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Adbee PDF Document - カトリック研究講座・夏期神学講座 講義録

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Adbee PDF Document - カトリック研究講座・夏期神学講座 講義録
カトリック研究講座・遠藤周作における人生観
サクラファミリア・2011 年 7 月 12 日・19 日・26 日
③
概略
遠藤周作のフィクションにおけるキリスト論
・イタリアの美学者・哲学者 Luigi Pareyson(1918-1991):悪を克服するための苦しみの力は、
神もまた苦しむという事実。
・神と人間の間の相互の苦しみ。このキリストは、
『沈黙』、
『死海のほとり』、
『イエスの生涯』、
『侍』、『深い河』にはっきりと描かれ、まだ萌芽の段階では、『おバカさん』のガストン、
『わたしが・棄てた・女』のミツにも描かれている。
・『沈黙』の殉教者たちの死は超越者と強くつながっていると考えていた。
・ロドリゴは、彼らの死の意味を、後に、キリストの苦しむ者の同伴者という新しいイメージ
を得た後に理解する。
・Pareyson:「神の力を示すドラマとして、キリストは悪と苦しみに思いをめぐらすときの唯一
の基盤である」1。
・普通の人間は「つまずかせるもの」あるいは「おろかなもの」(コリント一 1 章 23 節)と考
えるような神の苦しみのパラドクスである。
自分を愛してくれる者のために死ぬのは容易しい。しかし自分を愛してもくれず、自分を誤解している者の
ために身を捧げるのは辛い行為だった。英雄的な華々しい死に方をするのは容易しい。しかし誤解のなかで
人々から嘲られ、唾はきかけられながら死ぬのは最も辛い行為である。やがて自分におとずれる死はこのも
っとも辛い行為[…]のなかで死んでいくことであり、犬の死よりもさらにみじめで醜悪な形をとることを
イエスはこの時、知っていられたからである。
(遠藤周作『イエスの生涯』ESBZ 11、163 頁)
・「自らを守る君主」、霊的で、不可視で、始まりをもたず、永遠に生き苦痛をもたないという
もの。
・福音書が述べている苦しむキリストのイメージとはまったく異なっている。また、遠藤周作
が描くキリストのイメージとも異なっている。
5.1 神の痛み
・神義論の問題の解決策として神の痛みを考える。
・神が苦しむことがありうることを擁護する根拠のひとつは神の本性である愛である。
・Jürgen Moltmann:苦しむことのできない神は愛することもできない。この苦しむ人間とともに
苦しむ神は、遠藤周作の作品に繰り返しあらわれる。同伴者。
・Alfred North Whitehead:「偉大な同伴者、苦しみをわかってくれてともに苦しむ者」
・神の苦しみの能力についての議論は現在でも活発である。
・Moltmann の三位一体の十字架の神学(trinitarische Kreuzestheologie)。
・S lle:神が力として、主(あるじ)として、王として、裁判官としてイメージされていると
ころでは、イエス・キリストの苦痛は、より大きな善のための一時的な悪としてのみあらわれ
る。
・日本の神学者北森嘉蔵の『神の痛みの神学』(1946)の影響。
・社会における痛みの問題を避けたり、日常生活の現実から離れた宗教的な面だけに逃れたり
するならば、我々は苦しみの問題を解決することはできない。
1
«Come dramma della divinità, il Cristo è l’unica base possibile per una meditazione sul male e sulla sofferenza». L. Pareyson, Ontologia
