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西蒲区 - 新潟市

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西蒲区 - 新潟市
西蒲区
【西蒲区】
自然・まちなみ
・・・・・・236
歴史・文化財
・・・・・・243
まつり・イベント・地域伝統芸能・・・269
伝統工芸
・・・・・・276
食
・・・・・・276
施設
・・・・・・278
その他
・・・・・・281
235
西蒲区
上堰潟(うわせきがた)
【自然・まちなみ】
上堰潟は、夏鳥7種、冬鳥22種、漂鳥8
種、留鳥16種、旅鳥8種で合計61種が
石瀬神社の大杉(いしぜじんじゃのおおす
飛来し、野鳥の休憩地、採餌地として重要
ぎ)
です。特にトモエガモ、ヒシクイ、オオハ
樹高33m、幹回り4.8m、推定樹齢3
クチョウ、コハクチョウが飛来する隠れた
50年、地上2mで2本の幹に分かれてい
棲息地でした。近年、上堰潟全体が公園化
ます。
し、その様相は随分変化してしまいました
が、公園は出来るだけ野鳥を呼び戻すよう
石瀬神社の大樅(いしぜじんじゃのおおも
に設計されています。隣接する「佐潟(さ
み)
かた)」がラムサール条約に登録され、上堰
樹高4.2m、幹回り5.2m、推定樹齢
潟の存在はその副水域としての重要な役目
400年です。
を果たすものと思われます。
新潟市指定文化財。
岩室温泉(いわむろおんせん)
所在地:新潟市西蒲区松野尾
その昔、傷ついた雁が湯浴(ゆあ)みをし
て傷を癒したという伝説が伝わっています。
「霊雁(れいがん)の湯」として、かつては
北国街道の宿場町として、また越後一の宮
彌彦神社の参拝者の遊里として栄え、今日
ではその効能と、安らぎを求める人々によ
って親しまれています。
上堰潟公園(うわせきがたこうえん)
角田山の麓に広がる開放感あふれる公園。
芝生広場には季節ごとの花々があふれ、遊
歩道の散歩で気分もゆったり。バードウォ
ッチングも楽しめます。
無料貸出しの足こぎ自転車「ムーンカート」
岩室温泉街路灯ギャラリー(いわむろおん
は1度乗ったらハマっちゃうおもしろさ。
せんがいろとうぎゃらりー)
長いローラー滑り台やコンビネーション遊
温泉街の街路灯に1点1点、岩室に因んだ
具も人気の的です。
絵柄を陶板で展示、温泉街散策の道しるべ
所在地:新潟市西蒲区松野尾1
としての役割を担っています。
236
西蒲区
角田山(かくだやま)
佐渡弥彦米山国定公園に属し、標高は48
1.7mです。山頂や付近の向陽観音堂、
三望平などからは、眼下に日本海、佐渡、
越後平野を一望できます。山頂付近は長者
ヶ原ともよばれています。登山コースは複
数の道が整備されており、周辺には菖蒲塚
古墳などの史跡や名勝、温泉、観光施設が
点在します。新潟市内では多宝山の次に高
越後七浦シーサイドライン(えちごななう
い山で、カタクリや雪割草など豊富な山野
らしーさいどらいん)
草が見られます。近年は「花の山」として
越後七浦シーサイドラインは、寺泊の野積
名が知られ、全国から登山者が訪れます。
浜から巻の角田峠まで13.9km の海岸
線道路。日本海夕日ラインのメイン区間と
して、弥彦山を背に日本海を望む海岸の奇
岩、怪石、老松は美しく、弁天岩、立岩は
天然記念物に指定されています。
大樫(曽根小学校敷地内)
(おおかし<そね
しょうがっこうしきちない>)
地域内に現存する代官所の唯一の天然記念
物。代官所の敷地内に植えられた樹木の1
本と推定され、現在は曽根小学校の所管内、
囲いのなかで大切に維持保存されています。
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区曽根750
お杉(おすぎ)
石瀬の一本杉、樹高22m、幹回り6.3
m、伝説「お杉とお松の伊勢参り」に登場
します。推定樹齢約500年です。
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区石瀬字一本杉321
7
237
西蒲区
旧入徳館小学校のタブノキ(きゅうにゅう
年、旧潟東村指定文化財。
とっかんしょうがっこうのたぶのき)
新潟市指定文化財。
タブノキはクス科、タブノキ属の常緑大高
所在地:新潟市西蒲区熊谷170
木で別名「イヌグス」の名があり、土地の
人は「じょてい」と呼びます。花は4月∼
銀木犀(ぎんもくせい)
5月に咲き、夏には黒紫色の果実が熟しま
国の重要文化財・種月寺本堂の再建記念樹
す。暖かい地方の主として海岸地に自生し、
として植えられたと考えられます。樹高7
巨木は高さ13m、幹直径1m にもなりま
m、地際回り3.7m、枝張り10m、推
す。分布は本州・四国・九州・沖縄・朝鮮
定樹齢300年。
南部。アゲハ科の蝶アオスジアゲハの食餌
新潟市指定文化財。
植物です。本樹は、根廻り5m、地上1m
所在地:新潟市西蒲区石瀬3356
の幹廻り4m、樹齢は約200年くらいと
推定されます。かつて峰岡藩の藩校として
源泉公園霊雁の湯(げんせんこうえんれい
の伝統をもつ入徳館小学校が存在した頃は、
がんのゆ)
樹高10m くらいあったといわれ、樹勢も
傷ついた雁が湯浴みをしていたと云う伝説
旺盛でした。しかし、小学校が廃校となり、
が語り継がれる岩室温泉の源泉。湯気は出
その跡地に入徳館野外研修場が新築される
ていなく、いわれの立札とベンチがあり、
と、環境の変化に伴い樹勢が衰えました。
冷泉です。
その後、幾度かの蘇生処置が施された結果、
辛うじて根元の幹が生き残りました。近年、
ご神木
古い幹から新しい枝が伸び蘇生の兆しが見
八幡様のご神木、古木のため地上6mで切
られます。
断され、樹高8.5m、幹回り6.3m、
新潟市指定文化財。
推定樹齢500∼700年とされます。
所在地:新潟市西蒲区峰岡444乙
新潟市指定文化財。
欅(ごしんぼく
けやき)
所在地:新潟市西蒲区和納字稲葉 3698
行人塚の大欅(ぎょうにんづかのおおけや
き)
山王様の大杉(さんのうさまのおおすぎ)
天文年間の1532年頃、又左ェ門という
樹高36m、幹回り6m、推定樹齢450
人によって植えられたと伝わるケヤキで、
年、地上5mで2本の幹に分かれています。
初め 2 本でしたが後に中ノ口川の洪水で1
本が枯れ、他の1本の幹がそれを抱え込ん
青龍寺の大樅(しょうりゅうじのおおもみ)
で繁茂したといわれます。いつのころから
樹高33.5m、幹回り3.7m、推定樹
か神木として崇められるようになったとい
齢300年です。
われます。行人塚は悪疫退散のために自ら
生き埋めとなって人々を救ったという行人
に由来しています。1964(昭和39)
238
西蒲区
白岩(しろいわ)
多宝山の橅(たほうざんのぶな)
越後七浦海岸のシンボルともなっている
長さ300m、幅50mの間に目通り15
「白岩」。海へ100m余り突き出た疑灰岩
∼50cmの橅が400本程、林を形成し
で文字どおりの白岩です。
ています。
昔、神様が現れ「この橅をきらないでくれ」
スダジイ(しいの木)
と頼んだと云われた橅、樹高20m、幹回
スダジイは、ブナ科シイ属の常緑高木でツ
り2.9m、推定樹齢250∼300年。
ブラジイの変種です。本州日本海側の天然
新潟市指定文化財。
林の北限は、石地及び佐渡ですが、庭木と
所在地:新潟市西蒲区石瀬字水無沢
しても用いられています。花期は5月下旬
∼6月、雌雄同株、堅果は食べられます。
長周寺の老姫小松(ちょうしゅうじのろう
本樹は、根廻り6.5m、目通り幹廻り4
ひめこまつ)
m、樹高11m の巨木で、主幹は多少朽ち
長周寺は1598(慶長 3)年に開基され、
ていますが、樹勢は旺盛です。西蒲区内で
そのとき植えられたものと推定されます。
は数少ない樹種で、巻地区にある「しいの
1989(平成元)年、旧潟東村指定天然
木」のうち最も大きく、樹齢は200年以
記念物。
上と推定されます。
新潟市指定文化財。
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区大原4136
所在地:新潟市西蒲区松野尾2775
長徳寺の大松(ちょうとくじのおおまつ)
田ノ浦温泉(たのうらおんせん)
長徳寺の建立時には既に育っていた松とい
1987(昭和62)年に湧出した温泉で、
われ、1974(昭和49)年、旧潟東村
名称「白岩」や佐渡島を望み、田ノ浦海水
指定天然記念物に指定されました。所在地
浴場の近くにあり、その効能と安らぎを求
は横戸です。
めて、特に夏を中心に多くの人に親しまれ
新潟市指定文化財。
ています。
所在地:新潟市西蒲区横戸313
多宝山(たほうざん)
稲島の大杉(とうじまのおおすぎ)
伊夜日子大神の宝器を埋めたと伝えられ、
稲島の薬師堂境内に生育する大杉は、樹高
又の名を十宝山(とだからやま)とも言い
22m、枝下約4m、目通りの幹廻り6m、
ます。海抜633.8mの頂上に「天香語
根廻り11.5m、枝の広がり約10m 四
山尊十宝塚(あめのかごやまのみこととだ
方で、境内いっぱいに広がる根張りは特に
からづか)」と刻まれた石碑があります。山
素晴らしいです。樹齢はおよそ500年と
頂には気象観測レーダーがあります。春登
推定されます。80年前頃に落雷があった
山では、カタクリ・雪割草等の山野草が楽
と伝えられていますが、その時受けたと思
しめます。
われる垂直に走る傷痕が幹の上部に見られ
239
西蒲区
ます。今も樹勢は旺盛で、堂々とそそり立
長沼家の老五葉松(ながぬまけのろうごよ
つ樹形は見事です。
うまつ)
新潟市指定文化財。
1736(元文元)年に長沼家に移植され
所在地:新潟市西蒲区稲島2931
たものです。1989(平成元)年、旧潟
東村指定天然記念物。
稲島の椿谷自然林(とうじまのつばきだに
新潟市指定文化財。(個人蔵)
しぜんりん)
所在地:新潟市西蒲区称名
角田山は標高200m 付近から平野にかけ
て常緑広葉樹林域に属し、山腹から山頂に
夏井のハザ木(なついのはざき)
かけては落葉広葉樹林域に属すると考えら
夏井のハザ木(なついのはさぎ)は米どこ
れています。この椿谷は標高200m の地
ろ越後平野の風物詩です。後世に残すべき
点に位置し、登山路の北側にある谷間の急
日本の風景といえます。日本一の米どころ
斜面に常緑広葉樹林の自然林が成立してい
越後平野を古くから特徴づけてきた「ハザ
ます。自然林の高木層は樹高20m に達す
木」は、秋になると、刈り取った稲が干さ
る大きなケヤキが主体をなしていますが、
れ、あぜ道の黄金色の屏風といった風情で
亜高木層はヤブツバキのみです。そのため
した。ハザ木と平野の醸し出す美しい風景
林床は暗く、周囲の落葉樹林中に見られる
は後世に残すべき財産です。全国農村景観
低木や草木はほとんど見られず、ヤブツバ
100選。
キ群落のなかには、ヤブツバキ、キズタ、
ジャノヒゲ、ヤブコウジが生えています。
このヤブツバキ群落は極相的な群落と考え
られ、角田山の自然にとって貴重な存在で
す。また、この椿谷の谷底には不動滝と呼
ばれる小さな滝があり、その下には不動堂
があります。幕末1776(安永5)年、
コロリ病(コレラ)が流行した際、北国文
殊院金慶山正徳寺別当(ほっこくもんじゅ
いんきんけいざんせいとくじべっとう)が
仁箇堤(にかづつみ)
ここに護摩を焚き、加持祈祷したと伝えら
角田山のふところに位置する仁箇堤は、農
れています。
業の水源地として利用されており、淡水魚
新潟市指定文化財。
が放流され、多くの釣客が訪れています。
所在地:新潟市西蒲区稲島3044外
また春には30数本の桜が咲き、その姿を
堤に写し、かくれた桜の名所です。
240
西蒲区
西川ふれあい公園(にしかわふれあいこう
ほたるの里交流館(ほたるのさとこうりゅ
えん)
うかん)
2.6haの広い敷地内には、水の広場や
巻地区福井産のスギ材をふんだんに使用し
人工滝、芝生ひろば、俳句の小道、曽根代
た施設です。特徴は「スギの平割積層材」、
官所をモデルにした「だいろの家」などが
「スギの圧密材」、スギ丸太で組んだ「ログ
あります。
トラス」などを使用しており、普通の木造
「だいろ」とは西蒲原の方言でかたつむり
施設とは違う造りになっています。
のことです。
所在地:新潟市西蒲区福井4067
所在地:新潟市西蒲区松崎73
バシクルモン、ツボクサ
バシクルモンはキョウチクトウ科で、国内
では数ヵ所しか分布が無く、北方系の稀少
植物で間瀬海岸が南限とされています。ま
た、セリ科ツボクサの北限自生もあり、南
北両限の植物が1つの地域での自生は学術
間瀬漁港(まぜぎょこう)
的にめずらしいです。
日本海の幸が水揚げされ、岩室温泉、田ノ
新潟市指定文化財。
浦温泉、間瀬海岸を訪れる人々にも新鮮な
所在地:新潟市西蒲区間瀬
魚介類を供給しています。
冬妻のホタル(ひよつまのほたる)
間瀬枕状溶岩(まぜちんじょうようがん)
岩室温泉から数分、多宝山の麓、林道の沢
海底噴火による特異の疑集体で、約2,0
沿いに6月の中旬から7月の中旬にかけて、
00年以上前のものと推測されます。岩中
ホタルが観賞できます。種類は源氏ホタル、
はレンズ状をなし、外殻は暗黒色の玻瑠質
沢回りの低い場所から高い杉木立の上まで、
(はりしつ)で割れ目に方解石、沸石等の
圧倒的な数のホタルが乱舞します。
結晶が存在します。
新潟県指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区間瀬
ほたるの里公園(ほたるのさとこうえん)
角田山の南麓にひろがる「ほたるの里公園」、
その中核となる「じょんのび館」が199
丸小山緑地公園(まるこやまりょくちこう
3(平成5)年にオープン、翌1994(同
えん)
6)年に「角田山自然館」も完成し、隣接
多宝山の麓、天神山と松岳山に囲まれ、岩
する「矢垂川公園」と併せて名実ともに巻
室温泉にほど近いこの公園は、緑に包まれ
地区の観光拠点となりました。
た開放感あふれる公園。春は桜、初夏は紫
所在地:新潟市西蒲区福井4067
陽花、秋は紅葉と季節の味わいが楽しめる
気分ゆったりの公園。多宝山の登山口と城
241
西蒲区
跡と林道をめぐる森林浴、ホタルや名刹・
史跡をめぐるトレッキングコースの拠点と
して多くの人に親しまれています。
所在地:新潟市西蒲区岩室温泉1661
―1
水芭蕉自生地(みずばしょうじせいち)
水芭蕉、サトイモ科のミズバショウ属の植
物で、わが国では本州中部以北日本海側の
多雪地帯に多く、北海道、千島、カラフト、
門田ハザ並木(もんたはざなみき)
カムチャツカ地方に自生しています。県内
門田ハザ並木は、かつての農村風景のおも
では、主に落葉広葉樹林域の湿地や山地の
かげを今に伝えています。刈り取った稲を
沢沿い、高山の湿原に自生していますが、
かけて乾燥させる多段式ハザ木は昔は大事
ここ天狗の谷のように常緑広葉樹林域の湿
な農業用施設で、蒲原地域では昭和30年
地(海抜8m)に自生しているのは珍しい
代まで各所で見られました。農業の機械化
といえます。このミズバショウ群落は、寒
とともに伐採が進みましたが、地元の強い
冷期に新潟平野部一帯に分布を広げた群落
要望により保存することになりました。夜
が温暖化に伴い後退する過程でこの谷間に
にライトアップされるハザ並木も見事です。
隔離的に残存したものと推察されます。こ
1994(平成 6)年には「新・日本街路
の群落がこれまで残存できた要因は、夏で
樹百景」
(読売新聞社主催)に選ばれました。
も涸れない湧水の流れと谷間周辺に生える
新潟市指定文化財。
