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きてみて、ガッ展

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きてみて、ガッ展
第 6 回奈良教育大学博物館実習成果報告展
きてみて、ガッ展
―人々の“想造”を掘り下げる―
は
じ
め
に
今年度も博物館実習報告展を開催することができました。この展覧会は学芸員をめざす
学生が自ら企画し展示したものです。学生ならではの視点と発想で楽しませてくれます。
今回は4つのコーナーで構成されています。
Ⅰ COSMIC EXPLORER
―宇宙への探求心―
宇宙研究は飛躍的な進歩を遂げていますが、未知の領域が広いのも魅力の1つです。古
代からこの宇宙をどのように捉えるかは、現生活に大きく影響を与えてきました。古代文
明から現代文明までの宇宙観を紹介することで、今の自分を見つめ直そうとしています。
Ⅱ
書の軌跡
文字の発明は人類発展で大きな役割を果たしますが、実はその発見は人類史からみれば
つい最近のことです。日本人にとって重要な漢字を取り上げます。書道らしく、書体の変
遷に注目しています。
Ⅲ
紙みてさわってしるまなぶ
文字を書くのはもちろん、紙の発見は人類に実に多くの恩恵をもたらせました。一口に
紙と言ってもさまざまです。普段意識していませんが、こうして見せられるといろいろ工
夫していることが分かります。
Ⅳ
人と石の生活
石器時代が長いことからも分かるように、最も人類が使ってきたのが石です。石はどう
してできるのかその種類は?知れば納得です。
展示タイトルが表しているように、気楽に見て楽しめる内容となっています。本展が明
日の活力につながる一服の清涼剤となりましたら、幸甚に存じます。
2016 年 12 月 16 日
博物館実習担当
金原正明
巽
善信
―第1章―
COSMIC EXPLORER –宇宙への探求心― 目次 ―