della libertà (
『自由の存在論』
), 201 頁。
カトリック研究講座・遠藤周作における人生観
サクラファミリア・2011 年 7 月 12 日・19 日・26 日
③
概略
・(『マタイによる福音書』25 章 31-46 節):思いやりを実行し、キリストのように他人の欲する
ところに注意を向けること。
・Nicholas Lash:エマウスに向かう弟子たちのエピソード:人間らしい思いやりに基づく行動の
うちに姿をあらわす。
・『わたしが・棄てた・女』のはじめの吉岡の考え。
・「消すことのできぬ痕跡」
・この世の苦しみのために働くことは神の苦しみに仕えることなのである。
5.2 イエスの苦しみ
・『イエスの生涯』では、イエスは罪なくして苦しむ者として描かれている。
・彼は、すべての人々への責任を引き受けるただ一人の人である。
・彼はすべての人の悲しみが肩の重荷となりはじめる。
湖畔村々は小さく、みじめだったが、イエスにとってはそれは世界のすべてだったのである。彼はこの世界
のすべての人間の哀しみがひとつひとつ、自分の肩にのしかかってくるのを感じられた。やがて彼がいつか
背負わねばならなかった十字架のように、それらはずっしりと重く彼の肩にかかってきた。(遠藤周作『イエス
の生涯』ESBZ 11、110 頁)
・そのようなイエスの苦しみは、耐え難い孤独という人間の特質も含む。
・誤解されているさびしさ。
・『死海のほとり』のアンドレアのように、多くの者がイエスに石をなげうつだろうこともわか
っていた。
・『死海のほとり』の昔と今の同時性。
・戸田は、聖書を、あたかも考古学者であるかのように研究し、信仰を見失っていた。これは、
聖書が内容のない形式的文章、現在につながらない福音になってしまっているということで
ある。
・Dorothee S lle:罪の無い犠牲者の苦痛は正当化されえない。
・Friedlich Nietzsche(ニーチェ、1844-1900)):キリスト教の神の死を宣言。
・正当化できない苦しみを前にして、どのように望みをつなぐことができるのか?
・Elie Wiesel の La Nuit(『夜』):「今神はどこにいるのだ?」神はそこに、絞首台に吊るされて
いると。遠藤周作が展開した苦しむ者とともに苦しむ同伴者。
・正当化ではない答えであり、ひとつの謎にもっと力強い謎で答える。
・人間の悲劇が神の悲劇となり、普遍的な意味を持つようになる。
・イタリア哲学者 Claudio Ciancio:神の苦しみが神を擁護する唯一の根拠だ。
5.3 苦しみと救い
・自由な個人がキリストの苦しみに与る(フィリピの信徒への手紙 3 章 10 節; ペトロの手紙一
4 章 13 節)ことは、回心へのきっかけをあたえる。
・他者への感情移入は、他者の苦しみが自己の苦しみの鏡であるからではなく、まさに他者の
苦しみであるとみな。
・他者の苦しみを正当化しようとするのは、神義論がたどってきた道だ。
・キリストは、二つの意味で我々の身代わりとなる。
2
カトリック研究講座・遠藤周作における人生観
サクラファミリア・2011 年 7 月 12 日・19 日・26 日
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概略
①彼は苦しみにおいて身代わりとなり、
②また、悪への責任という意味でも身代わりとなる。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって
神の義を得ることができたのです」
(
『コリントの信徒への手紙二』5 章 21 節)。
・無垢の者が苦しむのはどういうことだろうか?
