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第 6 章 「聖パウロ学校規則」に示された文法学校としての教育理念 本章

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第 6 章 「聖パウロ学校規則」に示された文法学校としての教育理念 本章
第 6 章 「聖パウロ学校規則」に示された文法学校としての教育理念
本章では、コレットが自ら作成した「聖パウロ学校規則」Statuta Paulinae Scholae を取り上げ、
キリスト教的人文主義に立つ文法学校としての教育のあり方を具体的に検討する。
なお、本論で指し示す文法学校における文法教育とは、単に文法のみならず、修辞、読解、
話法までをも含んだ古典語の修得を目指すものである。よってこの点からみるならば、コレッ
トが設立した聖パウロ学校もまた文法学校の範疇に入ろう。
彼が作成した「学校規則」には、学校の運営・管理に関する規定を始め、教師となるべき者
の資質や、教科内容に関する諸規定が定められていた。当時隆盛しつつあった他の文法学校と
比べて、コレットの学校はどのような教育的特徴を有していたのであろうか。当時の文法学校
を取り巻く社会的状況を見極めながら、時代的要請として求められた文法教育と、彼が求めた
教育の在り方とを対比して考察する。
そこでまず、16 世紀初頭のロンドンを中心にしたイングランドにおけるラテン語文法学校の
教育的状況をみてみることとする。そこには、絶対王政を敷きつつある国王との利害関係を利
用して社会的台頭を果たす商人階級の姿があった。旧権力たる貴族階級とは異なる、新勢力的
たる上層中産階層には、ラテン語に対する明らかな教育的要求が認められる。そこで新興勢力
が必要とした教育の実態を明らかにする。
次に、コレットが定めた「学校規則」を取り上げ、ここに掲げられた 11 項目にわたる規定そ
のものを検討する。その際「学校規則」の諸規定を内容に即して 2 つに分けて考察し、コレッ
トが目指した文法学校の方向性を探ることとする。その一つは、聖パウロ学校の管理・運営的
側面を規定した、言わばハード面に関わる諸事項と、教育内容そのものを規定したソフト面的
教育事項である。
第 1 節 市民階層における教育的要求—ラテン語文法学校
中世においてラテン語教育とは、伝統的に教会内において行われ、それは将来聖職に就く者
のための聖職者養成が目的とされ、また主として聖職者間においてのみ教授されていた。彼ら
にとってラテン語は、神学、教会法、聖歌を学ぶために必要不可欠な言葉だった。他方で俗人
たちは、
聖職者が聖務以外の小遣い稼ぎのために、
片手間に教える程度の教育を授かっており、
それは専ら初歩的な英語や読むだけのラテン語に留まっていた。やがて 13 世紀頃から、写本転
写人、公正証書代筆人といった俗人の職業が専門化していくと、徒弟奉公制の下で親方からラ
テン語の書き方を伝授されるということも見受けられるようになっていった(1)。これが、言う
なれば、俗人による俗人のためのラテン語教育の始まりとも言えるものである。
しかしながら、このような徒弟制度下では、当然のことながら言葉の教育そのものが目的化
されるのではなく、むしろ組合で規定された詳細な規則や慣例の中で、親方によって職業上の
技能を身につけるために訓練されるという技能的教育に比重が置かれていた。したがって、こ
れら手段として学ばれるラテン語教育は、ラテン語で書かれた諸作品を深く味わうといったよ
うな十分な熟達を示す「言葉の教育」という類いのものではなく、むしろ英語の簡単な読み書
きや、或は算術等が教えられていたにすぎなかった。
やがて 14 世紀から 15 世紀の初め頃になると、ロンドンがイングランド人の定住商業都市と
126
して繁栄し出すという社会的状況が生まれてくる。オックスフォード、ケンブリッジ両大学の
発展と共に、そうした学究生活に耐えうるような学生を送り出すための文法学校の出現がロン
ドンに限らず徐々に認められるようになったのも、この時期である。こうして司教座教会付属
の文法学校を始め、俗人の個人或は組合といった法人団体によるラテン語文法学校が建てられ
ていった(2)。早いもので 1382 年には、ウィッカムのウィリアムWilliam of Wykeham(1324-1404)
が、オックスフォードのニュー・コレッジの準備教育として、定員 70 名のウィンチェスター校
を設立している。また 1443 年にはロンドンの呉服商ジョン・アボットJohn Abbot(生没年不詳)
の遺言に従って、彼の所有する土地を基に基金が創設され、ノーザンプトンのファッシンフォ
ーFarthinghoe in Northamptonshireに呉服組合管理委託の文法学校が設立されている。
15 世紀の半ば、コレットの父親であるヘンリー・コレットSir Henry Colet (1430?-1505)は、貴
族以下の階級ではあったが、有力な地方出身の郷紳としてロンドンに移住し、絹織物組合へ入
会を果たした。彼は、俗人対象の、特に新興してきた商人階層を中心に設立された文法学校が
増加傾向にある中で、徒弟奉公を終了はしていたが、隆盛的傾向が見られ始めたばかりのラテ
ン語学校へ通うことは出来なかった。すなわち、コレットの父親は、絹織物組合という大カン
パニーの徒弟制度下において、親方から英語のみの教育を受けて一人前になった最後の世代と
されているのである。最終的には、ヘンリー・コレットは、絹織物組合の幹部にまで上り詰め
たのだが、ラテン語の知識がなかったため、組合の諸業務においてラテン語を必要とする法律
上、財政上の複雑な会議だけは出席できなかった(3)。
十分なラテン語の知識を有することなく、絹織物組合の幹部、そしてロンドン市長を 2 度に
まで歴任したヘンリー・コレットではあったが、もはやラテン語なしには立身出世はありえな
い時代に入っていった。その下の世代、つまり息子のジョン・コレットの時代には、ラテン語
の文法学校を経て大学、或は法学院という出世街道が明確に敷かれ、ラテン語の知識なしには
高い社会的地位には就けない状況にあったのである。換言するならば、ラテン語は専門的な職
業に従事するための必須条件となっており、それは聖職者のみならず貴族や上層ジェントリー
でさえ、そうした言葉を学ぶことなしに乗馬や狩猟などの技術のみを磨いていたならば、15 世
紀末にはその権力を失墜したのだった。
こうして 15 世紀以降、社会的影響力をもった商業組合は、巨額の資金を蓄え一層独立した自
治的組織となっていった。組合間での重複する商業領域を巡って利権的競争が一段と激化し、
商業上のトラブルを巡る法的調停も多く見受けられるようになる。そのため裁判を有利に進め
るため、或はまた外交貿易、国王からの商業にかかる特許状取得などにもラテン語能力は欠か
せないものとして明確に強く認識され、各組合は自分たちの手で文法学校を設立するようにな
った(4)。
彼らのような、俗人の団体である組合、或はまた個人の俗人有志が建てた文法学校では、特
定の職業に就くためという、実利目的のラテン語教育が行われていた。すなわち政治的・経済
的変化に伴って、実学的ラテン語が立身出世のために必要であると見なされ、多くの教育的需
要が見込まれたということが言える。15 世紀も末頃になると、ロンドン経済の鍵を握る大組合
では、ラテン語の読み・書き能力に欠ける者は、もはや徒弟としての入会さえ出来なかったと
いう記録も残されている(5)。
したがって、ギルド的集団内で自らの出世を有利に進めていくためにラテン語は必要である
という認識の下では、言葉の教育は「個人の善」(6)merit goodsのためという明確な目的意識があ
127
ったと言えよう。また、そのような実利目的の文法学校で当初採用されていた教育方法とは、
口述中心の授業であったため、主として暗記による繰り返しの機械的な学習が行われていたに
すぎなかった。
さて、俗人対象の文法学校が増加し、隆盛していくというテューダー初期の教育的状況に対
して、ジョアン・サイモンJoan Simon(1967)は「進歩というよりは、むしろ広がりである」(7)と
みていた。それは、主として商人階級を中心としながらも身分を問わず多くの者が専門職に就
くために教育の機会を得ようとする機運の高まりの中に多くの文法学校が設立されるも、結果
として中等教育を受ける俗人の就学者人口が増え、また学校数も増加しただけということであ
り、新たに設立された学校の多くは、中世から伝統的にみられたような、特定の職業に付くた
めの実学目的のラテン語教育に留まったままだということである。
やがて 16 世紀の初め頃になると、すでに基本的な識字能力を持ち、富を得、蓄財を増やし、
社会的勢力を示す程に力を付けた商人たちが、より新しい形のラテン語教育を求めるようにな
った。彼らは、自分たちの生き方に対してより広い視野に立って捉えられるようになり、自分
たちが歩んできた道である商業に子どもたちを縛りつけることなく、司法や行政などといった
新たな職を目指して、彼らをそれまでにない新しい文法学校へと送り出すようなった(8)。
そこで、このような上層市民層の、教育に対する新しい意識と相まって、新しいラテン語に
対する基準を整えたのが人文主義者だったのである(9)。一般的に言うならば、人文主義者が提
供したのは、それまで行われていた実利目的の、手段にすぎない言葉の教育ではなく、人間の
内面性に着目し、ラテン語の修得そのものが目的とされるような教育であったということにな
る。彼らは、ギリシャ、ラテンの古典作品そのものを扱いながら、言葉の教育による人間性の
向上を重視したのだった。換言するならば、16 世紀以降の文法学校には、職業教育のような純
粋に言語能力の向上を目的とするのみならず、人間らしさを追求した言葉の修得という視点が
付加されていったのである。
それは、
古典古代の模範文の模倣を基盤にした修辞的技法に優れ、
正しいラテン語の修得を包含する。旧式の機械的なラテン語教育から優雅で典雅な修辞的ラテ
ン語教育が行われ、それまでにない質の高い教師が求められ、そして英語で書かれたラテン語
教材や、ラテン話法をも取り入れられるようになっていったということである。ここには、15
世紀後半のカックストンによる新しい印刷術による比較的安価な書物の普及が、口述中心の授
業からそうした教育の可能性を一層広げたのも事実であった。1512 年に設立された聖パウロ学
校は、
そうした新しいラテン語が生み出されていく過程にあって、
一つの雛形として捉えられ、
(10)
大きな足跡を残すことになったのだった 。
こうして 16 世紀以降、上層のロンドン市民の意識の内に、あるべき都市市民たるには、その
地位に相応する振る舞いが求められ、豊かな表現力をもった典雅な書き方、雄弁なる話し方が
出来るということが求められていったのである。裕福な商人達は、ラテン語教育に対しても「洗
練された紳士階級と同様の態度」(11)で臨み、教育によって紳士らしい所作を身につけようとし
た。このような新興の上層市民は、7 歳頃から 11∼13 歳までの間、自分たちの子どもを新しい
タイプの文法学校へと通わせるようになっていったのである。16 歳をすぎて文法学校に留まっ
ている者の割合は低く、
文法学校を卒業した子弟の多くは、
大学や法学院へと進学していった。
それまでの大学は、神学に重点が置かれた聖職者養成の教育機関とみなされていたが、テュー
ダー期以降は徐々に俗人の就学者層が増加し、文法教育を受けた新興階層が新しい学問の担い
手として中心的役割を果たすようになっていった。一方で商人階層の親達も、息子たちに自分
128
の組合に戻ってこさせようと考える者も少なくなり、高等教育を経て、その子弟のほとんどが
専門職に就いていったのである(12)。
こうして台頭する中産上層階級の子弟たちは、将来において高位聖職者や裕福な大商人のみ
ならず、国王の側近、市長などの行政の主要ポスト、裁判官や弁護士といった法曹家となり、
やがて都市エリート層を形成していった。この点では聖パウロ学校の卒業生もまた、他の文法
学校と同様に、社会の要職に就き活躍している。例えば、ヘンリー8 世の 14 名の遺言執行官の
うち 8 名が実に、聖パウロ学校卒業生であり、かつその全てが初代校長ウィリアム・リリーの
教え子であったという記録が残されているのである(13)。またトマス・モアも、唯一の息子ジョ
ン・モアJohn More(1508-1547)を聖パウロ学校に通わせていた。
しかしながら、こうした人文主義的文法学校は、やがて都市市民における一つのエリート養
成校としての色彩を強めていくこととなっていった。これは明らかに人文主義教育の限界とし
て認められるところである(14)。人文主義的思想を取り入れようとしたこれら多くの文法学校は、
結局、表面的な言葉の教育のみが行なわれるところとなってしまったのだった。衒学風な「上
等な言葉遣い」polite lettersのラテン語修得が目的とされ、模範文の真髄を貫く、人間としての
なすべき行いや徳性といったものを涵養するような教育は、副次的な扱いをされていった(15)。
コレットが聖パウロ学校設立にあたって掲げた教育的理想には、確かに実学的側面を考慮した
ラテン語修得というものも確認されるのであるが、それ以上に、人間の本性を見極め、それを
神に向かって高めようとする道徳的側面に主眼が置かれていたのである。後述するように、や
がて、この設立者の理想も、都市市民によるより現実な教育的要求の流れに飲み込まれ、設立
後 50 年も経つと、他の人文主義学校と変わらなくなってしまったのだった(16)。このような文
法教育の変容の中にあって、聖パウロ学校設立にみるコレットの教育理念を以下に考察してい
く。そこで次に、コレットが定めた「聖パウロ学校規則」を詳細に検証していき、設立当初に
彼が求めた言葉の教育のあり方を明らかにしていくこととする。
第 2 節「聖パウロ学校規則」にみる学校の管理・運営方針
「司祭コレットの規則」Dean’s Colet’s Statutesとも呼ばれる「聖パウロ学校規則」(17)Statuta
Paulinae Scholaeは、1512 年に設立者であるコレット自身の手で作成されたものである。聖パウ
ロ学校の管理・運営を委任されていた絹織物組合議事録には、1512 年 7 月 7 日付けで「聖パウ
ロ学校規則は、司祭(筆者註;コレット)によって示された」(18)とある。先述したように、16
世紀までのイングランドの諸学校は、ウィンチェスターやイートンは別として、その多くが学
校規則を伴った学校教育機関として整えられてはいない状態だった。そのため、この聖パウロ
学校規則は、後続する文法学校の規則の一つの手本とされ、特に、マンチェスターManchestaer、
マーチャント・テーラーMarchant Taylor、イプスウィッチ・ウルジーIpswich Wolsey校等の学校
規則には、コレットの学校のものと全く同じ文言が規則の中に散見される(19)。
さて、聖パウロ学校の学校規則の中身であるが、それは、以下に示す 11 の項目から構成され
ている。(各項の原語については、原本を書き写したナイト及びラプトンの文献からそのまま引
用した。ラテン語と英語とが混在しているが、これはコレット自身がそのように書き記したと
思われる。)
129
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
序 Prologus.
