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万国博覧会に見る明治政府の国際戦略 - ASKA

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万国博覧会に見る明治政府の国際戦略 - ASKA
愛知淑徳大学論集―文学部・文学研究科篇― 第 37 号 2012.3 105―120
万国博覧会に見る明治政府の国際戦略
― 1902 年ハノイ博覧会と 1904 年セントルイス万博を中心に―
International Strategy of the Meiji Government in the World Exposition
― Focusing on Exposition de Hanoi and the World Exposition in St. Louis ―
楠 元 町 子
KUSUMOTO, Machiko
1.はじめに
本稿は日本が西欧列強と肩を並べつつあると自負していた 20 世紀初頭に、国際外交の主
要な舞台の一つであった万国博覧会において、いかなる国際戦略を取ったのか明らかにしよ
うとするものである。1851 年英国の首都ロンドンで「全人類が現在までに到達した技術、
という主旨の下に、万国博覧会が世界で初めて開催された。会場となっ
産業、文化を示す 1)」
たクリスタルパレスで、英国は工業製品を出品し、英国の膨大な植民地からは原料が出品さ
れるという、まさに世界の分業を表していた。
ロンドン万博の大成功に刺激され、その後万国博覧会は 1853 年にニューヨークで開催さ
れ、1855 年にパリ万博が美術品のための専用の展示館を新設するなど、規模を拡大しなが
ら 19 世紀後半から 20 世紀にかけて先進諸国で次々と開催された。1867 年のパリ万博以降、
万国博覧会の本質は世界各国を格付けて並べるという帝国主義的色彩を帯びてくる。この傾
向は 1889 年のパリ万博以降更に強まり、自国の植民地の物品だけでなく会場内に「植民地
集落」を再現し、欧米諸国の文明と富を誇示した。
ポール・グリーンハル(Paul Greenhalgh)は万国博覧会について、
「1851 年に英国人がこ
の文化を始め、フランス人がその形態の装飾を施し、そのマスターとして認知されるように
」と指摘したが、その頂
なり、アメリカ人がその規模と費用を最大限にまで押し上げた 2)。
点で開催されたのが 1904 年のセントルイス万国博覧会であった。
日本は、1902 年に幕末以来の悲願であった不平等条約の改正に成功し、さらに同年日英
同盟を締結している。この同盟の成立に際して『大阪朝日新聞』は、
「耶蘇教国以外にして
いわゆる文明国と相提携し、東洋平和維持の主人公となるに至り 3)」と同盟の意味を説明し
ている。近代化の遅れていた日本は、猛烈な勢いで工業化や産業振興策を進め、西洋化によ
る近代化の道を歩み、近代国民国家の形成を目指していた。しかし「近代世界システム」の
位置関係の中では、欧米と同等の搾取する側である「中核」に位置することは極めて困難で
あった。アジアという地理的辺境に位置する日本は、西洋とは別の文明社会の中における、
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アジアの中核としての存在意義を高める可能性を模索していたと思われる。
本稿は、1902 年にフランスがベトナムのハノイで開催した仏領東京河内府万国博覧会と、
1904 年に米国で開催されたセントルイス万国博覧会への明治政府の取組みを考察する事に
より、アジアでの日本の位置づけをどのように考えていたのか明らかにしようと試みるもの
である。
仏領東京河内府万国博覧会(ハノイ博覧会)に関する主なる研究としては、台湾総督府所
蔵資料の柳本復命書の分析を通じて、ハノイ博覧会の実態と展示を考察し、その成果がセン
トルイス万博に生かされたことを明らかにした檜山の論文 4)がある。しかしハノイ博覧会へ
の明治政府の取組みや、セントルイス万博での台湾総督府の展示内容については不十分であ
ると思われる。セントルイス万博に関しては、外交、建築物、教育など様々な分野から近年
貴重な研究 5)がなされているが、台湾総督府の展示内容について具体的に述べたものはあま
りない。
本稿は、これらの貴重な研究成果を踏まえて、ハノイ博覧会とセントルイス万博に関する
外交史料、日本国政府のハノイ博覧会とセントルイス万博の史料、当時の新聞記事、セント
ルイス公立図書館所蔵史料等の分析を通じて、20 世紀初頭の明治政府の国際戦略について
考察したい。
2.仏領東京河内府万国博覧会(1902 年ハノイ博覧会)
1)フランスの植民地政策と万国博覧会
1756 年の「英国産業博覧会」が最初の近代博覧会として知られている。フランスにおい
ても、革命により専制君主制を打破した 1798 年に、パリで初の国営博覧会が開かれた。会
期は僅かに 5 日間であったが大成功を収め、国営博覧会は 1849 年までに 11 回開かれ、遅れ
ていたフランスの産業革命に大きな刺激を与えた。このフランスの成功により、欧米諸国は
1808 年のトリエステ博、1818 年のミュンヘン博、1823 年のストックホルム博と次々に国内
博を開催していった。最初の万国博覧会は、工業力で圧倒的優位を誇っていたイギリスのロ
ンドンで 1851 年に開催された 6)。
ロンドン万博の大成功に刺激され、1853 年にはニューヨークで開催し、1855 年にはフラ
ンスが 5 年ごとに開いていた国内博を中止して初のパリ万博を開催し、美術展を新設するな
ど、万国博覧会は規模を拡大していった。フランス政府はその後ほぼ 10 年ごとにパリで万
国博覧会を開催している。
1867 年第二回パリ万博では、すべての展示を部門ごとに同心円状に配列し、出品国ごと
に放射線状に分割していった。またフランス政府は主会場のほかに参加国に独自のパビリオ
ンを建設することを勧め、その結果、100 以上もの異国情緒あふれるパビリオン郡が林立し
た。これによって見学者は会場内を歩くことによって「世界」を一周することが出来た。こ