・贖罪の苦しみ。贖罪の苦しみは身代わりの苦しみである。
・遠藤周作は、動物、特に鳥や犬によって果たされる身代わりをとりあげている。このような動
物はイエスをあらわしている。鳥や犬の目は重要な意味をもっており、その目は作者の母や
踏み絵に彫られたキリストの目にほかならない。
5.4 さまざまな神のモデル
・異なったさまざまな神のモデル。
・Sallie McFague:友情のモデル。
・McFague:この友としての神のモデルは、我々を助け我々の失敗を赦す神によってなされる愛
のための犠牲の展望をもたらす。
・それは、伝統的なものとは異なった救いの見方をもたらす。
・S lle:神は我々のほかには手をもっていない。
・McFague が述べているように、このモデルは他のさまざまなモデルによってバランスをとら
れなければならない。
・それぞれのモデルは神の全体像の一部分をとらえているにすぎない。
・この、人間と共に歩む友としての神のモデルは、遠藤周作がとらえたイエスの同伴者として
の特徴に非常によく似ている。
・遠藤周作はのキリストは大津のキリストである。
大事なのは宗教の形ではなく、イエスの愛を他の人間のなかで発見した時だ。イエスはヒンズーのなかにも
仏教信者のなかにも無神論者のなかにもいる。(遠藤周作『「深い河」創作日記』ESBZ 15、301 頁(26/1/1991)
・これは、小説『侍』で棄教したテカリの修道士が言ったことと同じである。
・自分だけのイエスは信じており、このイエスは、もっとも悲惨な男や女とともに生きるイエ
スである。
パードレさまたちがどうであろうと、私は私のイエスを信じております。そのイエスはあの金殿玉楼のよう
な教会におられるのではなく、このみじめなインディオのなかに生きておられる―そう思うでおります。
(遠藤周作『侍』ESBZ 3、305 頁)
・テカリの棄教した修道士の「私のイエス」
:何よりも直感的に感情で受けとめられたもの、
見捨てられた惨めな人々の生活の中にはっきりと存在するもの。
・真のキリスト教徒が従うべき、力弱いキリストである。これは、隠れキリシタンと彼らの棄
教したことへの罪悪感を体現している『沈黙』のキチジローのような弱く臆病)な者たちへ
教えたいキリストである。
・厳格な父ではなく暖かい心の母性的な神。すでに見てきたように、この母性的な側面が、
遠藤周作のイエスのイメージのひとつの特徴である。
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カトリック研究講座・遠藤周作における人生観
サクラファミリア・2011 年 7 月 12 日・19 日・26 日
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概略
5.5 イエス・キリストのイメージ
・ロドリゴは、非現実的な理想化されたキリストのイメージを持ち続ける。
・そのイメージはだんだんに壊れ始める。
・犠牲者の無力で弱い同伴者、息子を抱き息子の罪を赦す母のよう。
・『おバカさん』と『わたしが・棄てた・女』にはじまり、『沈黙』でよりはっきりした形をと
り、『深い河』で完成する。そのイメージの主な特徴は以下のように三つある。
①イエスは、弱く無力である。
②イエスは母性的な憐れみをもって赦す。
③イエスは、人間の生涯を通しての同伴者である。
5.5.1 弱さと無力さ
・「自らの汗と血にまみれて、やせた肩に十字架を背負ってゴルゴタの処刑場に歩くことしかさ
れなかった」とき、イエスは、無力であることをはっきりと示していた。
・イエスの弱さのあらわれは、遠藤周作の文学作品からの引用に出てくる。
・彼の肉体的・精神的な姿:背が低く手足が小さく醜くみすぼらしい。おそれにおののき震えて
いる。
・彼は、『おバカさん』で「美しく生きようとする」ために勇敢に戦い続けるガストンの特徴と
同じ。
・
「愛というものは地上的な意味では無力、無能だからである」
(遠藤周作『イエスの生涯』、180
頁。
・マクシミリアン・コルベ(1894-1941)の例:知らない人のためにみずからを犠牲にしたので
ある。
・イエス:自分を誤解し裏切り見捨てた人のために命を差し出すこと。これが、我々が弱さの強
さ。
a) 弱さの強さ
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。」(
『コリント二』1 章 25 節)
・弱さは力強い効果を持つ。
