 39
号 、 2003 年 3 月 )、 25-27 頁 。 米 軍 の 戦 争 神 経 症 対 策 に つ い て は 、 こ の 解 説 を 参 照 し て い
ただきたい。
20
Elizabeth D. Schafer, “Rest and Recuperation(R&R),” in Spencer C. Tucker (ed.),
Encyclopedia of The Korean War (New York: Checkmark Books, 2002), pp.563-564.
21
田 中 は る み「 奈 良 R・R セ ン タ ー と 地 域 住 民 ― 朝 鮮 戦 争 下 の 在 日 国 連 軍 基 地 を め ぐ っ
て 」(『 大 阪 国 際 平 和 研 究 所 紀 要 戦 争 と 平 和 』 Vol.10、 2001 年 )、 45-47 頁 よ り 。 以 下 、
紹介する資料も本論文より。
22
Elizabeth D. Schafer,“Rotation of Troops System,” in Tucker, op.cit., pp.574-575.
23
RG338/A1-133/844. 第 8 軍 や 極 東 軍 に お い て も こ の 問 題 は 取 り 上 げ ら れ て い る 。
24
労 働 省 婦 人 青 年 局『 売 春 に 関 す る 資 料 』1953 年 、43-44 頁 。な お 本 稿 で 利 用 し た 1950
年 代 の 文 献 は 、『 性 暴 力 問 題 資 料 集 成 』 第 1 巻 ~ 第 15 巻 ( 不 二 出 版 、 2004- 2005 年 、 継
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
16
続して刊行予定)に収録されているものが多い。なお日本側資料では「オハラ上院議員」
とあるが、当時の合衆国連邦議会上院に「オハラ」という名前の上院議員を確認すること
はできなかった。
25
1953 年 7 月 10 日 衆 議 院 外 務 委 員 会 で の 答 弁 。
26
米 軍 内 で は こ の 時 期 、部 隊 の 性 病 罹 患 率 の 高 さ を 部 隊 長 の 勤 務 評 定 の 一 要 素 と す る 方
針 を や め つ つ あ っ た( た と え ば ”United States Army Forces, Far East, Circular,” No.152,
August 7, 1953, RG112/31/1267)。
27
労 働 省 婦 人 少 年 局『 戦 後 新 た に 発 生 し た 集 娼 地 域 に お け る 売 春 の 実 情 に つ い て 』1955
年。なお赤線とは公認の売春地区、青線とは非公認の売春地区を指す用語である。
28
労 働 省 婦 人 青 年 局 『 売 春 に 関 す る 資 料 』 1953 年 、 84 頁 。
29
この時期の日本本土における基地と売春については、藤目前掲書がくわしい。
30
さらにくわしくは、前掲拙稿「基地論」参照。
31
沖 縄 の 状 況 に つ い て は 、前 掲 小 野 沢 論 文 な ら び に 沖 縄 国 際 大 学 文 学 部 社 会 学 科 石 原 ゼ
ミ ナ ー ル 編 『 戦 後 コ ザ に お け る 民 衆 生 活 と 音 楽 文 化 』( 榕 樹 社 、 1994 年 ) な ど 、 フ ィ リ ピ
ン に つ い て は 、 Cynthia Enloe, Bananas Beaches & Bases: Making Feminist Sense of
International Politics , (Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 2000,
