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イメージの系譜8 日本の文様

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イメージの系譜8 日本の文様
イメージの系譜8
日本の文様
1.金石併用時代
日本における先史時代は縄文、弥生、古墳時代に区分される。縄文時代は氷河期の終わ
った約1万年前からBC300年頃までを指し、以後弥生、古墳時代へと続く。縄文文
化は大陸から切り離され形成された日本列島における最初の固有な文化と位置づけさ
れる。 土器においては抽象的な綱目文様と特異な形状の縄文土器にくらべ弥生のそれ
は機能を重点においているので壷の造型も洗練されているが、博物館で見る限りでは縄
文のような独創性が弱く感じられる。
特筆すべきは日本における土器文化の発生は世界で最も早く最新の放射性炭素による
時代測定によると、オリエントの土器文化が紀元前せいぜい 6 千年ほどしか遡れないの
に対して、日本のそれはほぼ 9 千年前にもおよぶ。BC2000 年頃には現代の土瓶と形が
類似している土瓶が出土されている。BC300 年頃の弥生時代には朝鮮半島から青銅器と
鉄器が入り、石器時代から行きなり鉄器時代に入った国は他に無く、青銅器の制作に当
たっては漢、六朝時代の文様の模倣から始まる。
土瓶
縄文後期
椎崎貝塚遺跡
BC2000 年頃
壷
弥生後期
当時朝鮮半島からのルートとは別に日本に鉄器をもたらしたのは中国大陸からのルー
トが存在した。中国の秦の時代(BC221~207 日本の弥生時代に当たる)徐福と言う人物
が、秦の始皇帝から不老不死の薬を捜すことを命ぜられ日本に渡ってきた。実際、日本
各地に徐福を祀る神社や伝説地が数多く存在していて、北は青森県から、南は鹿児島ま
でに広がっている
司馬遷(しばせん)の著した『史記』によると。その時に「童の男女3000人」「五
穀の種」「百工」が一緒に舟に乗せられ、北九州に着き稲作や諸々の技術を弥生人に伝
授したそうである。古墳時代に入り金工の技術が進歩し、漢、六朝時代の銅鏡の模造品
や我国特有の銅鐸(どうたく)も日本各地で多く出土している。特に AD100 年頃から青銅
器の生産が始まり、後の大和朝廷が出来た頃には、政治,まつりごとのシンボルとして
仿製鏡と呼ばれる大型の青銅鏡が作られた。
銅鏡
方格規矩形四神鏡
弥生時代後期
銅鐸(どうたく)祭祀用具
4C 半ばに大和朝廷が出来てから日本が朝鮮半島に進出したり中国と交渉することによ
って、多くの漢民族・朝鮮民族が来日した。大陸から「渡って来た人」のことを渡来人
(とらいじん)と言い、この中には工人、技術者、学者などさまざまな人々が渡来した。
日本への仏教伝来は飛鳥時代に始まる宣化3年(538)で、百済の聖明王が釈迦仏像と経
典その他を朝廷に献上した時とされる。以後仏教文化は古代日本の文化を支える事にな
り、寺社建築、仏像彫刻などが盛んになる。
写真の青銅製の柄香炉は奈良時代のもので手炉とも言い,僧侶がこれを手にして香を焚
き,仏を供養するのに用いる。とくに柄の先端の鎮子を獅子にしているところから獅子
鎮柄香炉と呼ばれているが,類品が中国,朝鮮半島からも出土している。日本では飛鳥
時代の鵲尾形柄香炉についで奈良時代に盛行した。また続く奈良時代は正倉院が象徴す
るように大陸文化の吸収と咀嚼の時代でもあった。
2.平安時代の意匠
奈良時代に建立された正倉院の宝物に見られるように当時の中国(唐)の漆文化である
