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冒険遊び場
卒業年度 2001年
主査 梅原利夫
副査 常田秀子
論文題目 「冒険遊び場」での大人の居場所の意味と人間関係
学籍番号 98D205
氏名 小俣喜美
論文のキーワード 冒険遊び場 大人 居場所
1
目次
序章
私の関心と課題
1章
冒険遊び場の成立の歴史と特徴
(1)冒険遊び場とは
(2)羽根木プレーパークの誕生と現在
(3)三ツ又冒険遊び場たぬき山の誕生と現在
2章
子どものための遊び場が
大人の居場所になることの意味
(1)子どもの遊び場の必要性を感じた背景と
当初の遊び場の目的
(2)冒険遊び場における大人の関わり
(3)大人にとっての居場所の意味
(4)冒険遊び場が大人の居場所になるわけ
3章
冒険遊び場に関わる大人の場との関わり
∼大人へのインタビュー∼
①羽根木プレーパーク世話人 星野実典さん
②羽根木プレーパーク世話人 福島智子さん
③羽根木プレーパーク世話人 斉藤何奈さん
④三ツ又冒険遊び場たぬき山スタッフ 岡本恵子さん
⑤三ツ又冒険遊び場たぬき山スタッフ 中嶋孝代さん
考察
(1)インタビューのまとめ
(2)結論
4章
参考文献
おわりに
資料一覧
2
序章 私の関心と課題
冒険遊び場と呼ばれる場所がある。子どもの遊び場として1975年7月に
日本でもその活動が始まった。「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーに様々
な年齢の子どもたちが集い、他の場では経験できないような多様な遊びを提供
し、人々の出会いを日々もたらしている場だ。
私が1999年10月に子どもたちにつれられて初めてやってき冒険遊び場
は、足下には土があり、周辺を木々に囲まれ、木製の遊具がたくさんある場だ
った。その日遊び場では「遊ぼうパン」と呼ばれているパン作りをしていた。
パン生地を細く手のひらでのばして、木の棒の先端に巻き付ける。それをたき
火のなかで焼いて食べるのだ。今までに、そのような「遊び」をしたことのな
い私は興味津々で、子どもたちに誘われて早速「遊ぼうパン」にチャレンジし
た。パン生地を棒にどんなふうに巻き付けるとうまくいくか、たき火の火には
どれくらい近づけると良いか、子どもたちや、パン生地をこねてくれたお母さ
んたちがいろいろ教えてくれて焼き上げたパンを、これもお母さんたち手作り
のリンゴジャムを付けて食べた。火に近づいて自分で焼いたちょっと焦げたパ
ンは、本当においしくて、何ともいえない満足感のあるものだった。そこにい
る子どもも大人も、誰もが実に楽しそうで、まっ黒になったパンや、まだ焼け
ない生焼けのパンを大切そうにながめていた。
今日冒険遊び場活動は、全国的な活動になってきているが、様々な地域で活動
を始め、長い間その活動を維持していくためには大変な苦労があるという。時
間的、体力的、経済的にも様々困難な問題を抱えてきたという背景がある。し
かしながら、「子どもの遊び場を作ろう、守ろう」という多くの大人たちによ
って、こうした冒険遊び場は維持されてきた。もちろん何よりも、冒険遊び場
で遊ぶ、子どもたちの存在が常にあったという条件は、欠かすことは出来ない
が、実際に、多くの大人たちが冒険遊び場のソフト面、ハード面での困難な問
題を様々なかたちでクリアしてきたのだ。それぞれが、多様な関わり方をしな
がら、日本ではまだまだ理解の浅い冒険遊び場活動を大人たちは支えてきた。
子どもの遊び場である「冒険遊び場」について、本来ならば「子ども」を中
心に取り上げていくべきなのかもしれない。しかし今回私が取り上げて考えて
いきたいのは、こうした遊び場に関わる「大人」の存在である。取り上げるの
が、なぜ「子ども」ではなく「大人」なのか。私が冒険遊び場と初めてであっ
たとき、子どもの遊び場であるから、そこには当然子どもも沢山いたのだが、
意外にも沢山の大人たちがいたことが印象に残った。そして、子どもの遊び場
であるそこに多くの大人たちがいることは、その場の雰囲気にとって何の不自
然さもなく、むしろ心地よい風景だった。そこにいる人たちは、子どもは子ど
もなりの、大人は大人なりの、自分の時間を過ごしていたような感覚が私には
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あった。子どもたちはこの場所を遊び場や、居場所のように使っている。それ
と同じように大人たちもこの場所を使っているように思えたのだ。
この冒険遊び場は、子どもの遊び場として長い間続けられてきているけれど、
それを支える側の大人たちも、この場でこんな風に自分の時間を過ごせている
としたら、もしかしたらここは、子どもの遊び場ではあるけれど大人たちにと
ってもまた、遊び場、居場所となりえているのではないだろうか。大人にとっ
ての居心地の良い、大人自身が求めている何かがある場なのではないだろうか、
と思えてきた。そうした大人側の要求と、子ども側の要求がうまく絡み合った
という事情もあって、私は、この場は様々な困難を抱えつつも、多くの人が支
え、だからこそ、今もなお活動が広まっていっているのではないだろうか、と
考えるようになってきた。
そこで本論文では大人たちにとって「冒険遊び場」とは何か、何らかの意味
を持つとしたらそれは何であるか、なぜこんなにも多くの大人たちが集まり活
動を支え、また新たに活動を広げようとするのか。その場が大人たちを引き寄
せるものは何か、ということを考えていくことにした。その為に、実際に冒険
遊び場の担い手である大人たちにインタビューしていくことにした。対象とし
て、日本で初めて出来た冒険遊び場である「羽根木プレーパーク」と、199
8年に出来た、まだ新しい「三ツ又冒険たぬき山」の二つを選び、そこを支え
る大人たちに話を聞いた。それらを基に、冒険遊び場における大人たちの関わ
りを考えていきたい。
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1章 冒険遊び場の成立の歴史と特徴
(1)冒険遊び場とは
1997年7月、東京都世田谷区にある羽根木公園の一画に、羽根木プレー
パークが誕生した。ここは、「冒険遊び場」といわれる場である。それは、子
どもたちがよりよい環境で育っていくために、子どもが自由に遊べる遊び場を
提供していこうという大人たちの提案が実現してできたものだ。
「冒険遊び場」という遊び場活動は、日本ではまだあまり知られていない活
動であるが、その歴史は、1943年にまでさかのぼる。以下、羽根木プレー
パークが、どのようにして誕生したのかをみていく。
第二次世界大戦中の1943年、デンマークのコペンハーゲン市郊外に「エ
ンドラップ廃材遊び場」が誕生した。これが世界で最初に出来た「冒険遊び場」
である。
造園家であるソーレンセン氏は、「子どもは小ぎれいにデザインされた遊び
場よりも廃材の転がった空き地や資材置き場で遊ぶ方が好きだということに着
目」(大村璋子 『子どもの声はずむまち』 1994年 p111用引)し、
彼の発案によって、創設された。1945年、イギリスのアレン卿夫人が、こ
の「エンドラップ廃材遊び場」を訪れ、それに深く感銘を受け、イギリスに遊
び場の思想をもち帰り、ロンドンに「アドベンチャープレーグラウンド(冒険
遊び場)」をつくり、イギリスでの冒険遊び場活動を展開して行った。そして
その後、スイス、スウェーデンなどヨーロッパ各地に冒険遊び場活動は広まっ
てゆくことになった。様々な地での冒険遊び場活動は、その地の特徴を生かし
た工夫と創造がなされ、発祥地であるデンマークが、ヨーロッパ各地での工夫
を取り入れるなど、様々な交流を通じて多様に変化していくこととなった。そ
してこの流れのなかで、日本にも冒険遊び場の活動が持ち込まれることになる。
(2)羽根木プレーパークの誕生と現在
1960年代後半、都市計画家である大村虔一、大村璋子夫妻は子育てに不
安を感じ始めていた。「私の住んでいる世田谷区でも数多くの児童公園が作ら
れた。しかし、歩いて数分の所にある公園は日当たりが悪いうえに狭く、スベ
リ台と鉄棒しかなくて、子どもはすぐに飽きてしまった。日当たりが良くて砂
場と噴水がある公園は20数分歩かないといけないところあった。そして、や
がてそこの噴水の周りに、黒い柵がはりめぐらされてしまったのである。家の
周りのどこででも、親の付き添いなしにおもいっきり遊べた自分の子どもの頃
を思うにつけ、これでいいのだろうか、という思いが強まった。」(『子ども
も声はずむまち』p4引用)という不安であった。そうしたときに、大村夫妻
はアレン卿夫人の著書である『都市の遊び場』に出会い、冒険遊び場の存在を
知った。これに感銘を受けた夫妻はIPA(International P
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iayground Association 1961年に組織された国際
遊び場協会)をたよりに、実際にヨーロッパ各地の冒険遊び場に出かけてゆき、
その姿を写真に収め日本にもち帰った。そして帰国後、冒険遊び場のスライド
を近隣の集まりなどで上映し、遊び場の存在を多くの人に訴えていった。「ス
ライドを見た親たち多くは、日頃、子どもの育つ環境に、そこはかとなく不安
を抱いていた」(羽根木プレーパークの会編『冒険遊び場がやってきた』 1
987 p17)ことで、大村夫妻、冒険遊び場に共感し、自分たちも遊び場作
りをしてみよう、という「遊ぼう会」が発足することになった。(資料1「遊
ぼう会組織図」参照)そして大人たちはそれぞれが出来る役割を担いながら遊
び場づくりに参加した。
1、経堂「子ども天国」の開設
1975年7月、遊ぼう会の活動により日本で初めての冒険遊び場が、経堂
の鳥山川緑道予定地を借りて、経堂「子ども天国」としてスタートした。19
75年、1976年の2年にわたり、7月から9月の夏休みの間だけ行われた
冒険遊び場は、多くの人々の協力によってソフト面、ハード面が整えられ、支
えられて行われた。世田谷区の土地を船橋児童館が借り受け、遊ぼう会にまた
がしする事で土地を確保した。遊び場の近隣の家々には、場の趣旨を説明し、
場で火を使う許可を消防署でもらい、運営資金はカンパを集めることで、経堂
「子ども天国」は夏の間、冒険遊び場として機能した。
「子ども天国」の看板には、次のように書かれ、子どもたちは自由な時間を
過ごした。
「ここはみんなの遊び場です。 なんでも好きなことをして遊んでいいのです。
ただ、ひとのめいわくにならないように気をつけましょう。ここにはプレーリ
ーダーのお兄さんがいます。こまったことがあったら相談してください。」(羽
根木プレーパークの会編『冒険遊び場がやってきた』1987p23引用)
2、桜ヶ丘冒険遊び場の開設
子どもたちの期待の声があがったこともあって、遊ぼう会は、1976年に
は、長期間の冒険遊び場作りに取り組み始めた。今回の遊び場作りの大きな課
題となったのも土地と資金であり、遊ぼう会のメンバーがその確保に向けて動
いた。そして1977年7月、桜ヶ丘5丁目の世田谷区の児童センター予定地
を、翌9月まで借り受けて桜ヶ丘冒険遊び場が開設した。年間通しての開設と
いうことで、大人たちは、経堂「子ども天国」と比べて資金面でも苦労し、ま
た、近隣の苦情の対応にもあたり、遊ぼう会のメンバーの関わりなど、乗り越
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えなければならない様々なハードルも増えることとなった。
しかしながら、大人たちにとっては、ここに集う子どもたちから学ぶことも
多く、桜ヶ丘での15ヶ月の開設を無事に終えた。
3、羽根木プレーパークの開設
桜ヶ丘での冒険遊び場を続けたいという思いは、大人も子どもも同じであっ
たが、遊ぼう会の力だけでこの場を運営していくことには限界を感じ、予定通
り、1978年にいったん桜ヶ丘冒険遊び場を閉設した。
そして1979年、国際児童年を迎えた年に、世田谷区立羽根木公園の一画
に、羽根木プレーパーク(都市公園に隣接した冒険遊び場を「プレーパーク」
と呼ぶ)を作るという提案が地域住民から出されたこともあり、世田谷区の、
国際児童年記念事業として、区と地域住民の協力で冒険遊び場作りをスタート
させた。それが今日の羽根木プレーパークである。
国際児童年期記念事業としてスタートしたプレーパークは、当初は次の様な
計画の基で行われた。
<目的>
国際児童年関連事業の一つとして実施するものである。
プレーパークは児童の戸外における遊びについて組織された地域の
人々、及びプレーリーダーの援助により、遊びの楽しさ、多様性、創造性を助
長発展させ児童の心身の健全な発展をはかるものである。併せて都市の児童の
おかれている様々な環境を理解し、改善するため地域の人々と専門家による講
演会も行うものである。
<事業>1:プレーパークは、地域の関係者及びプレーリーダーによる実行委
員を結成し、事業の円滑な運営をはかる。
2:区(公園課、児童課、社会教育課)は実行委員会に参加するとと
もに場所の提供、資材の購入並びに講師謝礼等の予算を執行する。
<実行場所>世田谷区代田4の38の52 世田谷区羽根木公園
<期間>自 昭和54年7月21日(土)
至 昭和55年3月30日(日)
原則としては土曜日、日曜日を中心に行う。
実施時間は午前10時より午後4時までとする。
但し例外的に延長も可とする。
(『冒険遊び場がやってきた』p54引用)
