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プルーデンスとフロネーシスの間

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プルーデンスとフロネーシスの間
千葉大学教育学部研究紀要 第5
4巻 1
9
3∼2
0
2頁(2
0
0
6)
プルーデンスとフロネーシスの間
加
茂
英
臣
千葉大学・教育学部
Between Prudence and Phrone ̄sis
KAMO Hideomi
Faculty of Education Chiba University Japan
自由主義的な近代は,哲学であろうと,法律学,政治学,経済学だろうと,行為の主体を,〈prudence〉という功
利主義的な実践知性から理解して自明なこととしている。その行為構造は,ひとは,快の最大と苦の最小の集成体
(aggregation)としての幸福を追求するものであり,そのための手段の選択に関して有効に熟慮(deliberation)し
て偶然を排除し,自由な選択を行うというようなものである。これはいわば損益計算に終始するような行為主体のこ
とをいう。これが自由な主体といわれ,また利害の主体とも呼ばれている。しかし,この行為の形だけが行為のすべ
てを尽くすわけではない。自分の力ではいかんともしがたい偶然性に開かれた脆い人間の行為の形も存在するのであ
る。これを,アリストテレスのいう〈phrone ̄sis〉を範型にして,功利主義的な近代〈プルーデンス〉に対して〈フ
ロネーシス〉として対置させる。功利的〈プルーデンス〉の起源と,〈フロネーシス〉の非功利的意味の理解を狙う。
キーワード:自己保存(Preservation of Self) 功利主義(Utilitarianism) プロタゴラス(Protagoras)
遇運(Chance) ギリシャ悲劇(Greek Tragedy)
(序)
ヒュロス:(ヘラクレスを)運んでくれ,( airet ’,
供の者 た ち よ,こ の こ と で は,opadoi, megale ̄n
men emoi
大きな心でわたしに同情して。touto ̄n themenoi
)
sygno ̄mosyne ̄n.
神々の大きな無情をみてほしい,
(megale
n
de
theo
 ̄
 ̄n
agno ̄mosyne
 ̄n)
このことが為されるについては。
神々はわれわれを生み,われわれの父と呼ばれなが
ら,
このような苦しみをただ見下ろしておられる。
将来のことは誰にもわからぬとしても,
現在のこの有様は,われわれには悲しみを与え,
神々には恥辱となる。
だが特に,この苦難に悩む方には
誰にもまさる一番の苦しみであるのだ。
(コロスに向かって)
乙女よ,あなたたちも家にいてはならない
思いもかけない怖ろしい死と
数々の怪奇極まる禍いを見たのだ。
そして,これらは一つとしてゼウスの心によらぬも
のはないのだ。
(一同退場)
1)
(ソフォクレス,トラキスの女たち 1
2
6
4―7
8)
「幸福(happiness)」を願望することが,市民生活の
無条件の前提であることに,今日異をとなえるひと(市
民)はいない。この近代の願望は,「不幸ならば生きた
連絡先著者:加茂英臣
1
9
3
くはない」と主張しているのかといえばおそらくはそう
ではなく,不幸な生存を「幸福の最小限」として含んで
いる。「生の保全(preservation)」という表現は,幸福
の量によって定義される生の最大と最小に跨っている。
死(暴力による)を最大の不幸だとすれば(ホッブズ),
単なる生存も幸福の最小と考えることができるからであ
る。
しかし,この点古代ギリシャでは,ただ生きることと,
よく(幸福に)生きることを区別していたし,現代でも
生きることの質を問い始めている。生きるこ と の 質
(QOL)を問うことになれば,幸福の最小限としての
「たんなる生存」が,不幸の最大限(最高悪)に転換し
て,死んだほうがましだということになりうる。「がん
ばれという励まし」にも当人の意欲の限界があるように,
生きようと意欲しても,意欲が絶ちきれてしまう限界が
確実に存在する。
ここには,生を言語化することと死を言語化すること
が,無差別な等価(gleichgültig)にはならない,とい
う哲学的な出来事・問題が生じている。実証的科学の見
地からすれば,闇は光の欠如(ゼロ)として光と等質化
可能とされる(commensurable)。しかし,この領域に
おいてさえ,闇という概念は,光の零度ではなく,暗闇
という実在量,カントの負量としても解釈される。この
ような哲学的な出来事に,幸福・生存・不幸の概念も関
わっているのである。不幸とは幸福の欠如(零度)なの
か,零度を超えて負量を持つのか。もしかしたら,幸福
の方が不幸の零度(欠如)であるのかもしれないではな
いか。それでは死・非存在は,幸福・生存・不幸の彼岸
なのか。ロマン主義的解釈では,死こそが浄福ともなる。
幸福と自己保存を喧伝し,その臨界としての不幸と死
については語るすべを持たない,近代社会の公共性の構
造もこの出来事の一つの結晶に違いない。
千葉大学教育学部研究紀要 第5
4巻 À:人文科学系
ともかくも,幸福や生存の概念は,法律・政治生活上
の術語としてもすでに織り込み済みとなっており,「生
命,自由及び幸福追求に対する国民の権利(their right
to life, liberty, and the pursuit of happiness)日本国憲
法,第1
3条」や「日本国民は,……われらの安全と生存
を保持しようと決意した(we have determined to preserve our security and existence)同,前文」などの憲
法条文としてわれの社会生活の条件を構成している。他
面で,宗教の希薄化とともに市民生活の公共性は,不幸
や死を可能な限り語ることを避ける。
ひとは,「生きることを肯定し」
,「生命・生活を保全
する」ものであり,快を追求し苦を避け,そして快の最
大量としての「幸福」を求めて生きるものである。そう
であれば,もし,快の最大と苦の最小をはじき出す〈測
定の技術〉のようなものがあるならば,人がそれを使う
か使わないか,あるいはどう使うかによって,自分の生
活の幸・不幸を左右する自由を手に入れることができる
であろう。そのような測定能力を駆使することが,ひと
が理性的に,自由に行為をすることとされている。こう
した知性を働かせて,幸福を実現するために思慮深く生
きるのがひとの本来というものである。このように,ひ
との存在を括りきることによって,ひとの存在・行動に
関する,快楽主義的,功利主義的な教説が成立する。
〈幸福追求〉は選択の対象以前にあって,人間に絶対
的に指令されてある。その背後に回ってこれを思案の対
象にすることは,不可能と考えられている。ひとは幸福
を実現するための手段を合理的に算段することに終始す
るのであるが,この手段を選択する能力を発揮すること
が自由なのだと理解されている。すなわち手段行為の思
案・熟慮・算段であり,手段的自由の謳歌である。生
存・幸福には功利的理性は盲目である。このような〈合
理的自己愛〉の合理性を支える思案・熟慮を上手に働か
せ,行為を選択し自己を支配してよく生きるひと,この
ひとのあり方が「思慮深い〈prudent〉」といわれるの
である。究極目標としての幸福の無条件的希求―その実
現手段の計算・推論・思案・熟慮―その結果の自発的選
択と決断,この統一を統べる知性が「思慮(prudence)
」
に他ならないからである。快と苦を功利的に合理化でき
ないひとは,その反対に「無思慮(imprudent)」なひ
とと呼ばれることになる。近代思想は,ホッブズを初め
バトラー,ハチソン,アダム・スミス,ヒューム,カン
ト,コ ン デ ィ ヤ ッ ク,エ ル ベ シ ウ ス,ル ソ ー,シ ジ
ウィック,キルケゴール(『現代の批判』参照)
,オーク
2)
ショット(On Human Conduct)
,ロールズ,セン等々
に 至 る ま で,そ の 評 価 価 値 は 違 っ て い て も,〈prudence〉といえば,ことごとく以上のような規定を持つ,
快楽主義的,功利主義的実践知として理解してきている。
古代ギリシャ語〈phrone ̄sis〉はラテン語訳〈prudentia=pro―video,前を見ること〉として〈prudence=prévoyance〉(日本でのこの語に対応する訳は,「思慮」
・
「慎慮」
・「怜悧」
)すなわち〈プルーデンス〉という言