校長について Capitulum primum de magistro primario.
副校長について De Submagistro.
校長と副校長の両教師について Of both Maisters at onys.
学校付き司祭について The Chapelyn.
子どもたちについて The Children.
何が教えられるべきかについて What shall be taught.
絹織物組合について The Mercers.
規則改正の自由について Libertye to declare the Statutes.
学校の所有地について The Landes of the Scole.
年間の定期支出について Charges ordinare out payde yerely.
本節では、教育内容の規定にあたる第 7 の項目「何が教えられるべきかについて」を除いた
10 項目を順次検討いくこととする(20)。
① 序
英語で書かれた序には、コレットが自分自身を「ジョン・コレット」Joannes Colett と三人称
で表し、それまでの聖パウロ教会付属の学校とは異なる、新しい文法学校を設立するに際して
企図した、学校の方向性についてアウトライン的に示されているのである。
ヘンリー・コレットの息子である、聖パウロ司教座教会首席司祭ジョン・コレット
は、良き行いと良き学問の中で子どもたちを教育し、育てることを何よりも望み、153
人の生徒に対して等しく無料 free で 教えるために、1512 年に聖パウロ教会の東の端に
学校を建てた。そして校長、副校長、学校付き司祭を、どのような事情においても、彼
らの生活を保障し得る十分な給与を滞りなく支払うという条件で任命した。またロンド
ンの絹織物組合の最も正直で信仰深い組合員を、聖パウロ学校の後援者 patorons、擁護者
defenders 、管理者 governours、規定人 rulers に配した。(以下、略)
ここで最も注目すべきは、コレットが無償教育をうたった点であろう。イングランドでは幾
世紀も前から有償かつ営利目的の教育が長く続いており(21)、聖パウロ学校開校当時に、無償の
教育はほとんどなされていなかった。私塾の教師や寄進による学校では、生計のため、或は運
営上、生徒から授業料を直接徴収していた。教会付属の学校においてさえ、教会が学校運営権
を俗人教師に貸し出す形態をとっており、そうした教師たちは自身の生活と教会への上納金を
賄うために授業料をとっていたのである(22)。教会にとって学校からの上納金は無視できないも
のだった。
ところがコレットの学校では授業料を徴収しなかった。その背景には、貴賎を問わず、人と
して神より善なる性を授かった全ての者に理想的教育を授けようとする理念があったからであ
る。彼は無償教育をより現実的なものとするために慎重に法的手順を踏んでいった。すなわち
設立時の考えを、理想論にとどめることなどせず、実行に移されるべく実務的処理を周到に行
130
ったのである。神の前にあって、その信念に基づいて実践性を重んじるコレットならではの決
断がここにみてとれよう。教会法(カノン・ロー)と慣習法(コモン・ロー)の双方に通じるコレッ
トは、まず教会法に則って、教会の管轄から自分の学校を切り離すことに成功し、次いで学校
の管理・運営権を俗人の団体である絹織物組合に移譲しえた。その上で自らの私財を学校基金
に投じ、授業料無償化実現の鍵を握る教員への給与支払いなど、経理が自由になるよう学校経
営面を整えたのだった。このように、コレットの捉える文法学校のあり方とは、単に特定の階
層が必要とした実用的ラテン語教育で終わらせものではなく、神の下に全ての者に必要とされ
る言葉の教育を施すという壮大な目的があったことが見受けられる。
② 校長について(23)
コレットは、校長の資質について「正直で、徳があり、正しく純粋なラテン及びギリシャの
作品を学んだ人」とし、更に「仮にそのような人がいるのであれば、既婚者、未婚者、或いは
管轄教区や礼拝などに関わる聖職禄を有さない者、或は自分の職務を学校のみに専念すること
のできる聖職者であればそうした者でも構わない」と規定した。この規定に示されるところの
コレットの理想とする校長とは、聖俗の別なく、高い学識と徳性が最優先されたのである。高
い学識とは、ギリシャ・ラテンの両作品に精通し、また「聖なる徳」holy morals とされたキリ
ストの教えを十分に理解していることを意味する。先述したように、校長とは子ども達の霊的
指導者として、より神に近い存在でなければならなかった。コレットにとっての学識ある敬虔
を有する者といった意味では、ギリシャ、ラテン語の双方を自由に操り、原典主義に基づいて
聖なるテキストに書かれた言葉から、神の啓示を感受し、それを隣人愛という形で実践しうる
者ということになろう。
この校長職は、コレットが信頼を篤く置いた絹織物組合の理事や助役が選出することになっ
ていた。校長に関する一切の事項には、教会権力が入ってこられないようになっていた。校長
選出には、従来の学校にみられるような教会のチャンセラーChancellor によってではなく、俗
人団体に任されたのだった。校長選出後、組合員はこの新しい校長に対し、
「良き作品のみなら
ず、良い行いをも子どもたちに教えるためにあなたを校長、或いは教師に選んだ」との選出理
由を述べるよう指示されている。校長は、人文主義に裏打ちされた確かな学識と信仰心をもっ
て、子どもたちの見本となるよう経営者から訓示を受けるのであった。
なお初代校長は、絹織物組合ではなくコレット自身によってウィリアム・リリーWilliam
Lily(1468-1522)が直接指名された。リリーは、コレットと共にオックスフォードで新学問の確
立に寄与したグロシンの名付け子で、オックスッフォードからフィレンツェへと渡り、またギ
リシャ人より直接ギリシャ語を習った初めてのイングランド人と言われる人物である。当代き
っての文法家で、ギリシャ語・ラテン語の両方に精通する者は当時として非常に稀であったと
言われる。このリリー自身については、次章においてより詳細に取り上げているので、ここで
は簡単な紹介程度に留めておく。
なお、同規則において校長は、当時の他の文法学校の教師と比較して優遇された生活が保障
されていた。例えば、住居に関して、広間、台所、食料室、二階の全居室、屋根裏部屋、排水
路側の回廊が充てられたのである。1522 年にカール 5 世Karl V(在位;1519-1556)がロンドンに
滞在する際に、聖パウロ学校の校長の住居が選ばれたという記録からも、質の高い生活が保障
131
されていたことが伺える(24)。このような立派な住居に加えて、家に調度品、別宅、高価な衣装
も用意され、給与は他の文法学校の教師の 2∼3 倍であったとされている(25)。また、病気や退
任後の生活も保障されていた。
先述したように教師を高い禄・厚遇で迎えたことによって、生徒から直接授業料を徴収する
必要のない万人の教育の門戸を開くべく、
無償教育化が実現したのである。
これは学校運営上、
革新的な試みであった。他の有償の学校では、読み書きのできる聖職者が聖務以外に副業とし
てラテン語を教える私塾のようなものがほとんどで、専業としては成立しえかったのである。
このことは、理想とする文法教育、それを実際に行う文法教師に対して、コレットが崇高な
教育的価値を見いだしていた結果と言えよう。次に示す、エラスムスからコレットに宛てた書
簡には、二人が共に抱いた中等教育への重要性とそれを担う教師への思いが表れている(26)。
良き徳と良き作品の中で、若い人たちを育てるという働きは、最も高尚なことの一
つであると思います。なぜなら、キリストは幼い者たちを軽蔑することなどせず、ま
た幼い者に対する惜しみない援助以上により良い奉仕などなく、そして幼い者以外に
実りある収穫などないからであります。若い人というのは芽の出た種、コモンウェル
スの素なのであります。(中略)。パウロは、真の宗教というものを「愛の業」charitatis
officium であるとし、愛は私たちが一所懸命に隣人を助けることによって成り立ってい
るとしたのです。
この書簡から分かるように、コレットとエラスムスは、神の言葉が書かれたテキストを通じ
てキリストの徳性を学ぶ教育こそが、神の義に適った崇高な業であり、その任にあたる教師の
重大さを共に認識していたのである。彼らは、真の言葉の教育というものが、子どもたちの本
性を神に向かって陶冶せしめ、引いては社会善へと繋がっていくことを期待したのだった。従
ってそれを司る文法教師たる者は、確固とした地位としてその職業に専念でき、神の愛に奉仕
する崇高なる者として捉えられ、それは片手間に教えるだけの言葉の訓練士のような文法教師
とは明らかに異なる、新しい教師像なのであった。
③副校長について(27)
コレットは、副校長の資質について「有徳なる生活を送り、高い学識を有し、任命に従って
校長の下で子どもたちに教えることができ、また未婚者、既婚者、或いは管轄教区や礼拝に付
随する聖職禄を有せず、学校において自身の精励なる職務を全うできる聖職者のいずれか」と
規定していた。副校長に求められている資質は、基本的には校長と変わるものではないが、ギ
リシャ語の能力を問わない点、校長の教育方針に従うという点が異なっている。給与を始めと
する待遇についても校長と同様に、他の文法学校教師に比べれば高く、生活面全般が生涯に渡
って保障されていた。
さて、初代副校長に着任したのは、トマス・パーシーThomas Percy(生没年不詳)だった。絹織
物組合に残された記録には、パーシーが、校長リリーと文法教授の方法論を巡って対立し、着
任して数年後の 1515 年には解任されているとある(28)。そこで後任の副校長には、エラスムス
が推薦したモーリス・バーチンショウMaurice Birchinshaw(生没年不詳)があたった。バーチンシ
132
ョウは、1511 年にオックスフォードで文法学を、1515 年に市民法を学び、同年聖パウロ学校へ
赴任してきた人物である(29)。しかし副校長はその後も交代を繰り返していくことになる。この
ことは、校長であるリリーの教授方法を理解し、補佐しうるだけの能力が欠けていたという見
方も出来るのであるが、結局のとこと、リリーが校長をしている在任中に 3 回も変わっている
のである。
そのためコレットは、エラスムスに副校長の適任者を探してくれるよう依頼していたのだっ
た。その際、校長の教育方針に積極的に従う者であること、という条件を付けている。リリー
が絹織物組合ではなく、コレットから直接任命されたことは、いかに彼が設立者たるコレット
から信頼されていたかが分かる。またリリー自身にもコレットの意図に沿った教授方法へのこ
だわりがみてとれるのである。彼らは教育方法、教育方針の点で一致していた。人間の本性に
即して霊的魂を鼓舞するかのような言葉の教育、彼らが理想とした文法教育を完全に理解し、
共に実行せしめる適任の副校長を見つけ出すことは困難だったのである。
④ 校長と副校長の両教師について
コレットは、教師が病欠或いは伝染病によって学校が閉鎖になるという事態が生じても、両
教師の生活を保障する旨、規定している。また両教師がするべき実際の授業以外の仕事につい
ても言及している。例えば、貧しい生徒がすることになっている掃除の監督や校舎設備での修
理が必要な箇所の絹織物組合への報告等である。コレットは、待遇に見合うだけの仕事を両教
師に厳しく要求したのだった。
⑤ 学校付き司祭について
コレットは、聖パウロ学校の教員として校長、副校長以外に学校付き司祭 chaplain をも定め
ていた。司祭の資質には「善良・誠実・徳」の 3 つが求められ、また「教区に伴う聖職禄 benefice
with cure を有さず、礼拝 service、他の聖務 office、職 occupation に就かず、本校の仕事のみに専
念できる者」とされ、この司祭職は、俗人である絹織物組合の理事や助役によって選出される
こととなっていた。これに伴い絹織物の組合員は、
「仮に司祭が贅沢や不品行に陥ったならば、
規則に則って訓戒処分にした後に、免職させ、8 日以内に或いは出来るだけ早く後任者を選ぶ」
ことと定められた。聖職者である学校付き司祭であるとは言え、俗人の監督下に置かれ、禁欲
的な生活態度をもって堅い信仰心が必要とされたのである。
司祭は、教室とは別のミサ室で子どもたちと共に祈りを捧げた、時には校長の裁量で、文法
教授の補助をも行うものとされた。ミサの形態は次のように記されている。
「司祭の都合のつく
時は、
毎日学校のミサ室でミサ曲を唱い、
子どもが良い生活と良い作品の中で成功するように、
神と主イエス・キリストの御栄えに対して祈りを捧げるものとする。彼は、ミサの合図のため
に学校の鐘を鳴らし、全ての子どもたちはミサの間、両手を挙げて祈りを捧げるものとする。