樹木の木陰が陽性植物の繁茂を抑えてきた
所在地:新潟市西蒲区門田
からと考えられます。花の季節は3月末か
ら4月の早春ですが、初夏の明るい水辺に
咲き乱れる高原のミズバショウとは異なり、
薄暗い谷間の水面に映える純白な仏炎苞
(ぶつえんほう)の姿は静寂な中で幽玄な
美を演出しています。
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区仁箇
矢川ふれあい公園(やがわふれあいこうえ
ん)
巻市街地にある一級河川矢川の水辺公園。
桜の名所であり、散策や散歩に適した公園
です。
242
西蒲区
所在地:新潟市西蒲区竹野町70先
【歴史・文化財】
弥彦山スカイライン(やひこやますかいら
いん)
菖蒲塚古墳(あやめづかこふん)
県内初の観光道路として開通したこの弥彦
日本海側沿岸部の中で北端に位置する前方
山スカイラインには、だいろ坂や佐渡見台
後円墳です。4世紀後半の造営と推定され、
といった名所も多く、日本海、佐渡や越後
角田山麓では、山谷古墳に後続する首長墓
平野を見渡しながらのドライブは楽しく、
とみられます。本古墳は、新潟県内の前方
特に山頂からの日本海の夕日や越後平野の
後円・後方墳の中で最大規模を誇ります。
夜景は格別です。
正式な発掘調査は行われていませんが、江
戸時代に後円部が盗掘され、その際、出土
山口家の大たぶの木(やまぐちけのおおた
したと伝えられる青銅鏡1面と玉類8点が
ぶのき)
残されています。中でも鼉龍鏡(だりゅう
樹齢約200年とされますが、平地では珍
きょう)とよばれる鏡は、信任の証として
しく大ぶりなもので、植物分布の資料とし
ヤマト王権から賜った当時第 1 級の宝器と
ての意味もあります。1974(昭和49)
考えられ、北辺の首長に与えられた特別な
年、旧潟東村指定天然記念物。所在地は山
権威をうかがわせます。菖蒲塚古墳の傍ら
口新田。
には、直径15m 余りの円墳、
「隼人塚(は
新潟市指定文化財。(個人蔵)
やとづか)」があります。具体的な性格は明
所在地:新潟市西蒲区山口新田
らかでなく、同一系列の首長墓もしくは、
従属的な関係をもつ古墳、の2通りが考え
羅漢槙(らかんまき)
られます。
青龍寺の羅漢槙、イヌマキの変種、樹高1
国指定文化財。
1.5m、幹回り2.7m、推定樹齢35
所在地:新潟市西蒲区竹野町2676
0年。
新潟市指定文化財。
新谷遺跡出土浅鉢形土器(あらやいせきし
所在地:新潟市西蒲区石瀬字諏訪平367
ゅつどあさばちがたどき)
4
新潟県内の海岸部を代表する初期定住集落、
新谷遺跡の発掘調査で大量に出土した縄文
時代前期前葉(6,000年前)土器群の
1つ。器面全体に施される刺突文様を特徴
とします。類似資料は、能登半島から北海
道に至る日本海側を中心に現在の多雪地帯
と重なり合うように分布します。東日本の
縄文遺跡では、前期に入り煮沸機能をもっ
た深鉢に加え、
「こね鉢」として使用された
243
西蒲区
「浅鉢形土器」が出現します。植物質食料
上ン原遺跡採集石槍(いわんぱらいせきさ
の加工具とみられる磨石(すりいし)
・敲石
いしゅういしやり)
類(たたきいしるい)や石皿が新谷遺跡か
縄文時代後期(4,000∼3,000年
ら多量に出土している点は、これと密接な
前)の中核的な集落跡、上ン原遺跡から昭
関係をもつと考えられます。この土器は全
和30年代に採集されたものです。先端に
国最古クラスの浅鉢にあたり、植物食への
微細な欠損がみられますが、入念な両面加
依存の高まりを背景とした器種分化の先が
工によって整形されたみごとな製品です。
けと位置づけられる重要な資料です。
角田山麓の石槍の中では異質な形態や漆黒
新潟市指定文化財。
の良質な大形黒曜石を使用する点から、製
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
品段階で遠隔地からもたらされた交易品と
郷土資料館
みられていました。近年行った石材原産地
推定の結果、北海道「置戸(おけと)」産黒
上ン原遺跡(いわんぱらいせき)
曜石と判明しました。角田山麓の縄文遺跡
竹野町集落の背後に広がるなだらかな台地
群では、このほか北海道「赤井川」、隠岐島
上に、縄文時代後期の初頭(4,000年
「久見(くみ)」、長崎県「淀姫(よどひめ)」
前)から晩期前葉(3,000年前)にか
産黒曜石の使用も確認され、日本海沿岸部
けて営まれた集落跡で、遺跡の広がりは東
における交易拠点をなしたことがわかって
西150m・南北200m 余りにおよびま
います。この石槍は、こうした地理的特性
す。柿畑の造成に先立ち南部の一角264
を示す象徴的な遺物といえるものです。
㎡で実施した発掘調査で住居跡4軒が確認
新潟市指定文化財。(個人蔵)
されました。全体的には、広場を囲み数十
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
件の住居が分布する大規模環状集落をなし
郷土資料館
たと推定されます。日常的な生活用具の中
で、上ン原では石鏃(ヤジリ)が大量に使
上ン原遺跡出土「深靴」土偶(いわんぱら
用されていました。これは角田山麓の後・
いせきしゅつど「ふかぐつ」どぐう)
晩期集落に一般的な現象で、これまで得ら
上ン原遺跡の南部で実施した1970(昭
れた石鏃数は1,000点を超えるものと
和45)年の発掘調査で出土したものです。
みられます。土偶や石剣などの精神文化に
右脚と胴部下半を残す破損品で、通説に従
かかわる用具も比較的多く出土しています。
えば、意図的に壊されたと考えられます。
ヒスイが持ち込まれ、小規模ながら装身具
妊婦を表す下腹部のふくらみも、縄文時代
製作が行われていることも、この遺跡に備
の土偶にみられる一般的な特徴です。製作
わる拠点集落としての性格をうかがわせま
時期は、使われた粘土や色調などから後期
す。
中葉∼後葉(3,500∼3,000年前)
新潟市指定文化財。
とみられます。この土偶で注目されるのは、
所在地:新潟市西蒲区竹野町
脚の中ほどに小さな段を施し、下半部が「深
靴」状につくられている点にあります。こ
244
西蒲区
うした表現がなされた土偶は全国的にも類
角海浜称名寺の寺伝薬「毒消丸」を村の男
例がなく、縄文時代における履物の存在を
が、他国稼ぎの行商の商品として販売する
示す数少ない資料となっています。縄文時
ことから始まります。ここで、製薬元と売
代後期に入ると気候は寒冷化に転じ、多雪
子という独特のシステムが作り出され、そ
環境への適応に迫られたことが想像されま
れが明治時代になると売子が男性から女性
す。この土偶は、雪国縄文人の暮らしぶり
に変わることにより、巨大化の道を歩み、
を伝える意味でも興味深いものがあります。
1928(昭和3)年には毒消売りの総数
新潟市指定文化財。
は1,115人になりました。これにより、
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
日本海沿岸の女性たちや、角田山麓の女性
郷土資料館
たちが「毒消し娘」として、東北・関東・
甲信越に旅立っていきました。しかし、1
卯八郎請の御領の旗(うはちろううけのご
953(同28)年頃を頂点として、新薬
りょうのはた)
の進出や、社会情勢の変化などで急速に衰
1753(宝暦3)年に制作されたもので、
微して行きます。本コレクション(258
徳川幕府直轄の御領の旗として、使用が認
点)は、薬材・製薬関係文書・製薬用具・
められていました。1989(平成元)年、
薬・効能書・薬袋・版木・製薬元販売元関
旧潟東村指定文化財。
係文書・行商衣装・記録写真などに分かれ
新潟市指定文化財。
ており、その産業が残した後世に伝え得る
所在地:新潟市西蒲区三方92潟東歴史民
貴重な資料です。
俗資料館内
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
越後善光寺(えちごぜんこうじ)
郷土資料館
1555(弘治元)年、大関阿波守盛憲(お
おぜきあわのかみもりのり)が開いたとさ
越後七浦観音(えちごななうらかんのん)
れる名刹。長野の善光寺の本尊と同体の木
越後七浦シーサイドラインを走ると、山を
像「善光寺式阿弥陀如来三尊像」を安置し
バックに「越後七浦観音」が見えてきます。
てあるのが善光寺如来堂で越後善光寺とし
地上8mのブロンズの観音像は、海難防止、
て知られています。
魚霊供養、海上及び地域の安全を願って建
毎年、8 月 16 日には、年に1度の御開帳
っています。
が行われています。
越後国菖蒲塚古墳経塚出土品(えちごのく
越後毒消しコレクション(えちごどっけし
にあやめづかこふんきょうづかしゅつどひ
これくしょん)
ん)
江戸時代末期から昭和の終り頃まで続いた
菖蒲塚古墳の後円部墳頂に築かれた塚から
「越後の毒消し売り」は、日本産業史の1
江戸時代に出土したと伝えられるものです。
頁を飾るにふさわしいものです。それは、
菖蒲塚古墳の盗掘直後に菖蒲山金仙寺(真
245
西蒲区
言宗智山派)が行った発掘の際、出土した
延宝三年乙卯・地境出入御裏書絵図並に附
といわれ、銅製の経筒2点・銅製和鏡5点・
帯文書1通(えんぽうさんねんきのとう・
青白磁(せいはくじ)の合子(ごおす)と
ぢざかいでいりおんうらがきえずならびに
小壺1点ずつ・これらを収める珠洲甕(す
ふたいもんじょいっつう)
ずかめ)2点が金仙寺に所蔵されています。
本絵図は、寛文、延宝年代(17世紀中頃)
これらが出土した時の状況は不明ですが、
にわたって五ヶ浜、角海浜の村境界総論に
二つの経筒に刻まれた1170(嘉応2)
添付提出した粗絵図で裁決して許可された
年と1530(享禄3)年の銘から、年代
墨筋引があります。本絵図は、簡単な裏打
の異なる複数の経塚埋納品であることがわ
ちが施され粗雑な巻物仕立てになっていま
かります。現在、金仙寺の裏山には全く経
す。旧巻町現存の地図のうち最も古いもの
塚の痕跡は認められませんが、時を隔てた
で、殊に変貌著しい海岸集落の昔の姿を知
それらが往時の様子を伝えてくれます。
るうえで重要です。また、1675(延宝
国指定文化財。
3)年10月25日付の幕府諸奉行の在判
所在地:新潟市西蒲区竹野町2676
裁許文があります。
新潟市指定文化財。
越前国小橋屋村御検地帳(えちぜんのくに
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
こはしやむらごけんちちょう)
郷土資料館
本帳は、1598(慶長3)年7月15日
付のもので、所在の確認されている旧巻町
円明寺旧墓地の黒松(えんみょうじきゅう
最古の検地帳です。横帳、表紙共10丁。
ぼちのくろまつ)
ただし、本検地帳は越前郷屋村(現在の越
この黒松は「忠魂碑の松」と呼ばれており、
前浜)のものでなく、ここの住民が大昔越
老松とはいえ、幹のつや、枝の張り具合な
前国(現在の福井県)より持参したもので、
どから、どことなく若さがあり、その雄大
同集落成立の伝説の傍証として有力な史料
さと景観は見事です。黒松の由来は、かつ
です。伝説とは、同村庄屋小川与左エ門が
てこの地が六分・円明寺歴代の墓地であり、
1852(嘉永5)年に書いた「由緒なら
植えられた年代は不明ですが400年くら
びに鎮守社之事」に述べているもので、同
いの樹齢と思われます。1985(昭和6
家の祖先は越前国坂北郡三里浜屋村に住ん
0)年、正月の豪雪で倒伏しましたが、若
でいましたが、関ヶ原の戦い後、社会生活
宮八幡宮の氏子の請願で村へ寄付していた
が混乱し、漁業の衰退や社会的経済的不安
だき、支柱を立て復元工事をしました。
等によって脱出し、この地に漂着し開拓し
新潟市指定文化財。
たというものです。
所在地:新潟市西蒲区東中694
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区越前浜
246
西蒲区
御井戸遺跡出土縄文時代木製品(おいどい
土器も見られ、縄文社会における活発な地
せきしゅつどじょうもんじだいもくせいひ
域間交流の様子がうかがえます。角田山麓
ん)
の縄文遺跡群では、中期前葉(5,000
矢垂川の改修に伴い、御井戸遺跡の一角で
年前)に集落数のピークを記録します。こ
実施した1994(平成6)年の発掘調査
れは、火焔型土器(中期中葉)に象徴され
区は、全域が低湿な土壌環境にあり、通常
る内陸縄文文化の繁栄に先行する現象で、
残りにくい木製遺物がきわめて良好な状態
大沢遺跡からえられた一括資料は、火焔型
で保存されていました。特に注目されるの
土器出現前夜における中越∼下越を代表す
は、縄文時代晩期終末(2,300年前)
る土器群と位置づけられています。
の刳物(くりもの)です。トチやヤナギが
新潟市指定文化財。
使用され、全点横木取りで作られています。
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
このうち8点は製作途中の未製品で、貯木
郷土資料館
場とみられる木材集積地から発見されまし
た。内訳は、加工進度を異にする把手付容
小澤精庵の碑(おざわせいあんのひ)
器4点、舟形大鉢、大形皿、把手付円形皿、
小澤新兵衛は号を精庵といい、小田原藩士
杓子1点ずつからなり、使用工具や製作行
でしたが若くして藩を辞し、諸国を遊歴し
程がわかる第1級の資料と評価されます。
ました。
残り1点は、祭祀木柱の脇から出土した完
1833(天保4)年、37歳の時越後に
成容器です。精巧な把手と見事な赤漆を施
来て、1837(同8)年、曽根村見帯の
す優品で、縄文時代における高い工芸水準
地に移り住み、謙帯書院困学塾を開いて2
を物語ります。
9年の長い間多くの師弟を教育しました。
新潟市指定文化財。
1850(嘉永3)年、精庵の顕彰のため
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
に曽根神社内に碑が建立されました。
郷土資料館
懐旧歳時記(かいきゅうさいじき)
大沢遺跡出土中期前葉縄文土器(おおさわ
本書は、幕末の長岡の風俗年中行事を述べ
いせきしゅつどちゅうきぜんようじょうも
たものですが、長岡藩及び藩主牧野家に言
んどき)
及するところも少なくありません。序文に
角田山の北東麓に位置する大沢遺跡の一角、
1876(明治9)年8月の記年のあるこ
A 地区から出土したものです。中期前葉後
とにより、その頃著作されたものです。本
半段階に属する1,200個あまりの発掘
書によれば、著者は三十石曽根組代官で小
資料の中から復元できた12点の深鉢が指
川当知(おがわとうち)
、名は善右エ門(長
定対象となっています。これらは系統の上
岡藩士)です。記述は精緻をきわめ、随所
で、越後系9点、関東∼中部高地系2点、
に著者の実見実写による克明な押絵図を挿
北陸系1点から構成されます。破片資料の
入して資料的価値を高めています。久我家
中には、このほか東北北部系や東北南部系
の伝来として、長岡で入手したものといわ
247
西蒲区
れています。本書(久我本)のほかに同一
片柳礼三の碑(墓)
(かたやなぎれいぞうの
人が描いた故反町茂雄氏所蔵の反町本があ
ひ<はか>)
るといいます。本書は旧巻町に伝えられた
片柳礼三は高崎藩領だった羽黒村へ検見役
貴本であり、民俗学及び長岡藩史料として
人として来ていました。明治初年の頃相次
重要です。久我家によって、
「長岡城の面影」
ぐ災害に苦しんでいた農民たちを見て、独
なる題箋が付されています。秩入、19.
