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「法の支配」論と「法律による行政の原理」

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「法の支配」論と「法律による行政の原理」
「法の支配」論と「法律による行政の原理」
堀 内 健 志
1 序
2 「法の支配」論による伝統的行政法学批判
3 近年における「法の支配」論の多義性
4 現代日本行政法学の構造
5 結び
1 序
a周知のようにわが国の行政法理論は、明治期に確立し、戦後を経て今日に至るまで確固たる基盤
を形成してきたが、二一世紀への転換期を迎えて、大きく動揺を見せているごとくである。1 このこ
とは、ホピュラーな行政法の入門書にも現れている。平成の大規模な行政改革を反映して改訂版が頻
繁に補訂を重ねるなかで、その構成にも絶えず工夫が施されている。
例えば、成田頼明ほか著『現代行政法』の[第五版](有斐閣、2002 年)では、従来の伝統的行
政法学の構成には見られなかった「情報公開」や「個人情報保護」を「第3編行政情報」としてその
なかで扱うほか、
「行政手続」については「第4編行政手続の法」としてやはり新たな編を設けている。
2
また、今村成和著・畠山武道補訂『行政法入門』の[第7版](有斐閣、2004 年)では、
「行政手続」
や「行政情報の公開」、「個人情報保護」を通常「行政作用法」で扱う「行政立法」「行政行為」「行政
指導」などと並べて「行政はどのようにして行われるか」という章で解説している。3
bかような近年のわが国行政法学の基本的性格に変化の兆しがあることを配慮したつぎのごとき藤
田宙靖教授の発言が注目される。
「…行政法そして行政法理論は、いろいろな国において、過去、その時代ごとの政治・社会上の諸
事情を背景として、だんだんと発展し積み重ねられてきたものですから、とうぜんのこととして、国
によってその内容がさまざまにちがっています。たとえば、のちに見るような『法律による行政の原
理』を、行政法という太陽系をつくりあげているもっとも基本的な法則と考えるドイツのばあいと、
『法
の支配(rule of law)』ないし『適正な法手続(due process of law)の原則』をもっとも重要な法則
だと考えるイギリスやアメリカのばあいとでは、考え方にかなりのちがいがあり、どっちの考え方を
75
とるのかによって、一見おなじように見える法律の規定の意味も、ずいぶんちがったものとなりえま
す。そしてわが国の行政法のばあいには、明治維新以後の沿革からして、はじめはドイツ法の強い影
響を受け、しかし、第二次世界大戦後、とりわけアメリカ法の影響をもいろいろなかたちで受けてい
る、といった事情がありますから、現在、行政法理論の内容は、すこぶる複雑なものとなっていると
いわざるをえないのです。正直いって、じつは、わが国の行政法理論ひいては行政法の基本的な構造
はどうなっているのか、ということについても、もっと根本的なところで学者の間にいろいろ争いが
あるというのが、現実なのです。」4
「この書物では、ともかくもまず、先ほど見たような事情があるにもかかわらず、こんにちでもな
お基本的にはわが国の行政法理論の骨格をかたちづくっていると考えられる、ドイツ行政法に由来す
る『法律による行政の原理』を中心とした理論体系のあらましを説明してみたいと思います。そして
その上で、しかし、こういったような伝統的な理論体系は、こんにちの行政の現状にてらしてどうい
った問題に直面し、またどのような修正を迫られているか、ということを明らかにしてゆきたいと思
います。」5
ここに、今日の行政法学の現状が端的に指摘されていると言える。が、そこで述べられている「法
の支配」と「法律による行政の原理」との関連はどのようなものであるのか、「どっちの考え方をと
るのか」ということなのか、あるいはまた、「どのような修正を迫られているか」ということなのか。
このへんのところは、なおあまり究明されてきてはいないように見える。そこで、以下この小稿では
最近の学説の動向を検討しながら若干の考察をすることにしたい。
2 「法の支配」論による伝統的行政法学批判
a行政法学を「法の支配」論の視点から見直そうとする研究は、もちろん最近始まったということ
ではなく、戦後かなり早くから行われてきたものである。が、本稿はこうした諸々の研究に深く立ち
入ることはできない。従来の議論、論争については今村成和教授による簡潔な整理があるので、これ
で大体の経緯を知ることができる。6
「法治行政と法の支配」の議論が噛み合っていないことを辻・柳瀬論争が明らかにしたが、その後、
そして今日の議論においてもなお問題が解決されたわけではなく、個々の論者が自己の理想的憲法像
を描き、その根拠を融通無碍な漠然とした「法の支配」論のなかに読み込んで、伝統的行政法学を批
判しているに過ぎない状況が続いているごとくである。
伝統的「法治主義」の範囲と内容について、例えば法律の「全部留保」説が「法の支配」からの帰
結であるとするが、その場合、行政指導の根拠として「組織法」的授権なども含める趣旨なのか、また、
実質的法治主義のもとでも「法律による権利・義務の創出」はなんら否定されてはいない。「法の支
配」論が、伝統的行政法学が扱った論法を、精確なロジックを見極めることなく、7 これらをすべか
らく「明治憲法的法治主義の残映」、「法の支配を根幹とする新しい憲法の下においても、あいかわら
ず明治憲法を象徴する法治行政の原理が頑強に存続している現状」であると決めつけて、「法の支配」
を成り立たしめている現実の「国家生活」を維持・形成する局面に目を向けない議論を繰り返すだけ
76
では、今後も「どれだけの変化をみせたか」を期待することは難しい。 b近年、「法の支配」論の視点から、伝統的「法律による行政の原理」を否定し、新たな「法律に
基づく行政の原理」を提言されるのは、大浜啓吉教授である。8
提言の内容はつぎのようなものである。 (1)行政は立法の授権なしには国民の権利利益に影響を与える決定をなし得ない(委任立法禁止の
原則)。
他方、行政法の立法(法案策定)過程において行政は政策立案=法案作成活動に携わるが、そこで
は、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」に対して「最大の尊重」を払う必要がある(実
体的デュー・プロセスの法理)。
(2)行政法の執行過程においては、実体法レベルでは「行政活動の法適合性の法理」が働き、手続
法レベルでは「手続的デュー・プロセスの法理」が働く。
(3)行政法の裁判過程においては、(1)(2)の要件を遵守したかどうか(すなわち、立法及び執
行過程の瑕疵)が審査される(裁判救済の法理)。9
このような構成からなる「法律の基づく行政の原理」は、「立憲君主制国家から国民主権国家に変
