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vol.36 - ふぉーらむとそのたのかりおきば

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vol.36 - ふぉーらむとそのたのかりおきば
vol.36 2012 Sep.
vol.36 2012 Sep.
大渡海岸
撮影:山城基乃
まえがき
特別研究員寄稿
高木 桂蔵
日本人の歴史時間概念
関山 祐介
自治体GNH研究会発足
戸崎 肇
我が国における新たな航空政策の展開と沖縄の空
宮良 安彦
比嘉光龍
25.フカに助けれた話
26.仲順流れの話
琉球諸語は「方言」から「言語」に(その2)
寄稿
中村仁政
キャラウェイ高等弁務官に講義した学生ら
西村 愛里
対話の輪、関係の輪
毛利 孝雄
あらためて「9.9県民大会」成功のために
実践講座
■まちづくり実践演習
地域共創センター
第5回
沖縄大学社会教養セミナー実施報告
アクション・プログラム
ご案内
9/16 世界の中の琉球諸語
所内雑記
紅型工房訪問
まえがき
日本の最北端に来ています。稚内市北防波堤ドーム公園からはサハリンが見えま
す。43キロしか離れていませんが、港から港へは5時間半もかかります。サハリン
の島が間近に見えてからが長い、とのこと。着いた日(8月25日)はちょうど最北
端・食マルシェの最中でした。沢山並んだテントから、カニ汁とうに餅を選んで昼
食。ステージでは南中ソーラン全国交流祭が開催中でした。沖縄のエイサーも全国
的に広がっていますが、ソーランの方がメジャーです。高校生達の勇ましい踊りと
歌を楽しみながら、やや濃すぎるカニ汁を頂きました。
8月23日に沖縄を発って、東京へ。もうはるかに沖縄より暑い熱帯。コンクリー
トの照り返しの中を二日歩きまわりました。そして稚内へ。22度くらいの沖縄なら
ば秋の気配。27日にサハリンへ、30日に今度は飛行機で成田に戻ってきます。締め
切りに間に合わないといけないので、稚内からこの原稿を送っています。サハリン
の話は、次号をお楽しみに。
さて東京滞在中、めったに知ってる人と出くわすこともないのですが、今回は品
川駅で十数年ぶりに知人に会いました。二人で話しているところを見て、似てるな
あと思って通り過ぎようとしました。ワイシャツにおしゃれな蝶ネクタイ。まちが
いない。ロサンジェルスにいるUさんです。話しかけると、「わあなつかしい」と
抱きつかれました。近くのレストランで話を聞くと、もう76歳。最後のご奉公で日
本に帰ってきて衆議院選挙に出馬するとのこと。フランスの作家アンドレ・マルロー
が70歳の時に、たしかバングラデッシュの戦車隊かなにかに従軍する、と発表した
ことを思い出しました。フランス・レジスタンスの闘士、ノーベル文学賞、文化大
臣まで務めた人が!
日本人の男で70歳になって例えばアフガン戦争に従軍しようと人がいるでしょう
か。Uさんは半世紀以上もロサンジェルスで公認会計士をやっていました。日本に
帰ってくると、もうみんな兄弟みたいで抱きしめたい気分だ、とのこと。国会を目
指すにはいろいろとうごめく党や利権争いの人たちに巻き込まれないよう、初志貫
徹せよ、と生意気に先輩を励ましておきました。
ロサンジェルスといえば、もう一人長年ご無沙汰している人に会います。諸星裕
氏。「大学の破綻」という著書でこのままでは日本の大学の1割がつぶれる、と予
見した人です。元ミネソタ州立大学機構秋田校の学長。桜美林大学副学長から現在
は同大学院教授。モロパンとか言ってテレビに出る人気者でもあります。私が最初
に会ったのはロサンジェルス・オリンピックの時。オリンピック取材はNHKと民間
放送が連合チームを組みます。その時の団長はNC9でキャスターを務めた磯村尚徳
氏。「諸ちゃん」はその補佐役でした。私は文化放送というラジオ局にいて、怪我
をしたディレクターの代わりにあわてて開会式の日に駆け付けたのです。オリンピッ
ク期間中、いろいろお世話になりました。1984年のことですから、28年も前!!!
そうかお互いに30代後半だったんだ。オリンピックのニュースセンターに黒いリム
ジンが。なんと後ろのボンネットにはお風呂。フリオ・イグレシアスの車でした。
「♪ナタリー」が印象的な「黒い瞳のナタリー」、「ビギンザビギン」・・山下泰
裕が肉離れを起こしながら金メダルを獲得。その後、対戦相手のラシュワンは帰国
したカイロ空港で何千人もの群衆に囲まれました。歓迎の人波だったのです。エジ
プト人は山下に負けたことを責めるのではなく、ラシュワンが相手の弱みに付け込
まず、正々堂々と戦って銀メダルに甘んじた、その精神を讃えたのです。・・そん
な話を「諸ちゃん」と出来そうです。しかしメインテーマは大学破綻からの脱出。
うーん気が重い。
2012年9月
沖縄大学地域研究所
所長 緒方 修
特別研究員寄稿
vol.36
日本人の歴史時間概念
高木 桂造正治
静岡県立大学名誉教授
沖縄大学地域研究所特別研究員
最近、日本人の歴史時間概念と、他国のそれが大きく異なることを意識するよう
になった。簡単にいうと、日本には『現在・過去・大過去』(神代・いにしえ・う
つせみ)という意識があるが、中国や周辺諸国には、それがないということである。
それが政治・外交・文化概念などで異なる行動・発言をもたらしているのだが、そ
のことがいまも気付かれていないということである。
#『かみよ・いにしえ・うつせみ』
まず日本だが、『万葉集』巻一に天智天皇の御製がある。
『香久山は 畝傍をおしと 耳成と 相争いき かむよより かくにあるらし
いにしえも しかにこそあれ うつせみも 妻を争ふらしも』(巻1・13番)
有名な奈良盆地の香久山(かぐやま)・畝傍(うねび)・耳成(みみなし)三山
を男女にたとえ、ひとりの女性をめぐる二人の男の争いよせた関係をうたった和歌
であるが、かむよ(神代)・いにしえ(古・昔)・うつせみ(現代)という三つの
時間概念がここに出ている。これは『神話(神々の話)』『叙事詩(神と人の話)』
『歴史(人の話)』ということである。いまその比較をしてみよう。
神話
叙事詩
歴史
中華世界
×
×
○
イ ン ド
○
○
×
キリスト教
○
○
×
イスラム教
○
○
×
古代ギリシャ
○
○
○
日
○
○
○
本
すなわち、中華圏は歴史のみ、インドは神話と叙事詩だけで歴史はなく、一神教
のキリスト・イスラム・ユダヤ教では旧約聖書(神の話)、新約聖書(神と人の話)
はあるが『人の話』はない。
古代ギリシャは神話(ギリシャ神話)、叙事詩(『トロイのヘレン』)、歴史
特別研究員寄稿
vol.36
(ヘロドトスの『歴史』)と三つそろっている。ちなみに『古事記』は上巻(神話)・
中巻(叙事詩)・下巻(歴史)と書き分けられている。
キリスト・イスラム・ユダヤ三教では神・神の声を聞いたものはいるが、うつせ
み(現代)では『神は人間に語りかけないで沈黙されたまま』である。『うつせみ
(人の話)』がないのだ…それを指摘したのがニーチェであることは周知の通りだ
…。。
#『神話・叙事詩内中華世界』
また中華世界では『神・神と人との対話』は否定されている。孔子が『怪力乱神
を語らず』といったときから、神話は否定されているのだ。いわば今の北京は『神
なき世界』にいるのであり、『神の審判』を恐れぬ行動にはしるのである。神の場
所に『偉大な人間』が座ることになるのである。それが独裁者の出現を招く。
インドはマハーバーラタ・ラーマーナヤのような神話や叙事詩世界があるが、歴
史記録はない。
西洋世界は聖書により、神・神と人のみにとらわれていたが、十字軍によりイス
ラム世界を知り、ギリシャ思想を豊富に持っていた当時のサラセン文化の流入がお
こり、ルネッサンス(人間への注視)から、ギリシャ思想を導入することになるの
は周知の通りである。いまも欧米の知識階級がギリシャ・ローマの古典教育を重視
するのはこの流れがあるからだ。
#『日本と東アジアの違い』
簡単にいうと、神話・叙事詩・歴史を持つ概念は日本とギリシャしかなかったと
いうことである(正確にいうとチベット・ネパール・モンゴルは日本と同様である)。
この違いを無視して『同じアジア』と漠然と考えて、中国・朝鮮との相違に気付
かないことが、各種外交問題になっているのである。
『神なき世界』は人間が最高であり、神を畏れないから独善的となる。これに対
して『神のある世界』は『協調的』となるのである。尖閣・竹島問題をみても、独
善的押しつけの理論に対して、『協調』を潜在意識にもつ日本政府の対応がそれを
物語っている。
ひるがえって『琉球世界』はどうであろう。『おもろそうし』に代表されるよう
特別研究員寄稿
