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見る/開く - 宇都宮大学 学術情報リポジトリ(UU-AIR)

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見る/開く - 宇都宮大学 学術情報リポジトリ(UU-AIR)
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ペネロピ・フィッツジェラルド『青い花』その2
訳:高 橋 優
第五章 ハインリヒ・フォン・ハルデンベルク男爵の物語
ハルデンベルク男爵は 1738 年に産まれ、幼くしてマンスフェルト伯爵領、
ヴィッパー川沿いオーバーヴィーダーシュテット城主にして、イェーナ近郊シュ
レーベンの邸宅の所有者となった。七年戦争では、プロイセン軍ハノーファー部
隊の忠実な臣下として軍役を勤めた。パリ平和条約 2 の後、軍役を退き、結婚し
たが、1769 年にはヴィッパー川沿いの街々で天然痘の感染症が広まり、妻を亡
くしてしまう。男爵は、病人、そして死にゆく人たちの介護にあたった。死者の
家族に墓を買うお金がなければ、死者はオーバーヴィーダーシュテットの元修道
院の敷地内に埋葬された。男爵は宗教への深い回心を感じた。
「僕は感じないな!」
エラスムスが言った。好奇心旺盛な年頃になると彼は、家の周りの緑の丘に並ん
でいる物がなにか尋ねた。「僕は感じないな。お父さんは本当に感じたのかな。」
「彼また
墓穴の上には全て質素な墓石が建てられていて、こう彫られていた。
は彼女はいついつに産まれ、いついつに戻って行った。」
これはモラヴィア兄弟団 3 に好まれた碑文であった。男爵はその宗徒であった。
その教えは、あらゆる魂は死んでいるか、目覚めているか、回心しているかのい
ずれかである、というものであった。人間の魂が回心するのは、危険を感じ、そ
の危険が何かを悟り、「彼こそが私の主である」という自らの呼びかけを聞き取
るときである。妻を亡くして一年余り経ち、男爵はまだ若いいとこのベルナル
ディーネ・フォン・ベルツィヒと再婚する。「ベルナルディーネ。馬鹿げた名前
だ。他の名前は持ってないのか。」彼女のセカンドネームはアウグステだった。
「で
はこれからアウグステと呼ぼう。」愛情をこめてグステルと呼ぶこともあった。
アウグステは臆病だったが、多産であった。12 ヶ月後には最初の娘カロリーネ、
1
Penelope Fitzgerald: The Blue Flower, London 1995、独訳 : Die blaue Blume, aus dem
Englischen übertragen von Christa Krüger, Frankfurt a. M., Leipzig 1999. この翻訳は、平成
23 ∼ 26 年度科学研究費若手研究(B)
(研究課題名「ドイツ啓蒙主義とロマン主義の関係」
研究課題番号 23720170)の成果である。
2
1763 年。
3
18 世紀に興った敬虔主義の一派。
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その一年後にはフリッツが産まれた。男爵は言った。「学校に通う年になったら、
二人をノイディーテンドルフの同胞たちのもとへ行かせよう。」
ゴータとエアフルトの中間に位置するノイディーテンドルフは、ヘルンフート
派 4 の属領であった。50 年前、モラヴィア兄弟団は迫害から逃げ、かくまわれ、
安息を得た土地をヘルンフートと呼び、教団を形成した。ヘルンフート派の教え
によれば、子供はそこに生きるべく定められた世界に産まれる。子供にとって教
育とは、神の国に自分の居場所を見つける手助けをするものである。
ノイディーテンドルフはヘルンフートと同じく、静穏な土地であった。鐘では
なく、笛が子供たちを教室に呼ぶ合図だった。ここは絶対的従順の地でもあった。
従順な者が財産を相続することになっていたのだ。彼らは常に三人一組で行動し
なければならなかった。三人目は、他の二人が何を話すか、牧師に報告すること
になっていた。怒った教師が罰を与えることも許されなかった。必ず行き過ぎた
罰を与えてしまうからである。
子供たちは床を拭き掃除し、動物の世話をし、干し草の束を作った。だがけん