わった以上、旧い概念は徹底的に批判して廃棄する必要」があり、「法律による行政の原理」は「国
民主権の日本国憲法の下ではほとんど重要な意義をもたない。もちろん、この原理が立憲君主制の下
で、一定の進歩的な役割を果たしたことは確かであるが、それも一定の権利についての自由主義的機
能に限られ、民主制の要素が不十分であった…」。「…この原理のコンセプトに民主主義思想を発想が
ないのも致し方ないであろう。」10
そして、「行政法における『法の支配』の強調は、立憲君主制を基礎にした行政法の基本原理との
断絶を志向」するものであるが、従来この「法の支配」を日本国憲法が採用していることを指摘する
論者もこれが「行政法上どのような固有の意義を持ちうるのかについてはほとんど言及してこなかっ
た」のである。11
cさて、こうした大浜教授の提言は、「法の支配」論に立脚した新しい行政法理論の構築のために
大いに注目に値するものであると言わなくてはなるまい。今日日本国憲法の下、伝統的な行政法学が
そのままの形で良いはずはなく、再検討されなくてはならない。もっとも、より厳密に見ると、つぎ
のような異なる立場からの疑問もまた指摘されえよう。
第一に、これは極く一般的な公法学上の基礎概念に関わるものであるが、ここではとりわけ重要な
論議が必要と思われるので指摘しておこう。それは、「国民主権」の概念の用法についてである。「立
憲君主制国家から国民主権国家に変わった」ことから、
どのようなことが法論理的に帰結されるのか。
わが国の通説的見解は、この点かなり曖昧で、ムード的な説明が多い。君主主権国家においては、確
かに国家権力の正当性の源が君主であると同時に君主自身が国家権力をみずから行使しうる存在であ
った。が、国民主権国家においては、あらゆる国家権力の正当性の源が国民に発しているということ
が言えても、この国民自身が国家権力をみずから行使しうる存在ではありえない。源となっている国
民とは個々の具体的人間ではなく、抽象的な観念体にすぎない。
従って、具体的な国家権力の行使者は、
憲法の定めに応じて、例えば、人民(有権者団)であったり、代表議会であったり、政府であったり
77
するのである。「…主権者の意思たる法律を個々の主権者たる私人に投げ返すのであるから、当該私
人にはたえず法律の執行過程の適法性を確認する手だて(権利)が必要なのである」12 と言う場合に、
主権の所在が私人、国会、執行のいずれにあるのか浮遊しているごとくである。
第二に、「法律による行政の原理」には自由主義的機能があるが、民主制の要素が不十分であり、
採用できないとされるが、その「民主制」でなにを内容として読み込むのか、また、日本国憲法は
「自由主義」を排して「民主制」を採用したのかどうかである。民主主義の定義には、いくつかあるが、
日本国憲法の前文第一段落では、かの有名なリンカーン流の「人民の、人民による、人民のための政治」
が原則として採用され、但し、この第二要件が、「代表者による行使」に修正されていることがわか
る。第一要件は「その権威が国民に由来する」という「国民主権」原理を述べている。日本国憲法は、
純粋な直接民主制を採用せず、代表民主制を採っている。言われるごとくに、「法の支配」の原理が、
「市民社会と国家とを一元的に捉える考え方を基礎」13 としていて、民主制もかかる観念と調和的で
あるが、しかし、同時に「代表者に対する制限・統制」を不要にしたわけではないだろう。「自由主義」
確保機能は、立憲君主制においてのみ役割を持つのではない。民主制国家であればこそ少数弱者の「自
由」の確保のためにその国家権力の抑制が重要になるのである。
第三に、では「法の支配」の原理を「導きの糸として」14 提示された「法律に基づく行政の原理」
の内容は、どうであろうか。
まず、前述の(1)の「国民の権利利益に影響を与える決定」には立法の授権が必要であるとする
委任立法の禁止の原則は、その言葉通りの内容が、伝統学説でも語られていたものである。15
「立法(法案策定)」に携わる「行政」が憲法上の人権を尊重しなくてはならぬこと、違憲立法審査
権を採用するわが国の現代憲法上、当然のことである。
つぎに、(2)の実体法レベルでの「行政活動の法適合性」は、先にも言及したが、「法律が行政に
対して権利義務関係の形成を命じている」ことから、かかる「法律の執行」が「法律に適合したもの」
でなくてはならない。が、これも伝統学説におけると違いはない。
ただ、(2)に含まれるもうひとつの手続法レベルでの「手続的デュー・プロセスの法理」は、ここ
では詳しく展開はできないが、伝統学説には見られない新しい法理といえる。が、これも「国民主権」
との関連で先に述べたように問題がないわけではない。また、「…行政法の執行過程においては、実
体法的法律関係のレベルでは行政庁に法律関係の形成に限って優越的な地位が与えられている反面、
手続的法律関係のレベルでは私人にある種の優越的な地位が与えられていると考えるべきである」と
されるが、その法的根拠は何か。代表制議会の制定した法律に違反する行政による法律執行に対して
は裁判的救済がなされるべき時に、なぜ私人の意思をそこに介入させることが必要なのかの、法理論
的根拠が求められるはずであろう。16
さらに、(3)の裁判救済の法理は、伝統学説において認められたものである。ここでは、違法性と
違憲性との両方が裁判救済の対象になることはわが国の現行実定憲法上当然である。
第四に、より基本的な問題としては、上述のごとき「法律に基づく行政の原理」がどのような「法
の支配」論に基づいていたのかということがある。というのも、大浜教授によれば、「行政法理論」
としては、「ダイシーの説いた古典的法の支配」ではなく、「その後の歴史的展開のなかで変容をきた
78
した」ものがベースになっているとされるからである。17 が、これについては章を改めて検討するこ
とにしよう。
3 近年における「法の支配」論の多義性
a戦後わが国の憲法論のなかに国民のために将来に向かって開かれている理想を「民主的」と称し
てかなり多義的に用いられる傾向が存したが、「民主制」にも様々な態様があること今日よく知られ
るに至っている。「法の支配」も、近年「法治国家」を消極的に評価しつつ、これとの対比で、より
積極的な意義を与えられて頻繁に語られるようになっている。18「法の支配」のグローバリゼーショ
ンという言い方も見られるようである。19
しかし、従来わが国公法学においては、「法の支配」論といえば、なによりもまずA.V.ダイシ
ーの理論 20 を想起し、この理論の内容を吟味しつつ、わが国の公法学と比較するというやり方が一
般的であった。ところが、近年の用法は、これとは違いかなり多義的である。なかんずく、
アメリカ法・
政治哲学の展開と結合して語られるものがあり、しかも、これらにおいてすら必ずしも一義的でもな