vol.36
に『日本と同質』なのである。明・清時代の対中朝貢外交の記録を読むと、そのあ
たりの違いに苦労した先人の気持ちが良くわかる。
琉球世界は、神話(神の話)・叙事詩(神と人の話)・歴史(人の話)をもって
いる。ある意味で日本以上に濃厚に持っているところがある。例えば『同じ祖先・
郷土を持つ』という意識は、『同じ神話・叙事詩を持つ』ということである。沖縄
県人の『同郷意識』『門中意識』がそれを物語っている。
#琉球神道研究の大切さ
しかし、そういうことはこれまであまり意識されてこなかったし、研究するもの
も少なかったと言える。『琉球神道の時間概念』は、これからの研究課題であろう。
中華世界からいろいろと文化を取り入れながら、『合わないもの』は巧みに排除
しているのだ。例えば、『科挙・宦官・纏足』は導入されていない。そっくりその
まま導入した朝鮮王朝とはここが大きく違っている。科挙という知識人統御制度は、
朝鮮ではなんと950年間続いたし、中国大陸では1300年間行われ、それが両国の停
滞と『学歴重視』を生んでいる。日本や琉球では『先進国』の制度と知っていても、
最初から導入していないのである。この『判断力』はいまも生きている。
例えば『宗教自由の国』でありながら、キリスト教徒が1%程度から増えないと
いうのも、このあたりの判断材料になろう。その根底にこの『時間概念』があるの
ではないかと考えられる。そういうあたり、大いに研究したいところであり、関連
資料が豊富な『沖縄大学』は、楽しみな所なのである。図書館にある蔡温はじめ歴
史関連資料の豊富さがひしひしと感じられる。新しい琉球研究のための宝庫が沖縄
大学であることをここに強調しておきたい。
特別研究員寄稿
vol.36
自治体GNH研究会発足
関山 祐介
沖縄大学地域研究所特別研究員
今年の5月より、当方の関与する一般財団法人公共経営研究機構では、沖縄大学
緒方教授のご指導のもと、自治体GNH研究会を発足させています。
現代の日本は、未来が描けず、とても暗いニュースが飛び交っています。
東日本大震災の一件以来、・原発事故処理への不安・被ばくの不安・技術大国日
本の立ち位置への疑問・学者や技術者に対する不信・政治と国家行政への不信など、
今まで国民が当たり前と考えていた信頼基盤が大きく崩れてしまったように思いま
す。
それに加えて、他国の日本領土侵犯の恐怖も具体的になってきました。返還され
るはずだった、北方四島も、竹島も、他国の国家元首が、足を踏み入れ、「自国の
領土である」と宣言され、尖閣列島も、他国の漁船群が上陸を試みようとする始末
です。
将来に夢を抱き躍進していた日本の姿は、一体、どこに行ってしまったのでしょ
う?
経済は衰退し、産業は海外に移転し、少子高齢社会で、お年寄りばかりになって
若い人たちがいない・・。それでいて、原発事故処理もちゃんとしていない。国家
が国民を犠牲にして平然としているようにさえ思えてしまう。アメリカの言いなり
に見える米軍基地問題やオスプレイ配備の件も、国家主権が果たして日本にあるの
かどうかすら分からない事象です。
こんな日本ですから、他国から見れば、日本は、足元がふらついて、スキだらけ
に見えるのかも知れません。
一方で、経済成長ではなく、国民総幸福量の増加を国家の基本理念としたブータ
ンは、日本から比べれば経済力もとても小さく、便利な家電に囲まれた生活はあり
ません。物欲や金欲でなく、国民の幸福感を一番大事にしようという試みは、不況
にあえぐ日本だけでなく世界各国から見ても、考えられない理念でしょう。
家電に囲まれていない生活は不便です。経済発展は物欲や金欲があればこそです。
しかし、ブータンは、そこに警鐘を鳴らしています。本当に人類は豊かになって
特別研究員寄稿
vol.36
いるのだろうか・・経済合理性ばかり求めてきたために、精神的な病が増えている
のではないのか・・人間は草木を愛でて近隣を愛する生活をすることが大切ではな
いのか・・。
経済循環で成り立っている日本では、大転換をしてブータンのようになることは
とても難しいでしょう。しかし、理念を学び、活かし応用するところはあるはずで
す。それも、国家という単位ではなく、地域という単位でなら、きっと応用できる
ところがあるに違いありません。
たとえ、国が滅んでも、たとえ、日本の円が大暴落したとしても、我々国民は地
域のどこかに住んでいます。お金がなくても、近隣の人たちと助け合いながら生き
ることは可能でしょうし、自然を大切に活かすことを見直せば、食糧自給率も上が
るかも知れません。電力も大量に必要ではなくなる社会ができるかも知れません。
民間外交も束になれば国家間の争い事も減るかも知れません。
小さな変革をこつこつとやっていく。これを積み上げて社会を少しずつ変えてい
く。GNHのカギは、国という単位でなく地域にあるのではないか・・・そう考えて
自治体GNH研究会は発足されました。
自治体GNH研究会は、主に自治体の職員の方で構成されています。
・越谷市
高橋 徳人氏
・久喜市
野川 和男氏
・所沢市
柳田 晃芳氏
・入間市
守屋 俊久氏
・西東京市
海老澤 功氏
・小平市
神山 伸一氏
・山梨県町村会 保坂 智之氏
・和歌山市
小林 健太氏
・小値賀町
神崎 健司氏
・元自治体職員で今は行政書士として独立されている
小川 眞澄氏
・元財務省系シンクタンクにおいでになった
岩渕 祐二氏
・・みなさん、実務経験豊富で、仕事だけでなく地域の住民の方といっしょに
活動されておられる多彩なメンバーです。
そして、アジア各国に渡航経験のあるフレッシュな視点を持った
・名桜大学 4年生 二宮 智治氏 が加わっています。
自治体の職員の方は、現場で、いろんな事業をしています。
農業振興のご担当は、気候から、作付け、季節ごとの農作業の在り方、人手がど
のくらい必要か、農薬がなくても作れる量の限界など、ぱっと予想を立てます。
特別研究員寄稿
vol.36
医療や保健センターの方なら、食事や食材から、防腐効果や疾病対策関連の察し
をつけます。栄養士さんや調理師さんなら、学校給食と学童の健康管理の実態を予
測してしまえます。貧乏な国なのに、学校給食を出しているから偉い!といった情
緒的な判断はしません。
農作物が分かったら、建設土木の方なら、農地のための灌漑土木関連も予測でき
ます。どんな水路にしているのかも、土木工数も察します。
道路整備も、こんな状態でこんな方策なのだろうと察します。もちろん、上下水
道も、電線敷設管理も・・。
自治体の人たちは、現場のありとあらゆる市民生活に関わる仕事をしているので、
現場の目線で、具体的に物事を切っていきます。
しかも、専門的で、特化したものだけに着目して拘ることはありません。
なぜなら、やりたくても、予算の範囲でやれることをしないとならず、部分的に
最高であれば良いということでなく、人と予算の側面からも、総合的に調整してい
かないと、実施できないということを、イヤというほど実務で体験されておられる
からです。
GNHという国民総幸福量を研究するといっても、幸福感は人によって様々です。
測定基準を作ることは難しいはずです。
ですから、自治体GNH研究会では、国民総幸福量を求めているブータンという国
では、どんな法律や行政制度になっているのか、公共インフラ整備はどのような仕
組みで行われているのか、国民は、地域でどんな生活を送っておられるのか・・・
こうしたことから一つ一つ研究し、日本と比較しようと試みています。
百聞は一見にしかず・・は、十分承知しているのですが、研究会のメンバーは仕
事もあって、なかなかブータンには行けません。ですから、まずは、ブータンをよ
く知っておられる方々やブータンからの留学生の方にいろいろ伺うことから始めて
います。
学
自治体GNH研究会は、まだ動き出したばかり。ほぼ月に1回のペースで、早稲田大
戸崎 肇先生の研究室を拝借し、活動を続けています。
この場で、発表させていただけるような成果を出していきたいと思っています。
どうか、温かいご支援をお願いいたします。
特別研究員寄稿
vol.36
我が国における新たな航空政策の展開と沖縄の空
戸崎 肇
沖縄大学地域研究所特別研究員
近年、我が国では航空産業に対する規制の大幅な見直し、競争促進政策が実施さ
れている。これに対しては、安全を保障する上で問題があるのではないかとの懸念
も示されているが、技術進歩と医療環境の向上など、環境変化を客観的データに基
づいて考慮した上での議論であり、特に問題があるとは思われない。そして、事実、
航空運賃の低下とサービス向上をもたらし、消費者に大きな利益をもたらした。た
だ、その半面で、従来、規制下で構築されてきた内部補助体制の名残の中で維持さ
