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46 期主務 谷 46 期副将 山野 目次 1.はじめに

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46 期主務 谷 46 期副将 山野 目次 1.はじめに
運動会 130 周年史編纂事業 B&W 部資料
文責:46 期主務
46 期副将
谷
山野
目次
1.はじめに
2.
(1) 創部期の出来事
ア.駒場寮にて
イ.ボディビルサークルの旗揚げ
ウ.創部時の思い出
エ.新歓
オ.窪田登先生
カ.学友会加入
キ.B&W 部の名称
ク.トレーニング場
ケ.ボディコン
コ.運動会昇格
(2) ボディビル大会やパワーリフティング大会での活躍
(3) 伝統の戸田合宿
ア.合宿事始め
イ.その後の戸田合宿
(4) 五月祭でのボディビル企画
1.はじめに
(1)東京大学運動会ボディビル&ウェイトリフティング部はボディビルとパワーリフティ
ングを主な競技とし、まもなく創部 50 周年を迎えようとしている運動部である。その歴史
は栄枯盛衰を繰り返し、様々な卒業生を輩出した。しかし、残念なことに体系的な資料が
存在しないために、その歴史を編年体にて語ることは困難を極める。
(2)思うに我が部の歴史を語る上で欠かせないのは、我が部の創部期の出来事、数多く歴
史に刻まれたボディビル大会やパワーリフティング大会での活躍、今でも多くの卒業生が
懐かしむ伝統の戸田合宿、そして多くの人々の来場する五月祭でのボディビル企画であろ
う。これらを叙述することで、我が部の伝統や特徴、魅力といった社会通念上部史に必要
とされる本質的内容を満たしうると考える。
(3)そこで以下のような内容で本稿を執筆する。
「創部期の出来事」については遠藤久芳氏
(昭和 44 年卒部) や中畑俊朗氏(昭和 45 年卒部)の回顧録を参考にさせていただく。「ボディ
ビル大会やパワーリフティング大会での活躍」については記録の残っている限りで叙述す
る。「伝統の戸田合宿」については卒業生の回顧録に残っている記録を参考にしながら叙述
する。
「五月祭でのボディビル企画」については、1990 年代に開催されていたものが近年に
なって復活した経緯があるのでその部分について論ずる。
2.
(1) 創部期の出来事
ア.駒場寮にて
遠藤久芳氏(昭和 44 年卒部)は B&W 部創部期に在席された先輩で創部時の先輩である吉田
氏との思い出を回顧録として残されている。それによると、B&W 部は駒場寮サークルとし
て発足し、その後全学クラブへと急成長を遂げたとのことである。駒場寮はサークル単位
で部屋を構成していた。遠藤氏は昭和 40 年に新入寮の際、寮役員から英語会というサーク
ルの部屋に自動的に仮宿を割り当てられた。2,3 週間後に希望のサークルを見つけて一斉に
転室するというしきたりであった。偶然にもこの仮宿となった同部屋に B&W 部を設立し
うることになる吉田さんがいた。まさに牢名主然として、大きな体躯のみならず、書籍や
家具で 6 人相部屋の半分ほどの空間を独占していた感があった。怖そうだが、2,3 週間辛抱
したら希望のサークルに転室できるからと半分度胸を据えた。異様に感じたのは他にもあ
った。共通語がなんと九州弁なのだ(独特な言語体系が出来上がっており、一括りにすれ
ば九州弁と称するしかない方言であった)。声の大きな勢力にひきずられて決まってしまう
ようである。東北出身の遠藤氏には、この共通語体系に東北弁を混入させるなど思いもよ
らないことだった。関東出身者は殆どいないので、東京弁を話す者もいなかった。東北人
の押しの弱さゆえ、1 ヶ月もすると遠藤氏も九州弁もどきで会話に加わるようになってしま
ったのであった。吉田さんは、見掛けによらず気さくで新人にやさしかった。「夜食に行く
ぞ」とか「腕相撲やろう」に始まり、いつの間にか言葉のみならず体力増進にも傾注する