first published in 1989), pp.84-92, Sandra Pollock Sturdevant & Brenda Stoltzfus, Let
the Good Times Roll: Prostitution and the U.S. Military in Asia , (New York: The New
Press, 1992), 参 照 。
32
神 奈 川 県 警 察 部 「 進 駐 軍 に 対 す る 不 法 行 為 申 報 綴 」 の 8 月 31 日 の 項 ( 粟 屋 憲 太 郎 ・
中 園 裕 編 集・解 説『 敗 戦 直 後 の 社 会 情 勢 第 7 巻 進 駐 軍 の 不 法 行 為 』現 代 史 料 出 版 、1999
年 、 第 7 巻 、 54 頁 )。 こ の 第 7 巻 に は 、 米 兵 に よ る 多 数 の 犯 罪 が 日 本 側 資 料 に よ っ て 示 さ
れている。
33
内 務 省 警 保 局 外 事 課「 進 駐 軍 の 不 法 行 為 」綴 り(『 敗 戦 直 後 の 社 会 情 勢 』第 7 巻 、261
頁 )。
34
米 軍 の 捜 査 報 告 書 は 、第 8 軍 な ら び に 南 西 太 平 洋 方 面 軍 の 資 料 群( RG338 と RG496)
の 中 に 含 ま れ て い る 。そ の 中 の 一 つ で あ る 9 月 4 日 に 横 須 賀 で お き た 強 か ん 事 件 の 捜 査 報
告 書 の 全 文 (RG338/A1-132/162)を『 季 刊 戦 争 責 任 研 究 』第 40 号 、2003 年 6 月 、に 紹 介 し
ているので参照していただきたい。
35
9 月 6 日 付 指 示 は 、RG338/A1-136/1045、第 6 軍 資 料 は RG338/A1-135/909、46 年 8
月 中 の 犯 罪 件 数 は 同 年 11 月 1 日 付 の 日 本 政 府 か ら の 報 告( RG496/194/1677)、1947 年 の
数 字 は 1950 年 3 月 の 極 東 軍 の 報 告 書( RG554/79A/199)、49 年 6 月 か ら 11 月 の 数 字 は 第
8 軍 の 月 例 報 告 よ り ( RG338/A1-135/1031)。
36
私 家 版 、 2001 年 。 な お 初 版 は 1996 年 2 月 。 ま た 拙 著 『 沖 縄 戦 と 民 衆 』( 大 月 書 店 、
2001 年 ) 362-364 頁 も 参 照 。
37
『 沖 縄 県 史 資 料 編 14 琉 球 列 島 の 軍 政 1945-1950(和 訳 編 )』( 沖 縄 県 教 育 委 員 会 、
2002 年 )、71-74 頁 。原 資 料 は 、”Military Government in the Ryukyu Islands 1945-1950”
である。
38
ポ ー ル ・ ス キ ュ ー ズ の メ モ ( 日 付 不 明 、 ポ ー ル ・ ス キ ュ ー ズ 文 書 フ ァ イ ル No.9、 沖
縄 県 公 文 書 館 所 蔵 )。
39
RG554 の 中 の 第 24 軍 団 文 書 に い く つ か 関 連 資 料 が 含 ま れ て い る 。
40
The Judge Advocate General of the Armed Forces, Digest of Opinions , Vol.1-Vol.5,
1952-1956( 米 議 会 図 書 館 所 蔵 )
41
訓練中の事故なども含まれるので、米兵による犯罪だけではない。
42
1957 年 3 月 22 日 に お こ な わ れ た 極 東 陸 軍 の 会 議 録 ( RG554/USAFFE/7) .