はじめに/世界地図...............................1p

第1節
現代の宇宙開発............................2p

第2節
メソポタミア地域・エジプトの宇宙.............2p

第3節
古代インドの宇宙..........................3p

第4節
古代中国・日本の宇宙.......................4p

おわりに.......................................5p
― はじめに ―
私たちの住む現代では、宇宙開発が盛んに行われています。どんどん身近になっていく宇宙の存在を、
みなさんはどのように捉えていますか?
私たち人間は、科学的な研究が始まる何千年も前から宇宙を解明しようとしてきました。古代の人々
は、それぞれの生きる場所から見えた太陽や月や星の動きをよみ、必要に応じて特徴のある宇宙観を編
み出したのです。その宇宙観は、現代の宇宙開発の状況を知っている私たちから見れば、ありえない世
界に感じるかもしれません。しかし、当時の人々にとっては真剣であり、生きるためにとても大切で必
要な考え方でした。そして、その宇宙観は現代の宇宙観ができるまでの起源・根本となっているのでは
ないでしょうか。
本展示では、古代の宇宙観として、様々な文明が発生したメソポタミア地域、エジプト、インド、中
国と、私たちの住む日本の古代に重点を置いて、古代の人々がどのような宇宙観を持っていたのかを見
ていきます。現代と古代の宇宙観の違いを発見して、様々な宇宙の形を感じてもらえたらと思います。
― 世界地図 ―
●…エジプト
●…メソポタミア地域
●…インド
●…中国
●…日本
1
― 第1節
現代の宇宙開発 ―
現在の日本の宇宙開発は、宇宙航空研究開発
機構(JAXA)により人工衛星、ロケット、宇
宙環境利用・有人宇宙活動、宇宙科学・探査の
プロジェクトが進められています。これらの成
果を身近に感じられるものが人工衛星だと思い
ます。人工衛星は地球の周りを移動する人工の
天体であり、国際電話や毎日の気象予報など、
私たちの日常生活に深く組み込まれています。
このように、宇宙開発は快適で豊かな社会の実
太陽観測衛星「ひので」
(SOLAR-B)
現のために必要な存在なのです。
― 第2節 メソポタミア地域・エジプトの宇宙 ―
(1)メソポタミア地域の宇宙
▲楔形文字粘土板に記録された B.C.136 年 4 月 15 日の皆既日食記事
(大英博物館所蔵)
カルデア人の考えた宇宙(
「宇宙論入門-宇宙時代の小百科 380」より)
シュメール人(B.C.3000 年~)は、初めに闇と水との混沌があり、神格化された2つの始源物質
の合体、つまり結婚によって世界・宇宙が創造されたと考えました。この思想はユダヤの宇宙観にも
影響を与えたとされています。
次に、時代は下りますが、カルデア人(B.C.10 世紀~)は大地(地球)の周りは地の果てまで海
が続いており、宇宙の果ては壁になっていて、丸天井のような空が世界を覆っていると考えました。
そして、太陽や月・星は丸天井の空にくっついており、太陽は昼間に天を回り、夜は西から地下の通
路を通って翌朝には東に回っていると推測しました。
2
(2)エジプトの宇宙
▲ヌト神とゲブ神の宇宙の図
(E.A. Wallis Budge/『THE GODS OF THE EGYPTIANS OR STUDIES IN EGYPTIAN MYTHOLOGY』/1904)
古代エジプト文明(紀元前 3000 年~紀元前 332 年)では、宇宙創造は天の女神ヌトと地の神ゲブで
あるとされていました。ヌトの体には無数の星々が輝き、両手両足は天を支える柱となり、ゲブから
は動植物や人間が生まれたとされました。ヌトの体-無数の星々が輝く天蓋-は、エジプトの人々の
生活からは切っても切り離せないナイル河に対応する天空の河に見立てられました。
そして、太陽と月はそれぞれ人格を持った神であり、太陽と月の天球上の動きは彼らが船に乗って天
空の河を渡る姿とみなされました。