葉は近代に手渡された。近代的行為を主導する知は,幸
福を最高目的にした「功利計算術,快楽の測定術」にま
で一義化し,そのまま自明化してしまった。〈プルーデ
ンス・prudence〉とは,このような意味での「幸福と
1
9
4
生活の技術」として姿をあらわす。幸福追求,自己保存
に資する限りにおいて,その限りでひとは自由に行為す
るものであるという行為の構造をわれわれは自由主義的
に自明化している。日常的我々の生活と同様に,近代西
洋思想の人間の行為構造の理論的規定もこのように自明
化してきたということなのだろう。我々は,少なくとも
政治,経済,法律上の日常的公共性において,ひとはこ
のような生を営む「利害の主体」として把握しているの
である。
われわれは私的にも公的にも,このような事態に馴染
みきって肯定しておりこれを疑うことなど考えもしない。
しかし,このような生存に関する主張・言説の公共性は,
ちょうど光が暗闇をつくり出すように,非生存・不幸に
関する言説の秘私化をつくり出す。暗闇の部分は,公共
の光の中では露わにならず,語ることができないのであ
る。
ニーチェのように,こう言って見るとするとどうだろ
う。
上のような生存言説は,生の表面を被う自明な価値で
あって,明るいこと尽くしの「アポロ的な夢・願望」と
いうものであろう。人であればそれを信じなくては生き
ていけない「仮象」という意味に解すれば,それはカン
トの「超越論的な仮象」に等しい。しかし,安泰な生存
を約束するアポロのベールの下には,人が覗き込むこと
を畏怖する根源的な真理が隠されてあるのだ。そのよう
なもの,ディオニュソス的真理が,日常的なアポロの仮
象によって隠蔽されているのだ。たとえば,
「お前にとって一番いいことは,達成不可能なこ
と:それは生まれなかったこと,存在しないこと,
無であること。そして次善のことはすぐ死ぬこと
(das Allerbeste ist für dich gänzlich unerreichbar: nicht geboren zu sein , nicht zu sein, nichts
zu sein. Das Zweitbeste aber für dich―bald zu
3)
sterben)
」
(ニーチェ『悲劇の誕生』3節)
これは以下のギリシャ語原文を,ニーチェがドイツ語
に移したものである。
「この世に生を享けないのが,すべてにましていちば
んよいこと,生まれたからには,きたところ,そこへ速
やかに赴くのが,次によいことだ(me ̄ phu
 ̄ nai ton
・
hapanta nika ̄ logon to d’
, epei phane ̄, be
 ̄nai keithen
hothen per he ̄kei polu deuteron ho
」
(ソフォ
 ̄s taxista)
4)
クレス『コロノスのオイディプス』1
2
2
4―2
7)
。『コロノ
スのオイディプス』の中で,コロスたちが詩って明かす,
ニーチェの言うところの,生存に関する秘儀的真理であ
る。
公共的には語ることができないが(語らないのが礼儀
として抑圧する公共性といってもよい)
,これはとんで
もないことを言っているわけではない。生の楽しみも数
多くあるけれど,それに応じて耐え難い苦悩も存在する。
臨死は,誕生が無意識であるのに対して,意識を以って
対処しなくてはならない大仕事である。長生きすればす
るほど,老化にともなう身体の世話の憂慮や苦悩もいや
増す。そんなことなら,生まれてこないほうがよっぽど
プルーデンスとフロネーシスの間
ましとも考えるであろうし,それが無理なことなら,で
きるだけ早くあの世からの迎えが到来することを希求す
ることもある。これは生を望む言説と同じく筋が通って
いて,それ自体として不思議でもなんでもない。しかし,
これは語るとすれば秘私的にのみであって,公的には抑
圧されてしまうのはなぜなのだろう。「頑張って」とい
う公共的言葉が,好意の励ましであるにしても,この自
明的な励ましが,現実を正視することの自らのつらさを
防衛して当事者を抑圧する表現となりうることは見逃し
がたい。トルストイの『イヴァン・イリッチの死』は,
自分の重病,死期の接近という事実を他者に明かすこと
のこのような不可能に,悩みぬく主人公の姿を描いて,
興味深い作品である。
確かにニーチェの言葉は,幸福な人生という楽天的な
強迫観念のもち主に対しては,イロニーの毒として,厭
味や諧謔として,響くに違いない。しかし,この毒を味
わう屈折した快楽のためにだけ人々が『悲劇の誕生』や
他のニーチェの著作を読み継いできたとは思われない。
日常的にはアポロの仮象に覆われている 現 実・真 理
(ディオニュソス)を,公共的に正視することを可能に
する悲劇のもつ,夢を破る力の指摘に,人々は覚醒の想
いを経験してきたのであろう。
しかし,リアルなことであるのにリアルなこととして
公言(暴露)しないという事態に関しては,市民生活の
常態に限らない。哲学も例外ではないことを,バーナー
ド・ウィリアムズ(1
9
2
9―2
0
0
3)という哲学者は指摘す
る。ニーチェに依拠して,哲学にとってのギリシャ悲劇
の存在意義を,彼はつぎのように称揚する。
哲学や倫理学(moral philosophy)は常に,非合理,
偶然性やひとの脆さに背を向けることによって,耳障り
のいい話・福音〈good news〉のみを語り,負の現実と
しての不幸な話〈bad news〉を隠蔽してきた。ひとの
生に固有なこの偶然性や非合理性を直視して語ってきた
のは,人を逆境に 放 置 す る「荒 涼 た る フ ィ ク シ ョ ン
(stark fiction)」としてのギリシャ悲劇を措いてはない
と,彼は語る。
性格的に邪悪ではない,むしろ善き人の方に属するオ
イディプスが,心ならずも近親相姦・父親殺しに手を染
めてしまい,自らの眼を潰して生きるという不幸な物語
として『オイディプス王』
は書かれている。同じくソフォ
クレスの『トラキスの女たち』は,(1
2
6
6―7
8)
,主人公
の1人ヒュロスが,人間に数々の惨事を無惨にも加える
ゼウスを呪詛しつつも,この現実(父ヘラクレスを生き
ながら火葬に附する自分の宿命)を正視して耐える場面
で終っている。この論文冒頭の引用は(最初のイタリッ
ク体の3行を除いて)
,ウィリアムズの論文「トラキス
の女たち:フィクション,ペシミズム,倫理学」が冒頭
に掲げているものでもある5)。これは,他の主人公デイ
アネイラやヘラクレスが背負うことになる救いのない惨
事(disaster)や不幸の物語(bad news)でもある。彼
らは,主観的な思い違いや,無知(hamartia)のために,
偶然や遇運に侵食され,結果においては大罪を犯して不
幸を背負う。そのようにして,傷つき・崩れる(vulnerability)主人公たちの物語,これがギリシャ悲劇なのだ
という。「善き性格のひと(well―disposed people)にとっ
1
9
5
て世界を安泰にしておくこと,これが道徳哲学の倦むこ
とのない(tireless)目的である」とすれば,ギリシャ
悲劇は,この「欠陥を補い,これに適切な制限を提供す
る」重要な役割を果たすものであると,彼は論ずる。
ウィリアムズは,偶然性を考慮したアリストテレスを
評価しはする。しかしプラトンとともにテオーリア(観
想)の自己完結性,自足性を究極のあり方と仰ぎ,行為
の原理である〈フロネーシス〉も可能な限り偶然性を排
除し自足・自立して生きることの原理であることには変
わりはないとして,最終的には評価の外に置く。
功利主義批判という点において彼に近い立場に立つ
マーサ・ヌスバウムという哲学者は,この点に関しては,
ウィリアムズと見解を争う。彼女は,「性格がよく,思
慮深い」ひとであればその人は必然的に「幸福に生きる」
というソクラテス・プラトンの主要な主張に抗して,ア
リストテレスが「性格のいい思慮深い人が,幸福に生き
るとは限らない」という主張を貫徹していることを指摘
する。外的善という遇運(eutychia)にめぐり逢うこと
なくしては,人はよく生きることはできない。外的悪と
いう不遇(dystychia)に出会えば,善きひとでも,悪
を生きることになる。遇運(tuche ̄)に晒されるひとの
「脆さ(fragility, vulnerability)」を指摘して,アリス
トテレスはこれを様々な方向から多岐にわたって分析し
ているではないか。遇運に晒されているひとの本質,そ
の幸福が脆いものであることが(過失,死,障害,老齢,
病気,飢餓,友人の欠除etc.