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の第二回パリ万博によって、全世界を格付けて並べていこうという帝国主義的な考え方が、
万国博覧会の本質となり、以後の万国博覧会での展示方式に大きな影響を与えることになっ
た 7)。
1878 年第三回パリ万博では、会場は前回のパリ万博の会場となったシャン・ド・マルス
に加え、トロカデロの丘まで拡張された。
「女性の権利に関する国際会議」
「エンジニアリン
グや心理学者の会議」
「国際平和会議」など様々な分野の国際会議が開催された。こうした
試みは 1889 年のパリ万博に引き継がれ、国際博覧会に国際会議やシンポジュームを併催す
る伝統となった 8)。
1889 年第四回パリ万博では、シャン・ド・マルスの会場に高さ約 312m のエッフェル塔が
建設された。また悪名高い「人間の展示」が行われ、この万博以降、自国の植民地の物品を
展示するだけでなく、会場内に「植民地集落」が再現され、連れてこられた人々が「展示」
されていた。
1900 年第五回パリ万博は 40 カ国以上の国が参加し、そこに列強の植民地展示も加わっ
て、まさに世界の縮図の観を呈した。「アンヴァリッド橋からアルマ橋に至るセーヌ左岸に
は、各国のパビリオンが時代も様式も様々に立ち並んだ。一方トロカデロには緑豊かな中に
植民地のパビリオン群が点在しており、ロシアや中国、日本のパビリオンもあって、まさし
」日本は初めて 1894 年の日清戦争の結
く『庭園の中の世界』が展開されていたのである 9)。
果領土となった台湾の出品を行った。
また 1880 年代に入ると、国際博も、列強による植民地支配の色彩が強くなり、1879―80 年
のシドニー国際博覧会、1880―81 年のメルボルン国際博覧会、1883 年のアムステルダム国際
植民地博覧会、1883―84 年のカルカッタ国際博覧会、1886 年のロンドン「植民地とインド」
博覧会が続けて開催された 10)。
「博覧会における建築の啓蒙的意味は、ヨーロッパと植民地の差異を明確化させ、ヨー
ロッパの〈文明の伝道〉を表現することにあった。
〈文明の伝道〉とは、文明人である白人
種の使命であり、植民地政策を通して世界の未開の野蛮人を啓発し進歩させることであると
」そのような意識のもと、フランスが自国の植民地であるベトナムのハ
考えられていた 11)。
ノイで万国博覧会を開催した。
仏領インドシナは、1887 年に成立したインドシナ連邦(コーチシナ直轄地、トンキン保
護領、アンナン保護国、カンボジア保護国)と 19 世紀末にこれに加えられたラオス地域、
およびフランスの広州湾租借地をも含めたインドシナ半島南部の広大、かつ複雑な政治的統
合体であった 12)。フランスの武力によるベトナム侵略は、1858 年にフランス宣教師の保護
を口実に軍隊を派遣したことから始まる。フランスは 1859 年サイゴンを占領、1862 年には
ベトナム南部をフランス領とし、1863 年カンボジアを保護国とし、1883 年にはベトナムを
保護国とした。1884 年ベトナムの宗主国である中国と清仏戦争が起こり、この戦争に勝利
を収めたフランスは 1887 年全ベトナムとカンボジアをあわせて、フランス領インドシナを
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つくった。その後、1893 年にラオスを保護国とし、1900 年には中国南部の広州湾租借地を
加えた。
1886 年第三共和制のフレイシネ首相は、アンナン・トンキン保護国の統治に関する政令
を発布し、アンナン・トンキン理事長官としてポール・ベール(Paul Bert 1833―86)を任命
した。彼はわずか 7 ヶ月間しか理事長官の職にいなかったが、フランス政府のベトナム植民
地統治の骨格となった「同化政策」を策定した。
「同化政策」とは、科学的知識、反教会と
いう非宗教性、進歩思想で構成されるフランス共和国の普遍的価値(自由、平等、博愛)を
信じ、未開社会をフランス共和国の普遍的価値に同化させることを目標とするものであった
13)
。
フランスの大物政治家であったポール・ドゥメル(Paul Doumer 1857―1932)は、1897 年
から 1902 年にかけて仏領印度支那総督に在任し、インドシナにおけるフランスの植民地政
策を完成させた。ドゥメルは、インドシナ連邦の財政構造と行政機構を整備し、強権的な手
段によって「同化政策」を推進し、
「フランスに利益をもたらす植民地」を目指した 14)。し
かし、このドゥメルの政策には反発も多く、台湾日日報では「仏領東京の将来」という以下
の記事を掲載し、ドゥメルを痛烈に批判している 15)。
「政府の経営施設する所植民地の富源
を開拓するにあらずして之を荒廃せしむるなり植民地の産業を隆盛ならしむるに非ずして之
を哀微せしむるなも其原因に至りては蓋し種々あるべしと雖も吾人の見る所を以てすれば前
総督ドゥメル氏の執りたる植民地政策が根本より誤れると主因にして官吏の撰敍其宜しきを
失い当局者其人を得ざるも亦其一因たらずんばあらざるなり」
ドゥメルの後任のポール・ボー総督は、フランスの文明的使命を正面に掲げ、教育の普及
や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用などを通じて「精神の平定化」を目
指す「協同政策」に転換した。ポール・ボー総督の「協同政策」では官人層を刷新して協力
者を数多く作ることが意図的に試みられた。仏領東京河内府万国博覧会はフランスの植民地
政策が「同化政策」から「協同政策」に転換した時に開催されたが、開催はドゥメルの功績
によるところが大きかった。
2)仏領東京河内府万国博覧会の日本参加の経緯
(以下ハノイ博覧会と略す)は、1902 年 11 月 16 日から 1903
仏領東京河内府万国博覧会 16)
年 2 月 15 日までフランス領ベトナムのハノイで開催された。博覧会の開催場所としてハノイ
を選択した理由として、博覧会のパンフレッド(EXPOSITION DE HANOI)では次のよう
に述べている。
「ハノイは地理的に見ても、又、その驚異的発展を考慮しても、フランス本
国及び植民地並びに極東諸国の技芸・商業・産業が公正に競われる舞台として、正にうって
」
つけの場である 17)。