習慣が出来上がって、結局仮宿の後も英語会に留まることになってしまった。英語会は 4
室約 24 名という中所帯のサークルであった。伝統ある活発なサークルであり、短い間だっ
たが、「山手線一周徒歩」や「大島旅行」など思い出多い。碁、将棋、麻雀、ギター、ダン
スなどの基礎科目も総て教わった。麻雀以外は吉田さんの影響が大である。
遠藤氏の入寮時には、英語会メンバーの半数は既にトレ体に通ってウェイトトレーニン
グをやっており、吉田さんがリーダーであった。春の体力検定(腕立て+ハイジャン+サ
イドステップ)で悔しい思いをしたのが動機となり、遠藤氏も熱をいれるようになった。
直ぐ傍に、オリンピック選手用の立派なトレ体があったので、ありがたかった。トレ体を
利用するメンバーは、英語会員が最も多かったが、咲本氏や、藤本氏(アメフット)、丹野
氏(ボート)など体力抜群の方が目立っていた。中でも体育講師の松尾先生は吉田氏がベ
ンチプレスの重量をいつも気にしていたライバルであった。
イ.ボディビルサークルの旗揚げ
この年秋の部屋替えの時を見計らって、英語会から決別してボディビルサークルが結成さ
れた。もちろん吉田氏の音頭である。2 年生 3 名(吉田氏、小林氏、只野氏)+1 年生 6 名
(谷氏、金子氏、吉村氏、川島氏、石田氏、遠藤氏)+居候 1 名(宮沢氏){全体的に不確か?}
で 1 部屋半の所帯を構えることができた。多くは英語会からの離反者であったが、谷氏、
金子氏は他のサークルから移ってきた。ボディのトレーニング常連で英語会に残った者も
何名かいた。サークルで部屋を持つことは大変重要な意義があった。当時、部室を持たな
かったので、駒場寮は部室として機能し、寮生以外の部員の着替えのみならず交友の場と
もなった。駒場寮はその後も長い間、実質的に部活動の拠点となり、初めの数年間は部の
役員は主として寮生から選ばれた。着替え所として機能したのは、この後 1 年間程度であ
り、翌年学友会クラブに昇格して、学生会館にロッカー室の割り当てをもらうまでであっ
た。吉田キャプテンを支えた最初の執行部は、谷(サブキャップ)+遠藤(マネージャー)
+金子が中心となった。
ウ.創部時の思い出
トレーニングの成果を効果的に血肉とするためには、なんと言っても良質の蛋白質を大
量に摂取することである。貧しい寮生にとってこれは大変難しい問題であった。駒場駅か
ら線路向こうの階段を降りて行くと、学生相手の食堂が 4,5 軒あり、夜食に伊藤屋で 60 円
のソーセージライスを食べる程度が関の山であった。
{遠藤氏が入学した年までは駒場寮の
直ぐ南に駒場駅があり、通常は矢内原門を通って駒場駅から井の頭線に乗車していた。そ
の年に、駒場駅と東大前駅が合体して駒場東大前駅となった。今では矢内原門も影をとど
めていないようである。昔あった、山口屋、小紅楼、伊藤屋などの食堂もとっくになくな
ってしまった。}
良質蛋白を直ぐ近くで入手する方法を教えてくれたのは、他ならぬ吉田氏である。鯨肉
は、油身が無く寄生虫が付いていないので、生で食べることができると言う。駒場駅の向
こう側 50m くらいの所に魚屋があり、そこでは 50 円で食べきれないくらい(500g 程度で
あったか)の鯨の生肉を買うことができた。捕鯨禁止以前であったので、魚屋に行けば大
抵は買うことができたのである。冷蔵庫を利用できる環境ではなかったので、食べ方には
こつがあった。冷凍肉を買ってきて、自然解凍中の冷たい内に口に放り込むのである。お
いしいという概念からはかけ離れた味であったが、冷たければなんとか喉を通すことがで
きた。常温に戻ってしまうと生臭くて、口に放り込む気力が無くなってしまう。このため
に、500g 程度を短時間でやっつけなければならなかった。この蛋白補給には決断が必要で
あったので、吉田氏を中心に数人が結託して行った。吉田氏だけは、慣れているためか美
味しそうに食べていた
エ.新歓
1966 年 4 月の入学手続き時には、部として初めて新入生入部勧誘をやった。ボディビル