ミサの終わりを告げる鐘の音が鳴ったら、子どもたちは、勉強するために再び自分の席に戻る
ものとする。
」
当時、礼唱堂付き学校では、設立にかかる寄進者や司祭の生活を維持する篤志家のために、
学校付き司祭が子どもたちと共に祈りを捧げなければならなかった。これは中世信仰の教会教
133
義によるもので、寄進者や篤志家が煉獄の苦しみから救われ、死後の鎮魂を願うための祈りで
ある。しかしコレットは「神と主イエス・キリストの御栄え」に対して祈るべきものと定め、
コレット自身やコレット家一族のために祈りを捧げるようにはしていなかった。
またこの学校の学校付き司祭は、他の聖務との兼任が許されていなかった。校長、副校長が
生徒から授業料を徴収する必要がなかったのと同様に、司祭もまた自身の生活を維持する篤志
家などを持たず、よって子どもたちは、純粋にイエス・キリストにのみ祈りを捧げることがで
きた。
さらに校舎内に祈りの部屋があったために、従来の教会付属の学校のような、子どもたちが
教会まで足を運ぶ必要もなかった。聖パウロ学校の子どもたちは教会儀式からは完全に分離さ
れた形で、日常の学校生活を送ることができたのである。このように、コレットは自らの信仰
観によって立つキリストの教えを学ばせるために、神と子どもたちとの間にいかなるものも介
在させず、純粋な心をもって直接神に向かう祈りの時を持たせたのだった。
ところで、この学校付き司祭の初代は誰が務めたのであろうか。その詳細については分かっ
ていない。聖パウロ学校史を扱っているマックドンネルMichael F.J. McDonnell (1959)によれば、
コレット自らが設立当初から亡くなるまで務めていたのではないかと推測している (30)。
⑥ 子どもたちについて
ここでは、聖パウロ学校に通う生徒に関する諸規則が定められている。まず入学してくる子
どもたちについて、
「学校では特定の地域からの出身者に限らず、全ての出身地を対象とし、魚
の数に従って 153 名の子どもたちが教育を受けるものとする」とされ、自宅から通学できる範
囲内で広く募っている。ウィンチェスターやイートン校は、ある特定の地域や設立者と関係の
深い者に実際の入学者が偏っていた。しかしながらマックドンネルが指摘するように、聖パウ
ロ学校のこの規定事項は、ウィンチェスターやイートン校のように特定地域や創設者の親族に
限定しておらず、また特権的階級の推薦を必要とするものではなかった(31)。その意味でも、教
育の門戸を広く解放し、より公平さが保たれていたことが分かる。
また定員数については「153」と定められていた。この数字は非常に宗教的意味合いを含んで
いる。聖書には「シモンペテロが舟に乗り込んで網を引き上げると、153 匹もの大きな魚でい
っぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
」(「ヨハネによる福音書」
21 章、11 節)という節があり、イエスが奇蹟を起こした話である。キリスト教において「魚」
という言葉の持つ意味は、修道士カッシオドルスCassiodorus(487?-583?)が「この世の嵐のよう
な深みから福音という網によって引き上げられた」人間として例えたように、神の救いを必要
としている無力な人間の姿を表現しているともされる(32)。コレットもオックスフォードでの聖
書解釈講義の中で「人は単なる魚のように世俗の海の中で泳いでいる。瑞々しい肉体、弱々し
い力、そして弱い感受性を持っている。そのような人は、生きているよりむしろ死んでいる」(33)
と述べていた。或はまた「魚」という単語は、5 文字のギリシャ語で表され、それは「イエス」
、
「キリスト」
、
「神の」
、
「子」
、
「救い主」の各々の頭文字を結び合わされて作られているとも解
(34)
釈され 、初期キリスト教会では、
「魚」はイエス・キリストの象徴とも捉えられている。
いずれにしろ、153 人という聖パウロ学校の子どもたちとは、コレットにとって、救いを必
要とする過ちを犯しがちな人間であると同時に、
「キリストに倣う」が如くのような教育によっ
134
て真のキリスト者になりうる可能性を秘めた存在であるとされていたと言えよう。このような
点からも、他の文法学校とは異なって、古典語を通じてキリスト教教育を目指そうとするコレ
ットの強い宗教性がよく読み取れる。
また入学要件については、次のように定められていた。
「校長は、子どもたちが入学を希望し
た時、彼等を入学させるものとする。しかし、第一に彼等がカテキズムを暗唱しているか、そ
してまた完璧に英語とラテン語の読み書きができるかを確認しなければならない。そうでなけ
れば、決して入学をさせてはならない」と。ここでは、基礎な識字能力が入学要件となってい
たことから、修学年齢に関する規定はなかったものの、およそは 7、8 歳からと推定され、また
広く教育の門戸を開けてはいたものの、実際にはラテン語を必要とする家庭の子弟が入学して
きたと言える。中産階層以下の家庭では、簡単な英語の読みと英語による自署が出来れば十分
であると考えており、古典語に対する教育的要求はなかったのが実情である。
なお入学に際して準備するものについては、裕福な家庭と貧しい家庭とでは異なっていた。
裕福な者は、入学金として 4 デナリウス、献品として「精製蜜蝋」を持ってくるよう定められ
た。
「精製蜜蝋」は冬の間、暖を採るためのもので、空気を汚す「獣脂蝋燭」の約 8 倍もする高
価な物だった。一方で、貧しい家庭の子弟には入学金が免除される代わりに学校清掃が課され
ており、他の家庭が納めた入学金からその対価が支払われた。更に学校で使用する教材は、裕
福な家庭が貧しい家庭の分も用意することとなっていた。
これまでも述べてきたように、コレットの、すべての物は神から創造されたものであり、私
的所有物とはその創始たる神に帰すべきとする信仰観を鑑みれば、この規定をもって、隣人へ
の慈善的使用という実践的倫理規範意識が求められたと言えるのである。自分より弱い立場に
ある隣人に対して、手を差し伸べるということは、神の義に適った行為であり、学校内におい
ても生徒同士がそうした実践的な形でキリストの教えを実践していたと考えられる。
授業形態に関しては、
「助教法」Monitorial Systemが採用されていた。コレットは「各学級の
優秀なる子は、その学級にある首席椅子に座すべきである」と定め、優秀な子は他の子どもの
勉学補助を行い、模範的存在とされたのである(35)。コレットは、1512 年の改革説教においても、
キリストの教えを忠実に守る司教がいれば、それを範として平信徒もまた自然と従っていくで
あろうと訴えていた。神に一層近い存在となりうる人間間にある序階というものをコレットは
否定していない。教室の中で、威厳ある存在であった教師の脇に座すところの「少年イエス」
たる模範的生徒は、迷い悩む事の多い他の生徒にとって身近な導き手であり、その意味で聖パ
ウロ学校はコレットの理想とする小さなキリスト教社会でもあった。
授業時間に関しては、
「冬と夏には、朝 7 時から 11 時まで、午後は 1 時から 5 時まで学校に
いるものとする。また子どもたちは朝、昼、夕の 3 回、教室に掛かっている銘板に刻まれた祈
り文を、身を屈めて唱えるものとする」とされ、子どもたちの学校生活の様子が伺える。教室
に掲げられた祈り文は、エラスムスが作成したものである。
生徒の心得としては、不要な飲食の禁止などが盛り込まれていた。当時の文法学校では、子
ども同士のけんかなど無秩序な状態に陥る事がしばしば起こっており、また無駄な飲食行為が
見受けられた。この点についてラプトンJ.H.Lupton(1974)は、
「清潔で秩序を守ろうとする厳格
(36)
なコレットの性質」が反映されているとみている 。しかしこの規定は、コレット個人の性格
上の問題だけではなく、彼が子どもたちに対して厳格で禁欲的な生活の上に築き上げられると
ころの、霊性さをもった人間になってもらいたいと願う上での、必要不可欠な学習環境の整備
135
であったと言える。この学校規則以外にも、学校用教科書『編纂』Aeditioに収められていた「日
常生活における 49 の教訓」(37)や、聖パウロ学校生ラプセットThomas Lupset(1495-1530)の言葉(38)
などからも、日々の断食や就寝時の寝方に至るまで、克己を旨とする生活実践が奨励されてい
たことが分かる。禁欲的信仰生活を守らなければ、禁欲的だったキリストの心境には至らず、
聖書の言葉などは理解できないはずなのである。
学校行事に関しては、
「闘鶏」cock-fightingや「聖バルトロメオ論争」が禁止された。闘鶏は
ヘンリー7 世の時代からその後も長く好まれた娯楽の一種である。元来「クック・ペニー」と
呼ばれる鶏は、生徒が教師に対して差し出す「心付け」のようなものだった。それを利用して
闘鶏を学校で楽しむ習慣があった。コレットはそうした「心付け」の習慣と残酷な遊びの風習
を絶ったのである。ラプトンは、コレットの中に残虐行為を嫌う人文主義者らしさを捉えてい
る(39)。
また「聖バルトロメオ論争」は、毎年聖バルトロメオ祭前夜(8 月 23 日)、文法学校の生徒が
大勢聖バルトロメオ修道院の庭に集まり、交互に壇上に立って他の生徒と討論するというもの
である。壇上の生徒が討論に負けると、次なる挑戦者が壇上に立ち、同様の弁論を繰り返す(40)。
各文法学校では威信をかけて討論に参加していたが、コレットはこれを「単なる下らないおし
ゃべり」で「時間の無駄」であるとし、禁止した。仮にコレットが、弁論能力を文法学習の成
果として高く評価していたならば、禁止には至らなかったであろう。しかし、彼はこれを単な
る言葉の表面的な技の競い合いにすぎないと受け止めたのだった。このことからも、衒学的傾
向に陥る傾向にあった他の文法学校とは異なって、聖パウロ学校では、行き過ぎたアリストテ
レス主義のような議論の水掛け論的要素は排除され、霊的な言葉の真意を掴むことに主眼が置
かれた文法教育が行われていたことが分かる。
「休校日」remedyに関する規定もあった。コレットは、定員数と同様の 153 日という宗教的数
字を用いて休校日を設定し、残りの 212 日を授業日とした。このremedyという用語は、校長の
リリーが自身の母校ウィンチェスター校の規則から取り入れたものである(41)。
なお、毎年クリスマスの時期に行われる「少年司教式」Childmass については、次のように定
められていた。
「全ての子どもたちは、少年司教式の日に聖パウロ教会に来て、そこで少年司教
の説教を聞き、そのミサの後に、先生たちや学校の理事と共に 1 デナリウスを少年司教に捧げ
るものとする」
。
少年司教式とは、子どもたちの守護聖者である聖ニコラスの日St.Nicholas(12 月 6 日)か、幼児
の日Holy Inoocent’s Day(12 月 28 日)に、一人の少年が学校や大聖堂で司教を装って、行列をし
て歩き、説教を行う儀式である。この説教に対しては、彼の学校の生徒ばかりでなく、教会の
高位聖職者たちもうやうやしく耳を傾けた。式後に司教に扮する少年が町に繰り出し、様々な
無礼講が許され、一種の馬鹿げたお祭り騒ぎとなっていた。阿部謹也(1984)は、10 世紀頃の非
常に厳かに執り行われていたこの少年司教式が、15 世紀末から 16 世紀初頭にかけては無秩序
な子どもの遊びと化したと指摘している(42)。
歴史家トレベリアンG.M.Trevelyan(1978)によれば、中世的儀式である少年司教式が「時勢に
取り残された正統派の聖職者からも、また改革派の聖パウロ教会首席司祭コレットからも等し
く庇護されていた」(43)とし、中世的教会儀式が新しいタイプのコレットのような聖職者にさえ
引き継がれていたとみている。この点に関してはリーチA.F. Leach(1915)もまた、少年司教式に
参加するコレットの学校を中世的なままの宗教教育を行っていた証拠だと論じた(44)。
136
一方でラプトンは、コレットが「闘鶏」や「聖バルトロメオ論争」等、子どもの楽しみにし
ていた行事を禁止したため、少年司教式だけは残してあげようとの思いがあっただけだとし(45)、
マックドンネルもまた、コレットは少年司教式を先に規定していたウィンチェスターやイート
ン校に単に従っただけなのではないかとみている(46)。このように、中世的行事である少年司教
式の継承を規定した事項を巡って、
聖パウロ学校の教育のあり方には諸説あるのが現状である。
コレットは、
エラスムスに少年司教式用の演説を依頼しており、
『少年イエスについての演説』
Concio de Puero Iesu(1511?)が献呈されていた。この小さな説教の正式タイトルは『最近設立さ
れたロンドンのコレットの学校において少年によって朗読される少年イエスについての演説』
(47)