れてきた、公共性の高い、いわゆる「生活路線」の運航については、その存続のあ
り方が十分に議論されないままに規制緩和が行われ、その結果、現在大きな問題が
もたらされようとしているといわれざるを得ない側面がある。つまり、厳しい競争
環境の中で、航空会社は暗黙的に公共性を併せ持たされながら、採算性を重視した
経営の本来のあり方を追及する、あるいはせざるをえないようになり、生活路線な
どの不採算路線からの撤退を行う、あるいは余儀なくされているのである。
このような傾向が強まったのは、日本航空が経営破綻して後である。それまでは、
地方自治体などからの様々な政治的圧力もあり、不採算であってもなかなかそれを
打ち切ることは難しかった。しかし、経営破綻からの再生という未曾有の事態に立
ち至って、JALはそうした歴史的、政治的束縛から開放され、撤退の判断をより
行いやすくなった。そして、ANAもこれに追随することが容易な環境となった。
この半面、地方サイドにとっては、航空政策上非常に厳しい時代を迎えたことを
意味し、特に離島を多く抱え、「生活路線」を数多く保有する沖縄県としては離島
住民を始めとして、交通権、つまり基本的人権の1つとして再評価されつつある、
移動する権利を保障する上で、大きな岐路を迎えているといわざるをえない。
こうした中、沖縄にはさらに大きな2つの転機を迎えようとしている。
1つはJTA(日本トランスオーシャン航空)が、親会社であるJALがこれま
でに導入し、経営改革上大きな貢献をなした「路線別収支」を今後導入していくこ
とである。JTAがこれを採用すれば、将来的には傘下のRAC(琉球エアコミュー
ター)含め、離島路線とは言え、その採算性が厳しく問われていくことになるだろ
う。航空会社があくまでも民間の営利企業である限り、生活路線の維持については、
交通権保障の観点から、公的な存続保障のためのシステムを構築し、実施していく
必要があるだろう。現に欧米では、EAS(Essential Air Service)という、公
的に航空の生活路線を補助するシステムがある。日本でも離島航路に対する援助の
仕組みがあることは確かであるが、赤字が生じた場合にそれを補填すると言う形に
なっており、もう一歩進んだ形で、積極的に生活路線を維持する仕組みを構築する
ことが望ましいのではないかと思われる。
特別研究員寄稿
vol.36
第2はスカイマーク・エアラインズの沖縄市場への参入である。利用者にとって
は運賃の引き下げに繋がったことに加え、選択肢が増えたことで、利便性が向上し
たことは確かである。しかし、沖縄の離島間のネットワークの維持という観点から
見た場合、収益性の高い路線にのみ参入することは、既存の内部補助体制による生
活路線の維持を不可能にすることにもなりかねない点も考慮する必要がある。また、
新規航空会社は基本的に貨物事業を旅客事業に並行して行う余力に乏しく、もし新
規参入したスカイマークが貨物事業に関心を示さないままに市場での占有率を高め
れば、離島への物資の輸送体制にも何らかの影響が出てくるという不安もある。
こうした不安を取り除き、生活路線を維持し、物資の輸送体制を確実なものとす
るためにも、今一度、公共交通としての航空輸送のあり方を再検証しなければなら
ない。それも早急に行う必要がある。その象徴的なものとなっているのが、沖縄の
航空事情なのであり、今後も地域研究所の研究員としてこの問題に積極的に取組み、
成果を発表していきたい。
特別研究員寄稿
vol.36
25.フカに助けられた話
宮良 安彦
沖縄大学地域研究所特別研究員
人頭税と いうと、皆 男も 女も 十八に なると、昔から 一人前と
いって、上納を 納めたそうです。
ある 家に 十八に なる 娘が いて、その 家は たいそう 貧乏で、
上納を 納めなければ、ならないと、たいへんだから、逃げまわって いて、ある
日 海に 来て、流されて しまったそうです。
ずっと 遠くまで 流されて いるうちに、急に フカが 出てきて、そして
その 人を 島の 一角に 降ろし、その 人は 村へ 帰る ことも できず、
それから ここに 小屋を 作り、一生涯 そこに いたそうです。
それを 聞いて、その 家の 人は その 人を 探し、話を 聞いたところ、
その 人は フカに 助けられたと いう 話で あったそうです。
だから、その 家の 人は フカを 恩義の ある 生き物だと 思い、絶対
フカは 食べないと、いまでも その 家の 人は フカは 食べないと 言われ
て います。
(宮良安彦『石垣村の民話集』)
解
説
この「動物」民話は、トーテ二ズム(岩石、植物、動物崇拝)を主題としている。
フカに助けられたというこの民話は沖縄ではたいそう珍しかったと思われ、古代
沖縄の正史『球陽(きゅうよう)』の外巻・『遺老説伝(いろうせつでん)』にも収録
されている。
本文には、記述されていないが、物語は八重山・黒島での話で、その主人公の名
前は「多良間真牛(たらま・もうさー)」という人物だとして、知られている。
この民話では彼の名はなく、先島(さきしま・宮古、八重山)の人頭税時代の話と
して、しかも民話の主人公は「娘」だとされている。
また、彼が流されて、たどり着いた無人島の名称はどこなのかは、文献でも、伝
承でも知られていない。
特別研究員寄稿
vol.36
26.仲順(ちゅんじゅん)流れの話
昔 男の 兄弟が いて、妻も 三人とも 子も おり、男の 親は 年も
とりなさり、物も おあがりに なれないので、
「子は 亡くして、その 乳を 私に 飲ませよ。」と、
親が 言いなさり、親は 年を 取って おられる 親だから、少しで あっても、
よい。子は なくせない。」と、長男は 言って、また 次男も ちょうど 同じ
ことを 言って、親を 帰したそうです。
その 通り 帰して、三男を 呼び、三男が また 口から 聞きなさったとこ
ろ、三男は
「はい 子は 何名で あっても、今から 生まれるから、一人 おられる 親は
捨てられない。」と、言って、親に 乳を 差し上げようと、「子を 亡くして、
乳を 差し上げよう。」と 言ったそうです。
それで 親は また 三男に
「どこ どこの 松の 下に これくらいの 穴を 堀り、子を 埋めよ。」と
親に 言われ、夫婦は 二人は 子を 抱き、駕籠を 担ぎ、子を 埋めに
行ったそうです。
夫婦は 泣きながら 子を 見て、子を 埋めに 行く 時、
「これくらいの 穴を 掘って 埋めよ。」と 親の 仰る 通り、それくらい
の 穴を 掘ったところ、宝物が 出てきたそうです。
だから、親も 憂えるのは 憂い、子も 捨てないで よく、親孝行を したと
いう 話です。
(宮良安彦『石垣村の民話集』)
解
説
この民話は、石垣島には、民話としては伝承されていない話である。沖縄本島の
寸劇を見聞した話者が、民話にしたものである。
「ちゅんじゅん」は沖縄本島の中部にある地名。
この寸劇は、子持ちの3兄弟がいて、その親が老人で、食事も不十分なので、お
前達の子を殺して、埋めて、その子に与える乳を私に飲ませろと言ったが、それを
実行しようとした3男が、逆に親孝行のため、黄金(こがね)に恵まれたという話で
ある。
この民話は、親孝行の重要性を主題としている。
特別研究員寄稿
vol.36
琉球諸語は「方言」から「言語」に(その2)
比嘉 光龍
ウエルカルチャースクール
うちなーぐち講座講師
沖縄大学地域研究所特別研究員
「琉球諸語」は「方言」ではない
琉球諸島の6つの言語たち(北から、奄美語、国頭語、おきなわ語、宮古語、八
重山語、与那国語)の総称だが、今までは「琉球語」という呼称が一般的であった
が、それでは一つの言語しかないと思われてしまうので、複数の言語が含まれてい
るであろうということをすぐに想起できる「琉球諸語」という用語を、琉球大学名
誉教授の宮良信詳氏などが近年用いはじめている。それを受けて私もこの語を自身
のうちなーぐち(おきなわ語)講座などで積極的に使い、教えている。
この「琉球諸語」だが、今までは「方言」として扱われていたが、2009年2月に、
ユネスコ(国連教育科学文化機関)がこれらを危機言語として扱うと発表したこと
により、俄かに「言語」として注目され始めた。ただ、これらが「方言」として扱
われるようになったのは、1879(明治12)年に日本が琉球王国を侵略し崩壊させ、
「沖縄県」注1を武力により強制設置した以降のことである。「琉球諸語」は6つの
言語が含まれているのであるが、これらが1879年以前は独立言語だったと証明する
のは難しい。なぜならばその6つのなかの一つである「おきなわ語」のなかの「首
里言葉(1879年以前は首里語と呼べる)」が琉球王国における唯一の「リンガフラ