いごとくである。21 以下、伝統的行政法学との関連に注目しつつ、簡単に検討することにする。 b A. V. ダ イ シ ー に よ る と、 イ ギ リ ス の 憲 法 原 理 と し て、「 議 会 主 権(Supremacy of
Parliament)」と「法の支配(Rule of Law)」が存する。そしてこの後者は、(1)正式の法が、政府
の恣意を抑えて、これに優位すること、(2)common law が、市民だけでなく、行政に対しても司法
裁判所において適用される。法の前の平等、(3)権利保障は憲法典にあらかじめ列記することではな
く、裁判所における手続を通じて結果的に実現される、という内容を持つ。22
O.マイヤーの「法律の支配」論 23 とは、ルーツが異なることは言うまでもなく、
内容的にも、ここで、
政府の恣意を抑制することや「法律の優位」を読み取りうるぐらいで、あとは権利保障や裁判制度に
関する憲法上のあり方が掲げられているのである。A.V.ダイシーにあっては、もともと「イギリ
スに行政法なし」という根本原則のもとで書かれていたのであり、24 確かに 1914 年の第 8 版のこの
著書(及び同年の『法と世論』においても同じく)で当時の時代的要請を反映した国家任務の増大な
ど特別の法現象を「男らしい譲歩」によって認めたとしてもその根本には何ら変更はなかった。
c戦後のドイツ及びわが国において伝統的行政法学からの克服の試みが「形式的法治国から実質的
法治国へ」という形で行われたのは、25 一つには「法の支配」論を意識し、内容的に両者が共通する
面が少なくないことを論証するという意義があった。が、それは多く憲法的人権保障による裁判的救
済という側面に主力が注がれていて、「法律の支配」論の中核が否定されたことにはならなかったの
である。26
d「アメリカの憲法、行政法の教科書では、法の支配の概念について一章を割いたり格別の解説を
加えるという例は少ない」27 というが、今日の「法の支配」論は、結局古典的概念そのままではなく、
むしろ、かかってアメリカの議論に依拠するところが大きい。大浜教授によると、つぎのようである。
「…アメリカの場合、資本主義の高度の発展が巨大市場を生み出すとともに様々な社会問題を発生
せしめ、行政介入の必要性を余儀なくさせたが、そういう中から古典的『法の支配』の概念との格闘
79
を通して、現代社会にふさわしい行政法原理が誕生していったことが注目されるのである。」28
「…1920 年代の大繁栄は、大恐慌前のバブルにすぎなかったが、一転してコモン・ローに執着す
る保守主義者を勢いづかせ、最高裁も革新主義時代の規制立法を次々と違憲とした。しかし大恐慌の
勃発(1929 年)とその後のニューディール政策は、再び福祉国家の理念と行政法の必然性を確認す
ることになった。経済の劇的な崩壊は、規制なき市場の失敗に起因することを白日の下に曝した。連
邦政府は、証券取引委員会、連邦通信委員会、民間航空委員会、農業調整委員会、全国労働関係委員
会等々多くの行政機関を創設して資本市場の規制、農業の生産調整をはじめとする経済の重要な領域
に対して広汎な介入を行った。」29 このような状況のもとで、アメリカ行政法は古典的「法の支配」との格闘の中から生成したのであり、
「両者の衝突の際、憲法の根底に流れる『法の支配』の思想は、新しく誕生した『行政法理論』の中
にその生命を引き継いだのではないかと思われる」という。30
eしからば、その「行政法」のなかに組み込まれた「法の支配」とは、どのようなものであったか。
前述のファロンの理念型のなかで、とくにここでその中核となるのは、三番目のリーガル・プロセス
的理念型であるという。「ここでは、法の捉え方及び政府機関の役割について全く新しい視点がみら
れる。すなわち、(a)行政機関は単なる法執行機関ではなく政策形成(policy making)機能を持ち、
(b)裁判所は既存の法を機械的に適用するのではなく原理と政策(principle and policy)の議論を闘
わす場であり、とりわけ最高裁判所は時代のニーズ、人々の期待、価値観に敏感に反応して憲法上の
法理(constitutional doctorine)を打ち立てる役割を担うものとされる。(c)そして法(law)もただ
適用の機会を待って存在するだけの静態的なものとしてでなく、人民の法形成過程への積極的関わり
を組み込んだ動態的なものとして捉えられている。コモン・ローから行政法へという的確な時代転換
の認識に基づいて行政手続の重要性が指摘されている点も、この理論の行政法との親近性を示すもの
である。法の執行=適用の段階において、行政の専門性を発揮せしめつつ行政の決定過程を構造化し、
法の直接的適用者はもちろん間接的な利害関係者にも参加の機会を与えて『筋の通った討議と決定
(reasoned deliberation and decision)』の実現を保障することが重要であり、行政決定の正当性を付
与することにもなる。」31
このような立場からは、ほかの理念型からの諸帰結が批判的に評価されることになる。
例えば、歴史主義的理念型から導かれる「立法者意思の尊重」は法解釈の要素の一つにすぎない。
形式的理念型との関連では、「行政法の場合、刑事法と違って立法自体が行政の専門性、中立性、機
動性等の特質を生かすことを期待して積極的に裁量を与えることもあり、その意味で明確性の要請に
も限界があることである。」
「法の明確性は必ずしも法適用=執行の適正を担保するものではない」。
「動
態的に理解すべき」である。実定的理念型が「『法』に人間の行為に対する道徳的権威まで求めるの
は過多な要求である。とりわけ政策の実現を目標とする行政法に道徳性を持ち込む必要性はない。た
だ、道徳の中に専断的恣意的法律の定立及び執行の禁止を含めるのであれば、むしろこれを法の支配
の内容に取り込むべきである。その場合、道徳の語は避けるのが賢明であろう。」32
かかる立場からは、伝統的公法学上の「法律」の「一般性」も「理性」もその根拠を失う。「法律
における一般性の概念」は「市民社会の私的自治が機能した限りで有効性を持ち得たにすぎない。二
80
〇世紀の国家が市民社会に介入し富の再配分に関わるようになると、法律の一般性及び内容的真理性
はその前提を失い後退を余儀なくさせられた。社会的経済的変化と行政法の登場が、法律から『一般
性』と『内容的真理性』だけでなく、『財産と教養』ある階層を基盤とした『理性』さえ奪って(な
いしは根拠薄弱なものにして)しまったのである。つまり法律は理性による社会秩序の認識を公示し
たものではなく、社会における公共的問題を解決するために
『定立』された規範=道具にすぎない。『財
産と教養』ある階層の利益は、もはや理性の名の下に真理性を基礎付けることはできず社会の諸利益
の一つとして立法過程の一角を占めるにすぎなくなった。こうして法律の概念は行政法の登場ととも
