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時代が昭和から平成に、平成から平安に移り変わって、
引きこもりは貴族の特権になったみたいだけど。
―
あたしみたいな小市民は、残酷に崩れてしまったこの世界で
それでも何も壊れていないのだと自分に言い聞かせるみたいに、
真面目に働きつづけていた。
これは、そんなたぶん愚かなあたしが、
退屈しのぎにつけていた備忘録だ。
ほんじゃま、取り留めもなく。
8
においって嫌いなんだよ。
鼻がもげればいいのに。
だいたい生活するうえでそんなに必要かよ、嗅覚。
いた
何の役に立つんだ。傷んだ食材を見分けるときにし
起こす。
。
何だろう、この匂い。きな臭いっていうのか。そ
れも鼻がつんとする、ふだん嗅がないたぐいの刺激
―
臭だ。変なものが燃えている感じの
すわ火事か、寝る前にガスコンロでも消し忘れた
かと、肝を冷やして目を見開いた。
妙なことに気づく。
身体がぜんぜん動かない。周囲に、何かごつごつ
として固いものが密集している。ジグソーパズルの
「んん?」
ように、あたしはその凸凹とした何かのなかに嵌め
か
いでればだんだん不愉
いい匂いもイヤな匂いも嗅
快になってくし、そのくせ視覚とちがって、目を閉
こまれて不自由だ。指先すらも動かせず、息苦しい。
か使わないだろ。
じれば遮断できるってわけじゃない。とくに、両手
は
が塞がってる状態では。
でこぼこ
「んが……くせえ……」
右の手
がらがら、と何かが崩れる音とともに
まぶ
のひらのあたりから、眩しい光が差してくる。目を
―
自分の置かれた状況が理解できず、不安に思って
身じろぎすると。
―
棺桶に収納された屍体の気分だ。
」
「何だこりゃ
異臭をおぼえて、あたしは顔をしかめながら目を
覚ます。
―
どうやら、浅い眠りについてたみたいだけど
邪魔っけな嗅覚が、安眠を楽しんでた脳みそを『不
愉快な匂いを感じます! 親分、起きて!』と揺り
図 書 館 パ ラ セ ク ト
9
扉が開くように、あたしから向かって右のほうに
やや余裕ができて、そちらから輝きが侵入してきて
しぱしぱと瞬きさせて、あたしはそちらを観察した。
あたしは、勢いよく『外』へと放りだされた。
不安定な本の山は、その衝撃で雪崩を起こして
「おわっ!?」
にした。
➡
「
。
ーパーバックもある。分厚い辞書や、可愛らしい絵
本の土砂崩れに全身を押され、あたしはサーフィ
ンでもするみたいにずるりと滑って勢いよく狭苦し
―
いる。その灯りを頼りに、あたしを妙な具合にぎゅ
うぎゅう詰めにしているものが何だか確認した。
本なんかも。ごった煮の、多種多様な書籍の山のな
ともできず錐揉み回転して、固い地面に強かに鼻っ
どうも、あたしの周りに敷きつめられているもの
は、本らしい。ハードカバーも文庫も、安っぽいペ
かに、あたしは埋没しているらしい。
面を打ち、痛みに悶える。
と、っと」
どっちが上でどっちが下かもわからないが、この
まま全身を圧迫されているのも気分がよくない。あ
―
たしは気合をいれて、本の山がやや崩れて自由にな
いた書籍を蹴り飛ばし、何とか安全そうな位置まで
したた
ばらばらとビスケットが砕けるみたいに本が除け
られて、視界が拓けていく。
退避する。
きりも
「うおりゃ!」
自由の身となって、まだ立てぬまま猫のように伸
全体重をかけて、そちらに向かって倒れこむよう
もだ
い空間から解放された。とうていバランスをとるこ
った右手で、そのへんを叩いたり、押したりした。
そのまま倒れ伏していたら次から次へと落ちてく
る本で圧死しそうだったから、己の下半身を埋めて
➡
➡
10
びをした。
した海のようだった。
て働いているあたしとしては、本を踏んづけるなん
りやすくて不安定だ。いちおう、小学校で司書とし
足下にも、たくさんの本が堆積している。本来の
地面が見えず、凸凹した書籍のつくりあげた床は滑
―
おお あ く び
大欠伸をして、目元を擦った。
こす
ばきぼきと関節が鳴る。
」
「くああ
て罪深いような気もして落ちつかない。
真上に視線を向けると、高層ビルのように積み重
なった本がほとんど視界を埋め尽くしていて、よく
どうも先ほどまで変な姿勢で眠っていたから、全
身の筋肉が強ばっている。それこそ蘇生したばかり
くとしか動けない。
たくて、あたしは「ぶるり」と全身を震わせた。
のゾンビみたいに。あちこち痺れていて、ぎくしゃ
ともあれ目覚めてしまったからには、動かなくて
はならない。
ちなみにあたしが着ているのは、この残酷な時代
