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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
土佐日記管見 -いわゆる亡児哀傷歌について-
Author(s)
福田, 益和
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学. 1975, 15, p.1-9
Issue Date
1975-01-25
URL
http://hdl.handle.net/10069/9642
Right
This document is downloaded at: 2017-03-30T03:30:42Z
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
土 佐 日 記 管 見
-いわゆる亡児哀傷歌について-
福
田
益
和
A Personal View on the Study
of Tosa-nikki.
YOSHIKAZU FUKUD
土佐日記の亡児哀傷歌九首をよむとき、その発想、表現の上で万葉集
C
周知のどとく土佐日記は任終えて土佐より京へ帰る貫之の旅日記であ
(注2)
(注-)
__\
(
〟
fc巨=一
( 〟 )
一
㌦
・
一
一覧
)
一缶 一
Fすみのえにふねさしよせよわすれぐさしるしありゃとつみてゆくべく
ata
ん
\
Eわすれがひひろひしもせじしらたまをこふるをだにもかたみとおもは
)
同一トー
Dよするなみうちもよせなむわがこふるひとわすれがひおりてひろはん
as
′_\
Cよのなかにおもひやれどもこをこふるおもひにまさるおもひなきかな
aa
メ_\
Bあるものとわすれつゝなはなきひとをいづらととふぞかなしかりける
ヽ、`ノ一
lし
Aみやこへとおもふをもののかなしきはかへらぬひとのあればなりけり
as
︹土佐日記︺
者の歌をかかげる。
(拝3)
る。作者は女性に仮託されてはいるが、問々見られるエロチックな描写
土佐日記管見
にどのようなものであるのか、この二点の追求が本稿の目的である。
る所に求めたのか、又、その表現の過程における貫之の真情とは具体的
ることでも託することができる。貫之はこの亡児哀傷歌の発想をいかな
達し或は水準以上に出たもの十二首の大半はこの亡児哀傷歌が占めてい
真実であろう。萩谷朴氏によれば、稚拙歌多き本日記の歌の中で水準に
られる貫之の真情はわれわれの心をうつものがあり、その限りにおいて
り、擬装脱化があり、自己覇晦があるという。しかし、亡児哀傷歌にみ
つづき、いわば首尾呼応した形式をとっている。土佐日記には虚構があ
京に帰着し、わが家に入って詠んだ歌(これが日記の末尾になる)まで
歌は、土佐を出発してまもなく十二月二十七日に初めてあらわれるが、
る。土佐守として在任中その地で亡くした娘に対するいわゆる亡児哀傷
末尾にいたるまで一貫して流れている亡児への悲痛なる追懐の情であ
してまで辛洙な筆鋒をあびせる描き方は土佐日記の一特色としてあげる
ことができるであろう。しかし、忘れてならないのは本日記の冒頭から
ものであり、酒落や言語遊戯、都都双方の人士に対しては無論、神に対
や漢文訓読語の使用等は作者が男性(貫之)であることを自ずから語る
における大伴旅人のいわゆる亡妻哀傷歌、中でも旅人が太宰師の任を終
え帰京時の詠八首・CD。。番)によく似ているように思われる。次に両
(一)
福
E
5
i
d
I
t
Ⅶ
M
l
田
益
和
正拍一
GなかりLもありつ1かへるひとのこをありLもなくてくるがかなしさ
E
i
i
d
一気日一
HむまれLもかへらぬものをわがやどにこまつのあるをみるがかなしさ
iⅦ田
Bfi
(〟)
IみしひとのまつのちとせにみましかばとはくかなしきわかれせまLや
In川_ul
︹万葉集︺
㈹わきもこが見し鞘の浦のむろの木はとこよにあれど見し人そなき
㈹鞘の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
㈹磯の上に根這ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
㈹妹と来し敏馬の崎を還るさに独りして見れば涙ぐましも
㈱往くさにはKわが見しこの崎を独り過ぐればこころ悲しも㌔既
もさか
ず来ぬ
抽入もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
㈹妹として二人作りしわがしまは木高く繁くなりにけるかも
㈹吾妹子が植ゑし梅の樹見るごとにこころむせつつ涙し流る
以上の作品を通して比較を試みる。1方は亡児、l方は亡妻と追懐の
対象は厳密にはことなるがいずれも肉親であり、その真情の深さにおい
(托-)