断で年貢を大幅に免除し、その責任を負っ
5cm×26.7cm、上69丁、下67丁
て切腹しました。遺骨は母と高崎へ帰りま
新潟市指定文化財。(個人蔵)
したが、羽黒村の人々は残された血の着い
所在地:新潟市西蒲区巻甲
た衣服等の遺品を埋葬し、墓を建立しまし
た。
籠島黒印状(かごしまこくいんじょう)
本文書は、1590(天正18)年、上杉
上城跡(かみじょうあと)
景勝が角海浜の復興のため諸役を4年間免
上城は、竹野町丘陵にあった南北2つの尾
除するという内容です。籠島は上杉家の直
根の南側の先端部に築城されている山城で
臣直江山城守兼続家臣、籠島惣左ヱ門であ
した。
ることが確認されています。当時、戦国の
高さ約20m、東西50m、南北約40m
動乱で角海浜の住民たちも疲弊困憊し、且
の上城跡は、主郭(城の中心部)
・空濠・土
つ人口もおそらく減少していたことでしょ
塁・水源地などを残していましたが、土砂
う。その後、ようやく上杉景勝が越後を平
採取のため全壊し、現在、城跡の東端の輪
定したため、社会秩序も回復し角海浜も復
郭がわずかに残存しているのみです。その
興の緒についたと思われます。かつて角海
ほとんどが城山運動公園となっていますが
浜にあった鵜入山城願寺(真宗大谷派)が
その歴史的位置を今日に伝えています。
所有する本文書は、旧巻町の1村落の庶民
新潟市指定文化財。
史を語る最古の現存史料です。
所在地:新潟市西蒲区竹野町1901外
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区巻甲 2383−3
亀田鵬斎書
いしょ
山茶之亭扁額(かめだぼうさ
さんちゃのていへんがく)
家相図(かそうず)
本扁額は、岩崎家の伝承によると1810
和紙・額装、19世紀中期以降の資料。澤
(文化7)年2月、北越巡遊の亀田鵬斎が
家の部屋の間取りや配置を記した文書図。
松野尾を通り、岩崎家(家号治右エ門、代々
その様子から、時代を推定されたものです。
村の組織をつとめてきた家柄)に滞在し、
新潟市指定文化財。(個人蔵)
主人に請われるまま岩崎家の名木「山茶」
所在地:新潟市西蒲区打越甲434澤将監
(椿)によせて堂号を扁書したものです。
の館内
江戸時代後期、文人墨客の交流の多かった
松野尾の盛時を物語る貴重な資料です。
新潟市指定文化財(個人蔵)。
248
西蒲区
所在地:新潟市西蒲区松野尾
桑山諏訪社(池田満寿夫の天井画)
(くわや
ますわしゃ<いけだますおのてんじょうが
旧庄屋
佐藤家(きゅうしょうや
さとう
>)
け)
版画家池田満寿夫氏が描いた色鮮やかな天
佐藤家は江戸時代後期の建築で、庄屋の役
井画が残っています。
宅として建てられたもの。数ヵ所の建築の
天の恵み、自然の恩恵を他に与えるプロセ
痕がありますが、ほぼ、建築当初の間取り
スを絵にしたもので、天と地を結ぶものを
と考えられます。1998(平成10)年
五羽の鶴とし、太陽を背に舞う鶴が鮮やか
10月、地区の人が「旧庄屋佐藤家を保存
に描かれています。普段は施錠されていま
する会」を発足させ、各種のイベントを行
すので、見学希望の方は連絡が必要です。
っています。
旧曽根村道路元標・旧升潟村道路元標・旧
鎧郷村道路元標(きゅうそねむらどうろげ
んぴょう・きゅうますがたむらどうろげん
ぴょう・きゅうよろいごうむらどうろげん
ぴょう)
道路の起点・終点を示す道路元標。191
9(大正 8)年、旧道路法施行令で各市町
村に道路元標を1個設置することが規定さ
慶安三年蒲原郡松尾村人御改帳(けいあん
れました。これらは1922(同11)年
さんねんかんばらぐんまつおむらびとおん
以降に設置されたようです。
あらためちょう)
所在地:新潟市西蒲区曽根・西蒲区大潟・
本帳は、表紙の下部に松之尾村又左エ門新
西蒲区天竺堂
田と並記してあり、松野尾、松山両集落の
「人御改帳」です。本帳は、各村の末尾に、
旧天竺堂村割地の籤箱1個・籤棒23本(き
松之尾村きもいり八左エ門以下組頭三名、
ゅうてんじくどうむらわりちのくじばこ1
又左エ門新田きもいり又左エ門の名と捺印
こ・くじぼう23ほん)
があります。原本そのものです。人改帳と
近世の頃、低湿地帯の洪水などの被害を均
しては、新潟県下唯一のものであり、近世
等に分け合うように割地制度が定められ、
初頭の村落構成を知るうえに貴重な資料で
定期的に耕地の割り替えが行われました。
す。美濃紙、長帳、仮綴、表紙共21丁。
この籤箱は、耕地の割り替えの際に使用さ
新潟市指定文化財。(個人蔵)
れたものです。
所在地:新潟市西蒲区松山
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区曽根1951西川学
習館内
249
西蒲区
慶長五年巻村検地帳(けいちょうごねんま
です。ゆるやかに掲げた左手に宝珠を乗せ、
きむらけんちちょう)
垂れ下がった右手に錫杖(しゃくじょう)
本検地帳の保存は比較的良好で、本文は全
を持ち繊細で流麗な描線、豊麗な着色と多
文読解可能ですが、表紙は半ば破損してお
種類の文様、円光、錫杖、衣文に置いた克
り全部は判読できません。本検地帳は、旧
明な切金の技術からみて平安期ころのもの
巻町の発生並びに発展の歴史上重要不可欠
と考えられます。上半部の保存が良くない
なものです。新潟県下においても数少ない
のが惜しまれますが、類例のない巻地区所
中世から近世にかけての資料で、平野部の
在の古代絵画として貴重です。
「在郷町」の発展を研究するのに貴重な学
新潟市指定文化財。
術的資料です。和紙、和綴、表紙とも60
所在地:新潟市西蒲区巻甲663
葉です。
新潟市指定文化財。
絹本著色不動明王二童子像(けんぽんちゃ
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
くしょくふどうみょうおうにどうじぞう)
郷土資料館
不動明王は、真言密教において教主大日如
来の変身仏として最も多く信仰されていま
顕如上人絵像裏書、親鸞聖人絵像裏書(け
す。巻神社神官久我家は元修験であり北国
んにょしょうにんえぞううらがき、しんら
文殊院金慶山正徳寺と号した寺院でした。
んしょうにんえぞううらがき)
本像は、その際、修験者の信仰の対象とな
近世初期の曽根村の村名が記載された、旧
ったものと推測されます。中央雲上に迦楼
西川町で最古のものとされています。蒲原
羅炎(かるらえん)を背負い、首に連珠の
平野における浄土真宗の伝播・真宗寺院の
瓔珞(えいらく)
(首飾り)を掛け、右手に
寺基確立に関する歴史的かつ重要な資料で
利剣、左手に羂索(けんさく)を持った不
す。
動明王が安座し、その下部左右に矜迦羅(こ
新潟市指定文化財。(個人蔵)
んから)
・制多迦両童子(せいたかりょうど
所在地:新潟市西蒲区曽根
うじ)が対座しています。不動明王は、両
眼を開き半開きした口から左右に利牙をの
絹本著色地蔵菩薩像(けんぽんちゃくしょ
ぞかせ比較的柔和な相です。絵画全般は、
くじぞうぼさつぞう)
迦楼羅炎、衣装の文様等において形式化が
堂谷山安養寺(浄土真宗本願寺派)は、元
うかがわれますが、二童子及び明王の条帛
天台宗で、寛永年間(1624∼1643)、
(じょうはく)、裳の写実的な点、さらに金
比叡山より赤塚(新潟市西区)を経て巻に
泥を混ぜた黄色絵具で描かれた肉身からみ
移転しました。この絵画は、寺宝として伝
て室町時代の作です。表装は極めて良好で、
えられており小野篁筆(おののたかむらひ
補修、補色は認められません。
つ)という伝承がありますが確証はありま
新潟市指定文化財。(個人蔵)
せん。地蔵菩薩像は、長く尾を引いた白雲
所在地:新潟市西蒲区巻甲
上の蓮座に乗り、ゆるく眼下を見下ろす姿
250
西蒲区
検見橇(けんみそり)
とり、胴部に最大径があります。口縁部は
本品は、杉材で作られています。踏板は失
「く」の字状に外反し、底部は丸底となっ
われ橇の部分も朽ち損じ、全般に傷んでい
ています。胴部全体には叩き整形が行われ、
るので、数年前鉄棒をもって型のくずれな
内面に同心円状、外面に格子目状の圧痕(あ
いように補強しました。明治の中頃、旧中
っこん)が覆っています。この須恵器甕は、
郷屋村の庄屋であった笛木守之氏の祖父が
9世紀中頃に佐渡の小泊窯で製造された製
実演した写真が保存されています。竹を立
品と推定され、本土側に搬送される途中、
てて該当の田を標示し、橇の通るところは
海難によって沈没したものとみられます。
稲を刈り、村役人や庄屋が後から説明のた
「タラバ」からは、これを含め古代・中世
め扈従(おとも)しています。橇は、前方
の陶器が時折発見され、当時の活発な海運
から綱で引いたり押したりして前へ進みま
活動をうかがわせる重要な物証となってい
す。本品は、低地帯特有のもので他に類品
ます。
を聞かず、当地方の民俗資料として重要で
新潟市指定文化財。
す。
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
新潟市指定文化財。
郷土資料館
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
郷土資料館
古瀬戸鉄釉瓶子(こせとてつゆうへいし)
本瓶子は、1745(延享2)年に馬堀の
香月堂小林鶯宿関係資料(こうげつどうこ
白山神社境内から出土したことが、木箱に
ばやしおうしゅくかんけいしりょう)
記された墨書によってわかる資料です。こ
1891(明治24)年、旧西川町矢島で
こは、
「館ノ腰」と呼ばれ、中世城館跡の一
誕生した小林鶯宿の俳諧に関する資料をま
角に位置しています。この瓶子の口は、後
とめたものです。この資料から、交流のあ
に補作されたものですが、
「車輪口」と呼ば
った人々の作品群や、小林鶯宿の活動の実
れる小さな口縁が想定されることや、
「直線
態をとらえることができます。資料は盛弘
胴型」をなす体部の形から、古瀬戸の中期
社芭蕉講軸物など19種と、山口嵐更半折
様式にあたる13世紀終わりころの製品と
ほか4点があります。
考えられます。肩の上部から施された釉薬
新潟市指定文化財。
(ゆうやく)は鉄釉が用いられ、長らく土
所在地:新潟市西蒲区曽根1951西川学
の中にあったためか、しぶく黒味がかかっ
習館内
た色調をしています。中世遺跡を対象とし
た近年の発掘調査を通じ、古瀬戸の出土例
五ケ浜須恵器甕(ごかはますえきがめ)
は増加していますが、このような全体形を
1897(明治30)年に五ケ浜の漁師遠
うかがえる資料はほとんどなく、現在にお
藤甚兵衛が、角田浜の沖合い10km ほど
いても貴重な1例ということができます。
の海域「タラバ」から、底引き網漁の際に
新潟市指定文化財。
引き揚げたものです。全体に卵形の形態を
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
251
西蒲区
郷土資料館
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区打越甲434澤将監
五之上村御検地帳
御米印帳(ごのかみむ
らごけんちちょう
おこめいんちょう)
の館内
1冊は1649(慶安2)年、もう1冊は
澤将監の館(さわしょうげんのやかた)
1868(慶応4)年のもので、なかに綴
1974(昭和49)年に「澤家もんじょ」
られている名前の多くは、現在の五之上地
が刊行され、これを機として、澤家に残さ
区に屋号として使われ残っています。
れていた家相図をもとに1994(平成6)
新潟市指定文化財。(個人蔵)
年に澤将監の館が復元竣工されました。母
所在地:新潟市西蒲区五之上
屋や雄大な松並木など、石高 5 千石といわ
れた大庄屋の姿をうかがい知ることができ
米百俵(こめひゃっぴょう)
ます。初代澤将監は、もともとは甲斐の武
三根山藩は長岡藩主牧野忠成の四男・定成
田家の家臣で、約400年前に亡命し越後
公(在1634∼1658)が6千石を分
に定住したといわれています。1994(同
地され、1634(寛永11)年に成立し
6)年に開館。同敷地内に資料館を併設し
た小藩でしたが、1871(明治4)年ま
ています。
で240年続きました。当初は、1万石以
新潟市指定文化財。
下だったため大名にはなれませんでしたが、
所在地:新潟市西蒲区打越甲434
将軍にも会える将軍直属の臣、直参旗本で
した。そして5代・忠知公(在1748∼
1785)のころから、歴代藩主は大名に
なる夢をもち、ついに1863(文久3)
年11代・忠泰公(在1857∼1891)
のとき1万1千石の大名となることができ
ました。史跡には牧野家勧進社「三根山神
社」、三根山藩の学問所跡「入徳館野外研修
場」牧野家の菩提寺「一山寺」、子育て地蔵
「茶塚」などがあります。
三十三体観音像(さんじゅうさんたいかん
戊辰戦争の際、本家長岡藩へ米百俵を送っ
のんぞう)
た話はあまりにも有名です。
打越集落の豪族河治近右エ門が石瀬村の種
月寺の名僧に帰依し、念願が叶い西国の霊
澤家文書(さわけもんじょ)
場33ヵ所を巡礼しました。
和紙・大和綴(袋綴じ)された近世の文書で、
後に33体の観音像を刻み、種月までの道
他国豪族の配置、起用、処遇や地域開発史、
中に点在供養を計画しましたが、名僧の教
農村経営の一端がうかがえます。総数は1,
えで1652(承応元)年、ここに安置さ
000点を越えます。
れたといわれます。
252
西蒲区
観音像は比叡山の仏像に似ていることから、
土蔵・物置・小屋などがありました。19
京都地方の石工の作と伝えられます。
78(昭和53)年に、このうち母屋が現
新潟市指定文化財。(個人蔵)
在地に移築復元されています。住宅隣りに
所在地:新潟市西蒲区打越
設置された収蔵庫には、廃村前に収集され
た民具も保存されていて、失われた村「角
自然釉甕(しぜんゆうがめ)
海村」の生活をしのぶ資料となっています。
1927(昭和2)年の耕地整理の際に、
新潟市指定文化財。
竹野町地内の「石塔島」から発見されたも
所在地:新潟市西蒲区五ケ浜2453
のです。中に数枚の銅銭が入り、直立した
状態で出土したといわれます。付近が古墓
下大原村御検地帳並に地図(しもおおはら
跡とされる点からも、陶棺として使用され