日本貿易協会が編纂したハノイ博覧会報告書の中で、「河内を超点として既にドンダンに
達し将に清境に臨まんとせる鉄道は雲南省の貿易を一手に掌握せんとする計画を包有し更に
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進みては揚子江の上流にも延長せんとするの勢いあり英国の雲南鉄道に於ける企画は目下中
止の姿なるに引き換え仏人は非常なる速度を以て其計画を進めつつあるを見れば其支那に対
」と指摘してるように、フランスの東アジア進出の意図
する方策は推して知るべきなり 18)。
は明確であった。
1898 年仏領印度支那政府の事業公債 2 億 7000 万フランの募集を仏国衆議院に提出した
時、ドゥメル氏が政府委員として熱心に説明し、大多数の賛同を得て可決した。ドゥメル氏
はその功績をもって任地に向かう時、送客に向かって、「今後二ヵ年以内に河内海防間の鉄
道紅河の鉄橋及び雲南鉄道を完成し、これと同時に商工業振作の一法として博覧会を開催す
」と宣言した。これが今回のハ
る。近い将来この地で再び諸君と会う機会があるだろう 19)。
ノイ博覧会の起因である。
ドゥメルは着任後、産業奨励に務め、遂に 1899 年 5 月 5 日に博覧会の開催を布告し、準備
委員会を定めた。準備委員会は 10 月 21 日に高等会議を開き、次の条項を議決した 20)。
第一条 博覧会には仏国及び其植民地の製産物並に新嘉坡と日本国との間に位せる各国の製
産物を出陣する。
第二条 博覧会会場はガンベッタ街競馬場を以て之に充つる。
第三条 博覧会施設に関する一切の費用は政府に於いて之を負担する。
第四条 事務の進捗を妨げる所あるが為外国に対し公然たる参同を要請せざる但し外国より
参同を求めたる場合は此限にあらず。
上記のことからハノイ博覧会が東南アジアを対象とした博覧会であり、外国の出展を余り
望んでいなかった様子が窺える。日本の外交史料からも、フランスは日本の出品を大変希望
していたにもかかわらず、日本政府としての参同は積極的に期待していなっかたことが分か
る。
日本に対しては、1899(明治 32)年 6 月 15 日に仏国公使ジ・アルマンを通じて仏領印度
支那総督から外務大臣青木周蔵宛てに、「1901 年 12 月 1 日より 1902 年 1 月 16 日まで河内に於
て仏国及び仏国植民地並に極東洋諸国の農産物、工業品及技芸品の万国博覧会を開設するの
で本邦にありても参加出品せられたき」という参加要請の書簡 21)が届いた。この書簡で、
「仏日両国間の商業及び経済上の関係増進し之によりて密接ならしめるのは両国等しく利益
とする所に有て」と述べ、帝国政府に於て広くこの計画を公衆に知らせ、
「日本国の農業
者、工業者及技芸者の出品は該博覧会に於いて歓迎するので博覧会に参同するように推奨す
ることを希望する」と書かれていた。
青木外務大臣は之を農商務大臣に通告し、賛否如何を問い、結局次のような回答をし
た 22)。「該博覧会への参同の義は至極必要であるが、すでに明年開設の巴里博覧会へ参同せ
れんと目下専ら準備中で、翌年を以て開設するハノイ博覧会へ参同せんとするも出品準備の
日数が足りない。遺憾であるが政府としては参同しないが、随意出品者には出品上相当な便
宜を図る見込みである。
」明治政府は、政府としては参加しなかったが、民間では日本貿易
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協会という出品団体を組織して、出品者を糾合してハノイ博覧会に参加した。
仏領印度支那政府の参同要請を断った日本に対し、日本駐在のフランス公使は日本貿易協
会に対して、出品物の運賃や物品の陳列に便宜を図ることを約束するとともに、以下のよう
に記載された博覧会規則書を送付し、出品勧誘を依頼した。「博覧会の設立たる実に日本国
に興ふるに其古今に於る美術工芸を他の東洋諸国のものに比し如何に優位に在るを世に示す
の期を以てするもの 23)」フランス政府は、日本の東洋における優位を認めていたのである。
フランス公使からの依頼を受けて、日本貿易協会は農商務省へ次のような請願書を提出し
た 24)。ハノイ博覧会は日本の生産物や工業品を東洋諸国に紹介する好機会であるが、日本の
商工業者は仏領印度支那地方に対する知識があまりなく、出品を躊躇するものが多い。この
地域は仏領印度を初め亜細亜南部諸邦の地たる由来天然物に富み、その殖産通商の前途は甚
だ多望である。
「今や佛国政府は特に我国と其領地との間に直接取引の開始を希望し該博覧
会出品者に対して其出品運賃の四分の三を負担し且つ出品総代人一名の同地往復旅費を支弁
する特別の保護便宜を興えるを申出たり。
」我政府も出品者に対して相当の便宜を与える事
を切望する。
「該博覧会の性質たる従来欧米に於けるものと異なり専ら力を我物産の紹介調
査に致し利益を将来の貿易に期するを以て出品物の販売のみを目的とせず専ら我取引の開始
に務めざる」すなわち、ハノイ博覧会を利用して日本商品の紹介販売だけでなく、同地商工
業の視察を大きな目的としていたのである。日本は仏領印度支那地方の情報はあまり持って
いなかったが、殖産興業としての意義は見出していた。
明治政府は、日本貿易協会に 1 万円を補助費として支出した。協会は出品監督事務取扱と
して大塚琢造を派遣し、出品人員は凡そ 251 人に及び、農商務省は技師 1 人を送った 25)。河
内海防間の鉄道並びに紅河の鉄橋工事は容易に完成の見込みなく、また会場の竣工も進まな
かったため、博覧会は予定を変更して 1902
(明治 35)年 11 月 3 日より開会の旨の通知が着た。
しかし実際に開催されたのは 11 月 16 日であった。
1902 年 3 月読売新聞では、ハノイ博覧会開催に対するフランス当事者の意気込みを紹介し
ている 26)。「河内博覧会の開設は東洋諸国史並に印度支那仏国領土史に一新時期を書する者
にして仏国によって保たれたる平和の功績と文明国によりて開発せられたる古の鎖国が著し
き進歩を為せし微証とに一々此会場発顕すべし」と述べ、更に「東洋諸国の手工と欧羅巴の
機械工業との生産品を一堂の下に列べ両者の生産費及生産時間等の間に大なる差等あるを示
すも亦此会特有の利益なるべし」と記載している。このことからフランスの植民地政策の正