― 第3節
古代インドの宇宙 ―
仏教の宇宙観『須弥山世界』
仏教の宇宙観に須弥山世界があります。虚空に浮かぶ風輪、そ
の上に水輪と金輪が重なり、金輪上には山や海、島が載っていま
す。その中心にある須弥山(メール山)という巨大な山は、仏教
だけでなくバラモン教やジャイナ教、ヒンドゥー教など古代イン
ドの世界観でも共有されています。私たち人間は、須弥山の南、
せ ん ぶ しゅう
えんぶだい
「噡部 洲 (閻浮提)」に住むとされていました。
▲玉虫厨子須弥座背面(須弥山図)奈良 法隆寺
ジャイナ教の宇宙観『ローカプルシャ(宇宙人間)』
ジャイナ教の宇宙観のひとつにローカプルシャという宇宙を擬人
化した図像があります。人間が住む宇宙の中心(腹部)には、メー
ル山(須弥山)があり、同心円状の海と大陸が広がっています。ロ
ーカプルシャの身長は、数光年にも及ぶといわれ、天国(上半身)、
地獄(下半身)、地上界(腹部)の三つの世界を、魂はぐるぐると輪
廻していると考えられています。
▲ローカプルシャの図
3
― 第4節 古代中国・日本の宇宙 ―
(1)古代中国の宇宙
①
がいてんせつ
蓋天説
北極星
古代中国(漢代)に生まれた宇宙観です。
①の蓋天説は、前漢時代に考えられた説です。
天は丸く、地は平たく互いに平行で、天は北極星を中心に回転し
ているといいます。
②
②の蓋天説は、①の蓋天説をもとに新たに考え出された説です。
右
左
天と地が半球状に修正され、天は地の上方にかさのように覆いか
ぶさっています。天は太陽と月を伴って、右から左へ回りますが、
太陽と月は左から右へ自転しています。
八万里
こんてんせつ
渾天説
北極
後漢時代に新たに生まれた宇宙観が渾天説です。
天と地は鶏の卵の形に似ており、卵の殻=天、黄身=地と考えら
れました。天は、北極と南極を通る軸を中心に回転し、その上に
地
太陽や月、星がのっているという説です。
この説は、天球に南北の極や赤道を考えたり、太陽の通り道で
ある黄道を考えたりするなど、蓋天説よりも本格的な宇宙論でし
南極
た。
▲渾天説の図
(2)古代日本の宇宙
古代日本の人々は、中国からもたらされた宇
宙思想の影響の下、天地の形状や大きさに言及
しないイメージ中心の思想を持っていました。
たかまがはら
よ み の くに
天には高天原、地下には黄泉国、その間に大和
あしはらの な か つ こく
など「葦 原 中津国」と呼ばれる地上の三層の世
と こ よ
はは
界観が生まれ、東の果てには常世の国・妣の国
などが置かれました。
また、伊勢の東にあるとされた常世の国は、
不老不死を表す「生・明」のイメージを持ち、
出雲の東にあるとされた妣の国は、追憶と魂の
ふるさと「死・暗」のイメージを持って考えら
▲高天原の図
れたとされています。
4
― おわりに ―
宇宙は、私たち人間が誕生し、文明を形成するずっと前から存在していました。四大文明と古代日本
の宇宙観を見てきて、みなさんの中の宇宙観に変化はあったでしょうか。
本展示で紹介した宇宙観は、古代の宇宙観のごく一部です。世界の文化は、この後歴史の中で変化し、
現代へとつながっていきます。たとえば、中世ヨーロッパで生まれた、ニコラウス・コペルニクスが唱
えた“地動説”と、ガリレオ・ガリレイが唱えた“天動説”というものがあります。現代の視点から見
れば、天動説が当然であり、地動説は“おかしなもの”と思われるかもしれませんが、宇宙開発が行わ
れていない中世では真面目に考えられていた宇宙観でした。古代でも中世でも、そして現代であろうと、
いつでも人は真剣に宇宙と向き合ってきたのです。
将来、人間が火星に住むという時が来るかもしれません。あるいは有人飛行で火星や木星へ行く時が
来るかもしれません。宇宙はまだまだ知らない部分を秘めています。この展示を通して、身近になり始
めた宇宙に少しでも興味を持って、宇宙開発の成果や宇宙問題について考えていけたらいいと思います。
最後になりましたが、「COSMIC EXPLORER―宇宙への探求心―」を見ていただき、誠にありがとうござ
いました。
― 参考文献・URL ―