ては相等しいであろう。両者とも海路における船旅であり、その詠ずる
ところ旅中吟、京に帰着しての吟詠どちらも兼ね備えている。すなわち
万葉集では挽歌の部類に収めてはいるが﹁天平二年庚午冬十二月、大事
帥大伴卿向京上道之時作詞五首﹂、﹁右三首過鞘滞日作詩﹂、﹁右二首
二
二首は京のわが家に帰着しての感慨をうたったものと言うことができ
る。
体裁の上で以上の共通点を見出すことができる。次に表現の面から検
!江"O
集
﹁むろの木﹂は当時霊木と考えられて
討を試みる。まず両者の歌を中心に比較対照した場合注意すべき用語を
葉
独りすぐれば(ァ)
独りして見れば(3)
いづらと問はば(響
とこよ(堊)
わがしま(響
梅の樹(堊)
∵∵・・ '蝣ZI-響
万
上下対照してあげることにする。
いり
a
r i ヽ
S
i
d
V
G
i
n
V
i
Z
q
(i)は哀傷触発の素材である。
結ばな﹂
いるし、 ﹁松﹂は万葉の時代には有間皇子によって﹁浜松が枝を引き結
び﹂(a) と詠まれ霊木、生命の樹 しての性格を有している。旅人の
長男家持
﹁松が枝を結ぶ情﹂( )、﹁常磐なる松のさ枝をわれは
)の歌がある点注目さ る。貫之にとっての﹁松﹂は恩人
過敏馬埼日作詩﹂等の詞書・左往から考えても蒔旅歌的面も有してお
兼輔との
・′.\
上特別の意味を有し意識的の用語であろう。(後述)-:aは
れ1043と
詠歌の場所である。京へ帰着してのわが家の庭に対しての愛着が共通し
り、﹁還入故郷家、即作討三首﹂の詞書は京へ帰着しての吟であること
を示している。1方、土佐日記ではA∼Gが旅中の吟であり、H・Iの
関(に
係4501も
)
.
!
-
\ノ
ヽ
ている。一111は哀傷触発の素材をもとにしての作者の時間的認識である。
.Ⅳは問答体の表現において共通点がある。この中で﹁いづら﹂という語
r
m
)
7
(
庄
8
)
Cid
(
で作った﹁日本挽歌﹂の作者である点に注目すべきである。Dについて
は萩谷氏は14番の歌を引用されるが、むしろ旅人の妹大伴坂上郎女の
1
﹁向京海路見浜且作詩l首(聖を頭においているとみるべきであるo
(9
j
は万葉集に他に一例(68番)、それも挽歌の事例に用いられているのみ
この歌である。亡児哀傷歌における貫之の旅人への関心が直接的にも間
彼女は旅人と共に太宰府に在り、1足先に帰京した、その時の旅中吟が
ヽ
である。土佐日記では他に事例がなく、﹁紀貫之全歌集総索引﹂に拠れ
3
ば貫之集(第三)に不確実な事例が一例あるのみ。(歌仙家集本﹁いつ
(拝9)
氏は貫之晩年における万葉ぶりを指摘される。逸書﹁万葉五巻抄﹂は質
ノ
接的(憶艮・坂上郎女を通じて。)にもうかがわれるのである。大岡信
-
となく﹂、西本願寺本﹁いづらのみ﹂)土佐日記における貫之の﹁い
ヽ
づら﹂という語の用語意識には旅人の歌が反映していると思われる。
)
之作ともいわれる。貫之が万葉集に親しんだのは確かなことであろう。
)
Ⅴは肉親をなくしての孤独感の認識である。IからⅤまでの用語をなが
その意味で亡児哀傷歌の発想を旅人の亡妻哀傷歌に得たとする論はさし
ll柑じ
めた場合両者における発想表現の上での共通性を認めぬわけには行かな
て奇矯とは言えないと思う。
以上、作品を通じて貫之の旅人への関心(特に旅人の亡妻哀傷歌への
!し
三
\ー
い。これは挽歌、哀傷歌としての性格から来る普遍的発想を基盤とした
上での当然の類似という考え方もあるが、両者の希旅歌的性格、旅中吟
・帰着吟の共通性を背景とした場合単なる類同とするわけには行かない
と田㌣つ。
貫之の万葉歌に対する関心は他にもある。いわゆる亡児哀傷歌の中C
を検討してみよう。
関心)を眺めたのであるが、次に氏族的・人間的立場から両者の同根性
QA
延長八年九月京極中納言諒闇あひだにはゝのぶくにて
ている。貫之集(第八)によれば、
あろう。土佐守在任中、庇護者兼輔の母の計報に接し、貫之は歌を返し
没落の憂き目にあった者同志の特別の感情が胸にあったと考えてよいで
んでの没落である。貫之にとって大伴氏は同じ武門の名流でありながら
伴氏は沈み、紀夏井は連坐し遠流に処せられている。大伴氏・紀氏なら
斥され、没落の憂き目をみる。貞観八年(堊)伴善男の応天門の変で大
り、それも武人の名門としてその名は聞えていたが、藤原氏によって排
第一に氏族意識である。大伴氏・紀氏いずれも古代氏族の名流であ
・Q・Wは万葉集にかかわりがあると思う。
憶艮)
coしろかねもくがねも玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
(
\ノ
未詳)
坂上郎女)
7
いとまあらばひりひに行かむ住吉の岸に寄るとふ恋忘員(1 4、作者
1
Doわがせこに恋ふれば苦しいとまあらばひりひて行かむ恋忘R
I
J
H
﹁
旧
J^.