に、もはや理性・道徳・正義を体現するものではなくなり、政策目的実現のための手段としての性格
を強めていくことになる。」33
かくて、ここでの「法の支配」は「専断的権力を抑制し個人の尊厳の侵害を阻止すること、つまり
消極的な自由を確保すること」にその本質があることになる。「政治権力を法で縛り、政治は事前に
定立されたルールによって行動するという原則を確立することは」、「法の支配」の原点であり、より
具体的には「法律の遡及適用、突然のあるいは秘密裡の内容変更あるいは個人的利得、復讐、えこひ
いき等の目的で行われる権力行使」が「法の支配」に反することは明らかである。「とりわけ裁判所の
法適用作用」においては、「法の支配」は「専断的権力の一切の形態を排除し、公正で厳格な手続の
下に法律にのみ服する。」また、「法の支配」は「個人の人生設計が実現できるような基盤を提供する
ものでなければならない。そのためには、人々が自らの行為を法的結果を前もって知り、安心して事
にあたれるようにする必要がある。信頼できる安定した法的枠組みの存在こそ個人の自由を保障する
ものといえる。」また、「法の支配」は「究極的には人間の尊厳を確保するためにある。」34
「法の支配」に適合する行政法と民主制との関係については、まず「…行政法の場合は議会が政策
の根幹部分を決定し、残余の部分は行政に委ねられる場合も多いので、委任事項については明確且つ
可能な限り詳細であることが必要である。」が、「もちろん法律としての一般性(generality)、予測
可能性(predictability)、
遵守可能性(performability)の要素は備えていなければならない。しかし、
これらの要素はフラーの説いた意味(彼は法律が直接人民に適用されることを念頭に置いている)と
同じではない」という。さらに、「政策決定の一部を行政に行わせる以上、議会は行政の決定プロセ
スが公正に行われることを保障する必要がある。議会の意思決定の正当性は人民意思の代表者の決定
である点にあるが、行政の意思決定の正当性は法律の執行という点にしかない。したがって、そのこ
とを保障するために、議会は行政決定の枠組み(regular process)を法律で定める以外にない。こ
れが行政手続法であり、その根底にはデュー・プロセスの思想がある。」そして、この「行政過程に
おける政策形成は、立法過程における立法事実よりもより詳細な根拠のある事実によって支えられて
いる必要があ」り、この「行政的立法事実」は、
「裁判所における適法性判断の資料となる」。さらに、
「裁判所の審査は当該決定が法律の枠内のものであり、適正な手続を踏んで行われたかどうかを審査
するのであって政策の是非を論ずるのではない。ただし、裁判所は『全体として記録』に基づいて当
該決定が筋の通ったものであるかどうかを審査するのである。」かくて、「法の支配」は「それ自体に
実体的価値を内蔵するものではない。民主主義もまた同様である。価値自体は社会に生活する人々が
創造するもの」であり、「法の支配」も「民主主義もそのための基礎的ルールを提供するにすぎない。
81
その意味で、両者はよき社会を作るための手段であり装置にすぎない。」35
最後に、これら「法の支配」が行政法理論に与える含意をまとめてつぎのように締めくくっている。
少し長文になるが引用しておこう。 「第一に、『法の支配』は人間の尊厳と自由の保障を狙いとする原理である。したがって立法にあた
っては『生命、自由、幸福追求』の価値を損なわないよう最大限に尊重することが必要である。この
意味で、『法の支配』においては立法部が『正しい優れた法』を発見・創造することが当然の前提に
なっている。わが国の場合、内閣が大半の法案を作成するのであるから、立法に対する責任はアメリ
カよりはるかに重い。立法学の確立とこれに対する行政法学の貢献が望まれる。第二に、『法の支配』
と法執行過程については、アメリカの大統領制とわが国の議院内閣制は共に行政が政策形成機能を担
う点で共通している。行政法の特色は、行政が自らのイニシアティブで法律を『執行』することを義
務づけられている点にある。民法や刑法のような司法法の場合には、裁判所は『法』を機械的に適用
すれば事足りる。しかし行政法の場合には、法の適用を受ける当事者又は利害関係人は積極的に法律
の『執行過程』に参加することが要求される。つまり主権者の意思たる法律を個々の主権者たる私人
に向けて投げ返すのであるから、私人としては当該執行が真に法律の執行といえるのかを確認する権
利が本来的に与えられているのである 36(デュー・プロセスの法理)。第三に、『法の支配』は裁判
所に対して『人間の尊厳と自由』の保障機関であることを命ずるが、行政法の扱う政策問題について
は政策自体の当否ではなく、当該決定が実体・手続の両面から最終的に適法といえるかどうかを審査
する権限を与えるにとどまる。」37
f以上が、大浜教授が唱えられる、今日の新しい「法の支配」論に依拠した行政法学の概略であり、
またそれにふさわしい憲法の理解である。結論的には共感する部分が少なくなく、また伝統的行政法
を克服して「法の支配」論に立脚した新しい行政法学を構築せんとするエネルギーを感じさせ大いに
傾聴すべき内容になっていることは否定できない。
ただ、以下ではその意義を充分に認めつつも、その立論の過程で見られる法理論的概念の用いられ
方や「法の支配」論の多義的性格などについての問題点をさらに指摘しつつ、若干の検討を加えてお
くことにする。
まず第一点は、新しい「法の支配」の中核となるリーガル・プロセス理念型について、「法」の動
態的な捉え方、行政機関の政策形成過程としての「全く新しい視点」が紹介されているが、このよう
な法動態学的視点については、今日重要であることはその通りであるが、かかる視点は、H.ケルゼ
ンに代表される純粋法学によってつとにより理論的に提示されているところであり、38「全く新しい
視点」ではない。伝統的行政法学にあっても、かかる視点を充分に取り入れつつ再構成されうるもの
である。
歴史主義的理念型へ向けられる「立法者意思の尊重は法解釈の要素の一つにすぎない」という批判
についても、法適用=執行過程で事実的、個別的状況を配慮することは当然であり、ただ、
「立法者意思」
が単に「法解釈の要素の一つにすぎない」とまで断言することはどうであろうか。そこには、諸利益
間の比較衡量に際して、要素の軽重、原則と例外ということがありえよう。39
第二点として、
「法律」概念が 行政法の登場とともに、
その「一般性」の前提を失い、また、理性・道徳・
82
正義を体現するものではなくなり、政策目的実現のための手段、道具にすぎないという性格を強める
とされていることについてである。この種の議論は、ある意味でその通りであって、実はかかる立論