蒔絵、漆絵、螺鈿の技法が堆朱(彫漆)よりも 500 年も前にわが国に入ってきた。
実際彫漆の制作が中国で盛んになったのは宋の時代であり、宋の後期から元の後期まで
存続していた鎌倉時代に現れた。彫漆より遡るこの平安時代には写真のようにすでに蒔
絵のさまざまな技術が確立した時代であった。
宝相華螺鈿平胡籙(ころく)弓の矢入れ
源氏物語絵巻
平安時代
唐物に影響を受けていた飛鳥、奈良時代を経て平安時代に入ると、日本人の独創性が大
陸文化の摂取や模倣から脱して独自の表現形式と色彩を生み出した時代に入る。この時
代の美意識はそれ以後の時代の美術や工芸に基本的な性格を与え、時代による表現の差
はあるにせよさまざまな形で大きな影響力を与えている。中でもこの時期に大成された
やまと絵は花鳥の意匠を形成する上で大きな働きをなしている。
やまと絵は日本の風景や風俗を身近な襖や障子に描き、あるいは絵巻物と称する紙を横
長につないだ情景描写や物語にその絵の首題をなす和歌が書き込まれ画趣と詩情が巧
みに融和されていった。画題には四季を盛り込み余白空間がもたらす余情の世界が特徴
となっている。
このような絵画的表現から意匠への展開はやまと絵それ自体にも起こり、画面の主要部
を構成していた四季の草花などは形式化が進むと共にその部分が巧みに抽出され,和鏡
や蒔絵調度品の意匠に用いられている,これらの意匠は複合的な文様としてたとえば梅
に双雀、藤に松喰い鶴、杜若流水に千鳥などの組み合わせで構成されている。
藤花松喰鶴鏡 平安時代
春日大社
秋草文壷
平安時代
横浜加瀬山出土
3.鎌倉時代の意匠
鎌倉から室町における工芸意匠は2つの顕著な指向性を持っている。一つは王朝文化へ
の強い回帰性と他は中国宋元文化に対する強い憧れがであった。鎌倉時代からはじまる
禅宗の本格的な導入にともない、絵画では宋・元の絵画の影響を受けて水墨画が成立し
た。また宋、元の彫漆をまねて現れたのが鎌倉彫の仏具であることは周知の事実である
が、蒔絵技術に遅れる事500年経って彫漆が鎌倉彫という形になってこの時代に作ら
れたが、鎌倉時代制作の鎌倉彫は数尐なく、現存しているもので建長寺の須弥壇と円覚
寺の前机はいずれも鎌倉彫の祖型であり鎌倉彫の源流でもある。2点とも宋代の様式を
色濃く出している。
建長寺須弥壇 獅子牡丹文 木彫彩漆
円覚寺 前机 天竺牡丹唐草文
時代が室町へと進んでも蒔絵とは違って鎌倉彫は寺院に関連した仏具が多く、後ろ盾に
なる幕府や貴族に需要が尐ない事もあって、蒔絵は大いに一般的な調度品としての広が
りを見せるが、桃山時代に入っても仏教弾圧などで寺にゆかりの鎌倉彫の広がりは薄く、
のちのち江戸時代の町人文化の隆盛に伴い茶道具を中心に普及した。
鎌倉時代における宋、元画の流入や花鳥画の隆盛もあり、意匠美術の中では図案の定型
化が進む。典型的な図案としては、鹿紅葉、松竹梅,四君子、牡丹に獅子、梅に鶯、竹
に虎など、また岩や流水、樹幹や枝ぶりの表現に宋、元画の感化がみられる。
獅子牡丹蝶鳥鏡 鎌倉時代
滋賀浄信寺
菊花流水双鶴鏡 鎌倉時代 国立博物館
4.室町から桃山時代の意匠
椿蓬莱文笈 笈は中国で考案された背中にしょって、経典、仏具などを入れる
道具である。
室町時代に多くの笈が作られたが図
案の多くは
椿であるがこれは中尊寺の椿蓬莱文
の図をコピ
ーして作ったようである。中央の中板
には木瓜文
が彫られている。
室町時代に
に意匠する
密接な関係
のが極めて
写真の塩山
は和歌や漢詩、物語の一場面を工芸品
ことがはやり、これらは自然と四季と
が有り、いわゆる花鳥風月を現したも
多い。
