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自然科学のとびら
研究ノート
第 4巻第 2号
1998年 5月 3
1日発行
魚学史一 日本の魚を研究した人たち 瀬能宏(学芸員)
「魚、学」、すわなち魚、を研究する学聞
著です。この本には、標本の入手先が
リ、メダカ、タツノオトシゴ、シロギ
を「魚類学」と 言 います。魚に関する
日本とされている魚が 36種類も含ま
ス、ブリ、マアジ、マダイ、イシダイ、
ありとあらゆることを研究するわけ
れているのですが、実は本当に日本で
マハゼ、ヒラメ、トラフグなど、私た
で、主なものに、分類学、形態学、生
採集された標本はひとつもないので
ちに馴染みの深い魚たちの多くが、こ
態学、生理学などの分野があります。
はないかということが、琉球大学の吉
の本で新種として記載されました 。現
中でも分類学は、あらゆる研究の基礎
野哲夫先生らの研究によってわかっ
5
0種ほどの魚に、テミンク
在でも、 1
として重要なものであり、ここで紹介
てきました 。当時、ヨーロッパの博物
とシュレーゲル命名の学名が使用さ
する日本の魚の研究の歴史とは、分類
学者は、魚、の標本を標本商から購入し
れています。
学的研究の歴史と言い換えてもよい
ていましたが、日本産とすれば標本が
9世紀半
以上、述べてきたように、 1
でしょう 。
高価に取引できたため、ブロッホは悪
ばまでは、日本の魚類の研究は、大博
徳標本商にだまされてしまったとい
物学時代の流れに乗った海外の人た
日本の魚を研究した最初の人は誰! ?
うのが事の真相のようです。
さて、日本からは、現在 4
0
0
0種類近
1
9世紀に入ると 、フランスの博物学
くの魚が記録されていますが、日本の
者キュビエ (
G
.C
u
v
i
e
r
;1
7
6
9
-1
8
3
2
)と
魚を初めて学名で記録したのはオラ
ノTランシエンヌ
ンダの開業医だったハウトイン (M.
全
1
7
9
4
1
8
6
5
) による 「魚の博物誌J(
H
o
u
t
t
u
y
n
;1
7
2
0
1
7
9
8
)でした 。1
7
8
2年
、
2
2巻
,1
8
2
8
-1
8
5
0
)、 ドイツのミュラー
ちによって行われてきたのです 。で
は、日本人の手による研究はいつ始
まったのでしょうか 。
(
A
. Val
enciennes;
日本人魚類学者萱場
1
8
6
9年(明治 2年)、明治政府が医学
彼は植物の研究で有名なツュンペ
(
J
.Mu
l
l巴r
;1
8
01
1
8
5
8
) とへンレ (
F
.
G
.
教育に当時世界で最も進んで、いたド
リー (
C
.P.Thunberg;1
7
4
3
-1
8
2
8
)が
J
.H
e
n
l
e
;1
8
0
7
1
8
8
5) による「横口類
イツ医学を範とする方針を打ち出す
日本から持ち帰った 36種類の魚類標
(=サメ・エイ 類)の系統的記載」
と、お雇い外国人教師として、博物学
本を記載しました 。現在でも、ハウト
(
18
3
8
-1841)、イギリスのギュンテル
者たちが来日しました 。中でも 、先に
イン命名の学名は、食卓でお馴染みの
(
A.