は、すでにフランス憲法学 40 やドイツ公法学 41 においてかなり早くから指摘されてきたものである。
が、「法律の一般性」やそこに含まれる「理性」というのは、そのような「財産と教養」ある階層を
前提としなくとも、現代社会における公正さ、合理的平等原理としてもなお排除し得ないものを含ん
でいるのではないだろうか。ある一つの「歴史的観念」はしかし、それが実定法論上その歴史的背景
から離れても独自の機能を持ち続けることがある。
第三点として、これは基礎的な問題であるが、立法部が『正しい優れた法』を発見・創造し、内閣
が大半の法案を作成するということと、前述の「議会の定立する法律は道徳ではなく政策の表明でし
かない」とか、「アメリカの大統領制とわが国の議院内閣制は共に行政が政策形成機能を担う点で共
通している」とかいうのと、どのような関連にあるのか、厳密にはよく理解できないところがあるこ
とを指摘しておきたい。42 憲法の「生命、自由、幸福追求」という価値を損なわない「正しい法」の
定立と行政の「政策」形成とはどのようにして別物だと区別できるのであろうか。また、ここで「行
政」といっているのは内閣のいわゆる「執政権」次元のことなのか、それとも行政各部をも含む「法
律執行」のことを考えればよいのか、はっきりわからないのである。
第四点は、「法の支配」はそれ自体実体的価値を内蔵するものではないとすることに関する。実体
的理念型が「法」に人間の行為に対する道徳的権威まで求めることを批判する。確かに、
「『法の支配』
は人間の尊厳と自由の保障を狙いとする原理である」とはいうものの、それは、「個人の人生設計が
実現できるような基盤を提供する」にすぎない。消極的な自由の確保であるという。道徳と政策との
峻別が強調される。「行政法理論の立場からは、議会の定立する法律は道徳ではなく政策の表明でし
かない。」これは民主制のあり方とも関連するのだという。価値自体は社会に生活する人々が創出す
るものであるという。43
このような立場は、結果的に一九世紀の西欧自由主義的国家観に重なるところがあるようにも受け
取られうる。「信頼できる安定した法的枠組みの存在こそ個人の自由を保障するもの」とされ、それ
が個人の自由領域に立ち入らないからである。「法の支配」がそのようなものと理解されることには、
別段異論は存しない。ただ、今日果たして「法の支配」論はそのようなもので満足されるのであろ
うか。例えば、「人間の尊厳」という価値を出発点とする佐藤幸治教授の「法の支配」論にあっては、
44 ここから「自己決定権」が導かれると同時に、具体的な国家の統治組織の個々のあり方もそれに適
合するように構成されなくてはならない。
「法の支配」
原理もかかる視点から意味づけられるのであり、
価値論をぬきには成り立たないものであった。このように、「法の支配」を価値中立的な手段・装置
とみるか或いは人々に実体的な行動指針を与える価値秩序とみるかは大きな違いであろう。45
g最後に、もちろん「法の支配」の多義性とはいっても、共通点が存しないわけではない。それは、
結局のところ「政府の恣意、専断性を抑制すること」である。この要請はA.V.ダイシーの「法の
支配」論にもあったし、その後の「人間の尊厳」を掲げる憲法論でも、またアメリカ行政法において
もそれは変わりはない。実は、もっと言えば伝統的行政法学にあってもかかる要請は、すでに強調さ
れこそすれ、否定されてはいなかったのである。「今や世界に冠たる資本主義国家に成長し、成熟し
83
た市民も確実に育ちつつある。二一世紀の世界に通用する行政法理論を構築するためにも既存の理論
を根本から考え直す時期にきている」46 との指摘は、もっともであり、かかる意気込みをわが国の公
法学は絶えず忘れてはならないだろう。しかし、今日伝統的行政法学のすべてが否定されてそこに全
く新しい行政法学がそれに取って代わるというところまでには、至っていないのではなかろうか。
4 現代日本行政法学の構造
a周知のごとく、わが国の行政法学は戦前の明治憲法期に西欧大陸、主としてドイツのオットー・
マイヤーの行政法学に依拠したものであった。そして、この伝統的行政法学は戦後日本国憲法のもと
でも基本的に受け継がれ、今日に至っている。彼の「法律の支配」論がより一般的に「法律による行
政の原理」として行政法学の中心的位置を占めてきているのである。47
しかし、他方においては戦後の行政法学はアメリカ法の影響を強く受けることとなり、従来見られ
なかった諸制度が導入されてきたのである。各種の審議会、行政委員会や聴聞、公聴会、住民参加な
どがその例である。とくに憲法 31 条は、大陸法系の罪刑法定主義のほかに、英米法系の適正法定手
続(due process of law)の保障を採用して、この考え方が行政法学にも反映されることになってい
るのである。
bそして、これらの両法制は、相互に異なるルーツのものでかつ内容的にも相異なるものであるが、
両者が、理論的にはなお論争的問題を孕んではいるものの、48 現実的にはお互いに排斥し合うものば
かりというよりもむしろ相補い合う関係に立って混合して今日のわが国行政法学の全体を構成してい
るといえるのではないだろうか。
ちなみに、稿者は行政法の全体の体系をつぎのように構成している。
Ⅰ行政法基礎理論
Ⅱ内部行政法
Ⅲ外部行政法
これらのうち、まず「行政法の基礎理論」では、導入部的事柄に続き、「行政法」とは何かという
ことを扱うが、中味は、
「行政」概念、
「法律による行政」の原理とその現代国家的変容、
「公法と私法」、
「行政法」の「法関係」の諸相(特別権力関係論を含む)、行政法源などとなっている。
つぎに、「内部行政法」では、「行政組織法」と「公務員法」とが展開されるが、これは行政内部を
規律する法規範のなかを「組織法・行態法」の区別に従って編成しているからである。近年の行政改
革、省庁の再編、地方分権一括法などもここで展開される。
「外部行政法」は、「行政過程法」と「行政作用法」とから成る。「行政作用法」では、中心は伝統
的行政行為論であるが、さらに「行政立法」のところで「委任立法」の限界といった問題も当然扱わ
れる。「行政指導」の法的性格にも言及される。「行政過程法」は一連の行政活動をいわば動態論的に
把握して様々の局面を分説しようとするものであり、まず伝統的な「行政争訟」
(不服申立、行政訴訟)、
「国家賠償」、「損失補償」などは広義の「行政救済法」としてここに入る。そして、もう一つ、従来
のいわば事後救済を中心としてきた体系にはなかった行政処分が行われる前の、事前の適正な手続を
84
確保するための「行政手続法」がここに加わる。「情報公開法」もかかる行政活動の透明化・公正化
という意味ではここで扱うことができる。「個人情報保護法」もここで展開できる。
c「行政法学」が一つの学問分野として成り立つためには、その分野の諸々の法規範群が骨格にお