E3世の人の貴び願ふ七種の宝もわれは何為むわが中の生れ出でたる白
玉のわが子古口は--(聖憶良)
CO-tf
o
・
o
o
o
c
T)は同じ憶良の作であり﹁玉・宝・何せむ﹂等の共通用語の点よ
(
=
;
り
み
て
同
趣であることはすぐわかる。高木市之助氏に拠れば、前者は梶
人の讃酒歌十三首の中第八・九首(誓S)にみえる﹁価なき﹂、﹁夜
とよみてとさの国にあるあひだをくられたる返し
ひとへだにきるはかなしき藤衣かさぬる秋を思ひやらなん
≡
光る玉﹂の類憩を受けている由であり、又、憶良は旅人の妻の死を悼ん
土佐日記管見
福
田
益
和
(汀柑)
ふぢ衣かさぬる思ひおもひやる心はけふもをとらざりけり
兼輔の母は尊卑分脈に﹁母伴氏﹂と注記されるのみで未詳であるが、
この記事を信ずれば、彼女は六十四年前の呪わしい応天門の変によって
名門わが大伴氏のくずれゆく姿をまのあたりに眺めて来た人物と考えら
れる。それに連坐した紀氏の流れをくむ貫之にとっては兼輔の母の死は
特別の感慨があったろうと思う。﹁おもひやる心はけふもをとらざりけ
り﹂の表現には儀礼的ひゞきはない。
第二に老年にしての地方赴任である。旅人は天智天皇四年(堊)出生
とするなら神亀四年(笠避宰的としての赴任時六三歳、任終えて帰京
t方、貫之は
・1j蝣.'蝣蝣'"'∵')1蝣。。1Il)∴,(蝣!H
歳、任終えて帰京するのが承平四年末(a)六七歳の時である。両者の
生年については不確かな点があるので年令についてもそれぞれゆれが考
えられるがいずれにしても六十を越しての地方赴任である。思いは同じ
(杵柑)
であろう。任終えて帰京するのがいずれも年の瀬もせまった十二月であ
る点においても共通する。旅人は天平二年十二月六日以後間もなく、質
之は承平四年十二月二十1日である。老残の身を海上に横たえることに
なる。
第三に赴任中の凶事がある。旅人は大事府到着後間もなく妻をなく
し、貫之は土佐守在任中愛娘をなくした。この愛娘の存在及びその土佐
での死亡説については虚構ではないかという疑問もあるが、いわゆる亡
(注ー)
児哀傷歌における真実さからして事実と考えたい。肉親の死は哀傷歌を
四
がて従二位の道が開かれていたが彼には目前に死が待っていた。その梶
氏族の名流大伴氏の権威がいまだ失墜しない旅人にあっては大納言、や
人にしても神亀五年(響三月末頃妻をな-したかと思うとひきつづき
﹁凶問累集﹂し、﹁断腸のなみだを流し﹂ていた(万葉集巻五、793番詞
書、原漢文)矢先、長屋王の計報に接したのである。続紀(巻十、天平
元年二月条)によれば王は天平元年(響二月辛末、左京人従七位下漆
部造君足・先位中臣宮処連東大等のために私かに左道を学び国家を傾け
といわれる。小島憲之氏の言及されるどとく作宝楼詩苑を中心とする王
I3KS
んとすると密告され、翌々日には白尽させられた。藤原氏の陰謀による
の奈良朝詩壇におけるパトロンとしての存在は当時重きをなして居り、
いずれも当代1流の官人が詩苑に列している。王と旅人との関係は必ず
しも明らかではないが、養老二年(?)三月王は大納言、旅人は中納言
として共に国政に参与し、同四年十月にはともに右大臣(藤原朝臣不比
等)の第に遣わされ、詔を宣して太政大臣正一位を贈っている。(続紀
による)。政治の枢要にある両者の洙いかかわりが推測できるのであ
る。文学上の交渉については実証できないのであるが太宰府における梅
人物がいるので、旅人との交渉もあったと思われる。旅人にとって王は
花歌三十二首の詠者の中には百村、憶良のどとき長屋王に恩義をうけた
政治的にも文学的にも頼みとする人であったと考えたい。(庇護者と言
(注ー6)
い切るには問題はのこるが。)その王の死に遇い旅人は歌をつくってい
ない。逆徒としての王の死の重大さを考え、王にかかわるわが身のこと
を思い自重したものであろう。その王の自尽した天平元年二月から約八
ケ月後の同年十月七日付で旅人は都の藤原房前に書状を添え、日本琴1