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単年度限りの事業であったプレーパークであったが、住民と行政が協力した
取り組みとして反響が大きく、80年以降も継続して活動することとなった。
80年以降は、「ボランティア365」(社団法人日本青年奉仕協会が主催
する1年間ボランティアで、参加者を1年間継続して派遣するプログラム)か
らプレーパーク常駐者を迎え、場の平日開園を可能にした。そのとき「ボラン
ティア365」から派遣されたのが、現在世田谷区ボランティア協会プレーパ
ーク事業担当専門員である天野秀昭氏である。1981年に天野氏は、世田谷
区の育成委員(非常勤職員)に採用となり羽根木プレーパークのプレーリーダ
ーとして常駐するようになった。。翌、1982年には、世田谷区が世田谷ボ
ランティア協会に羽根木プレーパークの事業管理を委託した。世田谷区、ボラ
ンティア協会、「遊ぼう会」を改名した地域住民の実行委員会である「世話人
会」、「羽根木プレーパークの会」の両者が、協力しあって、羽根木プレーパ
ークは開設された。
4、羽根木プレーパークの特徴
このような経過を得て誕生した羽根木プレーパークの特徴を、今日の到達点
から見ておきたい。
現在、「冒険遊び場」活動は、羽根木プレーパークができた1979年当時
に比べて少しずつだが、明らかに全国的な活動へと発展してきている。199
8年11月には、第1回冒険遊び場全国研究集会が開かれ、全国から60団体
の参加があった。また、2001年6月に第2回冒険遊び場全国研究集会が開
かれ、そのときの参加はおよそ120団体であり、冒険遊び場によせる関心が
高まっていったといえる。
前にもふれたが、羽根木プレーパークは地域住民の要望から、世田谷区がボ
ランテイア協会に事業を委託して地域住民と運営していく場である。資金は世
田谷区が、運営は地域住民がというかたちで維持されてきた。実際に遊び場を
機能させていくためには、双方の協力は欠かすことが出来ない。また、「冒険
遊び場」には、プレーリーダーと呼ばれる大人の存在があることも、運営には
欠かすことの出来ない重要な特徴である。
プレーリーダーは、その呼び方から連想されるような遊びの指導者ではない 。
子どもの遊びを誘発するためのきっかけとなる存在で、「遊び心を刺激する環
境を作り、安全を管理しけがなどの事態に対応し、遊び場に地域の大人をひき
よせることである。“指導者”ではなく、“年上の友達”である。遊び場がう
まくいくかどうかは、プレーリーダーにかかっているといっても言い過ぎでは
ない。適切な条件を備えた所でも、能力のあるプレーリーダーがいないと活用
される遊び場にはならない。」(大村章子『子どもの声はずむまち』1994
8
p115引用)ほど、遊び場を利用する子どもにとっても、大人にとっても大
きな役割をもつ大切な存在である。
1980年、羽根木プレーパークには常駐のプレーリーダーとして「ボラン
ティア365」から天野氏を迎えたことによって、プレーパークの毎日開園が
可能になった。しかし、当時から「冒険遊び場」の必要性を認識していない社
会状況があって、こうしたプレーリーダーは、ボランティアとして頼る他はな
く、仕事としてはまだまだ成り立ってはいなかった。しかしながら、羽根木プ
レ−パークでは、そうしたリ−ダーの重要性を訴え、その結果、1981年天
野氏は区の児童育成委員として採用された。また、1991年には、プレーリ
ーダーの安定的雇用のため、その年、3つあったプレーパークについて、それ
ぞれ非常勤職員1名増員を要求し、1992年に予算が認められた。
このように、様々な面で世田谷区とボランティア協会が、互いに協力しあえ
たことが、現在まで羽根木プレーパークがその活動を続けてこられた1つの大
きな要因といえる。 また、地域住民が、区との協力を積極的に行ってきたこ
とも重要な点である。住民たちは、1979年に「遊ぼう会」を発足させ、何
より自分たちの手で作りたいものを作り上げ、そのために行政(区)までもを
動かしたという実績をもっている。行政に働きかけ、土地を確保し、冒険遊び
場の存在を多くの人に知らせてきた。そしてその場を運営するにあたり、多く
の大人たちが協力しあって、様々な困難を解決してきた。例えば、遊び場での、
火の使用にともなう近隣の人々への対応、遊具づくり、子どもたちがつくった
小屋が犯罪の危険をともなうのではという指摘の対応など、大人たちは、こう
した問題を一つ一つ慎重に、かつ、子どもの視線にたちながら丁寧に解決して
いった。また、冒険遊び場のモットーとして掲げられている「自分の責任で自
由に遊ぶ」など、どこまでが、誰の、どういう責任か、実際にけがをしたとき
どのような対応が可能なのかなどについても、繰り返し話し合い、こうした場
での保険の問題にたどりついた。
こうした様々な問題と日々ぶつかりながら、現在に至っている。
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(3)三ツ又冒険遊び場たぬき山の誕生と現在
横浜線にある町田市、成瀬駅からバスで10分ほど行くと、住宅が建ち並び
ながらも、駅前とは違った穏やかな風景が見られる。バス通りを一歩はいった、
こんもりとしげった山の一画に、子どもたちが楽しそうに笑う声が聞こえる場
所がある。それが「三ツ又冒険遊び場たぬき山」(以下、たぬき山)である。
私は、2001年7月の良く晴れた日に、初めて、山を必要な部分だけならし
てつくられたこの遊び場とであった。遊び場自体が山であるという、地理的特
質を最大限に生かしており、もちろん足下には土があり、辺り一面を竹藪で囲
まれ、心地よい光と陰が取り入れられた場であった。手作りされたという遊具
たちも、自然にあった竹と一体化した作りになっており、長い竹でつくられた
竹滑り台や竹の砦など、無理のない工夫がされている。畑があり、水が引かれ、
かまどが2つある。まさに、秘密の基地といった具合で、とても目の前が道路
だとは思えないすてきな遊び場だ。
町田市成瀬台にあるこのたぬき山運営の主催者は、3人の子どもの母である
岡本恵子さんである。岡本さんの呼びかけをきっかけに、成瀬台での冒険遊び
場活動が始まった。以下、たぬき山の誕生までの経過をみていく。
1996年、児童館のなかった町田市が、「子どもセンター」を建設すると
いう方針が市民に知らされた。成瀬台地区で地域活動をしていた地区委員会(町
田市青少年健全育成成瀬台地区委員会)に、長い間関わってきた岡本さんは、
この方針にできる限り市民の声を反映させたいと考え、「子どもセンター」に
対する意見や希望を、地域の懇談会のなかで話し合ったり、小、中学校の子ど
もを対象にアンケートを採るなどして調査を重ねた。それが1998年3月の
ことである。しかし、実際に「子どもセンター」を建設する予定地となったの
は、岡本さんたちの住む成瀬台地域からは遠い場所であった。しかし岡本さん
は、やはり自分たちの地域にも、子どもの遊び場が必要であるという思いを強
くもち、
「私たちはいつも話し合うだけで満足してしまい、子どもの状況を変えるとこ
ろまでやってないことに気がつきました。行政に要望を出したり、行政が動く
のを待つのではなく、自分たちがどうしたいのか、それには自分には何ができ
るのかを考え、できることから始めよう」(岡本恵子『東京都家庭教育に関す
る研究会レポート』2000年)と、感じたことをきっかけに、有志を集い遊
び場作りが始まり、1997年に発足したのが、「子どもの広場を考える会∼
遊べ子どもたち∼」であった。以後、成瀬台における様々な遊び場活動が展開
される。
「子どもの遊びを考える会∼遊べ子どもたち∼」の活動はまず、どこかで実際
に遊び場をやってみよう、というところからスタートした。そしてその初めて
10
の遊び場活動が、1997年成瀬台小学校の校庭、体育館、理科室を場にして、
第4土曜日の午前中、「あそびにおいでよ」をスローガンに掲げて開始された。
本番前日、岡本さんは眠れないほどの緊張があったという。また、活動を続け
るるなかで、次回の準備を何にしようかと悩んだりもしたが、子どもの遊び場
活動の先輩にあたる、羽根木プレーパークの天野氏の励ましもあって乗り切っ
てきたという。
1998年には「子どもの広場を考える会∼遊べ子どもたち」の、当初から問
題提起されてきた、中学生の居場所の確保ということで、成瀬台中学校の調理
室と多目的ホールで、フリースペース活動も始めた。月に1回、平日の放課後
にあけているという。こうした遊び場活動を通じて、様々な子どもたちの、様々
な表情を見ていくなかで、より、常設で、屋外で遊べる遊び場の必要性を感じ
ていったことだろう。
1998年、第1回冒険遊び場全国研究集会に参加し、全国の、冒険遊び場を
つくろうという人たちの熱気に包まれ、そのパワーに圧倒された岡本さんは、
ここでの様々な人との出会いによって「私たちの最終目標は地域にいつでも行
ける遊びの拠点をつくっていくことだったのと、もっと自然のなかで遊びたい」
という思いをもち、本格的に冒険遊び場を立ち上げることを決意する。
1999年2月、「子どもの広場を考える会∼遊べ子どもたち∼」を中心に
冒険遊び場作りに参加してくれる人を誘い、話し合いが始められてゆいく。そ
して4月には、遊び場をつくる土地を探し始めた。その後、活動に参加協力し
ていた、地域の地主で町田市教育委員長である、井上恭さんが、土地の借用を
申し出てくれた。井上さんは土地を貸してくれただけでなく、水道を引いたり、
トイレの設置、山を遊び場にしていく作業など、多くの協力をしてくれた。た
ぬき山が順調に開園を迎えたのも、井上氏の協力が大きいと岡本さんは話す。
市の広報の呼びかけもあって、遊び場作りの作業は多くの人の手によって行わ
れた。大人も子どもも、一体となった作業といえる。そして、1999年8月
21日、たぬき山は開園を迎える。
民間民営であるという事が、羽根木プレ−パークとは大きく異なるところで、
財政面は助成金やカンパでまかないながら、9月から定期開園を始めた。第1、
第3水曜日の午前2時から5時、第3日曜日の午前10時から午後5時を開園
時間とした。10月からは、場の団体使用の受け入れも始めた。その後、子ど
もたちのニーズもあって、開園日を、毎週水曜日の午後2時から5時、第3日
曜日の午前10時から午後5時までに変更しながら常設を目指している。20
01年現在、午前中の時間帯は主に幼児とその母たちが利用し、午後になると
学校から帰った小学生たちが、大勢やってくる。日常、「お当番」と呼ばれる
スタッフの人たちが、かまどで煮炊きをし自分たちの食べたいものをつくって
11
る風景があるが、午後になると、家から肉や野菜を持ち寄って、子どもたちが
慣れた手つきで火をおこし、まっ黒な顔をしておいしそうに腹ごしらえをして
いる。また、夏は、ウォータースライダー、水鉄砲などではしゃぎ、また、べ
いごまや、設置された遊具を、うまく自分のものにして遊ぶ姿がみられた。
たぬき山には今、日常関われるスタッフが10人ほどいて、その人たちが交
代で日常の開園を支えている。ここにはまだ、プレーリーダーが常時居るわけ
ではなく、ボランティアのリーダーが2人と、フリーランスのリーダーが1人、
それぞれ日にちを決めてやってくるが、開園日に常にいるわけではない。「た
ぬき山の今後の課題となる」と、岡本さんは言っていた。
2章
子どものための遊び場が大人の居場所になることの意味
(1)子どもの遊び場の必要性を感じた背景と当初の遊び場の目的
「現在」の子どもたちの遊びの環境はどのようなものであるかを考えるとき、
必ず比較の対象となるのは「かつて」の子どもたちの遊び環境である。しかし、
敢然と、「かつて」というと、受け手によって年代が異なってくると思われる。
それでも、あえて年代を特定せずに、2001年を現在として、それぞれの人
が、一度自分の「かつて」の遊び環境を振り返ってほしいと思う。
学校から帰った子どもたちが異年齢の小集団となり、家の周りにある草の茂
った空き地や、河原でにぎやかに遊んでいる姿をにたことはないだろうか。私
自身が小学生であった1980年代後半でも、私が住んでいた地域は都心から
比べるとまだまだ山、川、田畑の自然が多く、田舎の風景を残すところであり、
当時は住宅も少なく、いわゆる空き地が町の至る所にあった。空き地には、子
どもだった私の背丈ほどもある草が茂ったところもあれば、クローバーが一面
に咲くところや、レンゲの花が、じゅうたんのように咲くと所などがあり、花
の冠をつくったり、ツクシ、セリ、ヨモギなどをせっせと見つけたり、歩けば
ぶつかりそうなトンボを捕まえて遊んでいた。また、地域の畑に入っては、栗、
桑の実をとったりした。竹林や、沢を見つけては、捨てられた廃材を集めて秘
密の基地をつくった。大人がいれば、家の周りでたき火をして焼き芋をつくっ
た。もちろん家の中でテレビゲームもした。人の家の庭を勝手に「近道」とい
って通ったりもした。学校から帰ると上級生が遊びに連れだしてくれた。あの
ころ私たちにとって地域のなかはほとんどが遊び場だった。地域の至る所で子
どもたちが遊んでいる、そういう環境だった。しかし、それがいつの頃からか
町の景色が変わった。8年ほど前だと思う。おそらく私が感じるよりずっと以
前からその変化はあったのかもしれない。しかし、私には、急激な変化のよう
12
にも思えた。気がつくと、遊んでいた空き地は立入禁止の立て看板が立ち、周