蒔絵硯箱は「しほの山さしいでのいそ
にすむ千鳥、きみがみよをばやちよとぞなく」古今和歌集を意匠した硯箱である。とな
りは春日山蒔絵硯箱の図で野山秋草に鹿を配した意匠。
またこの時代はその一方で中国文化、唐物文化に対しても強い憧れがあり、中国将来の
文物に高い関心を示している。漆芸品でいえば鎌倉時代以来の堆朱、堆黒や蒔絵の意匠
や技法を模倣して、鎌倉彫や沈金という我国の工芸品を生んでいる。この時代は日本独
自の花鳥表現を展開させ,また他方では宋,元の花鳥意匠の採取という二面性を持った
時代でもある。
室町時代中期、足利義政の時代、銀閣を中心とする東山山荘にちなんで東山文化と呼ば
れたが、東山文化の特徴は、禅宗の影響を受ける一方で、茶の湯、立花、水墨画、連歌、
能などの新しい文化が次々起こり、現代文化の源流をなした点にある。とくに発展した
のが茶陶と言って備前などに代表される陶器による茶道具の制作であった。
鎌倉彫牡丹文大香合
京都南禅寺
室町
秋草蒔絵歌書箪笥部分 京都高台寺 桃山
室町時代における意匠の定型化と装飾化への傾向は、桃山時代にも継承され見事な展開
をみせている。それらは伝統的なものへの新しい挑戦でありまた再生でもある。再生と
いう意味では、言わば日本のルネサンスであり、14世紀に始まったイタリアルネサン
スと時代が重なる点も興味深い。(注 ルネサンスとは仏語の再生という意味)
近世を向かえて工芸意匠は多様化し、漆工芸や染色では草花が中心となり、特に漆工で
は秋草を取り上げた例が圧倒的に多い。ただ季節と密接に関わりのある染織意匠には四
季草花が豊かに見られる。
桃山時代に作品として残っている意匠は大画面の金壁画、花鳥画の隆盛、秋草による文
様構成で蒔絵や小袖、能装束の意匠を飾っているものである。これらは視覚的には平面
的構成、絵画的であるよりは文様的構成が強調されている。ここでは平安朝以来の变情
性の強い文様は影をひそめ、装飾性を主眼とした文様が中心になる。しかも平安時代以
来みられた逆遠近法的な表現も強調され,文様構成に平面性を与えている。
またこの時代は織田信長による仏教弾圧とキリスト教の布教の受け入れや、南蛮貿易の
発展などの時代背景から西洋文物との接触は新しい文様構成との出会いをもたらし、各
種幾何学文や草花、花鳥の充填文様、更に南蛮唐草などもはやった。桃山時代は日本の
生活文化に大きな転機をもたらし、さまざまな生活用具に加飾性を求めた文様の世紀で
もあった。
写真は南蛮貿易の輸出用漆芸品の花鳥蒔絵螺鈿洋箪笥、右は行楽用の食器セット花蝶蜜
陀絵行厨。
これら工芸美術と平行して室町時代中期には、狩野元信を始祖とする御用絵師の画家集
団狩野派が桃山の永徳、江戸の探幽へと続き隆盛を極める。狩野派の美術は建築空間の
装飾に多くの作品を残し、日本の美術界に多大な影響を及ぼした。
5.江戸時代の意匠
元禄文化
江戸時代に入っても工芸一般において桃山時代からの草花中心の意匠は継承されるが、
秋草が主題として好まれる傾向はいっそう進む。一方で季節感を表す花鳥の組み合わせ
も多く、吉祥の意味を持つ主題や組み合わせ物などに分化していく。江戸前期は元禄文
化と言い上方を中心に栄えたが、各工芸分野においても意匠表現技術は高度に成長し、
きわめて巧緻な表現が増えるに従い、意匠表現は絵画的性格へ大きく傾くことになる。
繊細な下絵を寸分たがえずに蒔絵で表現したり、友禅染や扇絵師によって考案された絵
画的な意匠など数え上げればきりがないが、中でも本阿弥光悦、尾形光琳、乾山などは
工芸と絵画の両世界で制作を行なっている。また名も無い職人の仕事の中にも力強い九