目したい。さらに看過すべからざる事は庇護者(ないしそれに類する
の書状には単なる文学上の交際として考えるより辺境にある旅人の胸輿
一月八日付の返書をしたためている。王の自尽以後の藤原権門への旅人
面を贈っている。(万葉集巻五﹁大伴淡等謹状﹂)。これに対し房前は十
人)の死である。宮人にとって庇護者の死、それもわが身を都において
に、ある複雑な中央の現状勢に対処しようとする心が働いているとみた
生む直接の契機をなすが、それが地方赴任の中においてであることに荏
の庇護者の計報に接する事は官位昇進の道を断たれる場合が多い。古代
身、かっていち早く忠平への接近を試みているのであるから貫之はそれ
(柱20)
それは当らない。兼輔の息雅正とは以後も交流がつづくし、亡き兼輔自
嘉、貫之は兼輔を失った。承平三年(響二月十八日のことであ
に歩調をあわせたともい∼得る。生きねばならぬ老いた宮人のやむを得
,_‖v
ヽ0
る。その悲報は土佐の貫之にいち早く伝えられたであろう。兼輔に従っ
ざる行動と考えられる。
在任中の凶事はそれだけではなかった。恩顧をこうむった醍醐上皇(延
触れ合いの中から生まれ出た暖かい涙と解したい。貫之にとって土佐守
みしひとのまつのちとせにみましかばとはくかなしきわかれせまLや
歌の中、末尾に位置する(I)の歌、
十二月三十日の問の成立であり、ここで注意すべきは土佐日記亡児哀傷
貫之の歌は詞書よりみて延喜十九年(:)正月二十八日∼延喜二十年
集第八)
(注22)
こふるまにとしのくれなばなき人の別やいとゞとをくなりなん(貫之
物がたりするついでにむかしをこひしのびたまふによめる
かねすけの中将のめうせにけるとしのしはすのつどもりにいたりて
哀傷、40番)
1
があり、同じ頃兼輔の妻の死を悼み貫之が詠歌している。
(拝引)0
寝ぬ夢に昔のかべを見てLより現に物ぞかなしかりける(後撰集、
侍 り け る 手 を 見 侍 り て 兼 輔 朝 臣
めのみまかりて後すみ侍りける所の壁にかの侍りける時書きつけて
いわけではない。すなわち兼輔の亡妻哀傷歌、
り、憶良に日本挽歌あるを思う時、実は貫之にも憶良的詠歌の経験がな
十分あり得ることを知ることができるのである。旅人に亡妻哀傷歌があ
ついて検討をして来た。その結果、貫之にとって旅人への特別の関心が
以上三点を通して旅人・貫之両者の氏族的人間的立場からの同根性に
た貫之の嘆きが思いやられる。いわゆる兼輔を中心とした﹁中性界﹂な
(注17)
いし﹁兼輔サロン﹂の存在については賛否両論があるようであるが、そ
れはともかく貴之に関する限り兼輔との交渉は延喜七年(-)拝旺)月ない
し十年正月、兼輔右兵衛佐在職中に貫之が代詠をしている事実からし
てその頃からはじまったと考えてよく、兼輔の死まで二十数年にわたっ
ている。その交流の長さ、両者の歌の贈答から受ける我々のつよい印象
は単なる主従の関係とみるよりそれを越えて人間的な心の交流があった
と考えられる。兼輔の悲報に接して後およそ二年、帰京した貫之は栗田
の家を訪れ、なき兼輔をしのんでいる。
ygpij爪
京極中納言うせ給ひて後あはたにすむ所ありけるそこにゆきて松
と竹とあるをみて
松もみな竹もわかれを思へばや涙のしぐれふる心ちする(貫之集第
a阿
貫之の涙は七十の声を聞こうとする歳になってもいまだ従五位下に低
迷し、兼輔の死によって昇進の道が絶たれた為の絶望的なものとだけは
長八年聖九月二十九日没)、宇多法皇(承平元年聖七月十九日没)、
定方(承平二年響八月四日没)、兼輔の母(延長八年、兼輔諒闇の問)
﹁とはく﹂・﹁わかれ﹂の用語に共通性を有している。十数年以前の質
が前述の貫之の兼輔のめを哀傷する歌の類歌と考えられることである0
言い切れまい。兼輔との長い交流を、今更ながら思い出し、その人問的
等の矢継ぎ早の悲報に接し、それに追い討ちをかけたのが兼輔の計報で
傷歌を成立せしめる一契機となったと理解したい。
之のこのような詠歌体験は旅人の亡妻哀傷歌を背景にしてわが亡児の哀
(拝2)