当性と東洋諸国に対する優越意識が見られる。このフランス新聞社の記事に対して、「東洋
諸国中唯一個白鶴の鶏群に立つが如く峻峯の群覧を抜くが如き国ありて」と日本を称し、
「仏国と相軒輊せざるの盛況を事実上証明し、一に日本の実力を示し、二に大いに商品の販
路の拡張」を希望すると結んでいる。
ハノイ博覧会に対してこのような思惑をもって開催したフランスと参加した日本の展示
が、どのようなものであったか考察したい。
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3)博覧会の概要
ハノイ博覧会の会場はガムベッタ街競馬場 9 ヘクタールの面積に、その付近の地を加え総
計 12 ヘクタールの地域であった。仏蘭西及び仏国植民地、仏領印度、極東諸国の 3 部からな
り、出品物は第一部(古物学、美術、学術、教育等)第二部(農業、商業、鉱業等)第三部
(土木、重学、航海、運輸、公共事業、鉄道等)に区分された。中央館は正門内の正面に位
置し、形状を巴里万国博覧会に於けるシャンゼリゼー古美術館に採り、その建築は煉瓦造り
で古代ギリシャ風を模倣し、宏壮優麗で堅牢であった。万博閉会後は商品陳列所に充てる予
定で、永久的建築物であった。中央館を中心として左右に鶴の両翼を張るように細長い弓形
の陳列館が連ねていた。日本館は左翼の後方にあり、鍵形に曲折した建物であった。中央館
以外の建築物は一時的の木造で、形状は概ね欧風を模していたが、屋根は土地風に則り竹を
組んで瓦のように重ねていた 27)。
仏国の出品は博覧会中の大部分を占めていた。出品物は、陳列方法においては種々の意匠
を凝らした装飾がしてあり、流石に本国の光彩を放っているが、心力を傾注したものはな
かった。しかし、電気機械は絶えず之を運転して其応用を示していた。仏領印度支那は交跡
(カウチ・ベトナム南部)
、東甫塞(カンボチャ)
、羅越(ラオス)、東京(トンキン・ハノイ
を中心としたベトナム北部)、安南(ベトナム中部)の 5 地方を合わせてあるが、交跡の陳
列品注意周到で新式即ち仏国占領後の改良若しくは創作に係るものと、旧式即ち在来の製造
法に依りたるものと両種を集めて其の陳列方法は良かった。織物の部には土人の旧式機を以
て製織したものと仏式によるものを排列して其の優劣は言うまでもない。東甫塞は天産物が
中心の展示であり、羅越の展示は木材以外は自国で慣用する日用品であった。
東京(トンキン)陳列館の背後の一区域に仏人の出品として土人の製作物を陳列してあっ
た。西洋家具、彫刻物等の製作物を見ると、進歩侮るべきものがあった。東京(トンキン)
人は紫棍(サイゴン)人に比べ活発にして、商工業上の知識に乏しからず、もし亡国の惰民
として之を度外視することなく指導していけば将来大いに進歩するべき要素がある 28)。
上記のように日本貿易協会の報告書は、フランスとベトナムの文明の差を強調する展示で
あったが、仏領印度支那の人民すべてが同じ資質でなく、ハノイ人のように優秀な人もいる
ので、指導によっては今後この地域を発展させることが出来ると指摘している。一方長年印
度支那地域を保護下に置いてきたフランスは、この地域の停滞の理由とフランスの植民地に
対する文明的役割の成果を、以下のように述べていた。
4)フランスの帝国主義
「久しき前より西洋の文学並
仏領印度支那総督ボー氏は開会式で次のように演説した 29)。
に工芸上に於て、十分の知識を収得したる極東諸国人民の間に立ちて、印度支那人を競争せ
しむることは早計にあらず、印度支那人が平和の美果を玩味し自由安全に彼らの智力を盡く
し得ることは僅に数年に過ぎない。彼らは工業上陳腐なる奮闘を脱することなく依然停滞し
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て一進境を見出していない。当博覧会に出陣するものを見るに其技術家職工等希有なる才能
を有する事は明らかに証明できる。(中略)諸君の注意を請うことは、印度支那博覧会は此
狭隘なる会場内のみに止まず、限りなき此州の地面上到処に散在することに在り。換言すれ
ば此二十年来仏国の思想と安南人の努力を以て創立したる工業橋梁道路立像建築の上に現わ
るなり。当河内市が驚くべき速力で発達進歩しつつあることを見るだろう。
」
ハノイ博覧会内に陳列された物品はまだ稚拙であるが、フランスの植民地政策がベトナム
の地にもたらした文明の成果は、博覧会の周辺にある建築物や鉄道、道路などに現れている
ことを主張している。すなわち、フランスがハノイ博覧会でアジア諸国に示したかったの
は、檜山が指摘するように「単なる植民地収奪から長期間に渡る安定的でより高い利潤を求
める二○世紀型植民地経営への転換を示すとともに、インドシナ植民地政策の成功を膨示す
」
るなかで新たな東アジアへの侵出意図を内外に明示したものであった 30)。
ハノイ博覧会を視察した台湾総督府の技師柳本通義は、その復命書 31)でハノイ博覧会の
目的は「東洋人種中最も頭脳の単純にして世界文明の大勢に後れたる安南人に最近商工業発
達の効果を教へ二十世紀文明の何物たるかを説示し母国恵沢の鴻大なるを敬嘆せしめんとす
るに在りて要するに河内博覧会も亦仏国の印度支那に於ける領土開拓の一機関たり」と述
べ、博覧会はフランスの植民地政策の成果を示す場であり、フランス文明を教える教育機関
であったとしている。それゆえ近隣諸国はハノイ博覧会に積極的に参加しなかったのであ
る。
ハノイ博覧会の日本の展示に対する台湾総督府の考察として、柳本は「我台湾部は日本館
の終端支那館との境壁の在る処に位し日本の出品物と混視せらるるの憂なからしめたり」、
結局博覧会の展示の成功は「陳列用器の選択及飾付の方法の用意の如何によりて出品物其者
の価値を上下し延て彼我貿易の進捗に影響を及ほすこと少からさるに付此点に関して最も注
意を要すること之なり」と述べている。
柳本復命書は、ハノイ博覧会の反省点として台湾の出品物が日本の出品物と区別されてい
ない事や、陳列方法により出品物の価値が大きく左右されることを指摘している。博覧会自
体を植民地の統治の一機関と見なし、それゆえ博覧会の展示方法によって統治の成果を正確
に示す事の重要性を認識したようである。
5)日本の展示品と評価