かをしたり、競い合うことは禁じられていた。授業と宗教の時間が合わせて週に
30 時間あった。日没には皆就寝せねばならず、朝五時の起床まで静寂を守らね
ばならなかった。鶏小屋掃除などの共同作業を終えた後、「愛の祝祭」のための
長い机が並べられた。皆は席に着き、聖歌を歌った。自家製リキュールの小さな
グラスが誰にでも振る舞われた。最年少の子供にも。寄宿料は女子が 8 ターラー、
男子が 10 ターラーだった。なぜなら男子はたくさん食べるし、ラテン語とヘブ
ライ語の文法を習わなくてはいけなかったからである。
母親似の長女カロリーネ・フォン・ハルデンベルクは女子修道院でとても行儀
よくしていた。彼女は早く結婚し、ラウジッツに居を移した。フリッツは産まれ
ながらに夢見がちで内気な子供に見えた。九歳のとき重病を患って以降賢くなり、
その年にノイディーテンドルフにやって来た。数ヶ月後、高位聖職者の命を受け、
牧師は男爵に、息子を連れ戻すよう頼んだ。「フリッツの何がいけなかったんで
す?」子供を責めることを全く好まない牧師が説明するには、フリッツは絶えず
質問するが、答えを求めはしないとのことだった。例えば「子供の教理問答」と
牧師は言った。先生が尋ねる。「君は何ですか。」
4
モラヴィアから移った兄弟団が名乗った名称。
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答え「私は人間です。」
質問「私が君を掴むのを感じますか。」
答え「よく感じます。」
質問「これは何ですか。肉ではありませんか。」
答え「これは肉です。」
質問「君の肉は体といいます。これは何ですか。」
答え「体です。
」
質問「人が死んでいるのを、どうやってわかりますか。」
答え「死んでいる人はしゃべれないし、動けません。」
質問「なぜだかわかりますか。」
答え「わかりません。」
「フリッツはそんな質問に答えられなかったのですか。」男爵は声高に言った。
「出来たのかもしれません。でも彼の実際の答えは不正解です。彼はまだ十歳
にもなっていない子供です。彼は体が肉ではなく、魂と同じ物質で出来ているっ
て言って聞かないんです。」
「それは一つの例えでしょう。」
「まだいくつもあります。」
「まだ習っていなかったのでしょう。」
「彼はぼーっとして機会を逃してしまいました。ノイディーテンドルフの一員
として受け入れることはできません。」
男爵は、息子がたった一つでも気品のある行いを見せなかったかと尋ねた。牧
師は答えをはぐらかした。
哀れな母アウグステはまもなく病気体質になった。(といっても 11 人の子供の
うち 10 人より長生きしたのだが。)いつも誰かに謝りたがっているようであった。
彼女は息子のために自分自身で授業を行うことを認めるよう、切実に頼んだ。だ
が彼女は彼に何を教えることができただろう。せいぜい音楽を少し教えられるだ
けだろう。ライプツィヒから家庭教師が呼ばれた。
第六章 ヴィルヘルムおじさん
オーバーヴィーダーシュテットにいる間、ハルデンベルク家は近所の人たちを
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招待することもなく、近所に招待されることもなかった。世俗化を怖れたのだ。
近所付き合いにはお金がかかるということも原因の一つであった。七年戦争は高
くついた。フリードリヒ二世は、負債をなくすために公的な宝くじを導入するに
至るまでせっぱつまっていた。多くの忠実な地主貴族にとって、フリードリヒ二
世は経済的に破綻していた。1780 年、ハルデンベルク家の小さな領地が四カ所
売りに出され、メックリッツの領地にあった所有物は全て競売にかけられてしま
い、食器もカーテンも家畜もなくなってしまった。地平線まで、耕されていない
荒れ野が広がった。古風な細いのぞき窓からうかがう様子では、オーバーヴィー
ダーシュテットの家には、空っぽの鳩小屋が並び、かつて修道院教会だった農場
は、全て、あるいは半分耕すにも広過ぎた。母屋の見た目はみじめだった。煉瓦
はところどころはがれ、つぎあてされ、風雨にさらされ、水垢で汚れていた。雨
樋は何年も前から水漏れしていた。天然痘の時代の墓石の周りの草地は枯れてい
た。畑はひからびていた。家畜は堀の底で草を食んでいた。そこだけは湿気があ