)
,『詩学』はもちろんのこ
と,『弁論術』と『ニコマコス倫理学』の基調テーマの
1つであることは,歴然としているではないか。
アリストテレスは,プラトン,ソクラテスそしてそれ
以降の哲学者とも違って,ウィリアムズのいう〈bad
news〉や人の傷つきやすさ,遇運にさらされているこ
とを正視した当の人ではないのか。このようなアリスト
テレスの読み方に基づいて,彼女の悲劇解釈もウィリア
ムスのそれと乖離していく。 トラキスの女たち の引用
箇所は,現実(遇運性)の正視(承認)の場面ではある。
しかしそれだけにとどまらず,ウィリアムズが見ようと
しない余剰がそこにあると彼女は力説する。
彼女は,「ひとが,度重なる大きな不運を無感覚のゆ
えではなく,高貴な心の持ち主であるゆえに,平静に耐
えしのぶ時には,このような不運のうちにあっても,美
しさが輝き出る(dialampei to kalon)」
(Ethica Ni6)
comachea 1
1
0
0b3
0―3
3. 以後ENと略記)とアリストテレ
スが語る箇所に着目する。この部分は,ヌスバウムが好
む箇所の1つである。ところで,この輝きを見るのは誰
だろうか。当事者ではなく他者,ドラマを演じる主人公
ではなく,観客である。観客は主人公の演じるドラマ
(筋)を自分も擬似的に演ずる(ミメーシス)ことによっ
て共感し,現実と対面する主人公から発される輝きを意
識する。このことが,〈恐れと憐れみ(phobos/eleos)
〉
を主題とする『詩学』の主要テーマなのである。
ウィリアムズは,上記の場面のヒュロスの台詞から,
共感感情への訴えという余剰を意図的に切り捨てて,こ
れを惨事の受用・正視の言に切り詰めてしまっている。
父ヘラクレスの命令によって彼の体を焼くという苦難を
背負うことになったヒュロスの嘆きの台詞の第1行から
千葉大学教育学部研究紀要 第5
4巻 À:人文科学系
第3行まで(冒頭の引用のイタリックの部分)をウィリ
アムズはわざわざ省略して,第4行「神々の大きな無情
をみてほしい(megale
」か
 ̄n de theo
 ̄n agno ̄mosyne
 ̄n)
ら引用しはじめている。しかしこの句は,省略された第
2から3行「大きな心で私に同情して(megale
 ̄n men
emoi.
.
.
themenoi syngno ̄mosyne
」と対句になってい
 ̄n)
て,前者が父の体を焼かなくてはならない自分達人間へ
の「神々の思いやりのなさ(a―gno
」への呪詛
 ̄mosyne
 ̄)
」
として,後者が「観客の思いやり(syn―gno
 ̄mosyne
 ̄)
の自分への愁訴嘆願として,互いに呼応しているのであ
る。ここには,「悲劇的な必然」の正視はたしかに存在
するが,しかしそれを超えて,この必然・苦難を生き抜
くヒュロスの高貴さの表現と,それを見る観客の恐れと
憐れみの同感感情の喚起が仕組まれているのである。
ウィリアムズはこの余剰表現が邪魔になったため,第4
行からはじめたのだ。仔細に推察すれば,このようにヌ
スバウムは言いたいのだと思う。
悲劇に固有な,共感の内的価値を切り捨てて現実正視
に限定する解釈を貫くウィリアムズを,ヌスバウムはギ
リシャ悲劇の理解において根本的に誤っているという。
『トラキスの女たち』の先の引用箇所をどう読むかが決
定的な分かれ道となっているのである。主人公の悲惨な
遇運の直視と読むか,主人公の高貴な性格の輝きへの
人々の共感を読み取るか。ウィリアムズの読み方は,
ニーチェの『悲劇の誕生』に主導されている。悲劇を鑑
賞するひとは,逃げようもない悲惨な現実を受容する主
人公のリアルな態度を畏敬し,自己を重ね合わせ,慰め
や共感へと合理化することなく,その真理を一人孤独に
かみしめることのうちにあえて留まろうとするのだとい
う読みをしたいのだ。ヌスバウムは,ひとの生の「脆
さ・崩れやすさ(vulnerability, fragility)」を基調にし
て,よりヒューマンな読みかたを提起する。「ギリシャ
悲劇」と「アリストテレス」解釈を軸にしてウィリアム
ズとヌスバウムは,このようにリアリズムとヒューマニ
ズムの間で離反する7)。この箇所を含め悲劇の作品を読
むと,ニーチェ―ウィリアムズのいう現実正視にとどめ
ることのほうが観念的な読みであって,アリストテレス
―ヌスバウムの〈恐れと憐れみ〉を媒介にした共感の余
韻を無視することは不可能なように思われる。
しかし,たとえそうであっても,小説や詩や音楽にロ
マン主義,リアリズム,諧謔的な描き方があってそのう
ちのどれかが真理であるということができないように,
ギリシャ悲劇を現実正視として読むことと,現実正視を
超えて観客の共感を狙ったものとして読むという読み方
の間にも,どちらかが誤りだと主張し争うことは可能で
はあるが,客観的真偽判定は不可能である。そのように
読むことと,そのひとの内的統一をその読みを通して公
に晒すことが1つことなのだから。
〈good news〉という表街道(公共性)を報告するこ
としかしない哲学一般(アリストテレスを含めて)を批
判し,ギリシャ悲劇が現実正視の肩代わりをしているの
だ,というウィリアムズの指摘は,現実を射ぬく透徹し
た視点である。しかし,その興味深い思考は哲学と悲劇
を乖離させてしまう。他方,少なくともアリストテレス
のフロネーシス概念は,遇運(tuche
 ̄)に開かれている
ことを本質としており,またそれゆえに,逃避しないで
〈bad news〉にも耳を傾け,不遇によって脆くも崩れ
ていくことに耐えるヒーローを描くギリシャ悲劇に直接
連携するのだ,というヌスバウムの思考には,フロネー
シスの哲学とギリシャ悲劇を連続させて繋いでいく,肯
定の豊かさと魅力がある。不運のため不幸に生きるしか
ない悲劇の主人公は,その不幸な状況のただなかで,フ
ロネーシスを手放すわけではないのだ。
幸福に資するフロネーシスに対して,不幸な状況を生
き抜くフロネーシスもあるのだ。
運・遇運(tuche ̄)には2つの様態がある。幸運と不
運(eutychia/dystychia)である。「神的なるもの(theion)
とは,人間が自分のもつ力で獲得できないもののことで
ある。自分自らは達成できないものであって,そしてそ
れがある決定的なしかたでひとに巡り当ってくる(treffen)ものについて,ギリシャ人たちは,〈神の割当=神