あったのである。貫之の悲しみを思いやるべきである。しかし悲しんで
ばかりは居れない。貫之は忠平一門へ接近する。種々の犀風歌の詠進が
五
それをものがたる。貫之の行動は故兼輔への背信ととられがちであるが
土佐日記管見
福
田
益
i
a
^
i
向lll旧旧
四
和
土佐日記にみえる亡児哀傷歌の背景に旅人の亡妻哀傷歌の発想が働い
ている点を指摘して来たのであるが本節においては貫之の亡児哀傷歌の
既述したどとく土佐日記における亡児哀傷歌をよむとき我々に迫る哀
中に見られる彼の真情といったものについて考える。
切の情は真実として胸をうつ。故にそれが単なる虚構として日記の中に
設定されたものでは到底あり得ない。萩谷氏の指摘されたどとく稚拙敬
多き土佐日記の歌の中で亡児哀傷歌はいずれも水準に達するかあるいは
水準以上の歌ばかりである。貫之が老年にして得た孫のどとき愛娘を辺
などのむついでに
六
かげにとて立かくるればから衣ぬれぬ雨ふる松の声かな
(
t
t
i
S
)
右の歌は兼輔(中将)を松にことよせ、その﹁かげにとて立かくる﹂
と言って兼輔の庇護を暗に願っていると解することができる。
次に既出の事例ではあるが、
松もみな竹もわかれを恩へばや涙のしぐれふる心ちする
(貫之集第八)
2
があり、又、後撰集(巻二〇、4 1)には、
1
兼輔朝臣なくなりてのち土佐のくによりまかりのぼりてかのあは
たの家にて
今は亡き兼輔をしのんでいるのである。土佐日記の亡児哀傷歌の一つ
の歌が見える。両歌とも﹁松﹂が詠まれ、ここでは﹁松﹂にことよせ、
ひきうへしふたばの松は有ながら君がちとせのなきぞ悲しき
等の哀傷歌をよみ返していると、そこに今は亡き兼輔の影がみえかくれ
境の地でなくした悲しみを素直に歌ったものと考えられる。しかしこれ
するように筆者には感じられるのである。
十二月二十七日をはじめに、以下年が明けて1月十1日、二月四日・五
った兼輔の面影がつねに離れることはなかったであろう。亡児哀傷歌は
には、単なる主従というよりその垣根を越えて人間的にも心の交流のあ
構であったとするならば兼輔家での哀傷歌が先で、それを土佐日記の班
がそのような幼児を持ち、かつそれを土佐で喪ったということ自体が虚
は右の後撰集﹁ひきうへし--﹂の歌と類歌で、萩谷氏は﹁もし、貫之
むまれLもかへらぬものをわがやどにこまつのあるをみるがかなしさ
(
H
)
、
日・九日・十六日の日付でよまれているが、二月に入ってからの詠がI
界に移植したということもできる﹂と言及される。﹁松﹂を素材とした
土佐守在任中の相かさなる悲報、失意の中にも帰京を急ぐ老いた貫之
番多く、これは京がちかづくにつれて貫之の悲しみの高揚のあることを
次に土佐日記にみえる﹁松﹂について考える。土佐日記は﹁松﹂の描
(拝5GJ
意味している。京、それは貫之にとって数年辺境の地に在り帰りを夢み
兼輔志向がうかがえると思う。
は﹁松﹂の描写があった後で亡児哀傷歌が詠まれているのである。
写が比較的多いようであるが、中でも、二月五日・九日・十六日の条で
たふるさとであり、愛娘との思い出がのこるわが家のある所であり、
つれての貫之の心のたかぶりは1方で兼輔志向のl面がある故と考える
︹二月五日︺
又、兼輔との思い出もつよく残っている場所でもあった。京が近まるに
のである.次に貫之の兼輔志向を示す一証として﹁松﹂を詠歌素材とし
今見てぞ身をば知りぬるすみのえの松より先にわれは経にけり
住江に船さし寄せよ--(F)
ここに昔へ人の母ひとひかた時も忘れねばよめる
ての貫之の態度を眺めることにする。
貫之集(第九)に収める次の歌
おなじ中将のみもとにいたりてかれこれ松のもとにおりゐてさけ
︹二月九日︺
ちよへたるまつにはあれどいにLへのこゑのさむさはかばらざりけり
しりへなるをかにはまつのきどもあり--
なかりLもありつゝかへる--(G)
--むかしのこのはは、かなしきにたへずして、
︹二月十六日︺
ほとりにまつもありき。いつとせむとせのうちに、千とせやすぎにけ