り、かろうじて草が生えていたのだ。
イェーナ近郊のシュレーベンはもっと小さく、快適だった。家族でときどきそ
こへ出かけた。シュレーベンの水車とコケのはえた樫の木を見ると「心が安らぐ」
とアウグステは控えめに言った。だがシュレーベンも他の領地と同じように負債
を抱えていたのだ。支払いを猶予してもらえない負債は安らぎでもなんでもない、
と男爵は夫人に言った。
貴族にとって、そしてハルデンベルク男爵にとっても、金を稼ぐ手段のほとん
どが失われた。だが男爵には、侯爵に仕えることが認められた。1784 年、現職の
監督が亡くなると、ハルデンベルクはデュレンベルク、ケーゼン、それにアルテ
ルンのザクセン選帝候管轄製塩所の監督に任命された。彼の収入は 650 ターラー
と、割当のたきぎだった。製塩所の本部はヴァイセンフェルスにあった。1786
年男爵はクロースター通りの家を購入した。シュレーベンとは違ったが、オーバー
ヴィーダーシュテットの冷たいまでの孤独と、ひどく古びた屋敷から離れること
が出来て、アウグステは解放感で涙を流し、その涙が新しい家への不満で流れた
ものではないと神に訴えた。ヴァイセンフェルスには二千人の住人がいた。二千
の生ける魂が。煉瓦工場、監獄、救貧院、かつての宮殿、養豚市場、川を行き交
う船、きらめく水面に映る厚い雲。橋があり、病院があり、木曜市があり、干し
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草を乾かす人がいて、その他、たくさんの商店が並んでいた。およそ 30 も。男
爵夫人は小遣いを貰っておらず、買い物に出かけたこともない。日曜日以外ほと
んど家を出なかった。しかし、こんなにたくさんの物とこんなにたくさんの人が
近くにあると思うだけで、冬にふいに現れる太陽のような光が顔に差し込むよう
であった。
ベルンハルトが産まれたのは、寒さの厳しい 1787 年 2 月 5 のヴァイセンフェル
スだった。フリッツはもうすぐ 15 歳 6 で、そのときはヴァイセンフェルスには
いなかった。ブラウンシュヴァイク―ヴォルフェンビュッテル公爵領ルックルム
のヴィルヘルムおじさんのところにいたのだ。若いフリッツは家庭教師よりも大
きかった。生徒に遅れをとらないために、家庭教師は夜遅くまで数学や生理学の
本に読みふけらなければならなかった。「それも不思議ではない」伯父はこう書
き記してる。「家庭教師は、知的に貧しい身分だ。ヘルンフート派のやることは、
賛美歌を歌うことと家事をすることだけだ。ハルデンベルク家の人間にはふさわ
しくない。フリッツをしばらくうちにあずけないか。もう 15 か 16 だろう。はっ
きりとは知らないが。彼はワインの味を覚えなきゃいけないよ。ヴァイセンフェ
ルスじゃできないだろ。あそこの葡萄は全部ブランデーか酢になっちまうからな。
大人の男たちが上品な社交の場でどんな会話をするかも知らなくちゃいけない。」
男爵はいつものように兄の意見に腹を立てた。いや、意見以上にその強い物言い
に。ヴィルヘルムは男爵より十歳年上で、男爵を怒らせるためにこの世に産まれ
て来たらしい。ヴィルヘルムは気品のある人間だった。「自分でそう思ってるだ
け。
」男爵は付け加えた。ドイツ騎士団管区ザクセン、ルックルム支部の知事であっ
た。なにかにつけて、首にマルタ十字団 7 の輝く十字架をつけた。同じ印がコー
トにも、ビロードと組紐で刺繍されていた。ハルデンベルク家の子供たちは彼の
ことを「大十字勲章」や「閣下」などと呼んでいた。彼は結婚せず、他の地主貴
族だけでなく、音楽家、政治家、哲学者などを、丁寧にもてなした。彼らは偉大
なヴィルヘルムと同じ席につき、それぞれの意見を述べ、彼の意見に従わねばな
らなかった。
5
英語では 1788 年、ドイツ語では 1787 年となっている。実際は 1787 年である。
6
英語では 17 歳、ドイツ語では 15 歳となっている。15 歳が妥当だと思われる。
7
11 世紀ヨーロッパの宗教騎士団の一派。
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数ヶ月かの滞在の後、フリッツはまたヴァイセンフェルスの父のもとに戻り、
父に伯父からの手紙を渡した。
ルックルム 1787 年 10 月
