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正義と境を接するもの―責任という原理とケアの倫理

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正義と境を接するもの―責任という原理とケアの倫理
評
来の、特に米国流の生命倫理学がいわば世俗的
ガーやデリダへの言及が在るからでもない。従
「嘉みすることができる」と答える思想である」
原 理 と ケ ア の 倫 理 は こ れ に 応 え て …… 端 的 に
はり嘉みするべきことなのかもしれない。責任
なる将来が待ち受けていようとも、それでもや
語られていくように了解されなくもない。
( ) と、 言 っ て み れ ば ―
三九頁の記述にも拘
iv
わらず 〝
―深い〟レヴェルで〝希望の原理〟が
よ
たとえば
―
な浅いものだとして、それに対して
欧州の議論を対置するかたちで 伝
―統的哲学と
リンクさせた議論が対置される場合も在る。表
面的に見れば本書もそうしたものの一つであ
り、そういうものとして〝深い〟ものだと了解
る の は、 そ れ が「 対 称 的 な 」 人 間 関 係 に 定 位
の倫理」として「近代的倫理」に対置されてい
書
品川哲彦著
『正義と境を接するもの ―
責任とい
』
―
う原理とケアの倫理
(ナカニシヤ出版、二○○七年)
しかしながら、(特に最終章を)読み進んで
氏 は「 は し が き 」 で 確 か に、
「近代以降の倫
す る も の で あ る の に 対 し て、
「非対称的な」人
いくと分かることなのだが、
「責任原理」
「ケア
理理論」に対して「ケアの倫理」とヨナスの責
型である ―
への定位である。それは、(上述の
ように〝浅い〟ものだとも了解可能な)英米系
異なる。
されるかもしれないが、評者の印象はそれとは
本 書 は 出 版 直 後 に 入 手 済 み で あ っ た が、 実
の倫理学内部で、しかも応用倫理学とは独立し
恵
は、目次を一読しただけで今回書評依頼が在る
任倫理(
「責任原理」
)を対置している( )
。後
ii
者に一方的に肩入れするわけではないと断りつ
たところで(も)重要な論点となっているとこ
安 彦 一
まで書棚に放置してあった。
「ケア」の文字を
したのか、それらはいかなる思想か、それらに
スが責任原理を、ギリガンがケアの倫理を提言
ろである。評者が「一般倫理学」と言ったのは
「
iii が そ の 典
― 乳 飲 み 子 へ の 配 慮 」( )
目にして単に生命倫理学関係の本であろうと
対する反論はどのようなものか、その反論にも
在するかたちで、それを一歩進めようとしてい
ではなく、まさしくこの一般倫理学的議論に内
0
義版、あるいはより適切には限定版(力の同等
配的)正義」の倫理である。そのいわば楽天主
関係に定位する「 近代的倫理」の基本は「(分
氏の言を待つまでもなく、
「対称的な」人間
0
158
間関係
思って、 ―
品川氏には信頼を置いていたので ―
必要なときに生命倫理学事典代わりに〝利用〟
かかわらずそれらの[近代的倫理に対する]異
つ も、 こ の 対 照 関 係 に 定 位 し て、
「 な ぜ、 ヨ ナ
しようと考えていたのだが 特
―にヨナスやギリ
ガン、ノディングスをめぐる諸議論を知りたい
ようとした歩みを記したものにほかならない」
問題性を伝統哲学的に超えようとしているから
( )
引用文中の
[ ]内は、評者の加筆である
iii ―
ると見てのことである。
その故である。また、
「本格的」と述べたのは、
と 自 ら 本 書 を 位 置 づ け て お ら れ る。 そ し て 、
―
この「異議申し立て」に即して、 文
―脈上そう
「自己破滅の可能性」
了解可能なのだが 近代が
―
( )
「新たな
ivを内包していることを説きつつ、
人間が生まれ、人類が続くということは、いか
0
0
よ う な 点 か、 に つ い て、 私 な り に 明 ら か に し
0
議申し立てに意義があるとすれば、それはどの
0
すび(第一二章)」を読んでみて、これが誤解
0
ときは、そのようにも使える 、締切りが意識
―
されてきて改めて繙いて、まず
「はしがき」
と
「む
0
であったことがすぐ分かった。議論の〝材料〟
は応用倫理であるとは言っていいが、むしろ一
般倫理学の書であると思われた。しかも、本格
からではない。また、
〝思想家〟としてハイデ
は、
「存在論」や「形而上学」が語られている
この点から述べたほうがいいと思うが、それ
的な。
0
品川哲彦著『正義と境を接するもの―責任という原理とケアの倫理―』
0
0
・ゴーティエ)
な 者 の 間 の 関 係(
「対称的な」関係)に限定し
て倫理を語るもの)(たとえば
0
イ ツ の 議 論 文 脈 に 即 し て、
「近代的倫理」をい
)の
で も「[ 現 実 的 ] 正 義 を 超 え た も の 」( 271
存在が無視されていない。氏は最終章では、ド
るものとして処理できるかぎりはなじみの隣人
理の中に内部化されるか、あるいは、両立しう
部にあり、一方、その提唱する規範が正義の倫
とケアの倫理は、その異質性の点では正義の外
もうとする。一般倫理学としては、氏の議論の
議」として直裁に「責任原理・ケアの倫理」を
いる( 272
)
。しかしながら氏は、そこでこの「異
議共同体の外部からの異議」として措定されて
は「正義と境を接するもの」と呼んできたわけ
向にある。両者のこの微妙な位置づけを、本書
[
「慈悲や思いやり」
]のようにあつかわれる傾
なっているのであるが、
「 こ う し て、 責 任 原 理
それに対しては、「正義を超えたもの」は「討