ん、かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。-むまれLもかへらぬものを--(H)
みしひとのまつのちとせに--(I)
以上でわかるどとく亡児哀傷歌の後半fa・Oの四歌すべてが
﹁松﹂を直接ないし間接の詠歌の契機としていると考えられる。
1月十三日・二月四日の各条にあらわれるが、いずれも兼軒の歌の一句
ないし全部をス-レートの形で引用するのではなく、日記本文の中にそ
れとなくわからせるような手の込んだものである。
︹一月十三日︺
(拝2)
﹁はやのつまのいずし、すしあほびをぞ、こゝろにもあらぬはぎにあげ
てみせける。﹂
4
については、古今集(巻十九、誹讃歌、0 1)
1
﹁ 七 月 六 日 、 七 夕 の 心 を よ み け る 藤 原 か ね す け
早晩とまたく心を腔にあげて天の河原をけふや渡らむ﹂
︹二月四日︺
をふまえていると考えられる。一方、
﹁をんなどのためには、おやをさなくなりぬべし。﹂
については、後撰集(巻十五、雑歌1、
)
てまかりて事をはりてこれかれ罷りあかれけるにゃんどとなき人
りあるじし侍りける日中将に
﹁かくて、字多のまつばらをゆきすぐ。そのまつのかずいくそぱく、
二三人ばかりとゞめてまらうどあるじ酒あまた1びの後酔にのり
﹁太政大臣の左大将にてすまひのか
いくちとせへたりとしらず。もとごとになみうちよせ、えだごとにつる
念頭に十分置きながら述べたことになろう。ところが﹁人の親の--﹂
として人口に膳泉している。貫之のなき愛娘への思慕の情を兼輔の歌を
がふまえられている。特に後者は有名で兼輔の子への愛情を詠んだもの
(汀28)
て 子 共 の う へ な ど 申 し け る つ い で に 兼 輔 朝 臣
これは貫之の意識的用字と考えられ、﹁うた﹂の地名に宇多上皇をしの
尾本では、地名を漢字表記したのは﹁芋多のまつばら﹂1箇所のみで、
の歌については解釈に問題がある。工藤重矩氏は後撰集所収歌の詞書と
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬる哉﹂
びまいらせているのだとされる。面白い考えである。ここでは﹁松﹂が
大和物語の本文とを比較し両者に詠歌事情に違いがあるとして後壊集の
讃歌として詠まれたものであろうとされる。それにしては兼輔と親しい
本文、それも承保三年奥書本をもとにこの歌が忠平たちをひやかした誹
を追懐する傍証となるであろう。その他、土佐日記では﹁松﹂を描いた
箇所としては1月二十二日・二十九日、二月1日等があるが、ここでは
讃歌として詠まれたものであるなら土佐日記に引用された兼輔の歌は二
貫之が誹讃歌的発想の取り扱いをしていないことが気になるが、もし誹
七
以上、松を詠歌素材としての兼輔志向をみて来た。貫之の兼輔志向は
土佐日記管見
他に土佐日記における兼輔の歌の引用の点にもあらわれている。それは
(按29)
故人哀傷の要素とは直接間接にも関連がないどとくである。
兼輔志向ではなく字多上皇を追想する契槻となって居り、﹁松﹂が故人
日本古典文学大系本の校注者鈴木知太郎氏によれば、底本たる青紫吉
(拝2)
ぞとびかよふ。--﹂
次に1月九日の条、
へ1103
福
田
益
和
(fc即)
首とも誹話歌となり興味ぶかい。土佐日記が萩谷氏の言われるどとく特
定棟門(摂関藤氏か)の子息に対する歌学入門書としての性格を有する
ものであるなら、日記成立時の貫之の置かれた状況からして兼輔の歌を
表面に出すことは得策ではない。貫之が兼輔の歌、それも誹讃歌ないし
誹讃歌的発想の歌を日記の中にス-レートに引用せずそれとな-伏せて
いるのは右の事情によるものかもしれない。1種の擬装と言えるO擬装
と言えば1月八日・二月九日の条に見える伊勢物語八二段の説話をふま
えた記事に一族の紀有常の存在が全く伏せられているし、二月十一日の
条では、紀氏にとってゆかりの深い石清水八幡宮を人にたずねてはじめ
.
