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季刊 皿山 89号 - 有田町ホームページ

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季刊 皿山 89号 - 有田町ホームページ
町
史
の
行
間
東京有田会の歴史
〜ふるさとへの思い、熱く〜
大正ごろの東京有田会のメンバーと思われる写真
(前列 左から 2 人めが大塚為助さん)
過日、東京有田会の会員である泉山出身の深海孝さ
スのパリ万国博覧会で習得したフランス式の彩料によ
んが来館されました。埼玉県で焼き物商を営む深海さ
る写真絵付法、油絵法、及び石膏型使用法などを伝授
んは、有田町を中心に開催されていた新春新作展示会
するというので、泉山の深海竹治、中の原の西山盛太
に参加され、そのついでに当館に立寄られたとのこと
郎、伊万里・大川内山の光武彦七などと共に百武郡令
でした。
が選抜し上京したメンバーでした。
深海さんは、平成 28 年に有田焼創業 400 年を迎
為助は有田には戻らず、横浜で陶器商を営んだ後、
えるにあたって、東京有田会で何ができるのか、ふる
松尾儀助の起立工商会社に入社し、明治 13 年ごろに
さとから離れて暮らす自分たちにできることを模索し
渡米しました。大塚幹雄さんは「お祖父さんの朝食は
ているので、そのアドバイスを、とのことでした。
パンにハムエッグやオートミールという、当時として
当館でも、昨年末に有田焼や有田町の歴史探究に関
はハイカラな食事でした」と思い出を語っていました。
わっている者のひとりとして、この節目に当って何が
また、東京有田会のメンバーが写っているという写真
できるのかということを九州陶磁文化館の担当者と協
も見せていただきました。撮影の日付は不明ですが、
議したところで、すぐに回答はできませんでしたが、
嘉永 5 年ごろに生まれた為助の晩年に近いものらし
一緒に考えていきましょうと伝えました。
く、大正時代のものではないかと思われます。当時の
ところで、岩谷川内の正司家から当館へ寄贈された
顔触れはよくわかりませんが、それにしても古い歴史
資料の中に、明治 41 年 12 月 15 日発行の「肥前協
を持つ「東京有田会」です。
会同支部・軍友会知新会・佐賀県同郷実業会・佐賀郷
現在、東京有田会は山本兵蔵会長以下、会員は 600
友青年会会員名簿」があります。肥前協会は明治 29
余名。事務局は岩尾磁器株式会社東京支店内にありま
年 10 月に設立され、その目的は「旧佐賀藩人並びに
す。ふるさとを離れ、ルーツを共にする方々の有田へ
佐賀県人の一致協同を維持し其公共の利益を進むる」
の思いは熱いものがあります。400 年に向けて大き
こととして、当時の東京市麹町区永田町1丁目 75 番
なお力添えを期待しています。
平成 年 月 日(日)
、東京ガー
デンパレスで開催された東京有田
会の様子(梶原貞則さん提供)
地に事務所が置かれていました。会長は大隈重信、名
誉評議員に小笠原長生、鍋島直虎、鍋島直映などの旧
22
藩主が並び、評議員には久米邦武、松尾寛三、藤山雷
11
太、森永太一郎らが、通常会員に辻喜一、納富介次郎、
7
久富安平、百田貞次など在京の有田関係者もいます。
では、東京有田会はいつごろ組織されたのでしょう
か。以前、16軒の赤絵屋のひとり、白川の大塚為助
の孫で、埼玉県川越市に住む大塚幹雄さんという方を
訪ねたことがあります。
為助は明治 2 年、東京の陶工・服部杏甫がフラン
皿 山
季
刊
(尾﨑葉子)
No.89
有田町歴史民俗資料館・館報
春
2011
太平洋を渡った有田焼
(上)
アカプルコの海岸風景
日墨友好 400 周年
ガレオン貿易
5 年後の 2016 年に有田焼は創業 400 年を迎えますが、
大航海時代、スペインはポルトガルとアジア貿易の覇
最近、交流 400 周年を迎えた国があります。太平洋を隔
を競いました。アジアの産物を求めて、ポルトガルはア
てた対岸にあるメキシコです。なぜメキシコが、と思わ
フリカ回りの貿易ルートを探り、スペインは大西洋回り
れるかもしれませんが、当時のメキシコはスペインの植
のルートを探しました。
民地でした。メキシコとの関わりはスペイン、そして、
1492 年、スペイン国王の命を受けたコロンブスはアジ
キリスト教との関わりでもあります。そのため、実際に
アとの貿易ルートを見つけるために大西洋を横断し、ア