むらごけんちちょうならびにちず)
ていたと考えられます。本甕は、越前焼で
1726(享保11)年、下大原村の新田
算盤玉に似たプロポーションをもちます。
改めの記録と、下大原村を中心にした周辺
製作方法は粘土紐の輪積みによっており、
村落の主要な用排水路が描かれた地図です。
内面に成形時の指痕が明瞭に残されていま
新潟市指定文化財。
す。胴の肩から口縁にかけては、窯の中で
所在地:新潟市西蒲区三方92潟東歴史民
降灰によって生じた灰緑色の自然釉に覆わ
俗資料館内
れています。製作年代は、
「く」の字に外反
する口縁部の端が平らに面どられることか
下城(しもじょう)
ら14世紀前半と考えられ、中世越前甕の
下城は、旧町内に現存する唯一の山城で、
全体形をとどめる数少ない出土例といえま
主郭(城の中心部)、腰曲輪(主郭の回りに
す。
設けた細長い平坦地)、土塁、空濠などが残
新潟市指定文化財。
されています。東西約100m、南北50
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1
m のボート状をなし、内部は大略三段構え
巻郷土資料館
で、頂上の細い郭(長さ60m、幅7∼1
0m)を中核として南及び西側には腰曲輪、
篠原幸三郎住宅(しのはらこうざぶろうじ
帯曲輪がとりまき、北側は大きく湾入して
ゅうたく)
急崖となっています。水源としては、東端
篠原家住宅は、1974(昭和49)年に
崖下に湿地があり、湧水があったと考えら
廃村となった「越後毒消しの里」角海浜集
れます。空濠は、西側を広く囲む帯曲輪の
落の典型的な中流民家です。明治初年に建
北西に一条明瞭に認められるほか、現在通
築されたと推定されますが、ほとんど新築
路になっている切り通しには当然空濠が設
当時そのままの状態に保存されており、蒲
けられていたと推定できます。遺物は、1
原地方の民家研究にとって欠くことのでき
4世紀末期の越前焼の甕の破片と、15世
ない貴重なものです。母屋は、茅葺き・寄
紀の珠洲焼(すずやき)の甕の破片2点が
棟・平入り・土台造りで、付属建物として
あります。
253
西蒲区
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区善光寺
所在地:新潟市西蒲区竹野町
浄専寺(じょうせんじ)
種月寺本堂(しゅげつじほんどう)
新潟市西蒲区石瀬にある真宗大谷派の寺院。
新潟市西蒲区石瀬にある寺院で、1446
慶長年代(1596∼1614)、堀川庄兵
(文安 3)年、曹洞宗の高僧、南英謙宗に
衛と一族が信州水内郡から石瀬に移住し、
より開山されました。当時の守護、上杉房
寺を創建したとされます。石瀬は1815
朝が村上耕雲寺3世南英謙宗に要請し建立
(文化12)年に与板藩領となり、寺院の
されました。石瀬は、上杉氏と親しい小国
ある土地が与板城築城の予定地となったた
氏の拠点の一つであり、小国氏の保護の下
め、1816(同13)年に現在地に移さ
栄えました。種月寺は曹洞宗越後4大道場
れました。本堂や鐘楼、一切経蔵、庫裏書
の1つとして多くの修行僧が修業に励みま
院、庭園などの移築、新築が行われ、18
した。当時の勢力はかなりのもので、末寺
18(文政元)年に完成しました。
が100余りあったと言われています。火
浄専寺の庫裏書院南庭は1816(文化1
伏せに霊験あらたかで、毎年6月19日の
3)年、寺院の移築時に造園された枯山水
開山忌には防火の護符が配布されます。
庭園。1990(平成2)年に新潟県の文
国指定文化財。
化財に指定されました。作者は通称「ねこ」
所在地:新潟市西蒲区石瀬3356
と呼ばれた三条の美石という庭師とされて
います。京都室町文化の影響が見られ、石
組みにはこの土地の自然石が使われていま
す。
浄専寺には親鸞聖人の形見の御木像が安置
されています。親鸞聖人は1207(承元
元)年に越後の国府(現上越市)へ配流さ
れ、越後に滞在していた間に彌彦神社へ参
詣したとされています。その際に滞在した
林部家の者が、後に形見として親鸞聖人に
承応3年∼明治初年までの庄屋文書(じょ
彫っていただいた御木像がありました。御
うおう3ねんからめいじしょねんまでのし
木像は「聖人清水」に安置されていました
ょうやもんじょ)
が、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
蒲原平野の低湿地帯に住んでいた人々の開
で破壊されようとする前に、林部家により
墾への努力を語る史料として、善光寺村の
浄専寺に移されました。その後、傷みの激
庄屋高橋家に伝存されてきた文書。善光寺
しかった御木像は、2005(平成17)
如来関係の宗教的な史料としても重要なも
年に京都の大仏師、松本明慶氏により修復
のです。269通あります。
されました。
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区石瀬3743
254
西蒲区
浄福寺法宝物(じょうふくじほうほうもつ)
され、鉄板葺で覆われています。
筑波山玉川院浄福寺(真宗大谷派)の開基
新潟市指定文化財。
は、常陸国水戸の城主佐竹義明の孫、同国
所在地:新潟市西蒲区高野官1770
筑波郡八田荘の地頭八田七郎知朝です。1
221(承久3)年、親鸞聖人の関東御化
真宗本山講中「御書」
(しんしゅうほんざん
導(ごけどう)にあい、その直弟子となり、
こうちゅう「ごしょ」)
入信と名付けられました。三世唯信の代に、
江戸時代、キリスト教は厳しく禁止され、
戦乱を避け角田山麓大谷村(稲島地内)に
幕府は仏教を盛んにしようとしました。寺
移り、1423(応永30)年に現在地に
院は本山の指定した講中をもって活動しま
移転します。現在、浄福寺には親鸞聖人の
した。明治時代になって、廃仏皝釈(はい
時代である鎌倉時代から、石山合戦のあっ
ぶつきしゃく)運動が起きた為、仏教信仰
た天正年間(1573∼1591)までに
の団体である講中は消えていきましたが、
作製されたと思われる法宝物26点(彫刻
打越地区だけに残っていました。その中心
7点・絵画9点・書跡5点・古文書5点)
が「御書」は巻物の形になっていて、金蒔
が大切に保管されています。
「親鸞聖人真向
絵漆箱に入っています。
御影(しんらんしょうにんまむきのみえ
新潟市指定文化財。
い)」
・
「本願寺顕如印判状(ほんがんじけん
所在地:新潟市西蒲区打越2408
にょいんばんじょう)」・「本願寺軍議御影
(ほんがんじぐんぎみえい)」など興味深い
沙山遺跡出土中世釣針(すなやまいせきし
ものがあり、真宗寺院の軌跡を辿ることの
ゅつどちゅうせいつりばり)
出来る貴重な歴史資料です。
沙山遺跡は、角海浜の中央に位置する城願
新潟市指定文化財。
寺跡の深層から発見された中世の村落跡で
所在地:新潟市西蒲区竹野町 2617 甲
す。1983(昭和58)年の発掘調査で
中世陶磁器類と共に、鉄製の釣針などの各
新光寺山門(しんこうじさんもん)
種漁具や魚骨が出土し、全国的にも調査例
1536(天文5)年に建立、武家門とし
の少ない14∼15世紀の漁村跡であるこ
て室町時代の代表作で、中之口地区では最
とがわかりました。鉄製釣針は220点あ
も古い建造物です。4脚門で武家門の造り
まりにのぼります。すべてが鍛造品のため
といわれています。本柱は円柱で控柱は方
作りに多少のバラエティーはみられますが、
柱、腰長押、冠木、方立、蹴放し、礎盤が
軸の直径1mm たらず全長1.7∼2.6
敷かれ、扉は欅材で乳金具、入八双金具、
cm で半数以上に精巧なカエシが付けられ
菱金具があります。礎間は2.4mの3.
ています。サイズの類似性や特定箇所から
1mで、大虹梁と二重虹梁の間に蟇股があ
の集中的な出土状況からみて、延縄漁に用
り、屋根は切妻造り、千鳥破風、拝懸魚や
いられた可能性があります。これらは、中
桁隠懸魚がついています。垂木は平行繁垂
世釣針の出土数として全国最多を誇り、現
木で、以前は茅葺でしたが、室戸台風で壊
代につながる細型釣針の出現期を知る上で
255
西蒲区
きわめて重要な資料と位置づけられていま
善光寺如来堂本尊(ぜんこうじにょらいど
す。
うほんぞん)
新潟市指定文化財。
木造善光寺式阿弥陀如来三尊像三軀
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
如来堂の本尊として安置されているのが、
郷土資料館
この善光寺式阿弥陀如来三尊像。
年代の確定はできませんが、中尊の阿弥陀
聖観音立像(せいかんのんりつぞう)
如来像は室町時代、両脇侍は江戸時代とみ
茨島の西村家に伝わる仏像。1736(元
られます。
文元)年に発掘されたというものです。
厨子(ずし)は長岡藩主牧野忠寿が大阪で
新潟市指定文化財。
作らせたといわれています。
所在地:新潟市西蒲区茨島1119
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区善光寺42
青龍寺の笈摺(せいりゅうじのおいずる)
新潟市西蒲区石瀬にある青龍寺は、県内屈
善養寺山門(ぜんようじさんもん)
指の古さを誇る古寺名刹です。この寺に「弁
1818(文政元)年の棟札が残っていて、
慶の笈摺」と伝承される「笈」が保存され、
大ぶりな茅葺屋根と欅材を多用し、雄壮な
多宝山系の山岳信仰を証する遺物と推測さ
建造物でしたが、1976(昭和51)年、
れています。面全体を覆う金銅鍍金装(と
銅板瓦葺に改築されました。
きんそう)の打出し文様、毛彫り文様は絢
新潟市指定文化財。
爛豪華。室町時代∼桃山時代の制作と推測
所在地:新潟市西蒲区熊谷1051
されます。
新潟市指定文化財。
善養寺の阿弥陀如来像(ぜんようじのあみ
所在地:新潟市西蒲区石瀬3674
だにょらいぞう)
寄木造の高さ150cm の仏像で、平安時
善光寺如来堂1棟(ぜんこうじにょらいど
代初期の作品といわれます。
ういっとう)
新潟市指定文化財。
如来堂は、木造平屋建入母屋造銅版葺で、
所在地:新潟市西蒲区熊谷1051
梁間4間、桁行3間の平側に唐破風のつい
た向拝1間を持ち、平面がほぼ正方形の建
曽根郷耕地整理組合第一区整理略図(そね
物です。
ごうこうちせいりくみあいだいいっくせい
全体がけやきづくりで装飾が多く、唐様の
りりゃくず)
影響が強く、豪華さが目立つ建築物。毎年
曽根郷での耕地整理後の換地の借地番と本
8月16日に御開帳します。
地番を示したもので、第一区の耕地整理後
新潟市指定文化財。
の状況が一覧できます。農地分合の資料と
所在地:新潟市西蒲区善光寺42
して活用されたこともあります。
新潟市指定文化財。(個人蔵)
256
西蒲区
所在地:新潟市西蒲区曽根
す。
国登録文化財。
曽根神社のケヤキ(そねじんじゃのけやき)
所在地:西蒲区岩室温泉667−7
地域住民から崇拝を集める御神木。別名「子
持ち欅」。西川の堤防変更にともない曽根神
高橋源助の首塚(たかはしげんすけのくび
社が現在の位置に遷座し、堤防上に植えら
づか)
れていた欅も神殿の前に場所を移したと伝
旧曽根村庄屋の高橋源助は、用水確保のた
えられています。
め計画を練り、用水路掘削のための調査と
新潟市指定文化財。
測量を行いました。そして曽根郷400町
所在地:新潟市西蒲区曽根199
歩を干害から救おうと巻割前から用水路を
掘りましたが、旧長岡藩の役人など源助の
曽根村道図(そねそんどうず)
功績をねたむ者たちの策謀で樋管の中に板
役場の更正図の写しを取りまとめて、曽根
をはめられたため、通水ができませんでし
村道を一覧できるようにしたものです。農
た。
業生産力向上の基礎となる耕地整理の許可
源助は工事強行の責めにより打ち首となり
申請資料のために作成されました。
ましたが、板を口にくわえた源助の首が樋
新潟市指定文化財。(個人蔵)
管から押し流され、水上に浮かびました。
所在地:新潟市西蒲区曽根
源助の一身をかけた犠牲により、曽根村耕
地の水不足は解消し、200町歩の水田が
曽根代官所(そねだいかんしょ)
潤沢に用水の恵みを受けることができたと
曽根代官所は1620(元和6)年から1
いわれています。
868(慶応4)年の長岡藩落城までの2
源助の首は漂着地に埋葬され、現在首塚と
50年間ありました。
して残っています。
現在は当時の代官所をしのぶことはできま
せんが、樫の木が曽根小学校に残っていま
す。
高島屋
主屋・土蔵・旧米蔵(たかしまや
しゅおく・どぞう・きゅうこめぐら)
1713(正徳 3)年、岩室温泉を発見し
たという伝説の残る庄屋、南北棟の民家を
主体部とし、主体部は差鴨居を多用した江
戸後期の特徴、玄関は入主屋造り。土蔵は
2階建置屋根式切妻造り、柱は1尺5寸間
隔で強固な軸です。旧米蔵は平屋建で同様
な造り、上層農家の屋敷構成を示していま
257
西蒲区
武田信玄・勝頼の感状(たけだしんげん・
鼉龍鏡(越後国菖蒲塚古墳出土品)
(だりゅ
かつよりのかんじょう)
うきょう<えちごのくにあやめづかこふん
和紙・掛軸、中世の資料。澤家初代の澤将
しゅつどひん>)
監はかつて武田信玄の家臣であり、活躍を
江戸時代に菖蒲塚古墳の後円部から出土し
讃えて信玄、勝頼から授けられたものです。
たと伝えられる鏡です。本鏡は大型国産鏡
新潟市指定文化財。(個人蔵)
で銅・錫・鉛を主成分とする青銅が使用さ
所在地:新潟市西蒲区打越甲434澤将監
れています。背面には、中央に鋳出された
の館内
鈕の周囲に複雑・精緻な文様が描かれてい
ます。図像は、鋸歯文帯(きょしもんたい)
館柳湾遺品(書翰・印刻・看板・墨書)
(た
によって内・外 2 帯に分けられます。内側
ちりゅうわんいひん<しょかん・こくい
の主文様は、円錐形の乳により4単位に分
ん・かんばん・ぼくしょ>)
割され、頭を鈕に向けた神像とその両側に
幕末の漢詩人館柳湾(名は機、通称「雄次
2種の神獣が配されています。周囲の外区
郎」・字は枢卿(すうきょう)(1762∼
には飛禽文(ひきんもん)と呼ばれる画文
1844)は、新潟の小山弥右衛門の家に
帯と菱雲文帯が同心円状にめぐります。鼉
生まれますが、幼くして父母に先立たれ、
龍鏡は、中国の画文帯神獣鏡を模したと考
9歳の時に巻の豪商「館源」こと館家の養
えられ、基本型の簡略度から5類型に区分