フリッツが快復し、もはや修正の必要のない正しい道に戻ったことは喜ばしい。
私の家は若い彼にとってはあまりにも張りつめている。彼はあまやかされてしま
うだろう。たくさんの客が私のテーブルで彼にとって不適切な話をするし、私は
それを止められなかった。
男爵は兄へ、フリッツへの親切に対しては感謝するが、それ以上の礼を言えな
いことを残念に思うと書いた。フリッツが持って来た服が晩餐の席にはふさわし
くなかったために伯父がフリッツのために縫わせたであろう白いベスト、ズボン、
そして布のコートは、貧者への布施としてヘルンフート派の同胞に寄贈された。
単純な生活が営まれているヴァイセンフェルスでは、フリッツにはそんな立派な
服を着る機会はなかっただろうから。
「フリッツ、運が良かったね。」13 歳 8 のエラスムスが言った。
「わからないよ。」フリッツは言った。「運には独自の法則があって、その法則
を理解しなければいけないんだ。でも法則がわかったら、それはもう運とは言え
ないね。
」
「でも毎晩食事の時には、お偉いさんが一堂に会して、君にたくさん飲ませよ
うとして、君のグラスに上等なワインをひっきりなしに注ぐんだろ。みんな何を
話すの?」
「自然哲学、ガルヴァニズム、動物磁気、それにフリーメーソンについて。
」
フリッツは答えた。
「嘘だね。そんなことを忘れるためにワインを飲むんじゃないか。それに夜な
夜な、美しいご婦人たちが無垢な子羊を求めてつま先立ちで階段を上ってくるん
だろ。それから君の部屋のドアをノックする。やったね!」
「女性はいなかったよ。」フリッツがエラスムスに教えてやった。「おじさんは
8
英語は 14 歳、ドイツ語は 13 歳である。1774 年 8 月産まれのエラスムスは、1787 年 10
月には 13 歳である。
88
一人も女性を呼ばなかったと思う。」
「一人も!」エラスムスは大声をあげた。「じゃあ誰が洗濯するんだ?」
第七章 男爵とフランス革命
「大十字勲章」から手紙をもらうのと、母の兄、大尉アウグスト・フォン・ベ
ルツィヒがヴァイセンフェルスにやって来るのと、どちらが嫌なことだろう。フォ
ン・ベルツィヒは七年戦争時、男爵と同じ大隊で戦ったが、その後は男爵とは全
く違う道をたどった。ベルツィヒがこの上なく崇拝していたプロイセン王は、完
全な信仰の自由を認め、プロイセン軍は驚くほど屈強で、礼節をわきまえていた。
でもだからと言って、ベルツィヒの方がましだと結論付けることはできない。
「次に何が言いたいかわかっているよ。」男爵は探りを入れながら言った。「で
は私の話に納得するのだな。」ベルツィヒが言った。「宗教と礼儀正しい振る舞い
には、少なくとも明らかな関係がないと認めるのだな。」
「私が言いたいのは、あなたがとてつもない愚か者だということだ。」男爵夫
人は、二つの石臼で挽かれる麦のように二人の間に挟まれた気持ちになった。夜
な夜な彼女は(彼女は寝付きが悪かった)、兄とヴィルヘルムおじさんが一度に、
何の前触れもなくやってくるのではと不安になった。礼儀正しく二人を遠ざける
には、どうすればいいだろう。屋敷は十分広かったが、彼女は接客を煩わしく思っ
ていた。ドアの呼び鈴がなり、召使いが玄関に出た。救いを求める間もなく、手
に負えない事態になってしまった。
1790 年、若いフリッツがイェーナ大学に入学した年、歴史の魔の手がアウグ
ステに迫った。だが彼女に教養が無かったことが幸いした。歴史の魔の手は彼女
にとって、擦り切れたシーツや兄の無信心と同じ程度の問題だった。フランスの
混乱は、関節炎の原因となる川面の蒸気と同じく、男爵の怒りの引き金に過ぎな
かった。
ヴァイセンフェルスの朝食は質素だった。食堂のオーブンには朝六時に陶器の
コーヒーポットが並んだ。節約のため、コーヒーには、煎った人参の粉が混ぜら
れていた。卓上には大きな厚いカップとコースター、それにパンの山が乗ってい
た。家族はまだ寝間着を着て、一人で、あるいは二人で食堂にやって来ては、夢
遊病者のようにオーキなコーヒーポットからコーヒーを注いだ。皆、コーヒーを
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少し飲んでから、パンをコーヒーに浸して食べた。飲み終えた者はカップを逆さ
にしてコースターの上に乗せ、大声で「満腹!」と叫んだ。男の子たちが大きく