「宇宙観の歴史と人間」金子務:著

「宇宙像の変遷と科学」二間瀬敏史、中村士:著
発行:財団法人放送大学教育振興会
発行:財団法人放送大学教育振興会
1995 年 3 月 20 日
2004 年 3 月 20 日

「宇宙論入門-宇宙時代の小百科 380」小尾信彌:著

日本民族文化大系 第二巻「太陽と月=古代人の宇宙観と死生観=」谷川健一:著
発行:株式会社小学館
発行:株式会社サンボウジャーナル
昭和 58 年 4 月 30 日

「宇宙観史-人類と 5000 年」日下実男:著

「宇宙観 5000 年史」中村士、岡村定矩:著
発行:東海大学出版会
1980 年 2 月 18 日
発行:財団法人東京大学出版会
2011 年 12 月 26
日

JAXA ホームページ「JAXA とは」

「日本の宇宙開発―到来する宇宙利用の時代に向けて(1933)」
戸部健次郎編

http://www.jaxa.jp/about/jaxa/index_j.html
日本科学技術振興協会
「ローカ・プルシャ Loka-Purusa―ジャイナ教の宇宙観―」東北福祉大学
濱田淑子
本田秋子
(2012)

「須弥山と極楽」著 定方晟

東京国立博物館のHP「日本国宝展」の展示紹介 http://www.tnm.jp/modules/

「古代日本の宇宙観―飛鳥人のみたコスモス―」『講座科学史4
<グループ
発行者 鈴木哲 1973.9.26 講談社
日本科学史の射』荒川紘著
メンバー>
伝統文化教育専攻
文化遺産教育専修
138602 尾﨑佳史
138606 濵村美緖
138604 坪谷千夏
138608 吉田万智
138605 出来瞳
5
第Ⅱ章.書の軌跡
【概説】
皆さんが何気なく書いている漢字ですが、漢字はいつごろから使われるようになったの
でしょうか。漢字とは古代中国に発祥を持つ文字を言います。その中で漢字の形は時代を
追うごとに変化し、五つの書体(篆書・隷書・草書・行書・楷書)が生まれました。その
後、日本に伝来し日本特有の「仮名文字」が生まれました。それらを代表作品とともに紹
介していきます。
1.
篆書
今らか100年ほど前に、殷の都の跡から亀甲や獣骨に刻まれた文字が発掘されまし
た。これが甲骨文と呼ばれる中国で最も古い文字です。青銅器に刻まれた銘文のこと
を金文といいます。
【金文】
金文(きんぶん)とは、青銅器の表面に鋳込ま
れた、あるいは刻まれた文字のこと(「金」はこ
の場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。
年代的には甲骨文字の後にあたります。
金文は『史記』のような後世になって書かれた
資料とは違い、完全な同時代資料であるためこ
の時代を研究する上で非常に貴重な資料となっ
ています。なお石などに刻まれた文章は石文と
呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれます。
2.
隷書
篆書の複雑な点画を簡素化し、直線的にした書体です。その多くは扁平な字形で、筆
画に波勢(波のようにうねるリズム)があり、横画の収筆や右払いに波磔が強調され
ます。
【礼器碑】
礼器碑は後漢の永寿二年(156)
、山東省曲
阜の孔子廟に建てられました。碑文の内容は、
魯相の韓勅が孔子廟を修理し、その祭器を修
造したこと、孔子の親族である顔氏と并官氏
の子孫の賦税を免除する恩典を与えたことを
いうもので、こうした韓勅の徳を頌えた碑で
す。
原石は165×74cm、四面刻。礼器碑は
古くから八分書の典型として重んぜられてき
ました。
3.
草書
漢字を速く書くためにできた書体で、行書よりも、さらに点画を省略化したものです。
隷書の速書きからできたもので、楷書や行書よりも早く漢時代に成立しました。
【草書贈索処士七律詩】
この作品は明時代の書家である祝允明の作品
です。祝允明は草書を得意とし、晩年は奔放
な狂草を長じた。
4.
行書