子になります。1783(天明3)年、江
されています。本例はそのⅡ型にあたり、
戸に出て亀田鵬斎に師事。詩を学び、幕臣
4世紀後半に製作された初期国産鏡の優品
小出大介に仕官、飛騨高山などに赴任し、
とされています。
勤務の傍ら漢詩に専念。
「西に竹田、東に柳
新潟県指定文化財。(個人蔵)
湾」と頼山陽に称されるほどになりました。
所在地:東京国立博物館
1844(元年)年、江戸目白台の居宅に
て83歳で没します。現存する館柳湾の遺
長徳寺山門(ちょうとくじさんもん)
品は下記の通りで、旧巻町の館家に大切に
鐘楼を重ねた二層の山門で、2 階の上梁に
保存されています。これらの資料は、文政・
大鐘が吊るされています。1838(天保
天保年間(19世紀中ごろ)の約36年間
9)年の棟札が残っていて、欄間(らんま)、
にわたる文人柳湾の伝記資料として欠くべ
蟇股(かえるまた)、挙鼻(こぶしばな)、
からざるものです。また当時の社会情勢を
梁下(はりした)に色彩の痕跡をとどめる
知る好資料で、当地区として重要なもので
彫刻が残っています。
す。1、館柳湾書翰49通
新潟市指定文化財。
「館花」看板1枚
2、館柳湾書
3、館柳湾自刻印四顆
所在地:新潟市西蒲区横戸313
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区巻甲
258
西蒲区
土屋家文書(つちやけもんじょ)
村政、租税、土地、戸口、土木、水利など
内容が多岐にわたるこの文書から、村の成
立や新田開発者の家族構成、西汰上村(に
しよりあげむら)の人口推移や長岡藩の村
民の生活などが明らかにされました。60
7点あります。
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区西汰上
天正の狛犬(てんしょうのこまいぬ)
青味の石材で、エジプト、イラン地方の中
東系獅子。神殿安置型。
川治近右エ門が下野の国川治の郷から移住
銅造聖観音立像(どうぞうしょうかんのん
する際に二荒社を祭神として祀った際に安
りつぞう)
置した狛犬です。
光明山遍照寺(真言宗智山派)は、佐渡か
新潟市指定文化財。(個人蔵)
ら角田浜「ボウクボウ」に移転し、さらに
所在地:新潟市西蒲区打越
赤鏥に移ったとの寺伝があります。本像は、
同寺観音堂の本尊で銅造鍍金像ですが、現
天神山城址(てんじんざんじょうし)
在は頭部の数箇所に鍍金が残るのみです。
天神山城は、石瀬と岩室温泉の境にそびえ
全体的に黒漆をかけてありますが、剥離し
ている海抜234mの堅固な山城で、中世
た部分をみると紫銅色でいずれの時代にか
の城郭跡がほぼ完全な姿で残っています。
被災したことを示しています。右および垂
南北に走る尾根には大小7本の空壕が配さ
れ下がる左右の天衣の破損もその時のもの
れ、付近に土塁、石塁、ひょうたん池が残
と推測されます。清純明朗で温和な相好か
っています。1153(仁平3)年、源三
らみても奈良時代の作で、巻地区最古の仏
位頼正の弟、小国頼行が築城し、当地を中
像として貴重です。
心に勢力を伸ばしました。1582(天正
新潟市指定文化財。
10)年上杉景勝の命により「天地人」の
所在地:新潟市西蒲区赤鏥572甲
主人公直江兼続の弟、大国実頼が城主とな
り、1598(慶長3)年、秀吉の命によ
中才遺跡出土品
り上杉家が会津国替えに際し廃城となりま
ゅつどひん
した。
1962(昭和37)年 3 月、西川中学校
新潟市指定文化財。
から北西へ約550mの付近で発見された
所在地:新潟市西蒲区石瀬・岩室温泉・間
遺物。写真の横ヘイ(公に瓦)ほか、土師
瀬
器、須恵器壷、椀、皿などが出土し、一括
259
一括(なかさいいせきし
いっかつ)
西蒲区
して文化財に指定されました。
約36年の年月を費やして「祖書綱要」2
新潟市指定文化財。
3巻の草稿を成しました。しかし、余り広
所在地・新潟市西蒲区曽根1951西川学
義にわたったため、1798(寛政10)
習館内
年、当時角田山妙光寺住職にあった日壽が、
懇請されて同書の略稿を作りました。
「中之口音頭」歌碑(
「なかのくちおんど」
新潟市指定文化財。
かひ)
所在地:新潟市西蒲区角田浜1056
中之口村50周年を記念して「村のうた」
である中之口音頭を後世に残すため、村民
布目遺跡出土尖底深鉢形土器(ぬのめいせ
及び村出身者から寄付を募り建立しました。
きしゅつどせんていふかばちがたどき)
2004(平成 16)年 7 月 19 日には補
布目遺跡は、布目集落西端から稲島方面へ
作詞・作曲をした遠藤実氏を招き、除幕式
張り出す低い砂丘上に立地する縄文時代前
が行なわれました。
期初頭(6,000年前)の集落跡で、新
潟砂丘に印された最古の居住地として知ら
南英謙宗墨跡書籍(なんえいけんしゅうぼ
れています。底が尖ったこの土器は、昭和
くせきしょせき)
20年代の地下げ作業の際、発見されまし
種月寺を開いた南英謙宗は、五位思想家の
た。幅の狭い結束羽状縄文をほぼ全面に施
第一人者でもあり、種月寺に自筆の「続鼓
した後、口端と口縁下に爪形刺突が加えら
缶軒記」(ぞくこふけんき)「顕訣耕雲註種
れています。器体上半に煤(すす)の付着
月攟摭藳」
(けんけつこううんちゅうしゅげ
が著しく、煮たきに使われたことがうかが
つくんせきこう)の墨跡が保存されていま
えます。類似資料は、山形・福島・宮城県
す。22冊。
などにも分布し、東北的な色彩の強い「羽
新潟県指定文化財。
状縄文土器群」の典型例と位置づけられま
所在地:新潟市西蒲区石瀬3356
す。布目遺跡では、このほか丸底や平底を
なす深鉢も出土しています。これらは一括
日壽筆
つ
祖書綱要冊略稿本(にちじょうひ
して「布目式土器」と呼ばれ、平底が一般
そしょこうようさつりゃくこうぼん)
化する直前の過渡的性格をもった土器群と
本書は、角田山妙光寺(日蓮宗)35世日
考えられています。
壽真筆の稿本で、日蓮宗教学の概説書とし
新潟市指定文化財。(個人蔵)
て古典的価値をもつ名著です。日壽は、旧
所在地:東京国立博物館
西川町曽根に生まれ房州中村檀林(江戸時
代の僧侶の学校)に学び、学僧として最高
年貢割付状及び皆済目録(ねんぐわりつけ
の栄誉ある「化主」に推薦され、日蓮宗教
じょうおよびかいさいもくろく)
学史上大きな足跡を残した名僧です。17
免状や御取箇とも呼ばれる年貢割付状。江
50(寛延3)年、中村檀林の青年学徒た
戸時代は村単位で租税が割り付けられてお
ちがはじめて日蓮宗教義の体系化を企て、
り、持ち高に応じてその年の納入高が決定
260
西蒲区
されました。この年貢割付表により当時の
年貢率がわかります。181通あります。
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区真田
年中故事(ねんちゅうこじ)
角田浜の乙始山願正寺(浄土真宗本願寺派)
27世の耳理師によって、1846(弘化
3)年から1866(慶応2)年までの2
1年間にわたって筆録された日誌です。
日誌は願正寺を中心とした寺院活動が詳細
羽黒山銅像(はぐろやまどうぞう)
に書かれていますが、単なる寺務記録にと
1994(平成 6)年、中之口地区出身の
どまらず、角田浜周辺漁村の漁業や製塩、
第36代横綱羽黒山政司(本名小林正治)
出稼ぎなどの生業のほか、幕末の動乱期に
の銅像が建立されました。所在地は羽黒山
おける周辺の村落を含めた庶民の生き様が
が1928(昭和 3)年に卒業した当時の
生々しく描かれています。
松長村松長東尋常小学校(後に中之口村立
近世末期における幕藩体制下の寺請制度の
南小学校)跡地。彫刻は宮越敏夫、業績の
寺院活動を具体的に知ることができるばか
記念碑は江川蒼竹によるものです。また、
りではなく、近世史や民俗学にとっても欠
農村環境改善センターの多目的ホールには、
くことのできない貴重な資料です。
小野塚喜一による額絵が取り付けられてい
新潟市指定文化財。
ます。
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
郷土資料館
のぞきからくり
巻郷土資料館に展示。
明治、大正時代の放浪芸の1つとして縁日
の見世物の花形でした。道具立てが完全で
しかも保存良好なものとしては全国的に珍
しいものです。
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
郷土資料館
261
西蒲区
判官舟かくし(はんがんふなかくし)
があり近世村落の成立、発展を語る資料と
本海蝕洞は、角田埼灯台の真下に角田岬安
して重要です。また、1627(寛永4)
山岩層と呼ばれる溶岩流と火山角礫岩の多
年閏6月「鳥原両堤難場三ケ所普請諸入用
い海蝕崖の破れ目にそって弱い部分が浸食
割賦帳」など三潟関係文書、御用留、一件
されてできました。本海蝕洞は、入口から
留、絵図等は、特に旧巻町にとって貴重な
二つの洞穴に別れていて、大きな洞穴は奥
資料です。一件留中には、1833(天保
行き28m、小さな洞穴は奥行き14m で
4)年、1834(同5)年の底樋増設、
す。この入口付近は年によって砂に埋もれ
新川堀広げの出来形帳2冊を含んでいます。
たり深くえぐられたりしています。伝説に
新潟市指定文化財。(個人蔵)
よれば、1187(文治3)年3月、判官
所在地:新潟市西蒲区中郷屋
であった源義経が兄の頼朝に追われ、奥州
平泉に落ち逃げる際、追手を逃れて舟と共
前平野窯跡出土須恵器(まえひらのかまあ
に身を隠した洞穴と伝えられています。
としゅつどすえき)
新潟市指定文化財。
鎧潟の干拓に伴う土砂採取時に、仁箇集落
所在地:新潟市西蒲区角田浜
南方の前平野地区から出土した須恵器の窯
跡資料です。大甕の肩に口径10∼11
樋切遺跡(ひきりいせき)
cm・高さ3.5∼4cm の有台坏を並べて
1955(昭和30)年の土地改良耕作地
焼成する過程で、強い火勢を受けて変型・
整理工事の際に奈良・平安時代から中世頃
釉着したもので、両者の形態から9世紀初
のものと思われる須恵器、土師器などが発
頭の焼成品と考えられます。8世紀から9
見されました。
世紀の越後や佐渡では、一郡1∼2ヵ所の
新潟市指定文化財。(個人蔵)
須恵器窯が分布し、弥彦・角田山周辺にお
所在地:新潟市西蒲区五之上
いても下木島地内の重稲場と前平野窯跡が
知られています。一方、9世紀に入ると佐
笛木家文書(ふえきけもんじょ)
渡小泊で須恵器生産が始まり、その製品が
本書は、割元格庄屋でもあり、三潟惣代庄
越後へ供給されるにつれて、在地窯の操業
屋でもあった中郷屋村庄屋笛木家に伝わる
は終息へ向かうようになります。この資料
文書で、その数400点余りにおよび、承
は、在地窯での須恵器生産を示す典型例で
応(1652∼1654)以前のものと思
あると共に、焼成時の姿を伝える貴重な一
われる27点を含みます。
「1665(寛文
例ということができます。
5)年3月吉利支丹御改之帳」のほか、万
新潟市指定文化財。
治・延宝・元禄・享保・延享年間の吉利支
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
丹御改之帳をはじめ割地制度に関すると推
郷土資料館
察される「1781(天明元)年10月代
地割帳」・「1782(天明2)年2月畑方
内平均帳」以下数冊の平均帳、年貢割付帳
262
西蒲区
巻館跡(まきたてあと)
十四詩品ともいう)を、菱湖が書き写した
巻館跡は、市街地の北端に位置する中世館
ものです。この詩論の書は、詩の様式を2
跡です。堀に囲まれた長方形の館とみられ、
4体に分け、各体とも四言の韻語12句を
東西135m・南北160m 余りにおよぶ
もって、著者の豊かな感覚で解説したもの
大規模なものと推定されます。現在は、そ
です。本作品は、脂の乗りきった50代半
の北西隅と南西隅に標柱が建てられていま
ばの菱湖の絶品で、まさしく幕末三筆にふ
す。巻館の起源については不明ですが、新
さわしい日本書道史の貴重な遺品といえま
発田合戦の最中の1584(天正12)年
す。
4月に、三条城将甘糟長重が上杉景勝にあ
新潟市指定文化財。
てた書面の中に「真木の地之事」と記され
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
ています。そして合戦の終了した2年後に
郷土資料館
は、巻城主として西山庄左衛門の名が登場
します。その後、上杉氏が会津に移封され
間瀬銅山跡(まぜどうざんあと)
る1598(慶長3)年には庄左衛門も同
1700(元禄13)年、田辺善兵衛と清
行し、間もなく巻館も廃城になったと考え
水八左衛門により開業され、最盛期の大正
られます。この館跡では、15世紀の珠洲
元∼4年頃は270人余りの労働者が住ん
焼や中世土師器がこれまでに採集されてお
でいたと云われ、採掘される銅は、優れた
り、存在の一端を知ることができます。
品質から主として燕銅器の原料に使われま
新潟市指定文化財。
した。
所在地:新潟市西蒲区巻甲3104番地・
新潟市指定文化財。
新潟市西蒲区巻甲3028
所在地:新潟市西蒲区間瀬
巻菱湖筆
松丘立生詩歌集(まつおかりっしょうしい
ょうこひつ
司空表聖詩品二十四章(まきり
しくうひょうせいしひん24
かしゅう)
しょう)
本詩歌集は、松野尾の医師中川立生(18
旧巻町に生まれた巻菱湖(姓巻氏、偉大任、
34<天保5>年3月23日没、享年66
1777∼1843)は、書家・詩文家と
歳)の短歌148編、漢詩74編を収めま
して優れ、幕末の三筆(巻菱湖・市河米庵
す(表紙を含め114丁、その他数枚は散
(いちかわべいあん)
・貫名菘翁(ぬきなす
逸の疑いがあります)。本書において特筆す
うおう))と称せられました。その書風は、
べきことは、良寛が添削したことです。良
明治・大正時代の初等科書道を風靡したこ
寛が添削した総数は178点で、本詩歌集
とは周知の通りです。多くの遺品の中で巻
全体の88%にもあたります。当時、街道
郷土資料館が所蔵する金字の「司空表聖詩
筋の松野尾を中心とした文化人たちの動向
品二十四章」2帖は、装丁も豪華で逸品で
がうかがえるだけでなく良寛研究のうえか
す。本品は、中国唐代末期の詩人、司空図