に生き残った同年代のものたちが好んでまとう高校
だんだんと歳をとり、似合わなくなっていくのだ
けれど。
った服装をまとい、何かが手のひらから零れ落ちな
しむみたいに、あたしたちはかつて『当たり前』だ
見えない。どうやら屋外らしく、吹き抜ける風は冷
あたしは本能的にそう思うと、おおきく周りを見
回した。
の制服である。すべてが崩れてしまった過去を懐か
ぜん
「何なんだこの状況は……?」
あ
いように必死に抗っている。
うめ
呻き、あたしは啞然とするしかなかった。
広大な空間を、無数の本が埋め尽くしていた。書
架に収納されているわけでもなく、ひたすらアンバ
ランスに積みあげられている。ところどころ雪崩を
起こし、うねりをつくっていて、何だか時間が停止
図 書 館 パ ラ セ ク ト
11
世界はもう、こんなにも
ざかってしまったのだけど。
か、手伝ってくれるやつがいればいいんだけど……。
あたしは背も低いし腕力もないから、本を崩すな
んて無理かも
本って、けっこう重いんだよ。誰
『当たり前』から遠
「……ん?」
「ん、ん?」
―
感傷にひたっている場合ではなかった。
徨わせていたあた
挙動不審に、あちこち視線を彷
しは不意に気づく。
本じゃないものが落ちている。焚き火があげるイ
ンクが混じったような黒煙のせいで、気づくのが遅
―
立ち尽くすあたしのそばで、何冊もの本がめらめ
らと燃えていた。
くなったけれど。
さまよ
焚き火のように。
「おわっ、火事!? 火事だーっ!?」
わめ
きながらそちらに駆け
あたしはギョッとして、喚
寄っていく。
見覚えのある女の子が、まるで野垂れ死にした屍
体のように転がっている。
崩れた本になかば埋もれていて、下半身は見えな
い。そこから顔と手だけをだして、どうも焚き火の
さっきから焦げ臭いと思ったら、これが原因か。
何で燃えてるのかはわからないけど、周りは本だら
明かりのそばで本を読んでいるらしい。何か炬燵に
れながら、あらためてその女の子を眺めた。
こ たつ
けである
でも入って寛いでるふうなんだけど……。何でこの
類焼したら、大惨事だ。あたしは火だ
るまになりたくない。
異様な状況でそんなにリラックスできるんだ……。
―
しかし火を消そうにも、周りには本しかない。水
も、消火器もない。そのへんの本を大量に崩して火
呆
くつろ
を埋めて、酸素をなくして消す……とか? それで
色の脱けた髪は長く、あちこち寝癖で飛び跳ねて
あき
消えるかな?
12
―
ぼうっとしている。
「おう」
いる。あたしと同じ学校の制服。あたしに比べれば
かなり背が高いが、ろくなものを食べていないのか
う ろん
華奢だ。けっこう整った顔立ちをしてるのに、気の
乱なのはいつものことなので、
こいつの反応が胡
うなず
あたしは腕組みすると頷き、お返しに名前を呼んで
きゃしゃ
抜けきったゆるんだ表情がそれを台無しにしている。
「何でこんなとこで寝てんだよ、こづえ」
こづえとは、腐れ縁の友達である。
しまったこの残酷な現代で、ずっと苦楽をともにし
といっても、高校時代からの付きあいだからさほ
ど年月は経ってないんだけど。すべてが崩れ去って
彼女
―
やった。
こんな人生なめくさったような人間を、あたしは
ひとりしか知らない。
「おい」
➡
てきたから、家族みたいに思っている。
女の子は「あう」と変な声をあげて、不思議そう
にこちらを見てきた。長い白髪が、さらさらと揺れ
かなかった。他人がいる。生きて話せる。それだけ
まって、途方に暮れていたあたしたちは寄り添うし
ぶっちゃけ高校時代はろくに話したこともなかっ
たんだが、世界を襲ったあの災禍から生き残ってし
る。頰杖をつき、ぱちくりと瞬きをして。
はる
で、あたしの心はずいぶん救われた。
こ
「あれ、小春さん……?」
家族も友達もすべて失ったあたしにとって、こい
唯一の知己だ。大事に思ってるし、こ
つだけが
―
あたしの名前を、呼んだ。
ね ぼ
惚 け て い る の か、何 だ か 当 惑 ぎ み に
こ い つ も 寝
あたしは呼びかけながら歩み寄り、その女の子の
頭を軽く蹴飛ばす。
➡
➡
図 書 館 パ ラ セ ク ト
13
の見たことないやつだけど
0
そうだろう、こいつ下半身が本に埋まっているし。
あんまり動じないやつなのだ。
「自力では脱出できないので、いろいろ諦めて寝て
としてそうだしな
―
ふつうならもっと慌てそうなものだけど、こいつ
は自分の首が切り落とされても気づかずにのほほん
どうも、動けないようです」
「お 手 数 で す が、手 を 引 っ ぱ っ て く れ ま せ ん か?