隷書の速筆から生じ、東晋の頃には成立しました。楷書と大幅に字形が異なるという
ことはないために、楷書を知っていれば読むことは可能です。
【集王聖教序】
集王とは、書聖とも呼ばれる書の名人、王
羲之の字を集めて作ったという意味です。
字を集めたという意味で集字聖教序とも呼
ばれます。そして、聖教序とは唐の太宗が
玄奘の訳した仏典に付した序文などを、石
碑に彫ったものです。書の名品としても名
高く、原碑も西安碑林博物館に現存してい
ます。
5.
楷書
点画を正確に書き、現在、最も標準的な書体とされています。隷書から転じたもので、
六朝中期にはじまり唐の頃に完成しました。
【雁塔聖教序】
雁塔聖教序は、永徽 4 年(653 年)
、褚遂良 58
歳時の筆になる。玄奘が貞観 19 年(645 年)
に帰朝してインドから持ち帰った仏典の翻訳
を進めていた際、太宗は彼の功績に対し「聖
教序」(序)の文を作り、また当時(貞観 22
年)皇太子であった高宗も「述聖記」(記)を
作文した。碑文はこの「序」と「記」で二つ
の碑石からなり、同大同型の黒大理石で、高
さ 198 ㎝、上幅 85 ㎝、下幅 110 ㎝、底辺が広
く安定感がある。
6.
仮名
漢字に基づいて作られ、用いられるようになった、日本語独特の音節文字です。一般
には片仮名・平仮名をさすが、広義には万葉仮名を含めてもいいます。
【升色紙】
11 世紀後半に成立し、藤原行成によって伝え
られたとされる。元は清原深養父の歌集を書
写した冊子本であったが、後に分割され現在
は殆ど掛け物に改装されている。料紙の升の
形からこの名がある。文字は宛転して滞ると
ころがなく、古筆の中で最も細く品の良い線
が用いられ、散らしの美しさも優れている。
線がふっくらとして艶美な感じを与えるが、
濃淡の変化の際立った墨継ぎと、太い線と細
い線を絡ませてゆく技巧とが、かつては彼の
所有品だったことがわかる。
【寸松庵色紙】
11 世紀中頃あるいは後半に成立し、紀貫之に
よって伝えられたとされる。堺の南宗寺の襖
に 36 枚貼ってあるものから、12 枚を佐久間将
監実勝が掌中に収め、大徳寺の境内「寸松庵」
の珍長物として伝来。料紙は中国から渡って
きた美麗な唐紙を使用していて、色や文様が
様々である。古今和歌集の四季の歌から、作
者名と和歌を書写している。悠揚として迫ら
ぬ連綿体の筆致は、仮名の極致を示し、作為
のない散らし書きは他の追随を許さない貫禄
を示している
【継色紙】
10 世紀中頃から 11 世紀前半に成立し、小野道風によって伝えられたとされています。もと
の冊子本を解体して掛け物にしたり、手鏡に張込む際に、その形は方形の紙を二枚継いだ
形になります。また、和歌が 2 枚の紙にまたがっている場合には、1 首分の墨付き部分の貢
を合わせると左右が色変わりとなり、まさに料紙を継いだ形になります。このような料紙
の特徴から「継色紙」と呼ばれています。1 首が出典未詳の他は、27 首「古今和歌集」か
ら、6 首が「万葉集」から収歌されています。
第 3 章「かみみてさわってしるまなぶ」
ごあいさつ
この企画のテーマは「紙」です。みなさんが普段何気なく使っている「紙」にも実はいろいろな種類が
あります。
今回は、みなさんにとって身近なものである、奈良県の特産品・和紙、洋紙の中でも新聞巻取紙、印
刷・情報用紙について紹介していきます。
また、
「和紙の歴史」、
「紙ができるまで」についても紹介し、みなさんを「紙の世界」にご案内します。
意外と奥深い「紙の世界」を、どうぞご堪能ください。
【紙の製造工程】
Ⅰパルプの製造
・クラフトパルプ:木材からパルプを作成します。
① 原料チップ処理工程
木をチップ化し、サイズ、厚みをそろえて原料を作ります。
② 蒸解工程
チップに薬品を加えて、高温・高圧で煮て、樹脂(リグニン)を溶か
し繊維分を取り出します。
③
精選・洗浄工程
パルプ中の異物をスクリーン・洗浄
機を通して除去し、
洗浄します。
④
酸素脱リグニン工程
