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行動科学におけるコミュニケーションの機能と定義につ

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行動科学におけるコミュニケーションの機能と定義につ
Kobe University Repository : Kernel
Title
行動科学におけるコミュニケーションの機能と定義につ
いて(A Better-fitted Functional Definition of
Communication in Behavioral Sciences)
Author(s)
宇津木, 成介
Citation
国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科
紀要,33:11*-37*
Issue date
2009-12
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002087
Create Date: 2017-03-30
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行動科学におけるコミュニケーションの
機能と定義について
宇津木 成介
はじめに
コミュニケーションの定義
概念には定義が必要である。しかし専門家による厳密な定義は難解なことが
あって、門外漢には「なるほど」とすぐには納得できない場合がある。このよ
うな場合、厳密な定義からあまり外れないようにしながら、多くの読者が「な
るほど」と思うようなわかりやすい定義の仕方を考え出すことができれば、そ
のような定義は、多少厳密性を欠いたとしても、意味があるだろう。そして、
そのような定義には、その概念「らしさ」がうまく表現されているに違いない。
コミュニケーションの場合も、「なるほどそれがコミュニケーションか!」と
いう印象を与える定義は決して悪い定義ではないだろう。そして、
「なるほど」
と思えるような定義には、「コミュニケーション」らしさにとって必要な要因
が含まれているに違いない。
定義には、強い定義と弱い定義がある。強い定義では個々の例が「コミュニ
ケーションの集合」に所属する条件が厳しく、弱い定義では所属条件が緩和さ
れている。たぶん、強い定義は「狭義の」、弱い定義は「広義の」と言い換え
ることができるだろう。弱い定義を行ったあとで、個々の例を挙げて、それが
コミュニケーションであるかどうかを判断すれば、たくさんの事例がコミュニ
ケーションであると結論されるだろう。さらに条件を付け加えてコミュニケー
ションを強く定義したあとで、同様に個々の例について、コミュニケーション
であるかどうかの判断をするとすれば、コミュニケーションであると判断され
る事例の数は少なくなるだろう。強い定義の場合に「コミュニケーションであ
る」と判断された事例は、それより弱い定義の場合にも「コミュニケーション
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である」と判断されるから、強い定義によるコミュニケーションの集合は、弱
いコミュニケーションの定義に対して十分条件である。以下に述べるシャノン
のモデルは、すべてのコミュニケーションにとって必要な条件であるから、著
しく弱い定義であると言えるだろう。
弱すぎる定義
有名なシャノンのコミュニケーションのモデルは「送り手」「メッセージ」
「受け手」の3つの要素からできあがっている(Shannon, 1948, Fig. 1
Schematic diagram of a general communication system)
。シャノンのこの論
文自体は、信号を高速かつ忠実に伝送するための数学モデルであるが、この図
は誰にもわかりやすく描かれており、かつ、コミュニケーションのもっとも基
本的な要素を明確に示しているから、今日でもコミュニケーションの基本モデ
ルとしてしばしば引用される。
この図が示すシステムを具体的に表現するために、やや古典的な表現をとれ
ば、2台のテレタイプが(今日的にいえば2台のコンピューターが)電気信号
を伝える配線、あるいは無線装置によって「繋がって」いて、かつ、そのうち
の1台のテレタイプから何らかの文字や数字が他方のテレタイプに向けて送り
出され、後者のテレタイプがその文字や数字を正しく(送り出された文字や数
字を間違わずに)印字する場合に、「情報が正しく伝達された」とされる。こ
のような通信理論的コミュニケーション・モデルは、すべてのコミュニケーシ
ョンのコアであって、これ以上に簡単なシステムはもはやコミュニケーション
ではありえない。しかし、人間の、動物の、あるいは生物のコミュニケーショ
ンを考える場合の出発点とするには、この定義は広すぎるだろう。つまり先の
2台のテレタイプの例は、人間がコミュニケーションのために使用する通信機
には見えるが、どうも「コミュニケーションぽく見えない」のである。とりわ
け、概念を定義することによって研究(知を求める活動)が終わるのではなく、
さらに研究が促進されるのだとすれば、シャノンのモデルは何を促進したのだ
ろうか。
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シャノンのモデルは、情報の伝達を、より速くより正確に行うためにはどう
すればよいかという視点に立ったモデルである。このモデルのおかげで、今日
のわれわれは一昔前のレコードとは比べものにならない忠実度をもった録音媒
体(例えばDAT)で音楽を再生し、局所的には人間の目の解像度を超えた画
像をデジタルカメラで簡単に取り扱うことができる。しかし、「では人間のコ
ミュニケーションは大幅に改善されたのですね」と問うてみると、目を見張る
ほど改善されたのは電子化された情報の量と速度であった。確かに、デジタル
カメラは一千万画素を超える解像度の情報を極く短時間に液晶ディスプレーと
記憶装置に正確に保存することができる。通信工学者の目から見れば、これは
大きなコミュニケーション技術の進歩であろう。同様に、スカイプ(Skype)
に代表されるウェブを媒介とするコミュニケーション技術によって、人とひと
の遠距離のコミュニケーションは著しく改善されたが、ふだん会っている人と
ひと、ヒトと動物、人間の集団と集団の間のコミュニケーションについては、
同様に目を見張るほどの改善があったかと言えば、決してそうは思えない。携
帯電話で頻繁にメールをやりとりできることは確かに便利であるが、それによ
って人間関係がより親密になり、社会集団への所属意識がたかまり、闘争が減
少し、人々が昔より気持ちよく社会生活を送れるようになったかと言えば、か
ならずしもそうではないであろう。とすれば、電子化された情報の量や速度や
正確性は、コミュニケーションの本質的な部分ではないということになるだろ
う。そしてまた、コミュニケーションの本質的な部分を改良できないシャノン
のコミュニケーションの定義は、すべてのコミュニケーションの根底を定義し
ているにしても、「コミュニケーションらしさ」の重要な要素が欠けているに
違いない。つまり、コミュニケーションらしさは、コミュニケーションの速度
や正確さや量によっては表現できないだろう。