体質らしく、しきりに目元を擦りながら。
退屈だったんだろう、
いつと離ればなれになってしまったらあたしは擦り
てきとうな本を開いている。活字を読むと眠くなる
―
きれて消えてなくなってしまいそうだけど。
0
のあたしとちがって、こいつは自宅
真面目なたち
に引きこもってのんべんだらりと暮らしていて、た
まに見ていて苛々する。世界がどんだけぶっ壊れよ
うとも、何事もなかったみたいにマイペースで、右
往左往してるこっちが馬鹿みたいだ。
こづえを見るたびに湧いてくる愛しさと憎らしさ
が混じったような、複雑な感情を持て余していると
彼女は小首を傾げて。
いたのですが。そろそろ、周りに落ちていた本は読
―
「小春さん」
「諦めるなよ。おまえはもうちょっとこう、何とい
み終わってしまうので、そうなると暇で暇で、どう
にかなりそうです」
正直、困ってい
はんぶん眠ってるようなだらしのない声で、呼び
かけてくる。
―
「よかった、小春さんに会えて
真面目に生きろよ」
うか
―
たのですよ」
呆れつつも、あたしは間近で燃えている焚き火を
見やる。
「ていうか、何で燃えてんだよこれ。消せよ、焼け
丁寧な、むしろどこか卑屈な口調で。
本のページをめくりながら。
パソコンいじるのはともかく、読書なんかしてる
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「やや肌寒かったですし、灯りがないと本が読めな
虫は「これが僕の役目ですので」と言わんばかりに
しかしまぁ、仮にも生き物をクッションにしてや
がったのか、こいつ。すこし可哀想に思ったが、毛
死ぬぞ」
いじゃないですか」
むしろ得意げになって、きゅうきゅう、と可愛らし
つ
っ て い う か、ど う や っ て 火 ぃ 点 け た ん
」
頭をさげるような仕草をしてくる。
礼儀正しい子なのか、たしかガノンドロフという
らしい(虫けらのくせに偉そうな名前だ)毛虫は、
いと言えなくもない感じに鳴いた。
「動けないのに間近で火を点ける神経が理解できな
―
いけど
だ?」
―
「あぁ、この子が
言いながら、こづえが己の首元に置かれていたク
ッションのようなものを掲げた。
そんな良い子をこづえはたぐると、己の胸元に抱
きこんで、またクッションにする。
いたライターで点けました。いろいろ入るんですよ
ちなみに火は、この子の身体のなかに収納して
「直 接、地 面 に 寝 転 ん で る と 身 体 が 冷 え ま す し ね
うどいいぐらい。純白の体毛が全身を覆っており、
この子、最近気づいたんですけど。パソコンとか、
―
気持ちの悪い単眼が輝いている。何度見てもけっこ
非常食とかたくさん入ってますよ」
―
生き物である。
にしか見えない、
ふわふわした、巨大な毛虫
こづえの飼っているペットだ。おおきさは枕にちょ
うキモい。可愛がってるこづえが理解できない。
ってやれよ」
きゅうきゅう、と毛虫が「よいのです。ご主人さ
「そんな便利グッズ風じゃなくて、生き物として扱
このような、得体の知れぬ虫はこの時代、数多く
存在しており、よく目撃する。人間を食べるような
危険なものも多いが、この毛虫は人畜無害だ。
図 書 館 パ ラ セ ク ト
15
いかこいつ、毛虫のくせに。
じてるみたいなんだけど、わりと知能高いんじゃな
に首をふるような仕草をした。あきらかに言葉が通
まが満足ならそれでよいのですよ」と言わんばかり
ゃねぇぞそれ、インクとか身体に悪いし。もうちょ
あたしは肩からちからが抜けた。
や ぎ
「おい、本を食うな。山羊かおまえは。食いもんじ
る。
あぁもう、とにかく苛々する!」
っとおまえは
小春さんもここでおねんねして、ともに退屈を
ぐらいにはなりますよ」
まぎらわしましょう。本も、たまに読むと暇つぶし
―
感心したように、こづえは吐息を漏らすと。
「まぁ、ぷりぷりしていてもお腹がすくだけですよ
「小春さんはよく怒りますねぇ」
―
「とにかく」
いろいろ考えるのをやめて、あたしは焚き火に手
をかざして暖をとりながら。
「安穏としてんじゃねぇよ、もっと危機感をもてよ。
あきらかに変だろ、この状況。何がどうなってんだ
よ? またおまえが何かしたのか?」
「わたしは何もしませんよ」
「おまえ、何読んでんの?」
いちおう司書だし、あたしは本が好きだ。ちょっ
と興味をおぼえて、こづえが開いている本を覗き見
こづえは、堂々と無気力なことを言いやがる。
「まぁ、よいではないですか。とくに不便もありま
せんし
る。こづえは前髪が邪魔なのか、首を揺すると。
動けないので、おトイレに行けないのが
難点ですが。本のなかに埋まっていると、あったか
「読みたいなら、横に寝転んでください
―
いですし。お腹がすいたらほら、これを食べればい
ょに読みましょう。ついでに、ページもめくってく
いっし