なり、いつまでも食堂に残るのをアウグステは好まなかった。
「坊やたちは何を
話してるのかしら。」エラスムスとカールはオーブンで暖をとっていた。「わかっ
てるでしょ。そんなことしてると、お父さんに怒られるわよ。」
「お父さんはジロンド派にはすっかり満足してるよ。」カールが言った。
「でもカール、ジロンド派は新しい考えを持った人たちよ。お父さんは新しい
考えが嫌いでしょ。」
1793 年 1 月、フリッツはちょうど朝食時にイェーナから戻って来た。巨大な
真鍮のボタンのついた布コートを着て、丸い帽子をかぶっていた。「まずはとに
かく着替えたい。それから席に座るよ。」
「新聞を持って来た?」エラスムスが聞いた。フリッツは母を見つめて答えを
ためらった。
「たぶんね。」男爵はその日、テーブルの一番前のいつもの席に座っ
ていた。男爵が言った。「新聞を持って来たか持って来なかったかぐらいわかる
だろう。
」フリッツは何重にもたたんだ「イェーナ一般新聞」を一部、父に渡した。
新聞はまだ冷たかった。フリッツがイェーナから寒い中を旅する間、コートの外
ポケットの中で冷たくなっていたのだ。
男爵は新聞を開き、しわを伸ばし、眼鏡を取り出して、家族が見ている中、ぎっ
しり印刷されたトップページを丁寧に読んだ。最初にこう言った。「ここに書い
てあることは理解できない。」
「国民公会がルイを訴えた。」フリッツは勇気を出して読み上げた。
「ああ、それは読んだのだが、どうにも私の理解を超えている。やつらはフラ
ンスの正当な国王を裁判にかけるつもりか。」
「はい。国家反逆罪で。」
「狂気の沙汰だ。
」
男爵はコーヒーカップの間で、仰々しく黙り込んだ後に言った。
「フランス国
民が理性を取り戻すまで、新聞には指一本触れんぞ。」
彼は食堂を離れた。「満腹、満腹、満腹!」エラスムスが叫び、コースターを
叩いた。
「革命は究極の事件だから、解釈なんてできない。でも、共和制が人類
全体にとってより良い未来への道を開くことは間違いない。」
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「世界を革新することは可能だ。」フリッツが言った。「あるいはむしろ、かつ
ての状態に戻すことだ。だって黄金時代は、確かにかつて現実だったのだから。」
「ベルンハルトがいる。テーブルの下に座ってるよ。」夫人はそう言うと、こ
らえ切れずに泣き出した。「全部聞いたのね。ベルンハルトは全部言いふらして
しまうわ。」
「盗み聞きする意味はないね。」ベルンハルトはそう言うとテーブルクロスの
硬い折り目の間から出て来た。「ルイは首を刎ねられるよ。もうすぐわかるさ。」
「ベルンハルトは自分の言っていることがわかっていないんだ。王様は父で、
国民は家族なんだ。
」
「黄金時代が復活したら、父親なんていなくなるよ。
」ベルンハルトはつぶや
いた。「ベルンハルトは何を言っているの?」知識に乏しいアウグステが尋ねた。
だがフランス革命とともに彼女自身のやっかいごとが増えるだろうと思った彼女
の直観は正しかった。男爵は、新聞を家の中に持ち込むことを厳しく禁じること
はなかった。だから彼女は自分にこう言い聞かせた。「夫はテーブルの上や書斎
で新聞を見たくないだけよ。」フランス人の逸脱行為に対する男爵の異常な興味
を抑える手段を探す必要があった。フランス人が何をしようが、正直のところ、
アウグステにとっては何の意味もないのだ。
製塩所本部やクラブ(ヴァイセンフェルスにおける文学と学問のアテネーウ
ム 9 )で、夫はきっと今日の見出しに関する議論を耳にするだろう、と夫人は考
えた。だが、夫にとって起こったことは全て現実のことではなく、日刊新聞の灰
色のページのニュースを読まないうちは確信しないだろう、ということを彼女は
知っていた。彼女の直感は、長い間の習慣に基づいていた。これは愛情よりも遥
かに信憑性のある情報源だった。「フリッツ、次にあなたのコートにブラシをか
けさせるときは、新聞を何センチかポケットから外にのぞかせておくのよ。」
「お母さん、何年経ってもお父さんのことをわかってないね。お父さんはもう
新聞なんて読まないって言ったでしょ。そしたら絶対に読まないよ。」
「でもねフリッツ、そしたらお父様はどうやって情報収集するの?あなたたち