強すぎる定義
ウェブ上には様々な情報が満ちあふれている。検索語を用いてウェブページ
の検索を行えば、人々が滅多に言及しない概念が画面に表示されることは少な
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くて、頻繁に言及される概念ほど数多く画面に表示される。表1は筆者が学部
の授業で使用するため、数年前に作成したものであり、ウェブ上で「コミュニ
ケーション」をキーワードに検索を行い、上位に表示されるページをまとめた
ものである。ここには、情報産業、情報の販売・提供、人間関係の構築や改善
(ここには恋人紹介や家族関係の改善の他、医学的に言えば治療行為に相当す
るものも含まれている)、公的機関から公開される情報(これには情報公開の
ほか、住民へのお知らせのように積極的になされるものも含まれている)、外
国語の習得、異文化交流、動物との交流など、非常に多様なウェブ・サイトが
含まれている。その多様性に注目すれば、これらのそれぞれの「コミュニケー
ション」はそれぞれ特異であって、明瞭な共通性に欠けている。それらが共通
してコミュニケーションであることを示そうとすれば、送り手と受け手とメッ
セージが存在するというシャノンのレベルまで戻る必要があるだろう。
つまり、
これらの「コミュニケーション」の定義はそれぞれ「強すぎる」と言えるだろ
う。
コミュニケーションの妥当な定義
シャノンのモデルがその改善に大きく寄与した信号の伝送技術、たとえばデ
ジタルカメラの光センサーの大量の信号を、メモリーや液晶表示装置に高速に
送る技術に関する情報などは「コミュニケーション」を検索語とした検索では
得られない。われわれが普通に考える「コミュニケーション」のほとんどは、
人間の、あるいは人間を中心にしたコミュニケーションであり、シャノンの定
義によるコミュニケーション集合の中では、ごく一部の領域を占めるに過ぎな
いだろう。人間が考える「コミュニケーションらしいコミュニケーション」は、
コミュニケーションの全集合の中では、かなり偏って存在していると言っても
よい。
人間の社会において観察されるコミュニケーションの行動や現象は、もし無
意識的であるとしても、そのほとんどが何らかの目的をもって行われているた
めに、シャノンによる最弱の定義に加えて、「目的的に行われる」という条件
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を付け加えたほうが、「コミュニケーション」概念はより妥当なものとして見
えるように思われる。
シャノンのモデルが「ふつうの人」にとって「コミュニケーションぽく見え
ない」もう一つの原因は、シャノンのモデルでは一方から他方への情報伝達だ
けで成立しており、双方向性は必要とされていないことである。先に述べた2
台のテレタイプ(コンピュータ)が一方から他方へのみ文字列を送るのではな
く、相互にランダムな文字列を送りあっている状況を考えると、例えば1台目
のコンピュータが“p$84%”と送信すると、2台目のコンピュータの画面にこ
の文字が現れ、ついで2台目のコンピュータから“W3$vG&t”という文字列
が1台目のコンピュータに送られて画面に表示されるという状況を考えると、
このほうが、先の一方から他方へのみ文字列が送られる場合に比べて、より
「コミュニケーション」らしさが増加するように感じられるのではないか。
もし、人間のいなくなった世界で稼働しているこの2台のコンピュータが、
残された電池の倉庫の場所を互いに教えあい、それによってこれらのコンピュ
ータの稼働時間が延びるのだとすれば、われわれが感じる「コミュニケーショ
ンらしさ」はさらに高まるだろう。コミュニケーションらしさを高めるために
は、一者が送ったメッセージに対して適切な応答があるとか、あるいは一者が
送ったメッセージがもつ情報を他方が利用しているとかいう制限を付け加え
て、定義を強くすればよい。
しかし、強すぎる定義は、個々のコミュニケーション事例を排除してしまう。
「2人の人物の間で会話がおこなわれ、それによってお互いの気持ちが相手に
理解されること」という定義が示す状況は、たしかにコミュニケーションらし
いが、それでは、動物との「コミュニケーション」や「マス・コミュニケーシ
ョン」は、コミュニケーション概念から外れることになる。つまり、強すぎる。
「ちょうどよい」コミュニケーションの定義は、強すぎず、弱すぎない定義と
いうことになるだろう。
本稿は、コミュニケーションの「ちょうどよい」定義について考えようとす
るものであるが、先回りして結論を述べれば、コミュニケーションの「ちょう
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どよい」定義は、「メッセージの送り手が、メッセージを受け手に送ることに
よって、受け手の行動を送り手の利益になるように変容させる行動」というこ
とである。
このような定義は、後で述べるように、動物学あるいは生物学の分野で行わ
れている定義であるが、動物と人間とのコミュニケーションであれ、マス・コ
ミュニケーションであれ、政府の広報であれ、たしかにそれらがコミュニケー
ションであると説明しやすく、また納得もしやすいと思われるし、人と機械
(とりわけ今後出現するであろう「知的」なロボット)との間のコミュニケー
ションや、機械と機械の間のコミュニケーションを考える場合にもおそらく有
効だろう。
コミュニケーションらしさの要因
図1は、2007年に国際文化学部における非言語コミュニケーションに関する
授業で実施した質問紙調査の結果である(被調査者数は男女計57名の学部学
生)。この調査は、コミュニケーションのいくつかの定義について、どれくら
い「そう思うか」を尋ねたものである。それらの定義文は、
Q1.自分の気持ちがわかってもらえること、
Q2.相手の気持ちがわかること、
Q3.自分の言葉などが正しく伝わること、
Q4.言葉・文字・写真などが複写されて運ばれること、
Q5.自分の命令どおりに相手が動くこと、
の5つである(5は「そう思う」、1は「そう思わない」とする5段階評価)。
図からわかるように、気持ちが伝わるという定義には多くの学生が賛同してい
るが、他者の行動制御という定義に対しては、否定的な反応が見られる。
自由記述欄に、「コミュニケーションは双方向なので、お互いに気持ちがわ
かることが重要」と書く学生は少なくない。先に述べたように、「コミュニケ
ーションらしさ」を高めようとするなら、双方向性は大きな要因であるといえ
るだろうが、あとで述べるように、双方向性はコミュニケーションの定義に含
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めないほうがよい。
多くの学生は、コミュニケーションに必要なのは2台のテレタイプ(あるい
はコンピュータ)ではなく、二人の人間であり、しかもその一方はおそらく自
分自身であり、さらに、コミュニケーションがない場合には知ることの、ある
いは知らせることのできない「気持ち」を、相手に知らせることができ、また
相手から知らせてもらうことができ(て満足す)るというところが重要だと思
っている。
そのためか授業において、「私の授業におけるコミュニケーションの定義は、