谷窯の作品や器形を生かした鍋島特有の意匠や豪華絢爛な数多くの蒔絵師による作品
が多く残っている。
色絵椿繋文皿
鍋島
江戸
古九谷 皿 部分
江戸
ここで絵画と工芸史上に君臨する琳派について詳しく述べると、始めたのは江戸初期の
俵屋宗達で、その技法を受け継いだのが80年後の「尾形光琳」であり、更に100年
後に「酒井抱一」らに引き継がれるのであるが、この師弟関係には血縁関係も無ければ、
直接会ってもいなくて、生きている時代も全然違うところが、前時代の狩野派と大いに
違うところである。つまり、教えを乞うにも師匠はずっと昔に他界しているので、修業
方法はもっぱら作品を徹底的に模写し自力で学び取る以外になかった。
宗達は寛永時期に京都で活躍した画家で、当初は扇などを中心に絵画制作を行う「絵屋」
を営んでいたと考えられている。彼の独創的な才能は、当時京都の文化的リーダーであ
った本阿弥光悦によって見出され、やがて光悦の書の下絵として金泥や銀泥を用いた金
銀泥絵を多く手がけるようになった。さらに、金銀泥絵で培われた華やかな装飾性と、
大胆な画面構成は、次第に江戸絵画を代表する新様式へと開花し、宗達は襖や屏風など
の大画面にもその独自性を発揮するようになった。伝統的なやまと絵様式を基盤にしな
がら、斬新な作風を作った
俵屋宗達
風神雷神図
江戸初期
寛永
尾形光琳
紅白梅図屏風
クリムト 「ダナエ」1908
続く絵師・工芸家であり元禄文化を代表する芸術家尾形光琳は、本阿弥光悦や自由・奔
放な俵屋宗達の画風を学んだあと、「琳派」と呼ばれる独自な作風を確立した。また光
琳は茶道・歌道にも通じ、弟の乾山の陶器の絵つけもしている。
上図「紅白梅図屏風」は絵画におけるジャポニズムの特徴をきわめてよく示していると
云われており、美術評論家高階秀爾氏によると、周囲の余分なものは金一色で塗りつぶ
され、「切り捨ての美学」と言われる所以である。また、西洋絵画では画家の視点は一
つであり、キャンバスは一つの完結された世界であるのに対し、数尐ないモチーフの中
に複数の視点が有り、キャンバスを超えて外に広がっていく傾向にある。更に白梅は一
度画面から外にはみ出し、一転して上縁から再び画面に入り込んできている。加えて水
流の波紋に見られる紋様化や季節感の表現など、きわめて日本的特性が装飾性のなかに
表現されている。
またこの絵は左右の梅の木は紅・白の色の対比だけでなく老木と若木であり、「時の流
れ」を表す真ん中の川と呼応し、梅の“静”と水流の“動”、抽象的な川とリアルな梅
などのように画中の何もかもが呼応しあい相対する天才的な発想で構成されている。
この絵は後のオーストリアの画家クリムトの絵の構図に影響を与えたとも言われてい
る。
化政文化(かせいぶんか)とは、文化・文政期(1804 年~1829 年)の江戸時代後期に
発展した江戸を中心とした町人文化である。
葛飾北斎などの浮世絵、池 大雅などの文人画,円山応挙などの写生画、司馬江漢など
の洋風画と多種多様である。
ここでこの時期に北斎以前に現れた一人の彫りの名工を紹介しよう。「波の伊八」と異
名をとった武志伊八(1751~1824)は房州鴨川出身で波を彫らせたら日本一と
いわれ、その作品は葛飾北斎の富岳三十六景、神奈川沖之浪裏の構図に使用されたとい
われるほどある。
武志家は5代約200年に渡り代々伊八と称して、南関東の寺社彫刻を手がけている。
武志伊八の彫刻
千葉
行元寺
葛飾北斎
神奈川沖之浪裏
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