蒸解工程で残った樹脂を酸素で
分解します。
⑤
漂白工程
5~6 種類の薬品を使用してパルプ
を漂白します。
・古紙パルプ:古紙からパルプを作
成します。
①
離解工程
古紙を緩やかにほぐし、ほぐすと
きの攪拌力でインキが剥離します。
②
粗選工程
古紙中に含まれている大きな異物を除去します。
③ 脱墨工程
パルプに付着したインキを薬品で剥離し分離除去します。
④ 精選工程
粗選工程で除去できなかった小さい異物を除去します。
⑤ 漂白工程
薬品でパルプを漂白します。
⑥ 脱墨工程
脱墨を2段で処理することにより、高品質の古紙パルプ。
⑦ 漂白工程
薬品でパルプを漂白します。
Ⅱ紙の製造
引用:大王製紙株式会社 http://www.daio-paper.co.jp/paper/
【紙の種類】
(【かみの基礎講座】テーマ5
意外と知らない紙の種類とその違い
より抜粋)
【出品リスト】
~和紙~
和紙
☆和紙の歴史
紙の起源とされている「パピルス」は現在の紙と制作方
法が異なり、多年草のパピルスの繊維を圧縮させ紙状にし
たもので、現代の植物繊維を叩いて作った紙とは、質感も
製法も全く異なるものでした。現在の紙の原形となったも
のは、紀元前 2 世紀ごろ、中国の漢の時代に発明されたも
のと考えられています。中国で発明された紙づくりの技術
は、シルクロードによる交易を通じて広がっていきました。
日本への紙の渡来は西洋より早く、610 年高句麗の僧・曇徴(ドンチョウ)により墨や絵の具ととも
に伝えられた、と日本書紀に残っています。また、それより早く4・5世紀には製紙法が伝わっていた
という説もあり、大和政権のもとで既に文書記録や戸籍作りが始まっていたとも言われています。当時
の日本は仏教の興隆に力を注いでいた時期でもあり、仏典を写経する紙は瞬く間に全国に広まり、のち
に染色や金銀・雲母箔散らしなどの日本独自の装飾技法が数多く開発されることとなりました。
現在では、インクや印刷機、洋紙が流入してきたことや、生活様式の変化もあり、和紙は洋紙に実用
品としての地位を徐々に奪われた形になりました。現在では、生産量は伝統工芸品として漉かれること
がほとんどです。
優美な和紙は美術の分野などではもちろん、耐久性、強靱(きょうじん)性を生かし文化財の修復に
使用されるほか、天然素材の地球環境に優しい製品として、日本国内のみならず、世界中から和紙への
注目が高まっています。(写真はイメージです。)
~洋紙~
◎新聞巻取紙
新聞紙
みなさんが普段目にしている新聞紙。朝刊・夕刊などの配達
時間の関係から、新聞印刷用の輪転機は大量の印刷を短時間で
行うように設計されており、巻取りで印刷される。このため、
紙の流れ目方向に強い力で引っ張っても破れないことが品質
的に求められます。
また、カラー印刷された紙面も多く、ページ数も増大傾向に
あることから、配達の利便性や見た目の美しさなどの要求から、
薄く・丈夫で・
白く・裏抜け(片面から印刷した絵柄や文字が反対側に抜けて見えること)しない、というそれぞれが
矛盾する品質を求められます。(写真はイメージです。)
◎印刷・情報用紙
〇非塗工印刷用紙
・上級印刷紙
画用紙
(写真はイメージです。)
・中級印刷紙
再生紙
日本では、和紙を使った再生紙作りがおよそ 1000 年以上
も前から行われています。さらに現在でも、日本の古紙回収
率は世界の中でも大変高く、回収された古紙を限界まで使い
続けると、始めの 100%状態から 70%は古紙として使用する
ことができるといわれています。
再生紙は、長い歴史の中で培われてきた「もったいない文化」
は現代から未来へと受け継がれていくわが国が誇れる文化と
もいえます。(写真はイメージです。)
〇塗工印刷用紙
・アート紙
折り紙
折り紙は、折り上げられた作品そのものや、折り紙用に作
られた正方形の専用紙、千代紙などのことを指します。紙を
折って動植物や生活道具などの形を作る日本伝統の遊びの 1
つともいえるでしょう。