・Dietrich Bohnhoeffer(ディートリッヒ・ボンヘッファー、1906-1945):は、聖書の神がその弱
さ(Ohnmacht)ゆえに力とその働く領域(Macht und Raum)を大きくしている。
・聖パウロは、その手紙にこの弱さの強さについて書いている。
・『沈黙』では、強さに対する弱さを代表するのは棄教者キチジローである。
・Van Gessel(ヴァン・ゲッセル)
:ロドリゴとキチジローは融合し、「互いの弱さの悩みを共有
する」。
・弱者と強者の違いは、ロドリゴの回想に描かれている。
人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そし
て強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこ
のキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がな
ければ私もまたキチジローと同じように踏絵を踏むだかもしれぬ。(遠藤周作『沈黙』ESBZ 2、241-242 頁)
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カトリック研究講座・遠藤周作における人生観
サクラファミリア・2011 年 7 月 12 日・19 日・26 日
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概略
5.5.2 母性的キリスト
・父としての神のモデルは、内在性と超越性の間のこえられないギャップを意味している。
・Sallie McFague:父なる神のモデルの誤解の結果であり、「この世のあらゆる階層秩序には反
対するキリスト教の根本の喩えとは完全に違っている。」
・遠藤周作が母性的なイメージを作り上げた理由は三つある。
①弱虫・意気地なしと深い関係を持って赦す母の存在。
②母は、マリアのとりなしの意味で低い人間性を高いものに変える。
③同伴者という母性的な性質。
・遠藤周作の考え方は、フェミニスト神学を擁護しているわけではない。
・日本人の心の弦に調和するキリストの概念を考え出す。
・人間のひ弱さを受け入れる母性的で赦しをあたえるキリストのイメージ。
・『イエスの生涯』において、人々は、同伴者を、彼らの惨めな苦しみをともにし、ともに泣い
てくれる母を求めていた。
・母を失った子供が、母の死の後も母がいつもそばにいて母を感ずる。
・この母性的なイメージは、『深い河』では、混淆主義的な特徴が出ている。
・女神チャームンダーが大津とイエスに謎えられている。
・神は、哀れみ深いイエスの母性的なイメージであらわれるが、そのイメージは、全面的な依存
をふくむ。
・力のないイエスが栄光あるキリストに転換する秘密は、醜い領域と神聖な領域の接触にある。
この醜い領域とは、福音書に描かれているイエスを裏切ったための弟子たちの罪や恥や良心
のとがめである。
・イエスの絶対的な人間性と人間のひ弱さという条件への同情ある全面的なかかわりによって、
神との対話が真実のものとなります。
a)あわれみ
・Oliver Davies:憐れみは他者を「我々の世界の外にいるものとして、我々の考える他者をさえ
こえるものとして」認識する。
・イエスの超越性と神性を保つ。
・我々は完全に他者をあわれむことができるのか?どのように?
・コルベのようなケースによる神の存在と働きへの注意の喚起。
・Davies:イエス・キリストのうちに実現された神のあわれみは「人間性そのものとこの世の構
成の中心で働いている神の創造性をも意味している」と。
・聖人は、命を否定し破壊する恐怖に根底から抵抗する、「善のうちの善による悪の救済の再
現」という意味で哀れみの力を示している。
・根本からの哀れみ:
『おバカさん』のガストン、『わたしが・棄てた・女』のミツ、『深い河』
の大津。これらのすべての人物は、キリストとその神性放棄の象徴である。ガストンは犯罪
者遠藤を守り、ミツは愛と赦しにより吉岡の人生を変える。大津は、死んでいく者を背負っ
てその流れがすべての罪から魂を清めるガンジス河に運ぶ。
5.5.3 同伴者
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カトリック研究講座・遠藤周作における人生観
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概略