いですし」
ださい。ちょっと手が疲れてきました」
―
言いながら、本のページを破って口のなかにいれ
16
」
「本のページをめくる程度のことで疲れるなよ、ふ
―
だんどんだけ筋肉使ってねぇんだよ。まったく
言いながらも、あたしはこづえの横に寝そべって。
ふたり頰が触れるような距離で。
並んだ活字を、ぼんやり眺める。
20
通称『妖怪レインコート女』などと呼ばれているその人物は、とにかく広告とか看板とか、
そういう何かを宣伝しているようなものを憎悪しているらしい。
―
たとえば電信柱に貼りつけられた不動産情報とか、指名手配犯や迷い犬のポスターだとか、
という話
暴走族のくだらない落書きのようなものまで区別せずに白いペンキで塗りつぶす
である。
実際、彼女が主な活動場所にしている町にはたびたび不自然に真っ白な壁があって、近づい
て触ってみると塗りたてのペンキがべったりと指につく。
何の意味があってそんな暇な真似をしているのか、意味がわからないがともあれ、彼女のそ
の奇行は観光地でもあるこの町の景観を損ね地味に迷惑だし、犯罪だ。町の掲示板が無惨に白
く塗りたくられる段に至り、ようやくのんきな地方自治体も重い腰をあげ、ついにその討伐が
企画された。
その尖兵として送りこまれたのが僕である。おもに子供向け雑誌などにちいさなカットイラ
ストを描きちらして糊口をしのいでいる僕は、たまに『空き巣に気をつけよう!』みたいなポ
こ な ゆ き デ マ ゴ ギ ー
21
スターを制作するために役所に出入りしていた。
その縁で、というかたまたま通りかかったのが運の尽きで、自由業の人間は暇であろうとい
う公務員どもの偏見から小遣い程度の賃金により、僕は『妖怪レインコート女』への対応を依
頼されてしまったのだった。
どう考えてもイラストレーターの仕事ではなかろう、と思ったものの好奇心もあり、ちょう
ど一仕事終えたところで手が空いていたので引き受けた。
とはいえ実際、噓みたいな話である。
町に散見する広告を無差別に塗りつぶす、そんな酔狂な真似をする変人がほんとうに実在す
るのだろうか。ただの都市伝説ではないのか、馬鹿馬鹿しい。
まぁ正式に仕事として頼まれたからには何かせねばならず、僕はあまりやる気もなかったけ
れど妖怪退治を始めた。
とはいえ漫然と捜し回るには町は広く、僕は足を棒にして捜索するのも面倒で、待ち伏せ作
戦をとることにした。
白く塗りつぶされてしまった町の掲示板のひとつを許可を得て借り受け、僕はその前に画材
一式を並べ、パイプ椅子に腰かけると、白い掲示板をキャンバスに見立てて絵を描き始めたの
だ。
22
内容はすこし考えてから『おい妖怪! 見ているぞ!』みたいな賞金首を捜すような威圧的
な文字と、僕の想像のおどろおどろしい『妖怪レインコート女』の姿にしてみた。
―
妖怪の目的は知らんが、自分がいちど白く塗りつぶした掲示板にまたくだらない落書きをさ
れ、おまけに内容も挑発的だったら怒って姿を見せるのではないか
みたいな、浅はかな発
想だったのだけど。
そんな暇つぶしめいた作業をつづけて三日目、ほんとに妖怪が現れた。
➡
げてやんべい、と腕まくりしてもいた。
このデジタル全盛の時代、貧乏絵師には高価なでかいキャンバスに絵を描く機会などそうは
ない。無駄に芸術家魂を発揮して、せっかくだし通行人が思わず目を留めるような大作を仕上
すこし童心にかえりながらも、画材の詰まったリュックサックを背負って町を歩く。
を塗って翌朝クワガタでも集まってないかと見に行ったりしたなぁ。
僕はその日も昼過ぎまで寝て起きてから、ちいさな絵仕事をこなし、ふと思いだして(いや
忘れるなよという話だが)のんびりと問題の掲示板の様子を見にいった。子供のころ、樹に蜜
➡
➡
こ な ゆ き デ マ ゴ ギ ー
23
―
さぁ今日もがんばるぞ、と何か間違っているような気がしつつも、コンビニで買ったおにぎ
りを頰ばりながら目的地に辿りついて
。
―
僕は、掲示板の前に『妖怪レインコート女』が立っているのを見た。
というか、たぶん子供である。
想像していたよりも、小柄だ
通称のとおりに、雨もふっていないのに頭から足先までだぼんとした厚手のレインコートで
覆っている。その色は純白で、陽光を弾いて目に痛いほど眩しい。フードもかぶっているので
顔は陰になっていて見えず、ほんとに『女』なのかどうかもわからない。
まさかほんとに妖怪が釣れるとは思っていなかった僕が、啞然としていると。
妖怪はひと抱えもある重たそうなペンキの缶を「うんしょ、うんしょ」と健気に運び、苦労
は け
して蓋を開いてから、たっぷり色をのせた刷毛で大胆に僕の描いた力作を塗りつぶし始めた。
―
あきらかに手慣れていて、すいすい、と泳ぐように刷毛が動いている。
あなど
プロだな、と同業者(?)として感心していたが、吞気に眺めてい