l ra)
〉あるいは〈遇運(tuche ̄)
意(theia mo^
〉がそれを
ひとに贈ったのだといういいかたをした。
」とハイデガー
の弟子でもあったヘレーネ・ヴァイスは,いう8)。
アリストテレスのテキストには,「幸福(eudaimonia)
は幸運(eutychia)と同じではないし,また十全な幸福
は幸運を欠いてはありえない」という明示的文章は欠落
しているけれど,このことは「ところが,あるひとびと
は,遇運(tyche ̄s)をもあわせて必要とする(prosdeisthai)という理由によって,幸運(eutychia)を幸福
(eudaimonia)と同じものと考えている。だが,そう
ではない(ouk ousa)」
(EN1
1
5
3b2
1―2
3)という箇所か
ら明らかであると,ヘレーネ・ヴァイスは論じもしてい
る9)。
フロネーシスを持ち,善き性格の人ならば,そのひと
は必ず幸福に生きるのではないことが(ソクラテス・プ
ラトンへの反措定)これによって明らかになる。フロ
ネーシスがあり,善き性格の人でも,幸運にめぐり合わ
なくては幸福に生きることができない。フロネーシスが
あり善き性格のひとでも,不運・不遇に遇えば不幸に生
きることになるかもしれない。また善き性格を崩し,フ
ロネーシスを失ってしまうこともあれば,もしかして悪
を意志する邪悪な人に転ずるかもしれない,しかしまた
この不遇にもかかわらず善き性格とフロネーシスを維持
して不幸の中にも輝くひととなるかもしれない。後者の
場合が,ギリシャ悲劇の多くのヒーローとして描かれる
のだと考えられる。その意味において,ギリシャ悲劇を,
「逆転と発見」の物語りだけではなく,思いもよらぬ不
遇と不幸のなかで生と死を耐え抜くヒーローたちのフロ
ネーシスの物語として読んだとしても,あながち間違い
とはいえない。フロネーシスや熟慮(bouleusis, deliberation, Überlegung)も,不遇に遇って人生の重要な局面
で根本的に誤る可能性,自分では正しく行為をしている
と思っていても実は何もわかっていないという無知の可
能性に晒されていること,そのような〈vulnerability〉
がたんなる知識や技術や知恵と区別されるフロネーシス
の根本徴表なのである。
1
9
6
プルーデンスとフロネーシスの間
註(序)
1)日本語訳は,『世界古典文学全集8』所収の大竹訳
を基本として利用している。文法価値を損なわない限
りにおいて,小論の議論に沿うように大竹訳の冒頭3
行のうちにある言葉を,入れ替えたり行送りしたりし
たことを断りたい。また意味がわかるように(ヘラク
レス)を補ってある。
2)〈prudence〉とアリストテレスの〈phrone
 ̄sis〉が異
なることを意識した議論は少ない。ルソーは功利主義
的〈prévoyance〉を否定して自然状態の無知へ下降
し,カントは同じく〈Klugheit〉を制限する定言命法
へ超越するのであって,
アリストテレスの〈phrone
 ̄sis〉
概念へ還帰するという途をとらない。ハイデガーや
アーレント,ガダマーなどのドイツ系の哲学者以外,
近代から現代に至るまで,アリストテレスの議論を知
らないことが見事に証示されているとおもえる。もち
ろん古典の研究者は別とし て,イ ギ リ ス の オ ー ク
ショットなどは,〈prudence〉を〈instrumental〉道
具的と理解して,prudentialな行為に非目的論的行為
としての〈practice〉に対置して前者に負の評価を与
えている。近代の〈prudence〉が,アリストテレス
の〈phrone
 ̄sis〉とは全く違うものであることを,彼
は意識している。(cf. Michael Oakeshott, On Human
Conduct p. 60, 45, and 89. Clarendon Press, Oxford,
1
9
7
5.)
3)Friedrich Nietzsche: Die Geburt der Tragö die aus
dem Geiste der Musik . S.39. Insel Verl.1987.
4)ここではロエブ版を参照した。Sophocles II. LCL
2
1. Harvard1
9
9
8.
5)Bernard Williams, The Women of Trachis : Fictions, Pessimism, Ethics. In The Greeks AND Us .ed
by R.B. Louden & P. Schollmeier, The University of
Chicago Press.19
9
6
6)日本語は,アリストテレス全集1
3
(岩波書店,1
9
7
3)
の加藤信朗訳による。この箇所で,加藤訳「心おだや
かに」を「平静に」に変えたことを断りたい。
7)Bernard Williams: Philosophy. In“The Legacy of
Greece”Ed. by M.I. Finley Clarendon Press Oxford.
1
9
8
1. 特に,同書p. 2
5
3を参照。〈good news〉に関し
ては, The Women of Trachis : Fictions, Pessimism,
Ethics. In“The Greeks AND Us”p. 4
3―5
3.〈dense
fiction〉と対比させられる〈stark fiction〉に関する
最後の4ページを参照。Ibid. p.49―5
2.
Martha C. Nussbaum: The Fragility of Goodness .
Cambridge University Press, 2
0
0
1. xiii―xxxviiの「改
訂版のための序文 (Preface to the Revised Edition)」
特にÃ節を参照。なお本論の解説は,筆者による主観
的脚色もあり,必ずしもヌスバウムの該当箇所の表現
に逐一対応していないことを断っておきたい。
8)Helene Weiss, Kausalität und Zufall in der Philosophie des Aristoteles . S. 150. Wissenschaftliche
Buchgesellschaft,1
9
6
7.