日本貿易協会は日本の展示品について次のように批評している。「本邦の出品を顧るに所
謂売店主義に点数の多きて各国に其比を見ず各種混雑の様は恰も勧工場の如く且つ僅少の出
品を除けば他は悉く中等以下の品質ならざるなし今各府県に就き試に概評を下せば大阪は売
店風の物品極めて少なく概して出品の要を得たるが就中舶来摸造品に於て最も成功したるも
のの如く価格も亦た低廉なれば其品質製作方の注意如何に依りては将来大に好望なるべし京
都の出品は絹布陶器類にて多少の美術品もありたれども要するに売店主義を免れず東京に至
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りて殆んど美術品と認むべきものなく何れも勧工場的の出品に過ぎざりき兵庫県の主要出品
物たる清酒は外人の眼には冷淡に看過されたれども其外輸出向の絹団扇手巾の如きは一般の
嗜好に投じたるが如し石川県は殆んど全部陶器なりしが意匠の点に於て遺憾少なからざるも
のあり名古屋の七宝は精巧なるもの多かりしも其出品多数に過ぎて却て観客を飽かしめたる
傾向あり其他別に注目すべきもの少なし 32)。
」
上記のように日本製品はあまり評判がよくなかったようである。ハノイ博覧会における反
省点は、売店主義、中等以下の品質、出品点数が多い、日本の嗜好に拘りすぎたことであっ
たが、その出品の中でも高い評価を得た企業もあった。現在セイコーの創業者である服部金
太郎が掛時計を出品し金牌を受賞している 33)。銚子市のヒゲタ醤油が、仏領ハノイ亜細亜大
博覧会金牌受と第五回内閣勧業博覧会一等銀牌拝受したことを、今後も製品の品質の改良を
図りお客様の厚意に応えたいという謝意とともに東京朝日新聞で報告している 34)。ハノイ博
覧会で授賞した企業が、現在まで続く日本を代表とする企業に成長している。
開会式後、日本陳列館を訪れたポー総督は、遠来の日本の出展に感謝の意を表し、日本出
品の精巧を賞した。さらに「貴館は昨日まで未だ開荷をも了せず小官心密かに遺憾とせしに
昨日 1 日を以て斯くも整頓した深く謝せざる」と述べた。その夜の総督主催晩餐会では「河
内市に於ける重なる文武官各事務官出品代表者等男女合して四十八人内国出品代表者なるも
、フランス人の中で唯一招待された外
のは仏国人にして真正の外国人は大塚氏一人なり 35)」
国人であった。
このことから、ハノイ博覧会がフランスと日本の友好関係に役立ったこと、アジアの中で
他の東洋人と異なる位置を、日本人が占めつつあったことを示していたことが分かる。
このハノイ博覧会における 20 世紀型植民地政策を意識したフランスの博覧会対応のあり
方がアジア諸国で不人気であったこと、日本の展示評価の低さはセントルイス万博に対する
日本の戦略に大きな影響を与えることとなった。
3.セントルイス万博
1)セントルイス万博の出品方針と台湾総督府
セントルイス万博は、米国が 1803 年にフランス皇帝ナポレオン一世からルイジアナ州を
購買してから百年経過したことを記念して、1904(明治 37)年 4 月 30 日から 12 月 30 日にか
けてミズリー州セントルイスで開催され、44 カ国が参加した。会場面積 1240 エーカーに及
ぶ史上最大の敷地面積に 1576 の建物が建築され、陳列館として教育、美術、心芸、工業、
工芸、機械、電気、通運、農業、園芸、採掘及治金、林業漁業及狩猟、人類学館が建設され
た。
1851 年のロンドン万博で、イギリスがインドやオーストラリア、カナダなどの植民地や
自治領から膨大な出品物を誇示して以来、帝国主義国家は万博で植民地の膨大な富と植民地
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愛知淑徳大学論集―文学部・文学研究科篇― 第 37 号
政策の成果を競って展示していた。日本政府はセントルイス万博では、金閣寺を模した喫茶
店の建設や、娯楽街「PIKE」での日本村の開設などにより西洋と異なる日本文化を提示す
ると同時に、
「西欧列強」と同等な帝国主義国家としての日本を強調するための台湾館の建
設、海運館での日本の植民地を示す巨大地図の作成、
「アイヌ人」の展示などを行った。
セントルイス万博において帝国主義国家としての威厳を示した台湾の出展は、同島の富源
を展示し其重要産物の販路を拡張することを目的とし、台湾総督府が帝国議会の協賛を経て
以下のように実施した 36)。
「出品物は農業館の一部を区割して之に陳列することとし特に総督府内に在りし関門を移
して之を中央の通路に充て」
、陳列場所の装飾等は「全体総へて他国の趣味を加へす純然た
る台湾式を成せり」とした。
「出品物の販路拡張は専ら茶に主力を注ぎ茶に関する写真貼説
明書等を刊行して之を公衆に領付し又日米雑誌社星一の発行に係る日本出品手引草に出品物
の説明及台湾の事情を掲載せしめ之に対して千円の補助金を交付し」、台湾総督府はセント
ルイス博覧会を、米国での台湾茶輸出増加の一大機会と捉えていた。
台湾茶の味や作法を米国人に直接楽しむ場として、台湾喫茶店を建設した。
「山口鍵之助
外 5 名より其補助金を得て日本政府館敷地内に台湾喫茶店を設けむとの請願を容れ更に其設
計を完全ならしめ補助請願額一万七千五百円を増し左の命令条件を付して二万四千三百五十
」台湾喫茶店を開設する条件として「喫茶店開設人は
円の補助金を興することとしたり 37)。
特に台湾喫茶店に供する為台湾総督府の提供する図面及設計に拠り日本庭園内に喫茶店を建
築し日本内地喫茶店との区別を明確にし経済を独立ならしむるは勿論工事上に付派遣官吏の
」台湾総督府はハノイ博覧会の視察から、展
指揮監督を承け竣成の上は検査を受くへし 38)。
示方法によって展示品の価値が大きく左右されることを痛感していた。そのため補助金を増
額してまで、台湾総督府の主導下の完璧な展示に拘ったのである。
明治政府は西欧諸国と同様な植民地を持つ国であることに加えて、台湾総督府が 1894 年
から台湾を治めた実績をアピールする為に、農業館と日本政府館敷地(日本庭園)内に建築
した台湾館の二ヶ所で効果的な展示に努めた。
2)農業館における台湾の展示
農 業 館 に お け る 台 湾 総 督 府 に よ る 展 示 に つ い て、“History of the Louisiana Purchase