43
駐 韓 米 軍 犯 罪 根 絶 の た め の 運 動 本 部 編( 徐 勝 ・ 広 瀬 貴 子 訳 )
『 駐 韓 米 軍 犯 罪 白 書 』( 青
木 書 店 、 1999 年 )、 124-126 頁 。 主 な 犯 罪 事 件 に つ い て は 、 同 書 な ら び に 「 老 斤 里 か ら 梅
香里まで」発刊委員会編(キップンチャユ日本語版翻訳委員会訳)『老斤里から梅香里ま
で ― 駐 韓 米 軍 問 題 解 決 運 動 史 』 ( 図 書 出 版 、 2002 年 ) 参 照 。
44
米 兵 に よ る 犯 罪 の く わ し い 記 録 と し て 、対 米 請 求 権 記 録 誌 編 集 委 員 会 編『 沖 縄 対 米 請
求 権 問 題 の 記 録 』( 沖 縄 県 対 米 請 求 権 事 業 協 会 、 1994 年 ) を あ げ て お く 。
林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
17
1950 年 代 の 東 ア ジ ア の 米 軍 基 地 再 編 に つ い て は 、 前 掲 拙 稿 「 基 地 論 」 参 照 。
戸 塚 悦 朗「 戦 時 女 性 に 対 す る 暴 力 へ の 日 本 司 法 の 対 応 、そ の 成 果 と 限 界 」
(『 季 刊 戦 争
責 任 研 究 』 第 43・ 44 号 、 2004 年 )、 に く わ し い 。
47
以 上 の 大 日 本 帝 国 内 の 動 き に つ い て は 、藤 永 壯「 植 民 地 公 娼 制 と 日 本 軍『 慰 安 婦 』制
度 」( 早 川 紀 代 編『 戦 争 ・ 暴 力 と 女 性 3 植 民 地 と 戦 争 責 任 』吉 川 弘 文 館 、 2005 年 )、 吉 見
義 明・林 博 史 編 著『 共 同 研 究 日 本 軍 慰 安 婦 』
( 大 月 書 店 、1995 年 )の 筆 者 の 執 筆 分( 108-114
頁 )、拙 稿「 日 本 軍 慰 安 婦 前 史 ― シ ベ リ ア 出 兵 と「 か ら ゆ き さ ん 」」
( 笠 原 十 九 司・吉 田 裕 編
『 現 代 歴 史 学 と 南 京 事 件 』 柏 書 房 、 2006 年 、 192-193 頁 )、 な ど 参 照 。
48
厚 生 省・全 国 社 会 福 祉 協 議 会 連 合 会『 社 会 福 祉 行 政 資 料 1952』1952 年 、57- 60 頁 。
49
2006 年 1 月 27 日 時 事 通 信 配 信 記 事 、『 読 売 新 聞 』 2006 年 1 月 28 日 。
50
Washington Post , March 1, 2006( 同 誌 の ウ ェ ブ サ イ ト
http://www.washingtonpost.com/ 2006 年 4 月 7 日 ア ク セ ス ) .
51
National Coalition for Homeless Veterans の ウ ェ ブ サ イ ト
( http://www.nchv.org/background.cfm 2006 年 4 月 7 日 ア ク セ ス )よ り 。こ の レ ポ ー ト
の 正 式 名 は 、 The Interagency Council on the Homeless, ”The Forgotten
Americans-Homelessness: Program and the People They Serve,” December 8, 1999.
52
一 般 な ら び に 軍 刑 務 所 の デ ー タ は 、 Bureau of Justice Statistics, Department of
Justice, “Special Report: Veterans in Prison or Jail,” January 2000(Revised in
September 29, 2000)( 司 法 省 の ウ ェ ブ サ イ ト http://www.ojp.usdoj.gov/bis/ 2006 年 4
月 6 日 ア ク セ ス )。
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米 軍 兵 士 た ち の 殺 人 マ シ ー ン 化 に つ い て は 、 David A. Grossman, On Killing: The
Psychological Cost of Learning to kill in War and Society (New York: Little, Brown,
1995)(安 原 和 見 訳 『 戦 争 に お け る 「 人 殺 し 」 の 心 理 学 』 筑 摩 書 房 、 2004 年 )参 照 。
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Grossman op.cit., pp. 307-308(邦 訳 470 頁 ).
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女 性 兵 士 の 人 数 や セ ク シ ャ ル ハ ラ ス メ ン ト 対 策 に つ い て は 、国 防 総 省 の ウ ェ ブ サ イ ト
http:www.defenselink.mil/ 参 照 。 後 者 に つ い て は 、 1995 年 と 2002 年 に お こ な わ れ た セ
ク シ ャ ル ハ ラ ス メ ン ト 調 査 Sexual Harassment Survey の 報 告 書 が 参 考 に な る 。 な お 同 性
愛あるいは同性に対する性暴力の問題については今後の課題としておきたい。
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林博史「東アジアの米軍基地性売買・犯罪」
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