ンカ(Lingua Franca)」(共通語という定義に近いが日本語には訳せない)とい
う言語であったからである。1879年以前には琉球諸語という概念も、考えもなかっ
たであろう。しかし、「おきなわ語」という概念や、その中の「首里語」などとい
う考えはあったのかもしれないが、残りの琉球諸語である「奄美」や「宮古」など
の言葉を「∼語」もしくは「∼方言」と書いてある文献はあるのかどうか聞いたこ
とがない。よしんば「宮古語」、もしくは「宮古方言」と過去の文献があったにせ
よ、「宮古」をはじめ残りの「琉球諸語」が現在独立言語として扱われることには
変りはないのである。
注1
私は「沖縄」という漢字は必要最低限用いないようにしている。それは1609年に琉球を侵
略した薩摩が付けた漢字だということが文献などを調べて分かったからである。それについて詳
しいのは「沖縄大百科事典」(沖縄タイムス社)上巻の「沖縄」の項目にある。ここで「沖縄県」
とあえて「沖縄」の漢字を用いているのは「沖縄県」は琉球王国が制定したものではなく、日本
が武力により強制的に設置したものだという理由からである。うちなーんちゅ(おきなわ人)、
うちなーぐち(おきなわ語)、など我々うちなーの本来の文化を指し示す際には「おきなわ」と
あえてひらがなにする。
特別研究員寄稿
vol.36
ここで問題にしたいのは、琉球の言語がいつから「言語」として扱われたかとい
う起源について述べたいのではなく、琉球の言語たちを継承・発展させるためには、
前号でも述べたようにマイナスイメージの強い「方言」という言い方をやめて「言
語」として認識してもらいたいという事を社会に提案したい。
「方言」と「言語」の区別は困難だが「方言」はイメージ悪し
そもそも、ある言語のことを「言語」なのか「方言」なのか?と問うということ
は、答えのないパズルを解くようなもので、これは誰も答えることができない問題
だと言えよう。それについて一番分かりやすい例をあげるとすれば誰でも知ってい
る有名な言語、「英語」が良いだろう。実は「英語」はドイツ語の「方言」でもあ
り、また独立した「言語」だとも言えるのである。誰でも知っている「英語」でさ
えも「方言」と「言語」の二面性を持つ。他にも「スペイン語」「フランス語」な
どはラテン語の「方言」でもあり、独立した「言語」でもある。要するに、この世
界の言語はすべて「方言」であり、また独立した「言語」だと言えるのである。さ
らに、もっとも極端な例が私の知る限り「ルーマニア語」と「モルドバ語」の関係
である。元々ルーマニアだったモルドバ地方が旧ソ連に侵略され強制的に分割され
たという理由から「モルドバ語」という呼称になったのだが、ルーマニア語との差
異はほとんどない。しかし、政治的な理由から「ルーマニア語」とほぼ同じなのに
も関わらず「モルドバ語」と現在でも呼んでいる。ほぼ差異が無いにも関わらず政
治的な都合により「モルドバ語」と定義してしまうという、日本人にはおよそ考え
られない、理解できない事例が世界を見渡せばたくさんあるのである。このように
「言語」と「方言」の境界というのは曖昧かつ不明瞭で、これを明確にしようとす
ると、うちなーぐちでいう、入(い)ららんミーんかい入っちいちゅん(直訳する
と「入れない穴に入っていく」で、訳すならば「出口の無い迷路に入ってしまう」)
となるだろう。
そうとは言えども一つだけ明確な事がある。それは英語でも、日本語でも「言語
(Language)」は「方言(Dialect)」よりも、上位であり、イメージも良いとい
うことである。「琉球諸語」を「方言」とは呼ばずに「言語」と呼びましょうとい
う私の主張の根拠は、このことだけで十分ではないだろうか?ある言葉に対して
「方言」と呼ぶということは「言語」より下位であり、きちんとした言葉とみなさ
れない粗雑なイメージを抱かれてしまうという事実があり、それは英語でも日本語
でも共通のイメージなのである。
琉球王国は国際社会と修好条約を結んでいた
「方言」という言葉はイメージが悪いので「言語」という言葉を用いたいと述べ
たが、それだけではなく、「琉球諸語」が「方言」ではなく「言語」だという正当
な理由は他にもたくさんある。その中でも説得力が一番あるのは琉球王国が潰され
た歴史を知ることだろう。それを知れば、琉球の言語を「方言」ではなく「言語」
した薩摩は1871年まで裏から支配していたが、それでも琉球王国は独立国としての
特別研究員寄稿
vol.36
体裁は保っていた。いや保つように薩摩から指示されていたという方が正しいので
はあるが、何はともあれ独立王国であったのは事実である。その証拠に1854年にア
メリカ、1855年にフランス、1859年にはオランダと、琉球王国はそれぞれ修好条約
を結んだのである。薩摩に裏から支配されていたにせよ、世界の名だたる国々が琉
球王国と修好を結ぼうと言ってきたのである。それはすなわち国際的に琉球は独立
国として認められていたと言うことを意味する。もし、薩摩が裏で支配している事
実を知っていたのならば、世界の国々は琉球ではなく薩摩と修好条約を結ぼうとす
るだろう。薩摩からの支配を琉球王国が受けているという事実を世界の国々は知ら
なかっただけなのかもしれないが、いずれにせよ、上に挙げた欧米国家と琉球王国
が修好条として扱ってほしいという主張に異議を唱えることはできなくなるだろう。
1609年に琉球を侵略約を結んだのは歴史的事実である。この過去の事例は今後、
琉球の言語が独立言語だということを国際的に知らしめる際に大変有効だといえ、
この修好条約を根拠に琉球諸語は独立言語であると主張することも、国際社会では
十分な説得力を持つことになり得るだろう。
さらに、琉球の言語が独立言語であると主張できる過去の歴史的な事例をいうと、
琉球王国は1879(明治12)年3月27日に日本の警察、軍隊を合わせた560人から
侵略を受けたことも大変な説得力を持つだろう。その3月27日だが、日本の軍隊
は首里城を、武力を背景に不法占拠したのである。そして、最後の琉球国王である
尚泰は拉致され、2カ月後の5月27日に東京へ強制連行されてしまう。その後、
明治34年に逝去するまで東京にて軟禁状態となる。この発端は1872(明治5)年に
「琉球王国を琉球藩に処する」という一方的な日本政府の通知により始まっている。
この明治5年から明治12年の7年間をほとんどの歴史書は「琉球処分」という訳の
分からない言葉で片付けているのだが、琉球王国側からすればとんでもない歴史定
義である。日本は武力を用い首里城を占拠し琉球国王を拉致したのである。これを
「処分」などと言える神経が分からない。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言
葉があるように、しょせん、琉球王国は負けた国なので日本は何とでもいう権利を
持っているので勝手に言いたい放題、定義したい放題だといえばそれまでだが、我々、
うちなーんちゅ注2(おきなわ人)はそうは言えない。これは我々の国が武力占拠さ
れ崩壊させられた事実であり、その後に我々の国の言葉である、うちなーぐち(お
きなわ語)が、政治、行政、教育の場から一切排除されるようになっていくのであ
る。
(その3)に続く
注2
ここでは「我々、琉球人は∼」とした方が、琉球王国の国民たちというイメージを持たせ
るために必要な定義だと思うが、そもそも、琉球王国も、うちなー(おきなわ)以外の島々(奄
美、宮古、八重山、与那国など)を侵略し占領し作りあげた国家なので、「琉球人」のなかに
「奄美、宮古、八重山、与那国など」の島々の人々を入れてしまうと「我々は琉球人ではない」
との意見が出るかもしれない。したがって、琉球王国を作り上げた人たちは「うちなーんちゅ
(おきなわ人)」なので、それを琉球王国の人民、国民としてここでは使う。
特別研究員寄稿
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キャラウエイ高等弁務官に抗議した学生ら
中村 仁政
沖縄大学名誉教授
ミシガン州立大学(Michigan State University, MSU)は米陸軍省と契約を結び、
1951∼1968年までの約17年間の長きにわたり、多数のMSU教授陣(ミシガン教授団)
を琉球大学に派遣し、同大の教育行政及び研究活動などに協力した。
MSUは、1855年に創立された米国ミシガン州イーストランシング市にある総合大
学で、教員数が約5,000人、職員約6,000人、学部生約48,000人、大学院生約11,000
人で、学生数では全米6位である。
沖縄大学に赴任する前、私は約5年間、ミシガン教授団に団長補佐官として勤め