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と思われるいわゆる亡児哀傷歌について、その哀傷歌の発想の根拠と、
哀傷の本質について検討して来た。それによると、発想の根拠としては
亡妻哀傷歌にヒントを得ていると思われ、その哀傷の情としては愛娘へ
作品の上からも氏族的・人間的同根性の立場からみても旅人のいわゆる
こえた人間的心の交流のあった亡き兼輔への裏実の哀悼の意がかくされ
の思慕とともに貫之にとって終生忘れることのできない、身分的差別杏
ているように思うものである。
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注
︺
仙鈴木知太郎﹁土左日記の虚構﹂(﹁平安時代の文学論叢﹂所収、笠間書院)萩
谷朴﹁土佐日記全注釈﹂解説、角川書店。
㈲萩谷朴﹁土佐日記創作の功利的効用﹂(国語と国文学四〇-一〇)
て知ったように述べられている。いずれも擬装の手法と考えてよかろ
う。それはともかく貫之は兼輔の歌を伏せて引用した。その擬装のうら
㈲両者とも日本古典文学大系本に拠る。土佐日記の各歌の上のABC--は筆
㈱迫徹朗﹁大宰府宮人考﹂(﹁王朝文学の考証的研究﹂所収、風間書房)の説に
に﹂とある。
中納言のみむすめのみやすむどころ﹂(桑子)の歌とし、初句が﹁ひとつだ
や1ことなるがのせられている。なお、伝藤原行成筆の貫之集では、﹁かの
も﹁帝の御服に親のを重ねて貫之が来たりけるに詠みてやりける﹂と詞書は
㈹注㈲同書本文による。以下同じ。兼輔の歌﹁ひとへだに--﹂は、兼輔集に
㈲大岡信﹁紀貫之﹂(筑摩書房)囲。
㈲注㈲萩谷氏同書。
鼎高木市之助﹁大伴旅人・山上憶良﹂(筑摩葦居)第四章O
㈲片桐洋一監修、ひめまつの会編著﹁紀貫之全歌集総索引﹂(大学堂書店)
㈲回の土佐日記の欄における(H木文)とあるのはHの詞書的役割としての木
文を示す。
歌(31番)に関しては明らかに海路での詠と考えられる。
㈲旅人の帰路については、陸路、海路及び両者併用の諸説があるが、当面の諸
者が便宜上つけたもの。万葉集の原文、訓読文については表記を1部訂して
ある。
にかえって貫之の兼輔志向をよみ取ることができるように思う。
かって兼輔を介して﹁新撰和歌﹂撰進の勅命をうけた貫之は今は亡き
醍醐帝・兼輔のことを思い悲痛な序を草している。
﹁貫之秩罷帰日、将二以上献1之。橋山晩松愁雲之影巳結、湘清秋竹悲
風之声忽幽。伝レ勅納言亦巳夷逝、空貯二妙辞於箱中1。独屑二落涙干襟
(注3ー)
上1。若貫之逝去、歌亦散逸。恨使下絶艶之草、復混中部野之篇上。故聯
記二本源t以伝二末代二五商﹂
傍線部に見える貫之のやり場のない悲しみ、真実の情は修辞をつきや
ぶって我々に迫って来る。貫之にとって兼輔は生前においても死後にお
いても忘れることのできない存在であったのだ。土佐日記における亡児
哀傷歌の諸歌に真実のひゞきがあるのは一方で兼輔挽歌の要素があるか
らであろう。
即
′し
土佐日記の中に収められる諸歌の中でいずれも佳作の域に達している
従う。
㈹注m萩谷氏同書解説による.