は日本とメキシコの最初の関わりは 400 年前よりももっ
メリカを発見しました。続いてマゼランが 1519 年にサ
と古く、例えば 1597 年に豊臣秀吉の命によって長崎で
ンルーカル・デ・バラメダ港を出港し、南アメリカのマ
処刑された 26 人のカトリック教徒、いわゆる日本二十六
ゼラン海峡の発見後、太平洋を横断してフィリピンに到
聖人の中にもメキシコ人が含まれています。メキシコシ
達します。マゼラン自身はフィリピンでの戦闘で命を落
ティ近郊のクエルナバカの大聖堂には、当時の殉教の様
としますが、部下たちはスペインに戻り、世界一周を達
子が壁画に残されています(写真1)
。
成したことはご存知のとおりです。
それでは、今から 400 年前に何があったかと言います
フィリピンに到達したスペイン人は、アメリカ大陸へ
と、それは一つの船の遭難の物語です。マニラの臨時総
戻るルートも発見して、1571 年にマニラに自分たちの都
督だったドン・ロドリゴが、1609 年にサン・フランシ
市を建設します。今もマニラ市街に残るイントラムロス
スコ号でメキシコに戻る途中、千葉県御宿沖で遭難して、
です(写真2)
。
「壁の中」という意味で、文字通り、城
地元の住民に助けられます。そして、日本の援助で翌
壁に囲まれた都市です。ここを拠点に太平洋をまたぐア
1610 年にメキシコに無事に帰ることができました。その
ジア貿易を行うようになったのです。
時にその船で日本の商人もメキシコへと渡っていきまし
メキシコから大量の銀をガレオン船でアジア市場に持
た。そのため、1609 年を日墨交流 400 周年の起点とし
ち込み、そして、陶磁器や絹などアジアの産物を満載して、
ているわけです。ちなみに支倉常長ら慶長遣欧使節が渡
太平洋を横断してアカプルコへと戻りました。19 世紀ま
墨するのは、その4年後の 1613 年のことです。
で続くいわゆるガレオン貿易です。
写真1 クエルナバカの大聖堂に残る 26 聖人殉教壁画
写真2 マニラのイントラムロス
殉教図の上部に TAYCOSAMA(太閤様)の文字が見える。
スペイン人の拠点イントラムロスのサンチャゴ砦。
写真3 マニラ出土の有田焼
2004 年に初めてマニラで確認された有田焼の 17 世紀
後半の染付皿。(Courtesy:フィリピン国立博物館)
マニラで発見された有田焼
写真 4 グアダラハラの大聖堂
「福地蔵人」の娘婿が執事をつとめたとされる大聖堂。
二つの有田焼の金襴手の色絵壷が保管されています。
います。なぜ日本人とわかったかと言いますと、彼の契
約書が残されていました。その契約書には日本語でしっ
当館はここ数年、マニラやメキシコから出土した有田
かりと「る伊すていん志よ(ルイス・デ・エンシオ)福
焼の調査を行っています。ガレオン貿易で運ばれた有田
地蔵人」とサインされていました。彼はこの町で商売に
焼の実態を探るためです。
成功し、1666 年頃にこの町で没したそうです。
これまでオランダによるヨーロッパ輸出の研究は盛ん
ちょうど有田焼が誕生した頃に彼はメキシコに渡り、
に行われてきましたが、その他の国の船による輸出につ
そして、有田焼が大量に輸出されるようになり、メキシ
いては研究が遅れていました。特に当時、日本と国交の
コにも輸出されるようになった頃に亡くなっています。
ないスペイン船によって運ばれた有田焼の研究はほとん
小売商であった彼が有田焼を扱ったかどうかは知る由も
ど行われていませんでした。
ありませんが、この町の大聖堂に有田焼の色絵壷が2点
その研究が進むきっかけとなったのは、2004 年のマニ
残されていることが知られています。
ラのイントラムロス出土陶磁器調査でした。フィリピン
考古学がご専門の田中和彦さんのご協力で実現した調査
グアダラハラの大聖堂の有田焼
でした。この調査で初めてマニラの出土遺物の中に有田
福地蔵人の娘婿も大坂出身の日本人で、彼もまた商売
焼を発見しました。それは 17 世紀後半の有田焼の染付皿
に成功しています。そして、グアダラハラの地域の代官
の破片でした(写真3)
。そこでフィリピン国立博物館と
職や大聖堂の執事をつとめ、1675 年頃に没し、大聖堂(写
共同研究の覚書を交わし、陶磁器調査を継続して、これ
真4)に埋葬されたと言われています。
まで 70 点ほどの有田焼の破片を発見しています。
この大聖堂に 2 個の有田焼の色絵壷が残されています。
ガレオン貿易のアジア側の拠点であるマニラに輸入さ