ていた。仕事の主な内容は、琉球大学や琉球列島米国民政府(United States Civil
Administration of the Ryukyu Islands, USCAR)との連絡調整、MSU講座などの準
備などであった。
ところで、在任中、内外のいろいろな要人がUSCARを通して同教授団や琉球大
「首里城キャンパス」を訪れた。
その中に、キャラウエイ琉球列島高等弁務官(Lt. General Paul Calloway, Hig
h Commissioner of the Ryukyu Islands、1961∼1964)がいた。
周知のとおり、彼は「キャラウエイ旋風」で沖縄の政財界を揺さぶった「悪名」
高い弁務官だ。特に「沖縄の自治は神話にすぎない」と公言するなど、自治権を軽
視する彼の政策は住民の強い反発を招いた。
そのキャラウエイが、ある日、密かに「首里城キャンパス」を訪れた。
学内視察をひとまず終えた後、彼は学生食堂に立ち寄った。その時、ハプニング
が起こる。彼の来訪を察知した学生自治会の強者ら約20人に、いきなり取り囲まれ
たのである。不意をつかれた視察団一行に戸惑いが見られた。特に随行したUSCAR
の幹部は狼狽した。私はフィンク(Fink, J.)教育部長の側にいたが、同部長はな
す術もなく、ただ右往左往するばかりで、傍から見て非常に気の毒だった。しかし、
当のキャラウエイは随員の心配をよそに、いつもの薄笑い顔で、少しも動じず、学
生と対峙した。
一方、学生側は物理的に彼を排除することはせず、いきなり英語の抗議文を強い
調子で読み上げた。日本語なまりの強い下手くそな英語が、はたして、弁務官にど
の程度理解できたか定かではないが、キャラウエイは終始にやにやしながら聞いて
いた。学生らの抗議文の内容は祖国復帰運動に対する抑圧や、住民の自治権軽視な
どに対する抗議だったと記憶している。
このような学生の抗議に対し、彼は一言も言葉を発せず、抗議終了後、ゆうゆう
と学生食堂を後にした。側近の者は皆安堵した。しかし、学生らはキャラウエイの
無言で、ふてぶてしい態度に、憤まんやるかたない様子だった。
特別研究員寄稿
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時間にして約10分程度の出来事ではあったが、非常に衝撃的だった。泣く子も黙
る高等弁務官キャラウエイが、面と向かって、しかも英語で、直接抗議されたのは、
この[事件]以外、後にも先にもないのではないか。リトル・ポニー(Little Pon
y<Paulをもじる>=小柄なキャラウエイの愛称)はもうこの世にはいない。
寄稿
vol.36
対話の輪、関係の輪
―報告 9・9県民大会に向けた沖大生の取り組み―
西村 愛里
沖縄大学人文学部
福祉文化学科4年次
わたしはいま、オスプレイ配備に反対する県民大会にむけて自主的に集まった学
生グループで活動している。活動の一環として7月30日から8月3日の間、学内でオ
スプレイ配備の是非を問うシール投票や、オスプレイに関する学習会を行った。
シール投票では学生や教職員に、「沖縄にオスプレイが配備されることについて
どう思っていますか?」と尋ね、シールを貼ることで意思表明してもらった。最終
結果は、「良いと思う」22票、「わからない」77票、「だめだと思う」390票だっ
た。
だめだと答えた人が8割という結果だったが、投票してくれた人たちの声はさま
ざまだ。一部を紹介する。
抑止力になる、軍隊は市民を守ってくれる、沖縄は補助金をもらっている、だか
ら「いいと思う」。
オスプレイがなんなのか・なんのためにあるのか・なぜ配備されるのか「わから
ない」。
安全性が確認できないままの配備は納得できない、事故が起きたときにだれが責
任を取るのか明確じゃない、日本国憲法があるのになぜ、なんの説明もなく勝手に
決めるのはおかしい、だから「だめだと思う」。
あらかじめカテゴリー化された答えのなかに押し込めるのではなく、多様な声を
聞くこと。わたしたちが大切にしていることのひとつだ。自分たちの考えを伝え、
他者の意見を聞き、その対話の過程で納得し合意していくことで関係がつくられる
と考えるからだ。
寄稿
vol.36
トップダウンで押しつけられるオスプレイ配備はわたしたちの考えとは真逆だ。
その状況になんの異論も唱えないまま受け入れてしまったら、わたしたちがいまこ
こで存在しているということがないことにされてしまう。そして、沖縄が経験した
戦争や「復帰」の歴史からなにも学ばなかったことになってしまう。そうなったら、
わたしはとても悲しい。
社会に無関心でなにを考えているかわからないと言われがちな「いまどきの」大
学生も、わたしたちの問いかけに正面から向きあってくれた。その声にきちんと応
答してほしい。
わたしたちは知識も経験も不足している。だからこそ、知恵をつかって、身体を
つかって、社会に関わって、人に関わって、対話を重ね、関係の輪を広げていきた
いと思う。
県民大会は台風で延期になったが、その分できることが増えた。8月22日から9月
21日まで本学本館ホワイエにてシール投票の結果やオスプレイについての展示コー
ナーを常設している。また、9月3日から5日まで、県民大会の呼びかけのためのイ
ベントを学内で企画している。
読んでくださった方も、それぞれの方法でこの輪に加わっていただけると嬉しい
です。
寄稿
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あらためて「9.9県民大会」成功のために
毛利 孝雄
沖縄大学法経学部
法経学科4年次
定年退職後に沖縄大学に編入学して、ほぼ1年半になる。
「県民大会」をめぐるこの1ヶ月、若い学生の皆さんとともに活動するなかで、
本当にいろいろなことを考えさせてもらった。そのことを書いてみたい。
1.ひとりでも多くの学生に歴史の現場に立ってほしい
当初8/5に設定された「県民大会」は、直前の近海での台風発生で延期に。こ
れも沖縄らしいといえばその通り。
この8/5に向けては、沖大生や教職員を対象に、オスプレイについてのシール
投票を行った。「ダメだと思う」390票(79.8%)、「わからない」77票(15.7%)、
「よいと思う」22票(4.5%)。5日間、昼休みのみの取り組みだったが、学生の
ほぼ5人に一人が投票してくれた。
「投票という行為は、一人ひとりの主体的判断。あの時、自分はどう判断したか、
記憶のなかに必ず残っていくはず」と、これはG先生のことばだけれど、シール投
票を契機に普段はなかなか話す機会のなかったことについて、“ゆんたく”の輪が
広がってくれることを期待したい。
シール投票に取り組んだ学生たちの多くが、高江や辺野古へと足を運んだことに
も勇気づけられた。“現場に立って考える”、それは無条件に大切なことと思う。
同じ意味で、来る9/9「県民大会」に、一人でも多くの学生に参加してほしい。
9/9「県民大会」は、おそらく沖縄戦後史を画するものとなるだろう。また、そ
うしなければならない。その歴史の瞬間、現場に一緒に立ってほしい、心からそう
思う。
オスプレイ学習会(2012.8.3沖縄大学)
寄稿
vol.36
2.「県民大会」の取り組みが紡ぎ出す、沖縄の過去・現在・未来
①「日々、いのちをかけて生活している」
シール投票とともに、もうひとつの取り組みが真喜志好一さんを招いての「オス
プレイ学習会」。この時、学生メンバーの中心の一人・Nさんのことばが、深く印
象に残っている。
「シール投票を呼びかける時、変な目で見られるんじゃないかと心配だった。だけ
ど、私たちは日々、いのちをかけて沖縄で生活している。いま声を上げないと、私
たちがここで生活していることがなかったことにされてしまう」
“いのちをかけて生活してきた”沖縄の過去、そして“日々、いのちをかけて生活
している”沖縄の現在、その中から未来の沖縄を紡ぎ出す営みとしての「県民大会」。
沖縄を生きる人々にとって「県民大会」とはどういうものなのか、あらためて気づ
かされることにもなったのだ。
②石平ゲート前ハンガーストライキ
小橋川共行さんと上原成信さんの二人が始めた、在沖米軍司令部のあるキャンプ
瑞慶覧・石平ゲート前でのハンガーストライキも同じことを考えさせられた。
ちょうど「オスプレイ学習会」に参加されていた上原さんからハンストの紹介が
あったことがあって、沖大生も何度か現場に足を運んだ。オスプレイの配備阻止を
目的とするハンストではあったが、その現場は“いのちをかけて生活してきた”沖
縄の過去と現在を共有し、未来の沖縄を紡ぎ出す場としてもあったと思う。
小橋川さんは、ハンストを行う動機を次のように記している。
「私はうるま市石川に住んでいます。そこは嘉手納飛行場の飛行ルートになってい