りをフェンスで囲まれた。そしてある日学校から帰ると、茂った草は伐採され、
土地をならし、アスファルトがひかれ、見たことのない景色が現れていた。何
とも異様で、空虚な空間だった。やがてそこは、住宅となり、町には新しい景
色が生まれた。住宅の一画には滑り台と、砂場と、ベンチだけの小さな公園が
できた。
こうして改めて「かつて」を振り返ってみると、子どもたちは自分の地域の
なかに沢山の遊び場をもっていたし、自然の遊び場をもっていたことに気づく。
そのことは、私の子供時代が特別なことではないのではないだろうか。整備さ
れてきれいな色の塗られた遊具のある公園もあったが、そうした場所でなくて
も遊べる環境があった。そう考えると、確実に自分の周りからは、かつてあっ
た遊び環境はなくなってきているといえるだろう。こうした遊び場の減少が、
田舎の町でもおこり始めていたということは、都心に近づくにつれもっと早い
時期から速いスピードで、子どもたちの遊び場環境は、変化していたのだろう
と推測できる。
また、空き地のような遊び場の減少とともに、1990年代に登場したテレ
ビゲームに代表される、ひとりでも遊べる室内遊具の増加も、子どもの遊び環
境を変化させる一因となっているだろう。
社会が移りゆくなかで、様々なものが様々な形で変化していくことは、ある
部分では当然といえる。しかし、その流れに任せきりでいることは、本当に大
事なことまでも流れに流されたまま、変化させていくことになりかねない。そ
の意味で、子どもの遊び場環境は本当にこのままでいいのだろうか。
世田谷区では、20年前に大村夫妻によってもち帰られた冒険遊び場のスラ
イドを見て、子どもの遊び環境に不安を抱いていた大人たちが集まり、自分た
ちが子どもだった頃の体験から、また、デンマークで行われていた冒険険遊び
場、アレン卿夫人の『都市の遊び場』に共鳴し、今の子どもたちの遊び場環境
を見直し、冒険遊び場というスタイルの子どもの遊び場の必要性をみいだし、
自分たちも冒険遊び場を子どもたちにつくろうと活動が始まった。第1章でも
述べているが、この活動のきっかけとなった大村璋子氏は、自らが子育て中に
子どもたちの遊び場環境について「これでいいのか」という思いを強めたとい
うことを著書のなかでも述べている。
よって、冒険遊び場が日本にもたらされた背景、主たる目的は、子どもたち
が豊かに育つ環境として重要である遊び場環境を、社会の変化にともなう、現
在の遊び場環境を受け身的に捉えるというのではなく 、大人自身が子供だった
時代のあそび体験と、「冒険遊び場」からもたらされた新たな遊び環境をもと
に、子どもたちが育つ遊び環境が子どもたちにとって、より豊かなものとなる
13
ように創造してゆこうというものであった。
一見すると、大人が子どもの遊びに関わってくるということに抵抗があった
り、改めて「冒険遊び場」というものをつくることによって、子どもたちをそ
こへ閉じこめていくのではないか、という感覚があるかもしれない。しかし、
先にも述べたような現在の遊び場環境を見ても、子どもたちの力では、どうす
ることもできない現実がある。そう考えると、今だからこそ、遊び体験を持っ
た大人たちが、子どもたちのそこに関わっていく必要があるのだろう。大人が、
子どもと遊んであげるのではなく、共に遊び場を創造してゆくことが求められ
ている。
このような観点から、実際冒険遊び場に、大人たちがどのように関ってきた
のかをみていきいたい。
(2)冒険遊び場における大人の関わり
冒険遊び場に実際に出かけてゆくことをおすすめしたい。そこで、遊び場に
いる大人の多さに気づくはずである。大人たちは遊び場のなかにいてもごく自
然で、何の不自然さもない。普通の都市公園などの遊び場を想像するとしたら、
それとは少し違う。単純に場の利用者として訪れている大人もいるが、ここで
は、この場を担ってきた大人たちの場との関わりをみていく。
実際に冒険遊び場を担っている大人たちを、それぞれの関わり方で分けて考
える。
①立ち上げメンバー
冒険遊び場を日本にもたらした初期の大人たち。冒険遊び場が全国的に展開さ
れてきたきた今日、新たな冒険遊び場をつくろうとする、個人や団体を援助す
るアドバイザー的な役割を担っている大人たちだ。冒険遊び場を日本に最初に
もたらした大村虔一氏、大村璋子氏、また、大村氏と共に関わりの長い、澤畑
勉氏らである。彼らは、冒険遊び場のスライド上映会に企画者3人、参加者1
人という時から、冒険遊び場の裏側を担ってきた人たちである。地域住民や、
行政(世田谷区)に、冒険遊び場の必要性を訴え、遊び場への苦情の対処など、
冒険遊び場をつくることを訴えてきた人たちだ。このような人たちがいなけれ
ば、今の冒険遊び場はない。こうした人々は、実際に、遊び場の現場に直接関
わることは少なくなっているが、各地の遊び場のアドバイザー役となり、また、
遊び場に関して、困ったことがあればいつでも馳せ参じるという体勢をもって
いる。日本で20年の歴史をもつ、冒険遊び場の第1歩となった彼らの存在は、
当時の子どもたちにとっても、現在の子どもたちにとっても重要な大人の関わ
りだといえる。
かつてを振り返り、「立ち上げメンバーは、担い手として権利主張や押しつ
14
けでない改革のエネルギーがあった。」と、澤畑氏は述べている。「冒険遊び
場」の概念が、日本には全くないというところから、子どもたちの遊び場をつ
くるという作業に携わった大人たちだ。
②プレーリーダー
「冒険遊び場」が他の遊び場と異なる特徴の一つが、プレーリーダーと呼ば
れる人が場のなかに存在していることだ。プレーリーダーとは、遊びの指導者
ではなく、遊び場に集う子どもたちの年上の友達だといえる。彼らの役割は、
「遊び心を刺激する環境をつくり、安全を管理しけがなどの事故に対応」(大
村璋子著『子供の声はずむまち』p115引用)することだといえる。子ども
たちの遊び心を誘発する、プレ−リーダー自身が「遊ぶ人」であるといえる。
彼らの存在は、子どもたちにとってもこの場で遊ぶことへの安心感につながり、
より豊かに、そして、自由な遊びを促す手がかりにもなるのだ。さらに、プレ
−リーダーに求められる役割には、「大人の価値観」から子供を守る防波堤と
なることである。汚れるとか、汚いとか、危ない、うるさいなど、様々な、大
人たちのなかにある価値観から、リーダーは、遊んでいる子どもたちに寄り添
って考えることが求められる。また、それとともに、地域の住民たちを、冒険
遊び場と良いかたちでつなげていく役割も求められる。良いつながりを遊び場
を通してしていくことで、子どもと大人がつながっていくことにもなるからだ。
プレ−リーダーに期待されていることは多く、冒険遊び場の運営にとっても、
重要なことばかりだといえる。現在日本には、こうした重要な役割を果たすは
ずのプレ−リーダーの多くが、ボランタリーにしか存在せず、他の国の冒険遊
び場のように、「職業」として認知されていくのはまだまだ困難な状況である。
デンマークでは余暇教育者、ドイツでは社会教育者など、プレ−リーダーの呼
び方は様々であるが、社会的な位置ずけがなされている。しかし、日本でのプ
レ−リーダーは、そういった認知がなく、世田谷区における常駐プレ−リーダ
ー(有給)と、自主的にフリーランスのプレ−リーダーとして活躍しているリ
ーダーがいるにとどまり、ほとんどがボランティアのリーダーで、職業として
は成り立っていないといえる。
子どもたちが自由に、安心感をもって遊びを創造していくためには、プレ−
リーダーの存在は欠かせない。リーダーの動きを子どもたちはよく見ているし、
大きな動きの人であるか、どんなことが得意な人であるか、自分と合うリーダ
ーかどうか、場のなかでその関わりをよく見ている。お互いが、良いところを
出し合い、本気で遊ぶ。子どもたちの表情からも、場での関わりに欠かせない
存在だという事が伝わる。
15
③世話人・スタッフ
立ち上げメンバーの大人たちの呼びかけに反応し、様々な思いをもって冒険
遊び場に関わる大人たちがいる。このような大人たちは、場を運営していくに
あたり主に現場での日常の開園や、イベントごとの企画運営、管理などの役割
を担っているといえる。
ほとんどが自主的な、ボランタリーな関わりの大人である。
例えば、羽根木プレ−パークでは、場とのこうした関わりを持つ大人たちを、
「世話人会」とよび、日常の場の運営を当番制にしてプレーリーダーと共に支
えている。月に1度、世話人会が開かれ、そこで、場の様子や、運営などを話
し合っている。羽根木プレ−パークでは、「世話人会」と呼ばれているが、た
ぬき山では、「スタッフ」とよび、それぞれの遊び場で同様の役割を果たして
いる大人たちがいる。日常のなかで事務的な仕事や、広報誌の発行などの仕事
を持っているが、実際に子どもたちと関わりを持つ人だといえる。プレーリー
ダーではないけれど、そこに行けばいる大人たちなのである。こうした大人た
ちの存在も、子どもたちにとっては安心感を与えてくれる大人なのであろう。
このような役割を担っている大人たちの多くは、30∼40代の母親という立
場の人で、実際に自分の子どもも遊び場にきているという人、かつてきていた
という人、自分の子どもはこないという人など様々ではあるが、自分はボラン
タリーな関わりを続けているという。実際に遊び場にきている子どもたちは、
世話人の大人たちに友達のように話しかけたり、ちょっかいを出したりしてく
る。大人たちも子どもとのやりとりを、たのしんでいた。
冒険遊び場における担い手の大人の関わり方は、以上のようなものであった。
(3)大人にとっての居場所の意味
「居場所」という言葉に含まれる意味は何かを考えてみる。
私がここで使う「居場所」とは、「安心して自分らしく居ることができ、人
間同士の関係性がある場所」のことである。抽象的な言葉が並ぶので、人によ
っては様々な捉え方をするかもしれないが、ここで私が「居場所」の意味とし
て伝えたいことは、「自分が今その場所にいたい、その場所にいることを拒否
されない、自分が今そこにいてもよいという感覚が、安心感へとつながり、今
いる自分をそのままだすことができ、その自分の存在を否定しない自分がいる
と同時に、他人との関わりがある場所」ということである。
「居場所」という言葉が、とくべつな意味をもって使われ始めたのはいつの
頃からであろうか。1980年代、子どもたちのいじめ、不登校、自殺が増加
16
し始めた頃から、「子どもたちの居場所」の重要性が語られるようになってき
た。また、1990年代、子どもの凶悪犯罪と呼ばれる事件が発生するにつれ
て、「子どもの居場所」は、子どもが育つためのキーワードのように語られて
きた。子どもの居場所に関係した文献も数多く出版された。その一つである『子
ども・若者の居場所の構想』(学陽書房)のなかで、著者の1人である荻原健
次郎氏は、子どもたちの居場所の意味を以下のようにあらわしている。
①居場所は自分という存在感と共にある。
②居場所は自分と他者との相互承認という関わりにおいて生まれる。
③居場所は生きられた身体としてのじぶんが、他者・事柄・物へと相互浸透的
にのび広がっていくことで生まれる。
④同時にそれは世界(他者・事柄・物)のなかでの自分のポジションの獲得で
あるとともに、人生の方向性を生む。
ここで示された「居場所」の意味は、より具体的で共感できる。
私が示したかった居場所の意味するところは、主に萩原氏のそれであり、基
本的には、萩原氏の上げたように考えていくことで問題はない。ただ、ここで
は、子どもと若者の居場所ではなく、大人の居場所の問題というところだけ切
り替えていけばいい。
「自分」としての精神世界と肉体世界があって、双方が「自分」のなかに共
存しているから「自分」になり、居場所になるのだと思う。しかし、こうした
二世界が長い年月をかけて離れていってしまうことに大人は気づきにくい。例
えば、自分の気持ちとは別に、∼しなければならない的な事柄を、苦痛だと感
じることができなくなってきて、あたかも当然のことのように、その事柄をこ
なしてしまうようになる。それを、長い間日常のなかで繰り返すことで、その
ことに慣れてしまい、「自分は」とか、「居場所は」とかいうことを改めて考
える機会を気づかぬ間に奪われてしまうのではないか。
「居場所」を考えたとき、大人と子どもでその意味が違うとは思えない。基
本的には、先に述べられてきた「居場所」であると思う。ただし、大人は、子
どもとは違い、より社会的なものの近くにいることで「自分」を拘束する社会
的立場や、状況が発生する。そういうものが、「自分」の居場所は、精神世界
と肉体世界が離れていてはつらいのに、つらくはないと思いこませてしまう、
だから大人は、自分たちの「居場所」のことを考えたりはしないのではないか。
しかし、近年、日本経済の不況によるリストラや、養育者による子どもへの
虐待、子育て不安などが社会現象化して、ようやく大人側の問題が語られるよ
うになってきた。その中で「大人の居場所」も少しずつ語られ始めている。互
いに受け止めたり、受け止められたりしながらでないと、実社会を生き抜くこ
とは困難で、誰かとつながったり、やりがい感をもてる場所や関係性があるこ
17
とが、どれほど大人たちにとっても意味をなすか、自分らしさに出会えるかと
いうことに目がむき始めている
2001年11月10日読売新聞の朝刊38面に載っていた記事をみる。見
出しには、「みんな『居場所』が必要だから・・・」とある。これは、東京都
江戸川区で、白根良子さんという人が1987年に、子どもたちに居場所をつ