わゆる「討議倫理学」として問題としてもいる。
論理的出発点はこの確認に在る( cf., 268
)
。
し か し、 そ れ だ け で あ る な ら ば、 通 俗 的 な、
)とも語られるのである。
である」( 279
ちで「非対称性」をもその倫理の内部に取り込
されるべき存在者」として前提するというかた
に対して、カントやロールズは、人間を「尊重
D
説くわけではない。主としてホネットとハーバ
0
れる ( 277
)
。
を確認する。特に後者の「連帯」の論に着目さ
の上で、この「異議」を取り込もうという試み
マ ス に 即 し て、
「討議倫理学」的枠組みの前提
同 時 に、
「 で あ る か ら「 責 任 原 理 」
「ケアの倫
な態度が表われたところなのであるが、それは
が、本書の優れた、というか(理論的に)誠実
いやり」でもって結論としてしまわないところ
こ の よ う に、
「 連 帯 」 や「 共 感 」
「 慈 悲・ 思
ることになる。氏の議論が〝本格〟化を開始す
てである。氏によれば、全ての者を尊重するた
「連帯」については、代表的な論者を挙げる
理」を
ではこれが一種結論となっているとも言いう
との一種の非和解性の確認として、 「
―責任原
理」と「ケアの倫理」の異同に関する直前段落
る。まさしく巻末では、「正義」と「責任・ケア」
重して扱うことの現実的不可能性の認識によっ
「実質的には」
、全ての者を尊重して扱うことは
る。しかし品川氏は、
「責任原理とケアの倫理」
そもそも資源の有限性が「正義の環境」であっ
る性質にもとづく共感として内部化され特殊な
「連帯」ということでは、
「ケアは人間に共通す
の倫理の位置づけとなっているが こ
―う記され
での議論を受けてのものであって、いわば三様
て、したがって、その「倫理」が(全)存在者
の尊厳性の理念から見て問題性をもつことにな
てもいる。
こ
―こはあるいは評者の深読
るものとして軽視される」( 278
)とも述べられ
ている。と同時に
化され、正義の要件が満たされたうえで機能す
対象にのみ適用される善意や好意等として周縁
「尊厳を有することが分配の根拠にならないと
いう議論は不合理といいきれない」( 271
)と述
べることになる。
し か し 他 方、 氏 が ノ ー ジ ッ ク の 言 に 即 し て
生き物としての次元を含んでいる。その順に、
立つ正義が妥当する次元、ともに他の人間の
正 義 の 倫 理、 ケ ア の 倫 理、 責 任 原 理 が あ て
[ を ] 必 要 と す る 相 互 依 存 の 次 元、 そ し て、
であるから、これが本書のタイトルの説明とも
0
みかもしれないが 、
― 現 実 論 と し て は、 こ の
「内部化」が可能であるだけだともされている。
0
私 た ち の 生 は、 人 間 同 士 の あ い だ で 成 り
るのはいわば当然なのである。であるから氏は、
は こ れ を 批 判 す る も の で も あ る と 説 く ( 279
)
。
不可能である。ロールズが明記しているように、
!!
るのは、そうした尊厳な人間の全てを平等に尊
め に は、 そ れ に 必 要 な「 財 」 が 不 足(
「有限」
)
なら斎藤純一がそうなのであるが、福祉論など
」というのではないということでもあ
である( 270
)
。
「資源」が「有限」であるかぎり、
あるいはまた〝深い〟
「尊厳論」であるに留ま
0
確認しているように ( 271
)
、
「近代的倫理」も、
この現実論でもって結論とはしていない。そこ
0
159
0
0
社 会 と 倫 理
にまた、視野の外におかれてしまうものを描
る理論の異なる視点からみえてくるもの、逆
用いてきた。というのも、本書の意図は異な
みるようにして」といった比喩をくりかえし
す。本書は「境を接する」とか「合わせ鏡を
それぞれの視点からその全体を別様に描き出
ら統一を成しており、それぞれの倫理理論は
はまるわけではない。生は多面的でありなが
見 て「 責 任 原 理・ ケ ア の 倫 理 」 が「 視 野 の 外
面を見るというかたちで、
「正義の原理」から
族・ 親 族 集 団 の )
「外部」から ―
求められてく
るという側面も在るのではなかろうか。この側
そ も 無 理 で あ っ て、 そ こ に「 正 義 」 が
想が掲げられてくるのでもあるが、それはそも
う(評者からすれば)これはこれで近代的な理
うとして、そこに「ケアする倫理的自己」とい
じられたものである。それを開いたものにしよ
0
0
0
0
うか。)
に」置いているものをも明示すべきではなかろ
(家
―
き出すことにあったからである。( 280
)
(最後に若干の批判的コメントを付け加えさ
義が「軽視」することになるという「生の傷つ
としては、たとえばネポティズム的にそれは閉
件であるというのは評者も認める。しかし現実
して在って、これがそもそも人間存在の前提条
はまさしく「傷つきやすさ」へ定位したものと
0
160
せて欲しい。資源の有限性に原因して現実の正
きやすさ」へのケアについてであるが、氏は、
最終的にはこれを言説可能性の問題として、い
わば閉じた言説の正義共同体に対する「外部」
第七
―
からの「もう一つの声」(ギリガン)として問
題とする。しかし、
「ケア」についても
十章の延長上で そ
かつ、
―
―の現実性に即して、
たとえば(フェミニズムが問う)現実のケア関
こ
―れはカントの古典的問いでも
あるのだが い
―わばケア心の限界性として問題
とすべきではなかろうか。自分の子供へのケア
係ではなく、
0
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