『コミュニケーションは他者の行動を操作する行為』である」と筆者が述べる
と、あまり好意的な表情で迎えられることはなく、「たしかにそういう側面も
あるかもしれないが、コミュニケーションにおいて最も重要なのはやはり、気
持ちがわかりあえるということではないでしょうか」というリアクションに出
会うことがある。もちろん、「コミュニケーションによって相手の気持ちがわ
かるということ」、「自分の気持ちがわかってもらえるということ」はありうる
ことではあるが、それはコミュニケーションが生み出す多様な結果のごく一部
であって、コミュニケーションにとって本質的な問題ではない。
「サトラレ」という佐藤マコトのマンガ(佐藤、2001)は、考えていること
がすべて周囲の他者に伝わり、しかし本人はそのことを知らないというユニー
クな状況を作り出している。映画化もされたので、高校生や大学生の多くはこ
の話の概略を知っており、このマンガに言及したあと、再度、コミュニケーシ
ョンによって自分の気持ちがすべて伝わってよいのか?」と尋ねると、
「いや、
それは困ります」という返事が返ってくる。
コミュニケーションという用語の誤用について
コミュニケーションが個々の具体的行為を指すのか、それとも実現された、
あるいはされるべき状態であるのかという問題に少しだけ触れる。コミュニケ
ーションをより明確に定義しようとすると、「コミュニケーションがある」と
いう言葉が、1)なんらかのメッセージ(文字列)が一所から他所に伝達され
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るというプロセスの存在を指しているのか、それとも、2)会話などによる情
報伝達がある場合には、ない場合に比較して、人々のありかたが「より良い」
ことを含意して、そのような望ましい双方的プロセスが現に存在していること
を指しているのか(注:表現がくどいが、家族一同が集って夕食をとりながら
今日一日の出来事を楽しく語り合っているような状況である)、3)このよう
なプロセスにおいて伝達されるメッセージ(文字列)そのものを指しているの
か(注:例えば、「AさんからのコミュニケーションによればBさんは元気だ
そうです」のような表現がこれにあたるだろう)、ということについて、先に
決めておく必要があるだろう。このうち、第3の可能性については、本来この
場合にはメッセージという用語を使用することが適切である。もしメッセージ
という用語が言語的な意味合いを強く持つために、コミュニケーション一般を
論じるためには不適切であるというのであれば、コンテンツという別の用語で
置き換えることが可能だろう。
メッセージの量として考えられるコミュニケーション
人間関係における一種の望ましい状態を指して、「コミュニケーションがあ
る」と表現されることがある。親子や夫婦の間に「コミュニケーションがない」
と言われる場合、そこには何か「望ましくない状態」があって、もしもそこに
「コミュニケーションがある」ならば、その「望ましくない状態」は改善ある
いは消滅するだろうということがほのめかされている。典型的には、たぶん、
「メシ、フロ、ネル」という3つの単語だけで維持される夫婦関係は、おそら
く、決して望ましい関係であるとは言えず、したがって、「夫婦間にコミュニ
ケーションがない」と表現されても違和感のない状況であるが、プロセスとし
ての「コミュニケーション」が皆無であるわけではなく、少なくとも「メシ、
フロ、ネル」という3つの単語は、たしかに言語コミュニケーションとしての
機能は果たしている(注1)。
さらに、非言語コミュニケーションをコミュニケーションに含めるならば
(当然含めてよいと思うのだが)、子どもが親に対してなにも語らず、仏頂面で
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自室に引きこもっていたとしても、そこにはコミュニケーションが欠けている
わけではない。親は子どもに対しては日に三度食事を与え、子どもはその三度
の食事を得て、消化し排泄もするわけであるから、親がこのような状態を嬉し
く思うかどうかは別にして、心理学的な意味だけでなく社会学的にも、両者の
間には、平均的な人々のコミュニケーションに比べれば非常に貧しいとは言え、
家族が集団としてその成員の生命を維持できる程度のコミュニケーションは、
存在していると言うことができるだろう。
「彼(彼女)との間にコミュニケーションがないんです」といって訪ねてく
る学生がいるが、「コミュニケーションがないと言っても、一言二言はしゃべ
るのでしょう?」と尋ねると、「それくらいでは気持ちが通じなくて、コミュ
ニケーションになっていないんです」と反論される。この学生の場合において
も、コミュニケーションは量的な個々の行為ではなく、一種の理想的状態であ
り、メッセージ送受のプロセスを改善することによって到達できる(かもしれ
ない)目標として理解されている。
ある種の人格障害や精神疾患において「コミュニケーションがとれない」と
いわれることがあるが、これもメッセージの送受が皆無だと言っているわけで
はなく、メッセージの量が少ない、あるいはメッセージの意味が不明であるた
めに、必要が満たされず、日常生活を送るのに障害が生じているということに
なるだろう。恋人同士が日中はそれぞれ別の会社で働いていて10時間の間まっ
たく互いに連絡がとれず、また睡眠の8時間は互いに連絡がとれないからとい
って、即座に「二人の間にはほとんどコミュニケーションがない」ことになる
わけではないだろう。つまり、これらの場合に求められているのはメッセージ
の量ではなく、メッセージの質であると言える。このメッセージの「質」を規
定するものは、メッセージの内容が一者あるいは双方にとって「都合がよいか
どうか」である。このことについては、以前(2006年11月11日)、国際文化学
部公開講座で、「コミュニケーションがあると言われるのは都合の良いコミュ
ニケーション行動が行われていることであり、コミュニケーションがないと言
われるのは都合の良いコミュニケーション行動が行われていない場合のことで
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ある」という趣旨の話をした。家族のメンバーであれ、友人や恋人であれ、あ
るいは商品の販売員であれ、あるいは人格障害であれ精神疾患であれ、「コミ
ュニケーションがない」ことの意味は、メッセージのやりとりの有無が問題で
はなく現状に不満があるという一点に収束する。
コミュニケーションの機能
そこでここでは、まず、コミュニケーションを「あるべき到達目標」から切
り離して、個々の発話行為、あるいは非言語的表出活動という「行動」である
としよう。人間の場合のように意識があり、意識を言語メッセージとして表現
し、それを他者に伝えることができると考えられる場合、つまり言語コミュニ
ケーションが可能な場合には、コミュニケーション行動は意図的であって、目
的があると言われる。目的がある行動は、日本語ではしばしば「行為」と呼ば
れる。ヒト以外の動物の場合、個々の行動に目的があるかどうかを知ることが
難しいために、「行為」の語をつかうことが難しい。それでも、特定の行動の
後で何が生じるかを反復観察し、その行動が特定の結果をもたらすかどうか、