9)Ibid. および,註(1
7
6)
参照。このひとは,ハイデ
ガーの初期のアリストテレスの講義に触発されて同著
1
9
7
を 書 い て い る が,そ の 出 版 をD. Rossと オ ッ ク ス
フォード大学に負っている旨をその扉に掲げている。
初版は,1
9
4
2年である。
¸
アリストテレスの〈フロネーシス〉概念の論究は,近
代〈プルーデンス〉概念の明解さに対比すれば,晦渋で
あり容易に見通すことができるような透明性はもたない。
この難解さは,アリストテレスの分析の仕方というより
は,〈フロネーシス〉が行為するものの内的統一と深く
かかわっており,客観的な技術や知識ではないことに関
係している。アリストテレス自身の分析を追うと同時に,
この分析をひとや自分の行為の内奥に照し合わせてみる
必要があるのだ。ひとの行為の内的な統一は,客観的定
式やマニュアル,統計的パターンによって,残りなく汲
みつくされるものではない。アリストテレスの〈フロ
ネーシス〉概念が,数学や幾何学にではなく,ギリシャ
悲劇への親和性をもつのもこうした事情に基づく。この
ような主観の襞に分け入る分析は,一般化・普遍化・形
式化の傾向をもつ哲学の内部では,稀少なものである。
これに対して,近代〈プルーデンス〉概念は,定式化
可能であり,非常に明解である。それは,人の営みの複
雑さが,快の最大と苦の最小によって定義される「幸福」
の実現として単純化され,それを実現する技術(合理性)
にまで,プルーデンス機能が功利主義的(快楽主義的)
に単純化されているからである。たとえば,悲しみ,愛,
恐れ,憐み,怒り,希望などというきわめて人間的な感
情でも,プルーデンスはこれを快と苦(pleasure and
pain)の2値感情にまで平板化しないと,機能不全に陥
る。快・苦の2値へあらゆる感情内容を還元しなくては,
快と苦の差引勘定ができないからであり,幸福の客観的
査定ができないからである。プルーデンスは,感情を快
苦に還元して,それを量化して算術化するの で あ る
(commensurability)
。アリストテレスのフロネーシス
は,具体的な感情にそのまま関係し,これを何らかの意
図のために抽象しない。
ホッブズをはじめとする近代の哲学は,プルーデンス
概念を一様に駆使するのであるが,その内容は,幸福
(快苦の集成体〈aggregation〉)を実現するための生活
の技術として見事に自明化されている。〈フロネーシス〉
概念がギリシャ悲劇に親和性を示し,質的に多義である
とすれば,〈プルーデンス〉概念は算術・測定・統計に
親和して,量的に一義的である。ひとをドラマ(dran
=praxis)の主体ではなく,欲求や快・苦の衝動現象が
立ち現れる場にまで抽象してしまう1)。
しかし,このような〈プルーデンス〉概念は近代に
なって初めて出現したものではなく,実は,古代ギリ
シャにまでその原像を辿ることができるのである。アリ
ストテレスのいうフロネーシスが,ギリシャにおけるフ
ロネーシス概念一般を意味していたわけではないのであ
る。
以下において,プルーデンスの原型が,ソフィストの
教説,特にプロタゴラスの教説に遡源することを論ずる。
プロタゴラスの教説 と 自 己 保 存 の 概 念 の 関 係 を,P.
千葉大学教育学部研究紀要 第5
4巻 À:人文科学系
RoseとVlastosの論文を照会して確認する。そこから得
られる知見を,プラトンの『プロタゴラス』篇が描写す
る,プロタゴラス演説の構成に当てはめて検討する。最
後に,同篇末尾にまとめられてある,「自己の幸福・自
己の生を保全」のために必要なことが力説される,技術
=〈快楽測定術〉にかかわる議論を以上のような観点か
ら再検討する。
が
けして私の仲間にないよう,その考えにも牽かされ
ないよう。
7
5)
(アンティゴネ:3
3
2―3
¹
ピーター・ローズ(Peter W. Rose)という研究者が
‘Harvard Studies in Classical Philology’
(1
9
7
6)に寄
稿した論文「ソフォクレスのピロクテテスとソフィスト
の教説」という論文がある2)。著者は,ソフィストの教
説がどのような形で,ソフォクレスの悲劇に取り入れら
れているかという視点で,議論を展開する。「ことに私
は次のように信じている。ソフォクレスは,ソフィスト
による〈人間社会と行動パターンの起源と発展〉に関す
る包括的で唯物論的分析に,決定的に影響されている。
このソフィストの分析は,少なくとも アンティゴネ の
創作以来彼を魅了したのだ。
」
(上記論文p.5
0)この ア
ンティゴネ の箇所が下に掲げる引用部分のことである。
不思議なもの(deina)は数あるうちに,
コロス
人間以上の不思議はない,
波白ぐ海原をさえ,吹き荒れる南風をしのいで
渡ってゆくもの,四辺にとどろく
高いうねりも乗り越えて。
神々のうち わけても畏い,朽ちせず
撓みを知らぬ大地まで,攻め悩まして,
来る年ごとに,鋤き返しては,
馬のやからで 耕しつける。
気も軽やかな鳥の族,または野に棲む
獣の族,あるは大海の潮に住まう
類をも,織り上げた網環にかこみ,
捉えるのも,心慧しい人間,
また術策をもってし,曠野に棲まい,あるは山路を
い往き徘徊る 野獣を挫しぎ,鬣を生う
馬さえも,項に軛をつけて馴らすも,
疲れを知らぬ山棲みの牡牛をもまた。
あるいは言葉,あるはまた風より早い考えごと,
国を治める分別をも 自ら覚る,または野天に眠り,
大空の厳しい霜や,激しい雨の矢の攻撃の
避けおおせようも心得てから,万事を巧みにこなし,
何事がさし迫ろうと,必ず術策をもって迎える。
ただひとつ,求め得ないものは,死を遁れる道,
難病を癒やす手段は工夫し出したが。
その方策の巧みさは,まったく思いも
寄らないほど,時には悪へ,時には善へと人を導く。
国の掟をあがめ尊び,神々に誓った正義を遵ってゆ
くのは,
栄える国民。また向こう見ずにも,よからぬ企みに
与するときは,国を滅ぼす。かようなことを働く者
この引用部分は,SegalやGuthrieも主張するように,
〈人間文化の起源〉
〈人間の持つ技術の進歩〉にかんす
るソフィストの思弁的教説を,ソフォクレスが詩にして
再現したところとして知られている3)。その指摘のとお
り,ここにいう〈人間の不思議〉とは,人間の知恵,か
れらの駆使する技術をさしていわれている。そして,こ
こでは航海,農耕,狩猟,漁業,農業が,そして言葉と
思慮,さらには国を治める技術のすばらしさとともに,
このような数限りない術策を以って自然に対する生存を
闘いぬく人間のすばらしさ(ソフィスト定番の称賛内容)
が,〈deina:不思議な・恐ろしい・なみはずれた〉とい
う類のない形容詞で,称賛・畏怖されている。
ローズは他の論者と違って,さらに分け入ってソフィ
ストの教説の構造的特徴を洗い出そうとする。「ソフィ
スト流社会分析(the sophistic analysis of society)」は,
大まかにいってつぎの三段(stages)に組まれている」
と彼は言う。その3段階とは「第一段階:言語の起源と
生存のための初期闘争,第二段階:都市の発展を可能に
する社会契約の達成,第三段階:当代の―おもにアテネ
市民の―社会,経済,教育機構の機能」である。
そして,「このソフィスト固有の社会分析の中核と
なっている特徴は,唯物論的な人間学である。いいかえ
ると,人間は動物としての始まりをもつと同時に,他の
すべての動物と同じく,形而上学的あるいは超自然的な
資質や導きを一切なしに,サバイバルの問題に直面する
と い う 仮 定 に 基 づ い た,人 間 社 会 の 起 源 の 思 弁 的
(speculative)説明である。このソフィスト流人間学
の特徴は,人類進化の前社会段階での生存の恐怖(the
horrors of human existence)を鮮烈に喚起する緻密な
描写である」というのである。ソフォクレスの引用は,
まさしくこの生存の恐怖を克服する命がけの戦いを技
術・術策によって勝ち抜く人間が,〈とんでもない〉と
驚きとともに賛美されていたのだ。
そして,ローズはこの箇所につけられた註(p.5
1註
8)で,プラトンの『プロタゴラス』篇に触れる。そし
て,いわゆるプロタゴラスの大演説(the Great Speech)
の構成が,自分の3段階説のとおりになっていることを
傍証として,力説する4)。