ほほう、あの手並み
る場合ではない、と思いだして足早に歩み寄る。
り、僕はあまり警戒もしなかった。
相手が子供だと侮
「おい、おまえ」
妖怪は気づかなかったのか、よほど集中しているのか反応しないので、僕はその肩を叩いて
24
ぐっと顔を近づける。
「何してんだ? これは俺の絵だぞ、何で消すんだよ」
妖怪はびくっとして、恐る恐るこちらを見あげてくる。
フードの向こうに、素顔が見えた。
下品な表現をすると美少女、といっていい。
そうぼう
思ったよりも、ずっと整った容貌である。睫毛が長くて少女漫画のようにおおきな双眸は、
ガラス
硝子玉みたいだ。髪の毛は短めで、色素が薄くぎざぎざしている。やはりまだ小学生ぐらいの
―
子供だ
「おまえが『妖怪レインコート女』か」
思わず真正直にその名を口にすると、妖怪は小鳥のように首を傾げて。
―
こちらに歩み寄ってくると。
と手にした刷毛で僕の胸元に、たっぷりペンキののった刷毛を滑らせた。正確
べちゃり
にいえば、たぶん僕の着ているTシャツに書かれたとくに意味のないデザイン状の文字を、塗
りつぶしたのだと思われる。
どんだけ塗りつぶしたがりなんだ。
むふんと満足げに吐息を漏らし、僕に興味をなくしたように掲示板に向き直った妖怪の後頭
部を、僕は思わず平手で叩いた。
こ な ゆ き デ マ ゴ ギ ー
25
「何てことしやがるっ、このクソガキ!」
た
か
我ながらおとなげないが、何だかひどく侮辱された気がしたのだ。Tシャツも高価いもので
はないとはいえ、そういう問題ではない。汚物をぶつけられた気分だった。
妖怪は痛そうにフードで覆われた頭を手でさすり、こちらを驚いた顔で見てきた。
「え? な、何する……んですか?」
涙目になり、聞きとりづらいちいさな声で僕の問いをそっくり繰りかえしてくる。
何だか小動物をいじめているみたいな気分になったが、相手が意外と凶暴そうではなく、む
おび
しろ怯えているようだったので僕は強気になる。
「『何する』はこっちの台詞だよ。おまえ、ここで何してんだ。その掲示板はな、役所のもん
えぇ?」
あいまい
だぞ。そこにペンキ塗ったらだめだろ、おまえは国を敵に廻すつもりか」
―
「え、でも
妖怪は言葉が通じていないように、もじもじと曖昧に応えるのみ。変質者にしてはおとなし
そうな娘である。見ていると、そのまま彼女は両手でペンキの缶を抱え、よろよろと立ち去ろ
うとした。
「おい逃げるな」
「………っ」
26
みたいな表情で遠ざかっていく。ダッシュ
少女はびくっとして、けれど振り向かずに (>_<)
で追いかけた。鬼ごっこの始まりだ。ごちゃごちゃと入り組んだ町のなか、
『妖怪レインコー
ト女』は歩き慣れているのか裏路地を通り、立ち飲み居酒屋のなかを通りぬけ、ちいさな神社
仏閣を横切り、夢中で走っていく。
だが缶を抱えているうえ、歩幅がちいさいのでとろくさい。僕は難なくそのすぐ後ろをつい
ていく。平日の昼前だ、観光地にはあまり人気がない。シャッターがおりた店々。
通行人が驚いてこちらを見てくるなか、妖怪の零す白いペンキが粉雪のように道路に飛び散
っていく。けれど、そんな程度のちっぽけな着色では、町のすべてを塗りつぶすには足りない。
いた
純白の少女は、幽霊のようにレインコートを揺らして写真の汚れみたいに、異物として景色の
なかで浮いている。
―
そろそろ捕まえるか。子供の悪
さて、つい楽しくて追い駆けっこをしてしまっているが
ずら
戯である、役所に引っ立てて偉いひとに説教してもらって、それで任務完了だ。でもなぁ、少
。
女を追いかけ回して捕まえるのって、こっちが変質者っぽいよなぁ。やりにくいなぁ、どうし
―
ようかなぁ
などと考えていたのがいけなかった。
曲がり角を折れて。
こ な ゆ き デ マ ゴ ギ ー
27
僕は唐突に立ちどまっていたちいさな妖怪に、もろに激突してしまった。
「うぎゃ!?」
びっくりしてバランスを崩し、僕は彼女を押し倒すようにして倒れこんでしまう。見ると妖
怪は刷毛を握りしめている。どうも今日はお休みらしい不動産屋の軒先にべたべた貼られた住
宅情報を見過ごせず、塗りつぶす誘惑に勝てなかったらしい。
―
彼女にとって白い色をまきちらすのは、何よりも優先されることらしかった。
「ひっ
」
快晴だし、夏真っ盛りなので暑苦しいだろうに。
青ざめ、少女はレインコートの裾を慌てて押さえると、身を竦ませる。何だか僕がいけない
乱暴をしているみたいである。しかしこの子、どうでもいいけど何でこんな格好してるんだか
―
―
妖怪はこちらをぐいぐい押しのけようとしたが無理で、泣きそうになる。
「な、何? あ な た
勘 弁 し て …… く だ さ い、お か、お 金? お 金 で す か? あ、悪 魔! 鬼畜の、その、悪魔!」
語彙が乏しいなぁ。
というかさっきから僕が悪役みたいなので、とりあえず彼女の上からどくと、努めて和やか