つまり特定の機能をもった行動であるかどうかを定めることによって、特定の
機能があることがはっきりすれば、そのような行動は「行為」と呼んでも差し
支えないであろう。しかしここでは行為と行動とを厳密に区別しなければなら
ないということはなさそうである。以下では、行動の用語のみを使うことにし
よう。
「メシ、フロ、ネル」という発話によって典型的には何が生じるのか、ある
いは仏頂面で引きこもることによって何が生じるのかを考えれば、これらの行
動が持つ機能は明らかであろう。「メシ、フロ、ネル」の3語で食事が準備さ
れ、風呂の支度がされ、布団が敷かれるのであれば、そこでは日常生活に必要
なコミュニケーションが行われているのだし、無言で引きこもっていても、三
度の食事が運ばれてくるのであれば、言語的コミュニケーションがないことに
よって生存が危うくなるわけではない。問題があるとすれば、「メシ、フロ、
ネル」の3語しか話さない人物を相手にしている側が遭遇する問題(不快感)
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であり、また、引きこもりの子どもをもつ両親が遭遇する問題(不快感)であ
る。ヒトを含めて動物が快を求め、不快を避けようとしているとすれば、この
ような不快は解決するほうがよい。
コミュニケーションが人間に特有な現象であると定義するのであればともか
く、動物が行うコミュニケーションもまた「コミュニケーション」概念の傘下
におきたいものである。コミュニケーションはまず行動である。行動にはコス
トがかかる。リスクもある。しかし行動が単なる動作ではなく、機能をもって
いるなら、なんらかの利益(あるいは不利益)が期待できる。動物は行動しな
ければ生きていけない(奥井, 1994)。端的に言えば、満腹している動物は活
動せず、眠る。とすれば、動物が他の動物とわざわざコミュニケーションを行
うとすれば、そこにはなんらかの利益があるからに違いない。
生物学におけるコミュニケーション
社会生物学の提唱者として有名なE.O.ウィルソンは、コミュニケーションを
「ある個体の作用であって、他個体の行動を一方あるいは双方に適応的である
ように変化させるもの」と定義している(Wilson, 1975, p.388)。「適応的」と
いう言葉の意味は、生存の可能性を増加させることであり、「利益がある」と
言い換えてもよい。動物のコミュニケーションについては、「平均すれば送り
手が受け手の反応によって利益を得るような、ある動物から他の動物への信号
の伝達」(Halliday & Slater, 1983, p.198)という定義もなされている。この2
つの定義は、コミュニケーション行動が、送り手による利益を求める行動であ
るとする点で本質的に同じである。これらの定義が重要なのは、コミュニケー
ションが、シャノンのモデルに即して一方向のみに行われていても、全く差し
支えが生じない点である。つまり、双方向性は、
「コミュニケーションらしさ」
の要件にはならない(注2)
。
コミュニケーション行動が生み出す利益
なぜ動物はじっと寝ているかわりに、わざわざコミュニケーション行動をと
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るのだろうか。それは、コミュニケーション行動をとるほうが、とらない場合
にくらべて、利益があるからである。
じっと横になって寝ていると、エネルギーの消費は少ない。しかしエネルギ
ーはやはり消費される。われわれは「寝るより楽はなかりけり」の世界に住ん
でいるのであるが、寝ていては楽をすることができないという矛盾を抱えこん
でいる。後述するドーキンス流の表現を借りれば、「行動しない動物は昔はい
たかもしれないが、そのような動物は生きていくことができなかったので、今
はいない」ということになるだろう。
動物の場合においても、観察や実験を繰り返すことによって、特定の行動が
環境に対してもつ作用(機能)を知ることができ、その作用が動物に利益をも
たらしたか否かを知ることができる。だから動物の多くの行動は、意識が伴う
かどうかを問題にしなくても(意図的でなくとも)、利益をもたらす機能をも
っていることがわかる。動物は不利益を生じる行動はあまりしないので、行動
は、平均的に利益が得られるという意味においては目標をもってなされる。少
なくとも、ダーウィン的なものの考え方をすれば、非常に大きな損失を生じる
行動は次第に失われる傾向にあり、現在残っている行動は、概ね、利益を得る
ことができる行動であるか、損益とはほぼ無関係の行動であるかのいずれかに
なる。とくに、非常に多くの資源を消費する行動は、動物が外界から大きな利
益を得る可能性のある行動であると考えることにしよう。動物が外界から利益
を得るそのような行動の典型はもちろん、摂食行動と、生殖行動である。
基本的な動因とそれを満たす行動
ドーキンスは、ヒトを含めてすべての生物は子孫を残すメカニズムだという
考え方を非常にわかりやすく述べている(Dawkins, 1994)。それは、子孫を残
す(生殖行動を行う)生物のみが現存している(子孫を残さないタイプの生物
がいたと考えてもかまわないが、それらの子孫は現在残っていない)という指
摘と、生殖行動には適切な条件(内的・外的な環境が整う条件)があるために、
その条件が満たされるまで、個々の生物は生きていることができなければなら
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ない(それができなかった生物は子孫を残すことができなかったから、それら
の子孫は現在残っていない)という指摘である。端的に言えば、それが動物自
身の問題であれ環境の側の問題であれ、生殖と摂食ができなかった生物につい
ては、現在はそれらの子孫が存在していないということである。ここで「でき
なかった」と過去形で書く必要があるのは、現存する個々の生物が摂食するか
(できるか)生殖するか(できるか)を問題にするのではなく、現存するどの
個体においても、その先祖はすべて摂食と生殖に失敗しなかったという単なる
事実と、過去のある時点で生殖に失敗した個体は未来永劫子孫を残すことがな
いという単純な論理を成立させるためである。現在の時点で「生殖能力に欠け
る動物は子孫を残せない」のように記述するとするなら、
「生殖能力とは何か」
について説明する必要があるが、「生殖しなかった動物」のように記述すれば、
生殖の能力がどのようなものであるかは問題にならない。
たいていの生物の個体は、生殖と摂食に腐心しているように見える。心理学
はもっぱらヒトについてその行動を説明しようとするので、多くを生理学に負
いながらも、生物に基本的な行動を生じさせるメカニズムとして、動因
(drive)という用語(あるいは概念)を使っている。ヒトのように複雑な生物
では、摂食行動も生殖行動もかなり複雑であるが、つねに食物と異性を探して
徘徊しているという点では、ヒトは、有性生殖する最も単純な生物と異ならな
い。生殖によって誕生した幼生が次の生殖を行うまでには一定の成長期間が必
要であり、この成長の期間においては、もっぱら摂食行動のみが生じる。
摂食行動も生殖行動も、人の意志によって開始したり停止したりするのが困
難な行動である。ヒトを摂食へと駆り立てるのは、飢餓感という苦痛と、摂食