Concio de Puero Iesu, pronuntiata a puero in schola Coletica nuper institita Londiniである。
この演説の中に示された内容は、聖パウロ学校の子どもたちが少年イエスに倣った生き方を
しようというものであった。また少年司教に選ばれる者は、先に述べたように、教師の助教を
行うなどした生徒の手本とされ、また国王の戴冠式に関連する行事にも学校の代表として参加
する程の優れた者である(48)。
聖パウロ学校で実際にはどのような少年司教式を行っていたのか確かな証拠はないものの、
日々の厳格で禁欲的信仰生活から霊的人間の育成を目指していたコレットの考えからすれば、
元来行われていた峻厳なる少年司教式に戻していた可能性があろう。次章で言及するところで
はあるが、この司教式用に作成されたエラスムスによる演説文には、子どもたちの本性を神に
向かって高めるような道徳的効果が十分に認められるとされているのである。少年司教式の本
来の儀式は、幼い子どもたちが全きイエスに倣うことを学ぶ絶好の機会のはずであった。その
意味で、聖パウロ学校で行われた少年司教式は、形式的には中世から続く伝統儀式を引き継い
だと捉えられがちだが、内容そのものを一新させ、というよりはむしろ本来の姿に戻し、ある
べきキリスト教教育のために利用したと捉えた方が自然であろう。コレットは、少年司教式を
単なるお祭り騒ぎの子どもの行事に位置付けず、厳格に生きたイエスの教えを実践せしめる重
要な宗教教育の一環として据えたと考えられる。
⑧ 絹織物組合について
コレットは、教会内の敷地にありながら、父親、そして自身も関わっていた絹織物組合に聖
パウロ学校の管理・運営を任せた。その規定は次のようなものである。
「ロンドンの尊敬すべき
絹織物組合、すなわち会員である親方 master、全理事 warden、全助役 assistance は、学校の全
ての事項を監督し、規則や管理について命ずるものとする」
。
また学校の監督者 surveyours は、
「誠実で堅実な者を毎年 2 人、組合から選出するものとし、
学校の監督者は任務にあたる 1 年間、学校に関する全ての責任と業務を全会員の名において引
き受けるものとする」と定められ、絹織物組合から選ばれる誠実なる 2 人の俗人は、学校業務
に 2 年間専属として従事することされ、1 年ごとに交互に辞職させられた。彼等は「クリスマ
スの 6 日前、イースターの 6 日前、洗礼者ヨハネの祝日(6 月 24 日)の 6 日前、大天使ミカエル
の祝日(9 月 29 日)の 6 日前に、校長、副校長、司祭に対し 1 年の 4 分の 1 ずつの賃金を支払い、
年度の終わりには特別報酬として衣服を与えること」や、
「年に 1 度、親方、理事、助役に対し
学校業務にかかる会計報告を行うこと」等も定められていた。またコレットは、会計上余剰金
が出た場合には、災害や事故時の備えとして組合の金庫に納めておくよう指示し、更に不正が
137
ないかを厳しくチェックするために、会計監査役に組合員に属さないウィリアム・ニューボル
ド William Newbold(生没年不詳)なる人物を指定したのである。
S.ナイトSamuel Knight1823)は、聖パウロ学校が初めて学校組織を教会ではなく俗人管理下に
置いたとしてその革新性を指摘した(49)。しかし、そのような学校形態はリーチによれば 1443
年頃から(50)、またグリーソンJohn B.Gleason(1989)も 1402 年からあったことを明らかにし(51)、
当時としても珍しいものではなかったことが判明している。聖パウロ学校のこのような管理形
態は、実に 19 世紀まで続いたのだった。
⑨ 規則改訂の自由について
コレットは、将来における不測の事態をも想定し、自身の規定した規則が未来永劫改訂され
るものではなく、時に応じて規則を改訂する権利を絹織組合に与えていた。彼は「私(筆者註;
コレット)がこの規則を作成している今、今後様々な原因や理由によってどのような不測の事態
が生じるか想像することはできない」とし、
「自分の意志を記したこの規則は、永遠には通用す
るものではない」と明記している。コレットは絹織物組合を信用し、自身が作成した規則を改
訂する自由を権利として残したのだった。彼は「私(筆者註;コレット)は、学校の全監督を任
せたロンドンの絹織物組合の中で最も正直で確かな仲間の、揺らぎない誠実さ、慎重な賢さ、
信仰深い善良さを十分に検討し、その上で彼等が神、人間、そして学校に対して抱く忠誠心や
愛を信頼している」と述べている。実際の改訂作業は、組合の理事と助役が、教養深く学識あ
る集団と認めた他の審議会と共に行うべきものとされ、彼らの決定権と慈善的精神に完全に託
された。
最後に「今、そして永遠に、この事(筆者註;改訂作業)における絹織物組合の誠実なる対応
に、この世における溢れんばかりの豊さと幸福を、そしてあの世における喜びと栄光を贈られ
るよう、偉大なる慈悲深き主イエス・キリストにお祈りする」と締めくくっている。このよう
にコレットにとっての学校事業は、常に神と向かい合っており、敬虔さの中で達成されていく
べきものだった。学校に携わるすべての関係者は、堕落とは無縁の信仰厚い者が求められた。
そうした人々の慈善的精神に支えられ、コレットの理想とするキリスト教教育が実現していっ
たのである。
なお改訂に関する規定は、
他の文法学校の規則にはみられない特殊なものであり、
コレットの現実的な視点をもった実務能力を証明するものである。
⑩学校の不動産について
ここには、コレットが聖パウロ学校に譲渡した地所の一覧が記載されている。
⑪年間の定期的支出について
ここには、校長、副校長、司祭の年間の給与額や彼等の衣服費、或いは監督者、事務職等の
年間の給与額の一覧が記載されている。
以上、コレットが作成した「聖パウロ学校規則」を考察した。先述したように、J.サイモン
138
は、聖パウロ学校が、教材、学校規則、学校組織という点において一つの模範的な人文主義学
校のモデルを示したとの立場をとるのである(52)。コレットは、自身の抱く教育的理想を実現せ
しめるために、非常に現実的な視点をもちながら学校設立事業を企画したことが分かる。グリ
ーソンもまた、学校規則作成でみられたコレットの「実用的で、管理・経営的」手腕を評価し
ているのであった(53)。
「学校規則」にみるコレットの学校は、リーチの主張するような他の文法学校の追随ではな
かった。聖パウロ学校は、他の文法学校と比して規模も大きく、入学者数も多かった。その意
味でも、社会的中核をなす卒業生を多く輩出し、後世の文法学校に与えた影響は大きい。しか
し他の学校と異なるというのは、規模の点からだけではない。コレットは理想とする教育のあ
り方について、実学的ラテン語教育にとどまらず、いかに人間の霊魂が神に向かって高められ
るかというキリスト教教育を重視したのである。
当時、熾烈な競争を繰り広げ、利権を肥やそうとする組合は、組合間どころか、組合内にお
「有能な」
いてさえ、他人の顧客を自分のものにすることが常態化していた(54)。15 世紀には、
商人と普通の商人との格差が広がりつつあった。組合内で頭角を表していったそうした「出来
る」商人たちは、組合という枠を超えて関係を深めていく。彼等は莫大な利益が得られる海外
交易に力点を置き、大口の仕事を請け負ったのだった。彼らが必要とした教育は、実学重視の
ラテン語教育なのである。
他方で、コレットの求めた聖パウロ学校の教育は、ある特定の階層に限定されるべきもので
はなく、すべての者に必要とされる道徳的教育なのである。彼は、堕落した司祭らのご都合主
義的な教会教義による迷信や、反聖職者主義の温床とされたロラード派などの異端的キリスト
教一派に惑わされることなく、パウロの教えを福音とするキリスト教の学校を設立していこう
と努力したのだった。
熾烈な競争原理の中に置かれて私利私欲に溺れる中産階層市民に対して、
一層の倫理規範意識が求められるにも関わらず、彼らの信仰的礎は不安定なものであった。混
迷するロンドン市民の信仰的礎を、キリスト教的人文主義教育によって築かなければならなか
ったのである。こうしてその崇高な教育理念を担うべく中等教育の教員に正当な評価を下した
のだった。自身の教育的理想に向かって妨げとなる教会権力から学校を切り離し、また中世以
来の伝統的学校行事を廃止する一方、真なる宗教的価値を有するものを継承したのだった。
旧態然の教会への挑戦とも言える、この教育事業を成功させるため、
「最も堕落が少ない」(55)
と判断した俗人の団体に規則改訂をも含んだ学校の管理・運営を委任した。コレットが俗人団
体に信頼を置いた背景には、当時信仰的に退廃していた教会に対する信頼の失墜がある。学校
の管理・運営は営利目的にはなりえず、コレットの信仰基盤をなす慈善的精神によって支えら
れるべきものとされたのだった。
第 3 節 「聖パウロ学校規則」にみる教育内容
コレットは、聖パウロ学校設立時に、学校建設に係る契約を絹織物組合との間で「土地取引
契約書」Evidences of Dean Colet’s Landsを取り交わした。そこには、彼が自ら立ち上げる学校で
行われるべき教育とは、いかなるものであるべきかが明確に明言されているのである(56)。
私(筆者註;コレット)は、ロンドン市長を二度務めた父親ヘンリー・コレットから
139
動産、不動産の両方を受け継ぎ、それらが神に対して最も高潔に、人間に対して最も
有益に使用されるべきであると願っている。また私は、この世、或いはキリストに連
なる教会、つまりは全てのキリスト教社会に対し、良き教育施設 institution 以上のもの
はないと思っている。なぜなら、今やこの世界は、悲しい事に堕落してしまっている
からである。その教育とは、信仰と慈善的精神の中で、知恵と善なる生活の中で、良
き行いと汚れのない作品の両方において、良き文字 good letters と賞賛に値する会話に
よって子どもたちを育てるということである。
このようにコレットは、神を愛し、自らを愛し、隣人を愛するというキリスト教的に支えら
れたキリスト教社会の構築を目指し、そうした位置付けの中で教育のあり方を求めているので
ある。前章でも詳説したように、神の愛に支えられ、人間自らがその内面に有する神性に沿っ
て、愛の実践を実現する社会形成のためには、キリスト教的人文主義教育が未来を担う子ども
たちには必要不可欠であるとの確信をもっていた。この理想的教育の実現に向けたカリキュラ
ム上の計画を、彼は自身で作成した「学校規則」の中に規定しているのであった。
すでに言及したように、この規則は 11 項目にわたって学校の管理・運営的側面を中心とした
規定がなされているのであるが、本節では、コレットの理想的教育内容が定められた第 7 の項
「何が教えられるべきかについて」を取り上げる。その内容を検討することによって、彼自身
のキリスト教的人文主義教育とは如何なるものであったのかを具体的に明らかにしたい。第 7
項は、次のような内容になっている。
⑦「何が教えられるべきかについて」
まず冒頭においてコレットは、聖パウロ学校を開校するにあたって、次のような教育的意図
を明らかにしている。
「私(筆者註;コレット)は、この学校において、教師たちや学識ある者
が何を教えるべきかと考えた時、私の頭の中に特別な計画や決意がよぎります。しかし、この
私の意図を一般的な言い方で簡潔に言うならば、それは教師や学識ある者が、常にラテン語や
ギリシャ語両方の良い作品、知識を伴った真のローマの雄弁さを備えた良い著述家を教えるべ
きである、ということであります。
」
ここで特筆すべきは、ギリシャ、ラテンの両方の言葉の教育を理想とした点に、コレットの
人文主義的教育観が読み取れることである。単に学校の役割が当時多くの文法学校でみられた
ような実用目的だけならば、ラテン語学習だけで十分なはずなのである。ギリシャ語の必要性
を指摘した点を鑑みると、コレットがかつてギリシャ、ラテン研究を軸とする「新学問」(57)を
オックスフォードに取り入れたように、イタリアからの学問的新思潮を中等教育レヴェルにも
吹き込もうとしたと捉えることができる(58)。マックドンネルによれば、聖パウロ学校がイング
ランド教育史上ギリシャ語を最初に教えた中等教育機関であったと言われている(59)。教室には、
エラスムスが書いた次のような詩が掲げられていた(60)。
「この若き者たちは(あたかも新しい煉瓦のように)、ギリシャとラテンの両作品を、
」
そして幼い子どもの内から聖なる信仰とキリストを生涯にわたって吸収します。
Haec rudis(tanquam nova testa),pubes Literas Graias simul et Latinas, Et fidem sacram
140
tenerisque CHRISTUM Conbibet annis.