くって上げたいという重いから自宅の隣に「とぽす」、ギリシャ語で「場所」
の意味を持つ喫茶店を開いているという記事だ。ここで注目してみたいのは、
この場所が子どもの居場所にとどまらずに、大人たちの居場所にもなっている
ということだ。喫茶店に来るお客さんと出会っていくうちに白根さんは、「居
場所が必要なのは子どもだけじゃない」と考えるようになっている。「トポス」
を必要とする人は次々にでて来ますよ。」というお客さんの反応や、夕飯前の
主婦が息抜きにやってくる姿を白根さんは子どもたちがここにくるのと同じよ
うに、14年間みてきているのだ。
子どもたちのことは、比較的目がいきやすいということは、大人たちの特徴
だと思う。しかし、大人たち自身にとっても居場所は必要なのではないか。
一人ひとりの大人が、まずは、先に述べた「居場所」を参考にして、自分の
「居場所」を振り返ってみる必要がありそうだ。社会的に要求された、「自分
のあるべき姿」ではなく、方の力を抜いて、「そうしていたい自分の姿」に気
づいていく場が大人にとっても、大切になると考える。
(4)冒険遊び場が大人の居場所になるわけ
冒険遊び場には、「自分の責任で、自分で遊ぶ」というモットーが掲げられ
ている。「自分の責任で、自由に遊ぶ」というのは当たり前のようで意外と難
0しいかもしれない。
日本の冒険遊び場活動は、1960年代、大村虔一、大村璋子夫妻が、アレ
ン卿の著書「都市の遊び場」に出会い、1974年6月、IPA(Inter
national Piayground associeition 国際
遊び場協会)のネットワークから、ヨーロッパ各地の遊び場を見学して、冒険
遊び場に興味をもったことから始まっている。そして、その背景には、第1に
子どもの遊び場環境に対する大人たちの不安があった。大村氏の、「遊び環境
はこれでいいのか」というおもい、また、「日頃から子どもたちの育つ環境に
そこはかとない不安」を持っていた親たちがいたことは、2章・1(p16)
でも明らかにした。
しかし、ここで私が考えていきたいのは、大人たちが、子どものために始め
たこの冒険遊び場活動が、実は、ある部分でこの活動自体が大人の居場所にな
っているのではないかということである。前記した居場所に定義されるものが、
18
この活動をすることにあてはまり、冒険遊び場が大人たちの居場所にもなって
いるのではないかと考えるのである。 大人たちは、活動していることで、自
分の存在をその場に確認でき、多くの今までつながることのなかった地域住民
や、それ以上の多くの人たち、また、大人である自分と子どもたちの関わりか
ら生まれるものによって、さらに関係性を広めてゆくことや、冒険遊び場を創
造していく様々な出来事のなかで、大人たちにとっても、「居場所」として冒
険遊び場だが機能しているとは考えられないだろうか。
冒険遊び場が、実際に大人の居場所として機能しているのだろうか、大人の
居場所としても機能しているとしたら具体的にはどのような要素をもっている
のか、ということを明らかにしていくために、実際に冒険遊び場に関わる大人
たちにインタビューしていくことにした。
第3章 冒険遊び場に関わる大人の場との関わり∼大人へのインタビュー∼
子どもの遊び場としてその活動が始まった冒険遊び場が、大人の居場所とし
ての機能も果たしているのではないかと考え、実際遊び場がそのように機能し
ているかどうか、機能しているとしたらどのような要素をもっているかという
ことを明らかにしたい。そのために実際冒険遊び場に関わる大人に、インタビ
ューをおこなった。
インタビューさせていただく際に、「自分は∼」ということになるべくこだ
わって話していただけるようにお願いした。
対象
2001年現在、「世話人」として 冒険遊び場の日常の運営を支える大人と
する。ただし、冒険遊び場を、羽根木プレーパークと三ツ又冒険遊び場たぬき
山の2カ所に限る。
インタビューの内容
はじめに、冒険遊び場を知ったきっかけと、現在に至るまでの経過をお話し
していただいた。
1、大人にとって冒険遊び場の必要性、役割というものがありますか。
あるとしたらどのようなことだと思われますか。
2、あなた自身は、冒険遊び場があること、そしてそこに関わることで何か
変 わ っ た こ と が あ り ま す か 。 あ る と し た ら ど の よ う な こ と だ と 思わ れ ま
すか。
3、あなたからみて、冒険遊び場は大人の居場所にもなっていると思います
19
か。なっているとしたらどのようなことでそう感じられますか。
4、あなた自身は今、その場に何を求めて活動に関わっているのですか。
5、これから冒険遊び場が大人にとっても居場所となるには、どうしたらよ
いですか。
以上の5点についてお話ししてもらった。
なお、インタビューのなかで私がつかう「大人」と、「居場所」の意味
するところは、以下のような内容を意味することを事前に伝えた。
「大人」:冒険遊び場の担い手側の大人
ただし、2001年現在「世話人」として支えている大人に限り、
プレーリーダーなどの他の立場の大人はのぞく。
「居場所」:安心して自分らしくいることができ、人間同士の関係性がある
場所。
自分が今その場所にいたい、その場所にいることを拒否されな
い、自分が今そこにいてもよいという感覚が、安心感へとつな
がり、今いる自分をそのままだすことができ、その自分の存在
を否定しない自分がいると同時に、他人との関わりがある場所。
なお、羽根木プレーパーク世話人の星野実典さん、福島さん、斉藤さん、そ
して、三ツ又冒険遊び場たぬき山世話人の、岡本恵子さん、中嶋孝代さんにイ
ンタビューさせていただいたものであり、このインタビューの他に、澤畑勉さ
ん、澤畑明見さん、関戸まゆみさんにお話を伺っている。そのお話は、後の考
察において反映させていただきたい。
①羽根木プレーパーク世話人 星野実典さん
星野さんは3人お子さんの母である。10年ほど前にプレーパークの世話人
をしている幼児の母と出会い、羽根木プレーパークの存在を知った。
はじめは、羽根木プレーパークを拠点として活動している、自主保育「ピッ
ピの会」にはいり、プレ−パークの利用者として関わり始め、3年前から「世
話人」としての関わりを続けている。自分の専門を生かして、「遊気流」と言
うプレ−パークの広報誌を年に6回ほど発行したり、日常の活動を支えている。
ここは、親、大人がはまっている所だともいえて、自分の子どもは来なくて
20
も親がはまってるという人は多い。逆に、親と子供が同じ時間に来ていると、
お互い居づらいなって感じがある。だから、わざわざ時間をずらしたりしてき
ている人もいる。世話人の人は、自主保育でプレ−パークに関わっていてそこ
からプレ−パークの世話人になっていく人が多い。主に母親の立場の人が多く
て、現在羽根木プレーパークの世話人は10人ほどで、父親1人と、学生の1
人が数少ない男の世話人。
1:
大人にとっての居場所的役割していると思う。自分を出せる場所。誰にとって
もはまるところとはいえないけれど。PTAなど、他にもここでいう「世話人」
のような関わりを持てる場所はたくさんあると思う。でも、やっていてこんな
に楽しいと思える場所はここしかないように感じている。特に子育て中の親た
ちは、小さい子がいると、なかなか外には出かけてゆくことができない。かと
いって家の中をきれいに掃除することもできなくてイライラしてくる。
そんなイライラ抱えている人たちが、「何もやらないで外にでてしまおう」
と、思い切って外へ飛び出してこられる場所。
ぐちゃぐちゃ考えていても何もできない・・・どうせ何もできないのなら、
外へでてしまった方がいい。その方が子どもにとっても、そのストレスが発散
できていい。大人もそういうやり場のないストレスが発散できるところ。そう
いう役割をここがもっていると思うし、必要なんだと思う。
他にある普通の児童公園とは違う。児童公園にも、いわゆる公園デビューと
いわれる、赤ちゃんから3歳くらいまでの子どもと、その親たちがいて、そう
考えると、そこにも人はいる。だけどプレ−パークにはいろいろ年齢の人がい
て、本当にいろいろな人がいる。プレ−パークの担い手ではない利用者の大人
もいるし、なかには、ホームレス、アルコール中毒ではないかないかと思われ
る大人も来ていたりするのだけど、何か違うような気がする。というのは、例
えば他の場所でホームレスや、アルコール中毒の人に出会ったとしたら“何を
するのかわからないので怖い”という恐怖と不安があるのだけれど、プレ−パ
ークではみんなの眼差しがあるし、ホームレスや、アルコール中毒の人たちも、
周りのそんな雰囲気を感じているようで、だからプレ−パークに来ているよう
に思う。 月1回の「世話人会」で、いろいろなことをとことん話し合うし、
世話人同士、この中でこんなに深くお互いのことを知り合えることは、他には
なかなかないことだと思う。
プレ−パークは自由といわれているけど、逆に、そういうお互い知り合った
大人たちの管理というか、大人の目がいきとどいているから、自由がある遊び
場になっているのかなとも思う。でも、やはり単純に、大人は子どものことを
21
みていたいし、子どものことで何かしたい、自分がここに来たい、という思い
をもっているからここにいるのだと思う。自分も気がついたらここにいたとい
う感じがある。
他の公園や大人と違うのは、みんなここに何らかの目的をもってきていると
思う。目的をもって集まっている。他の公園などだと、ただ遊びに来ているだ
けで、たわいのない話から人の悪口になっていくことが多い。そういうことで
大人がストレスを発散している。そういうのは自分にとってはすごく嫌だった。
「そんなのちがうっ」と思っていた。
プレ−パークはそこが他の場所と違って、たわいのない話なのだけど、それ
ぞれが、それぞれの目的をもっているから、悪口になっていくことがなくて、
その目的の方にストレスの発散を向けるというか、大人の力、エネルギーをだ
している。プレ−パークでは、親は親、大人は大人の時間を過ごせている。そ
れがいいのだと思う。
2:
自分の子ども3人のうち、上の子供2人は普通の公園デビューをしてきたが、
3年前に夫の会社が倒産した直後で、夫のイライラもあり自分は家の中に居場
所を見いだせずに、3女とともに朝から友人の家に避難したりしていた。そん
なときに、プレ−パークを拠点として活動している自主保育“ピッピの会”に
入った。
普通の児童公園では他人の目が気になっていて、音羽幼稚園事件の山田容疑
者の気持ちがわかる。そんな風に、人の目が気になっていた自分だったけれど、
ピッピの会での育児、それからプレーパークでの世話人を通して、その他人の
目が気にならなくなった。人の目を気にしない、素のままの自分でいられるよ
うになったと思う。人といろいろ話をしたり、とことん話し合うことで、一般
世間では何か一つにまとめようとすることが多いけれど、まとめようとするだ
けではなくいろいろな人の、いろいろな考え方があっていいんだよ、といえる
ようになった。
今までなら、ちょっとつっぱった子なんかは、他の場では、見た目だけで判
断して、話をするなんていうこともなかったと思う。プレーパークに関わって、
そういう見た目で判断するということもなくなった。ここで、いろいろな子ど
もや年齢の人たちとつきあっていくなかで、自分の幅が広がったとおもう。つ
きあう相手が限定されていくことは、自分の世界を狭くする。子どもたちにも
その狭さから脱出して、沢山の人とつきあってほしいし、大人たちも同じで、
狭さを抱えないでほしいと思うようになった。
自分の子どもたちに関していえば、自分の子どもとしてだけではない見方を
22
できるようになった。というのは、この子たちにはこの子たちの世界があるの
だ、と思えるようになったということ。それによって自分自身が何となく救わ
れたように思えた。
実は気がつかないところでプレーパークに自分自身が救われているのだと感
じている。
3:
居場所になっていると思う。
かつて、自主保育で利用者としてプレーパークに関わっていたとき、家にい
ることができなかった自分にとっては、プレーパークは逃げ場であり居場所だ
った。プレーパークに貢献しようとか、そういう大人の関わりではない単純な
癒し、救いの場だった。「ピッピの会」から世話人になったとき、はじめのう
ちは「世話人」としての関わりが嫌だなと思ったりしたこともあった。けれど、
関わっていくうちにその気持ちは消えてしまって、またすぐに、プレーパーク
は、自分の癒しと救いの場となった。
プレーパークに対する、大人の1人ひとりの思いは少しずつ違っていると思
う、ここに関わりだした理由とか、目的とか、関わり方とか世話人であっても
少しずつ違うだろうと思う、だけどその中にある共通なところはプレーパーク
に居心地の良さをもっているということなのだと思う。世話人に限らず、ボラ
ンタリーな関わりをもっている大人、ふらっと来る大人は、そういう居心地の
良さがあるのだと思う。ここに来る大人はおもしろい。年齢に関係なくここに
来る、関わる人たちの気持ちのうえでのきっかけは似ているのではないかと思
う。
やっぱりプレーパークという「場所」だけではなくて、プレーパークに関わ
る人、人との関わりがなくては、「居場所」になり得ないと思う。人が関わっ
ているということにひかれて、大人たちも「居場所」として集まれるのだと思
う。
4:
プレーパークの立ち上げからの関わりでない分、活動にのっかているという
思いがあるけれど、 プレーパークが子どもたちを育てているなと感じている。