いて完結した体系を成している必要がある。うえに述べた稿者の構成はそれを意識している。このな
かには、西欧大陸法系のものもあれば、英米法系のものも含まれているが、学問の体系にとりこのこ
とは何ら支障になることはない。今日の行政法の法現象を体系的・網羅的に展開できることが望まし
いのである。
dでは、「法律による行政の原理」じしんについてはどうなのか。「法律に基づく行政の原則」に含
まれる委任立法禁止の原則、憲法価値の保護を含む実体的デュー・プロセスの法理、手続的デュー・
プロセスの法理、違憲審査制を含む裁判救済の法理などは、伝統学説にあってもその後の憲法的展開
のなかで自らの中に(またはその周辺に)それぞれ組み込み、補充して今日に至っているといってよ
い。ただ、伝統的行政法学、とくに「法律による行政の原理」についてこれを消極的に評価する最大
の理由は、おそらくこの行政法学がその理論的前提として、「国家」「行政」のアプリオリな存在を認
めることにあるのではなかろうか。そこで、この点についてはつぎのごとき認識を披瀝しておくこと
にしたい。
まず、「国家」とは何か、これはそもそも国家学の解き難い難問である。これが解決しないと公法
学を語れないとなるとこれ以上進まない。大抵は従ってこれをとばして具体的問題に取り組むのが一
般的である。が、それでも「国家」が登場せざるをえないことがしばしばある。はたして、「法律に
基づく行政の原理」論は、「国家」の存在を否定するのであろうか。かりに国家権力の抑制が必要で
あると説かれる場合、その抑制される国家権力は憲法学上どこからどのようにして形成されるのか。
それとも民主制のもと国民による自律社会においては、専断的、恣意的国家権力ははじめから存在し
ないのか。もし、いずれにしても国家権力が抑制さるべく、存在するならば、それが「国民」に対峙
する「国家」を意味することになる。
「国家=法」という立場に立てば、法学において「法」のまえに「国家」は存しえない。が、その「法」
と「法律」とは同じでなく、
「法律に基づく行政の原理」でいう「法律」のまえになおさまざまの「法」
制度が存しうる。権力分立の原理や議院内閣制を規定する憲法規範も存するのである。 つぎに、「行政」について言えば、君主制であれ民主制であれ、また議会支配制下の憲法体制にお
いてすら、「行政」府は必要的に存置される。「議会」は本来審議・議決機関であり、これじしんは執
行機関ではない。「議会」を執行機関にしたらどうかといっても、もしそのような機能をこれに与え
るならば、これはもはや「議会」とは言わない。「行政」という観念には、その広義、狭義さまざま
ありえても、ぎりぎりのところ言葉の約束がある。ある事柄が発生して、これに対する対応をどのよ
うにすべきか、現行制度のままで何らかの処理ができればそうする。が、国家的に重要でこれはやは
り議会で審議・議決すべきものならば「法律」を制定する必要がある。このような日常の絶えず活動
しているよろずうけたまわりの場所こそ「行政」府なのであり、これを「議会」と称することは言葉
として無理がある。かような意味において、近代憲法上の「行政」が絶対君主制時代の遺物であると
か、国家主義的であるということは、当たらない。そして、このような「行政」と「立法」との「法
85
関係」の諸相を明らかにすべく、この点今日においてもかなり詳細な議論が見られる「法律による行
政の原理」を再構成することは、イデオロギー的に絶対君主制や立憲君主制を崇拝することとは何ら
関係がないことなのである。もともと国家機能学は、諸機関と諸機能とが、現実機能的にどのように
組み立てられるべきかという問題なのであって、例えば民主集中制ではその全権力行使を理想的盲目
的に信頼すべしという空論を唱える場所ではないはずである。49
50
5 結び
a「法律による行政の原理」は、君主制原理のもと君主の固有の権威を背景とする「行政」の権限
を制約するという一つの歴史的背景のもと形成された産物であることは否定できない。
bが、今日の民主制憲法のもとにおいても、国家権力の恣意、専断を抑制する原理として妥当性を
有する。これが実定法上の原理であるということの意味である。
c「法の支配」論は一九−二〇世紀にかけてイギリスのA.V.ダイシーによって唱えられた憲法
理論である。ここから、多様な方向へ理論が発展していった。
dしかし、これが行政法理論として今日語られているのは、全く別のアメリカ資本主義社会におけ
る行政権の専断的行使を抑制するという意味を持っている。そして、この「行政権の専断的行使の抑
制」の必要性じしんは、君主制であろうが民主制であろうが異なるところがない。これが実定法上の
原理である。
e憲法上の諸々の法制度はいずれも歴史的産物にほかならない。その時々の背景をもって成立した
ものである。従って、かかる歴史的事情をぬきにしては説明できない事柄を含むものである。しかし、
後の国家が同じ名の付く法制度を採用しているとき、それは以前の歴史的産物そのものと必ずしも同
様のものであるということにはならない。異なる国家制度のもとでも、なおそこに合理的必要性があ
ってアレンジを伴いながらも同名の法制度が採用され、また法理論として定着することになるのであ
る。 f我々が、「法律による行政の原理」を行政法学で語るとき、それはいまや君主制のそれをイメイ
ジしてはいない。また、「法の支配」論と聞いて、まずはダイシーを想起すべきであるが、現代国家
においては、それのことではないし、この言葉はさらに多様に用いられる。もちろん、この新しい意
味合いでかかる原理を語る場合には、その旨の注記が必要である。さもないと、論者のかたるその人
の言う「法の支配」論に陥りかねない。
g稿者は、以上のごとき思考の帰結としては、わが国の現代行政法学の構造は、西欧大陸法と英米
法との合体混合型であり、それが日本行政法学の現状であると考える。「法律による行政の原理」を
中心としつつ、その周辺には憲法上の諸原理からくる修正が施されている。英米法的な適正手続から
くる重要な補充を伴っている。これは「法律に基づく行政の原理」の諸要素の一つ一つにも対応する
ものを含んでいることになる。ただ、前述のごとく「国家」「行政」についての認識には発想の違い
がある。わが国の公法学は、一般法学においては純粋法学などを中心に今日なお少数ながら堅実な研
究成果が見られるが、特別法学においては立憲主義についての比較法研究として圧倒的多数の研究者
86
を抱えながら、ここから個別法学としてのわが国の実定法学へ、実定法制度論へと昇華させる思考は
実に乏しく、嘆かわしいものがある。
1 世紀転換期における「法律による行政」の原理の問題点については、堀内健志「世紀転換期における公法学
研究の複合性・管見」弘前大学『人文社会論叢(社会科学篇)』8号(2002 年)71 頁以下。 成田頼明ほか著『現代行政法』[第五版](有斐閣、2002 年)の目次参照。