ヨーロッパでも見られる金襴手の壷です。大泉光一氏は
れた有田焼の実態がわかると、次はメキシコ側の状況も
福地蔵人か、その娘婿が寄進した可能性を指摘していま
知りたくなります。そこで 2006 年からメキシコ国内の
すが、おそらくそれは違います。これらは 18 世紀前半に
出土陶磁器の調査を始めました。
つくられたもので、彼らが亡くなった後に海を渡ってグ
メキシコに残ったサムライ アダラハラに持ち込まれたもののようです。
当時、メキシコでこの有田焼の壷に描かれた花の名を
三度目のメキシコ調査となる 2010 年の秋、本格的な
知る者はほとんどいなかったでしょうが、日本人なら誰
調査に入る前に訪ねたい町がありました。それはメキシ
もが知る花です。遠く祖国を離れて果てた彼らの霊魂を
コシティから高速バスで7時間のところにある、グアダ
慰めているこの壷に、有田の陶工が牡丹の花とともに描
ラハラという町です。
「西部の真珠」とよばれる美しい町
いていたものは満開に咲き誇った桜の花でした。 でハリスコ州の州都でもあります。そして、ここはかつ
(野上 建紀)
て「福地蔵人」という日本人が住んでいた町です。以下、
彼について大泉光一氏の研究成果(大泉 2004)を引用し
[参考文献]
ます。洗礼名は「ルイス」といい、前に触れた 1613 年
大泉光一『メキシコの大地に消えた侍たち』新人物往来
の支倉常長の遣欧使節団に伴って渡墨したと推定されて
社 2004
陶石を採掘していた東府屋谷を調査中の黒牟田・応法隊
歩こう隊 外山編 活動開始
NPO 法人アリタ・ガイド・クラブとの共催で、平成 21 年から始めた「150
年前の有田皿山ば歩こう隊」の活動も、今回は対象地区を外山に広げ、前回か
ら継続の方や、新たな参加者73名で1月から5隊に分かれて、活動を開始し
ました。前回同様、安政 6 年の「松浦郡有田郷図」や、文久元年(1861)の「南
川原山図」などと、現在の地図を手にして、足で歩いて確認していく方法で調
査を進めています。
地域の知られざる歴史や、隠れた史跡などを尋ね歩くこの活動に参加したい
という方は、途中参加も受け付けています。有田町歴史民俗資料館までご連絡
下さい。
大いちょう周辺で、放水訓練を行う
文化財防火デー開催
毎年、全国の自治体では地域に残る大切な文化財を火災か
ら守ろうと「文化財防火デー」を実施しています。
有田町教育委員会でも、1 月 23 日(日)に国の天然記念
物である泉山の「大いちょう」の周辺で火災が発生したとい
う設定で、訓練を実施しました。地域の方や有田地区消防署、
有田町消防団が参加し、樹齢千年と言われる大いちょうや周
辺の伝統的建造物の家屋などを火災から守る訓練は、皆様の
2 月 5 日(土)
、有田町教育委員会生涯学習課と共催で、
おはなしボランティア「ひこうせん」の八尋典子さん、林洋
子さん、橋口由紀子さんの協力を得て、
「町家で昔話を聞く会」
を開催しました。
今回は上幸平の小路庵という、大正時代に建てられた町家
(旧江副家)を会場にし、集まった子どもたちは20人。「黒
髪山の大蛇退治」や「十二支の話」などを有田弁で分かりや
すく話していただき、また「いのちをいただく」というちょっ
と重いテーマの本も語っていただきました。
お話が終わった後は、火鉢で餅を焼いて皆でぜんざいをい
ただきました。炭がくすぶり、目をしばたかせながらも賑や
《価
格》
定価 700円
泉山
有田町歴史民俗資料館
••
有田陶磁美術館
大
•• 樽 岩
•• 谷川内
有
田町役場東出張所
有田町役場会計課
新刊発行
立
•• 部 《販売場所》
かなひとときでした。
お話を聞く子どもたち
町家で昔話を聞く会
開催しました
協力を得て、無事終了しました。
有田町教育委員会では、前号でお知らせしていまし
た「皿山なぜなぜ」10 刷目を、装いも新たに発行し
ました。有田町や有田焼の歴史を Q & A 形式でわか
りやすく紹介しています。購入希望の方は左記でお求
めください。
季 刊 『皿 山』
通巻 89 号(平成 23 年 3 月 1 日)
編集・発行 有田町歴史民俗資料館
〒 844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山 1 丁目 4-1
☎ 0955-43-2678 FAX0955-43-4185
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