同好会の拠点となっていた駒場寮にも多くの新入寮生(高村氏、福井氏、西森氏、増田氏、
三好氏、立畑氏、阿曽氏、吉村氏)を迎えることができ 2 部屋半の居室を確保できたこと
も大きな喜びだった。その春には早速、東京女子短大との合ハイを手配して、新入寮生の
機嫌をとってやった。
オ.窪田登先生
ところで、窪田先生(早稲田大学)はボディビルの先覚者として有名な方であり、立派
な著書も出版されていた(ネットで検索したところでは、いまだにお元気でトレーニング
教室をやっておられるようである)。吉田氏は窪田先生にコネをつけて、部設立やトレーニ
ング方法について先生からノウハウを教わった。トレ体にも来て指導をしていただいたこ
ともある。
吉田氏が私を含めた何人かを伴って、早稲田大学に行ってトレーニングの様子を見学さ
せてもらったことがある。窪田先生は、ボディとウェイトリフティングの両方の部長をし
ておられた。しかし何故だったかは覚えていないが、窪田先生は遠藤氏らをボディではな
く、ウェイトリフティング部の練習場に案内してくれた。早稲田は、ボディビルクラブも
華々しい活躍であり、ボディコンでは上位 3 校(他には、慶応、アジアなど)の常連であ
ったが、ウェイトリフティング部の方がそれよりも見せたいものがあったためであろうか。
窪田先生は「このメンバーで短距離リレーに出たら陸上部に負けない」とか「S は懸垂を
200 回できるので、懸垂の世界チャンピオンになれるだろう」といった自慢話をされていた。
「今鍛えている筋肉を深く意識しながらトレーニングをやるべし」といった教訓は、B&W
部に今でも残っているかどうか知らないが、これは窪田先生からの伝授であったと思う。
カ.学友会加入
将来運動会所属の部となることが夢であったが、その前に、先ず学友会の部にエントリ
ーという手順を踏まなければならなかった。B&W 部が部として相応しい活動をしているか
どうかがエントリー審査で問題となる。遠藤氏らは、このためもあり、1966 年春の新入部
員獲得を必死でやり、その夏には初めての合宿も実施した。学連の競技にも参加するよう
になり、オッドリフトでの入賞の実績も創った。1966 年秋に本郷の山上会館(旧木造建屋)
で開催された学友会運動部総会(?)の場で、B&W 部と少林寺拳法部が審査に掛かった。
吉田氏と遠藤氏が審査の場に臨み、吉田氏が弁舌爽やかに、会場からの質問に応えた。こ
の結果、B&W 部は結成して 1 年足らずの若年であったが、少林寺拳法部と共に十分な実績
ありと認められて学友会の部に昇格することができた。
学友会所属の部になったメリットは直ぐ現れた。トレ体の直ぐ近くにある学生会館の地
下に B&W 部用のロッカーが支給されたのだ。トレ体と学生会館は、当時は新しい近代的
な建物として目立つ存在であった。やっと本物の部室ができた。
キ.B&W 部の名称
1965 年に初めてのユニフォームを作ることになり、その前に部の名称を決める必要があ
った。それまでは、はっきりした名前を持っていなかったが、「ボディビル同好会(通称、
ボディ)」と呼ぶことが多かったと思う。当時は殆どのメンバーが体力増強のためのウェイ
トトレーニングの他に、重量挙げ(ウェイトリフティング)の練習もやっており、中には
重量挙げに専念する者もいた。東京オリンピックで三宅が期待通りの金メダルを獲得した
こともあり、当時の重量挙げは今のアイススケートなどよりはるかに人気のあるあこがれ
のスポーツであった。遠藤氏の出身校である磐城高校(いわき市)では、高校総体で入賞
者を出す常連であり、正門の直ぐ脇に重量挙げの練習場があった。重量挙げに専念したの
は、田畑氏や高橋(謙一郎)氏などの磐城高校出身者ほか数名である。「重量挙げはスポー
ツの禅である」と言われており、肉体(パワーと技術)と精神の両方を鍛える必要がある
奥深い競技である。ボディメンバーの多くは、
「プレス」、
「スナッチ」
「ジャーク」の記録
を常にノートに記載しながら記録向上を目指していた。トレ体は競技もできる本格的な施