この註は「プラトンの『プロタゴラス』篇のプロタゴ
ラスの大演説の部分(32
0c8―3
2
8d2:日本語訳岩波版で
は,1
1節から1
6節まで)は,ソフィスト流社会分析の最
も重要な資料の1つであり,実際にそれは,第1段階:
3
2
0c8―3
2
2b8(言語の起源と生存のための初期闘争)
,
第2段階:3
2
2b9―d5(都市の発展を可能にする社会契
約の達成)
,第3段 階:3
2
2d6―3
2
8d2(当 代 の―お も に
アテネ市民の―社会,経済,教育機構の機能)にくっき
りと分かれている」と分析して見せている。もちろんそ
こでの主題は,人間のサバイバルとその救済であり,そ
の 主 導 概 念 は 生 存,保 存,存 続,救 済 を 意 味 す る
〈 so ̄te ̄ria / so ̄zein 〉と救世主としての技術( techne ̄ )
・
1
9
8
プルーデンスとフロネーシスの間
策知である。
この主張が正しいかどうか,プロタゴラスの物語・神
話(mythos)の箇所を必要に応じ要約して見直してみ
る。
〈エピメテウスは,動物の種族にそれぞれ独自の能力
や特徴を「身の保全のために( eis so ̄te ̄rian 3
20e3)」与
えてやり「お互いが滅ぼしあう( alle
 ̄lophthorio ̄n )」こ
とを防いだ。次いで,季節の変化にたいして身を守るた
めの皮,毛,皮膚や蹄をあたえ,また身を養う糧として
それぞれの種族に草や果実,根や肉を固有の食料として
与えた。こうしてすべての能力を動物に分配し尽くして,
エピメテウスは,人間のことをすっかり忘れてしまって
いた。人間は,裸で履物もなく,敷くものもなく,武器
も持たないままであることをプロメテウスは発見した。
そこでプロメテウスは人間のためにどんな保全の手段
を見出してやったものか( he
 ̄ntina so ̄te ̄rian to ̄ anthro ̄po ̄
heuroi 321c8)困り抜いたあげく,ヘパイストスとアテ
ナのところから「技術的な知恵を火とともに」盗み出し
てこれを人間に与えた。また神の性格の一部分を与えら
れた人間は宗教を営み神を崇敬するにいたり,音声を分
節して言葉をつくり,家や着物や履物,寝具食物の発見
をした。
しかしこれだけのものを自分のためにもっていながら,
人間はばらばらに住んでいて国家というものを知らな
かった。
彼らは,身の安全を計ろうとして寄り集まりポリスを
成そうにも( so ̄zesthai ktizontes poleis3
2
2b6)
,政治技
術 を 持 た な い た め(ouk echontes te ̄n politike ̄n
techne ̄n )互いに不正をはたらきあい,ふたたびばらば
らになって滅亡しかけていった。
以上第1段階
そこで,ゼウスがこれを見て,人間が滅亡しきってし
まうのを救うために( me
 ̄ apoloito pa ̄n ),〈いましめと
つつしみ(aido ̄ te kai dike
 ̄n:字義どおりには,「恥と正
義」
)
〉という政治的徳を人間に与えることにする。ここ
でヘルメスは,与えるにしても,その有効な分配の仕方
は,他の専門技術のように特定の専門家にのみ与えると
いう仕方か,すべての人間にのこらず分配するという仕
方かどちらでしょうとゼウスに尋ねる。ゼウスは「すべ
ての人間に与えて,誰でもがこれを分け持つようにした
ほうがよい」と答える。そうしないと国家は成立しえな
いだろうからというのである。こうして,ソフィスト的
平等主義のポリス・社会状態に入ることによって,民主
制のもとで人間は最終的な生の保全が可能となる。
以上第2段。
そしてそれ以降(3
2
2d6―3
2
8d2)が第3段階であり,
この段階はソフィストの当代アテネ民主制のあり方の自
画自賛の段階であるというのである。政治技術として政
治的徳はすべての人がわけもち,だれにでも教えること
ができるような体制,アテネ民主制の制度や教育の賛美
という,ソフィスト教説の第3ステージだということに
なる。ここが長いのは,プロタゴラスの政治的立場と徳
性を誰にでも教えられる力量を持つソフィストとしての,
自己宣伝の場面ともなっているからであろう。
ローズの指摘は,説得的ではないだろうか。そして,
1
9
9
文中イタリックで強調したソフィストの専門術語〈jargon〉を再確認したい。いずれの段階も人々の生存,存
続とその救世主としての技術が主要テーマになっている
ことが確認できる。
この議論が的確であることを,最後にヴラストスの論
文によって,さらに補強しておきたい。
2
8」
プロタゴラスの「大演説(The Great Speech)
3
2
0―3
として知られるこの物語は,実在した文明の起源に関す
るプロタゴラスの思弁的言説をプラトンが脚色して再現
したものである。この神話・物語の脚色を抜いた実像に
ついて,ヴラストスが論じている。
「それが主張する,2つの主要テーゼがある。第1:
技術というものが,動物種の生存・存続(survival)を
保証する様々な工夫に対応する,人間の側の等価物であ
ること。動物のものと違って,人間存続のための武器は,
いわば文化的な武器であって,プロタゴラスの言うとこ
ろの,技術(techne ̄)あるいは知識(episte ̄me ̄, sophia)
にほかならいこと:これらの技術・知識は,最初は発明
されなくてはならなかったが,以降は,ある種の学習と
教育によって伝達されるようになったのである。第2:
政治の技術はこの〈工業的(industrial)技術〉に劣ら
ず文化的装備の真正な特質であり,前者に劣らず存続の
ために必要なものであること:もしも人々が互いに一緒
に生きる仕方を学んでいなかったとすれば,ひとは自然
に対する闘争(獣に対する戦い,3
2
2b)に勝つことは
5)
なかっただろう。
」
日々の生活のための工業的技術と自然から身を守るた
めの政治的技術は何のためにあるか?両方の技術ともど
も,ひとの生存〈survival〉=〈so ̄te ̄ria〉のためにあるこ
とが指摘されてある。とにかく生の救済・保全・存続が,
この物語の主要テーゼなのである。まずは火や道具等の
「工業的技術」の次に,究極の存続技術として政治技術
が摘出される。そうしたうえで,この技術が「万人に分
け与えられるべきか,それとも少数のものに限ったほう
がいいのか」という問いをヘルメスがゼウスに問う。プ
ロタゴラスは自分のアテネ民主制賛美の思惑に添う仕方
で,ゼウスに「万人に」と答えさせる。こうして,この
神話は「徳性は万人に教えられうる」
,そうでなければ
ひとは存続できないのだ,というソフィストの思弁的教
説をとおして,実はアテネ民主制をイデオロギー的に肯
定するというプロタゴラスの思惑を正当に保証するとい
う役割を果たしているのである(3
2
2d―)
。
以上,論者の論文に頼りながら,長々とソフィスト/
プロタゴラスの社会分析の内容と構成について論じてき
た。このような歴史的位置付けと内容を持つプロタゴラ
スの神話,「大演説(The Great Speech)32
0―3
2
8」で
語られる論者の言うところのサバイバル物語,この理論
構成が,『プロタゴラス』篇終わり近くに展開される「生
の救済とその救済者としての快楽測定術」の議論をも規
制していないわけがない。
そこで,最後の仕事として,以上の議論の流れに従っ
て,該当箇所を整理したい。この際,この箇所全文を引
いて,資料の全体の明示と議論の徹底をはかりたい。
「
『では,もしかりに われわれの幸福(he ̄min to eu
千葉大学教育学部研究紀要 第5
4巻 À:人文科学系
prattein) が,長いものを選んで行ない,短いもの
を避けて行なわないということに依存するとしたな
らば,われわれは, 生活を安全に保つ ( so ̄te ̄ria tou
biou )ものを何に見出しただろうか。 計量の技術
( metre
 ̄tike ̄ techne ̄ )だろうか,それとも,目にみ
えるがままの現象が人にうったえる力だろうか(he
 ̄
tou phainomenou dynamis)
?――後者はわれわれ
を惑わし,同じものをしばしばあべこべに取り違わ
せ,行為においても大小の選択においても,しまっ
たことをしたと思わせる因となるものではなかった
かね。これに対して, 計量の術 は,もしそれを用