2 今村成和著・畠山武道補訂『行政法入門』[第7版](有斐閣、2004 年)の目次参照。
3 もちろん、新しい行政法学の潮流は、これらの「行政手続」や「情報公開」、「個人情報保護」だけの問題で
はないこと、すぐ後で見るとおりである。
藤田宙靖『行政法入門[第3版]』(有斐閣、2003 年)3−4頁。
4 5 藤田・前掲書4−5頁。本書にあっては、「法律による行政の原理の例外と限界」とは別に「行政過程への私
人の参加」という新たな講を設けて、ここで「行政の事前手続」、 「情報公開」、「個人情報保護」の問題を扱
っている(72 頁以下)。
6 今村成和「『法律による行政』と『法の支配』」ジュリスト増刊成田頼明編『行政法の争点(新版)』(有斐閣、
平成2年)14 頁以下。
なお、現行憲法上否定されるところの緊急命令、独立命令などの厳密な概念については、とりあえず、堀内「政
7 令の所管事項」ジュリスト増刊『憲法の争点(第3版)』 (有斐閣、1999 年)214−215 頁を参照されたい。
大浜啓吉「法律による行政の原理」『法学教室』275 号(有斐閣、2003 年)4 頁以下。
8 大浜・法律による行政の原理前掲 10 頁。
9 大浜・法律による行政の原理前掲6−7頁。
10 大浜・法律による行政の原理前掲8頁。なお、竹中勲・演習・憲法1『法学教室』276 号(有斐閣、2003 年)
11 96 頁も、大浜教授の提言を肯定的に解説している。
大浜・法律による行政の原理前掲 10 頁。
12 大浜・法律による行政の原理前掲9頁。
13 14 大浜・法律による行政の原理前掲8頁。ちなみに、おなじく「法の支配」を導きの糸として「日本国憲法」
を展開するものでも、阪本昌成教授のそれ(『憲法1国制クラシック[第二版]』(有信堂、2004 年)はまた
かなり異なったものとなっているのである。
「行政権は本来 empty(空)であって、国会の制定する法律によって組織され、法律によって任務を与えられる」
15 ことから、行政権が「あくまでも法律に従属し、法律に拘束されるのである。行政の役割は、国民代表議会
によって決定された基本的政策(法律)を執行具体化することである」と説かれる(8頁)。行政権のかかる
執行権能は、アメリカ法的発想として屡々語られるところではある。が、その真意には吟味を要する。これは、
「行政権がアプリオリに法に先立つもの」という観念を否定する限りに置いてはそのまま是認されうるが、行
政がことごとく「法律がなくとも必要な任務を遂行することができる」可能性を否定することまで及ぶなら
ば、行政法学上のいわゆる行政控除説と対決し、新たな立場を主張することになるし、またそれを積極的に
提示しなくてはならないだろう。「行政権は憲法によって創設されたものである」こととそれが「法律によっ
て」いかようにでもなることとは同じではない。また、行政の「法律執行」機能は、伝統学説において周知
のことである。ただ、執行といっても、単に法律を具体化するだけではなく、行政処分として国民の権利に
直接侵害することを含むことにおいて、ほかの立法府、司法府の作用におけるとは異なる。さらには、行政
の法案作成(=政策立案)の活動は、さきの「行政権」の説明とどのように調和するのであろうか。「法の支
配」の原理での「行政権」といわゆる執政権との区別がなんら説明されていないのである。
16 この問題に対する近年の学説については、堀内・世紀転換期における公法学研究の複合性・管見前掲 96 頁以
下を参照されたい。 87
大浜・法律による行政の原理前掲8頁。
17 一例として、例えば佐藤幸治『日本国憲法と「法の支配」』(有斐閣、2002 年)に典型的に認められる。
18 注文中でまだ入手・検討していないが、Spencer Zifcak の Callenges of Globalisation. Globalising The Rule
19 of Law(Routledge(GB),2004 年7月)という文献がある(紀伊国屋書店洋書新刊案内D 557 号(2004 年
6月))。
Albert V. Dicey, Introduction to the study of the law of the constitution(1.ed.1885)8.ed.1915, 伊藤正巳・
20 田島裕訳『憲法序説』(学陽書房、昭和 58 年)。 21 ファロンによれば「法の支配」の理念型に歴史的、形式的、リーガル・プロセス的、実体的の 4 つがあるこ
とについて、大浜「法の支配と行政法」塩野宏先生古稀記念『行政法の発展と変革』(上)(有斐閣、2001 年
6 月)147 頁以下参照。
A.V.Dicey,op.cit.p.202−4, 訳・憲法序説 190−1 頁。
22 O.マイヤーの「法律の支配」論については、堀内『ドイツ「法律」概念の研究序説』(多賀出版、昭和 59 年)
23 191、341−2 頁、堀内『行政法Ⅰ』(信山社、平成8年)30 頁以下を参照されたい。
ダイシーとフランス行政法との関係については、石澤淳好「A.V.ダイシーのフランス行政法観念について」
24 東北薬科大学一般教育関係論集 6 号(1992 年)1頁以下、A.V.ダイシー著猪股弘貴訳『ダイシーと行政法』
(成文堂、1992 年)などを参照。
このテーマについては、高田敏教授の一連の詳細なる研究がある。『社会的法治国の構成』(信山社、1993 年)
25 はその一部にすぎない。
26 堀内・行政法Ⅰ前掲書 32−3 頁。大浜教授曰く、「…論者のいう実質的法治国論は内容的に立憲主義とほとん
ど異ならず、行政法というよりもむしろ憲法の原理を説くものであって、形式的法治国論が持っていた行政
権を縛る論理も構造も有していない。したがって、行政法の外延を示すことはできたかもしれないが、行政
法に内包する固有の諸原則を引き出すには自ずから限界があったのである。実質的法治国家が旧来の『法律
による行政の原理』を維持せざるを得なかったのも蓋し当然と言わなければならない」(大浜・法の支配と行
政法前掲 134 頁)。
大浜・法の支配と行政法前掲 140 頁。例えば、E.ゲルホーン/R.M.レヴイン著大浜啓吉・常岡孝好訳『現
27 代アメリカ行政法』(木鐸社、1996 年)にも「法の支配」の語は目次の項目にすら用いられていない。
28 大浜・法律による行政の原理前掲 8 頁。「アメリカでは、コモン・ローと資本主義が衝突し、レッセ・フェー
ルを信奉する保守主義者対行政の役割を重視する進歩派、裁判的正義(法中心アプローチ)対行政的正義(科
学的アプローチ)、自由国家対規制国家というように多様な対立軸の中からAPAを基本とする行政法が成立
した。その指導理念となったのは、『法の支配』である」(大浜・法の支配と行政法前掲 158−9 頁)。
大浜・法の支配と行政法前掲 142 頁。
29 大浜・法の支配と行政法前掲 139 頁。