G註n
t
h
e
r
;1
8
3
0
1
9
1
4
) による「大英
当館で行われた特別展の主人公であ
ムツやマサパを含む 14種類の魚、で使
博物館所蔵魚類目録J(
全 8巻
, 1
8
5
9
-
るヒ jレゲ、
ンド jレ
フ (
F
.恥LH
i
l
g
e
n
d
o
r
f
;
7
9
3年には、 ツュンペ
われています。1
1
8
7
0
)などの大著が相次いで出版され
1
8
3
91
9
0
4)は、日本で最初に本格的な
リーもまた日本の魚をわずかですが
ました 。これらの本の中には、日本産
博物学の講義を行った点で注目に値
新種として記載しており、オニカサゴ
の標本をもとに新種記載された魚が
873年から 1
8
7
6
する人物です。彼は 1
やイサキの学名は彼が命名したもの
散見されます 。 また、オランダのブ
年までの 3
年間、第一大学区医学校(後
です。ツュンペリ ーは、晩年、「日本動
P
.B
l
e
e
k
e
r
;1
8
1
91
8
7
8)は
、
リーカー (
に東京医学校と改称;現在の東京大学
1
8
2
2
1
8
2
3
) を著し、日本産の
物誌J(
日本の魚に関する論文や報告を 1853
医学部の前身)で教鞭をとりました 。
魚類 53種をリストとして公表してい
年から 1
8
7
9年の聞に少なくとも 1
9篇
その問、通訳を務めるなどして彼の影
ます 。体系的な魚類誌はテミンクと
公表しました 。
1853・
響を強く受けた松原新之助 (
シュレーゲルの「日本動物誌・魚類」
19世紀は正 に大博物学時代と呼ぶ
191
6
;水産講習所(現在の東京水産大
(
18431850)に待たねばなりません
にふさわしい時代で、イギリスやフラ
学の前身)初代所長)は 、魚類学を体
が、ツュンペリーのリストは、日本産
ンス、ドイツ、オランダなど、ヨーロッ
系的に学んだ最初の日本人となりま
魚類の学名のリス トとしては初めて
パの強固では、数え切れないほど多く
した 。松原が作成した「万国漁業博覧
のものです。
の業績が公表されるようになりまし
1
8
8
0年;於ベルリン)は、
会出品目録J(
P
.F
.B
.von
た。中でも、シーボルト (
日本の魚を殴文と学名で紹介した、日
S
i
e
b
ol
d;1
7
9
6
-1
8
6
6
) が日本滞在中に
本人の手によって作られた最初の印
集めた標本を、オランダのテミンク
刷物です。このことから、ヒルゲンド
8世紀後期、魚類の研究史の中で
した 1
(
C
.J
.Temminck;1
7
7
8
1
8
5
8) とドイ
ルフは、正に「日本の魚学の事始め」の
も特筆に値する本がドイツで出版さ
S
c
h
l
e
g
e
l
;1
8
0
4
ツのシュレーゲル (H.
きっかけを作った人物と言えるで
れました 。ブロッホ (M.E
. Bloch;
1
8
8
4
)が記載した「日本動物誌:魚類」
しょう 。
大博物学時代の流れの中で
ハウトインやツュンペリーが活躍
1
7
2
31
7
9
9
)の「魚類図譜」がそれです。
は、日本の魚を科学的かつ系統的に記
ヒルゲンドルフの離日後、ドイツか
この本は 1
7
8
5年から 1
7
9
5年にかけて
載した初めての大著としてあまりに
らは最後のドイツ人博物学教師とし
9巻に分けて出版され、全部で 432枚も
有名です。との本には 3
5
9種の魚が掲
.P
.Dりd
e
r
l巴l
n
;
てデーデルライン(L.H
載されており、マイワシ、アユ、サヨ
18
5
5
1
9
3
6
) が来日しました 。彼もま
の美しい彩色図版が含まれている大
1
0
自然科学のとびら
第 4巻第 2号
1998年 5月 3
1日発行
た、多数の標本を本国に持ち帰りまし
言 える著作を残しました 。 とりわけ、
(資源科学研究所特別報告)、日本産魚
た。それらはウィーンの魚類学者シュ
41新種の記載を含む「日本産魚類図
類の分類学的研究のパイブルとも賞
F
.Steindachn巴r;
タインダッハナー (
全4
8巻
,1
9
1
1
1
9
3
0)や、過去の
説 J(
全 3巻;
賛された「魚類の形態と検索 J(
・
1
9
1
9
)と共同で研究され、 1
8
8
3年
1
8
3
4
文献を網羅し、 1
2
3
5種の魚類を収録し
石崎書庖
, 1
9
5
5年)、魚類の形態や系
8
8
7年にかけて、非常に質の高い
から 1
1
9
1
3
;ジヨルダ
た「日本産魚類目録J(
統についての体系的な教科書「魚類」
報告書として世に出ました。しかし、
ンおよびスナイダーと共著)は代表的
(動物系統分類学第 9巻(上・中);中
ヒルゲンドルフもデーデルラインも
なものです。正に「日本の魚類学の父」
山書庖
, 1
9
6
3年)、大学における 魚類
後継者と呼べる魚類学者を日本では
と呼ぶにふさわしい活躍をした人で
学の教科書となった「魚類学(上・下)J
育てませんでしたし、松原もまた、分
した 。 ジヨルダンや 田中の研究によ
( 落 合 明 お よ び 岩井 保 ら と 共著;
類学を中心とする魚類研究への道を
り、日本の魚類相の概要がほぼ明らか
9
6
5年)などが代表的
恒星社厚生閣, 1
進むことはありませんでした 。
にされ、後の魚類研究の基礎が完成し
な著作です。
たと 言 えるでしょう 。
真の日本魚類学の父
2
0世紀初頭、事態は一変します。ア
田中門下からは、天皇陛下のハゼ
現在、松原の育てた弟子や孫弟子た
ちは、北は北海道から南は沖縄まで、
のご研究を指導した冨山一郎(1906
全国の大学や博物館、水産研究所等の
D
.S
. Jordan;
メリカのジヨルダン (
1981)、様々な 分類群の研究を行い、
研究機関に散らばり、日本における魚
1931)とその一派による本格的
1851・
普及的著作を含む尼大な業績を残し
類研究をリードする立場として活躍
な日本産魚類の研究が始まったので
1
9
11
19
9
6
)、高知大学で
た阿部宗明 (
しています。そして、弟子が弟子を育
す。ジヨルダンは魚類学者で、スタン
深海魚や熱帯性魚類の研究を行った
て、これからも日本の魚類研究を力強
フォード大学の学長にまで登りつめ
蒲原稔治 (
1
9
01
19
7
2
) などを 輩出し
く支えてゆくことでしょう 。
た人物ですが、研究者として超一流で
ました 。 ただ、田中の活躍の舞台と
あっただけでなく、非常に多くの弟子
なった動物学教室は、昭和の初めに
を育てた教育者としても超一流でし
分類学から実験生物学へと研究方針
1
9
9
8年 9月 21日
、 1
9
9
8年度日本魚
た。余談ですが、皆さんは モース (E.