な笑みを浮かべて。
28
―
「お金なんていらないよ。そう、この世にはお金で買えない大事なものがあるのだから
」
ちがうな、何言ってんだ僕は。どうも相手がひれ伏している格好になっているので、ばくぜ
んとした偉そうなことを言ってみたい気分になったのだ。
「えぇっと……」
ともあれ、どうしたもんか。このまま彼女を役所まで引っ立てればいいんだろうけど、首根
つか
っこ摑んでつれていくのも可哀想になってきた。
」
何か事情がありそうだし、僕もこの子がどうしてこんな奇行を繰りかえすのか興味があった。
話ぐらい聞いてみようかな、彼女を捕まえるのはいつだってできそうだし。
―
「あの
妖怪はおずおずと、こちらを見あげて。
「お金で買えない大事なものって何ですか?」
どうでもいいところに食いつかれてしまった。
というか聞きたいことがあるのは僕のほうだ。無視して、その鼻っ面に指をつきつける。
「とにかく、君の行動は軽犯罪だから、今すぐやめたほうがいいと思うよ。というか、やめさ
せるために僕は役所に雇われたんだよ。君がもう二度と迷惑行為をしないと誓ってくれるなら、
今日は見逃したっていい」
こ な ゆ き デ マ ゴ ギ ー
29
次に見かけたら狩るけど。そこまでこの子に義理はないし。
―
でも荒事にならないなら、僕はそのほうがいいのだ。警察じゃないから逮捕権もないし、お
となとして一般常識を説いて、それでお終い
ぐらいのほうが気楽でいい。
「でも……」
妖怪はせっかく僕が仏心をだしたのに、意固地に刷毛を握りしめて。
「やだ……」
『やだ』じゃねぇよ、と僕は苛々してくる。
「いいから、事情を説明してくれるかな。僕も仕事だからさ、黙って見逃すわけにはいかない
」
んだよ。何か困ってることがあるなら、できるかぎり協力するし。話してほしい。でないと帰
さないぞ」
―
「帰れないのは嫌
じゃあ」
―
妖怪は青ざめて、思いつめたように、ちいさく独りごちた。
「よぉし、てきとうなことを言って誤魔化してしまおう
このひとアホそうだし、うまいこ
と言えば信じてくれるにちがいない……ふふふ」
「聞こえてんぞコラ」
―
「あ、いや、ちがうの。ちがうんです、えっと
30
呆れて言葉もない僕に、少女は奇妙な話を始める。
堂々と開き直られてしまった。
少女は正直に、宣言する。
「これから、作り話をしますから。噓をつきますから、信じてください……」
洋服屋さんなんです。
➡
の少女漫画みたいでした。
もちろんマネキンさんですから、その役目はいろんな服を着せて展示することです
―
人間
人さんでしたよ。あまり凹凸のある体型だと服を着せづらいので、すらりとしていて、むかし
人間そっくりで、思わずぎょっとするぐらいに生々しい造形でした。年齢は、子供と大人の
中間ぐらいの、高校卒業間近というぐらいでしたかね。お目々がぱっちりしていて、とても美
たぶん世界でいちばんきれいな、マネキンさんがいたんですよ。
そんなに流行ってない、というか正直ぜんぜん無名でいつも閑古鳥が鳴いてるようなお店な
んですけど、ひとつだけ自慢があったんです。
「わたしの家は仕立屋さん
―
➡
➡
こ な ゆ き デ マ ゴ ギ ー
31
のかたちをした、ハンガーですね。最近はどこのお店でもごく当たり前に置いてありますけど、
そういうのがまだ珍しい時代に、異国から輸入されたすごく貴重な旧いマネキンさんだそうで
す。年代物ですよ。
せっこう
とても、きれいでした。
でも大事にされていたので、傷ひとつありませんでした。
石膏というのでしょうか、彫刻に用いられるような、けっこう重たくて崩れやすい素材でで
きていました。最近のマネキンさんとは、そのあたりがちがいますね。
肌は着色されていて、硝子の目玉がついていて、髪の毛も植えこまれていて、マネキンさん
というより西洋人形みたいでした。暗いところでは、ほんとに人間と見分けがつかないぐらい
でした。
―
ごく稀に、極めて出来のいいも
銃とかもそうらしいんですけど、大量生産の工業品でも
のがつくられることがあるみたいです。狙ってできるものではない、それは神さまのギフトで
す。
―
尊い、偶然の産物だったみたいで、見るだけでうっと
そのマネキンさんもそういうもの
りするぐらいでした。人間よりも、生命力があるみたいでした。人間は、すぐに汚れます。未
完成で、醜いです。マネキンさんのほうが、ずっときれいでした。
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―
お父さんとお母さんは、
わたしがそう思うのは、両親が不仲だったせいかもしれません
毎日のように夫婦げんかをしていて、口を開けば互いを罵るばかりで、とても嫌でした。思い
だすだけで、ぞっとします。とげとげで、汚物にまみれた、あのひとたち!