第 2 に、
「良い著述家」とはどのような人物かということが明確にされている。それは「特に
良い著述家とは、韻文体や散文体の汚れのない純粋なラテン語で、自分たちの賢い行いを書く
キリスト者」ということである。その理由として「私の意図することが、この学校によって、
子どもたちの中に神と、私たちの主であるイエス・キリストと、そして良きキリスト者として
の生き方に対する知識と崇拝の念を富ませることにあるからです」と宗教的動機を明らかにし
ている。従って聖パウロ学校での言葉の教育とは、キリスト教教育のためにあり、この教育目
標を達成するために、正しい古典語を書き、キリストの教えを説いているそのような著述家、
或いはそのような作品を通じて学ぶべきとの教育理念が示されているのである。
第 3 に、この目的を達成するために、学習段階に応じた教育内容が設けられている。
「この意
図のために、私はまず子どもたちに英語でのカテキズム全てを学ばせ、
(筆者註;その次に)私
が作ったラテン語の初級文法書を、或は子どもたちがより早く適切にラテン語が話せるのに、
他に良いものがあるならばそのような文法書を、その後に、私の求めに応じて学識あるエラス
ムスが書いた『キリスト者の手引』Institutum Hominis Christiani (1514)や同じくエラスムスの『表
現と内容の豊かさについて』De duplici copia verborum ac rerum(1512)を、それから真なるラテン
語を話すという目的のために最良と思われる、 ラクタンティウス Lactantius Lucius Caecilius
Firmianus (240?-320/330?)、プルデンティウス Prudentius Aurelius Clemens(348?-404?-)、 プロバ
Proba(360?活躍)、 セドゥリウス Sedulius(5 世紀前半活躍)、ユウェンクス Juvencus Gaius Vettius
Aquilinus(330?活躍)、 バプティスタ・マントゥアヌス Baptista Mantuanus(1447-1516)、その他の
キリスト的著作を学ばせるつもりであります。
」
上述に示された各教材を学習段階に留意しながら整理するならば、まず導入部分に英語のカ
テキズムと初級文法用テキストを配置することで、子どもたちにより身近な英語での宗教教育
とラテン文法を教えることを想定していたと考えられる。次に中級段階としては、より進度が
進んだ形で、英語からラテン語訳し直したカテキズム「キリスト者の手引」と『表現と内容の
豊かさについて』とを使用することにより、ラテン語による宗教教育と修辞教育を施す意図が
あったと読み取れる。そして最後の上級段階では、ラクタンティウス等やキリスト的著作の原
典講読を示していたことから、宗教教育とラテン語教育とを一体化させ、言葉の教育を通じた
道徳的教育の総仕上げと期待したと言えよう。なお、ここで示された 6 名の具体的な著述家に
ついては、後の節で取り上げる。
第 4 に、当時使用されていたラテン語に対するコレットの強い非難とも捉えられる見解が述
べられている。それは逆に言えば、子どもたちが修得すべき理想的なラテン語像を示唆するも
のでもある。
「無学、分別のなさ、愚かさが、野蛮で、原文の改悪した、偽りのラテン語をこの
世 に も た ら せ ま し た 。 同 様 に 無 学 、分 別 の な さ 、 愚 か さ が 、 キ ケ ロ Marcus Tullius
Cicero(106-43B.C.)、サルスティウス Gaius Sallustius Crispus(86-35B.C.)、ウェルギリウス Maro
Publius Vergilius(70-19B.C.)、テレンティウス Publius Terentius Afer(190?-159B.C.)が使っていた時
代の古いラテン語話法や正当なローマの言語を歪め見下してしまったのです。それはまた、ヒ
エロニムス St. Jerome Eusebius Hieronymus(347?-420?)、アンブロシウス Ambrosius(339?-397)、 ア
ウグスティヌス Augustinus(354-430)、その他の多くの聖なる博士が、彼らの時代に学んでいた
ラテン語のことでもあります。
」このように、コレットがラテン語という言葉の乱れに憤りを感
141
じ、正しいラテン語への回帰を切望していたことが分かる。
上述で「野蛮で」と訳した barbary は、他にも「教養に欠ける」や「優雅でない」という意
味が、また「原文の改悪した」と訳した corruption には、
「堕落」や「なまり」という意味が、
そして「偽り」と訳した adulterate には、
「汚れた」などという意味がある。コレットは、中世
において霊性さとはかけ離れた人間が作りだした、改変したラテン語を強い調子で非難する。
コレットが聖パウロ学校で教えようとしたラテン語とは、神性なる万物の創出元、そういう意
味では原典に近い、純粋で、洗練されたものを指すと解することが出来よう。
最後は、教師への次のような呼びかけで締めくくられている。
「それまでの無学の時代が持ち
込んだ品のなさや口汚さは literature というより、むしろ bloterature (筆者註;blott とは「汚れ、
しみ、傷付いた」に由来するコレットの造語)と呼んでも構わないでありましょう。私は教師
たちに対して、bloterature をこの学校から完全に排除し、そして善なるものを常に教え、子ど
もたちがきれいで汚れのない雄弁さと学識の備わったギリシャ語、ラテン語の作品を読めるよ
うに指導することを命じます。
」
第 7 項全体を通じて見えてくるところのコレットの捉える学びへの姿勢とは、霊的な繋がり
を求める原典に立ち返った学問の追求であり、またそれを子どもたちに指導していく教師たち
の実際的な役割を重視するものだった。学びに対して「汚れた」という意味を示す新たな造語
を作りあげたところに、純正な言葉を求めるコレット流の風刺も感じられよう。
第 4 節 黄金ラテン期作品にみるラテン語の純粋性
前節では「学校規則」の第 7 項の概要をみてきた。その中には、キケロ、サルスティウス、
ウェルギリウス、テレンティウスなどのギリシャ・ラテンの古典著述家の名が挙がっていた。
本節では、特にこれら名の挙がった人物を中心に、コレットの教育理念を探っていく。
ハックニーAmy Gabrielle Hackney(1992)が指摘するように、コレットがこれら異教の著述家を
「何か教えられるべきか」という項目の中で言及していることを根拠に、異教作品を容認して
いたとする見方がある(61)。しかし、この部分を今一度精読するならば、コレットは子どもたち
にこれらの著述家の作品そのものを読むようには書いていない。コレットは、聖書解釈の中で
異教作品に対して「キリストを見つけることのないこれらの本は、悪魔の目録でしかない」(62)
とさえ述べている。同規則を丁寧に読み解けば、彼はそうした著述家が使用していた時代の「純
粋な、汚れのないラテン語」
、そのようなラテン語自体の価値を認めているのである。よって、
コレットが理想とした時代のラテン語とはいかなるものであったのか、その特徴をみてみる必
要があろう。
キケロらが活躍していた紀元前 1 世紀頃のラテン語の特徴は、ラテン語の変遷を辿ったその
歴史の中で古典ラテン語期、ラテン黄金期と言われるラテン語期におおよそ属している。この
期のラテン語は、規範かつ美的範例としてのラテン語として特徴付けられている。また、この
期の著述家たちは、
「言語を正すことによって言語・文体の質の高さ」(63)を追究していた。言
葉を正すとは、言語の純正さについて考えることであり、この純正さとは「文法上の誤りを避
けるだけではく、表現ごとの最適な言い方を探ること」(64)を意味する。そこで、ラテン語黄金
期を築き上げた著述家たちのラテン語とその文体上の特徴について、主に高津春繁及び齋藤忍
随、家入敏光の文献に依拠しながら整理する(65)。
142
1) キケロ(英語名;Tully);古代ローマの哲学者、政治家、雄弁家。彼は修辞学的著作、哲学
的著作を残し、
「古典的ラテン語の創造者」と言われ、ギリシャ語の原典を翻訳し、またラテン
語にない語彙や表現の翻訳語を作り出した。例えばhomoから派生したラテン語のhumanus「人
に関する」の意味を「あるべき人間である」の意味へと大きく転換させるなどした(66)。キケロ
の文体はラテン語の模範とされ、近代ヨーロッパ諸言語の文語体形成に多大な影響を与えたの
である。彼の哲学談義、演説は平明にして美しい素直な文体で書き綴られ、また書簡において
は、情感にみちた見事な散文体となっている。他方で、そのような文体とは全く異なって、イ
ソクラテス式の長いピリオドの、豊かに流れる大河のような言葉に満ちた文体を好む傾向も見
られた。
雄弁家としてキケロの演説は、100 を超えたとされるが、その内 58 が伝存している。道徳哲
学書の中でも後世、中世を通じて近代に至るまで愛読されているものには「トゥスクラーヌム
「神について」
Dē nātūrā deōrum 3 巻、
「義務について」
De officiis
談論」
Quastiōnēs Tusclānae 5 巻、
3 巻がある。この他「老年について」Dē senectūte、
「友情について」Dē amīcitiā の 2 小篇も知ら
れている。彼の全ての著作は、道徳論が中心となって展開されている。
2) サルスティウス(英語名;サルスト Salust);古代ローマの歴史家、政治家。カエサル Gaius
Julius Caesar(102-44B.C.)と親交を結び、一時ヌミディアを統治した。その著には『ユグルダ戦
記』Bellum Iugurthinum、
『カティリナ戦記』Bellum Catilinae がある。彼の作風は、歴史家とい
うよりは、その素晴らしい語り手、文体の作り手という観点から、後のラテン文学に多大な影
響を与えた。
3) ウェルギリウス(英語名;ヴァージル Virgil);古代ローマの詩人。彼はラテン文学随一の『ア
エネーイス』Aenēïs などラテン叙事詩の極致を残した。そこには、比類のない詩句に満ち、詩
的に技巧的に琢磨された美が認められる。彼は幾行にもわたる長文を用いて、韻律の切れ目を
超えて文をつなぎ、更に簡潔な表現の中に深長な意をひそませるという、一つの新しい文体を
創造した。また「田園詩」Būcolica 10 篇のうちの第 4 歌は、黄金時代を切り開く子どもの誕生
を予言しているかのような内容であり、キリスト者はこれを救世主の予言と重ねた。
4) テレンティウス(英語名;テレンス Terence);古代ローマの喜劇詩人。彼の典雅なラテン語
法は、ラテン文学の粋としてカエサルやキケロからも洗練された喜劇として賞賛された。テレ
ンティウスのラテン語は、
当時の上流の人々が用いた純粋な、
俗語を交えないラテン語であり、
穏やかな作風である。
そもそも古代ギリシャ・ラテンの詩人や思想家たちは、
「自然と社会における人間の在り方」
を追求し、中でもラテン文学と言われるものは、その基本的価値「フマニタス」
(humanitas;
人間理解・教養)
、自由、正義などの精神のみならず、神話、英雄伝、修辞法、詩作技法、文芸
的領域をギリシャ文学と共有し、
「古典文学」Classical Literatureという名称の下に、ギリシャ文
学と一体をなして捉えられてきた(68)。このギリシャ・ラテンの「古典文学」には、広く歴史、
道徳論、法廷演説、好色文学が含まれる。このような異教作品が、キリスト教教育には不適切
(67)
143
だという考えは中世以前からあった。その主な理由として「詩人たちは多神教的であったし、
神々について、とりわけすべての神々の父について詩人が語る物語はたいてい、精神的教化を
欠いていたり、徹底的に反道徳的であったりした。ローマの修辞学は、正しい目標に使えば有
益であろうが、純朴な信心を失って演説と議論をますます達者にさせるばかりだった」(69)から
である。また異教作品自身にも「人間あるがままの姿をよしとするのか、古来の美風を尊ぶべ
きか」(70)という人間の行為のありようを問う態度が混在していたのである。古典作品の中には、
質の高いラテン文体による作品だけではなく、幼い子どもたちへの道徳的テキストには不向き
な作品や文言などが多く含まれていたことに留意しなければならない。
15 世紀のラテン研究、すなわち古典テキストの研究基本であるテキスト伝承学と校訂学の第
一人者ロレンツォ・ヴァッラは、
「ラテン語の作文において古典的模範を重視していたので、キ
ケロ風のラテン語を第一に礼賛する」(71)傾向にあった。他方でもう一人、ラテン研究の第一人
者とされるアンジェロ・ポリティアスヌAngelo Ambrogini Politianus(1454-1494)は、そのような
キケロ至上主義を拒否し、キケロに代表される黄金期のみならず白銀の時代をも含めたあらゆ
る作家を取り入れていたのもまた事実である。エラスムスは、1527 年に『キケロ派』Ciceronianus
を出版し、行き過ぎたキケロ信奉者が冒す多くの過ちを揶揄している。しかしながら、これら
のことは、キケロがラテン文体上いかに重用されていたかを示すものでもある。
したがって、ここにコレットが学ぶべき人物として挙げた古典著述家たちに共通してみられ
る点を検討するならば、それらの作品が何を題材にし、そこで何を訴えたかったのかという内
容面をコレットが重視していたというよりも、むしろラテン語の素晴らしい文体への追求者と
いう共通性をもって、彼等の使用したラテン語そのものに教育的価値をおいたと言えよう。仮
にコレットが「義務について」などに代表されるキケロの哲学的著作をも重視していたのであ
れば、エラスムスが校訂した「恩恵について」De beneficiisや「寛容について」De clementiaを著
わしたセネカSeneca Lucius Annaeus(B.C.5-A.D.65)にコレットが言及しなかったことは不自然で
ある。キケロとセネカの違いの一つに、彼らのラテン文体上の相違がある。セネカは、古典修
辞学の規範やキケロの文体聖典とは決別し、生活に即した口語文体に近づこうとしたのだった
(72)
。
第 5 節 教父作品にみる霊的な言葉
第 7 項には前節で考察した古典作家以外にも、ヒエロニムス、アンブロシウス、アウグステ
ィヌスといった偉大な教父の名が挙がっていた。彼等が活躍した時代は、共に紀元後 4∼5 世紀
である。コレットの求めたラテン語教育のあり方を探るため、この時期のラテン語には、どの
ような特徴があったのかをみてみる。
この頃は、学術専門書というものが出現し、ラテン語の歴史の中でも、文体の洗練化がみら
れ、よって口語と文語が一層乖離していった時期である(73)。教父らが使用した言語は、ラテン
語に対してキリスト教を土台にした学者的性格が付されていたために、口語を主とする民衆語
とは大きく異なるものとなっていた。またこの時代は、ローマ帝国が 395 年に東西に分裂しな
がらも拡大していった時期と重なるため、ラテン語は公用語としての性格も強めていった。ラ
テン語は、ローマから離れた遠隔地にいくに従って、教育を受けない層が使用する「田舎風の
粗野」rustictiasな性格をも帯びていったのである。ジャクリーヌ・ダンジェルJacqueline
144
Dangel(2001)は、変容しつつある当時のラテン語を「教養人」litteratusと「無教養人(民衆)
」
illiteratusとが使用するものとして分け、加えてそうした人々の使用場面に応じて以下のように
分類している(74)。
・
「教養人」litteratus のラテン語
(1) 話し言葉
1) 弁論ラテン語(演説)
2) 改まったラテン語(公的生活)
3) 日常ラテン語(私的生活)
4) くだけたラテン語(個人言語)
(2) 書き言葉ラテン語
1) 弁論ラテン語(演説、哲学談義)
2) 改まったラテン語(公的行政)
3) 日常ラテン語(書簡、論述、専門書)