らも貴重な資料です。もと美濃紙小帖、横
(字表聖、837∼908)の詩論の書(二
綴、22cm×16.5cm。
263
西蒲区
新潟市指定文化財。(個人蔵)
万福寺九世悦巌素折遺墨(まんぷくじきゅ
所在地:新潟市西蒲区巻甲
うせいえつがんそきんいぼく)
悦厳素忻は、備中玉島の円通寺(良寛の修
松岳山城址(まつたけやまじょうし)
行地)開山の西来派の祖となった徳翁良高
天神山城の支城の役割を果たしていたと考
(とくおうりょうこう)の法系を嗣いで越
えられ要塞の跡が残っています。岩室温泉
後の宗師として重きをなした大徳の禅僧で
を見下ろす位置に立ち別名「松ゲ嵩山城」
す。良寛研究が進められている中で、西来
とも呼ばれ、山は別名「岩室富士」と呼ば
派の大徳と良寛の関係が次第に明らかにな
れています。
りつつあります。良寛の師、国仙は諸国行
新潟市指定文化財。
脚の途中、悦厳に参叩して教えを受けたと
所在地:新潟市西蒲区岩室温泉
いわれています。また、修行時代の良寛が
相見の師として敬慕した大而宗龍(だいじ
馬堀用水遺跡(まぼりようすいいせき)
そうりゅう)は、悦厳門下の高弟であるこ
「馬堀用水」は、西川から引水、岩室を通
とが明らかになってきました。遺墨5点は、
り、馬堀(栄町)地内に入り、広範囲の美
悦厳が12年間住山した普門山万福寺(曹
田を潤し創設時の原型が残存しています。
洞宗)に収蔵されてきたもので、道元清規
開発者田辺小兵衛は、1615(元和元)
に徹した禅者の高風をしのばせる貴重な資
年馬堀村に生れ名主となりました。当時馬
料です。
堀村は、用排水の便悪く旱水害(ひでりと
新潟市指定文化財。
洪水)が多く、この惨状を見て私財を投じ
所在地:新潟市西蒲区仁箇2158
測量、用水路開削を計画、長岡藩主に直訴
数十回、やっと着工の許可を得て1644
水沢新田村御検地帳並に古文書(みずさわ
(正保元)年、宿願の大用水筒開発に成功
しんでんむらごけんちちょうならびにこも
しました。しかし、翌年独断事業であると
んじょ)
公儀の調べを受け、入獄、自殺をします。
1726(享保11)年のものであり、村
時に1645(同2)年7月25日、30
落の創立当時(承応年間1652年)から
歳の若さでした。没後、107年目の17
1877(明治10)年頃までの集落行政
52(宝暦2)年、村人はその功績を讃え、
の文書類で、水争いに関する記録が多くみ
三根山藩領主の許しを得て建立したのが
られます。1973(昭和48)年、旧潟
「首塚」の異名のある「長恩院石塔」です。
東村指定文化財。
毎年8月25日に祭礼「首塚まつり」があ
新潟市指定文化財。
ります。小兵衛の死は、義民佐倉宗吾郎処
所在地:新潟市西蒲区三方92潟東歴史民
刑の1653(承応2)年に先立つこと8
俗資料館内
年で義民の草分的な存在として重要です。
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区馬堀
264
西蒲区
南赤坂遺跡出土
古墳時代北方系土器(み
なみあかさかいせきしゅつど
城産と見られる蛇紋岩を多用することから、
こふんじだ
それらの多くは石材原産地付近で製作され
いほっぽうけいどき)
たと考えられます。
「の」字状垂飾に見られ
菖蒲塚古墳の西1km たらずに位置する南
る広大な流通網は、ヒスイ製品の出現に先
赤坂遺跡は、4世紀半ばから終末にかけて
立つもので、縄文時代における交易活動の
営まれた集落跡で、山谷・菖蒲塚の古墳造
大きな転機を示しています。このような完
営期に使用された古式土器師と共にまとま
全な形での出土例は、現在のところ5点を
った量の北方系土器が出土しています。そ
数えるにすぎず、全国的に貴重な資料とい
れらは、「後北 C₂・D 式」に比定できる北
うことができます。
海道系の続縄文土器、続縄文と古式土器師
新潟市指定文化財。
の特徴を合わせもった「折衷土器」
、樺太な
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
いし、沿海州とのつながりを示唆する異質
郷土資料館
な土器からなり、北方系土器製作者の移住
を示す日本海側の南限資料となっています。
三根山藩(みねやまはん)
対照的に、当地は日本海側沿岸部における
三根山藩は峰岡藩ともいわれます。187
前期古墳の北限にもあたっています。西方
0(明治3)年、丹後峰山藩とまぎらわし
古墳文化と北方異文化の接触・融合は、情
いことから峰岡藩と改めました。1863
報や物質の交換を目的とした可能性が高く、
(文久3)年2月∼1871(明治4)年
国家形成期に果たしたこの地の重要な役割
7月の廃藩置県まで藩として存在しました。
を物語ります。
長岡藩の牧野忠成が四男定成に自領から蒲
新潟市指定文化財。
原郡上和納村ほか約六千石余りを分けたこ
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1巻
とから、三根山領が始まります。しかし、
郷土資料館
表高が一万石未満であったため、大名では
なく旗本にとどまっていました。しかし1
南赤坂遺跡出土「の」字状垂飾(みなみあ
863(文久3)年、11代藩主忠泰の請
かさかいせきしゅつど「の」じじょうすい
いにより六千石分から込高分を打ち出して
しょく)
一万一千石とし、大名に加わりました。三
縄文時代前期終末から中期初頭(5,00
根山藩の陣屋は峰岡(旧巻町)の地にあり
0年前)にかけて用いられた装身具。蛇紋
ます。戊辰戦争後の1870(明治3)年、
岩を石材とした美しい製品で、厚さ3mm
苦境に陥った長岡藩に支藩であった三根山
たらずの環の頂部に紐かけ用の小さな穴が
藩は救援米を送りました。この米をすぐに
あけられています。現在、この種のペンダ
食べてしまわず、人材育成に役立てようと
ントは16例の出土が確認され、北は青森
学校を建てた小林虎三郎の話は、のちに山
県、南は岡山県にわたる広範な分布を示し
本有三の戯曲「米百俵」によって全国的に
ています。しかし、過半数が糸魚川を中心
知られることとなりました。
にした半径150km 圏内に分布し、西頸
265
西蒲区
妙光寺
うじ
三重小塔・鐘楼・山門(みょうこ
木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょ
さんじゅうしょうとう・しょうろ
らいりつぞう)
う・さんもん)
本像は、立像で恵心僧都(942∼101
※妙光寺
7)作と伝承されており、来迎印を結ぶ平
1313(正和2)年、日蓮の孫弟子であ
安時代の特徴である日本的な静寂感がただ
る日印(三条本条寺の創建者でもある高僧)
よい流麗です。材料は、ヒノキで両腕と胴
により創建されました。本堂は1706(宝
は別々に作り、中刳(なかぐり)をし、小
永3)年に火災にあい、その後、1717
部分ずつ寄木して木の合わせ目には布を貼
(宝永14)年に再建され、さらに200
り、さらに紙を張って漆の下地をぬり、漆
1(平成13)年に新築建替えがなされま
の上に金箔を施しています。彫刻法はいわ
した。日蓮は1271(文永8)年、佐渡
ゆる寄木造りです。本像は、永い年月の間
配流となりましたが、佐渡に流される直前、
における修理の跡がみられ蓮座が破損して
角田浜の岸辺の岩に題目を書き、悪蛇を退
います。
治して山麓の岩に題目を書き、また波の上
新潟市指定文化財。(個人蔵)
に題目を書き時化を静めたと伝えられてお
所在地:新潟市西蒲区潟頭
り、角田浜は、この「岸・岩・波の三題目」
の日蓮霊蹟の地とされています。
木造角海浜聖観世音菩薩像(もくぞうかく
※三重小塔
みはましょうかんぜおんぼさつぞう)
江戸時代に建築され、江戸末期に他寺から
本像は、角海浜の観音堂にあってヒカリ観
移築された三重小塔で、木造、屋根はチタ
音と呼ばれていました。角海浜は、慶長の
ン屋根。柱は円柱で各重の軒組は深く美し
初期に能登から転住したと伝えられていま
いです。2004(平成16)年に解体修
す。本像は、もとの住地より漂流して来た
復を行った結果、建築当初、内外部とも総
ものを漁民により安置されたと伝えられて
金箔張りであったことが判明しました。
います。本像は、1913(大正2)年、
※鐘楼
岸泰助氏の寄進により石工植野小次長氏の
明治中期の建築で、入母屋造、桟瓦葺です。
施工の観音堂に遷座され、以来地区民から
※山門
深い信仰を受けていました。角海浜の歴史
江戸時代後期、棟札から、1814(文化
を伝える貴重な資料であるとともに、極め
11)年に建築され大工は角田浜の山本藤
て気品ある精巧な仏像として貴重です。
蔵好照と判明しました。木造切妻、桟瓦葺
新潟市指定文化財。(個人蔵)
の四脚門で、門扉はありません。軒の彫物
所在地:新潟市西蒲区五ケ浜
に江戸後期の造形が見られます。
国登録文化財。
木造如来座像(もくぞうにょらいざぞう)
所在地:新潟市西蒲区角田浜1056
「像の伝来」
・年代は定かではありませんが、
馬車、船が交通手段の頃のこと、岩室温泉
地内の道路上の坂道に来ると決まって馬の
266
西蒲区
様子がおかしくなり、異様な素振りをする
和58)年と1987(同62)年の発掘
ので、不思議に思い掘ってみると身丈2尺
調査では、墳丘下から軍事的な性格の強い
以上もある阿弥陀様が横たわっていたとい
弥生時代の高地性集落が確認され、古墳出
います。そこで坂の上にお堂を建立して、
現前夜の様相が理解できる重要な遺跡であ
お祭りし、無病息災を祈願したといわれて
ることもわかりました。
います。以来この坂は「堂坂」(どんさか)
新潟市指定文化財。(個人蔵)
と呼ばれ、阿弥陀様は、現在「松岳寺」に
所在地:新潟市西蒲区福井
安置されています。
像の頭部は欠損し、後世に補作されており、
山谷古墳出土品(やまやこふんしゅつどひ
制作年代は体脚部が13世紀半ば∼14世
ん)
紀前半(鎌倉時代後期∼南北朝時代初期)
山谷古墳全容の理解を可能にさせた一括資
頭部は室町時代後期に補作されたものと推
料です。埋葬施設からの副葬品、その埋土
測されています。(個人蔵)
内からみいだされた破砕土器、前方部の両
所在地:新潟市西蒲区岩室
裾から出土した供献土器、の3グループに
分けられます。副葬品は、管玉7点・ガラ
山口嵐更句碑(やまぐちらんこうくひ)
ス小玉34点・鉄製ノミ1点からなります。
香月堂小林鶯宿(こばやしおうしゅく)の
鏡の欠落を含め簡素なあり方を示しており、
師枯魚堂(こぎょどう)五世山口嵐更を大
被葬者の性格を考える上での手がかりとな
正俳壇の巨匠と顕彰し、嵐更の還暦に際し
ります。破砕土器は、墳丘上でとり行われ
彰徳のために1碑を有志が建立したとされ
た土器祭祀に伴うもので、小形器台・高坏・
ています。
小形壺の3種がセットをなす点に、古式前
期古墳特有の様相がみられます。供献土器
山谷古墳(やまやこふん)
は、二重口縁壺2個体・単口縁壺と甕1個
弥生∼古墳時代の拠点集落、御井戸遺跡を
体ずつからなり、古墳造営年代の推定に貢
見下ろす尾根上に立地します。4世紀中ご
献しました。前方部からは、このほか破砕
ろの造営と推定され新潟県内では、弥彦村
砥石が出土しており、祭祀的な遺物と考え
の「稲場塚」に次いで古い古墳と考えられ
られます。
ます。本古墳は前方部がバチ形に広く前方
新潟市指定文化財。
後方墳で、同形の古墳としては北陸地方2
所在地:新潟市西蒲区巻甲 3069-1 巻郷土
番目の規模をもつ能登半島の「雨の宮1号
資料館
墳」と墳形が酷似します。墳丘北側には、
前期古墳では異例の周堤をもつ堀や造出し
横田切れの記録(腰板)
(よこたぎれのきろ
を設け、後方部の墳麓に並ぶ2つの小マウ
く<こしいた>)
ンドも特徴的な施設です。後方部中央の埋
横田切れの際に、水がこの地域にまで押し
葬施設には、長大な割竹形木棺を用い、遺
寄せ、そのときの水位(跡)が残ったもの
体は東枕で葬られていました。1983(昭
です。
267
西蒲区
新潟市指定文化財。
良寛書
双幅「いろは・一二三」
(りょうか
所在地:新潟市西蒲区三方92潟東歴史民
んしょ
そうふく「いろは・ひふみ」)
俗資料館内
本書について山賀家に伝えられている逸話
では、
「誰でも読めるものを・・・」と家人
鎧潟で使用されていた漁労・狩猟用具(よ
に頼まれて即座に書いたと言われています。
ろいがたでしようされていたぎょろう・し
本書は、全幅をにらんで大きく筆を運び、
ゅりょうようぐ)
しかも細部まで神経がゆきとどいて落着の
鎧潟は、長い間、この地域のへそとして、
うかがわれることは、悟境の人でなければ
農業、漁業、狩猟、水運だけでなく、洪水
できないものなのです。筆は細いが、線は
災害や干拓の歴史と深く結びついていまし
明るく澄みきって、弓弦のようにしなやか
た。こうした生活に関する資料は、現在、
です。規模雄大でふところ大きく全幅に気
新潟市潟東歴史民俗資料館で見ることがで
力が溢れています。運筆はゆっくりで呼吸
きます。鎧潟は、1967(昭和42)年
も長く、線に感情をこめ、やわらかく美し
からは、干拓事業によって豊かな水田に変
い作品となっています。作品年代は筆跡、
わりました。その干拓面積は234ha でし
特に落款の書風から推定して、最晩年とは
たが、受益面積は2,575haに及ぶも
いかないまでも74歳近い作品と推定され
のでした。
ます。良寛の人柄をしのばせる名品であり、
新潟市指定文化財。
逸話とともに山賀家に伝えられていること
所在地:新潟市西蒲区三方92潟東歴史民
で貴重な遺墨です。
俗資料館内
新潟市指定文化財。(個人蔵)
所在地:新潟市西蒲区松野尾
鎧郷村道路線調書及び鎧郷村道図(よろい
ごうむらどうろせんちょうしょおよびよろ
良寛書
いごうむらどうず)
はせがわけほうみょう)
鎧郷村道路線調書は1920(大正 9)年
本書は、縦33.3cm、横19.0cm、
の旧道路法施行にともない、村会に村道の
黄唐紙と思われる紙本です。長谷川家は
認定を受けるために作成されたものです。
代々から四郎治(家号)と名乗り、ここに
また、鎧郷村道図は「村道の路線認可申請
記された4霊は先祖及び2代目の夫婦の法
書」に添付されました。
名で、1792(寛政4)年6月17日命
新潟市指定文化財。
日の道円が先祖かと思われます。長谷川家