設であったので、環境条件は申し分なかった。しかし、田畑氏や高橋氏は目覚ましい進歩
を遂げたものの、競技に出場するには至らなかった。
以上のような背景の下で、ボディビル&ウェイトリフティング部と B の後に W を付け加え
ることが合意された。B&W というスマートなロゴは吉田氏の発案だったと思う。
ク.トレーニング場
本郷に進学すると、練習場探しが大変だった。駒場と本郷の間には「東京大学運動会」
名入りマイクロバスのシャトルサービスがあったので、よく利用していた。この便利なバ
スサービスは、運動会各部のポテンシャルアップにかなりの貢献があったと思う。乗り換
え無しで本郷・駒場間を往復できるし、電車賃がかからないので、駒場に通うのが億劫に
ならなかった。たまには、帰りのシャトルバスを見送って渋谷のデパートで、吉田氏や咲
本氏らと大枚千円を払ってステーキを食べた贅沢が懐かしい。本郷でも練習場を確保した
かったので、運動会にお願いしていたところ、1967 年春(?)に御殿下グラウンドの物置
場を利用させてもらえることになった。早速、バーベルとベンチをこの物置場に持ち込ん
だ。グラウンドの一段下にあった物置から、グラウンドまでバーベルとベンチを運び上げ、
炎天下にクレイ(今のような人工芝ではなかった)の上で練習をやった。グラウンドの土
を穿らないようにそっとバーベルを下ろさないといけなかった。この練習環境はあまりに
も劣悪であったので、ここでの練習に参加したメンバーはごく僅かであった。運動会にさ
らに環境の良い練習場をお願いせざるを得なかった。運動会との交渉は殆ど吉田氏、咲本
氏任せであり大変苦労されたようだ。
次に運動会から提供してもらったのは、第二食堂横(テニスコート裏側)であった(1967
年夏?)。新しい小屋の傍には芝生があり、B&W 部がほぼ専用で使うことを許された。や
や後で、傍らに鉄棒も設置された。芝生の上で練習できる事、二食のすぐ脇なので、昼食
ついでに立ち寄り易い事などの好条件ゆえに、その後長い期間この練習場は部員のたまり
場となったようである。おまけに、二食の大勢の利用者の視線に触れやすい場所であった
ので、格好いいところを見せなければならないという励みがあった。特に鉄棒は一段高い
位置にあり目立つので惨めな格好をさらけるわけにはいかなかった。吉田氏と咲本氏は
元々鉄棒が得意で、大車輪以外は何でもやった(屋外なので大車輪は危なくてできなかっ
た)。二食の地下にはプールがあったので、夏には練習で汗を流した後、そのままプールで
ひと泳ぎという贅沢ができるのも魅力であった。プールでの吉田氏の泳ぎっぷりは、戸田
でも有名で、水泳部顔負けの見事さであった。
二食横は御殿下グラウンドより格段ましな環境であったが、トレ体に比べると物足りな
かったので、もっと好条件の屋内練習場を探した。吉田さんが、龍岡門の外2~3分の所
に文京区の体育館を見つけた。新しい建築でウェイトトレーニング施設を一応持っていた。
何回か気持ちよく利用させてもらったが、歩いて行くにはちょっと遠い事(当時、自転車
は高価でありなかなか持てなかった)と、二食横のような安らぎがなかった事もあって長
続きしなかった。卒論や学園紛争で忙しくなった影響も大きかった。
ケ.ボディコン
当時の学連は東京近辺の数校(慶応、早稲田、アジア、日大獣医学部、東洋、他にもう
1校あったかもしれない)が加盟していた程度であったが、全国で学連はこれしかなかっ
たので関東学連ではなく全日本学連のつもりで活動していた。
東大 B&W が学連に加盟して最初のボディビルコンテストが 1966 年春にあった。出場した
のは吉田氏だけであり、我々1965 年組は 1966 年新入学組を引き連れて応援団となった。
部として初めてのボディコン参戦であったが、
「吉田さんのあの圧倒的なバルクが優勝を勝
ち取ってくれるであろう」、「これから東大 B&W が目覚ましく学連にデビューするのだ」
と大いに期待していた。会場は日本青年館だったと思うが定かでない。審査員の一人であ