4) くだけたラテン語(民衆の話し言葉からの模倣、落書きなどの半教養人的書き
物)
・無教養人(民衆)illiteratus のラテン語
(1) 話し言葉
1) 改まったラテン語(教養人との垂直関係の意志疎通)
2) 日常ラテン語(私的生活)
3) くだけたラテン語(個人言語)
(2) 書き言葉は存在しない
litteratusという言葉は、上述のように学校に行くことによって習得した「ラテン語を読み書
く能力」という意味も内包していたが、更に時代が下り 13 世紀末になると「ラテン文学に通暁
する能力」へと意味が変容していった(75)。ラテン研究に精通するほどに教養のある人litteratus
と、教育の機会を得ずに、そのような教養を持ち得ない一般民衆illiteratusとが使用するラテン
語に分化していった事が分かる。このようなラテン語の変遷をみてみると、コレットはラテン
語が顕著に多様化し、粗野にして乱れていく以前の、学識高く洗練された姿を教父作品の中に
みてとったと言える。以下、それぞれの教父とその作風をまとめる。
1) ヒエロニムス;キリスト教の教父、聖人。厳格な実践的禁欲主義的聖書学者。彼が大改訂
したラテン語訳聖書『ウルガータ聖書』Vulgata (390-405)は、公認聖書となる。また『書簡』
Epistl(70,2)の中で、自らの経験をもとに、異教の教育を受けた正統派のキリスト教徒が感じた
ディレンマを『申命記』Deuteronom(21,10-13)を取り上げることによって表現した。
2) アンブロシウス;ミラノ司教(374-397)
、聖人。彼はローマ詩の伝統に基づきながらも初
期キリスト教賛歌の要素を多く保った、ラテン賛歌詩の創設者、父と見なされている。東方ギ
リシャ教教父の神学に通じ、アレクサンドリア学派の聖書解釈を紹介し、自らも聖書解釈と説
145
教、禁欲的生活を通じて人々に影響を与えた。また典礼を改革し聖歌を作曲するなどし、西方
ラテン教会の典礼の主要部分になった。彼の夕べの賛歌の中には、信仰と愛による人間精神と
神との一致を歌い上げている箇所もある。キケロの『義務について』にあるストア的な内容を
改変し、キリスト教の倫理的規範を説いた『聖職者の義務について』De officiis ministrorum を著
わした。
3) アウグスティヌス;北アフリカのヒッポレギウスの司教、最大のキリスト教教父。キリス
ト教ラテン詩・賛歌においても先駆者の一人に挙げられる。キケロが「雄弁家」で表した修辞
学上の三つの文体理論を、キリスト教説教師にも有効に利用できるよう改作し、
『キリスト教教
理』De doctrina Christianaを書いた。彼は古典ラテン語の規範とキリスト教教会で使用されるラ
テン語との質的な差を明確に区別しえた。このため司教を務めた北アフリカでは、地理的条件
に関わらず、正しいラテン語の知識が残った(76)。また彼はプラトン主義の影響を受けつつも、
使徒パウロの深い理解者として、ギリシャ哲学とキリスト教を統合させ、独自の神学を構築し
た。一方で、ギリシャ哲学にみられる野蛮さに対して攻撃するような作品『神の国について』
De civitate Deiをも残している。
以上、それぞれの教父とその作風を通じ共通して見えてくるものは、彼らが洗練されたラテ
ン語を使用したこと、異教の哲学や道徳的作品を改変させることによって、キリストの教えを
見事に書き表したことである。コレットはキケロなどの異教作品に対しては、そこに純正なる
ラテン語が追求されていたために、修辞学的文体上の模範をみてとり、また教父作品からはキ
ケロの時代にはないキリストの精神に沿う新しいキリスト教用語としてのラテン語をみてとっ
たと言える。キケロの時代以降の、教父時代に作られた新しいラテン語の例を挙げるならば、
キリストを意味する「救世主」salvatorというラテン語は、キリスト教以前のキケロの時代にあ
っては上述のsalvatorという言葉ではなく、宗教とは無関係なservator(救う者)が使用されていた。
これは「奴隷」servusと同じ語源のservare(見張りをする)の派生語である。しかし、教父の時代
になると、この「見張りをする」から転じて使用されてきたservatorは、宗教的雰囲気に欠けて
いたため、
「安全、安泰」のsalvusから派生する新語としてsalvatorが作られ、使用されたのであ
(77)
る 。アンブロシウスや後述のプルデンティウスを代表するキリスト教詩とは、神への賛美を
本質的な目的とし、それに詩人自身の聖化と、信徒を始めとする全ての人々を教化して神へと
導き、神なるキリストへの信仰を全ての人々が有して、神の国を建設する道具としての役割を
担っていた(78)。
ところで、言葉の純粋性の追求には宗教上の動機が認められる。コレットらキリスト教的人
文主義者に共通するところの純粋なラテン語への執着の背景に、渡辺誠一は宗教性をみてとっ
た(79)。そこでは、キリスト教的人文主義者が「汚れのない」言葉に固執する理由を、言葉自身
のもつ神性に求めている。ヨハネによる福音書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共
にあった。言は神であった」(1 章 1 節)という言葉で始まる。logosには、
「人々が話す言葉」と
同時に、三位一体の第 2 位としてのキリストを意味する。聖書が書かれたラテン語、ギリシャ
語、ヘブライ語という言葉自体には、キリスト教的人文主義者に共通に認められる「聖書の言
葉に内在する神からの啓示」としての意味が内包されているとの指摘である。原典に書かれた
言葉を追求する姿勢は、学問と信仰とを結びつけたキリスト教的人文主義者の使命であり、ス
146
コラ学者が行っていた原典から乖離した改変は許されないことだった。
コレットもまたオックスフォードのパウロ書簡の講解を通じて、言葉の在り方について次の
ように述べている。すなわち「全ての知恵や言葉は、聖霊から来ているのです」(80)と。この点
をもってコレットにおいて本来的な言葉とは、万物の流出元たる一なる神から創造されたもの
である、とする新プラトン主義的立場が明らかに認められよう。彼は霊的人間でない者がこの
世において言葉本来の姿を変えてしまったとし、今改めて神性さの宿る汚れのない言葉を探り
出す必要があるとみる。コレットは「パウロや弟子discipulusであるディオニュシオスなどは、
聖霊に依らない人間の言葉が、神の啓示と混同されることを良しとはしていませんでした」(81)
と述べ、
「言葉は信仰を必要とするものなのです」(82)と主張した。このようにコレットは、こ
の世の知恵からくる言葉と聖霊からくる言葉との違いを区別する。それは、2 種類の言葉が並
存するというよりは、キリストと同義とされる神秘性を帯びた霊的言葉が、神との霊的繋がり
を持たない人間が使用する言葉によって覆われている状態、すなわち重層的で二重性を帯びた
言葉の在り方を意味する。本来ならば神性さを有しているはずの言葉を、肉的世界に生き、霊
性さを有していない人間が汚すことは、神を冒涜するであると見なしているのであった。神に
連なる言葉とは、霊的人間が語り、書くべきものなのである。この講解を通じてコレットもま
た、パウロが主張したように、人の知恵に教えられた言葉ではなく、霊に教えられた言葉を用
いるべきである、と強調しているのである。したがってコレットにおいては、隠された神の言
葉(啓示)を見つけ出すために、美しく、純正なるラテン語、文法的な誤りのない構文、そして
可能な限り原典に近いテキストを求め、より神に近い高次の人間が使用する神秘性のある霊的
言葉、文体、作品が求められたのである。
ところでコレットは、言葉に関連して次のようにも述べている。
「神の国は、言葉にあるので
(83)
はなく、神のような行動を起こすところにある」 と。汚れのない神性さを有する言葉、換言
するならば、愛のある言葉は、それを獲得した人間を神の義に適う行動へと誘い、駆り立てる
もの解された。この意味で、純正なる言葉の修得は、それ自体を目的としない。人間は霊性さ
を有さない汚れた言葉を排除し、霊的人間によって話され、書かれた、神なる言葉を求め、獲
得し、それを啓示として自らの内に取り込まなければならないのである。かくして「一つの霊
から出された知恵の言葉、知識の言葉などが一人一人に与えられ、やがては社会全体の益へと
向かっていくもの」(84)とされた。このように、コレットが子どもたちに純正なる言葉に執着し
たのが、上述にみてきたような宗教的理由から説明できるよう。
第 6 節 キリスト教的作品にみる修辞学的技法とその霊性
第 7 項の最後の部分には、ラクタンティウス、プルデンティウス、プロバ、 セドゥリウス、
ユウェンクス、 バプティスタ・マントゥアヌスなどの 6 名を学ぶべき著述家として列挙してい
る。活躍した時代も異なるこの 6 名には、時代的共通性はない。そこで彼らの代表的な作品に
着目しながら、その作風をまとめてみる。
1) ラクタンティウス;神学よりも修辞に優れ「キリスト者キケロ」と呼ばれたラテン教父、
修辞家。ニコメディアで修辞学を教え、のちにコンスタンティヌス大帝に招かれ、ガリアで帝
の長男クリスプス Crispus の教育係をした(312-318)。
「神の御業について」De opificio Dei では、
147
神の作品としての人間の身体組織から神の存在と摂理を弁証した。「神学綱要」Institutione
divinae では、異教哲学者に対して真の宗教としてのキリスト教を弁論し、異教・哲学・ユダヤ
教の空虚さを論じた。
2) プルデンティウス;古典的な言語技法を完全に駆使してキリスト教的宗教詩を作った、キ
リスト教ローマ詩最大の詩人。兵士、弁護士、判事などになり、中世において「キリスト者ピ
ンダロス Pindar(522?-440?B.C.; ギリシャの叙情詩人;ギリシャの勝利をたたえる頌歌 Epinikia
で有名)」として知られ、専らキリスト教的宗教詩を作成した。彼の「魂の戦い」Psychomachia
は、比喩的方法を用いた魂における善悪の闘いが描かれおり、ビベス Ludovicus Vives(1492-1540)
によって学校用テキストとしても使用された。また夜も昼も神を賛美する「日々の賛歌」
Cathemerinon、異教と戦いカトリック信仰と道徳を擁護する「崇神詩」Apotheosis、
「罪悪の源
詩」Hamartigenia、
「霊魂をめぐる戦い」Psychomachia、殉教者・使徒をたたえる「栄光の冠」
Peristephanon などがある。彼の作風の一つに、キリスト教的霊感と古典的様式の抒情的詩句を
作ろうとした点が挙げられている。
3) プロバ;女流のキリスト教ラテン詩文編者。一般的にキリスト教ラテン詩としては、旧・
新約的な詩、殉教詩、格言的短詩、教訓詩、賛歌などがある。彼女は、改宗前に時事的な題材
を叙事詩の形式で歌っていた。また聖書全体から抜粋した逸話を題材に、キリスト教ラテン詩
文の寄せ集め詩集を編んだ。旧約聖書、新約聖書をウェルギリウスの詩句の寄せ集めで歌った
のである。彼女の作品にもみられるように、一般にキリスト教詩は、異教詩によって作り上げ
られた形式の上にキリスト教的精神が付け加えられていることが特徴でもある。
4) セデュリウス;キリスト教ラテン詩人。修辞学校教師で、異教徒にキリスト教の偉大さを
知らしめるべく、ヘクサメーター(六脚韻詩型)でイエス・キリストの生涯を歌った。アンブ
ロシウス、プルデンティウスらと共にセデュリウスの作品は、その構文において古典的で、ま
た高い詩的才能と信仰を高める力を内在させていたため、教会の賛歌として用いられた。神殿
における博士たちの間で少年博士としてイエスを描写した彼の著作に、コレットは魅了された
と言われている。
5) ユウェンクス;キリスト教ラテン叙事詩人。その生涯についてはほとんど知られていない
が、
「福音書物語」Historia Evangelia において、六歩格の福音的パラフレーズを書いた。彼は、
四福音書の著者に付された伝統的な象徴を重んじ、
「福音書物語」の序で、マタイを立法者、マ
ルコを鷲、ルカを雄牛、ヨハネを獅子(後世の著述家らによって、ヨハネとルカは置き換わっ
た)となぞらえている。また、伝統的な叙事詩の文体を維持しようと努め、古典ラテン語の翻
訳を史料として用いた。
「キリスト教的ウェルギリウス」と称されるカルメル修
6) バプティスタ・マントゥアヌス;
道会托鉢士。彼の「牧歌」Bucolica は、ウェルギリウスの「田園詩」Ecloga の粗野な部分を取
り除き、
優雅に仕立てた、
短い選り抜きの選詩作品である。
またこれは、
エリザベス朝(1558-1603)
の一般的な文法学校用教科書として使用された。
148
以上、6 人の著述家は一様に、散文体で書かれた福音書を韻文体に表現し直し、キリスト教
的色彩の濃いた作品を残している。コレットは、道徳的要素を取り入れたラテン語教育の最終
段階として、これらキリスト教的著述家名を挙げていた。トラップによれば、コレットが彼等
を推薦した理由には、その宗教性に加えて、彼等の福音書に対する解釈上の方法論的手法、す
なわち修辞的技法に一層注目していたからだとみている(85)。そのため、原典の典拠先にはコレ
ットと同時代である 16 世紀の著述家も含まれ、
必ずしも古典作品でなければいけないという事
にはならなかった。
中級段階で学ぶとされたエラスムスの『言葉と内容の豊かさについて』にみる修辞法とは、
一つの言わんとする主旨に沿って、多種多様な表現方法で書き表すことが出来るようになると
いうことである。上級段階で読解として取り上げられるこれら 6 人の著作は、福音書に底流す
るイエスの一貫した教えを、
卓越した修辞的技法によって表現したものなのである。
聖書には、
多様な表現方法が駆使され、隠喩や寓話が多く使用されている。聖書を読み解くことは、幼い
子どもたちとっては難解な行為と言えよう。これら 6 人の著作を通してみる、聖パウロ学校の
言葉の教育の目的は、キリストの教えをそれぞれの子どもが直に読み解いていくために必要な
技術や手段、判断力を身に付けさせることにあると言えよう。ブルバチャーBrubacher(1984)は、
コレットの求める修辞的技法が神への賛美や聖書の原典批判を可能にし、また教育の刷新を促
すものであったと評価している(86)。
ところで、6 名の著述家の一人であるマントゥアヌスは、生涯にわたる全作品において一貫
してキリスト教的宗教性を書き著していった。コレットは、自身と同時代人であるこの著述家
に対し、聖パウロ学校生のために宗教詩を作成するよう依頼するなど、彼を非常に気に入って
いた(87)。事実コレットは、かつて行っていたオックスフォードでの聖書解釈講義の中で、マン
トゥアヌスのギリシャ語訳を引き合いに出しながら聖書解釈を行っていた程である(88)。現在、
6 人のうちでマントゥアヌスの『パルテニアエ(無垢なる子どもたち)』Partheniaeのみが実際に
聖パウロ学校で使用された教材として確認されている(89)。彼の作品は、古典的文体によってキ
リスト教的素材を扱ったという点で、当時エラスムスを始め広く高い評価を受けていた(90)。ま
た「共同生活兄弟団」Brethren of the Common Lifeや初期の「イエズス教団学校」Jesuit Colleges
の兄弟団においても使用されていたのである。このことは、彼の作品がキリスト教的人文主義
の精神に合致する「新しい敬虔」Devotio Modernaすなわち、平信徒向けの敬虔で禁欲的態度を
伴った内的信仰の確立を促すことに適した教材とみなされていたと言えよう。
このように聖パウロ学校の子どもたちは、キリスト教の基礎を知識として学び、ラテン語の
文法、修辞学習を終えた後、マントゥアヌスらの著作そのものと霊的交流を図りながら読みこ
なす事で、ラテン語を自由に操れるのみならず、聖なる言葉の背後にある神の愛を主体的に捉
えることで感受されうる信仰をもつことが望まれたのである。
ところで、聖パウロ学校設立からおよそ 50 年を経た 1559 年のカリキュラムには、ここに示