所在地:新潟市西蒲区曽根1951西川学
に現存する香典帳によると、1815(文
習館内
化12)年4月4日命日の寂照が「2世四
長谷川家法名(りょうかんしょ
郎治生年62歳没」、1820(文政3)年
2月3日命日の妙超を「1世四郎治女房生
年67年」とあります。その頃良寛は幾度
も角田浜を訪れ、必ず四郎治方に宿泊した
268
西蒲区
と伝えられています。口伝によると、本書
縦長につくり、その中心をなす「則」の一
は、1876(明治9)年頃、角田浜願正
点で全体のバランスを巧みにとらえた見事
寺住職を介して京都で表装をしなおしたと
なものです。筆は、短鋒の小筆で、墨を思
いいます。紺錦金欄表装・中縁緋錦金襴・
いきりたっぷりとつけて書いたとみられま
軸長28cm・丈58cm。
す。有則堂の意訳は、
「万物すべてにそれぞ
新潟市指定文化財。(個人蔵)
れの法則があるように、経蔵内の数多の経
所在地:新潟市西蒲区角田浜
文にも、それぞれ仏道の正しい道が示され
ている」と解されます。
良寛書
ょ
振仮名付十大願文(りょうかんし
新潟市指定文化財。
ふりがなつきじゅうだいがんぶん)
所在地:新潟市西蒲区角田浜1163
本書は、旧巻町笛木家(松屋)に所蔵され
ていたもので、家業薬屋の番頭が五合庵の
楞嚴寺(りょうごんじ)
良寛禅師に教えを請い、仏門に帰依したと
天暦年間村上天皇(946年即位)の皇子、
きに良寛禅師より読めるようにと書いても
桃井法親王の悲願によって創建されたとい
らったのが、この振仮名付の経文であると
われ、墳墓及び位牌が安置されています。
伝えられています。良寛書の振仮名付のも
のは稀で、五合庵時代初期の50歳前後の
【まつり・イベント・地域伝統芸能】
作であろうと推測されます。本書は、楷書
で六朝時代の書家貞白先生(陶弘景の諡)
瘞鶴銘の書風がうかがわれます。晩年の書
赤鏥神楽舞(あかさびかぐらまい)
風である円熟味はありませんが、平淡、率
赤鏥神楽保存会
直で非常に高雅さを感じさせます。
上演期日:5月27日前後の日曜日
新潟市指定文化財。(個人蔵)
上演場所:各戸をまわる。
所在地:新潟市西蒲区巻甲
内容:巻神楽舞から習得したもので、祭礼
には神楽舞と余興踊りで各家庭を回ります。
良寛書
有則堂(りょうかんしょ
舞は「四方舞」と「幣束舞」です。
「四方舞」
ゆうそ
くどう)
は悪魔を祓い心身の健康を祈る舞で、勇壮
良寛は、松野尾や角田浜をたびたび訪れて
な動きと活気あふれる笛、太鼓の拍子です。
いました。角田浜の乙始山願正寺(浄土真
「幣束舞」は幣束と鈴を両手に持ち悪魔退
宗本願寺派)の25世忍理の求めによって、
散を念ずる舞で、鼓太鼓を主とし、笛は流
1816(文化13)年、良寛が同寺の経
水の如く静かです。
蔵の扁額のために書いたものです。この年
演目:風呂敷舞、幣束舞
は良寛が59歳で五合庵から山麓の乙子神
新潟市指定文化財。
社の小庵に移ったといわれ、書の上でも円
所在地:新潟市西蒲区赤鏥
熟の境に入りました。渡辺秀英氏(良寛研
究家)によれば、横並びの3字をそれぞれ
269
西蒲区
岩室温泉祭(いわむろおんせんまつり)
越後七浦観音例大祭(えちごななうらかん
岩室ならではの粋で華やかな情緒が楽しめ
のんれいたいさい)
ます。
6 月下旬に行なわれる、海難防止、魚霊供
芸妓屋台をはじめ若者みこし、子どもみこ
養、そして海上及び地域の安全を願って建
し、花火大会、仕掛け花火があります。
立された七浦観音の大祭です。海上では大
漁旗をなびかせた漁船の海上パレードも行
岩室音頭(いわむろおんど)
われます。
ドドンパ風のリズムに乗って創り上げられ
たご当地ソングで、歌謡界の大御所三波春
越後にしかわ時代激まつり(えちごにしか
夫によって歌われています。
わじだいげきまつり)
(代官献上米行列)
(だ
いかんけんじょうまいぎょうれつ)
岩室三下がり(いわむろさんさがり)
昔風の屋台や服装で江戸情緒を現代に再現
客が検番を通して芸妓を呼ぶと、お座付き
するのが1994(平成6)年から始まっ
といってお座敷に呼ばれた挨拶代わりに歌
た「越後にしかわ時代激まつり」。
われます。
10月上旬、西川ふれあい公園や本町通り
で行われます。代官献上米行列は、有名人
岩室甚句(いわむろじんく)
を代官役に迎え、奥方や腰元、米俵を積ん
芸妓衆の御座敷騒ぎ唄。1932(昭和7)
だ大八車を引く農民などに扮装した約70
年、1933(同8)年頃、岩室の鶯芸者・
人が本町通りを練り歩き、時代劇のワンシ
小竜と初枝が中心となり、三味線の手と太
ーンのような光景があちこちで見られます。
鼓を工夫、今日の「岩室甚句」を作り上げ
ました。母体になっているのは近郷の農民
たちが盆踊りに歌う「越後甚句」の一種で、
「新潟甚句」や「長岡甚句」などと同系統
のものです。新潟や長岡のような派手な芸
風とは対照的に、素朴な温泉場の唄らしい
野暮さがあります。
越後傘ぼこ盆唄(えちごかさぼこぼんうた)
8月下旬の曽根神社秋季大祭は越後傘ぼこ
角田山提灯登山(かくだやまちょうちんと
行列が呼び物。傘ぼこを先頭に山車、御稚
ざん)
児様や鉄砲持ちなど約500人が本町通り
角田山では毎年8月中旬に角田山提灯登山
を練り歩きます。
を行っています。夕方から稲島八幡神社の
また、民謡流しでは越後傘ぼこ盆唄にあわ
灯火を提灯に点した多くの登山者が山頂を
せて1,700人の踊り手が輪踊りを繰り
目指します。山頂では新潟市の夜景が一望
広げます。
でき、目の前で山岳花火が開きます。
270
西蒲区
潟頭神楽舞(かたがしらかぐらまい)
河井神楽舞(かわいかぐらまい)
潟頭神楽保存会
河井神楽保存会
上演期日:春祭(5月)
上演期日:8月18日、19日
上演場所:諏訪神社、各戸
上演場所:河井八幡宮、各戸
内容:明治の初め頃、潟頭の加藤梅太郎と
内容:獅子神楽
いう人が伝えたものといわれています。岩
明治初年地方に出稼ぎに行った土田権十郎
戸神楽の流れをくむ2人舞で、勇壮活発な
が伝えたといわれます。演目:四方舞・幣
舞です。舞の順序としては、始めに「四方
束舞・鎮の舞・と錫枝の舞。余興芸として
舞」、その後獅子が仮死状態となり、
「東西、
新保広大寺があります。
東西…」の口上で生き返ります。「幣束舞」
新潟市指定文化財。
「鈴の舞」と続き、最後に初めの「四方舞」
所在地:新潟市西蒲区河井
の悪魔祓いで終わります。(現在休止中で
す。)
草花火・仕掛花火(くさはなび・しかけは
演目:四方舞、幣束舞、鈴の舞。余興にお
なび)
けさ、新保舞があります。
五穀豊穣を願い打ち上げるもので、祭りの
新潟市指定文化財。
由来からして数百年前にさかのぼり、地元
所在地:新潟市西蒲区潟頭
の花火師が代々受け継ぎ和納十五夜祭りの
クライマックスを飾るもので、八幡神社境
潟東しあわせ音頭(かたひがししあわせお
内にて打上げ、草花火は氏子の代表等によ
んど)
って打ち上げられます。
1976(昭和51)年に制定された旧潟
東村をイメージした楽曲と踊りで、199
5(平成7)年に新しい振付けが制定され
ています。
潟東太鼓(かたひがしだいこ)
新作郷土芸能
1978(昭和53)年に
結成し、地域内外で演奏活動を行っていま
す。
国見神楽舞(くにみかぐらまい)
かもん!カモねぎまつり
国見神楽保存会
12月の第1日曜日に西蒲区(旧潟東村)
この地区には、江戸時代初期から神楽舞が
で行われます。カモ猟の実演、野ガモを使
伝わっていましたが、明治時代の中頃に途
ったカモ汁の販売、フリーマーケットや農
絶え獅子頭だけが伝わっています。その後、
産物販売・けんさ焼などがあります。潟東
神楽舞は大正時代のはじめに有志により復
体育館で開催されます。
活されました。毎年秋祭りに奉納されます。
271
西蒲区
豊作を祈る悪魔祓いをはじめ、夫婦円満、
鈴踊り保存会(すずおどりほぞんかい)
家内和合、無病息災などを願う舞が展開さ
すずおどり保存会
れます。新潟市指定文化財。
上演期日:不定期
所在地:新潟市西蒲区国見
上演場所:仮設舞台
内容:澤将監邸の復元を記念し復活しまし
た。宗教的な踊りに端を発していると言わ
れますが、1955(昭和30)年頃まで
盆踊りとして踊られていました。1996
(平成8)年11月に保存会が発足しまし
た。お盆休みの時期に、保存会による「狐の
鈴踊り」が行われます。
曽根太々神楽(そねだいだいかぐら)
河間八幡神社の太夫舞(こうまはちまんじ
曽根舞組
んじゃのたゆうまい)
上演期日:4月20日
八幡宮神職
上演場所:諏訪神社
上演期日:8月25日
内容:採物神楽
上演場所:河間八幡宮
諏訪神社の諏訪講を母体として、1907
内容:採物神楽。秋祭りに社殿前で十二舞
(明治40)年からはじめられました。潟
の太夫舞が奉納されます。近年は盆踊・の
東村の岩本政人の指導を受けたため、赤
どじまん大会が併せて行われています。
塚・神山・味方・茨曽根の舞と同一系統で
あるといわれます。
越王太鼓(こしわだいこ)
演目:宮清・神勇・悪魔払・天の浮橋・海
1990(平成2)年に国のふるさと創成
神・鏡造り・刀舞・久奈戸・奉幣・恵比寿・
事業の一環として、太鼓を購入、名称は一
小弓遊・大国主。全部で12舞ですが、こ
般公募により「越王太鼓」と命名しました。
の他、刀舞・花献・羽返し等の子供舞もあ
海外は1994(同6)年に南米ペルー・
りました。
リマ市のリマ祭に出演、2006(同18)
年11月と2007(同19)年3月に台
代官太鼓(だいかんだいこ)
湾・台北市の新潟物産展に出演した他、地
1989(平成元)年に地元の商工会が中
元まき夏祭りをはじめ、毎年3,000人
心となり設立。代官と農民・高橋源助の物
を動員する新宿歌舞伎町フェスタに出演す
語を太鼓で表現したドラマチックな曲調が
るなど、県内外で活動しています。
特徴です。
272
西蒲区
竹野町神楽舞(たけのまちかぐらまい)
上演場所:仮設舞台
竹野町神楽保存会
内容:澤将監邸の復元を記念し復活しまし
上演期日:4月28日、8月27日
た。1996(平成8)年11月に保存会
上演場所:日枝神社、各戸
が発足しました。
内容:獅子神楽
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区竹野町
中之口まつり(なかのくちまつり)
7月開催の祭り。子どもみこしや花火大会、
ちびっこ相撲、ふれあいマーケット、バラ
エティショーなどが行われます。会場は中
稲島神楽(とうじまかぐら)
之口体育館などです。
稲島神楽保存会
上演期日:4月25日、9月15日
西川まつり(にしかわまつり)
上演場所:八幡神社、各戸
(みこし渡御、山車、傘ぼこ行列)
内容:獅子神楽
ふれ太鼓の音が鳴り響き「西川まつり」が
新潟市指定文化財。
始まります。
所在地:新潟市西蒲区稲島
8月下旬の曽根神社秋季大祭の行列(みこ
し渡御、山車、傘ぼこ行列)にあわせて、
中之口音頭(なかのくちおんど)
御神輿、コンサート、代官太鼓、花火大会
いつでもどこでも気軽に歌ったり踊ったり
などダイナミックなイベントも多数行われ
できる「村のうた」として1972(昭和
ます。
47)年に制作されました。村民から歌詞を
中でも注目は越後傘ぼこ行列。傘ぼこを先
募集し、補作詞・作曲を遠藤実氏、歌は北
頭に、山車、御稚児様や鉄砲もちなど約5
島三郎氏によりレコード化されました。振
00人が本町通りを練り歩きます。太鼓や
付は若柳多賀三氏が担当しました。
笛の響きと華やかな衣装、眼下に繰り広げ
られる歴史絵巻に見物人はうっとり。県下
中之口の鈴踊(なかのくちのすずおどり)
に誇る荘重な伝統行事。
すずおどり保存会
また、民謡流しでは越後傘ぼこ盆唄にあわ
上演期日:不定期
せて1,700人の踊り手が輪踊りになり、
273
西蒲区
まつりのムードを盛り上げます。
その発着時に社殿で舞われる舞です。神楽
舞は2人舞で、社殿の前に奉納するほかに
重立(おもだち)衆の家で舞うのが通例で
した。昔は打ち上げ花火、仕掛花火の打ち
上げが終わるまでその傍らで囃したといい
ます。
神楽舞としては四方舞(しほうまい)
・幣束
舞(へいそくまい)が伝わっています。ま
た余興芸として砂利がち、棒踊り、巻甚句、
エボムシ等があります。
布目神楽舞(ぬのめかぐらまい)
新潟市指定文化財。
布目神楽保存会
所在地:新潟市西蒲区巻甲 3623
上演期日:4月26日
上演場所:布目諏訪神社、各戸
巻甚句(まきじんく)
内容:雌神楽と言われており、獅子頭は小
囃子は一般に伝わる盆踊りと同じですが、
型で舞もおとなしく、
「天の岩戸」を開ける
踊りは神楽連中にだけ継承されてきた独自
前に舞う踊りであると伝えられています。
なものです。
春の祭礼に、諏訪神社の前に神楽舞を奉納
し、その後で各家庭を回ります。また、祝
巻夏祭り(まきなつまつり)
言の座敷に招かれて舞うこともあります。
巻を代表する祭りは、毎年6月第2金曜日
2人の舞から始まり、幣束舞と錫杖を持っ
からの3日間(従前は6月14日∼16日)
た1人舞い、2人による悪魔祓いと続きま
本町通りをメイン会場に行われる「まき夏
す。
まつり」です。新潟市近郊で最も早く開催
新潟市指定文化財。
される夏祭りで、最も早い夏の花火大会と
所在地:新潟市西蒲区布目
もなっています。
棒遣い(ぼうつかい)
古くは若者の自衛手段として起った武術が、
変化して「棒遣い」として伝承され、和納
十五夜祭りに奉納されています。
巻神楽舞(まきかぐらまい)
巻神楽保存会
上演期日:6月14日∼16日
上演場所:巻神明宮、各戸
内容:槇神明宮の大祭に神輿の先導として、
274
西蒲区
松野尾神楽舞(まつのおかぐらまい)
やんぐら太鼓(やんぐらだいこ)
松野尾神楽保存会
1991(平成3)年に、創作太鼓を創設
上演期日:5月2日
することが発案され、相撲の櫓とヤングを
上演場所:神社、各戸
組み合わせた「ヤングラ」を名称に選び、燕
内容:獅子神楽。1956(昭和31)年
市の飛燕太鼓打ち手会の指導を得て始まり
に復活しました。前半は四方舞・鈴の舞。
ました。その後、子供たちのために「カッパ
後半は獅子が餌を拾ったり、眠ったり、ひ
太鼓」も作られました。
ょっとことからみます。
新潟市指定文化財。
和納三社神社神楽舞(わのうさんしゃじん
所在地:新潟市西蒲区松野尾
じゃかぐらまい)
和納十五夜まつりに棒遣いと共に奉納され、