を転換したため、分類学の研究活動
類学会年会(於高知大学)において、シ
S
.Morse;1
8
3
8
1
9
2
5
) の名をご存じ で
の場は、地方の大学へと次第に分散
ンポジウム「魚類標本 ・
資料の収集と管
しょう 。東京帝国大学理学部の初代動
してゆきました 。
理一生物多様性研究の要を L功、に構築
8
7
7年から 1
8
7
9年まで
物学教授で、 1
日本に滞在し、大森貝塚の発見などで
おわりに
するか」が開催されます。魚類学の発展
超人的魚類学者現る
のために、標本をきちんと管理するに
有名なあのモースです。実は、 初代動
戦前戦後を通じて、最も優れた日本
はどうすればよいのかということを議
物学教授の候補には、モースの他に
の魚類学者を 一人選ぶとすれば、迷う
論しましようというわけです。国立大
ジヨルダンの名もあがっていたので
1
9
0
6
1
9
6
8
)の名
ことなく松原喜代松 (
学には附属の博物館が建設され、公立
すが、ジヨルダンが決めかねているう
をあげることができるでしょう 。松原
の大型博物館が乱立する時代に、何を
ちにモースが採用されてしまったの
)日本人魚類学者として
の偉大さは、 1
今更と思われる方も多いのではないで
です。歴史上傑出した魚類の分類学者
は初めて、系統類縁関係を念頭におい
しょうか。 しかし、田中茂穂のコレク
であったジヨルダンが、もし初代教授
て魚類の分類学的研究を進めたこと、
0年聞
ションでさえ、少なくとも過去 3
として赴任していたならば、大げさで
2
)すさまじいまでの執念、あるいは情
は、数人に満たないボランタリーな
なくその後の日本における魚類学、い
熱といった言葉がひ。ったりくるほど、
方々の血の渉むような努力によ って支
や分類学の歴史は大きく変わってい
レベルの高い多数の業績を残したこ
えられてきたのが実状です。
)非常に多くの弟子を育て、同年
と
、 3
先人たちのたゆまぬ努力によって、
話が少し脇道にそ れましたが、ジ ヨ
代だけでなく、後の多くの魚類学者に
日本の魚類研究は、世界的にみても高
ルダンは弟子たちを総動員して、日本
大きな影響を与えたことに集約され
いレベルに到達しました。しかし、研究
の魚、を片端から研究しました 。わずか
ます。
活動を支える基盤は決して盤石なもの
たかも知れません。
10年ほどの聞におびただしい数の論
9
2
9年に卒業
松原は、水産講習所を 1
とは言 えません。特に、標本の収集や保
文が公表されたのです。そのジヨルダ
7年務
し、同時に同所に就職し、以後 1
管については、目を覆わんばかりの惨
ンの影響を受け、日本人初の本格的魚
0年を
めた後、京都大学の教授として 2
状にあることは、 一般にはまったく知
類分類学者となったのが、東京帝大理
過ごしました 。 この間のエネルギッ
られていないのです。私たちはシンポ
1878学部動物学教室の田中茂穂 (
シュな活躍ぶりは、ここではとても紹
ジウムでの議論を謙虚に受け止め、日
1
9
7
4
) です。田中は生涯に 1
7
0種近い
介しきれませんが、 1
9
4
3年に 2回に分
本の魚類学の今後の発展のために、さ
新種を記載した他、論文、論説、総説、
けて公表された彼の学位論文「日本産
らなる努力を積み重ねて行く必要に迫
翻訳、意見文、紹介文など、無数とも
カサゴ目魚類の系統分類学的研究」
られるでしょう。
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