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⁄ 不満のタネが、ビジネスの 「シーズ」になる

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⁄ 不満のタネが、ビジネスの 「シーズ」になる
⁄
不満のタネが、
ビジネスの
「シーズ」になる
普通のサラリーマンになるのは、おもしろくない
ぴあ
(株)社長の矢内廣氏(元NBC副会長)は、いわば学生起業家のは
しりともいうべき存在だった。学生時代の仲間同士で、情報誌『ぴあ』を
創刊したのは、今から30年前のことだった。
起業に至るそもそものきかっけは、大学時代のアルバイト先、TBSで働
いていた、気心の知れたアルバイト仲間同士の会話からだった。当時、矢
内氏は大学3年生。他のアルバイト学生も同年代で、就職のことが話題に
なった。しかし、場の話の流れは、このまま卒業して普通のサラリーマン
になるのは、おもしろくないじゃないかという雰囲気になった。
「じゃあ、自分たちで仕事をつくれないのか」
誰かがそんなふうにいうと、そうだ、そうだとなった。まさに、学生の
ノリである。しかし、話は、その場限りではなかった。
それからしばらくして、矢内氏は、ふと思った。
「ちょっと待てよ。今の世って大人によってつくられているように見える
けど、大人が知らない、自分たち若者だけの世界があるんじゃないか」
その答えは、何だ? そう考え続けた矢内氏がたどり着いたのが、映画
や演劇、コンサートなどのエンターテインメント情報を集めた月刊誌『ぴ
あ』だった。
背景には、大学の映画研究会に属していた矢内氏の「不満のタネ」があ
った。
「映画はよく観ていましたが、お金がないものだから、ロードショー封切
館にはなかなか行けない。二番館、三番館に降りてくるのをひたすら待つ
わけです。でも当時は、夕刊の3行広告を見るか、『キネマ旬報』の巻末
の名画座情報などを見るしかないわけです。
しかし、すべての情報が網羅されているわけではないから、見逃すこと
もある。そういう意味では、つねづね不便さを感じていたんです」
その不満のタネが、事業のシーズ(種)にもなったのである。
好きな世界に入り込めば入り込むほど、好事家ならではの不満もある。
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好事家といっても、特異な世界ではない。「映画好き」という広いマーケ
ットをもつ世界である。
矢内氏の不満は、広いマーケットのニーズを吸い上げるシーズでもあっ
たのだ。
◎――苦労を苦労だなんて感じる暇はない
もちろん、事業として軌道に乗るまでには、大変な苦労もあった。一番
大きいのは流通だが、書店への配本や決済機能は、出版界では取次会社が
担っている。しかし新参の出版社はなかなか、取次と取引できない。書店
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に直接持ち込む販売形態でスタートせざるを得なかったのである。
しかも当初は、書店に掛け合っても、なかなかいい返事をもらえない。
その突破口が開けたのは、ある人物との出会いによるのだが、これについ
∞
てはのちほど詳しく紹介する。
「当時は無我夢中で、苦労を苦労だなんて感じている暇はなかった」
矢内氏はこう振り返るが、その後『ぴあ』は10万部という大部数雑誌に
§
成長し、取次会社のほうから「ウチを通せないか」といってきた。創刊後
4年が経っていた。それまでは、毎月、自社で取引書店に直接配送し、集
金を行っていたのである。取次会社との取引直前には、取引書店の数は
‡
1600店に達していたが、取次会社との取引を開始したとたん、一気に5000
店になったのである。しかも、配送作業も集金も、もう自社で行う必要は
ない。
「これでやっと、出版界で市民権を得た。これでやっとスタートラインに
°
立てたんだと思いました」
(矢内氏)
その後、創刊7年目の79年には、『ぴあ』は月刊から隔週刊へと切り替
わるが、ちょうどその頃、ぴあ
(株)にとって大きな転換点となる出来事
·
があった。当時の郵政省と電電公社が共同開発した、家庭のテレビに情報
を配信する「キャプテンシステム」への実験参加である。
「キャプテン」そのものは、結局は普及することなく、インターネットに
とって代わられることになるのだが、しかし矢内氏の心のなかでは、紙媒