Exposition” は次のように紹介している 39)。日本の農業館には二つの展示があり、一つは厳密
な意味での日本による展示、もう一つは日清戦争終結時に中国より割譲された島である台湾
の展示であり、可能な限り有利に様々な展示を見せる配置となっていた。
台湾の展示は、台湾の家屋を象徴するパビリオンの中にあり、全く異なる種類の産物が置
かれていた。台湾は、世界の消費量の 3 分の 2 にあたる樟脳を供給しているため、ここでは
樟脳が最も大きな目玉となっていた。固形化した樟脳で造られた高さ 10 フィート(3m)の
ミニチュア寺院が、ガラスの円天井の下に立っていた。その周りには、世界中で市販されて
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万国博覧会に見る明治政府の国際戦略 (楠元町子)
いる様々な形態で、樟脳が何瓶も置かれていた。樟脳はクスノキから抽出され、この木は樹
齢 70 年以上になるまで切らずに成長させている。台湾では、巨大なクスノキ林が育ってお
り、古い木を伐採したらすぐに若木を植えて補充しているため、事実上、供給が尽きること
はなさそうである。
このミニチュア寺院の近くには、貴重なクスノキの厚板がいくつか置かれており、中には
直径が 4 フィート(1.2m)に及ぶものもあった。この貴重な木は、家具に加工した形でも展
示されていたが、美しく高価であるため、宮殿の装飾にしか向いていないということであっ
た。
竹の展示では、竹の大きさだけでなく、竹からできる副産物も、見物客の関心を引いてい
た。台湾では、竹が高さ 60 フィート(18m)
、直径が 1 フィート(30cm)近くまで成長する
こともある。竹のパルプ(髄)からは、繊維が最も頑丈な壁紙が作られ、この壁紙は、東洋
建築の襖や障子に用いられている。台湾の南部と中央部では、気候と土壌がサトウキビに特
に適しているため、かなり大量のサトウキビが生育しており、種々の精製段階にある砂糖の
瓶を展示することにより、この産業が紹介されていた。
麻やパイナップル繊維など、様々な種類の草の繊維が、見事な布に織られた状態や未加工
の状態で展示されていた。こうした繊維のいくつかは、帽子(台湾産パナマ帽)の生産に使
われている。日本が理知的な産業開発を行っているこの島では、帽子が重要な産業の一つと
なりそうである。
日本のタバコ製造所の多くは、台湾からタバコの供給を受けている。台湾の中央部には非
常に多くの大農園があり、政府はあらゆる方法で農園主の後押しと支援を行っているからで
ある。台湾の中央部は、森林に広く覆われていて、事実上、未調査地となっており、そこに
は未開人が住んでいる。こうした部族を紹介するため、博覧会のブースには一連の写真が置
かれていた。
染色に用いるヤムイモやターメリック(ウコン)などの根茎、根ショウガ、ピーナツなら
びにピーナツ油、亜麻仁油、かごに使用するゲットウ、あらゆるクッションや詰め物に広く
使用する木綿やカプーの見本、ならびにほんの数年前に産業として始められた缶詰製品をは
じめ、多くの製品を展示することにより、日本の南東にあるこの偉大な島の資源が紹介され
ていた。
台湾のもう一つの優れた輸出品は茶であり、年間 2,000 ポンド(約 900 万 kg)の輸出量が
ある。茶の展示場には、日本風の家具を備えたブースに座って、茶を飲んでいる民族衣装姿
の女性の人形 2 体が置かれていた。このブースの傍らには、茶の試供品を希望する見物客が
名前を書き込むだけの記録簿が置かれていた。さらに茶畑の面積と場所の展示があり、また
興味を引く写真によって、茶の栽培方法や、市販のための保存加工の方法も紹介されてい
た 40)。
ハノイ博覧会の経験を受けて、特に日本が注力したことは国際社会の中での評価を高める
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愛知淑徳大学論集―文学部・文学研究科篇― 第 37 号
ことであった。そのため、第一に台湾の豊富な資源を活用し、新たな産業の開発や国力の向
上に尽していることを示し、第二に主要な輸出品である樟脳や茶を展示の中心に置く事で、
将来有望な産業の育成に大いに貢献していることを示した。台湾の展示には、日本がアジア
の盟主になるという国際戦略が秘められていた。このことは、台湾喫茶店で働く台湾人渡米
に関して、明治政府の米国との交渉過程にも現れている。
3)台湾喫茶店と中国人排斥移民法
台湾喫茶店は次のように朝日新聞に掲載された。
「台湾喫茶店は、純粋な台湾風の家屋で、
米国人の目には清国の家屋に見えるかもしれないので、正面の上部に FORMOSA すなわち
台湾という英文と烏龍茶と筆太で記し、何人も台湾が日本帝国の領地であることを推知でき
るようにした。この館では、台湾少女 2 人と台湾男性 2 人が接客にあたっていたが、この 4
人は実際は帰化清人で日本語を上手に話すことが出来た。2 階では米国音楽隊が時々君が代
」
を演奏していた 41)。
台湾総督府は、米国人が台湾の実情を正確に理解するために、台湾館の建設や展示にかか
わる台湾人の渡米を強く望んでいた。しかし、この台湾人の渡米には大きな問題が発生し
た。当時米国では、1882 年に「中国人排斥移民法」が成立し、中国人の移民が全面的に禁
止され、1900 年代には米国に入国する中国人の審査も厳しくなっていた。米国政府は、セ
ントルイス万博への諸外国の参同を得るため、万博の為に米国に入国する労働者に関する取
扱いを寛大にする規則を発令した。
「台湾人は支那人排斥法の支配を受くへきものにして而
して博覧会会期中は特に会場内に使用する清国労働者の入国を許し開会中場内に居住し閉会
後三十日以内に帰国することを要せりと雖も移民官に交渉して会場外に居住するを得せしめ
たり 42)」
しかしこの規則の中で「労働者として支那人を合衆国に渡来せんとする者は清国政府若く
は当時本人の属する外国政府の許可及証明書 43)」の提出が求められ、証明書は必ず英語で書
かれ発行者の署名が必要とされた。米国は国籍に関係なく米国に入国するすべての中国人の
証明書を求めたため、政府は日本国内にいる中国人に対してどのように証明書を発行すべき
か、大きな困難に直面した。