㈹平山城児﹁大伴旅人﹂(﹁万葉集講座第六巻﹂所収、有精堂)
欄迫氏は注旭同書所収﹁紀貫之の妻﹂で、滋望女を貫之の後妻と考え、年令の
懸隔(三十八年)から老年の貫之に愛娘の存在のあり得ることを論じて居ら
記)由。
釦国歌大観所収の本文による。
6
励本歌は後撰集(巻二〇、哀傷、42番)の末尾にも所収。なお、兼輔の歌﹁亡
1
き人の共にし帰る年ならば暮行-今日は嬉からまし﹂のかへしとして収めら
れている。
脚注㈲萩谷同書、425ペに拠れば、両歌を類歌としてあげ、説明している0
伽本歌は同種(第八)の﹁かげにとて--﹂と重出の歌。伝為氏筆本の詞書に
れる.1徴証になると思われる0
個小島憲之﹁長屋王詩苑﹂(﹁上代日本文学と中国文学(下)﹂所収)第〓早出1
lよれば、﹁ある上達部うせ給てのち--よみてうへにたてまつるうた二首﹂
二。
㈹日本古典文学大系20、﹁土左日記﹂補注三六。
仰本歌は兼輔集にも﹁七月六日﹂の詞書でのせる.続国歌大観番号1六三二
脚注㈲萩谷同書ペ
より見て詠歌事情がことなるが、この点立ち入らない。
とあり、﹁松もみな竹も--﹂の歌とならんでいる。両歌(重出歌)の詞書
m、塙草炭Oなお、中西進﹁旅人と長屋王﹂(﹁万葉史の研究﹂所収、桜楓
礼)をも参照。
㈹王の子﹁膳部王﹂を悲傷ぶる歌一首(性問は空しきものとあらむとそこの照
る月は満ち開けしける)(-*番)は作者未詳歌であるが、旅人の﹁世の中は
空しきものと﹂の表現の独自性を認めて、旅人の作かとする説も
ある。(高崎正秀﹁大伴旅人﹂日本歌人講座第l巻、上古の歌人、所収、弘
納言﹂としてのせ、つづいて﹁子の為に残す命もへてLがな老て先立つ否び
榊本歌は兼輔集(一六二八五)に、﹁子の悲しきことを集りて云ひければ、中
文堂﹂
i:d藤岡忠美﹁古今から後技へ﹂(国語国文研究八)、﹁藤原兼輔の周辺﹂(国
(昭和四十九年九月十日受理)
馳群書類従(巻聖和歌E)所収本による0傍線は筆者。
鋤注②同書。
脚注S工藤同書F。
ず。﹂
先帝いとあはれにおぼしめしたりけり。おはむ返事ありけれど人え知ら
人のおやの心はやみにあらねどもこををもふみちにまよひぬるかな
給けり。さてみかどによみてたてまつりたまひける
はじめにみかどはいかゞおぼしめすらむなど、いとかしこくおもひなげき
﹁堤の中納言の君、十三のみこの母宮すむ所をうちにたてまつりたまひける
なお、大和物語四五段は次の通り。
ざるべく﹂をのせる。
語と国文学;-)、目時篠衛﹁紀貫之﹂(二-価、自足した﹁小世界﹂)
等は肯定説.工藤重矩﹁藤原兼輔伝考jJ﹂(語文研究33)は否定的見解をボ
している。
摘萩谷朴、注加同書解説による0
㈹注㈲同書の本文の底本は歌仙家集本であるが、この歌の詞書については西本
願寺本、伝為氏筆本では異同がみられる。﹁京極の中納言うせたまひてのち
あはたにすみたまふところありけるにそこにいたりて前裁にまつたけなどあ
るをみてよめる﹂(西本願寺本)
﹁ある上達部うせ給てのちひさし-かのとのにまいらでまいれるにことゞも
さびてあはれになりにたるを前ざいの草ばかりぞかはらずおもしろかりけり
秋の事なり、風さむ-ふきてまつたけのおとなどおもしろ-ありければよみ
てうへにたてまつるうた二首﹂(伝為氏筆本)
二十五日、定方を介して、兼輔は子供達の名簿を忠平に遺している(貞信公
脚注S工藤同書日o延長八年頃より、兼輔の忠平接近がみられ、承平二年七月
土佐日記管見
九
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