居心地のよさみたいなものを自分なりには求めているし、子供の親としてもそ
の思いはもつ。
プレーパークが長い間、沢山の人の手に支えられて続いて来ているというこ
とを知っているので、今は自分もその一つになれたらいいなと思う。
それに、自分のここでの経験を生かしたことが、これからプレーパークの外
23
に発信できたらいいなと考えている。例えば、新しい動きとしての、他の地域
のプレーパークづくりに自分は何ができるのか考えている。そんな風にして新
たに、人と人とをつなげていくことができたらいいなと思う。このプレーパー
クがそのきっかけとなり、自分自身がきっかけとなっていけたらいい。
子どもと大人の居場所、癒しの場としても、今後、プレーパークの必要性が
あるということも伝えていきたいし、おとなたちには、そんなにいろいろなこ
とで悩まなくていいんだよ、と思えるようにしたい。親として、一生懸命やり
すぎると負担が増えるし、いいあんばいの手抜きを伝えたい。プレーパークが、
楽しくて、自分の居場所になっている場だから。
5:
大人も子どもも、つながれる場にしていくこと。年齢が違う人同士が知り合
って、話ができることはなかなかなく、この場所でそれができているというこ
とは、本当に不思議だと思う。自分たちの時にはなかったことだけど互いに認
めあえる関係を保てるところであったらいい。世間では壁がありすぎるから、
それを取り払っていけるようにすること。まだまだプレーパークでさえも、入
りにくさを感じさせてしまうことがある。世話人の自分たちも、新しい人たち
をプレーパークに引き入れて、大人もこの場を楽しめることを知ってもらい、
広げていきたい。
②羽根木プレーパーク世話人 福島智子さん
5年ほど前、羽根木公園のすぐ近くにある羽根木幼稚園に、自分の子どもが
通っていたころ、羽根木プレーパークをホームグラウンドとしていた自主保育
「ピッピの会」を知り、羽根木プレーパークの活動を知る。幼稚園の友人が世
話人をやっていて、福島さんも世話人に誘われた。しかし世話人会をのぞくが
すぐには入らず、約1年後に世話人となる。世話人になってすぐ副会長を任さ
れ、2年間副会長を務め、のちの3年世話人会の会長を務めて現在に至る。
世話人になる以前から、世田谷いのちのネットワーク、いじめよとまれ、H
otしてgoo、などの子どもに関わる活動に参加していた。当時から、子ど
もの今の状況を知りたい、今、子どもたちに何が起きているのか知りたい、そ
して、大人にできることは何かないだろうかと考えていた。あちこち、講演を
聞きにいっていた自分に、プレーパークが入ってきたという。
1:
子供の世話をよくするということは、大人自身が納得して幸せになるという
こと。そこから大人自身が解放されることが大事。
24
親の立場、リーダー、子どものやりとり、様々な場面があるけれど関わる大
人が解放される。大人自身の意識が解放される事が大切で、ここの世話人は、
プレーパークにそういう解放をもてている。
幼児の母親などは、自分の育った場所でない地域での子育てという人が多く、
友達も少なく、子どもを抱えて外へ出かける範囲も、ごく限られた狭い範囲に
なり、人間関係をつくるにもなかなかうまくいかない。そういうとき一番閉塞
感を感じるものだし、そういうときにプレーパークでは、同じような子育て中
の母親が集って、出会ってゆく。それだけでは、母親の不安を増長させること
にもなってゆくので、そこに、年長の母たちが入って、自分たちの経験をもと
に、「そんなの大丈夫よ」といえる、声を掛け合えるつながりがある。自主保
育に入らなくてもそうした関係が、自然にできる雰囲気がプレーパークのなか
にはある。
子どものことほっておけるのよ、という母親たちの存在は虐待につながらな
いように、ストレスの解放ができていることだと思う。プレーパークがもって
いる子どもたちへの眼差しは他の場所とは違う安心できるものがある。安心で
きる場所として機能している。親である大人たちの方が、解放され安心して過
ごしている部分がある。
プレーパークは、子供を親がずっとみていなくていいし、子どもも沢山いる
ので自主的に遊んでいる。もし子どもが1人だったら、子育ても大変だろう。
子育てをしにくくする社会事情が沢山でてくるなかで、プレーパークでの、子
どもの喧嘩もみていられるような、こういう子育てもあるのだということが、
大人側にあることは魅力になってると思う。
私は、
プレーパークに来て沢山の人とつながることができているので、プレーパーク
は、人とつなげる役割を果たしているということがあると思っている。世話人
の人たちは、プレーパークを大事にしているという感覚が、同じということが
自分たちにとって安心できる場所になっているのだろうし、緊張なくいられる
のだと思う。お互いの本音を出せる関係があるという事が、この場の安心感に
なっていると思う。
2:
プレーパークに関わるまでずっともっていた、「何かしたい」という自分の
気持ちに対して、何がやりたいのか、何をやればいいのかが、はっきり見えて
きたということ。これだ、と思える出会いがあるし、大変だといいつつも自分
が、好きでやりたいことを見つけたという実感をもてた。
プレーパークに世話人として関わっていて、他とのつながり、他の世界との
つながりができた。いろいろな人が、いろいろなところから来ていてる。いろ
25
いろな意味で世界が広がって、自然と見えてくるものが広がったように思う。
自分がもっている目的みたいなものが、自分の子どもだけに反映されたらそれ
でいい、ということではないのだと考えられている。
3:
居場所になっているという感覚はある。
今、自分は現場にでていく機会が、かつてにくらべると少なくなってきてい
るけれど、やはり居場所になっていると思う。ボーッとしていても、特に話を
しなくてもいいし、私にとってはそうしていたい場所でもある。ここにいると
き、私は、何もしていなくていいといわれていることの方が心地よく思える。
世話人だから仕事がでてきてしまうことの方が多いのだけれど・・・。ただ、
かつてここに関わり始めたばかりのとき、ここが自分にとってリフレッシュの
場という要素も含んでいる居場所だったと思う。けれど、今は、それとは少し
違う感じがしていて、今自分にとってこの場所は、リフレッシュという要素は
もっていなくなって、それは、プレーパーク以外の場所に今求めているし、他
の場で自分にとって、その機能は果たしていると感じている。
4:
自分自身が、自分にとって、というところでここに何かを求めているという
ことは、今のところないとおもう。そういえるのは、今の自分に満足できてい
るからだと思う。だから、今、プレーパークという、自分が関わっているこの
場所に対して、自分のことで何かを求めていることはない。ただ、多くの人に、
「細かいことにピリピリしなくてもいいのだよ」ということは、プレーパーク
を通じて伝えていきたいことだと考えている。そのことを伝えたくて、今も私
はプレーパークに関わっているのだと思う。
5:
子どもの学校生活の現状について考えることが、自分では多くなってきてい
て、子どもたちが勉強する時間や、その内容に不安や疑問をもっている。
「子どもたちに時間を返して」という気持ちが強くあって、学校での勉強を「覚
える」ことより、必要な時に、必要なことを知っていく力をつくろうという思
いがある。子どもたちのそういう学びの力を、親自身が待てなくて、詰め込ん
だ勉強をさせようという方向に走ってしまいがちになっている。親の責任とい
うことだけを追求していくのではなく、子どもたちが自ら育つ、自ら選ぶ、と
いうところで大人側が割り切れるかどうかということが、大人と子どもの関係
においても大事なことだと思う。大人の抱えている不安と、大きなお世話で、
26
子どもたちのことを放っておくことは、結構難しいものだから。
評価しない大人、子供の存在が大事だと思う。そういうことをより多くの大
人を巻き込んで、大人自身が考えあえる場所になっていくことが、今後プレー
パークが、大人の居場所になっていける課題でもあると考えている。子どもの、
そして大人自身の道を、まずは、世話人が一緒に探していけたらいいなと思う。
プレーパークは、まだまだ社会的に少数派であるけれど、子どもも大人も、個
人として大事にしていける場でありたいとおもう。
③羽根木プレーパーク世話人 斉藤何奈さん
子どもが3歳の時、羽根木プレーパークで活動している自主保育「ピッピの
会」にはいった。普通の児童公園は、赤ちゃんや、赤ちゃんでなくともごく小
さい子どもばかりが遊んでいて、少し大きくなって、走り回りたい3歳くらい
の子どもたちは、子どもなりに気を使って遊び、自由に遊ぶことができず、親
も他の小さい子にけがをさせないように気を使っていたし、ほとんど3歳くら
いの子どもたちは児童公園に来ていない状態だった。そんなときに、プレーパ
ークを、ホームグラウンドとする「ピッピの会」に出会った。それが13年前
のこと。それがプレーパークの世話人となるきっかけで、今年で世話人14年
目となる。羽根木に現在いる世話人のなかでは、世話人歴が長い
1:
私は、プレーパークに関わる大人としてここのおもしろさ、いろいろな部分
にひかれている。自分の子どもが手を放れてからは、自分に空き時間がある、
その空き時間が暇だということに気がついた。それから、はじめのうちは、午
前中プレーパークに遊びに来ていたのだけれど、気がついたら一日中ここで過
ごすようになっていた。世話人になって、世話人の仕事をしていておもしろさ
を感じるし、自分にとっても世話人でいることが遊びの延長なのだと思う。
プレーパークの世話人は、「やりなさい」という義務じゃないから、おもい
義務感なくできる。自分がなりたくてなっている。誰かからの押しつけでやっ
ていることではないので楽しいのだと思う。
世話人をやっていて、横のつながりがどんどん増えてきて、小学校のPTA
の知り合いもできて、子どもたちの学校を他の大人には任せておけないと、次
のPTAをプレーパーク関係者だけで、やったりしたこともあった。
そこから、学校とプレーパークとのつながりができたということもあった。
好きなやり方で、気心しれたメンバーで活動しているというのは、プレーパー
クが長い間継続して活動できている秘訣なのだと思う。
私の場合は、常にここで自分が遊んでいるという感覚をもっている、という
27
ことは、はずせない事実。いつも子どもたちとも遊んでいたし、今も一緒に遊
んで過ごしている。世話人であっても、なかには遊ばない人もいるし、人によ
ってここでの関わり方のスタイルは違うのだろうけど、私は常に遊んで自分が
楽しんでいる場所だと思っている。
世話人のなかでも、常に子どもと遊ぶ人というのは少ないと思う。もちろん、
子どもも大人も相性があるし、誰とでも遊べるということでもない。今私は、
かつて、プレーパークに遊びに来ていた子どもたちが成人していて、その子た
ちと、お酒を飲みに出かけたりすることも増えてきた。そこでは、子どもたち
が私を解放してくれてるのだと感じる。日頃つくってる「自分」とか、そうい
うのみんなもっていると思うのだけど、相手はそんなこと期待してないと思え
てくる。プレーパークがあって、プレーパークに子どもたちがいて、そのこと
を感じている。
2:
わかりません。よくわからない。
プレーパークに関わり始めた頃は、20代後半だった。何となく変な人とか、
ホームレスの人とか当時からプレーパークにいて、怖いという思いがあった。
でもプレーパークに関わっていくうちにそう人たちのことを怖がらなくなった、
ということはある。
それから、世話人をしていて何に対しても物怖じしなくなったと思う。それ
まではわりと、「これをいったら笑われるかもしれない」ということとかを、
考えていて、人前で話すなんていうことをしない人だった。そういうことがな
くなってきたといえるかもしれない。物怖じせずに、度胸がついたというか。
人前でしゃべることをしてこなかったのに、先日、大勢の世田谷区民の前で発
言してしまった。前なら考えられないことだったと思う。
3:
大人の居場所になっていると思う。大人でも居場所のない人は沢山いると思
う。年齢に関係なく、居場所のない人は多いのではないかな。みんな、「居場
所」とは何かとか、自分の居場所はどこかとかあまり考えたことがないと思う。
融通のきかないところだと長く居続けられない。大人は、目にあまるようなこ
とがある場所には居づらくなってくるのだと思う。
もしかしたら、一般社会の視点で考えると、プレーパークには変わった大人
が多いのかもしれないと思う。
基本的には、子どもの遊び場としてのプレーパークだし、プレーパークがそ
の機能を果たせなくなるというのは違うとは思う。大人の居場所を、全面的に
28
プレーパークに求めているわけではない。だからといって大人の居場所になっ
てないわけでもなくて。なんというか、そのバランスが大事のような気がして
いる。
4:
プレーパークを、自分気づきの場としていた時期もあった。
子どもに教えられることが多くて、油断しているとただの大人になってしま
う。子どもたちとやりとりしていると、いつもハッとさせられる。
基本的には、おしゃべりが好き、子どもが好き、大人が好き、人が好きでプ
レーパークに関わっているのだと思う。子どもたちが、日常プレーパークでは
ない場所で出会ったときも声をかけてきてくれたり、今はプレーパークに来て
いないかつての子どもたちが、飲みに行こうと誘ってくれたり、自分に返って
くるやりとりがある。そういうのは素直にうれしいし、大事にしたいと思って