がもたらす快であり、摂食後の満腹感は摂食行動をしばらくの間停止させる
(注3)。
完了行動と道具的行動
生物、とりわけ動物の環境においては、摂食の対象となる「エサ」はかなら
ずしも潤沢ではないために、あるいはマルサスやダーウィンが指摘したように
24
エサが潤沢ではなくなる程度まで個体数が増加するために、摂食のしかたの個
体差が生殖の機会を左右する。比喩的に言えば、ネズミよりも走るのが遅いネ
コは、ネズミがよく通る道筋で待ち伏せるなどの方略を案出するのでなければ、
摂食の機会を減らすことになるだろう。
摂食行動や生殖行動の最終段階は、動物行動学では完了行動(consummatory behavior/ response)と呼ばれる。概念的には、エサを探す行動とエサを
捉える行動は、エサをかみ砕いてのみこむ行動に対して、道具的(instrumental behavior/ response)として区別することができる。たとえて言えば、2
つの木片を接合することが目的であれば、そこで釘をつかおうと、ホゾを作っ
て組み合わせようと、接着剤をつかおうと、選択の自由があるが、目的そのも
のは変えられないということである。もちろん、一連の行動の連続(行動の連
鎖:behavior chain)において、どこから先が完了行動であるかを決めること
はかならずしも容易ではない。とりわけ、比較的単純な動物の行動においては、
特定の行動(あるいは動作)の完了が次の行動(動作)を開始する契機となっ
ていることがあり、「道具的」という語の語感が持つほどの選択の自由度は存
在しない。それでも哺乳類や鳥類など、動物行動学や心理学が観察や実験の対
象としてきた多くの動物においては、より効率的な、つまり簡単に、早く、上
手に目的を達成する道具的行動は他の道具的行動から区別されて、選択的に高
頻度で実行される。つまり、「学習」のメカニズムが作用している。
一見すると完了行動と見えるものであっても、当該行動を終息させる事象は、
かならずしも体制神経系支配による身体活動であるとは限らず、消化器系や自
律神経系の事象である場合がある。摂食行動の停止を生じるためには、嚥下に
よって物質が食道を通過する感覚も必要であるが、食物の味覚(化学的組成)
、
胃部の膨満感、血中の糖濃度の上昇の検出も関与しており、「これは道具的」
「これは完了行動」というように行動を区別することは難しい。とりわけ、明
らかに道具的な行動の遂行であっても、それ自体に快不快が随伴する場合、道
具的行動自体の目的化、あるいは完了行動化と言える事態が生じる。喫煙行動
の修正が容易でないのは、脳内伝達物質の一つであるニコチンの摂取による快
25
感の獲得のせいだけではなく、煙草をとりだして火をつけ、吸い、先端が赤熱
するのを確認し、単なる空気とは異なる気体が口腔を介して呼吸器内に侵入し
たという実感をもち、次いでそれを深い呼気とともに吐き出すという一連の行
動の遂行の全ての過程において、快が提供されているからである(例えば島
井, 2009)。
完了行動と道具的行動についてやや長く述べてきたのは、コミュニケーショ
ン行動は完了行動か道具的行動かという問題について考えるためであるととも
に、本論の最終的な目的である「コミュニケーションと他者」について考えを
進めるにあたって、コミュニケーションが本質的に道具的であることを示すた
めである。つまり、コミュニケーションは単に実行を完了すれば終わりになる
行動ではなく、なんらかの利益を得ることが期待できる道具的行動であるとい
うことである。
直接的行動とコミュニケーション行動
道具的行動と完了行動は、細部を眺めて区切ろうとすると区別が難しいが、
「グローバルに」見ると区別は難しくない。捕食者が風下からエサとなる動物
に近づいたり、樹上から襲撃したりするのは手段として選択する余地があるが、
食いちぎった肉片を飲み込んで胃に送り込むという点においては、選択の余地
がない。一般にエサとなる動物は捕食者の胃の中に自発的に飛び込んで来ては
くれないから、捕食者は、かなりのエネルギーと時間とを費やしてエサを探索
し、獲得する。もしエサのほうから捕食者のほうに近づいて来てくれるなら、
このエネルギーや時間を節約することができ、余剰のエネルギーと時間は、別
の目的に、例えば生殖のために、消費することができる。
生殖行動においては、性交(オスの場合、生理学的にはさらに射精)が完了
行動であるが、摂食行動の際に摂食可能かつ栄養として吸収が可能なエサを発
見し追尾し捕獲する必要があるように、生殖可能な個体を発見し追尾し捕獲し
性交するという一連の行動をグローバルに見れば、性交の部分は完了行動であ
り、発見・追尾・捕獲の行動は道具的であると言ってよい。したがって、生殖
26
可能な相手である他個体が自発的にこちらにやってきてくれるとすれば、相当
の余剰エネルギーと時間とが節約できるから、これらは、別の目的で、例えば
別の生殖行動のために、消費することができるだろう。
エサや異性を手にいれることは動物にとって快であり、捕食者に捕まること
は不快であるとしよう。動物は快を求め、不快を避けようとする。快を求める
行動と不快を避ける行動は質的に異なるように見えるが、量的に見ると、次の
ように述べることができるだろう。
快・不快への距離
摂食行動も生殖行動も、最終的には一者と他者の間の距離をゼロにする行動
であるが、この距離は連続的にしか短縮できない。道具的行動を目標との距離
を操作する機能として見れば、快の対象との関係を構築し、濃密にするために
行われる接近行動であるだけではなく、不快の対象との関係を希薄に、あるい
は消去するため、回避や逃避行動にも使用される。この場合、他者からの距離
を遠くするためには、もちろん自らが運動してもよいのであるが、そのコスト
を低下させるために、他者が自発的に距離を長くするように働きかけることも
できる。コミュニケーションとは、完了行動遂行に至る道具的行動に要するコ
ストを低下させる行動であるが、そのコスト低減は自らの行動を効率的なもの
にすることによって実現されるのではなく、他者の行動を自らに都合のよいよ
うに修正することによって、つまりエサとなる動物や繁殖の相手となる動物の
行動によって実現される。コミュニケーションが存在しない場合には自らのエ
ネルギーによってこの距離を操作するのであるが、コミュニケーションが存在
する場合には、目的とする他者が支払うエネルギーによって距離を操作するこ
とができる。従って、コミュニケーションとは、一者(送り手)にとって快ま
たは不快である対象(受け手)との距離を、送り手の快が大きくなるように、
ただし受け手のコストで、伸ばしたり縮めたりする行動であると簡単にまとめ
ることができそうである。
27
コミュニケーション行動のコスト
もちろん、コミュニケーション行動自体も、コストがゼロで行われることは
ないから、なるべく安上がりな手段でコミュニケーションを行うのが得策であ
る。その意味で最も安上がりなコミュニケーションの手段は、言語であると言
える。筆者は前著「約束とコミュニケーション」
(宇津木,2005)で「コード」
が任意の2つの事象の間に成立するにもかかわらず、現実にはこの2つの事象
の大きさは不等であり、かつ著しく不等であることを指摘した(pp. 30-31)。
言語の場合、このような不等性は非常に大きいと言えるだろう。コミュニケー