(写真はイメージです。)
〇特殊印刷用紙
耐水紙
耐水紙とは、ペットフィルムを主原料とする合成の紙です。
耐水性、耐久性にすぐれ、表面は滑らかに加工されています。
そのため、アウトドア用の掲示物、野外ポスターなどに最適
な用紙と言えます。
本展示では霧吹きを用意し、水を弾く様を体験して
いただけます。
(写真はイメージです。)
ユポ紙
ユポ紙にはさまざまな特性があります。大きくまとめます
と下記 5 項目となります。
①水に強い②破れにくい③表面がなめらか④油・薬品に強い
⑤環境にやさしい
この優れた特性から、投票用紙などに使用されています。
(写真はイメージです。)
第 4 展示
「人と石の生活」
1. はじめに ―ごあいさつ―
石はわたしたちの生活の中で、多くの場面で関わっています。塀、公園のベンチ、石碑…。そもそ
も、人間がはじめて作った道具である「石器」も素材は石でした。つまり、人間が他の類人猿と区別さ
れるようになって以来、人と石の関係ははじまっていたのです。
また、石は緻密で、非常に重たい素材です。そのため、現在よりも運輸など手段が少なかった近世以
前では、希少価値のある石を除いては、基本的に現地で採取され、現地で加工されました。つまりは、
ある地域の過去の石像美術品は、その地域で採取される石が使用されている可能性が高いといえるので
す。地域の地質は、その地域の文化を形成する背景の一つであるということです。
このようにしてみると、単なる石も人間の生活史を考える上で、非常に重要な物質であるとおわかり
いただけるでしょう。しかし、わたしたちは、普段石に注目して生活することはほとんどありません。
石があまりにも身近に普遍的に存在するからです。また、ほとんどの人は石に対して、中学生時に少し
勉強したに過ぎないのではないでしょうか。
奈良教育大学のすぐ東側、春日山内では、奈良という歴史ある地で伝統的に使われ続けた石が採取さ
れます。それらは、今では世界遺産を構成する要素の 1 つにもなっています。
本展示は、わたしたちが普段何気なく見ている石について再定義を行い、大学周辺で採取される石と
その利用について、理解していただくためのものです。普段、気にも留めない石について、少し愛着を
持って接してみてはどうでしょうか。
みんな、僕と一緒に
楽しく石の勉強するだがん!
左:石鏃 (複製・黒曜石)
右:石器 (複製・安山岩)
マスコットキャラクター
ガンちゃん
2. 石ってなんなんだ!?
わたしたちの身の回りには、石が沢山あります。しか
しよく観察すると様々な種類の石が存在することがわか
ります。そして石や大地を構成する岩盤を学術的に表現
したものを「岩石」といいます。
岩石は右図に示すように、大きく 3 つの仲間にわける
ことができます。
火成岩はマグマが冷え固まってできた岩石です。火成
岩のうち、マグマが地下の浅い所や、溶岩のように地表
に噴き出して、冷え固まったものを火山岩といいます。
一方、地下の深い所で冷え固まったものを深成岩とよび
ます。
堆積岩は地層として堆積した礫・砂・泥などが次第に
固まってできたものをいいます。礫岩・砂岩・泥岩は、
岩石をつくる粒の大きさの違いによってわけられていま
す。そのほかにも、火山灰などの火山の噴出物が押し固
められると、凝灰岩とよばれる岩石になります。また、
水中の生物の殻や骨格などが押し固められると、石灰岩
やチャートなどの岩石になっていきます。
変成岩は火成岩や堆積岩のような既存の岩石が、熱や
圧力などの変成作用を受けて変化したもののことをいい
ます。
3. 奈良教育大学周辺で採取できる石
奈良教育大学の東側、春日山内で
は、奈良石・春日石・カナンボ石と
いった石が採取されます。これら
は、奈良という歴史ある地で、伝統
的に使われ続けてきました。
右図:大学周辺の名所と岩石の
地質表面図
・奈良石 (奈良県奈良市誓多林町 採取)
正式には花崗岩の一種です。春日山全体
で、広い地域で露出しています。その正体