「帝国在籍支那人」の定義を結局以下のように決定した 44)。
「本移民法に謂う支那人は白人種国在籍の者に在っては其区別容易なるべしと邦民の如き
支那人とは殆んど人種を同くし古来より相互交通帰化したるものある現今に於ても結婚縁組
等人種的結合の容易にして其混化の進かなる国に於て全く純血の支那人血統の者を抽出せる
とするは全く不可能のことなるべし假令該法律を折て一種の便宜的解決を取り帰化期間の経
過に依り之を区別せるとするも果して幾代返り純血の支那人と見做すべきや其他人夫縁組其
出生子等の複雑なる関係を生じたる者に向っては如何なる標準を以て之を区別せしもとする
や甚だ至難のこと云うべく米国公使の説明を要すべきならん」
英国殖民地等では其国籍は出生地主義を取るので、植民地の英国臣民たる支那人種のもの
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万国博覧会に見る明治政府の国際戦略 (楠元町子)
多く、其風俗習慣凡そ固有の支那人であり、また帰化も容易にできる。しかし、日本のよう
に血統主義を取る国は日本国籍を取るのは非常に難しく帰化人も少なく、本邦臣民中に区別
を設け特殊の旅券及び証明書を付けることは甚だ困難なことを米国公使に説明し、
「台湾に
於ける支那人は一種特別の者なるを以て彼等に就ては相当の経過期間に係り区別して証明書
を附し其他の帰化人に在りては弁髪を有し支那服を着用するものに向って其要望を係り証明
書を附票するものと決定した。
」
また、台湾においては既に明治 35 年に定めた「本島人亜米利加合衆国及其の領土内渡航
証明規則」45)があり、その法規に従って証明書を出すことにした。しかし、台湾茶園出品館
代陳瑞禮、英語通訳陳長在、茶給仕女楊寳及謝寳仔以上 4 名が米国に入国した件につき、在
桑港領事上野孝太郎から小森寿太郎に次のような報告がなされた 46)。この 4 名については、
帝国政府の立場としては条約上の見地より一応帝国民の待遇を要求したが、合衆国移民局の
審査を受け次のような結果となった。陳瑞禮は台湾総督府発給の旅券に商人と記載されてい
たので、在桑港領事の証明書で入国できたが、他の 3 名は陳瑞禮の使用人と見なされ、保証
金を支払って入国した。
アジアは古くから交流があり、区別が出来ないほど人種的つながりが深く、国籍に対する
考え方のように欧米とは異なるアジア独特の文化があることを日本は米国に主張した。米国
の理解は得られなかったが、日本は欧米文明とは異なる文明がアジアにあり、国際的影響力
の拡大のためにこの文明の理解が不可欠である事を示そうとした。
日本のセントルイス万博における国際戦略のねらいは、近代化が進んでいる、アジアの盟
主として充分な資質を有しているということを、万博という国際舞台でアピールすることで
あった。
4.おわりに
ハノイ博覧会でフランスは、植民地政策によりインドシナが文明化されつつある姿を見せ
ようとしたが、遅れたベトナムと進んだフランスの対比だけが目立つ展示となった。ハノイ
博覧会に参同した日本貿易協会はその報告書にベトナムの人民、交通、貿易等を詳細に記載
し、特にベトナムの土地と気候について、今後の日本にとって有益な情報を知らせていた。
「此地の未開なるは暫く措き其天恵地福に富める是れ亦世界無比と謂うべし。広大な土地
があり、温暖な日光と湿潤な大気は絶えず植物の成長を促し、多くの肥料を使わなくても大
量の収穫が期待できる。郊外では耕作地に比べて人家が非常に少なく、穀倉等が少ないの
で、今後簡単に耕作地として利用できそうである。さらにベトナムで生産されている生糸の
」日本はハノイ
原料を日本に輸入して独特の技巧を加えれば、以外の効果を生むだろう 47)。
博覧会を利用して、仏領の産業の情報を得ながら産業振興と貿易の拡大を模索していた。
一方セントルイス万博において台湾総督府は自分たちの統治の成果を見せる事に拘り、日
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愛知淑徳大学論集―文学部・文学研究科篇― 第 37 号
本の援助による植林やサトウキビの栽培の成功例、台湾に新たに芽生えつつある工業製品で
あるパナマ帽や缶詰を展示した。
セントルイス万博の農業館における台湾総督府の展示について、農商務省は報告書で次の
ように述べていた。「日本部は前面に内地の出品を陳列し其後部に台湾の部あり、農業館に
於る日本部は他の陳列所に比して質素にして少しも目立つ所なきも台湾の部は台湾流儀の家
屋を建築したる所もありて前面よりは大に人目を引けり 48)」明治政府の植民地「台湾」を米
国人及び国際社会に認識させることには成功したと思われる。また精糖の輸出額が 1904 年
24 万円、1905 年 386 万円、1906 年 1098 万円と驚異的に増加した 49)ことでもわかるように、
台湾総督府の産業育成と輸出の増大とういう目的は達成された。
1903 年 10 月セントルイス万博の会場予定地の視察後ワシントンを訪れた手嶋精一は、日
本と中国が現在大変友好的な関係であると次のように述べている。「日本人は進歩的で、世
界の新しい考え方に広い認識を持っていることが中国で認められていると同時に、東洋人は
東洋人が好きであるため、日本の専門家や熟練者を部課長として雇っている中国の省はたく
さんある。これは、日清戦争以降に生じたこの二国間の感情の変化を示すほんの一例であ
る 50)。」中国は近代化に邁進する日本の実力を認め、中国の近代化に日本の協力を仰いでお
り、そこには東洋人としての連帯感があるとしている。
欧米諸国が本格的に中国に侵出しようとしていた 20 世紀初頭に、明治政府はセントルイ
ス万博において、アジアで唯一近代化に成功した国であり、アジアのリーダーとしての資質
があることを国際社会で示そうとしたのである。
註
1 )松村昌家『水晶宮物語―ロンドン万国博覧会 1851 ―』リブロポート、1986 年。
2 )Paul Greenhalgh, Ephemeral vistas The Eepositions Universelles, Great Exhibition and World’s Fairs, 1851―1939,
Manchester University Press., 1988, p. 2.