ションは道具であるから、よい道具を使うほうが、よい結果が得られる可能性
は高くなるであろう。つまり、同種の動物同士が同様の手段を使ってそこここ
でコミュニケーション行動をしているのであるとすれば、より良い手段を具有
しているか見つけ出したかした動物のほうが、より効果的に他者との距離を制
御するだろう。そしてそのようなより効果的な手段は、あるいはそのような効
果的な手段を獲得するためには、より効果的でない手段を使用する場合に比べ
て、コストが余分にかかることは十分にあり得るだろう。また、他個体の行動
を都合の良いように変えようというのであるから、送り手のメッセージは受け
手にとって「わかりやすい」ものである必要があるが、これについては別のと
ころで述べる(宇津木、2009)。
コミュニケーションとウソ
うその利益
ウンベルト・エーコは、「記号学I」の冒頭で、「記号論とは原則的に言えば、
嘘を言うために利用しうるあらゆるものを研究する学問である」と、わざわざ
傍点を付けて述べている(Eco, 1976)。彼の視野の中にはもちろんコミュニケ
ーションが含まれている(同書p. 57)。コミュニケーションは利益を得ようと
する行動であり、ウソは一般に利益を計るためにつかれるのであるから、コミ
ュニケーションにおけるウソについても考える必要があるだろう。
前著「約束とコミュニケーション」ですでに述べたが、以下のような事情が
28
成立するときにコード系は使用可能になる。つまり、Aという事象にBという
事象がかなり高い確率で随伴するとき、事象Aは事象Bを指し示すという、か
なり確かな約束が成立する。このような約束は明示的に行われる必要はなく、
それ自体快でも不快でもない小さな事象Aが大きな快事象Bと結びついている
場合、経験により、あるいは遺伝的な制約によって、動物は大きな快事象Bを
得るための手段として、小さな事象Aを探索し、あるいは得ようとすることが
ある。この場合に、約束(コード系)が成立していると考えよう。もしも事象
Aが実現したにもかかわらず快事象Bが生じなかった場合、動物は不快を経験
するであろう。事象Aと事象Bとが連関しなかったことの原因が特定他者の行
動に帰因されるとき、その特定他者は不快な体験と結びつくだろう。そして人
間の社会では、このような場合、その特定他者はウソをついたと言われるだろ
う。
他者が現に持っている対象を得ようとすれば、殴り倒して奪うのが簡単だが、
エネルギーを消耗する。自分が勝つという保証はまったくない。このような場
合、最もよいのは等価交換であるが、もしも自分が大きい利益を得ようとする
ならば、相手が持っているものの価値が実際より低いように、あるいは自分が
持っているものの価値が実際より高いように見せる必要がある。
よく知られているように、カッコーというトリは托卵する。托卵は抱卵と育
雛を他種のトリに委託することである。人間の世界におけるように、はじめか
ら養育費を支払って子育てをお願いするのであれば、そこには不正はない。し
かしカッコーの場合、黙って他種のトリの巣に、留守中、卵を産みつける。他
種のトリはこのカッコーの卵を抱卵する。この場合、卵そのものはコードでは
ないが、トリが認識する丸い物体は卵のコードになり得る。多くのトリにとっ
て、自分の巣の中にある丸い物体は単に丸い物体であるのではなく、自分の卵
である。自然界においては、自分の巣のなかにある丸い物体が石ころであった
り、他種のトリの卵であったりする可能性は著しく低いと思われるから(巣の
中にある丸いものは自分の卵であることが高い確率で約束されているから)、
自分の巣のなかにある丸いものを抱くことは一般には利益になる。しかも、卵
29
の数を数えたり、DNA鑑定をしたりするコストは考えなくて良い。動物行動
学者のローレンツによって報告された「刷り込み」は卵から孵ったヒナが最初
に見た動くものについていくという現象であるが、卵から孵ったばかりのヒナ
がもし動くものを見るとすれば、それが親鳥であることは高い確率でが約束さ
れている。これは、自分の親を識別するための複雑な神経メカニズムを準備す
ることなしに、高い確率で利益をあげることのできる行動であると考えられる。
だから、この約束を破ってしまえば、破ったほうは大きな利益を得ることにな
る。
トリの中には「擬傷行動」を行うものがある。トリの卵やヒナを捕食する動
物が巣に近づいてくると、親鳥は(事実としてはまったく健常であるが)、ケ
ガをして飛べないトリであるかのような振る舞いをすることがある。これによ
ってキツネなどの捕食者は親鳥を追跡するが、親鳥は十分に巣から遠ざかると
擬傷行動をやめて飛び去る。ケガをして飛べないトリは捕食者にとって低いコ
ストで栄養をとるよい機会である。おそらくは、トリは病気や事故あるいは老
化によって飛べなくなることがあり、したがって、飛べない(ように見える)
トリはよいエサであるという約束があるのだろうと考えてみる。だから、この
約束を破ることによって、トリは利益を得ることができる。約束とは、事象A
があれば事象Bが、非常に高い確率で生じますよという(ここでは非言語的な)
陳述である。事象Aが生じているのに事象Bが生じないとすれば先の陳述は実
現されなかったことになる。
動物の世界では、ウソをつくことによって大きな利益が期待できる。しかし
それならば、すべての動物はウソつきになるはずだと、ダーウィンは考えるだ
ろう。もしすべての動物がウソつきにならないとすれば、ウソには損失をもた
らす側面があって、そのために動物はかならずしもウソをつくだけではないの
だと考えることができるだろう。ウソによる利益はすでに明白であるから、次
には、ウソによる損失について調べる必要がある。しかしその前に、ウソをつ
くのは悪いことかどうかについて、すこし考えてみる。
30
ウソをつくことは悪いことか
普通の大学生に対して、「ウソをつくことはよいことか」と尋ねると、
(大学
の授業という公的な場での反応としては当然かもしれないが)「ウソをつくこ
とは悪いことである」という反応が返ってくる。先のカッコーの托卵の話をし、
さらに、カッコーのヒナは孵卵が早く、生まれたカッコーのヒナは仮親の実子
である他の卵を巣の外に排除し、仮親が運んでくるエサを独占する。このよう
な話を学生にすると、普通の学生は「カッコーはウソつきであり、悪い鳥であ
る」と感じるようである。筆者自身も、素朴にはそのように感じる。
一方、ウソつきが肯定される場合もある。先に述べた「擬傷行動」は、「焼
け野の雉、夜の鶴」という慣用表現どおり、「献身的」な養育行動として許容
され、捕食者であるキツネは悪者になる。筆者自身も、同様に、素朴にはその
ように感じるが、ここで学生にキタキツネの子どもの写真を提示し、キツネも
子育てが大事で、エサをとって帰らないと子どもが育たない、カッコーも子育
てで必死なのだと説明すると、ようやく、「動物は善悪とは無関係に、本能的
にそのように行動しているだけである」といった反応がみられる。つまり、捕
食、生殖、養育などの行動において、ウソをつくことが当該動物にとって利益
であるという事実は、素朴な善悪判断をやめたあとでようやく受容される。
嘘による損失について
ヒトを含めて、すべての動物は、ウソをつくことによって利益を得ることが
できる。また、すべての動物はウソをつかれることによって、損失を被るだろ