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体である『ぴあ』という情報誌の先行きに、危機感がますます募っていた。
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「これからは、コンピュータと通信の技術がどんどん発達して新しいメデ
ィアが出てくるだろうと思いました。だとしたら、『ぴあ』という会社が
生き残っていくにはどうすればいいのかと……。そして、考えに考えた末
の結論が、『ぴあ』という会社は出版社ではない、情報伝達業であるべき
だ、ということだったのです」
出版事業から情報産業への戦略転換である。今後どんなメディアが出て
くるにせよ、基幹となる情報を押さえ、加工していくシステムを確立すれ
ば、メディアに合わせて二次利用、三次利用ができる。いわば「情報セン
ター」としての体質と機能を備えた会社にすべきだと、矢内氏は考えたの
である。
その情報センターとしての機能が結実した事業が、1984年からスタート
した、オンライン・チケット販売システム「チケットぴあ」である。雑誌
とチケット、一見異なる商品にも思えるが、もとをたどれば、同じ情報か
ら発したものだ。イベント情報に座席情報を加えればチケットになるのだ。
当時は、都内でもチケット販売をするプレイガイドは二十数箇所しかな
かった。しかも、新宿、渋谷、銀座といった地域に集中していた。買う側
にとっては大きな「不満のタネ」である。それがオンライン・チケット販
売で解消できるわけだ。
チケット販売事業は、現在では、ぴあ
(株)の全売上高約800億円(2002
年3月期)のうち8割を占めるまでに成長している。
矢内廣(やない・ひろし)● ぴあ(株)社長
1950年福島県いわき市生まれ。69年中央大学法学部入学。在学中の
72年にアルバイト仲間と月刊情報誌『ぴあ』を創刊。74年ぴあ(株)
を設立、代表取締役に就任。現在に至る。84年にはNTTとの共同開
発による日本で初めてのオンラインシステムのチケット販売のサー
ビス『チケットぴあ』を始める。現在、社団法人日本雑誌協会理事、
社団法人経済同友会・幹事等も務める
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問題意識が敏感な
アンテナをつくる
「時代の空気」を感じる力
自分自身がもつ「不満のタネ」は、新しいマーケットのニーズを嗅ぎ分
ける皮膚感覚のようなものかもしれない。起業家には欠かせない、本能的
なビジネス感覚といってもいいだろう。それは、時代の空気や流れを読む、
事業家としての問題意識にもつながる。
日本でのセルフスタイルカフェのパイオニア、(株)
ドトールコーヒーを
率いる鳥羽博道社長が、ひとつの「時代の空気」を感じたのは、創業を果
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たして10年が経とうとしていた頃である。
24歳という若さで、コーヒー豆の焙煎加工卸業として独立を果たし、事
業運営もようやく軌道に乗り始めていたが、一方で鳥羽氏は、焙煎業界・
∞
喫茶業界の先行きに不安も抱えていた。
「私が上京した年には、コーヒー1杯が30円だったんです。それがやがて
40円、50円となり、数年後には100円、また120円とどんどん値上がりして
§
いく。原材料費も上がるし、家賃も人件費も上がるから、コーヒー1杯の
値段を上げるのも当然のようなムードになっているけど、はたしてそれで
いいんだろうかと思った。お客様がはたして受け入れてくれるんだろうか
‡
と、このままでは喫茶業界はダメになるんじゃないかと、とても危機意識
が募っていました」(鳥羽氏)
当時の日本は、その後の日本列島改造ブームに象徴されるインフレ経済
突入の前夜ともいえる時代だった。そんなおり、鳥羽氏は、喫茶業界のヨ
°
ーロッパ視察旅行に参加することになった。そのとき目にした光景が、日
本でもやがて訪れるはずの「時代の空気」を感じさせたのである。
「パリの凱旋門が見えるあたりで目にしたカフェの光景でした。朝、地下
·
鉄からはきだされる人たちがコーヒーを飲みに立ち寄るんですが、カウン
ターの前で、みんな二重三重になって立ったまま飲んでいる。ところが、
席は空いているのです。そっちはガラガラなんです。どうしてだろうと、
よく見ると、立って飲むと50円、座って飲むと100円。さらに、シャンゼ