いたならば,このような目に見えるがままの現象か
ら権威を奪うとともに,他方,事物の真相を明らか
にすることによって,魂がこの真相のもとに落着い
て安定するようにさせ,もって 生活を保全しえた
( eso
 ̄sen an ton bion )ところのものではないかね』
はたして世人たちは,こういったことを考慮した
上で, われわれを保全するのは ( hema ̄s so
 ̄zein )
計量の技術であることに同意するでしょうか。それ
とも,ほかの技術だというでしょうか?」
「計量の技術であると答えるだろう」と,プロタ
ゴラスはぼくの言うことに同意した。
「
『では,
かりに われわれの生活の安全( he ̄ so ̄te ̄ria
tou biou )が,奇数と偶数の選択に依存すると仮定
して,同類の数どうしをくらべ,あるいは奇数と偶
数とをくらべて,それが近くにある数にせよ遠くに
ある数にせよ,とにかくどのようなときにより多い
ほうを,どのようなときにより少ないほうを正しく
選ぶべきかによって,生活が左右されるとしたらど
うだろう。その場合, われわれの生活を安全に保つ
のは何であろうか( ti an eso ̄zen he
 ̄min ton bion )。
知識(episte ̄me
 ̄)ではないだろうか。それも,計量
術の一種としての知識ではないだろうか――この技
術は,超過と不足を取り扱うものなのだからね。そ
してこの場合は,奇数と偶数を扱わなければならな
いのだから,それは 算数 ( arithme ̄tike ̄ )にほかな
らないのではないか』――人々は私たちに同意する
でしょうか。どうでしょう?」
プロタゴラスもまた,人々がこれに同意するだろ
うということに賛成した。
「
『よろしい,諸君。ところで実際には,われわれ
にとって〈 生活を安全に保つ( so ̄te ̄ria tou biou )
〉
途は,快楽と苦痛を正しく選ぶこと,その多少,大
小,遠近を誤たずに評価して選ぶことにあることが
明らかになったのであるから,そこに要求されるも
の は,ま ず 第 一 に,〈 計 量 の 技 術 ( metre
 ̄tike ̄
techne ̄ )〉であることは明らかではないだろうか。
それは,相互のあいだの超過と不足と等しさとをし
らべるものなのだから』
むろん,そうでなければならないでしょう。
〉
」
(Prot.3
5
6d―3
5
7b)
議論の展開と,イタリックで強調した言葉は,プロタ
ゴラスの演説の議論を正確に反映したものであることを
明かしている。
2
0
0
」という言
「われわれの幸福(he ̄min to eu prattein)
い方は今までの議論において取り上げられなかった。こ
れはソフィスト用語では無いが,むしろギリシャ一般の
日常的言い方として,「生活を安全に保つ(so
 ̄te ̄ria tou
」と同じ
biou)
」
「われわれを保全する(hema ̄s so ̄zein)
ことと理解していいとすれば,その意味はアリストテレ
スやソクラテスのいう幸福概念と違って,むき出しの生,
快楽主義的な生の安泰・存続の幸福,という意味になら
ざるを得ない。引用した論文の英米の著者はいとも簡単
に,〈so ̄te ̄ria tou biou〉を〈survival〉と訳していた。
そして,このような幸福は,快の最大と苦の最小の集成
体をはじき出 す 例 の 測 定 技 術,快・苦 の 計 量 の 技 術
(metre ̄tike ̄ techne
/算数(arithme ̄tike ̄)によって獲
 ̄)
得される。さもないと,生活は,感覚的快・苦のそのつ
どの流れのカオスに翻弄されて,病気や国以前の自然状
態の中で滅び去ってしまうことになるというのであろう。
先の3段階において,無知のまま無策に生きることは滅
びをもたらすことであった。これに恐怖して,ひとは
数々の技術を獲得することになった。これに準じて,現
れるままの快苦の原始状態に身をさらすと生は滅びる,
快苦の測定術がそのような野蛮状態から人を救済すると
いうのだろう。このような技術知のことを,ソクラテス
は「知 恵(sophia)
」
「知 識(episte ̄me
」そ し て「思 慮
 ̄)
6)
」と無差別に呼んでいた 。しかしそうで
(phrone ̄sis)
あるとしても,もしこの〈フロネーシス〉を〈フロネー
シス〉と呼ぶのなら,当然偶然性に晒される可能性を織
り込んでいるアリストテレスの〈フロネーシス〉概念と
は全く違う〈フロネーシス〉であって,ヌスバウムがい
うところの科学的な熟慮(scientific deliberation),現
代で言えば経済などが試みる科学的損益分析〈Cost―
Benefit Analysis〉の類に他ならない。これがソフィス
トのいう技術であり〈フロネーシス〉であるというなら
ば,幸福・自己の保存のために,その実現手段・仕方を
算段する〈フロネーシス〉=〈技術〉という構造で自明
化している,近代プルーデンスの原型がここにあるとい
える。
これは,まさにホッブズが,『リバイアサン』第1
3節
で描く,存続を危うくする原初状態の中で,死の恐怖と
いう最高悪の恐怖に駆られて,権利も正義もない暴力社
会としての,自然状態から社会状態への移行・進化とい
うサバイバル物語の原型に他ならないではないか。この
とき,無条件の生の肯定(絶対的自由)よりは,無条件
の生を限定して他者に妥協(compromise)することの
ほうが存続を全うするのに有利であることを計算して教
えるのが,理性(reason, sapientia)であったのだ。ひ
とは互いに妥協して契約を交わし,社会・国家をなし,
正義・権利を保証された生を長らえるのである。
この論文がテーマとしたことは,以上の議論で果たさ
れたこととしたい。
しかし,上の分析において不可解にとどまる1つのこ
とを指摘しておきたい。
〈これに対して,計量の術は,もしそれを用いたなら
ば,このような目に見えるがままの現象から権威を奪う
とともに,他方,事物の真相を明らかにすることによっ
プルーデンスとフロネーシスの間
て,魂がこの真相のもとに落着いて安定するようにさせ,
もって生活を保全しえた(eso ̄sen an ton bion)ところ
のものではないかね〉という箇所がある。
ここには邪魔な言葉がある。〈魂がこの真相のもとに
落着いて安定するようにさせ,もって生活を保全しえた
(eso ̄sen an ton bion)ところのものではないかね〉と
いうところである。
技術が〈生を救済・保全し〉
,〈幸福である〉ことを保
証することを,繰り返し語ってきた。しかし,〈魂がこ
の真相のもとに落着いて安定する〉とは,何のことなの
か,唐突ではないだろうか。これまでの議論で押すと,
〈魂の真相のもとでの安定〉とは,快楽主義的,功利主
義的な幸福を意味し,また〈生活が救われてあること〉
に等しいことになる。ソフィスト的幸福な生とは,なま
の感覚的快ではないが,それでも快苦の集成体〈aggregation〉として感覚的領域を超越するものではないはず
である。それでよければ問題はないのだが。魂〈psyche
 ̄〉の安定をそのような意味での幸福な生〈bios〉と
同義としてよいものだろうか。『ゴルギアス』篇などの
議論を想起すると,とてもそのようなルーズな使用を許
す言葉とは思われない。だとすると,この魂と生はこの
議論の中で,軋みを立てているのではないだろうか。
ソクラテスは,『ゴルギアス』篇では,身体と魂にか
んして〈世話(therapeia)
〉という限定された言葉を選
んでいた。この「世話」というソクラテス特有の術語は,
対象の知識を所有することなしにそれにひたすら「迎合
(kolakeia)
」すること,と厳しく分けられた。いきあ
たりばったりの迎合的態度は「経験(empeiria)
」とい
う憶測の領分に属するものにすぎず,対象の真の知識に
基づいてそれを配慮する仕方が「世話」であり,これは
技術・知識の領分に属するものであることが強調されて
いたのである。身体の「世話」は,料理術や化粧術のよ
うな経験や熟練ではなく,医術と体育術という技術がつ
かさどり,魂の「世話」は,ソフィストの術や弁論術の
「熟練知や経験(tropos/empeiria)
」ではなく,「立法
と司法の技術・知識(techne ̄/episte ̄me ̄)