は、日本列島を南北に分ける中央構造体の北
側に特徴的な、領家帯とよばれる変成帯にみ
られる岩石です。中央構造線は、奈良県内で
は吉野川沿いに東西に縦断しており、奈良盆
地周辺ではこのような花崗岩が多くみられま
す。奈良を代表する石であるからこそ、奈良
石と呼ばれるようになったと推測されます。
・春日石 (奈良県奈良市春日野町 採取)
正式には石仏凝灰岩と呼ばれる、流紋岩質
溶結凝灰岩の一種です。春日山内でも石切峠
から地獄谷にかけての限られた地域で露出し
ています。密度が低く軽くて柔らかいのが特
徴です。科学分析によって 1400 万年前の噴
火や火砕流による火山灰が堆積してできた岩
石だと推定されています。春日山の限られた
地域で採取されるため、春日石と呼ばれてい
ると推測されます。
・カナンボ石 (奈良県奈良市川上町 採取)
正式には三笠安山岩とよばれる、火山岩の
一種です。若草山を中心に分布しています。
風化した表面は薄い灰白色で、黒い割れ口に
結晶が光っているのが特徴です。非常に硬く
緻密で、石同士でたたくと、高い金属音がし
ます。このことから、金棒=かなぼう=カナ
ンボという名称がついたと推測されていま
す。
4. 奈良教育大学周辺での石の利用
前項で挙げた 3 つの岩石は、採石され、石工によって加工されました。大学から北東方向の中ノ川付
近の山中には採石場であったと考えられる場所があります。そこでは、今も切り出し痕の残る奈良石が
残っています。また、大学の最寄りの停留所から春日大社方面に 1 つ向かった「破石町」という停留所
がありますが、この名前の由来は、昔この周辺で石工が石を切っていた工房があったからとする説があ
ります。大学周辺はまさしく、奈良における一大石材集積地だったのかもしれません。
さて、大学周辺の文化財に目を向けてみましょう。世界遺産や国指定の文化財だけを見てみても、実
に多くの場所で 3 つの岩石が利用されています。世界遺産を形成する東大寺や春日大社。東大寺二月堂
(国宝)の敷石にはカナンボ石が、手水にはカナンボ石と奈良石が使われています。春日大社で最も古い
部類の御間型燈籠石灯篭:鎌倉時代、柚木燈籠石灯篭:平安時代(ともに国重要文化財)は奈良石でで
きています。その他にも、十輪院の本尊石仏龕(国重要文化財)
・頭塔石仏(国史跡)は奈良石で製作
され、春日山石窟仏(国史跡)
・地獄谷石窟仏(国史跡)は奈良石の露頭に彫られています。
大学周辺の石利用マップ
・切り出し痕のある花崗岩 (奈良県奈良市中ノ川町
採取)
大学から北東方向にある中ノ川町から芳山に抜ける古
い山道沿いに、昔石切り場であったと推定される場所が
あります。ここでは、歯車の歯のように飛び出た部分が
規則的に並ぶ花崗岩が多く見られます。この跡は石を切
り出した痕跡です。凹んだ部分を矢穴といい、くさび(矢)
を一定間隔で打ち込み、それらを叩き込むことで石を切
り出したのです。
コラム
大きな石も、こうして割って
運んでいたんだがん
・首切り地蔵 (奈良県奈良市高畑町)
奈良教育大学構内の南東、部室棟と幼稚園に挟まれた場所に地蔵尊や、五輪塔が彫られた石碑、
「南無阿弥陀仏」の印刻のある石碑が密集している場所があります。正式な由来はわかりません
が、一説には、大学の前身である陸軍奈良歩兵第 38 連隊の駐屯地が整備されるときに、壊される
可能性があったこれらの石造物を地元の方々がこの地に集めたとされています。数年前まではお供
えに来ていた人もいたようですが、今では注目する人はほとんどいません。
5. おわりに
みなさん、石について少しでも身近に感じていただけたでしょうか。少しでも石を知ってもらい、皆
さんの住んでいる街を新しい視点で見てみてください。きっと何気ない街の風景にも新しい発見がある
かもしれません。
最後に、この展示をするにあたり、ご協力いただいた方々に、心より感謝申し上げます。
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