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リゼ通り沿いのテラスで飲むと150円と、価格が違うんですね。それがわ
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かったときに『これだ!』と思いました。日本でもやがて、立ち飲みコー
ヒーの時代が必ずやってくると直感したのです」
その直感が、事業家としてのアンテナ装置にすっと入ってきたのは、鳥
羽氏の心の装置に、「危機意識」があったからでもある。危機意識や、日
頃から持ち続けている問題意識は、アンテナの感度を増幅する。
業界人が参加する視察ツアーとはいえ、なかには観光気分の人もいる。
同じ光景を見たときの感度にも当然、差があったに違いない。鳥羽氏は、
そのときの視察ツアーで、ドイツやスイスなどでも、ドトールコーヒーの
経営理念や経営戦略の原点ともなる風景を目の当たりにする。
ひ
たとえばドイツでは、コーヒースタンドの店先でコーヒー豆の挽き売り
までしていることに衝撃を受けた。当時の日本ではまだ、そんなスタイル
はなかった。日本のお茶屋さんの、いわば「洋茶版」である。その風景を
見て、日本でもやがて、こんなかたちでレギュラーコーヒーを家庭で楽し
む時代がくるはずだと思った。
さらにスイスでは、清潔で近代的な焙煎工場の姿を目の当たりにして、
これこそが「社員が行きたくなる工場」のあり方だと実感した。
◎――10年間温めていた「確信」がついに花開いた
このヨーロッパの視察旅行は、ドトールコーヒーの将来にとって、大き
な飛躍への原点ともいえるものになった。それまでの日本にはなかった、
セルフサービス方式のコーヒーショップ。小粋なムードの店内で、1杯の
コーヒーを飲みながら、やすらぎと活力が得られる――そんなコーヒーシ
ョップ・チェーンのコンセプトが鳥羽氏の頭のなかに「確信」として芽生
えたのである。
1971年の視察旅行の翌年、鳥羽氏は、まず、コーヒー専門店「カフェ
コロラド」をオープンさせ、チェーン展開を図っていくことになる。
かつて「歌声喫茶」とか「美人喫茶」などといわれ、コーヒーは添え物
にしかすぎなかった喫茶店のイメージを払拭し、コーヒーそのものを主役
にした店づくりを徹底することにした。「明るく健康的で老若男女ともに
親しめる店」というのがコンセプトである。店内では、レギュラーコーヒ
28
ーの挽き売りもやることにした。
「明るく健康的で老若男女ともに親しめる店」というコンセプトは、それ
まで喫茶店を利用しなかった客層にも浸透し、チェーン展開も順調に進ん
だ。それまでの喫茶店では、6回転すれば成功といわれていたのだが、
「コロラド」では多いところでは12回転というのが常識になった。第1号
店オープンから10年間で280店舗という急成長を遂げたのである。
そして80年には、日本で初めてのヨーロッパスタイルの喫茶店「ドトー
ルコーヒーショップ」を東京・原宿に出店させた。10年前の視察旅行で
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「やがて日本にも……」と確信した、セルフスタイルのコーヒーショップ
である。
スタ−ト当時のコーヒー1杯の価格は150円。その革新的な価格と、フ
∞
ルサービスの喫茶店にも負けない味と小粋な店舗スタイルは、「喫茶業に
革命を起こした」とも評された。「1杯のおいしいコーヒーを通じて、
人々にやすらぎと活力を届けたい」という、鳥羽氏の喫茶業の理想スタイ
§
ルが実現したのである。
‡
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鳥羽博道(とりば・ひろみち)●(株)
ドトールコーヒー社長
1937年埼玉県深谷市生まれ。16歳で上京し、コーヒー豆の焙煎加
工・卸の会社に勤める。20歳のときにブラジルへ単身渡航し、コー
ヒー農園などで修行を積む。帰国後、翌62年、コーヒー豆の焙煎加
工卸業の(有)
ドトールコーヒー設立。72年に「カフェ コロラド」の
チェーン展開を開始。80年「ドトールコーヒーショップ」を出店。
その後「オリーブの木」、「エクシオール・カフェ」、そして「マウカ
メドウズ」と新業態を次々に展開。2000年11月、東証1部に上場を
果たす。
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人がやらないことをやる。
「逆転の発想」こそが戦略
「円高に強いビジネス」であることが大前提