」が,正しく世
話する能力を持つのだという議論が展開されていた(4
6
3
b5―)
。迎合:世話=経験:技術というプラトンの駆使
する比例式/類比(analogia ̄)による議論の展開である。
プラトンはこのようなアナロギアを厳密な論証に数えて
いたのであろう。
また『プロタゴラス』篇,導入部のでも,「ほかなら
ぬ〈自分自身の魂(psyche
 ̄)の世話をする(te ̄n psyche
 ̄n
te ̄n sautou therapesthai)
〉
」という大事なことを,「一
人のソフィストの男にゆだねようとしている」といって
ヒッポクラテスを非難することから議論に入っていった
の で あ る(3
1
1b8―9)
。こ の「魂(psyche
 ̄)の 世 話
〈therapeia/therapesthai〉
」という技術と「生(bios)
の救済・保全(so
」というソフィストの技
 ̄te ̄ria/so ̄zein)
術は,ともにある種の「配慮」の意味を共有している。
しかし,それらの定義のコンテキストに着目すれば,配
慮する事柄と仕方がそれぞれ全く異なるものとして限定
されていることは明らかである.ソフィストの「生・生
活〈bios〉の救済・保全」をすることとソクラテスの「魂
2
0
1
〈psyche ̄〉の世話をすることと」が,あるいは〈生bios〉
と〈魂psyche
 ̄〉とが,この文脈において意図されて互
いに絡まって軋んでいるように思われるのである。
この議論は,当論文においては手に余る問題である。
しかし,そのようなことが見えるまで,議論が展開した
ことをもって小論を閉じる。
註 ¸ ¹
1)功利主義批判をする人によって,その特徴の様々な
側面が取り出されて議論される。最大多数の最大幸福
に集約される社会的レベルのもの,心理的個人的なも
の,帰結主義など。ヌスバウムは,「功利主義の合理
的―選択(the utilitarian rational―choice)
」の今日的
モデルに固有な要素として,共約可能性(commensurability)
,集計性(aggregation)
,最大化(maximizing)
,
所与的選好(exogenous preferences)」の4つをあげ
る。そしてこれらは功利主義に特有の人間像を与える
として,アマルティア・センとウィリアムズの言葉
「本質的に,功利主義はひとびとを,彼らそれぞれの
効用の場所―欲求する,快や苦を感じるというような
活動が起きる場―としてみる。いったんひとのもつ効
用について記録をとると,功利主義はそれ以上そのひ
との情報に直接関心を持つことはない……個々の石油
タンクが石油の国家消費量の分析において問題になら
ないと同じく人々も個人として問題にされることはな
い。
」を引用する。そしてこれを自分の言葉で「人々
の間の質的区別」も「彼らの間にある境域の区切り」
も「彼らの持つ選択の自由」も「功利主義的説明とい
う観点には見えなくなってしまうのだ」と解説する。
Cf. M. Nussbaum, Poetic Justice p. 1
4―1
5, Beacon
Press 1
9
9
5. なお,ここに引用されているセンとウィ
リアムズの言は,Sen and Williams’Introduction to
Utilitarianism and Beyond , Cambridge University
Press,1
9
8
8. p.4から引用されている。
2)Sophocles’Philoctetes and the teachings of the
sophists. H.S.C.P.80(1
9
7
6)p.4
9―1
0
5.
3)Cf. Charles Segal, Tragedy and Civilization (An
Interpretation of Sophocles) p. 1
5
2. University of
Oklahoma Press 1
9
9
9.‘The most famous lyrics in
the Antigone , and one of the most famous passages
in all Greek poetry, sing the praises of man and civilizer(3
3
2―3
7
5)
:“Many are the thing of wonder(terror, deina )but nothing more woderful(terrible)
than man.”This choral ode, the first stasimon of the
play, draws on Sophistic speculation about the origin
of human culture and invites us to consider the action of the play in this broad perspective of the achievement of civilization’And see also p. 3
0
3./Guthrie,
The Sophists p. 61. Cambidge 1971.‘Though Sophocles does not picture the original state savage state,
his praise of man’
s technical progress in the Antigone presupposes the same order of events.’
4)『プロタゴラス』篇が傍証の註に落とされるのは,
この論文はその論題のとおり,この3段階説を,ソ
千葉大学教育学部研究紀要 第5
4巻 À:人文科学系
フォクレスの ピロクテテス において論証しようとい
う野望をもつからである。野望とあえて言ったが,約
6
0ページ近くにわたってなされるその分析はスリリン
グで説得力がある。そこで駆使される基本概念が〈救
済・保全(so
〉であり,原始状態でのサ
 ̄te ̄ria/so ̄zein)
バイバルにおいて,ピロクテテスが,「いつも自分を
救済・保全するのは〈ho kai so
aei〉
」火の光(pho ̄ ̄zei m’
s)と弓だといい,オデュッセウスは「いつも自分を
aei〉
」嘘(pseu救済・保全するのは〈ho kai so ̄zei m’
dos)
・策 知(dolos)
・詐 欺(apate
 ̄)で あ り,要 す る
に「舌」だという。平等主義と相対主義的アテネ民主
制の体現者オデュッセウスはソフィストのパロディー
であり,ピロクテテスは,神の子孫である優れた人に
よって統治される階層社会という,ソフォクレスが憧
れてやまぬピンダロスの構想の体現者として描かれて
いるというのだ。これは,面白い議論ではあるが,本
論の主題は プロタゴラス なので,その紹介はべつの
機会に譲る。
9
5
6/1
9
7
4)
, in So5)Gregory Vlastos, Protagoras (1
phistik , Herausgegeben von Carl Joahim Classen. S.
8
9. Wissenschaftliche Buchgesellschaft1
9
7
6.
2
7
1―2
6)『プロタゴラス』篇(3
5
2b―3
5
2d)
〈「…それとも知
識は立派なものであって,人間を支配するする力を持
ち,いやしくも人が善いことと悪いこととを知ったな
らば,なにかほかのものに屈服して,知識の命ずる以
外の行為をするようなこと は け っ し て な く, 知 恵
(phrone ̄sis) こそは人間をたすけるだけの確固とし
た力をもっていると,このようにお考えでしょうか」
「いかにもそれが」と彼は言った,
「私の見解である
というだけでなく,ソクラテス,同時にまた,およそ
人間にかかわりのあるすべてのもののなかで,知恵
(sophia)と知識(episte ̄me
 ̄)にまさるものはないと
主張しないとしたら,余人はしらず,この私にとって
恥ずべきことだ」
「立派で正しいお言葉です」とぼくは言った,…〉
プロタゴラスに答えさせているが,これはソクラテス
自身の当然の見解の確認でもある。
2
0
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