兄弟はお父さんに何もお話しないでしょ。あなたたちは、世俗のことを話さない
9
女神アテネの神殿。高水準の教育施設、学術団体、文芸誌などの名にも転用される。
ノヴァーリスも後にフリードリヒ・シュレーゲルらと共に同名の雑誌に関わる。
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じゃない。
」
「それは神様だけが知ることだよ。」フリッツは言った。
「浸透 10 でわかるんじゃ
ないかな。
」
第八章 イェーナ
長男はドイツの慣習に従って、できるだけたくさんの大学で学ぶのが良いと男
爵は考えていた。イェーナで一年、ライプツィヒで一年。ライプツィヒではエラ
スムスも一緒に大学に通うようになるだろう。それから一年、ヴィッテンベルク
で法律を学ぶ。必要とあればこの家の残された財産を法廷から守るために。神学
も始めなければ。ザクセン選帝候領の憲法にも取り組まねばならない。フリッツ
は 1790 年の冬学期、イェーナの法律学科に入学するが、実際はシラーとライン
ホルトから歴史とカント哲学を学ぶ。また、フィヒテの講義も聴いた。
フィヒテはカント哲学の講義を行った。フィヒテは才能に恵まれており、カン
ト哲学を遥かに凌駕していた。カントは外的世界の存在を信じている。外的世界
は我々の感覚や経験を通じてのみ知覚可能であるが、それでもとにかく存在して
いる。その確信が老人の弱さだ、とフィヒテは主張した。世界がどうなっている
か、想像するのは我々の自由である。我々は皆、世界をそれぞれ違った形で想像
するのだから、事物の決まった実在性を信じる理由はどこにもない。
行儀の悪さでドイツ最悪の評判だったイェーナの学生は、フィヒテの幾分飛
び出た目に睨まれると、臆病な生徒に戻ってしまった。「皆さん、我に返ってく
ださい。意識を取り戻してください。」自由時間には尊大で酒飲みの学生たちも、
このときばかりは従順であった。皆、上着の襟の折り返しにピンで留めていた小
さなインク壷を机に置いた。姿勢よく座る者も、頭をもたげて目を閉じる者もい
た。緊張で震える者もいた。「皆さん、壁のことを考えてください。」皆が集中し
た。「壁のことを考えましたか。」フィヒテは尋ねた。
「では壁のことを考えた人
について考えてください。」
フィヒテは織工の息子で、ジャコバン派の信奉者であった。彼の声は枯れるこ
となく講堂に響き渡った。「一番後ろの左から四番目の、不機嫌な顔をしている
10
原語は Osmosis であり、化学における浸透の意味で用いられるが、転じて知識や考え
などの普及・浸透という意味でも使われる。
92
方・・・」哀れな若者が立ち上がった。
「教授、それはイェーナの講堂の椅子が、足の短い人に合わせて作られている
からです。」
「質問をしてください。」
「なぜ・・・」
「もっと大きな声で!」
「我々はなぜ、壁を見た目のままに想像するのでしょうか。違う風にではなく。」
フィヒテは答えた。「我々は世界を想像に従って造り出しているのではない。
義務の精神から造り出しているのだ。」義務を遂行する機会を最大限得るために、
我々には世界が必要なのだ。それを哲学が証明するのだ。特に、ドイツの哲学が。」
フィヒテの学生は、教授にすっかり魅了され続けた。夜通し「フィヒティズィー
レン」11 した(フィヒテとその哲学大系について語った)。皆、頭がおかしくなっ
ていくようであった。
午前二時、フリッツは突然ウンタラー市場の真ん中に立ち、だらしなく酔っぱ
らっている他の学生たちに構わず、星空に向かって叫んだ。「フィヒテの体系に
欠陥を見つけた。愛の入る余地がないんだ。」
「君はフィヒテの家の前にいるんだぜ。」通りがかった学生が言って、舗道に
座った。 「彼の家は 12a だ。12a にはフィヒテ教授が住んでいるんだ。」
「彼は 5 月までは正式な教授じゃない。」フリッツは言った。
「それまで彼にセ
レナーデを歌ってやろう。窓のそばで歌おう。̶俺たちはあなたの体系の欠陥を
知っている。愛が無い。愛が無いんだ̶」
イェーナにはありとあらゆる下宿が揃っていた。一番貧しい学生たちには、奨
学金として無料の食事が与えられた。自ら選んだ下宿でのみ、決まった量だけ食
事をとることができた。彼らの食事の光景はすさまじかった。おかみは食器を早
く片付けたいため、食事の時間を制限した。だから彼らはとにかく早くたくさん