されていたプロバ、プルデンティウス、セデゥリウス、ユウェンクスといった 4 人のキリスト
教的著述家の名は削除されている。また「キリスト教的キケロ」と言われたラクタンティウス
さえも含まれていないのである。先述したように、設立から 50 年後の聖パウロ学校は、ギリシ
ャ、ラテンの諸作品を扱う他の世俗的人文主義の学校と変わらない教育内容となっていたので
「学校規則」の中で、時代に応じて諸規則を改変する権限を絹織物組合
ある(91)。コレットは、
149
に与えていた。皮肉にも彼が執着した強い宗教性は、時代の流れに飲み込まれ、設立当初の教
育理念は薄れていってしまったのである。
おわりに
以上、コレットが自ら作成し、規定した「学校規則」の内容を検討し、当時の文法学校と比
較・検討しながら、彼が求めた文法学校での言葉の教育のあり方を考察してきた。
そこでまず、16 世紀初頭のイングランドで隆盛した文法学校とはどのようなものであったの
かについてみてみた。ラテン語教育は、中世においては、主として聖職者の独占事項であって、
教会内で行われていたにすぎなかったのである。やがて、ロンドンの商業的成功にみられるよ
うに、商人たちが社会的に台頭していくにしたがって、俗人にとってもラテン語が必要とされ
た。すでに 15 世紀末あたりから、俗人による俗人のための文法学校が次々に設立されるように
なり、よってラテン語は教会権力の手から俗人の手へと渡り、それに伴って国家の要職もまた
俗人が担うようになっていったのである。だがこの時点においても結局のところ、言葉という
ものは、実務をこなすための手段として捉えられていたことには変わらなかった。特に外交貿
易が活発となり、或は行政面でも整備されていくにつれ、俗人の間ではより実践的な言葉の能
力の獲得が意識されるようになり、一層効率的な学習方法が工夫されていったのだった。
さて、コレットが作成した「学校規則」にもまた、俗人の団体に学校の管理・運営を任せる
という点が明記されていた。実際、彼の文法学校には、絹織物組合を中心とした多くの中産階
層出身の子弟が入学し、また卒業後は大学や法学院に学んだ後、国家の要職に就くなどし、聖
パウロ学校も都市エリート層を輩出していたのである。コレットの学校を、隆盛する都市市民
階級に必要とされた一文法学校であったかどうかという点からみれば、やはり「子どもたちが
より早く適切にラテン語が話せるように」との文言が盛り込まれている点から、他の文法学校
同様、実践性のあるラテン語能力の養成が目指されていたことが分かる。しかし、彼が求めた
文法学校とは、このような実学目的のラテン語教育を行うというだけのものではなかった。
これまで明らかにしてきたように、コレットの思想的特徴からみれば、彼の中で人間とは真
なるものとの直接的な接触によって、
善なる神と引き上げられるものと捉えられてきた。
また、
キリスト教的人文主義者コレットにとっての言葉の力とは、人間に内在する魂に働きかけ、人
間を神へと近づけんとするものであったことに違いない。すなわち純正にして美なる言葉こそ
が、子どもたちの内面上の形成に大きく寄与するであろうと考えたのである。したがってコレ
ットにとっての言葉の教育とは、単に言葉の上達を目指したものではなく、神に向かわんとす
る人間性の向上に寄与するべきものと捉えられたのだった。
「学校規則」には、こうした彼のキ
リスト教的人文主義思想が随所に反映されたのである。
例えば、聖パウロ学校の文法教育は、身分、出自の別なく、全ての者に等しく与えられるべ
きものと規定されていた。仮に彼が言葉を立身出世のための手段としてしか見なしてなかった
ならば、
他の文法学校同様、
特定の者に限定して入学させるような規則を講じていたであろう。
またこうして全ての者に教育の機会を与えることを現実のものとするため、無償制をうたい、
授業料を徴収しないで済むための具体的な諸規定がなされていたのだった。この点は、教育史
上、特筆すべきことなのである。他にも、本来学ぶべき言葉として、ラテン語のみならず、ギ
リシャ語までもが規定されており、この点からみても、彼の学校では神と連なる言葉を学ぶと
150
いうことが究極の目的であることが分かる。
今一度述べるならば、聖パウロ学校の設立意義は、理想的キリスト教社会を実現するためと
された。そうした社会的使命を負った文法学校の教育は、出世の手段という個別的な事情の中
にではなく、共通の信仰基盤を築くという、言わば普遍的な価値を有する問題として捉えられ
るものなのである。そのため彼の学校の教師たちは、単に言葉を教えられれば良いという位置
付けはされず、子どもたちの模範たるべき人格者としての重責を負わされたのだった。
そこで「学校規則」の中で示されたコレットの理想とする教育的内容を、次の 4 点に整理す
ることができよう。
1 つ目は、聖パウロ学校では文法学校としての教育的機能を負いながらも、その第一目的は、
何よりもキリスト教教育を通じた道徳的教育であったということである。古典語の修得を目指
す職業教育的な実学的教育を追求するに留まらず、賢人の言葉を通じて自らの本性が高まるよ
うに配慮されたのだった。それは、また中世のスコラ神学下にあるキリスト教育とも異なるも
のであった。結局のところ、これまでの如何なる教育においても心の在り方、キリストのまね
びという視点から捉えられた言葉の教育は存在しなかったのである。
2 つ目は、上述の目的を達成するために、キケロらが活躍した時代にみる純粋なラテン語の
修得を目指していたことである。コレットはギリシャ、ラテンの異教的古典作品、すなわち異
教の詩や文学などといった古典作品に対して、そこで語られるところの道徳的教示を全面的に
認めていた訳ではなく、むしろ中世以前の言葉の純正さ、或は乱れのない正しさとしてのラテ
ン語をみてとり、その点を認めていたのである。
3 つ目は、単に純正さのみならず、教父らにみる霊性さが醸し出されるかのような、信仰の
豊かな源泉となりうる、格調あるラテン語の修得を目指していたことである。野蛮な乱れたラ
テン語を聖パウロ学校から排除しようと努めただけではなく、宗教的意味合いが付与され、よ
り洗練された霊的なラテン語を追求し、そのような神の愛に裏打ちされた作品に対して教育的
価値があると定めたのである。
4 つ目は、言葉の背景にある啓示としてのキリストの教えを捉えるために、修辞学的要素を
積極的に取り入れようとしたということである。すなわち修辞的技法にも優れた作品を用いる
ことによって、より良く書き、話し、読むという教育が可能となり、やがては学んだ者の内奥
にキリストの精神性が染み込んでいくのである。これをコレットは、
「神を冒涜するかのごとく
汚れた学び」bloterature ではなく、
「イエスの生き方にみる、キリスト者としてのふるまい方と
考え方が備わる学び」literature としたのだった。
このようにキリスト教的人文主義者としてコレットは、
「学識ある信仰」
を目指し、
純正なる、
霊的な言葉が用いられ、修辞学的技法にも優れたキリスト教的作品そのものに子どもたちを向
かわせるという文法教育を行ったのであった。かくして 16 世紀に入ると、コレットの学校が雛
形とされるように、人文主義の影響を受けて、都市市民の間でも、より典雅な書き方、優雅な
話し方を求めた言葉の教育というものが意識されるようになっていた。
それは端的に述べれば、
文法学や修辞学上の諸規則を学んで、文体上の技術、雄弁さに優れればよいというものではな
く、偉大なる古典作品そのものから、人格的な薫陶を受けるというものであった。
ところが、都市市民らは、成功した自分たちの地位にふさわしい言葉の教育を強く望むよう
になり、
時としてペダンチックな言葉の操りに終わるという事態にもなってしまったのである。
結局のところ多くの文法学校では、人文主義教育の何たるかが分からなかった。そこでは、言
151
葉の持つ力が内面化されることはなく、表層的なものに留まり、ラテン語教育は、より高い社
会的地位を確保するための道具とみなされたままなのであった。ある意味で、それは人文主義
教育の限界と言えよう。
次章では、聖パウロ学校で使用された文法・修辞用テキストを取り上げ、両テキストの執筆
に関わったエラスムスとコレットにみられたキリスト教的人文主義の再解釈を試み、エラスム
スとは異なる、言葉の教育に対するコレット独自のキリスト教的人文主義を検証していくこと
とする。
註
(1) John Lawson and Harold Silver, History of Education in England, Methuen, 1973, p.70.
(2) 本章では主としてラテン語文法学校の歴史的経緯を扱ったが、文法学校に限定せず、中世
末期のイングランドにおける教育体系をまとめたものについては、
次の文献を参照されたい。
梅根悟「イングランド教育の中世的伝統」(梅根悟監修『世界教育史体系 7 イギリス教育史
I』講談社、1981 所収)、pp.44-52.
梅根悟によれば、中世末期のイングランドにおいては、初等教育を教える泡沫的な私
塾以外に、主として次の 3 タイプの学校が存在した。①教会付属の初等教育機関(下級
聖職者養成のための歌唱学校 Song School、教区学校 Parish School)
、②修道院付属の修
道院学校 Monastic School を基に発展した中等、高等教育機関(修道僧養成のための内校
Oblati、一般子弟のための外校 Externi)や修道院尼学校 Conventual School、③俗人による
寄進や遺贈で設立された基金立学校 Endowed School、礼唱堂学校 Chantry School、給与学
校 Stipendiary School、養育院学校 Hospital School、ミサ学校 Morrow School など。これら
の学校で行われた教育レヴェルは様々であり、統一されたものでなかったようである。
16 世紀に入ると一般的な傾向としてこれらの学校のうち、②が大学に、③が中等教育
の文法学校として固定し始めたのだった。特に、この中等学校としての文法学校におい
て、中産階層の就学者が増加したという歴史的経緯がある。やがて世俗の新興階層に支
えられた中等教育機関としてのラテン語文法学校は、イングランドの学校教育の主流と
なり、16 世紀初期はイギリス教育史において文法学校隆盛の時代を迎えたのだった。
(3) J.B.Gleason, John Colet, Univ.of California Press, 1989, p.33.
(4)俗人対象の文法学校の出現の要因には、商人の教育的要求の他にも様々な要因を考慮し
て複層的にみなければならないであろう。例えば 1348 年(その後 1361 年、1367 年と頻発)
に大流行した黒死病による人々の「死」に対する恐怖からくる魂の救済の手だてとして取
られた、礼唱堂付き文法学校設立。1406 年にヘンリー4 世が出した、封建領主下で働く農
民の子弟を対象にした就学許可。1440 年に人文主義に理解を示すヘンリー6 世によって設
立されたイートン校の存在。羊皮紙から紙へと書物の素材の変化。商人階級によるラテン
語教育への高まりと、彼らの虚栄心を満たす形での寄付的行為の延長等である。
この点に関しては、ローソンが詳細に論じているので参照されたい。Cf., John Lawson and
Harold Silver,op.cit.
(5) Ibid., p.74.
(6)斉藤新治『中世イングランドの基金立文法学校成立史』亜紀書房、1997、p.32.
152
(7) Joan Simon, Education and Society in Tudor England, Cambridge at the Univ.Press, 1967. p.59.
(8) Sylvia Thrupp, The Merchant Class of Medieval London 1300-1500,The Univ. of Michigan Press,
1948, p.155.
(9) John Lawson and Harold Silver, op.cit., p.51.
(10) Joan Simon, op.cit., p.80.
(11) Sylvia Thrupp, op.cit., p.160.
(12)リチャード・フォックス Richard Foxe(1448?-1528) 、ウィリアム・ウォーラム William
Warham(1456?-1532)、ジョン・フィッシャーJohn Fisher(1469-1535) カスバート・タンス
タル Cuthbert Tunstall(1474-1559) 、トマス・ウルジーThomas Wolsey(1475-1530) 、ヒュ
ー・ラティマーHugh Latimer(1485?-1555) 、トマス・クランマーThomas
Crammer(1489-1556)、 ヒュー・オールダム Hugh Oldham(?-1519) なども皆、中産階層か
らラテン語文法学校を経てオックスフォードやケンブリッジ入学の後、高位の聖職者と
なった人々である。このことから、商業組合出身の子弟が、実用的なラテン語教育を受
けて社会的進出を果たしたことがわかる。
(13) Michael F.J., McDonnell, The Annals of St. Paul’s School, privately printed for the Governors,
1959, p.61f.
(14) ガレン Eugenio Garin もまた、人文主義教育の価値を十分に認めつつも、その限界を明
らかにしているの。エウジェニオ・ガレン、近藤恒一訳『ルネサンスの教育—人間と学芸と
の革新—』
、知泉書館、2002、p.189 参照。
(15) John Lawson and Harold Silver, op.cit., p.51.
(16) J.B.Gleason , op.cit., p.227f.グリーソンによれば、1519 年のコレットの死、或は 1522 年の初
代校長リリーの死をもって、聖パウロ学校の中でコレットの教育理念が直接反映されることは
なくなり、1559 年のカリキュラムにおいては、コレットが掲げたキリスト教の詩人の名も入っ
ていなかったとされる。
(17) John Colet, Statutes of St.Paul’s School, in J.H.Lupton, A Life of John Colet, Burt Franklin
Reprints,1974, pp.271-284.
(18)Michael F.J., McDonnell , A History of St.Paul's School, Chapman and Hall, 1909 , p.34.
現在、1512 年に書かれたとされる「学校規則」の存在は確認できていない。現存する
最古の「学校規則」は、1518 年のものである。1518 年の学校規則の冒頭には「この小文
書を、私、ジョン・コレットは、1518 年 6 月 18 日に、それを学校で守り尊重するよう
に教師であるリリー(筆者註;初代校長ウィリアム・リリー)の手に委ねた」Hunc libellum
ego Ioannes Colet tradidi minibus magistrj lilij xviiijo die junij ano.Xi.mccccxviij.vt eum in scola
seruet et obseruet. と記され、更にコレットが「自らの手で写本した」manu sua propria
とも書き残されている。従って、1512 年にコレットは最初に「学校規則」を書き、その
後自らが写本したものを 1518 年にリリーに渡したということになる。
この 1518 年の写本は、現在ロンドンの大英博物館と絹織物組合の双方に所蔵されてい
る。なお本論で取り上げる「学校規則」は、ラプトンが『ジョン・コレット』の巻末に
付録として載せた「学校規則」の写しである。これは、ラプトンが 1883 年に書き写した、
1518 年版絹織物組合所有のものである。 CfJ.H.Lupton, op.cit.p.271.