った窪田先生(4.1 参照)がコンテスト前にエキジビションとしてポーズをやり、大胸筋ピ
クピクを何回もアピールしていたのが印象深かった。出場選手を見渡すと、窪田先生のバ
ルクに匹敵するような選手は吉田氏しかいないではないか。これは優勝間違いなしか---。
吉田さんの顔にも自信が漲ってきたように見えた。
競技が始まると、学連の先輩校諸兄はデフィニッションで対抗してきた。残念ながら成
績は慶早アの順であり、吉田さんは 5 位か 6 位だった。慶応の H、早稲田の I、アジアの S
が上位常連であった事は後から知った。圧倒的なバルクがデフィニッションに破れてしま
ったのはショックであったが、その後のトレーニングのために大いに参考となった。早稲
田の I は異様に発達した広背筋ばかりを盛んにアピールして二位を取った。帰り道、福井氏
が「ありゃーまるで平目じゃ」とぼやいていた。
その後、吉田さんはボディコンよりもパワーリフティング(当時はオッドリフトと称し
ていた)に集中するようになった。吉田氏、今井氏のコンビで重量級 1,2 位を独占する快挙
を成し遂げ大いに存在をアピールした。
ボディコンの方は、咲本氏や金子氏が牽引者となったが、当時は上位常連の壁を破ること
はできなかった。
コ.運動会昇格
東大闘争に妥協的敗北をきたして、部員がトレ-ニング体育館に戻って来た時、論争が
もちあがった。当部は運動会に入会してより運動部らしく活動するのか、同好会のままで
よいのかという問題である。もちろん全員一致して運動会昇格を主張したわけではなかっ
たが、当時主将をしていた中畑氏はある程度強引に運動会昇格の方向に皆の意見を集約さ
せた。もちろん吉田初代主将、咲本 2 代目主将の合意をとりつけてのうえである。まず戸
田合宿の時、主務をしていた富田氏(当時は渡辺氏)が運動会総務に一杯飲ませながら探
りを入れた。驚くべきことに、先方はボディビルがスポ-ツか等馬鹿げたことを言ってく
る。もちろん運動会の総枠の予算は決まっているのだから、新規参入を阻止したいという
立場での屁理屈である。以前航空部が運動会に入った時、精神の緊張があり死の危険があ
ればスポ-ツであるとの論理で認められた話を聞いた。我々の作戦としてはボディビルを
強調するよりパワ-リフティング(当時はまだオッドリフトと言っていたかも知れない)
を強調する方が得策と考えた。まだ全日本学生大会はなかったが、関東学生大会では常に
団体優勝かそれに近い成績を上げていたし、個人優勝者も、吉田氏はじめ多数出していて、
そのことを強調すれば、運動会昇格は確実と考えた。まさかパワ-リフティングがスポ-
ツでないなどとは言いようがないからである。
運動会の理事会に提出する入会希望の趣旨説明書案は中畑氏がレポ-ト用紙4-5枚の
ものであるが書き上げた。吉田氏の承諾を得るために持って行くと、吉田氏はこれでも構
わぬがやや押しが弱い「俺にまかせろ。」として、自分で文書を書き始めた。夜中の 12 時
位の時である。やむなく、中畑氏も側に座して見守っていた。午前 2 時頃になって、
「中畑
おまえはいいから、もう寝ろ。」と言われた。吉田氏の作成した趣意書は小生の書いた物と
はまるきり別物であったが、趣旨は同じなので、吉田氏のものをそのまま理事会に提出す
ることになった。結果は満場一致で入会は承認された。
(2) ボディビル大会やパワーリフティング大会での活躍
これについては大会記録を後輩が確認中なので、確認後に記載予定。
石井先生や矢折氏、佐々木氏などの大会結果を記載予定。
石井直方氏
1975 年から関東学生パワーリフティング選手権で 6 連覇、1976 年から全日本学生パワー
リフティング選手権で 2 連覇、1977 年には全日本学生ボディビル選手権優勝など数々のタ
イトルを獲得する。
大学院進学後の 1978 年に東京ボディビル選手権大会(ミスター東京)で 4 位入賞。翌 1979
年に日本ボディビル選手権大会(ミスター日本)で 5 位入賞。1980 年に日本実業団ボディ