う。捕食者と被捕食者との間で捕食に関してウソつきが行われる場合、捕食者
は被捕食者に対してウソをつくことで捕食を容易にすることができるし、被捕
食者は捕食者に対してウソをつくことで捕食から逃れることができる。これら
の利益は、ウソをつく側にとって確定的な利益であって、損失を伴わない可能
性が高いだろう。
しかし、捕食者が捕食者に対して、また被捕食者が被捕食者に対してつくウ
ソの場合にはどのような判断が下されるだろうか。おそらく、その判断は、捕
31
食者同士、被捕食者同士が同種個体であるかどうか、また、捕食者または被捕
食者が社会性の動物であるかどうかによって、異なるだろう。
集団で生活することのない動物であれば、同種他個体との接触そのものが原
則として(繁殖期を除いて)不必要であるから、同種他個体に対してウソをつ
くことによって利益が得られる状況そのものが、著しく稀であって、ウソつき
行動が利益をもたらす機会がなく、従ってウソつき行動を生じさせる契機が乏
しいだろう。
人の世界では、同一の集団に所属するメンバーに対してウソをつくことは原
則として許容されていない。むしろ厳しく罰せられると言ってもよい。人間は
社会集団を形成することによって生存が可能になる動物であり、社会集団が維
持されるためには各成員間に快の、平均的にはほぼ等価の交換が必要であろう。
もしも同一集団内でウソをつくことが許容されるとすれば、快の等価交換は否
定されることになり、各個体が得られる快は、快の等価交換が存在する場合に
くらべて平均的に小さくなるだろう。この場合、ウソが許容されるヒト集団よ
りも、ウソが行われないヒト集団のほうが大きな利益を得ることになるから、
ダーウィン的な淘汰によって、ヒトの集団はウソをつかなくなるようになるだ
ろうと思われる。しかし現実がそうでないとすれば、ウソによる利益はその損
失に比較して相当大きいのかもしれない。もしそうであるとすれば、ウソをつ
くことで利益を得た個体に対しては、集団内でその個体が不利益を被るような
取り扱いを準備し、損失を伴う可能性が高くなるように操作することによって、
平均的に見れば、ウソによる長期的な利益が保証されない状態を作り出すこと
が必要だろう。もっとも、このような事情は、ウソをつく行動が同一集団内で
はなく、他の集団に対して行われる場合には、異なるだろう。
それにしても、コミュニケーションは、ウソをつくことによって特定の個人
(個体)が利益を得ることが十分にできる行動であり、人間関係を壊すことも
できるし、他の社会集団に大きな不利益を与えることも可能な、中立の技術で
ある。コミュニケーションを定義するのに、社会を構成する機能としてのみ定
義することは、片手おちだろう。
32
結論
コミュニケーション行動は、メッセージの送り手が、受け手の行動を操作す
ることによって、利益、すなわち快をもたらす対象そのものの獲得、あるいは
対象との間の距離の短縮を、低コストで実現する行動である。このような行動
は、送り手と受け手が同じコード系を共有しているという前提があれば、その
コード系を使うことで行われるから、受け手と送り手の立場を入れ替えても成
立する。しかし、この立場の入れ替えはコミュニケーションの成立に必須では
ない。つまり、コミュニケーション行動は、シャノンのモデルが示すように、
一方向の行動であってよく、双方向性である必要はない。
しかし、社会的集団の中で、特定の成員のみがコミュニケーションによって
利益を得るとすれば、ウソつき行動の場合と同様に、快の交換が成立しなくな
るため、多くの、あるいはほとんどの成員は、コミュニケーションを双方向に
行うことによって、快の交換を成立させている。つまり、快を交換する相互的
なコミュニケーションは、ヒト集団の形成と維持にとっては不可欠であるか、
少なくとも役に立つだろう。一方、コミュニケーションによって、集団の形成
を阻止し、あるいは集団を解体することによって快を獲得し、または不快を除
去することができるから、コミュニケーションを、ヒト集団を形成し維持する
ものと決めるのは片手おちだろう。
快の獲得や不快の除去は直接的な目的的行動によって実現することができる
が、コストがかかる場合、低コストのコミュニケーション行動をもって実現す
ることは、個体にとって望ましい。特定の快を獲得する能力や特定の不快を除
去する能力に個人差がある場合、個々人が直接的な目的的行動によって快を実
現するより、低コストで快を得ることのできる特定個人に対して快の獲得と贈
与とを依頼する(お願いする)ことによって、集団全体として、同量の快を低
コストで調達することが可能になる。不快の除去も同様である。
人間の社会においては、コミュニケーションが、自分が利益を得るために他
者に対して行う「お願い行動」であることについては、前述の公開講座で説明
した。お願いをかなえてもらうためにはお願いの相手に、決して小さくはない
33
快が随伴する必要がある。そのような快は、社会的な評価の操作によって、つ
まり自分自身がお願いする相手よりも地位が低いことを表明することによって
提供される。
これまでの議論によって、筆者の考えによれば、これまでコミュニケーショ
ンの議論においてあまり言われてこなかったことに言及できたと思う。
それは、
捕食行動において、捕食者と被捕食者の間にコミュニケーションが存在しうる
ことである。
個体の利益獲得の手段としてコミュニケーションをとらえることに対して
は、とりわけ人間の社会集団において、集団の形成維持や知識の共有にコミュ
ニケーション機能の重点をおく立場から批判されるかもしれない。これは、個
体の行動から始まる心理学と、集団の存在から始まる社会学の視点の違いであ
るともいえる。筆者はコミュニケーションにそのような知識共有の機能がある
ことを否定しないから、「それだけでは片手おちだろう」と指摘するだけであ
る。これらの機能はいずれも、個体に利益(快)をもたらすからである。
最後に、この稿を終えるにあたって、コミュニケーションそれ自体とコミュ
ニケーション行動との区別がやや曖昧だったかもしれない。コミュニケーショ
ン行動は個体が利益を得るために行う目的的行動であるが、コミュニケーショ
ンそのものは行動なのか、行動ではないのか。これについては以下のように考
えておきたい。道具を使って何かを切る行為は目的的であり、平均的には利益
をもたらすのである。この場合、「切ること」はそれ自体で行動である。コミ
ュニケーションとコミュニケーション行動は、いわば、
「切ること」「切る行為
(あるいは行動)」の関係にある。行動でないコミュニケーションはありえない。
34
表1 ウェブ上に高い頻度で存在する「コミュニケーション」関連のページ
IT関連(マルチメディア,データベース,通信,コンテンツ:HP,画像)
出会い系
会話学校系
売ります・買います系
マスコミ系
海外事情系(情報提供)
異文化コミュニケーション系(共生:日本と外国との関係,外国と外国の関
係に日本が果たす役割)
外国人とのコミュニケーション(援助)
福祉系(手話・点字)
コンサルティング・企業情報提供サービス系
行政PR系(双方向性の強調)
臨床心理学系(コミュニケーション障害・引きこもり)
動物系(ペット,調教:イヌ・ウマ・イルカなど)
5
4
3
2
1
Q1
Q2
Q3
Q4
図1 コミュニケーション概念の適合性
Q5