いる。
これでOKという終わりがあるものではないから、どこまで、自分は何をや
っていくかということに関心はある。子どもとのやりとりのが、自分に返って
きたりすると、自分の子どもだけでなく、他の子どもたちも同じで、その境目
はあまりないものなんだと思っている。
それに、プレーパークにいて話をしたり、なんとなく、ぐちゃぐちゃするこ
とが好き。いったり来たり、右往左往しながらやっていくのが好き。何でなの
か自分でもよくわからないけどそういうのが好きなタイプ。関わっていくこと
が好きで、スパスパしているより、ぐちゃぐちゃしている方が好き。だから、
そんな関わりを求めて関わっているのかな。プライベートな相談とかが好きと
いうのではなくて、そういうのとは違うチャンネルで、頭を切り換えて考えら
れる。そういうことを求めているのかもしれない。
5:
あまり考えたことがない。
大人の居場所として、プレーパークが機能していくなら、やりたいことがで
きる場所で、忘れていた自分が子どもの頃、どんなところで遊んでいたのか、
ということを思い出せる場所であったらいい。大人が何か気づける場所だとい
い。 大人がみているのは、子どものごく一部の狭いところしかみていない。
プレーパークは、いろいろな大人がいるから、子どもも大人もそれぞれの人の
いろいろなところをみることができると思う。
初心に返れる場、何というか、もっと基本的な“生きてるって何”とか、“人
って何”“友達って何”ということを考えることで、大人が考えてる複雑なこ
29
とを単純に考えられるようになっていけたらいい。大人は単純なこと忘れてい
ると思うから。本当は何が好きで、何が嫌いなのか忘れている人が多い。そう
いうこと考えたり、思い出したりしていける場にしていきたい。
④三ツ又冒険遊び場たぬき山 岡本恵子さん
20年ほど前動物園で仕事をしていた。ポニー教室などの子どもと動物をつ
なぐ仕事で、はじめは子どもが好きというよりは、動物が好きで始めた仕事だ
ったのだが、子どもとも関わりを持つようになっていた。動物園での研修会で
養護学校を見学にいったときにそこで、期間限定の遊び場が開かれていた。そ
この友人を通じて、冒険遊び場の記録集、『遊べ子どもたち』に出会った。今
読みかえしても心打たれる本であり、これが自身と、冒険遊び場との出会いだ
った。
子供が産まれてから、自分自身が子育てに神経質になっていき、教育相談所
にも通うようになっていた。自分は一生懸命やっているのに、うまくいかない
ことへの苛立ちと不安から、ノイローゼ気味にもなった。子どもの小、中学生
時代、子育てが神経質になっていることを、子ども自身も感じていたと思う。
子育てに対するうまくいかなさのはけぐちのように、地域活動へ目が向きP
TAの活動もした。今思うと、自己実現、私はこんなにがんばっているという
ことを認めてほしいというおもいがそこにはあった。子育てのうまくいかなさ
を抱える一方で、自己実現できている私というのを認めてほしいと思っていた
のだとおもう。
しかしそうした地域活動に関わることで、大きなギャップを、より感じるよ
うになった。それは、周りの人は、自分のやっている地域活動をみて、がんば
っているという評価の眼差しを向けてくれるようになっているのに、自分で振
り返って、我が子をみたとき、やっぱりおもい通りにうまく育っていないとい
う思いをもっている。そこに自分自身のやっていることに対しての差を感じた。
それによって、自分に対する劣等感を感じる。自分のことを認めてほしくて、
地域活動に目は向くけど、おもい通りに子どもを育てたいよ、という気持ちが
あった。
そんななかで、子どもの方が身動きとれない状態になっていったとおもう。
しかし、我が子は自ら新しい関わりを外の世界に見いだしていった。新しい関
わりのなかで築かれていった、人との関係のなかにあった「今度はいつ来てく
れるの。」という言葉、子どもを認めてくれた人の存在が、子どもを生き生き
させていったことが目に見えてわかった。そのときに、子どもにとって幸せな
のは、道筋をつけてやる大人がいることなのではなく、子どもを認めてくれる
存在が、彼らを生かし、充足感をもたせるのだと実感した。頭をガツンと殴ら
30
れた感じだった。今までは、ある程度いい学校へ行くことが幸せと、押しつけ
てきたことを考えさせられた。
その後、地区懇談会を重ねるなかで、子どものための場づくりに積極的な関
わりを続け、発言もするようになり、町田市の子どもセンター「ばあん」がつ
くられたことで、自分たちの家の近くにも遊び場をつくりたいという思いが強
くなった。
1:
大人にとっての遊び場の役割としては、やはり大人たちの情報の場であると
いう事と、子育てを肩の力を抜いて楽にやれる、楽になれる場ということがい
えるとおもう。実際ここに集まる大人はそういっている。人から見た自分の子
に気づけたり、自分(親)でなくても他の大人も子どもたちに関わることで新
しい気づきの場になっている。自分の子を自分だけで育てなくていいし、自分
と自分の子をはなしてゆく、よい機会になっている。子どもは子どもなりに場
を活用し、逃げ場にもしていると思う。大人にとってここが逃げ場になってい
るのかどうかはわからないけど。大人は、子どもの遊びをみているので、自分
を振り返ることができる場所になってると思う。子どもに知識を詰め込むより、
体験させることのほうが、彼らを生き生きさせることなのだと気づく。子育て
を間違わないためにはこういう場所は必要だと思う。
実体験を通して、人とのつながりをもちながら、子育てもできる場になって
いると思う。子どもに対する生活力を信じられるし、子どもの関わりをみてい
るなかで、大人も多くのことを学ぶ場で、子どもは子どもなりに、できること
があるのだと教えられる。大人の多面性に気づきそこを互いに認めていける場
なってるとおもう。
2:
自分のかくれていた力や、隠れていた面というのがわかりすごく自分の幅が
広がったし、同時に楽しみも広がった。
信じていけば必ず出口はある、何でも「大人だから」、という理屈が問題な
のであって、頭で考えて外堀埋めていこう、何かあったときのためにあれもこ
れもやっておこうというのは、結局そういう理由をくっつけているだけで本当
にやらなくてはいけないことをやらないで終わってしまう。大人の理屈の為に
物事が進んでいかないことがいっぱいある。それではいけないと気づいた。何
か問題抱えながらでも、その中から見えてくることはいっぱいあるってことを
信じられるようになった。その見えてきたものが大事なんだって思えるし、や
っていくことで、誰かや何かを説得もできるし、実現することだってできるの
31
だということを知った。
そういうなかで、いろいろな人と関わって、沢山の個性を知り合えるのは、
本当に嬉しくて楽しいこと。担い手として活動していくことのなかには、大変
さはいっぱいあるけれど、自分は子育てがすごく楽になれた。1人でやってい
るとつらいことや、煮詰まってゆくことが沢山でてくるのだけど、みんなでや
ってるということで、自分のなかに「ま、いっか」が増えていることは確か。
肩肘張らないで力を抜いていけるようになった。
3:
単純に大人の居場所になっていると思う。
関係性の存在、子育てのつながりもあるし、世話人だけでなく、父親たちや、
地域の男の人も手伝いに積極的でいてくれる。たぬき山は、母親という立場を
もった担い手が多いけれど、自分の子どもがこなくても関わっている大人たち
がいる。そういうところでも「居場所」になってるなっておもう。それに何よ
りも、将来自分は、子どもがここにこなくなってもくるとおもう。やはり、来
たいと思う場所になってる。カラオケや、テニスなどいろいろなことに通う人
がいるけれど、自分はやはり、たぬき山に通うとおもう。友達も増えるし、活
動で知り合うことに居心地のよさとか、自分はここだっていうものを感じる。
4:
子どもにも大人にも、いろいろなことがやれて、実感のつかめるところにし
たいという思いがある。体験がいろいろできる場所、もちろん何かするってい
うことだけではなくて、ただボッーとできるというのもあってよくて、自由な
場所になっていったらいいと思う。お茶を飲みながら、ここで自分のやりたい
ことができる、生き生きしたり、何となくほっとできる場にしていきたいと思
う。関係の増える場所、大人も子どももつきあいやすい場所、自分にとっても
そうなって、そうあり続けることを求めている。長く続く活動であってほしい
し、世代交代もしたい。いつか今の子どもたちや大人たちが、この場所を、ど
んな思い出にしてゆくのかを知りたい。
日常の関わりは週一回なのにどうしてと思うほど、助成金や、打ち合わせが
大変。でもやってきたことが目に見えるかたちで出てくると、分かりやすくて
嬉しい。目に見えない結果ももちろん大切にしたい。そういうものを求めてい
るような気がする。
5、
たぬき山では、子どもも大人も含めて共同体Communityという感じ。
32
地域の人が何気なくよっていけるところにしていきたいし、集える場にしてい
きたい。今は当番の人たちが多いけれど、当番でなくても寄れる。
当番でない大人はまだ居場所のなさを感じたり、排他的と感じているかもし
れない。何をやったらいいのかというとまどいもあるだろう。自分のやりたい
ことをやっていい場という「居場所」が伝わっていくといい。自分のやりたい
ことが見つけられる場になっていくといいとおもう。
⑤三ツ又冒険遊び場たぬき山 中嶋孝代さん
たぬき山の代表者岡本さんとは、地区委員会の時からの知り合いで、岡本さん
の人柄にひかれて、このたぬき山にも関わるようになっている。
たぬき山のある場所が、自分の家とごく近いということがまずあって、ここ
がどのような場所なのか、どのような使われ方をしているのかということが、
近所に住むものとして単純に気になっていた。子どもが集まるところで、火も
使うということだったので、心配していた。だから、実際に、自分もたぬき山
にはいって関わっていけば、なかのことがわかるだろうというおもいで関わり
始めた。
自分自身、9年間地区委員会に関わっているなかでも、なぜか、母子の問題
に目がいく。地域に関わるということに興味、関心があり、地域に対して無関
心でいるということができない。さらに、地域のなかでも、子どもたちと接し
ていたい、子どもたちと関わっていたいという思いが常にあった。たぬき山の
活動も気になっていたし、ここにくれば、いくらでもやることがあるというこ
とは分かっていたが、なかなか関わりだすことができなかった。ようやく、去
年(2000年)の中頃から、自分の時間としての余裕ができたこともあって、
空き時間はここに使おうと思った。それまではでて来たくても、でてこれない
というジレンマがあった。
1:
大人たちにとって、必要性や役割を、この場がもっているということは感じ
ていたが、自分はなかなか関われなかった。自分にとっては、仕事、家事以外
のなにかをもちたいというおもいがあり、いまは、この場所での活動がそのひ
とつになっている。今までの、趣味でもなく、自分の時間として使えるボラン
ティアも、「老人福祉」関係ではなく子どもに関わる活動をしてきていた。
ここを支えているメンバーは、気心しれた人たちなのでやりやすい。ただ、
もっとここに関わる大人が増えていくと、キャパシティーが広まるところだか
ら、大人にも大切な場所だと感じてもらえるとおもう。ここを支えてる大人た
ちは何かを共有しているとおもう。目的をもった大人たちで、ここなら何とな
33
く動けるという人たち。不思議なパワーがあって、何なのかよく分からないけ
ど、ここを支える大人たちにとても感じていること。家ではできないけど、こ
こでならいっぱいやることがある。
きっかけや、目的は一人ひとり違うのだろうけど何か共有している部分があ
って、それが大人のパワーになっている。大人たちをこの場所がそういうふう
につなげていってくれていると思うから、大人にとっても、意味のある場所だ
と思う。
子どもの笑顔をみていたいし、新しい遊具は手作りされて、できあがればそ
れがかたちになるわけで、目に見えたものになっていく。「これやりたい、こ
れがしたい」ということがすぐに実現できている。お役所の印鑑が必要ではな
いから、大人たちにとってもやりたいことが実現できるのだという感覚を与え
ているとおもう。体力は使うし、大変なのだけど、思ったことができてしまう、
夢が実現できるという感覚。たぬき山での夏祭りに、窯でピザを焼こうという
イベントを企画して、本当にできるのだろうかという心配があっても、実際に
やってのけてしまうパワーがある。人が集まるということのすばらしさを感じ
られる。
2:
少なくとも、ここに来てから自分の時間を有効に使っているとおもう。家事
や仕事の手抜きを私はしたくない、でも自分の時間もほしいというなかで、自
分の時間を有効に使えるようになった。
子どもたちとのつながりができて、地域のなかで、小学生と挨拶が交わせる
ようになったことは嬉しいこと、自分の子どもは今中学生なので、その年代の
子どもしか知らなかったけれど、知ってる子どもたちの幅が広くなっている。
それから、自分はおしゃべりが好きなので、ここに来ていろいろな人たちの
話や意見が聞けるということは、自分にとって本当にプラスになっていること
だとおもう。また、自分と自分の子どもの関係を見る目が変わってきた。それ
は、家で我が子をしかるとき、「たぬき山での私はもっと優しいのに」と考え
たりすることがあるから。我が子との関わりに、親としてだけでなく、第三者