「時代への嗅覚」は、起業家には欠かせない“本能”といっていい。しか
し、その本能を、ビジネスという現実世界で結実させるためには、事業家
としての戦略も必要になる。ことに、経営資源が心もとないスタートアッ
プ期においては、自分の弱点を強みに変える「逆転の発想」が、飛躍のジ
ャンピングボードになる場合もある。
TRF、globe、安室奈美恵、MAX、Every Little Thing、浜崎あゆみと、
世に人気アーティストを送り出してきたエイベックス
(株)。その会長兼社
長として同社グループを率いる依田á氏は初期の同社を、「業界の常識は
エイベックスの非常識」という言葉で表現する。
その「非常識」の出発点は、ひとつの出会いから始まった。
音響メーカー・山水電気で、45歳のときに取締役に就任し、アメリカや
ドイツの現地法人の社長も兼任していた依田氏は、1988年に同社を退社し、
まず、輸出入業務などのコンサルティング会社を設立する。その起業した
数カ月後に会ったのが、現在、エイベックス
(株)の専務を務める松浦
ま さ と
真在人氏ら、同社の若い創業メンバーたちである。
当時、彼らは、東京・町田市にエイベックスを設立したばかりだった。
松浦氏はまだ23歳。依田氏とは24歳も年が離れていた。
「当時の言葉でいうと、私にとっては『新人類』。異次元の世界に住んで
いるような若者たちでした。風貌、容貌、立ち居振る舞い、山水の役員を
やっていたときの目から見ると、これぞまさしく新人類なんだと」(依田
氏)
しかし、その新人類の口から出る言葉に、依田氏は奮い立った。
彼らは、海外から音楽ソフトの輸入をしたいと考えていた。しかも、当
時のレコード会社が撤退を始めていたユーロビート。しかし松浦氏は「こ
れは将来、絶対に日本に残る」と確信していた。依田氏が一つひとつ、紐
解くように理由を聞いていくと、松浦氏は理路整然と説明する。親子ほど
年齢の違う若者の言葉が、依田氏の心にストンと落ちたのだ。
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海外ビジネスの現場にいて、円高による打撃を肌で感じていた依田氏は、
これからビジネスを新たに始めるなら、ひとつは「円高に強いビジネス」
であることが大前提だと考えていた。それに、
「若者文化」
「ソフトウエア」
というキーワードも念頭にあった。
そして、何よりも「逆転の発想」である。業界が手を引き始めたマーケ
ットだからこそ、ニッチ・ビジネスの可能性がある。即座に、依田氏は松
浦氏と一緒にやっていこうと決断したのである。松浦氏の音楽感性と、海
外にも広い人脈をもつ依田氏のビジネスキャリアが“合体”したのである。
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◎――誰もやらなければ、自分たちでやる
89年、一部の超大物を除くと「洋楽は売れない」という業界の常識を打
ち破って、まったく新しいスタイルのCDを企画。ユーロビートの人気楽
∞
曲だけを選りすぐって編集した「スーパー・ユーロビート」シリーズがマ
ーケットで熱狂的な支持を得た。ニッチ・ビジネスが力強いスタートを切
ったのだ。
§
90年には念願の自社レーベル「エイベックス・トラックス」を設立した
が、常識にとらわれない依田氏の発想は、マーケティング戦略にもいかん
なく発揮された。あの深夜帯に流れたテレビコマーシャルだ。当事のエイ
‡
ベックスにとっては、ブランドイメージの確立は不可欠と依田氏は考えた
のだ。
「音楽は、もともと会社の『ブランド』よりもアーティスト自身の名前で
売れていくというのが、業界の常識でした。しかしその頃のエイベックス
°
には、ユーロビートという曲のコンピレーション(あるテーマに合わせて
楽曲を集めたもの)があるだけで、有名アーティストがいなかった。コン
ピレーションというよくわからないものを売るよりは、『エイベックス』
·
というブランドを売り込もうと考えたわけです。当時、深夜帯にはテレビ
CMなんかやっていませんでした。しかしわれわれは、そこにそれこそ常
識では考えられないほど投資をしました」
深夜に流れるCMの最後に現れる「エイベックス・トラックス」のロゴ
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と音声は、またたくまに若者たちの記憶中枢に広がっていった。