て、軍用機の爆音、耳も痛くなるほどのすさまじい音に悩まされ、怯えている毎日
です。私たちの石川では、小学校にジェット機が突っ込んだことがあります(1959
年)。この事故で18名の子ども・市民の命が奪われました。私の妻の叔父もこの時
亡くなりました。また、となりの川崎区ではジェット戦闘機が墜落、2人の青年が
命を奪われました(1961年)。…読谷村でパラシュート降下物に押し殺された小学
生の女の子、私たちの住まいの前を通って行ったサリン等の毒ガス、嘉手納飛行場
でのB52炎上事故…恐怖の記憶は積み重なっているのです。オスプレイの恐怖から
逃れ、なんとかして、家族の命、生活と暮らしを守りたいという思いを一人でも多
くの人に分かって欲しいのです」(抜粋)
また、小橋川さんの呼びかけに応えた上原さんは、自身の決意をこう述べている。
「私の父親は60歳近い歳で沖縄戦に巻き込まれ、戦死の場所も遺骨も不明である。
…那覇市住吉町(現・那覇軍港)の出身で、日本復帰前後に日米政府は那覇軍港の
土地の返還を約束したのに、40年後の今に至るも実行されていないのは不当なこと
である」(抜粋)
寄稿
vol.36
在沖米軍司令部前でのハンガーストライキで(2012.8.15)
③鉄平君の遺影を胸に「県民大会」へ
石平ゲート前ハンストのテントで聞いた彫刻家・金城実さんの話も、胸に迫るも
のがあった。
石平ゲートは金城さんにとって特別な場所である。96年2月、金城さんを頼って
兵庫から沖国大に入学予定だった海老原鉄平君が、信号を無視した米兵運転の自動
車にはねられ、いのちを奪われた現場、それが石平ゲート前なのだ。
裁判にさせないため示談を強要する防衛施設局(当時)。“自分と知り合うこと
がなければ、鉄平君はいのちを落とすこともなかったんじゃないか”という自責を
越え、金城さんは鉄平さんの父と二人三脚で「米軍人軍属による事件被害者の会」
を立ち上げ、裁判を闘うことになる。判決の賠償金額に対し、米軍が支払ったのは
その15%の額でしかない。いのちの値段の決定権は一方的に米軍のものであること
を「日米地位協定」が定めている。経過は省くが、「日米地位協定」のでたらめさ
は、この裁判を通して白日の下にさらされることになる。
9月9日、金城さんは鉄平君の遺影を胸に「県民大会」に参加する。
④「刺さった記憶∼米軍機事故史」「8・5に向かう」−『沖縄タイムス』特集記
事から
「県民大会」に向けた『沖縄タイムス』の標記特集も、“いのちをかけて生活し
てきた”沖縄を考えさせられる連載だった。その中から、いくつか収録する。「刺
さった記憶」は、米軍機の墜落などの事故とその遺族を追ったルポルタージュだが、
ぼくにとっては、初めて知る事故がほとんどだった。
*戦争直後、あちこちに散らばっていた乳幼児の骨を拾いながら、わらべ唄を歌っ
たという師匠の話に胸を締めつけられた。平和じゃないとわらべ唄は歌えない。…
オスプレイは政治の話ではなく、ワッターウチナーンチュの命の問題だ。(わらべ
唄研究家・宮城葉子)
*三十三回忌を終えると“もう忘れよう。その方がいいはずだ”と思おうとした。
…私は生き残ったのに、忘れたふりをして…。死んだ人に申し訳ない。(宮森小墜
落事故体験者・伊波純子)
*父は鉄血勤皇隊に動員され、斬込隊に組み入れられた。…57人のうち、生き残っ
寄稿
vol.36
たのはわずか11人。父が生きていたら「地域の安全のためという言葉で、犠牲が正
当化される。大きな流れに巻き込まれるな」と言うと思う。(普天間小教諭・比嘉
聡)
*その後も、事故の話は一切しなかった。…(沖縄戦から生き)残った息子2人の
うち1人を失い、どれだけ苦しかったか。過去を取り戻すことはできない。でも、
これから危険なものを持ち込ませないことはできる。叔父さんたちが引き合わせて
くれたんだと思う。“オスプレイが来るから、こういう事故が昔あったと伝えなさ
い”って…。(51年那覇、F80燃料タンク落下事故・國場好子)
*(娘の)小さな足は、片方が吹き飛ばされていた。自分が身代わりになりたいと
どれだけ思ったか。…米軍は肝に銘じてほしい。娘の一生を台無しにしたことを。
(50年読谷、F80燃料タンク落下事故・知念トミ)
*事故が起きてもしばらく控えて、すぐに再開する。ずっとこの繰り返し。一度配
備されてしまうと手遅れになる。(85年国頭、ヘリ墜落事故・上原一夫)
*(次男・盛男を亡くし、母)自身は全身にやけどを負い、事故後3ヶ月意識がな
かった。水ぶくれで顔が肩幅と同じぐらいに腫れ上がった。…家族が負った深い心
の傷。事故や盛男ちゃんのことを話題にすることは、50年たった今もほとんどない。
(62年嘉手納、給油機墜落事故・新崎孝子)
*爆弾を積載していたとみられ、海から上がった火柱は天まで届く高さだった。
(焼け出された)家族はその後の数年間、牛小屋を改装し暮らした。米軍からはサ
イズの合わない洋服が送られただけで、謝罪はなかった。微々たる補償金では足り
ず、銀行からの借り入れで家を建て替えた。(51年伊是名、B29墜落事故・山内信
明/西江オト)
*墜落の話を聞かされて育った。親類が集まると、あの時の子がこんなに大きくなっ
たと言われた。もし墜落機に直接、母が巻きこまれていたら、私はこの世にいない。
…両政府は沖縄の平和は考えないのか。(55年与那原、グラマン標的機墜落事故・
古堅富子)
※「刺さった記憶∼米軍機事故史」写真展が、沖縄タイムス本社1Fギャラリーで
9月9日まで開催中。
3.「切ない瞬間」を共有するために−世代をつなぐ県民運動としての「県民大会」
直接には卒論の準備ということがあって、時間をみて沖縄戦体験者からの聞き取
りを進めている。そしていまさらのように思うのは、直接に体験を聞くために残さ
れている時間は、10年に満たないだろうということ。とくに戦後すぐの世代として、
このことを十分になしえてこなかった僕たち世代の責任は大きい。そう考えた時、
ぼくには自戒のようにして思い起こす『苦海浄土』(石牟礼道子)の一節がある。
少し長くなるが、お付き合いを。
第五章に、60年安保のデモが水俣病患者や漁民たちのデモと出会う情景が描かれ
ている。
水俣病は、1953年(昭38)に第一号患者の発生をみる。しかし、その支援組織で
寄稿
vol.36
ある「水俣病対策市民会議」が結成されるのは、それから実に14年を経た1968年
(昭43)のことである。患者と漁民たちは、絶望的なまでに孤立した状態のなかに
置かれていた。この14年の間には、水俣もまた60年安保の高揚を経験している。
「…1959年(昭34)9月、この日の安保デモ約四千余。人口5万水俣市の全市的規
模の労働者・市民を動員しえていた。そのとき新日窒工場横から300ばかりの漁民
たちのデモが現れる。おそらく工場正門あたりを行き来して相手にされなかった漁
民集団が、偶然にこの安保デモに通りかかり歩み寄ったのにちがいなかった。それ
は、見るからにうつろで切なそうな目つきの集団だった。
このとき、安保デモの指導者は勢いづいた声でこういったのである。
皆さん、漁民のデモ隊が安保のデモに合流されます。このことは盛りあがってき
たわれわれの、統一行動の運動の成果であります。拍手をもって、皆さん拍手をもっ
て、おむかえしましょう。…」
市民参加者の一人として安保デモのなかにいた石牟礼さんは、当時を振り返って
こう続ける。
「…あのとき、安保デモは、
『皆さん、漁民デモ隊に安保デモも合流しましょう!』
とはいわなかった。水俣市の労働者・市民が、孤立の極みから歩み寄ってきた漁民
たちの心情にまじわりうる唯一の切ない瞬間がやってきていたのであったのに。こ
のとき労農提携、漁民との提携、地域社会との密着した運動をかかげる自称前衛た
ちの日常スローガンは、数かぎりなく配り散らされ、道の上に舞う文字通りの反古
であった。…
このようにして劇的瞬間は何ごともなく流れさった。はしなくも安保デモが一地
方の町で最高潮に達したかと思われた時期に、この国の前衛党を頂点とした上意下
達式民主集中制の組織論が、まだ全貌をあらわさぬ悲劇図(註・水俣病)の上を、
ゆるゆるとゆく大集団となって、横切ったのである。…」(アンダーラインおよび
註は引用者)
この『苦海浄土』の一節を僕は、“弱者の立場からの戦後民主主義の告発”とい
う痛切な思いで読んでいた。「漁民デモ」は沖縄戦体験者や米軍犯罪被害者に、
「安保デモ」は日本政府やその主権者である私ら一人ひとりに、置き換えて考える
こともできるだろう。
あらためて「県民大会」とは何か、を考える。それは“沖縄のいのち”をめぐっ
て、立場や世代を超えて“まじわりうる唯一の切ない瞬間”としてあるのではない
か。