ビル選手権大会で優勝し、その翌年 1981 年にミスター日本のタイトルを獲得する。その後
は 1982 年に IFBB アジアボディビル選手権大会90kg以下級(ミスターアジア)で優勝
し、1983 年には再度ミスター日本のタイトルを獲得した。数年大会から遠ざかった後、東
京大学理学部生物学科に助手として勤務していた 1986 年に IFBB 世界ボディビル選手権大
会(ミスターユニバース)で 7 位を獲得している。
(3) 伝統の戸田合宿
ア.合宿事始め
戸田寮合宿は、遠藤氏が 2 年生の時(1966 年)に初めて実施されたが、その後 40 年近く途
切れること無く続いた。当時まだ部として発足する前の同好会だった。1965 年にはやっと
同好会活動が開始されたばかりで、新入会募集は盛んにやったものの合宿実施までには至
らなかった。戸田合宿は新人勧誘の殺し文句の一つにもなっていたので、1966 年夏には華々
しく第 1 回戸田寮合宿が挙行された。ボディビル同好会の絶好の宣伝機会なので、準会員
のみならず非会員にも誘いをかけた。この合宿参加を契機として入会した方も多くいた。
あの頃は、一般客が御浜海水浴場に来ることは殆ど無かったので、御浜は戸田寮が独占し
て使っていた。
イ.その後の戸田合宿
(昭和 48 年(1973)夏合宿。後列向右端が咲本大先輩-大きくて
遠い目標。筆者は後列向右から 5 人目。青く透き通る空気がうま
かった)
戸田合宿では、がっしりした体躯に安定感を押し出す二人の大先輩や、当時は甘いマス
クでボディビルの申し子のような褐色の八頭身型肢体の中畑先輩らを、新入生としては畏
敬に近い念を持って見上げながら、そういう目標に何としても近づこうと皮膚を擦りむき
ながら眩しい太陽のもと砂浜のバーベルに挑んだ。練習後の浜相撲では、マスキュラーそ
のものの西尾主将のどんなに押してもびくともしない粘り腰に、若手一同大いに鍛えても
らいました。
浜では、別のグループの野球の鋭い打球が振り向きざまの咲本大先輩の腹筋を直撃し、
一瞬凍ったことがありますが、先輩は蚊の食う程にも動じず、返す一瞥一喝に打ったほう
はビクつき一目散でした。その時は、なんとも頑丈になれるものだと感嘆の一語でした。
練習熱心で社会良識を教えて貰った平岡誠先輩や胸のデフィニッションが印象的だった
衛藤英達先輩らに人生訓も学ばせてもらって、記憶に残るシーンを数え上げればキリがあ
りませんが、当時はまだ清真さの宿る同期入部生やこれから学生時代を謳歌しようとする
後輩達と思いっきり羽を伸ばせた夏の戸田合宿は忘れ得ぬ想い出であった。
(4) 五月祭でのボディビル企画
東京大学 B&W 部は毎年五月祭において、選手選抜を兼ねてミスター東大ボディビルコ
ンテストを行っていた。1998 年のミスター東大ボディビル企画には、後の IFBB プロ・
ボディビルダーとなる山岸秀匡氏がゲスト出演。
しかし、2000 年以降開かれなくなった。下記に示すのは 90 年代に開催されていたころ
の写真及び雑誌記事である。
最後のミスター東大ボディビルコンテストから 10 年後の 2010 年、B&W 部 4 年の渡部
真哉氏(農学部 4 年)により「真・ミスター東大ボディビルコンテスト 2010」として復活。
選手選抜を目的とはしておらず、主に新歓を兼ねてボディビルを一般の方たちによく知っ
てもらおうという目的で開催された。
翌年の 2011 年の五月祭においても、
「真・ミスター東大ボディビルコンテスト 2011」が
開催され、2010 年よりもはるかに広い会場であったにもかかわらず、ほぼ観客で埋め合わ
されるほどの大盛況だった。今回は、B&W 部 OB の協力もあってゲスト・パフォーマンス
ともにトップレベルのクオリティを実現することができた。
その後、B&W 部現役の人数の減少によるコンテスト運営継続の困難により、2012 年以
降はボディビルコンテストは開催されていない。
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