としての目がもてるようになったと思っている。たぬき山にいて、たぬき山に
いる自分や、子どもたちも遊びが好きな子、ボッーとしてるのが好きな子、い
ろいろいて、子どもってこんなだったとか、私ってこんなだった、と原点に返
れているし、考え直すことができるようになったとおもう。
3:
自分なりには、スタッフに居場所になっていると思う。居場所の一つと感じ
34
ているからここに関わるし、ここに集まるのかもしれない。スタッフの大人は
30代後半から40代で、子育て真っ最中でもあり、お互いに情報をもらった
りあげたりしている。たぬき山には、主に三つの小学校の子どもたちが来てい
るので、そういう意味でも情報交換の場になっていると思う。親の常連も増え
てほしいし、スタッフではなく遊びに来たというだけの人にとっても居場所に
なっていったらいい。水曜日も午前開園を始めたのは、ベビーカーをひいたお
母さんたちや、友達が近くにいないお母さんたちも来てくれたら、という思い
があったから。実際に、スタッフに情報を求める声が母親たちからでできてい
る。子どもの居場所にはなっているといえるけど大人にとってはまだまだの部
分があるので声かけをしていきたい。
4:
人との関わり、大人、スタッフとの関わりを求めているのだとおもう。友達
と会うことは楽しいことだけど、生活のなかでは、ここのスタッフと会う頻度
の方が高い。関わりのなかには重たすぎる関わりというのがあるけど、ここで
は、自分にとって重たい関わりではないし、大事なものだと思う。それに、子
どもの理想郷を求めている。手作りで実現していく子どもの遊び場を、みんな
とともに求めているから今ここにいる。
今の自分の生活のなかにこの場がなかったら、寂しいと感じるだろう。夏の
暑い中、遊具づくりを無償でやっていると、自分の子どもに「何で?」と不思
議がられるけれど、自分でもそう思う。やらずにはいられない、たぬき山に行
かずにいられない自分がいる。スタッフが少ないということもあるのだけれど、
嫌々いくのではない。自分でも、汗を流しながらよくやったなとおもう、いか
ずにいられなくて魔物がとりついたよう。でもこれも、自分が、本当に好きだ
からやっているのだとおもう。家にいれば楽だけど、気持ちを同じにしている
仲間がいるから、仲間がいい人ばかりだから来るのだとおもう。
ボランティアというのは、何かに縛られてやることではない。台風が来たと
きも、自分の家よりたぬき山の方が心配だった。それも、公共施設ではなく自
分たちの手作りだから、いとおしく思えるのだとおもう。立ち上げや運営まで、
自分たちがやってきたので、それだけいとおしい気持ちがある。これが町田市
のものだったりするとまた違うとおもう。
子どもたちにとって、泥遊びなど、今失われつつあることのできる場になっ
てほしい。
5:
35
今は子どものたぬき山だけど、大人にとってのたぬき山にもなっていったら
いい。自然のなかで、ガスや電気はないけれど、水はあるしたき火はできるし、
魅力のある場所。火を見ていると本当の心が見えてくる。憩いの場であったら
いい。ボランティアではなく自分の好きなことを楽しみながらやっている、家
を出るときは大変でも、来てしまうと大変でなくなる、そういう場にしていき
たい。
家だけでなく、いろいろな場が、自分にもてているといい。ここで私は元気
をもらっている。単純に好きなんだし、人と関わることで自分のいいところも
でていくから、そういう場として大人にも機能するといい。普段着のつき合い
できるところでありたい。
以上がインタビューの内容である。インタビューの記述は順不同とする。
4章 考察
(1)インタビューのまとめ
前章で、冒険遊び場に関わる大人たちにとって、冒険遊び場が「居場所」に
なっているのだろうか、なっているとしたら「居場所」としてどのような要素
を含むのか、ということを明らかにするために、実際に冒険遊び場に関わる大
人たちにインタビューしてきた。
まずは、インタビューの結果を質問項目の順にみていく。
1:大人にとって冒険遊び場の必要性、役割というものがありますか。
あるとしたらどのようなことだとおもわれますか。
この問いに対する大人たちの答えは、
①大人にとって冒険遊び場は、子育てに関する必要性、役割がある。
②大人にとって冒険遊び場は、人間関係形成の場として必要性、役割がある。
③大人にとって冒険遊び場は、解放の場としての必要性、役割がある。
大きくこの3つに分けられる。①については、星野さん、福島さん、岡本さ
んが、それぞれの経験をもとにお話ししている。子育て真っ最中の大人たち、
特に、ここでは母親のことを指しているようだが、自由に外出できないことや、
様々な子育て不安を抱えている。そうした大人たちにとって、冒険遊び場は、
子育てについて、経験をもとにした情報が沢山提供される場だと感じている。
福島さんのお話にもあるように、同年代の母親だけでなく、年長の母親が関わ
36
っていることにより、子育て不安の解消につながっているということである。
そして、そのことと関連して、②の役割を担っているといえる。これは、子育
ての関係にとどまらず、大人同士が冒険遊び場という場所を通じて、横につな
がっていることを実感していることがわかる。また、新しい出会いの場となり、
今までに、関わることのなかった領域に踏み込んでゆく機会をもっていくこと
で、さらに新たな出会いの場となっている。そして、冒険遊び場活動と、深く
関わることで、大人同士のつながりがさらに意味ある関係となってゆく。その
ような関係を築いていくことによって、③の「解放」へと導かれていく。福島
さん、斉藤さんは、これを「大人意識の解放」と表現しているが、こうした関
係をつくっていくなかで、大人自身が「私」としていられる時間をもつことが
できる。社会的に要求された「私」ではない、「そうしていたい私」の時間を
過ごす。大人同士がこのように地域で関われる場というのは少なく、冒険遊び
場は、子どもの遊び場を通して、大人たちにも、つながりと解放される安心感
を感じさせているといえる。
2:あなた自身は、冒険遊び場があること、そしてここに関わることで何か変
わったことはありますか。あるとしたらどのようなことですか。
この問いに対しても共通して語られていることがいくつかみられる。
①他人から自分はどう見られているか、ということが気にならなくなった。
②自分自身の幅、世界が広がった。
③人を見た目で判断しなくなった。
④我が子を見る目が変わった。
ということが何人かに共通して話されたことだった。①のように人目が気にな
らなくなるためにはまず、自分がその場所にいることに安心感をもてなくては
ならないだろう。他人の視線というのはそのまま自分への評価につながってゆ
くことから、どうにかよく見られたい、と考えているもので、そのために普段
のまま、自分らしい自分でいることができなくなり、常に緊張状態で、「こん
なことを言ったら笑われるかしら」という考えが先にたち、言いたいこともい
えなくなる。そう考えると、他人の目が気にならなくなったというのは、冒険
遊び場を、自分にとって安全で、評価されない場所だと思えているといえる。
②の、自分自身の幅が広がった、世界が広がったというのは、冒険遊び場に
関わることによって、今までになかった多くの人たちとの関わりが発生し、そ
うした人々と、「冒険遊び場を創造しあう」という共通の思いをもちながら、
関わりを深めていくなかで、今までの自分にはなかった視点や、広い視野での
捉え方を知り、そうした新しい発見をした自分と、かつてこの活動に参加する
37
前の自分とを比較したときに、関わりや、考え方として、手に入れたものが多
くあるということを実感している。
③を答えたのは、羽根木プレーパークの星野さんと斉藤さんで、プレーパー
ク(都市公園に隣接した冒険遊び場)という、より多くの人が入り込みやすい
特質をもつからこその変化ともいえる。これは、他人の目を気にしないでいら
れる「私の安全」と同時に、この場を必要としている「相手の安全」も作り出
していることなのだと考える。自分のしていることは自分へ、相手のしている
ことは相手の元へ返していくという、冒険遊び場のモットーを、大人たち自身
のものにもできている。そうしていくことで、相手との関わり方が変化したと
感じるのではないか。
④は、②に関連していると考えられ、多くの人、しかも世代を越えた出会い
と関わりを持つなかで、冒険遊び場に関しての情報にとどまらない様々な情報、
意見交換がなされてゆき、そこで自分の子育てについても、改めて振り返るこ
とができるゆとりができたのだといえる。星野さんも話されているように、「子
どもには子どもの世界がある。」というところで、大人が手放してゆけるよう
になったと言うことなのだろう。
その他、福島さんは、「様々なつながりが増え、子どもと関わっていくなか
で自分が本当にやりたいことは何かという事が見えた」、中嶋さんは、「自分
を振り返ってみることができた」という。活動を通して、「自分」というもの
に焦点があたってきたといえる。
こうしてみてみると、冒険遊び場活動をするなかで、活動の本来の目的にと
どまらず、大人たち自身、それぞれの内面的な変化があったといえる。そして、
その変化を、大人たちの誰もがプラス評価をしていて、「今の自分」を、生き
生きと語っている。また、たぬき山の場合は、立ち上げからの世話人となるの
で、何もないところからのスタートということもあって、「人の手が集まって、
信じて進めば必ず結果がでるということを信じられるようになった。」という
岡本さんの話から、大人たちがここに関わることで、人と人との関わりを信じ
ることから始められていて、だからこそ、やりがい感をもって取り組めるのだ
ということが分かる。
3:あなたからみて、冒険遊び場は大人の居場所にもなっていると思いますか。
なっているとしたらどのようなことでそう感じられますか。
この問いには5人全員が「居場所になっている。」と答えた。その理由も表
現の仕方は様々ではあるが、羽根木プレーパークの3人は、かつての自分にと
って・・・という経験から、自分気づきの場、自分癒しの場であると答えてい
38
る。そして、大人たちは、「場所」が居場所になっているのではなく、「人」
が「場」に関わって初めて居場所になるとかんじている。さらに、岡本さんは
「自分が来たいと思える」というところから居場所になっている、とも考えて
いる。
4:あなた自身は今、その場に何を求めて活動に関わっていますか。
この問いの答えには、はっきりとした違った方向性があるといえる。
①子どものために求めているものがある
②自分のために求めているものがある
という求めるものの対象そのものが違ってくる。①は、冒険遊び場の本来の主
目的であり、大人たちがこの場所に関わり始めたときに、一番分かりやすい共
通点といえる。子どものための遊び場をともに創造していきたい、中嶋さんの
言葉で言う「子どもの理想郷」を求めて、遊び場の幅を広げていきたいという
思いで関わっているということ。それとは別に、②は、大人たちが自分の内面
的なことに関わった求めがあるということを示している。例えば、この場が自
分にとって居心地のよい場であってほしい、人間関係をつくる、人との関わり
がある場であってほしい、自分に返ってくるやりとりのある場であってほしい、
また、活動を通して自分にできることを試していきたいなど、遊び場というフ
ィルターを通して、「自分」にとって、内面的によい方向へ働く何かを望んで
いるといえる。大人たちの場との関わりに、こうしたよい意味での2面性があ
るといえる。また、その他にも、活動を通して他の人に伝えていきたいことが
ある、新しく冒険遊び場の活動を広げていくことに力を注ぎたい、といった新
しいアプローチをしていきたいという声もあった。
5、これから冒険遊び場が大人にとっても居場所となるには、どうしたらよい
ですか。
ここでは、ほとんどが、自分たちがこの場に関わったことで得てきたものが
いかに大人たちにとって必要なことなのかということを、経験を通して他の大
人に伝えていくことだということが示されている。
以上がインタビューをまとめた結果である。
39
(2)結論
以上のようなインタビューの結果から、子どものための遊び場として始まっ
た冒険遊び場は、前記した「居場所」の要素と照らし合わせても、大人の居場
所にもなっているといえる。インタビューの結果をふまえて、改めて、大人た
ちにとって、冒険遊び場が「居場所」になる構造を考える。一つは、冒険遊び
場が、大人たちの人間関係作りの場になっているという視点で見えてきたもの
であり、もう一つは、大人たちの自己実現の場という視点から見えてきたもの
である。
1、人間関係作りの場として
冒険遊び場で、多くの大人たちは初め「子育て」をキーワードとしてお互い
が知り合っていくようだ。子育てから生まれる、1人では解決しようのない不
安を持っている。そのようななかで、自分たちの生活に身近な地域での活動に
参加し、そして、「子どものための冒険遊び場の創造」ということを掲げ、活
動を通して沢山の人と出会っていく。その出会いのなかには、大人と大人、大
人と子どもという出会い方があって、人間関係をつくっていくことになる。
①大人と大人
このようにして冒険遊び場活動のなかで出会った大人は、少なくとも場を支
えていこうとしているということで共通の意志を持っているといえる。そして、
共に場の活動を通して話し合ったり、意見交換をしていく過程で、大人が、自
分とは違った経験や、考えをもった大人に出会い、そうした大人たちのフィル