(19)Michael F.J., McDonnell , A History, op.cit., p.33.
153
(20) J.H.Lupton, op.cit, p.271(21) 梅根悟、前掲書、pp.14-19.
(22) 同書、pp.14-19.
(23) Capitulum primum de magistro primario とラテン語で書かれた「校長」という表現は、
規定文の中では High Master という英語に変わっている。High Master という名称は、18
世紀初頭の一時期(Chief Master と変わった)を除けば、設立当初から今日まで聖パウロ学
校で使用されている。Cf., Michael F.J., McDonnell, The Annals, op.cit, p.58.
(24) Michael F.J., McDonnell, A History, op.cit.,p.64.
(25) Ibid., p.37.
(26) Trans.by R.A.B.Mynors and D.F.S.Thomsom, annoted by Wallace K. Ferguson, Collected
Works of Erasmus, The Correspondence of Erasmus, Vol.2,(letter no.237) ,op.cit., 1975.
(27) 英語で surmaster と表記されているこの副校長職名は、
「次位の教師」を意味するラテン語
の submagister からとってきたものと考えられ、現在でも聖パウロ学校で使用さている特有の
呼び方である。Cf., The Oxford English Dictionary, 2nd edition, Vol.,XVII, Clarendon
Press, 1989, p.295.
(28) Michael F.J., McDonnell, The Annals, op.cit.,p.60.
(29) Edit. by Peter G.Bietenholz, Contemporaries of Erasmus;A Biographical Register of the
Renaissance and Reformation, Univ.of Toronto press, Vol.2 (F-M), 1986, p.148.
(30) Michael F.J., McDonnell, The Annals, op.cit.,p.60.
(31) Michael F.J., McDonnell, A History, op.cit.,p.38.
(32) J.B. Gleason, op.cit.,p.223.
(33) J.H.Lupton, op.cit., p.165.
(34) 赤司道雄『聖書』中公新書、1966、p.117f.
(35) 校舎は開閉できる幕によって古典語学習の初級者、中級者、上級者用と祈りの部屋の
計 4 つに分かれていた。また生徒は進度別に更に 8 つに分かれ、上から 5 グループが各
18 人、下の 3 グループが 21 名に分かれて学習した。Cf., Michael F.J. McDonnell , A
History, op.cit., p.62.
(36) J.H.Lupton, op.cit., p.173.
(37) Ibid., p.289.
(38) Translated. and annoted by Craig R.Thompson, Collected Works of Erasmus, Vol.39, op.cit., 1997,
pp.88-108.
(39) J.H.Lupton, op.cit. p.173.
(40)田口仁久『イギリス学校教育史』学芸図書、1982、p.15.
(41) Michael F.J., McDonnell, The Annals, op.cit., p.60.
(42)阿部謹也『世界子どもの歴史 3 中世』第一法規、1984、p.185f.
(43) G.M.Trevelyan, Engliash Social History:A Survey of six centuries from Chaucer to Queen
Victoria, Longman, 1978, p.84.
(44)A.F.Leach, The Schools of Medieval England, Methuen, 1915, p.153f.
(45) J.H.Lupton, op.cit., p.176.
(46) Michael F.J., McDonnell, A History, op.cit., p.58.
154
(47) Edit. by Elaine Fantham and Erika Rummel, Collected Works of Erasmus, Vol.29, op.cit., 1989,
pp.51-70.
(48)鵣川馨「イングランド王国の戴冠式と都市ロンドン」(『西洋史論叢』早稲田大学西洋
史研究会、2007 年 12 月、pp.111-117)p.115.
(49) Samuel Knight, The Life of Dr.John Colet, Dean of St.Paul’s in the Reigns of K.Henry VII.
andK.HenryVIII. and Founder of St.Paul’s School:with An Appendix, Oxford at the
ClarendonPress, 1823(repr. of 1724).
(50) A.F.Leach, op.cit.,, p.279f.
(51) J.B. Gleason, op.cit.,p.219.
(52) Joan Simon, op.cit., p.80
(53) J.B. Gleason, op.cit.,p.223.
(54) Ibid., p.19.
(55) エラスムスによれば、コレットは「最も堕落が少ない俗人の団体である」との理由で、
絹織物組合に学校を任せたと述べていた Cf., Tr.by R.A.B.Mynors and D.F.S.Thomsom,
Annoted by Wallace K. Ferguson, op.cit.Vol.8(letter no.1211).
(56) 聖パウロ学校史を研究したマックドンネルによれば、コレットが父親の遺産を学校設
立に使用した動機を知る手がかりとして、
「聖パウロ教会の新しい学校」the new school of
Pauls と題された絹織物組合の古記録を明らかにしている。Cf.,Michael F.J.McDonnell,
The Annals of,op.cit., p.32.
(57)「古代学問の再興」 (P.O.クリステラー、渡辺守道『ルネサンスの思想』東京大学出版会、
p.26.) のモットーの下で展開された新しい聖書研究には、ギリシャ語の知識が必要とされた。
ところで旧約及び新約聖書が本来どのような言語で書かれていたのかについて、
小林標は次
のように整理している。旧約はその大部分が元来ヘブライ語で書かれていたが、キリスト教
以前においてヘブライ語を理解しない一般ユダヤ人のためにギリシャ語訳も作られていた。
一方で新約聖書の方は、初期キリスト教の信者が主にユダヤ人であったため、最初からギ
リシャ語で書かれた。しかし、広範囲な伝播に伴い、ラテン語のものが必要とされていくよ
うになった。2 世紀のラテン語訳聖書は、公式のラテン語聖書「ウルガータ」Vulgata では
なく、Itala とか Vetus Latina と呼ばれたものだった。これらのラテン語版聖書は、下層階級
の者が使用するようなラテン語で書かれたため、
古典ラテン語の教養を身につけた者には受
け入れられなかった。4 世紀末になってヒエロニムスが教皇ダマスス 1 世の命を受けてよっ
てラテン語聖書の改訳に取りかかり、それが「ウルガータ」と呼ばれるものである。小林標
『ラテン語の世界—ローマが残した無限の遺産』中公新書、2006、pp.232-235 参照。
聖書の改訳の過程を前にしてキリスト教的人文主義者たちは、
ラテン語のみならず純正な
るギリシャ語の必要性をみてとっていた。エラスムスはトマス・モアの愛娘マーガレット宛
てに書簡を送り、新約聖書を読むためにギリシャ語で書かれた新約聖書を読むことを勧め、
ギリシャ語に対する価値を次のように説いている。
「マーガレットよ、あなたは、優雅にラ
テン語を操っています。けれども、仮にあなたが豊かに湧き出る知の泉を多く飲むとするな
らば、ギリシャ語に向かいなさい。ラテン語は、浅い小さな川であります。要するに、ギリ
シャ語は、金の砂の上を流れる豊かな川なのです。プラトンを読みなさい。彼はダイヤモン
ドの付いた大理石の上に書き表しました。しかし、何よりもまず、新約聖書を読みなさい。
155
これは天国への鍵であります。
」Cf., John Edwin Sandys, Harvard Lectures on the Revival of
Learning, Cambridge, 1905, p.199.
(58)トラップは、実際に聖パウロ学校の教育方法が、エラスムスの『学習方法論』
、
『言葉
と内容の豊かさについて』を介して、イタリア人文主義教育の系統を継ぐものであると
指摘している。例えば、聖パウロ学校の教師用手引書として用いられたエラスムスの『学
習方法論』が、北イタリアの人文主義教育実践家グァリアーノ・ダ・ヴェローナ Guarino
da Verona(1374-1460)の言葉から多くを引用していることで分かる、とされたのである。
Cf., J.B.Trapp, ‘From Guarino of Verona to John Colet’, in Essays on the Renaissance and the
Classical Tradition, XIII, Variorum, 1990, pp.45-53.
(59) Michael F.J.McDonnell, A History of ,op.cit., pp.45-47.マックドンネルの主張とは異なり、聖パ
ウロ学校でギリシャ語が実際教えられていたかどうかについて懐疑的な見方もなされている。
それは、コレットが定めた「学校規則」の中には具体的なギリシャの著述家の名が挙げられ
ていない上、実際に教えられた事を示す資料が乏しいためである。
実際コレット自身、ギリシャ語を必要と認識しつつもその修得までには至らず、十分な知
識を有していなかった。そのため「学校規則」の中で言及することは出来なかった、と指摘
されている。ギリシャ語の新約聖書が 1516 年にエラスムスによって初めて出版された時、コ
レットはギリシャ語の知識がない事を悔い晩年になってギリシャ語の知識を補ったとされる。
現実問題として、中等教育段階においてラテン語のみならず、ギリシャ語までをも扱うに
は困難があったことも考えられる。当時ロンドンでもギリシャ語を修得している者は僅か 5、
6 人しかいなかった。印刷の技術上の問題もあった。L.D.レイノルズ、N.G.ウィルソンが明
らかにしているように、ギリシャ語は、ラテン語のように量産的に印刷機にかけられるため
には、ギリシャ語の特有の文字やアクセントそして気息記号との複雑な組み合わせによる技
術的問題を克服しなければならなかった。ギリシャ語の著作は、出版しても経済的に見合う
だけの需要が得られていない。
例えば、
印刷機によって出版されたプラトンの著作について、
ギリシャ語版は 1513 年まで出版されることはなかったが、ラテン語版はすでに 1484 年まで
には 1025 部が発行されていたのである。L.D.レイノルズ、N.G.ウィルソン、西村賀子、吉武
純夫訳
『古典の継承者たちーギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』
国文社、
1996、
p.233f、参照。
このような現実問題に直面しつつも、リリーというギリシャ、ラテン語の大家を初代校長
として迎え、また設立初期の卒業生トマス・ラプセット Thomas Lupset(1495-1530)が聖パウロ
学校卒業後まもなく、エラスムスのギリシャ語聖書校訂の手伝いをした事実を考えれば、少
なくとも学校設立当初はギリシャ語が教えられていたと捉える事は妥当であろう。
またモアにしても聖パウロ学校の事を「トロイ人を攻撃するギリシャ兵を隠した木馬」に
喩えており、
『ユートピア』に付けたピーター・ジルス Peter Giles 宛の書簡(1516 年)には、リ
リーの下で行われていた聖パウロ学校でのギリシャ語とラテン語の授業の様子が記されてい
るのである。
(60) Michael F.J.McDonnell, A History of , p49. この詩は、コレットの「私があなたにあなたの全
ての才能と優しさをもって作ってもらいたいと願っている、私たちの少年のために詩をどう
か忘れないで下さい」という求めに応じてエラスムスが書いた「サッフォーの詩」Sapphicum
Carmen である。
156
(61) Amy Gabrielle Hackney, A New Look at St.Paul’s School, Nashville, Tennessee, 1992.
(62) John Archer Gee, The Life and Works of Thomas Lupset, with a Critical Text of the Original
Treatises and the Letters, New Heaven:Yale Univ.Press, 1928.p.135. カールトンは、聖パウロ
学校の管理・運営方式や系統立った学習計画をもって近代的学校の要素を認めるも、ギ
リシャ・ラテンの古典作品を認めないキリスト教教育を目指していた教育内容について
は「進歩的とみるよりむしろ保守反動」の教育、或いは「人文主義の教育を促進するも
のではなく、むしろ神学偏向への逆戻り」と論じている。Cf., Kenneth Charlton, Education
in Renaissance England, Routledge and Kegan Paul;Univ.of Toronto Press, 1965, p.58.
(63)ジャクリーヌ・ダンジェル、遠山一郎、高田大介訳『ラテン語の歴史』白水社、2001、
p.49.
(64)同書、p.49.
(65)高津春繁、齋藤忍随『ギリシャ・ローマ古典文学案内』岩波書店、2004. 家入敏光『初期キ
リスト教ラテン詩史研究』創文社、1970.
(66)小林標、前掲書、p.193f.
(67)岡道男『ギリシャ悲劇とラテン文学』岩波書店、1995、xii.
(68)同書、xii.
(69) L.D.レイノルズ、N.G.ウィルソン、前掲書、p.65f.
(70)久保正彰『ギリシャ・ラテン文学研究』岩波書店、1992、p.500.
(71) L.D.レイノルズ、N.G.ウィルソン、前掲書、p.218。
(72)ジャクリーヌ・ダンシャル、前掲書、p.49
(73)同書、p.57f.
(74)同書、pp.59-62.
(75)L.D.レイノルズ、N.G.ウィルソン、前掲書、p.172.
(76)小林標、前掲書、 p.249f.
(77)同書、p.236.
(78) 家入敏光、前掲書、p.340.
(79)渡辺誠一「ヒューマニストの言語観と言語教育思想」
、教育史学会第 44 回発表要旨、
埼玉大学教育学部、2000 年 10 月 1 日.
(80) John Colet, Opera, Vol.2, op.cit., p.6.p.162
(81) Ibid., p.18f.p.171.
(82) John Colet, Opera, Vol.1, p.52.p.171.
(83) John Colet, Opera, Vol.2, p.149. p.265.
(84) Ibid., p.134, p.254
(85) J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The early Tudor Humanists and their Books, The British
Library, 1991,p.117.
(86) Demas Brubacher, Epidectic Rhetoric in the Works of John Colet, Memphis State University,
1984.
(87) John F.D’Amico, ‘ Baptista Mantuanus’ in edit., by Peter G.Bietenholz, op.cit.,Vol.2, p.375.
(88) John Colet, Opera, Vol.1, op.cit.,p.33.
(89) J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The early Tudor Humanists and their Book, op.cit.,p.117f.
157
(90) John F.D’Amico, op.cit, p.375.
(91) John B.Gleason, op.cit, p.227f.
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