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有名アーティストがまだいなかったというのは、「弱み」には違いなか
った。しかし、その弱みを逆手にとったマーケティング戦略が、ものの見
事に「市場」をつかんだのである。
今でこそダンス・ミュージックは当たり前のように音楽ジャンルの一角
をなしているが、エイベックス草創期の頃は、いわばアンダー・グラウン
ドな存在だった。しかし、ユーザーとして「自分たちの耳」を信じて、そ
のダンス・ミュージックの魅力に賭けた。
「誰もやらないなら、自分たちでやればいい。まだマイナーでも、海外に
はこんな素晴らしいダンス・ミュージックがあるじゃないか」
この常識を打ち破る独自の発想と戦略がエイベックスの原動力となった
と考えていいだろう。「誰もやらなければ、自分たちでやる」という創業
時の発想は、現在の同社の経営理念「特異性ある創造と貢献」という言葉
に受け継がれている。
今、エイベックスはアジア各国を中心に世界市場への事業展開も着々と
進めている。その事業拡大戦略のなかで、依田氏がつねづね口にしている
のは、「エイベックスに求められるのは、業界のナンバー・ワンになるこ
とではなく、あくまでもエイベックスらしい『オンリー・ワン』であり続
けることだ」という言葉だ。
(よだ・たつみ)● エイベックス(株)会長兼社長
1940年長野県生まれ。明治大学卒業後、医療機器メーカーを経て、
69年山水電気(株)に入社。米国現地法人を経て86年、同社取締役に
就任。米国やドイツの現地法人社長も兼務。88年、同社取締役を退
任し、(株)
トーマス・ヨダ・リミテッドを設立。同年エイベック
ス・ディー・ディー(株)〈現エイベックス(株)〉の顧問に就任後、
92年に会長に就任。95年からは会長兼社長に。現在、(財)音楽産
業・文化振興財団理事長。
(社)日本レコード協会副会長も務める。
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「株式公開」より優先した、
事業家としての「志」
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映画好きの学生たちに、恩返しのようなことをしたい
ここまでに紹介した3人の経営者の起業家精神とは、何だったのか?
間違いなくいえるのは、3人が3人なりの、起業家としての夢と志があっ
たことだ。
ぴあ(株)社長の矢内廣氏は、こんな媒体があれば、世の中の若者もき
っと便利に思うに違いないと確信して、『ぴあ』を創刊した。当時はまだ、
「情報誌」という言葉さえなかった。矢内氏はこう振り返る。
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「事業家になろうという意識がそんなに強かったわけじゃない。ただ、生
き方として、自分の納得のいく生き方をしたかった。結果、それが今に至
っているだけなのです」
∞
ぴあは2002年1月に東証2部に上場を果たしているが、じつは株式公開
の話は、以前にも証券会社からもち込まれていた。それも約20年も前の話
である。しかし、そのときは、矢内氏は断っている。
§
当時、ぴあは「チケットぴあ」をオンライン・システムで立ち上げよう
としていた。何社かの証券会社の担当者が「こういうときこそ、株式公開
をして市場からお金を集めるべきだ」としきりに勧めた。
‡
そのとき矢内氏は各社の担当者に「公開しても『ぴあフィルムフェステ
ィバル』は続けられるのか?」と質問をしたのである。「ぴあフィルムフ
ェスティバル」とは、映画作家や映画監督をめざす若者に発表の場を提供
しようと、ぴあ設立3年目から続けていたイベントである。
°
矢内氏自身も学生時代は映画研究会に属していた。『ぴあ』の創刊準備
に追われて、自主制作映画の制作にタッチしたくてもできなかった、とい
う悔いが残っていた。そして何より、情報誌『ぴあ』を支えてきてくれた
·
映画好きの学生たちに、恩返しのようなことをしたいと思って始めたイベ
ントでもあった。
その「ぴあフェスティバル」の開催は、矢内氏にとっては、ビジネスの
ラチ外。あくまで社会還元のようなものである。ゆえに一つひとつの事業
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内容が問われる株式公開にあたっては、続けられるかどうかが矢内氏には
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