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16日 - 稲城聖書教会

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16日 - 稲城聖書教会
【主の祈り】
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
み く に
御国をきたらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
さかえ
国とちからと 栄 とは限りなくなんじのものなればなり。
アーメン
2016 年 10 月 16 日
稲城聖書教会 週報
【使徒信条】
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
ひと
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・
ほうむ
ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて 葬 ら
れ、よみにくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にの
ぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
さばき
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを 審 きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン
〒206-0802
東京都稲城市東長沼 1973
Tel・Fax.042-377-5546
牧師・金 俊起(090-9809-5838)
http://church.inagibch.com
[email protected]
2016 年 10 月 16 日
【礼拝次第】
礼拝:午前 11-12 時
司会:岩崎 建男兄
説教:金 俊 起師
奏楽:吉 川 歩姉
前
奏
招
詞
詩篇 95:1-3
*頌
栄
聖歌 92
*主の祈り
祈
祷
一
同
司 会 者
使徒信条
一
聖書交読
マタイ福音 6:25-33
賛
美
聖歌 299
聖
書
【午後集会】
聖 書・詩篇129篇
10 月 16(日・午後)7:30-8:00
賛 美・聖歌299、264
【水曜祈祷会】
聖 書・創世記17章
10 月 19(日・午後)7:30-8:00
賛 美・聖歌427、428
【お知らせ】
・本日の昼食後には信徒会があります。
・今週の水曜聖書の学びは、「コロサイ書の概要」です。
・アドベントカレンダーを作っています。ご協力お願いします。
・今週の火曜日には日の出での家庭集会があります。
・入院中の内山姉や体の弱い方々のためにお祈りください。
・受洗クラスのためにお祈りください。
・来週の礼拝の奉仕者です(司会・松永兄、祈り・岩﨑姉)
同
【今週の聖書の日課】(年間通読表)
16 日(日) ルカ福音
4-
17 日(月) ルカ福音
9- 12 章
使徒の働き 1:15-26
18 日(火) ルカ福音
13- 15 章
説 教 題
真理は自由にします
19 日(水) ルカ福音
16- 18 章
賛
美
聖歌 264
20 日(木) ルカ福音
19- 21 章
21 日(金) ルカ福音
22- 24 章
献
金
礼拝の前に捧げる
22 日(土) ヨハネ福音
感謝祈祷
松 永 姉
報
告
司 会 者
*閉 会 唱
聖歌 386
*祝
祷
金 牧 師
後
奏
(*印は一同起立してください。)
1-
8章
3章
【集会案内、先週の統計】(10 月 9 日~15 日)
集会 の 案内
時
間
日 曜
学 校
日
am 9:30-10:15
主 日
礼 拝
日
am11:00-12:00
午 後
集 会
日
pm 7:30- 8:00
聖書 の 学び
水
am11:00-12:00
水曜祈 祷 会
水
pm 7:30- 8:00
早天
日
am 6:00- 6:30
祈祷会
使徒の働き 1 章 15-26
●本⽂は、⼆つの出来事を書き記しています。⼀つは、イスカリオテの
ユダがイエスを売り、その結果彼は⾃害したことであり、それでもなお
それは聖書の預⾔の成就であったことを明らかにしたことです。もう⼀
つはマッテヤがユダによって⽋けた 12 弟⼦の⼀⼈として選ばれたこと
です。この⼆つの出来事に共通点として浮かぶことは、選択ということ
です。ユダは⾃分の期待通りにイエス様がメシヤとして王になれなかっ
たことに対する失望から、あるいは、期待に裏切ったイエス様に苦しみ
を味合わせるために売ったかもしれません。故にお⾦は⼿に⼊れること
ができました。後に⾎の地所となってしまいました。それに対して初代