の食べ物を詰め込まなければいけなかった。地獄の悪魔のように、わずかな残り
物をめぐって生きを荒げて争った。だが彼らは、どんなに貧しくても、同郷学生
会の会員になることができた。一面ジャガイモ畑しかない小さな集落の出身でも、
学生会はあった。夜になるとグループごとに煙たい居酒屋をはしごして、同胞を
11
英語版もこの語はドイツ語を用いている。
93
探し、グループの名のもとに会員を集めた。それは侮辱に対する復讐のためだっ
たり、自然哲学のささいな問題に関する議論のためだったり、一緒に酒に酔いた
いからだったりした。
フリッツはシュレーベンに住むこともできたが、イェーナからは二時間離れて
いた。最初におばのヨハンナ・エリーザベトのもとに下宿した。家賃は請求され
なかった。ヨハンナは、フリッツをめったに見ないことを憂いていた。「詩人と
一緒にテーブルにつくことをとっても楽しみにしていたのよ。若い時は自分で
も詩を書いていたんだから。」だがフリッツは最初の冬、不相応に多くの時間を、
名高い歴史学の教授シラーと過ごさねばならなかった。「おばさん、シラーは病
気なんだ。胸を悪くしている。学生が代わる代わる看病しているんだ。」
「フリッツ、あなた看病の仕方なんて知らないでしょ。」
「だって、シラーはとても偉い人だから。」
「偉い人の看病が一番やっかいなのよ。」
医学部教授で宮廷顧問間のヨハン・シュタークが呼ばれた。彼はたいていの同
僚と同じく、ブラウン医学の信奉者だった。エジンバラのブラウン博士は、瀉血
をほどこし運動させるかわりに、十分な性生活を営み、新鮮な空気を吸うことを
指示することで多くの患者を治療した。生きていることは自然な状態ではなく、
体調を崩さないためには、刺激を一定に保つ必要がある。興奮が必要な時はアル
コールを用い、鎮静が必要なときには阿片を用いれば良い、というのがブラウン
の説であった。
シラーはブラウンの理論を信じていたが、アルコールも阿片も摂取せずに、ベッ
ドから体を起こし、学生たちに、紙とインクを用意して口述を筆記するよう求め
た。
「どんな目的のために世界史を学ぶのか」
1791 年 1 月、フリッツは病室のシーツを外し、尊敬する教授がゆっくりと慎
重に細い足を床に踏み出す様子を眺めていた。その一年後、1792 年 1 月 12、批評
家フリードリヒ・シュレーゲルは、当時自分よりも名声のあった兄、間もなく文
学と美学の教授になるアウグスト・ヴィルヘルムに、ライプツィヒで知り合った
若者について報告している。フリードリヒは、兄が知らない面白い人物と知り合
12
英語は同じ年、つまり 1791 年、ドイツ語は一年後の 1792 年となっている。実際は
1792 年である。
94
いになれたことに歓喜した。「運命が一人の若者を僕の手にさずけてくれました。
彼は何にでもなれる人です・・・すぐに彼の心の聖域を私に打ち明けてくれまし
た・・・細身で体つきは良く、黒い目でとても繊細な表情をしています。何か美
しいものについて熱意をもって語るとき、それは筆舌に尽くしがたいほどの熱意
で、見事な表現を用いて語ります。荒々しいまでの熱意で、最初の何日間は、夜
ごとに自分の意見を僕に聞かせました。この世に悪は存在せず、全てが再び黄金
時代に近づいているのだと。彼がまだ同じ意見を持ち続けているかどうかはわか
りません。名前は、フォン・ハルデンベルクです。」
第九章 学生生活での不運
「僕は決して忘れることはないだろう」イェーナでの学生生活が終わりに近づ
いた五月の早朝のことを思い返し、フリッツは言った。冷たい春風の吹く中、お
ばのヨハンナ・エリーザベトが肺炎で亡くなったのだ。その春風をシラー教授は
かろうじて生き延びた。フリッツはシュースター通り四番の二階に下宿しており、
部屋を遠縁のいとことシェアしていた。だがフリッツが半裸でベッドから引きず
り出されたとき、いとこはどこにいたのだろう。
「彼とその他何人かは、学生牢にいたのさ。」訪問客が言った。友人ではなく、
フリッツがあまり知らない男だった。「君たちは昨晩、みんなで出かけただろ。」
「いかにも。でもそしたらなぜ僕だけみんなと一緒に暗い穴倉にいなかったん
だ。
」
「君は他よりも優れた方向感覚を持っていて捕まえられなかったのさ。でも今
は僕と一緒に来てくれ。君が必要なんだ。」
