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“敬神の真実”現れる

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“敬神の真実”現れる
“敬神の真実”現れる
新約単篇
第一テモテ書の福音
“敬神の真実”現れる
1テモテ 3:14-16
14.わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙
を書いています。 15.行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべき
かを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生け
る神の教会です。 16.信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
最後の 16 節で一字ずつ下げてある 6 行は、今なら「聖歌」や「讃美歌」の
ような宗教詩の原形に当たるものです。第一世紀の信徒たちの信仰を告白し
た「歌」と言って宜しいでしょう。後世の教会が、講壇からの朗読に相応し
いと考えた語句を使って重々しくしたので、特に切り出しの「信心の秘めら
れた真理は」という所は、原作の響きと食い違います。
神と向き合う人なら、だれもが魂げるような、凄い真実が覆いを取って示
された。―訳文というには文型は変えています。
この訳文の「信心」は、教会生活や宗教行為のような、いろいろな流儀の
ある仕方ではなく、神を畏れ敬う生き方の根本姿勢を表わします
「エフセヴィア」は「畏れをもって神と向き合う関係」です。生身の人間
が神を仰ぐ生き方そのもの……を表すのがこの単語で、儀式も祭礼も抜いて、
キリスト教という宗教も取っ払った「生の神体験」の絵です。
メガは公式どおりには「大きい」ですが、「偉大」というより「凄い」と
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“敬神の真実”現れる
いう感じです。「秘められた真理」と「覆いを取って示された真実」は食い
違います。でも「ミステリー」は小説のジャンルでも、隠されたままの秘密
ではなくて、謎解きの末に真実が現れるように、覆いを剥いで暴露された真
実のことを「ミスティリオン」と言いました。原文の主語や動詞の語順に縛
られて翻訳すれば、「覆いを外して白日の下にされた神を畏れる者にとって
の真実は、大きいのである」となりますが、重点を考えて筆者の驚きを込め
ると、先ほどのような言葉になります。
神と向き合う人なら、だれもが魂げるような、凄い真実が覆いを取って示
された。―以下の詩を、神の前に立つあなたの畏れの告白とせよ……です。
以下、1 字下げてある 6 行の讃美歌が始まります。
キリストは肉において現れ、―これはヨハネの書簡(1ヨハネ 4:2)と
同じ意味で、あの方は私たちと変わらぬ姿で、ユダヤとガリラヤの地に現実
に来られた意味です。使徒たちは「自分の目で確かめて手で触れたほど確か
な経験であった」と、ヨハネなら(同 1:1)と言うところです。
“霊”において義とされ、―これは「霊」という漢字や“spirit”という
西欧語の暗示から自由になって理解すると、「命の息として」義とされた
―「義とされた」の趣旨は、天の父が親しくご承認になった。つまり、「彼
を私の命の息として送る。私自身の息吹として受けよ」という“死人を生か
す聖なる神の意図そのものを”イエスの中に見よ……です。
天使たちに見られ、―ここは少し難解な所です。欧米の学者も知恵を絞
って、いろいろな見解を示しましたが、あまり参考になりません。私はこの
アンゲーリスは「遣わされた人……使徒たち」という素朴な意味ではないか
と思います。ヨハネが証言したような直接の触れ合いです。
異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、―これはパウロが言っ
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た「異邦人の福音」となった意味です。地上の選民を自認したユダヤ人……
特にファリサイ派の予想とは裏腹に……です。「エン・コズモ」は「世界」
という範囲ではなく、「世」つまり人間である者すべてが、自信のある者も
無い者も、信じることが可能になったことです。
栄光のうちに上げられた。―後に作詞された「ニケヤ信条」のような歌
には、「人の手にかかって殺され、死者の中から復活し」(パトンダ―アナ
スタンダ)が入るところです。この歌詞はそれより以前の短いものなので、
「輝く神の手で引き上げられた」意味の「アネリンフティ・エンドクシ」の
2 語、詩では 1 行に代表させています。低い場所で、命を人に与える聖使命
を果して、父の手でお傍に挙げられて輝いている。
般若心経でも「パムニャ」を中国人が、あの「般若」という字で音訳した
り、「マハ」という形容詞を「摩訶不思議」の最初の 2 字にしたり、「シュ
ーニャ」を「空」の一字で、「アニティヤ」を「無常」の 2 字で表現したり、
苦労して翻訳したものを我々はそのまま音読してきました。柳澤桂子さんが
言い換えたように、意味とニュアンスを現代訳すると、ここの 6 行は大体次
のような趣旨を、詩の形で韻を踏ませてあります。
神と正面から向き合おうという人なら、だれもが魂げるような、凄い真実
が覆いを取って示された。
キリストは、私たちと変わらぬ人の姿で現れた。
神ご自身が「これだ」と“命の息”を込めて、
使徒たちには、間近でお見せになり、
ユダヤ人からは“外道”とされた民族を含めて、