9/9「県民大会」に向けては、沖大生の企画として①ホワイエでのシール投票
結果などの展示(8/21∼9/21)、②Village square−“ゆんたく広場”といった
イメージです−(9/3∼5)の取り組みを行う。その中から学生相互の、そして
世代と地域を超えた“沖縄のいのち”をめぐる交流の輪が広がっていくことを、心
から願っている。
(2012年8月30日記)
実践講座
報告
2012.8
■まちづくり実践演習
防災福祉コミュニティ研究班とまちづくり実践演習の共催で、まちあるきや
エコ実践を行っています。
納豆菌×乳酸菌×イースト菌で排水浄化&おうち野菜づくり
8月17日(金)18:30∼21:00頃 沖大図書館前集合
・家庭排水の浄化と川をきれいにするエコウオーター「えひめAi」を作りまし
た。家庭菜園・家庭ダム促進にもなります。
*南城市の農産物直販「花野果村」大城浩明さん(沖縄大学OB)にご指導いた
だきました。
ホームレスや生活困窮者への配食活動支援
8月18日(土)10:00∼13:00 与儀公園・県立図書館前集合
・生活困窮者に配食活動を行っているNPOのお手伝いです。
*NPO法人プロミスキーパーズにご協力いただきました。
あるいて知るなはまち&ぼーさい∼鉄砲水事故から3年・ガ
ーブ
川を歩く
8月19日(日)15:00∼19:00 てんぶ
す館前広場集合(国際通り三越斜向かい)
・ガーブ川に沿って沖映通り→水上店舗→与儀公園→寄宮→識名→繁多川を歩
き、まちのランドスケープを楽しみながら地域の水利用のあり方や防災上の課
題を考えます。
*那覇市福祉政策課と共催
あるいて知るなはまち&ぼーさい∼地域水「カー(井戸)」を再評価する
8月26日(日)15:00∼19:00 てんぶ
す館前広場集合(国際通り三越斜向かい)
・マチグヮー→壺屋→与儀→樋川を予定。少し前まで沖縄の暮らしに密接に関
わっていた地域水のあり方を、歩きながら一緒に考えました。
*那覇市福祉政策課と共催
今月も下記のようなプログラムを実施します。
納豆菌×乳酸菌×イースト菌で排水浄化&おうち野菜づくり
9月7日(金)18:30沖大図書館前集合(22:00終)
与儀公園生活困窮者 配食ボランティア
9月8日(土)10:00県立図書館玄関前広場集合(13:00終)
実践講座 1209_2
ガーブ川を高台から低地まで歩き、地域利水と災害時浸水を考える
9月9日(日)14:00 沖大地域研究所集合
・繁多川界隈(自治会による地域水の管理)→キブンジャ川とガーブ川の分水
嶺(識名)→ガーブ川→与儀→樋川・壺屋→水上店舗→久茂地川(潮渡川)→
前島→若狭を歩く。
①地域利水②河川汚濁③生活排水・雨水の流路④高低差と勾配⑤かつての海岸
線⑥下流域・低地・窪地の広がり
などについて考えながら歩く。特に繁多川・与儀・壺屋の井戸活用の状況、識
名∼与儀間1.3kmで100mの勾配がある都市造成地、津波や高潮による低地浸水時
の状況を考える。
与儀公園生活困窮者支援
エコウォーターづくり
ガーブ川3年まちあるき
地 域共創センター
■第5回
報告 2012.8
沖縄大学社会教養セミナー
2012年8月23日、第5回沖縄大学社会教養セミナーが開催されました。この講
座は地域研究所と沖縄大学同窓会が企画運営を担い、同窓生、市民、学生へ沖
縄大学の「知」の還元と交流を目的としております。
第5回目の講師と内容は盛口満氏(こども文化学科 准教授)「ゲッチョ先生
の沖縄おもしろ博物学」、朝崎咿氏(法経学科 准教授)「公務員から大学教師
に転身して」。参加者は43名でした。
盛口氏は、身近な動物の骨を多数用い、受講者に問いかけながら理科や科学
の面白さについて語りました。朝崎氏は豊富な行政経験を踏まえ、組織におけ
る権限の範囲や根拠を大学の規定を実例として語りました。
懇親会には、同窓会の方々や朝崎氏の同僚の方々も参加し、教職員、学生、
同窓生、市民が交流を深める機会となりました。
この講座は後期も継続開催が決定し、次回は10月25日(木)18時30分∼ 同
窓会館にて開催します。
講師と内容は、又吉盛清氏(客員教授)「『新時代』を築く沖縄と台湾に向
けて‐沖台の関係史を活かす‐」、伊藤丈志氏(国際コミュニケーション学科
准教授)「大学教育の改革」です。
皆様のご来場をお待ちしております。
【日時】2012年8月23日(木)18:30∼20:30
【場所】沖縄大学 本館 同窓会館
【講師】盛口 満氏(こども文化学科准教授)
新崎 咿氏(法経学科教授)
【司会】横山 正見氏(地域研究所)
【参加人数】43名
●・盛口先生の講座について
とにかく楽しかった。先生のお話をたくさんの子どもたちに聞かせて、理科好
きにしたいですね。私も子どもの頃、理科が大好きでした。久々にドキドキし
て理科の授業を受けました。ありがとうございました。
・朝崎先生の講座について
行政法が「ほぉー」という感じで理解できました。出前講座を活用させていた
だきたいと思います。(女性 一般)
●理科が大苦手な私にも興味を持って拝聴できました。(男性
一般)
共創セン ター 1209_2
●先生方が今まで自分が経験したことを教えてもらって良かった、と私は思う
(男性 沖大生)
●はじめて参加しました。盛口先生の話は授業で聞いたことがあったけど、す
ごく楽しく学べる講話でした。また来ます。(男性 沖大生)
●盛口先生の講話を楽しく聴かせて頂きました。
朝崎先生の講話は難しいタイトルかと思いましたが、興味深い内容でした。初
めて聞く話でしたが、とてもいい話でした。行政法、とても良かったです。
前期5回の講座、とてもありがとうございました。
後期を楽しみにしています。(女性 一般)
●盛口先生の話は、「学生がこう話した、子どもがこんな虫を見つけた」等か
ら始まっていました。そうやって、学生や子どもに接しているのだと感じると
ともに、生活体験と科学がつながる中間にゲッチョ先生がいるのだと思いまし
た。
朝崎先生の話は、私たちがどのような意思決定のもとで、働き、暮らしている
かを再認識させられるものでした。決定方法を知ることは、個々人の主体性に
関わる問題だと思います。忘れがちですが重要な視点を頂きました。お二人と
もありがとうございました。(男性 教職員)
●なかなかお目にかかれない先生方からの講義はとても楽しかったです。地域
に開かれた沖大の方針に感謝申し上げます。次は「お金儲けの話(どうやった
らお金が儲けられるか)」をお願いします。(男性 一般)
●盛口先生の話は子どもの頃から山野を駆け回った者としては、楽しく聴かせ
て頂きました。
朝崎先生の話にあった理事長、学長、全学教員会議、等の権限と問題点におい
ては、沖縄大学の「民主化闘争」の影響が光と影を落としているのではないか、
と思いました。(男性 同窓生)
共創セン ター 1209_3
●ゲッチョ先生の授業、とても面白かったです。久しく授業を受けていなかっ
たので、大変興味深かったです。目で見るだけではなく、実際に触ることもで
きて興味想像力が広がりました。
朝崎先生のお話はきっちりなさっていて、言葉の一つ一つの重みを感じること
ができました。(男性 一般)
●・盛口先生のお話について
動物の骨学問も面白いもんですね。
・朝崎先生のお話について
公務員からの華麗なる転身もなかなか宜しいのでは?又それも人生ではないで
しょうか。(男性 同窓生)
●2ヶ月ぶりの講義を拝聴させていただきました。骨を使った講義はとても幅広
い知識を使い、ユニークでした。博物館で化石(骨)はよく見たことがあるの
で楽しく勉強になりました。
行政法の講義は、「任命権者」について興味深く知ることができました。
毎日の生活、暮らしで勉強することが少ない最近ですので、セミナーの開催、
ありがとうございます。(男性 同窓生)
●盛口先生のお話、大変面白く聴かせていただきました。授業へのアプローチ、
深いお話に、魅力的な授業であることが分かりました。
朝崎先生の行政分野の経験に基づいて、分かり易い沖大の実態。今後の大学経
営、運営にとても重要な内容だと思います。責任の所在が曖昧だと思います。
(男性 同窓会)
●盛口先生の動物の話は、骨組を見せながらであったが、骨だけではどの動物
か見分けがつかなかった。しかし、盛口先生の説明で分かることができ、骨の
仕組みがわかって、大変興味を持った。
朝崎先生の話は、35年の行政経験から大学の規程について述べていたが、大学
の規制作成の根拠や理由等についても調べる必要を感じた。(男性 同窓生)
●・盛口先生の講座について
すみません、遅刻しまして、前半の講話はほとんど聞くことができなく、残念
です。残り30分のお話を聞くとたいへん楽しい授業をなさる方だと感じました。
・朝崎先生の講座について