30 大浜・法の支配と行政法前掲 149−50 頁。
31 大浜・法の支配と行政法前掲 150 頁。
32 大浜・法の支配と行政法前掲 153 頁。
33 大浜・法の支配と行政法前掲 153−4 頁。
34 大浜・法の支配と行政法前掲 157−8 頁。
35 ここの「主権」概念についての疑問は、すでに前に指摘しておいた通りである。
36 大浜・法の支配と行政法前掲 159 頁。
37 38 国家秩序の創設段階については、とりあえずH.ケルゼン(清宮四郎訳)『一般国家学』381 頁以下、H.ケ
ルゼン(尾吹善人訳)『法と国家の一般理論』、192 頁以下、224 頁以下などを参照。
行政法のこの場面でも、R.アレクシーのいう「実践的論証」の一局面としての性格は基本的に妥当するだろう。
39 簡単には、堀内『続立憲理論の主要問題』(信山社、1997 年)71−2 頁など。
かつて、カレ・ド・マルベールの分析の中にみられること、堀内・続立憲理論の主要問題前掲書 383−9 頁。
40 88
41 戦後ドイツ公法学において、「措置法律」と称される「法律」の増大は、その反面「法律」と「行政の行為」
間でいかなる「法・理性」による質的識別をも困難ならしめ、いまや両者とも憲法上の価値を具現する一手
段たる同質の「国家の意思」であるとの構成が見られた。かかる構成の理論的提示はより以前のR.スメン
トに遡り、また「かかる構成からは容易に「行政の行為と同質の法律」に対する司法審査への道を大きく開
くことになることの指摘は、C.シュミット学派のE.フォルストホーフにも認められるのである(堀内『ド
イツ「法律」概念の研究序説』(多賀出版、昭 59)379−80 頁など参照。なお、近時、このE.フォルスト
ホーフの見解の批判的に言及するものとして、古野豊秋「ハンス・ケルゼンの憲法概念とその現代的意義」『ド
イツ公法理論の受容と展開−山下威士先生還暦記念』(尚学社、2004 年)86 頁がある。
42 この点は、以前すでに指摘したことがある(堀内『「憲法と公共政策」の諸問題』 (弘前大学人文学部、平成
11 年)100 頁以下)。近年の流行語である「政策」がいかなる意味での「法規範」であるのかも、吟味する
必要があろうが、そのような研究を聞かない。
大浜・法の支配と行政法前掲 150、154、158 頁など。
43 まだ、未刊であるが、堀内「憲法が想定する人間像」で詳しく検討している。
44 45 イギリスのダイシーの「法の支配」とアメリカ行政法のそれとには内容に大きな開きがあるが、この点はし
かし、「原理と政策」の「統合」としての「法の支配」という理解の仕方が存するという(T.R.S.アラ
ン著石澤淳好訳「ドゥウォーキンとダイシー−統合としての『法の支配』−」東北薬科大学一般教育関係論
集 9 号(1995 年)111 頁以下)。
大浜・法の支配と行政法前掲 159−60 頁。
46 47 その詳細については、堀内・ドイツ「法律」概念の研究序説前掲書 180 頁以下、堀内・行政法Ⅰ前掲書 30 頁
以下を参照。
この点については、堀内健志・世紀転換期における公法学研究の複合性・管見前掲 96 頁以下参照。 48 49 かかる認識について多くわが恩師先輩のもとできちんと教えを受けてきたものであるが、近年の若手研究者
のなかではもう学的文化の継承は見られなくなっているごとくで残念でならない。古いもの即価値のないも
のというのは人文社会科学の世界では当たらない。また、最近の学界において、学問上の論争もほとんど影
を潜めてしまった。ロースクールでの実務的知識の詰め込みに追われて、巷横行している公法学上の基本概
念を疑ってみる余裕すらなくなっているのであろうか。憂うべきことである。 50 伝統的行政法学でいう行政行為の「公定力」について、「法の支配」論の立場から、つぎのような批判が浴び
せられる。「公定力は立憲君主制の残滓に過ぎず、現行法の解釈としても、将来的な制度構想としても有害無
益の概念である」
(大浜「法の支配と行政訴訟」三辺ほか編『法治国家と行政訴訟』
(原田古稀記念)
(有斐閣、
平成 16 年)32 頁)。その理由として、まず1「日本国憲法下の行政権は憲法によって創設され、法律によっ
て組織され、法律によって与えられた任務を遂行する法執行機関に過ぎない」(29 頁)のであり、2「法の
支配」を原理とする司法国家においては、「行政権の司法権からの独立というテーゼ自体が成り立た」ず、そ
のような行政の「違法な行政処分を適法だとして国家機関や国民を拘束する効力を認める根拠がない」
(31 頁)
ことなどが指摘される。かかる立論の中にも、別の立場からみると「行政」「国家」についての吟味を要する
論点が含まれている。第一に、「行政権」は確かに日本国憲法により創設されたものであるとしても、法律に
よって組織されたものではない。法律を執行する任務は憲法により与えられたものであり、さらに、憲法解
釈論上その「行政権」は「法律執行」 に尽きるものでないというのが今日の通説であろう。第二に、「公定
力」が「実体法レベルでは、違法行為に適法性を付与し、不可争力および自力執行力と結びついて強力な効
力を発揮した。訴訟レベルでも、根底にあるのは公定力である。法の支配の原理は、Yに適法な活動を命ず
る。XはYの違法な処分に服する義務はなく、これを取消す必要もない。公定力は違法な行為に『適法性の衣』
を纏わせるものといえよう。…Xは訴訟の場で、公定力と格闘させられることになる」
(32 頁)と言われる。が、
ここで「公定力」が「違法行為に適法性を付与」し「適法性の衣」を纏わせるというが、行政処分が違法で
あるかどうかは、それこそ訴訟の場で判明することであるから、それじしん違法であるとは言えない。適法
性を付与しているわけでもあるまい。ただ、行政の公的判断にXが違法であるとして争うということである。
89
XはYの違法な処分に服する義務はないといっても、違法であるかどうかがあらかじめ決まっているわけで
はない。第三に、そこで「法の支配」を原理とする「司法国家」では云々というのは、具体的にどこの「国家」
のことであろうか。判断基準とされるものが観念的で、はじめから決まっているかのごとくであり、日本国
憲法のもとではその妥当性じしん吟味の対象とされなくてはならないものであろう。第四に、「法の支配」の
原理は「国家」の現実政治的側面を度外視した観念を述べるものであるとすると、そこから導かれる帰結は
そのまま現実国家を語る憲法理論とはなしえない。なお、稿者じしんさらに吟味の機会(脱稿後、毛利透「『法
治国』から『法の支配』へ−ドイツ憲法裁判の機能変化についての一仮説−」
『法学論叢』156 巻5・6号(平
成 17 年 3 月)330 頁以下)に接したが、これらをも含めて)をもちたい。
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