―
ありきたりですが、お金がないせいでした。
ふたりの仲たがいの理由ははっきりしていて
貧乏だったんです、すごく。毎日、食べるものもないぐらいに。積もった雪を手のひらにすく
いあげて、思わず口にしてしまうぐらいに。
満たされないから、何もかもが気に食わない。不幸だから、目につくものすべてに唾を吐き
かける。いつだって苛々していて、ひもじくてみじめで、どん底でした。
両親の経営していたお洋服屋さんは、この町にいくつもある個人店舗のひとつです。お父さ
しにせ
んが先祖代々受け継いできた、老舗みたいです。建物なんかぼろぼろで、窓硝子が白濁してい
て、まるで骨董品みたいでした。
この町も大型デパートなんかが幅をきかせて、お洒落な専門店が建ち並び、そういう旧いタ
イプの個人店舗はやりにくくなっています。それでも、ふたりでお店をやるのは両親の夢だっ
たみたいです。最初のうちは、がんばっていたようです。
お父さんが服を仕立てて、お母さんが売る。若かったころは、それでも何とかなっていまし
た。お父さんには才能があり、お母さんには華がありました。
こ な ゆ き デ マ ゴ ギ ー
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―
ひいき
けれど世界規模の不景気がこの町をも打撃し、誰もが財布の紐を固くし、先祖代々のご贔屓
さんたちも老齢から遠のき
両親も老けて、何もかもが寂れていきました。
―
個人で服を型紙からつくり、ミシンで仕上げていく。ひとつひとつ手作業で。そんなお店で
したから、見るひとが見れば出来がいいのはわかったでしょう
けれど、誰もがそのへんの
安価でたくさんの商品を並べた量販店へ向かいます。
―
当たり前です。わたしだって、そうします。インスタントなのが、現代です。
ちょっと出来のいいだけの、うちのお店の洋服なん
値段が倍どころか、十倍ぐらいする
か、誰も見向きもしません。お店もすこしわかりにくい場所にあったので、通行人すらほとん
どいません。お客さんなんか、朝から晩までひとりもこないこともありました。
最初は懸命に客足を増やす努力をしていた両親も、だんだん徒労感をおぼえてきたのでしょ
お店は掃除されることもなく、売れもしないお洋服が積み重なり、荒れ果てていきまし
―
う
た。それが、さらにお客さんを遠ざけました。
―
見ていられないほどでし
両親は互いに当たり散らし、傷つけあい、責任を押しつけあい
た。それもどんどん酷くなっていくのです。経営は傾き、借金までするようになり、すべてが
破綻しようとしていました。
それに怯えるように、沈没しかけの船で揉みあう愚かもののように、両親は喧嘩をつづけま
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した。
わたしは、いつもふたりの怒鳴り声に耳を塞ぎ、お店の隅っこで膝を抱えて震えていました。
何重にもなった商品棚の向こう、おそらく両親も存在を知りもしないか忘れているだろうマネ
キンさんが、放り捨てられた洋服に埋もれるようにして立っていました。
いつも。七匹の子ヤギの、賢明だった末っ子のように。
てい
わたしは彼女の股の間、その着ていた長いスカートのなかに座りこんで、隠れていました
―
マネキンさんは両手を広げているような姿勢で立っていたので、何だかわたしを身を挺して
守ってくれているようで、そこにいると安心しました。
―
お店のなかで見つけた、いちばん
わたしは幼心から、マネキンさんに恩返しをしたくて
きれいな衣装を着せてあげることにしました。マネキンさんの身体を丁寧に拭き、今よりずっ
とちいさかったわたしは苦労しながら、彼女の美貌を隠していた服を脱がせわたしの選んだ衣
装を着せる、わたしとしては崇高な作業を終えました。
―
わたしは知りませんでしたが、わたしの選んだ衣装は仕立てを担当するお父さんの最高傑作
お父さんがまだ若く、才能に満ちあふれていたころ、奇跡的につくりあげた一品だ
でした
ったのでしょう。
でもお父さん自身も忘れ去り、お店の奥に仕舞いこんでしまった、それをわたしが発掘した
こ な ゆ き デ マ ゴ ギ ー
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のでした。幸せだった、過去の地層から、それを拾いあげたのでした。
きれいな衣装をまとったマネキンさんは、光り輝くようで、わたしは満足しました。朝から
晩まで、飽きもせずにマネキンさんをうっとり眺めていました。
何だか両親が見たらマネキンさんが汚れてしまう気がして、ふたりがいるときはシーツで覆
い隠しました。さらに、お母さんが隠しもっていた宝石飾りまで持ちだしてマネキンさんの頭
や胸元につけてあげたりもしました。
―
マネキンさんは、まるで
そうすると、ほんとうにこの世のものではない美しさになって
お姫さまみたいでした。わたしを、童話の世界につれていってくれそうでした」
➡
―
お父さんは流行遅れの古くさい服しか仕立てられないのかと罵られ、お母さんは客がこない
てことはありえないのでしょうけど。
それ
お父さんがすてきな服を仕立てて、お母さんがそれをみんなに売り、喜んでもらう
が理想でしたけれど、現実は過酷でした。何もかもが思ったとおりになる、うまくいく、なん
「わたしたちは、疲れきっていました。
➡
➡
36
―
のはおまえの努力が足りないからだ、なんて𠮟りつけられて
憎みあっていました。
わたしは、そんな現実から逃げだしたかったのです。
―
互いを傷つけあい、ほとんど
どこかで大事な歯車がずれて、何かの間違いで、わたしは不幸な世界に迷いこんでしまった
のです
そう信じないと、心が壊れてしまいそうでした。
すこしだけずれた、並行世界では、お父さんの服をみんなが好んで身にまとい、お母さんは
お客さんにちやほやされ大人気で、わたしは仲睦まじい両親の間で笑っている。そんな空想を、
ときどきするようになりました。
わたしがいるべき世界はここじゃない。おとぎ話のような、めでたしめでたしの幸せがある