朝崎先生の講話は授業の延長を受けているようでした。「大学協議会」「全学
教員会議」のメンバーはどのような方がなさっているのか知りたいですね。
同じテーマについて三つの組織で審議し、メンバーも異なるということを聴き、
無駄なことを三つで仕事をしているのだろうか、と思いました。(女性 沖大生)
共創セン ター 1209_4
●・盛口先生の講座について
面白い授業でした。身近な教材を使って考えさせるものであった。話術が素晴
らしい。1時間興味を引きつけるコツを教えてもらった。
・朝崎先生の講座について
例規の話も非常に興味深いものでした。根気のいる作業ですが重要なものだと
改めて理解しました。(男性 後援会)
■紅型工房
虹亀商店を訪ねました。
入学式で配布するエコバッグを学生と作家さんと制作する企画を進めていま
す。
7月と8月に地域研究所職員、アート部学生で南城市在住の紅型作家亀谷明日
香さんのアトリエを訪ねました。実際に亀谷さんの様々な作品を見せていただ
き、紅型の作業工程や奥深さを伺うことができました。今後、デザインを決め、
色付け、など作業を進めていく予定です。
ご案内
ご案内
比嘉光龍氏からのメッセージ:
御総様、今日拝なびら(ぐすーよー、ちゅーをぅがなびら、と読む。皆様こ
んにちはの意)。比嘉光龍やいびん(です)。
「世界の中の琉球諸語」というシンポジウムのご案内です。
日時・9月16日(日曜日)午後1時∼4時
場所・沖縄大学3号館 1階101教室
料金・入場無料
今回のシンポジウムですが、私以外は皆外国人です。
ハイス・ファン・デル・ルベ
クリス・デイビス
上間・エドアルド・あきら
(オランダ出身・久米島言葉を研究発表)
(アメリカ出身・八重山語を研究発表)
(ブラジル出身・首里・那覇言葉を研究)
上の3人を交えて私、比嘉光龍とうちなーぐちのみで10分ほど会話をする時
間ももうけました。さらに、最初と最後に、私と上間エドアルドあきら氏の、
うちなー民謡の唄三線演奏もやります。
今回のシンポジウムのみならず、今まで私がたずさわってきたシンポジウム
の主旨はすべて、琉球の6つの言語(奄美語、国頭語、おきなわ語、宮古語、
八重山語、与那国語。これらの総称は「琉球諸語」)たち、つまり「琉球諸語」
は「方言」ではなく「言語」であるということを社会に伝えたいために行って
きました。
2009年2月にユネスコ(国連教育科学文化機関)は「琉球諸語」は「方言」
ではなく「言語」だと発表しました、その詳細記事が朝日新聞のウェブサイト
http://www.asahi.com/shimbun/nie/kiji/kiji/20090302.html
にあり
ますので、時間のある際にご覧ください。
「琉球諸語」が琉球諸島の島々にて学校教育に導入され、日本語と同じ時間
を割き、言語として教育される、つまり「日本語」と「琉球諸語」のバイリン
ガル教育を実施する社会を実現すれば、琉球諸島に住む人々は世界中どこに行っ
ても自分の文化を誇れるしっかりとしたアイデンティティーを持つことができ
ると思います。皆さんのご意見も伺いたいので、ぜひ、会場に足を運んでいた
だけるようお願いいたします。
U-Streamでも配信されます。アドレスは
http://goo.gl/2uxHB
地域貢献部門
名城 菜々子
所内雑記
vol.36
地域貢献部門
名幸 妙子
今年もお盆がやってきました。お盆
と言えば、くぅわっちー(ごちそう)。
先日、ラジオで聞いたのですが三枚肉
1枚240キロカロリー、魚てんぷら1
個174キロカロリーもあるそうです。
成人女性の一日の摂取カロリーが18
00∼2000キロカロリーなので、三枚肉
を3枚も食べると一日の1/3のカロリー
を取ったことになります。
カロリーが高い郷土料理(食べ過ぎ
に注意すればよいだけですが)を、ど
うヘルシーにしていくか、沖縄が長寿
県として再び返り咲くために、研究の
余地ありだな∼と天ぷらを食べながら
考えていました。
この原稿を書いている日の昨日、8
月30日(旧暦7月13日)はウンケーで
ご先祖様の霊をお迎えする旧盆初日で
した。例年通り、夕刻本家に集まって
みんなで少しゆんたくした後、それじゃ
そろそろ…と皆総出で玄関先へ出てお
線香にて迎え火を焚きました。今はも
うグソーへ逝ってしまった祖父母を想
い、うーとーとぅ。ちらっとわきを見
ると伯母は今は亡きお姉さんを想い、
「姉さん、おかえりなさい」と言って
います。迷わず帰って来れただろうね、
と話しながら家の中に入ると、「さぁ、
お線香をあげてお迎えしよう」とうち
の母。「えっ、今お迎えしたばかりな
のに?」と伯母。「だから、それを今
度は中でお迎えするんじゃないですか?」
と母。「まぁ、今年はそうしようか」
と伯母。毎年、これってどうだっけ?
こんなでいいかな?と毎回何かが違う
うちのお盆。こんなてーげーさもあり
かな、と。すると本家で飼っている犬
が誰もいない宙に向かって急にワンワ
ンと吠えだし、やっぱりご先祖様帰っ
てきてるんだね、と再確認。本家から
の帰り道。空を見上げるとまん丸お月
様が綺麗で、月明かりに照らされてた
くさんの車が路上駐車。「きっとお盆
で集まってるんだね」と話すと「こりゃ
死んでも楽しそうだな」と妹。確かに
そうだ(笑)。なんだかふふっと笑っ
ちゃう平和を感じるお盆でした。
地域共創センター
横山 正見
我が家に勉強にやって来る中高生の
話です。
ある生徒は、「尖閣は、、竹島は、、
中国は、、韓国は、、」と熱心に話し
てくれます。時事問題への興味を感じ
るとともに、多分ですがインターネッ
トの影響の大きさを感じるものでした。
後日、別の生徒がお菓子の差し入れ
をしてくれました。それが韓国のお菓
子だったのです。
みんなは「美味しい、美味しい」と
食べていましたが、冒頭の生徒は「韓
国のお菓子は食べない」と断っていま
した。
しかし、勉強中、彼はそのお菓子に
手を伸ばしてしまったのです。すかさ
ず、みんなからのツッコミ。それを受
けて彼曰く、「韓国のお菓子が美味し
いことは認める」と。
微笑ましい光景でした。お菓子の力、
実際に食べることの大切さを感じまし
た。こじれそうな関係をほどく知恵が
ありそうです。
事務
山城 基乃
「わっしょい!わっしょい!」
夏期休暇をいただいて、東京旅行へ
いってきました。
江戸三大祭りの一つ、富岡八幡宮で
行われる深川祭りへ足を運びました。
別名「水かけ祭」と呼ばれるだけあっ
て、あちこちで水が飛び交っています。
かけられているのは神輿の担ぎ手な
のですが、なぜかおまわりさんもびっ
しょびしょです。
八幡宮に続く道沿いには、屋台がと
ころせましと並び人であふれかえって
いました。
串焼き、いか焼き、あんず飴、射的、
くじ引き、金魚すくい。大人も子ども
もはしゃがずにはいられません!!
何を食べようか悩んだ末に、あんず飴
を買いました。
「あんたは子どもだからチョコレート
をつけてあげる」あんず飴屋の女主人
はTHE下町のおばちゃんという感じで
した。
8月の東京。沖縄に匹敵するくらい
暑い日でしたが、御神輿の通るところ
だけは涼しいような気がしました。
これぞ日本の夏ですね!
事務
仲宗根 礼子
<地域研フォーラム>は今号で36号
を迎え、丸3年になります。
地域研究所特別研究員の皆さんの交
流の場としてスタートしましたが、当
初は投稿も少なく目次も淋しいもので
した。号が進むにつれて、投稿も増え、
ボリュームも大きくなってきました。
今では項目が多くてページ内に収めき
れず、目次の字を小さくすることもあ
るほどです。
「地域研のウェブマガジンを作りた
いんだよね…」。3年前の夏に緒方所
長がそうつぶやき、企画が始まり、だ
んだん具体的になってきたのが、この
時期でした。ホームページ作成ソフト
で何とかページを作り、試行錯誤を繰
り返して、毎月やっとの思いで仕上げ
でいたのが懐かしいです(やっとの思
いで仕上げるのは今もあまり変わりま
せんが)。
HP全体をプロの方にデザインしなお
していただきリニューアルしたあたり
から、研究員以外の方々からの投稿も
増えてきました。また、所内の事業報
告も漏らさず伝えるように心がけ、ペー
ジと共に少し幅も広がってきたと思い
ます。
ここまで賑やかに続けてこられたの
も、この文章を読んでいる皆様のご協
力のおかげだと痛感しています。編集
担当としてあらためて御礼申し上げま
す。これからも地域に貢献し、その貢
献を伝えていけるサイト作りを目指し
て励んでいきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
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