教会はユダの代わりにマッテヤをくじ引きで選びました。少し話はそれ
ますが、このくじ引きにあまりにも⼤きな意味を与える⼈々がいます。
それは、くじ引きによって神様はご⾃⾝の願う通りに必要な⼈材を初代
教会に与えられたということです。くじ引きに神様が関与し、神様の臨
むとおりになったということです。旧約聖書の中ではヨナという預⾔者
がいます。彼は神の指⽰に従わず、他の所へ逃げようと船に乗りました。
しかし、⼤⾵で船が破船しそうになったので、これは何か問題を抱えた
⼈が船に乗ったせいだと思い、くじを引き、それがヨナであったことが
分かったという記事があります。それで、マッテヤをくじ引きで選んだ
ことも神様が関与した結果だと⾔いたくなりますが、それは違う話です。
例えば、聖書はマッテヤに対して、彼が何をし、どんな業績を残し、ど
れほど⽴派な弟⼦であったかについて何も語っていません。初代教会に
おいて必ず彼がいなかったらいけないこともあったとは思えません。で
すから、彼をくじ引きで選んだのは神の特別な導きだということは⾔い
すぎです。寧ろ、初代教会が選択権をどのような観点で⽤いたかを考え
ることで、ユダの選択と⽐較され、使徒の働きを通して⾔おうとするこ
とが分かります。
●それは、ユダの選択は⾃分の思い通りになれないことへの観点から選
択でしたが、初代教会の選択は、イエス様の命令に対する従順による選
択でした。22 節の⾔葉です。「だれかひとりが、私たちとともにイエス
の復活の証⼈とならなければならない。」という⾔葉です。つまり、く
じ引きが強調される個所ではなく、「イエスの復活の証⼈」としてマッ
テヤを選んだということです。ですから、もう⼀⼈の弟⼦を選ぶことは、
8 節で語られたように、「地の果てにまで、イエスの証⼈となりなさい」
や先週の話である主の再臨の延期で⽬的でもある「全世界に福⾳が宣べ
伝えなさい」という主の命令に従うためだと⾔うことができます。
●先ほども⾔いましたが、くじ引きに神様の意思が反映されるようにと
神様が関与したものだと決めづけると、弟⼦を選ぶことは形だけに過ぎ
ません。しかし、私たちはこのようになることを望んでいます。つまり、
神様が直接指⽰して、私たちが選ぶようになるということです。家を買
うべきか、どうかと選択が責められる時、私たちは神様が導いて下さる
ことを何よりも望んでいます。⾃分が選択しなければならない時に、神
様が選択し、神様に喜ばれる結果を期待したくなりますが、このことは
キリスト教だけではなく、どんな宗教でも⾒られるものではないでしょ
うか。勿論、私たちの神様が本物だから⼀番正確だと思うこともあるで
しょうが、これもご利益信仰だと⾔えるべきことではないでしょうか。
●ですから、マッテヤを選んだことは、主の命令に従うために、弟⼦た
ちの務めを果たすために⾏われたことだと理解すべきです。⾃ら選んで
責任を果たすという、当たり前の観点でも私たちの信仰が何かを知るこ
とができます。それが本⽂の意図することでもあります。
●⼀般的に私たちには選択権があり、⾃由があります。この選択権や⾃
由的な⾏使は強要されることなく、使うことができます。しかし、クリ
スチャンには神様の命令に従うという側⾯もあります。クリスチャは、
⾃由と信仰による従順という、⼀⾒すると相反するような⾔葉ですが、
この⼆つが存在しています。それが共存することをどのように理解でき
るかについて助けを与える箇所があります。ヨハネ福⾳ 8:31 です。今
⽇の説教題にもなっていますが、「あなたがたは真理を知り、真理はあ
なたがたを⾃由にします。」という⾔葉です。この真理と⾃由という⾔
葉はよく図書館に書いてあります。例えば、国会図書館法の前⽂には「国
⽴国会図書館は、真理がわれらを⾃由にするという確信に⽴って」と書
いてあります。ここでの真理とは本とか学問でありますが、聖書が語る
真理はイエス様です。本とか学問が与える⾃由は、理想とか更に⾼い理
論、発⾒を意味しますが、聖書が語る真理は⼈格です。この差は⼤きい
です。
●クリスチャンも⾃由が与えられるという聖句を読んで、何らかの超越
的な⽅法や⼿段によって不⾃由をさせていることから解放されること
だと思ったりします。例えば、思うようになれない、制限を与えるもの
からの解放を⾃由だと思ったりします。その⼀つは病でしょう。パウロ
も病があって、それが癒されるようにと祈りました。第 2 コリント
12:7-10 を読むと、パウロには致命的な病があったと思われます。それ
は⼈々が嫌がる病であったかもしれません。ですから、⾃分の病が福⾳
が妨げられないようにとの思いで祈りましたが、神様からの答えは、
「わ
たしの恵みは、あなたに⼗分である」でした。このことを教会や私たち
個⼈に当てはめると、
①教会の建物が⼤切であることは皆が知っています。⼈々は教会らしい
建物を⾒て、安⼼して教会を認めますが、私たちの教会堂のような所は、