松山神楽舞(まつやまかぐらまい)
四方舞・幣束舞・鈴の舞などが演じられま
松山神楽保存会
す。
上演期日:5月2日、10月27日
上演場所:神明宮
和納三社神社祭礼行事(わのうさんしゃじ
内容:獅子神楽。1906(明治39)年
んじゃさいれいぎょうじ)
に初めて舞われました。神楽舞は2人舞
神輿渡御の格式は 10 万石と云われ、行列
で、」始めに口上をして「四方舞」・「幣束
に演じられる棒遣い・神楽舞・夜の草花火、
舞」・「鈴の舞」の順に舞います。「幣束舞」
仕掛け花火の囃子は無形文化財に指定され
から1人になります。
ています(和納十五夜祭り)。
演目:四方舞・幣束舞・鈴の舞
新潟市指定文化財。
新潟市指定文化財。
所在地:新潟市西蒲区和納
所在地:新潟市西蒲区松山
和納十五夜まつり(わのうじゅうごやまつ
やかたおけさ
り)
1968(昭和43)年、BSN 放送の出演
8 月上旬に行われます。無形文化財に指定
を機会に、座敷おけさ、1つおけさが似通
されている「棒遣い」や「草花火」そして
っているところから2つの踊りの長所を取
「仕掛花火」が披露される夏祭りです。伝
り入れ、巻発祥の地と言われる史跡巻館跡
統の重さが感じられます。和納花火打上げ
の地名にあやかり、
「やかたおけさ」と命名
の拍子は平家の秘曲で京都祇園のながれを
しました。同年、日本郷土民謡協会主催の
汲むと伝えられています。
全国大会で見事優勝のトロフィーを獲得し
ました。
275
西蒲区
【伝統工芸】
【食】
越後中之口鎌(えちごなかのくちかま)
○農水産物
嘉永年間(1848∼1853)から製造
が始まった「道上鎌」と、文久年間(18
ごぼう
61∼1863)から始まった「越後鎌」
越前浜、松野尾地区の砂丘畑で、約10h
があります。現在は伝統工芸の県内産地の
a栽培を行っています。堆肥の施用と、農
一つとして「越後中之口鎌」があります。
薬だけに頼らない物理的防除を取り入れて
害虫の防除を行っています。8月下旬から
菅笠(すげがさ)
収穫が始まり、県内他産地に先駆けて出荷
菅と竹で作られ、軽くて日よけ雨よけに適
が始まります。
した笠。中之口村誌によると、約170年
前にはすでに、スゲ笠作りで生計を立てて
ハーブたまご
いた家庭もあったと伝えられています。以
ハーブの乾燥粉末を飼料に加えた鶏の卵を、
来、福島、河間、三ツ門地区を中心に盛ん
中之口商工会が中心となって開発し、特許
に作られました。
を取得。鶏卵業者に委託生産し「ハーブた
まご」として販売しています。近年週刊誌
すげ笠保存会(すげがさほぞんかい)
等に紹介されるなど注目されています。
すげ笠は、農家の戸外の作業では季節を問
わず着用されました。はじめは自作されま
○加工物
その他
したが、時とともに生産が分業化し中之口
地区は、能生町と並ぶ地笠の県下2大生産
岩室せんべい(いわむろせんべい)
地でした。
「地笠」は、富山以南で作られる
新潟市西蒲区岩室地区の製菓業者が創業1
菅の縫い目の細かい「上笠」に対し、縫い目
0年から60余年もの間、手焼きで、ほん
の粗いものを指します。1991(平成 3)
のりと甘く、軽くてやわらかな岩室せんべ
年に、地区で長い歴史を持つすげ笠作りの
いの味を守り続けてきました。その味わい
保存会ができました。
には定評があり、全菓博においても何度か
有功金賞を受賞しています。一枚一枚手焼
鯛車(たいぐるま)
きで焼かれ、ほんのり甘く、香ばしい、懐
お盆になると、子供たちが、家の周りや町
かしい味わいのせんべいです。
内を引いて歩く姿が見られました。江戸時
代末期の頃からあり、造花屋や籠屋が作っ
エチゴビール
て売っていました。ユーモラスな表情も魅
全国で第1号の地ビール醸造所と知られて
力ですが、中に灯りをともすと赤い光が揺
います。ここでは、自然豊かな環境で個性
れ、幻想的な表情を帯びます。
あふれる十数種類のビールが作られていま
276
西蒲区
す。
大根の味噌漬けをみじん切りにし、汁を絞
り、すり鉢ですったゴマと砂糖をまぜます。
カーブドッヂワイン
ワイン用葡萄の栽培に適した巻で作られる
けんさ焼き(けんさやき)
本格的なワインです。味は香り豊かで、1
角田山のふもと、巻の福井地区にはけんさ
00%自家製。ワイナリーは建物全体が花
焼きについての伝説が残っています。戦国
畑や果樹園に囲まれているため、散策も楽
時代、落ち延びてきた武士が、この集落で
しめます。
持参のおにぎりを刀の先に刺して、火にあ
ぶって、温めて食べようとしました。この
からし巻(からしまき)
時、福井の人たちが味付けみそを武士に差
青首ダイコンを約5mmの厚さにスライス
し出してやった、というのです。武士はそ
し、乾燥機で水分を除き、干しあがったも
れをおにぎりに塗って、焼いて食べたそう
のを熱湯でもどし、しなやかになったとこ
です。これがけんさ焼きの始まりです。剣
ろで、小指の頭ほどの和芥子を巻き込みま
の先に刺したのだから「けんさき焼き」が
す。これを調味液(しょうゆ、砂糖、吟醸
本来のようですが、いつのまにか「けんさ
酒、ウコン色素)に4∼5日ほど漬けて作
焼き」となってしまったようです。
ります。素朴ですがからしの辛みとダイコ
ン自体の甘みが、絶妙にミックスされて、
豆天(まめてん)
一度食べたらクセになりそうです。また、
高野宮地区の大橋食品製造所で作られてい
歯ごたえも捨て難いなど、2度おいしいと
るお菓子です。創業は1962(昭和37)
いえます。ご飯のオカズ、酒のさかなに格
年。豆腐屋だった先代が大豆を使った新た
好です。もともとは、越冬用に囲っていた
な商品開発したのが「まめてん」。大豆と衣
ダイコンの余りものを「捨ててしまうのは
を米の油で焼き上げたシンプルなもので、
もったいない」と、皮付きのまま薄く輪切
第22回全国菓子博覧会で技術優秀賞を受
りにして、ムシロの上に広げて干し、しょ
賞し、新潟を代表するお菓子に成長しまし
うゆ漬けにした
た。
生活の知恵
の産物でし
た。農家が多忙な春耕や田植えの時期のオ
カズに重宝したといわれます。食生活の変
モモのシロップづけ
化ですっかり忘れられていましたが、巻地
自家栽培の果物の加工品として、5年前に
区仁箇の地元の人たちが再現したのが、今
手がけました。シロップの中にいれ、煮沸
の「からし巻」です。
消毒することによって、半年の保存が可能。
缶詰と違い、素材の食感を生かせること、
きりあえ
また、中身が見えることが利点です。
郷土料理・この地域独特の家庭食で、主に
法事等の行事に作られご飯のふりかけとし
て食されてきました。
277
西蒲区
柚餅子(ゆべし)
小野塚美術館(おのづかびじゅつかん)
旧北国街道の福井バス停から小路へ折れて
公務員として地域の文化振興の仕事にも携
すぐ、創業百七十年余の風格を誇る、棹物
わってきた画家小野塚喜一が、定年を機に
ゆべしの元祖・本間屋がひっそりとたたず
開設した美術館です。所蔵品には、清原啓
んでいます。1829(文政12)年、豪
一、寺坂公雄ら日展の作家や、番場春雄、
雪に難行していた日蓮宗の僧を救い、一夜
江川蒼竹ら郷土の作家の作品が多く、それ
の宿を供した本間猶右エ門に、僧はお礼と
らは作家や美術関係者との交流を通して蒐
して、京都から全国行脚中に会得した、蒸
集(しゅうしゅう)されています。作品を
しゆべしの製法を教えて去りました。蒸し
展示公開するだけにとどまらず、子供たち
たもち米に、ユズの皮を細かく刻んでジャ
に鑑賞講座を開いたり、アトリエを地域の
ム状にしたものを混合、和三盆蜜の中でつ
人たちに開放して、創作の場を提供したり、
き上げ、一晩ほどさまします。つやのある
実技指導を行うなど、美術を通しての地域
半透明の彩り、ほのかなユズの香りと淡い
活動を活溌に展開しています。
甘さ、もっちりした歯ざわりも独特です。
所在地:新潟市西蒲区姥島167−2
それが昔ながらの竹の皮に包まれているの
もうれしいことです。
角田岬灯台(かくだみさきとうだい)
新潟市西蒲区角田浜海水浴場近くの断崖に
ル レクチエのシロップづけ
建つ角田岬灯台。1959(昭和34)年
自家栽培の果物の加工品として、5年前に
11月15日に初点灯して以来、船舶が安
手がけました。シロップの中にいれ、煮沸
全に航海できるよう海を照らし続けていま
消毒することによって、半年の保存が可能
す。この白亜の灯台の高さは約13m。海
です。缶詰と違い、素材の食感を生かせる
面から灯火までの高さは約50m。光の強
こと、また、中身が見えることが利点です。
さは25万カンデラ。光の届く距離は約3
5kmにおよびます。管理している第九管
区海上保安部では、年に2回灯台を一般公
開しています。
【施設】
岩室温泉伝統文化伝承保存館(いわむろお
んせんでんとうぶんかでんしょうほぞんか
ん)
岩室温泉の振興と地域の活性化を図るため
に祭礼文化の伝承と保存、温泉文化及び郷
土資料の展示、岩室甚句等芸妓おどりの伝
承場、各種催事場として使われています。
所在地:新潟市西蒲区岩室温泉101−3
278
西蒲区
角田山自然館(かくだやましぜんかん)
術館と併せて辿ることができます。
6月中旬から8月中旬までゲンジボタルと
所在地:新潟市西蒲区三方92
ヘイケホタルが舞うホタルの里の一角に位
置しています。角田山の豊かな自然を様々
な視点から見つめなおした展示資料館です。
子供からお年寄りまで、角田山に生息する
小動物や花・木について親しみながら学ぶ
ことができます。
隣接して、ほたるの里公園内には日帰り温
泉施設である「じょんのび館」や「ほたるの
里交流館」があります。
所在地:新潟市西蒲区福井4067
潟東ゆう学館(かたひがしゆうがくかん)
「学び棟」と「福祉棟」とからなり、図書
館、視聴覚室、大広間、入浴室等を備えた、
生涯学習の拠点となる複合施設です。
所在地:新潟市西蒲区三方10
潟東樋口記念美術館(かたひがしひぐちき
ねんびじゅつかん)
樋口記念美術館は、旧潟東村出身の樋口顕
嗣(ひぐちけんじ)から寄贈された日本の
絵画、彫刻、陶芸、漆芸、金工品などを収
蔵、展示するため1970(昭和45)年
12月に開館しました。樋口顕嗣は、18
86(明治19)年に農家に生まれ、25
歳で上京して艱難辛苦の末、青果卸売会社
を設立し、晩年その収集した美術品を故郷
の村に寄贈しました。寄贈作品がさらに追
加されたため、1972(昭和47)年に
2階建ての美術館を建設し、その後の増築
によって現在の姿になりました。また同じ
敷地内には潟東歴史民俗資料館があり、美
279
西蒲区
潟東歴史民俗資料館(かたひがしれきしみ
んぞくしりょうかん)
1階では地域が生んだ先人たちの絵画や書
などを展示しています。大谷大学学長山辺
習学、旧海軍中将小林省三郎、良寛画家の
こしの千涯、梵字の大家坂井栄信、大徳寺
管長福富雪底、漫画家赤塚不二夫の作品な
どです。2階ではかつてこの地にあった鎧
潟をめぐる歴史や生活を中心とした民俗資
料を展示しています。
所在地:新潟市西蒲区三方92
実唱館(じっしょうかん)
新潟で多感な少年期を過ごした作曲家遠藤
実先生の資料館。仕事部屋の再現コーナー
や少年期から今日に至るまでの足跡を展示
した部屋があります。
所在地:新潟市西蒲区越前浜6913−1
だいろの家(だいろのいえ)
澤将監の館(さわしょうげんのやかた)
西川ふれあい公園のなかにある曽根代官所
1974(昭和49)年に「澤家もんじょ」
をモデルにした建物です。
が刊行されこれを機として、澤家に残され
所在地:新潟市西蒲区松崎73
ていた家相図をもとに1994(平成6)年
に澤将監の館が復元竣工されました。母屋
中之口先人館(なかのくちせんじんかん)
や雄大な松並木など、石高 5 千石といわれ
第36代横綱羽黒山政司、東映映画創設者
た大庄屋の姿をうかがい知ることができま
大川博、文学博士小柳司氣太(おやなぎし
す。初代澤将監は、もともとは甲斐の武田
げた)など、中之口地区出身で様々な分野
家の家臣で、約400年前に亡命し越後に
で活躍した先人の業績を示す資料を展示し
定住したといわれています。1994(同
ています。その遺徳をしのび、その生き方
6)年に開館。旧中之口村指定文化財。同
を大切な知的遺産として、未来へ伝えるた
敷地内に資料館を併設しています。
め、先人展示室・ギャラリー・歴史ストリ
所在地:新潟市西蒲区打越甲434
ート・相撲櫓・土俵・野外ステージを備え
ています。2000(平成12)年開館。
所在地:新潟市西蒲区中之口363
280
西蒲区
巻文化会館(まきぶんかかいかん)
多くの人々に文化活動などの集会の場を提
供するとともに、優れた音楽・演劇・映画・
美術など鑑賞できる機会を設け、幅広く活
用してもらうためにつくられました。
所在地:新潟市西蒲区巻甲635
西川多目的ホール(にしかわたもくてきほ
ーる)
図書館を併設した音楽・文化活動の拠点施
設で、コンサート・芸能鑑賞や講演会など
幅広い対応が可能な施設です。
所在地:新潟市西蒲区曽根2046
巻郷土資料館(まききょうどしりょうかん)
旧消防庁舎を利用した郷土資料館。多くの
所蔵品があり、毎年2∼3回の特別展で公
開しています。また、常設展示には昔から
【その他】
の民具があります。その中でも「のぞきか
らくり一式」は当時の状態のまま保存され
ている貴重なものです。
海水浴場(かいすいよくじょう)
所在地:新潟市西蒲区巻甲3069−1
新潟市西蒲区には越後七浦(えちごななう
ら)シーサイドライン沿いの浦浜、越前浜、
角田浜があります。角田浜には角田岬の灯
台や義経伝説を今に伝える浸食洞の「判官
舟かくし」があります。
また、間瀬下山海水浴場は遠浅で透き通っ
た海ときれいな砂浜があり、田ノ浦海水浴
場はプライベートビーチのような広い砂浜
と透明な海のビーチです。岩場では磯遊び
もできます。
281
西蒲区
二・七の市(に・しちのいち)
1756(宝暦6)年頃から曽根の町(現
西蒲区曽根)に市が立ったといわれます。
明誓寺が仏教の布教のために、毎月2と7
のつく日に修養日と決めて露店を出したの
が市の始まりです。米相場も立ったといわ
れます。月に6回行われる六斎市でした。
現在も西蒲区にある曽根六・七番町で午後
から開催されます。青果やお菓子、衣料品
などがたくさん並びます。
282
Fly UP