3 )「日英同盟」『大阪朝日新聞』
』1902 年 2 月 14 日。
4 )檜山幸夫「口絵解説:ハノイ博覧会と台湾総督府―パンフレット『EXPOSITION DE HANOI』を中心に―」
『台湾総督府文書目録』8 巻、ゆまに書房、2001 年。
5 )畑智子「セントルイス万国博覧会における『日本』の建築物」
『日本建築学会計画系論文集』第 532 号、
」『愛知淑徳大学論
2000 年、231―238 頁。渡辺かよ子「1904 年セントルイス万国博覧会における『教育』
集―コミュニケーション学部篇―』第 3 号、2003 年、149―161 頁。伊藤真実子「1904 年セントルイス万
国博覧会と日露戦時外交」『史学雑誌』第 112 編第 9 号、2003 年、66―86 頁。
6 )吉見俊哉『博覧会の政治学―まなざしの近代』中公新書、1992 年、30―33 頁参照。
7 )同上、70―71 頁。
8 )平野繁臣『国際博覧会歴史事典』内山工房、1999 年、32 頁。
9 )吉田典子「1900 年パリ万国博覧会―政治・文化・表象―」
『国際文化学』第三号、神戸大学国際文化学会、
2000 年、19 頁。
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万国博覧会に見る明治政府の国際戦略 (楠元町子)
10)名古屋学院大学総合研究所『国際博覧会を考える』晃洋書房、2005 年、4 頁。
11)Patricia A. Morton. Architecture and Representation at the 1931 Colonial Exposition, Paris, Massachusetts
Institute of Technology, 2000. 邦訳:長谷川章『パリ植民地博覧会―オリエンタリズムの欲望と表象』ブ
リュッケ、2002 年、13 頁。
12)高田洋子「インドシナ」『岩波講座東南アジア史第 6 巻』岩波書店、2001 年、195 頁。
13)坪井善明「阮朝の滅亡と仏領インドシナの成立」
『岩波講座東南アジア史第 6 巻』岩波書店、2001 年、
118 頁。
14)同上 120―122 頁参照。
15)「仏領東京の将来(一)」『台湾日日新報』1903 年 2 月 6 日第千四百二十八号。
16)ハノイ博覧会は、外交史料では「佛領印度支那河内府万国博覧会」
、日本貿易協会出品監督事務所が編
纂した報告書では「東洋農工技術博覧会」、読売新聞では「東京河内博覧会」「河内亜細亜博覧会」と記
載されている。
17)前掲「ハノイ博覧会と台湾総督府―パンフレット『EXPOSITION DE HANOI』を中心に」675 頁。
18)日本貿易協会『千九百二年佛領東京河内府東洋農工技術博覧会報告』1904 年、191 頁。
19)同上 1 頁。
20)同上 2―3 頁。
21)在日フランス公使ジ・アルマンより外務大臣青木周蔵宛書簡 1899(明治 32)年 6 月 19 日、『佛領東京河
内府ニ於テ万国博覧会開設一件』外交史料館所蔵(7779)。
22)外務大臣より在本邦佛国公使宛 1899 年 11 月 24 日起草 11 月 26 日発遣、同上。
23)前掲『千九百二年佛領東京河内府東洋農工技芸博覧会報告』5 頁。
24)同上 18―19 頁。
25)永山定富『海外博覧会本邦参同史料(第 5 遍)』フジミ書房、1930 年、17 頁。
26)「巴里来信 河内亜細亜博覧会」『読売新聞朝刊』1902 年 3 月 12 日。
27)前掲『千九百二年佛領東京河内府東洋農工技芸博覧会報告』40 頁。
28)同上 42―46 頁参照。
29)同上 48―49 頁。
30)前掲「ハノイ博覧会と台湾総督府―パンフレット『EXPOSITION DE HANOI』を中心に」679 頁。
31)同上 691―693 頁参照。
32)前掲『千九百二年佛領東京河内府東洋農工技芸博覧会報告』132―133 頁。
33)同上 166 頁。
34)『東京朝日新聞』1903 年 7 月 13 日。
35)前掲『千九百二年佛領東京河内府東洋農工技芸博覧会報告』50 頁。
36)農商務省『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』第二編、1904 年、457―459 頁参照。
37)同上 674 頁。
38)同上 1904 年、675 頁。
39)Louisiana Purchase Exposition, St. Louis in 1904: A Collection of Official Guidebook and Miscellaneous
Publications, Eurka Press, 2009, VOLUME4, p. 308.
40)Ibid., p. 306.
41)青尊生「聖路易博覧会―日本政府館落成式」『東京朝日新聞』1904 年 7 月 13 日。
42)前掲『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』第二編、678 頁。
43)通商局長宛 1904(明治 37)年 3 月 31 日『帝国在籍ノ支那人種ニ対シ渡来証明書ヲ発給スル官吏氏名表在
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愛知淑徳大学論集―文学部・文学研究科篇― 第 37 号
本邦米国公使ヨリ請求一件附合衆国移民官ニ於テ聖路易博覧会台湾民ニ対シ同国清人取締規則適用ノ
件』外交史料館所蔵。
44)「帝国在籍支那人種ノ米国渡航ニ関スル件」1904(明治 37)年 6 月 6 日 84 号、同上。
45)合衆国支那移民制限法第 6 条により帝国在籍の支那人種に対する台湾総督府の規則書に関する書簡、
1904(明治 37)年 7 月 27 日(10232)、1902(明治 35)年 11 月府令第 80 号を添付、同上。
46)在桑港領事上野孝太郎より外務大臣小森寿太郎宛書簡「聖路易博覧会台湾茶園出品館代陳瑞禮及其随員
三名上陸ニ関する件」公信 41 号、1904(明治 37)年 5 月 10 日(7304)、同上。
47)前掲『千九百二年佛領東京河内府東洋農工技芸博覧会報告』189 頁。
48)青尊生「聖路易博覧会 各館陳列品の昨今」『東京朝日新聞』1904 年 6 月 10 日。
49)筆者稿「セントルイス万国博覧会における日本の展示品と評価」
『愛知淑徳大学現代社会研科研究報告』
第 2 号、2007 年、145 頁。
50)Japan Perfects Plan, Globe-democrat, Ouctober 4, 1903.
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