彼は、我々の痛みの同伴者となり、我々の生きる努力と苦しみをともにし、愛の涙を流した。(Bruno Forte,
Trinità per atei(
『無神論者へのの三位一体』
)
・神学者 Ruth Page:現代において神の超越性を理解するには、神と人間の垂直的な関係を水平
的な関係に変える必要があり、
「人間とともに旅し経験をともにする」神。Sallie McFague の友
人としての神のモデルに反映している。1982 年。
・遠藤周作はすでに何年も前から力弱く、母性的な同伴者という神のモデルを導入していた。
・『侍』では、侍長谷倉の回心の過程ではもっと神秘的な領域に入る。
・侍長谷倉:「なぜこの痩せこけ、両手を釘づけにされた男にむきになるのか」理解できない。
→ 遠藤周作がイエスとの出会いをよく理解できない子供時代に洗礼を受けたということと関係
がある。
・『侍』は一種の私小説であり、遠藤の精神の旅路を描いている。
・洗礼の秘蹟は取り消せない(元に戻せない)という神学上の問題。
・『私が・棄てた・女』:苦しむ人間の同伴者としてのイエス、苦しみの連帯:
人間が苦しんでいる時に、主もまた、同じ苦痛をわかちあってくれているというのが、私たちの信仰でござ
います。どんな苦しみも、あの孤独の絶望にまさるものはございません。自分一人だけが苦しんでいるとい
う気持ちほど、希望のないものはございません。しかし、人間はたとえ砂漠の中で一人ぽっちの時でも、一
人だけで苦しんでいるのではないのです。私たちの苦しみは、必ず他の人々の苦しみにつながっている筈で
す。(遠藤周作『わたしが・棄てた・女』
、ESBZ 5、332 頁)
・エマオの物語が描くように、イエスは我々の人生の旅路の同伴者である。
・Nicholas Lash:同伴者のキリストの信徒として必要な行動は、日常生活での思いやりと密接に
つながっている。
・イエスと重なったイメージでの同伴者。比喩的に鳥や犬の目。
・『おバカさん』の犯罪者遠藤の同伴者ガストン、『深い河』での死に行く塚田のベッドにつき
そうボランティア、『侍』の長谷倉の忠実な従者与蔵でもありうる。
・『おバカさん』(1959)から『イエスの生涯』
(1973)まで 14 年間。『深い河』(1993)で大津
のイエスのイメージ。イエスは、人間の弱さの泥沼に入り込むための弱く力ないもの、母親
のように我々を守り、赦し、支える情け深いもの、我々の人生の旅路につきそうものという
イメージにつきつめて行ったのである。このキリストのイメージは、彼が同朋の日本人のた
めにつくりだしたものである。彼らのためだけだろうか?私はそうは思わない。彼のキリス
トは、現代の愛とあわれみと救いに飢えているすべての人のためにいると思う。彼のキリス
トは、キリストの存在を否定する棄教者の救いのためにも存在する。しかし、ロドリゴは、
本当に棄教して、本当のキリストを捨て去ったのか?
6. 結論
・遠藤周作は、彼の血管を流れる日本の汎神論的な血ゆえに、何回もカトリックを棄てようと
考えた。
・「洋服」を日本人としての自分の身体に合わせなければならなかった。
・彼の小説に見られる葛藤を含むテーマは、裏切り、悪、罪、キリストのイメージに引き寄せ
られている。
6
カトリック研究講座・遠藤周作における人生観
サクラファミリア・2011 年 7 月 12 日・19 日・26 日
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概略
・自分の中のふたつの世界の調和に導く道を歩き続けなければならなかった。
・『沈黙』と『侍』で、日本人に適合するイエス・キリストの新しいイメージ。
・ときには彼の問題の提示の仕方が正統的なキリスト教神学とは違っていた。
・彼の、無力さ、母性的憐れみ、人生の同伴者という 3 つの特徴をもったキリストのイメージ
の提案は影響力をもち、新しい地平への道を開く。
・日本に限らずヨーロッパでも、現代の精神性を求める人々にこたえるためには、神聖性をあ
らわす他の違ったかたちを見つける必要があるのではないかと思う。こうした精神性を求め
る人々は、無神論者でもありうるし、芸術家、小説家、他の宗教の信者、キリスト教に失望
したキリスト教徒でもありうる。
以上
Adelino Ascenso
アシェンソ・アデリノ
7
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