“世”つまり普通の人が、信じられる道を開いた上、
輝く神の手で、低い所から、御許に引き上げられた。
この古い聖歌には、私たちの今の季節にも相応しい内容―「イエスが来
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られた意味」と、「私たちがなぜ、伝統的な祭礼や儀式抜きのシンプルな形
で、降誕を喜び合えるか」の秘密が隠されています。私の訳文で「覆いを取
った凄い真実」、新共同訳で「信心の秘められた真理」というところです。
これが「敬神の真実……畏神の姿勢」で、「宗教の秘儀」でないところが、
パウロ独特の響きになっています。
先ほども触れましたように、「エフセヴィア」の「セヴ」は「畏敬」の「畏」
に当たる字で、「神を畏れ崇める生き方」そのものを指す語です。「神の前
に立とうとする裸の人間の“基本姿勢”とでも言いましょうか。その基本姿
勢を定める、最小限の本質をこの賛歌は掲げたのです。古い英訳は“godliness”
で表しましたが、お経の漢字と同じで少しズレがあります。新しい訳文は、
分かり易い現代語に移そうとして、“religion”としました。“mystery of our
religion”は「我々の宗教の秘儀」に近く、イスラムや仏教を見下して勝利し
ていた時代の西欧の匂いがします。“religion”―「宗教」はやはり「何々じ
るし」の伝統と文化を含蓄して「神を畏れる裸の人間の基本姿勢」に、余分
の意味を付け加えます。
「宗教」というと、先週はテレビでギリシャ正教の「メテオラ」の修道院
が、世界遺産の形で紹介されました。断崖絶壁の上の建物もすごいと思いま
したし、修道女の方が NHK のリポーターに、「神が愛された人間を私たち
は愛します」と言われたのも感動的でした。奥の祈りの部屋にはイスラムの
迫害に屈せずに殉教した聖人たちのイコンもありました。一昨日はエチオピ
ア正教の岩の聖堂が出ました。岩山の上を掘りこんで「一枚岩」の「石を刳
り貫いた巨大彫刻」の会堂で、3 週間後にはキリスト降誕祭を祝う慣例にな
っています。去年の映像も美しいものでした。少し前には、モロッコのイス
ラムの町の宗教生活が出ました。「長老」に当たる指導者が、悩みを抱える
信徒の相談に乗る姿も印象的でした。
そういう“religion”の一つとしての「キリスト教」、またその中でも「御
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言葉だけに忠実に服しよう」という、聖書に忠実主義の教会もあります。で
も、そういうラベルと賞味期限のついた「宗教」ではなくて、その根っこに
ある基本姿勢―「神を畏れて、恵みを頂く」生き方を表わす言葉として、
この「エフセヴィア」は魅力がありますし、それこそ私自身が集中したい一
事でもあります。パウロが言う「律法を守り抜いて、誰が天に上るか」では
なく、「口を持っている限り、心がある限り、どんな人でもできる道」です。
「口でイエスを主であると告白し。心で神がキリストを死者の中から復活さ
せたと信じる」(ローマ 10:9)ことができるという裸の人間の生き方が、
この言葉で表現されているのです。
日曜日は近所の息子夫婦の食卓に招かれるのですが、特にこの二三週間は、
夜道を照らすクリスマスの電飾の華やかな家が、2 分半歩く間にも 3 軒もあ
ります。鯉幟や門松と同じような「季節の風物詩」が増えた感じです。脚の
関節が弱って「躓くのが怖い」私には、街灯以上に安全を守ってくれます。
「クリスチャンなのにお宅はしないのか」と聞かれそうな気もして、小さく
なりながら、特に「神を畏れるエフセヴィア」には興味のない方には、楽し
い「宗教ゴッコ」のほうをお任せして、自分たちはやはり、神を畏れる裸の
人間の基本姿勢を大事にしたいと思いなおします。それが可能になったのは、
テモテ書の著者によれば、復活して天で輝くキリストのお蔭です。先ほどは
メテオラの修道女の言葉に素朴な感動を覚えました。これはしかし、宗教の
伝統抜きで、儀式と美しいイコンも省略してできることです。「神が愛され
た人間を私は愛します」と。これはヨハネの言葉(1ヨハネ 4:7)に近いと
言えましょう。テモテにパウロが書いた言葉では、何がそれを可能にしたか
――
神と正面から向き合おうという人なら、だれもが魂げるような、凄い真実
が覆いを取って示された。
キリストは、私たちと変わらぬ人の姿で現れた。
神ご自身が「これだ」と“命の息”を込めて、
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“敬神の真実”現れる
使徒たちには、間近でお見せになり、
ユダヤ人からは“外道”とされた民族を含めて、
“世”つまり普通の人が、信じられる道を開いた上、
輝く神の手で、低い所から、御許に引き上げられた。
(2005/12/18)
《研究者のための注》
1.「エフセヴィア」は神学書や哲学書には「エウセベイア」と表記しているの
が普通です。日本古典学会が指定する音訳です。「トリスキーア」(スレー
スケイア)が「宗教」の語源で、宗教者の形に表した行為や慣例を表すのに対し、「エ
フセヴィア」は「畏神」の根本的姿勢に焦点を合わせます。
2.「アンゲーリス」は普通なら「天使らに」と訳す語ですが、ここでは古典悲
劇の用例や、ルカ 7:24,9:52 に見るような「使者」を指すと思います。
3.「ニケヤ信条」では、「引き上げられた」の前に、「人の手にかかって殺され、死者
の中から復活し」が入る……と述べた 2 語はとです。
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