はずのどこかへ逃げたかった。わたしは、すこし病んでいたのかもしれません。
―
やがて、わたしはひとつの妄想を抱き始めました。
お姫さまのような彼
まるでおとぎ話の世界からやってきたような、美しいマネキンさん
女と同じ背丈になって、その服を着られるようになったら、わたしは魔法が使えるようになる。
マネキンさんと同じ、おとぎ話の住民になれるから。
魔法でかぼちゃを馬車に変えて、わたしは本来いるべき幸せな世界へと赴ける。
それは幼い空想でした。魂が磨りつぶされてしまわないように、わたしの心が選んだ逃避で
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そんなわたしの馬鹿げた妄想は、ある日
―
➡
―
奇妙なかたちで叶うことになります」
した。ありえるわけもない、けれど希望でした。
そんな、ある日のことです。
れていきました。
ちいさかったわたしにとって、やはり寂しかったです。
独り、ぽつんと取り残されるのは
置き去りにされ、わたしはマネキンさんを眺めながら空想にふけりながら、ゆっくりとくたび
―
やどうにもならない状況でしたので、それはべつに構わなかったのですけど。
―
ふたりが真面目に働いているわけがなく、お父さんは酒浸りになってくだをまいているだけ
ふたりが何をしようがお店はもは
でしたし、お母さんもたぶん遊び歩いていたのでしょう
んは営業だ、外回りだと言いはってどこかをうろついているようでした。
まぁ、裏庭にぽつんと建
お父さんは洋服を仕立てるために専用のアトリエをもっていて
ったちいさい倉庫みたいなものなのですけど、そこに籠もりきっているようでしたし。お母さ
「両親は、あまりお店に顔をださなくなりました。
➡
➡
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運命の転機が訪れました。
―
わたしはその日もマネキンさんを可愛らしく着飾らせて、髪の毛にリボンを巻いたりしてい
ました。その姿は素晴らしく、誰かに見せびらかしたくて
がんばって重たいマネキンさん
を運び、ショーケースの前に立たせてあげました。
まぁ、通行人そのものが滅多にいない入り組んだ路地のなかにあるお店でしたから、さほど
誰かが目に留めてくれると期待したわけではありません。けれど、ゆっくり埃を積もらせるだ
うずくま
せめて神さまが見てくれればいい、とお店の隅っこに蹲り、
けだったマネキンさんに、本来の役目を果たさせてあげたかった。
―
きれいな、わたしのお姫さま
ぼんやりしていましたが。
不意に、来客を知らせるドアベルが鳴りました。
それからの出来事は、あっという間でした。正直、予想もしていなかった事態なのでわたし
は右往左往して、ほとんど何も考えられませんでしたが。
―
マネキンさんが着ていた衣装が、ちょっとびっくりするぐらいの値段で売れてしまったので
勝手に売るわけに
した。わたしは、その服がお父さんの最高傑作だと知っていましたから
はいかないと、必死にお客さまを説得しようとしました。お父さんが輝いていた時代の、思い
出そのもののようなお洋服でしたから。それを売ってしまえば、何か大事なものをお金にかえ
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てしまう気がして、怖かったのです。
―
けれどお客さまは強引に、ほとんど奪いとるようにしてお洋服を買っていきました。マネキ
ンさんから衣服を剝ぎ取り、見たことのないような札束をわたしに押しつけて。
もろ
無理やり動かされ、服
お客さまはそれで満足だったでしょうけれど、悲劇がありました
を脱がされることでマネキンさんの体勢が崩れて、倒れてしまったのです。
い素材でできていたマネキンさんは腕が足が、頭が砕けてもげて、
経年劣化していたうえ脆
惨殺屍体のようになりました。
―
とんでもないことになった、と涙しました。マネキンさんは、この哀
わたしは、青ざめ
しみしかないお店で、唯一、わたしの心を慰めてくれる最愛のお姫さまだったのです。
お客さまはわたしの嘆きを知らずに、ほくほく顔で去っていき、わたしは泣きながらマネキ
ンさんを寝かせてあげると、ちいさな破片まで余さず拾いあつめ、元通りにできないものかと
接着剤でがんばったりしました。
―
無駄な努力で、何とか繫ぎあわせたマネキンさんには、ひび割れのあとが残ってしまいまし
。
たが
わたしはこの世の終わりのような気分で呆然としていましたが、騒ぎに気づいてでてきたお
父さんと、帰ってきたお母さんは諸手をあげて喜びました。そして、わたしを褒めてくれたん
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抱きしめ、頭を撫でてくれて、ほっぺにキスまでしてくれた。
です。かつてないぐらいに、まるで愛してるみたいに。
札束なんていう、無機質で生々しい代物のおかげで、まるで魔法みたいに。
―
その日、両親は大喜びでわたしをたっぷり甘やかすと、手を繫ぎ、お寿司屋さんにつれてい
ってくれました。何でも食べたいものを食べさせてもらいました。
でも、ほとんど味なんかしませんでした。
わた
幸福の王子みたいに、これはマネキンさんが己を犠牲にして稼いでくれたお金です
しは何もしていない。けれど幼かったわたしがどれだけそんな主張をしても、両親には意味が
もっとがんばれ、もっともっと稼ぐんだ。そうしたら幸せになれるんだよ。
何をどうしたか知らないけど、明日からも頼むよ。
わからないようでした。
―
―
わたしの頭を撫でながらそう言う両親の瞳は、まるで他人のようでした。
―
ずうっとマネキンさんのそばにいて、彼女を見つめつづけていたわたしには、そうして浮か
マネキンさんのほうが家族で、人間的で、愛おしいものでした
れて騒いでいる両親よりも
けれど」
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