ターを通して、物事を見て見るという作業をする。そうすることで、お互いが
相手を認めていく場面に出会い、相互承認の関係が成り立つようになる。相手
に対して認めるものを見いだしていくことは、自分にとって、新しい発見と学
びへとつながってゆく。すると、相手と自分のなかに共通の認識が増えてゆき、
やがて、それが連帯感や仲間意識という横のつながりになっていく。こうした
つながりは、大人たちにとって「安心感」となる。思いを同じにした人たちの
なかにいることで、それまで不安を抱えていた自分を、丸ごと否定されない感
覚と、居心地のよさが生まれ、そして、ここにいたい、関わっていたいという
気持ちを強くしていくことになる。さらに、自分がここで感じたり、経験した
ことが、新たに他の大人にも伝わっていくことを願うようになる。
②大人と子ども
この場の大人と子どものなかに、大人と大人の関係と同じようなような共通
の認識があるといえるのは、この場を大切に思っているということしかここで
はいえない。しかし、この場で子どもと関わるということは、大人たちにとっ
40
ては多くのものをもたらしているといえよう。子どものそばで時間を過ごすこ
とで、大人たちは今まで見ようとしなかった、または見ることのできなかった
子どもの視点に、近づくという体験をしている。大人が、子どものフィルター
に近づくという作業をすることができる。その体験を通して、「大人である自
分」という意識の枠を、少しずつ取り払っていくことができ、「自分らしい自
分」を発見する。そして、自分はこの場所でこんなに楽しめてしまうという感
覚に気づき、この場を自分にとっての遊び場、居場所としていく。
このように、大人たちにとっての居場所の要素として、「人間関係作り」の
場のなかに、どのような関わりがあるかということが重要なことだと分かる。
さらにここでは、「地域」ということがもう一つの欠かせないキーワードとな
る。「地域」というのは、言い換えると、「自分の生活の領域」であるといえ
る。そうした領域のなかに「安心感」のもてる場や、安心感をもって人間関係
を形成できる場として作用する「冒険遊び場」があることは、今までの自分の
生活のなかに、その場での安心感や、相互承認体験、遊び体験、それらを通し
た自分らしさ、という体験や感覚が、良いかたちで持ち込まれることになる。
そうした感覚や体験を、自分の生活のなかに持ち込んでいくことで、大人たち
は、今までとは違った自分の生活環境を、自分の周りに築いていく。それによ
って、さらにこの場を「大人の居場所」、「自分の居場所」として作用させる
ものが増えることになる。だから、自分の生活とはまったくかけ離れた遠いと
ころで、時々やっているという関わりではなく、「地域」での関わりという事
が重要なのだといえる。
2、自己実現の場として
冒険遊び場に関わる大人として、「冒険遊び場を創造していく」という共通
の目的があると共に、それぞれが少しずつ違った、目的意識や思いをもって関
わっている。各人がもつ達成していきたいもの、自分のものとして獲得してい
きたいことというのは、子どもたちや、冒険遊び場を対象とした、外側の方向
に向くこともあり、自分を対象とした、内側の方向に向くこともある。つまり、
外側の方向に向いたものは、「場」の創造を支える大人としての責任をともな
った、自分なりに、「場」にとって達成していきたい目標だという意識のもと
に生まれる、やりがい感をもった結果の動きになる。そして、それを達成した
ときには、目に見えるかたちとなって現れることもあることから、それが大き
な喜びであり、自信となり、さらに、新たな目標をも生み出していく仕組みが
ある。自分という存在の価値を認識できる、大きな自己実現感となる。
一方、その作用が内側に向いたときの自己実現感というのは、考察のインタ
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ビュー2の結果を見ても分かるのだが、「変化した自分」がいるということは、
「以前はそうではなかった」ということであると考えられ、例えば、2−①で
いうならば、「他人の目が以前は気になっていた」自分がいたわけである。そ
ういう自分に気づくことができるようになっているのだ。しかし、実際に大人
たちは、「自分の、こういうところを変えていきたい」という思いを、初めか
ら目的のようにもっているわけではなく、関わっているうちに、いつの間にか
「そういう自分」になっていることに気がつくのである。そこには、外側に向
いたときのような達成感はなく、その代わりに、場に関わることで、以前とは
違った「自分」に気づいたことで、解放感をもつ。それは、大人たちが、解放
したくても、解放できなかった、解放するすべのなかった、社会的に要求され
た「自分」のあるべき姿を、本来の「自分」の元へ返していく作業であり、精
神世界と肉体世界を、今ここにある「自分」の元へ返していくことに他ならな
い。そうしていくことは、外側に向いたときとは、また違う、「こうしていた
い自分が、今こうしてここにいる」という内面的な「自己実現」がなされてい
ると考えられる。それは、大人たちにとっての「自分気づき」という「自己実
現」なのだ。そして、本来の「自分」に気づいていくことは、それまでの「自
分」を癒していくことにつながっていく。どの様なことが、大人たちのなかで
「癒されるべきこと」なのかは、各人が、それぞれもつものだと考える。しか
し、ここでの体験が、そこに大きく作用していくのだろう。そして、このよう
な自己実現体験をすることによって、「自分自身の幅、世界が広がった」と感
じるのである。
以上のことから、子どものための遊び場である「冒険遊び場」は、そこを支
えている大人たちにとって「居場所」の働きを担っており、「居場所」として、
人間関係形成の場、自己実現の場としてそれぞれ、冒険遊び場という「場」と、
そこに関わる人間とを、複雑に、しかし、本当に必要性のあるものとして組み
込みながら、成り立っているということにたどりついた。
そして、ここに関わる大人たちは、何よりも、「楽しみ」を見いだしているこ
とがわかる。汗を流して場を創造すること、沢山の人と関わること、日常の時
間を共に過ごすことを、本当に楽しいと感じている。もちろん、「楽しみ」で
あることが、そのまま「居場所」につながることだとはいえないが、「居場所」
のなかに、「楽しみ」を見いだしていけるとしたら、より、その場と、そこに
いる人との関わり、結びつきが強くなり、「自分気づき」、「自己実現」の場
面に出会う機会が増えることにつながる。冒険遊び場の大人たちにとって、「楽
しい」ことも、大人がそこを「居場所」と実感する、一つの要素なのかもしれ
ないと考えた。
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「居場所」は、人によってそれぞれあって良い。それが自分の居場所だと感
じるのなら、それが一番大切なことなのだとおもう。しかし、冒険遊び場のよ
うな人間同士の関わりのある場所が居場所になるとしたら、どれ程「自分」の
豊かさにつながることだろう。『ゆらぐ家族と地域』(1998年 岩波書店)
のなかで、斉藤次郎氏は、「こどもの居場所づくりは単なる空間的な場づくり
ではなく、子どもの自由時間行動における文化的選択とそれにともなう人間関
係の社会的発展を含む発達環境形成の問題であり、「自分の部屋」と生活空間
の場を能動的に結ぶ生活空間の社会文化的広がりという意味をもっている。」
と述べているが、このことは、子どもに限ることなく、そのまま大人たちにも
置き換えていうことができる。そして、冒険遊び場に関わる大人たちは、まさ
にこうした「居場所」と出会っていると、いえるのではないだろうか。
〈資料〉
1、羽根木プレーパーク遊ぼう会組織図(論文p5)
2、羽根木プレーパークリーフレットより、「遊び場図」
3、三ツ又冒険遊び場たぬき山リーフレット
4、読売新聞
2001年11月10日
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朝刊38面
〈引用文献・参考文献〉
・大村璋子
『子どもの声はずむまち−世界の遊び場ガイド−』
1994年 ぎょうせい p4、111、115引用
・羽根木プレーパークの会編
『冒険遊び場がやってきた!羽根木プレーパークの記録』
1987年 晶文社 p17、23、54引用
・田中治彦編著
『子ども・若者の居場所の構想「教育」から「関わりの場」へ』
2001年 学陽書房 p63引用
・佐伯 編
『ゆらぐ家族と地域』
(子育ての課題 自立をめぐる大人の事情と子どもの事情・斉藤次郎著)
1998年 岩波書店 p297引用
・アレン・オブ・ハートウッド卿夫人著、大村健一、大村璋子訳
『都市の遊び場』 1973年 鹿島研究所出版会
・あしたの日本を創る協会
『ハンドブック 子どものための地域づくり』 1987年
・増山均
『子育て新時代のネットワーク』
・久田邦明編著
『子どもと若者の居場所 』
1992年
2000年
晶文社
大月書店
萌文社
〈引用資料・参考資料〉
・東京都家庭教育に関する研究会提出レポートより、
岡本恵子 『遊び場は子どものアジト・・・あそび・じゆう・ともだち』
44
・『地方自治ジャーナル』
1994年4月
公人の友社
・羽根木プレーパークの会編
『冒険遊び場がやってきた!−羽根木プレーパークの記録−』
1987年 晶文社 p20 遊ぼう会組織図
・第2回冒険遊び場全国研究集会∼子どもの世界をとりもどそう∼
・第二回冒険遊び場全国研究集会の記録∼子どもの世界をとりもどそう∼
・羽根木プレーパークリーフレット
・たぬき山リーフレット
おわりに
大学2年の終わり、その1年講義を共に受けてきた人に、「あなたはこの1
年「居場所」にこだわってやってきたように思う」といわれたことがあった。
それまで、私は特別「居場所」にこだわっているつもりもはなかったのだが、
自分がやってきたことを改めて振り返ってみると、その授業に限らず、様々な
ところで「人の居場所」について考えていることに気づかされた。何ともいえ
ない、思わず「あー、ほんとうだ」、という気持ちになったことをよく覚えて
いる。そのころから、私は「居場所」というテーマを意識するようになったの
だと思う。はじめ、私のもつ、「居場所」というテーマは「子どもたちの居場
所」にむかった。フリースクールとかフリ−スペースという「子どもの居場所」
として機能しているものに関心を示し、関わっていくなかで、冒険遊び場にも
出会っていた。しかし、子どもたちの居場所に出会っていけばいくほど、なぜ
か、私のなかで「居場所」というテーマが、子どもたちだけの居場所ではなく、
より自分の年齢に近く、あるいは、自分より年齢が上の人へとその方向がむけ
られていった。
卒論に取り組むとき正直に言うと、本当に困った。子どもの遊び場である「冒
険遊び場」を、「大人の居場所」という視点で捉えても良いのだろうかと考え
た。しかし、私は、この視点で捉えずにはいられなかったし、そこから離れる
ことができなかった。この卒論を終えて、自分がなぜ「居場所」にこだわるの
かを考えてみても、まだよく分からない。ただ、「居場所」が、子どもでも、
大人でもなくて、私自身のなかにあるテーマなのかもしれないと考えている。
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卒論に取り組んできて、私は、自分で何か一つを決めて、それについて動き
始めるまでに、人の何倍もの時間がかかる人なのだということを再認識した。
特にテーマ設定と、実際に人と関わっていく作業は、動き出すまでにかなりの
時間を費やしたと思う。動き出せばいいのにそれができなくて、焦ったり、不
安になったりしている時間がたくさんあった。しかし、テーマも決めて、自分
でやろうと思って始めたことだったし、何より、自分の関心があることだった
ので、そういう意味では、焦りと不安を抱えながらも、楽しみながら取り組む
ことができ、充実していたと思う。何とか、焦りと不安を越えながら、今ここ
に、卒論がかたちになったことを嬉しく思う。
さいごに、私の卒論に協力して下さった皆さま、本当にありがとうございま
した。第二回冒険遊び場全国研究集会の出会いから、インタビューに協力して
下さった星野実典さん、福島智子さん、斉藤何奈さん、岡本恵子さん、中嶋孝
代さんには、私のうまくまとまっていない質問にたいして、丁寧にじっくりと、
つきあって下さいました。ありがとうございました。岡本さんには、遊具づく
りの手を休めて、長い時間をかけてお話ししていただいたこと、私はとてもあ
りがたく、嬉しいことでした。
関戸まゆみさんにも、貴重な体験をお話ししていただきました。
そして、卒論に取り組むにあたり、卒論の書き方というところからお話をして
下さり、夕食までごちそうになりました、澤畑勉さんと澤畑明美さん、お二人
のお話を伺ったことで、自分の卒論が、あのとき、より具体的なかたちになり、
ここまでくることができたと思っています。ありがとうございます。
そして、私の混乱した考えや、まとまらない思いに4年間つきあって下さり、
指導して下さった、梅原利夫先生に感謝しています。
また、卒論に息詰まっている私を、いつもと変わらず支えてくれた「卒論の士
気を高める会」メンバー、「たまりば」、そして家族に、心から感謝していま
す。
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