当然の如く教会らしくないというイメージ、怪しい処だという思いをも
たらせます。積極的に教会に連れてくることも躊躇するかもしれません。
ですから、私たちは良い、教会堂としてふさわしい場所が与えられるこ
とを祈りますが、神様からの答えが「わたしの恵みは、あなたに⼗分で
ある。」つまり、今の場所での教会堂で⼗分だという答えになりますが、
そのような答えで、教会堂は⼤丈夫でしょうか。
②個⼈にも適⽤してみましょう。みすぼらしい家に、絶えない問題を抱
えながら⽣活をしていると⾔いましょう。クリスチャンであれば、神を
信じる者であれば、⽴派にはならなくても、⼈々がイエスを信じればあ
のような⼈のように幸せになれるという⾔葉を聞きたくありませんか。
ですから、「私が⾷べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と⾔わ
ないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのな
いために。」(箴⾔ 30:9)と祈ったりします。にもかかわらず神様の答えが
「そのような状態であってもわたしの恵みは、あなたに⼗分である」と⾔っ
たら、素直に受け⼊れられるでしょうか。どうか、私を苦しめる問題から解
放され、⾃由にしてください。病を、⼈間関係を、⾏動を制限させる様々な
ものから⾃由を得させてくださいと絶えず祈るのではないでしょうか。
●どうして、パウロは福⾳宣教に妨げることで祈っていた⾃分の病に対して、
神様から「わたしの恵みは、あなたに⼗分である」という⾔葉を聞き、「私
は、キリストの⼒が私をおおうために、むしろ⼤いに喜んで私の弱さを誇り
ましょう。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と⾔えたで
しょうか。それは「キリストの⼒が⾃分を覆うため」だと語っています。ま
た、こうも語っています。「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、
すなわち⼗字架につけられた⽅のほかは、何も知らないことに決⼼した」(第
1 コリント 2:2)
●イエス・キリストの⼗字架は、死はすべてを飲み込み、終わらせるような
ものだという思いを断ち切らせるものであり、寧ろ死ぬことこそが神の御⼼
を成し遂げることだという、その主の⼒と⼗字架以外は優先していなかった
からです。⼈々から認められ、意味ある⽣き⽅だと思わせる⽅向へ進むこと
が主の恵みだと思う私たちに、その反対の概念であっても、いやむしろその
反対の概念である、犠牲すること、損ずること、敗北者のように思もわれる
こと、ユダのようにイエスを売ることさえも、売られる者になることであっ
ても、神様が願われることに加わることであり、⼈類の救いという考えられ
ない恵みを受けたことになると、パウロは理解していたのです。この理解か
ら離れることがないように、パウロは、例え病で苦しくても神の恵みが⼗分
であり、寧ろ弱いことを誇ると⾔えたのです。私たちは、選択ということを
通して、より良いことを、⼈々に認められることを、より効果的で、成功で
きることを、認められることを、少しでも良くなっていくことを望むこと以
外には考えていません。しかし、それ以上のこともあるというのが聖書です。
●それは、主の命令に従うことです。マッテヤを選んだことはまさに主の命
令に従ったことなのです。彼によって初代教会がさらに発展し、それで⼈々
やこの世が認める何らかの神秘的で、素晴らしい結果を得るためではありま
せんでした。ただ主の命令に従い、教会ができる最善の道を選び、⼈を選ん
でことです。復活信仰、復活証⼈としての務めを果たすための主の命令に対
して従ったことに過ぎません。私たちは次の⾔葉を覚えています。「神を愛
する⼈々、すなわち、神のご計画に従って召された⼈々のためには、神がす
べてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と
いう⾔葉です。弱い存在であり、みすぼらしい姿であっても、更には失敗し、
負け⽝のように映る⼈⽣であっても、私たちは、⼈⽣はすべてを働かせて益
としてくださる過程なのです。この⼆つの⾔葉、「わたしの恵みは、あなた
に⼗分である」と「すべてのことを働かせて益としてくださる」⾔葉によっ
て、私たちはどんな⼈⽣であれ、最善を尽くし、主の命令に優先して従うこ
とを望むものになります。主の命令こそ真理なのです。聖書が教える⾃由は、
失敗や結果に縛られない神の働きにつながる真理に従うことで得られるも
のなのです。⾃分の思う通りになることで得られる⾃由ではなく、神の摂理
につながる真理に従うことがクリスチャンの⾃由なのです。
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