35
注
注1 この点で、これらの3つの単語は、社会学者の目から見ると、コミュニケー
ション的ではなく、目的的行動であると言うことができるかもしれない。実際、
筆者の立場は心理学であって、社会心理学でも社会学でもないから、あとで述べ
るように、そしてそれが本稿の目的であるのだが、コミュニケーションが目的的
行動であることを示したいと思っている。
筆者の理解では、例えばハーバーマスが目的的行動とコミュニケーション的行
為とを区別する場合【たとえば上巻83ページ、中巻の第5章】、彼が合理性という
かなり高級な概念を取り扱おうとしているために、コミュニケーション的行為を、
社会学的に、はじめから相互作用としてあらわれる行為として記述し、しかも、
もっぱら言語的な性格を与えているように見受けられる。心理学では、人間がつ
とめて社会的存在であることは認めながら、社会的とは言えない動物の行動も視
野の中に入れているため、コミュニケーションを、「はじめから相互作用である行
為」とは捉えていない。以下は、注の注というべきもである。
言葉の意味からすれば、communicative という単語は、「コミュニケーションが
可能であるような性質を持った」という意味であろうが、ハーバーマスが「コミ
ュニケーション的(communicative/ kommunikativ)」というとき、そこで言われ
ている「コミュニケーション」とはもちろんシャノン的な意味で使われてはいな
い。彼がコミュニケーションをどんなものとして捉えているのかというと、人間
関係を作り出す機能として考えているように見える。ハーバーマスは第一章序言
p. 31で目的論的行為とコミュニケイション的行為とを区別しているが、この区別
はp.83 で「・・・だから、その結果、呪術のわざは目的論的行為とコミュニケイ
ション的行為との区別を、つまり一方で目的を志向して客観的な所与の状況に道
具的に介入しようとすることと、他方で人間相互の関係を作り出すこととの区別
を知らない」と述べることによってより一層明らかになる。ハーバーマスは非言
語的なコミュニケーションがあることを認めてはいるが(p. 30)、全体としては言
語コミュニケーションについてその「コミュニケーション的行為」を論じている。
人間の社会で合理性が共有されることを論じるという目標からすれば当然かもし
36
れないが、彼の「コミュニケイション」は生物学や心理学の立場からすると、定
義が強すぎるというより、「人間相互の関係を作り出すことがいかに功利的か」と
いう視点を見失っているように思える。
社会心理学者のフェスティンガーは、コミュニケーションを「道具的(instrumental)」と「自己充足的(consummatory)」に分けている(Festinger, L., 1950)
。
しかしフェスティンガーが「道具」と言うのは、「社会」心理学者らしく、個体の
問題解決行動における道具ではなく、集団を形成しようとする行動における道具
である。だからこの「道具」はハーバーマスの用法では人間関係を作り出す「コ
ミュニケーション的行為」に近いものであり、自己充足的コミュニケーションは
むしろ生理的欲求を満たすための目的論的行為に近いものということになるだろ
う。彼が道具的と自己充足的という、動物行動学的な用語を使用した背景には、
当時がアメリカの動物の学習心理学の最盛期だったことが挙げられるだろう。
注2 この原稿をほぼ書き終えてから、心理学の教科書においてコミュニケーショ
ンがどのように取り扱われているかを調べようとして、アイゼンク(Eysenck,
M.W., 2000)を見たところ、「コミュニケーションによって受け手の行動が変化す
るということが重要」(p. 219)という記述があった。他のいくつかの教科書は、
コミュニケーションの定義には触れておらず、典型的には、「言語はコミュニケー
ションの重要な手段である」という主旨の文章が見られた。
注3 摂食行動と生殖行動においては、それらが満たされてしまうと、その対象は
もはや快ではなくなるとアダム・スミス(Smith, 1759)が述べている(訳書 p.73)
。
現在の心理学は摂食行動や喫煙行動、また睡眠については多くの研究を行い、ま
たそれらの研究結果に基づいて、過食や拒食、あるいは薬物中毒など、実際に生
じる問題を解決する手段をいくつも提供しているが、性行動に関しては、心理学
はほとんど世の中の役に立っていない。
文献リスト
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37
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270
1996
池上(訳)
「記号論 I」同時代ライブラリー
岩波書店
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East Sussex, UK.
Festinger, L.(1950). Informal Social communication. Psychological Review 57, 271282.
Halliday, T.R. & Slater, P.J.B.(1983). Animal behavior. Blackwell Scientific
Publications.
浅野・長谷川・藤田(訳)「動物コミュニケーション」1998
西
村書店.
Habermas, J., von.(1981).Theorie des kommmunikativen handelns.
ブリヒト・平井(訳)
「コミュニケイション的行為の理論」1985
河上・M.フー
未来社
奥井一満.(1994).動物はなぜ行動しなければならないか.丸善
佐藤マコト(2001)
.サトラレ(1)
モーニングKC 講談社
Shannon, C.E.(1948). A Mathematical Theory of Communication. The Bell
System Technical Journal, 27, 379-423, 623-656.
島井哲志(2009).吸う:喫煙の行動科学 行動科学ブックレット7 日本行動科学
会(編)二瓶社
Skinner, B.F.(1992). Verbal behavior.
Copley Publishing Group, MA.(Originally
published in 1957 by Prentice-Hall Inc.)
Smith, A.(1759)
. The theory of moral sentiments.
岩波文庫 2003
水田(訳)
「道徳感情論(上)
」
岩波書店
宇津木成介(2005)
.約束とコミュニケーション.
近代 第94号 21-39.
宇津木成介(2009).非言語コミュニケーションの心理学 海保博之(編著)朝倉実
践心理学講座心理学 「わかりやすさとコミュニケーションの心理学」第4章
(印刷中)
Wilson, E.O.(1975). Sociobiology: the new synthesis. Harvard University Press.
伊藤他(訳)「社会生物学」1999
新思索社
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