フリッツは目を大きく開いた。「君はディートハイムだろ。医学部の。」
「いや、僕はディートマーラーだ。起きろ。シャツと上着を着るんだ。」
「君を講義で見たことがある。」フリッツはそう言って水差しを掴んだ。「歌を
作っただろ。
『遠い異国の乙女たち』」
「僕は音楽が好きなんだ。来いよ。時間がないんだ。」
イェーナは岩山のふもとの盆地に位置し、街から出るには長いこと山登りをし
なくてはならない。まだ早朝の四時だったが、ガルゲンベルクに上り始めた時、
まだ動きの無い小さな街全体が、初夏の熱気で湯気を発しているのを二人は感じ
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た。空はすっかり晴れてはいなかったが、雲は薄くなり、やがて青白い空へと変
わってゆき、空は高さを増していった。
フリッツは徐々に理解した。昨夜、けんかか、少なくとも口論があったに違い
ない。だがフリッツはなにも覚えていない。禁固刑をまぬがれない決闘が行われ
る場合、医者が必要になる。でも信頼できる医者を呼ぶことができなかったとし
たら、仕方なく医学部の学生が呼ばれることになる。
「僕が審判になったの?」フリッツは尋ねた。
「その通り。
」
イェーナでの決闘の審判は、不可能な判定を下さなければいけない。学生の剣
は、三角錘で先が丸まっていて、シュレーガーと呼ばれていた。だから深い三角
の傷だけが得点になる。
「誰と誰が闘うんだ。」
「ヨーゼフ・ベック。彼は僕に、闘わなければいけないというメモをよこした。
誰となのか、なぜなのかは書いていない。時間と場所だけだ。」
「そんな奴、知らないな。」
「君の部屋のすぐ近くじゃないか。」
「ヨーゼフには素晴らしい友人がいていいなあ。」
二人は霧を抜け出した。夜露はかわき始めた。カブの苗が植えられた畑の畝を
歩いて行った。乾き、ひびわれた黄土色の地面の上で、シャツのすそをはためか
せ、礼儀もわざも無く、二人の学生が激しく打ち合っていた。
「僕らが来る前に始めやがった。」ディートマーラーが言った。
「走れ!」
畑を横切ると、決闘をしているうちの一人が闘うのをやめ、反対の畝へと逃げ
出した。取り残された相手はシュレーガーを落とし、くずおれた。右手は血に染
まっていた。切り落とされていたかもしれない。
「いや、指二本だけだ。」ディートマーラーはかがんで、雑草が生え始めた地
面をくまなく探して言った。彼は皮がむけたように赤く血に濡れた指を集めた。
一本は第一関節しかなく、もう一本は金の指輪をしていた。
「指を口に入れてくれ。」ディートマーラーが言った。「温かくしておけば、戻っ
てまた縫い合わせられるかもしれない。」
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口の中の一本半の指と重い指輪の感触をフリッツは決して忘れることはないだ
ろう。指輪は滑らかで硬く、指は柔らかかった。
「あらゆる自然は一つの統一体なんだ。」フリッツはつぶやいた。
と同時に、(ディートマーラーではなく、フリッツ自身の良心の指図で)うな
り声をあげて嘔吐するヨーゼフ・ベックの右手を抱えて持ち上げた。前腕を高く
保ち、血が手の甲の血管から流れないようにするために。いつの間にか空は、山々
の頂きの上一面に晴れ渡り、ひばりが高く飛んでいた。近くの草地では、ウサギ
が草を食べに姿を見せた。
「親指さえ残っていれば、手を使うことはできるさ。」ディートマーラーが言っ
た。土と血の混ざった唾液を飲み込むことができないフリッツは考えた。「医者
としての彼にとっては、全てが面白いことなんだろう。だけど僕は哲学者だ。僕
の役には立たない。
」
彼らは、運良く山を下りて来た木こりの手押し車でイェーナに戻って来た。普
段は自分に直接関係のないことは何も気に留めない木こりでさえ、哀れなベック
の叫び、うめく声に心を打たれた。「もしかして彼は歌手なのかい?」
「まっすぐ解剖所へ行ってください。」ディートマーラーが頼んだ。「開いてい
れば、針とガットを調達できるかもしれない。」ディートマーラーもまたブラウ
ン医学の信奉者で、大量の蒸留酒と阿片を患者に飲ませたくてしかたなかったの
だが、どちらも買うにはまだ早い時間だった。
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